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[24754] 【習作】ピザキモメンの幻想入り(東方project)
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/06 11:41
【はじめに】
拙作は広義には東方project二次創作、幻想入りシリーズに当たります。
男性の主人公に不快感を示される方はご注意下さい。
また、題の通り主人公が何の取り柄もない太った男であることも追記しておきます。
一次設定を尊重していますが、独自設定も多々含みます。
少々残酷、また後ろ向きな描写が多いです。

それでは、皆様に楽しんで頂けるよう微力を尽くしましたので、
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
―――――――――――――――――――――――――


 首を吊ることにしたところを、見知らぬ禿げ頭に止められた。弱雨の日だった。
彼は名をハカセといい(恐らくは偽名だろう)、
どうせ命を捨てるつもりであるならば自分の実験に協力してはくれまいかと申し出た。
自殺するに足るだけの切羽詰まった理由は特に無かったので、その場で快諾したのを記憶している。

 禿げ頭は自らをハカセと名乗ったが、多分に宗教家的側面を併せ持つ男であった。
なんでも、某というそれはそれは美しい妖怪と恋に落ちたのだがどこぞへ失踪してしまったので私は彼女を追うのだ云々。
僕は特に神秘的なものに対する信仰を持たないので彼の話を疑っていたが、
一人の老人の余生の助けが出来るのならば、と彼を手伝う日々を送りはじめた。

 痩せ細り、腰は曲がり、頭は禿げ上がった惨めな老人。
幻想に囚われた彼を理論という刀で切り捨てる権利を僕は持たない。
否、彼の世界にはその"妖怪"が真実恋い焦がれたものとして実在してるのだ。
僕は生まれてこの方それだけ深く物事に熱中することは一度として出来なかった。
故に僕は彼を心底羨んでいたのだろう。
二十余年生きてきたが恋の一つも経験したことのない、生きる価値のない駄目な人間だ。

 研究は僕に会った時点で最終段階だったということで、数年の作業の後に、テストを待つのみとなった。
恐らく彼は数十年の長きに渡り恋人を追い続けてきたのだろう。
一人の人間の夢の軌跡に貢献するのは、生まれてはじめての経験だった。
それがどれだけ無意味なことであれ、僕には嬉しく有意義な年月に感じられた。

 ハカセはあの雨の日からどんどん老いていったが、瞳の輝きは益々盛んとなりそこには狂気の色すら窺えた。
頬は痩け肌の色は浅黒く、彼が「妖怪爺」と後ろ指を指されるのも何度か目にしてきた。
そして、そう言われるたびに彼は欠けた歯で笑うのだ。漸く彼女に近づく事が出来たぞと。

 彼に残された最後の実験は、人柱を伴うものだった。
既に妖怪の住処に辿り着く機械は完成したのだが、それが正しく転送を行うとは限らぬとのことである。
故に最低一人が犠牲となり、その誤差――ズレを修正して漸くハカセは恋人の元へ辿り着くことができる。
動物では、駄目なのだそうだ。
その辺りに僕はまたいかがわしさを覚えたのだが、彼の瞳を見ていると何も言えなくなってしまうのだ。
熱意を持って物事に取り組む者に、冷め切ったクズが口出しする権利など、無いように思われた。

 僕は結局何も言わず、巨大な鉄の箱(そうとしか認識できなかった)に入る。
雨の弱い冬の日の事だった。扉が閉まり、周囲が暗黒に包まれても恐怖は感じなかった。
テレポートに必要なエネルギー量はとてもではないが蓄積不可能なのではないかと、そんなことを漠々と考えていた。







 ――ハイヨ、ハイヨというかけ声に目を覚ます。遠く軽やかな笛の音も聞こえる。寒い。
見上げた空は黒く塗りつぶされていた。同じく黒々とした斜面には生き物の姿が見えない。
視線を移動させると長い橋が架かっているのが目に入った。
灯りを携えた人々がそこを往来している。囃子はその橋の向こう側から聞こえてくるのだ。
僕には橋へ到る方途が用意されていなかった。あの橋の向こう側こそが、あるいはハカセの求めた道だったのだろうか。
ならば今自分の立っている此処はどこか。地面を蹴った。土が跳ねた。驚くことにこの黒々としたものは大地であったようだ。

 しかし、大地はあれども空が見えない。此処は地獄であろうか。それにしては向こう側が活気に満ちあふれている。
僕一人が取り残されている。

「ああ、なんだ」

 笑う。これこそがハカセの言っていたズレではないか。僕は彼処に辿り着けず、延々と此処でその様を見つめ続けるしかないのだ。
いつかハカセもあの橋を渡るのだろうか。そうでなくては報われないと思う。反面、それをひどく妬ましく感じてしまう。
馬鹿馬鹿しいことだ。妬む前に行動を起こせば良かったのだ。本気を出して何かに一徹打ち込めば良かったのだ。
それすらせずに何が妬ましい、だ。しかし、妬ましいのだ。どうしても心の奥底で声がするのだ。
どうしてあの老人だけが幸せになれるのだと。どうして彼の為に犠牲になった自分には何の幸福も訪れないのだと。

 暗い思考に耽っていた僕の脇を、誰かが通り過ぎた。はっとして振り返ると、背中に透明な羽を生やした子供が楽しげに中空を舞っていた。
僕は彼女たちに声を掛けたのだが、返事はなかった。羽を生やした子供達は、橋の方へと飛び去った。
一瞬、救いがあったのかと思った。僕は奇跡的に彼にとっての楽園に辿り着けたのかと思った。
しかしそれは誤りだったようだ。また一人、子供が僕の脇を過ぎ去った。

 誰も、僕の姿が見えないのだ。

 理解すると、何とも虚しい気分に襲われた。結局、あの橋へ辿り着こうが、あの橋の向こう側へ辿り着こうが同じ事なのだ。
僕は一人だ。これこそがズレなのだ。理解してしまえば事は容易い。僕は心の赴くまま、斜面を下へ下へと進んでいった。
あの老人は、先程の不思議な子供たちとも歓談するのだろうか。そして"妖怪"と仲良く死ぬまで暮らすのだろうか。
彼にはそうするだけの権利があろう。何故なら彼はそれに足る努力をしてきたのだし、愛を注いできたのだ。
他の全てを犠牲にして彼はこの地に到るという大事に臨んだ。恐らく周囲からは狂人と笑われたろう。
最も身近な人間の一人である僕ですら彼を内心では嘲っていたのだから。
故に彼は尊重されなければならない。彼は幸福を与えられねばならない。
そして、本来であればとうの昔に命を絶っていたはずの僕がそんな一人の男の理想を目に出来ただけでもありがたいと思わねばならない。
理屈では説明できないものを見る事が出来たというだけでも、感謝せねばならない。

 そうであらねばならないはずなのに、彼の幸福な未来を祝えない自分が居た。何故彼だけが。何故彼ばかりが。
問いは回り回る。答えは既に出ている。彼はそれに値するだけの対価を支払ったから、それだけだ。
そして死を選んだ僕に何も与えられないのは当然のことだ。頭では理解している。
理解できているはずなのに心は黒々と渦を巻いていた。
尊敬していた筈の男の像が、霞みはじめていた。それでもいい。
それでも良いから僕は

「止めておきなさい」

 声がした。それは明らかに僕に向けられたものであった。そしてそれは僕の歩む先から掛けられた声だった。
遠く闇の向こう側に、輝く緑色の光が二つ。かつり、こつりと足音が響く。

「人を呪わば穴二つ。醜い妬心はあまり褒められたものではないわ」

 沈んだハスキーな声につられて、不思議と心が凪いでいくのを覚える。
あれだけ荒ぶっていた筈の心が、平静を取り戻している。
黒色の向こう側から、輪郭がぼんやりと見えてくる。はじめに鼻の頭、そして目、顔立ち。
それは女性だった。訂正するならば、それは異様に美しい女性だった。

 筋の通った鼻もそうだが、淀んだ不健康な白い肌が必要以上に性的な魅力を醸し出している。
自ずから光を放っているかのように錯覚してしまう緑色の瞳は静かに知性を湛えている。
頬にうすく朱が差しているのは手に持った杯のためであろうか。
見れば足取りも覚束無い様子だ。ふらりふらりと前後に揺れながらこちらに近づいてくる。
その度に、癖のある金の髪が左右に揺れるのだ。

 僕は思った、ガイジンさんだと。同じ人種ではないということは妙に恐怖心を喚起するものだ。
思わず唾を呑む。生来人と話すのが苦手な質であった。
死ぬまでの短い期間で少しばかり改善されたかと思ったが、思い出してみれば女性と話したことなど殆ど無い。
美人、ガイジン、女の人。それだけで僕の心臓は高鳴り、口は縫いつけられたかのように動かない。

 何か言わねば相手を不快にさせるというのは分かっているのだが、どうしても一言が出てこない。
彼女は僕の前に立つと、両手を腰に当てた。杯から液体(酒だろう)が零れ、スカートを、ついで細い足を濡らした。
水が煌めきながら太股を伝い、ついでふくらはぎを流れる様を、思わず目で追った。
それは、破滅的に妖艶な光景であった。女性に縁のない僕には、少々刺激的に過ぎる様でもあった。
彼女が一度大きく身震いしたので、僕はようやく我を取り戻すことに成功する。

「貴女は」

 しかし結局は短い問いの欠片を発するに終わった。
声は小さくはなかったろうか。大きすぎはしなかったか。震えていなかっただろうか。
馴れ馴れしくはなかっただろうか。息は臭くなかっただろうか。
いや臭いはずだ。届かなかったらいいな、など。
様々な思考が脳裏を過ぎり、胃が締め付けられるのを感じた。ちくりちくりと鋭い痛みを腹部に覚えた。

「最近の若い連中は、橋の守り主様も知らないから困る」

 彼女は僕の言葉を受け、大袈裟に肩を竦めて見せた。しかし彼女、実に不思議な服装をしている。
胴衣の上から茶の上着を合わせ、腰の辺りを帯で巻いてるのだ。
同じように首もとにも布を巻き付けている。今日が祭りの日であることから推すに、ハレの日の衣装であろうか。
しかしそれにしては随分草臥れているようにも感じられた。

「お前は上から、それも外からやって来たのね」

 彼女の言っていることは良く分からなかった。しかし疑問を差し挟むことはしなかった。
この美しい人は別段僕に質問を投げかけている訳ではなく、自分に納得させるように言葉を発しているように思われたからだ。
勿論疑問は疑問として心に残るが彼女に質問を投げかける資格など僕には無いように感じられた。彼女はそれだけ美しかった。

「まァ良いわ。こんな所に来たのでは、確かに人を妬まずにはいられない」

 女は空いた手で髪を払った。ふと甘い匂いが漂い、そのことで僕は自分の体臭が彼女に伝わっていないか恐怖する。

「やけに、挙動不審ね」

 彼女は此方に一歩を踏み出した。僕は一歩下がった。

「それは、僕が」
「何」

 唾を呑む。上目遣いに睨め付けてくる彼女は不機嫌そうな顔をしているが、造形の完璧性が損なわれることはなかった。
不意を打って顔を近づければ容易く口づけをすることが出来るだろう。彼我の距離はそれが可能な程に縮まっている。
男に対して注意をしない人だ。いや、それだけなら僕にこれだけ近づける理由にはならない。何故ならば

「僕が、ひどく醜いからです」

 彼女は言葉を受け、二度瞬きをした。そして僕の頭の先から爪先までを、その緑色の瞳で注意深くなめ回した。
先程から度々卑しくも性的に興奮していたので、股間が隆起していないかひどく気に掛かった。
しかし彼女がそこを見咎めることはなかった。女性は腕を組み、一度、二度頷いた。
そして感激したように、はぁーっ、と長い溜息を吐いてやや語気を強めてこう言った。

「言われてみれば、確かに。あんたはひどい不細工ね。こりゃたまげた」

 しかし、と彼女は頬に人差し指を当てて首を傾げる。それは間違いなく自身の美しさを計算し尽くした仕草であった。
そしてそれだけで僕の心臓は高鳴るのだった。恋はしたことがないが、胸は勝手に拍動を強めるのである。

「しかも太っているし、面皰も酷いわ。否、むしろそこがとりわけて醜いのね。
それさえなければ中の下の下? 褒め過ぎか。端的に下の中かしら。
まあ、嫉妬ムンムン撒き散らすのも頷ける。同情するよ」

 そう言って彼女は呵々と笑うのだ。

「日の光の下に立てば化け物みたいに見えたでしょう。此処が地底で良かったわね」

 そこに侮蔑の色は無い。気遣いも感じられない。極々自然に感じた事を彼女は口にしているように思われた。
僕のなけなしの自尊心はズバリと両断されたが、あまりにさっくりやられると痛みを感じないのだということをはじめて知った。
変に気遣われると、ノコギリでぎこぎこやられるような苦痛が長く残るのに。
だが、ありのままに自分を出すというのはあまりにも非社会的な行いであるように思われた。
それらは確かにルソーや古くは孟子などによっても礼賛されていたように記憶しているが、
ありのままの人間が美しいという幻想を僕は抱いていない。汚いから人は仮面を被るのだ。
虚飾を剥いだ向こう側に残るのは汚い本性だけだ。

「此処は地の底なのですか」

 僕は彼女にそう問うた。彼女は鷹揚に頷いた。

「此処は地底なのよ」

 僕も二度頷いた。

「故に空が見えないのですね」
「日の光など妬ましいでしょう」
「そうですね」

 僕は賛同し、彼女もうんうんと頷いた。しかし、本当に美しい人だ。
背は僕よりも頭一つほど低いのだが、細くすらりとした、それでいて雪に濁りを混ぜたような肉は見ていて胸の辺りの皮膚の奥が縮まる思いがする。
純潔の白というよりはむしろ蛆の白――そう評せば彼女は怒るだろうか。怒るだろう。
しかし僕は一種の賛辞としてそのような感想を抱いたのだ。
この少女は言葉のポジティブさとは対照的に、妙に暗い色を放っていた。
緑色をおぞましいと思ったのは生まれてはじめてかも知れない。しかし、それがどうしてどうして美しいのだ。

「よく美人だと言われるでしょう」

 僕がそう問うと、彼女はそうね、と簡潔に答えた。それが当たり前であるかのような、淡々とした返事であった。
濡れた赤い唇とその奥に時たま覗く白い歯と粘膜を見ていると気がどうにかなりそうだったので目を逸らす。
どこに視線を向ければ良いか分からず、結局は自身の爪先を睨め付けることになった。太くて汚い足だ。
こんなものが生まれてしまって、両親にはつくづく申し訳なく思う。

「橋の向こうに渡りたいのなら」

 彼女は唐突に話題を変える。

「送ってあげるわ。人柱無しで。生贄無しで」

 彼女はどこか忌々しげにそう言った。橋の守り主様を自称していたようだが、その役職を彼女は好んでいないのだろうか。
それとも人柱や生贄を望んでいるのだろうか。ぞっとしない。

「祭りでもやっているようですが」

 僕はそう言って、一度言葉を切る。

「知り合いは居ませんし、名も知らぬ誰かに声を掛けるのも迷惑でしょうから。遠慮します」

 そう言うと、女はまた僕を見て頬を掻くのだった。

「その面じゃ、仕方がないわね」
「仕方がないのです」

 言ってから、僕は問いかけてみる。

「ところで貴女は何故僕を見て不愉快な思いをしないのですか」

 それを受けて彼女は曖昧な苦笑を形作った。
明後日の方向を見てあはは、と笑うその様に僕は深いものを感じ取ることができなかった。

「もっともっと不細工なのを長年見てきたからねえ。醜くておぞましい」

 はあ、と溜息を吐く。僕は僕より汚いものを想像できなかった。

「だから随分前から鼻は臭さを感じにくくなったし、汚いものも見えにくくなった。
あんたに言われるまで、あんたが醜いということも分からなかったわ。
イケメンじゃないということは一目で分かったがね。くっくっく」

 彼女は声を潜めて笑った。取りあえずこの人の醜に対する閾値は跳ね上がってしまっているらしい。
ひどく綺麗な人なだけに、全体如何なる境遇で育ってきたのか失礼ながら興味を抱いてしまった。
勿論、問うてはならない。初対面の人に踏み込んだ話をするなど、それこそ本当に礼を失した行いになってしまう。

「では、僕は失礼します」
「待てよ」

 背を向けた瞬間、ゆるりと声が掛かった。その上、手までかけられた。

「――っ!?」

 思わずそれを振り払って二、三歩後じさりする。女の人は特に気にした様子もなく再び口を開いた。

「お前、行く場所ないだろ」

 それは事実だ。しかし今はそのようなことはどうでもよろしい。

「女の人が、簡単に男の肩に手を触れては駄目です。特にキモい男はいけません」

 しかし彼女は僕の言葉を受けずに続ける。

「元の居場所に帰るにしろ、橋の向こうに行くにしろ私が手伝ってやんなきゃ無理よ。
一人でてくてくどこへいく?」
「下は?」
「下に行ったら溺れ死ぬわ」
「では、下へ」

 そう言うと彼女は大きく首を横に振った。常人と比して異様に長い耳が見えた。
それを気持ち悪いとは感じなかった。不気味の谷とは何だったのか。あれを人に当てはめるのは失礼か。
少女は桜色の唇を開く。

「汚されちゃたまらないわ」

 なるほど納得の道理であった。僕のようなキモい人間は死んでも人に迷惑をかけるのだ。

「生活するアテはないんでしょう」
「いえ、元の居場所に帰ればいくらでも」
「嘘ね」

 嘘ではない。僕はそれなり以上の大学を出ている。就職難の時代だが、頑張れば生きていくのも不可能ではない。
借金も無ければ(奨学金は返済しなければならないが)障害もない。元の場所に帰って生活するのは確かに可能なのだ。

「あんたは死にたい死にたいという顔をしているわ」

 腕を組み、彼女は一人納得している。しかしそれもまた事実であったので否定はしない。

「自殺をすると閻魔に裁かれて地獄に堕ちるのよ」

 彼女の言葉に、目を丸くする。

「居るのですか、閻魔様」
「そりゃ居るわよ、怖いのが。変な事を言うのね。此処だって中心は旧地獄なのよ」
「旧って」
「色々あって廃棄されたの。だから此処に住んでいるのは忌まれた妖怪だけ」

 妖怪、という言葉にハカセを思い出した。彼はもうじき此処を訪れるのだろうか。訪れるのだろう。
そして幸せになるのだろう。僕はもうハカセに対する敬意も興味も失っていた。
独房の囚人がゴキブリに向ける愛情と、それは類似しているように思われた。
そして僕はそのような自分を深く恥じた。どうして僕は、ここまでクズなのだろうか。不思議でならない。

「貴女も?」
「私もよ、そりゃ」

 悠々と自信満々に彼女は答える。

「とてもそうには見えません」

 言うと、彼女は皮肉げに口角を持ち上げた。

「そりゃあどうも」

 自負と挑戦心に充ち満ちた笑みがそこにあった。
僕はそれを羨ましく思い、同時にそこは辿り着けない境地であろうとも推した。
彼女は軽くスカートを叩くと、また僕ににじり寄った。
僕は後退った。彼女は口許にサディスティックな笑みを浮かべると、また一歩を踏み出した。
何故か、それだけで彼女は僕の眼前まで瞬時に移動した。驚く僕の胸を軽く手の甲で叩き、彼女は言う。

「しゃあない。うちに泊めてやるわ」
「お断りします」

 考えるより先に返事が飛び出していた。しかし彼女はそれを見越していたのだろう、飄々と続ける。

「だってあんた、放っておいても帰してやっても、死ぬでしょう」
「死にません。それに男を女が泊めるのは誤っています」

 少女はふん、と息を吐いた。

「一理あるわ」

 容易く納得されたのは拍子抜けだが、分かって貰えたのならそれで良い。

「では僕は自殺などしないので安心して家に帰るなり祭りに参加するなり橋を守るなりしてくださいな」
「誰が泊めないと言った」

 しかし彼女は引き下がらない。変な人だ。
フィクションの世界の人間をそのまま持ってきたような痛烈な違和を覚える。

「私はこれでも情に篤い妖怪なのよ。遠慮する必要はないわ」
「貴女は阿呆です」

 僕は思わず素直な感想を口にしてしまっていた。
この異次元思考回路を持つ人を、はじめて怖いと、そう思った。
現代人的な賢い考え方が、この人からは欠落しているのだ。だから、説明する。

「考えてもみてください。こんなキモいのが生きていようが死んでいようが貴女には何の関係もありません。
つまり僕が死ぬことで生ずる不都合は貴女には皆無です。
ところが僕を泊めようとすることで貴女は多大なリスクを負うことになる。
更に泊めることで貴女は諸々の諸経費を支払うことになる。僕は無一文です。
此処から導き出される当然の行動は――」
「泊めるわ」

 淡々と彼女は言った。理屈も何もあったものではない。

「待って下さい。どんな理屈の、感情の動きから僕を泊めることになるのです」
「さあ?」
「さあって……!」
「此処は冷えるわ。鍋でも食べる? お酒もあるわよ」
「ちょっと、ちょっと待って下さいよ。おかしいでしょう」

 僕は彼女から離れる。

「ここの人は、みんなあんたみたいな人ばかりなのかよ。変だろ……」
「普通じゃないかしら」

 普通じゃない、と僕は断言する。

「良い機会だから教えて上げます。自分で哀れさをアピールしている男性は地雷です。止めた方が良い」
「良く知っているわ。私は恋愛関係でトラブることのプロフェッショナルよ。
幻想郷一恋愛でトラブった女とはこの私のこと」
「なら反省して下さいよ。男と女の問題がデリケートだということくらい――」
「それでも間違え続けて正さないから橋姫なのよ。我ながら愚かね。さあ、行きましょう。
何がなんでも助けてやるわ、あんたを」
「好きではないのでしょう。変です」
「私はいつもイケメンに惚れてきたわ。
そしてあんたはイケメンではない。というかブサメン――いやいやキモメンだ」
「そうです。おまけに臭い。だから……」
「でも助けるわ。嬉しいでしょう」

 彼女はニヤリと笑んで手を差し伸べた。僕は後退った。

「嬉しくありません」

 ますます笑みを深めて、彼女は一歩。

「本当に? あんた泣いてるわよ。嬉しいのでしょう。気持ち悪いわね」
「気持ち悪いなら帰って下さい。そしてこれは怖いから泣いているのです」
「そうかそうか。私は怖い怖い妖怪だからそれは仕方ないのよ」

 彼女は更に一歩。僕は動けなかった。彼女の緑色の目は美しかった。囃子が聞こえる。

「ほおら」

 そして、一歩。

「――捕まえた」

 臆する事無く、彼女は僕の汚い手をとった。細く、淡く、血の通った、爪が美しいその手で僕の醜く節くれ立った手をとった。
不快そうな色一つ見せず、彼女はくつくつと笑うのだ。僕は、それを受けて情けなくもボタボタと涙を落とした。
さぞキモい顔をしていたのに違いない。そして僕はこの時、救われたのだと思ったのだ。
新しい天地で新しく生きられるのかもしれないと少しだけ、一瞬だけそんな考えを過ぎらせてしまったのだ。

「さあ、私たちの家に帰りましょう」

 この時に、僕は何がなんでも死んでおくべきだった。恩人である橋姫の少女のためにも。
はい、などと、口が裂けても言うべきでは無かったのだ。
理解していた筈なのに、僕は彼女の優しさに溺れ、それを貪った。

 これは、一人のクズの話である。



[24754] 第二話 クズはゴミだから死ぬべき
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/06 20:44
 夢を見ている。夢を見ているのに気づいている夢のことを何と称したろうか。
確か正式な名称があったはずなのだが、頭が上手く回転していないためか、どうしても思い出せなくて、それがひどくもどかしい。

 舞台は僕の所属していた大学の文学部棟、そのロビーだ。
時刻は午後四時過ぎ、何人かが備え付けのベンチに腰掛けて菓子を片手に緊迫した空気で激論を交わしていた。
僕はそれを常のように自分には無関係と断じ、目を背けた。
僕には友達がいなかった。更に言えば友達の作り方というのがよく分からないでいた。

 故に僕は周囲で誰が騒いでいようがそれを無関係のこととして切り捨てることができた。
それは少しだけ安楽な暮らし方である。他人によって生活を乱される事がない、平和な生き方だ。
そして僕も他人を傷つける事がない。そのように、この日までは思っていた。

「おい、ピザ」

 ピザ。それは僕の代名詞だ。
太っているから、太っている人間が大量に食べているとのイメージのあるピザの名で呼ばれる。
どこもおかしくはない。実に理に適った命名方法である。
僕は自分が呼ばれた事に驚きながら振り返る。そこにはすらりとした好青年が立っていた。
見目良く、いかにもハンサムといったイメージが漂っていた。
僕もその人のことはよく知っていた。たいへんな努力家であり、友人思いである。
可愛い彼女も居て、その彼女一筋で、大事にしているのだとの噂も耳に挟んだ。
浮気を持ちかけた子は、美人だったにもかかわらず、彼にこっぴどく振られたのだという。
僕は陰ながらその人のことを尊敬していた。とても、真似できない。

 故に彼はその優しさと公平性から僕のことも本名で呼ぶ珍しい人物だった。
そんな彼が僕を蔑称で呼ぶ。彼の顔には明らかな怒りの色が浮かんでいた。
僕は彼のような好人物を怒らせた自分を深く恥じた。

「何でしょうか。あの、何か申し訳ない事をしたのならば今すぐにでも謝罪させて頂きたいのですが」
「ああ、そうだよ!」

 柔和な彼が声を荒げている。周囲の人間の刺すような視線が苦しい。ひそひそと声がする。
皆が僕を嘲っている。当然だ。彼は素敵な人間であり、僕は自他が認めるクズだ。
僕が何か悪いことをしでかしたに違いないことは僕自身が理解していた。
彼は感情を抑えた調子で問う。

「お前、XXX文学賞って知ってるか」
「ええ」

 知っているもなにも、それは僕が久方ぶりに入選した賞のことであった。
ローカルな、とても小さな賞ながら嬉しい気持ちを味わったのを覚えている。
佳作ではあったのだが喜ばしいことには違いない。

「あれ、お前、入選したよな。佳作」
「はい」

 彼は読書など好まない質かと思っていたが、と訝しむ。
そういえば前に少しだけ彼と話したことがあったかしらんと思いを馳せる。
趣味で物を書いているということをいつだったか語ったかも知れない。彼は、続ける。

「前、お前言ってたよな。気分転換に物を書いているって」
「はい」

 何が言いたいのか分からないのは僕の頭が悪いからだ。頷く。

「その時は俺も良い趣味だなって思った。けどさ……」

 彼はベンチに腰掛ける一人の女性を指さした。その人の事も知っていた。
常に講義中に最前列に座り、近代文学を読んでいたのが印象的な人だった。
その人が、泣いている。僕は狼狽えた。

「あいつ……落ちたんだよ」

 ぽつりと、彼はそう言った。

「毎日毎日本読んでさ。ペンだこ作りながら原稿用紙に物書いて。
部屋なんて没の紙だらけだ。
無頼派の誰かにすんげえごちゃごちゃした部屋の奴が居たけど、そいつにだって負けてねえ。
物書く時も資料を大量に漁って……頑張って、頑張って、血反吐を吐いて頑張ったんだ」

 努力家の彼女が泣いている。両脇の女の人が彼女を慰めていた。
鋭い視線が、たまに僕へと投げかけられた。

「……お前が受賞最下位で、あいつは受賞できなかった連中の最上位らしい。
あいつが落ちたのが気に食わなくて聞いてみたら、そういう答えが返ってきたよ。
受賞させてあげても良い出来ではあったんですけどねえ……だとさ!」

 彼は悔しそうに両腕を震わせた。
優しい彼のことだ、ただの友人でしかないこの泣いている文学少女のことをずっと手助けしてきたのだろう。
その努力を目の前で見てきたのだろう。彼女は顔を真っ赤に腫らして泣き続けている。

 僕は胸の詰まるような思いがした。

「確かにお前の作品、すげえよ! 
なんかぐにゃぐにゃして底知れないし一般受けしないのかもしんねーけどさ、才能ってのか? 
滅茶苦茶なもん感じるよ! でもさ、お前――お前趣味でやってんだろ!
そんな奴が賞に作品出さないでやってくれよ! 本気でやってる奴らは、そういう小さいトコから道を開いて行くんだよ!」

 彼の目から、涙が溢れ出した。

「ごめん、俺……何言ってんだろ。■■は、悪くねえのにな。糞ッ……ホント、ごめん。
悔しくて。実力の差ってのは分かってんだけど、納得出来なくて……努力が報われねえって、そんなの――」

 彼は僕を殴ろうとしていたのだろうか。振り上げていた拳を下ろし、肩を震わせていた。
静けさの中、大勢の視線が僕に突き刺さった。涙が込み上げてきた。だがここで泣いてはならないと思った。
この場で僕に泣く資格など、万に一つもありはしないと思った。

 そうだ、僕はあの賞にどのような思いもかけてはいなかった。
入選すれば良いなくらいの軽い気持ちで手慰みに作品を仕上げて投げただけだ。
そして、入選した。嬉しかったが、それだけだった。
入選を逃しても、ちょっと悔しいが、それだけだったに違いない。

 目の前の2人が泣いている。彼女たちは、そこに深い思いを込めてきたのだ。それは事実だ。
僕はそれを土足で踏みにじった。それもまた事実だ。
歯がカチカチと音を立てた。怖くなった。何もかもが、怖くなった。




 家に帰るまでの事はよく記憶していない。ベッドにくるまって、ずっと考えていたように思われる。

 過去を、振り返る。

 僕は何も考えず、何の目標も持たずに進学に有利だからと中学受験して、合格した。
その時、必死で勉強していた同じクラスの友が泣いてはいなかっただろうか。
僕は特に何の目標も持たず、惰性で中高とアッパークラスに居座り続けた。
ロウクラスに落ちていった人々、
アッパークラスにはい上がれなかった人々が、廊下で泣いてはいなかっただろうか。
大学受験の結果発表、周囲で泣き叫ぶ人を、僕は確かに目にしたはずだ。

 僕は何も考えず、何の目標も持たず、大して努力もせず、あれもこれも手に入れていった。
まるで、豚のようにブヒブヒと人にとって必要な物を次々に食い荒らしていった。
豚だ。まさに豚だ。体だけでなく性根までピザ野郎だ。

 何の意志も持たずただそれを望む人を蹴落とすだけの人間のフリをした害獣。
そして人間になろうと努力をはじめることも出来ない怠惰に包まれたゴミ。
生きていて良いのか、と疑問に思った。駄目だと思った。
社会に僕のような奴は必要ない。
死ねば何人かは心から悲しむかも知れないが、全体としての幸福量は上がるはずだと結論した。
何せ、キモい不細工は誰かの視界に入るだけでその人を不愉快にさせ、
その臭気で吐き気すら催させる。明らかに利より害が大である。
ベンサム的功利主義を当時信奉していた訳ではなかったのだが、
この時にはこのような考えが何故かしっくり来たのだ。
だから、迷わず死ぬことにした。それはすばらしい名案であるように思われた。
弱い雨の降る日の事だった。







 ぱちぱちと火の爆ぜる音で目を覚ました。僕の横であの金色の髪をした妖怪が手酌で酒を舐めていた。
頭を掻く。今ひとつ記憶がはっきりとしない。
ここに来るまでの経緯は覚えているのだが、それからのことが良く思い出せない。
服が、じんわりと冷たさを伝えている。見れば、センスの欠片もない紺のジャージはびしょびしょに濡れていた。
そこからは仄かな果実様の香気が漂っている。酒の匂いだ。
すぐ脇にお猪口が転がっているのを見、僕は自分が酔い潰れた事を思い出した。
確か、彼女に嫌なことは飲んで忘れるよう勧められ、そして見事にひっくり返ったのだった。
自慢ではないが酒には弱い。チューハイを飲み干すのに三十分かかる。ビールなら四十分。
しかし、心が軽くなっているのは事実だった。何か夢を見ていた気がするが、それはどうにも思い出せない。
所詮は夢である。どうでもよかろうと分別した。

「悪かったね」

 彼女が眉をハの字にして言う。

「こんなに酒に弱い奴ははじめてでさあ」

 慌てて姿勢を正して頭を下げる。悪いのは僕だ。

「こちらこそ、情けない奴で、つくづく申し訳ありません」
「調子が狂うやつだ」

 くつくつと彼女は笑い、金色の髪を玩んだ。

「お前、何の夢を見てたんだよ」
「え……」

 暫し返答に窮し、慌てて臆病な心から声を絞り出す。

「お、覚えてません」

 言うと、彼女はぷっと噴き出した。噴霧された酒が僕の横顔にまで届いた。
それが不快ではなく、むしろ恍惚としたといえば彼女はひどく軽蔑するに違いない。
しかし、それが事実なのだ。僕は低俗な自分を戒め、手の甲で頬を拭った。

「笑わせるなよ、全く。まあその様子だとスッキリしてるみたいだし、良いか。
夢の中まであれこれ妬んで、そのうち嫉妬に喰われるんじゃないかと少し心配したよ」
 
 彼女の言葉に、僕は形ばかり笑って見せる。

「喰われるだなんて……」
「喰われるよ」

 彼女は真面目な表情を作り、僕に顔をぐいと近づけてそう言った。息がかかる程の距離だ。
頬にみるみる血液が集まるのを覚える。

「忘れるな。良く聞け。誰かを妬みすぎてはいけない。嫉妬は比喩でなく人を食う何より恐ろしい化け物だ。
誰かを深く妬めば、自分の周りにあるはずの大切なものを巻き込んで、自壊してしまうわ」
「わ、分かりましたから顔をもう少し離して……」
「ん? あぁ、うん」

 "そんなどうでもいいことを言うとは、コイツ私の話をちゃんと理解しているんだろうな"
とでも言いたげな訝しげな視線をこちらに向けながら彼女は体を引いた。
事実僕は彼女の話を良く理解できなかった。
そんなどうでもよい事よりも彼女の顔がすぐ近くにあることの方が問題だった。

 あの濡れた緑の目、白く、時には仄かに紅く誘う肌、僅かにぬめり光る唇。
そういったものが近くにあって、更に周囲にはあの甘い彼女の匂いが漂っているのだ。
平静でいられなかった。どくどくと体に血が巡っているのを感じる。

 仕方がないのだ。僕は生まれてこの方彼女以上に美しい女性を目にしたことがない。
綺麗な人と擦れ違って振り返る、という経験を持った人は多かろうからそれに則って説明するが、
この人は擦れ違った後にぎょっとして飛び退いてしまう、そんな類の美人だ。

 美人と言って良いのかは、しかし少し悩み所だ。発育の具合から言って、僕よりも年少者なのだろうか。
ならば美少女なる言葉が打って付けであろう。
狭い平屋で彼女と2人きりであるという事を意識し、頭がぼうっとするのを覚えた。

「まだ酔ってるのか? 水ならあるけど。ほれ」

 彼女は椀に冷水を注いで渡してくれる。僕は礼もそこそこにそれを飲み干した。いやにうまい水だった。
うまいとは甘いとも表記する。まさにそれが当てはまるのではないかとの感想を抱いた。
清涼で甘い水。きいん、と心と体の汚らしさを沈滞させてくれる。
しかし、忘れてはならない。汚いものは、綺麗になろうといくら努力したところで、その本性は汚いままなのだ。

「冷たいっすねえ……」
「これくらいガンガン冷えた方が酔いにはいいだろ」

 彼女が共感を求めるように、へらり、と口許を緩める。完全に緊張を解いた表情だ。

「笑わないで下さい」

 慌ててそう言う。どうにかなってしまいそうだった。
彼女は首を傾げていたが、

「うん」

 と分からないながら、不承不承、といった感じで頷いてくれた。
心は既に凪いでいた。いつものことだ。どれだけ胸が高鳴っても、何故だろう、長続きしない。
僕は人として欠陥があるのではないかと常々そう思う。
こんなに綺麗で優しい人と話をしても、惚れる事が出来ない。
心のどこかが、ストッパーを掛けている。しかしそれは正しいのだ。
僕などが彼女に惚れたところで意味はない。彼女もイケメンが好きなようだし。

「布団は明日にでもこしらえるから今日は私のを使ってくれて――」
「床で寝ます」
「あ、そ……」

 余程語気が強かったのか彼女は拍子抜けしたように頷くばかりだった。

「本当に、貴女の危機管理能力の欠如は、どうにかした方がいいです」

 強く忠言する。しかし美少女はふらふらと手首を揺らすばかりだ。

「私を抱こうだなんて気になる男は、これから先現れまいよ」
「貴女は、貴女は美人なのですから――」

 だからさあ、と彼女は笑む。誰も自分を理解する者は無いと悟った、賢い者の笑みだった。

「一皮剥けば、そんなの分からないじゃん?」

 僕は、何の反論も出来なかった。彼女の何をどう剥けば醜くなるというのだろう。
体に大きな火傷でもあるのか。腫瘍でもあるのか。訊けるはずがない。
女性にそのようなことを問うなど無礼千万である。

 橋を守護するという少女はそれから無言でいつまでも杯を干し続けていた。
彼女の目は中空に向いていた。どこか遠く、届かない場所に思いを馳せているように見えた。
その様が、ひどく神々しい。
僕はただ正座して揺れる火に目を落とした。角膜が熱で痛むが他に視線をやることができない。
剥き出しの太股やその奥の暗がりにともすれば吸い込まれそうになる。
本当にこの人は危機感が足りない。

 百年かそれ以上前の日本においては混浴だとか軒先での水浴びがあったという。
そこから現代人は、当時の人々には性的な恥じらいが弱かったのかと考えるが、そうではないのだ。
混浴などを恥ずかしい事だと思っていながら仕方なく行っていたという文献は残存している。
故に目の前の無防備な女性の様はやはり妖怪――古めかしいもの――だとしても歪なのだ。

「ふう」

 彼女は長く長く息を吐き、そして杯を置いた。凛とした静謐な空気が一瞬間張り詰めた。
それは音もなく、しかし激しく弾け、後には気怠げな空気ばかりが残る。
部屋が酒臭い事に、この時に至りようやく気が付いた。

「そろそろ、寝ましょう」

 彼女はゆるりと首を振り、そう言った。多量の飲酒のためか、どこか目はとろんとしていた。
その恍惚とした表情からはやはり醜の色など見て取ることは出来なかった。
僕は首肯し、部屋の端へと移動する。彼女は火を消し(消して大丈夫なのかと疑問を抱いた)その場に横になった。
布団は、敷かないらしかった。それをするのも億劫な程酔っていたのだろう。

 暗闇の中、彼女の呼吸の音だけがやけに艶めかしく響いていた。
僕は故に自分の息を潜めることに腐心せねばならなかった。
いつまでたっても眠くなることがない。彼女はこのような空間ですら平然としていられるのだろうか。
そもそも酒を飲んで倒れた時にどのくらいの時間かは分からないが僕は眠ってしまっていたのだ。
ある段階の睡眠に到るために必要な某化学物質は一日に生産できる量が決まっており、
浪費すると寝付きが悪くなるのは当然である、という随分昔に読んだ本の話を思い出した。
どうでも良いことだ。

 瞳を閉じ、物思いに耽り、そして思い出した。
夢に見ていたのは、あの死を決意した日のことだったのだ。
過去を夢見るなど、フィクションだと思っていた。
それにしてはやけに清々しい目覚めだったが、一体。
そもそも何故橋を守る少女はズレていたはずの僕に気づき、引き戻す事が出来たのかしらん。
分からない、分からない。僕はどうしても、幸せに生きているように見える人々が妬ましい。
彼らには彼らなりの、そして時には僕などには耐えられないような苦難があるのは分かっている。
頭で理解していても未熟な感情が許せぬ許せぬと叫ぶのだ。浅はかだ。
やはりこんな自分など死んだ方がいいのではないか。
夜半にでも彼女の目を盗んで―― 

「なあ」

 低めの、しかし穏やかで女性的な声に体を震わせる。体温を感じさせる、湿った声だ。

「聞いてなかったけど、お前の名前。何ていうんだよ」

 ■■。親に貰った大事な名前。しかし、名乗る資格がない。
あの優しい親に貰った命を僕は要らないと言っているのだ。それは裏切りに他ならない。
故にその名もまた返上せざるを得ない。ならば僕が名乗るべき名は――

「ピザ、とお呼び下さい」
「ん」

 彼女は何の迷いもなく頷いた。胸が何故か痛かった。それは僕の名前ではないと心のどこかが軋んでいた。
だが、そのような些事はどうでもいい。どうでもいいのだ。体を丸める。眠れそうにない。
頭がどうにかなりそうだった。思わず床を叩きそうになったとき、再び声が発される。

「私の名前は」

 思考が停止した。"聞き逃してはならない"と、今までの感情の動きを殺して全ての神経が集中をはじめた。
彼女はそれを感じ取ったのだろうか、くつくつという笑いが間に響いた。

「水橋パルスィだ。仲良くしようじゃあないか、ピザ」

 親しみのこもったその呼びかけに、

「はい……ッ」
  
 僕は単純にも喜悦を感じてしまい、にやけそうになる口許を指で抓りあげるのだった。



[24754] 第三話 ぼっちに話しかけると異様に甘えまくるのでウザい
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/07 20:04
 地の底は朝になっても仄暗い事を知った。
緊張のためか橋を守る少女――水橋パルスィさん――より早くに目が醒めてしまったのは失策であった。
脱力し、僅かに口を開いて小さく肩を上下させるその寝姿は、刺激的に過ぎる。
畳に広がる金髪も艶めかしい。常に性的な事柄から思考を切り離せないのは全体何なのだろう。
本当に自分が自分で嫌になるのに、止められないのだ。

「はァ……」

 わざとらしく溜息を吐くが、どうしたの、などと聞いてくれる都合の良い存在は無い。
聞かれたとてうざいなと思われるだけだ。
それが分かっていてどうしてこれ見よがしな態度を取ってしまうのだろう。
それは僕がクズだからだ。駄目人間だからだ。結論は常にそこに行き着く。
人を苛つかせる振る舞いを止められないような奴は、間違いなくクズなのだ。

 外の空気を吸った方が良いかも知れない。そう判じて靴を履き、音を立てぬよう戸を開く。
冷えた風を感じ、首を竦める。外に出るのは苦手だった。
囃子の声も笛の音も、当然聞こえなくなっていた。地の底は死んだように静まりかえっている。
水橋さんの話によればここはそもそも死者の世界であったのだという。
黄泉の国として地底が選ばれる事が多いが、やはり真実もそうであるのか。

 そも死後の国など"ない"と断じて生きてきたのでそういった考えを走らせるための材料が足りない。
これは困ったものだ。えり好みせずあれこれ勉強した方が良かったのだろう。
本当に、後悔ばかりが無駄に多い人生だ。

 しかし。

 息を吐く。僕はまた死ねなくなってしまった。死ぬにはタイミングが必要だ。今はそれが無い。
水橋さんと会話して、死のうという決意が揺らいでしまった。
僕は弱い人間だ。故に一度死ぬタイミングを逸すと再び意味もなくゾンビのように生き続けてしまう。
本当に薄弱で情けない男だと思うけれど、どうしようもない。
否、どうすれば良いかなど分かり切っているのに行動に移れないだけなのだ。
これが、どこに出しても恥ずかしい駄目人間の図だ。

「これはまた、随分と辛気くさい」

 ぼそぼそとした声を聞き、慌てて振り返る。いつの間に現れたのか、眼前に少女が立っていた。
スモッグらしき服、黒いヘアバンド、体に絡みついたコード様の管がファンシーさを際立たせている。
荒涼とした地に、その幻想的な矮躯はいやに目立った。
胸の辺りの目玉は何なのかしらんと見ていると、ぎょろりと動いた。どうやら生きているらしい。
コードに見えるものは無機物かと思われたので、人工物に生物が埋め込まれているような嫌悪感を覚える。
くどい黄色のハートも悪趣味だ。それにしても、背が低い。
少なくとも見た目では水橋さんより幾分幼いものと推せるが、
疲労をたたえた表情は子供のそれとは思われない。

「おはようございます」

 取りあえず挨拶をすると、彼女もこれは丁寧に、と頭を下げた。

「水橋さんにご用でしょうか」

 問うと、彼女はいいえと幾分明瞭な声で答えた。
水橋さんの家の前で足を止め、水橋さんには用がない。

「そう、私は貴方に会いに来たのよ」

 考えを先回りしたかのように彼女が言う。切れ者なのだろうか。
幼げな体躯に似合わず聡明そうな顔立ちをしているとは思う。
それにしても、水橋さんに続いてこの人も容貌が異様に整っている。
人形か天使かといった具合だ。人形も天使もここまでアンニュイな顔はしていないだろうが。
ともあれこうも綺麗揃いだと自分の醜悪さが強調されているようで肩身の狭い感じがする。

「あの。水橋さんはまだ眠っているので……」
「結構です。貴方さえ良ければここでお話ししましょう。
私もただ散歩がてら雑談をしに来ただけなので」

 少なからず安堵した。この地に勝手に侵入したからには云々という恐ろしい事態を想像していたのだ。
――唐突に、目の前の少女が噴き出した。
何だろう、よく分からない人だ。僕の顔が醜くて思わず笑ってしまったのだろうか。

「失礼。別に貴方のお顔が変だったから笑ったのではないのだけれど」

 意識させてしまう程には汚らしい顔をしているらしい。今更だ。
二十余年張り付けてきた面、その醜悪さは無論承知している。

 彼女の胸元で、目玉が揺れていた。心臓のような形だな、などと思った。
ならば管は血管か。この人も恐らくは妖怪なのだろう。忌まれた妖怪。
とても美しくて、そうは見えない。一皮べらりと剥いたら、やはり異形がのぞくのだろうか。

「あの、この辺りにお住みの方なのでしょうか」

 問うと、彼女は口許に手を当ててくすくすと笑った。

「どうでも良いと思っている事をわざわざ問うのね。でも……そう、建て前はとても大事だわ。
私は一応、ここら一帯ではそこそこのお偉いさんで通っている者よ」

 人は見かけによらないものだ。しかし、この人の静かな語り口はなんだか心が落ち着く。
何故だろうか、あまり気を遣わないで良いような感じがするのだ。
肩肘を張った所で無駄なような。
あまりにとんでもない人に出会すと感覚が麻痺してしまうのだろうか。
僕はとんでもない人に出会った経験が無いのでそこら辺のところがよく分からない。
首相や大統領を前にした一般人に気持ちを聞いてみたいところだ。

「橋姫の世話になった――と理解しているのだけれど、それは上に帰るつもりはない、という意思表示と取って構わないかしら」

 彼女に問われ、真意をはかる。茫洋とした表情からは何も読み取れない。
コミュニケーション不足の僕には難題に過ぎたのだろう。

「ご迷惑でしたか?」

 なので茶を濁す意味も込めて問い返す。彼女はいいえ、と首を横に振った。

「ただ基本的に陰鬱な連中が多いので、気が滅入らなければ良いなと思ったのよ」

 陰鬱。水橋さんからはそのような印象は受けなかった。
しかし地底、忌まれた者の住まう場所とするならばやはりそのような方が多いのだろうか。
そう考えるのが当然なのかも知れない。水橋さんが特別なのだろう。
この目の前の人も陰鬱ではないにしろ、アクティブな性格にはとても見えない。

「僕も根暗なので、こういうじめじめした所は嫌いじゃないです」

 素直に答えると、彼女は苦笑して見せた。

「そういう所は、隠した方が無難よ」
「すみません」

 遠く人影が見えたが、それは一度立ち止まると、急に向きを変えるて遠ざかっていった。
少し不自然な動きだった。

「ふうむ。今日も避けられているわね」

 彼女は平然とした様子で言う。あまり避けられるような性格をしているようには見えない。
確かにマイペースな所はあるように思われるが、第一印象としては落ち着いた人だという感じを受ける。 
偉い人なのだそうだが、この人が上に立っているならば外見はともかくとして、安心できる。

「私は見られるとまずいものを見抜く事に長けているので、それが怖いのでしょう」

 彼女はそう言う。僕としては最も見られたくないものが誰の目にも明らかな形で表出しているので、
別に他のものを見られたところで、という感じがする。この外面に負けず劣らず汚らしいのは性根くらいのものだ。
いや、性根の汚さが外面に滲み出ているから、見られようが見られまいが同じことなのだ。
むしろ見られたら申し訳ないという感じがする。

「僕の何が見えるのかは存じませんが、何にしても汚らしいと思いますので、その、申し訳ないです」

 彼女の胸元の目玉が、ぎょろりと蠢いた。慣れてくると愛嬌があるように見えてくるから不思議だ。
出会ってものの数分足らずで僕のこの女性への警戒心は霧消していた。
そんな事をしては迷惑だと思い至り、僅かに前傾していた体を正す。
猫背なので、胸を張るのは苦手だった。視線を誰かと合わせるのは、もっと苦手だ。

「そう。貴方は人付き合いが苦手なのね」

 独白するように少女が言う。

「動物みたいだわ」

 辛辣な言葉に、苦笑するしか無かった。それは違うと尊厳をかけて対決する事が、僕には出来ない。

「豚と思って頂いても、構いませんよ?」

 言うと彼女はくすくすと笑った。その控えめな笑みは高貴な夫人か深窓の令嬢を思わせた。
シルクの手袋が映えるだろうなと思った。少女が、また噴き出した。本当に変な人だ。

「豚だとは思いませんよ。変な人」

 目尻の涙を拭い、片手は腹に当て、笑みの残滓を残して彼女はそう言ってくれる。
優しい人だ。本当に優しい。
そうして妖怪少女は後ろで手を組んで、一歩前進し、体を前傾してその半分閉じられた目で僕を見上げる。

「だって貴方の名前は、■■■■でしょう?」
「え……ッ」

 驚きである。それは一字一句違わず僕の名前だった。正確には、僕の名前だったものだ。

「凄いですね……人の名前が見えるんですか。何かの漫画でそんな人を見ました」
「そう、私は凄い妖怪なのです」

 ふふっ、と笑い少女は胸を張る。
水橋さんもそうだが、此処の人たちは自分の魅力を自覚的に引き出すのが実に上手い。
先程水橋さんにくらくらしたばかりなのに今度はこの人か、と節操の無さを戒める。
動じぬ心を持ちたいものだ。

「よし……」

 しかし、僕も少し調子に乗ってしまっていた。
緊張を解いて話せる相手など家族しか居ないと思っていたのに、この安堵は全体何なのだろう。

「では、僕も貴方の名前を当ててみせましょう」

 少女はくすくすと笑った。

「ええ、お願いします」

 僕は考える。この綺麗な女の子を人は何と呼ぶのかを。
花子、お良、キャサリン。違う、こんなヘンテコな名前ではない。
もっと綺麗で、もっと彼女にぴったりの名前が――

「古明地さとり」

 口が、勝手に動いていた。妖怪少女はさして驚くことなく、目を細めた。

「正解」

 何故だろう、正解したことに、僕は驚きを感じなかった。
それが正解に違いないのだと無意識のうちに確信していたのかもしれない。
根拠は無かった。根拠のないものを信奉する僕ではなかったはずだ。

「ご褒美にお団子でも買ってあげましょうか、■■」

 彼女の言葉に、慌てて両手を振る。

「結構、結構です」

 同じ事を二度繰り返すな。うざくて迷惑だろう。自分を窘めるも、どうしようもない。
コミュニケーション能力が不足しているのだ。迷惑な男だ。
妖怪少女――古明地さんは嫌な顔一つせずに僕を見上げている。
或いは、その程度のことが気にならないような境遇に身を置いているのか。

「あの」
「はい?」
「僕なんぞと話しても詰まらないでしょう。散歩の続きをなさっては如何ですか」

 そう勧めると、古明地さんは小さく首を横に振った。

「伝えたい心は言葉にされた瞬間変質して誤解を生む。
そして誤解が生み出された事に誰も気付けない。パロールも、それ程素晴らしいものではないわね」

 一息吐いて、彼女はまた語る。

「貴方の言葉は、"古明地さとり、お前は邪魔だ"と言っているのと変わらないと理解できているかしら」

 心臓が凍るかと思った。僕は、慌てて否定した。

「済みません、そんなつもりは無いのです! ただ僕は」
「理解しています。落ち着きなさい」

 彼女は両手を突きだし、まあまあ、といった仕草をとる。
人が他人の心など理解できるものか、と常ならば唾棄するのだが、
彼女の言葉は何故だろう、真実味をもって響いた。

「貴方は善意で人を遠ざけようとしているけど、やり方をもう少し考えた方が良いわね」
「……はい」
「まァ、自分では善意と思っているのだろうけど、本音はただの自己防衛かしら?」

 自分ですら把握できていない、心の最も醜い部分の一つを掬い上げられた気がした。
人の上に立つものはやはり、違う。愕然とする思いだった。

「あまり気にすることはないわ。ここまで来ると気質の問題、どうこうできるものではない。
愛や勇気、努力ではどうしようもないこともある。
だからそういう汚い部分は、他者に気取られないよう、もっと気遣い上手になりなさい。
貴方の言葉は誤解を生み、誤解は反転して真実を伝えてしまっている」
「はい」
「そして真実は時に人を傷つける。心は汚いから、隠せるなら隠して、綺麗に着飾るのが良いわ。
誰だって、綺麗なものを見たいのだから」
「はい」

 良い返事ね、と彼女は微笑んだ。それは虚飾であろうが何であろうが、美しい事に変わりはなかった。

「あの、古明地さん」

 故に、僕はどうしても問うてみたくなった。無意味な事だと分かっていながら質問せざるを得なかった。
なあに、と振り返る彼女に意を決して言葉を発す。

「本当に芯の綺麗な心の持ち主を、見たことがありますか?」

 彼女は、なんだそんなことか、と笑った。くすり、というどこかサディスティックな笑みに背筋が震えた。

「無いわ、そんなもの」

 僕は心中、彼女に同意した。どこか倒錯した思考なのかもしれないが、
古明地さんの言葉に、僕はなんだか救われたような気持ちになった。
その理由は皆目知れないが、もう少しだけ彼女と話したく思ってしまった。
クズであるのに、彼女を引き留めるなど不敬なのにだ。

「では、勘の良い人は誰かを心から好きになるのは、難しいんでしょうね」

 ええ、と古明地さんは同意した。

「正確には、賢い人間は、ということになるわね」

 そうして彼女は一度、かつんと靴音を響かせた。それは広い地底にゆっくりと広がり、反響することは無かった。
長く沈黙が降りる。僕はそのままこの無音に支配されるのかと錯覚した。
だが、古明地さんは何の頓着無くその静寂を唐突に破る。小さな口が開き、白く濡れた歯が見えた。

「そもそも好きという感情は、あまり褒められたものではないの。
例外を定めて、棚上げする心の動きだから暴走を生む。
だからそれを覗き込んだ人間は、見なかった事にするか、
更に心の深淵を覗きこんで変になるか、目を閉じて引きこもってしまうか。
実は心の汚さなんて、当たり前の事として、誰もが知っているの。
だから皆、幸せになるためにわざと賢い自分を馬鹿に仕立て上げているのよ」

 僕は、問わずにはいられない。

「では、馬鹿になることを許せない人は――」
「変になるか、心を知覚する力を放棄するか、どちらかでしょうね。
後者が出来るやつなんて、そうそう居ないと思うけど。
変になるというのも段階があって、強い人なら汚いものに向かい合って延々考える事が出来るわ。
きっとその時には人が人に見えなくなっているのだろうけど。発狂、とも言うのかしらね。
弱い人は逃げ出すのが時間の問題だから、気にしなくても良い」

 では。

「そこまで知っていて少なくとも表面上僕と親しげに会話をしている貴女は」

 古明地さんは、一度反射的に口を開いたが、しかし一度咳払いして沈黙した。
彼女が如何なる事を語ろうとしていたのか、それは僕には知る由もないことだ。
だが、それは飾らぬ言葉であったに違いない。古明地さんはそれを悪だとして、一度飲み込んだのだろう。
彼女は僕に背を向けて、一歩、二歩と歩いた。足音が重く響く。
古明地さんはそのまま帰ってしまうのかと思われた。
だが、幸いにも彼女は振り返り、苦笑と共に落ち着いた声で答える。

「決まっているじゃない。屁理屈で汚いものを綺麗に見ようとする、ただの馬鹿にして臆病者なのよ」

 僕は唾を嚥下した。それが飾られた言葉だろうと、虚妄であろうと、そのまま受け入れ飲み込む事が出来ない。

「怖くないんですか。真実を見ないことが。
明らかに嘘だと分かっている事を本当だと思い込むのは、辛くないですか」
「普通の人は、そういうジレンマの中で生きているのよ。
愛は虚構だと、そもそもこの心すら虚妄だと、全ては空であると分かっていながら視線をズラして生きている。
だから人は自分の力の一割も発揮することは出来ないし、トンチンカンな誤解をしてばかりいる。
でもそれは、そうでもしないと生きていくのに不便だから。視線をズラすのは、大いなる知恵なのよ。
羨ましいわ。視線をズラしたくてもズラせない者は、誤魔化すしかない」

 最も下劣なのは、と彼女は僕の目を見据える。

「知ったかぶって対決そのものを放棄する類ね。向き合って狂おうともしない。
視線を逸らして迎合しようともしない。かといってその両者をアイロニカルに俯瞰することもない。
ただシニカルを気取って逃げるだけのクズ」

 僅かに不自然さを覚えた。
彼女の言葉はまるで、僕の心の中でわだかまっていて言語化出来ないものを形にしてくれているかのように思われた。
そんな馬鹿なことがあるものか、と打ち消す。偶然考えが似通っているだけだ。

――本当に?

 僕みたいなクズの考えと、この聡明な古明地さとりさんが同様の考えを抱いている?
あり得るのか。あり得る訳がない。ならば、ならば――

「下手に口を開いてはいけない」

 彼女の言葉に、慌てて出掛かった疑問を飲み込む。

「さっきも言ったけど、■■の言葉は稚拙に過ぎる。幼稚ではないから真意も酌みがたい。
喋る前に一拍置きなさい。では、どうぞ」

 そう言われると、何を言って良いのか分からなくなる。古明地さんは、それで良いと笑うのだった。

「地底は多分、貴方にとってはとてもとても居心地の良い場所よ」

 彼女は唐突にそんなことを言った。
確かに、僕は水橋さんと話しても古明地さんと話しても、いい知れない心地よさと同意を覚える。
忌まれた妖怪という言葉が、あまりピンとこない。親しみやすく、あたたかい人たちではないか。

「だけどそれも、視線をズラしているからそう錯覚しているだけだということなの。
地上の連中と私たちと、所詮は五十歩百歩でしかない。
貴方は視線のズレを小さくしようと無駄な努力をしているから、私を恐れない。
怨霊も恐れ怯むような化け物を恐れない。
それは実際、視線を正そうとしながらズラしてしまっている滑稽な振る舞いの結果に過ぎない」

 古明地さんの言葉は、難しい。正しく物を見ようとして失敗している馬鹿が僕だということか。
自覚が無かった。正しく物を見ようとしているのだということ自体、理解してなかった。
そして、そんな屁理屈を組み立てようとする自分の臆病さにもだ。

「臆病と、人間のクズと、ゴミと自分の本性を結論づけるのは」

 彼女の言葉に、ハッとして顔を上げる。

「単なる思考放棄でしかないわ。壊れてしまっても良いのなら、その先をこそ、考え続けなさい」

 僕が結論とした部分の更に先に進めと彼女は言う。

「言っておくけど、生半可な努力では、そのような思考は貴方の人間性の向上に何ら貢献しない。
まずは心の上手な偽り方を勉強しなさい。暇な時にでも難しい事を考えればいい。
それでは何の役にも立たないだろうけれど、多少は暇潰しが有意義になるでしょう」

 言葉を終えて、古明地さんは眉をハの字にして笑う。

「ごめんなさいね。年寄りは要らない説教が好きなの。
付き合って貰って申し訳ないわ。戯言だから、忘れて頂戴」

 とんでもないことだ、と僕は心底思った。

「こんなに為になる言葉を貰ったのは、生まれてこの方初めてです。
ちょっとグサグサきましたけど、色々考えてみます」

 言うと、彼女は小さく笑った。

「駄目よ、行動しなさい臆病者」

 そう言われると、項垂れるしかなかった。しかし古明地さんは笑みをそのままに言うのだ。

「悲観する事はないわ」

 彼女は背伸びして僕の肩を叩いた。腕に当たったコードは、意外にも暖かだった。
これは彼女の体の一部なのだろうか。そう思うと恥ずかしくなった。

「此処の連中、ドンチャン騒ぎが大好きだから、貴方が幾ら沈んでいても手を引っ張って輪の中に連れ込んでくれるもの。
みんな"醜いもの"、"忌むべきもの"への閾値が狂っているのね。むしろそれらに同情的なのかしら。
だからどんな奴でも平気の笑顔で受け入れてしまう。
詐欺師も強姦魔も殺人鬼も自殺志願者も、マァマァ良いから此処来て飲みな、といった具合だ。
きっと普通の連中にしてみれば、それは化け物共の狂った集会に見える。
でも受け入れられた当人にとっては、幸せなことなのよ。
貴方も我々の厚意を存分に受け取るが良いわ。絶望して目を閉じてしまうより、その方がずっと良い」

 言葉を句切り、彼女は僕から離れた。そうして軽く両手を広げ、一目で作り物だと分かる滑稽でわざとらしい笑みを浮かべた。
寒風が、彼女のスカートを僅かに揺らす。古明地さとりは、ぺこりと小さな頭を下げて、

「それでは■■、地底へようこそ。歓迎しましょう、盛大にね」

 その演技めいた優しい言葉が、また僕の心を誤解させた。視線を、ズレさせた。
彼女たちにならもたれ掛かっても良いんじゃないかな、などと甘えさせてしまったのだ。
人は常に自分の都合の良いように視線をズラして物を見る。
分かっていた筈なのに、僕は分かっていなかった。
古明地さとりさんがどれ程偉大な人物で、この自分がどれ程害のある存在なのか、理解していなかった。
それは"自分はクズだ"で思考停止していた愚かな自分が支払った、あまりに高い代償だった。



 帰宅すると、水橋さんが起きていた。僕は彼女に古明地さんの話をした。
橋守の少女は、それを聞いて不愉快そうな表情を作った。
帰り際、彼女が転けて可愛らしい悲鳴を上げたことも口にすれば、笑って貰えただろうか。
だが、それは僕と古明地さんの間での秘密にしたい、
などという醜い欲望が働いために、結局この薄汚い豚男であるピザこと僕は、だんまりを決め込むこととなった。
しかも、にやけながらだ。ああ、キモい。何故生きているんだろう、僕は。
何故人に迷惑をかけながら幸せになってしまっているのだろう。
害悪。害悪。害悪。

 僕は今、幸せだ。

……死ねばいいのに。



[24754] 第四話 月に挑むスッポンの無恥
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/08 22:57
 日中の水橋さんは飽きることなく橋の辺りを逍遙しては、たまに意味もなく来訪者に喧嘩を売っていた。
妖怪は妖術を使うらしい。空を舞いつつ輝く緑色の弾丸を放つ彼女を見て、
僕は自分の信じていたものがばらばらと音を立てて崩落する音を聞いた。

 彼女の近くに居ても仕事の邪魔になると判じたので、二日三日で橋守見学は止めた。
水橋さんは止めなかった。彼女にとって、それはどうでも良い些事のようだった。
今は代わりに旧地獄の古き良き街並みを見学する事にしている。
現代日本の町なら擦れ違う人々との心的距離はまるで無限だ。しかし、ここは違う。
僕のような人間に、誰もが酔った勢いで声を掛けてくる。曰く、珍しいからとのことである。
知らない人との会話は苦痛で仕方がなかった。しかし、誰かとの接触を求めているのも、また事実だった。
折角善意で声を掛けてきて下さっているのに、それを苦しいと感じる自分の醜さが、何より嫌いだった。

「おおい、新入り」

 今日も声がかかる。頭の天辺から尾てい骨の辺りまで怖気が走り、体が震えた。
肉の塊が揺れる様は、きっと傍目には酷く醜く映ったのに違いない。
振り返ると見知らぬ女性が立っていた。背はすらりと高く、肉体は引き締まっている。
水橋さんや古明地さんはどちらかというと貧弱な感じなので、意外に思われた。
小股が切れ上がるような、との形容はまさにこの人を形容するために生まれた言葉だろう。

 しかしそのような魅力を際立たせているのか半減させているのか分からぬが、
とにかく容姿以上に妙ちきりんに感じられてならないものがある。彼女の衣服だ。
上着は――実に名状しがたい。俗な言い方をするならば学徒の身につける体育着か。
何か特別な衣類なのかも知れないが、僕には分別出来ない。
腕には鎖のついた巨大な輪を嵌めている。アクセサリーなのだろう。
まさか引きちぎってそのままにしている訳でもあるまい。
額から伸びた赤い角は彼女が妖怪であることを示していた。
スカートは半透明だし、服はぱっつんぱっつんだしで、目のやり所に困る。

「なんだ、噂には聞いていたが……酷い不細工だなァ」

 ばんばんと此方の肩を叩きながら彼女は快活に笑う。見た目通りの馬鹿力だ。
叩かれるたびに体がガクンガクンと揺れる。
ついでに腹の肉も頬の肉も揺れる。面皰も潰れる。
不細工大惨事である。

「いやー、そにしても。聞きしに勝る立派な出来物だ。うん。痛くないのかい、それ」
「痛いっす」

 言うと彼女はそうだろうなー、と言った。
ひいているというよりはむしろ、想像してぞわぞわしている感じの表情だった。

「不快な顔で済みません」

 頭を下げると、彼女はまた笑うのだった。

「まあ気にしすぎてもしょうがないだろ。健康生活とバッチリ運動で何とかなるかもしれんしね」
「無理です」

 間髪入れずに返答する。

「運動は一人だと長続きしないし集団だと他人に迷惑をかけるので諦めました」
「駄目な奴だなー」

 呆れたように妖怪の女性は言った。快活な人だ。声が良く通る。笑顔の綺麗な人だった。
そのためあってか、周囲の人が好奇の視線を我々に向けている。
もしかしなくても、この人もまた何か凄い人なのだろう。
凄い人は駄目な人を見ると説教せずにはいられないのかもしれない。

「貴女は、運動とか好きなんですか」

 見た目のイメージから問うと、彼女はやっぱりそう見えるか、と破顔する。
色々な種類の笑顔を見せてくれるが、どれも溌剌としていて、僕には眩しい。
悪意や裏に含むものが一切感じられないのだ。
人間の表情というのは、複雑なはずだ。僕などどれが真意か分からぬ程入り組んだ表情をしているに違いない。
だがこの人にはそれがない。まるで子供のように素直に笑うのだ。
そうであるのに、幼稚さを一切感じさせないのだ。屈託の無さが、直接強さに結びついている。

「喧嘩は好きだけどね。だからまあ、体はよく動かしてるよ」

 豪傑のイメージは確かにある。つくづく見た目通りの人だ。
水橋さんとは正反対といえる。あまり地底のイメージにそぐわない人だと思った。
山の大将に据えればぴったりかもしれない。

「喧嘩……負けるのとか、怖くないですか」

 弱い僕がそう問うと、何を言うと彼女は腰に片手を当てて厳しい表情を作った。これは明らかに演技だ。
もう片手には朱塗りの大きな杯を携えている。中身はどうせ酒だ。此処の住人は皆酒好きなのだ。
昼間から酒を呷っているので、驚いたものである。時間の進み方が、まるで違う。
子供時代に戻ったようなそんな気がする。どれだけ時間が経っても夜にならない。
そして、一日が終われば様々なことを思い出すのだ。

「負けるのはそりゃー悔しいがやっぱりスリルは大事だ」
「はあ」

 ともあれこの人は僕の理解できないタイプだと感じた。僕は基本的に勝てる勝負のみをしかけたく思う型の人間だ。
そして、そのことで人に多く迷惑をかけてきた。本気で事に挑む方々はさぞかし嫌な思いをしただろう。
この目の前の妖怪も本気の人の一人なのだ。僕のような怠惰で諦めがちな人間とは、ステージが違う。

「なんだ、煮えない奴だな。ナヨナヨするなよ。ダラダラ考えるのは陰気野郎のすることだ。
ほら、あそこに住んでる偉そうなジト目女とか」

 街道の向こうを指して彼女は言う。確かあの方向には古明地さとりの邸宅があるのだった。

「古明地さんは尊敬できる人だと思いますが」
「うげ」

 妖怪の女性は露骨に嫌そうな顔をした。
水橋さんといいこの人といい、古明地さんは筋金入りの嫌われ者なのだろうか。
この人のおどけた態度から考えるに、ただからかっているだけという感じも受けるが。

「お前あれは良くないぞ。嫌味だし『この世の全てが愚かしいわ』とか平然と言いそうだし阿呆なことばかり考えているしな」
「でも、あの人の見る世界の姿は僕にはすんなりと受け入れられたのですが……」

 言うと、良くない、それは絶対良くないと女性は首を左右に振った。

「お前、そりゃ不健全すぎるぞ。人間程度の寿命であいつに感化されるとロクなことにならない。
間違いない。私が保証する。最悪頭が変になる」

 古明地さんの言う発狂の事だろう。

「人生良いことだって一杯あるんだし、気の良い奴も山ほど居る。
努力はきっと実るし、根性で頑張れば何か見えてくる。そういう生き方をしようじゃあないか」
「い、嫌だね」

 それは流石に、吐き気がする。頭に血が上るのを感じる。
自分は割合怒りっぽい性格なのだなと一部心の冷静な部分が告げていた。

「僕はその手の"見方を変えれば世界は素敵、頑張れば道は開ける"という論法が何よりも嫌いなんだ。
死ぬ気で部活やったこともあったけどな、相方にお前邪魔だわと一蹴されただけだったっつの。
先輩のパシリとしてもろくに働けねーし後輩には笑われる。練習したところで初心者にすら勝てねえ。
毎日毎日日が暮れるまで球拾い、そんで日が暮れてから練習して、走って。吐いて。入院するほど練習して。
最終的にゃあ腫れ物扱いだ。
努力すれば何か見えるだ? 見えないね!! 根性でどうにかなるだ? ならないね!
悟ったよ。駄目な奴が努力しても周りは余計声かけづらくなるだけだ。しかも迷惑。
なら最初から何もしない方が良い。頑張った結果が人の迷惑になるなら何もしない方が良い!
帰宅部万歳、根性論くそくらえ。有害クズ人間は頑張れば頑張るだけ毒素を周囲にばらまくものなのです」

 大声を出して喉が痛い。だが本心だ。目の前の女性はぽかんとしている。

「よく分からんが、地雷つついたみたいだな」
「……すんません」

 だがまあ、と彼女はどこか凶悪に笑う。

「気に入らないな、すごく」

 別に、と口が勝手に動く。

「あなたに好かれたいとは思いません」

 上等、と女性は笑う。その獰猛な笑みに、僕は恐怖を覚えなかった。
そんなものは微塵も感じなかった。
それは勇気ではない。失う物が何もないから、何に恐怖していいかすら自分で理解できないだけだ。
挑発されても心が動かないというのは、酷く惨めだ。それはクズ人間だけが味わったことのある感覚に違いない。

「お前、名前は何という」

 迷い、口にする。

「ピザ、ですけど」

 そうかそうかと女性は表情をそのままに続ける。

「私は星熊勇儀だ。何というか非常に不愉快なので今日からお前のその腐った性根をたたき直してやる」

 駄目だ。この人は理論が通じないタイプのお方だ。熱血だ。最近珍しいスポーツマン気質だ。
僕が、無茶苦茶嫌っている類の性格をしている。
この自信はどこから湧いてくるのだろう。不思議で仕方がない。
敗北について考えたことがないのだろうか。リスクという言葉が辞書に載っていないのだろうか。
それとも辞書のひき方を知らないのだろうか。僕は笑う。
彼女の格好いい笑みと違い、それは卑屈なヘラヘラ笑いだった。

「たたき直すって、制裁ですか」
「うんにゃ」

 彼女は首を振る。そして、杯を差し出した。

「呑め」
「はァ?」

 星熊さんは、笑みを幾分親しげなものに変えて言う。

「呑み比べだよ。勝ったらお前の望むものをくれてやろう。世界でも財産でも」

 これは大きく出た。大きく出てこられた。世界である。今日日ラスボスでも口にしない。
それをこんな街角で吹聴されても挨拶に困るというものである。第一、


「あんた、酒豪でしょう。勝てる勝負をふっかけて楽しいですか?」

 星熊は、ぱちくりと瞬きをする。

「なんだ、ピザ。お前、世界とか王座とか欲しくないの?」
「くれるものなら欲しいですけど。でも勝てない勝負をして何になるんです。
勝率と、勝利したときのリターン、呑んで倒れた時のリスクを考えれば、不戦敗が最も賢い」

 うわあ、と星熊さんが仰け反った。

「……本物の駄目野郎だ。男じゃない。はじめて見たぞこんな奴は」
「賢い現代人は賢い勝負をするのです。僕は賢い現代人見習いなので今日はお散歩をして帰るのです」

 背を向けて去ろうとした僕の背中が、ガシッと掴まれた。怪力だ。しかし、手は意外に小さい。

「まあ待てよ。な?」

 何か目の奥でギラギラと燃えるものを感じる。昭和のスポ根でよく見る暑苦しいあれだ。

「何だよ、熱血女……」

 失礼だと分かっていながら、苛立った口調が抑えきれない。
だが彼女はそんなことはどうでも良いとばかりに、口火を切った。

「そこまで言うなら、お前の得意分野で勝負してやる。何でも良いぞ、ぶちのめしてやる」

 何だろう。この好戦的な態度は。髪も金色だし、生まれついての戦闘民族なのだろうか。恐れ入る。
だがこの手の連中の弱点など見通している。この自分が勝利すると確信している馬鹿の鼻をあかしてやらねば気が済まない。
普段ならば考えられない程、きっと僕は激昂していたのだ。
何を言われても、どんなに罵倒されてもきっと冷め切った心は動かなかった。
それでも、許せない言葉はある。
安易な、それでいて誤ったの救いを自信満々に口にするソフィストだけは決して許してはならない。
僕は口許を歪め、言葉を発した。

「円周率、どこまで言えるか勝負しろ。マッスル女。現代人の力を見せてやる」









 長いようで短かった死闘の果て、息を吐く。久し振りに全てを出し尽くした気がした。
世界地図を見ながら国名を覚えては数を競っていたあの頃を、僕は何故か思い出していた。
絶対に負けたくない。何が何でも勝ちたい。こいつにだけは、こんな奴だけには負けたくない。
胸を焼く熱意は、こんなにも心地よいものだったろうか。
"セントビンセントおよびグレナディーン諸島"と自信満々に言う少年に対して、
"グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国"と答えた僕。
あの頃の昂奮は、もう消えて無くなってしまっていたのだと思っていた。
そんなものは死んで枯れ果ててしまったのだと思っていた。
そうではなかったのだ。俯き、努めて声を抑えて僕は呟く。


「笑わせる。時代遅れは僕の方だったか……」
「訳分からん事を言うな。とにかく私の勝ちだな」

 わざわざ人を呼び、茶屋で祭り騒ぎを開いての大勝負。地底の人は本当にドンチャン騒ぎが好きなのだ。
ちょっと何かあればすぐに人を呼んで酒を呷って暴れ出す。
今回の僕と星熊さんの対決(といえるのかどうかすら妖しいそれ)も、常の騒ぎの余興と同じく一、二分で決着を迎えた。
白けはしないかと思ったが、なんのなんのであった。

 やれ流石姐さんだ、やれ残念だったな小僧、だの快活な声が飛んでくる。
賭けに勝っただ負けただという阿鼻叫喚もちらほら。
辺り一面茶菓子と酒が飛び交う。茶菓子が振る舞われるのに何故酒か。

「やー、驚いたわ」

 はっとして振り返ると、水橋さんが立っていた。
目をまん丸にしている様子が常より幼く見えて、その落差がたまらなく魅力的だ。
しかし右手に菓子、左手に杯という飲兵衛スタイルは保たれている。
地底の人々はマイ杯を常に持ち歩いてるのではないだろうか。
少し恐ろしい仮説を持ち上げてしまった。忘れよう。

「ただのへたれたデブかと思ってたら、あんた星熊勇儀に喧嘩売るって……意外に度胸すわってんのねえ」

 感心感心、と彼女は二度頷く。どうも、話が変な風に伝わってしまっているらしい。
しかし。

「度胸って……それどういうことですか」

 問い返すと、どうもこうもと彼女は手をヒラヒラさせる。

「あんた、鬼に負けたら連れ去られて喰われたって文句言えないのよ。
どうせその辺の事知らずに勝手に喧嘩売ったんだろうけど。アホが」

 返す言葉もない。星熊さんは鬼だったのか。しかし人を食べるとは。とても想像できない。
酒持ってこい酒、と叫ぶその姿からは化け物の片鱗すら窺えない。異質なのはその赤い角ばかりだ。
あれで人を突くのだろうか。なんだか想像したら笑えた。

「おーい、おい、そこな鬼」

 その勝利者に、水橋さんは声を掛ける。星熊さんはどっこいしょと振り返ると何だ何だと愉快そうに笑う。

「捻くれ橋姫までやってくるとはどういう了見だ。珍しいじゃないか」
「気分よ。それよりあんたが喧嘩売ったそこのピザ。そいつウチの子だから、喰うのは承知しない」
「ああ。別に良いよ。そんなことしたら"教育"の意味が無くなる。な、ピザ」
「……勝っても負けても熱血バトルなんて、馬鹿馬鹿しい。喰うなら喰えばいいんだ」
「そういう腐った精神……さぞ美味いんだろうけどなあ」
「喰うなよ?」
「へいへい」

 水橋さんが庇ってくれるのが申し訳なくもあり、ありがた迷惑でもあった。
食べられるものなら食べてみろと誰も居ない暗がりで吠えれば、人生をそこで終えることが出来たかもしれない。
いや、終わったのだろう。おお豪傑め気に入った、などと言われてばくりと頭から喰われてお終いだ。
それはそれで悪くない。

