【はじめに】
拙作は広義には東方project二次創作、幻想入りシリーズに当たります。
男性の主人公に不快感を示される方はご注意下さい。
また、題の通り主人公が何の取り柄もない太った男であることも追記しておきます。
一次設定を尊重していますが、独自設定も多々含みます。
少々残酷、また後ろ向きな描写が多いです。
それでは、皆様に楽しんで頂けるよう微力を尽くしましたので、
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
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首を吊ることにしたところを、見知らぬ禿げ頭に止められた。弱雨の日だった。
彼は名をハカセといい(恐らくは偽名だろう)、
どうせ命を捨てるつもりであるならば自分の実験に協力してはくれまいかと申し出た。
自殺するに足るだけの切羽詰まった理由は特に無かったので、その場で快諾したのを記憶している。
禿げ頭は自らをハカセと名乗ったが、多分に宗教家的側面を併せ持つ男であった。
なんでも、某というそれはそれは美しい妖怪と恋に落ちたのだがどこぞへ失踪してしまったので私は彼女を追うのだ云々。
僕は特に神秘的なものに対する信仰を持たないので彼の話を疑っていたが、
一人の老人の余生の助けが出来るのならば、と彼を手伝う日々を送りはじめた。
痩せ細り、腰は曲がり、頭は禿げ上がった惨めな老人。
幻想に囚われた彼を理論という刀で切り捨てる権利を僕は持たない。
否、彼の世界にはその"妖怪"が真実恋い焦がれたものとして実在してるのだ。
僕は生まれてこの方それだけ深く物事に熱中することは一度として出来なかった。
故に僕は彼を心底羨んでいたのだろう。
二十余年生きてきたが恋の一つも経験したことのない、生きる価値のない駄目な人間だ。
研究は僕に会った時点で最終段階だったということで、数年の作業の後に、テストを待つのみとなった。
恐らく彼は数十年の長きに渡り恋人を追い続けてきたのだろう。
一人の人間の夢の軌跡に貢献するのは、生まれてはじめての経験だった。
それがどれだけ無意味なことであれ、僕には嬉しく有意義な年月に感じられた。
ハカセはあの雨の日からどんどん老いていったが、瞳の輝きは益々盛んとなりそこには狂気の色すら窺えた。
頬は痩け肌の色は浅黒く、彼が「妖怪爺」と後ろ指を指されるのも何度か目にしてきた。
そして、そう言われるたびに彼は欠けた歯で笑うのだ。漸く彼女に近づく事が出来たぞと。
彼に残された最後の実験は、人柱を伴うものだった。
既に妖怪の住処に辿り着く機械は完成したのだが、それが正しく転送を行うとは限らぬとのことである。
故に最低一人が犠牲となり、その誤差――ズレを修正して漸くハカセは恋人の元へ辿り着くことができる。
動物では、駄目なのだそうだ。
その辺りに僕はまたいかがわしさを覚えたのだが、彼の瞳を見ていると何も言えなくなってしまうのだ。
熱意を持って物事に取り組む者に、冷め切ったクズが口出しする権利など、無いように思われた。
僕は結局何も言わず、巨大な鉄の箱(そうとしか認識できなかった)に入る。
雨の弱い冬の日の事だった。扉が閉まり、周囲が暗黒に包まれても恐怖は感じなかった。
テレポートに必要なエネルギー量はとてもではないが蓄積不可能なのではないかと、そんなことを漠々と考えていた。
――ハイヨ、ハイヨというかけ声に目を覚ます。遠く軽やかな笛の音も聞こえる。寒い。
見上げた空は黒く塗りつぶされていた。同じく黒々とした斜面には生き物の姿が見えない。
視線を移動させると長い橋が架かっているのが目に入った。
灯りを携えた人々がそこを往来している。囃子はその橋の向こう側から聞こえてくるのだ。
