それはまるで波間にたゆたうクラゲのように、混沌の次元をゆらゆらと漂っていた。
混沌の領界に存在する潮流のような流れに任せるまま、やがてそれは終点に辿り着いた。
そしてそれは終点で、見上げるように巨大な……いや、すでにそれは余りに巨大すぎて、見上げるといった動詞では到底言い表せないほどの巨大な存在に出会った。
或いは、眼に見えないほどの微小な病原菌が鯨の前に立たされたかのように。
それはもはや、観測不能なほどの巨大な存在である。
やがて、強大な何かは流れ着いたそれに気がついた。
巨大なそれは特に何も言いはしなかったが、なんとなくであるが好奇心と驚きのような感情が波に乗って漂ってきた。
そして巨大な何かは手を……或いは、手のように思える何かを振り仰ぐと、それの意識は混沌の領界からすっぽりと何処かに吸い込まれていったのだった。
■■■■■■
「アレは、果たして神と呼ばれる存在だったのだろうか」
ウランフ氏族の筆頭薬師であり、また骨卜師(こつぼくし)の補佐官であるゲラン・グロカーシュ・ウランフ――或いは波速寅治――は、物心ついてから幾度と無く繰り返したその問いを、またしてもポツリと呟いた。
すり鉢の中に新しい薬草を放り込みながら、ゆっくりとすり潰して、ゲランはじっと考える。
あの、認識不可能なほど巨大で、偉大で、畏れ多い存在。
あれは、ひょっとして神と呼ばれる存在ではなかったのか?
幾度と無く繰り返した自問自答。
しかし、幾度となくり返してきた自問自答と同じく今回もまた、答えが出ることはなかった。
「……一雨来るな」
ポツリと呟いて、ゲランは開け放した窓の向こうに広がる夏の青空を振り仰いだ。
何も知らないものからすれば、雨など降りようもないほどの晴天であるが、骨卜師の補佐官として積んできた修行と、自然と隣り合った長年の生活がその第六感じみたものを育て上げている。
鎧窓を閉め、ランプに火を灯すと、扉をノックされる。
「誰か」
「ゲラン様、骨卜師がおよびです」
「分かった、すぐに行く」
まるで恫喝でもしているのかと思うほど低くて物騒な声色だが、相手もこちらも普通に会話をしている。
そもそも、こういった感想を抱く者は氏族の中でもゲランだけだ。殆どの者は同族としか会話などした覚えが無いのだから当然の話で、人間としての一生を経験として覚えているゲランは、例外であった。
このゲラン・グロカーシュ・ウランフは、黒鉄連山に縄張りを持つウォー・トロルのウランフ氏族に生まれた。
しかし、彼には人間として一生を送った朧気な記憶もあった。
夢のなかで体験する「かつての己」は、まるで夢と思われないような現実味を帯びていて、ゲランとしての人生が夢ではないのかと思うほどである。
しかし、こうしてクラン(氏族)の中でも上から数えたほうが早いような地位を得ているゲランとして覚醒しているときには、アレは夢で、こちらが現実だと強く感じる。
「はてさて……俺が蝶の夢を見ているのか、蝶が俺の夢を見ているのか」
「はい?」
「いや、なんでもない」
訝しげに振り返った若衆に気にするなと答えると、クラン随一の薬師にして召喚師(コンジャラー)であるゲランの、意味の分からぬ独り言には慣れたもので、若衆は特に何かを聞き返すこともなく先に進んだ。
骨卜師が住まう族長館にやってくると、若衆は扉の向こうにゲランがやって来た旨を伝えて、そそくさとその場を去っていった。
何やらせわしないその様子に嫌な予感がしたゲランは、中にはいってその予感が的中したことを実感した。
いつもなら、終始薬草の烟る白煙が半地下の部屋中に低くたなびいているその部屋には、今年で百歳を軽く超える骨卜師のメヅラが一人、凄まじい猫背で座り込んでいるはずだった。
だが、今に限って言うならば、それともう一人、族長の《八本牙》ベリバランが、今にも爆発寸前といった様子でイライラと右手側に座り込んでいた。
「ゲランです。お呼びに従い参上いたしました」
「ああ、来たか、座れ」
「は」
骨卜師に呼ばれたはずが、まず声を上げたのは族長であった。
彼はゲランに座るように指示したあと、子供なら泣いてしまいかねないような壮絶な形相でゲランを睨みつけた。
突然の事に、ゲランは驚いて思わず生唾を飲む。
ゲランは困惑を顔に出した。それもそのはずで、族長からこんな怒気を浴びせられるような覚えはついぞなかったからである。
