<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

TYPE-MOONSS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[1027] Fate / happy material
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 07:40
ご無沙汰しております、Mrサンダルです。
一年ぶりの投稿ですが、宜しくお願いします。緊張してます。

■このSSは「第二部」です。
第一部[No2241:FATE / MISTIC LEEK]を未読の方は先ずそちらから目を通して頂けると幸いです。










 それは不器用だけど、正しいやり方だった。
 
 ―――――宮部みゆき『魔術はささやく』―――――










Stay / outer the night.











 夏にしては寒すぎたし、冬にしては暑すぎる、そんな夜。

 俺は一つの“問い”に答える事が出来なかった。

 なんてことは無い、人間なら誰しもが持っていて当然の“答え”。
 
 だけど、それが何なのか俺には分からなかった。








 八月。

 降りしきる星の夜、

 俺は彼女に出会った。








 幸せの■■。
 そんな、醒めない“象(ゆめ)”を求めて。








 I want you the answer.
 I will wander from own dreams.
 Never, ever understand. -------- the second season / happy material










Fate /

 さて。
 夢だったんだか現実だったんだか、俺には全くこれっぽっち何一つとして分からないミステリアスでゴスペルにロマンチックな出逢い何てモノは、聖杯戦争におけるアイツとの一件からと言う物、卸業者が頓珍漢な位張り切りすぎているため、お店が開けるじゃないかって位俺の人生には間に合っているので、どうでも良くは無いが頭の片隅にでも埃を被るまで置いておこう。
 暦は変わらず八月。
 日脚は麻帆良での吸血鬼事件以来、俺が羨むほどに急成長、どんどん長くなっていき、地球の温暖化を個人単位で考えさせてしまうオゾン層の憎い演出を彩ってくれていた。
 助演男優賞とかそんな感じの中途半端に名誉な代物を寄贈して差し上げよう。
 そんなこんなで、全てを救う正義の味方を目指す俺としては黙考する。この地球温暖化問題を解決することが、全ての人に平等の救いと幸福を与えられる唯一の方法なのではないのだろうか? そんな事すらとろけた頭で夢想する今日この頃。
 学園を中退して唯一の肉親である義妹と東京へ上京、そこいら辺の詳しい事情は割愛させて頂くが、嫌な社長と人の良過ぎる先輩と共に、僅かながらの食い扶持を真っ当でない建築会社“伽藍の堂”で汗水垂らしながら稼ぎ出し、狭いながらも平穏な我が貸家を愛する俺こと衛宮士郎は、しかし、二台目のクーラーさえも女子高生で情報屋と言う同じアパートに住む破天荒迷惑型のアッパーな友達によっての酷使が続き駄々を捏ね始め、付き添いの人が良過ぎる幽霊少女の涙目に負け、この件についての言及を有耶無耶にしたまま、とうとう廃品回収のワゴンによって天に召されてしまったので、湿度が100%をゆうに越えるこの空間が、サウナなのか、ささくれ立つ畳張りのぼろっちい居間なのかも分からずに、義妹ことイリヤと一緒にだれていた。
 ちなみに、温度計の奴は俺達を裏切りやがったんで廃棄した。嘘をついちゃいけないのだ。正義の味方は嘘偽りを許さない。
 んでもって、いい加減この無闇やたらに情報を垂れ流すかなり特殊な独り言は、暑さにいかれた頭では些か酷なので早速止めることにする。大して面白くなかったしな。

「…………シロウ、暑い」

 心頭滅却した所で夏の暑さはやはり手ごわい。じりじりと肌をグリルする日当たり良好の二枚窓が、まさかサーヴァントに勝る強敵であったなんて初めて知った。第六回聖杯戦争があるのならば、是非触媒に使ってやりたい。……粉々にしてからな。
 熱光線を俺の強化の魔術よりも明らかに効率的に“強化”する窓ガラスにはカーテンが無い。無駄だから掛けないのである。カーテンを取り付けたところで、きっと直ぐ無くなる、物理的に焼けて。

「ああ、暑いな」

 これでもう何度目になるか分からない応酬は、やはりぷつりとそこで途絶えた。
 日曜日。世の働き手はのんべんだらりと英気を養うこのよき日……に、為るはずだったのに、なんでさ?

「シロウも毎夜毎晩のトウコとの修行やシキとの鍛錬で疲れているでしょ? 麻帆良の一件が落ち着いてからも、満足に休んでいないみたいだし、どう? 今日くらい、寝て過ごすのは? たまにはそんな休日もいいんじゃないかしら」

 と、目から鱗の優しきかなイリヤの一言により、朝から布団も片さず、寝っ転がりながら今の状態な訳である……なのに、それなのに本当、なんでさ?
 冬木から出てきてこっち、週末はやはり先生のところで鍛錬か、イリヤに付き合って東京観光……を主に例の五月蝿いご近所さん主導で勤しんできたのだが、珍しいイリヤの提案に首肯した矢先コレである。太陽は俺に恨みでもあんのか?

「それに……もう直ぐお昼よね、どうするの?」

 枕に小さな貌を突っ伏したまま、首だけ回してイリヤが言う。
 布団の位置取りは、畳の小さい六畳間に隣りあわせで並べただけ。円形のちゃぶ台はテレビの横に立てかけてある。
 イリヤの最もな疑問に相打ちを打つべく、決死の覚悟をもって、汗でしとどる布団から飛び起き、切嗣が生前愛用していたジンベエのまま台所に向かう。

「そりゃあ作るさ。こんな日だからこそ、しっかり食わないとな」

 決まっているだろう、そんなこと。冷蔵庫の中身を確認しながらイリヤに言う。と、聞こえてきたのはイリヤの沈黙。次いで、ぽん、と枕が沈む空気の抜けた音。

「……そうよね。シロウはそう言う筈よね。ミスったなぁ」

 さも、食欲在りません、みたいな事を言ってくれるな。瑞々しい夏野菜たちが可哀想ではあるまいか。
 昨夜の余り物である茄子の煮浸しと胡瓜の甘辛和えの小鉢を冷蔵庫から取り出すと、その奥、陰に隠れたように仕舞われているプリンを発見する。まったくイリヤの奴、先生に小遣いなんて貰っているモノだから、最近は買い食いの楽しみを学習してしまったらしいのだ。
 太るぞ、なんて事は言外にしておいて、俺はそれを如最無くそれを野菜室の奥底に押し込んでしまう。甘いぞイリヤ、この程度では、例の闖入者に対する防衛が過不足だ。

「さて、イリヤは食欲無いみたいだし………そうだな、素麺でも」

 自らの気の利いた行いに感心しながら冷蔵庫を閉める。小鉢をまな板の上に一先ず置いておき、棚から乾燥麺を四つ束ほど取り出して、厚底鍋に水を張る。

「えー。また素麺? 今月何回目よ、だったら食べなくてもいいわ。もう飽きちゃったから」

 不満の声は、申し訳なさを微塵も含んでいない。
 イリヤの主張は最もではあるが、生憎と夏場でも食が進むサッパリとした料理ってのは、意外とレパートリーが無いのだ。素麺を使って色々創意工夫を凝らしたオリジナルメニューも、今のご様子じゃ受け付けないだろう。
 イリヤのブー垂れを聞き流しながら、コンロをマッチで点火。オンボロどころか唯の旧式ガスコンロは油に塗れた老人にあるまじき勢いの良さで水を沸かしていく。

「でも駄目だぞ、ちゃんと食べなきゃ。夏場は唯でさえバテ易いんだから、ご飯を抜くなんて持っての外だ。それに、お前は育ち盛りなんだから尚更だろう? お子様は元気に黙々と食べるが宜しい」

「ブー。レディーに暴食薦めるなんて、何よ、シロウのコンクリ頭。その理屈、日本の悪しき風潮よ。駄目ね、日本は制度と習慣の区分がなっていないから、そんなに頭でっかちになっちゃうの。無理をさせるのは、良くないんだから。それに、元気に黙々って、一体どうやればいいの? そんなの出来るの、アイツだけじゃない」

「はいはい。小難しい事を物申しても、君の意見は独裁主義、シロウ宰相の議会に上がりません。それこそ黙々と待っていなさいな」

「横暴だー」

 とか何とかやっている内に、お湯が沸騰している。今の遣り取りの内にササッと賽の目切りにしたベエ茄子を湯がいて冷水に浸した後、淀みなく素麺を投下。

「でもまあ、確かにイリヤの言い分も理解した」

 菜箸で鍋をグルグル。鍋に視線を落としたまま、背中でイリヤの表情がパアっと華やぐのを感じる。

「よって譲歩。今日は特別に“流し素麺”ってのをやってみようじゃないか」

 やっぱ食べるのね……でも流し素麺って一体何? 少し面白げなネーミングでちょっと気になる。ってな、物凄い具体的な感情の込められたイリヤの視線が背中を焼く。室内温度は尚も上昇、前面は熱湯の滾る鉄鍋、後方は形容しがたいイリヤの視線。

「…………あちぃ」

 結局、零れたのは数えることを放棄したこの部屋の流行語大賞であった。
 っと、それは兎も角。麺の方もいい頃合いである。茄子と同じく冷水に手際よく浸して、さて、流し素麺を堪能する上で、一番重要な材料を調達しなくては。
 こちらの準備が整ったことをその嗅覚で鋭く感じ取ったイリヤは、子犬みたいに鼻をひくつかせながら、布団から抜け出した。式さんのお古の浴衣が、ヨチヨチと此方に寄ってくる。

「ほんじゃあ。――――――――――――投影、開始」

 駆け出しの魔術師としては、こんなしょうの無い事に限りある魔力を使い神秘を行使する事に疑問を感じなくも無いが、それはそれ、使えるものは使わないと。唯でさえ、俺は活躍の機会に恵まれていなんだから。

「ほい、っと。完了。イリヤ、もうチョイ待ってろよな。直ぐに準備が終わるから」

 取り出したるは竹とタライ。御勝手の引き戸からタコ糸を持ち出してから、部屋の構造を確認の意味も込めて解析する。
 台所から居間まで、距離算出。間取りから基点となるポイントを探し、テキパキと竹を組み立て、数分も立たない内に樋が完成。台所の水飲み場から居間に置かれた金ダライまで一直線の滑り台が、我が城に誕生した。
 イリヤがなにやら瞳にワクワクを一杯貯めてウズウズしている。ふ、ふ、ふ、可愛い奴め。それでこそ作った甲斐があるものだ。伊達に建築会社で強制労働させられている訳では無い。

「さてと、完成したし。そんじゃ、イリヤ、やり方知らないだろうから教えるけどさ」

 流し素麺の楽しみ方。なんて教える程のもんじゃ無いのは確かだが、何せイリヤは外国のお姫様、親切丁寧に教えて進ぜ様。
 ものの数分かからずに、日本文化の次世代への継承作業は終了。今日は出汁から蕎麦汁を作る気にはなれなかったので、出来あいの物を小鉢に注いでイリヤに手渡す。
 ポジショニングは完了。
 俺は台所。ちゃぶ台に乗せられた茄子の煮浸し、胡瓜の甘辛和え、そして先ほど調理した茄子とトマトのイタリアンサラダが並べられたちゃぶ台の前にイリヤ。
 蛇口を捻り、樋に水のせせらぎが。んん、良い。実に風流だ。何処からともなく聞こえる風鈴の音色なんか、最高だねー。それではいざ、流し素め―――――――。

「うをーい、楽しそうな事やってんじゃんっ! 私たちも混ぜろー衛宮っち」

 開始の直前、何時もの事ながら呼び鈴も鳴らさず、おまけに人ん家のプライバシーも報道の自由とか言って全く気にせず、現れたるや闖入者。そのパイナップル頭を朝倉和美と俺は呼ぶ。

「コレは見逃せないね。日本伝統の文化、流し素麺。近年は稀に見なくなったこの行事。いや、まさかこんな所で石化した庶民の娯楽に出会えるなんて、私はなんてついているの!? はい、そんな訳でっ。主催者の衛宮氏に取材宜しいかなぁー?」

 ショートジーンズとシャツ一枚のダレた格好、華も恥らう十八歳は、ツッカケを玄関に捨て置き、台所に侵入。いつの間にやら俺ん家の棚に常駐されている奴の獲物、朱塗りの箸を持ち出して居間に着席する。

「報道班お断り。許可下りてねえし、申し訳ないですがおご遠慮下さい。つーか帰れ。住居不法侵入は立派な犯罪ですヨ」

 早い話が昼飯たかりに来ただけじゃねえか。
 胡乱な瞳を朝倉に向けるが、効果なんざあるわけねえ。麻帆良のパパラッチ、その異名を取る報道の虎は、汁が無くては素麺食べれねー、と遅まきながらに気付いたらしい。俺の台詞を大気中に含まれた窒素濃度位にしか意識しておらず、勝手知ったる人の家、それを何の躊躇いも無く実行に移す。おい、さも自分の家みたいに冷蔵庫開けんなよ、藤ねぇって呼ぶぞ。

「いやー、しかし今日も暑いよねぇ。お腹は減るのに身体は動かない。さあヤバイねこりゃー、餓死すっかなー、とか思ってアイス齧ってたらサヨの奴がさ。衛宮さんの部屋で魔力の反応ですー、とか抜かすからね。気になってやって来たのよ。いや、大正解? てーか、あれーえ? ねえ、お汁はどこよー?」

 誰が教えてやるか。強く言ってやりたいがしかし、金欠の時に仕事を持ってきて貰ったり、裏側に関する貴重な情報なんかも安値で横流しして貰っている手前、悪い頭が上がらない正義の味方なのであった。
 朝倉に何のかんの突っかかりながら、最後に尽くしてしまう自分がちょっと憂鬱。朝倉の分の麺汁を、奴の注文どおり濃口で作ってやりながら、悪い気がしていない自分に尚憂鬱。
 自然と肩が落ちてしまう。と、そこにひんやりとした良い心地の感触が。

「あの、ゴメンナサイ。衛宮さん、私、余計な事言っちゃったみたいで……」

 セーラー服姿の可憐な十四歳の少女、朝倉の使い魔にしておくには勿体ない程の愛らしいー幽霊、相沢さよちゃんが、しょんぼりと頭を垂れる。ああ、申し訳ねーけど、癒される。その身体はエーテルじゃなくてマイナスイオンに違いない。

「いや、いいよ気にしないでくれ。そんなに畏まられたら、俺がどうしたらいいか分からない」

 それにそもそも、さよちゃんは全く悪くないし。罰を与えられるべきは、どう考えてもあの悪食だ。

「それでもです。此方がお礼をしたい位なのに……衛宮さんと知り合ってから、和美ちゃん、いつも楽しそうで。……その、だから、和美ちゃん、悪気は無いんですよ?」

 必死の訴えが、なんとも意地らしい。こんな甲斐甲斐しい子が、どうして朝倉の使い魔なのさ? 世の理不尽で溺死しそうだ。その時は絶対に朝倉を巻き添えにする。
 まあ冗談は兎も角、さよちゃんとは最近、目視は愚か軽いコミュニケーションをとることさえ難しくないのである。
 その理由はイリヤにある。以前は朝倉の精気を吸い取らないと実体化は愚か見ることすら叶わなかったさよちゃんで在るが、イリヤのちょっとした魔術で、彼女は目視に足りうる。と言うのも、イリヤは元が聖杯なだけに、プチサーヴァントみたいなモノらしいさよちゃんには、相当の理解があった。そんな訳で、今は何の愁いも無く、彼女との談話を堪能できるのだった。
 うん、善哉善哉。結構な事である。主に俺の為に。

「ほらー、衛宮っち。さよと話してる暇が在るならサッサと麺を、麺を流せー」

「そうだー、シロウー、さっさと流せー」

 居間の方から朗らかな声、いい加減、朝倉の悪影響がイリヤにも及ぶんでは無いかと不安になってくる。一保護者として、第二の藤ねぇ、第二の朝倉誕生は何としてでも防がねばなるまい。さもなくば、天国には召していねーであろう切嗣に合わせる顔が無い。
 ふふふ、と恭しく笑うさよちゃんに、やれやれと愚痴を溢してしまう情けない俺。聞き上手のさよちゃんに、甘えた俺を誰が責められよう。生前はお嫁さんにしたい彼女(ひと)、トップランカーだったに違いない。その信仰ゆえに、きっと君の魂は今も象を与えられているのだ。相違ない。つーか俺が信じたい。

「それにしてもさー、衛宮っち。さよと私の対応、全然違うじゃん。――――あれかなー、もしかして私よりさよの方が好みとか、そんな分かりやい男の子な理由かなぁー? あれー、あたりぃ?」

 待ちぼうけのためか、すきっ腹に溜まった苛立ちが矛先を変え、俺を揶揄する。その朝倉の讒言に、顔を赤らめるさよちゃんには悪いが。

「は? そうに決まっているのですが、なにか」

「ぐわあ!? 歯に衣着せねぇー。自分で振っただけに遣る瀬ねー! 女のプライドが戦慄いているー!?」

 勝手に暴走しだすのは良いが、なんで怒りの行方が冷蔵庫なのさ……。
 人様の家の食料庫に脱兎の如く駆けていく朝倉を、二人の少女の冷たい視線が追っていく。ああ、居た堪れないぜ。勿体ないよな、お前のその美貌が。なあ、朝倉。
 っと、そこで、玄関隣の黒電話がけたたましく鳴り響いた。
 十二時、日曜の昼時に一体………って、しまった、遠坂の定期連絡。慌てて受話器に走りよってそれを持ち上げる。疚しいことは何も無いのに、何で心臓がバクついているんだ、俺は?

「――――――――もしもし、衛宮君?」

 なつかしの、鈴を鳴らしたみたいに良く響く声。うん、遠坂に間違いない。

「おう。久しぶり、元気か? 定期連絡、こっちからするつもりだったのにさ。ロンドン帰りだ、それなりに疲れてるんじゃないのかよ」

「まあね。旅先でも宝具を持ち出したとか言う変な魔術師の追撃事件に向こうの先輩と一緒になって巻き込まれるし、おまけに捕まえたのに宝具の奪還出来ないしで、もう最悪だったんだから。でもま、私はこんなだし、桜も最近は体調良さそうだし、藤村先生は相変わらずだし……こっちはいつも通りかな? 正月には戻ってきなさいよ、冬木も、大分監視の目が解けてきたからね。聖杯戦争の爪痕も、段々と消えていってるわ。で、あんたの方こそどうなのよ? 元気にやってる?」

 電話越しでも感じられる生気に満ちた遠坂の言葉に、しばし逡巡。
 朝倉が野菜室に隠したはずのプリンの存在に気付き、大人気なく、同時に恥も外聞も無く所有権を主張しているし、イリヤがそれに嘲笑を贈り窘めつつも瞳が全然笑えてねぇし、さよちゃんはオロオロしているし………君達、人が電話している時位静かにしようよ。

「………、まあ元気そうで何よりよ。衛宮君、頑張りすぎないでよね」

 待て。なんだそのあきれ返る様なため息と一緒に投げかけられた、一抹どころか十束くらいに纏められた不安を覚える台詞はっ。言っておくが、なんもない。この家で今遠坂が考えた蕩けるほどに甘い男女の夜伽なんて背徳的な遊戯は存在していい筈がねー。

「ちょ、あのな遠坂っ………それは激しく誤、―――――――――」

 って、今度は何だ。
 ポケットの振動が、冤罪を回避するべく奮起した俺の弁論を遮った。着信あり……、先生から仕事で必要だからと無理やり持ち歩かされている携帯に……メール? 無題だけど一体何が、と思って拙い携帯捌きでメールを開き、絶句を通り越して口が開く。

「腹減った。飯。どうせ今日も素麺だろう? それで良い、持って来い」

 どないせーって言うんですか、先生。しかもこのタイミンで………。
 そんな生活力の無いところが素敵、とでもメール帰せばいいのだろうか。まさか、リアルで言ってんのか……いやだな、冗談に決まってる。

「シロウっ! カズミが私のプリンを、――――――――」

「おーい衛宮っちー。流し素麺はー? まだー?」

「衛宮さん、大変ですねー」

 電話の向こうでは、何やら笑いを噛み殺す非情な音叉。
 人工の過密により湿度と温度を増していく我が家。
 止まらねー金切り声と笑い声。
 再び携帯に着信、今度は電話だ…………。

「…………俺の、休日」

 何が悲しくて遥か真夏の晴天を滲む眼で見上げなくてはならんのか。
 映画で言う所のフェードアウト。入道雲と、澄み渡る青い空が一杯に広がっている。無意味にかっこ良さ気ではなかろうか。俺の心象とは正反対の爽快さとか、特に。
 潤む目蓋とは対照的に、零れた吐息は、こんなにも乾燥してひび割れているのであった。

「―――――――――――なんでさ?」

 ふと、そこで思い返す。
 考えてみれば、これが俺の日常って奴だっけ。
 あの戦いで中身を手に入れて、そして失って、自らの手で手繰り寄せ、そしてまた創られる生きた俺の、ガランドウの世界。
 ――――――だったら、それも悪くないかな。
 強がりの様な、弱音の様な本音を漏らす。だけど、もしかした精一杯、大声で叫んでいたのかもしれない。きっと、俺だけが気付けない歪な声で。

 ……まあつまり、なんだ。
 アイツが欠けた空っぽの世界でも。
 衛宮士郎は、今日も、在り来りの退屈に生きていた。








 I hope to step day by day.
 I wish to be the day step by step.
 So he has fisted the happy material whilst he has only never noticed.








/ to begin second season.








Happy material / in the night.









[1027] Mistic leek / epilog second.
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 07:56
/ outer.

「――――――――よお、いい夜だ。アンタもそう思わないか?」

 鮮血に染まる船上。言葉とは裏腹に、狂犬じみた顔を喜悦に歪ませ、男は追悼の言葉を贈る。
 黒光りする屈強そうな肌と、それに良く似合う身の丈。彼は無地のシャツと黒のレザーパンツに付着する、凝固した血液を軽くはたいた。

「――――ち。つまらねぇ、返事くらいしやがれ」

 彼は月の光しか差し込まぬ海原に、肉塊を蹴り落す。
 充分な大きさの輸送船だ、海面に叩き付けられた人型は、その衝撃で、申し訳程度に残されていた四肢がバラバラ弾けた。

 咲いた血の色と誘われる飛沫。

 唯でさえ男によって体を限界まで抉られたのだ、もはやその死体が人間であったなどと、考えられるモノではない。
 赤い海に魚が群がり、ヒトだったモノを咀嚼し始める。

「ほら、次はどいつだよ?」

 朱い眼光を走らせ、腰を低く。彼は酷薄な暴力の気配を滲ませながら、笑みを絶やさない。輸送船の船灯を背後に受けて、男は身の丈以上の大槍を構える。
 それに怯むのは、男を囲む魔術師数名。先ほどまで二十といた彼らは、既に片手で数えるほどしか残っていなかった。

「おいおい、ビビルなよ。命の値打ちなんざ、んな大層なものじゃないだろう。そんなのお互い承知の上だと思うんだが。俺の勘違いだったか?」

 潮風しか耳に残らぬ無音の船上に、歯軋りの音。男の挑発に、疾駆するのは二人の魔術師。
 強化の魔術によって鍛え上げられた筋肉を持って、大槍の男に突貫をかける。

「は、いいね。来いよ!」

 対する男は、何の魔術行使も無く長柄一振りでその身を守りぬく様だ。

 先手は魔術師。
 一人が右より牽制の打ち込み。それに遅れるもう一人は、男の左後ろよりその眉間目掛けて鋭角の上段蹴りを放つ。
 タイミングをはかられ、繰り出された二撃。コレを捌き、有利を担える妙手は男の中にない、故に、――――跳躍。
 四肢を充分に生かした直角の飛翔。大げさすぎる挙動を持って、初激を躱す。
 男の体は、ゆうに六メートルの距離を稼ぎ出し、船舶の中央に位置取った。
 それに迫る二人の魔術師は、三歩でその距離を走破。
 半瞬の間に、男の左右より追撃する。対して、潮風を凪ぐ鉛色の大槍。男は三メートルを越える其れを軽々と横一文字に繰り出し、魔術師たちを退けた。
 だがそれだけ、男の斬激を待っていたとばかりに二人の魔術師は後方に跳躍。

 彼らは囮だ。

 大槍を振り切った視界の先に、残る魔術師が殺気を魔力に還元し、数え切れぬ神秘の矢を形成する。
 放たれれば男は死ぬ。呪が成れば、彼はあの必殺の雨を捌ききれない、避けきれない。
 不思議と、いや、当然の様に、彼に死の恐怖は無い。
 男の脳裏にあるのは戦いの中にある高揚のみ。

 彼は思考する。

 いくらその身が吸血鬼、死徒と呼ばれる人外であっても、この世の理に疎まれたモノではない。
 英霊ほどの力量も備えていなければ、何人をも凌駕する不死性を備えたわけでもないのだ。

 人間以上の身体能力。
 この身が備えた能力はそれ一つ、戦いのみを求めた成れの果て。
 永遠に戦い、永遠に戦いを渇望する哀れな肉。

 故に殺され、――――――――故に殺す。

 男の欲望が高潮にいたる直前、彼の体から鉛色の閃光は放たれた。

 其れは、投擲などと呼べる代物ではない。
 考えられるであろうか、彼は殺し合いの最中、その身唯一つの武器を投げ捨てた。

 そう、―――――――――投げ捨てたのだ。

 構えなど無く、狙いも皆無ならば、其れはもはや技巧などではない。
 しかし、自身の感覚が命ずるままに魔術師に放たれた大槍は、されど魔術師の心臓を串刺した。

 彼の思考は実に単純。
 神秘の鏃を放たれれば殺される、ならば放たれる前に、殺せばいい。
 ただ忠実に、単純な引き算を実行しただけだ。

「――――――――――――――ひゅ」

 空気の漏れる、口笛の音色。男は魔術師に突きさっさった自身の獲物に向けてその身を加速する。
 今、先ほどの魔術師たちが彼に対して何らかの攻勢に出たのであれば、男に其れを退ける術は無い。されど、魔術師の思考を凍結させた異常行為、理解不能の行動、一つしか無い自身の必殺を投げ捨てる怪奇は、彼らの肉体を弛緩させるのに充分だった。

 決して速くなど無い疾走。

 朽ちず蠢く吸血鬼の中において、男以上の速さを有するモノなど数多いる事だろう。
 だが、それでも充分だ。
 人間に捉えきれぬ速さであれば、人間に恐怖と言う衝動を叩きつけるのであれば、其れは正しく獣の走駆だ。

「――――――――――っらあああ!」

 男は慟哭を吐き出し、背負い込むように槍を引き抜く。心臓から肩口、ばっさりと引き裂かれた魔術師の亡骸は、同時に、海原へと投げだされる。

「あと二人。――――――おい、お前ら。――――簡単に死ぬなよ!」

 軽口の間に、二人の魔術師へと再度肉薄。
 先をくれてやるのは一度のみ。そう言わんばかりに、男の斬激を主体とした長柄の乱舞が打ち乱れる。

 男の武器、グレイブと呼ばれるその槍は大きな穂先が特徴的な“薙ぎ”を主体とする武装だ。かつて青い槍兵が見せた“突き”を主体とする芸術的な槍術と相克するかのごとく、“点”の平突きを囮に使い、長いリーチを生かした“線”の横薙ぎで腹を抉る実践的な槍撃。
 其れを証明するように、離脱すら満足に行えなえぬ魔術師を、袈裟に叩っきる。

「――――次で」

 それが彼の戦い方。槍における正攻法にして常道。

 常軌を逸脱した感情的な行動と、それに反発する理詰めの槍術。
 其れが男の武器。
 青い槍兵と同じく、戦いのみを求めその身を吸血鬼へとなした狂喜の狂気。
 象を成す槍の軌跡は異なれど、求めるものは故に同じ。

「――――――――――――ラァストオォ!!!」

 男は嬌声ともとれる叫びをもって、天上に槍を構える。
 そしてその刹那、引き絞った両足から月を頂く直上、そして直下。
 最後の一振り、断頭台を思わせる慈悲深い一線に、魔術師は痛みを感じる事は無かった。
 頂点より二分割された死体は次の瞬間には倒れ付す。

「ご苦労さん、弱すぎだ。―――――来世からやり直せ」

 それを不満げに見送ると、彼は鮮血に満たされた船上に、ゆるりと腰を落ち着けた。

「結局、今回もお前の出番は無しだな、―――本当、つまらねえぜ」

 言葉通りの顔で、男は夏の空を見上げる。
 担ぎ直された、男の魔槍。
 鉛色の暗い銀光を纏う彼の槍はただ誇り高く、合い見えるべき兵を待つ。













「起きなさい、目的の物は回収しました。直ぐにここを離れますよ」

 鮮血占める船舶の中央、耳までの短髪を靡かせて、一人の女性が先ほどの男を揺する。
 紫苑色の繊細な髪はしかし、鳴弦の如く撓り、儚い美しさに力強い艶やかさを湛えていた。
 アレから既に半刻、男が眠りに沈むには充分な時間があったようだ。

「――――――おせえよ。あのヘンタイ爺の宝具を回収するだけで、いつまでかかってやがる」

 寝ぼけ顔を整えて、男は立ち上がり女に毒づく。
 だが女も去るもの、別段気にした様子も無く、しれっとした平静を装う。いや、この冷淡な態度こそ、彼女の平時なのだろう。

「それは失礼。他にも多数興味深い魔具が時計塔に郵送されるようなのでね。少しばかりくすねてきました、流石は麻帆良の郵送船です、一刀大怒までとは言いませんが、かなり上位のアーティファクトを発見しまして、選別に時間が」

 女は手に持ったランタンを男の目の前に掲げる、どうやら格納専用の魔具のようだ、満足げに其れをチラつかせると、男は仕方無いとばかりに頷いた。

「まあいい、おかげで今回は俺一人で暴れられたからよ」

「みたいですね、随分と派手に立ち回ったようで。貴方の発狂振りが眼に浮かびます、理解しがたいですね、まったく」

 整い過ぎた顔立ちに、美貌を隠すかのような薄い眼鏡、黒のTシャツに深いブルーのジーパンを着こなす長躯の女性は、思い出したように一言加える。

「ああそれと、貴方が散らかした物はこの子が片付けてしまいましたが、宜しかったですか? といっても、既にこの子のお腹の中なので、返せと言われても困りますが」

 太平洋上の南風は些かべた付くようだ、女は鬱陶しそうに髪を掻き揚げた。
 そんな仕草に、男ならばいきり立たない筈も無いその仕草を前にして、男は彼女から目を背けるように睥睨した。
 視界には、先ほどまで散乱していた人肉は一つも映らない。男の目に映るのは滴る血の匂いと月を抱く赤い池だけだった。

「お前のペットは良い趣味しているよ。あんな不味そうな男共の死肉なんぞ喰って、腹壊壊さねえのか? すげーよな、合成獣(キメラ)って奴わよ」

 男は言うと、女の肩に乗る人工的な白さを纏ったリンクスに視線をずらす。

「………雑食の貴方がよく言えますね。血の匂いを嗅げば見境無しに殺し合い、欲を満たす貴方より、この子の方がよほど利口だと思うのですが?」

 女は男の視線が気に入らないのか、庇うようにリンクスを腕に抱きかかえる。

「はん、違いないね」

 男は心の底から納得させられたらしい。薄笑いで唇を吊り上げ、硬そうな青髪をぐしゃりと掻き毟る。
 その仕草に呆れるものを感じたのか、女はキメラと呼ばれたリンクスの顎を撫で付けながら、灰色の瞳を男に向けた。
 どうやら、彼女は吸血鬼ではないようだ。

「それでは次の目的地に向かいますか? いつまでもこんな所にいるのは、精神衛生上良くありません。私とこの子は、貴方と違って至極真っ当なものですので」

「よく言う。――――――しかし、極東…ねえ。気がのらねえな」

 男は心底嫌そうに大きく息をつく。
 そして零した、次なる目的地、日本。

「スコットランドの山奥から、ドイツの雪原、そして太平洋海上の船舶を貸しきりにして、目指すのは極東の地。ちょっとした旅行だと思えば宜しいのでは?」

 女は淡々とした表情で、夜の海を見渡しながら男に言う。
 そんな女の態度に、この男も慣れているのか、別段彼女の嫌味を気にした様子も無い。

「で、冬木のマキリとか言ったな? 俺たちが手ぇ貸せばいいのはよ」

「あら? 珍しいですね。貴方がトラフィムの命令を覚えているなんて」

「抜かせよ。今回は別だ。そうだろ?」

「確かに、私も今回は好奇心の方が、トラフィムの命令よりも勝っているようですから」

 一際強く吹いた潮風に体を預けて、二人の人型は喜悦に表情を歪めた。
 彼らの目的、彼女たちが頂く祖の一角、トラフィムが唯一望む願望、聖杯。

 男は聖杯が呼び込む血みどろの戦場にその身を遍かせるべく、死徒の王に遣え。
 女は自身の魔術の探求を主とし、吸血種の中にあって絶大な権力を持つ死徒の王に遣える。
 望む願いは異なれど、彼らは等しく聖杯を欲する。
 故に、彼らはその身を寄り添わせ、尊き躯の王に仕える駒と成った。
 故に、彼らは駒であって駒ではない、彼らと言う騎士である。

「しかっしまあ、お互い忠誠心なんてなんてものには無縁のようだな、今回の件に限らずよ。アリア位のもんだろ? トラフィムを心の底から心酔しているのはよ」

「そうですね。彼は、ほとほと人望が無いようだ、――――さて、そろそろ行きますか?」

 薄く光の差し込む水平線、それに気付いた女はこの途方も無く無為な会話を終わらせた。
 顔を見合わせた二人は、ここにはいないアリアと呼ばれた金髪灼眼の少年に嘲る様な笑いを送り、船灯を横切り黒い大海を望む。

 しかし、彼らは気付いているのだろうか?

 気ままに歪めたその微笑みは、その実、自らに向けられていたことに。
 その軽快な微笑の中には、王を寵愛する、確かな信頼が秘められていたことに。

「さあ、少し痛いけど我慢して」

 女は、真性の白を纏う山猫の前に跪き、眼鏡を外す。
 視界に納められたリンクスは金縛りに合ったように動きを止めた。
 “視る”と言うシングルアクションの魔術行使によって、山猫の内に科せられたリミッターが破壊されたのだ。
 醜悪な叫び声が潮の匂いを裂いたのも一時。
 人工的な白色の毛並みをそのままに、その躯は膨張したかの如く変態。四肢の爪はより鋭さを増し鉤状に黒ぐろく染まり、しゃくれた爪牙は猛鳥の類を連想させる。背骨の間から肉を破りと生え出す金属的な鬣は白金の質感を伴っていた。

「ヒュ~♪ いつ視ても、大したもんじゃねえか。アンタの魔術、いや錬金術だったか?」

 男は、全長六メートル近くまで変態し、鷲の翼を携えた真っ白い獣に徐に近づき、その朱い瞳で、くすぶる猛禽の黒い眼に賞賛を送った。

「その子を形成する段階は錬金術ですが、変態のプロセス、それと命令系統は魔術の範疇ですよ。以前にもお話しした筈ですが、もう忘れたんですか?」

 女は律儀にもコレで五度目になる説明を繰り返す。
 彼女とて男が自分の話しを聞いていない事など、とっくに気付いているので、早々と獣の背に乗り無表情に嗜める。

「そんな下らぬことより、優先することがあるでしょう。早くここを離れますよ、クー。直ぐにも日が昇る、吸血鬼の貴方には些か酷でしょうからね」

「ああ、そうだな、――――ってメリッサ! その名前で呼ぶんじゃねえ!! 何回言えば分かりやがる!?」

 クーと呼ばれた男は、猛禽の背中にまたがり、憤怒の表情で頬を引きつらせる。
 メリッサと呼ばれた女は、彼の態度に、やはり眉一つ動かさず告げた。

「貴方とて、私の話を聞かないでしょう? お相子だ。それに私はこの名が気に入っている、覚えやすく、呼びやすい良い綽名だ。――――何より、クロムウェルなどという、大仰な名前よりも、よほど可愛いではないですか?」

「てっめ! いうに事欠いてそれか!?」

 薄く黒色を失い始めた夜の世界。
 翼の生えた猛禽は、吸血鬼と魔術師をその背に潮風を切る。

 去り際、一輪の薔薇を、メリッサは天上より血染めの船へと捨て置く。

 揺られ、朱色の大地に活けられた一輪は、毒々しく血色の雫を吸い上げた。







 聖杯は廻る。
 かつて衛宮士郎が彷徨った、真紅の世界同様。
 その日、願いの渦は一輪の朱色によって、再び幕は引き上げられた。







 とは言っても。





Fate / happy material





 正義の味方と聖杯の運命は。
 まだまだ、交わることは無いのだけれども………。
 



[1027] 第一話 千里眼
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 08:09
/ 1.

「何? 身体に強化の魔術を行使出来ないかだと?」

 麻帆良の吸血鬼事件解決から日付も大して変わらぬ、ある夜。
 今日も式さんとの鍛錬を終えた俺は先生の工房にやって来ていた。
 伽藍の堂の三階に位置するこの部屋は、骨董品染みた裸電球が懸命に光を放つ八畳の空間である。
 人形やその他魔術関係の道具を作成するこの工房の中には、所狭しとバラバラになった人間の腕や足が散らかっていた。
 作り物と分かってはいるものの、存外にいい気はしない。
 先生は平気なのか?

「私は気にしないよ。それよりも、何で今更強化の魔術なんだ?」

 毎度の事ながら、なんで先生は俺の考えている事が分かるんだ?
 俺が難しい顔をしたのも束の間、先生は充分な長さの残るタバコを灰皿に押し付け返答を求めた。何時もの如く湧き上がったどうでもいい懸念を捨て去り、俺は吃る様に口を開く。

「それはですね――――――――」

 麻帆良での死徒狩り。記憶が余り鮮明では無いが、それでも苦渋の末に奴を討滅したことは疑いようが無い。それも、桜咲と二人がかりでだ。
 あの事件で、俺は決定的に思い知らされた。人外との身体能力差、それが、俺の想像以上に巨大なハンディキャップであることを。
 確かに身体は人並み以上に鍛えてはいるが、それはあくまで一般人でのレベルだ。オリンピック選手に届きはしないし、ましてや“人間以上”と自称する人外の連中と真っ向からの勝負だなんて出来るはずが無かったのだ。
 思い返せば、聖杯戦争。あの戦いで英雄達と同じ土俵で戦ってきた俺は“人外”吸血鬼のことを軽んじていたのかもしれない。
 それを俺は、麻帆良での初仕事から学んだ。

「ふむ、確かにね。君の杞憂も分かるが………」

 先生はいかんともし難い表情で俺の身体を流し見ている。
 足の先から余り上背の無い俺の赤い髪まで品定め。今夜は珍しく室内でも厚着をしている俺だが、どうしてか寒気が背中を伝った。

「君も知っての通り、自身の強化は難易度が高い。私は肉体が専門だからな“身体”がらみの魔術だし、教えられない事は無いんだが」

 そして先生には珍しく、ハッキリしない台詞が帰ってきた。
 伺い知るに、先生の瞳は自身を喪失しかけている。そうして俺は、よせば良いのにポロリと漏らしていた。

「 ? 何が問題なんです?」

「………ふむ、いい機会だ、一つ言ってやる」

 何かを諦めた様に、先生は内ポケットより二本目のタバコを取り出し、火を付けた。

「君の魔術なのだがね、解析の魔術以外、殆ど進歩が見られないんだ」

 咥えタバコのまま、頭(かぶり)を振る先生。

「強化にしろ類感にしろ、一応使える様にはなっている。が、所詮はその程度。詰まりだ、衛宮士郎。この封印指定の魔術師・蒼崎橙子を持ってしても、君に魔術を教えるのは魔法に至るのと同格の難題なのだよ」

 先生の瞳に冗談の色は無い。
 全て真実、全てが事実と怒りさえ含んで俺を貫く。

「………………それはつまり」

「よく聞け、ヘッポコ王。君の才能では体の強化など出来はしない」

 また、それですか?





Fate/happy material
第一話 千里眼





/2.

「それで? 何だってオレ達はまだココに残らなきゃならないんだ?」

 先生の死刑宣告より一時間後。
 何故だか俺を含め伽藍の堂全メンバーがお茶菓子を囲って雑談を始めた。
 並べられたソファーと硝子で作られたお洒落な卓袱を囲んで女性陣は腰を据えている。時刻は八時、金曜の夜という事を考えれば皆とっくに帰宅している時間だ。
 式さんが殺意、もとい不満を込めて先生を睨みつけている。あの怒りよう、今夜は帰り掛けに幹也さんとデートの約束でもしていたのだろうか?

「ふむ、衛宮から先ほど話を聞いてね。中々に興味深いテーマだったのでこうしてお茶のネタにでもと思った次第だ」

 先生は草加煎餅を砕いてから口に入れ、切り出す。
 彼女は平時の如く薄い嘲笑を絶やさない。こっちはヒヤヒヤものですよ。

「まあ今日のデートは諦めてくれ、これも私達の弟子のためだ。なあ、式?」

 ニヤニヤしながら強気な彼女に視線を投げる先生。
 普通気付いていても言えないと思います。

「――――――――――っつ!? 何でお前が!?」

 頬を赤らめ怒り出す式さんは、恥ずかしがりながらナイフを構えるという離れ業をやってのけた。やっぱり今日はデートですか、分かり易くも可愛いらしい。
 羨ましいぞ幹也さん。

「まあまあ、式も怒らないでよ。それで橙子さん、士郎君がどうかしたんですか?」

 幹也さんは後ろから式さんを普段の調子で宥めてはいるが、少し影がかかった顔色が気になった。幹也さんも表情を抑えているようだが、先生の理不尽な物言いに苛立っているのだろう。ちょっと、眉毛がひくついている。

「……俺から説明しますよ」

 呆れ返り俺に視線を送るイリヤに頷き、俺は首をもたげた。
 先生に任せていたら、いつまで経っても本題に入れなさそうだしな。








/3.

「――――――ふうん、なるほどね。確かに面白そうな話じゃないか」

 俺が話しを終え、最初に口を開いたのは式さんだ。
 彼女はソファーに深く沈みこむと、やや思案顔で俺の顔を窺っている。先ほどの剣呑な不陰気は既に無く、俺の問題に頷いてくれた。
 ずっと一口、専用の黒い茶碗で口を潤した彼女はソファーに浅く腰掛け直し、口を開く。

「様は、その“強化”って奴を使わずに人外連中と渡り合うにはって事だろ?」

 俺は妙に嬉しそうな式さんの声に頷いた。
 先生曰く、俺に身体強化の魔術は使えない。なら逆に、それを使わずに人外の連中と渡り合うにはどうしたら? というのが、今夜皆に残って貰った理由だ。
 そうですよね先生?

「その通りだ。中々に面白いテーマだろ?」

 先生は俺の視線を受けて、付け足すように肯定の言葉を示した。

「お兄ちゃんは色々と大変なのね」

 こちらはイリヤ、式さんお勧めの薄皮饅頭を頬張りつつ口を開いた。
 人事の様に俺の身体を頭からつま先まで眺めたイリヤ。俺はそんな彼女の態度に、頭に降ってわいた疑問を投げる。

「なあ。イリヤは身体強化の魔術、使えるのか?」

 自身の防衛は魔術師にとって不可欠な要素でもある。なら、イリヤもそれなりに自衛のための手練手管を持っているはずだ、以前の氷、水を使った攻撃呪然りである。強化は割と基礎の魔術みたいだし、イリヤが必修していても可笑しくはない。

「当然じゃない。身体強化は確かに高難易度の魔術だけど、ある程度までの能力なら割と簡単に強化できるわ。様は錬度の差よ、強化は初歩にして極めるのが困難な魔術。私じゃ精々成人男性位の力までしか強化出来ないけど、専門の使い手ならそれこそ人外連中と同格の力を得られるでしょうね」

 何でもないわよこれ位と、流し目でフフンと胸を張る妹。
 なるほど、イリヤの小さな身体で“青・倚天”を振り回せるのはそう言う事ですか。

「…………才能の差が恨めしい」

 八つ当たりの様に目の前の煎餅に噛り付き俺は零した。
 毎度の事ながら式さんの持ってきたお菓子は美味すぎるぞ。

「そう卑屈にならないで士郎君。いつか良い事もあるよ」

 俺にお饅頭を薦めながら幹也さんが俺の肩に手の平を落とす。
 有難うございます、饅頭の甘さが身に沁みるなぁ。

「おいおい……衛宮、論旨がずれているぞ」

 呆れながらお茶を啜り先生が軌道修正を試みた。
 くつろぐ式さんに身体を向けた先生は抑揚のない声で問いだす。

「それで、どうだ式。殺し合いはお前の十八番だろう? なにか意見はあるかね」

 先生の言葉に俺の後ろの幹也さんは顔をしかめていることだろう。
 「彼女の特技が殺し合いって……」今にもそんなため息が聞こえてきそうである。
 そんな幹也さん心の葛藤に気付いた様子も無く、式さんは続けた。

「どうもこうも無い、技術を磨くしか無いだろ。少なくとも俺が殺しあった人外連中は能力の劣勢なんかどうにでもなったぞ? 吸血鬼にしろ魔術師にしろ、人間の性能で勝てない相手じゃない」

 煎餅を食べる手を休め、俺は式さんの言葉を受け止める。
 その通りだ。身体能力の有無が勝ち負けを左右する訳じゃない。
 タカミチさんや桜咲は、その能力差を覆せる技量と経験、そして戦闘者としての卓越した才覚であの吸血鬼と渡り合っていた。

「だがね式、それを今の衛宮に求めるのは酷だろう? 君も知っての通り、こいつは才能と言う言葉から最も遠い男だ、技術云々では如何しようも無い壁が在る」

 先生、間違ってもそれはフォローではないです。
 打ちひしがれた俺を、笑いを堪えて盗み見した先生は、ため息を一つ吐いて明確な事実を式さんに叩きつけた。

「身体能力の劣勢。衛宮にしてみれば壮絶なハンデだぞ」

 これから俺が非日常の世界に生き続けるならば、正義の味方を追い続けるならば、この壁は何としても乗り越えなくてはならない。能力の壁、人としての劣悪が俺の前に厚く聳え立つ。

「―――――――――――――――――」

 しかし、沈黙が堕ちたサロンの中不適な笑みで式さんは先生の指摘に切返した。
 
「――――ああ、知ってるよ。衛宮じゃオレの様な戦いは出来ない。だけどな橙子、こいつは一つだけ。何よりも優れた部位がたった一つだけあるんだ」

 思わず顔を上げ、式さんを注視した。

「――――――――――それはな“眼”だ」

 俺は式さんの言葉にだらしなく口を空けてしまった。

「気付いて無いのか、衛宮?」

 首を横に振り、俺は式さんに返した。
 俺も含めた面々も顔を傾げている。

「幹也達はともかく、橙子、お前もか?」

「ああ、初耳だ」

 先生は探求者の眼差しで、式さんの言葉を待っていた。
 まだ知らぬ境地に足を踏み入れる喜びを噛み締める様に、先生は式さんに先を促す。

「まあ、話すより見せた方が早いか」

 式さんはめんどくさそうに立ち上がり、俺を手招き。
 何でそんなに冷たく笑っているんでしょうか?

「衛宮、オレんちの日本刀、簡単なので良いから創れ。鞘ごとだぞ」

 言われた通り刀を投影し、式さんに手渡す。
 不適な式さんの笑みは、更に歪に美しくなり。

「―――――――――――――!?」

 刹那の間に投影した刀を抜刀した。
 刃が俺の前髪をチラつかせ、数本が風に乗る。

「――――――――――――なんで、オレの刀を避けなかった」

 式さんが不愉快そうに俺を睨みつけ刀を鞘に納める。
 彼女の突拍子のない行動にイリヤは騒ぎ出すが、そこは式さんと付き合いが長いだけの事はある、幹也さんが冷静にイリヤを取り押さえ、唇に指を沿え沈黙を促した。

「――――――なんでも何も、避けられませんよ」
 
 つーか殺す気ですか。
 突然の出来事に腰を抜かしていた俺は、その場にへたり込んで式さんを見上げた。最後の強がりと、声が震えなかったのは上出来だ。凄いぞ、俺。

「―――――だろうな、それじゃ質問を変える。今の一太刀、視えていたか?」

 質問の意図が見えない俺は、勢いのままに頷いた。

 ――――――――その答えなら、Yesだ。

 死徒の、人外による一撃でも俺は違える事無く両の眼で捕らえきれた。
 でもまあ、見えているから避けられる物でもないんだけど。今の抜刀だって、見えただけで避けるなんて不可能だし。
 呆れる式さんは先生に眼を配り視線で遣り取りしている。

「これで分かったろ。運動神経も反射神経も並みの癖に、“視覚”だけはずば抜けているんだよ。他にもこいつ、大抵の距離なら肉眼で殆ど視認出来るってゆう出鱈目さだ」

 着物の裾を不機嫌に直す式さんは自分の抜刀を視認されたのが気に食わないのか、雪だるま式にイライラを募らせてこの話しの要点をついた。
 ……なるほど。
 あの戦いで初めて、いや、正確には二回目のランサーの襲撃で、俺が馬鹿みたいに速い槍を避ける事が出来たのはそんな要因もあったのかもしれない。まあ、あくまで可能性の話しだが。

「つまりさ、衛宮の戦闘における最大の利点は“眼の良さ”なんだよ。性格といい身体の作りといい、こいつは剣士じゃなくて弓兵だな」

 ぬう………確かに俺は“アーチャー”だけど、釈然としないぞ。

「なるほどね、こいつは盲点だ。しかし式、所詮は“眼”だけだぞ? 人外の動きが視えた所で避けられなくては意味が無いだろう」

「そこまで責任取れるかよ。最低でも視えているんだから、反応位出来るだろ? 致命傷は避けられる筈だ、そっから先は衛宮が自分で何とかするさ」

「確かにな。そこまで我々が心を遣る必要は無いか。では今後の修行内容だが……」

「ああ、それで問題ないだろ。その方が叩きがいがある」

「そうだな、では………」

 俺の介入する余地も無く、今後の修行プランが駆け足に決定されている。
 どんどん単語が物騒になっていくのは気のせいだ、気のせいに決まっている。
 ごめんなさい、嘘つきました。お願いですからあの二人を止めてくれ。

「…………ふむ、眼球の強化位であれば今の衛宮で何とかなるだろ。聞いての通りだ。今後の鍛錬では眼球強化の魔術と変化の魔術を平行で進める、差異は無いな?」

 式さんとの話し合いが一段落したのか先生が快感に歪んだ顔で俺を見ている。
 今頃先生の脳内には、俺を甚振る阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されているに違いない。

「…………ありません、ご指導の程お願いします」

 ――――――――頑張れ、俺。

「よし、話しは終わった。幹也、行くぞ」

 朽ち果てた俺の背中の向こう側では式さんが幹也さんの首根っこを引っ掴んで余所行きの準備を始めている。
 式さん、デートはまだ諦めて無かったんですね。

「そんなに慌てなくても大丈夫だよ、式。――――それじゃ所長、士郎君、イリヤちゃん来週ね」

 とは言うものの、幹也さんはシッカリと準備を終えていた。
 何を言ったところで、彼も式さんとのデートを楽しみにしていたのだろう。
 時刻は未だ九時。
 今日は雲ひとつない綺麗な夜空が広がっているし、夜景を眺めながらのディナーは最高だろうな。

「式。レディーだって攻めるとこは攻めなくちゃ駄目なんだからね、頑張りなさい」

 イリヤが壮絶に色っぽい顔で式さんにエールを送っている。
 ………意味分かって言ってるのか? イリヤさん。朝倉の入れ知恵だろうけど、あんまり感心はしないな。

「な、ば、違!? 今日のデートはそんなんじゃ!?」

 イリヤの言葉に再度真っ赤になって否定する式さん。
 
「大丈夫だよイリヤちゃん。それは男の人の仕事だからね」

 爽やかな笑顔と共に、耳まで真っ赤にした式さんの手を引いて事務所を後にした幹也さん。
 微笑ましい限りだ。そして羨ましいぞ、幹也さん。

「まったく、いつまで経っても進歩の無いことだ」

 先生は幸せそうに窓から見える二つの影に視線を落とした。ジッポは勢いよくタバコの火をともし、二人をみおくる。




 さて、今日の仕事も終わったし。
 明日からの休日、ゆっくり休めればいいんだがな。



[1027] 第二話 パーフェクトブルー
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 08:26
/ 13.

「綺麗な、――――――――――青だ」

 青い海。

 青い空。

 青い水平線。
 
 冷房も備えられていないローカル線に揺られ、俺は代わり映えのしない青い世界を感慨も無く眺めていた。

 切嗣が逝去して以来、海に足を運んだ事などあっただろうか。

 思い出に浸る心算も無いので、静かに瞳を閉ざし深遠の世界を黒一色に塗り替えた。

 だというのに、薫る渚がそれを拒む。

 薄く視界に差し込む青色が心臓の鼓動を早鐘の様に打ちつけていた。
 
 この感情は一体なんなのだろうか。

 少なくとも俺は、こんな情動が幸せだとは感じない。

 ならばコレは苛立ち以外の何者でも無いのだろう。
 その証拠に俺は眉間にしわが集まるのを感じていた。
 
「――――――――――――――――――――」

 無言。
 みっともない決意の表明。

 そうでもしないと、俺は彼女の歐を振り返ることが出来そうに無い。

 俺は、誰に告げるでもなく振り返る。

 歪な願いは果て無く続く青い恋に沈む。

 思い出そう、彼女の物語を、――――――。





Fate/happy material
第二話 パーフェクトブルー Ⅰ






/ 0.

 静寂の落ちた暗がりの中。滴るような闇色が先生の工房には満ちている。
 生憎雨模様。雨天の夜空に月は無く、街のネオンが届かぬこの場所には、光が一つも見当たらない。
 暗闇に乗じ、自身の神経をより細く、より深く潜り込ませるように目蓋を閉ざす。
 呼吸は正常、問題ない。

「――――同調、開始」

「ふむふむ、それで………」

 短い嘆きと共に、暗闇しか捕らえぬ筈の眼が熱したタオルケットに押し潰される感覚に襲われた。この感触、今回は成功する、いや、させてみせる。
 休み返上で先生の工房を借り、眼球強化に挑戦するも既に一週間。
 土曜日は全くの進歩なし。
 日曜日は少しの前進。
 月曜日はやや後退。
 火曜日にやっとコツを掴み始め、ただいま水曜日の夕刻に至るのだ、今夜は成功させ無いと流石にへこむ。汚名は挽回するのではなく返上してこその物だろう。逝くぞヘッポコ王、才能は充分か?

「――――――――――っつ」

「ほう、それは本当か? 何? 三人がかりで取り逃した? 来年の主席候補と例のお姫様を助手に連れて行ったのにか? ん? ああ、犯人自体はしょっ引いたわけ……そりゃそうか、哀れでならないね、勿論そのこそ泥が。……ふーん、で、目的のモノは既に郵送済みだったって訳。ご愁傷様、そいつも哀れだ。洒落るなら、“悲劇”だ」

 っく!?落ち着け。魔術行使の最中に何を馬鹿な。
 余計なことは考えるな、今までの失敗も、これからの成功も。
 回路を深く深く深く深く、―――――――――――。
 魔力を細く細く細く細く、―――――――――――。
 熱い魔力と冷えた精神が目前で絡み、溶け合い、浸透する。
 
「―――――同調、完了」

「了解した。何、弟子の頼みだ。それに、私自身も興味がある。それではな、尻拭いは任せておけ。精々愛しのお兄ちゃんを扱き使わせて貰おう」

 先生の方より上がった怒髪天の叱咤。キーンと響いた音叉を合図に目蓋が開けた。
 心地よく熱を持った眼で工房より覗ける遥か彼方の鉄塔を睨みつけ、そして。

「……………駄目かぁ」

 全身の脱力感を抑えきれず、思わずタイル張りのフロアに腰を落とした。
 一気に噴出した汗をTシャツの袖で拭いながら、魔力を流す前と幾分も変わらぬ視界を流し視る。

「あいも変わらず、魔力の調節が下手糞だな。慎重になりすぎだ、そんな微細な魔力を流した所で意味はないよ」

 先生はこちらに見向きもしない。
 備え付けられた専用の机の上で、受話器を手放した先生はメモ帳に何かを書き込みながら悠々と俺のミスを指摘した。
 慎重になりすぎ、か………前に遠坂にも言われたな。鍛錬の時の俺って、どうしてこうも踏ん切りが悪いんだか。

「しかし先生、電話をしながらよく俺の魔術行使にまで気を配れますね。お心遣いが身に沁みますよ」

 俺が鍛錬をしている間、延々誰かと電話を続けていた先生に唇を尖らせる。
 確かに俺は出来の悪い弟子だけど、鍛錬の時位真面目に見て下さいよ。
 半眼の視線を強化し、不遜な態度の先生を一睨み。よし、強化の魔術成功。

「そう僻むな、鮮花からの頼まれ事でね。無碍にも出来ん」

 軋んだ椅子を回転させて、俺に振り返った先生はニヤリと、地獄の最下層に住む悪魔達でさえ逃げ出すであろう笑みを浮かべ。

「それにな衛宮。男の嫉妬はみっとも無いぞ? まあ私ほどの女になれば、それも賞賛と同義だがね」

 そんな事をのたまってくれました。
 嫉妬……か、先生は冗談の心算なんだろうが、案外外れて無いのが悔しいぞ。

「………それで、鮮花さんは何て?」

 幹也さんの妹であるらしいこの人は俺の姉弟子。
 式さんとは色々あったらしいが、詳細は知らない。先生の話には聞いているが、一体どんな人なのやら。

「仕事の依頼か何かですか?」

 先生の言葉に律儀に返すことはしなかった。
 下手に弁明しても泥沼に陥るのは火を見るより明らかだし、話しを進めよう。
 気だるい身体を元気に持ち上げ、先生に向顔した。

「秘密だ」

 だが、一瞬で先生から言葉がリバウンド。思わず膝が落ちそうになる。
 落ち着くんだ、衛宮士郎。先生がこう言う人なのは分かりきっているじゃないか。

「そう怒るな。話せないのは其れなりの事情がある」

 冷静に、そして真剣な面持ちで立ち上がった先生は都会の喧騒に視線を移し。

「それでだ、衛宮。―――――――――君は海が好きか?」

 いきなり頓珍漢な単語を炸裂させた。
 












/ 1.

 照りつける夏の陽射し。
 青く輝く空の真下、薄く揺れる大海原はたゆたう風に流れ、砂浜を金色に染め上げる。サファイアさえ霞む透き通る蒼が彼方まで続く水平線を眺め…………。

「うわ~、私、海って初めてだけど、こんなに汚いんだ。シロウ、こんな所で泳いでも大丈夫なの?」

 ………まあ、そんな夢みたいな海の情景、日本にあるわけ無いんだけどさ。

「大丈夫だぞ。見れば分かるだろ」

 イリヤの問いに一字一句の乱れも無くキッチリ返し、視線の向こう、人でごった返した海水浴場なのか人間サウナなのか分からない砂浜を送り見て彼女の手を引き砂浜に足をつける。
 じゃりじゃりした砂上の肌触りが、足の平だけではなく身体全体に伸びてくる。肌を撫でる温い潮風は、身体を舐め、じんわりと汗を浮かばせる。

「がっかり、海ってもっと綺麗なものだと思っていたのに。これならアインツベルツの城から見えた氷河の方が厳かで綺麗だったわ」

 青い海、白い砂浜は何処なのよと、イリヤは怒りも顕に俺の手を振り解きズンズン先に進んでいく。隠しているつもりなのだろうか? 初めての海を目の前に嬉しさが滲み出ているのが簡単に見て取れる。
 後ろの幹也さんもそれが分かったのか何時も以上にニコニコしているぞ。

「可愛いね、イリヤちゃん」

 幹也さんはビーチパラソルを小脇に抱え、黒のトランクス姿で俺の横に並んだ。
 彼の薄い肩からかぶさる、水着と同色のパーカーが潮風に揺れるたびに、そこから幾つもの古傷が覗かせた。
 ついその傷跡を凝視してしまった俺に、幹也さんははにかんで答えてくれた。

「大事な傷跡なんだ」

 その言葉にどんな意味があるのかは知らないが、俺は、その痛みを問いだしてはいけない事なのだと感じていた。
 そんな彼の顔に毒気を抜かれた俺は、先ほどの質問に答えることにした。

「ええ、自慢の妹ですから」

 普段の思考を取り戻した俺は、焼けた砂浜に「アチチ」ととっかえひっかえ足を持ち上げるイリヤに視線を帰す。
 うん、セパレートタイプの淡い紫。
 イリヤの水着姿はこの砂浜で一番可愛いぞ。フナ虫をゴキブリと間違えて悲鳴を上げる姿なんて、どうにかなってしまいそう。ついつい助けるのを躊躇ってしまう位に………やはり俺って兄馬鹿なのだろか。

「――――ってほら、式もいつまでそうしてるの? 早く出てきなよ」

 俺が一人上の空にしていると、幹也さんは小走りに離れて行き、海の家の影でこそこそしている人影を引っ張りだした。
 ぼんやりと振り返る。馬鹿め俺。予期せぬ不意打ちに全く対抗できなかった。
 そらそうだ。イリヤには黙秘権を行使せざるを得ない秘密の雑誌にだって、顔を染めてしまう俺である。つーか男なら誰しもがTKOだろう? 生憎、俺は不能者じゃない。

「―――――――――っつ!?」

 ヤバイかも。
 驚いた事に式さんの水着は黒のビキニ。幹也さんの水着とお揃いなのか、どこかデザインが似通っていた。少ない布地であらわになった女性らしい肢体が、かもし出す雰囲気に似合わず可愛らしい。
 辺りをうろつく一般男性は言わずもがな、女性でさえ式さんの登場に言葉を失っている。それも当然、着物では曖昧だった引き締まったプロポーションが惜しげも無く披露されているのですからっ。
 幹也さん、貴方の彼女は完璧です。あれだ、黄金率ってこのことか?
 眼と眼で頷きあう男二人、心なしか幹也さんは誇らしげに頷いている。

「…………なんだよ、文句あるかっ」

 俺と幹也さんのアイコンタクトに何を思ったのか、式さんの顔が微かに朱に染まり瞳が青く輝きだした………って、なんでさ?
 危ない顔でにじり寄る式さんに、情けなくも後ずさる俺と幹也さん。やましい事は……大いにあるが、そんなん俺たちの所為じゃないだろうっ!? ぬれぎぬだー!

「違いますって。黒桐さんも衛宮っちも、彼女さんの水着姿に見惚れただけですってば」

 俺を庇った幹也さんが海の藻屑になる直前、賑やかな笑い声と一緒に助け舟到来。
 ぬう………朝倉は赤のビキニか。どう考えたって来た船は泥舟らしい。まったくもって意味はねーのである。
 こいつもスタイル良いし、何より最初に眼が行くあの、ゲフンゲフン。

「おや、衛宮っち。顔色が良くないね~、彼女さんと私の所為で風引きさんかな?」

 ニヤニヤと俺の髪の毛を指で突く風邪の原因その2。
 フン、そうだよ文句あるか。こちとら染色体がお前らとは違う生き物である。健康にして健全な二十歳前の男ならば、むしろ当然過ぎる反応なのだ。当たり前すぎて笑い話にもならん。

「……それよりも早く行くぞ、砂浜に陣取ってイリヤが待ってる」

 飲み物の詰まったクーラーボックスを担ぎ上げ、いざ灰色の砂浜へ。
 夏の代名詞、海水浴と洒落込もうか。






 ビーチパラソルの下、スポーツドリンクに口を付けながら陽射しだけは常夏の楽園じみた雰囲気を満喫する。日本の夏は人で溢れた海に限るな、実に風流だ。

「先生も旅館でゴロゴロしてないで来ればよかったのにな」

 楽しげに水を掛け合うイリヤと式さんを視界に捉え、今回の海水浴の首謀者の事が頭に浮かんだ。
 鮮花さんの電話を貰ったあの晩、何を血迷ったか先生は二泊三日の社員旅行を提案。
 それに乗り気だったのが以外にも幹也さん。理由は単純、式さんの水着姿が見たかったかららしい、その意見には激しく同意である。
 旅行が決定すれば後は早かった。
 折角だから朝倉も誘おうと言う事になり、幹也さんと朝倉、二人の情報網を駆使してその日のうちに旅館から何からの手配が格安で完了。土日を利用して、ここにやって来た。
 それと、意外なことがもう一つ。
 どうやら先生は朝倉に自分の詳細を明らかにしたようだ。幹也さんからの紹介ではあるが、先生自身が朝倉の能力と人格を買ったのが大きいと思う。正体を明かすやいなや、先生と朝倉は色々と怪しい話題で会話に花を咲かせていた。
 ……にしても先生はなんだって急に海なんだ? まさか先生が海水浴って訳でも無いだろうに。
 決して口には出来ないが、先生の水着姿ってのにも、興味が尽きないのは俺だけではなかろう。

「所長は他に用があったみたいだよ? さっき旅館に電話を入れたら留守だった」

 俺の隣、先ほどまでイリヤの掘った落とし穴に嵌っていた幹也さんが砂を叩きながら腰を下ろした。クーラーボックスより飲み物を手渡し、色気も無く二人で会話を続ける。
 ……精神の平穏って、なんにも勝る喜びだよ、本当に。まあそれは、置いておく。何故って、平和とは、常に戦争と隣り合せなのである。ああ、皮肉なるかな光りと影の二元論。

「………嫌な予感がピリピリしますね、今回の旅行」

 流す汗が冷や汗に変わった気がした。
 見れば幹也さんも難しい顔をしている。

「だよね……言いだしっぺが所長だもの、ある程度の事は諦めないと」

 ですよねと、自然に声が漏れた。
 これで納得してしまうのが何故だかとっても情けない。
 燦々と照る太陽の日差しが強すぎる、パラソルの下でくつろぐ俺と幹也さんは守る日陰は、照りつける射光に深まり、影がつられて濃くなっている。

「おいおい、辛気臭いよお二人さん。折角の旅行なんだし楽しまないと」

 陽射しを遮り目の前の影が陽気に声を上げる。お前の明るさが羨ましいよ、本当に。

「心配しなくても十二分に楽しんでるよ。朝倉はどうだ? 成果はあったのかよ」

 俺と幹也さんでビーチパラソルやシートを敷き終えるやいなや、「ナンパされて来る」って言ったっきり一度も顔を見せなかったお気楽女学生に尋ねた。
 ざっと見、成果は無かったようだ。戦利品は何も無いし、男も遠巻きに引き連れていない。なんでだ? どう厳しく採点したって、平均よりずっと上の朝倉に声を掛ける奴、いなかったのか?

「だめだわ、駄目駄目ぜーんぜんだめ。ここいらには禄なのが居ないんだから」

 いるにはいたが、どうやら全部突っぱねたらしい。こちとら高校生の平均身長アンダー5cmの冬木出身東京在住S・E君高校中退ですよ。

「まったく、やんなるねえ。どいつもコイツも、味の無いジャンクフードばっかりでさ。持てる女は、やっぱいい男を惹きつけてこそと思わないか、キミー?」

 知るか。ジャンクフード食い過ぎていっそ牛になれ。
 俺と幹也さんに視線を落とし、厳しい顔で品定め。まったくねぇ、なんて高い場所から見下ろし肩を竦めてくれやがる。うらやましくないぞー、だからその身長少しばかり分けてくれー。

「………ほっとけ、どうせ俺はその程度の男だよ」

「あはは、厳しいね和美ちゃん」

 俺と幹也さんの発言にぷッと小さく唇を開いた朝倉は胸とは不釣合いな細い肩を再び揺らした。改めて眺めると、こいつ……本当にスタイル良いんだな。悔しいのでいってやらないけど。何と無く気恥ずかしく朝倉と視線が重なったんで慌てて逸らした、別に疚しいことは何も無いぞっ。

「けけけけ。そう言う意味じゃないんだけどね。全く、これだから売約済みの朴念仁共は」

 だが、朝倉は小さな唇を精一杯持ち上げ笑みを漏らす。
 無自覚ってのは怖いね~、何て意地悪く微笑み、振り返るやいなやイリヤと式さんに突撃をかける朝倉。勢いも束の間、あっという間にイリヤと式さんの攻勢に倒れ伏した。
 何がしたいんだ、アイツは?

「―――――元気だね、皆」

 すると突然、優しい声が。
 太陽の光に眼を細め、幹也さんは波際で戯れる三人に眩しそうな微笑を向けた。イリヤと朝倉、それに式さんが水を掛け合い、勝ち負けなど無い不毛な抗争を開始している。
 気がつけば、俺たちの手には空っぽのジュース缶が転がっていた。
 俺はそれを徐に弄んで幹也さんに答えた。

「ええ、そうですね」

 俺には幹也さんの瞳が式さんだけに注がれているように感じられた。
 僅かの後悔を、精一杯の幸せで塗りつぶす。それが、何よりもの償いだと信じるように。

「――――――士郎君、僕達も行くかい?」

 優しい瞳は変わらない、悩む事も、間違える事も、全てが等しく間違いじゃないと。与えられた幸せを受け止められる強さを讃えた笑み。
 俺は………まだまだ幹也さんみたいに笑えないな。
 軽すぎる空き缶を砂浜の錆付いた屑籠に放り投げる。放物線は綺麗な弧を描き、ガランっと響いて収まった。

「そうですね、――――行きましょう!」

 幸せをビビッていたって始まらない。
 景気づけに腕をグルグル廻して立ち上がる、夏の日差しが眩しいぜっ。

「よし! 僕たちで下克上だ! 行くぞ士郎君」

 俺と幹也さん、朝倉に習い正面から突撃。
 迎え撃つは大怪獣×3、俺たちだっていつまで負けてばかりじゃいられない。
 男の底力見せてやる!

 ………まあ、結果は目に見えているんだけどさ。



 
 いい加減お腹が減ってきた、正午過ぎ。
 無残に完敗を喫した男二人はお姫様方に昼食をご馳走するため海の家で昼食をとる事に。じゃりじゃりした感触の残る茣蓙に腰を落ち着け、お品書きに手を伸ばす。イリヤも式さんも海は初めて、海水浴を満喫するには之を食さず始まるまいて。

「衛宮っち……分かっているよね?」

 朝倉が俺と同種の薄ら笑いを浮かべ俺に目配り。
 当然だ。
 海の家で之を頼まなくては嘘だろう?
 朝倉と俺、阿吽の呼吸で頷きあう。

「シロウ、私はこの、―――っモガ!?」

 朝倉がメニューを決めたイリヤの口を押さえ込む。
 よく分かっていない式さんと、呆れている幹也さん。
 よし、この隙に、――――――――――――。

「ラーメン五つ、お願いしまぁ~す」

 海の家の究極兵器を注文した。




「………まずい」

 最初に口を開いたのはイリヤ。小さな手をプルプルさせながら半眼で俺を睨みつける。
 だがしかし、是を口にせず何が海水浴か。

「く~、たまんないね、衛宮っち」

 イリヤの隣、食事を満喫する朝倉が拳を握る。ズルズルに伸びきったゴムの様な麺を豪快に飲み込む彼女に続く。

「だな、やっぱりこの味は最高だ」

 もはや醤油の味しかしない生暖かいスープを一口。料理の基本に敢然と立ち向かう、チープな味わいが口の中に広がる。
 うむ、この料理も一つの到達点だな。

「お兄ちゃんもカズミも何言ってるのよ!このラーメンのどこを食べたらそんな感想が出てくるの!?」

 があーっと激高するのは、日本の海初体験のお姫様。
 ぬう、やはりこの味は理解して貰えないのか?

「あはははは、まあ喰いねぇイリヤちゃん。コレもある意味日本の伝統料理だからさ」

 いいながら向こう側が見えそうなチャーシューをイリヤの器に放り込む。
 それでも一向にイリヤの機嫌はおさまらない。

「でもさ、海の家のラーメンって高いよね」

 俺とイリヤに朝倉、オンボロ長屋トリオを笑いを堪えて一つ眺め、幹也さんが顔を上げた。
 一般人代表、幹也さんもこの味を理解してくれる様だ。
 分かってますね、それでも注文してしまうのがこの料理の魔性です。

「…………食べられれば何でもいいだろ?」

 って式さん。
 それを言ったら元も子もないじゃないですか。




 真夏の風が吹き抜けの屋台を流れた。
 人の賑わう喧騒のさなか、揺れた風鈴の音色が響く。
 この夏最後の思い出を作るためにも、存分に楽しまないとな。






 だけど。






 思えばこの時でさえ、俺の心臓は果ての無い深淵に囚われていたのだと、後に思い知らされる事となる。



[1027] 第三話 パーフェクトブルー
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 08:43
/ 14.

 一人の女がいる。

 望まれなかった命、災いを呼び込むだけ生を彼女は授かった。

 多くに蔑まれ呪われた彼女の出自。
 悲しみを呼び込み、不幸を撒き散らす顛末。

 しかし、それでも彼女は命を与えられてしまった。

 どれほど悲しみが彼女を襲うのだろうか?
 どれだけの憎しみを彼女は背負うのだろか?

 しかし、それでも彼女は生きることを望まれてしまった。

 何故?

 そんな簡単な事でさえ、彼女には理解出来ない。

 だって、彼女が彼女である限り、それは当たり前の事実だから。
 だって、彼女が彼女である限り、それは当たり前の罪悪だから。

 語り継がれる詩の全てに、彼女は悲しみで輝くだけだ。

 少なくとも俺には、彼女の悲劇を、彼女の願いを知ることしか出来ない。

 単純明快な話し。

 崩れた砂のお城を俺に戻す術は無い。出来るのは、その虚しい名残を小さな腕で、浚う事だけだったのだ。

 ただ、彼女がもう少しだけ強ければ/ただ、彼女がもう少しだけ弱ければ。

 脆いお城は崩れなかっただけ、それだけだ。
 
 ただ、俺にもう少しだけ力があれば、いや、きっと俺には救えないか……。

 悲しいけれど、彼女の願いは叶うことは永遠に無かった。

 “永遠”………なんて安っぽい言葉、そんなのものに意味は無い。

 だってそうだろ?

 彼女の願いは永遠だけれど、彼女の終わりは刹那でしか無かった。

 望んだ夢は、永遠に夢のまま。

 彼女の願いは夢のまま、世界に謳われる幻に霞む。

 だからコレは昔の話。

 ――――――――――そう、美しすぎた一人の女がいたんだ。





FATE/HAPPY MATERIAL
第三話 パーフェクトブルー Ⅱ





/ 2.

「………うまい」

 心からの賛辞を込めて俺は口を開いた。同時に、零れだす幸せ。
 眼前にこれでもかと広がった魚貝料理の花園に箸をつけ、数少ない俺のボキャブラリーの内、最も気の利いた感嘆詞、感動詞を検索した。にもかかわらず、ヒットした言葉はなんとも薄っぺらな物だ。

「へえ、確かにな。こいつは美味い。オレご用達の料亭にだって負けてない、幹也はどうだよ」

 海老のお頭が悠然と顔を覗かせる味噌汁椀に手をそえ、式さんがご機嫌に続いた。
 俺はおろか式さんまで唸らせるとは、この料理はどうやらかなりの出来らしい。対抗心も沸かぬほどの味。舌鼓を打つにたる料理であった。

「美味しいよ。さすがは和美ちゃんお勧めの旅館だね」

 赤くはれ上がった首もとを擦りながら、幹也さんは式さんに同意した。
 流石に一日目から騒ぎすぎたか?
 日焼け止めを付けていなかった俺と幹也さんは全身をシャープペンシルで刺されたかのような痛みを味わっている。
 姦しい昼食を楽しんだ後、俺たちは日が沈むまで駆け回った………だけなら良かったのだが、海の家の代名詞、まずいラーメンにご不満だったイリヤは俺を親の敵の様に虐めてきたのだ。
 だけどさイリヤ、何も魔眼で金縛りにすること無いだろう?
 おかげで日光が照りつける砂浜の上、日が沈むまで俺は鯵の干物状態だったんだぞ。
 どうやら今晩は仰向けで眠れそうも無い。

「~~~~♪」

 俺の憂鬱などどこ吹く風と、嬉しそうに俺の隣で箸を伸ばすイリヤ。鬱陶しそうに浴衣の袖を引く姿が可愛らしかった。

「昼食はアレだったけど晩御飯は最高だわ。本当、良い旅館を見つけたわね」

 初めての浴衣を器用にも着こなし、お刺身を口に運ぶ。
 式さんは勿論のこと、イリヤにも浴衣姿がはまりすぎていた。
 まるで亡国のお姫様が、お忍びでご旅行をなさっている様である。外国人に浴衣ってのもかなり絵になるんだな。や、イリヤ限定かもしれないけどさ。

「でしょ? ここの旅館、外装も内装もイマイチだけど、料理の味は保障できるからね、私のチョイスにミスなんか無いよ」

 自慢げに鼻を鳴らし、朝倉もイリヤに頷く。
 オーソドックスな畳敷きの十畳間に部屋風呂とトイレ、冷暖房完備。式さんが持ってきたお香の香りだろうか?夕食を運び込まれた部屋の中には落ち着く香りが漂っている。
 俺と幹也さんの部屋よりも広いのは女性、イリヤに式さん、朝倉と先生が泊まるのを考えれば妥当な物だ。見回す室内は高級感に欠けるものの、宿泊費を考えれば十分に豪華だといえる。

「……コレだけ美味い料理を出せるんだから、もっと繁盛しても良さそうなんだがな」

 だというのに、この旅館には宿泊客が余りに少ないときたもんだ。
 辺りの静けさがやけに耳に残る。
 ホタテのバター焼きを口に運び、真剣に自らの疑問を吟味した。ぬぅ、隠し味だろうか? 白胡麻の風味が堪らない。脳内メモに書き込んで、帰ったら早速チャレンジしよう。

「衛宮っちの疑問も最もだけどね。それには勿論、理由があるのさ」

 朝倉が箸を左に右に振り回し、学校の先生じみた咳払いで俺の疑問に相槌をうった。
 それが子供っぽく映ってしまうのは、やはり彼女の担任がお子様だったからなのだろうか? その答えを、俺に知る術は無いのであった。や、ただ単にコイツがやんちゃだってお話しですよ。

「だってここの旅館、料理の不味さで肩に並ぶ物は無いってくらい有名だもの」

 っておい!? 馬鹿にしているのか? 少なくともこの旅館の料理人は半端な腕じゃないだろ。
 俺は勿論のこと、食卓につく全員の顔が朝倉に集まった。

「冗談のつもりかしら? だとしたら大物よね、貴方って」

 どこまでも冷たい瞳でイリヤが朝倉を射抜く。大きく頷いた俺は、追い討ちとばかりに問いかけた。

「と言うかだ、矛盾しているぞ。朝倉は料理の味が保障できるからこの旅館を選んだんだろ? なんでそれが料理の不味さで有名になるのさ」

 思わず、箸を進めるのを止めてしまった。
 ああ、小魚の煮こごりが俺を呼んでいるというのに。

「それはね士郎君、ここの板前さんが夏の間だけ違う人だからだよ」

 事情を朝倉から聞いていたのだろうか?
 幹也さんが大人の余裕で朝倉の言葉足らずを補ってくれた。ニコニコ顔もそのままに式さんとおかずの交換などを楽しみながら、彼は続ける。

「何でも和美ちゃんの同級生がここの旅館でアルバイトをしているらしいんだ、今はその子が台所を預かっているからこそ、ここの料理は美味しいんだってよ。その子の紹介、そして勿論、和美ちゃんの伝もあって僕達は格安で今回の小旅行を満喫できるわけさ」

 少し浴衣の襟元を正し、幹也さんは朝倉に居直り、

「感謝してるよ和美ちゃん。今回の旅行は随分助けて貰っちゃったね」

 穏やかな感謝の言葉を贈った。
 朝倉は素直な謝辞に慣れていないのか、少し恥ずかしげに幹也さんのトックリに日本酒を垂らす。こんな美人のコンパニオン、滅多にいないんだろうな、やっぱり。

「そゆこと。感謝しなよ衛宮っち、私のお陰でこの旅館に泊まれる、アーンド美味しい料理が食べられる、ああ私ってなんて美女なのかしらん。プリーズ・サンクス・ミー」

 だが、ぎこちないのは一時、すぐに朝倉は何時もの調子に戻っていた。
 下ろした髪をかきあげて、朝倉がヨヨヨと崩れる。

「朝倉の友達がこの料理作ったのか。後でレシピ聞きに行かないとな」

「そうね。私、この魚の入ったゼリー気に入っちゃった、帰ったら作ってね、お兄ちゃん」

 リスみたいに煮こごりを頬張るイリヤに肯定の意味を込めて頭を撫でる。

「――――――って、鮮やかにスルー!? 冷たいよお二人さん!」

 照れ隠しってのは分かるけどさ、素直に感謝ぐらいさせろよな。まあ、それがこいつの良いところではあるんだけどさ。
 朝倉の後ろではさよちゃんがペコペコと頭を下げていることだろう……見えないけど。

「分かってるって、サンキューな朝倉」

 俺とイリヤ顔を合わせて微笑み返す。
 俺の態度が気に入らないのか朝倉は頬を膨らせた。
 まあ何時もの冗談みたいなノリなのでここは普通に続けさせて貰う。

「でもさ、凄いよな。この料理作ったのは朝倉の同級生でアルバイトさん何だろ? それでこの腕は反則じゃないか?」

 俺にはとても真似できないプロの味付け。いや勉強になります。

「ぬふふ、それも当然。四葉の料理は麻帆良じゃ有名だからね。いい機会だったし、皆に麻帆良の味を紹介したかったのさ」

 自分の事でもないのに、朝倉の顔は誇らしげに輝いていた。
 朝倉の奴然り、近衛、桜咲然り、こいつらは友達の話をする時が一番綺麗だな。それだけ、こいつらの過ごした時間が幸せだったのだろう。

「ああそうだな、自慢したくなるのも頷ける」

 素直に零す。
 口に運んだ料理が尚更美味しく感じたのは気のせいでは無いのだろう。

「そうでしょ、そうでしょ。衛宮っちも分かってるじゃないか、この料理が麻帆良の味よ」

 突然べらんめえ口調で騒ぎ始める朝倉は俺の言葉を料理への賞賛と捉えたようだ。

「うん、ホントに美味いな」

 まあ、それも良いか。
 何時もと違う一時。
 今はその味わいに浸るのも僥倖だ。
 楽し過ぎる時間は、緩やかに過ぎていく。






 旅行の楽しみと言えば何が上がるのだろうか?
 美味しい料理。
 日常とかけ離れた開放感。それにかまけたひと夏のアバンチュール、ってのも大いに結構だが、コイツに関しちゃ俺は否定派。恋愛とは云々かんぬん哲学的なお付き合いが重要なのだ。
 まあ兎に角、楽しみ方は人それぞれ、千差万別、多種多様、あげればまだまだ在るだろう。
 結論。だがしかしだがしかし、俺こと衛宮士郎が旅行に求める物それは、

「最高だぁ~~~~」

 日本究極の癒し。温泉しかないのである。

「僕も温泉なんて久しぶりだけど、日本人には必要不可欠な要素だよね」

 夕食が終わった後は旅行のお決まりコース。男と女、二手に分かれていざ大浴場へ。
 日焼けた身体に絡みつく粘度の高いお湯が実に心地良い。
 潮の匂いに紛れた温い風が、竹柵で仕切られた遥か遠き理想郷からイリヤの元気な声を運んでいる。朝倉や式さんも一緒にいるようだが、考えない方向で。理由はまあおいておこう、きっと俺が耐えられぬ。

「っ勿論です。旅行といったらこれは外せませんよ」

 肩まで浸かり目を細めながら幹也さんに返す。仕事仲間と裸のお付き合い。実に社会人らしいやり取りである。……正義の味方志望がこんなんで良いのだろうか?

「眺めも良いしね。言うこと無しかな」

 全景ガラス張りの室内風呂と赴き深い岩作りの露天風呂。
 俺と幹也さんは肩を並べて、潮風の漂う星の下、温泉を満喫していた。
 そこからは俺たちがはしゃぎまわった砂浜や、激しく波打つ岬が見渡せる。遠くに輝く街の火種が日常との隔離を慮らせ思わずため息が零れた。

「ですねぇ~」
「だよねぇ~」

 気の抜けた二人の声が、潮風に溶けていく。
 こんなにゆっくり過ごすのは久しぶりだ。聖杯戦争から始まってここ半年、まさに嵐の様な毎日だったからな。

「それにしても所長は何をしているのかな。晩御飯にも顔出さないで」

 だがしかし、そんなマッタリ気分もその一言でヘリウムガスをトン単位で詰め込まれた風船の様に破裂した。

「……そうですね、それは俺も気になりました」

 先生は一体何してんだ? 別に独断専行が悪いわけでは無い。ただ、先生がそれをするから気が気でないのだ。

「昼間も話したけど、僕達も調査を始めた方が良いのかな?」

 ぶくぶくと口元まで浸かり、幹也さんが唸った

「調査って何をです? 先生の目的も分からないのに」

 幹也さんと向かい合い俺もぶくぶく。

「だからそれも含めてさ。所長絡みの事だもの、近辺のオカルト関係を調べれば、自然と何かが見えてくるかもよ」

 たたんだタオルを頭にのせて、ゆっくりと星を見上げる幹也さん。大方、どうやって情報を集めるか考えているのだろう。

「……結局、先生の思惑に乗っかっちゃうんですね」

 はぁ、疲れをとるはずの温泉で疲れが溜まるってどうゆう了見だ?

「まあ仕方ないさ。それじゃ、僕は明日、ここの役場や資料館で所長が好きそうな話しを洗って来るから士郎君は」

「分かっています。地元の人に色々聞いてみますよ、イリヤが温泉街の方にも顔を出したいって言っていたし丁度いいです」

 やれやれ、なんて男二人肩で溜め息。
 幹也さんは難しい顔で湯船に波打つ自分の影をかき分けた。
 式さん、怒るでしょうね。頑張って下さい。

「それじゃ僕はお先に。明日の予定も不本意ながら決まったし、これから式のご機嫌もとらなきゃね」

 繕う笑顔に力は無い。まあこの後の情事が克明に想像出来るしな。

「……幸運を祈ってます」

「うん。お互いにね」

 去り行く幹也さんにせめてものエールを送り、俺は一人温泉を楽しんだ。




「しかし本当に、先生は何をしてるんだか」

 視界におさまる遥か岬をなんとなしに眺め、一人ごちる。
 鮮花さんからの電話、コレが先生を動かした動機だ。だが……先生自らが動くほどの何か、一体なんだ? 協会絡み? 神秘の隠匿?―――いや、先生がこんな事で動く筈が無い。
 そもそも俺たちをこうやって連れてきたのだ、危険が在るとは考えにくい。だとすると。

「―――――――私利私欲、しかないんだろうな」

 自分で言って悲しくなったが大いに有り得る。……師匠のそんなところしか見ていない俺自身を、もっと虐げ嘆く所か、ここは?
 まあ何にしても、先生の御眼鏡にかなった魔術品、……ってのが妥当なところだろう。
 それなら俺を連れてきたのは勿論のこと、探しものなら幹也さんだって戦力になる 
 だけど、何で俺たちに話してくれないんだ?
 や、俺が一人で考えても仕方ないんだけどさ。
 一息と共に思考を止める。先ほどと相まって、辺りには神秘的な雰囲気に包まれていた。

「――――――――――――――」

 イリヤ達も風呂を上がったのか、耳に残るのはさざ波の音色だけ。暗闇に染まる海が突然寂しく感じられた。
 規則正しく波打つ黒海が、潮風と共に弱々しい楽曲を奏でる。
 何故だろうか―――――それが喩えようも無く不快に感じるのは。

「――――――――――――っ」

 不覚にも湯船に沈みかけた身体に活をいれる。どうやらのぼせたらしい。
 朧げな瞳を深く閉ざし、波打つ風に身体を晒す。







 ―――――夜靄の中、遠く海の頂に幻想的な長髪が揺らいで堕ちた。







 無音の暗がりが俺の感覚を奪ったのか、薄く光が灯る岬には人影など無かった。
 練習中とはいえ、眼球強化の魔術を行使し再度岬を遠視してみるも怪しい影など微塵も無い。

「………まさか、な」

 気のせいだったのだろうか?
 女性らしい朧なシルエットが、雨に濡れたシキさんの華奢な背中に重なった。
 微かに残る戸惑いを飲み込み、俺はその場を後にした。



[1027] 第四話 パーフェクトブルー
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 09:03
/ 15.

「………考え事かな士郎君」

 揺れ動く車窓の向こう側、潮風に肌を預けていると隣から声が響いた。はっと、深く沈んだ意識を引き戻す。
 瞳を海の向こうに残したまま俺は彼の問いに答えなかった。
 いや、答えたくなかったのだろう。視線の先、夏の海が皮肉なまでに蒼く染まっている。

「彼女のこと、だよね」

 向かい合った車内の座席。そこで安らかな寝息をたてるお姫様たちを気遣いながら幹也さんが独り言。その顔は変わらぬ笑顔を称えていることだろう。
 だけど今は、その微笑が俺の心を痛めつける。

 入道雲が潮風に流され水平線に暗がりを作り、消え、作りは消える。
 俺の苛立ちに意味が無いとしても、その結末に納得なんて出来そうもなかった。
 だって俺は嫌だ。頑張った奴が報われないのはそんなの間違ってる。
 誰よりも傷ついた奴は痛みの数だけ幸せにならなきゃ嘘なんだ。

「士郎君は、彼女の生涯が悲恋だけだと、悲しみしかなかったと思うのかい?」

 しゅっと口の中が干乾びる。
 初めて聞く幹也さんの声色に、掌に汗が浮かび気持ちが悪い。
 俺は視線を戻さず視界に開ける青を睨みつけ、唇を噛んだ。

「――――――――――ええ、当然じゃないですか」

 沈黙を貫くはずの抗心は、苛立ちに身を任せ決壊した。
 最後の抵抗と、視線を幹也さんへと戻さないのは僅かばかりのプライドの所為だろう。

「――――――――――だってそうでしょ?あんなのって無い」

 張り詰めて毀れ出した、情けない強がり。
 馬鹿みたいだ、俺の言葉は子供の我侭と一緒だろうに。
 自分の手に余る苛立ちを力任せに当りつける。
 格好悪いことこの上ない。

 ガラス窓に薄く浮かび上がる歪なオレは重たい嘲笑を残し、果ての無い水平線に消えた。





Fate/happy material
第四話 パーフェクトブルー Ⅲ





/ 3.

 顔を赤らめ大浴場を後にすると、真向かいに備えられた休憩場で寛ぐ式さんとイリヤを見つけた。休憩場といっても馬鹿に出来るものではなく、畳敷きの大広間は普段は役場の寄り合いにも使用されているらしい。使いこまれた座敷が歴史を感じさせて俺はソコソコ気に入っていた。
 自動販売機で三人分の飲み物を用意し、二人の横に腰を下ろす。
 冷房で冷やされた畳の感触が心地よい。

「はいよ、風呂上りにお一つどうだ二人とも」

 ノンビリと居直る二人に缶ジュースをパス。幹也さんとはひと悶着あった後のようで、式さんはへの字に結んだ口元を少し緩めてジュースを受け取った。
 俺は自販で買った緑茶を口に含みイリヤと苦笑い。イリヤは二人の遣り取りをライブで視聴していたのだのだろう、「しょうがないんだから」なんてため息さえついて行儀良くジュースに口を付けた。
 そうして、理由もなく始まった他愛も無い会話。温泉の湯加減、旅館の冷房が効いて無いどーのこーの、夕方に見つけた浜茶屋はお洒落だなんだ。イリヤはジュースの飲み終わった空き缶をゴミ箱に投げ終えると、式さんの髪の毛の手入れを始めた。たったそれだけで式さんの顔に余裕が出来る。

「ねぇシロウ。明日の予定は決まっているの?」

 式さんの柔らかそうな黒髪を鮮やかな漆の刷子でとかしながらイリヤが軽やかに問いかけた。

「ああ、さっき幹也さんとも話したんだけど………」

 俺の言葉に、正確には“幹也さん”の名前にピクリと式さんの耳が跳ねた。目ざとい……もとい耳ざとい。
 しまった、と思ってももう手遅れだ。式さんの背中が丸まり和やかな雰囲気に暗雲が立ち込める。俺は冷や汗を浮かべて緑茶を飲み干し、二人から視線を外した。

「一つ確認しておくけど、お兄ちゃんは私に付き合ってくれるのよね?」

 そんな俺の仕草をイリヤが見逃す筈も無く、即座に追い討ちをかけられた。

「コクトーはマチヤクバって面白くも何とも無いところでシキとデートするらしいけど。私達はどうするのかしら?」

 綺麗過ぎる笑顔が恐ろしい。
 当初の予定通り、俺はイリヤを連れて温泉街に行く、……ただそれにちょっと聞き込み作業が加わるだけだ。何も後ろめたい事なんて無いじゃないか。
 だけど、俺は自身の考えが甘かったことに軽く心の内で舌打ち。くそ、考えてみれば結局イリヤとの約束を蔑ろにしたことに違いない。自分自身でそう結論を出して、唾を飲み込む。

「俺はイリヤとの約束を守るよ、ただ……」

 即興の言い訳、そんなものがイリヤに通用する分けない。

「まさかお兄ちゃんまでコクトーみたいに大事な大事な女の子もそっちのけにして、誰かのお節介なんて妬かないわよね?」

 突っ込みに剃刀を感じた。間違いなくスパンっと何かが切れたね。
 イリヤの言葉に式さんが顔を痙攣させている。ワザとだな? ワザと式さんを挑発する言葉を選んだな? 悪びれた様子も無く、イリヤは小さい鼻を天井に向けた。

「別に俺も幹也さんも二人を蔑ろなんかにする気は粉みじんも無いぞ、ただ先生の不可解な行動も気になるだろ? 昔の人も言っているじゃないか、鉄は熱いうちに打て?ってさ」

 式さんの機嫌をこれ以上損ね無い様に冗談めかせて言ってみたが、どうやら逆効果だったらしい。前髪に隠れて綺麗な瞳は見えないが、覗かせる口元は否が応でも式さんの静かな怒りを表している。
 そして、「どう言う事よそれーーーーーーー」式さんとは対照的に我が妹君がマグマ溜まりを爆発させた。阿蘇山だって、もうちょっと控えめに噴火するに違いない。

「何で旅行に来てまでトウコに付き合わなくちゃならないのよ!? ほっとけば良いじゃない、お兄ちゃんの馬鹿、おたんこなす、トーヘンボクー!」

 があーっと、子供みたいに畳に転がり駄々をこねる。そして、絶対意味分かって使っていないであろうその毒言を、是非撤回お願いします。
 しかしあれだ。実際子供なのだけどイリヤがダダ捏ねるとえらく新鮮と言うか何と言うか。
 冬木からこっち、イリヤは我侭を余り言ってくれなかったもんな、気を使って貰えるのはありがたいけど、やっぱり甘えてくれると嬉しいぞ。
 
「私もシキもお兄ちゃん達と遊ぶの楽しみにしてたんだよ!? それなのになんでよ! お兄ちゃんもコクトーも、トウコトウコトウコって」

 だけど今はタイミングが悪い、イリヤの気持ちも分かるけどコレばっかりはな。
 俺は真面目な顔でイリヤに説得を試みた。

「悪いと思ってる。だけどなイリヤ、俺は………」

「もう知らないわよ!! お兄ちゃんなんてトウコと結婚すればいいんだー」

「だから聞いてくれってば! つーかそれマジ勘弁してください!!」

 さりげなく何て恐ろしい台詞を吐くんだ。俺に死ねと言う事か?
 何とか頑張って言葉を繕ってはみるものの。

「イリヤ、――――――」

「知らない知らない知らない知らない、あっち行けー」

「頼むから話しを、――――――ぐふぉあ!?!?!?」

 駄々っ子モード全開のイリヤの前になす術も無く敗退。
 畳の上を器用に転がるイリヤとの追いかけっこの末、突如叛旗を翻したイリヤの細いおみ足が綺麗に俺の延髄に決まった。ヨロヨロと情けなく畳みに沈み込む俺の身体。
 涙を瞳一杯にためて、イリヤの怒りはとうとう針を振り切った。

「うわあああああああああああああああん」

「グぇっ、――――」

 イリヤは倒れ付した俺を踏みつけ、休憩場からアクセル全開でエスケープ。
 ペシャンコに潰された蛙の様に畳に貼り付けにされた俺は、冷たい感触に泣きそうになった。横に控える式さんがさも哀れに俺を眺めているに違いない。

「はあ、どうしてオレが気に入った奴らは皆馬鹿なんだか」

 式さんはイリヤの走り去った方に視線を送り、華奢な肩を窄めて天井を仰いだ。

「………俺がですか?それともイリヤの事でしょうか?」

 それとも幹也さんの事なのだろか?
 踏まれた腰の辺りを擦りながら「イテテ」とイリヤが残していった奇妙な沈黙の中で身体を起こす。

「さあな、オレにも分からない」

 自分でも意外そうに笑って、式さんは畳に転がった。

「それにしても、イリヤの奴があんなに取り乱すなんて驚いたよ。随分と好かれているじゃないか」

「ええ、嬉しい筈なんですけどね」

 乾いた笑いで自分の返答に疑問符を打つ。
 頭を横に振るって式さんの隣で胡坐をかくと俺達はお互いの視線を合わせるでもなく、独り言の応酬を開始した。

「はっきり言ってやればいいんだ、下手に繕うから機嫌を損ねるのにさ」

「自分でも分からないんですよ。どうして先生の動向が気になるのか」

 噛み合わない筈の遣り取りが俺の心のわだかまりを氷解させて行く。

「幹也の馬鹿もそうだ。あいつらしくも無い、自分から首を突っ込む何てな」

「落ち着かないんですよ、先生の行動、それと心につっかえた嫌な骨が」

 自分でもハッキリしなかった疑問にメスが入る、―――――心が揺れる、のか?

 なるほど。
 先生の行動が気になる、コレも言い訳に過ぎないかもしれない。この海に来てから、身体の奥底でうねる何か。戦いの前の恐慌や高揚とも違う。神秘や奇跡を前にした緊張感でもない。

 例えるなら、そう、焦燥だ。

 俺も、きっと幹也さんも感じているはずの、理由も無い理性の慟哭。身のうちから毀れた物ではない、外界から感じる不安定な衝動。それが俺たちを動かす何かに違いなかった。
 沈黙の中にあるのは俺と式さんの息遣い、それに割り込む様に響く波の音だけだ。

「まったく、くだらないよ。理由も無いなんてさ、イリヤが怒るのも仕方が無い。反省しろよ、衛宮」

 すると突然、式さんが諦めた様にふっと俺の言葉に相槌をうった。独り言の投げ合いから一変、俺と式さんは顔を見合わせた。
 不思議な笑みだ、俺に向けた筈の笑顔なのにその言葉は式さん自身に向けられていた。

「そうですよね、俺、悪い奴だった。すいません、式さん」

「馬鹿、オレに謝ってどうすんだ」

 反射的に「確かに」と苦く笑って俺は立ち上がった。
 式さんは柔らかく目を閉ざして、「追いかけてやれよ」と指でジェスチャー。

「こんな時ぐらいイリヤの我侭に付き合ってやれよ。調べものならオレと幹也で充分だ。こんな機会滅多にないんだし、無理やりにでも楽しませてやれ」

 式さんの不釣合いな仕草に俺が頭を掻くと、呆れた声と一緒に気だるく浴衣を整える彼女がそんな事を言ってくれた。

「――――――でも」

「しつこいよ、気にすんな。オレは別に観光出来ないから気に食わ無いなんて訳じゃない」

 ムシャクシャと少し湿った髪を掻き分けやっぱり不機嫌に式さんは空き缶を俺に手渡し立ち上がった。

「オレはな衛宮、橙子の思惑道理に動かされるのが気に食わないだけだよ」

 式さんは思い出したように少し自嘲気味に紅唇を緩ませ、

「それにオレは、幹也がいればそれだけで幸せみたいだしな」

 波の音に掠れるほど小さな声で零した。

「 ? ――――――何か言いましたか式さん」

 不用意な発言だったのだろうか?
 式さんがはっと口元を押さえ足早に俺から離れる。

「―――――――式さん?」

 彼女は顔を茹でダコみたいに真っ赤にしてアワアワと浴衣を振り回す。
 その姿はとても可愛らしい。童話に出てくる小人のようである。式さんは慌てて旅館のツッカケに足を入れようとするが、上手に履けないようだ。サンダル履くのに戸惑うなんて、一体なんでさ?

「と、とにかくだ、早くイリヤを追いかけてやれよ」

 ようやくツッカケを履き終えた式さんは反転して捨て鉢に言い放つ。幾分かまともになったものの、やや顔が赤い。
 彼女の仕草にくすりと微笑み返し、

「分かりました、式さんのお言葉に甘えさせてもらいます」

 イリヤが走り去った方へと俺はつま先を向けた。

「―――――――――あ、それと式さん」

 俺は自室へと向かう式さんを呼びとめてしまった。彼女は首だけを回して俺に振り返る。

「なんだ? まだ何かあるの?」

 声の調子からキョトンとした式さんの感情が窺えた。

「え? あ、いや………」

 ―――――――――――なんで俺は、彼女を呼び止めたんだ?

「変な奴」

 そう言って式さんは踵を返した。小さな背中が一層小さくなっていく。

「――――――――何を、してるんだ? 俺は」

 式さんはイリヤと一緒に湯船を楽しんでいたじゃないか。俺が見たのは彼女じゃない、第一“■■”は…………。

「―――――――っつ、止めだ止め」

 アレは俺の勘違いだ、まさかこんな時間に岬の上に人が、それも女性が一人でいるなんて。馬鹿馬鹿しい考えを追い出し、俺はイリヤを探して足音の良く響く廊下を駆けた。







/ 4.

「――――――――ったく、イリヤの奴はどこ行ったんだ」

 旅館のあちこちを走り回って探しては見たが影だって見つかりゃしない。時計の短針は既に十一を大きく追い越し頂点へと近づいてしまっていた。
 時間の感覚を忘れさせるほど明るく光るロビーのなか、入り口の正面に構えた大仰な古時計が正確に時を刻んでいる。
 冷房が効いていないのか、それとも走り回った所為なのか、頬に汗が伝う。
 くそ、後で風呂に入りなおさないとな。ゆっくりと足を進めながら、フロント前のお土産屋さんの中も見て回るが無駄足だった様だ。

「あれ? 衛宮っち、こんな時間に何してんの?」

 がっくりと肩を落として店を出ると、外から帰って来たばかりらしい朝倉がフロントの前の豪奢なソファーで油を売っていた。姿が見えないと思ったら、温泉町に一人で繰り出してきたようだ、微かに残った硫黄の香りが鼻をくすぐった。

「お前こそ何してんだよ? また受動的ナンパか」

「随分だねぇ」

 苦笑いしているものの否定はしない。
 ちらりと横に目をやれば、朝倉が常に携帯しているメモ帳がその存在を主張するように傍らに置かれていた。
 なるほど、趣味と実益を兼ねたナンパなわけか。まったく頭が下がる。

「面白くも何とも無いのは色々と釣れるんだけどね」

「入れ食いって奴か、大変なんだな」

 まあね、なんて微塵も疲労を感じさせないのは流石プロ。心配なんて無用なんだが、女の子がこの時間にうろつくのは穏やかじゃない。
 間違いが起こったらどうすんだ、せめて一声かけて欲しかったぞ。

「そうだね、アリガト」

「なんだよ、突然?」

 朝倉は思案顔で俺をのぞき見るとくすりと唇に軽く指を添えて笑いやがった。

「別に、心配してくれてありがとうってことさ」

 朝倉はポッケにメモ帳をしまい、下ろした赤茶の髪を揺らす。同い年とは思えない色っぽさでラフに着込んだ男物のTシャツが俺の身体に近づいた。

「っんで、何してんの?」

「ん? ああ。朝倉さ、イリヤ、見なかったか?」

「イリヤちゃん? なんでまた」

 どぎまぎする心臓の鼓動を悟らせぬ様、一歩後ろに引き下がり、かくかくしかじかで俺は先ほどまでの流れを簡単に説明した。
 困ったように笑う朝倉は、何時もの彼女と何一つ変わらない。

「ははあ、イリヤちゃんも乙女だねぇ」

「……何故そこで感心するんだよ」

 俺の話のどこからそんな単語が思いついたんだ?

「まあいいじゃないか、細かいことは気にしないで、男でしょ?」

 こいつの適当さは何時ものことなので付き合ってはいられない。
 荒っぽく自分の赤髪ぐしゃりと掻き毟り、朝倉に先を迫る。

「はいはい、本当せっかちだよね、衛宮っちはさ。多分イリヤちゃんならあそこにいる。ついて来なよ」

 彼女は自信満々に俺の手を引き、嬉しそうに駆け出した。




 連れてこられたのは、厨房の前。時刻を考えれば、こんな所に人が居る訳が無かった。
 そもそもイリヤがどうしてこんな所に来るのさ。

「イリヤは夜中に間食する様な悪食じゃないんだけどな」

 はッ! まさか虎の呪い!? そんな、いやしかし、藤ねえならその位やりかねん。地球外生命体に俺たちの常識は通用しないのだ。………っとまあ、冗談であって欲しいと切に願う冗談はさておき。

「おい朝倉。なんでこんな所―――――」

「―――――――――――し! 静かに」

 がばちょっ、と漫画みたいな効果音と共に朝倉が俺の口を押さえつけ、厚く仕切られた銀色の扉より音も無く厨房の中に侵入した。
 聞き耳を立ててみれば、確かに誰かの話し声がする。氷の様なソプラノ、この声はイリヤに間違いなかった。

「――――――――――こっちだよ、衛宮っち」

 幸い、小学校の家庭科室を髣髴させるように配置された調理用の大型キッチンがバリケードとなって、俺たちの侵入はイリヤともう一人、調理場に残る女の子には気付かれなかった様だ。適当な距離までこそこそと忍び足、じりじりとイリヤの声が近づいて来る。

(………いや。そもそも隠れる必要ないだろ?)

 思わず朝倉に乗せられちまったけど、俺はイリヤに謝りに来たのだ。
 それが何故こんな真似を?

(シーット! ロマンのかけらも無いね。大切な妹君がこそこそ厨房でお話ししているのよ!? このシチュエーションで取る行動はコレしか無いでしょ? いざ、いーざあ!!)

 朝倉は某有名スパイ映画のBGMを口ずさみながら、イリヤの方に聞き耳をたてる。
 我が世の春、ここに来たりぃ、と言う奴である。正に水を得た魚、こんな奴にときめいてしまった過去を呪いたい。

「------――でね、シロウったら酷いのよ」

 だが、イリヤの声に俺の意識は突如掠め取られた。俺も大概、いやらしい奴である。
 イリヤの不機嫌な声が俺の耳をこそばゆくくすぐる。姿は見えないけれど、可愛らしく頬を膨らませているに違いない。

「折角お兄ちゃんとデート出来ると思ったのに、何よ。シロウったら私よりトウコの方が大事なんて、可笑しいと思わない?」

 イリヤはぷりぷりと不満を誰かに当りつけている。
 ええい、じれったい。危険を承知でキッチンの下から頭を覗かせ彼女達を視界に入れる。

「--------------------------------------------------------」

「分かってるわよ、私が我侭だって事くらい」

 イリヤは俺たちの方に背を向けて、キッチンの上に座っていた。その向かいにはシミ一つ無い調理師用白衣を着込んだ女性が一人。まあるい柔らかな物腰が特徴的な俺と同い年くらいの女の子がイリヤに何かを囁いた。

「だってシロウだもんね。お節介妬くなって方が無茶だもの、シロウにそれを止めさせたらきっと死んじゃうわ」

 その言葉にイリヤの声がふわりと軽くなった。

(…………俺はウサギかよ?)

(案外、外れてないんじゃないの? 寂しがり屋のお兄ちゃん)

 朝倉は声を潜めつつケラケラ笑う、無駄に器用な奴である。

「でもね聞いてよサツキ。それぐらいなら私だって安心だけど、お兄ちゃんて女に弱すぎなよね、トウコにもシキにもカズミにも」

 ―――――――っておいおい。
 俺と朝倉が深く静かに問答を繰り返す内に話しが不味い方に転がっている。イリヤは自分の言葉に深く頷きながら俺への不満をネチネチと吐露していく。

「この前お兄ちゃんが仕事で知り合ったって人も皆女だったみたいだし、一体何を考えているのかしら」

(そりゃ、男の子だからねぇ~、お母さんにはとてもじゃないけど話せない事でしょ?)

(………殴っても良いか?)

(あ、でも否定しないんだ?)

 思わず拳を硬く握り締めてしまう、それと反対に俺の頭はイリヤが迂闊な事を言わないか内心ハラハラである。
 そんな俺の気持ちなどお構い無しにイリヤの(正確には俺への)独白は止まらない。

「それにね、シロウったら純朴そうな顔して実はエッチなのよ」

(むっつりスケベ?)

(違う)

 朝倉が俺を可哀想な目で見ている。
 もうどうにでもしてくれ。そんな事を思ってしまった瞬間。

「その証拠にね、サツキ、話したかしら?お兄ちゃんはアパートの茶箪笥の中に、――――」

(って、ほんとお前何口走ってんだ!?!?)

(ほー、そんの所にね。中々ノーマルなだけに見つかりにくいって事かしら)

 前言撤回、それは不味いぞ!? 何でイリヤがそれを知ってんだ!? 朝倉もメモ帳に余計なこと書き込むなぁ~! や~め~て~、誰かイリヤをと~め~て~!
 脳みそ大混乱も手伝って、身体が浮き上がる。

(馬鹿!? 朝倉放せ! 放せってば! 俺は、俺は~)

(こんな面白いところで茶々入れられてたまるかい!)

 思わず飛び出した体を朝倉に押さえつけられた。……もう死にたい。虚脱感に身を任せて、俺は真っ白に燃え尽きた。
 だが、そんな放心状態もイリヤの一言で長くは続かなかった。

「―――――――ま、これ以上言っちゃうのはちょっと可哀想だし。憂さ晴らしも終わりにしてあげるわ。そろそろ出てきなさいよシロウ、どうせカズミも一緒なんでしょ?」

「――――――――――――――――――――――っへ?」

 突然のイリヤの発言に俺と朝倉は素っ頓狂な声を上げた。
 もしかして気付いていたんですかイリヤさん?
 フフンと唇に人差し指を添えたイリヤは小悪魔じみたせせら笑いを年上のお兄さんお姉さんにプレゼントしてくれましたとさ。
 ピョコンとキッチンから飛び降りたイリヤは、俺と朝倉の隠れるキッチンの向かいで仁王立ち。

「気付いていたのか?」

 ばれているのにも関らず、キッチンの下から頭を出す姿勢を保って聞き返すのは、人間心理の難しいところである。科学的な考証が欲しいところだ。

「アレだけ騒いでいて、よく言うわ。それにしても良く私の居場所が分かったわね? 調理室にいるなんて普通考えないわよ?」

 そのお姿は正にプリンセス…もといザ・おんぼろ貸家のクイーン。下々の者共は諦めて苦笑を交換し合う。
 イリヤの問いに俺は改めて朝倉に視線を向けた。俺自身、何で朝倉にイリヤの居場所が簡単に見つけられたのかハッキリしないからだ。
 きらりと朝倉の瞳が輝く。

「それはイリヤちゃんの身体に発信機を………うそうそ、うそです。イリヤちゃんもそんなに睨まないでよ」

 勢いも一瞬、コホンっと咳払いをして場を繕い、朝倉はイリヤの後ろに控えた人影に並んだ。

「本当は根拠なんか無いんだよ、ただイリヤちゃんがお目目を真っ赤にして不貞腐れてたんなら、四葉の奴がほっとかないだろうなって思ってさ。そしたら本当にイリヤちゃんがいるなんてねぇ。いやはや私の感も捨てたもんじゃないね」

 朝倉の言葉にイリヤが少し恥ずかしげに目を逸らす。同時に、白衣を着込んだ背中が丸まり、小さな声が響いた。

(はじめまして、イリヤちゃんのお兄さんですよね? 私、四葉五月です)

 彼女は丁寧に頭を垂れると俺に微笑んだ。
 朝倉の言葉通りなら、彼女がイリヤを慰めてくれたみたいだし、素直にお礼を言わないとな。

「助かったよ、妹が色々世話になったみたいでさ」

 迷惑なんてかけてないもんっと頬を膨らすイリヤを朝倉に任せて俺は四葉に手を伸ばした。

「イリヤから聞いてるかな? 衛宮士郎だ。料理美味かったよ」

 俺の言葉を嬉しそうに握り締めた後、彼女は朝倉を虐めるイリヤの髪を撫でつける。

(そう言っていただければ作った甲斐があります、イリヤちゃんも良かったね。お兄さんが迎えに来てくれて。)

 囁いた四葉の顔は、今は思い出せない母親の記憶に触れるものがあった。

「うん、サツキもありがとね。私のお話聞いてくれて」

 気持ち良さそうに髪を預けるイリヤの顔は穏やかだ。
 そんな妹の姿に、俺は知らぬ間に声を漏らしていた。

「あのさイリヤ、俺………」

 俺がしどろもどろで言葉を選んでいると、それをさえぎりイリヤが口を開いた。

「もう良いよお兄ちゃん、サツキにも話したけど私も我侭が過ぎたわ。」

 横目で四葉の顔を盗み見ながらピッと人差し指を立て、

「だから、明日は私もお兄ちゃんにさ・い・ご・まで付き合うからね? 途中で危険だから帰れ、とか無理に付き合わなくて良いんだぞ、とか出来の悪いアクション映画の台詞なんか言わせないんだから、デートも調べ物も両立させて楽しませてよね?」

 イリヤは俺よりも年輪を感じさせる笑顔を向けた。
 その隣の四葉は、俺の言葉が分かっているかの様に目を細めている。

「ああ、無理やり楽しませてやるから覚悟しろよ?」

 だったら俺もそれに精一杯答えるだけだ。

(良かったですね、仲直り出来て)

「ああ、四葉のお陰だな。本当、助かったよ」

 喜びの余り首に巻き付いてきたイリヤをヨイショと下ろして、改めて四葉に御礼の言葉をかけた。イリヤに笑顔が戻ったのも、詰まるところ彼女がイリヤの苛立ち宥めてくれたのが大きい。

(そんなこと無いですよ、私がいなくてもきっとお二人で直ぐに仲直りできました。だからイリヤちゃんはあんな風に笑えるんです)

 何でもないように言いながら、四葉は白衣を脱いで備え付けられている鋼色の衣装扉に収納した。調理場の時計を見れば既に日付が変わって半刻以上も過ぎている。

(今夜はもう遅いですし、そろそろお部屋に戻られた方が良いのでは?)

「そうだな、そうする」

 イリヤの事が終わったら急に眠くなってきたな、明日は色々調べて回りながらの観光だし、ノンビリ眠ってはいられない。

(じゃあねイリヤちゃん、明日のご飯は少しサービスしてあげるから楽しみにしててね)

「ありがとサツキ。だから貴方って好きよ。期待させてもらうわね」

 四葉の控えめな笑顔に大げさな喜びで答えたイリヤはぐいぐいと俺の手を引いて調理場の入り口件出口へと向かう。

「四葉ぁー私にもサービスしてくれるんだよね?」なんて年甲斐も無く聞いている変な奴は放っておくのが一番だ。

 明日の幸せを懐で温めながら、俺はイリヤ互いの手を引き自室に向かう。
 夜に残る微かな吐息は、さざ波の音色だけだった。



[1027] 幕間 Ocean / ochaiN.
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 09:14
/ Orange.

 遥か暗がりの向こう側から、雄叫びが聞こえる。

 ――――――――いや違う、そんな猛々しいモノではない。

 コレは唸り声。彼女が泣けない代わりに、不細工な声を張り上げる。

 恐らく“アレ”が鳴いているのだろう。

 黙祷ついでにお似合いの嘲笑をくれてやれば、ご丁寧にも答えてくれた。

 ――――鳴動する大気。は、中々どうして、悲痛な慟哭じゃないか。

「おいおい、随分じゃないの。そう。邪険にするな」

 皮肉に頬を歪ませれば、絶え間なくうちつける波の狭間を縫う様に、歪な叫びは潮風を裂いた。





■ Interval / Ocean,Ochain. ■





 不恰好な鼓動に合わせるように、私の身体をまさぐる何か。

 何千何万と繰り返してきた皮肉な痛みが魔力と共に血に融ける。

 目下で轟々と波の打ちつける大きい水溜りを眺め、空気を震わすように感覚は広がっていく。

 溶け出し、拡散していく私の中身。
 毎度の事ながら実に不愉快だ。

 自身のイメージ、眼前に開ける色は赤、朱、紅、緋、橙色。
 まあいい、辺りには黒い闇しかないのだ、明かりの代わりだと思えば幾分かましだろう。

 血液が抜き取られブクブクと地を這い広がる真っ赤な意識は、限界まで伸ばされ細い細い糸のように象られる。

 自身の微細な魔力を凡庸な触覚の届く限り手を伸ばし一つ間違えば千切れる血管を、手繰り寄せるように回収する。

「―――――――――――――――」

 ザクリと感覚を断ち切ると、微かに震えた糸が“盾”の琴線を撫でる。
 しかし、………弱い。いや、弱いという感覚は間違いだ、ここでも同じ、等しく感じる何かの錯覚。微々たる魔力の壁に囲われた様な泥酔、何かに溺れる様なこの感触、海の底でもがく様な感覚は果たして何なのか。

「―――――――――っち。ここでは無かったか」

 ゴミ捨て場の様に不恰好に詰まれたテトラポッドから飛び降り、頭の中の地図に×印を打つ。これで幾つ目だろうか? こちらに着いてから延々繰り返してきた作業だ、いい加減飽きる。
 ふん、うまく隠れてくれる。それほど未練か?
 まだ見ぬ見知らぬ誰か、いや、其れは人では無いのだからこの呼称は間違いだ。だが、件の探し物はヒトを“象る”のだから仕方が無い。

 しかし、――――――蒼崎橙子も丸くなったものだ。

 人、ヒト、ひと。“神秘”の前にそんなものは意味を成さないだろうに。私は私である前に魔術師だ、そんな感慨、とうの昔に置いて来てしまった筈だが?

 まあいいさ、堕落した魔術師には其れがお似合いだ

 分割された思考が論議に一応の決着をつけたところで、薄く唇を震わせタバコを探す。
 都会よりましとはいえ蒸し暑い残暑の夜だ、潮風に当てられ微かに草臥れたシャツが気持ち悪い。どうやら、私は意中の相手にほとほと嫌われてしまった様だ。

 まったく、どこに隠れているのやら。

「ノンビリと探している訳にはいかないんだがな」

 明後日、早ければ明日の夜にでも協会の魔術師がアレを回収するため再度日本にやってくる。
 出来れば、鉢合わせはしたくない。私は連中の組織力と能力を少しも軽んじる心算は無かった。

 さて、どうしたものかと顔を上げてみれば、映るのは一面の黒色。辺りに人の気配は無い。
 それも当たり前か、既に日を跨いでこ一時間時間。私が今いるのは廃墟同然の屋敷から歩きつめて数分の場所にある、時代に取り残された汚い漁港。
 ロケーションも手伝って正に人でなしの空間だ。殺意を覚えるほどに魚臭いな、ココは。

 誰を気にするでもなくタバコに火を灯せば、思わずため息が零れた。
 よくもまあ私がここまで動かされたものだ。

 なるほど、いい女に恋焦がれるのは、えてしてこんな気分なのかもしれない。

「――――――――奴らが躍起になるのも頷けるな」

 何せ“最高の女”だ。その記憶を識る、数少ない神秘。
 そんなモノが極東の島国に流れ着いたともなれば、奴らの顔は豆鉄砲を打ち込まれた鳩のそれだろう。
 実に下らない思考を巻き戻すと、段々と夜空が仄黄色く染まっていくのに気がついた。
 今日はここまでか。――――――明日からはうちの馬鹿共も動いてくれるだろうし、慌てることも無い

 あいつ等の事だ、私の行動に不信感を持つのは当然の事、“盾”が近くにあるとすれば何らかの違和感に戸惑っているだろう、それだけの神秘。

 ――――――――――――それでこその“宝具”。

 まあ、自身の違和感に気付かないかもしれんがね。

 まさか、そんなはずなかろう。
 彼女の物語は黒桐にしろ衛宮にしろ、無視できるものでは無い。間違いなく彼女に引きずられる。

「―――――――なあ、“ディアドラ”。君もそう思うだろ?」

 緩やかに歩みを進ませた筈が、いつの間にか先ほどの廃墟に戻って来ていた。同時に自分で意識した訳でも無いのだが、彼女の名前が勝手に零れていたことに、気がついた。
 自嘲気味に笑ってやれば、館の周りに彩られたイチイの木がざわつく。
 ふっと視線を戻すと、目の前にはお世辞にも豪華とは言えない寂れた石碑が揺れる草木に囲まれ隠れていた。

 最初にこの屋敷を訪れた時には見落としてしまった様だ、こんなもの私は知らない。
 じゃりじゃりと、放置されて青草が伸び放題の小道をかき分け、崩れた石ころの前に腰を据える。

「-----―――――?」

 過ぎ去った年月の所為もあり、それが墓石だと分かるのに時間がかかった。
 原型は西欧風にデザインされた半円型のモニュメントだったのだろう、頭の悪い詩人が刻んだろくでもないポエムだけが崩れた歴史を感じさせないでいる。

「ふむ、――――――――――」

 かろうじて知ることが出来たのは故人の数、恐らく四人か?
 名前は、―――――くそ、もっと頑丈な墓石を使え、摩滅して何も分からない。

「しかし、コレは、―――――」

 私が辿る“盾”の痕跡に何か関係があるのだろうか?
 根拠も何も無い唯の勘だが、あながち外れてはいないはずだ、事実ここにも神秘の残り香が漂っていた。
 ―――――――――“盾”が象る女の肢体、美しすぎる女の記録。

 私が追いかける美麗な幽霊か、なんともロマンチックじゃないか。
 そんな考えが頭をよぎった逡巡、宙ぶらりんの思考が一つに纏まった。
 私は今までその幻影が“ディアドラ”なのだと思っていたが。

「――――――共振? なるほど、それも在りえるか。もう一度、件の幽霊事件を洗いなおしてみる必要があるな」

 共振、だとすれば、固有結界の亜種にまで成った筈だ。
 なるほど、そう仮定すればこの町の至る所で“アレ”の気配を感じるのも、頷ける。

 自分でも珍しく嬉々とした感情が自然と毀れてしまった。
 私は冷静に繕おうとして失敗したぎこちない笑みを残して、その廃墟を後にする。






 潮風に揺れるイチイの木々達が遠くで喚く掠れた叫びを木霊させ、私を見送った。



[1027] 第五話 パーフェクトブルー
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 09:24
5./ 16.

 まだ、この海がそれなりに綺麗だった頃の話。

 この街には、それはそれは綺麗な娘さんがいたそうだ。

 天涯孤独、早くに両親を無くした彼女は人里から離れた潮風の香る洋館で乳母と共に貧しいながらも慎ましやかに日々を過ごしていた。

 少し厳粛な乳母と生活に困らないだけの仕事をこなして、一日を終える。不満が無いとは言い切れないが、その生活が“幸せ”だと彼女は知っていた。

 緩やかに、そして穏やかに過ぎていく代わり映えしない当たり前の日々を彼女は愛していたんだと思う。……とは言っても、彼女は年頃の女の子、人並みの欲求もあったし、少し危ない素敵な出会いに心をときめかせていたのかもしれ無い。

 無いものねだりは人間の性だ。
 まして“自由”な恋が出来ないとなればその想いはもっと強いものだっただろう。

 この手の民話や御伽噺にはありがちな話だけど、彼女には許婚がいたんだ。

 この頃の………地主さんって言えばいいのか? 地元では何でもまかり通る王様みたいな奴が彼女の歳の離れた花婿だった。

 理由は知らないけど、違うな―――――理由を知りたくは無いけど、とにかくそういう話になっていたんだ。
 だけど、そのことに彼女は涙を流すことなんて一度も無かった。――――――――そう、運命の出会いなんてファンタジー、彼女は信じていなかったから。

 果たして、彼女は一人の男に恋をした。

 禁じられた恋、許されない契り。なるほど、障害が大きければ大きいだけ、二人の愛もより深く溶け合い、燃え上がった。

 だが当然、そんな二人の恋を地主様が許す筈が無かった。
 足長おじさんになる気は毛頭無かった彼は、あの手この手で彼女達を引き裂こうと画策した。その情熱を彼女の幸せを願う事に使えたのなら、綺麗なお姫様は振り向いたかもしれないのにな。そう思ってしまうほど、彼の責めは執拗だった。




 そして、お姫様と王子様はその街を離れた。




 いわゆる“かけおち”とゆう奴だ。彼女の乳母、運命の王子様の優しい兄弟達も手伝って、愛の逃避行は成功したかに思えた。

 少しの平穏、まるで真夏の雪の様。

 二人で過ごした輝かしい毎日は長く続く事は無かった。逃げ果せた遥か遠くの街にさえ、諦めの悪い地主様は追いかけて来たんだ。

 男は彼女を連れて再び街を離れた。
 逃げて逃げて逃げ続けて。とうとう彼女達は逃げる場所を失ってしまった。

 彼らを哀れに思った故郷の人々は彼らの恋を認めてくれるよう地主様に頼み込んだ。

 そして、―――――あろう事か地主様はコレに同意したんだ。

 地主様は彼女の恋人、その親友に彼らを連れ戻すように命じた。本心では“殺意”にまで昇華された歪な愛欲を胎にためて、さ。

 そんな狂気を知らない男の親友は、喜び勇んで彼女達の下へ向かった。
 当然、彼女は疑ったさ、何で? どうして? って。

 だけど結局、彼女は故郷に戻った。
 男の親友が身を呈して、彼女を守ると約束してくれたんだ。

 乳母から、恋人から、その弟達から、その親友から、そして故郷の人からでさえ、彼女は愛され守られていたんだ。

 ―――――――――例え、生誕が過ちで始まり。最後が悲しみに終わったとしても。





Fate / happy material
第五話 パーフェクトブルー Ⅳ






/ 5.

「それで、それからどうなったんだ?」

 俺は浴衣姿でうつ伏せに転がって、朝倉に話しの続きを問いかけた。
 俺と幹也さんの自室、二人分の布団はイリヤと朝倉に占領されたため俺は一人畳みの上。四葉と分かれてから直ぐに自室に戻って来た俺たちだが、女部屋では幹也さんと式さんがいい雰囲気だったのでイリヤと朝倉は男部屋に非難して来たのである。
 どうせこいつらが帰るまで(正確に言えば、幹也さんが帰って来るまで)俺に平穏は無いのだから、暇つぶしも兼ねて朝倉に近辺の都市伝説まがいの御伽噺とやらを聞いてみた。
 勿論、明日の聞き込みに役立つかもしれないからだ。
 そうしたらもう出るわ出るわ、カルトな話が山のように。朝倉の知っているだけでも三十を超える数の話しがあるらしい。
 しかし、なんで朝倉はそんな情報にまで詳しいんだ?
 頭をひねって考えてみれば、直ぐに答えが浮かんだ。
 海や温泉、観光地と呼ばれるそれらには民話や童話、怪談話は付き物だ。そして、これらの話しはその土地の地理、歴史、変遷を知る上での重要なファクターでもある。朝倉がこれらの話しに詳しいのも情報屋の視野にしてみれば当然の事なのかもしれない。
 や、ただの興味本位って線も考えられるけどさ。
 そしてそんな中、朝倉は最近になって噂になり出した幽霊怪談とやらを話してくれたんだ。長髪の幽霊が海の傍に掠れた叫びと共に現れる、おあつらえ向きの怪奇譚だな。

「どうなったと思う? イリヤちゃん」

 ニヤリと布団に包まって、彼女は隣でウツラウツラしているイリヤにグリスの効きすぎた首をクルリと回した。
 心地よいうたた寝を邪魔されたイリヤは、ギロリと朝倉を睨みつけそのまま布団の奥底に潜り込む。

「駄目ですよ和美ちゃん。邪魔をしちゃ、それに子供はもうねんねの時間でしょう?」

 ドロンと俺の背後から弱弱しい声が。子ども扱いされる事を何よりも嫌うイリヤが、きっと布団の中で睨みを効かせている事は、俺だけの秘密にしておこう。
 と、さよちゃんは蓑虫の様に布団に包まったイリヤを引っぺがそうと奮戦する朝倉に注意を促した。
 朝倉が怪談話を始めてから、「雰囲気作りだよ」とか訳の分からない事をのたまい、さよちゃんを可視化状態に切り替えた結果だ。とは言っても、魔術で見えるようにしたのはイリヤだが。
 でもま、やっぱり一人だけ除け者にするのは嫌だもの、さよちゃんだってこんな時ぐらい一緒に楽しんでも良い筈だ。
 幽霊と同伴するには少しばかり明るすぎる室内を見回して俺は窓際に備え付けられた椅子に腰を下ろした。見下ろす真っ黒な海はどこか哀愁を誘う。

「やっぱり、彼女達は結ばれないのか?」

 身体を後ろに倒して話しの結末を頭に描いた。

「まあ、ね。最後は全員でデッドエンドさ」

 特に感じ入った様子もなく、朝倉はぷいっと俺に返す。

「嫉妬に狂った地主様がね、自分の息子をけしかけて彼女の恋人、そしてその兄弟達を全員殺させちまったのさ」

「―――――滅茶苦茶だな」

「そうだね、滅茶苦茶よね」

 俯いた俺の言葉に朝倉の奴が、優しく重ねてくれた。

「なぁ、彼女はどうなったんだ?」

 残された最後の疑問。
 この話しが作り物だとしても、彼女の幸せを望んではいけないのだろうか? 
 夜も更けきたため、少しぼやけた視界で俺は安易に答えを求めた

「――――――どうなったと思う?」

「和美ちゃん、その質問は二度目ですよ」

 朝倉の再度の問いかけにさよちゃんが笑って返した。そんな彼女をヒラリと躱して、平然と朝倉は続ける。

「分かってるよ。だけどね、衛宮っちなら分かりそうな気がしてさ」

 本当に思いつきの発言の様だが、彼女の言葉に何か覚えを感じた。
 朝倉の瞳から視線を移し、再度真っ黒な水溜りに意識を伸ばす。壊れたテレビみたいにザーザーと繰り返される雑音が耳障りだ。

 悲しみにくれる彼女/悲しみに沈む■■■■■。

 ――――――さざ波が誰かの叫びにとって代わった。

 全てが悲しみに終わった■■■■■は/全てを失った彼女は。

 ―――“■■”が泣いている、彼女を殺した拭いきれぬ罪悪に塗れて。

 その身を果ての無い、――――――――。

「―――――っつ。っと、分からないな。どうなったんだよ、朝倉?」

 弾ける様に意識のスイッチが入り、沈み込んだ夢の中から抜け出す。それと同時に、俺は身体を起こした。
 頭の中を駆け巡った映像を他のチャンネルに変える、そんな感覚の侭に俺は頭を振った。
 見れば、朝倉とさよちゃんが不安そうに俺を囲んでいた。

「どうしたんだ?」

「だ、大丈夫ですか、衛宮さん? 汗、凄いですよ」

 さよちゃんが俺の背中を擦ってくれているのだろうが、感触は微塵も無かった。
 ちょっと残念だ。

「 ? 大丈夫だぞ。少しぼうっとしただけだ」

「驚かせないでよね、まったく」

 俺の気の抜けた発言に二人の顔から影が消えた。落ち着きを取り戻した朝倉は、顎を撫で付け。

「ええと、それで彼女の最後だっけ? それがねぇ、分からないんだな」

 あははと、いい加減に笑った。

「――――――――おいおい、ここまで話しておいてなんでさ?」

 俺は大げさな苦笑いで返す。
 なんだかアイツの顔が妙に可笑しくて思わず笑いが溢れてしまった。俺の後ろのさよちゃんはおしとやかに微笑んでいる。

「あ。だから和美ちゃんは衛宮さんにお話しの最後を聞いたんですね?」

 さよちゃんがぽんと調子よく手を叩いた。

「まあね、彼女の最後は色々と通説が多くてね、どれが本当なのか分からないのよ」

 指折りにその通説とやらを羅列していく朝倉。
 なんとも物騒な単語が並んでいる。それを耳に残すことはせず、椅子を軋ませ腰を深く休ませる。

「そっか、でも最後が一杯あるんなら幸せな最後だってきっと在る筈だよな」

 最後が分からないならそれでいい。悲しみしかないなんて、そんなの虚し過ぎるじゃないか。
 時計を見ればいい加減布団に入らないと不味い時間だ。幹也さんも帰ってくるだろうし、そろそろお開きにしよう。誰とも知らない空想の彼女に幸せを、そんな安息と一緒に腰をあげた瞬間。

「いんや、無いんだなコレが。私の知る限り、“彼女”の最後は死んじゃって終わりさ。なんとも切ないよね」

 朝倉の言葉が俺を突き放した。

「――――――――――――え?」

「だからさ、最後は絶対に死んじゃうんだってば、言ったでしょ? “デッド”エンドだって。この話しに救いは無いのさ、だから巷で“女”の幽霊が出たって騒がれているんじゃないか。悲劇しか生まなかった女の霊が夜な夜な暗がりの海を彷徨う。なんとも王道でしょ」

 なにいってんの、と詰まらなそうに髪をかき上げ朝倉は俺を眺めている。
 俺は一体どうしたんだ? なんて事のない御伽噺じゃないか。

 彼女が、彼女の生涯が悲しみしか無かったからって一体それがどうしたって言うのさ。

 心が苛立つ、朝倉の話を聞いたらこの気持ちが抑えきれない。

 なんでさ、なんで、俺は―――――――――――――。

「―――――――ただいま、ゴメンね。気を使わせちゃった見たいで」

 襖が開く。異状に沈む俺の意識を摘み取る様な声が通った、幹也さんだ。

「「「―――――――――――――――!?!?!」」」

 さよちゃんは、きゃ、っと可愛らしい声を残し、一瞬にして視えなくなった。

「あれ? どうしたの士郎君? 難しい顔して?」

 幹也さんも式さんと仲直り出来たらしい。頬っぺたが艶々だ。
 そんな彼を見ていたら噴出した笑いと共に先ほど気分が吹き飛んでしまった。

「僕の顔、何かついているのかい?」

「いえ、ただ幹也さんは凄いなぁと思って」
 
 幹也さんの登場で今日の話はコレでお終い。俺が言葉を繕う暇も無く、朝倉はとっとと帰り支度。
 
「―――――それじゃね衛宮っち、幹也さんもおやすみ」

 布団の中で気持ちよさそうに眠るイリヤを担ぎ上げ朝倉が部屋を出る。

「何かあったの?」

 不思議そうな幹也さんに「ええ、ちょっとだけ」煮え切らない答えを返して布団に潜り込んだ。
 幹也さんが部屋の電気を落とすと同時に、暗転。カチリと俺の中で何かが繋がった。

 ―――――――ああ、そうか。蓋が重い、沈んで行く意識。

 ―――――――俺の苛立ちの正体。納得していないんだ、彼女の生涯、彼女の最後に。
 アイツの様に、叶えられた誇りも無い、貫いた願いも無い、守られた誓いも無い。

 ―――――――悲しすぎる彼女の人生は間違っている。

「だから、俺は、――――――――――」

 答えを紡ぐ間も無く、俺たちは今日という一日を終えた。










/ 6.

「今日の朝飯も良いじゃないか」

 言って、式さんはお膳の前に腰を下ろした。
 時刻は朝の八時。旅館の一階、朝食が用意された大広間に並んで座る。

「凄いですよね、本当に」

 俺は全員分のお茶碗にご飯を盛り付け配る。定番の目玉焼きから海苔の味噌汁、果ては名前も知らない手の込んだ品目が目白押しだ。

「うふふふふふふふふふ、今日も楽しめそうだわ」

 イリヤのお膳には燦然と輝く杏仁豆腐が。
 どうやらコレが四葉の言っていた“サービス”という奴らしい。やはりデザートの追加は女性にとってのジョーカー(切り札)だ、イリヤの顔がニヘラニヘラとだらしが無い。 まあしかし、イリヤのこんな顔は滅多に見られないのだから、四葉に感謝しないとな。

 そうして、何事も無く俺たちは二日目の朝を迎えた。







「所長、昨晩は帰って来なかったんだってよ」

 朝食をとり終えた俺たちは各々自室で観光の準備。幹也さんは浴衣から何時もの黒一色に変わっている。

「本当、何をしているんだか、あの人は……」

 半袖のTシャツに袖を通しながら呆れた顔を幹也さんに向けて見れば、

「なあに、ちょっとした宝探しさ。君たちが心配せずとも問題ない」

 パリッとした真っ白いワイシャツが不遜な面持ちで襖より現れた。悪びれた様子も無く、堂々と先生は部屋の入り口にもたれかかっている。

「やっぱり、魔術関連の探し物だったんですね。ちゃんと言ってくれれば俺は始めから付き合ったのに」

 そうすりゃ、俺とイリヤも喧嘩することも無かったのにさ。まったく、人騒がせな。
 突然の乱入者に不信感を抱きつつも、臆する事無く答えれば、幹也さんがコクンコクンと頷いてくれた。

「そういうな、おかげで私は満足だ。君たちが右往左往しながら“何か”の違和感に戸惑う様を想像しただけで充分楽しめたからな。いや、人間の自慰とは中々に素晴らしい」

 幹也さんと二人、顔面の筋肉が痙攣した。
 駄目だ。この人、性格が破綻しているなんて軽い症状じゃなかった。もしも人格破綻が感染症であったのならば、この人は世界一のキャリアーだ。スイス銀行の中央金庫室に隔離したところでその伝播は留まる事を知らないだろう。

「……で、所長は一体何を探しているんです? その力の割きよう、ダイヤモンド鉱山でもお求めですか?」

 流石にそれは見つけられませんけど、嫌味を隠そうともせずに幹也さんは先生へと鬱憤をぶつける。しかし柳に風だ、先生は少しも堪えた様子は無い。

「第二のデピアス社を作る気は毛頭無いさ。あんなものを拵えたところで、面白くも何とも無い」

 先生はクツクツと笑いをためて。

「まあ、私の探し物は魔術的価値で視れば鉱山の五、六個では足りないがね」

 心底愉快そうに言い切った。

「それでな、君たち調べて欲しいのは他でもない、巷で噂の幽霊だ」

 瞬間、ピクリと心臓が跳ねた。

「幽霊……ですか?」

 問いかけたのは幹也さんだ、今までの話からは想像できない話しの飛躍。俺だって口をあけている。

「イプセンの戯曲ではないよ。言葉の通りの意味さ、怪談話と言う奴だ」

 軋む畳を踏みしめて先生は窓際に歩み寄ると、しゅっとタバコに火をつけた。

「黒桐、君に調べてもらいたいのは巷の怪談の信憑性でね、どうやらフィクションらしいのだがそうは思えない。裏付ける証拠が欲しい」

 明確な指針を与えられた幹也さんは先生に頷くと、質問を返した。

「分かりました、知りたいのはそれだけじゃないんでしょう?」

「察しが良いな、無論他にもあるぞ。もしも件の怪談話が“実話”だったのならば、色々と血生臭い事情になっているだろうからな、念入りに頼む」

 それだけで幹也さんは先生の言葉の裏に潜んだ真意を読み取ったのだろう。―――――つまり、朝倉も零していた不確定な彼女の最後、その死因の解明だ。

「別に構わないですけど、その幽霊事件と所長の探し物、何か関係あるんですか?」

「あるよ。私の探し物が件の幽霊事件を起こしているのは間違いないからね。前に話したか? 幽霊は現在に残る残留思念が象を得たものに過ぎない、なら件の幽霊は“過去に実在した”と言う事に他ならないだろう? 私としたことがこんな回答に辿り着くまでとんだ無駄骨だった。とにかく頼むぞ、早急に調べあげてくれ、時間が無い」

 中国人みたいな口調で、幹也さんの問いに肯定で返した先生は早口に言い切る。
 感じ入るに、先生はどこか落ち着きが無い。
 そんな彼女に、

「でもさ先生、あんな滅茶苦茶な話が現実で起こるはず無いと思いますよ? それこそファンタジーだ」

 俺は少し俯いて

「小説の類だってあんな粗末な悲劇はありえない、ましてそれが真実なら、語られるべき物じゃないでしょう」

 幹也さんとの話しが一段落した先生に、素直な感想を吐露した。―――――――――ただ、俺がそう信じたいだけだと言うのに。

 俺の問いに先生は意外そうに目を丸め、次の瞬間には歪んでしまった。

「………唯それが事実であるというだけで、人はたやすくとそれを信じられるほど、優しくはないさ。在りえない“真実(ほんとう)”なんてものは、当たり前の“物語(うそ)”にだって成り下がる」

 残り少なくなったタバコを、先生は大きな水溜りに放り投げた。その仕草が、甘えた遣る瀬無ささえ捨て去ってしまうようで、俺は思わず視線を逸らした。

「―――――ただ、その“本当”を信じたく無いというだけで、ね」

 無感情のままに先生はその場を去る。

「今の君と同じだな、衛宮」

 唯一つの言葉を残して。




 二日目。
 俺は初めて、自らが果てなく青い深淵に沈んでいるのを感じた。



[1027] 第六話 パーフェクトブルー
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 09:34
/ 17.

 慇懃なオレの嘲笑を否定して、幹也さんに振り向いた。

「ただ恋をした、それだけなのに――――――――――」

 振り返る視線の向こう、思わず息を呑んだ。
 微笑んでいる筈の幹也さんの貌が、怒りに歪んでいるように感じられたから。

「そうだね、それだけだった」

 しかし、返す幹也さんの声は穏やかだ。
 俺の向こう側、張り裂ける程に広がった大海を見据え、彼は言い切った。

「―――――――だったら!」

 そうだ、俺は彼女の物語なんて認めない。
 全ての悲劇、その原典。遥か古に生きた悲しい神話。

 ――――――――そんなの、嫌だ。

 血がにじみ出るほど拳を握り締めて、俺は幹也さんを睨み返す。
 幹也さんは優しい人だ、なのに、なんでこの人は、―――――。

「僕はね士郎君、彼女の生涯が間違いだなんて、悲しみしか無いなんて思わない」

「――――――――どうしてですか、どうして幹也さんは!?」

 ――――――――彼女の生涯を知って、そんな穏やかな顔でいられるんだ?

 叫びだしそうな喉笛を必死に押さえつけ、語尾の震える強がりを吐き捨てる。

 俺は焦点も覚束ない曖昧な瞳で、果てなく黒い彼の瞳に挑んだ。





Fate / happy material
第六話 パーフェクトブルー Ⅴ





/ 7.

「ねえお兄ちゃん、アレは何?」

 温泉街の喧騒の中、イリヤは興味津々に白い煙を噴出す蒸篭を指差した。「行ってみるか?」と尋ねれば、テケテケと駆け足に向かって行った。揺れる三つ網がしっぽを振って喜びを表現しているようで、面白い。
 イリヤには大分大きいダブダブで無地のTシャツ。俺が貸したそれと、薄い水色のジーパンと言う彼女にらしくない出で立ち。だが、ボーイッシュな魅力、とでも言えば良いのか随分と似合っている。

「じいさん、温泉饅頭ふたつな」

 ガラス張りの向こう、この暑いのに頑張って饅頭を蒸かす切符のよさそうなおじいちゃんに指で示す。やや身長の足りないイリヤには視ることが叶わないだろうが、蒸篭の中には深い褐色が艶やかな甘味に溢れていた。
 イリヤと俺の不釣合いな組み合わせに何を思ったのか、じいさんはかかかと豪快に笑った後、饅頭を一つサービスしてくれた。イリヤの事をどこぞのお姫様かと思ったのかもしれないな。
 俺の兄馬鹿も大した物だと、一人笑いながらイリヤにはチョッと大きい饅頭を手渡した。
 空は晴天。相変わらず暑いけど、まあいいか。
 炎天の下、出来立ての饅頭をイリヤと一緒に歩きながら頬張る。

「歩きながら食べるのは、お行儀が悪いんじゃないかしら?」

「でもさコレも一つの楽しみ方だよ、気にしなくても良いんじゃないか?」

 言って、俺は饅頭を丸々飲み込んだ。
 イリヤは小さい口で行儀良く饅頭を楽しむ。

「それにな、さめると不味くなる、早く食べた方が美味しいだろ。それが作ってくれた人に対する礼儀じゃないかな?」

 饅頭と姫さま。なんともミスマッチだ。
 そんな事を考えながら、ゴツゴツとした岩肌が除かせる歩道を二人で歩いていくと、道行く人が俺とイリヤの似合わないカップルを少し不思議そうに見送る。
 唯でさえ目立つ組み合わせを饅頭という際立つアイテムがより一層引き立ててくれることだろう。
 
「あら、随分ね。騎士(ナイト)っていうのはいつもそう、自分の礼節が誰にでも通用すると思っている。騎士道精神なんてよく言ったものよ、品行方正、その言葉に一番嫌われているのは貴方達だって分かっているのかしら?」

 送られる注目を当たり前に受け止めて、イリヤは俺の狼狽に冗談めかせて笑う。そしてそのまま、口を大きく空けて饅頭に噛み付いた。
 俺の真似をしたらしいが、上手くできなかった様だ。結局、イリヤは二つに分けて甘露を楽しんだ。

「厳しいな、イリヤは」

つーかアイツは猛反発しそうだな。時代が時代だけに、イリヤに手袋を投げつけていたやもしれぬ。

「淑女としては最もな希望だと思うけど? 私は絵本の中のお姫様みたいに、綺麗なだけのつまらない女とは違うのよ、振り向いて欲しければシロウももっと頑張りなさい」

「はは、努力するよ」

 苦い微笑をイリヤに向ければ、彼女は嬉しそうに前髪をつまんでクルンと回す。

「それで? 次はどこに連れて行ってくれるのかしら」

 イリヤの言葉に「そうだなぁ」と頷き、和風に外装を施された甘味処の前、漫画みたいにデフォルトされた「温泉町案内板」とやらに目を移した。
 海沿いに群がるようにある旅館の密集地域から大体一キロ南に移動したところにある大きくもなければ特に小さくも無いという半端な観光地。この温泉街にもきちんとした名前があるらしいのだが、覚えていない。きっと、それほど印象に残る物ではないのだろう。

「どっかでお茶にでもするか? 聞き込みやらなんやらで疲れたし、時間も…いい頃合いだと思うぞ」

 腕の時計に目をやれば3を目の前にした短針が小腹の隙間を刺激してくれた。
 饅頭を食べたりなんだりで観光も満喫していたが、聞き込みだってきちんとやっていたのだ。イリヤが興味を持つ店入った店で俺は聞き込み三昧。正直、俺が休みたいのが本音である。

「そうね、コレといって面白い話は聞けなかったけど休憩しても文句は言われない位、働いたものね」

「だな、先生に視て来いって言われた廃墟の場所も分かったし、食費位、経費で請求しても構わないだろ」

「働く人の為の御茶代だもの“経費”で間違いないわ、うん絶対そうよ」

 言ってイリヤは目の前のお店の暖簾をくぐる。
 案内板にはお勧めの喫茶店としてこの店が紹介されていた。
 俺は「目ざとい奴だ」と一人ごちて、彼女の真っ白い三つ網に続いた。…………しかし、使途不明金やら使い込みなんて物が、世の中から無くならない理由を垣間見た気がするなぁ。




「奇遇だねぇご両人、デートの途中かい?」

 和菓子特有の甘い香りに便乗し、耳慣れた賑やかな声が聞こえた。
 辺りを見回せば、家族連れの皆様でほぼ満席状態。どうやら声の主との相席は決定事項らしい。

「そうよ、うらやましい?」

 特に気にした様子もなく、イリヤは朝倉の目の前に腰を下ろす。そして、彼女は勢いもやおらに早くも朝倉と舌戦を開始した。
 互いに千日手の不毛な争いだ、勝手にやらせておくに限る。

「…………はあ、合い席、構わないか?」

(ええ、どうぞ。私達もまだ注文していませんし、ご一緒しましょう)

 深くついたため息は、イリヤと朝倉には効果が無かった様だ。まったく、唯一の救いは、ストッパー役の四葉がこの場にいてくれる事だけだ。
 何にしても、この店の中では疲れをとるどころでは無いのだろう。

(ここ、ところてんがお勧めなんですよ)

 四葉からメニューを受け取りざっと流し見る、特に興味を引かれる物も無かったので直ぐに閉じた。俺は和服姿にエプロンのお姉さんにところてんを四つ注文してほっと一息。少しの元気を取り戻した俺は、意を決してイリヤと朝倉の織り成す銃撃戦(マシンガントーク)の最前線(フロントライン)へと飛び込んだ。

「なあ朝倉。お前、幹也さん達と一緒に資料館の方に行くんじゃ無かったのか?」

 先生たち伽藍の堂オリジナルメンバーはこの町の役場、そして資料館へはしごしながら件の“幽霊”についての資料を探しに行った筈だ。それにこいつも着いて行ったと思うのだが?

「ん~、幹也さんが遊びに行っても良いって言うからね。お言葉に甘えさせて貰ったのよ。四葉と会うのは久しぶりだったし」

 「そうなのか?」と四葉に視線を送れば、彼女も頷いた。

「のけ者一人ぼっちは悲しいしね。四葉も暇そうだったし、二人で遊びに来たのだ」

 遊びに来たのだ、の言葉が表すようにその風貌は昨日の旅館の時と違ってややお洒落だった。朝倉はワインレッドのカットオフジーンズに胸元が協調されるタイトなVネックシャツ。対する四葉はピンクのニットキャミと淡いブルーのハーフジーンズ。

「それでさ、衛宮っちはどうよ? 例の幽霊さんには会えたのかい?」

 丁度運ばれて来た四人前のところてんを朝倉が受け取り「しゃれじゃないよ」と言葉を繋いだ。
 俺は、向かいに座った彼女に首を横に振って答えて見せた。

「ま、情報って奴は気まぐれだからね」

 妙に納得した表情で朝倉は笑った。

(なんのお話しですか?)

「サツキは知っているかしら? この海の近辺に出るって言う幽霊の話し。私とお兄ちゃんはね、その幽霊について調べて回っていたのよ」

 イリヤは運ばれて来た半透明の長モノに怪訝な顔を向けたものの、次の瞬間には驚きと一緒に珍妙な喉越しを楽しんでいる。

(ああ、例の御伽噺ですか。夜な夜な叫び声と一緒に現れるってゆう?)

「そうそれ。でもね、どこで聞いた話も同じような物ばっかりなのよね、嫌になっちゃうわ」

 イリヤは指折り聞き込みに訪れたお店の数を上げていく。最も、その殆どが食べ物屋さんなのはお兄ちゃんだけの秘密だ。

「ふーん、その似たような話しってのは何なんだい? 御伽噺の概要は私が話した通りなんだろうけどさ、気になるね」

「それなら簡単だぞ、全員が全員“美女”を見たんだと、実際は又聞きだろうけどさ。件の幽霊ってのは、やっぱり朝倉が話してくれた御伽噺の彼女みたいだな」

 幽霊が現れる時間帯、地域それらは全てまちまちだったのに対して、幽霊の特徴は全て一致していた。どうやら、俺の“視た”あの幽霊も彼女だったのかもしれないな。
 朝倉の仕草に習って俺は肩を竦めて見せたのだが、その言葉に朝倉はところてんをすする箸を止め、急に真面目な顔で考え込んでしまった。
 突然の不意打ち。彼女の雰囲気の変化に俺も箸を休める。

「ねえ衛宮っち、その“美女”を見たって目撃証言何だけどさ、ちゃんと容姿なんかは一致していたのかい?」

「 ? なんでさ。そんなのが関係あるのか?」

「あるんだな、コレが。証言の整合なんて物は情報を扱う人間にしてみれば初歩の初歩だよ。しかもそれが“美女”なんて抽象的な証言ならなおさらだ。それでさ、どうなんだい、衛宮っち。彼女の特徴、その他具体的な容姿の裏づけは取れているのかい?」

「………………何も無いな」

「と言うよりも、そんな事気にも留めていなかったわ」

「だったらさ。今度はそれを調べてみるといいんじゃないかな? 確信は無いけど、違うものが見えてくるかも知れないよ」

 大きく頷いてやると、朝倉はニヤリと頬を緩ませる。
 しかし、こいつがやり手だってのがしみじみと感じられたな。やっぱり、じょしこーせーで情報屋ってのは伊達じゃ無いのだろう。

「そうそう、素直で宜しいよ。大体“美女”なんて観念、人によってまちまちじゃないか、そんな曖昧な情報を鵜呑みにしちゃ駄目だぜ、旦那」

「これだから素人は」なんてち、ち、ち、と指を振る彼女は鼻息を荒げて腕を組んだ。
そんな仕草でさえ、どこかかっこよく見えるのは、きっと自分自身の誇り故のものなのだろう。こいつもやっぱり“いい女”ってやつらしい。

「人類共通認識の“美女”なんて言ったら、朝倉和美その人しかいないんだからさ」

 だがしかし、それもやっぱり気のせいだ、絶対に気のせいだ。

「(「………………………………」)」

 豪快に笑う朝倉に氷点下の視線を向けて、俺たちはただところてんをすするのだった。






/ 8.

「で、どうだった衛宮っち、何て言ってたんだい」

 喫茶店で小休止を終えた俺たちは、朝倉、四葉を加えて先ほど訪れた店舗に再度足を運び直していた。まだまだ明るいが、時刻はそろそろ五時、例の廃墟に向かうので在ればここらで聞き込み作業を切り上げなくてはならないだろう。
 今後の行動指針を決定した俺は、先ほどの証言を店舗の前で構えている朝倉、イリヤ、四葉に答えた。

「ここも証言が食い違っていたな。美女は美女みたいなんだけどさ、容姿が全然違うんだ」

 これで五店舗目になる反芻作業は先ほどとは違う進展を見せていた。
 朝倉の助言に従って、幽霊の特徴を具体的に聞いて回ればその証言の差異に驚かされた。ある人がその幽霊を金髪のねーちゃんだったと言えば、ある人は黒髪の日本美人だったと言う。
 俺が視た“彼女”と符号するものが無いも等しいし、一体、どういうこと何だか。

(不思議ですね、一体何故なんでしょうか)

 俺の顔色を読み取った四葉が、言葉の通りの顔で零した。

「さっぱりね。カズミはどう? プロのご意見をお聞かせ願えるかしら」

「現時点じゃ何ともいえないよ。で、衛宮っち、その顔から察するに、所長さんが話してくれたって言う廃墟に行くのかい?」

 立ち止まって話すのも邪魔になるので、俺たちはなんと無しに歩みを進める。
 グリルオーブンの様だった太陽光は段々とその角度を緩め、夜も近づき過ごしやすくなって来ていた。
 朝倉の問いに頷いて返した俺は、彼女達の前を先行して廃墟への道行きを探した。

「それじゃついて来なよ、私が案内したげる」

 だが、俺の頼りないコンパスぶりに我慢なら無いと、朝倉はズンズンと元気良く目の前に飛び出した。どうやら彼女は例の廃墟の場所を知っている様だ、侮りがたし自称・美少女パパラッチ。やっぱり、餅は餅屋だな。

「あ、待ちなさいよねカズミ。貴方ばっかり良い格好して、お兄ちゃんの株を上げようなんてさせないんだから」

 それに小走りに続いたイリヤはあっという間に朝倉に追いついてしまった。
 二人は取っ組み合いをしながら、ズンズンと人通りの少なくなった温泉街を抜けて行。彼女達の影では、さよちゃんが心配しながら二人の掛け合いに右往左往しているのだろう。

(イリヤちゃんと朝倉さんは何時もあんな感じなんですか?)

 俺は四葉の歩調に合わせて目の前の二人を追う。
 なんだかあの二人を見ていたら、藤ねえとイリヤ、今は懐かしい冬木での日常を思い出してしまった。

「元気良いだろ? 俺もさ、まいってるんだよな。毎日あんな感じだし、心の休まる暇も無い、若白髪が生えてきたらどうしてくれるんだか」

 アーチャーの髪の毛、白かったもんなぁ。気苦労の絶えない人生だったのだろう、今だけは同情してやるよ。

(ふふふ、でも二人とも仲がよくって、少し妬けちゃうんじゃないですか?)

 温泉街の喧騒が段々と遠のいて行く中で、四葉は俺の言葉の裏側を読み取ってくれた。昨夜も思ったけれど、なんだかお母さんみたいだ。

(衛宮さん、イリヤちゃんも朝倉さんも大好き見たいですから)

 そんな台詞を真顔で言われたので、赤面してしまった。
 思わず顔をぷいっと逃がしてやれば、自然と心の裏側に置き去りにされていた俺の言葉が放り出された。

「少し…………か。まさか、大いに嫉妬しているよ、俺はさ」

 自分でも気付かない心の垢。こんな風に心が暴かれるのが心地良いなんて、初めてだ。
 段々と空に朱色がさしていく、そんな中で彼女はくすりと笑った。

(それじゃ、白髪も多くなっちゃうでしょうね。知っていますか? 若白髪って幸福な人ほど多いんですよ)

 そう言って、四葉は前の二人に視線を向けた。
 海沿いの道路。潮風を背中に受けて進んでいくイリヤと朝倉。
 なるほど、あいつらに囲まれて過ごす日常はきっと幸せなのだと信じたい。

 空の朱色に侵食されて、右手に開けた海がキラキラと赤いガラス片を反射する。
 チクリと、心に微細な棘が食い込んだ。

「………幸福、ね。そうだな、俺は今、幸せなんだよな」

 真っ赤に燃える俺の髪の毛を撫で付けて、海を仰いだ。
 幸せ、それを与えられる権利を俺は持っているのだろうか?
 いや、それ以前に、俺はそれが何であるかも分からないと言うのに。

「なぁ四葉」

 赤い、紅い、火のような海に囚われたまま、俺は口を開いた。
 どうやらノンビリと歩きすぎてしまった様だ、潮の香りが遠くに響いたイリヤの声を運んでいる。
 視線の縁に残った影は駆ける様に伸ばした足を休めて、俺に振り返った。

「お前さ、“幸せ”って、なんだか分かるか?」

 俺の問いに目を丸めた彼女は、ポンと両手を合わせて、

(随分突然ですね。何かのクイズですか?)

 にこやかに質問を返した。
 まあそうだよな、突拍子も無さ過ぎる。
 俺はかぶりを振って遠くで立ち止まる二つの影に視線を戻した。

「―――――いや、悪い。変なこと聞いたな。忘れてくれて良いぞ」

 まったく、出会って間もない女の子に、イキナリ何を聞いているのだか。

「お~い、衛宮っちぃ。早くしなよぉ~もう直ぐ着くよぉ~」

 朝倉が遠い視線の向こう、大手を振ってジャンプしている。
 きっとその横では「年頃の女性がはしたないわ」と、我が妹君が必殺の口癖を零していることだろう。

(クイズの答えはまた今度ですね。急ぎましょうか)

 俺と四葉は寂れた漁港を抜けて、イリヤと朝倉に並ぶ。

 夜が近づく。
 悲しい叫びが深淵より確かに響いた。

 俺には遠すぎた答え、そして誰しもが近づきすぎて見えない答え。

 そこに辿り着くのは、どうやらまだまだ先のことらしい。

 俺は視界に映る古びた洋館を俯瞰し、歩みを進める。
 潮風に揺れるイチイの木々たちが、俺の背中を押していた。



[1027] 幕間 In to the Blue
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 09:43
/ .

「どうだい黒桐、彼女についての資料は粗方集め終わったかね?」

 古ぼけた空気が小部屋を抱擁している。
 僕が首を回せば、気だるそうな所長の顔があった。まあ、仕事念心で真面目な顔の所長の御顔なんかを拝んでしまった日には、近未来に予想される火星人侵略を信仰しなくてはならない。つまり、その位ありえてはならないってこと。
 彼女は深い沈黙の中で軽そうなお尻を紫色のソファーに下ろす。長年使われていなかったのだろう、暗く灯る室内にふわりと埃が舞い上がった。

「………そうですね、きっと、多分、恐らく、もしかして」

 眼鏡を中指で持ち上げてから、僕は「うん」と腰を伸ばした。すると、所長の使うソファーと同色の座椅子が擦れた様に軋み声を上げる。

「なんだ、その絵にかいた様に煮え切らない答えは。君らしくないぞ」

 所長はソファーの上にほっぽって置いた一昔前の黄ばみ始めた新聞に手を伸ばした。
 首を回して疲労をアピールするも、所長には何の効果も無いようだ。僕をあしらう様に、新聞のページがパラリとめくられた。

「まったく、最近の君は輪をかけて理不尽だ。上司に対しての物言い、態度といい式に似てきて敵わんな。のろけなら余所でやってくれ」

「――――――――――どの口で言っているんです?」

 人事の様に肩を窄めた所長に、語彙を強めて返した。
 まあでも、人の皮を着込んだ理不尽には意味の無いことではあるのだけれど。

「毎度の事ながら所長は勝手なんですから」

 僕と式、それに所長は士郎君たちと別れた後、この町の役場、資料館をはしごして民俗学者顔負けの風土調査に乗り出していた。そして、今現在僕がいるのは町外れの図書館の一室。

「コレだけ連れて回って下さいましたら、どんな良心だって多少は歪みますよ」

 低く笑った所長は、再び新聞に目を落とした。
 暗がりでは読みづらかろうと、僕は腰を上げて僅か四畳ばかりの古めかしい空間に人工の明かりを灯す。
 とたん、僕達を囲むように現れた本の山。
 木製の本棚には年代別に分別され、病的なまでに整えられた謄本と言う名の過去が並んでいる。
 この小さな町に積み上げられてきた全ての記憶。誰かが生きてきた確かな証。そんなものに感傷のしようが無いけれど、僕は置き去りにされた膨大な過去の足跡に、確かな鼓動を感じていた。

「――――――それで、例の御伽噺には、どんな裏があった?」

 抑揚の無い声に、今まで埃にまみれて寝転んでいた式が目を開けた。
 役者も揃った事だし、埋もれてしまった“ありえない真実”って奴を暴いてみようか。





■ Interval / Into the Blue ■





「結論から言いましょう、例の御伽噺は実話でした」

 僕は先ほどまで腰掛けていた座椅子を後ろに引いて、式と所長の目の前に落ち着いた。

「ほう、それはつまり」

「ええ、実際にあの御伽噺に登場する、悲劇のヒロイン、名前は出しませんが彼女は実在しました」

 別段驚いた風でもなく、所長は頷いた。
 狭い室内は、壊れかけた空調だけが轟々と虚しく響き続けていた。

「当然、彼女の恋人や乳母、そして地主様と思しき人間も同様に、です。苦労しましたよ、役所に保管されていた戸籍謄本から、彼女と思しき人間のピックアップ、資料館や図書館で過去に起こった事件を一つ一つ洗いなおして、それとの照合作業。所長はどこかに行っちゃうし、式は全然手伝ってく――――――――」

「グチは後で衛宮にでも聞いて貰え。それで? 実在したのは分かったが、肝心要の部分が抜けているぞ、“現実”の彼女達は一体どうなった?」

 僕の言葉に悪びれた様子も無く、所長は問答無用でシャットアウト。
 嫌味の心算だったんだけど、効果は無い。

「…………例の御伽噺と類似した事件なんですけどね、一つだけありました。記録との照合自体はそれほど難しくありませんでしたし、間違いないと思います。なにせ、―――――――」

「幹也、お前の感想はどうでもいいよ。サッサと要点だけを言え」

 うう、僕の扱いって一体なに?
 職場では安い給料で働かされて、嫌な上司にいびられて、真っ当じゃない汚い仕事をさせられて、唯一の恋人には無碍にされて。
 コレがいわゆる、3Kって奴かな? もしかしてそれ以上? ああ、視界が滲む。

「………はあ、実際の事件があったのは二次大戦直後みたいです。時代が時代だけに、残っている資料も少なくて詳細は分かりませんが、その事件、例の御伽噺と同じく被害者は、彼女の恋人とその兄弟達です」

「ほう、御伽噺と同じか。なら加害者は、――――――」

「ご想像通り地主さんですね、こちらは彼が直接手を下したみたいですけど」

 僕は語尾を強めて伝えた。
 所長は思考に埋没してしまったらしく、自然とポケットの中に手が伸びていく。どうやらタバコを探している様だがここは図書館、当然禁煙なので僕は彼女を制した。

「ただ、この傷害事件と例の御伽噺なんですけどね。更に幾つかの相違点があります」

 その言葉に、所長が感心したように紫色の瞳を大きく見開いた。

「この傷害事件の直前に、つまり被害者の三人が殺害される直前、ええっと……」

 僕は先ほどまで向かい合っていた机をガサゴソとひっくり返した。
 重ねておいた風土資料やその他の風俗関係の史書が埃を巻き上げていく。

「 ? なにを探してんだ、幹也」

「ええっと、――――ねぇ式、ここら辺においてあった古新聞を知らないかい?」

「新聞? ああ、先ほど私が目を通していた奴か?」

「ああ、それです」

 所長に向かって手を伸ばしたのだが、古新聞は帰ってこなかった。
 「フム」と頷いた所長は再度新聞の見開きに視線を移し僕に話しの続きを求めた。

「こんな地方新聞に一体何にあるというんだ? 特に例の御伽噺に関連するような事例は無いと思うが?」

「ええ、僕も被害者達の血縁関係を調べていなかったら、その事件は見落としていたでしょうね」

 丁度開いていたページに目的の記事を発見したので指で示した。式と所長はどれどれと仲良く顔を近づける。

「―――――なんだ、別になんてことは無い、唯の傷害事件じゃないか。おい幹也、いまさら人一人が死んだからって一体どうしたっていうのさ?」

「その言い方は良くないよ。人間の死に、大きいも小さいも無いと思う」

「またそれか、オレ、お前の一般論は嫌いだって言ったろ」

 プイッと横を向いた式に苦笑をプレゼントして、僕は一人考え込んでいる所長を窺い見た。僕と式の遣り取りに茶々を入れられない程に所長は思考の海に埋没している。

「―――――――なるほどね、彼女の恋人が殺される直前、その親類が一人殺されていたか。………フン、こんな細部まで“ディアドラ”と同じ、か。コレならば共振も起こりうる」

 所長はよく分からない独り言をニヤリと零したが、僕は気にせず言葉を継ぎ足した。

「―――――ええっと、正確には彼女の恋人を長らく援助していた叔父の息子さんですね。何でもこの叔父さん、この土地では地主さんと並ぶほどの豪氏だったらしく、例の地主さんとは争いが絶えなかったみたいです。結果はその記事の通り、争いは激化し二人の息子による代理抗争にまで発展しています。結果、地主の息子が敵対関係にあった豪氏の息子を殺害、それが所長の読んでいる事件の概要です」

 僕は座椅子に深く腰掛け、近すぎる天井を仰いだ。本を読むには不十分なほの暗い電灯がチカチカと点滅した。

 嘘みたいに綺麗な女の子と、彼女の人生を変えたその恋人。
 彼女らを中心に、力を持った人間達に翻弄され、破滅へと歩みを進めていく物語。現実でも虚構でもなんら差異は無い。彼女の話は悲しく、どこまでも青い。

 報われない夢、叶わない願い。
 女の悲劇を辿るうちに、僕はその冷たい傷跡を重ねていたんだ。

 僕が焦がされていた淡い焦燥。
 僕には式や士郎君みたいな超能力なんて無いけど、それでも分かる、それでも感じてしまう。
 その在り方が、その終わりが、その物語が、僕の知っている誰かに似ていたから。

 だから。
 だからきっと、彼女達は、―――――――。

「それで、黒桐。そろそろ肝を話してくれないかな?」

 はっと顔を下げれば、所長は新しいおもちゃでも見つけた子供みたいに新聞の影から顔を覗かせた。最もそんなものより数億倍たちが悪いモノなのだけれど。

「御伽噺では様々な噂が錯綜したがために不特定だが、真実は一つだろう。君が辿り着いた“彼女”の最後を聞かせてくれないか?」

 僕は、所長の横に可愛らしく欠伸をした最愛の人を顧みて方端(かたわ)の瞳を閉ざした。

 ――――――――雨足の飛沫が響く。

 何もかもが静止した世界/痛い。
 静寂が支配する水の世界/いたい。

 痛くて痛くて、気が狂いそうだ。だけど、僕の瞳からは一粒の雫も毀れない。

 冷たい夜空が、僕の変わりに泣いている。

 視界が碧く、青く、どこまでも蒼く染まる。
 そう、二度と廻り逢う事の無い、愛しい人が沈む紅い海を除いて。






「――――――――――――――――――自殺です」






 所長に告げた言葉は冷たい外気に霞んでいく。
 誰かの夢は、果ての無い蒼い/紅い幻に消えた。



[1027] 第七話 パーフェクトブルー
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 09:50
/ 18.

 幹也さんは何も言わない。
 薄く揺らいだ彼の黒髪が、左の瞳に被さる異様な傷跡を浮き彫りにしていた。
 黒縁眼鏡をすっと外した幹也さんは、端正な顔立ちを歪ませて瞳を閉じる。
 きっと、彼も“彼女”の物語を振り返っているのだ。

 俺/幹也さんが辿り着いた“彼女”の物語。

 この海で出会い、そして気付いた心の奥底に在る焦燥、その答え。

 幹也さんには、俺の様な解析能力は無い。
 俺には、幹也さんの様な探索能力は無い。

 至った道のりが異なるのなら、その出会いは異なる物だ。

 だから、俺たちが振り返るのは異なった、だけど限りなく近しい“彼女達”の物語。

 俺と幹也さん、二人が出会ったのは全く同じ報われない悲恋の追憶。

 だというのに、――――――。

「僕には、彼女を否定することなんて出来ない。士郎君、それは僕が僕である限り、その答えが変わることは無いよ」

 その答えは、求める願いはこんなにも異なってしまう。

 俺は、のどの渇きを押さえつけ幹也さんに相対する。
 二度と光を捉えることの無い彼の瞳が、俺には決して届くことの無い“優しさ”に満ちているように感じられた。

「だって、――――――」

 彼は言葉を紡ぐ。
 開くことの無い左目は、果ての無い誰かの“夢”のために。





Fate / happy material
第七話 パーフェクトブルー Ⅵ






/ 9.

 そこには、歴史と言う一つの置き土産があった。
 ほの暗い夜の世界に、孤独に置き去りにされた二階建ての洋館。シンメトリーに趣を置かれた瀟洒な造詣は、高級感を纏っているものの下品な物は何一つ無かった。
 辺りを囲うイチイの木々たちは招かれざる客人達に嫌悪感を隠そうともせず、ザワザワとその枝葉をはためかせる。
 幾分か大海原から離れたためか、それを揺らす潮風の香りが薄く引き伸ばされていた。ツンと鼻にささる、木々の薫りがそれを教えてくれる。
 巨大な格子門の向こう側、前庭を囲みながら無神経に伸びきった草木は、ここが自分達の縄張りだと主張していた。
 所々に見られる緩やかな腐敗。それはここが否応も無く廃屋であることを認めている。

 ――――――――廃墟だ、置き去りにされた廃れた墓場。

 目の前の風景。
 それが、変えようの無い“過去”、救いようの無い“事実”なのだと訴えかけている。
 軋む心は、さながら壊れたオルガン。不恰好に重低音を響かせる臓物の鼓動は、耳を塞いだところで意味は無いのだろう。

「………ここ、みたいね」

 イリヤは洋館の格子門の前で踏ん反り、奥に控えた屋敷、………いや、屋敷だったモノを流し視た。面持ちは既に魔術師のものへ、イリヤの貌が冷たく微笑む。

「―――――よっ、と。ほんじゃ行きますか?」

 だがしかし、そんなイリヤの雰囲気とは正反対に、素っ頓狂に明るい朝倉の声が響いた。イリヤに続くように朝倉は自分の身長の二倍はあろう格子門に手をかけ、重たい扉を開いた。

「ぬふふふふ、肝試し見たいでワクワクするねぇ」

 でっかい門が泣くよりも尚不気味に興味深げに、知りたがりの首突っ込みたがり、真実の奴隷が躊躇無く行進する。
 元気の良い声と共に颯爽と屋敷の前庭に朝倉は飛び込んだ。
 まあ生幽霊(さよちゃん)と一蓮托生の生活を送ってりゃ、肝試しなんか怖く無いわな。

「ちょっとカズミ、遊びじゃ無いのよ? ここからは魔術師(私たち)の仕事。とーしろは引っ込んでなさい」

 どこで覚えてきたのかイリヤには似つかわしくない言葉で、朝倉を遮った。
 先ほどまでのシリアスは遥かお星様の向こう側。朝倉は渋々納得したみたいだが、アレは絶対分かってない。面白いものを見つけたら、真っ先に飛び込む事は明白だ。

「朝倉、先生の話では危険は無いらしいけど一応用心してくれ。仮にも“神秘”を追いかけているんだ、付いて来るのは構わないけど、イリヤの指示には従った方が良い。兄としては情けないけど、“神秘”に対して一番理解が在るのはイリヤだしな」

 念の為に釘をさしてみたが効果は期待出来そうも無い。
 明後日の方向を向いて朝倉の野郎は口笛を吹いてくれやがる、ぬう、正に糠に釘。

「…………四葉、朝倉の事宜しく頼む、くれぐれも宜しく頼む」

(はい、友達の醜態をこれ以上さらす訳にはいきませんから)

 さっきとは違った意味で真剣な顔を作る俺と四葉。
 そうか、四葉も苦労したんだな。
 朝倉に負けず劣らずのスペシャルな連中に囲まれて学園生活を送ってきたのだ、その表情も頷ける。頑張ろうな、二人で。

「……………ねえ衛宮っち、そいと四葉、私の扱い酷くない? 泣いちゃうよ?」

 俺や幹也さんの扱いに比べればまだまだましさ。
 そんな思考を苦笑と共に飲み込んで俺達は廃れた前庭を横切った。




「当然、鍵がかかっているよな」

 俺達は洋館の玄関、そこに立てかけられた“立ち入り禁止”の立て札の前でにらめっこをしていた。両開きの木製扉、そのドアノブには赤土色に光るチェーンがグルグル巻きにされたうえ、南京錠で鍵をかけられている。

「壊しちゃえば良いじゃない、この位。わたし達は魔術師よ、この位楽勝なんだから」

 イリヤはきょとんと俺を一瞥すると、なにやら嘆いて手のひらに魔力を収束させる。

「おいおい、穏やかじゃないな。大丈夫、壊さなくって平気さ、俺に任せておけ」

 物騒な強攻策に走るイリヤを手で制して俺はドアの前に立つ。

 ふふふ、やっと俺にも活躍の機会がやってきた。
 俺は目の前の錠前に視線を落とし、解析を開始する。何度も視てきた構造物の“設計図”、この程度の南京錠、苦も泣く看破してみせる。

「―――――――――よし、これなら」

 錠前に魔力を流し込み、“強化”と異なる手法で南京錠に干渉する。
 なんて事は無い“鍵を差し込む”イメージを魔力と共に伝える。強化が流し込み、蓄える感触ならば、開錠の魔術は流し込み開く感触。自身の魔力を構造内部で固定し、慎重に押し上げる。
 それと同時に“カチリ”と確かな手ごたえを感じた。

「――――――――っと、どうだ。中々のモノだろう?」

 視れば、綺麗に開かれた南京錠が。

 先生曰く、開錠の魔術は魔術式や呪術式に対しても用いる事が出来るらしい、と言うか、一般的にはそれらに用いるのが普通なのだとか。
 しかし、俺の魔術特性上それら術式、呪術式に対してだと開錠の魔術を上手く使うことが出来ない。理由は単純、その構造を見抜き効果を予測したところで、その全てを理解した訳では無い。設計図を持っていたところで、それを読めなけりゃ意味はないのだ。
 先生の課題をこなして行く内に知識量や解析の練度がましてきたとは言え、まだまだ俺に“魔術式の開錠”など遥か遠くの魔術行使である。

「ねえ、お兄ちゃん」

 俺はぐるぐる巻きに去れていたチェーンを外して、古めかしい扉に手をかけた。
 扉を開く。
 途端、閉じ込められていた埃が一気に舞い上がった。

「――――――ん、何だよ。イリヤ?」

 強襲してきた塵屑たちはご丁寧に俺の口の中にも飛び込んできた、ぺぺっと吐き出しながら埃を払う。夏の暑さで肌を伝う汗は埃を吸着している。
 くそ、中々取れてはくれない。気持ち悪さに顔を歪めながら、俺はイリヤ達に振り返った。

「どうしたんだよ、朝倉も四葉も変な顔してさ?」

 何だろうあの顔?
 イリヤは呆れたようにはにかみ、朝倉は面白そうに苦笑し、四葉は困った様に微笑む。

「あのね、シロウ」

「あのさあ、衛宮っち」

(あのですね、衛宮さん)

 イリヤは声が重なったのに気がついたのかコホンと横の二人を制して一歩前に出た。

「シロウは正義の味方を目指しているのよね?」

「 ? なんでさ、藪から棒に」

 俺の素っ頓狂な声に呆れ顔のイリヤはびっと人差し指を俺に向けた。
 だが、勢い込んだのも束の間、イリヤはふっと脱力してため息。

「………いいわ、分かってないみたいだし」

 そう言って彼女はトボトボ廃墟の玄関を跨ぐ。
 「コレなら壊した方が可愛げがあったじゃない」と、イリヤはよく分からない嘆きを残して、廃墟の暗闇に消えて行った。

「 ? 」

 俺は小さく小首を掲げてイリヤに続く。苦笑を続ける朝倉と四葉は、俺の後ろに着いてきている。
 玄関を閉めれば、暗闇が辺りを満たす。
 差し込む月明かりを頼りに、俺は三人に指示を出した。

「ねえ、衛宮っち」

 イリヤと朝倉それと四葉は一階を、そして俺は二階へ。
 軋む階段に足をかければ待っていましたとばかりに朝倉が俺に毒づいてくれた。

「正義の味方から大泥棒への華麗な転職をお望みの際は、ぜひ朝倉和美をごひいき下さいな。私ってば、ふ~じこちゃ~んに憧れたんだよね」

 暗闇に溶けるように、彼女達は廃屋に消えていく。
 俺は、そこで初めてイリヤの言葉の真意を理解したのであった。…………確かに、俺の魔術特性って正義の味方っぽくないよなぁ。

「…………笑うに笑えないな」

 ギシギシと腐った階段の軋みが、俺には笑い声にしか聞こえなかった。






 階段を登りきれば、そこには差し込む月光に塞がれた高貴な雰囲気に満ちていた。
 幼い頃に訪れた、間桐の屋敷を彷彿させるその空間はここが廃屋だと言う事を忘れさせるほど綺麗にその形を保っている。
 どうやら、外観ほどこの建物は昔の物では無いのかもしれない。

 俺は下の階から響くイリヤたちの姦しい声にふっと唇を震わせ、手始めに真向かいのドアを開けた。同時に、解析の魔術を走らせるのも忘れない、俺はイリヤと違って魔力感知はあまり出来が宜しくない、“神秘”と言う異常を察知するためには“世界”そのものの違和感から感じとるしか無いのだ。

「―――――――――――何も感じない、か」

 八畳ばかり空間をざっと流し視て、俺は一人ごちた。
 欧風の室内特有の造り、建築当初から洋服ダンスやその他家具が最初から組み込まれた室内は、人間の息遣いの無いこの時でさえ、この部屋で“誰か”が大切な時間を過ごした事を伝えていた。
 ……五十年位だろうか? ここから人の臭いが消えたのは。
 漠然とした思い付きでは在るのだが、それが正しい感覚であることも同時に分かっていた。

「ここ、…………じゃない」

 不可解な感覚に囚われたままで、俺は零す。
 “■■”が呼んでいる。
 俺の焦燥の原因、そこに至るためのピースが俺を呼んでいる気がした。

 自身の根拠の無い思考の赴くままに、俺は部屋を後にする。
 再び、豪奢な廊下に身体をさらせば、夏の外気に在るはずの無い肌寒さを覚えた。

 ――――――左、……この奥か?

 閉ざされた暗闇に、窓枠を通し格子の如く差し込む遮光。
 月明かりを受けて無数に光る塵屑が、目の前の細長い回廊を幻想的に染め上げていた。

 気付けば、目の前には扉。

 きぃっ、と蝶番の鳴き声を耳にして、俺はゆっくりとその部屋の埃を巻き上げた。
 先ほどの部屋とまったく同じ間取り。
 目に付く違いは、大きく備え付けられた間戸から海を望めることだけだ。

 ――――――――――コレは?

 辺りを注意深く見回してみると、窓際の机の上に伏せられた一枚の写真が目に付いた。飾られた訳でもなく、アルバムが隣に在るわけでは無い。
 徐に取り残されたそれを手にとって見ると、そこには二人の女性が。
 一人は壮年の女性、厳粛そうな顔立ちにすっと伸びた大きい鼻は厳しい顔立ちに柔らかさを与えている。そして、その隣、――――――――。

「―――――やっと、逢えたな」

 透き通るような二つの眼と、印象的な長髪、膝元まで伸ばされた艶やかな髪は女性的な魅力に溢れていた。
 白黒写真なのが惜しい位だ、いや写真なんかじゃ彼女の美しさを映し出すのは不可能なのではないのか、そんな下らない事を考えてしまう。

 そんな思考と平行して、俺の回路がカチリと噛み合う。
 俺は、自分の思考が纏まる、……いや、回顧していくのを感じた。

 俺は何の確証もなく、その写真の中で微笑む彼女が俺の探し人だと決め付けている。
 なぜ? そんなのは決まっている、俺が視た“■■”と、この写真の彼女が同じ貌だからだ。今までの彼女の目撃証言の不整合性? そう、それこそが“■■”の能力、その特性。
 そうだ、俺は識っている。だって、俺は“■■(彼女)”を既に視ているじゃないか。

 先生の探し物、それは、――――――――――。





 -----------------ォォオオオ--------------------





 突然、俺の耳に海を裂くほどの“唸り声”が響いた。
 ああ、識っている。―――――――かつて三つの大海原でさえ、慄かせた咆哮。
 それが、大気を震わせ俺の身体を弾ませる。

「――――――――――泣いてる、どこだ!?」

 俺は嘆いた言葉をかつての彼女の部屋に残して、先ほどよりも狭く感じる回廊を走る。
 階段を飛び降りるように駆け下りたところで、俺はイリヤ達に鉢合わせた。

「シロウ、今の―――――――――――」

「俺たちの探し人の鳴き声だ、間違いない」

「―――――――声はいっ、た……い?」

 「へ?」っと、可愛らしい顔をしたイリヤをおいて、駆け込む。邪魔な扉を一気にけり倒し前庭に飛びだした。
 それと同時に、新鮮な夏の臭いが飛び込んできた。






 目の前には“彼女”。
 幻想にまで届いたかと見紛う漆黒の髪が薄く香る潮風に揺られ佇む。
 纏う雰囲気は異なる物の、俺にはその顔が“シキ”さんに重なった。






 俺は無言で、その“■■”を注視する。
 同時に脳内に入り乱れる、創造の理念、基本となる骨子、構成する材質、製作に至る技術、憑依した経験、蓄積された年月。それらが再度、俺の神経を、脳髄を、回路を蕩かす様に加速させていく。






 赤枝騎士団(レッドブランチ)の酒宴、フェミリの家。

 ドルイド僧の予言者カファ、――――――彼女の名づけ親。

「ディアドラ(災い、悲しみをもたらすもの)」

 全ての人間に呪われた彼女。
 エリン全土に災いを呼び込むと予言されたディアドラが命を与えられるはずが無い。

 ――――――――だけど、彼女は既に運命に出会っていたんだ。

 最初の歯車はコノール王、エリン最高の権力者。

「この子は災いの手の届かぬところで育てさせ、成人の暁には我の妻とする」

 ――――――――騎士達の反対も虚しく、彼女は命を与えられた。

 時は瞬く間に俺の回路を灼熱させ、霞む景色が目蓋を抉る様に焦がしていく。

 気がつけば、“絶世の美”が目の前にあった。
 ディアドラは乳母とその夫、女詩人ラバーカン以外の人間とは顔を合わせることなく育てられ、やがて国中のどんな娘もかなわぬ美貌の持ち主に成長していた。

 ――――――――そして彼女は恋をした。

 夢で出会ったコノール王配下の騎士、ウシュナの子ニーシャ。
 桃色の肌に、艶やかな黒髪を持つ彼は、当時、赤枝騎士団で最も高名な騎士、彼の弟達アンリとアーダンに並び称される勇者、正しく英雄だった。

 ――――――――彼こそが最大にして最後を飾る歯車。

 ディアドラは悲しみの海に沈む、叶わぬ恋、叶えてはならない出会い。
 “災い”、それはさながら這い寄る奈落。




 突然、割り込むように脳の裏側にノイズが走った。

「―――――――――っくう」

 宝具。
 圧倒的な幻想の塊は、俺のちっぽけな自我なんてものを簡単に引きずっていく。必要以上の経験の読み込み。それは魔術の限界、俺という限界を超えた魔術行使。

 再度目の前の“■■”を唇を噛み締め凝視する。気付かぬうちに汗を拭う。
 俺は知りたい。彼女の、ディアドラの生涯をせめて、理解したいんだ。

 意識はどこまでも深く落ち込み、現実が遠のく感覚。俺の“世界”と眼前の“■■”が“衛宮士郎”を蕩かしていく。
 曖昧に境界を失った俺の身体から、不確かな、だけどはっきりと自己を構成する二節目の“剣”を感じた。

「---―――Steel is my heart , and fire is creed」

 俺の世界を感じる言葉。衛宮士郎を象る言霊。
 衛宮士郎が“虚無(し)”に傾倒するたび、刻まれる呪。
 零れ落ちた俺の欠片。
 知るはずの無い誰かの言葉が目の前の彼女に浸透する。

 混ざり合った境界はその嘆きに象を取り戻し、俺の意識を現実へと追い返す。

 ただ、嘆く言葉に意味は無かった。―――――――だって、コレは無価値な行為だ。
 唯の暗示、衛宮士郎を奮い立たせる一欠けらの決意でしか無いのだろう。

 自己の限界を踏破しろ。
 
 流れ込む感情、押し寄せる宝具に込められた遥か太古の記憶。俺は、狂ったように憑依した経験を読み込む。

 だって、彼女の願いを知ることにはきっと、―――――きっと意味が在る筈だから。




 ディアドラはラバーカンの取り計らいでニーシャと出会った。
 そして、運命は正しく狂いだす。

 ――――――愛し合う二人、それは一つの狂気。

 王を恐れた二人は、ニーシャの弟たちとともにアルパの国(スコットランド)に逃れた。だが、それも無意味な行為だった。

 ―――――彼女の、ディアドラの唯一つの罪。

彼らはアルパ西部地方の王に仕えるが、デァドラの美貌を知った王はニーシャらを殺して彼女を妃にしようと権謀を募らせた。
 
 ―――――彼女は、美しすぎたんだ。

 彼女達は、そして安息を失った。

 ウシュナの子らの労苦を知ったウラーの貴族たちは、コノール王に彼らを許し、連れ戻すことを切に願い出た。
 そして王はこれに同意する。

 ――――――そう、ニーシャの子らを殺害するために。

 ニーシャの子らの無二の親友、ファーガスは喜んで彼らの元へ行く。そして、ディアドラ達はウラーの首都エメンへと帰還した。
 しかし、彼女を守るはずのファーガスは王の企みによってウシュナの子らのもとを離れなければならなくなった。

 ―――――さあ、サイは投げられた。運命は破局の目を刻む。

 ファーガスは自分の息子、金髪のイランと赤毛のブイニを彼らの守りにつけた。赤枝騎士団の兵舎に入ったウシュナの子らはそこで一時の安息を手に入れる。

 そしてそこで、ディアドラは王の勅命を受けたラバーカンと再開する。ラバーカンは彼女の美貌が以前のままか確かめるために、王に使わされたのだ。
 ディアドラはラバーカンとの再会を喜びあい、ラバーカンはコノール王の本心を明かして注意を促した。
 そして、王の下へと帰還したラバーカンはデァドラの美貌について、今は面影もないと嘘をついた。

 ―――――――そして、悲劇は始まった。

 王はラバーカンの虚偽を見抜いた、だけど別に驚くことじゃない。彼女の、ディアドラの美しさが衰えることなど、誰にも想像出来ないのだから。

 王はウシュナの子らに恨みを持つトレンドーンという男を遣わした。
 彼がデァドラの変わらぬ美しさを王に伝えると、王は嫉妬に燃え、すぐさま傭兵達をウシュナの子らのいる兵舎に差し向ける。

 最初に立ち上がったのは赤毛のブイニ。
 彼は勇猛果敢にコノール王の軍勢と刃を交えた。しかし、王が密使を送って領地や地位を与えることを約束するとブイニはディアドラを見捨ててしまう。
 それを知った金髪のイランは、兄の裏切りを嘆き、最後の砦となるべく旗を掲げた。

 ―――――――――そして、戦いは破滅へ向かう。

 金髪のイラン、そしてコノール王の息子フィアクラは互いの雌雄を決するべく、剣を交えていた。

 同じ暁に命を受けた二人の戦いは静謐にして熾烈、苛烈にして絢爛。

 風にすら追いつかんと、名槍“貫き走る急進の槍(ダート)”は血潮を撒き散らし。
 千の兵すら穿ち焦がさんと、魔槍“屠る殺陣(スラウター)”は炎を巻き上げ。
 鎧を裂かんと魔剣“翡翠蒼玉(ブルーグリーン)”は視界を青い雷光で染める。

 互いの誇りを掲げ、刃を取る二人の騎士。
 一人は自身の守るべき約束の為に、一人は貫くべき父王の威厳の為に。

 互いに交わる火花は、永く続くことは無かった。
 どちらが倒れても、結末は変らない。だって既に悲劇は起こってしまったのだから。
 エリン全土を包む争いの火種、誰が悪いわけでは無い。
 ただ、それが決まっていたことなんだ。

 そして、来るべくして訪れた災厄は一つの宝具によって幕を引かれた。
 “災い”に巻き込まれ息絶える二人の騎士。

 ――――――――――そう、幕引きたる悲劇の幻想、それが。






「そうか、お前、後悔してたのか?」

 悲鳴を上げた回路の音と共に、深く落ち込んだ意識を引き戻すと目の前には悲しげに笑う“彼女”がいた。
 じっとりと浮かんだ汗を拭えば、身体の力一気に抜けた。どうやら、無理をしすぎたみたいだ。

「ちょっと、衛宮っち。大丈夫かい?」

 倒れこむ俺の身体を後ろから朝倉が支えてくれた。
 だが、朝倉の瞳は俺に向けられてはいない。目の前の“彼女”、朝倉には一体“誰”が見えているのだろうか。

「――――――ああ、問題ない。それよりも」

 風が心地よく肌を濡らす。流され揺れ動く木々の木漏れ日は、不思議な事に感じられなかった。辺りにあるのは静寂と息を呑むイリヤたちの息遣い。
 俺は、シッカリと大地を踏みしめて柔らかく“彼女”近づいた。
 薄く、綺麗過ぎる笑みを浮かべた彼女は半壊した石碑の前から動きはしない。

「ちょっとシロウ。無用心に近づいちゃ、―――」

 慌てた様子で俺に近づくイリヤを手で制した。
 大丈夫、ここには何も無い。俺が近づくと彼女は暗闇に沈みこむ様に消えていった。
 同時に流れ込んできた映像、俺はそれを噛み締め、無言で屋敷の出入り門へとつま先を向けた。
 荒廃した前庭を、早足で抜けていく。

「どうしたのよシロウ。一体どこ行くの?」

「決まってるだろ? 先生の探し物、見つけたんだ」

 俺は背中についてくるイリヤたちの息遣いを受け止めて、振り返らずに告げた。

「見つけたって……、さっきの幽霊はその探し物の所為なのかい?」

「まあ、多分そうだ」

「なによそれ、煮え切らないわね。シロウ、ちゃんと説明しなさいよ」

 俺は呼吸を落ち着かせ、考えを纏めた。
 さて、何から話すべきなのか?