「ま、ここの払いくらいは持って貰うけどな」

 彼女の言葉に、僕は思考を止めて硬直する。一文無しだからだ。どう返答したものか。真実を語らねばなるまい。
そう思い、口を開こうとするのだが言葉が出ない。緊張しているのだ。
予想しない事態に、僕はいつも弱い。どうしよう。
ここで騒いでいる人が皆僕の情けなさのせいで白けてしまったらどうしよう。
考えはぐるぐると、ぐるぐると巡るだけでどこにも行き着かず――

「ほいほい。これくらいで足りるかしら、と」

 水橋さんが、じゃらじゃらと。大量のお金を星熊さんの前に積んだ。

「な、何をしてるんですか貴女は!」
「支払いだが」
「し、支払いだがって……」

 対する星熊さんはお金を払い、残りをちゃっちゃと懐におさめてしまった。
水橋さんは気にした風もなく酒をちびちび舐めている。

「ちょっと待ってくださいよ。今の大金じゃないんですか」
「割と」
「な、何ほいほい払ってんですか」
「あんた一文無しじゃないか」

 言うと、星熊さんが腹を抱えて呵々大笑した。

「なんだ、こいつ人間なのに金持って無かったのか!」
「働いてないからねえ。妖怪なのに金を持ってる私らとはどっこいどっこいだろ」

 もぐもぐと饅頭を噛みながら水橋さん。

「いや、あの……水橋さん」
「何だよ」

 うっさいやつだ、という空気をぷんぷん漂わせる彼女に問いを発そうとして

「無粋だなあ、ピザは」

 星熊さんから声がかかる。

「ウチの者を守る見事な甲斐性、此処の連中なら誰だって見せびらかしたくてたまらないんだ。
あんまりぐちぐちすると白けるだろ。みんな水橋のちょっと良いトコ見て感動してんだから水さすなよ。
本ッ当空気の読めん奴だ。古明地のアホと気が合うのも分かるわ」

 肩を竦めて星熊さんがまた酒を呷る。そういうこと、と言い残して水橋さんも去る。
僕は何と言って良いのか分からなかったので、

「古明地さんを悪く言うのは止めて下さい」

 そう返す事しかできなかった。星熊さんは済まん済まんとやはり笑う。

「でもまあ」

 彼女の目が一段鋭さと輝きを増した。

「いくらクズのお前でも、恩人にここまで迷惑かけたらウジウジしてられないだろ。なあ?」

 ニヤァ、と底意地悪くまるで鬼のように笑う彼女を見て、はじめて嵌められたのだと気がついた。
この人――頭が切れる。腕っ節の方も凄いのだろうが、僕などとても及ばない知能の持ち主のようだった。
ただの熱血女では、無かったのだ。僕を挑発したのも、ともすればわざとなのかもしれない。
流石にそれは、考えすぎだろうか。

「後で彼女の払った額、教えて頂けますか」

 そう申し出ると、星熊は馬鹿も休み休み言えよ、と手を振った。

「何も言わずに、さっき水橋が払った倍以上の金をドォンッと叩きつけてやるのが格好いいんじゃないか。
グチグチグチグチ口ばかりのアホが。お前顔も駄目なら体格もだめ、心も駄目で猿にも劣るんじゃあないか?
黙って働け、そして水橋に美味い酒でも買ってやれよ」

 僕は黙って、はい、と答えた。どこで、どうやって働けば、とは問えなかった。
問えばまた無粋と叱られるだろうから。
彼女は豪傑らしく敵に塩を送るのを惜しまないようだが、しかし尻拭いはそれとは別だ。
僕にも、なけなしの恥と分別がある。

「それから」

 背を向けようとした僕に、彼女は続けて言う。

「お前、結局負けたくせに何の損もしてないんだから、私の扱きはたんまり受けて貰うからな。
せめてその醜い脂肪の塊がどうにかなるまでは、だ。覚悟しておけよ。気に入らない奴に私は厳しい」
「……はは」

 これは働く前に死ぬかな、とぼんやりそんなことを考えた。
大きな街の一画でやいのやいのと騒ぎが続く。
それは当事者が去った後も勢いを増し、地の底に夜が降りてくるまで終わることはなかった。





 帰路、雇用に関する広告などどこにも転がっていなくて(地底は個人経営の商売が多いのかしらん)途方に暮れていた僕に、
両手に重そうな買い物袋を提げてえっちらおっちら歩いていた古明地さんが館の雑用を斡旋してくれた。
こちらが何も問わずとも意をくみ取る、相変わらず凄い人であった。

 だがこの偶然の邂逅は、彼女にとっても、僕にとっても、きっと誤りであった。
思い返せば、僕は間違った選択肢ばかりを歩んできたのである。
なんだか馬鹿馬鹿しくて、情けなくて、どうしても笑いが止まらない。



[24754] 第五話 おんなじ道徳、みんなしやわせ
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/08 22:59
 古明地さんの邸宅は「地霊殿」という立派な名前を持っていたらしい。
僕のような小市民は家に名前を付けるという感覚が今一つ掴めないのだが、この館は確かに名前を与えるに相応しい壮観である。
時代劇にでも出てきそうな旧都とは対照的に、地霊殿は洋館である。
床のタイルは赤と黒で構成されており、嫌でもスタンダールの著した同名の小説を思い出させる。
窓はステンドグラスだ。輝く陽光の存在が無いため、陰鬱な空気が充溢していた。

 意外にも明るい旧都の人々は確かにこの異質な館には苦手意識を持つかもしれない。
割とオープンな人たちが多いが、それでもやはりここまで閉鎖された場所に踏み込むのは至難だろう。
かつて問答無用で突撃してきた紅白のめでたい娘が居ただの何だのという噂を小耳に挟んだが、疑わしい。
紅白とはなんだ紅白とは。饅頭か。

 ともあれ地霊殿は良い。とても良い。動物がたくさん居る。動物は好きだ。見ていて和む。とても良い。
古明地さんも常は部屋に隠っているので、僕は大抵床をモップで綺麗にするだけが仕事である。
それでも広い上に動物が汚すので、割にきつい仕事ではあるのだが。

 さてこの動物たち、古明地さんのペットらしい。
動物は良い人間を見抜くというが、その俗説に依拠するのであれば古明地さんはいい人ということになろう。
よく気が付くし、優しいし、別段悪い所が見あたらない。
水橋さんにそのような事を言ったら、よっぽど曲解が好きなのだなと馬鹿にされた。
古明地さんに言うと、相変わらず変に視線がズレているのねと苦笑された。分からない。

 因みに古明地さんのペットの中でも一番のお気に入りが黒猫さんだ。お燐という名前である。
細い体で俊敏に動き回れるし空も飛ぶから普通の猫では無いのだが、
鳴き声はよく響くし、何より気品がある。僕がやってくるとロビーに来て一声鳴いてくれるのが嬉しかった。

「にゃーん」

 今日もまた、彼女が(お燐は雌だ)鳴く。僕の何が面白いのか、時々掃除するとついてくるのだ。
なんだかむず痒いような心地がする。僕のようなクズにも、猫は平等に接してくれる。

「お燐、君は行儀が良いなあ」
「にゃーん」

 彼女はまた一声鳴くのだった。お燐は今日もお澄まししてキャットウォークである。
聞けば猫は常につま先立ちなのだそうだ。
猫に限らず、少なくない数の動物がそのような歩行をするのだと古明地さんに聞いた。

 地霊殿の床は磨き上げると淡い光を反射して輝くのが好きだ。
今まで自分の靴になど気を遣ったことはなかったが、最近はぴかぴかである。
服は面倒なので今まで通りジャージで通している。
水橋さんにダサいと言われたのだが、服を買っている余裕はないのだ。
古明地さんは決して多くはない経費から僕の給与を捻出している。無駄に使う事は出来ない。
勿論、手を抜くこともしない。

 はじめは掃除の加減が分からず、古明地さんに立ち入るのを許可した区画の三分の一を磨き上げた段階で夜が来てしまった。
今では日が暮れるまでに(太陽は見えないが)全ての作業を終わらせる事が出来ている。
本当は夜も作業をしたいのだが、星熊さんが僕をサンドバックにするのでそれは出来ない。
立ち入る事の出来ない場所というのは、多分私室や動物の部屋などだろう。
あまり深く考えたくはない。人のプライベートに踏み込むのは良くないことのように思われた。
だが、安心である。入ってはならない場所には大抵大扉があり、そこには鍵がかかっているのだという。
僕は扉の前まで掃除すれば良いのだ。頭を使う必要はない訳である。

「にゃーん」
「よしよし」

 お燐が鳴くので顎の下を軽く撫でてみる。彼女は気持ちばかり喉をごろごろさせてくれた。愛想は良いが媚びない子である。

「さあ、もう一がんばりだ」

 因みにこれだけの重労働を行っているにも拘わらず体重は一向に減る気配を見せない。
星熊さん曰く脂肪が筋肉に置き換わっているのだから増えたっておかしくないとの話だが、恐らく筋肉もついていない。
僕の体は欠陥品なのである。疲労ばかりが蓄積してろくに痩せない。更に醜い。粗悪にも程がある。

「おや、■■。お燐も……」

 古明地さんが現れた。いつもながら唐突に出現する人である。
お燐は勢いよく床から飛び出すと古明地さんの肩にしがみついた。爪が出ている。
痛かろうに、古明地さんは気にした様子を見せない。ただ、体ばかりが前後にゆらゆらと揺れている。大丈夫だろうか。

「どうも、古明地さん。毎日お疲れ様です」

 頭を下げると、古明地さんはまあねえ、と溜息を吐く。
割にばばくさい仕草の多い人だが、見た目が見た目なので何故だろう、ひどくほのぼのとした気分になる。

「随分馴染んでいる様子じゃない」

 彼女は目を細め、意地悪く笑う。馴染んでいるのだろうか。
そうだとすれば、反省せねばならない。僕は人間として心も体も醜い。
あまり馴れ馴れしくしては他人に迷惑がかかってしまう。

「諫言ありがとうございます。慎みます」

 頭を下げる。古明地さんは、言葉はやはり使えないわね、と肩を竦めるばかりであった。
僕と彼女の遣り取りは常にこのような類である。期待はずれのことをしてばかりなのだ。
そのうち愛想を尽かされてしまうかもしれない。そうしたらどうやって働こうか。
どこかの店で下働き――無理だ。愛想も無ければ技術もない。
此処を蹴り出されたら僕にはもう

「良い仕事をしているわ。といっても……」
「にゃーん」
「そう。ならいいのよ。お燐も、我慢なさいね」 
「にゃーん」
「やれやれ」

 古明地さんは、動物とコミュニケーションが取れているように見える。
色々な動物に話しかけている古明地さんと、それに対する動物の反応は、時たま気味が悪くなる程だ。
勿論動物の知能は人間のそれより遙かに低いので、完璧な交流が成り立っているとはとても思えないのだが。
ただ、彼女の意図するところくらいは、動物には伝わっているのかも知れない。

「頑張っているようだから、後で宇治金時でも食べさせてあげるわ。楽しみにしていなさい」

 彼女の言葉に、慌てて要らん言葉が口をついて飛び出す。

「あの、その分のお金――」

 窘められるまでもない。

「す、済みませんっ」

 言うと、古明地さんはくすりと笑った。

「そうね。少しずつ隠せるようになるといいわ。お小遣いもあげるから、安心しなさい」
「いえ、その」
「あげるわ。主として示しがつかないもの。それじゃ、また」

 古明地さんは気分を害した様子もなく、手を振って去っていった。
お燐に足を引っ掻かれた。僕が完全に悪いので甘んじて受け入れる。
どうしてこう、最悪な事ばかり言ってしまうのだろう。口に戸を立てねば、と意識するのだが長続きしないのだ。
思考は流れ、絶対に定着しない。しかしそれを定着させねばならない。

「後でまた謝罪しないと……お燐も、ごめん」

 猫に頭を下げるのは変だが、そうしなければならないような気がしていた。
お燐はもう気にしていないかのようにフロアをうろうろしている。


 再び掃除を再開することにした。長い長い廊下を掃き続ける。
単純作業は嫌気が差す人が多いのかも知れないが、僕にとっては打って付けだった。
いつまでも思考の海に没入していられる。拭いて、拭いて、拭き続ける。
そうすると意識が一本の線のようになるのを感じる。
視界がぼやけ、一点のみが克明に見えてくる。その空間に浸るのは心地よかった。

 汗が流れる。やはり体を動かしているとすぐに熱を持つ。
生来の汗かきであるのも影響しているのだろう。だらだら流れる自分の水は、汚らしかった。
脇の部分がすぐに濡れてくるのも嫌だった。

 窓から差し込む光の柱が美しい。白色の中に僅か埃が舞っている。
地底であるというのにこれは天上の趣だ。
それはあまりに神々しく、己のような人間がこの場に居てよいものか純粋な疑問を抱きたくなる。
常の自己否定を経由せずして、そのまま素直な畏敬が先立つのだ。

 ああ、美しい。僕はこのような美しい場所で――

「にゃーん」

 猫の鳴き声で、ふと我に返る。此処は、どこかしらん。
見覚えのない、いやに開けた場所だ。天井がとても高い場所にある。
掃除していながら、僕は入ってはならない場所に足を踏み入れてしまったのだろうか。

「にゃーん」

 いや、それはありえない。お燐が何かそわそわしている。
ともかく、僕が侵入を禁止された区画に入ることは不可能だ。
何故なら前述の通り入ってはならない場所とはすなわち扉で閉ざされた、その先の場所のことだからである。
少なくとも、古明地さんが僕に入ってはならないと言ったのは、扉の先だ。
故に僕は長い廊下やロビー等の掃除を専らとしていた。それだけでも広大なのだ。

 さて、この場合はどう解釈すれば良いのだろう。
古明地さんが僕に入ることを許可してくれたのか。そう安直に考えて良いのか。
否である。扉が偶然開いていたとしても、僕は古明地さんの意見を聞きに行くべきだった。
何故そうしなかったのか。理由は簡単だ、思考に没入していて気づかなかったからだ。
床は延々と続く赤と黒。そして壮麗なステンドグラス。
物思いに集中していれば

――はて、僕はソモソモ考え事などしていたかしらん?

 目が覚めたような気分になる。
本当に僕は思考していただろうか。むしろ夢現のまま足を動かしていたような気がする。
常は集中して仕事に向かえていたはずだ。気が散ることなど一切無かった。
慣れから気が緩んでいたのだろうか。古明地さんはそれを窘めてくれていたのだろうか。
だとすれば、彼女が僕の不理解に呆れたのも分かる。
彼女は僕の他者への対応についてではなく、仕事への向かい方の疎かさをこそ責めたのに違いない。
馬鹿だ、僕は。呆然としたまま仕事を行うなど、一労働者として恥ずべき


 目の前に、「――」をぶら下げた少女が立っていた。


 視界がぶれる。一瞬、理解が遅れた。
目の前に立っているのは、緑がかった(光の加減だろうか)銀髪の娘だ。
頭には黒い帽子を被っている。それは少女によく似合っていた。
身に纏っているのは黄色を基調とした衣服で、古明地さんと同じコードと目玉を持っている。
ただ眠っているのか何なのか、コードの目玉は瞼を降ろしていた。
そういえば、古明地さんの目玉が眠っているのを僕は見たことがない。

「あんた誰?」

 少女の声が館に反響する。彼女はやはり幻ではなかった。
幻のように唐突に現れはしたが、彼女は確かに実体を持っていた。
そして、彼女の手の先には、腕が握られていた。

 彼女が握っているのは、人間の男だ。見知らぬ彼が動く気配が無い。
見知った現代日本の洋服は血に汚れていた。少女が掴んでいない方の腕には、血濡れたナイフが握られている。
苦渋に満ちた顔をしたまま、彼は目を見開いている。何も語らない。

 死んでいる。

「……いっ」

 まず、唾を飲み込んだ。僕は適切な化粧を施される前の死体というものを今まで見たことがない。
葬式に出たことはあるが、誰も彼も皆安らかな顔をしていた。死とはそういうものだと理解していた。
だが目の前の彼はどうだ。この引きつった表情はどうだ。怒りと恐怖に充ち満ちた顔はどうだ。
気が付いたら、フロアに腰を落としていた。足が震えている。
妙に太股があたたかいなと思ったら、綺麗にしたはずの廊下に水が広がっていた。
失禁していたのだ。

 汚いと思った。拭わなければと思った。しかし体が動かない。
ついで一瞬吐き気が襲う。我慢するという思考が働く前に、朝食が吐き出される。
水橋さんが、僕の恩人がわざわざ早起きして用意してくれたご飯――

「う、あ」

 この時僕はどこか惚けたまま、自分自身を見下ろしていた。
顎からドロドロと白いものが流れ落ちる。鼻からもだ。すっぱくて、臭い。
そうだ、随分前に分かっていた事ではないか。
妖怪とは人を襲う者だ。そして知人である星熊勇儀は人を喰らうと言っていたではないか。
記憶は定かではないが、確か水橋パルスィも生贄だの何だのと口にしていたはずだ。
僕はそれを言葉の上では確かに理解していた。だが、受け入れていなかったのだ。
言葉を耳にしただけで、その意味から、それが表現する世界から逃げ出していたのだ。
古明地さんは度々言葉への不信を口にしていた。それは、つまり。こういうことを示していたのではないか。
恐らく彼女は僕のこういった不理解を心配していてくれたのだ。

「おーい、お兄さん。ちょいと、大丈夫?」

 少女は掴んでいた男を放り出して僕の方へと駆けてきた。その表情には明らかな心配の色が浮いていた。
"仮に妖怪が人を襲うものであっても自分だけは例外"、僕はそんな妙な意識の中で生きていた。
そして何故か、この少女との対面に到っても、それは真実であるようだった。
だが、声が出ない。この快活な少女を前にして、
わざわざ心配して尿と吐瀉物が撒き散らされた場に平気で乗り込んできてくれた優しい女の子を前にして、
何も言うことが出来ない。唇がひくひくと痙攣するばかりだ。

「ねえ、何か言ってくれないと分からないってば。私は姉とは違うのよ」

 そう言って彼女はぺしぺしと僕の頬を叩く。それが何故か僕を震いあがらせた。
無意識に発されそうになった絶叫を抑え付けた結果、再び猛烈な吐き気が襲いかかってきた。
だが、吐くものがなかった。結果、息を詰まらせて涎を滴らせるに留まる。
げえ、げえっ、と汚い声が零れる。僕は、声まで汚かったのだ。
声だけは、父親似の低音で自信があったのだが、そんなものは嘘っぱちだったのだ。
やはり僕は全てにおいて汚いのだ。汚い。

「うーむ。こりゃ駄目だ。ここまで変に怖がるって事は」

 彼女は僕の目の前で首を捻る。

「こいつ悪者、なのかしら?」

 視界から、銀色の髪をした少女が見えなくなった。頬が汚れた床に打ち据えられた。
偶然、死んだ男と目があった。彼は目を剥いている。唇も引きつっている。しかし、僕は恐らくあれよりも醜いに違いない。
近くで女性の声が聞こえた。聞いたことのない、だが何度も耳にしたことがあると確信できる声だった。
腹の辺りが、とてもあたたかい。ステンドグラス越しに届く斜光は美しかった。
僕は思う。

 このような美しい場所で死ねたら良いのにな、と。






XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX







 ズタ袋を投げ捨てたような音で我に返ると、■■が地面に伏していた。
床は血と、それから訳の分からない臭い液体で満たされている。
少なくとも、折角用意した宇治金時は無駄になってしまったようである。
お燐が慌てたように声を上げている。問題が起こらないように監視させていたのに、何をしていたのか。
やっぱり死体好きに任せるべきではなかったのか。とはいえ彼女以上に頼れる子は思い浮かばない。
まさか傲慢で阿呆な某鴉のような奴に一任するわけにも行くまい。ともあれ。

「貴女はいつもいつも、どうして厄介ばかり持ちこんでくれるのかしら」

 伏している二つの体。片方は別にどうでも良い。何の変哲もない外来人のそれだ。
心の残滓めいたものが、まだ僅かに見える。あまり好ましいとは思えない、人殺しの心だ。

「燃料に良い人間が居るから、持って帰ってきたのよ。前、お燐が困ってたから」

 けろりとして、妹――古明地こいしが言う。お燐が何か言おうとしたが、制す。
場がややこしくなるだけだ。

「それは良い行いをしましたね。褒めて上げます。そういう人間は幾ら殺しても良いです。
部屋に飾るのにも、趣味が良いとは思えませんが目を瞑りましょう」

 あら、とこいしが小首を傾げる。

「今日は随分と機嫌が良いのね。そのデザートは何? 私にくれるの?」

 心を閉ざすとは、つまりはこういうことだ。言葉はやはり、不足である。
不足した言葉でどうにか伝えようとするから、汚い心をどうにか綺麗にしようと苦悩するから、
生きるものは素晴らしいのである。賛同する者は少ないが私はそう信仰している。
そして、最近珍しく賛同してくれたのが、目の前に転がっているもう一人の男、■■である。
セックスアピールとしての魅力が皆無であるのに加え、性格も破綻している。
その破綻の具合も不愉快な方向に振り切れている。
おまけに、何の才もなく常にウジウジとしていて情けない。

 だが。私はそれでも足掻こうとする姿勢だけは評価していたのだ。
故に目を掛け、少しばかり世話でもしてやろうかしらんと思ったのだ。
だからあの祭りの夜、水橋パルスィに彼を拾うよう無理を言い、
気の合わない星熊勇儀に頼み込んでまでこいつの矯正をはじめてみようと奮起したのだ。
その折角の頑張りが、これでぱあ。

「こいし。不愉快なのでどこかへ消えてくれませんかね」

 この子に対して言葉を飾ることに、意味はない。
彼女はぱちくりと瞬きをしていたが、やがて腕を組んで首を傾げた。

「やっぱり人の心は分からないねえ」

 反吐が出る。サトリの口がそれを言うか。私は雑魚が嫌いだ。思考放棄した馬鹿はもっと嫌いだ。
そうだ。この目の前で倒れる男の良さは思考放棄しないところにあるのだ。
意味不明で馬鹿馬鹿しく愚かな方向に突っ切ってはいるが、考える所に美点があった。
無理矢理良いところを見つけようとしていることは、重々承知している。
私には人の醜さばかりがよく見える。
故に誰に会ってもその良い点を無理矢理探して無理矢理自分の心を騙さねば、交流がままならない。
この男は、特にそれを必要とした。褒められる部分があまりに少ないからだ。
本当に、人間のクズだった。しかし、殺されるべき人間ではなかった。
彼は心の底から自殺したがってはいなかったし、人を害そうなど微塵も考えてはいなかった。

ただ、「助けて、助けて」と幼児の如く叫び続けていた。故に私はその手を取った。
世界は汚い。世界は汚いが、その世界を綺麗だと無理矢理己に信じ込ませるためのそれは欺瞞であり、偽善であった。
しかし。

「貴女には、そこに転がる襤褸雑巾のクズと、今倒れている人間との区別がつかないのでしょうね」

 まだ息がある。意識は失っているが、治療は容易い――と思う。
地上には名医が居ると聞くが、その者の手を煩わせるまでも無かろう。

「お燐。そっちのゴミは後で良いから、■■を治療してあげて頂戴。それと、後でおしおきだから」
「うう……はい」

 恐らく、■■はそこで死んでいる人間を同類と見るのだろう。
私にはそれが出来ない。そこで死んでいる男は食料か敵か燃料にしか見えない。
そもそも一昔前までは食べて良い人間と食べてはいけない人間の区別も特にしなかった。
今は区別して生きているが、なかなかに楽しい。生が充実している。
地上には妖怪の脅威を伝える書を編纂する人間の娘が居ると聞いたが、
その娘も妖怪と生きる一つの妥協点を見つけつつあると言っていたのを記憶している。
そこに地底の妖怪は含まれないのだろうが、まあ、実に明るい未来が描かれているではないか。
欺瞞と虚飾に彩られてはいるが、涙ぐましいその努力は評価に足るのではないか。

 ■■は視線をズラして生きている。それ自体はただの逃げだ。私には出来ない。羨ましい。
しかし、そうすることで彼がこの私、古明地さとりをすら恐れずにいられるのなら、
それは立派だと褒めても良いのではないだろうか。
誰かと共存しようとする叫びだと受け取っても過剰とは言えぬのではなかろうか。

「お姉ちゃんの言うことは、意味不明だよ」
「貴女は誰も理解しない。まだ目は二つあるのに」
「それで十分。私は無意識を手に入れたわ。
でも……少しは地霊殿の皆の役に立てたと思ったんだけどなあ。これでも、割と負い目は感じているのよ」

 お燐が■■を背負って去っていく。

「なら、■■に謝っておきなさい。彼は悪い人間ではないの」

 言うと、こいしは目を丸くした。ついで、うわあ、と万感の思いを込めたように見える溜息を吐く。

「そりゃ……悪いことをしてしまったよ、私は」

 片手で顔を覆って、こいしは項垂れる。彼女は元々が繊細な子だ。そうでなければ目は閉ざさない。
否、多くサトリは数十年から百年程度で"見える"ことに絶望してその命を絶とうとする。
その点では、私の方が異質なのだと言える。
何百年経ってもサトリであり続けるものは、それだけで常軌を逸している。
そうでなければ、ここの管理などという面倒な仕事を押し付けられてはいない。
まあ、人徳もあるのだろうが。私は自分で言うのも何だが、結構性格が良い。
嫌われ者だが、良い奴だ。皆もっと偏見を捨てて私と話してみるべきである。

「ねえ、お姉ちゃん」
「何かしら」

 こいしは反省したようなので、私の不機嫌も大分収まっていた。
人間はそれを薄情な、と思うのかも知れない。だが、やはりその程度なのだ。
私にとって、人の生死とはやはりその程度の問題でしかない。
■■が死んだら勿体ないと感じ、怒るだろうが、せいぜい三日もすればこいしを許してしまうだろう。
大事な家族と、先日知り合ったばかりの取り得なき人間のクズ。
優劣は語るまでもない。そもそも、死など長命な我々は見慣れているのだ。
それすら一種の趣として楽しんでしまう節がある。詰まらない連中の死なら、意識することもない。
ふうん、死んだの。その程度だ。
根本的に、妖怪と人間では倫理規範が異なっているのである。
故に、閻魔の裁きも人妖別の定規で行われると聞く。真偽のほどは定かではないのだが。

 こいしが口を開く。

「その宇治金時……もしかして、さっきの男に用意してあげてたの?」

 正しく目を使い、耳を使い、頭を使わないから。見ただけで分かるような事も分からない。
愚かだ。私は自分の妹が愚かであるとは思いたくはないが、愚かだとしか思えない。
ここで答えを与えなければ、彼女の頭に残るのは間違いなくクエスチョンマークなのだろう。
どうしてこの世界の住人は揃いも揃って間抜けばかりなのか。ほとほと、嫌になる。

「そうね。頑張ってこの館を掃除してくれた彼への、これはご褒美」

 忌々しさと共に、そう口にする。
こいしの歩んだ道は、何時間もかけて彼が磨き上げた輝く道を、無粋な血糊で赤く染め上げていた。
私は心ない者共の、こういった振る舞いが何よりも嫌いだった。
宇治金時は、すっかり溶けてしまっていた。


 遠く、雨の音が聞こえた気がした。



[24754] 第六話 努力アピールしてる奴のウザさって何だろうね
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/09 00:36
 仄暗い視界に白い光が靄の如く漂っている様を想像できるだろうか。夜の濃霧に抗う街灯の光、あの感じだ。
その不確かな舞台の中でハッハッと息を切らして走っている男の姿がある。あれは、「僕」だ。
ピチピチの体操服は汗に濡れて透け、腹の肉が大いに揺れている。
顔は苦痛に彩られ、腕は無駄に大きく上下に振られている。実に、滑稽だ。
霧が僅かに薄くなる。「僕」が走っているのは、広いグラウンドの外周だ。
サッカー用のゴールは隅に追いやられ、テニスコートに立つ者もない。
学校の灯りはただ一画(職員室かしらん)を残し全てが消え落ちている。

――これは、走馬燈か何かだろうか。

 遠く談笑の音が聞こえる。ああ、これは間違いない。中学の頃の思い出だ。
自分の弱さに申し訳なさを感じて、それでも頑張ろうとしていた間抜けな僕の過去の姿だ。
当時の僕は軟式テニス部に所属していた。ダブルスで僕と組んだ人は運動音痴だったけれど、僕ほどではなかった。
一試合をまともに駆け回る事の出来ない僕は、彼にとっては大いなる邪魔、荷物でしか無かっただろう。
実質一対二だ。彼は僕という疫病神のために、一勝すらあげることができないでいた。
確かこのような無駄な足掻きをはじめるようになったのは、我々が部長から戦力外通告を受けたのがきっかけだった。
役立たず扱いは、いつものことだ。
ノリも人も良い彼は、故に常はそれをヘラヘラとやり過ごし僕を慰めてくれるのだが、この日に限ってはそうではなかった。
沈痛な面持ちで俯き、彼は歯を噛み締めていた。

 後に小耳に挟んだ事だが、この時彼は初めての彼女が出来たばかりだったらしい。
その彼女に部活で格好いい所を見せることが出来ない。
大人は何だそんな些事と笑うかもしれないが、中学生の社会では名誉に関わる大事である。
僕は悔しそうに俯く彼から、

「相棒がお前じゃなかったらと思うよ……ごめんな。こんな事言ってさ」

 と零されたのを記憶している。
彼は確かに運動は下手だが、それにしても相棒が僕でさえなければ一勝くらいまぐれであってももぎ取ることが出来よう。
悪いのは全て僕だ。故に、当時の僕は当然の帰結としてこう考えた。
自分が努力すれば、努力して足手まといにならないようにすれば良いではないかと。

 その日から部活が終わった後に、体力をつけ脂肪を落とすために必死で走るようにした。
素振りも何度もやった。壁を相手にいつまでもボールを叩き続けた。
勉学は疎かにしなかった。当時の僕にとって、考査の点数だけが唯一他者に誇れる美点であったからだ。

 しかし、一ヶ月が経ち、二ヶ月が経っても、僕はデブだった。弱いままだった。
吐いて倒れて入院したりもしたが、無駄だった。
友人も、部長も、僕に何も言わなくなった。当たり前だ。彼らは"優しい"のである。
"必死で、死に物狂いで、誰よりも努力した"僕を実力がないというだけで彼らは責める事が出来ない。
足手まといでお荷物で疫病神でしかない僕を彼らは排斥する事が出来ないのである。

 友人は、だから僕に対して言いたい事を言わなくなった。代わりに曖昧な笑みを浮かべるようになった。
部長は僕に対して辛辣だがクリティカルな意見を出さなくなった。
代わりに、頑張ってるな、お前は凄い、とそれだけを機械のように繰り返すようになった。

 それでも当時の僕は何かが変わるのではないかと信じて、走り続けた。
どんな物語でも、どんな漫画でも、映画でも、努力は絶対に報われるはずなのだ。
これだけ頑張っているのだから、もうこれ以上どうにもできないくらい頑張っているのだから、
結果は何らかの形で出るだろうと思っていた。
そうでなくとも、自分を納得させることくらいは、と考えていた。


 「僕」が練習を止めて帰っていく。ジャージを纏い、自転車に乗って帰路を急ぐ。
この頃には既にひどい面皰面だった。そのことで一時期いじめられはしたが、"努力"はそれを全て封じ込めた。
残ったのは消極的な排斥だけだった。教師からは良く褒められたが、それが全体何になろう。
今自転車に乗って家路を急ぐ「僕」は気づいていないのだ。
彼は自分のことを底辺で藻掻き、這い上がろうとしている悲劇の主人公だと思い込んでいる。
馬鹿だ。ありえない。ふざけるな。
当時の僕は、間違いなく癌以外のなにものでもなかったというのに。
僕が居るだけで、和やかな空気は雲散霧消する。
青春の朗らかな空気の中で、一人だけマジになっちゃってるキモい奴。
しかもマジになってるくせに空回り。更に、諦めない。
害悪である。その害悪に気づかないのが僕の僕たる所以なのである。

――だが、僕はそのことで正しく裁きを受ける事となる。

 家にたどり着いた「僕」は自転車を止め、白く大きな扉を開く。
いつものような、おかえりなさい、という威勢の良い母の声が聞こえない。
家全体がなんだか重く沈んでいるような感じだ。
「僕」は今日は母は機嫌が悪いのかしらん、などと馬鹿な事を考えていた。
それから彼はゆっくりと、リビングへと通じるドアのノブを引っ張る。

 部屋の中央で、母と妹が声も無く泣いていた。

 中学一年生の妹は、未だ制服姿だ。綺麗だったはずのセーラー服は、何故だろう、泥にまみれている。
彼女は「僕」を見上げると、一瞬目を見開き、何かを叫ぼうとし、口を閉じ、そしてまた静かに涙を落としはじめた。
母は、帰ってきた僕を見ると、口を両手で覆い、「ウッ」とまるで嘔吐を堪えるような顔をした。
何が起こったのだろう。「僕」は馬鹿だからさっぱり状況が理解できていない。
キョロキョロと道化のように首を動かしている。
椅子に、父が項垂れて座っていた。いやに早い帰りだ。恐らく急ぎだったのだろう、彼もまたスーツを脱いでいない。
普段は心穏やかで、少しだけ気の弱く俗っぽい所のある父が、沈痛な面持ちで唇を噛んでいた。

「父さん」

 無知な「僕」はこれは如何なる状況であるのかを問う。父の目には涙が浮いていた。
彼のこんなにも悔しそうな顔を見るのは、子供としてショックであった。
父親は、無敵であると、阿呆な僕はそう信仰していたのである。

「■■」

 彼は、絞り出すように口を開いた。まるでこの世の全てを呪っているような調子だった。
震える声で呼ばれたそれが自分の名前であるとは、故に「僕」は気づかなかった。

「□□はな。帰りに、汚水をかけられたんだと」

 馬鹿な。「僕」は妹を見る。彼女の服は濡れ、汚れていた。見れば頬には泥が付着している。

「だって……」

 此処に到っても何も理解していない「僕」は善意の第三者のように振る舞う。

「妹、クラスで人気あったんじゃなかったっけ? 僕とは違うだろ。なにもかも……」

 父の肩が強張るのを感じた。口を開きたくない。そういう空気が張り詰めていた。
母が、父に強い視線を投げかけていた。妹だけが、床を見つめて涙を落としていた。
ただ一人腑抜けのようにぽかんと間抜け面をしている「僕」に、父の目が向けられる。
左唇の端が、大きく下方向に歪み、震えていた。目尻もだ。泣く寸前の、子供のような顔だった。
彼が、父が、叫ぶように言葉を吐き出す。

「気持ち悪い■■の妹だから、と言われたそうだ……ッ!!」

 鞄の落ちる音がした。
走馬燈という立ち位置を得てはじめて、僕はそれが「僕」の落とした鞄が立てた音であることを理解した。

「昼休みも席から離れず勉強するから、それが邪魔で友達同士でご飯が食べられない」

 ぽつり、と妹が口を開いた。

「部活が終わった後はぱーっと遊びたいのに、■■が走ってるから、それもできない」

 感情が抜け落ちたような、変な音の調子だった。

「どうせあんなキモいのがどれだけ努力したって無駄なんだから、
有用に使える俺達に渡すべきなんだって……言ってた」

 膝が落ちた。それは僕へ向けた全ての人々の意見の集約であった。
妹がこの意見に賛同していないのは、明らかだった。
今まで信じてきた美しい何かに裏切られたような、そんな虚ろな表情を妹はしていた。
愚かな「僕」にもこれだけは理解できた。妹の綺麗な世界を破壊したのは自分である。

 "頑張っている自分"に酔って、自分以外の何も見ようとしなかったエゴイストが支払う事になった、これが罰金である。
今まで見ようとしなかった世界の一部が、急にありありと浮かび上がってくるのを「僕」は感じた。
ズレていた視線は正しい方向へと導かれ、虚飾は剥がされ真実が浮かび上がる。
その大いなる腐敗を前にして、
真症のクズ人間であるところの「僕」は(そして僕は)何も口にすることが出来ずに立ちつくした。

 やがて「僕」は部屋を出た。妹に一言をかけることすら、しなかった。
何を言えというのだ。この時に既に「僕」は学んでいた。
自分の行動如何によって最悪の状況をいつでもひっくり返せる、そんな奇蹟などこの世に存在しないことを、遅まきながら知った。
故にこの時の「僕」の最良の手は妹に何もしないことだ。何も言わないことだ。
それが最良であったことは、今彼を俯瞰するこの僕が太鼓判を押しても良い。
「僕」は階段を上る。霧に包まれた世界を、霧に包まれた意識の中でのぼり続ける。
そして、軋む廊下をフラフラと歩き、自室の扉を開き、そのまま崩れ落ちるようにベッドに倒れた。

 しばらくの後、嗚咽の音が響きだした。阿呆が居る。何故、加害者が泣いているのかしらん。
加害者に泣く資格などないというのに。馬鹿だ。此処にいるこいつは馬鹿だ。やはり死んだ方が良いのではないのかしらん。
この走馬燈という立場に居る僕が、引導を渡してやることは出来ないだろうか。

――ハレ、ソモソモ何故僕はこの場を走馬燈であると断じたのであったかしらん。

 意識は揺れ、溶けて消える。そうして僕は「僕」を見る。彼は、祈るように手を伸ばしていた。
思わず、笑ってしまった。醜い手だ。ぶよぶよに太って、脂肪が揺れて、浅黒い。こんな汚いものは他にない。
その手を掴んでくれる人などいない。何故彼は理解できないのか。数年経ったところで何も変わらないぞ。
何なら僕が手を伸ばしてやったっていい。どうせ同じだから。
口許を大きく歪め、傍観者だった僕ははじめて行動する。ジャージから伸ばした手を、ただひたすらに、霧の向こうへ。
天まで届けと持ち上げる。もし都合の良い神様が居るのなら、僕の手を握ってくれるはずだ。
しかしそんなものはありもしない。それを確認するための、これは儀式だ。
結局全ては無駄なこと。伸ばしたその手を僕はゆるゆると引っ込め




 醜い手首が、白く細い指にはしと掴まれた。






「ピザ」

 耳に心地よく響く声。目を開くと、シックな木調の天井が目に入った。窓がない。ここはどこかしらん。
どうやら僕は寝ているらしい。白く重い布団を被せられていた。何だか体がとても重い。
視線をぐるりぐるりと動かす。すると、すぐ横の椅子に腰掛けている者が目に入った。

――"ペルシアンドレス"

 意識が急激に覚醒する。顔を上げると、そこには予想通りの人が居た。
金の癖毛、翡翠の瞳。暗いのに光っているように見える、どこか不思議な趣の少女。
橋の守り主さま。恋のトラブルプロフェッショナル。そして、僕の恩人。
あの時と同じく僕の手を優しく握り、呆れたように、淡泊に笑う彼女の名前は

「水橋、さん……?」

 掠れた声を上げると、こちんと軽く拳骨が落ちた。痛くはなかった。
こんな心地の良い暴力を受けたのは、生まれてこの方はじめてであった。
彼女は眉根を寄せて、はーっ、と長い溜息を吐いた。

「生き返りやがったし、こいつ」

 生き返り、とはどういうことかしらん。僕は記憶を巻き戻す。
そも僕は何故このような所に寝ているのかしらん。
水橋さんの家ではない。
よく分からない。まるで記憶の一部を鋏で切り取られたような感覚だ。

――走馬燈

 それがピースだったのか。頭にちかり、と光が瞬いた。
映ったのは、男の顔。どろりとした白目で、血を吐いて、倒れて、死んでいた。
彼の死んだ黒目が僕を恨めしげに睨め付けていた。何故お前は生きている。何故お前は死んでいない。
同じ人間じゃないか。なあ、分かるだろう。ここがどういう場所であるか――

「落ち着けよ。傷に障る」

 水橋さんの言葉に、暴走しかけていた思考が、ぴたりと止まる。
吐き気も、なんとか収まった。
ただ、つい先程のように、全ての救い主、万能の女神として、水橋さんを見ることができない。
何度も助けて貰ったのに。今だって手を握ってくれているのに。
一瞬だけではあるが、泣きそうになる程、彼女の優しさに溺れかかったというのに。僕は、クズだ。
何故クズだ。心の動きが幼稚だからだ。いつまでも、成長しないからだ。行動しないからだ。

「また、迷惑をかけてしまいました」

 声は震えていたが、涙は出なかった。加害者は涙を流してはならない。
僕はもう一度、深くそれを自分の胸に刻みつける。最近、ちょっと、泣きすぎた。
水橋さんは、そうだねえ、と深い息を吐いた。目の下に、隈ができていた。

「古明地のチビ介が問答無用で看病しろというから来てみれば、何だこりゃ。まあ、深くは訊かないけど」
「いえ、その……」
「内密にして欲しいって、古明地からの頼みだそうよ。あのチビもお前には恩人なんだろ。
何をどうやったらそのぶよぶよの腹に大穴空くのか興味はあるけど訊かないでやるからありがたく思え」
「は、はぁ」

 言うと、水橋さんは僕の手首に絡めていた指をといて、その手でわしゃわしゃと自分の髪を掻いた。
僕の肌の残滓が彼女を汚しているような気がして、ひどく恐ろしくなった。

「あんのサトリ妖怪、何を考えているのやら。
人間虐めて楽しんでるんだったら、厄介だから上の偉いさんにでも――」
「そ、そういうの無いですから!」

 慌てて、叫ぶ。腹が、ずきりと痛んだ。

「本当に? 迷惑するのは私たちなんだよね。あいつ一人突き出せば安いもんなんだけど」

 水橋さんは怪しんで目を細める。違うのだ、と僕は断固言い切った。
恨めしそうな男の顔がフラッシュバックした。済みません、と心中僕は彼に深く謝罪した。

「あまり深く言えませんが、これは僕のミスによるものなのです。
死んでも文句は言えないと思っていたので、古明地さんにはとても感謝しています」

 言うと、彼女は小さく肩を竦めた。

「お前がそう言うならまあ別に良いよ。スペカルールの決闘でも死ぬって言うしね。ま、そういうことにしとこうか」

 言っている事の意味はよく分からなかったが、彼女は疑問を飲み込んでくれたようだった。
水橋パルスィは馬鹿ではない。疑いを心に抱いているはずだ。それでも、脇においてくれた。
この人に、また一つ恩が出来てしまった。僕は、昔から何も変わらない。
ひたすら奪い続けるだけで、何も与えることが出来ないのだ。

「そうそう」

 水橋さんが手を叩く。

「言い忘れていたけど、あんたの体、随分消耗してるから、立って歩くのにも結構リハビリが必要みたいだよ。
痛みの方は腕の良い魔法使いが何とかしてくれるって話だけど、思い通りに飛んだり跳ねたりが出来るようになるのは先の話かもね」

 星熊さんの顔が思い浮かぶ。彼女のしごきを再び受けられるようになるのは、随分先の話になりそうだ。
水橋さんは、腕を組み、はぁっ、と軽い溜息を吐いた。

「ちょっと、残念ね」
「へ?」

 首を傾げると、彼女は実を言うと、と繕った笑みを浮かべた。気を遣われているようで、また僕は申し訳ない気分になる。

「実は近々、大きな競歩大会をやるつもりだったのよ。完歩できれば神の祝福があるだろうって、山の偉いのが主宰してきた。
あの鬼もそれを意識してお前をしごいてたんだろうけど……」
「で、出ます!」

 慌てて言うと、水橋さんはくつくつと笑った。その含み笑いを、久し振りに目にした気がする。
彼女は意地悪な表情を浮かべると、僕の額を軽く弾いた。長い耳と相まって、よく似合う仕草であった。
しかし、競歩大会。何だか、胸の辺りがざわついた。似たような、酷く嫌な思い出があったような……。
夢と走馬燈は似ているのか、もう思い出せない。そもそも僕が見ていたのは本当に走馬燈だったのか。
何故走馬燈だなんて思ってしまったのか。死にかけていたからか。また、男の顔が脳裏を占めた。

「言質は取ったぞ。死ぬ気でやるがよい」

 そのタイミングをついて、水橋さんが言葉を発す。本当に、この人は凄い。
まるで人の心が読めているように、的確なタイミングで話す。
割とマイペースな古明地さんとは好対照であった。

「でもまあ、距離も長いし、そもそも変に力んでまた倒れられてもうざい。
だから、そこそこ頑張るが良い。
鬼のやつは死ぬ気でやれと言うだろうし、チビはやるなと言うだろうけどね。
まあ、結局は好きな奴の言うことに従えばいいんじゃないか?」
「す、好きって」
「アホが。そういう意味で言ったんじゃない。こんな短期間で誰かに惚れるとか、ひくわ」
「ですよねえ」
「うむうむ」

 生まれてこの方誰かに惚れた事はない、という情けない事実は伏せておくことにした。
そんなキモいことを言って、彼女に不快な思いをさせるのは嫌だった。
否、違う。そうではない。単純にキモい自分の姿を水橋さんに見られるのが嫌だったのだ。
水橋さんだけではない。古明地さんにも星熊さんにも見られたくはない。
お燐に愚痴るくらいは、許されるだろうか……。

「それじゃあ、私は帰るから。ゆっくり養生しなさい」

 水橋さんは常のようにさっくりと話を打ち切って立ち上がる。
僕は未練なく歩み去るその背中に、慌てて感謝の言葉を投げかけた。
彼女はひらひらと片手を振って答えるだけに留めた。綺麗な髪が、左右に揺れた。


 ばたん、とドアが閉じる。

「競歩大会、かー」

 そんな大きなイベントに僕のようなクズが出て良いのだろうか。
ああ言ってしまったが、良くないかも知れない。
変な所で倒れられたら迷惑になるだろうし、曰く付きの大会になってしまう可能性もある。
負傷者が出るのは大きなスポーツの祭典にはつきものだと理解してるが、どうしても考えるのを止められない。
普段しっかり運動している人が倒れれば運が悪かったで済まされるかもしれないが、
僕のようなデブが倒れれば、自業自得だと笑われるだけではないのか。
そしてそんな無様を見たら水橋さんたちはどう思うだろう。非常に嫌な思いをするのではないだろうか。
ならば僕はやはり、参加を見送りゆっくり養生し、それからのんびりと星熊さんの指導を受けた方が――


 ふと視線を感じて首を動かすと、部屋の隅っこに女の子が背中を預けているのが目に入った。
黒い帽子に、黄色い服。緑銀の髪。水橋さんのそれとは趣の違う暗緑色の瞳。
黒い袖から覗く白く細い腕。白く伸びた足を包む黒い靴。
見覚えがあった。



「こんにちは。太ったお兄さん」

 含む所ない涼やかな笑顔の持ち主は、天井高く美しい立ち入り禁止の部屋で死体を引きずっていた、あの女の子だった。



[24754] 第七話 馬鹿が熱くなるとロクなことにならない
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/09 22:22
 喉がきゅう、と音を立てる。胃の辺りは燃え上がりそうな程熱いのだが、逆に体の末端や腋の下は凍えるような冷たさを覚えた。
全身にふつふつ鳥肌が立ち上がるのが分かる。体が緊張し、腹の肉が引きつって強い痛みをもたらした。
窓の無い暗い部屋に、少女が一人立っている。全ての感覚は、彼女の存在がもたらしたものだ。
銀髪の娘は黒い帽子の位置を正し、靴の爪先で二度床を叩いた。所在なげな仕草だった。

「あんたは……」

 その先は何と言葉にしてよいものやら判然としなかった。
思考があまりに鮮烈な映像としてのみ浮かび上がるため、文字化出来ないのだ。
輝くステンドグラス。白い光の帯。死骸。そして、この少女。
僕にとってはそれが1セットで恐怖と一種の原始的神聖を意味していた。

「謝りにきたのよ」

 少女の言葉はあの時と同じく邪気無く、そして傍若無人に響く。
僕には彼女の言っていることがよく分からなかった。全体この人は何をしたいのだろう。
ちょっと申し訳なさそうな顔をした帽子の似合う少女の真意を、僕ははかりかねていた。

「誤解して貴方のお腹に穴を空けてしまった」

 水橋さんの話はどこか夢現で聞いていたが、
確かに大穴がどうのと言っていたのを思い出す。僕はその時生返事をしてはいなかったろうか。
手を動かし、おそるおそる腹部に宛う。常と同じ、脂肪のぶよぶよとした気味の悪い感覚が出迎えてくれた。

 それはともかくとして、やはり謝りに来たというのが分からない。
どうにも思考が追いつかない。この少女は僕に謝るべき事を何かしただろうか。
首を捻り、しばらく後に彼女が僕の腹に穴を空けた事を謝罪しに来た、という文脈がようやく理解できた。
しかし、何故。あの時の彼女は何の迷いもなく確固たる信念に基づいて動いていたように思われる。
それが何故唐突に頭を下げに来るのか。この人の思考は、断絶しているのではないか。
取りあえず、理解できていることだけを返す。

「えっと……穴なんて、無いんですがね」

 言うと、少女は理解できないといった具合で首を傾げた。

「そりゃそうだ。とっくに塞がってるもの」

 分からない。疑問が山積している。そして、怖い。この少女の見せる頓着のない表情がひどく恐ろしいのだ。
さっぱりとした顔で、何をやらかすか分からない。そんな気がする。
失言一つでぽきりと首を捻られそうな。その恐怖は彼女への不理解のために生じているのだろう。

 はて、それにしても僕は死んでも良いゴミではなかったのか。理性が呆れた声を発する。
感情は、水橋さんと先程交わした競歩大会云々の約束を盾にそれを一時的に否定する。
これは臆病だ。誰に問うまでもなく臆病である。僕は臆病者だ。
この目の前の死神に殺して下さいと一言願えば良いのに、それが出来ずに居るのだ。
常々死んだ方が良いと考えておきながら、この僕という人間は結局それが可能な位置に立っても踏ん切りがつかない。
勢いが無ければ死ねない。そして僕は幾度か自殺の機会をその度に逸し、迷惑をかけ続けてきた。
まだ生き続けるつもりなのか。ほとほと呆れる。なんだ、この蛭以下の腐肉は。

「どうしたの? お腹が痛いのかしら」

 娘がこてんと首を傾げる。幼稚には見えない。だが古明地さんのような、老熟した印象もまた受けなかった。
正しく少女という様である。それも、中学生か高校生くらいの、よく分からん年頃の。
あの辺りの人々を良く理解できなかったから、僕はそのことでも迷惑をかけてきた。
思い出したくはないが、何度でも思い出して反省せねばならない。
せめて、同じ過ちだけは繰り返さぬように。

「何も言わないのでは困ると前にも話さなかったかしら。私は姉とは違うのよ」

 腕を組み、はあ、と軽い溜息を吐かれる。客観的には可愛らしい仕草なのだろう。
だが僕はそれを冷静に観察する余裕を持たなかった。
乾いた口蓋から無理矢理舌を剥がす。そうして僕は口を開いた。
同じく乾燥していた唇がぷつり、と音を立てて切れた。

「お腹は痛くありません。そして、貴女の姉というものが私には想定出来ないのですが」

 言うと、彼女は肩を竦めた。
しばらくの後、少女は黒い袖から伸びた手で自身の黛色(青なのだろうか。光の加減でよく分からない)のコードを持ち、
ぶらぶらと揺らしてみせる。暗い緑の瞳が、物言いたげに僕を見ていた。目を合わせられず、やはり視線は宙を泳ぐ。

「もしや、古明地さんの」
「そう」

 一度彼女は頷く。

「古明地さとりの妹君なのよ。私は」

 聞いてなかったのかしら、と彼女は続けて問う。

「そんな話は、一度も」
「へえ」

 違和を覚える。ペットの名前も教えてくれた古明地さん。入ってはいけない場所まで丁寧に教えてくれた古明地さん。
何故彼女は僕にこの少女の事だけは黙っていたのだろう。何か理由があったのだろうか。

――馬鹿馬鹿しい。

 古明地さとりは恩人である。僕は彼女を絶対に疑ってはならない。もしそれで裏切られても、それは裏切りではない。
あの朝、彼女は僕に多くの示唆を与えてくれた。僕はそれを忘れない。
途方に暮れた黄昏、職を探す僕に彼女は地霊殿を紹介してくれた。
重い荷物(きっとペットのご飯だろう)を両手に抱えた、彼女の疲れた笑みを忘れてはならない。
僕に多くを与えてくれた彼女がもし僕を捨てるのであれば、それに対して返すことの出来る言葉は、
"今まで本当にありがとうございました"――ただそれだけだ。それ以外にはありえないのである。

「お姉ちゃんの事だから、あんた見てアレコレ考えた結果なんだろうけど、何でだろね。
私もあんたの事聞いてなかったよ……えっと」
「あぁ。ピザです」

 自身を指さし言うと、彼女は言葉を続ける。

「うん……ピザね。はいはい」

 彼女は今一度頷き、僕を舐めるように鋭く詳細に観察した。機械が画像を読み取っているそれに近い印象を受ける。

「ところで私、動物には好かれてないから良いんだけどさ」

 そうしながら彼女は訳の分からないことを言う。動物とは古明地さんのペットの事だろう。
まあ聞いてよ、と彼女は言葉を続ける。僕は黙って拝聴することにした。

「人間についてくらいはせめて教えて貰っても罰はあたらないと思うんだよね。
殺して良い人間と悪い人間の区別くらいきちんと話さえついてれば分別つくんだし、
そこんとこに頓着しないなんてあいつらしくない。分からないんだよなあ、そこのところが」

 何か、妙な言葉が耳に入った。少女の論点と全く別のところが、僕には気になって仕方がなかった。

「殺して良い……?」

 問い返すと、妹さんは眉根を寄せた。そんなことも話していないのか、と言いたげな顔をしていた。
だが彼女の表情など些事だ。
僕は生まれてこの方、殺して構わないというレッテルを公式に貼られた人間を見たことがない。
それはどこか非日常の響きをもって響いた。そんなものは、死刑執行人だけが目にするものと決めつけていた。
故に年端もいかない小娘がそんな言葉を日常的なものとして放つ事に大きな違和を覚えたのである。
少女は帽子に手を伸ばし、そして結局はまた元の位置に戻した。一度、小さな咳払いめいた音が響く。

「こっちに来た外の人間は、そうでもない奴も少なくは無いんだけど、多くはクズなんだよ」

 教科書を読むように妹さんが言う。

「凶悪な人間とか、自殺しようと思ってる弱い奴とか、そういう奴が沢山、食べ物として幻想郷には迷い込む。
外で言うところの神隠し、だね」

 日本における行方不明者の数、統計資料を何かの講義で耳にした覚えがある。
決して、少ない数では無かったはずだ。血に濡れた古明地さんや水橋さん、星熊さんの口許がありありと想像された。
そして、倒れ伏す男の姿もだ。

「つまり、あんたが殺していたのは――」
「あぁ!」

 僕の声を遮るようにして妹さんが手を打った。ぱちん、という打音は狭い部屋に思いの外良く響き、僕は体を震わせた。
少女は探偵物の小説のごちゃごちゃした謎が解けた時のようなすっきりした顔をしていた。
その満面の笑みは星熊さんのそれとよく似ているような気がして、全く異質にも感じられた。
それは、僕がこの少女に抱いている印象のためだろうか。それとも妥当な判断だったのだろうか。分別はつかなかった。

「そうかそうか。あんたは外の奴だからどいつもこいつも殺しては駄目な人間だと思っていたんだね」
 
 殺して良いも悪いもあるものか。
そう言おうとしたが、あまりに当たり前のように口にする妹さんの前で、そう述べるのは憚られた。
僕と彼女の間には、完全な倫理観の断絶があるように感じられた。
そしてそれは恐らく僕と星熊さん、僕と古明地さん、僕と水橋さんの間にも広がっているもののはずだ。
人を食う星熊さん。生贄がどうのという水橋さん。彼女たちの頭の中には、殺して良い人間像が出来上がっているのだろう。

 僕は自身の道徳心がもたらす多大なる混乱を抑えつけた。異なる主義主張を無分別にぶつけた所で意味はない。
僕は学問を、人文科学を学んできた。譲歩と冷静な話し合いの重要性は誰よりも理解しているつもりだった。
たとえ自分の倫理観が許せない事柄でも、頭ごなしにそれを指摘することは無意味だ。
感情は、理性に抑圧されるべきものである。頭の中に広がっていた男の歪んだ表情を消して、消して、消す。
恨めしげな眼光の残滓だけが、ボンヤリと残った。

「貴女が引きずっていた彼は、殺して良い男だったと」

 問うと、当たり前だよと彼女は頷いた。

「外では世間を騒がせた人殺しだったらしいよ。あんたも耳にしたことくらいあるのかもね。
私が殺した時も、ナイフふらふら妖精虐めて遊んでたなあ」

 そういえば、記憶の中の彼は刃物を持っていたような。あれはこの妹さんに抵抗するための物では無かったようである。

「でも、どうしてそんなことが」
「分かるのかって?」

 やや恍惚とした顔付きで、彼女は僕の言葉を受け継ぐ。

「そりゃ、美味そうだからだよ。悪い人間は、すごく、美味そうだ。因みに世間を騒がせたってくだりは本人から聞いた。
私は会話しないと人の心が分からないからね」

 会話したって人の心など分かりはしない。古明地さんならそう言うだろうか。そう言うのだろう。
星熊さんなら、妹さんの言葉に賛同したのだろう。水橋さんはどうだろう。あの人はそのような問題に頓着しそうに思えなかった。
僕はどうだろうか。僕は、やはり古明地さんの主張に強く惹かれるのである。
しかし、"美味そう"か。

「妹さん」
「なあに?」

 彼女はこれから問われる事が全く予想できない、といった様子で瞳を輝かせている。
不自然だった。会話の流れから読み取れそうなものだろうに。古明地さんの妹なら、尚更だ。
しかしそのような事を一々考えていても仕方がない。膨らんだ好奇心は、喉からせり上がって、口を突き出る。

「僕は……美味しそうに見えますか?」

 問うと、彼女はくすりと笑った。その笑みだけは、彼女の姉によく似ているように思われた。
笑うとやはり姉妹だなと感じるのだ。顔の造形が、よく似ている。それは僕の勘違いだろうか。
髪の色も目の色も違うので、血は繋がっていないのかも知れない。
しかし、妖怪に利己的な遺伝子が宿っている様を僕は上手く想像出来なかった。
むしろ彼女らを形作っているのはミームではないだろうか。

 現実にここに立つ彼女たちにミームなどと、失礼だ。僕は慌てて馬鹿な考えを打ち消した。
想像上の化け物なら兎も角、彼女らは生きている。我々の想像の産物などでは、決して無い。

 妹さんは、長らく僕を観察していた。或いは、焦らしていた。
彼女が何を考えているのか、その表情から推し量ることは出来なかった。
時計がチクタクと喧しいのである。僕は何故だかひどく恐ろしい気分になった。
貧乏揺すりでもしたいような変な感覚が腿の辺りをざわざわ広がるのである。

 彼女はやがて歪に笑むと、また帽子の位置を正して目元を隠し、そうして漸くその薄い唇を開いた。

「美味そうに見えたら、心配したりしないわよ」

 言われて、僕は気が付いた。そういえば彼女は怯える僕をはじめ気遣ってくれたのだ。
それは、僕を殺してはならない人間であると理解していた証左にならないだろうか。
そして、いつまで経っても答えない不審な僕を、もしや悪い侵入者か何かではないだろうかと疑うのは当然の事ではないだろうか。
今や何の理屈も無しに動く化け物は一つの理解のもと、腑に落ちた。
彼女は粗暴で話の通じぬ悪魔ではない。我々とは違う考え方をするだけの理性的な少女なのだ。

――ところで、我々とは誰々の事を指すのかしらん? この汚いゴミであるところの僕と同じ類に含められる人々とは?

 疑問は、おくことにしたい。考えるのは、一人の時でも良かろう。今は妹さんと話すべきだ。
僕は"妖怪"の倫理を知らねばならない。郷に入っては郷に従えとの箴言がある。
それに従うには知識を得ねばならない。ならば、会話こそが最短の道なのである。

 そうは言ってもやはり、僕は何も出来ないクズなのだ。俯く少女にかける気の利いた言葉など一つも浮かばない。
機械的な質問ばかりが脳内を我が物顔に回転し、情緒や湿り気を帯びた生きた音が生まれることはない。
行動できない駄目な人間だ。駄目だからと足掻けば周りを巻き込んで深みに嵌っていく人間だ。
ならばどうすれば良いのだろう。行動せよと人は言う。どう行動すれば人を巻き込まずに済むのだろう。
あるいは、人を巻き込むのは必要経費なのだろうか。そこまで傲慢に生きて良いものだろうか。
諾とするならば、人はやはり醜いのだ。星熊さんの笑顔が、何故か脳裏を過ぎった。

「そういえば、さァ」

 唐突に妹さんが背を壁から離した。彼女がその時に吐いた細く強い息が、妙に艶めかしく響く。
極々小さな物音ですら届く程の静寂がこの部屋を支配している。唯一秒針の音だけが例外であった。

「有耶無耶になっちゃったしあんたには実際関係無いんだけど」

 妹さんはふらふらとこちらに近づいてくる。違う。びっこをひいている。
平気な顔をしているように見えたが、それはこの部屋が薄暗いからだ。近くで見ればぞっとする程顔色が蒼い。

「ちょっと、酷い顔をしていますよ」

 言うと、彼女はシニカルに口許を歪めた。

「お前程じゃあない」
「冗談を言っちゃあいけません。看て貰うべきです」

 語気を強めたが、彼女は、いいから、と請け合わない。瞳の強さも声の強さも、僕のそれを遙かに上回っていた。
決して大きくない響きから、強い信念と恐怖の色を感じた。
僕は今まで会ってきた妖怪を大きなものだと、偉大なものだと捉えてきたが、
今この瞬間、この少女だけはそのように見えなかった。
疲れ果てたように見えるその娘は、何故か僕に似た場所に立っているのではないかと感じられたのだ。

――不敬だ。

 一喝、下卑た思考を打ち消す。二度と表出させはすまい。深く、心にそう誓う。

 遂に妹さんは僕のベッドの脇に辿り着いた。丁度人間一人分くらいの間を空けて、彼女は立っている。
呼気も荒い。それは、肉体的疲労よりもむしろ精神の緊張を表しているように思われた。

「私さあ」

 彼女は、ぽつりと零した。そこには親密な響きは勿論無かった。独白だ。
しかし僕はそれを聞く事が許されている。光栄なことだと思った。名誉な事だと思った。
故に半身を起こし、意識を彼女の声に集中させる。腹の痛みはこの際どうでも良かった。

「お姉ちゃんに怒られたんだよね」

 そう言って、手持ちぶさたにしていた手でそれぞれスカートの端を持つ。
深緑色の、最下に二本の白線が引かれたその布を、彼女はゆるりと持ち上げた。
何をするつもりだと、喉から声が飛び出しそうになった。
しかし、彼女の手の動きがあまりにはやいのと、そこから覗いた光景とで、僕は唾と共にその叱責を飲み込んだ。

 彼女の脂肪に欠けた蒼白い未発達の腿に、紅色の断裂が走っていた。
ひくひくと蠢くそれの中心に覗く白いものは――骨か。もう一度少女を見上げる。
妹さんの顔に浮かんでいるのは、やはり緊張以外のなにものでもない。
痛くないのですか、とは問えなかった。それを口に出来ぬ凄味が彼女にはあった。

「いつも迷惑かけてばかりで……嫌われ者になるのが嫌だったから、割と頑張ってみたんだけど」

 妖怪は無敵だと思っていた。人間は容赦なく殺され、そして彼らは人の肉を食むものだと断じていた。
違うのだ。古典において、妖怪の一部は何の力も持たない一百姓に呆気なく狩り殺される。
それは時として、誉れある聖が狩る者と何ら変わらぬ大物ですらあった。

 古明地さんの妹がどれほど人間離れした力を持っているのか、僕には分からない。想像もつかない。
だが、そうであるからといって、確実に無傷で人間を屠れるとは限らないのだ。
人間は、汚い。とても汚い。ありとあらゆる手法を用いて生き残ろうとする。
僕の見てきた妖怪は違う。彼女らは皆一様に馬鹿だ。間抜けだ。
基本的に深い事を考えて生きているのだが、しかしどうしようもなく善なのである。
最終的に美を重んじてしまうのである。
それが、今目の前に立っている少女の痛々しい疵痕を創り出したのではないだろうか。

 殺しても良い人間。その概念は理解できない。
だが、彼女の皮膚を突き破ってのぞいているその肉は、間違っていると強く感じられた。

「私が頑張った事……ゼロになっちゃったのかなあ。誰も、褒めてくれないよ」

 悔しそうに、歯を噛み締める彼女。その気持ちは、胸が裂けるほど、涙が出そうな程、理解できた。
どれだけ努力しようが、無駄。駄目な奴は何をやっても駄目。
それは世の中の真理だ。間違いない。僕はそう信仰している。

――だが。

 だがしかしだ。この少女は違うのではないか。帽子の似合う、銀の髪の少女。可愛い子ではないか。
家族思いの健気な子ではないか。人を殺すなどということは理解できないが、
多分それは彼女たちの倫理に従うならば、時によっては褒められることになるのだろう。
だのに僕という疫病神が入り込んだせいでそれがままならない。

 妹の泣き顔と男の死に顔が同時に蘇る。

 かぶりを振った。僕さえ居なければこの少女は古明地さんに賞賛されたはずなのだ。
よく頑張った、やるじゃあないかと、あの少し疲れた笑顔でそう言ってくれるはずなのだ。
彼女の労りがどれだけ活力になるか、僕は十分に理解しているつもりだ。
妹ならば尚更だろう。

 ならば僕は言わねばなるまい。たとえ間違っていても言わねばなるまい。
人間としての倫理に反していようが、僕の正義が違うと言おうが、
感情も理性も馬鹿なと騒ごうが、井戸に落ちる者を明るい井戸の上へ追い返さずして何としよう。

 酷く腹が痛い。それは彼女が僕に空けた大穴だった。
そして彼女を酷い苦しみに追いやった元凶でもあった。
僕は俯く彼女に、出来るだけ真摯な表情を向ける。それは偽りの表情だった。
偽りの表情を、しかし僕は本気で、そして何よりも真剣に作ってみせた。
不細工がどれだけ気張ろうが、不細工に違いないのに。それでも偽らざるを得なかった。

 視線を正して世の中の真実に近づいたその娘に、僕は大きく息を吸って、吐いて。
そして、歪に笑んで偽りを伝える。

「間違っていません」

 妹さんが、首を傾げた。僕は彼女の心情が理解できない。
理解できないが故に、彼女の倫理にもとづいて筋道を立てて話す。
心に響かずとも良い、ただ一点、納得して貰えればそれで満足である。

「貴女のしたことは、褒められてしかるべきです。ただ、そのタイミングを逸しただけのことです」

 もしかしたら、僕は鎮痛剤でも打たれていたのかも知れない。
今になって汗が噴き出す程の激痛が走り出した。
だが、もう少しだ。せめてもう少し表情を作り続けなければならない。
汗が額に、鼻の頭に浮かばぬように願いながら、努めて平静に言葉を続ける。

「怪我をしてしまったのは人を心配させるのでちょっと頂けませんが……。
でも、殺すべき者を殺してきちんとここまで持ってきたのです。
人間って割に重いですし、それだけでも重労働だ。殺すのはもっと大変だ。
奴ら、暴れますからね。汚らしく生き残ろうとしますからね。
でも、貴女はそれを見事に殺して、そしてここに持ってきたではありませんか」

 長く、息を吐く。

「その事実は……最後に僕に怪我をさせてしまった、という些事によって。
その程度のケアレスミスによって、帳消しにされるべきものではありません。
古明地さんも、褒めてあげようと思って、失敗したのですよ。
今度、彼女に聞きに行ってみてください。多分、そういうことですから」

 阿呆の論法だと思う。何故人が人殺しを称揚せねばならんのかと思う。
その理由すら僕には分からない。分からないままに、彼女の論理に従って語る。
それだけは僕の今やるべきこととして信じられた。

 果たして妹さんは、苦笑を見せた。頬は今や土気色である。
彼女はスカートを掴んでいた手を離し、どん、と地面に崩れ落ちた。
太股の傷に障らなかったか、非常に心配だった。
しかし彼女は僕を見上げて、へへへ、と腑抜けた笑いを見せてくれた。

「腰抜けちゃったよ」

 そうして三度、帽子を正す。表情はやはり、見えなかった。

「あんたもさ、割に無理するよねえ」

 少女の言葉の真意は、僕には測りかねた。やはり言葉だけでは駄目なのだと、そんなことを思った。

「でもまあ、嫌いじゃないな。好きでもないが」

 だが、確かに彼女の言葉の持つ響きは、あたたかいものとして心に残った。

 彼女がそれからどうなったのかは、僕の知るところではない。
愚かなピザ野郎は、無駄に騒いで傷を開き、再び昏倒することになるのである。
どこに行っても、迷惑千万。本当に僕は駄目な奴だ。

 チクタク、チクタク。

 黒い意識の中で、優しい声が聞こえた気がした。だが、それは多分歪な錯覚でしかなかったのだろう。



[24754] 第八話 切望する。考える。そうだね、だから何?
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/10 22:01
 安静のまま数日を地霊殿の一室で過ごした。見舞いは殆ど無かったが、静かで心安らぐ日々だった。
難点を述べるのであれば、腹が痛いのと暇を潰す手段が皆無なことだろうか。
常のように自己反省をして過ごしていたが、光のようなものは見えてこなかった。
恐らくはそんなものを想定してはならないのだ。光とは救済であるし、思考を一方向に固めてしまう。
僕は自分が誰かからの救済を求めて良いような人間であるとは思えない。
そして、誰しもが僕を見てそのように判ずるだろう。

 では、僕は自分の力で立ち上がらなければならない。
問題は、立ち上がって転んで立ち上がって転んでを繰り返せば、
周囲でその無様を見てしまった人々の不快感を煽ってしまうという点だ。
僕は人に迷惑をかけてまで立ち上がる価値のある人間ではない。
ならば転んでいた方が良いのか。それも、違う。転んだままでは通行の邪魔だし景観に悪影響を及ぼす。
最良は、消えることだ。死ねばいい。だがその結論に到ると、地底で会った人々の顔が映るのだ。

 彼女たちは、本当に愚かだ。僕に希望など与えてはならないのだ。
クズはほんの僅かのパン切れにも食らいつく。そしてしぶとく生き残る。
撒き散らした食べ滓と排泄物は腐敗し毒素を蔓延させる。
それが分かっていて尚死のうとしない僕は、最も下劣な男である。
だがその先を、考えなければならない。

 鼻の奥を、甘い香りが抜けた。

 ベッドから半身を起こすと、古明地さんが入ってきた所だった。本当に物静かな人だ。
外は余程寒いのか、分厚いコートを纏っている。着ているというよりもむしろ着られているといった風で、何だか微笑ましい。
遠出だったのだろう、彼女は外衣を脱ぐと、それを肩に掛けて(腕にかけようとしたのだが、地面についた)此方に歩いてきた。
僕は常のように、彼女に向かって頭を下げる。

「お世話になっています。古明地さん」

 近頃は彼女に会うと、居心地の悪さを覚える。僕は一銭も支払っていないというのに、
彼女は衣食住、そして医療を提供してくれる。
人の共同体を勝手に侵犯して、尚かつ甘い蜜を吸い続ける害虫を、今日も優しい妖怪が駆除する気配は無い。

「ただいま。街角で橋姫に会ったわ。生八つ橋を貰ってきた。今食べる?」
「あの人はまた……!」

 しれっとした顔で高い生菓子を購入する恩人筆頭の様子がありありと目に浮かぶ。
思わず頭を抱えた。恩返しをしなければならないのにどうしてこうなってしまうのだ。
皆優しくて力があるから、僕が何かしようとする前に、予想だにしない素敵なものを与えてくれるのだ。
そうして雪だるま式に債務が膨れあがっていく。押し潰されそうだが、潰れることは許されない。
受けた恩は倍にして返す。星熊さんの言葉に、僕は反論をしなかった筈だ。

「悩むのは後にしましょう。甘い物を食べれば気分が良くなるわ。どうぞ」

 古明地さんは結局僕の言葉を聞かずに楊枝に突き刺さった半透明の柔く薄い生地を差し出す。
餡を挟んでいないタイプである。しかしそのような些事はどうでも宜しい。

「えっと」

 口許に突きつけられた爪楊枝を、僕はジッと睨め付ける。これは、大事である。
僕は自分でも嫌になるくらいに決断力のない人間だが、
しかしここまでお膳立てをされてこれを口に運ぶのを辞す程愚かではない。
それは八つ橋を購入してくれた水橋さんに、そして僕を気遣ってくれている古明地さんに対しても失礼にあたる。

 だが。

 彼女は親指と人差し指で楊枝の端を摘んでくれれば良いものを、わざわざ握りしめているのである。
確かに彼女は背が低い。そのような様が可愛らしくないことはない。
しかしだ。しかし、僕はその楊枝を如何にして受け取れば良いというのだろう。
どう足掻いても、古明地さんの手に触れてしまう。

 僕は自分の手に目を向けた。

 駄目だ。これはよろしくない。ぶよぶよとして何だか色も気持ち悪くて所々節くれ立っている。
この手で古明地さんに触れるのは大変良くない。楊枝を握る彼女の手を見る。
桜色の爪は、春の空を封印するが如しである。駄目だ。触れる訳がない。

 そのような事を言えば自意識過剰と笑われるだろう。しかしだ。
僕はいらぬ想像を繰り返し、手にすっかり汗を握ってしまっていた。
服の端で拭っても拭ってもどうしようもない。彼女が僕に触れられた瞬間、湿っぽい掌を感じたらどう思うだろう。

 古明地さんは、のんびりとした様子で八つ橋を突き出している。

 この人が、僕の心を読めるならばどんなに助かるだろう。そんなことを、考える。
彼女は僕の思いとそして醜さをくみ取り、八つ橋を引っ込めて部屋を去るだろう。
そうでなくとも、この残酷な爪楊枝の持ち方を改めてくれるだろう。

「ああ」

 彼女は何かを思いついたように軽い溜息を吐いた。以心伝心、とでもいうのだろうか。
僕の悩みが古明地さんに伝わったような、そんな気がした。
彼女の胸元の大きな瞳が、ジッとこちらを見つめていた。

「食べさせて欲しいのね。呆れた奴だ」
 
 これが演技なら、彼女は一流の役者である。表情一つ変えずにそのような事を言うのだ。
違う。断じて違う。そう言おうと思ったのに、古明地さんは此方ににじり寄って上目遣いに笑うのだ。

「そうね。そんな容姿と性格では、誰にも甘えられないでしょう。ましてや傷病者。
安心するといいわ。私はとても寛容で口も固い。それに、貴方には今回の件を黙秘して貰った借りがある」

 借り。そんなことが借りになる筈がない。断じてならない。
僕は古明地さんが不要だと思ったその瞬間に捨てられても文句一つ言える立場にない。
むしろ今までの恩を平伏して述べねばならない立場だ。腹の穴が何なのだという。
こんな社会の歯車の動きを悪くするようなクズの腕が折れようが足が飛ぼうが、誰も気を悪くすまい。
むしろのうのうと楽に生きてきた不要物が苦しんでいるのを見て溜飲を下げるかも知れない。

 そのような旨の事を言おうと思うのに、口が動かないのだ。顔に血が集まっているのを感じる。
古明地さんの体が近い。息が荒くなっているのを感じる。僕の息が間違いなく古明地さんにかかってしまっている。
顔を背けようにも上手くできない程の、至近距離なのだ。

「あの、僕の口臭が」

 辛うじてそれだけを口にしたが、古明地さんは間髪入れずに返すのだ。

「もっと臭う子たちの世話をしているから、あまり気にならないわね」

 彼女の口許にサディスティックな笑みが浮かんだように見えたのは、気のせいだろうか。
気のせいに違いない。温厚で物静かな古明地さとりが下等な悪戯に手を染めるはずがないのだから。
僕は彼女に対して下衆の勘繰りをしたことを強く恥じた。もっと、古明地さんの事を信頼できるようにならねばならない。

「信頼ついでに、口を開きなさい。■■」

 古明地さんが滑らかに口にする僕の本名が、耳に心地よく響く。最早僕の名を呼ぶのは彼女ただ一人である。
名を捨てただの何だの言っておきながら未練を手放せない自分をさらけ出してしまったようで、
常ならばひどく落胆するのだろうが、そうする余裕すら今はない。
彼女の髪が揺れる音が聞こえた。ついでに、時計の音もだ。

――カチ、コチ、カチ、コチ。

 古明地さんの目を見ていると、何だかぼうっとしてしまう。彼女の瞳はこんなに深い色をしていただろうか。
それにしても何故僕は、彼女の目を見ていても恐怖を感じないのだろう。
普段ならば絶対に誰とも目を合わせようとしないのに。今は、酷く安心して、心が凪いでいる。
そして、頭に靄がかかったように上手く思考が働かないのだ。

 古明地さんが、空いた手を延ばし、僕の頭に触れる。
浮かんでくる筈の恐怖心が、ぴくりともしない。再び、甘い香気が鼻を抜ける。
シャンプーや香水のそれというよりもむしろ、お香のような湿った匂いに近い感じがする。
頭が痺れる。

「さて、ちょっと悪戯を」

 古明地さんの言葉が、ぼんやりと響く。

「貴方の心に巣くう不要な怯えは、もうどこにもありません」

 カチコチ、カチコチと時計の音がする。手足の先がぽかぽかとあたたかい。
眠っている時のような安心感と脱力を感じる。
このまま目を閉じて眠ってしまえばさぞ心地よかろう。

 ここの人々は皆優しい。それは自らの名誉のため、なのかも知れない。
底辺に居る人間を助けることで、周囲に対する格のようなものを高めているだけなのかも知れない。
それでも、僕が甘えればここの人たちは誰でも頓着せずに助けてくれるように思われる。
馬鹿なことを何一つ考えずに、星熊さんのように一徹に頑張れば、
みんなが僕を助けてくれて、それで僕は幸せになれるのかもしれない。
努力して、頑張って、友情を育んで。ひょっとしたら恋も出来るだろうか。
馬鹿なことを考えなければ。そう、ただそれだけで――