僕には橋へ到る方途が用意されていなかった。あの橋の向こう側こそが、あるいはハカセの求めた道だったのだろうか。
ならば今自分の立っている此処はどこか。地面を蹴った。土が跳ねた。驚くことにこの黒々としたものは大地であったようだ。
しかし、大地はあれども空が見えない。此処は地獄であろうか。それにしては向こう側が活気に満ちあふれている。
僕一人が取り残されている。
「ああ、なんだ」
笑う。これこそがハカセの言っていたズレではないか。僕は彼処に辿り着けず、延々と此処でその様を見つめ続けるしかないのだ。
いつかハカセもあの橋を渡るのだろうか。そうでなくては報われないと思う。反面、それをひどく妬ましく感じてしまう。
馬鹿馬鹿しいことだ。妬む前に行動を起こせば良かったのだ。本気を出して何かに一徹打ち込めば良かったのだ。
それすらせずに何が妬ましい、だ。しかし、妬ましいのだ。どうしても心の奥底で声がするのだ。
どうしてあの老人だけが幸せになれるのだと。どうして彼の為に犠牲になった自分には何の幸福も訪れないのだと。
暗い思考に耽っていた僕の脇を、誰かが通り過ぎた。はっとして振り返ると、背中に透明な羽を生やした子供が楽しげに中空を舞っていた。
僕は彼女たちに声を掛けたのだが、返事はなかった。羽を生やした子供達は、橋の方へと飛び去った。
一瞬、救いがあったのかと思った。僕は奇跡的に彼にとっての楽園に辿り着けたのかと思った。
しかしそれは誤りだったようだ。また一人、子供が僕の脇を過ぎ去った。
誰も、僕の姿が見えないのだ。
理解すると、何とも虚しい気分に襲われた。結局、あの橋へ辿り着こうが、あの橋の向こう側へ辿り着こうが同じ事なのだ。
僕は一人だ。これこそがズレなのだ。理解してしまえば事は容易い。僕は心の赴くまま、斜面を下へ下へと進んでいった。
あの老人は、先程の不思議な子供たちとも歓談するのだろうか。そして"妖怪"と仲良く死ぬまで暮らすのだろうか。
彼にはそうするだけの権利があろう。何故なら彼はそれに足る努力をしてきたのだし、愛を注いできたのだ。
他の全てを犠牲にして彼はこの地に到るという大事に臨んだ。恐らく周囲からは狂人と笑われたろう。
最も身近な人間の一人である僕ですら彼を内心では嘲っていたのだから。
故に彼は尊重されなければならない。彼は幸福を与えられねばならない。
そして、本来であればとうの昔に命を絶っていたはずの僕がそんな一人の男の理想を目に出来ただけでもありがたいと思わねばならない。
理屈では説明できないものを見る事が出来たというだけでも、感謝せねばならない。
そうであらねばならないはずなのに、彼の幸福な未来を祝えない自分が居た。何故彼だけが。何故彼ばかりが。
問いは回り回る。答えは既に出ている。彼はそれに値するだけの対価を支払ったから、それだけだ。
そして死を選んだ僕に何も与えられないのは当然のことだ。頭では理解している。
理解できているはずなのに心は黒々と渦を巻いていた。
尊敬していた筈の男の像が、霞みはじめていた。それでもいい。
それでも良いから僕は
「止めておきなさい」
声がした。それは明らかに僕に向けられたものであった。そしてそれは僕の歩む先から掛けられた声だった。
遠く闇の向こう側に、輝く緑色の光が二つ。かつり、こつりと足音が響く。
「人を呪わば穴二つ。醜い妬心はあまり褒められたものではないわ」
沈んだハスキーな声につられて、不思議と心が凪いでいくのを覚える。
あれだけ荒ぶっていた筈の心が、平静を取り戻している。
黒色の向こう側から、輪郭がぼんやりと見えてくる。はじめに鼻の頭、そして目、顔立ち。
それは女性だった。訂正するならば、それは異様に美しい女性だった。