「そうだな、それじゃあ、―――――――」

 俺が口を開くと、薄い潮風が柔らかく木々を揺らし始めた。

「“大海(オーシャン)”幕引きを担った悲劇の幻想。その記憶を少しばかり話そうか?」



[1027] 第八話 パーフェクトブルー
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 09:59
/ 10.

「宝具? それが幽霊の原因なの?」

 素っ頓狂なイリヤの声に俺と朝倉、そして四葉は思わず顔を見合わせた。
 海岸沿いを抜けていくさざ波を、一つ二つ数える様に俺たち四人は歩幅をそろえる。

「―――――む。それでシロウ? その“大海”、一体どんな能力なのかしら?」

 俺たちの態度にむっと顔を膨らませたイリヤは、俺の足を踏んづけた。
 「いてぇ」と声を零すと、イリヤは上機嫌に俺の前で優雅に躍り出た。

「―――――つつ!?!? 詳しく言うとだな、“大海”は常時発動型と真名開放型の二つの神秘で構成されているんだ」

 そんなイリヤに涙を堪えながら零す。
 サンダルの上からの攻撃は中々に強力だ、じんわり痛みが広がっていく。

「常時開放型の能力は割りと単純だ。叫んで使用者の“危険”を知らせる。と言っても、未来予知や危険察知の類じゃない。言葉の通り、第三者に使用者の“危険”を知らせるものなんだ。彼女の幽霊が現れるとき決まって“叫び声”が聞こえるって言うのはこいつが原因だと思う」

「第三者に危険を知らせる………痴漢撃退用ブザーみたいなもんかい? ピーポー君や熊さんの形をした奴とか」

「まあ、そうなんだけどさ、……もう少し言い方とかあるだろ?」

 宝具を痴漢撃退用ブザーと同格に扱った奴は恐らく朝倉が始めてだろう。
 俺は思わず眼前を右手で覆い、空を仰いだ。

「良いじゃないか、役に立つことに変わりは無いんだ。それで衛宮っち? もう一つの能力についても解説してくれるんだろ?」

 朝倉はけらけら普段の面持ちで俺の後ろに続く。
 彼女の影では、やれやれと四葉、そしてさよちゃんが首を振っているに違いない。

「本当、貴方の性格がうらやましいわ、私も見習わないとね」

 俺の狼狽を読み取ってくれたのか、イリヤが軽快に毒づく。
 だが、イリヤの嫌味は朝倉には届かない。
 「いやあ、それほどでも」なんて、頬を染める朝倉は間違いなく大物だと思う。
 そんな、彼女達に苦笑を送った俺は、言葉を挟んだ。

「それで二つ目の能力だったな?」

 俺たちは足音を数えるように、進んでいく。
 目指すのは俺が最初に“彼女”を目撃した岬。“大海”が伝えた“彼女”の願いを叶えるために、その地を目指す。

「宝具“大海”は真名の開放と同時に“相手の表層意識に介入し幻を魅せる”んだ。それが今回の幽霊事件の根幹」

 そして、二人の騎士を、悲劇に巻き込まれた騎士達を葬った残酷な青玉の盾。

「知っているかな? イランとフィアクラ、ケルト神話に登場する二人の騎士の最後を」
 
 俺の問いにイリヤと朝倉、それに四葉は揃って首を傾けた。
 三人の顔を流し見た俺は、咳払いを一つ残して、臨場感たっぷりに歌謡の声色でその物語を語ることにした。

 戦いがたけなわの暁、フィアクラは父王より譲り受けた“大海”をもって防戦一方になった。フィアクラが今にも力尽きそうになったその時、“大海”が突如うめき声を発し、エリンの三大灘を振るわせた。アイルランド北岸のトアスの灘、北東岸のラリーの灘、南西岸のクリーナの灘の三つの海はその叫び声に呼応し、一人の男を戦場に招いた。
 その男、勇者コーナル・カーナッフは“王の危機”と荒野を風の様に駆け抜け、イランとフィアクラの戦うエリンの草原へと駆けつけた

「―――――ここまではいいかな?」

 俺の話しに三人のお嬢さん方は頷き、無言の瞳で話しの続きを促している。

 コーナルがたどり着くと、二人の騎士が鮮血を撒き散らし血みどろの戦いを繰り広げている最中であった。コーナルは“大海”の影で防戦しているのがコノール王だと思い込み、親友であるはずの金髪のイランに猛然と切りかかった。
 そして、コーナルはイランに致命傷を与えてしまった。
 知らなかったこととはいえ、フィアクラは自分の手で若き親友のイランを傷つけたことを激しく悔やんだ。そして、その悲しみは憤りにかわり、コーナルはその場でフィアクラの首をはねた。

 フィアクラは追悼の色彩を怒りで塗り固め、押し黙ったまま、その戦場をあとにした。

「―――――――コレが、“大海”まつわる逸話だ」

 俺は、岬へと向かう足を休めて後ろに続く三人の顔色を窺った。
 振り向くと同時に、生ぬるい潮風が俺の汗を冷やした。

「ふうん、もしシロウの話しが本当ならば、“大海”の能力、大したものね。英雄すら騙しきる虚実の盾、か」

「確かに、その点だけを評価するならな。だけどこの盾、防具の癖に防御能力は皆無なんだ。あくまでも“幻を魅せる”って言う機能に特化した限定礼装だからさ」

 感心するイリヤに、俺は言葉を繋いだ。
 頷いた彼女は自らの思考を纏めて、今回の幽霊事件の核心を口にした。

「その能力から推測するに、今回の幽霊、それを発現させているのが“大海”って事は間違いないわね。カズミの話してくれた怪談とシロウの解析能力で読み取った“大海”の記録、酷似した二つの話が概念的に絡み合って“共振”現象を起こしたって所かな」

「そう言う事だな」

「でもそうすると、肝心の“大海”は一体どこにあるのかしら。シロウの物言いだと、もう場所は分かっているみたいだけど?」

「ああ、さっき“大海”を解析したときに所在もあらかた掴んでる」

 正確には俺が調べた分けでは無い。
 “大海”が教えてくれたのだ。

「でもさあ、そうすると幽霊の特徴が見る人によって異なっていた事に説明がつかないよ? 幻を見せるってのはいいけどさ、こっちの問題は一体全体どうなんだい」

 話しを終えようとしたイリヤの横から、思い出したように朝倉が疑問をパス。それを受け取るイリヤは、朝倉の発言に喉を詰まらせた。どうやら、華麗な回答は期待できそうに無い。
 俺は今一度、うん、と眉を寄せたイリヤの視線を受けて朝倉の問いに答えることにした。

「言ったろ? “大海”は“表層意識に介入”して幻を魅せる。何が言いたいかって言うとだな、担い手が望んだ“幻”を何でもかんでも魅せられるわけじゃないんだ。大海の使用者と使用された者、その二人が共通して“知っている人物”しか幻影を投射できない。幻が“人型”に限定されるだけでなく、相手がもしくは俺が知らない人物を投影することも出来ないんだ」

「……ん~。どんな相手であれ、問答無用で“幻影”を魅せる。その大きすぎる効果を付加するために、最終効果を厳しく制限する必要があるってこと、か。聞けば聞くほど、ぱっとしない宝具ね」

 朝倉に向けた言葉だったのだが、それに返したのはイリヤだ。

「まあな、ランクだってそう高くはない。純粋な“性能”で言えば“大海”以上の概念武装なんて山ほどあるはずだ」

 概念武装。その最高位に位置する絶対の幻想、宝具。
 だが、“宝具”を“尊い幻想”たらしめるのは何も“性能”だけでは無い。

 ただ、選定をもたらすべき王剣が勝利を纏う黄金に昇華された様に。
 尊ぶべき誰かの“願い”。その“想い”を生涯かけて担い続けた誇りある器、それが“宝具”だ。

「確かに“大海”は優れた“概念武装”じゃない。だけどなイリヤ、こいつはやっぱり“尊い幻想”だよ」

 “大海”に込められた英雄達の記憶、ディアドラの想い。それは間違いなく尊ぶべき過去の奇跡。英雄達の想いを背負う“担い手”だ。

「そ、シロウって案外ロマンチストね。殊更に、似合ってないけど」

 俺の正直な想いを冷笑で還される、だけど。

「でも、―――――貴方のそう言うところ、嫌いじゃないわ」

 イリヤは俺の心象を優しい目で読み取ってくれた。
 俺は彼女の笑顔に頷くこともせず、脱線した話を取り繕うことにした。

「すまん、話しがそれたな。とにかく今話した二つ目の能力が今回の幽霊事件を起こしている理由さ」

「詰まりどういうこったい? その理屈でいったら矛盾が出てきちまうよ。互いに“知っている人物”しか魅せられないなら、はじめから幽霊なんて出てくるわけないだろ? だけど実際幽霊は私達の目の前に現れたし、おまけに姿形はまるで違うって話しじゃないか、まるで説明できてないよ、いい加減もったいぶんなぁ~!!」

 がーっと、炸裂した朝倉の鬱憤。
 朝倉の言葉に四葉もこちらに向き直る。先ほどとは相まって、イリヤはもはや詰まらなそうに悠々と海を眺める。どうやら優秀な我が妹君は事件の真相を掴んだようだ。
 考えを纏めきったらしいイリヤは、俺も含めた素人三人に真相の講釈を始めた。

「いいことカズミ。今回の幽霊事件はある意味、固有結界のような物だったのよ。さっき私が話したけど、“大海”の中の残された“記録”がこの町のコミュニティにおける共通認識、簡単に言うと“怪談”ね、これと絡み合うことで共振現象を引き起こす。勝手に神秘というプログラムを実行するための“スイッチ”が入っちゃった状態よ。恐らくこの魔具が並みの神秘であったのならば、波風は立たなかった。だけど生憎、それは並みの神秘ではなかったの。宝具、それも“幻影の投射”なんておあつらえ向きの機能を有した最高位の幻想だった」

 柔らかな白い髪房を潮風に揺らしてイリヤは詰まらなそうに言う。

「シロウの話しではもともと“大海”は意識化に進入すると言う段階を踏んで幻を投射する。いいえ、正確に言えば“大海”が幻に象られるのでしょうけどこの際どうでもいいわ。とにかく、この特性も手伝ってコミュニティの共通意識下における“美女の幽霊(かのじょ)”を投射したのよ。ただ、人間の感性なんてまちまち、カズミが話してくれたように“彼女”の定義なんて曖昧なものだった。その理屈で言えば幽霊が投影されるはずが無い、だけどね、今回の事件、“大海”は共振現象によってその神秘を行使していたに過ぎない。いわば使い手が誰一人いない状態であり、怪談と言う共通意識を持つ全ての人間が使い手である状態。ここまで言えば何故幽霊が投射されるのか分かるんじゃないかしら? 詰まりね」

(―――――――自分で幻を創って自分で幻を視ている、ってことですね。共振現象を通じてある種、意識の無限ループが形成されている。私達は“大海”の使用者であると同時に対象者になる、と言うわけですか?)

 突然四葉が口を開いたかと思えば的を射すぎた適確な回答が飛び出してきた。
 (なんです?)と驚いた四葉を俺とイリヤはぎょっと見つめる。朝倉が別段驚いた様子を見せないのは、きっと四葉がそこそこ神秘についての知識を持っていることを知っていたからであろう。
 俺は、そんな四葉に偽り無く答える。

「ビ、ビンゴ。簡単に言えばさ、今この町は“大海”の特性を孕んだ“固有結界”を形成しているんだ」

 “幽霊の幻を魅せる”固有の結界。いつか先生が話してくれた幽霊ビルと同じ、ただそれを引き起こしたのが人間であるのか宝具であるのか、違いはそれだけだ。

「そう言う事よ、良く出来ました」

「なあんだ、種が分かれば簡単じゃあないの」

 四葉と俺へ賞賛を投げたイリヤは、朝倉の発言に顔をしかめた。

「あのねカズミ、種なんて何も分かっていないわ。私が話したのは今回の幽霊事件の“理屈”だけ。“原因”の解明をしたわけじゃないのよ、分かってる?」

 その発言意に今度は朝倉が首を傾げる。

「で、シロウ。今回の原因については貴方何か分かる? 道理は通ったわ、だけど“原因”は依然として闇の中」

「まあな。イリヤの言いたいことも分かるさ。それについては俺にも分からない。偶然にしろ必然にしろ、何らかの意味があってこの土地に“大海”は招かれた。それは間違いないんだ」

 原因、か。皆目検討もつかないな。
 俺はうやむやな思考を飲み込んで星を仰いだ。すると、潮風が段々と濃度を増していくのを感じた。頂を囲い、とぐろを巻くように建てられた車道沿いの階段。岬の頂上へと続くこの往来には、車どころか人の気配さえしない。
 海に顔を除かせる岬の展望から、潮風に絡みつき掠れるような鳴き声が聞こえる。きっと、俺たちの喧騒に“大海”が耳を尖らせているのだろう。
 俺は潮の香りが誘うままに、螺旋の小道を横切る。そして、眼下に覗かせる細い海岸を掠めるように、彼女達に振り返った。

「辿り着けば、何かが分かるさ。少なくとも、俺には“原因”なんて関係ない。ただ、俺は自分の中のもやもやを断ち切りたいだけなんだ」

 俺は“大海”の胎の中にいた。
 俺が感じた不安定で曖昧な焦燥、恐らく“大海”によって形成された“世界”に少なからずの違和感を覚えていたからであろう。特化された俺の構造把握能力は、無意識下でさえその異質な世界を感じ取っていたんだ。

 ―――――嘘だね。それだけじゃない。

 俺が“大海”を目指すのは他に理由がある。
 果ての無い大海に取り残された“ディアドラ”のちっぽけな願い。
 ただ、好きな奴と一緒にいたかった。それだけを求めた当たり前の“幸せ”。

 それすら叶う事無く悲恋にまみれ、美しく語り継がれる。それが彼女だ。

 そんなの駄目だ。
 アイツと共に在ることを否定した、そんな俺に何も言う資格は無いのかも知れない。だけど、だからこそ、“ディアドラ”の生涯に我慢できない。

 ――――――つまり俺は、やり直しを求めているのだろうか?

 一度は否定したその願いを、俺は今求めているのだろうか?
 理想を貫き通したアイツ。にもかかわらずアイツはそれを否定した。俺にはそれが許せなかった。だから、だからこそ“聖杯(やり直し)”を粉々になるまで否定した。

 だけど、―――――――“ディアドラ”はどうだ。

 大海を通じて手に入れた悲しすぎる彼女の逢瀬、そして終わり。
 望んだものは手に入らず、何一つ報われ無い。はじめから間違っていた彼女。そんな彼女に一欠けらの“幸せ(やり直し)”を願うことは間違いなのか?

 アイツを失った今だから分かる。
 “ディアドラ”の望んだ世界がどれほど当たり前で、どれほど価値があるのか。共に過ごせたかもしれない、遠すぎる“日常”。

 ―――――――――それを捨て去る痛みを、俺は知ってしまったから。

 彼女の全てを否定してでも、俺は彼女の幸せを望みたい。
 だから、俺は“大海”を求めている。
 捨て去ったものを取り戻したい、“大海(お前)”もそう思ったんだろ?
 自分の理想、そしてアイツの理想のために俺は“幸せ”を切り捨てた。
 “ディアドラ”が何よりも望んだ幸せを切り捨てた俺/切捨てられたアイツ。

 だから、分かるんだ。

 大海が俺に伝えた思い、―――――――“贖罪”。
 俺がアイツの救いを望まなかった様に/“大海”がディアドラの救いを阻んだ様に。
 一度は切り捨ててしまった“幸せ”への贖罪。

 ああ、その願いは間違いじゃない。
 だからお前の変わりに、俺が、正義の味方が叶えて見せるよ。

「-------――――――――」

 見渡す先は、視界一杯に開けた大海原。
 辺りは、空に穿たれた半月を孤独に陥れるため、ただ静寂を保っていた。潮風に靡かれ、軽く身体をゆすられた俺は、後ろに控えたイリヤ達を置き去りにするように一歩踏み出した。

 同時に、眼下に広がった黒海、その深淵から浮かび上がる“叫び声”。掠れた嗚咽にも聞こえるその嬌声が、痛いほど俺には理解できた。

 水平線の狭間。
 幾重もの青い衣を重ねるようにエーテルが弧を描き沈んでいく。機織の様相で象どられた美しすぎる肢体は、地面に届く黒髪を揺らして瞳を開いた。

「-----------――――――――」

 イリヤ、朝倉、そして四葉が揃って感歎を嚥下する。
 自身にとって、最も“美しい女性”が彼女達の目の前に象られているんだ、その反応も頷ける。
 特化された解析眼を有する俺は、“大海”が真に象どりたい“本当”を見抜くことが出来る。だからこそ、大海は俺を選んだんだ。
 “シキ”さんに余りにも似すぎた彼女は、果たして誰なのだろう?
 “彼女”それとも“ディアドラ”? 
 そんなこと、どうでもいい。
 ―――――――変えられない過去。捨て去ってしまった幸せ。

 その贖罪の為に、俺は大海を手に入れる。

 頭をふるって曖昧な決意をこり固める。
 一歩、俺はゴツゴツした岩肌を踏みしめる。
 二歩、潮風が激し俺の身体をうちつける。
 三歩、そして、―――――――――。

 幻に象られた“大海”。――――その黒髪に手をかけた瞬間。

「―――――――――え?」

 空を切る俺の右手、いや、―――確かに右手には十センチほどの何かを掴んだ感触がある。
 間違いない、コレが“大海”だ。
 突然の事とは言え、宝具を握り締めた余韻に浸っていた俺は、自分自身のたち位置に気付いていなかった。

「シロウ!!!」
「衛宮っち!?!?!?!」
(衛宮さん??????)

 幻を振り切り、血相を変えて騒ぎ出すお嬢様方。
 その理由を把握する間も無く。潮風に大きく身体を揺すられた俺は、――――――――――。

「なぁ~ん~でぇ~さ~あああああああああああああああああぁぁぁ――――----」

 ドップラー効果を引きつれ、鮮やかに岬の絶壁より落下した。





Fate / happy material
第八話 パーフェクトブルー Ⅶ





 俺こと衛宮士郎、“大海”――――――――げぇっと。
 くしくも、彼女達と同じく“デッドエンド”。



[1027] 幕間 sky night bule light
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 10:05
/ .

「黒桐、君はケルト神話を知っているか?」

 がたがたと揺れるボロボロのレンタカー、車種は国産のバン。
 三人で使うには余りあるスペースの中に、僕の代わりに車を転がす所長の声が響いた。僕の左目を気遣って、式と所長は僕に車を運転させることは殆ど無い。彼女たちらしくない優しい気遣いは、正直、僕の心を温かくしてくれる。

「ええと、……確かアイルランドの民話でしたっけ?」

 僕は助手席に腰掛けて、ごうごうと風を切って走る風景を流し見ながら、答えた。
 所長の顔色を窺えば、オレンジ色の外灯が小刻みにその横顔をチカチカと点滅させている。

「民話と言うのは語弊があるかな? まあそれも間違いでは無いが、出来れば神話群、もしくは叙事詩と呼んで貰いたいね。英国ではアーサー王伝説にも劣らぬ知名度なのだが、日本ではなじみが無いか」

 一人で完結した所長は思い出したようにハンドルを切る。
 同時に大きく流れる車内では、“ごん”という鈍い音が後部座席より零れた。
 どうやら、転寝をしていた式の頭と薄っぺらなサイドウィンドが喧嘩したらしい。
 すぐさま所長に向けての殺気が膨れ上がった。敏感に殺気を感じ取れるなんて、もしかしたら僕は、稀有な素質があるのかもしれない。
 そんな思考に口元を歪めていると、式が首だけをひょっこり出して所長に尋ねた。

「おい、例の岬にはまだつかないのかよ?」

「もうしばらくだ、少しは辛抱したまえ」

「ったく、せまっ苦しい書庫を抜け出したと思えばすぐコレだ。いい加減、嫌になる」

 所長の言葉にどさりと身体を横に投げ出す式は、ため息をついて再び瞳を閉じる。

「でも所長、何も今日中に彼女の自殺現場に行くこと無いでしょう? 明日、帰りがけに寄ってみるのでも充分だと思うんですけど」

「そういうわけにもいかん。明日には確実に協会の連中がやってくるからな。鉢合わせる前に“大海”を回収したい」

「………だったら、はじめから僕達に相談してとっとと回収しちゃえば良かったじゃないですか」

「それは詰まらない。言ったろう? 人間の自慰とは、中々に侮りがたい。これほど楽しめるとは思わなかった」

 クツクツと思い出し笑いにふける所長は本当に楽しそうだ。
 この人から黒い角と尾っぽが生えてきたところで、僕は驚かない。むしろ、まだ生えてこない事に驚きだ。

「…………それで、所長。ケルト神話が何なんです? こんどの事件に何か関係あるんですか?」

 僕は、自分の思考から軽やかに逃避して所長に言葉を返した。

「ああそうだったな、その話しだ」

 所長は軽く窓を開けると、シガーライターでタバコの火を灯す。
 車内にふわっと広がる甘い紫煙は、あっという間に潮の臭いに打ち消された。





■ Interval / sky night blue light ■





「ディアドラ……ですか」

「そう、ディアドラだ。彼女の逸話を知らなくても“トリスタンとイゾルデ”は知っているだろう? そのモデルとなった話だよ」

 所長は咥えたまま“ディアドラ”の物語“Fate of the Sons of the Usna”と言うらしいが、僕にはそんなものどうでも良かった。
 ただ、僕は抑揚の無い所長の声に心を軋ませその悲しい歴史の終わりを待った。
 似ている、そうコレも似ているんだ。
 その歴史が、変えることが出来なかったその運命が、どうしようも無い位重なるんだ。

「……それで、その“ディアドラ”さんは今回の“彼女”、詰まり先生の探し物に一体何が関係しているんです」

 僕は自分の感傷を飲み込んで所長に解答を求めた。
 短くなったタバコを尚も咥え続け、所長は車窓より段々と深くなる潮の香りに眉を細めた。

「“大海(オーシャン)”それが今回の探し物だ」

 開く所長の口から吸殻がゆらりと落ちる。
 口元までしか残っていない所長のタバコは既に甘い香りを失っていた。

「叫ぶ盾“オハン”とも称されるその盾はコノール王の息子フィアクラの防具でね。金髪のイランを殺した武器さ」

「どう言う事だ? 防具で人を殺す、出来なくも無いが間抜けな殺し方だな、それ」

 言葉の選び方の違いはあれど、式も同じような疑問を持ったようだ。彼女は後部座席に寝転んだまま口を開く。

「まあ、その辺りは衛宮にでも話して貰え、重要なのは“彼女”と“大海”の関係だ」

 所長はようやくタバコを口から放すと、ポイッと右手に開けた真っ黒い海へとそれを投げ捨てた。

「“大海”は叫んで“危険を知らせる”と言う奇妙な特徴を持っていてね、今回の幽霊事件にもその部分が大きく絡んでいる。件の幽霊が現れるとき、決まって叫び声が聞こえるのだろう? それは、その幽霊が“大海”と大きく関係している証明に他ならない。加えて、過去の記録、幽霊と呼ばれる現象がこの世に投射されるには必ず何らかの“原因”があるはずなんだよ」

「なるほど、所長はその原因が“大海”だと考えている分けですね」

「正解だ。ご丁寧な事に“大海”には“何かを投射した”と思われる伝承も幾つか存在している。原因と結果、“大海”と“彼女”の幽霊、ほら繋がっただろう?」

「でも、それが何で“彼女”が消息を絶った場所、つまり自殺現場に行くことになるんです? それ以外の場所だって考えられるでしょう」

「それは無いんだよ黒桐。何故なら今回の原因が“大海”、詰まり宝具と言う固定された神秘だからだ。“大海”は武器なんだよ、使うモノがいなくてはその力を行使できない。なら、答えは簡単だな。それを使う“担い手”は誰なのか? 一体何のためにその力を行使するのか?」

「それが、彼女だと?」

「ああ、確か“彼女”の死体は未発見のまま、調査が打ち切りになったのだろう? なら、彼女は見つけて欲しいのさ、救われなかった願いが、せめて“ディアドラ”様に“死後”叶えられる様にね」

「だから、僕を?」

「そう、だから“大海”はその力を行使するのさ。過去に起こした悲劇の贖罪。衛宮の様に言うならば“謝りたい”のだろうね。君と衛宮、選ばれたのさ、救いしか知らない男と救いを知らない男が、ね。―――――ほら、行って来るといい」

 所長は、車を止める。
 どうやら所長との話しに夢中になりすぎたらしい。
 気がつけば、そこは潮の香りが夜空へと落ち込む天上。
 うちつける波の音が心地よい、そこはいつか見た頂だ。
 僕は所長に言われるままに車を降りる。
 やや不自由な身体と、光の無い左目の久しく感じていなかった億劫な感覚を黙らせて、僕は潮の香りを吸い込んだ。

「なんだか分からないけどさ。頑張ってこいよな」

 やわらかい“シキ”の言葉を去り際に受けて、僕は歩いた。
 少しの強風によろめく身体を必死に踏ん張って歩き続ける。
 大丈夫、倒れるわけが無い。こんなボロボロの身体でも背負っている重みがある。

 彼女を“救う”そのために、僕は歩き続ける。
 あの日、遠すぎる“あの日”に近づける様に。

 頂の向こう側、黒い海の深淵から割れるような涙の動悸が聞こえる。

 そうだね、僕達は似た物同士だ。
 救えなかった過去の痛み。それを償いたくて償えなくて。
 君が“ディアドラ”さんを救えなかった様に、僕にも救えなかった人がいる。

 辛いよね、知っているよ。

 だけど、その後悔が間違いだって事も分かっている。

 この痛みは、きっと彼女が生きた確かな証。
 だから、僕達は選ばない、“彼女/彼”の救いを。
 だから、僕は選んだんだ、とても優しくて、とても残酷な答えを。
 僕は約束したから、――――――彼女の“現在/原罪(いま)”は僕が背負うって。

 その痛みを、いつまでも背負えていける筈だから。

 そう、だから。

「せめて君には、――――――――」

 彼女の物語に、一欠けらの幸せを。
 君の夢がいつまでも幸せでいられるように。
 君がいた、その“痛み”を誰よりも心に刻むから。

「綺麗な夢を、見続けて欲しいから、―――――――――」

 僕は、君の救いを望まない。だって君はもう救われているんだろう?

 潮風が隠したはずの僕の左目を撫でる。
 足を休めれば、目の前には僕の色に染まる海。
 手すり越しにそれを眺めた瞬間。

 崖添い。―――――僕の足元からニョキリと人型の何かが顔を覗かせた。



[1027] 第九話 パーフェクトブルー
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 10:12
/ 11.

「------――――――になんか、なってたまっかい!!!!!!」

「うわわ!?!?!?!?」

 気力だけで断崖絶壁を登りきった俺はびしょ濡れの身体もそのままに、肩で息をしながらその場に寝転んだ。背骨を押し上げる岩肌の冷たさが、汗と潮まみれの身体に不快感をよりいっそう与えてくれる。
 しかし、――――よく生きていたもんだ。
 落下したのが浅瀬だったら確実に死んでいた。鞘を失った今でも俺の不死性は失われていないのか? くだらない事を考えながら、俺はボロボロの身体を四つん這いに起こして直角の絶壁を見下ろした。目下にうちつける荒波が俺の心臓をブルりと振るわせる。

「………ねえ士郎君、なんでフリークライムなんかしていたの?」

「 ? 幹也さん。――――――なんでここに?」

 後ろから聞こえた不思議そうな声色。
 問いだす質問は要領を得ていないが、まあいいか。
 頭に引っかかっていた定番?ともいえる海草を投げ捨てて俺は立ち上がる。
 「それはこっちの台詞だよ」と苦笑した幹也さんは再度「それで、崖のぼりは楽しかった?」なんて頓珍漢な疑問を真面目な顔で口にした。

「はは、命がけのスリルはコレっきりにしたいですね」

 律儀にもその問いに返してしまう俺。
 でっど・おあ・あらいぶの境を彷徨ったというのに大した物だと自画自賛。俺の精神は順調に図太くなってきている。先生に感謝しないとな、色々な意味で。

「それで士郎君は何をしていたの?」

 薄く笑った幹也さん。
 俺はあちこちに危険信号が走る体を力任せに起き上がらせて。

「先生の探し物」幹也さんに一言零す「それと、“彼女”を見つけましたよ」それだけで全てが伝わった。

 優しく頷いた幹也さんは、「そう」と潮風を震わせる。
 細く、しなやかな白骨。一欠けらもない彼女の遺骨を感情の見えない幹也さんに手渡す。
 俺が落下した断崖と海原の狭間。そこには隠れるよう眠っていた誰かの死体/肢体。
 掴めば全てが風化するほど置き去りにされていた彼女、俺が救いあげたのは一握のそれだけ。
 遺骨と言う、はかない証だけだった。

「ありがとう、士郎君」

「なんで幹也さんがお礼を? 俺も同じですよ、きっとコレは自分の為にしたことだと思うから」

 もう片方の手を開く。
 そこには果てしない青潭に染まった少し大きめのブローチ、サファイアを囲む四つの黄金で象られた角と覆いを持った、美しい装飾品がそこにはある。
 顔面の筋肉は笑顔を繕っているのか、それとも悲しみに引きつっていたのか、よく分からない。どちらにしろ、俺の中に取り残されているもやもやは、未だ解消されてはいないのだろう。

「お~い、衛宮っち。大丈夫だったかぁ~い」

 遠くから声が聞こえた。
 俺は後ろから響いた元気のいい声の主に振り返る。見れば、岬の階段を駆け登りながら、朝倉が手を振っている。
 どうやらこいつは俺の曖昧な達成感など、あっと言う間に吹き飛ばしてしまったようだ。本当、お前がうらやましいよ。

「おう! ピンシャンしてるぞ!」

 景気良く親指を立てた俺に朝倉もピースサイン。
 どうやら俺が大海原へのフリーホールを満喫した後直ぐに、救助道具を探してくれた様だ。朝倉の後ろにはイリヤと四葉がロープを担ぎながら文句を言っている。
 でっかいロープだなぁ。アレを女の子二人で担ぐのはチョッときついぞ。朝倉も手伝ってやれよ。
 体を弾ませ彼女体に駆け寄ろうとした瞬間。

「ほう、それは結構。では右手の“大海”を見せてくれないかな、衛宮」

 詰まらなそうな、それでいて容赦など微塵も無い声色。間違いない、こんな人が世界に二人といてたまるか。
 いつの間に俺の真後ろにいたのか、先生が俺の右手から“大海”を奪い取った。

「ふむ、十センチ四方の楕円形。スカイブルーの緑柱石…違うな、高純度の蒼紅玉か。盾だと聞いていたがまさかこれほど見事な宝石(アクセサリ)だったとはな」

 月の光を目明きかりに、先生は“大海”の鑑定をはじめた。「ほう」やら「なるほど」など、品目豊かな感嘆詞が先生の口から漏れる。
 俺がやれやれと肩を窄めたその刹那。
 気付けば、先生の周りにはイリヤ、朝倉を中心として宝石、“大海”を食い入るように鑑賞する女性の壁が。いつの間にやってきたのか式さんもその輪に加わっていた。

 あれだけ見事な宝石だもの、女性ならその反応も頷ける。
 そんな光景に目を細めていると、横から小突かれた。

「ねえ士郎君。今のうちに、彼女の“願い”叶えてあげよう、いいだろ?」

 先ほどの感情の読めない幹也さんは既にいない、いつもと同じ代わり映えしない“当たり前の笑顔”で、彼は俺に言う。そういえば、まだもう一仕事残っていた。
 
「ええ、そうですね。場所は分かります?」

「うん。でも、案内してくれると嬉しいな」

 「分かりました」と幹也さんの笑顔に当てられ、俺も穏やかに返す。
 俺と幹也さんは、イリヤたちに気付かれないように空に近い岬を後にした。

 悟られぬよう振り返りみた彼女達。
 だけど、何故かシキさんだけが、幹也さんの遠のく背中に気付いているように感じられた。





Fate / happy material
第九話 パーフェクトブルー 了





 いちいの木々達が夜天光を覆い隠している。

 先ほどの岬と相まって、沃土の強い臭いが獣道じみた狭く細長い坂道に充満している。
 そこを抜け出すと、例の廃墟が遠目に見えてきた。
 自然と視界に入った邸を囲うアドベのかき。そこからポッカリと顔を覗かせる崩れた車寄せ。明らかな近道であるため、そこから邸内に入ろうと提案したのだが、幹也さんに却下された。

 俺は幹也さんの右手、それから少し引くようにぼんやりと正面を見据えた。やってきたのは、先ほどの廃墟、その大げさに構えられた鉛色の格子門を見上げる。
 俺と幹也さん、二人は一言もしゃべることはぜず、墓場と呼ぶに相応しい廃れた終着駅を注視する。
 思っていた以上に体が軽く、二人を取り巻く沈黙が嫌ではなかった。
 俺の来訪を毛嫌いしていた筈の木々達が、今は穏やかに凪いでいる。

 幹也さんは無言で扉を開き、踏み込んだ。
 自然と後に続いて行く俺の体。男にしては細すぎる幹也さんの華奢な背中は、俺には知りえない優しさが香っている。
 切嗣やアーチャーに比べれば、なんて脆く、儚い背中。
 だけど、その背中が何にも勝る強さなのだと、同時に分かっていた。
 “正義の味方(おれ)”では決して届かないその強さ。少しばかりの嬉しい嫉妬を覚えて、幹也さんの隣に並んだ。

 彼は喜びと悲しみの入り混じった貌を無理やり笑顔に繕い、足元の半壊した石碑の前、かた膝をついた。
 やはり沈黙、お互いにあるのは追悼を送る静寂だけ。
 瞳をゆっくりと閉じた幹也さんは、一体何を思っているのか。そんなの、俺は知らない。
 だけど、幹也さんが初めて見せる曖昧な微笑が“シキ”さんに向けられているのは、なんとなく分かる。普段とは異なる笑顔、全てに等しく与えられるその笑みは、この瞬間だけ、唯一人の為にあるように感じられた。

「―――――投影、開始」

 静寂を壊さぬように、嘆く。
 現れるのは唯のスコップ。現れたそれを使い、無作法にもその墓を暴く。
 固い筈の黒土は、表面の砂利を掘り起こした途端、アイスクリームの如く簡単に砂山を作っていく。
 幹也さんが沈黙を破った時には、目の前には大穴。中途半端に除かせる棺桶が存在を主張している。

「――――いい夢を」

 幹也さんは小さく口を明けた棺に彼女の遺骨を投げ入れる。
 再びの沈黙。
 届かぬ筈の潮風が、俺たちの髪を撫でていた。
 そして、その沈黙を破るように、「そう言えば、――――――」欠けた瞳に触れた幹也さんは。

「―――――――君も、夢を見るのが好きだったね」

 何かを振り切るように、そう微笑を零した。
 その微笑みは、俺の心をざわつかせる。

 何故だ?

 そんな事を考える前に、俺は自身の感情に蓋をする。
 一歩ひいた幹也さんの前、暴いた墓場を再びもとの枯れ果てた置き土産へと還す。

 コレで、お前の願いは叶えたよ。
 “ディアドラ”と同じ、共に眠り、告げられる終末。
 死後に訪れる永遠の幸せ、せめて、それだけは叶えることが出来た。

 俺は、見ることの叶わぬ名前を見下ろす。
 辺りに転がる石碑の欠片たち、名前を知ることも叶わないけど。
 きっとここには、“彼女”の愛した唯人が眠っている。

 もう過ぎ去ってしまったいつかの日々。そこに生きた彼女を、俺には救う術が無い。
 俺に出来るのは、センチメンタル(ぬか喜び)の再会だけだ。

 永遠の逢瀬。
 死後にしか叶えることが出来い“ディアドラ/彼女”の恋、僅かな“願い”。
 だからせめて、俺だけは彼女達の幸せを願い続けたい。
 例えそれが、彼女達の生涯を否定することになっても、俺はこの願いが間違いだなんて、思いたくない。

「帰ろうか、士郎君」

 幹也さんの嘆きに、俺は力強く頷く。
 彼も、俺と同じ“優しい願い”を胸に秘めている筈だと信じるように。

「はい。にしても、今日は疲れましたよ。晩御飯が楽しみです」

 元気すぎる俺の声に、少しだけ幹也さんが怯んだ。

「そうだね。でも、晩御ご飯の頃合いはとっくに過ぎてる、早く戻らないと」

 幹也さんと揃って自分の時計を確認する。
 見れば、―――――九時!?
 あの岬からここまで、こんなに時間が経っていたのか? 

「先生たちはとっくに旅館に戻っちゃっていますよね。やっぱり」

「だろうね。僕達のご飯、残っているといいんだけど」

 苦笑を交換して、お互い普段道理の顔かどうかを確認する。
 どうやら、俺ももう大丈夫みたいだ。

「四葉の料理は美味しいですし。今日は旅行最後の夜です、きっと夜中まで騒いでますよ」

「宴会か、それもいいね。だけどなぁ、汗もかいたし、僕は気兼ねなく温泉につかりたいよ」

 夜まで騒ぐのと料理が残っているかは別問題として、温泉を楽しむのは賛成だ。
 軽く汗を拭った幹也さんの顔は、本当に疲弊しきっていた。
 どうやら先生にこき使われたらしい、雰囲気で分かるのだ。
 何と言うか、生気を吸われてしまった様な顔つきから、先生のいびり方が鮮明に想像できてしまった。渡されるだけ課題をくれたと思ったら、片付くまで放置プレイ。アレはかなり効いた。

「ま、何にしても、美味しいご飯とお酒。僕は楽しみでしょうがないよ」

 俺達はこれからのドンちゃん騒ぎを想像して、二人にやつく。
 先生や式さん、無愛想でとっつき難いけど、アレはアレで、騒ぐときは以外とノリの良い人たちなのだ。
 グチグチ言いながら、ほろ酔いの先生。
 不機嫌な顔つきで器用に笑顔を零す式さん。
 一人で騒ぎ馬鹿みたいに盛り上がる朝倉、それを嬉しそうに嗜めるイリヤ。
 そんな光景を閉じた瞳で俯瞰して、俺はいっそう口元を柔らかく吊り上げる。

「楽しみです」

 一言だけ零した俺に、幹也さんは嬉しそうに言葉を付け足した。

「そうだね、楽しまないと。置き去りにしてきたもののためにも、ね」

 諭すように刻まれた、俺への言葉。大げさすぎるその言葉に、俺は息を呑んだ。
 そんな俺に、微笑を送る幹也さんはゆっくりと踏み出し追い討ちをかける。

「さ、行こう。みんなが待ってるよ」

 初めて出会った時の様に、俺は幹也さんを追いかける。

 ――――――――目指すべき背中が、もう一つ。

 彼女の墓に見向きもしないで歩み続ける幹也さん。
 俺は、彼の代わりに振り返る。

 夜に消え入る視界の先。
 未熟に萌える早咲きのイチイが、彼女の最後を彩っていた。








「…………………ってなんだこれ」

 旅館の自室に戻ると、見るも無残なお嬢様方が夢の跡。
 乱立した空のとっくりは、いつか先生に視せられた剣の丘だ。

「…………………凄いね、コレは」

 兵共が夢の跡。
 しっちゃかめっちゃかに喰いだおされたお膳や、転がる茶碗。
 幹也さんは乾いた笑いで、荒野の中心で大の字を描く美女達を眺める。

 コレだけの美女達の醜態、出来れば見たくなかった。
 だが、そんな思考の先では、彼女達のこんな無防備な姿が見られるのも俺達だけなのだと、軽い優越感に浸ってしまう。うむ、男とは実に単純な生き物なり。

 俺は、中腰で空のトックリを持ち上げ揺する。

 しかし、一体どんな経緯でこんな状態に?
 俺は天上を仰いで、思考を巡らす。
 ―――――――だめだ、想像できない。

「まあ何にしても、今晩はご飯抜きかな?」

「みたいですね。はあ、どうしましょう」

 二人顔を見合わせたら、思わず笑みが零れた。

「ねえ、士郎君。コレから温泉はどうかな?」

 幹也さんは宴会唯一人の生き残り、半分だけ清酒の残された徳利を拾い上げ、告げた。

「いいですね。それ」

 手早く二人分の浴衣を用意しながら、幹也さんに零す。
 どうやら、考えることは同じらしい。

「片付けは………後でいいかな? もしかしたら皆起きるかもしれないしね」

 幹也さんは、そう言いながらも、彼女達に一人一人薄手の毛布をかけている。
 そう言う俺も、勝手に動く体がテキパキと後片付けに徹していた。
 気付いたときには、部屋が綺麗に片付いている不思議。

「さ、行きましょうか幹也さん。月見と潮風をつまみに一杯。風流ですよね」

「こらこら、士郎君は未成年だろ? 駄目だよ、お酒なんか飲んじゃ」

 ちっとも説得力の無い幹也さんの台詞。
 お得意の一般論も、今日に限っては切れがない。

「分かってますよ、俺は下戸ですし。今のところそんな苦い飲み物、興味は無いです」

 だけど、切嗣と月見をした時の様に、その雰囲気が嫌いでは無かった。

「幹也さんだって、相手がいなけりゃ詰まらないでしょ? 舐める位は出来ます」

 一本とられたとばかりに、笑う幹也さん。

「確かに、一人で飲むお酒ほど、不味い物は無いからね。変な話だけど、お言葉に甘えさせて貰おうかな?」

 お姫様の寝床に、優しい嘆きを残して俺達は暗闇に溶け込む海を除くため、その場を後にした。
 目を閉じれば、優しい叫びと綺麗な彼女達の寝顔が目蓋の裏側に浮かんだ。




 そして、神秘の底で過ごした小旅行は、甘い麹と潮風の残り香と共に静かに終えられた。





[1027] 第十話 されど信じる者として
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 10:20
/ 12.

 四葉との遣り取りを終えた俺は、一人寂れた温泉街の喧騒を駆けていた。

 時刻は十二時前。向かうのはイリヤ達が待っているであろう操車場。きっと、朝倉を中心にお昼の弁当を買うため駅構内を徘徊している筈だ。
 帰りがけ、折角だから四葉に挨拶に言ったら想いの外、話し込んでしまった。

「それはいいけど。待っててくれてもいいだろうに」

 朝早くに挨拶を済ませていたイリヤ達はロビーに伝言を残し、サッサと旅館を後にするという蛮行にでていた。

 くそう、寝坊したのは俺の所為じゃないぞ。

 昨晩、幹也さんと海を肴に温泉を満喫した後、復活したイリヤ達は再び宴会を開いていた。目的の魔具を手に入れた先生は妙にご機嫌だし、式さんの機嫌も悪くは無かった。
 それが災いしたのか、ストッパーを失った俺たちの宴会は正しく固有結界。勢いのままに酒を飲まされた俺は、昨晩の記憶などとっくに磨耗していた。
 おいアーチャー(抑止力)こんな時こそお前らの出番だろ。しっかり世界からの修正を受けさせろ、アレはどうしたって異界だぞ。

 先生の所で無駄に広がった知識を走らせ、一人寝坊した言い訳を考える。なんとも情けないことだ。
 自身の思考に決着をつけた俺は、吐き出す息のテンポを上げた。

「―――――――――――――これで、お別れか」

 流れていく景色の中で、俺は一人ごちた。
 イリヤと共に歩いて回った温泉街、四葉と歩いた海岸沿い。ゴロゴロと俺の脇を抜ける路面電車に情緒をふっと感じる。

 微笑を無理やり繕う俺の顔。だというのに、耳鳴りの様に響く潮の音。

 俺の中でうねるもやもやは、未だに決着がついていなかった。
 彼女の幸せを願う、――――――そう、例え彼女の全てを否定してでも。
 その想いは正しいだろ筈だろ?そう告げていた俺の根っこは、四葉との問答の末、揺らいでいた。

 何が、―――――――間違っているのだろう。
 何かが、――――――間違っているのだろうか?

 幸せなど、願いなど叶わなかった“ディアドラ”の生涯。
 彼女を救いたいと、だけど救う術など無いのだと、そう納得した。
 だから、願うことしか選べ無いじゃないか。――――彼女の幸せを。
 例えそれが彼女の一生を否定することになっても、幸せな日々を夢想する事は、願うことが間違いであるはず無い。

 だけど、四葉の声、四葉の言葉、四葉の笑顔。それが、こんなにも俺の願いを否定する。

 段々と沈み込み、落ち込んでいく思考と言う回廊。
 電気信号を巡らせば巡らすほど、俺の歪さは浮き彫りにされる。

 あの時、―――――――――問いかけられた言葉。
 そして、―――――――――その答えに知らず恐怖していた俺。
 いらだつ心象が、俺の中でギチギチと音をたてていた。

「――――――――ハッ、ハッ、ハッ」

 気がつけば、目的の場所は目の前だ。
 歩幅を緩める時には、人気の無い操車場に辿り着いていた。
 俺は我武者羅に乱れる呼吸を落ち着け、沈んだ思考のまま、構内に歩み寄る。

 木造のプラットホームから、鳴き声の様な発車の合図が響いている。
 いけない、と駆け込んだ体は上手く動かせない。

 ―――――――――俺の歪な心は、未だ深い深い青のそこにいた。
 偽者の体は、答えも見つけぬまま、“幸せ”から元の安穏へと帰る事を望んでいる。

 人のいないガランドウの構内を抜けて、俺はイリヤ達の待つ車内にいた。

 ガタンと、一際大きな揺れと共に、スクロールしていく物寂しい風景。
 俺はグラつく体を受け止めて、イリヤ達を探す。

 知らず、ぼんやりと彼女達の向かいの席に腰を落ち着けていた。

 時間の感覚は無い、思考するのに余分な情報は全て切り落とされている。
 俺は、彼女達の姦しい声の中、一人青い海を眺め続けていた。

 ――――――――本当、ムカつくぐらいに。

「綺麗な、――――――――――青だ」





Fate / happy material
第十話 されど信じる者として Ⅰ





Perfect blue / in to. 19.

「だって、――――――」

 窓から差し込む潮風に、黒髪を揺らして彼は微笑む。
 幹也さんは優しく、それでいて揺ぎ無い強さで、俺の心象に侵入する。
 この車内で始まった彼との問答。
 俺の慟哭を受けてなお、彼はその穏やかな笑みを崩さなかった。
 彼女を否定する俺。
 彼女を肯定する幹也さん。
 互いに望んでいるのは、見つめているのは彼女の幸せ。
 だけど、―――――――――。

「だって、――――――彼女は、幸せだった筈だもの」

 俺は舌が根元まで口が渇くのを感じた。

「何を、――――馬鹿な、―――――」

 幹也さんは何を言っている?
 幸せだった?―――――――誰が? どうして? なんで?

 報われなかった彼女、望まれなくて、恋をして、失って。
 何一つ手に入れず、唯死んだ彼女が、か?

「そんなわけ、無いでしょう――――――――――」

 幹也さんの笑顔が、四葉のそれと重なる。
 立ち上がりそうな体を、硬い座席に押し付けて、俺は答える。
 無意識に奥歯を噛み締めていた俺は、そんな事に気がつくのに数秒もかかっていた。
 半開きの車窓から、ウミネコの一際甲高い鳴き声が通る。

「優しいんだね、君は」

 俺達は“大海”の、彼女達の願いを叶えた筈だ。
 悲恋に塗れた生涯、叶わなかった幸せを、せめて永遠なんてぬか喜びの海に沈めることが、彼女達に与えられた唯一の物だった。
 そんな生涯の、―――――――どこに幸せがあった?

「――――――少し、昔話をしてもいいかい?」

 イリヤに肩を寄せて眠る式さんを、柔らかく見つめた幹也さんは唐突にそんな事を言った。回顧に浸る彼の横顔は、悔しいけど、カッコいいと思う。俺が目指すものとは違うけど、それでも彼の空気は“正義の味方”にだって負けてはいなかった。
 何も言えない俺に、幹也さんは頷くこともしない。彼は、軋んだ車内で、深く腰掛けなおした。

「そうだね、どこから話せばいいのかな」

 幹也さんが語ったのは、一人の少年、一人の友達の話だった。

 大切な友人だった彼。
 そんな彼から、特別なものを手に入れたのだと言う幹也さん。
 夢を見ることが好きだった彼。
 そんな彼と、一緒にいることが大切に思えた幹也さん。
 はじめから狂っていたという彼。
 そんな彼を、ずっと信じていた幹也さん。

 そして、望んだものなどはじめから手に入らなかった彼。
 そして、それを否定できなかった幹也さん。

 夢を見続けることを選んだ、愚かな二人の話。

「確かにさ、彼、ううん、“僕達”はついてるほうじゃなかった」

 先ほどまで確かに苛立っていた俺は、心に何かが浮き上がるのを感じた。
 同時に、沈み込んでいく自身の歪さ。

「彼も、そして僕も、あの時望んでいたモノは手に入らなかった。それどころか、弱かった僕は、彼を止めることが出来なかった。誰よりも夢を見続けるのが好きだったのに、そのくせ、ごうじょっぱりだった彼は、自分の幸せを夢にするのが嫌だったんだ」

 幹也さんは自嘲気味に口元を歪める。

「可笑しいだろ? 死んじゃったら、夢を見ることだって出来ないのにさ」

 俺は、穏やかに振り返る幹也さんに、どんな言葉をかけられるのか必死に考えていた。だけど、そんなものが在るはずも無く、零れたのは当たり前の“なぜ?”だけだった。

「どうして、ですか?」

「――――――――え?」

 不思議そうな彼に、俺は構わず続ける。

「どうして。どうしてそんな、――――――――馬鹿みたいに優しい顔で」

 悲しい記憶を、消し去りたいだろうその記憶を、振り返ることが出来るのか。

「分からないよ。僕にも」

 フザケタ解答に、再度腰が浮き上がる。

「ただ、――――それでも僕達は、笑っていた」

 それを押さえつけたのは、芯から響く彼の声色。
 彼の瞳に、俺はいない。
 見つめているのは、果てしない、過去と言う深い海だけだ。

「確かに、叶えた願いなんて何も無い。彼の最後だって、本当にちっぽけな物だった。でもね、その、“幸せ”だと、幸福だと感じたその日々を、――――――」

 潮風の臭いに除かせる左目は、

「――――――――僕は、間違いだなんて思いたくないんだ」

 確かに、微笑んでいた。

「この想いは、もしかしたら自分勝手で、都合の良い言い訳なのかも知れない。死んでしまった彼は、もしかしたら、幸せな僕を恨んでいるのかもしれない」

 説得力の無い彼の言葉に、俺の心は真っ白になっていた。

「それでも、僕は彼が幸せだったと信じている。君がいた、その幸せを受け止める。僕達に出来るのは、置き去りにしてきた全ての“想い”を背負い、担うことだけだと思うから」

 心象に焼きついていた紅い、朱い、赤い世界。
 オレの世界が、“虚無”の無限に融けていく。

「憎しみや、未練。―――悲しみ、―――――――そして、幸せさえも、ね」

 衛宮士郎は救われない、いや、救われてはならない。
 幸せになる事など、あってはならない。

 赤い大地で。
 何百の人間が死んだ大地で。

 全てを見捨て、救われた俺は、これ以上何を望めばいいのか。

 切嗣の理想を受け継いだ。
 尊く、美しすぎる願いの果てで微笑んだ、“正義の味方(りそう)”。
 それ以上、何を求めればいいのか。

 俺は幹也さんに顔を上げる。力を取り戻した瞳で、漆黒に隠れる彼の瞳を探した。

「――――――――そうだろ? 士郎君」

 答えるように、揺れる黒髪、除かせる傷跡。
 俺は、彼から目を逸らさない。
 揺れる車内は、静謐に沈んでいた。
 イリヤや朝倉、式さんの静かな息遣いが、今はこんなにも遠い。

 何が、―――――“正義の味方”だ。
 何が、―――――“全てを救う”だ。

 はじめから、何も背負えていなかった。

 俺は怖がって逃げていただけだ。
 綺麗な理想を、醜い言い訳に使っていただけだ。

 幸せを拒否する代償に、俺は、失った全ての命から目を背けていただけじゃないか。
 
 “ディアドラ”、やり直しの中にある彼女の幸せ。
 それを信じることで、俺は逃げ出す自分を肯定していただけだから。

「はい、―――――――けじめを、つけなくちゃ」

 俺の返答に、幹也さんは頷く。
 優しい、それでいて、本当に嬉しい笑顔。

 “未来(りそう)”を目指すその前に、“過去(しあわせ)”を受け止める。

 オレの世界は既に無い。
 だが、心に残る僅かの紅蓮、赤錆にも視える世界の鉱滓は未だ抵抗を続けている。
 だけど、幹也さんの前では、どうやらそれも、無意味な行為だ。

「そうだね、僕達の“傷跡”は決して癒えない、誰かの“幸せ”だもの」

 無色に還る俺の心象は、もう一度。

「―――――――――いつか、きっと見つけます。俺だけの、幸せを」

 果ての無い、アイツとみた黄金の世界に塗り替えられた。











「士郎君の、幸せ?」

「ああはい、なにか変なこと言いましたか?」

 心のもやもやが綺麗サッパリ吹き飛んだ俺は、胸いっぱいに潮風のを吸い込む。
 車内の空気がにごっているのに気付き、車窓を豪快に持ち上げた。新鮮な空気で肺が満たされるのを感じ、幹也さん向き直る。
 見れば、ん? っと、幹也さんが不思議そうな変な顔をしている。構わず、座椅子に腰掛けなおし、「うーん」と大きく伸びをする。反面、「うーん」と幹也さんは難しく眉を顰めて呻っている。

「変なことって、…………僕達は“彼女”の話をしていたんだろ? どうして、士郎君の幸せ、なんて単語が飛び出すのさ?」

「――――あ」

「あ、って何? 僕達はそのことで喧嘩していたんじゃないの?」

 俺の態度に、一段と首を傾げる幹也さん。
 俺と幹也さんが喧嘩していたかどうかは兎も角、すっかり思考が別の方に飛んで行ってしまっていた。

「まったく、うわの空は駄目だよ。それで、士郎君の意見は変わったかな? 訂正してくれるよね? 彼女の人生が間違いだなんて、不幸しか無いだなんて」

 よく分からないが、幹也さんはこの事だけは訂正して欲しいようだ。
 俺も異存など無いので、俺と幹也さん、二人の間に満ちるちぐはぐな空気を混ぜ返さないよう、コクリコクリ頷く。

「そう、良かったよ。士郎君が分かってくれて」

 幹也さんの顔はそう言って嬉しそうにはなやぐ。破顔する彼は、先ほどと比べて、よほど幼く窓ガラスに映っている筈だ。
 俺は、彼に気付かれないよう唇を歪める。

「ありがとうございます。大切なことを、―――――教えてくれて」

 そして零した、正直な想い。
 幹也さんに向けたその言葉は、あまりに小さい。きっと、彼の耳には届いていない。
 だけど、それで良かった。俺たちはきっと、それで。

「 ? 何か言ったかい、士郎君」

「いえいえ、怒らせてすみません。と、申し上げたしだいです」

 とぼける俺に、一瞬キョトンとした幹也さんは、こちらこそゴメンと、普段道理の仕草で頬を掻く。俺はようやく取り戻した苦笑で、幹也さんから振り向き、車窓に囲われた一坪の水平線を眺めた。

 きっと、彼は夢にも思わないのだろう。
 その当たり前の一言が、誰かを救う、はじまりの欠片だなんて。

 誰もが持つ“当たり前”。

 その幸せを、その全てを受け入れ、微笑むことが出来る強さ。
 俺達は、そんな強さを、優しさと呼ぶのではないだろうか。
 柄にも無く詩的な思考を、気持ち良さそうに光を走らせる海の所為にして、俺はふっと目を細めた。

 俺は、まだまだ歩き始めたばかり。
 求めるべき“幸せ”のピースを、探し始めたばかりだ。

「ああ、なるほど。―――――――――だから」

 四葉の言葉は、こんなにも、俺の心に残るのか。






(おはようございます、衛宮さん。昨晩は眠れましたか?)

 四葉は予想道理、厨房で今晩の下ごしらえを始めていた。
 この歳で、これほど白衣が似合う女性もそうはいないだろう。
 包丁のリズミカルな音と、湯で立つ熱気。旅行客が少数とはいえ、その作業はどこの調理場でも変わらないらしい。

(今朝は朝食にいらっしゃいませんでしたが、お寝坊さんですね。いけませんよ、無理は体にたたります、頑張っちゃうのも分かりますけどね)

 意味深に四葉はニヤリと笑う。
 へえ、こいつでもこんな冗談言うんだな。無縁の奴かと思っていたのに。
 どちらにしろ、四葉に似合わないその顔を軽く小突いて、山菜を刻む彼女の横に並んだ。

「お生憎だな、誰を選んでも無事に朝を迎えられそうも無いよ。この意味が分かるかな?」

 四葉もアッサリと返されるとは思っていなかったらしく、俺と同じように目を丸くする。
 朝倉辺りの入れ知恵だろうか? 後でとっちめてやる。

「こんな事をいいに来たわけじゃないんだが、いいかな? 今日で旅行は終わりなんだ、世話になったし、挨拶にと思って。袖振り合うのも多少の縁、って言うだろ?」

 使いどころが違う気がするが、まあ良い。
 四葉は、嬉しそうに笑って手を休めた。

(それはそれは、ありがとうございます。でも、そうすると、朝ごはんを食べてもらえなかったのは残念ですね。昨晩は満足にお食事を取られなかった様ですし)

 そういって、四葉は本当に残念そうに笑ってくれた。

「気にするなよ。お前の料理、美味いのが分かったしな。それに来月の週末あたりにさ、麻帆良に遊びに行こうと思っていたし、顔を出す。お前の料理、あそこじゃ有名なんだろ?」

(有名…かどうかは分かりませんが。そうですね、次にご馳走するのを楽しみにしています。イリヤちゃんの話ですと、衛宮さんもお料理なさるとか、機会があれば、ぜひご一緒に何か作りたいですね)

 社交辞令のその言葉も、四葉が言うと何か違う。
 料理だけでは無く、彼女の人柄も隠し味の一つなのだろう。

「期待してろよ。男の料理を見せてやる」

 さよならを言う雰囲気でもないので、俺はそのまま踵を返す事にした。時間も時間だし、先生たちが待っていてくれるかも怪しい。
 焦りを感じた俺は軽く、「それじゃ」と足早に振り返る。

(あ、そうでした衛宮さん。――――クイズの答え)

 「あん?」何のことだ、っと振り向く俺。
 四葉の景気の良い声が、足を止めさせた。パタパタと白衣の腹で手を拭きながら近づく彼女は、おふくろさんと言う言葉が良く似合う。

(クイズですよ、クイズ。忘れたんですか? ほら、幽霊屋敷に行く海岸沿いの道で)

 ああ、と俺は大きく頷いた。
 そういや、そんな事を聞いたっけ。すっかり忘れていた。
 四葉は、俺の顔色に何を思ったのか、少しふくっれ面で俺に詰め寄る。

(忘れていましたね? 私、こういうの気になる性質で、一晩中考え込んじゃったじゃないですか)

 どうしてくれるんです?と、彼女は言うが、……怒っているのだろうか? 
 俺は彼女の感情を表情から読み取るのを諦めた。この辺が朴念仁と呼ばれる由縁だろう。
 「悪い」とおざなりながらも返しては見たが、変な顔をされた。どうやら、別に怒っているわけでは無い様だ。

(それはそれとして。重要なのは答えですよね?)

「まあそうだな。四葉は分かったのか?」

(いいえ。だから聞いておこうと思って。今度衛宮さんに逢えるのは来月みたいですし、喉に骨が突っ掛かったままは、嫌じゃないですか)

 どうやら、彼女は本当に俺の問いかけをクイズだと思っているらしい。どうしたものかと頭をかきながら俺は彼女に言う。

「いや、あれはな、クイズでも何でもないんだ。俺が聞きたかったのは四葉にとって“幸せ”って何なのかって事でさ。実に哲学的な問題であったのだよ」

 言葉尻の冗談を滑ったのか、四葉は不思議そうな顔をしている。

「クイズにしろ何にしろ、即答できるものじゃないだろ? 悪いな、また蒸し返しちまった」

 恐らく狼狽するであろう四葉に向けた苦笑は、意味が無かった。
 唇に触れさせた指で彼女はぴんと注目を促す。さも、その問いに答えることが当たり前であるように。

「多くの人に、私の料理を食べて貰う事。それが私の“幸せ”です」

 言い切った彼女は、俺に出来ない笑顔を向けた。

「―――――――――――――は?」

 解答の早さもさる事ながら、その内容も、実にちっぽけなモノだった。
 それだけ? それで、お前は幸せになれるのか? どうやら、狼狽しているのは俺らしい。あたふたと忙しなく変化する顔色から、彼女に俺の考えを読まれた。

(失礼な事を考えていますね、衛宮さん。でも、私は大真面目です)

「あ、悪い。でもさ、本当にそれだけか?」

 彼女はそれに(はい)と一言。
 それに添えられた笑顔は、否定しようが無いほど本物だった。

(衛宮さん。私、料理をしていると思うんです)

 混乱を隠し切れない俺に、四葉は暖かい声をかける。

(私の料理で、人が笑ったり。私の料理に“美味しい”って喜んでくれる人と出会えたり。それだけで、私の心は幸せを感じます。もしかしたら、私の料理を食べた人も、“幸せ”感じているかも知れません)

 愛おしそうに、四葉は調理場を眺める。
 その瞳は、確かに幸せが満ちている。

(私の答えに何を求めていたかは分かりませんけど、衛宮さんが思うほど、明確な形なんてありません。きっと人の数だけ幸せがあって、幸せの数だけ、人生があるのだと思います。だって、私たちは小さな出来事の中でさえ、幸せを感じられるんですから)

 四葉は、絶えない笑みで俺を射抜く。

(どちらにしても、十八かそこらしか生きていない、小娘の戯言ですけどね)






「そうだな。結局、幸せから逃げるなんて無理な話だ」

 俺は自嘲気味に笑う。
 目を開けば、視界を染めていた青はそこには無かった。
 微かに揺れる体が、視界を狭めていく。
 少し日焼けた肌から感じる、潮の香だけが俺に感じられたぬくもり。
 どうやら、もう直ぐそれすら消えてしまうようだ。

 幹也さんとの話しを切り上げて、どれくらい経つのか?
 隣に座る幹也さんもいつの間にか、体を揺らし眠りに落ちている。

「眠いぞ。―――――なんでさ?」

 幸せでない人生なんて、初めから無かった。

 四葉の言葉。
 幹也さんの言葉。

 ――――――――――今は、それが良く分かる。

 俺は、段々と間隔を広げる息遣いに安らぎを覚えながら。

「“ディアドラ”。お前も、こんな幸せを感じていたのかな?」

 流れる車窓の縁。
 俺は、皆と同じ夢を見ることを、確かに望んだ。



[1027] 幕間 For all beliver.
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 10:28
/ .

「士郎君たち、帰って来ないね」

 僕は真後ろのベンチに腰を下ろす式に声をかけた。
 「ああ」とそっけなく返した彼女は、その直後に欠伸。式の中くらいの髪の毛が僕の首筋をくすぐった。

「飲み物を買いに行っただけなのにな」

 式の顔は見えないが、詰まらなそうに唇を尖らせているに違いない。
 僕達は忙しなく往来しては、即座に流れて行く電車を見送ってばかり。ゆとりを知らないプラットホームの中心で、無為な時間を過ごしていた。
 先ほどまでのどこかローカルな情緒は、下車した電車ごと車内に忘れてきてしまった様だ。都心に近づき、生ぬるい雰囲気がコンクリで固められた操車場に満ちていた。

「なあ、幹也」

 不意に、彼女は声を零す。
 何かを伝えた彼女の小さな唇は、タイミングよく飛び込んだ登りの特急電車にかき消された。聞き返そうと体を捻ると、こちらもタイミングよく、喫煙所から帰ってきた所長に妨げられた。

「まだ衛宮達は帰って来ていないのか? 何をしているんだ、まったく」

 間を外された僕は、自分の体でベンチの上にひ弱な“すたちゅー”を作る。
 僕は、ため息を零して再び式と背中合わせに腰を下ろす。

「どうした黒桐、不景気な顔をして」

 例の“ほうぐ”とやらを手に入れてから、所長は本当にご機嫌だ。
 「別に」と返す僕に、気味悪く「そうか」と余裕で答えた彼女。理不尽な彼女に余りある大人の態度は、最近見ていない。
 折角だから、眼鏡モードになってくれても良いと思うのだけれど、そう上手くはいかないようだ。

「ねえ所長。今回の幽霊事件は、どうして起こったんでしょうか?」

 僕は所長の問いかけに答えるのが癪だったので話題を変える事にした。
 聞きそびれた疑問は、所長の顔を不思議そうにゆがめた。

「発端はね、時計塔から“大海”が盗み出された事に原因があったんだ」

「盗み出された?」

「ああ、馬鹿な事をしたものだよ。協会所属の三流魔術師が、どこをどう間違えたのか厳重に保管されていた筈の宝具なんてしろものを盗み出してしまった。犯人自体は直ぐに鮮花が拿捕したらしいのだが、肝心の宝具が見つからない。犯人の自供によって、大海がここ日本に郵送されたのが判明した。大方、協会の手が届きにくい日本へ宝具ともども姿を眩ます心算だったのだろう」

 所長は僕の隣に腰を下ろし、徐に“大海”と呼ばれた大きなブローチを僕に手渡した。

「大海の所在を掴んだ協会は、すぐさま日本に使いを送り大海の回収を急いだ、だけどね、見つからなかったんだ」

「どうしてです?」

「君も知っての通り、大海自身が姿を眩ませてしまったからさ。衛宮の話しを聞く限り“大海”は自身が幻に象どられる。輸送中、訪れた例の町で紛失した。共振現象によってある種固有結界を形成した“大海”はものの見事に霧散していたのさ」

 僕は右手に輝く青いサファイアのブローチを眺める。はじめてみる宝石の大きさに僕は思わず唾を飲み込んだ。
 魔盾大海。
 所長はそう言っていたけど、見ようによってはそう見えなくも無い。ミニチュアサイズの盾と言えば伝わるだろうか?

「協会は焦るさ、何せ現存する宝具。貴重な神秘を紛失したともなれば、右へ左への大騒ぎだった事だろう」

 僕は大海から視線を所長に戻す。
 見れば、クツクツと真っ白な歯を覗かせていた。

「そこで妙手を打ったのが鮮花さ。何せ時計塔がそれなりに揺れた事件だ。もしもアイツが“大海”を回収できれば、協会上層部に大きな“借り”を作ることが出来る。自分の価値を上の奴らにアピール出来る良い機会だからね。私のところに電話を寄越したのさ。ま、そもそも、アイツ一人で宝具の回収まで完遂するのがベストだったんだがね」

「詰まり、オレ達に面倒事を押し付けて、手柄を一人締めって事じゃないか。鮮花の奴、俺たちを便利屋か何かと勘違いしてるんじゃないのか?」

 所長の言わんとする事をいち早く掴んだ式が、突然後ろから毒づく。苦笑は送る所長は、式の意地悪い言葉を否定することはしなかった。

「まあそれは兎も角、私も“大海”に興味があった。可愛い弟子のためでもあるが、久々の旅行も楽しめて一石三鳥だぞ? 何か問題があったのかね?」

 僕は大きなため息をついて零す。

「それじゃ、偶然に偶然が折り重なって、今回の事件は起こったんですね」

 何かどっと疲れが出てきた。
 もっと宿命的な出会い?  みたいな雰囲気を感じていたのだけれど、僕の思い違いだったらしい。

「そうかな? 偶然などね、世界に散りばめられた必然の一つだよ。君たちの出会いも、運命なんてロマンチックな必然なのかも知れないな」

「所長、――――――――――――――」

 嬉しい言葉に、自分の顔が笑顔になる。
 曖昧な表情は、その言葉ではっきり喜びを感じられた、なのに。

「しかしまあ、その逆もまた然り。そう言いたいんだろ、橙子?」

「所長、……………………………………」

「おい式、勝手に人の台詞を取るな」

 僕の態度の何が面白いのか、式と所長は同じような忍び笑いを木霊させる。
 すべり込んできた列車にお礼を言わないとね、あのまま理不尽な攻防の渦中にいたら、どうにかなってしまう。

「さて、――――――――どうやら衛宮たちも帰って来たな」

 所長は華やかな笑顔と共に行軍する、二人の声に振り向いた。
 さっきまで、どこか落ち着きの無かった士郎君はイリヤちゃんと和美ちゃんの遣り取りに困ったような顔をしていた。
 だけど、素直じゃないね。君も、僕も。

「―――――――先に行く、後から来るといい」

 所長は僕の顔を見送り、衛宮君たちに「遅い」と軽く叱責の言葉を投げて、電車に乗り込む。それに続いたのは女の子二人だけ。
 士郎君は、遅れた原因であろうお菓子とジュースの山を抱えてよれよれと後に続いて行く。

「―――――――――――ねえ式」

 士郎君が電車に乗り込むのを確認して、僕は口を開いた。
 電車が離れるまでまだまだ時間はある。僕は式に振り返る代わりに、右手に残った“大海(かのじょ)”の感触を確かめた。





■ Interval / for all believer ■





「さっきはさ、何を言おうとしたの?」

 式の前髪はピクリと揺れる。
 彼女を瞳に捕らえなくとも、僕は彼女の仕草など空気の変化で想像できる。

「あのさ、お前。――――――なんで、あんなに怒ってたの?」

 式の声が少し小さい、僕にはその理由が分からなかった。
 正面に見える列車の群れは、どうしたってジオラマの様にしか見えなくて、僕はリアリティにかける雰囲気を怖く感じた。

「――――――――――何のこと?」

「さっきの 電車。………衛宮とさ」

「ええ!? 式、君、起きてたのかいっ!?」

 僕の声がホームの中に響いている。
 「まあな」とそっけなく頷いた彼女は僕に構わず言葉を投げた。

「それでさ、お前はどうして怒ってたんだ? お前があんな顔するの、初めてだろ」

 僕はその問いに式の嫉妬を感じていた。
 式の知らない僕の顔を、士郎君に見せた事。そのことに、式が苛立ちを覚えているように感じられて、僕は凄く嬉しい。

「そうだね、はじめてだよ。自分でも意外だった。しかも、その苛立ちをぶつけた相手が士郎君だなんてね。本当、驚いた」

 だけど、もしも僕が怒りを覚える誰かがいるとしたら、それは士郎君以外ありえない。それも、僕は同時に感じていた。

「だけど、もう大丈夫。よく分からないけどね、“今”の士郎君には不思議と今まで感じていた曖昧なモノが無いんだよ」

 僕は、首を落として瞳を閉じる「なぜかな」そう説いた言葉は「さあね」式に思考の余地も無く返された。

「でも、なんとなくでいいなら分かるな。衛宮が変わった理由」

「―――――――――え?」

「鈍いな、相変わらず」

 式はギシリとベンチに深く腰掛けなおした。だけど、少しばかり式の背中が遠い気がする。

「お前は黒桐幹也だろ? 誰かが変わるには充分すぎる理由だよ、それ。オレが保証する」

 よく分からない。
 でも、その声色からは式の笑顔しか感じられないので、別にいいかと納得してしまう。

「それでさ、お前が怒ってた理由、いい加減話せよな」

 話しは戻って今度は式の声が一変した。

「だってさ、士郎君は“彼女”の生涯を間違いなんてゆうんだよ? 彼女の生涯を否定するって事は、“識”を否定するって事だろ。そんなの、絶対に僕は許さないよ」

 でも、僕は式に動じず返す。だって当然だ、こんなの、口に出す必要も無い。

「ああそうか、幹也もまだ、―――――忘れて無いんだな」

 嬉しそうな空気が、閉鎖的な駅内に満たされる。

「――――――――当たり前だろ? そんなの」

 僕は、自分の言葉になんら特別な物は感じない。
 けれど、それでも式が笑顔でいてくれるのなら、それで構わなかった。

「当たり前ね。――――相変わらずずるいよ、お前は」

 式の気配が背後から消えたかと思えば、彼女のぬくもりは僕の直ぐ隣にあった。

「どうしたの? 突然」

 式のぎこちない笑顔、それでも、昔よりもずっと綺麗な顔だ。

「別に。お前の背中、アイツとオレ、二人も背負ったら重いだろ? だからさ、俺はお前の“隣”でいい。お前の左側でさ」

 少し朱に染まった式は、誰の目から見ても無理をしている様に見えるだろう。
 僕もやっぱり男なのだ。そんな彼女を、抱きしめたいと思っても、なんら罪に問われないと思う。

「ねえ幹也」
「ねえ式」

 僕たちの声に重なるように、所長たちの乗り込んだ電車から、甲高い電子音。
 どうやら、考えていたことは一緒だったらしい。
 どんな甘い言葉より、どんな強い抱擁よりも、僕はこの瞬間が好きだ。
 どんなちっぽけな事でも構わない、同じ願いを持つ瞬間にこそ、幸せは溢れていた。

「そうだね、もう少し」

 ロマンチックなんて何も無い、この場所で、―――――――君と。

 走り出す、送り火のような車両を眺めて僕らは幸せを噛み締めた。
 僕の背中にある、確かな温かさは、けして夏の暑さの所為ではない。

 そうだろ?――――――――識。



[1027] 第十一話 スパイラル
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 10:34
/ 0.

「くぁ!!」

 鬱憤炸裂。体がわなわなと震えている。
 俺はもう何個目になるか分からないランプだった物を握り締め、地団駄を踏んだ。
 今日の課題は変化の魔術。俺が最も苦手とする魔術と言っても過言ではない。
 
「――――――――にしても、酷すぎる!! なんでさぁ!」

「はいはいどうどう、落ち着いてね、シロウ」

 例の如く先生の工房。今日はイリヤも一緒に魔術の鍛錬を受けていた。





Fate / happy material
第十一話 スパイラル Ⅰ





「衛宮―――――ランプの爆破はもういい、面白いのは一度だけだ」

 先生が綺麗に整った細眉をピクリと吊り上げ俺をばっさり一刀両断。変化の散々な失敗により、狭いこの部屋の中には、砕けたランプが満ちていた。
 先生は砕けたソレを灰皿代わりにタバコを吹かす。

 今日の工房は丁度オフィスの真下を占領するビル三階の武器工房。先生はアクセサリを創る場所と割り切っている様だが、充分に剣鍛をこなせる立派な炉心も備え付けられている。
 小さな窓から差し込む夜風は、段々と秋の香りを伴っていた。九月に入ったとは言え、冷房も無い狭い室内に三人だ、じっとりと汗が浮かぶのは俺だけでは無い筈。だが、先生にもイリヤにもソレが一つも見られない。
 彼女達と一緒に、変化の鍛錬を始めてから早二時間。疲労の色があるのは、俺だけなのか?

 ――――――もっともっと強くなる。そう決めたじゃないか。

 “ディアドラ”の事件から、月日はそれなりに流れた。俺の心はより固まったにも関らず、くじけてしまいそうだ。

「いいシロウ? 私が手本を見せるから、もう一度よく視ていてね」

 残り少なくなったランプを手に取り、イリヤが自身の魔術回路をONにする。イリヤの緊張が室内に満たされ、それに当てられたかの様に、自然と俺は解析の魔術を走らせていた。

「Bahnsteig ―――――Verstarkung、anzunden(強化、注げ)」

 先ずは強化。
 ランプに上手くイリヤのパスが繋がり、魔力が流し込まれた。
 彼女の回路とランプの中に張り巡らされた概念線、それを繋ぐ通路(パス)。この工程なくして神秘の行使は在りえない。パスの創り方、通し方、練度、速さの違いは在れど、この基本は変わらない。
 とは言え、優秀なイリヤだ。明らかに俺よりも大きく、そして繊細な炎がランプの中に灯る。

「ここからが本番、――――sich verwandeln、Blau(変化、青)」

 灯された炎に、本来在りえぬ概念が付加される。イリヤは自身の属性である“水”の概念を、パスを伝い魔力と共に流し込んだ。
 揺らぎ、緩やかにその色彩を変えていく焔。真紅の炎は、たちどころに氷の青に塗り替えられた。

「どう、シロウ? ぐうの音も出ないでしょう?」

 ふふん、と可愛らしく変化の成功したランプを俺に差し出す。褒めて、褒めてと言わんばかりに笑みだ。
 だがな妹よ。今日の俺に、そんなゆとりは無いのだ。

「――――――――――ぐう」

 俺は大人気なくイリヤから視線をそらし言ってやる。
 悔しくなんか無いぞ。

「……………ヘッポコ。情けないとは思わんのか」

「そうだそうだぁ、ヘッポコ~」

「口をそろえてヘッポコヘッポコ言うな!!」

 前言撤回、滅茶苦茶悔しい。
 俺は床に転がったランプを引っ掴み、汚名挽回(ん?)に乗り出した。

「みてろよ!――――――強化、開始(トレース・オン)」

 今までは基本骨子、構成材質を端から解明し、理解しなくては強化を行えなかった俺だが、今ではこの通り、パスを繋ぎ魔力を注ぐ工程ならば流れる様にこなすことが出来る。
 流し込む魔力に細心の注意を払いながら、俺は神秘を行使する。
 身体強化は出来ないにしても、「剣」を基点に様々な方向性の“物質”に強化を施すことは、さほど困難ではない。
 つまり、このランプも例外ではないのだ。

「――――――――――強化、完了(トレース・オフ)」

 魔力の充填されたランプには、確かに炎が灯っている。
 イリヤの強化に遠く及ばぬながら、俺の強化は成功した。

「うっし、どうだ!!」

「どうだといわれてもね、私の強化した奴より出来が宜しくないじゃない?」

「確かにね。強化しただけ、といった感じだ」

 先生は何本目になるか分からないタバコに火をつける。

「君は、未だ強化できるのが「剣」に付随、もしくは派生した概念に属する“物質”のみ。金属の概念を有するランプも今の君にしてみれば、失敗するはず無かろう? いまさら強化の魔術を失敗されたら、私の沽券に関る。師匠を虐めて楽しいか、馬鹿弟子」

 冷や汗さえ流し、先生はほっと息をつく。

「そう言えば、シロウはまだ、火や水、風や土、エーテルやマナに干渉する魔術は、行使は愚か、パスだってまともに繋げられなかったわね」

 意地悪くイリヤが三つ網を弄んでいる。
 ぬう、だがしかし、その反応は予測済み。ぐっと、冷静を装い強気を保つ。
 おざなりな態度で先生は「さっさと変化の行使に移れ」と右手でジェスチャー。
 俺は、今度こそとばかりにシャチホコ張り、目の前に灯る閉じ込められた火種に神経を研ぎ澄ます。滴る汗が、一気に引いていく。

「――――――――変化、注入(サーキット・イン)」

 先ずは何を置いてもパスを繋ぐ、それが最優先事項だ。
 俺は再度自身の回路とランプを同調させた。カチリと何かが噛み合う手応えを感じ、第一段階終了。ここまでの工程は強化と変わらない。

 本番はここからだ。

 変化の魔術とは、本来在りえぬ属性を別の器に付加するモノ。強化が、ただ魔力をコントロールし、蓄えるだけなのに対して、変化の魔術は魔力と共に“概念”を付加する。強化の手順に加え“概念”と言う曖昧なモノを付加するからこそ、変化の魔術は強化の魔術よりも上位の難易度を誇る。

「―――――――変化、摘出(サーキット・アウト)」

 今回、俺が付加するのはイリヤと同じ“水”の概念。
 剣から派生する様々な概念、金属、火、水、理念。俺の属性「剣」を構成する一要素を抽出し、魔力と共に流し込む。

 だが、ここからが難しい。

 このランプを構成する様々な物質、そして概念。数多在る様々な要因が連鎖的に絡み合い、この“ランプ”を構成している。
 普通の魔術師ならば“どこに概念を付加するべきか”感覚で分かるものらしいのだが、俺にはそれが分からない。

 ――――――いや、違う。

 普通の魔術師は、そもそも構成がどうだの、概念がどうだのなんて捉えてはいない。“ランプ”と言う全体像に新たな概念を付加するだけ。
 しかし、俺にはこの“ランプ”の全てを把握できてしまう特化された解析能力がある。故に、俺には“どこに概念を付加するべきか”理解する事を強要されるのだ。

 つまり、八節に別れたランプ。
 創造理念、基本骨子、構成材質、製作技術、憑依経験、蓄積年月。俺は自身の能力をフル稼働させ、変化を促すべき“起点”を探し出す必要があるのだ。
 
「――――I am the bone of my sword.(我が“骨子”は捩れ狂う)」

 選択したのは基本となる骨子。
 俺がいつか感じた心の奥底にある言霊と共に、変化の暗示を込めた呪を紡ぐ。
 感じる成功の感触。

 ――――――今回の俺は一味違う。

 ランプは“水”の概念が付加され、そして。




「―――――――――いい加減にしたまえよ、君」




 粉々に砕けてるし!?

「あ、いや、コレは、――――――」

 なんでさ!? なんで今度も失敗なのさ?
 アレだけ気合を入れたのに、なんでなのさ!?!?!?

 俺は先生の殺気にたじろぎながら、粉々に砕けたランプに視線を逃がす。いやはや、見事なはじけっぷりです事。人事ならば、俺だって呆れるか、大笑いでしょうよ。

「しかし、見事に爆発したわね」

 イリヤは感心しながら、炸裂弾の如く周囲を巻き込んだガラス片を回収する。

「まったくだ。私たちは衛宮の属性を履き違えていたらしい」

 先生は呆れて何も言いたくないが、言わずにいられない、何とも絶妙な表情をなさってくれる。先生、その先は言わなくても結構ですよ?

「君の属性は爆発だ、爆発、はい決定。おめでとう衛宮士郎。なにやら芸術は、爆発で大成出来るようだし、案外、魔術でも良いところまでいけるかもしれん。良かったな、ヘッポコ」

「ちょっと、トウコ。いくらなんでも言い過ぎじゃない?」

「構うものか、衛宮にヘッポコと言って何が悪い。覚えておけイリヤスフィール、名と体は常に等価値だ、ソレを否定することなど“魔術師(私たち)”には出来ない。ヒトが神秘を象るように、神秘が象るのもまたヒトだ。そして同様に、衛宮が象るのがヘッポコで在り、ヘッポコが象るのもまた衛宮なのだよ」

 ―――――――なんだ、この抑えきれないミゼラブルな気持ちは?

 俺はにじむ視界を、男のプライドにかけて否定し、涙腺から滴る水分を飲み込む。
 ここまで来たら、意地ですよ。なにが何でも変化の魔術を成功させてやる。

「あの、もし宜しければ、何かご教授していただける事はないでせうか? 先生」

 低頭平謝りモードの俺は、決意とは真逆に教えを請う。
 顔面の筋肉を痙攣させる先生は、「いいだろう」と瞳に歪な光をためる。

「その挑戦、確かに受け取った。封印指定の名にかけて、その精魂叩きなおしてやる」

 その後は、ひたすら変化変化変化の呪を紡ぎ続ける。

 罵られる俺。
 罵る先生。
 呆れるイリヤ。

 何かもうヤケクソの俺。
 疲労困憊、自信喪失の先生。
 すっかり飽きてしまったイリヤ。

「――――あい・あむ・ざ・ぼーん・おぶ・まい・そーど」

 そして、俺は夜も更ける丑三つ時、最後のランプを粉砕した。






 九月某日。
 衛宮士郎、変化の魔術を行使する事、実に88回。内、爆砕88回。











 なんでさ?
           



[1027] 第十二話 スパイラル
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 10:45
/ 1.

「はあ」

 シチューの底が焦げ付かない様に、俺はノンビリとお玉を回してため息。最近、溜息が板についてきて酷く情けない。
 イリヤリクエストの海鮮クリームシチューの出来は最高だって言うのに、何なんだこのうかない気分は。

「なにさなにさ、その鬱陶しいため息は。止めなよ~幸運が逃げてくよ~」

「そうよシロウ。折角いい気分でお風呂上りの爽快感を満喫しているのに」

 風呂上りのイリヤ、晩飯時になると必ず顔を出す朝倉を無視して、鍋を弱火に。後はゆっくり煮込むだけだ。玄関横の時計で時刻を確認しながらエプロンを外す。

「ねえねえ、それでさ、今日の晩御飯は何?」

 時刻は七時前か。
 入れ替わりに台所に向かう朝倉を尻目に、俺は居間に腰を下ろして先ほどまで読んでいた本を手にとる。

 同時に、イリヤと朝倉が揃って見ていたニュース番組の喧騒が耳についた。無表情なニュースキャスターが西日本で多発する怪死事件の詳細、そして相次ぐ行方不明者の安否を気遣いながら番組を進めている。だが、俺が心に嫌な物を感じたのも一瞬、美人のキャスターは画面から消え、壮年の男性が和やかに進めるクイズ番組にブラウン管は顔を変えた。

 どうやら、イリヤはテレビに夢中のようだし、読書の邪魔にはならないだろう。
 しおりを外し、目的のページに視線を落とした。

 俺が今、頭を痛める変化の魔術、それについて事細かに書かれているのがこの本。アルベルトゥス・マグヌス著、“鉱物書”。その写本、そのまた再版本だ。
 本来、魔術書とはそれ自体が神秘を内包する限定、もしくは補助礼装の事をさす。優れた魔術師によって書き起こされた本は、俺が識る剣達と同じく、高みにある一つの神秘だ。故に、俺が手に取る再版もしくは写本など、一般の魔術師に多く出回っている神秘の劣化した本は、一般に“魔術教本”と区別するのが通例らしい。だが、面倒なので俺は魔術書と一からげに纏めて呼ぶことにしている。だって楽だし、その方が。こうやって人は自堕落の無限地獄に嵌るのだろうか?

「おおっ、今日はクリームシチュウだね? 良いじゃん、良いじゃん衛宮っち」

「ええ、今日は私のリクエストなの、楽しみね」

「かあ~見せ付けるねぇ、私のリクエストはたまにしか聞かないくせにさ」

「………………カズミ、今まで貴方がリクエストした物、初めから列挙してみなさい」

「大トロの握り、サメのひれ、カレー、真っ黒な粒粒、……あと、なんだっけ?」

「………………さあ、ガチョウの肝臓じゃない?」

 変化の魔術は元を正せば錬金術にその源流が在る。唯の石ころを金に変える、本来在りえぬその反応を、神秘を用いて行使する。ソレが錬金術だ。
 今でこそ、錬金術はアトラス院の専売特許となっているらしいが、時計塔にも、元来あるこの流れを汲んだ錬金術師も少なからず存在しているとか。

「カズミ、冷蔵庫に麦茶があるからとって貰えるかしら?」

「はいよ~、――――おおお、この黒い光沢を放つ物体はぁ」

「コーヒーゼリーよ、昨日シロウが作ったの。今晩のデザートね」

「すげ~、わんだふぉ~!!!」

 13世紀。
 マグヌス伯はアリストテレスの流れを汲む、超一流の錬金術師としてその名を刻んだ。
 なぜ俺がこの人物の錬金術書を読んでいるのか。それには勿論理由がある。大体、変化の魔術について知りたいのならば、一般にある魔術書を読めば事足りる。
 魔術回路から別の物体の回路、概念線への接続法。属性からの派生概念の抽出、注入、固定。果ては類感を用いた属性の置換などなど。これら一般の工程は、俺でも努力しだいでどうにかなるのだ。

「ねぇカズミ、七時から面白い番組やってないかしら?」

「ん、チョイ待ち。さよ、お隣さんちの新聞盗み見してきてよ」

「新聞、そこにあるじゃない?」

「気分の問題だって。何ていうのかね、情報屋のプライドがそうさせるのさ?」

「…………へんね、今日はそんなに暑くないはずだけど。っていうか犯罪よ?」

 だが、ここで問題になるのが俺の属性。余りにもマイナーすぎる俺の属性は、通常の魔術教本では扱いきれていないのだ。
 「剣」いわゆる世界の理をなす五大属性にあぶれてしまった俺は、世界と言うプログラムへのアクセスが非常に困難だ。

 この問題を解決するために、先生が俺に薦めたのがこの本だった。
 何故なら、題名にもあるように、この本は“金属”変化、そして嬉しい事に、特異な魔術回路、属性からの世界、概念干渉に要点を置いたものでもある。正に「剣」である俺の為に書かれたと言っても過言では無い。

「お、帰って来たね。ふむふむ、イリヤちゃん、プリーズ、リモートコントロール!」

「何よこの番組、いいわ、やっぱりニュースにしましょう」

「そんなあ!? コレから、カレー神父とマーボーシスターが熱い抱擁を交わす最高に訳の分からないシーンなのに!!!! どうして、この味が君には分からぬ!? 神父さんが怒るぞ、イリヤスフィール嬢!!!! チャンネルをプリーズ!!」

「嫌。だってつまらなかったもの」

「ぐは!? 大人の余裕で子供理論!? 歩み寄る余地もねえ!?」 

 つまり、なにが言いたいかと言うと。

「――――――だああああ! うるせえええええ!!!!!!」

 まったく集中できないと言う事だ。

「晩飯をやらん! これ以上俺の邪魔をするなら、シチューはやらねえ!!」

 魔術書を放り投げ、完全に逆切れ。
 晩飯時に魔術の勉強など甘いことを考えた俺がいけないのは分かっているのだが、言わずにはいられなかった。冬木の土蔵がどれほど俺にとって重要だったか、しみじみと感じる。

「なによそれ!? 横暴よ、職権濫用よ!!!」

「そうだそうだあ!晩御飯をだしにするなんてずるいぞ~、我々は断固反対する!」

「大体、騒いだのはカズミじゃない! 罰を受けるなら彼女だけよ」

「そうだそう、――――ちょいまて。なにさ、その鮮やか過ぎるカウンター」

 たかがシチュー、されどシチュー。侮りがたし、我が家の白い奴まーくつう。
 があーと血相を変えるお嬢様方に俺は、一瞬たじろぐも、引き下がらない。

「食券乱用もしていなけりゃ、シチューを出汁にも使ってないぞ! 晩飯が出来上がる少しの間位、俺に静かな読書の時間をくれても良いだろう!」

 自分でも訳の分からぬ事をのたまい、二人に切り返す。
 当然、意味は無い。

「ふ~んだ。いくら魔術書を読んだって無駄よ~。トウコだって言ってたじゃない」

 鼻を尖らし、俺を見下ろすイリヤ。それに賛同するのは朝倉だ。くそう、確かにソレも事実だが、大事な一言が抜けているぞ。悔しさのままに、俺は言葉を叩きつけた。

「そんなの分からないだろ!? 知識はあるに越したことはないんだし!」

「む。――――――何よ、今日は随分と突っ掛かるじゃない、シロウ」

「いいぞお、やれやれえ!!!」

 ああいえばこうゆう。実に低レベルな遣り取りの応酬は、どれだけ続いたのか分からない。
 段々と加速していく攻勢、そしてボリューム。もはや収拾のつかないと思われた俺とお姫様二人の遣り取りは。

「うっさいよガキども!! 近所のお姉さんの事を考えやがれ!」

 玄関は弾ける様に空気を入れ替える。
 半纏を着込んだお姉さんの最もな一言で、あっけ無く幕を引かれた。





Fate / happy material
第十二話 スパイラル Ⅱ





 先生の所でランプを爆砕すること八十八回。稀にみるナイトメアから早一週間。玄関隣の小窓から差し込む夜風は、初秋の匂いを運んでいる。

 デザートのコーヒーゼリー、少しせっかちだが、バイヤーのお姉さんからお裾分けの柿をつまみ終え、今は腹ごなしのティータイム。イリヤは最近、和風びいきの傾向が強く、玄米の香りを右手にずっと口直し。朝倉はねっころがって、テレビの虫。二人とも既にお風呂を済ませているため、辺りはお茶とシャンプーの香りで一杯だ。
 男の俺にしてみれば、少し落ち着かない。
 そんな羨まし過ぎるカタルシスを払拭するため、俺は無駄だと言われても、やっぱり魔術書を片手に変化の工程について学んでいた。

「衛宮っち、コーヒーお代わり」

 ぴくりと、俺の眉毛が釣り上がるのを感じた、―――――がしかし、我慢だ我慢。俺はアダルト、アイツはチャイルド。行動原理学から言えば、喧嘩は発生しないのだ。堪えろー、俺ー。
 俺はゆっくり立ち上がって、コーヒーを入れる。勿論、最高に濃ゆいのを。流石にブラック党のこいつでも相当効いたらしい、一瞬息を詰まらせる。や、我ながらささやかな自制心でした。
 「う゛んん」っと咳払いをした朝倉はコーヒーをちゃぶ台に乗せると、ゴロゴロ転がりだした。こんなんでも、麻帆学の成績優良者なのだから、世の中神秘に満ちているものだ。

「あ~しかし暇だね。最近なんか面白いことあった?」

 暇なら帰れ、俺は魔術の勉強に集中したい。出掛かる言葉を飲み込む。
 もはや晩飯をたかられる事になんら疑問を抱かぬ、自身の愉快な脳みそを蹴飛ばして、魔術書を食い入る様に見つめた。
 なになに。変化の起点、その志向性?

「おーい、気いてるかあ?」

 類感によって置換した自身の属性を、魔力と共に概念の“根底/0”に流し込む事で魔術的な反応で起る変化の矛盾を最小限に留め、魔術行使による状態変化、そして志向性を限りなく自然な流れへと――――――よく分からん。

「無視すんなよ~、衛宮っちの赤裸々体験をブロードキャストすっぞ~」

「――――――――――おいこら、物騒な事言うな」

 思わず突っ込んでしまった自分に、「仕方ねぇなあ」と毒づいて、読書を諦める。
 後ろめたいことなんて、………ないよな、多分、きっと。

「おお、やっと反応したね。ほれほれ、気い張ってたって頭になんか入んないよ、らりっくす、りらっくす、らりりらっくす?」

「はいはい、分かった。分かったからその変な言葉使いをやめてくれ」

 未だ、ラリラリ言っている朝倉に、疎ましげな苦笑をくれてやる。
 標準以上の美少女のこんな醜態をまじかで拝める俺は、果たして幸運なのだろうか? それとも不幸なのかしら?
 差し込む秋風は少し肌寒い。どうやら、後者のようだ。

「ふう。……なんにしても、少し休憩。気い張ってるのも、事実だしな」

 丁度、脳みそが臨界に来ていたところだし、小休止だ。
 肩を回して足を投げだすと、大きく息を吐き出した。朝倉の言うとおり、気をやりすぎていたのも本当だった。

「そうそう、シロウは休むのがヘタなんだから、しっかり息を抜きなさい」

「あ、――――――――悪いな、イリヤ」

 狙いすました様に、イリヤが盆にのせられたコーヒーを手渡す。ちなみに、淹れてくれたのは朝倉だ。例えインスタントでも、香り立つ湯気、そしてこいつらの気遣いも相まって、凄く上手そうに見える。――――――――だが、お約束どおり凄く苦い。朝倉、さっきの報復にしてはタイミングが最高すぎるぞ。

「しかし、衛宮っちは読書の秋かい? 似合わないねぇ」

「う~ん、そんな高尚なもんじゃない、いうなれば、プライドの問題だ」

 こいつの報復にリアクションするのも癪なので、さらりと返す。案の定こいつは不満そうに指を鳴らした。
 しかし敵も然る者だ、気にした様子も無く、返す。
 
「プライドね。私にゃよく分からないけど、何にかの魔術でも勉強してるのかい?」

「ああ、変化の魔術についてちょっとね、―――見てみるか?」

 俺は興味深げに朝倉が視線を送っていた“鉱物書”を手渡す。
 ぺらぺらとページを繰る朝倉の隣から、イリヤが専用の茶碗を片手に、シルクのパジャマ姿で顔を覗かせた。和洋ごちゃ混ぜのいでたちの筈が、イリヤがすると全く不自然では無かった。

「シロウも勤勉よね。トウコも言っていたじゃない、必要ないって」

 イリヤは胡坐をかく俺の向かいで腰を落とす、彼女の顔がぐっと近づいた。

「今の貴方に必要なのは鍛錬や知識の溜め込みじゃない、“きっかけ”よ。新しい魔術を覚えるためのね」

 俺の憂鬱の原因を、さらりとおっしゃってくれます。
 俺は頭をがりがりと掻き毟り、大きく息をつく。同時に思い起こされる先生の言葉。
 でも実は、あんまり覚えて無いんだよな、あの時のこと。
 一瞬天上を仰ぐ俺の仕草から何を思ったのか、イリヤの円らな瞳が段々と半眼に落ち込んでいく。

「まさか、シロウ。あの時の説明、よく分かってないんじゃ………」

「そ、そんな事は無いぞ? ほら、あの時は俺も先生もヘロヘロだったしさ、ちょっと覚えが悪いかなあ、なんて?」

 ああ、イリヤの視線が痛い。仕方が無いだろ、なんせ八十八個のランプを粉々にした後だ、体は勿論、頭だってまともに働くわけが無い。

「――――――それで貴方はどこから分かって無いのかしら」

「いや、別に分かって無いってわけじゃ、――――――――」

 イリヤの半眼はいつの間にか小さな唇と一緒に綺麗な笑顔に変わっている。
 俺の心は既にギブアップを決めていた。当然だ、俺はフェミニスト。決して女性は怖いなあ、なんて思った訳ではない、あくまで女性に譲歩しただけだ。

「どこからかしら?」

「はじめからご教授お願いできますでしょうか、レディ」

「宜しい」

 姿勢を正して正座。
 イリヤはどこから持ってきたのか縁無しの眼鏡を小さな鼻にのせ、きりりと振舞う。

「パジャマルックに先生眼鏡―――――ぬう、コレは。どうです解説の衛宮さん?」

「そうですね、とにかく黙れ?」

「は~い」

 いつの間にやら俺の隣で同じように正座する朝倉を一喝。
 面白けりゃ、こいつは本当に何でも良いらしい。俺が貸していた魔術書はいつの間にやら備えつけの本棚の中に。
 手ぬぐいでポニーに纏められた朝倉の髪が、俺の右肩に触れる。彼女は背筋を伸ばして俺に視線を送った。

「ね、イリヤちゃんはさ、一体何を始めるのさ?」

「多分、先週先生の所で習った魔術講座のおさらい。技術やら行使の工程云々じゃなくて、もっと根本的な魔術原理についての話だったのは覚えているんだけどさ」

「テーマを覚えていても内容忘れてるんじゃ意味無いじゃん」

「………それを言うなよ」

 肩を落とす俺。ま、最もだけどな。そこらへんは、成績優良者のお前にゃ分からん。だってな、それは脳味噌の奇跡であり、ミトコンドリアの叛乱であり、要するに俺が馬鹿だからだ。
 朝倉はパジャマ代わりに来ている無地のTシャツをボリュームのある胸で上下させる。ケラケラ笑いながらの謝辞では、全然骨身に沁みてこない。

「ほら、イリヤも真面目に話してくれるみたいだし、あんまりフザケタ態度はいかんだろ」

 朝倉をイリヤの方に向き直させる。
 俺達の遣り取りに何の突っ込みも入らないところをみると、イリヤ、相当気合を入れて教えてくれるみたいだ。

「そうね、それじゃ基本中の基本、魔術の定義からお話ししてあげましょうかしら? 先週の鍛錬でも、トウコの話はここから始まっていたしね」

 うんと頷いたイリヤは指を鳴らす。同時に手狭な室内は暗転、狭いアパートに神秘気的な雰囲気が充満する。視れば、イリヤの横にはさよちゃんがせっせと、小道具やらなにやらを調達している。どうやら、さよちゃんは今回イリヤの助手を務めるようだ。解析を走らせると、イリヤとさよちゃんにラインらしきモノが繋がっている感覚、イリヤの魔力供給によって、さよちゃんを可視化状態に切り替えたのだろう。

「はい、それではカズミ君。魔術とは何かしら?」

「人為的に神秘や奇跡を再現する事の総称です。イリヤスフィール先生」

 イリヤ、朝倉共々ノリノリだ。
 しかし、ま、たまにはこんなのも良いだろう。

「正解ね、よく出来ました、カズミ。花まるをあげる」

「凄いですねぇ~和美ちゃん」

 さよちゃんは、ポルターガイスト現象やら血文字を使って我が家の白壁に朝倉の解答を記していく。確かに魔術の勉強っぽいけどさ、消えるのかソレ? こんなオンボロアパートでも、敷金ってのは馬鹿に出来ないんだぞ。

「それでは、シロウ君。その神秘は、具体的にどのように起っているのでしょうか?」

 ぬ、以前の俺なら、答えられないであろう難題を振られた。だがしかし、先生に鍛えられた俺の脳みそは伊達ではない。
 朝倉は面白解答を期待しているようだが、甘いぜ。

「魔術とは魔力を持ってあらかじめ世界に定められたルールを起動、自然干渉を起こす術式。つまり、世界というシステムに呪文と言うコマンドを送り、神秘(プログラム)を実行する工程をさしていると思います」

「正解。シロウ君にも花まるをあげるわ」

「衛宮さんも凄いですね~」

 頬を伝う生暖かい感触、俺のほっぺに真っ赤な鮮血の花まるが描かれる。
 朝倉と俺のほっぺには揃って血文字の花まる、当事者だから言えるが、俺達は愉快な顔にマテリアライズされていることだろう。

「それじゃ本題に入るわね。確かにシロウの言う通り、魔術とは世界の基盤にコマンドを入力する事で顕現する。ただ注意して欲しいのは、この“世界の基盤”言い換えるならシステムは共有資源であると同時に、各門派の魔術師によって独占されているものなの」

 イリヤは腰に手を回し、三つ網を軽くゆらす。

「門派が独占? 何だよそれ、どういう事だ?」

「例えば、“火をおこす”って言う術式が世界の基盤にあるとしましょう。この神秘は様々な魔術的アプローチで同じ現象を顕現させる事が出来るの。例えば、そうね“燃えろ”と言うコマンドでその魔術を発現させる者がいれば、“焦げろ”と言うコマンドで神秘をなす者もいる。異なったアプローチで異なった回路を使用、そして同種の現象を施行する、この神秘を代々発展させ続け、自己の魔術となす、コレが私たち魔術師の“魔術(プログラム)を創る”工程」

 俺は朝倉と揃って顔を見合わせる。どうやら、俺たちの魔術知識にそれほど開きは無いらしい。揃って首をかしげた後、俺はおずおずとイリヤに質問を返した。

「う~ん、よく分からん無いけど、世界にある魔術式を“発掘”するってことか? ようは、火を起こすって神秘はその世界(システム)にある回路(プログラム)を発掘し、保持しているからこそ、魔術式を起動できる。そして尚且つ、その工程には魔術師ごとに違いがあると」

 イリヤは、少し驚いたように「あら」っと、背中をやや後ろにひいた。
 俺が話しの要点をキチンと抑えたことに、少なからずの驚きを覚えたからだろう。

「そうね、魔術師は先祖が膨大な年月をかけて発掘した“世界の回路”を魔術と呼び、一つの魔術体系にする。遠坂にしてみれば、宝石魔術と…もう一つ、アインツベルンにしてみれば聖杯の創造。これらの魔術式を世代を超えて発展、そして発掘を繰り返し、魔術師は家系を大きくさせていくの」

 さよちゃんがアパートの白壁に走らす血文字は、イリヤの説明に追いついていない。気にする様子も無いイリヤの早口に待ったをかける為、俺は右手を軽く上げた。
 
「ああなるほど、正当な魔術師の家系に生まれた奴は、体系的にある“既に発掘された”魔術を刻印、そして血統として受け継いでいく。だから、そいつらは生まれながらに魔術を“知っている”」

 自身で口にして、俺はイリヤがこれから話そうとしている事にあたりを付け始めていた。したり顔の俺に、イリヤが確認の意味も込めて頷く。

「そうね、一般に魔術師と呼ばれる家系は、大抵の回路を発掘して保有している。複雑高度な魔術(プログラム)は刻印として後世に残す必要があるけど、基本となる魔術式は“血統”として受け継がれているの」

 もはやイリヤの解説について行けなくなった、板書?担当のさよちゃんに苦笑をプレゼント。俺は詰まらなそうに体を転がす朝倉の隣で、自身の結論を、正座を解いてイリヤに伝えた。

「俺みたいなぽっと出の魔術師に才能が無いっていうのは、その“世界にある回路”を体系的に保有していないから。――――――魔術を新しく“発掘”する必要がある、そりゃ、大変なはずだ」

 今でこそ、鍛錬をこなしながら強化、解析、投影と言った魔術を行使している俺だが、大前提として、“魔術の発掘”と言う工程が存在していた。
 “覚える”事と“学び伸ばす”と言う過程は似ているようで全然違う。
 かつて俺は、切嗣の元で強化や解析の魔術回路を発掘していた。だからこそ、曲がりなりにもその魔術を行使することが出来たんだ。

 ――――――――だが、変化の魔術はどうだ。

 コレは俺がまだ“覚えていない”そして俺の回路が“知らない”魔術だった。
 強化、解析、投影。俺の“世界”に付属していた魔術。俺が“知っていた”魔術では無い“変化の魔術”。
 つまり、今俺がこなす工程、ソレは衛宮士郎が初めて“魔術を学んでいる”ことに他ならいんだ。

「“変化”の魔術は、―――――俺の世界に無かったんだな」

 俺は思わず嘆いた。
 その有耶無耶な言葉に、イリヤはゆっくりとした挙動で眼鏡を外すと。

「そう。貴方に必要なのは知識や技量じゃない。貴方の回路と貴方の世界にある“変化”と言う術式。ソレを見つける“きっかけ”が今の貴方に一番必要なものなのよ。分かった? お兄ちゃん」

 先ほどまでの作り物じゃない笑顔で、俺を向かえてくれた。
 イリヤのその笑顔、いや、イリヤだけじゃない。ヒトが作る笑顔とは違う、誰かが零す微笑が、俺には本当に価値あるものに思えた。
 今までの俺は、誰かの笑顔と幸せ。ソレを本当に理解していたのだろうか?

「――――――――ふん。何、恥ずかしい事を考えているんだか」

「どうしたの、シロウ?」

 俺に向けた嘲笑はイリヤの言葉に打ち消された。
 彼女は、三つ網を解いてお茶で喉を潤した。

「いや、何でもないさ。朝倉とさよちゃんが詰まらなそうだし、今日はコレぐらいにしておこう」

「そ。貴方がそう言うなら、ソレもいいわ」

 イリヤは再度指を鳴らす。
 明かりを取り戻した室内は、いつもの喧騒を心待ちにしていたようだ。ちかちかと照らす電灯は、どこか嬉しそうに日常への回帰を祝ってくれている。
 俺はソレを合図に、退屈が臨界を超え、後数分もすれば決壊しそうな朝倉に声をかけた。

「おい、朝倉。トランプ……そうだな、ばば抜きでもするか? 退屈を紛らわすには最適だと思うんだが?」

 最初に口に出すのがこんなもので申し訳ないが、たまにはこんなのも良いだろう。
 面子も四人、丁度いいしな。
 俺は立ち上がり、箪笥の中からごそごそと、しばしば紛失するホビーの王様を探す。

「お。あったあった、懐かしいな、こういうの」

「おお、衛宮っち。ナイスだよ」

「いいわね。タイガに鍛えられた私の実力、見せてあげるわ」

「あの~、私どうやってすれば」

 振り向けば狭い居間の中心、ちゃぶ台の上にリロードされたお茶菓子や急須。
 みんなやる気は満々だ。
 明日の仕事に遅れないように、早めに切り上げられれば、嬉しいんだが……難しそうだな。

 最後の望みと時計を振り返る、―――――幸い九時。
 彼女たちを満足させるには充分な時間があるようだ。
 
 窓越しに見える三日月は、秋の夜長を象徴するかのように高く高く輝いていた。



[1027] 第十三話 スパイラル
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 11:03
/ 2.

「ねえ、士郎君。週末の予定は決まっている?」

 十月の初頭。精神的にも肉体的にも疲労がたまる水曜日の夜。
 先生の注文した人形素材の棚卸し作業を完了させた俺と幹也さんは、段ボール箱を抱えながら伽藍の堂の階段を往復していた。
 十回以上の往復は流石に堪える。幹也さんに無理をさせる訳には行かないので、実質俺一人で荷物の移動は行った様なものだしな。

「週末? 空いていますけど、なにか?」

 最後のダンボールを何時ものオフィスに積み上げ終え、幹也さんに返す。
 この後、式さんとの鍛錬、先生の魔術講座があるなんて悪い冗談だ。十月だと言うのに、汗が全く引かない体を壁に預ける。背中の冷たさが心地よい。

「ならさ、土日で麻帆良に行ってみないかい? 前に士郎君の話していた、外国みたいな町並みって興味があってさ。式も大学のテストが終わって、暇みたいだしね」

「あら、ダブルデートのお誘いかしら? いいじゃない、私は賛成かな」

 オフィスのソファーで暇そうに油をうる、二人の美女。その片割れ、イリヤスフィール嬢が幹也さんの誘いに顔を綻ばせた。ダブルデート、ねえ。

「オレは別に、―――――」

 式さんはイリヤの言葉に耳を紅くする、反応したのは十中八九デートの単語だろう。今時珍しい位の純情さだ。式さんみたいな女性は良い意味でも悪い意味でも滅多にお目にかかれないと思う。

「ほら、式も行くってよ。士郎君」

 彼女のあの反応から、一体全体どの様に麻帆良観光肯定の意を受け取ったのかは甚だ謎だが、幹也さんが言うのだからそうなのだろう。
 彼は、俺を含めた式さん、イリヤそして先生にお茶を淹れると茶碗を配っていく。

「この前の旅行でも、四葉に顔見せるって言ってあるし。ソレもいいかも知れないですね」

 俺としても反対する理由は無いので幹也さんに頷いた。

「ふむ、ソレならば衛宮。丁度いい、荷物の配達を頼まれてくれないか?」

「配達? 麻帆良に、――――ですか?」

 悠然とデスクに腰掛ける所長に振り返り尋ねる。
 先生は眼鏡を持ち上げて、深く椅子軋ませた。

「ああ、なに配達と言っても大したものでは無い、麻帆良の爺の詰まらない注文でね、唯の魔術教本だ」

「――――――麻帆良の爺……って、まさか!」

「そうだよ、あのエイリアン爺」

 先生は俺の驚きなどどこ吹く風、デスクの引き出しから一冊の本を取り出し、俺に手渡した。先生の発言に不可思議な顔を俺に集める面々。俺はその視線に気付かぬ振りをして、先生に問いだす。

「先生、麻帆良の長さんと知り合いだったんですか?」

「まあね、そこそこのお得意様だよ。一応日本の魔術協会長だ、ある程度話の分かる男だし面識があっても可笑しくはなかろう? 時計塔と麻帆良の関係を視れば分かるように、私の動向が麻帆良を通して広まる訳では無し」

 先生は何でも無い様に言ってくれるが、俺は割合驚いている。

「何より、私がいくら優れた魔術師であっても、個人の力では出来ることに限界がある。魔術の研究然り、時計塔からの逃亡然りだ。組織力と言うのはね、あながち無視できない。利害関係の一致やそれに準ずる遣り取りを通じて、個人が生き残るため、組織と強いパイプを持つことはどこの世界でも変わらない。魔術師といえどもね、ヒトの流れや金の出入りには敵わないものさ、コレは一つの真理だよ」

 言い切った先生は、紫煙を天上に向けた。
 しばしば先生の口にするこういった社会の構造、そして矛盾。ソレを聞かされるたびに、自分がまだまだ大人では無いのだと気付かされる。

「それで、頼まれてくれるか? そいつを我が身の保身の為にも届けてくれると助かるのだが」

 社会と人間、組織と個人。
 俺がこれから“魔術師”として生きる世界は日常世界以上に厳しい矛盾や理不尽が満ちているのだろう。色んな人間が利用されて利用して、騙して騙されて。
 ソレが社会、ソレが人間―――――か、嫌なもんだ。

「そいつは命令ですか?」

 その矛盾を理解できないほど子供では無いが、ソレを納得できるほど大人でもなかったらしい。先生の冗談めかせた口調が、気に入らなかった。自分の憧れ、少なくとも尊敬に値する彼女の口から、そんな言葉を聴きたくなかったからだ。
 正面から逸らした俺の膨れっ面が可笑しいのか、先生はふっと小さく肩を揺らす。

「命令? 馬鹿を言うな、唯の“お願い”さ」

 だが、相手の方が一枚上手だ。
 薄く唇を持ち上げる彼女に、俺はため息。すぼめた両肩は、どこか軽い。
 本当、この人には敵わないな。

「はあ、――――――それじゃ、聞かない訳にはいかないですよ」

 少なくとも、先生は先生だ。俺に一つ一つ大切な事を教えてくれる。
 納得なんて出来ないけど、今はそれで良い。いつか知ることになるその矛盾を少しずつ飲み込んでいくさ。

「よし、決まったみたいだね。それじゃ所長、車借りますよ。やっぱり足はあったほうが便利ですからね」

 タイミングを見計らって幹也さんが朗らかに口を挟む。
 何時も純真無垢な幹也さんだが、彼は大人だよな、しみじみそう思う。

「いいよ。私の車も、暫く連れ出していなかったしな。機嫌の悪くなる前に散歩をさせてくれると助かる」

 先生は淡々と言い切り、幹也さんにコレクションの一つ、カーキーのクーペのキーを放り投げた。危なっかしくソレを受け取った幹也さんは、式さんとイリヤに笑顔を向ける。

「それじゃ、土曜の朝八時、ここに集合で良いかな?」

 キーをちらつかせて幹也さんは揚々と話を纏めた。
 それでは、麻帆良観光を目の前にぶら下げ、今日の鍛錬を無事乗り切れるよう、頑張りますか。





Fate / happy material
第十三話 スパイラル Ⅲ





/ 3.

 秋晴れの空の下、幹也さんはクーペのドアを閉めた。
 空気は既に異国のソレ、東京では感じられない香り高い喧騒が欧風の町並みを満たしている。衣替えに伴い、麻帆良の町並みもオレンジ色の温かさを着込むように、木々は彩を見せていた。

「ひさしぃなぁ~、衛宮君。元気しとった?」

「その節はどうも、お元気そうで何よりです」

 駅前のパーキング、幹也さんが瀟洒に賑わう麻帆良の中央広場に目を奪われる前に、クーペの脇から対照的な声が出迎えた。

「よ、久しぶり。悪いな、出迎えなんかさせちまって」

 車の中では脱いでいた茶色のジャンパーを羽織ながら、振り向き応える。
 真っ白なコートにストレートの長髪を揺らす近衛。真っ黒のコートに近衛と同じくストレートの髪を垂らす桜咲。
 対照的なはずなのに、どこかシンクロニティを感じる二人の微笑を受け取って、俺は彼女たちを幹也さん達に紹介した、――――――いや、紹介しようとした。

「前に話したと思うけど、こち―――――――――」

「ご機嫌よう、私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。何時ぞやはわたしのシロウがお世話になった様で、感謝の言葉もありません」

 紫のコートをチョコンとつまんで、イリヤは腰を落とす。
 おーい、感謝しているならバーサーカーを連れているような微笑を、近衛達にくれてやるな。ついでに俺にもくれてくれるな。
 一体何対してイリヤがプレッシャーをかけているのか全く分からないが、初対面の人に対してソレはいかんよ。

「それで、あんたたちはシロウの何? 言っとくけど、私は誰にも譲る気はないから」

 ――――――――誰に対しての宣戦布告だ。そして俺は物じゃない。俺は、どちらを先に突っ込むべきだ?
 イリヤの微笑はいつの間にか半眼の視線へ、近衛と桜咲、解析の魔術でも行使しているんじゃないかと疑わしい位、二人を観察。腕を組んで踏ん反り返る我が麗しの姫君は可愛らしいくらいに堂々としている。車の中では始終不機嫌でだんまりと言う、イリヤには珍しかった情緒不安定ぶりは、未だ健在らしい。

「はあ~、すごいわぁ。お人形さん見たいやね」

 それほど寒くも無いのに頬をほんのり染める近衛は、イリヤの態度を気にも留めていない様子だ。信じられん、朗らかさも極まれば大した物だと、一人で納得しておく。
 俺が頷いていると、桜咲のオロオロと覚束無い様子が目に付いた。

「ええと、身に覚えが無いのですが、御気に触ることを申しあげたでしょうか?」

 イリヤの行動にたじろぐ桜咲は、俺に顔を近づけてぼそりと零す。だよな、ソレが普通の反応だ。近衛みたいに「かわええ」とか言って初対面のイリヤに頬ずりするわけが無い。

「ちっさかったネギ君を思い出すわ~、肌もすべすべ、うふふう~」

「チョッ!?―――やめ、――聞きなさいってば!」

 イリヤに頬ずりしたくなる気持ちは物凄く良く分かる。が、公衆の面前で恥ずかしげも無く良くできるものだ。いや、人がいないからしても良いと言う訳ではないのだが。
 って、つまりだ。俺が言いたいのは……うらやましいぞ、近衛。

「あの、それで衛宮さん。……こちらの方は」

 近衛の制止を諦めた桜咲は、本日一回目のため息で俺に視線を泳がす。彼女にやれやれと頷いた俺は、おざなりにも形を繕うことにした。

「―――――――ああ、うん。以前話していた、妹のイリヤだ。真っ黒のお兄さんは、黒桐幹也さん、隣が両儀式さん」

 俺は近衛をイリヤから引っぺがし、伽藍の堂の面々を紹介した。
 近衛達もそれに続く様に自己紹介。近衛と桜咲は、幹也さんの左目に一瞬ぎょっとしていた様だが、二言三言交わしただけで警戒心は薄らいでいた。不謹慎ではあるが、彼に不釣合いな傷跡は一つの魅力と言えるかもしれない。……式さんはご不満みたいだが。

「それじゃ、可愛いガイドさん達も紹介してもらえた事だし。そろそろ行こうか?」

 式さんの視線を気にした様子も無く、幹也さんはクーペのキーを黒のトラウザーに突っ込んで、俺に笑顔を向ける。
 元々いつぞやの吸血鬼事件の前後を通して、お互い話しには聞いていた仲だ、打ち解けるのにそれほど時間はかからないだろう。

「はい、それでは皆さん、これから如何致しますか? 先ずは宿泊先に荷物を届けた方が宜しいですかね?」

「何言っとるんせっちゃん? お昼も近いし、先にご飯やろ? この近くにさっちゃんの屋台も出てるし、そっちが先やないか」

 近衛は本職のガイドさん顔負けのスマイルを桜咲に送り、彼女の意見に対抗した。
 イリヤは近衛と俺の顔を見比べたりなんだりで非常に世話しないが、一体なんでさ? 俺は妙に不機嫌なイリヤの手を引いて近衛に頷く。

「確かに、そろそろ良い頃合いだな。四葉にも会いたいし」

 先頭で駐車場を抜け出す桜咲、近衛そして俺、イリヤ。
 その後ろから。

「士郎君も隅に置けないね」

 なんて凄い良い笑顔で零した幹也さんに、イリヤはすかさずローキック。……アレは痛い。
 彼氏が悶絶している横で、式さんはイリヤを咎めもしないで一言。

「猛省しろよ、朴念仁」

 どうやら、女性同士通じ合う物があったようだ。
 秋らしい桃色に白抜きの着物を呆れる様にはためかせて、式さんはトランクケースを引きながら蹲る幹也さんの脇を抜けていく。
 イリヤと式さんの不可解な行動と言動。全く意味が分からないが、触らぬ神に崇りなし。哀れ身もだえする幹也さんに追悼の言葉を送り、俺は駐車場から抜け出した。
 視界が開けた矢先、飛び込んできた町並みの懐かしさを吸い込んだ。

「昼飯の後はそのまま街を案内してくれよ、俺がこの前泊まったログハウスはソレからだ」

「了解~。今回は車もあるし、時間もある。色々連れてくから楽しみにな」

「ああでも、……前回の焼き直しはゴメンこうむるからな」

 取って付けたように零したが、割と切実に受け取って貰いたい。女子高に御乱入なんて、二度と経験したくないぞ。ついでにあの時感じた薄ら寒い女生徒達の視線も。

「前回? はて、ウチら何か不味いことした?」

「いや、覚えていないならいいんだ。アレは俺も忘れたい」

「そんな事は言わずに。リボンで空中歩行、なかなか見事でしたよ?」

 桜咲はこの前会ったときよりも笑顔が柔らかい。
 嬉しいはずなんだが、どうして素直に喜べないんでしょう?

「桜咲、……出来ればデリケートな俺の心臓を気遣って欲しいな」

「ふふ、ソレは残念。ですが、努力はしてみます」

「――――――ちょっとシロウ。何の話よ」

 「こっちの話だよ」っと俺は誤魔化す様にイリヤの頭を撫で付ける。
 不満そうに桜咲を睨む彼女は、幾分落ち着いていた。だというのに。

「―――――――ねえシロウ。どうしてこんな奴らにガイドを頼んだのよ、私たちだけで見て回れば良いじゃない」

「こらイリヤ。仮にも年上の人だぞ? “奴ら”なんて駄目だ」

 なんて事を言うんだ、お前は。
 幸いイリヤの発言は近衛たちの耳には届いていないようだ。ほっと一息をついて、彼女たちから距離を置いた。イリヤは巡回コースを決めるため声を綻ばす彼女たちを面白く無さそうに眺めている。

「大体だな、土地勘のある奴に案内を頼んだほうが楽しいじゃないか。宿泊から何からの手配だって近衛たちがやってくれて、かなり助かったしさ」

 そんなイリヤに、叱責の念も込めて軽くでこピン。
 リトルビットな暴力行為に後悔は無い、俺の行いは正しく善である。前髪を上げ、頬を膨らしながらおでこを両手で庇うイリヤは、反則的に可愛いのだから。

「ソレは、―――――――そうだけど」

「それじゃ、何が不満なんだ?」

 イリヤの言葉に再度ため息をついて、頭の中を巻き戻してみた。彼女の不機嫌、その原因はなんなのさ?

 麻帆良観光を決めた水曜日の夕刻。
 先生と式さんにしっかりと虐めてもらった後、俺は引きずる体に活を入れて、近衛達に電話を入れた。近衛とは以前ガイドさんをお願いしていたし、彼女は電話越しにGOサイン。
 三分もしない内に、麻帆良観光は決定した。
 宿泊先も俺が前回利用したログハウス、いや本当感謝の言葉も無い。人の輪とは、かくも素晴しきものかな。

 思考が違う所に飛んでいったが、俺にはイリヤの不満が一体何に起因しているか、皆目検討もつかなかった。
 諦めて、イリヤにも分かるよう首を傾げて、彼女の言葉を待つことにした。

「不満なんかないわ。心配なだけよ」

 イリヤは不可解な言葉をため息と一緒に零す。
 しかし、機嫌は右肩上がりの様だ。言葉尻が軽い。

「お兄ちゃんは危なっかしいから、気にかけている人間が一杯ってこと。まだあの二人は大丈夫みたいだけど、何がきっかけでアイツみたくイート・ミーされるか分からないじゃない? だから、私は心配なの」

「………すまんイリヤ。何が言いたいかサッパリ分からん」

 右頬を掠めたつむじ風は酷く冷たい。
 イリヤの機嫌が戻ってきたのは嬉しいが、お前のそのハイセンスな会話には付いていける気がしなかった。眉毛を結ぶ俺の顔のどこが可笑しいのか、イリヤは俺たちの会話を聞いて薄く微笑む式さんに同意を求めようと目配せ。

「シロウは分からなくていいの。ね~シキ、貴方なら分かってくれるわよね?」

「なんとなくならな。安心しろよイリヤ、オレから見てもあの二人はまだ大丈夫だ、境界は越えて無い」

 いよいよもってサッパリだ。
 式さんの一言で普段道理の余裕を取り戻したイリヤは、俺の手を振り解いて前を行く近衛達に追いついた。

「さあ貴方たち、しっかり私をエスコートしなさい。特別に許可をあげるわ」

 パラソルが路肩に立ち並ぶ喫茶店の小道。
 秋の青空と相まって、以前来たときよりも石造りの雰囲気を感じさせる道路。その趣深い地中海の情緒を切るように、イリヤは近衛たちの間に割って入る。
 しかしアイツも学習しない奴だ、そんな小生意気で可愛らしく振舞ったら、近衛がどう反応するかなんて、分かりそうなもんだろう。

「本当、かわええね~。お姉さんは君みたいな可愛い女の子が大好きやでぇ。生意気なところがまたウチ好みやし、たまらんわあ」

「だから、貴方!? 頬ずりは止めなさい! って言うか、聞きなさい!?」

 俺は目を線にして彼女たちを眺める。ああ、何だか彼女たちが遠い存在の様だ。
 イリヤと近衛の喧騒を人事だと納得するため、彼女たちとの距離を一定に保ちながら、凹凸の激しい茶色の町並みを抜けていく。後ろに続く幹也さんと式さんも、俺と同じく傍観者を決め込んでいるようだ。

「シロウ~。助けて~。こいつ、タイガよりも扱いにくいわ~」

 何も聞こえません。それに、近衛にハグされて身悶えるイリヤの可愛さときたらもう。
 止めることが出来るお兄さんが、この世界にはいるのだろうか? 否。いるはずが無かろう。

「近衛~。適当な所で放してやれよ~。イリヤは我々共有の財産だ、独占なぞ許さぬ?」

「了解~。ほらほらイリヤちゃん、衛宮君の了承も取れたし、観念してお姉さんと一緒にお手繋いでさっちゃんのお店までいこうや~」

「―――――――――待ちなさい。この状況はもう、手を繋ぐとかそんなレベル通り越していると思うのは私だけ? 今更手を繋ぐ事にどんな意味が?」

 はい、ごもっとも。
 殆ど抱きかかえられたイリヤの状況が、ソレを克明に示している。
 お手手繋いで姉妹ゴッコでもする気なのか?

「分かってないなあイリヤちゃん。頬ずりして、ハグして、高い高いをしたら、残るのはお手手繋いで姉妹ごっこしかないやんか」

「た~す~け~て~!!! こいつはやっぱりカズミと同じ人種よ~!?!?!」

 麗しきかな姉妹愛(偽)。
 ゴロゴロと単調に響く旅行鞄を引きながら、喧騒の真っ只中にいる桜咲が目に付いた。
 桜咲の乾いた笑顔が印象的だ、以前にも目の前の光景に出会った事があるのだろうか?
 彼女の苦笑には年季を感じる。

「ちょっとセツナとか言ったわね!? 助けなさいよ! 貴方はコノカの従者なんでしょ!? 必要とあらば主君を嗜めるのが、良き従者よ! 分かってる!?」

 桜咲は、大きく首を縦に振ってイリヤを近衛から引き離した。
 近衛は残念そうだが、もう充分イリヤ分を補充できた様だ。少し俺にも分けてくれ。

「ふう、酷い目にあったわ」

 イリヤは乱れた紫色のコートを調え、近衛から桜咲の影へ。
 どうやらイリヤにも苦手な人間は一人や二人いるらしい、桜咲は申し訳無さそうに俺の方に振り向き視線を投げる。
 「お嬢様がご迷惑を」相変わらず視線で語るのが上手い奴。まあ単に、思ったことが顔に出やすいだけなのかもしれない。普段表情の変化が少ない奴だけに、少しの変化から色々な感情が読み込めた。

「――――――あれ? なんだかいい匂いがしてきたね」

 俺が桜咲に「気にするな」と軽く右手を振る横で、幹也さんが鼻をひくつかせながら、そんな事を言った。
 イタリアの町並みにそぐわぬ、中華な匂いと喧騒。

「――――お。見えてきたやん。今日も五月ちゃんのお店はご盛況やね」

「その様です。席の確保を四葉さんに頼んでおいて正解のようですね、このちゃん」

 彼女たちの視線の先。見えるのは、路面電車を改装したであろう派手な屋台。欧風の広場にでかでかと“超包子”の文字が目に付いた。

「紹介します。四葉さんが部長を務めているお料理研究会が経営する、麻帆良自慢の屋台“超包子(チャオパオズ)”です。以前は私のクラスメート達と四葉さんで一緒に経営していたのですが、今は彼女一人で切り盛りしています。とは言っても、彼女も学生ですので、屋台が出るのは週末の夜、学園祭の前だけですが」

「土日しか食べれんのが残念なくらい、五月ちゃんの中華はホントにうまいで」

 聞くに、四葉の専門は中華と言うではないか。
 なんて事だ、この前旅館で出された本格日本食の嵐は、所詮小手調べに過ぎなかったと言うのか!?!?

「へえ、ソレは楽しみね。四葉の杏仁豆腐、美味しかったもの」

「オレは中華って奴食べたことないんだが、アイツが作ったんななら食べてもいい」

「あれ? 式は初めてだっけ? ソレはどんな表情で食べるのか気になるね」

 俺達は和気藹々と四葉の屋台を目指してく。
 麻帆良の観光は、見事な中華の香りと共に始められた。



[1027] 第十四話 朱い杯
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 11:11
/ 4.

 光陰矢のごとし、とは良く言ったものだ。過ぎていく時間の早さを、適確に捉えたいい言葉だと思う。
 俺が生きてきた道のりの中で、この一年ほど、過去る時の速さを恨めしく思ったことは無い。
 だが、当たり前の時間を矢に喩えるとしたら、楽しすぎる時間は一体どの様に喩える事が出来るのか。俺には言葉が思いつかないが、出来れば光速を遥かに追い越して、時間逆行のレベルまで加速してくれるとありがたい。楽しい一時は、きっと何度繰り返しても楽しいままだろうから。

「麻帆良学園は、ここから結構かかるのかい?」

「いえ、それほどでは。車なら直ぐですよ。幹也さん」

 鈴虫たちの秋を彩る喧しさは、バタンと閉ざされ響く、車の音に遮られた。
 クーペの内より見えるログハウスの灯り、夜半の秋風は想いの外肌に残るのか、全ての窓が閉ざされている。
 いや、訂正。恐らく台所であろう向かいの窓から、白い水蒸気の靄が見える

「どうやら式と木乃香ちゃんも料理を作り始めたみたいだね。七時前には帰ってこよう」

「そうですね。所長の荷物を長さんに届けるだけですし。あいつらを待たせるのは気が引ける」

 俺の返答にゆっくり頷いた幹也さんはキーを回す。同時に助手席を通じて俺の体が縦に揺すられた。
 先生の車はサスペンションが甘いのか、余り快適とは言えないが男二人ならば今朝、そして昼間よりもよほどましだ。定員四名のこの車の中に、よくもまあ六人も納まった物だ。物理法則を完全に無視していたとしか思えん。
 幹也さんも同じ事を考えたのか、苦笑を隠してその話題をスルー。

「昼間はアレだけ食べたのに、もうお腹がなっているよ。晩御飯が楽しみだ」

 幹也さんの言葉どおり、四葉の作った美味過ぎる点心は既に腹の中には残っていなかった。
 近衛と桜咲に連れられて、日が落ちるまで麻帆良の町を練り歩いたものな。
 車を使って移動をしたとはいえ、近衛が薦める観光スポットを全て制覇したのだ、流石に疲れた。以前彼女らとデートした町並みは、所詮麻帆良の一部でしかないのだと思い知らされたのも、新しい発見だ。

「竜宮神社だっけ? あそこを隅々まで歩き回った所為かな、ここまでお腹が言うことを聞かないのは」

「ああ、数年前に時代錯誤な武道大会があったところですよね? 意外でしたよ案外普通なんですもん。当時は突き抜けた特殊効果を使って話題を呼んだ場所だけに、もっと派手な所だと思ってた」

 普通と言っても、スケールは段違いだ。
 竜宮神社の楼門、アレは見事だ。碧瑠璃と朱色の大門は実に壮観だった。やはり俺は、麻帆良に香る地中海の匂いもよりも、日本の情緒に趣を置く人種のようだと再認識。

「そうだねえ。でもあれ、実はヤラセじゃなくて本当にドンパチやっていたんだろ? 刹那ちゃんが話してくれたけど、士郎君や式が使う超能力を使ってさ」

「らしいですね。まあアレだけあからさまに魔術だ何だと大安売りされたら、逆にもみ消すのは簡単そうですけど」

 事実、桜咲や近衛、当事者たちから話を聞くまで俺たち魔術師だってヤラセだと思っていたんだ。一般人なら尚更だと思う。
 まあ何にしても、神秘の存在が公にならず、当時の時計塔のお偉方は胸を撫で下ろしたことだろう。広く知られた神秘は力を失う、故に隠匿すべき神秘。その大原則を無視した“魔術合戦”のメディアでの放映は、麻帆良と時計塔の関係を悪化させた一要素らしい。
 桜咲が割りと熱心にそこら辺の組織同士の軋轢について語ってくれたが、俺以外は全く聞いていなかった。ドンマイ、桜咲。俺は楽しめたから気を落とすな。

「何にしてもさ、所長からの荷物届けてこよう。ご飯はソレまでお預けみたいだしね」
 
 俺たちの泊まるログハウスは既にはるか後方、森林の静けさと深い闇色も手伝って、すでにバックミラーには映っていなかった。
 舗装された車道に乗り出すとガタンと一度だけ体が揺すられ、幹也さんはコルベを加速。
 この分なら、麻帆良学園まで十分とかからないだろう。

「式さんと近衛の合作、楽しみです」

「二人とも腕にかなりの覚えがあるみたいだし、嬉しい限りだよ」

 退屈を紛らわす会話の中で、俺は先生より預かった魔術書を手に取った。
 古めかしい民衆本。Historia von D.Johann Faustenとタイトルがあるが、一体何なんだこれ? ページを繰ってみても、俺には内容が分からない。先生のところで英語以外の言語も教えて貰った方が良さそうだ。

 変化の呪は未だ使えず、魔術書すらまともに読めない。自身の不肖さに嫌気が指し、頬杖をついて夏よりも高く感じる秋の夜空を見上げた。

 視界の端に残る、麻帆良学園中央に位置する大木。
 既に車は麻帆良学園に入ったようだ。プラハを連想させる、先ほどまでとはまた異なった雰囲気に幹也さんは感歎の声を漏らす。

「へえ、ここも凄いな。イタリアから一瞬でチェコに着ちゃったよ」

 辿り着いた学園都市最奥、女子部。
 この時間なら学生も殆ど帰宅していた様だ。ほっと胸をなでおろし、幹也さんと俺は日本魔術協会長がいるであろう、学園長室への道行きを探した。





Fate / happy material
第十四話 朱い杯 Ⅰ





「品物の郵送ご苦労じゃったの。何、つまらぬ所だが茶くらいは出るぞ。暫く待て」

 幹也さんが目を丸くして日本魔術協会長の額を注視している。
 俗におでこと称される眉毛と髪の生え際。長さんの場合はどこからが額でどこからが頭なのか判断しかねる、が、そんな事は瑣末な問題だ。頭だろうが額だろうが奇妙であることには変わりない。

(凄いよ士郎君! 本当に魔法使いや仙人みたいだ)

 乾いた苦笑で頬を掻いた俺は、どんな言葉を幹也さんにかけてあげるべきか、真剣に考察。思わず見上げた天井は沁み一つ無い、今夜も学園長室には明るすぎる人工灯が光を放っていた。

「悪いね大したお持て成しも出来なくて。こんな時間だろ? 美人の秘書さん達も帰宅済みなんだ。今はオジサンの煎れる粗茶で我慢してくれよ」

「いえ、そんな。こちらこそすみません、荷物を届けに来ただけなんで、気を使わないで下さい。タカミチさん」

 タカミチさんはお茶を入れ終わると長さんの横に控える。
 学園長室に備え付けられた来賓様の机とソファー、そこに俺と幹也さんは腰を据えていた。

 俺たちと学園長たちの境界を区切るように佇む赤い薔薇。机の中央に鎮座したそれは、初めてこの部屋に訪れたときには無かった筈だ。
 学園長室。豪華とは言えないが、荘厳な雰囲気の似合うこの部屋の中では艶やかなまでに朱い血の色は不釣合いだ。

「ふぉふぉふぉ、しかし衛宮君が蒼崎の弟子だとは知らんかったぞい。しかし納得じゃよ、こいつを注文した時のあ奴の返答。“弟子が世話になった”ってのお、そう言う意味だったか。通りでワシの注文に快諾した筈だ」

 薔薇の生けられた花瓶越しに、俺は長さんに居直る。
 彼はお茶菓子を俺に薦めながら高らかに笑い声を上げた。久々に会った孫みたいに接してもらえるのは、喜ぶべきなのだろうか?
 妙に心をざわつかせた朱色を視界から追い出して、俺はお茶菓子に手を伸ばす。

「ソレはそうと、注文した本は一体何なんです? 先生のところに連絡を入れたって事は、通常のルートじゃ手に入らないものなんですよね、やばい物なんですか?」

 気の抜けた返事の後。砂糖菓子に楊枝をいれ、一口サイズに切り分け口に入れた。
 正直、かなり美味い。
 魔術関係の話をしているとは思えないほど、和やかな空気の中で、俺は先ほど車の中で思い起こした疑問を口にした。

「いや、そんな事はないぞ。魔術的な価値は皆無じゃ、神秘なんて一欠けらも含んどりゃせん。どちらかといえば、神秘性より希少価値の方が秀でた魔術書じゃよ」

 お茶を一口含んだ長さんは、先ほど渡した本を机の机の上に置く。

「題名は実伝ファウスト博士。こいつはの、ゲーテの戯曲“ファウスト”のモデルとなった話じゃよ。作者はヨーハン・シュピース、ゲーテは優れた魔術師だったそうだが、ヨーハンは唯の人間じゃ。そんな奴が書き上げた本に神秘が宿るはずあるまい。だからの、こちら側の業者は普通の本であるが故に取り扱っておらぬし、通常の業者では希少価値がありすぎて手に入らん」

「………なるほど。それで所長に連絡を。伽藍の堂(あそこ)は某猫型ロボットのポケット以上に、摩訶不思議が溢れていますからね」

「ほほ、面白いことを言うのお坊主。その通りじゃよ。蒼崎の役に立たない魔具、道具の偏愛振りは有名での、もしかしたらと思ったら、案の定じゃわい」

「は、ははは、はは、…はあ………“役に立たない”ですか。耳以上に懐が痛いですよ」

 幹也さんは歪な微笑で首をもたげ、長さんの言葉を受け取った。
 珍しいだけで役に立たない品々の為に、俺たちの日々の労働力が注ぎ込まれているかと思うと、……あれ? 可笑しいな、このお茶、しょっぱいぞ。

「まあそんなわけで、このたびは蒼崎にこの本を譲って貰う事になったのじゃよ。木乃香に探してくれるよう頼まれての、友達の誕生日にプレゼントするのだとか」

 俺と幹也さんが二人で傷口を舐めあっていると、長さんはそんな事を軽口に零した。

「近衛の友達……へのプレゼントですか? だったら近衛に直接手渡した方が良かったですかね?」

「いや、よいよい。じじいの手から直接孫に渡したい。この歳になっても、見栄は張らんとな。孫にはいいカッコをしたいものじゃよ。衛宮君」

 嬉しそうに顔を綻ばす、年齢相応のご隠居さま。
 近衛も、いい爺さんを持っているよ。俺は零した笑みを隠そうと、うつむき加減に頷いた。

「そうですね。ソレが良い。余計な気遣いでした」

 俺の返答に、隠れて見えなかった長さんの思慮深い瞳が除かせる。
 それを気にせず、俺は長さんの笑顔をうらやましく思いながら、お茶請けを空にした。幹也さんも丁度良いタイミングでお茶を飲み干したようだし、そろそろ御暇しますか。

「それでは、今後共、蒼崎の伽藍の堂をご贔屓に。今夜はコレで失礼しますよ日本魔術協会長」

 俺は幹也さんと共に一礼して、ジャンパーに袖を通す。幹也さんも同じく、黒色の温かそうな外套を羽織った。

「おお、―――――そうじゃ。衛宮、しばし待て。質問がある」

「―――――――はい、何です?」

 俺は、衛宮のイントネーションにひっかるものを感じ、反転。俺のジャンパーのベルトがカチャリと割合大きな音を奏でた。

「この前と雰囲気が違うが、何か良いことがあったのかな?」

 協会長の言葉は妙に軽い、いつか俺に向けられた視線は、たがう事無く今度は衛宮士郎に向けられていた。真剣なのに表情は柔らかい、器用な人だと感心して、俺は問い掛けの意味も分からぬままに口を割る。

「雰囲気、ですか? コレといって変わった風には感じないんですけど?」

 俺の言葉に、長さんは幹也さんに向き直りじっと彼を見つめた。
 それに答える幹也さんの微笑。
 薄く開いたドアから、緑色の絨毯を掠めるように心地よい冷気が差し込む。巻き上がった埃は、俺の鼻をむず痒くくすぐった。

「らしいです。本人がそう言うのだから、そうだと思いますよ」

「みたいじゃの。まあ、お前さんみたいな人間が衛宮の傍にいるのなら、納得じゃよ。蒼崎もよい人間を集めたもんじゃ。そう思うじゃろ、君も」

 幹也さんと長さんは、二人だけで会話を進める。
 また俺は置いてけぼりかよ、最近多いな。
 不満を口にするのもなんなので、俺はだんまりを決めこむ。我ながら、俺は子供だ。

「まさか。僕たちは別に、―――――ね、士郎君」

「え、――――あ、はい、そうですね?」

 急に振られても、困るんですが幹也さん。
 俺はリアクションの仕方が分からないので、仕方なく頭をかくだけだ。

「ほほほほ、この度の正義の味方は頼りないからの、面白い人間がよう集まるわい。結構なことじゃて。励めよ衛宮、君は切嗣の様に強くは無い、故に得られるものがあるのだと誇るがいい」

「はあ。努力してみます」

 何とも気の抜けた返答だ。なのに、どうして幹也さんも長さんも満足そうに笑っているのだろう?

「本当に面白い奴じゃよ。目指す地平は変わらぬというのに、こうまで辿る道が違うとはの、長く生きてみるもんじゃ」

「まだまだ、ご壮健ですからね。きっとこれからも楽しい発見がありますよ」

 幹也さんはドアを開く、吹き抜ける秋色の霜風は何故か温かい。
 長はふっと幹也さんの言葉に相槌をうち、彼の背中を見送っていた。

「君にも会えた事だしの。全く、蒼崎が羨ましい、ぜひに人材発掘のコツを窺いたいの」

「それには賛同しかねます。ああみえて苦労人ですからね。所長の“命”一個分が、今僕たちが揃って退屈を満喫できる代価なんですよ? とてもじゃないけど、僕は払えません」

 幹也さんは、俺を置いて茶色のドアをくぐる。

「だって、―――――――凄く痛そうじゃないですか?」

 長さんの乾いた笑いが耳に届く前に、俺は幹也さんの背中を追った。

 だが、気の所為だろうか? 

 あの薔薇から感じた艶やかな血の匂い。
 それはまるで、俺が彷徨った地獄の釜のそれ。

 聖杯。
 あふれ出した願いの渦は、未だ、朱色の世界で息づいている様に感じられた。







Interval / 14-1






「学園長。例の件、衛宮君には?」

「いや、伝えないでも良かろう」

 人寂しさの残る教室の窓辺。二人の魔術師は神妙な空気に息を潜めたまま、声を零した。
 老魔術師の背後では、草臥れた背広の男がうやむやな感情を押し殺し、放たれた言葉を飲み込む。故に、辺りを包む空気は先ほどよりも重かった。

「不満か?」
 
 老人の問いに押し黙る男。
 最も、彼のそんな生真面目な態度を老魔術師は賞賛すべき美点なのだと知っていた。
 薄くゆがめた唇もそのまま、ガラス窓をとおして麻帆良の夜景を望む老人は言う。

「蒼崎には話を通す。奴らの狙いは宝具の回収などではないのだからな」

 老人は視線を夜景よりずらし、室内の中央、毒々しいまでの紅色、薔薇の華を眺めた。
 花瓶に刺されたそれは、朽ちることの無い美しさを纏うようでいて、どこか危うい雅さを放っていた。

「衛宮には言えんよ、いずれ知ることになろうとも、今は知らなくても良い」

「学園長。衛宮君に肩入れする貴方の気持ちも汲んでいる心算です、ですが今回の件は見過ごすわけにはいかない。夏の吸血鬼事件から既に二ヶ月、一刀大怒の消息は未だ掴めていないのですよ!?」

 タカミチの怒声に今度は老魔術師が押し黙る。
 衛宮士郎が討伐した吸血鬼。死徒二十七祖十七位の眷属であった彼は自身の獲物“一刀大怒”を用いて、ここ麻帆良の街で非道を尽くした。

 全てが日常に帰依するはずの結末は、しかし、終わってはいなかった。
 死徒の消滅で訪れたはずのピリオドは、姿すら見せぬ何者かによって妨げられたのだ。

 死徒の殲滅後、時計塔に郵送された一刀大怒は航海の途中に強奪、いや奪還された。
 守備についた魔術師は全滅、残されたのは鮮血に染め上げられた哀れな船舶。そして、その紅よりなお朱い一つの薔薇だけだった。

「言うたじゃろ? 詮索など元から意味は無い、恐らくアレは既に持ち主の蔵の中。今更、探したところで見つかるわけは無い」

 その言葉に、今度こそタカミチは押し黙った。
 やれれやれと肩を擡げた老人は疲れた友人の様な気安さでタカミチに言葉をかける。

「それに回収した犯人は十中八九トラフィムの手先じゃろ。それも、相当の手練」

「やはり、学園長は現場に残された赤い薔薇が、――――――」

 タカミチは言い切ることもせず、老魔術師と同じ様に視線を薔薇の中央で絡める。

「先ず間違いなく奴等じゃろう、そう考えれば、なぜあの吸血鬼がこの地にやってきたのかも簡単に説明が出来る。はじめから可笑しいとおもっとったんじゃ、なぜロンドンから逃亡した吸血鬼が極東の地における魔術師の拠点なんぞにのこのこやってくるか?」

 何でもないように毒づいた彼は平静を装いきれていなかった。
 内にある感情は怒り、もしくは苛立ちか。どちらにしろ、老魔術師はその感情に気付いてはいない。熟練の魔術師である彼にとって、そんな感情はとうに切り捨てられたものでなくてはなら無いからだ。

「恐らく吸血鬼の狙いは願望機、麻帆良の神木にあったのだろう。トラフィムは聖杯を求めている。即物的な願いを叶えられないとは言え、世界樹は聖杯と言うくくりで数えられなくは無いからな。奴の成り立ち、最古から存在する祖の一角、彼の真名を顧みれば、それも当然か」

 零した彼の本心。
 死徒の王トラフィム。
 果たしてこの世界に、彼の真名を知りえる魔術師がどれほど存在しているのか。

「では、冬木の聖杯が………?」

「分からぬ。だが、日本にある聖杯は麻帆良の神木、そして冬木のそれだけじゃ」

 ようやく紅色から視線を外した老人は、デスクに深く腰掛け告げる。
 
「どちらにしても、トラフィム一派の狙いは聖杯唯一つ、そしてその先にある…………。奴等は何千の時をそのために費やした。今は彼奴らの狙いが聖杯にあることしか分からんのじゃし、衛宮に教えてでもしてみろ、混乱するだけでなんら意味は無い。しばらくは沈黙じゃよ。奴等が動かぬことには、ワシらとて働きようがないしの」

 老人の言葉に腰を折る、逞しい背広の男。
 タカミチはもはや語る術を持たぬのか、無貌の笑顔、変わらぬ微笑を作り、その場を後にした。

「聖杯。彼奴は、―――――――一体何を望むのかの」

 神木を通し、麻帆良のネオンを望む魔術師は一人ごちる。
 分かりきった答え、その返答は魔術師ならば、そして彼の王の腹心であるならば望むべくは一つだけだ。

 ―――――――――。

 神秘をくべるもの唯一つの願い、無限に望まれ続ける最果て。
 故に、望むべくは聖杯、その至るべききざはし。

 聖杯、故に望まれる究極が一。
 
 言葉を飲み込む魔術師は、ただ、朱色の薔薇に背を向け、夜の世界を俯瞰し続けた。



[1027] 第十五話 白い二の羽
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 11:19
/ 5.

 小気味よい剣音。竹刀の奏でる、慣れ親しんだ騒音で俺は目を覚ました。
 初めに視界に入ったのは高い高い満月と、近衛の顔。秋の空と近衛の顔が綺麗過ぎて、俺の心をより惨めにしてくれる。

「目え覚めた? 衛宮君?」

 満月の直下、次に俺が感じたのは首の下の柔らかな感触。
 彼女の言葉に俺は段々と意識を取り戻し、自分の置かれている状況をハッキリと認識した。

「そう、ならサッサと起きなさい。いつまで膝枕なんてされているつもり?」

 満月、近衛、そして今度は見上げる視界の先に最高の微笑で俺を覗き込むイリヤの顔が。近衛の太股の感触に名残惜しさを感じつつも、俺は飛び起きた。

「―――――あったた!? しかし、桜咲も気持ちイくらいに決めてくれたもんだ」

 何とか立ち上がるも、少しの痛みが脳天に残っているのに気がついた。
 イリヤもそんな俺の事を気遣ってくれるらしく、先ほどの笑顔を脱ぎ捨て、冷やしたタオルを俺に手渡した。

 ログハウスの前庭。
 それなりの広さを持つ森林と土壌。そのなかで、鮮やかな振袖が夜の暗闇を縫う様に視界から消え、そして残影が走る。それに追随するのは桜咲、艶やかな影に劣らぬ軽快な疾走は隼を思わせる。
 二つの影が互いに距離を取れば、瞬きの間に炸裂音。
 沈黙、―――後に肉薄、そして交差。かと思えば、互いの間合いはすでに十間は開いていた。

 その距離を式さんは五歩とかからず奔り抜け、竹刀を翻し、月を仰ぐ直上の一閃。
 ありえない歩合からの打ち込みを、桜咲は円の軌跡から斬り下ろす一薙ぎ。

 鬩ぎ合う二つの剣気。
 互いに決まらぬ、刹那の如き剣の閃き。模擬戦と言えど、その迫力は申し分ない。

 直線的な速さと力強さ、そして、相手の先を読むかのような嗅覚を存分に生かす式さん。
 曲線的な技巧と繊細さ、そして、相手に対して多彩に剣を捌きコレに対処する桜咲。

 俺はそんな二人の剣舞に、見たこともない戦いを重ねていた。
 あの戦いで、剣を交えたアイツとアサシン。きっとあいつ等の戦いも、目前の二重奏を響かせたことだろう。
 衛宮士郎では決して届かぬカルテット。それは、――――――――。

「ねえ皆。お茶が入ったんだけど、そろそろ休憩しない?」

 ログハウスから現れた、真っ黒の人影によって、アッサリと幕を下ろされた。





Fate / happy material
第十五話 白い二の羽 Ⅰ





 俺は満月の下、ログハウスの階段に腰掛けながら幹也さんの煎れたコーヒーをすすっていた。もちろん額に出来たタンコブを冷タオルで押さえつけながら。

 近衛と式さんの合作、並の料亭ならば舌を巻いて逃げ出す見事な懐石料理を堪能した俺は、その後、腹ごなしも兼ねて、桜咲と手合わせを試みた。
 思えば、軽い気持ちで手合わせなぞを望んだ事がそもそもの間違いだ。よかったよ、本当に死ななくて。ひとえに、俺の悪運のお陰であろう。
 剣を持った桜咲は本当に容赦が無かった。
 俺は腹をこなす前に、脳天を見事に揺すられ悶絶。ははは情けなくなんかないゾー。悔しくもないゾー。世は既に男女平等なのだー。
 ………とにかくその後はご存知の通り、桜咲に興味を持った式さんが俺の代わりに打ち合っていた訳である。

「刹那ちゃんは凄いんだね。こんなに可愛いのに式と打ち合えるなんて驚いたよ」

 階段の手すりに寄りかかりながら、幹也さんは桜咲に素直な言葉をかけた。
 桜咲は幹也さんの言葉に照れ笑いを隠しながら、コーヒーに口を付ける。

「驚いたのはこっちの方やん。せっちゃんと互角に斬りおうたんが、こんな美人さんやなんてな」

 うつむいた桜咲の代わりに、近衛が返す。
 俺が投影した竹刀を、危なっかしく振り回しながら呆れたように式さんに視線を送った。

「美人、――――かどうかは別として、オレは別段驚かないぞ。桜咲とかいったな? お前、詠春のところの流派だろ? 確か神鳴流とかいったな?」

 プイっと顔を逸らした式さんは、投げやりに言い捨てた。
 どうやら式さんは桜咲の流派に覚えがあるらしい。

「――――やはり、両儀と言うのは“あの”両儀でしたか。ならば貴方の実力も納得です。同様に、私の流派について知っているのもね」

 式さんの言葉に一人だけうなずく桜咲。
 夜半の静けさの中で式さんと桜咲の垂らす黒髪だけが揺れていた。

「ま、年始と年末にはオレも京都の方に顔を出すしな。四大退魔家の古い慣習のおかげで、あの不健康そうな親父とはある程度顔見知りだよ」

 式さんは面倒くさそうに話を切り上げると、幹也さんと同じカップに口をつける。どうやらカップが足らなかったらしく、式さんと幹也さんは二人で一つのカップを共有していたようだ。

「ねえセツナ。話しが読めないんだけど、説明してもらえるかしら?」

「そうやね、実家の話やし、ウチもきちんと知っておきたいわ」

 俺と同じ事を考えたのか二人がすかさず桜咲に質問。
 式さんは既にこの話題に興味はなさそうなので、一人カップを片手に、穏やかに香る枯葉色の木々に赴きを移していた。
 桜咲はそんな式さんに代わり、話しに着いていけない俺達に分かりやすく説明をしてくれた。

 桜咲の話しでは、日本には独自の魔術、法術体系を有し、魔を狩り、人を守る組織が古くから存在しているらしい。俗に、退魔組織と呼ばれるそれらは、純粋な魔に対して強力な有利を担っている。そして、その魁となるのが桜咲の流派“神鳴流”と呼ばれる退魔術だ。

 だが、純粋な魔を狩るために特化した退魔組織、そして神鳴流はやがて現れた“混血”に対して後れを取ってしまう。人としての側面を備えた“混血”に対して、彼らの練り上げた神秘体系は必殺足りえない。

 故に必要とされたのが、四大退魔家と呼ばれる、対混血に練磨された集団。それの一つが両儀、つまり式さんの実家と言う訳だ。
 今は、四大退魔家と神鳴流をはじめとする退魔組織との関係も廃れてしまったが、式さんの言葉通りならある程度の交流も残っているようだ。

「――――――っとこの様な理由で、私たち神鳴流と両儀の家系は交流を持っているわけです。現在、退魔組織の中枢は神鳴流の本部でもある日本呪術協会、つまりこのちゃんのご実家です。七夜を除いた四大退魔家をはじめとする、組織の面々は年一度の総会と正月の顔見世に出席するのが通例ですので。もしかしたら、このちゃんと私はそこで両儀さんと顔を合わせていたかも知れませんね」

 桜咲は控えめな胸をえっへんとそり返し、誇らしげに説明を終えた。今回は昼間と違い、皆説明を熱心に気いてくれたからであろう。
 桜咲は近衛から差し出されたコーヒーを受け取り、嬉しそうに小さな唇でかるく喉を潤す。

「――――――へえ、だとしたら世間ってのは狭いもんだな」

 近衛の爺さんや先生の事と言い、世界ってのは広いようで狭いのかもしれない。
 俺は一口コーヒーを含んで零した。
 鈴虫たちの音色は段々と大きくなっていく、夜も老け込んできた様だし、そろそろ話を切り上げた方が良いのかもしれない。桜咲の長い説明に、虚ろに首を揺らすイリヤを振り返り見ながら、そんな事を考えた。

「さて、僕はそろそろ戻るよ。今日は疲れたし、式もシャワーを浴びるって、先に行っちゃったしね」

 幹也さんはウツラウツラするイリヤを抱きかかえ、軋む檜の階段を上がる。それに続くのは近衛だ。彼女はコーヒーを既に飲み干していたらしく、幹也さんの背中に踵を返す。

「ウチも、今日は案内やら料理やらで気をはってもうたし、ログハウスで少し休ませてもらうよ。衛宮君はどうするん」

「う~ん、俺はもう少し月見をするよ。コーヒーもまだ残っているし」

「それでは私も付き合いましょう。私程度の剣を前にしてすら、まともに立ち会えない衛宮さんに、言いたいことが山ほどあります」

 くすりと意地悪く笑う桜咲。
 妙な気安さも手伝って、俺は嬉しい苦笑を向ける。

「うう、きついな桜咲」

「そんじゃお先に、お二人さん。ごゆっくりな。せっちゃんも、私は退散して暇を潰しとるから頑張るんや。ファイト・オ~やで、しっかりな」

 肩を落とす俺に近衛は忍び笑いを残し、幹也さんの背中に続いていく。白いダウンジャケットをふわりと回して、彼女は立ち去った。

「頑張るって、何をでしょう? 衛宮さんは分かりますか?」

「分からん、俺に聞くな……………」

 不思議そうに俺と桜咲は顔を見合わせて近衛の言葉を吟味してみた。しかし、俺と桜咲では近衛の真意を読み取れそうに無い。
 乙女の思考回路は理解に苦しむ、昼間の式さんとイリヤただ今の近衛然り。
 仕方が無いので思考を諦めた俺達は、二人で肩を並べ、コーヒーをすする。幹也さんの入れるコーヒーは実に美味しい、使用するサイフォンは異なれど、伽藍の堂で鍛えられたその実力に鈍りは見られない。

「………コーヒー。美味しいですね」

「ああ、やっぱりそう思うか?」

 桜咲は俺と同じ事を考えてくれていたらしい。
 少し、―――嬉しかった。
 木枯らしが香り高いコーヒーの酸味を引き伸ばし、ログハウスを囲む枯れ木の茶色を揺らす。桜咲の垂らした黒髪が背中に触れ、改めて並べた肩の距離を実感した。
 ちょっと近すぎかな。
 急にこみ上げた気恥ずかしさを隠そうと、少し早口に言葉を走らせた。

「先生の所で毎日煎れているからな。コーヒーの色は幹也さんの色と言っても過言ではないぞ。かく言う俺も、お茶を煎れるのは中々だと思う。魔術や剣術の腕なんかよりも断然マシだ」

「それは、――――なんと申し上げたらよいのか」

 桜咲は「むむう」俺の言葉に真剣に考え込んでしまう。
 いやいやいや、そこは否定するところですよ、桜咲さん。先ほどの気恥ずかしさの代わりに、どこか惨めな衝動が沸きあがる。
 まあ、心をざわつかせた形の無い感情はなりを潜めた事だし、よしとしよう。
 恐らく、俺への慰めの言葉を探してくれているであろう桜咲に、吹き出した笑みと共に声をかける。

「そんなにお前が気にすること無いよ、才能が無いのは、別にさしたる問題じゃないしさ」

 俺は、零した笑みと一緒にさわやかな辛酸を味わう。
 賑わいを見せていた鈴虫の喧騒を遠くに感じながら、ログハウスに灯る玄関横の街灯に視線を送った。見上げるオレンジ色の光の向こう、流れる雲が月を隠している。

「それに今日さ、長さんに言われたんだ」

「ああ、先ほどお出かけになられた時ですね?」

 コーヒーを両手で温める桜咲に俺は頷く。桜咲はコートを羽織直して、少し前かがみに俺の顔を覗きこんだ。
 空を見上げた視界の端。
 垂らした前髪を掻き揚げた彼女に、奇妙な不快感を覚えた。
 その感情は彼女にではなく、自分自身へ向けられていたことにも気付かずに。

「俺は切嗣、―――俺の親父ほど強くは無いって」

 俺は、よく分からない感情を理由に、彼女と視線を絡めることを拒んだ。月を探した瞳は、どこを見つめるべきか必死に模索している。

「確かに、その通りだと思う」

「………そんなことは無いと思いますが?」

「おいおい、さっき桜咲も言ったろ“私程度の剣にさえ”ってさ」

「あれは言葉の綾です。冗談を真面目に取られても困る」

 桜咲の頬を膨らす姿に、俺は微笑む。言葉を交わす内に、何とか蓋を閉じることに成功した曖昧な衝動。
 桜咲に視線を預けた俺は、なるべく穏やかに言う。

「とにかく聞けって。そもそもさ、俺は弱いって言われたことに余り嫌な感情を覚えなかったんだ、逆に納得した位だ、だってそうだろ?」

 不思議そうに俺を眺める桜咲から俺は再び視線を外した。
 天上を見上げれば、まあるい真っ白い穴が確かにそこにはある。

「そのおかげで、俺は色々なものが手に入った。強い奴が切り捨てた、違うかな? 切り捨てることが出来る不確かな何か。きっと、オレが切り捨てちまったモノを、今は、確かに望んでいるんだ」

「望んでいる? 何をですか?」

 目だけを桜咲に戻して、薄く微笑んだ。「ん?」っと、自分のこれから言い放つであろう言葉に躊躇を感じ、頬をかいた。
 桜咲は戸惑う俺に急かす様子も無く手の中のコーヒーカップを弄び、黒い液体を揺らす。

「ちょっと言うのが恥ずかしいけど、笑うなよ?」

「笑いませんよ。言ったでしょう、貴方の言葉を笑うことなど出来ません」

 いつかこいつと交わした遣り取りを思い出し、俺と桜咲は絡ませた視線を笑顔で解く。
 だけど不思議だ。どうして俺は、こんなことをコイツに打ち明けてしまえるのか。

「それで、衛宮さんは何を手にいれたのです?」

 待っていたとばかりに、桜咲は俺と同じ、枯れ落ちる木々にさえぎられ、区切りを与えられた秋の夜空を顧みた。

「――――俺が手に入れたのはさ、ちっぽけな“けじめ(幸せ)”だよ」

 正義の味方を目指す上で切り捨てるもの。
 九を救うため、一を捨てる。誰かを救うと言う事は、誰かを助けないと言う事。

 ならば、最初に切り捨てるのは自分自身。救いなど、幸福など求めてはならないんだ。
 きっと強い奴は選べたはずだ、誰を殺して、誰を救うのか。
 誰かを救うための、最初の一、それがオレと言う自分自身。

 だが俺はそれを選べない、選びたくない。
 幹也さんが言うとおり、“幸せ(過去)”を背負うことは、自分勝手な我侭かもしれない。

 だけど、――――――オレ/俺の理想、正義の味方。

 そのために、俺は“誰一人”犠牲になんかしたくない。
 長さんの言葉、幹也さんの微笑み。
 何を伝えたいのか、未だ曖昧だけど、それが俺の“変化”なのだと信じたいんだ。

 見上げた夜空はどこまでも高い。
 ―――――――ただ、限られた視界の先は、確かに綺麗な月が顔を見せていた。








「―――――――――――――――――ぷふ」

 っとまあ、俺が物凄~くカッコいい事を思考した横で、あろう事か吹き出した奴が居やがる。どうせなら聞こえなくてもいいだろう、桜咲の零した僅かな空気は、鈴虫たちの鳴き声の中に間奏として見事なアクセントをつけてくれた。

「……………桜咲」

 いくらなんでも酷いぞ。
 必死に笑いを堪える彼女は、コーヒーカップをわなわな震わせながら蹲ってしまった。

「いえ、…その、す、――プハ、すみま、…せん。――――く、けして」

 笑いを堪えるのがそんなに難しいのか、桜咲はまともに呂律が回らない様だ。こいつのこんな表情は、ひょっとしたら凄く貴重なのではなかろうか?
 そんな事を考えながら、俺は先ほどよりもずっしりと腰をすえて彼女の回復を待つ。
 段々と寒くなる秋風も、今は全く寒くない。りんりんと喧しい音に聞こえない振りをして、俺はコーヒーをずずっと彼女に聞こえるように飲み込んだ。

「ふう、すみません。決して笑う気は無かったのですが、衛宮さんがあまりに、……その、変な顔で“幸せ”を見つけたんだ、なんて言うのがいけないんですよ?」

 困ったように苦笑を向ける桜咲は、未だに顔を繕いきれていない。パンパンと黒いダウンジャケットを払う彼女は、冗談めかせて言う。
 つうか、変な顔ってなんでさ? またそれか?

「………・俺の所為かよ。少なくとも俺は大真面目に答えたんだからな。くそう、女の子じゃなかったらぶん殴ってるぞ」

 大して怒ってもいないくせに、俺は乱暴な言葉遣いで涙目の桜咲に言い放った。
 だが、彼女もそんな俺の心の内が読めるのか、冗談めかせて再度「それは、誠に申し訳ありません」と深々と黒い髪を垂らしただけだ。

「ふふ。しかし、ついこの間まで正義の味方になるのだと言っていた貴方が、今度は幸せですか? 本当に、衛宮さんは面白い」

「面白いかは賛同しかねるけど、お前の言い分も納得してやるよ。俺だって、随分と支離滅裂な事くらい分かっているさ。でも、仕方が無いだろ?」

 この気持ちはきっと間違いではない。
 だって、俺の知る全ての人は、この気持ちに確かな笑顔を向けてくるのだから。俺はそれを信じるように、となりにある小さな背中を探した。

「俺は、全てを救わなきゃいけないんだ。そう、―――――約束したから」

 アイツに向けた言葉は、一体誰の心に響くのか。
 それは、俺にも分からない。
 だけど、少なくともこいつには、アイツと重なるこいつにだけは頷いて欲しかった。

「そうですか。――――――それでは、仕方が無い、――――――――――」

 はにかみ、桜咲はそんな言葉を漏らす。
 俺には彼女の表情が何を示しているかは分からない。
 だけど、その一言で充分だ。俺はまた、自分の願いを信じることが出来る。
 幸せを探す、全てを救う、そして、―――――正義の味方にもなってやるんだ。
 溢れた感情は、唯単純に、桜咲とアイツの言葉を重ねてくれる。

「そうだな。だからさ、――――――――俺はまた、頑張れる」

 アイツを思い出すたびに。
 きっと、前に進めるはずだから。
 たとえ、目指す願いが歪んでしまっても、変わってしまったとしても。
 果たすべき誓いは、貫くべき約束は、きっと変わらない筈だから。

「まあ、頑張るのも程々に、妹さん達が心配しますよ?」

 そんな俺の感情に気付いているのかいないのか、桜咲は立ち上がると、コーヒーカップをぐいっと空にした。いい飲みっぷりである。

 俺のコーヒーも、すっかり冷えちまったな。十月の夜空の中で、少しゆっくりと話し込みすぎた。

「たしかに。でもそれも、仕方が無いな」

 俺の言葉を、見下ろす桜咲。
 仕方が無いと、そう零した俺の苦笑をこいつはやっぱり、困ったような笑顔で受け取るんだ。冷え切り、残り僅かのコーヒーを両の手で弄びながら、彼女の仕草を決め付けた。

「衛宮さんはそればかりですね。妹さんも、さぞ貴方の事を心配なさっていることでしょう」

「同情しますよ」と付け足した桜咲の顔は、どのように表情を変えたのだろうか。きっと言葉とは対照的な微笑が俺の背中に向けられている筈だ。

「俺は、あんまりいい兄貴じゃないからな」

 残り僅かとなったマグカップの珈琲を嚥下し、立ち上がる。そして、改めて気付いた。桜咲はこんなに小さいんだな。
 俺は余り大きい方ではないが、それでもこいつの華奢な体がアイツとダブってしまう。

「でも、お前は心配してくれないのか? それはそれで、少し残念だな」

 そんな感情を払拭するため、冗談めかせて言う。俺はどんな顔をしていたのか、桜咲が少し戸惑った。恐らく、俺の冗談にしてはウィットが効きすぎていたためだろう。

「つまらない質問ですね。私に一撃で昏倒された人間の言葉とは、とても思えません」

 だが、それも一瞬。
 にやりと笑う桜咲は、俺のカップを受け取りながらそんな事を自信満々に口にした。

「心配でないはず無いでしょう? このちゃんも、そして私も、呆れるほどへっぽこの癖に、頑張りすぎる貴方をどれほど嘆き、憂いていることか」

 遠い瞳はいつかの吸血鬼事件を振り返っているに違いない。実に心臓に悪そうな乾いた笑いを、桜咲はやれやれと自分自身に向ける。
 それにしても桜咲さん? 貴方もその差別用語で俺を貶めるのですね。

「――――――――俺、泣いてもいいかな?」

「コレはすみません。衛宮さんの心はデリケートなのでしたね? 忘れていましたよ」

 彼女は意地の悪い、だけど憎めない微笑を俺に残して近衛が退屈を満喫しているであろうログハウスの茶色を跳ねるように歩いていく。

「あ、ちょっと待てよ、言いたいことが在る」

 俺は、じわじわと離れる彼女を呼びとめた。

「なんです? 謝罪ならしましたよ、衛宮さん」

「違う、そうじゃない」

 はてなと首をかしげた桜咲は、俺の心の内に気付く様子は無い。
 仕方がなく、俺はきちんと言ってやることにした。
 
「名前。呼び捨てで良いっていったろ? なんかさ、お前にさん付けされるの、凄く嫌なんだ」

 伸ばした真直ぐな黒い髪。
 秋の夜はその色彩に比べて、なんて明るい漆黒なのか。
 俺は眠りつく寸前の、鈴虫たちの音色を背中に受けながらその背中をに真摯な気持ちを伝えた。振り向きもしない桜咲、だがその歩幅は、確実に狭くなっている。

「はい。分かりましたよ、衛宮。―――――私としても、この名の方が呼びやすい」

 結局、そのときの桜咲の貌を臨む事は叶わなかった。
 俺は明日も過ごすであろう遠く、麻帆良の夜景を目蓋に残し、今日を終えるべくそれを追う。






 オレンジ色の外灯の下、彼女の背中は。






「やっぱり、――――――――――似てるな」






 いつか見た、金色の少女と重なった。







[1027] 幕間 白い二の羽
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 11:26
/ feathers.

「ねえせっちゃん。さっきは何を話たん? 衛宮君と」

 このちゃんの賑やかな声を背に受けて、少し肌寒い初秋の夜風を肌に晒す。藍色のジャージは通気性がよく、鍛錬を始めたばかりの体を良く冷やす。
 時刻も十一を追い越しているのだ、それも当然か。

「――――――――何も。としか答えられませんよ、このちゃん」

 少し重めの竹刀を一つ振り下ろす。このちゃんに感情を見せず答え、神経を引き伸ばしたまま、二つきり上げ、三つで呼吸を整える。
 私は常の日課である鍛錬を、今日も欠かさず行っていた。
 ただ、剣を振り回すだけの単調な研磨。
 私たちの住居であるアパルトメントから、十分もかからぬ公園は人の気配がなく、人知れず励むにはうってつけのロケーションだった。

「そうなんか? 詰まらんなぁ~」

 だった。
 と言う過去形なのは、今晩に限り、何故かこのちゃんが着いてきたからだ。彼女はブランコを軋ませながら、興味本位のイジワルい顔を私に向ける。
 あの顔は暫く見ていなかった。
 ネギ先生達と分かれてからお嬢様はあの様なお顔を滅多なさらない。やはり、彼女は衛宮を見ていると思い出すのだ、何もかもが楽しかった、あの頑張り屋の少年と過ごした日々を。
 普段はチカチカと点滅を繰り返し、役に立たないブランコ脇の外灯が、今日はやけに張り切っている。どうやら、今晩は明るい光の下での鍛錬になりそうだ。

「つまらなくて結構。しかし、いいのですか? お嬢様。この時間は貴方も鍛錬の筈でしょう。こんなところで油をうっていては、ロンドンで頑張っている明日菜さんに、おいていかれてしまいますよ?」

「酷いなぁせっちゃん。今日くらいええやん、多めにみてぇな。それと、またお嬢様って言った」

 頬を膨らせた彼女は、ぶーたれながらブランコを大きく揺らす。

「ふふ、まあ良しとしましょう。しかし、このちゃんも本当に魔術が上手くなった。大した物ですよ、人払いの結界をこうも見事に張れるのはね」

 私は先ほどの言葉とは裏腹に、幼い頃からの親友に優しく言う。
 素振りを休めた体が秋風に当てられた。
 木枯らしは朝霧の様な汗をすっと心地良くぬぐってくれた。

「ありゃ? 気付いてたん、おかしいなぁ、結構上手いこと敷けたと思ったんやけど」

「充分見事ですよ。ただ、結界の縛りが甘い。このちゃんの課題は兎にも角にも魔力制御ですから。剣を持ったとき感じました、このちゃんから漏れ出す微細な魔力をね」

 逆に言えば、剣を持ち精神を緊迫させるまで気付かなかったという事だ。お嬢様が魔術を研磨なされてまだ四年、才能があるとは言え本当に感心する。

「しかし、どうしてまたこんな真似を?」

 それはさておき、お嬢様はどうして人払いの結界なんかを張ったのか、理解に苦しむ。私は器用に「分かりません」と顔を作って彼女に尋ねた。

「分からんの?」

 私は首を横に振って答えて見せた、だが、お嬢様はやれやれと肩を持ち上げた。

「たまには親友と二人きりでお話ししたいやん。こんな綺麗な月の夜は特に。な?」

 お嬢様は私とは異なる艶のある黒髪を靡かせてブランコを囲う鉄枠に腰を落ち着ける。彼女の白いガウンは、外灯の光を反射し、その美しい黒をより一層漆黒に染め上げていた。

「やれやれ。今夜は本当に月見と縁がある様だ」

 お嬢様は綺麗になられた。女の私でも見惚れるほどの艶やかさ、羨ましい限りだ。
そう納得し、自身の汚い黒色の髪に触れ、頷いた。

「こらせっちゃん。なんやその疲れた友人みたいなお座成りな態度は? 衛宮君とも二人きりで月見したんやろ? もうウチのことは飽きてしもたん? 親友のことも楽しませて~な」

 私の仕草を気遣うように、このちゃんは姦しく秋の夜空に澄み渡る言葉を放つ。
 透き通る十月の寒さは、少しも感じられない。むしろ、埃を巻き上げる夜風は心地良いくらいに私の髪を撫で付けてくれた。

「はい、分かりました。月の綺麗な夜は、それも良い。そうですね、このちゃん?」

 私このちゃんの隣に腰を下ろし、彼女と一緒に退屈な時間を過ごす事にした。
 黒髪と白のお召し物を纏う我が親愛なる姫君。
 隣に控えたジャージの従者。
 自身の滑稽な状況を想像し、薄く微笑んだ。それにこのちゃんも気付いたのか、彼女も微笑む。

 きっと衛宮が今日この街に訪れなければ、ありえなかったであろう絵空事の語らい。頼りない正義の味方が運んでくれた小さな退屈を、今夜、もう一度。





■ Interval / 白い二の羽 Ⅱ ■





 私はこのちゃんの右手、彼女のそれよりも錆付きの酷いブランコに揺られて息を吐き出した。

 アレからどれ位このちゃんと話していたのだろうか?

 ネギ先生が赴任してきた頃の話から始まり。
 このちゃんと私の転機となった修学旅行。
 そして、楽しかった日々の終わり。

 確かに幸せだと感じた、だけど何かが止まってしまった日々。

 衛宮と知り合い、何かが終わって、何かが始まった錯覚。
 頼りない正義の味方と初めて出逢った時の話。
 そして。

「―――――――似てるよな、衛宮君て」

 どうしても重なる、彼と彼、――――その、曖昧な話。
 きいっと一際大きく揺れたこのちゃんのブランコ。果たしてその音色は、私のものなのかも知れないが、結局分からず仕舞いだ。

「はい」

 私はこのちゃんの突然の、いや、きっと待っていたその言葉に頷いただけだった。
 近くに自販機でもあれば、手持ち無沙汰な今の空気に間を持たせる事も出来るのだが、生憎、閑散としたこの公園の近くにはそんなモノは無い。
 辺りでざわつく木々の茶色は、どこか落ち着きがなく風に揺れている。

「ネギ君と衛宮君、年齢も性格も、勿論顔つきだって全然違うのに、なんでこんなに似とるんやろね?」

 恐らく気付いているだろうその答えを、このちゃんは私に真剣に問いだした。
 それが妙に可笑しくて、思わず顔が緩んだ。

「そんなの、簡単ですよ。このちゃんも、分かっているんでしょう?」

 零した私の本音に、このちゃんは何故かきょとんとしたような顔を私に向けた。
 どうしてだろう? と思考する間も無く、彼女は私に聞き返してくれた。

「せっちゃんは分かるん? どうしてネギ君と衛宮君が重なるのか?」

 否定の同意を求めた先ほどの問いは、いつの間にか興味の疑問へと赴きを移していた。
 しかし意外だ。このちゃんも、気付いていると思ったのに。

「はい、それは、―――――――」

 答えを口にするその逡巡、先ほどまで懸命に光を放っていたオレンジ色の街灯は急に頼りなく瞬いた。麻帆良の街には珍しい、造詣をまったく凝らしていないありきたりの街灯は、どうやら直ぐにでも事切れてしまうようだ。

「それは?」

 私は口に出す言葉に一瞬の戸惑いを感じたが、このちゃんの妙に優しい顔を見ているうちに、そんな思考を切り捨てていた。
 私は、元気良く足を蹴り上げブランコを揺らし、空を仰ぐ。

「それはきっと、ネギ先生も衛宮も一生懸命だからですよ」

 なんて単純な答え。
 それを、私は秋の夜空に放り投げる。

 頼りなくて、優しくて、女性に甘くて、真直ぐで、上げればきっと無数に重なる彼と彼。

 だけど、二人の根底にあるものはきっと一つだけ。

 辿り着けないその背中を。
 辿り着けないその願いを。
 辿り着けないその理想を。

 誰よりも一生懸命に信じぬく、その、子供みたいに無邪気な瞳が。
 誰よりも一所懸命に追いかける、その、綺麗過ぎる尊い瞳が。

 私には勿体無い位、―――――――――――――眩しくて。

「だから、あの二人は。こんなにも、誰かを惹きつけてしまうのでしょうね」

 吐き出した靄は、私に感傷を飲み込む間も与えず、紅に染まりかけた樹木が囲った夜空にかすんでいく。
 私の隣、ブランコをゆるりと止めたこのちゃんは、優しいその微笑を崩さずに瞳を閉じた。
 彼女を囲み、その数を増やしていく木の葉の衣擦れの如き音色。
 夜天をにぎわす枯葉の散り行く様は、なんと綺麗なことか。
 それは黒い世界が、決して一色に染められてはいないのだと感じさせてくれる。

「そっか。“一生懸命”……か。確かにそうや、あの二人、一生懸命に頑張っちゃうところがこんなに似てるんやね」

「はい。とっても」

 私の感じた幻のようなその世界を、このちゃんは当たり前の微笑で否定し、そして迎えてくれる。それが本当に嬉しくて、私も薄く笑いを零す彼女に、頭を垂らして答えた。

「ふふ、そうやね。危なっかしくて、ほっておけない末っ子属性万点の二人やもんな」

「末っ子属性……ですか? いいえて妙ですね、否定できません」

 私は時々飛び出すこのちゃんの不思議な冗談に苦笑しながらも頷く。気がつけば、普段道理に言葉を交わしていた。

「そやろそやろ? せっちゃんもやっぱりそう思うやろ? 特に衛宮君なんて、ネギ先生以上に頑張り小僧なのに、魔術とかの才能無さそうやん? へたれで弱虫で、おまけにへっぽこそうやん? 心配でたまらんよ」

「はいはい、そう思いますから冷静に。ご自分の台詞を振り返って下さい、このちゃん。衛宮が今の言葉を聞いたら、確実に泣きますよ」

 私はここにいない衛宮に「ごめんなさい」と繰り返しながら、このちゃんに同意しつつも、一応の体裁を取り繕うよう試みる。だが、それはどうやら失敗に終わってしまった様だ。
 そんなたわいも無い遣り取りは、鈴虫の声に加速され、留まることなく秋の夜空に響いていた。










「さ~って。いい加減眠くなってきたし、ウチはそろそろ戻るね」

 段々と笑いを落ち着かせたこのちゃんは、ぐ~っと気持ち良さそうに伸びをする。随分と話し込み、ブランコに固定されていたであろうその体がしなやかに反り返った。

「あ。お送りしますよお嬢様」

 本当に月見をしただけで満足そうに顔を破顔させた彼女に、先ほど注意された呼び名を使ってしまった。

「ええよ。今日は私と話してくれたせいで、あんまり鍛錬してないんやろ? せっちゃんの唯一の趣味みたいなものやし、続けていいよ」

 クルリとお姫様みたいに振り返った彼女は、本当に可愛い。私に向けられるのが勿体無い笑顔だ。

「そうですか。それではもう少しだけ、お言葉に甘えます、――――このちゃん」

「うん。よろしい」

 彼女はそう言って走り出す、どうやらキチンと彼女の呼び名を訂正したことが功を奏したようだ。私はブランコに寄りかかったまま、守るべき彼女の背中を見送る。

「あ~。それと、せっちゃあ~ん」

 竹刀を探し遊具から腰を上げると、公園の入り口から大きな、だけど聞きなじんだ可愛らしい声がした。

「明日は、衛宮君達を図書館島に連れてくからな。今日の鍛錬は張り切り過ぎたらいかんでえ~」

 言葉の裏側にあるものを読み取った私は、彼女に見えるように大きく頷く。
 私は今度こそ視界から消えた、大切な親友を見送った。







 空が高い。
 二人で見上げた夜空は、あんなにも暖かく感じたのに、今はどうだ。

「何を、――――――――私はっ」

 曖昧な衝動は必要ない、そう納得し、竹刀を左手で被せる様に脇に抱える。
 仮初の納刀状態を得る私の竹刀は、普段よりも冷たく、そして重く感じられた。

「――――――――――---------」

 衣替えに伴い色を変えた草木の香を運ぶ夜風。冬の気配が巻く月の下、乱れた呼吸を整え自己を限りなく透過する。
 白い翼を隠し続ける私だ、“我”を否定し、止水の境地に埋没することはそう難しいことでは無い。

 目前の大木、公地において最も丈夫であり、程よく枯れ木を散らす其れに、私は殺し、研ぎ澄まされた一閃を振りぬく。

「外法と兵法との間、今一段あると為し、―――――――」

 炸裂音は一瞬の内に収まらず、掻き消える。
 流す二の太刀。
 捉えるのは二十四の舞い落ちる枯れ葉。

「刀を鞘より抜くと打つとの間髪、絶えざる事を戦塵と仕出し」

 瞬きの間に叩き落すこと実に十五。

 神鳴流。
 京の深山に秘して伝わるこの秘剣は、剣術よりも抜刀術に近い。
 野太刀より鋭くのびる一刀は正しく神速。居合いの其れと変わらぬ必殺だ。

 しかし、其れだけが我が流派の極意には在らず。
 圧倒的な閃きで繰り出される初撃、その加速を纏ったままの二刀。そして三刀。
 抜刀により放たれた圧倒的な走駆を止めず、鍛え抜かれた強靭をもってなおも追迅を引き絞る。
 残る枯れ葉は、―――――九。

「是、秘史たる御剣と号し、一刀に舞を以て、―――――――」

 剣術と抜刀術の混濁、魔を殺戮す魁の剣。
 必殺にして殺陣。
 繰り出す一刀は必ず見敵を屠り、止まらぬ剣に終わりは無い。

 だが、人を守り、救うために生まれた私の秘剣。
 その極意はまだ先だ。
 剣術と抜刀術の融合、そして退魔剣術に昇華された私の秘剣は、まだ届かぬ先がある。
 私は二つを残し、舞い散るそれらを回天の七刀で塵に返す。

「魔を敷き、皇頂く秘剣也、――――――――」

 再び象る、抜刀の型。そして、――――――。

「人心果たせし身命。終の閃、弐ノ太刀をして、―――――――――“神鳴”となす」

 振りぬいた一刀。
 其れは真っ二つに舞い散る二葉を寸断した。













「―――――――ふう」

 私は大木に体を預け、見事なまでに寸断された枯れ葉を、ぬばたまの視界に捉えた。
 億劫な体をずるりと沈ませ、寄りかかったまま腰を下ろす。

「―――――――――やはり、私では」

 今宵も励めど成果は一向に上がらず、か。
 無様に分かれた枯れ葉を手に取り、冷たい風に其れを流した。軽く、重さを感じさせないそれらは、瞬きのうちに私の視界から夜の雨戸に消える。
 どうやら、明日は雨の様だ。変わりやすい秋の空、分厚い雲が空を隠す。

 神鳴流における最後の奥義、――――――弐の太刀。
 人を傷つけず、悪しきのみを断つ秘奥の剣。

 その本質は、“悪意”あるモノを絶つ人の願いの象。

 天然自然と人を守り、魔を敷く剣。故に本来であれば、私の放つ刃が枯れる二葉を寸断する道理は無い。
 熟達の剣士であるのならば、己が意思で任意の“悪”のみを屠れようが、残念だが、私には未だそんな芸当は出来ない。
 そもそも、私が弐ノ太刀を放てた事など、一度も無いのだ。
 重い腰を上げて、埃を叩く。そしてごちた、認めたくない、だけど認めなくてはならぬ、鏡の如き私の言葉。

「混血、―――――――か」

 果たして、魔を継ぐ私にこの刃を振るうことが出来るのか。
 人の退魔意思。
 七夜のそれほど奇異にして特出してはいなくとも“業/技”として昇華された神鳴流、最後の一太刀。血統とは異なる体系で受け継がれる、人の意思を、果たして混血の私が。

「担うことが、出来るのか、―――――――――――――」

 吐き出した問いには、どんな想いが込められていたのか。
 答えなど無い、きっと誰も答えてなどはくれない。

 夜空は時機に衣を変える。
 滴る雨が頬を濡らす前に、このちゃんの所に戻ろう。





 最後にふと思う―――――守られているは一体誰なのだろうか?