「イッ」

 小さな声が、先行した。それは古明地さんのものだったのか、自分のものだったのか、判然としなかった。
どこか不自然で、機械的な音だったように思われる。少なくとも、人の日常的に用いる類の音声ではなかった。

 一拍遅れて、体に強い悪寒が走った。今まで肉体を包んでいた甘く心地よい羊水に比喩されそうな感覚は破裂して消える。
まるで、赤子がこの地上に産み落とされた時のような、そう表現して誤りではない孤独と絶望と、恐怖を感じた。
彼らが誕生した瞬間、何故喚くのかが分かった気がする。怖い。何が怖いのかが分からないが、怖い。

 僕は全体何を恐れているのだろう。先程までの幸福感、万能感は何故霧散してしまったのだろう。
理由が皆目分からない。分からないのに怖いのだ。顔を上げると、古明地さんが常と同じ顔をして立っていた。
そのことで、僕は少しだけ落ち着いた。そうして長い息を吐くと、鼻をニッキのあの特有の香りが包んだ。

「あ……」

 感じていたお香のような匂いとは、これのことだったのだ。口許に手を伸ばすと、細い物が指に当たる。
引っこ抜いて、確認する。それは、爪楊枝だった。

「こ、古明地さん……!」

 訳が分からない、というのが半分。恥ずかしい、というのがもう半分。
恐怖心は幾分薄れていた。代わりに意識が明瞭としてくる。淀んでいた視界が、少しずつ回復する。
焦点が、彼女の綺麗な双眸にあわせられて、僕は慌てて目を逸らした。
人の目を見るのは、やはり耐えられなかった。

「全体いつの間に……なんて事を……」

 言葉が上手く繋がらない。彼女の愚行を責め、このような行いが二度と無いように説得しなければならないのに、
頭はグルグルと回り、溶けてしまいそうだ。
そういえば、虎か何かがグルグル走った挙げ句バターだか何だかに変わってしまったという童話があった。
僕もそのお伽噺の猛獣のように消えて無くなりたかった。

 口の中に、甘い味。八つ橋の味だ。

 水橋さんが買ってきてくれたその少しリッチなお菓子が口の中にあるということはだ。
その先の思考を、僕は中断する。中断したというのに、顔の筋肉が勝手に動き出すのが止まらない。

「何をにやにやしているのよ」

 呆れたような古明地さんの声に、済みません済みません、キモくて済みませんと返す事しかできない。
彼女の顔をまともに見ることが出来ない。彼女たちは分かっていないのだ。
自分がどれだけ魅力的な生き物なのかを一厘も理解してくれないのだ。
僕は、ただ会話しているだけでどうにかなってしまいそうだというのに。

 キモいピザには、不思議で知的なこの少女は眩しすぎる。

「しかし、そうね」

 彼女は呟く。独白する時、彼女は少しゆっくりと、そして常よりぼそぼそと喋る。
故に僕はそれを聞き逃さないよう集中する。本当は、あまり聞いてよいものではないのだろうけれど。

「暗示も全く効果無し、か。まあ、崖っぷちの心につける薬があるなら、
私が一番に舐めてみたいのだけれども。ヤレヤレ」
 
 暗示。あの、ぼーっとした空間。夢のように、よく思い出せない時間。

「あれ、そういう類のものだったんですか」

 問うと、彼女は頷いた。何でもないような顔をしていた。
はーはー、と指先に息を吐きながら、彼女は言う。

「貴方が随分と私に心を許していたようなので、もしかしたらと思ったのだけれど。
それにしても、嫌な顔一つしないのね、やっぱり。想像通りだけど」

 そうして、何故だか悲しそうな顔をするのだ。どこか同情的、と言っても良いのかも知れない。
彼女のようなはるか高みに居る人が僕にそのような視線を向ける意味がよく分からなかった。
分からなかったが、綺麗な表情だなと思った。僕はきっと、頭が悪すぎるのだ。

「色々考えたけど、やはり難しいわね、■■は。そう簡単に幸せになれる類の人間ではない」

 何を今更である。そんなことはもう何年も前に気が付いていた。僕は絶対に幸せになれない。
僕は何度も幸せになろうとして起きあがろうとしたが、その度に気づかされてきた。
転んだ時に代償を支払うのは、僕ではなく常に僕に親しい誰かなのだ。
そう思うと、下手に動けなくなった。

 幸せになってしまったら、幸せに固執してしまうのではないかと思った。
そうしたら、何もかも周りの物を薙ぎ倒しながら気づかない、クズの中のクズが出来上がるのではないかと感じた。
古明地さん流に言えば、視線をズラす。幸せしか見ないように生きる。
そんな器用なことは、僕には無理だ。

「そうそう。今日は、これも貰ってきたのよ」

 彼女はそう言って、布団の上に細い鉄(のように見える)の鎖を置いた。長さからして、それは首飾りだろうか。
派手な装飾は全くない。細かく何か彫り込んであるようだが、古代の中近東で目にしそうな文様であった。

「腹が痛いと言っていたでしょう。だから、鎮痛の首飾り。試作段階で効果が強すぎるのが難なのだ聞いたわ。
本人は恥だから捨てろと言っていたけど、まあリハビリの必要な貴方には丁度良いでしょう」

「僕に……?」
「言いたいことは色々あるだろうけれど、先ずは触ってみてみなさい」

 確かに反射的に色々と口を出そうと思ったのだが、そう言われては仕方がない。
僕は我慢して古明地さんの言うところの妖しげな呪具を手に取ってみた。彼女は素直なのは良いのだけどね、と苦笑していた。
意外にもずっしりと重いそれは鈍い金属光沢を放っている。
僕はもう一度古明地さんを見やった。耳の頭が、少し赤いのが痛々しかった。

「これを取りに、わざわざ寒い中を?」
「大した距離ではないのよ。■■は何でも過剰に反応するから、少し鬱陶しいわ」

 何が大した距離ではない、だ。常はコートなど羽織らず外出するではないか。
遠出したのに間違いないのである。僕は部屋で寝ていたから何も知らない。何も分からない。
彼女は今も指先に息を吹きかける程寒い中この首飾りを取りに行ってくれたというのに、
僕はのうのうと暖かい部屋でご飯を食べて寝ていただけだ。人が苦労しているのに、僕は楽をしているのだ。

「あまり謙遜すると」

 古明地さんの声には、やや呆れの色が混じっていた。

「人の厚意を踏みにじる事になる。前にも言った気がするけれど」

 そう言われると、僕は何も返せなくなってしまうのだ。
腹は確かに痛いので、妖しげなシャーマニズムだろうが何だろうが縋りたいのは確かである。
しかし古明地さんに苦労をかけさせてまで欲しいものではなかった。

 嬉しいのだ。本当に嬉しいのだ。嬉しすぎて――畏れ多い。
神様が毎日毎日贈り物をしてくれたら、誰だって平伏してしまう。
普通は逆だ。人が神様に貢ぐべきなのだ。こんなことは、おかしい。
道理に反している。文字通り、"有り難い"のである。

「僕は……」

 情けなかった。年頃の綺麗な娘を働かせて、寝たきりの不細工というのは人としてどうなのだろう。
最悪ではないか。どんな絵だ。想像すると泣けてくる。だが、泣いてはならない。
僕はお荷物にして毒物だ。本当に心の底からクズの人間は、悪事を働きたいなどとは微塵も思わない。
世のため人のために何かしたいと、我々のような類は心底願うのだ。
何かしたいのに、力が足りない。良いことをしたつもりで、人の不興を買う。
だから、クズは善行にこそ憧れる。善行を積みたくて積みたくて、仕方がない。
"この自分が"誰かに幸せを与えたくてたまらない。
不可能だからこそ、夢想してしまうのだ。無駄なことなのに。

 きっと普通の人はそれを立派な心がけだと言う。
自分の欠点を理解し、世のため人のためになろうとする人間、良い奴じゃないかと言う。
だが、違うのだ。そうなろうと誰よりも強く望んでいること、それこそが正真正銘の、クズの証となるのだ。

「渇望は、叶えられる見込みが無いからこそ、強まるものなのですね」

 鎖を首にかける。痛みは、すう、と引いていった。どんな理屈が働いたのか、頭の悪い僕には分からない。
頭の悪い僕には分からないような事を延々考えて、努力して、そして遙か遠く、会ったこともない人間に幸せを与える人もいる。
水橋さんは確か、僕の痛みを魔法使いが鎮めてくれると言っていた。その人は、きっと誰よりも立派な生き物の一だ。
そして、その人はきっと、誰かを幸せにしたいなどとは微塵も思いはしないだろう。
しかしその魔法使いの一挙一動は、誰かの幸福に直結しているのだろう。
その魔法使いが笑えば、きっと誰かが笑う。その魔法使いが何かを成し遂げれば、きっと誰かが救われる。
僕とは逆だと思った。僕の求める全てが、その魔法使いにあるのだと思った。
だから、知っておきたい。切望から、口が開く。

「これを製作した人の名前を、良ければ教えて頂けませんか」

 古明地さんは、何故か静かに唇を持ち上げた。それは、確かに笑みの形をしていた。
しかし、柔らかな微笑でも、人を見下すための嘲笑でもなかった。
普段から疲労で凝り固まっているような少女が一瞬見せた表情は、
何かに挑もうとする意志の表象にして、自慢げなものでもあるように思われてならなかった。
何故僕の問いを受けて彼女がそんな顔をするのか、皆目分からなかった。
古明地さんは口を開く。

「その道具の作り主は」

 彼女は一言一句、はっきり区切って教えてくれる。いつものぼそぼそとした声ではない。

「地上の楽園に屹立する、悪魔の館の居候。
七曜の魔女の異名を持ち、噂では月まで届く大筒を打ち上げた不可能への挑戦者。
その知識量から動かない大図書館とも呼ばれる、本物の生きた書物」

 古明地さとりの次の言葉を、僕はしかと胸に刻み込んだ。

「パチュリー・ノーレッジ。後に大魔法使いと謳われるだろう少女の、それが名前よ」

 胸の鎖が、小さく音を立てた。 



[24754] 第九話 ファイティング・デブ
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/11 22:57
 リハビリという語には精神的及び職業的な復帰を目指すとの意も含まれるのだそうだ。
だからどうと言うことではないが、縁遠い言葉なのだなと感じられる。
橋の欄干に寄りかかり、荒れた呼吸を整える。胸も足も痛まないのは首にさがっているアクセサリの効果である。
腹の傷は大凡癒えたらしいのだが、体力という体力が僕の体からは煙のように抜け出してしまっていた。
何をやっても駄目な体だが、輪を掛けて駄目になることに関しては一級品らしい。

 現在の僕は数歩足を動かすたびに休憩を余儀なくされてしまう。
水橋さんの話によれば、それは陰陽の気の乱れの仕業とのことだ。
何ともいかがわしく前近代的なのだが、肉体も世界もそれを構成する気が陰陽いずれかに傾けば災いを生ずるというのである。
僕としては中庸の徳か何かを説明するためにとってつけた解説であるように思えてならないのだが、
賢い恩人が言うのであれば真実なのだろう。少なくとも、この場では。

 昔の人間が作った方便が全て事実として成立しているのにはどうしても違和感を覚える。
宗教風俗の比較分析も人類学も、ここでは何の役にも立ちはしない。

「はあ」

 反対側の欄干には水橋さんが背を預けている。仕事ついでに僕の監督をしてくれている。
申し訳ないと何度も言うのだが、聞き入れられた例が無い。
水橋さんを前にすると、僕は己の小人ぶりがほとほと嫌になる。

 彼女の話によれば、この橋は形式的に架けられているだけのもので、
実質的に守護しているのは地上と地下を繋ぐ大穴らしい。
客人が上から下へ、下から上へ無事に移動できるよう見守っているのだそうだ。
それにしてはちょっかいを出す事が多いようだが、彼女曰く楽しそうにしているのが気に食わないとのことだ。
守護神から攻撃されては旅人もたまったものではないだろう。

 しかし、彼女の投げつける色鮮やかな礫は何も暴力だけを意図したものではあるまい。
それが何度か橋や地面に衝突するのを僕は見てきたが、古い木が軋むことはなかった。
恐らくは水橋さんが行っているのは儀式なのだ。
余所者に何らかの呪術的な働きかけをすることで穢れを払うというのは、未開地に多く見られる風習だ。

 あれこれ考えずに水橋さんに問えば話は早いのだろうが、誰かに話しかけるのは苦手だった。
彼女は今ぼんやりと暗い空を見上げている。
暇を持て余しているのなら良いが、深い思索に耽っているのであれば声をかけるのは迷惑だろう。
その境界線は外面からは判断不可能なので、僕は黙り込み

 後頭部に、軽い衝撃を覚えた。

 振り返れば、羽を生やした娘が笑い声を上げながら空を飛び去るところであった。
水橋さんはどうやら空ではなく僕の後ろに居たその娘を観察していたらしい。

「鈍くさいわねえ」

 彼女は視線を此方に向けて、気怠そうに呟いた。交差された水橋さんの脚を意識から追い払う。
橋を守る妖怪の落ち着いた声を耳にすると、僕はどうしても腹の底を締め付けられるような心地になる。
緊張し、口が乾ききり、思考が上手く働かなくなるのだ。
誓って言うが、僕はこの人を尊敬している。敬愛する人と常に共にある事が出来るのならば幸福ではないかと思われるかも知れない。

 何を馬鹿な、である。

 そのようなことを言う愚か者は人を尊敬したことのない類である。
神聖な人間に触れられると死ぬ、という俗話は枚挙に暇がない。一瞥も然り。
僕にとっての水橋パルスィはまさにそのような妖怪なのである。
可能であれば、フードで自分の顔を隠してしまいたい。そうすれば随分と気が楽になるだろう。

「妖精は隙さえあれば悪戯を仕掛けに来るのだから、そろそろ捕まえて一発叩いてやりなさいよ。情けない」

 先程の子供は妖精と呼ばれてるらしい。確かに、そう呼称するに相応しい外見と性格をしていたように思われる。
僕が此処に来て初めて会った住人も思い返せば妖精だったようである。数の上では地底に住まう妖怪を上回るかもしれない。

「害意は無いし、微笑ましいですよ。叩くなんてとんでもない」

 今も遙か頭上を複数の妖精がふわふわと漂っている。幾人かでグループを作り、とても楽しそうに談笑していた。

「消しても消しても沸いてくるし、どうでも良い気がするけどねえ」

 あんたの考えはよく分からん、と水橋さんは腕を組んで息を吐く。僕には水橋さんの考えがよく分からない。
体の疲れが幾分取れたので、欄干沿いにまた一歩踏み出してみる。そのまま倒れ込みそうなのを、バランスを取って耐える。
体は激痛に苛まれているはずだが、首飾りのおかげで痛くも痒くもない。確かに効果は強すぎた。
これでは危険の感知もままならないだろう。

 二歩、三歩、四歩。

 そこで限界がやって来た。五歩も歩けない。力が入らないのだ。痛みと共に情けないという思いまで麻痺してしまっていたようだった。
痛みが無いということはリスクが無いということだ。その気になれば肉体が屈さない限りいくらでも体を動かせる。
体を動かしていれば、体内で凝り固まっていた気は少しずつでも流れ始めるらしいので、
僕はこうして右往左往している訳である。

 手を近づけたり離したりすることで、実際は誰でも簡単に気を練る事が出来る。
胸の前で両手を合わせるような形にし、小さなボール一個が入る程度の空間を空ける。
そうしてゆっくりと両手を離れさせ、またゆっくりと近づける。
この近づける際に、何か手応えを感じる。これこそが気だ。
これは初心者上級者問わず、誰でも感じ取ることのできるものだ。

 しかし、僕は上手くいかなかった。才能があるとか無いとか、そういう段階を超えてしまっている。
誰でも出来るはずの、子供でもすぐに出来るはずのことが出来ない。だからこうして歩いているのだ。
強引に体を動かして強引に気の流れを生む。僕にはこのような不器用な手段しか残されてはいなかった。

「妖精はいくらでも出てくるとのことですが」

 会話の糸がまだ切れていない、と表現すれば良いのだろうか。
沈黙の質が居心地の悪い物に変質をはじめていたので口を開く。
水橋さんは俯いたまま上目遣いに僕を見やった。
目が合ったので、慌てて逸らす。

「彼女らは木の股からでも生まれるのですか」

 それは無論冗談めかした問いだったのだが、彼女は、あるいは、と平然とした顔で答えた。
至極当然といったその語調に偽りの色は含まれていなかった。
水橋さんは右手で自身の髪を軽く梳く。
耳の、いつもは隠れている部分が少しだけ明るみに出て、その白さにはっとさせられた。
周りが暗いのも一因だったのだろう。

「固い言い方をするなら、連中は自然の具現なんだよ。だから蹴っても叩いても消えない。
ボコボコに痛めつけると一回休みになるけど、それでも死なない。
奴らを本気で苦しめようと思ったら、それこそ奴らの属する環境を壊すしかないだろうね」

 意外に長い言葉だった。喋っている最中、時折水橋さんは頬の辺りを掻いていた。
しかし、無駄に冗長な語りという訳でもない。
彼女は僕と彼女の間の意識の差を生むに至った知識不足を補ってくれたのである。 
しかし、正しい知識を得て尚僕は彼女達に拳骨を落とせないだろうと感じた。
人に暴力を振るうのは苦手だった。誰かを本気で殴りつけた記憶が僕にはないのだ。
そもそも僕には他人を殴って良い権利など無い。

「ここは元々地獄ということは、我々が皆幸せそうにしていれば彼女たちは苦しむのでしょうか」
「そう簡単な話でも無さそうだけどね。五行で上手く説明しきれるとも思えないし。
賢人に言わせればそうでもないのだろうけど。陰陽五行八卦六十四卦、東方の魔符は万物を模倣するから」

 彼女の言葉に首を傾げる。

「やけに詳しいのですね」
「陰陽師は嫌いなんだよ。鬼を説き伏せて成仏させる坊主もだ」

 嫌いな物というのはそれはそれで頭に残るということだろうか。
水橋さんの顔に浮かんでいたのは、嫌悪というよりもむしろ劣等感のように思われた。
長い人差し指がコツコツコツと欄干を打つ。

「意外です。成仏出来るのなら幸せではないのですか」

 彼女は肩を竦めた。馬鹿を言えよ、と淡泊に言葉が吐き出された。
水橋さんはいつも軽く話す。軽く話しているのに、何故だろう、酷く重い響きをもってそれは僕に届く。
彼女が恩人だからというだけの理由では恐らく無い。
彼女の緑の瞳は明るいのに、今日もその色に晴れやかさは無い。

「幸福だけが、本当に最上なのかしらね。私は甚だ疑問だわ」

 少なくとも、と水橋さんが俯く。そうすることで、彼女の顔には影がおり、表情は窺い辛くなった。
僕は彼女の言葉について問うてみたく思ったのだが、遠く鐘の音が響いたために言葉は仕舞い込まれた。
もう夜だ。水橋さんの仕事も一段落である。歩く練習はいつまでも続けたいのだが、彼女の迷惑になってはならない。
金の髪の美しい少女は俯けていた顔を上げると、呆然とした顔で呟いた。

「もう夜か」

 そう言って、少し前髪を弄る。水橋さんは今のようにひどく浮世離れした貌を見せる時がある。
愚かな僕には、そうした彼女に何と挨拶してよいものか判然としない。
恐らくは、何も言わないのが正しいのだろう。誰にでも一人で物思いに耽りたい時がある。
そうした時間を邪魔されると、甚だ不愉快な気分になるものだ。
彼女に迷惑をかけぬよう、欄干に体を預けて這うようにずるずると移動を開始する。
少しだけ後方で、噴き出す声が聞こえた。

「何よ、それ」

 楽なんですよ、と返すと、あのくつくつ笑いが聞こえた。
僕は水橋さんが笑うと非常に安心する。僕は自身の存在が彼女を不快にさせてはいないかとの怯えを常に抑えられないのだが、
この時だけは手放しの幸福感に包まれることができる。確実に彼女の歓心を買っているという安堵。
僕は自分がその人にとって不要ではないという証拠のようなものを欲しているのかもしれない。
首にかかっている飾りがやけに重く感じられた。

「しっかし――」

 こつんっ、と足音を響かせて僕の目の前に水橋さんが降り立った。
飛んだのか跳ねたのか分からないが、流石は妖怪である。移動すなわち徒歩という固定観念を簡単に打ち払ってくれる。
持ち上がったスカートと剥き出しになった太股から目を逸らす余裕は無かった。彼女も気にせず伸びなどしていた。

「本当にとろいなあ、お前は。大変だろ」

 僕に相対したまま彼女は後ろを振り返らずに歩く。危険ではないのかと思ったが、この時間になって橋を往来するものがあろう筈がない。
祭日はともかく、今日は代わり映えのないただの一日である。僕は彼女の問いに、いいえ、と応えた。
大変なのは僕ではなく僕という荷物を背負っている水橋さんの方である。
それを意識しないのは、彼女が強いからなのだろうか。そう端的に結論づけて良いのだろうか。

 悩んでいると、遙か前方にまた妖精が現れた。僕に何かをぶつけた子だ。
真っ正面から何のつもりだと思っていると、彼女は水橋さんの頭上の辺りでとても楽しそうな笑みを浮かべて右手を掲げた。
中空に、青い色の光の弾が一つ生まれたのを目にする。

「何よ、ピザ」

 はてなと水橋さんが首を傾げたその瞬間、
妖精が力の限りと言った表現が当てはまりそうなオーバーな動きで魔法の弾丸を彼女の頭上に叩きつけた。
その動きとは対照的に、響いたのは、ぽかっ、という軽く弾む音だ。
水橋さんはしばし呆然としてぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
その瞬間だけは、彼女の周囲に漂っているあの険のようなものが見えなくなる。
それが良いことか悪いことかはさておき、たまに見るのは、悪くない。むしろその落差が魅力的だ。

 やがて彼女の頬がほんのりと朱に染まるのだが、その頃には妖精は遁走を果たしている。
これは見事だ。悪戯のプロフェッショナルである。水橋さんもそれを理解しているのか敢えて振り返ることはしない。
プライドの高い彼女のことだ、キイキイと騒いで無様を晒すことは何よりも避けたかったのだろう。
一、二分ばかり沈黙が続いた。僕はずるずると欄干に寄りかかったまま歩き、水橋さんは右手で顔を覆い、俯いたままそれに倣う。
やがて彼女は呟いた。それは意外にも芯の通った言葉であった。

「忘れて頂戴」

 僕は従うしかないので神妙な顔をして頷いた。水橋さんは少しばかり口許を緩めて、ありがと、と呟いた。
人生万事ナントヤラ、立派な行いは何一つしていないのだが、それでもだ。
僕のような存在がありがとうと言って貰えるのである。
ここで口許を緩めては彼女に勘違いされかねないので、必死で仏頂面を作る。
歪な顔に歪な表情を張り付け、さぞ無様なことになっているだろう。
しかし地底の人々はそれを気にしない。
僕のコンプレックスを飲み込むその度量の広さを、羨ましく思った。

 数分後、二匹目の泥鰌を狙いに来た別の子は、尻を叩かれ泣きながら飛び去っていった。
まあまあと窘めた僕は凄い目で睨まれてしまった。やはり、空気が読めていないのだ。
それでも妖精からも礼を述べられたので、良しとする。
一日に二度もありがとうと言われるとは、今日は何だか妙である。
もうこんな日は二度と来ないかも知れないなと思える程、充実した一日だった。






 夜は蟹鍋であった。蟹など何処でとれるのかと問うたが、知らんと返された。
どこでとれたか分からぬものが平然と市場に出回っているのは不思議でならなかった。
だが此処ではそれが普通なのだという。文化の違いなのだろうなと思った。
彼女が紫に黒を混ぜたような色の巨大な蟹を抱えて来た時は驚いた。
何せまだ生きていたのである。今はもう、真っ赤に茹で上がってしまっているが。
そういえば、妖精に悪戯された時の水橋さんの顔は可愛らしかった。

 思い出して惚けそうになるが、頭を振って戒める。彼女は忘れろと言ったのだ。
あまり何度も思い出してはならない。だが白い肌に褪紅色がぽっと散るのは何度見てもきっと美しいものなのだろう。

「なによ」

 やはりちびちびと酒をなめる水橋さんは此方を見て訝しげに目を細めた。
僕は慌てて何でもありませんと言うが、彼女は信頼してくれなかったようで、度々此方を見ては首を傾げていた。
しかし、会話は少ない。蟹の身を解し出すとたとえ正月であっても異様な沈黙が降りるものだ。
あれは全体何なのだろう。バラエティ番組の空笑いだけが響いていたりすると、世の無常すら覚える。
そんなもので無常を悟られてはお坊さんは商売あがったりなので勿論錯覚だが。
しかし、無常とは案外目の前にこそ転がっているものなのかも知れない。
賢人は言っていた、馬鹿ほど道を遠くに求めるものだと。

 ちまちまと箸だけが踊る。味はその労苦に見合ったものだからまた小憎らしい。
白い身がするりと抵抗無く引き出され、外気に湯気をくゆらせる瞬間は何度見ても至福である。

「うま……」

 水橋さんは無意識なのか何なのか、ぽつりとそんな賞賛の言葉を漏らした。
蟹以外にも箸を付けねばならないのは分かっているのだが、遅々として進まない。
彼女が実に美味そうに酒を飲むので僕も欲しく思ったが、どうせ倒れるのがおちなので黙して身をほじる。

「いやあ、それにしても今年は良い」

 帰路を忘れてか、水橋さんは喜色を浮かべている。珍しいことだし、良いことだと思われた。

「お得意さんということで、毎年一度は蟹を貰うんだけどね、私は」

 そう言って彼女は棘の突き出した背甲をコツコツと箸で叩く。
何故だろう、その口許には優越的な笑みが浮いている。"この蟹め、どうだ!"とでも言い出しそうである。

「例年はこれを一人で食べなきゃなんないのよ。一人で延々、一時間も二時間も、身をほじくり出すの」

 僕は想像する。この狭い部屋の中で乏しい灯りだけを頼りに、ちまちまと蟹をほじる水橋さん。
談笑の声はなく、かちかちと箸の甲に当たる音だけが時折響く。
自分の呼吸音すら聞こえるような静けさの中、蟹の旨味と熱が体に染みる。

「侘びしいですね」
「全くだわ。何が悲しくて一人で蟹なんぞ……美味いんだけどさあ」

 もぐもぐと咀嚼しながら水橋さん。

「でも仮に大人数で食べても、何故か沈黙しますよね。蟹は」
「――するわね」

 味は良いのに親の敵か何かのように睨め付けられる蟹が少しばかり哀れだ。
この黒く丸いつぶらな瞳を見ていると茹で殺したのが間違いだったように思われてきてしまう。
アサリやサザエなどを塩ゆでにするときも僕は同じような感慨を抱く。
現代育ちなのだろう。鶏の首などとてもではないが捻れる気がしない。
そのくせ鶏肉はむしゃむしゃ食べるのだから何とも自分勝手なものである。
汚い部分は人任せ、美味しい汁は自分の物。

 僕は蟹の身に箸を入れる。そうしてたまに水橋さんを盗み見る。
不足な光源により照らされた彼女の容貌は常より儚げに見えた。火が踊るたびに、影もまた揺れる。
穏和な無表情と表せば良いのか、静かに視線を落としている様はきっといつまで見ていても飽きない。
たまに杯に唇を触れさせる時などは、胸が高鳴る。一拍置いて、彼女の喉がこくんと鳴った。

「あんたさ」

 彼女の声に、顔を上げる。しかし水橋さんは俯いたままだった。

「家族は、存命かしら」

 厳しい問いだった。そこで黙りを決め込めば彼女は無粋と引っ込むだろう。
しかし僕は此処で黙するのがなんとなく卑怯であるように思われた。椎茸を口に運び、何度か噛み、飲み込む。
水橋さんはその間待っていた。箸を動かさずに、ぼんやりと目を手元に向けている。

「一応。十全とは言えないのかも知れないですけれど」
「そ」

 彼女は短く相槌を打ち、また酒を呷る。常と比し、よく飲んでいるように思われた。
またしばらく、沈黙が降りる。僕は茶を啜った。体の芯があたたかくなる心地がしたが、足指の先は冷たかった。
じじ、と音がした。水橋さんは長く細い息を吐く。僕はただ、それを見ているだけだった。

「月見とか、したいわね」

 彼女の真意をはかりかね、言葉は潰えた。
それから長い間、我々は二、三の意味のない短い言葉を交わす他はひたすら黙していた。
たまに彼女の視線を感じるが、その時は決まって僕は目を伏せていた。

 体はぼんやりとした疲れを訴えるばかりだ。ためしに首飾りを外してみたが、同じ結果だった。
弛んだ肉を見ていると、それが俗悪の塊のように見えてならない。
せめて数日のうちにきちんと動かせるようになりたい。
体の動かし方次第では一日一夜で回復出来ると聞いている。だが、それが出来ぬのが僕なのだ。
いつまでも迷惑をかけ続ける、ゴミ。手の中にある首飾りは、光を反射して鈍く輝いている。

「僕は誰かを幸せにしてみたいです」

 水橋さんは俯き、黙していた。もしくは、ふうん、と相槌を打ったのかも知れない。
何れにせよ彼女の声は聞こえなかった。
僕は彼女の頭の天辺を飽きもせずにじいっと見つめ続けていた。ぐつぐつと鍋が小さな音を立てる。
水橋さんは身動ぎし、服が畳と擦れる音が静かに響いた。月見をしたいなと僕は思った。



[24754] 閑話・古明地さとり 「遠方より来るデブ、彼は悦びを生むか」
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/12 20:05
 あの男の姿を見かけた。数日ぶりだろうか。
最後に見た時は顔色も悪く橋姫に引きずられるようにして出て行ったのを記憶しているが、
今は杖に凭れるようにしているものの、一人で出歩けるまでに回復しているようだ。
しかし、大通りを外れた一角に全体何の用があるのだろう。
この広い地底には使われていない区画も少なくない。彼がぼんやりと立っているのもそのような場所だ。
興味深かったので私は彼に接近することにした。

 この■■という男、少し頭が弱いのか人の接近に全く気が付かない事が多い。
はじめは私だけに対してそうなのかと思っていたのだが、誰に対してもそのような傾向を見せる。
常に俯いているか、ぼんやりと空を見上げてアレコレと詮無いことに頭を悩ませているのだ。
私に関しては特に意識を向けるのが苦手ならしく、数十秒程無視され続けたこともあった。
心が読めなければ害意があるのではないのかと疑っていたところである。

 ともあれ今日の彼の様子は少しばかり妙だ。常に見えていた言語的な思考が全く見あたらない。
所謂放心状態と称して良かろう。目を見開いたままじいと大地を見つめている。
このような顔をした者共を私は数多く目にしてきた。あまり気持ちの良いものではない。
不細工な顔や体躯にも絶望的な表情は似合うのだと知ったが、それを知ってなんとしよう。
私は彼の服の裾を握った。

「おい」

 彼の半ば閉じられていた目が眦も裂けよとばかりに見開かれる。
そうして左右に顔を動かした後、漸く私の姿を眼下に認めた。
ピザと名乗るこの男、今回はどう反応するかと思っていたが、

「わあ……ッ!?」

 常と同じく転がるようにして私から飛び退いた。結果、脚の力が足りないのか、見事に転倒してみせる。
べちょり、と泥が跳ねて服にかかった。これは重体である。彼は常に重傷だが、今日はとりわけ酷い。
驚愕と恐怖の念が一瞬間私の目に映ったが、今前者は消え、代わりに自己嫌悪の念が沸いて出ているようだ。
■■は何か言おうとしているようだが、まともに請け合うことに意味はない。

「立ちなさい」

 どうせ取っては貰えないと分かっているが手を差し出す。
案の定、彼は"どうして僕のような男に手を差し出すのか云々"などと考え出す。
だが確かに小さな喜色を浮かべているのも確かなのだ。
そして、それが私にも見えるということは彼自身それを意識しているということなのだ。
ピザを自称する青年の思考はその喜色に向かい、そしてそれを慌てて塗りつぶす。自己嫌悪の念は強まっていく。

「大丈夫、大丈夫です」

 彼は杖を両手で強く握ると、ゆっくり十秒ほどかけて起きあがった。
立つ邪魔になりそうなので、私は手を引っ込めて一歩下がった。
生まれたばかりの草食動物を彷彿とさせる脚の震えが見られるが、彼らはここまで鈍重ではなかろう。
ぴちぴちに張った服が、見ていて気持ち悪かった。彼はふうふうと荒い呼吸を繰り返している。
こうした光景を見ている方が不愉快だということを、恐らく彼は理解しないのだろう。
自身の肉体に対する嫌悪の念が強いのだ。強すぎるのでは、勿論無い。
彼に接近することを疎う人物は多かろう。それほど彼の容姿は醜いのである。更に彼自身が言うように、体臭も少々きつい。
故に彼の処世術は一般的には正しい戦略なのだが、こと地底においてそれは成り立たない。

 この地の底に全体転んだ彼の手を握らない者などあろうか。
或いは居るのかもしれないが、しかし過半はそうではなかろうと私は信じる。
それは別段高潔な精神の発露ではない。
鬼に関してはそうなのだろうけれど、大半の妖怪にとって真実はもっと陰鬱なものだ。
嫌われてきたから好かれてみたい、ようはその程度なのだろう。
目の前で弱り切っているこの男、このクズの寄せ集めのような男ならば
少し優しくしてやれば誰も彼も好きになってしまうに違いない。
現実問題、彼はサトリ妖怪であるこの私、古明地さとりをすら敬愛している。
それは恋愛感情に結びついておらず、むしろ崇拝、信仰に近い感情である。
ここまで好かれてみれば、どんな連中でも多少は気持ちよくなるものだろう。
その顔と性格さえ気にしなければ、だが。私は気にするので大して気持ちよくはない。

「あ、古明地さん。服――」
「捨てるつもりだったのよ」

 続けさせると喧しいので切り捨てる。だが、捨てるつもりだったというのは事実だ。
彼にはいくら説明したところで無駄だろうからクドクドと言うつもりもないが。
案の定沈み込む彼に付き合っていると時間が幾らあっても足りないので言葉を発す。

「それよりこんな所で何をしているのかしら、貴方は」

 特に答えて貰う必要はない。問えば答えが心に映る。
それは文字としての情報だけでなく、音であったり映像であったり(音が見えるというのも変な話だ)無駄が多いのだが、
故に誤解も生じにくいというメリットがある。あくまで生じにくいだけであり、
彼が意識してもいないものや、モヤモヤとしたまま心中で表現できないものに関してはやはり私にも伝わらないのだが。
心が見えれば完全なコミュニケーションが可能だと判ずるのはあまりに短絡である。

「いえ、古明地さんにまでご迷惑をおかけする訳には」
「橋姫のことね」

 全容は分からないが、背を向けて去っていく水橋パルスィの姿が鮮明な映像として伝わってくる。
この間抜けのやらかしそうな失態など想像に難くないが、だからといって解決の方法が容易い訳でもない。
■■の考え方は一応の筋が通っているのだ。前提として立つ位置がヘンテコなだけなのである。
故にこそ、難しい。彼の立つ前提は奇特ではあるが、決して罵倒されるべき類のものではない。
単に、能力に対して理想的に過ぎるというだけである。
そして、成長には犠牲がつきものだという論理は彼には通用しない。
彼は自分が何かを犠牲にすることを最も忌む人間なのである。

「ちょうど暇していたのよ。話してみなさい。一々他人の事を気に病むような性格はしていないわ。
口外する友人もないし、何より私は説教好きなのよ」

 こういう時に、自分の面の皮の厚さが有り難い。
私は人の心を容易く読める代わりに、あまり人に考えを見抜かれない。それを多くの連中は怖いと感じるのだろう。
あちらでもこちらでも爆発するような感情の波を見せつけられれば、鬱々として楽しまないのは当然だ。
誤解を恐れず敢えて言うならば、私は暗い人間の方が好きである。
鬱々とした人間というのは明るい人間よりも賢いという話を耳に挟んだ事がある。
賢いことで苦しむのなら楽しくて熱い馬鹿になれと多くは言うが、程度の低い敗北主義者は私の眼中にない。
そんな連中よりは、最良の一手を求めて這いずり回り、「無い、無い」と喚いている愚図の方が好感が持てる。

「ですが、僕は僕が話すことで貴女を不快にすることが分かり切っているのです。
僕と話す事で僕の愚鈍に貴女は苛立つでしょうし、僕の容貌の醜悪さにも、悪臭にも辟易するでしょう」

 一理ある。この男の言うことは事実である。だが、

「考えが浅いのよ」

 腕を組んで細く息を吐く。どう話したものか。考えるのは好きだが話すのは好きではない。
言語によらない交流を多くしてきたためか、幾分訥弁のきらいがある。まあいい。

「真実貴方との会話は不愉快さを多く私にもたらすわ。貴方の発言には概ね同意する。
ただ、もう一歩が足りない。地底に居る間は嫌でも我々は何度も顔を合わすでしょうし、必要にかられて言葉を交わす必要がある」

 彼は眉根を寄せた。理解は出来るが受け入れがたい、そのような表情をしていた。
一を聞けば一を理解できる男なのだ。彼には子貢の才すら期待できまいが、幾度も説明しないで良いのはまあ楽である。
それに。

「私は、子路が好きなのよ。とても、とてもね」

 彼は、渋面を作った。

「僕は、顔回が好きです」

 予想通りの答えだった。








 茶屋の縁側を借り、二人で座る。案の定彼は恐縮して縮こまっている。
借りてきた猫の語は当てはまるまい。彼は常に鬱々として陰気を垂れ流しているのだから。
うちの軽挙妄動な馬鹿猫に一匙分けてやりたいくらいである。
ついでにお燐の明るい優しさと軽率とを彼にくれてやればどれだけ良かろう。
事はそんなに容易くはないのだろうが。団子を頬張っていると、彼は少し微笑ましそうに私を見た。
体が小さいので何をするにも言動心情と違い子供っぽく見えてしまうのだろう。
割に自覚しないものが多いが、それもまた一興なのか。
ともあれ熱い茶を飲んで彼は少し落ち着いたようである。

「地底に雨が降るとは思いませんでした」

 彼の言葉に、肩を竦める。ざあざあと、確かに雨が降り出していた。彼が此処に来て、それは初めての事なのだろうか。
あるいはそうかも知れない。ここ数日、晴れの日が続いていた。晴れといっても太陽が見えないので輝かしくも何とも無いのだが。

「雪も降るのよ」

 茶化して言うと、■■の目は丸くなった。外では通じない物事が此処には多くある。
同様に、我々が外に出ると先ず生きてはいられまい。総じて、外の人間の方が内の連中よりも強いものだ。
幻想郷は楽園だと吹聴してまわる輩が多いが、
それは外に寄生せねば存続の利かない危うげな地盤への恐怖の裏返しのように感じられる。
地底に住まう私には、どうでもいい事なのだが。

「で、どうしたのよ」

 促すと、彼は少し表情を歪めて降りしきる雨を眺めた。これは今日中には止むまいなと思われた。
街道は静まりかえっているが、代わりに店の喧噪が喧しい。
■■は一度茶を啜ったが、熱かったのか、しかめ面をして口を離した。
そうして数秒ほど口をもごもごさせていたのだが、やがて意を決したのか、ぽつりと言った。

「杖を頂いたのです」

 黒に近い焦茶色の棒は、艶々と光輝いているように見える。高いものではないだろうが、安物でもまたあるまい。
心底大事そうにそれを抱える彼は、その先を語らない。語りはしないが、大凡の所は読めてしまう。
まあ、予想通りだ。私は茶を啜り、また団子を口に含み、噛み、嚥下した。

「申し訳無いだのこれ以上するなだの何だの、要らん事を言って怒らせたのでしょう」

 返事はない。つまりは正解である。見えているのだから正解も何もあったものではないのだが。
彼にとってはその場面が余程印象に残っているらしく、映像として実に克明に私の目に飛び込んでくる。
鬱屈した態度を改め、それでも訂正しない■■に辟易して立ち去っていく水橋の姿は
彼の自己否定により誇張され、随分ねじ曲がっているように思われた。

「謙遜し過ぎてはならないと何度も言ったのだけれど、私は」
「仰るとおりです。僕は阿呆だ。学んでも反省しても改善しない……」

 彼は頭を抱えている。少しばかりあほらしくなったが、助けた手前何とかせねばなるまい。
彼は立ち向かっているようでいて、常に本質に目を向ける事から逃げている。
そうしたくないと思っているのだろうが、根本的な所で勇気が足りてないのだ。

「ポトラッチ、という風習を知ってるかしら」

 彼は首を横に振った。雨が降り続いている。男が一人往来のど真ん中を駆け去っていった。
洗濯物でも干しっぱなしにしていたのだろうか。その様子を何となく目で追ってから、私は口を開く。

「端的に言えば、客に贈り物をする俗習のことよ」

 随分前に読んだ本で知った話だ。題はなんだったかしらん。ホモ――なんちゃらである。思い出せない。
ホモ・サピエンスでないことだけは確かだ。部屋を漁れば出てくるかもしれない。
記憶は曖昧だが、まあ話が出来ない程では無かろう。彼は訝しげに私の話に耳を傾けていた。

「そう言い切ってしまえば良く聞こえるのだけれどね。事は単純ではないの。
素晴らしい贈り物が出来るのは良い立場にある者よ。そして、贈り物を受けるのも。
そうなると、受け取った側はどう思うかしらね」
「ありがたい。場合によっては、申し訳ないと――」
「本当にそうかしら?」

 目を細め、冷笑する。これは意図的なものではなかった。
そして、彼のおりこうさんな答えは、真実からはほど遠かった。

「贈り物を受け取った側は、それよりも更に素晴らしい贈り物を贈ったそうよ。この意味が分かる?」
「出来る事なら、僕もそうしたいです。良い物を貰ったのなら、二倍三倍にして返すのが礼儀だと星熊さんも」
「そう、星熊勇儀がそう言ったのね。へえ」

 奴らしい。実に奴らしい。面白すぎて、笑いが止まらない。あの単純馬鹿は、死んで治るものでもあるまい。
それともこの■■が馬鹿な理解をしただけだろうか。私としては前者であると非常に愉快なのだが。
鬼とかいう完全無欠で大らかな君主全としている連中は実に気に食わないので、
内心であっても馬鹿に出来れば心地よいものだ。

「その更に素晴らしい贈り物を貰った側は、更に更に素晴らしい贈り物を贈る。
これはどういう心情から起こるものか分かるかしら?」
「それは……良い物を貰ったから、当然そうすることになるでしょう」
「じゃあ、次の相手は更に更に更に良い物を送る事になるのね?」
「えっと、限界はあると思いますが」
「そうね。その通りよ」

 私は笑う。

「どちらかが先に限界に来る。で、限界に来た方は何と感じるかしら」
「それは……」

 俯く彼の言葉が濁る。一言に解答しないその知性は素直に好意に値する。
故に私は少し意地悪なけしかけをしてみることにした。

「貴方は始め、ありがたい、申し訳ない、と。そう言わなかったかしら?」
「言いました。しかし」

 その後、彼はまた言いよどむ。この時間こそが大事なのだ。
私は彼の懊悩を覗き見ながら、茶を啜る。
不器用な人間が一歩を踏み出そうとしているその瞬間を垣間見るのは何と愉快なことだろう。
今彼の考えていることは、彼がまさに躓いている問題でもあった。
しばしの逡巡の後、■■は恐る恐るといった風に口を開く。

「負けた、と感じるのではないでしょうか」
「そう、正解」

 私は軽く手を叩いた。しかし彼は嬉しそうな顔をしてはいなかった。
難しい顔をして、やはり小難しい事を延々と考えている。止めろとは言わない。むしろ、それを続けるべきだ。
今彼はブレイクスルーを得た。そこからどう進むのか、私は示唆を与えるだけに留めたい。
この一件程度で彼が一気に前進できるとは思えなかった。彼に立ちはだかる壁は多い。
この男は、基本的に幸せにはなりにくい類の人間なのだ。逃げればよい壁に立ち向かう。
実のところ、それは結構男らしいことではないだろうか。少し、褒めすぎかもしれない。まあいい。

「二倍返しだの何だのも、結局は全てそこに行き着く。
物を与えた方が感じるのは、紛れもなく与えられた側に対する優越感に他ならない。
そこに善意を見ようとするのは、視線をズラしているだけ。単なる逃避よ。
ポトラッチの場合を外れて貴方と水橋パルスィの関係に戻るのであれば、
更に与える事によって彼女は己の必要性を高める事も出来る、と言うこともできるわね」
「それは、流石に」
「事実よ。そしてそれが誤りであったとしても、
貴方が此処の住人に対し、"負けた"と感じているという事実だけは覆せない」

 彼は苦痛に満ちた表情で、しかし何度も何度も頷いている。
私は少し時間を置いて、■■に茶を啜るよう促した。あまりに情報量が多いと、混乱しかねない。
時には一拍置くことも必要である。しばらくして、また口を開く。

「貴方が常々言う申し訳ない、ありがたい、というのもそれの裏返しね。
"負けたのが悔しい"という事実を綺麗に飾っているに過ぎない。
貴方が私の館で働いていたのも、返礼のためだったみたいだけど、どうして返礼をする必要があるのかしら」
「それは」
「贈り物合戦の悲劇は先に見た通り。一時期ポトラッチは法により規制されたそうよ。
物による返礼は本当に良い効果を相手に与えるのかしら。
特に、星熊勇儀の言うような、二倍返しの類には自分の社会的地位を高く保とうという意志が透けて見えてならないわ」
「星熊さんにそんな意図は」
「■■にだってそんな意図は無いでしょう。同じ事よ」

 茶を啜る。彼は誰かを批判することに慣れていないのだろう。
私たちは割とあけすけに人を批判するのだが、彼らは慣れていないのだろうか。人間のそういう所は今一分からない。
クリティカルな意見は有用だと思う。それを残酷だの何だの言う連中は、ぬるま湯にいつまでも浸っていれば宜しい。
この男の特に馬鹿馬鹿しい所は、視線はズレている癖にぬるま湯に入ろうとしないところだ。
それならこっちに引っ張ってやった方がまだ良い。どうせ、何も知らずにへらへら生きられる人間ではない。

「私は思うのだけどね」

 息を吐く。これから語るのは、まあ真意だ。真意であるが故に感情だ。故に語るのはちょいと気恥ずかしい。

「物を受け取ったら、それに対する謝意を示し、
自分にはとてもこんな素晴らしいことは出来ないと言い、相手を讃えればそれで良いのではないかしら。
そうすれば与えた側の自尊心は満たされるし、無駄な出費もすることはない。
物欲に凝り固まった奴が相手なら話は別だけれど、こと妖怪に限れば物に執着する類は少ないと思って良いわ」
「言葉だけの謝礼に、重みはあるでしょうか」
「その重みというのが、勝ちに執着する醜さだと知りなさい。礼に軽重はないわ。
形式としてAを受ければBを返すべきという決まりが無い限り、その点に頓着してはならない」

 でも、と彼は食い下がる。その食い下がる所が、嫌いじゃないというのだ。
ハイハイ頷いて勝手に十を悟る顔回よりかわいげがあると言うのだ。

「Aを受ければBを返すべきとの形式があるのは、やはり返礼の必要性を認めているのではないですかね」
「逆だと考えなさい。過剰さを抑えようとしているだけだと。
そして、その手の形式が過剰になれば、大抵の組織は潰れてしまう。まあ、実例は挙げるまでもないわね」

 彼は長い長い息を吐いた。目は潤んでいるのだが、涙は決して落ちる事がない。
彼は口許を醜く持ち上げて情けない笑みを浮かべた。敗北を悟った笑みだ。

「古明地さんは……やっぱり賢いです」
「ここで1ドラクマも干し肉の束も貰おうとしないのが、私の良いところなのよ」

 茶化して言うと、彼はぐしぐしと目を拭って苦笑した。

「そういった謝礼を受け取れば、相手が対等の場に立ってしまうから……ですね」
「分かって来たじゃない。それでこそ、共に語らうに足るわ」

 ■■は醜い男だ。しかし、男子三日云々と言うではないか。君子は豹変すとの語もあるではないか。
このへたれが君子であるとは口が裂けても言えないが、それでも私は期待してみたい。
地上の兎が信奉するオオクニヌシのように、どん底からこの男が這い上がれば、どれだけ胸がすくだろう。
出藍の誉れは望まないが、未だ見ぬ友が遠く彼方からやって来ているような期待感がある。
それを心待ちにしてみるのもまあ、悪くないかも知れないなと思った。

「上善如水、ですか」

 その言葉に、思わず私は目を丸くする。じわり、と胸の裡にむず痒いような感覚がした。
最後の団子を口に含み、茶を啜り、少し迷ってから追加の注文を二人分。彼はそれを止めなかった。

「やれるものなら、やってみなさい。三日坊主が関の山よ。天下の悪皆な焉れに帰すと言うでしょう」

 未だに申し訳ないと思っている彼の心中を胸元の一つの目で見、
しかし何でもない風を装って強がるその様を二つの目で確認し、この男を拾ったのは誤りでは無かろうと判じた。

 そしてその判断が覆る事は二度と無かった。少なくとも、私の中では。



[24754] 閑話・水橋パルスィ 「流れるように、染み込むように」
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/13 21:31
 ピザの性格の奇特さはその徹底した内罰性にあろう。彼のそれは常軌を逸している。
人を責める前に先ずは自分を省みろというように社会的には適度な内罰性はむしろ称揚される傾向にある。
単純に考えれば自分を責め相手を意図的に攻撃しない手法は聖人的だ。
しかしそこだけを見ていてはあいつの本質は捉えられない。
もう一歩、何故あの男がああまで自分を責め続けるのかという点に踏み込まねばならない。

 答えを端的に出すのであらば、ピザは自分を憎悪しているのだ。何故憎悪するかという点について今は措きたい。
その憎悪する理由が誤っているのなら話は容易い。間違っていると諭してやればそれで事は済む。
だが、彼は間違ってはいないのだ。確かに彼は憎悪に足る人間性を備えている。

 それを確かに理解したピザは、自身を取るに足らないゴミと称する。
そこまでは良い。あいつの勝手だ。好きにすればよろしい。
問題はその次である。あいつはゴミとしての扱いを周囲に強要する。

 一個人として尊重しようとすれば彼は間髪を入れずにこう答える。"貴方の迷惑になるので止めて下さい"。
この意見も正しい。私はピザによかれとあれこれ動いてきたが、それが面倒であったのは事実の一部を捉えている。
一部であるが故に、彼の考え方を物事の一面しか見ていないと斬り込むのは容易い。そして、正しい。だが根本の解決にはならない。

 "私が望むように私を扱え"というのは横暴である。そこに程度の差は存在しない。
低く扱うのも高く扱うのも強要されれば同様に苦痛でしかない。
その事を彼に教え込むのは私の得意とするところではないが、頭の回る――小賢しい連中なら上手くやってのけるだろう。
だが、その点を指摘したところで"彼が自分自身を憎悪している"という根本問題は依然として残存したままとなる。
この点にこそ私は頭を悩ませているのだ。

 別に悩ませる必要はないのだが、居候がどうなろうと知ったことではないというのは私の性ではない。
自覚はあるのだが、恐らくその自己反省以上に私は情に篤い。それが故に橋姫となったのだが、そのことに後悔はない。
故にこれからもそのように生きるつもりだ。
とにかく話を戻す。彼がクズであるというのは正しい。これは間違いない。彼と共にあれば誰もが不愉快な思いをすることだろう。
ならばどう根本を改めるべきかというのが私には今ひとつ分からないのだ。
彼のどこを伸ばせば良いのか。ここで問題は先に措いた何故彼は自身を憎悪するのかという問題に帰る。

 彼が自身を嫌悪するのは他人に比べ彼が劣っているためである。
ならば欠点を補えば良いのだがどうすれば補われるのか皆目検討がつかない。
星熊勇儀の言うような兎に角体当たりという方策は周りの助けがあれば凡人ならばいつかは成功しそうだが、
彼がそれで本当にそれで上手くいくものか、私には自信がない。
ピザは、あらゆることに対しての才能及び運気が欠如しているように見えた。

 まァ、故にこその競歩大会ではある。歩く距離は10里。健康的な男性なら容易いことだが、彼にとっては苦行である。
しかし不可能ではない。努力次第では体力のない人間でも何とか踏破しうる長さである。
勿論あの男の体調は十全ではないし、仮に調子が良くともあの体格ならば歩ききるのは辛かろう。
そこには並ではない不屈の精神力が肝要となる。自身を絶対に甘えさせない決意が必要となる。
その点に関しては、彼は恐らく誰にも負けることはなかろう。
故に何のアクシデントも無ければ、ピザは一つ成功経験を積むことが出来る。その時には皆で盛大に祝ってやろうと思う。
あいつにはそういう、子供なら誰でも与えられてきたような経験が絶対に、不足しているのだ。
今からではもう遅いと悲観せず、私は行動することにしたい。あいつは駄目な奴だが、他人ではないのだから。

 誰かと肩がぶつかった。

「し、失礼」

 男である。人間だ。地底の連中は随分と地上の連中に寛容になったし、逆も然りだ。
この後腐れの無さは幻想郷とその近隣地域特有のものかも知れない。
私としては楽しそうにしている奴らが居ると腸が煮えくりかえりそうになるのだが、
流石に何年も嫉妬を飼い慣らしてはいない。上手な発散の方法くらい整えているのである。
彼はぺこりと頭を下げて走り去って行こうとする。
だが、私は男の腕から一枚の紙切れがこぼれ落ちたのを拾い、彼を引き留めた。

 へへへ、と苦笑いをする男を見(まあそこそこ良い男だ)、そして拾った紙を見る。
そこには「リンボサイドウォーク概要」と記されている。
中央にヘンテコな人形を描くセンスといい語の意味の正誤といい突っ込み所しか無いのだが、
一応このチラシが何のチラシであるのかは、容易に了解され得る。

「頑張って頂戴」

 なので柄にもなく彼を激励し、紙を手渡した。青年は爽やかにはにかむと、ぺこりと頭を下げてまた走り去っていった。
何をそんなに急いでいるのかと疑問に思っていたのだが、どうやら雨が降っていたらしい。ちっとも気が付かなかった。
髪も服もずぶ濡れである。だが、どうせ濡れる事には慣れている。寒いが、それだけだ。
ただ寒いだけで、燃えるような激情が無い。ひたすらに穏やかである。
ザアザアという音が心地よい。暫くこの雨粒に身を任せるのも悪くないかも知れないなと思った。











 帰宅すると、ピザが杖の件を土下座して謝罪したりずぶ濡れなのを指摘したりと
日頃に比べて随分活発に動き回っていた。簡単に土下座するのは阿呆のすることだと言ってはみたのだが、
簡単な決意などではありませんと断言されたので良しとしておくことにする。
どういう思考からそのような行為に至ったのかは知らないがそこまで言うなら問題は無かろう。私の知った事ではない。
見ればピザもずぶ濡れ――とは言わないまでも服が湿ってしまっている。
妖怪は肉体の病気にはかかりにくいが、この男はそうもいくまい。第一ピチピチとしていて何だかキモい。
風呂を沸かして入ることにする。温泉に連れて行ってやっても良かったのだが、
そういったご褒美は10里歩ききってからくれてやることにしよう。

 半刻足らずで風呂から上がり、ピザに次を譲る。湯冷めしないよう半纏を着てからうろうろしていると、
床に紙切れが転がっているのを発見した。一つ、二つ、三つ。今日は妙に紙と縁のある一日である。
何だと思い拾ってみれば結果は実に詰まらないものだった。単なる手紙であり、しかも三通とも内容が判で押したように同じである。

 一通目は古明地さとりだ。"■■が私に迷惑をかけたようだがこちらから説教しておいたので許してやるように"との旨が簡明に綴ってある。
妙に上から目線で書かれているのが癪だった。流石は星熊勇儀をして偉そうにしていると言わしめたチビ介である。

 しかして二通目がその星熊勇儀である。
"凹んでいるピザを見た。相当辛そうだったので宴会でも催したらどうか"とまあそんなことが書いてある。
宴会云々はこの女なりのジョークだろう。慰めてくれ程度の意味で理解して構うまい。
本当に宴会を開きたがっているのなら始末に負えない。鬼だけに真意は分からぬが。
ともあれ力比べ好きには似合わぬ流麗な文体と美辞に彩られた文言は見ていて苛々する。文武両道とは腹立たしい。
 
 三通目は古明地こいしだ。"最近常に比べてピザに元気が無いので慰めてやるべき"といった事が書かれている。
何だか色々と首を傾げざるを得ない点があるような気がするし、そのせいで背筋がぞくぞくするのだが、
恐らくピザの奴はきちんと状況を理解した上で、気にしないどころか喜んで照れ、
挙げ句に申し訳ないとか訳の分からん事を言い出しそうなので黙っておくことにする。

 それにしてもだ。

「変よねえ」

 腕を組み、首を傾げる。私も、古明地さとりも、星熊勇儀も、まあ古明地こいしは最近会っていないのでよく分からないが、
とりあえずそこまでピザに好感を抱いていないことは確かである。
自分の気持ちも理解できないような子供は我々のうちには居ないはずだ。
無論ここにおいても古明地こいしは例外なのだが、彼女が誰かに執着するのはあまりに想像し難い。
良くも悪くも自由人といった印象がある。

 話を戻す。好感の低さに対して、皆のピザに興味が高すぎるように思われてならない。
それ自体は悪いことではないのだが、尋常のことではないように思われる。
確かにピザは珍しい人物だが、珍しく悪い方向に傾いた人間だ。そんなものに我々が興味を持つとは思われない。
何故ここまで深く関わるようになってしまったのだろう。

 一因として暇だったからということが挙げられようが、主なるものはそれではあるまい。
偶然が幾つも重なり合った結果、こうしてあの愚図を矯正させることになったと考える方が楽しい。
考えに考えを重ねることで恐らく偶然性は排除されていくのだろうが、そうする必要を私は感じなかった。

 やがてほこほこした表情をしてピザが風呂から出てくる。そこに気負った様子は全くない。
まるでこの男が死んでしまうかのような危機感をもって三通の手紙は綴られていたが、
彼の様子は私の見たところでは常と変わらぬように思われる。それどころか珍しく調子が良さそうだ。
つまり私の知らない所で何かあったということで、それは――正直に言えばあまり面白くない。

「随分楽しそうじゃあないか」

 なので意地悪に笑って軽くかまをかけてみると、馬鹿者はでれでれと常のように頬を緩めるのだ。
こいつは一体全体どれだけ私のことを好きなのだと、その不細工さも相まって苦笑したくなるような表情である。
それにおぞましさを感じないのは、ピザが常に一歩引いているからだろう。
この男は私の侵入して欲しくない領域には絶対に足を踏み入れない。
彼は常に相手を不快にしないよう細心の注意を払い、絶妙の位置に立っているのだ。
私も大してこの男に心を許した訳ではないので、この関係はありがたかった。
ピザは頬を掻きながら言う。

「水橋さんが僕の愚かな過ちを寛容に受け止めて下さったので、ありがたくて、ありがたくて」

 それだけではなかろうと思ったが、褒められるのは悪い気がしない。
注意深く言葉が飾られてはいるのだろうが、それは本心を小綺麗に飾る程度のものだ。詩人の才でもあるのかも知れない。
いや、こいつに何か才能があるとは思われないからその手の努力をしてきたのだろうか。
そうだとうすればその練習量たるや、想像を絶するものとなるのだろう。
出来れば才能であって欲しいと願う。少しばかり突出した天性があっても良いではないか。
この程度のささやかな美点ですら後天的なものだと言うのであれば、こいつはあまりにも救われない。
私はあまり執念というものに良いイメージを抱かないのだ。どうしても、その言葉は醜い自分に直結してしまう。
あまり、考えたくない。できるだけ馬鹿馬鹿しくジェラシーを撒き散らしている今が気楽で良い。

「お前は、アレだなあ。自分に関しては良く見ようとする癖に、人の事からは、やたらと目を逸らすよなあ」

 畳に横になり、あほ面を見上げながら言う。ピザは目を逸らした。
人と目を合わせるという行為を極度に恐れる人間が居るという。気持ちは分からないでもない。
その手の連中は常に俯いて歩くのだ。なかなか異様な様である。
首を曲げているから自然背中も曲がり、猫背である。更に陰鬱さが増す。

「あまりジロジロ見るのも、考えるのも、失礼かと思いまして」
「ふうん……ま、お前はそれで暴走しないから誰も損しないんだけどな」
「買いかぶりすぎですよ」
「褒めてないからな」

 へらへら笑うピザに釘を刺す。あほは表情を引き締めて済みませんと頭を下げた。
軽い指摘を真面目に受け取るのは良いのか悪いのか。対応する私としては非常に疲れるのだが、
地霊殿の偉いのや、強大な鬼はどう考えているのだろう。少なくとも前者は全く気にしそうにないどころか褒めそうで嫌だ。

 しばらくごろごろとして時間を潰す。ピザはこうした何もしない時間というのが耐えられないらしい。
手を合わせては離してと、出来もしないのに気を練ろうとしている。
第一あれは練っただけでは何の役にも立たない。多分知らないのだろう。
変な知識はあるくせに必要なことは何一つ知らない男なのだ、彼は。
恐らく外は気などさっぱり理解できずとも、五行など頭から抜け落ちていようとも生きていけるのだろう。
気も五行も抜け落ちている地底の連中も数多いが、やはり我々に通底している何かが
外の連中には無いような感じがする。別にそれに対して良いも悪いも言うつもりはないのだが。

 結局は一刻ばかり惚けて過ごしていたものと思われる。ピザはその間ずっともぞもぞしていた。
そのうちこいつが昔どういう暮らしをしていたのか聞いてみるのも面白いかもしれない。
常に何かをしているというのは疲れそうなものだが、それで生活が充実するということもあるのだろう。
その事に関連して、私は彼に問うてみることにした。

「なあ、ピザ」

 居候は何か考え事をしていたのか、少しばかりの間天井に目を遣ったまま黙っていたが、やがてはっとしてこちらに向き直った。

「何でしょう」

 その顔があまりにまじめくさっており、先程の調子と変わっているので実に滑稽だった。
師匠に対する弟子というのはこういう態度をよく取るものなのかもしれない。
私はこいつに何か素晴らしい教えを与えることなど、出来はしないのだが。

「お前、そういえばやけにすんなり競歩大会に出るとか言い出したけどさ」
「はい」

 地霊殿での一件を思い返す。結局このピザはあの館に留まらずここへと帰ってきた。
そのことに関しても興味があるのだがあれもこれも根掘り葉掘り問うのは可哀想でもある。
こいつはどんな問題でも深刻に考えるのであまり幾つも疑問を提出するべきではないのだ。

「何故即決したんだ?」

 ピザは何を問われるのか大凡理解していたようである。特に驚いた顔は見せない。
彼はこつこつと自身の側頭部を数度叩いた後にいつになく歯切れ悪く口を開いた。

「そう、ですねえ」

 何度か首を捻り、ううむと唸り、そうして言葉を選んでいるのだろうか。
別に急かしている訳ではない。ゆっくり考えて答えてくれても私は全然困らない。
それにしても、この男にはそろそろ服を買ってやった方が良いかも知れない。
何もない時に買ってやればこれもまた嫌がられるかも知れないので、大会の後にでもくれてやろうと思う。

「星熊さんの名が出たからというのが決め手ですかね。やっぱり」
「決め手と言うからには、はじめから出たいとは思っていたんだな」

 突っ込むと、彼は苦く笑った。

「水橋さんは、鋭いです」
「そりゃどうも」

 鋭いも何も、きちんと話を聞いていればこのくらいのことは誰でも分かる。
ピザはやはり過剰に人を評価するきらいがある。
そう指摘すると彼は、僕には貴女が神様のように見えます、などと冗談めかして言った。
そうして続けて口にする。

「此処に来てから今までの間、何もやり遂げられなかった僕ですから……ちょっとは頑張ってみようかなと」
「それで出来たら褒めて欲しいと」
「そ、そんな畏れ多い!」
「でも褒めて欲しいんだろ」
「それは――」
 
 彼はやはり恐縮して縮こまった。そのような仕草をしても全く可愛らしくないのが難である。
太った面皰面がオロオロしていても挨拶に困るというものだ。

「別に責めてないよ。今回の大会は、企画者である上の考えとは別に、我々としては地底の事をよく知って貰おうという意図もある。
そうした中で、外から来た人間であるお前が短期間のうちに此処に良く馴染んでいるというのは良いアピールになる」
「です、かね」
「ですよ。なので、お前は我々と仲良しこよしで頑張れ。そうすると私が得をする」
「むむむ」

 ウジウジしているのを一喝してやろうと思ったのだが機会を逸してしまったので我慢する。
それにそういうのは私のタイプじゃあない。あの鬼のあたりに任せておけばいいのだ。
あいつは切れ者のくせに熱血を装っているから嫌いだ。
そうして暫く黙っていると、私の腹が小さく鳴った。流石に聞こえてはいまい、ピザは難しい顔をして俯いている。

「では、仲良しついでにちょいと飯を作ってやるとしよう。腹が減ってはナントヤラと言うからね」

 ありがとうございます、と男は常のように頭を下げる。私は常のごとく手をヒラヒラと振り返す。
お勝手に入って傷だらけの俎板を引っ張り出し、鼻歌を口ずさみながらふと内省する。
自分が思っている以上に、私はこの男の頑張りに期待しているんじゃあないだろうか。
疑問は膨れたが、やがて弾けて苦笑のもとに落ちる。それもまあ、悪くない。
ここまで色々と手を尽くしてやったのだ。少しくらい入れ込んでも罰は当たるまい。
背後に時折ピザの視線を感じながら、私は小気味よく包丁を繰り始めた。
 



[24754] 第十話 阿呆は自分が世界を回していると勘違いするものです
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/14 21:39
 夜半、腹部に重苦しさを覚えて目を覚ました。布団を被ってはいるが、この時間帯は寒い。
金縛りかと思ったが、そうではないらしい。僕は少しばかり残念に思った。
二十歳を過ぎた男性がそれを経験することは稀で、確率であらわすのであれば1%を切るらしい。
漠々と由無し事を遊ばせながら身を起こす。感じていた苦しさは嘘のように消えて無くなっている。
部屋の中央では水橋さんが寝ていて、規則正しい寝息が静かに響いている。
この人の無頓着は敬意に値すると共に、我々の社会では生きていけないタイプだと感じる。
それは、星熊さんにしても古明地さんにしても同じ事だ。

 仄かに夕食の匂いが香っている。腹の鳴るのを覚えたが、摘み食いなどという泥棒紛いはすまい。
それにしても、異様に目が冴えてしまっている。これではなかなか眠れそうにない。
布団を退かし、ゆるゆると半身を起こす。布団を剥ぐと冷気に身が震えた。
それから暫く闇夜に目を慣れさせる。地底にも光源は多い。街に繰り出せば今も提灯の赤い輝きが出迎えてくれるだろう。
妖怪たちの生活リズムは様々であるらしいが、夜を主な活動時間とする者が多いとのことである。

 それでもやはり中心街から外れた水橋さんの住宅は一切の光を受け付けない。
黒洞々たる夜とは正にこのような様を指し示すのであろう。ただそこには破滅的な色が無い。

 完全な闇夜という訳でも無いらしい。徐々に目が慣れてきた。
水橋さんに目を遣らぬよう注意しながらやおら体を起こす。頭の中心からじんわりとした痺れが生まれ、それが体中に伝播する。
視界は白熱し、目の奥が痛い。足から力が抜けそうになるが、踏みとどまる。
幼い頃からの貧血持ちで、一度などは通路に倒れて痙攣していたことがある。実に醜悪な光景だったに違いない。
目にしてしまった方々には申し訳なさの念でいっぱいである。

 壁伝いに歩き、玄関で靴を履き(僅かに湿っており、不快だった)、杖を手にして外に出る。
空を見上げたが、ひたすらに黒色が展開されるばかりである。雨や雪が降るのであれば星も輝かせれば良いと思うのだが、いかに。
水橋さんのように地上を思わせる事物を好まない人が多いのだろうか。忌まれた妖怪、という言葉を思い出す。
僕には今となってもその言葉が理解できなかった。或いはそれこそが"虚飾"の結果なのだろうか。

 目的は無いのだが、足を動かしていればそのうち眠くなるだろうと思われた。
水橋さんから頂いた杖が、とても頼もしく、愛おしいものに感じられる。
だがこれを持って競歩という訳にもいかないだろう。日に余裕はない。もう少し自分を追い込んだ方が良いかも知れない。
僕は常に努力が不足している上に、その努力で他者を巻き込む。考えて、最良の方法を模索しながら動かねばならない。

 杖の音を響かせる事しばし、辿り着くのは結局のところ常の橋である。
耳と指先の痺れるような痛みが心地よい。時折風が音を立てて吹いていた。妖怪も、妖精も今はない。
動的なものが僕を除いて完全に沈黙しきっていた。静謐さが冷気で研ぎ澄まされているような感覚がある。

 欄干に腕を預け、暗黒の広がる下方を見やる。どれだけ目が慣れてもその下には届かないように思われた。
吹き上がる風が前髪を払った。地の底から地上へと絶え間なく吹き上がるそれは印象としては毒々しいが、
実際に体に受けてみるとその壮大さに圧倒されることとなる。
"忘れるな、どうか忘れてくれるな"という怨嗟の声が響くような錯覚を僕は覚えた。死体の目玉。

 ひたり、と肩に手が宛われ、

「ねえ」

 遅れて声が響いた。考えるより先に払いのけるように腕が動いた。それから僕は飛び退くように振り返る。
たたらを踏んだが、転けることはなかった。幾分足が丈夫になったらしい。
手を当てるまでもなく自身の心音がどくどくと頭の天辺まで響く。薄暗い闇の中に居るのは骸の髪を抜く老女ではない。
見覚えのある黒の帽子、夜には決して自己主張をしない黄色の衣。
白い肌と緑の瞳だけが、ほう、と浮かび上がっているような様である。この少女は

「妹さんではないですか。何をしているのです、男性に簡単に手を触れるのは良くない。
それに、こんな人気のない場所で」
「古明地こいしよ。そして私は貴方を襲いに来た訳じゃあないわ」

 彼女の名前を僕はようやく知ることになった。この人に会ったのは、これで三度目だ。
他の人たちとはしばしば顔を合わせているのだが、妹さんに関しては久方ぶりである。

「何日ぶり、ですかね」

 言うと

「ついさっきぶりかしらね」

 彼女は韜晦した。話したくないのであれば僕はそれでも良かった。
妹さん――古明地こいしさんは以前と変わらない淡泊で飾る所のない笑みを浮かべている。
何かを隠していたり、偽っていたりする訳ではないのに、それを歪に感じるのは何故だろう。そして、それを魅力的に思えてしまうのは。

「僕に何かご用でしょうか」

 問うと、彼女はもう用は済んだ、と簡潔に答えた。やはりよく分からない人だった。
しかし妹さんは去る様子がない。澱みの無い丸い双眸がこちらをじいっと穿っている。それが恐ろしくて、僕は視線を足許に落とした。
彼女の足と手は、その顔と同じく夜によく映えていた。それにしても、姉妹揃って華奢で貧弱な体つきである。

「そういえば妹さん、足の怪我はその後どうでしょう」
「妖怪だもの。あの程度は何でもないのよ。姉とも和解――は出来なかったけれど、一つの妥協点には行き着けたわ」
「むむ。古明地さんと仲違いをしてらっしゃったのですか」
「言ってなかったかしら?」

 どうだったかしらん。何分この少女との出会いは衝撃的であったため、常に会話には緊張を強いられる。今もそうだ。
故に暫くすればある部分は色鮮やかに記憶されるのだが、その分些事が欠落してしまうのである。
待て、些事ではなかろう。古明地さんとの関係といえばこの少女にとっては大事である。
そうだ、思い出した。彼女が足の怪我を見せてくれたのもその文脈からだったではないか。
どうにも愚かでいけない。寝起きだからであろうか。そうだと信じたいものだが、何分僕である。どこが劣っていても妙ではない。

「確かに、仰っていました。済みません」
「別に謝る必要はないのだけど」

 妹さんはそう言って、僕の隣に背を預けた。あまりにも近い。なので、少しだけ避ける。彼女は気にした様子を見せなかった。
吹き上がる風が後ろ髪を玩ぶ。妹さんの帽子が舞い上がらないか心配だったが、恐れていた事態は生じなかった。

「ピザの方はどうなのよ」
「はい?」
「橋姫と喧嘩をしていたじゃない」

 杖を指さして彼女は言う。

「それが原因で酷いことになった割には、大事にしているのね」
「命よりも、大切です。それから、水橋さんとは御陰様で。やはり、ここの人たちは優しい」
「そうでもないと思うけどね」

 地底の人たちと僕との間には様々な考え方の違いがある。これもその一つだ。
皆自分たちの事をそれ程優れたものとして主張しない。虐げられてきた、忌むべき者であると言う。

「もうすぐ、お祭りがあるんだって?」

 彼女の問いに、頷く。もう時間は残り少ない。元々余裕はなかったのだ。
余暇を全て返上して体を動かしているのだが、満足のいく状態には戻っていない。

「妹さんは、参加なさるのですか?」
「面倒だし、私は遠慮するわ。その代わりにあんたを応援してあげるよ」
「……! ありがとうございます」

 拒否の言葉を瞬間的に投げつけそうになったが、飲み込む。
彼女は、へいへいと気にした風もなく手をひらひらとさせるのだった。
その懐の大きさは、大海か何かに仮託して表現しても誇張はなかろう。

「ライバルは踏みつぶさなければ進めない。そんな当たり前の事も分からないピザは、きっと潰れてしまうだろうからね」
「あまり人を踏み台にするのは……」
「あら、お姉ちゃんの言葉よ?」
「そうなのですか」

 あの人は確かに感情を切り離して理知的に行動できそうな面があった。
僕はその強力で揺るぎのない自我を羨望したものである。妖怪の多くはそうなのだろう。
妖怪だけでなく人間も多くはそうなのかも知れない。そも勝ち組になるということが、多くの負け組を踏みつぶす事に繋がる。
負け組は負け組の間でも踏み合いが生じる。誰も踏みたくないなら底辺に転がるしかないのである。
その底辺が寝転がる大地ですら人の頭であるというグロテスクな事実に気づいた時、僕は頭を抱えて進むのを止めてしまったのだ。

「でもまあ」

 妹さんは、帽子のつばを指先で握り、俯いて視線を隠した。この人も、たまに自分の視線を隠すときがある。
普段は、真っ直ぐにこちらを見つめるというのに。その差が僕には分からなかった。

「ピザの人に嫌われたくないっていう考え方は、分からんでもないわ。
私も嫌われるか目を閉じるかの二択を迫られた時には、後者を選んだしね。後悔はないわ」

 目――妹さんの胸にある心臓様をした塊は、静かに瞼をおろしていた。まるで無機物のようである。
その瞳が何を映すのか、僕は知らない。だが古明地さんも妹さんもそのことで辛い思いをしているのであれば、
一々掘り返すのは良くないように思われた。 

「古明地さんは、前者を選んだのですね」
「そう。だからかしら、私は姉にあまり褒めて貰えないのよ。
人間退治はミスが怖いというのを学んだから、最近は怨霊退治でもやってみようかと思ったんだけど、やっぱり駄目ね。
元々肉体的にはそんなに強い妖怪じゃないから、効率がとっても悪くて役立たずだわ」
「妹さん程の方でも……ですか」
「誰かに好かれるというのは難しいのよ、たぶん。私なんてその為にアレコレ犠牲にしてきたんだけど」
「僕なんかは、絶望的ですね」

 果たしてそうかしら、と妹さんは首を傾げる。

「貴方、よく気に掛けて貰っているじゃない。あれは好かれているのではないのかしら」
「……妹さんには、そう見えるのですか?」
「見えないから、行動から推しているのだけど」
「では答えを教えてあげます。否です」

 ふうん、と彼女は感心したように息を吐いた。そして納得したのか一度二度頷いた。

「正義の中で最も尊いものは」

 古明地こいしさんが唐突に口にする。

「自分のために誰かを助けるのでも、誰かのために助けるのでもない。
ただ正義のために助けるのだ、という言葉があったわね」
「難しすぎて、僕には理解できません」
「安心しなさい。私にも分からないから」

 きっとどこか変な方向に飛んで行っちゃった人の言なのよ、と彼女は言った。
それから僅かの間、沈黙が降りる。妹さんはぼんやりと何もない空を見上げていた。
彼女が何を考えているのか、僕には分からなかった。こんなにも掴み所のない人は初めてである。

「私はね」

 妹さんはやや声の調子を落とし、語り始める。

「実際のところ、何故姉達がピザを助けようと出資するのかが分からなかった。
普段の淡泊さと比べて、妙にぬるま湯い感じがしたんだよ」

 僕と同じ疑問を抱いている人が地底にも居たのだということに驚いた。
同意すると、普通はそう考えるよねえ、と妹さんはからから笑った。
幼くもなく、成熟した様子もなく、危ういバランスの上にある様は以前と変わりない。
口に握り拳を当てて笑うその姿を、何故だろう、艶めかしいと思った。

「だから、絶対にあんたを助けるに足る何か――理由がある。私はそう踏んだ」

 妥当だ。しかし僕はそこまで考えを広げることはしなかった。何故なら、それは彼女たちの厚情を疑うことになるからだ。
自分の思考で、彼女たちを汚したくは僕はなかった。しかし妹さんは疑問を推し進めることに躊躇が無かったのである。
僕は彼女の考えに強い興味を抱いた。

「あちこち聞いて回るまでもなく、すぐに分かったことだけどね。
はじめに全てをけしかけたのは、お姉ちゃんだったらしいのよ。
つまり――あの橋姫にピザを拾わせたのと、鬼に根性たたき直させようとしたのは、っていう話なんだけど」
「そう、なのですか」