筋の通った鼻もそうだが、淀んだ不健康な白い肌が必要以上に性的な魅力を醸し出している。
自ずから光を放っているかのように錯覚してしまう緑色の瞳は静かに知性を湛えている。
頬にうすく朱が差しているのは手に持った杯のためであろうか。
見れば足取りも覚束無い様子だ。ふらりふらりと前後に揺れながらこちらに近づいてくる。
その度に、癖のある金の髪が左右に揺れるのだ。
僕は思った、ガイジンさんだと。同じ人種ではないということは妙に恐怖心を喚起するものだ。
思わず唾を呑む。生来人と話すのが苦手な質であった。
死ぬまでの短い期間で少しばかり改善されたかと思ったが、思い出してみれば女性と話したことなど殆ど無い。
美人、ガイジン、女の人。それだけで僕の心臓は高鳴り、口は縫いつけられたかのように動かない。
何か言わねば相手を不快にさせるというのは分かっているのだが、どうしても一言が出てこない。
彼女は僕の前に立つと、両手を腰に当てた。杯から液体(酒だろう)が零れ、スカートを、ついで細い足を濡らした。
水が煌めきながら太股を伝い、ついでふくらはぎを流れる様を、思わず目で追った。
それは、破滅的に妖艶な光景であった。女性に縁のない僕には、少々刺激的に過ぎる様でもあった。
彼女が一度大きく身震いしたので、僕はようやく我を取り戻すことに成功する。
「貴女は」
しかし結局は短い問いの欠片を発するに終わった。
声は小さくはなかったろうか。大きすぎはしなかったか。震えていなかっただろうか。
馴れ馴れしくはなかっただろうか。息は臭くなかっただろうか。
いや臭いはずだ。届かなかったらいいな、など。
様々な思考が脳裏を過ぎり、胃が締め付けられるのを感じた。ちくりちくりと鋭い痛みを腹部に覚えた。
「最近の若い連中は、橋の守り主様も知らないから困る」
彼女は僕の言葉を受け、大袈裟に肩を竦めて見せた。しかし彼女、実に不思議な服装をしている。
胴衣の上から茶の上着を合わせ、腰の辺りを帯で巻いてるのだ。
同じように首もとにも布を巻き付けている。今日が祭りの日であることから推すに、ハレの日の衣装であろうか。
しかしそれにしては随分草臥れているようにも感じられた。
「お前は上から、それも外からやって来たのね」
彼女の言っていることは良く分からなかった。しかし疑問を差し挟むことはしなかった。
この美しい人は別段僕に質問を投げかけている訳ではなく、自分に納得させるように言葉を発しているように思われたからだ。
勿論疑問は疑問として心に残るが彼女に質問を投げかける資格など僕には無いように感じられた。彼女はそれだけ美しかった。
「まァ良いわ。こんな所に来たのでは、確かに人を妬まずにはいられない」
女は空いた手で髪を払った。ふと甘い匂いが漂い、そのことで僕は自分の体臭が彼女に伝わっていないか恐怖する。
「やけに、挙動不審ね」
彼女は此方に一歩を踏み出した。僕は一歩下がった。
「それは、僕が」
「何」
唾を呑む。上目遣いに睨め付けてくる彼女は不機嫌そうな顔をしているが、造形の完璧性が損なわれることはなかった。
不意を打って顔を近づければ容易く口づけをすることが出来るだろう。彼我の距離はそれが可能な程に縮まっている。
男に対して注意をしない人だ。いや、それだけなら僕にこれだけ近づける理由にはならない。何故ならば
「僕が、ひどく醜いからです」
彼女は言葉を受け、二度瞬きをした。そして僕の頭の先から爪先までを、その緑色の瞳で注意深くなめ回した。
先程から度々卑しくも性的に興奮していたので、股間が隆起していないかひどく気に掛かった。
しかし彼女がそこを見咎めることはなかった。女性は腕を組み、一度、二度頷いた。
そして感激したように、はぁーっ、と長い溜息を吐いてやや語気を強めてこう言った。