[1027] 第十六話 スパイラル
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 11:36
/ 6.

「―――――――――凄いな。壮観だ」

 湖のど真ん中に浮いた一つの孤島。
 俺は近衛と桜咲に案内されて、世界中の本を一箇所に集めたんじゃないかと錯覚する巨大な図書館の中にいた。以前麻帆良を訪れたときにも気にはなっていたんだが、まさかこんな立派な図書館だったとは。
 見渡す限り本の山。正直、それ以外に適当な言葉が思いつかない。

「本当凄いね。サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会を髣髴させる外観にも驚いたけど、中はそれ以上だ」

「さん、じょじょじょ、―――――何だって、幹也?」

 幹也さんは舌を噛んだ式さんにゆっくりとリピート。結局、式さんは繰り返すのを諦め幹也さんを睨むだけだ。

「早口言葉みたいだな、その、三女る序、―――――――言えん」

 吐き出す疑問は、口下手も相まって言葉にならなかった。
 適温の暖房が厳かな空気を満たす高い天上の図書館で、俺の様な人間は実に不釣合いだ。

「サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会よ、シロウ。イタリアのヴェネツィア、十六世紀に建築されたパッラーディオの設計で知られる島全体を修道院にした建物のことね。それよりも、意外なのはコクトーよ、貴方、博識なのね」

 俺の舌足らずな言葉からキチンと意思の疎通をしてくれたイリヤは、言葉の通り控えめな驚きを幹也さんに送る。なんでお子様がそんな事知ってんだ? 俺にはそっちの方が驚きですよ。

「はは、そうかな? 所長のおかげで色々手広く調べ物をさせられたしね、そのおかげかも知れないね」

 少し嬉しそうに微笑んだ幹也さんは、前を行く近衛たちに追いつき、声をかけた。

「それで木乃香ちゃん、刹那ちゃん。今日はどこに案内してくれるのかな?」

 二人は振り返り、俺たちを見渡す。

「はいな。今日の麻帆良ツアーはなんと、――――――」

 連れてこられたのは巨大な木製扉の目の前。自分の身の丈を遥かに超える本棚の森を抜けて連れてこられたその場所で、桜咲と近衛は楽しそうに微笑んだ。

「今日ご案内す「ドキ☆ポロリもあるよ、図書館島探検や!」」

 まあ、とにかく。今日も退屈はしなさそうだ。





Fate / happy material
第十六話 スパイラル Ⅲ





「つまりだ、ある種ダンジョンみたいなこの図書館を、皆で探検しようと。そう言うことだな?」

 近衛のやたら分かりにくい説明を稚拙な頭で翻訳してみたところ、大体の辺りはつける事ができた。俺は確認の意をこめて、黒いタイと茶のロングスカートと言ういでたちの桜咲に回答を求める。

「―――――――はい、お手間を取らせました。衛宮」

 こめかみを押さえて髪を垂らす桜咲。
 その疲れた友達具合がまた素敵だぞ。
 俺の思考に気付いていないだろう桜咲は、「うんっ」と咳払いを残して顔を上げる。

「皆さんはご理解いただけたでしょうか? この図書館島地上一、二、三階は通常の蔵書ばかりですが、この扉から閲覧が可能な地下の保管区、特に地下十階以降には“こちら側”の蔵書が所狭しと並んでおります。一応一般人でも閲覧可能ですが、そのためには様々なトラップを掻い潜らなくてはなりませんので、唯人が進入できるのは精々地下五階までといったところでしょうか? それより先は私たち魔術師、もしくはこちら側の人間以外は侵入できない仕組みになっています、皆さんはその例に当てはまりませんので特に問題ありませんね」

 俺と桜咲の遣り取りから、状況を飲み込んだ伽藍の堂の面々もやっとのことで頷いてくれた。それはさておき、今桜咲は聞き捨て為らない事をのたまわなかったか?

「ちょっと待ちなさいよ!? 今貴方“こちら側”の蔵書、って言わなかった!? いいえ、それよりも魔術関連の本が閲覧可能な書庫内に一般人の入場が許可されるって、貴方たち正気!?」

 俺が口を出すその前に、イリヤが俺に変わって勢い込んで口を開いた。
 だが、その問いに動じず、アトラクションを前にはしゃぐ子供を嗜める様に、近衛が朗らかにイリヤに言葉を送る。

「そうやね、だから言うたやん? 一般人が進入できるのは地下十階までやって。ほらせっちゃん、説明の続き、続き」

 納得いかないっと表情で訴えるイリヤを尻目に、近衛は自身の相棒へと軽やかなウィンク。頷く桜咲は、テンポ良く説明を継ぎ足した。

「常時は“図書館探検部”と称される学園合同のサークルと、この図書館に配属された魔術師によって運営、管理されていますので、一般人が地下十階を越える心配はありません。地下上層部は図書館の司書、まあ魔術師と説明した方が早いですね。彼らによって用意された様々なアトラクションとしての罠が張り巡らされているだけですし、魔術関係の蔵書といってもオカルト本とそう大した違いも無いものばかりですので、ご安心を」

「何よ、それならそうと言いなさいよね。それじゃ、今日私たちが見学できるのは地下十階よりも下の階層を見学させて貰えるのかしら?」

「はい。その心算です。一般人の不可侵領域とは言え、十一階、十二階程度であれば私たちのレベルならば問題なく探索できますから、気楽になさって下さい」

 桜咲はイリヤに目を細める、例によって視線で語るのが実に上手い。
 「納得いただけましたか?」
 その緩やかな謙遜を、イリヤは当然の様に受け取り、三つ網を右手で流す。
 いい従者といい主人は、鞍替えをしてもキチンと型に嵌る物だと感心してしまう。

「それに、今日は図書館島専属のアドバイザーも一緒やし、何の問題もあらんよ」

 近衛は話が的纏まったところでタイミング良く目の前の扉を開ける。
 彼女の白いガウンが一時埃にくすむと、途端、当たりは先ほどよりも濃い本の匂いと沈黙に包まれた。

「アドバイザー? 木乃香ちゃん達の知り合いかい?」

 俺と幹也さんは目の前に開けた仄暗い図書室の空気に触れる。
 等間隔に設置されたランプはぼんやりとだけ辺りを照らし、ちょっとしたお化け屋敷みたいだ。眺め回せば、生ぬるい空気が呼吸を繰り返している。
 本棚の背が高いのは相変わらずで、窮屈に俺たちを圧迫する。その閉塞的な雰囲気は、正に迷路を思わせた。

「そうや。私たちと同い年、中学の頃からの同級生で、昔は一緒にこの図書館を探検した仲なんよ。あ、ちなみに二人もこっち側の人間だから気にせず近うなってやってな」

 いまさら、こちら側の人間もくそも無いだろうと苦笑を飲み込みながら、徐に本棚から手時かなモノを手に取ってみた。埃を被ったまま放置されっぱなしだったであろうそれは、確かに売れそうも無いただのオカルト本だ、なにか先生も持っていた様な気がするは気のせいだ、気のせいに違いない。俺と幹也さんの労働力は有意義に使用されているに決まっているんだから。

「もちろんだよ。木乃香ちゃん達の友達だもの、きっといい子だろうしね」

「そんなこと無いよ~。黒桐さんは世辞がうまいなぁ~」

 俺の葛藤を余所に、幹也さんと近衛は独特なほんわか空間を形成しながら迷路の中に朗らかな笑みを撒き散らしている。
 どうせなら、俺の目の前で物凄い嫉妬の虫になっている式さんにも、その空気を分けてやってください。

「シキは寂しがり屋ですもの。コクトーが自分以外の女に優しくするのが気に入らないんでしょう」

 俺の顔色を興味深く観察しながら、桜咲の隣に、イリヤがぐいっと割り込んだ。彼女は「ぬふふ」と怪しく微笑みそんな事を零す。

「何故そうお思いになるのです? 私の見たところ、両儀さんと黒桐さんの関係は心地よい信頼で成り立っている、一体何を憂う必要があるのでしょう?」

 桜咲はイリヤの言葉を生真面目に受け、俺にも視線を送ってくれる。
 目的地まで中途半端に残る退屈な時間の中で、俺は一応の思案顔で桜咲に返した。

「それはお前、――――――俺に聞くなよ」

 俺と桜咲の遣り取りにあきれ返ったイリヤ。彼女は、お姉さん染みた冷笑で式さんと幹也さんを射抜くように眺めた。
 狭い迷路は距離の感覚を曖昧にするのか、前を行く三人の距離がどうにも不確かだ。

「貴方たちは、ほんっっっっとう子供ね。自分でもよく分からない気持ちを、そんな簡単に割り切れる物ではないでしょうに」

 イリヤは、俺たちよりもずっと大人びた顔で薄い肩を窄める。
 そして彼女は、腰に手を当て人差し指で注意を促した。

「いいシロウ、セツナ。誰だって、好きな人には自分だけを見てもらいたいって可愛らしい醜さがあるのもなの。貴方たちにだってきっとあるはずよ、自分を好きでいて欲しい、自分だけを満たして欲しい、そう思ったこと無いって言い切れる? 私はそんな乙女な意地汚さって、とっても素敵だと思うけどな」

 俺は「そんなものか?」と自分でも中途半端な顔だとハッキリ認識しながら腕を組んだ。横に視線をずらせば、妙に納得した桜咲の顔がある。
 朴念仁の本領発揮。やはり俺は、乙女チックとはよほど離れた地平にいるようだと改めて噛み締めた。

「――――――お、見えてきたで、あそこが入り口や」

 そうして見える、茫洋としたオレンジ色が輝く四方の小部屋。
 解析の魔術を走らせれば、あの四方の空間を境に、何かかがずれている奇妙な感覚がある。
 どうやらあそこがスタート地点のようだ。

 十月、時刻は未だ午前九時前。
 秋の風すら届かぬ、本の迷宮。

 麻帆良観光。
 そして、始まって間もない終日に、せめてもう一度楽しい出会いがありますように。俺はそんな思いでオレンジ色の境界を目指していた。













/ 7.

「紹介するで、右の小っこいのは綾瀬夕映、左が宮崎のどか。さっき話した、私の友達や」

 中世の牢獄を思わせる真四角の部屋の中には、一つきりのランタンが橙色の光を満たしている。逃げ場の無い牢獄の内では、澱んだ空気同様、壁面に点々と置かれた燭台の灯が揺らぎ、そしてくすんで感じた。

「どうも、綾瀬です。お話しは木乃香から聞いているのですよ。夏の吸血鬼事件では大変ご活躍なさったそうで」

「あ、あのはじめまして!宮崎のどかです。そのせっつっつはお世話に為りまして!」

 その中で、二人の人影は腰を垂れる。
 支給された制服なのか二人は同じような格好をしていた。司書さん専用であろう茶のベストと同色のロングスカート、そしてコート。暖かそうなその服装を顧みて、俺が今“図書館”の中にいるのだと再認識。
 牢獄の様にしか感じられなかったこの部屋も、暗闇に慣れてくれば、キチンと整えられた本棚が陳列していた。

「こちらこそ。近衛と桜咲から話しに聞いているのなら話は早い、衛宮士郎だ。左が妹のイリヤ、その隣が黒桐幹也さんと両儀式さん。今日は案内宜しく頼むよ」

「こちらこそです。男性魔術師、それも同い年の方とお会いするのは初めてですので色々質問があるのですよ」

「ま、それはおいおい話せる中で、な?」

「そうでした、麻帆良と外の魔術師は勝手が違うのでしたね、私とした事が不躾な事をのべたのです」

 俺は軽い挨拶の心算で手を差し出す、それに握り返すのは綾瀬。小さい背中を軽く曲げて、無表情に微笑を作る。
 麻帆良の魔術師はコレでもかと言う位にオープンだが、俺たち協会の常識を持つ魔術師はかなりの寂寥である。自身の魔術を他の魔術師に話すなど言語道断。故に、綾瀬はそこらへんのニュアンスを汲み取ってくれたのだろう。

「いや別に構わないぞ。俺も麻帆良の魔術については色々興味があるし、情報交換ならいくらでもする。魔術の基本は等価交換、だろ?」

 先生からも麻帆良の魔術師にならば俺の魔術を“端っこ”程度ならば話しても良いと御触れも出ている事だし、問題ないだろう。まあ、協会所属の魔術師には俺の異端過ぎる魔術は隠す必要があるのだろうけど。

「なのです。それだけは変わらぬ常識のようですね。道中いろいろ聞かせて頂きますのですよ、衛宮さん」

 変な言葉遣いの女の子だと、一人苦笑を浮かべて綾瀬に頷いた。
 魔術師と言えども歳相応の女の子の様に微笑んだ彼女は、魔術師なんて殺伐としと物言いよりも、魔術に興味をそそぐ女子高生そのままな感じである。
 遠坂や先生を魔術師のステレオタイプだと思っていたのだが、一口に魔術師と言っても色々タイプがあるみたいだ。
 まあ、その色物筆頭の俺に、一体何が分かるのか甚だ謎ではあるが。

「それと、隣は宮崎だったか? よろしくな。お前も魔術師なんだろ?」

 俺が綾瀬との遣り取りの間、幹也さん達は宮崎と簡単な言葉を交わしていた。彼らと入れ替わり、俺は宮崎に手を差し出した。
 伸ばした前髪で顔色は窺えないが初めて出会った頃の桜の様な雰囲気に、俺は不思議と親近感を覚えてしまった。そのせいで、少し馴れ馴れしくしてしまったのも認める。だけどさ。

「―――あ、あの、そそその、ごめんなさい!!!」

 いや、もんの凄い勢いで拒絶するのはホワイ!? 俺の心の慟哭を知っているのかいないのか、空を切る、居場所を失った可哀想な右手。
 宮崎はおどおどしながら近衛と桜咲の後ろに隠れてしまった。
 コレは、あれだ。もしかしなくても拒絶されていますか、俺?

「―――――俺、何か変な事したかな?」

 それだったら即座に謝りますんで、そんな怯えた目で俺を見ないで下さい宮崎さん。
 呆然と立ち尽くし、震える宮崎。近衛を盾に取り、より一層縮こまる彼女。俺と宮崎の遣り取りに、近衛と桜咲はただ乾いた笑いを送るだけだ。

「俺さ、―――――嫌われてる?」

 初対面の女性に、生理的な嫌悪感とかをひしひし与えちゃったりしましたか?
 だとしたら凹む。
 男としてそれは痛すぎる。

「いいいいいいえ。そんな嫌いとかじゃなくて、私、その、あの、男の人が苦手で……」

 狭い天井を見上げれば、頬を伝う一筋。
 そんな俺を哀れんでくれたのか、宮崎は力の篭った声で俺の思考を否定してくれた。
 言葉尻が小さくなっていくのは、この際気にしないでおく。何事もポジティブスィンキングが重要なのですよ?

「でも、のどか。さっき黒桐さんとは普通に話せてたやん。どうして衛宮君とはお話し出来へんの? なあせっちゃん、せっちゃんもみとったやろ?」

「はい。てっきり私は、宮崎さんの男性嫌いは既に矯正されているものだとばかり……」

「いえ、私もそれは不思議なんですけど、何故か幹也さんとは普段通りにお喋り出来て」

 不思議そうに顔を見合わせる近衛と桜咲。
 宮崎のおどおど振りはなりを潜めた様だが、何にしても俺とはまともに会話を成立させるのは難しそうだな。

「まあ、駄目な物は仕方が無いかな。そのうち慣れてくれればいいさ」

「はい。その、すみません」

 未だ近衛の影から出てこない宮崎に、俺は綾瀬に向けたのと同種の笑みを送った。それにどうにか答えてくれた宮崎の口元は、やはり桜に似ている。
 弱虫で気弱なくせに、強情で芯がある。あって間もないけれど、桜と言う前例があるので、俺は宮崎の内面を少しばかり理解できていた。そのためか、彼女の態度も割りとすんなり納得出来ている自分に気がついた。

「さ~って。それでは皆様、自己紹介も粗方済んだところで、そろそろ行くで~」

 近衛は、寄り添う宮崎をそのままに右手を高らかに揚げて出発を宣言。
 彼女の朗らかな声が、狭い図書室に木霊する。

 近衛が何かを囁くと、室内の本棚がまるでパズルの如き様相でスクロール。そして現れたのは、張り巡らされた魔力線が顔を除かす重そうな鉄製の扉。
 先ほどまで本棚に埋もれ、見ることも叶わなかった、恐らくより下層への階段が隠れているであろうその扉。

 俺達は、近衛と桜咲、そして綾瀬と宮崎。
 本の魔術師達の背中を追うように、その螺旋の階段をくだった。



[1027] 第十七話 スパイラル
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 11:44
/ 8.

 本の迷宮とは一体誰の言葉だったか。
 上下左右あらゆる方向に乱立した本棚。三次元の空間に浮かぶ二次元的な本棚の群れ。空中に浮かんだまま、時間を凍らせたようにも感じる奇妙な暗がり、ここは正に御伽噺でしか気いたことの無い、神秘の迷宮、もしくはRPGの世界そのままである。

 辺りを飛び交う流れ矢。
 古典的な落とし穴。
 魔術式の発動によるクシャミトラップ。
 挙げていけば五十を超える様々な罠が俺たちを襲った。

 この図書館は近衛の話曰く様々な魔術品が適当に詰め込まれたため、それらが干渉しあい、独自の不思議空間を形成して出来上がった物らしい。
 故に、近衛たち麻帆良の魔術師でさえも、この図書館の全貌を把握していないと言うのだ。
 彼女達が所属する“図書館探検部”はこの図書館の全貌の解明、そして可能であれば様々な魔具、魔術書を発見し持ち帰る事を主とする。だが、流石に一般人にそんな事をさせる訳にもいかず、唯人は地下十階より上位の階層でのアトラクション、所謂“探検ごっこ”に従事させ、神秘に関る人間はそれより先の階層に侵入を許可される訳である。
 ま、それでもコレは見せちゃいかんだろう。と言った様なモノでさえ図書館上層部で惜しげも無く披露されていた分けではあるのだが。
 大体、なんで図書館の中に滝があったり、底の見えない大断層が完備されている必要があるんだ? これが神秘でなくてどうすんだよ!! 突っ込みは、そんな魔空間なこの場所ではなく、それに疑問を持たず学生をやっているこの街の住民にこそ、与えられるべき物であろう。

 閑話休題。

 俺たちが目指すのは、地下十三階への螺旋階段。そこには同時に、地上帰還用のエレベーターも在るらしく、俺たちのちょっとした冒険のゴールに定められていた。

 暗がりのこの空間では頼りになるのは近衛が持つ魔力で炎を維持するランタン。そして綾瀬達のもつこのフロア全域の地図のみ、俺たち、本の迷宮になれていない伽藍の堂メンバーは右も左分からない状態で、ちょっとしたトレジャーハンター気分を満喫出来る筈だった。

「ええと、そこには左じゃないと思うぞ? 多分直進して二つ先の本棚を回ったほうが近いな。あ、後、この先にあるあるのは多分トラップの密集した小部屋が三つだから迂回路を検討した方が良いかもな。ちょっと地図をもう一回見せてくれ、……いや必要ないな、この不自然な部屋隣の空洞、抜け道か?」

 そう、筈だった。

「うん、やっぱりそうみたいだ。その地図の空白、抜け道に間違いないから書き足しといた方が良いぞ」

 俺は地図を持って先に進む綾瀬と宮崎を呼び止め、地図を眺めた。
 確認するための行為のはずが、逆にこの地図の方が危なっかしい事に気付き、正直に苦笑を漏らす。どうやら、図書館探検部の先達たちがこつこつと地図に起こしたであろう、ボロボロの板紙は、俺の設計図と結構異なるところが多い様だ。

「す、凄いですね、衛宮。一体どうやって? やはりそれが貴方の魔術なのでしょうか?」

「ん、いや魔術ってよりも技能に近いかな? 近衛たちの地図と俺が解析したこのフロアの全体像を照らし合わせながら、一番いい道を検索しているだけだ」

 俺は近衛、綾瀬に続いて、堪えの効かなくなった桜咲に背中で返す。
 コレで三度目になる解答は、説明に慣れてしまった俺としては、些か物足りない。

「“解析”。一応魔術に分類されているらしいけど、構造の解析(これ)は俺固有の物だし、他の魔術師の使用する解析用の魔術とは多少毛色が違うんだ」

 先ほど上った一番高い本棚からこのフロア全域を見渡し、設計図は完璧に出来上がっていた、よほどの事が無い限り道を間違えることは無い。
 俺のやたらと特化した視力と解析能力がこんなことで発揮できるとは思いもよらなかった。

「何にしても。俺がへっぽこなどでは無いと、コレで証明された訳だ」

 「はあ」と有耶無耶のまま頷いた桜咲を放っておいて、俺は先頭をきって罠を回避、本の迷宮を抜けていく。俺、久々に輝いているのか? 魔術、剣術は愚か、最近は料理のアドバンテージすら四葉や近衛、式さんに奪われてしまっていたのだが、ここに来てようやく活躍の場が与えられたようだ。
 少し誇らしげに肩で風をきって進む俺。
 迷宮と暗がりの生暖かさは、慣れてくれば意外と心地よい物だ。

「まあ、衛宮の特技が解析だというのは納得できましたが、地味な魔術ですね」

「あ、せっちゃんもそう思うたん? ネギ君とか高畑先生に比べるとどうしても派手さにかけるよねえ~」

 ええ、そのようなお話しは当の本人が居ないところでやっていただけると非常に助かるのですが? お二人さん。
 俺の説明を聞いていたのかいないのか、実は気にしている事をさらりと仰ってくださる、二人の美女。俺だってな、遠坂やイリヤみたいな派手で格好良い魔術を覚えたいんだぞ。
 考えたくないけど、才能無いから仕方が無いじゃないか。

「二人とも、派手さだけが全てではないのですよ。衛宮さんの特化された能力、考えようによっては素晴らしい才能ではないですか」

 忍び笑いの二人に、綾瀬はなんて素晴らしい台詞をプレゼントしてくれるのだろう。無表情で俺のことを粉みじんも気にかけてくれた様子は無いが、有難いものは有難かった。

「――――――――――綾瀬。お前、いい奴だな」

 俺は今までの不遇の扱いを脳内に走馬灯の如く駆け巡らせながら、彼女の右肩を借りホロリと告げる。救いを差し伸べられた俺のピュアハート。だが、そうは問屋が卸さない。

「そうではないのです。衛宮さんの才能、魔術師ではなく盗賊や泥棒などにジョブチェンジすれば、間違いなく役に立つのですよ。私が保証するのです」

「良かったじゃない、シロウ。私も向いていると思うな。墓荒らしや怪盗なんてどう? 貴方の解析能力、道具の鑑定眼、開錠の魔術、複製能力。どれをとっても一級だし。やっぱり目指すのは正義の味方よりもこっちの方がベターじゃないかしら?」

「あ、いいなそれ。それじゃウチとせっちゃんは正義の味方崩れの怪盗を追う、美人私立探偵にでもなろうかな~。せっちゃんはどう思う? やっぱり婦警さんとかの方がロマンスを感じる? でも婦警さん、ちょっと響きがエッチいなあ~」

 もしも、今の状況を運んできやがった問屋を突き止めることが出来たのならば、剣弾千本弱は御代として受け取って貰わなくては気がすまない。俺の純情を返してくれ。綾瀬に向けたこのやりきれない気持ちを一体どうしろと言うのか?

「ねえ、そんなことよりも士郎君。出口はまだかな、結構歩いたと思うんだけど?」

 俺の葛藤を、そんなこと一言片付けてしまった幹也さん。見れば、多少疲労の色がある。ヘロヘロと頼りなく彷徨った彼の右手が、俺の肩を杖代わりにしていた。

「情けないな、黒桐さん。男やろ、もうへばったん? 気合一発、がんがん行こうや」

「そう言わないの、コノカ。一般人がこの場所にいるだけでも相当神経を削られると思うけど? ましてコクトーは体が人一倍貧弱だしね、それも仕方が無いんじゃないかしら」

「そうなのです。ここいらが休憩時なのですよ」

「………おい、衛宮。ここら辺に休める場所はないのか? 距離があるなら方向だけ教えろ。道が無ければ創るだけだ」

「あああああの両儀さん、そそう言う物騒なことは、危ないので~」

 幹也さんの事となると見境が無くなる式さんナイフを引き出し俺に凄む。言葉通り、彼女の魔眼はらんらんと輝いていた。
 そんな物騒なことは断固として止めて頂きたいので、俺は怯えながら式さんに抗議した宮崎に同意、そして何とか式さんの蛮行を阻止できた。

 式さんを幹也さんとイリヤに任せて、即座に地図を持つ綾瀬、宮崎と顔を着き合わせての進路相談。
 未だ、宮崎が俺の半径二メートル以内には絶対に近づかないことを、軽く残念だと顔に出し、地図を眺める。
 恐らく休憩所であろうその小部屋まで、道なりに進んでも五百メートルとかからない。俺たちは疲労の色が濃い幹也さんを気遣って、休憩をする事になった。
 日の光の無いこの空間では自身の感覚はあてにならないので、綾瀬の腕を借り確認すると時刻は十一時。少しお昼には早い気もするが、式さんと近衛の特製弁当だ、正直興味が尽きない。
 だが、この一瞬の気の緩みがいけなかったのだろうか?

「それじゃ、休憩所も直ぐそこ見たいですので、ここを真直ぐ、―――って幹也さん!?」

 宮崎、綾瀬が俺の張り上げた声の先に、振り返る。
 5、6メートル先の窮屈な暗がりの直進路、そこで幹也さんは今正に、不自然に押し上げられ灰色にくすむ一際大きい岩肌に寄りかかろうとしていた。

「――――――――ん、何? 士郎君」

 さも訳が分からないっと言った表情で、血相を変える綾瀬と宮崎に振り向く彼。その横では、式さんとイリヤ、近衛と桜咲もきょとんとした顔を俺に向けていた。
 彼女たちの側からでは、幹也さんが行う蛮勇の如き仕草が死角となり見えないとみた。

 ―――――つうか、あんなベタベタな罠に引っかかる奴いるのかよ?

 いるもんだなあ、と即座に思考する未だ冷静な俺の脳みそに嫌気が差す。俺はその罠の存在を分かっていながら、幹也さんに教えなかった事を心の底から後悔していた。

 なぜなら。

 幹也さんによって作動したその罠はトラップの王道、落とし穴。対象者は。

「――――――――――なんでさ?」
「――――――これは不味いのです」
「きゃあ~~~~~~~!?!?!」

 どんなからくりか、俺たちなのだから。

「ちょ、シロウ!?」
「ゆえ、のどか~~~!?」

 出現した大穴、無重力の体験はコレで二度目だ。出来ればこんな事、一度だって経験したくはなかったが。

 俺の乾いた笑みはまるでコマ送りのように落下していく。
 それを証明するように、見上げる近衛たちがどんどん遠のいていく、それも物凄い速さで。
 俺の脳みそは既に、箇条書きでしか物事を思考できないらしい。

 一体どこまで落下するのか。それは、俺にも分からなかった。





Fate / happy material
第十七話 スパイラル Ⅳ





 落下しながら思考するのは、一つ。このまま行けば確実に死ぬ、という事だ。

 地中を落下するという、史上稀に見る貴重な体験に、今にも涙が流れて来そうである。この浮遊体験の先には地面があって欲しい、だけど地面が在れば死ぬ。
 なんて不毛な葛藤。
 俺は現実逃避の思考を一秒とかからず纏め終え、綾瀬に声を張り上げた、宮崎はとっくに気絶しているみたいだしな。

「―――――――お前、重力制御や浮遊の呪は!!」

 帰ってきたのは、首を横に振るだけの簡単な返答。そして「衛宮さんは?」と言うニュアンスを含んだ無貌。
 この遣り取りに二秒。いつ地面に叩きつけられても可笑しくない。

「―――――――――っく!」

 段々と壁面が広がっていく感覚。
 落下速度の相乗効果もあるだろうが、確実にこの落とし穴は開けた大地に向かって俺たちを飲み込んでいくようだ。先ほどまでの窮屈なダストシュートは段々と風呂敷を広げている。

 重力制御、浮遊、共に俺の使える筈の無い魔術。ならばこの状況を乗り切る手段にはなりえ無い。
 魔術師の思考に囚われるな、今考えるのは、俺に出来る事から最善を尽くし、如何にこの“落下”を食い止めるか。

 なら、俺に出来ることはコレしかないよな?

「投影――――――――」

 イメージは蛇。
 美しく淫靡に、惑わしうねる、一つの杭、連なる鎖。

「―――――――――開始」

 もしも彼女が振るうのであれば、意志を持つ蛇の如く的に走り、どこまでも伸びるその鎖。
 今の俺に、どこまで操れるかは分からないけど。

「こ、―――――――――――っのお!!」

 そんな想いを断ち切り。
 俺は、右手に現れたそれを、加速する壁面に力の限り投げつけた。













「助かりましたのです………」

「ああ、なんとかな……」

 地面があるって素晴らしい。
 俺は投影したライダーの短刀を霞みに戻し、小脇に抱えた宮崎をと寝かしつけるように柔らかい砂丘の浜に横にした。
 いままで俺におぶさっていた綾瀬も、飛び降りるように砂浜に足をつける。

「しかし、随分と懐かしい所にやってきたものなのです」

 綾瀬は小さく驚くと南国のリゾート地の様相を感心したように眺め回す。
 彼女の言葉に俺も在りえない光景を目蓋に焼き付けた、いや焼き付けられたと言うべきか。

「何だって図書館の地下が、こんな、――――」

 さんさんと照りつける、太陽の如き光。見渡す限りの青い地水湖と白い砂浜、アクセントとして加えられた煩雑する遺跡群。エーゲ海を慮らせるこの空間に、俺は驚きを隠せないでいた。
 槍で心臓を刺されても生きていたり、内臓ぶちまけたって平気だったりした俺が言えたものでは無いが、これは流石に……。

「私も、四年前にここに来たときは驚いたのですよ。ですが、ここも図書館島の一部なのは確かなのです」

 驚き、思考を奪われた南国の情景。だがその先、俺は茫洋とした湖水の表面に妙な波紋を感じ、じっと注視する。

 ―――――何かが、動いた?

 だが、その後は何も反応が無い。気のせいだろうと結論付けて、素直な驚きのままに湖を眺める。
 口をあける俺に、綾瀬は目配せで俺の注意を背後へと向かせた。

「見てみるのですよ、衛宮さん」

 振り返れば。

「………なんで、本棚が」

「決まっているのです。ここは図書館ですから」

「……それで片付く問題か?」

 のっぺりと薄く笑む綾瀬を背中に、砂浜に埋め込まれ沈む、いくらかの本を手に取りぱらぱらとページをめくる。
 魔術関係の物から、中学校の教科書、参考書まで取り揃えられていた。
 節操の無いことだ。苦い顔で俺が手に取る本を棚に戻すと、その横で、宮崎が目を覚ました。

「――――――あれ? ここ」

「おはよう、天国じゃないぞ。一応まだ生きてる」

 目が覚めてイキナリこんな光景じゃ、そんな事を考えてしまうかもしれないので、俺は親切心から寝ぼけ顔の彼女に言葉をかける。ちらっとのぞかせた宮崎の顔は、正直に言おう、可愛かった。

「そういえば、のどかはココに来たことが無かったのですね。以前ネギ先生たちとテスト勉強をしたのがこの場所なのです」

 綾瀬は宮崎に向けた言葉を皮切りに、思い出に浸る。
 見れば、宮崎だって何だか嬉しそうな表情で南国の空気に紫がかった藍色の髪を艶やかに流していた。

「ここに、ネギ先生が?」

「はい、楽しかったのですよ、とっても」

 二人の表情。俺はその笑顔を何度も見たことがあった。

 “ネギ先生”。

 近衛が、桜咲が。朝倉、さよちゃん、そして四葉が。俺の知らないその人の名前を口にする時、揃って同じ笑顔を零す。
 それだけ彼女たちの大事な部分に座るそいつに、軽い嫉妬の様な感情を覚えた。だけど、それは決して嫌なモノでは無く、むしろ。

「あってみたいな、俺も。その“ネギ先生”に」

 友愛にも似た、奇妙な親近感故のモノだった。
 話の脈絡も何も考えず、ただ零した俺の言葉は思い出に沈む二人の少女を引き戻してしまったらしい。

「ネギ先生、今はお友達と一緒に世界中を飛び回っていますから。きっとどこかでひょっこり逢えるかも知れませんね。特に、衛宮さん、理由は分かりませんけど先生に似ていますから」

 俺の言葉に頷いたのは意外にも笑顔の宮崎だった。
 こいつとまともに会話が成立したのは、もしかしてコレが初めてか?

「そうなのです、ジョセフ・ヘラーのような二人ですから。きっとその時は仲良くなれるのですよ」

 何故だか知らないが、二人は可笑しそうに俺の顔を眺め、次の間には二人で顔を突き合わせた。再び、俺をてっぺんから爪先まで視線を移した二人は、華やぐその貌をより大きな笑顔に変える。

「そうだな。その時はお前らの話をたくさん聞かせてもらうよ」

 俺は二人に負けないよう、穏やかに口を開く。
 綾瀬の零した“ジョセフ・セラー”の様な人、いまいち何の事か分からないが、嫌な意味は無いのだろう。彼女のつまらなそうな微笑がそれを物語っていた。







「さて。落ち着いてきた事だし、そろそろココの脱出方法を教えてくれないか、綾瀬。ここに来たことがあるって事は、出口も知っているんだろ?」

 一段落した抽象的な話から、俺は潮の匂いさえ漂っていそうな図書室を眺め回す。コレが図書館だと言うだから、本当、世の中分からない。
 蒼白の湖に名残惜しさを感じながら、俺は綾瀬に視線を戻す。
 イリヤ達も心配している筈だし、早く戻らないとな。



「………………………」



 長い沈黙。ざざあ、ざざあ。うるさいぞ、心地良さそうな波紋の音。
 今は十月だ。海水浴シーズンはとっくに過ぎているんだよ。

「ねえ、ゆえゆえ。もしかして………」

「いやいやいや。そんな事は無いぞ宮崎。きっと何かの冗談だ」

「そうですよね、いくらんでも……ねえ、ゆえゆえ?」

「そうだよな、図書館の中で遭難した何て、そんな馬鹿な、……な、綾瀬?」

 俺達は南国の空気を今このときばかりは恨めしく思いながら慌てふためく様を必死に隠し、綾瀬に詰め寄る。
 気のせいか汗を一筋たらした綾瀬は、茶色のコートをごそごそとまさぐり何かを探している。無表情に取り出されたそれは、俺の目の前に掲げられた。いや、綾瀬と俺ではタッパが違うので、俺が見下ろす形な訳だが。

「………ドコサヘキサエン酸配合、微炭酸系青野菜ジュース……“すっぱぬき”?」

 思わず朗読してしまう俺、ってなんだこのあからさまに変なジュースは。“すっぱぬき”商品の名称か? つうか売れないぞ、コレ絶対。
 そう思いながら、こんなのを藤ねぇが見つけた日には、間違いなくダース買いするのは間違いないのだが。そんなスパークした思考を段々と復活させ、とりあえず一番初めに上がった疑問を俺は口にした。

「あのさ、なんだこれ?」

「パックジュースなのです」

「いやいやいや、そういう事を聞いているのではなく」

 頭を抱え込む俺に、宮崎がはっとしたように言葉を選ぶ。

「変なジュースはゆえゆえの趣味なんです」

「ありがとう宮崎。でもそれも俺の問いに答えていないな」

 膝が落ちそうなのを何とか堪え、俺は腹に力を入れなおす。日本語が悪かったと、再度頭で質問を反芻し、より適確な表現へと書き換える。

「――――よし。もう一度聞こう。このジュースとこの図書館の出口、一体どう言う関係が在るのか説明してくれ。出来れば、原稿用紙一枚以内に収まるように」

 言葉を吐き出すと同時にため息、果たしてコレは俺のものだったのか、それとも綾瀬のものだったのか。知る由もない。

「――――――――――思い出すのです。コレを呑んで」

 ぼそりと、今まで無貌を貫いていた綾瀬が目を逸らし言う。原稿用紙一枚どころか、一行にも満たないそのプレゼンテーション。
 ああ、やっぱりそうなのですね。その一言で全てが伝わったというのに、俺は尋ねずにはいられなかった。

「思い出すって、――――――やっぱり?」

「………ゆえゆえ」

 出来ることなら聞きたくない、だが、聞かないわけにはいかない。

「――――――出口、きっと直ぐに見つかるのですよ」

 俺たちの命運は、ジュースに含まれたDHAの分量に委ねられた。



[1027] 第十八話 スパイラル
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 11:51
/ .

「なんてこと……」

 イリヤちゃんが目の前で口をあけた大穴と同じように、小さな唇を締まり無く放心させる。
 開いたそれから響くのは、悲しみと驚きが入り混じった痛々しい物だった。

「妹さん、大丈夫です。衛宮があの程度のことで」

「そうや。衛宮君は往生際が悪そうやし、心配せんでもきっと平気や」

 肩を震わせるイリヤちゃんに、木乃香ちゃんと刹那ちゃんが優しく触れる。息苦しかった迷宮の中が、それだけで明るさを取り戻した。心なしか、木乃香ちゃんのランプが轟々と炎を掻きだす様に感じられる。
 ゆらゆらと揺れる炎の影は、イリヤちゃんの三つ網を曖昧に映し、僕の隣に控える式の顔に暗がりを作っていた。

「大丈夫。イリヤ、もう少し自分の兄貴を信用してやれよ」

 彼女には珍しく、歩みを進めイリヤちゃんの柔らかそうな頭を撫でる。しかし、妙に引っかかる彼女のニュアンス。
 明らかに木乃香ちゃん達のモノとは違うのは気のせいかしら? 僕は気付きたくも無い恋人の僅かな仕草から、そんな疑問を抱いてしまう。

「シキ、そうよね。大丈夫よね」

 イリヤちゃんの振り向き零した力の無い笑み。
 凄いね、士郎君。イリヤちゃんの君に対する評価が良く窺える。
 僕は式が感慨なく放つであろう次の言葉をなんとなく予想しながら、耳を塞ぐべきかどうか真剣に考えていた。

「ああ。いくらなんでも、衛宮は幹也みたいに節操無しじゃないだろ?」

「ええ、そう祈るだけね。とにかくお兄ちゃんを探しましょう。ピンシャンしているのは間違いないけど、女の子と三人きりだなんて、何が起きても可笑しくないわ。――――ほら、コノカにセツナ。早く案内しなさいよ、お兄ちゃんが心配じゃないの?」

 乾いた笑みを残して、イリヤちゃんに手を引かれる木乃香ちゃん達。ははは、笑ってくれよ二人とも。そんな新宿の道路ッぱたで臭い立ち込める吐瀉物を見るような視線を僕にくれるくらいならね。
 で、それに当てられてしまったのか、迷宮の中がすっころんだ様に、先ほどとは異なる空気に満たされてしまっている。

 なぜかな士郎君。僕は今、本当に悲しいよ――――――――――。





Fate / happy material
第十八話 スパイラル Ⅴ





/ 9.

「――――――――よし。最後の手段だ」

 何か妙に悲しげな感情をシンパシったが、無視した方が無難かもしれない。俺はそんな直感を振り解くように語気を強めて目の前の二人に言う。
 ここに落下してからどれほど経ったのか、お腹も大分空いてきたし十二を大きく過ぎているのは間違いない。

「…………出口は発見不能、携帯電話は圏外、衛宮さん何かいい案があるんですか?」

 宮崎が心配そうに俺の顔を覗きこんでいる。
 最も、前髪に隠れて口元しか窺えないが、それでも彼女の豊かな表情は隠せてはいなかった。

「ああ。出来るかどうかはわからんけど、方法なら在る」

 砂浜を深く踏みしめて、神経を止める、いや研ぎ澄ます。
 この場所、アレを投影するにはもってこいだ。繰り返すさざ波の音色が、俺のイメージをより鮮明にしてくれる。瞳を閉じた向こう、綾瀬と宮崎の対照的な視線を受けて俺は回路を起動する。充填される魔力、加速するイメージ。綾瀬の興味、宮崎の狼狽に答えるためにも、俺の初めての試み、成功させてみせる。

「----――――投影、開始」

 撃鉄を一つ、二つ。痛みを堪えながら槌を振り上げ振り下ろし、イメージを鍛え続ける。
 作るのは“剣”では無い、――――――“盾”。俺の属性ではないその宝具、果たして,
 俺に創れるのか。

 ―――――――――やれる。
 
 今の俺には確信があった。変化の鍛錬を通して、コツを掴んだ類感の魔術。剣を起点に刀、槍、斧、鎖、弓、盾の概念へと属性を派生させるのは不可能じゃない。
 曲がりなりにも、ライダーの短刀を投影できた、なら出来ないはずが無いだろう。

「投影、――――――――――――終了」

 握り締めた右拳、確かな感触。通常の二、三倍は魔力を持っていかれたが、許容範囲内だ。
 体が滅茶苦茶痛いがこの程度は何時ものこと、痛い程度で吐血も無い、どうやら“幻の投影”に特化したこの宝具は、俺と相性が良いようだ。こいつとの出会いも関係しているかも知れないが、“思い入れ”ってのも道具には必要な要素だ、それは俺が何よりも分かっている。

「わあ、綺麗な宝石ですね。魔術で取り出したんですか?」

「凄いのです。この宝石、衛宮さん以上の魔力量を感じるのですよ」

 手を開いて二人に見せれば、例の如く“大海”に魅せられた女の子が興味心身に投影されたそれを囲んでいる。出来は、―――悪くない、真名を開放しろといわれれば疑問だが、本物の六割強は機能するはず。

「きゃっ!?」

 その証拠に、大海が低い唸り声を発し、宮崎を驚かせた。
 常時開放型の能力、“第三者に危険を知らせる”こいつなら、イリヤたちに俺らの居場所が伝わる筈、そうなれば後は簡単、式さんが一直線に迷宮を抜けてきてくれればいいだけなのだから。良く考えたら、俺の能力異常にインチキな力だなアレは。

「あの、衛宮さん。これは一体、――――」

「悪いな、驚かせた。でもこいつで一安心。後は寝ながら待ってよう。おあつらえ向きのシチュエーションだからな」

 宮崎の再度除かせた前髪から彼女のきょとんと惚けた顔を垣間見ることが出来た。
 少し得した気分だ。俺は薄い胸を撫でる宮崎に気楽な笑みを残し、オーシャンをポケットにしのばせる。
 俺は、うやむやな彼女たちの視線をそのままに、季節はずれな夏の匂いに寝転んだ。










「――――ってなわけで、俺の魔術の解説は終了。大体分かったな?」

 ビーチサイドに刺さるする三つのパラソルの下、俺達は“川”の字を書いて寝そべっていた。その横には魔術書の山。式さんたちの到着まで時間を持て余すので、綾瀬の強い要望もあり俺達は互いの魔術についての情報交換を行っていた。
 はじめに話したのは俺。
 先ほどの大海の効力についての解説の後、自身が綾瀬や宮崎と同じく刻印を持っていないぽっと出の魔術師であること。
 魔術属性と特性。解析、強化、投影そして鍛錬中の変化の魔術(勿論、その特異性はなるたけ伏せながら)について少々の解説。
 一通り話しを終えた俺は、今度は綾瀬と宮崎、麻帆良の魔術師二人の話を聞く番である。

「それじゃ、最初に質問良いかな? 綾瀬や宮崎も、中学のとき、その“ネギ先生”絡みでこっちの世界に入ってきた口なのか?」

「はいです。私はそれまで唯人でしたから」 

「そうすると、二人は魔術師の家系って訳じゃないんだよな? 俺と同じくはぐれ魔術師か?」

 俺は右手に転がる綾瀬に、親近感を覚え、同意を求める疑問を口にする。自分で創った勝手な造語ではあるが、はぐれ魔術師、なんかカッコいいな。

「そうです。ゆえゆえも私も、木乃香さんと違って神秘を有する家系の生まれでは無いので、才能も回路もあんまり無いんです。ただ、それでも衛宮さんと同じように自身の属性に沿った魔術ならば使えるようになるので、それを一生懸命練習しているんですよ」

「へえ、そうなのか。じゃあさ、二人の属性は何なんだ? 俺は話した通り剣だけどさ、お前らがどんな魔術師なのか気になるな」

 綾瀬の向こう側、おっかなびっくりでは在るが宮崎が口を開いた。
 少し嬉しかったので、調子に乗ってもう少し突っ込んだ質問をする。

「のどかは“本”、私は“火”の魔術師です」

 それに返すのは綾瀬、擬似的な太陽光に目を細めながら要点だけを言う。

「それと、付け加えますが、のどかは厳密に言うと魔術師では在りません」

「魔術師じゃない? でも、回路が僅かでもあって、神秘を行使できるなら魔術師以外に言い様が無いだろう? あ、そうか、魔術使いって意味か?」

 綾瀬のくれた軽い混乱に上半身を起こす。
 だが、とって加えた俺の回答は、得意げに微笑んだ宮崎に打ち消された。
 
「違いますよ。あ、いえ魔術を手段として使うって意味では魔術使いには違いが無いんですけど………う~、ゆえゆえ~、説明が難しいよ」

 俺は宮崎の言わんとする事がいまいち分からないので正直に眉をひそめて彼女に意識を注いでいた、だが、それがいけなかったのか、宮崎は縮こまって綾瀬にバトンをタッチ。

「コレについて説明するには、私たち麻帆良の魔術についてお話ししなくてはならないのですが、お聞きになるのですか? 衛宮さん」

「お聞きになるのですよ。……いやいや、冗談だから睨むな綾瀬。それじゃ、次は麻帆良の魔術について教えてくれよ。以前妹が話してくれたんだけど、魔術師はそれぞれがそれぞれの神秘体系を保有している。同じ魔術といえど、特徴が異なるはずだろ? 勿論、お前が話せる範囲で構わないけどさ」

 口真似されて気に障るなら、変な言葉使いを止めれば良いだろうと思うのだが、そこは譲れないようだ。綾瀬は、先ほどの怪奇ジュース“すっぱぬき”を口に含んで落ち着きを取り戻し、そして口を開いた。

「全てお話ししますです。麻帆良の魔術師は同業者に対して寛大ですから、神秘が彼らに対してのみ知れ渡るならば殆ど気にしません。一般の魔術師は広く知られた神秘は力を失う事、厳密に言えば“独占していたはずの根源への道”それが知れ渡ることに恐怖を感じ魔術を他のものに教えません。しかし、麻帆良の魔術師は違います。あくまで手段として魔術を用いているわけですから、広く人の手に触れ、それが改良、発展されていく方が好都合なのですよ」

 いわれて、俺は思わず納得した。麻帆良の魔術師と大多数の魔術師達違いはこんな所にあったのだ。
 神秘を道具として扱う麻帆良の魔術師は、いわば職人肌なのだ。いかにそれを使い込み、より洗練し実践的に神秘を行使するのか。
 対して、他の魔術師は研究者なのだ、自身の論理をひたすら自己で暖め続け、確立。そしてその知的ともいえる最終目標“根源”を目指す。
 広く浅くと狭く深く。言ってしまえばそれだけの事なのだが、故に、その確執は埋まることが無いのであろう。

「それで、ここからが本題なのですよ。私たち麻帆良の魔術師そして、私たちの主張に賛同する組織が有する固有の神秘体系、それが“契約(パクティオー)”です」

 ずずっと、最後まで美味しそうに“すっぱぬき”を飲み終えた綾瀬は、人差し指を立てて俺に顔を向けた。

「ぱくてぃおー?」

「簡単です、魔術師とその使い魔の関係、―――と言えば分かるのでしょうか? 私たち麻帆良の魔術師は常に二人で一人、魔術使いとその従者で成り立つのです」

 様はマスターとサーヴァントの関係と言う事か。
 俺はなんとなく掴めた綾瀬の説明に相槌を打ちながら、理解しりえた情報を整理する意味で、彼女に返す。

「つまり、宮崎が“魔術師じゃない”ってのは、お前が綾瀬の従者って事だからなのか?」

 除かせた顔で、俺は宮崎に返答を求めた、それに彼女はコクリと頷く。

「でも、人間同士が…えっと契約(パクティオー)だっけ? それをすることに何か意味があるのか?」

 綾瀬の言葉どおり、早い話が人間を使い魔にするってことだ。
 主従関係の形成、聞こえはいいが、それはどちらかが主人であり、片方は奴隷である。これは穿った意見なのかも知れないが、従者、少なくとも“誰かの下”についてでも手に入れたいアドバンテージをその契約で得られると言うことだ。

「勿論です。一つは使い魔として契約するわけですから、互いのパス、ラインが繋がりっぱなしなのです。魔術師ならば、それがどれだけ大きな利点であるか分かるはずですよ」

「………なるほど、“他人の強化”か」

 強化において最も難しいとされるその術、だがそれが“使い魔”であれば話は別だ。
 他者と自己。契約を通して限りなく互いを同一化させるこの行為により、他人の強化をより難易度の低い自己の強化に近づけることで行使する。
 パートナーと言う自衛力も手に入って一石二鳥だ。

「はいなのです。それ以外にも使い魔である故にある程度思考の共有、契約の証である“パクティオーカード”を使えば遠距離でも通信可能です。ですが、パクティオー最大メリットは契約を通じて得られる、心象世界を象った魔具(アーティファクト)の形成にあるのですよ」

「心象世界を象る武器? それって詰まり、簡易的な固有結界を創り出すって事か?」

 それに無言で頷く綾瀬は実に満足そうだ。
 綾瀬の誇らしげな様子に、宮崎も嬉しくなったのか次に口を開いたのは彼女だ。

「はい。そうとも言えます。ただ、固有結界と言っても神秘の次元はそう高くありませんし、“自身の最も適した概念武装”を召還する、と言った方が良いかもしれませんね」

「どちらにしても凄いな、そのパクティオーってのは。それでさ、宮崎はどんな魔具を呼び出せるんだ?」

 俺は興味津々で宮崎に向き直った。馬鹿め俺、そんなことをしたら宮崎がまた恥ずかしがってしまうだろうが。案の定、びくびくと綾瀬の影に隠れるように縮こまってしまった彼女。本当に勘弁して欲しい。彼女のような女の子に、台所で発見した黴ご飯を摘み上げる様な視線を向けられるのは、男の沽券に関ってくる。

「えっと、いいのゆえゆえ? 衛宮さんに視せても?」

「構わないのですよ、“どの本”でも」

「うん。えっと、衛宮さん。私は口下手なのでうまく説明は出来ません。そのかわり実物を召喚しますので、その」

「おう。俺は解析を使って自分で理解するから問題ないぞ」

 もごもごと何かを咀嚼するようにどもる宮崎に俺は親指を立てる。どうやら、宮崎は勇気を出して説明をしてくれるらしい、そのための予行演習のようだ。実に健気である。

「はい、それじゃ、―――――――“来たれ(アデアット)”」

 宮崎は一工程の言霊を紡ぐ。
 途端に彼女の右手が発光、そして次の瞬間“ポン”と軽快な音を立てて、一冊の古めかしい本が飛び出してきた。

「“イドノエニッキ”―――――――――です、えっと、これはあのですね。他人の、ひょ、ひょうそうしんりをを~」

 宮崎はパラソルの下出現したその本を抱え込み、自分の顔を隠すようにそれを抱きかかえて口を開いた。彼女に辛い思いをさせる訳にもいかないので、俺は即座に解析を走らせた。

「――――へえ。表層心理を映し出す本か?」

 編みこまれた術式はさっぱりだが、最終効果はなんとなく魔力線や概念線の構造から予想できた。行使のためにクリアしなくてはならない条件がいくらかあるようだが、何とも面白い本だ。

「は、はひ!?! その通りです、半径500m以内の人間、もしくは動植物の思考を読み取れます、表層意識だけですけど!?!?! あ、あと、その人のお名前が分からないと使えません!?!? 以前は、使用ははっはん!?」

「い、いや、分かったから落ち着けって……な? 宮崎」

 舌を噛みながら懸命に教えてくれるのは有難いんだが、そんなに頑張られると俺が困る。
 俺の顔色を窺ってくれた綾瀬が、「はあ」とため息をついて宮崎の言わんとすることを先がけた。

「以前、のどかが仮契約で使用していた日記は、今ほど広範囲の思考を読むことが出来なかったのですが、私との本契約以降、召喚できる本の種類も増え効果も上がったのです。っとのどかは申したいのですよ」

「……………(こくこくこくこく)」

「ああなるほど、サンキュウ、教えてくれて。頑張ったな、宮崎」

 男嫌い…いや男が苦手なだけか? どちらにしても、俺の為に一蹴懸命頑場ってくれた事が嬉しかった。
 まあ、綾瀬の影から出てこないのは相変わらずなわけだが。

「あ、それとさ綾瀬。今、仮契約と本契約って単語が出て来たけど具体的どう違うんだ? 何と無く想像できるけど、詳しく教えてくれよ」

 二個目の“すっぱぬき”のストローを加えた綾瀬に、俺は聞く。
 だが、妙なことに彼女の顔が微妙に歪んだのが気になる。

「仮契約は言葉通り、パートーナーの選択用お試し契約の様な物です。本契約より力の弱い魔具しか召喚できない代わりに、何人とでも簡易的な契約が可能です。逆に本契約は一人だけとの契約、今の私とのどか、木乃香や桜咲さんがそれです。一人としか契約できませんがその代わり繋がりも大きくなりますからその分強力な契約関係になるのですよ」

「へえ、仮契約は何人とでも出来るんだ? だったらさ綾瀬、俺とちょっと契約してみてくれよ」

「――――――――――え!?」

 俺の発言に綾瀬は顔を引きつらせ、宮崎は真っ赤になってしまった。
 なんでさ? 俺何か変な事口走ったのか?

「別に深い意味は無いぞ? なんか面白そうだし、綾瀬の口ぶりからすると、仮契約は結構簡単に出来るんだろ? 俺、どんな武器が出てくるのか気になる」

「――――え、いや仮契約は簡単に出来ますが、生憎、私たちは契約の仕方を、その、一つしか知らないので………」

「 ? だったらそれで構わないだろ? どうしたんだ、急に? 顔赤いぞ?」

 俺はパラソルから身を乗り出し、慌てふためく二人に近づく。
 一歩近づき、一歩離れる、って一体何なのさ?

「いや、それが、―――― ! そ、そう! 私達は既に本契約を済ませてしまっているので、新たな契約は出来ないのです!? そうですよね、のどか!?」

「は、はひ! そそそそう!? そうそうでした、すっかり忘れていました!?」

 突然声を張り上げ、大げさに笑い出す二人。
 しかし、麻帆良の魔術師当人が言っているのだから、間違いなのだろう。

「そうなのか? それじゃあ仕方が無い。って事は近衛に頼んでも無理か………」

 ちょっと残念だ。
 俺の心象世界を具現する武器、どんなモノが出てくるのか少し楽しみだったのに。エクスカリバー為らぬエクスカリパーだったりしてな、……まずい、笑えない。ガシャポンみたく簡単に出てきた日には、絶対に立ち上がれ無い自信がある。
 俺が再度砂浜に寝転がり、光の集まる天井を見上げれば、二人はほっと胸をなでおろし息を吐くのを視界の端に捉えた。
 右腕の短針はもう直ぐ三に手を伸ばす。
 アレから結構しゃべったが、式さん遅いな。俺の投影、やっぱり失敗していたのかな。
 俺は不安になってポケットの中のオーシャンを手に取った。やはり綺麗な青色、効果はかなり期待できる。

「まあ、気長に待つしかないのか………」

 俺は、右手に詰まれた本の山に手を伸ばす。引き抜いたのはなんと“鉱物書”。先生に借り受けている物と寸分たがわぬその本は、このフロアの本棚に収まっていた物だ。

 俺は差し込む日差しの中、本を繰る。
 時間はまだまだあるようだし、魔術の勉強に打ち込もう。同い年の魔術師たちも、気がつけば俺の横に並んで皆魔術書片手に勉強中、全く熱心な事である。俺は彼女たちに負けないよう、今日も今日とて変化の勉強に精を出すのであった。



[1027] 第十九話 されど信じる者として
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 11:58
/ 10.

「衛宮さんは本当に才能が無いのですね」

 無貌。表情が無い筈なのに、何故綾瀬の顔が呆れているように移るのでしょう? 
 俺は変化の呪失敗によって灰に帰る哀れな魔術書を涙目で眺めながら、彼女の言葉にただただ頷くことしか出来ないでいた。
 つーか愛と言うか労わりと言うか、そんな優しさと言う名の毒を下さい。

「…慣れない魔術道具を使っているから失敗するんだって」

 言い訳がましく頭を垂らし答える情けない俺。そんな俺に何を思ったのか、綾瀬はため息。
 地下の湖、その砂浜にはこの地下図書館に貯蔵されていた変化の呪練習用の魔術紙も用意されていた。様は先生の所で使っていたランプの紙版。金属を含まぬその魔具は、俺とほとほと相性が悪い。
 まあ、変化の魔術が成功した試しなど一度も無いのではあるが。

「言い訳は良くないのです。何度も言いますが、物体の全体像を捉え、それに類感で派生させた属性を被せるだけで良いのですよ。視たところ、パスの接続、類感の魔術に問題はありません。何故、概念付加の工程でそんなに手こずるのですか!? 魔術師ならばこんなの簡単なのですよ!?」

「ゆ、ゆえゆえ。落ち着いて、そんなに根詰めても仕方が無いよ」

「―――――ぬ。そうなのです、私とした事が取り乱したのです」

 段々とヒートアップしていく綾瀬に、宮崎が歯止めをかける。
 遭難してそろそろ四時間、全然緊迫感が無いのは何故でしょうか? さもありなん。間違いなく俺がヘッポコだからである。

「それでは衛宮さん、休憩をしましょうか? のどかの言う通り集中のしすぎは体によくありませんのです」

 その言葉に、俺はどさりと後ろに倒れこむ。
 見上げた天井には、俺たちが落下してきた大穴が顔を覗かせていた。





Fate / happy material
第十九話 されど信じる者として Ⅱ





 遭難、或いは迷子と言えばいいのだろうか。今の俺たちの状態は果たして何なのか、それは俺にも分からない。まあとりあえず、ロビンソークルーソーよりは長閑に退屈を満喫できる自信がある。
 どちらにしても、こんなに気楽に過ごせるものでは無いと思うのだが、如何せん緊張感が不足しているのだからどうしようもなかった。
 この際だから、目に見える脅威でも迫ってくれば良いのに。
 無為な感慨を振り切るように寝返りをうつと、柔らかな浜の感触が背骨に心地よい。
 寝転がりながら魔術書を流し読めども、一向に頭に入らなかった。真面目に読んでも小難しい活字の羅列が眠気を誘うのだ、当たり前である。

「――――――ふう」

 目を休める為に、背中で繊細さと規則正しい息遣いを失わぬ、綾瀬に尋ねた。
 
「なあ、綾瀬。お前ってさ、どうして魔術を勉強しているんだ?」

 食い入る様に魔術書に集中する彼女。
 俺の声にも実に張りが無い、砂浜に再度寝返りをうちながらの言葉だ、それも当然か。

「随分突然なのです。一体どうしたのですか?」

 俺の突然の疑問に、彼女が本から顔を外す。

「別にさしたる理由も無いな。でも、本を読んでいるお前の顔、妙に嬉しそうだったから」

「はあ、それはまた恥ずかしい台詞をどうもなのです」

 少し顔を赤らめて俺から顔を背けた彼女。
 その仕草が、俺の問いかけへの肯定が含まれているのは言うまでもなかった。

「やっぱり、お前魔術を勉強するのが好きなんだな。さっき俺の変化の練習に付き合ってくれた時も、普段のお前からは想像出来ない位真剣に教えてくれただろ」

 恥ずかしそうに口を尖らした彼女は、諦めたように口を開いた。

「………私は魔術が好きなのですよ。衛宮さんの言う通り」

 清々しい程のその言葉に、湖の波紋が急に止まった様にも感じられる。俺は伸ばした足を片方だけ引き戻して、頬杖をつきながら彼女の言葉を待った。

「私が魔術を学ぶのは、麻帆良の提唱する人助けのための手段でも、まして根源を目指すためでもないのです」

 彼女は自嘲気味に微笑んだのだろうか?
 綾瀬の視線の先、遺跡の欠片が湖面に打ち付けられ緩やかな波紋が穏やかにたゆたう。その不規則な流動が、妙な居心地の良さを感じさせ、俺は少しだけ肩の力を緩める。

「私にとって魔術とは、大切な繋がりなのです。この世界に魔術と呼ばれる奇跡があったから、私はのどかと一緒に過ごせて、ネギ先生達にも出会えて」

 宮崎がこの場にいたのならば、綾瀬のこの言葉、この表情を一体どんな顔で受け取るのだろうか。生憎、男の子には言えないもろもろの事情のため席を外す彼女が居ない事を軽く残念がり、俺は穏やかさを取り戻す湖面に視線を戻す。
 宮崎の顔も、綾瀬の顔も視線の先には無い。けれど、紡ぐ言葉の向こう側は笑顔でしかないのだろうからそんな事を気にする必要は無かった。

「そして、――――――――――――――」

 優しい響きは、俺が知る彼女たちと同様、輝かしいまでの過去に向けられている。
 過去にあった筈の幸せ、それを知らなかった俺が、今こうして彼女の言葉を受け取る事はなんて皮肉。そんな事に気付かなかった自分が、どうしようもなく馬鹿に思えて口元を嬉しく吊り上げた。答えはどこにだって転がっていたんだ、そう“今”の俺は振り返れることが出来る。

「私の物足りなかった日常を否定し、好奇と神秘に満ちた今の世界に私を繋ぎとめる確かな楔なのですよ」

 神秘的なアイロニーは、綾瀬の言葉で日常へと帰る。
 彼女の言葉を皮切りに、俺は普段の自分にゆっくりと戻っていくのを感じた。

「しかし不思議ですね、会って間もない殿方にこんな話をしてしまうなんて」

 すこしの失笑。
 顔を赤らめながらの照れ笑いは、すこしだけ俺を得した気分にさせてくれた。

「そっか、魔術ってお前にとって大事なもので、そんでもってとんでもなく好きな事なんだな。なんか羨ましいよ、そうやって何かに一生懸命になれるって」

 湖面に出来る不規則な流動が、俺に向かって波を立てる。
 そんな情景を眺めながら、落ち込む嫉妬のような感情。
 俺には、綾瀬の様に何かを楽しんでいた記憶がなかった。確かに、俺は正義の味方って望みがあってそれに向かって頑張れる。だけどそれだけ。俺は何かを楽しんでいた事など  一度も無いのかもしれない。
 少し暗がりを作った俺の頬に、不思議そうな顔を向けた綾瀬。俺には、どうしてお前がそんな意外そうな顔で俺を見るのか分からないよ。

「 ? 何を言うのです。衛宮さんだって、魔術が好きじゃないですか、楽しんでいるのではないですか。そうでなければ、こんなに一生懸命に頑張れないのですよ」

 呆れるように紡がれた綾瀬の言葉に、俺はドクンと、心臓が跳ねるのを感じた。
 魔術が、―――――好き?
 魔術を、―――――楽しんでいる?
 なんでさ?
 俺の魔術はあくまで手段だ。
 正義の味方を目指す、その上で俺が通らなくてはならなかった必定。
 それを、俺が?

「違うのですか? 衛宮さん、才能も無いのに一生懸命練習なさっていたのです。私にはその顔がとても楽しそうにみえたのですよ」

 綾瀬の傾げられた顔はとても綺麗だ。
 俺の動悸を気にすることも無く、彼女はなんて当然のように、俺に微笑んでくれるのか。

「衛宮さん、義父さんに魔術を習い始めて、ずっと一人で鍛錬なさって、ずっと魔術に触れてきたのでしょう? 例え、魔術を学ぶ目的が純粋な目的では無かったとしても、ここまで続けてこられたのは、きっとそれを学ぶことが楽しかったから、だと思うのですよ」

 俺は嘲る様にエミヤシロウに口元を歪ませる。
 本当に俺は馬鹿だと、世界の奥底からそう思う。
 俺が捨て去ってきた物、俺が取り戻したいと願う物。
 そんなモノ、はじめから無かった。
 俺が気付かなかっただけで、それはいつだって傍にあったのに。

「魔術が楽しい―――――――――か。今まで、考えもしなかった」

 口に出せばそれだけ、だけど、俺が見つけた、俺が望んだ最初の一。
 ああ、そうだな。
 世界ってのは、俺が思っていた以上に優しい矛盾に満ちていたんだ。

「はい。それは私が保証するのです。かく言う私も、魔術を始めた動機が不純な物でしたから」

 俺は自分の気持ちを改めて噛み締めながら、綾瀬に視線を戻した。
 見つめる綾瀬の顔、今度は彼女が湖面の揺らぎに心を奪われていた。
 だけどその顔は、俺の様に後ろ向きな貌では無く、甘酸っぱくも優しい、そんな記憶に触れているように感じられた。

「へえ、綾瀬がね。それは意外だな、何なんだ、お前の不純な動機って?」

 少しばかり興味をそそられたので、気軽を装い軽やかに言う。
 が、俺の言葉に「不覚なのです」と呟いた彼女。

「まあそれは女性の秘密なのです。私にも人に言えない恥ずかしい青春があったのですよ」

 恥ずかしげに呟いた彼女は、けれど楽しげな苦笑で俺と視線を絡めた。

「何だよそれ? 全然分からないぞ」

「分からなくて良いのです。初対面の女性に、色恋沙汰の話を持ちかけるとは、衛宮さん不潔なのですよ」

「ははは……なんでさ?」

 俺達は毒づく言葉を軽快に投げあいながらどさっと仰向けに体を倒す。
 そのまま、宮崎が帰ってくるまで訪れた和やかな沈黙は、少しだけ有意義な物に感じられた。










「なあ綾瀬、何かコツは無いのか?」

 宮崎が戻ってきた後はなし崩し的に魔術の鍛錬が再開。
 辺りは魔術紙によって築かれた灰の山だ。
 何度やっても進歩しない我が最愛の変化の呪、ハネムーンは地獄の底へご招待。
 くそぅ、笑えねぇ。

「コツも何も無いのですよ。衛宮さんはパスの接続も類感による属性の派生も抽出も問題なくこなせているのです。後はその抽出された概念を対象に被せるだけで良いと、何度も申しているのではないですか」

 草臥れた様子で広いおでこを押さえる綾瀬は、よれよれと力なく浜に膝をついた。
 衛宮選手のじわじわと響くジャブの雨に、遠坂、先生に続いて綾瀬がダウン。

「でも言ったろ? 俺は普通の工程が全然出来ないって。その、なんだ? 全体に概念を被せるったって、どうすりゃいいのか分からないぞ」

「あ。そう言えば、衛宮さんには対象物が八節に分かれて視えるんですよね? 特化された能力を手に入れた代償に、魔術師ならば誰でも理解できる、存在全体を概念的に捉えられないと」

 綾瀬を介抱する宮崎が俺に言葉を代弁する。
 俺はそれに頷き、彼女たちの目の前でもう一度変化の術式について頭を凝らす。
 悩むこと三十秒、一向に出口は見えないがそうこうしている内に綾瀬が回復、彼女が上目遣いに口を開いた。

「だから衛宮さんは起点として存在の基本骨子、骨組みにあたる概念基盤を変化させることで呪を成そうとしている。基本骨子を捻じ曲げれば存在は違うモノへと昇華する、理屈としてはそれで失敗するはず無いのですが………」

 我が骨子はねじれ狂う、―――――か。
 俺の世界から毀れだした、取り出した一節。
 オレ/俺の中にある変化の術式、そのパスワードは本当に正しいのだろうか?
 もしかしたら、俺は思い違いをしているのかもしれない。
 世界から掘り当てるべき俺の術式。

 ―――――――――剣(りそう)を捻じ曲げる。

 漠然と感じていた、この呪文は“オレ”のものだ。
 全てを救えぬ矛盾。それゆえに一を殺して九を救う、―――それがオレ。
 理想と現実の狭間で苦しみ続け、導き出した答え。
 切嗣と同じ、悲しいくらい強い答え。
 “全てを救える夢見た少年”から“正義の味方”へ。そして、いつか訪れる、決定の瞬間。

 ―――――――――受け継いだ願いを、約束した想いを捻じ曲げる。

 そんなものが、俺にとっての“変化”なのか?
 それは違う。それだけは断言できた。

「もしかしたら。根本的な部分が違うのではないでしょうか? 変化の起点、もしくは起動の呪文(コマンド)が」
 
 俺は綾瀬の言葉を受けて踏み外しかけた思考を連れ戻した。
 顎に手を触れた綾瀬の左。
 開けた湖面が急速にその潮を引かせていき、浮き彫りになった砂浜の段々はあまり綺麗とは言えなかった。

「それ、先生も同じこと言ってたな」

 湖面より視線をずらし、つと零す。
 俺は徐に横に控えさせた鉱物書を手に取った、先生からその台詞を賜った後に“結論はこの中にある”と渡されたこの本。
 俺には内容が高度すぎて理解できなかったけど、綾瀬ならば理解できるのかもしれない。話をした限りでは俺なんかよりもずっと神秘に詳しいし、正直なところ知識だけなら相当な物ではなかろうか?

「なあ、綾瀬。お前さ、この本知っているか?」

「鉱物書ですか? それはまたマニアックな本を愛読なさっているのですね」

 綾瀬はへの字の口元を柔らかく解くと、嬉々としてその本を受け取った。
 宮崎と一緒になってページを繰る綾瀬。どうやら彼女たちは、魔術以上に読書の方が肌にあっているようだ。なるほど、本の魔術師と言うのも面白いかもしれない。

「それさ、俺には難しくていまいちよく分からなかったんだ」

 俺は段々と顔色を変えていく綾瀬と宮崎を横目に窺いながら、話を続ける。
 その横では、湖面の揺らぎが段々と幅を広げていく。先ほどまで穏やかに凪いでいた筈の波紋たちが、なにやら急に騒がしくなった。

「先生が言うにはこの本の―――――」

「コレです!! 衛宮さん、答えはこの中にあったのですよ!!」

「―――――――――――中に答えがって、早いな!?」

 俺が何週間もかけて頭を腫らせたその本を僅か数分で………。
 俺の今までの徒労は一体なんだったのか。お答えしよう、コレが無駄な努力って奴ですよ。はは、なんでさ?

「何をしょぼくれているのですか! この一節を読むのです!」

 沈んだ肩をむんずと捕まれ俺は顔を上げる。
 俺は鼻息を荒げる彼女の勢いに押されて、鉱物書を受け取った。

「ええ、なになに、属性を魔力と共に概念の“根底/0”に流し込む事で魔術的な反応で起る変化の矛盾を最小限に留め、魔術行使による状態変化、そして志向性を限りなく自然な流れへ、――――――」

「どうです! 答えはなんと簡単だったのでしょうか!! 真理とは常に我々のすぐ傍らにいたのです!! ああ、神秘を新たに模索し探求、そして発見! このエクスタシーがあればこその魔術!! 私の尊敬する祖父も申しておりますのです! 人間とは、―――」

「あのさ、今正に飛んでっちゃってるとこ悪いんだが、この一節、俺には良く分からないぞ? 音読までしておいてなんだが、解説してもらえるか?」

 はっと恥ずかしげに我に返った綾瀬を、俺と宮崎はやや引き気味に迎える。
 目的のページを開いたままで、俺は鉱物書を綾瀬に返す。
 先ほど読んだ一節、以前、目を通した事があった筈だ。

「………う゛ん。私としたことが、またしてもやってしまいました」

「いやいや、そんな事は無い。貴重なワンシーンを拝めたよ。心のアルバム行き決定だ」

「冗談は良いのです。それで、この文章の解説でしたね」

 俺の軽口に綾瀬と宮崎がうっすらと微笑み、普段の空気を取り戻した。

「いいですか、衛宮さん。私が与えられるのはヒントだけです。答えを与える事は出来ません。魔術の発掘とは他人の知恵から引き出す物ではなく、自分自身の世界から得る物です。そのことを初めに重々承知しておくのですよ」

 真剣な綾瀬の空気に当たりは一気に静まり返る。
 彼女の隣で心配そうに肩を抱く宮崎にも分かるよう、俺は無言で強く頷いた。
 辺りには風がなく、視界に入る古跡の群白が擬似太陽の光を反射し異様に眩しい。
 湖面の揺らぎは最高潮に達したようで、不自然に泡を巻き上げ直角に波打っていた。
 恐らくこれから津波でも来るのだろう。

「いいですか? 衛宮さん」

 ――――――ってチョッと待て!? そんなのこと、この穏やかな地底湖であるわけないから!?

「貴方にとって最大のポイントは、―――――」

 人間とは異なる呼吸官を使用して、響いた禍々しい絶叫。虫の雄叫び、怪虫の咆哮。

「―――――――――――――――きしゃあ?」

 綾瀬の素っ頓狂な声が、可愛らしい。
 真横で弾け飛んだ大粒の水しぶきの中で、俺たちはそろって首を回した。
 まるでアメリカ映画の壊れた路上ポンプの様相で、一気に湖中より噴出した水柱は瞬く間に奇怪なシルエットを象った。
 辺りはそいつによって巻き上げられた湖水の雨が痛いくらいに俺の体に降り注いでいる。
 いやいやいやいいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいいやいやいやいや。ありえない、今までは色々我慢できたが、目の前のアレは流石にどうだろう?

「………式さんと桜咲、早く来てくれないかなぁ」

「………ですね。のどかも早速気絶していますし、そのご都合主義ヒーロー登場は、実に好ましいアイディアなのですよ」

「だろう? 俺もそう思う」

 バッシャーン!
 と、愉快に登場したそいつは俺たちを前になにやらよからぬ事を考えているようだ。
 本当、勘弁してくれ。
 俺は気絶した宮崎を守るように綾瀬と揃ってそいつと対峙した。
 ポケットの中で握り締めた“大海”が、どこか熱く感じられたのは、手の平の汗故だったのだろう。

「さて。どうしたものか」

 飛沫よって適度な強度を持たされた黒色の砂浜を踏みしめて、俺たちは目の前の非常識サイズの素敵な来賓を睨み付けた。
 目に見える脅威のご登場に、俺は先ほどの自分を殺し殺してやりたかったぞ、畜生。



[1027] 第二十話 スパイラル
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 21:18
/ 11.

 タガメを知っているだろうか?

 言わずもがな、水中に生息する昆虫である。
 目の前のアレには足がちゃんと六本あるし、タガメに特徴的な大きな鎌状の二本の前肢、そして黒く鎧の様に光る質感も俺が子供の頃にみたそれと一致していた。
 唯一つ、馬鹿みたいな大きさを除いて。
 すげぇぜ、まさに大怪獣だ、全長二十メートルはあるんじゃないのか?

「綾瀬、一応確認しておく。アレはタガメで間違いないよな?」

「ええ、間違いないのです。何なら詳しく説明をしてあげるのですよ」

 英名をジャイアントウォーターバグ。
 学名……は綾瀬が発音してはくれたが良く分からん。
 カメムシ目コオイムシ科に分類される日本最大の水生昆虫であるそうな。
 先にあげたが、鋭い鎌を前肢に持ち、獲物を捕獲するための鋭い牙や爪も備わっている。

「そして、ここら先は話すのが気に乗らないのですが……」

「へえ、それは奇遇だな。俺もすげぇ聞きたくない」

 目の前の節足動物からじりじりと距離をとりつつ後退。かかとに触れるなにやら柔らかな感触、間違いない、宮崎だ。
 ああ逃げ出したい、だけど宮崎がいるから逃げ出せない。アンビバレンスな危機的状況を作り出した眠り姫が本当にうらやましい。

「毒を喰らわば皿まで、衛宮さん。男を見せるのです」

 いえいえ、そんな毒は求めていませんよ、綾瀬さん。
 問答無用の彼女の解説、この状況では正しくホラー映画並みに俺の背中に冷たい物を這わせてくれた。
 タガメ。
 こいつはどうやら肉食性で、魚や蛙、他の水生生物を捕食するらしい。それらを鎌状の前肢で捕獲し、口吻を突き刺して消化液を送り込み、溶けた肉液を吸いだすそうな。
 リアルにその様子が想像できてぞっとしないな、数分後は俺が見本にされているかもしれない。俺の背中に走る一筋の冷たさをひた隠しにしながら、綾瀬に視線も送らず先を促さした。俺の緊張が伝わったのか、彼女はごくりと唾を嚥下する。

「自らよりも大きい生物を捕獲することもざらで、その獰猛な性格から―――――――」

 俺は巨大なタガメから視線を外さず、綾瀬の言葉をまった。

「――――――水中のギャングと呼ばれているのですよ」

 最後に付け加えておこう。
 現在、タガメは環境汚染の影響で、環境省レッドリストに掲載されているそうだ。
 それはいけない、正義の味方として放ってはおけないなぁ、と自分自身が絶滅の危機に窮しているにも関らず、そんな事を考えた。





Fate / happy material
第二十話 スパイラル Ⅵ





 巨大な鎌が大きく振りかぶられた。
 冗談としか思えぬその大きさ、考えたくは無いが俺達に向かって振り下ろされるのは明らかだ。横に並ぶ綾瀬、後ろで気絶したまま動かぬ宮崎が、果たしてあの凶刃を凌ぎきることが可能なのか?

「衛宮さん!! ヤバイのです!!」

 答えはNOだ。
 むしろ、女だてらにあんなのを退けられる奴がゴロゴロしていて欲しくない。
 綾瀬の悲鳴とも取れる甲高い一声と共に、巨大な鎌はついに叩き下ろされた。俺一人なら、楽に躱せる。だが、そんな選択肢は元より頭の中には無い。

「―――――ちぃ!? 投影、開始!」

 現れる二色の愛刀。
 宝具を充填した回路の灼熱を感じる暇も無く、俺は砂浜にめり込む足首の衝撃を殺す事にのみ意識を集中していた。
 鎌の軌跡は予測済み、袈裟に振り切られた奴の前肢が俺の夫婦剣と交錯した。

「――――――っつ、あ!?」

「―――――――――――――きゃあ!!」

 十字に結んだ俺の双剣に、愚鈍な衝撃が弾ける。
 振り子の要領で叩きつけられた、巨大な鉄球を思わせる左からのその衝撃、俺は綾瀬も巻き込んでピンポン玉の様に吹き飛ばされた。
 踏みしめた筈の大地から、爽快感さえ漂う飛翔。俺と綾瀬は、十メートルは離れた浅瀬に吹き飛ばされる。

「っくそ! 馬鹿げてるっ。質量過多で、普通動けるどころか生きてる筈もねぇだろうが、あの野郎!!」

 俺は綾瀬を庇いつつも赤髪から滴る水滴を右手で払い立ち上がった。
 綾瀬に負傷は無いはずだ、彼女は何とか庇いきったがその代償に視界が揺れている。脳が揺すられたのか、それとも滴る湖水の所為か。どちらにしても、ぼんやりとしか馬鹿でかい昆虫を捕らえることが出来ない。取り残された宮崎が気がかりだ、あの眠り姫は気絶中だってのに。

「―――――――――――のどか!?」

 俺の懸念は、どうやら形となって現れたらしい。
 二度目の悲鳴、綾瀬の張り裂けんばかりの慟哭に俺の眼球が機能を取り戻した。

「―――――っく!?」

 だらりと両の手を投げ出したまま、黒々と色を帯びる鋭い前肢に捕縛された宮崎。
 俺は思考の余地も無く、脳内に十の剣弾を描き出す。
 イメージに時間は要らない、それが神秘も帯びぬ唯の刃であればなおの事。

「――――――工程完了」

 駆け出す。
 強化も碌にかけられぬ体を弾ませ、奴に迫る。照準はオバケタガメの右前肢、宮崎を絡め取る鋭利な刃だ。
 俺の剣弾は狙いが甘い、それでも痛みにのたうてば宮崎を手放す可能性が高い。

「―――――――投影、開始(トレース・オン)!!」

 プラスチックを思わせた奴の外殻に、剣の弾丸が放たれる。
 だが、貧弱そうな質感に反して、重い低音を響かせながら、弾かれるそれら。幾らかは黒色の大鎌に突き刺さるも、宮崎は依然奴の手中。
 嘘だろ? 俺の剣弾がまるで効いてない? 分厚い外皮の強度に戦意をそがれたその瞬間、奴の鎌は肉薄する俺に向けて大きく振り払われた。庇う者が無い俺は、軽い驚きを飲み込み大きく後方に跳躍。その一撃をやり過ごした。

「――――――衛宮さん! 大丈夫なのですか!?」

「なんとか、でもやばいぞ。このままだと宮崎が……っ!?」

 踝まである湖水の波を切るように、俺はお化けタガメから視線を逸らさず綾瀬の横に並ぶ。
 俺の剣弾じゃアイツの大鎌を吹き飛ばすには不十分だ。

 ならどうする。宝具の投影、―――――でも何を?

 アイツの聖剣? 論外だ、真名の開放は愚か投影できるかも分からないってのに。
 一刀大怒? いけるか? だがアレは近距離用の宝具だ、そもそもあの大剣を振り回してお化けタガメに近寄れる筈が無い、体躯が違いすぎる。あいつの間合いに人間の俺が飛び込める筈がないじゃないか。柔よく豪を制す、それは勝利に値する技量を備えた者が得る誉。俺にはあの馬鹿でかい鎌を掻い潜る自信など無い。

「―――――――っくそ! どうすりゃ……っ」

 思考している時間は無い/思考する時間はいら無い。
 答えを出せ/答えなど無い。

 俺に出来ることは、常に/故に、一つ。――――――創れ。

 宮崎を助ける最良の一手を創り出せ。
 今。俺に求められていることはなんだ!?

 ――――強度な外殻を貫通できるだけの一撃。
 ――――破壊力のある遠距離からの一撃。
 ――――宮崎を助けるため、微細な精度を誇る一撃。

 瞬きの折。
 歪な剣を射る、――――――――赤い背中の嘲笑を視た。

「弓矢――――――綾瀬。さっき言ってた変化のヒント、教えてれ!」

「変化の? しかし、今そんな―――――」

「いいから!! 時間が無い!」

 俺は、高ぶった口調で綾瀬に返事を望む。
 お化けタガメは宮崎を捉えたまま俺たちへの威嚇を忘れてはいない。それは不幸中の幸いだ、宮崎が捕食されるまで幾分かの猶予が残されている。
 激しく波打つ湖面の冷たさを感じ、体を震わせた綾瀬は捕食者のにごった瞳から視線を外さずに一言、告げた。

「物質的な骨子ではないのです。概念的な、そう……例えば“起源”。貴方が促すべきは、その一点です」

 彼女の言葉に“カチリ”、何かがかみ合った。
 霞に融ける干将莫耶。
 俺は頷くこともせずその言葉を噛み締め、目蓋を閉ざす。
 回路を駆け、イメージされる一つの剣。
 かつてこの地で、麻帆良の大地にて吸血鬼に敗れたファルシオン。

「練成、開始、――――――」

 だが、創り上げるのは剣ではない、――――――矢だ。
 綾瀬の言葉に、今までは感じられなかった回路の駆動を実感していた。
 八節に象られた一つの剣、それを鍛えるべき撃鉄が、今か今かと俺の回路を食い破るように待機している。後は引き金を引くだけ、それだけで類感により抽出された“矢”の概念がファルシオンに装填される。

「――――――――っ……っつ!!」

 だが、まだだ。
 解き放つべき、トリガー。
 炸裂すべきその言霊を、掲げるべきその言葉を世界のうちより掴み取れ。
 ――――――――――――――我が骨子はねじれ狂う。
 唱えろ、その歪な理想の如く。

「―――――――――――黙れ、俺は手前に用はねえ」

 赤い世界を振り払うように、唸る。
 現れた無骨な黒塗りの弓。
 赤い弓兵の獲物に似ても似つかぬその贋作に、俺は奇妙な喜びを感じた。

 俺は、お前とは違う。

 剣は理想。我が骨子は、尊き願い。

 切嗣から受け継いだ、その誓いを。
 アイツと約束したその願いを。
 ―――――――――簡単に捻じ曲げられるかよ、エミヤシロウ。
 “最初”から歪な俺だけど、アイツとみる夢は歪んでなんかいないんだ!

「変化投影、練成終了――――――――――」

 お前は強い。
 自身の理想、その矛盾に気付き、そのためにその骨子を捻じ曲げた。
 ああ認めるよ、エミヤシロウ。
 お前は、俺なんかよりよっぽど強い。

 変われる強さ。
 その強さを、お前は選んだ。

 だけど。
 俺は弱いから、弱いから信じる事が出来るんだ。
 だって、そうだろ。

「――――――――変わらない強さも、確かにあるんだから!!」

 幾多の撃鉄が一斉に火花を散らし、剣の起源が変成される。
 剣として生まれるその始まりに“矢”の概念が錬鉄された。

 ツルギノキゲンに叩き込まれた変化の決意。

 “貫く”想いが幻想を昇華する。

 さあ、剣の世界に呪は刻まれた。

 歪な剣は必要ない。この身、この理は。

「―――― I am the bone of my sword(我が理念は歪に貫く)」

 ―――――――ただ、最果てを射抜くが為に。

 右手に現れた“ファルシオン”。
 血液は回路を灼熱させ、体の筋がはち切れんばかりに膨張している。
 だが、苦痛を感じることはなかった。
 自分でも不思議でならない、この痛みが、心象に刻まれ臓物を燃焼するこの激痛が、コレほどまで“楽しい”と感じるなんて。

「衛宮さん。変化の呪、――――――――成功なのです」

 不謹慎な嬉々の想いは、そのままだ。
 だが、綾瀬の言葉に照れ笑いを残す余裕は無い。
 俺は揺らぐ湖面に融けるように己を深く沈みこませる。
 薄く開いた視界で、正面にある不細工で巨大な黒色の鎧を、つがえた剣と共に一つに結ぶ。

 引き絞られた“剣”。
 ファルシオンは幾重にも編みこまれた歪な形状で、捩れ鋭さを備えた円錐形だ。
 その様は“螺旋”。
 歪にひしゃげ、しなやかだったその刀身は、今は見る影も無い。

 ギチギチと背筋が悲鳴を上げている。
 俺は無慈悲にもその声を無視し、腕の筋、胸の筋を総動員して張り裂けんばかりの体を引き絞る。もっと、もっとだ、この体がたとえ捩じ切れようとも、放たれるべき一閃に歪みなどありはしない。

 たとえ、その剣(み)が歪であろうとも、俺は変らぬ自分を偽れない。
 だって、歪な俺を“愛している”と言った人がいる。
 だから、変らぬ自分を信じることが出来るんだ。

 的が重なる。
 瞬間は永遠にも似て刹那で終わり、吸い込まれるように螺旋の剣矢は俺の手を離れた。

 剣の歪。
 剣を纏った歪な幻想は。
 ただ、その身を貫くモノへと、―――――――――――――。

「――――――――――――っ痛ぁ!?」

 振り切った想い。
 そして残ったのは、風きりの音色のみ。
 気付いたときには、奴の大鎌は青草の匂いを撒き散らしながら千切れ飛ぶ。
 ブチリと、速射砲と見紛う炸裂に黒い鎧が散断されていた。

 俺の剣弾が自動小銃ならば、この一撃は狙撃銃。

 即座に、俺の矮躯では殺しきれぬ反動が全身を襲う。
 たたらを踏んで湖水に倒れ付す俺の身体。
 魔術行使による無茶も祟ったが、それ以上に“剣”を矢として放つと言う非常識が俺の身体を蝕んでいた。当たり前だ、人間の身体で二キログラムに及ぶ重量、鉄の塊を弓で放てば身体が壊れるに決まっている。撃ててもあと五発、俺の身体はライフル弾を装填した六連発リボルバーと同じだ。

「――――――ちょ、衛宮さん、大丈夫ですか!?」

 俺は、ひ弱な銃身だとごちる暇も無く、落下する宮崎に軋む身体を弾ませていた。お化けタガメに近づけば近づくほど、昆虫の饐えたにおいがきつくなる。
 俺は不乱の意思を崩さず、宮崎を抱きとめ声を張り上げた。情けないが、俺たちには選択肢が限られているからだ。
 本当、正義の味方としては余り言いたくないんだが。

「よし! 宮崎は無事だ、綾瀬!―――――――――逃げるぞっ!」

「――――っつ!? 了解なのです! その逃げ腰、最高にかっこいいのですよ!」

 右の前肢を失い、恐らく恐慌状態に陥っているであろうお化けタガメの乱撃を掻い潜り、俺は綾瀬と合流。息つく暇も無く、ダッシュ。
 俺のタナトスは一気に解放された!! 生にしがみつき、しゃにむに走るのだ!!

「サンキュウ! でも、戦略的撤退と言え!?」

「戦う気も無いくせによく言うのです……」

 背水の陣をもって全力で逃げ出す。
 遣い方が違う気がするが、それはいい。とにかく、あんな化け物と真っ向から斬り合えるかっつうの!
 俺は宮崎をお姫様抱っこでかかえたまま、綾瀬と並走して南海の情緒を抜けていく。ズンズンとオルガンの様な低音を響かせ、例のお化けタガメは後ろに這ってくる。
 奴が水生の生物で本当に良かった、コレなら逃げ切れるはずだ。

「あ! 衛宮さん、そういえば先ほどの解説で言い忘れていたことが在るのです」

 宮崎を抱えながらの逃走なので、俺のペースは綾瀬の全速力に合わせるだけで精一杯。俺達は常夏の森林を抜け出し、白い光に溢れた遺跡の密集地に飛び出していた。
 俺は綾瀬の発言に薄ら寒いものを感じながら、よせば良いのに問いかけた。

「それってさ、もしかして…………」

 あえぎ声のように息を吐き出し、俺は立ち止まった。俺の呼吸器がそろそろ限界である。
 後ろからは、なにやら不吉な羽音が近づいてくるが、………気にしない方向で?

「はい。ご想像の通り、タガメは飛行します」

 本物の怪獣宜しく、そいつは俺たちの目の前に土埃を巻き上げながら降り立った。
 水生ならぬ彗星の如くそいつは空から降ってきやがった、わーい笑えねぇ。

「ひいいいいぃぃぃい………っ!!!!」

 ずずずーん。
 目の前に現れる、黒い塊。
 俺は叫んだ。叫んだね、ええ叫びますとも。アンタはモノホンの特撮怪獣です……っ。対抗手段なんざ持ってねえ!
 残念だが俺には風力による変身機構も、スペシウムな光線も備え付けられていません。だって見習いだしねっ!

「―――――――あれ? 私」

「のどか? 起きたのですね……しかも絶妙なタイミングで」

 もう泣いてもいいか?
 このタイミングで復活した宮崎がとんでもなくおいしい奴に思えてならなかった。
 宮崎は俺に抱えられたまま、少ない情報から今の状況を推察。
 正しい状況判断能力を示してくれると、俺は凄くうれしいぞ。
 そんなにジタバタしないでくれ、お願いだから。

「だか、イテ! らな、痛い。宮っつ崎っ俺のは、ってぇ話をっ!」」

「はははははははなして下さい衛宮さん!? 私、お、おおと男の人はぁ~!?」

「落ち着くのです、のどか。今は男性が怖いとかどうとか言っている場合ではないのです」

「ほえ?」

 綾瀬の言葉に落ち着きを取り戻した宮崎を下ろす。
 ご丁寧にもそれ待っていてくれた、黒い巨虫。
 水場から離れたためか、奴の全長がよりハッキリと視界に納まっている。

「ここここここここここここここここれはいいいいい一体!?」

「何を言うのです、先ほどもコレを見てのどかは倒れたのではないですか? しゃんとなさいなのです」

 また気絶しないだけ上出来か。
 ビビッて震えながらも、宮崎も一応の臨戦体制をとっていた。
 なんだかんだでアイツも神秘に身を置くモノ、尻に火がつけば中々の眼光を放つものだ。

「準備は、……いいみたいだな。どうやらこいつはこれ以上昼食を延ばす気は無いらしい」

 さあ、第二ラウンドの開始だ。
 目の前の巨虫は残り一つとなった巨大な鎌を剛直に掲げ、取り逃した獲物を狩るため強力をもって大地を穿つ。

「契約執行、三秒間!!―――――夕映の従者、のどか!」

 三人の魔術師、いや、二人の魔術師と一人の従者は開けた空間を充分に生かし跳躍。
 綾瀬によって“強化”を施された宮崎はその風貌からは想像できない怪腕で綾瀬を担ぎ後ろに飛び引き、俺はお化けタガメの真横に陣取る。
 俺は脳内に九つの剣弾を装填し、魔力を血流と共に走らせた。

「投影、開始(トレース・オン)」

 今度の剣弾は先生の財宝シリーズ、其の二っ。
 ファルシオンに続く先生の観賞用アイテム、ファルカタっ。なんとコレ、俺の給料前倒しに買ったらしい。つまり俺の今月分の給料は……。
 ハンニバルの時代を駆け抜けたスペインの名剣。
 特徴的なのは長く湾曲した片刃の刀身と両刃に鋭く開けた刃先だ。
 全長八十センチの弾丸は、ファルシオンよりも刺突力に優れた刀剣なのは間違いない。

「憑依経験、共感終了」

 ファルシオンと同じく、名も泣き戦士たちの血が滲むこの剣は、宝具などとは比べるべくもない数打ちだ。名工に鍛え上げられた鋭さも、誇るべき武勇もこの剣達には無い。

「――――――――工程完了」

 それでも、俺の中に突き刺さったかけがえの無い無垢な幻想。
 強い思いを、強い魔力を込めれば、こいつらだって答えてくれる。

「――――――――全投影一斉層写」

 銃身をより放たれた弾丸はそれを証明するように、剣弾が巨虫の外殻を貫き、削り取る致命傷には程遠いその剣弾も放ち続ければ、或いは。

「衛宮さん! 三分間だけアイツの注意を引き付けてください!!」

 俺がのたうつ巨虫の腕を右へ左へ掻い潜りながら冷や汗を流していると、奴によって破壊された遺跡の影に隠れながら、綾瀬が叫んだ。
 安全圏からのアイツの言葉に、必死になって奴の攻勢を正面きって躱す自分が馬鹿みたいだ。

「――――っ! 三分間って、なんでさ!? っちい投影、開始!」

 巨虫の大暴れによって倒壊していく遺跡。
 俺に向かって倒れこむローマ調の石柱を即座に投影した干将莫耶で流し、捻る体の運動エネルギーを刀身に滑らせ難を凌ぐ。

「のどかが回復したのは好都合なのです、コレなら私も戦える……!」

 綾瀬の声に相槌を打つ暇さえなく、落石を思わせる鈍い破壊が頭上より繰り出された。

「どわあぁ!?!?」

 飛び込むようにタガメ野郎の大鎌を躱し、ふり返りざまに干将を馬鹿でかい奴の額目掛けて全力投球。
 見事に奴に突き刺さった白色の短刀。
 奴の表情が変った気がする。そんなに俺を食い殺したいのかひるまぬ巨虫は俺の一撃により短くなった右の鎌で虚空を薙いだ。

「三分間あれば、私の魔術とのどかの能力でその失礼な節足動物を一撃で消し炭に出来るのですよ! ですから!」

 俺は着地も何も考えず、危険を感じる全神経をフル稼働して柔らかい砂の上に突っ込む。辺りを包む砂塵が、俺と巨虫の緊張を一瞬だけ弛緩させていた、お互いに視界が黒ずんでいる。この隙を逃すまいと、俺は不幸にも口を濁す砂利の味を唾棄するように、声を張り上げた。

「オーケー、それでいこう! 女の子に美味しいところを持っていかれるのはちと残念だが、一発炎上は魅力的な提案だ! 三分なんて楽勝!! 特撮怪獣なら番組枠の都合上それで終わりだもんな!!」

 よせば良いの語気を強めて猛々しく振舞う男の子な俺。可愛い女の子たちの目の前だ、俺にだってそれ位の見栄はある。
 左手に残った黒色の愛刀右手に持ち替え、それをぎゅっと握り締めた。
 体力には自信があったが、これだけ必死になって跳ね回ったのは聖杯戦争以来だ。俺の血肉が皮肉にも酸素を求めるように、俺の精神も戦いの高揚を望んでいるらしい。

「―――――――――――ふう」

 熱い息を吐き出し、ただ視界が開けるのを待った。
 辺りには白い浜辺と、砕かれ猥雑に散った白桃の様な遺跡の瓦礫。
 風も吹かぬこの地下の楽園で、三分間の狂想を奏でよう。



[1027] 第二十一話 本の魔術師
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 02:18
/ book markers.

「―――――――――――ゆえ、どの本?」

 のどかの強い言葉が小さい私の背中に澄み渡る。
 土煙の拡散と共に、巨大な怪虫と赤髪の少年が再び血肉の饗宴を開始していた。

「自由七科(リベラルアーツ)の算術書(アリスメティカ)を。容赦なんて無しなのです」

 時間が惜しい。
 衛宮さんは三分間、それこそ死に物狂いで稼ぎ出してしまう。
 彼の姿見は、かつて私たちが恋したあの少年の背中と鏡合わせの様に重なるから。

「うん。――――――来たれ(アデアット)、“移り気な算術書”(アリスメティカ・デュオ)」

 本契約により、のどかが手に入れたアーティファクトは十一冊の魔術書。
 “いどの絵日記”や、私が以前研鑽を共に磨いていた“世界図絵”を筆頭に、“自由七科”を象徴する魔導書、そして二冊の“グリム童話”。
 本の属性に特化した彼女は、“マスターピース”とも称される最高位の魔術を駆る、私にとって至高のパートナーだ。

「それでは始めるのです。――――――契約執行、三分間」

 私は自らの回路を起動させる。
 イメージは“本を開く”、ただそれだけ。
 たったそれだけで、私の微細な回路が、のどかの召喚に応じた“算術書”に飲み込まれた。
 ラインは繋がった。私の回路は“本(のどか)”を経由し、異なる神秘と接続する。

「夕映の従者、のどかが命ずる。数の神秘よ、時の魔力を代価に和乗の法を成せ」

 小さい、されどハッキリと響くのどかの一声に、青く分厚い冊子が翻る。
 世界にも稀有な神秘をその内に宿す彼女。
 彼女は本を媒介に、様々な魔術で“主(わたし)”をサポートしてくれる。今回、彼女が召喚した“数術書”は字の如く“数”の神秘を内包している。のどかの召喚する魔術書は、それぞれが異なる属性、異なる神秘を成す外付けの魔術回路。召喚する神秘に応じ、宮崎のどかは様々な“本”へとその身を変えるのです。

「―――――オッケーゆえゆえ。後は……」

 彼女の隠れた目元が緩んだのは間違いない。
 数の神秘、本の魔導の呪は成った。
 私は“読み手”のどかは“本”。
 故に、私たちは本の神秘において最高の相性を誇るのだ。

「はいなのです。後は、待つだけなのですよ……」

 三分間、私の魔力はのどかの魔術書に食われ続ける。
 その疲労を思うと正直気分が悪くなるがしかし、そうも言ってはいられない。
 私は、必死の思いでお化けタガメの攻勢を凌ぐ少年の背中を探した。
 彼のことだ、懸命な表情で私たちとの約束を果たそうと……。

「ひい!!? うわ!? ちょっ、しぃぬぅ~!!! まだかぁ! 綾瀬ぇ!!」

 ええ、それはもう死に物狂いで逃げ踊っていた。
 息も絶え絶え、軋む体に鞭を入れながら時間を稼ごうと必死になって逃げ惑っている衛宮さん。なんと浅ましい……もとい、仕事熱心な人なのか。

「衛宮さん、大丈夫だよね?」

 のどかはやはり戦闘行為そのものに嫌悪を感じるらしく、倒壊した遺跡の影に隠れ衛宮さんを気遣いながら身を潜めている。彼のあのスマートさの欠片も無い一心不乱の有様は彼女には届いていなのだ、それはせめてもの救いか。年頃の男の人として、もっとこうかっこよさげに出来ないものなのでしょうか。

「…………大丈夫なのです。あの逃げっぷりなら、全然平気でしょう」

 と、いいますかむしろ帰りましょう、あの人を置いて。
 衛宮さんの面白い顔と、吸い出される魔力も相まって私は一気に脱力した。
 残り一分と三十秒、果たしてそれで勝負がつくのでしょうか?






Fate / happy material
第二十一話 本の魔術師






/ 12.

「――――――――はっはっはっはっはっはっは………っ!?!?!」

 臓物が重たい。
 俺は転げ回り擦り傷だらけの身体を即座に起こし、頭上から降る巨大な追迅を躱す。
 体力は底をつき限界はとっくに突破、既に底板は破壊された。大事なものを色々と垂れ流しながらの必死の防戦は、果たしてどこまで続くんだっ!

「でぇい!」

 先ほどの薄ら寒い綾瀬の視線は何だったのか。
 大体想像はつくが、今この状況でかっこつけて余裕ぶれるほど、俺は大物ではないのです。
 先ほど叩いた大口を後悔しつつ、汗に纏わりつく砂の不快感を堪能する。
 いい加減、ムカついてきたぞ。

「この野郎っ、馬鹿にしやがって―――――――!」

 三半規管は限界に達しているにも関らず、毒づいた言葉は割合大きく響いた。
 残り少ない体力を魔力に還元し、再度脳内に剣の銃弾を装填する。果たして幾つの撃鉄を引いたのか、そんなものは分からない。少なく見積もっても四十の弾丸がこの銃身を焼き付けていた。唯の刀剣とは言え、兎にも角にもそぞろ俺の魔力が限界である。

「投影、開始。―――――憑依経験、共感終了」

 コレで恐らく最後。
 ありったけの薬莢を詰め込んで。
 二十を超える弾丸を用意し、撃鉄を下ろす。

「工程完了。―――――――――全投影、一斉層写!!」

 鈍い音を残し、散弾していく俺の幻想。
 やはり、効果は望めない。
 俺の魔術は所詮対人の域を抜け出せないのだ。
 コレほどまでのデカぶつにはこの程度の銃弾など、焼け石に水だ。

「はあ、はあ、はあ、はあ……も。げ、限界だ…………」

 奴が怯んだ隙に、何とか距離を稼ぎ出したが、それだけ。
 肉体的にも精神的にも、もう無理っす。
 乳酸が耳の穴から出てきそうだ、正直、立っているのがこんなにしんどいなんて久々だ。

「……追いかけっこは終わりだ、おとなしくしてやるよ」

 俺は眼前に構えた、黒光りする巨虫に向けて疲れた半眼で睨みつける。
 勝ち誇るように、近づくお化けタガメに、俺は嫌味ったらしく口元を吊り上げた。
 掲げられた鎌を前にして、俺に死の恐怖は無い。

 何故なら。






「三分。――――――衛宮さん、後は寝ながら視ているのですよ」






 既に勝負はついているのだから。

「ああ、――――そうさせて貰いたいが、生憎、俺も男の子なんでね」

 最後の意地を通し、俺は膝に両手をついて振り返る。
 首だけを回せば、俺の後ろには4Aサイズの青色、古びた基調に何度も重訂されたタイトルの陳腐な本を開き控える宮崎と、普段の無表情で顎を上げる綾瀬がいた。
 チョコレート色のコートにフォーマルな同色のタイを靡かせる二人の女性は、知的にして不敵、そんなイメージを俺に叩きつけていた。

「大丈夫ですよ、衛宮さん。下がってください、後は私とゆえゆえの仕事ですから」

 にこりと、前髪を両にまとめた宮崎。
 今、彼女の顔がハッキリと笑顔に変っていた。初めて直視した彼女の笑顔に、不覚にも道を明け渡していることに気付く。……やべ、百年の恋すら色褪せてしまいそう。

「むしろ、近くにいられると迷惑なのです、少し派手にいきますので」

 綾瀬の言葉に、俺は何も言うまいと、二人の後ろに控えさせてもらう。
 俺のため息に、無貌をほころばせた彼女は、余裕さえ伴い、か細い右腕を高く掲げる。

「さあ、いきますよ。――――――――のどか!」

 数秒とかからぬ遣り取りの後、お化けタガメは俺達に向かって飛翔する。
 俺が稼ぎ出した距離など、僅かなものだ。
 空気を振動させる羽音は俺たちの直ぐ正面にある。
 巨大な黒色は、威圧感さえ漂わせこちらに迫っている、だというのに。

「了解ですっ――――――数紋法第三項、相乗、三倍算!」

 宮崎の言葉に、手にする魔導書が魔力を帯びる。
 自動的に開かれた本の項に、二人の回路が収束する。
 宮崎を基点に、魔術書そして綾瀬がひとつの魔術として具現した。
 数秘術。
 それはいかな神秘か、されど、この眼に刻み込まれた才覚がそのプログラムを看破する。
 その理は実に明快、“魔術の強化”。
 時間と魔力を対価に、秘儀をもって神秘を高次へと濾過させる。

「プラクテ、ビギナル。炎よ(アールデス)」

 綾瀬は迫る脅威に眉一つ動かさず、告げる。
 彼女の仔細な回路と魔力が、“本(宮崎)”の中で混ざり合い、対価とされた時と魔力が融解する。
 天を向く綾瀬の細い右手はさながら断頭台。
 宮崎を介在させ、融合した魔力がそれを取り巻く神秘として混濁し、そして。

「――――――――――――灯れ(カット)」

 パチン、っと。
 赤い奔流は、軽快に鳴らした中指の音と共に決壊した。
 人間大でしかなかった火花は、一帯の酸素を喰い尽くし、煌々たる朱を纏う。
 炎上する黒い塊。
 爆砕にも似たその天象。
 巨大すぎる昆虫を飲み込んだより強大な焔。
 轟々と猛る紅蓮は、止まる事を知らず、ただ哀れな巨虫を食らうだけだ。
 恐らく対軍、対城に分類されるであろう大魔術は、遠坂の血と汗とお金の結晶一個分の威力を内在していた。

「――――――――な」

 ――――――――なんて火力。
 正直、開いた口が塞がらない。
 “火をおこす”と言う原初からあり、最も細分化した魔術行使。
 火の属性を持つ綾瀬、専門の使い手といえども、現代においてこれほどの火炎を一工程で……いや、遠坂の宝石魔術ならばそれも可能だろうが、アイツみたいな天才は例外だからおいておく。
 兎に角、こんな非常識な神秘を顕現させるのは、神秘が拡散した今の世の中、不可能に近い。
 だが、それを可能にしたのが“数秘術”、いや“魔術書”か。
 足りなければ補う、それが魔術師。
 遠坂のように宝石を介在させ、秘儀をもって神秘をより崇高なものへと頂かせる様に、彼女達もまた、“本”と呼ばれる秘儀をもって奇跡をなした、それだけだ。

「ふう―――――――もうすっからかん、おけらなのですよ………」

「お疲れ様、ゆえゆえ」

 満足げに汗を拭う綾瀬に、宮崎が気持ちの良い笑みを送る。
 アレだけの事をしておいてそれだけか? 
 もはやお化けタガメは、綾瀬の言葉通り唯の消し炭。ただ、着火した炎が休まる気配は無く、辺りが灰色の匂いが満ちている。俺たちの勝利だ。

「………凄いな。驚いたぞ、二人の魔術には」

 身体に圧し掛かっていた疲労の色は、綾瀬と宮崎の魔術行使を前に吹き飛ばされていた。
 麻帆良の魔術、パクティオー、その真髄ここに見出せりって感じだ。二人の合体技、まったく大した物である。
 顔を綻ばす俺に、宮崎も笑顔で迎えてくれた。
 おお、二人の距離が縮まった!? やっぱり勝利の後には友情が芽生えるものだなぁ。

「えへへ、それほどでも。凄いのはやっぱりゆえゆえですから」

「それは謙遜なのですよ、のどかの魔術補助無しに、先ほどの神秘は成り立ちません」

 顔を赤くし、前髪で顔を隠してしまう宮崎と、すまし顔で煤を払う綾瀬の対照的な態度に、俺は余計に顔を綻ばす。

「凄いのは二人だってば、助けられた俺が保証する。かっこよかったぞっ」

 ぐっと拳を突き出して、互いにそれを受け取らぬ二人に多謝の思いを押し付ける。恥ずかしげに拳に触れる綾瀬と宮崎の小さな拳骨。拳の大きさはこんなに違うのに、二人の魔術師は俺以上の活躍をしちまったんだ、頭が下がるばかりである。
 俺は、二人の成した神秘の残り香、黒く沈んだお化けタガメを一瞥し先ほどの魔術についての疑問を投げてみた。

「それでさ、さっきの魔術、ありゃ何だ?」

 薄れた危機感の中で、俺は小首をかしげて尋ねる。
 何度も言うが、危機は去ったのだ。人間様の大勝利である。

「私は単に発火の魔術を行使しただけですよ。衛宮さんも視ていたでしょう?」

 俺は頷く。
 先生曰く発火の術式は五大元素の魔術において初級も初級、基礎の基礎である。
 実はそれすら使えぬ俺が言うのもなんではあるが、綾瀬が遣った呪はそれより多少高度な“火炎”の術式で、それほど難しくはない。

「確かに、一小節以下の呪文で人間大の炎を発現させたのはお前の魔術だった。だけど、それから派生した不自然なまでの焔の炸裂。アレはどう説明するんだ?」

 一小節で炎と称すに相応しい火力の顕現。
 綾瀬の手腕も見事だったが、同時に練りこまれていた不可解な術式。

「はい、衛宮さんの推察どおり数秘術です」

 眉を寄せる俺に、宮崎が先回りして答える。
 数秘術。俺も知識でしか知らず、視たのはコレが初めてだ。
 たしか、この魔術は。

「ピタゴラスが創り上げ、ミハイル・ロア・バルダムヨォンが大きく発展させた魔術体系、数秘術、そして数紋法。実際どんな魔術だったのかは本人にしか分かりませんが、私たちは先ほどの“数や演算の概念”に関係する魔術をそう呼んでいます」

 宮崎が、いつに無く饒舌に続けてくれた。

「のどかの持つ“移り気な算術書”は数の神秘を内包した術式が幾つか編み込まれているのですよ。衛宮さんのおっしゃった“不自然な炎の増大”は乗法の法則を利用した魔力の上乗せによって引き起こされたものなのです」

 宮崎に続き、誇らしげに綾瀬が付け足した。

 数秘術における奥義、数紋法。それが先ほどの魔術だという。
 “四則演算の呪”、乗算(スクウェア)の概念を利用したこの術式は使用魔術の効果を倍加させるものだそうだ。通常ならばとんでもない無い大魔術式らしいのだが、何故か彼女の本の中にはその術式が編みこまれているのだ。宮崎はこの“移り気な算術書”に記された数秘術ならば、難なく使いこなしてしまうそうな。
 他にも分配法則、交換法則、結合法則、そしてその他の図形や数学的な定理を応用とした詠唱魔術、結界術と先にもあげた四則演算を応用した補助魔術も使用可能。なんでも、本自体がすでに術式(プログラム)を構築してくれているので、宮崎はそれに魔力を流せば行使出来ると言うお手軽っぷりらしい。
 正直、眉唾物のアイテム、もとい従者である。

「――――――ですが、そういい事尽くしではないのですよ」

 だが当然、強力すぎる能力にはペナルティーが付きまとう。
 基本的な制約事項として、宮崎が召喚できる本は常に一冊のみ。
 複数の本を同時に使用することは出来ない。
 加えて、イドノエニッキにしても、使用範囲の制限、相手の真名を知る必要があるように、“移り気な算術書”にも幾つかの制約が存在する。

 制約其の一。
 数秘術の補助対象は綾瀬の干渉しうる魔術、神秘のみ。
 他人の魔術を強化、補助することは出来ない、少し残念だ。

 制約其の二。
 常に“時間の魔力”を代価に魔術を補助する。
 数秘術とはそもそも、神秘とそれを反応させる“数”によって成り立つ式だ。
 反応させるべき“数”を構築し、概念的に神秘と反応させなくてはならない。
 その“数”の概念が“魔力を供給した時間”で決定されるのが“移り気な算術書”らしいのだ。
 正しく移り気のサラリーマン。気分次第で中々働かないのであった。
 一分間魔力を支払えば、“1”。
 二分間魔力を支払えば、“2”。
 三分間魔力を支払えば、“3”。
 タガメを撃退したときには三分間の乗法式だったので、使用魔術の効果は実に三倍だったわけだ。ただ、難しいのは魔力を支払うのは宮崎ではなく綾瀬。おまけに数紋式と魔術式は別払いときたもんだ。魔力を馬鹿食いするのは火を見るより明らかである。

 んで、制約其の三。
 コレが一番の問題だ。魔力供給、つまり“時間”を支払っている間、術者は他の魔術行使が一切使用不能。ペナルティーを受けている間は、まるっきりの硬直状態と言うわけだ。

 これらのことから総合して、正直、この魔具。

「…………微妙だ」

 俺は綾瀬の宮崎の話を聞き終え、唸る。
 実に使いどころが難しい。
 今回は俺が時間を稼いだからよかったものの、こいつら二人だけの時は一体どうするのか非常に興味がある。

「うるさいのですよ。確かに戦闘に向かない能力なのは認めますが……」

 ふんと鼻を尖らす綾瀬に、宮崎が苦笑を凝らす。

「魔術師とは兵士ではなく探求者ですから。私の算術書は自宅での研鑽や魔術の研究時にはとても助けられるって、ゆえも言ってくれています」

 ふむ、最もな意見だ。
 俺は彼女の言葉に大きく頷いた。
 満足げにそれを見送る宮崎は、「ふう」と息をついた。

「説明は終わりですし。もといた場所に戻りませんか? 遭難したときは一箇所に留まって助けを待つのが基本ですしね」

「そうだな、それがいい」

 俺は大きく伸びをして、自分たちの状況を思い出した。
 そういえば、俺たちって遭難したんだっけ? あまりのハプニングに、置かれた状況を蔑ろにしていた。
 俺は宮崎と苦笑を交換し、白い浜辺に向かい、瓦礫の空間を後にしようとした。

 其の時。

 突如俺の身体は空中に持ち上がった。
 脳が揺すられて気持ちが悪い。一体、なんなのさ?

「………」
「………」 

 見下ろす二人が、眼を点にして何かを凝視している。
 いやだなぁ、俺を掴んでいる硬くて黒いこの………。

「―――――――――って!? まだ生きてたのか、こいつはっ!!」

 俺はお化けタガメの鎌に捕らえられ、身動きが取れない。
 やばい、凄くやばい。
 魔力は既にスッカラカン、完全な不意打ちに綾瀬と宮崎も硬直状態。
 見たくも無い奴の鋭い牙、サメの歯だってあんなに痛そうではあるまいと、大きく開いた奴の口に近づく恐慌し錯乱した俺の意識。

「たぁすぅけぇてえぇっっっ!!!」

 ああ、取り乱す俺の身体とは正反対に過去を冷静に振り返る震えた思考。
 ごめん、俺はここまでだ。脳内を廻る走馬灯に漏らす。
 でも、怪獣に敗れるなら、正義の味方としてそれも本望か………。
 もしかしたら帰ってきたときは、どこと無くパワーアップしているかもしれないしね。
 特撮モノの定番だろ、やっぱりそれってさ。
 だが、それは無意味な杞憂、何故なら。






「よお、随分と楽しそうじゃないか。そいつ、オレが殺しても構わないよな、衛宮?」






 救いの死神が現れたからだっ!!
 おいいしいっ、おいしすぎるぞっ、式さん!!

 颯爽と現れた藍色の着物と翻る鮮やかな血色のジャンパー。
 式さんは振りぬいた銀色の一穿で俺を捉えた奴の大鎌を寸断した。
 俺の剣弾が蚊ほどにも効かなかったその外殻を、詰まらなそうに切断した彼女のナイフが、獣の敏捷性でお化けタガメの懐に肉薄。右に流れた式さんの身体は、降り落ちる凶刃を皮一枚の挙動をもって駆け抜け、残る節々を分解していく。
 其の瞬きを、あ~れぇ、とお姫様宜しく落下する俺は見守っていた。
 受身を取る暇も無く砂の海に叩きつけられるはずの俺は。

「衛宮。ご無事で?」

「――――桜咲?」

 白馬の王子様宜しく、お姫様抱っこで桜咲にキャッチされた。
 俺は目を白黒させ、近づく彼女の顔を注視した。

「怪我は、――――殆ど無いようですね、よかった」

 少し恥ずかしげに顔を逸らした彼女は、視線の先、宮崎と綾瀬を介抱するイリヤと近衛に鋭さをもって言う。

「それでは、私も両儀さんに加勢してきますので、このちゃん、妹さん、後は宜しくお願いします」

「はいなぁ~、いってらっしゃい」

「さっさと片付けて来なさい。アレ、正直見るに耐えないもの」

 俺を優しく床に伏せた桜咲は、彼女には大きすぎる野太刀を担ぎ、疾風の様に砂を巻き上げる。そんな雄姿も束の間、一刀をもってお化けタガメの頭蓋を穿ちぬいた。恐らく“気”によって鋭さを水増しされたその抜刀に、嫌な奇声を轟かせ黒の鎧が剥がれ落ちる。

「それでシロウ、貴方は大丈夫?」

「ん? ああ俺は大丈夫。でも遅いぞ、大海(オーシャン)を使ってから結構経つ、一体何してたのさ?」

 テケテケとこちらに歩みを進ませ、イリヤが中座で足を伸ばす俺の隣に控えた。
 俺は式さんと桜咲の色彩豊かに仕掛ける剣の乱舞を眺め、イリヤに不満を漏らす。

「そうなの? 私たちが大海の叫び声を聞いたのはほんの数分前よ? それからここまで飛んできたんだからね」

 それに返されたのはイリヤの憤懣。

「数分前? それって………」

 俺は言われてポケットから大海を取り出す。
 より深い青色を帯び、僅かに熱を持ったそれは、僅かな魔力の流動を感じさせた。
 第三者に使用者の危険を知らせる宝具、それはどうやら、あの巨虫に襲われた時、初めてその効果を発揮したようだ。
 なるほど、と頷き、もはや虫の息? で式さんと桜咲の攻勢に耐えるお化けタガメに首を回す。俺とイリヤの短い遣り取りの内に、既に勝負はついていた。俺があれほど苦戦した相手が、二人掛りとはいえ女の子にやられている。なんか、酷く惨めな気分だ。

「――――――せいっ!」

 桜咲が鞭のように繊(しなやか)な螺旋の一閃で巨虫の最後の足を?ぐ。
 ズンと鈍い音を残し、砂利の大地にめり込む黒い鎧。
 タイミングを計っていたのか、人間ではありえぬ跳躍を以って挙動を奪われた黒い巨体の中央に式さんが飛び込む。

「―――――――――終わりだ」

 黒い外殻、その頂点。式さんの軽い刺突があっけないほど簡単に奴の外皮を貫通した。
 俊敏な猫のように巨躯の中心より軽やかに離脱、弧を描き彼女は刃を収めた桜咲の横に着地。
 そして、ざらりと。
 恐らく“点”を突かれた巨大な鎧が、砂のように風化し崩れていく。
 それを見守る二人の剣客は、異様なまでに綺麗だ。
 こと戦闘において、俺や綾瀬、宮崎よりも頭二つ三つ飛びぬけた二人の実力。それを改めて実感した。

「―――――――倒したのですか?」

 俺の背後から綾瀬の声が。
 彼女は焚き木の後の灰山のように崩れ、砂塵に帰したお化けタガメを注視する。
 と、その山から飛び立った一匹のタガメ。

「なあ、あれって…………」

 俺はあわただしく羽をはためかせ、俺と綾瀬の間を抜ける黒い昆虫を流し見て尋ねる。

「はい、恐らく先ほどの。……大方、力在る魔術書でも噛り付き、身体を変態させていたのでしょう。タガメは何でも食べますし………」

 綾瀬は自分の苦言に、頬を釣る。
 そっか、と俺も苦笑を漏らし、奇妙な安堵感に身体を落ち着かせる。

「とにかく、―――――――――――――助かったぁ」

 俺は式さんが創り出したであろう、壁面の大穴をぼんやりと眺め大きく吐き出す。
 近衛やイリヤの苦笑を気にする肉体的余裕は既にない。
 崩れた遺跡が煩雑するこの砂浜の上、俺は身体を投げ出した。

「――――――――――――――生きているって、素晴らしい」

 式さんと桜咲とは絶対にガチで喧嘩なぞせぬと誓いを立て、この日の記憶を心に刻んだ。

「それじゃ、帰りましょうシロウ。コクトーが地上(うえ)で待っているわ」
  
 俺は身体を起こし、差し伸べられた其の手を掴む。

 そう、この日。
 俺は確かに掴んだんだ。

 ―――――――――初めて魔術が楽しいと知った、このしあわせを。



[1027] 第二十二話 スパイラル
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/04 21:22
/13.

 麻帆良での楽しくも短い一時は、そうして終えられた。
 明日は月曜日。
 俺も幹也さんも明日は仕事だし、式さんや桜咲達真っ当な学生も当然学校がある。
 土日を利用した小旅行だったし、仕方が無い。

 遭難、そして発見されてから日は既に空を黒色に塗り替えていた。
 俺たちの捜索に思わぬ時間を取られたために、今日は余り観光が出来なかったのは、少し残念だ。
 だが、近衛、桜咲、綾瀬そして宮崎。
 今の今まで行われた、休憩も兼ねたお茶会は中々に楽しめた。

 時刻はすでに七時。
 別れが惜しいが、それはそれ。

 俺達伽藍の堂メンバーは、麻帆良の女の子に見送られながら、先生のクーペの前にいた。街の夜気が肌に冷たく刺さる。
 俺のジャンパーをすり抜け、情緒を深める町の喧騒は温かさ以上にそんな印象を与えてくれた。
 この街の香がどこか懐かしく、切嗣を想い出させてしまう。彼の荒唐無稽な土産話は、この町と同じ匂いがしていたから。

「見送り、ありがとな」

 そんな気持ちを代弁するように、告げる。
 幹也さんと式さんは既に車の中、エンジンを温めていた。
 彼らに代わってのその言葉に近衛と桜咲、綾瀬と宮崎が破顔する。

「そうね、なかなか楽しめたし。私もお礼を言ってあげるわ」

 隣のイリヤが、ふふんと編みこんだ艶のある白髪を秋の夜風に震わせて礼儀正しくスカートの端をつまんだ。

「ああん。イリヤちゃん、また来てな? 今度も姉ぇちゃんと遊ぼうなぁ~」

「………私はもう何も言わないわ。諦めた、どうにでもなさい」

「お嬢様……それくらいになさったほうが」

 それに声をあげ、名残惜しそうに頬を擦り付ける近衛を無視して、俺は綾瀬と宮崎に向けて頬を掻いた。

「綾瀬も宮崎も、逢えてよかったよ。貴重な経験をさせて貰ったし、楽しかった、かな?」

 遭難やら、お化けタガメやらを振り返りながらの苦笑だったのだが、綾瀬の笑顔は俺と異なるものだった。

「なのですよ。貴重なお話しも随分と聞けましたし、よい勉強になったのです」

「はい、本当に。またいらして下さいね、お待ちしています」

 綾瀬は一瞬でその笑顔を無貌に変える。
 同様に宮崎は前髪で可愛い顔を隠しているけれど、初めて会った時よりも随分とぎこちなさが和らいだでいた。まだまだ肩の張りが残るものの、こんな関係も悪くは無い。
 俺はつと、冷たい外気を吸い込み、白く澱んだものを夜の霞に返す。
 夜の駐車場、駅前の喧騒から逸れた中途半端な暗闇と、照らされる淡い灯。そんな情景が俺たちには相応しく思えて遠めに映る彩り豊かな麻帆良の喧騒が忙しく聞こえる。

「そんじゃ、またいつかの機会にな。―――――――ほら、近衛。いい加減イリヤを放してやれ」

 ここの空気に長く当てられると、本当に帰るのが惜しくなる。
 そう考え、口早に別れを告げた。
 俺はイリヤの首根っこをつまんで近衛からイリヤを引っぺがす。

「な、な、な、衛宮君。イリヤちゃんだけもう一泊させてかへん? それ位な――――」

「駄目」

「ああ~ん! せっちゃんっ、衛宮君鬼畜や!!」

「…………お嬢様」

 ほっと胸をなでおろしたイリヤは、颯爽に車と言う安全地帯に潜り込み、ウィンドウ越しに近衛に向けて舌を出す。だからな、逆効果なんだってばっ!

「可愛えぇ………、なあせっちゃん。この際やし衛宮君を切り伏せてでも……」

「このちゃん、その発想の飛躍は非常に不味い。どこぞの誘拐犯ですよ、それ」

 まったくである。
 しかも辻斬りを実行するのは桜咲、実行されるのは俺だ、苦労するな、お前も。
 まあるい大きな瞳を血走らせる近衛を桜咲に任せて、俺も後方座席に乗り込んだ。
 どうどうと手綱を握る哀れな従者はぺこりと、お辞儀を一つ。
 その横でも、綾瀬と宮崎が軽く手を振る。

「あ。最後にさ、綾瀬」

「 ? まだ何か」

 ウィンカーを下ろし首だけ除かせ、車の横に並んだ綾瀬に聞く。

「ジョセ……なんつったか、その、地下に落っこちた時さ、俺にいった言葉。あれ、どういう意味だ?」

 喉に引っかかっていた彼女の言葉、俺が一体誰に似ているって?
 そんな俺の疑問に、きょとんと、口をへの字でむすんだまま綾瀬は呆ける。
 だがその後には、「可笑しな人です」と苦笑まじりに感心された。

「ジョセフ・ヘラーですか? ふふ、やはり貴方は、そっくりなのですよ。自分で考えるのです、貴方も魔術師ならば、思考する楽しみを覚えるべきなのです」

「それ、遠回しに答えは教えないって言っているのか?」

「さあ? お子様は答えを知る必要が無い、と申しているのです。どうしても知りたければ、衛宮さんの師匠にでも聞くのですよ。きっと、ご機嫌に頷くのです。話の限りでは、貴方の先生と私は、近しい人種のようですから」

 余計に分からなくなってしまった。
 俺は有耶無耶のまま頷いて、綾瀬に不満の半眼をくれてやる。
 だが、これ以上話す事はないとにっこり微笑んだ綾瀬は、俺の視線に堪えた様子は無い。

「それじゃ、士郎君。いいかな?」

 がたんと、一際揺れたオンボロのクーペ。
 俺は窓を閉めて、幹也さんに頷いた。

 小さく手を振る麻帆良の魔術師たちは直ぐに小さくなり、俺の視界から掻き消えた。
 夜の光を霞めるように、麻帆良の空気が薄くなる。

 十月。
 二度目の別離は、どこか神秘的で、魔術師としての自分がこの街を去ることに、僅かの侘しさを感じていた。





Fate / happy material
第二十二話 スパイラル 了





Spiral / to be an innocent. 14.

 暦は既に変り、十一月。
 冬の寒さも深まり、都会の鋭い冷気が俺たちの町を満たすこの頃。色を失った木々は寒空とは裏腹に段々と薄着になり、近づく年の瀬を知らせてくれる。故郷にはない殺風景な都会の景色に、俺は寂しさにも似た郷愁を覚えていた。

「うぅ、寒ぃ寒ぃ」

 俺は茶色のジャンパーに片手を突っ込んだまま、我が家の薄い玄関に錠をかける。
 頼りない錠前が軽快な音で留守を任された事を教えてくれた。

「本当ね。都会の寒さってどうしてこう痛々しいのかしら?」

「さあな、見当もつかない」

 俺達は霜の降りた赤錆の階段を注意深く下りる。
 紫のコートと赤い色のマフラーを着込んだイリヤの手を引き、目的の駅に向かう。
 先生の工房までは電車で二駅、通勤時間は徒歩を含めて約三十分。
 ああ、電車の暖房が恋しい。
 肌に張り付く朝霧の冷たさを感じながら、俺達は今日も伽藍の堂を目指すのだった。








 紆余曲折の末、今日の仕事も無事終了。
 式さんは幹也さんと約束があるらしく、剣の鍛錬はお預け。
 俺はイリヤと一緒に夜の魔術鍛錬を開始していた。








「 I am the bone of my sword (我が理念は貫く歪)」

 嘆いた言葉と共に、ランプの炎は盛る赤色から薄い青色へと揺らぎ、変化した。
 イリヤの呪には遠く及ばぬものの、俺の式は確かに世界に接続されている。いまだ言霊は定まらないけれど、しかし、手ごたえは充分だ。
 幹也さんと式さんが帰ったオフィスの中央。
 全ての電気系統をカットし夜の闇が亡羊と満ちるこの部屋の中で、先生が 変化を施されたランプをまじまじと見つめ、そして口を開いた。

「ふむ。変化の術式も、段々と様になってきた。ようやく“掘り当てた”らしいな」

「そのようね。まだまだ、未熟だけど」

 イリヤは先ほどまで形成していた“水の矢”を霧散させ、先生からランプを受け取り零す。彼女は最近、魔術学校の必修科目だという様々な基本魔術を先生と一緒に練習している。

 先生の所で魔術を習い、早半年。

 湯水の如く才能を溢れさせるイリヤは、“習得”だけならば既にそれら基礎の魔術を完了させているのだと、以前先生が話してくれた。アインツベルンでは習えなかった、いや、習わせてはくれなかった基本的な魔術の仕組みを、いまやイリヤは使いこなせてしまう。
 彼女曰く“リンの優秀さがよく分かる、基本が有ると無いとじゃやっぱり違うわ”とのこと、だが“いずれは追いついてみせる”と自信に溢れる一言も漏らしていた。
 元も子もなく言うのであれば、俺には二人の能力の差など皆目検討もつかない。遠坂にしろ、イリヤにしろ、俺と比べるべくも無く優秀な魔術師である事に変りはないのだから。

 話しは逸れるが、現在イリヤの必修する“基本魔術”。
 時計塔やその他の協会が運営する魔術学校はそれぞれ別個にカリキュラムを作成しているらしいが、規範となる魔術はどこへ行っても変らない。

 例を挙げるのであれば、発火の魔術を通じて鍛錬するパスの作り方、魔力の練り上げ。
 魔力の矢を通じて覚えこむ魔力のコントロールや、類感による属性の派生、抽出法。
 その他の簡易的な魔術儀式や教養課程。
 イリヤはこれらの修練を通じ、基礎を練り上げ、今までは“願う”だけでなしてきた魔術工程を一つの“理論”として新しい体/魂に刻み込んだ。

 これらの魔術は、一様に俺も先生の所でこなしてはみた、みたのだが、全ては無駄に終わった。基本どころの発火の魔術さえ、俺は使うことができなかったからだ。いや、一応使えたが、発火の魔術なんぞを使うのであれば、チャッカマンやマッチを投影したほうが幾分もマシである。もちろん、魔力の矢然りである、南無三、俺の才能。
 それは兎も角。

「変化の呪、イリヤの言うとおりまだまだ未熟だけど確かにコツを掴みましたよ」

 三回に一回は成功するようになった俺の術式。
 まだまだ使いこなすには程遠いが、“習得”出来たのは間違いない。後は強化、解析の魔術同様、数をこなして練度を上げていくだけである。

「ふむ――――――それはいいのだが……随分と嬉しそうだね、君は」

 俺は、確かな手ごたえを感じていると先生がそんな事を漏らした。
 どうやら、変化の呪成功に俺の頬は相当緩んでいた様だ。

「だって、楽しいですから。こうやって魔術を勉強するの」

 俺は腕まくりでむんずと、今日はこれで十個目になるランプを掴み取るのと同時に、先生に白い歯をきらりと見せびらかせながら言う。
 軽口、冗談の筈の俺の言葉は、しかし。

「そうか」

 簡単な相槌。
 だけど、先生はデスクに腰掛けたまま、普段は見せてくれない優しい顔で漏らした。
 ああそうか、先生も同じなのだと、今更気付かされた。
 唯我独尊で我侭自分勝手で傲岸で不遜、そんな魔術師の先生や遠坂。だけど、その内では誰よりも魔術を、神秘を愛しているからこそ、強く、自分の道を曲げないのだ。

「はい。やっぱり俺も、魔術師だったみたいです」

 何かを信じる、何かを愛する、そして――――――何かを楽しむ。
 虚ろで、曖昧な幻想。
 きっと自分以外には無価値でしかないその想いを、全身全霊をかけて意味ある原動力に変える。辿り着けない“何か”を目指すために、かけることなど赦されないモノ、それが、誰しもが持つ人間としての綺麗な欲望。
 エミヤシロウが切り捨て、衛宮士郎が救い上げた、きっと、かけがえの無いモノ。

「ふん、今更だね。―――――ほら、さっさと次のランプに変化をかけろ、まだまだ粗が目立つんだ、無駄口を叩いている暇が惜しい」

「了解っ。ビシバシお願いします!!」

 結跏趺坐の形で冷たい土瀝青の地面に腰を落とす。
 くっくっくと何時も以上に底意地悪く、だけど少しだけ嬉しそうにそれを見下ろす先生。

「そうだね、今日は特に念入りに行こうか? イリヤスフィール、君も付き合え。どうも調子に乗っている馬鹿弟子に灸を据えようかと思うんだ」

「あら? たまにはいいんじゃないかしら、私はとっくに今日の課題を終えているし、シロウの特訓に付き合うのも面白いかもね」

 ニヤリと、桜色の唇を歪めてくれた二人が俺を舐めるように凝視している。
 昔は女の子の視線を感じただけで赤くなっていた純情な時があったなぁと、血の気が引き青ざめる顔で振り返る。

「………あの、出来ればお手柔らかに」

「つれないね。コレも愛だよ、幸運に思え」

 漏らした苦言は、あっさりと先生によって流された。
 ぐっとあふれ出すモノを飲み込み、一段と肩を落とし、鍛錬用の魔具(ランプ)を右手で弄んだ。暖房を切っているためか、身体の芯まで寒さが浸透してきた。

「――――――――有り余る愛が痛い」

 オフィスを囲む一面のガラス窓に映えるネオンの明かりが眩しすぎるぞ。

「出来の悪い子ほど可愛いって言うしね。その点、お兄ちゃんに敵う奴なんていないわね。母親代わりのトウコだもの、そう感じても仕方が無いわ」

 やれやれと、イリヤも俺のことを甚振ってくれやがります。
 先生の隣、遠く都心の夜光はピントのずれた背景の様にイリヤの白い三つ網を浮き彫りにしていた。彼女の言葉に、先生がやはりぼんやりと灯る街の灯を背中に、薄いなで肩を震わせる。

「おいおい、笑えないな。こんなでかい子供はお断りだよ」

 げっ、と先生には珍しく大きく表情を変える。俺はと言うと、対応の仕方も分からず手の内でランプをこねくり回していた。いや、だってさ。下手なことはいえないでしょ。
 それが功を奏したのか、忘れ去られていた記憶の糸が絡めとられるように思い起こされた。

「子供、お子様?……。ねぇ先生、俺ってジョセフ何とかって人に似ているんですか?」

 「あん?」っと先生が怪訝な顔を俺に向ける。
 いつかの日に、綾瀬が俺に宛てた不確かな、だけど俺の心に痞えた奇妙な言葉。子供の様な人。確か、綾瀬はそうも言っていた。

「ジョセフ何とか? 何の話よ、それ」

 不思議そうなイリヤに、俺は返す。

「ええとな、九月にさ麻帆良に旅行行ったろ? その時綾瀬に言われたんだ、俺が子供みたいだ、とか、そのジョセフ何とかの様な奴だ、とかさ。別になんてことは無い言葉なんだろうけど、…こう……落ち着かなくてな」

 俺とイリヤの遣り取りの端から、先生は言葉を掻い摘んで思考を纏めたのか、「ああ」と納得気にタバコに火をつけた。鍛錬を続ける空気ではなくなってしまったので、俺はランプを先生の机の上に置き、強化の呪で暗がりの室内に明かりを灯す。
 先生の吐き出す紫煙の匂いを避けるように、俺とイリヤは中央のソファーに腰を下ろした。

「ジョセフ・ヘラー……か、なるほど、上手いことを言う。彼が君と出会えたのならば、さぞかし嫉妬の念に駆られた事だろうよ」

 先生は、独り言のように、だけど俺の耳にも届くように、ぽっと唸る。

「先生、意味が分かるんですか?」

 俺は静めた身体を起こし、先生に首を回す。
 先生の目の前で、ランタンの炎が大きく揺らいだ。

「まあね。簡単だよ、ネオテニーと言う奴だ」

 先生から飛び出した言葉は耳慣れない言葉だった。
 ねおてにー? 
 脳みその受付係がこの言葉をどこに伝達すべきか必死になって動き回っている。

「何それ? シロウってイソギンチャクだったの?」

「ふむ、それはそれで面白そうだが違うね。あくまで比喩さ、幼形成熟、或いは幼態成熟と言えばいいのかな。衛宮の事だ、イリヤスフィール」

 イリヤはその言葉に俺の顔をまじまじと見つめ、次の瞬間には大きく頷いた。
 一体どんなナゾナゾですか?
 俺は頭を掻きながら、イリヤと先生に思い切って尋ねた。

「なあ、二人して納得するなよ。俺がついて行けてないぞ」

 少し拗ねた様な口調に、二人の悪魔は満足げに顔を合わせると、仕方ないとばかりに先生が口を開いた。なんか釈然としない。

「“大人になったら、小さな男の子になりたい”詰まりはそれだけだよ、衛宮」

 ふっと、先ほどの空気を脱ぎ捨てた先生が溢す。
 ネオテニー、幼形成熟。そして、この言葉から推察するに……。

「それって、要するに俺がガキンチョだって言いたいわけでか……?」

 くっと、俺の不満顔に何が可笑しいのか、先生が震えるお腹を押さえながら咽込んだ。
 イリヤもイリヤで、「…はあ」と息を漏らす。だから、なんでさ?

「くっくっ……まあ、そうだな。その通りじゃないか」

「…………そうね、反論の余地も無いほどに」

 ずんと、何か凄い衝撃を内臓に受けた気がする。
 そうかぁ、俺ってやっぱり子供みたいなのか。
 タッパも無いし、童顔だしね。それも仕方が無い。

「何を落ち込んでいるのよ、シロウ。誇りなさい、それって、貴方の一番いいところなんだから」

 俺はイリヤの夜の外気を伝う暖かな言葉に顔を上げる。
 彼女たちの着込んだ空気は俺を嘲る物ではない、それだけは確かだった。

「噛み締めておけよ、衛宮。君の願いの為にもね―――――――――」

 先生はそう言って椅子を回す。
 薄い逆光と揺らぐランタンの灯に陰りを創り、境界線の如く佇む彼女。
 辺りを包む暗闇の中で、イリヤの輝く白髪が薄く開いた窓から夜風に揺れている。

「“小さな男の子になりたい”――――――――か」

 彼女達がくれた冷気と暖気が混濁したこの沈黙に、そう一人ごちた。
 軋んだソファーの音から、俺が天を仰いだことに気付く。
 冷たく肌を撫でた夜の木枯らしが、俺の首筋を伝い、真っ赤な髪を僅かに震わせる。

 そこに感じた僅かな郷愁は、果たして何時のモノなのか。

 ――――正義の味方は期間限定でね、大人になったら――――

 確かに、そんな言葉が吸い込む乾燥とした冬の匂いに紛れていた。
 すとんと、二つの言葉が腑に落ちる。
 俺のはじまり、綺麗な願いを受け取るその瞬間は、今とは真逆の暦だった。

 だけど、今は確かに感じている。切嗣と交わした、あの日の約束を。

 俺の世界に、俺の起源に刻み込まれた、“変らない変化の決意”。
 そうだよ切嗣。
 全ては救われなけりゃ、嘘なんだ。
 アンタは、俺たちは歪で狂っている。
 だけどさ、俺たちの骨子は捻じれているけど、その願いは狂ってなんかいない。
 だってさ、俺たちが目指すものは、アンタが目指していたものは、どうしようも無い位真直ぐで、綺麗なんだから。

 アンタの強さを俺は否定する、俺は何一つ切り捨てない。

 俺はその歪さを信じている。
 この歪さを、どこまでも貫いてみせる。

 世界の矛盾に納得なんて、しない。
 この理想が間違いだなんて、認めない。
 それが、その決意が俺の変化だって信じているから。

「期間限定の、―――――――――“全てを救う”正義の味方」

 そう嘆いて、俺は歪んだ顔で瞳を塞いだ。

「なるほど、俺は子供のはずだよ」

 ふっと、零れた自嘲は二つ。
 確かに、爺さんが笑っている。

「でも、――――――――だから」

 俺は、アンタと違う歪んだ未来(はめつ)を―――――――――――貫くことが、選ぶことが出来るのかな?

 この日、この夜。
 俺の世界は、確かに変った。

 変らぬ歪さを貫く、その決意(へんか)と共に。

 ――――――――――俺は子供のまま、大人になった。

 切嗣が目指した、綺麗なままの“願い”を叶えるために。



[1027] 幕間 伽藍の日々に幸福を Ⅰ
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 02:51
/ fate.

「おい衛宮。お前、自動車免許をとって来い」

 先生は何時も突然だ。

「はい?」

 俺は弁当の蓋をあける手を止めて、先生に振り返る。
 十一月の半ば。初冬に入って間も無くの出来事である。
 今日も午前の仕事を完了させ、さあお弁当だ。そう喜び勇んで幹也さん、そしてイリヤとソファーに腰を下ろしたその瞬間、先生のその言葉は空中で停止している。

「普通自動車の免許だ。なに、そう難しくは無い、合宿形式で二週間詰め込み学習、即免許というお手軽コースを既に申し込んである。場所はN県だ、丁度あちらの知り合いに委託していた矢避けの護符を取りに行かせようと思っていたし、都合が良い。検定終了後取りに行け。ああちなみに、事務所の金で行かせてやるんだ、感謝しろよ。そんな訳で、今日はもう帰っていい、支度をしろ。何せ講習は明日からだしな」

 一体誰が、先生の言葉を受け取るのか。
 幹也さんにイリヤ、二人が俺を凝視している。
 どうやら、先生の言を受け取るのは俺の仕事らしい。

「ええと、はい?」

 イリヤと幹也さんは、俺が作った弁当と、式さんが幹也さんのために拵えたであろう鮮やかな御重を広げて、昼食に手をつける。ここにはいない式さんは、幹也さんにお弁当を届けてから、何時もどおり大学へ。そっけないようで、実はラブラブな幹也さんと式さんなのであった。
 現実逃避にも似た激しい思考の脱線に効果は望めない。適度に心地よいオフィスの暖房が、今はこんなにも煩わしかった。生憎の曇り空を閉め切った窓より眺めながら、俺は先生の早口言葉が終わるのをただただ待っていた。

「最近、黒桐もめっきり運転する機会が減ってしまったし、私も事務所を離れられん。仕事の都合上、君も運転が出来るようになると大変助かるわけだ。彼にも言ったがね、個人所有できる身分証明では一番凡庸性に富んでいる、持っていて損は無いぞ」

 先生は幹也さんの隠れた左目に椅子をキイっと回す。
 確かに、幹也さんに運転させるのは色々と気が引けるのも分かる。この前の麻帆良の時は、幹也さんに張り切らせてしまったが、やはり安全の面でよろしく無かったしな。
 先生の分かりにくい気遣いに、ため息を一つ。
 俺は箸を置いて、立ち上がった。

「はいコレ、教習場のパンフだ。今日中に読んでおけよ」
 
 投げ出されたそれを受け取り、麻帆良でお化けタガメと一悶着あったときにボロボロにされた茶色のジャンパーに袖を通した。……意外と気に入っていたんだぞ。
 それを確認した先生は、彼女のデスクに置かれた赤い布切れを面倒くさそうに膝に乗せ、柄にも無くチクチクと裁縫を始めた。変化の鍛錬を成功させたあの晩から、先生が始めたその奇怪な行動。先生が創っているのだから、何かの魔術礼装なのだろう。外套の受注でもあったのだろうか?
 俺は、その疑問を飲み込んで随分と丁寧に解説されたその案内をパラパラ開き、尋ねた。

「それは、いいんですけど。イ――――――」

「イリヤスフィールは黒桐か式が預かるさ。何、たかだか二週間だ。別に構わないだろう」

 俺の気がかりを先回りして先生が答える。
 不器用に針をジグザグ何かを縫いつける先生の仕草が、どこか可愛らしい。

「わたしは構わないわよ。シロウが運転免許、だっけ? それを取るのも賛成。車があればおにいちゃんと色々な所でデート出来るしね」

 式さん謹製、たけのこの筑前煮をリスみたいに頬張り、イリヤは嬉しそうだ。
 端倪すべからざる式さんの煮物はイリヤのお気に入りである。ちょっと悔しいけど、美味いものはやっぱり正義なのだ。

「そうね、今度はどこに行こうかしらね。以前タイガが話してくれたオキナワなんてどうかしら? 今度はもっと綺麗な海がみたいわ」

 自動車免許を取るのも確定事項なら、デートに誘うのも決定された未来らしい。
 そして彼女に、日本南端の島国は車ではいけないのですよ、と言った方がよかったのだろうか、俺は唸る。

「合宿が終わったら連絡しろよ。その足で例の護符を受け取りに行くんだからな。間違っても帰ってくるなよ、衛宮」

そんなこんなで俺は一人、N県の山奥に消えるのであった。俺のいない幾許かの時間に、ここ伽藍の堂で、どんな幕間劇があるのだろうか?  
 それを確かめる術など、俺には無いのではあるのだけれど。





■ Interval / 伽藍の日々に幸福を Ⅰ ■





0. / snow white.

 そんな訳で、シロウがココを離れて早一週間。別にシロウがいないからといって、別段変ったことは何も無い。
 コクトーの家にお邪魔されてあげて、シキがまるっきり通い妻の如く彼の家を訪れているのが分かった位で、平和なモノだ。
 朝はシキの作る朝ごはんをコクトーの狭い、だけど少しだけシロウのアパートより広い簡素な居間で堪能して、トウコの事務所に向かう。
 シキはその足で大学に向かい、コクトーは毎日飽きずにトウコにいびられる。
 そんな代わり映えしない生活が、どこか嬉しい。きっと、シロウもそう感じているはずだ。

「―――――――う~ん。暇だわ」

 ごろん、と事務所のソファーで一度目の寝返り。
 コクトーが仕事をしている間は、トウコもやはり仕事をしているわけで、普段の通り時間を持て余すわけだ。限りある青春の無駄遣いは、出来れば避けたいところ。その無為な時間も、シロウがいればもう少し潤うのに。そんな事を考えながら、わたしは退屈に耐えかね漏らしていた。

「ねえ、そろそろお茶にしましょうよ」

 三人でお昼を取り終えてから時間はそれほど経っていない。
 トウコのデスクに置かれた宝石みたいなガラスの時計は、チクタクとノンビリ動き、三の字を前に止まった様にも感じられた。

「まだ早いよ、イリヤちゃん。三時には式も講義を終えて帰ってくるし、もう少し待っていてね」

 実に模範的な解答だ。二度目の寝返りをうつわたしに、コクトーが専用のデスク、自前のラップトップの前で、カタカタ女の子みたいな指を弾きながら言う。素っ気無いその発言に、わたしはトウコに不満の目を向けた。だけど、半開きの窓に紫煙を吹かした彼女も、やっぱり意地悪だった。

「衛宮がいなくて寂しいのか? どれ、それではお姉さんが相手をしてやろう。少し早いが、魔術の鍛錬でも始めるかね。丁度、私も暇を持て余していたところだ」

 冬の透き通る風を遮る声。トウコは窓を閉めて向き直る。
 愉快そうにタバコを灰皿に押し付けたこの性悪女も、からかう相手が一人減って、寂しいみたいだ。なんて言い返してやろうかしらと、思案する間も無く。

「ちょっと所長!? 何言ってんですか?」

 トウコの台詞にガタン、とコクトーが怒気を孕ませ椅子を引いた。

「持て余せる時間なんて、あるわけ無いでしょう!! 目の前の受領証、ちゃんと眼を通して下さいよ! 今度の人形に使う素材、所長が確認しなかったら始まらないじゃないですか! 注文されたオフィスビルのデザインだって構想だけで設計図にも起こしていないのに!?」

 コクトーはトウコのデスクに積み上げられた紙の束を指差し、切実に訴えた。
 シロウも前に言っていたが、アスノオマンマがかかっているからだろうか? コクトーの表情は青くもある。

「書類を流し見る位、いつでも出来るじゃないか。それにだ、大体、設計図を起こすのは衛宮の領分じゃないか。何故私が手当ても無く、そんな理不尽な仕事を押し付けられねばならん?」

「その士郎君がいないからでしょうがあぁっつ!! どうすんですか!? ご贔屓頂いている浅上建設からの注文ですよ!? 提出期限は明後日までですよ!? ウチみたいな下請けが大手の信頼失って、この世知辛い世の中どうやって渡ってくって言うんです!?」

 コクトーはつかつかと大股でトウコのデスクに歩み寄り白紙の図面と、恐らく書面に起こされたであろう契約書を鬼気迫る勢いでトウコに押し付ける。

「それは困ったね。衛宮が帰ってくるのは一週間後だ。どう考えても無理だぞ? どうする、黒桐?」

「だあぁっ!! 所長が書くって選択肢はないんですかぁっ!!」

 本当、感心する。
 トウコの理不尽な思考回路もだが、彼女の下で働き続けるコクトーとシロウは、子供心に凄いと思う。もしかして、二人は所謂マゾヒストって奴かしら? 真剣に悩んでしまう。

「――――――――おい、一体何の騒ぎだ、これ?」

 詰まらなそうな声が午後のお茶会到来の時を告げる。
 重い扉を開き、冷たい風が澱んだ暖気を入れ替えていた。

「あら? お帰りなさい、シキ。寒かったでしょ? コクトーは今手一杯みたいだから、わたしがお茶を煎れるわね。……手に持ってるの、お茶菓子?」

 ぴょんと、起き上がりソファーの上に彼女が座るためのスペースを作る。
 わたしの三つ網が大きく揺れ、鼻をくすぐられた。

「ああ、帰りがけにウチからかっぱらって来た」

「ふうん。それは楽しみかな。で、何飲むの?」

「コレ、クッキーだ」

「了解、それじゃ紅茶かな」

 真っ赤なジャンパーを投げ捨て、私と入れ替わりにソファーに腰を落ち着けたシキ。大学帰りの彼女は、些か疲労の色がある。
 そんな彼女に気を使い、台所の様な蛇口場に消えてあげた。
 吹き抜け構造のためか、殺風景なこの場所はとても寒い。急いで戻ろうと、留まる気配の無いコクトーとトウコの姦しい遣り取りをBGMに人数分の急須と茶碗を探す。本当はコクトーみたいに美味しい珈琲を煎れたいところだけど、生憎とサイフォンの使い方が分からない。仕方が無いのでティーパックの紅茶、それと緑茶を用意した。

「ご苦労さん。悪いな、イリヤ」

 コクトーとトウコの遣り取りを眺めていたシキが、よれよれと盆を運ぶわたしからそれを奪い取った。最後まで運ばせてくれればいいのに、でかかった言葉をお腹に落として、わたしは彼女の向かいに腰を下ろした。

「うん。中々ね、この前の羊羹には及ばないけど」

 シキに差し出されたクッキーを一口つまむ。
 シロウも漏らしていたが、シキの持ってくるお菓子は美味しいし、意外と少女趣味な味がする。ニブチンのシロウとコクトーは、そこらへんの事情を察する気配は無いのだけれど。

「へえ、イリヤはアレが好きなのか? 意外だ……」

 紅茶を一口すすった彼女は、わたしの背格好をまじまじと見つめている。
 確かに、わたしの外見はぱっとみ余所の国の箱入りお嬢様だし、そこはかとなくもやんごとない気品だってあると自負している。だけど、半分は日本人の血だって混ざっているし、和風贔屓のシロウと何時も一緒にいるのだ、好みが変っても可笑しくない。

「羊羹だけじゃないわよ。この前食べた胡桃ゆべしだっけ? あれも好きかな」

 毒されてるなぁ、わたし。ああゆう郷土的な味わいもいいものだと、最近切にそう思えてしまう。
 それもコレもシロウのせいだ、純正レディーを汚してくれて、責任取りなさいよ。そう納得して、ぐっと熱い緑茶の苦味で喉を焼いた。うん、おいしいっす。

「……………おかえり、式。あのさ、僕にもお茶を貰えるかな」

 こぽこぽと二杯目のお茶に手を出す頃に、コクトーが草臥れた顔でシキの隣に倒れ付す。
 どうやら、今日も返り討ちにされたらしい。
 何時ものことなので、わたしとシキは特別な感傷も無く、コクトーのカップに紅茶を注ぐ。

「ありがとう、二人とも。でもさ、僕が路頭に迷った時は冷たくしてくれよ、それがせめてもの情けだからね……」

 普段なら男二人で互いの傷を舐め合うのだが、今日は生憎と片割れがいない。
 明日には首をつりそうなコクトーを気遣い、シキが珍しくふっと微笑んだ。

「なんだよ、そんな事気にするな。そん時は、ウチで養ってやるよ。オレんちはさ、馬鹿みたいに金と土地はあるから」

 顔を赤らめての一言。
 無理しているのみえみえのその言葉に、わたしは愚か、先ほどまでコクトーを虐めていた張本人まで顔を赤くしてしまう。
 だが、乙女には乙女な思考回路存在するように、男の子には男の子な思考回路が存在していたみたいだ。

「―――――――――――そんな事になったら、僕は生きていけない」

 真っ白になる、真っ黒の人影。まるでオセロみたいだ。
 彼女のそんな言葉が止めとなったのか、コクトーはしくしくと膝を抱えて転がってしまった。……なんでさ? シキにそこまで言わせておいて、どうしてコクトーは余計にいじけてしまうのかしら。
 ぶつぶつと何かを吃る、コクトー。
 飛び出したフランス語みたいな発音は何? じごろーって誰さ?
 アセアセとよく分からぬままコクトーを慰める、シキの不釣合いな行動にはてなとわたしは首を傾げる。すると、デスクに腰かけたままトウコがポツリ。

「難しいね。愛というのは……」

 こちらも柄にも無く、しみじみとそう溢した。

「なんなのよ、一体」

 わたしはぽりぽりとクッキーを齧りながら、窓越しに映る寒空を眺めた。
 気のせいか、あちらの方が幾分か温かそうだ。暖房の効いた室内は、コクトーの垂れ流す雰囲気に沈んでいた。まるで海の底、彼の背中に光が差し込む気配は無い。

「それで、イリヤスフィール、今日は早めに鍛錬を始めるかね?」

 そういえば、そんな話をしていたわね。
 コクトーがどんよりしているのも、元はと言えばそれが原因だったのだ。
 彼の屍ぐらいは、拾ってあげるべきだろう。

「そうね。お願いしようかしら? それなら、コクトーとシキの帰宅時間も早まって一石二鳥だしね」

 日本の文化に理解があるわたしは軽く頷いた。

「決まりだ。場所はここでいいか? それとも工房に行くかね?」

「う~ん、工房は暖房がなくて寒いし、ここがいいな」

 わたしは、最後のクッキーを口の中に放り込みタートルネックのセーターを捲し上げた。
 飛び降りるように、ソファーから冷たいコンクリの床に着地。
 嬉しそうにわたしの編みこんだ白い尻尾が揺れている。

「そうだな。では、今日も基本どころから行こうか?」

「“矢”の形成ね。何本?」

「お好きなように。君は衛宮と違って優秀だからね」

 わたしは頷き、「ありがとう」とにこやかに高価そうな笑顔を向けた。
 閉め切ったオフィスは、魔術なんて言葉が不釣合いなくらい当たり前の様相で、わたしたちを囲っている。澄んだ空から通る陽の光と、蛍光灯が混ざり合い、これからわたしが成す非日常を嫌っているようにも感じられた。

「それじゃ、やるわよ。―――――――――Einschenken(満たせ)」

 回路を起動する。
 走り出す神秘、遠ざかるいつも。

 伽藍の堂。
 正常と異常が混濁した境界で。

 わたしたちの日常的な非日常。
 シロウがいない、非日常的な日常。

 コレは、退屈で当たり前な。

 だけど。

 きっと、わたしが望んで、アイツが手に入れる筈だった、空虚な一こま。

 コレは、儚くておぼろげな。

 だけど。

 きっと、何よりも大切なあれやこれや。

 正義の味方がいない、そんな幕間劇の始まりだった。



[1027] 幕間 伽藍の日々に幸福を Ⅱ
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 02:58
 
2. / snow white.

 回路の起動。
 わたしの始動キー、回路のスイッチは“杯”を満たすイメージだ。

 魔術行使における最初のステップ、回路の切り替え。
 全ての家系、全ての魔術学校ではじめに習うその工程も、“願う(せいはい)”という魔術特性を殆ど失った私には難しいことだった。以前のわたしは、回路の起動すら願うだけで成していたから。

「Wassernymphe. elf---Saulengang(水の精霊、十一柱)」

 魔術師として赤子同然からのリスタート。
 トウコに魔術を習い始めた最初の一週間は酷い物だった。魔術行使は愚か、回路の起動すら満足に行えない。欠陥品もいいところだ。
 シロウの前では平気な顔をして見せたが、それこそ死に物狂いに鍛錬した。

 だって悔しかったから。

 わたしはシロウの大事なところにいるアイツみたいに、彼を守れないって、怖くなったから。いつまでもシロウに守られてばっかりで、彼が傷つくのをただ見ているなんて絶対に嫌だったから。

 だから、私は頑張れた。

 せめてアイツが、シロウと一緒に視る筈だったその全てを、わたしが代わりに受け止めてあげたかったから。それは、約束にも似た嫉妬の想いだ。だってわたしは、シロウが好きなアイツの事を嫌いになれるはずが無いのだから。

 だから、ゼロからのスタートでも一生懸命になれた。

 シロウみたいに、わたしにも望みが在ったから。
 いつまでもシロウの隣にいるために、強かったアイツみたいに、いつかシロウを守れるように。

 だってそれが“お姉さん”って奴だ。
 きっと、永遠に口には出さないと思うけど。

「Versammlung  sich herleiten; beruhen auf …(集い、踊りて)」

 それでもまだまだ、わたしの魔術は力が弱い。
 “水”を扱う以外の魔術は、まだ余り使えない。基本所を一応押さえたって程度だ。知識だってシロウと一緒に勉強しているから、それなりに象にはなってきたけれど、やはりリンやトウコには及びもつかない。

 “イリヤスフィール(聖杯)”には遠く及ばない、干からびたイリヤ(わたし)。

 でもそれは、わたしが初めて魔具ではなく、魔術師として神秘を行使出来る事の証明に他ならない。
 リンやトウコ、そしてシロウと同じ魔術師として、今わたしは同じ地平に立っている。
 今はまだ未熟でも、わたしはシロウの隣に立っている。
 それは、たまらなく嬉しいことだ。

「―――――――Weihwasser Pfeil(水の矢と成れ)」

 突き出したわたしのか細い右手を握り締める。
 教科書通りの簡単な呪文と術式、世界に拡散し、根源には程遠い世界の基盤にわたしの回路が命令を伝え、決まりきった神秘が実行される。
 大気中の水分がきゅっと音を立てるように凝縮され、わたしの周りに矢として象どられた。形成は成功だ。水の魔術とはいえ、回路の起動、魔力の練り上げ、大気中に拡散したエーテルへの接続、式の構築、全ての工程はパーフェクト。わたしってやっぱり凄い。

「どうかしら?」

 わたしはふよふよと、気持ち良さそうにオフィスの中を旋回する水の矢を指差してトウコに振り向いた。
 空色の髪を掻き揚げた彼女、オレンジ色のピアスが少し揺れた。デスクに腰掛けたまま、彼女はじゅっと浮遊する水溜りでタバコの火を消す。

「ふむ、流石だね。言いつけどおり、水の魔術も工程をキチンと踏んで式を構築している。文句なしだ。半年かそこらの鍛錬で、よくもまあ大したものだよ。衛宮の奴にお前の爪の垢でもくれてやれ、……いや待て、足りんな。どうせならイリヤスフィール、食べられてしまえ」

 わたしの感動的な魔術行使の後に、この女は何てことを言うのだろう。
 それは嬉しいわねと、素直な兄妹愛を飲み込んで、わたしはオフィスで仕事を続けていたコクトーとソファーで寛ぐシキと一緒に、ジト眼をプレゼント。

「………所長」

「おまえ、サイテーだぞ」

「なに、冗談だよ。よくやったぞ、イリヤ。花まるだ」

 やれやれ。さも自分が被害者みたいに振舞う彼女は、そんな言葉を捨て鉢に漏らす。だけど、トウコの言葉に、わたしはしたなくも小さくガッツポーズ。
 結ったわたしの銀糸が、軽くオフィスの真ん中で嬉しそうに跳ねた。
 優しく握ったわたしの右手は、きっと、頼りない約束を僅かながらでも掴んだはずだ。






■ Interval / 伽藍の日々に幸福を Ⅱ ■






3. / snow white.

 魔術を習う理由云々はひとまず脇においておき、わたしは練り上げた魔力の矢を空中で霧に戻すことにした。パスを切り離すだけで、三十センチ台の水の針は砕けるように空中分解されていく。

「いつみても凄いなぁ。イリヤちゃんが超能力者なんだって、改めて驚かされるよ」

 霧散した水の矢に向けて「手品みたいだ」と手を叩くコクトーは子供みたい。
 どうやら、大分落ち着いたみたいだ。多少額に影が残っているものの、彼の真っ黒いトレーナーとトラウザーはそれを目立たなくしている。

「コクトー。何度も言うけどね、超能力じゃないってば。魔術よ魔術、あんな反則技と一緒にしないでよね」

 その無邪気さに憤懣やるかたなく、腰に手をあてコクトーにメッと指を立てる。わたしの発言に、シキが眉をひそめた。

「悪かったな、インチキで。後生だから勘弁しろよ」

 くっ、と冗談を溢す式はソファーで寝返りを一つ。
 オレンジ色の和服にしわを作る。

「ちっともすまなそうに聞こえないんだけど………」

 欠伸をしながらのシキの言葉に、今度はわたしがオデコをしかめる。
 “聖杯”だったわたしが言うのもなんだけど、稀有な才能は他者を卑屈にさせるものなのだ。
 時に、お兄ちゃんはいつもこんな不公平な世の理不尽と戦っているのだろうか? だとしたら、今度からは優しくしてあげよう。

「おいおい、イリヤスフィール。君の魔術の才覚だって立派に反則だよ。私や衛宮にしてみれば嫉妬の対象に他ならないんだ。そこらへん、察してくれよ」

「そうなの?」と目配せしながら、魔術行使の疲労によるものか少しだけ喉が渇いたので、オフィス中央のガラステーブルにキープしておいたわたしの茶碗でお茶を一口。少し温いが、喉を潤すには丁度いい温度だ。

「そうなの。まったく、基本なんてからっきしだった癖に、今ではどうだ? 協会が指定している魔術学校の基礎課程を半年とかからず修了させるは、魔力容量、回路共に聖杯で無くなった今でもハイスペック。いい加減、教えるこちらが嫌になる」

 だが、言葉とは裏腹に彼女の態度は平静そのものだ。
 嫉妬や妬みといった、負の感情はミリグラムも無い。彼女もわかっているのだ、魔術、神秘を成すモノの真価は、それだけでは無い事が。
 リンやトウコから感じる、魔術師、一人の人格として完成されたその魅力は、シロウではないが正直に憧れる。大人の色気なのよね、やっぱり。

「え? 基礎課程ってアレだけ? 簡単すぎるわよ、あんなのっ」

 悔しいので絶対に言ってやらないが、それはそれ。わたしはトウコの話で気になった所には遠慮なく切り込んでいく。
 段々と朱を帯びるオフィス。ツルベオトシの冬の日は、わたしは中々に好きなのだ。
 シロウがこの色にどんな感傷を抱くのかは知らないが、わたしは赤が好き。だってなんだかこの色って、お兄ちゃんを思い出させるから。

「まあ、魔術学校には学年もないし、基礎課程を修了したら卒業と言ういい加減な物だ。内容もそう濃くは無いが………簡単ではないだろう」

 苦笑を漏らすトウコは、薄っぺらい胸のポケットからタバコケースを取り出す。

「時計塔よりの魔術師は余り馴染みが無いが、彷徨海、いわゆるヨーロッパの魔術師によって運営される複合協会に所属している家系は主に魔術学校を利用しているし、その例を見れば分かるように、内容はキチンとしたものだ。君の様な幼年者にしてみれば中々に高度な内容だった思うぞ?」

「内容はまあ置いておいて。彷徨海って、ええと……たしか、三大部門だっけ? 魔術学校って、時計塔だけで運営されている訳じゃないんだ?」

「そうだよ。大体、時計塔が魔術の総本山と呼ばれるようになったのはごく最近だ。もともとは各地に点在した様々な組織、家系がその土地を取り仕切っていたものを、近年、最大派閥のいわゆる“三大部門”から抜きん出た時計塔のロンドン協会が統括するに至ったに過ぎない。世界各地に設立されている魔術学校の運営には最小限の連携も必要さ」

 紫煙を吹かす彼女は、深く専用の柔らかそうな備え付けの回転座椅子に沈む。
 立ちんぼは足が浮腫むので、わたしはコクトーのデスクに腰を落ち着けた。彼はシキの隣で詰まらなそうにお茶をしているしね。

「時計塔、ここでは仮に協会とするが、彼らは君の知るスタンダードな魔術師だと思ってくれて構わない。それともう一対、彷徨海の魔術師は……そうだね、麻帆良よりとでも言えば分かりやすいか? 複合協会の名の通り、様々な形態、思想で運営されている。面白いぞ、協会の奴等以上に人間を辞めているキチガイもいれば、人助けやらなんやらに手をだす馬鹿もいる、正に混沌だ。ふむ、言いえて妙だ。かの十位もここの出身だったな」

 トウコにしてみれば、人助けも人殺しも、馬鹿と一括りにされているらしい。
 さて、わたしは一体誰を哀れむべきかしら?

「それで、話が逸れたが。魔術学校の運営は時計塔と先にもあげた人助けを主張する魔術師の集まり、彷徨海の穏健派に運営されているのが通例だな」

 長い話はコレで終わりだと、彼女は短くなったタバコを灰皿に押し付けた。

「とにかくだ、魔術学校は援助をする組織の特徴が顕著に現れるが、基礎課程の魔術は彷徨海、時計塔の魔術師たちが組み上げた信用あるカリキュラムなのだ」

 「ふうん」とわたしは半分も聞いていなかったトウコの退屈な話に相応しく欠伸を漏らす。
 結局の所、魔術学校の運営は彷徨海の連中が主立って行っているって事が分かればそれで良いわ。わたしの覚えた魔術が時計塔じゃなくて彷徨海よりって事も分かったし、多少有意義ではあったけど。

「おいこら、イリヤスフィール。なんだその態度は。キチンと聞いていたのか? もう一つ薀蓄を言わせて貰えばだな、彷徨海の複合団体は半数以上の組織が“人助けのための魔術”、いわゆる君が訪れた麻帆良の主張を唱えている」

 ポケットからも一本、いや、もう三本ほど取り出して机にそれを投げ出すトウコはまだまだしゃべり足りないらしい。彼女の説明好きには正直うんざりだが、教養は教養で必要なのである。注意もされてしまったし、真面目に聞いてあげよう。
 ライターの火はトウコの背負う夕焼けに紛れてよく見えない、しばたいた瞳を一度こすって、きぃ、と硬いコクトーの椅子を軋ませた。

「コレはね、麻帆良を創設したあの爺が彷徨海の複合団体からロンドン協会に鞍替えをしたからだ。麻帆良のトップは中々の野心家で、それでもってとんでもないお人よしでね。今は交流の廃れた三大部門の橋渡し役を買って出た」

 口にくわえたタバコの吸殻を落とさぬように、トウコはデスクの机から私が彼女との授業で使っている“魔術史”の教科書を投げて寄越した。

「近代史の項目だ。はい、朗読」

 先生みたいに振舞う彼女は、どこか艶っぽい声で言う。
 いつの間にやら魔術の鍛錬から魔術史の講義へ、わたしは渋々ページを開く。

「ええと………近世…大戦、じゃないわね。この少し前かしら? えっと」

 目的のページを発見する。
 過去にあった大きな戦争の前、麻帆良学園の創設と神秘を日常に組み込んだ大々的な魔術都市、その設立者である……コノエコノウエモン? 協会、教会の勢力が介入しにくい極東の地に設立されたその魔術都市は近世における最大の要地である。麻帆良は交流の廃れた三大部門、そして極東の地を繋ぐ協会唯一の支部として確立された。

「へえ、それはそれは。大層な事を考えたモノね、このおじいちゃん」

 教科書の右上に掲載されたしゃがれたおじいちゃんを眺めながら、そう息をつく。
 声に出したためか、トウコの話を唯聞くよりもキチンと頭にのこっていた。

「まあね、閉鎖的な魔術師の交流を深めようとする、その思想はまあいいさ。ただね、そう上手くはいかないんだよ」

 顎で「次のページだ」と示した彼女に頷き、薄い教科書をめくった。
 ええと、何々……。

「なによ、結局機能してなんじゃない」

 鳴り物入りで設立されたのはいいが、大戦終了後、思想の食い違いや利害の錯綜、その他の外交的、金策的な諸問題が多数持ち上がる。
 今なお現行の協会日本支部、そして彷徨海穏健派の思想を受け継いだ組織として運営されてはいるが、“日本の魔術組織”としてしか機能してはおらず三大部門交流の中心とはとてもじゃないが言えない状態みたいだ。

「まあね、それが現状だ。最近日本の呪術協会長、いわゆる退魔組織のトップと血縁的な交流も深まり麻帆良と退魔組織の関係には光が見え始めたが、それだけ。いつぞやに起こった、魔術合戦のメディア放映に関係する怨恨も深く、協会との連携も失われている今、かつての思想通りに運営することは難しいだろうな」

 わたしはトウコの話が終わるのを待ってから。パタンと魔術史の教科書を閉じる。魔術界の仕組みについて触れられて、少しは小利口に成れたのかしら?
 彼女の説明やら薀蓄やらに付き合っていたら、朱色の空が黒ずんできてしまった。シキとの鍛錬も出来れば日があるうちに済ませたいし、そろそろ止めにしなければ。

「魔術師といえど大人たちはやっぱり色々あるのね。俗世を捨てて、人で或る事を否定する彼らが何よりも人間に縛られている、皮肉って奴かしら? ま、何にしても今日の授業も面白かったわ、わたしはこれからシキと鍛錬しようと思うんだけど、いい?」

 「ご自由に」あからさまに肩を萎めたトウコは薀蓄を堪能して満足そうだ。
 わたしはコクトーの膝枕で転寝をする猫のようなシキに椅子を回し、跳ねるようにそれを引く。灰色の腰掛が邪魔しちゃいけないと、金切り声にも似た摩擦音を残した。

「チョッとシキ、日が落ちる前に折角だからチャンバラしましょうよ。コクトーに甘えているところ悪いんだけど」

 きしし、とリンの真似をして意地悪くシキを揺する。
 わたしはシロウに会えないのに、シキばっかりエネルギーを充電できるのってずるいじゃない。

「ん? ……ああ、そうだな。…先、屋上に行ってろ、………竹刀を取ってくる」

 普段の彼女なら無防備な醜態を晒したことに戸惑い、顔を赤らめるのに、寝ぼけ顔の幸せ新妻さん(仮)にはあまり効果がない。っていうか効いていない。あれ? すっごい悔しいのはなんでさ?

「……その前に口元のよだれを拭いてから来てね。それじゃ、待ってるから」

 ありもしない狂言をプレゼントし、シキがぼけっと口をこする痴態を堪能してから、わたしは屋上へ。勿論、三階の工房、シロウが好んで利用する立派な炉心が備え付けられた部屋に保管しているわたしの愛刀も忘れない。
 屋上続く階段を軽快に駆け上がる。
 殺風景なその階段は、その頂点、ドアも何も無く、見上げれば差し込む紅と仄暗い黒色が満ちている奇妙な天上に直通している。階段を登りきれば、そこは腰の高さまでしかないボロボロの壁面に囲われた屋上みたいな空間。

 さて、シキとの鍛錬。
 幸せに寝息をたて、好きな奴との一時を満喫したあの若奥さんに、今日ぐらいは一矢報いても構わないだろう。

4. / snow white.

 わたしは自身の武器、蒼白の双剣を強化の魔術で補助されたひ弱な身体で振り回し、軽快な足運びでステップを踏むシキにひたすら切りかかる。

「ほら、もう息が上がってるぞ。頑張れ、イリヤ」

 よく言うわ。
 竹刀を肩に担いだまま、鼓舞されても嬉しくない。
 彼女は模擬刀、わたしは真剣。
 けれど、彼女はわたしの振り回すその全てを歩むようにゆっくりと、それでいて皮一枚で躱している。限りある屋上の囲い、その筈なのにシキは一度たりとも動きを止めずに舞っている。
 円を描きながら踊るようにわたしを翻弄する彼女は憎たらしいほどにカッコがいい。

「この! 少しは手加減しなさいよ!!」

「してるじゃないか? いつのも通り、こっちからは一切手をだしてない。衛宮だったら、……そうだな、ここまでに三発はいいのをお見舞いされて悶絶してる」

 くっ、とくぐもった笑みを溢す彼女に、わたしは右手の短剣、三十センチの弧を描いた刃渡りを滑らせる。薄い藍色、鍔も無く何の装飾も施されていないわたしの青が左から一線。
 それをシキは口笛さえ吹いて躱してくれる。おまけにだ、流れたわたしの足元を引っ掛けるのも忘れてはいなかった。

「――――っつ!?!? ああもう! 腹が立つわねっ!!」

 大きく体勢を崩されたわたしは何とか踏ん張り、思いっきり身体を捻って一回転。青と不揃いの対剣、白色の倚天をがむしゃらに切り返す。
 ただ、青とは対照的な直線の刀身、刺突に趣を置かれているその剣は僅かにシキに届かない。真後ろに、とん、っと跳ね、シキはそれを簡単に避ける。

「 !? っととっつ」

 奇天を振り回した反動で、わたしの身体は大きく流される。
 シキとの鍛錬時にはコクトーに持ってきてもらった女物の赤ジャージを愛用しているのだが、すでにそれはぐっしょりだ。
 赤かった空は申し訳程度にしか残されておらず、辺りは水増しする寒さと共に更けていく。
 冷えだす身体を一度抱きしめて、5メートル以上はシキとの距離があることを確認しながら、わたしは呼吸を整えた。

「今日こそは眼にモノ見せてくれるんじゃなかったのか?」

 竹刀を杖代わりに、「よっ」ともたれるシキ。………なんで貴方は汗一つかいてないのよ。

「うっさいわね。………これから見せるんだから、わたしの大活劇はカミングスーンよっ!」

 酸素不足で頭がどうかしてしまったのか、タイガみたいな減らず口を叩いている。
 だけど、不思議。なんかチョッと元気になった。

「延期されないことを切に願うよ。でもな、無理はするな。いつも通り、コレは衛宮の様な鍛錬じゃなくてあくまで体力作りなんだから。なんていったかな、エアロビクス……だっけ? 流行ってるんだろ、最近」

 シキにはほとほと似つかわしくないその言葉に思わず噴出す。
 彼女もどうして、女性同士の時は女の子らしい思考ロジックに切り替わるものだ。

「ええ。そうね、そうだった。綺麗に磨きをかけて、かえって来たシロウを驚かせないとね」

 わたしは肩を持ち上げ、青い短剣を右で順手に、白い短剣を左で逆手に構える。
 わたしがシキとこなすのはあくまで美容と健康のための体力づくり。それと誰にも言っていないが、いずれ大きくなったら、世界中を駆け回って正義の味方業に精を出すであろうお兄ちゃんについていくための下準備だ。

「分かってるならいいさ」

 気だるく竹刀を担いだシキに注意を払いながら、握り締めた双剣に視線を落とす。魔術師ならば必ず一つは保持している魔術礼装(ミスティックコード)。
 宝具の様な限定礼装を所持するモノ、リンの宝石の様な補助礼装を所持するもの、様々だ。
 一般の魔術師は主に補助具的な役割をもつ後者を好むのだが、わたしもその例に漏れず、握り締めた蒼白の短剣は魔術を補佐するためのモノである。

「それじゃ、魔術の実践も兼ねて何時ものやってみろよ。アレさ、スリルがあって中々好きなんだ」

「スリルね、いつだって一発も掠りもしないじゃない。よく言うわ」


 補助具。
 外付けの魔術回路。
 リンの使う宝石の様な魔力タンクが出来ればベストだった。いや、全ての魔術師にとって魔力を半永久的に蓄積できるその礼装、そして技能は魅力的だろう。
 だがそもそも、リンの宝石を使用した魔力の蓄積は宝石という礼装に起因するよりも、遠坂の魔術特性であり万能である転換の魔術に因るところが大きい。
 それにそもそも、わたしは転換の魔術が得意じゃない。以前のわたしならばそれも可能だったろうが、今のわたしが使える魔術は魔術学校終了程度の神秘だけ。
 いかにシロウとトウコとはいえ転換の式を組み立てられないわたしにさえ、魔力を永久に蓄積させる事が出来る魔術礼装なんて創れる筈が無かった。

「それは結果論だろ? 結構ひやひやするんだぞ、オレだってさ」

 式が竹刀をだらりと下げて、何時もの合図を私に送る。
 ここからは“なんでもあり”の時間、そう彼女が告げている。

「―――――――――だったら、今日こそはその結果論を粉々にしてやるんだからっ!」

 再度強く強く青倚天を握りこむ。
 わたしはリンの様な万能型の補助礼装は使えない。よって、わたしが使う蒼白の双刀は“アンテナ”の役割を果たす補助礼装。
 シロウとトウコと色々話し合い、数回に及ぶ改良。そして、最良と思われる道具にわたしの愛刀は鍛え上げられた。

「それは、楽しみだ。衛宮をコテンパンに出来なくて最近イライラしてさ。受動的なストレス発散法だが、贅沢は駄目だよな。今夜はいい夜になりそうだ」

 貴方が妙に疲れていた原因はそれ(ストレス)かっ!
 もう我慢できないと、わたしは回路を走らせる。眼前には歪に笑んだシキ。辺りは既に暗闇が落ち、彼女が背負う夜景はボンヤリと群がるように光の数を増やしていく。

「調子に乗って! 心因負担倍増させてやる!!―――――Einschenken(満たせ)」

 回路が魔力で溢れ、杯が毀れる痛みを全身に浸透させる。
 心地よい苦痛を感じるのと同時に、両手に握る青倚天、順手と逆手に握る蒼と白を交錯。弾けあう柄、甲高い和音が私の細い指を伝い魔力を振るわせる。

「―――――――――毀るる青は盃を、流るる杯は白を灌ぐ」

 カチリ。
 撃鉄の音にも似た錯綜音がコンバインされたわたしの握る柄に響く。
 両端にヒレを持つ櫂(オール)の様な形状、中央のグリップから両極に伸びる青と白の不揃いの刀身。剣を模倣した蒼白のスカルで、ブンと8の字を描く様に冷えた夜気を凪ぐ。

「―――――いいね。いつみてもその奇剣はさ。本当、衛宮はいい鍛冶屋になるよ」

 シキの態度は変らない。
 悠然と自若を貫き、竹刀すら未だ構えずわたしの、いいえ、シロウとトウコ、創る魔術師において最高峰とも言える二人が鍛えたわたしの礼装に賞美の言葉さえ送る。
 聖杯では無いわたしが、始めて手に入れた魔術礼装。そんじょそこらの刀剣、魔術礼装なんてこいつの足元にも及ばない。
 刃物マニアの貴方には悪いけど、コレは死んでもあげないから。

「その軽口、いつまで叩けるかしら?」

「上等。そうこなくっちゃ」

 回路とスカルの接続は既に済んでいる。
 さあ、準備は良い?

「―――――Wasser Schwert siebzehn(水の射手、十七刃)!!」

 わたしはシキから出来る限りの力で跳び引き、魔力の刃を放つ。形成は僅かに五秒。
 先ほど、トウコとの前では二工程で放つことが出来なかったその呪文。それをここで成したのが、わたしの礼装の力だ。
 わたしの礼装、青倚天は櫂の象に形成されて始めて、その機能を発揮する。
 その効果は実に単純、アンテナだ。
 外界に働きかける魔術は大気中に拡散したエーテルを如何に術式として再構成させるか、それが最も重要である。その工程は1、パスの接続、2、接続した回路を通じ練り上げた魔力を送り込む、3、式の構築と言った大まかに言えば三工程に分かれている。
 わたしは、この礼装を持って第一の工程、パスの接続をすっ飛ばしているのだ。
 青がわたしの魔力を回収、伝達し、倚天が大気中のエーテルと常に接続する、故にアンテナ、いわば、わたしの電力をより効率的に伝達するための受信機(青)であり発信機(倚天)なのだ。

「―――――――十七。はっ、なめられてるね」

 だが、僅か二工程のアクションで放たれたわたしの刃はシキを前にしては小さな飛沫と変らない。
 やはり彼女は竹刀を構えなかった。
 ぺろりと乾いた唇を舐めたシキはその場から動きもせずに胴の捻りと、左足を軸に円を描きながら全てを避ける。

「いい気にならないで、これからよ。Wasser Schwert siebzehn」

 真上にスカルを振り上げ、再度同じ呪を紡ぐ。
 放たれた十七の鋭利な水の刃。
 大気中のエーテルに回路を接続しっぱなしなわけだから、魔術行使における手間が一工程分省けたわけだ。
 当然、行使速度も増すし、何よりも外界干渉系魔術の成功率が跳ね上がる。
 シロウの内界系統の魔術と違い、外界に働きかえる魔術はエーテルの扱いが重要になってくる。大気中に拡散した概念ともいえる架空の要素、エーテルは扱いが難しい。基本にして最重要であるパスの接続からして困難なのだ。
 だって概念的な要素であるわけだから、当然視えない、イメージが重要な魔術においてそれは結構致命的だ。故に、エーテルを扱う魔術はパスの接続が全てといっても過言では無い。エーテルは粘土みたいなものだし、回路を接続してしまえば構築する式はそう難しいものでは無いのだから。

「―――――――――へえ、はやいな。でも駄目だ、それじゃオレは捕まらない」

 放たれた私の水刃の速さを評したのか、はたまた詠唱魔術の早さなのか。
 それは分からないが、どちらにしてもコレが決め手になるなんて私も考えていないわよ。

「ふんだ、後悔するわよ!!―――――――――――杯を廻す」

 類感により属性の派生、水を火の属性に反転。
 わたしの魔力を吸収する青が僅かに赤く染まり、置換された魔力を倚天に流す。
 あくまでわたしの礼装が補助するのは大気中のエーテルへの接続のみ。強化、類感、変化といった工程はやはりこちらで処理しなくてはならない。当然、式から構築するし魔力もそれなりに持っていかれる。

「----------WasserSeele rotes Siegel tropfen, Feuer schwert einundfunfzig (水霊、朱色に滴る、火炎の射手、五十一刃)」

 わたしの魔力一割強を使った魔術行使。だが、それに見合うだけの火力は用意できた。カッと暗がりが白く染まる。
 そして穿たれた炎の剣、十七の刃を回避した直後だ、この数は流石にやばいんじゃないかしら? だ、大丈夫よね、きっと。死にはしないわよ、多分。

「いいね。これでなきゃ、―――――――」

 わたしと視線を絡ませ、迫る炎の剣弾を前に低く腰を曲げるシキ。
 彼女は嬉しそうに唇を吊り上げ、そして――――――――。

「え?」

 ―――――――そこまでが、わたしの捕らえきれた全てだった。
 叩きつけられた熱波。
 反転したネガポジみたいにわたしの視界は弾けた火炎にあてられブラックアウト。
 瞳の力を取り戻した私は、焦りながら僅かに焦げた前髪を振り払った。
 そこに、―――――――――彼女はいない。
 見渡す屋上、八方に意識を伸ばしても、そこは伽藍。伽藍の天上だ。

「なんでよ!?―――――――――どこに!?!?」

 シキを見失ったのを火炎の余波の所為にして、金切り声を張り上げる。
 彼女はいない、どこにもいない。
 わたしは頭が取れるんじゃないかと思うほど、ためつすがめつ首を廻した。だけど、捉えられたのは真っ黒な夜の大気と、その先に映る目障りな都会のネオンライトだけ。

「まさか、――――――消し飛んじゃった?」

 それは不味いと、ごちる。
 だが、僅かに黒ずんだ伽藍の屋上に視線を戻したその瞬間。

「それこそまさか。お前の視界から、って言葉が抜けてるよ」

 頭上から、そんな憎ったらしい鈴声の如き嘲笑が落ちてきた。
 すっかり忘れていたが、“なんでもありの時間”はシキがわたしに一太刀入れた時点で終了する。毎回毎回、ぽこんっと優しくも情けないその音色に正直うんざりしているのだ。
 今日は、もう少しだけ粘ってやる。
 だけど、つがえたスカルでシキのゴリラな一撃を防ぐなんて出来るわけが無い。
 そして同時に。思考する余憤も、ない。
 ならわたしは、シキの一太刀を防げる何かを、一秒に満たないその瞬きで練り上げるだけだ。
 魔力の矢に続く、基本魔術。優れた魔術師ならば、自動的に形成されるその神秘。それをわたしは、言葉と言う一工程の最速をもって彼女の凶刃に対抗する。

「―――――――――――水楯っ!」

 頭上に纏われた水の塊が、バアンっと鋭い何かを受け止めた。
 弾けた冷たい飛沫。
 冬の夜の冷たい大気から凝縮されたその水の盾は、シキが振り下ろした馬鹿みたいな衝撃で波打ち毀れ、二人の顔をひんやりと濡らしてくれる。

「ちぃっ!?」

 っと、シキが舌打ち。そして着陸と同時に一瞬で離陸した。その言葉が適当なくらい、彼女の跳躍は飛行染みている。
 再び開いた両者の距離、わたしは壁際で片膝をついてこの瞬間の安堵を噛み締め、シキの心地よい歯軋りに耳をピクリと振るわせた。

「――――――ど、どうよシキ? わたし、結構やるんじゃないかしら?」

 あ、あぶなかった。実際は冷や冷やモノである。
 わたしは水飛沫に濡れる顔を拭って立ち上がり、不満そうに口を尖らすシキに余裕を装おおとして失敗した、可愛くない笑みを向ける。

「ふうん。それ、前は使えなかった筈だよな? 視たのは今夜が初めてだ」

 滴る水滴もそのままに、ゆっくりと彼女は立ち上がった。

「でも面白いよ、叩き甲斐があってさ。意外と頑丈なんだ、水って」

 不機嫌だったその顔は、ちゃっかり歪に微笑んでいる。彼女ぐらいの美人さんのああいう顔って、出来れば見たくないっす。
 コクトーに後で注意してもらおう、そう思考を切り上げ、わたしは自分の新しい魔術に送られた賞賛を当然の様に受け取り、返す。

「それはありがとう。だけどお生憎さま、そう何度も楽しませてあげないわ」

 わたしは一息に言い切って、青倚天を目前に掲げ握りこむ。
 今日の鍛錬、わたしの調子は絶好調だ。
 わたしの礼装のもう一つの能力。“もう一つのアンテナ”としての力を上手く使えば、もしかしたら本当に。

「――――――一泡拭かせて、やれるのかしら?」

 思ったことが口に出る。
 不味いわね、シロウの癖がうつっちゃったのかしら?