 僕は何と返してよいものやら分からなかった。そんな話は一度として耳にしたことがなかった。
水橋さんも星熊さんもわざと黙っていたのだろうか。僕は考えるのを途中で止めた。
妹さんは逆側の欄干を見つめていた。しかしそれは視界に入れているだけで、実際のところ、何も見ていないように思われた。

「あんまりにも妙だから、あれこれ調べてみたんだ。そうしたらあんたに対して変に隠されている事が幾つか出てきた。
私についてもそうだし、入っちゃいけない部屋もね。上についてもあんまり聞いてないんでしょ?」
「ええ……」
「そんなんだから、私は益々焦臭いものを感じたのよ。それでお姉ちゃんに尋ねてみたんだけど」
「答えは無かった、と?」

 ううん、と彼女は首を横に振った。

「自明の事を問うお前はあほだと、怒られたわ。それから黙っていなさいとも」
「手厳しいですね。でも、古明地さんが話すなと言ったのであれば、僕は貴女から何も聞こうとは思いません。
それが彼女にとって――無論僕にとってもですが――もっとも良いことなのでしょうから」
「私も、よく分からないし違和感があるけど、邪魔をするつもりはないよ。結果的にそうなっちゃったら、仕方ないけどね」

 男の死体が思い出される。あれも、古明地さんが僕に見せまいとしたものの一つなのだろうか。
そう考えると、優しさの「裏」を見てみたくなるのは人情というものである。
むくむくと沸き上がり始めた猜疑心と好奇心を踏みつぶして、踏みつぶして、丸めて捨てる。
そんなものは僕には必要ないのである。古明地さんが死ねと言うなら僕は今すぐにでも死んでみせる。
それで良い。それだけの恩を受けてきた。それは水橋さんにしても星熊さんにしても同じ事だ。
どうせ僕の命に誰かから惜しまれるだけの価値はない。それならば恩人の望むように使うのが筋というものだ。
クズは、誰かのために生きる事を誰よりも欲す生き物である。それが、不可能であるからこそだ。
自殺とはすなわち、自分が死ぬことで誰かが幸せになることを望む、最後の大ばくちなのだ。
結果を見ることすらできない不平等な戦い、
だがその場にあえて上ってでも善行を積みたいと、我々はそう思ってしまうのである。

「僕は、皆さんの望むように生きるまでです」

 決意を言葉にすると、古明地こいしさんは、苦笑いを浮かべた。

「あんたには自分ってものが、無いんだね」

 それは大きな間違いである。故に、ありますよと僕は静かに反駁する。
比較的開けた場所にあるためか、声は発された瞬間に溶けて消える。
この会話はまさに我々二者だけのものなのだと痛感される。それはとても光栄なことだった。

「自分自身は、僕の最も憎むものなのです。だから素敵な皆さんの望むように動けば、
少しくらい彼女らの望む素敵な自分に近づけるのではないかなと……愚か者の、妄想ですが」
「そう上手くいけば、苦労はしないよ」

 彼女は胸の閉じた瞳を片手で掴み、息を吐いた。全くですと僕は頷いた。
だが、"あるがままの自分"など伸ばしていったところで何の意味もない。
僕の全てはマイナス方向に伸びきっている。ならば自分を殺すのが第一なのである。
素の自分など伸ばしていった日には、それこそ最低最悪の化け物が生まれてしまうに違いない。
今の自分以下の存在など、考えたくもなかった。
あるいは、"自分ってものが、無い"という彼女の言葉こそが僕の目指すところのものなのかも知れない。

「とにかく今は、歩ききる事だけを考えます」
「本当にそれが出来れば、今この瞬間にも一歩で千里を駆ける事が出来るよ。無為とはそういうものよ。たぶんね」
「無為、ですか」
「そう。無為は元々尊い言葉なの。誤解してる馬鹿が多いけど。有為こそは疎まれるべきものなのにね。先哲は泣いてるわ」
「では僕は、理想が高すぎるのですかね」
「うん」

 手厳しかった。ならば一歩ずつ問題を解決していくしかない。
僕は兎にも角にも駄目な奴だが、そんな僕を応援してくれる人が居る。
死んでも歩こうと思った。それで死ぬなら悪くないし、ゴールしてから死ねるなら最良だ。
きっとこれは僕に用意された、ただ一つの機会なのである。これをふいにしてしまえば、もう僕の先に道はない。
蜘蛛の糸なのだ、きっと。駄目な自分に垂らされた、これが最後の情けなのだ。
ありがたいと思わねばならない。そして、故にこそ尊重せねばならない。

 強い風が吹き上がった。その勢いと、ごう、という恨みがましい音に思わず飛び退く。
茫然自失としたまま振り返る。そこにはただ高欄と夜があるばかりであった。古明地こいしの姿はない。
僕も橋を辞すことにした。丁度心地よい眠気が後頭部の辺りを包み始めている。

 意味は無いのだろうが、彼女の居た場所に頭を下げてから歩き出す。
それは見知らぬ神社や祠の神様仏様に頭を下げ、合掌するのに似ていた。
知らないものを簡単に拝んではならないと家族にきつく言われていたのだが、僕はその教えを守った事がなかった。
忘れ去られた場所や、死んでしまった動物に手を合わせる。愚かしい行為なのだろう。
無神論者だったくせに、それだけは止められなかったのだ。きっと僕は彼らに自分を重ねていたのだ。

 杖を突いて、来た道を戻る。体は僅かに軽くなっていた。こつん、こつん、と音が鳴る。
それに続いてひたひたと足音が続いている、そんな錯覚を覚えた。だがそれが、心地よい。
口笛を吹き、夜道を行く。それもまた罰当たりなことだろうか。

 口笛を吹けば蛇が出ると言うが、水橋さんの家の前で大きく艶やかに肥えた白蛇に出会した。
自ずから光を発するような様を見て、僕は電撃に打たれたような心地がした。昔から、蛇は好きだった。
丁重に頭を下げ、拝んだ後に去って頂く。どこかの神様の化身だったのかもしれない。
赤い瞳が立派な美しい蛇だった。

「どうか、競歩大会を無事に済ませる事が出来ますように」

 祈りの声を、その背中に向けて飛ばす。ご迷惑だったかも知れないな。布団の中で、僕はそう反省した。



[24754] 第十一話 甘い扇動は軟弱者を殺すか
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/15 21:31
 大会の数日前から多く上の人が地底を訪れるようになった。
そんな大人数を受け入れる余裕があるのかと僕は訝しんだのだが、街の喧噪は普段と変わらないように見えた。
案外宿が多いのだろう。僕の知る以上に地底は広いのかしらん。今まで見てきたのはその一部に過ぎないのだろう。

 必然水橋さんや古明地さんの仕事は忙しくなるので、僕は一人でうろうろすることが多くなった。
杖が不要になる程度には回復したのだが、何となく手放しがたくて今も携えて歩いている。
それを知った水橋さんは止せばいいのにと言っていたが、満更でもなさそうな顔をしていた。
僕はそんな彼女の表情を見て、上せるような、恍惚となるような状態に陥ったのを覚えている。

 さて数日地底で観察をしていたのだが、気づいた事が数点ある。
一つは地上からやってきた妖怪の姿が見えないということだ。見落とした可能性は無論あるのだが、人間ばかりである。
そしてもう一つは、上――幻想郷という名らしい――に生まれつき住んでいた人の数が少ないということだ。
ガヤガヤと口喧しく騒ぎ立てながら旧都を練り歩くのは大抵が新参者であるという話を星熊さんから聞いた。

 その新参者というのは比較的判別し易い人々であった。
数人で集団を作り、僕と同じような(センスはずっといい)洋服を纏い、延々と何か喋り続けながら歩いている。
彼らは無論何も悪くないのだが、大学を思い出して僕は頭がくらくらする感覚を覚えた。
ここに至って僕は自分が全然成長していないことを痛感する。
僕は、地底の人々の優しさの中に適応する術を少しずつ育みつつあったのだが、人間的な強さに至っては未熟であった。
無論新参と呼ばれる人たちは若者ばかりで構成されているのではない。
老人であったり、中年であったり、様々だ。比較的男性が多いような気はする。そして、少しばかり神経質だ。
勿論それは多数の傾向であって、中には古参や上生まれ上育ちの方々と何ら変わりのない者も見られた。
ただし、それらは少数であった。

 それ以外の人々については上手く識別する事が出来ない。
つまりは、上にやってきて長く経つ人(新参と一緒くたに外来人と呼ぶのだそうだ)と、元々上の生まれの人の区別は、ということだ。
敢えて挙げるのであれば元々上に住む人々は妖怪達を畏れている様子であった。
無論それは恐怖とは違う。目上に対する尊敬の念のようなものをもって接しているのだ。

 対する古参の外来人の動きは二様であった。
積極的かつ友好的に妖怪に関わろうとする者と、のんびりマイペースに散策する者だ。
僕にはその外来人の動きが面白く思われた。
何故なら、妖怪もまた激しく動き回る連中と、どこか達観している者の二者に大別されるように考えていたからだ。
彼らは特に周囲を気にせず、酒を片手にこの珍しい祭りの場を満喫しているように見えた。

 僕も幾人かと会話をしたのだが、その中でも特に記憶に残っているのは変わった装束を纏った娘だった。
年の頃は十代後半程度だろうか、快活で自信に満ちた様の彼女は数年前に幻想郷にやって来たのだと言っていた。
今風なのか何なのか知らないが、蛙と白蛇の髪飾りは奇抜だったし、
腕の付け根を剥き出しにした斬新な袖は女性経験の無い僕には刺激的に過ぎた。
星熊さんの半分透けているようなスカートだけでも困っていたのに、これはやりすぎである。
僕は窘めたのだが、上の神職は大抵こんな格好をしている、
常識に囚われてはならないと真剣な表情でそう言われては門外漢は黙る他なかった。

 彼女は凡人ではないらしく、長い会話の合間にちょっとしたマジックを僕に披露してくれた。
妖術の類には慣れ始めていたが、人間が可能なことだとは思えなかったので驚いたものだ。
彼女は自分のそれを奇蹟であると言い、先天的な素質と後天的な努力を要するのだと述べていた。
要するに環境閾値説なのだろうと僕は頭の中で彼女の長い話を要約していた。

 奇蹟の少女は一見普通の現代っ子よろしく皮相浅薄なのだが、神職にある自分に正しい誇りを持ち責任を感じているようだった。
この年できちんと働いていることを賞賛すると、幼い頃からやってきたことなのでと彼女は微笑んだ。
小さい頃から世のため人のためと頑張るのは並大抵の事ではない。
僕はその事でまた驚いたのだが、やはり彼女はそれを尋常の事であると捉えている節があった。
この年になって多くの人の錘にしかなっていないことを僕は恥じた。

 今思い出すと切腹したい気分なのだが、僕は日が暮れるまで自分の不甲斐なさをこの少女に吐き出し続けていた。
うざったかったろうに、気持ち悪かったろうに、彼女は常にニコニコと話を聞いていてくれた。
そうして最後には僕の肩を叩き、幻想郷は全てを受け入れますよと激励してくれるのだった。
宗教にハマる人の気持ちが、今更になって僕には痛感された。
頑張って下さいね、と僕の汚らしい手を両手でぎゅっと握った後で、彼女は酩酊したようにフラフラしながら歩き去っていった。
確か杖を突かずに歩けるようになったのも、この頃からだったような気がする。
今になって思えば、彼女が何らかの奇蹟を起こしてくれたのかもしれなかった。

 いつか彼女にお礼をせねばと思っていたのだが、次に神聖な少女を拝むことになったのは、大会を前夜に控えた即席舞台の上だった。
彼女はこの大規模な祭りの主宰者の一人だったらしい。気負ったところ無く、大人数の前で
"自分も含めて新参も古参も、皆仲良くやっていけるように今回の祭りを企画したのだ"と語る彼女は溌剌としていて魅力的だった。
少し元気すぎてハメを外しているきらいはあったが、それもまた愛嬌であった。
僕にとって彼女は既に遠い人となっていたが、酒はあまり嗜まないと聞いて親近感を覚えた。
しかし彼女は未成年だろうに、ここでは日本の法は通用しないのだろうか。

 皆は寝ずに騒いで飲み明かすとのことだったが、僕は体力に不安があったので一旦水橋さん宅に戻って眠ることにした。
彼女はお祭り騒ぎを忌んでいるものかとばかり思っていたのだが、
ドンチャン騒ぎをする喧しい連中に喧嘩をたくさん売って大変楽しかったとご満悦の様子であった。
やはり妖怪の事はよく分からないと思った。
古明地さんは前夜祭の会場でちらりと姿を見かけたが、随分とグロッキーな様子であった。
以前仕事の多くは他の人に任せていると彼女は言っていたのだがとてもそうは見えなかった。
この大会には多くの人の働きがあるのだと痛感し、その名を汚さぬよう誓い、僕は布団に入り目を閉じた。







 大会のスタート地点は異様な熱気に包まれていた。"競歩"とは言うものの、
あの奇蹟の少女の言のようにこれは親睦を重視したものであるため、
走ってはならない、踵をつかねばならない、などといった厳密なルールは存在しなかった。
少なくとも水橋さんに渡されたチラシにはそのようなことは一切書かれていなかった。
チラシの中央にはでかでかとロボットが描かれていたのだが、それは恐らくあの少女の絵なのだろうと推した。
妖怪のうろつくこの地底に不似合いだと感じたのだが、何だか愛嬌があったので不思議と受け入れられた。

 十里と言えばフルマラソンの距離に若干満たない程度の長さだ。一里を歩くのには半刻、即ち一時間を要すると言う。
早朝から始まるこの祭りのメインは、つまり十時間ただひたすらに歩き続けるという非常に気の長いものとなっていた。
勿論健脚の人は"常識に囚われず"走り去っていくのだろうが、僕は無理をせぬようゆっくり頑張る事を自分に言い聞かせた。
見栄を張ろうが何をしようが、僕は所詮ピザキモメンだ。ブタが着飾ってもブタである。
ならばせめてブタに可能な事くらいは成し遂げておきたかった。それが誰にでも可能な些事であろうともだ。

 斥力でも働いているのか、僕の周り一歩分程の位置には人が居ない。
しかし執拗に嫌悪されている訳ではなく、たまに気の良い人が肩を叩いては、お互い頑張ろうな、と声を掛けて去っていく。
無意識に避けられてしまう程度に気持ち悪い僕なのに、それをおして声を掛けてくれる上の人々の優しさが身に染みた。

 遠く、声が聞こえる。誰かと誰かが呼び合っているようだ。仲がよいということは羨ましい事だと思ったが、
この不細工な自分が地底においては誰よりも多くのコネクションを持っているという事実に考えが至り、不思議な感じがした。

「おおい、おおい」

 声と共に少しばかりざわざわと海鳴りのように声がする。そういえば、海が懐かしい。小さい頃はよく父と妹と泳ぎにいったものだ。
面皰が酷くなってからというもの、あまり潜っていない。泳ぎも自転車も、皆父に教えて貰ったことだ。
痩せようと頑張る僕を応援し、夜に父が共に走ってくれたこともあった。少なくとも、僕にとっては優しい人だった。

「おい、こら!」

 肩を掴まれ、耳元に声を掛けられ、僕は思わず体を硬直させ、その後に恐る恐る振り返った。
知り合いを無視してしまったのだろうかと思ったのだが、その心配は無かった。
眼前に立っているのは地味な服をした女性である。
暗い金の髪はリボンで纏められており、その顔の小さいのに僕は驚いた。
まるでアイドルか何かのようである。僕はアイドルの実物など見たことはないが、そう形容するのが良いのではないかと感じた。
上半身の細さも、そのような印象を強めているのかもしれない。反面下半身の衣はゆったりとしており、何だか蜘蛛を思わせた。

 僕は蜘蛛が苦手だ。しかし咬まれるのが怖いのではない。何だかお腹がふわふわしていて、触ったら弾けて死んでしまいそうで怖いのだ。
幼少期、コガネグモを背中に入れられた事があったのだが、あの時は参った。
無事に出てきてズボンをとてとて這っているのを見たときは、安心して泣いてしまったのを思い出す。
僕にとって蜘蛛とは繊細な生き物だというイメージがあった。
家族から家の蜘蛛は殺してはいけないと言われていたので、何となくありがたい生き物なのかなとも思っていた。
それでもやはり、怖いものは怖いのだが。

 少女はしばらく僕を見ていたが、やがてにんまりして二度三度頷いた。

「肩に手を掛けたらロケットみたいに吹っ飛ぶって聞いたんだけど、流石に嘘だったか」

 ゆるゆると手を引っ込める彼女を見て僕はハッとした。
常であれば反射的に払いのけ、飛び退いているはずなのに、そうしなかったのだ。
地底の人は誰もそうするように求めなかったし、むしろそうされることを疎んだので、いつの間にか反抗を止めてしまったのかもしれない。

 がやがやという声が大きくなる。どうも人間だけでなく地底の妖怪達にも注目されているような気がしてならない。
目の前の女性はそれを悠々と見渡した後、腰に両手を当てて(その細さに僕はどきりとした)ニヤリと笑んだ。

「気にしない、気にしない。私は人気者なのさ」

 はあ、と返事をする。もう少しマシな言葉があったのではないかと瞬間自分を責めるのだが、
彼女が楽しそうに噴き出したので結果オーライだったのだろうかと胸をなで下ろす。
聞いていた通りのヘンテコな奴だと綺麗な少女は笑い、そうして己を細い人差し指で示す。

「黒谷ヤマメ。聞いたこと無いかい?」
「はあ……寡聞にして」

 返すと、私はお前の事をよく知っているのだが、と彼女はまた笑うのだった。
良く笑う人だが、星熊さんのような豪放磊落な様ではなく、花が咲くようにぽっと笑むものだから
僕は自分の頬が燃えてやいないかと心配になった。

「何せ橋姫に鬼にサトリ妖怪だろ? とんでもない連中に目をつけられたもんだ。
あんたの事は結構噂になっているんだよ、ピザ。知らなかったかい?」
「そう、なのですか」

 あまりぴんと来ない。僕の事を語ったとして何が楽しいのだろう。
今まで事件になるような事をしでかしたことはないはずだ。
強いて言えば妹さんが腹に穴を空けたらしいが、当人ですら伝聞でしか知らない些事であるし、
更に僕はこの件に関して口を閉ざしているので広がるとも思われない。
眉根を寄せていると、彼女はまたくすくす笑った。

「そんなに気にするなよ、友人。深い意味はないのさ。ただあんたと話してみたかっただけなんだ」
「光栄です」

 でも楽しいことなどありませんよ、と言うと彼女は気にしないよと言った。
その声が甘く優しげなので、僕はどう挨拶したものか参ってしまうのだ。
下手に口を開くと声が上擦ってしまいそうで困る。人気者と言われるのも頷けた。

「それにしても、ピザは」

 黒谷さんは口を開き、一度顎のあたりに手を当てて、ううむ、と唸った。

「その体格でやるというのだから、感心だあね。それに最近まで杖ついて歩いてたそうじゃないか?」

 やはり無謀に見えるのだろう。事実その通りなので僕としては返す言葉がない。
だがその無理を通さねば面目が立たないのだ。僕に目を掛けて下さった水橋さん、星熊さん、そして地霊殿の姉妹。
彼女らの顔に泥を塗るような真似だけは、死んでも許されない。

「両足を失っても、手で這って完歩する所存です」

 そう決意を表明すると、感心な人間じゃあないかと彼女は笑った。
だが、それは事実僕に失う物が無いために可能な決意であった。ここで役目を果たし終われば、僕は死んでも構わない。
手足の一本や二本、失った所で惜しくも何ともないのだ。目的地にたどり着くことが出来るならば、この命も捨て良い。
それに、あの魔法使いに貰った首飾りもある。痛みが無いのなら、どうして立ち止まる必要があるだろう。

「昔はそういう顔した人間達に、仲間が次々狩られたもんだ。いやァ、懐かしい!」

 笑う彼女の意図が掴めなかった。仲間を殺した相手が憎くはないのだろうか。
それどころかまるで彼らを誇るような言葉の調子である。高潔な態度なのかもしれないが、僕には理解できなかった。



 開始時刻も近づいたのか、一段高くなっている場に古明地さんが現れ、何かぼそぼそと演説している。
喧噪に包まれて彼女の声が聞こえない。耳を澄ましても、首を伸ばしても、彼女の声が僕の所まで届かないのだ。
そのうち、古明地さんはぺこりと頭を下げて去っていった。体中の熱が、いきおい抜け落ちていくような思いがした。

「ねえ、ピザ」

 彼女の声を受けて我に返る。集中するとどうもいけない。呆然として周りが見えなくなってしまうのだ。
勉強をするには打って付けであったが、それ以外の事に役立ったためしはない。

「済みません、会話の途中で放心してしまったりして」

 それは良いのよ、と彼女は笑った。地底の人はおしなべて寛容だが、僕は未だに慣れない。
少しくらい僕の未熟を責めてもばちはあたらないだろうと思うのだが、彼らはそのような些事には興味が無いらしい。
初めは注目を受けていた我々も、今は二、三の視線を集めるばかりとなっていた。

「別に気にしてないよ。それよりも」

 彼女は僕を指さして、にやりと笑うのだ。今までの綺麗で暖かで、静謐なそれとは違う。
何か毒気を含んだ、妖怪めいた寒気を催す笑いだった。僕は一瞬間風邪でも引いたかのような体の重さを感じた。

「さっき、あんたえらい顔してたね。舌打ちしたの、気づいてた?」
「エッ……」

 思わず口に手をやった。唇は冬の寒気のためだろうか、乾いてカサカサになっていた。
気づいてなかったか、と黒谷さんは一度頷いた。あの恐ろしい笑みもなりを潜めていた。

「元々は激情家なんだろうね。ふうん」

 僕は己の背筋に冷たいものが走るのを感じた。自分の知らないままに体が動くなど、恐ろしくて仕方がなかった。
自分の意識ならば律する事が出来るかも知れないが、無意識はそうもいかない。
勝手に動く体はどうすればよいのだろう。

 しかし、僕の懸念とは裏腹に黒谷さんは快活に笑うのだ。好漢、好漢と。

「一目じゃ分からなかったな。よっぽど強く律してるんだね。核がそんだけ酷いのに、よくもまあ頑張ったものだよ。偉い」

 彼女は背伸びをして手を伸ばした。頭を撫でようとでもいうのだろうか。
僕は一歩下がった。黒谷さんは追いすがる事はしなかった。特に残念そうな顔もせず、彼女は手を引っ込めた。

「僕は今も、見ての通りのクズです」

 ふうん、と彼女は長い息を吐いた。そうして僕を頭の先から爪先までじいっと見つめる。
何故か多くの視線をこの身に受けているような錯覚を覚えた。古明地さんの三つの瞳で見られた時もそんな感じはしなかったのだが。
黒谷さんにも、隠された目があるのだろうか。まさか。僕は首を振って、ばかげた考えを打ち消した。

「私は今パッと見た感じでは、ピザが駄目な奴だとは思えないんだがな。もう少し話せば、見破れたかも知れないがね」
「恐らく、そうでしょう。間違いなく僕は価値のない駄目人間なのですから」

 そうかい、そうかいと彼女は笑う。そうして漸く、人気者を自称する明るい妖怪は僕に背を向けた。
その後ろ姿に、僕はますます強く蜘蛛を幻視するのだった。あの膨れた腹に触ったら、ぱちんと弾けるのではないか。
恐れとともに、突いてみたいという汚らしい欲求が生まれ、頭を振りそれを打ち消した。
どうして僕はこんな要らない事ばかり考えてしまうのだろう。
不思議な魅力を持った背中を自己嫌悪と共に暫く見つめていたが、数歩進んだ所で、彼女は立ち止まり、振り返り、そうして口を開いた。

「ならあんたはやっぱり成長してるんだ」

 僕は何と反駁したのか、よく覚えていない。だがそれを受けて、やはり妖怪の少女は笑みを深くするばかりだった。
遠くて顔色がよく分からない。彼女の浮かべているそれが美しく清廉なものなのか、
はたまた一瞬見せたあの恐ろしいものなのか。二つの状態が同時にあり得るものとして存在している。
僕はその不思議に酔った。頭はくらくらとし、体は熱病を持ったように疼いた。
そんな前後不覚の酩酊の中でやけに大きく声が反響する。

「私はあんたのことを、一目で分かるゲス野郎だって、橋姫の奴からそう聞いたんだがねえ……不思議、不思議」

 くっくっく、と。含み笑いが頭にこびり付いて離れなかった。故に僕は、とうの昔に皆がスタートを切った事に気が付かなかったのだ。
横にはただ一人、女の子が立つばかりだ。数日前に会った、奇蹟を使う少女。
彼女は僕を見てニッコリ笑うと、頑張りましょうと腕を振り上げた。腋の下が見えて、僕は思わず目を伏せた。
再び顔を上げた時には、彼女は地底の空に身を投じ、風に流されるように視界の彼方へ消えていった。
あのような人間が居るのだなと、呆然としたのを僕は記憶している。

 自然最下位となった僕は、どこか乾いた唾を飲み込み、そうして漸く一歩を踏み出す。
今まで会ってきた人々の顔が、次々に脳裏に過ぎった。心臓に南京錠をかけられたような気持ちがしたが、理由はよく分からなかった。



[24754] 第十二話 友を騙すには先ず自分から
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/16 21:16
 ただ無心に歩き続けるうちに、様々のことを考える。今思い出すのは幼少の頃の苦い経験だ。
もう十年以上前の事になるのか、未だ鮮やかに想起することができる。
未だ幼かった僕は、どこにでも居る少年少女と変わらぬ少々やんちゃで我が儘な子供であった。

 その当時、友人同士でおはじきを用いて遊技するのが流行していた。
あの扁平なガラスの塊を指で弾いて何が楽しいものかしらんと今になれば苦笑するばかりなのだが、
児戯とは大概そのようなものである。今またやってみれば案外熱中するのかもしれない。
ちゅう、ちゅう、たこ、かい、なと終日数を数えては嬉々としていた僕だが、
店でおはじきを見る度に母の袖を引いて買ってくれ買ってくれとごねたものである。

 母は聡明で優しい女性であったから、人を甘やかしてはならないことを知悉していた。
子供にも理解可能な論理をもって丁寧に説き伏せられたことが何度もあったのを記憶している。
僕は全然それが嫌ではなく、彼女の見事な語り筋には常々感服するばかりであった。

 さて、流行とは流れ行くもの、また気取った書き方をすれば時の花とも記すようだが、
その名の示すとおり長くは留まらないものである。
おはじき遊びもその例に漏れずすっかりと忘れ去られてしまっていた。
それから後何をしていたのかとんと思い出せないが、詰まらぬ戯れであったのは間違いなかろう。

 ある夕暮れである。常のように遊び疲れて帰宅した僕を、母はにまにまと笑って出迎えた。
こういう顔をする時の彼女の話は大抵長くなるので当時の僕はそれが嫌いだった。
それでぞんざいに彼女を扱いながらリビングに入り茶を飲み、ソファーでくつろいでいたのだが、
母はちょんちょんと僕の肩を突くと、両手いっぱいの何かを差し出した。
見てみれば、それはおはじきだった。透明に、赤や青の入った綺麗な色。
僕が以前欲しいと言っていたが、高価に過ぎるので諦めたものである。
あの当時なら嬉々としたのだろうが、僕はそこで恐らく落胆したのだ。
それらが正しく扁平なガラスの塊にしか見えなかった僕は、

 そんなものは飽きたのでいらないと子供らしい無感動にて彼女を一蹴した。
その時の、"そうかあ"という母の淋しげな微笑が、僕にはどうしても忘れられない。

 僕は何故彼女が唐突に高いおはじきを買ってくれたのか、理由を聞くことが出来なかった。
それに纏わる彼女の長かったであろう話も、また。
ぎゅっとおはじきを握りしめ、とてとてとお勝手に去っていく彼女の背中を見ても、僕は何も感じなかった。
 
 数ヶ月が過ぎた夜、ベッドの中でその事を唐突に思い出し、僕は泣いた。
自分はしばしば"優しい子だ、良い子だ"と褒められながら育ち、そうであると納得して生きてきた。
何を馬鹿な、である。何故あの時母からおはじきを受け取らなかったのだろう。
それがただの扁平なガラスの塊であったにしろ、母が僕のためを思って買ってきてくれたものであれば、
価値は万金にあたるのではなかろうか。いらんと言われた母の気持ちはいかばかりであったろう。
僕はそれを思い出すにつけ、胸が裂かれるような思いがした。
それなのに、今現在まで謝ることすら出来なかった。全ては馬鹿馬鹿しいプライドのためである。

 思い出すにつけ憎々しい親不孝である。
今の僕がその糞餓鬼の前に居たならば、顔を殴りつけ死ぬまで蹴飛ばすのを止めないだろう。
あんな精神の根本からねじ曲がり薄汚れた生まれついてのクズが生きていて良い筈がないというのは
現在の僕が証明するところのものである。

 ならば今すぐ死ねという結論に何度も至ったが、最早それも不可能だ。
地底の妖怪の考え方は話を聞くにつけ身に染みた。僕が自殺するということは、彼女たちの顔に泥を塗ることになる。
恐らく彼女達はそれを己の不運や死以上に忌み嫌う。
故に僕にとって最上の死はこの競歩を歩ききり、その瞬間に自然死することだ。他殺でも良い。
とにかく意図しない死を迎えられればそれで満足なのである。
ありえないな、とは思うのだが、そうなれば良いなと希望する。
坂を登り切れば、そこからは下り坂だ。故に古人は名誉の内に死ぬ事を尊ぶのである。
無論僕という汚物をその隣に並べるという不敬な意図はない。




 看板に従いぶらぶらと歩く。旧都を外れた道を行くのは少しばかり不安であった。
途中で会った妖精が僕が最下位だと教えてくれたが、もう知っているので微笑むばかりとしておいた。
彼女たちはこういった祭りが大好きらしい。僕の周りを踊りながら、ブービー、ブービーとはしゃいでいた。
たまに魔法の弾をぶつけられるのだが、痛くないのでにこにこするばかりである。
周囲で子供がはしゃいでいるというのは、何だか気持ちがほっとするものだ。

 しばらく歩くと遠く長机が目に入った。実に現代的だが、此度の大会は外来人の交友が目的であったと思い出す。
交友もなにも僕は他の追随を決して許さぬ最下位なのだが気にすることはなかろう。
しばらく進むと、見知った顔がぽつんと机の左端に腰掛けているのが目に入る。
二人か三人座れそうなものだが、不思議なものだ。この寒い中常と同じく薄着の女性は僕を見上げてにっこり笑った。

「おお、来たかピザ。頑張っているじゃあないか」

 切れ長の双眸は常と変わらず好戦的な光をたたえている。地底でも一目置かれる赤い角が立派な妖怪、星熊勇儀さんである。
椅子から立ち上がってわざわざこちらに歩いてくるので、どうもどうもと頭を下げる他ない。

「案外余裕がありそうだな。案の定ビリだが、安心したよ」
「御陰様で」

 好意的に見えるように笑むと、相変わらず暗い奴だと頭を叩かれた。
痛みを首飾りのため感じないのは残念だが、久方ぶりに感じた彼女の手の感覚に力が漲る思いがした。

「はやいところではもう、ゴールにたどり着いたのですかね」

 看板を確認するに、今は二里ばかり歩みきっているようだ。ふと周囲を見るが、妖精の姿がない。
星熊さんに恐れをなして逃げ出したのだろうか。そうではなく単なる気分かも知れない。
楽しいことを見つけたらあの子達はそっちに走っていくのだろう。良いことだと思われた。

「ちょっと前に一位が決まったらしいな。まあ気負う事はないよ。
競歩だというのに空を飛んで最短距離を突っ走ることもないだろう。この大会の趣旨にも反している」
「それを言われると、最下位の僕も……」
「ははは、気にするなよ!」

 ばんばんと叩かれる。理路整然とはしていないのだが、その粗さがかえってありがたいのだと感じられる。
大きい人なのだ。燕雀云々と言うがまさにこの人と相対する時僕はそのような感覚に襲われる。
スケールが違いすぎる。見ている世界も、全く違った色合いで星熊さんには映っているのだろう。
彼女は笑ったついでに何かを僕に押し付けた。

「ほれ、水。あと団子な。先は長いんだし、適当に腹に入れておけ」

 どうやら大会規格のものらしく、同じようなものが幾つか残っていた。恐らく一位が通過した時には山になっていたのだろう。

「ありがとうございます」

 僕はそれを口に入れて歩き出そうとしたのだが、まあまてと彼女は言った。
はてなと首を傾げると、星熊さんは僕に靴を脱ぐように指示した。
理由が分からないので問うと、なんでもマメが出来ている可能性があるということだった。
歩くだけでそんな事があるのかと思ったのだが、彼女の言うことなので大人しく従う。

 見れば親指の付け根辺りが赤くなっていた。特に腫れは無いので大丈夫だと思ったのだが、星熊さんはむむむと神妙な顔をしていた。
彼女としてはあまりよろしくない状況らしい。やはり脆いなあ、などと腕を組んで唸っていた。
僕は申し訳なく情けない気持ちがしたが、塞いでばかりもいられない。

「完走……じゃない、完歩――かな。できますかね」

 問うと、彼女は大丈夫だと強く言った。それは僕を勇気づけるというよりはむしろ、当然の事を宣言しているように思え、
その事がかえって励みになった。この人は僕が歩ききるのを当たり前の事だと思っている。
ならばその当たり前を果たせずしてなんとするのだ。星熊さんほどの文武両道の人が言うのだ、間違いはあるまい。
僕にそれが可能であるというのは最早客観的事実なのだ。己にそう言い聞かせる。

「お前は死んでも亡霊になって歩き続けるだろうからな。その点に関しちゃ心配してないよ。
でも万全を期すのは良いことだ。絶対勝てる戦いに更に万全の対策を。悪いことじゃないよ。余裕も嫌いじゃないがね」

 そう言って彼女は水の入った桶と軟膏を持ってきた。このような事態を想定していたのだろうか。
スポーツには事故がつきものだ。あるいは、そうなのかも知れない。
僕は感謝して足を水に浸し、息を吐く。じんわりと、足全体が癒されるような思いがして、幸福感が体を包んだ。

「焦る必要は無いんだ。ゴール出来れば勝ちだ。とにかく、確実にな」

 彼女の言葉に、僕は苦笑する。

「しかし、タイムリミットはあるでしょう」

 それはそうだが、と彼女は平然とした顔で残った団子を一つ摘んで口に放り込んだ。

「それでもゴールで待っててやるよ。お前が辿り着くまでは」

 平然とそのような事を請け合う。寒空の下で待ち続ける事はどれだけ辛かろう。
それに星熊さんはお祭り騒ぎが大好きな筈だ。
あちこちで勃発する騒ぎを尻目にただ地平の彼方から現れるかどうかも分からんデブを待つというのは全体どんな気分がするだろうか。

 しかし僕はこの人は一度決めた事は何があっても曲げない事を知っている。そうであるが故に彼女の決定は必ず何らかの意味を持つ。
反古という言葉は彼女の辞書に赤文字で書き込まれているに違いない。

「よし、十分だろ」

 そういって彼女は僕に足を桶から出すよう促した。タオルを受け取って濡れた部分を拭い、軟膏を塗布する。
彼女は僕の手際が見ていて苛々するのだろう、手を出したり引っ込めたり、うー、だとか、あー、だとか言っていたが結局は黙っていた。
他人との接触を僕が過度に恐れるのを理解してくれているからだろう。
申し訳ないと思うが、やはり誰かと触れ合うのは怖い。会話するのもだ。
地底の人たちが相手だとまるで家族を相手にするようにそれが薄れるのだが、皆無というわけではないのだ。
誰かと密着することで安寧を得られないのは、生物として欠陥があるのではないのかしらん。
疑問を抱くが、何せ僕だ。どこにどれだけ穴があっても、またそれがどれほど致命的であっても驚くに値しない。
近頃は人付き合いも出来るようになってきたかなと思っていたが、幻想だった。
ここの習俗に染まりきっていない人々を見ると、心が締め付けられるような恐怖を覚えた。
僕はぬるま湯に浸っているから、それで成長出来たと錯覚していたのだ。
実際は、単に見方を変えただけで一歩も動いていないというのに。

「気負うな、気負うな」

 僕の様子から心情を推したのか、星熊さんはニッと笑った。地底の皆は本当に気遣い上手だ。
妖怪というからには様々の闇を見てきたのだろう。それが彼女達を精神的に成育せしめたのだとしたら、何だか少し悲しい気がする。
勿論、僕のようなものが哀れむのは、筋違いなのだけれど。

「桃栗三年柿八年、石の上にも三年、雨垂れ石を穿つ。分かるか?」
「セイタカアワダチソウを喜んで栽培する人も無いでしょう」
「ありゃ元々園芸用だぞ」
「え……そう、なのですか?」
「はっはっは、あほめ。視野が狭いんだよ」

 事実はともかくとして僕は恥じ入り頭を下げるしかなかった。
悪の化身であるかのように扱われるセイタカアワダチソウに自らを仮託してみたのだが、
案外そうでもなかったらしい。そういえば、子供の頃はあれの乱立する空き地ではしゃぎ回った記憶がある。
花の黄色も、そんなに毒々しいものとしては映らず、むしろ自然の象徴として記憶していたように思われる。

「星熊さんは」
「ん?」

 首を傾げてニヤニヤする彼女に、僕は思わず息を吐いた。

「とても賢いのですね。力もあるし性格も良いのに」

 性格はどうかねえ、と彼女は笑った。語るところによれば、組織ぐるみで星熊さんを厭う者もあるそうだ。
僕のような人間にも親しみやすく接してくれる彼女を敬遠するとはどういうことなのだろう、少し理解が追いつかなかった。
これもまた、視野の狭さによるものだろう。つくづく、勉強が足りない。

「そもそもな」

 笑いながら彼女は言う。

「ピザが憧れそうな仙人や天人みたいな連中はお前みたいに勉強勉強で本を漁って考えて真理に辿り着いたんじゃあないぞ。
考えはするのかも知れんが、本読んで論理的にアレコレ組み立てて対立させてというのは、道からドンドン遠ざかるものなんだよ」
「ハア」
「大悟するには、別に特別な事なんて必要ないんだ。おはよう、さよなら。この中にだって真理がある。
晩飯にも、お前が持ってる杖にもな。気づくこと、それが大事だ」
「分かりません」
「だろうよ。それに、教えようといったって、言葉に出来るものでもないしな」

 星熊さんはその境地に達しているのだろうか。分からない。
そうかも知れないし、やはり彼女は全く別の場所に立っているようにも思われた。
いずれにせよ僕にとっては偉大な方であり恩人であるという事実だけは変わらないのだ。
すっかり軟膏も馴染んだ事だし、僕は靴を履く。

「さて……随分、ロスしてしまいました。時間」

 なァに、と彼女は僕の肩を叩く。

「そのまま歩いていれば、もっと失っていたさ。気合と根性でボロボロになっても喜ぶのは私くらいのもんだしな。
それにあほやって傷ついても馬鹿馬鹿しいだろ」
「星熊さんたちは」

 うん、と首を傾げる彼女に、僕は俯いて言う。

「仲がよいですよね。性格、全然違うのに」
「だから面白いのさ。仲が良いかどうかは分からんがね」

 共有できるものがあるから共同体を作る。彼女たちにはその考えが無い。
基本的に一人だ。そして、何かがあればそのつど必要に応じて集まる。そして、馬鹿騒ぎをする。
僕にはそれがとても素敵なことのように思われた。勿論、考え方に優劣など存在しない。
だが、それは自分に自信を持っているからこそ可能な振る舞いではないのかしらと思う。
遠くから見上げて推察しているので、誤りばかりかも知れない。
それが訂正される時があれば、僕は喜んで受け入れたいと思う。

「さ、まだ道は長いぞ。へこたれるなよ。期待しているのだからな」

 星熊さんに背を強く叩かれ、歯を食いしばり前を見る。まだ二里だ。あと八里歩かねばならない。
だがそれだけ歩けば、僕は期待以下のクズであることを脱す事が出来る。
努力すれば何か得るものがあるという幻想はとうの昔に捨てた。だからこそ、実際に達成可能な目標に向かうことが出来る。
曖昧な物は全て切り捨てることが出来る。生温いオプティミズムは切り捨てた方が――よっぽど頑張れる。
昔からそうだった。凹んだときは徹底的にネガティブな文言を探してそれに浸っていた。
ポジティブな言葉を見るにつけ、心が抉られるような思いがした。僕は恐らく、そのようにしてしか進めないのだ。
根本的に星熊さんとは、違うのだ。

 しかし、だからといって彼女を好きになれない訳ではない。
出会い頭、印象が悪かったはずの星熊さんを、僕は信頼しているし敬愛している。
この人の敗北を知らない様を見ていると、そうありたいものだと自然に思えてくる。
理屈じゃないという言葉は今でも反吐が出る程嫌いだが、この人だけは例外に置いてもよいのではないかなと思えてしまう。

 確認する。僕は、星熊勇儀さんが大好きだ。よし。

「歩きますよ。こんなデブでよければ、期待して待っていて下さい」

 敢えて自分を追い詰める。星熊さんは一言、気に入った、とだけ口にした。
以前気に入らないな、と言われた僕だからこそ、その言葉が深く身に染みた。もう後には退けないのだ。
そして、何があろうと立ち止まるつもりはない。

「それでは、行ってきます」

 次の看板を睨め付け、一歩。足の不具合は全くない。星熊さんのおかげである。
いつまで経っても成長しないクズだけど、それでも。成長したのではないかなと錯覚させるくらいの大言を吐きたかった。
要は、星熊さんに認められたかったのだ、僕は。まだまだ未熟で彼女の眼中にもない自分だけれど、待っていてくれる。
それだけで、嬉しかった。涙が出るほど嬉しかった。だから、歩き出す。無様な泣き顔は、見られたくなかったのだ。



[24754] 第十三話 人はロボットになれるか
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/17 21:27
 幼い頃より多くの人に支えられてきた。素晴らしい友、誇れる両親、自慢の妹。
環境こそが万民を作る上で重要なのだという論を故に僕は信じない。
理想的な状況におかれて(それは温室という意味では決してない)育った僕は、
何故だろう、今もやはり人に支えられて生きている。
支えられているという事実を忌んでいるのではない。支えられるだけで誰一人支えてはいないというのが問題なのだ。

 ただ、今の僕には確かに背負う物がある。地底の皆の誇りである。
それも彼女らが僕に与えてくれた信頼に他ならないが、背負っているというのもまた事実だ。
重荷には感じないし、感じてはならない。僕には彼女たちが与えるものならば全て笑顔で受け入れる義務がある。
その義務をすら重いと感じてはならない。彼女たちが僕に与えてくれたものを考えればそれが当然の礼である。

 もう四里ばかり歩いたろうか。懐かしい熱のようなものがぼんやりと足全体を包み込んでいる。数年ぶりの感覚だ。
体が疲労すると筋肉ではなく骨の辺りがミシミシと傷むのだということをはじめて知ったのはいつのことだったかしらん。
疎まれながら走った中学時代から、恐らく僕は全く成長していない。
だが、環境が変わった。僕は首もとで揺れる飾りを握りしめる。痛みは、全くない。
地の底はこの情けない人間のクズをすら受け入れる度量を持つ世界だった。
僕が何の取り柄もない人間だということは正しい。
だがこの世界がそれをものともしないということもまた、事実として受け入れねばならない。
そこから目を背けるのは思考停止以外のなにものでもない。それは僕が最も忌むものである。

 ではその世界において僕がどうあるべきかを考えなければならない。
そもそもこの地底があたたかいのは、そこに住む住人の度量が広いためだ。
そして、そのような風習が当然のものとしてこの近辺には根付いているらしい。
新参の外来人と古参のそれを比せば容易に知れることである。前者もいずれは後者のように変化するに違いない。

 では僕の目指す道も明らかになるというわけだ。
この大会で目にした古参の外来人、もしくは土着の人々を模倣すれば良いのだ。
無論それは容易いことではない。クズである僕には辿り着けない境地であることは自明である。
しかし自死を選べないのであれば他者に迷惑をかけない範囲で理想へと歩み続けるべきである。
注意しなければならないのは理想は本当に理想なのかということだ。
それも忘れてはならない。頭の中が爆発しそうになるがそれは僕が阿呆だからだ。甘えてはならない。

 遠方に光が見える。それは空を悠々と漂いながら僕の側へと至った。驚くには値しない。
それは予想通りの妖精であった。一度僕をからかっていた子達の一人が戻ってきたのか、
はたまた新しい子がやってきたのか。人の顔を覚えるのが苦手なので、分別できない。
彼女はからからと楽しそうに笑いながら、僕の頭をぽんぽんと叩いた。子供のすることなので何ともし難い。
それとも振る舞いが子供らしいだけで、本当は僕より遙かに年長者なのだろうか。
そうだとすれば諫めるべきなのだろうが、やはり分別がつかないので黙るしかない。

「おデブさん、おデブさん!」
「はい、おデブさんです」

 常以上に元気だと思ったが、彼女から漂う酒気を鼻に感じ、納得する。酔っているのだ。
ここでは幼い子供も飲酒を認められているのか、それともこれこそが彼女が年長者である証左なのか。

「おデブさんは、ビリではなくなったようだよ!」

 彼女の言葉に、瞬きをする。僕の前に人は無し。僕の後ろに人は無し。
誰かに抜かれた覚えもなければ、誰かを追い抜いた記憶もまた、無い。
不思議に思って首を捻っていると、彼女は馬鹿だなあ、とけたけた笑った。僕は曖昧に笑うことしかできない。

「リタイアした人が何人か出たんだよ」

 その言葉はどこか非現実的な響きを伴って僕の耳に届く。リタイア。
この人類種のクズである自分ですら歩き通せる距離をリタイア。何だか、妙だ。

「事故でもあったのですか?」
「そうだね。ひどい怪我はないみたいって話」

 悪戯ではないのよ、と彼女は念を押した。
妖精は時に過激で致命的な悪戯をすることがあると聞いていたが、今回はそうではないらしい。
既に誰かが傷ついている筈なのに、何故かほっとする自分が居た。身内はどうしても優先してしまう。
博愛を語る程の人物では僕はないのだが、好意による差別は自覚すると恐ろしいものがある。
それにしても、"身内"とは。失笑する。僕も随分傲慢になったものだ。殺してやりたい。

「じゃ、私は他の子たちにも伝えてくるから。頑張ってね」

 ヒラヒラと手を振って、妖精はまたふわふわと飛んでいってしまった。
終止楽しげに振る舞う彼女には他者のリタイアも祭りを盛り上げる一要素に過ぎないのだろう。
僕としては、少なからず同情する所があると同時に、自分でなくて良かったと下衆な考えだが安心するところもあった。
他の人が崩れ落ちてしまうような問題に直面してこの僕がそれを解決できる筈がない。
彼女の言葉を聞いたとき、寒気がしたと同時に、確かに僕は胸をなで下ろしていたのだ。






 息を吐き、歩く。一人で居ると寒さが身に染みるものだ。足の裏の感覚も鋭敏になっているのを感じる。
痛みだけが消し去られているので何とも言えない変な感じがする。
何らかの処理を施した方が良いのかも知れないが、僕にはその方法が分からない。
悲惨な状況になっていると、目にするだけで気が萎えるかも知れないので、気にせず歩くことにした。
とにかく痛みだけは全く感じないので多少の無理は利くはずだ。

――、一人?

 はて、と首を傾げる。星熊さんの時にも違和感を覚えたが、また妖精が何処にも見えなくなっている。
先程やってきた一人が来るまで、僕は暫くただ一人で歩き続けていた。あり得るのだろうか、そんなことが。
妖精の数の多いことは知悉している。街を歩いていても橋の側をぶらついていても、必ず数人の妖精が談笑しているものだ。
草木も眠るような時刻になると話は別だが、今は昼である。歩いてきた距離から換算するにそれは間違いない。
一里、二里という数え方はそこから容易に徒歩での必要時間を割り出せるので便利だ。
一里なら半刻二里なら一刻、分かり易くて実に良い。

 風が吹いてきた。足許に踏みしめているのは大地だというのに、下から上へ、吹き上がるようにだ。

 思考の方向がずれている。落ち着こう。靴が砂を噛むのを感じる。舞う髪の毛を払いながら歩く。
何だか胸を締め付けられるような思いがする。こんな感覚を、僕は何度か覚えてきたはずだ。
それはこの地底に来てからというもの、長らく縁遠いものだった。
突発的に頭を掻きむしりたくなるような、暴れ出したいような、妙な衝動が体中を走っている。

 咳払いをして、歩く。

 それにしても、何だろう。寒さが感じられなくなってきた。暑いのだ。
それは温度としての熱でもあろうが、胸の裡に絡みつくようなねっとりとした不快感を伴っていた。
ヘドロを煮詰めたようなという表現がしっくりくる。若しくは僕をドロドロに溶かして熱したような。

 喉の奥に痰の絡まったような嫌な感覚がする。決して呼吸が出来ない訳ではないのだが、何故だろう、息苦しい。
腋の下ばかりひやりと冷たい。遠く眼前に赤い光が多く浮遊しているのが見える。妖精達だ。あんな所で集まって何をしているのだろう。

 何故だか怯む足を無理矢理進ませる。たとえ目の前に虎が居ろうとも僕は歩く所存である。

 妖精がふわふわと近づいてくる。赤い光が目に悪い。彼我の距離は詰まるのだが、しかし彼女らの姿が明らかにならない。
目の前にあるのはただただ光る塊である。なんだろう、これは。妖精ではないのだろうか。
人魂か何かのようにも見えるが、はて。

 彼らは僕を囲むとぐるぐると旋回をはじめた。特に邪魔ではないのでそのまま歩く。
視界が歪むし暑いが押し退ける事は出来ない。彼らにも彼らなりの意図があるのだろう。

 じゅう、と音がした。

 見ればジャージの肩口の繊維が溶けていた。べったりと肌に焼き付いている所を見ると、火傷してしまったのだろうか。
ちりちりと引きつるような感覚はあるのだが、熱は感じない。僕は"鎮痛"の首飾りを見やった。
効果が強すぎるとの話だったが、それはこういうことだったのだろうか。
僕は痛みを感じないものであると理解していたのだが、
鋭敏な感覚をあれもこれも殺してしまうのがこのアクセサリの力なのだとしたら、ありがたいことこの上ない。

 じゅう、じゅう、と音がする。

 嫌な臭いがした。たまにブタと呼ばれることもあった僕だが、ブタが焼ける時はもう少し美味しそうな匂いがしたものだ。
何だろう、この鼻の曲がるような臭気は。自分がブタ以下であると知ると、流石にげんなりする。
そういえばどこかでブタの体脂肪率は高くなく、むしろ低いのだと聞いたことがある。
では僕は何なのだろう。今ここでじゅうじゅうと小気味良い音を立てて焼かれているのは。

「おい」

 呆れた声と友に視界が開けた。何事かと思い振り返れば、黒い帽子の少女である。
古明地こいしという名は、夜の橋で聞いた。周囲を見渡すのだがあの赤い光の塊は無い。
幻影だったのかと思うが所々服が溶けているのを見るに、そうではないらしい。
はてなと首を傾げていると、妹さんは大きく息を吐いた。

「何をやっているのよ、あんたは」
「はァ。歩いてますけど」

 見ての通りだと思うのだが、妹さんはその答えには不服だったらしい。隣を歩きながら、こちらの様子を観察している。 
半眼で見上げてくる様には心が乱される。いかんいかんと首を振って、歩くことに集中する。
それにしてもこの人、神出鬼没である。姉の古明地さとりさんもそうだが、この人のそれは質が違うように思われる。

「あんたさあ」
「はい」

 しかと妹さんを見据えているつもりなのだが、たまに彼女の姿が薄れるのは何故だろう。
視界がぶれているのでは断じてない。他の場所は明瞭に見えるのだが、たまに目が彼女を捉え損なうのだ。

「ちょっと、変になった?」

 彼女の言葉に歯噛みする。僕はまた悪い方向に転がってしまったのだろうか。
皆に迷惑をかけてしまわぬよう、決死の覚悟で事に当たっているつもりなのだが、まだ不足があるだろうか。
あるのだろう、なにせ僕だ。思いつく限りのことをしているのだが、そもそも最上策を捻り出せないのが僕だ。

「ますます駄目な奴に、なりましたかね?」

 問うと、彼女は肩を竦めるばかりだった。

「人によると思うよ。そんなことより、疲れたでしょう?」
「ええ」

 頷くと、彼女は手を差し伸べた。

「何ですか?」
「なんですかって、治療に」
「行きませんよ。それはリタイアするということでしょう」

 言うと、彼女はやはり腕を組んで、分からない奴だなあ、と唸っていた。
理解されずとも歩くしかない。僕は立ち止まる訳にはいかないのだ。体は動くのだからゴールまでは歩く。
星熊さんが僕ならやれると言ったのだ。故にやれない訳がない。星熊さんは嘘を吐かないのだ。
僕が倒れれば星熊さんが嘘を吐いたことになる。それはよくない。

「別にこんなどうでも良い大会で意地張らなくても良いと思うんだけどなあ。火傷してるし」
「ちょっとでもあなた方の顔に泥を塗る事にしたくはないのです、僕は」
「もうリタイアした人も出たしさあ」
「それなら尚良いですね。ゴール出来たというだけで箔が付く」

 分からないなあ、と古明地こいしさんは隣を歩きながら唸っていた。
これが彼女の姉であれば僕の至らぬ所をずばりと指摘して下さるのだろうか。
今は考えても詮無いことだ。とにかく歩ききる事だけに集中したく思う。

「またあの赤いものは出てくるのですかね」

 問うと、妹さんは、それも説明されていないのか、と呆れた顔をしていた。
僕は知らないことが沢山あるらしい。先程の赤い炎のような変な玉も知らなくて良い物なのだろう。
ならば気にしないことにする。とにかく今は古明地さんや水橋さん達に安心してもらうのが先だ。

「もう出てこないと思うな。過半はやっつけちゃったから。おかげであんたを助けに来るのが遅れたのだけど」
「他の人がリタイアした原因も?」
「うん」

 あれは思っていた以上に危ないものだったらしい。それにしては懐かしい感じがしたのは何故だろう。
僕は時折ああいうものに親しんでいたような気がする。水橋さん達のような妖怪よりも、
その辺をうろついている妖精よりも、ひょっとしたら人間よりも、あの赤いものに僕は近しい何かを感じた。

「まあ、よく分からないけど。
取りあえず死んじゃったらお姉ちゃんに言ってエントランスに飾ってあげるよ。安心して頑張ってね」
「それは……申し訳ないです」
「じゃ、私の部屋でも良いけど」
「ですから」
「飽きたら捨てるから気にしないで良いんだよ?」
「そうですか。安心です」

 妹さんとの会話はなかなか繋がらないのだが、今のように気持ちよく続く時もあるから不思議だ。
それにしても、極限状態であったり暗い室内であったり真夜中だったりと、
あまりはっきり顔を見る機会の無かった古明地こいしさんだが、妖怪とは皆美しいものなのだろうか。
夜の闇の中では姉に似て見えた彼女だが、纏う雰囲気は対照的であるように思われる。

 陰鬱としたぬるま湯い雰囲気の中に鋭い理性を持つ古明地さんに対し、
一見親しみやすく見えるがその深奥には得体の知れないものが見え隠れする妹さん。
更に奥を覗き込めばまた両者は反転するのだろうか。僕には分からない。

「何かに一徹打ち込めるというのは、良いことかしら」

 妹さんの言葉に反射的に頷きそうになり、言葉を飲み込む。僕はそういう人間では無い。
とにかく疑い、考え、そして結論を出すべき者である。
ただ一つの事に頑迷なまでにひたすら打ち込むというのはそれに集中するということである。
集中するということはそれしか見ないということである。つまりは、他を捨てる事に他ならない。

「周りに大切なものが沢山あれば、良くないでしょうね」
「ふうん」

 妹さんは一度頷いた。それから暫く会話もなく歩き続けた。途中で一度体が揺れたが、それだけだった。
頬を撫でる風は冷たく気持ちいい。あの下方から吹き上がる感じは既に無く、爽やかな追い風である。
耳を切るような感覚を味わえないのは少しだけ残念だった。

「ピザは大切なものが無いので、歩くのかしら」

 唐突に妹さんが問うた。僕はそうではないと応えた。歩く理由は決まっているのだ。
胸の奥に重い物を感じた。それは痛みを感じない体を蝕むが、その代わりに、温度を持ち、心地良いのだ。

「皆さんの期待に応えようと、歩くのです。大切なのは、皆さんです」

 そう、と古明地こいしさんは頷く。何かを確認しているような様だった。
彼女は常のように帽子のつばに手を掛ける。僕は何故だろう、そうするのだろうなと思っていた。
数度しかない交流の中で、小さな彼女の癖を知れたのは嬉しかった。妹さんは視線を隠して呟くように問うた。

「大切な物のために、敢えてそれを見ないという選択もあるのね」
「当然、あると思います」

 僕は頷いた。

「常にその事に囚われていては、出来る事も出来なくなる。故に敢えて考えないようにするのです。
そうすることでパフォーマンスの向上が期待できるのならば、選択としてそれも悪くない。
まあ、見ない、考えないと言っても、胸の裡の意識しない所からだけは……絶対に消すことが出来ないのでしょうけれども」

 あなた方から受けた恩とはそういうものです、と言うと妹さんはそれは良かったと呟いた。
僕の言葉に応えたというよりは、むしろ自身に言い聞かせている節があった。
それはやはりどこか不安定に思えたのだが、彼女は不安定だからこそ安定しているのではないかと僕は考えている。
この自由に揺れ続ける少女を一所に押し込めてしまえば、ひび割れて、壊れてしまいそうな気がするのだ。
だがそんなことは僕の心配するところのものではない。古明地こいしさんは僕などに心配されずとも一人で満足に生きている。
考慮するのは侮辱というものだ。息を吐いて、顔を上げる。

 予想していたが、とらえ所のない少女の姿はまたしても視界から消えていた。

 そういう妖怪なのもかも知れないな、と結論づけて歩き出す。忌まれた妖怪だというからには知られたくない事もあるのだろう。
故に訊きたいとは思わない。訊いたところで僕は自分以上に誰かを嫌う事はないだろう。
古明地こいしさんに至っては人を殺しているというのに、親しみを覚えてしまっている。
人として、それは宜しくないことなのかも知れない。だが、それで良いのだ。
間違っていようが何であろうが僕というクズを掬い上げてくれた皆を好きでいられるならばそれで良い。
そして好きな皆のために何か出来るのであれば、僕は死をも恐れない。
そもそもクズというのは、善行のために自殺しようとするような連中なのだから。

 ああ、今この瞬間ほど――生が充実していると感じたことはない!
一瞬視界がぶれた。膝の力が抜けたのだと気が付くのには少しばかり時間が掛かった。
だが、力を入れればまだまだ歩ける。大丈夫だ。絶対にゴールできる。皆がそれを期待しているのだ。
テープを切るその瞬間の事を思うと、僕はもう駄目になってしまうのだ。幸せで、幸せで、笑いが止まらない。

 外股の皮が、べろりと剥げていた。僕はそれを記憶と認識から消した。
  



[24754] 第十四話 再会(最下位)
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/18 21:20
 古明地こいしさんは脅かすような事を言ったが、体の調子は全く悪くない。
そう断言してしまうと語弊があるのだが、しかし思っていた以上に僕の体は良く動く。
現在七里である。足がプルプルと痙攣しているのが見ていて情けない。しかし、歩くのには何の問題もないようである。
調子を確かめるために一度首飾りを外したのだが、悲鳴を上げる程の痛みは無かった。

 そろそろ日は傾きはじめているのだろうが、地の底ではよく分からない。ただ、少しばかり薄暗さが増したようには思う。
妖精の姿はやはり無かったが、もしかしたら大会の邪魔ということで蹴散らされてしまったのかも知れない。
何だか可哀想な気がするのだが、本人達も度を過ぎた騒ぎを良く引き起こしていると自覚しているようなのでどっこいかしらん。

 寂れた道を一人行く。慣れたことだった。家から出れば常に一人だ。買い物も、登下校も。
周囲に人が居てもそれは居ないのと同じである。誰もが僕の存在をみとめているが、しかしそれに触れる愚は犯さない。
友好的に近づいても敵対的に近づいても得にならないのがこの無価値な自分である。
その事実を単なる事実として受け入れているため、傷つく事もない。
問題なのは誰であれ人間を完全に無視する事など不可能なため、どうしても僕の存在は他者に不利益をもたらしてしまうという事である。
"見なければいいだろう"は傲慢に過ぎる。汚物を撒き散らしながら見るな見るなとは笑わせる。

 看板に従い、ただ歩く。歩く時には大抵何かを携えていた。ランドセルだとか、学生鞄だとか。今は、体一つだ。
それが中学時代の愚かな自分とどうしても重なってしまうのだろう。
あの時は僕の視野の狭さが妹を傷つけたが、今はどうだろう。また何かを見失ってはいないだろうか。
あの時と同じく行為のみに集中してしまっているため、その恐怖は心の奥底にこびり付いて剥がれない。

 しかし歩くことを考え続けなければ、体は屈してしまうのではないかとも思う。それはあってはならないことだ。
杖が欲しいなとふと思った。歩き疲れたためではない。あれを握っているだけで僕は不思議と心が落ち着くのを感じた。
水橋さんが僕にくれた杖は、救いの象徴なのだ。余人にはただの棒切れだろうが。

 足がもつれた。

 二度、三度たたらを踏み、それから転ける。たたらと言えば、たたら製鉄だが、この語はまさにそこから来ているらしい。
また、集中力が乱れている。頭を振る。集中が乱れるから転ぶのだ。しっかりしなければならない。
手を突いて起きあがろうとするのだが、腰が落ちる。まずい、と冷や汗が流れたが二度目はすんなりと成功する。
もうこのような思いをするのはごめんだ。もう一度倒れる事のないよう、精神を統一し、息を吸い込む。
少し視界が明瞭になった気がするが、錯覚だろう。だがそれが大事なのだ。
自分の体は限界なのではないのかと思えば、恐怖で力が抜ける可能性がある。
この体は僕がもっとも蔑視するもののはずだ。どれだけ傷つこうが気にする事はない。
水橋さん達も僕に対して特に好意らしいものを抱いてはいないので、ある程度の傷ならば気にしないことだろう。
肉体的損傷への無頓着は古明地こいしさんの足の傷に関する話で大凡理解している。
彼女らが重きを置くのはとにかく精神なのである。ならば、僕の選択は道を曲げぬ事で正しいはずだ。







 遠く人影が見えた。給水所か何かだろうかと思った。十里ともなれば要所要所に人が立つ。
知った顔は星熊さんだけであったが、他も地底の妖怪の方々であるようだった。
歩いていく内に影が大きくなる。長机が無い。妙だなと思い首を傾げていると、どうやらその人物は歩いているらしいことを理解した。
暫くはてなと思っていたのだが、疑問を発すには及ばない。僕と同じ方向に歩き続けるのであればそれは参加者ということである。

 正直に告白すれば、驚いた。僕は他の追随を決して許さぬ最下位(最下位なので追随を許さぬのは当然か)であると確信していた。
リタイアの話を聞いたが、それは例外中の例外であり、他の者達は皆ずっと前を歩いているに違いないと確信していたのだ。
希望に浮き足立とうとする心を戒める。ペースは絶対に乱してはならない。時計のように虚心に足を動かすべきだ。

 やがて人影がくっきりと目に入る。老人のようだ。ゆらりゆらりと足取りは頼りない。もう限界と見て良いだろう。
だが彼は諦めることなく歩き続けている。その力強さに心を打たれた。
更に近づくと、彼が白衣を纏っている事、禿頭であることに気が付いた。ぞわり、と悪寒にも似た感情の波が体の表面をなぞる。
それでも一歩一歩踏みしめるように歩く。彼の歩みは遅々として進まず、体力の無い僕から見ても危なっかしくて仕方がなかった。

 漸く彼の横に並んだその時、吹けば飛ぶような痩身が揺れるのを目にした。
考える間もなく手が伸びる。思いの外体力があったのか、彼の体が軽すぎたのか、僕は老人を支えて尚倒れる事がなかった。
彼は驚いたように振り返り、そしてぎょっとしたように僕を見上げた。此方としては予想通りの顔だったので、驚くには値しなかった。
ただ、随分老いさらばえたなあ、との印象を抱くばかりであった。

「君は」

 驚くのも無理からぬ話だ。彼の計画通りであるならば僕は此処に居る筈のない人物である。
反対に僕にとっては彼は居て当然であったので、いずれ名前くらいは耳にするかも知れないと思っていた。
殆ど記憶から薄れてはいたが、実際に目にして思い出せない程ではない。手を離し、頭を下げる。

「お久しぶりです、ハカセ」

 彼はやはり言葉無くひたすらに此方の様子を見つめていた。僕は歩みを止め、彼に相対する。
古明地さん達も恩人だが、この人もまた然りである。蔑ろにしていい筈がないのだ。
老いた瞳に強い色が無いのを淋しく思った。瞳で人が分かるなどフィクションの戯れ言だと思っていたが、誤りである。
無論、その瞳の色すら騙して彩ることは可能であろうが。

「■■くん……その様は、一体」

 問いに跳躍を感じる。そのためか、僕は用意していた言葉を詰まらせる結果となった。
彼は必ず僕に"何故此処にいる"と問いかけると思っていた。そのための驚きであろうし、沈黙であろう筈だった。
しかし彼が問うたのは、今の僕の情けない外見についてである。聡明で知的好奇心溢れるハカセらしからぬ言であった。

「途中で一難。貴方もお疲れのようですが」

 ともあれ返事をすると、彼は歳には勝てんよと苦く笑うのだった。妖怪を自称し呵々と笑う大丈夫の姿は無い。
まるで灰のような様である。推すに、彼は恋人に会うことが出来なかったのかも知れない。あるいは、その逆か。
何れにせよ目標が消えてしまえばハカセを支えていた強大な柱も無くなることになる。
それがこの急激な老化を誘ったのであれば、何とも淋しい話であった。

「此処にはいつ?」

 僕がここに来て数日の後だと彼は答えた。ならばこの先を質問するのは意味がない。
そう思いながらも、好奇心から口を閉じることは出来ない。どうしても、これは聞いておきたかった。

「僕の家族は、元気でしょうか」

 問えば、彼は一度沈黙した。それで大凡は理解した。不思議な事に心はあまり痛まなかった。
そうなっているのだろうなと予想していたのだ。故に、誰かに家族について訊かれた時は言葉を濁して答えてきた。

「君が此処に来た丁度その日に、死んでしまったよ」

 それでも言葉はちくりと胸を刺した。目と閉じるまでもなく家族の顔は思い出せる。
これからも死ぬまで薄れる事はあるまい。結局、家族には迷惑をかけ続けてきてしまった。
ただ一つの孝行も出来ない駄目な長兄だ。世が世で無くとも嘲られるべき男である。
石に布団は着せられずと言うが、僕はその語を知っていながら、疲れ切った父母に布団を掛けてやる事をしなかった。
親孝行したい時分にとの語もある。だが僕は親孝行をしたいしたいと心の中で繰り返していても実行に移すことをしなかった。
これが人間の善性の証左になるのならば、性善説とはなんと皮肉なものだろう。

「君も、散々辛い思いをした」

 脂汗を浮かべながら笑う彼は好々爺のように見えた。頑固一徹に研究に向かう男の姿が、そこには無かった。
ある意味で人として更に成長したのだろうし、場合によっては彼は幸福を得たのかも知れないが、
それによって人間的な魅力が減衰することはあるのだろうかと不思議に思った。
それとも、ひたすら理想に没頭するよりも諦観と共に安らかに余生を送る方が好ましいのだろうか。
考えは主義主張によろう。僕の独断でこれという真実を叩きつける事は出来ない。

「もう幸せになっても良い頃だ」

 そんな無茶苦茶な論法は初めて耳にした。
その意見は人殺しが人を殺す嫌な感覚を味わったから幸せになるべきだと言っているのと何ら違いがない。
そのように述べると、彼は眉をハの字にして頬を掻くのだった。

「君は誰かを苦しめようと思って苦しめた事はないのだろう?」

 苦しめる意図があるのであればそれを取り除けば良い。苦しめる意図無く苦しめるのが極悪人だ。
その類は救いようも更正のしようもないため、排除するしかないのである。

「此処に来て、幸せになれるとは、思わなかったかい?」

 それは、確信した。ここに居て甘えれば僕はまず間違いなく幸福になることが出来る。
だがそれは数々の犠牲の上に成り立つ幸せだ。皆が僕を背負って初めて僕は幸せになる。
僕は背負われるばかりである。重荷にしかならない者が存在していて果たして良いのだろうか。
彼女たちが僕を好いているのならばまだ考える余地があるのかも知れない。
だが、彼女たちは僕をどうでも良いものと思っている。
その上で信念に基づいて僕を保護してくれているのだ。
そんな状況下では、生きていても良いと言われても恥ずかしくて生きていられない。

「僕は自分がブタであることに甘んじていたくはありません。たとえブタはブタ以外の何者にもなれないのだとしても、です」

 言うと、彼はにやりと笑うのだった。それは諦念と自嘲を多分に含んだ不思議な色合いをしていた。
誰かに似た表情だなと僕は思った。

「故に君はそうして歩いていたのだね」
「そして、ゴールにたどり着くのです。必ず」

 足は今も震えるが、恩人を前にして座り込む訳にはいくまい。痛みが無く力ばかりが抜けていくというのは何とも恐ろしいものだ。
苦痛があるのならば耐えれば良いと思えるのだが、苦痛がないというのは耐えようが無いのである。これには参る。
彼はやはり愚かな者を見るように僕を見ていた。ハカセは賢い男だ。故にこそ僕のような小人が哀れに見えるのだろう。
それは仕方のないことだと思う。僕も彼のような男になりたいが、その道は遠いように思われた。
ただ一人の恋人を思い、意地を貫き通す。とても出来そうにない。

「そこまで苦痛をおして得るものがあるのか」
「ありません」

 これは考えるまでもなかった。そしてその答えは彼も予測していたのだろう、困った顔で頷いていた。

「この程度の事で何かを得るなど、物事を馬鹿にしているとしか思えません」

 では他に、と彼は静かに問う。

「君の足を動かし続けるに足る別の理由があるのだね」

 無論とこれには肯定を示す。ハカセも辛いだろうに立ったままだった。
それとなく仕草で座るよう促すも、彼は頑として受け入れようとしなかった。
僕のようなピザが立っていられるのに座るのはプライドが許さないのかも知れない。その意地が残っている事は嬉しかった。

「大恩があるのです。仇で報じたくありません」
「返すのだ、と言わない辺りが君らしい」
「簡単に返せる程小さなものではありません。それに」

 一拍置く。

「恩返しを行う時に僕の心の中に本当に恩返しの心があるのか、ひどく疑問なのです」
「また、難しく考えるようになったものだな」
「あるいは、そうかも知れませんね」

 喉を鳴らし、粘ついた唾を飲み込む。喉がいがいがとして気持ちが悪かった。

「君は此処に来て」
「はい?」

 彼にしてはよく問うものだと思った。自分の研究に専心し、他者に興味など持たない人かと思っていた。
思えばハカセとまともなコミュニケーションを取ったことは殆ど無い。彼との思い出がどんどんと薄れていったのもそのためだろうか。
僕は数年間、ただただひたすらに彼の面影を追い続けるだけであった。

「不条理を恨むこともなければ、寛大な懐に飛び込もうともしないのだね」

 それもまた僕の中では答えの出ている問題だった。
この人の問いに答えられないというのは申し訳ないので、普段から考えておいて良かったと安堵する。

「僕は此処に来て不条理を感じた事はありません。そしてこの地の素敵な皆さんに受け入れて貰うには、僕は些か汚らし過ぎます」
「それは容貌が?」
「全てがです。たとえ皆さんが受け入れて下さると仰ったとしても、僕は近づけません。
泥塗れの体でどうして貴人と楽しむことができましょう」

 老人は、頷いた。それでも彼は納得のいかない様子であった。
僕が地底の皆と交わらねば気が済まぬといった様子には些かの不愉快さ及び不可解さすら覚えた。
論外なのである。彼女たちと友好を結ぶなど、ありえないのだ。
僕は底辺を這いずり回る蛆である。蛆を友とする人は居ない。哀れむ物好きすら僅かだ。
蛆を哀れむ物好きも居ないと最近まで思っていたが、実際に居たのでこればかりは否定できない。
だが、蛆を友としようとする者は無いはずだ。それは馬鹿馬鹿しいだけでなく自身の名誉を傷つける。
地底の誇り高き妖怪達が名を自ら汚す愚行を犯すとは僕には到底思えないのだ。そして、そんなことは信じたくない。

 彼とは暫し議論を交わしたが、結局は平行線であった。老婆心から僕の身を案じてくれているのは分かるし有り難いのだが、
だからといってこれ以上甘える訳にはいかない。僕はもう二十歳をとうに過ぎている。
ならばそれ相応の責任を持ち、独立した一個人として生きていくべきなのだ。
今更子供のように庇護と愛情を求めるなど、馬鹿馬鹿しい。
それらを十分に与えられていないのならば兎も角、僕はまさに適切な愛を捧げられて育ってきた。
父母の、そして僕を指導した数々の教師達は皆素晴らしい人物であった。
優しく、時に厳しかった。それにも関わらず醜いブタに育ったこの僕の姿はどうか。
結局彼は沈黙するに至った。誰かを論破したのは久し振りの事だと思った。全く、嬉しくはなかった。

「そういえば、ハカセは」
「うん?」

 ボロボロの白衣を見やり、首を傾げる。

「まだ諦めずに歩くのですか」

 彼はそう問われると、恥ずかしそうに目を逸らした。そのような対応をされるとは思わなかったので、驚いた。

「私は若い頃は、君のような根性が無くてねえ。良く物事を諦めていたものだよ」
「前者は訂正を願います」
「主観だよ。事実を語っているのではない。そう言えば君は満足かしらん」
「とりあえずは。その主観は危険だと忠告させて頂きますが」

 だろうねえ、と彼は空を見上げる。僕もつられて顔を上げるが、そこには太陽も青空もない。袋小路の蛆虫には似合いだ。
しかしハカセは僕とは全く違った目でその暗い天を眺めているようだった。目を細め、何か届かないものを求めるような。
僕はどうしても問いたくなった。そうして、一度欲望を胸の中で渦巻かせて、殺す。
もっと上手く感情を操れるようになりたいと願った。ハカセは視線を前方に戻し、そうして恥ずかしそうに笑った。

「だからこれをもってして、若い頃の自分を乗り越えた事の証左にしたかったのだ」
「若い頃の貴方、ですか」

 うむ、と彼は頷いた。

「君とは随分違った男だったよ」
「それは、そうでしょう。僕以上に駄目な奴などそうは居ません」

 言うと、どっこいどっこいだったかも知れんがねえ、と彼はくつくつ笑った。

「しかし、そういうことなら」

 かねてより提案しようとして口の中でもごもごさせていた言葉が漸く発される。僕は緊張すると共に、幾分安心した。
ここまでくれば言うしかない。

「肩をお貸ししましょうか? 恩人を見捨てて先に歩くのは忍びない」

 提案すると、馬鹿を言うなと彼はひらひら手を振った。一瞬だけ、目の奥に気迫の戻るのを僕は見た。
彼はまだ燃え尽きてはいないのだ。何か、まだ彼を灰に出来ないものがあるのだ。
僕はそれを分不相応にも哀れに思い、かつ非情なことだが嬉しくも思った。

「では、共に歩きましょう。それが僕に出来る最大の譲歩です」

 語調強くそう言うと、彼はなめられたものだな、と肩を竦めて歩き出した。
気分を害してしまったかも知れない。しかし、ふらふらと揺れる彼を放っておくことなど出来はしなかった。
僕もまた彼の隣をゆっくりと歩き出す。長らく立ちつくしていたためか、貧血が起こり始めていた。
不思議なもので、それは直立を止めて歩き始めると解消するのだ。

 遠くに八里の看板が見える。後少し。だがその少しが果てしなく遠い。
二里を二時間で踏破するのは不可能だろう。特に、ハカセのペースに合わせていては。
しかし、僕は負けるつもりはなかった。

 視界が揺れる。足が震える。知ったことではない。もう決めたのだ。たとえ死んでも止まらない。
無理に口角を持ち上げて、一歩、二歩。此方を向いた老人の瞳に、僕の顔が映っていた。

 醜く意地を張ったその表情を、まあ悪くないかも知れないな、などと初めて思うのだった。



[24754] 第十五話 終結の裏面  或いは彼等の尊ぶもの
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/19 21:31
 一里とはかくも長いものだったろうか。漸く見上げた看板の"あと一里!"の文字に心が刺し貫かれる思いがした。
激励するようなイラスト、躍る文字がかえって気力を奪い去る。
一里。大凡4キロメートルと捉えて良いだろう。自宅と大学とを往復すれば丁度その程度の長さになるなと漠然と思った。

 ハカセと共に歩んだ八里から九里までの一里は、今までとは性質が異なっていた。
悪路だった訳では無論無い。単純に僕の体力が枯渇を始めていただけである。
勿論ジワジワと失われていたのだろうが、それが顕在化したのがこの一里であった。
痛みなど邪魔なだけかと思っていたが、案外そうでもない。目に見えない疲労を確認するにはやはりそれが肝要となるのだ。

 ハカセは僕よりずっと辛そうにしていたが、右に揺れ、左に揺れ何とか歩いている。
掴まるものが何もないのは大変だ。頼ることが出来るのは自分の両足ばかりである。
当然のことを新鮮に感じる。だが僕は本物の限界というものを知悉しているつもりだ。
何を甘いとスポーツマンは笑うかも分からないが、気絶するまで走れば少なくともそこが限界だろうと僕は思う。
今はまだ吐いてすらいないので、安全圏だ。何の問題もない。

 ハカセも決して折れないタイプの人間である。ぜえぜえと荒い息を吐きながらも歩き続ける。
命に関わってくるのではないかと思うが止めることはしない。彼は"妖怪"爺だ。理由はそれで十分だ。