「な、何か不手際でもありましたか、族長」
「……」
「族長?」
じっとベリバランはゲランを睨みつけたあと、そのままぐるりと首を巡らせて、今度は骨卜師を睨みつけた。
その形相をなんと言い表せばいいものか、少なくともゲランを見ていたのはまだ「睨む」とは言えないような表情だったらしい。
「俺は、反対だ。絶対反対だぞ」
「ベリバラン、お主に許可など求めておらぬ。そもそも、お主は呼んでおらんぞ」
「かーッ! 俺は族長だぞ! 俺の許可なしに誰も里から出さん!」
「だとしても、だ。これは祖霊のお導きなのだ。その示す道の前には、我らのしがらみなど用をなさぬ」
「ぐぬぬぬぬ……だ、だが、ゲランがいなくなったら、俺はこれからどうすればいいのだ」
突然始まった言い争いに、ゲランは目を白黒させて聞き入った。
同族の中でも飛び抜けて聡明なゲランは、その短い会話の中に聞き捨てならない可能性を見出したが、ここは黙って聞き役に徹した。
「馬鹿者め、そもそもまだゲランは18になったばかりの若者だぞ。そんな若造におんぶに抱っこで、恥ずかしいと思わぬのか」
「思わん! 俺はアタマが悪いからな、ゲランの言うとおりにしていた方が上手く行くなら、その方がいい」
「自分を馬鹿だと自覚している点は、お前は他の馬鹿者と違って見所がある。だがな、族長よ。馬鹿だと自覚して、それを改善する努力も指導者には必要であろう。お主のそれは、ただの怠けだ」
「むむむ」
「何が「むむむ」だ。とにかく、ゲラン」
「はい、骨卜師」
さて、漸く自分に話が向いた。
ゲランが佇まいを正して聞き入ると、薬臭いフードの奥から骨卜師がその鋭い視線を彼に投げかけている。
「昨晩、祖霊からの託宣があった。ゲランよ、お主は里を出て、人間たちの住む街に行かねばならぬ」
「なんと」
「一種の……修行、か、或いは試練のようなものであろう」
「して、人間の住む街とは、具体的に?」
「ララクだ」
「ララク……」
ゲランは頭の中で地図を開いた。
ララクはこの里から南へずっと下り、ガダーン平原の南寄りに存在する都市である。
大昔に滅びた王国の要塞跡を中心にして広がった商人たちの街。
そして、一攫千金を夢見る冒険者達の街である。
「ララク、そこで、一体何を」
「そこまでは、分からなかった。だが、ゲランよ、お主はララクに行かねばならぬのだ」
もちろんゲランに、否やはなかった。
■■■■■■
ゲランは自宅に帰ってくると、すぐさま地下に降りて従者の部屋をノックした。
「レーゼ、起きているか、レーゼ」
「……はい、ご主人様」
明らかに寝ていたであろう声色に、さすがのゲランも罪悪感を抱いた。
しかし、開いたドアの向こうに立っていたアセイル属のレーゼはさっきまで寝ていた様子など欠片も感じられぬような、ハッキリとした様子で立っていた。
栗色の頭髪をナイトキャップに包み、ゲランよりもたっぷり2フィート以上は低い身長の彼女は、額の第三の目をしょぼしょぼと瞬かせながら彼を見上げる。
レーゼはゲランが初めて召喚し、そして唯一召喚した生物の従者である。
彼はレーゼ以外に生き物の召喚で成功したことのない落第生であった――最も、ウォートロルにしてコンジャラーというのはそれだけで賞賛されて然るべきであろうが。
閑話休題。
ゲランは彼女のナイトキャップをとると、その無骨な手で彼女の頬をグリグリと揉んだ。
「レーゼ、起き抜けですまんが遠出の準備だ。一時間以内に準備しろ」
「は……遠出、ですか。何日ほどでしょうか」
「暫く戻らん、必要だと思うものは根こそぎ持っていく」
「暫く、といいますと」
「……一年二年で終わるものでもあるまい」
「えっ」
呆然と見上げる彼女に笑いかけて、彼は踵を返す。
「ずいぶん長い探索になりそうだ」
■■■■■■
里に十台しかない二頭立ての馬車を借りて、幌付きの荷台には文字通り根こそぎ部屋の中身を持っていくかのような量の品々が所狭しと積み立てられた。
馬車の車輪がずっしりと沈みこみそうな状態で、積み込み作業をしていたゲランとレーゼがいい争っていた。
「駄目ですって、重すぎます。それに大きすぎます」
「しかしだな、この大鍋がないと……」
「向こうで用意すればいいじゃないですか。その大鍋にご主人様の愛着以上の価値が果たしてあるのですか?」
こう言われてしまえば、流石にぐうの音も出ない。