「へえ、まだ言うか。それじゃ、もう一段階ギアをあげてみよう。衛宮の奴はいつもこのレベルで鍛錬してる。実際どんなものか、体験してみるのもいいかもな」

 にやりと真向かいに竹刀を構えたシキ。
 ちょっとちょっと、初志を忘れちゃったの?

「―――――――――痛いのは嫌だからね」

 それでも、彼女の歪んだ思いやりを拒めない優しくも可哀相なわたし。

「安心しろよ。エクササイズだって」

 でもほら、わたしのそんな感情を敏感に読み取った彼女は。

「ほら、構えろよ。今日はもう少しだけつきあうからさ」

 かっこよく、夜の闇と光る遠くの夜景を見上げながらそう言った。
 シキの言葉にひるんだわたしは、どうやら獲物を下げていたらしい、慌ててそれをシキに姿勢などを注意されながら構える。

「はいはい、っとこれでいいかしら? それじゃ、やるわよ。まだ魔術を使ってもいいのかしら? つまり、何でもありの時間継続ってこと」

 右手で掴む青と白の櫂、それを突き出し中腰に。

「ああ、当然継続中。さ、いってみようか」

 シキが少しだけ嬉しそうに竹刀を担いだ。
 だけど、先ほどとは明らかに違う雰囲気、シロウはいつもこんな緊張感にまみれているのだろうか。

 今はここにいない彼と重なる奇妙な連帯感にくすぐったい感情を覚えながら魔力を練り上げる。

 夜は緩やかに深く沈み、都会の光をより一層強い輝きに陥れていた。
 きっと今日とて何も変らず、手に入れた日常は終わってしまうだろう。

 トウコと、シキと、コクトーと、そして今夜も回る月の様に。

「―――――――――――満たせ」

 意味の無い、だけどその呪を再度唱える。
 腰を落とし、スカルをつがえる。
 わたしという杯が今日も日常に満たされる。

 シロウのいない日常。
 だけど、いつもと何一つ違わないそんな夜。

 彼のいないそんな非日常。そんな逆月の夜は今日も、廻る。



[1027] 幕間 伽藍の日々に幸福を Ⅲ
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 03:07
5. / snow white.

「ねえトウコ」

「なんだ、イリヤスフィール」

「貴方って魔術師よね? それでもって私も魔術師よね?」

「 ? なんだ藪から棒に。そんなの、決まっているだろう」

「それを踏まえた上で質問しているの。魔術師は過去に疾走する者、コレも良いわよね?」

「ああ、その通りだ。科学者は未来へ、そして我々は過去への探求者だ」

「全ての因果の原点。“根源”それを目差す者を魔術師と呼ぶ。コレも?」

「Yesだ」

「つまり、全ての魔術的活動は根源への探求と言える。コレも、Yesよね?」

「それこそ当然。全ての神秘は根源に通じている、ただ果てしなく遠いだけさ」

 どこか的を射ない遣り取り。ぬるい陽光を吸収し、たわわな白さがオフィスに満ちるお昼過ぎ。
 どこにでもある普通の室内はしかし、旋回し浮遊する水の塊が気持ちよさそうに漂っていた。
 シロウのいないこのお暇な時間帯、トウコとわたし、昼間の鍛錬はもはや通例になっている。いつのもの通りシキにポカンと小気味の良いメンを貰ってしまったあの晩から既に三日。
 いつの間にやら事務所の社長が一切仕事をしなくなった人形工房伽藍の堂、その舵を取るのは若輩者のコクトー一人だけだった。

「はいっ、はい。ただいまその従業員が研修に出ておりまして、彼が到着しだい設計図の方をっ。――――え? いつ? えっと……四日、いえ五日後には。――――そんな!? もう少々期限をっ!! 必ず提出させていただきますのでっ ―――――いえ、御遊びだなんてとんでもない、それは社長だけでして、社員共々誠心誠意尽くしておりますっ。はい、はい、すみません」

 結局トウコに言い負かされて、設計図の件は鮮やかに保留。
 そうこうしている内に浅上建設の依頼の提出期限が過ぎてしまったらしく、彼は先ほどから低頭平身、延々と電話に向かって謝り続けていた。サラリーマンって大変なのね。

「おい、イリヤスフィール。いい加減何を言いたいのかハッキリさせろ。退屈で退屈で今にも死にそうなんだ。ほら、お前の話の落ちは一体なんなんだ?」

 師匠、淒すぎっす。
 ダラーと椅子にもたれて紫煙を天井に噴き上げる彼女。今日も格好だけなら一流キャリアウーマンで通るパリッとしたシャツと黒のタイトスカートが、かっこよすぎっすよ。

「どうした、イリヤスフィール。その眼は一体なんだ? 羨望の目を向けてくれるな、なんだかこそばゆいじゃないか」

「―――――――――はあ」

 ため息と一緒に愚考する。……仕事してあげなさいよ。
 どうせ言っても無駄だし、それを飲み込んだわたしは例の如くオフィスの中をゆったりと旋回する水の矢を指して、口を開いた。

「………じゃあ質問ね。こんな魔術でどうやったら根源に届くってのよ?」

 ブヨブヨと形を変える私の水矢。
 この魔術が果たして根源に通じているなんて、わたしには到底理解できなかった。






■ Interval / 伽藍の日々に幸福を Ⅲ ■





6. / snow white.

「………ふむ。なるほどね、最もな疑問だ。それでは逆に聞こうか、イリヤスフィール。君はどうやったら“魔術”を持って根源に至る事が出来ると思う?」

 ぐっ、とデスクの灰皿に残り僅かとなったタバコを押し付けて、トウコが答えてくれた。いや、この場合は答えてくれなかったっていうのが適当かしら?
 わたしは三つ網をくるくる右手で弄びながら思案顔に。
 今日の服装はおへそが見える黒のタートルネックトレーナーに深いブルーのジーンズだ。チョッと寒いし淡白な格好だけど、最近はこんなボーイッシュな服装に凝っていたりする。シロウから借りている男物の上着は暖かいしね。
 別段フォーマルな服装ではないので遠慮なくソファーの上で転がりまわる。答えをひねり出そうとはしたその行為。だが……分からないわ。

「……う~ん。魔力を一杯使ってすっごい魔術を使う?」

 ソファーから身体を起こし、てへっ、となるたけ可愛い笑顔を添えて照れ隠し。
 シロウならば陥落したその一撃も、同性、そしてこの性悪女には効果が望めなかった。

「なんだ、その衛宮みたいに頭の悪い回答は。らしくないぞイリヤスフィール」

「――――――ふぐっ!?」

 ヨロヨロ、ガラガラと再び柔らかな感触に沈むわたし。確かに何かが砕けたっす。何よ、もう少し容赦ってゆうか、心遣いってゆうか、愛をプリーズ。
 ヘッポコと言われた余りのショックにわたしの脳内回路はショート寸前だ。

「……つ、く。……しょうがないでしょ。まだ貴方から教わってないもの。それなのに酷いわよ、あんまりよ」

 何とか起き上がり、魔術師としての自分を全面否定しかけたこの瞬間から生還する。

「ふむ、そうだな。衛宮と同格に扱われた日には私とて首を吊らねばならん。今の非礼は詫びておこう、冗談が過ぎた」

 顔すら青ざめ、トウコが漏らした。
 わたしたちは互いに顔を合わせてつっと冷や汗を頬に垂らす。魔術師としてシロウと同じ、それ即ち底辺なり。
 気の所為かしら? わたしたち、なにか凄い酷い事を言っている?

「それはそうと、魔術を用いて根源に到達する方法。だったな?」

 わたしの杞憂を気にも留めずに、彼女が真剣な面持ちで脱線した話を回収した。しかし、彼女の妙に嬉しそうな、それでいて優しげな顔が気になる。
 だってあの顔、シロウと一緒にいる時のトウコみたいだから。

「………ええ。根源、そして魔法。手に入れていない貴方に聞くのもなんだけど、最高峰の魔術師が捉えたその観測方法、聞かせてもらえるかしら?」

 不意に湧いた疑問を気の所為だと納得して、わたしはトウコに頷いた。
 魔法、そして根源。
 わたしたちが目指すその回答には果たしてどうすれば辿り着けるのか。

「ふむ――――――――」

 先ほどのショックで、わたしの水矢は既に霧散していた。
 見渡せば、辺りは喩えようの無い位に普通のオフィスに様変わりしている。神秘的な話しには到底似合わぬその空間には、コクトーの齷齪としたBGMが未だ流れていた。それを聞き流しながら、わたしは足をプラプラソファーの上で待ちぼうけだ。
 待つこと数秒。いつもの様にタバコに火をつけ、思考を纏め終えたトウコは口を開く。

「そうだね、先ずは君に与えた問いの答えからだ」

 わたしはトウコに向き直り、ソファーに深く腰掛けなおした。
 すっ、とタバコを口から外した彼女は、それを灰皿の縁に乗せ、両の手をデスクの上で絡ませ鋭角の顎を乗せる。

「答えはね、何かの“原型”を得る。根源の探求、魔術とはこの“原型”を創り、探し、壊し、使うことに集約しているのさ」

 そして零れた彼女の言葉は、いまいちピンと来なかった。

「原型?」

 わたしは手を上げてトウコに尋ねる。
 「ああ」と簡単に頷いた彼女は、灰皿に落としたタバコを拾い、一口吸い込んだ。

「別に私独自の観測方法というわけではないがね。“原型”の探求はよりオーソドックスな手段だということさ。根源への門を創るためのね」

 吐きだされた紫煙と共に、トウコは自嘲気味にそう言った。

「ねえ。分からないんだけど、その原型って一体何の原型なのよ?」

 彼女の歪な微笑が妙に気に入らなかったので、私は少しだけ語気を強めて新しい疑問を投げつけた。三つ網を振り回しながら一応の思案はしたものの、やはり原型、その言葉はわたしの中で形になってくれない。

「何でもいいのさ。現世において無限に派生した因果の結果、その糸を手繰り寄せ“雛形”を手に入れる。それが物質的なモノでも概念的なモノでも構わない。過去、根源と呼ばれる全ての原因から発生した最も若い、最も古い“何か”それを得て初めて、私たちは根源を観測出来るのさ」

「よく分かんないんだけど、結局、“何か”を限界まで突き詰めて見つけた一番始めのモノ、ソレが“原型”ってことかしら?」

「そうだね、その考え方で問題ないと思うぞ」

「それじゃあ何? さっきわたしが創った水の矢も突き詰める事で魔法、果ては根源なんてものに届くって事? それ、余りにも簡単に辿り着いちゃうんじゃないかしら? だってみんな方法が分かっているじゃない」

 くっ、と可笑しそうに笑ったトウコ。む、なんで笑うのよ。

「まあ、理論上はそうだよ。それでは聞こうか、水の矢を突き詰めるとは果たしてどうやってだね? そもそも君は全ての“矢”となる原因が何であるかも分からないだろう」

 わたしは言葉に窮した。
 言われてみればその通りだ、原型、雛形。言葉にすればそれだけだけど、それって一体何なんだろうか。全ての“矢”の始まり、そんなの少なくともわたしは想像すら出来ない。
 グルグルと思考に振り回されるわたしに、トウコが助言。

「それではヒントだ。君が思う矢とは一体どんなものかね?」

 質問の意図が見えないが、こんがらがったわたしの思考を破却しようと、思いつくままに答えた。

「う~ん、そうね。凄い速さで飛んでいって目的を射抜くもの、かしら? 曖昧でごめんなさい、直ぐにはイメージ出来ないわ」

「ふむ、その回答で別に問題無い。それでは君が口にしたイメージ、“速く、そして射抜く”そのイメージを究極まで突き詰めてみようか?」

「速さを極限まで突き詰める?」

「そうさ。君が魔弾として放つ水の刃は言うに及ばず、この地球上の全ての弾丸よりも速く、そして音速、光速よりも速く速く速く。矢の速さを突き詰めた先には何がある?」

 わたしは彼女の言葉に目を見開いた。
 魔力で形成された“矢”。それを光よりも速く、極限まで速く、そうだ、それって。

「時間の逆行。それって、魔法に手が届いてる………」

「いいぞ、衛宮よりは断然的を射た答えだ。限定的ではあるが、光速の概念を踏破した“矢”の形成は時間逆行と言う究極まで遡る。分かったかな? 矢と言うあまりに派生しすぎた概念は突き詰めたところで、そもそも“原型”からして根源から遠い、それを手に入れたところで時間逆行の魔法を限定的に手に入れるだけだ。だが、“原型”のイメージは出来ただろう? つまりそう言うことだよ、コレはあくまで“矢”に内包されていた一部分を突き詰めた参考例にしか過ぎないが、他の魔術師は別のアプローチで原型を探しているかも知れない」

 トウコが言い切った時には、咥えたタバコが僅かしか残されていなかった。
 あの吸い方は身体に悪い、とシロウに注意されているのにもかかわらず彼女は一向に治す気配が無い。

「そうだね、私ならば矢に内包された“速さ”もしくは“貫く”など概念的なモノ突き詰めるのでは無く、それこそ武器としての“矢”の原型を創り出す物質的な方法を選択するだろうな。衛宮なんていう御あつらえ向きの弟子もいることだし」

 トウコは人差し指の関節一個分しか残っていないタバコをようやく捨て、ふうっ、と息をついた。本当、長い説明ご苦労様。わたしはソファーの上で仰向けに転がり、手に入れた知識で再度考察、今は上手い具合に絡んだ糸が解けている。

「速さを突き詰めれば時間を追い越す魔力の矢を。貫通力を突き詰めれば全てを、世界の壁さえ貫く魔力の矢を。武器、物質としての原型だと、――――何になるのかしら?」

 時間旅行、平行世界の運営。
 思いついただけでも、限定的に二つの魔法に手が届く。
 だけど、トウコ提示した“武器としての矢”の原型、それは一体?

「さあね。少なくとも辿り着く地平は魔法とは似て非なる場所だ。魔法を手にする事と根源に辿り着く事は必ずしも同義とは言えない、と私は考えている」

 否定的な言葉とは裏腹に、彼女の言葉。
 語るべくその真理はどこか切ない。

「全ての矢、その原因たる独立した存在。それが恐らく“原型”だろう。あくまで想像の域を出ない一つの可能性であるならば、私も見当がつく。何せ、現物が存在していたからな」

 指しこむ斜光が強く瞬いた。
 オフィスにふる陽光、その鋭い眩しさに、わたしは眼を細める。

「それって、つまり」

 うすうす、気付いている。
 バーサーカーを六度殺したエミヤシロウ。
 嘆く言葉が形となり、彼の赤い外套が強く翻る、その姿は今でもこの眼に焼きついている。
 彼が創り出した、幾多数多の尊い剣、―――――そのまがい物たちも。
 神秘の原則を無視する神秘。
 この世界にありながら、一つの独立した“世界(ルール)”によって行使されるその神秘は。




「―――――――固有結界」




 何一つ飾らないトウコの言葉に、わたしは、今どんな顔をしているのだろうか?
 魔術を修める者としての嫉妬の顔? それとも祝福、賞賛? そのどれもが違う気がする。

「物質的な原型とはつまり、確立した世界とも言える。なにせ原型だ、それが形成する全ての因果を含み、単一の結果しか内包しえない独立した異界。少なくとも、衛宮士郎のそれは間違いなくこの条件に当てはまる」

 淡々と言い切った彼女、だけど、彼女の貌も嫉妬や羨望なんて生易しいモノではない。
 だって、その世界はガランドウでしかないのだ。
 全てを持つのは何も無いのと同じこと、フランスの有名な哲学者さんの研究結果、二元論って奴かしら。それって、なんか嫌。

「そっか、やっぱりお兄ちゃんは固有結界を使えるんだ………」

 だけど、この貌が哀れみだなんて認めない。
 ガランドウ。そんな事、彼が一番良く分かっている。
 それでも、それだからこそ、彼がそれに負けない限り、わたしが彼を哀れむ事なんかしちゃいけない。

「ああ。間違いなく、ね」

 ふっ、とトウコが漏らす。
 だけど不思議だ、こいつは自分の弟子が在る意味辿り着いちゃっているのに悔しくないのかしら。なんで気持ち悪い位に悟りきって微笑んでいるのよ。
 なんか……こいつもわたしも魔術師失格の様な気がする。

「ねえ、固有結界の事はシロウって」

 それは兎も角、わたしは長かったお話に終止符を打つべくソファーから降りて伸びをしながら尋ねた。

「教えていない、……が、気付いているだろうな。自分の中にある曖昧な“世界”。未だ象が定まっていないようだが、それが彼の世界と言うことは永遠に変らない。いまさら教えるのは癪だし、このまま放っておくさ、そのうち自分で何とかするだろ」

 ふん、と冗談交じりに彼女は加えたタバコに火をつけた。
 だけど、その仕草すらどこか嬉しそうなのはどうしてだろう。

「なによそれ。いい加減なんだから」

 オフィスを見渡しながら、手を後ろに回してとことこ笑みを加えてお散歩。
 夕焼けと空の青を混じり合わせた様な変な色合いの伽藍の堂は、それだけなのにさっきよりもずっと神秘的だ。

「ふん。あんなでたらめな奴に付き合っているんだ、こちらとて適当にもなるさ、頭が変になる」

 本日二回目、鼻で笑った彼女に同意をこめて大きく頷いた。
 わたしはくるんと、スカートでないのが残念なくらい見事なピルエットを披露。
 ご機嫌なわたしの白い三つ網が回転の余韻に浸り、緩やかに視界から消えた。

「同感。あんなに駄目駄目なくせに固有結界を使えるなんて、やっぱり変。――――――にしてもトウコ、今日の貴方、随分と機嫌がいいのは何でなのかしら?」

 そして尋ねる、ちょっと気になる先ほどの疑問。終始顔には出さなかった様だが、わたしの洞察力を甘く見てはいけない。
 今日のトウコは、わたしが根源、魔術の目標について話を振ったときから絶対に上機嫌だった。

「ん? いや、さしたる理由は無いのだがね」

「だが、なんなのよ?」

 口を挟んだわたしを難しい顔で睨んだ彼女。
 な、何よ? わたし、別に怒られるようなことしていないわよ。

「――――――この前ね、衛宮君に同じ質問されたのよ。“先生、根源てどうやって辿り着けばいいんでしょう”って」

 だが、構えたわたしに何を思ったのか、いきなり眼鏡をかけてトウコは椅子を回す。向けられた背中は、この前、恐らく麻帆良の旅行の前後に向けられているようだ。
 麻帆良の旅行がきっかけなのかは分からないが、アレ以来シロウは魔術の虫である。前から鍛錬好きのシロウだけど、なんか雰囲気が違うのだ。ニヤニヤしていて気持ち悪いっていうか、変な顔っていうのか、とにかく妙にうきうきしているのだ。

「ほら最近、衛宮君輪にかけて魔術の修練に一生懸命でしょ? 別に突然魔術の調子が上がった訳でもないし、相変わらず情けない位お粗末な彼だけどニコニコしてなんだか楽しそうじゃない?」

 彼女の細い背中から声だけがわたしに降ってくる。しかし、この女も素直じゃない奴。
 わたしは適当な単語を並べてごまかそうとしている彼女に先回りして答えた。今日はどうやら勝ち逃げできそうな雰囲気だ。好機は逃せない。

「―――――なるほどね。つまるところトウコは嬉しいんだ? 魔術師としてシロウが自分の側に近づいてくれてさ。そうだよね、今のシロウはちゃんと見つけたもの正義の味方って目標と、もう一つ」

 わたしは彼女の隣、チクタクと悠々と針を回す時計に視線を落とし時刻を確認。三時ちょっとすぎ、それじゃ今日は久々の勝利を祝って、午後の盃は私が用意しますか。

「何かを楽しむ。そうね、――――――生きる喜び、って奴かしら? それって魔術を学ぶ上で、ううん、何かを探求するために一番必要なものだと思う」

 わたしはそう告げて踵を返した。
 トウコは押しだまったまま、閉じた窓越しに薄く朱に染まり始めた空を睨み付けていることだろう。
 そうそう、追い討ちだって忘れてはならないわよね?

「ああそうだ」

 首だけを回して彼女のデスクに徐に置かれた赤い革布の塊、恐らく外套であろうソレに視線を投げる。なるほど、アレはチョッとしたお祝いって訳、可愛いところあるじゃない。

「トウコがシロウからその質問された時、彼、もう一つ問いただしたと思うんだけど? 当てて見せましょうか?」

 単純なシロウの事だ、きっとこうも尋ねたに違いない。
 人生の目標じゃない、もう一つの生きる意味、唯のシロウが望んだもう一つの未来。
 どうやら、正義の味方が世界をまたに駆ける日は、少しだけ遠のくかもしれないが、それも良いかな。
 わたしはトウコから離れる歩幅を緩めて、給水室の扉を開ける。
 そこにあるのは肌に濡れる僅かな冷たさに絡まる虚しさと、その部屋を満たす赤い夕日。ソレは、喩えようも無く映える色、お兄ちゃんの“あか”だった。








「―――――――――“先生。時計塔って、どんなところですか”、でしょ?」








 そして、誰かが消え入りそうな笑みを漏らす。
 果たしてソレはトウコのモノか、それとも――――――――――。



[1027] 幕間 伽藍の日々に幸福を Ⅳ
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 03:17
7. / snow white.

「実に単純な疑問なんだがね、衛宮ってどうなんだ? もてるのか?」

 わたしとコクトーは目を合わせる。
 それを解いたわたしは、シキがお昼のお弁当として用意してくれた鰹節のお握りを味わいながら、ぎぎぎ、と腰掛けたソファーで油が切れた車輪みたいに身体を捻り、ぴんと小指を立てる声の主を探した。
 開いた窓から差し込む、冬にしては温かい光と木枯らし。ソレを背にデスクで影を作る女性は、外見だけならやり手の女性実業家みたい。
 紫苑のカーディガンを羽織る彼女に、今日も今日とて真っ黒のセーターとチノパンを組み合わせた可哀相な平社員が嫌々口を開く。

「…………あの、所長。えっと、すいません、かな? 質問の意図が僕の全存在を賭けたところで分かりそうにありません」

 こめかみを押さえたコクトーはわたしの向かいで唸る。纏った雰囲気は拒絶。
 それはそうよね、何人たりとも少し早めのお昼の幸せを邪魔することなどあってはならない。
 折角快晴の冬空、何時もの冬景色より幾分も温かい今日、窓を開け放し気持ちよくお昼ごはんを満喫していたのに。

「なんだ、しょうの無い奴だな。いいか、衛宮だよ、衛宮。実際どうなんだ? アイツは。果たして男としてのアイツの評価が一体どんな程度のモノか、興味が湧かないかね」

 シキのお握りに難癖付けながら三個もぺろりと平らげ、今は社長宜しく珈琲をすする彼女。

「いやね、衛宮は色々と女性関係のネタが尽きんだろう? 彼女の件もあるが、正直、師匠としては些か心配なのだよ」 

 トウコが思春期を迎えた息子を持つ母親みたいな事をのたまっている。

「今後、衛宮自身のためにも、アイツの女性関係、明らかにするのも必要な事だと思わないか?」

 なんか真面目でソレっぽい発言だけど、眼が笑っているのは何故かしら?

「…………コクトー、黄色い救急車って何番で呼べるの?」

 大変よお兄ちゃん、トウコが壊れた。早く帰って来て上げて。
 今日の夜には帰宅する彼に、届く筈の無い言葉を贈りながら、哀れ師匠を何とか助けようと、そう口にした。

「駄目だよイリヤちゃん。ソレ、所詮は都市伝説だからね」

 だけど、わたしの言葉にお握りを齧りながら心底疲れ果てて答えたコクトー。折角手に入れた日本の知識が嘘っぱちだったなんて少しショックだ。
 それじゃあどうしましょう、とわたしはコクトーに目を泳がせる。それに頷いたコクトーは「そうだねぇ」と再び深く唸った。

「急性のアルツハイマーかも知れないし、……脳外科かな? 救急車、救急車っと」

 コクトーは立ち上がって、分厚くて黄色い電話帳を探す。

「えっと、ここいらで一番近い病院はっと…………」

「駄目よコクトー、認識阻害の結界がここいら一体を覆っているんだから、救急車はここに来られないわ。それに仮にも封印指定の隠れ家、第三者に迂闊に住所なんて教えちゃ不味いわよ」

「そうなのかい? なら予約だけいれて、所長を連れて行こうか? おっと、見つけた」

 コクトーは分厚いソレを彼のデスクにデンと捨て置き、深緑のブルゾンに袖を通した。笑顔のままこめかみをひくつかせ、彼はデスクの黒い受話器に手をかける。
 どうやら、病院に予約を入れたらそのままトウコを引率していく気満々の様だ。

「…………なるほど。痴呆とかけた良いボケだが、些か長すぎだよ。黒桐」

 ソレをさえぎったあきれ返る声。本当、どの口で言っているのかしら?
 コクトーは持ち上げた子機をガシャンと親機に叩きつける。

「あのですね、下らない事を言っている位なら仕事をしてください。本当に、このままじゃウチは倒産ですよ? 分かってんですか?」

 そのまま早足に、役立たずの社長が座るデスクまで向かうと、何時ぞやの契約書と真っ白の紙をトウコの眼の前に押し出した。

「全く、辛辣だね君は――――――――――分かった、ならば等価交換だ」

 一瞬の躊躇い。
 ソレを飲み込んだ彼女が不意にそんな事を溢した。

「等価交換って、どういう事ですか?」

 一般人には聞きなれない私たちのルールに、黒桐が毒気を抜かれてしまう。この男は本当に甘いんだから。
 勝負は既についちゃったみたいだし、わたしは大きな口で残りのお握りを飲み込んだ。はい、準備開始。

「何、簡単だよ。君たちが衛宮の女性関係やら交流やらを調べてくれたら私も仕事をしようじゃないか。設計図、仕上げないと不味いんだろう? ならば道理だ、君は君の能力を存分に生かして私が知りたい情報を用意する、私は私の能力を生かして仕事をする。どうだね、いい考えだと思わないか?」

 ハンガーラックに向かいながら聞き耳を立てる………またこいつは無茶苦茶言ってるし。そもそも、貴方が仕事をするのは当然の事でしょう。
 コレじゃコクトーの大損だ、等価交換なんて始めから成立していない。
 だけどきっと、コクトーの事だ。

「――――――――――――それじゃあ行ってきます。車借りますよ」

 そんな事気付かずに、トウコからキーを受け取って現金に重い扉を開けてオフィスを飛び出して行くのだろう。真実その通りだ、彼はすたこらっさっさとオフィスから消えてしまった。

「………はあ。それじゃ、わたしも面白そうだしついて行くけど、構わないでしょう?」

 正直、わたしも興味あるしね。トウコが吐露したそのヘソ曲がりなやきもちに。
 わたしはコクトーが開けっ広げた思い鉄製の扉の横、作りかけのビルゆえに飛び出した赤錆の鉄骨に引っ掛けられたハンガーから上着をとる。
 シロウから借りているデニムボレロを羽織れば、暖房の温かさが引き立った。

「ああ勿論だ。―――――色々と楽しんで来いよ、イリヤ。きっと、面白い」

 聞きながら、黒のカットソーの上、長すぎる青いボレロを腕巻くし。
 ダメージボトムの右ポケットにアパートの鍵があるのを確認して真っ赤なキャップを被った。
 さて、準備は万端。
 一階の車庫にいるコクトーに追いつかなければ。
 トウコに頷くこともせず、私は自分でも不思議なくらい元気に駆け出していた。





■ Interval / 伽藍の日々に幸福を Ⅳ ■





Void. / eX.

(凄い、シキって本当に大学生だったんだ)

(当たり前じゃないか、結構成績も良いんだよ)

 隔てられた木製のドア越しに見える、藍色の着物姿。
 十数名の若者諸君が個性豊かなファッションで、半円状の教室に沈黙を落としている。そんな中でさえ彼女の姿見は艶やかに際立っていた。最前列の長いすに腰掛け、カツカツとボールペンをルーズリーフに走らせる彼女は、だが、妙に嵌っている。

(ねえ、講義は何時終わるのよ? コレじゃ待ちぼうけよ?)

 教室内に入れないもどかしさを漏らす。
 教壇の向かいにあるドアからシキの背中を父親みたいな瞳で眺めるコクトーは、ポケットに入れていた左手を抜き、黒いバックルの腕時計で時刻を確認した。

(う~ん、12時25分か。そろそろ終わると思うよ)

 かつてはこの大学の学生だったというコクトーは、タイムスケジュールを覚えているのか、答えなど期待していなかったわたしに丁寧にも返してくれた。
 彼女を待つ少しの空白で、私はクリーム色の廊下、そこに規則正しく等間隔に設置された引き窓からこの大学の中央広場らしい洒落た庭を眺める。煩雑とした賑わいを見せる庭園は若々しい声がその先にある大学の正門まで続いていた。
 文学部のための校舎、その三階から見えるこの景色は、キャンパスの緑豊かなデザインも相まってか悪くない。日本の首都なんて殺伐とした街の中に、よくもまあこんな悠長な建築物を建てられたものだ。
 わたしは学外のカフェテリアで何を注文しようかしらと、首をかしげてシキを待つ。
 穴場らしいその喫茶はコクトー曰く値段も安く、しかも美味しいなんて矛盾を抱えているらしい。私たちはシキとのインタビューの場を既にそこに決めていたからだ。

(あ、終わったみたいね)

 そうこうしている内に、となりのドアより今時の茶髪君が愉快そうな顔をして教室より出てきた。いずれ出てくるであろうシキを、わたしはキャップを深く被りなおし、コクトーと待つことに。だが。

「………出てこないわね」

 言葉通り、彼女はまだやってこない。
 教室のドアをくぐった数十名の大学生がわたしとコクトーの奇妙な組み合わせに目をぎょっとさせていたのに、彼女は一体どうしたというのか。
 よっ、と今度は開いたドアから顔を覗かせる。
 コクトーは背が大きいので、間抜けなトーテムポールみたいにわたしと彼の顔がドアの縁に並んでいることだろう。
 それは兎も角視線の先、シキは確かにそこにいた。
 だが、その隣。シキが帰り支度をする横で、ちゃらちゃらした長髪の男二人、長いのと丸いのが何か囁いている。アレ、口説いている心算なのかしら? 男たちは妙に馴れ馴れしい態度でシキに怒涛の如く恥ずかしい台詞を連発していた。
 シキに粉をかける男、されど、蛮勇と思うこと無かれ。昔はどうだったかは知らないが、今のシキはとんがってはいるものの、それは個性って程度で極端に人を拒絶したりと言うことは少ないのだ。コクトーみたいなフルールのケーキの一万倍位甘ったるい男といつも一緒にいればソレも避けられない事だ。
 少しとっつきにくいものの、アレだけの容姿だ、ならば日に数回くらいはこんなこともあるだろう。だってのに。

「っち。――――――なんでシキはパンチの一つでもかましてやらないのよ」

 何で貴方はおとなしく無視を決め込んでいるのかっ。ほら、だから男たちの方が調子に乗ってドンドン馴れ馴れしくなっている。そいつの下品な文句がここまで聞こえてきそうだ。
 シキはこの手の手合いになれていないのか無貌を貫いてはいるものの僅かに顔が赤い。
 あああああああもうっ、そんな顔しちゃだめっ、男どもが勘違いして余計に図に乗るんだから。
 以前聞いた話なら、シキって高校の時は人間全てがよってこなかったらしいし、目の前の軟派男たちに対する対応の仕方が分からないのも頷ける。
 変なところで、普通に女の子なんだからっ。

「こうなったらわたしが、―――――――――」

 と、勇んで教室に踏み込もうとした其の時。
 コクトーが頓珍漢な笑顔で教室に入っていった。

「お~い、式。友達かい?」

 謎の人影登場に、場の空気が表現出来ない。
 何、この不思議な空間は一体どこ?

「み、幹也!? お前、なんでここに!?」

 あ、シキが驚いている。
 所詮わたしには他人事なので、彼女の慌てふためく様をじっくり堪能する事を決め込んでいた。
 夜の鍛錬の仕返しだ。我ながら子供よね、わたしも。
 ゆったりとしたわたしの精神状態とは反対に、覗き込んだ教室の中は地獄の釜みたい。
 ワタワタと着物を振り回すシキと、怪訝な顔をコクトーに向ける軟派君(のっぽとまるいの)、そしてニコニコその軟派君に手を差し出すコクトーことシキの恋人。

「幹也、コレは違うぞっ!? オレは別に、こんな奴等とっ、―――――」

 確かに、恋人にこういったシーンを見られるのは余りよろしくないし、彼女のリアクションも乙女の視点から充分に理解できるのではあるが……。
 いかんせん相手がコクトーである。

「やあ、式って気難しい子だけどさ、出来るなら仲良くしてやってくれよ」

 う~ん、面白いわね。
 シキとコクトーのずれ具合がなんともいえないわ。
 軟派男君(二人)はうやむやに頷き、コクトーの手を取る、勝負は既についた。
 この状況で軟派を敢行できたのならば、彼等は相当な大物である。どう視たってシキとコクトーの間にある空気は、ねぇ? 朴念仁のシロウだって気付くわよ。

「さて。ねえ式、ご飯はもう食べた? 奢るからさ、アーネンエルベに寄らないか?」

 適当な挨拶を終えたコクトーは、振り向いてシキに告げる。
 普段通りの微笑でそう言った彼に、シキは落とした肩を持ち上げて。

「………ああ」

 そう、どこか安堵したように溢した。
 彼女は赤いツイードジャケットで軟派君をあしらう様にバサッとソレを羽織る。

「―――――――そお言う訳だ、悪いな」

 彼女はコクトーに手を引かれて、私に苦笑にも似た微笑を送る。
 ドアの横。
 隠れるようにソレを受け取ったわたしは、少しだけ悔しかった。






「――――――それで、お前らは何しに来たんだ?」

 最もな疑問を口にしたシキ。
 サンドイッチを食べ終え、注文したエスプレッソを一口含んだ彼女は苦味のためか、はたまた私たちに対してなのか、顔をしかめる。彼女は白々とした薄い光が漂う瀟洒な店内を懐かしむ様に眺め、そしてカップを置いた。
 “遺産”、そんな意味を秘めたこの場所は、彼女にとっても思い出深い場所なのかもしれない。わたしはそんな事を、彼女の深く、そしてどこか悲しげにまどろんだ瞳から感じ取った。

「別に大した用じゃないんだけどね、一つだけ質問いいかしら?」

 彼女の向かい、並んで窓際に座るシキとコクトーにお茶を濁す返答。午後一時、光が最も溢れるこの時間帯でさえ、この室内はどこか仄暗い。
 天窓から降る木漏れ日のような暖かさだけが、テーブルを照らす確かな照明。
 神秘的であり、尊く、どこか不可思議、そんな空気と匂いがこの喫茶の魅力なのだろう。

「大した用じゃないのに学校まで来たのか? なん、―――――ああ、トウコか」

 理解が明るくて助かるわ。
 わたしは注文したダージリンの香を楽しみながら、さて、どう話を切り出そうか考える。
 だけど、所詮繕ったところで意味は無いのだと思い至り、息をつくように、だけどはっきりと尋ねた。シロウの妹兼姉としては、やっぱり気になるものね。

「ねえシキ。貴方って、シロウのことどう思ってる? その……一人の男性として」

 正直、物凄くひくか、赤面、もしくは爆笑の三つのリアクションの内どれかだろうと思っていたのだが、わたしの予想は大きく外れることになる。

「――――――――ああ、なるほどね。だから、アーネンエルベか……」

 優しく、だけどどこか寂しそうに、シキは微笑みでよく分からない言葉を口にした。
 シキの言に動じず、そして泰然と微笑を絶やさず、水出し珈琲をブラックのまま楽しむコクトーはその真意を汲み取っているみたいだけど。

「ちょっと、なんなのよ。よく分からないアイコンタクトは止めてよね。それでシキ、あんたってシロウのことどう思っているわけ?」

 私は口を尖らせ、二人の絡んだ視線を解いた。

「どうって言われてもな………好きか嫌いかで言えば、そうだな、嫌いじゃない、かな?」

 シキははにかむ様に答える。
 嫌いじゃない、シキにしてみれば最上級の褒め言葉だ。素直じゃないこいつが少なからずの好意を抱いているんだから。ぬう、はっきり言って予想外だ。シキの事だしどっちでもない、みたいな答えを期待していたのに。

「むむむ、やるわねシロウ。いつの間にシキを手篭めにしちゃったのよ」

 わたしは目の前の二人に聞こえないくらい小さく声を絞る。
 シキのシロウに対する評価は明らかになった、ならば次の質問は。

「それじゃ二つ目。シキ、貴方はどうしてシロウが“嫌いじゃない”のかしら?」

 理由だ。
 彼女がシロウに対して抱く感情、その原因。
 わたしの質問をずば抜けた直感で予知していたのか、すっと眼を閉じ、彼女は背もたれを軋ませた。ぼんやりと天窓の陽光を受けて、シキの着物が青く、そして明るく染まっている。

「アイツを嫌いになれる人間なんて、それこそ衛宮と同類かもしくは正反対の奴だけだろうさ。そんな奇特で危篤な人間、滅多にいないだろ? そもそもそんな奴、人間かどうかも怪しい。ソレはさ、イリヤだって分かるだろう?」

 シキの冗談に、コクトーが苦笑。
 わたしはソレを気にせずに、シキの言葉を突っぱねた。

「ええ、でも私が聞きたいのはそんなコクトーみたいな一般論じゃなくて、貴方がシロウを気にかける理由よ。恋する乙女の眼力、舐めるんじゃないわよ。貴方、それ以上の何かをシロウに重ねているもの」

 へえっ、と喜色の瞳を丸くする彼女。
 それからシキは、コクトーに気付かれないように彼の死角から一度視線を送った。意味するところは分からないが、コクトーは彼女の話が終わるまで口を挟む気はなさそうだ。   彼は腕組をしたまま、残り僅かの珈琲に俯き、視線を上げようとしない。

「ま、そうだな。衛宮はさ、似てるんだよ。昔、嫌いになれなかった馬鹿な男にさ」

 はっと、シキの抑揚のない声に振り向く。
 そして、私は彼女の言葉を紅茶と一緒に味わった――――――――――って昔の男!? ちょっとちょっと、何よその色気がありすぎる単語は!? 昔の男と重なるシロウ、現在の恋人コクトー、揺れる和服美人……なんてこと、わたしの知らないところでこんな恋愛劇が展開していたなんて………。 

「あのな、別にお前が想像するような甘ったるいモノは何も無いからな」

 半世紀前のレディースコミックみたいな妄想を、シキの言葉と一緒にぽいっと捨て去る。
 半眼の視線と嗜めるような仕草を向けるシキに、わたしは肩を持ち上げて余裕の笑顔を放ってあげた。
 大体、シキとシロウとコクトーで、どうやったらロマンスが展開できるのよ、コメディーの間違いでしょ。

「分かってるわよ、ソレくらい。冗談じゃない、冗談。それで、貴方はその昔気になった彼とシロウ、どこら辺をダブらせているわけ?」

 銀のティーポットで新たに紅茶を注ぎながらシキに再度、だけど先ほどよりも軽快に窺い立てる。「そうだな」と思案顔のシキ。考えが纏まるまでの僅かな時間で、二口ほど紅色の液体を飲み込む。じんわりと私の舌が紅茶の甘さと、僅かの渋みで満たされた。

「―――――上手くいえないけど、価値を感じないんだ。あいつ等の生き方に……さ」

 紅茶の風味が口から消えた頃、シキの言葉は私まで届かなかった。
 誰かがアーネンエルベのドアを開いたらしい、カランカランと高いベルの音色が僅かに木霊し、木製のテーブルに置いた私のティーカップが液体を波紋状に揺らす。
 言葉を挟もうにも、シキはゆったりと思い出を紡ぐように語りを止めない。

「なんて言うのかな? 唯生きているだけなのに、不器用で下手糞で。そのくせ、一生懸命もがく癖に、――――――――報われない、違うか? 報われることを信じない」

 一度は持ち上げたカップを洒落たソーサーの上に戻す彼女。
 喉の渇きをそのままにしたいのか、彼女は黒色の飲料物を拒んだ。おぼつかなく彷徨ったシキの女性らしい細く綺麗な右手は、いつの間にかテーブルの影に隠れてしまい、わたしがその行方を知ることは無かった。

「だけどそれでも、あいつ等は一生懸命を止めないんだ。ほら、これって無価値だろ? どうせ報われないのに、我慢して、耐えて、踏ん張ってさ。いつか切れちまったその日まで、もしかしたらその後も、そうであることを止めなかったんだ」

 時制の混濁した彼女の話は果たして誰に向けられたのか。
 だが、少なくとも過去形で語られた最後の言葉。わたしはその裏にあるものを読み取れるほど大人ではなかった。

「ねえ、その人は?」

「ああ、そいつ? 死んだよ。何時だったかな、覚えてないけど」

 無邪気な悪意。わたしの疑問にあっけらかんと返されたその言葉。イリヤスフィールはその重さを知らない。
 わたしは表情を作ることが出来ず、ただ無言のまま、紅茶のカップで顔を隠すだけだった。

「ソレでさ、この話しには続きがあるんだ。最後まで聞くだろ?」

「………ええ、当然でしょ」

 カップをはしたなく音を立ててテーブルに戻した。
 ソレが、私に出来た精一杯のごめんなさいだったから。

「確かに、アイツも、それと衛宮も、無価値な奴なのかもしれないけどさ」

 満足げにわたしの強がりを受け取った彼女は、穏やかな顔で瞳を閉じる。コレで二度目だ。

「それでもあいつ等は生きるための“意味”を信じられる、そんな馬鹿だと思うんだ。価値の無い人間ってのはさ、物凄い貴重かもしれないけど、自分にしか無い“意味”を貫ける奴って、それ以上に少ないんじゃないかなって」

 シキは、白魚みたいな細指でそっと薄紅の唇をなぞった。
 ぞっとするくらい艶のある仕草は、扇情的な色香で私を欲情させる。口の中が一気に枯渇し、艶かしいシキの花弁を知らず赤い瞳で追っていた。

「こんなところかな? しかし、柄にも無く詩的だね、今日のオレは。幹也の癖がうつったかな?」

「どうしてだよ? 名前は詩人みたいだけど、中身は僕だからね。芸術家なんて、そんな洒落た職業は向こうからお断りさ」

「知らぬはどこのどいつやらってね。お前、やっぱり自分が見えてないよ、眼鏡を買いなおせ」

 シキとコクトーの遣り取りに、いつの間にか唇を曲げるわたし。だけど、そう感じたのは私だけで本当はほくそ笑んでいるのかもしれない。
 わたしは冷えちゃった紅茶、最後の一口を出来る限り優雅に味わって彼らの無為な喧騒に栞を挟んだ。どうせ、伽藍の堂に戻れば再び始まる退屈な一ページだ、この表現もあながち間違ってはいないと思う。

「はいはい。結局シキはお兄ちゃんがそこそこ気に入っていて、その理由は昔の知り合いに似ているからってことでいいのかしら?」

「ああ後、叩き甲斐があっていいな。相変わらず剣の才能は無いけど、打ち合っていて飽きないし」

「ふむふむ」

 わたしは知りえた情報をすらすらとメモに書き込む、リョウギシキ、要注意っと。

「ありがとうね、シキ。――――――よし、それじゃコクトー、次行くわよ!」

 パタンと手帳をボレロの胸ポケットに滑り込ませて席を立つ。
 沈黙にあったこの喫茶店に私の声がいやに大きく響いた。

「うん、そうだね。余り長居してシキを引き止めるのは不味いし。ねえ、午後の授業は何時から?」

「二時。その後は剣道サークルに顔を出してくるから、今日は幹也のアパートに直接帰る」

 貴方の家はコクトーのアパートでは無いでしょうにっ、なんて無粋な事は言ってはいけない。キャップを深く被りなおしたわたしは鮮やかにそこら辺の事情をスルーして、一人席を立ちコクトーを待つ。

「そっか、サークルかぁ。でも式、この前までは興味なかったんだろ? ソレがどうして入部したのさ? 理由、キチンと聞いていなかったよね」

 ブルゾンを羽織ながら、コクトーはテーブルのレシートを確認する。

「ああそう言えばそうだな。実はこの前さ、お前の親友の、なんて言ったかな………ええっと、ほら院生の」

「学人。ちなみにアレは親友ではないヨ。悪友って奴だからね」

「そう、そいつに無理やり大学の剣道場まで連れて行かれたのがきっかけなんだ。何でもT大、だっけ? 頭の宜しい大学とウチの大学との練習試合だったらしくてさ」

 シキは立ち上がりながら赤いジャンパーを脇に抱える、彼女の表情は何故かとても嬉しそうだ。まるで人食いドラみたい。

「オレが顔を出したときにはウチの剣道部員全員が床に転がってたんだ。結構ガラの悪い連中だったけど腕はそれなりだったし、驚いたよ。聞けばさ、オレと同い年の女の仕業だって言うんだから」

「はあ、それは凄いね。牛若丸みたいだ、それで? 式はその子と?」

「まあね。ウチの大学が下に見られるのも癪だし、軽く捻ってやろうと思って立ち会ったんだ。そしたらさ」

 コクトーはレジで御代を支払い終えて小銭を受け取りながらシキの話を流し聞いている。
 かく言うわたしだって、木の匂いを嗅ぎながら木製の扉の横でぼうっとその取り止めも無い話を聞いていたんだから。
 彼女の次の言葉を聞くまでは。





「――――――――――入っちゃったんだよ、スイッチが」





 ちゃりんちゃりんっ、と。
 止まった時間の中で、コクトーが受け取り損ねた僅かのお釣りが音を立てていた。

「「―――――――――――は?」」

 凍った時間から抜け出してしまったわたしとコクトーは、物凄い速さでシキに首を回す。
 スイッチって………貴方まさか。

「ししししししししし式、もももももももももももしかしてその子を、ここここここここここここころろろろろろおぉ」

 それ以上先を訪ねる勇気がないのか、コクトーは顎をガクガク膝もガクガク、シキの肩をガクガク揺する。
 しかし、ソレは不味いわよ。まだニュースになっていないところを見るともみ消し、大学側が? いやもしかしたらシキの実家が圧力をかけているのかも、相当の名家だって話しだし。

「お、お、お、お、お、お、お落ち着けっ幹也っ!?」

 シキの髪がぐしゃぐしゃに乱れた頃合いに、ようやくコクトーの電源が切れた。
 不憫ね、恋人は殺人鬼。あれ? なんかシュールだ。でも、ちょっと背徳的でロマンス?

「はあ、話は最尾まで聞けよなっ。大体、殺したなんて一言も言ってないだろ」

 乱れた髪の毛と、顔を赤らめて抗議するシキ、なんかエッチな表情だと思うのはわたしだけかしら。

「なんだ、それじゃ殺してないのかい? あ、でも意識不明の重体とか、再起不能とか、そんなんじゃ」

「ソレも大丈夫だってっ。オレとトントンで打ち合えた奴が竹刀での立会いでそう簡単に死んだり怪我するわけ無いだろう?」

 どこまでも心配性のコクトーを安心させるように、言葉を選んだシキはほっと息をついてアーネンエルベのドアを開き、冬の空気に肌を凍らせた。

「それに、スイッチが入ったのはお互い様だよ。オレは魔眼を、向こうは、恐らくこの前会った桜咲と同じ流派、神鳴流の剣閃をボカンボカン使い始めやがってな。途中から剣道の型なんて考えもせずに打ち合っていたし」

 シキの背中に続きながら想像する。
 ぎらぎらの殺気と翠眼を走らせるシキと、お化け退治専門の戦闘流派の使い手。
 平和な大学の中で繰り広げられた、血眼の殺し合い。すげーッス、頼まれても絶対みれないッスよっ。
 シキと正面きって戦ったというゴリラな女性を頭に描いてブルりと背筋を震わせる。
 まさか、シキみたいな美人で凄い剣の使い手なんてこの世に二人といるわけないしね。同時にぽわわーんっと湧いてきた黒髪の日本美人とシキの、美麗な決闘シーンを頭から振り払うように、わたしは尋ねた。

「それじゃ、貴方が剣道サークルの正式な部員になったのって………」

「ああ、もしかしたらまた立ち会えるかもしれないだろ?」

 本当に楽しそうに微笑んだ彼女、多少?普通の大学生とは趣の違うキャンパスライフみたいだけど、アレはアレで楽しんでいるみたいだし、まあよしとしましょう。

「それじゃ、式。とにかく大学まで送るよ、のって」

「ああ」

 そんなこんなで、一人目、エミヤシロウの現在の剣の師、リョウギシキとの対話は終えられた。次のターゲットは誰にしましょうか。
 わたしは、流れる景色を後部座席で眺めながら、シキの溢した言葉の“意味”を繰り返し、心の奥に刻み込んでいた。



[1027] 幕間 伽藍の日々に幸福を Ⅴ
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 03:26
8. / snow white.

 やってきました麻帆良の街。
 晩秋の残り香が未だ僅かに漂うこの街は、寒さの厳しい東京とはまるで異なった匂いがある。
 麻帆良の中央駅前、その駐車場に車を泊め、わたしとコクトーは赤レンガの町並みに繰り出していた。コノカとセツナに案内されたおかげでこの街の地理にも大分明るいし、小粋にアイスクリームなんかを食べ歩きながら、さて、誰のところに尋ねるべきか考える。
 今日は平日。
 以前より物足りない人並みを抜けて、わたしはトフィーの茶色な甘さに頬を緩ませながら当たり前の事を脳裏に浮かべる。
 シキが大学で勉学に励むように、当然女子学生の彼女たちは高校に通っているのである。とりわけシロウみたいに学校に行かず働くって言うのは稀なわけで、三時前後のこの時間帯は、みんな学校の中だろう。
 ならば先ずは、麻帆良学園にいかなくてはいけない、その後は……なるようになるでしょ。
 コノカが見つかれば当然セツナも金魚の……みたいに背中に引っ付いているだろうし。司書の二人組みも図書館に行けば会えるだろう。ついでのカズミは、どうせ騒いでいるろうし直ぐ見つかるに違いない。
 そんな訳で、わたしとコクトーは麻帆良学園に向かう電車の線路沿いに町並みを抜けていく。十分も立たないうちに辿り着いた、チェコの風情が駆け抜ける端正な町並み。
 プラハ城を頂く本場にだって負けない高貴な、そして芳醇な空気が暖かな冬の木枯らしと共に香っている。
 さて、チラホラと女子学生の姿も見えるし、そろそろ下校時刻なのかも知れない。ならば急がなくては、彼女たちが学園内に固まっているうちに、調査を済ませなければならない。ばらけられると、色々面倒だ。
 わたしは、少しだけ駆け足に学園の中央、ひとまず目標に定めたその大木に向かってタッ、と石造りの歩道を蹴る。

「――――――――って、どうしたのよコクトー? 早く行きましょ」

 だが、その後ろ。
 周りの視線を気にするかのようにキョロキョロと落ち着かないコクトーに振り返ったため、仕方がなしに足を止める。

「あのさイリヤちゃん。………やっぱり、行かなきゃ駄目かい?」

「 ? 何よ突然。当たり前でしょ、そんなの」

 わたしは言って、ぴんと来た。
 なるほど、辺りは女子高生、女子高生、女子高生。確かに男性のコクトーは些か空気に馴染めない様だ。だがソレは、当の本人だけ。辺りに華やぐ女子高生のお姉さん方は、彼の事を、そこにいるのが当然の様に通り過ぎていく。
 ちょいちょいっ、とわたしはコクトーを手招き、そして中座の姿勢をとらせた。

「何、イリヤちゃ――――わっぷ!?」

 そして被せた、わたしの真っ赤なキャップ。

「はい、それで大丈夫。さ、行きましょ。先ずはそうね、カズミから探してみましょうか?」

 女学生の視線は、コクトーが思うものでは無い。
 貴方って、自分で考えている以上に魅力的な男性なんだって、分かっているのかしら?まあソレは、シロウにも言えることだけど。
 わたしは彼の寒さに少し凍えた手を取り、無理やり前に進んでいく。
 きっと彼の狼狽心は帽子くらいでは隠せないだろうが、コレはコレで、他の女性を近づけさせないいいバリケードになってくれるだろう。
 木枯らしの街、彼と手を繋いで歩いていく。コクトーに向けられる好奇の瞳は乙女だからこそ分かる、異性に向けられる酸味と甘味を含んだモノだった。
 最も、キャップを深く被りなおす彼は、そんな事、夢にも思っていないようだが……。





■ Interval / 伽藍の日々に幸福を Ⅴ  ■





Phantom presses. / eX.

「おんやあ、珍しいところで会ったねぇ」

 天佑とはこの事かしら?。
 世界樹とかいう冬だってのに青々と茂る大木の前で油を売っているカズミを発見。ワインレッドのブレザーに、なんだか逞しいカメラをぶら下げて、階段に腰掛ける彼女は詰まらなそうな顔から一変、わたしとコクトーに愉快な微笑をくれる。

「そうね、ごきげんようカズミ。いい天気ね」

「ごきげんようイリヤちゃん。生憎の寒空、私に何の御用かしら?」

 パン、と冬でも短いチェックのスカートを叩いた彼女は、二段三段飛ばしで階段を駆け下りる。
 世界樹広場は、レディーならば一度は恋焦がれるある有名なスポットをモデルにしているとしか思えない。“ローマの休日”、そのワンシーンに登場するスペイン階段にそっくりなのだ。節操がないのよね、この街。
 丁度、教会のオベリスクのある位置に鎮座した大木は、寒風にはためいて、私の遠近感を麻痺させていた。遠くにあったカズミの整った顔が、気付けば直ぐそこだ。

「まあ、ちょっとした野暮用なんだけど。今、時間ある?」

 見上げるように、そう尋ねた。

「あるよ。ガッコも終わってさ、退屈してたんだよね。最近は面白不可思議かつ大胆でシリアスそんでもってハートフルな事件とかも起きないし、暇で暇で死にそうだったのよ」

 ぴーぴー口笛を拭きながら近寄った彼女は、その後即座に顔を変え、かんらかんらと豪快に笑ってみせる。

「そう、それじゃ幾つか質問に答えてもらえるかしら? 私の師匠のお達しでね、色々聞いて回っているの」

「お、アンケートかい? 面白そうジャンか。でもさプライベートな秘密情報は答えられないゼ? 秘密は私を美しく見せる最高のアクセサリなのだっ」

「はい、それじゃ最初の質問ね」

「おいぃっ!! なんか言ってくれよ、イリヤちゃんっ!?」

 少し寒いけど、私はコクトーと一緒に偽者のスペイン階段に腰を下ろす。
 無視? してないわよ。聞こえなかっただけ。

「あ、それとサヨ。貴方も出来れば答えてよね、カズミの口伝で構わないから」

 こくんと、見えない誰かが頷いた。
 わたしは育ち盛りの胸ポケットから手帳とペンを取り出す。わたしとコクトーの間、何故か畏まって質問を待つカズミが妙に可笑しかった。

「それではアサクラカズミさん、並びにアイザワサヨさん、質問します。貴方は私のお兄ちゃんことエミヤシロウを、一人の男性としてどう思っていますか?」

 ぺろっ、とペンの先を一度舐めて答えを待つ。だけど、待てども待てども答えなんて返っては来ない。
 大きく欠伸をしたコクトーを合図に、わたしはカズミに頭(かぶり)をふった。

「…………………………………………………………ぶはっ」

 そして、襲来した水滴。考えたくないけど、カズミの噴出した唾液に他ならない。
 だが、それだけに飽き足らずこの女は締りを失った小さな口から甲高い笑い声を冬の澄み渡る空へと吐き出していたのだ。

「ぶはははははははは、くひい、衛宮っちを、くははは、ひ、一人の男性っつ!? 死ぬ、殺されるっつ。イリヤちゃん、ぷはは、わ、私に、くはははなんか、っく、恨みでも、あった、ひ、ぷははは、のかいひひひひひひ、も、もうだめ?」

 引き締まった腹筋がよじれてよじれて大変です。
 カズミは器用に階段を転げまわっている。私はハンカチで顔を拭いながら、口元を引くつかせていた。

「ふう、ひい―――はあ、今年度最高のギャグだったよ。いやあ、お姉さん驚いた。やるねえ、イリヤちゃん。わたしゃあお腹一杯さあね」

 すっきりとした顔で空を仰いだカズミ。
 そりゃ、わたしだってカズミが「私、実は衛宮君の事………」なんて顔を赤らめ、何だってーなシュチュエーションに期待なんかしてないし、そんなカズミを想像したらこっちこそお腹が捩れるっていうかむしろ、そうなったら困るって言うか、それこそコメディーっていうかさっきからなんか支離滅裂だけど、詰まり。

「……………なんか、すっごいむかつくんだけど」

 男性としてのシロウを全否定されたみたいで、かなり機嫌が右肩さがりッス。
 顔を整えてくれたハンカチをぎゅっと憎しみさえ込めて握り締める。品格も無く歯軋りさえ溢してしまったわたしは、はっと我に帰った。
 ありがとうサヨ、ええ大丈夫、こいつが失礼なのはいつもの事だもんね。見えもしない彼女の平身で少し熱を持った頭を冷却する、うん、何時もの上品なわたしだ。

「ふう、――――――ええっと、貴方の反応を見る限り、シロウには男性として魅力がないと、そうとって結構なのかしら?」

 低い声で、わたしは不機嫌なんだとカズミに迫る。
 だけど、わたしの恨みがましい視線の先には、飄々とした彼女の気楽な顔しかなかった。

「まあ、そうだね。主観的に視て、私は衛宮っちに魅力は感じないね」

「主観的? 随分難しい単語を選んだのね。それはまあともかくとして、貴方はシロウの事が好きじゃないんだ?」

 毒気を抜かれたわたしは、思わず彼女に首を掲げる反応を示していた。その疑念に、ぱちくりと目を開いたカズミは前髪を一度つまみ、そして離した。

「いんや、私は衛宮っちのこと、結構好きだよ? 私の知ってる同い年の男の子じゃ一押しだね」

 そして返された言葉は、先ほどとは真逆だ。
 気だるく跳ね返ってきカズミの返答がわたしを少しの困惑に陥れる。

「何よソレ? 貴方、シロウに魅力は感じなんじゃないの?」

 先ほどの大爆笑然りである。

「そうだよ、私は衛宮っちに男性としての魅力を感じない、詰まりさ、恋愛対象にならないんだよ。私にとって衛宮っちが。だけどさ、人間の付き合いってそれだけじゃ無いっしょ?」

 少しだけ真面目な顔を覗かせるカズミは、シリアスしていればはっとするほどの美人なのだ。
 普段は軽快なノリで三枚目を演じてはいるが、わたしは彼女のこちら側の貌がお気に入りだったりする。

「多分私はさ、同年代の男の子にが持っていない純粋で危なっかしい何かを衛宮っちの中に感じているんだろうね。なまじ仲良くなっちまったからソレを余計にシンパシるんだ。だけど、なんてーのかね? 人間性? それが逆に心地いいって思うんよ。友達として、衛宮っちの傍にいるとさ」

 足を伸ばして、少し霜焼けはじめた白桃みたいな太腿をあらわにした彼女は、言い切って空を仰いだ。さっきの大爆笑は、珍しく垣間見せたその紅顔に免じて許すとしよう。

「分かったかな、イリヤちゃん? つまりは単純に、いい友達だってこと。私にとって衛宮っちがさ。―――――あ、それとお仕事上のギブアンドテイクな関係にも満足しておりますよっと。やっぱ正義の味方にはさ、腕利きで美人な情報屋がつき物じゃんか」

 最後の照れ隠しは、少しだけカズミの意地みたいなもの感じた。
 リンにしろトウコにしろ、シロウの周りの女って、どうしてこう素直じゃないのかしらね。
 そんなわたしの想いをしらいでか、彼女は直ぐに締りの悪い何時ものニヘラ顔を被り直してしまった。

「だけどま、客観的な視点で解析すれば、中々のレベルなんじゃないかな? 顔はちょびっと童顔だけど、アレは後五、六年すれば見違えるよ。おまけに家事全般が大得意だからね、そう言う意味で一押しってこと。お買い得商品って奴かな」

 さよも、そう思っているよ。最後に付け加えた彼女はふわっと立ち上がる。
 なれない本音を吐露した気恥ずかしさか、陰りを持ち朱に染まり始めた空の所為かは知らないが、ほのかに熱を帯びたカズミの顔は、少し幼く感じた。

「でさ、アンケートはコレで終わりかい?」

「ええ、そうね。こんなところ、ご苦労様」

 メモ帳に走らせた文字を確認する、―――アサクラカズミ、要注意っと。
 さて、時間も惜しいし、早々に次のターゲットを発見しなくては。

「いやなになに。しかし、何のためのリサーチなんだか。伽藍の堂は衛宮っち等身大フィギアでも造ろうってのかい? そのための女性購買層を調べてるとか?」

「まあね、そんなところかな。出来たらお見せするわ」

「うへえっ、期待しないで待っておりますよ。―――――っと、行くのかい?」

 舌を出し、すっぱそうに顔をくしゃくしゃにしたカズミは、腰に手を当ててはにかんだ。それを眺めながら、普段アパートで交すような気ままな遣り取りの末、わたしとコクトーは立ち上がった。

「ええ、次は、――――そうね、図書館島だっけ。そこによって知り合いに同じ質問をしないとね」

「へえ、まあテキトーに頑張って。そんじゃ私はもう帰るわ。衛宮っちがアパートにいないと、食事は自分で都合しなけりゃいけないしね。ああ、めんどくさっ」

 可愛く改造?を施された学生鞄を担いで、すちゃってな感じで細くて女性らしい指で「あでぃゆー」。カズミが軽快にさよならを言った。

「――――今晩はシロウが帰ってくるし、その必要無いわ。お気楽に待ってなさいな。わたしも、シロウのご飯楽しみだモノ」

 そんな彼女に、ほくそ笑んでわたしは返す。
 去り際、やはり白い歯を見せて笑顔を振り向かせたカズミ。

「そりゃ嬉しいね。オッケー、期待させてもらおうかな」

 女の子らしくないその仕草が、赤い夕日に融けて色香を纏う。
 そんな背中を、わたしは少しだけ羨ましく見送った。








Book markers. / eX.

 ええただ今、わたしとコクトーは湖のど真ん中に浮いた強大な図書館の中にいる。
 恐らく図書館の正門であろう巨大な扉の上に、赤い夕日を背に受け照らすステンドグラス。その妖光としたカラメル色が漂う本の世界はちょっと神秘的だ。
 深い紅色の絨毯と、歴史を感じさせる背の高い本棚の群れ達は僅かに埃っぽく、そして雰囲気豊かな紙の芳香を匂わせていた。
 チラホラ勉強に励む学生の姿も眺望できるが、それは僅かなもの、辺りは沈黙が落ちている。この場所では、人の息遣いすらどこか遠くのモノの様だと、わたしは高い天蓋を最後に見上げて、そう、雑感の締めくくりとした。

「お待たせして、すみません。……折角いらして下さったのに。年末は図書委員会の方が蔵書の整理や雑務で忙しくて」

 受付前のソファーに腰掛けて、待つこと数分。弱弱しい、だけど優しげな声が響いた。貴方の声色って実に図書館みたいな空間にマッチするのね。
 パタパタと軽い足音と一緒に、茶色のベストと同色のロングスカートを揺らして、ノドカとユエがやってきたのだ。
 三年生の彼女たちが何故に受験勉強もせずに委員会の仕事を? それには勿論理由がある。
 麻帆良は一応の協会支部であるし、学内の推薦枠を使って彼女たちは来年、魔術の本場、時計塔に赴くそうだ。以前麻帆良に訪れた時、帰り際のお茶会でシロウに漏らしていたのを盗み聞いていたから、その辺の事情はそれなりに理解している。
 詰まりだ、シロウが時計塔に行くことになったら、当然彼女たちとのエンジョイでトゥギャザーなキャンパスライフが待っているのである。それってやっぱり危険じゃない?

「いいのよ。こっちが突然やってきたわけだし、お仕事ご苦労様。――――それと、あれ? コノカは一緒じゃないんだ?」

 備え付けられたソファーに腰掛ける二人の要注意人物に、わたしは危機感を綺麗に押さえつけ、そう尋ねた。図書館ゆえに、当然ボリュームを押さえて伝えたのだが、果たして聞こえたかしら?

「木乃香ですか? 今日は先に帰りましたのですよ」

「そう、それじゃ仕方ないかな。後で直接出向こうかしらね。……貴方達、彼女の家どこだか知ってる?」

「はい。後で地図をお渡ししますね。それと、…………今日はどんなご用件でいらしたのでしょうか?」

 キチンと伝わっていたらしく、オドオドと、ノドカがスカートを調えながら口を開いた。ポーカーフェイスで感情の読めないユエと違って、貴方は分かり易いわね。前髪で表情を隠す意味がまるで無いんじゃないかしら?
 彼女が顔を隠すのは自分の貌に自信が持てないからみたいなことを聞いたような気がするが、さて、彼女の美貌で駄目だしされるのであれば、この国の女性の平均点って一体どれだけ高いのか。それともなに。リンやサクラにしろ、シロウはこの手の女運に恵まれているのかしら?

「―――――――ちょっと聞きたい事があってね。直ぐ済ますから、時間いただける? ちょっとしたアンケートみたいなものだから」

 くだらない考えを吐き捨てながら、当初の目的に進路をとる。
 例によってメモ帳のページを繰ってペンを用意。問答無用で時間を作ってもらいます。

「丁度仕事も一段落させてきたところですし、構わないのですよ。ね、のどか?」

 苦笑を堪えながら、ユエが最初に相槌をうった。
 ぬう、その悟りきった表情が……、わたしの思考が読まれているのかしら?

「うん、良いよ。それで、イリヤちゃん。どんな質問かな? お姉ちゃんでも答えられる?」

「ええ、簡単だから安心していいわ」

 冬木のお城にだって負けないソファーの柔らかさに感心しつつ、身体を沈ませる。果たしてわたしの問いに、この二人はどんな顔をするのかしらね。
 横でノンビリと腰をすえるコクトーと頷いて、最初の質問を二人に送った。

「えっとね、二人はわたしのお兄ちゃんの事、どう思ってる? 一人の男の子としてシロウを見たとき、魅力を感じる?」

 突きつけられたわたしの問いに、二人は実に対照的な反応を見せてくれた。
 ある程度予想はしていたけど、流石にその通りのリアクションてのは如何なものかしら。

「ふむ、質問の意図が見えませんが中々興味深い切り込みですね。考えが及びませんでした」

「そそそそそそんなの、答えられるわけ――――あたっ」

 あ、ノドカが舌噛んだ。
 眼を細めながら思考に埋没するユエと、取り乱しながら顔を赤くするノドカの激しい温度差を無視しつつ、返事を早足に要求する。
 少し乗り出したわたしの体が、ソファーの上で優雅に“ダヴィデ像”を作る。

「はいはい。それで、どうなのかしら? シロウのこと、好き? それとも嫌い?」

 なるべく穏やかに、だけど鋭い敵意なんかを向けながらにこりと微笑む。
 好きにしろ嫌いにしろ、わたしはどうしたって不機嫌になるんだからこの笑顔をキープし続けてやる。もっと早くに気づくんだったなあ、この質問からどんな答えを受け取るにしろ、わたしへのダメージが大きいんだって。

「―――――ふむ、私はそうですね……割合気に入っていますよ彼のこと」

 口に出して、再度ソレを吟味するように、ユエが先駆ける。

「ふうん、それはどうしてかしら?」

 今回メモ取るのはコクトーの役目、暇そうに欠伸をした彼にメモ帳を押し付けて、わたしはユエのゆったりとした口調にのみ集中していた。
 気に入っている、それは転じて興味を持っていると言う事だ。そこのところ、理由をはっきりさせないと落ち着かない。
 わたしのトゲトゲしい視線と言葉に、年上の余裕か薄く微笑みを忘れず、ユエが一呼吸おいてからゆっくりと答える。

「ふむ、第一に衛宮さんが実に興味深い魔術師であるという事。彼から色々聞き及んでいますが彼の特性、属性、異常なまでに特化した彼の神秘は非常に面白い」

「…………それはつまり、シロウ本人ではなく彼の魔術に魅力を感じると?」

「はい、ですが我々魔術師にしてみればソレが全てだと思うのですよ。魅力的な魔術を行使する衛宮さんっ。それは転じて衛宮さんの魅力と言うことではないですかっ! 確かに色々とヘッポコい彼ではありますが、同じ道を志すものとして、彼の能力は代えがたいものだと思うのですよっ!! どうおもわれますか、イリヤスフィールさんっ!!!」

 いやまあそれはそうなんだが、わたしが聞きたいのはそのような事ではなく。
 コクトーの苦笑を厳しい半眼で黙らせて、ヒートアップしていく彼女をどうにか食い止めようと、一応の軌道修正を試みる。

「あ、あのねユエ。第一にって貴方言ったけど、二つ目の理由もあるのかしら? 出来ればお聞かせ願えると嬉しいんだけど? それと、ここは図書館でしょ? 声を張り上げるのは控えた方がよくてヨ?」

 最後の妙なアクセント。だが、それも無駄では無かった。
 鼻息を荒げて身を乗り出した彼女はどうやら落ち着いてくれたらしく、「おほん」っと恥ずかしげな咳払いと一緒にふかふかのソファーに小さく沈み込んだ。ユエはノドカの苦笑いに俯き加減に抗議の瞳を向けた後、やはりゆっくりと言った。

「二つ目は単純ですよ。彼が同世代の魔術師であること、そして私が神秘と共に生きると決めてからの最初の友達だからです、勿論“男の子”として、ですよ?」

 最後の恥ずかしげに付け足した一言に怪しいものを感じえないが、まあまだまだ安全圏だろう。忙しなくペンを走らせるコクトーは、どこか嬉しそうにわたしの顔を見ている。
 そうして、笑顔のまま私から片方だけの瞳を外したコクトーは、ユエに向き直り言葉を繋げた。

「ねえ夕映ちゃん、それは詰まりさ、士郎君が初めての男友達って事だよね? 同じ趣味や興味を持っている初めての異性ってとこかな?」

「はい、ですが“同い年”の言葉が抜けているのですよ」

「………そっか、それは嬉しいよね。やっぱりさ、友達って大切だもの」

 コクトーの言葉に、大きく頷いたユエ。
 その光景は私にも微笑ましく映っていた。
 図書室のロビーに落ちた沈黙は、夕焼けの色に染まりだし、薄暗いはずのこの場所に僅かばかりの朱を灯している。穏やかな茶色の室内は焼けるような赤に様変わりしたというのに、何故か、先ほどよりも静謐が本の匂いと共に深くなる。燃えるイメージがその色には無い、ただ、書庫と言う閉じた暗がりを明るい“あか”で暖めるだけだ。

「それじゃあ、のどかちゃんも同じなのかな? 士郎君は、やっぱりいい友達になれそうかい? 確か、男の人が苦手なんだよね?」

 そして、その赤よりなお温かい黒い人影はそう尋ねる。
 やはり、微笑。
 その微笑に前髪から僅かに除かせたノドカの大きな瞳も、そして緩やかに穏やかに。

「う~ん、確かに私、男の人が苦手ですけど、でも………」

 優しい微笑が覗かせる。

「衛宮さんは優しい人ですから、きっとお友達になれるとおもいます。まだまだ、ぎこちないかもしれないけど、それでも、ネギ先生にそっくりなあの人を、私、嫌いになれそうもありませんから」

 そうしてはっきりと、カッコいいなんて言葉がピッタリな位、彼女はそう言い切った。

「そうかい、それはよかった。やっぱり若いうちはさ、友達を一杯作らないと。それは、何にも勝る財産だからね…………って、爺くさいなぁ、僕」

 乾いた笑顔で、自嘲気味に締めくくったコクトーは美少女二人の清福の瞳を満足げに受け取ってから、わたしにメモ帳を私に手渡す。コレで、彼女たちにすべき問答は終えられた。
 深く湿気た紙の匂いを吸い込んだ私は、淡紫色の長いすに名残惜しさを覚えつつ、重……軽いお尻を上げた。

「さ、爺むさい結論も出たことだし、次に行くわよコクトー。日が落ちる前に、コノカとセツナを見つけましょう」

「酷いなぁイリヤちゃん。少しはフォローを入れてくれよ」

 毒づくわたしの言葉に、苦笑を禁じえない様子で彼も立ち上がる。二人の幼いキャッチボールに小さな忍び笑いをくれる二人の観客は、くすくすと私たちを見上げていた。

「あ、そうだ。ねえ、ユエ、ノドカ。貴方たち、冬休みが明けた後、何か予定が在るかしら? 三年生の三学期って、授業が殆どないんでしょ?」

 そうだ、最後にこの話もしておかなくては。
 そう思い立ちなんと無しに二人に尋ねた。

「私たちは魔術のお勉強です、そうだよね、ゆえゆえ?」

「はい、ロンドン留学の手続きやら色々ありますが、予定としてはそんなものです」

「ふうん、―――――詰まり暇なんだ。青春してないわね、全く」

 包み隠さないわたしの言葉に、やはり苦笑。
 二人の魔術師が顔を見合わせて、真実、恥ずかしげに俯き照れ笑いだ。
 こんなんで魔術師だってんだから、世の中、本当に不思議なものだ。神秘なんてものがこの世に存在していても、なんら疑問に思えないわよね。

「ま、いいわ。――――――それじゃ、ごきげんよう本の魔術師。素敵な会合だったわ」

 わたしはコクトーの背中に続きながら、そうさよならを溢す。
 朱色はもう直ぐ黒に変る。
 温かい景色は段々と茶色の沈黙を取り戻し、辺りは伝統深い麻帆良の書庫がふつふつと本の香を充満させていた。

「はい、またの御来場お持ちしています」

「今度は、お勧めの本の一つ位は紹介させて頂くのですよ」

 二人の二重奏が、わたしを見送る。
 本の世界と外界を隔てる扉を開く。本の匂いと燃え落ちた夕日の色は見事に溶け合い、わたしの五感を刺激していた。
 友達、わたしはその言葉の意味がよく分からない。
 だけど、それはきっと、わたしが望めば直ぐ手に入り、そして望むことをせずとも、直ぐ傍らに在る確かなモノ。

 曖昧ながら、そう、私は思うのだ。



[1027] 第二十三話 伽藍の日々に幸福を 了
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 03:37
Feathers. / eX. 

「衛宮君? 好きやで、そんなん当たり前やんか」

 少しはオブラートに包んで答えなさいよ、貴方は。
 わたしとコクトーの向かい、目を細めたまま簡単に答えたコノカはセツナの隣、? (はてな)と畏まる。コノカの裏表など全くないその返答に、わたしは唸りながら顔を覆っていた。
 コノカとセツナ、二人の借りている標準以上のアパルトメントのダイニング、そこでは真っ白なテーブルクロスに載せられた最中と緑茶が人数分用意されている。
 二人は帰宅したばかりのようで、ラフな……っと言っても制服のブレーザーを脱ぎ捨て、ブラウス一枚にタイと言うセミフォーマルな格好でわたしたちを迎えてくれたのだ。
 既に陽は焼け落ち、東向きの大きな窓は薄い暗闇がゆるりと深まっていく。だが、この部屋に燦々と照る白熱灯はソレを感じさせないでいた。少しごわつく暖められた空気を吸い込みながら、わたしはふかふかのスリッパを机の下でぶらつかせている。フローリングの床は暖房が幅を利かせているとはいえ、些か冷えるし、セツナが気を使って用意してくれたものだ。
 それが、不意に片方ずり落ちる。パタンと、どこか間抜けな音がしてわたしの顔を上げさせた。

「それ詰まり、お兄ちゃんのこと魅力的だって思うんだ」

 だが、ソレすら気にせず、わたしは無遠慮にすごんでみせる。
 思い出せ、ここは敵の陣地だ。
 大き目の六畳間にクリーム色の防音壁、それに立てかけられる写真の数々や洋服ダンス、食器棚を飾りつける装飾品達は、わたしのお眼鏡にもかなうお洒落で高級なモノばかりである。
 カーテンの趣味だって悪くないし、お掃除だって行き届いている。白と黒を基調にしたこの部屋のハウジングセンスは悪くない。
 攻撃的な本能とは裏腹に、わたしのレディーな理性がこの部屋の持ち主を中々の淑女なのだと理解してしまっていた。コノカの趣味にしろセツナの趣味にしろ、わたしはこの部屋を嫌いになれそうも無い。部屋は、そこに住まう人間の心象を映し出す鏡。考えたくは無いが、詰まりはそう言うことだ。

「そら、衛宮君かっこええやんか。なあ、せっちゃんもそう思うやろ?」

 男友達を自慢するみたいに、華やいでコノカが賛同を求めている。
 彼女の隣、今日は左に黒髪を纏めていたセツナが湯飲みを音も無くテーブルクロスの上に戻し、つと恥ずかしげに……ぬぅ、頷いた。出来ればシャコウジレイであってほしい。

「はい、そうですね。確かに凛々しくて勇壮な方だとは思いますよ」

 左に結った彼女の黒い髪が揺れる。だけど、ちょっと褒めすぎかな。シャコウジレイが混じっていて、とてもいいわ、セツナ。
 この前会ったときよりも幼く見える彼女は、中学生と言っても通るのでは無いだろうか? 髪は女を計る唯一のモノだ、案外、彼女はこの髪型に慣れ親しんでいるのかもしれない。真直ぐに垂らした長髪よりも様になっていた。

「―――――とはいってもですね、このちゃん。私の親しい男性なんて、ネギ先生とコタローさん位ではないですか? 比べようにも私は、その……評価のしようが在りませんよ」

 そして付け足された、自信の欠落した言葉。
 俯き加減に溢した彼女は、頼りなそうな伏し目を隣のほんわかしたお姫様に送った。

「せやなぁ~。せっちゃんもウチも女子部通いが長いし、今も別学やもんな。でもでも、学園祭なんかで知り合った男の子なんかと比べてみても、いい線いってるのは間違いないと思わん? 何より可愛いしな。おっ、可愛カッコいいって、なんか新しいやん?」

 きゃぴきゃぴした声が、どこか遠くの国のようだ。
 わたしじゃないわよ、コクトーが隣でそんな顔しているだけ。勿論私はコノカの言っている事がミクロン単位だけど理解できるので、口を挟む。

「そうね、よく分かってるじゃないコノカ、シロウの魅力が。そうね、可愛さとかっこよさ、それが彼の素敵さよ」

「お? イリヤちゃん、分かってくれるん? この前の吸血鬼事件の時に感じたんよ、普段のヘッポコ具合からシリアス男の子モードへの華麗な変身。アレが男の色気って奴やわあ。なあ~せっちゃ~ん」

「………はあ、よく分かりませんが。私も一応頷いておけば宜しいのでしょうか?」

 もはや何も言うまいと、黙々とお茶を口に運び続けるセツナ。コクトーに救援を求めたものの直ぐにソレを諦め、女性陣唯一人の被害者が有耶無耶に頬を掻いている。
 そういえば、コノカとセツナは何時ぞやの宝具吸血鬼事件を通してシロウと仲良くなったらしい。シロウが恥ずかしげに漏らしていたが、非常識にもデートを楽しんだとか。吸血鬼退治にいって女の子とデートするって、どんな仕事だったのかしら。離れ業もここまで来れば大したものよね。とはいえ、当のシロウが聖杯戦争なんて殺し合いの真っ最中にアイツとデートを敢行しちゃう愉快さんな訳で、彼にしてみれば然したる問題でも無いのかも知れない。

「それで、他に思うところは無いかしら? シロウのこんなところが“キュン”とさせるとか、素敵だって思うとか?」

 わたしはコノカとの投合した気持ちをそのままに、件の女たらしについてもっと深く聞いてみることに。不思議だわ、コノカと話しているのは中々楽しい。冬木での遣り取りを髣髴させられる。気付いた時は時既に遅し。ガラにも無く、愉快な単語を掘り出している。
 コクトーとセツナは既に蚊帳の外。まあでも、二人はノンビリと顔を合わせて日本茶の渋みを堪能しているようだし邪魔するのも悪いだろう。

「そやな~、やっぱアレかな。気付いたのはウチやないんやけど、衛宮君ってさ、一生懸命やん? それが、一番の魅力かなって」

 会話のテンポを緩めず、コノカが黒塗りの茶碗を持ち上げた。
 艶のある漆の声、私はシキとの問答でも耳に残ったその言葉を熱い緑茶と一緒に腑に落とし、そして聞き返す。

「一生懸命ねえ………。分かるけど、どうしてソレが魅力になるのかしら? 貴方もやっぱり、誰かを重ねているの?」

「――――――貴方、……も? どういうこったん」

「ああ、気にしないで。それで、よかったら聞かせてもらえるかしら? 貴方がめろめろなシロウに似ているその男性の事」

 少し驚いたコノカに、冗談めいた発言。受け取ったのは二人だ。
 さして気にする様子の無いコノカは、思い出と言うアルバムを整理するためか、いったん席をはずし、台所から新しいお茶菓子をテーブルの中央に備え、再び腰を下ろす。
 彼女の顔が先ほどよりわたしに近い錯覚がある。事実、腰掛けなおした彼女は、綺麗に細った顎を結んだ手の甲に乗せ机に乗り出していた。

「せやな、たまにはこんな昔話もいいかもな」

 一瞬だけセツナの優しい眼差しを確かめ、そして、少しだけそっけない態度で肘をつくわたしにとつとつと、コノカは一人の少年の話をしてくれたのだ。

 今のわたしとそう違わなかった男の子の話。
 魔術学校を卒業したばかりの十歳の新米教師、そんな非常識な話。
 コメディーみたいな出会いや、ミュージカル以上の日常。
 神秘に身を置く少年と交わされた、ジュブナイル小説にも似た冒険の数々。
 そして訪れる悲しい別れと、円満な結末。

 どこか遠くにある誰かの話。

 わたしはその昔語りを、気付けば夢中になって傾聴していた。

 だって、本当にそっくりなのだ。
 性格とか、容姿とか、そんな上辺のモノではない。
 もっと根本的な何か。
 在り来りで使い古された言い回しかもしれないけれど、その在り方が、その魂の色が、どうしても二人を重ねてしまうのだ。

 素敵な空想を追いかける、お馬鹿で一生懸命で、だけど素敵で優しいその在り方。
 シロウ以外にそんな空論家が居るなんて、思ってもみなかった。
 わたしは誰にも聞かれないよう、呆れたようなため息。

「―――――――――――まいったなあ。わたしは、イデオローグってあんまり好きじゃないはずなんだけど」

 だけど。そう、だけど。
 必死になって追いかける二人の背中を笑うことなんて、わたしにはどうやら出来そうも無い。ううん、きっと誰にも出来ない。フランスの独裁者だって、この二人を笑うことなど出来るはずがないんだ。
 わたしは、ここにはいないお兄ちゃんにも届くように大きくもう一度だけため息をつく。
 けれど、こぼれ出たわたしの中身には、いやな匂いが無い。
 よかったわね、シロウ。貴方みたいな人間て、どうやら一人じゃなかったみたい。

「――――――さて、どうでしたでしょうか。ネギ先生のお話は?」

 吐き出した何かが掻き消えるのを待っていてくれたのか、コノカの相方が、そう締めくくった。
 わたしが相槌をうつ暇も無く、隣のコクトーがいつも通り、そうして優しい想いを漏らす。

「うん。面白かったよ。あ、でも面白いってのは、良くないね。なんか馬鹿にしてるみたいだ。そうだな、―――――――楽しかった、の方がしっくりくるのかな? 君たちが過ごした時間はさ、きっとそうだったんだろ?」

 抑揚なんて、どこにも無い。平たい、特別なにも無い彼の一般論。
 非常識で非日常的な彼女たちの思い出に、彼はなんて当然様にそんな事を嘯けるのか。
 だけど、今回ばかりはわたしも彼に共感していた。
 だって、彼女たちの話はとても面白くて、そしてやっぱり楽しそうだったから。
 今、わたしが感じるシロウと一緒に過ごしていく時間が“幸せ”だと思えるように、やっぱり彼女たちの思い出もきっと素敵で幸福に違いない。

「はい、とても楽しかった。――――――あぁ無論、衛宮や貴方がたとお喋りする時間も同様にですよ? 貴方たちも大変楽しい」

 どこかで見たことのある微笑を、セツナはわたし達に向けた。
 遠い瞳は、過去では無い今を見つめている。
 そう思ったのも束の間、彼女はずらした視界の向こう、チラホラと地上に星が散りばめられてきた麻帆良の夜景に表情をずらした。

「うん、納得かな。貴方たちの話を聞いていたら、シロウを気にかけちゃう理由、分かっちゃったモノ」

 つられて、わたしは窓越しに薄暗い街郭を見下ろす。明かりの未だ灯らない路地裏はセツナの眺める綺麗な夜色には無い愁いを帯びているようにも感じられた。
 同じ場所から眺める風景は、どうしてこんなにも違うのかしら。瞬きのようにその数を増やす人並みに綺麗なネオンの光害と、暗い路地裏でしか見えない小さく瞬く天上の星々。わたし達は果たして、どちらを美しいと感じるのだろうか。

「―――――――――まあいいわ。結局、貴方たちもお兄ちゃんを大切にしてくれているみたいだし、それが分かっただけでも有意義なお茶会だった」

 くだらない。
 そう口にも出さず、代わりに浮かんだ在りのままを二人に送る。

「そうですか、ならば良かった」

 セツナは温くなったお茶碗を両手で囲みながら、椅子を引き立ち上がったわたしを見上げる。
 「行くわよ」と、コクトーに言うまでも無く、彼は既にブルゾンを羽織りなおし、わたしにジャケットすら手渡してくれた。最後に、残った最中をはむっと口に放り込んでソレを着る。

「――――――それにしても、会ってみたいものね。貴方たちみたいな女性を、こんなにも惹きつけている、例の男の子に。今、彼はいくつなのかしら?」

 不躾な質問……なのかしら? 
 玄関の前、わたし達を下まで見送るといって聞かない二人を手で制しなが、そう聞いてみる。コクトーは地下の車を拾ってくるといって先ほど出ていったし、彼が車と一緒に戻ってくる僅かの時間を、たわいも無いお喋りに費やすことを決め、わたしは最上階の廊下で白い髪を冷たい風に晒す。

「たしか十五やったかな? 今ではきっと、結構な男前になっとるはずやで。会う事があったら、イリヤちゃんも気い付けや」

 ブラウス一枚で待つのは厳しかろうと思うのだが、コノカは身体を抱きしめるようにしながら、僅かに霜焼けはじめた頬を微笑に繕う。

「冗談。だってシロウがいるもの。分かるでしょう? わたしをときめかせるには、彼以上でないと。――――そんな男性、いると思う?」

 答えなど分かっていたと、二人がほくそ笑む。
 折よく地上から響いたクラクションが少しだけむっと口を曲げたわたしに、穏やかな表情を返してくれた。どうやら、コクトーがエンジンを温めわたしを待っている。

「それでは妹さん、お帰りの際はお気をつけて。衛宮にもよろしくお伝え下さい」

「ほななあ~。今度はお泊り道具をもってきいや、イリヤちゃん」

 深々と礼を交わすわたしとセツナ、そうしてソレを包み込むように朗らかなコノカの声。
 手を軽く振り、駆け出す。わたしは地上に向かう昇降機を探す。
 否応にも視界を満たす地上に光る人工的な星は先ほどよりも多くちらちらしていた。
 確かに華やかだけど、やっぱりなんか嫌だ。どれほど雅に優雅に満ちかけようとも、それだけが人を魅了するのではないのだと、わたしは思う。

「――――――ちぇ、星が見えないや」

 気付けば既に地上、そこは痛いくらい凍えた空気と正常な闇色がある。
 自動で開閉するガラス張りのドアを開いた。わたしはコクトーの車を探しながら器用にも天上を見上げ、口が滑った。
 山が一杯の教習場にシロウは赴いたって話だけど、彼はどれくらいの星を数えてきたのかしら、そんな関係ない話を、今晩は彼と一緒にしてみよう。

 コクトーの再度鳴らしたクラクションに向かってわたしは道を行く、少しだけ暗がりが深まったその場所に、コクトーは車を控えさせていた。

 車のサイドドアに手をかけ、ふと、―――――もう一度だけ空を見上げたいと思った。

 喧騒が囁きの様にも聞こえるその場所で、わたしは自身の我侭のままに、夜天を仰ぐ。
 地上の輝きに劣り、小さい、そして弱弱しい光しか放たぬ明星。

 だけど、それでも。

 わたしはソレが綺麗だと思う、セツナやコノカと同じように。






. Snow white. / eX.

「どうだったイリヤちゃん、今日は楽しかったかい?」

 危なげなくハンドルを右に、そしてコクトーが尋ねた。
 麻帆良の洒落た町並みは既に見えない。流れるように風景は移り変わり、わたし達は無機質なビル群しか存在を許されない、この小さな島国の首都に帰投してしまっている。
 垂れ流され続けるラジオに耳を傾けながら、わたしは顔つきとは正反対に詰まらなげな声調で答えた。

「ええそうね、楽しかった。考えてみたら、こんな風に他人と気楽にお喋りするのって、冬木を出てから初めてかもしれないのよね、わたし。ディスカッションのコンテンツも興味深かったし、冬木に戻ったらリンやサクラにも聞いてみようかしら」

 助手席、少しゆるいシートベルトを調節しながら、わたしは規則正しく設置されたオレンジ色に放光する街灯を数える。
 ぽつぽつと置かれたその光は、ぼんやりとわたしの視界を染めていた。

「そうだね、それがいい。だけど、その前にちょっとだけ忠告。きっと君の言う彼女達は他人じゃないよ、素直に友達って言ってみたら? きっとそっちの方がしっくりくると思うけど」

 ――――――――――あれ、次の街灯は幾つ目だっけ?
 彼の恥ずかしい戯言に思わず息を詰まらせ、反応するのにタイムラグが出来てしまった。不確かな情感のままに、わたしはコクトーを見上げ、そして僅かに陰った顔を探す。彼の表情は夜の闇に染まっているものの、それでも明るく感じた。

「 ? いいじゃないか、友達。君ぐらいの歳の子はね、本当なら超能力やらなんやらに一生懸命にならないで、一杯友達と遊ぶのがいいんだ。恥ずかしがることじゃないよ」

 相変わらず笑顔で頓珍漢なことをのたまうコクトーにムカッときてしまう。
 言い返したくて嫌味をひねり出そうと頭を捻るも、どうして? わたしは何に対して怒りを覚える必要があるのか? わたしは何に狼狽しているのか? 何も言い返せない。彼のくだらない狂言を、わたしは。

「友達………………」

 視線は知らずと彼から外され、わたしは俯き弱々しく溢す。たった一つの言葉、なのに、語尾が微かに割れているようにも感じた。
 夜の車道に零れる外光が忙しなく消え、照らし、消える。その繰り返しが延々と続く車内には、やはりラジオの雑音だけが沈黙を嫌っている。丁度耳に入ったハスキーな女性歌手のR&Bは、少しばかりクラッシックな、そして優しいメロディーを奏でていた。

 知りもしないその音色を口ずさみながら、わたしは振り返る。

 わたしとって大切な“物”。それが友達? ソレが大切なモノ?
 ソレは今までシロウだけだった、ううん、きっと今でもソレはきっと変っていない。

 変わったとしたら、それはきっとわたしだ。
 
 大切なものなど、一つしか無いと思っていた。
 だってわたしは未来など持っていなかった筈だから。
 いずれ無くなるモノならば、必要ないって思いたかった。

 だけど、今は違う。

 大切なものを、たくさん掬い上げている。
 シロウだけじゃないんだ、わたしだってちゃんと歩いている。
 わたしはここいる、ここにいて、ちゃんと未来を信じている。
 止まったはずの時計は、今もキチンと回っている。
 空っぽだった杯は、今はこうして満たされている。

 今は、ちゃんと。

 ――――――――大切な“ヒト達”と幸せで在りたいと願っている。
 ――――――――その願いを、叶えたい、守りたいと望んでいるんだ。

 願いを叶える、わたしではなく。
 願いを望める、わたしで在りたいと。

 ――――――――そう、信じることができるから。

「――――――――うん、友達……か。そうだね、こっちの方がなんか嬉しい」

 だから、今度ははっきりと言い聞かせるように。
 わたしは灼眼、シロウ色の瞳で、狭まり流れていく夜の街を望む。

「――――――――ソレとね、コクトー」

 媚びるような笑顔はそこには無い。






「―――――――――わたし、もう一つだけ思ったことが在るんだ。聞いてくれる?」






 わたしはポツリと、彼を真似た自然体の表情を綻ばせ、真摯な瞳でコクトーを捉えた。

「ん? なんだい?」

 一度だけ彼の左目が覗かせる。
 そこに残る傷跡は居た堪らない感情を与えるも、わたしはその傷痕に慣れるようにいつも努めていた。だけど結局、彼はそんなわたしに気を使ってか、直ぐに運転に集中してしまった。
 コクトーはコレで中々の紳士だし、そんな彼なりの気の使い方はシキもトウコも、そして勿論わたしも、彼の魅力なのだと知っているのだ。
 わたしは黒いジェントルマンにふさわしい柔らかい表情で溢していた。

「今日ね、わたし達は色々なお話を聞いてきたじゃない?」

「うん」

 と、簡単な相槌が帰ってきた。
 やはりコクトーは此方を見ない。だけど、ラジオをオフにする彼の気世話な仕草が印象的だった。
 沈黙を手に入れた車内は、外気のけたたましい寒風と相まって、暖かく心地よい。

「そこでわたしはね、色んな“好き”って感情に触れたと思うの。不思議よね、わたし誰かを好きになるのって誰かを自分の“物”にしたい欲望なんだってずっと思ってた。わかる? 感情なんて、みんな同じで一つきりの回答しかないんだって、思い込んでいたの」

「うん」

 そして、彼は先ほどと同じ、だけどどこか先ほどよりずっと暖かく返す。
 そっけないなあ、なんて思ってもいない苦笑を浮かべて、座席のシートベルトを弄びながら変わらぬ声色で言う。

「だけどね、それは間違ってた。みんなお兄ちゃんが“好き”な筈なのに、その中身は全部違っていたんだ」

「うん」

 今度は、アクセントに表情が無い。
 ちらっと、しばしの間に彼の左目を隠す伸ばした黒髪に視線をやる。そうしてわたしは少しだけおっかなびっくりに、付け足した。

「―――――――――ねえ、コクトー。それでね、変なこと聞いて良いかな?」

「―――――――――うん、良いよ」

 彼の強い言葉、声の表情は、優しすぎてわたしをどこか不安にさせる。
 だけど、それでもわたしは瞳に光を戻して息を吸い込んだ。

「わたしはシロウのことが好き。だけどね、わたしの好きって一体どんな“好き”なのかしら? それが、分からなくなったんだ」

 強く嘆いたはずの想いは、だけど、彼まで届いたかのも分からない。
 ソレほどまでに小さく、怯えるような声色だった。

「わたしはシロウの事が好き、――――――――なんだよね?」

 けたたましく走る軽快な車輪が、沈黙の中で大きく呻り声のように聞こえる。けれども、破られた静謐の中から、わたしの脆弱な息遣いとは異なる異質なまでの優しい響きが零れだしていた。

「――――――――難しいな、イリヤちゃんの疑問に答えるのは」

 コクトー色の動く密室。ソコに反響した彼の声が嫌に耳に残った。
 大人にしか出せない艶のある言葉とは裏腹に、彼は子供みたいに鼻の頭を掻いている。ソレが吹き出すほどに可笑しくて、反応に困ってしまう。

「感情、言い換えれば心、かな? それってさ、僕たちが懸命に生きてきた短い、だけどとんでもなく長い時間の中で手に入れた想いの結果だろ? それを僕は“言葉”なんて曖昧なものだけで伝えられるなんて到底思えない」

「――――つまりソレって、言葉にする事に価値は無いってことかな? こんな事考、えることに意味は無いのかな?」

 知らず、早口に――――――いいえ、焦り急かすような声色を向けていた。彼は固くハンドルを握り締めたまま、大きな交差路の赤色を眺望し車を止める。 
 歓楽街に入ったためか、宴の灯に車内は照らし出され、昼間と変わらないようにも思えた。

「違うよ。言葉にすることは大切だ。それをないがしろにして伝わる想いなんて、嘘っぱちだもの。――――僕が言いたいのはね、感情、心を編みこんでいるモノは決して一つだけの想いじゃないって事。たくさん在るから、言葉一つじゃとてもじゃないけど伝えられないんだ、違うかい?」

 忙しく窓越しに多くの人間たちが道を交差していく。それを眺め、頷く。
 信号はいつの間にか青い輝きを報せていた。
 不夜の喧騒から離れ、再び止まらない沈黙は走り出す。

「君が今話してくれた“好き”って感情一つにしてみても、色んな記憶が折り重なっている筈だろ?」

「うん、それは分かるよ。だけどね、それって一体なんなのよ? わたしの気持ち、シロウが“好き”だってこの感情、その材料って?」

 コクトーの話は抽象的過ぎてよく分からない。
 それでも、思ったことくらいは口に出来たようだ。
 すまなそうに、ハンドルを切るコクトーは申し訳無さそうに苦言を漏らす。

「――――残念だけど、分からないよ、僕にも。ソレは君自身が気付かなくちゃいけないことだと思うから」

 「そう」と俯いたわたしに、だけどコクトーは長閑に微笑みを向ける。

「けど、僕の拙い人生経験からなら、いくつか思うところはあるよ。―――――――――そうだな、例えばソレは単純な異性愛かも知れない、例えばソレは複雑な独占欲かもしれない、……そしてもしかしたら、狂おしい程の憎しみかもしれないね」

 だけど、少しだけ辛そうに。
 呟いた終わり。彼の琴線に触れる硬い言葉が、沈黙の只中に沸きあがった。

「憎しみ? そんなネガティブな想いも“好き”って感情を構成しているの? それって、ちょっと信じられないわ」

 嘘。それでも、少しだけ分かる。
 かつてのわたしが、シロウを求めたように。
 憎しみや憎悪。きっと本人が気付かぬだけで、それは愛にも似た強い渇望だ。

 ――――――そうだ、思い出した。はじめはただ■かったんだ。

 ソレがはじめに注がれたモノ、ソレがシロウを“好き”な理由。
 だけど、今は違う。違っていて欲しい。
 きっとソレとは違う別の何かがわたしの“好き”を構成している筈なんだ。
 いつの間にか過去の記憶に。
 思い出すことが困難な程に、忘却された■■と言う愛欲。ソレを。

「―――――わたしは違う。少なくともわたしは、そんな醜い想いで彼のことを愛したくない」

 考えたくも無かった思考。ソレを切り捨てるため、言い切った真実。
 コクトーはわたしの威勢に思わず失笑している。

「はは、そうだね。だけど、中にはそんな人もいるのさって話。結局、イリヤちゃんが自分で気がつくことだからさ。僕が君に贈れるのは、コレだけだ」

 見慣れた風景が夜の闇に紛れ始めた。
 黒に塗りつぶされた寂れた工場地帯、静止した暗闇の中で、わたし達の車だけが活動している。

「でも、流石にコレだけじゃ寝覚めが悪いね。そうだな、――――――」

 伽藍の堂まで残り僅かなこの沈黙に、わたしはコクトーからようやく瞳をはずした。
 少しだけ窓を開けさせてもらって、湾岸沿いの潮の匂いを肌に馴染ませる。普段ならば腐乱な海の芳香に顔をしかめる筈なのに、今夜はソレが無い。真っ黒の海から立ち込めるその香が、今だけは隣で悠々とハンドルを滑らす彼の温もりと同種のものだったから。

「―――――それじゃあ最後に、年上からのアドバイスを一つだけ」

 わたしの心、イリヤの材料。
 わたしの思い、イリヤのマテリアル。

 わたしはシロウが好き、だって彼はあぶなっかしいもの。
 わたしはシロウが好き、だって彼はとっても素敵だもの。
 だけど、それよりも大きな何かかがわたしのマテリアル。
 シロウを思える大切な何か、それをわたしは口に出す勇気が無い。

「うん、最後に何かな? コクトー」

 ――――――――イリヤスフィールは彼が、好き。
 今は、それで良い。それだけでわたしは満たされる。

 そして、わたしは眠りに落ちるように目蓋を閉ざす。疲れを知らなかった車は段々とその疾走を緩やかに、帰るべきその場所へ。
 目の前には伽藍、聳える廃墟はやはり穏やかな漆黒に塗り替えられていた。キッと車はそこで止まった。見慣れた歩道と炉辺の路傍に、彼は車を泊めたのだ。
 伽藍の堂の最上階には明かりが灯っている。ぼんやりとオフィスの窓から毀れだす柔らかいオレンジ色を見上げながら、コクトーとわたしは、ただ息吹を繰り返すだけだった。

「君は、イリヤちゃんはお兄ちゃんと一緒に過ごしたい、幸せで在りたいと思えるんだろ? だったらそれで充分だよ、きっと、―――――」

 沈黙を破るコクトーは、キーをポケットに仕舞いこみながら普段の仕草を崩さなかった。
 それほど息苦しく感じなかったのに、冬の星空の下に帰ってくれば車の閉塞感を思い知らされる。うんと伸びをして、散りばめられ、少しだけ数を増やした星に右手を透かせる。
 コクトーから受け取った微笑。ポケットの中にあるホンの少しの勇気を、そして確認した。今度は、大丈夫。きっと彼の言葉を受け止められる。



「―――――きっとその想いは、誰かを“愛している”って気持ちに違いないもの」



 コクトーはわたしの頭に手をおいて、子供をあやすようにクシャクシャと整っていた髪を撫で付ける。

「――――――――――うん、そだね。その想いは疑っちゃいけないよね」

 わたしはシロウが好き。
 男性として、魔術師として、一人の人間として。そして、何より。

「わたしは彼が好き。だって、もしかしたら、わたしが思っていた“憎しみ”以上に大切な」

 ――――――――――――――かけがえの無い、大切な家族だもの。

 そして、わたしは伽藍の階段を駆け登る。
 大好きなあの人を、今夜は真直ぐな笑顔で迎えてあげよう。
 最初の台詞はもう決まっている、誰よりも先に、“お帰りなさい”。
 極上の笑顔で、今夜だけは彼の喜ぶ顔を独り占めしたいと思った。




/ 0.

「お帰り。先にお茶してるぞイリヤ。―――幹也さんも、お勤めご苦労様でした」

「ご苦労だったな、そしてサッサと戸を閉めろ。寒いじゃないか」

 俺は帰郷故の倦怠感をソファーの上で満喫していたのだが、それはあっけなく終わることとなる。蹴り飛ばしたかと勘違いするほど景気良く、オフィスの扉が開けたのだ。
 バーン、と開けっ広げにされたその大口から、俺のジャンパーを羽織ったイリヤと、幹也さんがポカンとした顔が覗かせている。
 そんな二人に当たり障り無く返した心算なのだが、何故かイリヤの顔が一変。さっきまで嬉しそうだったのに、なんでさ?

「…………シロウ、帰ってたんだ」

「あぁ、今さっき………ってどうして睨むのさ? もしかしてお土産は饅頭じゃなくて煎餅とかの方が良かったか?」

 思い当たる理由がソレしかなかったので、先生と一緒にデスクに広げていた饅頭をそそくさと片付け、荷物の詰まった俺のバッグから新たに煎餅を取り出した。
 うむ、醤油の香ばしい香が堪らない。

「…………だから、どうして睨むのさ?」

 だというのに、どうしてそんな冷たい視線をくれてくれるのか?
 饅頭も駄目、煎餅も駄目、―――――それじゃアレか? 役に立たないフラッグとかの方が良かったのか? や、流石にそれはいかん。汗水、冷や汗、あぶら汗流して稼いだお給料を、そんな無駄なモノに使いたく無いぞ。

「……ソレ、普通ならわたしの台詞よね?」

 唐突に、意味不明な事は仰らないで頂きたい。俺は結構センシティブなのだ。気になるじゃないか。

「何の話さ?」

 だから、どうしてそんな可愛らしい膨れっ面に?

「……………まあ良いわ、わたしも少女趣味が過ぎたもの。―――ただ今、シロウ。それで? どうだった、向こうは?」

 なんの事やら、まったく。
 イリヤもそれ以上追求するつもりは無いのか、無言のままジャンパーを適当に折りたたんでソファーの上に投げ捨てる。
 そして、一瞥。最後に一睨みして落ち着いたのか、彼女は笑顔で俺の隣に腰を下ろした。その表情は既に優雅なお姫様、東京に出てきてから猫の被り方に磨きがかかっている。コツでも在るのだろう。

「………そうだな、大変だった。教習の話しじゃないぞ、護符の件な」

 俺はお姫様の臣下宜しく、饅頭と煎餅、そしてルビー色の紅茶を須らく謙譲しながら言った。顔を繕っているもののやはり心のうちは怒っているのだろう、猫の見分け方にもテクが在るのですヨ。

「大変ね、そうでもなかろう。唯の山登りだ」

「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ-――――-まさか奥秩父の山脈一つを登頂する羽目になろうとは思いもよりませんでしたけどねっ」

 しれっと答えた先生に馬鹿笑いでもしなけりゃやっていられない。
 いくら何でも限度があるだろう。なんでよりにもよって日本百名山の一つ甲武信ヶ岳、標高2475mの山中を満喫せねばならぬのか。いやまあそれだけなら良い、いや良くないが、今はあえてそれで納得しよう、精神の平穏の為に。

「大体ですね、なーにが知り合いに委託していた、ですか? アレはどう考えたって仕事の成功報酬じゃないですかっ。天狗伝説だかなんだか知りませんがね、あちこちの洞窟やら渓谷やらを徘徊してようやく“発見”したんですからね、ソレ」

 俺は先生のデスクに置かれた、傷み、やや湿った鷲色の羽根を注視する。天狗の羽だかなんだか知らないが、どうやらソレが矢避けの概念を含んでいるのは間違いなかった。解析を走らせればそれ位は分かる。

「まあ、良いじゃないか。語弊があったのは認めるが、楽しかったろう? 信濃水源の天狗の巣、君の能力を使えば簡単に見つかったのではないかね」

 先生の知り合いの考古学者とか言うとぼけた壮年の男性、名前は瀬……なんと言ったか覚えてはいないが、とにかくその学者さんと一緒に先生曰く“委託”していた矢避けの護符、つまり天狗の棲家に残された羽を拾ってきたのだ。
 考古学者のおじさんは天狗の棲家跡を見つけるために、俺は矢避けの護符を見つけるために、一方は知識を、一方は解析能力を生かしたナビゲーションを駆使しビジネスライクな探検が開始された。

「ソレこそ簡単に言ってくれますね。大変だったんですから、ほんと死ぬかと思いました」

 流石は古くから幻想種が生き、そして滅びた土地だ。正に異界、涅槃の国。それも然る物ならば、集まったキャストも冗談のような奴等ばかりだった。
 天狗の棲家を守るため使わされた麻帆良の刺客、美少女忍者との誤解による死闘。暗闇の山嶺、そこで鉢合わせた謎の遺跡荒らし達との熾烈を極めた攻防。そして遺跡を守るため、女忍者との友情溢れる共闘そして勝利。
 九割誇張が混ざってはいるが、正にイ○ディージョーズ張りの大スペクタクルっ!!
 ……だが、笑えないことに死にそうになったのは紛れも無い事実だったりする。
 俺もあの人も、良く五体満足でいられるものだ。特にあのおじさん、体の中にアヴァロン五十本位埋め込まれているんじゃないのか? 吸血鬼だってああまで不死人ではあるまいて。
 まあ問題は他にもある。最近なにかと噂が絶えない例の流行病の監獄みたいな病院が聳え立っていたり、式さんとガチで喧嘩したって言う超能力者さんの実家があったり、極めつけは伝説の暗殺集団の隠れ家だってあったそうだ。
 女忍者に教えてもらうまで、後ろ二つは知らなかった。我が身の無知が恨めしい。救いようも疑いようも無いほどに不思議魔空間だったんだから。知っていたらもっと用心深くあの地を踏みしめていたのに。具体的に言うと、遺書書いたりとか、保険に加盟したりとか。後、鳥肌が立つほど恐ろしいので観光に行くときは注意が必要だろう。神秘に身を浸すものとして、切実に。正義の味方として、危険を訴えた方がいいのだろうか?

「まあいいさ。とにかくご苦労だったな。今日はもう休んでいい。嫉妬に焦がれて焼死しそうだ、いやはや、君とお喋りが過ぎたか。そろそろ返さなくてはね」

 N県についての印象に、脳内でキープアウトのセロハンを迅速且つ適確にひいている俺の横、苦笑いで締めくくった先生。視線の先には彼女を静かに睨むイリヤが居る。
 逃げるように椅子を回し、背を向ける先生。その様子に俺は首をかしげ、そんでもって回した首を更に回してイリヤを探す。みれば、綺麗な朱色の瞳が座りすぎて大変なことになっている。だから、どうして不機嫌なのさ?

「ほらっ、お兄ちゃん。お話しは終わったんでしょう? それじゃ早く帰るわよっ、お話しならトウコじゃなくてわたしが聞いてあげるからっ。カズミも晩御飯楽しみにしているんだからねっ」

 イリヤはオモチャでも取り返す子供のみたいに俺の裾を引っ張る。

「あ、ああ。―――――――それじゃ先生、幹也さん。お先に」

 息つく間も無く、正確には饅頭を咀嚼する暇もなく、俺は引きづられる様に立ち上がる。
 上着だって脱いでいなかったし、旅行鞄もオフィス入り口においてあるので俺は一応席を立つ。そして、イリヤは冷たい手を包むように俺の手を重ねた。
 イリヤの手は氷みたいに冷たいけれど、柔らかくふわふわして気持ちがいい。関係無い事に微笑みながら俺はそうしてさよならを告げる。

「はい、さよなら。今晩はゆっくり身体を休めろよ」

「うん、研修お疲れ様。また明日ね」

 先生には珍しい労いの無貌と幹也さんの和む微笑にくすぐったいモノを覚える。痒くも無いくせに、頬を掻く俺の仕草はどんな風に映るのだろうか。
 そんなことを考えるうちに、イリヤが俺の手を握り返した。
 伽藍の堂から出れば、辺りは星。岸沿いで人の気配も無く通勤するには多少もの悲しいこの仕事場だが、ソレでもこんな夜は得した気分になるものだ。
 廃れた工場地帯から突き抜けるよう様な夜天、そこから落ち込んだ風が俺とイリヤのほっぺたを赤く染める。
 着込んだ茶色の革ジャン。護符の件で一層ボロボロにされたお気に入りの一張羅は、今夜に限ってらずとも効果は望めなかった。……寒い。

「――――――――――なあ、さっきから本当どうしたのさ?」

 規則正しく並ばされた倉庫の整列、そこに抜け道のように設けられた帰路を二人歩く。
 口を曲げたまま、ツーンとした表情を被り続けるイリヤ。俺の手を離さないのは嬉しいけど、できれば笑っていてくれたほうが五割増し位に嬉しい。

「別に、――――――なんでもないわよ」

 何でも無いこと無いだろう。
 だが、俺は口に出さなかった。吐露された白い靄は直ぐに見えなくなり、イリヤが不機嫌と言う猫を脱ぎ捨てたからだ。

「――――そっか、何でもないのか。ならいい」

 微笑みと共に、知らず「うん」と、俺は強くうなずいていた。

「――――――ふうん、追求しないんだ?」

「ああ、しない。イリヤが心配ないって言ったんだ。俺はソレを信じるだけだよ」

 こらっ。
 何でそこで目を丸くする。

「一丁前にかっこつけて。以前だったら何が何でも自分で何とかしようとした癖にさ」

 薄い桜色の口縁を持ち上げ、イリヤは手を繋いだまま俺の顔を覗きこんだ。

「そうだったか?」

 でも、宛が無いわけじゃない。
 確かにイリヤの言うとおり、以前の俺ならば何が何でも彼女の不満や憤りを解決しなくては気が済まなかっただろう。

「そうよ。―――――変わらないのに変わっているのね、貴方は」

 面白そうに、彼女が笑った。だけど皮肉だよ、イリヤの微笑だって変わらないのに変っているんだから。
 そうさ、初めて出会ったときよりもずっと優しい顔つきはさ。

「………変わってるって、なんでさ? 俺は別に変なことは言ってないぞ?」

 今度も、声にはならない俺の心の表情。
 寒さが少しだけ和らいだ気がする。もうじき暗闇の工場地帯を抜け出し、喧騒に紛れる頃だろう。通いなれたこの道、幾度通ったのかなんて覚えていない俺とイリヤの帰り道で、ちぐはぐな遣り取りは続く。

「はいはい、拗ねない拗ねない。それに、悪い意味で言った訳じゃないからね? だって今のシロウはちゃんとわたしのことを信じてくれているんでしょ?」

 うっ、とイリヤの上目ずかいに一撃でやられた。

「当たり前だろっ、そんなの。イリヤは俺の大切な家族なんだから」

 羞恥に駆られぎこちなく語気を強めた俺に、それでも彼女は嬉しそうに微笑み返す。
 一体何がそんなに嬉しいのか、イリヤの体温が上がった気がする。繋いだ柔らかな手を解き、絡めたイリヤの細い指からソレを感じた。
 艶かしい筈の快感は何も無い。ただお互いを確認するだけの、熱の交換。夜の闇が漂う工場地帯と人の満ちる都会の喧騒と同じく、俺たちの手は温度差が激しい。
 しかしそれでも、繋いだ手のぬくもりは確かにあった。俺たちが歩くこの帰路が在るように、境界線は確かにあって、二つを繋げてくれるんだ。

「うん。――――そういえば、言ってなかったね」

「 ? 何をさ」

 ぎゅっと、だけど優しくイリヤの手をイリヤが握る。
 絡みついた境界線は無くなることなど無い。きっと、昔も、今も、そしてこれからも。
 淡い都心の灯は、白んだ夜を作り出している。
 もう直ぐ暗闇の帰路(トンネル)を抜け出すその前に、俺は近づく街の外光をぼんやりと流し見ながら聞き返した。

「―――――お帰りなさい、“お兄ちゃん”」

 そして、そうイリヤが漏らした。
 その言葉に、その俯いた微笑みに、果たしてどんな意味が在ったのか。俺には知る術もないし、きっとイリヤも知られたく無いと思う。
 何にしても、俺の答えなど一つしかないんだから、こんなことを考えただけ無駄ではあるのだが。

 俺は眺めたネオンの群れから瞳を逸らさなかった。だって必要ない、俺の隣にはイリヤが居る、こうして繋いだ手は今も暖かい。

「ああ、―――――――――――――」

 俺は、そしてこの場所に帰ってきた。





Fate / happy material
第二十三話 伽藍の日々に幸福を 了





 貴方に願いを/新たな願いを。
 貴方に約束を/新たな約束を。
 そして、日々に幸福を――――――――――――。

 空っぽの毎日は。

 きっと何も得ることの無いまま、幸福だけで満たされる。

 わたしは、そう信じ続けたいと思う。









 きっと、そんな当然の答えを選ばなかった“貴方たち”の為に。










[1027] 幕間 願いの行方 了
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 03:43
/ flame.

 私は異常だった。

 日本。
 普通の家庭に、極当たり前の夫婦の間に生まれた私。

 しかし、だからこそ私は異常だった。

 異常と日常。その定義は、その境界は酷く曖昧なものだ。
 大多数が日常、その中から弾き出された少数が異常。
 異常と正常、ソレを決めるのは自分ではなく、常に自分とは関係の無い他人の集まりだったから。

 私がいくら自らを外れモノでは無いと叫ぼうが、決めるのは私ではない。
 よって、私は異常だった。
 人道から外れた訳でもない、何か間違いを犯したわけではない。
 ただ、私の中には人でない“血”が混じっていただけ。

 パパでもママでも構わない。
 唯人であった二人の祖先は、かつては“魔”と呼ばれる類のモノだったのだろう。
 その僅かに息づいていたその歪んだ血脈が、私の中で不幸にも覚醒してしまっただけだ。
 何度、この血を憎んだことか。
 何度、この身体を引き裂いたことか。
 何度、この心を傷つけたことか。
 日常に発生した異常は、そこに存在するだけで奇異だった。
 何度、自分を否定した事か―――――――――――――。

 疎まれ、蔑まれ、過ごした日々。
 振り返れば、私が本当の意味で外れたのは誰でもない、大多数の日常の所為かもしれない。
 もしも私を、日本に息づく混血の組織が私を見つけてくれたなら。
 もしも私が、それら異端の中に生まれていたのなら。
 もしも私に、人外であることを認めてくれる人がいたのなら。

 もしも……。もしも…。もしも………。

 数え切れないもしもの果てに、私は日常に絶望した。欲しいものなど、誰も与えてはくれないと、気付いたから。

 一体私がいくつの時か?
 私はそのあり方を認めた。その時から、私の中で何かが反転したのだろう。

 あれだけ溶け込む努力をした日常を、私は唾棄していた。

 歯車は狂ってしまったのだろう。
 違うわね―――――――――きっと、狂っていた歯車が回りだしただけ。

 きっかけはなんだったのだろう?
 きっと、私を見る両親の視線に耐え切れなくなったのだ。
 思い起こせば、それが直接の原因だった。何て笑い種、ただ私は彼ら日常の呵責に耐え切れなくなっていた、ただ心が摩滅した、それが所以。

「私を、そんな眼で見るな。―――――――――――」

 焼いた。
 両親の焦げる匂いは、それなりに甘美で魅惑的だった。
 吐き気を催すほど、笑ったのを覚えている。
 普通のダイニング、どこにでもあるシステムキッチンと両親が無理をして買ってきた豪華な欧風のテーブル。そんな生活臭漂う空間で、炎上した肉達磨が炭化する光景は、貴方たちが私に望んだ異常そのものでは無いのか?

 そうだ、鼻をついたあの匂いを初めて知ったのは。
 あれは、誕生日だった。誰も、何も与えてくれない十八回目の聖誕祭。
 生みの親をこんがりと香ばしく、そして上手に焼き上げてから、私は不夜の街に飛び出した。丁度霜が降り始めた、古都の夜明けに私は唇をゆがめて繰り出していたんだ。

 そこで。

 私を恐れた人間を、焼いた。
 私を蔑んだ人間を、焼いた。
 私が信じていた人間も、焼いた。

 皆、皆、皆、焼いて、焼いて、焼き尽してあげた。
 私を虐めた奴、私を否定した奴。
 兎に角、人間が憎かった。
 人間を焼いて、ニンゲンを焼いて、私の狂気の夜が明けた。

 退魔組織。
 私がコレほどまでに憎む人間を守る、気にいらない偽善者の集まり。
 そいつらが私を捕縛しに来た、呈のいい言葉は要らない、素直に殺しに来たって言えば良いのに。

 だから、こいつらも焼いた。
 大したこと無い、人では化け物に勝てないのだ。
 化け物に勝てるのは、それこそ同じ化け物か、正義の味方、俗に言うヒーロー位なものだろう。
 ただ、私は人間を焼きすぎた。
 それなりの自衛力を持つ退魔組織の力を見縊りすぎていた私は、彼らの追随を振り切るために極東の島国を捨てた。

 私が辿り着いたのは魔術、神秘に傾倒する自衛団体だった。
 日本からの逃亡、そしてパリの貧民街で碌でもない生活に飽きてきた時候。まだ成人もしていない混血の私を拾ってくれたのはそこに所属していた一人の老魔術師だった。哀れな慰めの精神、私を慈しんでくれたその老人を最大限に利用し、私は魔術を学んだ。
 とはいっても、私が学んだのは契約魔術。パクティオーと呼ばれる彷徨海の系列に位置する秘伝だけだった。それ以外にこの老体の魔術に魅力を感じなかったし、私もその全てを受け継げるほど、魔術の才能があったわけではない。

 そうして私は、気付けば大人になっていた。誰も何も、与えてくれないまま。
 魔術師、彼らの常識では人の命など本当に安かった。師に価値を見出せなくなった私は、彼をあっけないほど簡単に焼いてあげた。確か焼き加減はミディアムレア。
 私が思う、最高に苦しい地獄を送った。“私を救った”と言う彼の自己満足の哀れみや達成感が本当に私の癇に障ったから。そんなもの、私が欲しかったモノじゃない。

「魔術の研鑽の元、私の師を犠牲にしました。誰にも迷惑をかけていないし、問題ないでしょう?」

 晴れて独り立ち。
 私は魔術師として彷徨海に所属することとなる。

 魔術協会に所属し幾年かの月日は直ぐに流れた。
 ―――――暫く人を焼いていない。アノいい匂いを、嗅いでいない。
 段々と、そんな欲求が高まっていく日々の中で、私はガランドウの少年に出会った。

 戦争があったのだ。
 私の知らない異国の地で、小さな宗教抗争が起きたらしい。

 そんな話を耳に挟み、暫く味わっていない人のジューシーな香に、鼻腔を刺激されに行こう。そう考え、小さな街であった廃墟に赴いていた。
 実際はつまらない仕事、どうして、こんな組織に今でもしがみ付いているのだろう。与えられた事の無い自分が、与えられた仕事をこなす。だけど、どうして誰かの■■を願えるのか?

 出会いは、本当に唯の唯の気紛れだった。
 焦げ付く廃墟。錆付いた赤色が瓦礫を犯すこの場所で、死に体だった彼に手を差し伸べていたのは。

「お姉さん、ダレ」

 軽い身体を持ち上げてやれば、少年、とは言っても十三、四といったところの男の子はそう答えた。
 現地の子供では無い。紛れも無い、そして久しく耳にしていなかったその言語で、少年はそう問いかけた。
 だから。

「私? そうね、人食い鬼さんかしらね」

 誰も見ていない、仲間は他の地域の救助活動に勤しんでいる。だから、本当のことを言ってやったのだ。
 はは、最高。
 笑ったらならば焼いてしまおう。助かったと安堵の表情を浮かべたのならば焼いてしまおう。騒ぎ出したならば煩いし焼いてしまおう。
 いい加減、誰かを焼かないと心が落ち着かない。
 辺りには焦げ付いた肉塊しかないのだ、もう一つ位人間大の炭が転がったところで問題は無いと。そう歪めた私の口元。だけど、ソレをなぞった少年は。

「―――――――なんで、貴方は泣いているのよ?」

 だけど、私が見てきたどの人間の表情よりも痛々しく、苦しそうだった。
 さっきまで無愛想だった少年は、本当に辛そうで、一筋の熱い水滴が彼の頬を伝っている。

「僕。表情、忘れちゃったみたいで」

 抑揚の無い日本語。
 だけどそれでも、隠し切れていない上品なアクセントに、彼がそれなりに裕福な暮らしをしていたのが窺えた。

「だから、真似をする事位しか出来ないんです」

 ああ、と。私は理解した。この子はここで死んだんだ。
 ガランドウのこの子にあるのは、ソレだけだったのだと。
 話しくらいは聞いたことがある、起源の覚醒だ。
 死に傾倒した彼は、きっと自分の原因に触れている。

「真似って、誰のよ?」

 今、この子は鏡なのだ。
 ガランドウ、何も詰め込まれていない彼は、きっと誰かを模倣することで自身を確立しているのだと。
 そして、私はようやく理解した。
 人が憎い、人を燃やしたい。その衝動に駆られて、初めて人を焼いたあの夜。
 あれはきっと喜びでは無かったのだと。

「誰って、―――――お姉さんのですよ」

 私は諦めたんだ。
 混血、人外であること、人に受け入れられない、不幸の顛末に抗うことを諦めた。

「へえ、そう。コレは、正直な鏡を拾ってしまったものね」

 だから、私は決意した。
 この空虚な鏡に、私の憎悪を詰め込んであげようと。
 私が味わってきた、救われたかった私の心を犯した、あの苦痛を。
 私が生まれたあの街で、私を狂わせたあの街を。

「それで、貴方名前は?」

 真っ赤な焔で焼いてあげよう。

「思い出せないんですよね、名前」

「そう、なら良いわ。ここで生まれたんですもの、ソレが当然よね」

 湧き上がったのは、憎しみだった。
 私は、諦めるしか無かったんだ。
 混血、蔑まれてきた私。それに頑張って耐えてきた私。そんな私に、諦めるなんて選択肢しか与えなかったあの街を、あの人間たちを許しはしない。
 快楽によって炎を統べる私は、その時から手綱を変えた。

「貴方の名前は“鏡”。今日から私のパートナーよ」

 紅い、赤い、朱い享楽が見える。
 あの街を私の色で焼き尽くす。きっと、堪らなくいい匂いだ。

「はい。――――――それで、お姉さんの名前は?」

 与えられた名前を反芻した少年は、そう問うた。
 手ごまは一つ、伽藍の少年は中身を手に入れた。
 だから、だからこそ私は強くその名を響かせた。
 それなりに過ごした人生の中で、コレほどまでに自らの名前に意味を感じたことは無い。

「遠上(えんじょう)……。遠上 都(みやこ)」

 さあ、焼き尽くそう。奏でる指は、もう止まらない。
 後は簡単だ。そうして、私は日本に舞い戻る。まずは、その下準備。
 私は協会所属の魔術師だ、情報を集める手段、方法は揃っている。
 仲間がいる、最低後もう一人。どうやって、あの街を焼き尽くす。
 いいさ、時間はある。

「はは」

 ―――――――――――――――――――焔の饗宴を、送ろうか?

/ out.

 つまりは、それから五年後の喜劇。

■ Interval / 願いの行方 了 ■

「遠上、都よ。貴方は?」

 女は、暗闇の中で男に言った。
 それは、初めて手を伸ばし、与えられたモノ。

「黒桐、幹也です」

 男は、暗闇の中で女に言った。
 それは、退屈なまでに彼が持っていた、在り来り。

「ああ、これで。名残惜しさを感じることが出来ますね」

 最後に、最後に男は微笑んだ。
 つまりは、それから五年と四日後の終幕。



[1027] 第二十四話 願いの行方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 03:53
/ 0.

 夢をみている。

 そこで俺は、全てが静止した巨大な闇の中央にいた。
 ここは現実と虚構が綯い交ぜになり飽和し、澱んでいる。
 ここでは全てが本当になりそうで、全てが嘘になりそうで。

 移り気なこの世界がどこなのか、そもそも俺は何をしているのか。

 ただ、―――――――――自分が深い/浅い眠りに落ちている事だけは理解できた。

 だって、夢をみている。

 過去に起こった俺の戦い、聖なる杯を廻った殺し合い。

 巻き戻され、上映される一つのタイトル。

 英雄たちの興じる絢爛たる脚本。魔術師たちが記すシナリオ。

 深く広大な暗闇の中、カタカタと映写機は頼りない音色で懸命にいつかの幕を回している。

 ―――――――――それは、忘却されたセピア色の無声映画だ。

 やがて。
 それは果たして一瞬か、永遠か。
 始まりは滴る月光を背に光るアイツの姿。
 終わりは朝日に微笑みで輝くアイツの姿。

 だけど、その物語を最後まで見納めそして、違和感に気がついた。

 そうだ。俺はアイツの“■”を一度たりとも視ていない。
 可笑しな話だ。
 俺とアイツ、二人を繋ぐ無二のモノがここには存在していなかった。

 だからソレは、そんな未練の思いに答えてくれたのかも知れない。

 闇色の観劇場に再度、記憶と言う光がさした。

 現実感の欠如したそのスクリーンの向こう側に、心惹かれる誰かが。

 ただ一つの。ただ信ずべき最愛の“■”が。

 ―――――――――――――勝利すべき黄金の“■”を掲げ、そして振り切った。

 白光。
 映画はそこで終わった。
 そこで、フィルムは焼ききれた。

 余りものの暗闇で、俺はただ劇場の中央を睨みつける。

 オーディエンスは一人。座椅子は一つ。
 俺は唯一人の立ち見客。空席は一つ、観客は一人。
 だけど、その椅子が埋まることはきっともう、―――――――永遠に。





Fate / happy material
第二十四話 願いの行方 Ⅰ





/ 1.

「――――――――――――なんで、いまさら」

 ―――――――――――――カリバーン。アイツの剣なんて。

 俺は悪態を飲み、まどろみから身体を起こした。
 恐らくは事務所のソファーか? この趣味の悪いオレンジ色と、高級そうな感触は間違いない。
 黒のスウェットに薄い汗が伝っている。不快感の残る身体は何故か錆付いたように動かしにくかった。

「―――――――まったくだ。いまさら抗魔力の鍛練なんざ意味は無かったな」

 目覚めが悪い。
 頭を振って意識の覚醒に努めれば、向かいのソファーく咥えタバコの先生と三つ網を弄ぶイリヤが居る。
 俺の脳みそに潤滑油が挿されたのと同時に、先ほど俺が見た映画の内容は綺麗サッパリ忘れられてしまっていた。
 だが、そのお陰か状況をいち早く取り戻した俺は、背筋を伸ばして一人彼女たちの向かいのソファーを占領する。

「っ!?――――ああ、そうだ。…………俺の抗魔力って一般人並みで変わって無いんですか?」

 久方ぶりに式さんの一方的な虐待を乗り切った俺は、今夜も今夜とて先生の工房で魔術の鍛錬に赴いていた。
 工房の三階、俺のお気に入りの鍛錬場は暖房の代わりに炉心に火が入れられ、厳冬の匂いを緩和させている。傘のないランタンと炉辺の強い灯だけを頼りに、イリヤも交えて開始された今夜の鍛錬は生成魔力量を増やすための荒行。様はスタミナをつけようと言うものだった。

「君、もしや忘れていたのか?―――――――まあ、いい。しかしね、不覚だったよ。君の回路は順調に開発されているし、魔力の生成量も増えてきているからね。……大丈夫かと思ったんだが」

 はは、と乾いた苦笑の俺を一瞥し、先生の顔色が曇る。
 はじめは順調だった今日の鍛錬。内容は実に単純だった。
 回路を起動、回路に魔力を流し続け、ソレを数分間維持する。様は蛇口を捻りっぱなしにすればいい。
 先生曰く、魔術回路とは魔力を流せば流しただけ強化されていくものらしいので、人間が体力を付けるときと全く同様の理屈がまかり通るわけだ。
 体力の限界まで走り続け、ぶっ倒れ、そして休養。その次の日には前日以上の距離を走れるようになっている。分かりやすくて実に俺向きだ。早い話、魔力を空っぽにすればいいのだから。

「でも、トウコ。普通回路の生成する魔力量が上がれば、勝手に抗魔力が上がる筈でしょ。今のシロウは以前と違って生成魔力も魔力容量も一般の魔術師並じゃない、いくらなんでも回路を起動した状態でわたし程度の魔眼に引っかかる筈無いんだけど?」

 そもさん。イリヤが俺を魔境で偶然であった珍獣の解説を求めるように、先生に聞いた。………何度でも言うぞ、はじめは順調だったんだ。
 小一時間ほど前、俺とイリヤは一緒になって回路の魔力を放出し続けるため、色々な魔術を実践していた。先にも述べたが魔力のスタミナを上げるには回路を回し続ければいいだけである。よって俺は、強化、解析、類感、変化、投影と、今までのお浚いも兼ねて、先生の前で色々と魔術のお披露目をしていた訳だ。
 イリヤもイリヤで、基本的な魔術式の復習や、一緒に学んだ強化や変化の魔術を行使に余念が無く、やがて唯一の苦手科目だという魔眼の鍛錬に入った。
 魔眼、先天的な素質によるところが大きいこの魔術行使も、ある程度のレベルまでならば習得できてしまうモノらしい。後付で習得できる魔眼の中でも最高位に位置するイリヤの魔眼。だが、その神秘によって運命干渉を受けてしまうのは一般人のみ。
 他者の運命にまで介入する能動的な魔眼を魔術師に対して行使するには、それこそ先天的にその神秘を保有して生れ落ちる必要があるのだ。
 ……つーまーりー、何が言いたいかってーとー。
 イリヤ、遠坂、そして先生の技量であっても、後天的に手に入れた魔眼を魔術師に対して使用するのは絶対的に不可能だったりする。分かりやすく言うと、遠坂がパソコンを組み立てる位絶望的だってこと。
 何故か? 理由は簡単。何故ならば魔術師、彼らは総じてその身に神秘を帯びているからだ。

「そうだね、普通の魔術師ならばそうだよ。既知の通り、魔術回路を有するモノは総じて微弱ながら魔力を生成している。分かるだろう? 様はコーティングだ。魔術師は自身の生成する魔力で常にその身、魔術回路を覆っているからね。能動的な魔術行使、一工程の魔眼程度で、その守りを突破するなんて不可能な筈なのだが………例外は、どこにでも居るものだな。………クソ、胸糞悪いし忌々しい。タバコが不味くて仕方が無いぞ」

 その一般常識が災いしたのか、俺は“魔術師”である安心感からイリヤと目を合わせ―――――――後は、まぁその……綺麗に“落ちた”わけだ。
 ああ。突き刺さりぐりぐり傷をほじくり返す二人のドリルでドライバーな瞳が痛い。

「……あの、ソレじゃあ先生。どうして俺の抵抗力が上がっていないのか、理由分かりません? せめてソレ位分かれば、お二方の忌々しげな視線を甘んじて受け入れることが出来るのですが?」

 舌打ちを一つして先生は俺を睨みつける。
 オデコを右手で支える先生は、陰った顔で眉目秀麗な瞳を据わらせた。

「ふんっ。――――――まあ、一つは君の特殊な回路の所為だろうね。馬鹿みたいに硬く、還元効率の高い君の魔術回路は、一切魔力の漏洩が無いんだ」

 先生が例え話とした、回路の魔力によるコーティング。ソレは転じて、回路から自然に溢れてしまう魔力によって成されるのだと言う。
 ………なるほど、つまり。

「つまり。シロウの抗魔力は最後までこのままって事かしらね」

 先生の隣で、俺より先にイリヤが完結に纏めてくれた。
 暗がりに吹いた寒風は肌に刺さる。小さな窓から紛れた空気が、炉心の火種を轟っと強く揺らした。

「まあ、その通りだ―――」

 ライターのつきが悪いらしく、話の腰が折れる。
 カチカチと煩わしくジッポと格闘する先生に代わり、イリヤが俺につぶらな瞳を向けてくれる。

「シロウも分かったでしょ? 貴方の特殊な魔術回路は弱点であると同時に唯一のアドバンテージでもある。貴方の慎ましやかな抗魔力は特殊な神秘を保有する代価だって事」

 宝具の投影、最高位の神秘“尊い幻想”。
 その絶大な魔力の奔流すら耐え切る俺の回路は、堅牢ゆえに融通が効かないということだ。

「そっか、まあ一つくらい弱点が在った方が正義の味方らしいのかな?」

 俺は仕方が無いと、冗談めかせて歯を見せる。
 まあ魔力漏れが無いって事は他の魔術師に自分が魔術師だってばれにくいって事でもある。そう悪いことばかりじゃ無いだろう。

「一つ? おいおい、大きく出たね。私から見た君の弱点を端から順に挙げてやろうか?」

「………いえ、勘弁してください」

 だがしかし。
 早速切り返された先生の笑えないユーモアに、俺は轟沈。……ぬう、やはり弱点は少しずつ克服しなくてはなるまいて。

「はいはい、そんな深刻に悩まなくても大丈夫よ。――――ねえ、トウコ?」

 眉をしかめる俺が可笑しかったのか、イリヤは俺と先生に澄ました微笑を漏らした。

「簡単に言ってくれるね。私はどこぞの青狸型ロボットでは無い」

 それに顔をしかめるのは先生だけ。
 俺はと言うと、イリヤの真意をつかめず顎を擦るだけである。

「でも、抗魔力の底上げくらいは何とかなるんじゃないかしら? シングルアクションの魔眼系列を一時的に防げるだけでも大分違うと思うけど? 魔術師は自衛の手段が必須。幾らなんでも、シロウのお粗末な抗魔力をこのままにしてはおけないわ」

「…………まあ考慮はしてみる。ただね、本格的な対魔術の守りなんて無理だぞ? 今作っている例のアレは、あくまで唯の革布に私のルーンを刻む程度のものだしな。とてもではないが聖骸布何ぞに比べるべくも無い三流品だ」

 俺の預かり知らぬところで、ぽんぽんと話しが纏まっていく。

「……なあ、何の話だ?」

 たまらず、俺は尋ねていた。

「こっちの話しよ。お母さんのプレゼント、楽しみにしていなさい。きっととっても似合うと思うから」

「…………………」

 イリヤの発言に、どうして先生はばつが悪そうに顔を覆うのか?
 いよいよ持って訳が分からない。

「まあ、その話はもういいだろう。――――ほら、抗魔力の件は修練するだけ無駄だと分かったんだ。衛宮、君は引き続きスタミナの増強に努めろ。ランプの解析、強化、変化、の流れ作業を三十本、十五分以内に行ってみようか」

「――――――げっ」

 マジすか? 最近思うんだけどさ、俺がなんだかんだで成長しているのは先生の魔術を教える手際云々ではなくて、ただ単に数をこなしているからってだけじゃないのだろうか? 遠坂と修行していた時の五六倍はスパルタだぞ。
 尋ねる暇もなく、どかどかと教練用のランタンがもっこり俺の目の前に積まれた。
 最近、イリヤに負けが込んでいる先生は忙しなく話題を方向転換。カーブを曲がった際に、俺をしっかり巻き込んでいくのは流石です。

「頑張ってね~シロウ」

 悠々とソファーでくつろぐ今夜の勝利者はご満悦の様だ。
 俺は恨みがましい気持ちを必死に堪え、ランプの山から一つを掴む。ガラガラと音を立てて崩れたその山とのにらめっこの末、ようやく回路を起動させる決心。

「ほら、イリヤスフィール君もだ。―――――あぁいや待て、君には別の課題を与えようか。はい、サッサと君の魔具を持ってきたまえ。簡単な儀式魔術を教えてやる」

 だが、ソレも無駄ではない。
 俺のやる気が伝わったのか? 先生がちゃんとイリヤにもノルマを追加する。俺が基礎の復習を繰り返す横で、遠坂に続く二人目の天才は、今夜も新たな魔術に手を出すようだ。魔術の技量、神秘の知識。共に先生から教わっているモノは等しいと言うのに、早くも差をつけられている。俺の物覚えの悪さが如実に際立ってしまう。最近は先生の授業の後、イリヤがお浚いを兼ねてアパートでの講義が日課になりつつあるし。

「は~い。それじゃ、ちょっと待っててよね。直ぐ取ってくる」

 快活な優良生徒宜しく、走りだした真っ白な三つ網。
 俺と同様に、やはりイリヤも魔術が大好きなのだろう。新たな叡智の開拓に、心躍らせているのに間違いない。……しかし、どんどん差が広がっていくなぁ。
 喩えるなら、自転車とベンツで駆けっこしている様なものだ。俺がイリヤに引き離されるのも道理である。なるほど、神秘の世界でも世の物理法則は良く出来ているもんだ。

「まあ、喜ばしいことではある。……か」

 そう独語し、我が妹君の才覚を賛美した。
 イリヤの魔術師としての才覚、素養。アインツベルンの力では無い、切嗣から受け継がれた脈々とするイリヤ自身の天才。それを羨ましいとも思う。だけど、ソレだけが全てじゃないのも確かなのだ。

「でもまあしかし、何にしても………」

 テーブルの上に掴んだランプを鎮座させ、両の手を横にかざした。
 イリヤ、遠坂の天才、俺の凡才。そう、結局俺にはコレしかないんだから。

「―――――――――同調、開始」

 最後は、やっぱりトレース・オンな訳で。今夜も今夜とて、励み、努力を惜しまず些細な才覚を謳歌しますか?
 きっと追いつけない、天才たちの背中。だけど、ソレでもいつかは追いつけるように。そう暗示を込めて、いつもと同じ、だけど少しだけ前向きなその言霊を紡いでいた。


/ 2.

「………それで、今夜はどんな魔術を教えてくれるのよ? ってうるさいわ、シロウ」

「ハア、ハア、ゼエ、ゼエ」

 俺が酸欠状態でソファーに横たえる視線の先に、イリヤと先生が向かい合っている。
 結局、先生に言い渡された課題を終えられるはずも無く、ランプ二十個を越えた辺りで俺の魔力がオケラになった。もう駄目。これ以上はいくら絞ったところで魔力なんて出てこねえ。代わりのものなら幾らでも吐き出してやるぞ。
 三階の工房を囲む引き戸を全快にしても、汗が引かない。イリヤと先生には申し訳ないが寒いのは暫く我慢して頂きたい。気合を入れすぎたのか、俺はディーゼル機関のイカレタ車みたいに息を吐き出している。汗腺までどうにかなってしまったらしい、留まる気配がなく汗が滴り落ちていた。

「………ん? 先ほども言ったろう、儀式魔術だ。―――だからうるさいぞ、衛宮」

「ヒー、フー、ヒー、フー」

 情けない、そう冷たく視線で語った二人の女魔術師。ちらりと話の端々に珍獣を見るような瞳を向けてくれるなっ。
 魔力を馬鹿みたいに持っているイリヤと、俺より魔術回路少ないくせにコントロールが壮絶に名人芸の先生にしてみりゃ、どうって事ないだろうけどさ………こん位の鍛錬はっ。

「儀式魔術……召喚陣を描いて使い魔を呼んだり生贄を捧げたりするアレ? なんか嫌だなぁ地味そうだし、なんか根暗だし。トウコ向きよね、コレ」

「ふふふふふふふふふ………君の師匠に対する思い入れがよーっく分かったよ」

 何もリアクションも返せぬ俺こと唯の屍。
 ソファーに倒れ付したままノーリアクションのおもちゃに興味は無いのか、既に俺を無視して二人はのっけから心臓に悪い遣り取りを始めているし………。おーい君たち、仲良くしてくれぃっ。

「まあ冗談はさておきだイリヤスフィール。青・倚天は準備できているな?」

「ええ、大丈夫よ」

 冗談だったらしい二人の遣り取りにほっと一息。このまま無事に生還(誤字にあらず)を決め込むことにしよう。

「それで? わたしは先ず何をすればいいのかしら? 魔方陣でも描くの? 嫌よ、面倒くさいし、そもそも式を知らないもの」

「うん、まあ儀式魔術と言っても君が先ほど話してくれた召喚陣も使わなければ、サクリファイスも関係ない。今回はね儀式魔術の基本である“媒介を介在させて存在をより高次へと昇華させる”、この一点について教えようと思うんだ」

 ふむと、回復の兆しにある俺は、ねっころがったまま先生の話に耳を傾ける。イリヤも先ほどまでの態度で先生に構えるのではなく、真摯に姿勢を伸ばす。直立不動とは正にこのことだ。
 黒いタートルネックのセーターとその黒より明るい黒のチノパン。それに映えるイリヤの垂らした真直ぐの白い三つ網が、不動の起立を強調していた。

「それでは、下準備をする。ちょっと待て、直ぐ終わるから」

 先生は三階の工房、開けた炉心の前で、バケツにくべられていた水を撒き散らし暗がりに大きな水溜りを作った。ぴちゃぴちゃと雫の滴る音がする。その音色が神秘的で、俺の疲弊しきった精神を緊張させた。

「はい終わり。イリヤ、水溜りの中央に君の礼装を突き立てろ。……ああ青を水溜りに、倚天は天を向くようにだぞ」

 イリヤは言われるままに、櫂を象る彼女の魔具をそこに備える。小さな湖水に飾られた蒼白の奇剣は、御伽噺のワンシーンみたいに様になっていた。
 炉心の薪は鎮火され、暗闇が深くなる。僅かの冷風が光る黒色の水溜りを揺らしていた。
 背筋を冷やすその感覚と共に、俺はその光景に唾を嚥下し、臨んでいる。
 イリヤはこれからなすべき神秘を理解したのか精神の平静を保つため、赤い瞳を隠し水溜りの波紋と重なるように息吹を不規則に吐き出し取り込んでいた。
 それに相対する先生もやはり真剣な面持ちで腕を組み。

「よし、こんなものか………。イリヤスフィール、もう分かるだろう? これで簡易的な形式は完了された。後はまあ、適当にやれ」

 気だるく、そう告げた……て、ええー!? こんだけ!?
 いや、ソレはまあいいけど。大体、初めての魔術行使だぞ!? 一歩間違えば死んじゃうんだぞっ!? もっとこう親切丁寧に手取り足取り教えるのが筋ってもんじゃないのか!? イリヤもどうして何でも無いように頷くのさっ!?

「なにを慌てているんだ、君は? 大丈夫、イリヤは君の想像以上に優秀だよ。この程度の簡易儀式など彼女の技量ならば糸くず程度の問題もない。将来を楽しみにしていろ。いずれは、音に聞こえる遠坂の今代と良いライバルになるだろうさ。………ふむ、そうなると私も鼻が高いな。そう思わんか? 馬鹿弟子」

 けんもほろろに、ソファーでクロールをする俺に「惨めだね」なんて愁いの涙すら浮かべる先生。
 うわ、すげえムカつく……! それはアレですか? 遠まわしに俺の才能の無さを哀れんでいるんですかっ。

「わたしの事は大丈夫よ、シロウ。貴方が創ったこの礼装の力、もうチョッとだけ信頼してあげなさい」

 俺と先生のにらみ合いの横で、イリヤが呆れながら漏らす。
 そうは言ってもだ、やはり心配じゃないか。貴方様の言うとおり、その礼装は俺も手伝って創ったんだから。

「心配性ね、貴方は。――――――まあみてなさい」

 イリヤはくるんと身体を回して青・倚天の突き立てられたその水面に精神を高揚させる。
 彼女の纏う雰囲気の変容に、俺と先生は沈黙を決める。

「―――――――――――――Einschenken(満たせ)」

 躍動するイリヤの魔術回路。
 一秒数える間も無く、回路に魔力が満たされ彼女の礼装にも血流が漲っていく。
 俺と先生が創った青・倚天。外界干渉系魔術を補佐するアンテナ機能ともう三つ、今回は恐らく内二つの機能を使用し魔術を行使するのだろう。
 魔術師は戦闘者では無い。
 故に、イリヤの担う青・倚天は剣の象を模しているものの、その本質はまた違ったところにある。
 彼女の魔術礼装は正しくは魔術の研鑽、このような魔術儀式にも対応できるようにと先生が付属させた機能が必要になってくるのだ。

「――――――――Verbindung bewassern(青、接続。青い盃に注ぐ)」

 詩歌を口ずさむように、イリヤの声が凍えた室内の湿気に通る。
 彼女の呪文の如く、湖水に突き立てられた空色の刀身が水を汲み上げていく。

「――――――――っVerbindung der Nachste voll werden(倚天、接続移行。藍の雫、白き盃に満ちる)」

 青い刀身から吸い上げられた水たちは、逆巻く滝のように天へと昇り、白い刀身の真上、柔らかい30㎝の水晶玉の様に象られた。

「scheinbares Ineinanderubergehen eines Baches(水天、源を衝け)」

 パンと、イリヤが呪の最後を締めくくる様に両の手を合わせ、甲高い音を弾いた。

「―――――――――ふう、オッケーかな? トウコ、確かめてみてよ」

 ほのかに汗ばみ、火照った顔を振り向かせるイリヤ。
 その後ろには、先ほどまで広がっていた水溜りが無く。代わりに、奇剣の天辺には淡く青色に輝く水球がその存在を主張していた。
 目玉のオブジェの様な水の塊は重力を無視し、綺麗な球状を保ち続けている。

「ふむ、問題なさそうだが………ちなみにコレ、どんな存在に変容させた?」

「ええとね、とりあえず“水”の概念を可能な限り過去に逆走させて濾過したから……」

「なるほど、アインツベルンの第三魔法、そこから派生する死者蘇生の低級概念、魂の素、生命の水。命のスープか。随分と小難しいモノを精製したものだな。まったく、初心者なら単純に“純水”でも作っていろ。いきなりハードルを上げるな、馬鹿者。次の課題を、また考えなくてはならんでは無いか」

 忌々しげな先生の台詞に、いりやは目を丸めて小首を傾げた。
 ああ、そういう嫉ましげな台詞、俺もいつか言われてみたいものである。

「えっと、賛辞は受け取っておくけど……“じゅんすい”? 何、それ?」

「不純物を一切取り除いた水だよ。完全な絶縁体でね、電気を通さない。まあ中学生位の知識かな? 概念的な反応ではなく、物質的な反応の方が簡単だし、呪文や式の構築から判断して、てっきり出来上がるのは此方だと思ったのだが、まあいい、忘れろ。兎に角、面白いものが出来上がったのは間違いない。どれ、試してみるか………」

 先生は水の塊から視線を外したかと思えば、ツカツカと俺が横たえるソファーまで歩み寄る。

「――――――どうしたんです、先生?」

「いや、なに。こういうわけだ」

「いや、だから……」

 うつ伏せの体制で見上げるのはちと難しい。が、しかし。とんでもなく嫌な予感がするので、俺は身体に鞭打ち体を持ち上げた。なんとしてもこの場を逃げださなくては。
 そう考えた刹那。

「――――――――――――てい」

 おでこの中央。
 これ以上ないほど最高のポイントに、先生のかかとが落っこちた。

「いっ――――――――――――――てえええええええええええええええええ」

 痛い。凄く痛い。ヤバイ痛い。
 今、絶対出たらいけない音がした。人間の身体を叩いて出る音じゃないから。ガインって何さ? ガインって? ヒールの下に鉄板でも仕込んでるんですか?
 色々先生にこの理不尽な仕打ちに対して訴えたいが、余りの痛さに口が回らない。
 もう俺はこのまま死ぬのか?
 そんな激痛に耐え忍びながら、床を転がる俺。しかし、我がお師匠様はさすがお優しい。
 俺の首根っこをひっ捕まえてあろう事か。

「それっ」

 俺の頭をイリヤが生成した水の固まりに突っ込んだ。

「もあっぼががっがぼぼががっががおぼおがっががぼぼおがっぼがおがっがぼがが」

 何の罰ゲームだ!?
 死ぬっ、つーかマジで死ねる。撲殺の次はどざえもんっすかっ!?

「―――――ふむ、もういいだろう」

 だが、何とか敬愛するお師匠様による弟子殺害は免れた。
 はは、もう動けねぇ。俺は生の安堵を噛み締め、泥みたいにその場にへたり込んだ。

「おい、それで衛宮。どうだ、オデコはまだ傷むか?」

 項垂れ、タイル張りの床に伏した俺と、ソレを何様の心算か見下ろす先生。いや先生様なんだからコレ既に下克上どころか反抗すらする気が起きないというか。
 とはいえ、この人の形をした理不尽に、されど嫌味の一つでも言ってやろうとオデコを擦りながら今にも閉じてしまいそうな目蓋を懸命に見開く。

「当たり前でしょうが!?!? かかと落としですよ? かか、と、……って、痛くない」

 なんでさ?
 いくらさすってもさすっても、先ほどの頭蓋破壊音の怨恨跡は微塵もない。

「へえ、キチンと濾過されているようだね。儀式魔術も、イリヤにしてみればそれほど難関では無いという事か」

 俺の間抜けな反応を堪能できたからなのか、ソレとも優秀な弟子の出来を確かめられたからなのかは分からぬが、先生が楽しげに頷く。

「当たり前でしょう、この程度の魔術行使なんて問題にもならないわ。でも、コレが儀式魔術であっているの? 普段の手順と余り変わらないんだけど」

「様は何らかの礼装、魔方陣を介在させ式を構築、そして神秘をなすモノを総じて儀式魔術と呼ぶわけだからね。ふむ、君がこの程度の術式に労するはずないか……」

 イリヤは平然と先生の賛辞を受け取り、床から青・倚天を引き抜いた。
 霞に融けていくイリヤが精製した生命のスープは暗闇に消えた。暗室に満ちる空気に潤いが紛れたのは言うまでもない。

「それはそうとですね、イリヤの魔術が失敗してたらどうすんですか。タンコブどころの騒ぎじゃないですよ?」

「なに、ソレならばより事態が面白くなっただけじゃないか? 何を気にする?」

 ………アレ? 日本語可笑しくない?

「その心配は杞憂よ。そもそもわたしの力量どうのこうのって言う前に、この礼装がかなりの出来だもの。失敗なんてするわけ無いじゃない」

 お褒めに預かり至極恐縮候。俺は草臥れた身体でイリヤの微笑を何とか受け取った。

「ふ~ん、でも先生」

 イリヤに生返事を返しつつ、俺は先生に早速質問を投げてみた。

「何かな?」

「あのですね、この魔術に意味はあるんでしょうか?」

「……ふむ、興味深いことを言う、どれ、続けろ」

 分からない、と貌をかしげながら体裁を取り持つ。俺の代わりにイリヤがソファーに腰掛けるの待って、言葉を繋いだ。

「はい、それで気になったんですけど。今の儀式魔術……でしたか。その工程でもって、イリヤはただの水を……その、えっと」

「生命のスープ」

「ああそれです、―――に変えたじゃないんですか……それで、あーつまりですね」

 先生は俺の纏まりの悪い疑問の糸を解していく様に、相槌をはさみ、先を促す。

「うん、確かに。で、君が気になるのは、こんな所かな? “何も普通の水を変化させずとも、普段イリヤがしているように、その概念を含んだモノを作り出せばいい”。水の矢だって構築出来るんだ、別に命の水を大気中から捻り出すのだって大差ないだろう、と……」

 にこやかに俺の疑問を代弁してくれた先生に、俺は満足げに頷いた。

「はい。そのほうが簡単なんじゃないんですか? 難しい式を覚える必要も、構築の手間も無い。水の矢を構築する際に、ソレっぽい変化の呪を組み込んでやればいいだけでしょう?」

 俺って頭いい。そんな風に頷いていると。

「ヘッポコ」

 と、まあ身も蓋も、情け容赦も一切無い我が師匠の言葉が横面をクリーンヒットするわけで。

「………ええと、なんででしょう?」

 しかし、このままでは俺こと衛宮士郎があまりに不憫ではなかろうか? せめて取り付く島の一つくらいは用意して頂きたい。

「あのなあ、君は半年間一体何を学んできた? より効率的なパシられ方かだけか?」

 先生を見上げたまま、深々と今までの生活を振り返る………否定できないのがあまりに情けない。

「最後通告だ。なんでもかんでも君の投影魔術と一緒にするんじゃない。一体何度説明すれば分かってくれるのだ?」

 普段からひっどい眼つきが更に凄みを増していく。元レディースって言われたら、間違いなく信じるぞ。
 そんな過去は一変たりとも無いはずだと結論しながら、俺はガクガクと首を縦に振っていた。 

「ああそうだ、君の言うとおり術者の幻想を真実そのとおり顕現させられれば、それに越したことは無い。だがな、人間のイメージなどそれこそ穴だらけ。とてもではないがそんな事は出来ない。それが“この世界に自然として”存在していないならば尚のことだ」

 鼻息を荒げて、先生は頬を痙攣させる。……そういえば、この話を五回くらい聞いた気がするぞ。説教の数を覚えているのに、肝心の内容を忘れる俺の脳みそは、中々に愉快だ。
 っと、馬鹿な思考が読まれたらしい。先生の眉間の皴がこれ以上深まらないように祈りつつ、俺は先ほどよりも早く首を縦に振る。

「確かに、相当の自然干渉系魔術の術者となれば君の言った通りに大気から“命のスープ”を捻り出すことも出来ようが、一般の魔術師にはそのようなことは出来ん。それにそもそも、出来たとしても相当の魔力を要する力技だ。とてもでは無いがまともな魔術師の思考では無い。なんせ、今のように既存の存在に少し手を加えてやればいいだけの話なんだからな。そっちの方が、燃費が断然良い。魔力の無駄遣いを好む魔術師が、この世界の何処にいるというんだ」

 張り切りすぎたのか、講釈の末尾では先生の細い肩が目に見えて上下していた。……まあ、俺の所為なんだけどさ。先生はいつだって事細かに教えてくれているのに、どうして俺はこう落第生なんだろうか。

「………胃が、痛い。何故なんだ、イリヤスフィール。コイツを弟子とってからというもの、私は自身の能力に猜疑心を抱かずにはいられない。根源に挑むのと、コイツを一人前に仕上げるのは、果たしてどちらが遠いのだ?」

「コメント、難しいわ。ゴメンナサイ、安易な励ましなんて、わたしには贈れないもの。ただ、覚悟するのよ、トウコ。一つ確かなのは、絶対的な不可能に挑んでいるってことだけ」

「……刹那を紡いで永遠に至る、とはよく言ったものだな。そうだな、我々は不可能に挑むモノ。僅かの可能性が残っているのであれば、それを手繰り寄せよう」

「うん。いい言葉ね、それ。わたしも心に留めておくわ」

 ………あー、はたから見るには中々意味深でカッコ良さ気な遣り取りであるのは認めよう。だがしかし、お二人さん。俺、いい加減涙が堪えられないんだが、どうか? そろそろ止めにしていただけまいか?

「ふむ、まあ兎に角だ、分かったか衛宮。この儀式魔術におけるアドバンテージと、私達が創った魔具の利便性と、重要性が」

 あからさまな俺への当て付けで、先生が深く大きなため息と一緒に漏らす。
 ほろり、と頬を伝う熱いものを隠しつつ、俺は頷く。今度こそ、大丈夫、今夜の説明は絶対に忘れない。

「はい、完璧です」

「ふむ、いい返事だ。実に宜しい。―――――ちゃんと理解しているのなら、だがね」

 完全に先生の信用を失墜している俺は、地べたに胡坐をかいたまま乾ききった笑みを浮かべる以外に手立ては無い。

「大丈夫ですよ、今度こそ本当に。今回は先生の付属させた青奇天の特性とかと関連付けて覚えましたから」

「まあ、それなら安心かな。剣が絡めば、確かに君は優秀なヘッポコではある」

「はは……優秀なヘッポコ。ですか」

 酷い言われようである。
 ちなみに。イリヤの補助礼装、青・倚天のもう一つの能力は、主に先生がその必要性を考慮し付属された。その機能をバージョン2と言う。……そのまんまだ。
 それはさておき。俺が考案した外界干渉系魔術の補佐をするバージョン1は武器としての側面を色濃く残していたのだが、改良に及ぶ改良の末、現在、イリヤの武装は試作品の三号目。
 いつくつも試作を重ねていく内に、完成に近づき、複数の機能が付属されることなったお買い得、言い換えれば器用貧乏な概念武装なのだ。
 丁度麻帆良の吸血鬼事件の前後だから八月ごろだったろうか? 試作一号が出来てから、その問題点や改良点が浮き彫りになったのは。
 そして、話しにも出てきたが、今回の鍛錬でも重要な役割をこなしたバージョン2は先生が俺の設計に色々口を挟んだだけあって、試作一号の機構を元に、中々面白い能力が付属されることとなった次第である。
 そもそもバージョ……長いな。そもそもV2はこのような儀式形式の魔術補佐を目的に考案、改良された。
 みなまで言う必要は無く、全ての魔術はパスを接続しなくては始まらない。どれほど大掛かりな大魔術式を描けたところで、パスを接続して魔力を流せなくては意味が無い。
 だがっ、先生が改良案を構築し、新たに改造されたV2は、このパスの接続全てを吹っ飛ばせる素晴らしい発明なのだっ!!
 青・倚天、剣の形態というアドバンテージを充分に生かし、こいつが突き刺さる全ての“物質”に問答無用でぶっといパスを通すことを可能にする“楔”。
 面倒で小難しい術式を一切必要とせず、是を突き刺した全ての物質はイリヤの魔力による干渉を受けてしまう。喩えそれが遠坂の魔術を帯びた宝石であっても、青・倚天が突き刺さったのであれば、問答無用で魔術干渉を行える。凄いぞ、俺が欲しい。……きっと流す魔力の量とか編みこむ術式がメタメタだから使えないだろうけど。
 んで、ここまで改良したのはいいのだが、結構カスタム作業が面白い。癖になるのだ。俺と先生、凝り性の二人だから、気づけば。

「次、どんな機能を付属しましょうか?」

「そうだな、もう少し凝った創りで……」

「あ、いいですね。それじゃあ……」

「ふむ、悪くない。早速取り掛かろう」

「………ねえ、トウコ、シロウ。なんか、手段と目的が変ってきてない? それ、わたしの礼装だよね?」

「ああ、最高に面白い愉快な礼装にしてやるからな、イリヤスフィール」

「……もう、勝手にして」

 なんて、森羅万象狂いも無いほどの自然な流れで、改造費とか手間だとかお構いないしに、担い手であるイリヤの意見もお構いなしに、試作三号の開発に着手した。十月の事である。
 で、自分で言うのは何だが、V3の能力もまた面白い。
 こいつは先ほどから先生も話しているが、濾過器としての役割を担っている。無色の物質を先ほどのようにイリヤの魔力と術式で反応させて、変容させたり。他人の魔力を帯びたものを無色の存在に還元したり。これは礼装の象が剣だけに、物質が液体のときに限られたりと色々使いどころが難しいが、兎に角。
 これらの能力を組み合わせて、例の儀式魔術とかを成功させたのだ。
 唯の水に礼装を衝きたてパスを接続、そして剣を通じてイリヤの魔力と術式で“唯の水”を過去に濾過させ“命のスープ”……とは言っても先ほどのように俺のタンコブを治癒する程度の概念付加溶液を精製したのだ。
 他にもV4の構想もあるにはあるのだが、コレはまあ良いか。どれも結局は“アンテナ”の機能に間違いは無いのだから。
 ……しかし補助礼装は宝具などの限定礼装と違って一つ一つの能力は大したことないのに色々と複数の機能を付加できるので面白い。俺も一つくらい欲しいなあ。

「まあ兎に角、君は勿論のこと、私達の作った礼装以上にイリヤは大したものだ、というのが今夜の結論だな……っと、時間もいい頃合いだな。今日はそろそろおしまいにしようか?」

 先生は左手の時計を女性らしい仕草で確認。この工房には時計が無いし、俺も腕時計は外していたので時刻を知る術がなかったのだが、先生の言葉から八時近いことが予想できた。
 幹也さんはまだオフィスで残務整理をしているのだろうか? 彼の担当とはいえ、まだ終えていないようなら手伝わなくては。

「ういっす。それじゃ、今晩は上がりですね?」

 腰が折れそうな身体をイリヤの手を借りて起こす。幹也さんの手伝いもそうだが、こんな身体で晩飯作るのか? 遠坂の定期連絡も今晩はしなけりゃならないのに大丈夫だろうか、俺の可哀想な体。

「ああ、ご苦労さん。オフィスで黒桐にもさっさと帰り支度を済ませろと伝えておいてくれ。しかし情けないぞ、衛宮。しゃんと歩け、しゃんと」

 先生はこの工房のデスクに腰掛けたまま、俺を激励。貴方の無茶な鍛錬が原因ですよ?
 俺の腕を重そうに担ぐイリヤに、軽く頭をもたげてドアを探す。

 だが、ソレを阻んだのは理不尽な先生の声でもなく、俺の身体が油切れしたからでもなかった。

 TRRRR、TRRRR、TRRRR・・・・・・

 耳に残る電子音がただ工房の暗がりに響いた。
 電話に点灯したランプは内線。どうやら幹也さんからの取次ぎだ。

「―――――ああ、私だ……何? なんで麻帆良の爺から? ……まあいい、寄越せ」

 先生は電話を取るのと同時に、タバコを咥える。
 俺とイリヤは顔を見合わせ、先生の揺れる紫煙を眼で追っていた。

「私だ、こんな時間になんのようだ、営業時間はとっくに過ぎている――――って何っ!?」

 会話の端から、野次馬根性も手伝い電話の相手を予測していた。恐らく近衛の爺さんだ。数分もしないうちに、先生の顔色がみるみるうちに変わっていく。

「おい、ちょっと待て。大体なんだその仕事はっ!? コラっクソ爺、話をっ……」

 なんか嫌な予感。俺はその場から逃げ出すように扉を閉める。
 さて、今晩のご飯は何を作ろうか?

 此の時、暦は十二月。
 一本の電話、そして。

「しかし、なんで今更」

 黄金の剣。
 朧な夢の幕開けと共に、俺たちの極月は迎えられた。



[1027] 第二十五話 願いの行方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 04:04
/ 3.

「……………京都に来ちまったよ、おい」

 銀行強盗の方々が使うような黒い国産のバン、その運転席から降りた俺は大きく伸びをする。吸い込む息吹には古都の香が紛れていた。

「当たり前でしょ、コノカ達の里帰りについて来ているんだから。何言ってるのよ、シロウ」

 日本贔屓の俺としては、飛び上がるほど好ましいこの場所は近衛の実家。車を止めた石段の目の前には、数え切れない朱色の鳥居が俺たちを迎えてくれている。
 ただ、若葉マークの俺が高速に乗っかって数時間の運転なんて無茶をしたもんだから、疲労の所為もあって上手く喜びを表現できないでいた。

「…………分かってるよ、だけど話が急だったから未だに信じられないだけだって。イリヤだってそうじゃないのかよ?」

 倦怠感の残る身体で、俺はリアシートから先生から借りた旅行鞄を幹也さんと一緒になって下ろす。
 そうしながらイリヤに尋ねたのだが、生憎とそれに答えたのは近衛だった。

「まあいいやない。衛宮君達はお仕事やし仕方ないやろ? 今回も護衛、宜しくな~」

「まあ護衛のお仕事もそうですが、京都の町も充分に楽しんでください」

 近衛と桜咲はバンの影から顔を覗かせている。彼女たちは帰郷の為に荷物が少なくて済むが、イリヤや式さんはそう言うわけにはいかない。近衛と桜咲は二人を手伝いながら答えてくれた。俺は、難しい顔で二人を見る。同じくして、髪を眠たげに掻き揚げて、ぼんやりと式さんが口を挟んだ。

「でもな、そもそもが護衛の仕事なんか名前ばかりじゃないのか? 別に京都に吸血鬼が潜伏したとか、危険な魔術師が逃亡してきたとか、そういった噂だって聞いていないし、今目立った事件と言えば西日本全域で行方不明者が増加傾向にあるって位だろう? どうして木乃香の爺さんはオレたちに護衛なんかをさせるんだ?」

 車内に荷物が無いのを確認する。式さんの愚痴を聞きながら俺は先生から借りたバンに鍵をかけた。
 今日とて着込んだ茶色のジャンパーの右ポケットにキーを突っ込みながら、近衛の実家の私有地の広さとか、野外駐車場のでかさとかに驚きつつ、式さんが俺の代わりに、ずっと引っかかっていた疑問を吐露してくれていた。
 色々な紆余曲折の末、俺、イリヤ、幹也さんそして式さんの四人が近衛の里帰りに伴い、京都までやってきているのはいうまでも無いが、事の起こりは一本の電話。
 俺が選定の剣を夢に見た夜に先生が受け取った日本魔術協会長からの依頼だった。

 “冬休みの間、京都に帰還する孫の護衛、そして日本呪術協会本部への引渡し”それがクライアントからの唯一の依頼。

 高校生の里帰り程度に、何を大げさな。俺がこの話を聞かされたときの第一声だ。
 だが、この考えは後に先生と依頼主である近衛の爺さんの説明によって覆される事となる。
 極東最大の魔力保持者。それが一つ目。
 一個人、一介の魔術師の範疇を逸脱した強大な魔力を保持する近衛は、様々な外敵を呼び寄せる。麻帆良での吸血尾に事件でもそうであったように、高純度の神秘を内包した血液を求めるヴァンパイア、そもそも単純にその強大な魔力を魔具、魔力供給機として利用しようとする魔術師、制御しきれない神秘の群がる魑魅魍魎。
 二つ目は、近衛の立場上の問題。
 日本の退魔組織のトップ、その一人娘であり日本魔術協会長の孫娘。コレについてはあえていうまでも無いだろう。どこの世界でも、権力って奴は時に人を不幸にするんだ。
 事実、彼女が中学生で神秘なんて何も知らずに生きていた時でさえ、その莫大な魔力を狙われたり、立場上のいざこざに巻き込まれたりしたらしい。
 そして、ここでも登場する“ネギ先生”。彼がこれらの事件を全て解決したらしいが、その後も、近衛は常にこの手の脅威に晒されている。
 なればこその桜咲。上級の死徒、魔術師にすら引けを取らぬ高位の剣士だ。
 通常、彼女一人で護衛は充分なのだが、それは防衛体制が整えられている麻帆良であればの話。長距離の移動や、里帰りには常に二三人の護衛が近辺を固めるのが常だそうだ。
 だが、物々しい話は既に過去の遺失物。ここ三四年は目立った動向も無く、近衛は誠穏やかに日々を過ごしている。それは本当に嬉しいことだ。いくら近衛も魔術師だって言ったって、人並みの幸せを掴めているんだから。
 つまりは結局、今回の俺たちの護衛任務も念のためと言った色が強いってこと。
 それは兎も角。
 先生が正式に仕事を請け負ったのは事実だし、護衛の任務でここに出向いてきたのだ。
 イリヤだって自身の武装を持ってきているし、式さん……はいつもの様に懐には銀のナイフ。俺は物騒な荷物の詰まったラゲージを転がしながら、気持ちを引き締める。
 思考に埋没しながら聞き耳を立てていたのだが、桜咲がようやく回答を寄越してくれた。

「学園長は衛宮を大きく買っていますからね。吸血鬼の件もありますが、今冬の里帰りで麻帆良の魔術師を護衛につけるのではなく、衛宮たちを護衛につけたのはそれが理由でしょう」

 石段を登る桜咲と近衛の背中を眺めながら、俺は話半分に頷く。
 俺たちが今回近衛の里帰りの護衛として選ばれた理由がそれだけでは無い事が、何と無くだが分かっていた。
 協会長が伽藍の堂に、俺たちに護衛を依頼しのは、単に俺たちが近衛の“友達”だからだ。協会長は切嗣見たいなフェミニストだし、きっと自分の孫娘の“日常”は日常のままにしておきたいのだろう。見ず知らず、もしくは神秘にその身を浸す生粋の魔術師と過ごすギスギスした帰郷ではなく、それが僅かな時間であっても当たり前であって欲しい。きっと、そう考えての配慮に違いなかった。

「まあ何にしても、楽しませてもらうさ。近衛の護衛も、お前らが言うような京都の観光もさ」

 引き締めた精神もやおら、振り向く桜咲と近衛の本当に楽しそうな微笑に、俺は脆くも陥落した。
 視覚よりも先に、嗅覚が俺の和製の精神構造を刺激する。伝統深い木の社の匂いと、香でも焚いているのか、ここまで清涼が香っていた。冬の快晴を和らげる優しい冷気。雅に漂うソレは、ワーカホリックだった俺の心を旅情に掻き立てる。
 そして気付いた、果てが無いかと思われた朱色の鳥居は残り僅か。日本の赴きある精彩、個人の所有とはとても思えぬ寺院が目前に覗かせていた。

「へえ、すごいわ」

 感嘆はイリヤだ。豪奢なものには耐性があるはずの彼女ですら息を呑む。
 東洋、いや日本風の寺院は見慣れていないであろうイリヤは歳相応の笑顔ではしゃぎ、笑顔を溢した。
 石段を昇りきった頂にある寺院。
 京都の町と、囲まれた山々を一堂に見渡せる絶景が二つ目に飛び込んできたものだった。

「はは、……本当、すごいなぁ。式の実家だって相当なものだと思ってたけど。一般人の貧相な価値観じゃ、ちょっと言葉が見つからないな」

 驚く三人、言うまでも無く俺、イリヤ、幹也さんだ。

「まあ、そうだろ。オレだってここに初めてきたときはそれなりに驚いた。まあ、ガキだったけどな」

 その隣を、飄々と赤のジャンパーと空色の着物を召した式さんが素通り。
 石畳の本道に鞄を転がし、個人所有とはとても思えぬ寺院に三人の日本美人は歩幅を変えず進んでいく。俺たち一般人2名と異国のお姫様は、恐らく巨大な寺院の本堂に向かっているだろう彼女たちに続く。
 ……立派な門構えは、余りのでかさに俺を萎縮させる。最も、そんな貧しい感想を抱いたのは俺と幹也さんだけだったらしい。
 逞しきかな女性人は、顔色一つ変えず堂々と凱旋を果たした。

「 ? 何してるの、シロウ、コクトー。コノカ達、母屋の方に行っちゃったけど? ほら早く行きましょうよ」

 不思議そうに、されど柏木作りの玄関に感心しながら、イリヤが立ちんぼの俺と幹也さんに言った。悪かったよ、所詮俺らは一般人1と2だ。
 小首を傾げるイリヤ。ピョコンと跳ねた彼女の三つ網を恨めしく思いながら、俺と幹也さんはやっと門構えを潜るのだった。

 そして、この冬最後の旅路は始められる。
 立ち行かない俺の想いと、未だ気付かぬ最後のピース。
 俺の探し物が彷徨うこの街で、きっと掴み取るために。

 夢に見た黄金の運命。
 選ばれなかった救いは、きっとここでもう一度。

 俺は確信にも似た予感を胸に、皇の街へ、そして俺は敷居を跨いだ。





Fate / happy material
第二十五話 願いの行方 Ⅱ





「この度は良くいらしていただいた」

 巨大な畳敷きの閨。
 容積と内容物が余りにも違いすぎる。俺は近衛と桜咲に通されたこの部屋で、味の良く分からないお茶をすすっていた。俺たち伽藍の堂メンバーと近衛、桜咲そして目の前でピッと姿勢を正す壮年の男性だけがこの空間にいる。
 恐らく八十畳ではきかないこの大広間で軽い自己紹介の後、壮年の男性、近衛の父親、詠春さんが口を開いた。

「はは、そんな畏まらずに」

 いや、そうは言ってもですね。
 こんなだだっ広い千畳敷で、持成されたことなど無いわけで。

「まあ、お互い知らない仲じゃ無いしな。しかし、奇妙な縁もあるもんじゃないか、詠春」

 言われる前から緩みまくっている式さんは肘をついてあぐら。イリヤもイリヤで、当然のように沈黙を保つ。女性ってすげえ、その適応力には、感嘆を禁じえない。まったく、俺と幹也さんは二人にただただ舌を巻くばかりである。

「本当に、両儀の当代もお元気そうで何よりだ」

「止めろよ、その呼び方。それに、言われるなら“末代”のほうが良い。話は、通ってる筈だけど?」

 ズッと、式さんが音を立てて茶碗に口付け。

「まあ、それはいいでしょう。君の言う通り、何より今日は奇妙な縁に礼を払わなくてはね」

 単衣の着物で腕組み、真横一列に並ぶ俺たちを舐めるように流し見る詠春さん。
 痩せ細った顔立ちと、紅白の浄衣の上からでもわかる屈強な体つき。そして何より、一流の剣士としての中身を見透かされるような鋭い眼光。
 姿見が全く異なっているのに、彼の瞳が俺の憧れと重なる。そう感じたのは、切嗣と詠春さんの生まれ年が近い所為もあるのだろう。切嗣が生きていたら、きっと、彼と同じようなタイプの父親になっていたに違いない。あくまで、俺の陳腐な想像のうちでの話しだが。

「なあなあ、お父さん。そんな堅苦しい挨拶はいいから、早く衛宮君たちをお部屋に通しやっ。荷物を置いたら京都の街にくりだすんやから」

 だんまりと俺とイリヤに絡めていた詠春さんの視線は、その一声に解けた。

「はは、いやね、娘が刹那君以外の友達を家に寄越すなんて何年ぶりかと思ったらつい嬉しくてね。長旅で疲れているのに、コレは申し訳なかった。直ぐに準備させる」

 よっこらしょ、と席を外す詠春さん。
 ひょろひょろした痩躯からは想像出来ないほどの見事な足運び。それに思わず息を呑んだ。あの人、とんでもなく強い。日本呪術協会長、退魔組織の長は伊達では無いらしい。

「―――――おい、衛宮。機会があれば夜中にでも手合わせしてもらえよ。詠春の奴、相当出来るからさ、中々勉強になるぞ」

 俺が襖から消える詠春さんの背中を追う横で、式さんが小突いた。どうやら、考えたことが顔に出ていたようだ。
 式さんの発言に「そうだなあ」と賛同を匂わせ、頬を軽く掻く俺。
 確かに手合わせは魅力的な提案だけど、ここの選択肢を間違えると、即デッドエンドな予感がするんですが。

「ああ、ソレが良い。長は神鳴流の剣士としても超一流ですから、後ほど私のほうからお願いしてみましょう、式さんもいかがですか? 私も久々に長と手合わせを願いたいと考えていましたし、丁度良い。今日の晩にでも、道場の方を空けていただきましょう」

 俺が慎重に思案する正面、意外にも桜咲が賛同してくれた。
 とんとん拍子に話が纏まる傍ら、俺の心のうちは複雑だったりする。
 そりゃ、熟達の剣捌きを間近で勉強できるのは有り難いけど、俺のレベルで手合わせになるのか甚だ不安である。式さんにいつも手加減されている分際でこんなことを言うのもなんだが、力の差を見せ付けられるのも結構傷つくのだ。
 詠春さん、式さん、桜咲が本気で立ち回っている最中、俺だけ置いてけぼり。そのシチュエーションって、なんかさ。

「いいのか? それは嬉しいね。オレは詠春と年末のちょっとした時間でしか打ち合ったことが無いんだ」

 気付いているのか、いないのか……式さんが懐からナイフを抜き出し弄び始めた。断るタイミングは既に逃している。俺はグッと熱いお茶を飲み干し、滅多打ち(受身)のチャンバラに赴く決心を一緒に腑に落とす。

「それじゃ、俺もお願いしようかな。毎日式さんと鍛錬してるんだ、その成果を確かめたいしな」

 決めてしまえば、後引くものは何も無い。今晩の鍛錬が楽しみになってきた。京都に来てまで何をしているんだかと思わなくも無いけど、これはコレで、ここでしか出来ない楽しみ方だよな。

「………旅行に来ても鍛錬ね。シロウもシキも、やっぱり変」

「同感やね。せっちゃんが嬉しそうやから構わんけど、なんか違うよな」

「良いんじゃない? 皆楽しそうだもの」

 雑感を締めくくった幹也さんが、お茶を飲み干した頃、襖が再び開いて詠春さんが戻ってきた。控えさせた侍女が盆に乗せているのは人数分の浴衣だ。すごいな、旅館みたいだ。

「部屋の用意が済んだよ。お話しは夕食の席でもう一度。それでは木乃香、京都の町、キチンと案内してあげなさい」

「そんなん、わかっとるよ。それじゃ、お部屋に荷物を置いたらここに戻ってきてな。そのあと近場から案内してやるから」

「時間はたっぷりありますからね。初日はあせる必要は無いでしょう。―――それでは皆さん、お部屋の方へご案内いたしますので、どうぞこちらへ」

 一人閨に残る近衛と、俺たちを先導する桜咲。
 護衛役の俺たちが持成される奇妙な空気の中で、俺達は京都の旅情に心を浮つかせていた。

/ 4.

「へえ、コレが有名なキンカクジね。中々綺麗じゃない」

 鹿苑寺。足利義満縁の寺院、京都の北山に在りし日本で最も著名な建築物を眺め、異国の姫君は木製の柵から身を乗り出している。池を囲った回遊路から、見渡せるその風景は確かに綺麗だ。
 ちなみに、金閣寺と言うのは寺全体をさしての通称なので、今現在俺たちが眺める舎利殿は“金閣”と呼ぶのが正しいと思う。

「うん、夕焼けに映える絶景も文句なしだものな」

 だが、それを言及するのは些か無粋というもの。言外にして、紅い空と煌びやかに佇む黄金の塔を見つめる。
 色々京都の町を連れまわされて結構疲れたけど、この日の締めくくりとして連れてこられたこの絶景を臨めば、身体の重さなど霧散していることに気付く。

「でもこの塔、本当に派手派手ね。日本の味はワビとサビだと思っていたのに」

 ふむ。外国人には艶やかな世界遺産指定の文化財が人気だと聞くが、イリヤには不評のご様子。先ほど訪れた銀閣の方が流麗な雰囲気があって心に響くものがあったのもまた事実。和み、緩やかに時を流す情緒があってよかったと思うのは、日本人だけかと思えば、この異人さんも同じモノ感じていたようだ。
 漆地に金箔を押した堂々たる武家造りの二層、そして仏舎利を安置した三層。極めつけは頂点、こけら葺きの屋根にある黄金の鳳凰だ。
 確かに、日本的では無いこの美しさ。それでも、朱色に混じる黄金の絶景は心象を焼き付け、情動をこみ上げさせるのに充分だった。
 知らず歪めた口元は何を思っていたのか。――――――――決まっている、いつかアイツと見た夕焼けだ。
 確か今みたいに、あの日も俺は朱色と黄金の美しさに心を奪われていた。俺は、そんな忘れていた綺麗な思い出を、唐突に引き出していた。

「―――――――――でも、……それでも綺麗だよな、なんか尊い感じがしてさ」

 アイツにも、見せてやりたかった。
 僅かしか日本の情緒に触れることが出来なかったアイツだけど、それでもきっとこの景色を綺麗だと感じてくれるはずだ。
 ああでも、あの勇猛な王様と来たら、ここまで豪華な寝屋はお気に召さないかもしれないな。アイツ、そういう奴だったもの。
 在りえたかもしれない、意味の無い日々の夢想。顔をなぞれば、俺は微笑んでいた。
 俺たちは並び、アイツの髪と同じ金色の美しい舎利殿を沈黙のまま見守る。
 しかし、その静寂を破ったのは誰でもない、そう、本当に誰でもない誰かだった。

「尊い、ね。――――――――――――君、いい感性してるよ」
 
 俺の隣に並んだ誰か。
 そいつは俺と同い年くらいか。銅色がかった細く繊細な髪、恐らく染めているであろうその柔らかそうな髪を首元で結い、夜が近づき冷え込む外気に髪房を流している。
 女性的で神経質そうな顔立ちを朱色の湖面に向ける突然の人影。池の表面はまるで鏡の様で、不規則に揺らぐ極小の白波が金の寝殿を映し出していた。
 現れた来訪者に桜咲が警戒する。無論、俺と式さんも僅かに構える。

「―――――――ああ、コレは失礼しました。ちょっと僕も感動してね、思わず声を掛けてしまったんだ。そんなに驚かないで欲しいな」

 慇懃な薄ら笑い。俺にはそう感じられた。俺の中に僅かだが垣間見せた嫌な感情。
 だけど……大丈夫、こいつに敵意など無い。神経を尖らせすぎたようだ、俺は息をついて肩の力を抜く。それは桜咲も式さんも同じだったらしく、一瞬だけ緊張した空気は既に夕闇の中に融けていた。
 光耀として佇む金閣、ソレを背負い赤色のジャケットを調えた誰か。その仕草はどこか上品で、育ちの良さを感じさせる。

「しかし、君もうらやましいね。こんな美人に囲まれての遊覧なんて、早々出来ないよ」

 礼儀正しくこの場を去ろうとする彼。
 どうやら、気分を害してしまったようだ。

「む、やっぱりそうなのか? 道理で今日一日視線が痛かった筈だよ」

「そうだね。でも、その分楽しめたんだろう。思わず僕も嬉しくなってしまうよ。君の顔と一緒だ」

 子供らしいのに、どこか影を落としたぎこちない笑み。見知らぬ誰かは顔を変えた。紅い外套は、同色の空色に紛れて彼の存在感を希薄にしている。
 ―――――――――足りない。
 漠然と、俺は目の前の誰かが壊れ物のように思えた。それは、いつかの俺を見ているようで。余りいい気はしない。
 “過去を映す鏡”。
 そんなイメージが俺の中に湧き上がる。

「それと、悪かったね。唐突に声を掛けてしまって、驚かせてしまったみたいだ。海外での慣習かな? 馴れ馴れしいのは、美徳とは違うからね」

 表情も無く、彼はとつとつと言った。幻想は瞬きの内に破却されている。

「あっ、いや、こっちこそ悪かった。急に気を張って、あんたこそ驚いたんじゃないのか?」

「そうやん、謝るんはこっちやで。ゴメンな」

 少し焦り気味に告げた一言は、近衛のフォローで一応の形になる。

「はは、ありがとう。優しいね、君たちは」

 薄い表情の人影はコクリと僅かに頷いただけだった。池の回遊路。軋む木の梁を踏み、誰かが遠のいていく。
 最後に彼は何かを溢したようだが、ソレを聞き取ることが、俺たちには出来なかった。






「―――――また会いましょう。近衛木乃香。この街が異なる朱色に塗れる、その前に」






 それが、俺と誰でもない鏡との赤い夕闇の出会いだった。



[1027] 第二十六話 願いの行方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 04:14
/ others.

