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[29758] オカリンティーナシリーズ(STEINS;GATE シュタインズゲート)
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/08 00:40
ごあいさつ

Steins;Gateの二次創作となっております。

某所に投稿したものの転載となります。
基本設定をゲーム本編から流用しているため、テレビ版とは大きくずれた箇所も、多々見受けられます。そのほど、ご了承いただければ、幸いです。
内容としては、true直後からの話となりますので、当然のようにネタバレをしまくっております。これからゲームやテレビをとお考えの方は、なにとぞご注意を。

おまけ付き

追想謝辞のオカリンティーナ
少し前に書いた単発ものですが、一応オカリンティーナシリーズという事で、同じところに追記します。

加糖恋情のオカリンティーナ
またもや追加ものです。一応シリーズ名は継続ですが、このまま同じ場所に追加していくべきか、新しく上げるべきか迷うところ。やや判断しかねるので、このまま追記で上げていきます。

H23/12/8追記
===無偶奇跡のオカリンティーナ===
先日まで某サイト様にて連載していたお話の転載となります。
気付いた範囲での誤字脱字を修正しておりますが、基本的な内容は変わっておりません。
基本的に、以前投稿させていただいた「思想迷路・帰郷迷子のオカリンティーナ」シリーズはご存知なくとも問題はありませんが、それ以降に投稿させていただいた二つの短編(追悼謝辞・加藤恋情)に、やや絡んだ表記があります。

激しくネタバレをしており、また原作の内容に対して、設定・キャラなどで手前勝手な解釈も含まれております。色々な意味で、ご注意いただきたく思います。
また、真に勝手ながら、幾つかに分けて投稿させていただいていく予定でおります。少しでも楽しんでいただければ幸いです。



[29758] 思想迷路のオカリンティーナ01
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:46
     1


「ようこそ、我が助手、牧瀬紅莉栖……いや、クリスティーナ」
 俺は涙をこらえつつ、ピンバッチを紅莉栖の手にそっと握らせた──
「これが『シュタインズゲート』の選択だよ」

 俺が口にした言葉にどんな意味があるのか、きっと今の紅莉栖には理解できないだろう。だがしかし、それでも彼女が無意識のうちに見せた反応は、俺にとっての一筋の希望に違いなかった。

 失われた夏の日々。彼女をラボメンに迎えてからの、慌しかった日常と非日常。
 それらを全て思い出して欲しいとは思わない。だがせめて、俺が彼女に向けている想いだけでも覚えておいてくれるのならば、きっと少しは報われる。

 ──そう思った。だから俺は紅莉栖に言う。

「そのバッチは、我が研究所のラボラトリーメンバーの証。そしてナンバー004のバッチは紅莉栖、君の物だ」

 わらにもすがる気持ちというのは、こう言う事なのだろうか?

 気付けば、俺は紅莉栖の記憶を少しでも刺激できるような言葉を、意図的に口にしている。
 確かに、こうして紅莉栖に再開するまでは、彼女が生きていてくれるのなら『それ以上は望まない』と、そう決めていた。それは嘘じゃない。

 病院のベットで過ごしてきた、この一ヶ月間。紅莉栖に逢いたい。紅莉栖と話したい。紅莉栖の笑顔を見たい。そんな押さえ込む事のできない感情とずっと向き合ってきた。

 そして、『これ以上は望まない』と割り切って、自らの想いに封印を施す事ができたのは、退院を間近に控えた、つい先日の事だった。


 紅莉栖とは会わない──


 たったそれだけの決意。それを固めるために、一ヶ月の殆どを費やしてしまった。そんな、長くも短くも感じる葛藤の日々。それは決して嘘ではないはずだ。それなのに──


『ひょっとしたら、報われるのかもしれない』


 そう思ってしまった。俺の手渡したバッチを不思議そうに、それでいてどこか懐かしむような顔で見つめる、そんな紅莉栖の姿に、俺の中の期待が膨張する。

 ほんの少しでも、どんな些細な事でもいい。失われた日々の断片を紅莉栖は──紅莉栖ならば思い出してくれるのではないか?

 そんな膨れ上がる希望を前に、一ヶ月をかけて積み上げた俺の決心は、容易く揺らいで吹き飛びそうになる。

 正直、自らの女々しさに辟易とした。

 病院のベットでのた打ち回りながら積み上げたはずの決意。決して軽くは無いはずの決意を、いとも簡単に無かった事にしようとしている、そんな自分がとても愚かしく思えた。

 だがそれでも、生まれ、そして肥え太った希望に抗うことができず、俺は紅莉栖に声をかける。

「ど、どうだ……紅莉栖? その、なんだ。よければ、これから我がラボに……」

 ラボに来ないか?

 そう言うつもりだった。しかし、バッチを見つめていた紅莉栖の変化に、俺はその言葉を飲み込む。

 これまで、黙ってバッチを見つめていた紅莉栖の肩が、小刻みに震えていた。整った顔を苦しそうに歪め、バッチを持った手を震わせ、そして──


「私……これを知ってる……」


 消え入りそうな声で、そう呟いた。

 紅莉栖の発した呟きに、俺の体が硬直する。『まさか』という思いと『やはり』という思いがせめぎあい、期待や不安やそれ以外にも色々な感情が交じり合い、思考が止まる。

 そんな硬直している俺に、紅莉栖は顔を上げて問いかけてくる。


「何で私、知ってるの……?」


 表情に不安を、二つの瞳に涙を蓄えた紅莉栖の言葉。

 しかし、その切実な響きを持った問いかけに、俺は答えを返すことができないでいた。ただ黙って、紅莉栖の目を見つめ返す事しか出来ない自分。それが猛烈に歯がゆくて、音が鳴るほどに奥歯を噛みしめる。

『どうして俺は何も言わない? これはチャンスだろうが! これは紅莉栖を──
俺の知っている牧瀬紅莉栖を取り戻す、絶好のチャンスではないのか!?』

 いっその事、紅莉栖が忘れてしまった日々の事を総て話して聞かせてしまえばいい。俺や紅莉栖が向き合った三週間を伝え、その結果、紅莉栖が何かを思い出すのであれば、その先にあるのは一度は諦めたはずの未来。そこにあるのは、報われた俺自身の姿。

 ならば躊躇う必要などないだろ。俺は紅莉栖の問いかけに対する答えを持っているのだから、伝える事ができるのだから。それなのに──


『なぜだ!?』


 どうしても動かない。

 紅莉栖に渡したラボメンバッチ。それが引き起こそうとしている千載一隅かもしれない奇跡。
 そんな奇跡の只中にいるというのに、目の前の紅莉栖に声をかける事も、その華奢な身体を抱き寄せる事もできない。ただ黙って立ち、握った拳を振るわせ、奥歯を噛みしめる事しかできない。

 まるでブレーキをかけられているかのように思えた。自分の中にある何かが、紅莉栖への想いに強烈なブレーキをかけている。そう思えた。だがそれが何なのか分からない。理解できない。

 紅莉栖を目の前にして、俺は抱えたジレンマに大きく顔を歪ませる。と──

「うぅ……頭が……」

 突然、紅莉栖が苦しそうな声を出してよろめく。倒れこそしなかったが、しかし、ふらついている両足は、今にももつれてしまいそうに見えた。

「なに……これ?」

 一体、紅莉栖の身に何が起こっているのか? おそらく紅莉栖本人にも分かっていないだろう。だがしかし、俺はその光景に見覚えがあった。

 これはフェイリスの時と同じ──

 そう、何時だったかフェイリスの望んだ世界の中で、俺は今の紅莉栖と同じような状態になったフェイリスを見ている。そしてフェイリスはこの後、全てを思い出していた。


『戻ってくるのか?』


 俺の全身が、歓喜に打ち震える。無理だと諦めていたものが、もう一度俺の手に戻ってくるかもしれない。

 期待に満ちた眼差しを、苦しそうに顔を歪めている紅莉栖に向ける。彼女の辛そうな表情を、期待の眼差しで見つめる。

「なんなのよ……これ……」

 紅莉栖はとうとう両手で頭を抱え込むようにしてうずくまる。その拍子に、彼女の手に握らせたはずのラボメンバッチが、地面で跳ねて乾いた音を立てた。
 丸い金属製のバッチは地面を転がり、俺の足元でパタリと倒れ──そして俺は理解した。



 ──ああ。そういう事か──



 道端に放り出された小さなバッチ。そんなちっぽけな金属の欠片が、俺の想いにのしかかっていたブレーキの正体を教えてくれる。

 どうして今まで分からなかったんだろう。
 どうして忘れていたんだろう。
 どうして今、このタイミングで思い出したんだろう。

 病院のベットで思い悩んだ、この一ヶ月。そこで積み上げてきた決意は、どうやら想像以上に頑丈で、そこに至るまでに経てきた思考は、どうしようもないくらい俺の中に根付いていた分けだ。


『そうだな。独善的でなど、いられないよな、もう』


 俺はバッチから視線を外すと、両手で頭を抱えたままうずくまっている紅莉栖に目を向けた。そして大きく息を吸い込むと──

「まきせくりぃぃぃぃす!!!」

 人通りの多い秋葉原の中心で、人目もはばからず天才少女の名を呼ぶ。大絶叫であった。
 その声の圧力に驚いた紅莉栖は、うずくまったまま驚いた顔だけを俺に向けている。

「牧瀬紅莉栖、いや天才少女よ! 俺が誰だか知っているか!?」

 周囲の通行人の視線が一斉にこちらに向けられるが、しかし気にしない。狂気のマッドサイエンティストは、そんな事気にしないのだ。

「どうした答えろ! 俺の名を言ってみろ!」

 怒鳴り散らすように叫ぶ俺の姿に、紅莉栖が怯えの色を見せながらも、口を開く。

「ほ……ほうおういん……」

「そぉうだ! フェニックスに院、そして凶悪なる真実。世界を破壊と混沌に陥れる狂気のマドサイエンティスト、鳳凰院凶真とは俺のことだ!」

「そ、それは知ってますけど……」

「知っているのに、よくも俺の前に顔を出せたな! 俺は貴様ら親子のお陰で、随分とひどい目に会ったのだぞ!?」

「……あ、あの」

「まったく、中鉢を始末するために待ち伏せしておれば、とんだ邪魔をしおって! お陰で何針縫ったことやら! この落とし前、どう付けてくれる、うん?」

「どうっていわれても」

「なんだ、その覚悟も無いのに俺の前に姿を表したというのか? なんとも下らない女だな、貴様。下らなさ過ぎて反吐が出る。もう止めだ。噂の天才少女と聞いて、貴様を我がラボへと迎え入れるつもりであったが、とんだ食わせ者だったな!」

「え……ええと、何だか話しが支離滅裂に……」

「うるさい! まったく貴重な時間の無駄遣いだったぞ!」

 俺は声高に紅莉栖を罵ると、勢いよく自分の右足を持ち上げた。

 せめて、牧瀬紅莉栖がこれから新しい生活を送って行く、その邪魔だけはしたくない。そう思い、俺は振り上げた脚を、路上に転がるラボメンバッチに向けて振り下ろす。

 この場で、紅莉栖のラボメンバッチを破棄する。そのつもりだった。

 暴挙ともいえる行動。これが、ただの自己満足だというのは重々に承知している。だがそれでも、振り下ろす足を止めるつもりは無い。

 もしも、このバッチが紅莉栖の手元にあり続ければ、彼女はいつか記憶を取り戻してしまうかもしれない。そうなれば、その先に待つのは俺の渇望した未来で、それは俺の想いが報われる世界。

 そう、俺だけの想いが報われてしまう、そんな世界。

 しかし残念な事に、どうやら俺には、そんな世界を手に入れることはできなさそうだ。


 だってそうだろ。俺に、そんな資格など無いんだから。


 最初はまゆりを助けるためだった。目の前で、何度も何度もそのか細い命を吹き消されていく幼馴染の少女を助けるためだった。

 そのために俺は多くの仲間たちの想いを犠牲にしてきた。

『いや、犠牲になどと生易しい物ではないか──』

 偶然できたDメールを好奇心のままに乱用し、その結果が気に食わないと言っては、さらに暴挙の上塗りを繰り返す。

 そうしてたどり着いたこの場所は、結果的には素晴らしい場所なのだろう。だが、だからといって過去の世界線で俺が他の仲間たちの想いを弄んできたという事実は変わらない。

 ラボメンバッチに刻み込んだイニシャルの数。それは同時に、俺が弄んび、消してきた想いの数に他ならない。

 そんな俺が、俺だけが自分の想いだけを大切に抱え込みながら生きていくなんてこと、許されるわけがないのだ。

 だから俺は、紅莉栖には逢わないと誓っていた。入院中ベットの中で過ごした時間は、俺の気まぐれと好奇心が引き起こした出来事が、いったいどれほどの仲間を傷つけてきたのかを自覚し、それに対する自分なりのけじめを考えて腹をくくるには、十分な時間を与えてくれた。


そうであったはずなのに──


『世界だか神だか悪魔だか知らないが、余計な演出しやがって!』

 胸の奥で、よく知っているはずの、だがしかしやはり得体の知れない世界の存在に吠え立てる。振り下ろす足に、さらに力を込める。


「ダメ!!!」


 信じられなかった。紅莉栖の見せた行動が、俺には信じられなかった。

「バ、バカお前、放せ!」

「ダメ! 絶対にダメ!」

 どうして俺の脚にしがみ付いているんだ、紅莉栖? 何だその必死な顔は?

 今の紅莉栖にとって、この小さな金属の塊に大した意味などないはずだった。それなのに──

「理由なんか知らないけど、何だかよく分からないけど踏んではダメ! あなたが
これを踏んではダメなの! あなただけは!」

 いつもいつも自信満々に俺に持論を展開し続けてきた天才少女。いつも俺の考えを論理的じゃないと揶揄していた天才少女。
 だがしかし、いま俺の脚にしがみ付いているこの少女には、そんな面影など見るもなく──

「うぉわああ!?」

 紅莉栖の必死の抵抗に力負けした俺は、身体を空中で半回転させて、地面に叩きつけられる。
 とても痛かった。

 うめき声を上げつつ上半身を起すと、走り去っていく紅莉栖の後姿が見えた。

 転がっていたはずのバッチは見当たらず、ともすれば紅莉栖が持ち去ったのだという事になり──

「……まったく、鳳凰院凶真も地に落ちたものだな」

 俺は大の字になって、地面に転がった。通行人の視線が突き刺さって、これがまた痛い。だが、しばらく起き上がる気にはなれそうも無かった。

 最後にまぶたに焼き付けた、長い髪をなびかせて走る天才少女の姿を思い起こしながら、少しだけ目を閉じる事にした。




[29758] 思想迷路のオカリンティーナ02
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:47
     2


 すっかり見慣れたマイラボの片隅。古びたソファに深く腰をかけながら窓の外に広がる何の見ごたえも無い夜の景色に目をやっていると、パソコンの前に腰掛けていたダルが声をかけてきた。

「ねえオカリン。なんか帰ってきてから機嫌わるくね?」

 我がラボの誇るスーパーハカーがそんな問いかけを投げかけてくるのも無理ないというもの。ラボに戻ってからの俺は、これ見よがしに不機嫌全開であったりする。

 原因は無論、秋葉原の街で出くわした、あまりにも貴重な、ダル的な表現をするならレア度激高と言っても差し支えないような、そんな出会い系イベントにあるのは言うまでもない。

「なんかさ、凄くいづらいんだけど。なんで? なにかあったん?」

 無言を通している俺に、気を使っているつもりなのか、はたまた好奇心の賜物なのか、ダルが執拗に探りを入れてくる。そんな相棒に俺は「なんでもない」とそっけなく答えるのが精一杯だった。
 どのみち、紅莉栖の事を覚えていないダルには、何をどう話そうにも意味のない事でしかなかった。

「ああ、なんかもう、空気まで薄まってるんじゃね? 汚染エリア息苦しす。ああ、早く着てくれ、まゆ氏」

 どうやらダルにとってまゆりは、このラボの空気清浄要員であるらしかった。
口をパクパクさせて息継ぎのジェスチャーを繰り返している様は、食べ過ぎた金魚のそれに似ている。

 そんな事を考えていると──


「トゥットゥルー」


 玄関のドアが勢いよく開け放たれた。見れば、ラボメンナンバー002がキラキラと眩しい笑顔を引っさげて立っている。

「まゆ氏! 待ってたお!」

「ごめんね遅くなっちゃった。あれ? オカリン元気ない?」

 流石と言うべきか。玄関入って二秒後には俺の不機嫌モードを看破してみせる。そんなまゆりには頭の下がる思いだ。
 この、いつだって自分の事よりも周りの人間の想いに心を砕く幼馴染の存在。彼女を救えた事は俺にとってとても大きく、だがそれと同時に、そのために切り捨ててきたあまりにも多くの──

「大丈夫オカリン?」

「うぐおふぉ!?」

 いつの間に移動したのだろう。さっきまで玄関で立っていたまゆりが、ほんの一瞬目を放した隙に、目の前で俺の顔を覗き込んでいる。近い。近いぞまゆり。

「ねえ、本当に大丈夫オカリン?」

 まゆりの澄んだ瞳が、俺の中に渦巻いている何かを見透かしてしまいそうで、俺は唐突にスイッチを切り替える。

「だ……大丈夫かだと? なにを寝ぼけた事を! この鳳凰院凶真にこれまで大丈夫だった事があるか! マッドサイエンティストたるもの、いつだって心がけるのはアブノーマル! 『大丈夫』などという平和ボケした言語とは対極にいるのだ! それこそこの俺が鳳凰院凶真たるアイディンテティーではないか! フゥーハハハ!」

 あの三週間の経験を経て、俺の中で『狂気のマッドサイエンティストモード』に多少の抵抗感が生まれていたのは事実。

 そのせいか、ここ最近で『鳳凰院凶真』が顔を出すのは、何かをごまかしたり、照れ隠しに使ったり、無理やりにでも自分のテンションを持ち上げたりと、そう言う際に顔を出す頻度が高くなっていた。

 やはり落ちたな、鳳凰院凶真よ。

 だがしかし、それでも周囲に対して思いを覆い隠すには有効のようで──

「あれ? まゆ氏が来たら、オカリン急に機嫌なおた?」

 欺かれたスーパーハカーが、首を捻りながら俺を見ている。

「心配かけたな我が右腕、ダルよ。このところ、機関の連中が動きを活性化させているとの情報が入ってな。それで少しばかり策を弄していたのだ」

「なんだお。またいつもの妄想自演乙的なやつ? なに、今度のコンセプトはヤンデレ系とか? オカリン、ヒロイン化希望?」

「んなワケあるか! 俺様はいつだって悪のヒーローポジショニングだ! ……どうした、まゆり?」

 他愛のないダルとのやり取りの最中、俺を見るまゆりの視線に気付く。なんだ、どうしてそんな悲しそうな目で俺を見る?

「まゆ氏、どうかしたん? オカリンの機嫌が直ったと思ったら、今度はまゆ氏の……」

 ダルの不安げな声を聞き、その言葉を遮るようにまゆりが口を開く。


「違うよ、ダルくん。オカリン、やっぱりへんだよ。無理してる」


 ドキリと心臓が跳ね上がる。

「え、でも、いつもの妄想モードじゃ……」

「ううん、いつもと違う。上手くは言えないけど、でも違う。まゆしぃにはわかるもん」

「考えるな感じろですね?」

「お……おのれ人質の分際で勝手な事を! これも機関の妨害か! 世界にとっての脅威であるこのラボを、内部から破壊するための人心操作か!?」

 悟られたくない。その一心で、見透かされそうになる心を更なる壁で覆いつくそうとする。
 携帯を取り出し耳元にあてがい、得意の一人芝居を繋いで、この場を切り抜けようとする。だがしかし──

「オカリン!」

 まゆりの張り詰めた声に、俺の芝居が幕を下ろし──

「オカリンが悩んでるのは分かってる。無理してるの丸見えだよ」

「じょ、女子が丸見えとか……」

「オカリン。何か辛い事があったんだよね?」

 今度こそ、本当に何もかもが見透かされてしまうのではないか?

 そう思えるほどにまゆりの澄んだ瞳はまっすぐと俺に向けられていて、その目にすいつけられるように、俺の目はまゆりから離せなくなっていて。心の底から、この少女を前にして、隠し事など意味のないことなのではないかとさえ思えて。

 そしてまゆりがゆっくりと言う。

「オカリン、紅莉栖ちゃんの事で悩んでるんなら、まゆしぃにも相談して欲しいな」

 その言葉に、俺の全身が一瞬で凍りついた。




[29758] 思想迷路のオカリンティーナ03
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:48
     3


 俺は夜の秋葉原をさまよっていた。夏も終わりに近づいているとはいえ、それでも夏の残り香は厳しく、もともと体力に難ありの俺としては、こういった行動はあまり得意ではない。だが──


『女の子を悲しませたらダメだよ、オカリン』


 ラボでまゆりに言われた一言のせいで、どうにも足を止める気にはなれなかった。

 あの時、俺を凍りつかせたまゆりの言葉。紅莉栖の事で悩んでいるのではないかと告げた、まゆりの言葉。一瞬ではあるが、俺がまたもや決意を揺らして希望にすがりそうになってしまった、その言葉の意味。

 結論から言えば、それは俺の望んでしまった物とは違っていて、見当違いもはなはだしく、早合点な思い込みでしかなかった。

 結局、まゆりは紅莉栖と過ごしたあの三週間を覚えているわけではなく──

『まゆしぃはね、見てしまったのです。オカリンが女の子と話しているところを』

 どうやらまゆりは、昼間の俺と紅莉栖のやり取りを、たまたま通りがかって目撃していた。そして、俺が地面に転がった後、その場から駆け出していく紅莉栖を追いかけて声をかけたのだという。

 まゆりとしては『オカリンがひっくり返って、女の子が悲しそうに走っていった』から気になって──ということらしい。それだけで見知らぬはずの他人に声をかけるというのだから、いやはやまゆりらしいというかなんというか。

 というか、その場合気にするべきは、空中を華麗に舞った俺ではないのか、まゆりよ?

『それでね、その子、紅莉栖ちゃんていうんだけど……』

 まくし立てるようなまゆりの言葉を思い出す。

『どうしたの? って聞いたら、理由は分からないけど悲しいって。でね、まゆしぃもビックリしたんだけど、紅莉栖ちゃんラボメンバッチを握ってて、それ見て悲しそうな顔をしてるの。あれってオカリンが渡したんだよね? 紅莉栖ちゃんってラボメンなの? 紅莉栖ちゃんの顔、寂しそうで心細そうで何だか捨てられた子犬みたいに見えた。オカリン、捨てたの? 紅莉栖ちゃんを捨てたの?』

 その言葉は俺の中にサックリとささる。まゆりを救うために紅莉栖を見殺しにしたときの事を、それを告げたときの紅莉栖の不安と恐怖を塗りつぶして見せた笑顔を、エンターキーを押した瞬間の、聞けなかった紅莉栖の最後の言葉を思い起こさせる。

 捨てられるわけなどない。むしろ、紅莉栖が俺を捨ててくれたなら、その方がまだ諦めもつきやすいというもの。だというのに──

『まゆりよ、見くびるな! 狂気のサイエンティストたるもの、女の一人や二人捨てられないでどうする! フゥーハハハ!』

 強がり方を間違えたと後悔する。

 俺の言葉を聞いた直後、まゆりは紅莉栖を探すといって、ラボを飛び出していった。それを追って、俺もラボから駆け出す。無論、紅莉栖を探すというまゆりを止めようとしてだ。
 しかしまゆりとの最高速度の違いを思い知らされた結果、俺はまゆりの姿をあっさりと見失い──

 こうして今も夜の秋葉原を彷徨っているという分けだ。

 それにしてもと、思う。まゆりはどこをどう探すつもりだったのか? 紅莉栖と分かれて、もう何時間もたっている。それで今更どこをどう探そうというのか?

 俺は紅莉栖が日本での宿泊に利用している施設を覚えている。だが、まゆりはそんな事は知らない。だから、どの道まゆりには紅莉栖を見つけることなどできはしない。

 そのはずなのだ。

 そうであってほしい。紅莉栖を見つけないで欲しい。もう一度、紅莉栖と出会ってしまったら、今度こそもたない。

 吹き上がる感情を押さえ込むのも、もう限界なのだ。

 だから、見つけないで欲しいと思っていた。俺にはそんな資格など、無いのだから。

 そして、通りの角にまゆりの姿を見つけたとき、その側に紅莉栖の姿が見当たらなかったとき、虚しさと残念さとを抱いて、俺は胸を撫で下ろした。

「まゆり」

 近づいて声をかける。その声に反応して、まゆりが振り返った。

「もう遅い。帰るぞ」

「でも……」

「どのみち、あの女がどこにいるのか分からないのに、どうやって探すというのだ?」

「だって、それじゃあ……」

「大丈夫だ。あの女は俺に何か言われたくらいでどうこうなるような、そんな軟なやつじゃない」

「そうじゃないもん。そう言う事じゃないもん。このままじゃオカリンが……」

「俺がどうした?」

「オカリンが紅莉栖ちゃんに嫌われたままになっちゃう。そんなのダメ」

「別にそんなこと、どうでも……」

「よくないよ!」

 まゆりが大きくかぶりを振る。

「まゆしぃにも分かんないけど、でもそれじゃあ絶対にダメ。絶対にダメなの」

 懇願するようなまゆりの視線に、鼻の奥が熱くなる。なんだよこいつは。いつもいつも勝手な事を考えて、勝手に人の真ん中を貫いて──

「もういいんだ。もう、俺は十分にいい思いをした。だから、これ以上──」

「ダメ!」

 正直、またこれかと思った。どうして紅莉栖もまゆりも、俺の言う事に『ダメ』を連呼するのだろう?

 聞き分けのない子供のように駄々をこねる、そんなまゆりの姿に、俺の中に苛立ちにも似た感情が生まれる。

「あわなきゃダメ! で、あやまってよオカリン!」

「嫌だ。謝るってなんだ? 俺は狂気のマッド──」

「何でもいいから、紅莉栖ちゃんと仲直りしてよ! このままじゃダメなの!」


「……しつこい!!!」


 どうしてなのだろう。まゆりの言葉は、次々と俺の胸中をあさり、隠したはずの傷口を容赦なく抉り取る。そんな感覚を覚えた。それで我慢できずに、怒鳴ってしまった。言ってから後悔する。

 何も覚えていないはずのまゆりが、まるで全てを覚えているかのような顔をして俺を急きたてる。
 その姿に我慢しきれなかった、そんな自分を叱咤したくなる。

「オカリン、ごめん……」

 それ見てみろ。俺のためにと、こうして動き回ってくれたまゆりの、何とも悲しそうなこの顔を。やってしまったという感覚だけが、胸の内でとぐろを撒く。

「もう……いいから、帰ろう」

 俺がかすれるような声で呟くと、まゆりは黙って頷いて見せた。悲しそうな目をして。まるで、捨てられた子犬を見捨てなければならない、小さな女の子のような顔をして──




[29758] 思想迷路のオカリンティーナ04
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:48
     4


 まゆりを駅まで送り届けたあと、俺はラボへと戻ることにした。

 本当は、まゆりと一緒に電車に乗って、俺も実家に戻ろうか? などと思いもしたのだが、しかし結局そうはしなかった。それは、俺の頭の中でくすぶり続ける、どうにも鬱屈とした考えに整理を付けたかったからで──。
 それには家族のいる実家よりも、人気のない静かなラボの方が適しているように思えたからだ。

 案の定、戻ってみれば既にそこにダルの姿は無く、室内に広がっていたのは、静まり返った薄暗い空間。

 そこは、一人モンモンと思いを馳せるには打ってつけの場所だった。

 俺は愛用の白衣を脱ぎ捨てると、仰向けにソファへと身を投げ出す。両腕を枕代わりに頭の下に差込み、ぼんやりと天井を眺める。

 なんだか、何もかもが上手くいかず、自分ひとりが空回りしているような、そんな気分だった。

 昼の秋葉原で体験した、思いがけない再開。最初はその幸運な出来事に舞い上がり、しかし最後には、その幸運を自らの判断で無駄にした。

 それは、入院中に至った『これ以上望まない』という結論に沿って動いた結果であって、だからそこに後悔は──ない。ないのだ。そのはずなのだ。

 だというのに──

『どうしてこうも、苛立つ?』

 言葉にはせず、心の中で吐き捨てるように呟く。

 自分の決意を思い出したとき、紅莉栖との再会に舞い上がっていた、そんな自分の浅はかさに苛立った。
 バッチを守ろうと必死に俺の足にしがみ付く、そんな紅莉栖の行動が理解できなくて苛立った。
 紅莉栖に会えと、謝れと、そう責め立ててくるまゆりに苛立ち、駅で見送ったまゆりの、気落ちした後姿にすら苛立った。

 そして今、色々な場面で苛立ちを感じてきた、そんな自分自身にまでも苛立ちを覚える。

 紅莉栖に再開してからの、自分の選んできた行動。そのどれもが間違っていたのではないのか──?

 そんなふうに思えて仕方ない。


『ならば、俺はどうすればよかったというのだ?』


 あの時、紅莉栖が記憶を取り戻しそうになっているのを、邪魔しなければよかったのだろうか?
 ラボを飛び出したまゆりと共に紅莉栖を探し、見つけ出して彼女に謝ればよかったのだろうか?
 そして、消してしまったあの三週間を取り戻し、再び紅莉栖と歩いていけるようになれば──それでよかったのだろうか?


『……それは違う。違うはずだ』


 ソファから身を起こし、脱ぎ捨てた白衣を拾い上げる。胸元に付いた金属製の丸いバッチを見つめる。

 そこにしたためられた八つのイニシャルを思い、その意味を刻み込む。そして──


『俺に、そんな資格など、ない』


 そう締めくくった。

 これでよかったのだと、そう思い込む事にする。自分は仲間たちの沢山の思いを犠牲にしてきた。だから、俺の思いだけが報われていい道理などない。

 無理やり自分に、そう言い聞かせる。

 しかし、そう思えば思うほど、必死にバッチを守ろうとした紅莉栖の姿が、駅へと消えるまゆりの寂しげな後姿が、より鮮明な映像となって脳裏に浮かび──


「くそ!」


 誰もいない空間に向けて大きく吐き出し、俺はソファに身体を沈めこんだ。



[29758] 思想迷路のオカリンティーナ05
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:51
     5


 どれくらい眠っていたのだろうか?
 俺は、室内に響き渡る聞きなれた電子音で目を覚ました。ソファー前に置かれたテーブル。そこに投げ出してある携帯電話が、受信を告げて鳴っている。

「む、メールか」

 寝ぼけた頭でソファから身を起こす。汗でびっしょりと濡れたシャツが気持ち悪い。
 時計を見ると、すでに昼の三時を過ぎていた。窓から差し込む日差しは容赦を知らず、ラボの中はむせ返るような暑さで充満している。

「ぐぅ。熱すぎるだろ」

 余りの暑さに呻き声をあげてソファから立ち上がる。ソファの表面に出来上がった人型の染みを見ると、自分が相当な量の汗をかいていた事を思い知る。無性に喉が渇いていた。

 俺はテーブルから愛用の携帯を掴み取り、冷蔵庫へ向かう。
 左手で冷蔵庫の中から炭酸飲料水のペットボトルを取り出し、同時に右手で携帯の操作パネルをいじる。

「まゆりからか……」

 すぐに内容を確認しようかと思ったのだが、しかし、左手だけではどうにもペットボトルのキャップが開けにくい。仕方なく、携帯を軽く口に咥え、開いた右手でキャップを捻り取る。そして携帯を持ち直し、ペットボトルを煽りながら、まゆりからのメールを確認する。

『今、駅にいます。まゆしぃはオカリンに、迎えに来てほしいです』

 駅まで迎えに来い?

 珍しいと思った。
 確かに、これまで経験してきたいくつもの世界線で、俺はまゆりの身を案じて駅までの送り迎えを度々行ってきた。その度にまゆりはえらく嬉しそうにはしゃぎもしていたのだが、しかし、まゆりからこういう申し出をしてくるのは、これが初めてではないだろうか?

 まあ、来て欲しいというのだから、行ってやる事はやぶさかではない。俺はペットボトルを口から放し、テーブルの上に置くと、

『すぐに行く。待っていろ』

 と、短い文章でまゆりにメールを返した。我ながら、実に甲斐甲斐しいものだと思う。人質に対する応対としては、これはいかがなものなのだろうか? などと、どうでもいい事を考えながら、ベタベタのシャツを着替えて白衣をまとう。携帯を白衣のポケットに突っ込み、そのままラボを出た。



 程なく駅前に到着し、人ごみの中からまゆりの姿を探す。が──

「どこにいるんだ、あいつは?」

 どれだけ目を皿のようにしても、それらしい人影は見当たらない。まったく、待っていろ言っておいたのに、どこに行ったんだ、あいつは?

 太陽の悪意を感じそうになる直射日光と、見つからない幼馴染の姿に、微かに顔が歪む。
 仕方なく、携帯を白衣のポケットから引っ張り出し、まゆりに電話をかける。数回のコール音の後に、電話がつながった。

「おいまゆり、今どこにいる?」

「オカリン? まゆしぃは今、ラボにいるのです」

 電話越しに聞こえてきたまゆりの言葉に、俺の頭が混乱する。

「ラボ? ラボってどういう事だ? お前、迎えにこいって言っておいて、どうい
うつもりだ?」

「それはねぇ。実はまゆしぃの策略だったのです。えへへぇ」

 何だ? まゆりは何を言ってるんだ?

「さくりゃくって策略か? 何がどうなってる、説明しろ」

 説明を促す俺の言葉に、電話の向こうのまゆりはさも得意げな声色で言った。


「実はね、オカリン。まゆしぃは今、紅莉栖ちゃんとラボにいるのです」


 夏の暑さで噴出すように流れ出ていた汗が、一気に引いた。





[29758] 思想迷路のオカリンティーナ06-1
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:52
      6-1


『紅莉栖には会わないし、謝りもしない。』

 そう言いきった昨夜の俺の言葉に、どうしても納得できなかったと、まゆりはそう言った。それで今朝早くから秋葉原を廻って、紅莉栖の事を探していたという事らしい。

 そしてまゆりは、午前中いっぱいと午後の一部をかけて紅莉栖を見つけ出し、紅莉栖を連れてラボまでやってきたのだと言う。

『でもね、昨日のオカリンの様子じゃ、紅莉栖ちゃんをラボに入れてくれないかも
しれないと思ったのです』

 だから、駅まで迎えに来いというメールを俺に送りつけて、その隙に二人揃ってラボに潜入をしたのだと、電話越しにまゆりから教えられた。

 駅からラボに向けて全速力で走りながら、胸中で毒づく。

『何を考えてるんだ、まゆりは!』

 ついっさっきまで俺のいたラボには、今はまゆりと紅莉栖がいる。その事に、どうしようもなく慌てた。

『俺はこの状況を、どう捉えればいいのだ!?』

 判断が出来なかった。ただ、想像する事ははっきりしていて──

『ラボメンバッチだけで、あれだけ反応したんだ。もしもラボなんかに入ったら──』

 紅莉栖が全てを思い出してしまうかもしれない。その可能性は高いのではないかと思えた。だからこそ、この状況を判断しかねる。


 ──思い出させてしまって、いいのか?


 もしも紅莉栖が、あの三週間の思い出を取り戻した時。それはきっと、俺の想いが報われる時。大切な仲間達の想いを踏みにじってきた、そんな俺だけの想いがハッピーエンドをかたどって報われる時。
 もしそうなったとして、俺はそれでいいのか? 多くの想いの犠牲を知っていながら、それでも俺はそんな終わりを、諸手を上げて受け入れる事ができるのか?

 分からなかった。だから急ぐ。少しでも早くラボへとたどり着けるよう、全身全霊をかけて両手両足を振り回す。
 通りを抜け、角を折れ、そして見えてくるブラウン管工房の看板。

『間に合ってくれ!』

 何がどうなったら、間に合った事になるのか分からない。だが、切にそう願い、階段を駆け上がる。そうして辿り着く、我が栄光と挫折の研究所。意を決して、安っぽいドアノブに手をかける。

「あ、開かない!?」

 まゆりめ、中から鍵を!?

 慌てて、いつも鍵を隠している場所を探ってみるが、しかしそこに鍵はなく──

「オカリン、鍵は中だよ~」

 まるで、ありもしない鍵を無様に探す、そんな俺の姿をあざ笑うかのようなまゆりの声が、薄っぺらな玄関扉の向こうから聞こえてきた。

「まゆり! 中に紅莉栖がいるのか!?」

 俺は大声を上げる。そんな俺の問いかけに答えたのは、まゆりではなく──

「あ、あの。お邪魔してます──」

 それは、あの天才少女の声。その声に焦る。ただただ焦り、そして声を張り上げる。

「まゆり、ここを開けろ!」

 押し寄せる焦燥感に任せて、玄関扉を乱暴に叩く。そんな俺の様子に、扉の向こうのまゆりが驚いたように声を上げた。

「オカリン、そんなに叩いたら壊れちゃうよ! 壊したら怒られるよ!」

「下の、アナロッガー・デッドヘアにか!? そんな事はどうでもいい! とにかく開けろ! 今すぐだ!」

「分かった! 分かったから叩かないでよ、オカリン!」

 扉の向こうから聞こえてくるまゆりの返答を受け、俺は扉を叩く手を止めた。握った拳がひりつき、微かに痛む。

「早く開けてくれ、まゆり……」

 俺は静かに、そう呟いた。気付けば両膝が笑い出している。体中から大量の汗が噴出している。それは、駅からここまで全力疾走をした事によるものなのか、それとも──

 扉の向こうから、おっとりとしたまゆりの声が小さく響く。

「オカリン。扉を開ける前に、あのね。一つ約束してほしい事があるの」

「約束? なんだ? 別に怒ったりしないから、早く開けてくれ」

「ううん、そう言うのじゃなくて、えっとね。ここを開ける代わりにね」


 ──紅莉栖ちゃんを正式なラボメンにしてほしいの──


 まゆりは扉越しに「ね、いいでしょオカリン」と、事も無げにそう言った。

 その言葉に一瞬迷う。何度も確認しなおしたはずの決意が、またしても微かに揺らぐ。だがそれでも──

「それは……できない」

 俺はまゆりのお願いを、端的な言葉で突っぱねた。

「え~、どうして? 紅莉栖ちゃんはね、こう見えても有名人なんだよ?」

「あの、まゆりさん。こう見えるって、何だかあまりいい言葉に聞こえないんだけど……」

「え、違うよ紅莉栖ちゃん、今のは良い意味で言ったんだよ。こんなに可愛いのに、ビックリするくらい頭が良いんだよ」

 俺は、うな垂れた頭を扉に押し付けるようにして、ただ黙って、扉越しに響いてくる二人の声を聞いていた。

「ね、オカリン。紅莉栖ちゃんがいたら、きっとラボも凄い事になるよ。まゆしぃ
には分かるもん」

 そんな事、俺にだって分かってる。
 牧瀬紅莉栖。彼女が掛け値なしの天才だという事は、きっと俺がこの世で一番痛感している。

「だからね、オカリン。紅莉栖ちゃんをラボメンに入れようよ。絶対そっちの方がいいよ」

 まゆりのお願い。俺はこれを聞いてしまっていいのか? 

 まゆりの願いなら、たいていの事なら叶えてやりたい。だがしかし、それと同時に俺の願いが──想いが報われるとしたら、俺はどうすればいいのか?

 胸の中で揺れ続ける決意。握った拳が、身体を支える両足が、戸惑いに煽られて震える。

 まゆりの申し出を、きっぱりと拒否するべきなのか、それともいっそ、紅莉栖をラボメンに向かいれるべきなのか──
 選択肢は二つ。だがしかし、どれだけ考えても答えを出せない。どちらか一方の答えを選び取ることができない。だがそれでも、もしも──

 俺は思い出す。昨日の昼間、ラボメンバッチの存在が紅莉栖の記憶を揺り動かしていた。そして、そのバッチはきっと、今も紅莉栖の手元にあるだろう。だからこそ、どうしても考えてしまう。

 もしも、この扉の向こうにいる紅莉栖が、すでに記憶を取り戻していたとしたら?
 もしも、記憶を取り戻した紅莉栖が、自ら望んでこのラボを訪れたのだとしたら?
 もしもそうならば、今更俺が紅莉栖のラボメン加入をとやかく言う必要などないのではないか?

 そんな想像が決意を大きく揺らがせる。それは『もしも』だけで構成された、なんの根拠もない希望的観測。吹き飛ばされそうな決意にしがみ付きながらも、どうしてもそんな考えを捨てきる事が出来ない。


 それほどまでに、俺の中での紅莉栖の存在は大きく──


 だから俺は聞いてみる事にする。直接本人に、紅莉栖本人の言葉に選択肢を選ぶための根拠を求め、扉の向こうの紅莉栖に問いかける。

「牧瀬紅莉栖、いや、クリスティーナよ」

「な、なんですか……」

 紅莉栖の微かに不安げな声が聞こえるが、俺は構わずに続ける。

「俺の名前を……言ってみろ」

「え? またそれですか?」

 俺の言葉の意味を理解しかねたのか、紅莉栖の戸惑うような声が聞こえた。
 確かに俺は、昨日紅莉栖に会った時、今と同じような事を彼女に聞いている。だがしかし、同じ質問でも、昨日と今とでは、それの持つ意味は大きく違う。だから、もう一度聞く。

「そうだ。お前の知っている俺の名を、言ってみろ」

 しばらくの沈黙。そして帰ってきた答えは──

「鳳凰院凶真……さん」

 その言葉を聞いて、俺の中で一つの選択肢が選び取られる。どうしても選ぶことの出来なかった二者択一の選択肢。その一つを掴む。そして、俺はゆっくりと選んだ選択肢を掲げた。


「まゆり、すまない。やはり紅莉栖をラボメンに迎える事はできない」






[29758] 思想迷路のオカリンティーナ06-2
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:52
       6-2




「どうして、オカリン!」

 まゆりの声が大きく響く。

「どうしてもだ」

 俺の声が小さく響く。

「分からないよ! 何でダメなの!?」

 安作りの扉越しに、まゆりの「何で」と連呼する声が悲痛な色を伴って聞こえた。俺はそんなまゆりに対し、淡々とした口調で言う。

「それは、そこの天才少女が答えを間違えたからだ。牧瀬紅莉栖は、俺の名前を間違えた。だから我がラボに迎えるわけにはいかない」

「間違ってないよ! だってオカリンいつも、自分の事を何とか院の何とかって言ってるよね! 紅莉栖ちゃんの答え、間違ってないよね!」

 ああ、本当は何も間違ってなどいないのだろう。俺は確かに、自ら紅莉栖の前で鳳凰院凶真と名乗っている。だから、この世界線に限って言えば、さっきの紅莉栖の回答は間違ってなどいない。

 だがしかし──

 俺の望んだ牧瀬紅莉栖は、俺の事をその名では呼ばなかった。いや、たまには揶揄を込めて口にしていた事もあっただろう。しかし、そんな記憶に残っている言葉と今聞いた言葉とでは、そこに込められている意味が違う。それはまったくの別物なのだ。


 だから──


 この扉の向こうには、俺の知っている牧瀬紅莉栖はいないのだと、そう思った。きっとそこにいるのは、通りすがりの俺に命を救われて、その事に少しばかり感謝しているだけの見知らぬ少女。何も知らない、俺の見知らぬ、一人の少女。

 だからこそ、牧瀬紅莉栖をラボメンに迎える事を、容認できない。


『そう思え。無理でも何でも、そう思え。思え、思え、思え──』


 扉に押し付けた額を、さらに力を込めて押し当てる。と、

「まゆりさん。もういいから、ね。私も、その何だっけ? ラボラトリメンバー? 別にどうしてもなりたいってわけじゃないし、それにここ暑いし、もう出たいって言うか……」

「そんなぁ、紅莉栖ちゃん……」

「その気持ちはうれしいんだけど、なんだか私がいると、鳳凰院さんに迷惑がかかるみたいだし」

 そんな紅莉栖の言葉を聞いて、俺の心臓が潰れそうになる。

 迷惑なんてかかるか!
 迷惑をかけたのは俺のほうだ!
 俺の下らない好奇心で、俺はお前に途方もない迷惑をかけ続けた!

 強くそう思い、だが言葉にはしない。出来ない。今ここで、「迷惑になんてならない」などとは、口が裂けても言えない。それではただ意味もなく、話を混ぜ返してしまうだけだ。だから──


「ああ、迷惑だ。狂気のマッドサイエンティストに、凡庸な助手などいらぬ」


 そう言った。

「ひどいよ、オカリン! そんな言い方、ひどいよ!」

「いいの、まゆりさん。私はただ、一言ちゃんと、お礼を言えれば、それで十分。昨日は何だかヘンなふうになっちゃたから、まゆりさんの案に便乗させてもらったけど──」

 紅莉栖は一度言葉を切ると、少し間をおいて言う。

「鳳凰院さん。いつかは危ないところを救っていただいて、本当にありがとうございました」

 感情の見え無い、どこか冷め切った感謝の言葉。だが、そんなものですら、今の俺には十分すぎるほどに鮮烈で──

 それで俺は、紅莉栖の形ばかりの謝辞に何も返す事が出来なかった。ただ黙って、金属製の扉から伝わるひんやりとした感触を、押し付けた額で感じている事しかできない。

 そんな俺の頭に、紅莉栖の声が響く。

「でも、少しショックです。これほど嫌われてるとは思わなかったから……」


 ──私は嫌われている。


 そんな紅莉栖の寂しげな言葉が、俺の全身を打ちのめす。

 嫌うわけがない。嫌えるはずながない。俺が紅莉栖を嫌う事など、できるはずがない。思わず、紅莉栖の言葉を否定しそうになる。大声を張り上げて、そんな事があるかと怒鳴り散らしたい衝動に駆られる。

 だがしかし、やはりそれも言葉にする事はできず──

「そうだ。俺は貴様を嫌っている。よって、すぐにでもこの神聖な場所から立ち去るがいい」


 気付けば、そう言っていた。


「オカリン!」

「いいの、まゆりさん」

 俺をたしなめるような、まゆりの声を、紅莉栖が制止した。そして、どこか心細そうな声色でこう続ける。

「鳳凰院さん。せめて、どうして私が嫌われているのか……その理由だけでも教えてもらえませんか?」

 俺が紅莉栖を嫌う理由。それを教えろと紅莉栖は言う。しかし残念ながら、俺にそんな理由は無く、だから返すべきものが見当たらず──どうする事もできずに言葉を詰まらせる。

「理由、あるんですよね? 私、あなたに何をしたんですか? どうして私、こんなに嫌われているんですか?」

 答えられない。答えなど初めからないのだから、答えようなどない。しかし、無言を貫く俺に、紅莉栖はなおも食い下がる。

「……教えてください」

 紅莉栖の声に混じり始める響き。

「それだけ聞いたら、もう行きますから。もう、二度とここには来ませんから……」

 どこか寂しげで、どこか悲しげで、どうしようもないほど不安定に揺れる。そんな沈痛な響きは続いていく。

「私、昔から自分の知らないところで、人を傷つけてることが多いみたいで……。だからあなたの事も、知らない間に……」


 傷つけたのではないか?


 今にも泣き出してしまうのではないかとさえ思える、紅莉栖の痛切な声。それは静かな振動となって俺の鼓膜を揺らし、脳を揺らし、記憶をゆらし──それが俺に思い出させる。

 父親に嫌われていると言って、顔を伏せた紅莉栖。
 知らない間に父を傷つけていたと言って、後悔に顔を歪めた紅莉栖。
 父ともう一度やり直したいと言って、力なく笑った紅莉栖。

 そんな紅莉栖の姿が、俺の中に鮮明に浮かび上がる。同時に、自分のとった言動が紅莉栖にとって余りにも残酷な仕打ちであった事に気付く。

『俺は馬鹿か!? なぜ分からなかった!? どうして気付かなかった!?』

 胸の内で、激しく自分を罵る。

『気付けたはずだ! 俺が独善的でなければ、気付けていたはずだ! 独善的ではいれらない!? ふざけるな! こんな真似の出来る俺の、どこが独善的でないと言うのだ!?』

 気付きたかった。気付かなければいけなかった。
 紅莉栖にとって、父親との間に抱えている問題は、切実な物に違いなく──
 幼少の頃に起した過ちは、今の彼女にとっての大きなトラウマに違いなく──


 そして今、俺は過去のトラウマに苦しむ紅莉栖の中に、さらに新たなトラウマを植え込もうとしているのではないか?


 そう思えた。そして、自らのしでかした失策の行き着く先に、激しい焦りを覚える。

『このまま紅莉栖を帰すわけには行かない』

 心の底から、そう思った。だから俺は、口を動かす。
 なんと言ったらいいのか分からない。言葉を選んでいる余裕もない。だが、何かを言わなければならない。何かを紅莉栖に伝えなければならない。
 そんな想いだけで、俺は口を動かす。

「理由など……ない」

 たったそれだけの言葉を、やっとの思いで搾り出す。
 俺の声は、紅莉栖まで届いているだろうか? 目の前の扉を突き抜けて、紅莉栖の元まで届いているのだろうか?
 分からない。だがそれでも、伝えなければならない。だから、今度はもっと声を大きくして言う。

「お前を嫌う理由なんて、俺にはない! お前は嫌われるような事は何もしていな
い!」

 紅莉栖は誰も、傷つけてなどいない。せめて、その事を伝えることが出来ればと、必死の思いで叫ぶ。と──

「それって……どういう事? 理由がないって……」

 扉の向こうから、戸惑ったような紅莉栖の声が聞こえた。そして、

「じゃあ、私は……理由も無いのに嫌われてるの?」

 続けられた言葉を聞いたとき、その想像していなかった余りの解釈に、俺の思考は凍りついた。

「あなたは私の事を、理由も無いのに嫌っているの……?」


 
『なんだ? どうしてそうなる?』



 全身から噴き出してくる汗が冷えていた。頭から、唇から血の気が引いていく。言葉をかけたいのに、声が出ない。正しい意味を伝えたいのに、それをどう伝えればいいのか分からない。

 音にならない言葉を吐き出したく、感覚の鈍い口を必死に動かそうとしている俺に、

「……ひどい。そんなの、ただの嫌がらせじゃない。……ただの自己中じゃない」

 軽蔑と侮蔑が込められた言葉が、扉越しに俺の身体を叩いた。

 違うと言いたい。そうではないと伝えたい。だから、止まったままの思考を、崩れ落ちそうになる身体を、言う事を聞かない唇を、必死に奮い立たせる。しかし──

「ち……ちが……」

 言葉にはならなかった。俺は自分の情けなさと不甲斐なさに、いっそこの場から逃げ出してしてしまいたくなる。
 そんな俺に向けて降りそそぐ、紅莉栖の言葉は止まらない。

「初めて見たとき、ちょっと変わった人だなって、少し面白そうな人だなって思った。見ず知らずの私を助けてくれた、優しい人だと思っていた。それなのに……」

 紅莉栖の言葉に込められていた失望の感情。それは、信じられないほどの重量を伴って、俺の身体を押しつぶそうとする。

「意味が分からない。理解できない。本当に……本当に、ただの電波自己中なの?」

 聞こえてくるのは、今にも途切れてしまいそうなほどに弱々しい、紅莉栖の声。その痛切な声に、俺の中の何かが燻り出す。心の奥に押し込んでいたはずの何かが、壮絶な悲鳴をあげる。
 紅莉栖が俺へと向ける感情が、どうしても耐えられなかった。

 だから俺は、大きく息を吸い込み、

「それは──!」


 それは違う!!!


 叫ぼうとした。噴出してくる感情のままに「それは違う」と「俺はそんな男ではない」と、紅莉栖へ伝えようとした。だがしかし、飛び出しかけたその言葉を、俺は飲み込む。

 ──伝えられない。

 紅莉栖がもった、俺への誤解。それを正してしまえば、そんな言葉を一度口にしてしまえば、もう抑えることなど出来ない。紅莉栖と共に歩む、そんな世界を、望まずにはいられない。

 だから、伝える事はできない。

 紅莉栖に向けて噴き出す激しい感情。しかし、あの決意はそれを容易く阻む。並べたイニシャルが、信じられないほどの強い制動力となって、俺の想いを引き止める。

 そして俺は口を開く。ゆっくりと、俺に問いかけた紅莉栖の言葉に、答える。


「……電波自己中のどこが悪い」

 その言葉に、扉の向こう側で、紅莉栖の感情が揺れるのを見た気がした。

「うそ……。じゃあ私を……」

 戸惑いを隠しきれない声。大きな震えを伴った声は続く。

「私を助けたのも、マッドサイエンティストとか言う厨設定の延長なの……?」

「……それ以外に、何がある」

 俺は、即答する。

「じゃああなたは、本当にそれだけのために、私の人生に介入をしてきたと言うの?」

「……だったら何だ? 貴様の人生など、知った事か」

 冷徹に、言い放つ。そんな俺の解答に、

「……ふ……ふざ……」

 紅莉栖が扉の向こうで声を振るわせる。そして、一瞬の間をおいて──


「ふざけるなぁぁぁ!!!」


 扉越しに吐き出された怒声が、俺の耳を貫いた。声が衝撃となって鼓膜を強打する。痛い。思わず両手で耳を押さえたくなる。
 しかし、持ち上がりそうになる腕を無理やり押しとどめ、俺は紅莉栖の言葉に、耳を傾け続ける。

「ああもう、最低だ! 全部最低だ! こいつも最低だけど、こんな奴に助けられた私も最低だ!」

 轟き続ける、俺に向けられた紅莉栖の非難は止まらない。その震えも止まらない。

「ああ、なんだってこんなのに助けられたんだ、私は! お礼を言いに来ただけなのに、何でこんな思いをしなくちゃいけない! あんたなんかに会わなければよかった! あんたなんかに助けてもらわなければよかった! ああ、もう思い出すのも嫌! こんな──」



「「「こんな記憶、私の頭から消し去ってやりたい!」」」



 どこか悲しみに彩られた紅莉栖の叫びが、狭い通路に木霊した。




[29758] 思想迷路のオカリンティーナ06-3
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:53
     6-3



 一際大きな紅莉栖の声が、俺の脳髄を激しく揺さぶった。自然と脚から力が抜け落ち、俺は崩れるようにして地にひざを着く。


『私のこと、覚えててくれる?』


 あの夜、消え入りそうな声で呟いた、そんな紅莉栖の言葉が薄らいでいく。


『岡部にだけは、私のこと忘れてほしくなかったから……』


 苦しみを押し殺した、そんな紅莉栖の言葉が薄らいでいく。


 そして、最後の夜に感じた紅莉栖の温かさが、俺の中にある紅莉栖への想いが、少しずつ薄らいでいく。

 記憶が──想いが、消えていく。



『ああ、なるほど。こういう事を、俺はしてきたのか』



 不思議と、納得する自分がそこにいた。

 多くの仲間たちの想いを、メール一つでかき消してきた、そんな自分の行動。それがどういうものだったのかを、今始めて思い知った──そんな気分だった。

 想いを消し去るとは、つまりこういう事なのだ。

 背後の壁にもたれかかるようにして座り込み、頭を垂れ目を閉じて、小さく呟く。

「なるほど。これは想像以上に──堪えるな」

 自虐的な声が口を突く。そして、俺は紅莉栖に向かって言う事にする。言ってはいけないその言葉を、最後の言葉を、途切れ途切れになりながらゆっくりと口にする。



「ならば、俺も……お前の事を……忘れよう」



 力の無い言葉。辛うじて絞り出した、弱々しい声。これが今の俺にとっては、限界だった。今の言葉は、扉を隔てた紅莉栖には届いていないかもしれない。だがしか、それでもいいと思った。
 紅莉栖に向けた言葉。それは、同時に自分への戒めなのだから。

 あの三週間の日々を共に歩いてきた、冷静で強気で泣き虫だった少女の存在。地獄の底で行き場を見失っていた俺の背中を、何度も何度も押してくれた少女の存在。

 俺はそんな、かけがいのない一人の少女の事を忘れなければならない。電話レンジ(仮)もDメールもタイムリープマシンも、今の俺にはない。だがそれでも、これが俺のできる──


「いやぁぁぁ!!!」


 扉を激しく振るわせるほどの激しい絶叫が響き渡った。その声に、俺は閉じていた目を微かに開く。


 ──紅莉栖?

 俺は俯けていた頭をゆっくり持ち上げる。今のは紅莉栖の声──?

 頭の芯が痺れていた。そんな俺には、その紅莉栖のものと思わしき絶叫が何なのか分からない。ただ事態を飲み込めず、座り込んだまま呆けた顔で扉を見つめる。と──

「紅莉栖ちゃん!?」

 悲鳴にも似たまゆりの声が聞こえた。その声に、硬直し、砕けかけていた俺の意識が、少しだけ覚醒する。

「大丈夫、紅莉栖ちゃん!? オカリン! 紅莉栖ちゃんが!」

 まゆりが俺を呼ぶ声がする。そして、扉の向こう側から、激しく暴れるような物音が響いてくる。

 いったい、何が──?

 分からない。想像することもできない。まるで頭が考える事を拒否しているようだ。

「オカリン助けて! 紅莉栖ちゃんが!」

 悲痛なまゆりの助けを求める声。しかし、動けない。

「紅莉栖ちゃんが頭を押さえて!」


 頭を押さえて? 頭が痛いのか? 頭痛? なんだっけ? 何か大切な──


「あ、紅莉栖ちゃん! 何を!?」

 まゆりの驚いたような声を聞いた。それと同時に扉から小さな金属音を聞き、そしてゆっくりと扉が開いていく光景を、俺は何もせずに眺めていた。

 そして視界に映る、一人の少女の姿。そこには、顔面を蒼白にし、今にも凍えそうなほどに身体を震わせている、一人の少女の姿があった。

 俺は、そんな少女の姿を、どこか虚ろな瞳で見る。

 何という瞳だろう。どうしたら、それほどまでに、瞳の中に辛さを映し込めるのだろう?

 自らの両肩を抱き寄せ、よろめく両足で身体を支えて立つ少女。そんな少女の瞳から流れ出る、大粒の涙。その意味を、俺は考えてみようか──などと、ぼんやりと思った。

 しかし、やはり痺れきった頭では、なかなかどうして考えが纏まらず、どうにも思考が働かない。
 俺がただ呆然としながら目の前の状況に視線を向けている。そんな俺に、少女は身体をかがめて俺と同じ高さの視線を作ると、たどたどしく口を開く。



「ご……めん……ね……」



 ごめん。と言ったのだろうか? 言葉は聞こえた。しかしその意味が分からない。戸惑う。

「ひどい事……言ってごめんね。もう…私の事、忘れてもいいから……」

 この少女は、一体なにを──?

「……これ、嬉しかった」

 少女はなおも言葉を発すると、力なく垂れ下がっている俺の手に、何かを握らせた。そして「もう……いくね……」と短く呟き、よろめきながら立ち上がる。

「紅莉栖ちゃん! ああ、オカリンが!?」

 へたり込んでいる俺を見て驚いたまゆりの声を、俺はどこか遠くで聞いていた。

 俺は何も言わず、何も動かさず、よろめきながら階段へと歩いていく少女の後姿を、ただただ見ていた。やがて少女の姿が視界から消える。だがそれでも俺は、もう誰もいなくなってしまった階段へと続く空間に、視線を送り続けていた。



 どれくらいの時間、そうしていただろう? 随分長いことそうしていた気もするし、ほんの一瞬だった気もする。
 俺は不意に、自分の手に何かが握れている事に気付く。拳の中に在る、小さな感触を思い出す。それは、去り際に紅莉栖が俺に握らせた物──

 俺は腕を顔の前まで持ち上げて、ゆっくりと手を開く。

 そこには、小さく平たくて丸い、金属の欠片。見覚えのある、小さなバッチ。八つのイニシャルをあしらった、栄光と挫折のシンボル。

 痺れきっていた頭が覚醒を始める。

 このバッチを、あの少女は「嬉しかった」と言って、手放した。その言葉の意味が、やっと見え始める。


「……くりす?」


 誰ともなく呟く。そして、脳内に焼きついている少女のよろめく姿を、つむがれた言葉を、不安と後悔に塗り固められた瞳の色を思い出す。その意味を、理解し始める。
 ひどい事を言ったと嘆き、引き裂かれそうな顔で私の事を忘れてと言った、そんな少女の存在を思い出し、そして理解する。


「紅莉栖──」


 あれは牧瀬紅莉栖。「もう行くね」と呟いて俺の前から立ち去った少女。あれは紛れもなく、俺の知っている牧瀬紅莉栖だと、そう思った。

 紅莉栖? 紅莉栖? 紅莉栖?

 俺は動かない身体を無理やりに引きずり起して立ち上がる。

「だ、大丈夫、オカリン!?」

 俺の隣へ駆け寄ってきたまゆりが、心配そうな声を出す。しかし俺はそんなこと気にも留めずに、脚を引きずるようにして歩き出す。壁についた腕を支えに、言う事を聞かない足を、力任せに地面から引き離しながら進む。通路を進み、階段を転がり落ち、それでも気にせず、前へと進む。

 表へ出て、辺りを見渡し、しかし視界の中にあの少女の姿を捉えられず、だから俺は──




「紅莉栖!!!」




 これ以上ない絶叫を吐き出した。



[29758] 思想迷路のオカリンティーナ07
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:54
     7


 傾きかけた夕日が、ラボの窓から差し込んでくる。

 俺はソファに腰を沈み込ませ、顔をしかめながら、テーブルに放り出した携帯を見ていた。愛用の携帯は、電子音とランプの点滅で、着信を知らせているが──

『また、まゆりか』

 受信窓に表示された名前を一瞥すると、俺は携帯に手を伸ばす事無く、ただ黙ってその様子を眺めていた。
 程なくすると、電子音が止み、ラボの中に静寂が訪れる。そして俺は頭をもたげてうつむく。

 実はもう、ずっとこんな動作の繰り返しだった。と、

「オカリン。今のも、まゆ氏からじゃね? 出なくていいん?」

 パソコンの前を占拠しているダルが、耳元からヘッドフォンをずらしてこちらを向いた。

「構わん」

 俺が短く答えると、ダルは少し困ったような顔を見せ、そして、ためらいがちに、言葉を続ける。

「オカリン。このエロゲ、結構いい感じなんだけど……やってみる?」

 右腕のそんな提案を、しかし俺はうつむいたまま首を振って拒否する。正直今は、そんな気分ではないし、もとより俺はエロゲフリークなどではない。

 俺の見せた反応に、ダルは「あ……そう」と呟くと、ヘッドフォンを定位置に戻し、視線をパソコンのモニタへと向ける。

 そんなダルの背中を横目で見ながら、俺は一人、孤独にもがく。

 脳裏に焼きついて離れない光景。つい先刻、目の前で見せ付けられた光景。それを脳内から除去しようと、両手で頭を抱え込む。しかし──忘れられない。


『俺という男は、どこまで未練がましいんだ──?』


 悲しみに塗り固められているかのような、あの瞳の色が忘れられない。
 恐怖に身体を振るわせる、あの華奢な姿が忘れられない。
 振り返ることもなくラボから立ち去った、あの後姿が忘れられない。 

 失ったはずの記憶を取り戻しているように感じた、紅莉栖の言葉が、どうしても忘れられない──


 『忘れてしまいたい』と言わせた。『忘れてもいいよ』と言われた。だから、忘れようと思った。そのはずなのだ。だというのに──

「くそ……」

 どこまでも覚悟の決まらない自分。その不甲斐なさにいたたまれず、吐き捨てる。と、

「ねえ、オカリンさあ」

 再びダルの声が聞こえた。目を向ければ、モニタから目を離し、俺のほうに向き直っている。

「……なんだ」

 ぶっきら棒に返した俺に、ダルはどこか言い辛そうな顔で言う。

「なんつーの? そろそろ、こっちもしんどいって言うかさ」

「……何がだ」

「何がだじゃねぇつーの。てか、何でそんなに暗いん? 昨日からずっとじゃん」

「別になんでもない」

 ダルに話したところで、何も変わらない。だから何も、話すつもりはない。

「いや、ボクだってオカリンの厨設定の悩みなんて、どうでもいいけどさ。でも、そろそろいい加減にしてほしいとも思うわけだな、うん」

「どういう意味だ?」

 ダルの意味ありげな言い回しに、俺は静かに唸り声を上げる。

「分かんない? だからさ、もっといつものオカリンみたく、馬鹿げた事を言って、ノリと勢いだけでバァーっと暴れてくれた方が、こっちも気が楽っていうか」


 ダルの言葉が、妙に癇に障った。


「暴れろだと? それをご所望なら、暴れてやろうか? 全力で暴れまわってやろうか?」

 俺はトゲを剥き出しにした言葉をダルへと投げつける。思わず本気で、目の前のテーブルを掴んで、放り投げてやろうか、などという考えが頭を過ぎる。しかし──

「オカリン、それ、八つ当たりって言うの、知ってた?」

 そんな冷めたダルの言葉に、湧き上がった衝動の正体を、的確に言い当てられてしまう。


『確かに、これではただの八つ当たりだ』


 俺は「すまない」と短くいうと、浮かしかけた腰をソファに沈めなおした。そんな俺に向けて、ダルは「でもさ、オカリン」と前置きをして続ける。

「自己中も大概にしないと、まじで友達いなくなると思ったりするわけだ、ボク的に」

 ダルの捨て台詞のような言葉に、鎮火しかけたはずの衝動がムクリと顔を持ち上げる。思わず語気に険しいものが混じる。

「俺が自己中だと……?」

 しかし、俺の様子などお構いなしといったように、ダルはいたって気軽な声でいう。

「今さら何言ってんだお? 基本、オカリンの半分は妄想厨で、残りの半分は自己中。それでファイナルアンサーじゃね?」

 そんなダルの物言いに、思わずソファから立ち上がる。

「知った風な口を!」

「何言ってるんだお? まさか、オカリン自己中説に異議でもあると?」

「あたりまえだ!」

 吼える。右腕だと思っていた男からの心外極まる批判に、頭に血が上るのが分かる。

「普段の俺は確かにそうなのかもしれん。だが、今だけは……」

「いや、今も立派に自己中じゃん、これマジ」

 身も蓋もないとはこの事か。簡潔に俺の異議を却下したダルの言葉に、思わず絶句する。

 俺が自己中だと? 今の俺が、自己中だと? 独善的でいられないと、大切なものまで犠牲にしてきた、この俺が自己中だと?

 はらわたが煮えくり返りそうだった。真剣に悩み、本気で選び取った選択肢の数々。独善的な自分を排斥し、今こうして自らの罪を認めている俺を、それでもダルは自己中だというのか?


 握った拳が、怒りで微かに震える。


 しかし、そんな俺の様子など気に止めるべくもなく、ダルの言葉は続く。

「オカリンがどういうつもりか知らないけど……」

 知らないなら、余計な事を言うな。

「でもさ、よく見るべきだと思うわけだお。よく思い出すべきだと思うわけだお」

 これ以上俺に、何を見ろというのだ! これ以上俺に、何を思い出せというのだ、ダルは!?

「昨日今日とさ。オカリンが見たみんなの顔、オカリンにはどう映ってんの?」



 みんなの顔──?