「言われてみれば、確かに。あんたはひどい不細工ね。こりゃたまげた」
しかし、と彼女は頬に人差し指を当てて首を傾げる。それは間違いなく自身の美しさを計算し尽くした仕草であった。
そしてそれだけで僕の心臓は高鳴るのだった。恋はしたことがないが、胸は勝手に拍動を強めるのである。
「しかも太っているし、面皰も酷いわ。否、むしろそこがとりわけて醜いのね。
それさえなければ中の下の下? 褒め過ぎか。端的に下の中かしら。
まあ、嫉妬ムンムン撒き散らすのも頷ける。同情するよ」
そう言って彼女は呵々と笑うのだ。
「日の光の下に立てば化け物みたいに見えたでしょう。此処が地底で良かったわね」
そこに侮蔑の色は無い。気遣いも感じられない。極々自然に感じた事を彼女は口にしているように思われた。
僕のなけなしの自尊心はズバリと両断されたが、あまりにさっくりやられると痛みを感じないのだということをはじめて知った。
変に気遣われると、ノコギリでぎこぎこやられるような苦痛が長く残るのに。
だが、ありのままに自分を出すというのはあまりにも非社会的な行いであるように思われた。
それらは確かにルソーや古くは孟子などによっても礼賛されていたように記憶しているが、
ありのままの人間が美しいという幻想を僕は抱いていない。汚いから人は仮面を被るのだ。
虚飾を剥いだ向こう側に残るのは汚い本性だけだ。
「此処は地の底なのですか」
僕は彼女にそう問うた。彼女は鷹揚に頷いた。
「此処は地底なのよ」
僕も二度頷いた。
「故に空が見えないのですね」
「日の光など妬ましいでしょう」
「そうですね」
僕は賛同し、彼女もうんうんと頷いた。しかし、本当に美しい人だ。
背は僕よりも頭一つほど低いのだが、細くすらりとした、それでいて雪に濁りを混ぜたような肉は見ていて胸の辺りの皮膚の奥が縮まる思いがする。
純潔の白というよりはむしろ蛆の白――そう評せば彼女は怒るだろうか。怒るだろう。
しかし僕は一種の賛辞としてそのような感想を抱いたのだ。
この少女は言葉のポジティブさとは対照的に、妙に暗い色を放っていた。
緑色をおぞましいと思ったのは生まれてはじめてかも知れない。しかし、それがどうしてどうして美しいのだ。
「よく美人だと言われるでしょう」
僕がそう問うと、彼女はそうね、と簡潔に答えた。それが当たり前であるかのような、淡々とした返事であった。
濡れた赤い唇とその奥に時たま覗く白い歯と粘膜を見ていると気がどうにかなりそうだったので目を逸らす。
どこに視線を向ければ良いか分からず、結局は自身の爪先を睨め付けることになった。太くて汚い足だ。
こんなものが生まれてしまって、両親にはつくづく申し訳なく思う。
「橋の向こうに渡りたいのなら」
彼女は唐突に話題を変える。
「送ってあげるわ。人柱無しで。生贄無しで」
彼女はどこか忌々しげにそう言った。橋の守り主様を自称していたようだが、その役職を彼女は好んでいないのだろうか。
それとも人柱や生贄を望んでいるのだろうか。ぞっとしない。
「祭りでもやっているようですが」
僕はそう言って、一度言葉を切る。
「知り合いは居ませんし、名も知らぬ誰かに声を掛けるのも迷惑でしょうから。遠慮します」
そう言うと、女はまた僕を見て頬を掻くのだった。
「その面じゃ、仕方がないわね」
「仕方がないのです」
言ってから、僕は問いかけてみる。
「ところで貴女は何故僕を見て不愉快な思いをしないのですか」
それを受けて彼女は曖昧な苦笑を形作った。
明後日の方向を見てあはは、と笑うその様に僕は深いものを感じ取ることができなかった。
「もっともっと不細工なのを長年見てきたからねえ。醜くておぞましい」
はあ、と溜息を吐く。僕は僕より汚いものを想像できなかった。