「ボーイ。んー、どうだったかね? ターゲットと接触してみて。今回の要はあのお嬢さんだ、極東の協会長の孫娘、退魔組織トップの娘、そして、世界でも指折りの魔力保持者。彼女なくして君のシスターの願いを叶えるのは無理なのだよ」

 赤ら顔の男は、愉快そうに口を開いた。
 肥大した肉饅頭みたいな顔に小さな鼻がめり込んでいる。卑猥な顔を歪ませ、禿げた頭を撫でる男の表情は見るに耐えず、少年は何時ものように直ぐ視線を逸らした。
 ワゴンの車内に満ちた男の腐った口臭が少年の鼻腔を侵している。効きすぎた暖房は男の加齢臭を助長させ、車内は腐乱し、少年、鏡の表情を歪めさせた。

「……そうだな、二人ほど厄介な奴が護衛についてるけど、何とかなるね。手はず通り、アンタの準備が出来次第決行するよ」

 先ほどの丁重な言い回しはそこにはない、捨て鉢に言い切った彼の台詞はこれ以上話を続けたくないと言うアクセントを含んでいた。しかし、そんなニュアンスに気付かない愚鈍な感性を持つ醜い男性は、愉快そうに分厚い唇を歪める。

「そうだね、撒き餌は此の時の為にばら撒いていたのだ、君の一言も実に頼もしいな。ひひ、そうともなぁ、ようやくミスミヤコの念願は叶おうとしているのだ。君も心躍る気持ちであろう?」

 鏡は答えない。何故、どうして姉さんがこんな奴に助力を求めたのか? 彼は未だ信じられないでいたのだ。だが、他の魔術師の助けがいることは鏡も充分に理解している。
 理由は明白だ、都、鏡には魔術、形式的に神秘を行使するための下地が無い。
 故郷の炎上。
 鏡の親愛なる姉の願いを叶えるためには、古にあった大魔術式を“解除”する必要がある。故に、助力を求めたのは道理だ。だって二人には解呪の術式など使えないのだから。

「――――――――それで、姉さんは?」

 仕方なく、彼は話を続けることにした。
 不愉快極まりないと、彼は心の内で頬を顰める。

「彼女は龍界寺の守りについているよ。魔術式は粗方解除したし、後はミスコノカの魔力を注ぎ、楔を放てば良い。それで道は開く。解呪の影響で“魂食い”がこの街に多数発生しているが、まあ大気中のマナの濃度が高くなってしまっているし、仕方が無いか」

「ふん、ソレもアンタの計画の内じゃないか。そのための魔術だろう?」

「んー、まあね。異なる世界への道を創るのだ、コレくらいのリスクは甘んじて受けるべきだろう。まあもっとも、それを受けるのは私たちでは無い大多数の他者であるわけだが。―――――ひひ、しかしこんな極東の地で、あれほどまでの優れた魔術式に触れられるなんて想いも依らなかったなあ。今宵も、君の姉君にも感謝を忘れることが出来ないよ」

「そうかい。でもな、馴れ馴れしいよ、お前。アンタは僕たちの命令だけこなしてくれればいい、下手なリップサービスはいらないんだよ」

「んー、厳しいな。まあいい。しかしな、私の力なくして、君たちが復讐を果たせないということも、肝に銘じたまえよ。どうも、私の価値を軽んじられている気がしてならない」

「被害妄想だよ。それは」

 動く密室は、この手の話し合いには実に有益だ。
 助手席の鏡は、魔術師の詰まらない話などを聞いてはおらず、そんなことをぼんやりと考えていた。
 今回の帰郷。目的は言うまでもない、復讐だ。
 鏡が拾われてから既に五年。都の悲願は、この下品な魔術師の入れ知恵により、もう直ぐ成ろうとしている。
 そう、魔術師の思惑が別のところにあるとも知らずに。

「ひひ。さあ、早く戻ろうか? シスターも待っているよ」

「そうだね。どちらにしろ、動くのは今夜じゃない」

 そして二人は、口を噤む。
 沈黙の縁で、鏡は夕闇の金閣ですれ違った紅い髪の男に奇妙な憎悪を抱いたのを思い出す。
 だが、その感情を彼は履き違えていた。
 その心のうちから零れた不快感を、彼は計画への焦りと捉えた。

「大丈夫、姉さんは救われる、彼女の願いはきっと叶う。この街はきっと赤く臭い立つ。それだけを叶えるんだ、僕にあるのはそれだけ、姉さんの願いを映す鏡。ソレが僕、ソレが鏡、ソレが僕、――――――――ソレが、鏡。姉さんの、鏡」

 そう、鏡は気付かない。
 夕焼けの出会い。そこで出逢った自分と同じ偽者は、だけど自分とは違う、確かな本物を担っていたことに。
 そう、鏡は知らない。
 彼は、いつだって彼女と共に過ごせるその幸福のみを望んでいると言うことを。





Fate / happy material
第二十六話 願いの行方 Ⅲ





/ 5.

 さて、豪華な夕食を最初に通された座敷で堪能した後、お楽しみのチャンバラタイムに突入しようとしている。
 衛宮邸の道場を十倍にしないと対抗できない広さの板張りの空間に、俺と式さん、そして桜咲は通されていた。今日の夜は些か冷えるものの、都心の突き刺さるような寒気はそこにない。木々や山々に囲まれ潤いを含んだ冬の冷気は、滑らかで気持ちが良かった。
 式さんは空色の着物一枚だけだし、桜咲とてシャツにスパッツと言う簡単な格好だ。それでも寒くないのは京都の外気故か、それともやはり、鍛錬を前に精神が高ぶっているからだろうか?

「さて、刹那君と両儀の、君たちは竹刀でいいのかな? それと、衛宮君。……君は」

 紅いジンベエを羽織った詠春さんは、長閑な微笑で式さんと桜咲に竹刀を手渡す。
 だけど、どうして俺の前で戸惑うのか? 不自然な空白。俺はどうしていいか分からず、首を掻く。

「えっと、俺も竹刀を。出来れば二刀がいいんですけど、一刀でも全然構いませんよ?」

 そう言って、俺は竹刀を受け取ろうと手を差し出す。
 それでも、どこかぎこちなさを拭いきれない近衛の親父さん。

「剣……そうか、君は違うのか」

「はい?」

 違うって、何がさ?
 何かを思い出すように顎を擦った彼は、はっと誤魔化す様に口を滑らせた。

「ああいや、なんでもないよ。君、なんて言うか飛び道具向きの身体つきというか、あまり剣士っぽくないんだ、それでね」

 焦る詠春さんは、俺に竹刀を手渡す。
 しかし……心外だぞ。俺はコレでも剣を持って打ち合うのは好きなのに。

「詠春の目利きも中々だ。オレもそう思うぞ」

「そうですね、衛宮は草食動物みたいですから」

 ………チョッと待て。桜咲が頓珍漢なこと言わなかったか? 草食動物と剣士の向き不向きってどんな関係があるのさ?

「確かにな……なんて言うのか……アルパカ?」

 式さん、冗談ですよね。
 アンデス山脈に生息する家畜と剣の鍛錬、何も関係ねえ。ああ、つまりアルパカが剣を振り回すくらい俺は剣士に向いて無いって事か、それは?

「ぷっ」

 おい、そんで持って桜咲。お前のネタ振りだぞ。
 俺の顔を見て噴出すのは勘弁してくれ。軽く心に傷を負うから。

「―――――はは、いや若者はいいねぇ。」

 いやいやいや、さすが近衛の親父さん。
 近衛のあの素晴らしく荒唐無稽な性格は貴方の所為でございましたかっ。なんかこのままだだっ広い道場の隅っこでのの字を書きたくなってきた。

「……もう何でもいいですから、剣の鍛錬しましょうよ」

 そうして、始まった鍛錬。
 果たして、無事に明日の朝ごはんを食べることが出来るのか……っ!






「は、は、は、は、は」

 腕が重い。
 あれからどれくらい打ち合っていたのか、トレーナーが汗を吸いすぎて甲冑のように重く感じる。頬を伝う水滴を拭い、呼吸の仕方を思い出そうと努めるも、意味は無かった。
 もう駄目だと、俺は諦めてその場に尻餅をつく。
 俺たち三人を相手に、未だ一本も許さないあの人は、本当に人間か?

「―――――――っちい。刹那、左だっ」
「っ! 両儀さん、右ですっ―――――」

 目前では未だ式さんと桜咲が、一人の剣客にその刃を翻している。
 それでも、翻弄されるのは二人。詠春さんはあしらう様に払い、その攻勢を躱す。

「そら、今のは惜しいぞ。―――――――――」

 直線の加速で迫る式さんと、円を描き追い詰める桜咲。即席とは言え、二人の息は一分の空きもなく噛み合っている。いつかは対照的に火花を散らせた二人の刃が、今は踊るように融けあい、お互いの閃きを高めあう。

「――――――――――――調子に乗るなよ」
「その通り、今夜は一本もぎ取って見せます」

 上手い。
 一瞬の気の緩みか、詠春さんの左右。二人が詰め寄り、不可避の檻をかたどる。
 上段の式さんと、下段の桜咲。瞬きの間に三人の距離は零に―――――。

「百烈、桜花斬」

 ならない。
 唯一振りだ。後僅かの踏み込みが、果てしなく遠い。左右から同時に放たれた必殺は、回転の軌跡に絡め取られた。
 弧を描いた真横一文字の秘伝が、肉薄した間合いを再度開く。
 舌打ちは二人、なれど、その俊足が止まることは無い。式さんは一呼吸を置いて。桜咲は息つく間も無く。
 重なる必殺の機会は、類稀なセンスをもって絶妙なタイミングで僅かにずれ、今度は直線の檻を成す。
 桜咲が先駆ける、初太刀から渾身。その螺旋の一刀は放たれた。

「神鳴流、――――――斬鉄閃」

 届かない。
 至妙の間合い。衝かれたその刃は、詠春さんの皮一枚を掠め僅かに届かない。
 だが、彼女たちは未だ止まることなど知らなかった。必殺と思われたその一刀は、その実、唯の囮でしかなかったのだ。

「――――――とった」

 桜咲の真後ろ、遅らせたタイミングで――――――飛び込む。
 その様は早馬、桜咲の矮小な体躯を軽やかに追い越し、飛翔からの落下でその追迅を叩きつける。
 この必殺は躱せない。俺は二人の勝利を確信した、そう、所詮俺の拙い経験則では詠春さんの底を知ることなど出来なかったのだ。

「百花、繚乱―――――――――――」

 季節はずれの東風が凪いだ。
 直線に重なる二人に、一筋に結ばれた風の如き秘剣は放たれる。

「っつ!?」
「なっ!?」

 こわばる二人の体躯。その隙は、瞬きにも満たないというのに。―――――――――気付けば、幾重の閃きが冷たく、緊張した大気を裂いていた。竹刀の弾ける軽快な高音は、その鋭さを否が応でも教えてくれる。
 この攻勢を一太刀で防ぎきった詠春さんも流石だが、その逡巡、彼の二刀三刀を捌いた二人の才覚にも舌を巻く。一体いつの間の攻防だったのか、詠春さんは間合いを開く二人に詰め寄り、撓る断頭の面を桜咲に、腸を抉る胴を式さんに返していたのだ。

「ほう、今のを防いだ? コレはコレは。誠、大したものですよ」

 開けた間合いは五間。
 まみえる三人の剣客にしてみれば、その距離は無いも同じだろう。
 だがそれでも、―――――遠い、遠すぎる錯覚があった。
 外野で尻餅をつく俺でもそう感じるのだ、実際に立会いを続ける二人はなおのことその距離を感じて―――――。

「当然だろう。さあ、まだまだ行くぞ、こんなに楽しいのは久しぶりなんだ、つまらない言葉で水をさすなよ。刹那、次はもう一つ呼吸を上げていく、合わせろ。本気であいつの首を吹っ飛ばす」

「御意。長、今度は殺す気で踏み込みます。出来ればお怪我をなさらぬ様、ご自愛を」

 ――――いる訳、無いか。
 滴る汗は光輝を纏い、ほのかに染まった二人の頬が柔らかく微笑みをつくる。張り詰めていく暖冬の匂いは、それでも穏やかで力強さを失わない。

「……はは、怖いな。ソレは」

 恐らく冷や汗を隠しながら、詠春さんは正眼に竹刀を取る。
 流れが、傾いた。
 詠春さんの絶対的な技量で支配されていた空気は、桜咲と式さん、二人の気概に再び衡に揺れている。
 高揚していく剣気は、俺の身体に活力を無理やりにでも注入してくれたようだ。

「――――――くそっ、かっこわりぃぞ、衛宮士郎」

 いつまで不甲斐無くしている心算だ。俺は落ちそうな膝を持ち上げ、無理やり頬を吊り上げる。目の前では既に、三人がきっと俺ではついていけない鬩ぎ合いを開始している。
 それでも、ここで唯眺めているのは性に合わない。勝てないから戦は無いのなら、俺ははじめから剣なんて執っていない。
 気付けば、俺は駆け出していた。足手まといでも構わない、かっこ悪くても構わない。
 きっとボロボロにされたって、ここで眺めているよりはずっと意味のあることだと思うから。










「――――――頑張りましたね、衛宮」

 桜咲が道場の真ん中で大の字を書く俺を見下ろしている。
 身体は動かないけど、口腔は未だ生きていた。絶え絶えに息を吸い込み、俺は何とか返すことに成功した。

「……そう言ってくれるとありがたい。結局、俺なんかが加勢したところで詠春さんには届かなかったけどな。悪りい、足引っ張っちまったか?」

 二人、潤いが含まれた寒気の中で呼吸がダブっている。
 先ほど式さんと詠春さんは汗を流すと消えていった。残ったのは桜咲と、未だ動けない俺だけ。

「そんなことは無い。式さんもとても喜んでいた、衛宮は本当に強くなったと。私もそう思います。貴方は気付いていないようだが、麻帆良で貴方と打ち合ったときよりもずっと力強く剣が振るえていたんですよ」

 桜咲は俺のとなりに腰を下ろし、ふっと息をつく。
 そうして、手に持っていたやかんを俺の口へ無理やり差込、冷たい水を流し込む。冷えた何かが、火傷しそうだった俺の臓物を冷却してくれた。

「それでも、役に立たなかったのは事実だ。男として不甲斐無いよ、毎日鍛錬してるってのに、この程度の腕前じゃあな」

 受け取ったやかんで喉を潤し、天井を見上げる。

「衛宮。それは根底から既に間違えている。大体、貴方が剣を執ったのはほんの一年前だと言うではないですか、それで貴方の腕は大したものです。貴方は自分の事を過小評価しすぎる。謙遜は美徳だが、己を計り間違えるのは唯の馬鹿ですよ」

 すこしむっとした様子で、咽込んだ俺を馬鹿だと、桜咲は言った。
 呑み損ねた冷水が、やかんの口から零れ、俺の顔面に降りかかる。

「ごほっ……なんか、どんどん容赦がなくなってないか、お前?」

 初めて出会った時のしおらしくて礼儀正しい桜咲はどこいった? 
 俺はぼんやりと天上を眺めながら口を拭い、不思議と嫌ではなかったこいつの悪態を飲み込んだ。………確かアイツとの鍛錬も、終わりはいつもこんな感じだったな。
 道場は茫洋とした発電灯の光が溢れ、既に八時をまわった夜の雰囲気をことごとく拒絶していた。発光する蛍光灯を眺めすぎ、白んできた視界の先には、未だ小さな人影が膝を抱えている。

「貴方の言い分が癪に障っただけです。高々一年かそこいらの鍛錬で、私や式さんと同等に立ち会えるなどと、思い上がりも甚だしい。これでも、私は剣に誇りを持っているのです。そんな簡単に追いつかれてしまっては私の立つ瀬も無ければ、このちゃんに合わす顔もないでしょうに」

 拗ねるようにそっぽを向いた桜咲は、ソレでも俺のことを褒めてくれたらしい。左に結った黒髪は、彼女を普段よりも子供っぽくデコレートしてくれていた。艶のない黒すぎる髪は、それでも、よくできたチョコレート菓子みたいに甘い匂いがする。

「そっか悪いな、知らず桜咲や式さんの強さを貶めてた。サンキュウ、教えてくれて」

 だからだろうか。香に誘われるまま素直に、そう言った。
 そりゃそうだよ、桜咲や式さんが強いのは相応の月日と苦しい鍛錬の果てに出来上がったものの筈なのに。
 才能なんて言葉を気にしないように努めるくせに、実は、俺がその言葉に囚われすぎていた。式さんも桜咲も、才能があるから強いんじゃない。きっと二人だって天才以上の鍛錬を頑張ってやりぬいたからこその技量なんだ。

「ふふ――――ああ、貴方は本当に。そうですね、衛宮はそういう人でした。ここは、素直にどういたしましてと、そう言葉を贈れば宜しいですか?」

 桜咲はどんな言葉を飲み込んだのか、うっすらと俺に失笑を送る。
 ぬう、冗談だったらしい桜咲の言葉に、シリアスしすぎた様だ。ヤバイ、かなり恥ずかしい。

「そうしてくれ、―――――――はあ、にしてもここは空気が美味いな。京都の町はあんなに賑わってごわごわしていたのに、ここは全然違うんだ。何て言えばいいのかな、清涼で瑞々しいんだよ」

 話題を変えようと、俺はごろんとうつ伏せから仰向けに体を変える。
 腹に当たる木張りの床は気持ちが良い。

「そうですね。ここは古くからの霊山ですし、京都霊脈の連結地点である呪術協会本部は、その霊力の源ともいえる龍界寺とも直結している。大気に含まれた大源の量が下界よりも豊かですから、神秘に身を置く我々は尚の事そう感じるでしょうね」

 自身の古巣を自慢げに語る桜咲は、姿勢を崩さない。
 代わりに解いた彼女の黒髪、ソレが真直ぐ垂れ、俺が見知る普段の彼女に戻った。

「そういえば衛宮は冬木の出身でしたね。それでは、龍洞寺をご存知ですか?」

「ああ、ご存知ですヨ。何を隠そう友達の家だからな」

 実はそれ以上に因縁深い土地ではあるけれども、それは言わないで置く。
 だって、俺の脳裏に黄金の何かがちらついたから。

「なら話は早い。龍界寺は冬木の龍洞寺と同じ門派にある末寺です、お話しには?」

「聞いてない。初耳だよ」

 でも意外だ。以前遠坂は龍洞寺には実践的に神秘を駆使する坊さんはいないって言っていたのに、それと同じく末寺であるその山は霊山の認定を受けている場所だ何てな。

「それでは少々解説を、明日はこのちゃんがここを紹介したがっていましたから」

 覚えの悪い衛宮に事前知識を詰め込んであげますと、桜咲がぴっとひとさし指を立てた。

「龍界寺は古より“魔が湧き出る門”として京の都に建立されていました。確かに大きな力。霊力やマナと称される無色の奔流を垂れ流す蛇口としても法術師たちに利益を与えていましたが、それでも京に蔓延す魑魅魍魎もその“門”からあふれ出してくるのも真実。それを愁いた時の帝は、一人の高名な術者に命じてその蛇口を閉じることにしたのです」

 俺はよっと身体を起こして、桜咲の話を傾聴する。

「術者は一人の人柱を巨大な魔方陣の中央に組み込み龍界寺の建立されている霊山に敷き、式を起動。以来京の町に龍界寺より魔が降ることは無くなったそうです」

「………人柱、かよ。あまり聞こえのいい話じゃないな」

「ええ、コレは表向きには公表されていない。当然、裏側の話しです。明日はこのちゃんが表向きの話を面白おかしく……多分それなりに愉快に話ししてくれると思いますので、私は私の得意分野のお話をと思ったんですが、………すいません、殺伐としていて」

 しゅん、縮こまる桜咲は乾いた笑顔で肩を落とす。
 大方、女の子らしくないとか、可愛げが無いとか、そんなくだらないことに心痛めているんだろう。

「なんだよ、話自体は面白かったんだから気にすんな。ほら、お前も近衛みたいに何も考えないであっけらかんとニコニコしてりゃいいんだよ、その方が女の子は可愛いいんだぞ」

 うむ、女性経験は豊富ではない。情けないがアイツぐらいしか知らないけど、コレは真理だ。切嗣、お前もそう思うだろう? 思うに決まっている。

「……はい、努力してみます。あと、このちゃんを悪く言ったら夕凪、叩き込みますよ?」

 いや、別に努力とか根性とか要らないから。それとマジでその笑顔怖いです。
 桜咲の聞いたらいけない台詞をスルーして、思考を颯爽と切り替えるように勤める。あれだ。どうも自分の容姿とか性格に偏見を持っている桜咲は、イリヤの特別授業が必要みたいだ。

「ああ、まだここにいたのかい、桜咲君、衛宮君」

 一応の決着をみた俺たちの遣り取り、後に繋いだのは詠春さんだった。

「長? 如何なさいました」

 すっと畏まる桜咲。流石だ。

「ああ、楽にしていい。別にそんな堅苦しい用件ではないんだ。ちょっと衛宮君に用があってね」

「俺に?」

 頷く詠春さんは藍色の浴衣を流し着て、未だ起き上がれない俺に肩を貸してくれた。

「うん。両儀のに聞いたんだが、君、いい眼を持っているんだろう?」

 ここでは恐らく鑑定眼の話だろう。
 目利き、確かに自信はある。と、いいますか。俺はそれ位しか自慢できるものが無いのです。俺はよれよれの身体を踏ん張らせ答えた。

「ああはい。それなりに」

「なら、少しだけいいかな? ちょっと見てもらいたいものがあるんだ」

 俺と桜咲は目をあわせ、そして長さんのやや緊張した背中を追った。






 連れてこられたのは倉庫。
 衛宮邸の土蔵の五倍強のでかさ、そういえば伝わるのだろうか。俺の隠れ家と比べるのもおこがましい位のでっかい蔵の中に俺と桜咲はやってきたため、ここを蔵と一括りに呼ぶことすら憚られる。
 天井にある電燈はやや頼りなく、部屋の隅まで光が届いていなかった。その所為もあり、ここが武器庫であると気付くのに時間がかかった。

「ああ、来たか衛宮」

 石油の匂いが鼻につく、どうやら先客らしい式さんの横で、ブーンと音を立てて古臭いストーブが彼女の足元を照らしている。式さん、……着替えていない? どうやら鍛錬の後はずっとここにいたらしい。

「何やってんです、こんなところで?」

 埃を被る彼女の横に並んで聞いた。
 辺りには鞘から抜かれた日本刀や、抜き身の短刀、柄の無い裸の刀身が転がっている。

「見て分からないか? 骨董品の検分さ、ココの蔵にどんな上物が眠ってるのか、前々から気になってたんだ」

 日本呪術協会本部、そこに保管された名刀妖刀の数々ね。
 式さん曰く、ココにはそれら神秘を管理するための保管庫だと言う。

「それは分かりましたけど、どうして俺を?」

「なんだ、冷めてるな衛宮。まあこれを見ればそんな口は聞いていられないぞ」

 凄いだろうと見せ付けられた刀は、―――――。

「コレ、―――――小狐!?」

 藤原通憲が後白河天皇の前で佩いていた家伝の太刀か!? 凄いな、保元の合戦って一体何年前の話だ?
 眼を輝かせる俺に、満足げに頷いた式さん。ココに刃物好きのマニア心をくすぐられ、にやける危ない奴二人。

「それだけじゃないぞ、ココにあるのはどれも名刀ばっかしだ」

 段々と眼球が暗闇に馴染んでいく。
 さっきまでぼんやりとしか感じられなかった鉄の息遣い。古びた鋼の匂いが目に見えるように深くなっていく。式さんには珍しく、彼女は嬉々の表情を隠そうとしなかった。

「どうだよ、感想は?」

 友切、壺切をはじめ、日本古来の宝刀、名刀が俺の視界を埋め尽くしている。
 宝具、尊い幻想へとあと一歩。最高位といえる概念を内包した幾多の剣が、ココには息づいているんだ。

「おおおおおおおおおお、すげーーーー」

 咽び泣きそうっ。本気で涙を流しそうな五秒前、俺は叫んでいた。ああ、京都に来てよかったあ~。

「…………ああ、喜んでもらえて嬉しい限りであはあるが、両儀の。こんな事の為に衛宮君を呼んだんじゃないのだろう?」

 ――――――――――は。俺は一体どこにトリップしていたのかっ。
 やや後ろに引きながらの詠春さんと桜咲の痛々しい視線で我に帰る。それは式さんも同じだったようで、耳まで真っ赤にして。

「クソっ。衛宮お前が悪いんだぞっ。恥かかせやがって」

 俺に責任転嫁っ。
 ジャイア○張りの、切り返しだぞ、それは。いやまあ、可愛いから別にいいけど。
 苦い顔をする俺は、はいはいと頷く。一応の満足はいったのか、落ち着きを取り戻した式さんは、俺を呼んだ理由を持ち出した。

「………まあなんだ、兎に角。お前を呼んだのは他でもない、ちょっとお前に目利きしてもらおうと思ってさ。悔しいが俺じゃこいつの真贋が判断できない」

「そうなんだよ。下位組織から献上された骨董品なんだがね扱いに困ってしまうんだ」

 二人が難しい顔で手渡したのは黒塗りの、和弓、……いや、洋弓、か? 判断しかねる。
 だが、弓の定義で言えばこいつは間違いなく洋弓だ。握りが矢の中央にあるし、和弓に特徴的な下寄りの部位が上位部より短い形状が見られない。素材はイチイの木と竹が複合され、上から漆を引かれ黒光りしている。和弓の様な洋弓、洋弓のような和弓。
 ――――――そうか、形状ならばアイツの国で生まれたロングボウだ。
 だが、弦の張りがしなやかだし、必要とされる膂力はそれ程でもない。全く検討のつかないその弓、和洋折衷の形状、そして打ち方。無国籍風の黒い長弓。
 だけど、俺はその弓を良く知っていた、だって。

「アーチャーの………」

 間違いない、いつか見たあの野郎の弓だ。
 違いは一つ、こいつにはアーチャーの詰め込んだ想いが無い。
 誰にも担われなかった、裸で空っぽの弓。恐らく後付だったのか、こいつにはナックルガードが装着されていなかった。
 だけどコレは、紛れようも無いあの野郎が使った弓だ。
 俺は眉を顰める。
 まさかこんなところでアイツの弓に出会うなんて。まさかこの弓が、こんなに素直な弓だったなんて。
 投影出来ない筈だ、コレは余りにも変わりすぎちまってたんだな。
 ……あの野郎、あそこまで捻くれた想いを詰め込みやがって、今度あったら絶対侘びを入れさせてやる。

「どうだい、衛宮君? わたし達はそれがフェイルノートでは無いかと考えているんだ」

「ああ、形状は洋弓だし、打ち方だってしっかりしたもんだ、ソレも相当古い。年代的にもいい線いってる筈だ。どうだよ?」

 はっと、再び沈んだ意識は覚醒した。それと同じくして、二人の頓珍漢な言葉にあっけに取られる。
 フェイルノート? コレが? 無駄無しの弓? あの名弓?
 まさか。だってコレは。

「――――――――――――いや、唯のばったもんです。コレ」

 うん、だって何も“詰め込まれていない”。さっきも感じたが、空っぽだもの。

「………そうなのかい? 残念だな。それは」

「まったくだ、期待させやがって」

 あからさまにがっかりする二人に、俺はちょっとだけむっと来た。
 暗がりでさえ映える漆黒、こいつはそんな落胆が似合う弓じゃない。

「でも、すごくいい弓ですよ、コレ」

 神話最高の名弓、ソレに挑んだ唯の模造品。
 担い手などいない。
 だけど弓を鍛えた人間(想い)がいる、担い手を望み続けた月日がある。
 たとえ真作に及ばずとも、コレは一つの幻想としてココにあるんだ。
 愛おしくその弓を撫でる。俺はどこか嬉しそうに目を細めた詠春さんの視線に気付かなかった。

「―――――良かったら貰ってくれないか、その弓」

「-――――――え」

 俺は握り締めた弓から顔を上げる。
 どうして。
 そう尋ねる前に、顎を撫でた詠春さんは腕組みを解き、そして続けた。

「いやね、ただ同然で手に入れたものだし、そんな顔で弓を見つめられてはね。一介の武芸者として、いい使い手にはいい獲物を送りたいじゃないか」

 嬉しそうな微笑に、俺は再度俯き、手に握る黒い黒い弓を“視る”。
 最高の弓に恋焦がれ続ける空っぽの贋作、そして和洋の造り。ふっ鼻で笑い、俺はどうしてアーチャーがこの弓を使っていたのか思い至った。我が事とは言え、ロマンチストだよ、畜生。
 イングランドと日本の弓の特徴を混ぜ合わせたガランドウの模造品、か。そうだよ、愛着が湧かない方が可笑しいんだ。
 だから。

「―――――いえ、遠慮しておきます」

 迷い無く、そう答えた。
 
「いいのかよ? お前がモノ欲しそうな目をしたの初めて見たんだぜ、オレ。お前。絶対こいつが気に入ってる」

 意外そうに式さんが口を挟んだ
 だけど、俺が首を縦に振ることは無かった。

「いいんですよ、俺はそいつに相応しくない。それだけいい弓だ、いつかちゃんとした“担い手”が見つけてくれます。其の時まで、もう少しだけ空虚なままで居させてあげてください」

 残念そうな顔をしたのは、逆に詠春さんだ。
 それでも、俺はこの弓を受け取れない。こいつは本物になれる贋作だ、だからこそ、俺が使ったらいけない幻想。
 だってさ。

「それに、そいつはちゃんと“ココ”にいます。俺はそれで充分ですよ」

 俺が担うのは、いつだって偽者だけなんだから。
 身体の中央、胸をトンとついてそう告げた。いつか本物になったその日に、今度はそいつを引いてやろう、そんな約束と一緒に。

「そうかい、なら仕方ないか。衛宮君のお眼鏡かなった贋作だ、私が責任をもって管理しておこう」

 それでも、少しの名残惜しさと一緒に、詠春さんに黒い名弓を手渡した。
 俺から受け取ったそれを、無作法に扱い一番目立つ棚に押し込む詠春さん。
 俺にはそれが嬉しかった。骨董品や貴重品を扱うのではなく、武器として、一つの弓として、その名も無い贋作を扱ってくれた事が、ただ無性に。
 お前がもう一度俺の目に触れるときは、もうお前は贋作なんて呼ばれていない。二度目の死を迎え、棺に置かれた黒い弓をもう一度眺めて、俺は詠春さんに頷いた。

「そいつのこと、宜しくお願いします」

「ああ、勿論だ」

 弱くも無い、強くも無い。当たり前の肯定が、頼もしく感じた。
 しかしふと、彼の、詠春さんの表情が突然砕ける。何を思ったのか、彼は低くくぐもって笑みを溢したのだ。

「しかし、貴社を拒むのはコレっきりにしてくれよ。全く、お前ときたら私達の好意をいつも無碍に扱ってくれる」

「――――――――――は?」

 俺は目をぱちくり、彼に似合わぬその笑みに反応できなかった。
 それが尚のこと可笑しいのか、一層微笑みを遡らせる。深くなる口元のしわは、それでも何故か若々しく感じた。

「いやなに、コレも宿怨だと諦めてくれ。終ぞ言う事の無かったただの愚痴だよ」

 そうして、深く瞳を閉じる詠春さん。
 彼はそれだけ言って納得したのか、踵を返しながら告げた。

「さて、今晩は此の位にしておきましょう、両儀の、それに刹那君も。いい加減汗を流さなくてはね。婦女子がそれは頂けない」

 蔵の扉を開き、月の光が薄く暗闇に伸びる。差し込まれたのは月光だけでない、冷たい風が錆付いた空気を甦らせ、吸い込む息吹が新鮮になった。
 先ほどまで嗅覚を麻痺させる鉄の匂いは無くなり、変りに無色の冷たい大気が頬を撫でていく。それが、式さんや桜咲に今まで気付かせなかった汗の匂いを感じさせたらしい。二人はやや顔を伏せがちに、扉に向かう。
 そんな事気にする必要ないと思うけど、いい匂いなんだし。口に出したらパンチされそうなので止めておくけどさ。

「さあ、衛宮君も行こうか。我が家自慢の露天風呂へご案内するよ」

 俺は“ほこり”っぽい空気をもう一度大きく吸い込み、この場所を後にした。
 願わくは、眠る幻想達に新しい出会いがありますように。

 古の都、そこで過ごす最初の夜は。
 月が、―――――――本当に綺麗な夜だった。



[1027] 第二十七話 消せない罪
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 04:21
/ 6.

「へえ、ココが龍界寺か」

 まるっきり龍洞寺だな。目の前に伸びる石段を見上げながら故郷に在りしその寺院の事を思い出す。
 月に延び上げた階。
 紅く脈打つ大気と、血のように濁った大地。
 虚空に開いた、澱んだ穴。
 そして誰かが、愛している、そう言ってくれた丘。
 立ちんぼで見上げる寺院は、ソレでも容易に境内の様子を想像できた。もっとも、こんな非常識なイメージではなく、あくまで俺が長年見続けた退屈なモノだが。

「そや、あんまり有名なお寺さんやないけど、それでもお父さんが管理してる霊山の中でも重要な土地やし、紹介せなあかんやろうと思ってな」

 お昼過ぎの和やかな陽光と一緒に、近衛は俺よりひとつ前に踏み出し溢した。……で、連れてこられたのは一向に構わないのだが。

「でも、立ち入り禁止ってなっているよ? 見られないんじゃないの」

 幹也さんが顔を俺と近衛の間からぬっと除かせ、目の前にぶら下がる立て札の文字を読み上げた。“工事中につき立ち入り禁止”しかし、別にトラクターが来ているとか土木業者が入っている様なことは無いし、何か妙だ。
 それに、さっきから感じる違和感はなんだ? 世界がずれている様な、世界が幾重に重なる様な奇妙な感覚。
 石段を囲み茂る高い杉の木の群れは、怪しくざわつき、ココだけが異界の様な肌寒さを感じさせる。刺さる寒気は本当に仔細なモノなのに、それが喩えようも無く。

―――――――いつかの、禍々しい夜を思い出させて―――――――

「……ねえ、シロウ。ちょっといい」

 皆揃って首をかしげる横で、イリヤが俺に小声で話しかけた。俺は頭をふってその違和感を黙らせる。

「――――っなにさ?」

 俺は腰を落とし、イリヤの口元まで耳を寄せた。黒いツイードハットから除かせる彼女の小顔が神妙にしかめられている。

「ここ、何か違和感を覚えるんだけど」

 幹也さん達に聞かれないよう、小さく呟く。
 俺は先ほどの違和感を穿り返されたようで、一瞬どきりとした。

「イリヤもか?」

「わたし、も? てことはシロウもか。気付いた? ここ、マナの濃度が異様に濃いの」

 マナ?
 違う、俺が感じた違和感は、――――もっと根本から。

「でも、ここは京都だぞ? 多少なりとも差はあるんじゃないか? 俺はその手の察知は苦手だから分からんけど、ここいらに霊山も一杯あるし。それに、龍界寺は霊脈の中心地って話だ、イリヤの感じる位は誤差範囲なんじゃないのか」

 だが、不確かなその言葉を口にするのは憚られた。恐らくは気の所為だ。イリヤの言う通り、感知は出来ないまでも、溢れるマナに溺れでもしたのだろう。

「それにさ、何か異常があれば詠春さんたち退魔組織の人たちがなんとかしてくれてる筈だろう? ココは組織のお膝元だしさ」

「う~ん、それはそうかも知れないけど………」

 気楽に答えた心算なのだが、それでも、不満そうに唇を尖らすイリヤは桜咲に視線を移し、再度同じ質問を繰り返す。

「……はい、それは私も気になっていた。しかし最近は京の街全域でマナの濃度が高まっている。ここニ三ヶ月の事らしいのですが、ココもその影響に当てられていると見ていいでしょう。組織の定期査察でも“問題無し”と調査部の方から上がってきているらしいですから」

 だが、桜咲もイリヤの憤懣を和らげる回答を寄越さなかった。やはり気の所為だ。桜咲曰く、キチンと調査されているらしいしな。多少なりともなりを潜めた俺の違和感、結論が出てしまえば、どうってことない。
 そう、ここは“問題ない”。まるで誰かが脳みそに直接囁きかけるように、俺はそれを無理やり意識し、納得させられていた。
 それに気付くことは、最後まで無かった訳だが。

「なあ、立ち入り禁止じゃ仕方ないだろう。他のところにつれてけよ、木乃香」

 式さんが、飽きたと、隠そうともせずにそう言った。
 本当に猫みたいだ、気ままにジャンパーを振り回し、式さんはサッサと車の中に消えてしまった。

「そうやね、そんじゃ他のところに連れて行こうか? 車もあるし、二条城にでも行ってみよか?」

 衛宮君、と視線を向けられる。
 ふむ、反対する理由がまるで無いな。俺は未だ眉を緩めぬイリヤの手を引き運転席に乗り込む。渋々ながら後部座席に乗るイリヤと、案内の為に俺の隣のボックスに入ったのは桜咲だった。

「あ、ちょっと待って士郎君」

 キーを差し込む直前、サイドウィンドーから幹也さんに呼び止められた。

「ちょっと飲み物でも買ってくるよ。ココから二条城まで距離があるし、口寂しいのもなんだろ?」

 ああと頷く前に、各種色とりどりのリクエストが飛び交った。
 苦笑しながら、全員分のオーダーを記憶した幹也さん。彼は一人、ざわつく山林の小道に消えていった。





Fate / happy material
第二十七話 消せない罪 Ⅰ





/ .

――――――僕は出会った。紅い髪の、赤鬼さんに。

 自販機を探して駆け抜けた桟道の先、そのまた先に、果たしてその女性はいた。
 京都の景観を貶めるのが目的としか思えない超高層のホテルビルが右手に、左手には天然記念物の植生が茂る珍妙な路傍を歩き回り、気づけば龍界寺って言うお寺の脇を小走りで彷徨い、これは道を間違えたと思った時には、小高い丘の上にいる不思議。
 仕方が無いでしょ。コンビニは愚か自販機だって見つからないし、あちこちうろついていたら士郎君達のいる駐車場を見失っちゃったんだからっ。
 誰に言い訳するでもなく、一人頭の中でいもしない誰かに責任転嫁。何やってんだ、僕は。
 丘に続いていた細道と、そこを囲った朱色の千本鳥居。
 顫動する竹林の小道を下ろうと。そう踵を返した矢先、その視界に飛び込ん出来たのが彼女だった。
 空は余り綺麗とは言えず、重たそうな雲が鈍く蠢いている。
 昼間だってのに、お天道様をひた隠しにする灰色の塊は、ソレだけに飽き足りず古都の情景をも同んなじ色に染めていた。
 はは、あんまりドラマチックなシーンじゃないよね。自販機を探して迷子になった成人男性と、灰色の空の下で出会うなんてさ。
 だけど、じっと崖下を見下ろす彼女はそんなことを抜きにしても一枚絵の様に綺麗だった。

「―――――あら? ココに何の御用かしら。坊や」

 上から見下ろされるような、そんな圧力と一緒に振ってきた銀鈴。
 それに、背筋が強張った。高圧的な声調だけが理由じゃない、その中には殺意が含まれているように感じたから。

「坊やは酷いですよ。多分、貴方とそう違わないと思います」

 だけど、僕はそれに親しみを感じてしまった。 我ながらどうかしている。知らず、彼女に歩みを進め、そんな憎まれ口を叩いていた。
 ろくに整備もされていないのか、コレだけの高さの丘なのに柵は所々壊れている。石畳も舗装されておらず、ぽつぽつと土壌がむき出しになっていた。彼女の隣、崖の縁に近づけば近づくほどその荒涼とした様子が見て取れて、本当にドラマが無いと、埋もれた思考を掘り返している自分がいた。

「何しているんです、こんなところで」

「貴方こそ。二回も言わないわよ。私、ソレほど気が長くないから」

 彼女は古都を俯瞰したまま、腰まで伸びた髪を一度掻き揚げた。
 ジャギーのかかった薄い赤髪が僕をあしらう。そこから毀れた女性らしい香気、恐らく香水か。かいだことの無い、だけど生気を焼き付ける様な鋭く孤高な芳香は彼女を象徴していた。
 鋭角にすっと伸びた細い顎と、切れ長の赤い瞳。冷たい感じの女性だなと思う反面、もしかしたら激情家なのかもしれないと、そう微笑んだ。

「聞きたいんですか? ここに来た理由」

「ええ、珍しいから。ここにヒトが来るなんて。特に、―――――今は」

 やはり、僕をまともに見ようとはしなかった。延びた鼻筋は高く、それが僕の方に向くことは無い。
 妙なアクセントと台詞回しが気になったが、構わず続けることにした。僕の言葉に彼女がどんな風に表情を変えるのか、少し興味が湧いたから。

「大した理由ですよ。なんと、迷子になったんです、僕」

 ピクリと、彼女の口元のほくろが微かに震えた。
 整った顔立ちが一瞬だけ呆け、そして怒りを隠そうともしない彼女はようやく僕に振り向いた。ほら、意外と可愛いところがあるじゃないか。
 存外、子供の様な女性だ。世知辛い今では、珍しい希少種。失礼かもしれないけど、そんな単語が脳裏に浮かぶ。

「貴方、馬鹿にし――――――っつ」

 彼女のきつい眼光は僕の左目、正確には傷跡をなぞった。そこで、彼女の息が詰まったらしい。確かに、余り見ていて気持ちの良いものでは無いが、彼女の様な女性にまで驚かれるとは思わなかった。それだけ、僕とこの傷は不釣合いと言うことかな。

「いいわ、もう。………しかし迷子か、コレはとんだ来訪者だこと」

「あれ、信じてくれるんですか? 冗談かもしれませんよ?」

「まさか。貴方、そんな賢しいヒト? 嘘をつくヒトはね、ダレよりも自分を信じない。貴方、それを我慢できないヒトでしょう?」

 詩的な言い回し、式の言葉を真に受けた訳じゃないけど、お株を奪われたみたいでチョッと悔しい。
 が、そんな事より彼女の笑顔が嬉しかったのでまあいいかと、そう思った。

「答えかねますけど、ソレじゃ貴方はどうなんです? 生憎、僕は気が長いんで、答えてくれるまで聞き返しますけど」

 僕はブルゾンの中に手を突っ込んで問うた。
 黒い外套から除かせる深緑のストライプシャツ、分厚い外皮越しにも分かる女性らしいふくよかなシルエットが灰色の空の中で浮き彫りにされている。

「街を見下ろす理由かな、ソレとも私が嘘つきってお話? 貴方も一つしか答えないんですもの、私も当然、答えるのは一つ。道理よね」

 意地悪く微笑み繕った彼女、だけど可愛い物だ。所長の切れ味には遠く及ばない。
 よって即答。
 考えるまでも無く、僕は前者を問いだすことにした。僕が狼狽すると踏んでいたのか、目の前の彼女は予想とは正反対の結果を送られることとなった。

「――――――っつ。理由か、そうね。………最後に、見ておきたくなったのかな、忘れてしまった私の故郷を、きっともう思い出さない故郷を」

 それでも、彼女は何とかそう言った。僕には意味が良く分からなかったが、それでも、彼女の瞳が懐かしむように、どこか優しく感じられたので、それ以上は望まなかった。

「そうですか、確かにココは京都の町が良く見渡せる」

 二人、灰色の古都を俯瞰する。
 だけど、そんな沈黙はとても短い物だった。

「ねえ貴方、聞いてもいいかしら?」

 弱弱しい、それが僕の感想だ。さっきまでの気丈さはなりを潜め、彼女は寒さのためか外套の肌蹴た胸元をぎゅっと右手で寄せた。

「別に構わないですよ。僕が答えられることなら」

 彼女は一度乾いた空気を吸い込んだ。初めて出会った女性に、なんて馴れ馴れしい。
 かさかさとした空気は、炎を吸い込みよく燃えるだろう。どうしてそんなことを考えたか、不思議だったけれど、僕はそんな感想を描いた。

「貴方、私のことが怖くない?」

 そして、彼女は溢す。
 本当、どうかしている。一体どんなことを聞かれるとかと思えば。

「さっきだって、貴方は怯えたでしょう? 分かるの、私は無意識で貴方を……だって私は鬼だから。……しかし、何故かしらね。初対面の筈の君に、こんなにも無防備に問いかけてしまって」

 身の毛が総立った先ほど交感。だけど、生憎と僕はあの程度で怯えるような真っ当な人間ではなかった。
 本当の鬼と言うのは加えタバコの厚顔不遜な社長さんとか、着物でジャンパーの和洋折衷大学生とか、白くて意地悪なお姫様とかの事ですから。そうだろう、士郎君?

「はあ、コレは可愛い赤鬼さんもいたもんです。どうして僕が貴方に怯えなけりゃならないんですか? それこそ、僕が聞きたいですよ」

 大きくため息をついた後、何の感慨も込めない僕の言葉。
 だって、本当に何も思わなかった。怖い? まさか。鼻で笑える。そんな感情より目の前の女性を綺麗だと感じた情動の方がずっと大きかった。

「それに、僕の彼女は殺人鬼ですから、今更です。鬼だかなんだか知りませんけど、僕はそんなものより人間の方がよっぽど怖い。詰まらないたとえ話だけど」

 雲は流れ、もう直ぐ光が差し込みそうだ。
 切れ目の走る雲の向こう側に、少しだけ快晴の青が覗かせていた。
 何故かそれだけで嬉しく感じてしまう貧しい僕の心。
 それでも、僕の唇は一層微笑みを深めていた。

「鬼を恐怖たらしめるのは、いつだって人間だけじゃないですか」

 そんなの当たり前の帰結だ。
 廻り廻って、最終的に僕が怖いと思うのはやっぱり人間しかいない。つまらない、当たり前の一般論だ。

「------------―――――――――――」

 だけど、どうして君はそんなに驚いているのか。
 整った顔を呆然とし、彼女の冷淡だった黒い瞳は焦点を失っている。それでも、彼女は揺らいだ自分を受け止めきったのか、身体を抱き寄せ僕を拒絶する言葉を選んだ。

「そう、それじゃお話しはこれで終わりかな。龍界寺の石段前に帰りたかったのかしら? 貴方は?」

 そっぽを向いたままの言葉だったので彼女の貌は分からない。
 ただ、街を再度俯瞰する彼女の折れそうな背中は、僕を嫌っているのに間違い無かった。
 雲の厚みに変化は無い。差し込まぬ冬の日差しは、今だけでいいから彼女に注いで欲しかった。意味も無く、ただそんな事を望んだ僕はその時なにを思っていたのか。

「……はい、出来れば」

 頷いた僕に道を示した彼女は、二度と僕の顔を見ることは無かった。
 背中合わせのまま、彼女と僕の距離は遠のいていくだけ。竹林の鳥居まであと僅かだ。

「ねえ、最後の我侭にもう一つだけ質問いいかしら」

 拒否など許さぬと、声色がそう告げている。
 穏やかだった空気は摩擦し、点火寸前の炉心の様相を呈していた。喉がからからだ、それでも沈黙は変わらず。彼女は最後に呟いた。

「どうして貴方は私の意地悪い二択に即答できたの、その理由を教えてくれる?」

 正直者か嘘吐きか。
 こんなの、彼女に聞く必要ないじゃないか。

「だって、貴方が嘘をつけるわけ無いじゃないですか? 貴方、自分を騙せるほど、強くないですもの。分かりますよ。貴方みたいな人を、僕は何人も知っているから。奇妙な縁ですよね、本当」

 果たしてこの言葉は彼女に届いていたのか。
 その答えは、出来れば知りたく無かった。
 それが、僕と同い年の赤鬼さんとの最初の出会いだった。

 まあこの後、我が愛しの鬼姫様に遅れた理由やら、僕に纏われた香水の匂いを突っ込まれ死に掛けたのはまた別のお話しでしたとさ。

 …………笑い事じゃないけどね。






/ 7.

 温泉はやはり良い物だ。
 肩まで浸かり粘度の高い鉱泉に身体を漬け、頭の中でそう反芻させる。
 黒曜石の湯船は月下にありて、沸き立つ湯気は霞の如く。木枯らしに巻いた竹林の囁きと遥か遠く、古都の灯りが優艶に瞬いていた。……なんてな。

「ああ、なんて素晴らしい」

 一日の疲労がやんわりと抜けていく。
 俺はごちて、視線を夜空へ。地上より高い近衛の実家は星を僅かながら俺に近づけてくれる。山の匂いを吸い込んで天上を仰げば、風の嘶きが耳を掠めた。
 夏にも温泉に浸かったが、それとは異なる安らぎが肌に心地よい。

「そうかい? 気に入ってもらえて嬉しいよ」

 肩を並べて浸かるのは詠春さんに幹也さん。シシオドシが落ちるのと重なり、詠春さんが答える。
 カコーンって音が最高、カコーン。

「幹也さんも、そう思うでしょ?」

 妙なテンションで、俺は彼に微笑む。
 俺は使い込まれ浅葱色になってしまった手ぬぐいを頭に乗っけながら、浮かない人影までお湯を掻いた。ジャブジャブとかき分けて彼の横まで進み、そして隣に腰を下ろす。
 理由は知らないが、昼の龍界寺での悶着の後から、彼はしおらしい。そりゃ、普段から元気一杯って人ではないが、それでも消沈した感じの彼を見るのは初めてだった。

「うん、そうだね……」

 一体何が彼をこんな風にさせているのか。力なく微笑んだ彼の笑みが、俺は何を意味しているのか分からない。けど、ともすると幹也さんだって分かっていないのかもしれないと、そう思案してみる。
 それからはしばしの沈黙が続いた。男三人で、そんなかしましくお喋りをする訳にもいかず、ただ滴る湯煎を満喫していただけだった。だが。

「―――――――っつ」

 一際強い寒風。
 雪の無い吹雪、滅茶苦茶な日本語だが、ソレほど凍えた風が頬を叩いた。山峡を注視する、風はどこから凪いだのか。
 違う。呻かず、匂いを辿る犬のように鼻をひくつかせ、気がつけばもう一度古都の灯りを俯瞰していた。

「これは、嫌な風だねえ」

 取り落としたタオルを拾い上げながら、飄々した詠春さんの言を耳に残す。
 彼のその瞳は鋭利なものだった。彼も感じたのだろう、凍えた山風に紛れていたのは、含まれていたのは喩えようも無いほどの獣の匂いだと。
 しかも、ただの獣ではない。もっとグロテスクで、もっと凶悪で醜悪な何か。そう、こちら側にいる外れた獣の匂いだ。
 優れた感知能力を持っているわけではないが、それでも分かる。いままで穏やかだった空気がざらつき、肌を舐めていくこの不快感は、いつかアイツと一緒に味わったモノに間違いない。全く、才能も無いくせに場数だけはこなしているもんだから、半端に鋭利な嗅覚が養われている。

「どうしたんです、二人とも?」

 こわばる俺と詠春さんに、幹也さんが不思議そうな顔を向ける。
 古の宮、その突然の豹変。違う、変化は既に始まっていた。詠春さんと俺が感じたのは最後の何かが弾けた錯覚だ。塞き止めていた何かが、外れ、そして決壊した。俺が獣の匂いと一緒に感じたのは、そんな理由の無い世界の崩壊だ。
 俺の構造把握、世界を読み取る力がそれを教えてくれる。特化された俺の触覚が、蔓を伸ばすようにその“ズレ”感じさせてくれる。

「詠春さん、今の」

「はあ、すまないね衛宮君。どうやら、忙しくなりそうだよ」

 背反する言葉と雰囲気、彼の滑らかな筋骨が湯船から浮かび上がる。
 緩慢とした彼の言葉と、佩いたのは鋭利な殺気に俺は釣られて浴場を後にする。

 二日目。
 何かが始まる予感は、ただ加速していく。
 ちらつく黄金は、今も俺の眼窩の渦中。果たしてこの白昼夢に、終わりがあらんことを。



[1027] 第二十八話 願いの行方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 04:29
/ others.

 魔術師は最後の式を解除した。

「終わりだよ、ミスミヤコ」

 とは言っても、方陣そのモノを除去したわけではなく、魔力線に流転し続けた龍脈の力を塞き止めただけだ。未だ式そのモノは残っている。
 龍界寺の社、そこにはこの寺院を抱える霊山の中央だった。この霊山全体に敷かれた巨大な式、基点とされていた遥か古の生け贄人、その寄り代が霧散したのだ。
 人柱をたたえ、安置された仏舎利は粉々に砕けている。

「そう、これで孔は穿たれたわけ。後は、―――――――」

 穴は開いた。
 未だ開いたと言う事実が先行しただけではあるが、時間がその孔を完全に覗かせてくれる事だろう。道が開くまで、あと二日、いや月がもう一度昇れば、或いは。

「ああ、ミスコノカを。彼女と言う加給機が無くてはこの孔を至らせるまでには出来ないのだよ」

 砕かれた仏舎利の頭を蹴り飛ばした魔術師は、厭らしく哂う。月の光すら差し込まぬこの仏閣で、二人の思惑は見事に食い違っていたからだ。
 しかし結局、二人のそこに至る過程が異なるだけで、結果は同じわけだが。少なくとも、この都が阿鼻叫喚に燃える事には。

「それも理解しているわ。――――それよりも問題は、穴、退魔組織の奴等に見つからないでしょうね?」

「いらぬ心配だよ。なに、後二日ぐらいならば問題ない」

 だが、都は思い出していた。灰色の丘で回り逢った黒い青年を。
 心を無垢に暴かれた、その温もりを。
 丘は、孔が口を除かす祭壇だった。特に念入りに、魔術師が人払いの結界を敷いていたのは間違いなかったのに、そう都は唇を噛んだ。

「おいおい、睨むなよ。大丈夫、ヒヒ……ここの結界は東洋のサル共では踏破できん。あれを破れようものなら、封印指定の寝床すら暴けてしまうだろうよ。それほどの使い手、こんな島国いるはず無い。信用したまえ、私はこれでも、ん~一流だ。違いを、わかってくれないかね?」

 陶酔するように、魔術師は大手を広げて黒い外套を翻した。

「ふん。自分でいってりゃ、世話ないよね」

 それを嘲笑するのは、存在感が希薄な茶髪の青年。彼は山を下り、京の街を彷徨ってたのだが、先ほど帰還したようだ。月明かりを反射させて、青年は仏閣の扉に寄りかかっている。

「まあ、あんたの詰まらないマスタベーションはどうでも良いか。それより、組織の奴等がようやく動き出すみたいだ。今夜の解呪でマナの濃度が高潮したみたいでさ、魂喰いが変容しているんだ」

 かつて衛宮士郎と対峙した醜いエーテル体、それが象を成し古都に群がっていると、鏡は魔術師の笑みを真似、可笑しそうに告げた。三月も前から魂喰いの大量発生は退魔組織の悩みの種だった、そして今夜、それは極まったと言って良い。魂喰い討伐の為に、組織の機関員は借り出されているという。また、其れだけではない。マナの異常なまでの収束は、他の魍魎どもをこの宮に引き寄せていた。






――――――今宵より、古が都は跳梁跋扈の異界へと顔を変えたのだ――――――






 だがコレも計算の内。
 物の怪討伐のため、退魔組織の本部は今、コレまでに無いほど手薄だ。

「それで、手はず通り、今夜は様子見。ん~、宜しいかい?」

「ええ、彼らの出方を今夜は窺う。決行は明日、孔が完全に穿たれた暁に」

 さあ、前奏曲(プレリュード)に終止符を。





Fate/ happy material
第二十八話 願いの行方 Ⅳ





/ 7.

 近衛、桜咲も含め、俺たち伽藍の堂のメンバーは詠春さんの前に集まっていた。恐らくは彼の仕事場か、武家造りの閉鎖的な室内には俺たち、見知った顔しかない。
 正座をして彼の話を傾聴してからはや数刻、詠春さんは長いこと息を衝くのを忘れていたかのように、大きく肺に空気を入れ、そして締めくくった。

「さて、事情は大体飲み込んで貰えたかな?」

 仕事に忙殺される詠春さんは、半紙の束に筆を奔らせそう言った。
 ココ三ヶ月、京の街全域で観測されていた誤差では済まされないマナの異常増加。それに伴い、群がる魑魅魍魎や魂喰い。そして先ほど感じた悪寒は其れが極まったために引き起こされたものだったようだ。
 象を成し、エーテルによって再構成された化け物や、群がったものの京の結界に阻まれていた妖達が一気に街を犯し始めた。
 いつかのニュースで知らされていた、西日本での怪奇事件や相次ぐ行方不明者の頻発は、コレの予兆だったらしい。

「それは、理解しました。しかし、一体何故?」

 桜咲が気世話に詠春さんに聞く。隣に置かれた桜咲の愛刀は、彼女が腰を持ち上げた拍子に、柄に巻かれた鈴を鳴らす
 原因は分かっている。―――――この地、京都を取り巻く霊脈に何か異常が発生したのだ。結論はそれだけ、しかし。

「分からない。現在調査部が奔走して京都各地に点在する霊地、龍脈に監査を入れているところだ、ただね、恐らく結果は変わらないだろう。マナの異状増加が認められてからココ数ヶ月、組織は念入りに各霊地を調査している。しかし、その結果は全て“問題無し”そう報告が上がってきているんだから」

 コレだ。
 原因なんて一つしかないのに、その起点が分からないでいる。
 詠春さんはコレより、他の原因を想定の内に収めて人員を割くための書類を作成していた。

「それでモノは相談なんだがね、刹那君、衛宮君、それと両儀の。君たち、今夜から京の街の警邏に出てもらえないか? いや、危険なことを承知して、君たちに頼んでいるんだ。今の話でも分かるように、圧倒的に人員が足りていない。調査部はてんてこ舞いの状態だし、守備についている組織の人間だけでは、恐らく」

 躊躇いを含んだ、歯切れの悪さ。
 筆を休めた詠春さんは俺と桜咲、そして式さんを流し見る。

「恐らく街を、――――――守りきれない」

 俺の重たい言葉に、詠春さんが頷いた。

「ああ。幸い、魂喰いや妖共は魂の比重の重い人間を獲物に定める。組織の人間をはじめ、君たちの様な人間が街に出るだけで必然的にそれが京都の守護に繋がるんだ」

 空気が緊張する。
 張り詰めた糸はしかし、キンと強い弦の様でもある。

「いいね、包み隠さなくて実に結構。様は撒き餌になれってこったろう?」

 式さんの表情に、詠春さんは苦笑するしかない。
 彼女の胎の底から湧き上がる愉悦も勿論だが、それ以上に式さんの言葉に。

「理解が早くて助かる。やってくれるかい?」

 神妙な面持ちに顔を変え、詠春さんが真摯な瞳でそう尋ねた。

「当たり前です、ほっとけるわけ無いでしょう」

 だから即答。俺も強く答えた。
 正義の味方が、ココで頷かない筈が無い。

「そうか、助かる。すまないね、護衛の仕事ばかりか、こんな厄介事まで」

「気にすること無いですよ。好きでやってることですから」

 大体、護衛の仕事に託けてこんなエレガントな里帰りに便乗させて貰っているんだ。何かお返ししなくては、申し訳なくて死ねてしまう。
 頭を下げる詠春さんに無理やり顔を上げてもらい、本心から其れを付け足す。

「そうよね、シロウのお節介焼きは今に始まったことじゃないし」

「せっちゃんも気おつけてな。無理はいかんよ」

「式も、頼むから無理はしないでくれよ」

 もはや止める事もしないのか、半ば諦めてそう呟く三人。
 三者三様の調べ。それでも根底にあるのは同じモノだと思った。
 式さんと桜咲はそれに一度だけ頷くと腰を上げる。続こうと、俺も勇んで立ち上がる。

「両儀の、衛宮、桜咲君。それでは三十分後……九時に、本堂へ集合してくれ。準備は其れまでに。巡回エリアはその時に話す」

 そして、不確かだった鼓動は、激しく高鳴る。
 息を大きく吐き出して、俺はその場を後にしていた。




/ 8.

 冬の匂いは無い。
 臓腑の中に沈んだように、舐めつく重い大気。汚物を大量に溶解し、粘度を高めた水溶液みたいな生暖かい湿気が、規則的に編みこまれた街路を伝っている。
 俺が知っていたこの街は既に変貌し、異界の様相を呈していた。昼間訪れたこの街はあんなにまで荘厳で雅であったのに、今はどうか。昨晩と何一つ変わらぬ街並みはしかし、澱んだ紫色にフィルター掛り、街を染めているように感じさせる。
 未だ九時を過ぎた程度のこの刻限には人の姿がどこにも無かった。恐らく感じているのだ。唯人、力を持たぬ矮小で脆弱な人は、ココに満ちた空気を恐れ、この異界に踏み込むことを忌避しているのだと、俺はそう解釈する。
 だって吐き気がする。人の匂いが染み付いたこの街路には、されど蠢き、異常なまでの腐臭が立ち込めているのだ。まともな神経では呼吸をすることさえ憚られるだろう。

「臭いな、ココは。なるほど、面白いように引っかかるもんだ」

 式さんは手の内で仕込みの短刀を弄び呻いた。
 生暖かい空気に我慢なら無いのか、彼女は外套を脱ぎ捨て、空色の浴衣一枚でぬかるんだ街路を変わらぬ歩調で進む。肩に引っ掛けた彼女の紅いジャンパーが、ゆらゆら俺の目の前で振れている。
 警邏を、いや、自らと言う餌をまいてからそれほど時間は経っていない。
 だというのに、増していく不快な匂いは一体何を考えているのか。決まりきった答えだ、あいつ等は人を喰う事しか頭に無いのに。

「はい、近づいてきているようだ。いえ、群がる、の方が適当ですね」

 黒のカットソーにスウェット。機能性を重視した服装の桜咲は垂らした黒髪を一度だけ払い、式さんに並んだ。
 近衛の実家からここまで、俺たちに振り当てられた警戒地区は京都北区と、可能であれば鴨川を挟む右京区と左京区の警邏だ。
 洛北から鴨川沿いに下り街を見てきたが、コレといって気になる異常は見当たらなかった。がしかし、どうやらいよいよお出ましらしい。

「みたいだ。でもさ、ここでドンパチしても構わないのか、桜咲? 神秘の隠匿、今更だけど、しなきゃ不味いだろ? 俺、人払いの結界なんて敷けないぞ」

 俺は茶の革ジャン、その両ポケットから手を抜き、だらんと構える。尋ねておいてなんだが、俺はその杞憂が意味の無いものだと理解していた。桜咲も、そして式さんも、俺の言葉の裏側を読み取り、頷くことはしない。
 だが変りに、俺たち三人は歩みを止め背の高くなったビルの群れと、交差する十字路を見渡す。
 京都の主な東西通りの一つ、北大路通り。洛北を貫く片側二車線の幹線で、辺りには商業施設が目立つ。昼間訪れたときには煩雑とした賑わいがあったバスターミナルや駅前には人の影が無く、今はおどろおどろしい景観が視界を占めていた。
 ハッキリ言おう、この街は既に狂っている。
 夜も大して更けていないこの寒空の下、交通の起点であるこの場所がコレほどまでに閑散としていること自体、日常が異常に破壊されたことの証明に他ならない。
 人影が無い理由は分からない、大衆は自らの街に降りかかった自然災害みたいな神秘の濁流に危機感を募らせ、自らの住処に閉じこもっているのかもしれない。
 それとも、意外と考えられるのは、京都全域にはこのような事態に備えて、人払いの結界が張り巡らされているのかもしれないと、そう思い至る。京都は巨大な霊脈の上に建造された和製の魔術都市、日本製の麻帆良みたいなものだし、考えられない事では無い。聖杯戦争ではキャスターが魔力の搾取を冬木の町で行っていたし、京都霊脈の中心地である呪術協会本部を陣地とすれば、人払いの様な、………例えば“家から出るな”の様な単一の暗示を作為的に送り込むことは不可能じゃないと思う。

「ふん、どうでもいいね。人が見ていようがいまいが関係ないさ。オレたちはさ、結局唯の清掃業者だ。除去するのがゴミか、それとも外れた生ごみか。違いなんてそれだけだろう?」

 バネが弾ける軽い射出音、その後、顕になった銀色の刀身。
 彼女は三十センチに満たない刃で暗い夜を衝く。小さな放物線を何度も描いて、彼女の小さな右手に納まるその刀身は、ギラギラと鋭利に光っている。
 そう、今は余計な思考などいらない。必要なのは何をなして、何を守るのか。それだけで充分だ。
 ただ、俺がそう頷いた隣。少しだけ俯いた桜咲の表情が何を意味したのか、俺には分からなかった。

「……そう、それだけです。外れモノは害をなす。故に除去する、このちゃんを守るためにも、それは絶対だ」

 顔を上げた桜咲は、思いつめるように、そう言い切った。
 確かに、今の状況は桜咲にとって宜しくない。多くの魔が群がれば、近衛の力に気付くモノもあるかもしれない。彼女が気をやるのも当然だ。そう俺は納得し、彼女に答えた。だけどこの時、俺は彼女の想いを履き違えていたのかもしれない。

「ああ、そうだな。守らないとな、この街も、もちろん近衛も」

 返したと同時に、鼻を刺す腐臭はココに極まった。一瞬顔を顰めれば、視界を埋め尽くす紅い無数の点達が俺たちを凝視しているのに気がつく。巨大な交差路は十に満たない街灯と、落ちるネオンだけが光源だったというのにな。意味を失ったと言うのに、ただ点滅を繰り返す信号機が無性に腹立たしい。
 人を照らし、人工の太陽を演出する外光が人ならざる化け物に降り注ぐ。恐らく三十では効かない有象無象の人外を前にして俺の苛立ちは戸惑いに挿げ替えられていた。ひゅうひゅう息をつけば、筋肉が硬直し、身体が上手く動かない。脳みその内側に、恐怖の入り混じった緊張が湧き上がった。

「囲まれていますね」

 それだけ言うと、桜咲は唇を一文字に結んでピンと背筋を伸ばす。その後に、鋭い眼光で目前と蠢く無数の奇怪な影を見据える。当然、手にした愛刀、夕凪を強く握り締めたまま。

「―――――みたいだ、でも桜咲。撒き餌の大役は充分に果たせてるって事かな?」

「そのようです。ばらけていた魔の気配は、私たちの前に一同に会したようですから」

 俺は腰を落とし、ぶら下げた両の腕を握り、開く。同じ事を繰り返すこと三回。それだけの行為で、正常に機能していた人間の意識は破却され、衛宮士郎は切り替わる。少しの恐怖を潤滑油に、俺の思考は戦術レベルで加速していた。
 身体は高潮し、血流が漲る。日常は破棄され、俺の身体が魔術師として神秘に傾倒していくのをハッキリと感じた。
 戸惑いは無い。背中合わせに寄り添った三人、式さんと桜咲とに呼吸が重なり、ただ開始の合図を待ち望むだけだった。

「さあ、はじめようか? オレが、―――――――イかせてやるよ」

 極上、とはこのことか。
 背筋を震わす戦慄が、色欲と綯い交ぜになり弾ける。
 三方に別れ、駆け込む人影と雪崩れ込むグロテスクな黒い怪異。子供の頃、絵本の中に見出した妖怪や物の怪はファンシーな絵図らではあれだけ親しみを覚えたのに、対峙するリアルはなんと気色の悪いことか。
 昆虫のような、爬虫類のような、哺乳類のような、甲殻類のような、しかし、その全てにカテゴライズ出来ない物の怪達が一斉に押し寄せる。

「衛宮、魔力は温存してください。この先、何があるか分からない」

「了解。大丈夫、こんな奴等っ、――――――――」

 桜咲は一刀の下に、飛び込んできた巨大なヤモリを“ひらき”にしながら言った。其れを見納めた俺は、声を張り上げ頷く。彼女の注意は最もだ。
 ―――――――――掃滅戦。
 この手の戦いにおいて最も重要なのは、求められるのはセンスでも、技量でもない。
 物量、その一言に尽きるのだ。
 言い換えればスタミナか、大量に湧き出る魑魅魍魎を虐げるには、こちらも相応の手数で答えるのみ。

「投影―――――――――」

 故に、宝具の投影など持っての他だ。俺の愛刀、白黒の夫婦剣は一度の投影で俺の魔力を三割近く持っていく。タイマンならまだしも、先の見えない戦いで魔力を浪費する余裕など、生憎俺は持ち合わせていない。

「―――――――――開始」

 よって、創り上げるのは唯の刀剣。先生の蔵シリーズ、コレクションNo.3“マカイラ”。
 創り上げられ、両の手に収まる三十センチ強の二つの奇剣。平たく太い根元から先端に伸びあげ、極端に湾曲していく刀身が薄い銀色に輝く。特徴的な湾曲を有する古代ギリシャ、ローマの短刀、その中でも先生がコレクション用に手に入れたこの剣は湾曲が激しく、不恰好なS字型と呼ぶに相応しい形状だ。

「―――――――――っし!」

 その刀身を、空気に噛み付くように走らせる。
 俺に向かってきたのは馬鹿でかい二頭の狐、ただ、どこの世界に二枚舌の狐がいるというのか。
 迫りくるオレンジ色の獣。一方は鋭い爪で俺の頭蓋を、一方はしゃくれた爪で俺の身体を引き裂こうと左右から突貫をかける。それを受け流した二刀を伝い、ジンと両の手が熱くなる。

「っち」

 ミスった。
 力を込めすぎたのか、それとも獣の力を見縊りすぎたのか、どちらにしろ余り反動を殺せなかった。とはいえ、敵の一手は防いだ。
 だが再度、左右両脇から飛び込まれ、鋭利な牙が俺の背筋に冷たいものを這わせる。
 今度は上出来だ、左の狐は横っ面にビンタをかます様にいなし、左に回転する運動エネルギーを右の刀身、逆手に持ったマカイラに込め、次に飛び込んできた狐の首筋に深い断層を与える。
 きゃんきゃんと喧しく転がる一頭、――――だが、まだ動けるようだ。辛酸に顔を歪めて、もう一度双剣を下段に構える。

「クソっ、まずった」

 そして、自分の愚かさに毒づいた。呼吸を整えれば、辺りには俺を囲む物の怪が四体。
 二つは先ほどの孤妖、一つは先ほど桜咲が片付けた芋色の巨大なヤモリおそらくはその同族、そして最後は、いつか俺と戦った半透明の化け物だ。
 俺が囲まれた不利に冷や汗を流す間も無く、手負いの筈の巨大な狐が俺の背中目掛けて太い爪を叩き下ろす、身体を捻りそれを躱すが、逃げた先にはやはり巨大なヤモリが頭突きで俺を迎えてくれる。双奇剣をみぞおちの前で結び、それを何とか受け止めた。

「っくう」

 だが、爬虫類の癖になんて怪力で俺を吹き飛ばすのか。バックジャンプで反動を殺しきり無傷を保つ俺の身体はしかし、身体を投げ出した着地点で巨大な拳を天に向けた魂喰いの射程距離にまんまと飛び込んでいた。
 化け物の間で連携が取れていないのが幸いしたのか、二秒に満たないタイムラグで俺は歩道にゴロゴロと転がり、落ちてきた巨大な拳骨からこの場を乗り切る事に成功する。
 この場所が開けた交差路で助かった。閉鎖された戦場であれば、俺はこの囲みから突破出来なかった事だろう。
 四体の波状攻撃を躱し切った俺は、できうる限りの疾走で囲みの一番端、そして尚且つ一番厄介な魂喰いの後方より切りかかる。
 一刀、そして二刀、初太刀は真上に切り上げ、二つ目は真横に。だが、半透明の堅牢な背中にはヤスリをかけた程度の十字傷しかつかなかった。

「くっ、相変わらず硬てぇ」

 俺の愛刀ならまだしも、手に握ったイメージ程度ではコレが精々か。
 俺は手に入れた好機を逃したことに舌打ちし、距離を取る。最悪の状況は乗り切った、しかし、未だ不利は変わらない。扇状に俺を追い込む四体は、じりじりと開いた空間を犯し詰め寄る。
 接近戦はいけない。ヤモリ程度ならそれもいいが、二匹の大型獣と一体のデカ物には余り効果的な戦闘方法とは思えない。
 人間の脆弱さに涙を流しつつ、そして、衛宮士郎にはやはり、手を抜いた戦いは不可能なのだと再認する。あぁ分かったよ、結局、俺はいつだって全力疾走しなけりゃならないってこったろう? 体力、魔力の温存なんて最初から無理だったんだよ、桜咲。

「なんか悔しいなぁ」

 仕方が無い、それが俺の戦い方だ。全力で走って、限界まで頑張って、掃滅戦の常道って奴に真っ向から対抗してやりますかっ?
 唇を歪め、イメージを走らせる。撃鉄が上がり、弾丸は装填された。
 俺の気合に反応してか、歪な獣が一斉に飛び掛る。だが、剣の間合いで戦うことは愚の骨頂。俺は開いた距離を保ちつつ、剣/銃(けんじゅう)を構える身体を限界まで捻り。

「――――――――――こいつは、ちょいと狂暴だぞ?」

 嘆くと同時に両の剣、マカイラを渾身で投げ放つ。投法はアンダースロー、出来る限りの速さで天に腕を振り上げる。
 肉薄を試みる獣、放たれた双奇剣。あくまで人間の力で放たれた投擲だ、目の前で一直線に向かうはずのその短刀、故に、獣の反射にしてみれば、躱せぬ筈が無い。
 しかし、それはどうか? 無理が通れば道理は覆る、それが俺の戦い方だ。

「装填(バレル・ロード)」

 見事にマカイラ、二振りの双剣は、いち早く駆け込んだ孤妖の脳天、そして首筋に突き刺さっている。
 それに頬を吊り上げる必要は無い、倒れ付した黄金色の化け狐に目もくれず、その後ろから飛び込むもう一体の狐とヤモリに視線を移していた。

「―――――――投影、開始」

 手に現れたのはマカイラ、先ほどと寸分違わぬ双の奇剣だ。
 やはり、投擲。まぐれは無い、今度も当たりのイメージは目の裏側に確かにある。

「再装填(バレル・リロード)」

 放った刃。
 それは空気に絡みつき、変則的にうねり渦巻き、大気を噛むように目標に向かう。コレこそが先ほど一体の狐をしとめた理由。湾曲に極まった双奇剣は、俺でも予期できぬ軌跡を描き出し、獲物に迫る。
 まるでそれは、流れる風に乗るように。まるでそれは、流れる風に歯向かうように。時に加速し右に流れ、時に失速し左にきりもみ、しかしそれでも、双剣は走り獲物を捕らえる。
 俺は休む事無く投影を装填、引き金を引き、両の手に現れるマカイラを放ち続けた。幾重の奇剣が乱れ飛び、四方から飛び交う刃が残る三体の怪物を切り刻んでいた。
 踊る血飛沫、弾け飛ぶ肉、されど。

「やっぱ、効かねぇのかっ」

 魂喰い、奴にはこの程度の斬撃乱舞は通用しなのか?
 残る一体、魂喰いは倒れこんだ三対の獣を踏みつけ、トランクみたいな地響きと一緒に迫りくる。
 体当たりの加速と共に、巨獣は腕を器用にも腕を振りかぶり俺の脳天を狙いやがる。
 ブンと鈍い音が夜気に走る。十本はあろう奇剣の弾丸が突き刺ささった怪腕は、容赦なく俺の顔面に落ちてきた。

「ぐ、がっ」

 咄嗟の判断。いや、そんな上等なものではなかった。死にたくない一心で、気付けば握った奇剣を頭上で交差している。俺の身体が芯から反響し、筋骨が悲鳴を上げる。
 それでも、身体はなんとか壊れずにすんだが、奇剣はズタボロに亀裂が走り、イメージが綻んだ。よって霧散、獲物を失った俺の身体が嫌に軽い。
 叩きつけられた丸太みたいな腕は、こちらの都合をお構い無しで、今度は横から俺の臓腑を破壊したいようだ。思考は無い、ただ本能は逃げることが最善だと告げている。
 転がるように、真後ろに跳んだ。擦り傷だらけの身体を起こせば。

「――――――やばっ」

 もう一体、どこから沸いてきやがったのか二体目の魂喰いが、腕を振りかぶっていた。

「神鳴流、―――――――――――斬空閃」

 苦虫を噛み潰すような顔で、後方の化け物を睨んだ刹那。そいつは真っ二つに両断されていた。
 門前の虎、後門の狼。絶対の危機を救ったのは、桜咲の地を這う一閃だった。それは正しく“気”合いの一刀。桜咲と俺を挟んだ剣間は約五間、だが、桜咲の放った波風の如き一太刀が大地を擂り伝い、後方の化け物を寸断していたのだ。

「――――――悪い、借りが出来たな」

 一度目は麻帆良の吸血鬼、二度目はお化けタガメ、そしてコレが三度目か。
 俺は男としてのアイデンティティーとかについて本気で考えながら、桜咲と背中合わせに並んだ。再度マカイラを投影し、逆手で二刀を構える。

「ご冗談を。借りがあるのはこちらでしょう、返済は計画的に行いませんと」

 はて、こいつにそんな物を創った覚えは無いのだが。
 泥まみれの擦り傷だらけ、俺は乱れた呼吸で呻いたのだが、帰ってきたのは涼しい声色だった。ああそうかい、お前はあんまり苦戦してない見たいだな。

「それって、俺がピンチになった瞬間を狙っていたって意味かな?」

 汚い俺のジャンパーを一度叩いて、桜咲の顔を盗み見る。
 くすり意地悪く笑った桜咲は、俺が奮戦するうちに大幅にその頭数を減らされた奇怪な魍魎どもの陳列を眺めていた。

「おや、今夜は随分と僻みっぽいのですね? そんなことは一切ありませんよ、何なら神に誓ってもいい」

「抜かせ、人が必死になって戦ってんのにさ。それとな、どうせ誓うなら近衛にしてくれ、そんな事を踏まえた上で、俺の質問に答えてくれるのか?」

 くっ、と桜咲が俺と同質の笑みを溢した。
 残る物の怪は概算で十。

「ふふ、確かにそれは宜しくない。降参ですよ、衛宮」

「そうかよ、あんま嬉しくねぇなあ」

 背中合わせの桜咲は何を思っていたのか、いつか垣間見せた懐かしそうな顔色に微笑を移していた。気でもふれたのかと思ったが、どうやらそれは俺の杞憂らしい。

「そろそろいきますか? このままでは残りの獲物、全て式さんに狩られてしまいます」

 力強い彼女の言葉。
 いつか味わった勇猛な激励に身体が力を取り戻す。そんな励ましを俺に送った桜咲は、やはり、懐かしむように今の状況に笑みを溢していた。
 全く、京都の街中で大量のお化け共に囲まれる思い出なんて。

「――――――あるわけ無い、よな」

 馬鹿な思考にも程がある、いくらなんでもそんなイカレタシチュエーション、何度も経験できるかよ。

「どうかしましたか、衛宮?」

「いんや、なんでも。――――――――そんじゃ、先行くぞっ!」

 俺は外れた思考をその中に込めて、言い捨てる。
 俺と桜咲に十秒に満たなかった僅かな遣り取りの間に、式さんは二体の物の怪を気色悪い肉の塊に変えていた。
 夜は刻々と堕ち込み、段々とこの街路を照らし出す温い光は強く、深く。
 先ほどよりも幾分も蒼さを取り戻した古都の夜更けで、血肉弾ける朱色の饗宴は、未だ終わりを知らなかった。








「はっ、――――――品目豊かなこって、まったくさ」

 辺りには累々とした屍の山が築かれていた。
 千切れた昆虫の節々や肉食獣の切断された足、それらが濁った朱色の水溜りにぷかぷかと漂う光景は凄惨なものだ。
 その様子を評した式さんの毒舌。確かに、多種多様な屍がそこにはある。

「でだ。もう終わりか? もうチョイいると思ったんだが、あっけないぜ」

 式さんは警戒を怠らなかった鋭い眼光をようやく垂らし、薄笑いを屍の海に抛った。
 商業ビルが頭を囲うこの場所はどうやら普段の静寂を取り戻している。この場所がそれなりに浄化された証拠だ。昼間と同じ、正常な空気が頬を張る。
 かれこれ二、三回ほど気色悪い妖怪の群れとの遭遇そして殲滅を繰り返し、俺達が通ってきた道なりには奇形な屍がゴミみたいにひたすら散らかっている。
 恐らく、残骸の数は百では効かない筈だ。まあ、その殆どが式さんと桜咲が蹴散らしたモノばかりなのだが。
 一時間ほどこの町の浄化に努めてきたが、俺がしたことなど自分の身一つを守りきった事だけだ、彼女達との実力差を肌で感じている。
 二人は女の子なのに、この差は一体何なのさ?
 俺が肩を落とした間に、先ほどまで大量に辺りに散乱していた奇怪な残骸は、鴉に食い散らかされた残飯程度にしか残されていなかった。力を失った幻想の屍骸は、世界からの修正によって霞みに融けていく。活動していた時にはあれほど醜いものばかりだったのに、皮肉にも、その靄は淡く灯る甲虫が飛び交うようで。

「ええ、この地区に蔓延した妖は粗方倒滅出来たのは間違いないでしょう」

 桜咲はガードレールに軽そうなお尻を乗せて夕凪を鞘に収めながら続けた。
 桜咲も、真冬に漂う蛍の光を目で追っている。

「……ただ、大気中のマナの濃度に已然として変化は無い。明日の夜には、群がってきた人外どもによって、再び瘴気が満ちてしまうでしょうね」

 そして漏らしたのは、未だ気の抜けない事実。
 神妙な面持ちで、彼女は駅ビルの展望に付属している巨大なデジタル時計に顔を上げる。
 日付は後数刻もしない内に変わる、京都の街にホトホト似合わぬ電光の数字が告げていた。
 強いビル風の嘶きが、桜咲と式さんの黒髪を乱し巻き上げる。

「根本的な解決にはならないって事か。なあ、どうにかして原因を見つけられないのか?」

 髪を整える桜咲に俺は呻く様に聞いた。
 少し考える仕草をしてくれたものの、やはり回答は俺の予期していた物と変わらない。

「見つけられるものなら、とうにそうしています。衛宮が焦る気持ちも分かりますが、今私たちにある選択肢は、コレだけです」

 表面的な解決策で残念ですがと、彼女は俯き加減に付け足した。

「まあ、仕方ないだろ衛宮。当面はコレで問題ないんだ、その原因とやらがみっかるまで、当分の間は夜中のゴミ浚いだな」

 式さんは、ソレだけ言うとさっさと北大路通りを一人自若と下っていく。
 嫌な生暖かさはなりを潜めたため、いつのも血色のジャンパーは彼女の薄い肩に羽織りなおされていた。
 きっと酷薄な薄ら笑いを浮かべているに違いない。だってそうだろ、彼女の言う通り、さしあたって式さんのストレスは一方的に解消されるだけなのだから。

「ほら、行きますよ衛宮。私達の警戒地区はまだまだ残っています、このままでは夜が明けてしまいます」

「……はいよ」

 俺は急かす桜咲に唇を尖らせながら隣に並んだ。
 引っかかるんだ、何か見落としているような、何かが俺に訴えかける。俺は虫の報せにも似た奇妙な既知感に思考を絡め取られていた。

「おい衛宮。そんな不満そうな顔すんなよ。確かにさ、お前がここの人間どもを気にするのも分かるけど、少しは肩の力を抜けよな。出る前に詠春だっていってたろ、当面はこの人海戦術の清掃でこの街は平気なんだ、実戦形式の鍛錬だと思ってテキトーにやればいいんだよ」

「そうは言ってもですね、こんな状況でシリアス以外なんて出来ませんよ」

「はっ、男の癖に小さい奴だね、お前って。何事も余裕をもって対処しないといつかポカるぞ?」

「ご心配なく。ポカる時は余裕があろうが無かろうがポカりますよ、それは俺が良く知ってる」

 振り向く式さんは「そうかい」と、苦笑しながら先頭を譲らない。
 遠坂の例もあるし、ポカする時ってのはどうしたってしてしまうものだと、いくらか緩んだ緊張で深く息を吐き出した。

「それにしても、先ほどから物の怪達の集まりが悪くなりましたね。まるで様子を窺ってようです」

 警邏の折り返し地点に差し掛かった辺りで、桜咲がいった。
 昨日訪れた鹿苑寺の周回を終えて、今は寺院の駐車場で三人は顔を突き合わせている。
 俺と式さんは、彼女の言葉に釣られて、今まで口にしなかったその不自然さに相槌を挟んだ。

「そうだな、ついさっき湧き出るみたいに群がってきたのに」

 俺は眠たげな瞼を一度だけこすった。
 かれこれ一時間、戦闘の気配は無い。俺たちの地区には、もう怪異は存在していないのだろうか。いや、そんな筈は無い。この場所だって肥大した大量のマナが変質し、異臭さえ放つ瘴気が沈殿している。
 俺は自身の言葉を否定するため、辺りを見回す、だが怪物たちの向ける殺気と食欲の気配は微塵も無い。だが。

「――――――――――――刹那、衛宮。気付いたか」

 誰かに、見られている。式さんの冷たい鳴弦みたいな声が俺たちの意識を拡張させた。
 再度ギアチェンジ。 
 思考を素早く警戒態勢に。腰を据え三人は背中を重ね、それぞれ三方、自身の正面を警戒する。しかし、人間の気配、人外の気配は、――――やはり、無い。

「視られていますね。しかし、一体誰が私達を?」

「俺が知るかよ。それより、この視線がどこからか――――――分かるか?」

 辺りは耳鳴りがするほど静まり返っている。
 風も無く、湿気た冷たさだけが沈殿していた。

「視線だけですね。本体は恐らく別の場所で……。式神、或いは使い魔の類か」

 桜咲が、誰にでもなく呟いた。
 式さんや桜咲にもその位置を悟らせぬほどに観察、そして隠蔽に特化した使い魔。
 だが、驚くべきはそんな点ではない。重要なのは使い魔、それを行使している“誰か”がいると言うことだ。

「ふうん、面白くなってきたじゃないか」

 恐らく式さんも思い至ったのだろう。あくまで可能性を匂わす程度だが、京都の街で起こるマナの異常増加、もしかしたらコレだって人為的に意図されていたものなのかもしれない。
 少なくとも。詠春さんにお土産が出来たのは間違い無かった。

「本当、退屈はしなさそうです。俺」

 ニヤリと、式さんが酷薄な愉悦を漏らす。

「まったくさ。それじゃ挨拶代わりだ、折角だし菓子折りを持ってってもらおうか?」

 そうして、式さんが殺気を膨らませ深い雑木林にソレを叩きつけた。
 金閣寺舎利殿の頭が除かせるその黒い密林がざわつき、一斉に寝屋を暴かれた野鳥が慌ただしく飛び立った。

「練成、開始」

 その中に、一つ不自然に飛び立った肥満体の梟。逃げ遂せるその瞬間だって、俺たち三人を注視するその態度が、癪に障る。ああ、しっかり見てやがれ。

「―――――――変化投影、完了」

 左手に現れた幻想はフェイルノート。その贋作、そのまた偽者だ。
 エミヤシロウが携える筈の黒塗りの弓には、ナックルガードが無く俺のための確かな幻想として重みを持たされている。
 イメージは加速し、類感によって派生した“矢”の概念が剣と溶合い俺の世界で幻想として象を持つ。弓は番えた、言霊が弾け一つの弾丸がリアルに顕現する。

「――――――― I am the bone of my sword(我が理念は歪に貫く)」

 ファルシオン、滑らかな70cmの刃渡りは細く鋭利、そして捩じ切れんまで螺旋する。
 10cmはあった元幅は5cmほどで、螺旋する内に一回りほど小さくなっている。
 平たいイメージの原型は留めておらず、その剣は細長い一つの弾丸だった。以前、麻帆良で投影した時よりも、ずっと変化が大きい。俺だって、ちゃんと成長しているんだ。
 さあ、距離は概算で100と20。

「逃がすかよ、コレならっ―――――――――」

 流れるように自然な挙動で、矢を放った。
 それはさながら弾奏。引き伸ばされた弦が撓り、刹那には風きりの音色。それは正に音楽だったのだ。
 だが、そんな時間は束の間だ。背中の筋がギチリと嫌な不協和音を鳴らす。が、それを噛み締め俺は螺旋の弾丸が梟を破裂させるのを見納めた。
 巨大な弓矢は、獲物を射抜くと同時に霧散している。歪な幻想は、世界の修正によってその存在を否定された。俺の技量では、変化の式を加えた投影魔術を十二分に使いこなせてはいないようだ。現界はもっても数十秒、それが俺の限界だ。
 いけ好かないあの弓兵は、どれほどこの魔術を使いこなせていたのか、そんな不愉快な夢想に唇を歪めて、俺は魔術回路と自分の身体を落ち着ける。

「ふん、本当、弓だけは大したもんだよ」

 汚い花火みたいに爆散した使い魔を眺めて、式さんが悔しそうにいった。
 返す言葉も無い、毎晩剣の鍛錬に付き合ってもらっても、俺は亀のようにノンビリしているものな。
 バツが悪く髪を掻く俺を意地悪く笑った式さん。彼女はそれでも満足そうに、艶のある髪を腑って俺に背を向けた。

「さ。今晩はコレで警邏は終了なんだろ? さっさと帰ろうぜ、オレはもう眠いんだ」

「そうですね、もういい加減良い時間だ。明日も京都観光が待っていますよ、寝坊してはいけません。このちゃんが残念がる」

「分かってるさ。オレも楽しみなんだ。昼間は京都巡り、夜は殺し合い。最高だね、今回の旅行はさ」

 今までの怪異、日常とかけ離れた異常な世界を気にも留めず、明日の予定を話し合う二人。
 逞しいよなぁ、女の人って。
 夜更かしのため遅刻を気にする学生みたいな遣り取りを聞き流しながら、俺は二人の後ろでぼんやりと歩く。

 赤黒い夜。

 俺は金色の塔を後にする。
 
 冷たいはずの夜気が、今はこんなにも生暖かい。
 戦闘による疲労も勿論だが、それ以上に、俺の精神が思い出しているのだろう。
 聖杯戦争。在る筈の無い願い/救いを求めた、あの戦いを。

「お前がいないのにさ――――――――――皮肉だよ」

 かつては隣にあった彼女。
 黄金色の少女は、今――――――――。

 見上げた月は彼女の色にしか見えなくて。

「――――――――トレース、オン」

 俺は口ずさむ。
 夜の街路をゆっくりと進みながら。

 どうせ投影なんて出来ないのに。

 俺と彼女が、一つの願いを手に入れてから。
 あの戦いが、終わってしまったあの時から。

 俺は、カリバーンを投影できないのに。

 しかし、俺はその時ふと思ってしまった。
 いや、もしかすると、はじめからその疑問は俺の中に巣くっていたのかもしれない。






 俺は、――――――どうして、あの剣を投影できないのか?







[1027] 第二十九話 願いの行方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 04:38
/ others.

「気付かれたみたいね、一流の魔術師さん」

 龍界寺の本堂。コールタールの様にべっとりとした深い黒色が幅を利かせたこの場所で、都が皮肉にいった。気障りな歯軋りでそれに答えたのは、魔術師。肥大し皴の無かった赤ら顔が、一度だけ憤怒に歪み、そして普段のせせら笑いに表情を返した。 
 孔を開いてから早数刻、その間にも、この寺院に満ちた魔力、マナの総和は飽和限界を突破し、息が詰まるほど充足している。
 人間ならば、或いは二線級の人外であるのならば、この神秘の濁流に当てられ、その気勢を常に保つことすら困難だろう。そんな密閉された地獄の釜染みたこの場所で、自然に話を進められること自体、二人の実力を克明に知らしめていた。

「ふん、まああれだけ近づけば仕方が無い。それよりも、あのレベルの魔術師どもを相手に、最後の瞬間まで監視を悟られなかったわたしの辣腕に少しは驚いてくれても良いだろう? あれだけ隠密性に優れた使い魔の遠隔操作、それに付随した物の怪どもを引き付ける特徴的な機構、いうなれば誘蛾灯の役割を組み込まれた魔具は、そうそう簡単に造れるものでは無いのだよ?」

「でも結局、今回の事件が“人為的”に起こされているって、むざむざ気付かせちゃったじゃないの。まったく、仕事を増やしてくれないで」

「ん~、問題ない。どの道、最後には我々だって自らと言うカードを切るんだろう? それに、いまさらそれがばれた所で、彼等退魔組織には何も出来んよ、ただ私たちの計画通りに踊らされるだけさ」

 衛宮士郎、桜咲刹那、両儀式。三人に付けられた監視用の使い魔は、その実、彼らが呪術協会本部から出陣した当初から目を光らせていたのだ。
 それだけではない、魔術師は十では効かない数の監視用使い魔を今夜京都の街全域に繰り出している機関員小隊全てに配置していた。

「まあいいわ。それよりあの三人、厄介ね。鏡の事前調査の限りでは、注意すべきは呪術協会長位のモノだったのに。近衛木乃香の護衛がそれなりに出来るのは予想の範疇だったけど、あの着物の女、想定外のダークホースもいたものだわ」

 今夜、配置された使い魔に気付いたのは衛宮士郎達三人だけ。
 実践的な法術師たちが事にあたった今夜の警邏、それでも、衛宮士郎達三人はやはり抜きん出ている。両儀式、桜咲刹那は言わずもがな、衛宮士郎とて、こと“戦”においては既に一介の魔術師の範疇を大きく上回っていた。
 “剣”と言う、限定的な属性は魔術の研究に向かないし、彼の才覚だって“魔術師的視野”にしてみれば、高が知れている。
 しかし、忘れてはならない。“剣”に特化した彼の希少性と凡庸性は、戦闘と言う限定条件において多彩な、それでいて強力なアドバンテージを担っている。それは、彼がくぐり抜けてきた死線の数々を顧みれば、火を見るよりも明らかだ。
 あらゆるモノを看破する解析眼。剣の強化、変化、投影を組み合わせた幅広い攻勢能力。そして極めつけは宝具、最高位の幻想すら顕現させるその魔術か。通常の物差しでは計り知れない悪魔的な切り札を、彼はその短小な体躯の中に無限と潜ませているのだから。
 加えて、衛宮士郎の持つかけがえの無い武器。聖杯戦争と言う、最高峰の戦を知る彼の経験値は、決して軽んじられるものでは無い。
 だから、桜咲刹那や、両儀式、蒼崎橙子、遠坂凛、近衛近右衛門が、その分野のスペシャリストと呼ばれる一流達が、衛宮士郎に一目を置くのは、ある意味当然だとも言えるのだ。彼の持つ才覚は、確かに塵芥ほどの物で、彼等が持つ圧倒的な“天才”と明らかにかけ離れている。
 誰しもが持ちえる、手に入れる事ができる衛宮士郎の“劣才”。それはしかし、生まれながらのどれほどの天才であっても、初めから持ちえることは出来ず、そして、彼ら天才達がいかに天賦と天運に恵まれようとも、おいそれと手にして良いものではない。
 それが、桜咲刹那が彼を“馬鹿”と称した理由。エミヤシロウが手に入れたその力は、彼等天才達ですら羨むほどの眩い真の才だ。
 きっと唯人は其れを揶揄するが、しかし、きっと偉人は其れを欲する。

 その宿命を、時に人は異才と呼ぶのだから。

 衛宮士郎は確かに天才では無いが、彼を知る一流達は後に、きっとこう評するに違いなかった。
 だが、遠上都と魔術師は、それは図り違えた。警戒すべき人間を、ものの見事に無視してしまうのだから。

「確かにね。今夜わたしの使い魔に気付いたのは上出来だが、所詮は厄介な蛆が二人ばかり湧いただけではないのかね? 心配することは無いさ、手はず通りで何も問題ない。警戒すべきは三人、近衛詠春、女二人だ。やれやれ、鏡君には少しばかり気張ってもうことになったがね。ひひ」

「彼ならば、二人相手の時間稼ぎ位簡単よ。そのためのアーティファクト。彼は、絶対に“負けない”わ。それが鏡に出来る唯一の事。悲しいイデオロギーね」

「それを強制したのは君なのにかい? ひひ。全く、女はコレだから困る」

 一瞬だけ細く薄い眉をひそめて、都は計画を反芻させていた。彼女のしかめた表情は、決して魔術師の口臭の所為では無いと、気付くことすら出来ずに。
 都は、再び夜の街を徘徊する愛しの鏡とのラインを確認し、言った。

「問題はやっぱり私達よ、どうしてって、たった二人で本部を襲撃するんですもの。考えられる? いくらあそこが混乱しているって言ってもね。不安で、怖くて、堪らないわ」

 もの愁いげな台詞と都の表情は、見事に噛み合わない。ルージュに切られた瑞々しい唇は、男ならばいきり立たないはずが無いだろう。それほどまでに淫猥だった。
 薄い嘲笑は魔術師にも伝播し、二人は毒々しい愉悦に、ただ声を奮わせる。

「ん~確かにね。しかし、そのための君ではないのか? 混血の君ならば、なんと言ったか……神鳴流かね? その流派に対して有利を担えるのだろう? それに、君の固有能力は到底、剣士にどうこう出来るモノには思えないぞ。君の力、限定的では在るが近接戦闘しか出来ないサムライにはそれこそ地獄のようなモノだ。なんせ………」

「“近づくことも出来ないんだから”かしら? そうね、私が焼いちゃうのと、神鳴流剣士の抜刀は、どちらが速いのかしらね」

 ゾクリと女は肩を抱いて身体を震わせる。
 今宵。牛三つの時に、魔術師と混血の最後の密会は果たされた。
 跳梁の都は、再び月が巡る時、その混乱は極点を指すだろう。

「ふふ。それでは明日、この街を紅く染める刻限で」

「ん~了解した。私は自身の研究と保身の為に、君は過去に起因した欲動を満たさんが為に」

 そして繰り返される会合は、コレ以後交わされることは無かった。
 前夜の戦は、静かに終わる。





Fate / happy material
第二十九話 願いの行方 Ⅴ





/ 9.

 夜が明けた。

 目蓋の裏側。やはり黄金色の■が、ドブ泥のような世界を照らしている。

 そんな反転した現の夢に引き摺られ、まどろんだ闇色の意識から目を覚ます。
 節々に残った億劫さを黙らせて脳が揺れるくらい強く頭を振った。俺は浴衣を羽織った筋肉疲労の身体を起こしてさっさと布団を片付ける。隣で未だ静かに寝息をたてる幹也さんを気遣いながらジャンパーを肩に引っ掛けて、用意された離れの寝室から音も無く出た。
 なるたけ息を殺して、襖を閉める。本堂へと続く板張りの廊下を軋ませると、霜の降った日本的な大庭園が見渡せた。俺は白い息を吐き出して、ツッカケのまま芝生を踏みしめる。朝の散策にしても些か早すぎるなと、一人唇を持ち上げて、しとしとした草を踏んだ。
 実際、疲労の所為だ。起きるつもりも無いのに勝手に目蓋が開いてしまったことに、そこでようやく舌打ちをした。だけどまあ、早起きは三文の得と言うし、朝飯の時間までの少しの時間で庭を回るくらいなら誰に許可を取る必要も無いだろう。
 ぼんやりと景観を眺めながら出鱈目に歩みを進めると、段々と素足が冷たくなっていく。朝露を吐き出す緑の絨毯が、いつの間に俺の浴衣の裾さえもしとどらせていた。

「―――――っくう、つめて」

 俺は、丁度近衛の実家が建立されている霊山の入り口、彼女の家の本丸が見渡せる鳥居の前にまで遣って来たところで、石段に腰を据えた。ついに足先の冷ややかさに耐え切れなくなったのだ。
 吐き出す靄はやはり直ぐに消えて、視界の先、白んできた夜の淵と同じ色に溶け込んでしまう。
 未だ光の灯らぬ静まり返った京都の街を、それから俯瞰した。
 俺には判断できないが、やはり京都の街には未だ大量のマナが大気に溶解しているのに間違いなかった。しかし、今朝方まで退魔組織の十にも及ぶ小隊が、この街の浄化に努めたため昨晩の圧倒的な瘴気は鎮火された筈だ。
 “向こう側”の生活は今日も当たり前に開始されるのだろう。太陽が高いうちは、物の怪どもは活動できないし、異常増加しているマナだって、群がる彼らに当てられ変容し、瘴気にでも化学反応しない限り人体にそれほど有害でも無いのだから。

 ―――――だけど、そう楽観もしていられない。

 湧き上がるマナの量は増え続ける一方だと言うし、夜になれば、またあの紅いフィルターがかった禍々しい異界へと京都の街は顔を変えてしまう。昨夜だって犠牲者は“ゼロ”では無いのだ。俺たちがこの原因不明の怪現象を解決するまで、関係の無い誰かが死んでいく。それはきっと微々たるモノでも、その事実は確かにあって、俺の心象を軋ませる。―――――きっと、今夜は昨晩以上の歪な夜になる筈だ。
 結局、いたちごっこは変わっていない。根本から、そう、マナの異常増加そのモノを食い止めなけりゃ、この街を救うことなんて出来ないんだ。
 しかし歯がゆいもので、昨晩の警邏から戻りざま、直ぐに詠春さんに問いただしては見たものの、やはり返答は変わらなかった。
 未だ俺達は、この事件の根幹に近づけてもいない。
 入手した新たな情報といえば、この事件が何らかの作為的、人為的要因が絡んでいると言う可能性だけ。俺たちに付けられていた監視用の使い魔の存在からの推理、憶測の域を出ないそれだけだ。
 詠春さんは各組織との連携やらの仕事に忙殺されながらも、俺たちの話から今回の事件に関する再調査員を本格的に京都に点在する各霊地に送り込む事を検討してくれている。もしも何者かがこのマナの異常増加を故意になしているとすれば、起点となるべくいずこかの霊山に異常が認められなくては可笑しいからだ。
 何にしても、手遅れになる前に手を打つ必要がある。本格的な霊地査定は、早ければ明後日には開始されと詠春さんも言ってくれたし、今は俺たちに出来ることで最善を尽くそう。
 それでは、今夜も夜のお掃除頑張りますかっ……まあ、今朝飯前の時間帯だけどさ。

「ありゃ、衛宮君。もう起きとったん?」

「―――――近衛?」

 思考に一応の決着がついたところで、俺は意外な声に振り返った。紅白が映える清廉な浄衣を纏った近衛が、俺の直ぐ後ろで膝を抱えて中座していたのだ。
 予期せぬ来訪者は、俺に視線で「隣、いい?」と問いかけている。勿論、拒む理由は微塵も無いので俺はど真ん中で占領していた石段の上を右にずれ、彼女のためのスペースを設けながらいった。

「早いんだな、朝。まだ5時くらいだろ。どうしたってこんな時間に、寝てても構わないはずだろ?」

 野鳥の囀りしか聞こえぬこの場所に、近衛は腰を落ち着けた。大きく息を吸い込んだ彼女は、気持ち良さそうに同じく大きな伸びを見せてくれる。

「まあね。里帰りの時はいつもこうなんよ? 実家に帰ったら帰ったで、ウチには味方がおらへんの。だってな、お父さんが“魔術の鍛錬だけじゃなくて、御家の苦行もしておきなさい。君は一応……”」

「日本の退魔組織、そのお姫様なんだから、か? それはまた、しんどそうだな、色々。俺はさ、そう言う“こっち側”の慣習や、政には疎いから、近衛の苦労は分かってやれそうも無い」

 俺が先回りしたことが気に入らなかったのか、それとも自分の辛さに共感を抱けぬ俺に不満を持ったのかは知らないが、寒さで赤らんだ頬を軽く膨らす近衛。

「むう、だったら愚痴くらい聞いてくれても構わへんよなっ? 本当、魔術のお勉強も休むわけにはいかへんし、法術…あ、日本の魔術みたいなもんな、それの修練だってせなあかんし、帰郷って言っても羽を休める暇さえないんよっ分かるっ、衛宮君!」

 があーっと、身を乗り出して熱弁する彼女は息を荒げて口にした。必死の訴えから、そのハードさが如実に見て取れる。
 しかし、こんな時間から巫女装束を着込んでまでの本格的な修行だ、きっと大変に違いない。
 日本的な修行って言うと、滝にうたれたり火の上を走ったりするあれだろうか? 俺はそれを近衛が行う冗談みたいな光景に笑いを堪えながら口を押さえる。

「むむむう~、なんで笑うんよっ! ウチ、大真面目やでっ」

「へいへい、分かります、分かりますよ、木乃香お嬢様。私めでよければ何なりと。色々と鬱憤がたまっているご様子でござんし、拙者が付き合いましょう?」

 苦笑を漏らす以外に無い俺は、それでも、こいつの辛さを分かってやれないことを程なくも残念に思う。まあでも、その役割は俺ではなく、もっと相応しい奴がいるわけだが。なあ、そうだろ? 桜咲。
 そんな気持ちを言外に込めて、おちゃらけて近衛に漏らす。
 別に大したことを言ったつもりは無かったのだが、近衛の顔は本当に嬉しそうだ。
 いやまいった、お姫様ってのは、華やかなだけじゃなくて、それだけプレッシャーや気苦労が積もってしまうものなのだろうと、ここに来て初めて気がつかされる。
 それから、益体の無い彼女の軽快な愚痴、ともすれば幸せ自慢とも取れる、そんな話を聞き続けるだけの緩やかな時間が流れていった。

「…………でな、せっちゃんも最近は厳しいし、ウチ最近めっちゃストレス溜まりまくりなんよっ。 大体、お姫様の自覚ってなんやんっ!? ウチは普通の女の子やもんっ、分かるわけ無いやんか!」

「まま、桜咲だってさ、それだけお前が心配なんだって。そう言ってやるなよ」

 俺は適当に相槌を挟みながら、笑顔を解けないでいた。
 あれから幾分も経っていないように感じるのに、気付けば紫がかっていた東の地平が今は燦爛と光に満ちていた。山間から吹く朝嵐も、痛いほどだった冷たさがなりを潜め、先ほどから穏やかに肌を撫でている。
 苦言を溢しながらも、近衛の顔は本当に楽しそうで、無為な遣り取りを終わらせるのに俺は気をもんでしまう。
 だけど、そこいら辺は流石近衛。彼女は「ふう」と満足げに白い靄を吐き出して、俺の隣に座ったときと同じく、大きな伸びで会話を止める。

「さて、そろそろ朝ごはんの時間やし、戻る?」

「そうだな。しかしなぁ、本当、護衛の仕事の為にここにいるって忘れちまうな。これじゃ、まるっきりただ飯ぐらいの居候だよ」

「あはは、そう硬いことは言いっこなしやんっ。衛宮君、今はウチの故郷を一生懸命心配してくれてるやんか、そんなん気にする事ないで。それとな、ウチも、きっとせっちゃんも、“護衛の為に着いてきた”なんてほんとの所、あんま言って欲しくないんよ?」

 勢い良く立ち上がった近衛の黒髪が、俺の鼻をくすぐっている気がした。俺は彼女に遅れて身体を起こしたため、そう感じたのは気の所為だろう。
 しかし結局、そのむず痒さは消えることが無かった。俺はぐしゃぐしゃと頭を掻きながら早足に本道の石畳を行く。後ろからとことこ付いてくる近衛は、多分ニコニコとほっぺを艶々にしている筈だ。

「なあ、それと衛宮君最後に気になった事一つ聞いて良い?」

「ああ、なにさ?」

「今朝は何でこんなに早かったん? 昨日の晩は、遅くまで警邏に出とったんやろ、疲れてないん? せっちゃんと式さんだって、今はぐっすりなのに変やんか」

 近衛は俺の横に並ぶと、少しだけ困惑気味に聞いた。俺の顔色覗きこんだので、今は尻尾みたいに結ってある彼女の黒髪が垂れる。
 俺の体調を気遣ってくれているらしい彼女に、俺は何でも無いように返した。

「ま、知っての通り、俺はあんまし優秀じゃないからさ。きっと疲労が溜まり過ぎて眠れなかっただけだよ。式さんと桜咲にはあれ位の戦闘、問題なかったろうけど、生憎、俺は二人みたいに立ち回れないんでね」

 俺は装った気丈さで、肩を竦めて見せた。そのシニカルな感じがアーチャーの野郎みたいで、少しの自己嫌悪を覚える。
 隣を見ると、ふふんと、意地悪く此方を嘗め回す近衛の冷笑がある。なんでさ?

「なあ衛宮君、それ、嘘やろ? 君、嘘つくのがホンと下手っぴなんやね」

 瞬間ぎくりとしたが、彼女の厚顔な微笑に俺はもう一度頭を掻いた。
 はあ、なんだって女の子ってのは俺より一枚も二枚も上手なのさ。感情の機微に鋭いと言いますか、真偽に目聡いといいますか、なんか悔しい。
 深いため息の俺を、可笑しそうに見送る近衛は、どうやら、俺が口を割るまで離れてくれそうに無い。彼女の顔が笑顔のうちに、俺も腹を決めよう。

「………なんで分かるのさ? 俺、自分ではそんな分かり易い性格して無い心算なんだけど?」

「うん、衛宮君ってぶっきらぼうで仏頂面やもんね。だけど、分かってないなぁ~、君は」

 ち、ち、ち、と。メトロノーム見たいな正確さで指を振る近衛。なんだか本気で悔しいぞ。俺は唇を吊り上げる………あ、なるほど。分かりやすいな、俺って。

「衛宮君、無愛想なくせに、ホンと色々な顔出来るよね。いうなれば一人お祭りやん?」

「……いや、例えが良く分からないんだが」

「ぶー、まあそれだけ賑やかだってことっ。付き合ってみると、衛宮君は小さいけど沢山表情を見せてくれるんよ」

 不満そうに顔を膨らませた彼女に、俺はやはり苦笑。俺の周りの女性達は、なるほど、俺の心の内を読み取れるはずだよ。どこそこは口ほどにものを言う。俺の場合、もはや身体全体で表現している物なのかもしれない。

「それにな、衛宮君は正義の味方関係と………その、多分もう一つに関しては、もっと分かり易いから。言われた事、ない?」

 いままでの和やかな空気を申し訳無さそうに壊したのは、近衛だった。彼女は少しだけ俯いて、俺の顔色を、先ほど違う意味で窺っている。

「あのな、怒らんでな?」

「なんでさ? 別に怒らない。それで、もう一つって何さ。それと、出来ればどうして俺の嘘を見破れたのかも教えてくれると嬉しい、今後の保身のためにも。いや、誰から身を守るかは言えないぞ?」

 俺の態度に、嫌なものが無かったのに顔を破顔させ、近衛は耳たぶの裏側で髪房を撫で上げる。ふわりと、甘い匂いが鼻腔を撫でた。だけど、それは瞬間にも満たず直ぐに厳冬の風に掻き消えてしまっている。残ったのは、どこか寂寞とした芳香だけ。

「衛宮君はさ、無理しちゃうから。普段からそうだけど……それでも、ね」

 近衛は、すまなそうに言葉を切った。
 俺は今の彼女を現す適当な言葉を思いつかない。俺を哀れんでいるわけでもない、俺を蔑んでいるわけでもなかった。だけど、それでもこいつに心配をかけているのは間違いない。

「……まあ、確かに。でもさ、それって仕方ないよ。正義の味方だぜ? そりゃ、多少の無理は承知の上さ。それでも、お前らに心配をかけたなら謝る。それは、あんまり気持ちの良い事じゃないしさ」

 何と無くだが分かっていた、近衛の憶測。
 俺は正義の味方に関しては、見境がなくなるからな。普段ぶっきらぼうだから、勢いづいている時の変化は俺の想像以上のモノなのかもしれない。……頭に血が上っちまうと、一直線に熱血しちまうからな、俺は。こう、があーっと。
 妙に納得のいった俺は、近衛が言葉を継ぎ足すのを、静かに待っていた。 
 もう直ぐ本堂の門構えが見えてくる。俺達は合わせていた歩調のテンポを緩めて、ともすれば立ち止まってしまうほどに歩みを遅行させた。

「それでね、もう一つが一番分かり易いんよ。衛宮君、それを思っている時はいっつも同じ表情なんやで。さっきもそうや、だから、ウチは嘘だって断言出来たんやもん」

 頭一つ分低いところから、近衛の優しい声が聞こえる。
 やはり俯いている彼女は、普段よりも小さく見えてしまう。寒風が一度だけ彼女の髪を揺らしして、それを契機にするかのごとく、悴みそうな桜色の唇で近衛はいった。

「君が寂しそうに笑うときはね、いつだっていつか話してくれた“誰か”のことを思ってる、違う? 衛宮君。それが判るくらいには、ウチも、せっちゃんも近しくなれたと思ったるんやけどな」

 最後に、力無い笑顔を向けてくれた近衛に、俺は薄っすらと瞳を閉じながら微笑んで見せた。
 まったく、どうして。俺は、アイツの事を思っているときの表情を知らなかったなんてさ。

「―――――――なるほど。そいつは、まいった」

 自分でも滑稽になるほど、気持ちよく苦笑して朝焼けの好天を仰ぎ見る。
 今朝も夢に視た、アイツの剣。アイツを選んでくれた尊ぶべき幻想。それが、脳の裏側で鮮明に弾けた。汚い垢が剥がれ落ちたみたいに爽快な気分で、俺はいつか引き抜いた黄金色の剣を思い出していた。

 寂しい……か。本当に、女々しいね俺は。考えないようにしていた筈だよ、そんな感情に気がついちまったら、黄金の丘で交わしたあの約束を汚しちまうような気がしていたから。
 思い出に変わるアイツが許せなくて、それを諦めなけりゃならなくて。必死に平気な振りをして、アイツとの出会いそのものを忘れようとして。無様なことこの上ない、道理で、あの剣が投影できるはずも無い。
 うん、だけど、今なら言える。こんな汚れもいいかもしれない、穢れなく綺麗な道を行く今だから感じることが出来る汚濁、気付かされた優しい、そして綺麗な未練。
 お前は、笑うかな? こんな俺を。

「ウチだって良くは知らんけどさ、衛宮君、彼女のこと、忘れようっ、忘れようっしてるやろ? なんでや?」

「……だってさ、痛いんだと思う。今がすげえ楽しいって知ってるから、アイツと過ごせないこの時間が、何よりも怖く、耐えられないほど辛くなっちまったのかな」

 言葉を交わすうちに、暴かれてしまう意地汚いアイツへの想い。
 ああ、格好悪い。だけど、この意地汚さを、果たして俺は持っていたのだろうか。この意地汚さを、嬉しいと感じることが出来たのだろうか。
 ――――――――アイツと廻り合う、以前の俺は。

「いいやん、辛くても。それはきっと辛さの分だけ、彼女と時間がどうしようもないって位に、―――――――――楽しかったってことやろ?」

 軽快な声に視線を落とした。
 水を得た魚みたいに、近衛の表情が明るくなっている。一か八かの大勝負、この女任侠はどうやらコレが言いたかったらしい。もしかしたら、麻帆良でのデート以来、ずっと俺にこのことを伝えたかったのかもしれないな。

「それに、衛宮君はその辛さとか、寂しさとかを忘れちゃ駄目やで。コレは忠告でも、お願いでも、ましては助言でもありません。命令やで、命令。私、近衛木乃香姫の、人生最後で最大のめーいーれーいー」

「なんだよ、そりゃ。大げさだな」

 いつの間にか歩みを止め、本堂に続く石畳の中央で、俺と近衛は向かい合ってはしゃいでいる。荘厳な寺院の中央で苦言を漏らす俺は、なんだか妙に嬉しそうだ。自分の顔なんて見えないけど、それでも今だけは、きっとそうだと信じたかった。

「はい、拒否権はありません。だってな衛宮君、離れ離れの君の彼女さんは、きっと君がそう感じ続けてくれる限り、幸せやで。それはウチが断言してやる」

 えっへんと、女性らしい柔らかそうな肢体が、軽く反る。意味するところは不明。しかし、彼女の仕草が優しげで、そして何より暖かなので、きっと俺に微笑んで欲しいのだろうと、勝手に納得しておいた。

「なんでさ?」

 普段の調子で、俺はやはり聞き返す。
 互いに救いを選べなかった、いや選ばなかった俺達。それでも、俺は幸せを感じられる、今だって、そしてきっと、これからも。アイツに出会うことが出来たから。

「だって女冥利に尽きるやんか。こんな良い男を悲しませるなんてな。分かって無い見たいやし、言っとくわ。女ってな、意外と単純な生き物なんやで? きっと、ソレだけで彼女は幸せだし、嬉しいにきまっとるよ」

 だから、もう一度信じてみよう。
 アイツに出会えたその宿命を、アイツと別れたその運命を。
 きっとそれは、アイツとの約束がある限り、間違えることなど無いはずだから。この後悔でさえ、間違いじゃ無いんだって、胸を張ろう。前を向いて、この未練を引き摺ろう。たった一つ、エミヤシロウにはない、衛宮士郎にだけ許されたその傷跡を讃えてやろう。

「だけど――――――詭弁だよ、それはさ」

 皮肉に唇を歪ませる。
 互いにある幸せを、きっと別れた道の彼方にある救いを、信じてみたくなったから。
 彼女のいないその辛さを、彼女がいたその思い出を。
 彼女が獲た筈の、この瞬間の幸せを。
 この空虚な伽藍の身体で精一杯、その傷みを、受け止めよう。

「正義の味方がそれを言うか……君は、真性のひねくれモノやね」

 クルリと、長い黒髪を力強く近衛は翻した。和紙で結った髪留めが千切れて風に乗り、彼女の漆黒すら霞む長髪が艶やかに踊ってみせる。
 軽いステップで下駄を鳴らす彼女はもう一度だけ舞踊の如く反転し、俺に居直る。そして、溢した微笑で俺に当て擦りをのたまった。

「そりゃそうだろ? 半端な壊れ方で、そんなモン目指せるかよ」

 自分で言ってあきれ返るのだから、近衛はなおの事だろう。
 しかし、間違っていないのだから仕方が無かった。竦めた肩もそのまま、俺はそこでようやく普段の調子を取り戻すことに成功した。
 ふっと息を付き、浴衣の袖に両手を通して腕組。少し年寄り臭い仕草に、近衛が小さく噴出した。いいじゃないか、しばしば切嗣が見せたその仕草は、大人の達観さをあてつける様で、子供心に少しの憧れを抱いていたのを思い出した。

「なんやの、それ? 衛宮君、おじいちゃん見たいやで?」

「そう見えたんなら、それで良いんだよ。ちょっとだけ、悦に浸りたいときって在るだろう?」

 軽口のままに、俺と近衛は立派な門構えをくぐっていた。
 鼻をくすぐる赤味噌の匂いが、俺たちを出迎える。近衛が女の子らしからぬ仕草で下駄を脱ぎ散らかした。カコンと地面とそれが弾ける甲高い音がして、玄関口の横、台所と直結している廊下から彼女のお目付け役を呼び寄せてしまった。

「おはようございます、衛宮。今朝はお散歩ですか?」

「まあな、そんなところだ」

 恐らくは食堂に出来上がった朝食を仕出している途中なのか、桜咲は重ねた配膳台を軽々と持ち上げながら俺に朝の挨拶。勿論、目ざとく近衛のはしたない仕草に一喝を入れてからだ。俺はその様子を苦笑で見守りながら、スリッパに履き替え土間をあがる。

「へえ、女中さんみたいだ。似合うじゃないか、桜咲」

 藍色の着物に着替えた桜咲に、それから素直な感想を漏らした。
 一瞬だけ、桜咲の顔を隠すほど詰まれた配膳台がぐらついた気がする。

「そうですか? それは、あ――――――――」

「こらっ! 女の子になんてこと言うんや!! 仕事着なんか褒めて、そんなんせっちゃんが可哀想やんかっ、訂正しーやー! それと、ウチの巫女さんルックはノーリアクションだったくせにせっちゃんだけずるいー」

「いや、お前は何が言いたいんだっ」

 わきの下のドリルな突っ込みに、息が詰まる。
 後ろめたいことなど何も無いのに、怯んでしまう情けない俺。どうやら負け癖が付いてしまっているらしい。
 救援を求め、桜咲に振り返るも、しかし当の彼女も俺の味方にはなりえなかった。正しく絶体絶命。

「………まあ兎に角。私には所詮従者なコスチュームが似合うと、そーですか、そーですよね……ふふふ。若いときは明日菜さんと色々しましたっけね、ふふ、思えばそれこそが若気の至りでした。く、過ちを二度も繰り返すとは……いいえ、衛宮、貴方が気に病む必要はありません、ふふ、やはり私には無理なのですヨ」

 っておい、俺はそんな心算で言ったんじゃっ!? 後、若い時?ってなんでさあー。
 いつの間にか近衛の言葉に感化され落ち込むダウナー桜咲。いや、盆に阻まれて顔色は窺え無いが、詰まれた配膳タワーが今にも崩れそうなので、そう推測してみただけなのですが……?

「いや、俺はだな、純粋に着物が似合うなーと。そういいたかっただけでっ」

 一応軌道修正。多分意味は無いけど。

「え、やっぱりそう想うシロウ? そっか、借りてよかった~」

 とかなんとかやってるうちに、桜咲に横合いからひょっこり現れるイリヤ。どうやら彼女も、お手伝いに借り出されているようだ。
 なにやら、第三次爆発物投下の予感。もうなるようになれ。

「和服……、女中萌え?―――― ! 和製メイド萌え!?」

 だあーっ、一体何をインスピったんだ!!

 ………なんだかよく分からないテンションで始まったこの日。
 この日の幸福も、やはりどうしようも無いほど眩しくて、楽しくて。
 ちくりと刺さる少しの物寂しさすら、大切な物だと信じられるこの日の為に、俺はもう一度だけアイツへの思いを振り返りたいと願い始めていた………なんとも雰囲気に馴染んでねぇな、コンチキショウ。



[1027] 幕間 朱い杯
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 04:47
/ Outer.

 耳障りなコール音が、とある関東圏のホテルの一室に反響している。既に日は頂点まで昇っているというのに、季節はずれな白雨の様に降る淡い木漏れ日が薄いカーテンに遮られていた。だが、飾り気の無い部屋はそれだけで随分と洒落て見える。
 そんな室内、女はベッドの中から病的なまでに白く、艶かしい細腕で枕元に置かれた自分の携帯電話を取り上げた。10回目のコール音はついに鳴ら無い。
 硬いシングルベッドが一度だけ軋しみ、女の肩からはだけた薄いブランケットの衣擦れの音と絡み合う。そんな雑音すら妖艶に聞こえてしまうのは、女の美しさ故なのだろう。

「……なにか?」

 女は、裸体を顕に一度だけ紫苑の髪を掻き揚げ眠たげに呻く。声には不機嫌な響きがあった。それは、間違いなく受話器の向こう側にも伝わった筈だ。
 どこでも通信可能なその発明品は利便性に優れているものの、やはり好きになれない。縛られる事には慣れているはずの女だったが、やはり、今はいない妹達以外に自分の時間を犯されるのは不愉快だと、そう内心をささくれ立たせたから。

「よう、起きてっかメリッサ? 俺だ」

 そんな彼女の不機嫌を知ってなお、受話器越しに聞こえる男の声は陽気で賑やかだった。メリッサは軽く下唇を甘噛みして、それから普段の表情を取り戻そうと薄い眼鏡を小さな鼻に乗せた。
 化粧台の大鏡で、女は表情を確認する。冷淡で鋭い微笑を讃えた二十台前半の瑞々しい魅惑の美貌が、そこで初めて露になる。彼、クロムウェルには自分程度の吐く毒では十二分に痛めつけられないと分かっていたから、即座に思考を切り替えたのだ。

「おはようございます。今しがた貴方に起こされましたが、朝から気分が優れませんね。最低と言っても良い。野蛮な声がモーニングコールなのですから、仕方が無いと言ってしまえば、ソレまでなのですが」

「そいつは難儀だね。俺はココ最近、お前と顔を合わせてなかったから、すこぶる快調だったのに。最も、この番号にコールするまでの僅かばかりのものだったわけだが」

 それでも、吐き出された女の毒。やはり男は飄々とそれを受け流す。乾いた土みたいに、クーはメリッサの苦言を飲み込み、愉快だとばかりに笑い声すら滲ませている。
 お互いにお互いを理解する気がさらさら無いわけだから、そこに不満や軋轢が生じるはずもない。そもそも、歩いている地平が異なっているのだ。
 空と大地が交わることなど無いように、二人の距離は永遠に変わらない。その意味で、二人はパートナーとして確かに噛み合っていた。
 メリッサは、嫌いでもなければ好きでもない、自分でも測りかねる男の立ち位置にやるかたない苦笑漏らす。
 彼、クロムウェルはトラフィム一派にその席を置いてから百に近い時を生き、そして台頭した人物だ。魔術協会、聖堂教会の電話帳よりも分厚いブラックリストには、二十七祖の項から二三ページ後ろに、彼の名が掲載されていると聞く。そんな、若輩ながらも吸血鬼の重鎮と自分の様な新顔、若手の魔術師がこうして対等に談話を交わすというのも到底可笑しなものだ。そう、同時に彼女は思考する。それも彼女の微笑みの原因だったのだろう。
 最も、女とて百の暦を生き残ってきた死徒の青年に僅かばかりも劣っているとは思わなかった。“封印指定”。女はこの若さで既に魔術協会から名誉の烙印を与えられているのだから。
 彼女の運命をそれなりに揺るがせたその称号を持って、一人の女は死徒の王に仕える宮廷魔術師となった。
 だが、彼らがトラフィムに仕えると言うのは些か語弊がある。
 死徒の王に仕えるモノ。それは言い換えるならば傀儡、もしくは囚人か。
 白翼公が軍門にくだり、彼の庇護下に置かれてその欲望を満たす。だがそれは、言うなれば豪華な監獄と同じだった。王の僕と成ったモノは例外なく彼の領地に囲われ、その行動を著しく制限される。裏側に形成された社会において、吸血鬼の王を自称するトラフィムの絶対的な権限と、彼から与えられる圧倒的な力を後ろ盾にする代価は、そう安くは無い。矮小な存在、モノとしての全ての在り方がその等価。だが、それを支払ってでさえ、白翼公に平伏す者が後を絶たないのも渾然たる真理だった。
 その良い例が麻帆良に現れた吸血鬼だ。彼は宝具すら御しきる多大な力の代価として、一切の存在を公に捧げていた。欲望と言う最大の本能を許容され、瑣末な理性を持って公により与えられた責務を果たす。
 死徒の王を名乗る最古の祖は、今や化石ともいえる封建制を、その絶大な力で現代まで維持する、喩えようもないほどの威光を具えた王だった。

 ――――――――――――だが、それ故に。

 クーとメリッサ。二人は決して王の僕と呼べるものでは無かった。二人は、死徒の王の下に在りながら、その存在を、その意味を捧げてなどいないのだから。
 だが、それこそが白翼公より“騎士”の称号を与えられた謂れか。
 確固たる力は、もとより彼等自身が勝ち得た栄光。頂くべき王から与えられた力など、どうして誇れよう。どうしてそれを許せよう。
 彼らが欲するのは力ではなく、常に唯一つの誉。己が意思と力を持って、その欲望を満たすのみ。独歩にその生を謳歌し、貫くべき義を信ずる。ただ、その道が白翼公の凱旋と交わっていただけなのだ。
 在り来りに語るのであれば彼等は、クーとメリッサは、自身の望むままに生き、その結果トラフィムの元に辿り着いただけだった。彼らが求めるその意義は、王の下に在ることにこそ、都合が良かったから。
 王の僕と異なるのは一点のみ。力を得るために意義を捨て王を頂くか、意義を得るために力を振るい王を頂くか、ソレだけだった。
 結局のところ、この奔放な騎士達と王とを繋ぐモノなど何も無いのだ。だがそれでも、彼らは己が意思で王と共に在ることを望んでいる。

 守り、信じ、義をもって我を尊ぶ。その関係を衛宮士郎ならばきっとこう評する。
 独立した意義、目的。それでも共に生きるその在り方を、その絆を―――――――。

 それはきっと、紛れも無い“騎士”の在り方そのものではないのか?







■ Interval / 朱い杯 ■






「まあ良いでしょう。それで、どうです? 脱走した魔術師の行方は掴めましたか? 今回の来日でトラフィムの命令は二つ。その片方は、出来ればサッサと済ませたいのですが?」

 気だるく甘い声で、女がいった。
 真夏の、鮮血の船上でも語られた二人の目的、その二つ目。いや、目的と言うのもおこがましい、ある児戯。王の下より離反したその魔術師の発見、抹消は彼らにしてみれば暇さえ潰せぬ雑務に等しかった。
 彼らがこの任を受けたのは暗に気まぐれ。日本に赴くにたる意義を見出せたから、そのついでにと、王からこの仕事を引き受けてやったのだ。

「……だったらお前も手伝いやがれ。なんだって俺が一人で。……ちんけで小物な魔術師だったとは言え、王様に力貰ってんだから結構面倒くせー仕事だってーの」

 一度だけ深く呻ってから、男はいった。
 受話器の向こう側、クーはきっと硬い髪を掻き揚げているのに違いない。あきれ返った時の男の仕草は、いつも同じだから。
 彼らが捜索する、魔術師。あえて言う必要も無いだろうが、遠上都と行動を共にする、あの男。
 稀にいるのだ。件の魔術師のように、公から力を借り受けるために偽の忠誠を誓い、そして裏切る。無謀と勇気を履き違えてはならない。愚かしき蛮勇、その行いをした者の末路など決まっているのに。

「またそれですか……。冬木に入る前に、出来る限り“聖杯戦争”とそれに関る魔術師の情報を集めたい、貴方がココを発ったときに話したではないですか。マキリ……いや、間桐でしたか? 堕ちたとは言え、かのアインツベルンと並ぶ名家に出向くのです、細心の注意は不可欠でしょう? 私たちの目的を考えればね」

 情報には鮮度がある。
 日本に来日する以前より、聖杯戦争に関して、それに関する知識や記録を調査し、それなりに“例の魔術儀式について”大外回りを理解していた彼女。しかし、卓越した魔術師である彼女は日本でしか手に出来ない聖杯に関する情報の重要性も殊更に理解していた。
 それ故の別行動。動ける人員が自分以外にもう一人いるのだから、仕事を分担するのは当然だ。
 だって効率がいい。女は愚考する、そんな単純な事にさえ、私と応答するこの男は理解しないのかと。
 表情には出さないが、女は細い眉が痙攣するのを必死に隠しているようだ。

「そらそうだが。別に向こうさんだってそんな警戒しねぇだろ? 一応手ぇ貸すって話で、冬木なんてガイドブックにも載ってない田舎町に出向くんだぜ? ま、あの性悪王様がわざわざ、嘘八百にそれらしいこと並べて、そのマキリってのに話をつけてくれたんだ、どうにかなるだろ。そんな訳で、お前も手伝えって」

「嫌ですね、何度も言わせないで下さい。私とて調べ物で忙しい。そもそも、貴方だって役割分担に納得してくれたでではありませんか? ゲイシャガールだ何だと浮かれて、京都に行きたいと騒いだのは貴方の方ですよ? それに、トラフィムは脱走した魔術師に魔術でマーカーをつけているんですから、発見は容易はずだ。そのための魔術礼装だって渡しているではないですか」

「……お前って正論ばっかで本当つまらねえのな」

 にべも無い女の言葉に、ソレでも食い下がるクー。丁寧な語調が余計にクーの癪に障るのか、今更の愚痴を彼は吐き出していた。

「そう言う貴方は、矛盾ばかりで実にユーモラスだ。ただ、私には理解できないのが残念です。――――――それで結局のところ、貴方は何が言いたんです? 無駄話がしたいだけなら、切りますよ」

 納得した、きっと女は情とか容赦とか、そんな愛らしいモノを捨てちまったんだなと、クーは無駄な抵抗を断念する。

「ちっ、分かったよ。……で、例の魔術師の件な。京都に潜伏しているのは間違いないんだが………ちょいと今、厄介なことになっている。お前もある程度掴んでいるんじゃないのか?」

 神妙な声色。彼の野太い声が、突然ぎらつく槍の様に鋭くなった。

「例のマナの異常増加ですか? 九月ごろから観測していましたが、そこは日本最大の霊地です、誤差範囲でしょう?」

 剣気にも似たその色調を、事も無げに応答した女。やはり表情に変化は無かった。
 それに乾いた笑いを向けるのはクー、受話器越しですら男の太い眉が嫌味ったらしく釣りあがるのを感じる。メリッサは、それを容易に想像できる位にクーとの付き合いが長かった。まあ、それがちっとも嬉しく感じられないのは仕方の無いことだろう。だって彼らは、そういうモノだから。

「鈍いね、どうせ昨晩は調べ物に没頭して気にならなかったんだろう? たっく、昨日から状況は一変してんだ。あの年増から預かったアイテム、ココの瘴気に当てられて仕事しなくなっちまった。畜生、いい加減なもん渡しやがって」

「彼女が造った礼装が壊れる? まさか、ありえませんよ。彼女の作成する魔術礼装がそんな柔な筈が無い。彼女は私と同格……いや、“創る”事に関しては彼女の方が一枚も二枚も、上手の魔術師だ。最も、生態的な神秘の作成において、その限りではないでしょうが」

 受話器の向こう側、ブラウン管の壊れたテレビみたいにザーザーとノイズを走らせる騒音が漏れ出して、メリッサは端正な顔を怯ませる。恐らくは手のひらサイズのナビゲーターを、クーが受話器に押し当てているのだろう。
 メリッサとは対照的な魔術を有する、彼女の、彼の名門メディチ家の血統を有する天才。錬金術、武器としての側面を色濃く残すかの秘伝を、魔術と機械的に融合させ行使する彼女の辣腕を自分以上に理解できるものなど、世界に三人だけ、かの“人形遣い(ドールマスター)”位しかおるまいと、メリッサは皮肉る。
 “機械仕掛けの魔法使い”その異名を取る彼女の魔具が、よもやその程度で壊れるなどと。

「――――ふん。在りえない」

 抱いた懸念を払拭しようと、再度その否定を繰り返したメリッサ。

「あん? 何かいったかよ?」

「いえ、何も―――――――兎に角その礼装は壊れてなどいませんよ、暫く待ってみてください。言ってしまえばマナの高騰による、磁気嵐に当てられたようなものだと思います。私も彼女の機械的な神秘に関する知識は持ち合わせてはいませんが、私とて錬金術を少々齧っているのは知っているでしょう? よもや、もうあの時の会話を忘れてしまったのですか? 六度目の問答は出来ればしたくないのです」

 とは言っても、メリッサの知識は生体錬成に偏ったものである。
 メリッサは思考する、錬金術の原理を生態的に魔術理論として組み上げた私と、彼女は本当に対照的だと。持ちえる知識は殆ど変わらないというのに、その方向性はなんとも乖離していたから、メリッサは少しだけ唇を持ち上げる。
 しかしその微笑は、古今東西の魔術論理を極めつくし、その先に新たな魔術体系を組み上げたメディチ家の才媛と、生態的な魔術原理しか行使できなかったメリッサでは、“魔術師”としての格が違うのも事実だと知っている、そんな疚しい感情に起因したモノでもあったわけだが。

「まあ、それが分かればいいんだ。用件はそんだけだったんで、俺はこの礼装が回復次第例の魔術師の捜索を続けるわ。知ってるか? 最高に面白れえ町に様変わりしているよ。心変わりでもしたんなら来てみるといいぜ? 日本風の死都だよ。ここはさ」

「そんな気色の悪い場所に、誰が好き好んで行くものですか。それは兎も角として、裏切り者の処断についてはお願いします。冬木に出向くのが一月上旬に予定されていますから、早くこちらの件は処理しないと」

 ようやく一段落した二人の談話。
 きっと今夜にも幕が上がる古都の舞台劇。そこに、一人の役者が加わるのは間違いなさそうだ。
 そんな予感に身を焦がされたためか、クーは受話器の向こう側でチリチリとうなじを焦がしているに違いない。戦いへの高揚を無理に押さえつけようと、意向を返すように、クーには珍しい事情をメリッサに振った。

「ああ、冬木の件もそうだが、最近は魔術界全体にわたって情勢が変化しつつあるからな。真祖の姫さんが完全に寝込んじまうわ、十位、それに番外位が完全消滅しちまうわで、仕方がないっちゃ仕方ないんだが……俺たちだって、そうのんびり遊んでもいられねえ。 王様、乗り気なんだろ? 俺は詳細しらねえが、やっぱりさ」

 嬉々に声を震わせて、クーはいった。
 一年前になるのか。夜の世界の勢力図に、大きな揺らぎが投じられてから。収まりが付かない、戦争が始まってから。

「ええ、勿論です。野心家、王を気取るトラフィムが、例の“ゲーム”に乗らないはずが在りません……貴方のいう通り、十位と番外の件が大きく関係していますしね。まったく、困ったものですよ、オチオチ魔術の研究もしていられない」

「まぁ、そう言ってやんな。なんつっても王様、真祖狩りの提唱者なわけだしな。番外の件は知らんが、十位が極東の島国で果てたのはウチの王様に非が無いわけじゃない。……だけど、その尻拭いはもうとっくに終わったんじゃないのかよ? アルトージュ、ヴァン、リタの派閥を含んだ祖のトップにそれぞれ王様の宝物を献上してさ」

「そうですね。しかし、だからこそ“ゲーム”に参加するのは絶対なのでしょう。十位の件で傾きかけた威光を再度知らしめるためにも」

 十位と番外位の完全消滅。
 裏側に響き渡った、誰しもが予想さえしないだろう悪夢のような事実。しかし、それだって世界と言う規模で見れば大したことは無い、一介の存在が世界から消えただけの事件、世界のいたるところで起きる些細なニュースに過ぎない……筈だった。
 投じられた小石のようなこの事件は、一年後、大きな揺らぎとして世界の情勢に大きな波紋を呼び込んでいた。
 その際たる例が領地を廻る、吸血鬼同士の諍いだ。呼び込まれた波紋は広がり、既に戦争は始められていた。北欧、欧米を中心に人心が乱れ、吸血気達が跋扈する夜にだけ現れる閉じられた地獄。
 普通の人間には分からないだけで、夜の世界では、熾烈極める権力抗争が勃発しているのだ。
 確かに、吸血鬼同士が争うことは珍しくなど無い。しかし、それは王である祖の後継を目指すためのものであり、言ってしまえば内輪揉めだ。
 けれど、現在の情勢は毛並みが違っていた。そもそもこの争いは、十位、番外位、この後継を狙わんが為に発生した戦争だったのだ。魔術師上がりの二人の特異な祖、ネロとロアは、互いに後継者たる吸血鬼を選抜していなかった。他の欠番の祖の様に、後継が今も祖の座を争っているのなら、事は大きくならなかった。だがそもそも、自身の目的を探求することにしか意義を持たない彼らが、後継などを用意している筈も無い。

 故に、その席は今なお空白。しかも、先代の縁者は誰一人として残っていない。

 このたびの戦いは、言ってしまえばこの座を廻る二十七祖同士の、そしてどの派閥にも属さぬ吸血鬼たちの“椅子取りゲーム”だった。
 自身の派閥より二十七祖の十と番外の座に相応しきモノ選出するために、あるものは自身が新たな祖として名乗りを上げるために、世界規模の闇色の闘争。祖の派閥が組織規模で争い、異なる派閥をこのゲームから扱き下ろし、最後に残ったモノこそが勝利者。そこに明確な始まりは無く、明確な終わりも用意されていない。

 それでも、コレは戦争だった。―――――――ただ、表の世界に存在しないだけで。

「けどなあ実際、“ゲーム”介入に関してはトラフィム派の領主でも結構騒いでなかったか? 内部でも統率が取れてない現状で、その“ゲーム”で勝算はあるのかね? 祖の派閥にも属していない田舎領主なんざはモノの数では無いだろうが、アルトージュ派は勿論の事、スミレやリタ、それにフェムの爺の勢力だって馬鹿に出来ないぜ? 今でこそフェムとは協定を結んじゃいるが、あの好々爺、実際のとこ王様嫌いだろ? いやまあ、王様はさ、人は愚か吸血鬼にだって好かれる奴じゃないけどよ」

そんな現状に終止符を打つために、提案されたのがクーとメリッサの語る“ゲーム”だった。

「戦争? おや、クー、貴方は今回の“ゲーム”について何も知らないのですね。確かに今海を隔てた向こう側の両大陸では吸血鬼による戦争が開始されています。それはいいですよね?」

 互いの食い違いに気付いたメリッサは、少しだけ間を取り言う。
 努めて冷静に、それでいて冷淡に。そう言ったメリッサの色調に、クーは恐らく目を丸めてそれを受け取ったことだろう。

「あん? だからオレらの王様も“戦争(ゲーム)”に本格参戦するんじゃないのかよ? だからこそ、王様が色々と戦力増強の手練手管を用いて戦力強化に努めてんだろ? 確か夏あたりだったか? どこぞのド三流魔術師をだまくらかして、時計塔から“宝具”を盗み出そうとしたりさ。今だって、使えねぇ吸血鬼に世界各地に散らばった概念武装の回収や探索吸血鬼の補充をさせてるみたいだしな。ああ後、あの三つ子も声かけてたよな、悪趣味極まりない」

 受話器越しに通るクーの太い声には、僅かながらの困惑が紛れている。
 それすら楽しそうに受け取るメリッサに、軽く舌を鳴らしたクー。それは、メリッサの嫌味な微笑を増徴させるだけだったのだが。

「違いますよ。あ、いえ、確かに戦力増強は貴方の言う通りなのですが。私が言う“ゲーム”とは戦争ではなく正真正銘の“ゲーム”、お遊戯です。いやまあ、戦争と言えば戦争なのですけどね」

「ああんっ、どう言うこったよ?」

 いい加減、回りくどい言い方にいらだつクーは、受話器を叩きつけてしまいそうな勢いで、メリッサに問いだしていた。

「様は代理戦争にしようと言うことですよ。二十七祖すら巻き込んだ稀に見る吸血鬼同士の諍いなんて久しぶりらしいですからね。被害の拡大を防ぐ意味でも例の“座”を廻って戦争ゲームをしようと言うのですしょう。分かりやすく言うのであれば、……そうですね、それでは、既に祖の最高議会で決められた最初の“ゲーム”を例に、少しだけお話ししましょう」
 
 ふっと、紫苑の髪が軽く垂れてメリッサは受話器を持ち直した。クーのがなり声に、薔薇の様に映えるルージュを吊り上げて、女がいった。

…………

………

……



「――――――――マジかよ?」

 次なる“座”。それを廻る代理戦争。ゲームの概要について理解を示したクーの第一声は、その凄惨さを物語っていたと言っても過言でもない。
 だってメリッサは、暗に殺し殺され合えと、言い換えればそう告げただけなのだから。

「マジです。最初に話した内容が十位の座を賭けた“ゲーム”、予定としては来夏に予定されているものです、まあ、“相手”があることですから、正確な時期など分かりませんが。そして、二つ目が恐らく来期の今頃になるでしょうね。今は十四位、フェムがそのための準備をしてくれているらしいです。言うまでもなく、こちらは番外の座を賭けたものですよ」

「はは、しかしさ……そりゃ、確かに戦争(ゲーム)だわ。何が全面戦争は中止だよ、似たようなモンじゃねえか。大体、しょっぱなのゲームなんざ、誰も勝利条件を満たせねえかも知れないぜ? ビンゴブックトップランカーの吸血鬼や、過去の英雄達だってそれが出来るかすら分からん。あそこは、そういう場所だぜ?」

「ですから、何度でもゲームを繰り返すのでしょうね。それすら見込んで、二十七祖達の最高議会では、第三の遊戯も企画しているみたいですから」

「どうせまた碌でもないものになるんだろうけどな。っち。結局、ただの戦争なんてものより、こっちの方が面白そうだからってのが、あいつ等の言い分なんだろうな。全面戦争回避の理由なんざ、それ位しか思いつかねえ。……最低だね、実に陰鬱で変態的だ。いい趣味してる。コレだから不死になんざなりたくねえ。退屈の楽しみ方も分からねぇなんて、くそつまらない」

 事務的な口調で淡々と告げられた女の言葉に、男は声を震わせる。果たしてそれが恐怖ゆえのものなのか。愚問だ。彼を知るものが、どうしてそのような事に思い至る。

「それには大いに賛同しますよ。―――――しかし嬉しそうですね、貴方は」

 理由など聞く必要は無いのだが、それでも女はベッドに深く腰掛けなおし、決まりきった答えを要求していた。

「当然、他の派閥と争いは厳禁。その不問律を堂々と敗れる機会が廻ってきてるんだぜ?」

 返された答えに抑揚は無く、ただ、そう告げることが当たり前のように、男は語る。
 その口調に、我ながら可笑しくなる感情を抱いたメリッサは、努めて淡白な言葉で、それに返した。だってどうかしている。見えない、ここにはいない男に逞しさを感じるなど、本当に。

「まあそうですね。しかし今回の目的“新たな祖の選抜ための戦争”をするのに、コレだけ優れた方法は無い。祖としてのポテンシャルを有するに相応しい吸血鬼ならば、条件次第でゲームを単身でクリアすることも可能だ。単純に大量の勢力を持つものが勝利者になるのではなく、純粋な個の能力を測るためのものなのでしょう。まあ、派閥同士の代理抗争としての側面は拭いきれていませんが」

 言い終わるやいなや、っはんと、鼻で哂う男の笑声が木霊する。

「んなことはどうでもいいんだよ。そうすっとゲームに参加するのは派閥でも後継格の死徒ってことになるのか? いいねえ、少数先鋭による小規模の戦争か。そすっと、厄介なのはアルト派の白と黒、それに根暗の剣銃、あいつらは祖の癖に間違いなく面白がって参加しやがるな。他は……うーん、そんなところか?」

 退屈に感じる話も、なんだかんだで最後までキチンと聞く耳を持つクー。そんな彼の分かりにくい気遣いに、メリッサは苦笑と共に自身の意見を継ぎ足した。

「貴方の言う年増女と彼の従者を忘れていますよ。今は我々の協力者ですが、戦争の動機が動機、内容が内容です。フェムの名のためにも、間違いなく参加するでしょうね。それに今回の勝利条件を考えれば、埋葬機関や協会の執行部、当事者である第七位だって強力な障害だ。それに……」

 だがそこで、絶えることのなかった二人の遣り取りに突然、水を打ったかのような緊張と、些細な沈黙が堕ちた。
 二人とも、ある吸血鬼の存在を失念していたから。

「――――――――福音か――――――――」

 沈黙を破ったのは自信と高揚、そして欲望に満ちたクーの声だった。
  
「ええ、まだ彼女が生きているのならば必ず。劣化した真祖。蔑まれ、姫の名は愚か祖の称号すら与えられなかった最高位の吸血鬼が、今回のゲームに参加しないはずが無い」

 かつてアルクエイド、真祖の姫君によって滅ぼされた筈の真祖はしかし、いまなお発生し続けていると聞く。
 朱い月の固有結界。彼が滅びた常世でさえ稼動しているためなのか、真意は定かではないが、劣化品とはいえ真祖が発生していると言う事実は確かに存在していた。
 真祖、世界の触覚。形を持たされた世界の抑止力――――――その別の可能性。呼び名は様々だが、詰まる所神霊、或いは精霊の類だ。 
 そして“彼女”は、その特異な可能性の中で生まれた新種の真祖、それこそがクーとメリッサの語る“福音”だった。
 人として生れ落ちた身の上で在りながら、更なる高次、精霊の位階へと進化した変異種としての真祖(ハイディライト・ウォーカー)。その出生、そして区分はどうあれ、“福音”が優れた吸血種であり、存在としての格が桁違いなのは間違いなかった。
 彼女が消息を絶ってから随分と経つのだが、近年、ソレらしき存在が稀に確認されているのも真実。最も、その存在規模の小ささから、ただの噂と言う声も少なくない。現在、千の呪文の男と称される現代世界の英雄によって討伐されたとの、福音の死亡説が有力ではあるが、彼女、福音を知るモノにしてみれば上位の祖に匹敵するポテンシャルを持った彼女が、そう簡単に消滅するはずがない事は自明の理だ。

「ハッ、堪んないね。それを聞いたら尚更お仕事に気合が入るってもんだ」

 目の前にぶら下げた餌に必死に喰らいつこうとするクー。それが喩えようも無いほどに、忠実で愛らしい猟犬を連想させてしまう。子供様に破顔させるクーを思い浮かべて、メリッサも思わず微笑んでいた。

「そうですか、それは良かった。私の話も、無駄では無かったと言うことです」

 そんな笑みを悟らせぬよう、平坦な鈴声でメリッサはいった。さりげなく窓際の置時計に目を遣ると、クーと話し込んでから一時間以上も経っている事に気付いた。

「さて、そんじゃもう切るわ。礼装の方も機嫌を直してくれた様だしな」

「はい、御武運……は願わない方が宜しいですね。貴方ときたら、絶望的なスリルをいつだって楽しみたいんでしょうから」

 最後に、クーの乾いた冷笑がメリッサの鼓膜を甘美に撫でた。








「京都………マナの異常増加ですか」

 クーとの遣り取りを終えると即座に、メリッサはラップトップのスイッチを軽く押す。鈍い放電音が乾燥した室内に伝わり、液晶画面には昨晩まで彼女が纏めていた“冬木の聖杯”についての調査資料、及び彼女自身の考察を加えたレポートが所狭しと現れる。

「聖杯……起動式とその方法は」

 薄っぺらな機械を前に腰を落ち着けたメリッサは、膨大な量の資料を流し見ながら呻っていた。
 様々な言語や碑文で記された資料が、彼女の指がマウスの上でスクロールするたびに無常にも消えていき、そして次々と現れる。
 だが、その睨み合いは結局長くは続かなかった。深く息をついたメリッサは目頭を押さえ、自嘲気味に身体の緊張を解いていたのだ。

「なるほど………。京都での異常も、全てはこのためですか。やってくれますね、トラフィム。頭が足りないくせに、中々どうして、知恵が回る。……いや、そもそもやはりフェムの入れ知恵ですかね。セイハイの魔術式、そしてゲームへの関与……なるほどいい手際だ。全てを繋げますか、侮れませんね、あの老体は」

 嘆いた言葉にどれ程の万感を込めたのか、それはメリッサにしか分からない。しかし、華奢な細腕に隠れた彼女の美貌は。

「しかし、哀れですよトレイター(裏切り者)。結局、貴方は自分が踊っていることにも気付かないんですね」
 
 ―――――――確かに哂っていた。



[1027] 第三十話 願いの行方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 04:57
/ 10.

「…………」

「どうしたのシロウ? 何か面白いものでも見つけた?」

 イリヤが一人立ちんぼの俺に憂わしげな瞳を向け、瞬かせる。振り返った勢いで彼女の三つ編みが大きく靡いて、ちょこんと、最後に尾っぽの先が軽く跳ねた。そこで、俺は漸く手放していた意識を取り戻す。
 桜咲、近衛、式さん、幹也さん達の賑やかな声から後方に大きく取り残されていた俺は、アウトレットが多く立ち並んだ雑踏を駆け足に進み、イリヤ達の隣に並んだ。

「……ああ、いや。何でも無いんだ、気にしないでくれ。ちょっと見知った雰囲気の奴を見つけてさ」

 俺は皆に歩調を合わせながら、捨て鉢に答えていた。
 捨て鉢、若しくは投げやりか。その理由は明白だった。今では利用者は愚か見ることすら格段に減った電話ボックスから出てきた長躯の男を、俺は知らず目で追っていたからだ。距離にして五十メートル、車の往来が激しい大通りを挟んだ対角線上の歩道で、頭一つ抜きん出たその男が、京都の街の猥雑さに紛れて小さくなっていく。
 視界の端に捉えただけで、はっきりとした顔立ちは分からなかったが、背格好、そして何より纏った雰囲気がランサーを感じさせたから、俺は思わず背筋を強張らせていたのだろう。それが、俺に歩みを止めさせた原因だった。

「………むう、そんな白々しい嘘をよくもつけるものよね。さては、また綺麗な女にでも目を奪われていたんでしょう? 貴方ねぇ、わたしたちだけじゃご不満なわけ? それって失礼じゃないかしら」

 上の空に返した俺の態度に、我が妹君の皮肉が頬を抓るようだ。
 ……が、おかしい。本当に痛いぞ。それもその筈、イリヤが背伸びをして俺のカサカサした気持ちよくも何とも無い頬を抓っているのだから。サーヴァントの攻撃に劣らぬその鋭い痛みに、俺は繕う間も無く弁明に出ていた。

「イテテ、そんなわけあるかっ。お前らに目を奪われる事すらあれ、今では俺を浮つかせるる女性なんてホトホト街中で見かけない、誰の所為だと思ってんだ?」

 口に出したら止まらない。俺はイリヤの理不尽極まる皮肉に、ムキになって言い返していた。ばつが悪く、逸らした俺の表情はきっと少しだけ赤い。それが理由ではないのだが、思わず最後に言葉を付け足していた。

「それと言うのが癪だが……不満があるとすれば、隣にいるのが俺だって事だけだよ。分かったかっ!? くそう、一体何言ってんだ、俺はっ」

 勢いをつけて言い捨てると同時に、再度俺は先ほどの男を探した。だが、既に彼を探すのは不可能だ。昨夜と異なり、煩雑とした活気が帰ってきたこの場所では、どうやらもう一度あの背中を探すことは森の中で木を探すようなモノだろう。いくら先ほどの男が特徴的な背格好、一目につく容姿をしていととしても、それは無理な注文だ。
 俺は、自分でも良く分からない衝動を深く吐いた息と一緒に白い靄にして乾燥した冬の外気に溶かす。それだけで、背筋を舐められた感覚は無くなり、普段の調子を取り戻すことができた。
 一度だけ舌打ちをして、浮ついた脳みそを冷却する。俺は再び京都観光に精を出すことにした。とは言っても、今日の御所巡りはパトロールを兼ねたモノなので、一概に楽しむことだけが目的では無いのだが。

「――――――あれ、どうしたのさ皆? 士郎君先に行っちゃうよ?」

 今日近衛が案内してくれるのは、中学生の修学旅行で訪れたという時代がかったテーマパークらしい。遠めにも派手に構えられた、一目でアトラクション様のちゃちな、だけどそれなりに巨大なオモチャみたいな城がここからでも視認できた。そのため、俺は迷う事無く目的地を目指していたのだが、どうやら今度は俺がお姫様方を置き去りにしてしまったらしい。
 一緒にテクテクと歩調を合わせる幹也さんが、俺よりも先にそれに気付いたため、訝しげに振り返った。

「あはは……衛宮君もさ、もう少しだけ照れて言うとか軽口に言うとかしてもらえると、ウチらも、こう………色々取り繕えるんやけど」

「同感です。当たり前の様に先ほどの台詞を吐かれるのは、正直心臓に悪い」

「まったくね。でも、素直な賞美にだって悠然と頂戴するのが大人の女ってものよ。ね、シキだってそう思うでしょ? 乙女の常識って奴?」

「…………そんな常識初めて聞いたけど? それと、どうしても気になるようならなアドバイスだ。この手の馬鹿にはな、口に戸をするのが一番なんだ。物理的に」

「へえ、シキはそこら辺、一日の長が在るって奴? 妬けるわね」

 困った様にはにかんだ四人の賑やかな励声に背中を押されて、俺と幹也さんはやはり変わらぬ歩調で京の街を歩いていく。……いや、この場合は押しのけられてとも言えなくは無いのだが。





Fate / happy material
第三十話 願いの行方 Ⅵ





 十二月だというのに、照りつける日差しは春うらら。小春日和とはこのことか。
 俺は一人、広げた虹色のビニールシートの上で寝そべりながら穏やかな日差しに目を細める。日本の古都の宮を再現したというテーマパークの広場、芝の香が少しだけ鼻につくこの場所は絶好の昼寝スポットと言えよう。
 腹の空き具合から見てそろそろ一時。朝飯時の一悶着からここまで、近衛のガイドでこの遊園地なんだか歴史資料館なんだか判断しかねる遊技場で時間を潰して結構経つが、中々楽しかった。

「本当……こうしてると長閑なもんだ」

 京都の街の現状。蔓延した怪物、高騰する大気のマナ、夜になれば現れる地獄が、今は微塵も感じられない。一人嘆いた言葉は、果たしてどんな含みを持っていたのか。きっと、安らぎと危機感が混濁した掠れた声だったと思う。
 カップルや親子連れが弁当を囲んで漏らす談笑を清聴しながら、一人真夜中の異界を思い浮かべる俺。
 それがどうにも可笑しくて独り言だけに納まらず薄っすらと口元を緩める。
 逞しきかな女性陣は、思考の切り替えが俺より二三倍速らしく、今は和気藹々と軽食の買出しに行っている事を思い出した。改めて思うが、本当に大したものである。俺も見習わなくてはなるまい。

「それはいいんだが……遅そいぞ、何やってんだ」

 腕の時計で正確な時刻を確認する。かれこれココで場所取りをして三十分。いくらなんでも遅すぎでは無かろうか?

「迷子……はこの歳でありえないし………まさかっ、襲われたのか!?」

 ありえる、状況を考えればそれが一番ある、いや、そうに違いない。なればこその出番というもの。正義の味方の面目躍如、待っていろ皆!

「あのねえ、違うわよ。物々しいこと口走らないでよね……まあ、シロウだから仕方ないんだけど」

 ――――――と、腰を浮かした矢先。冷ややかな声と一緒に紙コップで珈琲をズイと差し出された。
 俺は両手で添えるように飲料水のロゴ入り、遊園地につきサービス料込みで割高らしい珈琲を受け取り、一口含んだ。暖かな今日とはいえ、それなりに凍えた身体が温かく緩んでいく。ほっと息を吐き出して、胡坐を掻いて彼女の表情を確認した。

「宜しい、落ち着いて休んでないさい」

 俺の挙動の何が可笑しいのか、笑みを溢した彼女は純白の銀糸を隠していた赤い野球帽をほっぽって隣に腰を下ろす。そして、早速彼女もお茶を小さな口に含ませる。

「コノカから聞いたわよ。シロウ、今朝は眠れなかったんですってね。駄目よ、キチンと休養は取らなきゃ。今夜だって、夜の警邏に出るんでしょ? 休める時には休んでもらわなきゃ、わたし達だって気疲れしちゃうんだから」

 どうやらカプチーノらしく、焦げ茶色の髭を桜色の唇の上に生やして「メッ!」っと可愛らしくも小生意気に振舞ってくれやがる。
 照れ隠しも兼ねて、俺はいい加減なそぶりで答える。

「はいよ。そうだな、気を使ってもらってるみたいだし……でもさ、それより、幹也さん達他の奴等はどうしたのさ? お昼買いに行ったきりさ」

 一応注文してあったブラック珈琲は、こうしてイリヤが運んで来てくれたけど。
 苦味しかない不味い珈琲を嚥下しつつ、隣のイリヤに目で問うた。

「ん? コノカとセツナはまだ売店の前みたいね。最初はわたしも一緒に並ぶって言ったんだけど、あの二人、妙に気を遣ってくれちゃって、わたしは先に飲み物だけ買って帰ってきたってわけ」

 何故だか不満げにカップを手のひらで弄び、口を尖らすイリヤ。
 はて? 何故ご機嫌が斜めなのか。持て成されたり気を遣われたりするのは、好きな筈なのに、このお嬢様は。

「別にさ、友達なんだしもっと気安く扱ってもらって構わないのにね。リンやサクラは、もうちょっと気安いのに」

「あ、なるほど。そう言った事ですかい」

 思わず零れた感じのイリヤの愚痴。問わずとも、しっかり俺の疑問に答えてくれる辺り、しっかり俺達は以心伝心の仲良し兄妹?

「……ちょっと、なんで貴方はニヤニヤしてるのよ?」

「べーつにー。なんでもないさ」

 俺の含み笑いに半眼の視線を向けるのは、言わずもがな我が最愛の妹君。知らん振りして残り僅かの珈琲を舐めるように口に含んだ。うん、美味い。

「むう、釈然としないなあ」

「まあいいじゃんか。それで? 幹也さんと式さんはどうしたんだ? 確か二人も、昼食の買出しに行ってくれた筈じゃ……」

「それは、ほら………なんて言ったかしら……キクラゲボヤ?」

「ああ、さいですか」

 聞くだけ野暮ってもんですか、そうですか。ま、最近二人っきりでデート、してなかったみたいだしそれもありだな。
 ゴロンと、そこで再度横になる。みんなそれぞれ楽しんでいるようだが。

「桜咲たちにはちょっと気が引けるけど。久しぶりの退屈満喫させて貰おうかな」

「そうね。全く、あの二人には感謝しなきゃ、皆で示し合わせたみたいに腑って湧いたチャンスだもん。ふふ、ね~、そうだよね~。二人っきりだねぇ~お兄ちゃん?」

 イリヤは俺の真似をしてかごろんと仰向けに転がった。一体何が嬉しいのやら、緩んだ顔で俺の表情を窺っている。
 ぽかぽかした暖かさが、やたら心地よくて、眠気が増していく。

「そうだな。デートみたいだ。冬木を出てからイリヤとずっと一緒にいるけど、考えてみたら二人でこういった場所に来たことって無いんだよな。今だってそうだけど、旅行に行ったりするのって酷く久しぶりの気がする」

 ぼんやりとした鈍間な頭で、それでも俺は口にした。
 実際、旅行するなんて久々だったのだ。切嗣がいた時だって、俺が家を空けてどこかに旅行した記憶はあまりない。それを考えれば今年一年、様々な土地で、様々な出会いが在ったと思う。

「ふうん……。わたしだってアインツベルンのお城から出て、こんな風に皆と遠くへお出掛けしたりするのは勿論初めてだったけど、シロウもそう言う経験が少ないのは意外かな」

 言葉道理の表情が、俺を興味深そうに眺めていた。丸々とした赤い瞳は俺の応答を唯待っている。

「そうなのか?」

「そうよ。だって考えても見なさい。先代の正義の味方は、それこそ世界中を渡り鳥もびっくりな位に飛び回っていたのよ? 普通に考えたら、シロウにだって放浪癖がありそうなものじゃない? 今までは学生だったから家を長期に渡って空けることは出来なかったろうけど、それでも旅行くらいは出来たはずでしょ?」

 俺の曖昧な返答にご不満のイリヤは、言いながら視線を快晴の空にやる。俺としてもイリヤの機嫌を損ねて良いことなど何も無いので、「ふむ」と身体を起こして思案してみる。

「確かになぁ。言われてみれば、そうなんだ。正義の味方って目標を考えれば、学生の時からだって、切嗣の真似事位は出来たはずだもんな………」

 頬を掻きながら、イリヤと同じように、なんと無しに暖冬の空を見遣る。
 丁度、細切れになった群雲が、ノンビリと頭の上を過ぎさって行く。長閑な空気は、やはり変わらず。人の賑わいに隠れて、野鳥の囀りを運んでいた。

「ふうん……特に理由は無いんだろうけど」

「けど、何よ?」

 小さい影が、ムクリと起き上がる。俺の歯切れの悪い口元を、少し不満げに唇を曲げながら注視していた。
 それにしても、イリヤの髪は伸びるのは早いなぁ、と。偶然右手に触れた編みこんだ銀の髪房の感触に頓珍漢な感想を抱きながら、俺は穏やかな陽気と同じくノンビリと言った。

「多分、覚悟が足りなかったんじゃないかな」

「それって、正義の味方になるための?」

「ああ」と。俺は声になったかも分からなく、頷いた。

「切嗣みたいに世界を旅して回るって事はさ、世界の広さを知るって事だろ?」

「うん、そうね。だって正義の味方だもん、皆を救うんだったら、皆が暮らしてる世界の事も知らなくちゃ」

 強気に言い切る彼女の態度は、父親を誇るようにも見えてしまう。
 意味も無く三つ編みを振り回しながら、イリヤはじっと俺の貌をみて、続きを待っている。

「イリヤの言う通りさ、皆を救うんだから、皆の暮らす世界に行かなけりゃならない。でもそれは、守らなきゃならない世界を広げるって事だろう?」

 守るべきモノは、俺の両手に納まりきるのか? 世界の広がりを、大きさを知れば知るほど、きっとその葛藤は大きくなる。
 いつか切嗣が溢したように、知れば知るほど、この両手から零れ落ちていく無常な現実を見せ付けられる。だから。

「―――――――――――自信が無かったんだ。そう言う事よね、シロウ?」

 イリヤが俺の唇に人差し指を添えて、意地悪く微笑んだ。別に今更繕うほどの見栄もないので、俺は単純に頷いただけだった。

「ま、そういう事だ。覚悟も、それにイリヤが言うように自信も無かったんだろうな。冬木の、衛宮の家を守ることで精一杯だった俺が、世界に飛び出してなんになるっ、一体何が出来るんだっ、てシャチホコばってた。もしかすると、無意識にそんなことを考えていたのかもなって話」

 辺りは、やはり人の雑踏が賑わっている。そんな景観は、やはり当然の様にそこにあって、ゆっくりと時間の流れを感じさせる。

「そっか、結局、お兄ちゃんらしい詰まらなくて情けない理由だったわけだ」

 ケラケラとイリヤにはらしくない微笑が零れている。
 それにしても、情けないのが俺らしいって酷くないか?

「相変わらず容赦が無いな、イリヤは……」

 俺はくしゃくしゃと後ろ髪を掻き毟りながら苦く笑う。苦笑を漏らした心算だが、実際はどうなのだか。イリヤの貌をみているとそれすら定かでは無い。

「でもいいじゃない、それでもカッコいいのが貴方の“らしさ”なんだし」

 よしよしとイリヤが俺のオデコを撫でている。ひんやりとしたイリヤの小さな手でオデコを愛撫されるのは気持ちよいのだが、如何せん周りの視線が気になるので須らく止めていただく。俺とイリヤは説明無しではどうしたって兄妹に見られないし、警察を呼ばれては堪らない。

「でもシロウ。それじゃ今はどうなのかしら? こうやって色んな場所に行くのを楽しんでいるようだし、覚悟やら自信やらは、手に入れることが出来たのかしら?」

 名残惜しげに俺のオデコから手を離すイリヤは、直ぐに表情を変えた。鋭角の顎に軽く手を沿え、小首を傾げる彼女は歳相応の女の子に見える。普段の生意気さは、そこには無い。

「ん~、それは分からん。けど、――――決心はついたのかもしれない。切嗣が直視した現実を、俺も受け止めなくちゃならないんだって。だから、自発的ではないにしろ、こうやって冬木から飛び出して来られたのかもな」

 曖昧で不確かな思いには、けれど揺らぐものは何も無かった。当たり前に腹の奥から吐き出した言葉には、あの約束が、確かに息づいていたから。

「そっか。でもやっぱり、そうやってシロウがかっこつけられのも、アイツと会えたおかげって訳」

 少しだけ誇らしげに、イリヤははにかんだ。彼女の真意を汲み取れなかった気の利かない俺の脳みそ。もはや脊髄反射で、俺は言った。

「なんでさ?」

 そこで、イリヤは一度だけ目蓋を閉じ、一瞬の沈黙を和やかな空気の中に落とした。その逡巡は僅かなものなのに、耳が痛くなるほどの静寂だったと、俺は思う。

「――――――これ、昔アインツベルンのお城で厄介になってた、ある夢見がちな女たらしの台詞なんだけどね」

 そんな刹那の終わりに、意地悪く、俺の貌を舐めるように見据えた赤い瞳。イリヤの唇は妖艶に吊りあがって、微笑みは俺の背筋を舐めるように甘美だった。
 ……その所為もあったのかもしれない。
 イリヤの氷の様な微笑が、俺以上に大人びて感じられたのは。

「曰く、いい女って言うのはね、男を強くするんですって。ちょっと実感しているの、シロウを見ていると特にね。だから、少しだけ………悔しい、のかな? わたしは」

 伸ばしすぎた彼女の前髪に隠れて、イリヤの表情は分からない。けれど、掠れたその声色が、どうしたって俺に言葉を急かさせる。

「それこそなんでさ? 大体、俺が強くなってるとしたら、それはアイツだけのおかげだけじゃない。男を強くするのがいい女ってんなら、俺の周りはそんなんばっかだぞ? イリヤにしろ先生にしろ式さんにしろ、桜咲にしろ近衛にしろさ」

 だから、言ってやったのだ。それはもう、疑いようなど微塵も無いほどの事実だと。
 この台詞を言った奴が誰かは知らないが、その理屈で言ったら俺は世界最強になんなきゃいけねえぞ? 
 でもまあ、分からなくも無い。切嗣みたいな奴だったら、きっと恥ずかしげも無くそんな事を嘯くかもしれないから。

「ふふ、ありがとう。お兄ちゃん」

 いつの間にか嬉しそうに肩を寄せるイリヤ。
 そんな訳で、ノンビリとした二人の時間は、結局ノンビリとしたまま、続くことと。

「お、ラブラブやね~。お姉さんも混じってい~い?」

 ならなかった。
 賑やかな声が突然割って入る。言うまでも無いが声の主は近衛。彼女は「よっこらせ」とわざわざ声に出してイリヤの隣に尻餅をつく。
 理由は知らないのだが、イリヤが弟の仇みたいな目で近衛を睨んでいる。例によって、近衛には全く効果が無いのだが。

「すみません、イリヤさん。……どうもいいタイミングで戻ってきてしまったみたいで」

「――――っ。ええいいのよ、セツナ。貴方が詫びることなんて何も無い。お昼ごはんを買ってきて頂いたんだもの、感謝こそすれ貴方を呵責する理由が無いわ」

 絶妙の間合いで、桜咲がイリヤにジャンクフードの包みを渡しながらの謝罪。ぐっと何かを堪えたイリヤは、完璧なまでの猫かぶりで桜咲からハンバーガーを受け取った。我が妹ながら、見事なり。

「はい、衛宮も。すみません、ずいぶんお待たせした見たいで」

 にこっりとイリヤの貴社を受け取った桜咲は、俺にも昼食を手渡してくれる。いい加減待たされて、空腹に耐えかねていたのだ。ありがたや、ありがたや。

「やっぱお弁当を作ってくるんやったな~。味気なくないか?」

 ジャンクフードにがっつく俺に嘆いたのだろうか? 近衛がフレンチポテトを齧りながら、すまなそうに言った。

「そんなことないぞ。新鮮さも料理の重要なファクターだし、こういうのも悪くない。それに俺は、もともと雑食だしな、気にしないよ」

「そうなのですか? アレだけお料理が達者なのですから“女将を呼べっ”とか罵られかもしれないと、先ほどまで話していたのに……ね、このちゃん?」

「そうやん、料理が趣味の人なのにっ。もっと味に情熱をもたんといかんよっ。それじゃあアルティメットな料理に一生かかっても勝てへんやんっ! 衛宮君が目指すのは、――――そうっ、アンリミテッドな味やっ!!」

 心底意外そうに、桜咲もポテトをお行儀よくつまみながら言った。それに頷く近衛は、何やら楽しげにして意味不明だ。
 いや、大体……女将とか究極とかってなんでさ? ジャンクフードに美味いもクソも無いだろうに。

「……あのな、俺が味に拘るのは自分で作ったときだけだ。自分で作るものには妥協が出来ないだけだよ」

 それにしても、料理が趣味では無いのだと、胸を張って言えないのは男として如何なものか。その疑問は華麗にスルーして、俺は続ける。

「それに、男の料理にそもそも存在価値はねえだろ? 少なくとも俺は、女の子の手料理なら死ぬほど不味くても、自分の飯を食うより遥かにマシだと思ってる」

 コレは絶対の真理だろう。俺は、一口にハンバーガーを飲み込んで言ってやった。料理の出来る男に聞いてみろ、百人が百人、そう言うに決まっている。

「あはは、衛宮君は面白ろいね~相変わらず」

「まあ衛宮がそう言うのでしたら、別に構わないのですが……。しかし、男の子の美味しい手料理と言うのも、希少価値では負けていないと思いますよ。私は」

「そうね。私はおにいちゃんの手料理好きだもの。私的には、かなりの高値よ、シロウの料理」

 褒めてくれるのは嬉しいが、イリヤ、口元が疎かになっている。伸ばした彼女の前髪が、ジャンクフードのケチャップで汚れてしまうぞ。

「ほらほら、イリヤちゃん。お口が汚れているで~」

 彼女の口元を拭いてやろうと、俺はジーパンのポケットからハンカチを探していたのだが、どうやら先を越されてしまった。
 イリヤには珍しく、なすがままに近衛に身体を預けている。フキフキとイリヤの唇の上で、近衛の藍染めのハンカチが揺れている。

「はい、完了」

「ん……ありがと」

 唇を少しだけとんがらせて、イリヤが漏らす。ニコニコと変わらぬ笑みでそれを受け取る近衛は、本当にイリヤのお姉さんのようだ。

「どういたしまして。気にすることないで、イリヤちゃんの髪が汚れるのは、正直みたくないんやもん」

 そう言って、近衛は気持ち良さそうにイリヤの髪を撫で付ける。たっぷりとした彼女の銀糸の様な髪は、実際かなり手触りがいい。近衛のニヘラ顔も分からなくは無いのだが、流石に締まりが悪すぎるぞ。

「にしても、イリヤさんの髪は本当に綺麗ですね。何か特別な手入れでも?」

 桜咲も桜咲で、イリヤの尻尾をムニムニ握りながら気持ち良さそうに目を細めている。なんだか女の子の園に紛れた私めは非常に居心地が悪いのですが、気の所為でしょうか?

「ん~特には。あ、でも寝る前にはいつも余分な魔力を貯めておくからその成果なのかも」

「ああ、そういや毎晩やってるよな鏡の前で。あれって………」

「そ、魔力を保存するための魔術儀式ね」

 イリヤは前髪を摘んみ、枝毛を探すように俺に答えた。
 ん、しかし待てよ、魔力の保存?

「ん、どしたん? 衛宮君?」

 俺には珍しく思案顔を作ったからだろうか。近衛が俺に小首を傾げている。

「あ、いや前々から“髪は女魔術師の切り札”っていうのは知っていたんだけど、それってやっぱり、イリヤみたいに近衛なんかも魔力を髪に貯蓄しているからだよな?」

「 ? そうや。魔力の貯蓄は勿論やけど、外付けの魔術回路としての役割もあるし、女性の魔術師にとって、長くて艶やかな髪は、文字道理女の武器や」

 ああ、それでか。俺は前々から不思議に思っていたのだが、魔力の貯蓄は最高難易度の魔術だ、遠坂のような半永久的に魔力を別の器に移し変えるのは反則級の魔術行使だとも以前先生に言われていた。
 その理屈で考えれば、そもそも“髪に魔力の貯蔵”なんて不思議で堪らなかったのだが、近衛の話でようやく腑に落ちた。

「なるほどね、そもそも“自分の回路”に魔力を余分に保存しているって事だ」

 そりゃ、魔力転換の魔術行使も簡単な筈だよ。やっぱり女性の髪は凄いなぁと、今更ながら感心してしまった。

「にしてもなあ、魔力蓄積だったらウチだってきちんとこなしておるし……やっぱりイリヤちゃんの髪は反則やぁ」

「ふふふ、アリガト。わたしもお母さん譲りのこの髪、気に入っているから」

 イリヤは安らかな表情で、近衛に髪を梳かされる。本当に、ああしていると姉妹みたいで、少し妬けてしまう。
 それでも、俺の貌は確かに微笑んでいた。まったく、妬みを感じたていたってのに、笑っちまうなんて、我ながらイカレている。
 自嘲が綯い交ぜになり、一層深まった俺の笑みは吸い込まれるように、知らずイリヤの視線と絡み合っていた。そうして、イリヤは言う。

「それにねシロウ。何より、アイツが綺麗だって言ってくれた髪だもの、綺麗に手入れするのは当然でしょ?」

 いつかの時間も、そういえばアイツと今みたいな遣り取りがあったことをそこで思い出した。既知に深まった思考は、それでも自然と口にした。

「そっか、でも俺だって綺麗だって思っているからな。フワフワしてさ、俺、イリヤには長い髪が似合っていると思う。その……イリヤの髪、すごく好きだ」

 最後の言葉は羞恥にかられて少し掠れてしまったが、それでも「うん」と、穏やかにイリヤは頷き、赤い瞳を閉じる。近衛に髪を任せる事を選んだのか、イリヤはふっと肩の力を抜いく。

「―――――さて、衛宮」

「なにさ、桜咲」
 
 今まではイリヤと近衛の微笑ましい遣り取りに目を細めていた桜咲が、昼食の後片付けをしながら、いつのも声調で言った。相変わらず澄んだ刃みたいに硬質な声だったが、それでも殺伐としたものは感じられなかった。

「昼食もとり終えましたし、暫く休んだら、次は何処にご案内いたしましょう?」

 だから、この問いも予測済み。俺はフムと、腕を組んで一応の思案。

「そうだな、ソレじゃ次は――――――――――――――」

 夜の警邏に役立つように、――――――とか、野暮な事は言いっこ無しだ。俺は、手にいれた一時の安息を楽しむことに決めたから。

 迎えられる澱んだ夜、その戦いの前奏曲はそうして。







 ――――――――穏やかなまま、終えられた―――――――――








[1027] 第三十一話 願いの行方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 05:04
/ others.

 ――――――――――おかしい。

 魔術師は穴から吹き出る魔力を観測しながら、戸惑いを隠せずにいた。
 白翼公の下を離れてから、その追っ手を恐れ、強大な力を手に入れる必要性を感じた魔術師は、無限とも言える魔力を手中に収める計画を“思いついた”。そこで、以前トラフィムの城の地下資料室で発見した極東におけるこの寺院の事に思い至り、二人の無能な人外とガラクタを駒に、ここまでやってきたのだ。
 魔術師は龍界寺の本堂、ここに自身の工房、ともすれば神殿とも言える魔術設備を建築し、“穴”から溢れ出す魔力を抽出、そして濃縮し限りなく無限に近しい魔力の結晶を創造する予定だったのに。

「それが、何故だっ!!」

 機械的な魔具が乱雑と設置された暗闇に、ガン、となにか硬質なガラスを蹴り飛ばしたような高音が弾ける。無常に反響する雑音は、ただ魔術師の鼓膜を震わせるだけだった。
 木目張りの室内に、発光するガラスの筒が転がっている。
 魔術師が睨みつける三十センチ台のガラスケース。円柱形のケースの中には青草のむせ返るような匂いを発する、お世辞にも綺麗とは言いがたい黒緑の液体が、ぬめぬめと円柱の内側で蠢いていた。
 ――――――本来ならば、この液体が完全な固体へと凝縮されているはずなのに。魔術師は、唇を破れるほど強く噛んだ。
 穴から派生した魔力、マナは、京都の龍脈を伝いこの街全域に伝達される。その流れの中心にあるこの寺院には、それこそ莫大な魔力が集まり、魔術師の作り出した粘着物質を無限に近い魔力を内包した結晶体にまで濃縮させる筈だったのに。

「それがっそれがっそれがっそれがっそれがっそれがっそれがっそれがっ!!」

 発狂した子供のような手当たり次第の暴力で、物言わぬ無機質をただ殴り続ける。その行為は、一様に無様と言えよう。

「何故だっ!?」

 硬いガラス管を殴り続ける鈍痛に耐え切れなくなった魔術師は、最後に喚いた。そうして、毟り取る様に再度、大気の魔力量の観測結果を記したレポートを取る。
 確かに、高純度の魔力がこの工房には満ちているのだ。しかしそれは、魔術師の予測した数値を大きく下回るモノだった。
 理由は明白だ。本来ならばこの場所に集中するはずのマナ、龍脈を伝い流動する魔力の渦が、ここでは無い“どこか”に吸い寄せられている。昨夜の内に気付くべきだったのだ。京都に満ちた膨大なマナ、それでも、その総量がやはり少なかった事に。

「――――――うるさいわね、そろそろよ。準備なさい」

「――――――っつ!?」

 薄い破目板が煩わしげに開き、そこから月明かりと一緒に女の凍えた声だけが通る。
 魔術師は意地汚い最後の虚勢で、女に冷静を装い答え言い放った。

「………分かった。行こうか」

 確かに魔力の結晶体は未完成だ。しかし、順調に魔力が濃縮されているのもまた真実。時間が解決してくれる問題なのもまた、……真実だった。
 何、焦る必要は無い。今夜の作戦が成功すれば、穴は完全に“向こう側”に繋がり、噴出する魔力量とて大きく増す。
 ――――――――それで、何も問題ないではないか。

「ええ、鏡はもう出ているわ。厄介な護衛は退魔組織から出払っているし、襲撃は容易よ」

 道化を演じるのは私ではない、それは彼女達ではないかと。卑しくも魔術師は唇を吊り上げる。

「そうか、それは安心だね。ひひ」

 最後に、下種な魔術師の貌を吐き捨てるように眺めた遠上都は黒いコートを翻す。
 果たして、道化達の演ずる疑獄の幕は、こうして上がる。

「さあ、始まるわ」

 そして、静かに地獄は告げられた。





Fate / happy material
第三十一話 願いの行方 Ⅶ





/ 11.

 静かな夜だ。
 昼間の京都遊覧を満喫して、気力充分、そう意気込んで今夜とて警邏に繰り出しているのだが、拍子抜けもいいところだった。
 だが、安穏とした俺の表情とは無関係に、ピリピリとうなじが焦がされている。理由は単純だった。大気に伝う吐き出しそうな匂いが残っているものの、今夜の街は昨晩とは明らかに異なっているからだ。息を詰まらせる様だったマナの量は変わらず、しかし、何かが違うのだ。
 その感覚はきっと俺の内面への衝動だったのだろう。
 夜陰に溶け込む俺の危機感は、あの戦いで嫌と言うほど味わった恐怖への嗅覚故のものだった。
 鼻をつく誰かの殺意が、乾燥とした厳冬の空気をしんと静まり返りさせている。それが、俺の茶色い外套をきつく締め上げているのだ。

「寒いな」

 特に寒さを感じた訳ではないのだが、俺の不確かな感覚を表現するにはコレが最も適した言葉だったから、自然と口に出していた。
 辺りを見回す。時計の短針が頂点を大きく過ぎた刻限には、人の姿が見当たらない。京都駅の構内で、俺たち三人、式さん、桜咲、そして俺だけが照らし出されていた。
 やたらと高い位置から降り注ぐ人工の光。モダンな設計の構内は閑散として、俺たちの足音だけが孤独に鳴り響く。足音は、三つ。

「ふむ、ここは大丈夫なようですし次の警戒地区に足を運びますか?」

 俺たち三人のためだけにある強い電光をさえぎりながら、桜咲がいった。
 プラットホームの方まで足を伸ばしていた彼女は、階段を下りながら辺りを見回す。一際高い視界を占領する彼女は、そこからなら構内全てを見渡せるのだろう。

「そうだな。ここにいても詰まらん。殺し合えないなら、こんなところで暇を潰したくは無いからな」

 式さんが今まで寄りかかっていた構内の石柱を一度叩いて、鬱陶しそうに息を吐き出す。今夜は一度とて人外の群れと戦闘になっていない。それが、式さんの不機嫌の原因なのだろう。
 しかし、だからこそ俺たち三人の緊張は高まっているのだ。嵐の前の静けさ……とでも言えば良いのか、俺ももちろんの事、二人の一流は眼光の鋭さを増している。

「そういや、本部の方はどうなってる? 何か連絡は無いのか? 桜咲」

「………いえ、何も。マナ高潮の原因はやはり掴めていないようです」

 本部においてきた連絡用のちび刹那とコンタクトをしてくれたのか、不自然な沈黙の後に、桜咲が俺の疑問に淡々と答えた。
 にしても、桜咲の法術“ちび刹那”は中々に便利だと思う。俺も練習してみようかな。……ぬう、しかし男をデフォルトしたって可愛くもなんともないし、やはりコレは女の子専用の神秘なのだろうか? それに“ちび衛宮”、いや“ちび士郎”か? イリヤは喜びそうだが、どちらにしろ酷く惨めな自傷行為の様な気がする。

「どうかしましたか、衛宮?」

「ん? いや、なんでもない。そんじゃ、次の警戒地区に行くか? 次は確か……」

 どうでもいいかと結論付けて、俺は肩を竦める。階段をゆっくりと下りた桜咲は、俺の隣で正確な時刻を確認している。
 女性的な仕草。脈を計るように、桜咲は手首の時計を伏し目がちに見た。

「二時半……ですか。いえ、衛宮。やはり今夜はコレくらいで良いでしょう、もう遅い」

 桜咲の事務的な声に、あからさまに嫌な貌をするのは式さんです。俺ではないヨ。
 式さんの事だから、折角夜の街に繰り出したのに、血の匂いを満喫できなかった事にご不満なのだろう。
 式さんは夜の散歩を趣味とするだけあって、顔色一つ変わらない。俺はと言うと、少し眠いので桜咲の発言は有難かった。京都の街はやはり心配だが、人外共もこれだけ現れないのだ、きっと今夜は犠牲者が出ないはずだ。
 そう安堵の表情を浮かべた矢先、高慢とも取れる高い声が降ってきた。




「――――――――なんだ、もう帰るのかい?
 残念だな。今夜のメーンイベントは、まだ始まってもいないと言うのに」




 混じりけの無いテノール。見知らぬ、しかし聞き覚えのある無邪気な声が静寂の構内に反響した。
 足音は、四つ―――――。不純な合金じみた長髪と、灰猫の様なフリース。その人影は、駅構内の中央階段を一つ二つと数えるようにゆっくりと下りながら、嘲笑を俺たちに抜け目無く送る。

「やあ、はじめまして……ではないか。覚えてくれていると、嬉しいのだけれどね」

 陶酔気味に銅色の長髪を掻き揚げて、青年は言った。目の前に在ると言うのに、存在感が決定的に欠落した痩身の男。彼は階段の踊り場で歩みを止め、静かに俺たちを見下ろした。

「……お前、確か」

 俺は現れた人影を睨みつけながら、この野郎と最初に出会った夕闇の金閣を頭の中で反芻させる。
 と、同時に。腰をすえて両の腕をだらんと無防備に垂らし、俺は自然と戦闘体制に移行していた。以前とは異なり、目の前の男は明らかな敵意を向けていたから。
 俺の返答の何が可笑しいのか、含みを持った薄笑いで、青年はなおも此方を見下ろしている。

「そう睨むなよ。男に熱い視線を送られても、嬉しくも何とも無いのに」

 嫌味な野郎だ。シニカルな男って奴は、どうにも好きになれない。口元を歪め、見下すような視線を無視して、俺は軽快に言い放った。

「はっ。そうかい、そりゃあ僥倖だ。嫌いな野郎を喜ばせるほど、俺は人間が出来てないんでね」

 生憎と、奴の皮肉程度で俺が動じるはずも無い。遠坂にしろイリヤにしろ先生にしろ、こんな時だけは感謝しなくてはなるまい。
 鼻で笑うように突き返した俺の皮肉で、簡単に眉を吊り上げた青年。どうやら、上品で冷静そうな顔立ちとは裏腹に、存外に子供の様だ。
 だが、不機嫌に舌をうった青年は一転し、先ほどの様子を取り戻した。

「フン、言っていろ。その減らず口も、いずれ叩けなくしてやる。どちらが優位に立っているのか、その身で知るがいいさ」

 小忿に貌を顰めて、青年は言い放つ。
 彼の目的が何であれ、俺たちの前にこうして現れたのだ、今回の事件、それに何らかの関係を持っていると、疑ってしかるべきだ。

「一つ聞きたい。なるほどその口ぶり……今京都の街で起きている異変、貴方達が原因なのか?」

 さて、どうやって奴の口を割らせるか思案する横で、桜咲が真っ先に問いだした。
 冷淡に聞こえるその声色だが、いくらなんでも直接的過ぎる。普段からクールなイメージの桜咲だが、実際のところかなり直情的だったりすのだ。如何せん駆け引きの場には向いていない。

「さあ、どうかな? 聞かれて答えるほど、僕はお人よしじゃない。もしかしたら道に迷った唯の観光客かも知れないし、君達と同じく、この町の異変に対応するお人よしかも知れないよ?」

 案の定の返答。冷静さを取り戻してしまった青年は、愉快そうに薄く歯を見せる。
 聞こえた歯軋りは、桜咲のモノだった。

「貴様っ、ふざけるのも――――――」

「落ち着けよ、桜咲。安い挑発に乗ってやる必要はないだろ?」

 俺は勤めて冷静を装い、静かに呟いた。
 今更だが、こいつが今回の異変について何らかの関係を持っているのは明らかだ。先ず間違いなく、こいつは京都の異変について何か知っている。それを証明する確たる証拠も無いが、かといってそれを否定する要素も皆無だ。
 先ほどの台詞から考えて、目の前の少年が一枚噛んでいるのは確定だろう。
 だが、その真意は未だ定かじゃない。聞き出すべき情報は、一体なんだ、衛宮士郎? 思考を休めるな。俺にあるのは、しなけりゃならないのは、いつだって冷静に状況を見極め、最善を尽くすことだけだ。

「ふうん、詰まんないね、お前」

 ニヤニヤと俺を見下ろす青年を無貌のまま捉えて、俺は思考を続ける。
 この異変が人為的に起こされたと仮定すれば、それを引き起こした人間と、それを行うにたる目的があるのも必然だ。京都での異変、それを引き起こしたのが目の前の少年一人だけだと勘ぐるのは宜しくない。複数人、少なくとも二人以上はいるはず。
 そいつらの目的が何にしろ、今まで彼らはその存在を昨夜まで完璧に隠蔽してきた。それがどうだ、今この瞬間、何故あからさまに自らの姿を晒す必要がある?