 足がよくもつれるようになったのは彼と歩き始めて暫く経ってからだった。
それだけならばまだ良いのだが、時折フッと地面が無くなるような感覚がして膝が折れる事がある。
転ぶ事だけは何とか避けているが、ハカセはそうもいかないらしく、彼の白衣は既に泥にまみれていた。
彼の転んだ回数、立ち上がった回数を推すに、少なくとも僕にはまだ余裕がある。

 周囲は目に見えて暗くなり始めていた。古代において城壁の外は無法地帯だなどという話をたまに耳にするが、
四方を確認し、体が震えるような思いがした。帰巣本能とでも言うべきものが恐怖からか意地からか足を動かす。
しかし、帰巣というのもおかしな話だ。僕はこの地底に家など持たないというのに。
全体何処に帰るというのだろうか。水橋さんの家か。おこがましい。

 余計な事を考えたためか、竦む足がまた恨めしい。心の奥底で皆の居る場所こそ僕の帰る場所だとでも錯覚していたのだろう。
甘い。僕の意識が明瞭な限りはそのような傍迷惑な願望は潰し続ける。そして、それでも尚ゴールするのだ。
そうでなくては今ここで歯を食いしばっている意味がない。僕は僕自身が何かを得るために歩いているのではないはずだ。
与えられた物に応じて歩いているはずなのだ。この競歩への報酬は信頼という形で前払いされている。
他には何も求めてはならない。何かを別に求めるということは、信頼だけでは不足だと述べているに他ならない。

「まだ諦めないか、君は」
「いやァ……タイムオーバー覚悟だったんですけどね。貴方がペースを崩さないなら時間内に行けますよ、恐らく」

 この寒い中で彼女たちを待たせるのは良くない。きっと人間よりも丈夫な体をしているのだろうが、そこは礼儀の問題だ。
膝が一度かくりと笑った。それでも転ぶことはしなかった。先に一度転んだ際、立つのに失敗したのが怖かったのだ。
二度やっても三度やっても立てなければ、どうなる。どうなるもこうなるも這うしかない。
だがそれでは大幅に速度が落ちる。また、這っている最中に力が抜けたらもうどうしようもない。

「よくもまあ、そこまで気力が保つものだ」

 呆れたような彼の言葉に、肩を竦める余裕もない。

「気力ではないです、体力です」

 そう返すと、君も人間らしくなくなった、と彼は口許を歪めた。言っていることの意味がよく分からなかった。
それを喜んでいるのか悲しんでいるのかさえ、判然としなかった。

「ソモソモ心なんてものは事を順序立てて記憶するために作られた都合の良い錯覚に過ぎません」

 僕は彼のそんな不思議な顔を見ながら普段はなるべく考えないようにしている持論を展開した。
持論も何も、他人の本の受け売りを素晴らしいと思って、それを自分の都合の良いように解釈して飲み込んでいるだけなのだが。

「錯覚に力を求めるというのもおかしな話でしょう。人間の意識に決定権などというものはありません。
全ては受動的に判断されるのです」
「だが、動かそうと思うから我々の足は動くのだ」
「それは、違います」

 断言し、足を持ち上げて、前方へ向かわせ、大地を踏みしめさせる。

「例えば、今の一歩」
「ああ」

 頷く彼に、僕は問う。

「自分で考えて動かしたものだと思いますか」
「当然」

 だが、僕は首を振らざるを得ない。どうしてもだ。

「残念ながら、答えは否です。行動準備は、我々が意識的決定を下す前に行われている。
動かそうと思う前から足は動作への準備を始めている。
これは、某という研究者の指の実験により明らかにされています。この実験結果が何を示すかお判りですか?」

 彼は沈黙を守ったが、それが理解できぬ程愚かな男ではあるまい。
僕はただただ黙々と足を動かし続ける。古明地さん達の名誉のためにと思うが、
その思う"我"というものは都合良くねじ曲げられた錯覚の塊、
それによって下される決定をただ眺めることしかできない無力な観察者でしかない。
残念なことに(あるいは大変喜ばしいことに)、それは事実だ。

「"足を動かそうと思った"は、後付の理由にしかなっていないということです。
気力どうこうは関係ありません。足を動かす準備をした後に、まだ歩ける、まだ歩けると我々は考える訳です。
歩けるに決まっていますよ。既に歩く準備がなされているのですから。滑稽です」
「それでは人に尊厳は無いではないか」
「人に尊厳が無くてはならないから人に意志があると言う。これ、論理としておかしくないですかね?」

 もっとも、と僕は付け加える。

「この世界は我々が空想したあらゆる甘えが実現するような所ですので、
心なるものも勝手に作られているのかも知れませんが。人に聞きました。吸血鬼は頭を飛ばしても死なないのだそうです」
「そう考えると希望があるが」
「まさか!」

 思わず叫ぶ。この人は賢いはずだ。何故分からないのか。
先程の僕の言は一種のホラーなのだ。心なるものが勝手に創り出される。それが何を意味するのかこの人は分かっていない。

「我々の内には既に装置としての我があるのですよ? それに加えて新たにここで本物の心が加えられるということは、
自分が何か訳の分からない者に乗っ取られるということに他ならないじゃないですか!」
「だが、そんなものは感じない」
「感じないうちに乗っ取られるのだとしたらどうです」
「それは」

 彼は口ごもる。我々は暫く無言の内に歩き続けた。時折視界が揺れる。気分が悪い。
看板の脇を通り過ぎたが、書かれてある文字を見逃してしまった。だがゴールに近づいていることだけは確かだ。彼が言う。

「君のように考えれば、何の希望も無くなってしまう」
「だから逃げるのですか」

 ハカセは首を振り、また問う。

「地底の妖怪に報いようとするその思いも錯覚でしかないのなら、何故君は歩く」
「そうするよう知覚とそれをねじ曲げて生み出された錯覚の塊が指示しているのでしょう」
「何故それを尊重する」
「生存機械である僕が次の代に遺伝子を残しやすくするため――と言うと文脈上の誤解が生じますね。
錯覚を絶対に疑うことがないように様々な工夫が為されていると言った方が正しい。
無いものがあるように見えたり、音と光が同じタイミングで届いているように感じたり。両者とも錯覚です。
ここまで来れば話は簡単ですよね。もう問う必要はないでしょう。あの名著は当然手に取っていらっしゃるでしょうから」
「だがそれは、意志は自由に出来ないという甘えに堕しているのではないのかね」
「貴方は地球に重力があるという事実に勝利したいとでも言うのですか?」

 老人は、俯いた。そうして、長い長い溜息の後で、絞り出すように呟いた。

「それでも私には、君が歯を食いしばって頑張っているようにしか見えないのだよ」

 問答は、そこで終わった。彼の言葉は事実上の敗北宣言であり、僕の考えを改めさせるには至らなかった。
彼がこの方面に深い知識を持っていたのであれば彼一流の手法をもって僕の無知を突いてくれたのだろうが、それはなかった。
僕は愚かである。非常に愚かである。発言に間違いの多い阿呆だ。しかし、"何かそれらしいこと"を言えば人間は黙り込んでしまう。
妖怪は、違った。彼女たちは僕を叩き潰し、敗北を認めさせるまで止まらなかった。新鮮だった。
そして、それを嬉しく思った。だから僕は歩くのだ。自分はただ後付けされた理由を確認しているだけだと分かっていても。
或いは、この思考を始めているのは既に新しい正真正銘の心を持った僕なのかも知れない。

 ふわり、と地面が消える感覚。

 脹ら脛に違和感を覚えると同時に、体が揺らいだ。足が攣ったのだと理解したのはそれから数秒経っての事であった。
体中に冷たい土の感触を覚える。足がカタカタと不自然に痙攣している。だが、まだ歩けるはずだ。
顔を上げ、目を開くと視界がチカチカと明滅を繰り返していた。
青だか緑だかよく分からない輪がぼやぼやと浮かんでいるのも見える。
目を何度か擦っても同じ調子であった。舌打ちをして、立ち上がる。何も見えない上に、頭の血が抜けていくような変な感覚がした。
暫くすれば元に戻るだろうと思ったのだが、いつまで経っても視界は明滅するばかりで、足許の感覚すら覚束無い。
これはまずい。疲労とはこう突然に襲い来るものだったのだろうか。
それとも本来ならば激痛が行動を制御していたのだろうか。今となっては知るよしもない。
そして、どちらに歩けば良いのかもまた判然としない。ハカセは何処にいるのだろう。
まだ歩けるはずなのに、歩けない。その事実が腹立たしい。胃の辺りがむかむかとする。
頭が茹で上がるのを感じながら闇雲に一歩を踏み出そうとした時

「にゃーん」

 懐かしい、その鳴き声が聞こえた。


 
  

 

 




 へくちっ、と。柄にもなく可愛らしいくしゃみの音が響いた。横を見れば、
椅子に腰掛けた古明地さとりが、ずず、と洟をすすってる所であった。性根は曲がっているくせに、何とも無垢に見える仕草だ。
腹立たしい事この上ないが、それを一々指摘したところでどうにもなるまい。
こうした私の心中すら筒抜けなのだ。罵倒することに意味はない。

「あんたは妖怪の癖に風邪をひくのか?」
「さて。貴女はどう思いますか?」

 逆に問い返された。いつもの澄ました半眼でだ。どうしてこの女はいつもいつも偉そうにしているのか全く分からない。
同じく仁王立ちしている星熊勇儀は酒を呑んでくつろいでいる。祭りに向かうつもりは全くないらしい。
地底のお偉いさんが二人も揃って凡百である私の隣に居るのは何とも居心地の悪い思いがする。
それだけなら未だ良いのだが、よりによってこの二人である。最悪だ。私としてはもっと――

「どうも済みませんね、居心地の悪い女で」

 そういう嫌味な所が好かないというのだ。全体ピザはこの根暗の何処が良いのだろう。
根暗同士で気が合うのだろうか。地上の連中と交わって古明地さとりも性格が変わったのかしらんとも思ったが、全くそのようなことはない。
ピザに色目でも遣っているのだろうか。案外デブ好きなのかも知れない。笑えてきた。

「ただのデブならまだしも、あの面皰面は対象として流石にちょっと」

 真顔で返された。気持ちはまあ分からないでもない。あれの外見が好きだと言ってしまえばその女の美的感覚を私は間違いなく疑う。
仮に痩せようが面皰が消えようが、対して良い男にならないどころか平均にも届かないだろう。
気持ち悪さだけならば、ある程度低減されると思うが。それに、性格にも難がある。

「■■の性格は、なかなか見所があると思うわ」
「だからあんたは分からんと言うのよ」

 ちらと視線を動かせば鬼も首を横に振っていた。今回ばかりは勇儀に賛同する。あのウジウジした性格のどこが面白いというのか。

 さて、流石のサトリ妖怪であろうとも未来は見えない。彼女は街道の先をただぼんやりと見つめ続けている。
期待しているのかいないのか、それすらも定かではない。ひどく、どうでも良さそうに見える。
対する星熊勇儀は今か今かとワクワクしている様だ。こちらはこちらでピザが歩ききる事を全く疑っていない。
まるで年明けでも待っているようなお気楽さだ。私には両者共に理解できない。
はて、では私は一体何故ここで待っているのかしらん。

「聞かれても困りますよ」
「聞いてないわよ」

 あまり深く考えるのは止そう。考えを横の女に読まれるのも面白くない。
それにしてもこの二人、よく待つものだ。ピザを待つことにそれだけの利益があるのだろうか。
私は先ず鬼に問うてみることにした。だが、結果は明瞭に過ぎて面白味が無かった。
よくもまあここまで脳天気に生きられるものだ。羨ましい。

「確かに、鬼というのは見ていて苛々するわね」

 投下された爆弾も酒と共に飲み干されてしまう。投下した方もした方で鬼に注意を向けることすらない。
地霊殿の主、小さな化け物はほうと溜息を吐く。そうして恨みがましい視線を私達に投げた。

「全く。貴方達さえ馬鹿をしなければこういう無茶は起こらなかったというのに。今回の事、彼のためにはなりませんよ」
「無理を通してこそ男だ。あれは軟弱だからな。首飾りも引きちぎっておけば良かった」
「野蛮ね」

 さとりは肩を竦める。その動きで、彼女の矮躯がいっそう強調される気がした。
本当に小さな体だ。温石を抱いているらしく、少しは寒さがこたえているのかもしれない。

「そういえば、あんた」
「お燐もこいしも戻ってこないわ。何をやっているのやら。
無理をしているようなら引っ張ってこい、そうでなければすぐ戻れと言ったのだけれど」
「前々から思ってたけど、割とペットを掌握し切れてないわよね」
「面倒なんですよ」

 こちらの話そうとする事を遮って答えを言うのだから腹立たしい。
親指の爪を口に含みかけたが、馬鹿馬鹿しいので止めた。餓鬼ではあるまいし。今度は鬼が偉そうなのに向かって口を開く。

「祭りの方でも一悶着あったようだが」
「いつものことですわ。主宰が何とかするでしょう」

 この女、案外仕事をしない。普段から疲れているように見えるのだが、何がそんなに忙しいのか。
それともこれが素なのか。口を噤んでいる所を見ると、話すつもりはないということだろう。
まあそれならそれで良いのだ。馴れ合うつもりもない。

「それにしても。あんたのペット、ピザと知り合いだった訳?」
「昔、あるペットに彼を監視させていたので」
「ああ、そう」

 つくづくえげつない。これに感謝するピザもピザである。
しかし、主の言うことを聞かないということは、気になるところだ。
当の主が全く気にしていないようなので大した問題は起こっていないのだろうが。

 あの馬鹿の事だ、どうせフラフラになりながら歩いているのだろう。時間制限には間に合うかどうかは知らない。
まあ、諦めずに歩くというのはピザの決めたことだ、とやかく言うまい。
同居者として多分に心配なところはあるのだが、あいつはそれを理解しないだろう。
アレコレしてやると情が移るので困る。熱血馬鹿や根暗女には分からないだろうが、私はそういう情念の塊のような妖怪である。

「別に私は冷血という訳では無いのだけど」

 心を読んだのだろう、途中まで喋って、それきりさとりは黙ってしまった。喋るつもりがないのならばはじめから口を開かねば良いのだ。
それにしても、暗くなった。ほんの少し前まで次々にゴールインする連中が見られて、
その満足げな顔が実に妬ましかったのだが、今となっては静かなものである。

 今僅かに残っている灯りもやがては尽きて完全な夜が降りてくるのだろう。
それはピザに似つかわしい色のように思えた。救いの道の無い、閉じられた世界。哀れで愚かな男。



 「にゃーん」

 

 鈴の音のような鳴き声が響き渡る。私にとって、という言葉を付け加えるのであればそれは轟くと表記しても差し支えなかった。
実際にはやや嗄れ、疲れたような音だったのだが、絞り出すようなその気迫には圧倒されるものがあった。
はてと思い、声のする方に顔を向けると、気品良く歩く猫の後方に、遠く男が続いているのが目に入った。
弱い光の中でも妖怪の目をもってすればその表情はよく分かる。
何があったらそうなるのか、彼の左の腕、脇腹、太股は真っ赤に腫れ上がり、服が溶けて張り付いていた。
足を引きずり、頭をかくりかくりと上下に振りながら、まるでゾンビか何かのように歩く。
視点は、定まっていない。恐らく何も見ていない。

「にゃーん」

 声のする方に歩いているのだ。半ば朦朧とし、時折左右に揺れ、倒れそうになる。
しかし彼は体勢を立て直すと再び歩き出す。背中には、老人を負っている。彼の意識は無いようだ。
太った男の、ひーっ、ひーっ、という上擦った呼吸音が聞こえ始める。全く汗をかいていないのが不自然だ。
目は上を向いている。唇の左端は大きく下方に歪んでいた。僅かに白く見えるのは、泡だ。口から、泡を吹いている。

「にゃーん」

 一歩。また一歩。そうして彼は立ち止まる。
暫くブルブルと体を震わせていたが、やがて、ああ、とも、うう、とも判別のつかない雄叫びをあげて、また一歩を踏み出す。
体が大きく沈んだが、それでも彼は倒れない。止せばいい。そう思った。何をこいつはこんなに頑張っているのだ。
星熊勇儀は、小さく笑んで酒を啜った。古明地さとりは、額に手を当て、椅子から立ち上がった。私も遅れてそれに続いた。

「にゃーん」

 刻一刻と光を失うその中で、彼は吼えながらただ足を振り上げ、振り下ろす。
悲鳴じみた呼吸音がより大きく聞こえ、泥と傷で汚れきった体が更に鮮明に瞳に映る。
全く前に進めていない事もあった。大きく体を揺らした事もあった。しかし、後退する事だけは決してなかった。
喉が嗄れているのだろう、時折名状しがたい音の咳を繰り返す。呼気すら吐き出されない。
余程苦しいのか、彼は涎を一筋垂らす。だが、目をきつく閉じて涙は落とさなかった。

「にゃーん」

 また一歩。人の体力とはこうも迅速に失われるものなのだろうか。かくかくと大きく膝が笑っている。
あと少し。あと少しなのだ。黒猫の誘う声に導かれて、男が歩く。薄汚れた、肥えきった体を引きずって歩く。
私は一歩、前に踏み出した。だがそれ以上進み出ることは出来ない。白線の内側で、彼を直視する。
鬼とサトリ妖怪が急いでひいた白いテープの目の前で、彼の体は揺れていた。もう、目と鼻の先だ。
三人の視線にも、彼は気づく様子はない。猫は、もう鳴かない。ただ一歩なのだ。あと一歩、歩きさえすればいい。
彼が、牙を剥いた。そこから声が出ることはなかった。しゅうう、という音が歯の隙間を抜け、唾と共に飛んだ。
それは、どんな絶叫よりも深く胸を抉った。彼は足を持ち上げ、そうして胸がテープに触れる。
猫が一声鳴いた。

 ゆっくりと、テープが切られる。

 同時、男の体が小さく震えた。
気が付いていないのだ。まだ、自分がゴールしたことに気が付いていないのだ。
彼の背から老人の体が滑り落ちる。結果、バランスを崩して倒れ込むように一歩踏み出そうとしたその馬鹿を、私はきつく抱き留めた。

「あ……」

 力を失い、ずるずると崩れ落ちながら彼は短い感動の息を吐いた。
普段の低くて通る声とは違い、酷く濁った音だった。瞳の焦点も合っていない。多分、誰も見えていない。

「水橋、さん」

 しかし、彼はへらへらと常のように笑うのだ。何も見えていない筈なのに、何故私だと分かったのか。
どう言葉をかけていいか、分からなかった。なので、右手で広く、ぶよぶよとした背中を数度軽く叩いてやる事しかできなかった。

「やりましたよ。僕」

 うへへ、というくぐもったキモい笑い声。照れているのだ。この期に及んで、いつものように。
見れば、あの首飾りがない。それは後ろの老人の首にかけられていた。

「あほなのかよ、お前は――」

 続きは言葉にならなかった。声が勝手に震えていた。彼はやはりだらしなく笑うばかりだ。
襤褸雑巾のようになって、痛いだろうに、辛いだろうに、何がそんなに嬉しいのか。

「済みません。あほで、済みません」

 声は出ないのか、唇ばかりを動かしてそう言う。
そんなことを言いながらも、やはり幸せそうなのだ。地底に闇が降りた。
星熊勇儀が小さく、セーフ、と呟いた。

「聞こえたか?」

 彼は、やはりにやにやと笑っていた。そうして、あの音のない咳を数度繰り返した。

「スポーツで心地よい思いをしたのは、何年ぶりか知れません」
「そうかよ。妬ましい奴だなあ……!」

 また彼の背を叩いてやる。こんな時に限って、言葉は出てこないものだ。ひゅー、ひゅー、と細い息が聞こえる。
唇が血の気を失っていた。面皰だらけの顔も、まるで死人のようである。

「直ぐに治してやる。大丈夫、このくらいならちょっと寝れば治るわ」

 彼はしかし、笑みを困った風に変えるのだ。

「治っても……僕はまた皆さんにご迷惑をおかけしてしまうかも知れません」
「良いよ、別に。また家に泊めてやるから」

 そう言うと、彼の笑みが漸く崩れた。それでも泣かず、不器用な笑みのままであほは言う。

「水橋さんは、優しすぎます」
「お前は、馬鹿過ぎるので扱いに困る」
 
 全く。息を吐き、もう一度息を吸い、

「それでもまあ、少しはかっこよかったんじゃあないか?」

 一言軽い世辞をくれてやり、

「お疲れ様、ピザ」

 頬をくすぐったい物が流れているのを感じた。手の甲で撫でてみると、それは涙だった。
橋姫が恨み嫉み以外で泣くものか。ばかばかしい。
それでもまあ、たまにはそのふざけた心地よさに浸るのも、悪くないような気がしていた。



[24754] 第十六話 終結の表面 或いは細胞群体的共同体について
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/20 21:36
 がやがやと声がする。一様に楽しげだ。目を擦り半身を起こす。鼻に届くのは酒の匂いだ。
また宴会らしい。飽きないものなのだなと思いながら体を起こそうとするのだが、動かない。
痛いのだ。仕方なく身を横たえる。しかし、それにしても暗い。

 競歩大会。

 怖気が全身に走ったが、自分は確かに歩みきった事を思い出し、長く息を吐く。
終わったのだ。何だか灰になった気分である。
今までは目標がありそこに向かっていれば良かったのだが、それが無くなってしまった。
少しだけ淋しい感じがする。ハカセが老いたのも仕方のない事だと思われた。

 彼が最後まで歩ききれなかったのは、少し残念だ。
何か重苦しい執念じみたものを感じていたのだが、精神で衰えた肉体を動かすなど、やはりファンタジーだったようだ。
それにしても、これからどうしよう。体が痛いのは疲労のためだろう。首飾りは外されたままだ。
此処が何処だかよく分からないが、病室というわけではなさそうだ。案外傷は軽かったのか。
最終目標――歩き終わったら死ぬ――が達せられなかった事は、少しばかり残念に思われた。これからの生は蛇足にしかなるまい。
また誰かに迷惑を掛けながら生き続けなければならないのかと思うと、心底げんなりした。

「相変わらず、情けない事を考えている顔ね」

 薄明かりの中で声がした。枕元に誰か座っているようだ。数度目を擦ると、輪郭がぼんやりと浮かんだ。
ちゃんちゃんこ、だろうか。着膨れした童女が座っている。はて、誰であろうか。
首を傾げているうちに、姿がはっきりとしてきた。見慣れた顔が呆れた目をしてこちらを見下ろしている。

「古明地さん……うわ。酷い声だ。済みません」

 喉が引きつるのを感じた。口から漏れたのは不快ながらがら声だ。あまり記憶にないのだが、喚きながら歩いていたのだろうか。
狂人である。周囲で見ている人はさぞ不愉快に思ったことだろう。

「気にすることはないわ。貴方に好意的な人は多かったわよ。多すぎて困るくらい」

 古明地さんは常と同じく淡々と語る。相変わらず先回りして言葉を発する人だ。どれだけ賢いのだろう、この人は。
それにしても、僕に好意的な人が多かったとはどういう事だろう。
勿論、僕が競歩を歩ききったという事を指しての言葉なのだろうが、さて。少し考えてみることにしよう。

 必死で這いずり回る人間は、害のない位置から見れば好意的に映るのかも知れない。
昔から努力を称揚する風潮は無くならない。僕自身、人の迷惑を考慮するのなら努力を悪いと言うつもりはない。
ただそれを万能の免罪符とするのが許せないだけだ。多くの人に見世物として楽しんで貰えたのなら、それ以上の幸福はない。
僕のような汚物でも――いや、汚物だからこそか。駄目人間がボロボロになりながらも歩く。
何ともウケが良さそうな絵ではないかしらん。

 ホラ、やっぱり頑張れば何でも出来る。
 諦めなければあんな奴でも夢を叶えられるんだ。
 俺も頑張ろう。

 そんな心の声が聞こえてきそうだ。心の滋養として消費されるのは無論僕としては望外である。
だが、どうだろう。倒れた僕を運ぶ者、治療する者。彼らは不要な迷惑を被った。
楽しい祭りを放り出してまで僕の傷を癒すなど面倒以外の何物でもないだろうに。申し訳なくて、情けない。

「橋姫も鬼も、満足した様子で貴方の介抱をしていたように見えたわ。
体を酷使させて、何がそんなに楽しいのかしらん。私には分からないわね」

 古明地さんはの透徹した理論はいつ聞いても惚れ惚れする。僕も歩くこと自体に関しては何の喜びも見出し得なかった。
ただ皆の信頼に応える事が出来た、それが嬉しかった。だがスポーツの喜びとは案外そういう物なのかも知れない。
僕は一人で孤独に運動することなど出来そうにない。評価して貰えないのならどんな努力も出来そうにない。そんな弱い人間だ。

「皆さんには、たくさん迷惑をかけてしまったようで」
「そうね」

 古明地さんは淡々と首肯して、酒を口に含んだ。がやがやと周囲は騒がしいが、ここで僕の面倒を看ていても良いのだろうか。
あまり人に好かれていないようなので一人の方が気楽なのだろうか。この人が大騒ぎするイメージはあまりない。
案外アクティブなのかも知れないが、彼女の素顔を見る事が出来るほど近くにいるわけではないし、
近しい人間でもないのにそんなものを見るのは無礼であるようにも思われた。

「そういえば、古明地さん」
「何かしら」

 今日の彼女は少しだけ雰囲気が違うように思われた。険がないようにも見えるし、常よりも距離を置いているようにも見える。
無論僕のような人間には近づかないのがベストなのでそれは良い兆候なのだが、
そうすると前者はどういうことなのか全く理解が出来ない。

「ハカセ――僕の負っていた老人は大丈夫でしたかね」
「今頃主宰と騒いでいるわ。倒れている貴方の見舞いにも来たのだけれど。借りている物を返してもらった、だとか」
「はあ……特に何かを貸した覚えはないのですが。まあ、そうですか」

 僕などは未だ立ち上がる事も出来ないというのに、彼の治癒力には驚くばかりである。本当に人間なのだろうか。
案外妖怪なのかも知れない。そうであったとしても僕は驚かない。それにしては、体力が無いが。

「こいしにもお燐にも、困ったものね」

 古明地さんがぽつりと零した。脈絡もなく吐き出された言葉の真意を僕は捉えかねた。
彼女は視線を床――畳だ――に落としている。綺麗な頭の形だ。どうして彼女たちはこうも美しいのだろう。
ある種不気味さを感じるほどの色香を漂わせている。小さく開いた唇から目を逸らす。

「お燐に道案内を頼んだのは、古明地さん?」
「違うわ」

 彼女はやはり詰まらなそうな顔をしていた。

「逆に、無理をしているようなら問答無用でリタイアさせるよう言ったのよ。それが貴方にとって最良なのに。揃いも揃って馬鹿な子達。
先を見る目も人を見る目も無い。頑張っているから、努力しているから。そんな一時の感情に魅せられるから大局を見失う」
「怪我の事ですよね。それなら僕は全く気にしていませんが」

 常の通り彼女が辛辣な意見を出すので、慌てて"馬鹿な子達"のフォローに回る。
特に妹さんは古明地さんのことを気にしているので、あまり誤解して欲しくはなかった。
だが、妖怪は僕の言葉など予測していたと言わんばかりに肩を竦めるのだ。

「そんな些事を私がグチグチ言うと思っているのかしら。本当に、愚かだわ。可哀想ですらある」

 そう言って、彼女は僕を気怠げな目で見上げる。呆れを多分に含んだその表情に、
しかし確かにあたたかみを感じるのだ。言っている事はどこまでも冷たいのに、何故だろう。
まるで僕を心配しているような――馬鹿馬鹿しい。錯覚だ。失礼だ。首を振って、忘れる。

「貴方の体が焦げようがもがれようが穴が空こうが、それ自体は大した問題ではないのよ。
気にせねばならないのは、貴方の体がボロボロになることに付随して何が生じうるのか。
私は怨霊が湧き出した時点で大会を中止にするよう進言したのだけれど、聞く耳を持って貰えなかった。
言うことを聞かない馬鹿に手を差し伸べ続ける程私もお人好しではないのでそれは良いのだけれど、
貴方に関してだけは蚊帳の外、歩いていたせいでかえって舞台の裏に居たのだから、そうもいかないのよね」

 何か、僕の知らない所で望ましくない事が起きているらしい。それにしては周囲の声は楽しげだ。
浮かれてはしゃぎ回っている様子ですらある。聞いたことのある声もする。
星熊さんに、水橋さん。妹さんも居るのだろうか。

「僕は、また至らぬ事を?」

 恐る恐る問うた。それは最も考えたくないことであった。腹の底から冷たい物が伝播するのを覚える。
古明地さんは珍しく、即答を避けた。頭をガシガシと片手で掻きむしり苛々とした様子だ。珍しい。

「最上は貴方がボロボロだろうがそうでなかろうが、さっさとリタイアさせることだった。
泣こうが喚こうが、無理矢理引きずり降ろす必要があった。
そうして問題の鎮圧に東奔西走してヘコヘコ頭を下げれば、まだマシな結果が得られたのかも知れないわ。
こうなる前に、過激に動かなかった自分に憤りすら覚える」

 彼女が何を言いたいのか、全く分からない。古明地さんはまた酒を啜る。あまり美味そうな顔をしてはいなかった。
僕は黙っているしかない。ただ心臓が嫌な音を立てて鳴り続けるのを感じるばかりだ。

「昔、上で吸血鬼異変という騒動があったそうよ」

 吸血鬼の語は度々耳にしていた。やはり有名な妖怪なのだろう。
彼女の表情は、実に苦々しげであった。ちゃんちゃんこの色の鮮やかさは仄かな闇のため、かえって悲しげな様を見せている。

「馴れ合いで弛みきっていた幻想郷に降り立った化け物は、多くの妖怪を従えて紛争を起こした。
誰もそんなことは予測していなかったのでしょうね、結局は更に強大な力により鎮圧されたのだけれど
この異変が幻想郷にもたらした影響は計り知れないものがあったわ」
 
 これが何を意味するか分かるかしら、と彼女は問うた。
問われたということは答えを期待されているということだ。僕は沈黙したくはない。
怖いながらも、頭を回さなければ――

「貴方が何かを恐れる必要は、無いのだけれど――と言っても無駄よね。ヤレヤレ」

 耳に届いた古明地さんの言葉が柔らかく響き、僕は思わず二度瞬きをした。
彼女は眉をハの字にして苦笑している。良いから答えなさい、と小さな妖怪はそう促した。

「従えた妖怪というのは」
「ええ」
「吸血鬼が連れてきたものなのですかね?」

 いいえ、と彼女は首を振った。顔付きを見れば分かる。着眼点は良かったようだ。
しかしその事が僕には全く嬉しくない。
そこから導き出される答えと、答えによって紡がれる真実がゆっくりと頭の中で形を作っていく。

「つまり、幻想郷に居た妖怪が、吸血鬼に手を貸したということは」
「ええ」
「現状に不満があったということ。古明地さんの言葉から推すに、"馴れ合い"を疎んでいたということ――でしょうか」

 彼女はやはり困った顔をしていた。不正解かと思ったのだが、古明地さんはそれで正しいのよ、と念を押した。

「やはり、■■は事から目を背け続ける事が出来るほど、馬鹿にはなれないようね」

 そう言って、彼女は俯いた。このまま黙ってしまうのか、更に口を開くのか。
いずれにせよ、僕には何がどうなってしまったのかボンヤリとだが推察出来てしまった。
しかしながら、彼女の言葉はその点から更に跳躍した事実を指し示す。

「参加者の一部が、貴方を此処から解放するよう求めているわ」
「は?」

 これには全く理解が追いつかなかった。古明地さんは飄々とした様子で、当然その意見は切り捨てた、と答える。
切り捨てて貰うのは結構だがその"参加者の一部"とやらの発言の意図が全く見えてこない。

「現状に不満を抱いている連中よ。大体どういう輩かは、想像に難くないと思うけど。貴方の惨状が、そいつらの危機感に火を付けたのね。
ボロボロになっても尚歩く。一面を見れば素敵だわ。褒めてあげても良い。
だけど、他面を見ればどうかしら。ボロボロになり、今にも倒れそうな奴を妖怪共はまだ歩かせる――と見ていた連中は案外多かった。
つまりは、吸血鬼異変の逆。あるいは、全く同じものとも言えるかしら」

 古明地さんは淡泊にそう述べる。現状に不満という言葉の意味が分からなかった。
参加者の一部というからには、人間だろう。それも、外来人だ。つまり、現代日本からやってきた連中。
あの場所と比べた此処。まるで天国のようではないか。不満とは全体、どういうことなのか。

「何がしたいんですか、そいつらは」

 図らずも、敵対的な口調になってしまった。それに対して、やはり古明地さんは考えが浅いと呟くのだった。

「外についての話は、度々耳にする。随分安全が保証された世界なのだとか」

 安全。僕が全く興味を持っていない事柄を彼女は口にした。日本の治安は、完璧とは言い難い。
だが、多くの人間が自分は大事件に巻き込まれる事は無かろうと信じて生きているのは確かだ。
日常的に死や怪我を意識して過ごす必要は、全くない。対する此処はどうだろう。
僕は自分の現状を確認する。そして、物言わぬ屍となったあの男を思い出す。

「ここでも無差別な殺し合いは肯定されないけど、それは理由があれば殺して良いということだし、
またそうでなくとも私達の間で一般に広がっている遊技で人死にが出る可能性は十分に考えられる」

 これは不満を抱くに十分な理由だと古明地さんは断定する。

「確かに、我々の社会ではそのような文化は前時代的だと捉えられます」

 僕もそれに関しては肯定せざるを得なかった。一般に安全性について考慮されない遊技はない。
擦り傷程度ならまだしも、大怪我を頻発させるようなレジャーはあまり好まれない傾向にある。
勿論例外は幾らでもあるが、それでも人が人を殺しかねない類のものは希少だし、日本人のうちそれらに親しむ者がどれだけ居るだろう。

「更に、自分たちが"殺されても良い人間"かも知れないと思えば恐怖心はぐっと増す。しかもそれを確かめる術はない。
判断基準は個々の妖怪の胸の中。明文化された法など無い。むしろ今まで何も起こらなかった方が不思議だけど――」

 古明地さんの目は、更に鋭くなる。

「その不思議が破られない理由は、無論あった。それは人間の幻想入りはそこそこ稀な出来事であり、
外来人のコミュニティが形成される事など決してなかったという単純な事実。
故に外来人達はこの世界に屈す他なかった。単独で反旗を翻すには、人間は脆弱に過ぎる」
「しかし、古明地さん。僕は見ましたよ、徒党を組んで歩く人々を」

 それが気になるところだ、と彼女は頷いた。僕も頭を回して、自分なりの意見を提出した。

「とても言いにくいのですが、この大会で外来人が集まったために――」
「それがあり得ないことは■■自身が証明している。
一般的に外来人は、さっさと帰る事を願うか、そうでなければ迅速に我々の文化に溶け込む。
頑なな貴方ですらそうなのだから、況や他の人をやと言った所ね。
帰ろうとも思わず、かといって我々に屈する訳でもない。今回騒いでいるのはそういう連中」

 そうなると、全く分からなくなる。どうすればかような状況が生まれるのか。
しかし古明地さんは一つの仮説を立てているようだった。その表情に迷いは特にない。

「最近、多すぎるのよ」
「え?」
「外来人の数が。グループでどしどしやって来ているとしか思えない。
本来の幻想郷は忘れ去られつつある者共の受け皿なのだけれど、少し妙ね」

 彼女の言葉を聞くと共に、頭の中でカチリと何かが嵌る音がした。


 アッ、と思わず声が出る。僕自身の犯した大罪が、明々白々な形で眼前にさらけ出されていく。
古明地さんの考えが仮に正しいのだとしたら、幻想郷に次々に人をやって来させる要因を、僕は知っている。
ハカセの苦心して生み出した鉄の箱――あれだ。僕は何も考えずにあれを用いて此処にやってきた。
あの箱が未だ現存しているのであれば、次々に他者が此処を訪れる事は、十分に考えられる。

 無知だったから。

 それで許されるのか。今起きている問題は、そんな言葉で片づけて良い物ではないだろう。
考えるべきだった。ハカセは、目的のために全てを捨てる事の出来るような、一徹な男、妖怪爺だった。
僕はそれに盲従した。あの老人を責める事に意味はない。彼は自分の正義に従ったのみだ。
そしてそれに向かって最も効率的な方法で突き進んだ。僕とは違う。

 それだけではない。古明地さんの話によれば、僕がそれらの人々を焚き付けてしまったことは確実のようである。
死に物狂いで歩く僕の、正しく"必死"な様は彼等の色眼鏡で見れば、どのような推測を生んだとしても妙ではない。
彼らが僕を解放しろと言う理由も今ならば理解できる。
恐ろしい妖怪に囲われ、無理をしなければ生きていけない哀れな人間だと思われているのだろう。
今でこそ単純な要求がなされているのみだが、恐怖により集まった人間がじきどのような行動に出るか、想像に難くない。

 そして、"僕が"彼らを焚き付けてしまった以上、彼らが"どこに"矛先を向けるのかも。
道半ばで倒れれば僕はその事で皆の信頼を傷つけ、歩ききったら歩ききったで皆に迷惑をかける。

 初めから、詰んでいたのだ。

 理解して、体から力の抜ける思いがする。何をやっているのだろう、僕は。全く成長していないではないか。
"努力"する事で妹を傷つけたあの時と、何が違うというのだろう。馬鹿馬鹿しい。
二度ある事は三度あると言うが、僕は生きていればもう一度こんな事を繰り返してしまうのだろうか。
体を起こす。

「古明地さん。その人達に、会えますか?」

 彼女は、首を横に振った。

「説得するつもりなのだろうけど、意味がないわ。一度盛り上がりだした熱は、そう簡単に抑えることは出来ない。
それに、暴れる権利は人間にもある。ただ、ルールに則らずに暴れた時には」

 その先は聞くまでもない。だから行こうというのだ。外から来た人々に対する責任は僕にある。
謝罪をしなければならないし、彼等が暴動を起こす事の無意味さも伝えなければならない。
帰る方法があることも教えなければならないし、
帰れないのなら安全に此処で生きていけるよう以前同じ苦しみを少なからず味わったであろう先人との交流を持たせるべきだ。
彼等はきっと疎外感孤立感から自分たち以外に味方は居ないという恐怖に包まれ異様に排他的となっている。
だから――

「義理としてもう一度だけ言うけど、特に貴方のような鬱々とした男がどれだけはしゃいでも無駄よ。
新規に此処にやって来た連中はそもそも精神の質が幻想郷に合わない。
食い物にするには罪が足らず、受け入れられる程孤立してもいない。
ある程度満たされておきながら、それで満足する事をしない。
故に視線をズラしながら、やたらと願望を満たそうとする。これで分からないのなら、好きなさい。
街道に出れば、誰かが声を掛けてくれるんじゃない?」

 古明地さんは醒めきった様でそう言う。その静かな声で、僕は再び自棄になってズラしていた視線を戻した。
仮に、彼等に声をかけてそれでどうなるだろう。
先ず、ボロボロの僕が一人外に出た事で、彼等は妖怪の人間への蔑視などという事を考え始めるかも知れない。
僕がこんな体になってまで妖怪を弁護するのは、そのような考えを植え付けられたからだと曲解するかも知れない。
むしろ、それが自然だ。僕の受けた傷は客観的に見て小さくはない。
それは彼女たちの信頼の対価としては安すぎる程だが、そんな目に見えないものは議論の中で役に立たない事は承知している。

 役に立たないのだ、僕は。何をしたところで結局は無駄なのだ。

 何もしない方が良い。

 中学の時にその結論に至っていた筈なのに、どうしても考えてしまう。
全ては僕が最良の行動を取らなかったのが悪いのだ、と。違うのだ。断じて違うのだ。
僕は何をやっても最悪の結果しか生み出せないのだ。だから何もしない方が良い。
このままぐだぐだと過ごし、傷を綺麗に癒すまで寝込んでいれば、妖怪は少なくとも人の傷を癒すくらいはするのだと思って貰える。

 今の僕が行動してプラスの効果を生み出す事など、何もない。事態はこれから悪化の一途を辿るのだ。
そうして、水橋さんも星熊さんも古明地さんも、皆迷惑を被る。
それだけではない、彼女たちに迷惑をかけた外来人達も間違いなく何らかの制裁が加えられる。最悪は、排除という形で。
後に残るのは、何とも言えない後味の悪さだけだ。

 そんなもののために、僕は歩いたのか。

「そういえば、ハカセは主宰の方々と騒いでいると仰いましたね」
「ええ。何でも今回の責任は自分にあるとはしゃいでいるようだけど。老体をおしてまで無駄なことを。どこかの誰かを彷彿とさせるわね」

 ちらりと僕を一瞥し、彼女は溜息を吐いた。

「全て私達に任せておけばいいのに。楽に生きられないのね、彼も貴方も。特に貴方はそれが顕著だわ。悲しい人」

 貴女もそうではないのですか。疑問は心の中に残る。だからこそ、僕は自分で動きたい。だが、動いても何も出来ない。
生きていればそれで迷惑を掛ける。死んだら死んだで、曲解されて迷惑が掛かる。
もう、イヤだ。消えてしまいたい。強い望みはしかし、誰にも届くことはなかった。

 楽しげな宴の騒ぎが耳に入る。それは、物事の一面にしか興味のない人々の声。
だが、きっとどこかで別の騒ぎが起きている。苦しみ喘ぐ人々の怨嗟が、僕の耳に流れ込んでくるような、そんな気がした。
 
「少し寝て、それから頭を冷やしにいきなさい。夜中なら、外に出ても大きな騒ぎにはならないわ」

 古明地さんの手が僕の額から目にかけてを覆うようにに宛われた。火鉢でも抱えていたのだろうか、ほんのりと熱い手だった。

「散々色々言ったけど」

 悔しい筈なのに、暴れ出したい程感情が荒ぶっている筈なのに、耐え難い眠気が体を襲い始める。
前にもこんなことがあったような気がするが、どうしても思い出せない。朦朧とした意識の中で、古明地さんの声がする。

「一妖怪として貴方の頑張りの感想を述べるのであれば、天晴れ、心から感動した、といったところね。
ま、この賞賛に何の意味も見出さないのが貴方の欠点。言うだけ無駄だったわ。忘れて頂戴」

 それでは、お休みなさい。彼女の最後の言葉は、まるで僕の頭の中から発されたものであるかのようにじんわりと広がっていった。
真っ黒な意識の中に赤いものがたくさん見えた。
その最奥に白い光柱と血濡れた男の死に顔が浮かんだとき、僕はようやく意識を手放すに至った。



[24754] 第十七話 ゴミクズ式ブレイクスルー
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/21 21:26
 体を起こして時計を見やる。深更であった。宴も終わったのか、周囲は静まりかえっている。頭が痛い。
古明地さんはいつの間にか眠ってしまったらしい。首を垂らしたまま、すうすうと安らかな息を吐いている。
本当に疲れていたのだろう。正座という不自然な姿勢だというのに、熟睡している様子だった。
そもそも彼女は他者に弱みを見せるような人ではない気がする。易々と寝顔など晒すものではない。
その古明地さんがこうして僕の前で眠っている。ボンヤリと眠りに落ちるまでの記憶が蘇ってきた。
それは刃物のように鋭く身を裂く事はなかったが、
今日の出来事が思い出されるにつけ、僕はジワジワと釜茹でにされているような感覚を覚えた。

 彼女に気取られないよう、ゆっくりと体を起こした。体がひきつって痛かったが、疲労は随分抜けていた。
枕元に首飾りの置いてあったのをみとめたので、それをかけて起きあがる。
布団を古明地さんにかけてあげた方が良いかしらんとも思ったが、止めておくことにした。
起こしてしまうかもしれないし、なにより僕の纏った布団など穢れている。
肌に触れる布のずれる感触が常と違って驚いたが、どうやら着替えさせられてしまっているらしい。
闇夜では判然としないが、濃紺の作務衣だろうか。こんなにも温かいものだとは思わなかった。
僕のような男には紙子でも過分だ。綿の入った衣服の暖かさに、強く居心地の悪さを覚えた。

 そろそろと足音を立てぬように歩き、襖の前に立つ。畳の匂いがムッと匂う。
隣の部屋から幽かに灯りが漏れていたので、ゆっくりと開いてみる。
十人以上を易々と収容できそうな広い空間には、水橋さんと星熊さん、それから妹さんが転がっていた。
皆常とは違う着物姿だ。情けない姿勢で眠っている。この人達には、やっぱり危機感が足りない。
部屋の隅にはお燐も転がっていた。無惨な状況だ。大きな机の上にはまだ沢山のご馳走が並べられていた。
幾つか全く手を付けられていないものもあった。少し不自然だった。そこに居る人の数に対して、箸の数が少し多い。
まあ、深く気にすることはないだろう。首を振って、皆を刺激せぬよう歩く。



 幸い、靴は駄目になってはいなかったらしく、玄関口に丁寧に並べて置いてあった。
夜の寒さのためにひんやりとしているそれを履いて外に出る。街には昂奮の余韻のようなものがじんわりと漂っていた。
まるで古明地さんに聞いた話など嘘のように、幸福な祭りの残り香が彼方此方に漂っている。
もしかしたら妖怪にとっては外からやって来た人々の叫びなど些事なのかも知れない。
彼女たちが優しいのは僕も知っている。だが、価値観が全く異なっているのも同じように承知しているのだ。
それが故に何らかの摩擦が生じるのは確かに避けられないのだろう。
加えて、僕がどう能動的に動こうともそれは悪い影響を与えかねない。沈黙が最も賢い選択肢である。
それでも眠りに落ちる前古明地さんに促されたように、こうして外に出てきてしまったのは何故だろう。愚かだ。僕はあまりにも愚かしい。

 細い路を歩いていると、何だか切なげな鳴き声が聞こえた。
気になってその音のする方向へ歩いてみる。体が時折大きくぶるりと震えた。
声は一度二度とよく響いたのだが、今では沈黙が降りている。胸がざわつくのを覚えた。
この感覚は、覚えている。あの赤い光の玉を見たときと全く同じ物だ。そしてそれが何を意味するのかも理解した。
直角の曲がり角を折れて行き止まりにあたる。そこで襤褸布のように捨てられている黒いものを僕は見つけた。

 屈み込んで見てみれば、それは鴉だった。触れてみれば、まだ温かい。しかし、もうぴくりとも動かない。
鳥を抱いてみれば人間とは全く違う小刻みな鼓動を感じるものだが、それがない。つまり、この子は完全に事切れていた。
背中には大きな傷がある。故意につけられたものであろうと推せる。

 昔から、こういうものから目を逸らす事が出来ない質だった。捨て置かれた神様仏様も、動物の死骸も、
気にしてはならない、見てはならない、拝むなどもっての外と何度も強く強く言い聞かされて育った。
しかし僕はその事に関してだけは家族の言うことを聞かなかった。
打ち捨てられて忘れ去られるのみというのは、何だか見ていて耐え難いものがあった。そんなことがあってはならないと思った。
この子も、無視したくはない。穴を掘って埋め、手を合わせるくらいのことはしてやりたかった。

 ここは地面が固いので、別の場所に行くことにする。なるべく大通りを避けて歩いた。
お祭り騒ぎの夜に死骸を見たいというものはないだろう。たとえ騒ぎは終わってしまったのだとしてもだ。

 しばらく歩き、適当な場所を発見したので腰を下ろす。尻が冷たかったが特に気にすることはなかろう。
穴を掘る道具が無いのが困りものだが、手でなんとかなるだろうか。昔は何とかしてきたからなんとかなるだろう。
捨て猫を拾って彼方此方回ったり巣から落ちた野鳥を何とかしようと動物病院に走ってみたりするよりはましな作業である。
両手でゆっくりと土を掘り分ける。地の底を更に掘るというのは何だか変な感じがして笑えてしまう。
あるいはこれも現実逃避か。思考が麻痺してしまっているのかも知れない。しばらくは冷却が必要だろう。
そう思いながら手を動かしていると、チュンッ、という小気味良い音が耳元で響いた。

 何だ何だ、と思っている内に目の前で火柱が上がる。呆然として振り返ると、背の高い女の人が立っていた。
白い服はスレンダーな体躯を強調している。大人っぽい顔付きと相まって、出来る人といった印象だ。黒い髪は長く、所々跳ねている。
それを纏める緑のリボンとスカートの色は同じ緑色。だが、そんな些事よりも気になる部分が幾つかある。
一つは彼女が羽織っている奇っ怪なマントだ。そこにうつり込んでいるのは僕の知る宇宙の様そのものである。
それだけならまだ良いのだが、どうもそのマントの柄は刻一刻と様相を変えているようなのである。
こんな不思議な服を着ている人は見たことがない。更に、右足の靴と右手に嵌めている柱はまるで鉄鋼のようである。
それをブンブンと元気よく振り回しながら彼女は近づいてくる。服のアクセサリの赤い目玉だけが、唯一不気味であった。

「やあ。いい人だねえ、あんた」

 何と挨拶してよいものか僕には判然としなかった。切れ者然としたその女性は僕の目の前にやってくると、ばんばん肩を叩いた。
その行為は何度か星熊さんにやられたことがあるが、なんだろう。この人にされると印象が全く異なる。
微笑ましいというか、何というか――ひどくほのぼのとしてしまうのだ。しかし、目の前で見ても綺麗な顔である。
かっこいいというか、凄く頭が良さそうだ。頭が良さそうな顔付きをしているのだが、表情はニコニコとして何だか無邪気である。
どこぞの妹さんのような底知れないものが感じられない。

「どうも、こんばんは。初めまして」

 なのでぺこりと頭を下げると、彼女はうんうんと頷いた。何だか尊大である。しかし指摘する気にはなれない。
ちくちくと傷んでいた心がふわふわしたものに包まれるような心地がした。
甘えてはならないと分かるのだが、逃れようのない何かがこの人にはある。
引力――とでもいうのだろうか、否応なしに彼女のペースに引きずり込まれてしまうような、そんな感覚。

「初めまして。私は霊烏路空。ここら一帯で最も賢く強い鴉よ。よろしく」

 そんな自己紹介があってたまるものかと思ったが、あっけらかんとされては何とも返し様がない。
元々コミュニケーション能力が欠落しているし、ジョークのスキルもない。諦めて僕は普通に挨拶することにした。

「僕はピザです。どうも、霊烏路さん」
「みんなはおくうって呼ぶよ」
「そうですか。どうも、霊烏路さん」
「おくう」
「お止しなさい。僕にそう呼ばれていい気はしないはずです」

 彼女はむむう、と首を左に傾げ、そうして右に傾げ、腕を組んだ。
とんとんと貧乏揺すりをするように右足を揺らすのだが、その度に地面の泥が飛ぶ。
恐ろしく強い妖怪のようだ。それとも、ただ単に力の制御が出来ていないだけなのかしらん。はたまた誇示したいのか。
強い妖怪というと僕は鬼か吸血鬼かという話しか聞かない。おくうなんて者の事は一度として耳にしたことはなかった。

「あんたは……お燐が嫌いなのかしら?」
「ハイ?」
「お燐の事はお燐と呼ぶんでしょう? 聞いたよ。でも私は霊烏路さんとは。解せぬ」
「お燐は猫でしょう」
「私は鴉だよ?」

 どうも話が通じない。

「貴女は鴉なのですか」
「そうだよ。お燐は友達でね。ピザの話は良く聞いた。鴉のお葬式をしてくれるのでしょう? 優しい人だね」

 古明地さんに悲しい人だと言われてまだそんなに時間が経っていなかったので、新鮮な感じがした。
しかし、分からない。妖怪は動物と話が出来るのだろうか。姿形は関係ないのだろうか。
解せぬと言いたいのは僕の方だった。それにしても、見た面の印象と放つ雰囲気が随分違う子である。
天真爛漫で清楚で傲慢で、それでいて重苦しくなるような、跪きたくなるような力強さと神々しさが時折垣間見える。
何もかもがごちゃ混ぜにされたような意味不明な女の人である。話していると頭が変になりそうだ。

「その子貸して」
「はあ」

 言われるまま、差し出された彼女の手の上に死体を置く。霊烏路さんはそれを胸元でぎゅっと一度抱きしめた。
小さく橙と白が混じったような炎が上がり、後には白い骨ばかりが残った。彼女の口許には、一瞬だけ淋しそうな笑みが浮かんだ。

「ハイ、おしまい! 埋めちゃおう埋めちゃおう」

 そう言って、彼女はすたすたと歩く。先程火柱の上がった辺りだ。
少々及び腰になりながらついていくと、そこには大きな穴が出来ていた。
彼女はその中心に降りると(まだ煙があがっている)、骨を安置して、ひとっ飛びで空中に舞い上がる。
スカートの中が見えそうだったので、僕は慌てて視線を降ろした。二度、三度と火柱が上がる。
それでお終いだった。地面は適当にならされてしまう。鴉の死体は、もうどこにも見えない。
僕は霊烏路さんが降りてくるまで暫く呆然としていたが、やがて我に返って合掌する。
目を閉じていたが、霊烏路さんがそれに倣うのすぐ横で感じた。

「うむ、成仏」

 霊烏路さんはそう言って両手を腰に当て、満足そうに数回頷いた。

「鴉は割にすぐ死ぬから見つけられないままになることが多いんだよ。ありがとう」

 そういって彼女は僕を真っ正面から見据えてにこりと笑う。やはり耐えられずに目を逸らした。
しみの無い肌はひたすらに白く、鼻筋が通り、睫毛は長く、目は黒く、髪は美しく黒く艶やかに流れている。
こんな人を直視するのは、恥ずかしい。彼女の瞳の中に自分の姿が映るのが耐え難かった。

「んー? 威圧感があったかしら。私は大きいので時々怖がられるのよ。気分良いけど」

 霊烏路さんは何かトンチンカンな事を言っていた。別に威圧感は無い。
あると言えばあるが、しかしだからといって目を逸らすには及ばない。

「人と目を合わせるのが苦手なんです。ごめんなさい」

 そう言って苦く笑うと、そういう奴も居るんだねえ、と彼女は目を丸くして驚いていた。
大変感心した様子で霊烏路さんは頷いて、そして視線を明後日の方向に向けた。

「これで良いかな?」
「いえ……その、貴女は別に何もせずとも良いのですが。僕が見なければ良いだけの話で」

 いやあ、と彼女は頭をがしがしと掻いて首を横に振る。

「折角話しているのに目を見て貰えないのはどうもね。
でも私がピザを見ないならピザは私を見れるから安心最強のタクティクスだ」
「んー……な、何か違うような?」
「じゃ、目を合わせようそうしよう! 私怖くないよ。前は地上を灼熱地獄にしよっかなーとも思ったけど今は我慢してるし」
「それは怖いというのではないですかね」
「じゃあ今の嘘! 忘れろ忘れろ」
「は、はあ……」

 何と説明したものやら。

「そのですね、何か理由があるから怖いのではないのですよ。だからこう、怖くないと言われてもですね」
「大丈夫、大丈夫。ほれ」

 じいっ、と霊烏路さんがこちらを見つめてくる。頬が熱くなるのが分かる。
そのまま何だかぼーっとして彼女の目の中に吸い込まれていくような思いがする。
それと同時に、この人を無茶苦茶にしてしまいたいような汚い衝動が沸き上がってきて

「や、やっぱり無理です」

 慌てて目を逸らす。胸に手を当てて見ればどくどくと醜い鼓動を感じる。初対面の相手に僕は何を考えているのだろう。
クズだ、最低のクズだ。霊烏路さんは僕がこんな汚らわしい事を考えているなど想像もしないだろう。
今も、変な奴だなあ、などと彼女らしいペースを全く崩していない。胸元の瞳の瞳孔が狭まったような気がした。
これも生きているのかもしれない。だとすれば彼女が晒しているこれは目だと理解して良いのか、胸部の一部だと理解して良いのか。

「んじゃ私が我慢するよ。さっきの鴉の恩人さんだしね」
「あ、いえその」
「何?」
「……僕が我慢するので良いです」
「いや、我慢してまで見て貰わなくても。私美人だと思うけどね」

 見るだけ得だよ、と彼女は言う。
そういうものを見ると自信を無くすのだと言うと、初めて霊烏路さんはなるほどなるほどと納得してくれた様子だった。

「今日のピザはなかなか良い男だったってお燐が言ってたからどれどれと思ったけど、うーむ」
「不細工でしょう」
「お燐が嘘吐くとは思えないんだけどなー」

 彼女はそう言って息を吐いた。端正な顔に似合った仕草が初めて見られた。
本当に、妖怪というのは美しい。何故昔の人々はこんな者達を退治しようと思ったのだろう。

「そういえば、霊烏路さん」
「そこはあんたも譲歩しておくうって言おうよ……そろそろむかついてきたので命名決闘法でぶっ飛ばしてでも――」
「済みません。ニックネームで呼ぶ程近しい仲であるとは思えないので」
「お葬式の仲じゃない」
「それは近しくないと思います。そして不謹慎です」
「親戚並みだよ?」
「何か違う……」

 言うと、彼女は仕方がないなあ、とまた頭を掻いた。そのやり方が女性らしからぬ乱雑なものだったので、髪がますます跳ねる。
だが霊烏路さんは全く気にした様子を見せなかった。

「そんな風にウダウダしてると見てる人がどんどんむかむかするもんだし。形だけでもへいへーい、みたいにしなよ。
僕は駄目だー駄目駄目だー、じゃなくてさあ。ピザは究極自己中くんみたいだから、もっと人の事を考えるべきだね!」

 灼熱地獄云々と言っていたのは誰だったか。しかし、一理ある。
彼女の指す"へいへーい"なるものが正しく何を指すのかは理解できないが、そのニュアンスはある程度掴めたつもりだ。
たとえばカラオケ。過去同窓会か何かの催しで人と集まった事があったのだが、その時に僕は場を白けさせた事があった。
理由は簡単で、歌うのを辞したからだ。下手な歌で皆を白けさせたくないと僕は思ったのだが、
歌うのを止める事で更なる深刻な沈黙を僕は生んでしまった。適当な童歌でも歌って皆の嘲笑を買えば良かったのだ。
そうすれば少なくとも場が凍る事はなくなる。僕は自分の保身を第一に考えて黙った。それを自己中と呼ばずして何と呼ぼうか。

 視野が狭かったのだ。もっと僕を殺せばいい。今までは殺し方が全く足りていなかったのだ。僕なんて要らない。
■■など要らない。僕は皆の求めるピザになればいい。覚悟が足りなかったのだ。怯えていたのだ。

「確かに。目が覚める思いがしました。反省します」
「では私のことはおくうと言うように!」
「はい、おくうさん」
「おくう」
「はい、おくう」

 霊烏路さんをそのニックネームで呼ぶと、彼女は満足したように頷いた。
僕は笑う彼女に目を合わせた。胸の奥で何かが燃えるような心地がした。それも、我慢した。見ないふりをした。
喉が干上がって脳味噌が沸騰しそうな気がしたが、抑え付けた。最後に、彼女をどうにかしてやりたいというどす黒い感情を踏みつぶす。
その行動を、継続する。一瞬では済まない。だが、出来る。出来るじゃあないか。ならば今まで目を合わせなかったのは正しく僕の甘えだ。
怖い。胃が焼けそうだ。だが別に相手はその事で困らない。困るのは僕だ。なら我慢すればいい。
僕の不都合は全て我慢すればいい。そうして人が幸せになる方向に動けばいい。それで良いじゃないか。
何故そうしなかったのだ。僕が甘えていたからだ。本当に、何か大事な物を気づいたような思いがした。

 そして、これから僕がどう動くべきかも、分かったように思えた。

「ありがとうございます。おくう。少し凹んでいたのですが、明日からはなんとかやっていけそうです」

 気にすることはないよと彼女はけらけら笑った。そうだ、この人だって常に楽しいわけがない。
今笑っているこの人は本当に楽しいと思っているのか。そうとは限らないだろう。
だが、この霊烏路空と名乗った女性には、皆から求められる"おくう"像がある。
それを守るために彼女は演じ続けている面はないだろうか。僕はいつでもかつでもアクティブに暴れ回るような精神性は存在し得ないと思う。
そういうあり得ない精神性を演じていると考えるのがずっとクリアだ。この人は、実は凄く怜悧な視線で物事を見ているのではないだろうか。
ひどく計算高く生きているのではないだろうか。何せ、鴉とは非常に頭の良い鳥だ。
自ら鴉を名乗ったこの人が、頭がぱーな馬鹿女であるはずがない。自ら演じて僕に教えてくれたのだ、自分を殺せと。
そしてそれは、随分前に古明地さんに教わった事とも符合する。虚飾。

 邪で腐れきった自分などというものを後生大事にするから皆を傷つける。
いつまでも■■なる人格がのさばっているから成長できない。それを見ている人々も苛々とする。簡明ではないか。
そして変わる力も無いからと僕は悩む。何を馬鹿な。自分が苦しい事から逃げているだけではないか。
死ねばいいのだ。■■などというクズは死ねば良いのだ。
そうしてその死骸の上にピザという仮面を作って、絶対に剥がれないようにべっとりと張り付けてやればいいのだ。
僕が不幸そうにしているから皆が勘違いする。僕がどう思っていようが笑っていれば皆は僕が幸せだと思ってくれる。
たとえ泣こうが喚こうが、笑顔の仮面を張り付ければ真意はもう二度と他者の目に映ることはない。素晴らしい!
殺そう。殺そう。どんどん殺そう。二十余年で造り上げたゴミクズの集大成、■■の解体作業の始まりだ。


 生まれ変わった気がした、というのは語弊がある。死んだ気がした、というのが正しい。
だが僕は再び道を得た。確信がある。明日からの僕の行動にはきっと間違いがない。やれる。最も正しい道を歩むことが出来る。

 でも、やはり最上の望みはこれだ。



 誰でも良いので、一生のお願いだから、僕を殺してはくれませんか。



[24754] 第十八話 黒谷ヤマメと着せ替え人形
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/22 21:22
 山の神様が主宰した競歩大会は何とも後味の悪い最後を迎えた。
相次ぐクレームは新入りの外来人等にとって当然のものだったのかも知れないが、少なくとも我々にとっては理解できないものだった。
曰く、死ぬ危険があるような化け物の出る道を歩かせるなとのこと。
そんなことを言うのであればさっさと外に帰れば良いのだ。それも嫌なら人里に隠っていれば宜しい。
我々の多くがこのように主張したが、彼等は聞く耳を持たず、むしろ騒ぎは過激さを増すばかりであった。
人間の尊厳が認められていない、だとか。妖怪の恣意で殺して良いか否かが決められるのは困る、だとか。

 何を言っているのか皆目理解できない。そもそも妖怪は人間の敵だ。
敵であると同時に餌でもあるから、数が減って貰ったら困る。増えすぎても困る。
故に加減してやっているのだ。人間も妖怪からの恩恵が受けられなければ何かと困るので、妖怪退治を加減している。
それだけのことなのだ。人間と妖怪が仲良しこよしだと思って貰っても、なんだ。その、困る。
メリットが無いなら今すぐにでも目の前の人間達を片っ端から襲って満腹になるまで食べてやっても一向こっちは困らない。
勿論友人は食べないが、それだけだ。それ以外は殺すことにも食べることにも良心の呵責など一切感じない。

 地底の連中は割合好戦的だから、黙っておけばいいこういう真意も挑発的に口にする。
ルールを無視して襲ってきた連中は、殺しても良い。
勿論そんなルールも無いのだが、先に手を出してきたのは人間だと言えば、それは仕方ないねと受け入れる風潮がこの一帯にはある。
あれもこれもと寛大に迎え入れるためには、少々の不都合を我慢する必要がある。
そうでなければ、和など生まれるものか。和をもって尊しとなすが、和を保つには礼が必要なのだ。
それを分からぬ愚物は全てを破壊する可能性がある。

 久し振りに血を見るかなと思ったのだが、それを止めたのが一人の老人だった。
何でも外来人が増えすぎたのは彼の責任らしい。外と内を繋ぐ機械を創ったのだそうだ。
そんなものが科学力だけで建造出来る筈がないと山の神様は至極当然の質問を投げかけたのだが、彼はそれには沈黙を守った。
過激な外の連中は、その老人――ハカセと名乗った――の機械の噂を聞きつけて、次々幻想郷にやって来たのだそうである。
理由は外が辛いから。それだけだ。切実なのだろうが、今一胸に響くものがなかった。
老人のもう一度恋人に会いたかったからというその一言には、天晴れと手を叩いてみたのだが。
因みに彼は、恋人を見る事が出来たのだそうだが、自分の醜さから結局声を掛ける事は出来ず終いだったらしい。
そういう奥ゆかしさは嫌いじゃない。謡曲、綾鼓を何となく思い出した。

 老人の必死の説得のかいあって、その場は何とか収まった。
だが、それは爆弾が不発だっただけのことだ。妖怪だけでなく、過激派以外の人間も、大変迷惑そうにしていた。
マイノリティーだらけの地底の連中。それが更なるマイノリティーを排除する。何とも皮肉な構図が出来上がっていた。

 しかし、流石は我々といったところか。連中が去れば後はお祭り騒ぎである。本当、軽い奴らだと思う。
こんなに気楽に振る舞えるのは、これ以上の問題を幾らでも経験してきたからという重い理由があるのだろうが、
誰もそんなことは気にしない。主宰者でさえもそうである。別段完璧など求めてはいなかったのだろう、随分楽しげな様だ。
幻想郷は全てを受け入れるが、幻想郷を受け入れねばその恩恵は受けられない。当然の事実であった。











 さて、このちょっとした事件については、もう一つ語らねばならないことがある。
無論、近頃地の底をでちょっとした有名人になった外来人、醜男ピザについてである。
この問題を引き起こした遠因があの老人にあるのなら、ピザは近因を生み出した男だ。
一応述べておくが、その事について我々(断じて私だけではない。誓って"我々"である)が彼を責めるつもりは毛頭無い。
むしろピザは先の大会において最も輝いた人物であったといえる。天晴れだ。ちょっと涙腺に来た。
橋姫なんかは感受性が豊か過ぎるらしく、しばらくうるさかった。あれは良い奴なのか悪い奴なのか分からん。
情に篤すぎて重いタイプの女なのだろう。モテないのも分かる。魅力的ではあるのだが、というやつだ。
橋姫本人はその事を黙っていろとのことだったが、これがあの不細工に伝わるのも時間の問題だろう。
それで勘違いするような馬鹿でもないようだし、別に話しても問題はないと思う。
というか、噂を流布したのは私だ。近々勃発するであろう大戦争が楽しみで仕方がない。
橋姫は本来溜め込むタイプなのだろうが、それが良くないと分かっているのだろう。面白いくらいに良く暴れる。
あれは恐らく自分で分かっていて、わざとオーバーに振る舞っているのだ。
見ていて楽しいしそこそこ可愛いと思うと同時に、自己分析の鋭い奴だと感心しない事もない。

 溜め込むタイプということで、ピザの話に戻ろう。とんでもない駄目人間であるとの噂を彼方此方から耳にしていたので、
実物を見た際の私の印象はかえって良いものとなっていた。努力家で、他人を責めず、逃げを良しとしない。
なかなか出来る事じゃあない。彼の境遇がそうさせているのだという考えもあろうが、
だからといってそれらの美徳が霞む訳ではない。そんな彼だからこそ、この事件がどう影響するか心配だった。
更に鬱ぎ込んでしまうのでは無いかと思った。他の連中も似たような心配をしていた。

 だが、結果は真逆だった。彼は以前と比べて格段に活動的になった。
暗い目を伏せて歩いていたのが嘘のように、あちらでもこちらでも楽しそうに歓談するようになった。
初めてその様を見たときには、何というか、薄ら寒いものを感じた。
確かにあいつに良い影響を与えそうな出来事はあった。
競歩大会で歩ききった事に関しては、私をはじめとして多くの妖怪が賞賛するところである。
それだけなら、ピザも少しは前向きになれたかも知れない。だが、これは異常だ。

 あいつは一歩歩いて深く考え、そうしてまた小さく一歩を踏み出す。そういう質だ。
急激に変化が出来る程器用な男ではないはずなのだ。それに、あいつは視野が広い。
ピザの奴があの過激派の外来人達に負い目を感じていない筈がない。
彼等のうち幾つかのグループは地底の郊外に居を構えているのだそうだが、その事に旧都の連中はあまり良い思いをしていない。
それに関しても、彼は責任を感じているはずなのだ。物事の良い面だけを見て惚けていられるようなら、地底にいつまでも滞在する訳がない。
だのにピザは彼自身の性質から最もかけ離れた行動を取っている。
ニコニコと和やかに妖怪と話し、噂によれば外来人たちの家に訪れる事もあるのだそうだ。
どう考えても内向的なピザのやりそうなことには思えない。

 なので

「こんにちは、黒谷さん」

 呼び出してみる事にした。別に何かを解決したい訳ではない。ちょっとした好奇心だ。
彼はボロボロになったジャージの代わりに濃紺の作務衣を纏っている。ずんぐりむっくりした体型も少しはマシに見えるというものだ。
加えて杖をついて歩いているものだから、何だか私腹を肥やす駄目な坊主のように見えなくもない。
それでいて顔色は悪い、表情は笑顔ときたものだ。痛々しいことこの上ない。

「こんばんは、ピザ。急に呼び出して悪かったね」

 床几にかけたまま言うと、彼はいえいえと首を横に振った。私に呼び出されるのであれば大喜びだ、だそうである。
嘘偽りは、多分無いだろう。初対面から、彼は私に対して割に良い印象を持っていたようだ。
だがその表情と声の調子は嘘だろう。事実の一片を語ってはいるが、全てを吐露している訳ではない。
吐き出させる事が出来るとも思わない。場所は人気の高い茶店だ。低価格で懐にも優しい。

「何食べる? 奢るよ」
「先程たらふく食べてきたので大丈夫です。それに、あまり食べるとまた肥えますからね」

 腹をぽんぽんと叩いて彼は苦笑する。そういえば、少しだけ、ほんの少しだけスリムになったように見えなくもない。
だがその事がまた痛ましさを助長する。こいつは一体全体何をしたいのだろう。全くもって、見えてこなかった。
何も注文せずに居座るのも悪いので適当に菓子を頼んで、火薬庫男と向き合った。

「最近、どう?」

 当たり障りのない質問を投げかけてみる。彼は目を細め、いやあ、と頭を掻いている。

「皆さんには本当に良くして頂いているので、住み心地が良すぎて申し訳ないくらいですよ」

 快活に紋切り型の言葉が飛び出してくる。予め考えてあったかのような軽薄さだ。
だがそれ故に突っ込み所が無い。彼は恐らく心底そう思っているのだろう。嘘があるのだとしたら、その元気の良さだけである。
空元気とすら言えない。これは、何だ。本当に明るい人間を異様な的確さで真似ているので、かえって気味が悪い。
似ているが故に、ほんの僅かなズレが気になって気になって仕方がないのだ。
恐らく人を見る目の無い妖怪達や、そもそも経験の浅い人間ならば騙し通せるのだろうが、私はそうもいかない。
だが、騙されないからどうしろというのだろう。騙されても騙されなくても何が変わるとは思えない。

「僕みたいな奴でも受け入れて貰える。本当に、ありがたいことです」

 言っている事は恐らく心の底から吐き出されているのだ。だからこそ、すんなりと受け入れられる。
だが受け入れてしまうと同時に、それが嘘だと心のどこかが否定してしまう。不思議な感覚だった。
前に会った時からこいつの語り口は変わらない。ただ、纏っている雰囲気が変わった。がらりと一変した。まるで別人のように。

「競歩大会は終わったけどさ。最近、何かやりたいこととか……あ、大福届いた。食べる?」
「あはは。お気持ちだけ」

 随分、身軽な遠慮の仕方だ。悪い印象は全くしない。悪い印象が全くしないのが逆に心配だ。
こいつはピザだろう。駄目人間だろう。なんだ、この判で押したような瀟洒な振る舞いは。実に、らしくない。

「驚いたな。橋姫が杖くれるって時にはそりゃー騒いで大変だったそうじゃないか」
「えっ」

 彼は一瞬素に戻ったのか、目を丸くして、顔を真っ赤に染めた。
その事でようやく気づいたのだが、こいつ、ちゃんと私の目を見て話している。凝視するのではなく、あくまで自然な感じでだ。
これこそまさに妙ちきりんである。目を見るという事の辛さは、凡人には分かるまい。決して、決して、絶対に、分かるまい。
それを心から恐怖する人間は、誰かと目が合うだけで胃の底が締め付けられるような思いがする。
長時間強要されれば、貧血に似た感覚と嘔吐への欲求がせり上がってくる。五分もそれを続ければ、普通はダウンする。
精神的に、ではない。身体的に耐えられないはずなのだ。こいつが、にこやかに人の目を見て話すなど。
無論未来永劫不可能だと言っている訳ではない。
しかるべき手順を踏んで、一年二年かけてゆっくりゆっくり私達に馴染んで貰うことは出来ると思う。
だがこの変容ぶりはどうだ。そこに至るまでの過程が全て吹っ飛んでいるではないか。
まるで漫画だ。一つ二つのイベントで簡単に心が変わるのはフィクションの中の人物だけだ。

「あの時のことは……本当に、水橋さんに申し訳ない事をしました。人の好意を土足で踏みにじるようなことをした自分が恥ずかしいです」

 緊張で上擦っていた声が、徐々に平静の調子を取り戻していく。彼はものの数秒で穏やかな微笑を取り戻してしまった。
それは殆ど笑っているとは思えない曖昧な貌である。
だがそのことは確かに無表情やその他マイナスに思われる顔付きからくる不快感を殺していた。

「それで、最近やりたい事、でしたっけ」
「え……ああ、うん」

 目的も何もこいつと会話をする事で内面を理解していこうという心積もりなので、
自分の発した言葉には特に興味がなかった。ピザが拾わなければ別の問いを投げかけていたところだ。
だが、この質問は我ながら良いかも知れない。こいつがこうなってしまった原因が簡単に理解できる可能性がある。

「そうですね。皆さんと何とか仲良くなれれば僕はそれで満足なのですが」

 可能性は可能性のまま終わってしまった。仲良くするために仮面を被る。なるほど、もっともらしい。だがやりすぎだ。
ピザはとにかく慎重に慎重を重ねて何も出来ない男と聞く。そんな奴が思いきった跳躍をするはずがない。
こんなに激しい変身を見せられれば好意よりも戸惑いが先立ってしまう。
こんな簡単な事をネガティブに思い詰めるタイプの奴が理解しないはずがない。
だというのに彼がこのような変容を見せたということは、何か別に理由があるということである。
もしくは、彼の言葉は真実の一端のみを見せたに過ぎないということもできよう。

「それで頑張って無理している訳か」
「やっぱり分かりますかねえ」

 へへへ、と彼は後頭部を掻いて照れくさそうに笑った。見るからに演技である。
らしく行えば行うほど、その不気味さは一層強調される。

「親しい連中との間でもやるのか、そういうの」
「親しいと言いますと」
「水橋パルスィとかだよ」
「ん……そうですね」

 言葉を濁された。このあたりに何かあるのかも知れない。だが何と切り込んで良いやら。
切り込むことそれ自体には何の躊躇も無いのだが、どういう言葉を使えば良いのかが分からない。
さて、どうしたものか。大福を口に放り込み、茶で流す事で時間を稼ぐ。

「黒谷さんこそ、最近どうなんですか。お祭りの後で随分騒いだと聞きましたが」

 こっちが黙っているのを良いことに上手く逸らされた。平気な顔をして、強かな奴だ。

「祭りが終わると暇なもんさ。また騒ぎがあれば乗っかりたいんだけどねえ」

 妖怪らしいですね、と彼は笑った。

「お前は、そうなりたくない?」
「いえ、なりたいです。頑張りますとも」

 頑張ってなるものじゃあないと反射的に返しそうになったが、それは誤りだと口を噤む。
地底の妖怪達も陰鬱な奴が多い。そいつらの中で、私達のようにはしゃぐようになった奴は少なくないが、
はじめは何やかやと苦心していたようである。私から見ればそういうのはもどかしくて馬鹿じゃないのかと言いたくなるのだが、
そういう連中はどうもやたら深く問題を掘り下げるきらいがあるらしく、むしろ馬鹿になれないのが彼等の孤独の原因らしかった。
ならば馬鹿になれと言えば良いのではと考えるのだが、これもまた誤りである。

 確かに馬鹿になればそれで幸福になれるかも知れないが、奴らは幸福を至上としない。
考え続ける事で常に向上することをこそ正しいものとする。それを疎外するのであれば幸福とて障害にしかならないらしい。
価値観の相違である。なので、そういう類への正しい対応は、別に何もすることなく隣で茶を飲むことだ。
そうすれば勝手に向こうの方からこちらを好きになってくれる。簡単なことだ。変に論理を振り回すから失敗する。
勿論、上手く振り回せば成功するのだろうが、そんな奇特な奴は少数も少数だし、
そういう手合いは間違いなく普通の奴には嫌われているに違いない。誰とは言わないが。



 


 ピザとは半刻ばかり話をしたのだが、結局得られるものは違和感ばかりであった。
去っていく後ろ姿に何と声を掛けて良いものやら私には判然としない。
何故なら彼の必死の努力は何を意図する物であれ結果として良いものをもたらすだろうからだ。
明るく振る舞えるように努力する。それは決して悪いことじゃあない。いつまでも暗い自分で居続けても周りが迷惑するだけだ。
だからあいつの努力は歓迎するべきものである。変わろうとして踏み出した大きな一歩、ポジティブな前進に違いない。
だが、何故だろう。ピザの笑顔から、その一挙一動から、好意以外の感情の色が消えてしまったのを、私は正しいと肯定しきれない。
あいつのぐだぐだ悩んで人に迷惑をかけるところは人間として成長する過程で是正していくべきであり、
その最終形に一足飛びに辿り着いた事は褒めて良いはずだ。悪いところを潰して良いところを伸ばしたのだから。
らしさらしさと言って汚点を弁護するのは、明らかに間違っている。
理屈ではピザの変貌は受け入れられて然るべきものである。だが。だが。