最も、これが他のウォートロルなら「従者のくせに生意気だ」と首をねじ切って終わりだろう。
もちろんゲランはそんなことは絶対しないし、レーゼの方も十年以上の付き合いでよくよく分かっている。
だからこその気の置けない会話なのであるし、レーゼが契約以上に主人に尽くそうという原動力にもなるのだ。
「分かった、鍋は諦める」
「そうしてください」
「ああ……済まない……お前を置いて行ってしまう……」
ゲランは使い古された巨大な鉄鍋に頬ずりをしながらホロリと目を潤ませる。
そんな彼をレーゼはアイスブルーの瞳で冷ややかに睨みつけた。
「……そういう感動のシーンは普通私とかを相手にするんじゃないんですか」
「なんだ、置いて行って欲しいのか?」
「そんなことは言っていません!」
頭から湯気が出そうなほど怒って、レーゼは右手に持ったメイジスタッフで彼の脛をがんがんと叩いた。
「こらこら、そんなに大きな声を出すな。一応はこっそり旅立たないといかんのだぞ」
「誰のせいで……いえ、分かりました。とにかくその邪魔な鉄塊を早く戻してきてください。水樽と食料を積んだら直ぐに出発しますからね」
「ああ……愛しの大鍋……」
「それはもういいですから」
天丼ネタは不評であった。
さて、そんなこんなで慌ただしい出発となり、里で三番目の権力者の旅立ちにしてはたった二人だけという寂しい見送りで馬車は里を出発した。
族長は最後の最後までぶつぶつと不平を漏らしていたが、骨卜師に睨みつけられて首を竦めていた。
いよいよ二人が馬車に乗り込み、馬車を進めたその時に、フードを取った骨卜師はその落ち窪んだ両目でゲランの方を見た。
「若人よ、祖霊の導きのあらんことを。そして、お前は己の宿命と向き合うのだ」
■■■■■■
「ううむ……」
ゲランは両手で見開いたページをじっと見つめた。
だが、いくら唸って睨みつけたとしても、紙面上の数字は勝手に変わったりはしない。
「足が出るな……」
帳簿は真っ赤であった。
暫しじっと考えた彼は、やおら立ち上がるとノシノシとその巨体を窮屈そうに移動させ、廊下に出てから隣の部屋をノックした。
「レーゼ、レーゼ」
ノックをしてから少しして、防塵マスクに特注の防護ゴーグルを身につけたレーゼが扉口に現れた。
ちょうど調合をしていたのだろう、その右手にはモスグリーン色をした液体の詰まったフラスコが握られている。
キョトンとした顔で三つの目を瞬きさせて、彼女はフラスコを振りながら首をかしげた。
「はい、どうしました?」
「赤字だ」
「えっ」
ずいと突き出された帳簿をじっと見て、信じられないものを見たとばかりにレーゼは悲鳴をあげる。
「ちょっと待ってください! どうしてこんなに諸経費が嵩んでるんですかッ、あと半年近くは余裕のある貯蓄があったでしょう」
「ああ、使ってしまった」
「……」
「うむ、支払ってからちょっとまずいかと思ったが、なに、将来への投資と思えばやすいやすい」
そう言ってガハハと豪快に笑うゲランの目の前で、ガックリ肩を落としたレーゼは深く深く溜息を漏らしたのであった。
あの時、骨卜師は故郷を離れる二人に宿命と向き合えと諭したが、まさか宿命と向き合う前に現実と向き合うことになろうとは。
レーゼはクランを出た途端にどこかポンコツになってしまった主人の金銭感覚に嘆いた。
まあ、それも無理はなかろう。彼女とゲランは大陸有数に裕福でチャンス溢れる大都市の中枢で、そのチャンスを強引にでも「モノ」に出来る数少ない二人組であったし、そうして稼いだコインの量はクランにいたままでは一生見ることもなかったであろう量であった。
そう、戦トロルと三つ目の悪魔の奇矯な二人組は、大塔都市ララク、冒険者と商人と博打打ちとが入り乱れる都市で、最近噂になり始めた腕利き冒険者として生活しているのであった。
■■■■■■
彼女が《一つ目巨人亭》に足を踏み入れた瞬間、その姿を目にした冒険者たちが息を詰まらせて腰の得物に手をやる。
ある者はじっと息をひそめて彼女を観察し、ある者は敵意と警戒心を隠そうともせずに睨みつけた。
そしてその他の大勢は、仲間たちと目配せをしながらコソコソと小声で会話を交わす。
もはや慣れっこの対応ではあったが、こうも毎度毎度同じ様相では溜息の一つでもつきたくなるというものだ。