「だんまりか? 真実を話すかどうかは別として、質問には答えてやるよ?」

 考えられるのは二つ。隠れることが困難になったのか、もしくは隠れる必要性が無くなった……のか。
 青年の横柄とした態度からみて、恐らくは後者。だとすれば、この少年が俺たちの目の前に現れたのも何らかの意味が在る。
 可能性として考えられのは俺たちへの挑発、もしくは……陽動? 挑発……は考えがたい、今まで姿を現さず隠れながら事をなすような奴等が、そんな事をする筈無い。つまりは陽動で間違いないのだろう。

「おいおい、いい加減だんまりはよせ。気を遣り過ぎて鬱にでもなったか? 勘弁しろよ、色々と気になるにしてもさ」

 薄笑いを浮かべ、饒舌さを増していく青年を睨みつける。瞬間、あんまり考えたくない予想が脳裏に閃く。
 出来れば当って欲しくないが、そうも言っていられない。予想を確信に変えるためにも……発破を――掛けてみるか?

「まあ、な。お前が他の仲間を気にする程度には気になるよ。大丈夫なのか? 本部の守りは、それなりに硬いぜ?」

 瞬間、青年の顔が目に見えて強張る。
 ――――――――畜生、ビンゴか。もうちょい、ポーカーフェイスを練習しとけっ。

「桜咲っ!」

 内心で毒づいて、俺は声を張り上げる。本部との連絡を、―――。

「くっ! 駄目です! ちび刹那との交信が途絶えている」

 即座に返されたのは神経質にいらだつ桜咲の掠れた声だった。

「ちい、出遅れた! 本命は、日本呪術協会本部への襲撃かよ!」

 青年のいやに間延びした受け答えも、俺たちをここに引き止めておくためかっ。
 だが、目的が分かったんなら話は早い。こんな奴放っておいて、すぐさまイリヤ達の所にっ。
 駅の構内から、大きく口をあけた暗闇、出口を睨みつけて駆け出そうとした瞬間。

「ふぅん、でもさ……出口、塞がれちまったぜ? 衛宮、どうすんだ?」

「どうするって、言われても……どうにかするしか、ないでしょう?」

 式さんの退屈そうな欠伸を耳にしながら、目の前を埋め尽くす無数の赤い瞳を見た。
 背筋を押されるような焦燥感が、俺の中に湧き上がる。構内の強い燭光が、怪物共を照らし出していた。実に気色が悪い。奴等は匂いにひきつけられて群がる蟻みたいに蠢いていた。
 昨日と違って明るい駅の構内だ。人外達のグロテスクな輪郭が否でも目に付き、俺は眉を顰める。

「いや、意外と思慮深いんだな、君は。弱いくせに、驚いたよ。本当なら、もう少しお喋りで時間を稼げるかなとも思ったんだけどね。遅かれ早かれ分かることだけど、姉さん達の襲撃、もう少し悟らせたくなかったな。僕の仕事が増えるしね」

 くぐもった嘲笑が、不愉快に鼓膜を犯す。
 黒い匂い袋を掌中し弄びながら、青年は階段を下りきり、漸く俺たちと視線を同じくしていた。
 恐らくは青年が手にした魔具が、人外共を呼び寄せたに違いなかった。くそ、本当にいい手際を見せ付けてくれやがる。この場所、駅構内と言う閉鎖的空間に見計らった様に青年が現れたのも、一方通行の出入り口を、操作した人外共の群れで強制的に塞ぐためか。

「この野郎っ、“意外”は余計だし、“弱いくせに”ってのはもっといらねぇ。訂正しやがれ」

 舌打ちと共に、吐き捨てるように俺は言い放った。青年の嘲笑に苛立つ神経を必死に押さえつけ、思考を張り巡らせる。
 どうする? 今、近衛の家は常時ほど警備が厚くない。理由はどうあれ日本の退魔組織、その本部に突貫を仕掛けるのだ、恐らく襲撃者は相当腕に覚えがあるはず。組織の機関員の殆どが京都の守護に駆り立てられているし、手薄になった警備でその攻勢を防ぎきれるとは到底思えない。
 街に繰り出している何組かの小隊は、俺たちの様に本部の異状に気付くかもしれないが、それにしたって対応できるか怪しいものだ。
 何より、桜咲と式さん、二人が足止めされてしまったのが痛すぎる。この二人以上の使い手は詠春さん一人だけ。その詠春さんが本部に残っているとは言え、一人だけじゃどうにもならねえ。
 くそ、全部計算ずくかよっ。厄介な二人をココで押さえつけ、襲撃側本隊が電撃的に奇襲。コレだけの手際だ、恐らく詠春さん一人なら何とかなる、そう踏んでの判断なのだろう。

「はは、いいね。勝手に喚いてろ」

 青年が高らかな嘲りを構内に響かせた。
 何にしたって、俺達は一刻も早くこの場から離脱して詠春さんのフォローに向かわなくてはならない。やるべきことは決まっているのだ。時間を稼ぐ目的で、襲撃側は青年を俺たちに振り当てたんだろうが、式さんと桜咲を相手に満足に時間を稼げるはずがねえ。

「さて、お喋りはもうすんだのか? オレは駆け引きやら、腹の探り合いやらは苦手でね。やること出来るんならそれでいいんだ。とりあえずさ、アンタ、オレの敵ってことで構わないんだろ?」

 式さんが友達に話しかけるような気安さで、一歩進み出た。赤い外套がはためいて、そこから除かせた式さんの艶やかな純白の振袖が、強い電燈によって生光の様に煌いて映る。

「此方とて、むざむざ貴方達の思惑道理に事を運んでやるつもりも毛頭無い。時間など稼がせる間も無く、打ち倒してご覧にいれよう」

 式さんに並ぶように腰を据え、鋭い眼光のまま桜咲が夕凪を手に抜刀の構えをとった。
 それに文句を言ったのは何故か式さんだ。彼女はあからさまに端正な口元を尖らせて不満を口にした。

「おいおい刹那。悪いがオレは一人でやりたいんだ、引っ込んでろよ」

「そういうわけにはいきません。本部が奇襲されている以上、お嬢様に身の危険が迫っているのは明白だ。それどころか奴等の目的がお嬢様と言うことも充分に在りえる。貴方にノンビリと立ち回られては適いませんしね」

「言うじゃないか。だがな、詠旬との鍛錬ではまだしも、本気の殺し合いで二対一? そんな萎えちまうお遊び、オレは御免こうむる」

「別に共闘しろとは言っていません。各々勝手にやれば宜しいでしょう? 貴方が一人で殺し合いたいのも事実ならば、私とて切迫しています」

「ふうん、何かの間違いでお前に目移りしちまうかもしれないぜ? “勝手”てのはそういうこったろう? オレの手綱、放しちゃってもいいの? お前を殺すのは、中々に快感だろうとは思っていたんだけど」

「それこそご自由に。最も、それが貴方に出来ればの夢物語……ですが」

「はっ、その台詞、待ってたぜ。忘れるなよ?」

 四方に絶望的な殺気を散らかす式さんと、凍えた声調で淡々と口にする桜咲。温度差の激しすぎる光景は、正直見ているこっちの心臓に悪いです。
 ……にしても、冷気と熱気の境界に佇む俺は、もはや置いてけぼりですか、そうですか。いやね、普段とあんまり変わらないから別にいいんだけど。と言うかさ、つまるところもっと仲良くして下さい。何よりも俺の心臓のために。本当にお願いしますよ。

「と言うことです、衛宮。背中は任せましたよ? 気色の悪い有象無象は、あなたの担当です。よもや、後れを取ることなどありませんよね?」

 先ほどから如何せん猪突猛進の桜咲。やれやれ、愛されてるなあ、近衛は。
 それは兎も角として、桜咲の抑揚の無い、しかし敵を圧倒する殺気を含んだ言葉に、俺は丹田に力を込めて頷いた。

「当然。お前らがあのいけ好かない野郎をのした時には、目の前に残骸の山を積んでおくから楽しみにしてろ。塞がれた出口に、大穴開けて待ってるよ」

「それは、余り期待しないでおきましょう。何せ、私たちが衛宮に加勢するのは、ものの数秒後の事ですから」

 俺が二人の美女に背を向けると、桜咲にしては珍しい挑発的な声が。気合充分、状況が状況だというのに、俺は口元を緩めていた。
 あの青年には悪いが、この二人を相手に時間稼ぎなど無理な注文だ。なにせ、それを行うのはサーヴァントだってきつい筈だ。それは俺が保障する。

「はは、強気なお姉さん方だよ、全く。―――――――――来たれ(アデアット)」

 だが、彼女達の殺気を受けてなお、青年の声には一分の竦みや気負いを感じさせない。いや、真実、感じていないのだろう。
 青年の淡々とした雰囲気は変わらず。背中の向こうで、俺の知らない魔力の奔流が結晶する。「アデアット」恐らくは魔具を召喚したのだろう。どうやら青年は彷徨海、麻帆良系列に位置する魔術を学んでいるようだ。
 恐らくは魔術使いの従者。だが、それがどうした。どれほどの魔具、どれほど技量を誇ろうが、二人の剣士を相手に“勝利”など在りえない。

「投影、開始」

 現れた俺の愛刀、黒白の双剣を握り蠢く闇を直視する。昨晩とは違い、初っ端から全力。今は如何に迅速に、目の前の脅威を一蹴出来るか。そもそも幻想の格が違うのだ、俺の愛刀、その威力を存分に見せ付けてやる。

 俺は深く息を吐き出し、一足先に闇に駆け込む。
 桜咲、そして式さん。刹那の先にある背中越しの勝利を確信したまま。

/ feathers.

「―――――――――来たれ(アデアット)」

 私の殺気を正面から叩きつけられてなお、軟弱な印象の青年は悠然と呪文を口にした。

「契約魔術(パクティオー)……従者か」

 不愉快だ。顔には出さず、夕凪を手の平に肉が裂けるぐらい強く握り締めた。
 確かに契約魔術は私たち麻帆良固有の神秘と言うわけではない。彷徨海系列の神秘から派生したこの魔術は、術を起動する過程(プロセス)に違いこそあれ、数多くの使い手が存在する。
 だが、それでも私たちと同系の秘伝を用い、奴等のように悪行に走るのは耐え難い屈辱だ。少なくとも、“世のため、人のため”その理念の下に、かの秘儀を行使する麻帆良の魔術師、そして私の恩師を侮辱する行為に思えてならなかった。

「ほら、来いよ。時間、――――――ないんでしょ?」

 青年の冷ややかな声に、自身の憤懣を押さえつけ思考を平静に切り替える。そして彼の獲物を観察した。
 青年の手に現れたのは両刃の一振り。二尺余りの、恐らくは儀礼用の直刀だった。

「――――――言われずとも」

 どんな瞬間にでも即座に青年の懐に飛び込めるように、腰を据え、再び奴の魔具を直視する。
 鏡面のように磨かれた美しい刀身。柄も無ければ鍔も無い。それは刀と称すより60cmの細長い鏡の様だった。
 裸の刀身、なかごをそのまま握り締める青年の手は衛宮と違って壊れそうなほど華奢で、ともすれば可愛らしく私の目に映る。
 恐らく、彼は大した使い手ではない。故に、その魔具は直接的な攻撃に特化したモノではなく、彼の魔術を補佐、もしくはその魔具自体が特殊な神秘を内包していると見てよさそうだ。
 相手の手札が分からぬ以上、何にしても先ずは様子見、―――――普段ならば、そう慎重に初手を放つのだが。

「そういう訳には、いかないかっ――――――――――」

 私は、つま先に力を込め駿逸の如く五間はあった間合いを踏破する。
 用意周到に相手の手の内を探り、万全を持って完封。本来ならばそれが私の兵法なのだが、生憎と今回は勝手が違う。先手必勝をもって一刀の下に切り伏せ、一刻も早く帰投しなくては。
 故に、全速にして全力。人間の限界以上、混血である私の皮肉な身体能力の限りを尽くし、一閃した刃。

「へえ、速いな。アンタ」

 しかしその一刀に、青年は事も無げに相打った。
 青年の懐に飛び込み居合いを放つ筈であったのだが、予想外の青年の踏み込み、その速度が上乗せさせられた奴の一振りに私の剣が相殺された。
 コンマの遅れさえあれ、青年は私と同等の俊足で刃を重ねたのだ。

「そちらも。―――――――少々、見縊っていましたよ!」

 刃を鬩ぎ合わせ言葉を交わしたのも束の間、私は重なった刃ごと力任せに青年を弾き飛ばす。華奢な体つきの男は、紙の様な軽さでたたらを踏んで吹き飛ばされた。

「うわっ!」

 すっとんきょうな声で、体を崩す青年。その瞬間を私が見逃すはずも無い。そして同時に、刃を収める必要も無い。
 奴を突き飛ばした刀身を即座に上段に構え、体制を整える隙さえ与えず叩き下ろした。

「―――――――っちい!」

 仕留めた―――――――。
 だがその直感に対して、またも相殺。舌打ちは、悔しいが私のものだった。
 天井から打ち下ろした私の刃が、同じく天上から力なく合わせられた奴の鏡の様な刀身と弾けあい、硬質な金属音を奏でる。京都駅構内に、幾重にも重なった和音が反響した。

「まったく、何やってんだ。刹那」

 瞬間に打ち合おうこと、二合。青年を攻め切れない私に、両儀さんが失望の念を吐き出しながらも加勢する。口ではなんと言おうが、無愛想でお人よしのお姉さんは、私の横、地べたを擦るように駆け抜け、青年のがら空きになったわき腹に切りかかる。

「っちい、ウザったいんだよ! アンタ等!!」

 だが、信じられるか? 青年はそれすら防ぎきったのだ。
 横合いからナイフを手に青年の懐に肉薄する両儀さんに合わせ、跳び引いた私。タイミングは微塵のズレも無く、私の小さな背中に隠れ、彼女はその隙間からの一刀を閃かせる。
 されど、青年はそれすら完璧に読みきったのか、同じく真横に振り切った刃で両儀さんの短刀と克ち合わせた。
 流石に短刀と二尺余の直刀では力比べになるはずも無く、青年は両儀さんを大きく振り払う。
 猫のような身軽さで、音も無く私の隣に着地した両儀さん。

「お前、やるじゃないか。まさか、あそこまで完璧に合わせられなんて、思ってもみなかった」

 彼女は、動揺したそぶりを一つとして見せず呟く。それでも、感じた不信感は拭えなかったのだろう。

「それは、ハッ、どうも。何、別段、はっ、自慢できるものでは、ないけど、―――さ」

 息を荒げながらも、青年は気丈にも軽口を忘れなかった。
 その態度が癪に障るのか、両儀さんの前髪が屈んだ拍子に僅かに揺れ、鋭さを増した彼女の眼光を隠す。
 彼女が警戒するのは最もだ。少なくとも私と彼女は全力で刃を振るった。
 それがどうだ、唯の人間、いくら魔術師の従者とは言え、何の魔術行使も無く私たちの攻勢を防ぎきることは可能なのか? 肉体強化や反射加速の魔術を使っているようにも思えないし、奇怪だ。

「刹那。アイツの剣……」

「ええ……打ち合って見て分かりましたが、彼自身に優れた剣の技量は皆無だ。だが、それでも私たちの剣を完璧に防いだのもまた事実」

 奇妙な違和感を覚えたのは両儀さんも同じだったらしい。青年を睨みつけたままの歯切れの悪い言葉。それに相槌をうった私は、恐らく両儀さんと同じ答えを導き出している。

「やっぱり、あの鏡みたいな刀の能力って事か?」

「十中八九、その通りでしょうね」

 故に、両儀さんの淡々とした回答を即座に腑に落とすことが出来た。

「だが、結局成すべき事は変わらない。いくら優れた魔具であろうと、力でねじ伏せられないはずは無いのですから」

 事実、私たちが青年を圧倒している事に変わりは無かった。息一つ乱してさえいない私たちと、紙一重で先ほどの攻勢を凌いだとは言え、困憊を隠せない青年。
 大丈夫だ、次で確実に―――――。

「おいおい、らしくない。どうしたよ、刹那。功を急くなよ」

 夕凪を鞘に収め、力強く柄を握り締めると、隣から水を差すような両儀さんの声が耳につく。戦いの最中、長閑な彼女の声に理由も無く苛立った。

「私は焦ってなどいないません! 両儀さんこそどうしたと言うのですか!? 貴方の方こそらしくない!!」

 時間が無いのだ。
 早く、早く目の前の脅威を一掃し、このちゃんのところに。

「先に仕掛けます! 合わせて下さい、両儀さん」

「おっ、おい!?」

 私は吐き捨てるように言って、癇に障る薄笑いの青年に二度目の突貫を仕掛ける。
 抜きて打つこと一刀。放たれた真横一文字の居合い。

「はっ! 速いけど、無駄だよ」

 だが、今度も防がれる。やはり相手は私の刃と寸分変わらぬ速度で間合いを詰め、そして、見事なまでの真横へ振り抜いた刃で私の剣を押し返す。

「っく!」

 青年の刃と交錯したままの夕凪を、滑らすように真下に払う。オデコをつき合わすようだった私と青年の剣間がやや開き、私の刃が彼の直刀を下段の構えのまま押さえつけた。

「――――はっ」

 力を抜かず、腹から気合を吐き出す。
 手首を返し、押さえつけていた青年の直刀を夕凪の切っ先で噛むように絡め、今度はそのまま払い上げる。
 青年の身体が、何かに吊り上げられたかのように泳ぎ、剣は無様にも虚空を彷徨う。
 ふん、剣を放さなかったのは見事だが。今度こそ。

「貰ったっ―――――――」

 青年の刀を真上に突き上げた。ならば当然、夕凪は天に掲げられている。流れるように構えを上段に取り。幹竹割りの一刀。青年の上背部、右肩を破壊するはずの渾身。

「甘いんだよ、アンタ……っ」

 それは、見事なまでに振り下ろされた青年の直刀に阻まれた。
 思わず錯覚してしまう。青年の刀がまるで引き寄せられるかのように、私の刃と重なったのだ。

「貴様っ」

 ぎゅっと唇強く噛んだ。これも、やはりアーティファクトの力か!?
 恐らくは、自動的に相手の攻撃を追跡、防御する機能か。それならば奴の仔細な技量と、突出した防御能力も納得できる。
 再び間合いを放した私は、それと入れ替わりに再び切り込んだ両儀さんと青年の剣戟を視界に納めながら、そう結論づけた。彼のアーティファクトが、防御に特化したものであるならば、時間稼ぎには最適な能力だ。
 だが、舐められたものだ。そんなモノ、それ以上の必殺の前には無意味と知れ。

「両儀さんっ!」

 腰を落とし、抜刀の構えを崩さず両儀さんの攻防を見守っていた私。その声に、両儀さんは振り返らず小さく頷いた。
 両儀さんの見事なまでに袈裟に入った一閃を、まるで鏡合わせの様に受け止めた青年。だが、そこから人間の限界ぎりぎりの強力を持って、両儀さんが青年を、あろう事か短刀で、直刀のみならずその身体ごと吹き飛ばした。
 女だてらに、大したモノです。

「桜咲、―――――――――仕留めろ!!」

 一瞬の内に鮮やかなまでの跳躍、そして離脱を果たす式さん。それとは対照的に、今度も構えを崩され、無様に晒された青年の華奢な身体。
 剣間は四。今度は、外さない。幾ら防御に優れようとも、この一撃、貴様の剣一つで到底防ぎ切れるモノではないのだから。

「神鳴流―――――――――――斬空閃」

 大地を擦り、虚空、間合いを掌握し飛翔する斬撃が、裂帛の気合を持って放たれた。

feathers. / out.

「――――――――――――――斬空閃」

 俺は、勝利を確信した。
 アレから五分弱の時間が流れたが、二、三体の化け物を倒した辺りで、俺は桜咲の雄叫びじみた励声に振り返る。

「神鳴流」

 そして、同時に驚愕した。
 疾風のように飛翔する斬撃。桜咲の放った刹那の後に訪れる敗北の具現を目の前にして、その少年はあろうことか酷薄に微笑み。

「斬空閃」

 その敗北を、彼女と同じ剣戟で持って否定したのだから。
 衝突する衝撃波。一体どのような理屈で斬撃が虚空を伝うのか見当もつかないが、桜咲の刀、夕凪から放たれた純粋な力の塊は、鏡合わせの様に閃いた青年の“斬空閃”に相殺されたのだ。
 轟音が弾ける。斬撃の衝突に際して、行き場を失った空気が、轟々と駅構内に渦巻いていた。天井に吊るされた電灯がキイキイと軋み声を上げ、少なからず砕けた白熱灯の欠片が、白煙と混ざり合い中空で光を反射させている。

「斬――――空、閃? 馬鹿な………何故、貴様が?」

 濛々と風が巻き、桜咲の垂らした黒髪を乱し靡かせていた。唖然とする彼女は、焦点の覚束無い瞳で夕凪を握り、ただ佇んでいる。

「神鳴流の剣閃……しかも、私と互角の使い手だと? 馬鹿な、それこそ馬鹿な。在りえない」

「ふうん、動揺してる、動揺してる。ほら、僕を秒殺するはずじゃなかったの? もうさ、大分時間、経っちゃったけど?」

 ニヤニヤと直刀を肩に担いだ青年は、桜咲を嘲笑い、彼女の思考を煽り立てる。

「貴様っ。答えろ! 何故、貴様が、――――――」

 喘ぐ様な掠れ声で、桜咲は青年に噛み付いた。視線で人が殺せるくらい、桜咲は青年を睨みつける。
 いや、恐らくは彼の握る特異な剣を、だろう。桜咲につられて、そこで初めて俺は奴の獲物を視た。

「―――――――コレ、剣じゃない?」

「へえ、そこの赤毛。お前やるじゃん」

 少年のいたく感心した声を無視して、念入りにあの“剣の形をした魔術”を解析する。
 恐らく桜咲も見積もった通り、60cmの式典用の直刀、そして特徴的な鏡の様な刀身、いや違う、鏡そのものの刀身。それは、恐らく魔術が“剣”の形に象られているだけだ。何故って、俺にはアレが投影できないから。

「どういうことですか? 衛宮」

「ん。つまりは簡単だよ、今から分かりや安く教えてやる。だからさ、いい加減落ち着けよ」

 俺の言葉と、ソレと重なるように桜咲に浴びせられた式さんの強い視線。それに、今度こそ桜咲は押し黙った。
 本当に、桜咲は近衛が絡むと冷静さを欠いてしまうようだ。
 一度だけ、近衛を羨んだため息を吐き出して、青年を睨みつけた。

「投影、開始」

 俺のイメージ。剣の幻想は、コンマのタイムラグも無く、錬鉄される。

「憑依経験、共感、終了」

 干将・獏耶を握り締めたまま、剣の弾丸、ファルカタが俺の回路に装填された。ギチギチと引き絞られた俺の幻想は。

「工程完了、装填。全投影、連続層写」

 弾ける灼熱と共に回路と言う銃身を滑り、放たれた。
 虚空に創り上げられた幻想は実に二十。その全てが弾丸に迫ろうかと言う速度で掃射される。大気を切り凪ぐ剣弾は、俺の予想道理。

「ソードバレル、フルオープン」

 同じく奴の背後から現れた二十に及ぶ剣を模した鏡の弾丸に相殺された。
 互いに否定しあい、粉々に爆砕した鋼と鏡の破片が無数に虚空の中を弾け飛ぶ。だが、細切れになった幻想は大地を汚すことは無く、一瞬にして大気に溶けていった。

「やっぱりな。お前の能力、俺と同じ口かよ?」

「へえ、そのようだ。まさかね、僕と同じような使い手がいるなんて、皮肉なもんだよ」

 俺は奴の鏡の剣を、青年は俺の夫婦剣を。互いに舐めるように観察しながら、嘆いた。

「ふん、さっきからよく回る口だな。にしても、面白いじゃないか。コピー……いや、“物真似”かな? お前の魔術は」

「正解。ま、ココまで見せたんだ、分かってくれなきゃ詰まらない。そういうお前は、複製能力か? ふうん。贋作創り、か。なるほどならば、僕は“贋作使い”そう呼んでくれよ」

 互いに相手を貶めるような薄笑いで機を伺っているのに、身体はそれとは正反対に、知らず獲物を強く握っていた。どうやら、偽者どうし相性は最悪らしい。
 俺の能力、俺の魔術は言わずもがな、剣の複製。対して奴の能力は“物真似”。だが、そこまで万能だと言う訳ではなさそうだ。一度解析したものは、ワンランク能力が下がるとは言え何度でも投影可能な俺と違って、奴の物真似は瞬間的なものらしい。
 恐らくどんな“事象”でも自身の魔力を消費しコピー出来るようだが、あくまでそれは“自分に対して使用される”事が条件なのだろう。おまけに効果は一瞬。俺の投影魔術ように、自由にコピーした技や魔術を発動することは出来ないようだ。
 魔術の自由度は俺の方が上、しかし、そう楽観は出来ない。
 コピー。俺は剣の投影に際してランクダウンと言う欠陥、贋作ゆえの致命的な弱点を持っているが、恐らく奴にはそれが無い。桜咲の技と相打った奴の魔術の性能は、正しく“鏡”。忠実に、相手の全てを模倣しきるのだろう。

「くそ、本当。時間稼ぎには打って付けじゃねえか」

 鏡、瞬間完全模倣能力。絶対に勝利を得られない代わりに、絶対に敗北は訪れないってか?
 なるほど、悔しいけど、コレも等価交換の原則に従っているらしい。反則臭い能力だが、ルールに即している以上、目の前に存在している以上、認めないわけにはいかなかった。

「それで、アイツの能力は分かった。で、衛宮。それって不味くないか?」

 言葉にはまるで危機感と言うモノが含まれていなかったが、それでも、式さんの言葉は的を射ている。戦闘を開始してから既に数刻、一瞬で勝負が決まると思われた戦闘は、存外に長引いている。つまり、相手の思惑道理に事が進んでいると言う事だ。
 ……魔力が尽きるまでの消耗戦に持ち込めば勝機は充分にある。
 先ほどの様に、式さんや桜咲の人間以上の限界駆動で持って奴を圧倒するってのも、大いに在りだ。如何に完全コピー能力といえども脆弱な人間の体でそれを行使しているのだ、それ故に奴の身体をぶっ壊すってのも充分に効果的だが、両作戦は時間がかかりすぎる。
 結局、青年の能力が“鏡”だと判明した今でさえ、時間を浪費せずに撃破するのは不可能なのだ。

「式さんと桜咲相手に、まさかココまで時間を稼げる能力は予想していませんでした。予定変更です。全員でココを突破できないなら、誰か一人でも近衛の家の援護に向かってもらう」

 だったら、俺たちだってそれに付き合う必要は無い。

「ふうん、出来るの? 衛宮」

「出来ないんじゃなくて、やらなきゃならないんです。生憎、戦闘じゃ役に立たないんだから、誰か一人を逃がすくらいの事、させて下さいよ」

 挑発的な式さんの言葉に、情けなくなりながら言い放った。
 悔しいけど、自身の戦闘能力は雀の涙ほどだと理解しているのですよ、式さん。俺が一人助っ人に駆けつけたって意味が無い事は分かっているから、せめて二人の援護くらいはしたいさ。

「へえ、けなげじゃないか。いいね、尽くす男ってさ。悪くない、アイツにもぜひ見習って欲しいね」

「茶化さないで下さいよ、式さん」

「褒めているんだよ、オレは。それじゃ、ココから離脱して幹也たちの所に行くのは刹那で決まりだな? アイツ、ココにいたって役に立たなそうだし」

 近衛を思いやって、先ほどからずっと落ち着きの無かった桜咲への配慮なのだろう。毒舌に隠された式さんのすげぇ分かりづらい気遣いに、俺は苦笑するしかない。

「しかし……」

「大丈夫さ、ソレにそれだけが理由じゃないんだよ、刹那。だってさ、分かるでしょ? オレ、鼻が結構いいんだ」

 口篭もる桜咲に、式さんが冷ややかに言い放ち、問答無用で突っぱねた。無言で頷いた桜咲は、夕凪の長い刀身を漸く鞘に収めた。

「いい子だ。それじゃ衛宮、気色の悪い血色のヴァージンロード、敷いてやりな」

 そこで笑顔を向けた式さんは、やはり俺たち以上に大人びて見えた。

「おいおい、やらせると、――――――」

「そう嫉妬に苛立つなよ? ほら、お姉さんが、お前のお飯事に付き合ってやるからさ。嬉しいだろ?」

 青年の相手を暫く式さんに任せて、俺は再び黒い壁を直視した。数多の気味の悪い人外共が作る肉の壁は、相当厚い。
 しかし、一人分の出口なら、無理やりにもこじ開けられる。

「桜咲。あいつ等の囲みが口を空けるのは、ほんの一瞬だ。すまないけど、それが俺の限界だと思うから」

「十分です。私の足を、舐めてもらっては困る。しかし、本当に出来るのですか?」

 頼りない俺の言葉に、自信に満ちた力強い声が鼓膜を震わす。全く、そんな声色の中にさえ俺への気遣いが含まれているのだから、嬉しくて泣けてくるぞ。

「やるさ。それぐらい、俺にも格好つけさせろよ」

 握り締めていた愛刀を霞みに返し、始まりの言葉を嘆く。
 大丈夫、きっと出来る。京都、今この夜は、間違い無く地獄だ。辺りには、それこそ圧倒的な魔力が満ちている。だったら、出来ないはずがない。

「投影、開始」

 創り上げるのは一振りの大太刀。麻帆良でだって投影できた。あの時から俺だって成長しているんだ、今度だって出来ないはずはない。
 大気に溢れる魔力の奔流を回路に溶かし込みながら、気高い神秘を幻想する。
 脳から心臓に下り、丹田から右腕を走り抜けてく激痛が、大気のマナと絡み合い、俺の幻想に確かな質量を含ませていく。

「投影」

 激痛が血を止める様に右腕を締め上げ、俺の回路に治まりきらない幻想の漏洩が赤い漲流となって隻腕に纏わりつく。血色の蒸気を吹き上げる右腕、その回路を宝具の持つ圧倒的な量の魔力が駆け抜け、一つの想像は具現する。

「完了」

 右手に現れた、俺には重過ぎる大太刀。一メートル以上の真っ赤な柄と、伸び上げた鈍い銀色、反り返った片刃の刀身。
 それを両の手で強く握る。腰を重くすえ、力の限り振り上げる。天上に向かって残影が翻り、創造された幻想に感応して、大気に満ちたマナが赤色を纏った凪の様に流動していた。

「行くぜ、桜咲。ヘマ、すんじゃねえぞっ!!」

「誰にモノを言っているのですかっ! その台詞、そっくりそのまま、貴方にお返ししますよっ!!」

 桜咲の、声に「それもそうか」と口を歪め、蠢く肉の壁を睨みつけ、そして肉薄する。
 掲げられた尊き幻想。天を向いた力の結晶を。

「一刀(モラ)」

 あらん限り、満身の胆力を持って叩きつけた。

「―――――――大怒(ルタ)」

 上段から真直ぐに放たれた一刀。地殻をめくり返すかの様な魔力の激流が、一直線に肉の壁を両断する。
 消し飛んでいく、肉。弾け粉砕されていく、奇怪な欠片。
 俺の目の前には、一刀大怒によって裁断された一筋の赤い道があった。それはやはり僅かな隙間でも、俺の身体を走り抜ける激痛を忘れさせるには充分すぎる感慨を与えてくれる。

「行ってきます。衛宮、やはり貴方はヒーローみたいだ。自信を持ってください」

 最後に、嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。
 いつかの鍛錬で俺に見せてくれたように、桜咲は頭上を軽快に飛び越え、それこそ惚れ惚れする笑みと一緒に、賞嘆を捨て台詞として残していく。
 俺の恥ずかしげな、だけど満足した笑顔はついに届かず、彼女は僅かに開いたその道を一瞬にして駆けていった。

「ちぇ。悔しいけど、後は頼んだぞ。桜咲」

 開いた隙間は、新たに湧いて出た人外の群れに塞がれる。もう見えない小さな背中を夢想して、俺は一刀大怒を手に再び人外の群れと合間見えた。



[1027] 第三十二話 願いの行方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 05:13
/ snow white.

 大音響で木霊するサイレンの音。それは突然だった。

「っつ、何!? 一体何!? 地震、火事、それとももしかしてオヤジ!?」

 自分でも恥ずかしくなる台詞を吐いたことに気付いたのは、寝ぼけ眼を一度擦った後だった。
 冷静さを一瞬で取り戻したわたしは、少しの自己嫌悪の後、暗闇の中時刻を確認した。

「二時……嘘、三時近いじゃない」

苛立ちながらごちて、わたしの隣の布団を確認する。空だ。
 昨晩はコクトーにシロウとの相部屋を取られちゃったけど、今晩は一緒に寝る約束を取り付けていたのに、だから折角……って、そうじゃないでしょ!? しっかり働け、わたしの頭!!

「シロウが帰ってないにしても、遅すぎる。何かあったの?……それにこのデリカシーの無い警報」

 内心で自らを叱責し、今度こそはっきりとした意識の覚醒に努める。
 わたしを眠りの淵から無理やりに連れ戻したのは、コノカの家に何十にも張り巡らされている結界が反応したからだ。
 認識阻害、対魔防御、迎撃機能、そして警報装置。それぞれが三重に張り巡らされていて、わたしの眠りを妨げたのはその四つ目、外敵の危険を知らせるけたたましいサイレンだった。

「「イリヤちゃんっ!!」」

 紫苑の浴衣、寝巻き姿で布団を跳ね除けたのと、コノカとコクトーがわたしの寝室に血相を変えて飛び込んできたのはほぼ同時だった。
 廊下を一気に駆けて来たのか、普段から運動不足のコクトーは息を荒げている。どうにも状況説明は難しそうなので、わたしは紫のトレンチを羽織ながらコノカに尋ねた。

「ねえ、一体何があったの?」

 彼女達も浴衣に上着を一枚ぺろりと羽織った間抜けな格好だ。暦は十二月の中旬、おまけに深夜の回廊だ。肌が悴み、寒さが酷く痛い。

「よう分からんけど、侵入者やって」

 ココから見渡せる庭園越し、コノカはわたしから本丸の方に視線をずらしながら震える声で言った。それは寒さゆえか、それとも恐怖故なのか、わたしには判断できない。
 ともかく、口ぶりから察するに、既に陣地への侵入を許してしまっているようだ。彼女の切迫した掠れ声から、わたしはそう頷いた。

「人数は?」

 この家の厳重な結界を突破してきたのだ、襲撃者は相当出来るわね。
 内心の動揺を悟らせぬよう嘆き、わたしは思考に埋没した。目的は何? 襲撃者と現在の異常、何か関係があるの?

「侵入したのは二人なんだって。今、お父さんと警備の人たちが捕縛にかかってるから、ウチ等は家の奥に避難してなさいって」

 聞き流しながら、わたしは無言を保って騒がしい本丸をコノカと同じように眺めた。
 襲撃者が今回の異常を引き起こしたのは確定ね。偶然発生したこの異常に乗じって……て、線は無くもないけど、それは考えすぎってもの。
 京都の街に大量の怪異を発生させれば、当然退魔組織は京都の守護に人員を割かなくてはならない。そして、手薄になった本部を襲撃する……か。やるわね、敵ながら。
 でも、その目的はなんなのかしら? 退魔組織に突撃するなんてリスキーな行為に走るほどの何があるって言うの、ここに? 保管した宝物? 所持する情報? 個人的な復讐? 或いは。

「ん? なんやん、イリヤちゃん?」

 コノカ、かしらね。
 だってそうよ。宝物の奪取、情報の獲得。これらの目的達成するためだけで、京都の街をこれ見よがしに変容させる必要があるの? 答えはノー。いくら組織の人員をそちらに割かせて本部の守りを手薄にするとはいっても、やはり限度がある。本部の守りを突破したいにしても、他にやりようは幾らでもあるじゃない。

「ああ、だから……」

 だったらこう考えればいい。現在京都の街全域で起きている異常や現在の押し込み。それすら、襲撃者にしてみれば目的へ到達するための副次的なモノだと。
 京都の異常、そして呪術協会本部への奇襲、そしてこの先に彼らの本当の目的があるはずだ。つまり、目的達成のため、襲撃者達に必要な何かが、ココにはあるってこと。
 相変わらず冴えてるっ、わたし!

「いえ、いいわ。兎に角非難しましょう。ココにいるの、不味いんでしょう?」

 心の内とは正反対にわたしの表情は冷めていた。わたしがここで一人考えたって仕方がないからだ。結局、襲撃者達が何を目的にココに侵入したのか。その答えを、わたしには確証をもって推理できるだけの材料が無い。
 だが、侵入者の目的がコノカである可能性がある以上、出来る事は逃げることだけだ。
 やや浮ついたわたしの思考を落ち着けて、自身の考えを悟らせぬよう、コノカの手を引いた。

「う、うん。でもどうしたん、イリヤちゃん? 突然怖い顔して?」

「暴漢が押し入っているんだから、警戒するのは当然でしょう。ほら、しゃんと歩いて。コクトーも、男性一人なんだから、しっかりしてよね」

「うん。任せて。二人に何かあったら、僕が守るからね」

 この家は到着当初にコノカから案内されていたし、それと実は、シロウを使って秘密部屋の探検をこっそりしていたから、大体の構造は把握している。非常時だもん、許してくれるよね、コノカ?
 わたしはコノカの手を強く握りながら、この家の奥、隠れ所への道行きを探し先頭を切る。
 わたしだって魔術師だ。シロウやシキがいない今、わたしがしっかりしなくちゃいけない。それでも、コクトーの台詞に口元を緩めたのは偽れない事実だった。頼りない彼も、こんな時は男の人なんだって感じさせる。

 でも、もしかしたらこの微笑みは間違いだったのかもしれない。
 イリヤスフィールは、誰かが守ってくれる。いざとなったら、シロウが、コクトーが守ってくれるって、そう、不確かな楽観からきた無様な微笑み。
 魔術師としてシロウやリンの隣にあることを臨むくせに、そうあるために一番大切なモノを誰かに背負わせている。
 そう、きっと。
 “覚悟”っていう、そんな大事なものを見落とした、醜い微笑だったのだろう。





Fate / happy material
第三十二話 願いの行方 Ⅷ





/ flame.

「ふふ、また一人燃えちゃった」

 日本呪術協会の本堂、そこに続く石畳の上でまた一つ、炭化した人間が転がった。
 それを恍惚とした表情で眺めながら、女は肉感的な自身の身体を抱く。悶えた視線の先で、また一つ人間が炎上した。

「やれやれ、本当に君は容赦が無い。ひひ、辺りに転がった消し炭が哀れでならないよ」

 絶頂を極めたような貌で悦に浸る遠上都。その後ろに控えた魔術師が、無力な死者を侮辱する。刹那の後には炭化するであろう哀れな運命にある人間達を嘲笑う。
 襲撃者二人を取り囲んでいた呪術協会の守護者たちはその殆どがどす黒く炭化し、横たえていた。
 残っていた僅かばかりの本部の護衛は、片手で数えるほどしか存命していなかった。少ないとはいえ、二十といた彼等屈強な護衛たちは、大半が原型を止めないほどの消し炭と化し、残りの半分は焼け爛れ変色した肌を晒したまま、ピクリとも動かない。

「でも、こんな程度? 幾ら手練が残っていないとは言え、あっけなさ過ぎるわ。ねえ、そうは思わなくて?」

 女は見下ろすように、膝をつく一人の剣士に侮辱とも取れる問いを投げた。それの何が可笑しいのか、魔術師はニヤニヤと女に続いてその剣士に嘲笑を送る。
 暗く、闇色だけが支配していた境内は、いまや紅蓮に猛っていた。パチパチと火の粉が大気に紛れ、熱波が寒さに張っていた頬を焦がす。

「はは、手厳しいな、遠上都君。よもや十年前京都の街で起こった連続焼死事件の首謀者が、こんな大胆な襲撃を見せるとはね」

「あら、私って随分と有名だったみたいね。光栄だわ、退魔組織のトップに、名前を覚えていて頂けたなんて」

「それはもう、これほどの能力を秘めた混血だ。私の記憶にも新しいよ。確か十人だったかな? 君が殺害したのは?」

「惜しいわね、それ、両親を数え忘れてる。十二よ。今夜の分を含めれば、んと……あら? 貴方を入れれば丁度三十ね」

「それはどうも、笑えないね」

 呼吸を整え、体を力なく持ち上げた剣士。近衛詠春。彼は予想外の襲撃者に戸惑いのまま剣をとった。そのことに、今更ながら内心で苦笑する。

「灼熱、の血統かい? 本当、覚醒的に血が目覚めてしまっただけだというのに、この力。視認した相手を問答無用で燃焼させるなんて、反則もいいところだ」

「ふふ、ありがとう。でも、流石は神鳴流随一の使い手ってところかしら? 私に視認すらさせず、攻勢に出られたのは大したものよ。だけど駄目ね、他のが使えなさ過ぎた。大変だったでしょう? 部下を庇いながら刃を振るうのは? まあそれでも、未だ貴方は生きている、それってホント凄い。もしも一対一なら、私が膝をついていたでしょうね」

 都の冷ややかな、それでいて享楽に歪んだ視線に、詠春は苦虫を噛み潰したような貌で辺りを見回した。
 確かに、女の言う通りだった。詠春と女がもしも一対一で刃を交えたのならば、苦戦は避けられないだろうが、詠春は勝利する。
 神鳴流最強の名は伊達ではない。たとえ相手が相性の面で劣る混血だとは言え、遅れをとるほど、彼の剣は衰えてはいないのだ。
 事実、開戦当初、都を圧倒したのは詠春だったのだから。

「もしも……か。それは屈辱以外の何者でもないな。殺し合いの場において、かような言葉を送られようとは、私も落ちぶれてしまったものだよ」

 都の能力を軽んじた自らの失態だと。そう口にしたのは、詠春の気性をかんば見れば当然だった。
 都の能力は発火。そのプロセスは第一に目標の視認、そして視界に納まる外界に能力者を中心とした波状の“糸”が広がり、それに触れたものを任意に燃焼する。
 全三工程。
 しかし、その力を味わう身にしてみれば、見ただけでモノを発火させているようにさえ感じられるだろう。
 浄眼を持たぬ詠春だ。それが精緻に分からずとも、その固有能力がどのようなものであるか位は、この夜、初めて彼女の能力と拮抗したときに理解していた。
 故に、一人の指揮官として援護にやってきた護衛の人間をすぐさま引かせなくてはならなかったのだ。今夜残っていた護衛は都を相手にするには余りにも脆弱すぎた。言ってしまえば足手まといだ。
 “視認した相手を燃焼する”その広範囲に使用可能な能力ゆえに、詠春はあろう事か援護に来たはずの護衛を、逆に庇い立てしながらの戦闘を余儀なくされた。撤退を失念した自らのミスだ。自らへの呵責に耐え切れず、詠春は血が出るほど唇を強く噛んだ。
 たった一つの判断ミス。その結果が。

「まあ、よくやったほうよ。貴方のおかげで、数人はまだ息がある。最も、貴方はもう、剣を握っているだけで精一杯のようだけど」

 コレだ。
 都の能力は厄介すぎた。以前の浅上藤乃がそうであったように、剣士を相手にするには、彼女たちの能力は正に天敵だった。剣が届かなくては、剣士に勝機は無いのだから。
 だが、それでも剣を握る歴戦の勇者。震える膝を無理やり押さえつけて、抜刀の構えを取る。未だ気概では一歩も引けを取らぬ、光の潰えぬ鋭い眼光で詠春は都を強く射抜いた。

「っく、それはどうかな? まだ、行けるさ。娘の命がかかっているんだ」

 詠春は剣を取る。絶望的な状況でも、剣を取り落とす訳にはいかないから。握り締めた剣は、彼の意思一つで雷光の如く閃くだろう。例え、全身に焼けどを負った今でさえ。

「へえ、貴方。私たちの目的。気付いていたの?」

 余裕を装った感嘆だったのだが、それでも完璧に心象を隠すことは出来なかった。仔細な動揺と焦燥が、女の背中を押す。それを、熟達したこの剣士が見逃すはずも無かった。

「ほう、やはり目的は娘ですか? いや、これでなおのこと気合が入るというものです」

 してやったりと、今度は詠春が薄く微笑んだ。どうやら発破を掛けた様だ。今の状況でさえ、凍えた思考を失わないのは、やはり流石といったものだ。

「っち。そんな体たらくで、舐めた真似を」

 黒のトレンチを翻し、都が赤い眼を細める。そして、赤い奔流が辺りを包んだ。

flame. / out.

「ちび刹那を使って……連絡は無理か」

 コノカの家の最奥、三十畳はゆうにあろう閨に到着した所で、今更だらだけどわたしは呟いた。
 暗がりでゆらゆらと隙間風に靡く4A版のそのまた半分位のお札が、妙にわたしの心を逆撫でる。言うまでもなく、この御札が先ほどまでちび刹那を象っていたモノ。だが、襲撃者側にコノカの家の結界の上から更にもう一枚、結界を被せられたらしい。
 恐らく、外ではなく内に向けられた遮断と閉鎖に特化した結界だろう。この結界の中では、例え絨毯爆撃が行われようとも外界には一切音の漏洩は無く、封鎖された空間には誰一人として進入不可能、それとおまけに、どうやら全ての物理的、概念的な“ライン”までカットする機能が付加されているらしい。
 ご丁寧なことである。それでは“ちび刹那”がその身体を維持できないのも仕方が無いじゃない。

「なんにしても、襲撃者の内少なくとも一人はかなり腕の立つ魔術師ね」

 だけど、これらの推測はわたしの想像の域を出ないのだ。何故って、多分そいつの張ったであろう結界の中にいる今でだって、“結界”の存在を感じられないから。
 以前トウコは言っていた。結界、その異常を悟らせるような奴は二流なのだと。だったら、今この結界を敷いた奴は間違いなく一流ってことだ……実に癪だけど。

「大丈夫かな、お父さん………」

「心配ないよ、木乃香ちゃん。式も言ってたよ、君のお父さん、すっごく強いんだって。だからそんな顔しないで、ね?」

 暗がりの中、掠れたコノカの声を包み込むように、コクトーがいった。暗い閨には明かりを灯すことが出来ないので、蝋燭の僅かな揺らぎだけがわたし達を照らしている。
 広大な閨の四隅は光が行き届かず、ねっとりした深淵の黒色が堕ちている。目の前のブルゾンを羽織った青年、彼が好む黒色と違って、部屋を侵食する闇色はなんて汚いのだろう。ひゅうひゅうと耳障りな隙間風が手を悴ませ、震えが止まらなかった。

「うん、大丈夫よ、わたしが皆を守るんだから。心配しないで」

 震えは寒さの所為だ。そう腑に落として腰を持ち上げ、襖を睨み付けた。侵入者がココにやってくるとしたら、出入り口はそこしかないからだ。
 大丈夫、きっと大丈夫。わたしだってトウコのところで一生懸命鍛錬してきた。シロウやリンと同じ、魔術師であるために。だから、きっと平気。



「んん~、見ぃつけたあ。ひひ、羊が一匹、二匹、三匹~」



 そうして、わたしが身体の震えを漸く押さえつけた時、その黒い男はやって来た。薄い襖が石炭の弾ける様な奇妙な、それでいて場違いな音で千切れ壊れ、奴は現れた。
 襖が粉砕された室内は月明かりで照らされだしたというのに、強い闇色は未だ残っている。何故って、月影を黒い肥満体の男が遮り、ともすれば先ほど以上のコールタールみたいな黒色を陰りださせているから。

「止めないさい、からかうのは。大事な来賓をお迎えに上がったんだから」

 コクトーとコノカをわたしの背に隠すように仁王立ちしながら、新たに現れた人影を睨む。赤ら顔の不細工面とは対照的に、端正な顔立ちの女性。歳はトウコと同じくらいだろう、虚ろな血色の長髪にはジャギーがかかっていて、彼女の口元に色っぽく打たれたホクロと妙に噛み合っていた。
 こんな状況だというのに、わたしに場違いな雑感を抱かせた女の秀麗な顔立ちは、相当なモノだと思う。
 加えて、赤い髪の女の肩口には大きな切り傷がある。黒いトレンチコートから赤い血がぶくぶくと泡を吹いていた。その傷を押さえながらの喘ぐような声が、一層女の性的魅力を強調していた。
 それは兎も角として、美麗な女と醜悪な男。二人が襲撃者なのは間違いない、そして二人がココに現れたと言う事は、退魔組織の守りを突破してきたってことだ。援護はもう期待できない、戦えるのは、わたしだけ?

「どいてくれないかしら? 白いお嬢さん。小さな身体で実に健気なのだけれど、怪我させちゃうといけないから。分かるるかしら? お姉さん達ね、後ろの子に用があるの」

 目的は、やっぱりコノカか……。
 息を呑み、近づいてきた女を凝視する。大きな肩口の傷は、守備についていた剣士にでもつけられたのだろう、正直、かなり痛そうだ。
 それでも、女はその傷みを微塵も表情に出さず、黒い男を押しのけ踊るようにわたしに歩み寄る。
 優しい声色は本心からなのだろう、わたしに向けられていた不用意な女の視線が、コクトーとコノカにずれる。

「さあ、悪いけどついてきてもらうわよ、近衛木乃香………っ!?」

 と、そこで突然女の顔がこわばった。肩口にアレだけの外傷を受けてなお、気丈に振舞う女なのに、その彼女が驚くほどの何があったと言うのか?

「ぼうや………どうして、君が」

 嘆いた声は本当に小さくて、わたしには殆ど聞き取れなかった。
 だけどわたしの後ろ、コノカ以上に襲撃者に対して息を呑んだのはコクトーだったのだ。彼は、やはり小さく聞き取れないほどの声で、呟いた。

「どうして……貴方が」

 一体なんなのよ。苛立ちに唇を噛んで、しかし、これは好機だと考える。
 理由は兎も角、目の前の襲撃者二人の目的はコノカで、その獲物を前に舌なめずり、そしてあろうことか動揺までしてくれたのだ。このチャンス、逃がしていいはずがない。

(コノカ、コクトー、聞きなさい。今からわたしが貴方達の逃げ道を作る、その隙に逃げて。心配は無用よ、勿論わたしが残って貴方達が安心して逃げられるように時間も稼ぐ心算だから)

 女を警戒し睨み付けたまま、小さく嘆いた。

(そんな、駄目だよイリヤちゃん。君も一緒に……!)

 答えたのはコクトー。女の子を置いて逃げられない、そんな気持ちが間違いなく含まれていた。それは勿論嬉しいのだけれど、この状況で戦えるのはわたしだけ、正直なところ、敵の目的がコノカである以上、彼女を守りきる事は絶対だ。だって、それがわたし達のお仕事だから。そうだったわよね、シロウ? すっかり忘れていたけど………。

(我侭言わないで。大丈夫、貴方達を逃がしたら、わたしだって逃げるから)

(それでも出来ないよ、僕には)

 なおも奥歯を噛み締めて呻いた彼。本当、シキがメロメロになっちゃうのも頷けるわ。ってメロメロ………これって、死語かしらね。どうでもいいことに一人苦笑して、コクトーの貌を盗み見る。
 こんな状況だってのに、誰かの為に強く光る黒い瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗だった。

(勘違いしないでよ、コクトー。逃がすのはコノカだけ。貴方はそのお姫様を守るナイトに決まっているじゃない、頼むわよ、期待しているんだから。それと多分だけど、呪術協会本部から脱出出来れば、ちび刹那でシロウ達と連絡が取れる。そうすれば、直ぐにだってお兄ちゃんは飛んでくるわ、それまで、なんとしても守ってあげて)

 早口に言い切り、身体の奥で魔力を練り上げる。満たされていく魔力が回路を伝い、わたしは魔術師に傾倒していく。
 恐らく相手は、わたしが魔術師だとは気付いていない。だったら先手はわたしのものだ。

(ずるいよ、イリヤちゃんは。そんな事言われたら、逃げ出さないわけにはいかないじゃないか。まったく、いやなところで式や所長に似ちゃったんだね)

 もはや諦めた様な声で、コクトーは漸く頷いた。自分がココにいても無力なのだと、彼は痛いほど理解しているからなのだろう。
 暗がりの閨、壁際に追い詰められたわたし達に、畳を軋ませ二人の人影がゆっくりと迫ってくる。
 脱出口は一つ、襖に仕切られていた回廊。明るい暗闇、強い山瀬が吹き付ける深夜の庭園に向かって飛び出すには、二人の襲撃者を正面から突破しなくてはならない。
 わたしは両の足を肩幅まで開き、凍えた夜気を大きく吸い込む。木の匂いが強い閨には、やはり変わらず月光が差し込んでいて、襲撃者はそれを背に受けている。
 逆光に隠れ二人の表情は見えないというのに、それでも、歪に微笑んでいるのだけは想像が容易い。
 馬鹿にすんな。目に物見せてやるっ!!

「―――――――――Einschenken(満たせ)」

 赤い瞳を大きく見開き、即座に回路を起動する。まだかまだかと身体の芯で待機していたわたしの膨大な魔力が、回路駆け回り、白い湯気のように納まりきらずわたしの身体から吹き上がる。

「――――――――なっ! この子、魔術師!?」

 うっし、魔力の隠蔽も、そこそこ上出来だった様だ。端正な貌を驚愕に歪めた女に、嘲笑を向けながらわたしは式を起動する。

「Versammlung  sich herleiten; beruhen auf (水の精霊、集い踊りて)」

 大気中のマナへのパスの接続、魔力の練り上げ、式の構築。鍛錬の時の通りだ、一分の隙もなく完璧。
 大気中のマナと水分を大量に吸収し、創り上げられる神秘の刃。全部で十一。漏らす事無く全ての刃の照準を襲撃者二人に合わせ。

「Weihwasser Pfeil Wasser Schwert (敵を討て、水の射手、十一刃)!!」

 右手を指揮棒のように振りかざし、水の弾丸を乱射した。
 流水が渦巻く音色が夜の大気を走る。青い一条の光が幾重にも重なり、襲撃者に向かい飛翔する。
 襲撃者は舌打ちすらする暇なく、閨の中から転がるように庭園に駆け出し、わたしの魔力の矢をかろうじて躱した。
 ――――――――――――そう全弾回避だ。
 完全な不意打ちだったというのに、彼らには一つとして魔力の矢が当らなかった。女は華麗とは言えないまでも、人間では在りえない身体能力と反射神経をもって全てを避け、黒い男は自身に纏わせた対魔障壁で全てを防いだ。
 落胆は、勿論ある。今の攻勢で、正直勝負が決してくれたらどれだけ良かったか。けれど、現実はやはり厳しいのだ。

「今っ! さっさと逃げなさい。コノカ、コクトー!!」

 しかし、当初の予定道理、逃げ道を作ることには成功した。
 わたし達三人は颯爽と庭園に飛び出し、尻餅をついている襲撃者二人の横を駆け抜ける。
 だがわたしは、ここでコクトーとコノカが逃げるまでの時間を稼がなくてはならない。一人くるりと反転し、開けた庭園の中央、襲撃者二人と再び相対する。視線の先、暗がりに翻る襲撃者二人の黒い外套。闇と同化したみたいなその風体が、どうしたってわたしの四肢を震わせた。
 松科の植木が鬱蒼とする日本庭園には、深夜の暗闇と寒気、襲撃者二人の鋭い視線と、遠のいて行く駆け足の音だけ。
 月明かりと暗闇が視覚を、不規則な足音が聴覚を支配する薄ら寒い空間に、わたしと二人の襲撃者は立っていた。しかしふと、忽然とコクトー達の足音が消える。

「っち。立ち止まらない! わたしは平気だから、さっさと逃げるの!!」

 振り返らずとも、分かる。二人のお人よしがどんな貌でわたしを思いやってくれていたか。だから、居丈高に叫んだのだ。二人に答えるためにも、わたしがここで頑張れるように。
 今度こそ、段々と小さくなりやがて消えてしまう足音。そう、それでいいんだから。

「まったく、やってくれるわね、この子」

「ひひ、誠になぁ。おぼこい貌で、怖い怖い」

 身体が熱い、コレが戦いの高揚って奴かしら? トレンチを脱ぎ捨てて、わたしは青草を素足で踏みしめながらじりじりと歩み寄る二つの影に、これでもかって位厳しい視線を向ける。

「さて、ミヤコ君。コノカ嬢なんだがね、遠くに逃げられると後々面倒なんだ、君はさっさと二人を追いたまえ」

 だってのに、わたしの視線に少しも堪えた様子もなく、コノカ達が消えた暗闇を眺めながら、男が淡々と言った。

「嫌よ。この子、許せないもの、私が相手をする」

「それは構わないのだが。如何せん、君、先ほど戦闘で疲弊しているだろう? 今だって、君の固有能力は使えないはずだ。ん~、なんだかんだで苦戦したね。流石だよ」

「そうね、流石は近衛詠春」

「うん、そんな訳で、君にはやはり楽な仕事をして欲しいじゃないか。一般人と魔力タンク、それとの鬼ごっこの方が、目の前の子供魔術師を倒すよりも、よっぽど容易だろう?」

 わたしを華麗に無視したムカつく会話の終わりに、ミヤコと呼ばれた女は頷いた。
 頬を膨らすわたしを気遣うような女の瞳が気になるけど、それ以上に引っかかるのは二人の会話だ。エイシュンの奴、やられちゃったみたい。シロウから聞いた限りではエイシュンって相当の腕利きらしいし、死んではいないだろう。それでも、目の前の二人がその“腕利き”を撃破してわたしの目の前にいるのは偽れない事実だ。
 やっぱり、不味いかなあ、わたし。

「………分かったわよ。それにしても、意外……でもないか。貴方、少女趣味だったの?」

「んふ。そうだねえ、あの少女の身体には興味がある。あの目、あの髪、ヒヒ。間違いなくドイツのイカレ野郎どもの作品みたいだしね」

 ふん、生憎ね。男の予想は既に“過去形”。確かにホムンクルスの特徴を受け継いではいるけど、この身体トウコ謹製のヒトの身体だいっ。
 “いー”と貌をしわくちゃにして、二人を挑発するが、帰ってきたのはミヤコの涼やかな声だった。

「あら、可愛い。でも残念かな? こんな可愛い子が、貴方に汚されるなんて」

「ひひひ、すまないね。では、さっさと行きたまえ。結界の外に出られると、厄介だしね」

 女は男に蔑むような微笑を送り、わたしの方にゆっくりと歩を進める。女の侮蔑に気がついていないのだろう、男は涎すらたらしそうな締まりの悪い口をにんまりと広げて女の背中を見つめていた。分厚い唇の所為もあり、カエルみたいな顔だ。いや、もしかするとカエル以上に気持ちが悪い嘲笑だった。
 舐めてくれちゃって、馬鹿にするなっ。

「行かせると思ってるのっ!! Versammlung  sich herleiten; beruhen auf (水の精霊、十一刃。集い踊りて)」

 魔力を回路に伝わせ、大気中のマナとパスを繋ぐ。通常では考えられない量のマナが溢れているのだ、わたしの魔術の出力は上がっている。そう簡単に通すわけには行かないんだから。

「―――――――――――――思っているよ? ほら、君の相手は私がしてあげる」

 魔力の矢を放つため、詠唱に入った刹那。男は指を一度だけ鳴らし、わたしと同じ、そしてわたしよりも早く、雷の矢を中空に創り上げ、発射した。その数は片手で数えられる物の、わたしのそれより神秘の密度も、込められた魔力も桁違いに上等だった。
 そして、極めつけは“無詠唱呪文”。わたしだって出来ないのに、どうやらこいつ、呪文も無しで魔力の矢を放つ事が出来るらしい。
 やはりこいつは魔術師で、予想道理一流の使い手。だから何っ、負けてたまるか!!

「 Arie BereitschaftsbefehlStarkung (詠唱、待機。強化、杯を磨く) っちい!!」

 とっさに詠唱を中止して、強化の呪を足に結び転がるように跳び引いた。
 わたしが元いた草の大地には、それこそ拳大の穴が四つ開いていた。こんなのまともに喰らったら、死んじゃうじゃない……。
 わたしが唖然と、その弾痕に目を奪われた瞬間、人間では到底なしえない身体能力を駆使して、女が俊足をもってわたしの脇を抜けていく。

「駄目っ! させない……verbinden; zubinden (水冷、縛れ)!!」

 そうだ、震えるのは寒さの所為。それでも何とか立ち上がり、呪を紡ぐ。いつかの魂喰いにも見せた時とは異なり、物凄い速さで駆けていく女の足元にワッと水蒸気が満ちて、瞬間に冷却、そして大地に縛り付けるはずだった。

「甘い、極甘、スウィーツだあ。させないといった!!」

 やはり無詠唱。わたし程度の魔術師には高度な詠唱は必要ない。そう言わんばかりに指を鳴らして、女の足を縛り付けるはずだった水滴は、魔術師の発生させた魔力の渦に四散する。漠然と、電気分解。そんな言葉が頭に浮かんだ。
 無常にも、魔術は不成功。女は、ただ暗闇に消えていった。

「不味い、追わないと―――――――きゃあ!!」

 コノカ達が危ない。そう考え、女の走り去った暗闇に身体を向けた途端、わたしの髪が空に向かって引き上げられた。
 脳が縦にゆすられて、気持ちが悪い。髪を引き抜かれる痛みを感じたのは、そんな嘔吐感の少し後だった。

「逃がさない、言ったろう? ホムンクルス」

 肥大した肉饅頭みたいな顔の男がわたしの髪を掴んだまま両の手を襟首で締め上げる。ようするに羽交い絞めだ。実際、男の人こんな無礼なことをされるなんて思っても見なかった。

「っ、放しなさいよ………レディーになんてことするのっ」

 吐き出される男の口臭に眉をしかめながら、痛みを堪えて毒づいた。
 ご婦人の扱いがてんでなってない。こんな奴がシロウやコクトーと同じ品目だなんて考えたくもないわ。

「いひひ、すまないね。女性の扱いには不慣れでな。こんな風にエスコートするのは久しいんだ」

 いやらしく微笑んだ男は、グッとわたしの体に密着してくる。背後に感じる汚らしい熱さが、わたしの背に当って最っ高に不快だ。
 もはやわたしにはコノカ達の無事を祈ることしか出来ない。それに何より、わたし自身がすっごくピンチだ。

「久しい……ねえ。それは謝らなければならないわね、わたし、てっきり初めての哀れな方だと思っていたわ。それだけの眉目秀麗さですもの、わたしがそう考えるのも無理はないわね」

 痛みと恐怖に貌をしかめたまま、挑発的に言い放つ。それを否定したのは、あろう事か頬を張る鋭い激痛だった。

「……女性の貌を殴るんだ、本当、サイテー」

 唾棄するように言い放つ。
 二三滴、口の中から零れたどろりとした血漿が草の大地を赤に汚した。酷薄な暴力の気配が一層強まる。

「――――――口の聞き方には注意しろよ、ホムンクルス」

 心臓を鷲?みにされたような恐怖、それは魔術師の重苦しい声ゆえだった。先ほどまでの魔術師はそこにおらず、思考には一貫性が含まれている様に感じる。つまり、魔術師としての一貫性だ。殺すものは殺す、楽しむべきもの自身のエゴ、求道すべきは自身の欲望。わたしとは異なる強固な意志で武装した男は、たしかに魔術師然としていた。

「道具の分際で、魔術師の真似事かね? 茶番だな」

 そう重苦しい声で囁かれ、二度三度、貌に鈍い痛みがはじけた。
 口の中が裂罅して鉄の味が広がる。だけど、その痛みと味を忘れさせるくらいに、魔術師の言葉はわたしの癇に障る。だけど、恐怖はどうしたって拭いきれない。

「ふん、一丁前に憤怒するのか? 道具の躾がなってないな、アインツベルンは。大方、君も逃げ出した失敗作だろう……にしても君は脆弱だな。アインツベルンのホムンクルスは失敗作とは言え、一般の魔術師より数段強いと聞く。なるほど、君はそれ以下の役立たずか? ならば、躾がなっていないのも頷けるな」

 愉快に言い放ち、魔術師はわたしの首筋にざらざらした獣みたいな舌を這わせる。

「だが……それでもアインツベルンの技術は素晴らしい。これほどヒトに似せた道具を創るなど、いや、大したものだよ。……魂の定着かね? 肉体に擬人化した個性を注入するなど、どうしたら出来るのだろうね。実に興味深いよ」

 うなじから胸骨、肋骨を伝い鎖骨より内股まで。ゴツゴツして汗ばんだ魔術師の卑しくて汚らしい手が、わたしの身体を隅々まで愛撫していく。甘美な快感など微塵もない、あるのは、脳天にまで貫かれた不快感と嫌悪、そして水増ししていく恐怖だけだった。

「ん、ア………」

 漏れた声は嬌声じみた嗚咽だ。

「随分おとなしくなったな? やはり、道具はそうでなければ」

「……わたしは…………」

 それでも、ぎゅっと唇を噛んで、目の淵から零れだしそうな涙を必死に飲み込んだ。言わなきゃ、どんなに掠れた声でも、コレだけは否定しなくちゃいけない。

「ん、なにかね?」

 赤い瞳で天を強く睨んで、言い放つ。

「わたしは、道具なんかじゃないっ。―――――――――
 wiedereroffnung Weihwasser Pfeil Wasser Schwert (詠唱再開。敵を討て、水の射手、十一刃)」

 力の限りを尽くして、魔術師の手を振り解けたのは本当に偶然だった。
 投げ出された体、とは言っても、いまだ魔術師との距離は一メートルも離れていない。今魔術を放てば自滅は必死。
 でも、それでも、体を傷つけるのを厭わずに、最大出力でかましてやったのだ。
 今度も、奴の障壁に矢は阻まれた。しかし、水の弾丸に含まれた運動エネルギーを完全に殺すことは出来なかった様だ、二つがわき腹に突き刺さり、息を詰まらせる魔術師。自身の魔術に切り刻まれながらも、開放されたわたしの身体。
 数分とは言え、力任せに拘束されていたわたしの身体は、自滅で傷だらけだ、直ぐには動かず、無様にも地べたを這うようにして逃げ出した。

「………わたしは、魔術師……イリヤスフィールは、道具なんかじゃ…………無い」

 成人男性の力で締め上げられていた身体は軋むように痛み、未だ立ち上がる事すら出来ない。本当になんてざま。アインツベルンの最高傑作、封印指定・蒼崎橙子の弟子、それがあろう事か役立たずの道具扱いだ。
 それでも、なんとか“いたちの最後っ屁”位にはなったよね? わたしは、酷く醜い形相でわたしを見下ろす魔術師を横たえたまま見上げた。もはやわたしに出来るのは、力なく笑うことぐらいだ。
 あーあ、コクトーたち平気かな………。

「っちい、やってくれる。何が魔術師だ、貴様はそんな大層な存在ではない」

 力任せに、魔術師がわたしの横腹を蹴り上げた。痛みは身体全体にしみこむようで、意識が一瞬とんでいった。ほんとう、わたしの意識、別に返ってこなくても良かったのに。
 身体が二メートルほど転がったと気付いたのは、魔術師の声が少し遠くから響いたからだった。
 思考はもはや単調で、意識が停滞していくのは明らかだ。

「君と私が同じモノだと? 侮辱もいい加減にしたまえっ! 我々に使われる分際でっ!!」

 蹴りつけられるわたしの身体。幸い、痛みは既に全身に広がっていて、どこが蹴られたとか、どこが痛いとか、もうそんなの分からなくなっちゃっていた。それは正直に幸運だったと思う。
 だけど、それでもわたしの口から時折零れだす嗚咽、吐き出される細切れの悲鳴。それがどうしようもないほど哀れで情けなかった。
 呂律の回らなくなった口は、もう何の感覚も無い。さっきまで煩わしいほど口の中に広がっていた血の味すら、もう無かった。唯一感じられたのは、どろりとした何かが体中を浸食する寒気だけだ。

「覚えておくといい、君と私は絶望的なまでに“違う”のだ。異なっているのだよ!! なあ、そうだろ? ホムンクルスっ! 私に、君が使われるべき魔術師様に、言ってみろっ!!」

 それでも、魔術師のかなきり声と一緒に叩きつけられる暴力は止まなかった。
 やがて、全て失ったはずの感覚の淵で、わたしは自身が血みどろになっていく事だけは不思議と感じられた。
 見たくも無かったけど、血みどろで転がるわたしの体がまるで映画でも見るように目蓋の裏に客観的に映っていたから。
 あれ? 血みどろで転がる誰かさん? 確かこんな光景、どこかで見たことがある。
 ああ、そういえばと。わたしは思い出していたからだろう。
 聖杯戦争、あの戦いではいつだって、シロウは今のわたし以上に血みどろになって、今のわたし以上の敵と喧嘩して、それでも。

「立ち上がったっけ……」

 脳裏に、金色の少女と共に剣を握る少年の姿がある。勝利を振りかざすその姿は、鉛色の巨人越しに見ていても、とても綺麗……ううん、尊く、そして何より気高かかったのを覚えている。
 愛おしい少年の瞳は、その時だって輝きを失わなかったから。

「――――――う」

 嘆いた瞬間に、うつ伏せに倒れていたわたしの身体が急に持ち上がる。前髪を掴み上げられ上背部だけが反るような形で、吊り上げられた。わたしは口だけをぱくぱく間抜けに動かしていて、陸に上げられたお魚みたいだな、と。人事の様に考えていた。

「ふん、もうコレくらいでいいか……わかったかね。殺しはしない、君が頷けば、私はそうそうとこの場を放れ、ミヤコ君と合流しようと思うんだ」

 おぼろげな瞳の向こう、それでも、魔術師がサディスティックに哂っていたのは嫌でも理解できた。卑しい瞳。誇りも、気高さも何も無い。実にくだらない澱んだ眼だ。
 シロウやリン、そしてアイツと比べるのが馬鹿らしいほど、安い微笑み。反吐が出る、そんな目でわたしを見るな。
 朦朧とした意識。もう殴られたくないわたし。強くありたいと願うわたし。混濁したわたしの思考が、勝手に口を割っていた。

「そう………ならもう少しだけ殴られていようかしら。少なくとも、二人から逃げるより、一人から逃げる方が楽ですものね。例え貴方みたいな屑でも、いないほうがマシでしょう? あらごめんなさい、“屑”なのだから、無いにこしたことはないわよね」

 本当、なんでさ? わたしってバカ? だけど決まっている。最後まで心が折れず口に出来たのは、きっとシロウとアイツの事を思い出しちゃったからだ。

「んん~……――――――――いちいち私の癪に障る!!」

 一瞬の戸惑い、反応鈍い薄ら馬鹿はその後に激昂した。本当、お間抜けよね、わたしも、貴方も。
 地面に力いっぱい叩きつけられて、それから、魔術師は固いブーツの先でわたしの頭を踏みつける。
 後はさっきの焼き直し。蹴られて、殴られて、そして何も感じなくなったのは、どれくらい経ってからだろう?
 今度は痛みが麻痺したとかじゃない、きっと魔術師が暴力に飽きたのだろう。彼はいつの間にか立ち去っていた。
 うっすらと開いた瞳の向こうには暗闇と静寂が落ちている。芝生の彼方此方にはわたしの散らかした嘔吐物や血反吐、そげた皮膚なんかがこびり付いていた。
 身体は、動かない。いつか体が宝石だったときみたいに、まるで手足がなくなっちゃったようだ。
 破けた唇が震えて、奥歯がカタカタと寒さに、今度こそ本当に寒さに悴んでいた。
 開いていた視界が、段々と狭まっていく。どうやら、もう限界みたいだ。
 もう何したって身体は動かない、後は眠りに落ちるだけだっていうのに。

「――――――う、あ」

 瞳から、とめどない何かが零れ落ちてくる。身体が痛いからだ、そうに違いない。決して、寂しいからじゃない。そうに決まっているのに。

「ばか。何で、何で助けに来ないのよ――――――――」

 誰かの背中を滲んだ瞳で幻視しながら、嗚咽と一緒に吐き出されたのは、なんて―――――なんて無様な言葉。
 もう眠りたい。こんな情けない自分を見せ付けられるくらいなら、死んだように眠ってしまいたいのに、あふれ出る何かがそれを許してくれない。それを拭いたいのに、手足は一向に動かない。草を噛むように、わたしは止めることの出来ない慟哭を、ただ吐き出すだけだ。
 わたしは痛みなんて、死ぬことなんて怖くなかったのに。シロウなんかより、ずっと魔術師であろうとしていた筈なのに。

 ―――――――君は私とは違うのだよ―――――――

 去り際、魔術師の残した最大級の侮蔑。わたしを貫いた呪詛にも似た言葉が、頭から離れない。
 シロウの隣にいたいだけなのに、それだけなのに、どうしてよ。
 思い返せば聖杯戦争。あの戦いからだ。
 死ぬことが怖くなかった道具は壊れて、死ぬことを恐怖するヒトになった。だけど、それだけ。
 結局わたしは、魔術師じゃなかったんだ。

「――――――――もう、わけがわかんないよ」

 覚悟が、無い。零れだしたわたしの言葉はそれを否応にも教えてくれた。

「――――――お兄ちゃん………………」

 呟いた言葉と一緒に、そこで、ようやくわたしは暗闇に沈んでいった。



[1027] 第三十三話 願いの行方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 05:22
/ 12.

「うん、飽きた。おい衛宮、チェンジだ、チェンジ」

 式さんのどう突っ込んでいいか全く分からない台詞に、俺は一刀大怒を取り落としそうになった。瞬間、俺に向かって突っ込んできたえ巨大な海老みたいに変容した魂喰いの拳骨を躱せたのは奇跡と言えよう。
 真剣ガチンコ真っ向勝負の最中に、敵、鏡の剣を持つ青年を背にして言葉道理……いや言葉以上に退屈した貌でトコトコと俺のほうに寄ってくる式さん。本当、何を考えているんだ。
 しかし、余りの奔放さに口を空けるのは俺以上に戦っていた青年の方だろう。彼の前髪が間抜けなほど不揃いに揺れて、そこで思い出したように激高した。

「っつ、ア、アンタ! 何考えてんだよ!!」

「ん。だから選手交代だよ? お前、詰まんないし」

「ほい」っと、気付いた頃には時既に遅し、不本意にも俺は式さんとハイタッチをしてしまった。これで、どうあっても式さんはあの青年の相手をしないのだろう、それは断言してもいい。何故って、あの方は式さんですぜ?

「そんじゃ、あのガキは任せたぜ、衛宮。オレはその間こいつらと遊んでるからさ」

 彼女は俺と入れ替わりに、人外の群れに飛び込んだ。俺が奴等有象無象に囲まれないように気を使い、各個撃破していたのがまるで馬鹿らしく思える位、蠢く奇怪な怪物どもを中央で蹴散らしていく。
 はあ、と。臓腑から生ぬるい息を吐き出して、俺は青年の気性をこれ以上荒立てないようにノンビリと言った。

「――――――だそうだ、続けるのか? 俺はどっちでも構わないけど」

 駅構内にコツコツと足音を反響させながら、俺はゆっくりと青年に向かい歩いていく。正方形の真っ白なタイル張りの構内は、言ってしまえば無色の空間だ。三時に指しかかろうとする今の時刻でさえ、この巨大な箱の中には白々とした光に満ちていた。
 床も、壁も、全て白く塗り替えられたこの空間は寂寞としていて、背後で蠢く人外の雄叫びや、式さんに切り刻まれての断末魔が聞こえてこなければ、それなりに幻想的だったかもしれない。

「まあいい、誰が相手だって、僕のすべきことは代わらないんだ。いいぜ、誰が相手だろうが、僕は僕の……いや……姉さんの目的の為に相手になる」

 空っぽのニンゲン紛いがお互いに剣を強く握る。
 ここは無色の箱の中。それは、言い換えれば空虚だった。これほど、俺たちを皮肉った戦場も珍しいかもしれない。

「相手になる、――――――か」

 青年に聞こえないように独語し、一刀大怒を握り締る。そして再度、奴の剣を解析した。
 いや……この行為は、もしかしたら俺と同じ“世界”を感じさせる、青年の存在そのものに向けたものなのかもしれなかった。
 ニセモノ、互いが互いに感じた不快感の原因は、間違いなく同一のものだろう。有する能力は互いに同一、そして恐らく、その世界も同一、つまりは奴も俺もガランドウ。
 ……だから、どうした?
 内心で、今更どうでもいい事に苦笑する。今重要なのは、そんなことじゃない。そう結論し、貌を上げた。
 恐らく無意味な、それでも心の底から懇願した言葉を紡ぐために。

「なあ、こんなのもう止めにしないか? お前の目的だって良く知らないけど、俺、できれば戦いたくない。お前らのやってることは許せないけど、それでもさ………」
 
 甘い、かな。それでも、相手が人間、理性を残す存在である以上、聞かずにはいられなかった。

「ニンゲンは殺したくない? か。なんだよ、ソレ? 白けるからさ、詰まんない冗談は止せよな」

 例え、ソレが無価値なことだったとしてもだ。
 少年の言葉には、迷いなど微塵も無い。俺が幾ら馬鹿だと言ったって、青年の意思が絶対に変わらないことぐらい、その声色から理解できる。
 鏡の剣を軽く握る青年だったが、俺の雰囲気の変容に気付いたのだろう、直ぐに腰をすえ余り上等とは言えない正眼の構えを取った。

「そうか。それじゃ、冗談ついでに名前も聞かせてくれよ。それ位、構わないだろ?」

 少年はそのまま駅構内の奥へ奥へと進んでいく。両の足をよく滑るタイルに擦らせて、じりじりと後退していく様は、どうしたって優れた剣士のモノではない。恐らく、剣の技量は俺すら下回っているはずだ。
 ああでも、奴の能力をかんば見ればそんな事は瑣末な問題じゃないか。そう簡単な結論に至ったとき、俺たち二人は高いガラス張りの天蓋を持つ、駅構内でも一際広いスペースに戦場を移していた。

「―――――――――カガミ。姓はない、ただのカガミ。そう呼ばれている」

 そして、思い出したように青年は、カガミはぶっきらぼうに言い放った。
 剣を握るにしたって、力を込めすぎだ。カガミの構えにそんな感想を持った俺は、一刀大怒、槍を取る様にソレを軽く振って、呼吸を正した。

「そうか。俺は衛宮士郎、好きなように呼べよ」

「別に………聞いてないし」

 無貌のまま、青年は俺を睨み付ける。彼は肩に力が入りすぎて、正眼の構えがやや崩れかけていた。
 俺もどうして、式さんの鍛錬のおかげか、ソレなりに剣術ってのを分かってきたようだ。

「そう言うなよ。相手に名乗らせる無礼をとったんだ。せめて名乗り返さないと、アイツに怒られちまうよ」

 苦笑しながら、ふっと思う。
 アイツの剣から始まって、式さん、桜咲と色々な“剣捌き”を拝んできたが、自分のレベルってモノを全然把握していなかった事に、俺はカガミの構えを視て、唐突に思い出した。
 一体俺の剣術って、果たしてどんな程度のものなのだろうか? まあ、平均よりずっと下なのは間違い無いだろう。カガミは、それこそ素人のようだしな。
 だが結局それも、やはりどうでもいいことだと決着をつけて思考を切り替える。
 目蓋の裏側には最高峰の戦いが映像として鮮明に渦巻き、イメージは俺の体を軋ませる。だと言うのに、痛みはなく、むしろ心地よいくらいだ。

「おい、エミヤ」

「 ? なんだよ」

 グッと適度な力で大刀を握り締め、正眼の体を真横に入れ替える。ランサーの構えを真似、槍の矛先を大地に向けるように構え腰を落としたところで、カガミが唐突に俺の名を呼んだ。
 訝しげに俺を睨む彼の表情は、恐らく困惑から来たもののようだ。

「お前、戦いたくない……なんて、お人よしな事いったくせに、随分殺る気まんまんじゃん。それって、ずるくない? つーかさ、壊れてるよ。戦わないなら生かしておいてやるけど、戦うなら殺す? 在りえないだろ、そんな二者択一って。普通の人間はさ」

 ともすれば、恐怖さえ滲ませた青年の声に、俺は別に何の感慨も持たなかった。だって、それはお前も一緒だろうに。

「ああ、そんなことか………」

 戦いが始まる。そんな高揚に駆られて、俺ははっきりと口にする。思考は既に魔術師のモノ、己が目的のみを探求する、求道者のそれだ。

「悪いけど、戦うと決めたら容赦なんて出来ない。言ったろ、怖けりゃ、今すぐ戦うのを止めちまえ。今ならまだ、間に合うぞ?」

 最も、俺だって相手は選んでいる心算だから、この台詞が真実だとは言い難いのだが。内心に湧き上がった微笑を誤魔化す様に、鋭い眼光のまま、カガミの反応を待った。

「まさか。いいぜ、とことんやってやる」

 どうせ分かっていた回答。お互いに壊れ物同士だ、だからこそ嘆いた、俺の殺伐とした言葉なんだから。

「どうせ僕達はニセモノだ。担い手など居ない、勝利など永遠に訪れない、壊れた殺し合いを始めようか?」

 担い手と使い手。なるほど、カガミの言葉は真実だ。お互い使い手、ニセモノ創りと、ニセモノ使いだ。そもそも戦いが成立しないのは道理だよ。

「ガラクタの饗宴ってか? ああ、死ぬまで―――――――付き合ってやるさ!!」

 そして、白い伽藍の中央、二人のニセモノは剣を交えた。
 鏡と鋼。宝石、金、そして白銀などには及びもつかない鈍い輝きが高音ではじけて、鼓膜を震わせる。

 それでも、その不協和音が。

「なあ、カガミ」

 刃が交差し、お互いの剣は鏡合わせの様にピクリとも動かない。

「いい、音色で響いたな。俺らの剣」

 剣が鳴く鋭い交響は、そうして何度も弾けあった。





FATE / HAPPY MATERIAL
第三十三話 願いの行方 Ⅸ





/ .

 僕は木乃香ちゃんを庇うように一歩踏み出して、その女性を睨み付けていた。
 名前も知らない女の人。初めて出会ったあの丘で、自らを鬼と評した女の人。
 まさか、冗談だと思ったその言葉を、こんな笑えない鬼ごっこで証明されるとは思っても見なかった。つくづく僕はついているらしい。

「ぼうや、もう鬼ごっこは止めにしましょう」

 睨み合いに飽きたのか、辺りを包む赤い景観とは対照的に、彼女は氷の針みたいに鋭い声色でいった。

「そういう分けにはいきませんよ。だって貴方達、木乃香ちゃんを狙っているんでしょう? 子供の鬼ごっこなら貴方の提案は非常に魅力的なんですけどね、僕も疲れていますから」

 下山するための唯一の道、僕の心臓を壊すのが目的じゃないのかと勘ぐってしまう長大な石段の前まで逃げ延びてきたのはいいのだが、コレだ。
 黒いコートの赤鬼さんは、これ以上ごっこ遊びを続けてくれるつもりはないらしい。

「渡してくれれば、貴方は安心して今夜も暖かい布団の中で夢を見れるのに? お姉さん、可愛い男の子には優しいのよ、コレ、最大限の譲歩の心算だったんだけどな。ねえ、どうしても、渡してはくれないの?」

「当たり前です。女の子をモノみたいにほいほい渡せませんよ。それが本物の赤鬼さんなら尚の事です」

 彼女はゆらゆらと揺れる陽炎に溶け込むように僕の正面で佇んでいる。
 彼女の仕業かどうなのかは分からないが、最奥の閨からこっち、ココから見渡せる本堂は酷い有様だった。ダンプカーが突っ込んできたってこうはならないだろう。巨大なハンマーでたこ殴りにしたあと爆撃でもされたみたいに、本堂の彼方此方は決壊していた。遠目に視ていてもそう映るのだ、きっと、近づけばそれ以上の惨状が僕を出迎えてくれるはずだ。それも、壊され炎上した“モノ”だけではなく、夥しいまでの炭化物が、だ。

「出来れば、手荒なことはしたくないのだけど……仕方が無いのかしらね」

 彼女は鬱陶しそうに赤髪を掻き揚げて、僕が注視していた本堂の方に視線をずらした。
 段々とそこを包む炎の勢いが沈静化していく。それに気付いたためかは知らないが、彼女は長く研がれた爪を噛んだ。

「今ね、力を殆ど使い切っちゃったから、うまく扱えないのよね。いいの? さじ加減を間違えちゃうかもしれないわ。意味が分からないほど、ぼうや、馬鹿じゃあないでしょう?」

 大きく切れ長の瞳を見開いた彼女は、最後通告だと言わんばかりの低い声で嘆いた。どうやら、勢いを潜ませていく炎を睨んだのは、“この惨状を作ったのは私だ”と、暗に僕へのメッセージだったようだ。

「そりゃ、僕だって死にたくなんてないですけど、ここで木乃香ちゃんを見殺しにでもしたら、それこそ僕の彼女に殺されちゃいますから。貴方こそ分かってます? 僕はね、どっちを選んでもデッドエンドまっしぐらなんですよ。だったら、少しでもカッコいい方がいいじゃないですか」

 口に出して、初めて気がついた僕の現状。すごいね、こんな逃げ場なしの危機的状況久しくお目にかかっていない、四年前以来だ。
 自分で言ってあきれ返る僕の台詞に、彼女はより一層視線の鋭さを増していく。だけど気の所為か、それが酷く辛そうに僕の目に映るのは。

「頑固ね。それでいて結構見栄っ張りだったんだ、ぼうやは。でも、そこが貴方らしいわ」

 思いつめ決心したように、彼女は貌を上げた。何かが焦げる匂いに紛れて、彼女の香水が僕の方にまで風で流れている。その芳香は何かが炭化した匂いに不思議と混ざり合っていて、密やかに揺らぐ香火の匂いに似ていた。

「けど駄目ね。貴方じゃ、彼女は守れないもの」
 
 その芳香に意識を奪われたのはほんの僅かなものだった筈だ。なのに。

「幹也さんっ!」
 
 僕の体は一瞬にして力を失った。自分の体が錆付いたブリキの玩具みたいに感じられる。赤錆に軋んだ膝が折れて世界が倒れる、違う、僕が倒れているんだ。
 お腹の真ん中にジンとする熱さ。それは僕の血脈を伝って溶岩流みたいに僕の体に浸透していく。

「あ、れ?」

 僕と睨み合っていた赤い髪の彼女は、気付けば僕の隣で黒いコートを靡かせていた。それを半開きの眼で捉えたまま、僕は地面に叩きつけられる。
 そこで漸く、僕は鳩尾に彼女の文字通り気の遠くなるほど痛烈なパンチを貰っていたことに気がついた。道理で、お腹が焼けるように痛い筈だよ。

「はは、イリヤちゃん………ゴメン」

 テレビのスイッチを切るように、僕はアッサリ意識を手放した。

. / out.

「さて、近衛木乃香」

 女は灰をかぶった石畳の本道を悠然と踏みしめて、近衛木乃香を見下ろした。倒れこんだ幹也を介抱する木乃香だったが、都の感情の篭らない声に貌を上げる。

「なんや? いっとくけど、ウチだって抵抗くらいはするからな」

 気丈な表情は普段の木乃香の物ではない。しかし、それは彼女の本質をよく表していた。彼女の黒い瞳は、都と言う脅威を目の前にしても、微塵の恐怖すら浮かんでいないから。確かに、近衛木乃香、彼女にヒトを傷つける優れた力は無かった。けれど、少女はその小さな体の中に確かな強さを持っているのだ。

「あら? 震えているだけのお嬢様かと思ったら、意外と芯があるじゃない。私のこと怖くない? 君がこれからどうなるか、怖くない?」

 都はその場に中座して、強い双眸で自らを睨み付ける木乃香の貌を優しく撫で付ける。都の長い繊指が木乃香の頬から柔らかそうな唇まで這っていく光景は、どこか妖艶だ。
 ナイフを突きつけられた感覚に身を震わせながらも、一向に恐怖の色を見せぬ木乃香。彼女は、やはり濁りのない視線のまま都に言った。

「せっちゃんが直ぐに助けに来てくれるんやもん。怖いわけないやんかっ」

 助けに来る。先ほどイリヤスフィールが溢した言葉、ソレとまったくの同義だというのに、その内にある思いは、なんと弘毅なことか。
 木乃香は言い放つと同時に都の手を払いのける。
 右肩の刀傷を押さえつけながら立ち上がった都。彼女は、なんとも豪胆なお嬢様だと、薄い笑みを溢しながら感心していた。状況は一向に変わらない、だと言うのに、本当大したものだ。
 彼女が幾ら抵抗しようと敗北は覆りようの無い事実だ。木乃香はなす術も無く都に拉致される以外にない。木乃香とて魔術師だ、都との力の差は肌で感じられる。その事実を、木乃香自身がよく分かっていた。

「まあいいわ。それでついてきてもらえる? 任意同行か、そこのぼうや見たく、おねんねして連れて行かれるか。折角のVIPだもの、選ばせてあげる」

 自身の有利を悟っている都は、悠然と大気を震わせた。夜風に靡く彼女の真っ黒なコートと赤い髪を眉をしかめて睨み付けた後に、戸惑いや躊躇を噛み殺して、木乃香は立ち上がる。

「ええ、いい子ね。さあ行きましょうか」

 満足げに木乃香に手を差し伸べる都。だがこの時、その手が木乃香を掌中にする事は無かった。






「行かせるか。お嬢様に対する非礼、ココで詫びていけ――――――――」






/ feathers.

 対魔術やエーテル攻撃に特化した神鳴流奥義、斬魔剣で結界を両断。
 そして上空からの滑降で、眼下にある三つの人影に肉薄する。倒れた黒桐さんと、向かい合った二つの影。
 見間違えるはずが無い、一つはこのちゃん、そしてもう一つは、――――――――――。

「行かせるか。お嬢様に対する非礼、ここで詫びていけ」

 赤い髪の女性に、夕凪を一閃。
 降下の速力と剣戟が見事に混合し振り落とした刃は、大地を破壊するだけに止まった。完全な不意打ちだったのだが。なるほど、この女、中々出来る。先ほどの青年と異なり、随分と実戦経験があるようですね。
 お嬢様以外に敵対勢力を確認できなかった時でさえ、周囲への警戒を怠らなかった結果が、今私の剣戟を回避できた要因でしょう。

「せっちゃんっ」

「すみません、遅れてしまいました。お怪我は?」

 顔を破顔させたお嬢様を私の羽で隠すように後ろ下げる。

「ウチは大丈夫……けど、イリヤちゃんが、その」

 お嬢様から現状を簡単に聞いて、私は目前で片膝をつく黒いロングコートの女性を睨み付けた。
 倒れた幹也さんは勿論心配だが、それ以上に気になるのはイリヤさんだ。彼女は一人、襲撃者を食い止めていると聞くが、大丈夫なのか………。
 後ろで幹也さんを介抱するこのちゃんに一度だけ振り返る。彼は軽症だが、イリヤさん……下手をしたら怪我では済まないかもしれない。

「―――――――ふう」

 だが、内心の動揺は命取り。分かってはいるが未熟な私だ、それを押さえつけるなど無理な注文です。せめて僅かながらの焦燥を悟らせぬよう、息を短く正して私は鋭い声色で言い放った。

「いつまで膝をついている心算です。面(おもて)を上げなさい、女」

 だらんと力の抜けた長身を起こした襲撃者。煩わしげに私の羽を見遣った後に、五間ほど開いていた距離を一歩一歩と詰め寄ってくる。
 本堂に立ち込める火炎の赤と、舞い上がる煤の黒。それを背にした女、赤い髪と真っ赤な瞳の女。彼女と向顔した私は、不覚にも体が戦慄いた。だってそうだ、無貌の彼女が、目の前の女性が、どうしたって鬼にしか見えなかったから。
 だが微かに、ゆっくりと歩みを進めるうちに、緩やかにその貌は怒りに歪んでいく。女は私の羽を端整な顔が醜く歪むほどに睨みつけ徐々に怒りを露にしていったのだ。

「君、その羽…………混血だよね?」

 私が想像していた以上に低い声、彼女の声貌は嫌に不釣合いだ。だが、それは恐らく憤怒の感情に起因していたからなのだろう。殺気を隠そうともしない女は、鬼気迫る相貌で歪んでいたから。
 私の無言を肯定と受け取った女は、次の瞬間には高らかな笑声を狂ったように陽炎の舞う夜空へと張り上げた。

「貴様……何が可笑しい」

 流れるように抜刀の構えを取り、殺気を研ぎ澄ました。
 握り締めた夕凪は、凛と鈴の音を鳴らす。微かながら、私は震えているのだ。無論、恐怖ゆえの震えではないのだが。

「だってそうでしょう? 混血、それがどうして退魔組織なんかに協力しているのよ? それも、あろう事かお姫様の護衛? 混ざり者のくせに、悪い冗談だわ」

 息を絶え絶えに吐き出しながら、女は立ち止まり嬌笑をかみ殺す。
 それがどうしてなのだろう? その狂妄とした振る舞いが、彼女自身に向けられた嘲笑にしか思えなかった。
 くぐもった女の声は徐々に深夜の闇に消え、ゆらりと彼女のトレンチコートが風に靡いた刹那。

「気が狂いそうだよ、私。――――――――ねえ、外れ者」

 予想を上回る速度の踏み込みで、私に肉薄、そして女は天に腕を振り上げた。それは正しく鋼鉄の爪だ。薄い紙を鋭い切れ味の刃で切り裂いたような裁断音が、あろうことか大気との摩擦で引き起こされた。
 私の頬を皮一枚で掠めた爪牙。女は攻め手を休めない、後ろに短く擦り引いた私にぴたりと迫る。
 火花の石火と見紛う勢いで、彼女の爪が今度は真上、叩きつけられるように降ってきた。

「随分と、――――――いきなりではないですか?」

 だが、不意を二度も突かれるほど私は甘くない。息つく間も無く追撃が繰り出されるのならば、呼吸などせずにそれを受け止めればよい。生憎、それが出来ぬほど未熟ではないのですよ、私は。

「ごめんなさい、ただ、堪えようもないほど頭にきてね。でもコレでお相子でしょう? さっきの君の奇襲、無かったことにしてあげるわ」
 
 恐らく全力で持って私の刃と拮抗する女の爪。しかし、その表情に微塵の力みも見られない。
 なればこそ、それに負けじと、自身の全力を悟らせぬよう、力を込める右腕の震えを押さえつけながら私は頬を緩める。

「そうですか、それはありがたい。先ほどの一刀、些か武人らしからぬ行動だとは危惧していたのです。いくらお嬢様のためとはいえね」

「あら、凛々しい顔の通り、やっぱり律儀なんだ?」

 鞘から中途半端に引き抜かれた夕凪が私の頭上、彼女の鋭利に尖った爪を押し返す。彼女の爪は到底人の扁爪ではなく、喩えるのならば琴爪の様だった。

「ええ、性分でしてね。それに、その身体能力と爪………なるほど、貴方も外れ者というわけですか。やはり、戦は対等が好ましい。そうは思いませんか?」

 刃と爪牙の鬩ぎ合いに女も飽きたのだろう。互いの獲物を毛嫌いするように腕を振りぬき、再び距離が開いた。
 混血、神鳴流剣士にしてみれば不利以外の何者でもないが、残念なことに私相手では勝手が違う。ニンゲンは化け物に勝てない、故に化け物と戦えるのは化け物だけなのですよ。

「対等、ね……。舐められたものだわ。私も」

 女の言葉に、辺りを取り巻く異様な気配が強まる。大気のマナに魔の血が反応しているだけだというの、それが喩えようもなく死臭の様に感じられた。
 遠目に残滓していた本堂の火災が、彼女の放つ殺気に当てられて勢いを取り戻す。それはきっと私の錯覚だ。しかし、彼女を炎心として赤い殺意が増徴していくのを私の未来予知に限りなく近い嗅覚がはっきりと理解している。
 混血の能力、それが発動するのだ。魔と交わされた卑しき証、超能力とは違い、自然干渉はこの世の理に則したものだ。だが、ソレゆえに力は絶大。
 まずい、彼女に力を使わせてはならない。皮肉にも、同じ混血であるが故に悟ってしまったのだ。唯空に翼をはためかせる自分では到底持ちえない、濃厚な血の匂いを。

「させるか―――――――」

 幸い剣間はさほど開いていない。石畳を壊そうかと言う踏み込みで、私は女に襲撃した。ドン、と石道が砕ける鈍い炸裂音。もちろん誇大な表現ではあるが、それほどの脚力で一息に距離を詰める。私の常人離れした飛燕の如き踏み込みと、常軌を逸脱した長刀、夕凪。
 それらを持っての強襲だ。自信があった、女の自然干渉能力を顕現させる刹那さえ与えず、勝負を決するための。如何な強大な能力とて、発現しなければ意味はないのだから。

 ――――――――――そして同じくして、気付けなかったのだ。

 踏み込む速度、タイミング、抜き足、体の移動、その全てが今までになく好調。完璧なまでの縮地法。この一瞬にもたらされた混血の限界すら超える身体の躍動は、一つの魔として、一つの混血として、矮小な私、自ら以上の“鬼”を無意識に恐れる、死にたくないと言う獣の本能がそうさせたのだと。

「――――――――焼けろ」

 女の異常なまでに堂に入った無機質な言葉が、ただ響く。呪が紡がれた女の唇には、赤い、夥しいまでの鮮血すら蒸発させるような、焔の紅色が歪んで引かれていた。
 ―――――――――微笑んでいる。私の体を這う血色の焔の先で一人の鬼女が、ただ、誰かが焼ける無常な光景に身を震わせて。

「―――――――――が、あ」

 敗北は、忍び寄るように、それでいて唐突に私を焦がした。
 夕凪を抜刀するどころか、距離を詰める暇さえない。
 わき腹から内臓。どんな理屈なのか、巨大で太い荒縄を叩きつけられたかの様な鈍痛が体の芯まで響いている。なるほど、もしくは金属バットをお腹にフルスイングされたようだな、と後方に倒れこみながら人事のように考えた。

「せっちゃん!!」

 お嬢様の悲痛な絶叫も耳に届いてこない。
 受身も取れず石畳に叩きつけられた背骨がギチリと肉がねじれた様に軋んで、その痛みに堪えることも出来ずうめき声が零れる。

「つ、ぐ………お嬢様、下が…って」

 幸か不幸か、腸内にまで浸透した痛烈な衝撃と同時に私を包んだ焔は、大した火力も持たされていなかった。白く光った粘着質な焔が肌を焦がし、直ぐに鎮火していた。
 私に駆け寄ろうとしたお嬢様を震える右手で静止して、重たい眼を無理やりこじ開ける。
 よもや、一撃でこの有様ですか………。
 私の体の一部にも関らず、造反し大げさに笑う膝が、どうしようも無いほどに憎らしかった。

「でも、せっちゃん――――――――」

「そうよ、近衛木乃香、下がっておやりなさいな。君の護衛はね、私の能力がどういうものか理解したから、下がれって言ってくれているの。巻き添えになりたい? 今の発火でいよいよ私の体力も底が見えてきちゃったし、制御できるか怪しいものよ。そうなるとね、手当たり次第視界にあるものを燃やしちゃうから」

 狼狽したまま言葉を繋げるお嬢様を静止したのは、あろうことか襲撃者の女だった。有難くもなんとも無い気遣いに、情けなくなってくる。
 たったの一撃でガタがきてしまった私の体と、うまく動かない脳みそ。唇を噛み切ると言うスイッチでもって、それらを再度活動状態に無理やり切り替えた。
 女の能力は恐らく発火、或いは燃焼といったところだろう。それも極めて凶悪な。

「にしても護衛の君。すごいわ、まだ立てるのね。幾ら私の力が弱まっているとはいっても、普通の人間ならよくって内臓破裂か肋骨の粉砕骨折の後に真っ黒こげよ? 死んでないってレベルの重症なんだから」

 女の余裕を当てつけるハスキーな声が、右から左の耳に抜けていく。それほどまでに肉体へのダメージで脳が動かない。……筈なのだが、それでも戦闘思考が一向に鈍らないのは、一人の女子学生としてどうなのでしょう?
 恐らくは波状に広がる不可視の力、含まれたエネルギーは熱伝導だけでなく相当な破壊力を含んでいることが、私の体で証明されている。最終効果として、そのハンマー並みの見えない“線”。それに触れたものを任意に燃焼させるのだろう。
 そう仮定したところで、女学生どうのこうのなんて全く関係の無いことを考えていた自分に嫌気がさした。意識が朦朧としているいい証拠です。

「混血………薄弱とは言え、君の血がなせる業かしら? 感謝しなさい、その醜い血脈に」

 龍宮の魔眼があれば、目の前の女の能力、その詳細を完全に看破できるのに。無いもの強請りを始めた私の思考が本当に嘆かわしい。
 女の軽口をもはや理解できない私は、どうやら夕凪を取り落とさないでいることで精一杯のようだった。
 息を不規則に吐き出すしか出来ない私に、赤い女は詰まらなそうに視線を落とし、私の隣ゆっくりすり抜けていった。
 だめだ、行かせない。私の後ろにはこのちゃんが。だが、言うことを聴かない私の体は、地面にだらしなく転がった。振り返り、このちゃんに駆け寄る心算だったのに足が縺れて横転するなど、なんて醜態を晒すのだ、桜咲刹那。

「さあ行きましょう、近衛木乃香。君の力で、私の悲願を与えて頂戴」

 このちゃんと赤い女。二人は唇が触れ合うほどの距離で視線を絡めて……はいなかった。赤い女の強い眼光はこのちゃんに向けられているというのに。

「君、そんなに自分の護衛が気になる? 今この場所で一番危険なのは君なのよ、分かっているのかしら?」

 このちゃんの強く穏やかな瞳は、こんな時だって私を射抜いてくれたのだ。
 だから、答えたかった。その回答が、守るべき少女の望んだものではなかったのだと、気付かずに。

「お嬢様から、離れろ」

 立つんだ。大地を踏んで、夕凪を構えろ。私を救ってくれた少女一人守れず、こんな所で眠っているわけにはいかない。
 軽い火傷と肋骨の粉砕骨折によってもたらされる体からの痛烈な危険信号を黙らせて、私は身を起こす。
 守るんだ、死んだって守るんだ。
 私は衛宮の様に全てを守る決意などいらないし、きっと出来もしないだろう。だけどいつだって、守りたかったのは願ってきたのは唯一つ。私に救いをくれた一人の奇跡を、生涯を賭して守り通すことだけだ。
 それを失ったら、私は。このちゃんを失ったら、また私は。

 世界に絶望した、境界上のバケモノに戻ってしまう。

 セカイに疎まれるのは/セカイを疎むのは、嫌だ。
 セカイに蔑まれるのは/セカイを蔑むのは、嫌だ。
 カイに傷つけられるのは/セカイを傷つけるのは、嫌だ。

 セカイに憎まれるのは/セカイを憎むのは、もっとずっと嫌だ。

 兎に角、嫌だった。
 今が幸せだから、その檻が崩れて、その鎖が外れて、あの空っぽの毎日に帰るなど考えたくも無かった。
 きっと、今度は堪えられない。
 太陽を知った愚かな鳥が、どうして暗闇の中で羽ばたけるのか?
 このちゃん、私に空の広さと暖かさを教えてくれた最初の存在。
 それを守ることが、私に与えられた唯一の、――――――――救済/幸福なのに。
 その手の内で翼を広げることが、私のたった一つの望みなのに。
 ヒトにも、バケモノにもなれなかったガラクタが、漸く手に入れた“アリカ”なのに。
 ただわたしは、貴方と共に“いたい”だけなのに。

 赤い女を血が出るほどの眼で睨んだ。
 貴様は、帰れというのか。
 黎明など永遠に訪れなかった暗闇の淵で、白い羽を毟り取る痛みを、もう一度味わえというのか?

「そんなの、私は嫌だっ」

 暗い、強い渇望を含んだ黒々とした双眸で、赤い女の片陰に入ったこのちゃんを求めた。
 深まる夜の明かり、暗影に潜んだこのちゃんの悲しそうな表情を理解することも出来ずに。
 
「っち。しつこいわね、この子は」

 私の雄叫び。それはもしかすると、ただの悲鳴だったかもしれないけれど。
 体裁など考えず、そして剣術の基本すら守ることもままならずに、ただ赤い、私と同じ混血の女に切りかかった。
 当然のことながら、当るはずもなく彷徨っただけの夕凪。難なく女は二刀三刀を躱しきり、このちゃんから距離をおいた。その気になれば、だらしなくしどけない刀身を躱すことなどせず、私の息の根を瞬間で止めることだって出来ただろうに。
 哀れみの心算か? 同じ混血だから、私の思いを理解できるとでも言うのか? そんなもの、私は必要ない。私が欲しいのは、このちゃんだけだ。

「無様だわ。一皮剥いだらこんなものなの、君は? 私と同じ、濁った眼、君の白い羽と違って、なんて汚いのかしらね。分かるわよ、その眼、絶望を見たんでしょう?」

「知ったような口を、止めないかっ―――――――」

 夕凪を我武者羅に振り回す、心が暴かれる痛みは、既に肉体の激痛を忘れさせていた。
 体に痛みは無い、だから刃だって曇りなく力の限り振るえるはずだ。なのに、どうしてこんなにも夕凪が重いのだ、どうして、こんなにも体が攣縮するのだ?

「いいえ、止めないわ。結局ね、私たちに救いなんて無いの。自分を直視なさい、今の君は何? 与えられた幸せが霞むだけで、こんなにも醜く卑しく変貌するただのバケモノじゃない。なまじ朧な救いなどを与えられた君は、こんなにも無様、バケモノにだってなりきれない。でも、君だって分かっているでしょ? 私たちにあるのは、いつだって偽りの幸福だけなんだって。変わらない幸福なんて、誰も与えてやくれやしないんだって!!」

 彼女の豪腕で、力など微塵も篭らぬ私の刃が弾かれる。それでも、私は刃を取り落とさない。

「黙れ」

 もはや、それは唯の意地だった。夕凪、このちゃんを守るこの剣を取り落とすことは、絶対に出来ないという。

「思い出しなさいよ、私たちのに向けられた、あの瞳を、あの言葉を。私たちに与えられたのは何? 幸福、救い? そんなはず無いわよね? そう、いつだってヒトが与えたのは、私たちに許されたのは、絶望だけだったじゃない!!」

 襟首をつかまれ、そのまま締め上げられる。感情を露にする女は、私と剣を交えるうちに、その禁忌の記憶を脳裏に蘇らせていたのだろう。

「黙れ!」

 それでも、私はそれを認めわけにはいかなかった。頷けるわけが無い、このちゃんとの出会いが、彼女の剣となるその救いを、泡沫の幸福などと思いたくは無いから。
 それに頷いた瞬間、きっと私は。

「諦めなさい、どうしたって私たちにあるのは絶望だけ。幸福なんて、辛いだけよ。そんなもの、ただ“いたい”だけ」

 ふっと首を締め上げていた力が弱まり、私体が開放される。もはや立っていることすら困難なのか、そのまま糸の切れた人形みたいにその場に座り込んでしまった。

「……黙れ」

 俯いたまま、私は溢す。垂れた前髪が、私のくしゃくしゃの貌を隠してくれたのは、本当に嬉しかった。このちゃんに、こんな顔見せたくなかったから。

「だから、私は送ってあげるの、地獄をね……。救いを与えなかったヒト達に、幸せを与えなかったこの街に。分かるはずよ、私たちに残されたのは、いつだって地獄だけ。私たちにあるのは、やがて行き着くのはね、復讐なんて、こんな子供の八つ当たりじみたくだらないモノだけなのよ」

 何かを悟るように、無感情に女はいった。
 頭上から降るその言葉は、まるで不治の呪いだ。魂に浸透する苦痛は、彼女の真意が定かでない今でだって、あまりに残酷だった。
 だけど、それでも、私は剣を握ったまま立ち上がっている。本当に無意識だ。息を乱して、震える体を摩滅した願いで叩き起こして、煤だらけの乱髪を整えることもせず、それでも立ち上がった。

「貴方の説法などに………興味は、無い」

 体中が痛い、心の奥までも、苦痛でのたうち叫喚を上げている。

「もう一度だけ、言うぞ」
 
 赤い女の言ったことは、きっと真実だろう。私に、きっと救いは無い。今はこのちゃんがそばにいてくれるが、きっといつかは私の元から離れていく。
 それはきっと正しい事だし、もしその様な時が来れば、心の底から祝福できる自信もある。永遠の幸福など、きっと私のようなバケモノには過ぎた代物だろうから。
 その虚ろで曖昧な幸福でも、それは私にとってとても大切なモノだから。
 それが例え、いつか奪われる“与えられた幸福”だったとしても。

「貴方は、黙れっ!!」

 その幻想を、私は、桜咲刹那は、一秒でも長く守っていたいんだ。
 そして夕凪を、最後の渾身と共に月に向かって振り上げた。
 だが所詮、満身創痍で繰り出した一刀だ。赤い女の頬に一筋に鮮血を迸らせるだけにとどまった。

「ち、―――――君、そんなに死にたいの? なら、容赦は無しよ!」

 夕凪を振り上げがら空きになった私の胴に、20キロ台の分銅が叩きつけられた様な鈍い音がして、もはや申し訳程度にしか繋がっていなかった肋骨が完膚なきまでに粉砕された。体の中身を全て吐き出しても可笑しくない、自然と開いた口から多量の血液を吐き出し、内臓をかき回すような痛みに必死に堪えた。
 女の鋭い爪が肉に食い込む鋭い痛みと、内側から臓腑を締め上げ、寒気を催す痛みが、花火みたいに体の奥のほうで弾け連鎖して、脳みそを沸騰させている。涙は、果たして堪えることが出来たのでしょうか?

「はは、死にたい? 当然です。お嬢様を奪われる位なら、死んだ方がずっと楽でしょうから」

 赤い女の足元から約3メートルといったところか。石畳の本堂から飛び出し、大粒の砂利が敷き詰められた地面に転がった私は、黒くて高い雲を見上げていた。自棄になって溢した言葉は、絶え絶えの呼吸の中ですら、はっきりと嘆かれる。
 卑しくも、夕凪は私の左手とくっついてしまったようで一向にはがれる気配がない。桜色の肉がめくれ上がった脇腹を感覚の無い左手で押さえつけながら、動くことを忘れた巨大な煙雲から、どうしても目を逸らせないでいた。

「そう、なら話は早いわよね。同族のよしみよ、最高に華やかな地獄で送ってあげる」

 女の瞳孔がきゅっと窄まり、紅が深くなる。
 悔しかった。だけど、コレで終わりだという安堵の方が勝っている。何もかも手放せると、いたずらに暴かれた心が狂喜している。なんて自分勝手。散々お嬢様を守るといっておきながら、その実、その願いは何て独善的だったのか。
 自分に与えられた唯一の幸福だったから、私は彼女を守っていた。唯一のより所だから、必死で守った。四年前のあの時、心地よかった時間が動いて、また私のアリカが一つになってしまって……だから、守ってきたんだ。
 自分のため、桜咲刹那のため、ヒトにも、バケモノにもなれなかった半端モノのために。哀れみすら不相応なガラクタのために。
 赤い女の言うとおりだ、何て、―――――――何て私は醜いのか。
 頭にくるほどカッコがつかない。こんなことにすら、気付けなかったなんて。
 そう、だからだ。
 走馬灯を巡らす権利すら放棄して、私は瞳を閉じていた。ただ送られる、私がずっと見てきた絶望の到来を、受け入れるために。

「―――――――――――――――」

 だが、それは終ぞ訪れない。ふわりと、煤と血の匂いしかなかった夜の空寂に、優しい香気が漂っていた。

「――――――――――――――――どういう心算かしら、近衛木乃香」

 ぼんやりとした双眸は、それでも彼女の背中を覚えていた。
 どうして貴方は、こんなにも眩いのでしょう。私と同じ黒い髪、なのにどうして貴方の漆黒はそんなにも柔らかなのでしょう。細い背中が、どうしてこんなにも揺るぎなく映るのでしょう。
 ―――――――――教えてください、このちゃん。

「そんなんもわからへんの」

 息を大きくついたこのちゃんは、震える声で、それでも気丈にいった。それは果たして、赤い女に向けられたものなのか、それとも。
 虚ろな双眼。しかし、一挙一動、目が見えずとも、耳が聞こえずとも、それでも彼女の姿を彼女の思いを克明に想像できる自分がいた。きっとそれは、このちゃんだって同じはずなのに。

「大切なヒトは、守らなくちゃ嘘なんや。ウチ、ゼツボウだとか、コンケツだとか、コウフクだとか、馬鹿だから全然わからへんよ。だけど、それでも何が間違っているかだけは分かるで、なあ、そうやろっ!?」

 このちゃんの背中は、きっと震えている。当たり前だ、彼女の目の前で殺気を撒き散らす女は生粋の鬼だ。鬼の眼光は、先ほどまで私を殺すために細められていた。それを直視して、如何に魔術師とて、年端も行かぬこのちゃんが堪えきれるモノではない。

「庇い立てすると、ろくな目あわないわよ?」

「知らんよ。どっちが強いんか、アンタにはわからへんの?」

「可笑しなこというわね、私が有利に決まっているじゃない」

 女の訝しげな声に、このちゃんはほくそ笑んでいることだろう。彼女の小さな背中が、それを教えてくれる。それだけじゃない、彼女の纏う空気の変化に、私のいまだ生きている鼻腔が反応するのだ。
 そうして、やはり気付くのだ。このちゃんの事が、やはり大切な友達であることに。そして同時に、どうしようも無いほどに、素敵な女の子なんだと。

「有利? アンタがか? おもろいこと言うね、おばさん」

 訝しげに、女の顔色が曇る。困惑は、隠しきれない。

「せっちゃんにこれ以上手ぇ出してみい。ウチ、舌噛み切って死んでやるからな。ウチに死なれたら、困るんとちゃうん」

 どすを利かせたはずなのに、可愛らしい声。
 空気は完全にこのちゃんのものだ。既に意識は半分以上手放されているというに、私は笑みを止められない。ああ、このちゃんはこういう人なのだと。だから、醜い鳥が拠り所に選んでしまったのだ。間抜けな追憶、ただ、自らの愚かしさが克明と目蓋の裏に溢れている。

「やれるものならやってみなさい。舌を噛み切る前に、――――――」

「ひょえ~、これでみょかえ。このぼうたいでなぶらべだら、ぎっとじたばじょっきんばね~(へ~、コレでもかえ。この状態で殴られたら、きっと舌はチョッキンやね~)」

 場の空気は、既にこのちゃんのモノだ。気の抜ける遣り取りではあるが、これはこれで、赤い女の言うとおり、理に叶っている。そして。

「ふざけるのもいい加減にして。貴方みたいな子が、簡単に自害なんて出来るわけ」

 このちゃんの強さは、理路整然とした思考と、何処までも揺ぎ無い意志なのだから。

「――――――――――試してみる? ウチは、それでもかまわへんよ」

 渾然とした風が、揺ぎ無い闇の中に舞っている。
 揺らぐ彼女の黒髪が風に凪いで、見上げる夜天では厚い雲が奔り出す。
 虚ろな私の黒い瞳が、それを知らず追っていた。

「―――――――分かった、分かったわ。負けよ、私の負けで良い。君の護衛君は殺さない、コレでいいのかしら?」

 疲弊した声で、女はいってこのちゃんの手を取った。無言で応答したこのちゃんの表情が、私には分からない。
 勝負はこのちゃんの勝ち、しかし、試合の決着は既に揺るがない。襲撃者の目的がこのちゃんである以上、私が地面に伏した時点で決まってしまったのだ。

「終わったのかね、ミスミヤコ?」

 足音が増える、既に全触覚は死んでしまったらしく、辺りが黒に染め替えられている。傍にあった誰かの温もりも、今は遠い。

「ええ、計画の第二段階終了ね。さ、連れて行くわよ近衛木乃香………それと、その坊やも」

「何、この男をか? しかし、何故?」

「好きになったから。じゃ、理由にならないかしらね」

「………何処まで本気かは知らんが、まあいいよ。視たところ、ただの一般人だ、連れて行っても問題ない」

「そう、なら行きましょう。夜が明ける前に、“孔”を完全に開かないとね」

 石段を三つの人影が下っていくのだろう。
 重苦しい足音と、恐らく女のものであろう規則的に遠のいていくヒールの音。そして、自身が攫われたと言うのに、軽やかな足音が続いている。

「せっちゃーん」

 遠くで、誰かの優しすぎる声が痛いほどの寒気に伝っている。今は、その寒さ以上に耳がいたい。出来ることなら、毟り取ってやりたいほどに。

「ちゃんと助けに来なあかんで~。お姫さまを助ける騎士の役割、ちゃんと空けておくからな~。衛宮君も捨てがたいけど、やっぱりウチはせっちゃんが嵌ってると思うからなぁ~。絶対やでえ~」

 本当に、貴方は眩しすぎる。
 醜い私に、どうしてそんなにも優しい呪いを掛けてしまえるのか。

「畜生……」

 生まれて初めて、後にも先にも、きっと嘆くことは無いだろう口汚い言葉を吐き出した。
 彼女の優しさが与えられる不甲斐無い自分を、どうしたって信じられない。彼女の残した思いに、答えを見つけられない自分が心の底から憎かった。
 手に入れた筈のコウフクは、やはり虚無に消え霞む。
 何が、救いを守るだ、何が、このちゃんを守り抜くだ。私が守ってきたのは、いつだって醜い自分一人だけ。
 それどころか。

「守られているのは、いつだって私ではないですか、―――――――――――」

 ホホヲツタウ。
 あの時、世界に絶望した私にはありえなかったモノだ。
 救いは、そうしてなくなった。伽藍だった私がまた伽藍に帰っただけ。だっていうのに、どしうして、――――――私は頬を伝うこの痛みを、あの時感じたことなどない。

「ああ、コレが」

 失う痛みですか。久しく、感じていなかった。別れは四年前、だけど、その時は隣にこのちゃんがいた。いや、きっといてくれたんだ。
 考えてみれば、初めてだ。全てを失ったのは。何も無かったあの時じゃない、手に入れて、それを失う痛みに触れたのは。
 空っぽに戻ってしまった筈なのに、どうして溢れる出るモノが、毀れ出すモノがあるのだろう。悲しくて、可笑しくて、悔しくて、気が狂いそうだ。

「私は、――――――――――」

 救いを失った翼で、何処に飛び立てばいいのでしょう。
 見上げた空はただ黒い。辺りに残った炎の残滓が夕闇のように雲を照らしている。
 なんにせよ、一つハッキリしていることがあった。

「―――――――――――――――――――遠い、な」

 その空が、ただ、ひたすら高いのだ。



[1027] 第三十四話 願いの行方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 05:55
/ 13.

「――――――――終わった、みたいだな」

 打ち合うこと二十合と言ったところか。
 お互い息が切れ始めた辺りで、俺から大きく距離を開いたカガミは、心ここにあらずと言った風に漏らした。意思の光が宿らぬ座った眼で、青年は天井を見上げている。

「終わってねえだろ。俺はまだまだ戦えるぞ?」

 彼との打ち合いは、式さんも溢したように“詰まらない”の一言に尽きる。俺が一刀大怒を真横に振るえば真横から、真上に薙げば真下から。唯完璧に、俺の剣舞と呼ぶのもおこがましい攻勢の数々を忠実に模倣する。
 鏡の前で終わりの無い素振りをしている気分だった。肉体よりも先に、精神の方がまいってしまう。単調な作業を延々と繰り返す事務的な鍛錬ほど、辛いものは無いからだ。
 いい加減に嫌気が差してきた俺ではあったが、こいつを何とかしなくてはならないのも真実。故に言葉に棘が混ざっていたのも仕方が無いことだろう。

「ああ、違う違う。“姉さん達の仕事”が終わったと言ったんだ。連絡が来た、見てみろよ。勝負はね、僕の勝ちってことだろ?」

 カガミの人を食ったような笑みが俺に向けられる。
 にゃろう……こめかみをひくつかせて、俺は殊更めくほどに表情を変えた。視れば、アイツの折れそうなほどに貧相な中指が、天を指しているではないか。
 つられて顔を上げると、磨き上げられた一枚ガラスの天井越しに、金閣で俺が打ち落とした肥満体の梟が悠然と夜闇の中で旋回していた。無表情な梟の視線が、俺を見下しているようで腹が立つ。良すぎる目は、こんなときには損した気分だ。
 だが、今重大なのはそんな事では無いだろう。……カガミの神経を逆立てる物言い。桜咲、間に合わなかったのか?

「どうせ本部に帰れば気付くことだしさ、サービスだ。置き土産に教えていってやるよ、エミヤシロウ」

 苛立ちから困惑に表情の色を変えた俺に、鏡の剣を霞みに戻す青年は、勝ち誇った笑みを露にした。

「僕達の目的はね。本部の襲撃じゃあなかったんだ、ある人間の拉致。姉さんの願いを叶える為の最後のピース。必要なんだよ、一個人の範疇を超えた、莫大な魔力がね。ココまで言えば分かるだろ?」

「手前ら、近衛を………っ!?」

 宝具を握る手が自然と汗ばみ、長い柄を強く握っていた。
 眉が痛いくらい顰められている。だが、自身の至らなさをその程度の痛みで許せるはずも無かったんだろう。歯茎から血が滲み出すくらい、奥歯を噛み締めた。
 やはり、痛みは俺の無力を許してはくれない。ただ、痛みが絶望的に不足していた。腸を包丁でぐちゃぐちゃにでもされないと、俺は自身の呵責から逃れられそうも無い。
 なんて様だ。近衛の護衛が目的でココにいるってのに、ムザムザ……くそっ、本当、自分の無能さに腹が立つばかりか、それすら通り越して殺意を覚える。

「正解だよ。近衛木乃香。極東における最大の魔力保有者、世界でも指折りの魔力タンクさ。まあ、あんなサビ臭い場所から奪いたいモノなんて、アレくらいしか思いつかないしね」

「このっ!! アイツをモノみたいに言ってんじゃねぇっ!!」

 奴は襲撃が成功した、いや……近衛の拉致が成功したと言った。なら、既に近衛はあいつ等の手の中にあるってことだ。
 だったらどうする、衛宮士郎。決まっている、取り返す、取り戻す、そんなの考えるまでも無い。

「くく、まあいいじゃないか。近衛木乃香は僕達が有意義に使ってやるよ、言葉道理、この街を赤く染めるためにね」

「だったら尚更逃がさねえ。吐いてって貰うぜ、お前等の目的と、近衛の居場所をなっ!」

 兎にも角にも、情報が欲しかった。近衛が囚われている場所、そして近衛を拉致した目的、それを知らなくちゃいけない。だって、まだそれを知る手立ては目の前に残されている。
 こいつのくだらないおしゃべりのお陰で、退屈に欠伸をしていた俺の体が突然力を取り戻す。

「熱いね、お前さ。でも、僕は付き合う気なんかさらさら無いんだ。仕事は取り敢えず、ココで終わりだしね。いい加減休みたいよ。僕はね、君と違ってデリケートな体なんだから」

 自らの仕事ぶりに、もっといえばその秀逸さに浸ったような陶酔気味の瞳で、ガラスの天井を眺めたカガミ。
 腰を落とし、俺は獲物に迫る猛禽のように眼光をぎらつかせていた。ぐっと、体重を前方にのしかからせる。力の込められた長剣で、奴が隙を見せた途端、飛び掛ろうという腹積もりでいたのだ。

「はっ、気張るなよ。言ったはずだけど? これは、“置き土産”だってな」

 だが、それも無駄に終わることとなる。
 青年が皮肉に漏らしたのと、天井の一枚ガラスが砕けたのはほぼ同時だった。
 キラキラと光が反射するガラスの雨に紛れて降ってきたのは、馬鹿みたいに大きい梟だ。人間の一人二人くらい、軽々と空へ舞い上がらせることが可能だろう。それほど、縦にも横に広がった巨大さ。間違いない、先ほどまで俺たちの頭上を旋回していた梟に間違いなかった。
 先日の調査、観察、そして隠蔽に特化された使い魔ではなく、運搬、それも人間の空中移動を念頭に入れた素体らしい。ガラス片を瞳に入れないよう、細めた眼で解析を奔らせた結果、それを理解した。

「――――――――――な、待ちやがれ!!」

 それはまるで粉雪のよう。舞い散る仔細なガラス片は、奇しくも鏡の様だった。
 その中で、鷲色の翼を広げた一羽が俺の声を無常にも無視して飛び立っていく。投影を行う暇も無い。俺はただ、幾多の羽と鏡の粒子が舞う白い箱の中で、境を失った天上を見上げているだけだった。

「それとな、衛宮士郎」

 声だけが、冷たい空から振ってくる。

「再会は、また直ぐに訪れる。待っているよ、―――――――君を」

 そして、舞い散る全てが地面に墜落した。
 晴れた視界には、俺が立つ大地には。

「くそ、なんだってんだ。男のラブコールなんて、気色悪いだけじゃないか………」

 乱れ舞い落ちた汚い羽と、光を失って砕けた白銀だけが、ただ、無残に散っていた。





Fate / happy material
第三十四話 願いの行方 Ⅹ





「しかし、酷いね。どうも」

 石段を登りきった式さんは、本部の凄惨たる光景を目の前にして、ただ嘆く事しか出来なかったらしい。
 京都駅で青年を取り逃した俺と式さんは、群がっていた人外共の壁を中央から突破して、全速力で近衛の実家、日本呪術協会本部まで戻ってきた。
 まるで走ること以外忘れてしまったみたいに、山の頂、こげた匂いが流れだす中心に向かって走破した。一般人に毛が生えた程度の俺の心臓だ、それを限界まで酷使したため、吐き出す息は真っ白で、汗が伝う体は沸騰している。

「はっ、はっ、し、式さん……少し、は、俺の事も……」

 俺は長大な石段の最後の踊り場で、式さんの背中を見上げていた。
 流石にこの階段を全力で走りきるのは骨が折れる。俺は式さんに大分遅れて、歩くようにゆっくりとその階段を踏破した。
 俺は式さんと漸く同じ視界を手にいれる。ゆっくりと息を整える心算だったのに、それは叶わなかった。俺はひゅっと息を飲んで、呼吸の仕方を必死に思い出そうと知らず努めていた。
 最初に飛び込んできた風景は、式さんの言葉一つだけでは、到底想像できなかっただろう。初めてココに訪れた時とは、その光景が余りにかけ離れていたから。
 本堂は煤けて半分以上倒壊しているし、その玄関口、立派な門構えは見るも無残に焼失し、辺りには焦げた何かがゴロゴロしていた。赤ん坊の様に手足を縮めて、削げ細った真っ黒な何かが物凄い形相で天を睨んだまま停止している。
 俺たちの頭の上にある鳥居から本堂まで目算約二百メートルと言ったところか? この距離でさえ、そんな物体が人間だったと知るのに時間はいらなかった。だって、きっと俺は誰よりも、その光景を見慣れているはずだから。風光明媚だったあの憧憬は、全て焼き尽くされていた。
 だけど、くだらない情感に浸る俺が、今はどうでも良かった。
 俺が知っている地獄の焼け跡には、俺が良く知っている彼女が転がっているのだ。それも、俺たちの目前で。先ほどの式さんの嘆き声は、凄惨な景観に対してでも何でも無かったのだ。彼女の言葉の裏側にあった当惑を、どうして俺は汲み取ってやれなかったんだっ。

「桜咲っ!!」

 砂利の上で天を仰いだまま一向に動かない彼女に、俺は式さんを跳ね除けて駆け寄った。
 抱き起こすと、軽いうめき声が零れる。全身にささくれ立つ火傷、ジャージからはだけた彼女の脇腹は鋭い牙で引き裂かれたみたいに裂傷し、お腹の中腹は恐らく骨折だろう、紫色に変色していた。
 どっからみても大怪我だ。だけど、死んでない。桜咲の本当に苦しそうなうめき声に、不謹慎にも歓喜している自分がいる。
 俺が生まれた赤い大地で死んだように眠る桜咲。だけど死の匂いは彼女に無い。
 本当に、ただそれだけが嬉しかった。

「おい衛宮。あんま動かすな、傷に触る」

 式さんが俺の隣に中座して、桜咲の脇腹を擦る。
 式さんは殺すことに掛けてのプロフェッショナルだ。それは言い換えるなら、効率的な人間の壊し方を知っているということ。なればこそ、その逆も然りだ、彼女ほど人を生かす術に長けている人間も稀だろう。
 彼女がココにいてくれて本当に助かった、俺には桜咲に適切な処置が施せないからな。
 その点、式さんなら安心だ。彼女の介抱は、なんていっても俺のお墨付き。鍛錬の後にはいつだって悶絶し、彼女の手当てを受ける当の本人が言うのだから疑いようは無いに決まっている。
 だがそれでも、安心する反面、自分の無力に意気が消沈させられる。
 式さんの繊指が肌を伝うたびに低く呻く桜咲を、俺はただ見ていることしか出来ないんだから。

「火傷と裂傷は大したこと無い、だけど……三、いや五本か…くそ、よくって亀裂が走ってやがるっ。肋骨は無事なところなんて残ってないぞ。腹腔内の諸機関や胸部呼吸器が砕けた骨で傷ついていないのが、幸いといえば幸いだが安心も出来ない。体腔内の器官ほとんど全部が押し潰されたみたいにぐちゃぐちゃだ。一体何したらこんなんになる? ダンプカーにでも跳ねられなきゃこんなんにならないぞっ。衛宮……桜咲酷いぞ、どうする?」

「どうするって言われても、どうすりゃいいんですか………」

 俺が使える治癒の呪なんてそれこそ絆創膏を貼ったほうがまだマシって程度だし、それどころか、下手すりゃ傷を悪化させる代物だ。近衛のいない現状では、救急車を呼ぶとか、右往左往するくらいしか、俺に手立ては無いのだ。

「くそっ、役に立たないな、相変わらず。ならいい、だったら衛宮、兎に角室内に運ぶぞ。担架の一つでも作ってみせろっ!」

 桜咲に事がよほど心配なのか、額に玉の汗を浮かべて俺に舌打ちと共に式さんが言い捨てた。
 「はいっ!!」と式さんの勢いに流されるまま俺は頷いて、投影の準備に。

「――――――大丈、夫……私、は…っ、――――いかな」

 ―――――かかろうと、そう体を持ち上げた矢先。掠れた喘ぎ声と一緒に、桜咲が式さんの腕の中でのそのそと身悶えた。ようやく、目を覚ましたのだ。
 薄ぼんやりと細められた桜咲の双眸が、俺を見上げている。生まれた雛鳥みたいだなと、俺はそのとき思った。きっとそう感じたのは、俺が見慣れている彼女の日本刀みたいに鋭い眼光がそこになかったからだろう。
 覚束無い桜咲の瞳には、薄弱な意思すら宿っていなかった。だからその所為だ、繋いでいた手を離してしまって、帰り道が分からなくなった子供みたいに涙を堪えた弱弱しい瞳が、どうしたって、孵化して間もない小鳥にしか見えなかったのは。
 意識を覚醒させた彼女は、突然溜めていた涙を枯れさせ、はっと大きく瞳を見開いた。
 式さんの腕の中でもがく桜咲は、翼も生えていないのに巣から飛び出そうとする稚拙な雛鳥と、寸分違わなかった。

「っつ、馬鹿っ。何勝手に動いてる、そんな大怪我してこれ以上無茶する気かよ? 馬鹿なのか、お前は」

 どうやら自力で立ち上がろうとしていた桜咲を、式さんが額の汗を拭いながら叱責する。当然だ、式さんがそれはしないのならば、代わりに俺がしていただろうから。

「――――――このちゃんを、助けに……行かないと。それも出来ぬなら、馬鹿で、結構」

 桜咲は末期的な骨髄炎を患った病人みたいに、うわ言めいて口にした。それどころか、殆ど動きもしない手足をばたつかせている。なんて……胆力だよ。式さんにして“酷い”と言わしめた傷で、どうして動けるのさ。
 黒々とした瞳を見開いて、なにか途方も無い恐怖から逃げ延びるように。桜咲は、歯を食いしばる。そして。

「刹那、お前立てるのか?」

「この程度、なんだというのです。立ちますよ」

 震える華奢な体で、夕凪を三本目の足代わりに、彼女は立った。
 桜咲の断定的な物言いに、驚きを声に出したのは式さんだ。それほどまでに、信じられないのだろう。式さんが、その驚嘆を表情に出してしまうなどと。

「馬鹿っ、桜咲。本当どうしたってんだ!? 近衛のことは俺だって心配だけど、こんな時くらい、自分の心配だけしてしやがれ!!」

「貴方に、それを言われる筋合いは無い。この程度、私は……」

 慌てて止めにかかった俺を、ご丁寧にグーで殴ってくれやがった桜咲。だけど、顔面に入った彼女の拳には、微かばかりに力も込められていなかった。まるで頬を綿で撫でられたみたいだ。
 桜咲の無念を帯びた瞳と、俺の視線が重なる。
 泣いていた。なんでさ? だけど、それが痛みの所為では無いのだと、俺は不思議と分かっていた。
 いつか、俺も涙したことがある。
 あの教会/境界で、自身の現実と理想、善と悪、願いと救い、その狭間で、衛宮士郎の拭いきれない暗闇に触れたときに。知りたくも無かった、俺の汚れに気付いたときに。
 そんな、記憶の邂逅は一瞬だった。俺への抵抗で、残っていた僅かばかりに体力を反故にしてしまった桜咲は唐突に脱力した。

「はれ?」

 なんて、実に可愛らしい。ろくすっぽ口も回らないくせに何考えてんだ、こいつは。慌てて、彼女の肩を両手で支える。

「だあっつ! いわんこっちゃ無い!?」

 桜咲の体をしっかりと支えた。今度は、パンチは無しだ。腕に収まる桜咲の重さに安堵して。俺はほっと、漸く笑みを作ることに成功した。

「ほら、いい加減落ち着いただろ。らしくない、今夜はほんとらしくないぞ」

 平衡感覚の消失に戸惑いを隠せなかったのは、どうやら当の本人らしく、俺の腕の中で彼女は呆然としている。
 かちゃん、と安っぽい音が足元から聞こえた。桜咲の手から墜落した夕凪がカラカラと断絶的に刃渡りのふり幅で揺れている。桜咲は震える手で懸命に握っていた長刀を、取り落としたのだ。
 彼女に、俺の声など聞こえてはいなかった。無機質に響いた金属の震える短音の連続に、桜咲は暗鬱に塞ぎこんだ。

「はい、すみませんでした。……その通りです、らしくない、本当に、今夜の私はどうかしている………」

 冷静に聞こえる分析的な回答が、俯いた彼女から漏れ出した。音割れのスピーカー越しに返事を受け取ったみたいだ。コレなら、さっきまでの感情的な桜咲の方がマシだったかもしれない。これじゃあ平静を取り戻したのではなく、ただ単に陰鬱になっただけである。

「ったく、それで桜咲。一体何があった?」

 それでも、今の状態なら桜咲からキチンと情報が引き出せる。申し訳ないが、桜咲の妙な態度については一先ず保留だ。だって、何より桜咲のためにも、近衛を早く取り返さなくてはならない。
 俺の腕の中で潮らしくなった桜咲は、とつとつと震える声で答えてくれた。

「お嬢様が拉致されたのは、ご存知のようですね。私の力が及ばないばっかりに……最後まで抵抗はしたのですが、結局このありさまです」

「そっか。……それじゃあ、近衛が連れて行かれた場所とかは分からないのか?」

「ええ、すみません」

「いや、いいよ。お前が謝ることじゃない。きっと一番お前が辛いはずだもんな」

 それだけ会話だったのに、懸命に言葉を投げかけてくれる桜咲の姿が妙に痛々しくて、俺は早々と会話を切り上げることにした。
 桜咲を両腕で抱えて、煤けた本堂を見遣る。表向きは完膚なきまでに倒壊し炭化してしまったようだが、広い家だ、奥はきっと無傷のまま残っている。
 そこに向かって、俺たちがつい先ほどやってくる前は、煙?とし赤色が広がっていたであろう石畳を真直ぐ歩いていく。転がる煤達磨の一つ一つを、しっかりとこの眼に焼き付けながら。

「それと、………衛宮」

 言葉尻、俺の名前はもう殆ど言葉になっていなかった。だけど桜咲は、眠りに落ちる寸前の自らを叱責するように、重い目蓋を震わせながら彼女は言った。

「なんだよ、あんましゃべるな。直ぐに寝かしつけて手当てするからさ」

「いえ、違うのです。私のことではなく……」

「 ? ああ、そういえばイリヤや幹也さんはどうした? どっかに非難したのかな」

 言いよどむ桜咲を本堂の玄関口に横にさせて、俺はふっと些細な違和に気付いた。先ほどの焼死体はどれもココの機関員の様だったし、詠春さんの手際だ、きっと女子供や非戦闘員は襲撃の際、真っ先に非難させたはず。だから、そのことについては安心しきっていた筈なのに。

「それが、――――――――――――――――」

 桜咲の言葉など、俺には届いていなかった。ガンと、頭が強く揺れている。アップ系のクスリを血液に直接決めたみたいに、脳が白熱する。もう、思考はまっさらだ。

「あの、馬鹿野郎―――――――――――――」

 「わたしの様なレディーに、野郎は無いでしょう?」そんな彼女の最もな言葉を、この時、どれほど強く望んだことか。
 破壊された敷居を勢いのままに飛び越え、どこに行くかも分からず、俺はそれでも全力の限りを尽くして駆け出していた。




/ snow white.

 チクタクと耳障りな時計の音を数えながら、私は瞼を開いた。先ほどはサイレンのこれでもかって騒音が目覚ましだったけど、今度は嫌に静かな覚醒だこと。最も、神経質なまでにキチンと時を刻む短針の音も耳に障ることには変わらなかったけれど。

「よう、起きたかイリヤ」

 コノカの家にもこんな狭い寝屋があったんだなと考えつつ、土の壁を背もたれに胡坐をかいたシキに首だけを回した。
 ……顔が痛い、口の中も痛い、体だってむちゃくちゃに痛い。気を抜いたら苦痛に喘いで涙や鼻水を垂らすのは間違いないだろう。
 仰向けに寝転がったまま、お腹に力を入れる。うん、大丈夫、少なくとも“さっきみたいな”醜態は間違っても晒さないはずだ。

「………わたし寝ちゃったんだ」

「まあな、つっても半刻も経ってない。その傷だ、体だって休息が必要だよ。で、どうする? 一応オレの診察結果、聞いとく?」

「いい。なんか聞いたら、折角涙を呑んだ意味がなくなりそう」

「懸命な判断だよ、それは」

 シキの直ぐ横にある薬のビン各種や、包帯、それにトレイに収められたお湯が張られた洗面器。それ等と私の体からプンプンに追う温湿布の匂いや、きつく締め上げられた包帯を見比べながら答えたわたしに、シキは安心したように微笑んだ。

「ねえ、シロウやセツナは?」

 それを無視して、引っかかっていたモヤモヤを解消させようと尋ねた。全く、さっきあんなこと言っておいて、傍にいないと直ぐコレだ。わたし、駄目な奴だ。

「あいつ等は追っ払ったのはおまえだろう? イリヤのさっきみたいな癇癪を見せられたら、すごすごと出て行くしかないじゃないか」

 シキの応答は至極全うで完結的かつ明瞭。穴があったら入りたい、生憎とそんな都合よく穴などあるわけ無いので、変わりに掛け布団で貌を隠した。

「シキは、………なんでそうしなかったの?」

「オレ? 特に理由は無いよ。強いて上げるなら、そうだな……オレは意外と図太いんだ、って事で納得してくれ。生憎あの程度の罵倒じゃ、なんとも思わない。不感症なのかな、オレは」

 しばし沈黙。
 彼女の飄々とした態度に、私は反す言葉も無く更に深く布団で貌を隠した。大らかとも取れるシキのノンビリとした声が、淡く仄暗い室内に透る。

「にしてもさ。イリヤ」

「……何よ?」

 彼女が何を言いたいかなんて、とっくに予想が付いていた。だから、わたしの素っ気のない態度の中に棘が含まれていたのは、致し方のない事だろう。
 それが分かるのか、シキはいつも以上に豊かな感情を含ませた気持ちの悪い苦笑で、言った。

「まあ、実につまらない忠告なんだとは思うけど」

 ほっそりとした、だけど卵みたいに滑らかな顎を、肩肘を付いた手のひらに乗せたシキ。彼女は少しだけ身を乗り出して、意地悪い笑みを作った。

「だから何よ」

「間違ってもさ、衛宮の前であんなこといってやるなよ。アイツ、今にでも首を吊っちまいそうな顔してたぜ」

 彼女にしては珍しい類の表情を見せたと思ったら……本当に。

「はあ……本当に、つまらない事言ってくれるわね、そんなのわたしが何よりわかってるわよ」

 大きく息を吐き出して、わたしは馬鹿な自分を少しだけ振り返っていた。








「―――――――――――どうして、助けに来てくれなかったのよ」

 シキが一応の処置を施してくれた途端、わたしは汚いものを吐き出すように、告げた。
 コノカとコクトーがムザムザさらわれた事、その居場所は愚か、襲撃者の目的すらも掴めていない事、兎に角、色々な困惑や怒気が綯い交ぜになって、わたしは喚いていた。
 今になって振り返ってみれば、こんな元気が残っていたのならば、どうしてあの時、襲撃してきた魔術師に対してもう少し奮戦できなかったのか。

「シロウも、セツナも、シキだって!! 守ってくれるんじゃなかったの、大切なんでしょう!! コノカも、コクトーも……それが、なんでよっ!!」

 口に出したら止まらないモノで、この時のわたしは、発狂した小鳥みたいに囀っていた。自分の無力を棚に上げて、自分の責任を誰かに押し付けて、自分の苦しみを他人に背負わせて。ただ、甘えているだけだった。親から与えられるだけの存在、そのくせ、一丁前に空を飛びたがる。今のわたしと、一体何が違ったのか。
 頭では分かっている。シロウ達の所為ではない、コノカとコクトーが連れ去られたのも、わたしが、今こうして倒れているのも。
 冷静にこの時の状況を思い出してみれば、皆傷だらけだったのだ。セツナはそれこそわたし以上の重症だし、シロウだって体中泥まみれで頬や額、首筋には獣の牙や爪で引き裂かれたみたいな生傷が目白押しだ。

「ゴメン」

 立ちんぼで俯くシロウの声も、その内にあった思いも、この時は気付けないでいた。なんて、無様なわたし。
 その深い煩懊の表情を、奥歯を噛み締め血すら滲ます両の握りこぶしを、そこにあった自責をどうして悟ってやれなかったのか。他ならない、大好きなお兄ちゃんの事なのに。

「謝ってなんか欲しくないっ!! 守ってくれるんじゃなかったの! 正義の味方なのに、たった三人ぽっちの人間も守れないのっ!! バーサーカーなら、絶対、わたしを……」

 ただ泣きじゃくるだけのわたし。むせび泣く哀れなわたし。この時、考えられたのは自分の事だけだった。
 体が痛いのは、嫌だ。心が痛いのはもっと、嫌だ。だけど、シロウから離れていくのはもっとずっと嫌だ。それなのに、自分はなんて矛盾を相手に押し付けていたんだろう。

「バーサーカーだったら。きっとあんな魔術師の言葉からだって、わたしを……守ってくれた、筈なのに」

 そして、わたしは言葉を切った。
 堕ちる沈黙。ただひたすら、相手にもわたしの痛みを知ってほしかった。哀れで愚かなイリヤスフィールは、それをいい気味だと、無様に思考したのだ。きっとわたしが受けた傷なんかより、シロウは苦痛に喘いでいたはずなのに。

「ゴメン」

 本当に、わたしは馬鹿だ。シロウの心を無碍にする言葉しか選べなかったんだから。

「………でてって」

 沈黙以外の返答が、果たしてシロウには在ったのだろうか?
 お父さんから受け取った願い、アイツに約束した理想。その重みを知っているわたしが、どうしてシロウの繰り返し紡がれた“ゴメン”なさいを、受け取ってあげることを選べなかったのか。

「………言い訳の言葉も見つからないの? いいから、出て行って。貴方の顔、今は見たくないの」

 駄々をこねた子供と何一つ違わない。そのままわたしは布団の中で横になった。
 暗闇が深くなったのは覚えている。きっと、わたしはシキの言うように眠りに落ちていたのだろう。

「ゴメンな、イリヤ」

 シロウが紡いだ、自らに向けられた殺人衝動。
 それを無視して、わたしはまどろんだ。








「……………うわっ。サイテーだ、わたし」

 思わず貌を覆ってしまう。ガキンチョだ、こんなの。

「まあいいんじゃないの? イリヤにも可愛いところがあったってことだろ」

 先ほどの遣り取りをあっけらかんと今の言葉で済ましたシキは、驚きを通り越して凄まじい。

「たまには、甘えればいいさ。ま、大分偏屈ではあるけどな、イリヤの愛情表現。どれくらい偏屈かっていうと、衛宮と同じくらいひん曲がってる」

「それはいい過ぎじゃないかしら? 幾らなんでも、そこまでは」

「無いってか? あるね、大ありだ。幹也と鮮花以上に捻じ曲がった兄妹がこの世に存在していたなんて、夢にも思わなかったぞ、オレは」

 シキの中で今の話題に一応の決着がついたようだ、彼女は大きく足を投げ出す。和やかだった微笑がそこにはなく、だらけた体とは対照的に、真摯な瞳がそこにはあった。
 落ち込むわたし向けられた、全てを見透かすような黒い双眼。それが、ただわたしを見ている。

「……まあ、あんま気にすんなよ。イリヤがいったこと、全部真実だと思うしな。正義の味方を目指す奴がいて、たった一人を守ると決めた奴がいて、そう吹聴して回ってた奴等だ。それが壊れて、誰かに罵倒を浴びせられたからって、落ち込むのは見当違いだよ。だから、イリヤの気にすることじゃない。笑えよ、お前の言ったことは、至極最もだ。なんせ、誓いを立てたのは他でもないあいつ等なんだから」

「何よそれ、へんな慰め方ね」

 ふっとシキが笑う、つられて、わたしが自然と笑みを溢す。だけど違うよ、シキ。

「でもね、わたしはシキみたいに割り切れないよ。前にも言ったよね、わたしは強くなりたいって。お兄ちゃんと一緒にいるために、強くありたいって」

 一つ一つ言葉にして、噛み締めるように。
 わたしは傷む体を起こした。肌蹴た上半身が寒さにブルリと震えた。暖房が機能していないのか、暗く狭い寝屋の所為もあって、すこし物寂しい。

「ああ」

 と、だけ短く頷いたシキ。それは、いつかコクトーがくれたモノに似ている。

「強くなったと思ってた。トウコやシキと一緒に鍛錬もしてきたし、色んなお友達だって出来て、ずっと、前よりずっとシロウに近づけた。前よりずっと、わたしは魔術師として生きているって実感していた」

 わたしは俯いて、握られた小さな両拳を恨めしく睨んだ。

「ああ、それで?」

 放っておけば、わたしはその内に欝にでもなっていただろう。シキの長閑な声が挟まり、そんな風に落ち込んだわたしの貌を上げさせる。

「でも、シキだって分かったでしょう? さっきのわたしの態度を見てさ」

「それは詰まり、鼻水垂れ流してほっぺた林檎みたいにして泣きじゃくった“さっき”の事か?」

「うっ……そうよ、その時よ。なら、分かった? わたしはね、いつだってお兄ちゃんにおんぶ抱っこだったんだ。一丁前にかっこつけて、強くなれた自分を、上っ面だけの綺麗なドレスで着飾ってさ」

 思い出す、あの魔術師が残した言葉を。目蓋を閉じる必要も無い、思い返す必要も無い、今だって体の傷以上に、心がきつく軋んでいるから。

「ふうん、だから?」

 欠伸交じりにシキは言う。その気安さが、今は有難かった。

「気付いちゃったのよね、自分の弱さとか、自分の汚い醜さとか。わたしは、結局ニセモノだったんだなって。おこがましいのよ、たかがイリヤスフィール(道具)の分際で、シロウの隣、本物(アイツ)が見ていた風景を守りたい、見てみたいだなんて」

 そして締めくくったのは、きっと諦めだった。ニセモノ、本物だって信じていたかったけど、わたしはこんな汚いニセモノだった。鏡をみて、自分自身を見せ付けられて、こんな無様に気付くなんて、本当、なんでさ?
 でも、それでいい、ニセモノでも、シロウと同じならそれもいいかなんて考えてしまう自分が、無性に腹立たしい。

「ニセモノ、ねえ」

 退屈ココに極まったと、シキは髪をかきむしり、いつの間にかさんばら髪へ。

「なんでだ? いや、なんでさ? だっけか? 衛宮ならきっと、こういうぞ」

 シロウを真似たらしいシキの間抜け顔に、思わずわたしは吹き出した。っていうか、シロウの顔と口真似、イコール変な顔って、酷いなぁ。わたしも、シキも。

「少なくとも、お前は本物だよ。イリヤ。そいつはオレや幹也や、そして何より衛宮が一番分かってる。信用しろよ」

 わたしの微笑みに、どこか安堵の表情を見せたシキは、ずいっとわたしの布団まで近づいて一度……でこピンをしたっ!

「いったー、って! 何すんのよ!!」

 あまりに突然だったので、一瞬なにが起きたのか分からない。しかし、オデコに広がる痛みが、克明に今の出来事を教えてくれたのだ。

「でこピン。喜べよ、お祝いだ。赤飯の代わり」

「意味わかんないし!! 人が真剣に落ち込んでんのに、なに言ってのよバカァー!」

 オデコを押さえていた消毒液の匂いがする腕をくるくる回して、シキをパンチする。ポカポカと殴り続けるつもりだったのだが、体が痛いので直ぐに諦めた。

「はん、良かったじゃないかイリヤ」

 何がよ!? 体を走り抜けた電気みたいな激痛に体を抱き寄せたわたし。涙目のわたしの頭を、ぽん、とシキの綺麗な右手が撫で付ける。

「スタートだよ、こっからが。きっとな」

 思わず見とれてしまうほどの、涼やかな微笑で彼女はわたしの瞳を讃えている。思わず、見とれてしまった。

「気付けたんだろ、お前は。自分の弱さと、汚れとかにさ。そんで、変わりたいって、願えるんだろ? 今はさ」

 女性とか、男性とか、綺麗だとか、カッコいいとか。そんな笑みではないのだ、ただ人として、その笑みが、わたしには本当に尊く思えた。
 そんなシキの穏やかな笑みの所為だろう、諦めていたわたしが、自身の醜さに絶望したはずのわたしが、―――――はっきりと、頷いたのは。

「うん、上出来だよ。何せオレは、自分の事を見つめるのに、どれだけ時間をかけたのか分かったもんじゃない。それを考えれば、イリヤ、お前はすごいと思うぞ」

 何かを超越したはずのシキの微笑が、何故か急に女の子らしいはにかみへ変わる。
 ははーん、コクトーとはやっぱり色々あったみたいだ。ま、それを言及するほど、わたしも無粋ではないけれど。

「だからな、イリヤ。顔、上げろよ。多分遠い、アイツの隣は、きっとな。さっさと走り出さないと、いつまで経っても追いつけない」

 シキは、そういって立ち上がる。

「根性見せろ。どん底から追い上げは、結構辛いぜ?」

 その背中が、ただ頼もしい。

「冗談。それ位がいいハンデよ。でなきゃ、シロウに直ぐ追いついちゃうじゃない。そんなの、つまらないわ」

 シキを見上げながら、わたしは言い切った。
 醜いわたし、無様なわたし、何より、弱い自分。だけど、だからこそ、それを知らなきゃ、強くなることだって、望めない。
 軋む体は、やっぱり痛い。だけど、ソレだけだ。きっと、今なら立ち上がれる。頬に貼り付けられた湿布を力任せにはがして、痛みをスイッチに体を覚醒させるのだ。
 最初の一歩踏み出さないと。どんなに醜くて、ちっぽけな今でだって、わたしにとっては大事な一歩だから。きっと、コレには今まで以上に大きな意味があるはずだから。

「へへ、やっぱやるじゃん、わたしってさ」

 震える膝で、絶え絶えの呼吸で、だけど、わたしは確かに立ち上がった。直ぐによろけて、シキの着物の裾を力なく掴んでしまうわたし。
 だけど、それでもシキは、キチンとわたしを受け止めてくれるのだ。

「ああ、大したもんだよ」

 シキの裾を掴んだまま、わたしは黒い夜空に身を晒す。
 わたしは澱んだ思考を拭い去るためにも、襖を開き、冷たい夜の外気に身を晒したくなったのだ。
 柔らかいシキの表情は変わらない。彼女の眺める月が、もう少しで沈んでしまう。

「んでな、イリヤ。モノは相談なんだが」

 遠くを俯瞰したままのシキ。無感情、無感動、何時ものシキと何一つ違わない気やすさで、彼女は言った。

「言っとくけど、譲らないよ、わたしは」

 つん、と復調したわたしはコンマの遅れも無く釘を刺す。まだまだ強がる自分が、ちょっと素敵。

「ちぇ、お前の代わりはオレが出来ると思ったのにな。坊さんとは一度やったが、魔術師と真剣に殺り合うのは初めてだったから、結構興味があったのに。損したぜ、イリヤを慰めてさ」

 どうせ、そんなこったろうと思ったわ。
 残念だと、表情と全く正反対の言葉を彼女は口にする。初めから譲ってくれる気だったくせにさ、本当に彼女の気の遣い方はややこしくていけない。
 まあ、コクトーに言わせればそこが可愛いらしいのだけれど。この二人の恋愛感も、かなり捻くれていると思うのは、わたしだけでは無い筈だ。

「それじゃあ、イリヤ」

 見上げた空は未だ暗い。それでも、暗闇だからこそ映えるモノもあるのだろう。高いお月様を見上げながら、シキの悪戯を思いついた少年みたいな笑い声に耳を傾ける。

「どうやって、そいつをボコボコにしてやるんだ?」

 最も、そう微笑んだのは、彼女だけではないのだが。



[1027] 第三十五話 黄金残照
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 06:15
/ 14.

「よお、隣いいか?」

 俺は縁側で夜闇の深さに浸る桜咲の隣に歩み寄った。
 近衛家秘伝の練薬を塗りつけた絆創膏を、ぺたりと貼り付け、ぼんやりと京都の街を見下ろす彼女。
 時刻は朝の四時だ、見下ろす街には灯り一つ無い。海の底に沈んだ街ってのは、もしかしたらこんな風かもしれないな。
……ってな事を考えつつ、桜咲の返事を待ってはいるのだが一向に返答は無い。立ちっぱなしもアレなので、無許可に腰を下ろすことにした。

「………隣に座ることを許した覚えは無いのですが?」

 マナの大海に沈む街を見つめたまま、少しだけ不機嫌にぼそりと嘆く。

「そう言うなよ。イリヤに出て行けって言われて、どうしたもんかと時間を持て余してたんだ。打ちひしがれるだけなら、一人も二人も変わらないだろ?」

 無愛想な桜咲の声に安心するってのは、どういうつもりなんだろうか、俺は。多分、さっきまでの弱々しかった彼女の声に、幾分も生気が混じっていたからだろう。
 ジャケットのポッケで悴んでいる両の手を一度だけ開いて、桜咲の貌を盗み見る。彼女に表情は無かった。そりゃ喜怒哀楽の激しい奴ではないが、こんな冷淡な無貌を俺は初めて見る。なんていうのか、血の気が引いたみたいだ。
 寒いのか? そう尋ねようとして、直ぐにやめた。理由は無い、ただこの場には相応しくないと思ったから、俺は口をつぐむ。

「あー……イリヤを怒らせちまった後さ、近衛の親父さんのところに行ってきたんだ」

 だがずっと沈黙っていうのも痛々しいので、無理やりにでも話を切り出すことにした。自分から桜咲の隣に腰掛けておいてなんだが、非常に気まずい。真夜中を通り越してもう直ぐ明け方だ、寒いのは当たり前なのだけれど、桜咲の“あっちいけ”な雰囲気が三割り増し位で空気を凍らせている。

「ほら、詠春さんも大怪我だろ? 一応見舞いにと思ったんだが、そこでさ何よりも嬉しい話をしてくれたんだ。喜べよ、吉報だぞ桜咲。なんとな、近衛や幹也さんの居場所が分かったんだと。凄いよな、襲撃があってからまだ一時間だぜ? 本部がこんな状態にさせられて、情報系等の混乱だって尋常じゃ無い筈なのに、この手際だ。近衛の親父さん、やっぱ流石だよ、この短時間に混乱を落ち着かせて、おまけに今回の襲撃者達のアジトまで見つけちまうんだから」

 襲撃者側の本拠地にして京都の街の異変の中心地、詠春さんは龍界寺とか言っていたが、この場所に近衛が運び込まれたのは間違いないらしい。今回の事件、その首謀者側に大きな動きがあったため、その追跡は容易だったという。転んでもただでは起きないとはこの事だろう。
 だが、この話を詠春さんから直接聞いた時でさえ彼の表情は余り明るくなかった。

「ま、いいこと尽くめでもないらしけどな。何でも、事件の首謀者は自分達の拠点が今回の本部襲撃の後には遅かれ早かれ露見することも分かってるはずだって」

 詠春さんはこうも言っていた。コレだけの手際を見せ付けた奴等である、きっと追撃者に対する拠点防衛の点に関しても、用意周到であると視て間違いないのだろう。
 その第一の証拠に、現在、京都各地に集中して群がっている人外の処理が上げられる。京都駅でカガミが使用した匂い袋のような魔術礼装。それが京都の要所要所に設置されているらしく、街に展開している機関員は近衛奪還の作戦には参加できないらしい。コレも、恐らくは首謀者側の計画道理だろう。初めてカガミに出会った日、アイツはもしかしたら誘蛾灯みたいな例の礼装を、各地に取り付けていたのかもしれない。
 それは兎も角、詠春さんの見込みでは現在本部に残った戦力のみで、龍界寺に乗り込むことを余儀なくされている。状況は、あまり好転しているとは言いがたい。

「それと、奴等の目的なんだけどな、詠春さんの見解では“孔”を開くことだろうって。詠春さんさ、今回の首謀者の一人のことは良く知っているんだと。だからそいつの目的も何と無くだけど想像が出来るんだってさ」

 復讐。使い古されて、実に馬鹿馬鹿しい理由だ。桜咲が話してくれた、“魔”とやらが湧き出る門を完全に開かせて、京都の街を壊滅させる。何だそれ? もはや何に対しての復讐なのか分かりもしない。

「復讐、ですか……そんな大層なモノではありませんよ。ただ許せないだけです。自身を否定した“誰か”かが、顔も知れない誰かがね。貴方が顔も知らない誰かを守りたい様に、彼女も顔も知らない誰かが憎いのです。理由があるとすればそれだけ、与えられたモノを、ただ返すだけですよ」

 いい加減、俺が独り言にも飽きてきた所に、やっと桜咲が口を挟んでくれた。ただ遠くを見つめながら、どこか悦に浸る様子で淡々と口にした彼女。
 どうして、お前にそんなことが分かるのか。どうして、そんな全てを見限ったような瞳で自嘲気味に微笑むのか。何故だろう? 俺には、ソレが妙に腹だたしく思えた。

「それにしても……」

 桜咲は、卑屈なままそう付け足した。俺のことなどまるで無関心な様で、ぼんやりと暗い庭園の先、死んだように変化の無い行宮の街を望んでいる。

「今夜は随分とお喋りなのですね。先ほど、イリヤさんにだって辛い一言を浴びせられたというの。いい気なものです。どうして、貴方はそんな………」

 癇癪一歩手前の苛立ちを隠そうともしない桜咲。早口にいいってやるつもりだったその言葉を。




「お気楽?――――――――――――そんなわけねえだろ」




 怒気さえ孕ませて、俺は断ち切った。
 殺気の矛先、桜咲では無い筈なのだが、ビクン、と桜咲の体が強張った。それでも、貌をこちらに向けようとしない拗ねた意地らしさが、どこかコイツらしい。

「……すまない。失言でした」

 余計に小さくなりながら、桜咲は背中を丸めた。あんなに俯いてしまっては、きっとお腹の傷に触るだろうに。だけど、それを言うのは憚られた。誰にだって、自分を痛めつけたい時ってのがある物だ。正に、今の俺自身がそうなのだから。

「いいさ。誤解を生むような態度を取ってる俺が悪い。こっちこそすまない。たださ、じっとしてたら、情けなくて死んじまいそうだから」

 詠春さんの見舞いをしたのも、コイツの隣に座っているのも、何か俺に出来ることがしたくて、自然と足を運んだだけなのだ。

「イリヤに言われた事は、勿論辛い。だけどそれは事実だし、絶対に目を逸らしちゃいけないことだと思う。俺は俺なりに、月並みだけど、今だって出来ることはちゃんとあるんだよ。だから、落ち込むのはその後だ」

 俺は苦笑しながらその事実を包み隠さず伝えた。そこで漸く、か細い笑みではあったが、桜咲が口元を緩めた。

「本当に、貴方は懲りない人だ。参考までに聞きたいですよ、どうして」

 一途に、信じ続ける事が出来るのか。
 笑顔は一瞬で掻き消える、喪失感にまみれて紡ぎだされた桜咲の疑問はほとんど消え入りそうな程だった。

「衛宮、貴方は以前………言いましたよね?」

 肩を付き合わせる程の距離で、俺と桜咲は隣り合っている。だけど、この距離がどうしてこんなにも遠く感じてしまうのだろう。

「正義の味方になるのだと。みんなを救える、正義の味方になるんだと」

 話の趣旨が見え無いけれど、俺は頷いた。一向に俺の貌を見ようともしない桜咲の横顔から、目を逸らせないままに。

「………では、一つ聞きたい」

 頼りないほどに、かすかな声。
 桜咲はその問い掛けに、その回答に、恐怖している。口に出してはならない忌避していた思いを、けれど聞かずにはいられない。そんな懊悩とした表情で、いった。

「スクイは、コウフクは、私にも………与えられるモノなのでしょうか。何者でもない私にも、それは相応しいモノなのでしょうか?」

 ―――――教えてください、衛宮―――――

「貴方なら、私にそれを与えることが出来るのですか?」

 砕けそうなほどの痛烈な微声。自身の疑問に苛まれ、桜咲は膝の上で握られた両の手を硬く握り締めていた。怪我の所為で、大した力も込められないはずなのに、その小さな拳骨は震えるほどの意思が込められていたのは、想像に難くなかった。





Fate / happy material
第三十五話 黄金残照 Ⅰ





/ feathers.

 馬鹿だな、私は。
 かような問いに、一体誰が答えられるというのか。本当に嘆かわしい、今の私に出来るのは、自らが作り出した沈黙に窮して、ただ下を向いていることだけだった。
 衛宮の顔を直視することなど出来ない。だって涙が出そうだ。このちゃんを失い、半端モノに舞い戻った汚らしい私が、彼の瞳を、どうして捉えることができよう。
 眩しすぎるのだ。私は、醜い自分など見たくなかった。眩い光で照らし出されるのは、もう、――――嫌なのだ。

「分かんないな、俺」

 たっぷり二十秒くらいの沈黙を破り、疑問符を浮かべながら衛宮は口にした。当然の回答だろう、幸せだの救済だの、衛宮は哲学者でも何でもないのだ。私と同い年の少年、彼に分かろう筈も無かった。
 そう、思っていたのに。

「なんでさ? そんな事を聞く理由、俺にはさっぱりだ。そんな簡単な答え、お前はとっくに知っているモノだとばかり思ってたのに」

 いつもの素っ気無い声色で、本当に分からないと。再度衛宮は口をもごつかせる。
 驚きの侭に、顔を上げた。あれほど忌避していた衛宮の瞳を直視出来たのは、驚愕故に思考が停滞していたからだろう。

「な、なんだよ? 急に顔を上げたと思ったら、なんで怒ってるのさ!?」

 私の急変に、あからさまにうろたえ失礼な事を口走る衛宮。だが、そんなこと今はどうでも良かった。

「答えを、衛宮の答えを聞きたい。言ってくれますね?」

「そりゃ、聞かれたんだから答えるけどさ……」

 私に答えを急かされて、頬をかく姿は少しだけ幼く感じられる。
 そうして私は待っていた、それがどんな回答にせよ。希望と絶望、そんな境界で曖昧な表情を被ったまま。

「答えは、多分ノー………かな? あくまで俺の主観でしかないけど」

 そして、ぼんやりと古都の景観に目を奪われながら、衛宮は余りに無常な答えを私に押し付けた。

「そう……ですか」

 だけど、コレで答えは得られたじゃないか。また、戻ればいい。赤い女の答えは、正しいのだ。結局、与えられる幸せなど私達には初めから無い。
 コウフクの総和はいつだって一定。この世に存在する神秘がそうであるように、この真実は覆らない。
 再び沈黙。だが、何も感じなかった。先ほどまで痛々しかったこの静寂が、今はどうでもよかった。空っぽに戻れば、コウフクなど望まなければ、もう痛むものなんて何も無いのだ。
 そう、心の底から思えたはずなのに。

「お前、泣いてんのか?」

 慌てふためくデリカシーの無い男に、その事実を気付かされてしまうのだ。知りたくも無かった自らの感情、表情、そして衝動。ガランドウの少年が、鏡の様に私を映す。

「泣いてなど、いません」

 グシグシとジャージの袖で目じりが赤くなるくらい、毀れ出す何かを拭った。止む気配の無いそれが、私を一層惨めにしてくれる。

「いや、でも……」

「しつこいです。泣いていると思うなら、見ないで下さい。女性を泣かせるわ、おまけにそれを眺めているなど、衛宮はサイテーだ」

 妹さんの前例もあるため、ぐうの音も出ないといった表情で衛宮は押し黙った。涙の所為だろう、暗闇に満ちた寒気は痛いほどなのに、段々とそれが薄まっていく。体温が上昇しているのだ。

「あのさ、桜咲」

 衛宮は男物のハンカチを、私から目を逸らしたまま渡してくれた。今時、清潔に保たれたハンカチを常時携帯している青年男児など珍しい。そう考えながら、白いハンカチを受け取り、鼻をかんで、それを放り捨てた。何をしているんだ、わたしは。子供の嫌がらせと一緒ですよ、これじゃあ。
 衛宮のハンカチは庭園に転がって、無常にも木枯らしに飲み込まれていった。それを目で追う衛宮は苦笑と共に、何気なく言葉を紡いだ。

「さっきの話、まださ、続きがあるんだ」

「続き……ですか?」

「うん。お前はさ、“幸福が与えられるか”そう聞いただろ?」

 私は赤い瞳を衛宮に向けて、頷いた。私に話を聞く余力が残っていると判断したのだろう、衛宮はのんびりと続ける。

「その答えは、やっぱり違うと思う。だけど幸福ってのは、与えられたモノが全てじゃ無いとも思うんだ。大切なのは、ただ手を伸ばすこと、ただ望むこと。ただ信じ続ければ誰にだって手に入れることが出来るものなんじゃいかな、それって」

 言って、衛宮は縁側に体を倒した。遠く京都を見つめていた瞳が、遠い、それより尚遠い遥か上空、夜陰に融ける白い孤月に向けられる。

「手を、伸ばすだけ。ただそれだけで、手に入るんだ。変な話だよな、そんなモノが、きっと何よりも大切なモノなんだから。ただ、それに気付けばいいだけなのに、だってそうだよ、そんなモノ、そこらじゅうに溢れてるんだから」

 ――――――何が間違ってるんか、それだけは分かるで―――――――

 言葉が、重なった。
 与えられる/手に入れる■■。

「衛宮、それは……」

 遠い夜空。お嬢様を奪われたこの日、見上げた空は、何一つ変わらないのに。

「ん?」

 ぱちくりと目を瞬かせて、横になったままの衛宮は此方を覗き込む。
 きっと何かが変わったのだ。そんな自分を確かめようと、夢は未だ見続けることが出来るのだと、そう信じるために、震える声でそれでも明瞭に言葉にした。

「それは、真なのでしょうか? コウフクは、ただ望めばただ信じれば、手に入れることが出来るモノなのでしょうか」

 ――――――――――――――どんなに醜い、私でも。本物になれない、私でも。
 暗闇に黎明が差し込む。そう思えたはずなのに、弱い自分はいまだ掠れる声で言葉にすることしか出来なかった。
 それでも、彼には届くのだ。憐憫な悲境の声を、彼は掬い上げてくれるのだ。だって彼は、正義の味方なのだから。

「あのなあ、お前はそう望んでんだろ? 幸福とか、救いとか、そんな大層なことじゃなくたっていいさ、ただ毎日が楽しかったらいいなって、近衛と一緒に笑えたらいいなって、願えるんだろう」

 ――――――――――心の底からさ。
 衛宮は、自分で言った台詞に貌を赤く染めている。羞恥に駆られる必要など皆無なのに、私の視線から逃れようと寝相を変えた。彼の余り逞しくない背中が私に向く。

「ええ、だけどそれはいつだって自分のため。独善的です、そんなの」

 意味も無い抵抗は、私の口から零れていた。
 私は、衛宮の変わりに空を望むことにする。理由は、そうだな……空の広さに、自分の矮小さを重ねてみたくなったのだ。

「馬鹿。そんなわけあるか。幸福なんてな、誰だって自分のためにしか願えないさ。近衛だってきっとそうだ。それに、俺は“幸福になりたい”って思いが独善的だなんて思わないし、思えないよ」

 衛宮の背中が、語っている。
 別段男らしいと言うわけでもないし、カッコいいというわけでもない。古典的な浪漫映画に代表される“漢の背中”という言葉が脳裏に浮かぶが、どうやらそれも該当しないらしい。
 彼のコンプレックスでもある小さな体が、何故だろう、私の目には悲しく映る。

「その想いは、きっと“本物”の奴にしかありえないんだ。世の中にはさ、いるんだよ。幸福なんて、ちっぽけで当たり前の願いすら、気付いていたのに、手を伸ばさなかった、もっとずっと意地っ張りで馬鹿な奴が」

 少なくとも二人は、と衛宮はいった。
 まるでそれが、自分に許されたたった一つの後悔であるように。それを、間違いであるはずのその答えを、何よりも美しいと信じるように。正義の味方、捩れた理想に微塵の疑心すら抱かぬ少年が、たった一つ、守り続けたい未練であるように。

「にしてもさ、桜咲」

 不貞腐れた様に背中を向けたまま、彼は語調を強めた。

「なんです、衛宮」

 何故だろう、心が嫌に晴れやかだ。
 未だ、私は伽藍のまま。だけど、何かが満ちている。独善的な自分は、何一つ変わっていないというのに、今は何かを信じる自分がいた。

「可笑しな話だよな。俺に、これを気付かせてくれたのは、他でもないお前らなのに、今はこうやってお前に説教してるんだぜ?」

「おや、コレは説教だったのですか。それは頂けない、私はてっきり口説かれているものだとばかり思っていたのに。コレだけ臭い台詞です、てっきり、貴方の殺し文句かと」

 皮肉を自然と口にしてしまう現金な自分が、少しだけ誇らしく思えた。くっ、と込み殺したような微笑が、衛宮から漏れ出す。

「ま、そうだな。我ながら、恥ずかしい奴だよ。こんな台詞が、常套句ってんだから」

 そこで、衛宮は漸く体を起こした。ジャンバーに紛れた彼の赤土の様な匂いが、明け方の冷たさに消えていく。

「――――――――助けないとな、近衛」

 鋭くなる彼の眼光と、何処かに潜んだ誰かを射抜く強い意志。
 そんな彼に呼応して、いつの間にか鋭利に磨がれた私の言葉が引き抜かれた。

「ええ、当然です。奪われたら、取り返す。何度だって、手を伸ばします」

 そう、たったそれだけの事だ。何故、こんなことすら忘れていたのだ。その在り方を、その生き方を、私はあの時、あの場所で、先生たちと一緒に手に入れた筈だったのに。
 与えられる幸福が私に存在しないというのなら、手に入れるだけ。私を囲う伽藍の壁が、行く手を阻むのであれば、その壁を切り崩そう。黎明が訪れぬ空であるなら、天光溢れる地平に飛ぼう。普天率土の果てまでも、その翼を広げよう。
 よもや、それが出来ぬとは言わせぬぞ、桜咲刹那。

「しかし、衛宮。私はがっかりだ」

 ツッカケを履いて、私は暗闇の庭園に足を踏み出した。
 暗闇、訂正しよう。京都の街より遥か彼方、地平の先は白光が指している。

「衛宮は正義の味方なのでしょう? それがどうして、貴方が言う“ちっぱけな”モノすら与えることが出来ないのかと。それは、職務怠慢なのではないですか?」

 体の痛みは勿論残っている。だが、殊更に軽かった。体とは、こんなに軽いものだったのだろうか。そんな軽快な想いを噛み締める。そして、未だ縁側に腰をすえる衛宮の無愛想を眺めながら、嫌味に限りなく近い毒を吐いた。自分の復調を確認する意味でも、これは意外と重要なのです。

「おいおい、なんだそりゃあ。コレでも一杯一杯だよ。真面目に意義ありだ。仕事の分業化と細分化を切実に要求するぞ、俺は」

「却下です。人員が不足しているのですから、承諾できません。昨今、正義の味方は需要が無いですしね、貴方一人が頑張る以外に手立てがありません」
 
 それじゃあ仕方ない、と衛宮は苦笑する。その笑みは、どこか安心したように感じられた。心配をおかけしました。そう心のなかで頭を垂れた。
 “ゴメンナサイ”もしくは“アリガトウ”だろうか? どちらにしろ、そんな表面的な労いの言葉は、衛宮に相応しくないと思う。
 きっと、普段の自分を見せ付けてやる事が、衛宮にとって一番の返礼であると信じたかったのだろう、私は。

「でもなあ桜咲。一つ言っておくぞ」
 
 彼の溢れ出す苦笑は、止むことが無い。私は、彼の微笑が割合気に入っている。誰かの為にだけしか溢せない狂った笑み、だけど、それはいつだって優しいから。

「俺はさ、多分幸せを与えることは、いつまで経ったって出来ないと思うし、それをしようとも思えないんだ」

 ただ、何と無く。もはや自身の血流にさえ溶け込んだような彼の願いは、当たり前に口にされる。
 それを黙って見つめる私は、他人から見れば好きな男性を見つめる乙女にでも見えたのかもしれない。最もそれは、宇宙的に壮大な勘違いではあるのだが。

「―――――――――――それは、何故でしょう」

 嘆いた疑問に感情はなく、ただ、相槌をうっただけの私。

「だってさ。俺は正義の“味方”だぜ? 出来ることって言ったら、精々正義なんて絶対のモノの片棒を担ぐことだけさ」

 瞳を閉じる彼は、誇らしげに頬を緩める。

「つまりはそう言うこと。幸せを与えることなんて、絶対の正義だろうけど。生憎俺は、“正義の味方”だから、―――――――」

「“幸せになりたい人”の、味方をしてやる事くらいしか出来ない。ですか? モノは言いようですね」

 先を越されたのが不服なのだろうか。笑みが消えて、仏頂面を被りなおす衛宮。不満げな半眼が、私に向けられる。
 ですが逆効果です。今の私は、何故だかそれがとても喜ばしい。肉が焦げる痛みも、骨が軋む苦痛も、忘れてしまうほどにね。

「やっぱさ。コレも詭弁なのかな?」

「ええ、間違いなく。前向きでは、在りますが」

 そうか、とだけ彼は小さく頷いただけだった。暗い表情は無い。ただ、それを受け入れただけだ。

「だけどね、衛宮」

 でも、その想いがこじつけでも、間違いでも、それでもいいのだと、私は思う。
 素足を朝霧でしとどらせながら、半の僅かでも、衛宮に近づく。自分でも、驚くほど優しい声を発していた事に気付いたのは、朝靄の中から、衛宮の少しだけ見開いた瞳孔を見つめたときだった。

「貴方は、私の味方でいてくれるのですよね? だったら、それはとても嬉しい事です。それだけ、十分ですよ」

 翼のはためきが、山風の嘶きと共に木霊している。
 深い夜が明け、そして光が差し込むまで、幾許の猶予も残されていないだろう。
 決戦は、もう直ぐ訪れる。
 月の残照はもう直ぐ消える。だから、その前に。

「行きましょうか、龍界寺に―――――――――――――」



[1027] 第三十六話 黄金残照
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 06:22
/ .

「………ん」

 暗闇から暗闇へ。目蓋を開けると、そこはどうしてか真っ暗だった。

「起きた? 気分はどうかしら」
 
 聞きなれたくなかった硬質な声に、耳だけがピクリと動いた。声は後ろから。転がっていた体を起こそうとしたのだけれど、両の手と足を荒縄でこれでもかって位きつく縛ってあるため、それを断念する。
 芋虫みたいに転がったまま、這うように向きを変える。カーペットかと勘違いするくらいの多量の埃が木目張りの床に敷き詰められていたため、ほっぺたが真っ黒になってしまった。

「……まあ、縄で縛られて喜んでしまう愉快な趣味なんて僕には無いので、最悪とだけ答えておきましょうか。それで、ココは何処なんです?」
 
 睨みあげながらの僕の言葉に、「残念、そっちの趣味はないのか」なんて薄ら寒いことを真顔で言ってのけた赤鬼の女性。名前を知らないので、今はこう呼称するしかない。

「ココは龍界寺、その本堂よ。住職とかは、今はもう天に召されてしまわれたから、安心していいわ」

 今の台詞から、一体何を安心すればいいのか甚だ疑問ではあるけれど、僕は一応頷くことにした。
 にしても、ここ、酷く空気が澱んでいる。臓物の中にいるような生ぬるい感じ、暖房が付いている様にも思えないのに、目眩がするほど生暖かいのだ。………忘れるわけが無い、コレは、いつか所長と一緒に調査したあのマンションと同じ匂いだ。
 そんな碌でもない思い出を髣髴させてしまったからだろうか。気を抜いてしまったら、喉元までせり上がって来る嘔吐感に、直ぐにでも屈服してしまいそうだ。

「覚えているかしら? 私とぼうやがはじめて出会った丘のことは」

 僕の体調などお構いなしに、女性は続ける。
 睨みあげる声の行方には、赤鬼さんの首だけが、ぼんやりと浮かんでいる。勿論比喩ではあるが、彼女の目立ちすぎる炎髪灼眼は暗闇で余りに映えすぎるのだ。
 暗黒の中にあるその赤色は、どこか幽玄でもある。

「丘? ああ、あの荒廃したあの丘の事ですか? でっかい岩がある」

 見とれながらも、僕は彼女の応答を忘れない。経験上、この様な状況でおっかない職業の方を無視すると碌でも無い事になるのは分かっている。いや、彼女の場合はそもそも職種ではないのだろうけれど、似たようなモノだろう、多分。

「そ、覚えてくれていて、嬉しいわ。今だから言うけどね、あの時は驚いたのよ」

「驚いた? どうしてです?」

「だってね、あの場所“孔”が口をあける重要な場所なのよ。近衛木乃香を拉致する前に、私達の居場所を白日の元に晒すわけにも行かないしね。結構ね、あの時はぎりぎりの綱渡りだったんだから。ばれちゃったらどうしようってね」

「はぁ………っ!?」

 っと、よく分からない彼女の言葉に相槌をうって、そこで気が付いた。そうだ、木乃香ちゃんっ!! 僕が倒れてから、一体どうなったんだ!?

「近衛木乃香? 安心して……とは言えないか。まだ無事だけど、繋げれば、何が起こるか分からないものね。兎に角、彼女は別室よ」

 僕の表情の変化を読み取り、詰まらなげに赤鬼さんはいった。
 薄ぼんやりと月明かりが差し込んでくれたため、辺りの輪郭がはっきりしてくる。それだけではない、長ったらしいお喋りのお陰で、段々と暗闇になれた所為もあるのだろう。
 僕が今いる“本堂”とやらは、本堂というくらいだからそれなりに大きな空間だった。高い天井と、三十畳位の板張りの殿宇。
 目の前にある巨大な仏舎利は首がもげている。?げた首は一体何処だろうと思って探してみれば、彼女が座るお尻の下にそれはあった。……なんて罰当たりな。別に仏教信者というわけでも無いけれど、僕にはとてもじゃないが真似出来ない。

「………木乃香ちゃんをさらって、一体何をしようっていうんです、貴方は?」

 それは兎も角として、いの一番に聞かなくてはならない懸念を、尋ねることにした。考えてみたら、コレを聞いていなかったのも可笑しな話だ。

「当てて御覧なさい。どうして私は近衛木乃香をさらったの、どうして京都の街をこんな風にしたの? 意外とね、単純でお馬鹿な理由よ」

 彼女に少しも似合わない思慮を欠いた笑い声に、カチンときた。京都の街で、木乃香ちゃんの実家で、一体どれだけの人間が死んでしまったと思っているんだ。
 僕に無関係な誰かが死んだ、言葉にしてしまえばそれだけこと。大体、馬鹿みたいに膨大な年間行方不明者数の数字をインターネット上で流し見たところで何も感じない僕だもの、別に綺麗ごとを言うつもりも無い。
 正直、悲しみだってちっぽけなモノだ。だけど、それでも“許せない”なんて衝動が湧き上がることは、可笑しいのだろうか?

「ふざけないで下さい。貴方は、人を殺したんですよ? それも、たくさん………」

 人殺しは悪いことです、だから止めましょう。僕が苛立つ理由の、きっと大部分がコレだ。
 自分の知らない人間が死んだ、それは辛いことだし、悼むべき事だとも思う。だけど、実際に悲しむことが出来る人間がどれほどいるものなのか? 少なくとも、僕にはそれを表面上取り繕うことは出来ても、心の底から涙を流すことなど不可能だ。
 考えてみれば、そんな僕の言葉に一体どれほどの説得力があったのだろう。

「そうね、だから何? 私を、人間が作った物差しで計れると思っているの? 人殺し?そんな価値観、とうの昔に捨て去ってしまったわよ」

 赤鬼さんは、甲高い笑声をより一層強めていく。僕は、何故だろう、それが悔しくて堪らなかった。

「それで、ぼうや。答えには辿り着けたかしら?」

 僕の反応を楽しむように、彼女は足を組み替えた。ギシリと、古い板張りの床が軋み声を上げる。
 黙ってその軋みに耳を傾けながら、僕には沈黙と言う回答しか選ぶことが出来なかった。

「分からない? それじゃ、少しだけ昔語りをしてあげる」

 大昔………と女性は言いつぐんで直ぐに訂正した。ほんの少し前の話、この街には一人のバケモノがいたそうだ。
 極平凡な過程/家庭にありながら、境界の外側に放り出されてしまった少女。それがバケモノ。それが発生した瞬間だったそうだ。
 始まりは、皆と何一つ違わなかったのだと言う。両親のとの暖かい夕食や、友達との退屈で在りがちな時間。その中で、少女は生きていた。
 変化は、唐突だった。いや、変化と言うものがあったかのかどうかさえ、少女には分からなかった。
 それは、はっきりとした自我の芽生えた最初の日。少女の中に、何かが混ざっていると少女自身が認識した日。多分、変化はその瞬間だったんではないだろうか?
 少女の景色はその日を境に色を変えた。
 最初に変わったのは、自分。
 全てが、反転して見えたという。
 一生懸命努力して、皆と違う自分を変えようとした少女。一生懸命頑張って、正常と異なる自分を隠そうとした少女。
 それでも、緩やかに何かが腐敗していった。なまじ正常に浸ってしまった少女だ、その変化には鋭敏だった。
 それなりに季節が巡って、両親の視線が変わった。隠していたはずなのに、どうして? 少女に、それを問いだし、開き直る勇気は無かった。
 人間の汚染能力とは凄まじいもので、両親の変化を契機に、世界は完全に少女を否定した。
 そこからは、もう雪だるま式と言う奴だ。彼女を取り巻くヒト、ヒト、ヒト、ヒト。その全てが、彼女を侮蔑し、哀れみ、否定した。
 もはや彼女に、居場所は無かったのだろう。異常と言う世界に追いやられた少女は、それでも堪えて、耐えて、そして、ついに何かが絶えたのだ。

「私はただ、幸せでいたかっただけなのにね」

 ポツリと、最後に少女は嘆いた。

「………復讐、でしょうか? 貴方が、求めたのは」

 この街で生まれて、ただ生きていただけで、その権利を剥奪される。与えられたものは、きっと、ただ泣きじゃくる事だけだったと、少女は言う。だけど、そんなの間違いだ。幸せは、手を伸ばせば炉辺の石ころ以上にゴロゴロしているものなんだから。

「ええ、きっとそう。この街が、赤く染まるのを見てみたい。真っ赤な炎、私の色で染まる、この街を」

 他人事の様に口にされた言葉は、だけど嘔吐する様だった。どうして、そんな辛そうな貌をするんです。
 まったく馬鹿げている。復讐をしたいんなら、そんな惨めで、必死に助けを求める無様を、悲しい顔を見せないでくれ。悪者になりたいなら、もっと嫌われるよう振舞えって言うんだ。

「罪滅ぼしをしてもらわないとね、割に合わないのよ。この街が、私に与えた苦痛を焼き尽くす。それ位、私には正当な権利でしょう?」

「………そんな子供の八つ当たりで、貴方はっ」

 ズルズルと体を這わせて、少しずつでも彼女ににじり寄る。奥歯を噛み締め、顎を前へ、前へと突き出しながら。

「ええ、そうね。だけど、こんな馬鹿みたいな意地でも、貫き通せば、やり遂げれば意思になる。それを、私は信じたいのよ」

 袈裟に入った刀傷をグッと抉る様に掴んだ彼女は、僕を尻目に、恐らく本堂の出口であろう襖を開いた。
 差し込む筈の冷たい空気の変わりに、生暖かい腐臭が鼻についた。彼女の赤い髪が、汚濁した温い凪に晒されている。

「なら………一つだけ、教えてあげますよ」

 うら寂しげに、少女は立ち止まる。

「何かしら?」

 恐らく、少女は分かっている。もう、きっと会えやしない。もう、二度と。

「罪を滅ぼすことなんて、出来やしません」

 叩きつけるように吐き出した、自分でも意外に思うほどの強い声。一歩、少女が遠のいた。無様に地面を這う僕には、その距離が永遠にも思える。
 けれど、言葉は止まない。それが僕の意地だから、それがきっと意思だと信じられるから。

「人間に出来るのはね、罰を支払い続ける事だけです。貴方は、この街から、貴方を否定した人達から、“ゴメンナサイ”って、そんな言葉を贈る権利すら、最高に苦しい唯一の地獄すら、焼き尽してしまうつもりですかっ!!」

 音も無く、僕と少女の境界は閉ざされた。

「もうね、手遅れなのよ。ぼうや―――――――――――――」

 残ったのは、暗闇、沈黙。そして。

「名前、最後まで聞けなかったな………」

 とても些細な、気がかりだけだった。





Fate / happy material
第三十六話 黄金残照 Ⅱ





/ 14.