「だから随分前から鼻は臭さを感じにくくなったし、汚いものも見えにくくなった。
あんたに言われるまで、あんたが醜いということも分からなかったわ。
イケメンじゃないということは一目で分かったがね。くっくっく」
彼女は声を潜めて笑った。取りあえずこの人の醜に対する閾値は跳ね上がってしまっているらしい。
ひどく綺麗な人なだけに、全体如何なる境遇で育ってきたのか失礼ながら興味を抱いてしまった。
勿論、問うてはならない。初対面の人に踏み込んだ話をするなど、それこそ本当に礼を失した行いになってしまう。
「では、僕は失礼します」
「待てよ」
背を向けた瞬間、ゆるりと声が掛かった。その上、手までかけられた。
「――っ!?」
思わずそれを振り払って二、三歩後じさりする。女の人は特に気にした様子もなく再び口を開いた。
「お前、行く場所ないだろ」
それは事実だ。しかし今はそのようなことはどうでもよろしい。
「女の人が、簡単に男の肩に手を触れては駄目です。特にキモい男はいけません」
しかし彼女は僕の言葉を受けずに続ける。
「元の居場所に帰るにしろ、橋の向こうに行くにしろ私が手伝ってやんなきゃ無理よ。
一人でてくてくどこへいく?」
「下は?」
「下に行ったら溺れ死ぬわ」
「では、下へ」
そう言うと彼女は大きく首を横に振った。常人と比して異様に長い耳が見えた。
それを気持ち悪いとは感じなかった。不気味の谷とは何だったのか。あれを人に当てはめるのは失礼か。
少女は桜色の唇を開く。
「汚されちゃたまらないわ」
なるほど納得の道理であった。僕のようなキモい人間は死んでも人に迷惑をかけるのだ。
「生活するアテはないんでしょう」
「いえ、元の居場所に帰ればいくらでも」
「嘘ね」
嘘ではない。僕はそれなり以上の大学を出ている。就職難の時代だが、頑張れば生きていくのも不可能ではない。
借金も無ければ(奨学金は返済しなければならないが)障害もない。元の場所に帰って生活するのは確かに可能なのだ。
「あんたは死にたい死にたいという顔をしているわ」
腕を組み、彼女は一人納得している。しかしそれもまた事実であったので否定はしない。
「自殺をすると閻魔に裁かれて地獄に堕ちるのよ」
彼女の言葉に、目を丸くする。
「居るのですか、閻魔様」
「そりゃ居るわよ、怖いのが。変な事を言うのね。此処だって中心は旧地獄なのよ」
「旧って」
「色々あって廃棄されたの。だから此処に住んでいるのは忌まれた妖怪だけ」
妖怪、という言葉にハカセを思い出した。彼はもうじき此処を訪れるのだろうか。訪れるのだろう。
そして幸せになるのだろう。僕はもうハカセに対する敬意も興味も失っていた。
独房の囚人がゴキブリに向ける愛情と、それは類似しているように思われた。
そして僕はそのような自分を深く恥じた。どうして僕は、ここまでクズなのだろうか。不思議でならない。
「貴女も?」
「私もよ、そりゃ」
悠々と自信満々に彼女は答える。
「とてもそうには見えません」
言うと、彼女は皮肉げに口角を持ち上げた。
「そりゃあどうも」
自負と挑戦心に充ち満ちた笑みがそこにあった。
僕はそれを羨ましく思い、同時にそこは辿り着けない境地であろうとも推した。
彼女は軽くスカートを叩くと、また僕ににじり寄った。
僕は後退った。彼女は口許にサディスティックな笑みを浮かべると、また一歩を踏み出した。
何故か、それだけで彼女は僕の眼前まで瞬時に移動した。驚く僕の胸を軽く手の甲で叩き、彼女は言う。
「しゃあない。うちに泊めてやるわ」
「お断りします」
考えるより先に返事が飛び出していた。しかし彼女はそれを見越していたのだろう、飄々と続ける。
「だってあんた、放っておいても帰してやっても、死ぬでしょう」