 ダルの言葉に、俺の肩が微かに跳ねる。

「みんな、楽しそうにしてた? まゆ氏もボクも、それにオカリンだって。みんな楽しそうに見えた?」

 言われてハッとする。そして頭に浮かび上がる。

 悲しげに顔を歪ませる、まゆりの表情が──
 不満げな視線を俺に向ける、ダルの表情が──
 鏡越しに見た、奥歯を噛み砕かんばかりの、俺の表情が──
 そして、俺の目の前で、輝いているはずの瞳を真っ黒に染め上げた、あの紅莉栖の表情が、フラッシュバックを伴って、頭の中に浮かび上がる。


「どうよ? みんなメッチャ、元気なくない?」


 確かにダルの言うとおりだった。浮かび上がってきた、いくつもの顔。そのどこにも、笑顔も微笑みもありはしなかった。ただそこにあるのは──

『どいつもこいつも、どうしてそんな顔をしている?』

 胸の内で吐き出した疑問。それにダルが答える。

「全部、今のオカリンが原因だと、ボク的には思うわけだ」

 その言葉に、頭の天辺から冷や水をぶちまけられたような感覚を覚える。そして──



 ──今のオカリンは、みんなに暗い顔をさせてるんだお──



 ダルの発した言葉が、俺の頭を殴り飛ばした。

 俺が紅莉栖に嫌われてしまうと、それは嫌だと必死な表情で訴えるまゆりの姿を──
 酷い事をいってしまったと、身体を振るわせながら俺に詫びた紅莉栖の姿を──
 吹き飛ばされた俺の頭が、ハッキリと思い出す。

 そして思う。

『俺は今まで、何をしてきた──?』

 そんな声にできない問いかけに、またしてもダルが答えを出す。

「だから、今のオカリンは立派な自己中だと思うお。自己中は周りを不快にする。これ常識」

 ダルから放たれた言葉が、これまで必死になって支えてきた俺の中の支柱に、大きな亀裂を走らせる。

 そうして、やっと気付く。ダルの言葉に貫かれた事で、これまでの自分の思考や行動の原点がいったい何だったのか、思い当たる。



『俺は……馬鹿か?』



 全ての出発点を、間違えていた。そんな気がした。だが──

『だがしかし、ならば俺はどうしたらよかったのだ? どう考え、どう行動すれば、俺は独善的でなかったといえるのだ──?』

 分からない。どうしても答えをひねり出せない。

 大きな罪を犯してきた俺の取らねばならない行動。一体それが何だったのか? 
 こんな結果論だけをぶらさげた問いかけに、明確な答えなど存在しないように思えた。

 しかし、そんな答えのないはずの疑問にすら、ダルは答えを出す。

「どのみちオカリンは、どう転んだって自己中だお。だったら、いつもの妄想自己中の方が、今よりもずっとましだと思うわけ。つまり──


 ──みんな楽しけりゃ、オカリンの自己中くらい、簡単に帳消しって話し──


 そして、そんなダルの解答は、俺の中で渦巻いていたわだかまりを跡形もなく吹き飛ばす。これまでずっと圧し掛かっていた何かを、跡形もなく消し飛ばす。

 ダルは言う。

「結局のとこ、どこまで行っても、オカリンは自己中で妄想厨だお? 今さら路線変更とか言われても、正直こっちは困るだけなんだよね」

 普通であれば、余りにも人を馬鹿にした言葉。だがしかし、その言葉は今の俺にとって、戒めを解き放つための鍵。だから俺はダルに言う。

「ああ……。その通りだな……」

 声が振るわないよう、出来る限り平静を保って、それだけを短く言葉にする。

「分かってくれればそれでいいけどね。なんつーの? やっぱあれでしょ。『考えるな、感じるんだ!』精神? あれ、意外と真実だったりするんだお」

 そんなダルの言葉を肯定するように、俺は一度うなずきながら──そして、腹をくくる。

 窓の外に目を向ければ、西の空に沈みかけた太陽が、夕刻を知らせている。

 まだ間に合う。根拠はない。しかし、確信はある。

 俺は、テーブルの上から愛用の携帯を掴み取ると、慣れた手つきでフリップを開く。そこに見えるのは、度重なるまゆりからの不在着信。
 俺はすぐさま、まゆりに向けて発信する。

『オカリン!?』

 一度目のコール中に電話がつながる。

『オカリン、どうしよう! 紅莉栖ちゃんが見つからないよ! どうしても見つからないよ!』

 電話の向こうから、今にも泣き出しそうな、まゆりの声が響く。そんなまゆりに、俺は言う。

「まゆり。今すぐラボに戻れ」

『やだよ! そんなの絶対にダメだよ!』

 まゆりの強く否定する言葉。しかし俺は、力強い口調で返す。

「戻るんだ。後はこの鳳凰院──いや」

 そこまで言ったところで思いなおし、一度言葉を切って言い直す。

「この、岡部倫太郎に任せろ。必ず牧瀬紅莉栖をラボへと連れ帰ってやる」

 それだけを伝えると、俺は電話を切り、携帯を白衣のポケットへ放り込む。そして、ラボの出口へと歩みを進めながら、背後のダルに声をかける。

「悪かったな。助かったぞ、ダル」

 そんな言葉に、ダルは一瞬不可解そうな声を上げるも、しかし──


「フ。礼なんて、あんたにゃ似合わないぜ。俺はただ、静かにエロゲーを楽しみたかっただけさ」


 そう答えた。

 その名に恥じぬスーパーハカー(ツンデレ?)の、言葉を背中に受けながら、俺はラボの扉を力強く開き、外に出る。

 向かうべき場所は、もう分かっていた。




[29758] 思想迷路のオカリンティーナ08
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:55
     8


 沈みかけているとは言え、それでもまだ夏の日差しは強い。むき出しのコンクリートが蓄えた熱量は、とても我慢の効くようなものではなく──
 だから私は陰の出来ている場所を探して、そこに腰を降ろす。両足を折り曲げて両手で抱え込み、静かに目を閉じる。

 そして、勤めて冷静であるために、思考をめぐらせる。

 
 ──そう、私は思い出した。


 それは、私の中に存在しないはずの記憶。
 あの、α世界線と呼んでいた場所で経験し、そしてβ世界線への移動に伴って、失われるはずだった記憶。

 私はそんな全てを思い出した。そして理解する。

 これは矛盾なのだと──


『私はまだ、存在している』


 まゆりの死んでしまうα世界線から、私の消えるβ世界線への移動。その選択肢を選び取れないでいるあいつに、私が無理やり選ばせたはずの、一つの解答。
 それを経たはずの今でも、私はまだこうして、世界の片隅に存在している。その事を思い出し、それがどういう意味を含んでいるのか、理解してしまった。


 ──逃れることの出来ない運命──


 そんな、余りにも非論理的で曖昧で眉唾で、どうしようもなく安っぽい言葉の前に、あいつも私も打ち勝つ事が出来なかった。ただ翻弄され、無駄に精神と体力をすり減らし、何も変わらず、何も変えられず──そして私は世界から消える。

 それこそが、最後に導き出された結果のはずだった。
 だからこそ、論理的な思考をすれば、私がこの世界に存在しているはずはないのだ。



 だが、どうしてだろう。こんな状況だというのに、私の中に、その矛盾に対する疑問は浮かんでこない。



 理由は分かっていた。

「岡部……」

 そう。それは岡部だったから。
 突然現れて、「お前を助ける」といった男性。それが、岡部だったから。
 私を庇って怪我をした男性。それが、岡部だったから。

 だから私は、矛盾を孕んだこの世界に、何の疑問も持たない。


 ──私が生きているという結果は、きっと岡部が手に入れてくれたもの──


 私は、この世界を導き出すための理論も、ここへ至るまでの過程も知らない。だから物証も確証もなく、無論、立証することもできない。
 だけどそれでも疑わない。岡部の想いを、岡部の決意を、私は疑わない。

 嫌と言うほどに思い知ったはずの、頑強で冷徹だった世界の意思。
 それを前に、ボロボロになって膝を折り、人としての正常な感覚を必死に繋ぎとめていた岡部の姿を、私は覚えている。

 それなのに岡部は、そんな経験をしているというのに岡部は。それでもなお、再び世界の意思を相手に、無謀な闘いを挑んだのだろう。

 私を助けるという理由のためだけに、世界に翻弄される覚悟をして──

 それなのに、私は言ってしまった。


 『こんな記憶、消してしまいたい』


 と、口にしてしまった。
 そして、そんな私に向かって、岡部は言った。


 『ならば、俺もお前の事を忘れよう』と──


 ラボの扉越しに聞いた、終わりを告げる小さな言葉を思い出す。
 それは、私が記憶を取り戻す切欠となった言葉。その言葉が耳に届いた瞬間、私の頭の中は、怒涛のようにあふれ出してくる記憶で埋め尽くされた。

 街中で岡部を見つけた時も、ラボメンバッチを見た時も、まゆりに連れられてラボに入った時も、私の記憶は微かに揺れた。でも、そのどの場面でも、何かを思い出すには至らず──

 ただ一言。聞き取れないほどに小さく響いたあの言葉が、私の記憶を呼び覚ました。

 当然といえば当然の結果だ。
 だって「忘れないで」と伝えたあの言葉は、「絶対に忘れない」と伝えられたあの言葉は、消えてしまうはずの私が望んだ、たった一つの願い。
 岡部にかなえて欲しかった、たった一つの私の想い。
 そして、岡部が私を想ってくれた、たった一つの軌跡。

『それを私は、自分の手で……』



 後悔していた。

 ラボの扉越しに、岡部に伝えてしまった言葉。
 それが岡部に対し、どんな意味を持つ言葉だったのか、今なら分かる。


 ──私は、私のために岡部が挑んだ闘いの全てを、真っ向から否定した──


 だから、その言葉を、それを口にした自分を激しく後悔する。

 そして、軽蔑する。

 ラボの扉の向こう側。自ら押し開けた扉の向こうに見た、岡部の姿。
 崩れるようにへたり込んでいる岡部に、私は『ごめん』と、『もう忘れてもいい』と言い残し、そして逃げた。岡部のくれたラボメンバッチを置き去りにして、あろう事か逃げ出してしまった。
 そんな自分の行動が許せず、自らを強く軽蔑する。


『私はあの時、逃げ出してはいけなかったのに──』


 そう思う。
 目の前の光景がどんなものであったとしても、逃げ出していけなかった。私はあの場所に留まり、そして取り戻した記憶と共に、伝えなければならなかった。止め処なく溢れ出す想いを、岡部に教えなければいけなかった。
 それなのに、私は逃げ出してしまった。それは──


『怖かったんだ。どうにもならないほど……怖かったんだ』


 扉の向こう側に見えた光景。それを目にした瞬間、私は激しい恐怖に襲われた。
 今、こうして思い出しただけでも、激しい震えが、身体の底から沸きあがって来る。押さえ込めない。

 私が見た、岡部の姿。そこに見た、岡部の瞳。何も映さず、何の意思も込もっていない、無色の瞳。私は、そんな瞳を知っていた。私は過去に、同じような目を見た事があった。
 だから怖かった。その瞳が、岡部の中にある事が、どうしようもなく、恐ろしかった。

「……嫌だよ」

 否定したい気持ちが、振動となって口から漏れる。
 いつも冷静でいられたはずの私の思考。その正確無比な歯車が、恐怖に押しつぶされるように、少しづつ狂い始める。

「……嫌だよ、岡部」

 私の見た岡部の瞳。そして、小さな私が見た、父親の瞳。そんな二つの瞳の記憶が怖くて、私は目を閉じ、両手で頭を抱え込む。

『これじゃあ、パパの時と一緒だ……』

 幼少の私は、知らないうちにパパを深く傷つけていた。その結果、二度と歩み寄れないほどの溝をそこに作ってしまった。その溝は深くて、何度も何度も歩み寄ろうとしたのに──

 自分の事を、まるで五月蝿い害虫でも見るような目つきで見る、そんな父親の視線を思い出す。
 そして、それと同じような目を自分に向ける、そんな岡部の姿を想像してしまう。

 知らず知らずに傷つけた父親と、何も知らなくて傷つけた岡部。この二人の置かれている立場が、どこか似ている気がした。だから──


『ひょっとしたら、パパと同じで、岡部も私に傷つけられた事を切欠に──』


 そんな事を考えてしまう。

「嫌だよ岡部……。そんなの嫌だよ……」

 溢れ出してくる涙が、煩わしかった。
 私は、浮かび上がる想像を振り払うように、抱えた頭を激しく振り回す。
 思考の中から、歪んだ歯車を弾き飛ばし、叫び声を上げる。

「違う! 岡部はそんなのじゃない! 岡部だけは絶対に違う!」

 分かっている。知っている。理解している。岡部倫太郎という存在が、そんなものでない事を、私は経験している。あの世界線で、これでもかと言うほどに、私は見せつけられてきた。だからこそ、岡部倫太郎という存在に、私は強く引き寄せられた。

『それなのに、どうして? どうして消えないの!?』

 ──自分の過ちのせいで、大切な人が自分に向ける視線が変わってしまうのではないか?
 ──実はもう、変わってしまっているのではないか?

 そんな渦巻く疑念が、どうしても頭から離れない。


『どうしたらいい!? 分からない! 分からないよ!』


 助けて欲しかった。もう、とっくに助けられているというのに、それでも私は、助け出して欲しかった。
 戻りたかった。いつもの冷静な自分に戻りたかった。今すぐにでも、あいつのいる場所へ戻りたかった。

「消えてよ!」

 一度叫び、それでも足らず、もう一度、大きく息を吸い込む。そして、膨れ上がった全てを吐き出すようにして──



「私の中から、消えてよ!!!」



 私の見る岡部を、岡部の見る私を、そんな全てを信じた私の絶叫は、夏の夕暮れに響いて消えた。




[29758] 思想迷路のオカリンティーナ09
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Date: 2011/09/14 15:55
     9



 ──独善的でなど、いられない──

 あの時からずっと、俺はそう考え、選択し、行動してきた。それが正しいのだと信じてやってきた。
 そのために、過去を改変し続けた自分の罪を理解し、そんな罪に見合うだけのペナルティを、自らに課してきたつもりだった。だがそれは、全て間違っていた。

『そうして間違い続けた結果が、このザマか!』

 秋葉原の街を全力で駆け抜けながら、奥歯を噛みしめる。

 ダルが教えてくれた。まゆりが示してくれた。だからこそ俺は、自分の考えの愚かしさに気付く事ができた。
 だから走らねばならない。もっと速く、もっと力強く走らなければならない。何が何でも、間に合わせなければならない。

 間違っていた俺を正してくれた、かけがえのない仲間たちのために。間違い続けてしまった、俺自身のために。俺の間違いが傷つけた、あいつのために。

 入院していた一ヶ月間。病院のベットで、紅莉栖が生きている事に喜び、紅莉栖が俺の事を忘れてしまった事にもんどり打ち、アメリカに戻ってしまったであろう紅莉栖の事を、どうしても忘れる事が出来なかった。

 何とかしたいのに、どうする事も出来ない。そんなジレンマに苦しみながら俺が出した、間違った結論。それが──


 ──俺にそんな資格はない──

 
 それだった。

 そう考えさえすれば、多少なりとも紅莉栖のいない生活を前向きに歩いていけそうな、そんな気がしていた。
 そしていつか、そう考えること自体が、俺の中のルールとなり、そう考えてさえいれば、自分は独善的ではないのだと、そう思い込んでいた。


『どこがだ、馬鹿野郎!』


 独善的な自分を拒否し続けた結果、たどり着いた場所。
 そこで手に入れたのは、暗い色に塗り固められた瞳。余りにも独善的すぎた俺に、取り戻した想いを踏みにじられた、牧瀬紅莉栖の瞳。

『あんな目をしやがって!』

 紅莉栖が去り際に見せた瞳の色が、怯えたように振るわせる華奢な身体が、鮮烈な印象となって脳裏に焼きついている。

 そんな映像に身もだえそうになる身体を振り絞り、苛立ちを噛み殺すように奥歯を締め付ける。

『くそ、邪魔だ!』

 俺の道を遮る、有象無象の通行人が無性に煩わしく感じた。
 いつかのように、全て消えてしまえば、どれほど走りやすいだろうか。しかし、今の俺にそんな力はない。電話レンジ(仮)も、Dメールも俺にはない。もう俺に、過去を変える力は残されていないのだ。
 だがそれでも、これからつむがれていくであろう俺の人生と牧瀬紅莉栖の人生を、もう一度だけ繋げるために、俺は混雑する秋葉原の真ん中を、通行人を掻き分けてすすむ。
 そして、今にも詰まりそうになる荒れた呼吸を振り絞って、叫ぶ。

「どけ! 邪魔なんだよ、お前ら!」

 人ごみの隙間を縫いながら叫ぶ。多くの視線を集めているが、そんなものに気を割いている余裕などなかった。だから、叫び声を上げながら思いを馳せる。

 俺に「忘れないで」と言った紅莉栖。ラボを「居心地がいい」と言った紅莉栖。そんな彼女に、「もう、忘れていいから」などと言わせてしまった。その手から、ラボメンバッチを奪い取ってしまった。

 そして、それら全ては、『独善的ではいられない』という、余りにも独善的すぎた、俺の勝手な思い込みが招いた結果。


『こんな結果に、納得できるか!』


 だから、走る。そんな自分自身を、力任せに押しつぶしてやるつもりで、今にもへたり込みそうになる両足を、口から飛び出しそうになる心臓を、目一杯に奮い立たせる。
 
 ──牧瀬紅莉栖が記憶を取り戻したというのは、俺の妄想が見せた希望的観測ではなかったのか?
『知るか! 記憶を取り戻していようといなかろうと、どっちでも構わん!』

 ──牧瀬紅莉栖の言葉は本心で、彼女は心底、俺との縁を断ち切りたがっているのではないか?
『それがどうした! 俺はそんなもの、認めるつもりはない!』

 ──今さら俺が紅莉栖を求めたところで、もう紅莉栖は二度と戻ってこないのではないか?
『だからなんだ! あいつの意思など、もう関係ない!』


 ──何が何でも、連れ戻してやる──


 これまでに無いほどの独善的な考えが、頭の中を支配する。そして俺は、そんな想いを押し込めるどころか、さらに助長させるかのように、頭の中で膨張させる。

 ダルに指摘された言葉を思い出して自覚する。

 きっと俺は、何をどうしても、どう考えても、どうしたって独善的でしかないのだろう。
 独善的ではいられない自分など、きっとどこの世界線にも存在しないのだろう。
 そして思う。ならば。ならばいっそ──



『これ以上ないほどに、独善的になってやる!』



 そう思うと、自然と足に、腕に、身体に、頭に、力がこもる。だから、さらに思う。もっと力が欲しいから、もっと紅莉栖に近づきたいから、これまでで一番強い想いを込める。

『独善的で悪いか!? 我慢なんざクソくらえだ! 鳳凰院凶真ではなく、岡部倫太郎として、どこまでも独善的になってやる!!!』

 資格がどうのという、紅莉栖をあきらめ切れない自分を、慰めるためだけのルールは、もう捨てた。
 そんなもののせいで、今の紅莉栖の想いまで無駄にしてしまうというのなら、そんな物はもう必要ない。もしも俺が独善的でいることで、紅莉栖の想いだけでも守れるのなら、俺はいくらでも!

 全身全霊を持って、秋葉原を走り抜ける。目指すべき場所は分かっている。力強く地を蹴り、大きく息を吸って吐き出す。


「この岡部倫太郎から! 逃げられると思うなよ、牧瀬紅莉栖!!!」
 

 近づいてきたラジカンを視界の中心に捉えながら、俺は秋葉原の真ん中で咆哮を轟かせる。

 そして、勢いそのままに、ラジカンの中へと突入する。やはりここでも、集まってくる視線を感じはしたが、これまでと同じように、全て無視して屋上へとつながる階段を駆け上る。

 他の階には目もくれず、目指す場所まで足を止めない。

 踊り場の角に身体をぶつけながら急ぐ。悠長に曲がってなどいられない。全力で壁に激突しながら、力任せに踊り場を抜けて、昇り詰める。

 そして見える、屋上への扉。立ち入り禁止のプレートが掲げられた、行かなければならない扉の向こう側。

 扉に身体ごとぶち当たる。全身を激しい衝撃が貫くが、知ったことではない。ドアノブに手をかけてまわし、吹き飛ばすようなつもりで開け放つ。

 そして聞こえる声。

「消えてよ!!!」

 いやがった。やはり、ここにいやがった。
 消えろだと? この俺に、消えろだと? そうはいかないんだよ、紅莉栖!

 だから言ってやった。開け放った扉の向こうで、空へと続くラジカンの屋上で、俺は俺の中にある、何もかもを込めきって、そしてこれまでの人生で一番の思いを込めて、これまでの想いの全てを込めて、言ってやった。




「「「だが断わぁぁぁぁぁる!!!」」」




 そして、紅莉栖の姿を視界に捉える。
 膝を抱え、小さく縮こまって震えている、俺の知る牧瀬紅莉栖でクリスティーナでゾンビでセレセブでネラーで、そしてこの俺の助手である少女の姿を、視界の中に捉え──

『な、なんだ?』

 突如、視界が歪み出す。
 大地が揺れる。
 意識が混濁を始める。

『これは、まさか──』

 この奇妙な感覚には、覚えがあった。そしてその感覚の正体に戦慄する。

 バカなと思った。そんな事が、あるわけがないと思った。しかしそれでも、俺の視界の中の紅莉栖が歪む。また、あの時のように、エンターキーに指を叩きつけた時のように、歪み始める。

『ふざけるな! やっと、やっとたどり着いたんだぞ!? まゆりの、ダルの、それ以外にも沢山の犠牲をふみ砕いて、それでも俺は、やっとの思いでたどり着いたんだぞ!?』

 納得できない。こんな終わり方は、絶対に納得できない。世界線がなんだ! ダイバージェンスがなんだ! リーディングシュタイナーがなんだ!

 俺は全身を硬直させ、奥歯を砕きそうなほどに噛みしめ、手のひらに爪を食い込ませながら、自分の身体に猛烈な勢いで広がっている感覚に喰らいつく。

『くそ! くそ! 紅莉栖!』

 言葉に出来ない怒りを振り絞る。

 だというのに、それでも──



 俺の意識は、押し寄せる荒波に、あっけなく流されて──消えた。




[29758] 思想迷路のオカリンティーナ10
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 15:56
     10



 気がつくと、何も見えなかった。
 目を閉じているわけではない。まぶたを開けている感覚はある。だがしかし、俺の目に何かが映ることはなく、ただただ永遠と続く暗闇だけが、俺の視界を占拠していた。

 俺はあの後、どうなってしまったのだろうか?

 分からない。妙だと思った。あの時、俺を襲った感覚は、世界線を移動するときのそれに酷似していた。であれば、リーディングシュタイナーを持ち合わせている俺には、移動前の世界線と移動後の世界線は、連続しているはずなのだ。だというのに、あの直後の記憶が、まったくといっていいほど、見当たらない。

『そうだ、紅莉栖! 紅莉栖はどうなった!?』

 唐突に、心の中を不安が蹂躙した。俺が駆けつけた屋上で、最後に見た彼女の姿。
 そして今、その姿が見えない事が恐ろしかった。

「紅莉栖……紅莉栖、どこにいる!?」

 俺は叫ぶ。何もない真っ暗な空間で、俺の視界から煙のように消えてしまった少女の姿を求めて、声を立てる。

「紅莉──

「うるさいな。ここにいるだろ」

「ここってどこ……ぎゃん!?」

 顔面に予期せぬ衝撃を感じ、俺の口から妙な悲鳴が上がった。これは一体? 叩かれたのか、今? いや、そんなことよりも、紅莉栖の声はどこから?
 そんな俺の疑問を見透かしたかのように、再び紅莉栖の声が聞こえた。


「いま、岡部の顔面を叩いたのが、私の右手だ。つまり、私はそれくらいの距離にいるという証明だな。これで満足?」


 それくらいの距離?

 紅莉栖の言った言葉の意味を図りかねる。こんな暗闇の中で、紅莉栖は俺のすぐ側にいるというのだろうか?
 しかし、やはりその姿はどこにも見えず、ただ、ジンジンとした顔面の痛みだけが、現実のように余韻を残す。
 
「岡部、混乱しすぎ。もうそれ、笑えないレベル」

 確かに、この小憎たらしい物言いは、紛れもなく紅莉栖のものに違いない。しかし、そんな俺を小馬鹿にしたような声色が、暗闇にとらわれた俺の心に、微かな安息をもたらす。

「俺は……どうなったのだ……?」

 俺がゆっくりと、そう口にすると、どこか呆れたような紅莉栖の声が返ってきた。

「岡部、本当に覚えて無いの?」

 覚えていない? 唯一の観測者であるこの俺が、何を覚えていないと──

「あんた、ラジカンの屋上に飛び込んできたでしょ? 覚えて無いの?」

「いや、それは覚えているが……」

「じゃあ、その後の事は?」

「その後と言われても、確かリーディングシュタイナーが発動して──」

 途切れ途切れに散らばった記憶の欠片をかき集め、俺はしどろもどろになりながらも答える。しかしあろう事か、紅莉栖の声は、そんな俺の言葉を笑い飛ばした。

「プギャー! マジですかそれ? 面白すぐるんだけど!」


 ぬ。サウンド・オンリーだというのに、なんという失礼な奴であろうか。


 何となく笑われた事が面白くなかったが、しかし不思議と、それに対して嫌な感情は芽生えなかった。

「あんたは、ラジカンの屋上に飛び込んできた後、倒れたの」

「倒れた?」

「そ。酸欠でね」

「そうか、さんけつで……」

 さんけつ──? 酸欠──?



「酸欠だとぉ!?」



 思わぬ事実に、俺は身体を勢いよく起──あれ?

 身体を起した拍子に、顔から何かが剥がれ落ちた。そのとたん、視界の中に広がる景色。それは、どことなく見覚えのある風景。薄暗くて手狭な通路。わきに積み上げられたおびただしい荷物。

 そう。確かここは、ドクター中鉢と争い紅莉栖を救った、ラジカン七階の──

「もう少し、大人しくしてなさい。あんた、泡まで吹いて、大変だったんだぞ」

 周囲の光景に視線を這わせようとしているところを、後ろから肩を掴まれ、無理やり引きずり倒された。間髪入れず、俺の顔にひんやりとした柔らかい何かが、ベチャリと音を立てて貼り付く。

「ぬ……濡れタオル……?」

 俺は持ち上げた右腕で、顔に張り付いたそれを摘んで、少しだけ持ち上げた。
 視界に出来た小さな隙間。その向こう側に、紅莉栖を見つける。こちらに顔を向けていないから、その表情までは分からない。しかし、その姿は牧瀬紅莉栖に違いなく──

「本当に、紅莉栖……なのか……?」

 そう小さく問いかけた俺に、紅莉栖は顔をそっぽに向けたままで返す。

「悪かったな。私のひざ枕が不服なら、そう言ってくれ」

 紅莉栖のいっている事が、また分からなかった。

「ひざ枕だと? 俺は、そんなリア充ワードとは無縁なのだが?」

「じゃあ、あんたの空っぽな頭の下敷きにされてるのは、私の太もも以外のなに?」


 ────


「まじですか!?」

 まじだった。


「いいから、寝ていろ」

 驚愕の余り跳ね起きた瞬間、強制的に転がされる。頭の下に感じた、暖かくて柔らかな感触に、心臓が高鳴る。
 まさに想像だ゙にしない展開に戸惑いながらも、俺はどうにか口を開く。

「何がどうなっている? いったいどうして、こうなっている?」

 未だ、混乱の色を覗かせている俺に、紅莉栖は俺と目線を合わせることなく、ゆっくりと言い聞かせるよう語った。


 紅莉栖の話を集約すると、つまりはこういう事になる。

 牧瀬紅莉栖なる天才脳科学者が、ラジカンの屋上で一人、この世の心理について深い思考をめぐらせていた。と、突然怪しい男が飛び込んできて、突然奇声を上げ、突然泡を吹いて失神したのだそうな。
 心優しい天才脳科学者は、そんな哀れな男を一つ下の階の通路まで引きずってきて、今現在も泡吹き男の介抱をしている。
 とまあ、そんな感じなのだが──


『では、あの時の感覚は、リーディングシュタイナーではなく、酸欠からくる、ただのめまい?』

 確かに、最初にリーディングシュタイナーを発動した時も、強いめまいだと思っていたわけだから、逆の状況があったとしても仕方ないとは思う。まあ、それはいいとして──

「今の説明。何だか、所々に嘘が混在している気がするのだが?」

「根拠は?」

「……ない」

「なら、気のせいだ」

「いやお前、そんなあっさりと……」

「細かいこと、気にしないの。……それで私も」

 紅莉栖は一瞬、戸惑ったように言葉を切り、そして意を決したかのように呟く。

「それで私も、あんたに聞きたい事があるわけ……なんだが」

「何をだ?」

「まあその、あれだ。何で酸欠で倒れるほど走っていたのかという疑問に対して、納得の行く解釈をだな」

「いい加減、こっち見て喋れ。失礼なやつめ」

「いいだろ、別に! で、答えは!?」


 一般人として常識的な指摘をしたつもりだったのだが、なぜか怒鳴られた。


「別に、大した理由などない。ただ、お前にこいつを届けに来ただけだ」

 そう言って白衣のポケットに手を突っ込み、中から小さなバッチをつまみ出す。

「あ……」

 俺の手につままれた、小さくて丸い金属の板を見て、紅莉栖が小さな声をもらした。

「これはお前のものだ。受け取ってもらおう」

「でも……」

 俺の申し出に、相変わらず俺に顔を向けぬままの紅莉栖は、困惑の声を上げる。

「残念だが、お前に選択権はない。お前には、これを持つ義務がある」

 しばらくの間、ラジカン七階の通路を、重たい沈黙が包み込む。黙って顔を背ける紅莉栖と、それを紅莉栖のヒザの上から見上げる俺。その視線は絡み合わない。

 そして紅莉栖が、静かに呟いた。

「……ごめん。やっぱり……無理」

 その答えを聞いて、俺はゆっくりと身体を起した。紅莉栖はもう、俺を引き倒そうとはしなかった。俺は言う。

「わけを聞かせてもらおうか?」

 紅莉栖は黙って、うつむいている。俺はそんな紅莉栖の横顔から視線を外す事なく、じっと彼女が口を開くのを待っていた。
 どれくらいそうしていただろう? やがて紅莉栖は、小さな声で、俺に問いかけてきた。

「あの……さ。あんた、何で聞かないの……」

「何を言っている。今、まさに聞いたところではないか」

「そうじゃない。その事じゃなくて……」



 ──私の記憶が戻ったのかどうか、なんで聞かないの?──



 そう呟いた紅莉栖の声は、なぜか小さく震えていた。

「なんだ。聞いて欲しかったのか?」

「そんなこと言ってない! ただ……。ただ、気にならないのかなって。あんたは私の記憶がどうなってるのか、気にならないのかな……って思って」

 無理やりに搾り出すような紅莉栖の声。その声に含まれた震えは、さっきよりも明らかに大きくなっていた。だから俺には、この質問が紅莉栖にとって、なにか大きな意味があるのだと、そう直感する。
 だから答える。心の中にある答えを、装う事なく、ありのままで伝える。

「お前の記憶がどうなっていようと、俺にとっては、どうでもいい」

 俺の、ハッキリとした声が紅莉栖へ届く。その瞬間、紅莉栖の肩がビクリと大きく振るえた。

「そ……そっか……」
 
 消え入りそうに呟いた紅莉栖の声が、大きく揺れる。その振動は、紅莉栖の頭に、身体に、腕に、足に、波紋のように広がっていく。

 視界に捉えた紅莉栖の姿は、今にも崩れ出しそうなほどに弱々しく、消え去ってしまいそうなほど儚げに見えた。

 そんな紅莉栖を前にして、俺は言わなければならない。まだ、本心の全てを伝えていないのだ。ならば、伝えなければならない。
 独善的な岡部倫太郎として、俺は牧瀬紅莉栖に向けて、伝え残した言葉をいう。

「世界は収束していく。だから、お前の記憶が戻っていようといなかろうと、そんな事で何も変わらない。たどり着く結末は、何も変わりなどしない。だったら気にするだけ、無駄だろう? なぜなら俺は。今の俺は──」



 ──どちらにしても、お前を手放すつもりなど、ないのだからな──



 そう伝えたとき、うつむいていた紅莉栖の顔が、俺に向けられた。今まで交わらなかった視線が、初めて交差する。
 俺は言う。


「戻って来い。我が助手、牧瀬紅莉栖……いや、クリスティーナ」
 俺はそう言うと、今度こそ、ピンバッチを紅莉栖の手にそっと握らせた。
「これが『ジュタインズゲート』の選択なのだよ」


 随分と遠回りをしたものだと思う。昨日、秋葉原で紅莉栖と奇跡的な再開をしてから、まだそれほどに時間はたっていない。だがそれでも、随分と遠い回り道をしてきたのだなと、そんな事を考えながら、俺は紅莉栖を見る。

 紅莉栖は、バッチを握らされた手を、胸元でギュッと握り締める。その両目から涙を流し、口元を震わせ、身体を振るわせ、色々な物を震わせている。

「どうした、泣いているのか……助手よぉ?」

「う、うるさい! 卑怯ものめ!」

「ふん。卑怯はマッドサイエンティストの専売特許だ」

 俺の沈着極まる大人の対応に、紅莉栖が顔を赤らめたままそっぽを向く。そして、

「もう……返さないからな。返せって言っても、もう……遅いんだからな!」

 そんな事をいった。

「誰も、そんな事を言うつもりはないが?」

 俺は、シレッと答える。

「ああもう! なんかムカツク! グダグダ悩んでた自分が、まるっきり馬鹿みたいだ!」
 
「そうか。俺以外にも、馬鹿がいたのか。それは心強いな」

「ああああ! ムカツキすぎて、もう頭がおかしくなりそう! 岡部のクセに! 岡部のクセに!」

 声高にジャイアリズムを口にした紅莉栖は、涙に濡れた顔を真っ赤に染め上げて、俺に向かって──

「ぬお!?」

 飛びかかって──いや、抱きつかれたのか。どっちにしても驚いた。

 紅莉栖が俺の首に腕をまわす。まさか、このまま絞め殺されたりしないだろうな? などと考えるも、しかしその抱擁は優しく、とても温かく、そしてどうしようもなく懐かしく思えた。

 そして紅莉栖は、俺の耳元で静かに呟いた。

「本当あんたって、呆れるくらい──変わらないんだな」

 俺にはその言葉の意味は分からない。だがきっと、俺にとっても紅莉栖にとっても、それはいい言葉なのだろう。
 独善的かもしれないが、そう思う事にした。


 消えてしまったあの三週間の日々が全て戻ってくる事はないだろう。だがそれでも、俺と紅莉栖とまゆりとダル。それにフェイリスやルカ子や萌郁や、未来にいるはずの鈴羽の前には、広大に広がる予測不能な未来が待っている。それはきっと、辛くて苦労の耐えない、それでも輝かしい未来。誰もが幸せになれる、そんな未来。

 俺はそれを確信している。

 根拠? そんなものない。ただ確証があるだけだ。この俺、岡部倫太郎の、絶対的な確証だけだ。


                              つづく



[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ01
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 20:43
   帰郷迷子のオカリンティーナ


     1


 あの長かった夏も、気付けば終わりに近づいていた。

 9月も残すところ後わずか。暦上ではすでに秋と言っても差し支えない。であれば、そろそろ涼風の匂いなどと言う物が感じられてもよさそうな頃合ではあるが──

『暑い』

 残念な事に、この狭苦しいラボの中は、未だ衰えを知らないヤル気満々の残暑によって、蹂躙されつくしていた。

 俺は吹き上がる額の汗を、白衣の袖口に吸い込ませながら、紅莉栖に目を向ける。

 熱気立ち込める、ラボの片隅。ソファーに腰掛けた紅莉栖は、先刻よりテーブルの上に視線を落とし続けていた。

 ひざに抱えたウーパのクッションが、やたらと暑苦しそうに見えて仕方ない。

「で、どうだ助手よ。これで俺の説明は一通り終わったわけだが……」

 確認の意味で、言葉の最後に「理解できたか?」と付け加える。と、紅莉栖が俺に顔を向けた。

「当然、理解できてる。理解はできてるけど……」

「できてるけど、何だ?」

「正直、にわかには信じがたい話だな……とか、思ってる」

 紅莉栖は、どこか懐疑的に見える瞳を作って、そう言った。

 そして、とうとう茹だる暑さに耐えかねたのか、ヒザに抱えていたウーパクッションを脇にどかし、代わりにテーブルの上に放り出されていた厚紙のような物を手に取った。

「それにしても、バカ暑いんですけど。岡部、はやく扇風機、直せ」

 そんな事を口走りながら、少しでも涼を取ろうと、手にした厚紙を団扇のように動かし始める。

 そんな紅莉栖に、俺は言う。

「残念だが、俺はマッドサイエンティストであって、家電修理工ではない。涼を取りたいなら、自分で何とかしたらどうだ?」

「それが出来たら、やっている」

 まるで、つまらない問答でもしているように、紅莉栖は愛想のない声色でそう返した。

 そんな紅莉栖を視界に納めながら、問いかける。

「で、俺の話のどこが信じがたいというのだ?」

 唐突に戻された会話の内容に、紅莉栖の反応が微かに遅れる。が、それも一瞬の事。俺の問いかけた内容を把握し、すぐさま返事を返す。

「どこがといわれたら、全体的に。しいて上げろというなら……そうね。やっぱりこれかな……」

 紅莉栖は、再び視線をテーブルの上へと戻した。

「なんだっけ。メタルウーパだっけ? こんなオモチャ一つが世界大戦の有無を左右するって話だったけど、いくらなんでもそれはどうかと思うわけだ。流石に突飛すぎて──」

「そんな事はなかろう」

 まだまだ続きそうであった紅莉栖の反対意見。それをせき止めるようにして、俺は声を立てる。

「北京で蝶が羽ばたけば、ニューヨークで嵐が起こる。バタフライ効果とは、本来そういうものなのだろう?」

「それはまあ、そうなんだけど……」

 俺の言いたい事を察したのか、紅莉栖の返した返答は、どこか歯切れが悪かった。しかしそれも仕方ないと言うもの。


 ──小さな出来事が、後に思いもかけない大きな事態へと発展する──


 それがバタフライ効果だと、以前、俺に説明したのは、他でもない紅莉栖自身なのだ。

 まるでその事を証明するかのように、俺の発言を受けた紅莉栖は、テーブルの上に鎮座する金属製の玩具を見つめて考え込む。
 そして、しばらくの思考を経て、口を開いた。

「でも、岡部の言う通りなのかも」

 一人、小さく頷きながら言葉を続ける。

「小さな事象を切欠に、後に思いがけない展開が生まれる。まさにバタフライ効果と言っても差し支えないような現象は、これまで何度も観測されてきたわけだし……」

 観測。
 恐らく紅莉栖が口にしたのは、自ら取り戻した記憶や、俺から聞いた話などにある、あの三週間の出来事を指しているのであろう。

 確かに、あの過ぎ去った三週間で、俺は『バタフライ効果』を体感できるような状況を、幾度となく経験してきた。
 たった一つのメールをきっかけに、一人の少年の性別を変え、秋葉原を消し飛ばし、未来から小さな暗殺者を招き寄せて、さらには一人の人間の命を左右する──そんな体験を、この身に嫌と言うほど刻み込んできた。

 そして紅莉栖もまた、あの過ぎ去った永遠の三週間の記憶を、思い出しているのだ。

『もっとも、紅莉栖の記憶には、Dメールによる過去改変は、含まれていないみたいだが……』

 紅莉栖が取り戻した記憶は、リーディングシュタイナーを備えた俺ほどに、完璧なものではなかった。
 それは、あくまでも『α世界線で紅莉栖が持っていた、最終的な記憶』に留まっており、ともすれば、打ち消してきたDメールに関わる記憶は、その範疇外であった。つまり──

 鈴羽がダルの娘で未来人だったり──
 フェイリスパパが生きてたり──
 ルカ子が女だったり──

 等といった情報に関しては、α世界線で俺が話して聞かせた以上の事は、なにも知らないのだ。

 だがそれでも、紅莉栖自身、あれだけ奇想天外な状況を経験してきたのだ。であれば、俺の話がまったくの荒唐無稽だと笑い飛ばす事など──

「う~ん、でも、岡部の言う事だからな。やっぱ信憑性にかけるというか、何と言うか」

 引っ掛かってるのは、情報ソースの信憑性だとでも言いたいのか?

「疑り深いやつめ! 俺は直接この目で、それに至る経過を確認してきた。それでもなお、疑おうと言うのか?」

 声を大にして言い張る。そして、両手を勢いよく展開し、羽織った白衣を大きくはためかせながら叫ぶ。

「哀れなり! 信ずる心を忘れた科学者、クリスティーナよ!」

「妙な肩書きを付けるな! それからティーナじゃないと、なんど言えば!」

 間髪入れない、紅莉栖の突っ込み。慣れ親しんだ、言葉のやり取り。

 それは、一度は諦め、一度は拒絶したはずの、焦がれ続けた日常風景。俺の報われた、俺の望んだ世界。 悩み抜き、迷いきり、そして最後に選んだ、ラボメンとしての紅莉栖がいる、これから。

 そんな世界をこの目に焼き付けながら──

『やはり、これでよかったのだ』

 などと考える。

そして、前の紅莉栖の発言内容を無視して、声を荒げる。

「ふぅむ、素直ではないなクリスティーナよ! 信じたいのだろう? 本心では、この俺を信じたくて仕方がないのだろう? 口にせずとも分かっているぞ、さあ、盲目の羊がごとく信じきるがいい!」

 そんな俺の姿を見る上目遣いの紅莉栖の視線は、どこか冷ややかであった。

「何がどうしてそうなった。あんたの言語解析が、私には理解できない……」

「ふん。最上の誉め言葉と受け取っておこう! フゥーハハハ!」

 揶揄されながらも、しかし胸を張って高笑い。そんな俺の姿に、紅莉栖は呆れたような顔をして──

「ああもう、何言っても無駄か。分かりました、信じます。信じるから、その暑っ苦しいキャラ設定を封印してよ。それでなくても、ここは蒸し暑いんだから」

 などとのたまい、ソファにふんぞり返って、厚紙を振る手を一層強める。

 横柄な態度といえよう。まったくもって、失礼極まりない助手である。

『よもや、俺の中に息づく『鳳凰院凶真』を、暖房器具か何かと混同しているのではなかろうな?』

 などと思いつつも、しかし、紅莉栖の言い分にも、一理ある。現状のラボ内では、鳳凰院凶真モードの体力消費は、あまりにも著しすぎた。

「ふ、仕方ない。今日はこれくらいにしておいてやろう」

 俺はそう言うと、左右に広げていた両手を収め、額に噴出していた汗を、袖で拭う。と──


「ありがと」


 思いがけない謝辞が、紅莉栖の口から零れ落ちた。
 そんな言葉に、俺は少しだけ驚き、そして同時に傷ついてしまう。

「お、おい。止めただけで礼を言われる程に、マッドサイエンティストは嫌われているのか?」

 どこかドギマギとした俺の問いかけに、紅莉栖は一瞬、きょとんとした顔を覗かせるも──

「なにを勘違いしてる。別に、その事について礼を言ったわけじゃない」

「……?」

「私は、これの事に対して、礼を言ったの」

 そう言うと、紅莉栖は手にしていた擬似団扇をテーブルに置き、その代わりに小さな金属製の人形を、華奢な指先でつまみ上げた。

「あんたが、これを処理してくれたからこそ、私も、私の書いた論文も、そして、パパも──」


 ──開戦の主犯にならずにすんだ──


 少し、伏せ目がちな瞳を作ってそう言うと、摘んだ人形を両手で包み込む。

 ソファに腰を据えて、身体を縮こまらせる紅莉栖。その姿を見て、俺は問う。

「それはつまり、俺の話を全面的に信じて理解した……という事でいいのか?」

 俺の問いかけに、紅莉栖は少しだけうつむいたまま、微かに頷いて見せた。

 そんな行動を見て、俺は、紅莉栖が俺の話をよく理解しているのだと、そう感じた。

『急に教えてくれと言われたときは、流石に驚いたが……』

 だがしかし、目の前に見える紅莉栖の姿に、俺は長々と話して聞かせた『鳳凰院凶真の武勇伝』に、ちゃんと意味があった事を知り──

『まあ、結果は上々か』

 と、微かに胸を撫で下ろした。



 事の発端は、本日正午過ぎであった。

 ダルが行き付けのメイド喫茶へと旅立ち、まゆりがコス仲間の緊急要請に従って出動した昼下がり。
 ラボの中で俺と二人きりになったとたん、紅莉栖は話題を切り出した。


 ──私を助けた時のこと。詳しく聞かせてほしい──


 いつになく真剣で、それでいて、どこか思いつめたようにも見える瞳。そんな目を俺へと向けて、はっきりとした声でそう言った。


 紅莉栖が再びラボメンへと返り咲いた、あの日。
 秋葉原の街中で、紅莉栖と奇跡的な再開を果たし、紆余曲折を経て、結果的に紅莉栖が記憶を取り戻した、あの一連の出来事。


 あれから既に、一週間が過ぎ去っていた。


 そして、今日。
 この数日間、そんな話題を一言も口にしなかった紅莉栖が、突然思い出したかのように、そんな質問を俺に投げかけてきたのだ。正直なところ、あまりに突然すぎて、少しばかり驚いた。

 とはいえ、驚きこそしたものの、慌てることはなく──

『何度も脳内リハを行ってきた成果だな、うむ』

 紅莉栖の前で展開して見せた、理路整然とした情報伝達。その出来栄えに、我ながらまずまずの手応えを感じていた。

 ──きっと紅莉栖には、あの時の出来事が正確に伝わっている──

 それを今は、素直に喜ぼうと思う。


 ──この世界は、紅莉栖を排除しようとはしない──


 その事実を、紅莉栖が理解できたのであれば、それはきっと、悪いことではないはずだから。

 そんな思いで自己回想と感傷に浸っていると──

「ところで、岡部……」

 紅莉栖の声が、俺を現実に引き戻した。

「ああと、何だ?」

 ぼやけた返事を返すと、紅莉栖は視線をうつむけたまま、言う。

「私の見解としては……実際のところ、さっきの話……少し、説明不足な点があるように思えるんだが……」

 なんだか、奥歯に物が挟まったような、どうにも明確さのない口調。紅莉栖にしては、珍しいと思った。俺は問い返す。

「どうした? まだ何か、不明な点があるのか?」

「……まあ、そうなんだけど」

 やはり、どこかハッキリしない言葉。俺はそんな紅莉栖の態度をいぶかしむ。

「どこだ? β世界線からこの世界線に飛んだ過程についてか?」

「……それは理解した」

「では、第三次世界大戦に関わる──」

「……そこはもう、十分」

「では、お前の知らない、鈴羽がタイムトラベラーだった事とか、未来のダルがタイムマシンを作った事とか、その辺りの流れか?」

「それも違う。というか『知らない』わけじゃない。その辺は、『岡部に聞いた』という記憶だけはあるから……」

 紅莉栖は、何を言いたいのだろうか? 俺にはその意図が見えない。せめて、顔をこちらに向けてくれれば、その心情だけでも読み取る事もできるのだが。

 しかし紅莉栖は、ソファで身体を縮こまらせたまま、動こうとしない。だから、何も分からず、仕方なく問い続ける。

「では何だ? いったい何が──」

 そんな問いただすかのような俺の言葉を──

「主観」

 か細い声で紅莉栖が遮った。

 小さく響いたその言葉に、俺は思わず首を捻る。

「しゅかん──主観?」

 その俺の言葉に、紅莉栖は小さく頷いた。

 が、未だにその視線は、小さな人形を包み込んだ両手にそそがれたまま。だから、俺には紅莉栖の心境を読み取る事が──

『耳まで、真っ赤ですが』

 驚いた。
 長い髪から微かに覗く、小さくて可愛い形をした紅莉栖の耳。それが、見た事もないほど真っ赤に染まりあがっている。

『こ……これはいったい?』

 俺は状況を飲み込めず、黙って動揺する。と、 唐突に紅莉栖の顔がこちらを向いた。

『うお!?』

 俺の動揺が、狼狽にクラスチェンジを果たす。

 真っ赤であった。赤面などと、生易しいものではない。なんだかもう、今にも熱で顔面が融解してしまいそうなほどに、紅に染まりあがっていた。

 そして、俺の見ている前で、紅莉栖は口を動かし始める。微かに唇を震わせながら、途切れそうなほどか細い声で、言葉を紡ぎ始める。

「あんたの話の中に、岡部倫太郎の主観が……なかった」

「す、すまない。いまいち何を言っているのか、分からない」

 今にも爆発しそうなほどに染まりあがる紅莉栖。そんな彼女の言葉に対して、俺は正直な感想を告げる。

「分からないとか……言うな。汲み取れ……バカ」

「汲み取れと、言われましても」

「だから!」

 紅莉栖の語気が、一瞬強まる。が、次の瞬間には、また小さなさえずりに逆戻りし──

「あんたの心情とか……なんと言うか、そんな類のとこ……聞いてない」

 そう呟いた紅莉栖の瞳に、俺の心臓が高鳴る。
 顔を赤く染め、気恥ずかしそうに身体をもぞもぞと動かす、その姿。それを見て、紅莉栖につられるように、俺の顔まで赤面していくのが分かる。
 そんな俺の耳を、紅莉栖の声が小さく叩く。

「岡部……また世界線に挑んだんでしょ? ……何で?」

 照れ隠しのつもりで、俺は咄嗟に答える。

「何でと言われても、さっき説明したように、世界大戦の回避を……」

「うそ。それだけじゃない……よね?」

「いや、嘘と言われてもだな……」

「じゃあ……本当に、それだけ? それだけだったの?」

 紅莉栖の問いかけに、俺は言葉を詰まらせる。『それだけ』なわけなど、ない。だが──

「それは……」

 一度詰まった言葉は、なかなか吐き出されず、俺の尻切れトンボのような言葉が、蒸し暑いラボの中に溶けて消える。

 そして次の瞬間、真っ直ぐと俺に向けられた紅莉栖の瞳が、微かに潤み始める。そんな光景に、俺はたじろいでしまう。

「な、なにも泣く事は」

「まだ泣いてない!」

 顔を左右に振りながら、俺の言葉を否定する紅莉栖を見つめながら、思い知る。


 ──俺という男は、またもや、やらかすところだったか──


 先ほど紅莉栖が示した指摘。説明の中に、俺の主観がないという異議。それは正しかった。
 なぜなら、俺はあえて、説明の中に俺の想い──紅莉栖の言う、俺の主観を乗せようとはしなかったからだ。

 紅莉栖を生かしたいという想い。
 世界大戦の回避など、ただのオマケだったという想い。
 五十億人以上の命と紅莉栖一人の存在を天秤にかけ、紅莉栖の重さで五十億人が吹っ飛びそうな──そんな想い。

 そんな想いの全てを省いて、俺は紅莉栖に説明した。
 なぜ、そんなまどろっこしい事をしたのかだって? そんなの決まっている。

『そういうの、なんか恥ずかしいだろうが!』

 とどのつまりは、下らないプライドからくる羞恥心が原因であった。

 紅莉栖が問いかけてくるまでの、この数日間。
 それは、俺に紅莉栖との距離感を思い出させ、そして、あの吹き上がるような想いを伝える事に羞恥心を覚えさせるには、十分な時間だったのだ。

『鉄は熱いうちに打てとは、よく言ったものだな』

 俺はそんな事を想いながら、自らの愚策を反省する。

 天才の異名をほしいままにする牧瀬紅莉栖。
 そんな少女に対し、自らの主観抜きで、それでも論破されぬようにと、繰り返し脳内リハーサルを行ってきた自らの行動を、あざ笑う。一週間もの時間をそんなどうしようもない事に費やしてきた自分を、『アホか』と罵る。

 俺は一度、紅莉栖を拒絶してしまっている。だからこそ、同じ轍を踏むわけには行かない。もう二度と、わけの分からない独善性で、紅莉栖の想いを踏みにじるのだけは、避けたかった。

 だから──

『まだ、鉄は冷め切っていなはずだ』

 目の前の紅莉栖が、まだ熱を帯びている事を信じ──

「紅莉栖」

 名を呼び、紅莉栖の身体を、軽く抱き寄せた。

「!?」

 突然の事に、紅莉栖が驚きの声を上げる。メタルウーパが紅莉栖の手をすり抜けて、床を叩いた。

 俺は、ラボの隅へと転がっていく球状モニュメントを視線で追いながら、紅莉栖の耳元でささやく。

「悪かった。ちゃんと、言うべきだったな」

 紅莉栖の息遣いが耳元で聞こえ、紅莉栖の鼓動が微かに伝わる。

 そんな感覚を受け止めながら、俺はゆっくりと言う。一言一言を、はっきりと明確に、紅莉栖へ伝わるように、言葉にする。

「俺が、どんな想いで過去へ行き、どんな想いでお前を助けたのか、全て聞かせる。だから──


 ──聞いてくれるか?


 俺の伝えたその言葉に、紅莉栖は細い肩を小さく跳ねさせる。

「わかった……聞く。だから……もう放せ、HENTAI」

 小さな返事が、俺の耳に届いた。

 俺はその言葉に従うように、紅莉栖を拘束していた両手を開き、戒めを解く。

 開放された紅莉栖は、少しの間をおいて、俺の身体から離れ──

「あの、紅莉栖さん? 放せとの命令でしたので、お放しさせていただいたのですが……」

「わ、分かってる! 言われなくても、いま離れるから!」

 しかし、そんな言葉とは裏腹に、紅莉栖は俺の身体にくっついたままの状態で、よじよじと身をくねらせているだけ。待てど暮らせど、一向に俺との距離が開く気配はない。

「あ……あの……」

「うるさい、何も言うな! 分かってると言っている!」

 戸惑いを露にした俺の声を、紅莉栖はピシャリと跳ね返した。そして、密着した状態で、より一層に身体をモジモジと動かし続ける。

『こ……これはある意味、たまったものでは──』

 などと、俺は自らの置かれている現状を、歓喜しながら嘆いた。そのとき──

「トゥットルー☆ たっだいま~」

 その瞬間、紅莉栖が目にも止まらぬ速さで俺から飛び退る。

 そして俺は、『電光石火』という言葉の体現者を目の当たりにした感動に、とりあえず打ち震えてみた。



[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ02
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 20:44

     2


 まゆりの動かすミシンの音が、ラボの空気にリズムを刻んでいく。
 耳慣れた機械音は、壁に背中を預けて立つ俺の耳を、小気味よく揺らしていた。

 そんな足早の拍子に意識を揺らしつつ、俺はまゆりの作業風景をぼんやりと眺める。

「何事も、タイミングが命だとは言うが……」

「ある意味、神がかってるわね、まゆりは……」

 独り言のつもりだった俺の呟き。しかし、それが聞こえたのであろう、紅莉栖が俺の言葉に反応を示した。
 すぐ隣でしゃがみ込んでいる紅莉栖に、俺は視線を向ける。

「助手よ。お前も、そう思うか?」

「助手じゃないけど、そう思う」

 折りたたんだヒザの上に右手で頬杖を作り、そこに顔を乗せて、まゆりを見る紅莉栖。そこに携えられた両目の、なんとまあ虚ろな事か。

「はぁ……」

 さらには、このため息。まあ、その気持ち、分からなくも無いのだが──

「ため息ばかりついていると、老けるぞ」

 とりあえず、茶々を入れておく。

「何言ってる。ため息はストレス解消に高い効果がある。これ、脳科学の常識。ついでに、ストレス解消は若さの秘訣。ゆえに、あんたの理論は成立しない」

 てっきり、口やかましく反論してくるかと思ったが、意外に冷静な反論をみせる紅莉栖。

『というか、どう転んでも反論されることには、変わりないのだな、俺は』

 などと考え、なんとな~く、自分の未来予想図に、そこはかとない不安を感じていると──

「ねえ、岡部」

 まゆりから視線を外した紅莉栖が、隣に立つ俺を見上げた。

「なんだ?」

「あのさ……さっきの話なんだけど……」

 その、どこか歯切れの悪い口調に、紅莉栖が何を言わんとしてるのか先読みし、答える。

「分かっている。いずれちゃんと聞かせる。心配するな」

 そんな俺の言葉に、紅莉栖の眉間にシワが寄る。

「いずれ? いずれってどういう事? 今すぐじゃないの?」

「何を焦っている? と言うか、今、この状況でそんな話をしても、なんかもう、あれだろうが」

「私は構わない。だから聞かせろ、岡部」

「だが断る。言ったはずだぞ? 何事もタイミングが命だと」

「でも……」

「いいのか? 俺の主観のそこかしこに、『トゥットゥルー☆』が大量発生しても? 忘れるなよ。今そこでミシンを使っているのは、タイミングの申し子なのだ。ポイントポイントで、的確に放り込んでくるぞ? それでもいいのか?」

 俺の淡々とした口調に、紅莉栖は「うう~」と唸り、そして「じゃあ、場所を変えて」などという代案を提出する。

「だから、どうしてそれほど急ぐ? 時間ならいくらでも……」

「明日、帰る」

「だとしても、事を急ぐ理由には……」



 ──そこで、俺の思考が止まった──



『今、紅莉栖はなんと言った?』

 はっきりと聞こえた紅莉栖の言葉に、壁に預けていた背中が微かに浮きあがる。

『帰るとは……どういう意味だ?』

 意味など、その言葉を聞いた一瞬で、想像できた。だがしかし、そんな想像を理解し、飲み込む事はためらわれ──

「ほ……ほう。このラボを帰る場所などとは、見上げたラボメン精神だな、助手よ」

 俺は紅莉栖の言葉を意図的に湾曲させ、口にした破綻だらけの解釈に、みっともなくすがり付く。
 そんな俺に、紅莉栖は言う。

「違う。アメリカへ帰る」

 淡々と告げる紅莉栖の声が、俺のすがり付いていた物を、あっさりと粉砕した。

『……アメリカへ帰る』

 その言葉を、胸のうちで繰り返すと、頭の中が、大きく歪んでいくような錯覚を覚える。そんな自分に活を入れるかのように、独白する。

『バカか俺は。これしきの事で、なにを動揺している。初めから分かっていた事ではないか』

 そう、分かっていたのだ。
 いつか、この瞬間が訪れると言う事は、重々に承知していたのだ。そしてそれが、取るに足らない些細な問題だと言う事も、理解していたのだ。

 エンターキーを押した時に比べれば──
 病院のベットで、紅莉栖を諦めた時に比べれば──
 ラボの扉越しに、紅莉栖を拒絶してしまった時に比べれば──

 初めから予定されている紅莉栖の帰国など、大した問題ではないはずだったのだ。だと言うのに──

『あまりにも、いきなりすぎる……だろ』

 予測していたはずの、予期せぬ出来事に、心の準備は追いつかなかった。

 思わず、奥歯を噛みしめそうになる。思わず、拳を握り締めそうになる。
 しかし、そんな湧き上がる衝動を無理やり飲み込み、浮かせた背中を、無理やり壁に押し付ける。
 そして、言う。

「急な話だな」

「ごめん。もっと早く言うべきだった」

「謝る事はない。お前の帰国など、初めから想定内だ。気にするな」

 心にもない台詞を吐く。そんな俺の言葉に、しゃがんだままの紅莉栖が、微かに肩を震わせた。

「私が帰ると言っても、意外と冷静なんだな」

「想定内だと言っただろう。それに、二度と会えないわけでもあるまい。それとも何か? 仰々しく騒いで引き止めて欲しいのか?」

 できれば、そうしたい。声を振り絞って、『どこへも行くな』と、『俺の側にいろ』と叫びたい。だが、それはできない。

 紅莉栖には紅莉栖の、事情と言うものがあるのだ。

 だから、そんな本音を包み隠し、軽い口調でおどけてみせる事しか、出来なかった。

 そんな俺の姿を瞳に映し、紅莉栖は──

「それは……困るな」

 そう言って、微かな微笑みを作る。

「ママとの約束だから。今まで無理言って、滞在期間を引き延ばしてたから」

「そうだったのか?」

「そう。適当な理由を付けてね。最初は、あんたを探すための時間が欲しかったから。で、色々と思い出してからも、少しでも長くここにって……そう思って。でも、それももう終わり」

 紅莉栖は俺から視線を外すと、自分の傍らに置いてあった団扇の代役を手に取って言う。

「だって、届いたから。だから、ママとの約束も、ここでの生活も、けじめをつけないと」

 それは、紅莉栖が団扇代わりに使っていた、厚紙のようなもので──

『いや、厚紙というよりは……』

 厚紙と思っていたそれは、ただの紙というには妙に膨らんでいる部分があった。そしてよく見ると、大きく張られたシールに、英語か何かの文字がしたためられている事に気付く。

『宛名……国際便の荷物? こんな物、ラボにはなかったはず』

 そこで、厚紙というよりは、封筒に近いそれが、紅莉栖の個人的な所有物であると言う事に、今更ながらに気がついた。

「それはなんだ? 外国からの届け物かなにかか?」

 俺は、それの正体を紅莉栖に問いかける。

「そ。この前、届いた。……でも、中身はただのゴミ。可燃物と不燃物が少々かな」

「ゴミ……か」

「そ、ゴミ。でもこれね。実はサイエンス誌に無理言って送ってもらったの。まさか本当に送られてくるとは思ってなかったけど……。少し、誤算かな」

 紅莉栖は折りたたんだヒザに顔を埋め、そして『届かなければよかったのに』と、『届かなければ、まだここにいられたかもしれないのに』と、かすれる声で呟いた。

 なぜだろう。紅莉栖のその言葉が、妙に居たたまれなく思えた。

「そう言うな。死に別れるわけでもない。記憶を失うわけでもない。ただ、アメリカへ帰るだけなのだろ?」

 落ち込み始めた紅莉栖を、慰めようとでも言うのだろうか?
 俺はそんな言葉を口にしながら、しかし同時に『アメリカか……』と、その遠さに途方にくれていた。

 パイロットでもない、ビジネスマンでもない、スポーツ選手でもない、ついでに金もない。そんな俺にとって、海を越える場所が、いかに遠方なのか、想像に固くない。だが、俺は言う。

「寂しくなったら、いつでも言って来い。なにせ俺は、まゆりを救うために、地球の反対側までいった事だってあるのだ」

 できない事は、言うべきではない。しかし、今だけは──

「アメリカなんて、ご近所づきあいと大差ない。いつでも行ってやる」

 そんな思いで、ご近所づきあいなどした事もない俺が、身の程をわきまえぬ発言を呈する。
 そんな俺の言葉を聞き終えると、紅莉栖がうつむけていた顔を、微かに上げた。

「嘘でも、うれしい。……少しだけな」

 そして紅莉栖は立ち上がる。

「一度、ホテルに戻る。夜にもう一回来るから、その時に……」

「分かった。その時には約束どおり、全て話す。お前を助け出したときの、俺の主観を」

 俺の言葉に、紅莉栖が微かに頷いてみせた。そして、ゆっくりとした、まるで後ろ髪でも引かれているかのような足取りで、ラボの出口へと向かう。

 そんな紅莉栖の後姿に、俺は声をかけた。

「待て、紅莉栖」

 その言葉に、紅莉栖の歩みが止まる。それを確認した俺は、壁から背を離し、ラボの隅へと向かった。

 確か、そこに在るはずなのだ。紅莉栖に渡すべき物が、その場所に転がっているはずなのだ。

「まゆり、すまないが、少しどいてくれるか?」

 一心不乱にミシンと格闘していたまゆりに声をかける。目測では、その辺りに在るはずなのだ。

 しかし、俺の呼びかけに、まゆりは反応を示さず、ただ黙々とミシンを動かしつづけ──

「なぜ泣いている、まゆり?」

 その光景に、俺は驚く。そして俺の言葉を切欠に、まゆりの肩が大きく震えだした。

「まゆしぃは……泣いてなど、いないのです……。寂しいけど、でもクリスちゃんが自分で決めた事だから……まゆしぃが泣くわけ、ないのです……」

 俺はそんなまゆりの反論に、「そうか。ありがとな、まゆり」と返す。きっとまゆりは、泣けない誰かのために、代わりに涙を流していてくれていたのではないか──などと、取りとめもない事を考えてしまう。と──

「オカリンが探してるの、これ……かな?」

 そう言って、まゆりは俺に握った手を差し伸べた。手を開くと、そこには金属製の小さな人形。まゆりの手に、メタルウーパが転がっていた。

「まゆしぃにはよくわからないけど、でもオカリン。メタルウーパはクリスちゃんが持っていた方が、いいんだよね?」

 俺は、まゆりのその言葉に、黙って頷く。そして、そっとまゆりの手から、小さな丸い人形を掴み取ると──

「約束の証だ。持っていけ」

 そう言って、まゆりから受け取ったメタルウーパを、紅莉栖に向けて、軽く放る。

 銀色の想いが、ラボの空間に、一筋の軌跡を描いた。

「ナイスキャッチだ、助手よ」

 親指を立てた拳を、紅莉栖に向けて突き出して見せる。

「いいの……?」

「ああ。お前に持っていて欲しい」

「……格好つけすぎだ。岡部のくせに」

 紅莉栖の言葉に、思わず苦笑いが浮かぶ。

 そして紅莉栖は、まゆりに「ありがとう」と、俺に「また後で……」と言い残すと、ラボの扉から姿を消した。

 俺はそんな紅莉栖の後姿を想いながら、ミシンを前に大粒の涙を零し続けるまゆりの頭に、そっと手を乗せた。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ03
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 20:46

    3


 沈みかけた太陽を背に、黄金色に染まる秋葉原を歩く。
 引き伸ばされた自分の影を目で追いながら、俺はラジカンを後にした。

 別に、何か目的があって、この場所に来たわけではない。ただ──

『紅莉栖がラボを訪れるまでに、少しでも頭の中を整理しておきたい』

 そんな事を思い、一人で街に出ただけの話し。
 そして、どこか空虚な思考を空回りさせながら、目的地もなくフラフラと彷徨っていると、気付けばラジカンの屋上まで来ていた。ただ、それだけの事である。

 周囲の景色を視界の隅に流しながら、どこか頼りない足取りで歩み、考える。
 
 今日になって、突然、あの時の事を話せと言ってきた紅莉栖。
 説明に主観がないと言って、顔を赤く染めた紅莉栖。
 今すぐにでも聞きたいといった、紅莉栖。

 最初は、どうしてそれほどまでに急いでいるのか不思議に思った。しかし、そんな紅莉栖の見せた焦りの理由も、今ならば分かる気がする。

 帰国の前日になるまで、俺にその事を知らせなかった。そんな紅莉栖の心情を、自分勝手に思い描く。

『言い出したくても、言い出せなかった──と言ったところか』

 自意識過剰だろうか? そうなのかもしれない。だが、だったらなんだ。

 もっと早く言うべきだった──

 そう呟いて謝る紅莉栖の姿は、少なくとも俺の目には、そう映った。

 だからこそ、俺はラボへの帰途を進めながら、覚悟を決める。

『もう間も無く、紅莉栖もラボへとやってくるだろう。そこで俺は、紅莉栖に全てを話す』

 何十億もの人々と、牧瀬紅莉栖という少女一人を天秤にかけた意思。
 中鉢の凶刃から紅莉栖を救おうとして、誤って紅莉栖に危害を加えてしまった失敗。
 そんな収束を見せる世界線を前に、一度は崩れ、それでも諦め切れずに、十四年もの長い時間を執念だけで生き抜いたという、今は無い未来の俺の生き様。
 世界をだまし、過去の自分をだますために、全てを承知で紅莉栖の父親に刺された。そして不足を補うために犯した、命がけの無謀な行動。