「―――――――でだ。結局、龍界寺に乗り込める面子は五人だけか?」

 大げさにため息をついたのは式さん。黒いバンの目の前で、集まった面々の表情を一つ一つ確認していく。
 暗闇から紫色へ、空が色を変えていく駐車場。そこには、五つの薄い人影が伸びていた。

「重傷の剣士が二人、ボロボロの魔術師が二人、んで持ってオレ。何だコレ? おい詠春、やる気あんのか? これから敵さんの本拠地に殴り込もうってんだぜ?」

「心外だな、両儀の。コレでもベストメンバーだよ、現時点でのね。先ほどのブリーフィングでも話したはずなんだが?」

「……なんともお気楽だな。京都の街、おまけにお前の娘の無事がかかってるってのに」

「はは、ま。実際の優先順位は置いておくけど、君の愚痴にはただ頭を下げるしかないな。申し訳ないけど、期待させてもらうよ」

「……ふん」

 詠春さんの長閑な声に舌打ちをした式さんは、そのままバンの後部座席をひとりで占領してしまった。

「おい、衛宮。ついたら起こせ」

 なんて視線を受け取りながら、今回の作戦について、頭の中でもう一度内容を反芻させる。
 日本呪術協会本部の襲撃、そして近衛の拉致。あれから時を数えること一時間飛んで十二分。俺たち、近衛の奪還そして龍界寺強襲の任につく五人のメンバーがココに集まっている。
 桜咲やイリヤの治療、そして体制を整えるまでに要した時間は約一時間。夜明けは、もう間近に迫っている。
 詠春さんの推測の限りでは、首謀者“遠上都”の目的、それは龍界寺に封じられている“孔”を完全に開き、そこから溢れ出す妖怪変化の類を持って京都の街を阿鼻叫喚の地獄に変貌させることだと言う。
 今の京都の現状でだって凄惨の一言に尽きるというのに、ありがたいことに天井はまだまだ見えていなかったようだ。どうやら俺は、割と想像力が貧困だったらしい。現在京都に充足したマナの総量は最高潮。俺がイメージした天井を五六枚ツン貫けている程だ。
 溢れ返るバケモノ共、変調する大気。このまま夜明けを迎えてしまったら、もはや神秘の隠匿とか言っている場合では無い。それどころか、人的被害だって冗談の方がまだマシって位の数になるのは間違いないのだ。
 だってのに、その“孔”とやらは未だ開いていない。近衛の魔力を使用して、この孔が完全に開いてしまったら一体どんな事になるのやら。なるほど、どうやら想像力が貧困な俺でも、簡単に思い描くことが出来るぞ。

「衛宮。急ぎましょう、戸惑っている時間は無い。タイムリミットは、太陽が完全に昇る前。それまでに、お嬢様を救い出さなければ……」

 桜咲の落ち着いた嘆きに、俺は「ああ」とだけ簡単に頷いた。

「さて、お二方。敵根拠地奇襲の詳細については車の中で……覚えているね、衛宮君、桜咲君」

 俺と桜咲。横に並んだ二人の肩に、詠春さんの岩みたいな掌がズシリとのしかかる。彼としては俺たちの肩を軽く叩いた心算なのだろうが、正直、骨がいかれるかと思ったぞ。
 隣の桜咲もそう感じたのだろう。俺より怪我の酷い彼女だ、見合わせたその顔には、薄っすらと涙が滲んでいる。苦笑するしかないな、これは。

「おっしゃ、桜咲もさっさと乗っかれよ。運転なら、任せとけ」

 まあ、多少強引ではあるが、気は引き締められたのも事実だし、この件は鮮やかにスルー。悪く思うな、桜咲。
 俺は運転席のサイドドアを開きながら、俺の向かい、助手席に回りこむ彼女に視線を送る。
 いいのか? なんて、答えは決まりきっているのにな。それでも、確認の意味を込めて桜咲に視線を投げた。

「……任せておけ、ですか。ペーペーの癖に、強気ですね。まあ、信頼していますがね。地獄へ向かう車ですから、どんなへたっぴでも安心です」

「言えてる。事故ったら事故ったで、いきつく先は、変わりそうに無いもんな、俺ら」

「ええ、火の車……ですね。なるほど、それも良い」

 火車。なるほど、いいえて妙だ。コレに乗り込めば、後は地獄へ一直線。……まあ、黒い国産車だけど。
 詠春さんの話に聞いた赤い女の事を考えるならば、コレもあながち間違いではないのだろう、とエンジンを温めながら二人でもう一度苦笑した。

「ちょっと、シロウにセツナ! 縁起でも無い事言ってないでサッサと出しなさいよね!! タイムイズマネー。こっちだって、火の車なんだから!」

 シートベルトを締める俺と桜咲の横合いから、イリヤがしかめっ面で口を挟む。いや、最もですよ、イリヤさん。

「うまいじゃないか。一瞬お前がドイツ生まれだってこと忘れたぞ、俺は」

「もう。バカな話は終わりにしてよね。ほら、出発進行~」

「へいへい。そんじゃ、五名様ご招待。イタリアの詩人が綴ってくれた、大層な地獄ってのを、検分しに行って来るか」

 そして俺は、アクセルを踏む。
 動き出す景色、溶け出す情景。暗闇がスクロールしていく中、走り出した車内で、詠春さんが口を開いた。

「さて、それではいいかな? 今回の作戦について説明しよう」

 イリヤの隣、俺の後部座席で詠春さんは沈黙を肯定と受け取り続ける。

「今更言うのもなんなんなのだけれど、娘の奪還、そして孔の封殺は僕達五人だけで処理する手はずになっている。先ほども話したが、増援は一切無い。理由は、分かるね?」

「ええ、そんなの簡単じゃない。つまり、人員不足なんでしょ? 本部に残っていた戦闘要員はほぼ壊滅、街に散開している上級の術者も、京都の各所に集中的に群がっている人外共に翻弄されっぱなしで、わたし達の方まで手が回らない。退魔組織って、案外だらしないのね」

 生意気に漏らしたイリヤの回答に不足があるとすれば、もう一つだけ。それは、詠春さん、近衛が交戦したという一人の混血に対しての配慮と言う一点だけだ。
 俺は話しに聞かされただけなのだが、その女性、結果だけを見るのならば“視ただけで相手を炎上”させることが出来るらしい。桜咲と詠春さんの酷い有様は、その破壊力を雄弁に物語っている。
 そんな奴とまともに立ち会える手練は退魔組織本部でも数える位しかいないらしいし、そもそも、退魔組織の頂点に座る詠春さんや相当の使い手である桜咲が、相性の優劣、奇襲による不意、そして初見という隙を突かれたからって敗北を許してしまうような相手だ。彼女の力量を考えれば、数にモノを言わせてどうにかなる相手ではない。
 故に、選りすぐりの能力者による突貫。それが詠春さんの判断だった。
 誤解なきように付け加えておくが、少数先鋭と言うのは、言わずもがな式さん、桜咲、そして詠春さんの事を指す。
 俺とイリヤは、無理を言って着いてきているだけだ。

「まあ、イリヤ君の言葉にはひたすら耳が痛い限りだね。まったく五年前と言い、私も老いてしまったよ」

 イリヤは詠春さんの技量を直接視ていないためか、やれやれ、なんて肩を窄めてくれるが、俺はと言うと正直苦笑もぎこちない。あのレベルで腕が落ちたってんなら、全盛期はそれこそサーヴァントとの斬り合い位は遣って退けそうである。……いやいや、まさか。

「長、消沈している場合ではありません。そんな事より、今は」

「ああ、そうだったね。すまない、話を戻そう」

 桜咲の鋭い視線に「いけいないいけない」なんてにこやかなまま、紫色の古都の景観を眺めだす詠春さん。
 暖房が俺たちにはっ付けられた湿布薬の匂いを助長させ、車の中は異様な刺激臭が沈殿している。それでも、今の京都に満たされた腐臭よりは幾分もマシだろう。

「さて、衛宮君の話しでは本部に襲撃してきた遠上都、そして黒い外套の魔術師の二人以外にも、もう一人、コピー能力に特化した術者がいるんだったね?」

「ええ。俺と同い年くらいの男です。あいつ自身は大したこと無いけど、何をおいても複写能力が厄介です。なんせ、式さんの剣術に喰らいついていくは、俺の魔術を簡単に真似るは、桜咲の必殺技にも拮抗するはで……」

「ふむ、防衛戦と言う限定条件では、これ以上厄介な能力は無いだろうね」

 詠春さんの哀愁漂う相槌に、無言のままハンドルを切った。
 もう直ぐ京都駅だ。あそこで出合った奴の嫌味な貌を思い出してしまい、ハンドルを握る手にも、自然と力が入ってしまう。メーターを確認しながら、息を吐き出す。落ち着こう龍界寺まで、もう直ぐじゃないか。

「兎に角、確定しているだけでも敵の勢力は三人以上。長の推測が正しいのならば、この三人は間違いなく龍界寺の防衛に全戦力を集中させるでしょうね。相手は自滅覚悟の持久戦を望んでいるはずですから」

「そうね。相手の目的が京都の街を滅茶苦茶にしたいっていうのだから、それは道理よ。ねえ、エイシュン。確か貴方の見立てではアイツ等、夜明け前には孔が完全に口を開け、コノカの魔力でそれを“向こう側”につなげて、維持する算段だったわよね? だったら、少なくとも太陽が完全に昇る瞬間までは、意地でもその孔を守り通すでしょうね。そうしなきゃ、意味が無いもの」

 桜咲が椅子の隙間から顔を覗かせて意見し、それにイリヤが賛同する。
 やはり綱渡りだ。近衛の奪還、孔の封殺、敵の排除、これらを夜が明ける前、短時間で処理しなくてはならない。
 おまけに敵の陣地への殴り込みだってんだから、余りの逆境に涙が出てきそうである。
 何故って、カガミたち敵勢力の方が圧倒的に地の利があるのだ、苦戦は免れないだろう。唯でさえ、この手の戦では防衛側が有利なもの。しかも、相手が準備万全だってんだから尚更だ。

「うん、模範解答をどうも。いいかい? 我々は何としてでも、夜明け前、可能ならば娘が孔に接続される前に奪還しなくてはならない。戦闘が長引いてもこちらの敗北だし、当然、返り討ちもまた敗北だ」

 何かを確かめる様に言葉を切って、詠春さんが沈黙を作る。彼が口にした考えたくない可能性は、かなりの確立で的中するだろう。
 だから、確認。
 最後のチャンスだ、今なら間に合う。そう、この沈黙には詠春さんの優しさが含まれていた。
 けどまあ、そんな気遣いなんて当たり前の様に足蹴にしちまう図々しい人がこの車にはいるわけで。

「話しが長いんだよ、お前は。いいから振り分けを話しやがれ。それで、誰が誰を殺せばいいんだ? 要はさ、それですむ話なんだろ?」

 ええ、ごもっとも。あえて突っ込みを入れるのであれば、“さっさと”の言葉が抜けている位か? この際だ、人殺し発言は多めに見よう。少なくとも、俺たちが、そして勿論式さんだって、それを忌避しているのは良く知っているしな。
 詠春さんは、後ろで寝転んだまま泰然とした式さんの様子に、微笑を隠せないでいるようだ。つまらない気遣いだったか、と彼はそのまま椅子に深くもたれた。バックミラー越しでも、二人の態度は頼もしく思える。
 式さんの問い掛けに、ふっと息を吐き出し、詠春さんがはっきり、それでいてのんびり口をひらいた。

「そうだね、両儀の、では私の提案を話すことにしようか。敵構成要因が三人と仮定すれば、最初の振り当ては、衛宮君とイリヤ君達だ。相手は例のコピーに特化した魔術師をお願いしたい。衛宮君は一度交戦している様だし、何よりその能力ならば二人係で持久戦に持ち込めば充分に勝機はあるのだろう? 今回の作戦は如何に早く孔を塞ぐかだ。その意味でも、君達が二人で敵勢力の一人を抑えるだけでも相当助かる。相違ないね?」

 俺は頷く。俺とイリヤの力量を考えれば、妥当な選択だと思う。話に聞いた限り、混血の女性と魔術師はかなりの腕前の様だし、俺らには荷が勝ちすぎる。
 ただ、俺が同意した隣、厚い布地に包まれた自前の魔術礼装を握りながら表情を曇らすイリヤ。バックミラー越しに映る彼女の不満な様子が、気がかりだ。

「さて、ココからが何よりも重要なのだが、イリヤ君が交戦した魔術師、彼は私と刹那君で叩く。恐らく今回の孔の封印術式の開錠、その中心にいるのが彼だと思うし、確実に押さえたい。そして、最後だ。一番の難敵、遠上都なのだが、両儀の、君にお願いしたい」

 詠春さんは揺ぎ無い声色だけで、式さんに振り返りもせずに告げた。まるで、その言葉は絶対の法則と自信に裏打ちされているみたいに。

「ふうん。理由はさ、何と無く分かるけど一応聞いとくわ。なんで?」

 蹴り上げた石ころが跳ね返ってきた。予想はしていたけれど、やっぱり当ったか。そんな、至らない想いを孕んで、がっかりだ、と式さんはうな垂れた。寝転がりだらしなかった彼女は、より一層締まりが無くなる。

「混血が相手である以上、退魔四家、両儀の式を振り当てるのはある意味当然の選択だろう? 両儀の、何故そんなに呆れるのだ? 私や桜咲君では、相性の面で余り有利とは言えないことは、君だってよく分かっているだろう?」

「まあな、オレとしては一番面白そうな相手だし、文句の付けようは無いけど。生憎、それに納得しなさそうな奴等が二人いるぜ? いいのか、それを無視しても」

 よっ、と起き上がった式さんは「なあ?」なんて不敵な嘲笑を二人に投げる。……って、なんで桜咲とイリヤがそんな膨れっ面を?

「桜咲君? それにイリヤ君も? 何故だい?」

 はい、俺もそれが聞きたいですよ。どうしたってのさ、全く。

「それは……」

 真摯な瞳と声色。俺の隣で桜咲が貌を上げた瞬間。

「――――――――っぶ!?」

 それを遮る、式さんの悲鳴。
 恐らくは急ブレーキの為に引き起こされた慣性の法則によって、余裕をかましながら再度ごろ寝していた式さんがシートから投げ出され、座席と座席の挟まったのだ。
 別に、俺だって嫌がらせの為にブレーキを踏んだわけじゃない。そりゃ、毎晩式さんにたこ殴りにされている身としては、少しだけ頬が緩んだのは否めないが、今はそんな問答をしている場合では無い。

「ってえ。こら衛宮! なにしてんだ!?」

 式さんが座椅子の隙間でもがく姿をバックミラー越しに堪能する。
 まあそれは、さて、置いておこう。幹也さんにも見せてやりたかった、なんて雑感も置いておこう。
 今は、桜咲が目を見開いて口さえあける現状を式さんにしっかり口答して差し上げなくては。俺の拙い表現力で、それが果たして伝わるのか、滅茶苦茶不安ではあるけれど。

「大変です、式さん。目が大変な事になってます」

 目前の道路に犇き蠢く赤い点。大型トラックだって二台は余裕で併走できるゼって車線上には、ギラギラと光るバケモノどもの赤い眼が此方を睨んでいるんですってば。挟まってる場合じゃないぞ、本当に。

「はあ? 何の話だ? オレの目ならもうずっと前から大変なことになってる。あれか? お前で実演してやろうか?」

 案の定伝わる訳も無い。式さん以外はしっかりと状況が飲み込めていらっしゃる様なので、俺はさて、どうしようかとお隣さんに尋ねてみた。

「道、取り敢えず変えてみませんかね? お客さん。こっち、どうやら渋滞ですぜ」

「時間がないのです。迂回路を選択する余地はありません。衛宮、ゴーです」

 まあ、桜咲の回答なんて予想は付いていたのだが、面と向かって言われると、コレが以外にガード不能だった。

「いやでも桜咲さん? この車は借り物でして、ついでに言うとすっごい怖い人からの借り物でして」

 もう一度、目の前の肉の壁と、桜咲との厚い隔たりを確認しながら尋ねる。ああ、さっきまでの弱気な桜咲なら、迂回路検討してくれたのかもしれないのに。

「ゴーです」

 明瞭にして完結。歩み寄る余地は一ミクロンも存在していない。

「いやでも、どうしたって突撃は無理だと思うんですよ。ほら、やっぱりさ? あれを見ればどう考えたって車一台じゃ突破は無理だろうと。そもそもただの車じゃ、ダンプカー並みのメガトンクラッシュでも無理なんじゃないかなー、なんて」

「ゴーです。私が変わりにアクセルを踏みますよ?」

「………なあ、冗談だよな? 幾らなんでも無理だって、この道を突っ切るのは」

「時間が無い。この道を放棄すれば、大幅なタイムロスだ。突っ込む以外に、方法は在りません。それに、他の道が同じような状況でない保障でも? この街の現状を、思い返して下さい」

 今頃になって「無視すんな」ってな台詞をタイミングも考えずに嘆いた式さんをやはり無視して、俺はシリアスな貌を一応繕う。

「やっぱマジなのか……。でもさ、唯の車じゃあいつ等には傷一つつかないのは分かってんだろう? 空想に生きるモノには幾らリアルで強力な一撃も通用しない。そこんとこは、どうすんのさ?」

「それは任せて下さい。お忘れですか? 私は、剣を振るうことだけが取り柄ではない」

 ああもう。それでは頷くしか無いじゃないか。
 だがしかし。馬鹿正直に首を縦に振るのは癪なので、俺はこんなタイミング沸いてきやがった肉の壁を思いっきり睨み付けてやる。アイツの聖剣を投影できない自分を、これほど恨んだことは無いぞ。
 大体だな、先生の車を傷つけでもしたら、俺がどんな目にあうか分かったものではない。下手を打てば二度と冬木の土を踏めないかもしれないぞ。それだけは勘弁こうむりたい……まあ、そんな皮算用は兎も角。

「……とりあえず、イリヤ達も、シートベルトは締めてるよな?」

 割と皆さん肝が据わってらっしゃるようで、無言の肯定は一瞬にして俺の思考を切り替えさせる。未だ座椅子の隙間で格闘している式さんが微笑ましくも気がかりだが、まあ置いておこう。
 俺の決心が鈍らぬ内にハンドルを握り、ギアをトップに、後はアクセルを踏むだけと、準備を整える。若葉ドライバーの俺が、まさかこんなカーアクションをノーリテイクでこなす羽目になろうとは………世の中、なんて不条理に満ちているんだっ。

「だーもうっ! やけっぱちだぁ!!」

 行くぜこの野郎。強気な声色とは正反対に、目を瞑ってアクセル一気に倒す。メーターを振り切ってやろうかと言う突然の加速で、先生からの借り物(コレ重要)黒いバンは、俺の心の悲鳴を無視して、物の怪の壁に突っ込んで行く。
 脱出に成功した式さんが、突然の急加速に首を鞭打ってやいないだろうかと気を揉みつつ、俺は肉の壁が迫る恐怖に気を失ってしまいそう。
 本当に手はあるんだろうな、桜咲? こんな所で事故死は嫌だぞ。

「―――――――――――――――」

 俺の隣、冷や汗一つ流さぬ桜咲が、梵語……だろうか? 何かを呟いた。途端、バンの黒い鋼鉄の外皮の上からもう一枚、膜が張られた様な感覚を覚える。
 なるほど、そう言うことか。桜咲の法術で、この車の外装を“強化”したわけか。確かにコレなら、幻想に生きる人外共にだって体当たりをかませるというものだ。剣に魔術に、器用な奴である。

「………首が、痛い」

 それこそ除雪機で雪を掻きだして行く様に、黒いバンがバケモノ共を次々に弾け飛ばしていく。
 後ろで呻く式さんの声に耳を傾ける余裕が出来た頃には、肉の壁をいとも簡単に突破し、先ほどと同じ、車一台通らぬ車道に飛び出していた。高いビルに挟まれながら、轟音と共にタイヤが滑り、暗闇の車道を壮烈に走り抜けたのだ。
 だが、その代償はやはり大きい。目を開ければ、フロントガラスは真っ白にひび割れ、視界は零にも等しい。先生にゴメンナサイと心の内だけで謝罪をしつつ、殴り拳でフロントガラスを取っ払う。きっとフロントライトだって粉々だ、この際ガラスだけなら先生も多めに見てくれるだろう。
 果たしてこの車の修理費に、俺の給料何か月分が割り当てられるのだろうか? そんなことを考えつつ、ノーブレーキで右折する。左に流れる体を踏ん張りつつ、ハンドルを切る、切る、切る。

「よっし。もう直ぐだ………っつ!?」

 目的地まで後二三キロ。直線距離なら、もうそれこそ龍界寺の小山がココからでも望めるのだ。そう、緊張を大きく吐き出した途端。視界に飛び込んできたモノに、言いようの無い怒りを覚えた。っていうか、なんでさ?

「コレは、不味いですね」

 全然不味そうに聞こえない詠春さんの声。ああ、ココに来て力が抜ける。
 後は龍界寺まで一本道だってのに、先ほど以上の物の怪共が俺たちを迎えてくれやがる。即座にブレーキング、流れるようにギアをバックへ、後退しようと後ろに振り返れば。

「駄目よ、シロウ。囲まれた」

「ああっ、クソ。何なんだこいつ等!! 邪魔ばっかしやがって!!」

 八方塞だ。シートベルトがやたらと食い込み、体が軋んだ。前には人外、後ろも人外。どうすりゃいいんだ!?

「大丈夫。簡単な事ですよ。ねえ? 両儀さん、イリヤさん」

 狼狽する俺に、晴れやかなまでの笑顔でそんな事を言い放つ桜咲。……あまり良い予感はしないのだが、大丈夫だろうか?

「まあ、この車はトウコのだし、多めに見てくれるわよ、きっと。どのみち、ココに止めて置いても真っ先にボロボロにされちゃいそうだしね」

 ちらり、とサイドミラーに映った後方から気が狂うほどノンビリとにじり寄って来る怪物どもの行進を眺めながら、イリヤはどう考えても好転しなさそうな台詞を選んだ。

「そうだな。橙子には悪いが、死化粧は華やかな方がいい」

 俺の与り知らぬ所で、話は纏まったようだ。

「まあ、龍界寺まで残り僅かだしね。突破は無理でも、バケモノ共の頭数位は減らせるのは間違いない……か?」

 詠春さんが最後に締めくくり、女性陣が戸惑い無く首を縦に振る。

「あの……一体どう言う」

 いい加減置いてけぼりも嫌なので、恐る恐る尋ねる。帰ってきたのは、微笑だけ。そんなスマイルゼロ円は要らないっての。あ、これがほんとのただより怖いモノは無し? うまいね、俺。涙が出るほどに。

「だから、衛宮」

 にっこり、と。四人から抜きん出るように桜咲が、あまりに似合わねえ大げさな作り笑いで、俺の目を見据える。
 そう、この時、気付かなかったのだ。彼女の柔らかな手が俺の左手に重なり、唇が近づく。そんな心拍数が鰻昇りの状況のために。

「―――――――――――こう言う、事です!!」

 俺の左掌が桜咲の華奢な掌の感触に喜んでいたのも束の間、重なった手が、ギアをトップに勢い良く入れ替える。急接近した桜咲、スッパツ越しの露な肢体が、アクセルを親の敵みたいに踏ん付ける。
 上から下に向かうはずの重力が、俺の正面から圧し掛かる。突然の回転に唸るタイヤと、地面との摩擦音がきゅるきゅると車を巻くし立てる。悲鳴を上げる間も無く、猛スピードで人外共に突っ込んでいく黒いバン。

「長、イリヤさんを任せましたよ!」

「任されたわよ、エイシュン」

「ああ。――――――すまないね、イリヤ君。それじゃ、よっこいしょっと」

 なんて遣り取りの末、ひょいっと、なんて擬音がピッタリな位、猛スピードで疾走する車から飛び降りる桜咲、詠春さん、そして彼におぶさる我が妹。

「そんじゃ、お前も早く降りろよ。死ぬぞ」

 ああ、無常。そして誰もいなくなった。

「…………」

 桜咲の法術の所為だろうか? ギアはピクリとも動かないし、アクセルも然り。一通りの抵抗を済ませた後、速度メーターを一応確認しておく。シートベルトを外して、先生がこの車に保険を賭けていてくれることをただ願った。一連の流れ作業をこなし切る事、実にコンマ五秒。
 ――――――――刻が見える。人間、大河の如く心穏やかで在れるのならば、こんな神業だって成し遂げられるのだ。

「今なら、やれる!!」

 サイドドアを蹴り開ける。そして。

「だありゃあ!!」

 意を決して、ダイブした。
 忘れていたが、車の時速は140km前後、そっから飛び降りたときに衝撃たるや……正確な数値なんてのは物理学を専門にしている方にでもお願いしておいて、俺は鮮やかに着地。

「あだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ」

 なんて出来るはずもないので、頭を必死に庇いながら転がる、回る、ローリング。
 硬いアスファルトの路上を、坂道を転げ落ちる団子虫の如く体を丸め、痛みに耐える。ゴロゴロと回る視覚、大変なことになってる痛覚、そして、恐らく車が人外の壁にぶち当たり爆発したんだろう、聴覚が爆音に支配されていた。

「だだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ、ぐふう」

 背骨から路傍の自販機に衝突し、そこで漸く精神の平穏とはっきり認識される痛みを手に入れる俺の体。もはやぼろ雑巾もかくやと言う惨状に、涙は枯れ果てた。
 上下左右どっちが地面でどっちが空だ?

「ちょ、衛宮!? 何をしているんですか!? 何故着地をしないのです!?」

 ……しないんじゃなくて出来ないんだよっ。どこの世界に時速140kmでぶっ飛んでる車から飛び降りて“ズザザー”なんて二本足で着地できる人間がいるのさ!? 少なくとも俺の目の前に三人いるみたいだけど、そんなのはもうどうでもいい。……交通法規もそりゃ重要だが、それ以前にホモサピエンスとしての基準を厳守してくれ。ついていくのも命がけですからに。
 駆け足で俺の方に血相を変えて向かってくる桜咲に、伝わるはずの無い懇願を込めて、睨みも利かせられない俺の視線をくれてやる。

「大丈夫よ、セツナ。シロウ、体は頑丈だしね」

 炎上した黒いバンを眺めながら、イリヤは俺の手を取ってくれる桜咲にいった。頼りにされているのか、頼りにされていないのか、非常に判断しにくい台詞であるが、恐らくは後者だろう。

「ほら、お前ら。衛宮に構ってる暇は無いぜ。一先ずはこいつらを何とかしなきゃ、龍界寺までいけないみたいだしな」

「確かに……でも不味いねぇ。これを全て片付けていたら間に合わない」

 バンの体当たりによって正面の人外共は大分その数を減らしたというのに、今でさえその数は五十では利かないだろう。一本道の車道なのだから、俺たちの後方に群がるバケモノ共も然りだ。
 惜しむらくも、先生の車を犠牲にした位では、やはり活路を見出せなかったらしい。
 車が炎上したせいだろう、風に流れるガソリンの匂いを肌に感じながら、笑う膝を押さえつける。龍界寺のお山だって、こっから見渡せるのに。
 恐らくカガミが所持していた匂い袋の礼装がここいら一体にばら撒かれているのだろう。俺は、唇を噛みながら苛立ちを吐露する。

「間に合わないって……何か手立てはないんですか?」

 前後からの挟撃に備え、詠春さんは刀を正眼に構えつつ、式さんは退魔組織本部から失敬してきたアーミーナイフを逆手に、俺と桜咲、そしてイリヤを庇うように警戒する。
 そんな、二人に聞いたのだが、彼らの表情を濁らすだけに止まり、明確な回答は得られなかった。
 っちい。それじゃあ、馬鹿正直に力押ししかないのか? 龍界寺までは目算二キロ弱。人外共の壁を一丸で中央突破。
 時間がどれだけかかるか分からないが、選択肢はこれしか残されていない。やるしか、ないのだ。そう、腰を据えた瞬間。

「刹那、イリヤ。いって来い」

 式さんが、目前の敵を見据えながら背中でいった。

「空からなら、直ぐだろう? イリヤも、仕掛けるなら今だ。詠春の作戦なんざ無視して、いっちまえ」

 紫がかった地平と、ソレに重なる醜いあやかし共の群れ、そこから視線を逸らすことはせず、ただ、式さんは答えを待っている。
 空から? 何の話だ?
 視界の端には、俺と同じく狼狽するイリヤがいた。最も、その感情の機微は、かなりのズレを見せてはいた様なのだが。

「いいのですか? 長」

 桜咲は、夕凪を握り締め告げる。もはや疑問でもなんでもない。断定の想いを込めて、詠春さん強い眼差しを向ける。

「………はあ、仕方が無いでしょう。この状況ですから。お願いしますよ、刹那君。くれぐれも、気をつけて」

「いや、詠春さん。空からって、一体………」

 頭の高いビル群を望みながら、俺は困惑気味に問うた。紫がかる東の空は、俺たちの後ろ、風情もなく立てられた高層ビルに遮られている。

「――――――――――こういう事ですよ、衛宮」

 振り返る。答えたのは、澄んだ刃の音色。
 そこには、仄暗いビルの陰影に浸る一人の少女がいる。
 自分の眼を疑うほどの―――――純白すら霞む白虹(はっこう)を纏う両翼が、そこにはある。

「な、――――――」

 息を呑むしかなかった。
 白磁の白より尚輝き、なお磨かれたその麗しさに。
 暗がりですら光輝を失わぬその白亜に。
 それは、なんて。

「汚い羽です、驚いたでしょう? まあ、見せるのは二度目なんですけどね……」

「…………って、なんでさ!?」

 ―――――――――――綺麗なんだ。っと口に出かけた逡巡。
 桜咲の全く持って理解不能な戯言に膝が折れる。幻想的だった俺の思考は一気に冷却され、普段の気色に舞い戻る。やはり、俺にロマンスは向いていないらしい。
 深く漏らした溜息と一緒に、桜咲に貌を上げる。
 ウジウジ、イジイジ、陰鬱に頭を垂れる彼女。だけど、それが彼女らしいのか。なんて、納得する自分はやはり壊れているんだなと、そう思う。

「なんでさって……見た通りでは無いですか。私は、余り見せたくなかったのです。その……私は混血ですし」

 しゅん、と目蓋が重たく閉じていく。だからどうして縮こまるんだよ、桜咲。
 麻帆良での吸血鬼事件、その時にもこの翼のはためきを聞いていた事を、そして漸く思い出した。
 あれか? やはり過去のトラウマとか、世間の風当たりだとか、色々在るんだろうか? まあ、でも、俺の言うことは決まっているし、なんでもいいか。

「まあ、見せたくなかった……ってんならそれでもいいけどさ。でもすげーじゃんか、カッコいいよ、それ。いらないんなら、貰ってやるぞ?」

 空を飛ぶのはやはり正義の味方の必須条件だと思うし。俺ならば有効利用してやれる。

「何言ってのよシロウ。貴方ほど地べたを這う姿が嵌っている人間だってそうはいないのよ? 翼で空なんか飛んでも、貴方には不相応よ。それこそ、イカロスの様に太陽に焼かれて墜落しちゃうわ。それにそもそも、やっぱり羽が在って可愛いのはわたしみたいなフロイラインでしょう?」

 何気に酷い言われようだが、何故だか納得出来てしまう自分が嫌すぎる。イリヤの言葉を真剣に吟味しつつ、こんな状況だってのにキャーキャーいいながら桜咲の羽を触りまくる彼女を眺める。う~ん、あれは……なんか気持ちよさそうだ。

「……オレも、アレ欲しいような……」

「――――はい? なんかいいました?」

「……いや、なんでもない。オレはなんにも言ってない」

 ごにょごにょと出掛かった言葉を咀嚼しながら、頬を赤らめる式さん。疑問符を浮かべながら首を傾げて彼女の返事を待つこと数秒。結局、耳を真っ赤にした式さんが、俺の方へ振り向くことは無かった。

「―――――――っぷは、はは」

 と、今度は桜咲がおかしくなった。次から次へと、みんなココに来てどうしたってんだ?
 状況が状況だけに、俺としては苦笑を禁じえないが、吹っ切れちまった様な彼女の馬鹿笑いは、見ていて気持ちがいい。
 彼女のそんな顔、想像も出来なかったけど、これはこれで……その、可愛いじゃないか。目じり一杯に涙を溜めて、それでも笑顔が絶えない彼女には、それこそ今の言葉が相応しかった。ただ、そんなこっぱずかしい事を考えちまったもんだから、俺の顔が染まっている。願わくは、ばれませんように。

「そうですよね。ええ、貴方達もそういう人でした。全く、道化はいつだって、私一人では無いですか」

 桜咲は、もはや俺では手など届かぬ空の様に、澄み切り雲高果てしない冬空の様に、そんな瞳で、俺を射抜く。

「ただ手を伸ばすだけ、でしたね。なるほど、道理です、衛宮。与えられずとも、それは、確かにこの手で掴めるモノの様だ。たった少しだけ、私に勇気があれば良い、それだけの、事だったのに……どうして、そんな事も忘れてしまっていたのか」

 噛み締める様に微笑まれたのはいいのだが、はて、一体どうしたというのだ。
 夕凪を携え、なにやら俺が頷くのを待っているらしい桜咲。カッコがつかないが、一応尋ねた。

「は? まあよく分からんが、俺は頷けばいいのか?」

 不満そうに唇を尖らす彼女に、またやってしまった、と内心で後悔する。どうしてこう、俺は相手の機微に疎いのだろうか。先ほどの台詞を撤回しようと、首をガクガク振って肯定を示す。

「……はあ。まあいいです、お礼はまたの機会に。タイミングを逃してしまったでは無いですか。全く、貴方の所為ですよ」

「いや、ほんと面目ない」

 からかう様に、俺の為に向けられた笑顔。そんな桜咲の貴重な笑みを受け取れる優越感に浸りながら、ぎこちなく頭を垂らす。……っていうか、どうして俺が頭を下げなくちゃならないんだ?

「それじゃあ、話は済んだのかしら? だったら早いところ行きましょう、セツナ」

 頬に宛がわれた厚手の絆創膏を右手で押さえながら、イリヤは桜咲に袖口を引っ張る。

「なあ、イリヤ。お前、本当に大丈夫なのか? やっぱり、行くなら式さんや詠春さんの方が………」

 そんな彼女に、間合いも置かずに尋ねる。
 幾ら何でも、イリヤには危険すぎやしないだろうか? 止めなくてはいけない、それが、きっと正しい。心の中で、俺は懸命に警鐘を打ち鳴らしているのに、口は一向に動かない。それどころか、俺はどうして。

「………いや、いいか。きっと止めても、無駄だろうし」

 そんな、馬鹿なことを口走るのか。
 多分、理由は一つだけだった。イリヤの瞳が、アイツと同じ、揺ぎ無い気高さに満ちていたからだろう。譲れない無二に誓い、貫かなきゃいけない想い、それを願う崇高な意志/遺志を、どうして俺に否定できるのか。
 何よりもそれを尊ぶ、エミヤシロウの分際で。

「ゴメンね、お兄ちゃん。だけど、コレだけは譲りたく無い。何よりも、コレだけは譲れない。わたしが、ちゃんと、――――――――わたしでいられる様に。だから、行かなきゃ駄目なんだ」

 一瞬の戸惑いは、果たして誰のためにあったのだろう。刹那に揺らいだ迷いは、直ぐに強い眼光に打ち消された。

「理由は、――――――まあいいさ、聞かない。だけど、コレだけは約束だ」

 イリヤの優しく微笑む顔に、心が惑わされる。
 行かせちゃいけない、それは、俺の理想に反する事だ。イリヤを守れ、エミヤシロウ。
 頭の中が煩くて仕方が無い。ああ、そんなの分かってる。そんな事、誰に言われるまでも無い。

「うん、何かな?」

 そう、だから。

「信じさせてくれよ、イリヤ。――――――お前のこと」

 選ぶんだ。きっと、アイツに出会わぬオレでは選べない、不器用な守り方って奴を。

「当然。このわたしが、貴方を裏切るわけ無いじゃない。なんたって、わたしはシロウの妹なんだから」

 信じ続ける。例え何があったって、俺はイリヤの兄貴なんだから。

「ああ、期待してる」

 イリヤのなで肩に気軽に置かれた、やはり白くて小さな手。桜咲に、どうしても拭い切れない僅かばかりに気がかりを預ける事にした。

「そんじゃあ桜咲。イリヤの事、宜しく頼む」

 心配性と笑わば笑え。それでも、気になるモノは気になるのだ。
 何とも抽象的でどっちつかずな俺の繕いきれない表情に、桜咲は普段と同じ、ほのかに頬を緩めただけだった。
 はあ……本当、無理はしないでくれよ。イリヤも、勿論お前も。物腰柔らかなようで、黒い瞳に潜む強固な決意。イリヤにしろ桜咲にしろ、俺のささやかな杞憂は既に無用の長物らしい。
 桜咲の背中に飛びつくようにおぶさったイリヤを、どこか諦める様な視線で望んだ。
 朝焼けにはまだ早い、しかし夜明けは既に過ぎ去った。そんな曖昧な空の境界、白い翼が霜風を巻き込み、コンクリートのジャングルから飛び立った。
 それはさながら、檻から放たれた雛鳥のよう。余りに儚く、そして脆弱。だけどそれでも鳥は、空に焦がれるのだ。例え、その翼を失い、地に落ちる痛みを知ろうとも、鳥が、空を忘れる事など出来ないのだと、俺はなんて詩的な情緒に浸っていた。
 まったく、柄でもない。

「さて、と。こっちもこっちで、そろそろ始めようか?」

 遠のく白い羽。夜の闇にて尚映えるその一羽を眺めながら、式さんはいった。

「そうだね。此方も、疾く龍界寺に向かわなくてはならないのだから。まったく、ココを突破するのは骨が折れそうだよ」

 残ったのは三人。
 一方的増殖し続ける、人外の壁。
 さあ、行こうか。嘆く言葉が、質量を伴い具現する。握り締める白黒の翼、俺だって負けてはいられない。
 宝具を投影したにも関らず、体への負担は余りに微弱。
 京都、魔力が飽和したこの街は、ある種の固有結界だ。力が、体中に満ちている。普段以上に、俺の回路が激しく駆動している。絶好調だ。今夜に限り、俺の神秘には限界が存在していなかった。
 まあそれは、相手も同じことなのだが。

「衛宮は後方、オレと詠春が前方だ、いいよな?」

「異議なし。背中は任されました」

「此方もだ。僕と両儀の、二人で道を中央に道を開ける、衛宮君、ついて来られるのかい?」

 不敵な笑みで、俺を気遣う二人。
 そんなの、答えは決まっているだろう。

「普通に考えたら、無理です――――――――――――だけど、努力はしてみます。それと別に、俺は置いていって結構ですから。足手まといだと判断したらね」

 二人との戦力差は否めない、だけど、喰らいつく事だって、諦めない。最後に付け足した俺の意地に、やはり二人は微笑んだだけ。

「了解した。なら、必死について来い、衛宮。互いに気を使う必要は一切無しだ、やはり、それが私たちの流儀だと思うだろう?」

 若々しくて鋭く、それでいて緩やかな詠春さんの言葉。背中合わせの彼の雰囲気を、俺は不思議と懐かしんでいる。
 それが何故だろう、無様な姿は見せられない、そんな感情に直結したのは。

「そんじゃあ、詠春。始まりの花火は、お前に打ち上げさせてやるよ。魅せてみなよ、“神鳴流最強”、その証を。いつまでも、締まりの悪いおっさんじゃ、カッコがつかないぜ?」

「はは譲ってくれるのかい? 両儀の」

「ああ。学校で習わなかった? お年寄りは、労わらなくちゃいけないんだぜ」

「く、それは、ありがたいな」

 研ぎ澄まされた殺気が、詠春さんから噴出し、即座に握られた白刃に収束し研磨されていく。身も竦むほど膨大な生命力と、大地さえ嘶く莫大な殺気が、詠春さんの握る白刃に集約されていくのだ。
 それは、アイツの聖剣に光が収束する様に酷似していた。光が極点を指すように、詠春さんの刃に纏われた剣気が臨界を破壊する。
 鞘に収められた長刀、抜刀の型を骨身に沁みた自然さで成し、風が巻く大気の鳴動がピタリと、止まる。
 静寂。声を発する事さえ、今の俺には困難だ。ただ、俺は怯えている。刹那に訪れる、必滅の具現に。

「滅殺」

 空が轟く。
 臨界を知らず収束した狂気は、眼前、引き抜かれた刃と共に凶器となる。圧倒的な暴力は、巨大な斬撃と言う理不尽な力で、全てを薙ぎ払った。

「―――――――――――――――斬空斬魔閃」

 そして、光が視界を簒奪する。



[1027] 第三十七話 黄金残照
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 06:31
/ outer.

「おいおい。……ついに、動かなくなっちまったよ。ココまでは良かったんだがなあ」

 ビルの屋上に中座しながら、男は大げさなまでに項垂れた。
 生ぬるい風に誘われるまま、今夜も街に溢れた人外共を狩りながら、件の逃亡者を探していた彼。趣味と仕事の両方をこなしながら、悠々自適に責務を全うしていたのだが、またしても探索用の礼装がダダを捏ね始めたのだ。
 だからだ、別に男は高いところがすきと言うわけではない。ココに座して、やる気を微塵も感じさせない赤い眼を京都の街に向けるのは。
 律儀な男だ。魔術師の捜索。それを礼装が使えぬ今、自らの肉眼で発見するしかないと判断した男は最後の望みと京の都でも一際伸び上げた高層ビルに登ったのだ。

「どうすっかね、まったくよ」

 言葉とは裏腹に、男の思考は既に纏まっていた。
 即ち、帰って寝よう、と。真性の吸血鬼である彼だが、人間の三大欲求を捨てた覚えは無い。睡眠も、かけがえの無い享楽だ。かつて少年であった時でさえ、荒廃したコンクリートの隙間から汚い夜空を見上げ、瞳を閉じるその安穏を、軽んじたことなど無い。
 白み始めた空を眺めて、男は欠伸と一緒に腕を天へと伸ばす。今日のお勤めご苦労様。そうして、踵を返そうとした刹那。

 一条の閃光が、残り粕の夜空を裂いた。

 詠春が放った神鳴流に於ける奥義、滅殺・斬空斬魔閃。
 轟く紫電がその摂理を無視し、大地から天上へ逆巻く様な一太刀。それほどの神秘が顕現した。
 成された絶大な神秘。そう、それは詰まり、それを成す程の担い手がいると言う事。簡単な二段論法によって、即座にクーの顔は喜色に変化する。

「すげえな、今の」

 眠たげだった彼の表情が一変、途端に嬉々に染め上げられる。ひゅう、と唇を吹かして、男は流動する大気のマナ、溢れ返る殺意の焦点を探す。
 発見は容易だった。前方、二キロと言ったところか、吸血鬼の視力であれば問題なく視認できる距離だ。
 数は三、案の定戦闘中。ここ二日ばかり、京都の街に中々の修練者が化け物を狩るためにうろついていたのはクーも知っている。だから直ぐに見当もつく、彼らが極東における魔術組織の人間だと。

「へへ、いいね。今夜……いや今朝はついてる。徹夜のしがいが、あるってもんだぜ」

 そして、彼らが何者であるか理解したからこそ、クーは詠春達の力量に対して賛辞を禁じえなかった。
 正直なところ、日本の退魔組織のレベルに、クーは消沈していた。と言うのも、街に繰り出していた退魔組織の機関員には、余り魅力を感じていなかったからだ。その実力にも、気概にも、クーを満足させられる程の使い手はいなかった。あの程度の獲物では、食欲など刺激されるわけが無い。
 直接手を合わせた訳では無いが、彼らの力は理解していた心算だった。所詮は島国の矮小な組織だ、それが当然といえば当然か。そう、納得したはずだったのに。―――――たった今、その落胆は見事に裏切られた。
 ……まあその中に、一人だけ。なんとも情けなるくらい弱い奴が混ざってはいるのだが。正直、こいつには涙を禁じえねえぜ。
 衛宮士郎の事を取り敢えず眼中から頬を伝う涙と一緒に流してしまい、再度二人の剣客を熱烈に注視する。

「キモノの二人、やるねえ。惚れ惚れする」

 強い、間違い無く強い。
 自身が殺されるやも知れぬ程に、自身が殺したいと渇望する程に。それ程まで、強い。明確な強さの測るための杓子など、彼は持っていないし、そんなモノを必要としたことも無い。
 獰猛な本能の侭に、勇猛な魂の命ずる侭に、強い自分を証明するのだ、それだけでいい。そうだ、定規が存在すると云うのならば、それは、はなから殺しあう事だけではないか? 実に明瞭な秤だ、弱いほうが、死ぬだけなのだから。物差し等、ソレだけで十分ではなかろうか。

「っく、最高じゃないか。久々だ、こんな高揚は」

 塞き止められた笑みに張り付くのは、約束だ。遠い日に誓った、友との約束を証明するために。
 無邪気に、だけど渇望を含んで交わされた制約を、貫くために。
 無垢なあの頃、ごみ溜めの廃墟で、少年に願うことを許された唯一の夢を果たすがために。

「さあ」

 男の後ろ髪が、天高い風に靡いている。握る大槍が、暗い大地を指している。
 俺達は強いのか? それを、確かめに。
 男は、鉄筋の塔より仄暗い夜明けの街を最後に見下ろした。澱み、沈殿したマナは、霧の様に京都の街を埋め尽くしている。それはさながら、行き詰る煙霧のよう。街を、ヒトを腐らす、しみったれた汚臭が、男の鼻につく。
 それが、ガキの頃に駆け回ったクソったれたあの街の情景を思い出させるのだ。

 ―――――柄にも無く感傷か、クロムウェル? はっ、らしくないぜ。

 それは自重か、それとも自嘲か。思い出を振り払うように、男は瞳を閉じる。
 一歩、最後に男は踏み出した。
 鉄筋で築け上げられた超高層の塔。そして。

「―――――――――――――――――行くぜ、相棒」

 男は、堕天した。





Fate / happy material
第三十七話 黄金残照 Ⅲ





/ 14.

 圧倒的だった。胃袋を引き裂いたような目の前の景観を眺め、言葉にならない感嘆を吐露する。
 それは、結果だけを見るならばアイツの聖剣と何一つ変わらない。
 大地すら両断する、空さえ裁断する、力の結晶。
 収束された高純度の生命エネルギー“気”。それを納刀状態の刃に収束、そして抜刀と共に開放する。言葉にすればそれだけなのに。

「馬鹿げてら」

 式さんの言葉が、俺の感情を克明に代弁してくれる。
 それを成したのは、ただの人間、ただ人の身でありながら、聖剣の一撃に勝るとも劣らぬ暴力を繰り出すなどと。
 確かに、神秘の格ではアイツの聖剣に及びもしないだろう。だが、単純な破壊活動の点で言えば、それは正しく“聖剣並み”の一撃だった。

「ふむ、やはりしんどいねえ。こいつは、年々放つのが億劫になっていけない」

 以前桜咲が吸血に使用した技、斬岩剣……と言ったか? アレだって人間レベルを遥かに超越していたってのに、今度はエクスカリバー並みの一撃ですか。
 って言うか、今ので目の前の人外は皆消し飛んじゃったのでは? だったら、桜咲とイリヤが先行した意味がまるで無いぞ?

「まあいい、詠春、さっさと行くぜ。後二キロ、早いとこ完走しないとな。まったく、とんだ障害物競走だぜ」

「そうだね、本当なら今の一撃は目の前の人外共を一掃するのに充分なのだが」

「まあな、あんな馬鹿みたいな一撃だ。地上に向けて放っていたら、街を焼いちまう」

 肉の漕げた匂いを掻き分けながら、俺は全速力で式さんと詠春さんの背中に追いすがる。だってのに、二人は軽口などを叩きながら、尋ねてもいない俺の疑問に答えてくれた。どうやら、詠春さんは今の抜刀で大地を焼くことを恐れたため、奴等人外共の壁、上空に向かい先ほどの一撃を放ったらしい。
 なるほど、式さんの言葉通り、本当に花火を打ち上げたのだ。しかし、奴等の頭を掠めただけでこの威力、冗談もココまで来ると笑えない。
 詠春さんの放った暴力の痕跡に少しばかり竦み上がりながらも、走り続けること約二百メートル、再び蛆が沸くようにワラワラと品目豊富な怪物共が現れる。
 目的地の龍界寺まで一本道だってのに、その道のりは未だ遠い。

「っちい。また出てきやがった、詠春、もう一発頼むぞ」

「はは……両儀の。老体に鞭を入れて、君は楽しいかね?」

「楽しいって言ってやれば、また捻り出してくれるのか?」

「生憎だ。先ほどの出力はもう無理だよ、地道にやろう。急がば回れと言うことかな?」

「それ、性に合わないよ」

 そんな遣り取りも一瞬、獣の敏捷性でしなやかな肢体が俺の目の前で疾駆した。ゴムボールが弾けるように、助走も無い跳躍で軽やかに正面の人外に切りかかる式さん。
 彼女の舞うような飛翔と対照的に、紅白の衣が大地を抉るように駆けていく。まるで二本足の猛禽だ。彼は獲物に迫る肉食獣の如く荒々しい、それでいて鋭い疾走で雑多な怪物共に肉薄する。
 それは、手抜きの時代劇のようだった。勧善懲悪のクライマックスシーンだって、こんなに簡単では視聴率など取れないだろう。そんなことを思ってしまうくらい、現実味に欠ける光景だった。ばったばったと二人の剣客に薙ぎ倒されて行くバケモノ達が、哀れでならない。

「何呆けてやがるっ! 衛宮、さっさとついて来い!!」

 式さん叱咤に汗ばむ体が再び動き出す。
 全く、両手に握られた俺の愛刀が不憫でならない。活躍の機会が、まるで無いじゃないか。
 だが、そんな愁いも直ぐに頭の片隅に追いやられた。

「タイミングが、悪いんだよな――――っせい!」

 自分の力量を忌々しく感じながら、式さんの一太刀に怯み、俺に矛先を向けてきやがった蟷螂みたいな化け物を一刀の元に切り伏せる。
 やっと一体。その間に、二人は五体の化け物を物言わぬ亡骸に帰している。
 舌打ちする暇さえ、許してくれない。破城槌の役割をこなしながら血色の道を抜けていく二人に、俺は全力で走って着いていくのが精一杯。舌打ちの代わりに、二人の技量に舌鼓をうつ。……そんな暇があるなら、歯を食いしばって足を動かせ、衛宮士郎。

「コレで、五十ッ体目! 後、どれくらいだ!?」

「やっと半分、後1km位だよ、両儀の」

 巨大な海老みたいな魂喰いを綺麗な“おつくり”にして、式さんは「げっ」っと面白い顔になった。いや、きっとウンザリしているだけなのだろうが、非常識な現状と今一噛み合っていなかったから、俺にはそう見えたのだろう。

「くそ、邪魔だっ、雑魚共――――――――――――」

 捨て鉢になりながら、式さんのナイフが曇りなく人外共を斬伐していく。
 そんな光景に空恐ろしいモノを感じながら、俺は龍界寺に飛来する一つの羽を探した。

/ snow white.

「シロウ達、平気だよね………」

 生身で空を飛ぶ、なんて貴重な経験に浸っている余裕は皆無だった。ふわふわの羽は気持ちいのだけれど、戦地に赴く心臓の動悸に、わたしは未だ慣れてはいなかった。
 その所為もあっただろう、地上200mの上空より、光りの柱が上がった地点に振り返りながら、セツナに尋ねる。シロウの事は、やはり気がかりだから。

「はい、それについては要らぬ杞憂でしょう。両儀さんに長がいるのです、あの程度の妖怪変化では、足りません。それよりも、やはり心配なのは私たちの方では無いでしょうか?」

 頬を強張らせて、頷く。抱きかかえた魔術礼装を、自然と汗ばんだ手で撫でていた。こんなに寒いのに、どうして発汗が止まらないのだろう。

「宜しい、イリヤさん。覚えておいて下さい」

 振り向きもしないで、彼女はいった。
 視線は変わらず、禍々しい瘴気を纏った小山に向けられている。

「何をよ……」

 無愛想な表情には、強がりの色が強い。そんな逡巡に、笑みが零れる。気の所為では無い筈だ、彼女が「くすり」そう、微笑を漏らしたのは。

「戦いとは、怖いものです。両儀さんだって、私だって、そしてきっと衛宮もそう感じている」

 やはり、私は頷いただけ。彼女に背負われた私が、無言を保っているのだ、セツナが私の表情を見ることなど不可能。だってのに、彼女の声に迷いは無く、まるで私の全てを見透かすように言葉を続ける。

「そして戦いとは、その恐怖を乗り越える、その恐怖を打ち勝つものだと思います。それを、忘れないで下さい」

 一際強く翼が無いで、頬を張る向かい風を切っていく。

「恐怖、ね。だけどセツナ、それを感じなことが、一番だと思うわ。だってそうでしょ、そんなモノ、邪魔なだけじゃない。貴方もシロウみたいな精神論者だなんて、思いも依らなかった。今時、根性なんて流行んないわよ」

 もっともな事を言ったつもりなのだが、やはり彼女は調子を乱さない。雲に届きそうな程の紫色の空の中で、薄い笑みがまたも零れる。

「それは違う、イリヤさん」

「なんでよ、違くないわ」

 そっぽを向きながら、言い捨てる。何をもったいぶるのか、この女は。そんなニュアンスを含ませて。

「恐怖の存在しない戦いなど、そもそも戦いなどでは無いのです。痛みを伴う恐れ、何かを守れぬ恐れ、何かを失う恐れ。それがあるからこそ、私は刃を執れる。恐怖なき闘争は、所詮、殺戮でしかない、所詮、暴力でしか無いのだと。そう、私は思います」

 まあ、何と無く分かる。
 戦うって、きっと大変なんだって事だけは。たった一人で、恐怖に立ち向かうのって、きっと凄く難しい事だ。
 バーサーカーと一緒に聖杯戦争に参加して、覚悟と恐怖を背負うこともしなかった私。
 アイツと一緒に聖杯戦争に参加して、覚悟と恐怖を共に背負ったシロウ。
 今、振り返れば結果など始めから決まっていたのだろう。違うかな? バーサーカー。そのつけが、今こうして回ってきたんだよね。だから、今度こそ背負うんだ、わたしに出来て、わたしに出来なかった何かを。

「――――――ふん、生意気。さっきまで、萎れてたくせにさ」

「……それを言われると、面目立ちません。まあ、戦いの前に一応の助言だと思っていただければ。不甲斐無くても、衛宮から貴方を任されましたしね」

 わたしの容赦の無い言葉、セツナはパサパサとした細切れの笑みでそれを受け取る。

「……ま。一応お礼は言っておくけどね。その………ありがとう」

 だってのに、なんで潮らしくなっているんだか、わたしは。

「はい? 何か言いましたか?」

「……なんでも無いわよ。ほら、もう直ぐ龍界寺よ。ココまで近づけば、張られた結界の構成だって判別できるんだから、入り口を探しましょう」

 セツナって、どこかシロウに似ている気がする。肝心なところでいつもお惚けさん、鋭いんだか鈍いんだか、今一判断しかねるのよね。
 そんな他愛も無い思考に区切りを付けるためにも、トーンを裏返してセツナに言う。
 目前に迫った龍界寺。上空から小山を見渡す限り、かなりの高度の結界が小山全体に敷かれている。

「一、ニ……結界は三つ、ですね。イリヤさん、どう思われます?」

「巧いわね。一つ目、恐らく今まで退魔組織の目を掻い潜るために敷かれた認識阻害の結界は殆ど作動していないようだけど、問題は二番目かしら。外界遮断の結界は生半可なレベルじゃないわねこれでもかって位硬いわ。それと、三番目……あれ? これって」

 セツナに龍界寺に周りを旋回してもらい、概念線の絡まり方からキチンと魔方陣を把握する。お山を囲むように魔力線と概念線が引かれ、その円心に収束している。集中したそれらの神秘が、今度は……小山から天狗の鼻みたいに飛び出した小高い丘に集まっている。
 随分と昔に敷かれたモノみたいね……なんにしても禿げ頭の魔術師が敷いたものでは無いのは確かな様だ。創りに派手さも無いし、嫌味なテクニックも無い。洗練された仕事って奴だ。
 詳しくないから詳細は分からないにしても、西洋の神秘体系では無い、恐らくは。

「過去に“孔”を封じていた結界でしょうね」

「ええセツナ、そのようね。でも面白いわ、“孔”の封印だけじゃなく、蛇口に役割まであるんだ」

「ええ、衛宮には話したのですが、過去は魔力が湯水の如く溢れる豊かな“孔”であったのです。が、一体何がきっかけだったのか、その孔が突如“ずれた”んです。見えるでしょう?」

 言って、セツナは先ほどの丘を指差す。恐らくはあそこにコノカがいるのであろう事は、魔力の気配で分かる。だが、真っ黒い真鋳のカーテンに覆われたみたいに視界が不確かだ。恐らくは、コレも魔術師の張った結界の影響だろう。

「“孔”は別の場所に繋がってしまったんです。魔力のみ溢れ出させる泉は、いつしか“魔”すら呼び出す異界への門に変貌を遂げた。イリヤさんが言った“蛇口”の役割は、この孔がまだ“魔力”だけを溢れさせていた時の名残でしょう」

 なるほど、ずれた、か。それならば奇妙な結界の構成も納得だ。

「寺院の中央に結界が集中しているのは、寺院の祭殿に、その“孔”が始め穿たれていたから……かしらね」

「ええ、そうです。その孔が丘の上にずれた為、中央に集められた結界の焦点を、二次的に移動させたわけです」

 なんともやっつけ仕事だ。そんなのだから、一介の魔術師風情に、式を解除されてしま……。

「―――――って、あれ? 変よね。魔方陣自体を解除したんなら、その痕跡だって残るはずないのに、どうしてまだ残ってるの?」

 変だ、魔方陣自体は消去されるどころか、今でもこんなにはっきり残っている。それなのに、なんで封印が解けるのよ?
 疑問符を浮かべ、少しの間思考に埋没して、考えをめぐらす。

「そっか、基点だ。そこを破壊して、結界の概念線、魔力線に流転していた魔力だけを塞き止める」

 シロウやセツナの話なら、この結界は人間と言うサクリフェイスを用いた儀式魔術。だったら、封印式自体は未だピンシャンで残っているのも納得だ。
 これなら、わたしにだって封印式を再度起動することも可能なはず。基点に再度儀式用の供物を用意して、魔方陣を起動させてやればいい。トウコの所でも練習したし、きっと出来る。

「恐らくは、イリヤさんの推察通りでしょうね。この程度の結界修復ならば、私達の技量でも事足りる。だから、今は」

「何にしても、この結果を突破しないとね」

 ウン、と二人で頷きあい、結界の二番目、遮断に特化した結界を凝視する。悔しいけど、本当に巧い。結界造りだけなら、トウコ以上かもしれない。それほどまでに堅牢。封印指定クラスの結界だ。

「私の斬魔閃では破れそうにありませんし、どうしましょうか……」

 そう、――――――見た目だけなら。
 確かにこの結界はかなりの練度だ、悔しいけどわたしじゃ到底創れそうもない。
 だけど、完璧なモノなんてこの世には存在していない。それが、わたしたちの用いる魔術であれば尚のことだ。

「ねえ、セツナ。“絶対に進入不可能な結界”は創れると思う?」

「 ? 何を急に」

「いいから、答えなさいよ」

 語気を強めたわたしの口調に、セツナは僅かな時間俯き、思ったとおりの答えを言い捨てる。

「不可能です。それはもう、魔法の領域だ。結界による隔絶、それは正しく空間の遮断、世界の断絶です。無理に決まっている」

 澱み無く、彼女らしい断定的な口調。

「ええ、その通り。そんなことは不可能なの、だけどね、“絶対に進入不可能な壁”だけならね、創るのはそれほど難しくないのよ」

 そんな彼女に、少しだけ得意げに言い放つ。
 ココからは、わたしの領分だ。

「、魔術は等価交換。ま、師匠からの受け売りなのが情けないけど“絶対進入不可能な壁”を創りたければ“誰にでも進入可能な門”を同時に開けてやるの、この意味、分かる? プラスマイナス、ゼロ。ね? 簡単なことでしょう。後は、魔力を差し出せば良いだけなんだから」

 はっ、とセツナが貌を持ち上げ、次の瞬間には龍界寺の山門を一直線に目指す。
 龍界寺に覆われた封印指定クラスの結界、そんなモノを幾らなんでもポンポン敷けるモノではない、それが、あの変態魔術師なら尚のこと、って言うか、わたしが信じたくない。

「山門、そこが入り口で間違いないですね?」

 無言で頷きながら、神経を磨いでいく。
 誰にも進入不可能な壁と、誰にでも進入可能な門。簡単にわたしは言ってのけたけど、この結界をわたしに張れるかと聞かれたら、答えはノン。何にしたって、一流の仕事なのは間違いない。悔しいけど、それは認めなくちゃならないんだ。
 それに、歯軋りの原因はもう一つある。
 進入不可能な壁と進入可能な門、これほどリスキーな結界を張ったのだ、詰まり、導き出される答えは実に単純じゃない。
 大地に向かい、空を疾走する白い翼にしがみ付き、わたしはさてどうやって次なる障害を突破しようか本気で考えた。

「――――――――――――やはり、あの男かっ!!」

 舌打ちと共に剣を握る。空を裂く勢いは微塵も乱れない。
 グン、と大地に直下した体が持ち上がり最初の鳥居をくぐった。石段すれすれの低空飛行で、一直線に山門の目の前で待ち構えていた青年に突撃の姿勢に入ったセツナ。
 鬱蒼とした針葉樹が仄暗い緑色に染まっている。彼女の両翼が一層力を込めてはためいた為、ザワザワと顫動するのっぽの密林。細い道がより狭く遠く映る。
 門番の存在、それはやはり確定した未来だったようだ。まったく、このエマージェンシーな事態だっての言うのに。

「本当、門番とは相性が悪いなあ」

 向かい風でぼさぼさの前髪を押さえつけながら、思わず毒づく。
 握り締めた銀色、ともすれば鏡の様な剣、嫌味で女性的な顔立ち、ひょろりとした痩身と束ねた後ろ髪。アサシンの顔が、嫌でも赤い眼にチラつく。
 ギュッ、と桜咲の黒いジャージを握り締めて、心の内で喚いてあげた。

―――――――――――――――今度は、通して貰うんだからっ!!

/ out.

「あの結界、不味いぞ」

 目的地、龍界寺まで距離、人外の頭数、双方共に概算三百。
 数が減るどころか、鼠算式に増殖していく物の怪の数に押されて、一進一退のジリ貧な戦闘に体力も精神も疲労の色が強い。くそ、後少しなのに。詠春さん、式さん、そして俺は、背中をつき合わせながら、乱れた呼吸を整える。
 そんなジレンマの中、山門に向かって飛翔する白い翼に気付いた。否が応でも視界に入るのは、結界の構成、そしていつか龍洞寺を守護していたアサシンと同じく、悠然と剣を構え、待ち構える一人の剣士だ。

「――――っく」

 どうする、桜咲とイリヤ。二人がかりでも結果は見えている。二人の勝利は動かず、そして、その辺り前の結実には、馬鹿みたいな時間を掛けなけりゃいけないんだ。
 ―――――援護を、しなくては。
 今この瞬間、俺たちの最大の敵は時間だ。カガミの野郎に構っている悠長な暇は無い。そうだ、桜咲とイリヤは、あんな野郎の相手をする必要など無いのだ。
 だけど、どうすればいい? 
 思いつくのは、遠距離からの狙撃だけ。一瞬でいいのだ、桜咲とイリヤが、カガミの横をすり抜けられる程度の一瞬。その一秒に満たない隙を創り出すだけで良い。
 しかし、どうやって? 俯いた貌を上げて、確認の意味も込めて再び山門との距離を算出する。100と50、それに打ち上げのデメリットを加算すれば、射程は約200メートル。
 無理だ。弓道の遠的は最大で60メートル、俺がどんなに頑張って剣の弓を引いた所で、100メートルでも飛距離が出れば御の字だろう。

「くそっ、何か、何か手は無いか!?」

 いけ好かない弓兵ならば、一体どれほどの距離を打ち抜くことが出来るのか。少なくともこんな程度の距離なぞ、奴にとってなんら障害たりえないのは真実だろう。
 人間の脆弱さを恨めしく思ったのも束の間、それを即座に破却して奥歯を噛み締める。そして、気付いたのだ。高いコンクリの谷間に吹き抜ける大気の嘶き、ビル風の荘重な曲節を。
 見上げるのは、超高層の塔。龍界寺の麓から見た、頭一つ二つ抜きん出た、無機質に聳えた都の景観を損ねる建造物。
 考える間も無く、俺は走った。忘れるな、衛宮士郎は魔術師だ。足りなければ補えば良い。

「おい!! 衛宮、何処に!?」

「すみません式さん、ちょっと野暮用です!」

 ビルへの入り口には当然シャッターが下りていた。そしてそれだけでは無い、湧きあがる瘴気にまみれながら、人外共が俺の行く手を阻んでいる。
 握り締めた愛刀を下段に構えて、大腿の筋が軋むほどに大地を蹴り上げ突撃する。

「どおっけー!」

 力の限り、振り上げ、振り下ろす。だが所詮、俺の慎ましやかな技量に空回りの気合が上乗せされた程度だ。肉を抉るも、鈍い音がして、でかい甲虫みたいな化け物に俺の剣戟は防がれる。
 脇合いから飛び出す黒い犬ころの刃を後方への跳躍で交わし、再度の突貫を試みた。だが失敗。入り口への距離を詰めるどころか、どんどん後退している俺がいる。

「よく分からないが、衛宮君。様はココを突破したいんだね? もう一度突っ込むんだ。援護しよう」

 見るに見かねた詠春さんが、不敵な笑みで俺の背中を押してくれる。ご迷惑おかけします、本当に。
 言葉よりも、態度で示そうと腰を低く。クラウチングスタートもかくやと言う低姿勢で、地面を蹴った。

「神鳴流」

 後ろには、感情の篭らない機械的な声色。
 そして、背筋が舐め上げられる程に磨き上げられた鋭い殺気。

「斬空閃、弐ノ太刀」

 真横一文字の抜刀。
 空気の断層は気と絡まり、斬撃となって一直線に俺と人外共を……。

「―――――って、俺も!?」

 巻き込んでどうすんですかー!?
 突っ込みを入れる間も無く、骨髄反射で強く瞳を閉ざす。

「―――――あれ?」

 だけど、どう考えたって俺の胴と足がちょん切られた様には思えない。まだ繋がっている。開いた視界には、俺を除き、見事に二つに乖離した物の怪共の無残な死体が転がっている。
 斬撃が、俺をすり抜けた? 緊張した筋肉が緩んでいくのを感じながら、一体どんな技だったのか本気で考え、直ぐに思考を断念した。
 今は、そんな考証に勤しんでいる場合ではない。斬撃の余波で拉げたシャッターをこじ開けて、屋上へ続く階段を駆け上がる。非常警報が耳にやかましいが、かまうものか。どの道、ここにただ人はやってこられないのだから。

「間に合ってくれよ」

 強い大気の流動を肌に感じながら、俺は屋上のドアを叩き壊すように開いた。妖雲たちこめる紫色の空。妖しいその色も、何故かアイツとの別れを連想させる。きっと、月と太陽の境界、曖昧なこの空が同じ色彩を纏っていたからだろう。

「変化投影」

 そして。

「----------------------- I am the bone of my sword」

 大地と空の狭間で、俺は、その言葉を紡ぐのだ。

/ feathers.

「やはり、あの男か」

 胎の傷が軋みを上げるのを叱責するつもりで、強く嘆いた。
 実際ならば動けるはずの無い損傷と、私の脳みそを溶解させていく吐き気を催す痛み。だけど、どうしてだ? 剣を握ることに躊躇いは無く、その痛みですら、今の私に力を与えてくれる様にも感じる。

「通して、貰うぞ!!」

 そう、きっと。
 少しだけ、ほんの少しだけ、私は自分が好きになったからだろう。
 強くはためく私の羽を、前よりも、ほんのちょっとだけだけど、きっと好きになれたからだろう。

「桜咲いいいいい!!」

 きっと、綺麗なモノしか信じられない、あの無様な少年の所為で。
 遠く、何処とも知れない彼方から、衛宮の頼りにならなさそうな声がする。力強くて、真直ぐな声なのに、どうして安心できないのでしょう。

「そのままっ!! 突っ込めええええええええええええ!!」

 その言葉にほくそ笑み、私は握った拳を緩めていた。

/ out.

 俺は、力の限り喚き散らし矢を握る。
 見下ろす下界には、今正に天への飛翔を目前とした一羽の白い鳥。

「――――――――――――――」

 精神を研ぎ澄ますのに時間は要らない。当りのイメージは、握る獲物が教えてくれる。足踏みから一呼吸で胴造り、今更弓道の真似事なんて、無礼なのは百も承知。だけどそれでも、無心を貫いた。
 投影した歪な幻想を弓に番え、打ち起こしから引き分け、そして会。驚くほど流麗に、弓は自然と離れていた。
 痛みは、勿論ある。背筋が捩じ切れる様な強い熱、それが体中を駆け巡る。だけど、それこそが俺の残心。この痛みこそが、俺になしえる、無二の意思。
 ただ、不愉快な事が一つある。
 僅かにチラつく誰かの姿。俺とは異なり、逞しい体つきと鋭い鷹の様な眼光。夜に佇み、下界を射抜く一人の弓兵と、この時、確かに俺は重なっていたんだと思う。
 ―――――弓を握る理由は、異なれど。

「よぉ、悪かったな」

 矢の行方など、俺にはもはや興味も無い。

「ここは、――――――――――俺の間合いだ」

 だって、その鏃が射抜けぬモノなど、俺は、アイツしか知らないのだから。

/ outer.

「エミヤ、―――――――――――――シロウ」

 カガミは、隠しきれない歯軋りの音と共に一人の弓兵と虚空で視線を絡めた。
 少年、カガミの視力では捉えることのできぬ彼方の視界。されど、少年は確かに視た。黒い弓を握り、血に染まった赤茶色の外套と焼け付くような炎髪を晒して、一人の弓兵が自らを見下ろすのを。
 弓兵の放った歪な幻想が着弾した石段には、三十センチ台の孔と、その円心から広がる亀裂、そしてクレーターの中央には、拉げるほどに捩れたファルシオンが突き刺さっている。
 数秒も待たず、霞に消える歪な幻想。カガミは痺れる両の手を握り締めながら、恨めしくその傷痕を睨みつけた。
 少年は振り返る。
 桜咲刹那とカガミ、二人が衝突する瞬間にも満たなかった交錯に、“それ”は起きた。
 結果だけを完結に述べよう。衛宮士郎の放った剣の弾丸は、寸分の狂いも無くカガミの剣だけを打ち抜いていたのだ。
 桜咲を迎撃するために剣を振り上げたカガミであったが、彼の能力を持ってしても、完全な不意打ちには対応出来ない。あくまで彼の物真似は自身の魔力を消費し任意で発動するモノ、不測の事態に即座に対応できるほど、彼の能力が優れているわけでは無かった。
 創り出された、一瞬……と呼ぶには不釣合いなほど大きな隙。それを、彼の剣士が見逃すはずも無い。瞬きの間に、桜咲刹那は山門の守護者を突破した。

 衛宮士郎は、こうして舞台を整えた。
 桜咲刹那とイリヤスフィール達ためだけの門、それを創り出したのだ。

「……来いよ、ニセモノ。僕達は、まだ終われない」

 歯が軋む低い音。
 そして、舞台は最終楽章へ。



[1027] 幕間 天の階
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 06:41
/ 15.

 見上げるのは、空に伸び上げた階段。
 この景色を俺は良く知っている。コレで果たして何度目になるのだろうか。二度目、いや、三度目か。それ以上でもあるように感じられるのは、俺、衛宮士郎にとって、天へと続く階は、どうやら因縁があるからだろう。
 きっとこの先には、倒さなくてはならない、乗り越えなければならない何者かがいるはずだ。
 桜咲、そしてイリヤのことを、今は考えまい。俺に出来るのは信じることだけだ、俺には、俺の戦いがある。俺には、俺のなすべきことがある。
 だから、想いのたけをそのまま伝えた。

「あの、アイツとは、俺一人でやらせてくれませんか?」

 式さん、詠春さん、そして俺。目だった外傷は無いが、群雄割拠する人外の群れを突破してココまで辿り着いたのだ、三者三様に、疲労の色が強い。
 遠く山門を睨み付けたまま、左右に控えた二人に振り返らずに……振り返る余裕を見せずに、言った。
 俺の我侭に、しばしの沈黙。
 背中で感じる困惑は、一人だけ。詠春さんだ。

「衛宮君、それはどう言―――――」

「いいよ、別に。行って来いよ」

 欠伸が出るような長閑さで、式さんは詠春さんの当惑をシャットアウト。
 だけど、それに納得できよう筈も無い真人間、詠春さん。式さんの一言に抗議を上げようとして。

「あのな、両儀の。私達は遊び―――――」

「どうせ、このコンクリ頭は一度言い出したら何をいっても無駄だよ、詠春。聞く耳なんざとっくに切り落としてる。それに別にいいじゃんか、男のタイマンは、ある種のロマンなんじゃないの?」

 にべも無い式さんの言葉に、詠春さんはあっけなく押し黙った。今の発言で納得してしまう様な性格しているのか、俺って。
 男のロマンについての間違った認識を後で幹也さんに正してもらわないとな。悠長な事を考え肩の力を抜きながら、小さく会釈する。

「ありがとうございます、それと、我侭言ってすみません」

「まったくだよ。ついでだ、理由くらいは、いってけよな、それが、筋ってもんだ」

 踏み出し、石段に足をかけたところで、式さんが尋ねる。俺は振り返らない。

「なんで、アイツと戦いたいんだ? 正直、アイツはつまらないだろ、殺しあってもさ。オレは、どうにも理解に苦しむ」

 心底分からない、と式さん。起伏の無いぼやけた声調での問い掛けに、逡巡、考えを巡らせた。どうして、俺はアイツと剣を交えたいのだろう。
 そして、直ぐに思い至る。別段、考える必要もなかったから、この瞬間まで、然したる動機を持っていなかった。
 まったく順序が逆じゃないか。行動してから、理由が分かるなんて。

「多分、同族嫌悪だと思います」

「あん?」

「似てるから、でしょうね。自分を見ているみたいで、ムカつくんですよ、アイツ」

 式さんが息を呑んで驚いた。なんでさ?

「へえ、ムカつく、ね。お前でも、そんな風に思うこともあるんだな。コイツは、面白い発見だよ、実に意外」

 ぬう、俺としては意外でもなんでもないのだが……なんて言うか、心外だ。

「まあいいや、で? それ以外にも理由、在るんだろ?」

 今度こそ本当に意外。参った、降参。ケタケタと笑っていた式さんから突如として振られた真摯な声に、俺は鼻の頭を軽く掻いた。そういえば、式さんと出会って、もう半年になるんだよなぁ。
 微かな微笑苦を浮かべて、俺は呼吸する様な自然さでいう。

「アイツに、本当の意味で“勝利”出来るのは、俺だけですから」

 そう、確かに、式さんや詠春さんが戦えば、結局、二人が勝つのは道理だ。だけど、そうじゃない、そんな克ち方じゃ駄目なんだ。そんな勝利は、間違ってる。
 言葉にして、体がギチリと軋んだ。魂が、鉄を打ったかの如く響いた。あいつには負けちゃいけない、あいつには勝たなきゃならない。
 俺の誇りが訴える。偽者達が、咆哮している。だから、――――――。

「ふうん、なんだ。結局は見栄が張りたいだけかよ。弱いくせに、変なところで一端だね、お前」

 やれやれ、なんて肩を竦めているであろう式さん。つーか見も蓋も無い。
 首をもたげる以外に、俺にどうしろと。

「――――兎に角、いってきます」

 肩を落としながら、それでも俺は階段を登るため胎に力を入れる。気の抜けた遣り取りもいい加減終わりだ。戦いに赴くため、精神を高揚させる。身体を締め上げる。
 しっかりしろ、衛宮士郎。京都の街の現状を思い出せ。正義の味方にあるまじき我侭をのたまったんだ、ここで破れようものなら、責任の取り様が無い。久方ぶりの身勝手は、どうやら高くつきそうだ。
 意気込み、貌を頂上に向けた途端。
 ぱあん、とつんざく様な高音。背中を、式さんに勢い良くひっぱたかれたらしい。

「いぃ!?」

 痛みにのたうつ余裕も無い。この痛みを言い表すのに、言葉は何と無力なことか。
 のたうち、階段を転げまわらなかったのは、ひとえに、俺が今まで世の理不尽に耐え忍んできたからこそであろう。

「何すんですか!? いきなり!!」

 俺の至極当然且つ正当な怒りの矛先は式さん。
 俺はそこで、石段前までやってきて、初めて振り返る、初めて、彼女の貌を直視した。
 黒い、それでいてどんな漆黒よりも尚深く澄んだ水晶が俺を不敵に覗き込んでいる。

「気負いすぎ。力抜けよ、ヘッポコ」

 終に式さんにまでヘッポコと呼ばれる始末である。次はいよいよ幹也さんか? あの柔和な微笑でそんな事を言われた日には、俺は首をくくって昇天してしまいかねない。

「強がる必要なんて無いさ、お前、なんてったって弱いんだから」

 怒髪天で向き合ったのもやおら、あっけにとられて、俺はまじまじと彼女の表情を臨んでいる。二十歳前後の顔立ちは、陶磁器みたいに艶やかで、それでいてずっと幼い。
 云わんとしている事が、今一不鮮明だ。この期に及んで、俺を虐めて楽しいのだろうか? そんな筈は無い、式さんの深い色の眼には、ふざけた色すら見えてこないのだから。
 無言のまま、俺は彼女の不敵な、それでいてたおやかな微笑を受け取る。その笑みはまるで、遠坂の様で、先生の様で、近衛の様でもあった。

「だけど、誇っていいぞ。お前は、ただのヘッポコじゃあ無い。思い出せよな、お前をヘッポコ認定した人間どもを」

 式さんらしい捻くれた勲等に、俺は堪らず破顔した。
 思い出した、そうだよ、俺にヘッポコ認定をしてくだすった方々に熨斗つけてお礼を言いたい気分だ。衛宮士郎は、ただのヘッポコじゃないんだって。

「ぶん殴って来い、手前のやりたい様にさ」

「うっす、いってきます」

 今度こそ、本当に。
 俺は、自分でも不思議なくらい爽快な笑みで、貝紫に染まる天上を目指した。






■ interval / 天の階 ■
 





/ outer.

 二つの人影が、奔り出す少年の背を見送った。彼らの後ろには、蠢く怪異。ほんの数刻前には無残に蹴散らされた彼らであったが、またぞろ新たな怪奇が群れとなって、洪水となって彼らの背中に詰め寄ってきた。
 ―――――――――だが、どうしたことか。その獣は、今まで蹴散らしてきたモノとは一線を画している。どろどろに溶解した狗のような輪郭。立ちこめる妖気が、禍々しい。

「しかし、両儀の。本当に良かったのかい?」

 背後に湧き出る数分後の肉塊を侮蔑と共に睨みながら、ため息混じりに、長刀を担いだ男は言う。
 古来、皇の宮に跳梁していたその魔物、孔からあふれ出た真性の怪異を前にして、男は幽玄としたまま剣を握る。その瞳には、動揺と言うものは皆無だ。
 与えられた仕事を淡々とこなす奉公人、ともすれば、そんな相貌だった。さもありなん、この程度の怪奇、“赤き翼”の仲間と共に、幾度となく蹴散らし、蹂躙してきた剣鬼である。

「何が?」

 答えたのは、着物の剣姫。やはり彼女は平静。目前にした妖怪変化共に、なんら感慨も抱いてはいなかった。

「衛宮君を行かせてしまって。そりゃあ、彼の我侭にも困ったものだが、それは良い。切嗣のせがれに、あれやこれやと言い聞かせても無為だろうしね」

「だから、何が?」

 両親の呵責に憂う少年の様に、女は再度同じ言葉を苛立ち混じりに繰り替えす。男のもったいぶった物言いが気に入らない。

「僕が言いたいのは、君が満足かって事。いいのかい、これで、連れ立った獲物はいなくなってしまった。群がる雑魚をいくら喰らったって、お腹は膨れないだろう? 暴食は良くないぞ」

 すっ、と音も無く男はコイクチを切る。
 同時に、滴るような女の吐息が漏れる。

「ああ、そのこと。いいんだ、もう」

 詠春の見詰める視線の先、そこからさかしまに、女の艶やかな振袖が揺れた。二人の背中が向き合った。

「もう、とは?」

 女の仕草に欲情し、飛び掛る悪漢の様に、二人を取り囲んでいた怪異が雪崩となって押し寄せる。
 それは、静かな闇に落ちた緊張に起こった。奔る剣閃、揺れる残影。握る刃は異なれど、描く軌跡は殺意の権化。
 血飛沫が咲き、黒い雪崩は一瞬にして赤い洪水に変る。千切れ飛び、弾け、舞う、奇怪な身体。その只中にあって、二人の剣客は澱み無く佇んでいる。

「興味ないって事。だって、――――――――――――――」

 裁断された肉片が、赤黒い中空に煩雑する。肉の雨、と喩えられなくもないだろう。細切れのミンチ肉が降りしきる中、女の、桜色の唇が歪む。萌える花弁が開くような微笑は、雨上がりの華のそれ。
 恍惚とした女の顔、黒い真珠の様な瞳の先、悦楽の極みが槍を携えている。

「よお、いい夜だ。どうだよ、俺も混ざっていいかい?」

 だって、目前に、こんなにも心蕩かす殺意があるのに。
 式の微笑みは、貌に走る亀裂にとってかわっていた。
 彼女の眼に映るのは、屈強な体つきの男。真冬の最中、薄いレザージャケットと同色のパンツを身に着けて、その貌には狂犬染みた喜色が張り付いている。
 男は怪奇の渦中にあって、身じろぎ一つ見せず、ゆっくり女に一歩一歩と歩み寄る。右手に握られた殺意の結晶、薄鉛色の大槍が、その度に小さく弧を描いて揺れた。

「はは」

 ささやかな嬌笑が、式から綻んだ。
 最高だ。自らが憔悴するほどの殺意、底冷えするほどの狂喜を、久しくお目にかかっていなかったから。伝う冷や汗と身震いする身体の感覚、磨耗する精神のなんて心地よい。
 思考が融ける。男と女。これは、果たしてどちらのモノなのか。

「――――――ふむ。吸血鬼かな、視たところ………まいった、君は、遠上都の連れかい?」

 そんな二人の内面を余所に、詠春が一人、冷静に問いかけた。

「はあ? しらねえな、俺は別件でね。まあなんだ、アンタ達の目的はなんだか知らねえけど、ちょっとした暇つぶしさ、付き合ってくれねえ?」

 詠春は男の回答に思考を巡らす。―――嘘をついている様には見えない、男が件の犯人との関連性を持たないのは、それなりに信頼足りえるだろう。

「それではもう一つ、付き合う、とは? 生憎立て込んでいるのは分かるだろう。時代錯誤の申し入れならば、後日にしてはもらえないのだろうか?」

 大槍の男の目的が何であるかは、あえて直接問わなかった。闖入者の殺伐とした雰囲気から、詠春は彼奴の目的がなんであるか位、容易に分かる。まったく、子供の喧嘩じゃ在るまいに。ああでも、今ではそんな気骨者も、存外少なくなったものだと、何処かしらの関心と共に笑む。

「そいつも知らねえなあ、悪いが、聞けねえよ。それに、となりの彼女は、随分と殺気立ってんじゃないか。ひく理由が、何処にある?」

 笑みを休め、これ見よがしにため息をついたのは、詠春。

「なるほど、興味が無い……か。こういうことだったんだね、ほとほと、恐れ入る。いつからこの男の事に気がついていた?」

「ついさっき。まあ、視線を感じたのは、お前が派手な一発を繰り出した時だけどな」

 完結に、これ以上語る暇が惜しいと、肉塊を踏みつけて、両儀式は一歩、大槍の男、クーに近づいた。

「まったく、君達と来たら……京都の危機的状況を、本当に理解しているのかい? 驚天動地の現状を、勝手に私事にしないで欲しい」

「オレにだけ言うな、不公平だろう? 衛宮やイリヤ、お前んとこの子飼い剣士にも良く言い聞かせておくんだな」

 悲壮とした表情が、詠春の心理を代弁している。最早何も言うまい、神鳴流最強の剣士、近衛詠春も語るに落ちたと、肩を竦めて式の背中を見送る。

「詠春、手は出すなよ。……丁度良い、ワラワラと雑魚が湧いてきたし、お前はそいつらの掃除でもしててくれ」

 沸き立つ怪奇を見遣りながら、簡単に式はいった。
 なんとも、勝手極まる置き土産を残してくれる。黒桐君と言ったか、彼には同じ男として賞賛を禁じえない。
 詠春は有耶無耶のまま首肯するも、当の両儀式はそんな彼の仕草など、眼中に無かった。
 後に訪れる殺戮に、身体が紅潮していくのを感じていたから。

「よお、話は纏まったのか? コレでも、悪いとは思ってるんだ。随分と立て込んでるのは分かるしな」

「いいさ、気にするな。それに、オレはこれでも嬉しい。退屈が、これでようやく紛れるからな」

 間合いは十メートル。地を向き構えられたクーの槍と、無為のまま垂れ下がる式の短刀。
 ふっ、と微笑が重なった。

「名乗りは、必要かい?」

 槍が、一段と深く沈む。

「いいよ、別に。アンタの名に、興味は微塵も無いから」

 呼応するかの如く、逆手に握られた短刀が式の目前に掲げられた。

「違いない。行きずりってのも、悪くないよなあ。いい退屈しのぎに、なりそうかい?」

 朗らかに微笑んだ男の赤い眼光が、先手をくれてやる、そう云わんばかりに垂れ下がる。

「ああ、多分な」

 女の華奢な矮躯が、それに纏われた振袖が、静かに舞う。疾走と同時に、亀裂の走る美貌で、彼女はいった。

「―――――――――それとついでだ。暇と一緒に、潰してやるよ」

 さあ、殺し合おう。



[1027] 第三十八話 されど信じるモノとして
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 06:51
/ feathers.

「きゃあっ!!」

 妹さんのささやかな悲鳴。不覚にも、着地に失敗した。
 衛宮の援護を受けて、私は自分でも御し切れぬ速度で山門を突き抜けた、ココまでは良い。だが、胎の傷も考えずに無理をしたのがココに来て祟っている。半分以上が粉砕骨折の下腹部は、それこそマグマ溜の様に灼熱していた。
 そのお陰で、地面を擦るようにしか着地が出来なかったのだ。私の背から投げ出された妹さんには悪いことをしてしまった。実に不憫である。

「大丈夫? セツナ」

「ええ、何とか。……混血の頑丈さは、こんな時位しか役に立ちませんから」

 そう、と事も無げに頷いた彼女は、私の手を取る。
 小さな手を握り返し、立ち上がった私は自身の身体を再度確認する。自らの言葉通り、混血の私の自然治癒能力は人間のそれとは比較にならない。だがそれでも、あの女、遠上都から受けた傷は大きい事に変わりは無い。
 動けても普段の五割以下、だが戦えないなどと、誰が弱音を吐けるのか。

「それにしても、酷い場所ね。なんて醜悪な匂いかしら」

 私は、結い上げた髪を揺らしながら頷く。微かながら凛と、髪留めに付属した鈴が転がったのだ。
 見渡す境内は、私が見知っているモノと何一つ変わらなかった。そう、変わらなかった。その変容が凄まじすぎたため、まるで一回転して戻ってきてしまったかのよう。砂利の轢かれた庭園と、よく磨かれた石畳、立派な本堂、何一つ変わらない。ただ、血の様に濃厚な腐臭が漂い、腐乱な大気が桜色に染め上げられている事を除いて。
 まるで、臓物の中にいるようだった。篭った空気は、もはやマナと呼べるモノではなく、私でさえ吐き気を催すほどの瘴気と化し、全てを犯している。

「妹さん、二手に別れましょう。いいですね?」

 だが、現状に嘆いている時間は無い。恐らく上空から見下ろした丘、孔の祭壇に続いているであろう羨道を睨み付けながら、私は妹さんの顔も見ずに言った。

「ええ、元からその心算だもの。良いも悪いも無いわよ。駄目って言われても、そうするわ」

 答えた声は、冷たいほどに澄んでいる。生ぬるい外気にあって、氷の様に研ぎ澄まされた彼女の強い想い。なるほど、やはりこの小さな銀色の少女は衛宮の妹さんです。

「安心しました。しかし、本当に一人で大丈夫なのですか?」

「貴方こそ。その怪我で、無理するんじゃないわよ」

 背中をつき合わせるように、私と妹さんの視線は真逆を射抜いている。
 彼女の瞳は龍界寺に本棟を見据えていた。この龍界寺に敷かれた結界の基点、恐らくそこに彼女の意中の相手がいるのは間違いない。
 私達は互いの獲物を握り締めたまま、一つ呼吸を落ち着ける。……いよいよ、何も言うことが無くなってしまった。後は、それぞれの戦いに赴くだけ。
 だから。

「イリヤさん」

「セツナ」

 駆け出す前に、名が重なる。
 まったく、女々しいものだ。それでも、言わずにはいられない私たちが。

「負けないで、下さい」

「負けるんじゃ、ないわよ」

 そして、私達は頼りなく、だけど懸命に大地を蹴った。





Fate / happy material
第三十八話 されど信じるモノとして





/ others.

「―――――――順調だ」

 魔術師は暗闇の中で嗤う。
 近衛木乃香と言う加給機を手中に収めた今、彼の目的は着実に前進していたからだ。

「ひは、ひはは。もう直ぐ、コレで」

 ガラス管の中には既にゲル状にまで固着された莫大な魔力が泡を吹きながら凝縮されている。
 奇怪な魔具、まるでそれは、珈琲メーカーだ。濃厚、既に質感さえ伴っていそうな大気のマナを蒐集し、ガラス管の中に液体にまで化した魔力を貯蓄する様相。用途は異なれど、礼装の形状は、ソレに酷似していた。

「―――――ほう、侵入者かね?」

 だが、自身が生み出し、そしてこれから生み出されようとされている、叡智の結晶に酔いしれていた魔術師の濁りきっていた瞳が、唐突にしかめられる。
 気付いたのだ、取るに足らぬごみ屑が、龍界寺の土を汚したのだと。
 ―――――しかし、奴等ではない。そのことに、男は少なからずの安堵を覚えた。だが、果たして、男はこのおこがましくも卑しい自身の感情に気付いていたのだろうか?

「……まったく、役立たずのガラクタが」

 そもそも、この礼装が完成すればあの二人は用無し。いずれ切り捨てる存在だったとは言え、こうまで使えぬといっそ清々しい。毒々しい愉悦に天井など無いのか、目玉が厚い肉にめり込むほど、魔術師は笑う。
 魔具の完成は間近、これさえ完成すれば、トラフィムの追っ手などに怯える必要も無い。いや、トラフィムの騎士? その程度の存在など、もはや恐れるに足らぬ存在に成り下がるのだ。

「ひゃは、ひゃはははははは。堪らない、堪らないなぁ!!」

 誰とも知らぬ脅威を、見下ろす。魔術師としての歪んだ誇り、より自身を高みに置くことで他者を蔑み、自己を讃える。それが彼の在り方、それだけが彼の信じたモノ。
 それもやはり一つの象。そう、彼の持つ歪んだ意思でさえ、それは確かに幸福足りえるのだ。それは、充分すぎる真理なのだ。

「さて、完成までの数刻。僅かでも、戯れてやろう」

 満足に笑みを休め、黒い男の外套が闇に翻る。
 笑みの奥底には、確かな殺意。魔術師としての誇りを、道具の分際で踏みにじるなどと。男は、捩れた誇りを燦然と恥ずかしげも無く信じている。
 濁った魔術師の瞳は、工房の扉に向けられた。

Out. / snow white.

 目の前には、扉がある。とは言っても、薄い羽目板が頼りなくあるだけだが。 
 用心の意味でも、周囲を一度見渡してみる。冬木のお寺と殆ど同じ間取りの本棟の深奥、灯りが申し訳程度にしか無い廊下、汚れた白蓮が浮かぶ貯水池、そして和風の庭園、当たり前と言えばそうなのだが、普通の寺院である。
 わたし達の侵入に気付いていないのか、それとも、わたし達程度侵入者に警戒する必要も無いのだろうか? 山門からココまで、罠どころか、結果一つ敷いていなかった。
 だが兎に角、目の前の部屋にあのヘンタイがいるのは間違いない。タートルネックの黒いセーターが息苦しく感じる程のマナの沸騰、ジーンズが窮屈に感じるほどの圧倒的な神秘の奔流。ドブ川よりも汚らしい奴の魔力が、この部屋には納まりきらず漏れ出しているのだから。
 肩にのしかかる重圧に抵抗するため、眼光を鋭く、顎を引いて。麻の布切れに巻かれた双剣を抱きしめた。漸く、わたしは最後の一歩を踏み出すことが出来た。

「ごきげんよう、醜い貴方。躾の時間よ」

 はしたなく羽目板を蹴り開ければ、一面暗闇。そして、その深い黒色に浮かび上がるように男はいた。

「ひひ。懲りないな、ホムンクルス。どうやら、出来損ないは何処までいっても出来損ないの様だ。学習能力を付属して貰えなかったのかね?」

 広い板張りの室内には、太いパイプが何十にも敷かれており、それらを纏める大きなサイフォンみたいな礼装が、中央に設置されている。
 敵の工房に乗り込んだのだ、警戒は怠れない。注意深くその巨大な礼装を観察した。30㎝の円柱形、丁度珈琲カップが来る位置に設置されたガラス管の中には、気色悪いゲル状の液体が溜まっている。
 ヘドロの緑色。汚らしいその液状物質からは、とんでも無いほどの魔力を感じた。どうやら、孔から吹き出す濃厚な魔力を圧縮しているらしいのだ。
 一応、どんな効果の道具なのかは想像ができる。まだ完成していない様だが、あれは恐らく魔力タンクだ。リンの宝石のパワーアップバージョンとでも言えばいいのか、かなりの魔力を内包した補助礼装。
 だけど、一体何のために、この男はこんなものを?
 魔術師の言葉など適当に無視して、回答など期待していない疑問を放り投げる。
  
「貴方、それって一体」

「さあ、何かな? 確かなのは、奴等を退けるための秘策……だということだ」

 奴等? 不可解な言動は、果たして何を意味していたのだろう。
 くっ、とくぐもった笑みを溢したまま、一歩、男は大仰に両手を広げて私に歩み寄った。

「冥土の土産、と言ったか? この国では。残念だよ。この礼装が果たして何のために必要なのか、教えてやってもいいのだが、生憎、私の計画に水を差し込む道具に、そこまでしてやれる程、私は気が利いていない」

 だからね。
 男は、声色を変え、告げた。囁くように、殺意が呪詛になる。

「何故、来た? ガラクタ。壊さなかったのは、せめてもの慈悲だったというのにね」

 数時間前に血みどろの私を踏みつけていた硬くて分厚いブーツが、ジリ、とまた一歩近づいた。
 背筋が舐め上げられたように、再び体中の穴が総毛立った。恐怖、と言う無様な感情が、四肢の力を奪い取る。
 思わず取り落としそうになるシロウの創った双剣。それを、殆ど無意識で両の手で抱え込む。誰かを抱きしめるように。ただそれだけで、少しだけ、本当に少しだったけれど、強く、なれた気がする。

「何故来た、ですって? そんなの――――――――――――決まっているわ」

 恐怖は、消えない。弱いわたしだ、そんなの当然だった。消え入りそうな強がりと、震える膝が、それを教えてくれるもの。
 シロウや、リンや、シキや、セツナや……そしてアイツは、こんな風に、戦いの中に身を置くたび、こんな耐え難い恐怖に、いつも立ち向かっていたんだろうか。
 振り返るのは、一つの終わり。聖杯戦争、あの戦いで、英雄と言う名の恐怖は、果たしてどれほどのモノだったのか。
 一つだけ間違いないのは、今のわたしが感じるそれより、もっとずっと恐ろしい事なのは確かだろう。
 笑っちゃうわ、こんなことにだって、今になってしか気付けなかったんだから。
 あれ、何故だろう? 気付けば、本当に笑っている自分がいた。

「我慢ならないのよ。今のわたし(貴方の言葉)に」

 魔術師を見据えて、お腹のうちから、濁ったものを全て吐き出す。
 わたしの言葉に、分からない、と首をかしげるのは、黒い男の番だった。

「取り消しなさい。イリヤスフィールは、“魔術師”だ」

 這い上がる、今は無様でも、きっといつか。みんなの隣で、生きていたいから。

「取り消す? 馬鹿を言え、渾然とした真理、礼装、道具としての事実すら見つめられぬ貴様に、魔術師の称号など、だれが」

 癇癪を起こして、魔術師は頑なにわたしの言葉を否定した。自身のプライドを酷く穢されたのか、脂肪で厚みを含んだ赤ら顔が、より一層朱に染まる。

「ふん~っだ! 貴方が聞いたから答えただけじゃない。生憎、わたしは淑女なの、持て成すのは当然よ」

 はらり、蒼白の奇剣に捲かれた麻の布切れが地に落ちる。双剣を小さな両の拳で握りこみ、構えになんてなってもいない下手糞な形で、剣をかざした。

「冥土の土産。だって、貴方には必要でしょう?」

 歯軋りが、開始のファンファーレ。

「――――――――――望み道理、破棄してやる。私と君の“違い”を噛み締めろ」

 暗い室内に、二つの魔力が吹き荒れる。
 魔力が回路を駆け巡り、切り替わる肉体。精神のスイッチは、とっくに入れっぱなし、容赦など、初めからするつもりは毛頭無い。

「流るる青は盃を、零るる白は杯を、―――――――Einschenken(満たす)」

 両翼の櫂が、匂い立つ工房に満ちた魔力を切り薙いだ。

「ほう、道具が礼装を振るうか。もっとも、できそこないには不釣合いな程、見事な魔剣だが、君如きに、扱えるのかね? ん~?」

 目の前の魔術師。彼は確かに一流ではあるが、わたしの礼装の能力を一目で看破できるほどの鑑定眼を持っている訳ではなさそうだ。そもそも、シロウの解析能力がインチキなだけであって、別段不思議な事では無い。
 最初のハードルは、クリアー。作戦開始だ。

「ああ、そうだ。イリヤ、すこしばかり助言がある」

 わたしは、数時間前に交わされたシキとの遣り取りを頭の片隅に思い描きながら、呪を構築する。

「Versammlung sich herleiten; beruhen auf (水の精霊、十一刃、集い踊りて)」

 回路を起動したわたしと黒い男。彼はわたしと同じくオーソドックスなタイプの魔術師の様で、戦闘の開始と共に、一様に距離を取った。様々な魔術道具が敷き詰められている雑多な工房内とは言え、床、天井の広さ高さ共に戦闘が充分に可能なスペースが確保されている。
 魔術を発動するのに、なんら躊躇はいらないのだ。

「ふむ、まあ先手はくれてやる。さあ、なにが変ったのだ?」

 二人の距離は大体七メートル位だろうか。黒いコートを僅かに発光させながら、奴の魔力が拡散、大気に浸透していく。静電気でも発生しているのか、私の前髪がチリチリ音を立てながら奴に靡いていた。

「――――――――――Wasser Schwert(敵を切り裂け、水の射手)」

 黒い男の魔力の障壁を貫けないのを承知で呪を放った。自動防御の障壁ならまだしも、意識付けされて構成された奴の防御式を貫ける魔術など、この程度の詠唱では到底成しえないのは分かっている。
 放たれた十一の刃は、予想と共に的中、奴の魔術障壁の前に霧散した。だが、別に気にする必要も無い。何故って、コレは確認。奴の属性や特性、そして技量を測るための捨石に過ぎない。
 敵を知り、己を知れば百戦危うからず。意外と、コレは真実だと思う。黒い魔術師は、わたしよりも確かに優れている。だけど、その差を知らなくては、何も始まらないんだ。

「ふむ、なんだね。その礼装の力は、使わないのかね? 先ほどと、何も変らないのだが」

 水の刃は見えない何かと衝突し、散り散りになって霧散していく。詰まらなそうな魔術師の貌を殴る要領で、心の中、拳を握りこんでガッツポーズを作ってやる。
 舐めるな、初手において、わたしの目的はキチンと果たされているんだからっ。
 わたしの魔術を防いだのは大気に拡散した奴の魔力の壁、そして前後に発生した静電気の事を念頭に入れれば、奴の属性はやはり“風”若しくはそれに、やや“乾”の性質が加わり“雷”……と言ったところかしら。この室内に設置された電力を主な稼動元にする機械的な魔具を見ても、中々いい線行っている推理だと思う。
 加えて奴の特性、コレは結界構築や方陣制御、蓄積に特化したモノと見て良さそうだ。
 技量については言うまでも無い、無詠唱での回路の起動、式の構築、そしてその精密さ、わたしより五六枚上の使い手である。
 だけど、思っていたよりもその差が絶望的では無い。そうだ、シロウはいつだってこの程度のハードルを、乗り越えてきたんじゃないの。

「ひひ、ほら。考えごとは頂けない、折角の戯れだ。壊れるまで、使い込んでやる」

 パチン、と指がなる。やはり無詠唱、しかも、コノカの家で見た魔術の矢よりも数が多い。式の起動は一工程、大気の芳醇なマナを矢に注入し、威力を高めるためにもう一工程。
 無詠唱で完璧なシングルアクションとまでは言わないが、それでも速い。魔術の構築速度、これって、戦いにおいては結構重要だ。

「簡単に、潰れてくれるな」

 計ニ工程、数は全部で十一。わたしが創ったモノと同じ魔力の矢。違うのはひとつ、その属性。水と雷、相性の相関図で、果たして不利なのはどちらだったかしら?
 大気で太鼓でも打ったかの様に、魔力の矢が空気を撃ちつけながらわたしに飛来する。
 防御は、無理。覚えたばかりの障壁程度では、あの攻勢には耐え切れず、弾け飛ぶ。もっても五発。なら、避けるしかない。きっと出来る、シキの“メン”はもっと鋭かったもの。

「Starkung Wiedereroffnung(強化、杯を磨く。詠唱、開始)」

 足に強化の呪。身体が軽くなった錯覚に酔いながら、背中をむけて思いっきり走った。避ける、なんてかっこのいい事、わたしには出来ない。精々“逃げる”のがいいところだ。
 広い室内を、出来る限りの速さ、とは言っても成人男性の全速力とそう変らない速さで、駆け回る。中央に置かれた珈琲メーカーの周りを、くるくると蹴躓きそうになりながらも、懸命に爪先を前へと突き出した。
 わたしも使えるから分かる。魔力の矢、この魔術は、そこまで正確な狙いがつけられないのだ。当然、使い手の技量次第ではあるが、奴の特性を考えれば、命中精度は余り期待できない。あいつの口ぶりからするに、この気色悪い試験管はなにやら大事なモノみたいだし。

「っちい、ちょこまかと」

 故に、わたしへの狙いが、定まらないのは当然だ。
 下手に魔術を撃てば、奴が重宝にしている妙なガラス管を傷つけかねないのだから。
 ―――――全弾、何とか回避。
 魔術を放った後も戸惑いを拭い切れない奴の矢なんかに、当ってたまるかってーのよ。あらいやだ、わたしったら、はしたないわ。

「へへん!!」

 魔術の雨が止んだのと同時に、急ブレーキ、魔術師に向かって鋭角に切り込んだ。

「Versammlung sich herleiten; dreiunddreisig beruhen auf (水の精霊、三十三刃、集い踊りて)」

 戦いにおいて重要なのは冷静な状況把握と、踏ん切りの良さ。前者は自信ないけど、思い切りの良さなら、シロウにだって負ける心算は無いんだからっ。
 ギシギシと油が切れかかった身体に鞭を入れて、魔術師に肉薄する。痛む体と、強化の魔術の効力が薄まり減速していく身体。それでも、天井に向かって足を蹴り上げれば、金的位は出来そうな距離まで詰め寄ることが出来た。

「Weihwasser Pfeil Wasser Schwert (敵を、切り裂けっ)!!」

 零距離で放たれた魔弾。先ほどは奴の障壁を貫き、一矢を報いた攻撃だが。

「っ調子に、乗るな!!」

 やはり、そう楽はさせて貰えそうに無い。同じ攻勢を二度も甘んじるほど、黒い魔術師は弱くなかった。
 やはり魔術で障壁を即座に構築。魔弾を完璧に防ぎきる。―――――だけど、今のわたしは、初戦の時とは違うのだ。
 わたしの魔弾が奴の障壁と弾け相殺した逡巡。火花が弾けるように、水蒸気と化した水の刃が帯電する。その霞を目くらましに、握り締めた青・奇天を切り上げた。

「ぎい!?」

 初めて、自分の手でヒトの肉を抉った感触。思った通りの弾力があって、意外と硬い。テレビみたいに、血飛沫だって上がらない。鼻をつく鉄の匂いは、こんなにも希薄なのに、目眩を起こすほどに不愉快だ。
 だけど、怯んでいる暇はなど、まるで存在していなかった。
 わたし程度のつけた傷で絶叫した魔術師が、気が狂わんばかりの勢いで、わたしに殴りかかってきたからだ。
 奴の拳には強化の魔術が施されているし、あんなのを貰ってしまったらひとたまりも無い。この身体は、脆弱なのだ。

「貴様、貴様、貴様、貴様、貴様ああああああああああっつ!!」

 血眼。眼球を大きく見開き、泡を吹くほどの絶叫で襲い掛かる魔術師。シキやセツナ、そしてアイツみたいに、拳の雨を全て捌ききる剣の腕前なんて、わたしに望むべくも無い。
 うまい具合に弾き返せたのはお腹と顔面に振ってきた最初の二つ、そしてかなりの偶然とまぐれも手伝って、やっとの思いで防いだ横腹の三発目だけである。
 後退、肩口を殴打され後ろに仰け反っただけとも言うが、倒れるように後ずさりながら、わたしが唯一使える防御の式を起動した。

「っち。SchildWasser(水楯)、――――――――――――――」

 だが、奴の拳の方が硬い。狂騒とした様子で、水の楯を殴り続ける男。傷を与えられたのがそれほどまでに許し難いのか、拳が休まる気配は無い。それどころか、大きく波打ち続ける水の楯は、直ぐにでも貫かれてしまいそうだ。
 うまく出来るか分からないが。変化の呪を……っ!

「sich drehen Schneeschmelze (杯を廻す。水霊、氷雪を掬え)」

「ひゃひひゃあああ。砕けろ!!」

 大きく波打ち、もはや薄い膜が残るのみとなった頼りない水の楯に、類感で派生した“氷”の概念が被さられる。早くっ、早くっ、内心で緩慢な魔力の集束に叱声を上げながら、強く瞳を瞑った。

「――――――――――Eiskristall Schild (氷楯)!!」

 ガラスに亀裂が走る、なんとも歯痒い雑音。魔術師の拳は、中空、青い氷の壁に阻まれ静止している。
 呪は、間一髪ながら成功。安堵のため息など、吐き出せる分けは無い。即座に魔術師から逃げるように飛び引き、距離を再び開いた。

「は、は、は、は…………っ」

 わたし、本当に呼吸をしているのかしら。焦げ付いたみたいに、喉の奥が熱い。たったコレだけの攻防で、体力が底を尽きかけているようだ。連続して喉を顫動させているのに、空気を取り込んだ実感がまるで無かった。頬を滴る汗すら、愚鈍で草臥れたように足元に落ちる。手に握った青奇天も、今はこんなにも重い。
 腕に掛けていた強化の魔術が弱まっているのか、ソレとも単純に、ただ手が痺れてきたのか。恐らくは後者だろうが、実戦と言うものが、コレほどまでに体力を使うモノだとは考えもしていなかった。シキとの鍛錬の三分の一位の運動量なのに、なんて様かしら。
 魔術師にやられた傷の所為も勿論あるが、やはり体力の不足、子供の身体には結構のハンデみたいだ。

「ガラクタ風情が、よくも、よくも………っ!」

 魔術師が、何か嘆いている。
 だけど、聞こえない。今は、一秒だって体力の回復に割り当てなくてはならないんだ。体力の低下は、思考の停滞を招く。痛んだ体をグッと抱きしめ、鈍い痛みで身体を刺激する。

「さっきまでのわたしとは、違うんだから。あんまり、舐めないでよね」

 段々と平静を取り戻しつつある心臓を撫で付けながら、わたしは、余裕を取り繕いながら続ける。

「わたしの礼装だって、一度だってその本領を発揮していないのに。何、貴方ってこの程度?」

 あえて、奴を挑発させる言葉を選んでやる。
 怒髪天に顔が染まり、醜悪な顔が、より一層歪んでいく。甚くプライドを傷つけられたようだ。魔術師として妙な一本気を持っている男だ、彼曰く“道具”からの調子に乗った挑発を何度も投げつけられているのだから、その辱めは、もはや耐え切れるものではないのだろう。痙攣する頬が、それを克明に語っている。

「後悔しろ、ガラクタがあああー!!」

 痛みには慣れていないのか、わたしの与えた肩口の傷を押さえつけながら、魔術師は絶叫する。額に脂汗さえ滲ませて、醜いことこの上ない。
 そんなわたしの内心を理解できてしまえるのか、眼球が飛び出るほどの形相と共に、男は魔力の矢を構築する。はは、わたしもシロウに似てきてしまった様だ。奴を蔑んだ微笑を、隠すことが出来なかったなんて。

「Versammlung sich herleiten; beruhen auf (水の射手、集い踊りて)」

 三度目の呪、たっぷり時間をかけての詠唱、教科書どおり【三工程】でもって魔術を構築する。
 飛来する魔弾は全部で二十。電光を纏う魔力の鏃。
 身体の機能は低下している、回避は得策とは思えない。よって迎撃、上策とは言い難いが、今はそれで良い。

「格下が格上に勝つ方法はな、一つしかないんだ」

 長閑でやる気の無い誰かの声。
 被弾直前。寸でのところで、わたしの呪は成った。

「Weihwasser Pfeil Wasser Schwert (敵を切り裂け、水の射手、二十刃)!!」

 炸裂するわたしの神秘。同系の神秘は互いにぶつかり合い、消滅する。
 だが、それは出力、詠唱速度、属性が同じであった場合での話だ。そもそも、後者の二点で劣るわたしの神秘が相殺にまで持っていけよう筈も無い。
 出力に関してはわたしがホンの少しだけ上。しかし、黒い男の矢の詠唱速度は、わたしのそれよりも速い。

「―――――――――――――っつう」

 電気ショック、と言えばいいのだろうか? 魔力の余波で、身体の筋肉が絞り上げられたみたいに萎縮する。その激痛は、正直わたしみたいな女の子には耐え難い。
 相殺し切れなかった黒い男の雷の矢を防ごうと、とっさに水の楯を眼前に構築したのだが、余り意味が在ったとは思えなかった。矢に付加した運動エネルギーは防いだモノの、シビシビの電気が楯を貫通して、わたしの身体を犯したのだ。水は電気を良く通す、こんなの、小学生でも知っている。

「―――――――――――ひゃ、ほら、次だあ!!」

 相性の優劣。
 属性の問題は、やはり庇いきれないほどに、わたしの劣勢を教えてくれる。即座に魔術師の周りに構築される雷の矢を睨みつけながら、それでも、わたしは勝利の可能性を必死にかき集めていた。

「ほらほらほらほらほらあ!! どうした!? 動き回れっ、それでは詰まらぬぞ! ひゃっは!!」

 ジリ貧になるのを分かっていながら、無詠唱二工程で放たれ続ける雷の矢を、足で地面に根を張り、水の矢と楯で対抗する。
 魔術師の魔術はニ工程の無詠唱呪文でありながら、詠唱を必要として放つわたしのそれとほぼ同出力。速さで劣り、相性の面においては最悪。不利は否めない。
 わたしの劣勢は揺るがぬ事実。

 ―――――――そう、だからこそココまでは完璧なのだ。

 疲労、身体の傷、全力で動けるのは、多分、後一回こっきり。
 そうだ、仕掛けるのは、まだ、“今じゃない”。爆散する神秘の鏃、破砕した部屋の破片が縦横無尽に視界を埋める。

「こん、のお………」

 諦めるな、敗北は間近にある。だけど勝利だって直ぐそこだ。ここまでは、全部わたしとシキで作ったシナリオどおりではないか。
 始めから分かっていたこと、このシナリオ用意したときから、覚悟していたことだ。だったら、我慢なさい、イリヤスフィール。
 暗がりの攻防/工房が少しだけだが白んできた、ただ、瞳がその闇に慣れただけだと言うのに、それは、喩えようもなく勝利への光明に思えてならない。

「まだ、まだ………頑張れるんだからっ!! 

 歯を食いしばって、青、奇天を前に突き出す。多少でも、わたしの楯になってくれると思ったから。

「Weihwasser Pfeil Wasser Schwert (水の射手、集い踊りて、敵を撃て)!!」

 発射された二十に及ぶ水の剣。
 わたしを舐めきっていた魔術師の挑発、今の魔術師は“青・奇天”の存在など頭の片隅にだって残っていないだろう。
 そして、同時に。

「はっ!! もう諦めろ!! 君では、私の無詠唱呪文について来られないではないか!!」

 爆散。奴の魔弾の余波で、わたしの前髪が靡く。ニヤリ、と不敵に思考する。
 そう、同時に。“わたしが【ニ工程】で攻撃呪を使えない”と言う、実に気に食わない刷り込みにも成功しているのだ。
 口元が緩んでいくのが、自分でも分かる。不意に思い返されるのは、シキの言葉。

「――――――――――――――さあ、覚悟は良い?」

 魔術師が、ボロボロのわたし目掛けて、何度目になるかも分からない雷の矢の掃射準備に入る。
 奴は、式の起動に詠唱の必要が無い、よって即座に魔力の固定、属性の付属。ココで一工程。

「覚悟? それは、君の持つべきものだ。私も、いい加減飽きた」

 沈黙が堕ちたのは一瞬。魔術師は、「コレで終わりだ」そう告げて、太い腕を掲げる。

「乱戦、泥試合。下克上なんてものは、いつだって無茶くちゃした方が制するのさ」

 不敵に微笑むわたしに、魔術師は苛立ちを隠せない。当たり前だ、きっと聖杯戦争の時のわたしだって奴と同じ貌をしていたことだろう。
 これ以上何が出来る? 勝利/敗北は、必至。
 だけど、本当にそうなのかしら? それが覆る瞬間を、わたしは誰よりも知っている。
 今、この瞬間。地に膝をつくのはボロボロのわたし/シロウであり、それを見下ろすのは魔術師/わたしだ。

「お前が、そのことを一番良く知っているだろう? なんてったってお前は、あの戦いの」

 掲げられた断頭台の如き、魔術師の腕。魔力は安定し、稲妻は虚空に待機し裂光する。その数、実に四十を超える。
 握り締めた蒼白の奇剣。それを重ねながら、魔弾の全てと向顔する。ひるむな、シロウは、いつだって諦めなかったじゃない。
 勝利への布石は整っている。後は信じるだけ。
 青、奇天、接続。ココで一工程。そうだ、後は、その言霊と共に。

「さあ、派手に壊れろホムンクルス」

 ニ工程、最終工程を告げる、弾かれた指の音。弱者を破壊する愉悦はココに極まり、最早、目前の絶頂に酔いしれる、そんな魔術師の下衆な表情。
 ええ、だから。その醜い精魂、完膚なきまでに粉砕してやる!!

「Wasser Schwert(誰が、壊れるもんですか)!」

 青・奇天。蒼白の軌跡が暗い闇色の工房を一閃する。即座に集束、最大出力で放たれた互いの矢。

「―――――――な!?!?」

 驚愕は、魔術師だ。
 爆散する神秘。工房の中央で爆ぜる水と雷の天象。天井を剥し、木目板をめくり返し、羽目板を粉砕する力の潮流が、熱となって互いの肌を焦がしている。
 属性の不利を覆すべく、後先考えない最大出力の迎撃。
 相殺。終に、相殺。
 この結果は予測済み。この一瞬に賭けていた最後の胆力を注ぎこみ、足を壊そうかと言う踏み込みで魔術師に詰め寄る。

「Ablaufenlassen Sagittarius (水の射手)―――――――――――」

 魔術師の動揺は、一瞬。目の前の現象に四肢を硬直させるのは、逡巡。だが、その隙はあまりに大きく、あまりに無常。
 互いの攻め手は、この刹那、互角。いや、魔術師の動揺は、この均衡を崩すのに充分すぎる。
 この勝負、わたしが、――――――――――――――。

「―――――――貴様ああ!?」

「――――――durchdringen (敵を、切裂け)!!」

 貰ったわ。
 奴の指が弾かれ、放たれた魔弾。しかし、わたしの方が速い。超至近距離、零距離射程からの最大出力で敵に奔る水の魔弾。
 咄嗟に黒い男も魔弾を創り出したようだが、遅い。何度だって言う、この瞬間にだけ、“詠唱の速さ”は逆転している。
 魔弾の出力、数は同じ、なればこそ、勝利を、敗北を左右するのは“速さ”なのだ。そのための布石。それ故の、切り札。残っていた魔力の全てを込めた必殺。
 それだけが、勝利をもぎ取れる、たった一つの可能性、だったのに………。

「――――――くひ、くひひ。なんてなあ。やられた振りは、存外、面白い」

 錯交した互いの魔弾。わたしのそれが最大出力で黒い男を撃ち抜く筈だった。
 だけど、結果はどうだろう? 烈火の閃光と爆音に鼓膜を刺激されたまま、横たえたわたし。煌々とした魔力の霞の中で、男は傷一つ無く佇み、わたしは驚愕を隠すことも出来ずに眼を見開いている。

「ひゃは。良い眺めではないか、やはりガラクタは、地べたに転がるのが良く似合う」

 なんで。在りえない。今の攻勢は、完璧だった。
 なのになんで、痙攣するわたしの身体が、冷たく倒れ付しているの?
 身体への外傷は、無い。あるのは、体中に纏わりつく筋が張り裂けそうな痛みだけ。
 いつだ、あの一瞬の内に、いつ、わたしは奴の魔術に被弾した?

「いや、しかし驚いた。なるほど、発想、着想、共に悪くない、一体誰の入れ知恵だ? 礼装の能力を最後の瞬間までひた隠しにした、君の手際には、中々に楽しませてもらったよ」

 身体が、動かない。
 抵抗の仕様が無いので、瞳孔だけをぎらつけ、優越に浸る肉の貌を見上げた。

「二工程の魔術を持って私の隙をつく、かね。なるほど、下等なガラクタが考え付きそうなみみっちい切り札だ。だが残念だね、ココは私の工房だ」

 芝居がかった仕草で、種明かし。多弁な黒い男を忌々しく見つめるも、それは、よりわたしを下卑させるだけだった。

「確かに、君の魔弾はわたしの魔弾、そして障壁を打ち抜くに充分足るモノだった。あの瞬間だけ先手をとった君だ、ソレも道理。しかしね、仕込みをしていたのは、君だけでは無いということだよ」

「それって………」

「この工房内において、私の障壁は通常のそれよりも強化されるのさ。君も、私の特性には見当ぐらいはつけているだろう? 結界。その魔術を主とする私がこの工房に敷いた結界能力、それが障壁強化さ。ちなみに、君が放てる程度の神秘の格ならば、君が味わっっているように“反射させる”ことすら可能だ。雷の障壁ゆえに、電撃のおまけつきでね。ひゃは!」

 凄いだろう、と卑しい笑みを付け足した魔術師。ばかっ丁寧な解説に、愛想笑いをくれてやるのも癪なので、代わりに睨らみ返した。だけど、段々と身体が動かせるようになって来たことには、素直に感謝の言葉を贈りたい。無駄なお喋りの所為で、そこそこ、体が楽になったから。

「……いやらしい手を、使ってくれるじゃない。それじゃあ何? わたしの剣での一太刀は、ブラフだったってことかしら?」

「何、考えすぎと言うものだ。その一太刀は本当に予想外だったのさ。まさか、私の障壁を意図も簡単に破る魔剣だなどと、想いもよらなかったよ。宝具、とは些か大げさだが、中々の概念武装なのは確かだ。何にしても、君以上に優れた道具だというのは間違いないな」

 最も、二度目は無いがね。最後に付け加え、魔術師は眼光を走らせる。その汚い眼光の行き先は、杖代わりにしているわたしの魔剣。
 先ほどは魔術障壁に最低限の魔力しか流されていなかったから、切り裂けた。だけど、今度は違う。視認できる位、濃厚な魔力が揺らいで“壁”を構築している。強化された奴の障壁は、残念だがかなり硬そうだ。
 ………手詰まり。うなじを、ぬめりとした敗北感が這っている。
 今のわたしは魔力など残っていないし、例え元気満タンだって、黒い男の障壁を貫ける魔術など、恐らく放てない。
 甘かった。わたしじゃ、やっぱり。

「さあ、気が済んだだろう?」

 わたしの放った意味を成さなかった魔弾の残り香。水浸しの暗室には大きな水溜りが幾つも出来上がっている。そこに映し出されたわたしの無残な顔。魔術師に殴りつけられた顔が、膨れ上がり腫れている。どうやら……知らず、俯いていたようだ。
 滴る雨の音。断続的に堕ちる雫が、暗闇の中で広がっている。
 よくやったよ、わたしは。ボロボロに痛んだ体、朦朧とするココロで、周囲を眺める。わたしが一人で戦った確かな痕跡。孔だらけの室内、襖なんてもう一枚も残っていなかった。
 暗闇の工房、ずっと、そう思っていたのに、知らなかった、いつの間にか、紫苑色の朝日影が差し込み始めているではないか。

「もうな、無駄だよ」

 二人の距離は、きっと二メートルもないだろう。
 俯いたままで、わたしは唇を固く結んだ。―――――届かないことに、恐怖を募らせ。死ぬことも出来ず、ただ壊される。それが、怖かった。
 だから惨めに、最後の抵抗にと、目前に迫った黒い男の顔面に拳を振り回したんだ。当るはずもないの。

「哀れだな。潔く、砕けることすら選べんか」

 ゆっくりとした挙動で、視界から魔術師が消えた。ふらつき、倒れこんだわたしを支えたのは、視界から消えたはずのその男。
 編みこんだ銀髪を掴み、吊るすようにわたしを引き上げた。なんだ、ついさっきと何も変っていないじゃない。
 絶望に、傾倒する意識。
 足に力が入らず、魔術師の右手で吊るされる形で戦いを諦めていた。掲げられた黒い腕、この距離で奴の魔弾が直撃すれば、きっと痛みはないだろう。

「―――――――――――――へへ」

 凍てつく刹那の淵で、終わったんだな、そう、意気地なく瞳を閉じる。

「終わりだ、壊れろ」

 なのに、何故? そう思う隣で、どうしてだろう、必死に生きることを臨むわたしがいる。
 ―――――ちいさな、勇気でいいんだ。
 わたしの小さな背中を押してくれる、ほんの少しだけの勇気。それだけで、頑張れる気がする。
 だから、それは起きたんだと思う。それは、ちょびっとだけ、ほんのちょびっとだけ、わたしが恐怖と喧嘩した刹那に、起こったのだから。

 ――――――――――――黄金色の暖かな煌々が、極光の如く瞬いた。

 戦闘によってボロボロになった工房に、朝日と見紛う陽光が満ちていく。翡翠色に澄んだ和やかな風が、汚い瘴気の虚空を浄化していく。

「な、なんだ!?」

 動揺するのは、一人だけ。瞬いた太陽の焦点、荒廃した工房の中から覗けたのは、貝紫に染まる空に閃いた一筋。
 光りが、階(きざはし)を打ち立てている。空へ伸び上げた黄金色の一条。
 其処から漏れ出す、優しく、しかし猛々しい清風。きっと、それがきっかけだった。

「ねえシキ、その作戦、それでも無理だったら?」

 小さな勇気が、少しだけ。

「魔力の、余波………だと? 馬鹿な!?!?!」

 実に気に食わないけれど、わたしは知っている。
 こんなに暖かで、こんなに清らかで、こんなに気高くて、コレほどまで好きになれない光る風を。
 アイツとシロウ。二人の剣の輝きを、忘れられる、筈がない。アレほどまでに美しい、運命の剣を。

「ん? そんなの、決まってる」

 高鳴る鼓動。鳴り止まぬ脈動。
 また、アイツに助けられた。また、アイツに追い越された。

「それって、つまり」

 なんでよ。こんちくしょう。
 もう、立ち止まるしか無いくせに、なんだってわたしは、アイツに追いつけないのよ。
 腹が立った。
 追いつけないアイツに、一番のライバルに、助けてもらったこの屈辱に。
 なにより、このままで終わってしまう自分自身に。
 悩んでいる暇は無い、奔り出せ。シロウに、追いつくんだ。アイツを、追い越すんだ。
 決別。もしかしたら、そんな意味も込められていたのかもしれない。流れ込む黄金と翡翠に光る涼風に、魔術師が目を奪われているその一瞬。

「根性見せないさいっ!!――――――――イリヤスフィール!!」

 ―――――――――わたしが、髪を切ったのは。
 響いた激励は、わたしの声、それとも……。
 活力を右手に無理やり注入して、襟足からばっさり。わたしと魔術師を繋ぐ銀糸と言う楔はそして千切れた。
 そう、はっきり契られたんだ。わたしとアイツ、ココに、はっきりと。そしてもう一度、自身に打ち立てたその約束を。

「っち、まだ、抵抗するか」

 スッカラカンの魔力、錆付いた身体、恐怖に折れかけている精神、きっと、何も変っていない。
 ただ、芽生えた思いがわたしを支える全てだった。なんて単純なのかしら、今、残っているのは、絶対に負けてなんかやるかと言う、ただの強がりだけなのに。
 ああそうよ、目の前の魔術師ではなく、黄金色のあの少女に。

「あったりまえでしょ!! 誰が、このまま終われるかっ!!」

 残る全ての体力を使い果たして、僅かの距離を必死に稼いだ。逃げるのにも、やっとだ。
 もう一度噛み締める、状況が変ったわけではない。
 突然エクスカリバー級の魔術が放てる分けでもないし、魔法を再現出来るでもない。それこそ、当たり前である。
 根性なんぞで簡単に勝利できるのならば、シロウは宇宙一強いってことだ。そんなに甘いものじゃないのも分かっている。
 だけど、そう、だけど。
 ―――――――――――根性なくして勝てる戦いなど、あるわけないのだ!!

「By、イリヤ!!」

 どーん、と発育途中の控えめな胸を反り返して、高らかと宣言する。
 人差し指を突きつけて、黒い男の肥大した厚顔を見据えた。わたしの無意味な空元気に呆れ返る男は、一歩、踏み出す。

「しつこいね。この差が、私との違いが、どうして分からない」

 わたしの髪をばら撒いて、鬱陶しそうに男は言った。
 銀色の仔細な糸が、風に晒されキラキラと尾を引いている。

「私まで届く可能性は、果てしなく零だ。なのに、手を伸ばすなどと。やはり、道具は所詮道具でしか無いと言う事だな、ホムンクルス」

 わたしは、魔術師の言葉に笑みを隠せない。
 なんだ、コイツやっぱり大したことないわ。

「届く可能性が、果てしなく、零?」

 空虚な身体に魔力が満ちていく。やっと、効果が現れ始めたのだ。
 ―――――――そうでなくては、意味が無い。
 わたしの大切なモノを差し出したのだ、その対価、しっかり支払ってもらうんだから。

「貴方、やっぱりど三流の田舎魔術師ね」

「――――なあ?」

 青筋を浮かべた肉饅頭に、もう一度、哀れみを込めた綺麗な笑みを送り、青・奇天を、地面に突き立てた。
 わたしのブーツをしとどらせる程の、大きな大きな水溜り。全てが無駄に終わるはずだった、わたしの魔術の痕跡が、突きたてた剣を扇央に揺らいでいる。
 ―――――――無駄だった、確かに、それは無価値でしかなかった。だけど。
 頑張った奴が、報われないのは――――――、そうだね、シロウ。
 絶対、無意味なままでは、終わらせないよ。

「可能性が零で無いなら、手を伸ばす」

 溢れかえる、魔力。かつて聖杯であった時すら上回る、限りなく古い純粋な魔力が、わたしの中から吹き上がる。魔力の過負荷に耐え切れず、悲鳴を上げる痛覚がその証明。
 赤い眼光で捉えたのは、暴風の様に吹き上がる神秘の顕現に、口をあける魔術師の馬鹿面。

「僅かの可能性を手繰り寄せ、不可能(根源)に挑むもの。それが、魔術師ってモノでしょう? 貴方には、そんな覚悟も無かったのかしら?」

 首元までしかない短髪が、それでも解放された魔力の激流に靡いている。
 今までの人生、イリヤスフィールが刻んできた、瞬きの様な時間の中で蓄積された魔力は、半端ではない。質量を伴う程の魔力の倶風は、いつかアイツが纏った翡翠のソレと、どこか同じ匂いがする。

「口の、減らない」

 わたしの魔力量に、慄いたのは一瞬、魔術師は既に平静を取り戻していた。
 髪は女の切り札、それは神秘に身を置く者の常識だ。別段、驚くことは無い。だけど、それでも隠し切れない魔術師の困惑。何故って、これほどの魔力量、幾らなんでも常軌を逸脱しているもの。
 存分に驚きなさい。アインツベルン……いいえ、エミヤをなめんなよ。

「現実を、痴れ」

 侮蔑を吐き出すように、眉をひそめた黒い男は三十本の雷の矢を即座に装填。放たれた魔弾が、死を象徴するかの如く鋭利に、大気を走っている。

「とれーす・おん――――――なんてね!」

 幾分か血の気が引いたためだろうか? 考えられない速度で回転する思考、そんな矛盾に、わたしは酔いしれていた。
 詠唱速度は同じ、出力はややわたしが上だが、属性の問題を加味すれば奴の魔弾の方が総合力で勝っている。だからこその、シキと考案した作戦だった。普通にぶつかれば、わたしの敗北は必死、確かに、いい勝負は出来ただろうが、きっとわたしの敗北は変らなかっただろう。なればこその、捨て身攻撃………だったのだが、それは物凄い程鮮やかに失敗。
 勝利への可能性を手繰り寄せるんだ、イリヤスフィール。
 詠唱速度の問題は、わたしの礼装が解決してくれた。わたしが成すべきことは、属性の不利を覆すこと、そして、奴の障壁を貫くだけの神秘を顕現させること。その二つだけ。
 ―――――――不可能じゃ、無い。
 今の魔力量なら、きっと出来る。思い出せ、トウコとの鍛錬。まったくの偶然だったけど、それを成すべき条件は、ドンピシャリで揃っているのだから。

「Ablaufenlassen Sagittarius(敵を切り裂け、水の射手)!」

 先ずは目の前の脅威を拭い去る。奴の矢の二倍の総量で相打ち、それでも何とか相殺。

「verbinden verschieben(青、接続。奇天、接続移行)」

 迸る水滴に紛れて、奴の粘つくような電撃が肌を舐めていく。……我慢だ、絶対、倒れちゃいけない。
 蒸発する幾らかの魔弾に紛れて、なおも濁った瞳でわたしを哀れむ魔術師を忌々しく思いながら、呪を紡ぐ。

「Blau Tropfen sich hingeben(藍の雫、白き杯に満ちる)」

「ふん、何をしたいか分からぬが……」

 再び象られる稲妻。余裕綽々、悠然としたまま、不遜の貌を崩さぬ男の天高く上を向いた腕(かいな)を中央に、ゴロゴロと雷が轟き形成されていく。
 水では、雷の震天を防ぐことは出来ない。小学生でもわかる、水は、電気を良く通すのだ。だが、本当にそうか? 答えは、それだけか? 

「悪あがきは、もうたくさんなのだよ!!」

 否。トウコの言葉を、思い出す。この半年、苦しかったけど、楽しかった何気ない時間の中に、答えは埋もれているのだから。
 一斉に掃射された、文字通り電光石火の鏃。
 全てを躱す運動能力は、わたしに皆無。全てを相殺する矢の形成は、間に合わない。ならば、防ぐだけの事じゃない!!

「von Meer und Himmel.unschuldige Jungfrau (水天、水面(みなも)に、純潔を捧げ)―――――――――――――」

 呪が成る。突き立てられた青奇天は、足元の贋物の海から潮を引き上げ、わたしの眼前に盾を象る。イリヤスフィール一人分の膨大な魔力を込めて、形成された魔力の壁。
 フヨフヨとした球体が渦を捲くように広がり、雷の魔弾を弾き返す。虚空に顕現した渦潮は、魔術師の稲妻を完膚なきまでに喰らい尽くした。

「――――――――――――っんな!? 水の楯で、私の鏃を!?」

 純水、完全な絶縁体だったかしら? なら、貴方の魔弾を受け付けないのは当然よね?
 自信をふんだんに盛り込んで放った必殺、それが無意味に終わるのは、中々ショックでしょうね。今さっきの事だもの、同情してあげるわ。
 小気味良い感情と一緒に、奴の驚嘆に意地悪く微笑みながら、次なる呪を紡ぎだす。ココから、反撃開始だ。

「Wasser Schwert (敵を、切り裂け)。―――――――」

「―――――――舐める、な……!」

「―――――――Schutze(水の射手)!!」

 天井を破壊し、いや、そもそも限界など存在していないわたしの魔力の高鳴るままに、百を超える水の剣を掃射する。
 相打つべく放たれる奴の雷電、数は五十。だが、わたしの刃には届かない。出力差は、ココに来て天を隔てる。
 属性の差異を覆すべく、出鱈目なわたしの魔力で持って、完全腕力勝負に持ち込むのだ。

「まだまだ!! Wasser Schwert (敵を、切り裂く)。――――――」

「く……数が!!」

「Schutze hundertneunundneunzi(水の射手、百九十九刃)!!」

 水の百九十九、雷の五十。魔術の出力において、わたしは魔術師のそれを上回っている。一度に精製できる魔弾の総量は、故にわたしが勝るのも必定。
 技巧で覆らぬ道理であるなら、力で持ってねじ伏せよう。
 速さは、互角。
 魔術の練度、属性の有利は魔術師。分かっている、神秘に身を置くものとして、わたしが奴に劣っていること位。
 しかし、だから何だというのだ?
 わたしには、わたしにしか成しえぬ神秘がある。わたしには、わたしにしか出来ぬ戦がある。
 魔弾の雨を貫く幾ばくの水刃が、それを証明するべく大気を滑る。

「甘いのだよ!! 私の障壁は未だ健在、これがある限り、私に敗北は無いんだ!!」

 だが、魔術師への直撃は、防がれる。属性の不利を覆す力技は、されども、あの壁は貫けない。
 恐らくはBランク以下の魔術では、あの雷電の障壁を貫通することは出来ないだろう。
 黒い男は、額を伝う汗を隠しつつ、薄く笑う。自身の守りを、突破できよう筈も無い。そんな不確かな楽観を笑みに貼り付けて。

「ふふ。そうね、お返しするわ、貴方の台詞。地獄のような甘味を堪能なさい」

 最早、魔術師の常識と言う限界ごと破壊し、呻り続けるわたしの魔力。蓄積された“想い”を代価に、今のわたしは、この瞬間、聖杯を廻す。

「AbholenWinterlicher Himmel、ichkalter SakeBrise(迎えし冬、その身は雪)」

 全ての回路が傷みにのたうつ。吹き荒れる無限に等しき魔力の渦を、神秘の回廊へと流転させる。
 聖杯と言う回路に、血流となって巡る幻想。青奇天を介在させ、純水を可能な限り生成していく。それは大地に渇きをもたらす様に。海は枯れ、再び虚空にたゆたう水晶が形成される。

「なん、なのだ……」

 息を呑む黒い男の醜悪な面構えに飽きたわたしは、瞳を閉じて詠唱に集中する。
 構築する呪。そんなもの、適当だ。ただ、わたしは願うだけ、ここに、対価とする魔力で持って、わたしが望む幻想を顕現させるだけ。

「Permafrost Platz nehmenalle Dinge zusammenbrechen mit einem Axthieb(永久凍土に頂き、万象崩ずる斧と成す)」

 男が、わたしの詠唱に危機感を募らせ、終にそれが決壊したらしい。戦慄く様な絶叫と共に、稲妻の魔弾が放たれる。
 それにうろたえる必要など無いのだ。既にわたしの眼前に形成されている純粋な水の塊。それが盾となってわたしを守る。
 純水、いまや属性の不利は逆転しているのだ、それも当然だった。
 瞳を閉じた暗闇の中でさえ、分かる。愕然と膝を突き、吹き荒れる魔力の波に恐慌する惨めな男の姿が。

「何なんだ、何なんだ!! その、魔力量はっ………!?!?」

 瞳を漸く開けば、鼻息を荒げて、男は縋り付く様に真後ろ壁に凭れ掛かっている。
 戦意は完全に喪失。見下していたガラクタが、今はそこそこ恐ろしいでしょう?
 回路を蝕む激痛に体を震わせながらも、わたしは不敵な嘲笑を崩さない。同時に、限界を突破した身体の痛みに、屈せよう筈も無い。
 わたしの詠唱と共に、中空に象られていた水晶球はその象を変えていく。
 象られたのは一本の斧剣。わたしがこの世で最強と信じる、一つの神話。
 青奇天により抽出された純潔の流水を自身の幻想のままに編みこみ、降り立ったのは一人の騎士。
 隆々とした筋骨と、天井を突き破らんとする上背。握り締めたのは長大な剣。
 ありったけの魔力を詰め込み、顕現した似ても似つかぬ一人の英霊。第三魔法でもなんでもない、わたしの最強、その幻想の粋を、有り余る魔力で持って練り上げただけに過ぎないニセモノ。
 だけど、それでも充分だ。次なる刹那に、たった一振りだけ。

「何故だ、何故っ、私は、魔術師……こんな、出来、出来そこないなんかに……っ!!」

 冷酷に、どこまでも冷徹に、わたしは朱色の瞳で力なく伏した男を見下ろした。
 氷の巨人。その横に控えたまま、無慈悲な瞳を奴から逸らさない。

「そうだ、違うんだ………わたしは、違うっ!! こんな、こんな奴とは、違うんだ!!」

 巨人の腕が天を向く。握り締められた巨大な刃は、わたしの記憶そのままだ。
 だから、きっと意味など無い。崩落した魔術師の持つ守りなど、きっと何一つとして意味を成さない。
 彼の一刀に、絶てぬ/断てぬ守りがあろう筈は無い。おこがましきや、その醜い人の身で。

「ええ、そうね。認めるわ。わたしと貴方は、絶望的なまでに違うモノ」

 眠りに落ちそうなほど安らかに、わたしは、一つの呪いを紡ぎだす。

「ありがとう、そしてさようなら」

 死者すら目覚めるほど残酷に、わたしは、一つの呪いを口ずさむ。

「 Erschlagen Herakles(やっちゃえ、バーサーカー)」

 沈黙は雄叫び。猛々しい氷像は、その刃を奈落へと叩き落した。たった一撃だけ、再現された神話の時代。
 魔術師の障壁はあっけなく粉砕され、それは勝利の凱旋を謳うかのごとく光輝として刹那の後に四散する。
 わたしの成した神秘を目の前に、黒い男は断末魔を上げる暇さえなかったことだろう。そう、もしも、――――――その暴力の結晶でその身を刻まれていたのなら。

「―――――――――――――------------」

 沈黙は静寂のまま、緩やかに凍えた時間を溶解する。それに当てられたかのごとく、幻想的なまでに儚く融ける、わたしの騎士。
 一人の騎士が、跡形も無く、世界に霞んでいく。
 断髪によってもたらされた魔力も底をつき、身体もとうに限界。鉄の味、シロウの味を噛み締め、双剣を引き抜く。
 目の前で泡を吹き失神する無様な黒い男に、背を向けた。

「ええ。覚えておくわ、無様な魔術師さん」

 陽光に染まり始まる円居を目指しながら、わたしは振り返る。
 最後に残った、わたしを蝕む呪いを粉砕するために。

「――――――――――――――――格の、違いをね」



[1027] 第三十九話 白い二の羽 
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 07:00
/ others.

 穴が穿たれている。
 薄紫色の朝霜の中に、黒々とした穴が開いている。
 星がその生涯を閉じた時に生ずる穴、高密度の重力が崩壊し大気を食らうように、黒い渦巻状の大穴が物質を、光を、概念すら飲み込み、吐き出している。それはさながら巨大な蛇口のよう。

 ここは祭壇にして伽藍。一人の女が、祈りを捧げる。

 流れ出る圧倒的なマナ。噴出する乱気流の如く、視覚化されたマナは京都の街に垂れ流されていた。
 遠上都はその憧憬に恍惚とし、腕を抱いた。
 願いは叶う、この夜が明ければこの街はきっと地獄に変るのだろう。自らが苦渋したあの地獄を、再現することが出来るのだろう。
 その確信に、一抹の不安も無い。
 混血の女は蔑むような瞳で、崖の間際、丁度口を開けた黒点の真下、虚空に吊るされた近衛木乃香を見遣る。

「どう? そこからの眺めは。京都の街が、貴方の故郷がこれから狂癲に堕ちていく様を見せ付けられるのは」

 勝ち誇ったような女の讒言。

「ふう、だんまり? 残念。それじゃあ、このよき日に、赤い京都を眺望するのは、私だけか……」

 繰り返された戯言に、木乃香は何もいわない。いや、語るべきを見出せない。
 断っておくが、近衛木乃香、彼女の意識は孔を維持する加給機の役割を担っている今でさえ、はっきりと保たれている。
 沈黙は、紛れも無い彼女の意思だった。いずれ現れる翼ある剣士を、彼女はただ待っている。信ずるべき最愛の友を、ただ待ち望んでいる。それはさながら、はるか天上にはためく一枚羽根に手を差し伸べるよう。儚くも、何かを掴み取ろうとする、確固たる意志力。
 だが、唐突に。近衛木乃香の強い力を宿した無貌、それが、その気丈な相貌が次の瞬間歪んだ。

「ま、いいか。それより、ほら。御覧なさい、―――――――繋がった」

 遠上都の言葉を皮切りに、巨大な黒点から溢れ出す魔力の色が激変した。
 圧倒的な魔力のみを吐き出し続けていたその穴から、魔力の変質に促された様に、何か、得体の知れないグロテスクな何かが貌を除かせた。

「――――――――――――――っつ!?」

 息を呑み、顔面を蒼白させた木乃香を誰が責められよう。
 それほどまでに忌むべき何かが彼女の頭上、獣が死産児を分娩するように零れ落ちた……いや、垂れ流されたと云うべきか。
 ドロリ、と赤黒い獣が沸いて出る。石油みたいな皮質と、発せられる汚泥の様な生臭い匂い、定まらないその輪郭。波打つ火炎のような獣、それは融けた狗に見えなくも無い。
 ふらふらと、生まれたばかりで四肢も覚束ない様子だったソレ等は、数刻もしないうちに足取りを確かにし、京都の街に繰り出していく。その数は、数えることすら馬鹿らしい。木乃香にはそれを計測すべき手段が無かった。
 ヒトに数え切れぬ無数、それは無限と呼ぶに相応しいのだろう。在りし古、京の街に跋扈した怪異が、津波のように野に下る。

「あははははははははは、始まったっ! 始まったよ! 止まらない、止まらない、こんなに清々しい気分は、初めてだ!!!! あは、あははははは」

 赤い眼を胡乱に座らせ、紅い髪を振り乱して、朱い女は高らかに嗤う。
 声を上げて、崖下を見下ろす。憎しみを込めた、凱歌を歌う様に。わたしは帰ってきたのだと、赤黒い怪異に侵食され始めた京都を俯瞰し、ただ哂い続けていた。
 京都が陽炎に揺らいでいく。赤黒い獣の行進は、まるで街を侵す劫火の様相を呈していた。

「――――――――――」

 その驚喜を目前にして、木乃香は一縷の恐怖も不安も表情には出さなかった。自身の絶望的な状況を冷静に観察できる今でさえ、後に訪れる救済に、なんら懐疑を抱いていなかった。
 その顔は、むしろ悲壮。哀れな赤い女に対する残念が、ただ押し寄せていた。
 だって、そうだろう。
 彼女は敗れるのだ。近衛木乃香に奉ずる、一振りの白い刃によって。翼の刃金によって。
 それ故に悲壮。彼女の、朱い女に与えられたその悲壮な宿命に。ただ、ごめんなさい、と。哀愁の音色をココロの中で響かせる。

「醜い嘲笑だな。貴女が、――――――――哀れでならない」

 近衛木乃香の深層を、慇懃無礼に代弁したのは、最早語る必要があるのだろうか?
 深く、淡い闇色の中から浮き上がるように、桜咲刹那はそこにいた。

「それは、復讐のために漏らした笑みか? いや、違うだろう。それは自嘲か、遠上都」

 顫動する竹林の影。白い翼を顕現させた剣士が不釣合いな程に長大な日本刀を抜く。闇に映える刃銀の、なんと美しいことか。
 刹那の言葉に、遠上都は笑みを奪われる。彼女は振り返る、自分と同じ、けれど、自分とは違う、温もりを、たおやかな幸福を与えられた卑しい混血に振り返る。
 白い翼を睨み付けた都、そして答えた声は彼女ではない。

「せっちゃん――――――――」

 安堵したような、嬉々としたような、木乃香は動かない体を身じろぎさせる。腕一本の自由を手に入れ、必死に手を伸ばす。

「お迎えに上がりました、お嬢様」

 痛む体を黙らせて、刹那は穏やかな笑みで丁寧に答えた。
 近衛木乃香はそこで、頬を膨らせる。「また、お嬢様っていった」言及しようかしまいか逡巡して、結局口には出さなかった。この事件が片付いたら、お説教してやろう。だってせっちゃんが、失言してしまった、と申し訳無さそうに再度微笑みをくれたから。
 代わりに、木乃香はわざとらしいイジワル面で、刹那にいった。

「助けに来るの、遅いやん。待ちくたびれたよ」

 刹那は、少しだけはにかんだ。困ったような、だけど嬉しそうに。その様子に、木乃香は胸を張る。涙を瞳一杯に貯めて貌を綻ばす。
 せっちゃんだ、せっちゃんが、やっぱり迎えに来てくれたのだと。どれほど気丈であろうとも、やはり彼女は一介の少女、目蓋の奥にある熱い何かを塞き止めるのに、今は精一杯だ。

「来たんだ、貴方」

 二人の邂逅を遮る、冷酷で無慈悲な声。刹那は精神をやおらに引き締める。静かな殺気を立ち込めて、彼女は木乃香から視線を逸らし、彼女と同じ、されど、彼女とは違う卑しい混血に向顔する。

「当然だ。借りは返す、このちゃんも、返してもらう」

 強く、鋭い眼光。潰えたはずの瞳が色を取り戻し、弘毅として赤い混血の前に立ちふさがる。遠上都は、強い力で奥歯を噛み締めた。

「近衛木乃香。返すと、思っているの? 君」

「ええ、貴女には、過ぎた女性ですから」

「勿体ないって、そう言いたいんだ?」

「如何様にも捉えて下さって結構。身の程は、知れ。―――――と言ったところですか?」

 あれ程の重症を負わせて、その心だって情け容赦なく砕いたはずなのに何なのだ、この苛立つほどに真直ぐな瞳の色は。どうしてだ、コレほどまでに澄んだ色を瞳に宿せるのは。
 遠上都は、歯軋りの音で我に帰る。
 落ち着け、関係ない。今は現状だけを冷静に分析すればいい。敵は一人だ、それも、現れたのは手負いの混血一人だけ。完璧とは言えずとも、カガミは役割をこなしている。
 何てことはないのだ、コイツを■しちゃえばいいだけ。それで、私の復讐は、惨劇はまだ続く。

「一端に口をきくのね。立っているのがやっとの癖に………身の程を知らないのは、どっちなのかしら? それを、教えてあげるわ」

 憎悪に身をやつし、女の眼光は鋭くなる。しかし、女は知らない、灯した瞳の色は、妬み。ただの嫉妬だと言うことに。自分と同じ身の上でありながら、陽だまりで生きるこの少女に対しての。

「せっちゃん……」

 一触即発の空気の中。殺し合いの前触れ、凍えるほどの緊張と静寂の中で、木乃香は知らず嘆いていた。
 その息つくような震える声に、遠上都は、一つ………いや、二つか。大切なことを聞き忘れていたことを思い出す。だけど、それはなんて些細な気がかり。彼女にしてみればソレは、ほんの小さな気の迷いだったのかもしれない。

「そう言えば、名前、聞いてなかったね」

 少女のような儚さで、遠上都は桜咲刹那に、もしかしたら、彼に問いかけていた。

「桜咲……刹那」

 遠上都の溢した弱々しい言葉に僅かの戸惑いを含ませながら、律儀に刹那は答えた。
 鞘を投げ捨て、下段に刃を取る。縁起が悪い、と少女は思わなかった。一度敗れた身の上だ、構わない。それに、敗北も悪くない。
 だって、泥にまみれるその姿が、無様に這い蹲るその姿が、だけど、それでも前を向き、必死に生き足掻くそんな自分が、何故だろう、少しだけ好きになれた気がするから。

「神鳴流皆伝。桜咲、刹那」

 はっきりと、刹那は再度、自らの真名を口ずさむ。無言で、刹那は瞳を閉じ、また開く。
 負けない強さ、―――――それもいいさ。
 だけどそれ以上に。敗れ、それでも這い上がる強さもまた尊いのではないか。そんな強さを、ほんのちょっぴり誇りたい。そんな想いを、幸福を望む混血は、あの少年から学んだのだから。

「推して、参る―――――――――――――」

 垂らした黒髪が疾走し、揺れる刃金が火花を咲かせ地を擦り奔る。そして、混血の喰らい愛い、戦いの火蓋は切って落とされた。





Fate / happy material
第三十九話 白い二の羽 了





/ feathers.

「推して、参る」

 疾駆する。私は羽のような軽さと、鉛の様に重い痛みを味わいながら、目前の脅威、その懐に駆け込むべく大地を蹴る。

「せいっ!」

 距離は一間。しかし、届く。
 私の長大な獲物を遠上都の顎に向かって振り上げる。だが、捲れあがる土石を巻き込んで、閃いた私の夕凪を事も無げに右手で鷲掴んだ遠上都は、刃を引き寄せ、残る左手を大きく振りかぶり私の眉間を狙い穿つ。放たれた拳は、女性のモノでありながら凄惨なまでの凶器と化していた。

「―――――っち」

 間髪。翻る遠上都の黒い外套。
 私は舌打ちを漏らしながら、遠上都のハンマーじみた拳が眼前に迫るのに息を呑む。
 首を逸らして躱す。私の頬を冷たい風が撫でていく。
 間合いは無いに等しいまま、互いの初手が不発に終わった。が依然、私の刃は奴に握られたままだ。
 どうする? と思案する間も無く繰り出されたのは膝蹴りだった。格闘技の経験などないであろう無茶苦茶な動きで、それでいて出鱈目な威力と、適確な反射神経で放たれたソレは、私の熱く脈打つ鳩尾に向かってくる。
 決断は一瞬だった。
 瞳孔が狭まる、集中力は極点を指す。私は夕凪の柄を優しく、壊れ物でも扱うように握ったまま、高い高いバクテンで鋭い膝蹴りを躱し、そして―――――――。

「!?」

 神鳴流、浮雲、旋風一閃。
 そのまま、遠上都を投げ飛ばす。かつて明日菜さんに大人気なくも放った必殺の回転投げ。遠上都が硬く握り締めた夕凪を円心に、腕を、足を絡めて、私は奴を投げ捨てる。
 そも、神鳴流とは剣術にあらず。魔を敷き邪なるを討つ退魔術。神秘を成す心、剣術を成す技、そして柔術を成す体。三位一体の魔を絶つ意思。

「――――っっ舐めないで」

 三回転。ニュートン力学に真っ向から喧嘩を売る重力の無視っぷりで、中空に投げ出された遠上都は反射的に夕凪を手放し、地面への激突を免れた。その反射神経は、感嘆に値する。
 不発のまま、再び開く間合い。互いに、無傷。だが、――――――。

「焼けろ」

 受身の代わりに獣のような四つん這いで着地した遠上都。彼女は髪を振り乱し、殺意と共に私を視殺する。
 一瞬だ。判断の遅れは命取りだ。奴が言葉を発するよりも速く、その瞳に神秘を灯すのよりも尚速く、私の直感が、危機を告げる。
 奴の超抜能力は一度この身が味わっている。その全てを理解しておらずとも、対策は幾らでも講じられるのだ。初見における有利は、今の貴様には無いぞ、遠上都。手札が同じならば、そうそう引けを取る私ではない。

「――――――――オン」

 言霊の発現と共に、張られたのは対魔力に優れた盾。護符を介在させて、一時だけ顕現する堅牢な“気”の壁だ。
 遠上都は超能力者ではない。如何に超常的な現象を行使しようとも、混血の自然干渉能力であるが故に、その神秘は必ず世界の摂理に従っている。
 一見してシングルアクションの燃焼能力、だが、初戦で味わった私の感覚に間違いがなければ、その工程はニ工程以上四工程以下の手順を必要としているはず。
 ただ見るだけ、一工程で発火を成すファイアースターター(超能力者)とは違い、視界に敵影を捕らえてから発火の力を行使するまでに何らかのプロセスを必ず踏んでいる。そしてその手順を周到しているからこそのタイムラグ、時間差なのである。
 ならば、そこに付け入る隙があると言うものだ。僅かな勝機を見出すために、その矮小にして些細な隙を見逃してよいはずが無い。

「―――――――なっ!? 防いだ!?」

 目を見張る、遠上都。私の障壁が爆炎と共に砕けたその隙間から、唖然とした奴の表情を臨むことが出来た。
 不敵に微笑みたいところだが、やはり楽はさせてはもらえない様だ。
 胎が熱い。バラバラの肋骨が、肉に食い込む。喉元をせり上がって来る吐瀉物の予期せぬ方向からの反撃に、思わず膝を折る。
 忘れてはいない、一瞬の遅れが命取りだ。蹲る私を、好機到来といった表情に貌を歪め、再度呪い染みた視線が降る。

「―――――――――――――っくう」

 真横に、転がりながら飛びひく。出来れば距離を詰めたい所だが、頭の片隅にもそんな悠長な思考は存在していなかった。ただ本能の赴くまま忠実に、回避行動のみを実行する。寸秒前に私がいた地面が爆散して、土砂が焦げ付く饐えた匂いが鼻腔を擽った。
 初戦を振り返る。今の彼女は、全快ではない。肩の傷もそうだが、長との戦闘により、疲労の色が強いらしい。それでこの威力、空恐ろしいものである。今は、その呪われた血の濃さに驚嘆の念さえ抱いてしまう。

「っぐ、まだ、これからだっ!」

 自らに言い聞かせるように、負け惜しみとも取れる苦言を吐きながら、思考する。全快では無い、それを裏付ける様に、遠上都は能力の連射は出来ないらしい。
 ならば、その隙を突き、近接戦、零距離の肉弾戦に持ち込むべきだ。奴の能力は強力ゆえに近距離では使用できない、自らも巻き込まれる恐れがあるからだ。
 だが、致命的な問題がある。奴に、遠上都に接近するのは簡単な話しではないのだ。彼女が全快ではないように、私、桜咲刹那もまた全快ではない。
 満足に動かない体では、果たしてどれほど奴との殴り合いに勝機を見出せるのか?

「近づくなっ!! 焼けろ!!」

 だが、それ依然に、肉薄することさえ侭ならない。発火の二射目が終えたのと同時に駆け出したのだが、結果は無残なモノだ。夕凪が届く距離には程遠い、私は護符による防御式を発動させ、撤退を余儀なくされた。
 剣間は七。急勾配でガタガタした地面、荒廃した大地がこの上なく私の神経を苛立たせる。疲労と裂傷、火傷に震える膝が、今にも蹴躓いてしまいそう。
 しかし、悪態をついている暇は無い。遠距離での撃ち合いを余儀なくされる私は、体勢を整えながら腰を据える。
 遠上都の視線が殺意に狭まる。間合いが開き一呼吸、恐らく、再度奴の発火能力が顕現する……ならば、私はっ。

「―――――――――骨も、残さない」

「―――――――――神鳴流、斬空閃」

 軋む骨身を呻らせて、私の剣が翻り、形を持たされた殺気が斬撃となって虚空を飛来する。
 両手持ちで真横一文字に振り切った衝撃波と、遠上都の火炎が溶け合い天象する。
 銃声の様な破砕音が鼓膜を震わせた、次の瞬間。

「―――――――せっちゃん!!」

 何処からか、お嬢様の悲鳴が上がった。
 私の身体が手鞠の様に軽やかに弾けとんだ浮遊感。壊れかけの胎に、重く響く熱波と肌を焦がす火炎が奔る。思考するまでも無かった、遠上都の超抜能力が、私の秘剣に勝ったのだ。
 世界のルールが、コレほどまでに憎かったことは無い。退魔の技では、混血の業に打ち勝つことは出来ないのだ。
 それを理解しながら、納得できない自らが腹立たしい。現実の胎の痛みと相まって、苛立ちは止むことが無い。

「―――――はは、あっけない」

 展開させた翼をはためかせ、地面に叩きつけられるのは阻止できた。無様に横たえるのはもう沢山だ。
 喘ぐ身体に活をいれて、それでも気丈に刃を構える。

「ぐ、あ」

 それでも、だめだ。思わず刃を取り落としそうになる。小刻みに痙攣する身体と、覚束ない足取り。暗澹とした瞳が、足元をぼんやりと眺めている。
 気付けば赤い何かが水溜りを作っていた。それが自分の吐瀉物であると理解するのに数秒を要する。……いけない、頭が馬鹿になってきた。

「あは、あはははは。言ったじゃない。身の程を弁えないから、そうなるの」

 引きつった笑顔と細切れの哄笑、それが、酷く憂鬱だった。
 痛みのためか、それとも、―――――――――。私は血涙を流す眼で、おぼろげに彼女の貌を見る。
 初めて遠上都と対峙したときに感じられた理知的な貌は剥ぎ取られ、今の貌は、まるで。

「――――――――――泣きじゃくる、子供のようです」

 沈黙に限りなく近い独白。彼女には聞こえていないだろう。喘息のように息苦しく吐き出したその言葉は、口に出したためか、身体に浸透していくのが分かる。
 復讐の完遂を前に、剥ぎ取られた人間性。現れたのは、化け物でもなんでもない、ただの少女の泣き顔だ。
 まったく、どうかしている。
 だけど。
 ああそうだ、分かる、分かってしまう。その貌を、その想いを、その涙を、私は、桜咲刹那は知っている。誰よりも、それが辛いと、苦しいと、痛いのだと、知っているのだ。

「もう、止めにしましょう」

 遠上都に向けたものではない。私は、自らに嘆いた。
 体を灼熱する痛みが、今は澄み渡るほど冷え切っていた。脳に酸素が送り込まれ、曇りが晴れる視界。まるで、鏡を視ているよう。
 あの貌は、過去の私のモノだ。誰も彼もが煩わしくて、誰も彼もが恐ろしくて、ただ憎むことしか知らなくて。助けて欲しいくせに、幸せに成りたいくせに、憎む事しか出来なくて。その実、憎悪に焦がれていると信じたその貌は、ただ涙を流しているだけなのに。
 手を伸ばすことを恐れる、傷つくのを怖がる、私の顔だ。

「――――――――――っぐ」

 黙然と、血塊に錆付いていた身体を甦らせる。衛宮の様な魔術師とは違う、魔術回路とは異なる神秘を身体に奔らせ、感覚を取り戻す。
 遠のいていた痛みが、灼熱と共に帰ってきた。
 白んだ視界が色を取り戻し、眼に力が漲っていく。最初に飛び込んできたのは、このちゃんの心配そうな顔だった。まったく、なんて信用の無い。なのに、どうしてだ? 情けないはずなのに、それが、妙に心地よい。

「まだ動ける?――――――――――ええ、そうね、もう終わりにしましょう。悲劇の京都は、貴女には見る資格が無い」

 少女は、嘆いた。まるで、遠上都を蔑むように。

「ええ、終わりにします。こんな喜劇は、見るに堪えない」

 私は、答えた。まるで、桜咲刹那を誇るように。

「――――――――――――――――」

 それは、刃散らす様な冷たい沈黙。
 宿命が、かくも皮肉なものなのだと、私は知っていた筈なのに。清算しなくては。今、この場所で、桜咲刹那は、過去を断つ。
 遠く開いた距離が、僅かに緩む。互いに必殺は背反している。奴は遠距離、私は近距離。勝負は、一瞬――――――――――――――その時だった。

「―――――――――――なんやん? 眩しいわあ」

 長閑なお嬢様の声が、ただただ不相応だった。
 発光、いや、それは極光と喩えるべきか。私と遠上都の視殺戦の最中、眩い天昇が瞬いた。
 ココからは階の極点を捉えることは出来ない。ただ、遥か崖下から、一条の光りが灰色の群雲を穿ち、紫苑の空を切り裂いた。
 同時に、荒れ狂う猛々しい倶風。翠玉色の薫り高い風が、澱んでいたマナを揮発させ、浄化する。

「――――――――――――きれい」

 紫色の雲海に迸る黄金と、吹き荒ぶ翡翠を、お嬢様はそう評した。
 そうだ、ただ、この剣は美しい。何が起きたのか、さっぱりだ。なのに、この光りが、この風が、“剣”だと言うことは、理解できた。そして、嫌でももう一つ。

「全く。手助けなど、余計なお世話と言うものです」

 そう、そして。この剣が、衛宮によって創られたということだけは。
 ほくそ笑む。少しだけ、自嘲混じりに。口ではなんと言おうが、励まされた。まったく、絶妙のタイミングで。貴方ほど、カッコの突かない二枚目も珍しい。

「――――――――――なん、だったのよ。あれ」

 閃光が拡散し、糸尻を引いて、空は色を取戻す。光りの余韻に向かい、遠上都が慄きにも似た疑問を吐露する。
 さあ、負けてはいられない。

「ただの強がり、でしょうね。衛宮は、意地っ張りで、無茶苦茶ですから。何にしても、見事な魔術です」

 本当に、無茶をする人だ。先ほどの神秘の顕現、幾ら私が西洋の神秘に疎いとは言え、どれだけ出鱈目な物か位、想像に難くない。
 弱いくせに、情けないくせに、どうして貴方は、そんなにも、――――――――。

「―――――――まあ、いいか。遠上都、始めよう、水が刺さった」

 らしくも無い。私は、ねんごろに微笑んで、正眼に刃金をかざす。

「っち、調子に乗らないで。死に体が」

 赤い長髪をたなびかせ、彼女は苛立ちをぶつける様に瞳を見開く。私は親しげな微笑みを崩して、鷹の如き眸で睨み返す。
 遠慮は、無い。そんなモノ、くれてやる道理も無い。私は双肩の翼をはためかせ、空へと飛翔する。
 瞬間、抉られた大地、発火の余波、爆風に乗り、天高く翼を広げる。
 突然の縦への運動に、遠上都の瞳孔がクルリと酔う。危なげに空を彷徨う瞳に、私はいない。

「疾っ―――――――――――――」

 上空、遠上都の真上から急転直下の滑空。大地が向かってくる錯覚。身体の軋み声は雄叫びに取って代わり、それが痛みなのか滾る血潮なのか、見当もつかない。
 そんな有耶無耶を振り切るように、疾風怒涛の勢いで叩き落した大上段。気の迸りを刀身に乗せて、紫電の如く発揮する夕凪が弧を描く。
 その刹那、私の動きに反応した遠上都は、目を見開き、破壊的な火力で持って私の刃と拮抗する。
 零距離。自身の破滅も厭わぬ狂騒。雄叫びと共に、私と彼女、肉と肉の間で、炎が爆散した。

「―――――――――――っく。なんて、無謀な」

 中空に拡散した噴煙から、翼をはためかせ脱出する。尾を引くように身体に纏わりつく粉塵を払いのけながら、遠上都を探す。
 ――――――――いた。煙幕の向こう、このちゃんの隣で、鬼のような形相が此方を睨み付けている。
 焼け爛れた肌、千切れた外套、そして私の返り血に染まった顔が、ぶるり、と戦慄した。
 第二射が、来る。脊髄が竦み上がる程の殺気が奴の赤い瞳に集中した瞬間、焔が、圧倒的な熱量が、私の肌を焦がす距離で酸素を喰らい燃え上がった。直感の侭に、回避、この距離ならば、発火のまでのタイムラグを最大利用し躱せる。だが、その慢心がいけなかった。

「うっとおしい、いい加減、―――――――――――――――焼け堕ちろ」

 連射。限界を、ここに来て無視するか!?
 不味い。空中では体勢を整えきれない。焦燥がうなじを伝う。第三射は、無常にも放たれる。遠上都は限界を無視し、力の限り能力を行使する。
 ニ射目を躱したことで、致命的な油断があったために反応が遅れる。
 護符をかざし、障壁を展開させたものの、その圧倒的な火力と衝撃に、私の盾は粉砕される。骨髄反射を最大駆動させ、身体を逸らしたのが功を奏したのか、直撃を免れたものの、私の左翼が粉砕された。翼を奪われたイカロスもかくや、止まらぬ体が地面に引き寄せられる。

「―――――――――――――っっつ、が」

 翼から血流を撒き散らしながらの墜落、そして大地への激突。砂利石と私の体が小さく飛び跳ね、粉塵が舞った。
 肩口から背骨を伝う墜落の衝撃が、内臓を押し上げ、肋骨を震わせる。せりあがる血反吐を、止めるすべを私は持たなかった。
 終に地べたに横たえた。だが、追撃が来ないのは僥倖だ。
 私一人分をすっぽり覆ってしまうほどの巨石がバリケードとなって、私を遠上都の視界から乖離させてくれていたからだろう。
 その岩石に背中を預け、喘ぎ声を漏らしながら足だけで器用に立ち上がる。墜落時に受身を取った代償に左手がイカレタ様だ、ピクリとも動かない。残る右手で夕凪を握り締め、呼吸を整え、身体の状況を顧みる。
 思考はハッキリしていた。身体、特に内臓を含む体腔器官が殆ど掻き回されている状態で、これは大したものだと自分を褒めてやりたい。
 骨格、肋骨に関しては考慮するだけ無駄なので思考から除外する。問題は、先ほどの墜落のショックで背骨、そして左腕の痛覚及び感覚が無いこと。反応速度に若干の遅れが出ると視て良さそうだ。
 翼はこの戦闘中に再生は不可能、飛行は断念。足は未だ死んではいないが、果たして何処まで無理が利くモノやら、甚だ信用なら無い。体中の火傷については、最早考えることさえ億劫だ。

「手詰まり、か」

 全力で放てる剣閃は二発が限度、それ以上は。

「考えたくないですね」

 俯き、垂れる前髪がザラ、と揺れる。
 身体を休めること幾ばく、痺れを切らした遠上都が声高に罵声を吐いた。

「出てきなさいっ、勝負は決したも同然じゃない。痛みも無く焼いてあげる、さあ! さあっ! さあっ!!」

 挑発に乗ってやる必要は無い。今の状況を打破する一手は必ず在るはずだ。だからそのためにも、今は少しでも体を休めなくては。逆転の機会を創るためにも、一分一秒、力の限り体力の回復に努めるべきだ。
 それに、よしんば遠上都が近づいてくれば、この地の利を隠れ蓑として、奇襲も望める。今は堪えろ、そして待て、桜咲刹那。
 だが、それはなんて短絡的で穴だらけの現実逃避。なんて、愚かしく恥ずべき楽観。この結果は、予測して然るべきだったのに。

「っちい。―――――――――――大常際が、悪いのよ」

「きゃあ」

 お嬢様の小さな悲鳴。思考が空白に埋もれる。眼前がホワイトアウト。桜咲刹那、お前は白痴か?

「出てきなさい。殺しはしない、けど、ソレだけよ? 頭の良い君だもの、この意味、分かるでしょう?」

 失ったはずの脊髄の感覚が、この一瞬だけ甦る。背筋に凍えるような電撃が奔った。
 不味い、不味い、不味い、不味い、お嬢様を餌に、盾にされた。
 巨石越しにも想像に容易い、羽交い絞めにされたお嬢様、突きつけられた混血の毒牙。あの鋭い爪にかかっては、お嬢様の肌など、簡単に、―――――――――――――。脳髄が、思考を拒否する、例えソレが白昼の夢だとしても、私はそんな事、想像したくない。

「ゆっくりと、貴方にこの子の絶叫を聞かせてあげる。ふふ、どんな声で、彼女は鳴くのかしらね? 悠長に構えている時間は無いわよ? さあ、出てくるの………」

 どうする? どうするっ、桜咲刹那?
 飛び出し、奴を切り伏せるか? ……間合いは五間、十メートルに近い、その距離を奴の能力発動より速く駆け抜ける? 無理だ、よしんばソレが可能だったとしても、お嬢様を盾に取られた以上、全力で剣を振るうことは出来ない。重なった二人、遠上都のみを切り捨てるなど、不可能だ。

「最後通告よ、さあ、出ていらっしゃい」

 奴の殺気が、巨石越しに私を射抜く。
 悲愴とした面持ちを何とか誤魔化し、気丈を繕った顔で、最後にお嬢様のお顔を盗み見る。
 詰んだ。私に、この状況を打破する至妙の一手は、――――――――――。

「―――――――ある」

 深く、眠りに落ちそうな程沈んだ思考の深淵に、光りが差し、顔を上げる。
 ――――――――ある。あるではないか。この逆境を好機に転ずる秘策が。この状況を覆しうる、最奥の一手が。

「だが………」

 出来ない。私には、出来ない。桜咲刹那は、唯の一度も、彼の秘儀を体現したことが無い。
 自身の不甲斐無さに怨嗟を投げかけながら、瞳に映ったこのちゃんの強い眼差し。
 黒い真珠みたいに深い瞳と、私の黒々とした眼が重なる。彼女のその顔の、なんて高貴な事か。それを直視した私は、卑しい賤民が遥か高みを望む様。

「負けんな。せっちゃんの望むように、やればええ」

 心の中に、声が響いた。それは、幻聴でもなんでも無い、はっきりと、親愛なる我が姫君の、私に対する寵愛が一心に込められた励声。

「ウチはせっちゃんを信じるよ、きっと、出来る。だって、せっちゃんはウチを守ってくれるんやろ?」

 ―――――――――何を、している。
 守ると、決めただろう。その信仰にも似た尊い呪いを、貫くのだと、決めただろう。
 お前は、敗れるのか。このちゃんい救われた桜咲刹那は、そんな醜悪な化け物(私)に敗れてしまうモノなのか。その無様を、お前は、赦す事が出来るのか。
 断ち切れ、完膚なきまでに。
 絶ち切れ、塵も残らぬほどに。
 その切っ先が届かぬならば。

「まったく、お転婆な姫君に、誓いを立ててしまったものです」

 一つの翼で飛べぬのならば。

「お言葉通り、遠慮は無しです。覚悟してください、それと……」

 二つ。比翼の翼で、―――――――――空へ、飛ぼう。

「手助け、よろしくな。このちゃん」

 岩に背中を預けたまま、私は微笑みと共に囁いていた。このちゃんにだけ聞こえる様に、そう、文字通り、“近衛木乃香。我が主にだけ、聞こえるように”。

「遠上、都。此方も、最後に告げておく」

 息を深く。
 もう一度、壁に背を凭れ。右腕に、最後の渾身と結了の意を込める。

「いいわよ。辞世の句なら、喜んで受け取ってあげる」

 焼け付くほど冷たい朝靄(ちょうあい)に肌を焦がしながら、吸い込んだ息吹を大気に帰す。
 朝日影が差し込み始めた雲海は、紫苑の色をより白磁に、艶やかに染めていく。
 空を仰いで、瞳を閉じた。竹林の蠕動、風に鳴く木々の音と、区切られた荒漠の大地。それを痛んだ体で無心に感じ、精神を安らかに、それでいて高ぶらせる。

「次の一刀、容赦は出来ない」

 一人ごつ。さあ、このちゃんを迎えに行こう。

「手加減は、苦手でな」

 振り向きざま、一閃。
 全力で刃を放てるのは、残り一度きり。背水の陣、そして放たれたのは斬岩剣だ。
 私を匿ってくれたその巨石を真横から両断する。

「このちゃん。今です!」

 僅かに浮遊する巨石、遠上都に捉えられているであろうお嬢様に、怒声とも取れる叱咤を飛ばす。

「契約執行、三秒間。木乃香の従者、桜咲刹那!!」

 咆哮する魔力の猛り、“気”による身体能力の補佐を放棄し、新たに流れ込んでくるお嬢様の魔力に体を喚起させる。余分な“気”の精製は出来ない、気と魔力が反発する、というのも理由の一つだが、それ以上に、残る僅かの生命エネルギー全てを、刀身に注ぎこまなくては、私の必殺は成しえないからだ。
 それゆえに、先ほどの会話。魔術使いとその従者に与えられる魔術“念話(テレパス)”。
 それを使用し、お嬢様と段取りつけたのだ。
 すなわち、お嬢様の魔力による、私の身体能力強化。自らの気で補佐する以上に、お嬢様による身体強化は私の能力を飛躍的に向上させる。と、いうのも、それがお嬢様の圧倒的な魔力故の賜物だ。だが、お嬢様の治癒以外ではとんと拙い技量だ、その効果は数秒が限度。加えて今は件の“穴”に接続され、加給機役割までこなしている始末である。
 無理に無理を重ねての魔術行使、この恩義に報いずして、なんぞ武士(もののふ)と名乗れよう。

「―――――――――――――――っつあああああ」

 渾身を込めた回し蹴りで、巨石を蹴りつける。矛先は無論、遠上都。

「なっ!? 岩を、盾にして!?」

 すぐさま、駆け込む。動かぬ左腕を垂らしたまま、巨石を挟み、遠上都へ疾走する。
 彼女に回避は不能。不意を討たれた奇襲だ、彼女にある選択肢は、このまま岩石の下敷きにされるか、それとも。

「―――――――――――――っちい、猪口才!!」

 その巨岩を、破壊するかだ。
 熱波が弾ける。予想通り、私を庇って即席の盾は粉砕された。
 粉々になるだけでは飽き足りず、赤熱した細かい飛礫が弾丸の様に私を撃ち、身体にいくつもの焼け付く弾痕を残していく。
 だが、怯まない。
 溶岩雨が晴れ、遠上都の眼前に曝け出された、私の壊れかけの体。
 ニ射目が繰り出されるまで、後、零秒。視えない、だが、直感が警鐘を鳴らしている。
 互いに限界を無視、混血と言う規格外の上限さえ破壊し、理性を粉砕した血生臭い本能が駆動する。
 満身創痍の体を引き摺り、肉薄する私に、連続で放たれた殺意。赤熱の権化が飛来する。
 剣間は未だ、三。如何に夕凪の超射程とは言え、届かない。

「―――――――――――――――あああああああっ」

 残る右翼を展開。目の前が白々と発光すると同時に、愚鈍な衝撃に翼の骨が悲鳴を上げる。
 二枚目の防御。だが、薄弱な翼でも、捨て身を持ってすれば堅牢な勝利への礎となるのだ。
 一瞬にして翼は千切れ飛び炎上。白い羽は焔を纏って空に舞い上がり、赤色の緞帳を私と遠上都の眼前に広げる。
 これで、防御における手札は出し切った。

「これで、終わり」

 刹那が凍えたこの瞬間、火炎が二人の視界を略奪したその逡巡、遠上都の、そんな嘆きを聞いた気がする。
 目前には炎の壁。
 剣間は一。だが、刃は振るえない。
 お嬢様を遠上都の手の内に捉えられている以上、全力で刃を振るえない。相打ちすら、叶わない。終わりだ。この焔が晴れた後、視界に捉えられた私は、きっと炎上する。
 ――――――――――――そうきっと、遠上都はそう考えている。

「神鳴流」

 この炎幕が晴れた後、勝負は決する。例え私がお嬢様を顧みず刃を滑らせたとしても、……いや、そんな事は私に出来ない、故に、私が剣を振るうのより尚速く、遠上都は私を殺す。
 そう、もしも。
 炎幕の上がるその刹那が、貴方に訪れるのだとしたら。

「斬魔剣」

 その幕は上がらない、これで、閉幕だ。右腕を引きちぎるほど苛烈に、右腕が軋むほど静謐に。
 構えなど取れよう筈も無く、ただ身体の回転でもって下段から夕凪を振り上げる。両断する。隔たる大気ごと、私を覆う焔ごと、そして。

「――――――――――――――――弐ノ太刀」

 捉えられた、このちゃんごと。
 凍えた刹那が雪解ける。晴れる炎幕、舞い散る鮮血。
 最早私には、一人で立つ気力も残っていない。膝を汚し、その場にひざまずく私、それを見下ろす、二つの影。

「な、んで」

 耳が痛くなるほどの静寂は、あっけなく解けた。搾り出したような遠上都の疑問を、カラン、と夕凪が私の手から滑り落ちた音色が答える。

「分からないか?」

 私の横、朱い鮮血を咲かせながら崩れ落ちた女に、告げる。

「手を、伸ばした。ただ、ソレだけだよ。きっと貴方と、私の境界(ちがい)は」

 そう、それだけだ。
 過去と現在の境界は、それを隔てる境界は。

「せっちゃん―――――――――――――」

 私を呼び続けるこの声に、ただ、それだけ。大切な君へ、ただ手を伸ばしただけだと思うから。
 差し伸べられた、彼女の暖かな手を握り返す。
 一人では、立つことさえ危ぶまれる。一人では、桜咲刹那は重すぎる。

 そう、鳥は。
 一つでは、一つの翼では、飛び立つことは、羽ばたくことは出来ないのだから。
 



[1027] 第四十話 選定の剣/正義の味方
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 07:20
/ 16.