 悶々とする私の目の前に、ふらりと女が現れた。癖のある金色の髪、長い耳、ペルシアンドレス。
俯いて歩いていた彼女は、ゆっくりと顔を上げた。緑の瞳が、爛々と輝いていた。
橋姫というおぞましくも美しい妖怪の色を、そこに見た気がした。

「ピザ……見なかった?」

 掠れた声を受け、私は背中にぞわりと嫌な物が走るのを覚えた。先程まで談笑していた男の姿は、もう人混みに紛れて消えていた。



[24754] 第十九話 その影は踏めますか
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/23 21:27
 幼い頃、ファンタジーを読むのが好きだった。主人公が旅をして、何かを成し遂げる。
元々空想癖があったのか、その世界観に埋没し、恍惚としていることが多い質だった。
一般の小説や、学術書の類は全く手に取らなかった。漫画もだ。
他にといえば伝記や図鑑の類だろうか。飽きもせずそんなものばかりを読んでいた。
図書館から大量の本を借りてきては、一週間程度で読破してまた大量に借りてくる。そんなことの繰り返しだ。

 特に力の無いひ弱な少年が主人公の話が好きだった。力強く勇気のある筋骨隆々の男の話はどうしても感情移入が出来ない。
現実離れしたものを感じてしまうのだ。ファンタジーに現実も何もあったものではないのかも知れないが、それでも荒唐無稽は好かなかった。
物事がこんなに上手くいくものかよ、というゲスな考えは快活な子供時代において既に根を張っていたように思う。
やがて暗い話を好むようになった。弱い主人公と容赦のない展開。納得のいくハッピーエンドが最後に来るなら最上だ。
次点で納得のいくバッドエンド、納得のいかないバッドエンドと続く。納得のいかないハッピーエンドは最悪である。

 僕の好みの幅はどんどん狭まり、結果として何を読んでも詰まらないと感じる人間になった。
ストーリーの裏から人間の欲求が透けて見えて吐き気がした。
ヒロインを去勢し屈服させて我が物にしてしまおうという欲が嫌いだった。
激情を賛美することによる幼さの肯定が嫌いだった。
ありのままの○○、真実の○○、高次の○○、○○を超えて、生き生きとした○○、わかりやすい○○。
氾濫する以上のような言葉が嫌いだった。
それは所謂"中二病"なるものだと聞いたので、嬉々としてそれらの人物が好みそうなものを手に取った。
だが、僕は失望した。なるほどそれらは一般的価値から離れていたが、
しかし一般的なものへの攻撃に腐心し、それが自己弁護、賛美に陥っている様子が透けて見え、苛々した。
第一それらは上のような問題を抱えたまま立ち往生しているではないか。二項対立の反対側に立っているだけではないか。
僕が徹底的に攻撃したいのは自分だった。故に主人公が自分の理論を振り回して勝ち続けるのが腹立たしかった。

 第三の選択肢という言葉がある。あれを捨てるか、これを捨てるかという葛藤を切り裂く魔法の言葉だ。
僕はこれが嫌い"ではない"。こう言うと驚かれるかも知れないが、確かに嫌いではない。
だが、第三の選択肢を選び取らんとする者は第一、第二の選択肢を捨てる覚悟を持たねばならない。
一を殺し百を救うか、百を殺し一を救うか。
一も救い百も救おうと決断したならば、百一全てが死んだとしても、自分の決断には胸を張らねばならない。
それを出来るヒーローは、片手で数えうる。皆、勝てるから第三の選択肢を選ぶ。
勝てなくともそれを選び、失敗したとて一、二を切り捨てた事に後悔はないと憤る万民の前で言えてこそ決断に価値がある。

 そこで、自分で物を書くことにした。悩みが生じたのが小四の頃なので、その時から暇があれば何かを書いていたように思う。
特に努力などはしておらず、自分の愚痴をストーリーの形に変えていただけだ。
それは半ばスカッとするものであり、半ば苛々するものであった。自分の内面はドロドロとしており簡単には言語化できないのだと知った。
量だけは多く書いたから、次第に物を書くのには慣れてきた。
一度出した小論に対し、教師がどこかから抜き出してきたのではないかと問うてくる程度には上手く書けるようになった。
だが、所詮はその程度が限界である。頭一つ抜ける事はなかった。

 一度クラスメイトを使って小説を書いてくれと頼まれた。腕の限りを尽くして書いたら、クラスから孤立した。
彼等は"みんな楽しく仲良しこよし"が見たかったらしい。嘘でも何でも良いから理想が見たかったのだそうだ。
幾つものグループに分かれて行動し、大同団結はしても一致団結はしない我がクラスの人々を使って
何をどうすれば仲良しこよしが可能となるのか甚だ疑問であった。
何を馬鹿な、根暗が、などと言われそうだが知古に教師がある者は問うと良い。
全体クラスを心から一つにまとめ上げることなど可能なのかと。正直者なら否と答える。

  ――等々、以上の事から分かるように、僕は真実阿呆である。
"自分のされて嫌な事は人にするな、人にされて嬉しい事は自分もしてやれ。"
これが成り立つのは一般的な人間においてである。僕はクズなので一般的な人間の価値尺度があてはまらない。
だのに、上の言葉に従って僕は行動していた。思考停止も良いところだ。
自分が自分がなどと言うからこのような愚を犯す。上のような回想をすると、顔から火が出そうな思いがする。
何が、自分だ。馬鹿馬鹿しい。自分があるから人に迷惑を掛けるのだ。
自分を殺して他者の理想に近づければそれだけで人間関係は大きく変わる。クズには自分など要らないのだ。
他者の言うところの素晴らしい人間を徹底的に模倣すればそれでよろしい。
いつも笑顔、人に優しく、明るく、楽しく、勇気があって、空気が読める。
全てが僕と対極にあるような要素たち。それを取り入れれば僕の僕たる要素が壊れてしまう要素たち。
実際にそのような人間になるのは不可能だ。だが模倣する事なら出来る。
心の中でどう思っていようが、表面を取り繕う事なら出来るはずなのだ。それを徹底的にやればよい。
アイデンティティーなど知ったことか。僕は幸福だ。僕は皆が好きだ。それ以外は要らない。

「う……げぇえええっ」

 人の目を見て背筋を伸ばして会話をすると、吐き気がするのは昔からだった。
それが不快だから目を伏せて歩いていた。だが、知ったことではない。他人は人の目を見て話す事を要求する。
では僕はそのように動く。そこで苦しむ僕は存在しない。僕は死んだのだ。幸福な僕、楽しげな僕。
そうして皆騙してやればいい。父さん、母さん、ごめんなさい。僕は別人になります。








 XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX





 何かがおかしい。未だに傷む左の頬をさすりながら私は黙考する。水橋パルスィの平手打ちを受け、目の覚めるような思いがした。
別に彼女の感情に感化された訳ではない。むしろ逆だ。
騒ぎ立てるあの女を見て、私は自分の中に漂っていた妙な霧の存在に漸く気づく事が出来た。
人の振り見て我が振り直せとはよく言ったものだ。他人がよく分かる者は自分が分からないと言うが、別段そんな事もない。
比較が容易なためむしろ有意義な内省を行うことが出来る。

 さて、あの橋姫が我が部屋を訪れたのは四半刻ほど前の事である。狼狽した様子の彼女は、私に■■を見なかったかと問うた。
この時点で、実におかしなことに私は己の背にぞわりと鳥肌が立つのを感じた。彼に何かあったのではないかと思ったのだ。
内心の動揺を気取られぬよう、私は努めて冷静に彼女に状況の次第を問うた。
なんでも彼は独居を始めたらしい。街の外れに住んでいるとのことだが、あの醜男の住処を見たものは無い。
妙なのはそれだけでなく、"星熊勇儀も自分も一度としてピザに会っていない"、などと彼女は言うのだ。
思い返せば自分も大会の翌朝から一度も■■の顔を見た覚えがない。
噂は良く耳に届くのでまた馬鹿をしているな、と半ば呆れ半ば安堵していたのだがどうにも話が焦臭い。

 橋姫の話によれば、街の妖怪達が毎日会っているのは確かに■■だという。
随分明るく活発になったが彼であることは間違いなく、誰かが化けているということは無いのだそうだ。
そもそも彼女は■■が競歩大会を終えて自分たちに溶け込む事を期待していたらしく、このような変貌は予想外だったと述べた。

 それについては確かな理由が述べられるので、
大会後の夜に自分が彼に大会に際して生じた問題の全てを吐露したと言うと、
水橋パルスィはよりによってあの時そんな事を言う必要は無かったと逆上して私を叩いて去っていったのである。




 一見、この橋姫との話は筋が通っているように見える。彼女が怒るのももっともだ。
私が彼に全てを黙っていたのであれば、ある程度の間彼は騙されたままだったろう。
私は■■を過小評価していないので、二日もあれば真相を暴くであろうと思っていたから
騙すよりはと思い真実を口にしたのだが、そんなことは些事だ、今はどうでも良い。
嫌われるのには慣れているので弁解をグチグチする必要もない。そもそもあの女に好かれたいとも思わない。

 そんなことより、である。私は彼女が帰ってしばらくの後、ゾッとするような悪寒に襲われた。
その出所となるのはあの女の逆上ぶりと、そして一瞬でもそれをもっともだと思ってしまった自分自身である。
我々は地底の妖怪である。どれだけ情に篤かろうが基本的には淡々として一人生き抜く力を持っている。
他者に心惑わされるような心の豊かな振動はそれに伴い人間と比しかなり弱いものとなっている。
なので多くの妖怪は自分でそれを揺り動かして楽しく生きている。老いた妖怪が快活さを潜めて自分の居に閉じこもるのはこのためだ。
そうして、自分がこれと決めた者とは表面上は兎も角内面的には深い交わりを持ち、それ以外とは軽く接する。
あまり簡単には誰かを憎まない変わりに、そうそう易々と人を好きにもならない。
■■のような男を排斥しないのは前者の理由故である。これは納得がいく。だが。

 さっきの橋姫の憤りよう。あれは何だ。

 大会において必死に歩いてみせたあの男に感動するのは分かる。それはごく自然な心の動きだ。
たとえ相手が見知った輩であろうと無かろうと、あの見事な行為は胸を打たずにはいられない。
木石か何かでは無いのかとたまに失礼な事を言われる私ですら感心したものだ。
だが繰り返すが、それは一般的な心の動きとして十分に説明がつくものである。

 しかし、先程のは明らかにそうではないだろう。確かにあの晩の私の行動は少々人情に欠けていたかもしれないが、
私なりの考えによってもたらされた後の被害を軽微に済ませる一策だったはずだ。
水橋パルスィは決して阿呆ではない。長きを生きているし、人の良い面悪い面を嫌と言うほど見ているはずだ。
ならば私の行動の妥当性も理解できるはずなのだ。故にそれが気に入る気に入らないは兎も角一定の敬意を払うはずである。
少なくとも話を聞いた瞬間逆上するということはあり得ないのだ。
唯一、■■が彼女にとってある程度の位置を占める人物である場合を除いて。

 だがそうなると考察に飛躍が生まれる。そもそも橋姫が■■にそこまで重きを置く理由が無い。
更に言えば、ほんの一瞬でも彼女の行動をおかしいと思わなかった自分の心もまた何かがおかしい。

 そういえば、以前こいしが似たような事を訊ねはしなかっただろうか。
お姉ちゃんがそこまで■■を気に掛ける理由は何なのか、と。
私はあの時何と答えたか。自明の事だと切り捨てはしなかったか。あれこれ嗅ぎ回る妹を馬鹿にして取り合わなかったのではなかったか。

 私はあの時既に通常の場合に比べてより深く■■に介入していた事を自覚していた。
だが、それはまだ持論で説明のつくものだった。要は、メサイア・コンプレックスである。
救われたい自分自身が相手を救うことによって救われている。つまりは救われるべき対象である■■を救い主にしている。
そういう醜い構図があるのだと思っていた。
星熊勇儀は例外としても、私と水橋パルスィの間にはそれがあり、特に後者においてそれが顕著なのだと思っていた。
だが、これはもうそれで説明のつく域を超越しているのではないか。
こいしは人の心が読めないからこそ、かえって敏感に外面からのみの推察で奇妙さを感じ取ったのではないか。

 水橋パルスィが、ではない。"我々"が■■をここまで気に掛ける理由――確かに、全く分からない。
ゾッとした。少なくとも理由が意識される心に無いことは確かである。そして無意識であれば逃げられる――ということでもないようだ。
私が彼を気に掛けているのと同様にこいしもまた彼に突き動かされている。妙だ。
数年を共にして、その中で彼が目覚ましい成長を遂げたのであれば多少は大切に思うのかも知れないが、まだその域には達していない。
我々は個の存在を保つためにウチとソトの境界を明確にする。そういえば、橋姫は随分早くから彼をウチに置いていたように思われる。
何だ、これは。考えれば考える程、薄気味が悪い。

 しかも、だ。

「くそ……」

 思わず、悪態を吐く。考えを更に進めようと思うと、頭に靄がかかったようにして進まない。
間違いない。何か想像を絶するものが働いている。それも、随分と前から。
頭を掻きむしり、息を吐く。とにかく、■■に会わない事には始まらない。だが、橋姫の話を聞くに彼は我々を恐らく避けている。
彼女が探して見つからないのだ、恐らく巧妙に逃げ隠れを行っている。だとすればそこには協力者の存在があるはずだ。
それは間違いなく妖怪ではない。外面だけを見ればそこそこ仲の良いように見えた両者を引き離す事に妖怪は賛同しない。
であれば、新入りの外来人達か。つくづく、面倒ばかり起こしてくれる。七面倒くさい。皆殺しにして火にくべてくれようか。 

 もう一つ、何か考えなければならないことがあるはずだ。これらの事を考える上で絶対に外してはならない要素。
そうだ、本だ。私は少し前に使いを遣って地上の魔女、パチュリー・ノーレッジから本を借りた。あれは何故だったかしらん。
だが、もう駄目だった。頭の中どころか視界までが白濁に包まれ、次第に目の奥と側頭部に鈍い痛みが走り出す。
馬鹿にしてくれるものだ。抑え付けられれば大人しくしている。地底の忌まれた妖怪の気質を良く理解している。
反抗には力が要るし、概して無意味なだけでなく更に悪い結果をもたらす。我々はそのような諦観の中で生きている。
そうでなければどんな強大な力に押し込められたとしても、怒りを爆発させない道理がない。

 目を閉じ、瞼の上から軽く揉む。暗黒の中にチカチカと緑とも青とも桃ともつかない光が明滅する。
目を開くと、湯気を立てる紅茶と、色の少々白すぎるクッキーが置かれていた。
誰の仕業かなど、推すまでもない。つくづく、可愛い妹だ。故に嫌いにはなれない。
彼女は私のウチにある。では、あの男はどうか。

「ふう」

 止めよう。折角休むように促されたのだ。こいしの厚意を無碍にすることもあるまい。
私は一度深呼吸をして、これまでの考えを全て追い出した。何だか胸の中に朝の清々しい空気が入ってきたような気分だ。
陰鬱な地底の妖怪としてそれで良いのかとも思うが、快適なものは快適なので仕方がない。

 少し腰を曲げすぎていたかも知れない。立ち上がり、軽く体を捻る。べきばきと言う音がして、老人臭いのが嫌だった。
この体躯で何が老女だと自分でも少しだけ馬鹿馬鹿しくなる。容姿が可愛らしいのは得である。
これで皺だらけの婆であったら誰が私に見向こうか。外面を内面と比し下位に置く者があるがそれは下劣である。
内面を形成する上で外面は非常に大きな影響力を持つ。
人間の老婆よりも遙かに長きを生きる妖怪達が何故瑞々しい少女然としているか、答えは単純で少女らしい外見をしているからだ。
下らない。どうも考え事を止められない質らしい。頭を空っぽにするということが出来ない。
こいしには申し訳ないが、これが性分だ。クッキーを摘み、口に放り込もうとしたところで

 こんこん、とノックの音がした。

 一瞬橋姫が戻ってきたのかと嫌な予感(はて。何故、何が嫌だったのかしらん)がしたのだが、
入ってきたのは見知った顔であった。星熊勇儀。珍しい、こんな辛気くさいところに何の用向きだろう。
皮肉を込めて問おうとして、私はシニカルに持ち上げかけた口の端をそのまま硬直させた。遅れて、小さく痙攣が起こる。
彼女の心が読めたのだ。

 曰く、「とある外来人が殺害された」とのこと。

 握っていたクッキーがぐちゃりと潰れた。ニュアンスからそれが■■でないことに少しばかり安堵し、
次にまた面倒が起こったなと私は溜息を吐いた。ティータイムを楽しむ余裕は無さそうだ。
私は彼女に事の仔細を問い質すこととした。



 つい先程まで何を考えていたのかなど、私はこの時にはすっかり忘れ去ってしまっていた。



[24754] 第二十話 お手々繋いでなかよしこよし。あぶれたあの子は何処の子だ?
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:53d3f62c
Date: 2010/12/24 21:25
 古明地さとりから長い手紙が届いた。破り捨てようかとも思ったが、既に怒りは醒めていたし、
暇だったことも手伝ってそれを手に取ってみる事にした。
内容は驚くものがあり、また彼女一流のドライな論法ではあったのだが、
それが故にあの女が決してピザを蔑ろにしてはいないことがかえって理解され、胸のつかえが下りる思いがした。
彼女の冗長な文章を要約すると(誤解が無いようにするためだろう、物凄く諄かった)、
我々の過度なピザへの干渉はどうしても説明のつかない現象であり、
またそれについて深く考察する事を何らかの力で妨害されているのだといった調子である。

 だから何々するべきである、と書かないのが古明地さとりらしい。あいつは我々の間にある理想の差を意識している。
恐らく奴は聖人の心を見たとしても、それは起こりうる様態の一つであるとしか見なさないだろう。
何が上、何が下、という考え方自体そもそも観察者にとっては余計なものである。
古明地さとりにとっての上、下、はあるだろうが、奴はそれを全体に当てはめようとすることをしない。
故に強姦魔と殺人鬼と英雄と悟った人間を並べて置いても、あいつはどれも同じだと切り捨てるだろう。
そういった人間観を、あいつは思想にも当てはめる。理想に近づくために人は考えるが、あいつは違う。
あいつは思想自体を考える対象にする。故に私の考えも分解すべき対象ではあっても、糾弾すべきものではないのだろう。
古明地さとりにと正対する意識は無い。無意識ですら彼女に正対できない。無意識は彼女に背を向けている。

 一般にはあいつの考え方は焦れったい。自分の結論を示せと言いたくなる。
彼女は保留して動く。"これが正しいのだ"とは言わない。現時点で自分の考え得る範囲内での最善は一応これだ、とは言うが。
故に私が助言を請えば彼女は一応それを口にするだろう。だが私がそのようなことをしないと分かっているから彼女は書かない。
かわりに私が判断基準を求めているのを見抜いたあいつはそれをわざわざ手紙にして送る。つくづく、計算高い。
そして、その計算に温度があるのだ。それが憎たらしい。平然とした、超然とした表情の中に"悟り"が無い。
どうせなら何もかも超越して上から目線で零度の言葉を発し続ければ良いのに、そうしない。それが、腹立たしい。

 だが、当面の問題はさとりではなくピザである。まずあいつに会うのが大事だ。
奴は多分さとりよりも勇儀よりも、私を優先して避けている。理由は単純に、私が三者の中で最も弱い妖怪だからだ。
精神という弱みを容易に突くサトリ、そもそも規格外の鬼。それに比べて私は橋姫である。
無論嫉妬という感情を軽視しているのではない。むしろ逆だ。現状況でのそれの利用は限りなく難しいと言えよう。
あの化け物はそう簡単に解放して良いものではない。抑え付け、飼い慣らすのに何年かかったことやら。
そして、それを放つという行いは自らの首を絞める結果になりうる。

 ピザが我々を避けるのは、過激派の連中の矛先がこちらに向かないようにするためだ。
これは彼が火付け役になったことから考えれば間違いない。
連中が地底の妖怪達の代表に我々を挙げているのは容易に推せる。
そして、その内鬼とサトリには手が出せまい。しかし橋姫はどうだろうか。案外容易い相手ではないだろうか。
これは別に被害妄想ではない。街を歩いていたら石が飛んでくる、程度のことはたまにある。
応戦してやりたいのは山々だが連中がスペルカードルールに則るはずがない。
丈夫な妖怪は良いがひ弱な人間は死ぬ可能性があるんだぞ云々などとはしゃぐに違いない。
であれば起こるのは規則無き乱闘だ。血を見ずには済まされない。そうなれば大々的な騒ぎになる。
全てはやがて収まるだろうが、吸血鬼異変の後のように、面倒なルールがまた作られる可能性がある。それはごめんだ。
連中が生きようが死のうが勝手にすれば良いと思うのだが後々の事を考えるとそうもいかない。
ゴキブリを殺すのに核融合を使う馬鹿はあんまり居ないのである。たまに居るが。


 雨が降ってきたが気にする事はあるまい。これで何日目だろうか、あいつが通りそうな道に立ち続けるのは。
古明地さとりに言わせればこういうのが異常な対応なのだろう。私自身そう思う。
ピザのことはそんなに好きではないのだ。むしろ、ピザの方が私の事を好きで好きでたまらない様子である。
そしてそれとは別に私は彼を待っている。異様な行動なのだろうが何だろうが身内を心配せずしてどうするというのだ。
そこが、私とさとりとの違いなのだろう。あいつは異様なものを暴き立て、その問題と対決しようとする。
私は異様だろうが何だろうが感情を尊重する。馬鹿なのだろう。阿呆なのだろう。だが義理堅いとはそういうことだ。
或いは星熊勇儀はそれを逃避と否定するだろうか。あいつが現状をどう思っているのか、聞いてみたいような気がした。

 妖怪が寒さそのものに体をやられることは滅多にない。だが、寒さという概念に心を冷やされる事は少なくない。
特に私は冷水に長く触れているのは好かなかった。川なら尚更だ。あまりいい気がしない。
大きく体を震わせるがこの程度で折れるような柔な心は甘い幻想や恋と共にどこかに捨ててしまった。
深草少将は九十九夜目に豪雪のため命を落としたとも従者を遣ったのが小野小町に露見したのだとも伝えられるが、
私は前者をあまり信頼していない。男の愛情など誰が信頼するものか。吹雪がくれば諦めるに決まっている。
よしんば百夜通いが上手くいっても気が余所へ行けば、ぽい、である。

 ぴちゃ、ぴちゃ、と音がした。何だと思って顔を上げれば、遠く誰かが歩いてくるのが見えた。
こそこそと人目を憚るように、三本足でだ。あの太った体を見間違えるはずがない。
確かに彼は元気にしていたようだと思うと安堵しないでもないが、同時にむかむかしてくるのも事実だ。
何処の誰とも知れない男と話しながら歩いているようだが、はてさてどうしてくれようか。
私の居る通りを進まないよう道を折れたのが見ていて非常に腹立たしい。あの男、恐らく気づいていまい。
ヘラヘラと、随分楽しそうだったじゃあないか。

 地を蹴った。

 飛翔の勢いに乗って雨粒がいっそう強く体を打つ。濡れた服が肌に張り付く感覚。随分と重い。
靴がぐちゅぐちゅと嫌な音を立てた。ありがとう、ピザ。最悪の気分だ。
心境をそのままに、くるりと宙で大きく一回転し、彼の前に降り立つ。捲れるスカートをおさえるのは忘れない。嗜みである。
これでも私は奥ゆかしいのだ。

「で、出やがった」

 ピザの隣の男が何か言ってるが興味もない。
敵意と恐怖をぶつけてこられるとそれ相応の対応をしたくなるのが妖怪なのだ。これは性かも知れない。
逆に、普通に接してくるのであれば、誰であれそれなりに扱うつもりはあるのだが。

「ぎゃおー」

 それらしいポーズを取って弾幕を撒き散らす。男は悪態を吐いて走り去っていった。
尻尾を巻いて逃げるが良いさ。普通の人間一個人は絶対に妖怪に勝てない。変な奴だけが、それに打ち克ち、或いは和するを持っているのだ。
もっとも、没個性の大集団にかかればどんな強大な妖怪とてひとたまりもないのだろうが。
存在をなかったことにされてはたまったものではない。それはともかく。
私は絶対に逃げなかったであろう男に目を遣った。
そいつはたまにしか見せてくれなかったへらへら笑いを仮面のようにべっとりと顔に張り付けていた。
何がそんなに楽しいのか、尻餅をついたまま私を見上げて微笑んでいるのだ。

「相変わらず活発ですね、水橋さんは。安心しました」

 皮肉か、と返すと、まさか、と彼は両手をぶんぶんと振った。少し突いてやれば簡単に素が見える。
だが、どうにも胡散臭さを感じずにはいられなかった。
これは見られても困らないから見せても良い、というような計算され尽くした応対をされているように思えてならない。

「減らず口も叩けるよーになった方が良いな。ほら、立て」

 例に手を伸ばして見たが、これは首を振って拒否された。今のこいつならどう出るかと思ったが、ここは変わらないか。

「腰が抜けてしまったのです。しばらく立てそうにない」

 ああそうだ、と彼は事のついでのように左手の物を差し出す。それは風流のふの字も感じられないボロ傘だった。
恐らく外から流れ込んできた物なのだろう、作りが私の親しんでいる物とは異なる。たまに壊れたものが転がっているのを見る事があった。
私に持たせてくれるつもりらしい。どう考えてもこの服には似合わないと突っ返すと、彼は確かにそうだと苦笑した。

「相変わらず、空気は読めんようだな」
「ははは。筋金入りのクズです。そう簡単に心変わりは出来んのかも知れません。まァ、やって殺れんことはないでしょう」
「お前が真人間にかあ?」

 彼が簡単にええ、などというので、無理だ、無理だと返しておいた。
人は変わるものという言葉がある。それは概ね正しい。環境が変われば人は変わる。
人の多くはそこに置かれている連中の質が変われば、その変化に染まろうとする習性がある。
故に人は変われる。だがしかし、中には環境が変わっても自分を変えない人間が居る。
それらの一部は筋金入りの駄目人間だろうし、
一部は屈原のような曲げる事を知らぬ者だろうし、一部は小人に混じりつつもよく楽しむ本物の聖人かも知れない。

 ともかく、私は思うのだ。誰がどう説得したところで、屈原は折れないのではないかと。
それは特別だと思うのならばそれで良い。だが、屈原を特別と置くのであればピザを特別に置いてはならない理由がどこにある。
ピザは"世の中はクズだ。しかし自分は高尚だ"と考える彼と対立する。つまりは二項対立の逆側に立つ男だ。
一般人をゼロとした場合、屈原の立場は百でピザの立場はマイナス百だ。両者共に、その主張故に一般人には近づくまい。
そして屈原を心変わりさせるのが不可能であればピザをそうさせるのもまた然りなのである。
表面をどう取り繕おうが、無駄なことなのだ。世の中には、常識の境界を突破した奴が必ず存在する。

 一般の連中はそれを認めたがらず、必ず自分たち"真人間"へと矯正可能だと言うが、馬鹿馬鹿しい。不可能である。
しかもその"真人間"になることをあたかも希望であるかのように言うのだ。ふざけろと言う。
何が真人間だ、馬鹿馬鹿しい。私は外の腐った人間共など絶対に認めない。
あんな欺瞞に充ち満ちた連中と交わる事が幸福に繋がるなど絶対に認めない。
それはつまり、そんな真人間共に振り回されて橋姫となった私は阿呆だと言っているに他ならないからだ。

 時代が違う。環境が違う。関係あるものか。真人間などという一規範が逸脱者を殺すのだ。
"私を襤褸雑巾にした連中はクズだったんだ、普通の奴らはそんなんじゃない、外に目を向けよう。"
こんな事を言う奴もいる。失笑物だ。実際に会ったらそいつの言葉が終わると同時に首筋に食らいついているだろう。
お前達だ。そういう意見を平気で吐くお前達こそが私を橋姫にしたのだ。
だから私は地底に居る。あんな恐ろしい化け物はもう見たくない。
"普通になれば幸福になれるのに"とニヤニヤしながら上から目線で物を言う"良識人"共を見れば、きっと発狂してしまう。
ピザも、その同類だ。こいつが普通に染まれる訳がない。
もし外面的にそれを可能にしているように見えるのならば、助けて助けてと叫び続ける内面を殺し続けているからに他ならない。
あんな連中のために、耐え続ける価値などあるのか。私ならば答えを否とする。

「水橋さんは」

 そして普通から転がり落ちた男はヘラヘラと笑う。逃げるから、甘えるから普通になれないと、普通の連中はそう言う。
馬鹿である。ならばお前達、ピザになってみるがいい。一週間、ピザで有り続けられるものはまずあるまい。
自分が決して至れない境地にある者を攻撃し、自分たちの理解できる領域に引きずり込んで安心する。
出る杭を打つ醜悪な愚行である。外ならば兎も角、地底においてそんな行為は必要ない。

「たまにすごく綺麗な目の色をすることがありますね」

 何を言うかと思えば。

「強すぎる感情はなんであれ蠱惑的なものなんだろうさ」

 少し苛々し過ぎていたらしい。目を閉じ軽く揉む。そうして再び瞼を開く。これで元通りだ。
帰ったら酒でも飲んで大暴れすることにしよう。腸を煮えくりかえらせるとろくなことがない。
突発的に怒るのはそんなに危険ではない。だが一度全てが醒めきって尚怒りが冷たい澱のように残った時。
その時が最も恐ろしいのだ。だからそうならないよう、私には定期的なガス抜きが必要になる。

「で、ピザ」
「へえ」

 何がへえだ。あほか。言うと、彼はへらへらと笑うのだった。
怯えや自虐の裏に確かに萌してた素朴な好意は、今や私の眼前に剥き出しとなっている。
こいつは柔らかなそれをズタズタにされても悲鳴一つあげないのだろう。そのズタズタにされた好意を晒したまま笑うのだろう。
そうして、今度は逆に笑顔の裏で怯えと自虐を膨らませるのだ。その末路がどうなるかなど、語るまでもない。
溜め込んだ感情の最も恐ろしいのは、爆発ではない。
熱が冷め、巨大な鉄の塊のようになって心の奥底に張り付き、二度と離れなくなることだ。

「お前はうちに帰るつもり――」

 問うた私の後頭部で、べちょりと音がした。手を当ててみると、ぬるぬるして、それでいて所々ぷるぷるした物を感じる。
確認するまでもない。卵だ。べちょり、べちょりと続けざまに音がする。服が汚れた。気に入っていたのだけれど。
ピザは笑みを少しだけ悲しげなものに変えた。つまりはそれが答えだった。

 自分さえ良ければ。それを突き通されて私はこうなった。であれば、私がこいつの手を取る事は出来ない。
手を取れば、こいつにはもっともっと楽しい未来が待っているだろう。今私の背後で暴れている化け物共の死骸の代わりに。
だがそれはこいつの望む所のものではない。先の幸福のために一時の苦痛を我慢させる。
なるほど、"普通の連中"が最も良く考えそうな理もある。だが、先の幸福がなんとなろう。
最良の行動を取れなかった事を、こいつは必ず悔やむ。その悔いの上に成り立つ幸福を、こいつは絶対に甘受できない。絶対にだ。

「帰るよ。また会おう」

 彼はやはり笑うばかりであった。人の目があるのだ。返事が出来る訳がない。
地底の妖怪の名誉にかけて、襲撃者全員を昏倒させ、宙に舞い、帰路を飛ぶ。
私の表情は、凍り付いていた。あの大会で感じた涙は、もう偽りのようにしか感じられなくなってしまっていた。
代わりに、ピザが泣いていた。笑いながら、あいつは泣いていたのだ。

 あの化け物共には、見抜けまい。絶対に、見抜けまい。そうして奴らは笑うのだ。
良かったな、一般人に近づけたぞと。思わず含み笑いが漏れた。馬鹿馬鹿しい。なんて、馬鹿馬鹿しい。

 嗚呼――あいつらの首を全部、この手で刎ねればどんなに気分が良いだろう!!

 歯軋りの音を自覚したのは、大通りに戻ってからだった。馴染みの店の主にまた貰った蟹を、帰宅した後、生きたまま踏みつぶした。
少しだけ、せいせいした。



[24754] 第21話 変身中は可愛いか、格好いいか、そうでなければ――
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:215024a8
Date: 2010/12/25 21:53
 雨が降り続いている。水橋さんの去った後、誰も居らず都合が良いので僕は胃の中身を戻した。痩せるわけだと苦笑する。
昔も極度に食欲が落ちた事があるのだが、良く食事を残す事を心配されたため、無理矢理詰め込んで誤魔化していた。
長らくそのような生活を続けていたのだが、最近はどうにも食事が喉を通りにくくなった。
飲み込もうとするのだが、上手く飲み込めないのである。これには参った。水すら上手く飲めない。
飲み込むためにはどういう行為をすれば良かったかしらと想像し、その通りに筋肉を動かそうとするのだが上手くいかない。
何十分もかけて何とか完食しても、吐いては意味がない。勿論やたらと吐いている訳ではなく、
なるべく健康に気を遣おうとはしている。衰弱があまりにも顕著であれば誰も騙し通せない。最悪外来人の方々だけ騙せればそれで良いのだ。
僕は、デブでクズでキモい。そんな僕ですら幸せで居られるのだから、それを見た他の人々は少しくらいは安堵してくれる筈なのだ。
勿論それで全てが解決するなどという甘い幻想を抱いてはいない。だが、時間稼ぎは間違いなく有効な戦略だと思う。
そしてそれが僕に取れる最良の手段だ。

 それにしても、腹立たしいのはこの肉体である。人が何かしようとすれば毎度毎度邪魔ばかりしてくれる。
まさか食事すら拒否されるとは思わなかった。本当に軟弱極まりない。
ストレスから逃れようとする生存機械の惨めな反逆を見事だと思う余裕は、今はない。

 水橋さんや古明地さんが何かと気を遣って下さっているのは以前から知っていた。
結果が出てから言うのはアンフェアだが、予測していたと言っても良い。その程度を考慮できない程の阿呆では僕はない。
騙し通せるなどという傲慢は抱いていない。古明地さん、水橋さんは洞察力に優れている。
黒谷さんにも演技を看破されてしまった。妖怪の多くは僕のわざとらしさを見抜いている。それは理解の上だ。
だが、外来人の方々は確実に騙されている。顔色の僅かな変化など、そう簡単に気づく人は居ない。
僕は上手く演技しているつもりだ。生半可な人間には絶対に看破できない程には丁寧に振る舞っている。
そもそも誰かを騙すなどそう難しい事ではないのだ。内心面倒でも誘われれば遊びに出かける。割と多くの人間にそのような経験があると思う。
それを反復するだけである。多少ボロが出ても"健気"で片づけられる。人間観察は怠っていないつもりだ。

 新入りの人たちの境遇は概ね似通っていた。
凄惨な虐めにあっていた。暴力を受けていた。借金に潰されそうになっていた。奥さんに出て行かれた。などなど。
丁度良いので僕はそれを利用した。彼等の愚痴を聞き、なだめて、それとなくこの地の良さを伝える。
あくまで受け手で有り続けるのが大事だ。利用したからといって彼等を蔑ろにしている訳ではない。むしろ逆だ。
僕が考えるに、暴れさえしなければ今まで会ってきた人の中で妖怪の方々が殺しそうな人間は居なかった。
殺人者、自殺志願者。彼女たちが殺すのはそういう類だ。僕はその事も何度も強調した。

 彼等と話をする中で不思議に思う事があった。彼等は繰り返しあれが駄目だ、これが駄目だと口にする。
あいつさえ居なければ、ともあの会社に入らなければ、とも、あの教師さえ居なければ、とも。
そうやって常々何かを憎んでいる。だが、その対象に何故か自分を含めないのである。
己は裸でありながら、ボロを纏っている連中を馬鹿にしているような、そんな滑稽を感じた。

 また、憎む対象が憎む対象たり得るのは何故かということを考えない。
上が嫌な人間だったとしよう。では何故そいつが嫌な奴なのか、それを考えずに嫌だ嫌だと言い続ける。
彼がそのような人間であらねばならない理由があるかも知れないのに、
またそのような人間に成らざるを得なかった経緯があるかも知れないのに、
それを考慮せずにただ一言あれはクズだの一言で切り捨てる。僕にはこれがよく分からなかった。

 自分を哀れな被害者に見立てて周りを加害者に仕立て上げる。なるほど、確かに彼等は苦しんでいた。
同情を買うに値する立場に立たされていた。だがしかし、それは根拠のない中傷を吐き出し、内省を放棄する理由になるのだろうか。
僕は彼等と話してみたかった。そうして彼等の憎悪の基盤がどれ程のものか明確に知りたかった。
だが、そんなことをすれば不興を買うことは知れていた。相手が妖怪ならば嬉々として訊ねられるのだが、人間ではそうもいかない。
彼等はとにかく繊細だ。そして自分の考えに対立する者はすなわち敵だとみなす。更にコンプレックスにより共同体を作る。
それは一般に良く見られる人の群れ方である。誰しも共感する相手と共にありたいだろう。
意見を戦わせながら仲良く有り続けるのは難しい。フロイトとユングを見るが良い。
また芥川と谷崎は激論を戦わせながらも親交があったそうだが、それは前者の自殺によって途絶えた。
谷崎は戦いの最中死んだ芥川について少なからず衝撃を受け、書を残している。

 クリティカルな意見を与え合いながら互いを高め合う。確かに理想だ。だが理想に過ぎない。
僕はその事を改めて痛感し、そしてその理想を当然の事としている幻想郷の有り様に感歎した。
誰もが相手を明け透けに非難し、相手はそれと対決する。だが、酒を呑んだら感情の凝りは水に流される。
馬鹿な、と思った。溜め込んでいるのだと思った。だが違うのだ。彼等彼女らは確かに、呑みながら簡単に仲直りをする。
いや、そもそも仲違いなどしてないのだ。意見がぶつかっただけであり、嫌ったつもりは毛頭無いと彼等は言うだろう。
これは通常の人間にも理解できる。理解は出来るだろうが、実践は難しかろう。
誰もがそのような人間であれば蛙鳴蝉噪の馬鹿騒ぎは生ずるまい。
妖怪達ですら意見と己を完全に切り離してはいないのだ。それが可能であれば怒る必要は生じないのである。

 故に、人間と最も上手く付き合う方法は上手い胡麻擂りである。露骨ではならない。
露骨な者は非難を受ける。自分のしっかりとした考えを持っているように、主体性があるように見せておきながら、
相手に気取られぬようにヨイショするのだ。僕には爽やかさが無いから、逆に醜い事を逆手に取る。
駄目人間が頑張っている様が案外ウケることは大会で学んだ。それを生かさない手はない。

 そろそろ立てるようになったようだ。つくづく、駄目な体だ。
しかし無理をしていればそのうち体もついてくるだろう。そんな考えがふと過ぎり、随分星熊さんに影響されたものだと苦笑する。
人が殺されたという噂を聞いた。疑心暗鬼が漂っている。折角上げてきた妖怪の株が一気に下落した。
だが焦ってはならない。こういう時こそ穏やかにだ。諸問題は妖怪の皆さんが片づける。僕は無力だ。
故に僕はただこういう事態が生じた際には妖怪こそが頼りになるのだということを伝えねばならない。
悪く言うなら、この状況を利用するのだ。怖いだとか、不安だとか、そういうことをピザは考えてはならない。
ピザは皆を大好きでなければならない。信頼しなければならない。よし、再確認した。笑顔だ。今日も笑顔で頑張ろう。







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 私は皆に黙っている事がある。嘘を吐くのは嫌いだが、口が軽いのも好かない。もしこの秘密を暴露したらあの橋姫は怒るだろう。
偉そうなチビ助は気にしないかも知れない。黙っていても問題のないことだからだ。本当に、全然大したことはない。
ただ単に大会の翌朝、私はピザに会ったというそれだけのことだ。

 翌朝と言っても、まだ外なら日が昇る前だ。
呑みすぎて寝付きが悪くなっていたらしい私は、橋姫やら猫やらが寝ている中で一人目を覚ました。
二度寝しても良かったのだが、どうにも体の調子が良くない。そこで外の風にでも当たろうかと考え、
靴を引っかけて街に出たときに、あいつにとっては幸か不幸か、偶然ピザの背中を見つけた。

 当然まだ寝ているものだとばかり思っていた私は彼に声を掛ける。その時に、奇妙な事が起こった。
あいつの体がまるで力の抜けた人形のように崩れ落ちたのだ。ぺたん、と膝を突くようにピザは腰を抜かしてしまっていた。
何だ何だと近寄ってみても、彼は混乱している様子で、えっ、えっ、と短く声を上げるばかりだった。

 どうしたと声を掛けても、足から力が抜けてしまったのだという言葉が返ってくるだけだ。
偶然だろうとピザは言ったが、それにしては出来すぎていた。どう考えても、彼は私が声を掛けたから腰を抜かしたのだ。
その旨を伝えると、不細工男はそんなまさかとブンブン両手を交差させた。

「星熊さんに声を掛けられて喜ぶ事はあっても腰を抜かす事はあり得ません」

 へらりと笑う男の顔を見て、私は生成を思い出した。化け物に成りはてて行く女の姿。
急速に人でなくなっていくその過程。勿論、そんなものは錯覚でしかない。だが似た物が垣間見えた。或いは全く逆か。
ある感情が他の全てを押し潰す。嫉妬、復讐心、執着。こいつにとっての"ある感情"とは何なのか。考えるまでもない。
醜い面皰面の奥の瞳からはギラギラとした色が失われていた。それは決して消えた訳ではなく、奥の方で殺されているのだ。

 そういう目をした人間を、たまに見た。私はそいつらに興味を持った。あまり居ないタイプの人間だからだ。
連中は面白いことを沢山やらかした。見ていて飽きなかった。だが、その最期だけは凄惨だった。

 殺されるのだ、どいつもこいつも。

 化け物に成りはてていった連中は、運が良ければ誰かが助けてくれる。有り難い言葉とやらで、助けて貰える事がある。
だが、あいつらは違う。
このピザみたいな顔をした連中は、全てを奪い尽くされ、吸い尽くされた結果、もうむしり取る所がないと知られるや否や殺されていった。
それも、怨念をもってしてだ。止めるつもりはない。余程の事が無ければこのような決定には至らない。
どう言葉を与えようがこいつをこう変えてしまった現実の前にはあまりにも無力だ。

「じゃあ、立てるようになるまで話をしようか」

 彼は困ったように笑った。内心では分かっているのだろう。私が居れば立ち上がれないということが。
いつまでもここで睨み合っていては大変な事になることも。だからピザは苦笑いすることしかできない。
要求出来ないし、だからといって諦めることもしない。

「お前は出て行くつもりだろう」

 ピザは頷くばかりだ。その柔和な表情に譲れない一線が見えた。我々の迷惑は承知の上なのだろう。
恐らく自分が動いた所で大して役に立たない事も分かっている。だが、こいつが橋姫の家に留まるのは最もまずい。
ピザを苦しめた連中として槍玉に挙がるのは間違いなくこいつと親しい間柄の妖怪だ。
私やあのサトリ妖怪なら強いから良いが、水橋パルスィは人間が数人束になれば倒せない事もないだろう。
妖怪は一人のそれを畏れる人間に対しては無敵だが、群衆に対しては無力と相場が決まっているのだ。
パルスィも、さとりも、そういう類に対する嫌な思いは拭えまい。私が矢面に立つのも吝かではないのだが、そのためにはピザの協力が要る。
だがこいつの心を折るのは不可能だろう。男はこちらを見上げてへらへらと笑うばかりだ。

「……まあ、見なかった事にはしてやるよ。お前が一つ条件を呑むならな」
「星熊さんの頼みなら出来る限り従いたいです」

 よく言う。

「じゃあ、困った時は鬼に頼れ。強いからな、私は」
「はい。困った時は」

 にっこりと笑って頷かれる。内心で、否定しながら。つまりこいつは今、嘘を吐いた。だがそれを証明する手段はない。
だから私はこいつを信頼する。裏切った時にはどうしてくれよう。臓腑を引きずり出してやろうか。それとも頭をかち割ってやろうか。
どれも大して効果はあるまい。それにこいつは、誰かが自分を殺すのならきっと喜んで受け入れる。
それが悪い結果をもたらすのだとしても、死の誘惑からだけは逃げられない。
それだけが変わりつつあるこいつの持つ唯一の人間性であるような気がする。皮肉なことだ。

「星熊さんは」
「ん?」

 こいつの方から声を掛けてくるとは思わなかったので驚いた。それも、笑みを消して真剣そのものの顔でだ。
これも一つの演技なのだろう。昔だったら、逆に真剣な問いの時こそこいつは申し訳なさそうにへらりと笑っていたかも知れない。
もしくは俯いていたかも知れない。だが、この力の勇儀の目を正面から睨め付けるとは活きが良い。
心も体も竦み上がっているのが透けて見えるが、問題はそこではないのだ。

「他にもっと言いたいことがあるのではないですかね」

 随分と深く踏み込んでくるものだ。カマをかけているだけなのか、本当にそう思っているのか。
私自身、己を振り返る良い機会だ。少し自分を整理する必要がある。こいつを前にして言っておきたいこと。
それは星熊勇儀一個人に"対する"特別な何かではあるまい。私がこいつに求める事は何もない。
では、他だ。私がではなく、視野を更に広げる。こいつと私の共有するものは何か。
当然、あの二人が頭に浮かぶ。あの二人に関連して更に踏み込んで言っておきたいことはあるか。

 ……あるには、ある。

 しかし、それは言うまでもないことだ。こいつはそれを良く理解している。そして何よりも大切にしているはずだ。
それを口にするのはピザへの侮辱にすらあたる。どうしたものかと思う。こいつは自分の名誉など気にすまい。
故に周りがこいつを持ち上げてやる必要がある。こいつの精神を高潔に保ってやろうとしなければならない。
ピザを汚さないようにしなければならない。だが、ケジメというものがある。泥を被るのはお互い様だ。私は口を開くことにした。

「お前、優先順位はつけているだろうな?」

 彼は、はいと頷いた。

「僕は迷いませんよ」
「ならば良い。もう一つ」

 ピザはまた、はいと頷いた。これは、ただの確認作業だ。だから意味はない。意味はないが、意味がある。そんな無駄で有意義な問いだ。
これは決して自家撞着の言葉遊びではない。しかし、そんなことを強調する必要があるだろうか。私はひび割れた男に問うた。

「他の誰を裏切っても良い。恩人二人だけは裏切るなよ」
「星熊さんも」
「馬鹿を言えよ」
「星熊さんもです」
「そうかね」

 彼は、はいと頷いた。思考のない肯定だった。だがしかし、どうだろうなと私は思った。
もしも、もしもだ。こいつがあの二人を裏切ればあの二人が幸せになれる場合があったとする。
その場合、こいつは裏切るのではないだろうか。私はそれは良くないと思った。
たとえあの二人が結果死ぬ事になろうとも、こいつはあの二人の信頼を守るべきだ。
これは極端な場合だが、しかし考える必要のない事ではない。
あの両者にとっての信頼と裏切りの重要性。それはピザにおける思考と思考停止、一般人における不幸と幸福の重要性と同じようなものだ。

 鬼は嘘を嫌うという。だが、鬼は良い。信頼を裏切られた事によって傷ついた名誉は復讐によって必ず晴らす。そして、それで解決する。
だがあいつらは違う。復讐したとて何も解決はしない。それがこいつには分かっているのだろうか。
このへらへらした、淀んだ目は、己の死の向こう側が見ているだろうか。それは残酷な問いだ。厳しい問いだ。
しかし、ここはそれが問われる場所だ。地の底にあって、ピザはあいつらが何よりも大事にしているものを理解しているだろうか。
そしてそれを守る事に全てを賭けられるだろうか。たとえば、あいつらの命を。

「杖」

 だから私は彼を試験した。不合格であれば、その足を砕くつもりでいた。そうすれば、こいつは我々の庇護下に入る。
過小評価するつもりは全くないが、私はこいつが不合格であって欲しいと思った。
我々の元を去るに足ると私が判断出来るだけの言葉を発して欲しくないと思った。ピザは、申し訳なさそうに笑んだ。

「はい。このような有様ですから、お借りしていこうと思います。たとえ健康でも、あれがないとどうにも落ち着きませんしね」
「……そうかい」

 握った拳を、ゆっくりと開く。また握りしめ、そうしてまた開き、力を完全に抜く。
無駄だった。こいつはきちんと理解している男だ。一人で行かせても問題ない。そしてそのことに自分で責任を取れる。
つまり、この男を止める大義名分を私は完全に失ったわけだ。それをするのは、無粋だ。
私がそれを嫌うのはこいつも知っている。よく知っている。だからわざわざ私に問わせたのだろう。

「お前は、阿呆だ」

 言うも、彼はへらへらするばかりだ。分かっていてやっているに違いない。つくづく阿呆だ。
救いの手は幾らでも差し伸べてやれる。だがこいつはそれを掴まない。
私がこいつの手を掴むということは、蜘蛛の糸が切れるということだ。そこにしがみつく多くの外来人が、皆落ちていくことになる。
この男はカンダタだ。垂らされた糸を伝いながら、しかも群がる罪人を蹴落とさないカンダタだ。
その糸を切るかどうかは私達に委ねられている。そして私達はそれを切らない。
だが、糸から手を離すかどうかは、このデブ自身に委ねられているのだ。私達は、どうしようもない。

 私は挨拶もそこそこに彼の元を離れた。寝直さなければならないからだ。去り際、彼がぽつりと呟いた。

「服、すみませんでした」

 汚された物に関しては処分したし、風呂に入って着替えもしたのだが、やはり見抜かれたようだ。
肩を竦めて歩み去る。そりゃあそうか。全員普段と違う服をしているのだから当然だ。
やれやれ、やれやれ。

 その日は久し振りに、酒を呑まなかった。



[24754] 閑話・或る外来人の独白
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:215024a8
Date: 2010/12/26 21:30
 私の家は貧乏だった。父がロクに働かず、母がブランドと賭け事に嵌っていたせいだ。
自分がデブでブスだった事もたたり、小さい頃から虐められてきたし、家族からも疎まれてきた。
クラスに溶け込もうとした事もあったけど、駄目だった。私と話すと菌が移るらしい。菌は目を向けられても移るらしい。
菌を移された奴は他の奴にタッチするとそいつに菌を移せるらしい。

 露骨なイジメはすぐに露見した。私は先生に頼むから放っておいてくれるようにと頼み込んだ。
だが熱血教師である彼は話を聞いてくれなかった。涙を流しながら何故こんなことをするんだと皆に説教をした。
表向き私は無視されるようになった。裏では攻撃は更に過激になった。放っておいてくれと言ったのに。
私の噂は保護者間でも流れていたらしく、授業参観の後の母は烈火の如く怒っていた。私のせいで恥をかいたというのだ。
ふざけろ。私は何か悪いことをしたのか。生まれてきて精一杯生きているのに何故そんなことを言われねばならない。
だったら私を生まなかったら良いのだ。そのような事を母に言った。母はお前なんぞ生みたくは無かった、さっさと死ねと返した。
その日の夜、父に殴られた。理由を問うたらまた殴られた。中学になっても高校になっても事は変わらなかった。
私はやれることをやった。だがやれることは限られていた。金が無ければ物が買えない。テレビも自由に見られない。
誰とも話題を共有できない。そもそも私と会話する事を皆が忌む。人生というゲームは始まった時から詰んでいた。世の中はクソだと思った。

 ネットだけが救いだった。昼休みと放課後にインターネットで掲示板を回るのが趣味だった。
他校は所謂"不健全"なサイトは閲覧できないようにしているようだが、我が校は違った。
匿名性を得ることで私は安息を得ることが出来た。それの暴力性を声高に指摘する者が居る。
だがそれに救われる人間、そこにしか縋れない人間も居る。彼等はそんな人間にリアルを楽しく生きろと言う。
先に述べたようにリアルは詰んでいる。もうどうしろと言うのだ。

 そんな中で発見した"箱"の噂。私は是も非もなく飛びついた。救いある異世界への道。素晴らしいと思った。
こんなクソな世界から逃げられるのなら何にだって縋る。誰だってそうする。しかし、待っていた現実は優しくなかった。
誰も彼もが神経質に周囲を警戒する日々。いつ喰われるか分からないという恐怖。異世界は化け物の巣窟だった。
人食いの妖怪の闊歩する世界だった。やっぱりどこもかしこもクソなのだと思った。
一緒にやってきた人々は、こんな間違った世界は糾弾されてしかるべき、訂正されて然るべきだと言った。私もそう思った。

 同じ外来人を名乗る少女が競歩大会で私達をこの地に馴染ませようとしてくれた時には救われたかと思った。
でもそれは間違いだった。あの人は美人で力があるからそんなことが出来る。素晴らしい未来が見える。
結局詰んでいる人間はどうあっても詰んでいるのだ。ただ歩いているだけなのに味わった焼死の恐怖。私には耐えられなかった。
この世界は間違っているのではないかとの思いは、同じような――いや、もっと酷い境遇の青年を見たときに確固たるものとなった。

 そのピザと名乗る男は、ブスである私ですらぎょっとするほどの醜男だった。
彼は、焼けただれ、老人を背負い、意識を半ば失いながらも歩き続けさせられていた。不吉な黒猫に引かれ化け物共の許へと歩く。
その姿が衆人に晒されていた。逆らえばお前達もこうなるのだ、我々の支配を逃れることなど出来ないのだ。暗黙の中、そんな声が聞こえる気がした。
それはまるで十字架を背負わされた聖者の行進のように見えた。彼が不細工だったから、尚更私にはそう見えたのだ。
もしかしたら、もしかしたら私以上にゴミクズな彼となら仲良くなれるかも知れない。


 そんな思いは、半分正解で、半分不正解だった。


 彼と初めて会ったのは粗末な小屋の前だった。建築技術を持つ者などいなかったから、
私達はそこら辺の廃材を集めて雨露をしのげるようにしただけの屋根の下で暮らしていた。
彼に関しては同情的な人間が多く、猫車を押してやってきたその青年を私達は嬉々として受け入れた。
否、受け入れたつもりだった、というのが正しいのかも知れない。
傲っていた自分を笑い飛ばしたくなる。この人は、そんな安い人間ではなかった。

 彼が押してきた猫車の中には、ほかほかの焼き芋が沢山乗っていた。地底の妖怪達からだと彼は言った。
その柔和な笑顔に、私は何だか安堵出来るものを覚えた。汚い顔だ。醜さを凝縮した顔だ。でも、悪意がない。
彼の表情からは好意以外の何物もうかがい知ることは出来なかった。ただ幸せそうに微笑んでいるのだ。そんな人間は初めて見た。
誰もが私を見れば目を逸らし、陰口を叩く。だが彼は私を真正面から直視し、微笑んでいる。そうして、

「どうぞ」

 と芋を渡すのだ。ちょっとずれている人だなと思ったが、それも魅力だった。
妖怪を好かない人は結局芋を食べなかったし、ナメるなと言って猫車をひっくり返してしまった人も居た。
その頃には殆ど芋は残っていなかったのだけれど、彼は少しだけ悲しそうな顔をして泥を払っていた。
怒りが無かった。確かにあの人たちはこの人に対する悪感情はない。妖怪を嫌っているだけだ。
それでも厚意を払いのけられれば人間は怒るはずなのだ。それなのに彼は眉をハの字にするだけだった。
大事そうに、宝物のように一つ一つ焼き芋を拾い上げては猫車に積んでいく。残ったのは結局十ばかりだった。
彼は色んな人に積極的に声を掛けてはその心を開いていく。嫌味さや執拗さは感じなかった。
漫画やアニメに出てきそうな典型的いい人である。こんな人が居るんだなあと、私は感歎した。
容姿が悪いかわりに生まれ付きお人好しなのだろうか。
何物にも動じないその強さを羨ましく思った。彼はきっと失望も絶望も知らないのだろう。




 彼は自分をピザと名乗った。ハンドルネームのようなものだとにこにことするその人は、自分の本名を決して明かさなかった。
地底で生きていくためのケジメだと彼は言う。本当にそれだけなのかなと思ったけれど、彼は他に何も言わなかった。
私より五つ以上年齢が上らしい。誰でも名前を知っている大学の出だったことには驚いた。
性格も良くて、天才。おまけに物書きが特技で本も良く読む勉強家らしい。羨ましかった。
私は何をやっても何も出来ない。でもこの人は出来る。本人曰く、大した努力はしていないらしい。
やっぱり人間生まれた時から勝負が決まってるんだろうな、と思った。
それでもクソだと思えなかったのは、彼がそれを鼻に掛けて周りを排斥せずに、
むしろ自分をさりげなく下に持って行って交流していたためだろう。

 私は彼と何度か話をした。普段から遠慮してなかなか話してくれない人だったから、本音は上手く聞き出せなかった。
それでも賢い人なんだろうなあとは思った。色々考えていて、考えすぎていて、そんなんで生きていけるのかなとも思った。
ピザさんは自分の思い出を色々と私に語ってくれた事があった。それを語るなかで、いかに自分が駄目な人間なのかを丁寧に説明しながら。
事態そのものを思い返すと、ピザさんに悪い所なんて無いように思えるのに、話を聞いていた時は彼の言葉に頷くばかりだった。

 一度だけ、彼が殴られているのも目にした。腹だ。人目に付かない所を強く。
妖怪の手先なんだろう、とか、自分たちを奴隷にするつもりだろう、とか、彼等はそんなことを言っていた。
目の色が尋常ではなかった。良い、とか悪い、とかそういうのではない。悪い人間を私は知っている。たとえば、私の父と母。
彼等は常に苛立ちとサディスティックな悦びと優越感をもって私を攻撃してきた。でも、ピザさんを殴った外来人は違った。
泣きそうな、今にも死んでしまいそうな、被害者の顔をして彼を殴っていたのだ。
そうする以外に方法がないというような絶望しきった顔だった。殴られた後、ピザさんはこっちに来て、誰にもその事を言わないよう頼んだ。
そうして彼は、吐いた。そして、それでも彼は笑うのだ。ニコニコと、太陽のように。宗教の人ですかと聞いたら、彼はあははと笑った。
強いて言うなら妖怪教徒ですねと幸せそうに言うピザさんを見て、私は胸が締め付けられる思いがした。

 ピザさんと言えば、妖怪信仰。この地は明らかに妖怪に有利なように出来ているのに彼はそれを頑として認めなかった。
自分たちは妖怪に生かされている事を自覚し、感謝し、彼等を尊敬しなければならないとさえ思っている節があった。
そこまで見抜けたのは、多分私だけだと思う。彼は大抵やんわりと妖怪はいい連中なのだと伝えるに留めていた。
毎日のように持ってくるお土産もその一種なのだろう。私達の一部は、少しだけ妖怪を信じても良いのかも知れないなと思い始めていた。

 昨晩も彼と話をした。甘酒という飲み物を持って来た彼は常と同じ表情で私の隣に座った。
甘酒を飲んだことがない言うと、彼はたいへん驚いた様子だった。

「甘酒は祭りと祖父母を、卵酒は幼い頃の風邪の日を思い出させる素敵な飲み物です」

 祖父母に会った事はないし、風邪の世話もきちんとされたことはないと言うと、彼はとても悲しそうな顔をした。
そうして、これからでも遅くは無いはずだ、やりなおせるはずだと言ってくれた。彼のような人が言うから、話は違って聞こえた。
死に物狂いで歩く可哀想な奴隷のイメージは、決然と前を見据える立派な男の人に変わっていた。

「私のような人間でもやりなおせますかね」

 それは答えの分かり切った問いだった。彼がどう答えるかなど、推すまでもないのに、それでも私はこの人の声が聞きたかった。
優しい青年は服(作務衣というらしい。とてもぬくぬくなのだそうだ。夏は甚平が良いなと言っていた)の襟をただし、
その腫れ物だらけの醜い顔に一つ真剣な色を浮かべて頷くのだ。必ず、大丈夫だからと。
あなたのような人なら幻想郷は喜んで受け入れるからと。私は声を上げて泣いた。
外に帰る事もせず、内に適応しようと努力することもしない駄目な自分なんて受け入れてくれる人は居ないと思っていた。
でもこの人は違う。相手がどんな人でも見捨てない。それは聖なる書物に載っている救い主みたいだった。
だが彼は自分もまた救われる対象でしかないのだと情け無さそうに笑うのだ。
自分は妖怪の皆さんにおんぶされているのです、と。何も出来ないのが悔しくて仕方がないのです、と。

 ここまでやっておいて何も出来ないも何もないだろう。決して多くはないけど、確かに心を動かされた人は居たのだ。
だが彼はこんなことに何の意味もないのだと言う。
自分は何もしていないに等しいのだと、小局を動かして喜んでいるに過ぎないバカだと言う。
彼の見据えている大局なんて、私には見えない。私は馬鹿だ。ピザさんのように賢くはない。そう言うと彼は苦く笑った。バカの方が良いと。
私もそう思ったから、彼に問うた。何故バカにならないのですかと。彼は、顔を伏せて答えた。

「自分が他人に苦痛を与えても気付けない、訂正できない人間には死んでもなりたくないのです」

 また他人だった。また、他人だ。この人はいつも、あの人が、この人が、妖怪の皆さんが、とばかり言う。
自分のことを絶対に口にしない。まるで自分が居ないように振る舞う。彼の幸せのために。彼女の幸せのために。
そうして実際に殴られても蹴られても困ったような顔をするだけなのだろう。

「そういう誰かのために、誰かのためにという人間はクソ共に吸い尽くされて死ぬのでは」

 かねてよりの疑問を彼に投げかけた。今なら彼が本音で答えてくれる気がしたからだ。
ピザさんは暫く空を見上げていた。地底の空には何も映らない。
彼はそこを穴が空くほどジッと見つめていた。まるで空に何かがあるかのように。

「それは、悪いことなのですかね」

 やがて返ってきたピザさんの答えは、そんなよく分からないものだった。悪くはないと思いますけど、と私は返した。
それならばと彼はいつもの調子で、困ったように笑うのだ。

「自分が誰かに迷惑を掛けていないのなら、自分なんていう些事は気にする必要が無い――と僕は思うのですよ」

 さらさらと水の流れるような調子で語られて、私は俯くしかなかった。

「僕は誰も幸せに出来ないクズだ。死んだって誰も困らない。もしかしたら吸い尽くした人がその分幸せになれるのかも知れない。
それはほんの少しだけですけど、素敵な事ではないですかね。僕が幸せを与えたその誰かは、他の誰かの幸せをまた奪うのかも知れませんが」

 そうなるとやっぱり僕は価値がないのかしらん、と彼は肩を竦めてみせる。優しくて強くて明るいピザさん。
その言葉がどこまで言葉遊びでどこまで真実なのか、判然としなかった。それでも、考える材料にはなった。
私はこれまで加害者としての自分はあまり意識してこなかった。だってそうだ。
誰もが私を攻撃するのだから、私が被害者に決まっているのだ。しかしここに来てそれが変わった。考える余裕が出来た。
私はこの郊外を出て、妖怪に会ってみたいと言った。ピザさんはそれを聞いて、とても喜んだ。
初めて、彼が子供のようにはしゃぐのを見た。そうして二人で甘酒を飲んだ。
熊のようなその人に、どうして普通のお酒を飲まないのかと問うたら、沈黙が返ってきた。
多分この人はお酒が苦手なのだ。ピザさんにも隠しておきたい恥ずかしい欠点があるのだ。意地っ張りな見栄があるのだ。
そんなことを思うとなんだかおかしくて、私はくすくすと、笑ってしまった。

 

 

 


 ――ああ、私はピザさんの事が好きになっていたのかな?







 壁にもたれ掛かるように座り、大穴の空いた腹を抱えるようにして、浅く呼吸をする。
不思議と痛みはなかった。私を殺した人に対する恨みもなかった。
誰が殺したのか、それは分からなかったけれど、そんなことはどうでも良かった。
ちょっとだけ、悟れてしまったような気がするのだ。ピザさんが目指していた境地が見えた気がするのだ。
誰かが幸せならそれで良い。自分のことなんてどうでも良いから、他の人に幸せになって欲しい。
クズだった、クソだった、ゴミだった自分を掬い上げてくれた皆が大好きだから、幸せになって欲しい。
ピザさんの考えが、今になってよく分かった。あの人のあたたかさの源も、あの人が居れば幸せになれた理由もだ。
これが、もしかしたら恋なのかしらん。高校生になってようやく、初めての恋か。それもあんな凄い不細工な人に。思ってもみなかったな。
本当は、もっと王子様みたいなすらっとして格好いい人が好みなんだけど。
でも、私もブスだし、もしかしたらお似合いなんじゃないかな。そう考えるのは、やっぱり失礼だろうか。
あ、何か今の思考回路はピザさんに似ていた気がするぞ。へへへ。
薄れ行く幸せの中で、私は彼が隣に居るような、そんな安堵を感じた。
ああでも。私は彼と決定的に違うところがある。あの人は聖人だ。あの人は全ての人の幸福を願う。
私にはちょっと無理だ。ちょっとどころじゃない。全然、無理だ。
あのほのぼのとした、それでいてちょっと困った、眉をハの字にした笑みが浮かぶ。

「ピザさん」

 こんなクソな私ですけど、もし良ければ。こんなブスな私ですけど、もしも宜しければ。

――私は貴方の幸福だけを、ひたすらに願っても構いませんか?
 

 










 翌朝、幸せそうに眠る一つの死体を、とある鬼が発見する。
腹には穴が空き、内蔵がはみ出したその亡骸を見ても、鬼は彼女が死んでいる事をしばらく認識できなかった。
まるで祈るような顔をして、その少女は目を閉じていた。まるで聖人だと、彼女は思った。
燃料にもならないような弱々しい体をした娘だ。赤い角をした鬼はそれを持ち帰りぺろりと平らげると、
怪事件について一帯を支配する娘の元へ報告に行く事にした。
彼女の肉は、旨いのか不味いのか判然としなかったが、しかし偉大な鬼の心は、確かに一度大きく震えた。



[24754] 第22話 自覚あるぬか喜び
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:215024a8
Date: 2010/12/27 21:33
 外来人殺害事件は、おかしな方向に進み始めている。それは一部では僕の望んだものであり、かつ一部では予想通りのものであり、
そして全体を見れば目を覆いたくなるような変化であった。こんな時に人が死ぬ。出来すぎたタイミングだ。出来すぎていて、最悪だ。
外来人のうち何人かは確かに僕の言葉の影響を強く受けていた。殺されたのも恐らくその一人だったのだろう。
個人個人を一々記憶している余裕はないので確定は出来ないが、きっとそうだ。珍しく女性だったということであるが、果たして。
死体は既に"処理"されてしまっているらしい。妖怪達は随分ずさんなことをする。まあ、殺人者は見つけ次第食ってしまいそうな方々だし、それで良いのかも知れない。

 問題は犯人云々ではない。それも大事だが、済んでしまったことをとやかく言っても仕方がない。振り返っている余裕は僕にないのだ。
関心事はただ一つ、その事件が生んだ波紋である。死人が出たということは彼等に大きな衝撃を与えたのだ。
やはり妖怪は役に立たないと言う者があった。むしろ妖怪からの宣戦布告だと言う者もあった。
やがて、外来人のうち妖怪を嫌う者達が、親妖怪という流れに組み込まれようとしていた彼女を警告の意味で殺したのだと言う噂すら流れた。
この噂が一つの勢力を持っており、今の僕の頭痛の種となっている。

「また変な顔をしてるねえ、ピザは」

 顔を上げると、見知った女性の姿があった。相も変わらず跳ねた黒い長髪、足と腕を覆う不思議な塊。大人びたクールな顔をして天真爛漫に(外見上は)振る舞う自称鴉。

「言いたいことがあれば直接言いに行けば良いのにさ」

 彼女――霊烏路空さんは服を叩くと、どっこいしょ、と言って腕を組んだ。片方だけやたらと重量感があるのが見ていて不安定な感じを覚えさせる。
マントの奥は相変わらず壮大な宇宙が流れている。あそこに飛び込めば死ねるだろうか。まさか。どこかの詩的勇者ではあるまいし。
ちりちりと首筋に嫌なものを感じる。視線だ。多分、隠れてどこかから観察されている。人間の敵である妖怪ではなく同じ人間から敵視される。何とも皮肉である。
誰が僕を憎んでいるのかという事に関しては興味がなかった。どのような性質の人間が、集団が、という事は詳しく知りたいがある特定の人間について調べたいとは思えない。
僕にとっては妖怪一人一人が、外来人という一集団と等価だ。後者を個人として認識したことはない。一括りに"外来人の誰か"である。例外は、ハカセくらいか。

「古明地さんをこれ以上疲れさせるわけにはいきませんよ。おくうに迷惑かけるのも、無論申し訳ないのですがね」
「それは良いよ。たまにはお燐を行かせればいいのにっては思うけど」
「お燐は、無理じゃないですかねえ」
「何で? 私にもできるのに。やっぱりお燐嫌い?」
「好きですけど。とても」
「だよねえ。むーん」

 やはり妖怪の言うことはよく分からない。昔は古明地さん、星熊さん、水橋さんの三人と深い付き合いをさせて頂いていたのだが、
今良く会うのはお燐と霊烏路さんの二人だ。多分、古明地さんが心配してよこしているのだろう。地霊殿に来るようにとも言われているのだが、それは断っている。
彼女はそうすると決めたら無理矢理にでも僕を引きずってくるだろう。そうしないということはつまり、その必要を感じていないということだ。
また、最近はその誘いの声すら受けない。ここに僕が居る方が良いと判断したのだろう。もしくは居ても居なくても良いということか。

「最近、みんな地底に馴染んできたよねえ」
「はは。何よりです」

 事実だ。だが、事実の一端でしかない。霊烏路さんはたまに外来の人たちと話すことがある。それも、妖怪に馴染もうと努力するような人とだ。
馴染んできている人たちとしか話させていない。人は一を知り十を知ったと錯覚する。それは効率的には違いないが、同時に危険でもある。
そのような錯覚にこそ、詐欺師が入り込む隙間が生まれる。霊烏路さんが知っているのは十の中の一でしかない。
第一、本当に馴染んでいるのであればこんな郊外に住む必要はない。堂々と旧都にお邪魔すればいい。誰も拒まない。あの場所の方々は騒がしいのが好きだ。

「そう言えば、この前さとり様に渡した手紙だけど。何を書いていたの?」
「秘密です」

 古明地さんには、今この集団が危うい状況にあることを伝えている。反妖怪であること、それが彼等の核だった。
人間であるという事、自分が殺されるかもしれないという事、その被害者意識があの人々の核になっている。
人は一人では生きられない。至言だ。故に集団は共有するその核を集団に所属する自己のアイデンティティーとし、それを確認し合うことで己が集団の中に位置づけられている事を何度も確認する。
そこにおいて核たる考えに背く者は激しい排斥にあう。核が壊されれば集団内にある自分を確認することが出来なくなるからだ。
排斥された者達が複数である場合、それらは自然集団となる。集団となるから核を持つ。
故に排斥された側は集団の存在意義を守るために断固として排斥側に抵抗する。排斥側も同様の理由で離反者を攻撃する。話し合いの余地などない。
それは両者の核を分解し、再構成する営みだ。もしその営みの中で己が弾かれてしまえば――そう考えれば、誰も柔軟な対応などしたくはなくなる。
固さというのは厄介ではあるがしかし最も安定した居場所を安堵してくれるのだ。

「そうそう。今度ピザに会ったらちゃんと宇治金時を食べさせてやるってさとり様が言っていたよ」
「ハア」

 宇治金時。そういえばそんな話もあった。もう十年以上前の事に感じる――などと言うのは大げさだろうか。しかし、あの頃から自分も随分変わった。
それが成長なのかどうなのかはさておき、変化はあった。だが、そんな感慨に耽る必要はない。外に目を向けねばならないのだ。
僕は何人かを妖怪に近づける事に成功した。だがそれは他の圧倒的多数からの反発を誘発する。
妖怪に与する者、強きに屈して尻尾を振る下衆――反妖怪の外来人の多くには少数の改心者がそのように見えるに違いない。"自分たちを売る気ではないのか"という疑心暗鬼も当然の帰結として生じる。
それに呼応するようにして"反妖怪側は我々を排除するつもりでは"と親妖怪側も恐怖を覚える。それでは進歩は無いと第三者は言う。第三者だから、言える。
進歩には犠牲がつきものだ。進歩しようとするが故に徹底的に潰される可能性もある。それならば安定な停滞を選ぶ方がマシだ。
その停滞が徐々に腐敗を生むのだとしてもだ。多くの犠牲を生む前進など、超人にしか為し得ぬ道である。

「ピザは、最近上の空だよねえ」
「す、済みません! 蔑ろにして良い事など何もないのに……僕のキャパシティ不足です。甘えるつもりはありません、善処します」
「それって、出来る事なのかな」
「可能です。誰もが公私を上手く使い分けて生き、そのことで他人に迷惑をかけないようにしています。僕はそれが出来ていない。つまりそれは僕が甘えているということに他ならない。
今は霊烏路さんと話しているのですから――済みません」

 ぼろが出た。思わず右手で自分の額を掴む。この藁三本の頭が憎い。落ち着いて冷却して、正しい振る舞いをしなければならない。皆が望むピザの振る舞いをだ。
落ち着いて、霊烏路さんを観察しよう。そして彼女はどのようなピザを好むのかを考えよう。上手く演じなければならない。決して誤ってはならない。

「疲れてるんだよ、ピザは。温泉にでも行って体を伸ばせばいい」
「はは、確かに。一段落したらゆっくりしようかしらん」
「そうだよ、それがいい。無理をしすぎても良いことはないからねえ」

 霊烏路さんはにこりと笑った。大丈夫だ、立て直せる。だが、立て直したとてどうするのだろう。事態は僕の手に負えるような小さなものではない。
この巨大な渦を全体どうしろというのだろう。小さな傷を何とかしようとして大きな傷を広げるような愚行をしでかしてはいないだろうか、僕は。
そもそもこの僕が何もしなければ過激派は過激派のまま一つの集団だったのだ。それを分裂させることに意味はあったのだろうか。
彼等の間には敵対的な空気が流れている。互いが互いを疑っている。何時寝首を掻かれるかも知れないのに、家はあまりにも心許ない。
被害者という一つのヴェールに覆われていた本音が露わにされ、ありのままの彼等が浮き彫りになり始めている。
いつ、誰が爆発してもおかしくはない。僕が行動していなければ、この爆発は延期されていただろうか。それともある程度は効果的な働きが出来たのだろうか。
判断は出来ない。出来ないが、僕はもっと先延ばしを続けたかった。そうしてなあなあのうちに問題を曖昧にしてしまいたかった。
ゆっくりと妖怪の文化を浸食させ、それをもって彼等の集団を気づかぬ間に変えていきたかった。

 だが、希望は所詮希望でしか無い。僕の煽動は、僕の振る舞いは、思っていた以上に効果的だった。自分でも、気味が悪くなるくらいに。
初めこそオーバーに動いていた僕だけれど、今では殆ど動いていないに等しい。それでも、僕が何かするということが何かの結果を生むのだ。
こんな事が実際にあり得るのだろうかと不審に思うほどの影響力。だがそれは良い方向にだけ働くなどという都合の良いものではなかった。
むしろ事態を悪い方に悪い方にと引きずり込もうとしている。薬と毒のようなものだ。僕は力が弱いから自分を薬として使えると思っていた。
しかしそれは誤りだったのだ。強すぎる薬は毒と同じだ。あれもこれも、駄目にしてしまう。"クズである僕が"という前提が全てを曇らせていた。
クズであるからこそ、という前提の元で動いていたはずなのに、クズであることがマイナスの意味しか持たないと心のどこかで未だ思っていたのだ。

 此処に住む外来人は誰もが僕のニックネーム、ピザを知っている。だが僕はここに住む人々の名を知らない。誰一人としてだ。
何人かは僕に親しみを感じているようだが、それは幻想である。僕にとって外来人は一つの記号でしかなかった。僕は"外来人"を愛したのであって、外来人であるAさんBさんを愛したのではない。
だが彼等にとっての僕はそうではなかったのだ。思っていた以上の速度で地底にとけ込もうとする人が出た。
出る杭は打たれるのだ。それらの問題を表面化させないように彼方此方走った。時には殴られたし、蹴られた。きわどい時もあったが、大体隠し通せていた。
しかし、今回の殺人事件で全てがぱあだ。どうする。事態は手遅れだ。しかし、被害を最小限に留める策がまだあるのではないか。
ブレーキの利かなくなった車に乗っている気分だ。どうしようもないのに、どうにかするための時間が残されている。もどかしくて、仕方がない。

「美味しいお好み焼きのお店があるんだ」

 霊烏路さんがぽつりとそう言った。眉をハの字にして、困ったように笑っている。心配を、かけてしまっているのだ。やはり妖怪だ、僕なんかが完全に騙せる訳がない。
相手が人間なら事は容易いのだが。頭を掻きむしりそうになるのをおさえて、僕は微苦笑を浮かべて首を傾げた。

「広島風ですか、それとも関西風ですか?」
「広島? 関西? えっと」
「生地に具をぶち込むのか、生地を重ねるのかの違いなのですが。割と啀み合ってる感ありますね。あ、因みに僕はどっちも好きです」
「生地を重ねる? そういうのもあるの?」
「僕も知らなかったんですがね。意外と美味しいんですよ、これが」
「へえ。いいなあ。今度作ってよ」
「料理は苦手で……」
「むむ。残念」

 ともあれ、お誘いがあればいつでもご一緒しますと僕は頷いた。お好み焼きは好きだ。むしろ、嫌いな食べ物があまりない。
親の料理の腕が良かったのも一因だろう。そのため大学に行ってからは苦労した。舌が肥えているのは良いことばかりでは決してないようだ。
地底での食事は久方ぶりに手放しで美味いと言えるものだった。クズのくせに贅沢が過ぎる。やれやれ。

「今すぐ、と言いたいとこなんだけど私も忙しいしなあ。うむむ、どうしたものか」
「はは。お気持ちだけということでも」
「えー。お好み焼き食べたいのに」
「別に僕とでなくても。一人でも食べられるのですし」
「嫌だよ。空しい」
「まあ、確かに……」

 何が悲しくて一人孤独にお好み焼きを食わねばならんのだという考えは分かる。故に僕はあまりお好み焼きを食べた経験がない。
実家でたまに口にするくらいだ。そのせいで余計に好きになってしまっているのだろう。

「座りながらだったらピザの腰抜けもばれないし、さとり様とかも呼べるでしょ」
「それはちょっと……」
「たまには顔出しなよ」
「一段落したら、ですね。今会ってもお互い面倒するだけかと。彼女もすぐ僕に会おうという意志はもうないのでしょう」
「来たら宇治金時食べれるよ?」
「はは。楽しみです」

 しかし何故宇治金時。別に嫌いではないがこれといって好きなわけでもない。固執せずともよかろうに。
僕ではなく古明地さんの方に何か思い入れがあるのだろうか。詮索して良いことでもないだろうが、やはり気になる。

「全く。まあみんなもピザにしては上出来って言ってるし。でも今回の事件は変だねって」
「ええ。全くです」

 僕にとっても外来人達の変化の急激さは驚くべきものだったのだが、しかしそれにしたって殺人はやりすぎだ。
そこまで追いつめられている人はまだ居なかった。僕を嫌う人、僕と仲良くする人。それらに恨みを持つ人は居たがここまで簡単に人間の感情がエスカレートするものだろうか。
殺人というのはまともな精神状況で行われるものではない。確かにこの場は一つの極限状況には違いないのかも知れないが、だからといって弦が切れる程のものではまだ無かったはずだ。
早いうちに芽を摘んでおこう、という考えは後付ならば分からないでもない。しかしそのような政治的駆け引きをしそうな人は居なかった。
それに、芽を摘んだからといって良い結果が生じる訳ではない。悪戯小僧には死の制裁を。それが分からない愚か者は居ないはずだ。

 第一だ。どうやって殺すというのだ、人間一人を。聞くところによれば腹に大穴があいていたそうではないか。
住む場所にすら苦労する彼等にそのような豪快な武器はない。であれば殺したのは妖怪だと考えるのが妥当だ。実際、僕も妹さんに腹を貫かれた経験がある。
妖怪だというのならばもう問題は僕の手の及ぶ所ではない。それこそ古明地さんや星熊さんの領分だ。
分からない。分からないが、分からないながらも考えなければならない。そして、最善の行動を取らねばならない。それが皆の望むピザのありようの筈だ。




 視界の端で、何かが光った。




 頭の奥の部分でカチッと音がした。
考える前に跳躍し、霊烏路さんを突き飛ばす。彼女のきょとんとした顔が、やけに可愛らしかった。本当に、この人のギャップは反則的だと思う。狙ってやっているんだろうが、あんまりだ。
僕のようなキモいデブには破壊力が強すぎる。

 物理法則に則って前方に転がり落ちようとする体が停止する。

 それを為したのはさくっ、さくっ、さくっ、という小気味よい三度の刺突音。

 続いて体が後方に軽く飛んだ。2mばかりだろうか。三日月のような緩やかな弧を描き、しかし強く蹴り出されたサッカーボールにも似た速度で体が舞った。
一度跳ね、地面に叩きつけられ、しばらく転がって止まる。痛い。見れば、腹に透明度の高く、装飾の施された緑の刃が三本刺さっていた。エメラルド、という貴石を思い出す。
それはこの世の物とは思われぬ繊細な高い音を立てて砕け散り、風に吹かれて消えていった。なるほど、"魔法"。頭の中でまたかちりと音がした。穴だらけの事件の穴が、一つ埋まった。
外から来た人間だから魔法を知らないのは当然。妖怪と仲が悪いのだから教えて貰わないのは当然。だから魔法なんて誰も使えない。
馬鹿な事を。あの競歩大会の時でも何でも、人から人へ魔法を伝えるのは不可能ではない。魔法がそんな簡単なものなのか疑問が残るが、兎も角今のこれは間違いなく魔法だろう。
少なくとも科学であるはずがない。ファンタジーだ。

 僕の視界の先には小さな影があった。彼だ。彼がそうしたのだ。だが、怒りはわかなかった。口周りの筋肉は勝手に苦笑を作る。
糾弾するつもりはない。僕の死など地底においては些事だ。だがしかし本当に死んで、良いのか。
死は確かに僕に残された小さな望みだ。だが、だがしかしだ。僕はまだ死んではならないのではなかろうか。死にたいが、死んではならないのではなかろうか。
しかし、そうはいっても死に抗う術がない。
思考とは別に心が叫ぶ。やった、やったぞ、ついに死ねるぞ。愚かしい。本当に僕は根っこからクズだ。まだ死ねない。今死ねばどうなる。
僕の影響力は大きい。外来人のバランスは間違いなく崩れる。暴動が起きる。そうなれば妖怪はどう動くだろうか。わざわざ考えるまでもない。

 だが死ぬしか無いではないか。腹に三本も刃が突き刺さったのだ。それぞれが拳を二つ並べた程度の幅、同じく拳を十並べた程度の長さであった。
あんな巨大な物が突き刺さって生きていられるはずがないのだ。悔しいのは分かるが、もう死ぬしかない。

 本当に?