 そんな全ての一切合財を、包み隠さずありのまま、紅莉栖に伝えるつもりだった。

 だから、自らの想いをより深く刻み込むために、もう一度強く、覚悟を決める。



 ──全てを話した後、俺は紅莉栖を引き止める──



 俺の話を聞いた紅莉栖が、どんな反応を示すのかわからない。怒るだろうか? 呆れるだろうか? 悲しむだろうか? それとも、喜ぶだろうか? 分からない。

 だが、例え紅莉栖がどんな反応を見せようとも、俺は引き止める。それは、『つもり』ではなく、『確実に』そうするという決意。

 引き止められたら困ると言って微笑んだ紅莉栖。だが、そんな彼女の笑顔を、俺は全力で否定し、その帰国を妨害する。

 紅莉栖の身を案じているであろう、彼女の家族。
 紅莉栖の帰国を待っているかもしれない、彼女の知人たち。
 紅莉栖の研究復帰を望む同僚に、紅莉栖に期待をかけている、科学つながりの有象無象。

 そんな全ての望みを断ち切って、俺は俺だけのために、紅莉栖を引き止める。引き止めて見せる。

 俺はラジカンの屋上で、その覚悟をしたのだ。

『それができるほどに、この俺は独善的なのだからな』

 まゆりに叱咤されたではないか。ダルに教えられたではないか。一週間前のラジカンで、酸欠になりながらも紅莉栖に向けて叫んだではないか。ならばこそ、こんな場面たればこそ──

『俺は岡部倫太郎として、どこまでも独善的でなければならない』

 俺は、そんな思いを胸に、『覚悟しろよ、紅莉栖』と、拳を握り締めた。





 ──その時だった。




「!?」

 大地が揺れる。
 視界が歪む。
 意識が遠のいていく。

 あまりに出し抜けで、何がおきているのか分からない。だが確かに、何かが起こり始めていた。

 最初に頭に浮かんできたのは、『酸欠』だった。

 似ているのだ。一週間前、ラジカンの屋上に飛び込んだ時に感じた、あの抗いようのない感覚に。そして、その感覚は『酸欠』と同時に、あの──

『おい……冗談だろ?』

 混乱した俺の思考は、歯車を失った機械のように、空回りを始める。そして、そんな状態でも、これが『酸欠』でないことだけは、不思議と確証が持てた。

 だからこそ、背筋が凍る。理解など、できるわけがなかった。

 だが、そんな理解できない俺など置いてきぼりにして、視界の歪みは進んでいく。そして──

「ぐぅぅぅぅ!?」

 有無を言わさない強烈な圧力に、大きな唸り声を上げて目を閉じ、地にヒザをつく。

 次の瞬間、これまで押し寄せていた何かが、まるでそれ自体が嘘だったかのように、消えていた。

『同じ……だ……』

 俺は目を開けることができず、恐怖に駆られて、鈍りきった思考を無理やり回す。

『ありえるわけがない。もう、この世界には、電話レンジ(仮)も、タイムリープマシンも存在していないのだ。だからこそ、ありえない。矛盾している。こんな事、理に適っていない』

 だがしかし、先刻感じたあの感覚に、俺はどうしようもない程の身に覚えがあった。だから、その感覚が『あれ』以外の何かであった──と言う解答を渇望する。

 ゆっくりと、閉じていたまぶたを、押し開く。視界にはいる景色を確認する。その光景に誤差を感じないか、識別する。

『特に、際立った変化は……』

 秋葉原の街はある。夕暮れにそまる街を行きかう人々。その全てを記憶しているわけではないが、しかしそれでも、目立った違いは感じられない。

 萌え文化を踏襲してきた歴史。それを感じさせる町並み。電気量販店やアニメ関連の書店にグッズ販売店、それ以外にも色々と、様々な文化が入り乱れる風景。そんな、ある種独特の町並みは、未だに健在だ。

 だが、それでも安心感は得られない。

『何か、俺の知らないところで?』

 どうしても、その恐怖心が拭えない。なにせ俺は、この感覚を切欠に、あまりにも多くの苦悩を、自分自身と大切な存在たちに──

「……!?」

 不意に恐ろしい想像が頭をもたげる。一気に全身の血が落下した。
 
「く、紅莉栖は!?」

 慌てて白衣のポケットから、愛用の携帯電話を乱暴に引き抜く。そして、手早く操作をこなし、電話を耳元へとあてがう。

 静かに鼓膜を打つ、コール音。たった数回のその呼び出し時間が、無性に永く感じられた。

『でろ、でろ!』

 早鐘のように打つ心臓に、全身から血液が噴き出しそうな感覚を覚える。そして数度の呼び出しを経て、電話がつながる。

「紅莉栖! 無事か!?」

 一も二もなく、叫ぶ。

「お、岡部? 何? 無事かって、どういう事?」

 受話器の向こうから、紅莉栖の戸惑った声が聞こえ、それに少しだけ安堵感を得る。手の内を離れていた冷静な思考が、やっと手元へ戻ってくる。

「無事……なんだな?」

「いや、別に無事だけど……」

「そうか。……紅莉栖、一つ聞きたい」

「……なに?」

「これからお前は、ラボへ来る。そして、俺の話を聞く。その予定でいいんだよな?」

「そうだけど……どうした? 何があった?」

 受話器の向こうから、微かに不安げな紅莉栖の言葉が響いた。俺はその紅莉栖の問いかけに、曖昧な返事を返す。

「いや、それならいいんだ」

「よくないだろ。何かあったんだな?」

「いや、大した事ではない。気にするな」

 俺は途轍もなく大きな嘘をつき、問い詰めようと口調を荒げる紅莉栖の追撃をかわした。

「ラボに……行ってもいいの?」

 どこか、こちら側を探るような口調で、紅莉栖の声が聞こえた。俺は平静を保ったまま、言葉を返す。

「当たり前だ。待っているぞ」

 そして、携帯を耳から離すと、電話を切った。
 俺はそのまま携帯の操作パネルをいじり、再び耳元へとあてがう。

 待つこと、しばし──

「もしもし、オカリン? どうしたの?」

 その声に、『よかった。まゆりも、無事だ』と、また一つ安堵感を重ねる。そして、

「まゆり、すまない。操作ミスだ。間違えた」

 また、嘘をつく。

「な~に~? 間違え? あ、そっか。オカリン、クリスちゃんにかけるはずだったんでしょ? 頭脳明晰のまゆしぃには、それくらいお見通しなのです」

 最後にラボで見た、大粒の涙を零すまゆりの声は、そこには無かった。いつもの能天気なまゆりの声に、少なからず息をつく。

「オカリン? あのね、クリスちゃんに、ちゃんと言ってあげてね」

 俺と紅莉栖の事を案じての事なのだろう。まゆりの言ったその言葉に、俺は『ああ、分かっている』と短く返すと、電話を切った。

 そして、考える。

 α世界線ではまゆりが、β世界線では紅莉栖が、時間の意志とも呼べるような何かに煽られ、その犠牲となった。だがしかし、今のところこの二人に、大きな変化があったようには見受けられない。

『世界線は、変わっていない?』

 変化の見えない現状。
 俺は、先刻感じた感覚が、本当にただの勘違いだったのではないかと感じ始めていた。

 どうにも消えない不安感を、ひっそりと胸の内に抱きながら、俺はラボへ向かって歩き出す。
 見慣れたはずの秋葉原の町並みが、どうしてか薄ら寒く感じられた。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ04
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 20:47
     4



 ──世界線は変わっていない。リーディングシュタイナーは発動していない──


 自らにそう言い聞かせ、湧き上がる疑念を払拭できたのは、ラボに向かって歩きながら電話をかけまくり、各人の現状を確認した後のことだった。


 ダルは自宅で、いつものようにエロゲーを楽しんでいる最中だった。

 ルカ子は男のままで、その性別を含んだ状況に、いささかも目立つ特異点は見当たらない。

 フェイリスは──まあ、秋葉原の街が消えていないので不安は無いが、それでも一応、今でも高層マンションで執事の黒木と二人暮しだという事を、確認した。

 萌郁は、神のごとき速さで、返信メールが飛んできた。その文面にも、特に異常は見当たらない。

 さすがに、未来の鈴羽だけはどうしようもなく保留にしたが、しかし、鈴羽以外の俺を含めた全員に、なんら変化はない。


 そこまでする事で、やっと自分の中に噴き出そうとする不安感に、フタをする事ができた。


 ──だと言うのに──


「どういうことだ、これは……」

 ラボへの道程で差し掛かった、家電量販店の前。そのショーウィンドー越しに見える光景が、掴んだはずの安堵感を、跡形も無く打ち砕いた。

「なぜ、こんなフザけた事に、なっている?」

 大きな一枚ガラスの向こう側。そこに見える文字。
 ショーウィンドーに並べられた、大型サイズの薄型テレビ。その画面の上端に流れる、ニュース速報を伝える一文。
 その意味に、俺は戦慄していた。



『先日、ロシアへ亡命を果たした物理学者 中鉢氏に対し、ロシア政府が正式に国籍を授与』



 そんな文面が、画面すみに踊っていた。
 そして、その内容は俺の中にある記憶と、大きく食い違っている。

 ドクター中鉢こと、牧瀬紅莉栖の父親。彼は、ロシアへの亡命をしくじり、日本へ強制送還された。

 少なくとも、俺の記憶の中ではそうなっているし、そうでなければならない。そして何より、そうなるように仕向けたのは、他でもない俺自身なのだ。

「だったら、どうしてこんな馬鹿げた事態になっている?」

 ガラスに手を突き、その奥を睨みつける。

『あれはやはり、リーディングシュタイナーだったと言うのか?』

 そんな考えが、頭の中を渦巻き始めていた。巨大な疑念がとぐろを巻く。
 そして、否定したい気持ちとは裏腹に、理性はこれが世界線の移動だと言う事を、受け入れようとしている。
 いや、本当のところは、あの感覚を感じた瞬間、それがリーディングシュタイナーだと言う事を、俺は直感していた。
 だからこその、押さえ切れない不安感だったのである。

「何がどうなっている?」

 胸中で唸り、テレビ画面を食い入るように、見つめる。

『ひょっとしたら、テレビ局の手違いだという事はないか?』

 であれば、速報に誤りがあった旨を謝罪する何かが、画面に映されるはずである。だが──

『続報は、なしか』

 しばらくの間、食い入るように画面を見つめていたものの、しかし俺の不安を拭い去ってくれるような何かが、視界に飛び込んでくる事はなく──

「……くそ」

 俺は再び、ポケットから携帯を取り出し、リダイヤル機能を利用して電話をかける。

「オカリン? 今度はなん?」

 程なく、受話器越しにスーパーハカーの声が聞こえる。

「ダル。まだパソコンの前にいるか?」

「いるけど、一体何なん?」

 俺は手短に、ダルに向けて指示を出す。

「そりゃいいけどさ。何でそんな事に興味あるん?」

「いいから、調べてくれ。たのむ」

 俺のどこか張り詰めたような声色を感じ取ったのか、一瞬間を空けて、ダルが了解の返事を返してきた。そして──

「ああ、あったお。つーか、ヤフーのトップに載ってるじゃん。あのオッサン、意外と注目されてんね。まあ、日本からの亡命とかいって、一時期騒がれて──」

「ダル。どうなんだ? 俺の情報は誤りではないのか?」

 俺は急き立てるようにして、ダルの言葉を遮った。

「たぶん、当たってるお。文面見ると、情報ソースはロシアの公式みたいだし、間違いないんとちゃう?」

「そうか、すまなかったな」

 そう言って、電話を耳元から離す。携帯の受話部分から、ダルの事情説明を求める声が聞こえていたが、構わず終話ボタンを押した。

 俺は携帯をポケットにねじ込みながら、無理やりに冷静な思考を保ちつつ、状況の把握に努める。

『やはり、世界線は移動している。だが、なぜだ? そんな事が、ありえると言うのか?』

 無論のこと、俺は何もしていない。リーディングシュタイナーの発動条件である『Dメール』など、使っていない。

『誰かが、Dメールを無断で?』

 しかし、その可能性がありえない事は、十分に承知している。

『電話レンジ(仮)は、確実に処分した』

 それは間違い無いはずだった。バラバラに分解し、粗大ゴミとして、処分した。

『誰かが、それを拾い、組み立てた?』

 アホ臭いと思った。
 組み立てて再現できるような、そんなバラし方はしていない。むしろ、バラすというよりも、基盤から徹底的に破壊したといった方が、良いくらいである。

『では、どうして? この現状に、何が考えられる……?』

 ふと、脳内に浮かび上がる、一つの可能性。

『ひょっとして、俺たちとは無関係の第三者が、偶然、電話レンジ(仮)と同じ機能を持つ何かを、発明したのか?』

 確かにその可能性は捨てきれないと思った。
 現に、世界線を移り変わるたびに、タイムマシンの開発元は大きく変化しているのだ。時には我がラボが、時にはSERNが、時にはロシアが──

 タイムマシンの開発元。そこに、統一された必然性はなかった。

 であれば、他の第三者がタイムマシン──もしくは『タイムマシンの原型』になりうる『何か』の開発に成功していたとしても、なんら不思議ではない。

 考えて見れば、その可能性がもっとも高いような気がした。

 もともと、Dメールを可能にした電話レンジ(仮)も、弱小この上ない我がラボが生み出した、偶然の産物なのだ。であれば、同じような偶然が別の場所で起きないと、誰が言えるだろう。

『つまりさっきの現象は、俺の知らない誰かが、過去改変を試みた結果で──』

 などと考えるも、しかし俺は頭を軽く振りながら、その考えすらも否定する。

『いくらなんでも、出来すぎだ。確かに、第三者が過去改変を行ったという可能性は否定できない。だが、だからといって、その影響が俺の認識範囲内であるドクター中鉢に現れるなど、あまりにも出来すぎているだろ』

 やはり、ひねり出した『第三者案』も、どうにも承服しかねた。

『だったら、何だというのだ?』

 分からない。正答の片鱗すら、垣間見えない。苛立ちをかみ殺すように吐き捨てて、口をきつく結ぶ。

 俺は、目まぐるしく動き回る思考に意識を煽られながら、再び、ラボへの帰途へたどり始める。

 残暑厳しいはずの夏の終わり。むせ返るような空気に囲まれて、俺は一人、肌寒さに身を震わせていた。



[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ05
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 20:48
     5


 重い足取りでラボにたどり着くと、程なくして携帯にメールが届く。

『ごめん。今日はいけなくなった』

 紅莉栖からのものであった。顔文字も無い。ねらー語もない。気の聞いた言い回しもない。ただ、用件だけを伝える、そっけない一文。それを目にして、何となく抱えていた不安感に拍車がかかる。

『どうした? なにか問題でもあったか?』

 短く、そう返信する。程なく、紅莉栖からの返答が送られてくる。

『うん。ちょっと人にあわなきゃいけなくなった。例の件。明日の朝でもいいかな?』

 人にあう。その文字が心に引っ掛かった。

 ──紅莉栖は誰に会うというのか?──

 その誰かとは、俺との約束を放り出してまで優先せねばならぬ人物だと言う事なのだろうか?

 依然として、頭の中に渦巻く疑問は、解決するどころか、続々とその数を増やしている。

『このタイミングで、紅莉栖が会う人物。何者だ?』

 などと考え、そして一つの考えが浮かぶ。

『中鉢がらみか?』

 考えて見れば、当然というもの。ロシア政府が紅莉栖の父親に対して、正式な国籍を与えたのだ。その事に関して、誰かに事情を聞かれていたとしても、おかしくはない。

 きっと、そういう事なのだろうと、俺は自分に言い聞かせ、紅莉栖への返信を携帯に打ち込む。

『わかった。今日はこのままラボに泊り込む。鍵は開けておくから、好きなときに来るといい』

 そこまで文面を作り、そして一瞬迷った末に、文末に『誰と会うか知らないが、気を付けろよ』と、蛇足を継ぎ足して送る。

 世界線を移動したとしても、恐らく紅莉栖に危険が迫る可能性は薄いとだろうと、俺は判断していた。であれば、余計な事を言って紅莉栖を不安にさせたくないところなのだが──

『くそ、少し参っているのか?』

 なぜか、弱気な自分が顔を出す。そんな自分が付け足した、余計な一言に、少なからず後悔。が──

『ひょっとして心配してくれてる? 安心しろ、ビビリの岡部。相手は女性だ。やきもち、かこわるい、プギャー』

 返ってきた文面が、少しだけいつもの紅莉栖らしく、微かに息をつく。

 そして俺は、携帯をテーブルに放り、ソファに腰をうずめた。

『それにしても……』

 頭の中に、自らを取り巻く状況に対する疑問が、吹き荒れる。

『リーディングシュタイナーが発動し、世界線は移動した。現に、中鉢に関わる事象に変化が現れている。だが……』


 ──変化したのは、中鉢だけなのか?──


 どうしようもない不安。押し殺す事はできなくもないが、しかし押し殺してしまってもいいのか? そうすることで、未然に防げる何かを、見逃してしまうのではないか?

 そして、世界線の移動は、これだけで済むのだろうか? もしも仮に第三者が過去改変能力を手に入れたのだとしたら、その人物の実験は、これで終わりだと言えるのか?

 幾つもの疑問が、答えの出ぬままに、頭の中をすり抜けていく。そのどれもに対し、明確な開示はなされない。そして何よりも頭をもたげる疑問。それは──



『この世界線は、この先、どうなると言うのだ?』



 しかし、やはりその疑問にも答えは出ない。

 俺は投げやりな挙動で身体をソファに沈めこみ、目を閉じる。正直、疲れていた。それなのに、少しも睡魔が襲ってくる気配は無かった。



[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ06
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 20:49

      6


 微かに響く物音に、薄っすらとまぶたを上げる。

 視界に映る光景を、寝ぼけた頭で識別していく。まだ薄暗いラボの中。もうすっかりと見慣れた風景に、ゆっくりと視線を這わせていく。と──

『む、助手ではないか……』

 これまた見慣れた後姿を視界が捕らえる。いつもの改造制服の上から、愛用の白衣をまとった、科学者然とした凛々しい立姿。
 俺はそんな紅莉栖の背中を、半開きの目で追いかけながら思う。

『何をしているのだ?』

 日の出からさして時間はたっていないのであろう。窓から差し込む日差しは弱々しい。真っ暗というほどではないにしろ、しかし、ラボ内の光源が不足している事は、明らかである。
 そんな薄暗いラボの中を、照明も点けず、紅莉栖はウロウロと歩き回っているのだ。

 少し歩いてはピタリと止まり、棚や机や乱雑に積み上げられた荷物に視線を這わせる。そして、しばらくするとまた歩き出す。

 そんな行動を繰り返していた。

 まるで、何かを探し回っているように見える紅莉栖の行動。その様を目で追う俺に、微かな疑問が生まれる。
 そして、たまに聞こえてくる『違う』とか『分からない』とか『無意味だ』といった独り言が、生まれた疑問を膨らませる。

『直接聞いた方が早いな』

 そう考え、俺は横たえていた身体をゆっくり起こす。ソファが小さな軋み声を立てた。

「何をしているのだ、助手よ?」

 白衣をまとった華奢な背中に向けて、静かに問いかける。と、紅莉栖の肩が驚いたように小さく跳ねた。

「あ……岡部、起こしちゃった?」

 慌てた様子で振り向く紅莉栖。その無理やり作った笑顔の中に、少なからず狼狽の色を感じ取る。

「どうした? ラボに来たなら、起こせばよいものを」

「あ、うん。でも、よく寝ているみたいだったから、悪いかと思って……」

 紅莉栖らしからぬ、どことなく歯切れの悪さを感じさせる物言い。それはまるで、何かやましい事でもあるような、そんな口ぶりに──聞こえなくもない。

「何か、探していたのか?」

「いや、そういう分けでは……」

 単刀直入に問うた俺の言葉に、紅莉栖が瞳をブレさせながら言葉を濁す。

「相変わらず、嘘がヘタだな。何か欲しいものがあるなら、直接言えばよかろう」

「別に欲しい物があるとか……」

 やはり、歯切れが悪い。明らかに、何かを隠していそうではある。だが、あえてその事に対して、追求はしようとは思わなかった。
 下手に追求なぞした日には、頑固な紅莉栖を相手に、無意味な押し問答に発展しかねない。

『正直、それに時間を割いている場面ではないからな』

 そんな事を考えながら、俺は昨日、ラジカンの屋上で固めた決意を呼び起こす。

『これから俺は、紅莉栖に全てを伝える。その上で、紅莉栖の帰国を阻止せねばならん』

 それこそが、現状における、最重要項目であった。

 再発したリーディングシュタイナーの事。
 ロシア国籍を取得した、中鉢の事。
 得体の知れない世界線の行く末。

 頭を席撒く疑問は、腐るほどある。だがしかし、今、俺にとって最も優先されるべきは、俺の元から離れていこうとしている、牧瀬紅莉栖の事なのだ。

『それ以外の事は、とりあえず後回しだ』

 頭の中で燻る幾つもの疑念を振り払い、俺はソファから立ち上がる。

「よく来たな紅莉栖。では、約束どおり──」

 俺の言いかけた言葉の先を察知したのか、紅莉栖が開いた手のひらを俺に突き出し、続けるはずの言葉に待ったをかけた。

「ごめん、岡部。その話はまた今度」

 紅莉栖の言葉に、俺の眉が微かに上がる。

「また今度ってお前……今日、帰ると言っていたではないか?」

「ええと、その件に関してなんだけど……とりあえず、保留になった」

 その言葉の意味に戸惑う。

「保留?」

「そう、保留。まだしばらくは、帰らない。だから、その話はまた改めてと思うんだが……ダメか?」

「いや、別にダメという事はないが……」

 状況把握が追いつかず、俺の言葉まで歯切れが悪くなる。

 母親との約束だからと、けじめをつけなければと、引き止められたら困ると、そう言った昨日の紅莉栖。俺はその言葉に、強い決意を感じていた。
 だからこそ、それを引きとめようとする俺も、強い決意で紅莉栖に立ち向かおうとしていた。
 だというのに──

『紅莉栖に、何があった?』

 わずか一日の間に、あまりにも大きく反転した、紅莉栖の決意。それが何を示しているのか、俺には想像もつかなかった。

 とは言うものの、紅莉栖が今しばらく、日本に留まるという事実に、少しばかり心が浮つく。

「では、後どれくらい日本にいられるんだ?」

「どうだろう。ハッキリとは分からないけど、多分、十日くらいは……」

『多分……?』

 やはり、どこかいつもの紅莉栖らしくない。短い会話のやり取りだが、何となくそう感じ、浮き上がりかけていた心が、再び地に足を付ける。

『紅莉栖は、多分などという中途半端な表現を、あまり好まないと思っていたが』

 とは言え、紅莉栖の口からそう言った、曖昧さの残る言い回しを聞いた事が無いわけでもなく──

『単に、本当に日程が決まっていないだけ……だよな?』

 などと思うもものの──

 薄暗いラボの中を、明かりも付けずに何かを探していた紅莉栖。
 俺の声に驚いて振り向いた、狼狽の色を隠しきれていない紅莉栖。
 
 目の当たりにした、そんな紅莉栖の所作が、どうにも気に掛かった。

「どうした岡部。急に黙りこんだりして? さては、私の帰国が延びたことが、よほど嬉しいんだな。図星だろ?」

 どこかからかう様な紅莉栖の言葉。それに俺は、気も疎空に返す。

「ああ、そうだな」

「えっと……その解答は、その、ストレートすぎだろ。へ、変な風に勘違いしてしまう……」

 紅莉栖の言葉が耳を通り抜けていくが、いまいち頭に入ってこない。だがそれでも、とりあえず相槌だけは忘れない。

「ああ、別にそれで構わない」

「ふぇ? 岡部、それって、どういう……」

 昨日までの言い分をひるがえし、急遽、帰国を取りやめた紅莉栖。
 無理やりにでも推測を立てるのならば、紅莉栖の心変わりの原因。それは恐らく、昨夜、紅莉栖が俺との約束を反故にしてまで──

『ああ、そう言えば……』

 そこまで考えて、ふと思いだす。

『そう言えば、中鉢の一件があったな。紅莉栖の妙な言動は、それが絡んでいるのか?』

 そんな大事に思い至らないとは、どうやらまだ少しばかり、寝ぼけているらしい。

 俺は動きの鈍い頭脳を覚醒させようと、軽く頭を振りながら紅莉栖に──

「どうした、助手よ? なぜ赤くなっている?」

「あ、あんたが変な事を……」

「まあいい。それよりも、お前の滞在延期は、ひょっとして中鉢教授がらみなのか?」

「いくないだろ! ……って、パパ? パパがなに?」

 中鉢の名を出すと、紅莉栖がキョトンとした目を見せる。

「いやお前、知らないわけないだろ? 中鉢教授に、ロシア国籍が授与された話……」

「何それ、うそ……。その話は、聞いてない」

「聞いてないって、ニュースでも取り上げられて……って、本当に知らないのか?」

「ええと、昨日からテレビもネットも見てないから……」

 口ごもる紅莉栖。そんな彼女の反応に、俺の寝ぼけた頭の中が、盛大に混ぜっ返される。 

『紅莉栖の奇妙な言動は、中鉢とは別件?』

 ようやく見えかけた一つの解答のはずが、どうやらまったくのお門違いだったらしい。

「パパが……ロシア国籍……」

 微かに、紅莉栖の顔色が青ざめたように見えた。その様子から、本当に初耳だった事が読み取れる。
 微かに唇を震わせている紅莉栖。やはり、あんな父親でも、他国の人間となってしまうと、それなりに動揺するもののようだ。
 俺はそんな紅莉栖を見かねたように──

「仕方ない。ダルの話だと、ヤフーのトップに載っていたらしいから、まだ過去記事で見られるだろ」

 そう言うと、紅莉栖の脇をすり抜けて、パソコンの前へと向かう。と──

「……いい」

 紅莉栖が小さな呟きと共に、俺の腕を掴んで引き止めた。

「いいってお前、父親の……」

「岡部、いいから。私、今……それどころじゃないから……」


『──それどころじゃない?』


 その言葉に、俺の混乱が激しさを増す。

 自分の父親が、なにやらとんでもない事になっている状況を、『それどころ』と言い切った紅莉栖。思わず耳を疑わずにはいられない。

「いや、しかし……」

「私は……大丈夫だから」

「紅莉栖、お前、何を言って──」

 俺は出かかった言葉を飲み下す。
 俺の腕を掴んだ華奢な手の振るえが、うつむけた瞳の色が、あまりにも痛々しく俺の目に映る。
 とてもではないが、『大丈夫』といった紅莉栖の言葉に、信憑性の欠片も見つけることができなかった。


 底の見えない不安を感じる。


「おい、何を考えてる、紅莉栖」

 俺は、紅莉栖の両肩を強く掴むと、正面から紅莉栖の顔を見据えた。

「お前、何か変な事に巻き込まれているんじゃないだろうな?」

 真っ直ぐと紅莉栖を見る。微かな表情の変化も見落とすまいと、瞬きもせずに視線を向ける。

 そんな俺を前に、紅莉栖は視線をそら──

「岡部。一つだけ、教えてほしい」

 逸らしかかった視線が戻り、紅莉栖の瞳に俺の表情が映り込んだ。

 その、強い意志を感じさせる瞳の光に、そこに映った、俺自身の悲壮感溢れる顔に、鋭く息を飲む。

「……質問しているのは、俺だ」

「ダメ。その質問には、答えられない。だけど、答えて欲しい。お願いだから」

 そこには、これまでの歯切れの悪い紅莉栖の姿は、微塵も見当たらなかった。代わりに、いつも通り──いや、いつも以上に強い光を宿した、紅莉栖の目があった。

 俺は、紅莉栖から発せられた、有無を言わさぬ強い何かに、二の句が告げられなくなる。

「岡部、あの時……昨日、あんたから電話があった少し前……」


 ──世界線が動いたんだよね?──


 その紅莉栖の言葉に、俺は額然とする。

 何度も言うが、紅莉栖はリーディングシュタイナーを備えていない。だから、世界線の移動を知覚する事は不可能なのだ。だというのに──

「お前、どうしてそれを……?」

 ありえない言葉を聞いた。その事に、いささか頭が混乱をきたす。そんな俺に、紅莉栖が身を寄せるように身体を近づけ、声を振り絞るようにして言う。

「そう、やっぱり」

 紅莉栖は俺の動揺を解答と捕らえ、一度大きく顔を伏せる。そして、肩を震わせながら顔を上げ──

『な……涙……?』

 紅莉栖は泣いていた。端正な顔をクシャクシャに歪め、それでも口元に笑顔を貼り付け、泣きながら微笑んでいた。

「良かった……岡部、良かった……ほんとに……ほんとに……」


 ──世界線が動いていて良かった──


 紅莉栖の嗚咽に混じる言葉。俺はそれを聞きながら、その言葉の意味を理解する事を、放棄した。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ07
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 20:50
      7


 ──世界線が動いていて良かった──

 ありえないはずの、世界線の移動。それが現実に起きている事を知った、紅莉栖の言葉。

 あれから一週間がたった。しかし、未だに俺の中では、その言葉の解釈は定まることはなく──

『一体、どういう意味だったのだ?』

 この七日間の間に、同じ問いかけを何度も繰り返し、頭の中でループさせ続けている。だが、やはり納得の行く答えは出てこなかった。

 唐突に再発したリーディングシュタイナー。
 それに伴う、中鉢を取り巻く状況の変化。
 紅莉栖の見せた、一連の不可解な言動。
 そして、世界線の移動に、紅莉栖が気付いていたという、事実。

 うず高く山積みされた疑問の数々。しかし、そのどれにも、何ら進展はなく──

『何がどうなているんだ、紅莉栖?』

 俺は、この一週間、一度もラボに顔を出していない助手の存在に、想いを向ける。

 あの後──
 泣きながら笑うなどという、器用な芸当をしてみせた紅莉栖は、静止する俺を振り切るようにして、ラボから出て行った。

 当然、俺は紅莉栖に対して、状況の説明を求めた。それは何よりも、紅莉栖の身を案じての事だった。だが、そんな俺の言葉に、紅莉栖が返事を返す事はなく──

『時間が欲しい。せめて一週間。一週間だけ待って……』

 ただ、それだけを言い残し、俺の前から姿を消した。

 その後は、電話をしてもつながらず、留守電にメッセージを残しても、折り返しの一つもない。
 
『それどころか……』

 繰り返し発信した事を嫌悪されてしまったのか、音信不通三日目にして、とうとう着信拒否を告げる応答メッセージなんてものを、聞かされてしまった。

『これではまるで、粘着系変質者扱いではないか』

 などと思いながら、俺は携帯を開き、操作パネルをいじる。画面に映し出される、一通のメール。もう何度見返したか分からない、その文面に目を走らせる。


 ──私を信じて、待て──


 唯一、このメールだけが、一週間の間にあった、紅莉栖サイドからのアクションだった。

『信じろだと? 今さら、俺が信じていないとでも? 馬鹿馬鹿しい。あいつだって、それくらい分かっているはずだろうに』


 ──これ以上、何を信じろと言うのだ──


 やはり、積み上げられた疑問の山は、どうにも氷解する気配はない。


 そして今日まで、俺は俺なりに、色々な事を考えた。思いつく限りの推測を立てた。しかし──

『くそ。俺の頭は、どしてこうも……』

 わかった事と言えば、精々、リーディングシュタイナーの再発と世界線の移動が事実であり、そしてこの二つの事象に、紅莉栖が何らかの形で、関わっているであろう──という、そんな程度の憶測でしかなかった。

 自ら納得の行く答えが出ない。そんな不甲斐ない自分に、辟易とする。

 そして、今日。紅莉栖の言った、約束の一週間が過ぎた。

『来るのか、紅莉栖? ここへ戻ってくるのか?』

 俺はソファに腰掛けたまま、脚を激しく揺すり続けていた。

「何かオカリン、また機嫌悪くね? 前もそんなん、あったよね? 何か知ってる、まゆ氏?」

 パソコン前を陣取っているダルの、ひそひそ声が聞こえた。

「それがね~、オカリン何も教えてくれないのです。また前みたいに、クリスちゃんとケンカでもしたのかな~」

 ダルに返す、まゆりの声が聞こえた。俺は言う。

「心配するな。前の時とは違う」

 そう、扉越しに紅莉栖を拒否した、あの時とは違う。

 確かに、イラついていないと言えば、嘘になるだろう。だがしかし、このイラつきは、あの時のような、ふざけた独善性に支配されての事ではない。
 言うなれば、何か起きているのに、それを把握できない。そんな吹き上がりそうになる不安感を押さえ込むための対抗策であった。

 だから、あの時のように、まゆりやダルを遠ざけたりはしない。それどころか──

『もし、紅莉栖の抱える問題が明らかになれば、全力でその解決を目指す。必要ならば、ダルやまゆりにも、助けを求める』

 そう、決めていた。

 ──何が何でも、紅莉栖を助ける──

 そう。これは、ラジカンに向かって秋葉原の街を全力で駆け抜けていた時と、同じ思い。『何が何でも、紅莉栖をラボメンへ、引き戻す』そう誓った時と、同じ想い。

 だから、もしも事態の収束に、ダルの卓越した技術が必要ならば──
 もしも、まゆりのツルの一声に、可能性があるなら──

 俺は迷わず、この二人に全てを打ち明け、助力を仰ぐ。その上で、持てるだけの総合力を駆使し、事態の解決に望むつもりであった。
 そして、この二人は、きっと俺の想いに答えてくれる。

 そう、信じていた。

『だから早く来い、紅莉栖。一人の力など知れているんだ。お前だって、その事は十重に承知している──』

 何の前触れもなく、ラボの扉が開いた。薄っぺらい玄関扉がゆっくりと動く。

 小さく流れる、金属の擦れあう音。それを合図にしたかのように、この場にいた全員の視線が、玄関口へと集まった。

「ハロー」

 ラボに響いたのは、暢気な口調の短い挨拶。俺はその声の主を見て、毒気を抜かれる。予想とやや違う登場姿に、思わずかける言葉を見失う。

「クリスちゃん!」

 黙りこんだ俺とは対照的に、まゆりが大きな声を出し、紅莉栖へと駆け寄った。

「よかったよクリスちゃん! 帰るの伸ばしたって聞いたのに、ちっとも来てくれないんだもん! だからクリスちゃんは、もうラボが嫌になっちゃったのかと思って、まゆしぃはとっても悲しかったのです!」

 飛びつかんばかりの、まゆりの勢い。そんなまゆりの愛情表現に、紅莉栖は優しい答えを返す。

「ごめんね、まゆり。このところ忙しくて、時間が無かったの」

「そうだったんだぁ~。さすがクリスちゃん。人気者だねぇ」

 どこか的を外れたまゆりの言葉。それを聞いた紅莉栖は、微かに微笑みを浮かべる。

「そんな良いものじゃねいけどね。こっちはどう? 変わりはなかった?」

 紅莉栖の問いかけに、ダルがイスを回して向き直なおる。

「変わりも何も、いつも通りっしょ。まあ、強いて上げるなら、オカリンの様子が変だって事くらいだお」

「なるほど、変わりないみたいで安心したわ。岡部の様子が変なのは、テンプレだしね」

 そんな紅莉栖の言葉を合図にしたように、まゆりとダルの表情にも、小さな笑顔が浮かぶ。

 それは、あまりにも普段どおりの光景。一糸乱れぬ平和な日常。俺にとっては、想定外の景色。

『……どういうつもりだ?』

 和やかな空気に包まれる、三人の輪。それを外から眺めながら、俺は一人、押さえ込めなくなってきた不安を、心に募らせる。

『紅莉栖、何を隠している?』

 明るく振舞っている、つもりなのだろう。平静を装っている、つもりなのだろう。
 だが、紅莉栖の呟く言葉の端々に、紅莉栖の見せる挙動の細部に、見落としてしまいそうなほどに小さく覗く、動揺。
 俺にはそれが、ハッキリと見て取れる。明確に感じ取れる。

 まゆりは気付いていない。ダルも気付いていない。当然だ。俺たちの過ごしてきた時間は、同じであって、同じではないのだ。

 何度も何度も、同じ時間を繰り返してきた。気の遠くなるほどに長い時間を、歩いてきた。
 そんな俺の目に映るのは、いつも通りを装おうとしている、いつもと違う紅莉栖の姿。

 俺はソファから立ち上がり、ゆっくりと紅莉栖の元へ向かい──

「紅莉栖」

 ラボに来てから、まだ一度も俺に目を向けていない、天才科学者の名を呼ぶ。そして、事の次第を問いただそうと、口を開く。

「お前、いったいどういう──」

「待て」

 紅莉栖は俺の言葉を遮るように、手のひらを俺に向けて突き出す。そして──

「後で話すから」

 聞こえるか聞こえないか。ギリギリの小声で、そう言った。

 消え入りそうなほどにか細い音色。その声を耳にして、俺は黙って頷くしかなかった。



[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ08
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 20:51
    8


 ラボの扉が、静かに閉じられる。
 まゆりが帰り際に言った、明日を疑わない別れ文句が、耳の奥に残っていた。

 玄関前で、まゆりの帰宅を見送っていた紅莉栖。毅然とした態度で立つ。その後姿を視界の中心に据えて、俺は──

『いよいよか……』

 と、腹をくくる。

 ダルが帰り、まゆりが帰り、今、ラボに残されているのは、俺と紅莉栖の二人。
 おそらくここからが、紅莉栖の言った、『後で話す』の『後で』の始まり。
 
 紅莉栖の口から、どんな話が飛び出すか、分からない。だが、それがどんな内容だろうとも──

「紅莉栖!?」

 俺の視界の中で、紅莉栖が崩れ落ちるようにして、床に腰をついた。突然の事に、俺はソファから飛び出し、紅莉栖に駆け寄る。

「大丈夫。大丈夫だから」

 慌てた俺を、腰を床にぺたりと貼り付けたままの紅莉栖が静止した。

「大丈夫って、お前……」

「大丈夫だと、言っているだろ」

 俺の心配をよそに、紅莉栖はよろよろと立ち上がると、ふらつく足取りで、今まで俺の座っていたソファに向けて、歩き出す。

「そんなにフラフラで、何が大丈夫だ」

 吐き捨てるように言い、俺は紅莉栖の身体を支えようと、手を──

「触るな!」

 無理やり振り絞るような一喝に、伸ばした手を引っ込める。

「今は……まだ、触らないで……」

 そう呟いた紅莉栖は、両足をよろめかせながら俺の横を抜け、自力でソファまでたどり着いて腰を降ろす。すとんと身体が沈んだ瞬間、赤味がかった長い髪が、フワリと舞った。

 俺はテーブルを挟んで紅莉栖の向かい側に立ち、じっと彼女の様子に、目を向ける。

 顔をうつむけてうな垂れた姿。ヒザの上で組んだ両手が微かに震えている。そんな目の前の紅莉栖が、どうにもいたたまれず──

「体調が悪いなら、話は後日改めてでも、構わないが?」

 そんな提案を口にした。

「それはダメ。もう、時間が無いから」

 俺の言葉に、しかし紅莉栖はうつむいたままで、首を振る。

「岡部。話す前に、ひとつだけ約束してほしい」

「約束?」

 紅莉栖から突きつけられた、唐突な提案。俺は、意味が分からず、首をかしげる。

「別に、お前の話を馬鹿にしたりとか、疑ったりとか、そう言うつもりはないのだが?」

「ううん、そうじゃない。あんたが私の話を信じる事は、分かってる。そうじゃなくて──」


 ──私の話を聞いても、変な気を起こさないで欲しい──


 紅莉栖は声を大きく震わせて、そう口にした。
 そして、またしても俺には、その意味が理解できなかった。

「言っている事が分からんのだが」

「約束して。絶対に、馬鹿な考えはしないって……約束して」

「いやだから、考えるも何も、まだ何も聞いていない──」



「お願い! 約束して!!!」



 顔をうつむけた紅莉栖の声。それは悲鳴にも似た響きを持って、ラボの中を振るわせる。

 その、切羽つまった気迫に気圧されるように、俺は戸惑いつつも頷いた。

「わ、わかった。約束をすれば、いいのだな?」

 その俺の言葉に、紅莉栖の声が、少しだけ落ち着きを取り戻す。

「絶対……だぞ」

「しつこい。約束すると言ったんだ。この狂気のマッドサイエンティストに、二言など無い」

 少しでも、紅莉栖を落ち着かせる事が出来ればと、俺は大きく胸を張る。その俺の態度に、紅莉栖は少しだけ頭を持ち上げた。しかし、まだ紅莉栖の表情は、俺の視界に入らない。

 そして流れる、長い沈黙。俺は黙って、紅莉栖が話し出すのを待つ。

 やがて、紅莉栖ははっきりとした口調で──


「あんたは、二日後に、死ぬ」


 そんな言葉を口にした。

『そうか。俺は死ぬのか』

 そう思い、

「なんだって!?」

 とりあえず、驚いてみせる。そして、驚きの感情以上に、冷静な思考を持って、想いをめぐらせる。

 不思議だと思った。自分の冷静さが、少しばかり信じられなかった。だがそれでも、どういうわけか、俺は冷静でしか、ありえなかった。

 俺が死ぬといった、紅莉栖の言葉。それを信じていないわけではない。きっとその言葉は、本当なのだろう。その言葉どおり、二日後に俺は死ぬのだろう。だがそれでも冷静でいられた。それは──

『これで色々と、納得がいった』

 心のどこかに、そんな想いが生まれていたから──なのかもしれない。

 紅莉栖の告げた、俺の死亡宣告。この意味を持って、俺の中に渦巻いていた疑問のいくつかが、氷解を始める。

 世界線の移動を知っていた紅莉栖。
 唐突に、アメリカへの帰国を延ばした紅莉栖。
 時間が欲しいといった紅莉栖。
 信じて待てと伝えた紅莉栖。
 力なく崩れ落ちた、満身創痍の紅莉栖。

 それらの理由が、白日の下に晒されたような気がした。

 俺は、うつむけられた紅莉栖の頭に、そっと手を乗せる。先ほどのように、接触拒否はされなかった。

「何が、ムチャしすぎだ。お前だって、俺と大差ないではないか」

 何時だったか、紅莉栖に言われた台詞を、そのまま送り返してやった。
 俺の言葉に、紅莉栖が身体を小さく揺らす。

「岡部ほどじゃ……ない」

「似たようなものだろ」

 そう言い切り、俺は紅莉栖の頭頂部を、乱暴な手付きでかき回す。 

「お、おい、やめろ岡部……」

 うつむいたままで吐き出される、小さな非難。俺はそれを無視して、綺麗な髪をかき混ぜ続ける。そして、言う。

「しかしだ、助手よ。どうして今まで黙っていた? 状況を見る限り、お前がそれを知ったのは、随分と前の事ではないのか? それを、後二日という土壇場になるまで黙秘するとは、どういうつもりだ?」

「それは色々と、わけが……というか、やめてくれ。髪が……」

「やめん。俺はいささかムカついているのでな。甘んじて罰を受けるべきなのではないか、クリスティ-ナよ」

「うう……」

 紅莉栖は観念したかのように、俺にされるがままになる。俺は容赦なく髪をかき混ぜる。
 艶やかな赤い髪が指先に軽く絡まってゆく。

「お、岡部……。私の話を聞いて、どうしてそんなに──」

「冷静なのか、か?」

 紅莉栖の言葉を先読みし、台詞を奪う。紅莉栖が頭を揺さぶられながら、頷いた。だから俺は、答えを返す。

「さあな、俺にもよく分からん。だが逆に、何と言うか、スッキリしたくらいの心境だ。ああ、無論ムカついている事は、間違いないぞ。だからワシャワシャしているのだからな」

「むう……」

 俺は、俺の手に身をゆだねる紅莉栖を見つめながら、開いている手を口元へあてがい、考える。

「さて、残された時間は、後二日か。どうしたものやら……」

 俺の呟いたその言葉に、紅莉栖がいきなり顔を上げた。

「おい、紅莉栖!?」

 優しく絡めていただけの髪が、紅莉栖の唐突な動きで、強く指に巻きつく。髪が引き抜けそうになり、俺は慌てて、紅莉栖の動きに腕を合わせる。

「お前、急に動いたら……!」

 目の前に見た紅莉栖の瞳に、言葉を飲み込む。今日、初めて交差した視線。そこに見えた色に驚く。

「岡部! 約束しただろ!」

 必死。その一言。ただ、それだけを瞳に宿した紅莉栖の言葉。

「変な気は起こさないって! 馬鹿な考えはしないって、約束しただろ!」

「まてまてまて、何を言っているのか分からん!」

「自己犠牲なんて、あんたらしくない! マッドサイエンティストなら、自分が犠牲になる様な選択はしないだろ!?」

「だから、何を言っているのだ!? どうして俺が自己犠牲なんて事にって、立ち上がるな! 髪が抜けるぞ!」

「痛いだろ!」

「当たり前だ! 馬鹿なのか、お前は!?」

「馬鹿はあんただ! 自己犠牲なんて格好つけて……」

「だーかーらー! どうして俺が犠牲になると、断定されているのだ!?」

「なら、そんなつもりはないっていうの!?」

「当たり前だろうが!」

「じゃあ、残りの二日間で、なにするつもりなのよ!?」

「なにもかにも、あるか! 是が非でも生き残る方法を探すに、決まっているだろう!」

 そこで紅莉栖が動きを止める。必死だった目をキョトンとさせて、俺の顔をまじまじと見る。

「……そうなの?」

「無論だ。俺は、世界が崩壊しても、一人だけ生き残ってやる所存だ。文句あるか?」

「だって、あんた。自分が死ぬだけで、他の人が無事だったらいいとか、そういう事を考えて……」

「何だそれは。どこの聖人君子だ? ぜひ紹介しろ。このマッドサイエンティストが血祭りに上げてやるから」

「う……そ……」

「嘘じゃない。本気だ。と言うか、普通ならそうだろ?」

 俺の眉間が、ヒクヒクと動く。紅莉栖の目尻が、ピクピクと痙攣する。

「ごめん、岡部。ちょっとタイム」

 紅莉栖は早口でそう言うと、上着のポケットから携帯を取り出し、誰かへ電話をかける。

『こ、こいつは、この状況で、誰へ──あ』

 ふと、紅莉栖のかけた電話の宛先に、何となく思い当たる。

『まさか……あいつ……なのか?』

 俺の脳裏に、一人の少女の姿が浮かび上がる。出会えるはずの無い、自然の節理から外れているはずの少女。

『み……見落としていた。当然と言えば、当然だ。どうしてその事に、思いいたらなかった、俺よ。情けないにも程が──』


「私よ! 今すぐ、ラボに来て、説明しなさい!」


 俺の中に浮かび始めていた、自分への軽蔑の念を、紅莉栖の怒声が吹き飛ばした。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ09
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 20:52
     9



「いやぁ、まさかそう言う流れになってるとはね。失敗失敗。えへへ……」

「えへへじゃないでしょうが!」

 自らへと向けられた険悪な視線を交わすつもりだったのだろう。しかし、そんな目論見は、紅莉栖の叱責で吹き飛ばされる。

「いやぁ、でも意外だったなぁ。自分だけは生き残るなんて、さすがは岡部倫太郎だね。思わず尊敬しちゃうよ、あたしは」

「ごまかすな! ただでさえ少ない時間を、何を考えているの!?」

 紅莉栖は勢いに任せて、テーブルを叩く。大きな衝撃音が、ラボにを揺らした。

 ソファに腰掛けた紅莉栖と、テーブルを挟んで正座している、一人の少女。怒る者と怒られる者。そんな奇妙な光景を、俺は少し離れた場所から眺めていた。

 ──阿万音 鈴羽──

 まさか、またしてもこの少女と再会する破目になるとは、想像していなかった。いや──

『状況から、推測くらいはできたかもしれんが、完全に見落としていた』

 世界線の移動。中鉢のロシア亡命の成功。とくれば──

『中鉢論文は、ロシアの手に渡っているわけだから、世界大戦が起きたりすれば、鈴羽リターンズも、十分に起こり得るというワケか』

 俺は苦虫を噛み潰したように、顔をしかめる。

「さあ、阿万音さん。説明してもらおうかしら? どうして岡部が、自己犠牲精神に目覚めるとか、嘘ついたわけ? そのせいで、何の進展もできないまま、残り二日に!」

 再び、紅莉栖がテーブルを叩く。

「く……紅莉栖おばさん、暴力は反対だよ……」

「おばさんて言うな! あなたの方が年上でしょ!」

 そのやり取りに、思わず口を挟んでしまう。

「なに? そうなのか、鈴羽?」

「んっと、一応そうだけど……」

 正直、驚き、そして『そう言えば』と思いだす。

 α世界線の、とっつきやすさの塊のような存在だった『阿万音鈴羽』と、β世界線で突然現れた、鬼軍曹顔負けの『阿万音鈴羽』。世界線が変わる事で、鈴羽のキャラクター性も変化していた。
 だから、俺が死ぬらしい世界線でも、鈴羽の何かが変化していても、おかしくは無いのだが──

「お前、今いくつなんだ?」

「え? 二十歳だよ」

 α世界線の鈴羽は、確か十八歳。β世界線は、ちょっと分からないが、しかし──

『二歳の誤差か。年齢設定に変化が現れる事も、あるのだな』

 思わず一人、静かに頷く。

「岡部。今はそんな事を話してる場合じゃないでしょ?」

 紅莉栖に優しく睨みつけられ、俺は口を閉じる。

「で、阿万音さん。もう一度聞くけど、どうして岡部が自己犠牲で死を選ぶなんて嘘、ついたわけ?」

「だから紅莉栖おば……紅莉栖さん。嘘じゃないんだってば。あたしが見てきた過去では、本当に、そうなってたんだから。むしろ、あたしとしては、この数日中に、岡部倫太郎の中で、意識改革が起こったと考えるべきだと思うんだよね」

『意識改革?』

「それは、どういう言い分け──」

 依然として収まりを見せない紅莉栖の言葉を、俺が制止した。

「鈴羽。俺はまだ、いまいち状況を飲み込めていない。とりあえず、お前の知っている情報を話せ。それと、俺の置かれている状況と、過去へ来た目的もな」

 俺が真剣な目つきでそう告げると、紅莉栖は渋々言葉を収め、鈴羽が淡々とした口調で、話し始める。

「私がこの時代に来たのは、未来──まあ、私にとっては現在なんだけど、そこで紅莉栖おばさんに頼まれたからなんだ」

「紅莉栖に頼まれたから? 第三次世界大戦を阻止するためではないのか?」

「第三次世界大戦? なにそれ?」

 鈴羽の見せた反応に、驚く。

「だってお前、中鉢論文がロシアへ渡った事を切欠に、各国のタイムマシン開発がだな……」

「ああ、そう言えば昔、紅莉栖おばさんから、そんな話聞いた事あるなぁ」

 鈴羽の記憶にある、紅莉栖の話。
 その中では、確かに中鉢論文を引き金にして、複数の主要大国等が、競い合うようにしてタイムマシン開発を始めた──という歴史は存在するらしい。

「でも、結局どこも開発には成功しなかったはずだよ」

「……そう、なのか?」

「うん。だって、そうなるように仕向けたって、紅莉栖おばさん自身が言ってたから」

 鈴羽が言うには、各国でにわかに熱を帯びてきたきたタイムマシン開発競争を、紅莉栖おばさんが、力技で捻じ伏せたとの事。

 紅莉栖は論文が持ち去られた後、その詳細な内容を、匿名で全世界に向けて公表したらしい。そして、その論文に世界中の科学者が身を乗り出した頃を見計らい──

「その論文を、矛盾だらけの駄作として徹底的に論破して見せたって、言ってた」

 それを期に、一世を風びしかけたタイムマシン開発も、瞬く間に鎮火の一途をたどったとの事。

「書いた本人なんだから、理論の粗だって、誰よりも分かってるってさ。だから、そこにつけ込んで、相反する理論をでっち上げて、さも本当のように見せ付けた──だったかな?」

 鈴羽の話に、なるほどと思う。

 持ち去られた論文の悪用を、よしとしない紅莉栖。その毅然とした真っ当な科学者っぷりには、頭が下がるばかりだ。

『そにしても……』

 どうやら、この鈴羽の未来もまた、俺の知っている情報の範疇外に位置しているようであった。

「では鈴羽よ。お前の乗ってきたタイムマシンは、いったい誰が……?」

 俺の疑問に対し、鈴羽は言葉には出さず、指を差す。その指先に沿って視線を向けると、そこには右手を真っ直ぐと上にあげた、紅莉栖の姿。

「どうやら作ったのは、私らしいんだ。いいぞ、笑え」

 いや、笑えん。
 世界中を煙に巻き、自分だけがタイムマシンをせっせと作る。ある意味、俺以上にマッドなサイエンティストといえよう。なんというか、果てしなく頭の下がる思いだ。

「メインで指揮を取ってたのは、紅莉栖おばさんだったけど、でも正確には、紅莉栖おばさんと父さんの、共同開発だよ」

「それで、タイムマシンを作った私は、まあその、あれだ。とりあえず実験もかねてだな。昔死んだ、岡部を助けてやろうかなどと考えたらしく……」

「事実の湾曲はだめだよ、紅莉栖おばさん。それをしたら、解決できるものも、解決できなくなるから」

「事実の湾曲?」

「そ。紅莉栖おばさんは、君を助けるためだけに、何十年もかけて──」

「わああああああ!!!」

 紅莉栖が大声を上げて、鈴羽の言葉に邪魔を入れる。が、何となくすでに状況は分かってしまっているのだが──

『にしても、俺を助けるために、タイムマシンを? 何だかどこかで聞いた事ある話じゃないか?』

 などと、β世界線で見聞きした、未来の自分の姿を思いだす。

「父さん、言ってたよ。紅莉栖おばさんは凄いって。あの執念は真似できないって。あれこそ愛のなせる──」

「ぶあああああああ!!!」

「いや紅莉栖。もうなんか、伝わりきってるぞ」

「うぐは!?」

 俺の一言に、紅莉栖が手狭なソファの上をのた打ち回る。器用な奴である。

「とまあ、あたしがこの時代にやってきた理由は、そういう事になるわけ」

「なるほどな。では次は……そうだな。俺の置かれている状況だ。率直に聞く。俺には生き残れる可能性があるのか?」

 俺の真剣な問いかけに、鈴羽がためらいがちな目を見せる。

「たぶん……可能性はあると思う。確率は凄く低いだろうけど。世界線が変わっているのだとしたら、それを戻せれば、生き残る事は不可能じゃない」

『世界線が、変わっている……』

 その言葉に、ふと小さな疑問が浮かぶ。

「そう言えば、紅莉栖?」

「な……なんでございましょか……」

 ソファに突っ伏したまま、紅莉栖が反応を示した。

「お前、一週間前に、俺に『世界線は変わったのか?』って聞いてきたよな? あれって、鈴羽に聞けば、すぐに分かったんじゃ──」

 そこまで言いかけて、言葉を押し込める。

『いや、そうじゃない。世界線の移動を感知できるのは、あくまでもリーディングシュタイナーを備えた、俺だけのはず。いくら未来の紅莉栖や鈴羽だろうとも、先日の世界線の移動に関しては、何も知らないはずだ』

 ならば、どうして紅莉栖は俺に、『世界線は変わったのか?』と問いかけたのか? あの問いかけは、まるで世界線移動が起きている事を前提にしていたようにも、受け取れる。

 俺は浮かんだ疑問を、紅莉栖にぶつけてみる。

「それは、阿万音さんがそれを確認しろって言ったから……」

「確認すると言う事は、つまり未来の紅莉栖も鈴羽も、世界線移動に関しては、知らなかった?」

 俺は独り言のように、呟く。

「それは違うよ、岡部倫太郎。確かに世界線の移動を知っていたとは言えないけど、でも紅莉栖おばさんは、その可能性が極めて高いって言ってた」

 鈴羽の話では、こう言う事になる。

 未来の紅莉栖は、俺の葬儀の際に、集まってきたラボメン達に声をかけたのだそうな。

 まゆりとダル以外のラボメンは、紅莉栖と面識がない。しかし、紅莉栖の取り戻した記憶の中には、彼、彼女たちの記憶は残っていた。その一方的な記憶を頼りに、情報を引き出したらしい。

 そして、リーディングシュタイナーが再発したあの日、俺が紅莉栖に電話をかけた直後、ラボメン全員に緊急コールをしていた事を、突き止めたと言うことのようだ。

 その電話の内容が、『世界線の移動があった』と紅莉栖が信じる基準になったと、鈴羽は言う。

「ルカ子さんに、男のままかって聞いたり、フェイリスさんに、執事さんと二人暮しかって聞いたりしてた事が、紅莉栖おばさんの立てた推測の、根拠になっていたみたいだよ?」

 だが、推測は推測。確定ではない。だからこそ、過去に来た鈴羽は、紅莉栖にその有無を、直接確認させたという分けだ。

『流石は、牧瀬紅莉栖と言ったところか』

 些細な物事から、見えるはずのないものを見る。天才少女の面目躍如であろう。

「紅莉栖おばさんは言ってた。もしも世界線が移動していなかったら、岡部倫太郎を救出できる可能性は、グッと下がるだろうって。だから、まずそれを確認したかったんだ」

『なるほど。それで世界線が動いていて、よかったなどと……』

 鈴羽の言葉に、俺は静かに頷いた。

「なるほど、よく分かった。確かにあの時、世界線は動いている。だからこそ、それを元に戻せれば、俺が生き残る可能性もあると──そういう事だな?」

「まあ、乱暴な言い方だけど、概ねその通りかな」

 俺の言葉に、鈴羽が賛同を示し、言葉を続ける。

「後は……何だっけ?」

 どこかとぼけた鈴羽の物言いに、ソファに埋めていた顔を持ち上げ、紅莉栖が言う。

「何だっけじゃない。どうして、岡部が自己犠牲の精神に目覚めるなんて、私に吹き込んだのか、説明しなさい」

 不満げな表情はそのままに、「それ以外の話は、もう聞いてるし」と呟きながら、紅莉栖はソファの上に姿勢を正した。

「ああ、その話か。できれば、あまり詳しく言いたい事じゃないけど」

「ダメ。大体、事実の湾曲がタブーだと言ったのは、阿万音さんでしょ? なら、話して」

「ううん……。確かに、もっと早く話してたら、時間にも余裕があったかもしれないし……分かった」


 鈴羽は想いを固めたように、一度目を閉じ、そしてゆっくりとまぶたを開ける。


「実は、この時代の君たちに会うのは、これで二回目なんだ」

 その言葉に、一瞬混乱する。

「二回目? それって、どういう事?」

「つまりあたしは、一度、岡部倫太郎の救出に、失敗しているって事。そして、その最初の救出計画の時──


 ──岡部倫太郎は、救出される事を、拒否したんだ──


 鈴羽の言葉の意味が、またしても理解不能であった。

「ど、どういう意味だ、それは……」

「率直に言う。岡部倫太郎。君は前の時、助かるための方法を探そうともせず、訪れる死を自ら受け入れたんだよ」

 その言葉に、俺は電撃で打たれたようなショックを受けた。

「そんな君を、あたしたちは責めた。そしたら君は、こう言ったんだ。『下らない自己犠牲の、どこが悪い』ってね。正直今でも、その言葉がどういう意味だったのか、よく分からないよ」

 鈴羽が理解できないといった、俺の言葉。それはやはり、俺自身にも理解できるものではなく──

「そ、そんな馬鹿な事を、俺が言うわけ……」

 信じられないといった面持ちで、俺はかぶりを振る。しかし、鈴羽は自らの記憶を肯定するべく、言葉を重ねる。

「でも言ったんだよ。この耳で、確かに聞いた。だからこそ、君を助ける事ができなかった。当然だよね? 君の救出計画に一番重要なはずの、『君自身の協力』が、まったく得られなかったんだから」


 ──それで結局、あたし達は大した事も出来ず、予定通りの君の死を見送った──


「…………」

 鈴羽の口から語られた、明朗とした状況報告に、俺は言葉を失った。

『鈴羽の言う俺は、どうしてそんな事を……?』

 まったくもって、理解できない。できるわけがない。

 目の前に迫った死。そんな不愉快な状況を回避できるかもしれない可能性を知りながら、しかし、自らその可能性に終止符を打つ。

『それではまるで、自殺志願者ではないか』

 だがしかし、どれだけ信じられなかろうとも、俺には鈴羽が嘘を言っているようには思えなかった。

『だとすれば、俺がそんな馬鹿げた選択を選ばねばならないような、何かがあったと言う事か?』

 無論、考えたところで答えなど出ない。なぜなら、それを考えた俺自身は、とうに死んでいるからだ。

『下らない自己犠牲? いったい、何を言っているのだ?』

 俺は、黙り込んだままで考える。

『自己犠牲……か。考えられるとすれば、そうだな。世界線を戻そうとする過程で下手を打ち、αやβの世界線に逆戻り──そんな可能性を恐れた……とか?』

 それならば、自分のありえない言動にも、納得できそうではあった。

 この世界線から抜け出そうとした結果、手違いで『まゆりが死ぬα』や、『紅莉栖が死ぬβ』に飛んでしまう。

『だから、むやみに世界線を変えぬよう、協力を拒んだのか?』

 そんな考えに、一瞬納得しかかるも、しかし──

『いや、例え下手を打ったとしても、その結果αやβに飛ぶ可能性など、あるのか?』

 今回の騒動の発端となった、世界線の移動。それは今より、わずか一週間前の出来事なのだ。

『ならば、狂ってしまった世界線の修正も、一週間前の時点で行なわばならない。Dメールを打ち消す時、そうしてきたのと同じように……』

 一本のDメールが過去を変える。その変化を打ち消すために、送ったDメール自体を無効にする。そうする事で、これまで何度も、世界線の修正を行なってきた。

『ならば今回も、打ち消すべきは一週間前の『何か』のはずだろう?』

 そして、一週間前という場所は、まゆりの死を避け、紅莉栖を助け出した──その後に、他ならない。

『だったら、この世界線からの脱出で、αやβに逆戻りしてしまう可能性など──』

 ゼロではないのだろう。
 仮にも相手は、どういう動きを見せるのか予測し辛い、あの世界線なのだ。だがしかし、そんな悲劇の可能性など、極めて薄いもののように思えた。

『そんな低い可能性を恐れて、俺は死を選んだと? それで自己犠牲だと? あまりにも馬鹿馬鹿しい』

 やはりどう考えても、鈴羽が見たという自己犠牲に飲み込まれた自分というものが、理解できなかった。

 俺は苦々しげな表情を浮かべ、胸の内で唸り声を上げ──

「ダメだ、岡部!」

 紅莉栖の声が、すぐ近くで聞こえた。唐突な呼び声に、紡いでいた思考が、一瞬で霧散する。

「絶対に、ダメだからな!」

 叫び声と同時に、強くしがみ付かれる。

「お、おい助手よ……」

 唐突な紅莉栖の行動に泡を食い、俺は紅莉栖に視線を向け──

『何て顔をしている』

 戸惑った。

 そこに見える、紅莉栖の形相。疲労と混乱と必死を、全てまるごと詰め込んだような、おおよそ紅莉栖のものとは思えないような、今にも擦り切れんばかりの表情。

 そんな光景を前にして、大きく狼狽する。そんな俺の耳に、鈴羽の凛とした声が響いた。

「岡部倫太郎。忘れないでほしい。君が死んだ後の紅莉栖おばさんの人生は、とても生きている何て言えるようなものでは、なかった。だから、今更だけど……君自身に協力を求めたい」

 その言葉を聞き、俺は当然とばかりに力強く頷く。

「無論、そのつもりだ」

 鈴羽の語った『前の俺』。それが何を考えていたのか知らないが、今の俺にその申し出を断る理由など無い。
 だから、その旨をはっきりと言葉にして伝えた。

 そんな俺の言い分に、鈴羽の顔が安心したように、緩む。

「そう、よかった。どうやら前と同じには、ならないみたいだね。これで、二年間かけて、タイムマシンを充電しなおしたかいも、あったってものだよ」

「二年……なるほど。それで二十歳というワケか」

 俺は小さく呟きながら、独白するように吐き出した。


 鈴羽の視線は柔らかく、紅莉栖の鼓動は温かく、そして俺は、再び目の前に現れた世界線という化け物に、限界まで噛み付いてやろうと決めた。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ10
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:36
     10


「ええぇ~? オカリン、死んじゃだめだよ~」

 まゆりの素っ頓狂な声が、ラボの中に響き渡った。

「さすがは、まゆ氏。疑う事を知らない無垢な存在である」

 相も変わらずパソコン前の特等席を占拠しているダルが、巨体を揺らしながら茶々を入れる。

 そんな二人の様子を前にして、鈴羽は複雑な表情を覗かせながら、俺に耳打ちをした。

「あのさ、やっぱ無理だよ。いきなりこんな話を信じろって言っても」

「何を言うか。この岡部倫太郎の辞書に、無理などという言葉はない。見ろ」

 小声の鈴羽とは対照的に、俺は明朗な語り口調で、ビシリとまゆりを指し示す。

「既に一名、こちらの勢力に引き込んでいるではないか」

「いやそうだけどさ。でも、まゆりおばさんじゃ、正直戦力としては……」

 やはり、どこか浮かない表情の鈴羽。相変わらず、密談よろしく、ひそひそ声で語りかけてくる。

「浅はかだな、バイト戦士よ。貴様はまゆりという存在を、侮ってはいまいか? 奴ならばきっと、我が策略の礎を担ってくれるはずだ。俺はそれを確信している」

「だから、どうしてあたしがバイト戦士……?」

「えへへ~。まゆしぃは今、オカリンに誉められたのかなぁ~?」

「その通りだ、まゆり。期待しているぞ」

 不満げな鈴羽の問いかけを華麗にスルーした俺の言葉に、まゆりが嬉しそうに、顔をふにゃりとゆがめて見せた。

「まあ、君がそれでいいなら、あたしは構わないけどさ。でも、父──橋田さんは、ぜんっぜん信じてないみたいだけど?」

「ダルならば問題ない」

 俺は短く答えると、ダルに向けて問う。

「ダルよ。お前は俺の協力要請に、力を貸してくれるか?」

 俺の言葉に、椅子に座ったダルが、億劫そうに答える。

「協力要請って、さっきの世界線がどうたらとか、過去改変がどうたらで、オカリンが二日後に死ぬって話の事っしょ? オカリン、今度は何に影響されたん? それ、どこの設定なん?」

「ほら、やっぱり。これっぽっちも信じてないよ」

 ダルの反応に、鈴羽がそれ見た事かと、俺を見る。が、それでもなお、俺はふんぞり返った態度を崩さない。

「それで、協力するのか、しないのか?」

「あーもう、分かった、分かりました! やればいいんしょ。いきなし朝一で呼びつけて何事かと思えばこれだお。オカリンにはいつも呆れさせてもらって、本当にありがとうございました!」

 そんなダルの言葉に、俺は『な』と、鈴羽に目配せを送る。

「な。じゃないよ。あれじゃあ──」

「あれで構わん。半信半疑──いや、絶信全疑だとしても、それでもダルは役に立ってくれるはずだ。奴の嘘みたいなハイスペックは、それくらいの逆境で揺らいだりなどしない」