「来たか、エミヤシロウ」

 山門の前、そいつは無性に腹の立つ笑みで、俺を向かえた。
 胡散臭い蟲惑的な嘲笑。女性がすれば、身震いの一つでくれてやったかもしれないが、生憎とアイツは男である。そのくせそれが否に似合っているモノだから、苛立ちや嫌悪を通り越して、むしろいっそ殺意を覚える。

「来てやったんだ。別れ際に、あんな気色悪い捨て置きされたんだ、当然だろう? 男相手、しかもあんな悪趣味な別れ方だ、後味が悪すぎる。決着の一つや二つ、つけたくもなるさ」

 見下ろすカガミ。見上げる俺。
 まるっきり龍洞寺の石段を、ポケットに手を突っ込んだまま淡々と登りながら、皮肉気に悪態をついた。
 ふと、奴の足元に残るクレーターに気がつく。

「それと、さっきは悪かったな。本当は遠距離から、って好きじゃないんだけどさ。状況が状況だったから」

 俺の謝辞に、カガミは爪を歯噛みした。

「よく言う。まあそれも、もういいさ。ココを突破されたからって、関係ない。手負いの女二人に、一体何が出来るんだい。もう、僕らの勝利は、姉さんの勝利は揺るがない」

 階段の踊り場に到着、ポケットから手を抜き、だらりと構える。
 奴の讒言には、生憎と何の感慨も浮かんでこない。何故って俺はあの二人を信じている、その信頼は、信仰にも勝る程に。

「姉さんね。なあ、お前にとってさ、その“姉さん”ってどんな存在なんだ?」

 刃を交えるのに、未だ殺意の衝動は不十分。お互いがお互いの衝動を緊張から闘争のレベルまで高めるための僅かな余白で、益体の無い会話でもしてみることにした。
 割合俺が気になっていて、それなりに奴の深部に関っているであろうその質問は、あっけなく、本当にアッサリと回答された。

「全てさ」

 実にシンプルである。それ故に、俺の意向の入る隙間も無い。神様って奴は前人未到全知全能って話しだし、コイツにとって姉貴の存在って、そんな空っぽで虚しいモノに等しいみたいだ。
 吐露した言葉を誇るように、カガミは言う。

「姉さんは僕の全て、僕の魂、僕の身体、僕の存在理由。一度死んで、生まれた僕に、その意義を与えてくれた無二の人さ」

 過去の記憶、遠上都に出会う以前の記憶が無いこと、被災地で、焼け野原の荒野で遠上都に拾われ、名前と言うアイデンティティーを詰め込まれたこと。詰らないそうに、カガミは語った。
 不幸な身の上を持つ我が身。さもそれが、選ばれた証で在るように。誰かの真似をした、現実感の無い微笑を顔に貼り付けて。何かもを見下す様な、優越に浸らせて。
 ―――――――――実に不愉快だ。

「それじゃあ、カガミって名前は……」

 ざわつく心象は、顔に表れない。
 冷たい無貌は、いつかのエセ神父と対峙した自分を髣髴させる。

「そう、なんて捻りも存在しない、僕は“鏡”。姉さんの、カガミ。僕は鏡、ただ、そうあるよう務めてきたんだ、これまで、そしてこれからも」

 淡々と、自らの生きる理由、生きる意味を鏡は映し出す。
 それは何て歪で、ガランドウ。なんて空虚。それはこんなにも虚無的で、俺の在り方に似ているのだろうか。
 空っぽの身体に、詰め込まれた想いが違っただけ。
 だから、こんなにも互いが憎い。だけど、本当にそうなのか? ニセモノ、本当にそうなのか? 違うだろう。少なくとも、お前は――――――――。

「贋物、そんなの、俺以外にいやしない」

 そんなの、俺以外にいちゃいけない。囁いた声は、黙殺される。きっと、誰にも届かない。
 案の定、カガミには俺の声は聞かれていなかった。

「抜けよ、エミヤシロウ。お喋りは、もういいだろう。姉さんの復讐はじき果たされる。だけど、その前に」

 奴は大仰に芝居がかった仕草で諸手を上げる。

「僕は、お前を壊したい。何故だろうね、僕は、お前がこんなにも憎いのだから、僕は、こんなにもお前を妬んでいるのだから」

 そんなに、瞳を綺麗な色で彩って。鏡は、呟く様な声で呪詛を紡ぐ。それは何て惨めな自傷行為。
 男にそんな台詞を言われたのは初めてならば、俺の事を羨ましいなどとほざかれたのも初めてである。

「そうかよ。問答無用かい。いいぜ、とことんやってやる。お前の存在意義なんか知ったこっちゃねえけど、俺には俺の、しなきゃならないことがある。そこどけっ、シスコン!!」

 俺の何が綺麗で、俺の何が妬ましいのか、正直何一つ分からない。アイツの目に渦巻いている嫌悪の色や、復讐なんて姉貴の願望に加担する精魂も、何一つ、これっぽっちも分からないし、分かりたくもない。正義の味方は、そんなお前を易々許容出来たりしねえんだ。
 だけど、それでも唯一つ確かなのは。

「うぬぼれんな。誓いを立てたのは、何も、お前一人だけじゃない」

 吐き気を催すほど、手前が胸糞悪いって事だ。





Fate / happy material
第四十話 選定の剣/正義の味方





「投影、開始(トレース・オン)」

 呼吸するような自然さで、呪は紡がれる。最早身体の一部と化した俺の言霊は、魔力を急速に形作り、二振りの夫婦剣を構築する。イメージは血を巡らすよりも速く魔術回路を走り、呪文は質量となって錬鉄される。即ち、ここに顕現したのは干将莫耶。俺の愛刀である。

「来たれ(アデアット)」

 合い見えるべく、カガミも呪文によって自身の獲物を両の手に握り締めた。五十センチの中華刀が二振り。奴の特性は物真似、どうやら宝具の投影ですら、完全に模倣できるらしい。鏡の刀身で構築された干将莫耶が、その確たる証明である。
 戦慄さえ覚える奴の能力だが、所詮は紛い物。俺の魔術、剣術をコピーするしか能が無い以上、俺の拙い技量でだって勝負になる。
 たっ、と駆け足で階段を昇る。二段三段飛ばしで一気に奴との間合いを詰めた。迫撃は、三秒とかからない。

「――――――――――――――ッシ」

 攻め手は常に俺から。初手において、遠慮など不要。腰、肩の捻りを刀身に乗せて、左から右へ、干将を滑らかに振りぬく。

「――――――――――――――ッシ」

 コンマの遅れさえあれ、迎え撃ったのは奴の干将。相克、相打ち、奴が階段の上、足場に有利を持っているモノの、筋力では俺の優勢、結局、相殺だ。
 火花が弾けて不協和音が鳴る。鏡も、拙い俺の技量なんかを模倣しているモノだから、刃のキレが相当悪い。かち合った刃の鳴き声は、それほど濁っていた。
 式さんや桜咲が響かせていた音色とは、似ても似つかない。

「―――――――――――――――っち」

 自嘲混じりに二刀目。右に流した身体をそのまま一回転、もう一度遠心力を乗せて干将で一薙ぎ、またも相打ち。
 三刀目、流れを乱さず莫耶で切り上げ、切り下ろす。円運動を中心として、刃を交えること十合。真似事で蹴りを穿つこと数回。
 終わりは見えないが、切がいいのでバックステップで階段を飛び引き踊り場に着地、間合いを開く。
 互いにダメージは無い。それも当然、鏡の前で演武をしていたようなモノだ、身体に残っているのは僅かの疲労感と、精神への徒労だけである。式さんが詰らない、と歯に衣着せなく連呼したのも大いに頷ける。

「物真似、か」

 だが、やっぱり厄介だ。
 確かに俺でも十二分に戦える、だが、カガミは式さんや桜咲とも八分以上に戦える。それがアイツの魔術。勝利は無い、敗北も無い。それがアイツの性能だ。俺の魔術、俺の性能とは違う、ニセモノの可能性。

「そう、物真似だ、君の魔術と近しい、だけど異なる紛い物の神秘。少しは感心しろよな」

 木々がカサカサと虫のはためきの様にざわついている。夜明けが近いこの刻限において、些かそれは不快だった。まったく、こんな卑しいアイツの嘲笑を、彩らなくてもいいだろうに。
 山門の影に入りながら、カガミは口元を尚吊り上げる。一体何を誇っているのやら、見当もつかないが、それは酷く滑稽に見えた。が、俺はそれを?(おくび)にも出さないで、無貌を被る。

「厄介だよ、実際。お前ほど、喧嘩して詰まらない相手はいないだろうからな」

 皮肉を言ったつもりは無かったのだが、カガミはこめかみを痙攣させた。
 とどのつまり、俺も式さんと同じような類の人間だったらしい。聖杯戦争と言う異界の中にあって、化け物以上の化け物と殴り合ったためか、正常な常識が故障したのかもしれない。
 今のコイツと撃ち合うよりも、ランサーや、ライダーや、バーサーカーや、アイツとの打ち合いが、こんなにも甘美に感じるなんて、我が事ながら頭がいかれていると、つくづく呆れてしまう。

「―――――――負け惜しみ、負け惜しみじゃないかっ、そんなの! ニセモノが、何を強がるんだっ!!」

 激高しているものの、決して自分からは向かってこない。冷静なのか、臆病なのか、はたまた自発と言う機能が欠落しているためなのか、それは分からないが、戦いの最中に思考するべき事ではない。
 何にしても、奴が仕掛けてこないのならば、千日手ではあろうとも、此方から何らかの手段を講じてみなくてはならない。式さんには結構カッコいいことを抜かした俺ではあるが、暴露するのであれば、コイツに勝つための秘策なんぞ何もないのである。
 故に。

「投影、開始」

 瞳に蓋をして、頭には二重螺旋の剣の陳列。放たれるべき剣弾の検索は完了。

「憑依経験、共感終了」

 伸び上げた鋭利な刀身。ファルカタが俺の回路に装填される。

「工程、完了。待機。投影、開始、――――――――」

 一度に錬鉄可能な剣の数は二十そこそこ、それ以上の弾丸を使用する場合は、追加詠唱を必要とする。
 装填された剣弾の数は、全部で四十、用意した紛い物は、全部で四十。通常では在りえない魔力の回転、当社比二倍で魔力を消費。
 普段の俺には、これほどの魔術を一気に行使できるほどの魔力は持ち得ない。大気を満たすマナが回路の魔力精製量を底上げしてくれているからこそ出来る、贅沢な魔術行使。

「停止、解凍。――――――――――――全投影、連続層写!!」

 両の眼を見開き、貫くべき敵影を捕捉する。呪文を引き金に、回路を銃身に、虚空でマズルフラッシュ。
 俺に奴を打倒する確固たる作戦も、策略も、ましてや必殺技なんか無い。だが、確かにあるのだ。奴に勝利する自信が、そして何より、負けられない理由が。
 故に、秘策が無いなら力技、無理やりにでも、勝利を掠め取るだけである。

「―――――――――――――――――――全投影、連続層写!!」

 だが、相手はそれ程甘くは無い。
 っち、これでもまだついてくる。
 俺とカガミ、八十に及ぶ剣雨が俺達二人の目前で鎬を削る。だが、それも瞬間の出来事だ。鏡とは、その全てを模倣するからこそカガミなのだ。程なくして、剣の戦場に静寂が落ちる。耳が痛い程だった剣弾の炸裂音は、耳鳴りがするほどの沈黙に塗り替えられていたのだ。

「これもだめ、か」

 段々と自分が追い込まれていくことを実感しながらも、俺には危機感というものがまるで無かった。
 試行錯誤を重ねる、権謀術数、足りない頭で思索する。
 次、剣弾は駄目だ、なら。

「投影、開始」

 白黒の夫婦剣を足元に突き立て、だらりと直立する。と、同時に、脳髄に電流が奔りだした。閃きは一瞬、最優の手札が切られる。奴は俺の魔術を真似る、俺の剣術を真似る、それならば果たして、“コイツ”は真似ることが出来るのか。
 想像されるのはなんら概念の付属していない兵装、唯の短剣、――――――マカイラだ。

「投影、開始」

 同じくして奴の両手に現れたマカイラ。やはり忠実に俺の動きを模倣し、下手投げでそれを大きく振りかぶる。

「装填」
「―装填」

「投影」
「―投影」

 そして投擲された歪な剣弾、天高く振り上げた両の手に。

「――――――――開始」
「―――――――――開始」

 再び現れるマカイラ。天上から直下、上手投げで再度マカイラを投擲する。
 空気を噛み疾駆する八本のマカイラ。
 その軌跡は、術者である俺にも予想できない。ならば、その動きをトレースする事など。

「――――――――――――浅はかなんだよ、贋作っ!!」

 大気を滑り切り揉みながら、奔る短刀。
 遠距離からの狙撃と、不意打ちには対応できなかった事から考えて、奴の能力は己が干渉しうる事象と、それを模倣する可能性を能力者自身が内包していなくてはならない、と言う条件付けがあると推測できる。
 故に、偶然とは、不確定の要素だからこそ、偶然足りえる。如何に奴の物真似が、全ての結果を模倣しようとも、任意でそのコピー能力を発動させている以上、“偶然”という条理は、真似ることが出来ないはず。しかし。

「踊れ、―――――――――瞬峡鏡獅子(シュンキョウカガミシシ)」

 唱えられた、真名。不規則であるが故に不確定の斬撃として奴を討つ筈の短刀は、俺の予想に反し、不発に終わった。
 本当に、鏡を視ているようだった。鏡面を、水面を揺らすような刃金の音。互いに弾けあったマカイラは反響しあい、兆弾し、一つが俺の首筋を皮一枚で横切り、一つが俺の頬に亀裂を走らせる。
 肉の滴る赤い味を唇に含ませて、先ほどの神秘を考察する。つまり。

「物真似、なんて生易しいレベルじゃない訳か……」

「そう、僕は鏡。そこに、例え偶然なんて不条理が絡んだ所で、結果は変わらない。鏡に向かってサイコロを投げたところで、鏡は忠実に、刻まれた結果を反映する。今の力が、僕の力、姉さんから貰った、僕だけの力。僕の“アーティファクト”に付加された能力さ、凄いだろう?」

 アイツの説明で、納得していい安上がりの神秘じゃない。アレは、間違い無い、第二魔法。平行世界への、干渉だ。
 “どこかの平行世界にある、俺の投げたマカイラと、アイツのマカイラが同じ軌跡を描いた可能性”。それを、自身の武器に反映しやがった。
 アイツの物真似。その根本的な原理は、恐らく平行世界への任意干渉で花まる大決定だ、クソっ。
 相手と同じ動きをする自分、相手と同じ魔術を使う自分、相手と同じ神秘を体現する自分、それを瞬間的とは言え、自らに装備する。
 俺のマカイラを防いだのは、多分同じ理屈。自身のアーティファクト、確か春興鏡獅子と言ったか。その礼装に、平行世界の可能性を転写しやがった。

「はははははははは、どうだよ、フェイカー!! 下らない、実に紛い物臭い、しみったれた能力だろう!! 壊れた偽者には、僕と言う贋作には、釣り合いすぎる能力だよなあ!!」

 さあ、どうする? 相手の手札は全て出揃った。空白の暗闇は、その色を失い、やがて解は導き出される。冷静に正確に、平静に適確に、持ちえる全力を費やし、疾く須らく、次の攻め手を模索しようとした刹那、――――――――――あったまに来た。怒り心頭と言う奴だ。
 関係ないってのに、俺は奴の自嘲混じりの台詞から、ソレに気付いちまったんだろう。全く、難儀なものである。

「さあ、次はなんだい、エミヤシロウ。ニセモノ同士、まがい物同士、潰しあい、喰らいあい、壊しあい、殺しあう。いいね、いいね、悪くない」

 ―――――――――――――コイツは、俺達(ニセモノ)を舐めすぎた。
 奴の狂言回しが、癪に障る。もう限界だった。底板が抜けてしまえば後は速いもので、気持ちよい程の怒りが、冷静だった脳みそをグルグルにかき混ぜて、憤懣を決壊させている。
 踊り場から、奴と見えてから初めて、憎悪にも似た憤怒の表情で奴を睨み返した。

「ニセモノニセモノと、さっきからうるせえ」

 それは、果たして誰に対する憤り。
 罵られた自らに対して? 否、それは違う。
 俺の怒気を孕んだ声色に、カガミは身体を強張らせ、直ぐに他人を揶揄する普段の気色面に色を変えた。さもありなん、それはどう視たって、唯の強がりだろうに。

「だからどうした? それがどうした? 衛宮士郎はニセモノだ、そんなの、俺が一番良く分かってる」

 ああ、そうか。俺がアイツを気に入らない理由、それは何てシンプルでみっともない。
 石段を囲う竹林が、ざあ、と波打つように揺れている。狭く、息苦しかったこの場所に、朝日の色を含んだ風の嘶きが駆け込んできた。俺の外套が、向かい風になびいている。

「何がニセモノ同士、だ。何が、フェイカー、だ。そんな言葉に囚われてるから捻くれちまうんだよ、お前」

 一段、また一段と、一刻、刻一刻と、俺とカガミの距離は縮まっていく。

「お前がそれを口にするのはな、きっと自分に対しての慰みでしかないんだ。自分の生き方に対する全肯定、与えられた生き方にもっともらしい理由をつけて、振り回してるだけだろうが」

 胸糞の悪さはここにきて天井を破壊した。
 何が姉さんのために、だ。何が姉さんが全て、だ。ああ、それだって間違いじゃない、だけどきっと、全てでもない。
 だってそうだ、コイツは間違っている。こいつは、きっと間違いだって気付いているんだから。
 う、だからコレは、俺の憤りの正体は唯の嫉妬、コイツが俺に感じたものより、多分、ずっと卑しい醜い衝動。

「もう一遍言うぞ、俺がニセモノだって事くらい、俺が一番良く分かってる。だから、そんな俺だから、教えてやるよ、カガミ。お前は楽になりたいだけじゃないか。自分がニセモノだって信じることで、狂った自分を正当化しているだけだ。復讐なんて大それた事をしでかすには、ニセモノって弱者の殻で自分を守るしか無かったからだろう……っ」

 奴は目前、怯えたように、俺を見下ろす。

「手前はニセモノだから狂ったんじゃない。弱いから、ただ弱かったから今の自分にしかにしかなれなかっただけだ。俺が羨ましい? 言ってろ、はなから見当違いだよ」

 奴との距離は、もう幾分も無い。拳を振り上げれば、ぶん殴れる位置まで石段を踏破した。

「認めろよ、手前は、本物だ。真っ当な人間だ。お前はカガミなんかになれやしない。本物が担えるのはいつだって本物だけなんだ。お前じゃ、ニセモノにはなれやしない」

 ニセモノだからこそ、分かる、俺はいつだって誰かに焦がれる、誰かに嫉妬する、それは、ニセモノだけに赦された、紛い物だから許された、卑しい性。

「お前はさ、幸せになりたくねえのかよ。お前が、口をすっぱくして、姉さん、姉さんって繰り返すのはさ、その人と、その大切な人と、幸せに、幸福でありたいからじゃないのかよ」

 無言。カガミは強い歯軋りを噛み殺して、俯いたままだ。

「……違う。僕は、カガミ。そんな感情、そんな想いは、微塵も、無い」

 やっとの事で紡ぎだされたそれを黙殺して、俺は自らの心臓をも斬り抉る言葉を口にした。それは、静かな夜と朝の狭間、紡ぎだされた、俺を蝕むたった一つの尊く、美しすぎる甘い毒。

「ニセモノはな、選べない。そんな真っ当な幸福を、そんな当たり前の幸せを、望むことすら、出来やしないんだ」

 それが、引き金だった。

「―――――――――――――っつ、黙れ!!」

 カガミは、華奢な右腕を力の限り振り上げて、俺を殴りつけた。握られていた鏡のような刀身を捨てて、ただ、自分の感情に身を任せて、ただ、これ以上自らの感情を曝け出される事を恐れて。
 俺は、それを避けることはせずただ頬に残る熱さに自嘲を漏らす。

「―――――――何が、可笑しいんだよ? エミヤ」

 震えた声。鏡を壊された少年は、表情を取り繕うことが出来ないようだ。無垢に晒されたぎこちない困惑の表情は、少年の泣き顔の様にも見える。
 俺は背を見せて石段をゆっくりと引き返し、階段の中腹、そこで、俺は漸く立ち止まり、カガミに振り返った。

「ほら、お前は鏡なんかじゃない。出来るじゃんか、お前は、自分から俺を殴った。唯の鏡には、そんな事出来ないぞ?」

 鏡と言う偽りを失った少年は、俺の言葉に自失する。焦点を失った瞳が覚束なく中空を彷徨い、やがて俺を見下ろし、はたとその視線が座った。

「認めない、認めない、認めない、認めない、認めない、認めたくない」

 身体を戦慄かせて、少年は呪詛じみた囁きを繰り返し口ずさむ。

「僕は、カガミなんだ、ニセモノ、ただ、姉さんの為に存在する忠実な、カガミ、それ以下でも、それ以上でも無い。認めない、お前の言うことなんて、何一つ、認めたくない!!」

 泣き喚く子供の様に、カガミは再び剣を執る。儀礼用の直刀、桜咲と式さんに対して使用したのと同じタイプ。どうやらアレが、デフォルト使用らしい。が、今はそんなことどうでも良いか。

「この、わからずやっ」
 
 激情に駆られた少年は、我武者羅に俺に切りかかる。即座に俺は迎撃。干将莫耶を拾い上げ奴の直刀をいなし、軽やかに捌く。
 だが、攻勢に転じたのもやおら、奴の直刀は砕けるように二股に裂け、即座にニ刀に象どられ、俺の剣術を、癖を、尽くトレースする。
 やっぱり、口で言っても分からない奴には、実力行使しか無いらしい。しかし、本当にどうするか。
 漠然とした、それでいて破滅的なまでに冷徹な思考で思索する。
 剣の投影すら完璧に模倣する奴だ、生半可な神秘など、奴の前には意味をなさない。
 ならば、と。心の奥からの咆哮が、回路を駆動させる。
 ならば創ればいいのだ、エミヤシロウ。純然たる伽藍の世界が、純粋たる紛い物の世界が俺に訴える。
 贋作には、贋作の誇りがある。誇るべき、尊さがある、美しさがある。それを履き違えた贋作使いに、負ける道理は存在しない。
 奴を凌駕しうるに最良の剣を、自らを証明しうるにたる、最高の剣を、自らが誇るべく最強の剣を。

 自らが信ずるべき、最愛の剣を。

 誰も、誰にも真似できない、エミヤシロウでは無い、衛宮士郎にだけ許されたその証を、ただ二人、たった二人だけに、担うことを赦された運命の剣を。

「おい、カガミ。一つ、言い忘れた」

 双剣を十字に切って、奴の刃を受け止める。裂帛の気合で弾き返し、距離を取る。互いに緒戦の位置取り。俺は踊り場、奴は石段の頂上へ。
 朝焼けが、薄暗い夜を侵食する。朝霧の大気を大きく吸い込み、心象を限りなくあの日へと近づける。

「こいつ等(贋作)を慰みにした落とし前だけは、きっちり払ってくれよ」

 干将莫耶を霞に帰し、一つの空想を夢想する。在りえたかも知れない、一つの世界を。

「――――I am the bone of my sword.(身体は剣で出来ている)」

 反芻される近衛の言葉が、俺の心象に彩を塗る。
 未練はないと、そう納得した。後悔は無いと、そう信じた。自らの理想を守るために、アイツとの誓いを貫くために、果たさなくてはならなかった、黄金の別離。

「―――Steel is my heart, and fire is creed(血潮は鉄で、心は硝子)」

 だけどさ、どうしたって忘れられないよ。
 理想を貫くことに、未練はない、お前と別れた事に、後悔は無い。
 この宿命に、一遍の迷いも、間違いは無い。
 だけどさ、だからこそ、忘れられないから。絶対に、忘れてやらないから。
 俺は、お前のことを忘れちまえるような、そんな、よく出来た真人間じゃなかった。そんな事すら、よく分かっていなかった。
 朝焼けは、夜に佇む俺を、後数刻で太陽の白日に晒させてしまう。だから、その前に。

「また、笑われるなあ。詭弁だって………」

 ――――――まあ、それもいい。
 撃鉄は、月光よりもなお静謐に、陽光よりもなお苛烈に、火花を散らして落とされた。世界を象る自己の暗示を介在させて、彼女の在り得ざる宿命を空想する。
 軋みをあげる骨、悲鳴を散らす肉、戦慄く魂、猛る回路。それは、深き森にて刻まれた刹那の記憶。共に夜を駆け抜けた、彼女と分かつ尊い痛み。
 魔力は回路の限界を超越し迸り、神秘は身体を貪り流転する。神々しいまでの幻想の構築に、脳髄が灼熱する。
 思い出す、この痛みこそ、彼女と共に感じた確かな証、彼女がいた、確かな傷跡。それを、再び謳歌する自分が、こんなにも誇らしい。

「―――――――――――――――ギ、が」

 俺とアイツの、交わらない宿命を紡いだ一つの黄金が、圧倒的な魔力を纏い、俺の右手に縁取られていく。
 翡翠の暴風を繰り出しながら、否、それは暴風と呼ぶには余りにも清廉すぎた。光りを集束し、光りを屈折し、光りを飲み込みながら、風は俺の両手に確固たる象を持って顕現していく。眩い光りの雄々しさに、俺の痛覚は既に麻痺していた。
 あの日の別離と同じ、切ないほどの色に染まり始めた空が、顔を見せている。空を区切っていた背の高い竹林は、吹き荒れる風塵に気圧されて、ざわつきながら身動ぎをしている。
 この剣を、投影できない自分がいた。この剣を、投影したくない自分がいた。
 きっと、その理由は簡単だった。
 ただ、目を塞ぎたかっただけじゃないか。アイツがいない現実に、アイツを失った現実を、直視出来なかっただけなのだ。
 だって、きっと堪えられない。それを認めてしまったら、きっと俺は、あの別れを汚してしまう。涙って言う、残酷な象で。

「―――I have fated a blade stay over the night.(幾度の戦場を越えて不敗)」

 だけど、きっとそうじゃない。だけど、きっとそれでもいい。空虚な胸中から零れだすその言葉、それが、間違いじゃないと教えてくれる。
 お前を失った痛みを、お前がいないこの痛みを、無かったことに、何の痛みも、悲しみもなく、終わらせていい筈、無いじゃないか。
 だから、俺は口ずさむ。例えそれが、間違いでも、あの時、あの別離で刻まれた傷跡が、きっと美しいモノだって信じているから。
 この手に、剣は顕現する。

「Nor never of regret. So ever for you a gain.(唯一つの後悔と共に、唯一つの勝利を願う)」

 この空の下で交わしたあの別離が、たった一度だけ俺に許された、たった一つの後悔だと、何よりも綺麗な間違いだったって、信じることが出来るから。
 それが、何よりも尊い事だって、教えてくれた、気付かせてくれた人たちがいるから。
 詠唱の終了と共に、尊すぎる空想は現実へと昇華し、世界を侵食する。
 大気の鳴動は未だ収まらず、天を穿つ黄金が俺の右手で瞬いていた。尊く、美しすぎる宿命の証明、かつて彼女と共に振るった、一つの幻想が、そこにある。
 担い手は、ここに二人。

「―――――――――――――――――」

 カガミは何も言わない、鏡は何も映し出さない。
 当然だ。この剣を担う可能性、その空虚な世界が、俺以外に存在していい筈が無い。
 見上げる山門の陰影に縁取られ、一人の少年は悄然として立ち尽くしていた。
 確かに、少年の手には何か、剣の様な何かが握り締められている、それは何を模倣したものなのか、少なくとも俺には分からない。

「――――――――なんだよ、それ」

 俺は両の手で、優しく黄金の剣を握り締める。
 
「そんなの、反則じゃないか、なんだよっ、それは!! そんなの、真似できる、真似できるわけっ、無いじゃないかっ!!」

 茫然自失、発狂寸前の面持ちで、カガミは俺と同じ、下段に構えを取った。
 この分らず屋は、この時でだって、自分は鏡があろうと勤める心算らしい。だったら、その仮面、完膚なきまでに粉砕してやる。

「ニセモノの、癖に。紛い物の、癖に。どうして、どうしてお前はっ!!」

 天上へと疾駆する。月と太陽の境界、そこから、狭間から駆け出す様に。
 黄金の剣を振りかぶる。かつてアイツと担った様に、かつてアイツと二人で背負った様に。

「勝利すべき――――――――――――――」

 だけど、視てるか? 
 今はちゃんと、一人でこの剣を担えている筈だよな? 
 お前がいたあの夜を、痛む咎跡と一緒に、背負えていける筈だよな? 
 この後悔があるうちは、きっと誓った理想を貫いていける筈だから、きっとあの約束を守っていける筈だから。それが、ただの強がりだったとしても、さ。
 ――――――――――まだもうチョッだけ、がんばってもいいよな?
 多分、お前を忘れられないこの痛みが、この世界にあるうちは。
 そして俺は口ずさむ。歌うように、謳うように、その真名が、お前が残した確かな傷だと信じるように。

「――――――――――――――――黄金の剣」

 振り上げた黄金の剣は残光を翻して鏡の剣を粉砕し、放たれた魔力が天に穴を穿つべく階を打ち立てる。目蓋を焼きつかせるほどの閃光と、噴流する魔力を帯びた風。
 雲を割り、大地を震わせ、空が鳴く。そんな圧倒的な神秘の顕現は、辺りに沈黙が落ちてから、初めて認識された。

「ズルイよ、そんなの」

 ニセモノはホンモノには勝てない。使い手は、担い手に勝てない。それがルールだ。
 ならば、俺の勝利は動かない。アイツのとの制約に浸る俺も、もういない。
 ニセモノ、紛い物、贋作、フェイク。お前が言う、そのしみったれたカテゴリーにおいて、俺は、―――。
 衛宮士郎は、たった一人の担い手なのだから。

「覚えて、おくんだな」

 少年は尻餅をついて、俺を見上げている、彼女の担った、黄金色の聖剣を見上げている。俺は、淀みない動作で剣を奴の襟元に近づける。かつてアイツがそうしたように、夜を背負い、俺は勝利を謳い上げる。アイツに捧げる、たった一つの勝利を賛美するために。

「こいつは、お前が背負えるほど軽くねぇ」

 誓いは、ここに。
 背負った約束は、未だ色褪せ無い。また一つ、あの日から遠ざかり、また一つ、幸福は遠ざかる。
 だけど、また一つ、あの約束に近づく錯覚。虚しいまま移ろうまま、だけど、何かに満たされたまま、確かに、俺は彼女に歩み寄った気がした。



[1027] 幕間 deep forest
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 07:30
/ outer.

 一人の魔術師が放った黄金色の咆哮。光が夜を裂いた……その瞬間よりやや時を捲き戻す。
 二人の獣は狂喜と共に円舞していた。
 舞踏場は山中、深い密林。雑木林と評するには些か森の闇が濃厚すぎる。凹凸の激しい沃土と、勾配の強い山中の傾斜は、一週間前に強か降った雨の残滓を香らせていた。
 太陽の光りを遮る厚い高木が犇いている為に、太陽は大地を焦がすことが無い。ぬかるんだ山の斜面は、ヒトの身体では奔ることすら侭ならないだろう。
 ここは龍界寺の小山、その中腹。式は結界を両断し、そこに潜り込んだ。蜜のように濃厚であった瘴気は、肌を伝い今にも繭を編み出すほどの異界へと変貌している。二人の獣は、その強い匂いに誘われる様に、蚕の懐に飛び込んだ。
 その只中、その最奥、闇が最も色濃い深淵で、二つの影は端然とその爪牙を交えていた。
 人型の獣。一人は巨大な槍を持ち、木々の枝葉を足場に立体的な攻勢を繰り広げ、一人は無骨な短刀を繰り、重さを感じさせない軽快な疾走で、ぬかるんだ大地を疾駆する。
 半瞬、錯交。瞬間、閃光。
 かたや巨木の肢端を弾ませて、かたや巨木の樹幹を蹴り上げて。中空で二人の剣戟が甲高く弾け、再び静寂、後の機会を探るべく荒々しい却走。二人は先ほどと同じく間合いを戻し、駆ける。
 再度、火花が弾ける。攻め手は式、猫のような身軽さで一足に跳躍、正面からクーを裁断しようとナイフを逆手で袈裟に、ニ撃目を逆袈裟に翻す。だが不発。ナイフはクーのグレイブ、その中柄で防がれたのだ。

「―――――――――――――っは」

 式の哄笑。
 ナイフの射程、槍を振るうには些か酷な間合いではあるが、是を好機と判断したクーは両の手を柄に滑らせて切っ先に近い距離で槍を握り、振りかぶる。
 両者の足場は枝一つ、式は、華奢な樹幹の末端を軋ませて、槍を振りかぶるクーに肉薄。
 馬鹿が。
 内心でごちたクーは、式の愚行に構わず……いや、それを必殺の好機とみなし、撓る体を回転させて真横一文字に大槍を振り抜いた。
 だが、式とて考えなしに接近を試みる間抜けではない。彼女は、その尋常ならざる反射神経で持って、振るわれたクーの槍に寸分の誤差も無くタイミングを合わせてバックステップ。あろう事か、振るわれたその槍を足場に、発射台に、大きく後方に跳躍した。
 まったく感心する、どんな構造してやがる。クーはその槍が躱された無念に先立って、喜びに脳を刺激される。電気信号よりも速く、血流が吸血鬼の捻じ切れた理性に快感を伝える、そんな在りえざる血の滾り。

「その身体以上に、―――――――――――――イカレタ頭に痺れるね」

 何処からか、式の恍惚とした嬌声が木霊する。
 影が跳躍した方向に、己も飛ぶ。彼らの放つ殺気に当てられ、飛び立つ者共が消え去った夜の間際で、槍の男が樹間(このま)を飛翔する。
 枝葉のざわつきに聴覚を刺激された式は疾走を止め、即座に反転。その判断に間違いは無かった。
 攻めた手は逆転。大地に向かい滑空する鉛色の槍が、大きく左に弧を描く。式の細腕でコレを捌くことは不可能だ。よって今度も回避、ぬかるみに足を埋めているなどと想像も出来ない軽やかさで、音も無く真上に舞い跳ねた。
 振袖の裾をしとどらせていた泥が、クーの顔に降る。それを払いのけ、再度彼は獲物を探す。力技の応酬では、腕力の勝るクーが有利。故に、式が選んだのは鉄風雷火の一撃離脱戦法。
 闇から翻る予測不能な殺意の奇襲は、脳髄が蕩けるほどの緊張と狂喜で満ちている。

「堪らないよなあ、そうだろう?」

 泥濘に足を浸らせたまま、巨木を背に、クーは槍を構える。全方位からの奇襲、少しでもその選択肢を狭めるための適確な戦闘思考。大地を向いた穂先が、時計よりも精確に揺れている。クーの呼気に合わせて振れるその槍は、彼の余裕の表れか。つまり、彼は息一つ乱してはいないのだ。
 彼の問いに答えるのは、やはり甘美なまでに闘争に酔う、無垢で妖艶な声だった。

「ああ、久しいよ。こんなに、―――――――――――生を実感できるのは」

 闇の中で、断続的で協奏的な閃光が花散らす。
 刃金が鳴き、鋭い音色が夜気を裂く。烈花(れっか)が咲き乱れ、槍と刃が三度弾けた。
 一進一退、闇色の山中で、繰り広げられる終わりの見えない戦塵を語る前に、二人の進退を今一度振り返ろう。
 緒戦。
 結論から言えば、クー、大槍を繰る吸血鬼の圧倒的優勢から戦いは幕を開ける。
 戦場は、龍界寺の前の開けた国道。それを考えれば、クロムウェル優勢で戦いが動くのは自明の理だろう。つまり、式劣勢を決定付ける最大のファクター、槍と短刀、獲物の違いだ。
 クーの槍はグレイブと呼ばれる薙ぎ主体の中距離の武装、刀身までの全長は三メートルに及んでいる。コレに対して、式の武装、一応詠春から借り受けた概念武装ではあるが、単に刀身が魔力を帯び、エーテル体や他の幻想種に対して攻撃を加えられるだけ、と言った身も蓋も無く言うのであれば、唯のサバイバルナイフである。射程については言うまでも無い、刃渡り二十センチ強の獅子噛歯。全く、その差は歴然。
 間合いの掌握。
 二人の熟達した戦闘者にとって、その間合いの差は絶望的だ。間合いを詰めればナイフの方が有利、などと言った言葉では片付けられない。
 そも、二人の手練が拮抗しているのだから、式がクーの槍を掻い潜り、零距離戦に持ち込める道理は無い。
 二つ、腕力の差。
 零距離戦、確かに式とて達人クラスの使い手だ。技量においてクーの槍を捌ききり近接戦に雪崩れ込みたい、と考えないことは無かった。クーの槍捌きは人間の限界速度以上で繰り出され、式とは馴染みの薄い欧風の槍術を使いこなすにしても、絶技、と称するには些か粗が目立つ。式の技量を持ってすれば、捌けぬ軌跡ではない。が、それは槍の担い手が人間であった場合の道理である。
 クーは吸血鬼、その豪腕が繰り出す一突き、一薙ぎを式の細腕で相打て無いのも、また道理。
 結果として、彼女はその技量の全てを回避行動に集約させられる。
 三つ、もしかしたら、コレが式にとって最も致命的な要素だったのかもしれない。
 線が、視えないのだ。
 クーの身体に、ではない。彼の振るう大槍、逸早くその獲物を刻んで仕舞えば、射程の不利、腕力の不利など、簡単に覆る。
 直死の眼を持つ彼女にとって、その思考の連立は、至極当然だった。
 だが、視えない。彼女は知らない、彼の持つその魔槍。それが自らの眼と同じ位階に在るほどの尊い幻想だと云う事を。
 以上三つの条件的な不利が重なり、緒戦はクーの優勢で動き始めた。
 だが、さりとてそれで終わる式ではない。
 自身の不利を克明に理解した式は、その差を覆すべく権謀を募らす。身体能力の差異、戦闘状況、地形。その全てを加味した上での最良の判断。
 式は繰り出されるクーの苛烈な槍を必死に回避し、龍界寺を覆う密林、今現在二人が刃を交えるこの空間に誘導したのだ。
 ――――――――――――――――劣勢に傾く戦況を、五分に巻き返すために。
 戦闘が動く。さあ、時を戻そう。

「―――――――――――――――――っちい」

 均衡が崩れる。巨木を背に鬼気迫る形相で、後方を除き四方八方から飛来する刃金色の殺意を打ち返す事三十合、クーに疲労の色が見えてきた。
 密林、式が彼をこの空間に誘い込んだのには二つの理由がある。
 一に、獲物の違い。先にも述べたが、二人の武装は射程が異なる、つまり、その大きさが異なるのだ。緒戦、その超射程ゆえに式よりも優勢に立っていたクーだが、ここでは、闇深い森の中では、その射程が仇となる。
所狭しと乱立する巨木の群叢地帯、ここではクーの武装は小回りが利かなさ過ぎる、ここではその射程を満足に奮うことが出来ないのだ。

「――――――――――――――――くそが」

 二つ、遮蔽物の多さ。式自身の小さい身体を隠蔽し、物陰からの奇襲には持って来いの地形条件。一撃離脱、クーの腕力と言う優勢を封殺するには、これほど嵌った戦術も無いだろう。
 戦況は、ここに来て式が有利。しかし、ソレで終わらせてくれるほど、この男は往生際が宜しくない。
 それを覆せずして何の吸血鬼か。この程度の死地、幾度と無く超えてきた百戦錬磨の騎士である。
 クーは、次の一瞬には首が飛ぶ恐怖に、身体を歓喜させる。分かるのだ、奴が狙っている。己の首を、己の心臓を。
 クーは、一つの決定を下し、槍を大地に突き立てる。槍を捨て、己が嗅覚を、触覚を空間に根を張る如く極限まで広げていく。はっ、この程度、乗り越えずして何が強者か? 

「――――――――――――――――――――さあ、きやがれよ」

 影が、動いた。
 彼の言葉に、必滅を期して、白い影が大地へ堕ちる。槍を捨てる無謀に、僅かの懸念を抱きながらも。
 クーは動かない、まるで躱す気が無いように、まるで防ぐ気が無いように、左舷、奔る殺意に自如として動かない。
 式が狙うのは心臓、そこに渦巻く深い漆黒の点。死を穿つべく、疾駆する。
 衝突まで、零秒。短刀が、肉を、抉る――――――――――――鮮血。血華(けっか)は、男の死、そのモノの筈なのに。

「―――――――――――――――っは、捕まえた」

 突き立てられた短刀。それを防ぐでも無く、躱すでもなく、ただ、受け止めた。いや、躱す術を持ち得なかったのだから、それは、ただ“耐えた”ただけ。
 自身の身体をナイフに向かって前のめりに倒しこみ、肩の、腕の肉を盾に、その切っ先を受け止めた。如何にその閃光の如き一突きも、所詮は女の細腕で放たれた、死。耐え切れぬ、己では無い。

「―――――――――――――ッな」

 驚愕は、式。
 愕然とした、タイミングは完璧だった。気配を殺し、幾度と無く刃を交え、クーの防御の癖を掴み、反応出来ても回避は不能と言う位置からの一突き。
 正しく、不可避の必殺だった筈。

「二択が当るとは、随分とついてるぜ」

 ――――――――――――――――脳天だったら、アンタの勝ちだったのに。
 瞬間、クーは右腕で槍を持ち、式の脇腹に強烈な横薙ぎをお見舞いする。華奢な体がくの字に折れて、跳ねた。

「っが」

 だが、式とて流石である。とっさに挟んだ左腕が、盾の役割を果たし直撃を回避する。骨が粉砕される鈍い音が、森林に轟いた。軽々と宙を舞った式の身体は、危なげながらもクーの正面に着地する。
 両者、左腕を代償に生きながらえる。生の安堵を噛み締めながら、彼女は先ほどのクーの行動を、最高だと、笑いを噛み殺し反芻させた。
 あの刹那。彼の行動は正に予想外であり、破天荒であり、理解不能であり、そして何よりも合理的だった。
 それに賞賛を贈らずして、なんとする。
 クーはは式が己の眉間、或いは心臓を狙っているのは予想できていた。いや、直感が予想と言うのも甚だ可笑しな話だが、少なくとも彼は、その推測に絶対の自信を持っていた。
 されど同時に。式が放つであろう必殺が、どう足掻いたところで、己が無傷で捌けよう筈も無いことも承知していた。
 その一撃を防ぐ技量は己に無く、その一撃を避ける才気も己に無い。
 ならば、話は簡単だ。二者択一、どちらを選んでも同じならば、どちらも選ばなければいい。傷を負うしか無いのならば、その傷に怯まぬ気概を持てば其れで良い。
 それ故の、クーの行動だった。言うなればヤケッパチ。しかしそれは、なんて理知的な選択だったのだろう。
 肉を切らせて骨を断つ、否、骨を切らせて、クーは式の肉を削いだのだ。
 結果、この男は不可避の死を、腕一本で乗り越えた。

「さあて、漸く出てき――――――?」

 子猫ちゃん、そう言おうとして、躊躇った。流石にそれは不味いだろう、何故って、死語だこりゃあ。
 微苦笑して、確認の意味も込めて槍を右手だけで振るってみる。次いで、左腕。そこで、クーは違和感に気がついた。突かれた左腕に、痛みが無い。同時に、左腕が動かない。まるで、―――――――――“殺されたよう”。
 不可避の一撃に対する、捨て身の防御を成したクーも流石であれば、やはり、それを成した式も流石である。
 交錯の一瞬、クーの試みにその卓越した直感で気付いた式は、戦闘目標を即座に変更。奴の腕、その点を穿ったのだ。
 よって痛み分け。生者必滅の刺突は無効とされ、不倶戴天の守りは貫かれた。何て、矛盾。必殺の矛と、不破の盾は、ここに再現されていた。

「く、面白いな、アンタは。本当に、面白い。アンタみたいの、初めてだ」

 ゆっくりと、零れ出る嬉々を堪えながら式は立ち上がる。だらりと、左手を垂らしたまま。

「そうかい? 嬉しいねぇ。美人に云われて、悪い気はしねえな。初めて、なんてね」

 のんびりと、漏れる喜色を隠そうともせずに、豪放磊落にクーは笑う。プラプラと、死んだように動かない左腕を、式と同じ様に垂らしたまま。
 互いに曝け出された体。もう一度、身を潜めての奇襲、と言う思考は、式の頭の片隅にさえ、存在していなかった。
 正面から、切り込む。自身の感覚、機能、能力を最大駆動させて、奴を■す。
 と、そこでふとした疑問が浮かんだ。気になっていた、と言えば、先ほどからずっとだったのかもしれない、ただ、本当に何と無く、式は今になってそんな些細な事が気にかかった。

「ねえ、ちょっといいか?」

「なんだよ? 気になることは気いておけよ。戦いに差し支えると、こっちが萎えるからよ」

 式は、ぼんやりとした声でクーに尋ねる。
 案の定の解答だと、式は詰まらなげに微笑えんだ。

「それじゃあ遠慮なく。―――――あのさ、どうしてアンタ、オレの顔、狙わないんだ? さっきから気にはなってはいたんだ。攻め手の豊富さに欠けるって言うか、今一攻め切れないって言うか。ひょっとしてさ、オレ、舐められてるの?」

 少し不満げに、唇をアヒルみたいに尖らせた式と、豆鉄砲をくらった鳩の様な表情で呆れたクー。殺伐とした空間が、嘘のように長閑になる。凄惨であった密林に、陽気なポルカが聞こえてきそう。
 腰が砕けた様な、形容しがたい間抜けな沈黙を破って、クーは当然だと云わんばかりに、それでいて、下世話な質問をした式を嗜めるように、片方しか動かない肩をすくめた。

「馬ぁ鹿。女の顔に、傷をつけるわけにはいかねえだろう。例えそれが殺し合いの最中でも、だ。そのタブーを犯しちまったら、そのルールを許しちまったら、俺は自分を誇れねえ」

 ブン、と片手で力の限り槍を振り回し、クーは式にその眩い切っ先を向ける。

「そいつが俺の信条だ。誰に言われても、曲げるつもりはねえ。不満があるなら、女に生まれた不幸を呪いな」

 今度こそ、式は本当に呆れ返った。
 なるほど、―――――――――――――馬鹿だコイツ。それも尋常じゃないほどの。
 稚拙なフェミニズムだと、漏れ出す笑みを止められない。それが、この男に似合いすぎていたものだから。
 式は知らない。自らに課す尊い誓い、それを命よりも重く、硬く守り、そして果てた、眩い英雄がいたことを。

「ふざけてるね、どうにも。まあいいさ、少なくともそのルールが在る内は、どうやらオレに敗北は無いな。その誇りごと、殺してやるぜ」

 やんわりと、挑発するような仕草で顔に亀裂を走らせる。
 闇色の樹木に囲われたコッロセオ。式は、自信と確信に満たされた勝利宣言と共に、拳を突き出した。その隻腕には、逆手に握られた短刀。鈍い輝きが、闇の中にユラリと映える。

「正面から、か。好きだぜ、そう言うのってさ―――――――――――」

 その殺気を、待っていた。そう言わんばかりに、構えた槍を握りこみ、彼は高らかに訃告する。未だ訪れぬ、死を告げる。歓喜と欲動が脳髄を陶酔させている。男の愉楽は、今、絶頂の極みにあった。

「俺はさ、正常位で無いとイけない性質でね」

 大気が、否、瘴気が凝結する。

「言ってろ、正面きって殺してやるぜ」

 瘴気が、否、大気が揮発する。
 迸る魔槍の魔力、漲る魔眼の殺意。
 二人の獣が、深く沈む。殺意の臨界は、その刹那。
 獣が傾く、殺意が、その矛先を、――――――――――――。

 ――――――――――――――光りが、否、黄金が、大気を、瘴気を昇華した。

 貌を覆う。
 無理も無い、桜咲刹那やイリヤスフィールは光りの中心地から距離が開いていた。しかし、この二人は違う。カリバーンの光源付近で戦闘を行っていた彼らは、その熱量さえ伴う光の洪水に視界失う。
 光りにより、光りを失った視界で、ついで聴覚が、触覚が、猛々しい山嵐の到来を感じ取る。
 薙ぎ倒されていく木々、巻き上がる土砂。
 それでいて、清涼に香始める山間の大気。蜜のような瘴気は、いまやせせらぎを運ぶ清流のように滑らかで。
 優しく闇色の森林を凪いでいく季節外れの涼香は、必殺を目の前のにした二人の思考を麻痺さるのに、充分すぎるほど安らかだった。
 高潮した殺意が、穴の開いた風船みたいに萎んでいくのを、二人は感じている。その曖昧な精神の弛緩を、二人に現実として気付かせたのは、ぴぴぴぴぴ、とこの場にそぐわない電子音だった。

「―――――――っげ、良い所で調子を取戻しやがった。このポンコツ」

 クーは式の戦意が萎えている事に気がついたのだろう。そして彼自身も興が削がれたのか、なんの躊躇いも見せず己の槍を投げ捨てて、明け方の密林にはひたすら不釣合いな電子音の原因をポケットの中から徐に取り出した。
 携帯電話では無い。折りたたみ式でサイズはほぼそれと同一だが、ダイヤルがついていないし、何より液晶画面が在るはずの場所に、何故だか鏡が貼り付けられていて、その鏡面にはこの街、京都の地図がぼんやりと浮かび上がっている。
 やがてぼやけた視界が、さあ、と開けるように。その鏡面にはっきりと、今クーたちが戦闘を行った龍界寺の山中、そこを中心としたより具体的な縮図が亡羊と浮かび上がる。
 その中には赤い点、それが点滅を繰り返す。場所は……ここから幾らも離れていない、龍界寺、イリヤスフィールが死闘を繰り広げたあの工房である。

「ぐあっ!? おまけにこんな近くかよ、ついてねー!」

 周囲のマナが浄化されたため、機能を取戻した礼装に悪態をつきながら、己の不幸を嘆く。ただの勘で、式の不可避の一撃を躱しておきながら、調子の良いものである。
 クーは渋々ながらその道具を再度ポケットにしまい、ついで槍を担ぎ上げる。顔にはあからさまな落胆の色。己が舞踏よりも仕事が優先、誠、軽薄なのか律儀なのか、計りかねる男である。

「ああ……悪い。ちょっと急用が出来てな。残念だが、ここで終わりにしてくれねえか?」
 
 頑張って取り付けたデートを自分からふいにしてしまった様な顔で、クーは式に謝り倒す。
 当の式本人も、既にやる気を削がれてしまっていた訳だから、掌を返した様なクーの平身低頭に一瞬苦い貌を見せたものの、直ぐに何時もののっぺりとした美貌を取戻し、事も無げに言った。

「別に構わないさ。そもそも、お互い暇つぶしだった訳だし、潰す暇が無くなれば、自然とそうなる」

「おおっ、話せる女は好きだぜ。悪いな、嬢ちゃん。この埋め合わせは……どうだい、明日当たり、逢引でも? ゲイシャガールをリアルにエスコート出来るなんて、嬉しいねー」

 先ほどまで殺し合っていた女に向かってデートを申し込む男も男なら、顔を赤らめ噛み付く女も女である。

「抜かせ。生憎、オレには先客がいる。色遊びが御所もうなら、他の遊郭を当ってくれ」

「げえ、信じられねー。俺以外にアンタを誘う様な物好きがいるのかよ。趣味悪すぎだ」

 ふん、と式は、楽しそうに彼女を皮肉る槍の男に背を向ける。これ以上は時間の無駄だと、土埃で汚れた髪を払いながら斜面を下る。

「同感だ。アイツの趣味も最悪なら、オレの趣味も最悪だ。――――――ほら、さっさと行けよ。アンタ、急ぎなんだろう?」

 少しの名残惜しさも感じさせず、最後に式はやんわりと振り返る。黒い瞳に映るのは、槍を担いだ外国人らしい骨ばった、しかしスラリとしたファッションモデルを連想させる引き締まった体格。

「まあね。しかし、聞き捨てならねぇな、今のその台詞。その眼を凝らしてよおく見な。アンタの趣味は、悪くねぇと思うぜ?」

 どん、と槍を持つ腕で、器用に自分の胸を叩く。誇らしげに、クーは生気に満ち足りた顔で彼女と視線を交わす。僅かの時間、彼と狂気乱舞したあの惨劇は、何にも勝る男女の付き添い、エスコートであったと信じて疑わない、そんな男ながらの屈折したプライド。
 キョトン、と式は口をへの字に結んでしばし黙考。逡巡、ああ、と下らない冗談を聞いた時の様に吐息を漏らす。

「だからだよ。やっぱり、アイツ以上にオレの趣味は最悪だな」

 無垢に残虐に。それは、身の毛がよだつほど、底意地の悪い微笑だった。
 じゃあな。自由の利く片腕を気だるく振り、背を向けたまま女の背中は闇に融けていった。

「…………なんだ。………あれだ」

 まいった、こいつはいい女だわ。彼女の言う先客、とやらに軽い殺意を覚えながらクーはそのか細い背中を見送る。
 ぐしゃり、と硬い頭髪をかき混ぜてから一息。

「やっぱ、今日はついてるわ」

 さあて、最後の締めに取り掛かりますか?
 闇のざわめきと共に、獣の体が深林をかけた。





■ Interval / deep forest ■





 全ての戯曲に、幕は堕ちる。
 その間際、ほんの些細な享楽の幕間劇。
 そのさらに間際、ほんの些細な運命(さだめ)の境界にて―――――――。



[1027] 第四十一話 ある結末 
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 07:37
/ snow white.

 廃屋同然の部屋を出る。
 死闘の名残は屋外にも見て取ることが出来て、風流な外苑には襖の木片やガラス窓の破片が煩雑と散らばっていた。東の空からは太陽が僅かに貌をのぞかせ、草木の霜を段々と深く濡らしていく。
 草色の絨毯を踏みしめたわたしの素足が、急速に血の気を失っていくのが分かる。所々、身体の中で魔術回路が断線しているのか、呼吸するのも侭ならない程の痛みが脳髄を焼き、足に続いて身体全体が凍えていくのをはっきりと認識した。

「―――――――あ、あれ?」

 ぺたり、と女の子座りでその場にへたり込む。
 身体の痛みはやがて筋肉を弛緩させ、私の身体の自由を奪っていく、――――――そう、信じたかった。

「―――――――――あ、あは、あはははは」

 座り込んだ身体を、必死に細い腕で抱き寄せる。改めて思い知らされる、わたしの身体は、こんなにも虚弱で、脆かったのだと。
 亀裂の走った醜い微笑み。ソレは、降り止まぬ雪のよう。止まらない哄笑が、惨めに降り積もり、醜悪だった微笑を加速させている。
 わたしは、勝利した筈なのに。
 なんて情け無い、今になって戦いに恐怖するなんて。あの絶望に、こんなにも足が竦み上がっている。その感情を、制御できない。取り繕うことも、振り払うことも。
 雪解けは未だ遠く、わたしは寒さに凍えるウサギみたいだ。

「はは。―――――――――なっさけね」

 何を思い上がっていたのか。手に入れた勝利など、何かの間違いだ。ううん、きっと違った。何かを間違えたから、勝利したんだ。それを、忘れちゃ駄目。
 そして同時に、忘れない。
 その恐怖、今わたしが味わうその痛みは、かつて“あの戦い”で得るはずだったわたしの、わたしが誰かに背負わせていた、わたしだけのかけがえの無いモノなんだって。
 だから、大丈夫。きっと、まだ歩ける。この痛みを背負うことを、わたしは渇望していた筈なのだから。だから、負けてなどやるものか。

「うん、―――――――――――――いかなきゃ」

 震える膝で、雲を掴む。重さを失ったわたしの髪が、襟足をくすぐる。弱々しい情けない姿勢で、わたしは、自身の二本足で立ち上がった。
 まだ、終わっていない。この戦い。あの“穴”を防ぐまで、まだ幕は下ろせない。今現在、その幕を引けるのは“魔術師”である、わたしなのだから。
 皮肉なモノね、けじめは、いつだって応報する。あの戦いで手にするべきものを、こんなイミテーションで取り返す。やっぱり、世界って奴はよく出来ている。魔術師としては、それを実感できただけでも、僥倖じゃないかしら?

「――――――――――――へへ、でも。今夜は頑張ったよね、バーサーカー」

 目指すのは、セツナの背中から見たあの祭壇。正確な道順は分からないけど、まっ、どうにかなるでしょう。きっと、今のわたしなら。
 未だかすかに残る虚脱感と恐怖の戦慄、それでも、夜から駆け出す様に大地を蹴る。
 
 アイツと過ごした夜が明ける。
 強がりにも似た、わたしの“誇り”と一緒に、その夜を超えていく。
 ああ、きっと。わたしはやっと、あの戦いから抜け出した。
 魔術師では無いわたし、それを、あの夜に捨て去ろう。今は胸を張り、そして、言ってやるのだ。

「うん。悔しいけど。わたし達より、あの二人が頑張ったって、だけだよね?」

 夜に佇む、永遠に色あせないあの二週間に佇む、彼女に。
 たった一つ、わたしが望んだ敗北宣言。
 魔術師になったわたしが、誇りと共に唱える、ある別れ。
 この夜が明けて、わたしは、きっとあの戦いの敗者になれた。
 きっと、シロウやアイツの隣でね――――――――――――。





Fate / happy material
第四十一話 ある結末 Ⅰ





/ outer.

 イリヤスフィールが駆け出すその背中を、一人の男は闇の中から見守っていた。
 小刻みに濡れ芝を踏みしめる足音が遠退いて行くのを確認し、クーは闇の中から浮き上がる様に現れる。
 動かぬ左腕を垂らしたまま、訝しげな苛立ちを顔に貼り付けたまま。その表情はきっと、イリヤスフィールの幼い顔立ちに残された痛々しい痣をその灼眼に捉えたからだ。
 乾いたせせら笑い。一度だけ右手に持つ槍で虚空を切り薙いで、爪先を廃墟へと向ける。膨れ上がった殺気は冷却され、薄い朝日影を背に長躯の痩身が死の宣告を告げるべく寒気を催すほどの無貌で縁側に足を掛けた。
 
「へえ、なんだか知らねえが。激しくやり合った見てえだな」

 中央には鈍く発光する液状の汚物が詰まった筒。散乱した礼装や瓦礫。そして先ほどの風と光りによって、清々しく浄化した芳醇な大気の味が、部屋に侵入しクーが最初に気がついたモノ。
 部屋の中央、無様に失禁し失神した魔術師の事など眼中には無く、それが目的の物だと理解するのに数秒を要する。
 ゴミか、こりゃあ。折角のいい気分を台無しにしてくれたスクラップを槍の尻で軽く小突く。ゴン、と鈍い音がして魔術師のはげ頭がボーリングのピンみたいに倒れた。

「なあ、アンタ。起きろよ、死んでねえならさ」

 起きない。もう一度、今度は横っ面を抉る。うめき声は二度、無視してもう一度頭を小突く。死んだかな? 中座してクーは額の割れた魔術師の頭を眺める。その裂傷が醜悪にして卑猥だったためか、吐瀉する様な苦い顔で、視線をずらす。

「――――――――――うう……!!」

 うめき声ははっきりとした自我を含んでいる。どうやら魔術師が目を覚ました様だ。

「グッモーニング。ご機嫌はどうだい? まあ、最悪だとは思うがね」

 肩を竦めながら立ち上がり、驚愕に眼球を押し上げた魔術師に嘲笑を贈ったクー。彼は愕然とする魔術師をまるで羽を悪戯に毟られた虫を見る様な侮蔑の瞳で見下ろした。

「……クロムウェル…………っ」

 呼び捨てにされた己の名。別にいい、自分で適当に名乗りを上げただけなのだから、ソレほど愛着が在るわけじゃない。もっと気に入った愛称でも見つかれば、そっちに鞍替えしても良い位だ。

「そ。よく知ってるな……まあ、王様の所にいたんだから、そりゃ知ってるか」

 恐怖にすくみ上がる魔術師は、腰が砕けたまま後ずさる。
 やがて行き止まり。魔術師の背中に、ドン、と固い何かが逃げ道を塞いでいる。見上げると、そこには緑色に発光する物体。まだ、完成していない。どう見積もっても、固体になるまであと一時間。

「何故だ、クロムウェル。何故………」

 魔術師は呼吸の仕方を忘れる程、恐怖に脳髄をかき混ぜられていた。
 何故、己の居場所が分かった? 己が逃亡は完璧だった。確かにだ、やがて足取りを掴まれるとは承知していた、しかし、早すぎる。

「何故って、気付けよな。あんたも一端の魔術師ならさ。マーカー、引っ付けられたんだ…………分かんねーかな? あんた、嵌められたんだよ、王様に」

 哀れだねー、なんて、成績不良者の友人を揶揄するように唇を歪めるクー。一歩、魔術師に近づいた。

「まあ、あれだ。あの性悪馬鹿を信用出来ないのは当然。信仰と尊厳に溢れる上下関係なんて築けるボスじゃねーって意見には、大いに賛同してやれるがさ、利用できるとも思わねーこった。身の程を思い知らされるからな。少なくとも、美味しい汁を啜りたきゃ、“俺以外は王様に喧嘩を売るな”。知ってた筈だろ? 何? 知らない? 可っ笑しいな、そのルールって、小汚ねえあの城の中じゃ、結構常識だと思ってたんだが………」

 魔術師の首だけの回答を解読しながら、クーはしばし逡巡し、一つの結論に行き着いた。己が王を心の底から信用していないからこそ、分かる。
 王と臣下の阿吽の呼吸。これも、一つの信頼関係なのかもしれない。

「ああ、つまり。アンタ、このためだけに存在させて貰っていたわけね。裏切るも何も、はなから、アンタ、下僕だとすら認めてもらえなかったわけか」

 全ては盤上の駒。この魔術師がトラフィムを裏切るのも、この京都に潜伏することも、この事件を起こすことも、全ては―――――――――。

「同情する。アンタ、無様すぎだ」

 トラフィムが望んだからこその、――――――――――。
 嘆息。
 クーは侮蔑の瞳で魔術師を見下ろす。己を見上げる哀れな贄になんら興味も抱けない。殺意も、悲哀も、憎しみも、全てが無価値。その存在に、向けるべき衝動が何一つ見当たらない。
 滑稽だね。まいった、こりゃあ無理だ。
 頭を掻き、つまらない仕事を安請け合いしてしまった己をただ嘆く。殺せないなら、時間の無駄だ。そう割り切って、踵を返そうとした矢先。不意に、心に痞えた疑問を口走る。
 その終幕は、本当に些細な思いつきから。

「なあ。アンタ」

 何かが湧き上がる衝動に、少しばかり感謝する。
 底冷えするほどの無感情に、段々と色が塗られていく。

「さっきさ、ちっせえ嬢ちゃんがここから出てくるのを見たんだけどよ。あれ、何よ?」

 魔術師の眼が焦点を失う。
 嘘をつく? 否、そんなモノに意味は無い。そんな回答に意味は無い。
 そしてそれ以前に。

「あ、そうかい。アンタがね………」

 何故、この男が憤怒するのか? 理解できない。
 アレは魔術礼装だ、アレは道具だ。それに、一体何を、―――――――――。

「ひゃ?」

 魔術師の思考が、答え導き出させる暇は無かった。
 小さな断末魔が零れ、魔術師の首が切れた弦みたいに勢いよく飛んだ。血飛沫すら、上がらない。ただ、醜い男の頭が中空に転がって、クーはその槍を器用に撓らせ、生首のコメカミを貫き通し串刺しにキャッチする。
 魔術師の死体は貴重な情報源だ、中でも脳髄、これを他の人間の手に渡るのは宜しくない、仕事の完遂を証明するためにも、まあ、回収が必要なモノなのだが。……片手が使えねえと、何かと不便だな。つーかグロイからどっちにしろ手じゃ持てねえが。

「はっ、不細工だね。悪いが、来世は望めない。アンタはここで死に続けろ」

 間抜けな阿呆面には、疑問。断末魔の瞬間に停止した魔術師の口が、動いた様に感じられる。

 ――――――――――――なん、で?

 死臭の漂う廃墟には、魔術師の骸だけが横たえる。発光する緑色の妖光だけが、ひたすら場違いに感じられた。

「女の顔に傷をつけた。アンタが死ぬのに、それ以上の理由が必要かい?」

 残虐な程に愉快な微笑で、男は光り指す夜の淵に帰還する。
 一先ず、彼の話は御終い。
 その背中が夜に跳ねるのを見送り、彼と紡がれる次なる戯曲の幕開けを、しばし待て。

Out / next.

「せっちゃん、この人、殺しちゃったん?」

 お嬢様の肩を借りて、私はその場で立ち上がる。
 お嬢様を“穴”へと癒着させていた魔術が解けたのか、お嬢様は私の手を力強く引っ張り私を抱きとめる。……イリヤさん、どうやら勝利した様ですね。それが証拠です。
 妹さんに対する安堵の所為か気が抜けたようだ、よってしばし、お嬢様の甘い匂いを堪能する。このちゃんからエネルギーを充電してもらい、それから、気丈に彼女の問い掛けに答えることとする。

「殺す気で放ちましたが、その心配はありません。何せ退魔の技では混血を殺せませんから。今は気絶しているだけでしょう、予想外の一太刀に、この出血量です。ショックで意識を失っても可笑しくはありませんからね」

 少しの名残惜しさを感じながら彼女の懐から面を上げる。
 満身創痍の身体にあって、唯一まともに動かすことの出来る右腕で動かぬ左腕をなでつけながら、さて、これからどうしたものかと思案に暮れる。
 その横では、お嬢様が確認も取らず勝手に遠上都の傷口を治癒の呪で止血している。呻き声をあげながらも、意識は一向に戻る気配が無い彼女に、軽い嫉妬を感じた私は、はてさて、嫉妬の虫と言う奴だ。
 ……まったく、お嬢様も心底甘い。魔力など殆ど空っぽだろうに。
 実は当の遠上都より、わたしの方がよっぽど重症なのだが、口にはしない。何故って、みっとも無いでは在りませんか。桜咲刹那は、我慢強くて意地っ張りなのですから。

「兎に角、この穴を塞がないと。もう直ぐ、夜が明けてしまう」

 遠上都が意識を手放しているうちに捕縛の術と陣を併用して彼女に行使してから、次いで虚空に開いた大穴を見上げる。
 崖下に向けて重油のみたいに歪な獣を吐き出す大穴。果たしてどのように塞げばいいものやら。

「……っと、いやに簡単ですね、この封印式」

 一人独語する。
 その余りの単純明快さに、拍子抜けするほど気の緩んだ声。渦を捲く黒点の中心から一直線に伸びる術式の軸、それはどうやら龍界寺の本堂に繋がっている。
 それはまあいい。問題なのは、この開きっぱなしの蛇口をどうするか、だ。式が簡単だったのは僥倖だが、生憎、その簡単な式すら紡ぎだす魔力が、気が、私にもお嬢様にも残されてはいなかった。

「だったら、わたしがやるだけよ。別に構わないでしょう、セツナ」

 俯いた私の背中から、絶好のタイミングで妹さんが手を振っている。
 あちらこちら焼け跡が目立つ荒廃した砂利道を、覚束ない足取りでテコテコ此方にやってきてくれた。頬の痣や、破けた服の上には何かで穿たれた様な深い傷。それが痛々しくて私は眉をひそめた。
 その様子に気付いた彼女は、「馬鹿ね」とほくそ笑み。

「気にすること無いわ。この傷は、わたしが望んで負ったモノ。場合によっては自慢しちゃうんだから」

 私の背中をポンと叩いて、隣に並ぶ。その位置が、自分の席だと言わんばかりに。前を向く力強い視線は、あの少年を髣髴させ、不謹慎にも笑みが止められない。
 ……まあそんなことはさておいて、お嬢様が血みどろのイリヤさんに顔面蒼白の面持ちで駆け寄っていく。直してあげたいが先ほど遠上都の治療に使った魔力でお嬢さまの燃料はそこを尽いたらしく、イリヤさんに疎まれるまでしつこく彼女の周りをうろうろしていた。

「まったく……で、この穴、とっとと封印しないと不味いんでしょう?」

 お嬢様のお節介焼きをありがた迷惑、といった感じのため息を三つ落としてから乗り切り、イリヤさんは目の前の術式をじっくりと観察していく。

「ええ、構造自体はシンプルな術式です、しかし……」

 私はそこで言い淀む。
 私がこの封印式を再起動できない理由。魔力、気が足りないと言う即物的な理由、そして……、もう一つ。

「なるほど、この封印式の動力部、所謂基点は、人間をサクリファイスにしなくちゃならないわけ。ムカつくくらい、古典的でお約束ね」

 イリヤさんの棘の言葉どおり、倫理的な問題が浮上したからだ。

「はい。生贄が最低一人、この穴を塞ぐために犠牲になって頂く必要があります」

 イリヤさんが不愉快な苛立ちを隠さず………どうして、今まで気がつかなかった? その、あるべきを長さを失った銀糸を掻き揚げた。
 驚きは、沈黙としてお嬢様にも伝播した。どうかしている、これほど際立った変化だったのに。
 それほど、不自然で自然な変化。何故だろう、儚い過去を振り切るように、今の彼女は美しい。可憐な花の美しか在りえなかったその芸術が、昇華した。無いはずの長髪が、気高さ、そして誇りを花開かせ、その高貴な美を空想させる。
 首筋までしかない千切れたような短髪が、頬を凪ぐ冷たい小夜嵐に揺れていた。
 断髪には一様にして決意の願望が込められる。その美しく、また“今の彼女”に相応しすぎるその相貌を、果たして誰が咎められよう?

「何よ? セツナもコノカも、二人して。なにか、わたしに変な所で……って、ああ、この髪か」

 唖然とする私たち二人の視線に気付いたのか、イリヤさんは恥ずかしげに舌をペロリと出して向くに微笑みを向ける。

「ま、今更だけど。ちょっとしたイメージチェンジって奴かしら? 別に例の魔術師と喧嘩した時にしょうもなく……ってわけじゃ無いから、気にしないで。好きでバッサリやったんだからね。それに、ほら、意外と似合ってると思わない?」

 耳元の不揃いな髪先を摘み上げ、微笑を絶やさない。ならば、此方とてその微笑に答えるのが、同じ女性として当然です。
 とは言っても、呼気するような自然さで、それを体現できるお嬢様は流石ですよ。とてもではないが、私には荷が勝ちすぎる。

「うん、似合ってる。でもなー、ちょっとボサボサやから、この件が片付いたら、お姉ちゃんがカットしてやるからな」

「そう? それじゃ、お願い。出来れば今日中ね。約束よ?」

「うん、了解。楽しみにしとるよ」

「馬鹿ね。そんな、満面の笑みで言うほどの事じゃないでしょうに」

 お嬢様の言に、最後は皮肉るような妹さんの声。姉妹のような遣り取りは、恥ずかしげなイリヤさんの紅顔で締めくくられた。
 微笑を讃えて見守る以外に、私に手立てはあったのだろうか?

「オホン。……それではセツナ、話題がずれたけど、結局どうしましょうか? このままじゃ不味いわよね」

 ワザとらしい咳払いを一つついて、イリヤさんは話題の軌道修正。深刻な現状についての意見を、私に求めている。
 直ぐに回答できる問題ではないし、考えを巡らせたところで答えられる問題では無い事も分かっていた。
 卑しくも、横たえる遠上都に視線が泳ぐ私。分かっている、私は衛宮の用に清廉潔白ではいられないのだと言う事くらい。何かを守るために、何かを切り捨てる。お嬢様を守るために、誰かを斬り捨てる。
 その考えに今も嫌悪を抱くが、その考えを変える気も無い。それは、人間誰しもが忌避する思考であると同時に、呼吸よりも自然に、ヒトが日々行う世界の掟だ。
 理解している、しかし、その考えを許容する自分を、私はやはり許せない。なんて、矛盾。
 だけど、今はそれでいい。そんな自分を憎しみながら、そんな自分を好きに成っていく事こそが、生きるという事だと思うから。

「不味いです。しかし、生贄など望めない。それはきっと誰しもが臨んだ最高の解では無い筈だ。そんなの、きっと」

 衛宮士郎は、許さない。
 そう、言い切る直前だった。その声が、降ってきたのは。

「生贄ならば、ここにいる。僕を使えば、それで終わりだ。いい加減にしなよ、あんたら。綺麗ごとなんて、虫唾が走る」

 銅色の髪が、泥に汚れて靡いている。
 微かに焼けた暖色のフリースに乗っけられている女性みたいに小さな顔が、私を嘲笑するみたいに微笑んでいる。

「―――――――――――――っな、貴様は。何故、ここに!?」

 振り返り、傷だらけの身体が硬直する。今このタイミングで敵が現れる、最悪だ。
 全くの予想外、衛宮が破れる事など、計算に入れていなかった。

「まったく、何が生贄は望めない、だ。馬鹿が、それではきっと、なに一つ救えない。綺麗事を抜かす前に、考えろよ。姉さんを犠牲にすれば、事は済むんだ。何故、今更その回答を拒否する必要があるの? 帳尻は、合わせて然るべきなのに。言葉が必要? 僕達は、この事件の黒幕だ。罰を与えるべきはここにいる、僕たちは裁かれるべき悪だろう?」

 癪に障る。
 それはきっと、奴の言葉が的を射ているから。所詮、私の言葉など唯の世迷い事、現実を直視せづ、その痛みを放棄した、捉えようによっては最も楽な答えでしかない………っだけど。
 だけど、それでも嫌なのだ。誰かを犠牲にするのは、例え斬り捨てる悪が在ったとしても、私はその瞬間を最後まで躊躇いたい。
 衛宮の様に綺麗でもいられない、だけど、非情でもいたくない。
 弱い自分、だけど、それでも私は、今の私を捨てたくないのだ。それは果たして醜いのだろうか? きっと、衛宮はそんな私をぎこちない笑顔で否定する。きっと、お嬢様はそんな私を、優しく抱きとめてくれる。
 だから、きっと、その想いに間違いは無いはずなのに。

「質問に答えていないっ。衛宮は!? 彼はどうした!? 何故、貴様が………」

 私を嘲る様な少年の瞳は、刹那、横たえた遠上都を優しげに、それでいて穏やかに眺め、瞳を閉じた。

「………エミヤシロウなら、寝てる。どうせ燃料切れだろ? ちくしょう、言いたいこと勝手にほざいてぶっ倒れやがって、殺してやりたい。半端な、背中の押し方しやがって」

 要領を得ない毒言が、金切り声の様に地面にぶつけられる。少年のヒステリーは、少なくとも衛宮に向けられているのは、疑いようが無い。
 いつか出逢ったとき以上に、彼の存在を強く感じる。その違いを名状することは出来ないが、そうだな、あえて言葉にするのなら、その独語の内に怒りや憎しみとといった強い感情が含まれている事だろう。のっぺらぼうの様だった少年の貌に、今は確かな我が浮かんでいる。

「おい、それで生贄になるのには一つ条件がある。死んでやるって言ってるんだ、故人の頼みくらいは聞き届けてくれるんだろう? あんたら、お人よしみたいだしさ。後味の悪い想い、したくないでしょう?」

 一歩、少年は私とイリヤさんの間をすり抜けて虚空に開いた大穴に歩み寄る。

「一体、何を考えている?」

「別に何も。今の僕が、是を最良と判断したから、僕が自分の理想を叶えるためにね。この取引はそれだけの価値があるってこと。だから、こうやっているだけだけど? ああ、君達風に言えば、改心したのさ。あの偽善者のお陰でね。気付かないようにしていた僕の願いって奴が、分かっちゃったから」

 鏡の癖に、可笑しな話だろう? と、自嘲気味に少年は付け足した。
 お嬢様、イリヤさんは何も言わない。
 少年の一言で、皆納得してしまったのだ。衛宮と出会った。それは、自らを見詰めなおすのに、充分すぎる動機に他ならない。自らの生き方を変えるのに、充分すぎる理由に他ならない。あの少年は、其れほどまでに歪なのだから。

「いいわ。口の聞き方も知らないお子様みたいだけど、貴方の意思は汲み取ってあげる。それでなに? 追悼は贈らないけど、死に花くらいなら拾ってあげるわよ。貴方の言うとおり、目覚めが悪いものね。少なくとも、シロウが」

 その年齢に不相応な酷薄とした笑みが、自然とイリヤさんの貌に浮かび上がる。
 不揃いの乱れた短髪が、その奥にある安らかなほど冷淡な瞳を隠そうともせず靡いていた。

「―――――――――――――イリヤさん、本当に宜しいのですか」

 その豪胆とした冷酷さに物怖じしながらも、私はイリヤさんに尋ねる。
 当然だ、その決定を、イリヤさんの様な幼い子供にさせて善い筈が無い。その歳で、彼女の華奢な両の手を汚させたくは、無い。

「ふふ、ありがとう、セツナ。そうね、シロウと一緒で、貴方も優しいね」

 それから、ゴメン、と彼女は言った。

「わたしの手は、もうね、結構汚れちゃってるから。それに、決めたんだー、もう。自ら手を汚すことは望まない、絶対禁止って。だけどね……もし、もしもシロウの代わりにわたしに出来ることがあるとしたら、きっと汚れてあげることだけだ、とも思うから。やっぱり、ほらっ、あの子は、綺麗な侭が素敵じゃない?」

 ―――――――――それに、彼を守るのが、きっとお姉ちゃんの務めだし。

 最後に、誰にも聞こえないように、イリヤさんは何かを呟いた。
 見えない涙痕を隠すような、拙い笑顔と泣き顔で少女は空を仰いで、少年に非道なまでの微笑を送る。悪魔はかくも残虐で、しかし、非道で在るがゆえにその道を知る。彼らほど、他者の痛みを理解する者はいないのだ。

「姉さん、彼女を、助けてやってくれ。この事件が片付けば、きっと姉さんは裁かれる、だけど、見逃して欲しい。それが、条件だ」

 少年は言う。無垢なまま、誰かの幸せを、口にする。幸せになるためには、誰かの幸せを切り捨てなくてはならない。それは、分かる。それは、多分間違いじゃない。だけど、だけどきっと、正解でもないだろうに。

「いいよ、約束してあげる」

 イリヤさんは、言う。感情なんて余計な機能は削除されている。
 故に、平然と答えることが出来たのだ。優しい嘘を。残酷な嘘を。ただ、目の前の誰かを救うために。
 きっと叶えられないその願望を、この少女は一時だけ、少年の為だけに象にする。それは異国の地に残る、聖杯の伝承を語り聞くかの様で。

「そうか、安心した。―――――――――――――――ああ、それと最後に」

 祭壇の中央、少年は歳相応の微笑で振り返る。
 この場に、もしも衛宮がいたら、どうなっていたのだろうか? あり得ないもしもの空想に意味は無いけど、彼はきっと、歯を食いしばり耐えたのだ。
 誰かを切り捨てる、当たり前の救済。その行いは正しい筈なのに、精一杯、その痛みを感じるのだ。
 その痛みが、何よりも大切なモノだと知っている、あの少年は。

「最後に、何? 貴方、欲張りすぎよ」

 イリヤさんの回路が駆動する。
 彼女の魔術を目の当たりにするのは初めてだが、なんて高貴な魔力の流動。衛宮の誇り高く荒々しいソレとは異なり、凍えるほどに優美な魔力が、回路を駆ける。

「負け惜しみ。伝えてくれよ、あの偽善者に」

 彼女の回路と、龍界寺一体の魔方陣が接続されたのだ。イリヤさんの魔力が陣全体に奔り、小山を亡羊と発光させていく。
 甲虫が光りを灯し清輝を纏い乱舞する。その中で、兄妹の様な二人の影が向かい合って、最後の別れを告げている。

「お前さあ、正義の味方みたいだって。あの歳で恥ずかしい奴、鏡に証明させられたら、アイツ、惨め過ぎて死ねるんじゃん? てなわけで、ささやかな復讐でした」

 少年は知らないのだ、その言葉が、どれほど彼の救いになるか。その言葉こそ、どれほど彼の傷跡になるのかを。
 少年は笑う。死に逝く己に、悔恨の念を何一つ抱かぬほど、潔白な微笑を向けている。
 死ぬことこそが、きっと少年の救い、その願いを、幸福を叶えられる唯一の方法だったのだと、信じるように。

「―――――――――――――満たせ」

 始動キー。イリヤさんの魔術が迸る。

「それじゃ、元気でね」

 無情に告げたその呪いは、別れ逝く少年の救いを祈るような愚かしさ。

 後は、言葉など不要だろう。
 一人の少年は消え。
 一つの喜劇は幕を下ろす。

 コレは、ある結末。
 長い、長い、――――――――――――夜が明けた。



[1027] 第四十二話 ある結末 
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 07:45
/ .

 戦いは、終わったらしい。
 俵巻きにされた僕が捕らえられた寝屋に、暗闇に慣れた片目には些か眩しすぎる朝日と一緒に進入してきた物々しい武装の皆様方が救助しに来てくれた事で、漠然とながら理解した。
 それが大体五時前後の事だ。勿論朝のね。
 大した怪我の無い僕は、荒縄が手足を解放してくれと同時に、どうやら眠りに落ちてしまったらしく、この後一時間、綺麗に記憶が飛んでいた。
 いや、この手の脅威にはもう慣れてもいい筈なのに、年を追う毎に体力も、僕のエンゲル係数と同様、順調に低下しているらしく、緊張の弛緩と共に僕はこっくりと意識を手放したのだと、木乃香ちゃんの自宅の病室に見舞いに来てくれた詠春さんが教えてくれた。
 士郎君と一緒に、僕も鍛錬しようかな……。どうせ出来もしない体力増強案のディテールを創考しながら、天井の染みなどを怪我人らしく数えてみる。
 いやね。無傷だと思っていたのはどうやら僕だけで、お腹には気持ちの良い位青々としたでっかい痣が、僕の貧相なお腹にはあるらしいのだ。あの人、見た目どおり情けも容赦も、僕にはかけてくれなかったんだ。
 で、らしい、と言うのはこの部屋で目を覚ました時には息苦しいほどのさらしがお腹に捲き付けられていたから、自分の目では確認していなかったってこと。
 そんな訳で、自覚の無いまま勝手に怪我人扱いされて、その上今回の事件で最も役に立たずただ飯食っていただけの不肖、僕こと黒桐幹也は、詠春さんや式と言った今回の事件の功労者で、未だ元気に動き回れる彼らが事後処理で奔走する最中、布団に包まって惰眠を貪っているわけだ。いっそ、僕を殺してくれ。
 ……閑話休題。
 僕の事は、まあいいだろう。これ以上続けても、きっと愚痴にしかならないだろうからね。
 真っ当な一般人を自負する僕としては、今、この現状で眠れてしまうほど精神が式見たく太くない。同時に彼女ほど繊細でもないんだけどね。
 自嘲を交えて枕の上で腕を組み、そこに頭をのせる。どうせ眠れないのなら、今回の事件、その顛末を口頭ずてに知りえた情報で整理してみようと思う。
 丁度いいタイミングで、詠春さんに頼み込んで手に入れたこの件に関する報告書のコピーも、手元に在ることだしね。
 しかし……。

「参ったな、客観的に物事を見極められるのが、僕唯一の長所の筈なんだけど……」

 乾いた独語で、一人笑う。広すぎる室内の中央、埃が襖に遮られた鈍い陽光の中で舞っている。昼前の強い光の中で零れた言葉は、少し寂しげで、少し滑稽だ。
 さて、それでは価値の無いフィルムを捲き戻そう。その喜劇の終幕が、せめて誰かの微笑で閉じられていますように、――――――――――――。そんな願いと一緒に、うっすぺらな台本に目を通した。初めて知る、彼女の名前と一緒に。





Fate / happy material
第四十二話 ある結末 Ⅱ





 同年、十二月下旬、午前五時五分。
 京都北区、龍界寺本堂、及び北西絶壁にて。
 京都近郊を中心に発生した太源の異常変動、西日本全体に確認された行方不明者の続出と、妖怪変化の大量発生。
 それ等に関与したと思われる協会登録の混血、遠上都、以下魔術師二名の加害者の拿捕、あるいは死亡を確認。
 同上、遠上都は容疑を認め、この事件は同日午前五時三十分を持って近衛詠春の手を離れ、同日午前七時に日本呪術協会退魔本部最高議会にこの検案は引き継がれる運びとなった。
 まあ、うん……これはいいか。
 同日午前四時三十分、京都に発生した太源の総和、減少を確認。同時に妖怪変化の減衰を確認。
 退魔組織本部は龍界寺に赴いていた近衛詠春の応援要請を受けて、京都に散開していた組織構成員二個中隊を現場に派遣、同中隊は気絶していた遠上都を確保。
 加害者を制圧したのは同事件解決に当たり編成された特別構成班の一人、桜咲刹那及び協力者三名と断定、彼女より加害者を引き継いだ、とのことだ。
 同加害者の協力者と思われる魔術師は首無しの遺体で発見、この検案に関し協力者であるイリヤスフィール・フォン・アインツベルンが同加害者を殺害したと考えられるが、同協力者はそれを否定。両儀式、近衛詠春の証言により“槍の男”が殺害を行った第一容疑者として考えられている。

 ……当たり前だよ、イリヤちゃんがそんな事するわけ無いじゃないか。

 同加害者の死体には長柄の凶器で殴打、或いは切断された痕跡が見られ、同協力者の証言を認める。この検案に関しては、以後も調査の必要があると組織本部は判断。魔術師の死体を回収、英国魔術協会本部への死体引渡しは拒否する運びとなっている。モンタージュの作成は後日に予定されている。
 遠上都の協力者である少年、記録は全て抹消されているため、ここでは“カガミ”と表記するが、同加害者の死亡は、桜咲刹那、近衛木乃香、アインツベルンの証言から確認。
 緊急措置により、当事件の解決に必要な要素としてカガミを使用、この件については協会長、近衛詠春に一任されている。

「コレだよな……一体、どういう意味なんだろ?」

 魔法関連の事に疎い僕ではよく分からない。

「しかし、なんだね。この手の報告書にファンタジーな内容が細かに記述されているのも、可笑しな話だ」

 笑いながら、ぺらり、ページを繰る。二枚目、僕の身内についての記述だ。
 桜咲刹那は重症、肋骨の粉砕骨折及びそれに伴う体腔器官の損傷と重度の火傷を確認。尚、協力者であるアインツベルンも全身打撲、顔面への裂傷並びに胸骨に軽度の罅割れを確認、組織預かりの総合病院に搬送されている。
 酷いな……って、式も士郎君も!?
 式は、右腕の粉砕骨折。士郎君は右腕の筋断裂及び皮膚の変色って、大丈夫なのかな、皆?
 思わず自分のお腹を殴りつけてやりたくなる。皆の惨状に貌を潜めて、次のページへ。以下の記述は魔術回路の疲弊状況だとか破損状況だかの確認で僕にはよく分からないからね。
 一つだけ分かったのは、士郎君それが最も酷いと言うことだけだ。
 ええ~何々……四人は一通りの治療を済ませて現在は、――――――――――っは?

「お化け?」

 現在は退魔組織本部で療養中。上記四名は事件の事後処理を手伝うと言って聞かず、無理やり当本部に帰還。
 尚彼らは説得の末、同本部の離れにて休養中……って、なんで動けるの?
 苦笑交じりにパソコンの前で詠春さんがこの記述をタイピングしている姿が目に浮かぶ、まったく、君達は……。
 まあ、それはさておき、現在、京都の現状が沈静化したとはいえ、“まな”と言う奴が依然平均値を大きく上回っている、との事なので、状況が落ち着くまで退魔組織構成員は京都各地区への巡回作業を行っているらしい。式、士郎君、それに刹那ちゃんが志願した“事後処理”と言う奴だろう
 ここまで一息に読みきる。こうやって振り返ると、あっけ無いもので、ため息と一緒にレポートを枕元に捨て置き、身体を起こした。ちょっと一休み。

「あれ? もうこんな時間なのか」

 想いの外、読み耽ってしまった様だ。気がつけば、仄かに部屋は朱色に染まりつつある。日脚の短い厳冬だとは言え、些か気が短すぎではないだろうか。日本人は、もう少しだけ働き者だよ。太陽にも、ぜひ労働基準法を遵守していただきたい。
 目頭を揉み解して、上半身を伸ばす。「ん」っと漏れた嘆息をそのままに、もう一度布団に背を預ける。手に取った報告書、最後のページを開き。

「――――――――――――っつ」

 そこで、跳ね起きた。
 お腹の傷と舞い散った埃の所為で、思わず咳き込みそうになったが構う物か。肌蹴た浴衣を正しながら、布団も片さず病室の襖を開いた。

「きゃっ! って、幹也さんやんか? 一体どないしたん」

 血相を変えて寝室を飛び出すと、木乃香ちゃんと鉢合わせる。
 おっとりとした卵顔が、僕を頭一つ分低いところから見上げていた。……刹那ちゃんの気持ちが、少しだけ理解できたかな。小動物みたいな彼女の不安そうな顔に保護欲を駆り立てられるもの。

「もう動いても構わんのか? あんまり無茶したらいかんよ」

 木乃香ちゃんは手に持った盆をそっと僕に差し出す。水が一杯、煎じ薬が幾つか。どうやら、薬を持ってきてくれたらしい。

「はい、これな。動けるんなら、少しのお散歩位、許可してあげようかな? でもそのかわり、ちゃんと飲まなきゃ駄目だよ?」

 無言の圧力と共に、差し出されたソレ。……あんまり歓迎できる色や匂いじゃないなあ。

「それでな、黒桐さん。 せっちゃんと衛宮君、知らん?」

「 ? 知らないよ、少なくともこの部屋には来ていないみたいだけど」

 立ちんぼのまま、僕は薬を飲み込む。
 今は、ソレどころじゃ無いのに……焦る気持ちのなせる技なのか、粉薬が違うところに入った。咽込みながら、グラスを鷲掴んで一気に水を嚥下する。

「そっかあー。あの二人、一体どこ行ったんやろか。あんな傷で……」

 頬に手を添えて、困ったような、嬉しそうな形容し難い貌を魅せる彼女。

「ま、いいわ。ウチの魔力が回復すれば、皆の治療なんて御茶の子さいさいやしねっ」

 薬のあまりの不味さに眉を寄せた僕の肩をバシバシ叩く。う~ん、木乃香ちゃんて僕の回りにいないタイプの人間だから、反応に困ってしまう。
 式の無愛想に慣れている所為か、彼女とのカンタービレな遣り取りに些か戸惑う自分は年なのだろうか?

「あははは、幹也さん見たいな童顔が一体何を言うとるん? まだまだ式さんの同い年でとーせるやん。憎いで、おっとこまえ!」

 朗らかな笑みのまま、木乃香ちゃんは踵を返す。式やイリヤちゃんにも、薬を持っていくのだろう。その爪先は二人が休んでいるであろう寝室へと向かう。

「それじゃあな、黒桐さん。出歩くのも良いけど、あんまり無理せんでな。言われなくても出来んとは思うけど、せっちゃんや衛宮君みたく」

「了解。確かに、そりゃあ無理な注文です。木乃香ちゃんも、看病ご苦労様」

 にっこり微笑んだ彼女の背中を見送り、赤色が深まった縁側から離れを臨む。
 浴衣一枚では些か寒いが、我慢できない程じゃない。ぎっ、と木乃香ちゃんが去ったのと反対方向に、縁側を軋ませる。
 視界に移る、夕焼けが良く見渡せそうな土蔵。厚く高い壁は、監獄、と言っても差し支えないだろう。
 申し訳に備え付けられた小口の窓に、血のように赤い火光が差し込んでいる。きっと、それが彼女に与えられた唯一の光。

「さて、と―――――――――――」

 閊えた骨を、取に行こう。






「面会は一時間だけ? でも……っ、分かりました、それで。え? 護衛? 必要ないです。取り決めだからって、本人の意向は通らないんですか? え、殺されても知らない? はい、本当に大丈夫ですから、気にしないで。え? キチンと一時間、守ってくださいね? 分かってますよ、子供じゃないんだから」

 話の分からない看守との一悶着を終えて、重苦しい土蔵への扉は開かれた。
 赤から黒へ。
 かび臭い屋舎に足を踏み込むと、直ぐに扉は閉められた。ギギィ、バタン。クラシックな蝶番が嘲笑うみたいに鳴いて、早く行けよ、と僕を囃し立てている。
 言われずとも。暗闇に目が慣れるのは待ってから、単調な歩幅で歩き出す。
 意外と広い。奥行きは暗闇の所為もあって消しゴムで消されたみたいに底が知れない。高い棚からは僕が一歩を踏み出すたびに埃を吐き出して、僕の浴衣を汚していく。
 正直、あまりいい気分じゃない。こんな所に詰め込まれたら、悪戯をした悪ガキじゃなくても気分が滅入る事だろう。
 目的地の見えない暗がりを行くこと数秒、赤く細長い射光が糸を引いている。どうやら、外から見えた小窓の明かりらしい。

「こんにちは。やだな、また会えるなんて、想いもしませんでしたよ」

 黒と闇の盤上。喩えるならそんな感じだ。僕と彼女を遮る牢獄は、よく出来たチェス盤みたい。重ねたれた格子の向こうに、精悍な様子で椅子に腰掛ける彼女がいた。

「ええ、そうね。で、何? 私を笑いに来た?」

 狭い牢獄、仄暗い闇の中央。両の手を鎖で拘束され、あの切れ長の赤い灼眼は黒々とした眼帯で覆われている。
 彼女は口だけを歪めて、身動ぎ一つせず僕に着席を薦めた。無言の圧力を、さらり、と流せる辺り、僕も場数を踏んできたんだなと、見当違いに苦笑する。
 そして、牢獄の前に置かれた椅子に腰を下ろした。面会に来るものなど誰もいないのか、座椅子は冷たく埃が幕を張っているが、それえでも構わず深く腰掛けて、鉄格子を挟んで彼女と向き合った。

「まさか、笑えませんよ。生憎、辱められた女性を眺める趣味はありません。むしろ不愉快ですから、今の貴方を見ているのがね」

「そう、そっちの気も無し。本当に、詰まらないね、君は」

 どこかで交わした遣り取りだと、本来なら微笑を漏らしたかったけれど、どうやらソレは叶いそうに無い。少しだけ俯き加減に、僕は言葉を選ぶ。

「―――――で、貴方。本当に何の用で来たのかしら? それと、その顔止めなさい。気分が滅入るわ。三人目の来賓にそんな顔されたんじゃ、私の器量が危ぶまれるものね。もっとも、腰を落ち着けてくれたのは君だけだけど」

 三人目。
 微かな憎しみを込めたようなその言葉について言及する前に、彼女は言う。その話題には、どうやら触れて欲しくないらしい。
 しかし、目隠しをされているのに、どうして僕の顔色が分かるのだろうか?

「まあ、大体察しがつくけどね。何? 私の処断、決まった?」

 無感情に、無機質に。他人事でだってもう少し、人間の色があると思う。それ位空っぽな声調で、彼女は僕に答えを急く。
 繕う言葉は、残念ながら僕の薄っぺらな辞書には存在していなかった。ソレと同時に、繕う気も無かったんだろう。でなければ、こんなに冷えた声は出ないもの。

「はい。本日、日本呪術協会本部最高評議会の決定によると。三日後、貴方は生命刑に科せられます」

 なるべく感情を見せないように、なるたけ自分を殺して。自分でも不思議だった。声すら、震えない。当たり前の様に、涙は無い。

「生命刑? ああ、死罪ってことよね。それで、どんな風に?」

 報告書に記載されていた文末が甦る。
 尚、遠上都の処遇は既に決定されている。評議会出頭の後、投獄二日、後に極刑に処する。本件案に伴い、同加害者を制圧した桜咲刹那本人から決定の変更を不当な物として撤回する報告書が提出されるも、受理は認められない。
 遠上都の刑罰に、変更の余地は無い。

「どんな風に、ですか? ちょっと分からないな、僕には」

 目蓋の裏側に張り付く機械的な文面を、頭を振って追い出した。
 どうかしてる。目の前の人間は、これから死ぬ。その事実を目の前にして、僕はこんなに平静でいられるほど、強い男だったのか。

「そう。まあ良いわ。しかし、近衛詠春も、粋な計らいね。君も何と無く気付いてはいるんでしょう? 私に死の宣告をする相手、坊やが選ばれたんだって」

「まあ、それは言外にしておきます。でも、それが本当なら少しだけ詠春さんへの心象を改める必要が在りますね。どうです、血も涙も無い冷血漢、っとでも登録しておきましょうか?」

「まさか、気の聞く紳士……の間違いでしょう? 不細工なココの人間よりも、坊やのほうがずっとらしい。思ってはいたのよ、坊やは黒衣の天使だって。ほら、貴方って可愛らしいじゃない」

「モノは言い様ですね。要するに死神ですか」

 否定はしない。
 こんなにも誰かの死に近づいているのに、心はこんなにも平静。退屈すら感じている自分がいるんだから。
 屈託なく笑う死刑因の声に吐き気を催す。憐憫や憤怒ではなく、死と言う平等を目の前にして何も感じない自分自身に。

「それで、話はソレだけかしら? だったらご苦労様」

「まさか。そのためだけなんて、あり得ない」

「だったら何かな? ああ、私に対する哀れみとかなら止めてよね。貴方が気に病む必要、ないんだし」

「それこそ見当違いですよ。僕は、貴方が思うほど優しく無いですから」

 普段どおりの柔和な微笑で、僕は彼女の強がりを遮った。
 拘束具と一緒に身体を身動ぎさせた彼女は、少し不満そうに言う。

「それじゃあ何?」

「いえね。少しだけ、お話ししたいなと。ほら、覚えてます? 別れ際、中途半端に終わっちゃったし。ああ言うのって、後味悪くないですか? 経験上、心残りはなるべく片付けて生きて行きたいんです。過去を引き摺るのは、もう充分ですから」

 口だけが、ぽかん、と開け放された奇妙な絵面。
 彼女は一瞬思考を手放したものの、乾いた嘲笑と一緒に鼻を鳴らした。

「は、何よそれ? 馬鹿にしてる?」

「それも違います。本当に、ただお話しがしたいなって、嫌ですか?」

 例え彼女に見ることが叶わなくても、僕はやはり微笑を絶やさない。式曰く、幸福すぎて締まりの悪くなった間抜け面で、精一杯彼女の表情を読み取ってみる。
 暗い個室に、彼女の赤い髪だけが揺れている。高い小窓から差し込む朱色は、ただ彼女に降り注ぐ。
 その沈黙を肯定、と都合の良いように解釈して、僕はとうとう口を割る。

「じゃあ、正直に申し上げますね。これだけは、言っておきたかったんで」

 無言。沈黙。静寂。じゃあ、構わないかな。

「馬鹿野郎。貴方は大馬鹿野郎です」

 屈託なく、これ以上は出来ないってくらい爽快に言ってやる。こんな口汚い言葉を使ったのは、四年前以来だ。

「は?」

「まったく。復讐なんて、馬鹿の遣る事ですよ。意味は無い、価値は無い、おまけに中途半端、途中で頓挫ですよ? 別れ際にあんなかっこいいこと抜かして行って、コレが喜劇じゃなくてなんですか」

 やれやれ、と肩を竦める。僕にはホトホト似合っていない慇懃無礼な立ち振る舞いに、今にも本当、泣けてきそう。士郎君がやれば、それなりに嵌っているのかも知れないのにね。

「この町で虐められたから、苛め返してやらなくちゃ。悲劇のヒロインぶってかっこつけて。本当に欲しかったモノを見ない振りして、かっこよさ気で楽な復讐なんてモノ現を抜かして、敢え無く玉砕。かっこわるい事この上在りません」

 呼吸をする心算はない。何故だか知らないけど、気分はハイ。言ってやらなきゃ分かんない人には、情け容赦など不要です。お腹の傷の、恨みも在るしね。

「おまけになんです、その様は? 結局、自分は悪者だからって、自分のやったことを他人事みたいに扱って、やっぱり目を背けるんですか。大して出来も良くないくせに、大して強くも無いくせに、そのまま、貴方が望んだことに気付かない振りをして、無様に死んでもいいんですか、貴方は」

 口調とは裏腹に、なんて心は冷静なのか。
 目の前の女の形相が、みるみる内に朱色に染まっていく。端整な顔を殆ど隠されたと言うのに、その唇の歪みだけで、彼女の怒りは想像に容易い。

「黙りなさい!」

「黙りません。いい加減、気付いてください。貴方、言いましたよね? 幸福は、与えられなかったって」

 止まらず、僕は言う。言って上げなきゃいけないんだ。せめて、彼女が安らかでいられるように。

「だけど、そんなの間違いでしょう? 幸福は与えられて手に入るほど簡単じゃないけど、でもソレって、何処にだって、どんな時にだって、転がっていたはずでしょう」

 無言。沈黙。静寂。
 再び、闇色の世界は寂寞として閉じられた。

「ああ、つまり。―――――――――――――坊やは」

 止めを刺しに、来たわけか。
 消え入りそうな声で、少女は告げた。平静でいられた筈の瘡蓋を剥いで、生々しい傷跡を抉り出す、僕の行為は彼女への蹂躙以外に他ならない。そんなの分かっていたけどさ。だけど、気付いて欲しいから。せめて君の生涯が、苦しみしか無かった分けじゃないって。
 きっとコレは詭弁で、偽善なんだと、独善なんだと理解してる。だけど、ソレでも伝える事しか、僕には出来ることが無い。

「はは、本当に坊やは死神だった分けだ。まいったな……本当に、本当、まいったよ」

 泣くことすら許されない少女は、背中を丸めて嗚咽する。
 最低だ。僕。今更ながらの自己嫌悪は、やっぱり今更なわけで。そして同時に、“今の彼女”の死を、慈しみ、どうしようも無い憤りや憐憫を感じてしまうわけで。

「……後悔、してください。せめて、貴方に許されたその限りある日々の中で。いいましたよね? 人間にできるのは、罰を背負い続けることだけ、それを支払い続けることだけだって」

 ああ、結局。僕は自分の首を絞めに来たのだ。
 不公平こそ唯一の平等なのだと、誰かが言った。彼女を虐げたモノはその罪と罰を知らず、罪を知った彼女だけに罰はある。
 だけど、同時に救いも在るんだと思う。贖うからこそ、救いはある。景教なんて信じていないけれど、きっと、そうだと信じたい。

「後悔か、今さらだね」

「はい。だけど、きっと遅くも無い。それに、貴方はラッキーです。その贖いは、たったの三日だけですから」

「そ、幸運な事に。ね」

 皮肉気に彼女の唇が吊り上るのを待って、僕は重い腰を漸く上げた。

「あら、もう帰るの?」

 明日には会える友達に尋ねるような、そんな気安さ。

「ええ。面会、一時間だけなんですって」

 そう、と少女は朧げに俯いき、ポツリと。

「ねえ。最後に、この眼帯外していってくれないかな?」

 そんな、簡単なお願いを、僕にした。

「一生のお願いにしては、随分と安上がりですね」

 何と無く、そうじゃないかとは思っていたし。今日のこの空は、見ないと損だろう。だって彼女の目的は、紛いなりにも果たされているのだから。
 鉄格子に背中を凭れさせた彼女の眼帯を優しく外す。彼女の香水の甘い高貴な匂いが、この錆びた暗がりに満ちていたことに、初めて気付く。

「あ、そうだ。僕も最後に、聞かせてください」

 少女は此方に背を向けたまま、暗闇に引かれた赤い糸をぼんやりと眺めている。

「貴方の名前、貴方の口から」

 もと来た暗闇が口を開けて待っている。
 一条の赤い斜陽に瞳を奪われる彼女を、ぼんやりと、未だ感じる事を許されない悲壮感を込めて尋ねた。

「遠上都よ。――――――――――――そう言う、貴方は?」

 彼女は、振り向かない。ならば、僕もそれに習うことにしよう。

「黒桐、幹也です。それじゃあ、都さん。さようなら――――――――――」

 歩き出す。一歩一歩と、淡々と。
 僕らはもう、交わることの無い闇を抜ける。

「ああ、これで。やっと名残惜しさを感じることが出来ますね」

 暗い哄笑、それが闇の淵から漏れ出した。まるでソレは、天窓か零れる、朱い妖光に似ていて。

「コクトー……ね。本当、坊やはシの才能、在ると思うよ」

 死神は、シに神でもね。最後に、そんな言葉が交わされた。
 僅かながらの心残りは、消え。もしかしたら、それはコウフク足るに充分だったと、そう、教えてくれたみたいにね。
 闇を抜け、扉は閉じる。蝶番が、僕と誰かの世界を断った。

「よお、酷い顔だぜ。お前」

 赤い庭園に、彼女がいた。どうやら、待っていて、くれたらしい。
 不味い。今は、君がいてくれると、本当に、不味い。

「ったく、怪我してるんだから。あんまうろつくなよ」

「君こそ。って言うか、君のほうが重症なんだから、動いちゃ駄目なのは君のほうだろう?」

 強がりは、ちゃんと強がりになっていたのか、まるで分からない。

「オレが言ってるのはもっと一般的なカテゴリーに分類されている奴の話。一般人の胎にそれだけでかい傷がありゃあ、立派に寝たきりになってて然るべきだ。ったく、無理しやがって」

 式が石膏で固定された左腕をプラプラさせながら、

「――――――――――――っえ、ええ、し、式!?」

 ぽん、とシャンプーの香がする式の頭が僕の胸元に預けられた。
 こんなの、不意打ち過ぎる。

「馬鹿、なんでうろたえるんだよ」

「ご、ごめん」

「――――――謝るな、ばか」

 赤い赤い夕暮れ。寂寞とした庭園には、一つの影。重なった人柱が、ただ赤い荒野に伸びている。
 ただ、式にされるがまま。っと言いますか動くに動けないし、僕は奇怪な式の行動に一応の終わりを願わなくも祈りつつ、緊張に胸をバクつかせて間抜けに突っ立っていた。

「うん。補給完了、充電終了。で? 元気になったか?」

 待つこと数分。一体何を補給したのか分からないけど、僕も何か元気になったので言及はしない。いや、式が赤い貌をしている時は大抵僕の人生に於ける分岐点だからね。不用意な選択肢は選べない。
 影は、二つに分かれて離れていく。その腕を捕まえて、抱きとめることもせずに、その手の温もりを感じたかった。いっつもいっつも、猫みたいな気軽さと身軽さで僕の所に現れては消える彼女に、今だけは聞いて欲しかった。

「僕って、最低だ」

 意味も無く、脈絡も無く、ただ嘆いた。その言葉に。

「なんだよ、いまさら? そんなの、今に始まった事じゃないだろ」

 ぷ、っと一笑。取り付く島もおくびも無く、僕の愛する女性は答えたのだった。
 お前馬鹿? みたいな表情はやめて欲しい。愛を感じすぎてしまう。僕って、なんて幸せなんでしょう?
 
「あ、いや……ここは、その、フォローを」

 なんでしどろもどろになっているのか。不憫でならないよ、勿論僕が。
 そんな様子を意にも介さず、僕の右手を振り解いた愛しの君は、用件が済んだらとっととゴーイングマイウェイなのであった。

「そんな今更のことで、落ち込んでんのかよ。気い使って損した。考えてもみろ、大体、……その、なんだ………プロポーズの台詞、“お前を許さない”なんてふざけた野郎が優しいわけねぇだろうが。全く、近衛の奴にそそのかされて来てみれば……」

 ぐしゃりぐしゃりと髪を毟りながら、式は僕をほっぽって一人近衛邸に消えていった。
 えーっと、僕って、酷い惨めなのかな。

「ああでも」

 少しだけ元気になったのは、疑いようが無いほどの事実であって。
 そうだよ、僕自身の言葉じゃないか。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、コウフクって奴は、何処にだって転がっているんだって。
 ちっぽけな人生なんてものは、ちっぽけであるが故に簡単に反転するし、同時に、簡単に好転するんだって。ただそれに、気付ける人と、気付けない人いるだけの、なんて下らない喜劇であり悲劇。
 土蔵に振り返る僕は要らない。前を向いて、彼女の背中を追えばいい。名残は、あの瞬間に置いてきた。

 夕闇の空を仰ぎ見る。
 夕暮れの町を俯瞰する。朱い城下を賛美する。

「皮肉だね。京都を赤く染めるなんて、こんな簡単な事なのに」

 紅霞に染まる憧憬の淵で、僕は、確かにそんな言葉を口にした。



[1027] 第四十三話 されど信じる者として 
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 07:57
/ snow white.

「ねえ、イリヤちゃん。都さんについての処遇、どうおもうん?」

「別に何も。真っ当な判断だと思うわよ。それだけの事、やったんだしね、彼女」

 夕闇は、既に申し訳程度しか残されていない。
 仄暗い、と言うのは些か暗鬱だけど、電燈の淡い光りが闇色を拡散させるこの寝室を適確に表現する言葉が、生憎わたしには検索不能。
 そんな八畳間の大きい寝室に設けられた布団に寝そべりながら、寝言みたいにぼんやりとした口調でわたしはコノカに相槌を打つ。

「そりゃあ、エイシュンから聞いた限りでは、復讐する理由、彼女にはあっただろうけど、だからってソレが正当な権利かって聞かれれば、わたしの答えはノン。ハンムラビ法典なんて、今時流行らないわよ」

 痛む体で無理やりにでも寝返りをうたせて、布団の上を転がりコノカに背中を向ける。痛み止めの薬を持ってきたコノカは病室で惰眠を貪る式を嗾けて、いや唆して、元気の無いコクトーのお見舞いに行くよう促ししたため、今はこの大きすぎる寝室に息遣いは二つだけ。

「でもでも、やっぱ殺しちゃうのは不味いやん、可哀想やん」

「止めてよね。繰り返すようだけど、ソレだけの事をしでかしたのは、彼女じゃない。哀れみこそすれ、貴方がそんな風に感じる必要は無いわ。それ、お餅を電気屋さんで買おうとする様なもんだわ。てんで見当違い」

 不満そうに息を漏らすコノカ。二人っきりしかいないんだから、あんまり欝になるような話、避けて欲しいんだけどな。

「でも、それでもやっぱりいかんよ。せっちゃんだって、上のお爺ちゃん達に決定に……」

 セツナが提出したという異議申し立てのレポートの事、か。まったく、彼女も本当、客観的に物事を観察できていない。優しすぎるのだ。冷静に見えて、実はシロウ以上に可愛い奴、それがわたしの彼女に対する評価だった。

「あのね、退魔組織の評議会ってのが、どんなモノだか知らないけど、少なくとも彼らの判断は当然だって、コレ、一体何回目? 京都、退魔組織のお膝元で、コレだけ好き放題暴れられて、その首謀者は過去に自分達が取り逃した失点。これを厳重に裁かなかったら、日本の下位組織や麻帆良、他国の魔術組織に対して示しがつかないでしょう。極刑、ただ殺すだけなんて、生ぬるい位よ。わたしの実家なら、それこそ生きたまま殺し続ける位、笑いながらやったでしょうね」

 枕元に置かれた、青奇天を撫で回しながら淡々と、暗澹と。酷薄に笑えるはずだ。だってわたしは、そういう奴等から生まれたのだから。
 まったく、コレも流行らない。自分の台詞で自分を傷つける、自傷行為は性に合わない。呆れたようなコノカの溜息は、そんなわたしに向けられたモノだった。

「……はあ、やっぱ衛宮君の妹さんやわ。だってイリヤちゃん、カガミ君と約束しちゃったんよ? きっと一番辛いんは、君やない。なんでそんなに平静でいようとするん? 子供の強がりは、かっこよくないよ」

 息を呑む、―――――駄目。ここは、コンマの動揺も見せたらいけない。イリヤスフィールならば、底冷えするような退屈さで、さも当然の様にあしらわねばいけないのだ。

「なんでよ? 辛いわけ、無いじゃない。その場しのぎの嘘だって、分かっていたしね。それに、当のアイツだって嘘だって気付いたはずだよ。だから、悲しむ理由が無い、悲しんであげる、必要も無い」

 優しい嘘も、必要なのだ。きっとそれすら、シロウは許してくれないだろうけど。
 ………あの時は、ああするしかなかった。シロウがこれからも、正義の味方で在り続けるために、誰かが切り捨てなきゃいけない、尊い一だから。
 自分の言葉を反響させる。哀れみも、悲しみも必要ない。そんなモノ、矛先を向ける相手は、初めからいなんだから。

「強情っぱり。本当に、君ら兄妹は似たもの同士なんやから……」

 コノカの、全てを慈しむ様な芳香が不意に近づく。
 短く千切られた短髪をそっと撫で付けて、真上から彼女の微笑がわたしを覗き込んでいる。言ったら、貴方は怒るのかしら、それとも喜ぶのかしら。コノカって、お母さんみたい。

「別にな、誰かを哀れに思うとか、悲しく思うとかじゃなくていいやん」

 彼女の暖かい手がわたしの凍える位のオデコに添えられた。自然と、瞳を閉じるわたしがいる。

「誰かの為に流す涙が無いんなら、自分の為に泣いたらええ。分かるよ、君があの子等の事を誰よりも大切に考えたから、涙は流せない、って。だけど、それ辛いやん。君、ただの子供なんやし」

 何を偉そうに。シロウと同い年の女が、知ったような口を叩かないで欲しい。だけど。

「イリヤちゃん。汚れちゃったんよ? 好きな男の子がいるのに、好きな子がいたから、汚れちゃったんよ? 例えそれを覚悟していたからって、辛くないわけ、ないやない」

 だけど、その知ったかぶりの嘘に、こんなにも縋り付きたい自分がいる。

「だってウチもイリヤちゃんも、女の子やもんな」

 ああ、もう駄目かも。
 最後の意地に声は上げなかったけれど、鼻水たらしてお目め真っ赤にして、グシュグジュと目蓋を擦る。汚れちゃったなぁ、わたし。汚れてたんだなぁ、わたし。
 だから、今だけは、涙を隠さなくてもいいような気がする。何て詭弁、結局、泣きじゃくる事には変わりないのに。それでも、ちょっとだけど、涙を流す自分を許すことが出来たかな。
 コノカも、結構まともなお姉さんみたいで素敵じゃない、ちょっと見直した。

「おーよちよち。お姉さんが傍にいてあげるからねー」

 ………やっぱ自己嫌悪だ。
 くそう、感動して損した。コノカの下心丸出しのだらしなく締まりの無い微笑に気付いたわたしは、そこでビタっと涙腺を閉める。これ以上びた一文、一粒の涙も無様も晒してやるもんか。

「………まったく、もういいわよ。すっきりしたし、早く腕どけなさい、邪魔」

「ええー!? つれないよぉ、イリヤちゃん。お姉さんがもう少しだけ慰めてあげるー。貴社を拒むなんてもっての他やで、せっちゃんもいないし。蜜月やー」

「却下よ。論外。これ以上のお節介なら貴方からの宣戦布告とみなすから宜しく。容赦、しないから」

「きゃー、可愛かったイリヤちゃんが叛旗を翻したー。がーん。お姉ちゃん、ショックやわー」

 よく言う、この狸女………。
 強かにもわたしが普段の元気を取戻したと分かるやいなや、撤退を即座に下せる辺り、女って本当レベルが上がれば手ごわくなるのだと思い知らされる。
 ふむ、ここはわたしも地道にレベルアップしなくてはなるまい。それじゃ、一先ず。

「はいはい。……それで、貴方。暇そうだけど、何、時間あるの?」

「うん、まあねー。みんなの看病をお父さんから申し付かってるんやけど、皆怪我人らしからぬアクティブさといいますか、寝室でじっとしていてくれないし困ってるんよ」

 ……同情するべきは果たしてコノカなのか、それとも普通じゃない怪我でフラフラしているシロウ以下複数人の頭の内なのかしら。多分後者ね。新たな進化の可能性を内包した蛆がわいているわ、きっと。

「そ、ご愁傷様、それじゃ、コノカ」

「うん? なんや」

 よっ、とわたしは布団を跳ね除けて起き上がる。少し胸の傷が痛むけど、今後の発育には影響無いわよね。少なくともサクラやコノカ位は欲しいところだから、些か心配ではあるけれど。
 くりくりした黒い瞳を覗き込んで、わたしは乱れた短髪を掻き揚げる。思っていた以上に、毛先の荒れが酷い。おまけに、さっきコノカが言っていた通り襟足だって不揃いだった。

「髪、整えてくれない? シロウに会ったとき、あの朴念仁が惚れ直すくらい、綺麗にね」

 一先ずは、女を磨こう。
 彼に会いに行くのは、その後でいい。
 それが、わたしの結末。とある結末。
 魔術師として、新たなスタート。新たなわたしは、こうして走り出す。





Fate / happy material
第四十三話 されど信じる者として 了





/ feathers.

 衛宮は、焼け落ちた廃屋の縁側に一人腰を下ろしていた。
 腕には、包帯。右腕が首から掛けられた布地に固定され、窮屈そうにそれが垂れ下がっている。
 遠上都の監獄に足を延ばし、一言二言交わした私は何のあても無く倒壊した本棟を散策し、今しがた衛宮を見つけ、覚束ない足取りで彼の隣に歩み寄る。
 彼の隣、私に気付いたよう様子は無い。
 夜の始まり。紅霞に染まる空が漆黒に帰依するこの場所で、少年は廃墟に突き立てられた黄金色の剣を懐かしむ様な瞳でぼんやりと眺めていた。どこか、……物寂しい。小さい彼の背中は、普段以上に小さく、弱々しく写ると同時に、それが酷く眩しく、大切なモノの様に感じられた。

「綺麗な、剣ですね」

 それ以外、口に出来なかった。

「ああ。この世で、一番綺麗な剣なんだ。俺の……いや、アイツの自慢だったろうさ」

 誇るように、だけどポツリと嘆く。愁いの表情など浮かべる衛宮は、らしくない。だけど、何故だろう。隻腕で身体を細殿に凭れさせた衛宮の雰囲気が、それが“エミヤシロウ”だと言わんばかりに似合いすぎている。
 草臥れたような、擦り切れたような、なのに全てを置き去りに走り抜ける様な、振り返らずに駆け抜けるような、そんな顔。……腹が立つ、歯軋りはきっと堪えられたはずだ。
 つられて、私もあの剣を眺める。いつか彼が話してくれた“アイツ”の所有物。アイツと共に駆け抜けた尊い幻想。あの黄金の剣が、ソレなのだと、衛宮は言った。

「そうですか。本当に、綺麗な剣だ………。いえ、言葉などでは、到底言い表せない。すみません、無粋でしたね」

 目の前の美しさを表現するのに、言葉は何と無力な事か。
 茫洋と深まる闇と廃墟の中にあって、その剣のなんて尊いことか。瓦礫の山の中央に突き立つその剣は、衛宮の創り出したニセモノとは思えぬ程に煌々と輝いている。

「で、どうした? 突っ立ったままで……ああ、悪い、許可待ちか。いいよ、座れよ。そうだよな、物思いに耽るなら、二人も一人も変わらない」

 昨夜交されたしょうの無い遣り取りを髣髴させる。
 彼は微苦笑しながら私を見上げ、煤にまみれた縁側への着席を進めた。

「では、遠慮なく。それで、一体何をしているんです? 怪我人が、勝手に出歩かれては困ります」

「馬鹿言え。俺は腕一本動かなくしただけだろう、休息が必要なのは俺じゃなくて、お前だ、お前。ったく、無茶しやがって。どうせアレだろ、土蔵にいってたんだろ。本当、無茶苦茶に無理する奴だな」

 あきれ返りながら、彼は言う。
 互いに負傷したのは正反対の腕だ。並んで座っても、互いが触れ合うことは無い。少しばかり安心して、ほっと息をつき縁側の冷たさを感じる。いや、一体何に安心するのか、甚だ不明ではあるのだが。

「む。貴方に言われたくは無い。衛宮だって、土蔵に行って来たのでしょう? 彼女、嬉しそうでした、初めての来賓が、こんなに可愛い坊やだってね。声だけで、判断できるそうですよ」

 息を詰まらせたのは、衛宮だ。苦い貌をして、再び黄金色の剣に視線を泳がす。坊や、と言う彼女の発言に、甚く心を痛めたようだ。

「ほっとけ。それに一応の責任をな。アイツが守りたかったモノくらい、キチンと拝んでおきたかった」

 一つ。瞳を閉じ。

「それで、やっぱアイツ死んだんだよな。最後は、安らかだったのか?」

 二つ。自嘲を交えて、口にした。

「ああ、物思いに耽る、とはそう言う事で」

 頷く私は、何を思ったか酷く陽気な声色だった。

「茶化すな。で、アイツの死に様は、どんなだった、けじめは、つけられたのかな?」

 三つ。目蓋を開いて、衛宮は黄金の剣と向顔する。自らを戒めるように、自らの不甲斐無さを見つめるように。
 衛宮の言葉に、私はなんと答えるべきなのだろうか。彼は正義の味方で、誰も彼もを救いたくて。だけど、その現実を知っていて。
 私が臆したのに気がついたのだろう。すまなそうに頬を掻いた衛宮は、迷い無く口にする。

「いや、悪い。詰まんないこと聞いた。忘れてくれ。アイツ、けじめを見つけたから、死んだんだよな。死ぬことが、出来たんだよな」

 そんな台詞は、貴方には似合わない。
 納得したような、諦めたような。そんな何かを振り切って進むような、澄み切った微笑みは似合わない。悟りきった清々しい微笑など、貴女には似合わない。
 しばしの沈黙を、深まる闇と灰色の群雲が教えてくれる。月は無い、光差すモノは何も無い廃墟の中で、眩い黄金だけが唯一の灯だった。

「貴方に一つ伝えなくてはならない事があって、一つ信じて欲しい事があります」

 静寂を破り、私は端的に言った。
 らしくもない衛宮の深い色の瞳に私が映っている。澄んだガラス球、金色の瞳の中に、私が逆しまになって揺れている。

「なんだよ? 改まって」

 耳を塞ぎたいくせに、平静を装い、彼は首を捻る。
 今の貴方は、酷く滑稽です。アイツ、とやらの目の前ですから、見栄を張りたい気持ちも理解できますが。

「いえね。貴方が戦ったというカガミ少年、ですか? 彼の遺言を預かっていますから」

 逃げるように、衛宮は私から視線を切った。
 ほら、漸く貴方らしくなってきた。ホンモノを偽るのが貴方です。偽りを真似る事など、貴方には出来るはずも無い。

「お姉さんを助けてやって欲しい、だそうです。彼が、自らの死と対価に望んだ条件がそれです。最後まで、彼は彼女の代わり、“鏡”であることを貫いたのでしょうね」

 冬の木枯らしに紛れて、粘着質な温かい風が頬を撫でた。
 私たちが座る倒壊前の廃墟が、風の嘶きに震えている。嫌な風に倒れる様に、衛宮は空を仰ぐべく身体を倒す。自嘲混じり、彼の歪んだ唇も廃墟と同じく震えている。

「で、当の遠上都は三日後死刑かよ。本当に、笑えねぇ。どんな笑劇だよ、それ」
 
 衛宮の拳が、ガン、と板敷きを叩きつけた。それも右腕。なのに、彼の貌は決して痛みの為に歪んでいるのではないのだ。
 そこで気付いた。衛宮の左頬にある広い範囲に広がった青痣。どうしたことだろう、その傷は病院に運び込まれた時には無かったのに。

「ん、ああこれか? 別にどってことない、転んだだけだ、運悪く、さ」

 聞けば、誰かの処遇に対して不満を持った彼は長に詰め寄り、胸倉を掴みぶん殴ろうとして、敢え無く玉砕。
 なるほど予想外であり不可避であり、空中を転がったのが事実であるのならば、蹴躓いた、とも言えなくは無い。

「お前と一緒だよ、桜咲。どこかの誰かさんも、無様に抵抗したわけさ。あいつ等の過去って奴、詠春さん聞いたからな。無駄だって分かっても、何かせずにはいられなかった。そこんとこ、評価してくれよ」

 歪んだ貌は、迷いに溢れて、苦悩に満ちていて。
 
「しっかし、そっか……姉さんを助けて、か。それだけ言って、アイツは満足だったのか。叶わない願いを残していって、アイツは笑って死ねたのかな」

 衛宮士郎は、貌を取戻す。
 全てを救えない自責と、何かを取りこぼした苦悩にもがく、卑しい、歪な微笑を、少年は私に向けている。
 笑い方も知らない少年は、全てを救えると信じた故に、全てが救われないと信じている。
 だから、気付けない。
 救えなかった、切り捨てた一の中にだって、救いが、幸福が、確かに存在するのだと。

「はい。それは間違いなく」

 そっか。と衛宮は答えた。強がりだと分かる、震える細い声で。

「だけど、忘れないで欲しい。それでも、救えた命はあったんです。それでも、守ったものはあったんです。それを、忘れないで欲しい」

 ココに生きる人々を、京都の街を。
 取りこぼした誰かがいる、だけど救われた誰かもまた、存在する。それは、疑い様の無い事実だから。

「そうだな、それは事実だよ。それは、誇っていい事だと思う。だけどさ、やっぱり救えなかった。誰か一人の命すら、誰か一人の約束すら、やっぱり俺は守れていない。それも、やっぱり事実だろ?」

「―――――――それはっ」

 言葉に窮する、それだって、紛れも無い事実だから。

「サンキュウ。でも悪い、また不味いこと言っちまったな。だってそれは」

 ――――――――仕方の無い、事だよな。

 俯く私に、衛宮は力なく微笑んだ。
 仕方が無い。それが現実だ。誰かを救う、例え全てを救う理想を信じようとも、その摂理は覆らない。冷静に酷薄に、ただ、振り切るような微笑が、衛宮に浮かぶ。
 ―――――――嫌なのだ、その微笑が。笑い方も知らないくせに、零れる微笑みすらその心の内に無いくせに。それでも被るその微笑が。

「仕方が無い、なんて―――――――――貴方にだけには、言って欲しくなかった」

 だから、教えるのだ。たった一つだけ。信じて欲しいのだ。
 この人がちゃんと笑えるように。私が、貴方から学んだ事を、貴方に、気付かされた尊い何かを。

「衛宮は、言ったじゃないですか。幸福は、誰にでもあるモノだって、幸福は、手を伸ばせば必ず手に入るものだって。そして、こうも言った筈だ。俺に出来るのは、そいつ等の“味方”をしてやる、ことだけだって」

 私は、今一体どんな表情をしているのか。
 分からない。衛宮の瞳に、私が写っていないから。ぼんやりと、空っぽの瞳で少年は黄金の剣を眺めている。まるで、縋り付くように。

「きっと、救いだって同じはずです。気付くだけ、手を伸ばすだけで、きっとそれは何処にだって在る筈です」

 途切れ途切れでも、伝えたい何かがある。信じていたい何かがある。
 その全てを、言葉に乗せて。

「見失わないで、下さい。確かに、彼は笑っていた。その事実まで、仕方がいないって、そんな言葉で片付けないで下さい。何もかも、置き去りにしてきた誰かの命を、そんな言葉で振り切らないで下さい」

 伝えるべき事は、果たして伝わったのか。それすら定かではない。

「間違えないで、下さい。救えなかった、そう思うなら、簡単に振り切って進まないで下さい。後悔して、未練を残して、救えなかった誰かの幸福を惨めに、無様に引き摺って、汚れた身体で生き足掻いて、迷って、苦悩して、それでも手を伸ばして、その痛みを背負い続けて下さい」

 衛宮の瞳に、私が写る。
 彼に救ってもらった私と、救われなかった誰か。

「きっと、それがせめてもの救いでしょう。切り落とされた無数の誰か、取り零した無数の何か。彼らを覚えていることだけが、彼等に残された、たった一つの救いでしょう。きっと、死に逝く誰かが信じてくれた、ちっぽけな救いなのでは無いでしょうか」

 なんて欺瞞。吐き気がする。
 所詮は上から見下ろしているだけなのに。救われたから、どんな些細なモノでも幸福に、救いになるのだと信じられる。
 所詮は、穴だらけの優越感だ。だけど、きっとそれだって間違いじゃない。

「だって貴方は、正義の味方だ。貴方の言う救われなかった誰かが、最後に手を伸ばした、最後にあった、救いでしょう。その痛みを、誰かが残した痛みを感じることが、彼等にあった最後に救いでしょう。それを、その痛みを、必死に、大切に出来るのが、衛宮士郎、貴方なんでしょう?」

 唯一つ、まともに動く右腕を必死に握り締める。貴方が、正義の味方が、死に逝く誰かを忘れてしまったら、一体誰が、彼らに救いを与えることが出来るのか。
 忘れない、いなくなった誰かを、救えなかった誰かを、ずっと忘れない。それが、死に逝く者への、唯一の鎮魂、唯一の救済の筈ではないのか。

「誇ってください。貴方は、確かに全てを救った、そしてまだ、誰かを救える。貴方がそれを直視せずとも、私がそれを、知っている。だから、そんなかっこよく微笑まないで下さい。そんな笑顔は、貴方に似合わない。いつも見たく、貴方らしい、ヘッポコらしい、頼りない顔でいてください。お願いします」

 垂らした黒髪が貌を隠す。最後に残した言葉だけ、自己嫌悪だ。ついつい、言ってしまった。だって、コレこそ仕方が無い、だって貴方はヘッポコで、弱いから、誰よりも人の痛みを知っている。弱いから、誰にも差し伸べられないはずのその腕を、それでも必死に伸ばしている。そんな貴方は、きっと。
 きっと、正義の味方にだってなれるはずだ。
 ぽん、と俯いた私の頭にゴツゴツした小さい掌が乗る。思わず赤面して貌を上げた。幾らなんでも、この年でそれは恥ずかしい。
 と、それがいけなかった。

「―――――――――――ってえ!?」

「あいたあっつ――――――――!?」

 私のヘッドバッドが衛宮のジョーに綺麗に決まった。衛宮が立っていたのなら間違いなくダウンを奪えた程の大打撃音。レフェリーストップもかくやの渾身。
 後頭部がジンジンする。身悶える私と衛宮が板敷きを転げまわりに、互いに黙然とした絶叫がしばし廃墟に木霊する。

「何すんだっ、桜咲!! 余りに突然のことで何らかのスタンド攻撃かと思ったぞっ!?」

 ? 意味不明な事をのたまい、奇妙な沈黙を最初に破ったのは衛宮だった。……と、言うかです。

「っ、貴方が突然卑猥な行為に奔ったからでしょうっ! 正当防衛です!!」

「アホかっ! 過剰防衛にも程がある!!」

 視殺戦開始、二分後、私の勝利。
 当たり前だが、衛宮程度の眼力で私に勝つのは不可能である。再び微妙な空気が私と笑み矢の横倒しになっている。沈黙は気まずいものではなく、二人して所定の位置に戻り、やはり同じように突き立つ黄金の剣を眺める。
 辺りは、正真正銘に闇に落ちている。深まる闇色が、彼の黄金を際立たせている。どうやら、天上の月はその美しさに気後れして未だ貌を覗かせない。
 長閑に上空を揺蕩う雲海が、冬には珍しく大空に広がっていた。

「あー。その、なんだ………サンキュウな、桜咲。一応、慰めてくれたんだろう?」

 衛宮は、自嘲気味に。不器用に唇を吊り上げて苦笑する。色んなモノが分からなくて、今でも迷っていて、それでも笑みを作ろうと一生懸命な、そんな顔。
 ああ、安心した。それが私の知っている、衛宮士郎だ。

「いえ、私こそ先ほどは失礼を。ヘッポコは、タブーでしたね」

 私だって、余り笑うのが得意ではないけれど、それでも今年最高の笑顔だったと自認できる。少なくとも、今衛宮に魅せた微笑だけは。

「まったくだよ。おまけにそれが俺らしいって、なんでさ? 流石に、そこまで言った奴はお前が初めてだ」

 苦笑は、止まらない。
 やれやれと肩を竦めるシニカルな感じが、破滅的なまでに似合っていない。

「だけど、本当にサンキューな。また一つ、教えられた……違うかな、思い出した、か。俺が、やらなきゃならない事。あの教会で、誓った事。色々在りすぎて、色々楽しすぎて、すっかり見失ってたよ。後悔して、未練を残して、迷って、それでも無様に生き足掻け、か。うっわ、しかし反復してみて気付いたけど、滅茶苦茶かっこ悪いな。うん、だけど、それが俺だ」

 苦笑が、潰れたトマトみたいに色を変える。

「俺、今まで後悔とか、未練とか、残さない様に生きてきたんだ。理想を貫く上で、そんなの必要無いって、思ったからさ」

 それは間違いじゃないけど、正しくも無かったのかな? と衛宮は言った。私に向けられたのでは無い、ソレだけは分かる、綺麗な微笑で。
 何故だろう、広大な荒野に突き立てられた剣を幻視した。
 墓標。突き立てられたソレは、誰かの墓標。救えなかった誰か、切り捨ててきた誰か。それが、無限に広がっていく。

「綺麗なもの以外、認められない。そんな俺だから、きっと、それがアイツとの約束を汚しちまう。そんな風に思ってた。本当の所、それがどんなに無様なモノでも、大切にしなきゃいけない、尊いモノだったのにな」

 衛宮の双眸が真摯に前を見据える。
 行く先は、一つの剣。荒涼とした廃墟の、広漠とした荒野の中央に突き立てられた、黄金の剣。
 何故だろう、広大な荒野に突き立てられた剣を幻視した。
 標(しるべ)。突き立てられたソレは、墓標だと信じたソレは、誰かへの誓約。救えなかった誰か、切り捨てた誰か。それを忘れへぬ、確かな道標。それを背負い振りかざし、これから目指す確かな導。救いの数だけ無限に広がる。

「――――――――――――っよっと」

 衛宮は、徐に立ち上がる。
 そこで、映像は断線する。広がっていた荒野は所詮唯の廃墟でしかなく。無限に思えた剣も唯の一つだけ。
 暗闇の中で、優艶とした黄金が放光しているだけだった。

「中々、さ。消せなかったんだ、コイツ」

 剣に一歩一歩近づいていく。
 西欧の伝承にある、一人の王様の話を思い出した。もしかしたら、あの剣も、彼の創り出した剣の様に美しかったのかもしれない。と、夢想する。

「でも、やっぱりそんなの駄目だ。お前が、思い出させてくれたんだもんな、桜咲。無様でも良い、迷って、苦しんで、それでも前に進めるなら、きっとそれは尊いことだ」

 綺麗なままで。
 衛宮は、黄金の前に佇んでいる。
 荒野の中央、夜の中に佇んでいる。
 伝承の様に、その剣を引き抜くのかと思ったのだが、手を伸ばし、逡巡、躊躇い、結局その剣は突きたてられたままだった。
 
feathers. / out.

 夜光の中で、俺は黄金の剣を見下ろしている。
 瞳を閉じることも出来ず、また、直視することも出来ず。結局。俺は空を仰いだだけだった。
 高いなぁ、広いなぁ。
 何てこと無い感想。嘆息と一緒に、この剣と共に奔った誰かを夢想する。交わることの無かった宿命を。一時だけ、共に握ったその記憶を追想する。
 決心は、容易だった。
 ま、兎に角約束したからな。この剣を、墓標になんてさせやしない。

「じゃあな。言っとくけど、忘れてやらねえ。たった一回だ、精々大切にさせて貰うさ。それ位、構わないよな?」

 誰かの名前を、口ずさむ。
 きっかけは近衛、終わりは桜咲。俺も、変わっていく筈だよ。
 黄金の幻想は足元から消えていく。夜風の彩に乗るように。こっちはこれだけ躊躇ったっていうのに、なんてあっけない。アイツと同じく、忽然と姿を消していく。……全く、少しの名残惜しさ位、感じさせろというのだ。

「………相変わらず、色気の無いことで」

 誰のことかは風の向くまま気の向くまま。勝手なご想像にお任せしよう。
 調子の良いもので、雲に切れ目が走り、月が漸く通勤してきたらしい。アイツの剣に負い目を感じるのは勝手だが、もう少し自信を持っても良いだろう。

「月が、綺麗じゃないですか」

 何て在り来りな、ドラマのワンシーン。だけど、使い古されたカットも、たまには悪くないだろう。
 少なくとも二人。月見の妙に目覚めた年寄り臭い間抜けがいる事だしな。
 振り返り見れば、桜咲が嬉しそうに夜天を望んでいる。アイツと出会った空と同じ、月が綺麗なこの空を。

「まったく。涙が出るほど、綺麗なもんだ」

 さて、朧な月を見上げよう。
 少しばかり、頬を伝う何かを誤魔化す為に。
 やがて訪れる再会を願うのではなく、二度と叶わぬ再会を信じてみよう。

Fate. / going happily ever after, 17.

 何時ぞやの桜咲との会合の後に、宴会をおっぱじめたファンキーな夜から四日。
 紆余曲折などなんも無く、京都で過ごした俺達は、年の瀬はもう直ぐそこまで来ている十二月の下旬を迎えている。
 で、終に。俺達は東京へと帰省する運びとなった。
 京都の街も普段の憧憬を取戻し、人々は日常と言う退屈を日々謳歌している。その裏では、詠春さん達退魔組織の人間が、事件後も奔走してくれた賜物であると、今ココで叫びたい。

「今回は本当にご苦労だったね、衛宮君、イリヤ君、それと両儀の。いや、本当に申し訳なかった、今回の事件に関しては、本当にただ頭を下げるばかりだよ」

 晴れやかな冬の空を遮り広がるこの場所は■■■。その場所に屯するのは俺たち伽藍の堂一行と近衛に桜咲、それと詠春さん。
 どっからどう見ても帰省モード全快の俺たち伽藍の堂メンバーと、こんな場所だってのに浴衣を纏ってノホホンと構えている以下三人。つまりはそう言う事である。別れの場だってのに、涙を誘う雰囲気は皆無であった。

「まったくだ。そんな申し訳ない事を手伝わせておいて、手当ては三百万以下ってんだから、オレ達も本当、頭が下がる思いだよ」

 なあ? なんて嬉しそうに話を振られても、俺には黙秘権を行使する以外に選択肢が在りませんよ、式さん。むしろ俺は、貴方の態度に頭が下がる思いです。
 溜息は似合わないんでぐっと堪える。京都の事件も事後処理が粗方済んで、俺たちの怪我も近衛が治療してくれたお陰で殆ど癒えていた。クリスマスを目前に控えた俺達は、近衛護衛の任務を漸く解かれ、今はこうして……。

「シロウ、本当にいらないの? 結構美味しいよ、駅弁」

「いや、いいんだ。思い出したら胃が痛くなってきた………」

 京都駅のターミナルで、新幹線を待っていた。
 よく考えるまでも無く、例の事件でお釈迦になって天竺におられる先生のバンで帰還出来るわけが無いのはさもありなん。

「車の件は此方の不手際だからね、弁償はさせてもらう」

 とは詠春さん談。それは、まあ……嬉しいのだけれども。

「そうだよね……所長に虐められる原因、みすみす作っちゃったわけだし」

 俺の心の内を代弁した幹也さんが、がっくし、と肩を落とす。でも駅弁はしっかり召し上がっている辺り、先生との付き合いが長いいい証拠である。その鉄の胃袋は、まだ俺には早いのだった。
 時代は常に女尊男卑。世の荒波、世間の辛酸が、かくも厳しい現実として、俺と幹也さんを襲うので在る。あんま幹也さんは動じていないみたいだけどさ。

「まあまあ、手当ての方も、お父さん、弾んでくれたみたいだし。そこは勘弁してーな」

 朗らかな近衛の声も、ひたすら耳に痛いばかりである。
 ああ、どうして現金手渡しじゃないのさ。伽藍の堂講座振込みって、そりゃあ外道ってもんですよ、詠春さん。間違いなく、取り分は九対一で先生だ。死ぬ思いまでして、そんなのってありかよ!?
 このシビアな現実に悲愴な表情を浮かべてくれるのは幹也さんともう一人だけ。

「お悔やみ申し上げます、衛宮。どうかご無事で」

 ……いや、最近気付いたけど、お前も結構ずれているよな。達人の筈なのに、どこか可愛らしいというか、抜けていると言うか。
 まあなんにせよ、俺には味方が一人もいないわけである。誰だよ、正義の味方は幸せになりたい奴の味方しか出来ないとかいった奴。自分で自分の首を絞めるのは、あんまりいい気がしないものだ。

「ま、気にしないほうが良いわよ、シロウ。人間、駄目な時は何やっても駄目なんだから。それより、この昆布巻き美味しいわよ、食べる?」

 あーん、と鮭の昆布巻きを差し出される。多少の気恥ずかしさを覚えながらも、妹相手に必死になることの方が余ほどどうかしている。ってわけで、昆布巻きの香に負けて一口に頂きます。俺もなんだかんだでいい神経してる。

「へへへー、間接キスだね、シロウ」

 吐き出さなかった俺を、誰か褒めてくれるのだろうか?
 理由は分からないが、イリヤは髪を短くしてから前より五割り増し位に可愛くなったと思う。一つ一つの行動に伴ったパンチ力が依然とだんちである。別にショートカットに特別なフェティシズムを感じる分けでは無いのだが、例の事件からこっち、俺の中でポイント急上昇中である。なんのポイントだかは、俺にも分からないけど。
 因みに、イリヤの髪が消えうせている事を知った時の、俺のうろたえっぷりと来たら、八ミリテープに永久保存版を映写し、そのままぶっ壊したい程のモノであったと、俺は自負している。
 放送禁止コードを、堂々と例の魔術師(故)に向かって延々垂れ流し続けたからな。今は余りの自己嫌悪に足元から磨り減っていく想いだが。
 唯一の救いは、イリヤの髪型がべらぼうに似合っている事位だ。短い襟足から覗かせるうなじとか、仄かに見え隠れする耳元とか。兄貴でなかったら、どうにかなっている。

「ま、それは兎も角、そう悲観する事ばかりでもないんじゃない? 特別手当として、エイシュンから例の魔力塊も幾つか横流しして貰えたわけだし、結果的には今回のお仕事、かなりの儲けよ」

 イリヤの言葉に、俺の意識が京都駅の喧騒に返ってきた。

「魔力塊、ねえ……」

 プラスチックの背もたれを軋ませて、俺は黒いバゲージに視線をずらす。青奇天と一緒に詰め込まれている消しゴム大の緑玉石。それが、イリヤの言う魔力塊だ。件の魔術師が練成していた魔力の結晶。詠春さんの特別な計らいで分けてもらえる事になったのだが、俺には宝の持ち腐れである。
 遠坂の宝石と同じようなモノだとイリヤは言ったが、俺には無用の長物である以上、それこそ、遠坂にプレゼントする位しか使い道が無い。

「だったらそれで良いじゃない。リンに貸し一個作れるんだったら、それも悪くないと思わない?」

「思わない。アイツに恩着せがましく貸しなんか付けてみろ、後が怖くて夜も眠れない。追跡妄想にでも囚われたらどうしてくれるんだ」

「シロウ、それ偏見ー。リンはそんな頭でっかちじゃないわよ」

 割り箸を指揮棒みたいに振り回して、メッと注意を促される。もしやコレは、兄だからこそどうにかなってしまうものなのか?
 否、それだけは不味い。正義の味方を目指すはずが、気がつけば性犯罪者でしたなんて、間違い無く切嗣と同じとこに逝く。

「あ、士郎君、三番ホーム電車来たみたいだよ」

 とか何とかやってる内に、電光掲示板に停車の合図が点灯する。
 ボロボロのジャンパーを肩に引っ掛けて、女性陣に代わって俺と幹也さんが両手にでっかい鞄を引っ提げる。
 人ごみを掻き分けること数刻、別れはやはりやってくるのだ。

「ほんじゃ、ココでいい。今回も、楽しかったよ。……相変わらず、お前等と会ったときはなんかしらの、事件が在って巻き込まれて死に掛けるけどな」

 改札の前で、俺は近衛と桜咲、詠春さんに振り返る。
 道行く人の邪魔になるなと分かってはいるものの、やはり、別れの言葉は交わしたい。

「それは此方の台詞です。貴方と関ると、いつも死ぬような目に会うのですから」

 ニヤリ、と桜咲は不敵に俺と握手を交わす。
 微笑ましく笑顔を送る近衛は、イリヤに手を振っていた。

「そうだな、俺らが一緒にいると、常々碌でも無い事が起きやがる、星の巡りか、はたまた新手の嫌がらせなのか……会わない方がお互いのためかな?」

 改札を通り、今一度振り返る。同じ空気を吸っていて、同じく視線を絡めているのに、やはり当然の様に立つ場所が違うのだと認識させられる。
 改札を一つ踏み越えただけで、隔てただけで、ヒトはこんなにも別離を感じる。こんなにも、遠くに感じてしまうのだ。

「まさか、それも含めて、またお会いするのを楽しみにしていますよ。そんなの死に物狂いの逢瀬も、中々に赴き深いではありませんか。私たちのような、歪な人間どもにはね」

 だからこそ、余計に想う。
 その距離が遠ければ遠いほど、やはり会いたい想いが強くなるのだ。それを知っているのは、やっぱり、アイツがあんなに遠いからなんだろう。

「だよな。楽しみにしてる、今度は俺の故郷を案内したいしな」

 あの夜に潰えた右腕で、さよならの合図を贈る。

「ええ、その時を楽しみにしています。よいお年を、衛宮」

 寂しげなモノは何一つとして残らない、次の逢瀬を信じた別れ。
 二度と訪れることが無いと、そう知っていた別離も、そういえば同じ匂いがしたと、ふっと考える。
 らしくないな。ロマンティックは、俺には見当違いだと、教えてくれたのは誰だったか。

「ああ、よい年を」

 背中を向けて距離が開く。
 そうして、俺と彼女は二度目の別離を果たすのだ。

 これは、在る結末。
 救われなった誰かへの、切り捨てられた誰かへの。
 ほんの些細な幸福を祈る、ほんの些細な救済を背負う、そんな決心の顛末。
 されど信じる者として。
 きっと救いが在るのだと、そう願い続ける、後悔と未練の決別。



[1027] 第四十四話 その前夜 
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 08:09
Stay / outer the night.

 京都から帰還した俺たちの日常は、普段どおり、なんら変哲も無い退屈に飲み込まれることとなった。
 朝は凍えるほどの寒さと格闘しながら布団から抜け出し、その誘惑に負けが込んでいる妹の救援に向かい、二人で貌を洗った後に俺は朝飯の支度へ。
 冬休みだってのに自宅に帰らず不規則で自堕落、かつフレキシブルに日々を過ごす隣人とその幽霊をイリヤが起こしに行っている間に、朝食の準備は終了。
 何やかやで、不摂生な女の子に気を使いつつ、気を揉みつつ、こんなんじゃ如何だろうと思いながらも彼女らと朝食を共にして、朝倉に弁当まで作って俺は仕事場へ。彼女は自室でパソコン相手に商談を勤しむ毎日だ。
 遠坂の電話も最近はとんと非日常的な話は聞かなくなり、もういい加減冬木に帰っても良いころなのだと考えさせられる。
 京都での一件で真っ当な神経は焼ききれたモノかと愚考していたが、やはり、今俺が浸るに日常と言うのも、紛れも無い本当なのであった。
 西日本で頻発する行方不明事件、京都でのマナの異常増加。それらを一繋ぎにしていた元凶は取り除かれ、天下泰平世は事も無し。実に清々しい気分でイリヤの手を引き最寄りの駅に足を運ぶ。

「わー、シロウ、雪だよ」

 舞い散る氷の結晶を見上げる。
 雪なんて彼女には珍しく無いだろう、と思いつつも、朗らかに相槌をうって、今朝の天気予報を思い出しながら、俺はやはり、退屈に何時もの通勤路を歩くのだった。





Fate / happy material
第四十四話 その前夜





 街は四年ぶりの大雪に見舞われていた。
 銀幕と瀟洒なネオンライトが瞬く街の喧騒。白く曇ったガラス窓一枚を隔てた世界が、どこか遠くに感じられる。
 それは、理想の世界を慮らせる。賑わう灯、眠らない街。生気に溢れる筈の風景、しかし、そこにリアリティが皆無なならば、やはりそれは理想の世界でしかないのだ。
 ……ま、かっこつけるのは、俺のロールではないし柄でもない。オフィスの窓から視線を切って、この一年を共に過ごした人たちに振り返る。

「今年も、もう直ぐ終わるんですね」

 同時に、やはり振り返る。
 アイツに出会って、アイツと別れて。終わりだと思った世界が、そこから始まって。
 幹也さんや先生、式さん。朝倉や、さよちゃん、近衛に桜咲。四葉や綾瀬に宮崎。それに、考えてみれば、イリヤや遠坂、こいつらと親しく成れたのだってあの二週間前後、実は今年一年の事だった。
 色々濃すぎだよ、今年は。人生の辛酸を舐め尽した歳でも無いけど、ちょっと色々在りすぎだ。いつか藤ねえと悪ふざけをして食った闇鍋にだって、もうちょい節操ってものがあったろうに。
 苦笑は苦笑にみえたのだろうか? ま、それもどうでも良い事なのだが。

「おいおい、己を顧みるのは些か気が早いぞ。街はどこぞの神子の聖誕祭で賑わいを見せているのに、枯れてるね、君は」

 先生が俺の隣で椅子に鞭打ち悲鳴を上げさせながら向き直る。ジングルベルの代わりにしては、些か不穏な音色であった。
 怠け者の白髪好々爺が唯一出勤を義務付けられたその日。世は正にクリスマス色。余りのピカピカ単一色に、目も眩む想いである。

「ま、そうよね。今年も後一週間足らず。だけど、それを直前に控えたビッグイベントの真っ最中に“今年も終わりですね”なんて渋く決められても白けるだけね。そんなわけで、トウコ。シロウの撒き散らした空気を粉砕する陽気でハッピーなイベントをプリーズ」

 ようはプレゼントをくれ。と我が妹ながら最近は実にスタンドバイミー。冒険したいお年頃なのは分かるが、実の兄すらびびっちまって叩けない大口を、式さん宜しく先生に物申すイリヤであった。
 式さんや幹也さんと一緒にお茶を囲むイリヤは足をパタパタさせながら、動物園でパンダを見るような視線を先生に向けている。先生の青筋マジ怖い。

「まさかね、それなりに生きては来たが、クリスマスプレゼントを催促される日が来ようとは、夢にも思わなかったよ」

 だかしかし、機嫌を傾けたのはほんの一瞬。いや、猫を被っただけかもしれないけどな。
 兎に角、剣呑な空気はなりを潜めたので俺としてはただただ胸を撫で下ろすばかりである。

「ま、年に一度の無礼講として、受け取っておこう。来年は気を付けろよ、イリヤスフィール。免罪符は一枚しか無いと言う事を、良く覚えておけ」

「そ? でも平気よ。ルーテル宜しく、わたしもソレ、要らないし。しかしあれよねー、この程度の事で破門にでもされたら、貴方の度量が知れるわねー」

 イリヤ、怖い子。
 ショートカットになってから、本当に容赦が無い。髪切ると人間はそんなにも強く成れるのだろうか? だったら俺は丸刈りでも良い。かくして、免罪符は一枚も与えられていない、不肖、衛宮士郎の独白であった。

「はいはい、二人とも、さっきから話しが平行線だし、士郎君も角の方で震えちゃってますから、その辺にしておいて下さい。女性の喧嘩ほど、見るに堪えないモノは在りません。ほら、よく言うでしょ、犬が食べたらお腹を壊すって」

 食べられないのは夫婦喧嘩です、幹也さん。貴方と式さんのような。

「で、所長。イリヤちゃんの口振りだと、本当にクリスマスプレゼント、用意してくれいてるんですよね?」

 うれしいなー、とは幹也さん。空になった先生のマグカップに緑茶を注ぎながら、にこやかに言った。

「まあね、ガキ限定だけど。二十歳過ぎの君達には無いから」

「やだな、分かってますよ。それ位、ね? 式」

 それじゃあ先ほどの、うれしいなー、発言は一体誰に向けてのモノだったのか。間違い無く他人の幸福を讃えたモノなのは間違いないのだが、さもありなん。
 幹也さんに言葉を振られた式さんが、実は結構不満に口を尖らせて残念がっていたのも……まあ、いいか。そんな式さんの表情に全く気付かない、幹也さんの柔和な瞳が素敵だ。

「で、橙子。結局の所、そのクリスマスプレゼントってどんなだ?」

 極上の座り心地を誇る伽藍の堂の悪趣味ソファーに深く腰掛けなおした式さんが、液体ヘリウムみたいな瞳で先生を眺めている。そんなにプレゼント貰えないのが癪なのでしょうか?

「ふむ……ま、出し惜しみするほど、豪華な物でも無いのだがね、それじゃ、ほら、イリヤスフィール。リクエストの品だ、それなりに大事に使え」

 タバコに火を灯してから、先生がスチール製のデスクの引き戸から取り出したのは、紫苑色の外套。外套と言っても、モダンなデザインでは無い。なんつーか退廃的かつクラシックな魔女の衣装って感じだ。一丁の腰布だった。

「へえ、古めかしくていい感じじゃない。微妙にセカンドハンドっぽいのも、この手のアンティークには欠かせないエッセンスだし。コレ、本当に貰って良いの?」

「いいよ。君の言うとおり、正真正銘の中古品、私が学生時代に着用していたお古だしな。気に入っても貰えて、尚且つ、また陽の目が見られるのならば、そいつだって本望だろうさ」

 失敬、無粋にも解析を走らせて頂きます。憑依経験にはあんまり触れないよう慎重に。好奇心猫を殺す。先生の場合、俺一人殺る位はする、絶対する。
 さて、イリヤが貰ったのは古典的な魔女の外套。カラーはイリヤ色の淡く上品な紫で、鎖骨の辺りを捲きつける鎖のバックルを縁取るように先生のイメージカラーである橙色のラインが入っている。布地はシルク、足元が割りと千切れがちで、所々に血痕だか焦げ跡だかが惜しげも無く散りばめられている。きっとそう言うデザインなんだ、そうに決まっている。
 先生が学生時代使用した、と言うだけ在って、中々に上等な対魔術の守りに、イリヤの使用に合わせてチューンアップされているのか、水属の対術障壁が強化される補助術式も編みこまれている。戦闘用ではなくあくまで儀式、式典用の礼装で、呪術、魔術の失敗時に起こるバックファイアに対応されている概念武装であった。

「ありがとう、トウコ、大事にさせてもらうから」

 嬉しそうに、外套の残り香を胸いっぱいに吸い込みながら、イリヤは言った。
 視線を逸らし、タバコの味わいに集中する先生。最近気付いたのだが、この人は照れ隠しを兼ねてタバコを吸う癖があるらしい。先生の健康を考えて、あんまり直接的な物言いは控えることにしよう。
 幹也さんの、早速付けてみてよ、と言う発言に少しばかり恥ずかしげに頷いた我が妹は、なんだかんだで、花のような笑顔を俺に向け、言われるままに装着する。

「ふむ、似合うじゃないか。学生時代の私を髣髴とさせるね。あの頃は私も、まだまだお淑やかだった」

 一体何の冥利に尽きているのやら。先生が雛人形の配置を完了させたお祖母ちゃんみたいに頷いた。先生の言葉を信じるのならば、学生時代の先生は、目の前のイリヤ宜しく、お人形みたいな少女だったらしい。うん、絶対嘘だ。ありえない。
 もしもその話が本当ならば、先生をこんな悪鬼化生の類にメタモルフォスさせた奴こそ、倒されるべき悪である。末代まで成敗し続ける、血縁者のみならず、その弟子であろうとも。

「ふふ、ありがとう皆様」

 腰布をスカートみたいに摘み上げて、恭しく一礼。息を呑むほど様になるその仕草に、一同沈黙。
 その空気を事も無げにぶっ壊すのは、やはりあのお方なのだった。

「んで。衛宮のは? 腰巻の次は腹巻か?」

 ケラケラと笑いながら、お茶を一口。
 そっか、俺にも在るのか。プレゼントを藤ねぇ以外に貰うなんて初めての事だから、胸躍る自分を止められなかったりする。
 なんだかんだで実は優しい先生が、清しこの夜だけは神々しく映るのであった。ありがとうっ、先生。

「まさか。おっどろくわよー、皆。トウコ、この日の為に頑張ったんだから」

 しかし、なんでイリヤが鼻高々に胸を反らすのか。
 理由は不明だが、先生も先生で、どこかばつ悪く俺の貌を睨み付けているし。とてもじゃないけど、クリスマスプレゼントを頂ける空気では無いのですが? この殺伐とした雰囲気は、硝煙の匂い漂う戦場のソレである。
 サンタクロースって勤労爺さんは、被災地にも登場願えるモノなのか? それは彼の勤務記録を見れば一発であろう。世界に幸せと救済振りまいているからって、有給休暇多すぎなのである。

「………まあ、そうだな。ほら、衛宮。お前んだ、傷でも付けてみろ、殺してやるから」

 っで、やっぱりサンタクロースは世界に笑顔を撒き散らすファンキーヒーローであったとさ。休めば休んだ分だけ、やはり仕事はしてくれるらしい。流石は俺の大先輩、それも一つの正義の味方である。
 先生の恥ずかしげに逸らされた横顔が、名状しがたいほどに可愛ではないか。とんと、プレゼントを渡す台詞ではなけれど、伝わる思いも確かにある。ヤバイ、本当に嬉しいです。

「あっ、その………ありがとう、ございます」

 笑顔が下手な俺だけど、今だけは微笑んでいたと確かに信じられる。
 受け取った赤い外套の温もりとか、皆の穏やかな視線とか、だってこんなに嬉しくて、こんなにも心が痛んでいるのだから。

「あ。これって所長がちくちく、やってた奴ですね? そっかー士郎君へのプレゼントだったんだー」

「……あー。まあ、ね」

 幹也さんが先生の三本目のタバコに火を灯しながら、本当に嬉しそうに先生を虐めている。無自覚って、本当に怖い。
 微笑を苦笑に変えて、俺は赤い外套を広げてみる。
 あの野郎の外套とは似て似つかぬ、普通のジャケット。腰丈がやや一般の物より短いのが、何と無くお洒落だ。獣の外皮で鎧われた夕日色の滑らかな触り心地と、頑丈そうな手触り。
 襟元、胸襟、そして腰まわりで、カチャリ、と鳴く鉛色のバックルも、手作りとは思えないほどの凝りようだ。

「へえ、橙子にしちゃ、まともなモノを作る。いいじゃん、それ。衛宮には似合いそうだ」

 式さんにも中々の高評価、調子に乗って早速袖を通してみる。

「うんうん。やっぱお兄ちゃん、赤が映えるわねー。どうどう? 気に入った?」

「うん、ちょっと大きいけど。いい感じだ」

「それは何よりね。トウコ、頑張ったんだから」

 イリヤが外套の袖口をつまみながら、懐かしむように赤い色を撫で付ける。そうだよな、全然違うけど、コレはやっぱり、エミヤシロウの赤い外套だもんな。

「先生、本当にありがとうございます。一生の宝物にしますね。なんていったって、先生の手作りなんだから。俺、本当に嬉しいっす」

「ああ、うん……まあ、あれだね………喜んでくれるなら、まあ、ほら。それにこしたことは、ないんだけど」

 満面の笑みで、先生に心からの謝辞を贈る。この時、先生の苦笑の意味に俺は気付けないでいたのである。
 雲に浮き立つような夢心地の俺は、さて、そこで解析を走らせる。
 この外套に付加された守りは対魔術と矢避けの加護。アーチャーの一級品の聖骸布には及びもつかないけど、それでも上等な守りである。一般人な俺の守りが、ド三流魔術師の守りにレベルアップしたのだからっ! すげー、先生の外套すげー。
 加えて、矢避けの護符までジャケットの裏地に縫い付けてあるのだ。俺がついこの間調達してきた天狗の羽。銀玉鉄砲位ならば先ず当ることはないだろう。俺に無理言ってこの材料をとりに行かせたのは実はこのため………感涙に咽び泣くとは、このことか!
 それじゃ続きまして。先生がどんな思いでこの外套をチクチクやってくれたのか、最早泣き出す五秒前の俺が、涙を堪えて解析を続けようとした、その時。

「あー、喜んでいるところ申し訳ないんだが。実はそれ、手作りでもなんでも無い。市販のジャケットを、手抜き半分お遊び半分で加工しただけなんだ」

 生欠伸をしながらルーンを刻む先生のビジョンが目の前に広がった。「あ、やべ、まちがえた………ま、いっか」って台詞も幻聴として頭の中に鳴り響く。
 手抜き半分お遊び半分って、どこにもなんも詰まってねえ。

「は?」

 俺はではない。イリヤが「何言っちゃってるの、この人」みたいに口を空けたのである俺? なんつーか声もでやしない。

「ちょ、え? あれ? でも、トウコ、だってシロウがN県に出張の間中ずっと、あれえ?」

 手振り身振りで困惑を表現するイリヤに、先生は無情にも言い放つ。

「まあ……作り始めは面白かったんだが、あれだね、私って意外とぶきっちょだから。ほら、見てみろ」

 淡々と、先生は言う。
 先生が指差したのは外套の背中に広がった一本の切り口、斜めに切り裂かれたその断裂が、拙い糸裁きで豪快かつ奇跡的かつ適当に、絶妙なバランスで縫合されている。
 始めは、斬新なデザインだなーでもこれはこれでありかなー、とか暢気に思っていた俺ではあったがもしや………。

「いやね、最後は面倒くさくなって今まで作ったモノは廃棄して、丁度秋物セールをやっていた洋服店で売り出していたソレ買って、適当に護符をその中に突っ込んで、ルーンを刻んだだけってこと。大して感謝しなくていいぞ、廃棄した外皮分もそのジャケットの費用も、今月の給料から引いてあるし。私は大して労力使ってないし」

「…………」

「…………」

「…………ま。橙子にしちゃ、出来すぎてるとは思ったけどな」

 沈黙と言う名の優しさ、ありがとう、幹也さん、そしてイリヤ。そしてさようなら、なんかもう、生きていくのに疲れたよ。
 ………ままよ。先生の本気手作りアイテムなんて貰ってしまった日には、果報すぎて怖くなるってもんだし、考えようによっては、コレだって立派な手作りじゃないか。だって、結局こんなのは気持ちの問題。
 こんな話の後だって、結局苦笑が出来る俺がいるわけで。だったらそれも、悪くない。

「兎に角、大切にしますよ、先生。いい加減に作ったのを、後悔するくらい」

 もう一度一礼。万感の想いを込めて、俺の師匠に向けてへりくだる。

「そうしろ。―――――――さて、今日はコレくらいでお開きにしようか?」

 時計が八時を告げている。
 聖夜が終わるまで、残り四時間。

「そうですね、それじゃあ。今日はお開きと言うことで」

 幹也さんが黒いガウンを羽織ながら立ち上がる。
 貰った外套を脱ぐのも穏やかじゃない。凍えるような雪の夜だ、このまま帰っても差し支えない。

「それじゃ、先生。また明日」

「はい、また明日」

 最後に、伽藍の部屋を眺め回す。
 正立方体の錆付いた部屋。閉じ込められた暗闇と、一面のガラス窓に光る無数の灯、穏やかに凪ぐ暗い海。
 物寂しさは、少しだけ心地よい。また明日、ココにはちゃんと、誰かの長閑な息遣いが灯るのだから。



[1027] 最終話 happy material.
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 08:19
Fate / outer the stay.

「それじゃ、おやすみなさい。シロウ」

 時計の短針は頂点を目前に凍っている。聖夜が溶け出すその間際、イリヤは俺の隣で深い眠りに落ちた。
 差し込む隙間風に身体を震わせて、居間から窓越しに見渡せる一面の雪景色に心を奪われる。滾々と、深々と、舞い落ちる冬の結晶が世界を白く染めていく。
 眠れない。
 何もかもが死んだ世界の中で、俺だけが取り残されたような錯覚に陥る。十二月に降る雪は、終焉と言う名の氷結。凍える雪は、時間を凍らすほどに冷たかった。
 特に目的があったわけじゃない。
 イリヤの眠りを妨げないように布団を抜け出し、今日貰ったばかりの赤い外套を羽織った。黒いアンダーウェアとトラウザー、そして赤い外套。示し合わせた訳でも無いけど、偶然と言うのは恐ろしい。
 深夜零時。銀幕の世界に取り残された街路灯の電光が、極光のヴェールみたいに揺らいでいる。
 些か薄着だったか、後悔しつつ汚れを知らない雪を踏みしめた。夜闇の下、白く染まった街で、俺は散歩をすることにした。
 特に予感があったわけじゃない。特に約束があったわけじゃない。
 そもそも、アレが夢だったのか現の出来事だったのか、それすら定かでは無いのだ。
 傘も差さず、体温を雪に奪われながら、淡々と歩を進める。きっと、帰り道は覚えていない。きっと、もう一度は辿り着けない。朧げな歩調で、迷子の様な足取りで、無色の世界を広げていく。

 果たして、彼女はそこに立っていた。
 
 いつかの夜と同じ、しかし真逆の季節に、彼女は夜に佇んでいた。あの日から、ずっとその場所に立ち尽くしていたかのようにそこにある。白い夜の中で。時間が凍えた世界の中に、彼女はあの日と同じように佇んでいた。
 桜色の唇、深い瞳、白すぎる肌、着物姿の女は、舞い散る桜を眺める様に、白い欠片に瞳を奪われている。
 よう、と気軽に声を掛けた。まるで、それが十年来の怨敵であるように。
 女は俺に振り向いて、怖気を催す微笑でいった。

「―――――――――――――――また会ったね、エミヤ」

 俺がよく知る女は、そんな見知らぬ言葉で、俺を迎えたのだ。





Fate / happy material
最終話 happy material.





「久しぶりね、エミヤ」

 俺の知っている誰かでは無く、オレが知っている誰かの様に、誰でも無い女は、俺/オレに微笑んだ。ああつまり、アイツはそういう、位置にいる。オレと同じ、もしかしたらそれ以上の一にいる。

「ああ、今しがた、さよならを交わしたばかりだけどな。久しぶり」

 街灯の淡いヴェールに身体を晒しながら、どちらとも無く歩み寄る。俺達二人の距離が縮まった。全てが静止した世界にあって、俺と女だけが活動している。

「でさ、アンタはやっぱり式さんなのかな」

 取り敢えずは、互いの呼称をハッキリさせたい。アイツは俺の事を“エミヤ”と呼ぶけど、俺には目の前の女を認識する手立てが無い。
 益体の無いお喋りを交わすにしても、それは中々、うまくない。

「式さん、か。貴方にその名で呼ばれるのは不愉快かな。“アンタ”で良いよ。エミヤにはそれが、丁度良い」

 やんわりと、少なくとも式さんが俺には一度として魅せたこと無い窈然とした美貌で、俺の言葉を拒絶した。

「随分だな。で、何か用か? こんな寒い日に出張ってきたんだ、アンタ、俺に何か聞きたいことでもあるんじゃないのかよ」

 氷壁みたいに冷たいコンクリートの壁に背中を預けて、どうでも言い事の様に聞いた。だって、本当にどうでも良い一期一会だと、思うから。

「あら、貴方も随分ね。式といる時は、意外と様になる紳士な人なのに。私の事、嫌い?」

「お互い様だろう、そんな事」

 間髪入れない俺の悪態に、酷く端正な顔立ちを薄く歪めて、女は無言で首肯した。
 結局、俺の問いには答えていない。つまり、俺とアンタの間に横たえている溝は、歩み寄る余地さえ挟めないわけだ。

「――――――ま、いいか。それで? 結局アンタは何者なんだ」

 白い花弁が舞い散る夜天を望みながら、俺は捕らえ所の無い質問。

「それを知って、どうするの? 詰まらないよ、そんな事を話しても」

 ……まったくだ。
 互いに互いが憎いのだから、相手の氏素性なんて塵芥以外の何者でもない。白けさせた御詫びに、俺は自らの言葉を黙殺する。

「それでも、義理堅い私は答えてあげる。一つだけね。私とエミヤの出会いは、式の記憶に残らない、それだけ分かれば、安心でしょう?」

 少女のように、されど妖艶と微笑んで、女は俺の貌を除きこんだ。腰を曲げて俺を見上げるその仕草は、折れた百合を連想させる。愛らしいけど、どこか毒を感じさせた。

「まあ、そうだな。―――――――――それじゃ、どんな話をしようか。アンタ、多分退屈なだけだろうし。付き合うよ、どうせ、今夜は眠れない」

 少なくとも、この退屈を紛らわす手段はソレしか想いつかなったから、黒い空を見上げたまま、詰まらなげに俺は語る。
 女は笑った。
 酷薄に、冷酷に、まるで人間の色を帯びない無色の瞳で。やはり好きになれない。その瞳は、その格が、その力が、その方向が異なったとしても、結局俺と同じもの。
 空っぽで、ただ空白の、ガランドウ。
 始めは、取り止めの無い話。伽藍の堂の日常とか、俺が経験した世界英雄大決戦の経緯とか、アイツの事とか、大抵は俺が延々と昔語りをして、女が思い出したように相槌を挟むだけ。
 機械的で、規則的で、その筈なのにどこか歪で、真っ当な人間では到底真似出来ない、吐き気を催す遣り取りだと、俺も、多分女も思っている。

「ねえ、エミヤ。私、貴方に尋ねたいことが在るんだけど、いいかしら? いい加減貴方のお喋りも飽きてきたし、コレで終わりにしましょう。元はといえば、そのために出てきたわけだしね」

 唐突に、女は年齢以上の大人びた声で俺に言う。

「それで、答えは見つかった? あの時、私が君に問いかけた答えは」

 漠然と答えを迫られた、俺はあの夜を思い出す。
 暑くも無く、寒くも無く、底抜けに空っぽだったあの歪な夜の逢瀬を。

「ねえ、幸せって、なんだと思う? 幸福って、一体何なのかな?」

 あの夜と寸分違わぬ声で、女は繰り返す。
 時間の感覚がまるで曖昧だ。歩んできた道のりが悠久だったのか刹那だったのか、定かではない。混濁した感覚が飽和して、全てを停止させている。
 区切られた銀世界は、今この瞬間、確かにどこかと繋がった。











「そんなの、知らない」











 断線する。死んだ世界が、息吹を取戻す。
 あの時、答えられなかった悠久は、この刹那に、瓦解した。
 時計の針が動く感覚。
 凍えた何かが砕ける音色。
 暗闇に黎明が差す射光。
 俺の世界が、オレの世界を塗り替える。

「知ら、無い?」

 女の、人間に絶望し、同時に歓喜していた無貌がこの瞬間だけ、確かに色を持っていたと、俺は信じたい。

「ああ、知らないし分からない。有体に言えば、見当もつかないぞ。その代わりといっちゃあれだけど、そんな哲学的な考証、俺の頭に余りすぎる。それが、分かった」

 何処にでもそれは在るのだと、誰かは言った。
 どんなことでも良いのだと、誰かは言った。
 迷えばいい、苦しめばいいと、誰かは言った。
 それでも前に進めると、俺は信じた。それで良い。それだけで、充分だ。象が定まらずとも、それは確かに在るのだと、信じる事が出来るなら。

「だから、答えられない。俺は相変わらず、幸福とか、幸せとか、そんなモノに明確な象を与えられない。人にとって、俺にとって、何が幸福で、何が救いなのか何て、結局、何一つ分かっちゃいないんだ」

 俺が辿った軌跡を想いと一緒に吐き出した。
 悩んで、迷って、涙して、汚れて、草臥れて、磨り減って、絶望して、それでも這ってきたこの道が、それでも這っていくこの道が、決して醜くなど無いのだと、信じることが、出来るから。
 穢れない事と、綺麗なことは、きっと同義じゃない。
 どんなに無様で、どんなに醜くて、どんなにかっこ悪くたって、それでも前に進めるなら、それはきっと、綺麗な事だ。それはきっと、アイツみたいに尊いことだ。

「幸せが、なんなのか。救いって、なんなのか。俺にはやっぱり分からない。だから、迷う。悩んで、苦しんで、その痛みを精一杯誇るんだ」

 だからきっと、もしも象が在るならそれは。

「俺にとって幸せは、きっと痛みなんだと思う。もしかしたら、それが、解答なのかもな」

 ハッピーマテリアル。
 幸福がなんなのか、幸せは何のか、立証は不可能。
 だけど、それでも確かに感じることが出来る。それが、果たして幸福なのかは知らないけれど、歪な心でも、ガランドウの身体でも。

「俺は、確かに痛んでる。その痛みが、大切なモノだって教えてくれた誰かがいるんだ」

 その傷を、与えてくれたアイツがいるんだ。
 ■■■■■■は幸福です、そう叫ぶことが出来ない俺だから。
 代わりに痛みを背負うんだ。■■■■と言う名の、確かな傷跡。それが、切り捨ててきた人たちへの、ただ一つの救済なのだと思うから。■■■■を感じるたびに、確かに俺の心は痛むのだから。永遠に背負い続ける、尊すぎる痛みなのだから。

「そう、それが貴方の答え。辿り着いたのは幸せの象では無く、幸せの条件か…………。本当、馬鹿な人、もっと簡単な答えが、象がいたでしょうに」

 呆れたように、女は俺から視線を外す。
 逃げるように、怯えたように見えたのは、きっと気の所為だろう。

「だけど。見えずとも、それは確かに存在する。証明、完了じゃない。エミヤ」

「さあね、アンタが望んだモノとは違うかもしれないけど。満足は、して貰えたのかな?」

 吐き出す息は、こんなにも白い。
 色を失った純白の世界は、混ざらない故に孤立していて、痛々しい。こんな歪な俺でも、アンタのその痛みは感じることが出来るのに。

「ええ、正解かな。いいえ、きっとどんな答えも正解足りえるのでしょうけれど」

 貴方の理屈で、言うのなら。瞳を閉じて、謳うように女は続ける。

「でも、貴方の答え、私は好きよ。私好みに歪んでいて。そうね、お礼に一つだけ、貴方の願いを叶えてあげる。私を楽しませてくれたお礼と、正解のご褒美」

 ――――――――――――――さあ、貴方は何を望むの?

「そうだな、それじゃあ」

 ――――――――――――――この世の全てに、幸福と救済を。

 永遠に続くかの様な沈黙。深深と、鈴の音のみたいな雪の結晶が、ただ降り積もる。空が遮られた灰色の世界は、こんなにも美しい。
 微笑んだのは、果たしてどちらだったのか。
 雪は、凍えた世界の中で舞い落ちる。何も語らず、何も映さず、ただ世界を白く染めていく。

「で、何か変わったのか?」

 俺は、彼女を痛ましい瞳で眺める。そしてポツリ、と雪の音色に打ち消されるほど小さな声で、神様とやらに気兼ねなく尋ねていた。
 返された答えは、予想していた常套句。

「ええ、何も。貴方の望みどおり、世界の全てに救済を」

 滅茶苦茶だ。何も変わっていなのに、世界の全ては幸福に満ちている。

「貴方の導き出した解答よ? 答えたはずよね、幸せの条件。ハッピーマテリアル。痛みと言う名の、コウフクを」

 なんて皮肉な逆説。
 ああ、だけど、それはつまりそう言うこった。痛みがあるから人は幸福を感じる、幸福が在るから痛みを感じる。世界は、こんなにも痛みに満ちている。

「ああなるほど。そのために、答えが必要だったわけかよ」

 最悪だ。アンタ、そんなに俺が嫌いか?

「精々、“味方”してやりなさい。貴方が言う、正義のね。幸福を望む、傷を負った誰かのね」

 俺を嘲笑う、誰かの澄んだ笑声。無垢で妖艶で、邪悪で高潔で、象が無い、混沌として秩序ある哄笑。
 降り積もる雪だけが、普遍として存在している。黒く、白い世界は、そして終わりを迎えようとしていた。

「………さて、そろそろ行くわね。貴方を虐めるのも、もう飽きちゃった。だって君、全然揺るがないんだモノ。初めて会った時は、あんなに可愛かったのに」

 降りしきる雪の飛礫、花弁の様に舞う白い一片(ひとひら)に、女は仔細な腕を延ばして、掴めるはずの無い名残を感じる。きっと、彼女の掌で、雪の結晶は優しく溶けただけだろう。

「揺ぎ無い? アンタの目、節穴だよ。聞いてなかったのか? 俺は、今でもずっと迷ってる」

「馬鹿ね。迷うことに、迷いが消えたの。貴方は、きっと誰よりも誇り高く、その後悔を背負うのでしょうね、きっと誰よりも尊く、その迷いに苦悩するんでしょうね」

 なんて、無様な生き方。女は、やはり蔑むように微笑んだ。

「それと、どうして、彼女と生きる世界を望まなかったの? 貴方、後悔しているんでしょう?」

 振りかえ返らないで、女はいった。それは、確かに俺を哀れむ声だった。

「後悔を抱くことと、後悔を望むことは、似ているけど違うものだよ。それが答えじゃ、駄目かな?」

 雪は止まない。
 異国から吹く風に乗り、異国を漂う海を彷徨い、空と海、大地の境界を越えていく。
 白い世界は誰かの世界を無色に帰すと同時に、やはり誰かの世界を満たすのだ。

「結局、貴方は最後まで■■■■を否定したいわけ。見え透いた強がり………やっぱり私、貴方が嫌い」

「それは結構。いらないさ、そんなもん。それがなんなのか、分かっちまった今だからさ。俺には、過ぎた代物だ。コイツだけは、どうしょうもない」

 白い世界に溶け込むように、女は俺から遠退いた。
 銀箔の箱庭。光りのヴェールから、女は一歩、淀み無く踏み出した。

「唯一の幸運は、もう二度と、アンタに会うことも無いってこと位だ。俺も、アンタみたいな性悪女にはもう会いたくないしさ。いっそ清々しい。さようなら、麗しい“アンタ”」

 俺はその背中を、苦笑と共に見送った。
 心の底から、さようなら。アイツと同じ、二度と訪れぬ白銀の別離を。

「また明日会えるのに? 本当、救われないね。エミヤは」

 振り返る彼女の微笑みは、少しだけ孤独を嘆く色がある。
 現実と空想の境界は、やはり曖昧で、白と黒の光沢だけが、世界を流転させている。
 そうして俺は、彼女を見送った。

/ over the night.

 俺は、いつかそうしたように空を眺めた。
 アイツと別れた、黄金の空を懐かしむように。
 白で塗り替えられた世界を、もう一度彩るために。
 雪は止まない、雲は晴れない。
 いつまで、そうしていただろう。
 俺は一人帰路に着く。
 雪は止まない、雲は晴れない。
 けれど、予感があった。
 ゆったりとした歩みが、ふと、止まる。
 振り返る。
 確固たる足跡は、無色の世界に刻まれていた。
 振り返る。
 白い雪の中、世界は色を取戻していく。
 それは雲を割る蒼穹であり。
 それは空を彩る陽光であり。
 それは肌を伝う朝嵐であり。
 世界は、やはり動き出す。
 無色に、ガランドウに死んでいた世界は、アイツの色で息を吹き返す。

「結局、別れはいつだってこの景色か―――――――」

 止まった世界は、今走り出す。
 彩られた、朝焼けの世界と共に。僅かな痛みを、背負ったまま。
 二度目の季節を迎える。アイツと出逢った、冬が来る。










The voids have encountered fateful, and spitted out loneliness.
His wish have never wondered and founded an answer.
Belief happily ever after, he will never ever regret on his own.

The period, second season, finished.
------------------------------------ Next to / Third impression.










 歌が聞こえる。
 ガランドウの女は、まどろむ瞳で、一人白い街を行く。
 桜色の唇が幽かに震える。女には似つかわしく無い、童謡。清しこの夜、女は誰の為に歌うのでも無く、ただ、無邪気に口ずさむ。
 一つの終幕、それを飾る女のカプリッチオ。
 聴衆は一人として居らず、止まない雪だけが無音の喝采を送っている。
 休むことも無く、急ぐことも無く、女はただ白い世界を孤独に歩む。

「本当に、馬鹿な子。どこかのエミヤは、幸福に手を伸ばした筈なのに、どうして」

 果ての無い白い道。女は、無限に連なり、永遠に広がり続けるその道を、迷う事無く、歩いていく。
 帰り道など、覚えていない。帰り道など、ありはしない。
 雪深い路傍に足跡を刻みながら、女はやはり歩くのだ。滑稽だった。そんなモノを刻んだところで、彼女はやはり孤独なまま。その存在は、やはり何処にも残らない。

「―――――――――――でも、それでもいいのかな、衛宮は」

 一つの演目、それを飾る女のフィナーレ。
 やはり、彼は選べないのだ。やはり、彼は選ばないのだ。
 そしてやはり、――――――――――彼は選びたくないのだ。
 彼女と言う、幸福を。彼女に代わる、幸福を。

 ―――――――――――代わりに、痛みを背負うんだ。

 少年の、迷いしかない声が響く。背伸びをする、少年の強がりが耳に残る。
 私との出逢いから半年、折角、それを手に入れた筈なのに。
 どうして、それを捨て去ってしまうのか。痛みなど、感じる必要も無いはずなのに。
 幸福を、知らないから選べなかった衛宮。幸福を、知ったとしても選ばなかった衛宮。
 馬鹿みたいだ。女は思う、破滅すると分かって、どうしてそれでも進むのか。

「ええ、そうよ。だけどそれは」

 女の身体が闇に、雪に融けていく。夜の闇より尚深い、雪の白より尚儚い、その「 」が融けていく。
 聖夜が明けるその間際、女の歌はやはり終わらない。
 これは、幸福を巡るある少年の戯曲。
 手に入れるのではなく、捨て去るための、退屈な一幕。今だけは、しばしの幕間を。

「――――――――――――きっと、不器用だけど正しいやり方」











[1027] Second Epilog.
Name: Mrサンダル
Date: 2007/02/26 10:39
/ fate.

 新年は、あいうえお、っと言う程度の間に迎えられ、颯爽と過ぎ去った。足の速い台風じゃあるまいし、もうちょっと位停滞していても罰は当らないと思うぞ。
 いつか交わされた、現実感のないクリスマスから、数えて……失敬、暦を新たにした俺の家のカレンダーでは、数えることが出来なかった。

 兎にも角にも、和やかなるかな迎春。

 帰郷のタイミングをまるっと逃した俺とイリヤ、ついでに朝倉は、幹也さんと式さんが二人っきりでお正月を迎える算段を立てていると知りつつも、両儀邸を襲撃。
 まんまと超豪勢な御節と極上のお屠蘇をご相伴預かり、人生稀に見るハッピーな正月を迎えるのであった。
 振り返り見れば、自己嫌悪で首を吊りたい気分である。
 ゴメンナサイ、式さん、幹也さん。
 申し開きをするのであれば、俺は止めようと頑張ったんだ。だけど結局、先生と言う協力者を得た二人は正に水を得た魚。酸素濃度マックスの密室で拳銃ぶっ放した様な彼女らの勢いを止めることなど出来よう筈が無いわけで………。
 無残にも両儀さん宅まで防衛ラインを展開した衛宮、相沢さよ戦線は努力の甲斐なくあっけ無く敗退、結局、両儀さん家のご好意に、俺まで預かってしまったわけなのである。つーか先生まで何やってんのさ?

 その後は、別に語るべきことも無い。
 昨年俺が作り置きした至って普通の御節やらお餅やらを狭いアパートのコタツで突きながら、退屈な日々は過ぎ去ってしまった訳だ。

 そんなわけで、今日は正月明けの初出勤日。その朝の風景。
 俺が知る、普段となんら変わらぬ退屈な日々の一ページ。
 俺が手に入れた、きっと僅かしか続けられない、幕引きに相応しいそんな在り来りなお話し。





Fate /
Second Epilog / to the next stage, the third impression.





 眩しい冬の日差しが、御勝手の曇りガラスから零れていた。
 普段と同じく、眩い朝日に目を細める。御勝手のガラス窓は澄んだ光りを拡散させて、気持ちの良い朝を演出してくれている。いつもと寸分違わぬ、その光景。当然ながら、なんら感慨を抱けない。
 段々と手に馴染んできたフライパンにバターを引いて温めてやりながら、イリヤと朝倉が居間で大人しくしているのか確認する。

「おーい、目玉焼き、お前らいくつだー!?」

 コンロを弱火に。棚に収められた鶏卵を物色しながら決められたフレーズを繰り返す。L玉を発見。

「わたしは二つかな? ベーコンでお願い」

 「ん」っ、とイリヤのオーダーに頷いて、冷蔵庫のドアを空ける。
 朝倉がテレビのスイッチをオンに。ごろ寝しながら朝の覇権をかけた不毛な戦いが、イリヤ候と展開される模様。俺の帳簿ではイリヤが八割方勝利しているのだが、はて、今日はいかな戦いを繰り広げるのか?
 今朝はジャンケンによる平和的解決に発展しているようだ。無難である。以前の花札は、流石に道徳上不味いものがあるからな。だってイリヤ子供だし。滅茶苦茶強かったけどな、アイツ。

「私は卵十個でハムエッグをご所望するぞー、衛宮っち」

 結局、テレビのチャンネル権はグーを出した朝倉が手に入れた。ご機嫌に鼻歌を吹かしながら、髪をアップに纏め、オーダーを追加。調子に乗っているのがまる分かりである。実に大人気ない。

「あのなあ、常識的な注文を頼む。無しにするぞ」

「のおおおおおおおお!! それは困るっ。所詮唯の目玉焼き、別にいらねえよ、そんなもん誰が作っても一緒ジャン。とか思っているけど、ただ飯出来ないのは嫌なんで三つでお願いします!!」

「分かった、いらないんだな」

 再び木霊する朝倉の絶叫。うるさいので、サッサと料理に集中することにする。つっても目玉焼きだけど。
 朝倉が立ち直り、朝のニュース特番にチャンネル変えた。最近の流行り病であるらしいA症候群に関するニュースをBGMに、冷蔵庫から発見したベーコンとハムを、早速フライパンにひいてやる。
 まったく、俺もホトホト甘いのであった。

「さよちゃーん、卵、頼むな」

 いい感じに焼きあがったベーコンとハムの上に、勝手に卵が浮遊して、勝手に割れて、勝手に殻がゴミ箱に飛んでいく。
 この家で家事を手伝ってくれる甲斐甲斐しい幽霊ことさよちゃんが、薄っすらと俺に微笑んでくれる。いいね、実に癒される。
 女難の相が出ているのか、俺は? とか最近欝に成りかけたけど、桜といいさよちゃんといい、やっぱこの笑顔が守れるんならそれでいいやー、と自分を励まし続ける二十歳前の俺であった。

「ん、もうちょいだな。おーいイリヤ、配膳手伝ってくれー」

 計八個の目玉が並ぶフライパンに蓋をして、火を止める。
 次いで三人分の茶碗に炊き立ての白米を盛り付ける。いい加減御節にも飽きが来ていたし、この白い光沢が眩しいぜ。

「いい感じですねー、私、なにが残念って衛宮さんのご飯を食べられないのが一番残念ですよー」

「何何、そんな大層なものじゃないけどな」

 器用にポルターガイスト現象を引き起こしつつ、厚揚げの味噌汁を人数分よそっていくさよちゃん。その隣では、イリヤがヨチヨチと危なげな足取りで御節の余りと、小松菜のお浸しを居間に運んでくれている。
 しかし、笑顔に嬉しいことを言ってくれる。俺は君にご飯を給し出来ないのが残念で仕方ない。謙遜も、さよちゃん相手だと少しばかり嫌味ったらしくなってしまう。

「そうそう、そんな大したもんじゃないし、別に気を使うこと無いんだよー、さよ、アンタもこっち来て楽にしなよ」

「………お前はもう少し遠慮を覚えろ。ま、それがお前らしさでもあるわけか。朝倉に遠慮なんてされた日には、蕁麻疹で死んじまうしな」

 半熟に蒸し上がった目玉焼きを大皿にとって、居間にもって行く。途中、朝倉のふざけた物言いにカチンと来たんで、アイツの頭を軽く小突いて、俺も朝の食卓に参加した。
 睥睨した俺の瞳など朝倉には何の効果も無く、代わりにさよちゃんがひたすら頭を下げてくれるのだった。なんか……俺が悪者みたいだぞ?

「なははは、まま、皆揃ったことだし、一日の始まり、朝食時にイラつくなんて、なってないよー、衛宮っち」

「誰のせいだ! 誰の!!」

「はい、それじゃ頂きますよ。衛宮っち」

「無視かよ………」

 言い忘れたが、俺の勝敗記録など言う必要も無いだろう。
 今朝も敗北、誰一人慰める者のいない食卓は、今日も穏やかなまま始められるのだ。

「ほんじゃ、今日も行って来るけど。朝倉、家出る時はキチンと戸締りしてくれよ」

 朝食も無事終わり、後片付けも粗方終了。
 伽藍の堂への通勤にはスーツも何も要らないので、俺は黒トレーナーと同色のジーパン、ソレに例の赤いジャケットを引っ掛けて編み上げのハイカットを履く。
 玄関では、既にコートを羽織り終え準備万端と言った面持ちでイリヤが俺を待っている。

「はい。大丈夫ですよ、衛宮さん。私がキチンと見ておきますから」

 朝食の後、朝倉は俺の家で自堕落にテレビを観賞してから彼女の自室に戻ると言う、サナダムシもびっくりな寄生ぶりを発揮させた習性を持っている。
 今朝もその例に漏れず、朝倉は居間に転がったまま、テレビの虫。先ほどと変わらず、物々しいニュース特番に目が釘付けになっていた。
 本当、なんでこんな奴にさよちゃんみたいな人の良い幽霊が取り憑いてんだ? ひょっとして、取り憑かれているのはさよちゃん何ではなかろうか。要らん心配をしてしまう。
 ま、朝倉は朝倉で、いい奴だけどさ。どうでも良いフォロー入れる俺が、少しばかり愛らしい。

「それじゃ、行ってらっしゃい、衛宮さん、イリヤさん」

「ん、行ってきます」

 普段のとおり、別れにも満たない小さなさよならを果たす。
 当たり前の日常、退屈な日常。日々を謳歌するために大切なファクターを今日も口ずさみ、俺は蝶番の音に何の名残惜しさも感じず、扉を閉めた。
 冬の木枯らしを吸い込んで、青い空に靄を吐き出す。今日も変わらぬ、俺の日常を謳い上げよう。
 それは、そんな些細な、一ページ。
 それは、どこにでもある、■せな一ページ。
 それは、日々繰り返される、■■すぎる一ページ。
 ハッピーマテリアル。
 ■せは、こうして確かな象を持っていく…………。そんな夢想も、たまにはいいだろう?

/ back to the under world.

 蝶番の軋みが、日々繰り返される筈の音色は、こんなにも濁っている。
 幽霊の少女は嘆息を漏らして、自らの主の下に浮遊する。依然彼女の主人はテレビの虫。さよは今日こそ強く窘めてやろうと意気込んで、その双眸を覗き込んだ。

「あの、和美ちゃん? どうしたんですか?」

 少女は、主の据えられた瞳の深さに怖気づく。
 一体、何が? 先ほどまで和やかだった食卓の空気は、その残り香は、放逐されていた。打てば鳴るような緊張感が、ありふれた六畳間に広がっている。

「ん? ああ、わるい。唯さ、嫌なニュースだと思って」

 あくまで、被り直されただけの微笑み。
 朝倉和美、少女の主が見せる作り物の笑み。紛い成りにも衛宮士郎と同じ側面に生きる女だ、此れ位は遣って退ける。それが生業、この道で、己が業を生かすのであれば、それは必須であろう。
 和美は、再び無機質な声で繰り返されるとある事件に眉を顰める。ブラウン管越しにも感じる不吉な臭い。
 和美は、その直感で確信した。
 キナ臭い、コレは、真っ当な世界のルールが通用しない。

「西日本の……連続行方不明……続報? え、でも、だってこれ、衛宮さんが解決したって」

「ああ、らしいけどね。私の網にも引っ掛かってる。間違いないはずだよ、退魔組織の奴等も、この検案は“処理された”モノとして、扱った筈だ。だけど……どうして?」

 集団消失。事件が起きたのは深夜、大晦日を目の前に仕事に勤しんでいた数十名のオフィスワーカーが、忽然と姿を消した。
 その経緯……いや、経緯など、報道できる筈が無い。それが確かに“消えた”ならば、垣間見ることが出来るのは事実だけだ。

「待って、現場からの報告があるってさ。ちょいと静かにね、さよ」

 出遅れた、コレはあくまで特番。些か正月だからって、気を緩めすぎていた自らに舌を打つ。事件から一週間。コレは手痛い出遅れだ。
 それを巻き返すためにも、和美はブラウン管から視線を逸らせない、一字一句聞き漏らせない。彼女は身体を起こし、そして直立した。強張る体に奔った震えを、隠すことが出来なかったのだ。

「H県…………冬木市?」

「和美ちゃん、それって衛宮さんの………」

 さよの震える囁きが終えられる前に、和美はテレビのスイッチを切った。
 鈍い放電音が、沈黙を拒んでいる。
 嘆息。和美は息をついて、髪を掻き揚げた。

「全く、ややこしい事になりそうだね………」

 少し、気合を入れて潜ってみよう。
 何より、面白そうだしね? 彼には悪いけど、私らしく。たまには遠慮なく、気を使ってもいいだろう。

/ go to the under world.

「へえ、いいところじゃねぇの冬木って町は。ちんけな田舎町にしちゃ、上等だよ」

 深山と新都を繋ぐ大橋の上で、一つの人影が正反対の町並みを眺めていた。
 新都を向く。一人は細長いラックを肩にぶら下げ、同様に左腕も死んだようにぶら下げている。

「まあ、そうですね。この芳醇なマナの香、さすが日本でも有数の霊地です」

 深山と新都を繋ぐ大橋の上で、一つの人影が正反対の町並みを眺めていた。
 深山を向く。一人は紫苑色の短髪を風に晒しながら、足元には彼女に懐く白すぎる若い山猫がいる。
 歪に微笑んで、二人は歩き出す。
 果たして、何処に向かうのか。果たして、それは始まるのか。

 季節は、冬。
 正義の味方と聖杯の運命は、もう一度、確かに交わる。
 二度目の季節が、始まる。
 宿命は、そうして回りだす。

 Fate / happy material, has been broken.
 Go to stage, third impression, Fate / hurts of hearts.


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
1.6642460823059