 僕の頭は一つの疑問を呈そうとしていた。しかし、それは形になる前に朦朧となる意識と、その先で輝くものの為に霧散する。
眼前の男は見逃そうと思っていた。僕を殺した程度で罰されて良いとは思えなかった。こんなクズを排除するのだからむしろ讃えられてしかるべき男だと思った。
でも――

「霊烏路さん、後ろッ!!!」

 こちらに駆け寄ろうとした彼女の表情が、瞬時に変わる。胸の輝く暗い瞳孔がきゅうっと収縮する。まるでそれに操られるように彼女は身を翻し、空へと舞った。
ばさり、という小気味よい音が響いた。彼女のマントを掠るようにして、細い棒状の何か――槍か何かだろうか――が放たれる。今度は紫色である。
彼女が消えたため、その矛先に居るのは、僕だ。

 死んだなと、そう思った後に、僕の胸の真ん中をそれが穿った。骨を砕き、ごりごりと奥へ突き進む感覚。だが、痛くない。
首飾りがあって良かったと思う。薄れる意識の中で最後に見たのは、真っ白な光だった。僕はそれを見て、何故か青い空を思い浮かべた。
何故だろうなと思った。不思議だなと頭を捻るが、音も光も全てが遠くなっていく。全てが真っ黒になり、思考も止まり、それから三秒。ぽつりと意識が浮上する。

 ああ、太陽だ。あの光に僕は太陽を垣間見たのだ。長らく浴びていなかった地上の光。何も見えなくなってから、何も聞こえなくなってから、それに気づくとは何とも皮肉な事である。
遠く声が聞こえた気がした。だがそれも幻想だった。もう、此処には何もない。僕は酷く安堵した。そして、死ぬことに恐怖も未練も感じられない自分に苦笑した。
それで、今度こそ終わりだった。ゆっくりと、長い息が吐き出されていく。もう目が覚めませんようにと、願った。

 でも、きっと僕はまた――



[24754] 第23話 壊れた彫像
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:215024a8
Date: 2010/12/28 22:31
 真っ黒の空。雨が降っている。黒くてべたべたした雨だ。声が聞こえる。皆一様に楽しげだ。一本の太い道がどこまでも流れている。
両脇に並んでいるのは様々の出店だ。人間の頭が泥の粒のように気味の悪い、不規則な動きで前後左右に蠢いている。
視界の中央に、僕の姿があった。幼い頃の僕。両腕を不自然に伸ばし、笑顔で虚空を見上げて歩いている。周りの人間も、僕の周りを避けて歩いている。
まるでそこに人が居るかのようにだ。

 しばらく雨の流れを見ている中で、僕はようやく気が付いた。この映像の中には家族が居ないのだ。父も母も妹もだ。
幼い子供が誰も居ない空間に向かって語りかけ、そしてきゃらきゃらと笑う。妙なはずなのに、その景色が何故かしっくりきた。
本来はこうなのだ。いや、これですら一つだけ不思議な点があるのだと頭の奥深く、最も卑屈で最も冷徹な部分で声がする。

 何故僕だけが残っているのだろう。それが、疑問である。父も母も妹も消えて、何故僕だけが楽しげに笑っているのだろう。
人々の視線が僕に向けられる事はない。故に僕も消えていて然るべきなのだ。だのに、ほう、と幽霊のような淡い光を帯びた僕が一人だけニコニコと楽しげにしている。
そもそもこれは現実にあったことが思い出されているのかしらん。僕の記憶にはこのような光景は無い。どこだろう、此処は。
まあどこでもいい。鳥瞰で全てを眺める"自分"はようやく肉体を離れる事が出来たのだろうか。そういえば死後には閻魔の裁きが存在すると聞いた気がする。
であればこの駄目な自分が地獄に落ちて責めさいなまれるのも時間の問題ということなのだろう。今は一時の安らぎを、という訳か。
安息を与えてから突き落とすとは、また趣味の悪い。目を閉じようにも閉じる目がないので、僕はただひたすら笑顔で歩く愚かな少年を眺め続けていた。













「ピザ」

 しかし、ああ、こうなる気はしていた。心配せずともどうせ死ぬまいと思っていた。確信していたと言っても良い。だからこそ望んだのだ。死にたい死にたいと。
だからこそ、考えることから逃げてしまったのだ。腹に大穴が開いても完治してしまうようなおかしな僕だ。あの程度、かすり傷でもないのだろう。頭の奥で音がした。僕はそこから目を背けた。
腕を動かし、体を撫でる。疵痕すらない。笑えてきた。肉体とは何だ。ここまで来たら一種のシュールなギャグでしかない。しかも最悪なことに、全く面白くない。
時間が経てば経つ程白けていく。感情の全てが均されていきそうな気すらする。だが。

「おはようございます」

 僕を見下ろす金色の髪をした娘のその顔を見上げ、愛情だけは残るのだなと半ばおかしな気分になり、また半ば安心した。
それにしても、好意というのは何と強い感情だろうか。憎悪も嫉妬も我慢できるかも知れないが、これだけはどうしようもない。
全体好きだというこの気持ちをどうすれば統御出来るのだろうか。マイナス感情は我慢すればいい。プラス感情を我慢する方法などない。受け入れるか逃げるか。
そして僕には逃げるという選択肢が無い。であれば自分の中で皆に対する好意は膨らむばかりだ。いずれそれが心の全てを浸食してしまうのではないかと思った。
久しぶりに見た水橋さんの緑の瞳はやはり透くような色をしていた。しかしあのエメラルドの刃と違い、そこには何か澱んだ不健康な魅惑がある。
僕にはこの双眸に魅せられるのが怖い。彼女が好きだという思いに食われるのが怖い。そうなったらあの人もこの人も好きだという欲が生じる。
好意だけなら良い。だが好意は好意で止まらない。それは必ず相手を所有したいという渇望に繋がる。

「もう夜だよ、あほが」

 落ち着いた、少し低い声が耳を擽る。僕はそれだけで恍惚としてしまう。今は彼女を見るだけ、彼女の声を聞くだけで幸福だ。
しかし幸福と不幸は慣れてしまうものである。慣れればそれ以上を得るためにさらなる刺激が必要となる。いつかは僕は彼女を欲するかもしれない。いや、彼女"達"をか。
おぞましいと思った。それが生存機械である人間の当然のメカニズムだとしても、醜いと思った。人が人を欲すとは、何という傲慢だろうか!

 お互いに与え合うのだ、一方的な関係ではない。誰かがそう言った。それこそ傲りである。自分が誰かに何かを与えられるなど、どうして分かる。
随分とモノローグ的な思考回路を持つものだ。他者など、理解できる訳がない。規則とは後から作られるものであり、予測できうるものではない。
その飛躍を黙認せねば生きていくのに不便だ。それは分かる。十分に理解できる。だがそれはお互いに与え合えるという命題を真にするものではない。

 第一、与えるなどと。奪い合うの間違いではないのか。相手に与えるだけが幸福だという人間があるが、それですら幸福のために動いているではないか。相手のためでは決してない。
互いに与え合う事と奪い合う事に幾分の差異もあるものか。当人同士が納得すれば良いと誰かが言う。では愛とはヴェール越しに語れる物だと言うことになる。互いに互いの幻想を求める訳だ。
"私の考えた最高の恋人"を心に作り上げ、それに現在の恋人像を当てはめようとする訳だ。馬鹿馬鹿しい。他者を何だと思っている。

「はは。あほで済みません」

 必死になって屁理屈を捏ねたところで、水橋さんを好きだという気持ちは誤魔化せない。僕は水橋さん達を嫌いになりたかった。そうすれば、もっと水橋さん達のために動ける筈だからだ。
好きだという思いは視界を曇らせる。恣意が混じる。嫌いならば、好かれたくもないならば、もっと冷静に物事を見られる。僕は彼女たちを見ていると、頭がどうにかなってしまうのだ。
感情礼賛のサル共はそれで良いという。素敵じゃないかと言う。何が素敵だ。欲だ。これは欲気だ。性欲だ。相手を屈服させ所有し意のままにしようという感情がメッキされたものだ。

 完全利他などあるものか。無いならあると幻想して生きれば幸せだと人は言う。だが僕は無い物を有ると偽ってまで幸福で居たくはない。
自分も幸福、みんなも幸福。幻想だ。下を見ろ、お前が踏みつけにしている人間達の頭が見えるぞ。耳を塞ぐ手を退けろ、お前を呪う声が聞こえるぞ。
誰にでも好かれる人間なんて居ない。そんな言葉がある。幻想だ。実際に誰からも好かれる人間は存在する。
それを述べると人々は言う。ありのままの自分を出していないのだ。そんなことでは幸福にはなれない。
何と幼稚な自己肯定の為の攻撃だろうか。自分より優れた人間に対する醜いルサンチマンが透けて見えるというものだ。
何としてでも"自分たち"をスタンダードに置きそれ以外を下位にせねば気が済まない愚かしさ。僕はそれを認めない。

 身の程を知れと人は言う。嫌だねと僕は返す。ひたすら上を見て何が悪い。完全利他のロボットを目指して何が悪い。悪くはないが幸福が。
幸福、幸福、幸福! そんなに自分が大事か。自分はそんなに偉いか。自分はそんなに高尚か。誰かを踏み潰してまで、そのことから目を反らしてまで幸福にせねばならぬほど自分とは貴重な物なのか。
七十億だ。これだけの人間のうちのたった一人。大事か。これが貴重か。七十億の中の一人、それでも一人の人なのですなどというトートロジーに堕してしたり顔をする馬鹿に僕はなりたくない。
確かに自分は誰かを不幸せにした、だが人を幸せにもした。不幸せにした分は反省して先に生かしたい。これとて正当化に他ならない。第一"だが人を幸せにした"の一文が不要だ。
そもそも次とは何だ、次とは。踏み潰した過去は踏み台か。駄目だ、頭が回らない。否定から道が生まれない。僕が馬鹿だからだ。だからもっと甘えを捨てなければならない。

「水橋さん」
「外の連中の事なら、話さない」

 やはり、彼女は優しい。僕の思考を読んで、その先を見て、僕にとって何が良いかを考えてくれる。だが優しすぎる。そしてその優しさの範囲には僕の理想と重複しない部分がある。

「そんな悠長な甘えを述べている暇はありません。もう完治しているようですから、顔を出しに行きます。僕が笑顔で平気平気と言えばまだ少し問題が変わるかもしれません」
「良いから、寝てろ」

 駄目だ。話にならない。水橋さんに理論の剣は通用しない。感情的説得も効果は薄かろう。彼女は自己をきちんと確立している。僕のような青二才の言葉に動かされる子供ではない。
せめてここに居るのが古明地さんであったならば引きずってでも僕を皆の前に出してくれるのだろうが。両腕を布団について、半身を起こそうとする。だが上手く力が入らない。
妹さんの時もそうだった。また、体だ。意志が一々一々体に妨害される。死ににくさなど要らないから動けるときに動いて欲しいのに、そんな望みは叶わない。
僕は、太った醜い男だ。誰もが羨むヒーローではない。彼等はピンチになれば力を貰えるのに、僕はピンチになったら体が止まる。これが現実か。こんな物が現実か。笑えてくる。

「お前はよく頑張ったよ。私の予想以上、脱帽だ」
「過程なんかどうだって良い……結果です。結果を出せないならその努力は不足なんだ」
「その考えが正しいにしろ、もうお前に出来ることは何もないよ」
「無いって――それは思考停止です! まだ何か」
「皆無だよ。断言して良い」

 やけに平坦なその言葉に、僕は何か冷たくて重い物が胸の奥で崩れ落ちる音を聞いた。感情の揺れは起きなかった。むしろ熱されていた物が急速に冷やされていくのを感じる。
彼女は小さく舌打ちをして、自分の額に手を宛い、首を振った。癖のある髪がつられて左右に揺れる。僕はその様をぼんやりと眺めていた。
水橋さんは聡明な人だ。だから皆無などという簡単な言葉は使わない。状況が幾ら逼迫していてもやれることが零ということはありえない。
彼女が皆無と言うからには、それはつまり、状況終了を指し示す。ゲームオーバー。

「二言三言で口が割れる、か。我ながらあほに過ぎる」

 ぢぢ、と音がした。火が揺れている。この様を見るのも随分久しぶりだなと思った。水橋さんの家の匂いはなんだか落ち着いた。それに、あたたかい。
だがそこは僕の居るべき場所ではない。そして今はそのような些事に思いを馳せて良い時でもないのだ。

「暴動が」
「外来人同士のそれは予想外の規模だった。武器が無いからと安心してたんだな、流れ弾でも十分に危険だとお偉いさんは判断した」
「鎮圧、したんですね」
「地底の奴らは皆殺しだ。妖怪に親しい、親しくない関係なしにな。地上の奴らも、幻想郷に従わない者は追放した。その過程で過度に逆らう奴は殺したよ。飯が増えたって妖怪は大喜び。
変な奴らが消えて良かったと里の連中もお祭りだ。お前は奴らを何とかしたかったみたいだが、幻想郷に反抗する連中を幻想郷が忌むのはまァ、当然だったな。
街に虎を放し飼いするようなもんだったんだ。さっさと死んでくれて良かったよ。吸血鬼異変の時のような高尚な意志もない。であれば相手の言葉を聞く価値は無い。温情を与える必要もまた」

 あんな連中百害あって一利なしだと、橋姫の少女は切って捨てた。僕のために過度に言葉を飾っているきらいはあったが、概ね実情なのだろう。
彼女が語らないとはじめ言ったのも頷ける。なかなか、ヘビーな事実だ。ぐうの音も出ない。これまでやってきた事の全てを否定されると流石の僕も思考停止してしまうのだと知った。
ワープした先が宇宙空間でした、というありえない状況にそれは似ているのかも知れない。体験者と語る事は出来ないだろうが。
それにこの事態は予測されていたものだ。1+1=2というような、誰でも予測しうる未来に僕が無理矢理抗っていただけだ。

「餓鬼の遊びはこれでおしまい、ということですか」
「ま、きつい言い方をすりゃそういう事かな」

 一拍おいて、彼女が問う。

「残酷だと思ったか?」

 肩をすくめるしかない。

「当然の処置でしょう。人の土地に勝手に入り込み、ルールは守らず、話し合おうとすらせず、暴動を起こす。これで助けてくれ、はあんまりでしょう」
「本当に、惨すぎるとは思わなかったんだな」
「全く。例え新参だろうが、抑圧された地底の妖怪だろうが、ルールは守ったと聞きます。思うところはあったでしょうに、先ずは幻想郷に従った。
これがルールがどれほど重視されているかを物語るものです。この楽園は最低限の規則無くしては守られない。楽園を破壊せんとする者まで囲い込む義理はありません」
「吸血鬼異変では同じ事をやって許されたがね」
「水橋さんの仰ったように精神性の高尚下劣の差でしょう。妖怪にとってそれは重大事と聞きます」 
「そこまで分かっている割に、随分頑張ったじゃあないか」
「真心でぶつかれば、なんて甘いことを考えていたんでしょうかね」
「あほだな」

 今までは温厚だった彼女の一言には、冷たい憎悪が込められているように感じられた。水橋さんの瞳が淡く輝いている。

「真心なんぞ……連中に通じるものか」

 他の妖怪は基本的に事態を客観視しているきらいがあった。しかし水橋さんはそうではない。初めから彼等に憎悪をもって向かっていた。
死んでくれて清々した、という暗い喜びが言葉の節々から滲み出ている。それは常に明るく理性的な彼女らしからぬ様子だった。
もとより情に篤いところのある人だ。誰かに深く入れ込むということは、それだけ深く誰かを憎みうるということでもあるのだろう。

「通じるとしたら、奴らに都合の良いときだけだよ。ちょっとだけだが、お前があっち側に傾くのかと思って冷や冷やした」

 それにしても、この人の献身ぶりは妙だ。嬉しさと恥ずかしさと心地よさと支配欲の充足を踏みつぶして思考する。あり得ない。
第一何故僕は生きている。実質的な扇動者だろうに。こんな男は殺されて然るべきだ。それを問うと、水橋さんは古明地さとりもそう言っていた、と小さく笑った。

「あの根暗曰く、私たちはお前に利するように行動"させられている"らしい。艶本の主人公に群がる雌犬よろしくな」

 馬鹿な、と一蹴する事は出来ない。そう考えれば何もかも説明出来る。僕のことを好いている訳でもないのに世話をする皆。僕にだけ設けられた特例。厚遇。
ただ、その前提がどのようにすれば生まれるのかが分からないし、確認されてもいない。しかしまあ、九割方そうだろうと思われる事態には警戒してしすぎる事はない。

「今すぐ地底を出ます。そして外に帰ります」
「馬鹿言えよ。もう全て終わったんだ。皆幸せにくらしましたとさ、おしまい。で良いじゃないか」
「よくない」

 起こしたいのに、体が起こせない。半身を捻ることすらままならない。

「古明地さんの言うとおり、何かあるんだ。だけどその何かを探すなんて悠長な事をしていたらどうなるか分からない」

 色々考えたんです、と告白する。水橋さんは黙って僕の言葉を聞いていた。彼女は俯いて、手を握りしめている。そのような仕草がまずおかしい。
何故僕如きの話を神妙に聞かねばならない。この状況を説明するためには、理由があまりに足りない。彼女は僕を強く心配している。それは何故。身内だから。それは何故。沈黙。
何故彼女が僕に親しみを覚えたのか、その理由が空白なのだ。完全な空白なのだ。人間関係などそんなもの、説明の付かない間にコミュニティは作られる――僕に限って、あり得ない。
本当に孤独な人間は知っている。自分のようなクズに人が集まる筈がないと。自分が変わればそれは別だ。自分が必死で変われば、その過程で友人が出来るかも知れない。

 だが、妙じゃないか。僕はクズな自分を変えていこうとする前から、沢山の人から異様な、返せないほどの恩を受けたぞ。
以前は妖怪はそれと親しくする者には親切なものなのだと勝手に理解していた。だが、だがしかしだ。僕は大前提を忘れてはいないだろうか。
妖怪が食らうのはどんな人間だ。殺人者や、自殺を考える者。後者の理由に、僕はばっちりと当てはまっているではないか。問答無用で食われるべき人間だ。
それが何故、助けられた。何故此処にいる。何をどう考えても、道理に合わないだろう。

「手遅れになるかも知れないんですよ。そうなる前に僕を放り出すべきです」

 声を荒げても、彼女の心は動かない。正しい方向に動いてくれない。聡明な水橋さんの思考が、見えない何かに妨害されている。
僕はそれが憎かった。彼女は縛られている。彼女だけではない。星熊さんも、古明地さんもだ。僕の好きな人達の行動が、思いが、操縦されているのだ。
見えない神が笑っているような気味の悪さを感じる。

「人一人を過剰に心配したとて何の問題がある。妖怪は人間より強いから、お前をおんぶしたって楽に生きていけるんだよ」
「馬鹿馬鹿しい。その心配が偽りかも知れないと言っているのです」
「かも知れない、だろう。偽りじゃないかも知れないじゃないか」
「懸念は潰すべきです」
「生憎、感情を押し殺してまでリスクを減らそうと私は思わない」

 考えが違いすぎるのだ。彼女は僕より賢い。だが、価値観が違う。これでは埒があかない。

「何なら地底の皆の意見を」
「もう聞いた。お前を追放するのに賛成した奴なんて、一人もいなかったよ。ピザが何をどう言おうが落ち着くまで此処に留めるべきだ。それが地底の総意」
「全員賛同だって!? 明らかに――明らかにおかしいじゃないですか!」
「ま、価値観が地上以上にバラバラの地底ではまずあり得ない結果ではあるよな。それはどうでもいい。偉い奴がおいおい何とかしていくだろ」
「だからその悠長さがですねえ!!」
「ちょっとさ、黙れよ」

 水橋さんは僕の額を軽く弾いた。

「この際だから言っておいてやる。私は裏切りが嫌いだ」
「藪から棒に何なんです」

 俯いた髪の間から見える表情は、常の水橋さんとは違って見えた。鬼気迫るものがあるというか、おぞましいというか、恐らくこれが彼女の本質なのだろうと感じる。
優美だが、それだけではない。もっと汚らしい何かがある。前髪の向こう側の瞳は自ら光を放っているかのように思われる。

「私はお前の保護を買って出た。故に私はお前を裏切れない。自分の最も忌み嫌うところのものを無理矢理行うのは健康に関わるわ」
「なるほど。妖怪の方は肉体よりも精神に依っていると聞きました」
「その通り」
「ならば僕が――」
「裏切る、か?」

 星熊さんの顔が浮かんだ。僕は沈黙するしかなかった。橋姫の妖怪は常と同じく快活に笑う。

「どっちにしろ、あまり意味があるとは思えないけど。私を虐めたいというなら別だが」
「滅相もない!」
「だろう。お前は私が大好きだもんな。重傷なのは、ピザの方だ。お前は例え私が一億殺したって苦笑するだけだろうさ。狂ってるよ、変態だ。キモい」
「済みませ――ん?」

 何か、頭をよぎるものがあった。殺し。僕は本当に僕の問題と向き合って良いのか。全ての事件はもう終わってしまったのか。
そうではない、かも知れない。確証はない。だが不思議な不安が頭をよぎる。全く関係のない様々の事象達が、一つの形をなそうとしている。
僕はもしかしたらもう、真実を知る鍵を全て手に入れているのかも知れない。そして、扉の前で座っているだけなのかも知れない。
その扉の向こうに何もないのが怖いから、希望を握っていじけている。今の僕はもしかしたら――おそるおそる、問う。

「水橋さん」
「何」

 きょとんとする彼女に、しかし絶対に忘れてはいけない事を問う。

「全てを始めた犯人は、勿論始末されているのですよね?」

 犯人、と彼女は首を傾げた。

「お前を刺した奴なら、多分蒸発したと思うけどな」
「多分――なのですね?」
「まあ、そうだけど。霊烏路空の炎にやられたんだ。妖怪でも逃げ場が無くて即死だよ」
「テレポートとか、どうでしょう」

 漸く水橋さんの関心が向いた。今までの会話は確認作業のようなものだ。僕と水橋さんは何もかもが違う。一緒にいるが、絶対に歩み寄れない差異をお互いに持っている。
そのことをお互いに語り合って理解を深めたに過ぎない。恐らく皆に一歩を踏み出させるのはこの一言だ。

「犯人は――"ハカセ"は、魔法使いにして、現代社会から此処への跳躍を可能にした人間です。ありえないとは、言わせませんよ」




 その日の夜から、大捜索が始まった。一週間を経過して尚、男が発見される事はなく、その男が存在していた形跡すら競歩大会を除いては存在せず、
その代わりだとでも言うかのように、澱のように黙していた世界の矛盾が、徐々に、そして次々と浮上し始めていた。



[24754] 第24話 終わりの始まりと始まりの始まり
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:215024a8
Date: 2010/12/29 23:54
 ピザはまた変わってしまった。今までのそれは過剰だと笑える所はあったものの一応理解の出来るものだった。しかし、今回のそれは全く違う。
良いとか悪いとか、単純な判断が出来ないし、そもそも変化の理由すら分からない。彼は狂いつつあった。
人が妖怪に変わるその寸前、もう後戻りできない場所、穴の底に居る我々と同じ場所にこの馬鹿は落ちてこようとしていた。
ずっと前からこの男は私たちと同じ場所に至ろうとしていたのだろう。意識的か無意識的かは知らないが、間違いあるまい。ただ私が気づかなかっただけなのだ。
こいつを突き放してもっと遠くから冷静に観察していれば分かったはずである。多分、私以外の連中はそんな事にはとうの昔に気が付いていたのだろう。
そしてそれを当然だと捉えていたのだろう。それを是と選択したのならば狂うというそれもまた了承すべきであると皆考えたのだろう。
だが、

「水橋さん……蛇が居るんです」

 片腕を虚空に伸ばし、もう片腕で頭をおさえて譫言を発するこの人間の成れの果てを見てもそんな事が言えるのだろうか。言える連中も多いだろう。
しかし私はそうではない。そうではないが、もう手遅れだ。ひと思いに殺してやろうかとも考えた。だが、出来なかった。包丁を彼の首もとに宛うまでは良いのだが、その先に至れない。
彼はそれを見て、蛇の仕業だ、白蛇の仕業だとヒステリーを起こしたように騒ぎ立てる。時には両腕を振り回して暴れる事もあった。体調が戻っていないのがせめてもの救いだった。
ピザは私の姿を見るとしばしば恐慌状態に陥る。絶叫して自傷に走ろうとする。だが四半刻も暴れるとそれはぴたりと止み、布団をジッと見つめて黙考を始めるのだ。
問えば彼はこう答える。パズルを完成させているのですと。狂的な感情の波と、それの死滅した状態が交互に続き、彼はどんどん窶れていった。
食べやすい物を作ってやっても、少ししか喉を通らないのだ。そのことで私が涙を流すと、彼は無理に全てを口の中におさめてしまった。そうして、吐いた。
吐いた後に暴れ出す。私は何とかしてやりたかった。私が何とかしてやりたかった。昔狂っていった私は他者の助けを必要としていた。
こいつも、そうだ。助けて助けてと叫んでいる。ただ一つ決定的に違うのは、彼は助けを請う事を"悪"だと考え、それを殺そうとしている事だ。
だから自分の"悪"を助長する私が近くに居ると、益々強く狂っていく。自分を肯定し庇護してくれる者を渇望し、その渇望に甘えを見いだし絶望する。
どちらを選択しようとも救いがない。初めから詰んでいる二択問題。こいつに甘えを肯定させる事は――不可能だ。
厳密には不可能ではないが、そのためにはこいつを原型を留めない程に改造しなくてはならない。改造されたピザはピザであるといえるのか。最早別人ではないのか。
人格の連続性の断裂。粗悪な処置はいつか必ず問題を二倍三倍にして突き返してくる。故に頭を抱えるのだ。

 "ピザなんぞ居ない方が皆幸せになれる"

 これは、真だ。こいつは地底に不幸ばかりを持ってきた。それは事実だ。事実は決して覆せない。甘えが許されるのは、自分も相手を甘えさせるからである。
相手がもたれ掛かってくれるから、自分も安心して相手にもたれ掛かる事が出来る。だが、このデブが私たちに与えられる有益なものなど何もない。
害だけを与え益を生まない害虫。もたれ掛かるだけで、何も出来ないお荷物。これも、真だ。
ピザは、大人だ。一人前の人間が、甘えるだけ甘えて、それを気にするなと言われて耐えられるか。無理に決まっている。
そんなことは、私にも、あの鬼にも、サトリ妖怪にも耐えられまい。私たちが偉そうにしていられるのは、相手に与えられるものがあるからだ。
それをもって自分の価値だとしているからだ。しかしこいつには何もない。ただ奪い尽くすである。

 しかし、我々はそんなピザを見捨てたくないと思ってしまう。こいつが価値ある何かを習得する事が出来たならば、
きっと素晴らしい物を与え続けていけるはずなのだ。あの大会で、私はその片鱗を確かに見た。こいつが何も出来ないのは、こいつに何もないからだ。
自分に価値を見いだせと言われても、本当に価値がないのだからどうしようもない。だから価値となるものを与えてやれば良かったのだ。
そうすればこいつはきっと今とは全く違った生を歩めていたことだろう。もう、全ては時間切れなのだが。私のあずかり知らぬ所で、物語は終わりを迎えつつあった。

「水橋さん」

 青ざめた顔で彼は笑う。乾いた唇、充血した瞳、目元には隈。ここに戻ってきた彼は私の目を見て話すようになっていた。
こいつにとっては、きっと重大事だろう。しかしそれは、私にとってみれば些事なのだ。
どう言葉を飾ろうがそれは事実だ。こいつが必死でやっている事は、人の目には簡単に留まらない。誰も評価しない。なぜならば、出来て当たり前だからだ。
当たり前のことをしても誰も評価はしない。抜きん出ていること、それこそが重要なのだ。しかも、それは好ましい方向に、でなくてはならない。
あらゆる面で劣っているこの男は必死になることの意味を決して見いだせない。私たちがそれを探して褒めてやろうとしても、こいつはその裏に潜む真意を見抜く。
そして結局"自分の良いところを探させてしまっている"としてピザは自責の念に駆られる。

「水橋さん。僕は人間ですらないかも知れません」

 そうか、としか返せなかった。それでも見捨てない、などと言えば、こいつは間違いなく暴れ出す。論理的な説得は無意味だ。こいつには、間違いなく何かが見えている。
それが幻想であると切り捨てる事はどうしても出来ない。我々妖怪は基本的に他の者にはみえないものが見えてしまっている。
見えるというのは語弊があるかも知れない。感じられると言った方が正確か。これは妖怪に限った話ではなく、人間の魔法使いや気を遣う格闘家などにしても同じ事である。
感じられるのが魔力や気ならば幸せだ。共有できるものがいる。伝えることもできる。だが、他の者とは絶対に分かち合えないものを感じてしまう者もある。
感じ取ってしまえばもう遅い。そこから目を背けて逃げ出すことは出来ない。それが絶対的な真実として映ってしまう。
こいつは今何を思っているのだろうか。少なくとも、健全な成長はまずあるまい。人間ではないと自分を言い切る根拠は何なのか。
常のこいつになら問うていく事が出来る。だが、ぎらぎらと目を輝かせて思考を続ける彼に他人と問答する力はない。
今のピザは蛹の中にある。そこでどのような変態が行われるのか私には分からない。ただ何の影響も与えることが出来ないというその事実だけが肩に後悔という重みを与える。

 ピザはたまに手紙の束を読み返していた。一人で暮らしていた際、彼は古明地さとりをはじめとして幾人かと情報交換を行っていたらしい。その内容は、私には秘密のようだった。
終わってしまった事だろうし見せて貰っても良いだろうと思うのだが、見せたくないというのだから我慢するしかない。裏切りだけはしたくはなかった。たとえそのために裏切られるのだとしてもだ。
奪い取って覗き込めば、或いはこいつのためになるのかも知れない。だが、もしかしたらその行為が簡単にピザを破壊してしまうかもしれない。
いや、もう詰んでいるのだ。こいつにとって望ましくない何かが生まれ出てしまうのは間違いないのだ。そこからどう最大の幸福を生み出すのかが問題なのだ。

 しかし、考えても考えても見えてくるものは何もない。上下左右、どこもかしこも真っ暗闇だ。ハッピーエンドの光がない。
助けて助けてとピザが言う。どうやって助けてやれば良いのか私には分からない。助けてと言いながら、助けられそうになるとさらなる深みに嵌っていくのだ。
見捨てればいい。それがシンプルな結論だ。こんなクズを助けてやる義理はない。正しい。私はこいつのことがそんなに好きじゃない。これもまた、真だ。
しかしそんな考えとは別に"助けなければ"という強い思いが心の底から沸き上がってくるのだ。それに抗う時、私は強い苦痛を覚える。
それはまるで身と心を引き裂かれるような感覚である。あんなものは味わいたくない。利己的に考えても、私はピザを救わざるを得ない。だが救う道がない。
このままではこいつと一緒に地獄の底まで落ちていってしまう。だがピザを引き上げてやる術がない。

「蛇が! 蛇が!!」

 彼は虚空を引っかき回す。ピザの言う蛇には触れる事が出来ないのだろうか。私を見て、目を丸くして、彼は尚更激しく暴れ始める。
泡を吹きながら暴れ回る様は、狂人と寸分の違いもない。助けてやりたいが、何も出来ないのだ。
部屋の隅でそれを見ているのは辛いものがあった。だが見捨てて離れる事も出来ないのだ。何故だと自問しても答えは出ない。心など、恐らくはそんなものだろう。
あの鬼なら良い智恵があるのではないかと思ったが、返ってきた答えは味方でいてやるか殺すか好きにしろ、だった。要するに解決策はないということである。
彼女がここに来ないということは、彼女の答えはつまり、そういうことなのだろう。認めていたはずの相手にも簡単に敵対する。鬼という化け物を、私は心底羨ましく思った。

 いや、私とて広義には鬼なのだ。だがそこには嫉妬狂いという方向付けがなされている。故に執念、執着は他の妖怪と比してあまりにも強い。自覚はしているが、恐らくその自覚以上なのだろう。
どうせもう見捨てる事は出来ない。そのまま地獄の底まで道連れにされてしまっても、諦めるしか無いのだろう。しかし、それをこいつは認めない。
ならばピザには一人になるか死ぬか、それ以外に選択肢がない。そのことには彼は目覚めた当日にはもう気が付いていた。体は快調に向かっている。
常のこいつならばもう行動に移っていてもおかしくはない頃だ。しかし、それをしない。半ば壊れながら何かを考えている。

 ひどく嫌な予感がした。しかし、やはり私は何も出来なかったのだ。ただただ壊れ続ける男を見ている事しかできなかった。
ある日の暮れ、夕餉の準備をしていた私の背中に、低くぼそぼそとした声が届いた。

 "これは蛇じゃない。手だ"、と。

 それから彼はげらげらと延々笑い続けていた。分かった、全て分かったと自己完結したその顔からは、"助けて"という叫び声が完全に消え果てていた。
これまで迷惑をかけて済みませんでしたと私に謝るその様からは、ごっそりと憑き物が落ちたようである。
壊れて狂って騒ぎ続けた数日間は何だったのかと問い詰めたくなるような劇的な変化。それは競歩大会の翌日から見せた表層の違いでは断じてない。
それですら彼は多大な努力を要した。しかし、これはその仮面で己を隠す作業とも根本的に違っている。
重みが消えたのだ、彼から。空っぽになってしまった。どうしたのだと問う私に、もうじき全て済みますよと彼は笑顔でそう言った。

 自棄を起こしたのではなかろうかと思ったのだが、そうではない。ピザは煩悶から完全に解放されて、幸福そうに見えた。
もうじき解放されますよ、水橋さん、と彼は私を見る度にそう言うのだ。今まで自分勝手に幸せを貪って済みませんでした、とも。
天罰が下るのだそうだ。自分勝手が積み上げてきた負債を清算するときが来たのだと彼は狂喜していた。
私は、お前はどうなってしまうのだと彼に問うた。そうすると、ピザは満面の笑みでこう答えるのだ。

「もうそんな無駄な疑問を抱く必要もなくなるんですよ!」

 本当に、心から嬉しそうな答えだった。彼は私の家から出て行く事はなかった。"何処にいても手は決して貴女を逃さない"と彼はそう言った。
そうして忌々しげに周囲に目をやるのだ。私がその事を問うても、彼は上のような応答をするに過ぎない。より詳しく問えば、彼は更に踏み込んで答えた。

「水橋さん達を縛り付ける偽りの感情は、近日中に消滅するんです。どのような終わりを迎えようが、必ず。だから貴女達にやってくるのはハッピーエンドです。
後は、僕の問題がどうなるか。待っているだけで問題の方からやってきてくれると思うのですが……来ませんねえ」

 問題とはハカセの事かとカマをかけると、彼はそうだと頷いた。彼が全てを片付けに来るはずなのだとそう言うのだ。
だがそれ以上は絶対に口にしなかった。口にしなかったからこそ分かる。こいつは多分、

「死ぬつもりだろう」
「死ねますかねえ、僕は」

 これにははいと答えるだろうと思っていただけに、含みのある言葉に頭を抱えたくなった。だがそのような煩悶すら、もう無意味になるのだとピザは言うのだろう。
言葉の影から古明地さとりの影がちらついているような気がした。全ては自分の言った通りに動くのだと嘲笑うあの女の姿が見えるように思えてならない。
勿論、妄想だ。妄想に過ぎない。それでも私のこいつを心配する感情は偽りではないはずなのだ。

「そんなに心配しなくても」

 その心をまるで読んだかのように、彼は言う。

「僕と貴女達が一緒に歩める道なんて、どうせ無いんです。クズだとか、駄目人間だとか、そういう問題じゃなかった。これはもう、決まった事なんです。
それにしてはハカセの来るのが遅いですが……まあいい。水橋さんもそろそろ限界です。明日にでも、彼の元を訪れてみましょう。
あの男が甘えているようだったら、ぶん殴ってでもハッピーエンドを持ってきてやる」

 疑問はあった。いくつもあった。だがその中で最も大きなものを私は問わずにはいられない。いられないのに、彼はそれを読むのだ。

「水橋さん達が僕の事を考える必要は無いんですよ。ハカセが甘えていたとしても、僕の命はあと数日です」
「何だよ、それ」
「だから」

 決まったことなんです。

 そう笑う彼の目に映る世界が私には見えなかった。もうピザを救う事は出来ない。その事実が頭を過ぎった時、胸の奥が強く締め付けられるような感覚がした。
不意に視界が歪む。自分が涙を流しはじめていることに気が付き、私は愕然とした。心がこの男を救えと叫びだす。見捨てるなと怒鳴り始める。
この男の言葉を前に膝が笑う。古明地さとりの言葉がはじめて現実味を帯び始めていた。私たちがこの男のために行動"させられている"。
強制力が、見えた気がした。

 その時、頭の奥でかちりと音がした。

 一瞬視界がぼやける。目を閉じて、瞼の上からそこを抑える。ちかちかと緑の光が目の奥で舞った。
もう一度、ゆっくりと開いた私の目に映る世界は、今までと少しだけ異なっていた。鮮明な映像の中で、ぼやけた霧のように映るものがある。
彼の足下から生えて、のたうちまわる太くて白い何か。それは緩慢に揺らぎながら、私の体に巻き付いていた。腕にも、足にも、首にもだ。
それは部屋を埋め尽くし、部屋の外まで伸びている。

 蛇。

「タイムオーバー」

 白い蛇が次々と私の体を覆い始める。美味い獲物に群がるようにだ。彼の声がまるで今までと違って聞こえた。それは耳を抜け、頭の奥を溶かす甘美な響きだ。
おかしい。絶対におかしい。はじめて恐怖を覚えて腕を振り回す。だが、触れられない。それには実体がない。暴れれば暴れるだけ、蛇は数を増して私に絡み付く。
そしてその蛇の数が増えるだけ、強く強くピザの存在が感知され始める。そこに私を救う何かがあるかのようにだ。

「水橋さん?」

 近づいてくる彼を、思わず突き飛ばした。きょとんとした害意の無い顔のまま、ピザは尻餅をつく。その表情を見ているだけで、何故だろう。耐え難い罪悪感が噴出する。
怖い。これは、何か違う。こんなものは私ではない。私の感情ではない。彼の足下から、次々に蛇が放たれる。それは抵抗も許さず私の体を絡め取っていく。

 かちり。

 また、音がした。より鮮明に像が写る。真っ白に伸びるその体躯から、私は長年親しんできた光を見いだした。深く鮮やかな、緑色。誰かを強く妬み嫉む感情の表出。
ピザに目をやる。彼の足下は、綺麗な緑色に輝いている。そこから、次々と蛇がはい出してくるのだ。男は全てを了解したというように小さく笑むと、ごしごしと目元を拭った。

「見えたんですね。じゃあもう本当におしまいだ。ハカセがどんなワガママをしているのか知りませんが、もう待てません。終わりにしましょう、全部」

 彼は姿勢を正して、私に深々と頭を下げた。長い間、お世話になりましたと、そう言った。何も分からないまま、私の視界は白と緑に覆い尽くされていく。
段々とピザの姿が見えなくなる。何も見えないのに、恋しく思う。つい先程まで好意のこの字も感じていなかった男が、大事に思えて仕方が無くなる。
口が泡を飛ばしながら何かを叫んでいる。私が潰されていく感覚。天井を見上げた。蛇の頭は、五つに分かれていた。八岐大蛇より三本少ないなと思った。
だが、よく見ればそれは頭ではなかった。どれもこれも長さが不揃いだ。頭ではない。これは、手だ。大きく開いた手が、私の頭を包み込む。

「さようなら、水橋パルスィさん。もう二度と会うことはないでしょう」

 後には、無音と、何かを求めて騒ぎ回る無様な自分の体が残された。輝く緑色の光の中で、この腕はピザのじゃないよなあ、と私はボンヤリと考える。
何も分からないまま、全てが終わっていくのだろうか。ピザの求めるハッピーエンドとやらがそのまま到来するのだろうか。
万民の畏れ忌み嫌う地の底に住まう妖怪様が、こんなに呆気なく噛ませ犬として倒れ伏した後に。 

 まさか。この想いをもたらすものはもう分かった。古明地さとりが危惧する何かの正体はこの腕だ。それがどのようにして生まれたのかは私には分からない。だがピザは知っているようだった。
ならば問えばよい。先ずはその準備からだ。この白い蛇――腕は、間違いなく誰も触れることの出来ないものだ。それは物質では出来ていない。それは心に直接触れるものだ。
恨みつらみ、そして深い深い、"妬み"。それらで構成されたこの腕はまるでピザの元に私を引きずり込もうとしている。だが、そうだ。忘れてはならない。
私は水橋パルスィだ。嫉妬を操る妖怪だ。この緑色なら、好きに出来る。一つ一つを集めて、弱めて、殺す。腕が一本、火傷をしたように怯んで離れた。
もう一本に向かう。剥がれた。三本、四本、五本。剥がれた! 六本、七本、八本――!

「ひひひ」

 偽の絶叫の合間、サディスティックな笑いが零れる。傲る強者を更なる力で叩き潰すその快感。
どんな怨念の塊かは知らないが、御せる。剥がした腕の数が二十を超えたとき、私の口からピザを求める叫びの声は消えた。
ぼたぼたと情けなく流れていた涙もだ。あいつに対する慕情にも似た好意も、完全に雲散霧消した。誰が、あんな醜くて、汚くて、太った、面皰だらけのクズを好きになるというのだ。

 だが、それとは関わり無しに、これまで培ってきた関係から、あの男は助けるに値すると冷静な判断が下される。
今の涙は、偽物だ。だが、あの大会で私が流したそれは、紛れもない本物なのだ。この腕共によらない、それは水橋パルスィの決定だ。

 橋姫に狂った恋はつきものだが、相手がアレではちょっと美しくない。女の嫉妬をより悲劇的に見せるためにはイケメンが必要なのだ。あいつでは役者不足だ。
近づく腕を切り伏せ、叩き伏せ、進む。視界の全てが腕で埋まっていた。だが誰も私には触れられない。

 あいつがどこに消えたのか、私には分からない。何が起こっているのかも、また。だが妖怪であればたった一つの理由があれば行動するには十分である。

 腹が立った。

 綺麗な理由など無い。物事が私の思い通りに運ばないのがむかつくのだ。ああ、あれだけ古明地さとりを毛嫌いしていたが、結局は私も同類だ。同族嫌悪だ。結局両者ともに、暴君なのだ。
何でもかんでも屈服させてやるのが最高に気持ちいいのではないか。あんなクズが私の思い通りに動かないというのは、癪だ。
故に教育してやらねばならない。徹底的に、どちらが上でどちらが下かを教え込んでやらねばならない。

 靴を履き、玄関の戸を開き、空に舞う。長い長い腕の白と緑の汚らしい光に覆われた地の底を私は飛んだ。
大きく広げられた風呂敷を、今頃あいつ等は丁寧に畳んでいる所だろう。したり顔で、全てを納得して。であれば私が全て、ぶちこわしてやろう。
デウス・エクス・マキナ。芝居としては、三文以下だ。だがしかし、煌びやかな、万金にあたる悲劇を演じた先達にとっては、その都合の良い存在が何よりも輝いて見える。
冬の風が、心地よい。全てを終わらせたら、ピザと一緒に酒を飲もう。そう決めた。外に出て、あいつと一緒に月でも眺めて酒を飲もう。
こそこそ人の目から逃れる腐れた腕は、悉く灼熱地獄に叩き込んで焼き殺してやる。全てを捨てて死に向かうあの男は地獄の底から引っ張り出してやる。
どちらが良い悪いは関係ない。例えこの腕が全てを救う正義で、ピザが百億を殺さんとする大罪人であっても関係はない。私がそうしたいから。理由はそれで十分だ。
その事で罪のない、不幸になる必要のない多くの他人が泣こうが喚こうが、知ったことではない。愉快、愉快、これぞ妖怪倫理である!
もう決めたのだ。ならば後は思い通りに運命を辿るだけだ。運命は変わらない。だから、そう。ピザ流に言うのであれば、今思い描いた未来は、決まったことなのだ。
口許を歪め、私は飛んだ。それは多分、これ以上なく妖怪的な笑みだったのだろうと思う。

 
 






 

 一人の男が主人公となり、一人の男がボスとなって生み出した大きな異変は、全てを未消化のままとして、しかし全てを消化せんとして、最終局面を迎える。
そして、同時刻。誰にも気づかれず、エクストラステージが幕を開ける。ボスは、未だ不明。空間全てを覆い尽くす雑魚キャラもまた正体不明。舞台は、地の底。
残機、ボムは命のある限り無制限。クレジットの残数は当然、ゼロ。

 挑戦権を得た主人公は、水橋パルスィ。伏線が回収し尽くされ、事件には終止符が打たれ、そして静かに悲しげな音楽が流れ始める。物語はそこで終わりを迎える。
故にその向こう側へと、彼女は一人飛翔を始めた。何も知らずにただ一人。今は、ただ一人。



[24754] 第25話 他人の不幸が毒の味
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:215024a8
Date: 2010/12/30 21:28
 その男はほぼ万能の秀才だった。運動以外のことなら何でも出来た。全てが二流止まりではあったが、その域に到達するのに苦労を要した事はなかった。
学業においても仕事においてもただ一人、常に平均を上回る結果を出し続ける彼を排除出来る者は無かった。
彼はこの世界に住む人間達をクズだと思っていた。クズだからどうしようというのではない。ただ感想としてクズだと思っていただけである。
馬鹿のように苦しみ、一時の享楽に取り憑かれ、他者を踏みつけにして正義を叫ぶ。滑稽だった。
ねじ曲がった視野を持つ男はやがて人との交わりを断ち、一人暮らすようになった。他者への憎しみは全く無かった。ただ見ていて苛々するだけだった。
時が経つにつれて彼の存在は忘れ去られていく。実体を持った一人の人間が消えていく。そうして男が少数の人間にとっての思い出に成り果てた時、彼はある妖怪に出会った。
遙か昔に幻想となり、そこに救われた男は今、ハカセと名乗っている。一連の外来人騒動を引き起こし、それを煽ることで迅速な火消しを促したトリックスター。
あるいはマッチポンプとも揶揄される彼は、近く来るであろう願望の達成を思い、静かに微笑んでいた。


















 ハカセと名乗る男は未だ見つからない。それが表面として伝えられている言葉だ。しかし、これが誤りであることは誰もが知り及ぶ所であろう。
たかだか人間一人だ。いかに優れた技術を持っていたとしてもその気になれば賢者達が発見し得ない筈がないのである。であれば、彼等の出した答えは容易に知れる。黙認だ。
私はカップに手を伸ばし、熱い茶を啜った。現場では未だ情報が錯綜しているらしいが、もう全ては終わってしまったも同然である。
事態の全容を掴んでいるのは恐らくハカセと私であり、そして今そこに手をかけようとしている者も恐らく一人ある。
その一人の男の選択を私はただただ待つばかりだが、どちらにしろあまり意味があるとは思えないし、何をどう選んだ所で私のやることはない。
チクタクと鳴る時計の音に耳を傾けながらクッキーを囓る。こいしもなかなか上手く作れるようになったようだ。褒めてやっても良いかも知れない。

 欠伸を噛み殺す。一週間が経ったか、それとも二週間か。予想に比して幾分遅すぎる。もう彼は行動するに足る仮説を立てて良い頃だ。
他の人間ならば兎も角、彼ならばあっさりと取っ掛かりを見つけられる筈なのだ。それでも尚動かないということは甘えを決め込んだということだろうか。
それならそれで構わない。変化はむしろ凡庸に接近する形で行われたと認識するだけのことだ。
あれだけ考えて尚意識的に甘えをすることを決め込んだのであれば、それは諸手をあげて喜ぶべき事態である。そしてそれが絶望的ではあるが唯一の大団円への道である。
全てが奇跡的に上手くいくのであれば、あらゆる問題は彼と我々の戦いの中で消化され、最後には"幸せに暮らしましたとさ"が残るだろう。
彼自身もその"らしさ"を残しながらも伸び伸び楽しく生きていくことが出来るだろう。決して愚かにはならず、しかし周囲と余裕を持って楽しむ妖怪の境地に至るだろう。

 だがアレが選びそうなのはもう一つの択だ。しかし、その道を歩むというのであればそろそろ動くはずなのだ。まさか事実に辿り着けないまま右往左往しているのではあるまい。
そうであるなら、最高の喜劇である。誰も望まぬ不条理なバッドエンドがやってくる。目を反らして逃げた先には残念ながら何もないのだ。
普通はそれでも道は続いていくものだが、あいつに限ってはそうではない。故にあの男がどう動こうとも全ては近日中に片が付く。
これは時間制限付きのゲームだ。そして刻限は迫っている。問題の全てが未消化であっても、結末は容赦なく訪れる。彼は何も知らないまま終末を迎えるのだろうか。

 まあ、あれこれ思索しても前述の通り意味はない。ただの暇つぶしである。どうせ我々の日常は彼の存在とは無関係に続いていくのだ。
あの男は日常に現れたつかの間の泡に過ぎない。そのようなものに思いを馳せても何の意味もないのは自明である。
そんな些事よりも疲れを癒すにはどの温泉に入るべきか考える方がよっぽど効率的というものだ。

 こうして漠々と思いを巡らせているのは、感情があの男を救えと叫ぶからに他ならない。多分私の裡で暴れるそれは地底に住む誰のものよりも激しい。
またよく考えてみれば他の連中と違い私があれを助けるに足る根拠も十分にあるのだが、その根拠も更に深く考えれば空しいものである。
結果として私は傍観を決め込むことにした。ハッピーエンドへの道も、よくよく考えてみれば絶望的なものなのだし、
それならば守れる者だけを守った方が幾分効率的だ。こいし、ペット、地底の妖怪。私の手の届く範囲は此処までだ。
男一人に対してそれらを危険に晒すのは正しい選択ではない。

 いい加減操られた感情の呪縛から逃れたいのだが、彼には何か考えがあるのだろうか。私は視線をちらりと動かした。
足に、巨大で青白い、骨のない腕が絡み付いている。見えているのはハカセと私だけだろう。私も、最近ようやくこれの存在に気が付いたばかりだ。
視線を上手く合わせる事が出来れば、事は容易い。頭に響く声は喧しかった。あの男が来てからというもの、調子の悪い日が続いていたが、主因はこの腕であろう。
短い付き合いもそろそろ終わりだ。あと数日くらい我慢してやっても良いのだが――

 そんな妥協が頭をよぎった丁度その時、コンコン、と。ドアがノックされた。









 どうぞ、という声は震えていた。無理もあるまいと自らを慰める。久しぶりに私の目の前に現れたその男は、記憶していたものより少しばかり凛々しくなったように思われた。
よれた作務衣を身に纏い、杖をついてやってくるその男。彼の足下からは百とも二百ともつかない半透明の長い腕が伸びている。
それは部屋を抜け館を抜け、きっと地底中に蜘蛛の糸のように張り巡らされているのだ。改めて見ると吐き気がした。ここまで醜い化け物はそうそういないだろう。これには苦笑する余裕もない。

「遅かったわね、■■。少し痩せたかしら」

 問いかけに意味はない。彼が焦っていないのは少しばかり驚きだった。腕が何本も何本も伸び、私の手を、腰を、首を掴む。頭の奥がぐらりと揺れる感じがする。
胸の奥がぽかぽかとして、安堵が広がる。彼が近くに居ることが当然であり離れる事は苦痛であると感情が叫び出す。それはまるで慕情のようにだ。ためしに手を頬に当ててみれば、見事に熱い。
きっと顔は真っ赤になっていることだろう。息も上がっている。ヤレヤレ。ハッピーエンド云々と口にしたが、前言撤回だ。残念ながら、とても相手に出来る代物ではない。

「済みません。触れられるのなら、引きちぎってやりたいのですけど」

 彼の杖が、白い腕を貫く。それは僅かに痙攣したが霞を裂くような無意味な行動に見受けられた。その代わり、■■の声が気持ちよく私に届くわけだ。良くできている。

「一応効果はあるのよ。でも、焼け石に水だ」

 更に大量の腕がぐるぐると私の体を覆い始める。これはひどい。■■がまともに見えない。見えないくせに魅力的に感じる。まるで神か仏かの膝元に抱かれているかのような恍惚感。
安心と、彼の近くにありたいという渇望が噴出する。やはり心とは単純なものなのだなとどこか冷たい部分が冷笑していた。

「ハカセが居るのは」
「想像通りの場所。貴方が昔寝込んでいたあの部屋よ。本の山に潰されるってぼやいていたわ。一番呆れているのはきっとあの地上の魔女なのでしょうけれど」
「彼の魔法は、パチュリー・ノーレッジさんのものだったのですね。まあ、それ以外あり得ないかな、とは思っていたんです。
カゼホウリの人の奇跡の真似って線も一応捨ててはいなかったのですけど」
「あれは一子相伝だよ。後、あんたの言葉を予測していたのか知らないけど、魔女から伝言を預かってる。あの程度を私の魔法と思うなよ、だとさ」
「これは手厳しい」

 くつくつと笑う。■■も張りつめていたものが切れて随分サッパリした様子である。

「鬼には?」
「会いませんでした。会ったら今頃生きてませんよ。水橋さんだけでも酷い有様なんですから。星熊さんのことは古明地さんが何とかしてくれたんでしょう?」
「古明地さん、ねえ」

 阿呆を見上げる。白い腕の隙間から悟りきったと勘違いしている阿呆の顔が見える。

「言いたいことは分かりますよ。でも貴女は古明地さんです」
「勿論だ。誰が馬鹿馬鹿しい幻に惑わされるかよ」
「宇治金時」
「……まあ、少しは踊らされていたらしいわね、うん。無意識までは面倒見切れないわ」
「妹さんが聞いたら凹みますね」
「そっちは妹さんか」
「古明地さんの妹さん、という意味ですよ。勿論」
「でしょうね。その辺は信頼しているわ」

 ところで、と彼は腕を組む。その難しそうな顔を見ているのは嫌いじゃない。この嫌いじゃないという気分だけは本物だろう。後の部分は好き好き大好きである。これが古明地さとりか。笑わせる。
自分でも酷い顔をしているのに違いないが、■■は全く動じない。でれでれのサトリ妖怪などなかなか見られるものではあるまいに。冥土の土産に楽しめば良かろう。因みに私は全く楽しくない。

「貴女が宇治金時に拘っていたのは」
「折角クレープを買ってきてやれば、どこかの洟垂れが宇治金時を食いたい食いたいと騒いだからだよ」
「ああ。やっぱりそんなことが?」
「親の心子知らずね。かわいそうに」
「他人事ですか」
「他人も何も、あれは生き物ですらないでしょう」

 確かにそうですね、と彼は笑った。幾分安心した様子だった。しかし、どういう気分なのだろう。まるでパズルのピースを嵌めるように詰まらない真実の形を突き詰めていくというのは。
私が見ることの出来るのは彼の今だけだ。その過程を見ている者が居るのだとしたら、あの橋姫ばかりである。催眠術にでもかけて根掘り葉掘りやるのは弾幕ごっこの中だけでいい。
人の心を見て愉しむという悪趣味が身に付く程素敵な環境で育っては居ない。

「僕も僕の家族も」
「いわばゴミの塊でしょうね。ハカセにとってはそれだけが問題だけど、貴方はどう? 水橋パルスィに関しては、勿論我々に関してもだけど……それは貴方の問題にはならないかしら」
「彼女からは逃げてきました。どうせ放っておいても片が付きます」
「一貫しない男ね」

 視界が白濁に包まれる。"■■の思い通りになれ"という呪詛が響き渡る。もうこの辺りが限界だろうか。最後の最後まで事務的な会話に終始するとは、なんとも。
まあ私は私だ。他の何者にも支配される必要はないだろう。その私が最も正しいと思える方向に進んだのだからこれでいい。私の中に貼り付けられた私以外が号泣している。
泣き叫びながら私自身を攻撃し始めている。だが、所詮カスはカスだ。垢のようなものだ。愛情に囚われた敗北者の残滓を一瞥し、私は口許を歪める。

「ま、好きになさい。貴方にはもう、後悔するための後が無いのだから」

 返事は聞こえなかった。情念――親愛の操るがままに体が跳ねる。好きだ、愛しているのだ、行かないで欲しい。それら偽りの想いが体を動かす。
椅子が転がる音がした。カップが倒れ、熱された液体が皮膚を焼く。気にせずに更に前に出ようとしたところで、キュッ、と。首が絞まる。

 全て、計算通りだ。感情が私を勝手に動かす事など、とうに読めていたのだ。だから、予め私は自分の首に紐をかけていた。
■■も、それに関しては何も言わなかった。こうする以外に手がないのが分かっていたからだ。別に、首を絞められても死にはしない。
ただ意識が落ちるばかりだ。手と足がバタバタと無様に跳ね回り、涙と涎が飛び散る。口が彼の名前を叫ぶ。実にリアルだ。しかしからくりに気づいた者には滑稽でしかない。
滑稽であるが故に意識の二分が生じる。ヤレヤレ、どうしたものか。意識は勝手に薄れていく。やはり一時の感情に振り回される者は馬鹿だ。
落ち着いて前進を止めて首の後ろに手をやって、結び目をほどけば良かろうに。

 誰も好かない阿呆な男に恋い焦がれて泣き叫ぶ自分を嘲りながら暗い世界へ。そういえばあいつは、初めて会った時に私の名前を当ててみせた。
まあ、当然か。それだけ深く愛し合っていたのだろう、彼と彼女は。しかし私たちはそうではない。巻き込んでもらっては困る。
"■■"と昔古明地さとりだったものの間には、きっとかたい絆があったのだ。しかし、"ピザ"と私の間に、そんなものはない。

 それにしても、同じ時間を何度も繰り返し、バグを累積させ、そこから抜け出す事が出来ないというのは全体どんな気分なのだろうか。
かつて、クズである自分から脱皮し一歩を踏み出そうとした男は、その弱さ故に崩れ落ちた。
ハッピーエンドをひたすらに求めた男が迎える終わりのない物語。意識を失う寸前に、私は老人から聞いた物語を思い出す。



[24754] 第26話 助けてと、彼は言った。
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:215024a8
Date: 2010/12/31 21:11
 私が彼女に出会ったのは、何処とも知れぬ暗い大地の底だった。どのようにしてそこに至ったのか、全く記憶がない。
気紛れに一人散策をしていた時に、ふと気が付くとこの地に立っていたのだ。知らぬ間に命を落とし、地獄にでも落ちたのだろうかと思った。
しかし、足はあるし心臓は動いている。何とも不思議な感覚であった。祭囃子だろうか、遠くハイヨ、ハイヨというかけ声が聞こえる。

 愚衆が騒いでいるのかと思い、酷く嫌な気分になった。馬鹿共は集まれば騒ぐことしかしない。ぴいぴい、ぎゃあぎゃあと、喧しいことこの上ない。
腹の底から熱いものが沸き上がってくるような感覚がする。必要な時に必要な時間だけ集まり粛々と作業するということがあれらには出来ない。効率というものを知らないのだ。
どこか音の聞こえない場所に行こうと思った。ぶらぶらと足の赴くまま歩くが音は小さくならない。第一、運動はあまり得意ではないのだ。
貯蓄は潤沢だったので家に引き籠もっていても四十過ぎまでは生きていられる筈だった。頭を使って負け犬から搾取し金を蓄えた。
その末路がこれである。世界が真面目にコツコツを推奨しているとでも言うのだろうか。馬鹿馬鹿しい。
クズはエリートの踏み台になり、更なる踏み台を生むためだけに生きていれば良い。だが、私の効率よく幸福を手にする人生設計は失敗に終わった。
これは予想を超えた事態である。どれだけ勉強をしても対処出来なかったことだろう。故に今までのやり方には全く後悔がない。
無いが、これからどうするかを考えねばならない。

 随分、長く歩いた。少し疲れたので座って休むことにする。楽しげな声も殆ど耳に届かなくなった。それがかえって鬱陶しいのだが耳を塞いで我慢する事にする。
冬の風は頬に冷たかった。もう少し太っていれば寒さに強くなれたろうか。私は骨と皮ばかりの人間である。無い物ねだりをしても仕方がない。
ポケットに手を突っ込むも、財布はない。身分を証明する物がない。そういえば家に置いてきたままにしていたかも知れない。
何せ最近の生活は便利なもので、家に居ながらにして大抵のものが手にはいるのである。

 先ずは迷子であるという自分の現状を把握せねばならない。そうすると、今までの感情にまかせた動きが少々馬鹿らしく思えてくる。
どれだけ嫌でも先ずは人の声のする場所に行くべきだったのだ。あの掛け声は日本の祭りでよく聞く類のそれであった。
であれば騒いでいるのは日本人だと考えるのが自然であろう。彼等に此処について問い、そうして帰路につくのが正しい選択だ。
少しばかり混乱していたらしい。疲れは抜けたことだし、また歩き出さねばなるまい。耳を塞いでいた手を退かし、立ち上がる。指先はかじかんでいたのでポケットに突っ込んだ。
短い瞬きを終えると、そこは暗黒の世界だった、などそんな使い古されたフィクションに惑わされてどうするのだという。私は常に冷静に、現実を見据えて歩くべきなのだ。

「残念ながら、フィクションではないのよ」

 ぼそぼそと呟くような声に振り返れば、背の低い娘が不愉快そうにこちらを見上げていた。
俗な言い方をするならば、運命の出会いというやつだったのだろう。もっともそれは"私にとっての"であり、彼女――古明地さとりにとっては災難の始まりだったのだが、
この時点で両者がそれを知ることはなかった。










 外の住居に帰る方法は教えて貰っていたのだが、私は地霊殿という名のある屋敷の居候としてなし崩し的に生活することになった。
その当時は理由など考えもしなかったが、結局は私も他の人間と同じだったということだ。自分を受け入れてくれるコミュニティがあればそこに甘んじてしまうのである。
今まではそのような組織が無かったために一人で居ただけのことなのだ。青い私はその事を頑として認めず、帰るのも面倒なだけだ、などと自らを誤魔化していたのだが。
館に住む化け物達とはあまり交流を持たなかった。私が興味を抱いたのは古明地さとりただ一人であった。常に彼女に付きまとっては迷惑ばかりかけていたように記憶している。
仕事というその一点だけならば有能な人材として働けていた自負があるのだが、プライベートで散々突っ掛かられて彼女は迷惑だったろうと思う。

 古明地さとりは私に会うたびに私の至らない点、矛盾点を指摘し続けてきた。私はその度に烈火の如く怒り彼女に食って掛かるのだが、毎回毎回叩き潰されてしまう。
二年か、三年か。敗北を認めるには随分長い時間を要したと思う。人間、そう簡単には変われないものだ。
特筆すべき事件は何もなかったように思う。ただひたすら彼女に敗北する中で、いつの間にか自分の中の棘が消えていくのを理解した。
その頃には彼女のペットとも、地霊殿の外の連中とも少しは会話が楽しめるようになっていた。

 古明地さとりに続いてよく会話したのは、彼女の妹である古明地こいしだった。さとりはこいしの事を常々不出来な妹だと言っていたが、私にとってはなかなか愉快な話し相手だった。
一カ所に留まることなくふらふらと各地を放浪する性質のため、会うのは稀だったのだが、こいしは会話するたび私に新しい視座を与えてくれた。
初対面の時は散々だったが(何せ殺されかかったのだ。腹を斬られた。内蔵にまで及ばなかったのが幸いである)、そのおかげで新たな出会いもあった。

 出会いと言っても、今まで顔も見たことのない相手なのだが、パチュリー・ノーレッジという魔法使いと接点を持った。
鎮痛の首飾りなるものを貰ったときに、そのあまりの効用に感激し、彼女に魔法について教わろうと思ったのだ。
文通と魔導書による勉強には無理があった。当時は指先に火を点すのが精々だった私だが、それでも楽しかった。

 




 おだやかな生活は、いつまでも続くものだと思っていた。だがそれは不可能というものだ。私は人間であり、彼女たちは妖怪だ。
怯えからか、中年になった私は確かなものを手に入れようと躍起になった。自分だけが地霊殿の異分子であるということが、どうしようもなく怖かったのだ。
普通の人間の心が、今更になってよく分かる。共同体に残るためならば、人は何だってする。
私はさとりに自分の恋人になってはくれまいかと頼み込んだ。そうしてくれなければ死んでやると、そう言ったのだ。
彼女は肩をすくめ、それを了承した。所詮は張りぼての関係である。こいしには、自分の妹になってくれまいかと頼み込んだ。
本当に、愚かだ。そんな名前だけのものに如何ほどの価値があるだろう。価値がないからこそ、彼女達はどうでも良いと私の申し出を受けたのだ。
そして彼女達はそれが悪い結果を生むものであるということを、きっと理解していたのだろう。
関係はその名ばかりのもので、我々の間で表面上何かが変わることはなかった。しかし今までなあなあであった物が名を持つことで、私は更なる恐怖に怯えた。
馬鹿な昔の私も、所詮こんなものは仮初めだと心のどこかで理解していたのだと思う。妖怪は緩慢に他者との関係を構築していく。
十年、二十年、三十年。友人となるのに百年を要するような輩も居るかも知れない。地底の妖怪ならば尚更だ。
彼女たちは拙速に走った私をむしろ軽蔑したろう。そう思うと、耐え難い恐怖が私を襲うのだ。
捨食の魔法を習得できれば道が開けたかも知れないが、私には環境も才能もなかった。

 人間、万策が尽きると人智を超越した力に祈るらしい。他力を借りる事を何より忌み嫌っていた筈の私は、一人祈った。
彼女たちが私を好きになってくれるようにと願った。勿論実在する神に祈ることなど出来ない。
その程度の恥は私も持ち得ていたし、実際問題、神がそんな低俗な願いを叶えてくれる筈がないと思っていた。
だから無駄だと知って祈るのだ。馬鹿な人間と何ら変わらない。だが自分が愚かだと思っていて尚そうせざるを得なかった。
私は地霊殿の皆に嫌われてはいない。だがそれだけだ。彼女たちにとって、私は特別な存在でもなんでもない。ただの一来訪者に過ぎないのだ。

 愚かな中年は愚かな老人になった。私はオロオロと祈り続けていた。魔法の勉強は、私を救いはしなかった。
当然だ。魔法を手段とする限り魔法の道は開けない。魔法それ自体を目的とするようでなければ私のような男が前に進めるはずがないのだ。
それにしても、何においても躓く事の無かった自分がここ一番で敗北するとは何という喜劇だろうか。
きっと、他者を求めたのが間違いだったのだ。私は一人で生きていくべき者だったのだ。それでも、それでもやはり、私は他者を求めずにはいられなかった。
一度そのぬくもりを知ってしまえば、もう抜け出す事が出来なくなってしまうのだ。

 間違えて、転がって、被害者意識にまみれていた愚か者に手を差し伸べる者があった。私欲に汚れた願いを叶えようとする者がろくな存在ではないことを、昔の私なら見抜いていただろう。
行きすぎた好意の御し方を私は知らなかった。初めて知ったその強い感情に私は操られて、馬鹿になっていたのだ。他者を愛せば愛する程、その視野は狭くなる。
救い主の正体を当時の私が知ることはなく、また代償の重みを理解することもなく、私は迷いさえせずにそれの手を握った。
要求されたのは、未来。与えられたのは、他人を自分の元に引きずり込む力。









 翌日から、少しずつペットの振る舞いが変わりだした。私と共にある時間が増えた。さとりとこいしの姉妹は、変わらぬ距離をとり続けた。
二ヶ月が経ち、三ヶ月が経つ頃にはその変化は私自身が恐怖するほどのものに変わった。それは、あまりにも露骨だった。
誰も彼もが私に注意する。誰も彼もが私に不相応な愛情を与えてくれる。故にさとりが常と変わらぬ様子で私を問いつめた時、私は心底安堵したのだ。
私は彼女に全てを吐露し、彼女はその全てを聞いた。そうして、最終的に彼女は私を殺すと宣言した。私は特に反論せず、そのようにしてくれと頭を下げた。
猶予は数日与えられた。やり残した事があるならばその数日でやっておくようにとのことだった。そして、その数日の内に、古明地さとりは殺された。私の死を快く思わない連中の仕業だった。

 こんなものを求めた訳ではなかった。私は地霊殿の皆に認められて、皆の一員として暮らしたかっただけだったのだ。その結果が、これである。
自分の幸福をただひたすらに追い求め、他人を踏み潰し、最後には手に入れた全てが掌からこぼれ落ちていった。自分は間違っていたのだと理解した。
だがそれはあまりにも遅すぎた。全てを失ってから反省しても意味はないのだ。さとりの居ない世を生きてどうするのだという。
私は何の迷いもなく自らの首を掻ききった。そうしてさとりに謝罪しようと思った。彼女に会わねばならないのだ。何としても会って、自分の不甲斐なさを詫びねばならない。

 だが、再び目が覚めたとき、私はまた山の奥にいた。カレンダーの日付は、数十年前のそれに戻っていた。
神の贈り物かと思った。全てをやり直せるのかと嬉々とした。しかし、鏡を覗き込んだとき、その喜びは空寒い恐れへと変わった。
確かに私は時が巻き戻るのに応じて若返っていた。だが、鏡の中で私を見つめ返すその男は年齢と比してやや老けているように思われた。
中年とは言えないまでも、若人かと問われれば首を傾げざるを得ない。年齢に相応しい容姿をしてはいなかった。何かが、中途半端だった。何かが、ちぐはぐだった。

 それでも良いと、私は目を背けた。それでも幸せになれるのならば良いと思った。もう贅沢は言わないつもりだった。
彼女の隣に居られれば、何も要らないとそう思った。数年後、私は再び地底の土を踏み、古明地さとりに出会う。
穏やかな日々が続くはずだった。しかし、そうはいかなかった。彼女たちの好意が、少しずつ私に向けられ始めたのだ。呪いは、消えてはいなかった。
怯えた私は古明地さとりに前回の記憶の全てを見せた。早い段階で彼女に助けを請えば何とかなるのではないかと思ったのだ。私は他者に縋ることしか知らない愚かな男だった。
彼女に対する恋慕は、母親に対する甘えに酷似していた。結局訪れたのは、前回と同じ結末だった。

 戻ってすぐに自殺しようと、誰にも会わないように逃げ回ろうと、何も変わらない。私が死ねば、時は巻き戻る。そして、少しだけ老いる。
この状況から救われたいと思い賢者と呼ばれる妖怪や神にも話を聞きに行ったが、危険すぎるということで排除されるだけだった。
私は怯えながら魔法を学んだ。それだけが私の縋る事の出来る唯一のものだった。魔法をある程度学ぶことで、私は少しだけ広く世界を見ることが出来るようになった。
利己的にズラしていた視線を、正しい位置に向ける事が出来るようになった。そうして、私は見た。自分を取り巻く腕の山を見た。
パチュリー・ノーレッジは言う。魔法に限りは無い。私はその言葉を信じた。その言葉を信じ、必死でこの腕を研究した。
そうして長い、永遠とも呼べるような魔法の修行の末、私を縛り付ける悪しき物を切り離して切り離して切り離して――














「――それで終わり。ハッピーエンドのはずだったのだがね。その切り捨てたゴミの山が集まって、結果生まれたのが、君だよ」

 ハカセが語り終えると、どさりと一冊、本が空中に現れて、落ちた。僕にはその題名すら読み上げる事は出来ない。
だが彼はそれの背表紙を愛おしそうに撫でると、机の上に置いた。かつて妹さんに腹を射抜かれた僕が運ばれたあの部屋に、我々は居る。
射し込む白い光が部屋を淡く照らし出していた。ここで寝込んでいたのがつい数日前の事のようだ。本当に懐かしい。

「僕の父の名前が僕と全く変わらず■■で、母の名前がさとりで、妹の名前がこいし、でした」

 そうかね、と彼は言った。まるで他人事のようだった。しかしその表情はどこか悲しそうでもあった。

「私の削ぎ落とした余剰物の集大成にして夢の垢。つまり彼等は君の一部であり、私の欲したものが歪に完成されたものなのだろう。更に言えば、君の二十余年の歴史は偽りで、
実際は私がループした時から君の生は始まっているのだよ」
「古明地さんが母の記憶の影響を受けていたのは」
「見えているんだろう。その腕は。つまりはそういうことだよ」

 彼は一度僕に背を向けて、窓の向こうを見やった。その背中にかける言葉が無く、僕はただ沈黙していた。古書の匂いが部屋中に漂っている。
また本が三冊、こぼれ落ちる。きっと、彼が読んできた本だ。丁度今この時、何巡目かの彼がパチュリー・ノーレッジさんから借りた本だ。 

「コーヒーでも用意できれば良かったのだが」
「気遣いは結構ですよ」

 相変わらず謙虚だと苦笑する男に、僕は首を振るしかなかった。この部屋は僕にとっても懐かしいものだが、彼にとってはそれ以上に価値のあるものだろう。
改めて会ったその男はやはり好々爺然としていた。まるで僕が来るのを待っていたかのようだ。故にこそ僕にはどうしても追及せねばならないことがあった。
のんびりと悟りきっているかのようなこの男。彼がこのような様を晒して良いはずがない。声を抑えて、問う。