 俺は自信満々に、そう言い切る。それほどに、俺はこの二人を信頼しているのだ。

「これで頭数は揃った。状況説明も終わっている。後は、この事態を収拾させるための策を見つけ出せばいい。なに、たいした問題ではなかろう。フゥーハハハ!」

 何だか久しぶりの高笑い。まゆりの微笑と、ダルの呆れ顔が、俺に向けられている。

「君、何だか、無理してない?」

 高笑い体勢を維持し続けている俺に、鈴羽がそんな横槍を入れてくる。

「愚問だな。もう、めちゃくちゃ無理してるに決まっているだろう!」

 二日後に死ぬ。
 一息ついて、改めて考え直してみると、なんだかもう、すごく怖かった。

 しかもそれが、『世界線の収束』であると、鈴羽の話で断定できてしまったのだ。だから、もう、どうしたらいいのか分からないほどに、怖くてしかたがない。
 正直言って、いつでも手軽に失禁できそうなくらいだ。だが──

『これは、あの時の紅莉栖が抱えていた状況と、同じなのだ』

 α世界線で、まゆりの生と引き換えに、自らの消滅を受け入れた少女の存在。記憶に焼きついているその感情が、俺の震えだしそうになる足に、喝を入れる。へこたれそうな心を、支えてくれる。

『紅莉栖の隣に並び立つつもりなら、俺はへこたれてなど、いられない』

 強く念じて、ソファに目を向ける。そこには、ソファ上の手狭なスペースに身を横たえて眠る、紅莉栖の姿。上からかけた彼女専用の白衣が、微かに上下に揺れている。

『紅莉栖。お前にはいつも助けられる』

 胸の奥で、聞こえるはずのない感謝の言葉を口にする。そんな俺の視線を読み取ったのか、ダルが言った。

「で、牧瀬氏は起こさなくてもいいん?」

「いや、もう少し、寝かせておいてやろう」

 俺は、鈴羽の言った『そりゃ、徹夜四日目じゃそうなるよ』という言葉を思いだしながら答える。


 あの後──


 俺に『ダメ』と、『絶対にダメ:』と叫んで抱きついてきた紅莉栖は、俺の前向きな意思を汲み取るやいなや、そのまま眠り込んでしまった。

 抱きついたまま、眠る。
 またしても器用な芸当を見せ付けた助手をソファまで運び、俺は鈴羽に、まだ聞いていない情報を問いただしにかかった。

 一晩かけて、聞き出した情報。そこから推測できたのは、はっきり言ってお先真っ暗すぎる、俺の未来であった。

 当初、俺の死は事故死であったらしい。何の事はない。居眠り運転の車にはねられて、あっけなく逝ってしまったそうだ。

 そして、そんな俺の死に対して紅莉栖が疑問を持った。

 それは、俺の死に『世界線の移動』が絡んでいたのではないか? ──という、疑問。
 結果、紅莉栖は長い年月をかけてタイムマシンを完成させ、鈴羽を過去へと送り込んだという事らしい。

『紅莉栖おばさんが言ってた。もしも岡部倫太郎の死に、世界線の移動が絡んでいたのなら、私は何があっても、彼を助け出さなければいけない。彼がそうしてくれたように、私もまた、そうしなければいけない──ってね」

 鈴羽から伝えられた、未来の紅莉栖の気持ち。それはまごうことなき、あの、十四年を執念で生き抜いた、俺の気持ち、そのものだった。

『だからこそ、俺は絶対に、生き延びてやる』

 強く念じて、拳を握る。

 世界線の収束。抗うには厳しい相手。だがそれでも、ボロボロになるまで俺のために奔走した紅莉栖の姿を前に、諦めなどと言うものは微塵もない。

『まったく、鈴羽の言っていた別の俺は、どうしてそう考えなかったのか』

 鈴羽の話に出てきた、『一度目の失敗』。その際に俺の取った、紅莉栖と鈴羽に対する、非協力的な態度。それがどうにも、恨めしかった。

 鈴羽の言葉が思い起こされる。

『岡部倫太郎。はっきり言って、あの時の君が見せた協力体制は、最悪だった。父さんやまゆりおばさん。それに紅莉栖おばさんから聞いていた人物像と、あまりにもかけ離れてて──正直言うと、あたしはその時、もの凄く君の事を軽蔑したんだ』

 下らない自己犠牲の精神。俺はそんな理解できない何かに取り込まれ、自らの助かる方策を、一切望まなかったのだそうな。それどころか──

『協力はしない、情報はくれない、世界線が移動していたのかさえも、何一つ、教えてくれなかった。おまけに姿をくらませて、やっと見つけたときには、タイムアップ寸前。それでも何とかしようって、紅莉栖おばさんの提案で、君を拉致監禁した。完全な安全と一緒に監視下においたんだ。でも──』

 ──それでも君は死んだ。心臓麻痺で──

 それが世界線の収束である事は、明白であった。
 俺は、同じような条件下で、それでもまゆりが世界線に殺されてしまうという状況を、幾度も経験してきている。だから、疑いようがなかった。

『だったら何だ。例えそれが、世界線の収束だとしても、必ずどこかに抜け道があるはずだ。世界線といえども、完璧では無い。それは以前、この俺自身が身を持って実証したことではないか』

 だからこそ、俺は力を振り絞って、未来を見つめる。今ここに、十四年を執念で生き抜いた俺はいない。だがその代わりに、何よりも頼もしい仲間たちがいる。

『ならば……』

 まゆり、ダル、鈴羽。それに眠り続ける紅莉栖を見回して、声を強める。

「二日後に迫った、俺の死。諸君らには、それを回避するための策を、提案・協力してもらいたい!」

 俺の演説に、ダルがいち早く反応を示す。

「さっき聞いた話から推測するに、つまり、こう言う事じゃね? オカリンの観測したっていう、なんだっけ? リーディングなんちゃら? それの原因を特定できて、その上で排除できれば、問題解決なわけっしょ?」

 ダル。おまえ、なんかスゲーな。

「その通りだ! みなまで言わずとも理解してくれるとは、さすがは我が右腕。このラボにおける、情報解析担当の肩書きは伊達ではないな!」

「うわ、オカリンからマジで誉められるとは……俺そっちの気はないぞな?」

 ダルが、下らないツッコミを入れてくる。よし、肩書きは剥奪だ。

「あ~ダルくんだけ、ずるい。ね~オカリン。まゆしぃは何担当なのでしょうか~?」

「ん? そうだな……では『ひらめき将軍』と言う事で手を打たないか?」

「将軍さまかぁ~。なんだか強そうで、いいと思うのです。じゃあね、じゃあね。クリスちゃんと鈴羽さんは~?」

「なにぃ? そうだな、紅莉栖はそのまま『作戦参謀』で、鈴羽は……」

「え、あたしはいらないよ、そんな恥ずかしい肩書き!」

「そうか、ならバイトという事で」

「せめて戦士を! 戦士をつけてよ!」

「じゃなくてだな! まゆり、時間がないと言っているだろう! 話を脱線させてどうする!」

「うう~、ごめんねオカリン。でも、みんなにもカッコイイ肩書き、あった方がいいと思ったのです」

「脱線の発端は、オカリンだったわけだが」

 ダルの鋭い突っ込みに、咄嗟に返せない。だから無理やり、話を戻す。

「とにかく、世界線が移動した原因。それの究明が先決だ! どうだ、何が考えられる?」

 その一言に、場に沈黙が訪れる。

 一様に、難しい表情。そりゃそうだ。ポンポンと、手軽に意見が出てくるような問題なら、これほどまでに自らの置かれた状況を恐れたりはしない。

 移動した世界線。結果、俺の死。

 それを回避するために、まずやるべき事は──

 口火を切ったのは、鈴羽だった。

「やっぱり、最初は世界線が移動した原因を明らかにしなくちゃ、始まらないよ。あたしとしては、誰かが何らかの方法で、過去改変を行ったんだと思ってるけど……」

 打って変わった真剣な口調で、真っ当な解答を口にする。その意見に、ダルが乗る。

「そりゃそうでしょ。誰も何もしてないのに、勝手に過去が変わるとか、ナンセンスでしょ」

 確かに、と思う。

 俺の知らないどこかで、見ず知らずの第三者が過去改変能力を手に入れた。その結果が、この世界線。

 この考え自体は、世界線の移動を観測した直後から、俺の中に渦巻いていた。


『電話レンジ(仮)以外にも、過去に干渉できる何かが、この世界のどこかに存在しているのではないか?』


 当然と言えば、当然の推察である。だが、そんな的を得ていそうな考えも、どこか承服しきれないのも事実。

 俺はそんな疑念を、ラボメン達にぶつけてみる。

「だがしかしだ。説明したように、その結果が中鉢の亡命成功という、俺の認識範囲内に影響を与えるなど、偶然にしてはできすぎではないか?」

 俺の反論に、鈴羽が噛み付く。

「そうは言うけど、でも一番答えに近い推測だと思う。それに、第三者の過去改変。この意見は未来の紅莉栖おばさんも持ってた」

「そうなのか?」

 確かめるような俺の問いかけに、鈴羽は確かな頷きを返した。

「じゃあ、まゆしぃもその意見に、賛成なので~す。クリスちゃんが言ったなら、きっとそうだよ~」

 あまりにも他力本願なまゆりの言葉ではあるが、しかし俺も同じ思いだった。

『未来の紅莉栖がたどり着いた可能性なのだとしたら、俺ごときが反論する余地など──』

 そんな事を思いかけたとき──


「それは、違うと思う」


 意外なところから、否定的な意見が飛び出した。

 全員の視線が、声の主に向けられる。
 ソファに横たえていた身体を起し、紅莉栖が俺たちを──いや、俺をじっと見つめていた。

「……起きたか、紅莉栖」

「うん。おかげで、頭の中がスッキリした。ずっと寝てなかったから、この所、まともな思考ができてなかったみたい。どれくらい寝てた?」

 紅莉栖が、寝ボケを振り払うように軽く頭を振りながら、俺に聞く。

「そうだな、大体、半日といったところだが……」

「そう。そんなに無駄にしたのね。本気で時間がない」

「あまり無理をするな、助手よ」

「いま無理しないで、いつするんだ。それに、助手じゃない」

 そんな紅莉栖の言葉に、ダルが意外そうな顔をする。

「えっと、牧瀬氏。ひょっとして、オカリンの妄想設定につきあってたりとか?」

 ダルの上げた問いかけに、紅莉栖は凛とした表情で返す。

「橋田さん。これは妄想じゃない。恐らく全て、本当の話。あと二日で岡部が……」

 そこで一瞬言葉を詰まらせる。が、振り絞るようにして続ける。

「二日後に岡部が死ぬのは、きっと事実だと思う」

 明言されたその発言に、ダルが、そしてまゆりの表情が固まる。

「マジでつか?」

「マジ。だから、私は真剣よ」

 紅莉栖の、現状を告げる一言。その言葉が、ダルとまゆりの意識に、大きな変革をもたらしたように見えた。

「それって、状況的にかなりマズくね?」

「オカリン! 死んじゃだめだよ!」

 まゆりとダルの口から、思いつめるような声が湧き出る。一様に変わる、二人の表情。つられるように、鈴羽の表情まで、引き締まったように感じられた。

 そんなラボメン達の様子を見ながら、俺は思い知る。

 ──ああ、これが人徳と言うものなのだな──

 と。



[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ11
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:37
     11


 ラボメン全員の視線が、一人の天才科学者の元に集まる。

 そんな多くの眼差しを一身に浴びて、紅莉栖はゆっくりとラボの中を歩く。
 傍目には、堂々とした気丈な態度を示しているように、見えなくもない。しかし、いつもよりも薄い顔色を見ると、そこに体力的な余裕は感じられなかった。

「紅莉栖、まだ無理は──」

「いい。時間ないし」

 俺の心配を、紅莉栖がさらりと受け流す。
 そしてラボの真ん中まで歩み出ると、ラボメン達の顔を視界に捉えながら、口を開いた。

「みんなの話してた、『第三者が過去改変能力を手に入れた』という話だけど──」

 まとった白衣を小さく揺らしながら、紅莉栖は続ける。

「私はその意見に、否定的な立場をとらざるおえない」

 紅莉栖の言葉に、彼女を見る全員の視線が、その強さを増す。

「つまり、『誰も過去に手を加えていない』と……そう言いたいのか?」

 俺の言葉に、紅莉栖は軽く頷いて見せた。

「でもさ、牧瀬氏。それって何か、ヘンじゃね?」

 紅莉栖の見解に、ダルが異論を唱える。

「さっきも言ったけど──」

「誰も何もしてないのに、勝手に過去が変わるとか、ナンセンス……だったかな、橋田さん」

 ダルの発言を先読みするように、紅莉栖が言葉を重ねた。

「あれ? 牧瀬氏、なんで知ってるお? 起きてたん?」

「ん……半分はね」

 ダルの問いかけに、紅莉栖は「半分だけ起きて、みんなの話を聞いていた」と答えた。やはりと言うか何と言うか、どこまでも器用な助手である。

「すごいね、クリスちゃん。ハーフ&ハーフだね~」

 どこか失礼に聞こえるまゆりの誉め言葉。紅莉栖は少し複雑な表情を見せる。

「なんだかその言い方、ピッツァぽくてアレだけど……。一応、誉められてるのよね。ありがと、まゆり」

「クリスティー・ピザ。新メニューか? 薄い生地でサクサクのピザ助手か?」

「口をつつしめ、厨二病患者。誰のためにこんな事してると思ってる?」

「う……すまん。つい、な」

 睨み付けられたのが怖くて、思わず謝罪を述べる。そんな俺の目に、紅莉栖の表情が、一瞬曇ったように映り──

『気の……せいか?』

 すぐにいつもの、凛とした表情を取り戻す。そしてそのまま何事もなかったかのように、脱線しかかっていた話を、元の路線に押し込んだ。

「で、話を戻すけど……えっと、橋田さんの言うように、確かに誰も何もしてないのに、過去が変わると言うのは、ナンセンスなのかもしれない。だけど、それでも私は、誰も過去に手を加えたりなんて、していないと思う」

 そんな紅莉栖の発言に、鈴羽が手を上げて噛み付く。

「そこまで言い切る根拠ってなに? 言っとくけど、未来の紅莉栖おばさんだって、そんな事言ってなかった。なのにどうして?」

 当然とも言える鈴羽の疑問。しかし紅莉栖は、微塵も動揺を見せずに答える。

「それはきっと、その私が知らなかったからだと思う。私が寝てるときの岡部の話。その内容を知らなかったから、その私は今とは違う考えにたどり着いたんだと思う」

 その紅莉栖の言葉に、俺の記憶が食い違った。

 紅莉栖が眠っている横でみなに聞かせた話。
 それは、αからβ、そしてシュタインズゲートへと至るまでの、鳳凰院凶真の武勇伝に他ならなかった。
 そしてその内容は、一週間前に紅莉栖に話して聞かせたものと、大差ないはずのもので──

「俺は話したはずだぞ? 一週間前ここで、さっきと同じような話をな」

 俺はその疑問を紅莉栖にぶつける。

「そう。確かに私は、一週間前に岡部から、似たような説明を受けてる。でも、そこに無かった内容が、さっきの話には含まれていた」

「それは……まさか、俺の主観とか言う部分……だったり?」

「ち、違う! それとは違うから!」

 もしやと思った俺の推測に、紅莉栖は顔面を微かに上気させた。

「それは……また聞くから。そうじゃなくて、私が知らなかったのは……」


 ──世界大戦とメタルウーパの因果関係──


「メタルウーパが世界大戦の引き金になるなんて話、私は聞いてない」

 紅莉栖の言葉に、俺は身を乗り出す。

「いや、嘘だろ?」

 あの時、確かに俺は紅莉栖に話していた。そして、それを聞いた紅莉栖が『にわかには信じがたい話だ』と懐疑的な反応を見せた事を、俺は覚えている。『開戦の主犯にならずにすんだ』と、そう伝えられた謝辞を、はっきりと覚えているのだ。

「俺は確かに……」

「岡部が何と言おうと、私は聞いてない。メタルウーパと世界大戦。確かに話の中に単語として出てはきたけど、でも、さっきみたいに詳しい内容は聞いてない。事実よ」

 紅莉栖はそこで言葉を切ると、自らの記憶を手繰り寄せるように、両目をスッと細める。

「私が聞いたのは、世界大戦を回避しようとして、でも『結果的には失敗していた』という事だけ。回避するために取った方法。回避に失敗した過程。そこに関して、岡部の話はノータッチだった」

「馬鹿な。紅莉栖それは、お前の思い違い……」

 そこまで口にして、ハッとする。


『違う。紅莉栖の思い違いではない』


 話したと言う俺と、聞いてないという紅莉栖。これは、今まで何度も経験してきた感覚。会話がチグハグとかみ合わない、あの独特の疎外感。

『リーディングシュタイナー発動後の、周囲との食い違い……そのものではないか』

 そして思いだす、中鉢のロシア国籍取得を告げる、ニュース速報の文字。

『確かに、この世界線の俺は、中鉢のロシア亡命を、阻止できていない。それはつまり……』

 頭の中で、知らない世界線の自分を考える。消えてしまった紅莉栖を助け出すため、鈴羽と共に過去へと戻った自分の行動。その過程と結果を、思い描く。

『俺は、紅莉栖救出には成功したが──

 ──メタルウーパの回収には失敗した──

 という事になるのか』

 だからこそ、中鉢の亡命成功。だからこそ、世界大戦の回避失敗。

 実際のところ、この世界線の未来に、世界大戦はない。しかし、一週間前の俺がそんな事を知るはずもなく──

『世界大戦の回避をしくじったと考えて、当然だな』

 俺は一人、胸の内で唸り声を上げる。と、

「あの~。まゆしぃはもう、オカリンとクリスちゃんが何を話しているのやら」

 早くも会話の流れから脱落しかかっているまゆりが、情けない声を出す。

「ああ、ごめんねまゆり。じゃあ、順番に話すから」

 紅莉栖は白衣の襟元を正し、一つ咳払いをすると、「さて」と短く前置きをする。そして──

「私の記憶よりも岡部の記憶を中心にした方が、わかりやすいかな? よし、岡部、手伝え」

 おもむろに、俺に振る。

「何を手伝えと?」

「とりあえず、さっき話してた説明をもう一回。過去に戻って、私を……まあ、なんかして。で、一週間前の世界線移動が起きるまでを、出来るだけ詳細に、かつ、分かりやすく」

「簡単に言ってくれるな。まあ、何度も説明してきたから、いい加減段取りもなれてきたが……まゆり、俺の説明でいいのか?」

 分かりやすさを求めるのであれば、俺よりも紅莉栖の方が適任だと思い、まゆりを見る。

「分かりやすければ、どっちでもいいよ~」

「禿同」

「右にならえ」

 俺の問いかけに、まゆりとダル、そして鈴羽の三人が、大きく首を縦に振って見せた。というか、鈴羽、お前まで脱落してどうする。

「よかろう……」

 そう言うと、俺は出来の悪い生徒を諭すように、ゆっくりと話し始めた。

 紅莉栖を失った、β世界線。
 未来から世界大戦回避を目的にやってきた鈴羽。
 彼女と共に、紅莉栖を助けるために過去へと戻った事。
 最初の失敗。そして、未来の俺からの助言。
 二回目のタイムとラベル。
 世界大戦を回避するために必要な、メタルウーパの回収。
 そして、紅莉栖の救出。

 できるだけ分かりやすさを心がけ、表現を噛み砕いて紡ぎ上げていく。

 記憶を失った紅莉栖。
 紆余曲折を経て、記憶を取り戻し、ラボメン復帰をはたした紅莉栖。
 そして、一週間前に何の前触れも無く再発した、我が身に宿る、忌まわしきリーディングシュタイナー。

 それは長い話。色々な物や想いが交差しあう、複雑な話し。俺はそれを、懇切丁寧に語り上げる。

 まあ、一週間前に紅莉栖に聞かせたのと同じく、そこに俺の主観は入っていないが──

『いくらなんでも、この大人数を前に、そんなもの入れられるか』

 当然の選択と言えよう。

 とは言え、必要かもしれないから、前は抜いておいた『紅莉栖を刺す』と、『紅莉栖パパに刺される』は、それとなく放り込んでおいたが──

「オカリン、その設定、すげくね?」

「オカリンは、ヒーローなんだねぇ」

「ちょっと、見直したかな」

 俺の話を一通り聞き終わると、ラボメン全員の視線が、俺に向けられていた。

 なんだ、その視線は? なんだかこそばゆいから、止めてもらいたい。

 などと浮つきながらラボメン達を見回していると、意外な事に、紅莉栖までもが妙な視線を俺に向けている。

「……ええと、なんか……ありがと」

 なぜ、うつむく!? なぜ、赤くなる!? 俺まで赤面しそうではないか!

「じょ、助手よ? 時間がないのではなかったのか?」

 俺の言葉に、紅莉栖がはっとしたように顔を上げる。

「そ、そうね。じゃあ次は私の番ね」

 仕切りなおすかのように咳払いをし、表情を引き締める。そして、艶やかな唇を動かして、言葉を紡ぎ始める。

「岡部のリーディングシュタイナーが再発してから、色々な状況が変わってる。その中でも、一番分かりやすいのが、パパ……中鉢教授のロシア亡命に関する成否」

 俺を含め、ラボメン全員が紅莉栖の話に耳を傾ける。

「そして、その変化の原因をたどってみると、一つの疑問にぶちあたる」

「疑問?」

「そう。その疑問に気づいたからこそ、私は『第三者の過去改変』に対して、否定的な立場を取っているわけ」

「牧瀬氏。その疑問とはなんぞ?」

「それは、一週間まえに私が聞いたはずの、岡部の話。そのとき岡部は私に対して、『世界大戦の回避に失敗した』と言い、そして──」


 ──どうして失敗したのか、分からない──


「岡部は確かに、そうも言った」

 紅莉栖の話に、思わず口を挟む。

「なぜ失敗したか分からない? いや、それはおかしいだろう」

 俺は身を乗り出し、異を唱える。

 メタルウーパの回収失敗。だからこその、世界大戦の回避失敗。一週間前の俺ならば、そう考えて当然だ。理由など、それ以外に無いではないか。

 しかし、俺のそんな意見を紅莉栖は首を振って、否定した。

「そう。もしそれが理由だったら、きっと私も『第三者の過去改変』に、意義を唱えたりしなかったと思う。でも……」

 紅莉栖は上着のポケットに手を突っ込むと──

「これを見て」

 何かを摘んで、手を差し出した。

「!?」

 目の前の光景に、俺は息を飲む。

「どうしてお前がそれを持っている!? なぜ、メタルウーパがそこにある!?」

 信じられない状況に、自然と声が荒くなる。

「これは、岡部。一週間前に、あんたが私にくれたもの。約束の証だとかいって。そうでしょ、まゆり?」

 そんな紅莉栖の発言に、まゆりが「うん、そうだよ~」と、元気に頷く。そんな状況に、大きく戸惑う。

「ば……馬鹿な。それは、俺が回収しそこねたはずの物だ。回収しそこねたからこそ、世界大戦の回避をしくじったと考えて……」

 俺は、たどり着いたシュタインズゲートと呼ばれる世界線で、メタルウーパがないために論文を失った中鉢が、ロシアから強制送還された経緯を、知っている。だというのに──

『これは、いったい……』

 現状把握が間に合わず、眉間にシワを刻む。対照的に、紅莉栖の声は冷静だった。

「事実は事実よ。私がこれをあなたから渡された以上、あなたはメタルウーパの回収に、成功していたという事」

「だが、それでも中鉢は、ロシアに亡命をしたというのか?」

 もう、何がなにやら分からなかった。ただハッキリしているのは、このあまりにも不可解な現状は、自分の中にある理論の枠組みから、大きく逸脱している事。

 ──理に適っていない──

 そんな思いだけが、胸のうちを席撒いていた。

「ねえ岡部。私は思うんだ」

 紅莉栖の言葉を、錯乱気味の頭で捕らえる。

「あんたはメタルウーパの回収に成功した。この事実が変わっていないのであれば、きっと、パパの手に渡ったのは、メタルではない、プラスチックでできた普通のウーパだった」

 そう考えるべきだと思う。と、そう告げた紅莉栖の言葉に、俺の混乱は激しさを増す。

「だがしかし……。中鉢教授のロシア亡命成功は、メタルウーパが金属探知機に引っ掛かったことに起因するはずだ。だと言うのに、どうしてプラスチックのウーパごときで……」

「そうね。正直私もまだ、確信は持てていないし、答えが見えない。だけど、思うんだ。このとんでも状況を作り出した人間なんて、いるのかなって」

 紅莉栖は静かに続ける。

「パパの乗った飛行機が、火災事故にあってるのは事実。これは実際に、起こったことなんだから」

 俺は黙って、紅莉栖の言葉に耳を傾ける。

「だけどそれでも、私の論文は火災事故を免れた。これってさ」


 ──タイムマシンを使えば、誰かにできることなのかな?──


 第三者の過去改変。それを否定していた紅莉栖の真意。俺は、その意思を覆す術を知らない。
 だから、何も言えずに、ただ黙ったまま、紅莉栖の手にあるメタルウーパを凝視し続ける。
 そんな時──

「んお、そういえば」

 唐突にダルが立ち上がり、パソコンの前に向かう。

「どうしたの、ダルくん~?」

「ん、いやちょっと、思い出したことがあるお」

 まゆりにならって、俺と紅莉栖、鈴羽の視線がダルに向けられている。

「いや、オカリンからドクター中鉢のこと調べろって、電話もらったっしょ? あの後も少し、情報あさってたらさ、スレにヘンな書き込みがあったんよ」

「ヘンな書き込み?」

「まあ、噂みたいなものだったから、そん時は華麗にスルーしたんだけど……。どこだっけ? ああ、けっこう時間たたってるから、もう過去ログ?」

 ダルは独り言を呟きながら、懸命な様子で、モニターとにらめっこを続ける。そして程なく──

「あったお! これ! ちょっとこれだお!」

 ダルの呼びかけに、全員がパソコンの前に移動する。

 俺は、モニターに映し出されている映像に、目をこらす。そして、その内容に目を見張る。
 すぐ横で、紅莉栖が呟いた。

「私の考えの根拠が、一つ増えたわね」

 そこに書かれていた内容。
 
 ドクター中鉢がロシア亡命をした時の状況を伝える部分。その中に、中鉢の荷物が金属探知機に引っ掛かっていた旨を示す書込みがあり──

『誤動作……だと?』

 その中に記された一つの単語が、妙に目に付いた。

「岡部。私のとんでも理論。間違ってないみたい。メタルウーパや他の金属が探知機に引っ掛かったのなら、『誤作動』なんて表現はされない。でも、あくまで噂の範疇。情報ソースとしての信用性は皆無だけど、もしもこの話が本当なら──」

 俺は紅莉栖に目を向ける。

「助手よ。金属探知機に、誤作動を起こさせるような過去改変は、できるだろうか?」

「それは……分からない。不可能じゃないかもしれないけど……でも、意味が無い」

「何者かが中鉢教授のロシア亡命を後押しするために、未来から金属探知機が誤動作を起こすようにしむけた可能性は?」

「それこそナンセンスよ。やりかたがまどろっこしすぎる。亡命成功を目指すだけなら、もっと簡単で確実な手は、いくらでもある」

 紅莉栖の言葉に、俺は『その通りだ』と思い、頷いてみせる。

『紅莉栖の言うように、確かに第三者の過去改変は、考えにくい。だがしかし──』

 
 ──勝手に過去が変わるとか、ナンセンスでしょ──


 先刻聞いたダルの発言が、頭の片隅に染み付いている。
 それが先入観となって、思考の邪魔をしていた。

「この状況を、どう解釈しろというのだ?」

 俺は吐き捨てるように呟く。

 誰かが起こしたはずの、過去改変。しかし、そこに見られる変化は、『誰かが起こした事』と考えるには、あまりにも不都合な現象だった。

「誰も、過去改変を行なっていなのに、世界線が移動した? 馬鹿げている」

「だけど、そんな馬鹿げた事が起きている可能性を、私たちは否定できない」


 ──私たちは、あまりにも無知だ──


 そう言った紅莉栖の表情は、苦々しげに歪んでいた。



[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ12
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:37
     12


 第三者が、手に入れた過去改変能力を使って、過去を改変した。

「きっと、この考えを続けても、何も解決できないと思う」

 紅莉栖の声が、俺の不安をかきたて始めた。

 五里霧中。暗中模索。

 考える方向性も、かけるべき微かな可能性も見当たらない。進展するどころか、むしろ後退していると言った方が正しい。そんな状況に、忘れていた焦りが、小さく燻り始める。

『このまま二日後を迎えてしまったら……』

 思わず、嫌な想像が脳裏を過ぎり、頭を振って、その考えを振り払う。

「ならば、どうしろというのだ。このまま、手をこまねいていろとでも言うのか?」

「まだ、考える余地はあるはずよ。だから焦らないで、岡部」

 これが、焦らずにいられるか。もしもこのまま、事態に何の進展も起こらず、二日後に俺が死ねば──

『紅莉栖のこれからの人生が、台無しになってしまうではないか』

 俺が死ねば、きっと紅莉栖は繰り返す。ここにいる紅莉栖もきっと、タイムマシンを作り上げるために、残りの人生を棒に振る。
 例え俺がその意思を拒否したところで、紅莉栖がそれを思いとどまるとは、到底思えない。

『そんな事は、認められない』

 自分の死が怖くないわけではない。だがしかし、今は正直、それどころではないのだ。

 なんとしても生き残らねばならない。頭の中に、そんな使命感のようなものが、重く圧し掛かる。

『考えろ。考えるんだ』

 問題解決への糸口。存在すら怪しい、その切欠を探して、思考を回す。

『観測者である俺は、ここにいる誰よりも、答えに近づける立場にいるはずだろ。ならば、俺にしか分からない事だって、必ずある。そこに答えが眠っているかもしれないだろ』

 頭の中で、全ての記憶を呼び起こす。

 ラジカンで、紅莉栖に初めてあってから、そして、今この瞬間に至るまでの記憶。それを、気力を振り絞って拾い集め、死ぬ気で現状と照らし合わせる。

『過去改変はあった。だが、それは第三者の手による物ではない。つまり、Dメールのように、意図的な過去操作が行なわれたわけではない。そう仮定した場合、過去改変の原因は何だ?』

 紅莉栖の否定した、『第三者の過去改変』。それを足がかりにして、『それ以外』の可能性を模索する。

 電話レンジは無い。Dメールも無い。それに変わるものも無い。据えるべき前提を定め、目の前の事実を必死に分析する。

『誰も何も作らず、誰も何もせず。それでも過去改変は起きた。まさか、自然に起きたとでも? いや──そんな事があるはずない』

 ダルの言ったように、何も無ければ、過去改変など起きるわけが無い。それこそ、宇宙が内包する法則ごと、ひっくり返りかねない。

『馬鹿げている』

 そう、宇宙の法則は、絶対なのだ。これまで経験してきたどの世界線であっても、基本となるルールは変わらないはずなのだ。
 それを無視すれば、何が起きるか分かったものではない。それこそ、予想できない深刻な問題が発生することだって──


 ──深刻な問題──


 頭の片隅に、何かが引っ掛かった。
 どこかで、同じような言葉を、誰かから聞いた気がした。
 今と同じような切羽詰った状況で、俺は誰かに、それを『絶対に避けて』と伝えられた、そんな気がした。

『あれは確か……』

 さきほど掘り起こしてきた記憶を漁りまわり、程なく目的の欠片に思い至る。


 ──自分自身との接触は絶対避けて。深刻なタイムパラドックスが発生する可能性があるから──


 それは、鈴羽の言葉。過去へと向かうタイムマシンの中で、鈴羽が俺へと向けた、注意を促す一言。

『タイムパラドックス……。っておいおい、何を考えている、俺は。そんな馬鹿馬鹿しい……』

 そう思った。そう思ったはずなのに、なぜかそんな馬鹿げた考えが、頭から離れない。

『いくらなんでも、そんな事が……』

 タイムパラドックス。つまり、時間的な概念の矛盾。それはあまりにも、厨二設定全開の妄想。

『実際に起こるかどうかも分からないような現象だぞ? とてもではないが──』


 ──あれは単なるフェイク情報──


 またもや、タイムマシンの中で聞いた、鈴羽の言葉が頭に響いた。

 鈴羽は、2000年でジョン・タイターとして、『タイムパラドックスは無い』と宣言し、そして『無い』という情報自体を『フェイク』だと言っていた。

『つまり、タイムパラドックスは起こりえる……という事で』

 何度も言うが、馬鹿げた想像であることには違いない。しかし、そんな妄想じみたものが、俺の思考に波紋を広げる。

『くふ。まるっきり馬鹿だな俺は。こんな状態だというのに、それでもまだ、悪い病気を抑えきれないとは』

 自らの思い描いた考えに呆れ、思わず薄い笑い声を立てる。自らを蝕む、世間で厨二などと呼ばれる症例。所構わず顔を出す、そのたくましさに愛想を尽かしたくなる。

 そんな俺の様子に気付いた鈴羽が、いぶかしむような視線を向けてきた。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。つまらない妄想に浸っていただけだ」

「へぇ。余裕あるんだ。ある意味、大物だね君って」

 鈴羽の言葉に、俺は大きくかぶりを振って見せる。

「俺はそんな大層な物ではない。これは単なる現実逃避のようなものだ」

 自分で口にしながら、嫌になる。

『この期に及んで、まだ現実を直視できないというのか?』

 これではあまりに、違いすぎる。
 あの時見た、駅へと消える紅莉栖の背中。そこに見た覚悟の偉大さを痛感する。と──

「ねえ、オカリン。それって、どんな妄想だったのかな?」

 唐突なまゆりの声に、出掛かっていた自己嫌悪の念が頭を引っ込めた。

「聞いていたのか、まゆり?」

 いつの間にか、俺のすぐ隣に立っていた幼馴染の少女に、驚きを隠して問いかける。

「うん。それで、オカリンは何を考えてたの? まゆしぃは知りたいのです」

 そんなまゆりの発言を聞きつけて、ダルまでもが俺の側に歩み寄ってくる。

「どしたん? オカリン、何か思いついたん?」

「いや、思いついたとかではなくてだな、ただの下らない妄想を……」

「なんだお、いつもの病気じゃん。期待して損したっつーか」

 ため息交じりに呟くダル。

「悪かったな。どうせ俺は、期待はずれの男だ」

 軽く睨みつけながら、吐き捨てる。

「おお? オカリン、とうとう自分と言う物を理解したん? スゲー。バージョンアップきたー! オカリンVer3.65じゃん!」

 ダルの見せる大げさな物言いに、思わず小さく噴出す。

「まったく、どこまでも人を小馬鹿にする奴め」

 憎まれ口をたたきながらも、しかし『気を使わせているな』と思い、そして仲間達にそんな態度を取らせてしまった自らの振る舞いを、心の底から反省した。

『今は、下らない自己嫌悪に構っている暇は無い』

 俺は意を決して、紅莉栖に向けて声を出す。そして──

「ひとつ意見がある」

 俺の立てた声に、全員の視線を受ける。そんな中、俺は先刻の馬鹿げた妄想を口にする。

「世界線が移動したのは、何かしらのタイムパラドックスが原因……と言う事は、考えられないだろうか?」

 やや拙い口ぶりで、そんな事を言ってみた。

 今は、どんな可能性にでも、すがり付くべきだと、そう思っての発言である。が──

「いや、そりゃねーわ、マジで」

「えっとオカリン。ドンマイだよ~」

「ごめん。あたし、ノーコメント」

 わずかな沈黙の後に、ラボを飛び交う反感の嵐。

『ああ、やはり言わなければよかった』

 などと、小さな後悔が頭をもたげるも──

「詳しく話して、岡部」

 紅莉栖のその言葉に、誰よりも俺自身が、一番驚いた。

「く、詳しく? 詳しくと言われても、ただの妄想をどうしろと……?」

「その妄想に至った過程。どうしてそんな考えが出てきたのか、それを詳しく聞きたい。今は──」

 
 ──今は、どんな可能性にでもすがりつくべきよ──


 紅莉栖の発したその言葉に、紅莉栖を除く全員が、目を丸くした。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ13
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:39
     13


 紅莉栖に詳しく話せと詰め寄られ、俺が馬鹿げた妄想にたどり着いた経緯を話し終えると──


 ──タイムパラドックスが世界線を移動させた可能性は、無視できない──


 紅莉栖はしばらく考え込んだ後、そう言った。

「いやお前、そんな……」

 発案者だという事も忘れ、俺は紅莉栖の意見を軽んじる。

「自分で言っておいてなんだが、これはもう、ムチャクチャな……」

「ムチャクチャじゃない。ちゃんと、理に適っている」

 紅莉栖は冷静な瞳でそう言い切ると、言葉を続ける。

「そもそも世界線の移動が、Dメール等での過去改変によって引き起こされるという認識自体、短絡的すぎた」

「牧瀬氏。それってどういう意味なん?」

 首を捻っているダルも、きっと俺と同じ心境なのであろう。紅莉栖が何を言わんとしているのか、計りかねる。

「つまり、これまで思ってた『過去改変=世界線の移動』という方程式には、まだ奥があったという事。いい……」

 紅莉栖は一度言葉を区切り、そして襟元を正して口を開く。

「世界線の移動とは、そもそも何なのか──」

 紅莉栖の説明に、鈴羽が割り込んだ。

「そんなの決まってる。過去を変えたから、未来が変わる。その変化こそが世界線の移動。それ以外にないじゃん」

 その言葉に、紅莉栖は頷いて見せる。

「そ。概ねはその通り。だから私も、過去を変えた原因を探していた。でも、よく考えてみると、それは正確とは言えない」

 紅莉栖はホワイトボードの前まで移動すると、専用マーカーのキャップを外し、真っ白なボードに黒い文字をしたため始める。


 『過去改変             =            世界線の移動』


 二つの言葉を、ボードの両端に書き記す。

「これが、いま阿万音さんが言った、方程式。でもこれは短絡的すぎ。正しくは──」

 紅莉栖が再び、マーカーを走らせる。


 『過去改変=過去と未来に矛盾=歴史の再構築=世界線の移動』


「こうあるべきなのよ」

 ボード上にマーカーを走らせ終えた紅莉栖に、俺が問う。

「どう違う? どちらにしても、過去改変で世界線の移動。同じではないか」

 そんな俺の言葉に、紅莉栖はマーカーを指先で弄びながら、「全然違う」と明言した。

「確かに岡部の言うとおり、結果は変わらない。でも、結果を生んだ原因は、変わってくる。そうね、極端な考え方だけど──」

 紅莉栖はマーカーを口に咥え、開いた手にフェルトの字消しを持ち、ボードの端を滑らせた。


 『        過去と未来に矛盾=歴史の再構築=世界線の移動』


「こうであったとしても、世界線の移動は起きる。そこに間違いはないでしょ?」

 字消しを置いた紅莉栖が、同意を求めるように、他の面々を見渡した。

「でも牧瀬氏。それってちょっと乱暴すぎね? 大体、『過去と未来の矛盾』つーけどさ、そもそも『過去改変』がなければ矛盾なんて──」

「それで、タイムパラドックスというわけか?」

 紅莉栖の意見に食いつこうとするダルに、俺は上から言葉をかぶせる。

「お前が言いたいのは、過去改変ではなく『タイムパラドックス』が、『過去と未来に矛盾』を作ったと──そういう事なのだな?」

 問いかける俺の声に、紅莉栖がゆっくりと頷きながら──

「それが結果として、世界線の移動を引き起こした。その可能性は、否定できない」

 手にしたマーカーを字消しの横に転がすと、紅莉栖は腰に手を添えて、「私は、そう考えている」と言った。

「ああ、そゆこと」

 ダルの口から、理解を思わせる発言が飛び出す。

「んま確かに、タイパラ系でよく引き合いに出される『親殺しのタイムパラドックス』なんて、まんま、その条件にあてはまってんもんね」

「親殺し? 何それ。何だか穏やかじゃないね?」

 ダルの言葉に興味を引かれたのか、鈴羽が口を挟む。

「しらんの? 有名だお、親殺しのタイムパラドックス」

「そうなの? ごめぇん。あたしって、流行とかに疎いからさぁ」

 いや、そう言う問題でも無いのだが──などと突っ込みを入れかけるが、それより早くダルが鈴羽の興味に対して、説明を添え始める。

「つまり、未来から来たタイムトラベラーが、過去で自分を生むはずの両親を、亡き者にするってやつだお。例えば阿万音氏、こう言う事」

 意気揚々と語り続けるダル。

「この時代で生きている阿万音氏のご両親を、阿万音氏自身がザックリいった場合、それは過去と未来のつながりに、大きな矛盾が生まれるわけで──って、阿万音氏? 何でそんな目で見てるっつーか、オカリンに牧瀬氏までそんな、なに? どゆこと?」

 三者ともにダルに向ける沈痛な面持ち。そのどんよりとした空気に、ダルが困惑気な表情を浮かべる。

「ダル。話を戻そう」

 俺が重々しくそう告げると、「え? なに? マジでなに?」と、ダルの困惑は深まったようだった。

「助手よ、続けてくれ」

 解説を求めるダルの声を無視し、俺は紅莉栖に発言権を振る。それに紅莉栖は「オーケー」と同意を述べて、話を戻した。

「私としては、最初の『第三者の過去改変』よりも、むしろ『タイムパラドックスによる矛盾の発生』の方が、追及する価値があると考えてる」

「まあ、それはかまわんが……。しかしだ。そうなれば今度は、『タイムパラドックスを起こした原因』などという、荒唐無稽の代物を探し出さなければならない事になるのではないか?」

 俺と紅莉栖のやり取りに、鈴羽が手を上げる。

「ごめぇん。分かりにくいから、簡潔に表現して欲しいかも。紅莉栖おばさんの話ってさ、いつも頭でっかちで、あたしには難しいんだよね」

 鈴羽の要求を乗せた言葉に、紅莉栖はこめかみをピクリと動かした。

「つまり、これからタイムトラベラーを探し出して、拘束。すぐさま筆舌しがたい拷問にかけて、知っている事を全てゲロさせなければならない。と、いう事よ」

 すごい簡潔な表現方法だった。

「アンダスタァァァンン?」

 剣先の尖った鋭い視線を前に、鈴羽が激しく首を左右に振り回す。

「あ、あたしもタイムトラベラーなんですけど……」

「あら、そう言えばそうだったわね」

 しれっとした紅莉栖の物言いに、鈴羽の表情が青ざめたように見えた。

「拷問……陵辱系? R18展開キター!」

 いつの間にか輪に再加入してきたダルに、「自重しろ」と、まゆりを除いた全員のツッコミが炸裂──

「そう言えば、まゆりはどうした?」

 不意に、幼馴染の少女が、長い事会話に参加していない事に気付く。

「まゆりなら、ほら。そこで遊んでるわよ」

 紅莉栖の指差した先に視線を向ける。と、そこにはラボの片隅で丸く縮こまり、なにやら一人で楽しげに遊んでいるまゆりの姿。

「どうして、ああなっているんだ?」

「えっと、何だか色々と限界っぽく見えたから、さっき、和ませようとメタルウーパを渡したの。そしたら、ああなった。詳細は知らない」

 頬を指先で軽く引っかきながら、どこか申し訳なさそうな紅莉栖。
 見れば確かに、まゆりの手の中で、キラキラと光るウーパ人形が踊っていた。

「まあ、仕方ない。どのみち、この話題は、まゆりには荷が重過ぎる。それよりも今は、タイムパラドックスの原因を考える方が先決だ」

 俺の言葉に、紅莉栖は再び表情を引き締めると、「そうね、時間ないし」と重々しい口調で同意した。

「タイムパラドックスを引き起こした原因。一番考えられるのは、やっぱりタイムトラベラーの存在だと思う」

 紅莉栖の言葉に、鈴羽が激しい抵抗を見せる。

「あたしはなにもしてないよ! だから拷問したって、なにも出ないよ!」

「ええと、さっきのは冗談。誰もあなたが原因だなんて、思ってないから」

「ほ……ほんとうに?」

「本当よ。信じなさい」

 諭すような紅莉栖を前に、鈴羽は安心したように、胸を撫で下ろす。そんな二人のやり取りを視界に捕らえながら、俺は紅莉栖に問いかける。

「では、現時点において、鈴羽以外にもタイムトラベラーが存在すると考えて、いいのだな?」

「その解釈でいいはずよ。それが誰なのか分かれば、問題解決の糸口になるかも」

「それはそうかもしれないが、しかし。鈴羽以外のタイムトラベラーか……」

 俺は大きく息を吐き出すと、手近な壁に背を預ける。

『言うが易しとは、この事か……』

 はっきりいって、想像もつかない。
 この世界のどこかに、鈴羽以外にも時間軸をさかのぼってきた存在があるなどとは、とうてい信じられなかった。

 そんな思いを、トラベラー本人である鈴羽にぶつけてみる。しかし、予想の通りと言うか何と言うか──

「あたしにだって分からないよ」

 返ってきたのは、そんな短くて頼りない返事。

 確かに、第三者案を信じて電話レンジ(仮)の類似品をさがすよりも、可能性は高いかもしれない。とはいえ、第二のタイムトラベラー探しが簡単な作業というわけでもない。

『とてもではないが、時間が足りない』

 鬱屈とした俺の思い。それは、しきりと唸り続ける他の面子たちも、どうやら同じようで──

 鈴羽は、床に座り込んで、うんうんと唸り声を立て。
 紅莉栖は焦りを滲ませた表情で、ラボの中を落ち着かない様子で、歩き回り。
 情報収集能力に定評のあるダルにしても、丸い身体をさらに丸めて、パソコンのモニターとにらめっこ。
 どの背中にも、進展の「し」の字も見当たらない。

『これは流石に……』

 などと思いかけ、慌てて頭を振る。

 ふと油断すると、たちどころにマイナスの感情が湧き上がってくる。そんな自分の精神力の無さに、つい渋い表情を浮かべてしまった。

『さっきもそれで、こいつらにいらぬ気を使わせたばかりだというのに、まったく』

 学習しない自分。それが何とも、歯がゆく思えた。

『俺が真っ先に諦めて、どうする』

 刻一刻と過ぎていく時間とともに、容赦なく降り積もる、焦り。俺は、そんな感情を押しつぶして、ラボの中をゆっくりと見回し──

「ねぇオカリン?」

 まゆりの声に、驚いた。
 またしても、気付かぬうちに俺の隣にいる少女。一体、いつどのタイミングで接近しているのだろうか?

 何度も何度も俺を出し抜く幼馴染を前に、俺は毎度の如く、驚きを覆い隠して言葉を返す。

「どうした?」

 まゆりはなぜか、少しだけうれしそうに、表情を緩めて見せた。

「みんな、タイムトラベラーさんを探してるんだよね?」

 その言葉に、押し込んでいた驚きを表面に出してしまう。

 ラボの隅で、一人戯れていたはずの、まゆり。その彼女が、タイムトラベラーのくだりを知っているとは思わなかった。

 誰も、まゆりにそんな説明をしていた気配は無かったのに──

「ずっと、聞いていたのか?」

 まゆりは「うん」と小さく頷くと──

「はい、オカリン」

 そう言って、俺の手に何かを握らせた。不思議な心持で、その手を広げる。

 そんな俺の耳に、透き通るようなまゆりの声が響いた。

「まゆしぃは、ずっと考えていました。オカリンがいなくなっちゃうのは嫌だから、ずっとずっと考えていたのです。だから、間違ってないと思うのです。きっとこの子が──」


 ──みんなの探してる、タイムトラベラーさんだよ──

 
 その心地の良い音色を聞きながら、俺は自分の手のひらに乗った、銀色の人形を見つめていた。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ14
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:40
     14



 感謝の気持ちで、一杯だった。

 じきにタイムアップを迎えるであろう、俺の人生。そんな未来を変えるべく、必死に知恵を絞り続ける、我がラボの誇る精鋭たち。

 そんな中で一人、話についていけず、会話から脱落していたはずの、まゆり。
 部屋の隅で、大好きなオモチャを手にして遊ぶ。そんな姿を見ても、俺にはまゆりを責める気など、毛頭なかった。

 ──この話題は、まゆりには荷が重過ぎる──

 紅莉栖に言った、俺の言葉。それは、紛れもない本心だったからだ。

 別にまゆりの事を、馬鹿にしているとか、期待していないとか、そういう事ではない。ただ単に、人にはそれぞれ、適した作業と言う物がある。
 だから、俺がまゆりに期待していたのは、知恵を絞る事ではなく、この場にたまりがちな重苦しい空気の払拭。

 そういう意味で言えば、まゆりはまゆりとしての作業を、きちりと全うしていたのだ。

 だが──

『その判断はどうやら、間違っていたらしい』

 まゆりはまゆりなりに、俺ですら諦めかけそうになった難問に、必死に喰らいついていてくれた。その事に、感謝の気持ちを抱かずにはいられない。

「俺のために、一生懸命考えてくれたんだな。ありがとな、まゆり──」

 俺は、手に乗せたメタルウーパの小さな重みを感じながら、まゆりを見る。
 せめて、少しでもまゆりの気持ちを汲み取ってやりたい。そう思い、俺はまゆりの頭に手を──

「違うよ、オカリン」

 伸ばした俺の手を、まゆりが身軽にかわした。そして、先ほどまでの微かな笑顔を消し去り、

「ちゃんと聞いて欲しいのです、まゆしぃは」

 見た事もないほどに真剣な顔つきで、そう言った。

「大丈夫だ。ちゃんと聞いて……」

「オカリン!」

 まゆりの立てた声に、たじろぐ。思わずかける言葉を、見失う。

 そんな俺たちの様子に気付いたのか、他のラボメン達が、こちらに顔を向けた。

「どしたん?」

 イスを回して身体ごと向きなおったダルに、俺は口ごもりながら答える。

「いや、すまない。大した事では──」

「みんな! まゆしぃはタイムトラベラーさん、見つけたのです!」

 俺の言葉をかき消したまゆりの声に、ラボの中が静まり返る。一瞬の沈黙。そして、

「ええ!? まゆ氏、それマジ!?」

「本当、まゆりおばさん!?」

 ダルと鈴羽が、まゆりの元に駆け寄った。

「本当だよ。ずっと考えてて、それでやっと、たどり着いたのです。きっとこの子が、タイムトラベラーさんなのです」

 そう言って、まゆりは俺の手に乗せられたメタルウーパを指差した。

 再び訪れる、沈黙。長い長い、無言の空間。

『ううむ……』

 何となく居たたまれなくなり、フォローを入れることにする。

「まあその、あれだ。何事も規制概念に捕らわれるなと言う、まゆりからのアドバイス……」

「まゆしぃは、本気なのです! 絶対に、絶対に、メタルウーパちゃんがタイムトラベラーさんなのです!」

 俺のフォローを踏みつけるようにして、まゆりは言い切ってしまった。

「いや、まゆ氏。いくらなんでもそれは……」

 すかさず否定的な言葉を口の乗せるダル。それも無理ないと言うもの。俺は沈痛な面持ちで、助けを求めるべく紅莉栖に──

「まゆり、説明して」

 紅莉栖の口から、またもや思いがけない反応が飛び出した。

 ちっぽけな人形が、タイムパラドックスを引き起こしたタイムトラベラー。

 まゆりの告げた、あまりにも破綻した理論。そんなものを、あの紅莉栖が受け入れるなどとは思えない。だと言うのに、まゆりを見る紅莉栖の瞳は──

 度重なる驚きを持て余しながら、俺は紅莉栖に言う。

「いや助手よ。何にでもすがりたい気持ちは、分からんでもない。しかしだな……」

「黙って、岡部」

 俺の発言を軽く払いのけ、紅莉栖はまゆりに歩み寄る。

「まゆり、どうしてメタルウーパがタイムトラベラーだと考えたの?」

「いやだから、待てと言うに。クリスティーナよ、お前までわけの分からん……」

「分かってないのは岡部、あんたよ」

 紅莉栖の凛とした瞳の輝きに、俺は口をつぐむ。

「まゆりは、いつだって正確に物事を見てる。きっと、私たちよりもずっと、物事の中心をしっかり見据えてる。あんた、まゆりとずっと一緒にいて、そんな事も分からないの?」

 俺を責め立てるような発言に、いつか紅莉栖が同じような事を口にした記憶が、蘇る。

『そう言えば、鈴羽の父親がダルだと最初に看破したのは、まゆりだった……』

 思い出し、それ以上何も言えなくなる。そんな俺を尻目に、紅莉栖がまゆりに視線を戻す。

「まゆり、お願い。教えて」

 紅莉栖の言葉に、まゆりはニコリと微笑を浮かべた。

「ありがとうね、クリスちゃん。信じてくれて、うれしいよ」

 そして一度、「えへん」と鼻を鳴らし、話し始める。

「タイムトラベラーさんは、この時間の子じゃないんだよね? ならこの子だって、オカリンが紅莉栖ちゃんを助け出すために、他の時間から持ち帰った子でしょ?」

「いやだからね、まゆ氏。子っていうけど、それ、生きてないから」

 ダルが口を挟んだ。すぐさま紅莉栖が止めに入ろうとするが、しかしそんな紅莉栖の行動を、まゆりが手を差し出していさめる。

「違うよ、ダルくん。この子だって、ちゃんと生きてる。わたし達と同じ、ここにいる意味を持ってるの」


 ──だから、立派なタイムトラベラーさんなんだよ──


 その言葉に、紅莉栖が反応した。

「意味……存在する、意味……か。汎心論? いや、ちょっと違う。なんだろ……」

 一人、考えを巡らせて始めた紅莉栖。まゆりの解釈を、何とか既存の理念に放り込もうとでもしているように、ぶつぶつと独り言を続ける。その姿が少し、意外であった。
 そんな紅莉栖とは対照的に、やはりダルはどうにも腑に落ちないようで──

「何と言っても、結局、物は物っしょ? タイムパラドックスの原因と言ったら、普通は生物に限定されるぜ、常考。だったら、メタルウーパがタイムトラベラーって解釈自体──」


「あーーー!!!」


 ダルの反論の最中、鈴羽が叫び声を上げる。何事かと、全員の視線が鈴羽に集まった。

「そっか! タイムパラドックスの原因を探してたんだ!」

 その発言の、あまりの内容無に、思わず呆れ返ってしまう。

「バイト戦士よ。では貴様は、今まで何を探していたというのだ?」

「いやさ、タイムトラベラーを探せって話だったからさ。つい、あたしと同じ時間旅行者の事ばっか、考えてた。でも、違うんだ。本当に探さなければいけないのは、『タイムトラベラー』じゃなくて、『タイムパラドックスの原因』だったんだよ!」

 何かに目覚めたかのように、鈴羽が顔を輝かせて、拳を握り締める。

「いや、今更そんな事を力説されてもだな……」

 どこかとぼけた鈴羽の物言いに、意図せずも顔が歪んでしまう。

「あはは、失敗失敗」

 俺の冷めた視線を受けて、バツが悪そうに頬をかく鈴羽。そんな鈴羽に、紅莉栖が聞く。

「で、何が『あー!』なの? 何か思いついたように見えたけど?」

「そうそう! 思いついたって言うか、知ってたて言うか、聞いてたって言うか……」

「まわりくどいぞ、バイト戦士。要点を述べろ」

「だから、あるんだって! そのオモチャがタイムパラドックスを発生させた可能性は、十分にあるんだよ!」

 鈴羽の発言に、俺の、紅莉栖の、ダルの目が、大きく見開かれる。特に、ダルの動揺は大きく、「う、嘘だお?」と、その巨体をわななかせている。

「嘘じゃないよ。だって、紅莉栖おばさんが、そう言ってたんだからさ」

 唐突に、胡散臭かった鈴羽の発言に、確固たる信憑性が付与された。

「未来の私が……そう言ったの?」

 狐につままれたような、紅莉栖の表情。鈴羽は力強く頷いて、その言葉を肯定する。

「最初のタイムトラベル……だから、あたしにとっては二年前の事になるけど──。その時、紅莉栖おばさんから、時空移動の注意点を、沢山聞かされたんだよ」

「ではその時、『物』でもタイムパラドックスを引き起こすかもしれないと、そう言われたというのか?」

「そ。人間や生き物以外にも、タイムパラドックスを起こす危険があるって言われた」

「……マジですか」

 ダルの萎えた声が小さく聞こえたが、鈴羽は構わず言葉を続ける。

「で、その中でも一番注意しなければいけないのは、連絡手段としての情報端末機だって。過去に飛ぶ際は、絶対に持っていくなって言われたよ」

 その発言に、俺の中の記憶が、微かに揺れる。

「連絡手段……。阿万音さん、それってつまり、携帯電話や無線機の事よね?」

 紅莉栖の質問に、鈴羽はコクコクと首を振る。

『携帯電話……?』

 そう言えば──と、思いだす。

『確か、β世界線で過去に飛ぶ前。鈴羽は俺の携帯を……』

 記憶を頼りに、鈴羽に問う。

「それはもしや、同じ番号の携帯が複数あると、『混線』するとか何とか……そういう事か?」

「混線? 何それ?」

 逆に、問い返されてしまった。
 仕方なく、俺はβ世界線の鈴羽が、タイムマシンから俺の携帯電話を放り出した経緯を、説明する。

「それで、そのあたしは『混線するから持っていかないほうがいい』って言ったの?」

「うむ。確かにそう言ったが……」

 鈴羽は困惑を顔に浮かせて、指先で頬をかく。どうやらこの世界線の鈴羽には、β世界線の鈴羽の言動が理解できないようで──

「オカリン。それヘンだわ……」

 さっきまで会話から外れていたダルが、心的外傷を克服して、意見を出した。

「ヘンとは、どういいう事だ?」

「だから、同じ番号の携帯電話なんて、今の時代、簡単に作れるっつー話。よく映画とかでも、FBIなんかがターゲットの携帯をコピーして盗聴──とか、そゆのありふれてるっしょ。だから、混線自体に危険なんてないはずだっつーか」

「では、あの時鈴羽はなぜ『混線』などと? まさか鈴羽が嘘を?」

 俺の疑問に答えたのは、紅莉栖だった。

「それはない。阿万音さんが、そんな嘘をつく理由なんてないもの。そうね、考えられるとしたら──」


 ──混線した結果、電波を触媒にして、二つの携帯電話がつながる──


「その結果、タイムパラドックスが起こるかもしれない。それを警戒したっていう可能性はない?」

 紅莉栖の出した解答に、鈴羽が丸をつけた。

「ああ、それなら紅莉栖おばさんの話と同じだよ。おばさんは『混線』なんて言わなかったけど、でも電波で同じ携帯──つまり、同一存在どうしがつながる事で、タイムパラドックスが起こるかもしれないって言ってた。検証はしてないけど危険がある。だから、過去には絶対持っていくなってね」

 その言葉に、俺は「つまり……」と腕を組んで唸る。

「未来の助手と、β世界線での鈴羽。この二人ともに、『物』でも『タイムパラドックス』が起こる可能性がある事を、示しているという事か……」

 俺は改めて、自分の手のひらに転がる、小さな銀色の人形を凝視する。

 紅莉栖を救い、第三次世界大戦を回避するために向かった、過去。
 そこから、何の気なしに持ち帰った、金属製の人形。

 そんな銀色の存在を視界に納め、考える。

 メタルウーパをタイムトラベラーだと言った、まゆりの言葉。
 最初は、そんな馬鹿なという思いだった。しかし、先ほどのやり取りを境に、俺の中にあった『否定』の思いは『疑念』へと成り代わっていた。

『こんなオモチャが、本当に……?』

 にわかには信じられない話。だが、そんな眉唾な可能性を、どうしても笑い飛ばすことが出来ない。

 中鉢のロシア亡命を許し、俺の死を確定付けた、この世界線。二度に渡り、残された紅莉栖に長い苦しみを味あわせてきたという、この世界の歴史。

 そんな冷酷で残酷な世界を呼び寄せたのが、本当にこんなちっぽけな存在だと言うのだろうか?

「どう思う、助手よ……?」

 判断に困った俺は、同じように思案に暮れている紅莉栖に意見を求める。

「分からない。『物』でもタイムパラドックスが起こるのだと仮定して、でも、それを引き起こした原因がメタルウーパだという根拠があるわけじゃない。だから、安易に結論を求めるべきじゃないと思う。でも──」

 紅莉栖は口元に手をあてがい、目を細める。

「状況的には、合致している部分が多い気がする」

「……と言うと?」

「つまり、世界線の移動に伴って変化した状況。少なくとも、その変化の内の二つに、メタルウーパが絡んでる」

 中鉢のロシア亡命成功。
 一週間前、俺が紅莉栖に伝えた『大戦の回避失敗』という説明。

 この二つの変化ともに、メタルウーパが関わっている事は明らかだと、紅莉栖はそう言った。

「まあしかし、たった二つだけなら偶然の一致という事も──」

「たった二つじゃない。二つも、と考えるべきよ。岡部、わたし達が把握してる変化って、今言った二つ以外に何がある?」

「他にと言われても、後は……俺が死ぬ事くらい……だな」

「そう。私たちに認識できてる変化は、あんたの死を含めた、その三つだけ。その内の二つは、明らかにメタルウーパが関係してる。確立で言ったら、66.6%。微妙な数字ではあるけど、でも気軽にスルーするには、ちょっと気になる。それに──」


 ──あんたの死だって、メタルウーパが絡んでいないとは、言い切れない──


 そう告げた紅莉栖の言葉に、俺は虚を突かれる。

「いくらなんでも、それは暴論ではないか? こんな人形が俺の死に関わるなど、あまりにも──」

「思い出して、岡部」

 反旗を翻そうとした俺の言葉を、紅莉栖の低く抑えた声が、遮った。

「まゆりの死が確定していた世界線。その原因は、あんたが最初に送った、Dメールだった。だけど、まゆりが死ぬ状況は、千差万別。DメールがSERNを呼び寄せて、って言う直接的な状況もあったけど、でも、何の脈略もなく、それが起きる事もあった。つまり──」

 ──世界線が決めているのは、結果だけ。それに至る過程は、決まっていない──

 だから、俺の死がメタルウーパと無関係だとは言い切れないのだと、紅莉栖は主張する。

「では、俺の死さえも、メタルウーパが原因だと?」

「断言はできない。それでも、その可能性も否定できないっていうだけの話。だから、まったくの見当違いだという事もある。でも……」

 そこで言葉を止め、そのままうつむいて考え込む紅莉栖。

 俺はそんな彼女の横顔を見ながら、そのあまりにも冷静な思考が、何かの答えをはじき出すのかと、微かに期待を膨らませる。

 が──

「だめだ、結論が出せない」

 紅莉栖の口から、無情な言葉が零れ落ちる。その表情に、冷静さを覆いつくすような苛立ちが見て取れる。

「本当に、この考えで動いていいの? これで、合ってるの? 時間がない。もう間違うわけにはいかない。もし間違えたら……」

 普段の自信に満ち溢れた姿とは対照的な、どこか不安に塗り固められた瞳。その色に、かけるべき言葉が見つけられずにいた。
 紅莉栖の呟きに、次第に焦燥感ともいえそうな何かが溶け込んでいく。

「情報が欲しい。せめて、メタルウーパと関わりのある、他の変化。そんな情報が他にもあれば──」
 
 紅莉栖の視線が、俺を捕らえた。

「岡部、何かないの? 私の知らない……観測者のあんたしか気付かないような、メタルウーパに関わる変化はないの?」

 すがるような紅莉栖の瞳に、思わずドキリと胸が高鳴る。場違いであることは重々承知である。であるが、それでも改めて目の前の女性が魅力的であるという事を、再認識してしまう。

 出来ることなら、ここは男らしく助言をして格好を付けたいところであった。が、ありもしない情報を口にする事はできず──

「と言われてもだな……」

 と、口を濁すことが精一杯。

 そんな俺の頼りない返答に、紅莉栖が目に見えるほどの落胆を見せる。
 肩を落とし、ため息交じりの吐息を吐き出す。その音が、何とも重く耳に響き、俺は慌てて続ける言葉をひねり出す。

「ええとだな。何と言うか……βから元の世界線での事は、ほぼ説明済みだし……。それにだ。世界線が移動した辺りでは、そもそもメタルウーパを持っていたのは、俺ではなくて、お前自身であってだな……。だから、俺に聞かれても……」

 そんな言い訳じみた言葉を口にしながら、またもや自己嫌悪。なぜもっと、カッコいい事を言えないのだろうかと、惨めな思いが頭をもたげる。

 しかし、意外な事に、俺のそんな責任転換ともとれる発言に触発でもされたのか、紅莉栖の瞳に再び思考の光が灯る。

「私自身……。そう、私が岡部からメタルウーパを受け取って、その後に世界線が動いた……」

 ぼそぼそと呟き終え、そして俺を見る。

「岡部、世界線が変わる前後で、私の言動に変化はあった?」

 紅莉栖の問いかけに、今度こそ、もう少しマシな返答をと、足りない頭を無理やり回して答える。

「そうだな。無いわけでは……ない。現に、一週間前の説明が変化したことで、お前の中にある記憶に、変化がおきているではないか」

「それはもう知ってる。それ以外は? 他に変化はなかった?」

「他……か」

 小さく呟き、そして記憶を頼りに、思いついた言葉を並べてゆく。

「俺に主観を話せと迫った事は、そのままなのだな?」

「そうね。それは変化してない」

「帰国に関しても、今でこそ中止になってはいるが、やはり、その話自体は、この世界線でもあったのだろう?」

「……うん。こんな事にならなければ、もうとっくに帰国してるはずだった。ママに押し切られちゃったから……」

 少し気落ちしたように聞こえた紅莉栖の言葉。それに、何となく引っ掛かった。

「押し切られた? そうだったのか? 俺はてっきり、自分の意思で帰国を決めたものだと思っていたのだが……」

「え? なんで?」

 俺の発言に、紅莉栖の目が疑問を模る。

「だってお前、けじめがどうとか言っていたではないか」

「けじめ? けじめって何?」

 キョトンとした紅莉栖の瞳。その言葉に、微かにかみ合わない『何か』を感じ取る。

「そんな事、俺に分かるか。届いたから、けじめを付ける。そう言う約束だったと、そう言っていたのは……」

 そう口にした時、自分の感じていた『何か』の正体に思い当たる。

『これは、リーディングシュタイナーの食い違い……?』

 まさかと思った。だから、それを声に乗せる。

「まさか、言っていないのか?」

「私はそんな事、言ってない。届いたって、何が……?」

 俺の問いかけを、紅莉栖は首を振って否定する。

 一週間前にこの場所で、団扇代わりの小包片手に、『届かなければよかったのに』と呟いた、記憶の中の紅莉栖。しかし、その記憶は明らかに、紅莉栖の記憶と食い違っていて──

『間違い……ない……』

 身体の底から、震えが込み上げてきた。

 それが恐怖によるものなのか、興奮によるものなのか、期待によるものなのかは分からない。しかし、何かが前に転がった気がして、その感覚に身体と思考が激しく揺れた。

 そんな俺の視界で、紅莉栖が表情を引き締める。

「岡部、一週間前の事、詳しく話して。私とあんたが、どんな会話をしたのか。その時、私がどんな言動をしたのか。出来る限り、詳しく話して」

 その申し出に、思わずたじろぐ。

「いいのか? 詳しくという事は、つまり──」

 俺は、他のラボメン達を見回す。

 詳しく話すという事は、あの時、紅莉栖を抱きしめた俺のことや、俺にしがみ付いて離れなかった紅莉栖の事や、その他もろもろ──

「さあ~ダルくん、鈴さん。まゆしぃと一緒に、ジューシーから揚げナンバーワンを買いに行くのです」

 突然の提案が、ラボに響く。

「へ? まゆ氏、いきなりどゆ事、うほぇ!?」

「あ、ちょっと、まゆりおばさん! 何で引っ張るの!?」

「いいから、いいから~、い・く・の・で・す!」

 呆気に取られた。呆気に取られたまま、まゆりに引きずられてラボから出て行く、ダルと鈴羽を見送った。

 そんな光景を俺と共に見ながら、紅莉栖がぼそりと呟く。

「まゆり、別に気を利かせなくても、いいのに……」

「そう言うな。あれこそタイミングの申し子。椎名まゆりの真骨頂ではないか」

 確実にいいタイミングで放り込む。そんなまゆりの特殊技能に、俺は感心しきりの思いで、そう口にした。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ15
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:42
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「マジなん? マジでメタルウーパがタイムパラドックスの原因なん?」

 どこか納得できないと言ったダルの言葉に、俺は力強く返す。

「そうとしか思えないだけの状況が出そろったのだ。だからこそ、俺は確信している。この事件の真犯人。それは、こいつであると!」

 テーブルの上に鎮座するメタルウーパ。それ目掛けて、勢いよく人差し指を突きつける。

「うわ~オカリン、かっこいいね~。まるで探偵さんみたいだよ~」

 俺の勇姿に賛辞を送る──そんなまゆりの言葉に、身体をそらせて胸を張る。と、紅莉栖が眉間に指先を押し当てながら、呆れた声を出した。

「だから、時間がないといっとろーが。大体、なんであんた、そんなに楽観的でいられる? まだ何も解決してないだろ」

「ふん。狂気のマッドサイエンティストたる鳳凰院凶真の前では、いかな難問もひれ伏さずにはおれんのだ。フゥハハハー!」

 無論、嘘である。
 いかなる難問にも屈しない。そんな紅莉栖の事を、俺は信じているだけである。

 全面的な信頼。

 言うは容易いが、しかし実行するとなると、それなりに理性の操作に苦心を強いられる。ほんの少しでも気を抜くと、すぐにでも不安が噴き出してくるのだから、なかなかどうして、他力本願というのも侮れない。

『だとしてもだ。俺はいつ何時も、仲間を信じて、大きく構えていようではないか』

 などと、一人こっそりと不甲斐ない決意を固める。と、鈴羽が好奇な目を俺に向けた。

「へぇ。それが噂の鳳凰院凶真なんだ、始めて見たよ」

「ならば、しかとその目に焼き付けておくが良い」

「そうするよ。それにしても、聞いてた通り、本当にお馬鹿率三割り増しなんだなぁ」

 鈴羽の言葉に、紅莉栖を睨みつける。

「おい、助手。貴様、未来で鈴羽に何を吹き込んだ?」

「知るか!」

 通常よりも三割り増しの迫力で、睨み返された。

「分かってる? どん詰まりなのは、誰でもない、あんた自身──」

「?」

 途中で途切れた紅莉栖の言葉。そこに見えた表情のかげりに、薄い疑問が頭を過ぎる。

「どうした、クリスティーナ。ひょっとして、まだ体調が優れないのではないか?」

「大丈夫、なんでもないから。それよりも、そろそろ話を進めた方がよくない? 橋田さん、そろそろ我慢の限界かもよ?」

 紅莉栖の物言いにダルを見る。と、その言葉どおり、苛立ちを露にしたダルの姿。巨体の立てる貧乏ゆすりの振動に、安価なイスが悲鳴を上げていた。

「勿体付けづに早く説明きぼん。どして、メタルウーパが原因なんよ?」

 ダルの言葉に、正直困る。

『説明しろと言われてもな……』

 などと愚痴りたい心境ではあるが、しかし、そこはあえて、胸と共に虚勢を張る。

「よかろう、ダルよ。しかと聞き届けるがいい。この俺の、スーパーな理論展開を、今からそこの助手が講釈たれてくれるからな!」

 白衣を大きくはためかせ、ビシリと紅莉栖を指差して指示を出す。

「ああ、やっぱり私に振られるのか……。って、まだ岡部にも説明してないから、当然と言えば当然の流れだけど」

 そうなのである。
 あろう事かこの助手は、何度も説明するのが億劫だとか何とか言って、外出した三人がラボへ戻ってくるまで、頑として俺の説明要求に応じようとしなかったのである。

『助手の分際で、生意気な……』

 なんて事を思い、執拗に要求を突きつけるも『今はやだ』と、それはもの凄い勢いで睨み倒されてしまった。

 だから俺は、威張り散らしてこそいるが、その実、紅莉栖の考えを何も知らなかったりする。

「あれ? ひょっとして、まだ何も聞いてないの、岡部倫太郎?」

 紅莉栖の言葉と俺の反応に、情けない現状を察した鈴羽が、いらぬ推察をする。図星であった。

「わるいか……」

 どこか自虐的に吐き捨てた俺の言葉に、どういうワケか鈴羽とダルがそろって「悪くない。悪くない」と首を振る。

「ちょっと心配だったんだ。岡部倫太郎の説明じゃ、分かるものも分からないっていうか……」

「そそ。牧瀬氏中心の講義こそ、受講にあたいするっつーか、むしろオカリンいらないつーか」

 お前たち。どこまで失礼なのだ?