人間たちの反応の原因は、彼女の額でギョロリと周囲を睥睨する第三の目である。
影界の最も陰惨な場所に住まうというアセイル属――別名シャドウスポーンは、月影の魔道から無限の魔力を汲み出せるという反則じみた力を持つ影界の召喚獣だ――最も、召喚獣という呼び名は人間たちの勝手な呼び名ではあるが。
その性格は獰猛にして残忍。
召喚主の力量を遥かに凌駕する魔道の冴えを持っている場合が殆どで、多くは戒めを破っては周囲に破壊と殺戮の嵐を吹き荒らして影界に帰って行く。
そんな歩く人型魔道兵器が一人で街中を歩いていれば、ほとんどの人間は悲鳴を上げて逃げるか、或いは自分の見ているものが信じられずに夢か幻かと思うだろう。
こうして一人で彼女がこの街を出歩けるようになるまで、筆舌にしがたい苦労があったのだが……それは最早語るまい。
「依頼は?」
カウンター席に座るなり、酒も頼まずにズバリと斬り込むと、巨漢のマスターは不機嫌そうな顔付きのまま彼女の前に羊皮紙の束を無造作に投げ置いた。ちなみにこのマスターはいつもこんな顔だ。
使い古された丸椅子にちょこんと座り、彼女は分厚い羊皮紙の束を右と左により分けていく。
やがてその作業を終えて、右側の束をずいとカウンターの向こうに押しやる。
「これを全部」
その言葉に、マスターは不機嫌そうな顔を更に顰めて、差し出されたそれぞれの羊皮紙の一番下に蝋印をバンバンと押していく。
「しくじるんじゃねえぞ」
「要らぬ世話だ、人間」
「ペッ、呪われちまえ、影界の怪物が」
「報酬を誤魔化すなよ」
尖った氷柱を互いに突き刺し合うような言葉の応酬の後、全ての押印が終わった羊皮紙の束をひったくるように受け取ると、踵を返しながらいつの間にか袖口から取り出した仲介料のコインを指で弾いた。
明かりを反射してキラキラと放物線を描いた銀のコインは、マスターの右手に握られている磨き途中のグラスの中に狙いすましたように入る。
「ゲタアウオブヒア! アシィイル・ディモン!」
やけに訛りの強い影界の言葉でそう罵られながら、レーゼはその口の端に思わず苦笑を微かに浮かべながら出口に向かって足を進めた。
《一つ目巨人亭》のマスターの前歴は不明だ、だが、影界の言葉を話せるような人間が真っ当な前職を経験しているわけもない。
さて、あの全身から滲み出る懐かしい気配からして、さては……。
そんなことをつらつらと考えていたせいで、彼女は反応が遅れた。
「へへっ、それでさ、俺がその時さっと飛び出してさぁ」
扉を背中で押し開けながら、彼女に向かって後ろ向きのまま冒険者らしい青年が入ってくる。
誰かが入ってくるということは分かっていたが、まさかこちらを見もせずに入ってくるとは思っていなかったレーゼは、不意を突かれて革鎧に包まれた青年の背中にぶつかった。
その表紙にバラバラと手に持った羊皮紙の束が床にばらまかれ、その情景を見た酒場の中の温度がぐいっと引き下げられ、青年の向こうで微笑んでいたたおやかな美貌のエルフがレーゼの顔を見て一瞬にして血の気が引く。
「あっ、おっとと、わぁ、ワリィ、拾うよ」
そんな空気の中、たった一人空気を読まない黒髪の青年。
悪い悪いと頭を掻きながら、床一面に散らばった羊皮紙をかき集めると、なんのてらいもなく彼女の方に差し出して見せる。
どうにも冒険者らしくないといえば良いのか、それとも垢抜けない屈託の無さといえばいいものか。
いよいよ傍目にも分かる苦笑をその顔に登らせながら、レーゼは額のサードアイでぎょろりと青年の顔を見て、その宿命に避け得ぬ「死相」が浮かんでいるのをしかと見た。
いつもならば放っておくのであるが、新人の無知ゆえの行動とは言え彼女に普通に話しかけたことは賞賛に価する行為だろう。
レーゼは久しぶりに第三者に無償の好意を示してみる気になった。
彼女はそっとその左手を青年の頬に這わすと、誰にも聞かれぬように彼の耳元で囁いたのだった。
「命が惜しければ……明日は、部屋でじっとしてなさい……」
「えっ」
ぎょっと目を見張る青年を尻目に、レーゼは刺し違えるような気迫を持って杖を握りしめるエルフの横を通りすぎると、ララクの雑踏に姿を消したのだった。
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ふと思いついた妄想を書き殴ってみた。
続くかどうかは分からない