「全ては貴方の始めた事なのに、どうして終わらせに来なかったのですか。僕を待たずとも、貴方の方から来るべきではないのですかね。
水橋さんも、古明地さんも、苦しんでいます。ハカセはそれを是とする程愚かではないはずですよね」

 彼はイヤイヤと首を振るのだ。瞳の奥には小さな光が見える。まるで、まだ終わっていないとでも言いたげである。

「全てを強引に片付けるための方法は、確かに揃っている」
「ならば、実行に移しましょう」
「だが」

 ハカセは眉をハの字にして悲しげに微笑んだ。その表情は、確かに父に似ていた。

「私は君のような人格のある垢を生み出すつもりはなかったのだ。駄目だな、私は。よかれと思ってやったことが全て悪い結果を生む」
「臆しているのですか」
「違うよ」

 彼は笑い、君は強いな、と言った。その言葉はやけに印象的に響いた。壁に当たり、反響し、僕の心の奥を打った。何でもない言葉のはずだった。
反駁すべき言葉のはずだった。しかしハカセの万感を込めた言葉の前に、僕は沈黙する他無かった。

「君が何故そんなに醜い体をしているのか、考えた事はあるかな」

 唐突に、彼は問う。僕に教え諭す様を取ってはいるが、今のハカセは懺悔をする罪人にも似ていた。 

「いえ。詮無いことです」

 それはそうだが、とやはりハカセは煮え切らない態度である。まるで僕が真相に踏み込むのを恐れているような調子である。
彼は間違いなく、自分の死など恐れてはいない。恋人に会うのだと言っていたあの気迫は消えていない。目の奥の光は小さく揺らいでいる。そして、消えることはない。

「君は私が要らないと思った物の寄せ集めだからだよ。ありとあらゆる醜悪が、呪いと共に君の体を構成している。
記憶の中の君の家族が皆美しいのは、私の願望を投影しているからなのだろう」
「……そんなことは些事でしょう?」
 
 分からない人だ。何が言いたいのだろう。僕は少しだけ苛々していた。こんな下らない話を聞くために待ったのか。水橋さんを危険に晒してまで。
全ての準備が整うまで急かすのは良くないと思ったから黙っていたのに、これはなんだ。憤りを口にしようとした僕を、彼は両手を出して留める。

「本当は、気づいて欲しくなかった。君は私と違って優しく、強い子だ」
「競歩大会の時にはもう、違和感を覚えていましたよ。何故星熊さんはあんな長い机の端っこに座っていたんですかね。隣に誰か居ないと不自然だ。
何故、大会後の宴会場はあんなに広かったんですかね。たった数人しか居ないのに。全く手の付けられていない料理もいくらかありました。不自然です。
本当はあの場に誰か居たんじゃあないですか。貴方と親しかった誰かが。それに……大きな事件は何度も起こった。でも誰も動かなかった。これが、一番妙だ」
「此度程ではないが、外来人の数が増えていたのは本当でね。競歩大会は常に催されていたのだ。私は一度も完歩出来なかった。
だのに君はそんな体で立派に、私を背負って歩みきった。確信したよ。君は私とは違うと」
「今はそんなこと、どうだって良いでしょう! 現実を見て下さい! 水橋さん、古明地さん、星熊さん!! みんな苦しんでいる!
賢い貴方の事だ、自分から全てを切り離した時にはもう、それを隔離でも何でもする魔法を完成させていたんじゃあないんですか!?」
「正解だよ」

 だったら、と叫ぶ僕を、彼はやはり静かに制した。尊敬する男がそうするから、大恩のある人がそうするから、僕は黙り込むしかない。

「私は君の言うとおり、自分から切り離された醜いゴミを世界の外に捨ててしまうつもりだった。そのつもりで君の元を訪れたんだ。あの冬の日、覚えているかね?」
「弱い雨の日でした。僕は首吊りに適した大木を探していました」

 そうだ、と彼は微笑んだ。やはりそこにある表情は、子を見つめる親のそれと同じだった。

「まさか人間の形を取っていたとは思わなかったよ。しかも、自分を要らないものだと自覚しているとはね。それは私の知る腕の様とは大きく異なっていた。
何が何でも他者を自分と同じ場所に引きずり込み、そうして他人の不幸を啜ることで歓喜する連中と、君は明らかに違っていた。私は君の存在に興味を抱いた」
「とてもそうは思えませんでしたけど。貴方はたった一人の恋人を、古明地さんを追い続けていた」
「所詮は片恋だよ。綾鼓をかき鳴らしても意味はあるまい。私はもう自分が恋を遂げられるような年ではないことを理解している。
それに私の恋したさとりは、もうこの世には居ない。何処にいるのか、私にも分からない。第一存在していたとして、こんな醜い妖怪爺がはしゃいでどうにかなる軽い女ではないよ、あれは」
 
 なあ、と彼は同意を求めるように皺だらけの顔で笑ってみせた。誰かの笑顔に似ていると思った。それは、多分僕のものに似ていたのだ。

「私は研究と称して君の観察を続けた。会話を直接交わすことはなるべく避けたがね。その腕に掴まれてはろくな判断が出来ない」
「研究以外に興味がないのかと思っていました」

 ははは、と彼は楽しそうに笑った。実際、研究は好きなのかも知れない。凝り性という感じがする。ああ、駄目だ。思考が現実から逃れようとする。
僕は一度強く息を吸い、彼をしかと見つめた。絶対に、もう目をそらしたりはしない。

「君は私をよく慕った。だが私は君をこそ尊敬したのだ。確かに容貌こそ驚くほど醜いが、その腕さえ無ければ君はきっと多くの人を幸せにしてきた筈だ。
身に覚えは無いかね。何も悪いことはしていない筈なのに、精一杯頑張ったはずなのに、不思議と周りの人間が不幸になっていった経験は」
「僕がクズだったからです」
「違う」

 彼は静かに断言した。

「人生は皆の思う程生ぬるいものではない。だが君の思っている程難しいものでもないのだ、本当はね。君はそもそも、何をしたって周囲を不幸に引きずり込むように出来ているのだよ」
「だったら……!」
「そう、だったらその不幸を生み出す素をクズの塊で出来た宝石である君から引きはがしてやろうと私は考えた。そうして、外にいることの出来る短い猶予期間を用いて、私はあの箱を作り出したのだ。
ただ世界からはじき出すだけなら、それこそ一冊の魔導書をマスターすれば事足りるのだがね」

 彼の発言の非効率性を指摘したかった。クズの塊ごと諸悪の根元を葬り去れば良かったのだ。何もわざわざ分別する必要があるものか。
しかし、彼の話にはまだ続きがありそうだったので、僕は沈黙を守った。

「君には幸せになって欲しかった。だが、例え腕を引きちぎったとして、君はこの現代社会では生きていけないだろう。遅かれ早かれ、君は幻想になる。
故に私は腕をズレた世界に落とし込み、そして君を地の底に送り込む魔法を組み立てた。前者は前述の通り既に完成していたので、問題は後者だった。
まあ……幻想郷の結界は堅固だが、しかしあまりにも優しい。だからそれを知る者を幻想郷は容易く受け入れてくれる。山の上の神様達も、ここに来るのには大して労苦は無かったそうだよ」

 だが、と彼は憎々しげな表情を作った。

「その腕は、君とあまりにも密接に繋がりすぎていた。幻想の世界に落ちようとしていた君を、腕は決して離さなかったのだ。私の誤算だった。君の肉の一部くらい、切り捨ててやれば良かったのだ」

 一つ、疑問が浮かんだ。しかしそれは僕のこれから向かう道とは何の関係もないものだった。故に問いを封じ、僕は話を聞くことに専念する。
水橋さんの顔が浮かんだ。僕は頭を振って、それをかき消した。

「仮に切り離されていたとして、自殺志願者の僕は食い殺されていたでしょう。皮肉な事ですが、腕があるからこそ、僕は今まで生きながらえてきたのです。水橋さん達に、寄生してまで」
「私は、そうは思わない」

 ハカセの目が強く輝いた。やはり芯のある男なのだ。僕とは違う。■■という男は、ピザなどというまがい物の、ゴミの塊とは何もかもが違う。
そのエネルギー、その才、外見にしたって、きっと若い頃は悪くなかったのではないだろうか。

「彼女たちは確かに人を食う。だが、私は心底弱り切った連中を妖怪が助けるのを何度も見てきた。捨てられて幻想になった赤子を妖怪が育てるということもある。
妖怪が喰らうのは、悪人だ。確かに自殺志願者も喰らいたいと思っているのかも知れないが、今の妖怪はそこまではしない。彼等が自覚している以上に、人と妖怪の距離は近い」

 反論は出来なかった。地の底、そして幻想郷についての知識は間違いなくこの人の方が上だ。何度と無く此処を訪れたハカセに僕が何か意見する事は出来ない。
それに、僕の歩んできた道はハカセのそれと大差ない。故に今更僕の口出しできることなど、無いのだ。この件に関しては。

「そう言うのであれば、箱をそのまま残してきたのは何故ですか。あれを破壊していれば、余計な被害者が出ずに済んだ」
「それは一つの賭だった。君は勿論覚えているだろう、こいしに腹を裂かれた時のことを」
「裂かれたというか、大穴を開けられたのだそうです。それでピンピンしているのだから、やはり人間ではありませんね。貴方に胸を穿たれても死にませんでしたし」

 その事については済まなかったと彼は謝罪した。ああまで過激に動かねば意味がないと分かっていたからだろう。
まあ、自分の傷自体はどうでも良いのだ。僕がそれに関して最も気味が悪いと思ったのは、回復の異様な速度を妖怪のうち誰も指摘しなかったことだ。
理性的な意志は腕の範囲外と誰が決めただろうか。彼女達の思考は、僕の都合の良いようにねじ曲げられていた。腕の力は増しているのだ。
古明地さんはハカセを殺そうとしたらしい。だが、僕を殺そうとはしなかった。最後まで見守ってくれた。それは間違いなく、腕の仕業なのだ。

「あの時こいしが引きずっていた男が居たろう」
「外では世間を騒がせた殺人者だと聞きました」
「ああ。妖怪に殺されるべき本物のクズだ」

 彼は一度大きく咳をした。やはり、老いているのだ。腕が僕の周りで踊っている。まるで彼の衰弱を嘲笑っているようで腹立たしかった。

「彼のような必要のない人間は彼方此方に居てね……後に、大暴動を起こすんだよ。多くが死に、幻想郷は少しだけ住みにくくなる。
幻想郷の賢者達は解決のために手を大いに汚さねばならなくなるから、人と妖怪の間の軋轢が、大となる。彼等が何らかの決定を下すだけで、幻想郷の楽園性は確かに揺らぐのだ」 
「貴方が何もせずとも暴動は起こっていた、と?」
「然り。故に賢者達は快諾してくれたよ。特に山の連中は話が早かった。
頭痛の種は消え、しかも今の幻想郷に相応しくない大悪行を果たしたその男は勝手に死んでくれる。賢者は汚い決定を下さずに済む。効率的だろう?」
「死ぬ……まあ、それは措くとしましょう。しかし、人の命を計算するのは」
「人など、どうでも良いよ。私は妖怪が幸福に暮らせればそれで満足だ。それに暴れ出してそれを異変の規模にしたのは彼等だ。自業自得だよ」
「煽ったのは貴方でしょう。しかも一人手にかけた」
「だが、それは異変と呼ばれる程の規模ではない。ただ一度の殺人、その重みは幻想郷においては大したものではないよ。
現に人間側の正義である博麗の巫女は、地底のそれに連動する地上の騒ぎを鎮圧することに腐心した。
彼女の直感は、彼等を悪だと見なした訳だ。そうでなければ排除はこうもスムーズには行かなかっただろうな。
まあ害のない、いわば"真の外来人"達はどうせすぐまた幻想になってこちらに舞い戻ってくるだろうさ。
皆それを理解している。ここに醜くしがみつこうとする者は、つまりはここに戻って来ることが出来ないと、正規の手段で境界を越えられないと理解している連中だ」

 言っている事の意味はよく分からなかったが、しかし妖怪を重視する彼の気持ちは僕にも分かる。外来人のために走り回った僕はしかし、外来人を結局の所個人として認識することはなかった。
しかし妖怪は一人一人を独立した個人と見なし、そのようにして交流していた。この差異は、数年もすれば顕著になるのかも知れない。やはり僕は口をつぐむしかなかった。
彼は間違っているとは思うのだが、僕にはそれを指摘する権利がないのだ。所謂"お前が言うな"である。

「妖怪が幸福になればそれで良いと言っておきながら、よく僕を生かそうとしましたね」
「君は全く人間らしくないからな……私の理想の具現化と言っても良いのかも知れない。徹底的に自分を殺し、相手のために動こうとする人間。私は、君のようになりたかった」
「ですが、皆を不幸に導く」
「それは君のせいではなかろう」
「些事です。お願いですから、地底の皆さんの幸福を考えて下さい。貴方にも見えるでしょう、この地底を覆い尽くす腕が」

 見える、と彼は言った。

「だから私はたった一つのハッピーエンドへの道に懸ける事にした」

 そう言って彼は、僕に掌を向けた。この感覚は記憶している。懐かしい心地よさ。古明地さんの顔が思い出された。生八つ橋の味と、燃えるような顔の火照りもだ。
彼女は僕になんと言っただろうか。思い出せない。思い出せないが、彼の言いなりにになるのはまずいと思った。これまでの話から、ハカセの結論は読めている。
彼は僕を殺さない。そして腕の対処への言及を避けている。このことから推すに、彼は問題を先送りにするつもりなのだ。たとえば僕や皆の記憶を奪ってしまうとか、そんな方法で。
そうしてゆっくりと問題の解決を図っていくつもりだったのだろう。

「暗示か何かですか。僕に問題の事を忘れさせ、僕を愛し助けようとする他の皆に解決させようと?」
「君を助けようとする者は多い。それらの力を集めれば……」

 もう、この男の無策には我慢がならなかった。

 じゅう、と音を立てて彼の手が焼け落ちる。悲鳴は無かった。ただ、ハカセは驚いたように僕を見つめるばかりである。
周囲に浮かんでいるのは真っ赤な光の玉だ。競歩大会の時に僕の前に現れ、そして多くのリタイアを生み出した"怨霊"だ。
腕から次々に真っ赤な光が飛び出して、舞い始める。それは無差別に、僕の身をすら焼いていく。
パチュリー・ノーレッジさんの首飾りのおかげで、痛くも何ともなかった。彼女は僕の師ではないが、それでも何度も僕を救ってくれた。
一度お礼を言いたいと思ったが、結局それは果たせぬまま終わるのだろう。彼女は僕の対極にある人物だ。見えない腕で、遙か遠くの誰かを意識せぬままに幸福へ導く。
僕は皆を不幸にするクズとして、しかし彼女に恥じぬ働きをせねばならない。皆の幸福を高い確率で最大にするための行動を取らねばならない。
この目の前の男のような、理想と計算がごちゃまぜになった狂った行動に出てはならない。全てを理路整然と片付けなければならない。あるがままに。全て、決まった通りに。運命の、通りに。

「ハカセは僕が人を恨まない聖人のように言いますが、それは誤りです。ただ一度、古明地さんの演説が騒がしくて聞こえなかっただけで、
誰も彼女の言葉に耳を貸さなかったというだけで憤るのがこの僕です。質問なのですが、競歩大会の時、いつもあのようにアクシデントが起こっていましたか?」

 ハカセは答えなかった。だがそれが答えだ。彼は腕を下げて、深い深い溜息を吐いた。広い肩が一度大きく持ち上がり、そしてずるずると下がっていった。
そのまましおれてぺしゃんこになってしまうのではないかという程の、気の抜けようだった。覇気が抜けた。狂気が消えたと言っても良い。
たったの一撃で。ただ一度のイレギュラーにぶつかっただけで。しかし、それが彼だ。自分の計算に合わない事態にぶつかれば倒れてしまう。ハカセの人生。

「僕はこの腕がどのようにすれば暴れるのかは分かっていました。しかし、止める方法は知りません。そして、腕は地底の隅々にまで行き渡っている」

 これが何を意味しているのか、彼ならば理解できるはずだった。決断をせねば、二者択一をせねば全てが失われる事もだ。
彼は甘えた第三の選択肢で全てを失おうとしている。だから急かさねばならない。このままならば、地底は甚大なダメージを被るだろう。
そして、僕とハカセは殺されてしまうだろう。そうなれば、全てがぱあだ。ハカセは死に、腕を継いだ僕はループする。不幸の連鎖はここで止めねばならぬのに、それがまた無用に続くことになる。
彼は放心したように長い長い息を吐くと、

「私にその腕を渡してくれたのは……」
「分かっています。誰にも目を向けて貰えない消えかけた神さまや、動物の死骸。我々が下手に情をかけたばかりに、成仏することが出来ずこの世に執着してしまった者達。
そして今も、救いを求めて自分の側に犠牲者を引き寄せている。無視しろと、言われていたのですがね」
「救いようのないあほだな、私は」
「僕もですよ」

 笑う僕とは対照的に、彼は肩を落として膝をつく。生気の抜け去った顔が、急速に老いていく。気力だけで、命を長らえていたのだろうか。それとも、何らかの魔法でか。
いずれにせよ、彼からは生きる意図が根刮ぎ奪われてしまった様子だった。どちらにせよ、ここまではしゃいでおいて生きていられる訳がないだろう。
僕は座り込み、彼が再び言葉を発すのを待った。妖怪爺は、ただの爺に変わりつつあった。しかし彼は、一冊の本を手繰り寄せると、骨張った指でそのページをそっと開く。

「ここに書かれているのは、君とその腕の両方を、この世界からズラす魔法だ」
「はい」
「人間ではない君は、老いることも死ぬことも出来ず、ただ一人で永遠にこの世界を眺めながら、しかし触れる事すら出来ず、この腕と共に生き続けることになる」
「はい」

 老人の目に、ぎらりと光が宿った。その目には涙があった。妹が泣いたあの日、努力が無駄だと知ったあの日。僕に真実を伝えた父の顔が思い出された。

「はいはいはいはいと……理解しているのかね、"ピザ"!」
「……はい、■■さん。それとも、父さんとお呼びした方が?」

 僕は笑った。ここに来て、一番――いや、二番目に幸せだった。最も幸せだったときは、やっぱりあの競歩大会。歩ききって水橋さんの胸に倒れ込んだあの時だ。
僕の人生の絶頂はあそこだった。しかし、そこには及ばないまでも、今だって十分に幸福である。皆が迷惑している化け物を、僕がたった一人で封印してしまうのだ。
それって、凄くないだろうか。まるで、悲劇の勇者様のようではないだろうか。大好きな皆のために身を挺して盾となる。昔憧れたファンタジーの主人公に、僕はなれるのではないだろうか。
そう思うと、うきうきして、わくわくして、体が震えてしまうのだ。こんなにも幸福なことがあるなんて。

 嬉しすぎて、涙が出てくる。止まらない。

「始めて下さい。もとより、そのために生まれた僕なのでしょう? 生まれてきた意味を、天命を全うする。それ以上の幸福がどこにありましょう!」

 彼は、そうだな、と言った。やはりハカセは、泣かなかった。目を輝かせながらも、そこから涙を落とすことはなかった。
その代わりに、何故か頬の肉が引きつって笑えない僕の代わりに、無理矢理口角を持ち上げて笑うのだ。
ハカセは静かに魔法を唱え始めた。それはきっと、彼の師匠に言わせれば稚拙極まりない代物なのだろうが、しかし紡ぎ出される声、描かれる軌跡に僕は確かに心を奪われた。
これは見知らぬ誰かをも救う手なのだ。これが、僕のようなクズにすらもたらされる光なのだ。明朗な響きを聞きながら、僕は静かに目を閉じた。
ああ、これはまるで歌だ。僕のような人間でも歌であの世に送って貰えるのだ。

 段々と、意識が遠くなっていく。ハカセの力を振り絞った詠唱が続く。僕は最後に一つだけ祈る事にした。それは誰にとっての救いにもならないことだ。
しかし、祈らずにはいられない。かつてハカセと名乗った男が、どうか恋した女性に会うことが出来ますようにと。彼にとっては、それだけが望みの筈だった。
だがそれすらも諦めて、そして唯一のハッピーエンドの道まで断ち切られては、あまりにも、あまりにも、救いがない。だから祈る。彼がもう一度、機会を得ることが出来ますようにと。
必死に足掻いて、一度も幸福をつかみ取ることの出来なかった男に、ささやかな救いを。彼が古明地さんに受け入れられて欲しいとまでは言わない。それは贅沢だし、彼女に対する冒涜だ。
しかしちらりと一度目にするくらい許してやって欲しい。

 天の神様は何でもお見通しだという。閻魔大王は何でも知っているという。ならば、お願いします。
どうか、彼にもう一度だけ幸せを与えてやって下さい。自分の全てを捨ててまで、不幸の連鎖を断とうとした勇気ある男なのです。これまでの生で罪は十分罰されました。
足りないのなら、僕が罪の全てをうけます。もとより僕はその為に生まれてきました。だからお願いします。彼に、■■という哀れな男に、一度だけでいいから、幸せを与えてあげてください。

 祈りの歌が終わり、全てが闇に沈んだ。それは終わりであり、始まりでもあった。でも僕はそれで満足だった。これからここで、ずっと眠り続けよう。それで良い。それが良い。
もう誰にも迷惑をかけることはない。もう誰も不幸にすることがない。僕がどう動こうが、誰にも影響を与える事がない。素敵だ。何て素敵なんだろう。
ハッピーエンド。最高の、ハッピーエンドだ。でも、何故だろう。ハッピーエンドだというのに、僕の涙が一向に止まる様子を見せないのは。

 唇が、何か言葉を紡いだ。僕の耳はそれを聞く事を拒んだ。



[24754] 第27話 オーバーキル・ハッピーエンドメイカーズ
Name: 口-1太郎◆691e334e ID:215024a8
Date: 2011/01/03 01:10
「おい。ピザ、ピザ」

 耳元で悪戯っぽく響く声に目を覚ます。むわっ、とした夏の熱気が体を襲った。流れる汗に辟易しつつ体を起こす。浴衣は寝乱れていたが常のことだ。両者共に気にすることはない。
顔を上げると、困り顔の愛おしい妖怪の姿があった。水橋パルスィさん。もう同居をはじめて何年になるだろう。彼女も僕も、全く年を取ることがない。
朝起きると常に彼女の苦笑が出迎えてくれるのは本当に幸福だ。雪の白を更に濃くしたような肌に僅かな赤みが差しているのは、いつ見ても美しいと思う。
これが生きているのだから、世の中の神秘とは恐るべきものであると感じる。僅かにウェーブのかかった金の髪は今日も僕の目をさらう。

「何をぼーっとしてるんだよ」

 苦笑する彼女に、いけないいけないと頬を叩く。惚けていては一日が始まらないではないか。まあ水橋さんの顔を眺めながら終わる半日というのも悪くないとは思う。布団を畳み、体を伸ばす。
胸に湿っぽい空気が取り込まれる。冬は気にならなかったが、やはりジメジメとした夏の地底というのは半ば地獄である。それでもこの人が居るならと思ってしまう僕は幸せ者だ。

「水橋さんは今日も綺麗ですね」

 素直な気持ちを口にすると、止せよと彼女はちょっと照れたように手をひらひらとさせる。この顔が見たいという欲気も確かにあったので、満足である。
互いが互いをどのような場所に位置づけているのか、僕には分からない。でもそんな不確かでもやもやとした間柄というのも悪くないなと思うのだ。




 顔を洗い、パチュリーさんからお借りした本を読む。魔法の勉強を始めたのはつい最近のことだ。勤勉な僕ならと古明地さんが推薦してくださったのだ。
はじめこそ才能のない自分が、と怯えたものだが今は違う。少しずつ様々な事が出来るようになる自分に、自信が持てるようになってきた。今年の祭りではちょっとした技を披露するつもりだ。
パチュリーさんは地底など好きではないらしいのだけれど、特別にそれを見に来てくれるのだという。練習にも身が入るというものだ。
地上の人間によれば、パチュリーさんはとても美人らしい。お前なんかにゃ勿体ない師匠だぜ、と笑いながら話してくれた白黒の少女の表情が印象的だった。
その女の子も凄腕の魔法使いらしく、また会ったら術を見せて貰いたいなと思っている。まあ、僕にとってはパチュリーさんのそれが至高なのだけれど。

 読書が終われば、ランニングだ。水橋さんがご飯を作って下さっている間に星熊さんに課せられたノルマの達成を目指す。今はなかなかのペースで1里を走れるようになっていた。
次の大会までに完"走"できるようにする。それが僕達の目標である。星熊さんもピザなら出来ると言ってくれたし――

「おおい!」

 噂をすれば影。今日も今日とて名状しがたい、ある特定の人種にとっては扇情的であろう衣類に身を包んだ鬼がやってくる。巨大な杯を片手に随分楽しそうだ。
彼女の側には屈強そうな男共が何人も伏している。思わず苦笑してしまう。

「星熊さん。また飲み比べですか」
「あはは。他愛ないねえ」

 彼女の呵々大笑が耳に心地よい。ぐいぐいと杯を干しながら併走する星熊さん。やはりただ者ではない。体力が付けば付くほど、妖怪というのは規格外なのだなあと痛感する。
でも、魔法を勉強し始めた僕だって負けてはいない。いつかは異変とやらにも関わってみたいと言ったのだが、男のやるもんじゃあないと怒られてしまった。残念だ。
それでも強くなれば付き人役くらいはさせてもらえるかもしれないとのことで希望を捨てずに頑張っている。やっぱり力を付けたら試してみたくなるのが人情だ。

「いい汗をかいてるじゃないか」
「帰ったら即風呂なんですよ、もう。水橋さんが汚いって怒るもんだから」
「はっはっは。ロマンが分かってないんだよなー、あの女は」

 僕は同調的に笑うに留めた。水橋さんはとっても地獄耳なのだ。あの長くて可愛い耳は伊達ではない。一度怒らせてしまうと後が非常に大変なので迂闊な事は言えないのである。
そんなところも含めて僕は彼女が大好きだ。 

「いやー。でもお前みたいな奴がスポーツに目覚めてくれて私は嬉しい!」
「やってみると楽しいもんですね、努力。自分が変わっていくのを感じます」
「そうだろ、そうだろ」

 しばらく話しながら走ったが、星熊さんは何か用があったらしく、やがて別れることとなった。
彼女と走る間ちょっと無理したので脇腹が痛いが、まあ好きな人の前でそうするのは男のサガである。
悲しいが後悔している暇はない。胸を張って前進あるのみである。早朝の騒がしい旧都をせっせと走る。この時間の美味しそうな匂いがまた大敵なのだ。
腹を鳴らしながら走る僕においでおいでをしているように見えてならない。帰ってきて満腹でした、では水橋さんに顔向けできない。絶対怒られる。

 かき氷くらいなら良いかな、と汗を流す体が欲を出す。店のオヤジがにやにや笑う。負けてはならない。僕はブンブンと頭を振って妄念を切り捨てる。
帰ったら水橋さんと美味しいご飯なのだ。その前に風呂だが。また腹が悲しく鳴き声をあげる。運動するようになって人並みの食欲がついた。やっぱり食事は楽しい。
特に、好きな人がつくる好きな料理はだ。

 今日は昼から地霊殿の掃除がある。こつこつアルバイトをして、みんなを驚かせてみたいのだ。計画は古明地さん以外には内緒である。
ちょっとしたお祭り騒ぎにみんながどんな反応をしてくれるのか。とても不安で、しかし楽しみだ。
あんがいしょぼくて苦笑されてしまうかもしれない。それでもいい。美味しい酒とつまみさえあればお祭り騒ぎには事足りる。唯一の心配事は

「失敬ね。私の口は軽いよ」

 大きな買い物袋を抱えてふらふらと飛んできたのは地霊殿の主にして怨霊も恐れ怯む大妖怪、古明地さとりその人だ。
やっぱりこの人には隠し事が出来ない。ごめんなさい、と謝ると気にしてないわよと彼女も苦笑する。やっぱり、優しくて素敵な人だと思う。

「袋、持ちますよ。地霊殿まで、ですよね」
「へぇ。頼りになるじゃない」

 袋を差し出し、彼女はくつくつと笑う。半眼でこちらを睨め付ける彼女には、きっとなんでもかんでもお見通しなのだ。
その分かってるんだぞ、という表情を止めて欲しい。知らんぷりしてくれたって良いじゃないか。たまには古明地さんをはっとさせるような格好いい仕事をしてみたいものだ。

「あら、これでもびっくりしているのよ。私」

 感心したわと口許をおさえて彼女。僕は釈然としない思いと恥ずかしさに頬を熱くさせながら地霊殿に走った。
拗ねているのも見抜かれたのだろう、古明地さんが苦笑しながら慰めてくれるのがちょっと情けなかったが同時にやはり嬉しかった。この人に甘えるのもいい加減にせねば。


 
 地霊殿に到着する頃にはへとへとになってしまっていた。お疲れ様と、彼女が頬をハンケチで拭ってくれるのは嬉しいのだが、その程度でおさまる僕の汗ではないのである。

「これ、捨てないとね」
「ひ、酷い……」
「冗談よ、冗談。本気にしてはいけないわ」

 僕と彼女を出迎える数匹のペットたち。おくうは多分まだ寝ている。お燐はどうだろうか。そそっかしいように見えて結構しっかり者だから、エントランスの見張りなんかでもしているのかもしれない。
ただの猫だと侮れば、彼女から手痛い反撃を受けるに違いない。なんといっても、命名決闘法を理解するようなとんでもない化け猫さんなのだから。
会話もそこそこに、僕は帰路につく。あんまりのんびりしていると水橋さんを怒らせてしまうのだ。彼女は案外嫉妬深い。自分の思い通りにならないとすぐ怒る。
ちょっと意外な一面だった。優しくて素敵な水橋さん像が壊れる程ではなかったが。むしろ良いアクセントである。彼女の身内びいきっぷりはちょっと恥ずかしいくらいだ。
古明地さんくらいクールになればいいのにと一時期は思っていたのだが、古明地さんも案外感情的な人である。
結局最終的に、一番熱血に見えた星熊さんが最もクールであるという結論に行き着いた。不思議なものだなと口許を歪め、くつくつと笑う。
ああ、幸せだ。こんな日がいつまでも、いつまでも続いてくれれば良いと思う。僕はそのためならどんな代償だって払うだろう。
くるりと荘厳な建物に背を向け、来た道を引き返していく。これが案外退屈なのだ。別ルートもそのうち考案したいなと思う。なんといっても、時間は腐るほどあるのだから――
















 






「なーんて、なーんて」

 長きにわたる透明人間生活で身に付いたのは、類い希なる妄想力であった。正直なところ以前よりキモさが倍増したと思うのだがまあ気にしても仕方がない。
因みにこの体を利用して覗きなどをやらかしたことは一度もない。我ながらしっかりしていると思う。基本的に世界がちょっとだけズレただけなので足は地に着くし地を蹴る事も出来る。
ただ誰ともコミュニケーションがとれないというだけである。僕も数年間妹さんよろしく彼方此方旅をして回ったのだが、そんな中で八雲紫さんという妖怪を知った。
この人はなんでも境界を操る力を持つらしく、こんな騒動、この妖怪さんなら一瞬でけりが付くのではないかしらんと首を傾げざるを得なかった。
八雲さんの周囲でうろうろしてみたこともあるのだが、ニヤニヤと笑うばかりでこちらのことが見えているのやらいないのやら。

 まあ見えていたとしても見えていなかったとしても、どちらにせよ彼女は手を出さなかった。それが全てだ。あの人には何らかの思惑があったのだろう。
あの腕がしばらく暴れ、そして消えることでもたらされる利益。妖怪の賢者と言えば真っ先に思い浮かぶのがこの人だ。ハカセは彼女に何を話したのだろう。
僕には彼等の会話の内容を推察する事が出来なかった。もしかしたら、この腕が強すぎるのかも知れない。
圧倒的な戦闘力の前にはこの人だって膝を屈すのだろうし。でもこの仮説は多分、誤っているのだろうなと思う。この人が誰かの前に膝をつくところなど想像も出来ない。
そんなことがあったら、ちょっとした騒ぎになるだろう。

 八雲紫さんだけでなく、僕は様々な人間や妖怪を知った。幻想郷には愉快な人たちが沢山居た。きっと僕にこの腕が無ければ彼等彼女等とも仲良くできただろうなと思う。
だがこの腕が無ければ僕は生まれなかった。足るを知る。現状でもう十分に満足である。この腕共は性懲りもなく皆に絡み付こうとしているが、いい加減諦めれば良いと思う。
とはいえ僕がこの世に留めてしまった魂達だ。本当ならば成仏出来たはずのものを引き留めてしまったのが悪い。

 それにしても、水橋さん達には迷惑をかけてしまった。この腕の数は、あまりにも多い。何本存在しているのか分からない。ハカセがループする度にどんどんくっつけていったのだろうか。
それに、似たもの同士は集まり会う。これだけ大きな力場があるのだから、勝手に集まってきてしまった連中も多いのだろう。
腕が放出したあの真っ赤な火の玉の数は想像を絶していた。あれだけの数、いくら妖怪が強力でも御せる筈がないと思い、僕は絶望したものだった。
しかし、案外すんなりと事は収まってしまう。僕はその一部始終を目にすることは出来なかったが、元の世界からズレてしばらくした頃には、一匹残らず狩り尽くされていたように記憶している。
最早何をどうしようと救われる事のないこの腕達が、僕は少しだけ哀れだった。罪のない連中も、きっと多かったに違いないのだ。
この腕の中には、妖怪と仲良くしようとして殺された外来人のものも含まれているのかも知れない。他人に縋らねば生を実感できないその苦しみは如何ほどであろうか。







 最後の日から何年が経っただろう。僕はハカセの予言通り老いることなくのんびりと生活していた。大事な事は気づくことなのだ。
自分がそうであると気が付けば、食欲も睡眠欲も吹き飛んでしまう。でも、好意だけはやはりどうしようもないものなのである。
ハカセからの借り物、ただの垢と理想の混合物であると分かっていてもやはり、それは心地よいものである。
今日は何かのお祭りなのだろうか。水橋さんを中心として、沢山の人が動いている。彼女が元気に動き回っているのを見ると、なんだか胸の奥がぽかぽかとあたたかくなる。
それと同時にこみ上げてくるものもあり、涙が落ちるのだがそこは我慢の子だ。失恋みたいなものである。嬉し泣きだ、などと強がるのは止めた。
高嶺の花を見上げながらちくしょう、ちくしょうと地団駄を踏むどこにでも居る代替可能な男が僕には似合いである。
ああでも、水橋さんでも古明地さんでも、彼氏を作って幸せそうにしていたら僕は多分寝込む。一年は寝込む。死ぬかも知れない。
自分の小ささと醜さもきちんと把握した。だからもし彼女達が彼氏を作りそうな感じがあったら地上に逃げて篭もろう。そうして気持ちに整理がついたら祝うのだ。
非モテの自己防衛能力は鉄壁である。並の砲撃では崩れ落ちないのだ。

 一連の事件が終わり、誰も僕の名前を口にしなくなったのは流石にちょっとばかしこたえた。そんなものだとは思っていたが、胸にずどんとくるものがあった。
皆の好意は本当に腕によって操作されているものであり、僕の存在など些細な、忘れ去られてしまっても何の支障もないものなのだと理解し、視界が真っ暗になるような気分も味わった。
だがそれは同時に事件が完全解決されていることをも示していた。もう既に決して少ないとは言えない数の外来人が被害に遭っているのだ。今更一人増えた所でどうあろう。
弱い僕はそれでも心が沈むのを感じるのだが、今更どうしようもない。所詮は醜く太ったキモいデブだ。皆消えてくれてせいせいしているに違いない。
僕は人間ですらない、醜悪の混合物なのだ。

 それにしても、今日は随分と人が多い。地底の人はみんな参加しているのではないだろうか。彼方此方に柱を立てたり、火を点したり、なんだか神秘的である。
いつものどんちゃん騒ぎではなく、何か大切な神事なのかも知れなかった。何十年に一度の大祭というのが世の中には存在するらしい。
そういえば六十年に一度のナントカカントカという話を聞いたことがある。歴史は六十年周期で繰り返すとか。間違っているかも知れない。詳しいことはよく覚えていないのだ。
あんまり、一巡とかそういう言葉は聞きたくない。ハカセの苦しみを思うと胸が張り裂けそうになる。彼は恋人に会うことが出来たろうか。
会えたとしても多分、こっぴどく怒られているだろうがそれでも良いから会えていれば良いなと思う。そうでなければ、あの男はあまりにも救われない。
たった一度の選択ミスで人生が崩壊するなんて、誰も味わえないような地獄を何度も味わうだなんて、彼はそこまでの悪事をしでかしたろうか。

 ちょっとした一時の気の迷い。そしてそこにつけ込んだ行き場のない魂達。僕には誰も責めることが出来ない。
そういえば、亡霊とは存在自体が他者を不幸に巻き込む生前の人間によく似た偽物なのだという。しかも本人はそれと気づかない。まるで僕にそっくりではないだろうか。
正しい対処は心を鬼にして成仏させてやることなのだという。死骸であるハカセの体はとうに葬られたのに僕が残っているというのは少しばかり残念だが。
まあ死ねばループするのでうかうか死ねないというのはある。時を操る魔術などはあまり聞かない。余程高等なのだろう。きっとこの腕達も力を合わせて必死で道を切り開こうとしたのだ。
結果として敗北してしまったが、まあ人を踏み潰して自分勝手に幸福を得ようとすればこうなるということだ。僕は気持ちだけでも皆が幸せになれますようにと祈ってきた。
今皆は真剣に祭りに取り組んでいる。そこに悲しみの色はない。僕はそれだけで嬉しかった。不覚にもまた涙が出そうになるが、これは悲しみのためか喜び、満足のためか分からなかった。
多分、それら全ての混合物なのだろう。ああ、本当に素敵だ。きっとこの祭りは僕の生涯のうち、もっとも盛大な大祭となるであろう。



 でも。いくら何でも、数が多すぎやしないか? 仰々し過ぎやしないか?



 よく見るまでもなく、ここに集っているのは地底の妖怪だけではない。
幻想郷の結界の要にして異変解決専門家、紅白の巫女、博麗霊夢。
天狗の速さと鬼の力を持つと噂され、運命すらその手に握ると自負する吸血鬼、レミリア・スカーレット。
古典に名高い白玉楼に住まう姫君、死の操り手としても知られる西行寺幽々子。脇にはその従者の姿も見える。
一人で妖怪の山を壊滅させるなど容易いと自他の認める伝説の鬼、伊吹萃香。
日本人なら誰もが知っているかぐや姫に、その従者八意永琳。
遠く彼方に見えるのは古い妖怪、力を持ちすぎた妖怪、
自分のテリトリーをもう殆ど離れる事はないだろうとも言われた四季のフラワーマスター、風見幽香だろうか。
それらの中心で仰々しく儀式的なあれこれを用意しているのは、あの競歩大会でもちらりと目にした本物の神様達だ。
よく見れば、八雲紫の姿も見える。傘に腰掛ける彼女と、目があった気がした。まさかと思ったのだが、彼女は確かにこちらを見やり、ニヤッ、と笑ったのだ。



 何かがおかしい。ぼんやりと数年間流れるだけで過ごしていた僕でも知っているような有名人が一堂に会している。
それだけではない、僕の知らないような妖怪、人間が山ほど集まっている。これはなんだ。そして何故その中心で水橋さんが動いているのだ。
幻想郷にはパワーバランスというものがある。幾つかの大勢力が存在し、それぞれを牽制し合っている。こうしてそれぞれの頭が露骨に協力し合う様は、想像し難い。
協力すれば好き勝手が出来なくなる。幻想郷で生きにくくなる。だからこんなことはあって良いはずがない。

 彼女は一体何を始めようとしているのだろう。これだけの連中の言うことを聞かせる方法は、一応無くはない。
スペルカードルールだ。全員一対一でぼこぼこにして言うことを聞かせればいい。一日だけでいいから言うとおりにしろ、とか。
理屈の上では不可能ではない。このルールに則れば妖精が大妖怪や神を下すことも不可能ではなくなる。
だがその大事業は並の努力では成し遂げられはしない。全体ここまでして何をやらかそうと言うのだろうか。

 僕の真意とは関係なく事は進んでいく。何やら魔法とも祝詞ともつかない言葉が吐き出される。多分、混合だ。魔法使いも巫女も誰も彼もが何かしらの行動を取っている。
こんな大掛かりな準備で何をしでかそうというのか。本能的に、此処にいるべきではないと思った。此処にいてはとんでもないことになると感じた。
祭りの準備をする人々の体を文字通りすり抜けすり抜け、歩く。今日は地上で夜を明かすことにしよう。ちょいとばかし寒いが、まあ我慢できない事もない。

 誰の目にも触れられず、何とか祭りの中心地を抜け出す。何故か、笑いがこみ上げてきた。理由は分からない。悲しいとも嬉しいともつかない気持ちのままで、僕は笑った。
笑いながら、ただひたすらに歩く。目的地なんてない。僕が今歩いているのはエンディングの向こう側だ。めでたしめでたしのその向こう。もう本は閉じてしまっている。
その蛇足を僕はただ生きている。だから、歩く。ただひたすらに歩く。まるであの競歩大会の時のようだ。星熊さんに褒められて、古明地さんに認められて、水橋さんに受け止めて貰った。
今は、そのゴールがない。10里歩いても、何もない。ただひたすらに歩くだけだ。歩いて、歩いて、歩いて、歩き続けて

「どこまで行くの?」
 
 小さく響く声に、体が硬直した。この声は、間違いなく僕にかけられたものだった。怖かったし、悲しかった。嬉しかったのかも知れない。走りだそうとした僕の手が、握りしめられる。

 ああ、何故今この瞬間まで気が付かなかったのだろう。僕を強く気に懸けるであろう者は三人あることを。
一人は古明地さとりさん。彼女は幻影を幻影として潰し、今を生きる。一人は、ハカセ。彼は自分の生み出してしまった僕に罪悪感を抱き、それ故幸福に導こうとして失敗した。
だが後一人。腕の影響を強く受けている者が居るではないか。古明地さんが僕の母の幻影に悩まされていたのなら同様に、妹の幻影に苦しめられていたのは――

「妹さん……」

 振り返ると、彼女は帽子の位置をただしてから、にっ、と笑った。その姿は数年前と全く変わらない。いや、少し汚れただろうか。
霊烏路さんと違い、やはりその笑顔にはどこかどろりと濁ったものが感じられた。
そういえば、彼女は姿をふらりと消して現れることがあった。透明人間能力でもあるのかも知れない。それで、ずっと僕を付けてきていたのかも知れない。
もし、僕とハカセが話していたあの場に彼女が居たら。もしハカセの魔法が僕と同時に彼女をも巻き込んでしまっていたのだとしたら。
この考えが正しいのであれば、何年も、何年もこの人は一人で僕の災厄を受け続けてきたことになる。

「びっくりしたよ。気が付いたら誰にも気づかれない身になっちゃってねえ。無意識を操る力がついに極限を突破したのか、とか喜んだんだけど。違うらしい。何が起こったの?」

 まるで今目覚めたかのように少女は問う。壊れている筈なのに、狂っているはずなのに、古明地こいしさんはけろりとして僕を見上げている。
腕は彼女に巻き付いている。尋常ではない数のそれを受け、しかし彼女は飄々としているのだ。
彼女の姉ですら、表面に変化が現れていたというのに、妹さんは平然としたものだ。顔色が不健康な白色から全く変わらない。僕を求めて叫び出すこともない。
いつもの、ちょっと意味不明な妹さんのままだ。ありえない。こんなことは、ありえないはずなのだ。

「どうして……腕の効果が、無い?」
「腕? 何それ。そんなことは良いからお祭りにいきましょう」

 僕の手を取って、彼女は駆ける。でも、おかしい。だって、あり得ないではないか。

「好意は、誰が意識しても阻めない劇薬のはず」
「好意? 恋は無意識のうちに始まるものよ」
「そうです。だから絶対に、誰にもその根元を封じ込めることは――」
「だから、私には操れる。まあ、操っている意識はないし、自分が何をやってるかなんて分からないんだけどね」

 好意を操る。そんなことが出来るのか。それは意識できない心の深層から湧き出る感情ではないのか。意識できないものを操るだなんて、何か間違っているとしか言いようがない。
いやだから、この人は言っているではないか。操っている意識はないが操れていると。であれば、この古明地さんの力はむしろ――

「で、でも……やっぱりおかしいですよ」
「何が?」

 僕をぐいぐい引っ張る妖怪の力には逆らえない。久しぶりに手に伝わる体温が柔らかくて、あたたかくて、心地よくて、僕は唇を噛み締めた。
これを嬉しいと思ってはならない。絶対にそう思ってはならない。

「だって貴女は僕に優しくしてくれた。よく面倒を見てくれた。競歩大会の時だって、助けてくれたじゃないですか」
「そうだね。ピザの事は嫌いじゃないよ。私はむしろ結構好きだな。だから何? ねえ。お姉ちゃんも騒いでいたのよ。良いからお祭りに行きましょう」
「ま、待って下さい。変です、絶対こんなことはありえない」

 理論上おかしい。理屈がない。この人が僕を見てにっこりと笑いかける確率は0パーセントだ。無い無い、あり得ない。絶対にそれだけはない。

「だって僕はデブで、面皰だらけで、性格キモくて――」
「誰かに好かれたくて、好かれたくて、たまらない。たとえ自分を殺しても。類は友を呼ぶ、かしらね」

 閉じられた第三の瞳を撫でて彼女は言う。そこにどんな意味があるのか、僕には分からない。でも、それが彼女にとって重大な意味を持つことだけは、それだけは分かる。

「性格が少しばっかし似てるからって――」
「あら。出来の悪い弟みたいに思っていたのだけれど。私も、お姉ちゃんも。まあお姉ちゃんの方は行きすぎてる感じがあったけどね。
もう解決してるのかな、そのことは。ピザの近くに誰も居ないなんて珍しい。だから私もなかなか会えなくて参った参った」
「でも最初会った時は僕の腹を――」
「悪人だと思ったんだもの。その顔だし」

 医者も来ているようだし整形でもしたらどうだと冗談めかして彼女は言う。神様の中には急にハンサムになった奴もいるので案外整形というのは妖怪社会では珍しくないのかも知れない。
だが今はそんなことはどうでも良いのだ。重要な事ではない。

「それから我々はすぐに仲直りしましたよね。妙ではないですかね」
「ないよ、全然。幻想郷には殺し合ってるのに傍目には割と仲良さそうに見える奴らも居るし」
「いや、そんな例外は……」
「此処には例外しかいないよ」

 それは説明にならないと言うと、彼女は困ったなという顔をするばかりだった。祭りの場のすぐ外側で僕らは向かい合う。

「一日二日一緒にいれば情なんて移るものじゃないかな」
「一日どころか一刻も語らいませんでしたよね、我々は」
「んー……そうかな?」
「そうなんですよ!」

 だからこそ、と妹さんは少し迷いながら口にする。

「ちょっとしか話してないのに私の意をくんでくれたのがびっくりしたのかな。というより、甘やかしてくれたのが、か」
「僕は弟なのではなかったのですか」
「お。認める?」
「認めませんが、貴女がそう言ったので。しかし、一言二言で印象が決まるというのは――」
「人なんてそんなもんだよ」

 彼女は笑ってそう言った。諦念が僅かに見えたが、しかしそれ以上に、前進への強い意志がうかがえる。
妹さんは、強い。ハカセも最高のハッピーエンドを意識しすぎるきらいはあったが、それでも決して折れようとしない人だった。
だが、いずれにしても

「もう僕らはあの輪の中には入れないんです。ズレてしまったから」

 何故、と彼女は問うた。やはりこの人は何も知らなかったのだ。何も知らないままに僕に巻き込まれたのだ。
故に、僕は語った。ひたすらに喋り続けた。これまでの事件を全て上手く語り尽くせるとは思わなかったが、大事なところだけは何とか伝えられたと思う。
妹さんは時に頷き、時に驚きながら僕の話を真剣に聞いてくれた。だが、そこには何故だろう、まるでエンターテインメントを楽しんでいるようなお気楽さがあった。
僕が物語におしまい、と終止符を打つと妹さんはしみじみと溜息を吐いた。

「大変だったんだねえ、ピザは」

 ハカセの方が、と言うと彼女はきょとんとして首を傾げた。

「うん、まあその人も大変なんだろうけど。ピザも大変だったじゃない。よしよし、じゃあ後は帰るだけだ」
「だから、何言ってるんですか貴女は。僕の話を聞いていましたか?」
「うん。絶望的だねえ」

 分かっていない、と言おうとした僕を彼女はまあまあ、と両手を出して諫めた。その仕草は妙にハカセのしていたそれに似ていた。
がやがやと声がする。だが、決して"お祭り騒ぎ"といった雰囲気ではない。いつもの面白おかしく楽しくという雰囲気が感じられない。張りつめた空気。鋭く飛ぶ声。
妹さんはそちらに一度目をやった後、もったいぶるように両手を大きく広げた。小さな体で、まるで世界の全てを包み込むようにだ。まとわりつく白い腕は、その動きを阻めはしない。

「絶望的だから、これだけの人が集まったんでしょう?」

 一瞬、何を言われたのかが理解できなかった。僕の頭に脳味噌が詰め込まれているのだとしたらの話だが、脳が思考に失敗した。
あれこれと動き回る妖怪と、人間。所属を問わずに、ありとあらゆる連中が走り回っている。その数は、間違いなく数百人規模。
その中には"賢者"と呼ばれるような人たちも居る。神話に名を残すような方もだ。そんな偉くて神聖な方々が、

「ああ」

 そうか。勘違いしていた。

「妹さん。愛されてますね」

 彼女はぱちくりと瞬きをしていたが、やがてヤレヤレと両手を広げて大袈裟なジェスチャーをして見せた。何だか妙に様になっていて、現実逃避なのだろうが僕は少しだけ心を奪われてしまった。
妹さんはこちらを丸い瞳でじい、と見上げた。そこに見える感情の色が僕には分からない。恐らく、言語化不可能なものなのだ。感覚的にそういうものだと理解できるが、それが語として出てこない。
無表情に近いのだが、決してそうではない。少女は帽子の位置をただして、そうして素っ気なく言い放った。

「中心に居るのは、橋姫よ? うちの姉は脇役。なら助けられようとしているのは誰かしら」
「ま、待って下さい!」

 ええー、と妹さんは不満げな表情を作った。こいつうざいなあ、という純粋な気持ちが直に伝わってきて少し辛い。だが人に何らかの感情を向けられる事自体久方ぶりなので堪えない。
不相応だし不謹慎なのだけれど、嬉しいとすら感じられる。

「そもそも誰かを助けようとする集まりであるという証拠が」
「橋姫主催の大祭なんて聞いたこと無いよ。ピザのためじゃなけりゃこんだけ集めないさ。ちゃんと私も呼び戻してくれるのかしらん」

 ま、何とかなる何とかなる、と彼女はのほほんとしている。

「しかしですね」
「まだあるの?」

 我慢の限界に来たのか、僕を引きずりながら妹さんは問う。途中、顔色の悪い、ローブを纏った娘とすれ違った。アクセサリを幾つか身につけ、大きな本を開いている。
片手を首の少し下の辺りに宛い、小さな声で、ぼそぼそと、そして早口に何かを唱えているように見えた。

「こ、この人は……もしかして」

 我々には目もくれず(見えないのだから当然だ)時折腕を振るいながら不思議な言葉を紡ぎ続けるこの少女。本の背表紙には見覚えがあった。
ハカセが僕に魔法を唱えたときに用いたそれを、彼女は抱いている。彼がそうした時のような歌うような明朗さは無い。
とにかく効率的に、とにかく動きや言葉を短縮して。そんな意図が見える。外見から推すに体が強くないのだろう。
首の後ろに、ぞわりと鳥肌が立つのを覚えた。思わず、首にさげているアクセサリを握りしめた。妹さんはただこいつがどうかしたのか、とでも言いたげな顔で僕を引っ張り続ける。

「パチュリー・ノーレッジ。知り合いなの?」

 内股の辺りからすぅ、と力の抜けていく思いがした。尊敬し続けてきた人が今、目の前にいる。
彼女の姿は段々小さくなっていき、やがて視界から消えたが、それでも鮮烈な印象は今も目の奥に焼き付いている。彼女が、パチュリー・ノーレッジ。魔法使い。
ハカセの師にして地の底まで救いの手を伸ばす僕とは正反対の人。聖女みたいなイメージを持っていたが、実際は随分と暗そうな感じであった。それは表面だけだろうか。
一切焦りを見せず淡々と呪文を唱えるその様には己とその魔法に対する自信、信頼が見て取れた。

「信仰対象みたいな人、ですかね」

 そんなに大した奴かねえ、と妹さんは僕を引きずりながら言う。僕は彼女の事を何も知らない。パチュリーさんも、僕のことを知らない。
接点などまるでないのに己がそこまで崇拝されていることなど、彼女は想像だにしないだろう。だが、妹さんの仮説が正しいとするならば、彼女まで僕を助けるために動員された事になる。
やはりあり得ないと思う。今までとんでもない人物達を見てきたが、パチュリーさんの姿を見て漸く、僕はこの事態がどれだけ常軌を逸しているのかを感覚として理解した。
例え僕でなくとも、消えてしまったのが妹さんであったとしても、ここまで仰々しい事態には普通はならないだろう。
これは家族が一人いなくなったからと軍隊をかり出すようなレベルの展開だ。あまりにも、あまりにも大袈裟にすぎる。妹さんにその事を指摘すると、彼女はにやにや笑いながら返すのだ。

「それくらい荒唐無稽じゃないと、面白くないじゃない? 暇は妖怪を殺すのよ。馬鹿みたいに真剣になれて、こいつらも満足なんじゃないかしら」

 分からなかった。そんな軽いノリで滅茶苦茶をやるこの人達のことが全く理解できない。僕はクールに物事を処理していく妖怪のイメージしか頭にない。
幻想郷の維持のために効率を求め、時には残酷な決定も下す。それが妖怪ではないのか。

「ふふ。勉強不足なのよ」

 笑う妹さんの言葉の意味が分からないままに、僕は輪の中央に迎え入れられる。百をこえる人間、妖怪の視線が僕の元に突き刺さる。
これだけの連中を集めたその張本人は、僕と真正面から向かい合っていた。彼女――水橋パルスィはその深い緑色の瞳でしかと僕を見据えている。
そうして"見えているぞ"と言わんばかりに彼女は笑うのだ。

「なァ、ピザ」

 必然だと言わんばかりに言葉が発される。数年間一度も聞くことの無かった外の人からの呼びかけ。
もう僕のことなど意識の外にやってしまっていたと思っていた人から届く親しげな言葉。

「見ての通り、助けに来てやったぞ。喜べ」

 自分を信じて疑わないその強い表情。この地に住む者特有の一種傲慢とも言える万能感。橋姫とは大して格の高い妖怪ではないはずだ。
それがこれだけ高名な人々を従えて、当然だという顔をしている。そして誰もが文句の一つも垂れない。役に没入しているのだ。そうすることで一種の非日常を作り上げているのだ。
だが、そんなことはどうでもいい。水橋さんがこうして僕のことを目視している事とて、些事だ。不可能な訳がない。彼女は一度それをしている。僕が初めてこの地底の土を踏んだあの日に。
未だに増え続ける腕が誰にも巻き付けないままうねっている事だって、問題とするには不足である。これだけのメンバーが集まって勝てない相手など、僕には想像も出来ない。
一人の人間が幾周もの人生を経て強化し続けた呪いの塊――それ如きが相手に出来る者共ではないということは理解できる。
きっと、ハカセの育て上げた化け物は、目を背けたくなる程の危険性を秘めている。それでも、個としてどれだけ強くとも、絶対に勝てないものが存在する。

 それは、圧倒的な数による暴力。極々シンプルにして、そして強大な攻撃力だ。

 幻想郷の妖怪達はそれこそ一騎当千と呼ばれる者が多い。天蓋を割ったり山を崩したり、境界を弄るなんて者も居る。
そんな連中が何故、隠れ住まねばならないのか。答えは実に安直だ。70億の人間には勝てる訳がない。70億の悪意――若しくは無視か――は最早それ単体で必殺である。
今この場で行われようとしているのはそれと何ら差異がない。僕の背負う呪いは、きっと桁違いのものだ。
強大な妖怪が協力してくれるなら解決は容易いのかも知れないが、ハッピーエンドは難しいものだ。
だが、そういう類が数百も集まればどうだろう。数百人というのは日常的に目にすることが出来る数だ。それほど多いとは感じられないかもしれない。
それ程多いとは思われないかも知れないが、しかしその全てが殺意を露わに自分を取り囲んでいる様を想像して欲しい。たとえ銃器を持っていても生き残れるとは思えまい。

 一が駄目なら十。それで駄目なら百。子供でも分かる最も残酷、最も愚劣な解決策。だがここに集められたのは力だけではない。幻想郷を代表する能力、そして知力が結集している。
何の苦労も無しに人間が想像も出来ないような方程式を解き得る化け物が揃っている。ありとあらゆる理屈を寄せ集めて、幻想郷の総力がたった一つの敵に向かう。
無茶苦茶だ。こんなのは無茶苦茶だ。端的に言うならば、そう。オーバーキルだ。大人げのない一撃必殺。
相手からは触れる事が出来ず、しかし相手の感情を弄ぶ腕の化け物の大群。だが、駄目だ。弱すぎる。
"幻想郷オールスターズ"にはこんな役割程度不足以外の何物でもない。
もっととんでもない、それこそ幻想郷を滅ぼしかねない、抗いがたい暴力が登場したときにこそこのメンバーは集結するべきなのだ。

 だが、水橋さんはきっとそんなことは知らないのだ。とりあえず地底の凄い奴らだけでは不足らしいので全員集めてみようと、短絡にそんなことを考えたのに違いない。
協力的でない人も居ただろう。性格が合わない人も居ただろう。だがそんなことはお構いなしに、彼女はこれだけの人材を集めてみせた。
十で駄目なら百だ。よく分からんがこれなら勝てるだろう。水橋さんの考えを要約するならこんなところだろう。きっと彼女は何も分かっていない。
分かっていないからこそこれだけの数を集められた。そして更に恐ろしいのが、事態を正しく認識しているであろう連中が、その力の恐らく全てを問題解決につぎ込んでいるということだ。
遊びは真剣に。それはスペルカードルールの存在から理解していた。集められた力が過剰だということは誰もが理解している。
もう十分だと理解しておいて尚、それ以上を求める。場に描かれる文様は魔法陣のようであり、一つの絵画のようであり、立体的な像のようにも思われた。
見ているだけでくらくらしてきそうなそれらは、全て理論に基づいて運用されている。僕を救出するための最良策が、確かに今実行に移されている。

 事実は、そうだ。確かにそうだ。事実は受け止めねばならない。そこから逃げてはならない。だが、疑問から目を背けてもならない。

「何をやってるんですか、水橋さんは。こんなの――死ぬほど、大変だったでしょう?」
「お前さあ。数年間で退行したのか? 人の好意に礼で答えるピザはどこに行った」

 限度というものがある。月に行きたいとワガママを言う餓鬼にロケットを用意してやる馬鹿は居るまい。その餓鬼がよっぽど親しくてもありえないような事なのに、余所の子供だったらどうだ。
しかもその子供が非常に腹立たしい奴だったらどうだ。馬鹿を言うなと殴りつけてもいおかしくはない。それと同じ事を水橋さんはやらかしている。
僕がその事を指摘すると、彼女は僕の意見には二つの誤りがあると言った。

「月に行きたいとワガママを言う餓鬼にロケットを用意してやるくらい、ここでは珍しくも何ともない。そして、お前は余所の餓鬼じゃあない。ウチの居候だ」

 次から次へと噴出する腕は、今や片っ端から光の粉となって消滅を始めている。これだけ時間が経っても全く勢いが衰えないその呪いの強さに薄ら寒いものを感じる。
だがそれよりも奇妙な事は今の水橋さんの対応だ。もう腕は彼女に触れてすらいない。余裕の表情で僕の前に立つこの勝利者はしかし、僕を助ける必要など微塵も感じてはいないはずなのだ。

「僕への好意など、とうの昔に失われているはずです」
「その腕か、うん。どいつに頼み込んでも、もう解決した事だから混ぜっ返すなの一点張りでな。分からず屋共を叩きのめすのには苦労したよ」
「だから……ッ! もう解決したことを混ぜっ返そうとする気力が何故あなたにあるのかを――」
「む? お偉いの所の妹も一緒だったのね。最近見ないと思ったら」

 妹さんもどうやら無事にこちらに戻ってくることが出来たらしい。だが、その表情に感動の色など微塵もないのだ。それが当然と言わんばかりに物珍しそうに周囲を見渡している。
カメラを持っているならば激写していることだろう。まあこの世界にそんなものがあるならば、の話だが。どこまでも見ている世界が違うのだ。僕と彼女達とでは。

「ああ、それで何だ。私が何でお前を助けたかってのはさっきも話したよな?」
「貴方はある程度自分と共に暮らした相手なら誰でも助けるのですかっ!」
「嫌な奴じゃなければ助けるんじゃないのか、そりゃ。で、お前は特に嫌な奴ではないので助けた。おーけい?」
「そんなの……!」

 納得できない。分からない。頭が真っ白になるが、それでも地面を踏みしめて水橋さんに挑戦する。

「おかしいじゃないですか。僕は腕のおかげで貴女と知り合えて皆と仲良くなれて……
なのに僕だけ救われて全てを繋いだ腕はもう要らないからと消される! こんなの間違ってるんじゃないですか!」
「あの腕は殺されるようなやつではない、と。お前は言うわけだ」

 罪のある者の方が少ない。むしろ彼等は被害者だ。必要のない仮初めの救いに惑わされて現世に留まる事を余儀なくされた哀れな迷い人だ。
所謂"普通人"的な偽善に全てを台無しにされてしまった者達だ。そう言っても、彼女は、だから何だ、それがどうしたと切り捨てる。

「どんな道徳も、どんな信条も、身内を助けたいという思いの前には霞だ。お前が百億殺して裁かれそうになってても、私は助けに来てやるよ。それが情というやつだし、私の生き方だ」
「そんなこと……そんなことしていたら自分を滅ぼすに決まってるじゃないですか!!」
「食い物にされてボロボロになったから、ここに居るんだろ?」

 馬鹿だなあ、と橋姫は笑う。その表情に屈託はない。
この人は、昔から変わっていないのか。昔からこんな風に誰にも彼にも手を差し伸べて、勝手に好きになって、そして都合良く捨てられて襤褸布のように捨てられてきたのか。
相手は他の誰かと勝手に幸せになって自分は不幸のどん底に。間違っている。こんなのは間違っている。星熊さんは言っていた。水橋さんを裏切るなと言っていた。

「だったら学習しないと駄目じゃないですか。簡単に人を信頼すればこんな"腕"じゃなくて、人間の腕でも貴女を不幸に引きずり込むのは容易いと知らねばなりません」
「知ってどうする」
「そりゃ相手を警戒して――」
「どの程度? 人の心が読めない以上、常に警戒し続ける訳だよな? この世に存在する全てが敵である可能性を考慮する――と。耐えられそうにないな」
「それはある程度調整してですね」
「調整した結果こうしてるんだが? 百に裏切られても一が信頼に応えてくれるならそれでいいよ。あとの百は妬み殺してやるさ」
「非生産的です! それでは不幸の連鎖が止まりません」
「だから地底に居るんだろ。忌まれた妖怪だと言われてるんだろ。お前は今更何を言ってるんだ?」

 だが、こんなのは間違っている。間違っているのだ。納得できない。こんな強引な超展開、誰が認めるものか。最上は納得の行くハッピーエンド。
次は納得の行くバッドエンド。そして納得行かないバッドエンド。最低が納得の行かないハッピーエンドだ。今僕の立たされている場所は、最後者。僕が最も忌むものである。
だから水橋さんの見るハッピーエンドの裏側を突かねばならないのに、彼女は全く揺らがない。僕が納得行かないとするものを全て切り捨てられてしまった。
彼女が僕に好意を持つのはおかしいと言えば、嫌っている相手でなければこれくらいはすると返され、
被害者に過ぎないこの腕達を殺して僕を救うのは間違っているのではないかと問えば、贔屓する相手さえ救われればそれで良いと笑われる。

「どうしてそこまで割り切れるんですか」
「誰も救えない小者がほざくなよ」
「文句じゃないです。単純な疑問なんです。貴女は今消えていくあれらの腕に何も感じないのですか?」
「お前は私が食事で出した肉……あと蟹とか色々食ってきたが、それは殺して良かったと言うか。今の腕もあの蟹も、お前が生きながらえるために殺された。
いや、お前は別にあの日あの時あの蟹を食わずとも生きていられた。つまりあの蟹は殺されずとも良い命だ。
殺されずとも良い命が失われることを肯定して、殺されねばならない命が失われる事を否定する。どういうことだよ、説明してみろ」
「……あ」
「お前の理屈とやらは、初めから無茶苦茶じゃないか。
それをなんだ、さも一本線が通っているかのように。餓鬼が喚くなよみっともない。私の品格まで疑われる。素直に言えよ、"単に気に入らない"ってさ。
それなら私だってそれ相応の対応が出来る。つまりは――実力行使だがな」

 頭が真っ白になった。違う。何かが違うはずだ。"単に気に入らない"ということはありえない。それは思考停止に他ならない。
何の理由もなく気に入らないという感情がわいてくるはずがない。どれだけ汚かろうが複雑だろうが何か理由があるはずだ。
だが、考えれば考えるほど分からない。それは、僕が腕を殺してはならないと考える理由が、ではない。それは先程から延々と述べてきた。
僕が分からないのは、蟹を殺す事を是とした自分だ。何故僕はそれを是とするのだ。科学的にではなく幻想郷的に考えれば、蟹だって死にたくはなかったかも知れない。
その生を必死に生きていたかも知れない。それを御馳走だと喜んで食らい蟹への罪悪感を全く示さなかった自分は何だ。今目の前に居る水橋さんと何が違う。
"食材は食されるために存在する"と、僕はそう考えていた。水橋さんは"あの腕は僕の犠牲になるから殺す"と考える。そこにどれほどの違いがあろう。
前者を肯定する僕が何故後者を否定できようか。自分を棚上げして何を言っているのだ、僕は。だが理論の崩壊とそれに伴う敗北は腕の死を肯定して良いものではない。
では、では――

「お前さあ」

 水橋さんは低い声で、問う。

「結局の所、あの腕をどうしたいんだよ」

 答えられなかった。今消えていく腕を僕は"最終的"にどうしたいのか。例えば今仮に僕がこの腕を消すのを止めたとしよう。それで、どうなる。
腕は皆を襲いだす。皆は狂い始める。僕はそれを是とするか。否だ。しかし殺すのもまた否とする。そこで思考は停止し前に進まない。
では前に進まない原因は何だ。壁になっているのは何だ。そこに舞い戻って考えれば、つまり――

「つまりさあ。お前は単に後悔しているだけなんじゃあないか?」

 水橋さんの言葉が、すとん、と胸に突き刺さる。僕は今をどうしたいのかを考えている訳ではない。後ろを振り返ってああすればこうすればと言っているだけだ。
それが無駄と言うつもりはない。振り返らなくて良い過去では、それはない。忘れ去って良い罪では断じてない。しかし、そこで思考停止に陥っている僕は何だ。
この腕が生じたのは事実だ。彼等が元々悪でないのも事実だ。被害者なのも事実だ。そして今現在彼等は害悪を振りまき、生き続ければ未来永劫そうすることもまた、事実だ。
問題解決のためには過去を参考にしつつ、現代を見据え、未来の展望を考えて決定を下さねばならない。つまり、過去がどうであれ現代未来において他者を苦しめ続ける限りは

「あれ?」

 殺すしかないんじゃないか? 何度考えてもそういう結論しか出てこない。例えば害獣の居ない国にそれを持ち込んだとして、それが大発生したとして、
可哀想だからと見逃すという決断があるだろうか。害のでない範囲で共存を図ろうとする可能性はある。だが無視できない害を与えるのであれば殺すのが正しい判断ではないか。
自分がその害獣を持ち込んだ張本人だからという理由は、決定を覆す理由にはなり得ない。
どれだけ救いを求められようが、どれだけ悲痛な叫びをあげようが、行動を改めない限り、決定もまた一つ。心的なものは一切考慮されるべきではない。

「あれ、でも。僕が生きながらえるのは……」
「過去、お前はその腕を不幸のどん底に叩き落とした。現在、お前の帰りを喜ぶ私が居る。未来、お前と馬鹿やるのを楽しみにしている私が居る。
さて、ピザの有用性が完全に証明されたな。お前が自分を価値のない男と言うならそれも良い。ならば実力行使で叩き潰して言うことを聞かせるだけだ。
未来、仮にお前が私をもってして耐え難い迷惑をかけるならそれもいい。その時に排除するだけだ。異論はあるか馬鹿野郎」

 何もなかった。彼女に反論するための言葉が無い。水橋さんが正しい。僕が間違っている。膝から崩れ落ちそうになった。だがそれは出来なかった。
してはならないことだと思った。敗北したからといって、そこで止まってはならない。まだ僕には通過せねばならない儀礼があった。これだけは絶対に言っておかねばならない言葉があった。
それは唯一の抵抗だ。そして彼女が認めないと分かっている抵抗だ。水橋さんの緑色の瞳を見据え、僕は絶対の自信を持って発言する。

「僕は貴女を、失望させます。未来、貴女にとっての僕は害にしかなりません」

 良く言った、という声と共に乾いた音が響いた。頬を張られたのだと気づいたのは、膝を折った後だった。妖怪の馬鹿力はこれほどのものなのかと痛感する。一発で体に力が入らなくなった。
もう指一本動かすことが出来ない。競歩大会の時のように"気力"で立ち上がる事も出来ない。なぜなら僕は水橋さんに救われる事を求めているからだ。
そして救済を納得いくハッピーエンドとして認められないから抵抗しているのに過ぎない。あの大会の時とは訳が違う。全力で事に当たれたときとは違うのだ。
心の奥底で僕は確かにこの人の前に敗北する事を求めていたのだ。納得行かなかろうがどうだろうが助けて欲しいと思っていたのは確かなのだ。
目の前で誰かが不幸になろうが、事態に整合性が無かろうが、何でも良い。何でも良いから、助けて欲しかった。それが汚らしい"ありのままの自分"だ。
嫌だ。こんな自分は嫌だ。だから戦った。負けると分かっていても、水橋さんに吼えた。それが僕の持てる唯一のプライドだった。

 それに対する水橋さんの答えが、"良く言った"、だったのが嬉しかった。たまらなく、そして耐え難く嬉しかった。
認められた気がした。誰かに承認されることがこれほど快い事だなんて知らなかった。口の中を切ったのだろう、血の味が酷いが気にならない。
そんなことがどうでも良くなるくらい――

 どん、と。胸の中に飛び込んでくるものがあった。運良く倒れ込む事はなかったが、このとんでもなく華奢で柔らかいものには覚えがあった。
完全に脱力しきった様子で、それは震えていた。恐る恐る下を見ると、綺麗な円形の頭頂部が見えた。近くで見るその髪は、火の光を吸いこんで白く輝いていた。
ひょっこりと飛び出している二つの長い耳からは、血の気が引いていた。胸元を掴む両手。半ば崩れ落ちそうなその人の様。あまりに弱々しく、消耗しきった体。
足下から噴出し続けていた腕、僕の罪は完全に、力業で消滅していた。水橋さんが、震える声で、小さく言う。

「勝った」

 万感の思いを込めた言葉の重みは僕如きが全て汲み取りうるものではなかった。細くすらっとした橋姫がずんぐりむっくりした醜男の胸の中で震えている。
その体は、死んでしまうのかと思うほど冷たかった。彼女の心音が伝わる。あまりにはやく、あまりに繊細なそれ。

「う……え、ごほっ」

 腹の辺りに液体を感じた。最初血でも吐いたのかと思った。だが、漂ってきた酸っぱい臭いは親しみのあるものだった。吐瀉物のそれだ。
水橋さんは僕の首の下辺りに額を押しつけたまま、すまん、と小さく言った。

「ストレスで体を壊してしまってな。お前のせいだ、分かってんのか」

 妖怪は無敵。心も無敵。誰がそんな事を決めただろうか。単身、本気を出せば己を一捻りにするような連中に戦いを挑みに行くのはどれだけの緊張を強いるだろう。
それに水橋さんは此度の件については何の知識もないはずなのだ。完全な部外者だ。そんな彼女だからこそ、鬼でもハッピーエンドを持ってくる事が出来ない事態に対する恐怖は大きかったはずだ。
何をどうしても無駄かも知れないというおそれはつきまとっていたはずだ。
幻想郷の名だたる伝説達を下す恐怖。それらを格下でしかない者が統率せねばならないという責任。そして、それをもってして何も成せないかも知れないという不安。
常人の耐えうるものではない。へらへら笑って実行出来るはずがない。僕のために。ただ、純粋にそれだけのために、体と心をおしてここまで来てくれた。腕の束縛無しに、僕を助けに。

「大事な奴がボロボロになる気分が、少しは分かったかよ。馬鹿野郎」

 気管に何か詰まったのか、忙しなく咳をしながら彼女は言う。震えているのに、辛そうなのに、心身共に限界だろうに、しかし水橋さんの声は喜色が浮いていた。
この妖怪は、きっと馬鹿だ。誰かを信じて信じて信じ続けて騙される。そうして騙した相手を倒して、また誰かを信じ始める。エネルギーが幾らあっても足りない。
足りないはずなのに、彼女は自分のやり方を絶対改めようとしない。強い妖怪では、決してないはずなのだ。それでも当たり前のように僕を助けてくれる。まるで長年苦楽を共にした家族のようにだ。
僕が水橋さんを裏切らない限り、水橋さんも決して僕を見捨てない。それはつまり、このままでは僕は永遠に水橋さんに見捨てられないで済むということである。
僕は彼女にごめんなさいと言うことしかできなかった。橋姫の妖怪は気にするなよと言って、また咳き込んだ。周囲の人たちはもう酒やら料理やらを用意し始めている。
初めから、宴会をするつもり満々だったのだ。こちらを見て冷やかしている連中まで居る。本当に、剛毅な人たちだ。

「何年だ? 長かったよなあ、お互い」

 周囲にちらと視線をやってから、彼女は苦笑する。本当に喧しい奴らだと悪態を吐き、そうして水橋さんは僕を見上げる。
自然上目遣いの形になるので、目を反らさないと決めた僕は先程叩かれたのとは逆の頬まで熱くなる始末である。

「お前と外で酒を酌み交わすと決めたんだ。もう何年も前にな」
「下戸ですよ、僕は」
「つきあえよ。それだけを楽しみに頑張ってきたんだ。舐めるだけで構わん」
「はい」

 苦笑するしかない。ばたんきゅうと倒れるデブといつまでも飲み続ける美少女という何とも奇っ怪な絵しか浮かばない。

「随分遅くなったが、大会で頑張ったお前を温泉に連れてってやろうとも思ってたんだ。疲れた体には気持ちいいだろうってな」
「ご一緒します」
「ご一緒はするな。お前は私の何なんだよ」

 酔ってんのか、と笑いながら問われ、僕は目を白黒させて弁解する。それがまた水橋さんのツボに入ったのだろうか、彼女は声を上げて笑い出した。珍しいことだった。
白い肌にようやく赤みがさしてきて、僕は心底ほっとした。そうやって彼女にからかわれるまま時間が過ぎていく。誰かが我々の頭にどぼどぼと酒を流したり、
泥酔しているのか支離滅裂な事を言って通り過ぎていったりと様々あったが、概ね幸福なまま時間が過ぎていく。僕は罪人だ。正当化出来ない悪人である。
まだ僕は己を認められないし、水橋さん達の隣に居て良いような出来た奴だとも思わない。だが、それでも。

 手の甲に冷たいものを感じた。はっとして顔を上げれば、白いものがゆらゆらと空から降りてくる。雪だ。地底の空から雪が降っている。
周囲の火の灯りに照らされて、それは自ずから青く発光しながら舞っているように見えた。ふと視線を戻すと、水橋さんも放心したようにそれを見つめていた。
深い緑色の瞳に映る空は暗く、しかしそれ故に深い安堵を与えてくれる。

「一緒に雪を見るのは初めてか」
「ですねえ」
「綺麗なものだな」
「全くです」
「……雪見酒、だな」
「えっ」

 酒もってこい、と橋姫が吼えた。ふざけたようにきゃいきゃいと騒ぎながら人も妖怪も関係無しに僕らに酒をふりかける。
それが口に入るのを避けられず、僕は酒の海におぼれながら、どんどんと酔っぱらっていくのを感じる。その陶酔の中で、頭を締め付けていた錆び付いた桎梏が砕け散っていくのを感じる。
雪と、酒と、水橋さん。皆。そして、僕。はじまった、と思った。何がはじまったのかは自分でも分からなかった。人生。自分。そんな安っぽいものではない。
もっと幻惑的で形のない何かが始まった。僕は駄目なクズにして、それ以上に大悪人だ。ネガティブで、悲観的で、全然成長していない。
それでも、あらゆる罪のない者達を蹴落として手に入れたこの位置だけは誇ろうと思う。ハッピーエンドではない。かといって、バッドエンドでもない。
中途半端な、ダラダラと続く蛇足の話。これからそれを綴っていきたいと思った。











 

  




 地の底に、一人の妖怪が住んでいる。夢見る妖怪は、夢を見果てたその先に、一つの幻想を生み出した。
それは壮大な暇つぶし。それは、無意味な時間の浪費。しかし、それでも物語は続いていく。幸か不幸か、夢が醒めても終わっても、その幻想だけは彼の隣に静かに寄り添う。
彼の肩を強く叩いて真実へ誘うあの長い腕は、もうどこにも見当たらなかった。その代わり

「おい。ピザ、ピザ」

 美しい幻想の呼び声に、今日も男は目を覚ます。


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