 心無い中傷に悲嘆にくれながらも、しかしやっと詳細を聞ける状況が揃った事には違いなく。
 俺は紅莉栖に講義開始のベルをならすよう、目で合図を送る。
 その合図を正確に受け取り、紅莉栖は表情を引き締め──

「じゃあ、はじめる」

 厳かな口調で、そう言った。

 それに合わせるように、今まで弛みきっていたラボ内の空気が、一瞬で張り詰める。

「まず、結論から言う──」

 引き締まった空気を身にまとい、紅莉栖は凛とした表情で口を開いた。

「一週間前に起きた世界線の移動。その原因は、過去から持ち込まれたメタルウーパが引き起こしたタイムパラドックスにある。そして──」


 ──タイムパラドックスは、二つのウーパが接触した事で、引き起こされた──


「私は、そう考えている」

 そう言葉を締めくくった。
 紅莉栖が口にした結論。その中に聞きなれない表現を見つけたのか、ダルがそれの正確な解釈を、挙手を伴って紅莉栖に求める。

「二つのウーパって、つまりオカリンが持ち帰ったメタルウーパと、もともとこの時間軸に存在しているメタルウーパの事っしょ? その二つがくっついたから、タイムパラドックスが起きたって意味でいいん?」

 正答とも思えるダルの認識。しかし、ダルのそんな解釈を、紅莉栖は「そうじゃない」と首を振って否定する。

「メタルウーパ同士の接触は、理論上、不可能なはずよ。だから、私が言っている二つのウーパっていうのは、そう言う意味じゃない。確かに一つは、岡部が過去から持ち帰った、そこのメタルウーパだけど、もう一つは──」


 ──パパが私の論文と一緒に持ち去った、プラスチック製のウーパの事──


 紅莉栖の告げた言葉の意味。それを耳にしたラボメン全員の頭上に、おびただしい数のクエスチョンマークが乱れ飛ぶ。

「それはつまり、『メタルウーパ』と『メタルではない普通のウーパ』の接触が、タイムパラドックスを引き起こした──と、そう聞こえてしまうのだが?」

 目を白黒させながら、俺の投げた確認の言葉に、紅莉栖は「そう聞こえたのなら、あんたの聴覚は正常よ」と、頷いて見せる。

「でも牧瀬氏。いくらなんでもその二つでっていうのは……」

「そうだよ。その二つの接触じゃ、タイムパラドックス発生の基準を満たしていない」

 ダルと鈴羽の反論は、もっともである。

 タイムパラドックスの発生原因。その代名詞ともいえる、タイムトラベラーによる本人どうしの接触。

 仮にメタルウーパがタイムトラベラーだとして──
 仮にメタルウーパがタイムパラドックスを引き起こしたのだとして──

『ならば、タイムパラドックスの原因は、メタルウーパ同士の接触という事になるべきだろう?』

 それは、最も根本的なルールに沿った、当たり前の推測。しかし、今の紅莉栖の言葉は、そんな最低限のルールさえも無視したものに思えた。

 俺は両腕を組んで、紅莉栖に問う。

「助手よ。なにがどうして、そうなったのだ?」

 何事も教科書どおりに、などと言うつもりはない。しかし、紅莉栖の発言が、基本概念をあまりにも逸脱している事も事実。普通ならば理由など聞かずに、すぐさま却下されても不思議ではない提案。とはいえ──

『鵜呑みには出来んが、しかし頭から否定も出来ない』

 そう考えた上での、問いかけであった。

 論理の代弁者、牧瀬紅莉栖。
 天才脳科学者として、タイムリープマシンの開発者として──。その類まれなる頭脳を、俺はこれまで、幾度となく目の当たりにしている。
 だからこそ思ってしまう。

 荒唐無稽に聞こえる紅莉栖の発言にも、その実、正確無比な理論に裏付けされた何かがあるのではないか、と。

 ならばと思い、そんな思いを紅莉栖にぶつけてみる。が──

「理論がないわけじゃない。けど、正直言って、口にするのに抵抗があって……」

 よく分からない返答を返されてしまった。
 そんな煮え切らない紅莉栖の対応に、俺は低く唸り声を立てる。

「抵抗があるだと? まさか、ここまできて、言いたくないとでも? お前な、子供じゃあるまいし……」

「だって! 何と言うか、あれなんだ。物凄く……とんでも科学的な発想と言うか……」

 紅莉栖の口から、信じられない単語が飛び出した。あまりの事に、俺が唾を撒き散らしながら大声を上げる。

「とんでも科学だと!? あの助手が!? 論破の鬼が!? よりにもよって、とんでも科学だと!?」

 俺の叫びに、紅莉栖の顔が、一瞬で羞恥の色に染まり上がる。

「だろ!? そういう反応になるだろ! だから言いたくないんだ! ってか、鬼ってなんだ!」

 声を張り上げながら、もじもじと恥ずかしそうに身体をよじらせる。その姿はまるで、意中の相手を前にして、告白を控える乙女のようではないか。

「鬼のクセに、似合わぬ真似を」

 などと口にすれば、ガチでボコられる事は明白なので、あえて口にはしない。代わりに、冷静な異議申し立てをもって、紅莉栖の視線を先の失言から引き離す事にする。

「しかしだな。鈴羽ではないが、何の説明も無しに、無条件で飲み込めと言うには、あまりにも……」

「何も説明しないとは言ってない」

 紅莉栖が俺の提供した話題に食いついた。鬼発言を見事スルーできた事に、心の中でガッツポーズを決めながら、問い返す。

「では何を?」

「とりあえず、私がとんでも科学なんてものを構築してしまった、その過程を説明する。その上で、『異なる二つのウーパ』がタイムパラドックスの原因だという私の考えに対して、皆の判断を聞いてみたい」

 他者の意見を求める。
 そんな紅莉栖など、想像した事もなかった。この、天才論破厨少女の基本理念は、『異論は認めない』でのみ構成されているものだとばかり、思っていたが──

「お前が、他人に自分の意見の真偽を問おうとはな。意外だぞ」

 素直に思った事を口にすると、紅莉栖は整った顔を微かに歪めて、呟いた。

「私だって、自分の理論に迷う時だってある。正直、今でも踏ん切りがついてない。とんでも科学なんてものを信じていいのか、ものすごく迷ってる。だけど──」


 ──それでも、そう思えて仕方ないくらいの情報が、揃ってしまった──


 そう吐き捨てた紅莉栖の表情は、苦しげな形をとりながらも、しかしそれでも前進しようとする瞳の色だけは、絶やしていなかった。



[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ16
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:43
     16


 『メタルウーパ』と『プラスチックのウーパ』

 まったく異なる存在である、二つのウーパ。
 この二つが接触をする事で、何かしらの異常が起こり、世界線は移動した。

 荒唐無稽で根拠なし。あまりにも幼稚な、妄想中心の理論展開。だがしかし──

『さすがは紅莉栖といったところか』

 俺は喉の奥で声を回す。

 紅莉栖の話を聞き終えて、彼女の言っていた『状況が揃いすぎている』という言葉の意味を、そこで初めて理解した。

『タイミングが合いすぎている……か』

 確かにその通りだと思った。偶然と言うには、あまりにも出来すぎた状況。それが、馬鹿馬鹿しいはずの『とんでも科学』に、奇妙な信憑性を植えつけている。

『ありえるのかも……しれん』

 そして気付けば、いつしか紅莉栖の意見を鵜呑みにしかけていた。どうやらそれは、他のラボメン達も同じようで、みな一様に難しそうな顔をしているが、いっこうに反対意見が飛び出してくる気配はない。

 そんな面々の状態を危ぶんだのか、紅莉栖が釘を刺した。

「何度もいうけど、今の話はあくまでも仮説よ。そう考えれば、いろいろと辻褄が合うというだけで、そこには何の検証も実証もない。だから、どれだけもっともらしく聞こえても、それが正解だという保証はない。その事を忘れないで」

 そう告げた紅莉栖を横目で見ながら、俺は「分かっている」とにわか返事を返す。
 だがしかし、心のどこかで、紅莉栖の話に感じた信憑性を、どうしたものかと持て余しているのも事実。

「分かっているが、しかしだ……」

 俺は言葉を濁して考え込む。

『異なる二つのウーパ。それらの接触が、世界線移動の直接的な原因……』

 黙り込んで、今しがた聞いた紅莉栖の話を、頭の中で思い起こす。


 一週間前までの世界線。

 あの、シュタインズゲートなどと呼ばれていた世界線。そこでは、俺の持ち帰った『メタルウーパ』と、中鉢が持ち去った『プラスチックのウーパ』は──

 ──二つとも、紅莉栖が持っていた──

 紅莉栖の話では、そういう事になっていた。

 まあ、『メタルウーパ』に関しては、俺自身が渡しているので疑いようはない。
 だがしかし、『プラスチックのウーパ』は、中鉢教授の手によって、論文と共に、国外へと持ち出されていたはずである。しかも、航空火災に巻き込まれているという、おまけ付き。

 ともすれば、そんな物が紅莉栖の手元にあったという状況は、いささか飲み込み辛いと言うほか無いのだが──

 そんな俺たちの疑念を払拭するために紅莉栖が引き合いに出したもの。それは、紅莉栖の記憶から消えてしまった、あの手荷物であった。

「サイエンス誌から送られてきた何か。私はそれに対して、『ただのゴミだ』だと、『無理を言って送ってもらった』と、『届くとは思ってなかった』と、そう言ったらしい。もしも、その岡部の記憶が確かなら──」


 ──中身はきっと、パパが持ち去った論文だったはずよ──


 自信に満ちた、紅莉栖の言葉を思いだす。

 サイエンス誌から紅莉栖に届いた荷物。それは世界線の移動に伴って、その『届いた』という事実ごと、消失してしまっている。
 であれば、今の紅莉栖に、その中身を知る術などないようにも思えた。だが、それに対する紅莉栖の回答は明確で──


──だって、今の私も、サイエンス誌に同じ事を掛け合ったから──

 
 何とも単純明快とは、このことだろう。

 この世界線の紅莉栖もまた、以前、サイエンス誌に無理な願いを頼んだ事があるのだと言う。

「何とか、盗られた論文を取り返せないかって、サイエンス誌に頼んだの。まあ、その時は不可能だって断られたけどね」

 当然の拒否といえよう。
 この世界線には、『中鉢の亡命成功』という前提があるのだ。ならば、持ち去られた論文は、大国ロシアの管理下にあるということになる。そんな場所に、一出版社の力が及ぶはずも無い。

「だけど、もしも岡部の言うように、前の世界線で論文が航空火災にあっているのなら、状況は違うはずよ。燃えていればただのゴミ。そんな物は、ロシアの管理下に入るはずが無い」

 そんな紅莉栖の発言に対し、むしろ燃えてしまった物を取り戻す事の方が、困難ではないか?

 などという疑問も上がった。しかし──

「確かに、航空火災で全て燃え尽きているなら、そうだと思う。けど、届けられた以上、そこには何らかの形があった。焼け残った一部とか切れ端とか、何かしら形のある物が残っていた」

 ──サイエンス誌が送ってきたという事実がある以上、きっとそう考えるべきよ──

「それに、例え燃えてしまっているとしても。例え、もう論文としての価値なんて無かったとしても。きっと私はサイエンス誌に取り戻せないかって、掛け合っているはず。だって──」

 まるで自分の考えを確認しなおすかのように、一言一言ゆっくりと呟かれた、紅莉栖の言葉。それに、ダルも鈴羽もまゆりも反論しなかった。

 俺に至っては、反論するどころか、「ただのゴミ」だと、「届くとは思ってなかった」と、「誤算かな」と、一週間も前に聞いた台詞が──

『妙に、当てはまっては……いる』

 と、どこか不思議な説得力に納得しきりであった。

 だからこそ、紅莉栖が最後に結論付けた、「論文の焼け残りと一緒に、焼け残ったプラスチック製のウーパも、封筒に入っていたのだと思う」という言葉を受けて──



 ああこれ? これは……ただのゴミ。中身は可燃物と不燃物が少々かな。



 あの時聞いた紅莉栖の言葉を思い起こしながら、『不燃物といえなくもないか』などと、考えた。



 そして今、これまでの経緯を思い描きながら、俺は思う。

 俺が過去からメタルウーパを持ち帰り、はや二ヶ月。入院し、退院し、紅莉栖をラボメンに引き戻したこの二ヶ月という時間は、なんの異常もなく、平穏に過ぎていた。

 そんな中、紅莉栖の手元にサイエンス誌からの荷物が届き──
 俺自身の手でメタルウーパが紅莉栖の手へと渡り──

 その直後に感じた、リーディングシュタイナー。これまで、まったく動きを見せなかった世界線が、何の前触れもなく暴れ出した。

『確かに、これ以上ないくらいのタイミングではある……』

 もしも本当に、紅莉栖の推測どおり、サイエンス誌からの荷物に、焼け残ったプラスチックのウーパが含まれていたのだとすれば──

『これは……いけるんじゃないのか?』

 思わず、そんな希望的観測が頭を過ぎる。

 紅莉栖が発言拒否をした、『とんでも科学』の内容をまだ聞いてはいない。だがしかし、状況を把握するにつれ、『二つのウーパの接触』が、何かの引き金になっているという紅莉栖の説には、少なからず信憑性を垣間見ることができた。だから──

『生き残る事が、できるのか?』

 そう思ってしまう。

 これまで、向くべき方角すら分からない状況だったのだ。それからすれば、大きな進展なのだと思えた。

 だからこそ、不思議でならない。


『なんだ、この嫌な感じは……?』


 微かに感じる、後ろ向きな感情。その正体が見えず、渦巻き始めた何かに、理性を小さく煽られる。

『一体、何だというのだ』

 それは疑念や不安などと呼ばれているものに、良く似ていると思った。

 紅莉栖の立てた、事態収束のための理論。それに不満があるわけではない。
 それどころか、紅莉栖の導き出した一つの解答に、すぐにでも納得できてしまいそうな自分がいるのだ。

『ならば、紅莉栖を信じて、先へと進むべきだろう? こんなところで、得体の知れない感情に手をこまねいている場合ではないだろう?』

 だと言うのに、胸を揺さぶる不可解な感覚が、その占有幅を広げていく。押しとどめる事ができない。

『……現状は、明らかに好転しているはずではないか』

 暗闇の中を手探りで進む。そんな俺の進むべき道を照らし出す、一筋の光明。いわば紅莉栖の案とは、俺にとってそう言うものなわけで──

『だったら、なぜだ……?』

 湧き上がる感情を理解できずに、持て余す。

 と──

「仮説とは言うけどさ、牧瀬氏。一応、筋は通ってるっぽくみえるし、いいんでね?」

 紅莉栖の意見を受け入れたダルの言葉。
 俺は、渦巻く疑念に弄ばれながらも、耳を立てる。 

「そうだね。状況が変わるだけで、考えって変わるものだね。前のときとは大違いだよ」

 鈴羽の言葉。
 おそらく、一回目の失敗とやらと、今の現状を照らし合わせての発言であろう。無論それは、紅莉栖の意見に対する賛同の意を表していた。

「まゆしぃもクリスちゃんに賛成なので~す」

 間延びしたまゆりの声に、場の空気が少しだけなごむ。だがそれでも、俺の心中にかかる霧は、一向に晴れようとしなかった。
 それどころか、俺以外のラボメン達が紅莉栖の考えに賛同していくたびに、渦巻く何かが強く、巨大に膨れ上がっていく。

 そんな俺の心情を差し置いて──

「岡部はどう思う?」

 真っ直ぐな視線を俺へと向けて、紅莉栖が問いかけてくる。

「…………」

 しかし、そんな意思確認に対して、俺は何の言葉も返す事が出来ないでいた。何も言わずに、ただ黙って『どうしてなのだ……』と、胸の内で唸り声を上げ続けるばかり。

 紅莉栖の事を信じていないわけではない。いやむしろ、先刻聞いた『とんでも科学』入りの理論展開。そんな眉唾な代物を鵜呑みに出来るほど、俺は牧瀬紅莉栖という一人の天才を信頼しているのだ。

 だがそれなのに、どうしても答える事が出来なかった。

 俺の反応を待たず、紅莉栖は言葉を続ける。

「異議がないなら、私はこの考えにそって、動きたい。あんたが不安がるのは、仕方ないと思う。確かに、何の確証もない仮説だし、当事者のあんたがおいそれと頷けないのも、当然だと思う。でも──」

 ──私の事を、信じて欲しい──

 信じる。
 その言葉に、姿を見せなくなった紅莉栖からの「信じて待て」と書かれたメールが──
 一週間ぶりにラボに姿を表し、俺に「私を信じろ」と迫った言葉が、思い出される。

 そして、話し合いは俺を取り残して進んでいく。

 鈴羽が言った。

「んで、結局どうするの? ようは岡部倫太郎が死なないようにすればいいんだよね?」

 紅莉栖が問い返した。

「阿万音さん。あなたの乗ってきたタイムマシン、使えるのよね?」

「うん。まだ燃料には余裕あるし、一往復くらいなら、いけると思う」

 鈴羽の返事を確認し、紅莉栖は少し考え、そして口を開く。

「とりあえず、優先すべきは二つのウーパが接触することを防ぐ事。私の推測どおりなら、それで全てが収まるはずよ」

 紅莉栖の言葉はもっともだった。

 世界線の移動原因が『ウーパ同士の接触』ならば、その事実をなかった事にしてしまうのが、一番手っ取り早い。
 であれば、一週間前にもどって何らかの手を打てば、問題解決で──

「岡部の死とウーパの関連性が不明だけど、でもそれ以外の変化がメタルウーパに絡んでいる以上、それに成功すれば、岡部の死も回避できる可能性は……高いと思う」

『……問題解決?』

 紅莉栖の声を聞き流しながら、俺はまったく違う事を考え始めていた。

 そんな俺の耳を、ダルの声が叩く。

「それってようは、こう言う事っしょ」

 ダルは言う。


「牧瀬氏がサイエンス誌からの荷物を受け取るのを阻止するか、オカリンがメタルウーパを渡すのを阻止するか、それとも両方とも阻止する。で、ミッションコンプリートでオケじゃね?」


 ダルの発言を耳にしながら、たどり着く。そして、ほんのわずかな時間、思いをめぐらせ、思い知る。
 その瞬間、どうにもならない大きな恐怖が、俺の身体に圧し掛かかった。

「じゃあ、クリスちゃんの意見に賛成のひと~」

 まゆりの上げた音頭の声に、ラボメン達の手が競うようにして上がる。そんな中──

「オカリン、どうしたの? 手、上げないの?」

 俺の、意識統一を妨げる行動に気付いたまゆりが、首を捻って声を立てる。それを聞き、紅莉栖の、ダルの、鈴羽の視線が、一斉に俺へと集まった。

 俺は、震えだしそうな両腕を抱え込み、静かに言う。

「少しだけ、考えたい」

 その言葉に、場の空気が急激に冷え込んだように感じた。

「どうした岡部。あんたにしては、随分と慎重じゃない?」

 そんな、どこか俺をいぶかしむ紅莉栖の言葉に──

「それは当然だろう。俺自身の命がかかっているのだ。即決などできるか」

 無理やりにでも、ふてぶてしい顔をつくり、嘘をついた。そして、踵を返して一歩を踏み出す。その足は、ラボの出口へと向いていた。

「ちょっと岡部……どこへ……」

 紅莉栖の声に、微かな不安が見えた気がした。そんな問いかけに、俺は出来る限りの冷静さをもって、言葉を返す。

「なに、少し一人で考えたいんでな。しばらく屋上にいる」

 それだけを言い残し、俺は一人、ラボを出た。

 扉を閉め、顔を歪め、そして思う。

 鈴羽から聞いた、非協力的だったという自分の行動。そこに、今の自分には無い『正しさ』を感じて、胸の内で呟く。


 ──やはり協力など、するべきではなかったのか?


 身体を震わせそうな感情を押し込めて、俺はたどたどしい足取りで、屋上へと向かった。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ17
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:44
     17


 ラボの屋上に出ると、まとわり付いてくる残暑の熱気が、どうにも煩わしかった。
 慣れ親しんだ秋葉原の空気。そんな形のない物を、胸いっぱいに吸い込んで吐き出す。

 気を抜くと、すぐにでも荒れだしそうになる感情を押しとどめる事に、必死だった。

『舐めていた。甘く見ていた……』

 心中にひしめくのは、後悔と恐怖の感情。
 これまでの自らの行動を悔やむ。ラボメン達の努力を嘆く。そして、紅莉栖が俺へと向ける心情を恐れながら思う。

『世界線とは、これほどまでに……』

 その、あまりに無慈悲で強大なものに思いを馳せると、途端に手も足も言う事を聞かず、震えが蘇る。

『俺は、どうすればいい?』

 これまで感じた事もないほどの恐怖を、味わっていた。

 二日後に死んでしまうはずの自分。そんな避けられないはずの死を回避する──そのための方法を、どんな形であれ、紅莉栖はとうとう導き出した。

 その事が、どうしようもない程の恐怖を、俺に植え付けていた。


 ──優先すべきは、二つのウーパが接触することを防ぐ事──


 ラボを出る直前に聞いた、紅莉栖の提案。そうすれば、全てが収まるはずだと言った、紅莉栖の言葉。俺はそれを思いだす。

 根拠が無く、理論も曖昧で、根底となる原理すら分からない。

 そんな、宙ぶらりんで眉唾な方法。

 だがそれでも、これはあの紅莉栖が──。あの天才を絵に描いたような少女が導き出した、たった一つの可能性であった。

 例えそこに『とんでも科学』を含んでいようとも──
 例えそれが、何一つ立証できるものを持たない空論だとしても──

 紅莉栖はたどり着いてしまったのだ。

 だからきっと紅莉栖は、俺を助けるために行動を起こす。その考えにそって、具体的な解決方法を、導き出す。


 ──牧瀬氏がサイエンス誌からの荷物を受け取るのを阻止するか、オカリンがメタルウーパを渡すのを阻止するか、それとも両方とも阻止する。で、ミッションコンプリートでオケじゃね?──


 それは、ダルが口にした、具体的に思える解決方法。

『それならばいい。それならば、俺が死ぬだけで、事がすむ。だが──』

 紅莉栖が、気付かないとは思えなかった。そんな方法では、俺の死は変えられないという事に、あの牧瀬紅莉栖が気付かぬはずがないと思った。


『修正すべきは、一週間前ではないと言う事に……』


 世界線が移動した原因。
 紅莉栖はそれを『二つのウーパの接触』だと考えていた。ならばダルの言うとおり、ウーパ同士の接触を避ければ、問題は解決するのかもしれない。だが──

『そんな過去が、どこにあると言うのだ!?』

 世界線が移動した瞬間、過去の歴史も作りかえられている。それこそが、異なる世界線を踏み越えた事による、事実の変化。

 だから、中鉢の亡命も──
 紅莉栖に語った俺の説明も──
 紅莉栖あてに届いた、サイエンス誌からの荷物も──

 世界線の移動に伴って、その事実が大きく変化してしまった。
 そして、もう一つ──

『二つのウーパが接触したという事実自体が……消えてしまっているはずだ』

 この変化した世界線では、紅莉栖の手元に、サイエンス誌から何も届いていない。
 ならば、プラスチック製のウーパは、未だに中鉢が所持している事になり──

『一週間前に戻ろうとも、元より紅莉栖が二つのウーパを所持していた過去など、既にありはしない』

 つまりそれは、一週間前に戻ったところで、何の手も打てないと言う事。

 これでは、俺の死を回避する事はできないのだ。何も変える事は、できないのだ。

『それでいい。そこで諦めてくれれば、俺は十分だ……』

 だが、諦めるとは思えない。
 まゆりが、ダルが、鈴羽が、そして何よりもあの紅莉栖が、そこで顔を俯けてしまうなどとは、到底思えなかった。

 だから、きっと気付くだろう。いや、ひょっとしたら今頃はもう、気付いているかもしれない。


 ──俺の死を回避するには、あの7月28日へと戻らねばならないという事に──


 紅莉栖の積み上げた、とんでも科学理論。
 それに沿って、俺の救出を試みるのであれば、解決の可能性がある方法はただ一つ。


『中鉢の手に、メタルウーパもプラスチック製のウーパも渡さない事』


 それならば、消えてしまった『二つのウーパの接触』という事実に、影響を与える事が出来るかもしれない。
 一週間前の世界線移動よりも以前に戻り、二つのウーパに関わる歴史を、大きく改竄する。それならば、『タイムパラドックスが起きた』という事実を、もみ消す事が出来るかもしれないのだ。

 そして、そんな事が可能なのは──

『7月28日……だけだ』

 その日を逃せば、メタルウーパは俺自身の手で未来へ。プラスチック製のウーパは、中鉢の手によって、海外へと持ち去られてしまう。
 つまり、俺達が二つのウーパに手出しできるタイミングは、とても限られているのだ。

 だからこそ、7月28日への介入が必要であった。そして、7月28日を理想的な形で乗り切る事が、出来るのならば──

『問題の解決も、不可能ではないのかもしれん。だが……』

 だがそれでも、絶対ではない。

 そんな事をしても、俺は二日後に死ぬかもしれない。
 この世界線は、そんな些細な事、意にも介さないかもしれない。
 いや、むしろその可能性の方が高いのではないだろうか?

 そう思えた。しかし、

『わずかだが状況を打破できる可能性が、7月28日という時間にはある……』

 そして、紅莉栖がその事に気付いたならば、きっと──

『そんな分の悪い賭け、出来るわけがないだろ!』

 あの忌まわしい7月28日。それは、様々な世界線が交差した、特殊な瞬間。
 まゆりの死ぬα世界線が。
 紅莉栖が死ぬβ世界線が。
 そして、血の滲む思いで手に入れた、シュタインズゲートが──

 そんな全てが交わる一日。
 そこに戻って、過去に手を加える。それが、どう言う意味を持っているのか?

『何が起きるか知れたものではないではないか!』

 確かに、全てが平穏なシュタインズゲートへと戻る事が出来るかもしれない。だがしかし、そうならない可能性もある。
 αやβへと逆戻りしてしまう可能性があるのだ。

 まゆりに何度も置いていかれた。紅莉栖を無理やり、置き去りにさせられた。そんな悪夢のような世界線。


『俺は嫌だ。何があっても、あの世界線へ戻る事だけは、絶対に嫌だ!』

 
 もう二度と、あんな思いをする事だけは嫌だった。

 だがそれでも。そんな最悪な博打の内容を、紅莉栖やまゆりが知ったとしても──

『紅莉栖なら、実行に移す……。まゆりなら、笑って頷く……』

 あの二人は、そう言う風に出来ているのだ。疑う余地など、どこにあるというのか?

『ならば、どうする!? どうすればいい!?』

 奥歯を噛みしめる。拳を握り、身体を震わせる。

 紅莉栖やまゆりが、馬鹿げた可能性にとらわれて、自らの身に危険を招きいれる。そうならないための方法に、思考を回す。が──

『だめだ。どのみち、もう遅い……』

 タイムパラドックスへと、たどり着いてしまった。
 二つのウーパへと、たどり着かせてしまった。
 ならば、紅莉栖が7月28日にたどり着くのも、時間の問題であろう。この俺でも至れる場所に、あの紅莉栖が立てぬはずなど、ないではないか。

 どうにもならない恐怖に、感情を押し殺す事が出来なかった。もう、抱え込むのも限界だった。だから俺は顔を上げ──


「助かろうなどと……世界線相手に戦おうなどと、考えるべきではなかった……。こんな事なら……初めから協力など、すべきではなかった!」


 虚空に向けて、胸のうちを吐き出すように、絶叫を響かせた。


「岡部!!!」


 そんな、俺の虚しい咆哮が、より強い雄叫びによって、かき消される。

 俺は目玉をひん剥いて、声のした方に顔を向け──

「ふざけるな!!!」

 怒声と共に、見覚えのある華奢な身体が、俺目掛けて突進してくる様を、視界が捕らえる。

「く、くり……」

「このヘタレ科学者が!」

 言葉を吐ききる前に、罵声と共に襟元をつかまれる。微かに息がつまった。

「私との約束はどうした! 変な気は起こさないって、協力するって言っただろ!」

 俺の襟首を振り回しながら怒声を上げる。

「あんたの考えてる事くらい、私に分からないと思ったか! あの日の事に、その危険性に、私が気付かないとでも思ったか!?」

 微塵も冷静さの見えない表情が、視界に焼きつく。

「どうせ、αやβに逆戻りとか、そんな事ばかり、考えてた! 違うか! 違わないだろ!?」

 怒鳴り散らして喚きたてる。冷静さが信条の紅莉栖が見せる、尋常ではない感情の嵐。それを視界に焼きつけながら、いつも通りに思う。

『さすがは紅莉栖という事か』

 これほど早く、たどり着いて見せた。その手腕に一しきり感心する。そして、襟首を握る紅莉栖の腕を両手で掴み──

「ならば貴様だって、分かるだろう! 何が起こるか知れん! 賭けるには、分が悪すぎる!」

 俺は怒鳴り返す。

「だったら何だ! そんなふうに諦めて、あんたはそれで満足だろう! でも、私はどうなる!?」

 その言葉に、胸の奥がヅキリと痛んだ。


 ──君が死んだ後の紅莉栖おばさんの人生は、とても生きている何ていえるようなものでは、なかった──


 俺に、忘れないで欲しいといった鈴羽の言葉が蘇る。

 だが、それでも──

「だとしても、それでも俺は御免だ! あんな世界線にお前たちを放り込むなど、絶対に認めん!」

「なら、あんたをこんな世界に取り残す私に、それを認めろというのか!?」

「知った事か! 俺のことなど忘れて、楽しくやっていけばいいだろう!」

「そんなことっ! できるわけないだろっ!」

 思い切り、殴られた。

 衝撃に煽られて、一瞬ヒザが折れかかる。が、感情に任せた瀬戸際の踏ん張りで、辛うじて耐えて、足を踏ん張る。

 信じられなかった。紅莉栖が──だれよりも理性を重んじる、あの紅莉栖が、よもやと思った。
 暴力など、紅莉栖の重んじる信念とは、相反するもののはずであった。

 目を白黒とさせる俺を前に、紅莉栖は叫ぶ。
 
 自分の側にいるのは、俺なのだと。俺でなければいけないのだと、信じられないような大声で、信じられないような想いを叫ぶ。

「私が誰のために頑張ってるか、分かるか!? 岡部のためじゃない! 私は、私自身のために、頑張ってるんだ!」


 ──だから絶対に、私は諦めない──


 その瞳から、複雑な感情をあふれ出させながら、紅莉栖は言う。

「私は何度でも繰り返す! 例えあんたを何度、助けそこねても、絶対に諦めない! 何度でも何度でも、人生を投げ出してタイムマシンを作る! 成功するまで、何回でも同じ事を繰り返してやる!」


 ──それが科学者ってものだろう、岡部っ!!!


 紅莉栖の一際大きな声が、轟いた。

 次の瞬間、その言葉を吐き出すと同時に、紅莉栖の腕から力が抜け落ちる。
 激しい興奮のせいか、紅莉栖は眩暈を覚えたように脱力し、俺の手をすり抜けてその場に崩れ落ちた。

 俺は解放された襟元に手をやりながら、紅莉栖を見る。

 地面にぺたんと尻餅をつき、ぐったりとした様子で顔をうつむける紅莉栖。その姿には、もう言葉を続ける体力などないように思われたが──

「だからあんたも、繰り返してよ……」

 それでも、気力を振り絞るような紅莉栖の声は、小さく響いた。

「ねぇ岡部……もしも……もしも、αやβや、それ以外の世界線に行ったとしても、諦めないでよ……」

 屋上に敷き詰められたコンクリートに、紅莉栖の頬から零れ落ちた水滴が、小さな痕跡を残す。

「何度でも、私を助けてよ……。何度でも、まゆりを助けてよ……。あんたがそう言ってくれないと──」


 ──私はこれ以上、進めなくなる──


 そんな消え入りそうな紅莉栖の声に、俺は自らの不甲斐なさを知る。

 世間でもっぱら評判の天才少女。理路整然として、いつも冷静で、どんな苦境でも解決策を導き出す、かの有名な天才少女。

 だがそれは、強がりで泣き虫で、優しすぎる、俺より年下の、ただの少女。

 そんな一人の少女に、自らの信念を曲げさせてしまった。
 そんな一人の少女に、ここまで言わせてしまった。

 そのことが、今更ながらに悔やまれた。

 ずっと不思議だった。
 紅莉栖が時折見せる、陰りのある表情。

 誰のためにこんな事してると思ってる──と、
 どん詰まりなのは、誰でもない、あんた自身──と、

 そう俺を罵った後に、一瞬だけ垣間見せた、暗い色の瞳。

 その理由が、今、何となく分かった。

 ──紅莉栖が助けよとしたのは、俺が側に居る紅莉栖自身──

『まったく、分かりやすいのか分かりにくいのか、よく分からん奴だ』

 そんな事を勝手に考え、そして、勝手に解釈する。

『紅莉栖は今、誰よりも辛いのだな』

 そう思った。そう思ったからこそ──

「お願いだから、もう一度約束してよ……」

 そう告げられたその言葉に、俺はヒザを折り、顔の高さを合わせて、小さく声にする。

「分かった。約束する」

 俺の声に、紅莉栖の顔が少しだけ持ち上がった。

「絶対……だな?」

「絶対だ。男に二言はない」

 呟くような言葉に、俺ははっきりと返す。が──

「その言葉、前も言ってた。もう、信用できない」

 俺にとっての紅莉栖とは対照的に、紅莉栖にとっての俺は、随分と信用がないようであった。ならばと思い──

「では、鳳凰院凶真という、俺の真名にかけて誓おう」

「なんだそれ。よけい信用できないだろ」

 俺の告げた真面目な言葉に、紅莉栖が小さく微笑むのを感じた。

 他愛のない会話。どうでもいいような、短いやり取り。
 だが不思議と、死角になった紅莉栖の顔から、その瞳から涙が消えたのだと知る。

 だから俺は、ゆっくりと立ち上がる。そして──

『いいだろう。何度でも、繰り返してやる』

 そう心に決めながら、紅莉栖に手を差し伸べる。その手を掴んだ紅莉栖を、力強く引き立たせながら、思う。

 紅莉栖の立てた、とんでも科学入りの理論。それが本当に正しいのか分からない。
 正しかったとして、それを成功させたとして、それでも俺が生き残るか分からない。
 だがそれでも、きっと紅莉栖は、俺の死んだ世界で、俺との約束を守り続ける。

『ならば俺も、紅莉栖との約束を守り続けてやろうではないか』

 その決意を胸に空を見上げる。


 目指すべきは、俺の側に紅莉栖が。紅莉栖の側に俺がいる、そんな世界。それはきっと、あの7月28日の向こう側にあるのだと──

『必ず、取り戻してやる』

 そう信じて、拳を握った。


 傾きつつある太陽の、突き刺すようなオレンジ色の光。そんな何かが、俺にタイムリミットの接近を、告げていた。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ18
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:53
     18


「悪い岡部は、私が論破で退治した。だからもう、岡部は裏切り者のヘタレ科学者じゃない。みんな、安心していいから」

 ラボに戻った際、紅莉栖が仲間達に事情説明として発した一言。そんな紅莉栖の物言いを聞き、俺は思わず脱力する。

「いや助手よ。いくら照れ隠しだとは言っても──」

「助手じゃないし、誰も照れとらんわ!」

 間髪居れず、怒鳴られた。

『いや、照れとるではないか、どう見ても』

 などと思い、言い返そうと口を開きかけるが──

「そっか。すごいね論破って。あんなに怒鳴りあうものなんだ」

 鈴羽が放り込んだ、他愛のない合いの手。その意味に、俺はたじろぎ、紅莉栖がピシリと音を立てた。

「あ~ダメだよ~。鈴さん、言っちゃダメだよ~」

 まゆりの困った声に、紅莉栖がビキッと顔面を固めながら、声を出す。

「ええと……何か、聞こえてたり……した?」

「ああ、ほら、ばれちゃったよ~。もう、鈴さん、めっだよ」

「いや、まゆ氏。そこは、しらばっくれるとこっしょ。いきなりゲロとか、素直すぎじゃね?」

「あれ? ばれちゃった? みんなで階段待機してたの、どうしてばれちゃった?」

 なんだかもう、全自動自白装置は留まるところを知らないようであった。
 よって、俺と紅莉栖がラボを空けている間の、残された三人の行動。そんなものが、あまりにもお手軽に想像でき──

「あなたたち……。ここで待っててって、言ったわよね、私?」

 紅莉栖が、手を握りしめて、小さな拳を震わせた。顔は真っ赤で、目尻に涙まで滲ませている。

 そこには、冷静さの欠片も見当たらなかった。

 怒りをあらわにした、その姿。それが屋上で俺をグーパンした紅莉栖の姿と重なり──

「待て助手よ! 暴力はいかん! 見誤るな! さっきのは、相手が俺だからよかっただけで、普通そんな真似をすれば──」

 紅莉栖の暴挙を制止せんがため、俺は声を上げる。

「ふんがー!」

 思い切り、殴られた。

「どうして俺が……殴られているのだ?」

「時間がないから、とりあえず岡部で手を打った」

 だ、そうだ。もういい。追求したところで、どうせ薮蛇であろう。

「紅莉栖おばさん、いいパンチだねぇ」

「クリスちゃん、手、大丈夫~?」

「三次元女子との物理的接触、うらやましす」

 飛んでくる外野の言葉に、突っ込みどころは満載であったが──

「とりあえず、お前たちのデバガメは不問とする。助手の言うとおり、今は遊んでいる時間などないのだからな」

 俺の真面目な口調に、騒がしかった三名の野次が、やっとの事で収まりを見せた。

 と──

「……ごめん」

 紅莉栖の口から、小さく謝罪の声が聞こえた。俺は殴られた右頬をさすりながら、紅莉栖に目を向ける。

「謝らんでいい。むしろ、この方が話が早い。もう、時間が無いのだろう? ならば、こんな事をしている暇など、ないはずだろう?」

『我ながら、すごく大人な対応ができたものだな』

 そんなどうでもいい事だけを誇りに思いながらそう言うと、紅莉栖がコクンと頷いて見せた。

 それを肯定の意思と受け取り、俺は弛んでいた気を、改めて引き締めなおす。

「では、本題にはいるぞ」

 その言葉に、紅莉栖の表情からも緩みが消える。俺は、問いかける。

「で、どうなのだ? お前たちは今、現状をどの程度理解している?」

 俺の質問に、紅莉栖は一瞬間考え──

「一通りの流れは、全員に説明済み。大体は、理解してくれてるはずよ」

 そう答えた。

『なるほど、大体か。ならば──』

 まず最初にやるべき事。それを、各人における『状況理解の均一化』に定める。

 なぜならば──


 ──俺は、ここに居るラボメン全員で、目の前の難問に挑むつもりなのだから──


 俺だけではない。紅莉栖だけではない。俺と紅莉栖の二人でもない。ここに居る全員。我がラボの誇る精鋭をフル動員し、事の対処にあたる──そのつもりなのだ。

 三人寄ればなんとやら。困った時の人海戦術。しらみつぶしのローラー作戦。
 言い方は悪いが、ようは、そういう事なのである。

 そして、全員が状況を正確に理解した上で、改めて問題解決のための方策を練り、実行。

 時間はないが、やらねばならぬ事は、山積みだ。

 だから、まずは全員がどこまで分かっているのかを把握しておきたい。
 だからこそ、もし誰か一人でも、理解があやふやならば、俺は話して聞かせよう。

 戻るべきが、一週間前ではないという事──
 可能性は、7月28日にのみ、存在するという事──
 中鉢に、メタルウーパもプラスチックのウーパも、渡してはならないという事──
 そして、αやβという危険な世界線と、隣り合わせであるという事──

 そう言った状況を詳しく説明し、そして理解してもらう。
 それこそが、最優先事項であった。

『とはいえ、紅莉栖に俺の説明など、必要ないかもしれんがな……』

 屋上でのやり取りを考えれば、すでに紅莉栖の頭の中には、俺と同じような考えが出来上がっている事は明白。
 だからここは、ダル、鈴羽、そして何よりまゆりの、状況理解度を知る事を優先する。特に、まゆり。そう、特にまゆりである。

「というわけで、まゆり」

「な~に~、オカリン?」

 緊張感とは縁遠い声を聞きながら──

「俺の置かれている現状。そして、問題解決に向けて考えられる事。いま、お前が理解している範囲でいいから、話してくれ」

 と、俺はまゆりに、発言をうながす。

「ええと~。まゆしぃは、もっと分かりやすく言って欲しかったりするのです」

「つまりだ。俺が死なないためには、どうすればいいか。お前が代表して、俺に説明しろという事だ」

 言葉を変えて言い直すと、その意味がまゆりにも伝わったようで──

「ええ~? どうして、まゆしぃが~」

 まるで抜き打ちテストでも宣言されたかのように、まゆりは頬を膨らませる。その姿には、あからさまな拒絶が見て取れた。さもあらん。
 が、ここで引き下がっては意味がないと、俺は猫なで声でまゆりを焚きつける。

「すまないが、頼む。俺が生き残るためには、まゆりの力も必要なのだ」

 そんな俺の言葉に、不快感を覗かせていたまゆりの瞳に、光が灯る。

「だったらまゆしぃは、頑張るのです!」

 まゆりが両手をグッと握り締めた。

「おお、まゆ氏が何かに目覚めたお!」

「がんばって、まゆりおばさん!」

「まあ、現状把握には悪くないチョイスかな。よし。かましちゃえ、まゆり」

 外野から、声援とも野次ともつかない声が飛んだ。

『何をかませと言うのだ、この助手は……』

 などと思いかけるも、まゆりが話し始めたので、とりあえずそちらを優先し、耳を傾ける。

「今わかってるのは~。ええと、まずはあれだぁ。一週間前をどうにかしても、意味がないって事なの。なんだっけ、えっと、世界線の移動? うんそうだ。それと一緒に、ウーパ同士がくっ付いた事が、無くなっちゃったんだよね~」

『……ほう』

 ちょっと、驚いた。
 まゆりは少なくとも、歴史の再構築によって『ウーパ同士の接触』という事実自体が消滅している事を、理解しているようである。
 この時点でも、既にまゆりにしては、上出来といえるだろう。

 まゆりの話は、続く。

「大事なのはもっと前の、7月28日で~。そこで、紅莉栖ちゃんパパが持って行っちゃった、プラウーパが問題なの。それをどうにかしなきゃいけないんだけど、でもその日は、まゆしぃとクリスちゃんの危険日で、色々するには危ないのです」

「まゆ氏! 最後のところ、もう一度リピーツ! 色々を肉感的なフレーズでプリーズ!」

「シャラップ! 口を慎めHENTAI!」

 そんな他愛のないやり取りを耳にしながら、俺は盛大に驚いていた。

『まさか、まゆりがここまで状況を理解していたとは……』

 俺はこっそりと紅莉栖に視線を向ける。

『一体、どう説明をしたというのだ?』

 恐らく、まゆりにこれほどまでの現状把握を可能にさせたのは、他ならない紅莉栖であろう。

 俺が一人でラボを出てから、紅莉栖が屋上で俺に喰らいついてくるまで、それほど時間があったわけでもない。そんな短時間の説明で、よくもこれだけ──

「もう、ダルくんはエッチさんだね。じゃあオカリン。お話、続けてもいいかな?」

 続けて聞こえたまゆりの声に、慌てて視線を戻して頷く。

「では、続けるのです。それでね、危険日でも7月28日をどうにかしなくちゃ、オカリンが死んじゃうの。だから、鈴さんのタイムマシンで7月28日に戻るんだけど~」

 なんという事であろうか。
 この分では、『中鉢教授にメタルウーパもプラスチックのウーパも渡さない』という、俺の思い描く解決方法にまで、まゆりは到達しかねないではないか。

『もはや、この俺がまゆりに教える事など、残っているのだろうか?』

 などと考えている間にも、まゆりの話は、まだまだつながっていく。

「気をつけなきゃいけないのは、ええと、そうそう。世界の認識を変えないことかなぁ?」

 ……へ?

「一番かんたんなのは、たぶんクリスちゃんパパに、どっちのウーパも渡さないことだと思うんだけど、でもそれはダメなんだよねぇ、クリスちゃん?」

「そうよ、まゆり。それをやったら、パパが持つ主観に微小な変化が生じてしまう。岡部の言う、元の世界線って所に戻るためには、出来る限り、全員の主観をあるべき形に維持する必要がある。うん、よく理解してる。教えたかいがあるわ」

 …………

「だからね。簡単そうで、一番いいのは。昔のオカリンとクリスちゃん。それに、クリスちゃんパパとは会わず、上手にプラウーパだけを交換する事なのです~!」

『……ウーパの交換……だと?』

 俺は、まゆりの口から紡がれたその言葉に、耳を疑う。

 話し続ける、まゆり。その言葉の中に、紅莉栖の理論が力強く息づいている事を感じる。

 まゆりの口を借りた、紅莉栖の理論展開。

 俺は耳を傾けながら、聞いた話を整理するため、頭を絞る。

 まゆりの口から聞く、紅莉栖の考え。
 そこでは、世界線を元に戻すために重要なのは、『メタルウーパ』ではなく、中鉢が持ち去った『プラスチックのウーパ』だけだという事。

 メタルウーパとプラスチックのウーパ。

 一週間前、この二つが接触した事で、両方のウーパに『異常』が発生した。その影響は過去にも及び、その異常が原因で、プラスチック製のウーパに金属探知機が反応してしまった。

「だからクリスちゃんパパは、ロシアへ行けたんだよね~」

 そして、亡命成功という変化した結果が、過去と未来に矛盾を作った。世界線が移動したのは、その矛盾を修正するために、歴史が再構築されたから。

 そういった過程を経ることで、俺が死ぬこの世界線へと流れ着いてしまった。

「だから、オカリンを助けるためにはね。金属探知機に引っ掛かっちゃう、進化系プラウーパを、普通のプラウーパと取り替えちゃえば、いいんだよ」

 そしてまゆりは、最後に付け加える。

「そうすればきっと、変わっちゃったものが、全部元通りになるんだよね~」

 まゆりの言葉に、紅莉栖が答えた。

「コングラッチレィション! パーフェクトよ、まゆり。素晴らしい生徒を持って、先生は嬉しいわ」

「やった~! まゆしぃは誉められたのです~!」

「まゆ氏、オメ!」

「凄いじゃん、まゆりおばさん! 非の打ち所がないよ!」

 賑やかしい四人の声に煽られながら、俺は一人、まゆりの言った紅莉栖の考えに思考をめぐらせる。


 ──ウーパを取り替えれば、全てが元通りになる──


 確かに──と思い、考える。

『中鉢が持ち去ったプラスチック製ウーパに、異常がなければ……』

 金属探知機は正常に動作し──
 中鉢教授のロシア亡命は失敗し──
 一週間前に、俺が『大戦回避を失敗した』と、紅莉栖に伝えた言葉は取り消され──
 紅莉栖の手元に、サイエンス誌から焼け残った中鉢論文が届き──

 そして、うまくすれば、俺の死ぬという未来も、書き換えられるかもしれない。

『ウーパをすりかえる。たったそれだけで……』

 そう。たったそれだけの事で、全てを元通りに戻せるかもしれないのだ。たったそれだけの事で、これからも紅莉栖の側に、ふてぶてしく立ち続ける事が、出来るかもしれないのだ。

 気がはやった。

 正直、紅莉栖が俺の考えを遥かに追い越していた事に、ショックを受けていないわけではない。だが今は──

「なるほど、さすがは助手。よもやこの俺と同じ頂まで、たどり着いていようとはな!」

 思いっきり虚勢を張って、声も張る。

「なら、岡部も私と同意見という事ね。よかった」

「無論である!」

 虚勢も張るが、意地も張る。声が若干上ずっていたが、気にしない。そして、更なる意見を求めるべく、口を開く。

「それで、具体的にどうするつもりだ? 過去に戻って、ウーパを取り替えるだけなら、今すぐにでも行って、片手間にこなして来てやろう!」

「いや、そんな簡単な問題でもないだろ。7月28日における、私と岡部、それにパパの主観を変えないようにしなければ……って、岡部? 何を言ってる?」

 紅莉栖が目を丸くして、俺を見た。

「ど……どうしたぁ、助手よぉ?」

 思わぬ反応に、『まさか、虚勢を張っている事を見抜かれたのか?』と狼狽えるも、しかし──

「まさかあんた、自分が過去に飛ぼうとか、考えてない?」

 これまた、思いがけない指摘をされてしまった。意味が分からず、やや混乱気味の頭で言葉を返す。

「まさかも何も……俺以外にどこの誰が行くというのだ?」

 そんな俺の発言に、紅莉栖は顔を意外そうに歪ませた。

「いや、ダメだろそれ。普通に考えたら──」


 ──7月28日に飛ぶべきは、私しかないだろ──


 紅莉栖の告げたその言葉。その意味を、俺はすぐに理解する事が、出来なかった。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ19
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:54

     19


 俺は、紅莉栖の意見に、反旗をひるがえした。

「だから、どうしてそうなるのだ!?」

 声を荒げる俺に対し、紅莉栖の態度は至って冷静そのもの。

「どうしてもこうしてもない。私が行くのが、一番成功する確率が高い。だからそう言っている」

 はっきりと明言する紅莉栖の言葉を、俺は切り捨てる。

「何を言っている! どう考えても、タイムトラベルの経験者である、俺が行くべきだろう!」

 行かせられるわけが無い。危険すぎるのだ。

 いかに天才科学者といえど、ただの年端も行かない一人の女の子。そんな存在を、俺の命を救うためとはいえ過去へと飛ばすなど、とても許容できるものではない。

「どれだけ危険か、分かっているのか……クリスティーナよ?」

 俺には、あのβ世界線で、紅莉栖を助け出すために命を落としかけたという経験がある。
 確かにあれは、いろいろな偶然と不運が重なったためにとった、苦肉の策ではある。だがしかし──

『紅莉栖の身に同じようなトラブルが起きんと、誰がいえる?』

 だからこそ、俺は紅莉栖が過去へと飛ぶ事を、認めるつもりなど無かった。しかし──

「危険が分かってないのは、岡部、あんたよ」

 そんな俺を諭すように、紅莉栖は落ち着いた声で言う。

「もしも、あんたがもう一度、過去に飛んだとして、で、そうしたらどうなるか考えてる?」

「……どういう意味だ?」

「いい? もしも、あんたが過去へ飛んだら──」

 ──あの狭いラジカンの中に、三人の岡部が集まる事になるのよ──

「私の事を助けた時は、自分に会わないように、ずいぶんと苦労したって言ってたじゃない。そこに更に三人目の岡部を投入? 話にならない。余計なタイムパラドックスを起こすのが、オチだわ」

 そんな紅莉栖の心配を聞き、『ああ、そんな事で……』と、俺は胸を撫で下ろす。

「愚かだな、助手よ。そんな心配などいらん。以前、鈴羽が言っていた。過去に戻れば、そこは微妙に違う世界線だとな」

「微妙に違う? なにそれ?」

「詳しくは知らん。だが、一度目にお前を助けそこねた後、現在に戻ってから再び過去に向かったが、そこに一度目の俺はいなかった。だから、今回もきっと──」

「愚かはどっちだ。じゃあ聞くが、岡部。どうして私は今でも生きているんだ?」

「なにを、藪からぼうに……」

「私が今でも、こうしてあんたと会話できてるのは、あんたが過去に戻って、私の事を助け出したから。そうでしょ?」

「…………!?」

 紅莉栖のいいたい事を読みとり、自分の考えに含まれた矛盾に気付く。

「気付いた? そうよ。私が生きている以上、7月28日には、必ず岡部が二人いる」

 紅莉栖は言う。
 もしも、β世界線の鈴羽の言葉が正しく、タイムトラベルでたどり着く先が、微妙に違う世界線だとしても──

「それはきっと、岡部が過去に戻って、私を助けた歴史を含んだ、微妙に違う世界線」


 ──だからこそ、岡部を過去へといかせるわけには、いかない──


 紅莉栖の言葉に、俺は掲げた反旗を叩き折られる。が──

「だから、どうした? 三人の俺? 面白いではないか!」

 あんな危険な場所に、紅莉栖を向かわせる事など、どうしても容認できなかった。

「まだわからない? これはあんただけの問題じゃない。もしも、あんたが二人の自分のどちらかと接触したら、それこそ大規模なタイムパラドックスが起こるかもしれない。そんなの、いち科学者の立場として認めるわけにはいかない」

 その危険性が分からないのかと語気を強める紅莉栖に、俺はふてぶてしい笑顔を貼り付けてみせる。

「なればこそ、マッドサイエンティストとして、是が非でもタイムパラドックスの発生をこの目で──」

「ふざけないで!」

「ふざけてなどいない! ならば問おう! 貴様、あの日の俺やまゆりの行動まで、全て把握しているのか? 二人目の俺の行動を、把握しているのか?」

「…………」

 俺の反撃に、紅莉栖が口をつぐむ。

「把握など出来ていまい? そんな状態で過去へ行くなど、笑止千万!」

 それ見た事かと鼻を鳴らす俺に、紅莉栖がなおも食い下がる。

「それは……あんたがちゃんと教えてくれれば」

「教えてどうなる? 言葉で伝え聞き、全てを正確に認識できるのか?」

「できる!」

「いいや、無理だ。言葉で受け取っただけの情報と、直接見てきた経験。それを一緒にするな!」


 ──お前一人が、過去へ戻ったところで、何も変えられん!──


 出来れば、こんな言葉を口にしたくは無かった。ここまでたどり着けた、一番の功労者。俺のために、擦り切れるほどに身を呈し続けた、少女。
 そんな彼女にとって、この言葉は余りにも酷だと言えた。

『だがそれでも、行かせるわけにはいかん』

 紅莉栖の身に何かが起これば、例え俺が助かったところで、何の意味がある?