「死にません。それに男を女が泊めるのは誤っています」
少女はふん、と息を吐いた。
「一理あるわ」
容易く納得されたのは拍子抜けだが、分かって貰えたのならそれで良い。
「では僕は自殺などしないので安心して家に帰るなり祭りに参加するなり橋を守るなりしてくださいな」
「誰が泊めないと言った」
しかし彼女は引き下がらない。変な人だ。
フィクションの世界の人間をそのまま持ってきたような痛烈な違和を覚える。
「私はこれでも情に篤い妖怪なのよ。遠慮する必要はないわ」
「貴女は阿呆です」
僕は思わず素直な感想を口にしてしまっていた。
この異次元思考回路を持つ人を、はじめて怖いと、そう思った。
現代人的な賢い考え方が、この人からは欠落しているのだ。だから、説明する。
「考えてもみてください。こんなキモいのが生きていようが死んでいようが貴女には何の関係もありません。
つまり僕が死ぬことで生ずる不都合は貴女には皆無です。
ところが僕を泊めようとすることで貴女は多大なリスクを負うことになる。
更に泊めることで貴女は諸々の諸経費を支払うことになる。僕は無一文です。
此処から導き出される当然の行動は――」
「泊めるわ」
淡々と彼女は言った。理屈も何もあったものではない。
「待って下さい。どんな理屈の、感情の動きから僕を泊めることになるのです」
「さあ?」
「さあって……!」
「此処は冷えるわ。鍋でも食べる? お酒もあるわよ」
「ちょっと、ちょっと待って下さいよ。おかしいでしょう」
僕は彼女から離れる。
「ここの人は、みんなあんたみたいな人ばかりなのかよ。変だろ……」
「普通じゃないかしら」
普通じゃない、と僕は断言する。
「良い機会だから教えて上げます。自分で哀れさをアピールしている男性は地雷です。止めた方が良い」
「良く知っているわ。私は恋愛関係でトラブることのプロフェッショナルよ。
幻想郷一恋愛でトラブった女とはこの私のこと」
「なら反省して下さいよ。男と女の問題がデリケートだということくらい――」
「それでも間違え続けて正さないから橋姫なのよ。我ながら愚かね。さあ、行きましょう。
何がなんでも助けてやるわ、あんたを」
「好きではないのでしょう。変です」
「私はいつもイケメンに惚れてきたわ。
そしてあんたはイケメンではない。というかブサメン――いやいやキモメンだ」
「そうです。おまけに臭い。だから……」
「でも助けるわ。嬉しいでしょう」
彼女はニヤリと笑んで手を差し伸べた。僕は後退った。
「嬉しくありません」
ますます笑みを深めて、彼女は一歩。
「本当に? あんた泣いてるわよ。嬉しいのでしょう。気持ち悪いわね」
「気持ち悪いなら帰って下さい。そしてこれは怖いから泣いているのです」
「そうかそうか。私は怖い怖い妖怪だからそれは仕方ないのよ」
彼女は更に一歩。僕は動けなかった。彼女の緑色の目は美しかった。囃子が聞こえる。
「ほおら」
そして、一歩。
「――捕まえた」
臆する事無く、彼女は僕の汚い手をとった。細く、淡く、血の通った、爪が美しいその手で僕の醜く節くれ立った手をとった。
不快そうな色一つ見せず、彼女はくつくつと笑うのだ。僕は、それを受けて情けなくもボタボタと涙を落とした。
さぞキモい顔をしていたのに違いない。そして僕はこの時、救われたのだと思ったのだ。
新しい天地で新しく生きられるのかもしれないと少しだけ、一瞬だけそんな考えを過ぎらせてしまったのだ。
「さあ、私たちの家に帰りましょう」
この時に、僕は何がなんでも死んでおくべきだった。恩人である橋姫の少女のためにも。
はい、などと、口が裂けても言うべきでは無かったのだ。
理解していた筈なのに、僕は彼女の優しさに溺れ、それを貪った。
これは、一人のクズの話である。