 そんな思いで、暴言を吐く。が──

「私を信じるんじゃ、無かったのか?」

「ではなにか? 信じるから、お前一人で危ない目にあっても、大丈夫だね。とか、俺に言わせたいのか?」

「そんなこと言ってないだろ!?」

 紅莉栖の顔に、明らかな苛立ちが生まれていた。

「大体、私一人じゃない。阿万音さんだっている。だから私が行く!」

「あれが何の役に立つ? あれはただのバイトではないか」

「ええ、そこでそれ言う? 岡部倫太郎、やっぱ嫌いだよ」

 唐突なファールボールの直撃を受け、鈴羽が頬を膨らませた。

「じゃあ、私が行かなかったら誰が行くのよ! 岡部は絶対に行かせないから!」

 いつまでたっても並行する意見に交差点は見えず。俺が行く。私が行く。の意見論争は、その顛末が見えない。

 そんな中、まゆりが気を使ったように声を上げる。

「では、まゆしぃが……」

「「却下!」」

 紅莉栖とハモッてしまった。

「あうう~。じゃあ、ダルくんが」

「却下。ボク、インドア派ってことで、よろ」

 ダルが自ら否定案を放り込んだ。

 そして繰り返す、『俺が』『私が』論争。まるで終わる気配の見せない闘いの場に、鈴羽がうだった顔で、妙な事を口走った。

「だったらさ、もう二人で行けばいいじゃん」

 凍りついた。

 俺と紅莉栖が、呆れるほどの冷却っぷりを見せ付けるなか、鈴羽が言葉を続ける。

「ようは、岡部倫太郎がラジカンとか言うのに、入らなきゃいいんだよね? だったらさ、二人で行って、フォローしあえばいいんじゃない?」

 鈴羽から飛び出した、予想外の折衷案。その、いかんともしがたい内容に、俺の口回りが鈍くなる。

「いや待て! それでは本末転倒というか、その展開はありえないというかだな!」

 いまいち具体性を欠いた俺の異議。しかし、そんな言葉は場に残る事ができず──

「なるほ。牧瀬氏がラジカンに入って、で、オカリンが外で待機。トランシーバーか何かで状況をやり取りしてけば、上手くいくんでね?」

 こともあろうに、ダルまでもが鈴羽の意見に便乗を始めた。

『なんだか、妙な流れに……』

 などと、状況の進展に危惧を抱く。とはいえ、実際のところはダルの意見に見えた、具体的な提案に──

『確かに、それならば……』

 と、少しだけ心が傾きかけている事も事実。

 冷静になってみると、紅莉栖の意見がもっともである事は、よく分かる。
 俺が狭いラジカンの中で、他の俺と遭遇せずに事を済ませるなど、困難の極み。それは違いないだろう。
 ならば、頭の切れる紅莉栖を現地に派遣し、情報の足らない部分を、俺がリアルタイムでフォローする。

『もし、そんな事ができるなら……』

 考えられる中で、作戦遂行を可能にする、最も堅実な人員配置に思えた。

『ううむ……』

 ひとしきり考え込んだ後、俺はせめて確認だけでもと思い、鈴羽に問いかける。

「お前抜きでも、タイムマシンは動かせるものなのか?」

「うん。簡単だよ。前もって行く先と帰る先をセットしておけば、誰でもボタン一つで、『いってきまーす』で『ただいまー』だね」

 俺の問いかけに返した鈴羽の返答は、的確だった。どうやら、タイムマシンの操作自体は、それほど難しいものでもなさそうである。

『出来ない事は、なさそうだが……』

 次第に現実味を帯びてくる、鈴羽発の折衷案。

『だがしかし……』

 やはりどう転んでも、紅莉栖を危険な場所に送り込むという事に、変わりはなく──

『だが、何かトラブルがあったとき、すぐさま紅莉栖の側に駆けつける事もできなくはない……』

 などとも考えるが、しかしと言うか、やはりと言うか、どうしても踏ん切りがつかない。

 俺が自らの優柔不断に四苦八苦していると──

「岡部、それでいこう。それが一番、成功する確率が高い気がする」

 紅莉栖の厳かな声に、俺は目を見張る。

「だが、しかし……」

 思わず問い返そうとした言葉を、紅莉栖が遮った。

「認めないなら、私はアンタを縛り上げてでも、阿万音さんと行く。今回だけは、絶対に譲らない」

 そう言った紅莉栖の瞳に、俺は揺るがせないほどの決意を感じた。

「本当に、俺とでいいのか?」

「あんたが……いい」

 重々しく問いかけた俺に、紅莉栖の返事は小さかったが、しかし、はっきりと耳に届く。

 その言葉を受けて、俺もようやく腹をくくる。

「……よかろう。ヘタを踏むなよ、助手」

「それはこっちの台詞だ、馬鹿」

 俺と紅莉栖の頷きが、調和する。 

 そして──

「じゃあ、岡部倫太郎と紅莉栖おばさんの二人ってことで、決定だね」

 という鈴羽の言葉をもって、当初は想定していなかった実行部隊が組み上がる。

 俺は紅莉栖を、紅莉栖は俺を。互いが互いを真っ直ぐと見つめ──

「何か、デートっぽくね?」

 ダルの言葉に、同時に顔を赤らめた。

「デートじゃないよダル君。新婚旅行だよ~」

「なんと! それはあれですか! 初夜的なあれですか!」

 そんな野次に──

「そんな分けない! そんな分けないから!」

 大事な事を二回言った紅莉栖に、なぜか俺は殴り飛ばされた。







[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ20
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:55
     20


 木々の間を吹き抜ける風が、葉鳴りを立てる。健やかな空気に身を晒す、俺、紅莉栖、鈴羽の三名様御一行。

 その誰もが一様に、月明かりを鈍く反射させている銀色のそれを、食い入るように凝視していた。

 都内に位置する古くからの社──柳林神社。その境内の一角に、ひっそりとそれはあった。

 なんと言うか、あまりに場違いな存在が、物凄く目立っているように思えてならない。

「なんだってまた、こんな場所に……」

 沈黙を破って、俺はボソリと呟く。

「いやあ、何でって言われてもさ。聞いてたと通りに、鳳凰院凶真の頼みだって言ったら、一発オーケーで置かせてくれたから」

 俺の上げた疑問に、やや的外れな返事を返す鈴羽。俺は首を振って、質問の趣旨を訂正する。

「そういう事を言っているんじゃない。俺はてっきり、ラジカンの屋上にあるものだとばかり、思っていたのだ」

 そんな俺の言葉に、鈴羽が「ああ、場所的なことかぁ」と、間延びした声を出す。

「そうだ、場所的な問題だ。タイムマシン=ラジカン屋上。それをこんな人目の付く場所になどと……。なぜ、いつものようにしなかったのだ?」

「いや、あたしには『いつも』とかわかんないし。それに、仕方ないんじゃないかな?」

「仕方ないだと?」

 唸り声を上げる俺に、鈴羽はすまし顔で言う。

「そうだよ。だって、このタイムマシンは、場所の移動が出来ないんだ。だから、どこに出現するかは、選べない」

 返ってきたのは、またしても論点のずれた回答だった。

「だから、そうではなくてだな! と言うか、そういう設定がある事は、すでに承知している。俺が聞いているのは──」

「ああ、言っとくけど、ラジカンとか言うのは、あたしが生まれたときには、もう無かったからね」

 飛び出した思いがけない言葉に、思わずオウム返しに聞き返す。

「ラジカンがない? 本当かそれは?」

 確認を求める俺に、鈴羽が肯定を表して頷いた。

「紅莉栖おばさんから聞いた話だと、ラジカンってのは2011年に閉鎖して、その後すぐに、建物自体が取り壊されちゃったみたいだよ」

「2011年ってお前、来年じゃないか……」

 あまりの衝撃発言に、言葉を失う。

『ラジカンが無くなる。全ての始まりだったラジカンが、来年には無くなるというのか……』

 紅莉栖と出会い、鈴羽を見送り、中鉢と争って紅莉栖を救った。そんな全ての舞台となったラジカンが、あと一年もしないうちに消えてしまう。

「そうか……」

 どこか感慨深いものを感じつつ、俺は息を吐く。

「それで紅莉栖おばさんは、タイムマシンの起動場所として、この柳林神社を選んだんだ。ここは昔から変わってないみたいだから」

 なるほど、と思う。
 確かに、小さいながらも神社と名がついている以上、区画整理などの標的になる可能性は低い。場所移動が出来ないという、タイムマシン独特の弱点を相殺するには、これ以上にうってつけの場所も無かろう。

「本当は、この場所と青森と、どっちにすべきか迷ったらしいんだけどね」

 最後に付け加えられた言葉を聞き、『青森でなくて良かった』と、俺は心底ほっとした。と──

「話が盛り上がってるとこ悪いんだけど、岡部。今、『どこにあるか』なんて事は、問題じゃない思うわけだ」

 今まで黙って、タイムマシンを凝視していた紅莉栖が、どこか顔を引きつらせて、そう言った。

「ああ、そうだな。時間も無い事だし、ダルとまゆりが到着するまで、さっき立てた計画を、もう一度確認しなおして──」

「そうじゃないだろ」

 俺が言葉を吐き出し切る前に、紅莉栖の否定が上がる。
 俺としては、至極真面目に現状を把握した上での、発言のつもりだったのだが──

「私が言ってるのは、そういう事ではなくて、もっとこう、見た目的な問題と言うかだな……」

 どこか、もどかしい紅莉栖の言葉。それを聞き、俺は『おお』と、手拍子を打つ。

「そういわれると、他の世界線で見たときよりも、何だか少しコンパクトだな」

「これがコンパクトなんて可愛いものか!? 狭いだろ! どう見ても縦長だろ!」

 確かに、と思う。
 
 紅莉栖の指摘したとおり、柳林神社の一角に位置した、紅莉栖作のタイムマシン。それは他の世界線で見たダル作などと比べると、随分と横幅がスリム化されている印象を受ける。

「っていうか、これでホントに二人乗りなの!?」

 信じられないとばかりに声を走らせる紅莉栖に、鈴羽が『ほんとだよ。自分で言ったくせに』と、未来の紅莉栖おばさんを引き合いに出す。

「ねえ阿万音さん。実際乗ってみて、どう? 二人分のスペースはあるの?」

 そんな紅莉栖のなぜか必死の問いかけに、鈴羽は一瞬言葉を溜めて──

「無理やりねじ込めって、感じ?」

 この場にダルがいれば、発狂間違いなしの言葉を受けて、紅莉栖が発狂した。

「やっぱりぃぃぃ!」

 仕方なく、俺はフォローの合いの手を入れる。

「クリスティーナよ。そう、未来の自分を責めるな。きっとあれだ。コンパクト化は、機材の移動を考えた場合に、避けては通れぬ案件だったのだ」

「へんに理屈の通った解説をいれるな!」

「そう、嫌がるな。何もあの中で、妙な事をするわけでは無いのだ。俺は紳士だからな」

「紳士の前に変態がつくだろ!」

 紅莉栖はひときわ大きな声を上げると、『決めた』といって、ポケットから携帯電話を取り出した。

「何をやっているのだ、助手よ?」

「まゆりに……メール打ってる」

「メールだと? 何と書いているのだ?」

 俺の問いかけに、しかし紅莉栖は答えない。ならばと思い、画面を覗き込もうとすると、凄まじい目つきで睨まれた。

『ぬう……』


 結局俺は、紅莉栖の送ったメールの内容を知りそこねる事となった。とは言え、そんな疑問も、まゆりとダルの到着によって、あっさりと明らかになる。


「お待たせしたのです~。まゆしぃとダルくんは、今無事に任務を遂行してきたのです~」

 元気に手を振るまゆりの姿が、月明かりに照らされて、浮かび上がる。すぐ後ろには、ダルもいるようであった。 

「ふーちかれた~。もう、課外授業はこれっきりにして欲しいお」

 巨体を揺らせるダルのシルエットが、闇夜の中で存在感を発揮する。

 二人の帰還を見るや否や、紅莉栖が口を開く。

「お疲れ様、二人とも。で、まゆり。例のものは買ってきてくれた?」

 問われ、まゆりはぶら下げてきた買い物袋に手を突っ込み──

「完璧なのです~。はい、トランシーバーだよ、クリスちゃん」

 まゆりが袋からつかみ出したのは、見るからに古臭い、一つの紙箱。トランシーバーの絵が印刷されたその表面は、日焼けのせいか、明らかに色落ちしてボロボロであった。

「まじ、探すの苦労したお。つーか、アキバから半径2キロ以上はなれたとこで、古くて長いこと売れ残っていそうなトランシーバーとか、条件厳しすぎっしょ」

 ダルの口に上った条件。これは、トランシーバーは現在から持ち込むべきだという、紅莉栖の提案によるものだった。曰く──

 下手に過去で買い物でもしたら、余計な人の主観に変化が現れてしまう。なら、混線しなさそうな条件のトランシーバーを見つけて、過去へ持ち込み、作戦終了後に持ち帰る。これがモアベターと、いう事らしい。

「上出来ね、二人とも。で、まゆり。例のものは?」

 再び上がった紅莉栖の問いかけに、まゆりが小首をかしげ──

「ああ、あれかぁ。メールのやつだねぇ?」

 そう言って、もう一度買い物袋に手を突っ込んだ。そして、何かを掴んだ手を袋から引き出しながら──

「ええと~、あのねクリスちゃん。こんな物、何に使うのか、まゆしぃは興味しんしんなのです」

 そんな事を言った。その手に握られている紙包みを見て、その中身を推察するが──

『さっぱり、分からん』

 などと思いながら、事の経緯を見守る。

「牧瀬氏。それって使うん? それとも使われるん? どちらにしても、興奮冷めやらぬである」

 ダルの言葉を聞いても、やはり皆目検討もつかない。

 そして、まゆりの手から紅莉栖の手へと、紙包みが渡されて──

 紅莉栖の手で、包み紙が引き裂かれ──

 俺の両手に、手錠がかかった。

「助手よ……説明を乞いたいのだが……」

 努めて冷静さを保ちつつ、俺は紅莉栖に問いかける。背後でダルの『使う側だったお! さすが牧瀬氏だお! どSだお!』との絶叫が聞こえたが、もうそっちは無視をする。

 そんな俺に、紅莉栖はさも当然という顔で、答えた。

「自分の身は、自分で守る。これ脳科学の常識よ」

 そんな、どうにも聞き覚えの無い常識に耳を揺らしながら、俺は思った。


 ──流石は、牧瀬紅莉栖といったところか。いろんな意味で。





[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ21
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:55
     21


「オカリンの積み込み、完了いたしました、牧瀬大佐殿!」

 タイムマシンの外から、ダルの声が聞こえた。

「バカモノー! 誰が岡部を内側に向けろといった! 岡部は外向きだ! やりなおし!」

 外から、紅莉栖の声が聞こえた。

「さーいえっさー!」

 まゆりの元気一杯の返事が、聞こえた。

 そして、俺は身体を回転させられて、タイムマシンの壁にキスをする。

 そんな俺の耳に、鈴羽が顔を寄せて口を開く。

「ほんと、聞いてた通りだよ。岡部倫太郎。君がいるだけで、みんなこんなに、たくましい」

 鈴羽は言う。
 鈴羽の知る橋田至は、これほどの情熱を持っていなかったと。
 鈴羽の知る椎名まゆりは、これほど楽しそうに笑う事はなかったと。
 そして、鈴羽の知る未来の牧瀬紅莉栖は、とても暗い顔をした女だったと。

「人生の大半を研究に費やし、それでも足らないと、何かに取り憑かれたように、いつも没頭してた。女性としての大切なもの。科学者として大切なもの。紅莉栖おばさんとして、大切なもの。そんな全てをなげうってるように見えた」

 そんな鈴羽の言葉に、俺は短く「そうか」とだけ答える。鈴羽は続ける。

「今ならわかるよ。みんな、まるで抜け殻みたいだった」

 そんな言葉を胸に刻み、俺は鈴羽に言う。

「バイト戦士よ。今、貴様の目に見える光景。それこそが本当のこいつらだ。貴様の知るラボメン達は、皆、本来こういうものだ」


 ──それをこれから、この俺が貴様の未来で証明してやる──


 俺の言葉に、鈴羽小さく笑いながら言う。

「そんな状態で、格好つけられてもね」

「ほざけ、ただのバイトの分際で。口を慎むのだな」

 俺の戯言に、鈴羽は『言ってくれるね』と微笑み──

「次ぎあう時は、未来で」

 そういい残し、タイムマシンから降りた。

『いいだろう。どれくらいかかるか分からんが、絶対に貴様のいる未来へたどり着いてやる』

 ダルを連れて。まゆりを連れて。そして、紅莉栖を連れ添って、俺は未来の鈴羽に会いに行く。なんだったら、フェイリスもルカ子も萌郁もブラウン氏も綯も、全てを引き連れて、団体客で押し寄せてやる。

 そんな下らない決意を胸に、俺は出発の時を待つ。

 そして程なく、紅莉栖がタイムマシンの狭い隙間に、身を滑り込ませてきた。

 温かくて優しい体が、背中に押し付けられる。

「岡部、準備はいい?」

 紅莉栖が声を出すと、その音が振動となって、俺の身体を震わせる。俺は返す。

「誰に物を言っている? というか、この状態で、準備も何も無かろうが」

 俺の軽口に、紅莉栖は「それもそうか」と、鈴羽のように小さく笑う。そして、ハッチを閉じるボタンを押した。

 ゆっくりと閉ざされていく、タイムマシンの扉。その隙間を縫うように、ダルの声が響いた。

「オカリン! ボク達にマジ顔なんて、似合わないお! だから、また二人で馬鹿やる! 絶対にだ!」

「当たり前だ、スーパーハカーよ! 昼寝でもして待っていろ!」

 まゆりの声が聞こえた。

「お土産は、じゅ~し~から揚げナンバー1がいいのです!」

「ダースで買ってきてやる! 無理やりにでも食えよ!」

 そして、扉が閉じる。

 外界の音が消え、耳に響くのは、密接した紅莉栖の吐息だけとなる。

「鼻息が荒いぞ。興奮しているのか、変態天才少女よ?」

「あんたほどじゃないわよ、変態岡部」

「しくじるなよ、助手」

「あんたは自分のミスでも心配してなさい」

 背中に押し当てられる、柔らかい感覚に気を持ち去られそうになりながらも、しかし今は理性の方が遥かに強く、俺は心は動揺しない。

『こんな場面でなければ、何とも役得な状況なのだがな』

 などと考え、そして思う。


 ──何があろうとも、絶対に生きて、紅莉栖と未来を歩む。何度失敗しても構うものか。何度でも繰り返して、最後に全力で高笑いしてやる──


 紅莉栖の声が、身体に響いた。

「……押すよ」

「……やれ、紅莉栖」

「こんなときだけ、名前で呼ぶな。卑怯者」

「卑怯はマッドサイエンティストの専売特許だ」

 俺は思う。

 途轍もなく、恐ろしい。
 これから向かう過去を経て、たどり着く場所はどこなのか。
 そこに待つのは、俺の死ぬ世界線か、まゆりの死ぬα世界線か、紅莉栖の死ぬβか。
 
『例え、どんな世界線にたどり着いたとしても……』


 何度でも何度でも、繰り返す。そして最後にシュタインズゲートを鷲掴みにしてやる。それこそが──

 ──ダルとの、鈴羽との、まゆりとの、そして紅莉栖との約束なのだ──


 そして、俺と紅莉栖の想いを載せたマシンが、時間の逆行を始めた。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ22
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:56
     22


「いよいよね」

 やや緊張にとらわれた紅莉栖の声が聞こえる。

 作戦決行に向けた二人きりのミーティングを終え、俺と紅莉栖は二人でラジカンの建物から少し離れた場所で、作戦決行の時間を持っていた。無論、俺の両手を封鎖していた手錠は、すでに開封済みである。

 タイムマシンに乗った俺たちは、7月28日正午より三時間前。つまり、7月28日の午前9時時へと飛び、開いた時間をそのまま下準備に当てた。

 とは言っても、やる事など知れていて──

 やった事といえば、ラジカンとは無関係の場所でカプセルトイをやり、そこですり替え用のプラウーパを入手。後はタイムトラベルをする前に立てた計画の、再確認。

 計画は至って単純である。

 最初の俺が引き当てる予定の、プラスチック製ウーパ。それは俺の手からまゆり、紅莉栖と経由して、最後には中鉢の手に収まるはずであった。
 だから、まゆりが落とし、中鉢の手に渡るまでの間に、どこかで準備しておいたウーパとすりかえる
──と言う物。

 それが成功れば、結果として中鉢のロシア亡命は失敗し、それに付随していた変化も、在るべき形に修正されるはずだ──という事らしい。

『とは言うが……単純すぎやしないか?』

 改めて、紅莉栖の口から聞いた計画を思い起こし、すこし心細くなる。

「しかし助手よ。こんな大雑把な計画で、本当に上手くいくのか?」

 現時刻を気にしながら、俺は紅莉栖に問いかける。
 正直言って、不安があった。紅莉栖が立てた計画。それがあまりにも大まかなもので、どうしてもその完成度に疑問を覚えてしまうのだ。

 だからつい、計画内容に口を挟んでしまう。

「思ったのだが、先にカプセルトイを回して、問題のウーパを回収してしまう方が安全確実ではないか?」

 そんな俺の意見に、紅莉栖は難しい顔をして言う。

「だめよ。カプセルトイで出てくる順番は、最初にメタルウーパで、次が問題のウーパ。だから二回引かなきゃ回収できない。でも、そうすると、未来から来る岡部が、メタルウーパを引けなくなってしまう」

 ああ、なるほど──と、胸の内で相槌を打つ。

 紅莉栖を助けるために未来から来た俺。その俺がメタルウーパを引けないという状況を作る事は、どう考えてもタブーであった。

「やはり、どこかでウーパをすりかえるしかない……という事か」

 俺が唸るように上げた声に、紅莉栖は「初めからそう言ってる」と言い捨てると、長い髪を背中へかき流す。そして──

「いい、岡部? 綿密に立てるだけが、計画じゃない。優秀な策略家は、常に計画の中に遊びを持たせてる。そうしなければ、緊急時に対応できない」

 冷静な色を湛えた瞳でそう言った。胸から垂れ下がる赤いネクタイを、細い指先で弄ぶ紅莉栖。その高説は止まらない。

「策士、策におぼれるって言うのは、たった一つの綿密な計画に囚われて、非常事態に対応しきれないような愚策の事を言うの。本当の策略家は、状況を見て臨機応変に計画を変更できる。だから、出来のいい計画というのは、えてして大雑把なものなの。そういうものよ、分かった岡部?」

 いったい、この紅莉栖の自信は、どこから湧いてきているのであろうか?

 そんな事がはなはだ疑問に思えた。とはいえ──

『あの紅莉栖が、ここまで自信を見せているのだ。今は、疑って文句を垂れるよりも、信じるべきか』

 私を信じて。
 この一週間の間に、紅莉栖は俺にこの言葉を何度も、投げかけてきた。時にはメールで、時にはしがみ付いて、時には俺を殴り飛ばして──

 そのどれもが、信ずるに値するものばかりであった。

『今さら、疑う余地などあるものか』

 ならばと思い、話題を前向きにシフトチェンジする。

「まあ、とにかくウーパをすりかえればいいのだから、それくらいのチャンスはいくらでもあるだろう」

「岡部、それは楽観的すぎ」

 たしなめられた。では俺に、どうしろというのか、この助手は?

「チャンスなんて、そんなに多くないはず。そうね、しいて上げるなら──」

 一瞬考え込んだ後、紅莉栖はポケットから、予め手に入れておいたウーパを取り出して、それに視線を落とす。

「この時間の岡部がウーパを引いて、それをまゆりに渡した後かな。そこで、まゆりがウーパを落とし、この時間の私が拾う。できればその隙を突きたい」

 俺は紅莉栖の言葉に「なるほど」と頷きながらも、しかし残る懸念を口にする。

「だが、その様子は、β世界線の未来から来た俺が、見ているはずだ」

「だから、一瞬でもβ岡部の注意を逸らさなきゃだめね」

「β岡部……。なんだか、栄養素っぽくて嫌なのだが……」

「異論は受け付けない。というか、同時刻に三人もいるあんたが悪い。識別しにくい」

 何だか、よく分からないところで、俺を悪者扱いする紅莉栖。

 微かにこめかみを引きつらせる俺をよそに、紅莉栖は思案を続ける。

「β岡部の気をそらすいい方法が、何かあるはずだけど。やっぱりその場になってみないと……」

 勝手に妙なネーミングライツ契約を取り付けた紅莉栖に、俺は野次を飛ばす。

「ならば、助手が全裸で踊り狂っていれば、きっとβ岡部は釘付け間違いなしだ」

「その前に、あんたの腐った言語野を釘付けにしてやろうか?」

 ギラリと光った紅莉栖の瞳に、俺は「冗談だ」と慌てて首を振る。

「まあ、いいわ。とりあえず、今のセクハラ発言の追及は、あんたが無事生き延びてからにしてあげる」

 どうやら、俺への冤罪に対する遠慮など、紅莉栖は持ち合わせていないようであった。

「そりゃ、どうも」

 俺は気の無い返事を投げ返し、そして考える。

『まゆりが落としてから、紅莉栖が拾うまでのタイムラグ。どれくらい余裕がある……?』

 さすがに、あの経験からかなりの時間がたっている。交わした会話やとった行動などは覚えているが、しかし細かなタイミングまで、全てを記憶しているわけではない。

 なんと言うか、それなりに厳しい状況のようにも思えるのだが、しかし紅莉栖に覗く自信は、いささかも揺るいでいない。

「何か、俺の気を引く策でもあるのか?」

「気を引く……わけではないけど、一応考えはある。でも、ちょっと危険かも。まあそれは、まゆりの落としたウーパを、β岡部がガン見し続けてた場合に限るわね。できれば、もっと他の方法をとりたい。だから、現場の状況を確認して、臨機応変に動くつもり」

「一応聞いておくが、その危険な方法とはどんなだ?」

「大した事じゃないわよ。単純に、私が私のフリをして、先にウーパを拾う。で、それを見届けた岡部がその場を離れたら、代わりにこのウーパを転がして、この時間の私に拾わせる。こんな感じね」

 なるほど、と思う。

 確かにその方法ならば、俺の主観も紅莉栖の主観も変えることなく、ウーパだけを交換する事が可能だ。

「だが、シビアだな。確かに、まゆりがウーパを落としてからお前が拾うまでには、若干の時間があるだろう。とはいえ、少しでもタイミングを間違えれば、俺が二人の紅莉栖を目撃するか、最悪、お前どうしが鉢合わせ何て状況も……」

「だから、危険だと言っている。できれば私だって、そんな危ない橋は渡りたくない」

 紅莉栖は自らの考えを確認しなおすように、一人で頷きを繰り返しながら続ける。

「とりあえず、最後の手段は用意してある。あとは現場で考えるわ。あんたは全力待機で、私からの質問に、常に迅速に答えること。トランシーバーの電源切ったら、死刑だから。いいわね?」

「へいへい」

 生返事を返しながら、俺はふと思い出した。

『そう言えば、あの時……』

 かすかな記憶の引っ掛かりを頼りに、あの時の詳細な状況を、出来る限り脳内で再生する。

『あの時、俺は6階の階段下から、7階でまゆりがウーパを落とすところを確認して、そのあと──』

 古ぼけた記憶に、鮮やかな色合いが戻りはじめる。

『確か……反対側の踊り場に……』

 そして思いだす、千載一遇のチャンス。と──

「岡部。もうそろそろじゃない?」

 紅莉栖の言葉に思考と途切らせ、時計を確認する。

「あ、ああ。あと十五分ほどで、俺と鈴羽がタイムマシンで屋上に乗り付けてくるはずだ」

「そう、頃合ね」

 紅莉栖は短く呟くと、一度大きく深呼吸をする。そして、

「よし、いくぞぉ!」

 気合一発。小さな手を、顔の前で握り締め、一人、ラジカンに向けて歩き──

「むぁて、助手よ」

「のっ!?」

 勝手に歩いていこうとする助手の襟首を、引っつかんだ。

「いきなり何する!? てか、前もこんな事なかった!?」

 声を荒げて俺を非難する紅莉栖。俺は静かに言葉を伝える。

「上手くすれば、何もせずともβ岡部の隙をつけるかもしれん」

 俺の言葉に、紅莉栖は切れ長の瞳をパチクリとして、小首を傾げて見せた。





[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ23
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 21:57
     23


「工作員ナンバー001、クリスティーナよ。所定の位置についたか? オーバー」

 ラジカン横の脇道。そこに設置されたゴミ収集BOXの陰に身を隠した俺は、トランシーバーの送信ボタンから指を離して、返答を待つ。

【予定通り、7階に身を隠した。ってか、そのアホっぽい呼び方やめろ。電波越しに、馬鹿がうつる。オーバー】

 トランシーバーから流れる、雑音交じりの声を聞き──

「工作員風情が指揮官にたてつこうなどと、片腹痛いわ。これより俺の事を、大佐と呼べ。オーバー」

 送信ボタンを押して、メッセージを送る。

【いっそ、どっちかの岡部を始末して、あんたの存在、消してやろうか? オーバー】

 とんでもない戯言が、スピーカーを揺らした。

「で、タイムパラドックスか? 科学者の風上にも置けんな、工作員ナンバー002、クリスティーナよ。オーバー」

【それも辞さない。と言うか、数字増えてるから。せめて統一しろ。それからティーナじゃない。突っ込みどころ多すぎ、オーバー】

 そんな紅莉栖の、いつもと変わらぬ声を聞き──

『どうやら、緊張はしていないようだな』

 と、その紅莉栖のキモの太さに、信頼を置く。そして、

「もう一度、最終確認だ。クリスティーナよ、千載一遇のチャンス。それはどこにある? オーバー」

 最後の確認。その意味を込めて、電波の向こうにいる紅莉栖に、問いかける。

【大丈夫。ちゃんと分かってる。まゆりがウーパを落とし、それをβ岡部が6階の階段下から、監視してる。だけど、β岡部は一度だけ、目を離す。そこがチェンジポイント。オーバー】

 紅莉栖の返答に、彼女が作戦の流れを、十分に理解している事を知る。

 単純明快。

 β岡部などと呼ばれている俺の行動。それを思い出して見れば、つけ込むべき大きな隙があった。

 まゆりの落とした、プラウーパ。それを監視する、過去へと戻ってきたβ岡部。
 そこにウーパをすりかえる隙など、ないように思えたが、実際はそうでもない。

『俺の記憶が正しければ、必ずβ岡部は監視の目を外す』

 あの時──

 6階の階段下から、7階のまゆりがウーパを落とすのを見届けた後、5階から階段を上ってくる紅莉栖に気付いた俺は──

『慌てて反対側の踊り場に、身を隠した』

 その時は、紅莉栖をやり過ごす事が出来た事に、『特殊な形の階段で、助かった』などと思った記憶がある。そしてそれは、同時に7階を向いていたβ岡部の監視が、その瞬間だけ外れるという記憶。

『その一瞬に、ウーパをすりかえる』

 まるで、そのために予め用意されていたかのような、空白の一瞬。そこに、全てを賭ける。

 単純で分かりやすい計画。とは言え、問題もあった。

 この作戦を成功させる秘訣は、スピードである。

 まゆりの落としたウーパ。それを監視するβ岡部。

 チャンスは、β岡部が階下の紅莉栖を警戒して身を隠してから──
 何も知らない紅莉栖がβ岡部を素通りし、7階へと到着するまでの時間。

 わずかであった。恐らく、15~20秒といったところ。それ以上は望めない。

 だからこそ、素早く迅速に任務をこなす必要があった。
 だからこそ、一番出入りの激しい7階にこそ、身を隠す必要があった。
 その上で、落ちたウーパと6階に潜むβ岡部の両方を、監視しなければならなかった。

【それよりも、岡部。なんと言うか、身を隠す方法なんだが……。確かにここからなら、ウーパもβ岡部もバッチリだけど……。これ、ちょっと馬鹿っぽくないか? 冷静に考えると、死ぬほど恥ずかしいんだが、オーバー……】

 トランシーバーから聞こえた、紅莉栖の後ろ向きな意見を、俺は斬って捨てる。

「何を言うか。それこそ秘技、『なんだ、ダンボールか』だぞ! かの有名な髭の渋い潜入工作員殿も、この手で数々の苦境を突破されているのだ! 侮るな! ウォウブッァァァー!」

 何の事はない、単に昔遊んだゲームの案を、そのまま採用しただけであった。とはいえ──

 β岡部がメタルウーパを回収し──
 まゆりがカプセルトイを発見し──
 俺がまゆりにせがまれて、プラスチック製ウーパを引き──
 紅莉栖がまゆりの落としたウーパを拾う──

 これだけの要素が詰め込まれた7階。なかなか身を隠すにも、場所が無く──

『苦肉のダンボール作戦。こんな方法しか思いつかないとは……』

 俺の提示した妙案。

 それは、安全確実というには、余りにも心もとない。もし万が一、誰かが箱のふたを──などと考えると、途端に不安が渦巻きはじめる。

 だがそれでも、俺の案を聞き、、『それが一番、確実そうだ』と、ダンボールを使ったポジショニングに賛同を示した紅莉栖。

『その紅莉栖が現場で踏ん張っているのに、安全な場所にいる俺が泣き言か?』

 そんな思いで、湧き上がる不安を飲み込む。

 俺の計画。紅莉栖の判断力。それに寄りかかって、作戦の完遂を信じる。


 と──


 唐突に、トランシーバーから大きな雑音が流れ出した。

「これは、タイムマシンが出す電磁波の影響か……?」

 雑音の正体を想像した俺が呟くのと同時に、トランシーバーから紅莉栖の声が聞こえる。

【岡部、今凄い音がした。たぶん、β岡部が屋上に到着した。オーバー】

 そんな状況を伝える紅莉栖の言葉に、俺は手早く返す。

「オーバーはもういい。これからは、送信ボタンを押しっぱなしにしておけ。俺もリアルタイムで状況を把握しておきたい」

【わかった】

 紅莉栖の短い同意の言葉を乗せた電波に、恐らくβ岡部が屋上の扉を押し開けたのであろう衝撃音が混じった。

【β岡部がきた】

 紅莉栖の言葉を示すように、誰かが階段を慌しく駆け下りてくる足音が聞こえる。

「ここからが、本当の勝負だ」

 もうここから、紅莉栖が送信ボタンを押し続けている限り、俺は紅莉栖を励ます事も出来ない。
 一方通行のトランシーバー機能が、どうにも煩わしく思えた。

 紅莉栖の、押さえた声が聞こえる。

【無事、メタルウーパを入手したみたい】

 俺は、一人頷く。と──

【わー。『雷ネット』だー】

 耳に馴染んだ声が、小さく聞こえた。 恐らく、まゆりが、カプセルトイを見つけた時の歓声であろう。

 ほどなく、再び紅莉栖の声が聞こえる。

【いま、β岡部がまゆりとすれ違って、降りていった。まゆりもどこかへ行ったみたい】

 紅莉栖が伝えた、現場の状況。それは、『最初』と『β』の経験を併せ持つ、俺の記憶と寸分たがっていない。

『順調だ。β岡部もまゆりも、ダンボールの中の紅莉栖には気付いていない。ここまでは、何の問題も無い』

 俺は緊張に、生唾を飲み込むと、トランシーバーから聞こえる音に、全力で集中する。

 ほどなくすると、紅莉栖の現状伝達が流れる。

【まゆりが戻ってきた。最初の岡部も一緒よ】

『となれば、これから最初の俺は、カプセルトイで問題のウーパを引き当てる事になるはずだ』

 その予想通り──

【あっ、『ウーパ』だよ】

【それはレアなのか?】

【レアじゃないけどね、すごくかわいい──】

 記憶に根付いている、まゆりとのやり取り。それが俺の耳と心を震わせる。緊張にトランシーバーを握る手が汗ばんでくる。


 そして──


【岡部、まゆりが落とした……】

 その言葉で、作戦決行の瞬間が近い事を知る。

 現状では、まだβ岡部の監視は続いている。今動けば、紅莉栖の姿はβ岡部に捕捉される。

 動くべきは、階段を上がってくる紅莉栖を警戒したβ岡部が、監視の目を外した瞬間なのだ。

『まだだ。まだだぞ、紅莉栖』

 俺は、聞こえないはずの声援を、紅莉栖に向けて送る。と──

【心配するな。ちゃんと把握してるから】

 まるで、俺の心情を読み取ったような紅莉栖の言葉が、俺の心配を和らげる。

『さすがだな、紅莉栖』

 俺は心の奥から、出来の良すぎる完璧な助手に敬意を払い、その瞬間を待つ。


 と──


【岡部! どうしよう! 阿万音さんが!】

 トランシーバーを通して、紅莉栖の混乱した声が聞こえ、スピーカーから音が途絶える。

 その言葉が理解できず、俺は送信ボタンを押して、抑えた声で紅莉栖に問う。

「どうした、何があった」

 ボタンから指を外すと、すぐさま紅莉栖から返答が返る。

【阿万音さんがいる! 少し離れたところで、隠れて状況を見てる!】

 その言葉に、おおきく混乱する。

『鈴羽だと!? どうして──』

 と思いかけ、そして自分が見落としていた、大きな存在の事を思いだす。

『しまった! 俺は、過去での鈴羽の行動を把握していない!?』 

 全身から、大量に冷えた汗が噴き出した。

 紅莉栖を助けるために、俺と共に7月28日を訪れた鈴羽。彼女はその時、俺とは別行動をとっていた。そして残念な事に、俺はその間の鈴羽の行動を、何一つ把握していない。

『まさか、よりにもよって、今ここでだと!?』

 今、紅莉栖の側に鈴羽の目がある。その事実に、大きくうろたえる。

 どうしたらいい? どう行動すればいい? 混乱する頭で、必死に搾り出そうとするが、しかし俺の頭では、スペックが追いつかない。

 俺は苦悶に顔を歪ませる。と──

【β岡部の監視が外れた! どうしたらいい! 阿万音さんを無視してでも、行っていい!?】

 小さな絶叫が、俺の頭を大きく打ち鳴らす。そしてトランシーバーが沈黙する。

『どうしろと言うのだ!? 鈴羽を無視すれば、その目に紅莉栖が捕捉される! それは大丈夫なのか!? 時間が無い! 迷うな!』

 だがしかし、俺が助かるための世界線へ戻るには、出来る限り、事に関わった人物の主観を変えてはいけない。それは大前提だ。

 もしもそれを無視し、無理やりにでもウーパのすりかえを実行すれば、鈴羽の主観にとんでもなく大きな変化を与えてしまう。


 その結果たどり着く世界線は──


【岡部! どうしたらいい、岡部!?】

 再び紅莉栖の声が聞こえ、すぐに途絶える。

 その沈黙に、俺は激しく苛立ちを吹き上がらせる!

『今、紅莉栖が俺の返事を待っている! 余計な事を考えるな! すぐに決行を告げろ!』

 だがしかし、頭に渦巻き始めた重い感情に、足を踏み出せない。

【もう待てない! 行く!】

 俺よりも早く現状を認識した紅莉栖。彼女が最善だと判断した選択を聞き、俺は──

「だめだ……待機だ、紅莉栖」

 奥歯を噛みしめ、紅莉栖がはじき出した、きっと正しいはずの判断を否定する。

【どうして!? どうしてよ!?】

 悲痛を伴う紅莉栖の叫び。

 分かっている。分かっているのだ。このチャンスを逃せば、いかに天才の紅莉栖といえど──。いかに策士の紅莉栖といえど──。

 だが、それでも紅莉栖の姿を鈴羽の目に捉えさせる事は、はばかわれた。なぜなら──


 ──そう。この7月28日は、αやβが交差する、曰くつきの一日なのだ──


 鈴羽の主観が大きく変わる。その結果、たどり着く世界線。その事に、忘れたはずの恐怖が圧し掛かる。

 ラボの屋上で、紅莉栖に殴られ約束し、振り切ったはずの恐怖。論破で退治されたはずのヘタレ科学者。それが俺の中でムクリと起き上がる。


 そして、そんな躊躇が全てを台無しにする。


 トランシーバーから、紅莉栖の声を聞く。

【岡部……ごめん……岡部……】

 余りにも、悲嘆にくれた、その声。それが俺に、現状を正しく理解させる。

 失敗──したのだ。

【何も出来なかった……私、何も出来なかった……】

 まるで、自分を責めるような紅莉栖の言葉。
 そんなお門違いの非難をかき消したく──

「紅莉栖のせいではない! 俺の判断だ!」

 そう、言葉を送りたかった。だが、紅莉栖が送信ボタンを押し続けていため、俺に何かを伝える術は無く──

『これでまた……繰り返すのか……』

 トランシーバーを握る手に、力がこもった。

『結局、何も変えることが出来なかったのか……』

 何も変えることの出来なかった、7月28日。それが意味するのは、俺の死んだ世界で、暗い顔をして生きていかねばならない、紅莉栖の人生。


 ──全てをなげうってるように見えた──


 タイムマシンに乗り込んだとき、鈴羽から聞いた言葉が頭を過ぎる。

『……そんなこと、させられるか』

 αにたどり着くならば。βにたどり着くならば。繰り返すのは俺であった。だが、この何も変わらない世界線を繰り返さねばならないのは、俺ではなく紅莉栖なのだ。

『……まだだ。まだ、何かあるはずだ』

 あきらめるわけには、いかなかった。
 本当は、もう二度と紅莉栖にこの世界線を繰り返させるつもりなど、なかった。

『だと言うのに、なぜだ!? どうして何も思いつかない!?』

 一発逆転を狙う、俺の思考。しかし、思いは至らない。

 ジレンマに歯軋りする。口の奥に、鉄の味が広がる。

 だがそれでも、空回りを続ける俺の思考は、何も思いつく事ができな──


【岡部……待ってて。まだ、手はあるから……】


 そんな紅莉栖の冷静な言葉を、俺は激情に囚われた頭で、聞いた。

 トランシーバーが沈黙した事を受け、俺は紅莉栖に声を送る。

「まだチャンスが……チャンスがあるのか!?」

【それは分からない。でも、考えは……ある】

「それは一体、どんな!?」

 俺の問いかけに、トランシーバーはしばらく沈黙した後──

【ねえ岡部。私って、天才だよね? 誰よりもきっと、頭がいいよね? 少しは……優しいとこもあるよね?】

 なんの脈略も無く、そんな紅莉栖の声を、唐突に響かせた。聞こえた言葉の真意が見えない。

「無論……だ。それはこの俺が保証してやる。お前は誰よりも聡明で、そして誰よりも優しい女だ」

 こんな状況で、俺はまたどうしてこうも軽々しい言葉が言えるのだろうか?
 そんな自分を冷ややかに見つめながら、紅莉栖の返事を待つ。

【ありがと。あんたにそう言ってもらえると、自信がもてる。だから待ってて。岡部がそう言ってくれた私を、私は信じる。だから岡部も──】



 ──私を信じて、待ってて──



 そして、トランシーバーの音が途切れる。

「おい紅莉栖!?」

 送信ボタンを握り締めて問いかけるも、その言葉を最後とばかりに、トランシーバーは沈黙を続けるばかりであった。



[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ24
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 22:00
     24


 俺は一人、柳林神社の片隅で、細長いタイムマシンに目を向けながら、大きくため息をつく。

「いったい、紅莉栖は何をやっているというのだ……?」

 空を見上げれば、太陽が暑い。照り付ける陽射しが、ここがまだ夏真っ盛りの7月28日だという事を、嫌と言うほどに痛感させてくる。

『にしても、暑い……』

 喉の渇きに耐え切れず、思わず自販機で買ったペットボトル入りのドクターペッパー。それを、景気よく身体に流し込みながら、思い起こす。

 あの後。

紅莉栖から、『信じて待て』との連絡を受けたあと。しばらくすると、沈黙していたトランシーバーが息を吹き返した。

 その通信で俺は、紅莉栖から任務が無事に成功した事を、告げられた。

 そう。紅莉栖は見事に、プラスチック製のウーパを、すりかえて見せたのだ。

「いったい、どんな手を使ったのだ?」

 そう問いかける俺に、どういうわけか紅莉栖は、電波越しにその内容をはぐらかした。


 ──それは言えない。まだ今は、言えない。だけどきっと、何もかも上手くいった。だから岡部は安心していい──


 雑音交じりの、酷く疲れた口調。

「まだという事は、いずれは教えてくれるのだな?」

 そんな俺の言葉に返ってきた、紅莉栖の【きっと……話す】という短い返事。その擦り切れそうな声色に、俺はそれ以上の追求をやめる。

 そして、紅莉栖に言われるがままに、一足先にタイムマシンのある柳林神社に戻ってきたのである。

 無論、できることなら紅莉栖がラジカンから出てくるのを待っていたかったのだが──

『やりたい事とは、一体なんのことなのか……?』

 ラジカン脇の路地で、トランシーバーに向けて、その場待機を表明した俺の言葉。しかし紅莉栖は、そんな俺の意思を拒否した。

 どうしてもやりたい事があるからと、俺一人、先に柳林神社まで戻っているように言い残し、再び通信を切ってしまったのだ。

 それ以降、いくら呼びかけても応答は無く──

 それで仕方なしに、今もこうして、境内の片隅で一人、無為に時間を潰しているのである。

『で、かれこれ一時間。待てど暮らせど、連絡はなし。どうなっている?』

 俺は突っ立ったままで、辺りに目を配る。

『おっと……』

 視界に捕らえた光景に、素早く身を隠す。ルカ子であった。

『別に、やましいことなどないのだが……』

 しかし、やはりルカ子とてこの一連の出来事に、まったくの無関係という分けでもなく──

『不必要に、主観を変える事は、得策ではない』

 身を隠したのは、そんな考えがあっての事。だから、境内から出てきた彼が、そのまま俺に気付くことなく姿を消すのを、息を潜めて見守る。

『というか、こんなデカ物と一緒では、見つけてくれと言っているようなものではないか……』

 俺の背後にたたずむ、銀色の機械。その不必要に大きな存在感に、懸念を覚える。

 しかし幸いな事に、ルカ子はこちらに気付いた様子もなく、程なくするとそのまま神社の敷地から出て行った。

「ふぅ……」

 小さく息をつくと、俺は潜ませた身体を表に引きずり出して、思う。

『というか、これではまるで、ルカ子を付けねらう変質者のようでは──』

【変質者だ。タイーホだ】

 唐突に手元のトランシーバーから響いた音声に驚き、飛びあがりそうになる。

「く、紅莉栖か!?」

 慌てて辺りを見回す。

「後ろががら空きだぞ、ヘタレ科学者」

 ふてぶてしい物言いの発信源を特定し、顔を向ける。

「遅いぞ、助手。今までなにを──」

 口を突きかけた愚痴を、思わず飲み込んだ。

 全身、濡れネズミ。そう形容するのが、一番手っ取り早いだろう。
 赤味がかった長い髪も、身に付けた改造制服も、胸元に垂れ下がったネクタイに至るまで、全てが満遍なく濡れていた。

「ベッタベタではないか! 何がどうしてそうなった!?」

 詰問するような俺の口調に、紅莉栖は──

「いやあ、やっぱ日本の夏は暑いのね。侮ってたわ」

「暑いってお前、まさかそれ、全部汗なのか……?」

「んなわけないでしょ。ちょっと、かぶって来ただけ」

「かぶるって何を……」

「水以外に何がある?」

 平然とした態度で、よく分からない事を言う。そんな紅莉栖の立ち姿に、思わず疑問の眼差しを向けてしまう。

『水をかぶっただと? まさか、こんな状態のまま、街中を歩いてきたというのか……』

 思い描いた彼女の行動は、常に人前では凛々しい姿を誇示してきた、紅莉栖らしい行いとは到底いえず──

「ってか、あんまり見るな。下着が透けてるから」

 言われて気付き、さらに凝視する。

「だから見るなと言っている」

 拳を握られ、慌てて視線を外す。と──

「それ、貰うわよ」

 俺の手にぶら下がっていたペットボトルが奪われた。

「え、いやお前、貰うってそれ……」

 俺の言葉が出きるよりも早く、紅莉栖はキャップを捻り取ると、一気に口元にあてがう。

「一応、忠告しておくが、それは俺の飲みさしであるわけだが……」

 遅れた俺の進言を耳にしながら、しかし、何のためらいもなく中身の炭酸飲料を飲み干す紅莉栖。

 そして最後に、大きく息をついて、空のペットボトルを俺に放ってよこした。

「はぁ~。生き返る」

「いやまあ、別にお前が気にしないなら、俺は構わんが……」

 などと、なぜか俺の方が落ち着かず、紅莉栖の様子を盗み見る。と、紅莉栖が俺に向き直った。

「岡部。ほら、これ。約束の品よ」

 そう言って差し出された紅莉栖の手には、小さなプラスチック製のウーパが乗せられていた。

 俺はそれを受け取り、まじまじと眺める。

 メタルではない、レアではない、プラスチックで出来た、ただのウーパ。まゆりの書いたサインの文字が、任務完遂を告げた紅莉栖の言葉を、偽りでないと知らしめる。

「確かに、間違いないな。しかし、本当にあの状況からどうやって?」

 流れのままに、問いかける俺に──

「まだ言わない。そう言ったはずだぞ」

 紅莉栖ははっきりと拒否を示す。

 まだ言わない。
 それが明らかに、紅莉栖の主観による『まだ』である事はわかった。だからきっと、俺の主観に、その『まだ』が訪れる事がない事も、俺は理解していた。

 任務は終わった。
 世界線を変えたウーパを回収できたのだ。であれば、これ以上7月28日に留まる理由などない。速やかに俺達にとっての現代へと、戻るべきなのである。

 下手に長居でもしようものなら、どこで誰の主観に変調を与えてしまうか、分かったものではないのだ。

『さっきのルカ子がいい例だ。次も上手くスルーできるとは限らん』

 だからこそ、一刻も早く、この日を去るべきなのだ。そして──

『もしも、何もかも上手くいき、紅莉栖もまゆりも俺も生き残る世界線に戻る事が出来たのなら、きっとそこでは、紅莉栖の『まだ』は、なかった事になっているだろう』

 タイムマシンが現代へとたどり着いた瞬間、再び世界線は移動する。
 あの時の鈴羽がそうであったように、タイムトラベラーとしての紅莉栖もまた、元の時間への帰還と同時に、その歴史を書き換えられるのだ。

 そしてそれは、今の紅莉栖の記憶が、その瞬間にリセットされてしまう事を意味している。

『だから、どう転んでも俺の元に紅莉栖の『まだ』が訪れる事はない』

 そんな全てを理解した上で、それでも俺は頷く。

「そうだったな。まだ、聞かないという約束だったな」

 全てを飲み込んだ俺の言葉に、紅莉栖は「ありがと」と、短く礼を言う。そして──

「ねえ、岡部。相談があるんだけどさ」

 おもむろに、切り出した。

「相談? なんだ。言ってみろ」

 発言を促す俺の耳に、紅莉栖の口から信じられないような提案が飛び込んできた。


「もう少しだけ……ここに……いられないかな?」


 その言葉に、俺は耳を疑って聞き返す。

「それはつまり、この7月28日に、もう少し留まる……と言う意味か?」

 紅莉栖は静かに頷く。

「別に28日にこだわってはいない。29日でも30日でもいい。時間が許す限り、この時間にとどまる事は、ダメ……かな?」

 俺を探るような、紅莉栖の声。俺に『ダメか』と問いかける紅莉栖の言葉。

 俺はいつだってこの問いかけに対し、『ダメではないが』と『ダメという事もないが』と、その意見を飲み込んできた。


 だがしかし、今度ばかりはそうも行かない。


「ダメに決まっているだろう。お前にだって分かっているはずだ。俺達がこの時間に留まる危険性は計りしれん。不必要に留まって、下手に誰かの主観を変えてしまえば、また妙な世界線にたどり着くかもしれないのだぞ?」

 俺の的を得た異論。しかし紅莉栖は、なぜか食い下がる。

「でもさ、少しでもいいから、もう少しだけでいいから……この時間にいたい。今の私が、もう少しだけ岡部と一緒にいる時間が……欲しい」

 紅莉栖の言葉。それの意味するところは分からない。

 だがそこに、口にはされていない何かが隠されているように思えた。『今の私が』と告げた紅莉栖の言葉。そこに、揺れ動く大きな何かが、微かに見えた気がした。

 だがそれでも俺は──

「ダメだ。論外だ。危険すぎる」

 端的な言葉を重ね、紅莉栖の願いを突っぱねる。

 そんな俺の頑なな返事を聞き、紅莉栖は下を向いて頭を垂らす。

「そっか。そうだよな……。私、何言ってるんだろ……」

 どこか、自虐的に聞こえる囁き。まるで、自分の不自然な発言を反省するような声音。そんな響きが、なぜだか俺の心に、小さな引っ掛かりを残した。

 俺は黙って紅莉栖を見る。

 あの、常に冷静で、理路整然と正解目指して突き進む、牧瀬紅莉栖。そんな彼女が見せている、余りにも状況を判断しそこねた、願い。その意味を想像しようとして──

「わかった、帰ろ。岡部、手錠だせ」

 うつむけた顔を跳ね上げた紅莉栖の声に、積み上げかけた思考が霧散する。

 帰ると告げた紅莉栖。手錠を出せと口にした紅莉栖。その言葉に、俺は紅莉栖の願いを自ら否定した事も忘れて、問いかける。

「……いいのか?」

「いいも悪いも、あんたがダメって言ったんだろ?」

 もっともな意見だった。

『俺は、何を聞いているんだ?』

 自らのアホさ加減に、居心地が悪そうに頭をかく。そして、紅莉栖の言葉に従って、手を白衣のポケットにねじ込んで、手錠を引きずり出す。

 金属の連環が擦れあい、小さな音を鳴らした。

 と──

「お……おい、紅莉栖?」

 俺の手にぶら下がった手錠を、紅莉栖が素早く奪い取った。そんな行動が意外で、俺は戸惑いがちな声を出す。

「何をする。手錠ぐらい、自分でかけられる。ほら、返せ」

 返せと言って、紅莉栖に向けて差し出した右手。
 次の瞬間、その右手首に手錠がかかる。そして間をあけず──

「お、おい!?」

 残ったワッカが紅莉栖の左手にかかった。

 予想外の展開に目を見開く。
 鎖でつながれた、俺と紅莉栖の手。それを凝視しながら、あまりに咄嗟の出来事に何も出来ず、ただ戸惑って困惑を広げる。

 そんな俺に紅莉栖はいつもと変わらぬ声で言う。

「これでいい。さ、行こう」

 そして、立ち尽くす俺をせかすように、タイムマシンへと歩み始める。つながれた俺の右手を連れ添うようにして、紅莉栖はその歩みを進めていく。

「これでいいって、お前……」

 俺は紅莉栖に引きずられるままに、分けが分からず問いかける。そんな俺の言葉に──


「これが……いい」


 そう呟いた紅莉栖の声は、どこまでも冷静に聞こえた。

 だから俺は従う。
 いつもと変わらぬ紅莉栖の声に。
 いつもと変わらぬ紅莉栖の背中に。

 抵抗するはずもなく、まるで忠犬のようにしたがって、歩調をあわせる。

 そしてたどり着く、未来の紅莉栖が作り上げた、苦悩の結晶。銀色に輝く、過去と未来をつなぐ、細長い機械。

 ハッチを空けて、その中に紅莉栖が身を滑り込ませる。

「ほら、早く行くぞ、岡部」

 引きずられ、俺の身体もタイムマシンの手狭な空間に、引き込まれる。

 来た時とは違い、向かい合うようにして並ぶ、俺と紅莉栖。二つの身体が押し付けあって密着する。

 衣服越しに伝わってくる柔らかな感触と、濡れた体の心地よい冷たさを感じ、ドギマギとしながら──

「何だか、前より狭くなっていないか?」

 そんな言葉を口にする。それは、実感による疑問と、そして、ほんの少しの照れ隠し。

「……気のせい。こんなものだったはず」

 そんな疑問を紅莉栖はとりあおうとはせず、手早く操作してハッチを閉める。

 ゆっくりと、外界の音が途絶えていった。

「……静かだな」

 俺の正直な感想。それに紅莉栖がおどけたように声を出す。

「変な気を起こすなよ、HENTAI岡部」

 そんな不躾の物言いに『ならば、俺の両手に手錠をかければよいものを……』などと思い、視界に映る紅莉栖のつむじに視線を落としながら、苦笑いを浮かべる。そして──

「押すぞ」

 俺は、現代へと帰るためのボタンに手をかけ、紅莉栖に帰還の同意を求めた。と──

「私に……押させて」

 紅莉栖が、そんな申し出をした。なぜだか少しだけ、言葉を詰まらせていた。

「それは構わんが……」

 別にこだわるような事でもなかろうに──と思いながらも、取り立てて否定する意味もなく、俺はボタンの所有権を紅莉栖に明け渡す。

「では、まかせたぞ、助手よ」

 紅莉栖の手がボタンにかかり、俺はこれからたどり着くはずの世界線に想いを馳せる。

 紅莉栖は、ウーパの取替えに成功した。どんな手を使ったのかは分からないが、それでも紅莉栖は成功させた。

 これで全てが上手くいくとは限らない。これで何もかもが、正しくなるとは限らない。

『だがしかし、それでもこれは紅莉栖がたどり着いた、一つの結果だ。ならば俺にできることなど、信じる以外に無いではないか』

 そんな事を思い、俺は紅莉栖の頭を天辺から見下ろし──

「……どうした?」

 ふと気が付き、声をかけた。

 ボタンに指先を触れさせた紅莉栖。その身体が、先程より動きを止めていた。

「なぜ、押さない?」

 不思議に思い、問いかける俺。その言葉に──

「岡部……。もしも……さ」

 紅莉栖のためらいがちな声が、小さく響く。

「どうしたというのだ?」

 俺は、短く問う。そんな俺の言葉に返ってきたのは──

「もしも……私が見てきたって言ったら……どうする?」

 静かで冷静で、それなのに微かに震える──そんな紅莉栖の声だった。
 俺にはそんな言葉の意味が理解できなく、そんな声の震えが理解できず、どうしていいか分からずに、返答を詰まらせる。

「…………」

 何も告げづに、黙って紅莉栖を見下ろす。そんな俺の耳を、かすれそうな程に細い紅莉栖の声が叩いた。



「岡部が、私を助けるところを、見てきた……」



 まるで搾り出すかのように、告げられた言葉。その意味が読み取れてしまい、俺は──

「見て……来たのか……」

 声に困惑を滲ませてしまう。

「全部……見てきた」

 それは、はっきりとした声。そこに見える張り詰めた感情に、それが真実である事を疑えない。

「あんたが刺されてから……。まだ足りないって、傷口を広げて……。そんな状態なのに、私に痛かったかって……、済まないって……さようならって……」

 そんな全てを見てきたのだと、紅莉栖はそう言った。

 あの後──

 ウーパの取替えに成功した後。
 紅莉栖はダンボール持参で、ラジカンのあの場所に、身を潜めていたのだと言う。
 廊下にうず高く積み上げられた荷物の山。そんな中に身を隠し、間近でβ岡部の成り行きを、その記憶に焼き付けてきたのだと──

 そんな事を口にしながら、紅莉栖は声を震わせた。

「あんなのだとは、思わなかった……。あんなムチャクチャだとは思ってなかった……」

 紅莉栖の身体がこれまで以上に、俺の身体に押し付けられる。

 俺の胸に、強く顔をうずめた紅莉栖は言う。

「本当にさ、馬鹿なんだな。岡部は……」

 どこか俺を揶揄するような呟き。それに俺は、上手な返しを思いつけず──

「……悪かったな」

 出てきたのは、口を濁すような、そんな言葉だった。

「すごく……怖かった。目の前で、岡部が死ぬんじゃないかって思えて……。我慢できずに、何度もダンボールから飛び出しかけた」

 俺は黙って、紅莉栖の言葉に耳を傾ける。

「死ぬわけないって分かってるのに、それでも……怖かった」

 紅莉栖の声に含まれた震え。それが大きさを増していく。

「あんな馬鹿なことしてたなんて、思ってなかった」

 俺の手と紅莉栖の手をつなぐ鎖が、かすかな震えに煽られて、小さく音を立てる。

「ごめん……。気軽に主観を教えろとか……。何度も繰り返せとか……。私、何も知らないのに、あんたに偉そうな事ばっかり、言ってた」

 まるで、自分の感情を持て余しているかのような、紅莉栖の想い。理由の良く分からない、俺への謝罪。

 その言葉を聞き、俺は言う。

「別にお前が謝る必要はない。俺は自分の都合で、そうしたまでだ。そこにお前の意思など、関係なかろう」

 だから、謝る必要などない。だから、気にする必要はない。そう告げた俺の言葉に、紅莉栖は小さく首を振る。

「関係なくなんて……ないだろ」

 紅莉栖の目からあふれた何かが、俺の胸に染み込んでいく──そんな気がした。

「本当は、もっと言いたい事が一杯ある。あんたに言わなきゃいけないことが、物凄くたくさんある」

 視界に映る紅莉栖の頭が、押さえきれなくなった感情を持て余すように震える。

「今の気持ちが……この気持ちが……大切で……。見てしまったから……だから、今私にある記憶が、とても大切で……」

 伝わってくる感情に、その揺れに、俺はどうする事もできず、ただ身をゆだねる。

「でもさ、忘れちゃうんだよね? 私、このボタンを押したら、全部……」

 紅莉栖の声を揺らせる何か。それが次第に大きさを増していき、腕へ、身体へと、その波紋を広げていく。そして──



「全部忘れるなんて……嫌だよ。そんなの……ひどすぎるだろ……」



 ひときわ大きく、紅莉栖の心が震えた気がした。

「忘れたくないのに……忘れてはだめなのに……」

 声を引きつらせる紅莉栖。

「ごめん……きっと私、忘れる……。きっと私……あんたがしてくれた事……全部忘れると思う……」

 紅莉栖の震えが、俺の身体に染み渡りはじめる。

 これほどまでに、感情を押し殺そうとしている紅莉栖など、俺は見た事がなかった。

『何か……何か言わなくては……』

 そう思った。
 何でも良いから、何かを言葉にして紅莉栖に伝えなければと、どうしようもないほどに、心底そう思った。

 だというのに──

「…………」

 俺には紅莉栖にかける言葉がなかった。当然だった。

『全ては……紅莉栖の言う通り……なのだ……』

 ボタンを押せば、紅莉栖の記憶には、何も残りはしない。

 全ては何もなかった事となり、今の紅莉栖が持て余している想いの全ては、まるで夢だったかのように消えうせる。

 これまで、ずっとそうだった。だからきっと、これからもずっとそうなのだろう。それはもう、決まっている事なのだろう。

 
『だがそれでも……』


 だがそれでも俺は、紅莉栖に何か、言葉をかけたかった。何が何でも、伝えたかった。

 いつも俺を励ましてくれた紅莉栖。うつむいた俺に、大丈夫だと、心配するなと、前に進めと、いつでも俺を奮い立たせてくれた、紅莉栖。
 そんな彼女がこうして震えているのだ。ならば、今こそ紅莉栖を励まさねばならないはずなのだ。そうしなければならないはずなのだ。

 だから、紅莉栖にかけるべき言葉を探して、俺は必死に思考を回す。

 忘れても、全てがなくなったわけではない──
 忘れてもきっと、思い出せる──
 必ず俺が思い出させる──

 色々な安っぽい言葉が、頭の中を流れては消える。不細工な思考が、頭の中を駆け回る。

 そんなに上手くいくわけがない。そんなに都合よく、いくわけがない。

 紅莉栖の口から否定的な言葉を引き出しかねない、そんなクズみたいな言葉ばかりが、思い浮かぶ。

 何かが言いたかった。紅莉栖のために。今目の前で肩を震わせている一人の少女のために、俺の出来る一番最高の励ましを、送らねばならなかった。

『だというのに……』

 どうしようもなく、歯がゆい。こんな時でさえ、何も思いつかない自分が、ひどく惨めに思えた。

『こんな時、紅莉栖ならばきっと、上手い言葉をかけるのだろうに……』

 などと考え──しかし、そんな思いは、自分の力量不足を覆い隠すために、紅莉栖を引き合いに出しただけでしかない事に気付き──それがまた不甲斐なく、どうしようもなく腹が立った。

 そして、俺の口から、短い台詞が吐き出される。


「ならば……もう少しだけ留まるか?」


 その言葉のあまりに酷すぎた出来栄えに、渦巻いていた自己嫌悪が激しく吹き上がる。

『俺は……何を言っている?』

 彼女に向けた、その場しのぎの軽々しい一言に戸惑う。自ら吐き出した残酷な言葉に、身が凍る。

『もう少し留まるだと? 留まってどうするのだ? ほんの少し結論を遅らせたところで、何も変わりはしない。最後にたどり着く結論に、何も変化はおこらない……』

 少しばかり延命したとして、それでどうなる物でも無いのだ。

 そんな事は分かっている。分かっているのだ。それなのに──

「一日や二日くらいなら、まあ問題も……」

 勝手に言葉を吐き出す口が、信じられなかった。

 たとえ、ここでの滞在時間を延ばしたとしても、それでたどり着く結果に、前向きな要因が付加される可能性など、欠片もない。
 結局最後には、紅莉栖は全てを忘れてしまう。俺には、その事実を捻じ曲げるだけの力など、ないのだ。
 その事は、嫌というほどに理解してる。そしてその理解は、俺だけでなく紅莉栖自身も同じであるはずなのだ。

 ならばこそ、今ここで紅莉栖を引き止めるような言葉を吐くなど、許されるはずのない事だと思った。

 だというのに、まるで紅莉栖の想いにしがみ付こうとするような、そんな俺の言葉は止まる気配を見せず──

「さっきの言葉は、取り消す。すぐに帰る必要はない。俺も、もう少しだけ、このまま……」

 と──

 紅莉栖の寂しさを湛えた声が、俺の未練を断ち切るように響いた。

「ダメだって、岡部。それをやったらきっと、私はもう二度と、この時間から離れられなくなる。自分でも、そうなる事が分かる」


 ──それくらい、今の私は──


 紅莉栖が、何かを口にしかけて、途中で止めた。

「ねえ岡部。私はね……。ダンボールに隠れたままで、ずっと考えてたんだ。物凄く狭くて暑かったけど、でもどうしたら、割り切って前に進めるのか、ずっと考えて……。それで答えを出してから、ここに来た」

 俺は紅莉栖の言葉の意味を、いつものごとく掴みそこねる。紅莉栖は続ける。

「今の気持ちを、理論でねじ伏せるのに、物凄く時間がかかった。必死だったんだぞ、水までかぶったんだぞ、この私が。それなのに、どうしても我慢できなくて……余計なこと言った。ごめん」

 謝る必要など無い! 余計な事などではない!

 そう伝えたかったのに、どうしても声が出なかった。

「割り切れたと思ってたんだけどな。こういうのって、難しいな。……だからさ、岡部。無理しなくていい。そんなに必死になって、何か言おうとしなくていい。だから──」



 だから、もう泣かなくていいから



 言われて初めて、気が付く。

 自分の頬を流れる、熱い何か。顔をクシャクシャに歪め、鼻をすすり上げている自分の姿。そんな、どうしようもないくらい見苦しい醜態に、そこで初めて気がついた。

 信じられなかった。
 どうして自分が泣いているのか、理解できなかった。この涙が、何を想ってのものなのか、それすら分からないでいた。

 それが、忘れてしまう紅莉栖を想ってなのか、忘れられてしまう自分を想ってなのか、それとも──

『どうして俺は……何もしてやれない……』

 そんな悔やみきれない感情に、奥歯を噛みしめての事なのか、どうしても俺には分からなかった。

 ただただ押さえきれない感情に揺さぶられる。

「……す……まな……い」

 やっとの思いで、短い言葉を搾り出す。

「あやまるな……バカ」

 小さな優しさを乗せた紅莉栖の声が、信じられないほどに俺の頭を打ち鳴らす。

 堪えきれず、手錠のかかっていない片手をまわし、紅莉栖の身体を強く抱き寄せる。
 それに答えるように、紅莉栖の手がボタンを離れて、俺の背中に優しく触れる。

 俺は何も言えず。
 紅莉栖も何も言わず。

 ただただ黙り、静かに互いの鼓動を聞きあう──そんな光景。狭苦しいタイムマシンの中から、余計な音が全て消えているかのような──


 そんな緩やかな時間が、過ぎていく。



 どれくらい、そうしていただろうか。

 やがて紅莉栖が、口を開く。

「もう……押すね」

 それは、何かを吹っ切るような、短い言葉。

 顔を上げ、俺を見上げる紅莉栖の瞳。

 その目にはもう、何の痕跡もなかった。

 だから俺も、湧き上がりそうになる、情けない痕跡を押し殺して、口を開く。

「……いいのか?」

 短い言葉を搾り出すと、紅莉栖は小さく笑って見せた。

「それを聞いちゃうところが、岡部だな」

「それは……誉められているのか?」

「そんな分けあるか。けなしてるに、決まってるだろ」

「……だと思った」

 紅莉栖に負けじと、無理やり笑って見せる。そんな俺に、紅莉栖はいつもと寸分違わぬ冷静な声で言う。

「……交換条件がある」

 その言葉に、俺は静かに問い返す。

「交換条件……?」

「そ、交換条件。帰って、もしも……あんたも、まゆりも、私も無事だったら……」

「……ああ」

「全部……。過去にあった事も、これまであった事も……全部、私に話して欲しい。あんたの主観も……あんたから見た私の主観も……全部教えて欲しい」

 途切れ途切れに伝えられた、紅莉栖の願い。俺にはその願いを否定する理由など、ない。だから短く、了解を返す。

「……長いぞ」

「いい。言葉でも、書面でも、何でもいい。何もかも、私に教えて欲しい」

「……いいだろう。約束する」

 俺の返事を受けた紅莉栖。そこに見えた美しい笑顔が、鮮烈な記憶となって俺の脳裏に焼きつく。

「絶対だぞ?」

「ああ。この岡部倫太郎に、二言はない」

 俺は意思を示すために、はっきりと、全力で、これ以上ないというほどに、頷く。

「そっか。マッドでも鳳凰院でもないんだな。……なら、信用してやる」

「それは嬉しいな」

 紅莉栖の笑顔を受け、俺も小さく微笑みを浮かべて見せる。そして、思う。交換条件だというからには、何かしら俺にメリットがあってもよさそうなものなのだが──

 などと、とりとめも無い事を考え──しかしこれ以上は望まない。

『紅莉栖が、知ろうとしてくれている。それだけで、十分だ』

 心の底から、そう思えた。

「岡部……約束、絶対守れよ」

 暖かな吐息が首筋にかかる。

「無論だ」

 俺の頷きを確認すると、紅莉栖は言葉を続ける。

「あんたが約束を守ったら、私もあんたに教えてやるから」

「教える? 何の話だ?」

「言っただろ、交換条件だって。だから、あんたが約束を守ったら、私も守る。どうやって、ウーパを回収したのか。その答えを教える」

 そんな紅莉栖の言葉に、思わず『なんとも、分の悪い交換条件だな』などと思う。

 紅莉栖が口にした、交換条件という言葉。しかしそれはきっと、守られるはずのない約束。それはきっと、俺の元には訪れる事のない、『まだ』。

 紅莉栖とて、その事は分かっているはずなのだが──

『だが構わん。これ以上、何を望む?』

 密着した紅莉栖の体。引っ付いて離れない、体温を伴った感覚。そして俺へと向けてくれている、強くて優しいその想い。これ以上、何も望むべくもない。そう思った。

 だから──

「それは楽しみだ」

 そう言って、苦笑いを浮かべる。そんな俺に紅莉栖は言う。

「信じろ」

 まるで俺の心情を読み取ったかのような紅莉栖の声。俺が戸惑いで言葉を詰まらせていると──

「私は天才なんだろ? 私は優しいんだろ?」

 紅莉栖は満面の笑顔で、そう言った。俺は小さく頷く。

「……ああ」

「なら……私を信じろ、岡部。絶対に約束だからな……」

 これまで、何度も何度も繰り返されてきた言葉。それを紅莉栖は、もう一度だけ口にし──

「さあ、戻ろ」

 少しだけ小さな声で、そう言った。

 俺の手に紅莉栖の手が重なり、俺たちをつないだ手錠が、ジャラリと音を鳴らす。

 俺は言う。

「俺たちの未来に──などと言ったら、似合わないか?」

 紅莉栖は言う。

「くさすぎだ。HENTAI岡部がえらそうに」

 いつもと変わらぬ他愛のない会話を重ね、手錠でつながった手を重ね、二つ分の想いを重ねあって──

 そして二つの手が、ボタンを押す。

 きっと、その先に待つものが、何もかも上手くいった世界線である事を信じて、俺は紅莉栖の鼓動を、感じ続ける。

 十分すぎるほどに立派な、交換条件。それを抱きながら、俺と紅莉栖は7月28日という日に、ゆっくりと別れを告げた。




[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ25おわり
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/14 22:01
     25


 あれから、ひと月がたった。

 俺と紅莉栖の想いを乗せたタイムマシン。そんな銀色の細長い機械が、俺達にとっての正しい時間へとたどり着いたとき──世界線は、再び移動した。

 そこに待っていたもの。
 それが一度は手に入れ、しかし失ってしまったはずのシュタインズゲートなどと呼ばれる世界線なのかは、正直、今になってもわからない。

 だがそれでも──

「流石だな、紅莉栖は」

 ラボのソファでふんぞり返り、そんな呟きをもらす。

 この一ヶ月、俺の身に、死を予感させるようなトラブルは起きていない。それはまゆりも同様で、現に今もすぐそこで、愛用のミシンと格闘中である。
 無論、ダルやルカ子、フェイリスに萌郁などと言った面子にも変化は見えず、だからきっと、未来の鈴羽も元気でやっているのだろうと思う。

 そして紅莉栖も──

「もう、届いている頃合だろうか?」

 俺は、紅莉栖に向けて送った輸送物の所在に、想いを馳せる。

 宛先はアメリカだった。

 何の事はない。過去から戻ってみれば、俺と手錠でつながっていたはずの紅莉栖は、ドラちゃんもびっくりな勢いで、国外へと瞬間移動していたのだ。

 それもそのはず──

 これは、紅莉栖の帰国が、予定通り執り行われたという結果であった。

 そしてやはり、あの数日間の記憶は、紅莉栖の中には残ることができず──

『分かっていた、つもりなのだが……』

 分かっていても、ショックは大きかった。

 とはいえ、一ヶ月前に紅莉栖が取り戻した、ラボメンとして過ごした思い出。それだけは、彼女の記憶の中に、変わることなく留まり続けていた。

『せめてもの救い……か』

 独善的な自分を引っさげてラジカンの屋上に駆け込み、紅莉栖をラボメンへと引き戻したのであろう、この世界線における過去の自分に賞賛を送る。

 そして、思う。

「アメリカか……」

 紅莉栖がいるであろう場所。その遠さに、途方にくれる。

 会いたかった。すぐにでも、会いに行きたかった。
 だがしかし、世界線が変わっても、やはり俺はパイロットでも、ビジネスマンでも、スポーツ選手でもなく、ついでに金もなく──

 どこまで行っても、俺は岡部倫太郎という名の、ただの厨二病大学生でしかなかった。

 だから、そんな俺には、紅莉栖の居場所が余りに遠くに感じらてしまい──

『近所づきあい……という分けにはいかないか』

 諦めにも似た気持ちで、ため息を付く。

 どこかへ消えてしまった、あの紅莉栖の想い。
 掴みそこね、報うことの出来なかった、形の無い想い。それがどうしようもなく、口惜して仕方がなかった。
 だから、一度は本気で会いに行こうと、パスポートを手配した事があった。「これから会いに行くぞ」と、紅莉栖に事前連絡を入れた事まであった。だがしかし──

『あんたは大学生だろうが』

 電話越しに聞いた紅莉栖の言葉が、息巻いていた俺の気概を、呆気なく霧散させた。

 焦る事ないだろと、学生の本分を忘れるなと、また時間を作って日本に行くからと──

 そう告げられた紅莉栖の一言一言は、年上のはずの俺などよりもずっと大人で。
 何一つ忘れられない俺よりも、とても冷静で。
 だからそこに、どうしようもない程の温度差を見て──

『結局、無駄になったな……』

 使われる予定のない紺色のパスポート。
 それをラボのどこかに置き去りにし、いつしか俺も、『二度と会えないわけではない。死に分かれるわけではない』と、湧き上がるわびしさを無理やり抱きかかえて、何とか踏ん切りをつけられるようになっていた。

 そう。行って行けぬ場所ではないのかもしれない。その気になれば不可能な事ではないのかもしれない。だがそれでも、ちょっと散歩にと、気軽に到達できる場所でもないのだ。

 それが、ただの大学生である俺にとっての、変えがたい現実というものであった。

 俺はため息をつき、ソファに身体を沈み込ませる。と──

「オカリン。そういや、牧瀬氏に送ったやつ、そろそろ届いてるんとちゃう?」

 パソコン前を占拠していたダルが、声をかけてきた。

 持ち上がった話題が、アメリカの紅莉栖宛に送った荷物の事だと察し、俺は「かもな」と適当な相槌を返す。

「あ~! あれでしょ? オカリンが一ヶ月かけて作った大作! あれにはまゆしぃも格好よく出てきて、クリスちゃんの反応も楽しみなのです!」

 まゆりがミシンを動かす手を止め、会話に食い込んでくる。

「メタルウーパ持って、『オカリン、これがタイムトラベラーだぜ』とか、うきゃ~!」

 何となく、内容と異なる演出を自作するまゆりに、俺は思わず、顔をほころばす。
 そんな俺とは対照的に、煌びやかに騒ぐ少女に恨めしそうな視線を向けたダルが、不満げな声を出す。

「いいな、まゆ氏。オカリン、ボクも、もう少しイケメンにしてくれたら──」

「嘘はつけんだろ、嘘は」

 端的に異議を跳ね返すと、ダルがその巨体を揺らした。

「嘘って失敬な。いや実際そだけどさ、でも、どうせフィクションなんだから、そゆとこ融通利かせてくれてもいいんちゃう?」

「分かった分かった。次があったら考えておこう」

 次など無い事は承知の上で、その場しのぎの嘘をつく。

 次など無いのだ。俺は一ヶ月かけて、全てを書ききった。だから、次などありはしない。

『悪いな、ダルよ』

 そんな声にはしない謝罪をダルに向けながら、思いだす。


 ──過去にあった事も、これまであった事も、全部、私に話して欲しい──


 タイムマシンの中で、紅莉栖が交換条件だと言って持ちかけた、約束。全てを忘れてしまう紅莉栖の望んだ、たった一つの願い。

 そんな紅莉栖の願いに対して、俺は言葉ではなく、書きなれぬ文章などと言う物に頼ってみた。

 この手の事など経験がなく、当然のように、その作業は難航を極めた。

 足りない語句をひねり出し、気の遠くなる様な長い作業に、キーボードを打つ指が捻りあがった事は、一度や二度ではない。

 だがそれでも、まゆりに聞き、ダルにつっこまれながら、一カ月がかりで何とか形にして、送りつけた。それは──


 ──せめて。


 そんな思いに掻きたてられての事だったのかもしれない。

 全部忘れるなんて嫌だと──
 そんなのひどすぎるだろと──

 そう言って、身体を震わせた紅莉栖。だがそれでも、全てを忘れなければならなかった、紅莉栖。

 俺は。俺だけは、そんな紅莉栖を覚えている。
 ならば、俺の覚えている全てを。紅莉栖の忘れてしまった全てを。あの、俺が死んでしまうという世界線での出来事。そこで経験した全ての想いを、紅莉栖に向けて伝えなければならない。

『それが、紅莉栖との約束だ』

 だから、願う。

 これで、紅莉栖の願いがかなう事を。俺の書きあげた拙い出来損ないで、消えてしまった紅莉栖の想いが、少しでも報われる事を、心の底から願う。

 もう押すね、と──
 さあ戻ろ、と──

 そう言ってボタンを押した紅莉栖の笑顔。それが今でも、鮮烈な記憶として、俺の脳裏に焼きついているのだ。

『だからこそ──』

 そんな思いに心を投げ出していると、俺の携帯電話が着信の鐘を鳴らす。

「あ~! ひょっとしてクリスちゃんかも~! もう読んだのかな? 感想かな?」

 まゆりの上げた、期待に満ちた声に、

「そんな早い分けないだろ。一ヶ月もかけたんだぞ」

 といいながら、携帯を手に取り、その着信者名を覗きこむ。

『おおう、本当に紅莉栖ではないか……』

 慌てて隣室へと移動する。

 背後から「あ、やっぱりクリスちゃんだ~」と言うまゆりの声と、「オカリン! 落ち込むには早いぜ!」と言うダルの野次を聞き流しつつ、電話に出る。

「お……俺だ」

「俺だじゃない。何、これ?」

 受話器の向こうから、紅莉栖の冷めた声が聞こえた。

「まさか……もう読んだのか?」

 半信半疑で、問いかける。

「読んだ。だから電話している。言いたい事が、山のようにある」

 その鋭さを持った言葉に、恥ずかしさが沸きあがり、思わず頭を抱えたくなる。

『ああやはり、そんな感じの反応だとは想像していたが……』

 とりあえず、小さく傷ついた心を包み隠し、無理やり気持ちを高ぶらせて声を出す。

「どうだ、なかなかの大作であろう。どうやら俺は、文章の才能にも恵まれていたようだ! フゥーハハハ!」

「何が恵まれていただ! 稚拙な語句。妙な言い回し。リアリティーにかける設定。これのどこに才能の欠片を感じろっての? と言うか、せめてデータでよこせ。こんな紙束、普通に考えたら迷惑だろ」

「そ……そこまで言うか、助手の分際で……」

 ああ、いっその事、この暴言を、あの時の紅莉栖に聞かせてやりたいものだと考えるも──それも適わず。
 聞こえてくる紅莉栖の苦言に、俺の耳は傷むばかりである。

「だいたいだな、岡部。私が『とんでも科学』なんて単語を、口にすると思うか?」

「いや……それは……」

「それにだ。後半のなんだか……私が全面的にあんたに惚れてるっぽい設定は、率直に言って不愉快だぞ。どういう思考回路が、そういう状況を導き出したのか、是非問い詰めたい心境だ」

「いやまあ、あれだ。表現の自由というかだな……」

「なんで私が、あんたと手錠なんてかけてんの? 理解に苦しむわ、ほんと」

 グロッキーであった。
 一ヶ月の苦労も、最後の約束も、言いだしっぺの張本人によって、跡形も無く粉砕されてしまった。

 だから俺は、しどろもどろになりながらも、言う。

「そ……そうか。天才はいつの世も理解されんという事か。先んずるものは、叩かれる。ならば仕方なかろう。金輪際、俺は筆を折ろう」

「いや、そこまでは言ってないが……」

 電話越しの紅莉栖の声が、微かに震えた気がした。

「いや、いいんだ。もともと余興のようなつもりだったし、忘れてくれ」

「いや、私も言いすぎた。そうだな。もしもこれが全部、ノンフィクションだったとかなら──まあ、少しくらいは評価してやる」

 そんな紅莉栖の物言いに、少しだけ笑いが込み上げる。

 全てはノンフィクション。全ては本当の事だった。

 だがしかし、それを紅莉栖に話し、その上で納得してもらえるような方法を、俺は持ち合わせてなどいない。

 だから、仕方ないのだ。

 全てを忘れた紅莉栖にとって、今、この世界こそが本当の事。この歴史こそが、ノンフィクションなのだ。だから──

 あの時の言葉も──
 あの時の震えも──
 あの時の想いも──

 全ては俺のでっち上げた、出来損ないの作り物。

『それで、いいのだ』

 俺はそう思い、軽い口調で言葉を返す。

「ノンフィクションだと? そんなわけあるか。それが全部本当だったら、それはもうお前、とんでもない話ではないか」

「そっか。そうだな。でも、岡部──」





 ──全部、本当の事なんだろ?──





 電話越しに聞いた言葉に、思わず噴き出す。

「おいおいおいおい、助手よ、大丈夫か? 頭、どうかしたのか?」

 俺の紅莉栖を小馬鹿にした発言。しかし、紅莉栖から返された言葉は的外れで──

「私の中に、ずっと不思議だった出来事がある……」

 紅莉栖が何を言い出しているのか、分からなかった。そして、どうして声を震わせているのか、分からなかった。

 俺の混乱をよそに、紅莉栖の言葉はつながっていく。

「今まで、誰にも話した事が無かった。ずっと忘れようとしてた。だって、そう頼まれたから……。この事は、誰にも言わないでって……。できれば忘れてって……。忘れなければ、ダメって……」

「な……何の話をして……」

 戸惑いを隠せない俺を無視し、紅莉栖は語り続ける。

「あんたが私を助けてくれた、あの日。私が、落ちていた人形を拾ったすぐ後で──」


 ──私ね。誰かに呼び止められたんだ──


「あの時、パパの発表会がある部屋に入る直前、いきなり声をかけられた。振り向かないでって……」

 紅莉栖は言う。
 その声は女性で、そして自分の背後に立ち、話しかけてきたのだと。

「でね……こんな事を言うのよ……」

 これからあなたには、誰よりも大切な人が出来ると──
 あなたの事を、誰よりも必死に守ってくれる、一人の男性が現れると──
 だから、その人を助けるために、黙って私のいう事を、聞いて欲しいと──

「お前は……そんな得たいの知れない相手の言葉を……信じたというのか?」

「その人は、私が持っていた封筒の中身を言い当てた。誰にも話していない、内緒で作った私の論文を、口頭で再現して見せた。それで『私はあなたを信じる。だから、あなたも私を信じて』って言われた。それで──」


 ──あなたが大切に思う、たった一人の人を救う。そのために、私はこんな馬鹿なことをしている。科学者として、最も愚かな真似をしている──


「そう言われた。それで、私は信じた。根拠なんてなかったけど、でもそうしなければいけないと思った。だから、言われたままに、拾った人形を、その場に置いた」

 語り続ける紅莉栖は、声を大きく揺らし始める。

「だって! そうしないと、その人がかわいそうに思えたから! 物凄く、どうしようもないくらいに、苦しんでたから!」

 そんな紅莉栖の言葉を聞き、俺は思いだす。


 ──岡部がそう言ってくれた私を、私は信じる──


 トランシーバーの擦れた音声で聞いた、紅莉栖の言葉。自分が天才かと、自分が優しいかと、そんな疑問を俺へと向けた紅莉栖の言葉を、思い出した。

 そして、あの7月28日に、紅莉栖が俺の命を救った方法。そんなものが、今、ここに来てようやく浮かび上がる。

『あいつ……は……』

 それはきっと、タイムトラベルによる、自らとの接触。
 一歩間違えれば、タイムパラドックスを引き起こしかねない、危険極まりない蛮行。
 科学者としての、最低の選択。

 それこそが、紅莉栖の導き出した、解決方法。それこそが、紅莉栖が取った、俺を助け出すための方法。

 その事実に、電話を握る手が、激しく震え出す。

『馬鹿が……。一体何を……考えて……』

 奥歯を食いしばり、目を見開き、そして心の底で叫ぶ。

『あああああ!!!』

 想いと共に消えてしまったはずの少女。そんな、賢くて優しい一人の少女と交わした交換条件。それを想い、声にならない響きを打ち鳴らす。

 そんな俺の頭を、電話越しに聞こえる紅莉栖の叫びがかき混ぜる。

「だから! 私は、封筒から人形を出して、下に置いた! 言われたとおりにしばらく待って! 代わりに置かれてた、よく似た人形を封筒に入れた!!」

 紅莉栖の声が、涙に濡れていた。

「ねえ岡部……私、間違ってないよね? 言いなりになった私も、馬鹿なことした私も、間違ってないよね!?」

 電話越しに、紙束が床を叩く音が聞こえた。そして同時に──



 私は、岡部を救えたんだよね?



 そんな紅莉栖の想いが耳に響く。

 だから俺は、紅莉栖の問いかけに、小さく返す。

「あたり……まえだ」

 そして、思う。

 俺に交換条件だといって、約束を持ちかけた紅莉栖。
 俺が約束を守ったら、ウーパ交換の秘密を教えるといった紅莉栖。
 私は天才なんだろと、優しいんだろと言って笑った、紅莉栖。

 彼女のまいた種が、今ここで、俺の目の前で、その芽吹きを見せたのだと、そう思った。

「ねえ岡部。全部、本当にあったことなんだよね? そうだよね?」

 泣き声が耳に響く。そして──


 岡部……会いたい……


 その途切れがちな声が、俺を激しく掻き立てる。


 今すぐ……会いたい……


 その拙い思いに、抑えきれなくなる。だから──

「……わかった。待っていろ」

 それだけを言い残し、電話を切った。
 受話器から、紅莉栖の声の残り香が広がる。

 俺は携帯をポケットに詰め込むと、すぐさま隣の部屋に戻る。賑やかしいラボメンズが待ちかねたように、出迎える。

「あ~オカリン! クリスちゃん、なんて言ってた~?」

「ああ、絶賛だ」

「マジ? あの牧瀬氏が絶賛? 想像できないお」

「マジも大マジだ」

「って、オカリン? 何してるの?」

「探し物だ。……うむ、あった」

「オカリン? どこいくん? もう帰るお?」

「いやなに、ちょっと近所まで散歩にな」

「でも、それってパスポートじゃね? 散歩って、どこいくん……?」

「アメリカだ。ちょっとアメリカ、行って来る」


「「ええええーーー!?」」


 ダルとまゆりが上げた絶叫を背中に受けながら、俺はラボの扉を閉める。

 ラボの外は、もう秋の匂いが充満し、これから迎える冬の下ごしらえを始めているかのようだった。
 爽やかで心地よい秋の風を受けながら、俺は秋葉原の街に踏み出し、そして思いだす。

 ──寂しくなったら、いつでも言って来い。なにせ俺は、まゆりを救うために、地球の反対側まで行った事だってあるのだ──

 ──アメリカなんて、ご近所づきあいと大差ない。いつでも行ってやる──

 それは、帰国を前に落ち込む紅莉栖を慰めようとして付いた、小さな嘘。そんな嘘を、約束という名の額縁に飾り付けて思う。

『交換条件は守られたのだ。ならば俺も、あの時の約束を守らねばならん。そうだろ、紅莉栖?』

 俺の踏み出した歩みは強く、俺に会いたいと告げた紅莉栖の言葉は色鮮やかで、だから、俺は歩き出す。

 あの助手に、会いたいと言われたのだ。
 あの牧瀬紅莉栖に、今すぐ会いたいと言われたのだ。

 ならば、何を迷う事がある。

 俺は固めた想いを手土産に、紅莉栖に続く道を進む。

 あいつの側に、立ち並ぶために──
 あいつの願いを聞き、今度こそ、その想いを報うために──

 俺は歩かないわけには、いかない。

 なぜなら、それこそが初めから決まっている世界線なのだろうから。

 だからきっと、俺の世界線は、いつだって紅莉栖に向けて収束をしていく。


 そういう風に出来ているのだと信じ、俺は紅莉栖に向かって歩き続ける。
                                                                    おしまい



[29758] 帰郷迷子のオカリンティーナ おまけ
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/09/17 03:39


          おまけ



「だから、待っていろと言ったではないか」

 どこか呆れたような俺の口ぶりに、紅莉栖が不満げな声を返す。

「だって、まさかあの後すぐにアメリカに向かってるなんて、普通思わないだろ……」

 そんな紅莉栖の言葉を聞き、俺は『まあ確かに……』などと考えながら、腰掛けたベンチに背中を押し付ける。
 胸を反らし、天を仰ぐように顔を上げれば、視界に映るのはとても高い空港ロビーの天井。

 それは、つい一日程前に見納めたつもりだった光景。それを再び目にしながら、俺は呟く。

『すれ違いや行き違いは、恋愛物の王道ど真ん中とはいえ、いくらなんでも出来すぎだろう……』


 ──今すぐ会いたい──


 あの時、電話越しに伝えられた紅莉栖の想い。そんな、優しさと寂しさに溢れた熱に当てられた俺は、今度こそ紅莉栖の想いを報わねば──などと思い、着の身着のままでアメリカへと向かった。

 そして、どうにか降り立つことの出来た、外国の大地。無論のこと右も左も分からず、出迎えを要求するために紅莉栖へと連絡を取った俺が──

『今、日本に着いたところ……』

 という紅莉栖の言葉を聞き、盛大に膝を折った事は言うまでも無い。

 あろう事か、紅莉栖もまたあの電話の後で、すぐさま日本に向けてアメリカを飛び立っていたというのだ。

 信じられないような、神がかったタイミング。飛行機のフライト時間に、搭乗者のキャンセル状況。それ以外にも、多くの偶然が積み重なり、結果的に俺と紅莉栖の再会は阻まれた。

 そんな現状に、俺がポロリと漏らした一言。

「まるで、世界線の収束のようではないか……」

 何の気なしに口にした発言だった。しかし、そんな取るに足らないはずの言葉に、紅莉栖は強い反応を示した。

 そんなの嫌だと、そんなはずないと、絶対に会うと──

 らしくもなく、電話の向こうで取り乱す紅莉栖。俺はそんな彼女をなだめ倒し、返す刀で日本へとトンボ返りを決め込んだのだ。

 そして、何とも短い海外滞在の末に──

「まあ、こうして会えたのだから、良しとしよう」

 俺は、背中合わせでベンチに腰掛けている助手の存在を感じながら、呟く。

「……うん」

 紅莉栖の短くて小さな返事が聞こえた。

「元気が無いな。こうして無事会えたのだから、もう少し喜んだらどうだ、クリスティーナよ?」

「……うん、分かってる」

 その、何ともつれない声色が気にかかった。
 俺の言葉足らずが招いたすれ違いのトラブル。それを、揶揄するわけでもない。今やお約束となったはずの、名前の誤差に対する突っ込みもない。そんな、気もそぞろな紅莉栖の応対が心配で、微かに心がざわつく。

「本当に、どうしたのだ? まさか、もう会いたくなくなった……とか、そういう事か?」

「そんなわけ……あるか」

 背中越しに、紅莉栖が小さく首を振っている事を感じ取る。

「では、何だというのだ? あからさまに不機嫌ではないか」

「別に、機嫌が悪いとかじゃない。ただ……」

 そこで紅莉栖が、戸惑うように言葉を詰まらせる。そして、少しの間を空けて──

「凄く……不安になった。本当に、もう二度と会えないんじゃないかって思えて……」

「何を馬鹿馬鹿しい。こうして会えているではないか。それでもまだ不服だと?」

「違う。分かってる。ただの杞憂だったってのは、よく分かってる。それでも……すごく、すごく不安だった。すぐ側にいるはずなのに、二度と会えなくなる気がして……」


 ──飛行機の中で、そんな夢を見たから──


 紅莉栖の言葉に、俺は小さく噴出す。

「ゆ……夢? まさか、嫌な夢を見て、それで凹んでいるのか? 助手よ、今年で幾つになる? ん?」

「うるさいな! 自分でも、子供みたいでバカっぽいって思ってる! でも……」

 それでも、どうしようもなく寂しかったのだと、そう言った紅莉栖の声は震えていた。

「あんたが送ってきた、何と言うか、フィクションなのにノンフィクションな例のあれ。きっとあれのせいだ」

 紅莉栖の言う「あれ」。それは紛れもなく、消えてしまった紅莉栖の想いに少しでも報いようと、俺が書き記した失われた歴史。守られるはずのないと思っていた、彼女との優しい約束の証。

「まったく。どんな夢を見たと言うつもりだ。あの話は、あれで完結しているのだぞ? それを今さら……」

「終わってなかった。私の夢の中じゃ、ほんの少しだけ状況が違ってて……私は……帰れなかったんだ」

 背中越しに伝わる震え。その振動を感じながら、俺は耳を傾ける。

「岡部の話だと、7月28日に行ったのは、私とあんたの二人だったよね……?」

 問いかけられ、「ああ」と短く肯定する。

「だけど、私の夢ではそうじゃなかった。タイムマシンで過去に戻ったのは、私一人だった……。そこで私は、ウーパのすり替えをした後、軽い気持ちで……」


 ──ラジカンのあの場所で、全てを見てしまった──


 そう呟かれた紅莉栖の言葉。それは紛れも無く、消えてしまったはずの、俺の記憶に焼きついている紅莉栖の想いに他ならず──

「……そうか」

 どう答えていいのか分からず、短く相槌を入れる。
 紅莉栖は続ける。

「でね……。帰れなくなった。想いを理論でねじ伏せて、帰ろうとした。でも、どうしてもボタンが押せなかった。見てしまった物が、どうしようもなく大切になって。自分ではどうする事も出来なくて……」


 ──それで、結局私は、一人で7月28日に残り続けた──


 紅莉栖が口にした想い。
 残り続ける──などという、夢の中に置き去りにしてきたはずの想い。それはまるで、あの時に俺に向かって「もう少しここにいられないかな」と、「ダメかな?」と問いかけた、そんな紅莉栖の想いに良く似ているように見えた。

 そして思う。紅莉栖が見たという夢の中には、彼女の余りにも状況を判断しそこねた願いを押しとどめる、俺がいなかったのだ──と。

 だからこそ、一人ぼっちの紅莉栖は、そのまま過去に残り続けてしまったのだろうか……?

 そんな事を、とりとめも無く考えていると、紅莉栖が俺に問いかける。

「岡部……。残った私は、その後どうなったと思う?」

「さあ……な」

「ほんと……酷い話だった。それから私は、自分と会わないように、誰とも会わないように、ずっと一人で生活するの。そのまま何日も何日も、あんたにもまゆりにも橋田にも会えずに、この秋葉原でずっと一人で……。でね……」


 ──たまに、偶然あんたとすれ違ったりするとさ、泣いちゃうんだ──


「目の前にいるのに、声をかけられない。だって、そんな真似をしたら、何も知らない岡部の主観が変わっちゃうから。そうなったら、また世界線が変わっちゃうかもしれない。だから我慢して、必死に逃げるんだ。あんたに見つからないようにって、出会わないようにって……」

 淡々とつながれる紅莉栖の言葉。その端々に見え始める震え。その微かな振動が、背中越しに紅莉栖から伝わり始める。

 俺は、ひざに置いた手を握り締めながら、小さく言う。

「……夢だ」

 紅莉栖の言葉は、止まらない。

「それでね……。そのうち、もう一人の私が岡部を見つけるんだ。秋葉原の街中で、命の恩人のあんたを見つけ出して、それでラボメンになって……」

「ただの……夢だ」

「それからは、あんたの側にはさ、ずっともう一人の私がいて……。だから私は近づけなくて……。だけど、それでも見てきた物が大切でね。どうしても帰る事が出来ないんだ。もう嫌なのに……寂しくて死にそうなのに。それでも忘れたくないから、戻れない。まるで──」



 ──帰り方を忘れた迷子みたいなんだ──



 紅莉栖の声に含まれた震えが伝わったように、俺の握りしめた拳が震え出す。

 紅莉栖が何を言っているのか、理解している。これまでいつも、彼女の言葉の真意を掴みそこねてきた。だがしかし、今だけははっきりと理解できる。

『こんなもの、ただの戯言ではないか……』

 正直、そう思った。
 夢の中で見たという、ありもしない紅莉栖の歴史。そんなものを抱え込み、紅莉栖は今、俺のすぐ後ろで震えている。

 その震えが、あまりにもいたたまれず、あまりにも馬鹿馬鹿しく──

「……ただの……悪い夢だ」

 唸るような声を絞り出す。
 もう止めろと、下らない事で揺れるなと、紅莉栖が口を閉ざすよう願いながら絞り出す。

 しかしそれでも、紅莉栖は言葉を止めようとはしない。

「でね、その私は考えるの。もうきっと、二度と岡部に会えないんだって。きっと岡部には、私のことなんて気付いてもらえないんだって。だから、これからずっと、もう一人の私と楽しく歩いていく岡部を、見てることしか出来ないんだって──」


 ──そんな夢を見たんだ──


 押さえ切れずに震える紅莉栖を背中に感じた。聞こえるはずのない、涙がこぼれる音が耳を叩いた。

 だから分かる。紅莉栖が抱えた不安。そんな怯えの対象が、ひょっとしたら在りえたかもしれない、もう一つの結末に向けられているのだと、そう思った。

 たった一人で過去へと戻った紅莉栖。そして、余計な好奇心から帰り道を見失った紅莉栖。
 そんな存在しないはずの少女が、俺に向かって必死に助けを求めているような──そんな気がした。

 だから、俺は立ち上がる。

 紅莉栖の中で渦巻く妄想を、俺の中に取り込んで膨らませる。下らない展開と最悪の結論を導きそうなシナリオをぶち壊してやるために、頭の中で思考をめぐらせる。

 その、余りにも馬鹿げた妄想を吹き飛ばしてやろうと。
 過去に取り残された一人の少女など、存在しないのだと。
 そんな歴史はないのだと──

 そのことを紅莉栖に知らしめてやるつもりで、踵を返す。力なくベンチに座る紅莉栖の背中を視界に捕らえ、まとった白衣をはためかせ、有らん限りに声を張り上げる。


「ならば、その夢の結末を、このマッドサイエンティストが教えてやろう!」


 唐突な大声に、周囲の視線が集まってくる。だが、そんな物は意にも介さない。

「残念だが、貴様の夢はハッピーエンド一直線だ! そしてしかるべき後に、貴様は俺にベッタべタに惚れまくる事だろう!」

「んな!?」

 驚いた紅莉栖が、顔を真っ赤に染め上げて俺に振り向く。気にしない。

「なぅぁぁぁぜならぁぁぁ! 俺は気付くからだ! 過去に一人で取り残された、ドジっ子全開の助手! その存在に、この大天才マッドサイエンティストは、あっさりと気付いてしまうのだ! さあ、GJと言うがいい!」

「ちょ……岡部! 恥ずかしいぃ!」

 あたり構わず騒ぎ立てる俺を、泡を食った紅莉栖が押さえ込みにかかる。が──

「甘いわ!」

 紅莉栖の腕を跳ね除け、俺は馬鹿丸出しでがなり立てる。

「大体、貴様が始めた話だろう! 黙って聞けぃ!」

「いや、聞くから、どこか他の場所で……」

「却下っ! 今ここでだ! 俺は気付く! 貴様が一人で過去へと飛び立った時間。それをまたいだ瞬間に、俺はもう一人のお前の存在に気付く! 取り残されて帰れない、ドジっ子迷子の貴様に気付くのだ! 理由など何でもいい! とにかく気付くのだ! それは俺が、貴様以上の大天才だからだ!!!」

「いや、マジで恥ずかしいだろ! てか、理由がどうでもいいとか科学者として──」

「理由がいるか!? ならばタイムマシンだ! 貴様が帰れないでいるのなら、タイムマシンが残っているはずだ! あの柳林神社の片隅に、いつまでもボタンを押してもらえないタイムマシンが残り続けているはずだ!」

「ああ、そんな単語を大声で!?」

「あの銀色の機械を見つければ、リーディングシュタイナー完備の俺には、全ての状況が一目瞭然だ! どこかに隠れて、一人でブルブル震えている変態天才少女がいることなど、お見通しなのだ! だから、例えもう一人の紅莉栖が俺の側にいようとも、俺が取り残された貴様に気付かぬはずなどないのだ! と言うか、散れ! 野次馬ども!」

 俺が360度ターンと共に、凶悪な眼光を周囲に振りまくと、まるで蜘蛛の子を散らしたかのように──いや、余計に人だかりが大きくなってしまったような。

『ぐっ、負けんぞ!』

 俺は顔面を沸点近くまで染め上げた紅莉栖に視線を戻し、再び声を張り上げる。

「気付きさえすれば、俺は貴様を送り返す! ボタンを押したくなかろうとも、忘れたくなかろうとも、問答無用で送り返してやる! 逃げたら追いかけて捕まえる! 拒否するならば、縛り倒して詰め込んでやる! 強制送還だコラァ!」

 両腕を開き、白衣を全力でひるがえす。あごよ外れろとばかりに、声を目一杯に張り上げる。

「もしも俺の力が足らないならば、まゆりやダルやそれ以外のラボメンに集合をかけてやる! 何が何でも、貴様にそんな寂しい思いなど、させてたまるか!」


 ──どんな状況だろうと、俺は必ず貴様を助ける!──


「そのために必要なら、また泣いてやる! 何度だって泣いて、必ず貴様を救ってやる!」

 紅莉栖が見たという、下らない夢。俺と紅莉栖の再会に水を差した、しょうもない夢。助けを求める、迷子の少女。そんなありもしない幻想をかき消してやるために、俺はもてる全てで叫ぶ。



「それが狂気の大天才マッドサイエンティスト、鳳凰院凶真というものだぁぁぁあ!!!」



 俺の叫びが、開けた建物の空間に木霊する。周囲に集まった人だかりの耳を揺らし、ざわつく空気を揺らし、紅莉栖の中にある何かを大きく揺らす──

 そんな幻想を見た。

 と──

「警備員さん、こっちです! 若い女性が変質者に襲われています!」

 人だかりの外から聞こえた、野次馬の声を聞き──

『たいーほフラグ!?』

 慌てる。

「ああもう、バカ岡部……いくぞ!」

 立ち上がった紅莉栖が、俺よりも早く的確な行動を示す。素早い動きで俺の手を握って引っ張る。

「……お、おう!」

 促されるままに、走り出した紅莉栖に合わせて、俺も駆け出す。

 今はもう、俺と紅莉栖の手に、手錠はかかっていない。あったはずの、しかし消えてしまった鉄のつながり。それはもうない。だがそれでも──

『手錠などなくても、離れるつもりなどない』

 空港の出入り口に向けて、走る。前を行く紅莉栖の肩が、激しく上下する様を見て、

「どうした!? 感動にむせび泣いているのか、助手よ!?」

 息も絶え絶えに、大声で軽口をたたく。

「そんなわけあるか! むしろ恥ずかしくて死にたいわ! ってか、そんなゼェゼェしながら大声出すな! また酸欠になってもしらないからな!」

「ならあれだ! 前みたいにヒザ枕してくれ! きっとそれで復活できるだろうから!」

「何それ!? 私があんたにヒザ枕なんてした事ないだろ!」

「え? いや、別の世界線の話だったか!?」

「そ! きっと違う世界線の、とち狂った私の仕業ね! 間違いない!」

「って違うだろ! この世界線だろ!?」

「ちっ! ばれたか!」

 下らないやり取りを重ねながら願う。

 一人取り残され、誰にも聞こえない泣き声を上げている紅莉栖。誰にも見えないところで、一人で助けを求める紅莉栖。そんな、存在しない少女の瞳から、寂しさの涙が消えている事を強く願う。

 そして考える。

 紅莉栖の見た夢。下らない、あまりにも下らなさ過ぎる、しょうもない夢。

 もしそれが、本当にあった事なのだとしても──
 もしそれが、俺に観測のできなかった別の世界線なのだとしても──

『それがどうした!』

 一人で過去へ向かい、帰り道を忘れてしまった紅莉栖。もしも本当に、そんな紅莉栖がいたのなら──

『何に置いても、俺は紅莉栖を助けだす!』

 それは、疑う事のない事実。俺がそうすると言う思い。それは可能性ではなく決意。

 だからきっと、どれだけ回り道をしたとしても、きっと俺は紅莉栖を助け出す。

 あの、β世界線で紅莉栖を救った自分がそうだったように──
 あの、消えてしまった世界線で紅莉栖がそうだったように──

 きっと、何度でも俺は紅莉栖を救い出す。そして紅莉栖は俺を救い出す。

『必ず、そうなる』

 そんな確信を持って、俺と紅莉栖は大きな空の下に飛び出す。


 秋口の風は、心地の良い冷気を含み──
 俺の手を握る紅莉栖の手は、ほのかに暖かく──

 そして俺と紅莉栖は、走る。 
 秋葉原がどっちなのか、いまいち分からないが、構わない。とりあえず足を踏み出し、一歩を刻む。

 きっとここから、またつながっていく。この一歩を始まりにして、俺たちのきっと新たな物語が、刻まれていく。



  ──そんな事を夢見ながら、俺と紅莉栖は走り続ける。



                                 おしまいのおしまい



[29758] 追想謝辞のオカリンティーナ 01
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/10/04 03:44
    追憶謝辞のオカリンティーナ


          1


 ラボと外界を隔てる安造りの扉を押し開けると、柔らかで親しみのある雰囲気が鼻に届く。

「おかえりぃ、オカリン」

 玄関先で無造作に靴を脱ぎ捨てる俺を見つけ、まゆりがゆったりとした声をだした。そんなまゆりの言葉に、いち早く反応を示したのは俺ではなく──

「やばっ」

 ソファに腰掛けていた紅莉栖が、妙な奇声を上げた。
 買出しから帰還した俺に視線を向けることなく、テーブルの上に広げていた何かの冊子を手早く閉じる。そして、慌てた様子でそれを自分の背後に隠そうとして──

「んが!?」

 次の瞬間、悶絶の表情を浮かべながら、上半身をテーブルの上にベチャリと貼り付けた。

 テーブルに広がった、線の細い華奢な背中。その真ん中辺りに、紅莉栖の手に握られた冊子の角が食い込んでいる。

 目にした状況のままを解釈すれば、冊子をとり急いで背後に隠そうとした拍子に、勢い余って本の角を自分の背中に突き立ててしまった──という現状のようなのだが。

「大丈夫、クリスちゃん?」

 紅莉栖の見せた唐突な奇行に、まゆりが心配そうに声を上げる。それとは対照的に俺は、

「帰ってくるなり、ドジっ子アピールか? 熱心だな、助手よ」

 ふてぶてしくも、そんな言葉を投げかける。そして、やれやれといった表情をぶら下げて紅莉栖に歩み寄る。

「……いたい」

 テーブルに突っ伏したままの紅莉栖から、小さな呻き声が聞こえた。俺の発した言いがかりにも等しい言葉や、お約束の呼称誤差に対して突っ込んでこないところを見ると──

『どうやら、相当に痛かったらしい』

 少しだけ哀れみにも似た気持ちを浮かべながら、何気に紅莉栖の背中に生えた冊子に目を向けた。

「って、おま……それ、どこで……」

 少し驚いた。どうして紅莉栖の手に──いや背中に、そんな物があるのか戸惑い、そしてその答えを想像してまゆりに目を向ける。

「まゆりだな、これは?」

 少しだけ問いただすようにそう言うと、「えへへ~。ばれてしまったのです」などと、とぼけた様子でニッコリと微笑んだ。

「まったく……」

 俺はしかめっ面を顔面に貼り付けて、紅莉栖の背中からその冊子を引っこ抜く。

「あ……」

 紅莉栖は短く声を立ると、緩慢な動作でテーブルに張り付いた身体を引き起こす。そして、俺が取り上げた冊子に追いすがるように手を伸ばし──

「見たいのか、助手よ?」

 俺の声にビクリと反応し、紅莉栖が手を引っ込めた。

「べ……別に岡部の過去に興味あるとか、そういう事じゃないからな。勘違いするなよ」

 そんな言い訳じみた捨て台詞に耳を傾けながら、俺は取り上げた冊子を適当に開く。そこには、色合いや配置などにまで気を配って並べられた、たくさんの写真。

「また古いものを……」

 それは、俺の実家に保管されていたはずの、幼少の頃の記録。まだデジカメなどという近代兵器が浸透するよりも前に残されたのであろう、アナログでできた思い出の数々。

 恐らくは、まゆりがお袋にでも頼んで借り出したのであろう、一冊のアルバム。
 そんな物を手に取りながら、それが紅莉栖の手に握られていた事実に、微かな嬉しさと、少しばかりの気恥ずかしさを覚える。

「で、なんだ。助手よ……感想は?」

 俺が、はにかんだように問いかけると、紅莉栖が表情の無い声で答えた。

「ハードカバーの角は硬かった」

「誰がそんな話をしている。まったく、そんなに痛かったのか? 見せてみろ」

 俺が腰を落として手を伸ばすと、まゆりが「ああ~オカリンがやさしい~」などと煌びやかに騒ぎ立てる。

「ちょ岡部! バカ! まゆりがいる……じゃなくて、HENTAI! とりあえずHENTAI!」

 どうやら、紅莉栖が真っ赤にした顔をゆがめている理由は、先刻受けた痛みのせいばかりでもなさそうであった。

 仕方なく、俺は紅莉栖の背中に伸ばしかけた手を押しとどめ、身体を立て直す。と、まゆりが俺の動きにあわせるかのように立ち上がった。そして──

「ええとね~。クリスちゃんがお気に入りしてたのはね~」

 まるで新しい発見を母親に報告する子供のように、無邪気な笑顔で俺の手にあるアルバムに顔を寄せる。

「ほう……」

 俺はまゆりにアルバムの主導権を譲り、その手がページをめくっていく様を眺める。

 そんな俺とまゆりの行動に、紅莉栖が泡を食ってソファから腰を跳ね上げる。

「ちょっとまゆり!?」

 しかし、そんな紅莉栖の悲鳴などどこ吹く風。まゆりは一つのページで指を止めると、

「クリスちゃん、このページでうっとりしてたんだよ~」

 うっとりしていた紅莉栖。いつだって冷静に周囲の状況に目を配る天才少女。鋭さこそ本質とでも言わんばかりの、あの牧瀬紅莉栖が──うっとり。

『よもや、そんな言葉を耳にする日がこようとは……』

 そんな事を思いながら、まゆりの指し示したページの写真に視線を這わせる。そこには、義務教育に突入したてであろう幼少の俺が、家族と共に映った写真が数枚。中には、小学校の入学式と思しきシュチュエーションの物もあり──

『どこの小学生名探偵だ……』

 蝶ネクタイに半ズボン。その、無理やりに着飾らされたいでたちに、何とも言えない恥ずかしさが湧き上がる。

「助手よ……お前、こういう趣味……」

「ちがうぞ! 誤解だ! 勘違いするな、私が気になってたのは……はう」

 慌てた様子で俺の手にあるアルバムを覗き込んだ紅莉栖が、目にした何かに当てられたかのように、か弱い声を出してヒザを──

「ふんぬ!」

 気合と共に、崩れそうになった身体を立て直して見せる。類まれなる、助手の根性であった。

「わ、わ、私が! 私が見てたのは、ええと! ああ、そうだ! ここ! ここよ!」

 そして、一枚の写真の片隅に、びしりと指先を突き立てる。

「ああ~。オカリンパパだ~」

 まゆりの声が表すとおり、紅莉栖の指先には、俺の隣で突っ立って映る、一人の男の姿。

「お……親父じゃないか……」

「そうなのよ! もうシブ面すぎて、うっとりしても仕方ないじゃないの、これだったら!」

「人の親をこれってお前……。というか、なんだかもう色々と無理するな助手よ……」

 何となく、必死な紅莉栖の弁解に、不思議な哀れみさえ感じてしまう。

「別に無理なんてしてないだろ! 私はシブ面でうっとりしてただけで、誰が好き好んで、隣におまけみたいに映ってるチビ岡部なんて……はうぅ」

 紅莉栖が指先を、俺の父親から隣のチビ俺へとスライドした瞬間。今度こそ耐えかねたかのように、紅莉栖がヒザを折って、ガクリと床に腰を落とす。

 もはや、弁解の余地さえないと思えた。論より証拠とはよく言ったものだが、紅莉栖の言葉が真意でないという事は、紅莉栖の言動を見ていれば、ありありとうかがい知れた。だが──

「そうなんだ~。うん。オカリンパパって昔からカッコよかったから仕方ないね~」

 紅莉栖の無理目な物言いを真に受けたのか、まゆりが両手を顔の前で合わせて、嬉しそうに小さく跳ねる。

「あ~、でも最近のオカリンは、少しオカリンパパに似てきたように思うのです! このままオカリンがシブシブになっていけば、きっとそっくりになるねぇ~。あ~、でもそうなると今度はクリスちゃん、オカリンにうっとり──」

 そんなまゆりの発言に、床にへたり込んでいる紅莉栖の肩が、ピクリと動く。

「ストーップ! まゆり! それ以上の考察は、ノーサンキューよ!」

 床の上からまゆりに向けて、開いた手のひらを突きつける紅莉栖。その必死な挙動を見ると、今にもその手のひらから、気の塊でも放出しかねないような──そんな勢いに思えた。

 仕方なく、俺自らが取り乱し続ける紅莉栖に、助け舟を手配する。

「分かった、もう分かったから助手よ。とにかく貴様は、シブ面好みのファザコンティーナという事で手を打つとうではないか」

「どこにティーナをつけている!?」

 上目遣いで、眼下から睨みつけられる。その綺麗で鋭さを伴った眼光に、思わず見とれてしまい──




「ねえねえクリスちゃん。クリスちゃんのお父さんは、どんな人なのかな?」



 何気なく響いたまゆりの一言が、ラボを満たしていた暖かな空気を、微かに凍りつかせた。




[29758] 追想謝辞のオカリンティーナ 02
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/10/04 03:46

        2


 まゆりがバイト先へと旅立ち、紅莉栖と二人で取り残されたラボの中。ソファの上でうーぱクッションを抱え込み、身体を丸めていた紅莉栖が口を開いた。

「どうしてあんな事を言った、岡部……」

「何の話だ」

 どこか空々しい声色で問い返す俺に、紅莉栖がうつむけていた顔を微かに持ち上げる。

「とぼけるな。まゆりに変な事を言っただろ。……どうして?」

「どうして……と言われてもな」

 俺は紅莉栖の問いかけに、小さく顔をゆがめて頭をかく。


 ──クリスちゃんのお父さんは、どんな人なのかな?──


 あの時、まゆりが紅莉栖に投げかけた、他愛のない一言。そして、ラボメン仲間の何気ない質問を前に、返答を詰まらせた紅莉栖。

『無理もない……』
 
 言葉を告げられない紅莉栖を前にして、そう思った。

 牧瀬紅莉栖の父親。これまで何度も垣間見てきた、科学者崩れの一人の男。そんな男の人となりを思い起こし、俺は胸中で唸り声を立てる。

『答えようなど、ないではないか……』

 自らの娘が見せた才能に嫉妬し、自らの娘の成長を、自分にとっての屈辱だと言った男。

 そんな父親をぶら下げて、紅莉栖がそれをまゆりに伝える。それは、彼女にとって余りにも酷な作業だと思えた。

 だから──

「よかろう。助手ファザーの事ならば、この俺が説明してやろう」

 そんな妄言を口ずさみ、俺は紅莉栖本人の言葉を待つことなく、まゆりに対して勝手に講釈を垂れた。

 俺の話を聞いたまゆりは、俺が紅莉栖の父親と面識がある事に驚きつつも、紅莉栖の父親の人となりに対して、一応は満足をしたようで──

「やっぱりクリスちゃんのパパさんだねぇ~」

 などと、一人納得しきりであった。

 だがしかし、とうの紅莉栖にしてみると、俺の取った勝手気ままな言動に釈然としないようであった。

「勝手にしゃしゃり出たのが気に食わないのなら、あやまろう。すまなかった」

 俺は素直に、紅莉栖に謝罪の言葉を向けた。しかし──

「そういう事を言ってるんじゃないだろ。何であんな心にもない事を言ったのかと聞いてるんだ」

 俺の謝罪がお気に召さなかったのか、紅莉栖の口調はどこか問い詰めるように聞こえた。

「あれじゃまるっきり、嘘──」

「別に嘘をついた覚えはないが」

 紅莉栖が吐きかけた言葉を先読みして遮る。そして、

「どうして俺が、助手の父親に関して、まゆりに嘘をつかねばならん。俺にはそんな義理も人情もないぞ」

 きっぱりと言ってのける。

「どこがだ。変に気を使って……バカだろ」

「失礼な助手だな」

「うるさい嘘つき岡部。何が偉大な科学者だ。何が感謝しているだ。あんたがパパの事をそんな風に思ってるわけないだろ」

 そんな紅莉栖の悪態を聞き流しながら、俺は小さくため息をつく。

「だからちゃんと、前に『色々な意味で』とつけただろ。色々な意味で偉大。色々な意味で感謝。俺はそう言ったはずだぞ」

「だとしても、嘘だって事にかわりないでしょ」

 紅莉栖がうーぱクッションに顔を埋めこんだ。そんな紅莉栖の様子を視界におさめながら、俺は言う。

「そうでもないだろう。あんな男だとしても、科学者だという事に変わりはない。それに偉大かどうかなんて物は個人の主観によるものだ」

「じゃあ、あんたはパパを偉大だと思ってるわけ?」

「色々な意味では、そうとも言える。誰に見返られる事もなく、たった一人で狂気の道をひた走る。そんな男を前にして、狂気のマッドサイエンティストたる俺がそれを否定など出来るものか」

 俺は鼻も高々に、そんな答えを紡ぎ上げる。

「なによ。物は言いようってだけじゃない、それ」

 ウーパから顔を上げた紅莉栖の言葉に、『まあ、そうとも言うかもな』などと胸の内で呟きながら言う。

「それにだ。感謝しているというのも本当だ。というか、貴様は感謝していないのか?」

 俺の言葉に、紅莉栖が目を点にする。

「何がどうしてそうなるのよ……」

「どうしてもこうしてもあるか。俺と貴様を引き合わせたのは、他でもない貴様の父親ではないか」

「……え」

 紅莉栖の口から、小さな吐息が漏れる。

「まったく、これだからスイーツ(笑)は……。いいか? 確かに中鉢という男は、人として尊敬できるような人物などではない。しかしだ。だからこそ、俺と貴様は出会う事が出来た」

 俺は言う。

 あの最低最悪な一人の男が、悪の道をまっしぐらに駆け抜けたからこそ、俺たちの今があるのだと。

「あいつが貴様を刺す……などという暴挙にでなければ、最初のDメールも最初の世界線移動も起こりえなかった。娘に辛く当たっていなければ、貴様が日本へ来る事もなかったかもしれない。仮に訪れる機会があったとしても、きっと俺達が出会う事などなかっただろう。違うか?」

「……それは」

「もしも貴様の父親が、聖人君子のような人間であったなら、俺とお前は今でも見ず知らずの他人同士。ならば、尊敬こそできないとしても、少しくらいは感謝してやってもいいのではないか?」

 まくし立てるような俺の言葉に、紅莉栖は相変わらずキョトンとした表情を浮かべていた。

 正直に言えば、俺はあの男の事が、大嫌いである。自分の娘を手にかけようとし、割って入った俺のどてっぱらに、風穴を開けた。そんな男を、どうして許す事ができよう?

 だがしかし──

『それでも、紅莉栖の父親なのだ』

 そんな男と和解がしたいと、涙を流していた紅莉栖を知っている。
 そのために、一緒に青森へ来て欲しいと告げられた、紅莉栖の切ない願いを覚えている。

 出来ることなら、彼女の抱いた小さな願いを、いつかかなえさせてやりたいと、そう思う。

 紅莉栖の思い描いている、幸せな家族。そんな些細な幸せを、その華奢な手に握らせてやれればと、身の程もわきまえずにそんな事を考える。

 だからこそ──

「ともに青森へ、行くのだろう?」

 俺は、いつかの約束を口にする。と、紅莉栖が微かに唇を震わせた。

「あんな事があったのに……一緒に来てくれる……の?」

「ふん、勘違いするなよ。というか、むしろ貴様が拒否しようとも、俺一人でも行かねばなるまい」

 そう言葉にし、そして胸を張ってふんぞり返る。足を踏ん張り両手を開き、まとった白衣を盛大に羽ばたかせて声高に叫ぶ。

「この世に狂気のマッドサイエンティストは二人もいらぬ! 再びの直接対決を経て、どちらが真に狂気をつかさどる存在なのかを知らしめてやる!」

 少し恥ずかしかったが、それでも声を弱めることなく想いを口にする。

「そして、いつかあの男に、自分がただの中年オヤジであるという事を認識させてやろう! ああ楽しみだ! 自らの非力さに打ちひしがれて、ガックリと肩を落とした奴が、すごすごと妻や娘の下へと逃げ帰る様を見る事が、今から楽しみでしょうがないぞ! フゥーハハハッ!!!」

 声がかれんばかりに、高笑いを響かせる。そんな俺の姿に紅莉栖が小さく微笑んだ。

「それは……私も楽しみだ」

「ならば、貴様もついて来い。この鳳凰院凶真の実力を見せ付けてやろう。必ず……な」

「何がついて来いだ。立場が逆だろ……バカ」

 紅莉栖の瞳から涙が零れたように見えたのは──きっと気のせいだろう。

 牧瀬紅莉栖のたどり着く先に。この俺が導く彼女の未来に、涙など必要ない。だからきっと──

「ほんとあんたって、たまにそういう事する……反則だろ」

 紅莉栖の微かな呟きが聞こえた。

「何か言ったか?」

「何でもない!」

 言い張って、そっぽを向く紅莉栖。どことなく複雑そうな表情を覗かせている。

「どうした? ひょっとして、まだ背中が痛むのか?」

 そんな俺の言葉に、紅莉栖は少しだけ間を置いて──

「ちょっと……痛いかも……」

 なぜだか、顔を赤く染めていた。

「おいおい……どれだけ強くぶつけたんだ?」

「だって、焦ってたから……」

「まあいい。見せてみろ」

「うん……」

 彼女の横に腰を降ろし、彼女の背中に手を伸ばし、彼女の髪に触れ──

 次の瞬間にラボに響いた、「バイトお休みでした~」というまゆりの発言に、俺と紅莉栖が飛びのいた事は──言うまでもない事であったりするのである。





                                              おしまい




[29758] 加糖恋情のオカリンティーナ
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/10/15 17:19
     加糖恋情のオカリンティーナ



 微かな肌寒さを感じさせる秋の夜。すっかり暗がりに覆われたガラス越しの景色とは対照的に、ラボの中は天井に備えられた照明の光によって、満遍なく照らし出されていた。

 人工の光が浮かび上がらせる、どこか無機質な光景。その中で、パソコンモニタと向かい合った紅莉栖の背中だけが、微かな温もりを感じさせる。

 いつもの改造制服をイスの背もたれに引っ掛け、薄手のブラウス一枚でモニタを食い入るように見つめている紅莉栖。ブラウスの白に、赤味かかった長い髪の色がよく栄えていた。

 ラボの片隅に突っ立っている俺は、そんな紅莉栖の後姿をぼんやりと眺めながら、右手に持ったマグカップを口元へと運ぶ。と──

「へくちっ」

 何とも間の抜けた音が、ラボを満たしていた静けさを破った。

『まったく。言わん事ではない』

 俺は軽くため息をつくと、コーヒーをすすり込む予定をキャンセルして声をかける。

「だから上着ぐらい羽織れと言ったのだ。風邪をひいても知らんぞ」

 これまで、一心不乱にモニタとにらみ合っていた紅莉栖。しかし、ようやく俺の言葉が聞こえたのか、イスを回してこちらに向き直る。

「うう……。寒くなってる」

 肩を寄せ合うようにして身体を縮こまらせ、整った顔を微かに歪める。
 まるで、今夜の急な冷え込みに、今までまったく気づいていなかったかのような紅莉栖の言動。その様子に『やれやれ』という目を向けながら、俺はゆっくりと歩み寄る。

「まったく、何をそれほど熱心に読んでいるのか知らないが、あまり根を詰めすぎるなよ」

 空いていた左手を使い、イスの背もたれから紅莉栖愛用の改造制服をかすめ取る。そしてそのまま、丸まっている紅莉栖の頭を目掛けて覆い被せる。

「んぶっ」

 布越しに、押しつぶされた小さな息遣いが響いた。

「早く着ろ」

 手短に告げると、紅莉栖は頭から引っ掛けられた上着を掴み、慣れた手つきで袖を通しはじめた。

 俺はそんな紅莉栖の動きを目で追いながら、『さて今度こそ』と、右手のマグカップを口元へと近づける。しかし──

「……あ」

 上着を着こなした紅莉栖が上目づかいで立てた声に、思わず手を止める。

『またか……』

 またもやお預け。いつまでたっても口をつけられないコーヒーに未練がましく視線を落としつつ、俺は少し億劫そうに口を開く。

「今度は何だ?」

「岡部。私のは?」

 事も無げにそんな言葉を口にした紅莉栖。その視線は、マグカップを持つ俺の右手に注がれていた。

「欲しかったのか? なら、そう言えばいいものを」

「いや、岡部がコーヒー淹れてること、今まで気づかなかったし……。つーか、そう言うときは気を利かせるのが、イケてるメンズの必須条件だろ」

「残念だが、俺はそんなわけの分からん蒙昧なジャンルにカテゴライズされるつもりなどない」

 ぶっきら棒にそう返すと、紅莉栖はイスの上で両膝を抱え、両頬をプックリと膨らませる。

「岡部が冷たい」

「アホめ。世の中そんなに甘くないわ」

 キッパリと言い放ち、右手に持っていたマグカップをパソコンデスクの上に置く。そして丸まった紅莉栖を正面に見据え、ふんっと鼻を鳴らす。

「まだ、口をつけてはいない。それでよければ好きにしろ」

 そんな俺の言葉に、きょとんとした瞳を投げかけてくる紅莉栖。俺は、何とな~く自らの言動が気恥ずかしくなり、180度身体を回転させて紅莉栖に背を向けた。と──

「おお。何だか岡部が可愛いぞ」

 背中越しの紅莉栖の声を聞き、更に180度回転を追加して、再び紅莉栖に向き直る。

「余計な茶々をいれるのならば、返却を要求する」

 すっと机の上に手を伸ばすと、

「だが断る」

 言うが早いか、紅莉栖が素早くマグカップを奪い去った。そして、イスをくるりと回転させて、俺に背を向ける。

『まったく、世話のかかる助手だ』

 俺は胸の内でそう呟くと、両手で包み込んだカップに「ふぅふぅ」と息を吹きかけている紅莉栖の姿から視線を外し、踵を返してキッチンに向かう。そして、調理台の上に出しっぱなしだった子袋を引っつかみ、再び紅莉栖の元へ足を向けなおす。

 俺が紅莉栖のすぐ後ろまで舞い戻ってくると、まるでタイミングを見計らったかのように、紅莉栖が呟やいた。

「……にがい」

 どこか悲嘆にくれた紅莉栖の声に、思わず笑いが込み上げる。

「バカめ。それは俺専用のブラック無糖だ。にがくて当然だろう」

 口元の緩んだ俺の物言い。紅莉栖が顔だけを向けて、抗議の意を表す。

「だましたな、岡部」

「だまされる方が悪い」

 取り立てて、騙したつもりなどないのだが──などと思いつつも、しかしあえて調子を合わせ、端的に異議を却下する。そして、持ち帰った子袋から小さな塊を二つ取り出し、マグカップを満たす褐色の液体にそっと放り込む。

「あ……ありがと」

 どこかはにかんだような、紅莉栖の謝辞。なぜだか少しだけ、顔を赤らめているように見えたのは、まあ、気のせいだろう。なぜなら──

「惜しかったわね。これで、混ぜるスプーンもあれば、イケてるメンズ認定してあげたのに」

 礼を述べたばかりの口で、次の台詞がこれである。

「いるか、そんな認定。かき混ぜたいのなら、自分の指でも突っ込めばよかろう」

 あつかましさ全開の紅莉栖に、俺はスプーン一本で合否の別れる『イケてるメンズ認定』とやらの存在価値を疑いながら、そっけなく言い放つ。

「あ~はいはい。本当は認定されなくて悔しいんですねぇ。わかります」

 紅莉栖は憎まれ口を吐き出すと、イスから腰を上げて、軽い足取りでキッチンへと向かう。

 そんな紅莉栖の後姿を見ながら思う。

『あの減らず口は、一生なおりそうもないな』

 とりあえず、自分の湾曲気味な性格は棚上げしておき、どこか浮かれている感のある華奢な背中を見つめる。

 身体をリズミカルに揺らしながら、シンク台の引き出しを漁る紅莉栖。程なくすると、手ごろなスプーンを見つけたのか、マグカップの中身をかき混ぜながら振り向く。カップ片手に見せたその笑顔は、俺の目にとても温かく映った。

「コーヒー一杯で、ずいぶんとご機嫌ではないか」

 まるで鼻歌でも歌いだしそうな紅莉栖の振る舞い。俺は茶化すように言葉を投げかけると、キッチンに向けて踏み出す。

「ん……そう見える?」

「明らかにな」

「なら、そうなんでしょ」

 小袋片手に歩み寄る俺に、まるで他人事のような物言いで言葉を返す紅莉栖。そして──

「ま、デリカシー皆無の岡部には、こういうの理解できないだろうけどな」

 どこか俺を小馬鹿にするような発言を残し、そっとマグカップに口をつけた。

「偉そうに。ブラックも飲めないお子様がよく言う」

 俺は軽口を返しながら、手にぶら下げた角砂糖の小袋を、紅莉栖の視線に合わせて軽く振って見せる。そしてキッチンに立ち、役目終えた小袋を調理台の上に放り出すと──

「あ……」

 不意に、紅莉栖の口から微かな呟きが漏れた。
 その短い声色が気にかかり、俺は真横の紅莉栖に目を向ける。そこに見えた紅莉栖の身体は、もう軽やかなリズムを刻んではいなかった。

 先刻までとはうって変わった、少し寂しげな瞳。その少し落ち窪んだ横顔に、思わず『不味かったのだろうか?』などと、取り止めも無い心配を抱える。

 紅莉栖が持つ、コーヒーへの嗜好。俺の記憶が確かなら、今、華奢な手に握られているマグカップの中身は、そんな彼女の趣味を踏襲した出来栄えになっているはずなのだが──

「ミルクなしの砂糖は二個……ではなかったか?」

 確認の意味も込めて、問いかける。と、紅莉栖が静かに唇を震わせた。

「やっぱり、そっか。また……初めては私だけか……」

 それは、すぐ横に立つ俺にも聞こえるか聞こえないかという程の、とても小さな呟き。俺は、耳ざとく紅莉栖の溢した言葉を拾い上げる。

「初めてだと? いきなり何の話だ。というか、さっきまでの上機嫌はどこへ行ったのだ?」

 俺が問いかけると、紅莉栖は少し驚いたような顔をして振り返る。

「あ、ごめん。別に何でもないから。大した事じゃないし、気にするな」

 そう言って、笑顔を作ってマグカップを口元に運ぶ。その瞳に、微かな寂しさの色を見た気がした。だから俺は、広げた手のひらを、素早くマグカップと紅莉栖の唇の間に滑り込ませる。

「そんな目で飲まれたら、俺の淹れたコーヒーが報われんだろう。口に合わないのなら、義理立てて飲むこともないが?」

「いや、普通においしいから。だから飲ませろ。つーか、手、邪魔」

「ぬおっ!?」

 人差し指の中ほどに軽く噛み付かれ、慌てて手を引っ込める。予想していなかった柔らかな感触に、胸の鼓動が勝手に高まる。そんな、顔面を赤白と変化させる俺を尻目に、紅莉栖はコーヒーを軽くすすり込んだ。

「なんという、大胆な……」

「それくらいで大胆とか。岡部、童貞乙すぎ」

 カップから口を放し、俺の動揺を揶揄する紅莉栖。だがしかし、そんな彼女の頬にも、俺と同種の赤味が栄えている事を俺は見逃さなかった。

「ふん。キョドり具合はお互い様だろ。顔が赤いぞ。無理するな、HENTAI処女よ」

「うっさい」

 紅莉栖は俺に背を向けると、その場に立ったままで静かにコーヒーを楽しみ始める。

 そんな紅莉栖の後姿を視界に納めながら思う。

 先ほど、ほんの一瞬だけ紅莉栖の瞳に寂しげな色を見た気がした。だがしかし、今の紅莉栖の背中には、そんな面影はまったく見当たらず──

『……ううむ。気の回しすぎか?』

 どうも、これまで色々な事があったせいで、紅莉栖の見せる心情に対して過敏に反応してしまう。いつからだったか忘れたが、いつの間にやら身に付いてしまっている情けない習性。そんな物に、思わずため息をこぼしつつ、黙って紅莉栖の背中を見続ける。と──

「あのさ、岡部」

 俺に背を向けた紅莉栖が、そのままの姿勢で小さく声を立てた。

「なんだ」

「私が思い出したのってさ……。あんたの覚えてる事の、どれくらい……なのかな?」

 またもや紡がれた、脈略のない唐突な物言い。俺は、片手で髪をかきあげながら、やれやれと言う思いで問い返す。

「言っている言葉の意味が分からん」

 そんな俺の言葉に、紅莉栖は呆れたような目をして振り返る。

「相変わらず鈍いわね。だから、なんと言うか……私って、色々と思い出したわけだよね」

「ああ、そうだな」

「でもさ、全部思い出してるわけじゃない」

「まあな」

「じゃあさ、全部覚えてるあんたと比べて、私はどれくらい思い出せたのかな……とか、そう言う話」

 紅莉栖の言葉に、返答に詰まる。

『どれくらい……といわれてもな』

 α世界線からβ世界線。そしてシュタインズゲートを経て、全てを忘れてしまったはずの紅莉栖。だがしかし、今の紅莉栖は消えてしまった歴史の一部を、その記憶に宿している。それは間違いなかった。

 馬鹿げた独善性に取り込まれた俺。そんな男に振り回された結果、紅莉栖が悲鳴と共に取り戻した記憶。それは完璧などではないにしろ、それでも掛け替えのない奇跡の賜物。それに間違いなどないのだ。

『それを、俺の記憶と比べるなどと……何がしたいのだ?』

 余りにも下らない紅莉栖の話題。その真意は、やはり読み取れない。だから俺は口にする。

「しょうもない事を考えるな。暇人め」

 吐き捨てるような俺の申し入れに、しかし紅莉栖はそれを無視して言葉を続ける。

「岡部、あんたさ。自分だけが覚えてる……とかって、寂しいとか思ったことない?」

 俺を見上げるその視線に、ドキリと思考が跳ねる。紅莉栖の言葉に胸が揺れる。

「どうして俺が……寂しいなどと思わねばならんのだ……」

 しどろもどろに嘘をつく。

 正直に言うと、今の現状に対して、寂しさというか虚しさというか、そんな感情がまったく無いと言えば、それは嘘になるだろう。

 だがそれでも、これ以上を望む事が、馬鹿げていると思っている事も事実。

 紅莉栖が側にいて、全てでないにしろ、それでもあの夏の記憶を取り戻してくれている。だから、これ以上を望む必要など俺にはありはしない。それを理解しているし、その想いは本心だった。

『しかし……』

 それでも稀に、得体の知れない感情を持て余す事はあった。まゆりやダルやルカ子。それにフェイリスや萌郁やそれ以外の知人たち。そして何より、紅莉栖との間に些細な違和感を感じるたびに、なんとも言えない感情が小さく湧き上がることがあった。そしてその都度──

『俺という男は、どこまで貪欲なのだ』

 と、無理やり想いを押し込める。

 節操のない自分の欲。そんなものを見るのが嫌で、湧き上がる何かをなかった事にしてきた。それもまた、紛れもない事実であった。

 そして今、そんな俺の中に燻る傲慢さを紅莉栖に見抜かれたような気がして──

「ごめん……」

 その声に、下らない思考が途切れる。

「お……おい、何をしている……紅莉栖」

 何の前触れもなく、俺にしがみ付いている紅莉栖。先刻までその手で揺れていたコーヒーカップが、調理台の上にポツンと取り残されていた。

「ごめん、岡部……」

「なぜ……あやまっている?」

「だって今、凄く寂しそうな目をしてた……」

 小さく聞こえた言葉に焦る。紅莉栖の指摘に、それを許した不甲斐ない自分を舌打ちしたくなる。しかし、そんな感情もやはり押し殺し、出来る限り平然とした声で語りかける。

「だから、俺がどうして寂しそうな目をしなければならない? 気のせいだろ」

「うそ。だって岡部、たまに凄く寂しそうな目をする事があるから。だからきっと、今も……」

「それは貴様の事だろう? お前こそさっき、なにやら寂しげな目をしていたでは──」

「寂しくて悪いか」

 俺の虚言を、紅莉栖の想いがかき消した。

「あんたが淹れてくれたコーヒー飲むの、私は初めてだった。だから、すっごく嬉しくてさ。なのに岡部だけは経験済み。初めては私だけ。コーヒーだけじゃない。他にも『そうなんだ』って分かる事、結構あった。なんかさ……岡部だけ、ずるいよな」

 紅莉栖は俺の胸に顔を埋め、そして言う。

「普通……寂しいだろ、そう言うの」

 何を取り繕うわけでもない紅莉栖の想い。その真っ直ぐな言葉に、押し込めていたはずの何かが、その影を薄める。

 俺だけが持ち続けている記憶。そこから生まれる、微かなすれ違い。それに感じる、傲慢な感情。誰かに見せることに羞恥心を覚える、そんな思考。
 それは、俺だけが。何一つ忘れる事の出来ない俺だけが感じているものだとばかり、思っていた。だがしかし──

『そんな考えすらも、思い上がりだったか』

 胸の奥で、小さく安堵の息をつく。

 立場が違えど、それでも紅莉栖は俺と同じ想いを持っている。たったそれだけの事が、なぜだかとても嬉しく思えた。

「だからさ。岡部だって、寂しくないと……ずるいだろ」

 俺の胸から顔を上げ、透き通るような瞳を俺に向ける紅莉栖。その言葉に、

「ああそうだな。俺も……少しくらいは寂しいのかもしれん」

 思わず、本音が零れ落ちる。

「そうだぞ。ほれほれぇ素直になれ、岡部」

 紅莉栖が笑う。

「どこの変質者の台詞だ」

 俺は照れくさそうに顔を背ける。そして──

「欲張りな助手め」

 はにかんだ物言いで、紅莉栖の頭に手を乗せる。

「そう。私は欲張りなんだ。だからきっと、いつか……」

 紅莉栖は一瞬だけ言葉を止めると、何かの想いを込めて口にする。

「あんたのリーディングシュタイナーだって、いつかきっと解明してみせる。いつまでも、岡部にイニシアティブを握られててたまるか」

 そんな、途轍もなく荒唐無稽な紅莉栖の意思に、口元をほころばせる。

「また、無茶な事を」

「無茶じゃない。ちゃんと仮説だってあるんだぞ?」

「おいおい……」

「あ、信じてないな。岡部、信じろ。私は天才なんだろ?」

 すでに密着しているというのに、そこから更に詰め寄ろうとするかのような紅莉栖の瞳。
 その微笑を浮かべた姿に、いつか見た、しかし消えてしまったはずの7月28日の記憶が頭をかすめる。俺と紅莉栖をつないでいた連環の触れ合う音が、ほんの微かに聞こえたような気がした。

 だから──

『こいつなら、本当にやりかねんな……』

 そんな事を思いながら、紅莉栖の顔を見つめる。

 世界線の移動に伴う、歴史の再構築。それに付随して書き換えられる、全ての人の記憶と想い。そんな中にあって、絶対のはずのルールから俺だけを排斥し続けた、得体の知れない能力。
 それこそがリーディングシュタイナーであり、そしてそれは、明らかに人知の枠組みから逸脱しているはずのもの。
 
 だというのに、紅莉栖の顔を見ていると、不思議とそんな代物さえも、理論で種明かしされてしまいそうな──そんな気がしてしまった。

「おもしろい。ならば、期待せずに待っていてやろう」

「少しは期待しろ、ヘッポコ科学者」

 言葉少なに呟くと、俺は紅莉栖のあご先に指をかける。

「あ……バカ。まゆりが来るだろ」

 紅莉栖がふわりと目を閉じる。

「そうそう毎度、来るものか」

 俺は紅莉栖に顔を近づける。そして──



 静まり返った夜の空気は、次第にその冷たさを増していく。
 その中で、古びたビルの二階に陣取った小さな弱小ラボだけが、暖かな温もりに包まれ始める。
 そして、ラボへと続く階段を、満面の笑顔と共に駆け上った少女が、ラボのドアノブに手を掛けて今まさに扉を押し開けようとしている事を──

 その二人は知るよしも無かった。




                                                おしまい



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ01
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/08 00:41
     1

 このところ、いっそう活発に存在の主張を始めた冬の冷気に晒されて、白衣の上から羽織ったジャケットの襟元を、片手で乱暴にたぐり寄せる。
 電飾や色とりどりのネオンで着飾らされた、いつもよりも煌びやかな秋葉原の町並み。その真ん中に立ち、俺は空へと上っていく凍りついた息を視界の端に捕らえながら、胸の内で小さく吐き出す。
『分からない……』
 秋葉原のラジカン前。
 目の前には、この場所と対岸の歩道を結ぶ、何の変哲もない横断歩道。アスファルトの黒とペンキの白が交互に織り成す縞模様。そんな、物珍しさとは無縁の対象を前にして、過ぎ行く雑踏の中で俺はただ一人、この場所で足を止めていた。
 もう、こうしてどれくらいの時間がすぎただろう。せめてもの暖にと自販機で買ったブラック無糖の缶コーヒーも、今ではすっかり冷え切ってしまっている。
 俺は、意味を成さなくなったカイロ代わりの缶コーヒーを指先で揺らしながら、思いにふける。
『あれは本当に、ただの偶然だったのか……?』
 もうすでに、この場所に立ってから、同じ言葉を何度も胸の内で繰り返していた。そして、そんな言葉が湧き出るたびに──
『いや、偶然の一致と言うにはあまりにも……』
 と、思考はつながり、そして最後にたどり着くのは──
『やはり分からない……』
 寸分違わず、いつも同じ場所に着地する。この調子で、もうずっと同じ事の繰り返しだった。
 唐突に俺の中に降って湧いた違和感。それは、疑問などとは呼ぶこともできないほどに小さな疑念。余りにも漠然としていて、そこに明確な『何か』などまったく無い。だがしかし、それでも心の中に微かに湧き出た引っ掛かりは、俺の足をこの場所に釘付けにしていた。

 事の発端は些細な事だった。

 いつもと変わらぬ日常。いつもと変わらぬワンシーン。
 食料の調達にと、ラボメン達を残して、一人で繰り出した秋葉原の雑踏。紅莉栖から届いた、買出し品目追加のメールに、戯言交じりの返信を携帯に打ち込みながら歩いた、いつもより鮮やかに栄える大通り。そして出来上がったメールの文面を確認し、送信ボタンを押したのが丁度──
『あの時も、そうだったな……』
 俺は横断歩道の中ほどに目を向けながら、過去の記憶を呼び覚ます。
 全ての始まりだった、一本のメール。何の気なしにダルへと送った、異常事態を告げる短い文面。『牧瀬紅莉栖が、何者かに刺されたみたいだ』という現状を伝えただけの、そんな俺の行動が招きよせた長い長い三週間の夏の日々。
 そこから紡がれる、数多の記憶をゆっくりと呼び覚ましながら、俺は『やはり、考えすぎなのだろうか』と曖昧な気持ちで結論を手に取り、一つ大きくため息を付く。と、唐突にジャケットの中から、こもった電子音が響いた。
「……む」
 俺は一度そこで思考をとぎらせ、緩慢な動作でポケットから愛用の携帯電話を引き抜く。
「助手……か」
 着信者名を確認し、慣れた手つきでボタンを押して電話を耳へとあてがう。
「俺だ」
「俺だじゃないだろ」
 心地よい響きの声が、俺の発した第一声に対して、電波越しに威圧感を放ってくる。
「あんた、出てってから随分と時間たってるけど、今どこ? もう買い出し終わってるんでしょ?」
 畳み掛けるように飛んでくる紅莉栖の質問。俺は未だに空っぽの手で後頭部を軽くかきながら口を開く。
「……現在地はラジカン前。買出しは、なんと言うか……まあ、これからだな、うむ」
 少ししどろもどろになりながらもそう答えると、受話器の向こうで素っ頓狂な声が上がった。
「はぁっ? これからって、これから?」
「その通りだ」
 短く返した俺の返事に、紅莉栖が少し呆れたような声で言う。
「あのねぇ岡部、今まで何してた? 全然戻ってこないから、みんな心配してたんだぞ」
 どこか俺を詰問するような物言いの後ろに、ダルのものと思われる声が微かに混ざった。
「心配してたのは、主に牧瀬氏だけだったと思われ」
「橋田は黙れ!」
 状況からすれば、恐らくダルへと向けられているはずの罵声なのだろうが──
「助手よ。出来ることなら受話器を遠ざけてから怒鳴ってもらえると、俺の鼓膜も助かるのだが?」
 微かに残った耳鳴りに顔をゆがめながら、静かな声で指摘する。
「あ、ごめん。じゃなくて、今までどこをほっつき歩いてた、岡部?」
 そんな問いかけを放られ、返答に困る。
「どこをと言われても……。まあ、ずっとここにいただけだから、それ以外に答えようなどないが……」
 しどろもどろに紡ぎ出した言葉に、紅莉栖の語気に微かな変調を感じる。
「ここって、ラジカンの前にって事? ずっとって、今までずっと?」
「まあ、そういう事になるな」
 何となく詰問されそうな気配を察し、曖昧な言葉を投げ返す俺。しかし意外にも、そんな俺の返事を受けた紅莉栖は、声色をわずかに曇らせた。
「岡部……何かあったのか?」
 小さく滲んだ不安の色。どうやら俺の不自然な行動を聞き、その内容に無用な不安を覚えてしまったようである。
 無理もないと思う。今の紅莉栖は、完全ではないにしろ、あの三週間の思い出を取り戻している。例えそれが断片的な記憶だとはいえ、それでもあれほどの経験だ。ならば、俺がラジカンの前に長時間釘付けになっていたと聞けば、そこに何かしら、よろしくない空気を感じてしまうのも致し方ないというもの。
『しまったな。余計な事を言ってしまったか』
 俺は、軽々しく自分の行動を紅莉栖に教えてしまった事を反省しながらも、あえて落ち着きを強調した冷静な声で語りかける。
「どうやら、いらぬ心配をかけたようだな。すまなかった。だが、別に何かあったわけではないから安心しろ」
「……本当か?」
 心配するなと告げた俺の言葉に、それでも紅莉栖の声色には微かな重たさが残っていた。
「疑り深い奴だな。本当だと言っているだろう。なに、少しばかり昔の事を思い出して、考え事をしていた。それだけだ」
「昔の事……」
「そう、昔の事だ。何せラジカンでは色々な事があったからな。ならば、俺が少々感慨にふけっていたとしても、おかしくはあるまい?」
 正確には、俺が凝視していたのはラジカンではなくて、その前にある横断歩道である。だがここでまた、そんな意味ありげな単語を口に乗せれば、紅莉栖に生まれた不安をいたずらに助長しかねない。それを懸念して、事実に若干の脚色を加えておいた。
『まあ、実際に考えていた事も大した事ではないのだから、この程度の脚色は問題なかろう』
 などと考え、「だから心配の必要などない」と、もう一度だけ紅莉栖に向けて念押しする。
「まあ、それならいいけど」
 受話器越しに聞こえたその声色に、彼女の中に芽生えていた不安感が薄まった事を見て取り、俺もまたホッと胸を撫で下ろす。そして、ふと──
『ひょっとして紅莉栖ならば、この奇妙な違和感に対して、何かしらの答えを出せるのではないか?』
 そんな事を思いついてしまった。
 十代にして科学雑誌に論文が載るほどの異色ぶりを見せ付けてきた、牧瀬紅莉栖。三度の飯より実験がすきで、理論と寝食を共にしていると言っても過言ではないであろう、一人の天才少女。そんな彼女ならば、俺の中に湧き出した些細な感情に、それなりの答えを導いてくれるのではないか?
 そんな事を考えてしまった。
『他力本願もはなはだしいが、しかし……』
 一瞬ためらうものの、それでも俺は紅莉栖に向けて真剣な面持ちで口を開く。
「ところでだ、紅莉栖」
「え? 今、紅莉栖って聞こえたけど……」
 取ってつけたような話題の切り返しに、紅莉栖の戸惑ったような声が返る。
「そう言ったのだから、当たり前だろう」
 俺が呆れたような声でそう言うと──
「そ、そうだよね。何だか、名前で呼ばれたの久しぶりだったから、つい耳を疑ってしまった」
 紅莉栖は若干気恥ずかしそうな声でそんな言葉を口走った。
「と言うか、いきなりちゃんと呼ばれたりすると焦るだろうが。何それ? シリアスアピールのつもりですかぁ?」
 意味の分からない、紅莉栖の指摘。ひょっとして皮肉だろうか?
『ぬう』
 名前を呼んだだけで、どうして噛み付かれなければならないのか、はなはだ疑問であったが──とりあえずその思いは保留にして切り返す。
「そんな事よりもだ。後で聞いてほしい事がある」
 俺が静かに伝えた言葉に、紅莉栖の声が少し遅れて聞こえた。
「何よ改まって。バカ話なら、いつも付き合ってやってるだろ」
 どこまでも尊大な助手である。
「いや、バカ話ってお前な。どちらかと言えば、バカではない方の話なのだが」
「え……そうなの?」
 俺の言葉を聞いた紅莉栖の声は、少し意外そうに彩られていた。
「ああ。それでだ。今はまだラボにまゆりもダルもいるのだろう?」
 そんな俺の質問に「そうだけど」と、紅莉栖が肯定を返す。
 電話越しに聞いた先ほどのやり取りで、すぐ側にダルがいる事は分かっていた。そしてやはり想像通り、まゆりもまだラボにいるようであった。
 秋葉原の街中で、俺の中に突然芽生えた小さな違和感。
 それは言うまでもなく、消し去ってきた夏の日々と関係しており、となれば当然そういった手合いの話は、断片的に記憶を取り戻している紅莉栖以外にはあまり聞かせたくないところであった。だから──
「二人が帰ったあと、少し残ってくれないか?」
 そんな提案をする。
「え? な、何で……?」
 紅莉栖の声が、淡くかすれた。
「何でと言われてもな。単に、ダルとまゆりがいると、少々話しづらい内容だったりするからなのだが……」
「じゃあ、二人きりでとか……そういう事……だったり?」
「二人きり? まあ、その解釈に間違いはないが……」
 俺の言葉に、紅莉栖の声が何かを悟ったように上ずる。
「岡部……それってまさか……」
 その声色を聞き、俺は感心しきりに頷く。
『やはり紅莉栖だな。一を聞いて十を知る。天才少女の看板は伊達ではないと言ったところか』
 どうやら紅莉栖も、まゆりやダルに聞かせたくないという俺の意思を汲み取り、話の内容が例の一件に関わっている事を察知してくれているようであった。
「ふ。流石と言うべきか天才少女よ。良い読みをしている。そう、そのまさかだ」
 俺は、紅莉栖と交わす意思の疎通を心地よく感じながら、鼻息を荒げる。
「あの……岡部……その、本気なの?」
 囁くような紅莉栖の台詞。その声を聞いた俺の脳内に、なぜか顔面を真っ赤に染め上げている紅莉栖が思い浮かんだのだが──まあそれは、気のせいだろう。何せ、これまでの会話の流れで、紅莉栖が顔を高潮させる要因など、どこにもありはしないのだから。
「普通、冗談でこんな話はしないだろう。俺は至って真剣だ」
 俺がキッパリとした口調でそう返すと、どこか困ったような紅莉栖の声が携帯電話を震わせた。
「いきなり、そんな事言われても……」
「どうした? 用事でもあったか? まあ、それならば無理強いはしないが」
 話題の内容としては、取り立てて急ぐ必要も無い。だから「また日を改めても……」などと口にしようとした俺の言葉を、紅莉栖の声が遮った。
「いや、聞くからっ! 用事とかないからっ! 12月だしっ!」
「そ……そうか? それならば、いいのだが」
 何となく、慌てたような紅莉栖の物言いと、最後に添えられた意味不明の暦報告に戸惑いと気後れを覚えるも、しかし、これほどまで真剣に俺の与太話に付き合ってくれようとしている面倒見の良い少女に、感謝の念を抱く。だから俺は、捨て台詞とばかりに言ってのける。
「結構な難問かもしれんぞ。覚悟しておけ!」
 直面する問題が困難であればあるほどに燃え上がる。そんな少女の事を思いながら、いつものオーバーアクションをサウンドオンリーで再現して見せる。
「難問……ほんと、難問よね」
 そう言った紅莉栖の声は、まだ少し上ずっていた。
「そうだ。期待しているぞ紅莉栖」
「わかった岡部。私もちゃんと答えを準備しておくから……その、土壇場で怖気づいて、逃げたりするなよ」
 そんな紅莉栖の発言に、俺は小首をかしげる。
『はて……?』
 どうして俺が怖気づく流れになるのか理解に苦しみ、それ以前に、話を聞く前にどうやって答えを準備するつもりなのかと思い悩む。その真意を問いかけようとしたとき──
「あ、ごめん。電池切れる。岡部……その、は……早く帰って来いよ。待ってるから……」

 チュ

 その言葉を最後に、通話が途切れてしまった。
『おい。最後の擬音は……何だ?』
 紅莉栖の言葉尻に聞こえてきたのは、なんと言うか、口内を真空圧縮してから上唇と下唇を解き放つ時に発生しうる、何だかもうリア充爆死的な、そんな身に覚えのないピンク色の音。
 俺にはどうしてか、最後に聞こえた小さな衝撃音が、厨二病全開の俺などとは無縁のはずの福音らしきものに聞こえてしまい──
「ネズミの真似……か?」
 俺は、紅莉栖へと繋がらなくなってしまった携帯電話を片手に、クリスマスを来週へと控えた秋葉原の冬空へ、戸惑いがちな顔をそっと向けるのであった。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ02
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/08 00:43

     2

 左手にぶら下げたビニル製のレジ袋が、歩調に合わせてゆっくりと揺れる。
 一通りの買出しを終えて、行きつけの量販店からの帰り道。微かに影を落とし始めた景色の中をのんびりと進む。そんな俺の頭の中では、先刻、ラジカン前で頭を悩ませていた小さな違和感に対する鬱屈とした思いが、再び燻り始めていた。
『やはり……いまいち納得がいかん』
 ラジカン前の横断歩道。これまでに何度も行き来してきた往来で、今日に限ってふと思い至った奇妙な感覚。その正体を手探りながらも追及してみれば、そこに見えたのは紛れも無く──
『また、あの日がらみ……とは』
 7月28日。
 それは、様々な出来事の発端となった一日であり、そして同時に全ての解決を見たはずの一日。紅莉栖と出会い、彼女を失って取り戻し、そしてまた俺自身も救われる事となった、あの一日。
 あれからすでに、季節が二つほど移り変わっていた。そして、そんな時間の経過に流されるかのように、いつしか俺も、あの慌しかった激動の日々を、どこか客観的な目で思い起こす事が出来るようになっていた。
 そんな中で、今日、唐突に降って沸いた違和感。どこか居心地が悪く、どこか収まりの悪さを感じさせる、窮屈な感情。
『まったく。どこまで付きまとう』
 忘れた頃にやってくる。まるで天災のように再登場を繰り返す曰くつきの一日。それを思うと、自然とため息が漏れ出た。

 俺は歩みを止める事なく、思考を繰り返す。
『俺はいったい、あの時何をしていた……』
 先刻より何度も思い起こしているのは、いつかの瞬間だった。
 ラジカンのあの場所で、血溜まりに倒れていた紅莉栖。その現場を目にした俺が、状況報告としてダルに宛てて送った一件のメール。そして起こった、最初の世界線移動。
『あの時は、かなり慌てたな』
 周囲の人間が一斉に姿を消した出来事に、何も知らなかった俺は盛大にうろたえたものだ。だがしかし、そんな今世紀最大級とも言えるマジックも、タネを明かしてみれば何の事はない。
『人工衛星の落下。で、秋葉原一帯に避難命令……か』
 人通りの多い街中から、俺を除いた全ての人間が姿を消した理由。それは、世界線の移動による歴史の再構築が導いた結果であった。
 何も知らない第三者が聞けば、まったくもって意味不明の夢物語だろう。だがしかし、これまで幾度と無く世界線の移動に関わってきた俺にとって、それは何とも分かりやすい理屈の上に積み上げられた状況であると言わざる終えない。
 だからこそ、これまであの現象に対して、さしたる疑問も持ってはいなかったのだ。
 だと言うのに──
『どうして今さら、こんな事が気になる……』
 俺が抱えた小さな疑問。その中心に据えられているのは、世界線の移動を挟んだ、俺自身の置かれていた状況だった。
 そうとは知らずに飛び越えた、ダイバージェンス1%の壁。紅莉栖を失うβ世界線から、まゆりを失うα世界線への最初の移動。
 その瞬間に見た光景。その瞬間に置かれていた状況を思い出す。
 微かな眩暈の後に押し寄せた、新しい世界。それまで秋葉原を闊歩していた大勢の人間が消え、代わりに現れた無人の街。そして──
『横断歩道のど真ん中で、ラジカンに背を向け、携帯片手に……』

 ──俺は、何をしていたのだ?──

 何度も同じ質問を繰り返す。
 世界線が移動した瞬間に、前触れなく放り込まれた新しい歴史。その中に在るはずの、それまでの自分が取っていたであろう行動。そんな自分の知らないものに想像を働かせる。

 ──墜落したのをテレビで見てて、オカリンが「ついに機関が動き出した~」っとかいって、二人で見に来たんだよ──

 これは、どこかの世界線で聞いたまゆりの言葉。
 この発言を鵜呑みにするならば、人工衛星の落下というセンセーショナルな出来事を聞きつけた俺は、いの一番で厨二病を発病し、息巻きながら野次馬根性全開で現場に駆けつけたのだろう。
 それは、あまりにも俺らしい行動であると言わざるおえない。
 だがしかし、そうなると──
『ならばどうして、往来のど真ん中でラジカンに背を向けていた?』
 そんな他愛のない疑念が、頭を過ぎる。
 世界線を飛び越えた直後、真っ先に俺の視界に飛び込んできたのは、件の人工衛星などではなく、無人の秋葉原だった。
『つまり……俺はあの時、ラジカンを見てはいなかった』
 そして、世界線を飛び越えてなお、俺の手に握られ続けていた携帯電話。その意味が分からず、眉根を寄せる。
『目的の人工衛星に背を向けたまま、電話を持って何をしていた?』
 幾つか思い当たるふしはある。だがしかし、そのどれにも、なぜだか納得できない自分がいるのだ。
 何度も思考の片隅を通り抜けていく、微かな違和感。まるで真綿で包まれているかのような、捕らえどころの無い柔らかな圧迫感。
 それまでの自分が持っていたはずの、しかし世界線の移動と共に上書きされて消えた記憶に、俺の思考は不安定に回る。そして──
『なぜ、これ程までに気にかかる?』
 何よりもまず、こんな些細な突起物に、いつまでも足を取られ続けている自分が、少しばかり信じられなかった。
 所詮はすでに過ぎ去った、過去の出来事。ならば、今さら小さな違和感を追及したところで、何になるというのか?
「……ふぅ。少し疲れているのだろうか?」
 俺は足を止め、ため息と共に小さく吐き出す。
『考えすぎ……だな』
 これは、疑問と呼ぶのもはばかられるような些細な出来事。きっとそんな物には、意味など無いのだろう。ただの杞憂なのだろう。思い過ごしか何かなのだろう──と、自分に言い聞かせる。
『我ながら、実にくだらんな。どうせ、人工衛星を見終わって帰るところだったとか……そういう事なのだろう。ひょっとしたら、姿の見えないまゆりを探して、電話で現在位置を確認しようとしていただけなのかもしれない』
 ただ、それだけの事なのだろうと、無理やりに思考を固める。そして──
『こんな馬鹿げた妄想を紅莉栖に聞かせたところで、下らないとか細かいとか言われて、鼻で笑われるのがオチか』

 やはり、紅莉栖に相談を持ちかけるのは止めておこう──

 と、そう考えた。
 どうせ話したところで、いつもの厨二病扱いされるのが関の山だと思うし、何より──
『妙な事を口走って、要らぬ心配をさせるわけにもいくまい』
 今、俺や紅莉栖やまゆりやダル。それに他のラボラトリーメンバーたちの日常は、とても明るいのだ。ならば、下らない妄想を持ち込んで、そんな快適きわまるラボメン達の生活に水を差す事など、俺の本意ではない。
 だから、紅莉栖には後で謝っておこう。そう決めて、一度は止めた足を再び動かし始める。
 俺は冬の空気に身を晒しながら、ラボへと進む。白衣の上にジャケットを羽織ってもなお肌寒さを感じ、着衣の奥で肌が泡立つ。それは、衣類の隙間から忍び込む冷気によるものなのか、それとも──
『何かが違う……』
 どこか漠然とした疑念によるものなのかは、俺には判断がつかなかった。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ03
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/08 00:43

   3

 気が付くと、いつしか太陽が沈みかけていた。
 オレンジ色の夕日に照らし出され周囲の景色に視線を走らせれば、自分が随分のんびりと歩いてきたのだという事を、改めて認識する。
『そう言えば、早く帰ってこいとか言われていたな……』
 買出しに出たまま帰ってこない俺に、業を煮やした紅莉栖がかけてきた一本の電話。そのやり取りの最後に告げられた紅莉栖の言葉を思いだす。
『少し、時間をかけすぎただろうか?』
 何気にそんな事を考えると、不思議な事にこれまで緩慢だった俺の足取りに、少しばかり勢いが付ついた。
『まあ、今さら急いだところで、大して変わるとも思えんが……』
 だがそれでも、何となくラボへの歩調を速めるあたり、そこに俺と紅莉栖の力関係が見えるような気がして、我ながら少々情けない気分になってしまう。
『むう。精神的な優位性は、完全にあちらが上か』
などと、ちょっと虚しい考えに思考を回しながらも、家路を急ぐ。
 無論のこと、ラボにおいての『創設者』と『助手』という立場関係に、これまでに大きな変動はない。とは言え、表面上は虚勢を張ろうとも、実際にはまったく頭が上がらないのも事実。
『何という、ややこしい間柄だ』
 胸の内で小さく吐き出すと、俺はもう少しだけ脚の動きに速度を乗せた。怒られるのは、いやであった。

 やがて我が居城を内包する、年代物の二階建て雑居ビルが視界に入る。
 その古臭いたたずまいを遠目に映しながら、俺は買出し品の詰まったビニル袋を軽く跳ね上げて持ち直し──
『あいつら。何をやっている?』
 ブラウン管専門店の店先に設置された安ベンチに、見慣れた二つの人影を発見して首をひねる。
 夕日に照らされる、小柄な少女と巨漢の男。言うまでもなく、まゆりとダルであった。
 俺が手に提げたビニル袋を大きく揺らしながら小走りに近づいていくと、どうやら先方もこちらの接近に気が付いたようで──
「あ~オカリン! やっと帰ってきた~!」
「おー。これはかなりの重役出勤ですなぁ」
 幼馴染と片腕が、夕暮れの通りに声を響かせてベンチから腰を上げた。俺は二人の側で足を止めると、微かに上がった息を整えながら問いかける。
「二人とも、こんなところで何をしている?」
 空いたベンチの上に戦利品の詰まったビニル袋を乗せつつ、交互に二人を見ると、まゆりの顔が嬉しそうに綻んだ。
「それはね~、オカリンを待ってたんだよ~」
 寒空の中、ダルと二人で俺の帰還を待っていたのだと言うまゆり。その言葉に少し驚く。
「まさか、わざわざ表で出迎えを? しかも、まゆりだけならまだしも、ダルもだと? どういう風の吹き回しだ?」
 どこか釈然としない俺の表情に、ダルが大きな胸をそらせて声を張る。
「失敬な。ボクだって、これより戦場へと赴く戦士にせめてもの激励をとか、思うわけで」
 ダルの口にした言葉の中に意味の分からない単語を見つけて、俺はオウム返しに問い返す。
「戦場? 何の話だ?」
そんな俺に、まゆりが微笑んで見せる。
「またまた~。隠したってダメだよオカリン。まゆしぃもダルくんも、ちゃんと知っているのです」
「そそ。オカリン、貴殿のご武運を祈る……つーか、遅すぎだっつーか、リア充は氏ねばいいと思われ」
 満天の笑顔とニヤケ顔を目の前にして、俺の困惑はより深まっていく。
「だからいったい何を……」
 口をつきかけた俺の言葉を、まゆりの華やかしい声が遮った。
「さ、オカリン。クリスちゃんが待ちくたびれてお婆ちゃんになる前に、行ってあげてよ」
 まゆりがニコリと笑って、クルリと俺に背を向ける。
「そういう事だぜ。まあ、せいぜい爆死しないように気をつけるんだな、旦那」
 ダルが不適に笑って、グルンと俺に背を向ける。
 そして、まるで申し合わせでもしていたかのようなタイミングで、二人同時に歩き出す。
「いや、だからちょっと待てお前たち」
 顔面に戸惑いを貼り付け、去り行く二人を呼び止めようと腕を伸ばすも──
「だめだよオカリン。今はクリスちゃんの所へ行ってあげなきゃ」
「そうだぜ。あんたの戦場は、ここじゃないはずだ」
 振り返ることなく告げられた二人の言葉が何だかもう色々と難解で、俺は伸ばしかけた腕をすごすごと引っ込めた。そして、夕焼けに染まる街を歩いていく、大きさの違う二つの背中を黙って見送る。
『これはいったい、何の余興だ?』
 俺は顔をしかめながら、ベンチに預けたビニル袋を取り直し、踵を返してラボへと続く階段に足をかけた。




[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ04
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/08 22:11
    4

 ラボの扉をくぐると、ほのかに感じる落ち着いた香り。
 荷物を持っていない手で扉を閉めながら、入り口脇にビニル袋を下ろす。と、そんな俺の存在に気付いた紅莉栖が、ソファに腰掛けたままで振り返った。
「あ……お帰り」
 耳を揺らしたのは、とても小さな迎えの挨拶。なぜだか少しだけ、よそよそしく聞こえた。
「遅くなってしまった。すまん」
 俺は靴を脱ぎ散らかしてラボに踏み込むと、随分と待たせていたであろう紅莉栖に対して短く謝罪の言葉を口にする。そして、脇に置いたレジ袋を置き去りにしたままで、ゆっくりと紅莉栖に近づく。不意に、テーブルに乗った二客のティーカップが目にとまった。
「紅茶……か?」
 目にした光景に、思い当たった単語をそのまま口にすると、紅莉栖が小さく頷いて見せる。
「外、寒いかな……とか思って」
 どこか気恥ずかしそうな顔でそんな事を呟き、慌てて視線をそらす紅莉栖。いつもの凛とした姿とは対照的な彼女の態度に、思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまう。
『な……何だこの雰囲気は……』
 正直、可愛らしいと思った。
 ただでさえ細い両肩をすぼめ、ソファの上で身体を小さくしている紅莉栖。何か言いたげな顔をして、モゾモゾと身体を動かしている。その姿は、どこかか弱い小動物を連想させた。
『ネズミ……とか言ったら、殴られそうだな』
 せん無い事を考えながらも、その姿に目を奪われる。
 気を抜けば、すぐにでも赤面できそうな、暖色の色濃い空気。そんな中で、意味も無く押し黙ってしまう俺と紅莉栖。しばしの沈黙に晒されていると、何となく妙な気分が湧き上がりそうになる。
『……ぬう』
 何となく落ち着かず、俺は冷静さを振り絞って口を開く。
「では……もらおうか」
「もらう!? 何を!?」
「いや、何をってお前。紅茶以外に、無いと思うのだが……」
「あ……そ、そうだよな……」
 いったい何をもらわれるつもりだったのか──?
 などという結論の見えない疑問に、俺が頭を揺らしていると、紅莉栖は笑顔を固めたままで、「あはは」と少し乾いた笑いを立てた。
 そんな彼女の様子に、そっと視線を添えながら、俺はテーブルからティーカップを持ち上げる。
 ゆっくりと口元に近づけると、鼻腔に香る落ち着きのある匂い。どうやら、ラボの中にフンワリと香っているものの正体は、これだったようである。
「良い匂いだな」
 素直な感想を口にする。
「うん。その、ティーバックしかなかったから味は普通だと思うけど……」
「それで十分だ」
 俺は口早にそう言うと、カップの端に口をつけて軽くすすり込む。
「……どう?」
「ん。まあ、美味い……な」
 少し冷め気味で、舌の上に結構な苦味を感じはしたが、しかしなぜだか美味しく感じた。だから、紅莉栖の問いかけに返した言葉は、本心である。
 そんな俺の言葉に、紅莉栖は「よかった」と安心したかのように顔を緩ませ、そして一瞬言葉を止めたあと少しためらいがちに続ける。
「それで……岡部。さっきの電話の……話なんだけど……」
 言われて思いだす。何とも言えないこの雰囲気に煽られて、すっかり件の話題を切り出す事を忘れていた。
「ああ、そう言えばそうだったな。ええと、何と言うかだな──」
 秋葉原の街中で、俺の中に前触れなく湧き上がった違和感。
 一度はそれを紅莉栖に相談しようと考えた。だがしかし、もしもそんな行動が紅莉栖や他のラボメン達の日常に影を落とすような事になったら──などという危惧を抱き、結局今は、その考えを保留という事にしている。
 俺の中に芽生えた、薄い陽炎のような疑念。その正体を知りたくないわけではない。そして、そんな物がやたらと意識化から抜け落ちない事が、気にならないわけでもない。
 だがそれでも──
『紅莉栖の笑顔を見ていたいからな』
 思い止まる事が正解なのだと──今、ラボを満たす暖かな空気を感じながら、心底そう思った。
 だから俺は、謝罪のジェスチャーとばかりに頭を下げながら言葉を続ける。
「すまん。あの話は無かった事にしてくれ」
「……は?」
 紅莉栖の声が、ラボの中に小さく響いた。その声色に見た感情が意外で、俺は下げた頭を持ち上げる。
『んな……』
 戸惑う。つい先刻まで、綿毛のように柔らかだった紅莉栖の顔が、どういうわけか、今目の前でガッチガチに固まっているではないか。
「ど……どうした?」
 躊躇いつつも問いかけると、紅莉栖が擦れた声を絞り出す。
「無かった事って……なにが?」
 音階の無い、平たんな口調で紡がれた言葉。そこに見た凍てつくような瞳の色に、思わず一歩、後ずさる。
「だ……だから、電話で話した用件の事なのだが……」
「つまり、その用件ってのを『無かった事』にしてくれと……そう言っている?」
「う、うむ。その通りだが……」
 俺は、もう一歩後退しながら、必死の思いで首を縦に振る。と、紅莉栖がソファに腰掛けたままで、頭を深く垂れ下げた。そして──
「ふふふふふふふふ……」
 二人きりラボに響く、静かな笑い声。それはまるで、地獄の底から這い出す死人のさえずりのようにさえ聞こえるではないか。
『この威圧感は……何事だ?』
 目の前の光景に、そら恐ろしいものを感じながらも様子をうかがっていると、うつむいたままの紅莉栖が低く唸る。
「岡部……詳しく……説明」
 その声色に、自然と俺の唇が引きつる。
『さ……逆らえん』
 もはやそれは、拒否不可能な絶対命令さながら。今にも赤味がかった髪を大きく揺らめかしそうな程の雰囲気に圧倒される。
 俺は当然のごとく後退を追加しながら、おっかなびっくり口を開く。気分的には、手に持ったままのティーカップを取り落とさないようにするだけでも、精一杯だった。
「いや、説明も何も。もともと、さして重要な話という分けでもないと思──」
 俺の言葉の中ほどで、紅莉栖が突然ソファから立ち上がって俺を見据える。俺は、今にも飛びかからんばかりの眼光に射抜かれて、驚きのあまり続けるはずの言葉を飲み下す。
「ふざけんな……」
 野獣のような唸り声が、俺を巻き込んでラボの空気を震え上がらせる。
「まさか岡部、本当に土壇場で怖気づいたのか? あんた、そこまでヘタレなの?」
 吐き出すように流れ出る悪態。音量はさほどでもないというのに、そこに感じる音圧は果てしない。
 俺はヒザとティーカップを軽く笑わせながらも、気力を振り絞って言葉を返す。
「待て。何をどう解釈しているのか知らないが、俺はお前のためを思ってだな……」
 そんな俺の物言いに、紅莉栖の双眸が火を噴いた。
「どうしてそれが、良かれなんだ!」
 紅莉栖の怒声が、俺の鼓膜を突き抜ける。
「私のためとか考えるなら、言えばいいだろ!? ここまできて怖気づくとか理解できない!」
 耳をつんざく大声に、俺は顔をしかめながらも、必死に抗う。
「お、落ち着け! これは怖気づくとかそう言う問題ではなかろう? 俺はただ、世界線がらみの話は、そう気安くするものではないという事をだな……」
「は!? なにそれ、意味分からないんですけど! 世界線とか持ち出したら、何でも有耶無耶になるとか思ってるのか、このバカ岡部!」
 紅莉栖は俺に近寄ると、その手を俺の胸倉にかける。三度に渡る後退は、何の意味も成さなかった。
 俺は、か細い腕からは想像も出来ない程の力に、思わず目を見開く。
「持ち出すも何も、話の中心が世界線なのだから仕方なかろう! というか、頼むから落ち着いてくれ!? どうしても聞きたいというのなら話す! だから暴力だけはヤメてぇ!」
「もう遅い! 今さら何言われたって、こんな雰囲気じゃ台無しよ! どうしてくれるんだ! 初めての、NO『ぼっち』クリスマスだったのに! 嬉しかったのに!」
 紅莉栖の小さな拳に、力がこもる。
「早まるな! というか、世界線とクリスマスがどう絡む!? サンタをソリごとカーブラックホールに突入させる気か!?」
「まだ世界線を盾にする気!?」
「盾ではなくて、本題だろうが!」
「じゃあなに!? 世界線の話を私としたかったとか言うつもり!?」
 紅莉栖の小さな拳が降り上がる。
「だから! 初めからそう言っているだろうが!!!」
 死ぬか生きるか。デッドorアライブの勢いで、俺は目を硬くつむり、喉が裂けんばかりに絶叫する。
 と──
「……まじ……で?」
 閉じたまぶたの向こうから、かすれる声が聞こえる。
「まじだ……」
 囁きながら、ゆっくりと目を開ける。そこにいたのは先刻の怒りに震える紅莉栖ではなく──
「……うそぉ」
 顔面の色を、赤白青と目まぐるしく変化させ続ける、一人の天才少女の姿であった。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ05
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/08 22:12
    5

 パソコン前に置かれたオフィスチェアー。普段はダルの指定席と化しているその場所は、今現在、紅莉栖によって占拠されていた。両手両足を折りたたみ、身体を丸めてイスの上に鎮座する。そんな哀れみアピール全開の姿を前に俺が困り顔で冷え切った紅茶をすすっていると、紅莉栖がふくれっ面のままで小さくこぼす。
「岡部にだまされた……」
 いわれの無い批難。それを聞き、俺は死守に成功したティーカップから口を離して、眉間にしわを寄せる。
「どうしてそうなる。別にだましたわけではないだろう」
「じゃあ、もてあそばれた……」
 間を置かずに放り込まれた事実無根の言いがかり。自然と口元も引きつろうと言う物。
「また人聞きの悪い事を……。確かに俺の言い方も悪かったかもしれん。だが誤解の原因というなら、そちらにだって落ち度はあるだろう?」
 たしなめるような口調で「だからお互い様だ」と指摘する。と、紅莉栖は丸まったままの身体を左右に揺らしながら、頬を膨らませた。
「うっさい。それくらい分かってる」
 吐き捨てるように呟いて、体の揺れだけでイスを回し始める。そんな様子を『器用なものだ』と眺めながらも、しかし放っておくと、どんどん増量されていく頬のふくれに、どうしたものかと思案に暮れる。
『このままいくと、顔をパンパンにして、物凄い勢いで回転し始めかねんな』
 何となく、そんな光景を見てみたくもあったのだが──しかしそれでは何の解決にもならない。
『仕方ない……』
 取りあえずこのよく分からない現状を打開できればと思い、張った頬と虚ろな目で回っている紅莉栖に提案をする。
「どうしたら満足なのだ? 言ってみろ」
 実際のところ、俺は未だに勘違いした紅莉栖が何をどう期待していたのか、その答えを彼女の口から聞いていない。とはいえ──
『まあ、今まで気付かなかった俺も俺か……』
 電話でのやり取りやラボに戻っての空気。そして見送ったダルやまゆりの態度などを改めて思い起こせば、それはもう、それなりの想像をつける事は容易であった。だから──
「今さらかもしれんが、取りあえず希望に添えるように善処はする。だから話してみろ」
 とりなすつもりで、そんな提案をする。しかし、そんな俺の言葉に、紅莉栖の乗ったイスが回転の速度を上げる。
「別にいい。岡部に何かして欲しいとか、もう思ってないから」
 赤味がかった髪を遠心力でふわりとなびかせながら、つまらなさそうに口を動かす紅莉栖。
『また、妙なところで意地を張る……』
 俺は胸の内でため息を吐き出しつつも、ここはあえて下手に出る。
「そう言うな。俺の言い方が悪かった事は認めているだろう。だから助手よ。貴様も意地を張らずに素直に話せばよかろう?」
 だから、期待していた事を教えろと、そ知らぬ顔で口にする。
 何度も言うが、紅莉栖が俺の持ちかける話に何を期待していたのか、おおよその察しは付いている。だから、くるくる回る紅莉栖の回転を止めるためにはどうすればいいのか、何となく理解もしている。だがしかし──
『いくらなんでも、この状況で俺から切り出すのも……抵抗が……』
 見得。自己保身。とどのつまりはそれが邪魔をして、なかなかどうして自分から切り出す事をためらってしまっていた。だから、せめて切り出す切欠が欲しいなどと思って、炊きつけるような言葉を紅莉栖にかけているのだが──
「来週はクリスマスなのだろう? このまま聖夜を向かえる事になってもいいのか、助手よぉ?」
 そんな俺の言葉に、回転紅莉栖がピクリと反応を表す。
「う。だ……だから何? 別にプレゼント交換とか一人で出来るし。あんたには関係ないし」
 紅莉栖が回転速度を上げながら言葉を続ける。
「それよりも、あんた世界線のことで、何か私に話があったんでしょ? それでも話せば? 聞き流してあげるから」
 紅莉栖の言葉尻に思わず突っ込みをいれたくなるも、そこは自重。
『世界線の話……』
 思わず、その提案にどうしたものかと考える。
『このまま「話せ」「話さない」を繰り返すよりも、ここは一つクッション入れ、気分が変わった頃合を見て、もう一度炊きつけるのも手か……』
 我ながら、随分と安直な算段だと思う。だがしかし、意固地に見える紅莉栖を相手に、このままの流れで状況を変えるのも、やや困難な事に思われた。
『ならば一度、雰囲気を変えてみるのもいいかもしれないな』
 と、そんな事を考える。
『しかし世界線の話か。はたして……』
 少しだけ戸惑う。出来る事ならば、この話題を持ち出す事は、当初の予定通り避けたかった。だがしかし、この現状を打破したいという思いは強く、そしてまた、紅莉栖の期待に沿うことで、その後に訪れる『二人の時間』などと言う甘そうな物に、俺自身も少なからず期待してしまっていたりする。だから──
『まあ、どのみち俺の考えすぎだろうしな。だったら、それで紅莉栖に妙な不安を植えつける事もあるまい』
 どちらかと言えば、希望的観測ともとれる思考を持って、ラボへの道すがらで決めたはずの『紅莉栖に相談する事は保留』という結論をひっくり返す。
 とにかく今は、紅莉栖の気を現状の話題から逸らす事が優先事項だと思われた。
『とは言っても、あの話題にどこまで効果を期待できるか……』
 当初、俺が紅莉栖に持ちかけようとしていた相談事。それは無論、ラジカン前でふと頭を過ぎった、例の小さな違和感に他ならない。
 全ての始まりとなった、最初の世界線移動。そして、α世界線へとたどり着いた際の、俺自身が置かれていた状況。
 そんな過去に過ぎ去ったはずの出来事を思い起こし、『俺は何をしていた?』などと、横断歩道の中ほどを見つめながら、その世界線における自分の行動に頭を悩ませていた。
『こんな話題に、紅莉栖が食いつくだろうか?』
 正直、分が悪いと思えた。なぜならば、俺の中に湧き出た違和感には、紅莉栖の気をひきつけるために必要な要素が、まるっと欠落しているのだ。
『根拠が、まるでないからな……』
 そうなのである。俺に買出しを放置させてまで、長々と頭を悩ませていた、あの違和感。そこには、それに至るための根拠と言う物が、綺麗サッパリと抜け落ちているのだ。率直なところ、どうしてこんな些細な事が頭から離れなかったのか、俺自身にも分からない程である。だからこそ、この話題が任務遂行に必要なスキルを備えているとは思えないのだ。とは言え──
『この際、贅沢を言っている場合ではない』
 何度も言おう。俺だって、紅莉栖との甘い日常に期待している。それがクリスマスを控えているともなれば、尚更ではないか。
 話した結果、例えそれで小馬鹿にされようとも、例え一笑に付されようとも、それが今現在の「話す」「話さない」のイタチごっこに一石を投じられるならば、俺にとっては本望と言う物なのだ。
 だから俺は、思い切って一歩を踏み出す。紅莉栖の提案に乗り、話題を切り出す。
 少々大げさなアクションを混ぜながら、今日、秋葉原の道すがらで思い至った小さな疑問を、イスと一緒にクルクル回る紅莉栖に向けて紡ぎ上げる。
 最初の世界線移動。それに伴う、俺自身の状況変化。そこに湧き出た、根拠の無い小さな違和感。そんな物を、少しでも紅莉栖の注意を引けるようにと形作っていく。
 そして、全てを話し終える頃には、俺の息は上がっていた。ペース配分を考えず、一気にまくし立てた結果であろう。
 俺は肩で息をしながら、未だに回転覚めやらぬ紅莉栖に向けて問いかける。
「そういう事なのだが、ど……どう思う、助手よ?」
 現状を見る限り、紅莉栖の回転速度は変わっていない。だから当然、そこに見えるふくれっ面にも変化は見られない。
『やはりダメか……?』
 微かに覗く紅莉栖の感情を読み取ろうと、神経を逆立てながら反応を待つ。そして──
「何それ。そんな細かいこと気にする男の人って……」
 という紅莉栖の言葉をもって、俺のもくろみは見事に潰える。
『まあ……普通はそうだわな』
 俺は両手をヒザに付き、頭を垂れ下げる。ある意味想像どおりであった結果を前に、悲嘆にくれる。そして、俺の苦悩が無意味でも、それでも少しでもこの場の空気に変化が現れることに、目を閉じて一途の望みを託す。
 そんな俺の様子を前に、紅莉栖が言葉を続ける。
「と、言いたいとこだけど。その話、もう少し詳しく話して」
 一瞬耳を疑った。
『なん……だと?』
 閉じた目を開き、垂れた頭を持ち上げる。そして目にする紅莉栖の様子。さっきまで縮まっていたはずの手足は伸ばされており、さらには──
『回転が……止まっている?』
 そこに見えたのは、瞳の奥に科学者としての光を灯した、噂に名高い天才少女の顔であった。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ06
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/08 22:13
     6

「ねえ岡部。あんたが感じた違和感て、根拠が無いのよね?」
 オフィスチェアーに腰掛けた紅莉栖が、どこか難しそうな表情を見せながら問いかけてきた。
「まあ……そうだが」
 俺は曖昧に返事を返しつつ、何となく腑に落ちないものを感じながら紅莉栖の様子を窺う。
 つい先刻まで、俺に「だまされた」だの「もてあそばれた」だのと言って、へそを曲げて回転していたはずの紅莉栖。だがしかし、今俺の目の前に、そんな少女の面影は見当たらなかった。
 イスに深く腰を据え、組んだ足の上に肘をつき、口元に軽く手を添える。手足の配置を少し違えば、見事なまでにロダン像の模写。そんな紅莉栖を前にして、俺は想像していたものと大きくかけ離れた展開に少なからず戸惑う。
『何かよく分からんが、物凄く食いついている……』
 紅莉栖に話して聞かせた、街中で俺の感じた違和感。その内容は、本来ならば話すことすらためらうような、小心者全開のよた話のはずである。だというのに──
『これはどうした事だ……』
 想像以上といえば聞こえはいい。実際に、話を聞かせる立場にあった俺としても『少しでいいから食いついてくれ』などと願って止まないでいたのだ。だがしかし、俺の口にした馬鹿げた妄想に、これほどまでの食いつきを見せる天才少女。その反応を目の当たりにすると、その光景には『想像以上』どころか、展開自体に漠然とした矛盾すら感じてしまう。
『俺の話のどこに、紅莉栖がこれほど食いつく要素がある?』
 黙り込んだ紅莉栖を視界に捕らえながら、頭の中で疑問を打ち立てる。
 先に問われた紅莉栖の質問。俺の話した違和感に『根拠が無い』ことを確認するような紅莉栖の問いかけ。
 それに対する俺の返事は偽りでなく、真実である。つまりそれは、俺の中に揺らめいていた例の違和感に、明確な出発点がないという事に他ならない。そして、大切な根拠の代わりにある物といえば、漠然とした不信感と、それを拭い去れない不整合くらいであった。
『だというのに……なぜだ?』
 本来であれば、そんな足場の整っていない話題に、理屈大好き天才少女が食いつく事など、考えられない状況。だがしかし、目の前の光景は、そんな俺の常識を覆す。
『理解できん……』
 胸の内で、呟きをもらす。そんな俺の耳に、紅莉栖の独り言が飛び込んでくる。
「根拠が無い……か。だとしたら、私の仮説はやっぱり正しいのかも……」
 微かに気になる単語を見つけて、思わず口を挟む。
「仮説? 何の話だ?」
 紅莉栖が口元から指先を離し、偽「考える人」体勢を解除して俺に目を向ける。
「前に話したでしょ? あんたのリーディングシュタイナーに仮説があるって」
 突然降って沸いた突拍子も無い発言に、俺は目を白黒させてしまう。
「リーディングシュタイナーに仮説だと? いや助手よ、何を迷いごとを……」
「迷いごとじゃないわよ。あんただって、『面白いな』とか『待ってる』とか言ってたじゃない。まさか忘れたのか、岡部?」
 そんな紅莉栖の発言に、ふと思い至る。そう確かあれは──
『コーヒーの砂糖がどうので、そんな事を聞いた事があるよな……』
 曖昧な記憶を手繰り寄せてみれば、確かに以前、俺は紅莉栖の口からそんな言葉を聞かされた事があった。だがしかし、その時は紅莉栖の言葉を鵜呑みに出来ず、『また、無茶な事を』などと思ったものである。
 当然であろう。世界線を移動しても、記憶を維持し続ける能力『リーディングシュタイナー』。この世界で、俺をただ一人の『観測者』たらしめたのは、紛れも無くこの力のおかげ。そして、神の気まぐれにも等しい世界線の意思に飲み込まれた二人の少女を、この俺が助け出すことが出来たのもまた、この力のおかげなのである。
 つまり、俺にとって『リーディングシュタイナー』とは、人知を超えた世界線を相手に戦う事の出来る、唯一の武器。
『そんなものに仮説だと? いくら紅莉栖でも、それは……』
「信じろって言ったら、あんた頷いてただろ?」
 まるで俺の心境を読み取ったかのようなタイミングで、紅莉栖が俺の思考を途切れさせる。
「そ……そうだったか?」
「そうだった。岡部、物忘れ激しすぎ。ボケた?」
「ボケるか! というか、この俺に宿りし呪われた力『リーディングシュタイナー』に、よもや仮説が存在するなどと言う貴様の方が、頭どうかしているのではないか?」
 あえて声を張り、紅莉栖の事をこれでもかと見下ろしてみる。
「は? 誰の頭がどうかしてるって? あんたにだけは言われたくないわ」
 見下ろしているのは俺のはずなのに、紅莉栖の言葉は凄く上から目線だった。
「うぐ……」
 俺は唸って、口をつぐむ。そんな俺の様子に、紅莉栖は「ふふん」と勝ち誇ったように鼻を鳴らし、得意げに言う。
「ま、いいわ。あんたの話で、あやふやだった私の仮説に土台が出来た分けだし、その事に関しては感謝しなくちゃね。で、どうする岡部? 聞きたい?」
「ぬぐぅ!」
 何だろう。物凄い勢いで、見下されている気がする。
「岡部がどうしてもと言うなら、教えてあげなくもないけどぉ?」
 まるで、戸惑ってばかりの俺をもてあそぶような紅莉栖の言葉。ならば受け言葉に買い言葉と、俺も全力で胸を張り、両腕を展開して白衣をはためかせる。
「く……くふふふふ。この神にも等しき能力に対して、HENTAI科学者風情が講釈を垂れるか? おもしろい。ぜひお聞かせ願おうではないか!」
「HENTAIは余計だろ!」
 紅莉栖は馴染みのツッコミを入れると、一頻りつけるように軽く咳払いをして足を組み変える。すらりと伸びた足の動きが艶かしく、思わず釘付けになりそうな視線に活を入れて、紅莉栖の言葉を待つ。
 そして程なく、紅莉栖がゆっくりと口を開いた。
「岡部。まず最初に理解しなければならないのは、あんたは観測者として完全ではないという事よ」
 やはり上から降ってくる紅莉栖の言葉に、俺はオウム返しに聞き返す。
「俺が観測者として、完全ではないだと?」
「そ。リーディングシュタイナーだか何だか知らないけど、それは『全てを記録する』みたいな、神がかった力なんかじゃない。あくまでも人間としての能力の範疇にある。そのはずよ」
 なんとも不躾な紅莉栖の物言いに、俺はつい声を荒げる。
「馬鹿馬鹿しいな! 現に全てを覚えている俺を前にして、さっそく理論を破綻させるか? 愚かしいな。だから貴様はいつまでたっても助手なのだ!」
「助手じゃない! それ以前に、助手だった経緯もないわ!」
 俺の真っ当な指摘に、紅莉栖は一度声を荒げると、平静さを取り戻したかのように言葉を続ける。
「いい、岡部。勘違いしてるみたいだけど、あんたは全てを覚えているわけじゃない」
「くどい! 俺が全ての世界線での経験を忘れられない事を、よもや今さら理解していないなどと──」
「じゃあさ、あんたが気にしてる、『世界線が移動するまで、自分が何してたのか』ってやつ。説明してみなさい」
 出し抜けに問いただされ、言葉につまる。紅莉栖が俺に向けた要望。俺はそれに対する答えを持ち合わせていなかった。
「ラジカンに背を向けて、横断歩道の真ん中でケータイ持って、あんたそれまで何してたの?」
「そ……それは……」
「どう? 説明出来ないはずよ?」
 まるで勝ち誇ったかのような、論破厨少女。その恍惚とした表情に、何だかちょっとだけ腹が立つ。言われっぱなしと言う状況に、どこか釈然としない思いで口を開く。
「そ、それはだな。きっと、同行しているはずのまゆりが姿を消していたから、連絡を取ろうと──」
 何とか一矢報いようと、無理やりに吐き出した俺の言葉。しかし紅莉栖は静かに首を振る。
「仮定ね。それは『そう仮定することも出来る』というだけ。でも、それが事実だとは限らない。だからこそ、あんたは今日、ラジカンの前でずっと悩んでいた。そうでしょ?」
 その紅莉栖の発言に、当然の事ながら反論する事は不可能だった。
「どうして答えられないのか。岡部、分かるわよね?」
 今度はまるで、俺を諭すかのような声で紅莉栖が言う。
「何が……言いたい?」
 俺は、顔をしかめて問い返す。
「だからね岡部。あんただって、ちゃんと忘れてるのよ。あんたは世界線を移動するたびに、新しい世界線での過去を忘れてる。そして逆に、覚えているはずの無い、前の世界線での過去を覚えている。そうでしょ?」
 俺は、唸り声と共に頷くしかなかった。
「世界の中で、あんただけに異常があるとは言い切れない。あんただって、わたし達と同じように、ちゃんと忘れてる。ただ、忘れる部分が少し違うだけ。だから、私もあんたも、大した違いなんてないのよ」
 紅莉栖は言う。
 俺の話して聞かせた、秋葉原の街中で沸きあがった違和感。それこそ、俺の中で消えてしまった過去の記憶に根ざしているのだと。自らの持ち得ないはずの記憶。それが不意に現実と重なる瞬間、この世界の誰しもが違和感を感じる。そして、ただ一人、その枠の中に入れないで居た俺ですらも、実際はその範疇に属しているのだと。
「実際にね。私だって、突然妙な違和感というかデジャブ……見たいなのに襲われる事はある。特に、あの夏以降、凄く多いのよ。それは私だけじゃない。まゆりも橋田も、同じような事を前に言ってた」
「そ……そうなのか?」
「そ。まあ、そんなのが全部、他の世界線での経験に関係してるとまでは言わないけど、でも確かにそれを感じる瞬間はある。例えば最近だと……」
 紅莉栖は一瞬考え込むと、何かを思い出したように、手をポンッと打ちつける。
「ああ、そうそう。この間、まゆりと一緒にラボのシャワー使ったんだけど、何だか二人して『岡部に見られてる!』とか思って、意味もなく騒いだ事があったわね。今にして思えば、あれも……」
 それまで軽快に動いていた紅莉栖の口が、唐突に動きを止める。それに合わせて俺の目が泳ぐ。そしてラボの中に広がる、果てしない沈黙。
「岡部。ちょっと聞きたい事がある」
「気のせいだ。それはだたの既視感だ」
 即答する。
「待て、どこに行く岡部。そこに座れ」
「だが断る」
 もう一度、即答する。
「いいから、す・わ・れ」
 その手に握られた分厚い本を目にして、俺の額から冷たい汗が噴出す。
「は……はやまるな、助手よ。何事にも不可抗力と言う物は存在する……」
「やっぱ、見たのか」
 紅莉栖の手が、高々と持ち上がった。
「…………はい」
 俺はその場に正座で座り込んで目をつぶる。そして、程なく訪れるであろう衝撃に備えて歯を食いしばる。が──
「?」
 いつまでたっても、衝撃は訪れず。俺はそっと目を開ける。と、そこに見たのは、顔を真っ赤に染め上げながらも、しかし振り上げた手をいつの間にか胸元で震えさせている紅莉栖の姿。俺は恐る恐る、問いかける。
「て、鉄槌ではないのか?」
「その判断は……後でまゆりにゆだねる。私は……別にいいし……」
「どういう風の吹き回しだ?」
 怪訝な瞳で紅莉栖を見ると、なぜだかそっぽを向いてしまった。俺に背を向けた紅莉栖は、ぼそぼそと声を立てる。
「何だっていいでしょ。それよりも……今は話の続きが優先。まだ、全部話してないから」
 手にした本をプルプルさせながら、何かと葛藤するような紅莉栖の背中に問いかける。
「まだあるのか?」
「あるわよ……。岡部がどうして、他の人と違う忘れ方をするのかとか、その切欠が何だったのかとか……」
「そ……そうか」
 何となく、その内容が気にかかるも、取りあえず追及する言葉は飲み込んで、差しさわりのない生返事を返す。すると、紅莉栖は背中を向けたままで、チラリと俺に視線を送る。
「それに……。出来れば仮説だけじゃなくて、立証もしたいし……」
 またもや飛び出した、紅莉栖発のとんでも宣言に、懲りずに戸惑う。
「いや、いくらなんでもそこまでは……」
「出来る。そのために必要な手段なら……もう持ってるから」
 紅莉栖の言葉に、不思議な確信を感じる。俺の直感を信じるならば、紅莉栖は本当に俺の能力を立証する手段を、思いついているという事になるのだが──
「脳を解剖して分析とかなら、全力でお断りさせていただきたいのだが……」
 何となく、そら恐ろしいものを感じ、事前に保身案を放り込んでおく。
「そんな分けあるか」
 紅莉栖が短く、俺の身の安全を保障した。
「で……岡部。話しを続けても……いい?」
 そんな助手の申し出に、俺は正座を崩して軽く頷く。
「ああ、いいだろう」
「じゃあ、ここからは変な茶々とか、入れるなよ?」
「分かった分かった。ちゃんと聞く。だが……その前に、一言だけ言っておきたい事がある」
 俺は一瞬ためらうも、しかしやはり想いは伝えなければと考え、腹をくくる。
 ひょっとしたら殺されるかもしれない。そんな想像を胸に秘めながら、思い切ってあの光景を思い出し、その感想を口にする。
「……なに?」
 意を決し、俺はゆっくりと紅莉栖に伝えた。
「その、何だ。それなりに、一応……魅力的だったぞ」

 その結果、頭上目掛けて振り下ろされる紅莉栖の握った本の動きを、俺が自分の視界に焼き付ける事になったという事は、きっと言うまでもない事であるのだろう。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ07
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/09 20:48
     7

「でもさ、本当にそんな事ができるんかね? いくら牧瀬氏の話しつってもさ、ちょっと眉唾つーか。その辺、オカリンはどう思ってんの?」
 弱々しい冬の陽射しが差し込むラボの中で、自前のはんだごて片手に、ダルは作業の手を休める事なく俺に問いかける。
「俺に聞くな、俺に……」
 俺は顔面に仏頂面を貼り付けてソファにふんぞり返ったまま、気もそぞろに返事を返す。
「ま、僕としてはそんな夢みたいな道具が実現可能とかだと、色々な展開を想像して胸熱なわけだが」
「そいつは良かったな、変態ハカーよ」
「ハカーじゃなくてハッカー! それと紳士をつけるべきだろJK」
 微かに不満の色を乗せたダルの指摘に、『変態部分はスルーか』と、その流石の変態ぶりに舌を巻く。
「つーかさオカリン。マジでこれが出来たら、何か凄い事になるんじゃね? 特許とか取れたら、もうそれだけで一生左うちわ確定と思われ」
 にわかに息巻くダルの背中を視界の端にとらえつつ、俺は至って冷静に水を差す。
「かもな。だが忘れるな。発案、設計ともに全て助手一人の功績だ。俺達がやっている事といえば、買出しと組み立て程度のもの。この状況で俺たちが特許の恩恵にあずかれると思うか?」
「でもさ、オカリン……」
「それにだ。大前提として、あの助手が功名心や利益に流されて、浅ましくも特許取得などという世俗的な行動にでるなどと、俺には到底考えられん」
 むしろ『科学技術の進歩のため』などという奇麗事をぶら下げて、無償で技術開示に踏み切るくらいの事は、やってのけそうではないか。
 さもあらんという思いで俺がそんな言葉を口にすると、ダルが作業の手を止めてゆっくりと振り返った。
「う……。オカリン。そうなる前に、牧瀬氏の説得を頼むお」
 まるで懇願するようなダルの視線。
「俺に言うな、俺に……」
 俺が投げやりな返事を返すと、ダルは見るからに肩を落として、再び作業場へと向き直った。そんなダルの後姿を尻目に、俺はソファに背中を預けたままで顔を上方へと傾ける。
 視界に映るは見慣れた天井。もう、ずっと昔に見飽きてしまった、くすんだ色のいつもの景色。そんな物をぼんやりと眺めながら──
『何だか……妙な事になったな』
 これまでの経緯を思い出し、これからの展開に想像を馳せる。すると頭の奥に垂れ込める、何とも複雑な心境。
『あれからもう二日か……』
 俺は上空へ向けて、細く息を吐き出した。
 紅莉栖に『リーディングシュタイナーに対する仮説』などと言う物を聞かされてから、既に二日が過ぎている。
 電話でのやり取りが発端となり、数々の誤解を経て、最終的には紅莉栖に話して聞かせる事になった、例の違和感。そして、その内容を知った紅莉栖の反応。
『まさか、こんな状況になろうとは……』
 俺が紅莉栖に話して聞かせた与太話。それは、本来なら一笑に付されて終わるような内容のはずであった。だがしかし、その時の紅莉栖が見せた反応は、俺にとってとても意外なものであり、更には紅莉栖が続けて口にした今後の活動方針も、俺が耳を疑うのに十分な代物だった。
『よもや仮説を立証したいなどと……』
 二日前、この場所で紅莉栖の口から聞かされた意思。その科学者として真っ当すぎる気位を思い起こすと、自然とため息が漏れ出す。
「また大それた事を考える奴め……」
 吐き捨てるように小さく呟くと、頭の中にあの時聞かされた紅莉栖の言葉が湧き上がった。

──そもそも、消えたとか忘れたとか、そういう事じゃないの。ただ、思い出せないだけ──

 それは、リーディングシュタイナーを備えた俺を『観測者として不完全』であると断言した後の紅莉栖の台詞であった。
 紅莉栖は言った。
 リーディングシュタイナーを持っている俺と、持っていない自分たち。その両者は、一見すると真逆の立場にいるように見える。だがしかし──
「私たちと岡部の間に、それほど大きな違いがあるという分けではないと思う」
 そう言った紅莉栖の声は、その曖昧な言い回しとは裏腹に、どこか確信に満ちた響きを持っていた。
「状況を見る限り、世界線を移動した瞬間に岡部を除いた全員の頭から、それまでの世界線での経験が消失しているように見える。だけどそれって、本当に正しい認識なのかな?」
 問いかけられるも、しかし何と答えを返していいのか分からずに口をつぐむ俺に、紅莉栖は言葉を続ける。
「私の考えでは、私たちの頭にも、きっと他の世界線の記憶は残っているはずよ。だってそうでしょ? 現に私はこうして、他の世界線での記憶を取り戻してる分けで。それに、私やまゆりや橋田が、たまに感じるデジャブみたいな奇妙な感覚。あれはきっと、今の私たちが持っている主観が、他の世界線での記憶に引きずられた時に起きる現象なんじゃないかと思ってる」
 淡々と告げられる紅莉栖の言葉を、俺は否定する事が出来なかった。当然だろう。なぜなら、俺自身もまた、紅莉栖が口にした考えと同じ事を、心の隅にずっと感じていたからだ。
 世界線を飛び越えた瞬間、失われてしまうはずの記憶。だがしかし、そんな存在しないはずのものを、俺以外の人物が取り戻す瞬間というのを、俺はこれまで何度も目の当たりにしている。そして、そんな現象に直面するたびに、俺はその状況を『リーディングシュタイナーは、誰もが多少は持ちえている力』として解釈してきた。だからこそ──
「私たちの頭の中には、岡部と同じように、他の世界線での記憶がちゃんと残っている。そう考えた方が自然なのよ」
 そう言った紅莉栖の言葉に、俺は同意の意味を込めて、深く頷いて見せたのだ。
 そんな俺の反応を見て、勢いを増していく紅莉栖。
「でね。そうなると今度は、世界線の移動と一緒に『岡部の主観から抜け落ちる記憶』の方が、特異な状況として際立ってくる」
 紅莉栖の言う、俺が失う記憶。それは、先に紅莉栖が指摘した、『新しい世界線での、自分の過去』の事を指し示していた。その言葉が示すとおり、実際俺の中には、たどり着いた世界線における過去を把握していない。そして、そんな曖昧な記憶を持つからこそ、世界線を移動するたびに、俺は周囲との食い違いを感じてきたわけだ。
 だからこそ、自分が『観測者として不完全』であるという紅莉栖の指摘に、納得せざる終えなかった。
 凛と目を輝かせる紅莉栖の言葉は止まらない。
「現状を見る限り、私たちの頭には『他の世界線での記憶が残っている』という推測が成り立つ。だけど、岡部。あんたが失ってきた記憶に関しては、正直今までどうなのか判断が付かなかった。私たちと同じように、岡部の頭の中にも、どこかにそう言った記憶が残っているのか……それとも、本当に消えてしまっているのか」
 何となく、困惑を滲ませながら、俺は紅莉栖の言葉に耳を傾ける。
「でもね。さっき岡部から聞かされた話。ラジカンの前で違和感がどうのこうのってやつ。あれを聞いて、踏ん切りがついた。きっとその感覚は、岡部の主観が本来持ち得ない記憶に引きずられたために生まれた感情なんだと思う。つまり、あんたが感じた違和感って言うのは、私やまゆりや橋田が感じてるのと、同じ現象なのよ。だから──」

 ──岡部の頭の中にも、存在しないはずの記憶はある──

「そのはずよ」
 そう言った紅莉栖の瞳は、真っ直ぐと俺へと注がれていた。
「どう、岡部? ここまでくると、リーディングシュタイナーとか言う力の正体が、うっすらと見えてこない?」
 まるで講師のような振る舞いで、俺に同意を促す紅莉栖。が、残念な事に、未だ俺には何も見えず──
「しょうがないわね。つまり、こう言う事よ」
 曖昧な反応を返す俺の態度に、紅莉栖の吐き出したため息交じりの言葉。俺はなぜだか、ちょっとだけ傷ついた。
「今までの説明から分かる状況。それはね、私たちの頭にも岡部の頭にも、同じ条件で記憶が蓄積されているって事。なのに、なぜか岡部の主観だけが、私たちと違う。材料は一緒のはずなのに、岡部だけは違う物が出来上がってしまう。そして、その違いを生み出しているものこそが、リーデングシュタイナーの正体だと考えていい」
 紅莉栖は一度そこで言葉を切ると、これまでよりも更に自信を込めて口を開く。
「私たちと岡部の違い。それを突き詰めて考えると、そこにある差は単に『思い出せるもの』と『思い出せないもの』の違いだけ。だけどそんな違いは、言ってしまえば脳科学の範疇。だからね、岡部。リーディングシュタイナーの正体は、きっと『神秘的な何か』とか『選ばれし何とか』とか言う、あんたの好きな厨二病的な能力なんかじゃない。それはもっと、単純で科学的な違いのはずなのよ」
 その時の俺には、紅莉栖の言葉が俺の中にある大切なものを粉砕したように感じられた。なぜだかとても悲しくなった事を、今でもはっきりと覚えている。だがしかし、紅莉栖の言葉は留まるところを知らず──
「脳内に蓄積された全ての記憶の中から、条件にあった情報だけを選んで記憶として呼び覚ます。それを突き詰めれば、私たちの脳も岡部の脳もやっている事はほとんど同じなのよ。だけど岡部だけは、思いだせる記憶の選別基準が私たちとは異なる。これって言ってしまえば、ある種の記憶障害みたいなものと言える」
 あまりと言えばあまりの解釈。その内容を耳にして、『いっそ泣き出してやろうか』とさえ思った事は、まだ記憶に新しい。だというのに、紅莉栖に攻撃の手を緩めようとする気配はまったく見られなかった。それどころか──
「ねえ岡部。あんた昔、頭を強く打ち付けたとか、落雷にあったとか、改造されたとか、そんな経験ない?」
 とんでもない事を口走った。真顔であった。
 俺は湧き上がる何かをグッとこらえながら、十年ほど前に酷い高熱で倒れた経験がある事。そしてその時の症状が、リーディングシュタイナーの発現状態に酷似していた事を、唇を震わせながら伝えた。当然だが、肩と拳も震えていた。
 俺が幼少時代に経験した、小さなエピソード。そんな物を耳にして、紅莉栖は難しい顔をして考え込む。
「そう……。それは、ありえる話かも。通常、人間の体温が42度を越えると、脳細胞は死滅する。もしもその時の岡部が、それくらいの高熱を出していたとしたら、脳に何らかの障害……変化があったのかも」
 恐らく独り言だったのだろうが、俺は無論見逃さない。独り言の中で、紅莉栖が慌てて言いなおした単語。それを的確に拾い上げ、全身全霊を持って批難の言葉を口に乗せた。だがしかし、思考に没入し始めた紅莉栖に俺の言葉は届かないようで──
「一般的に、記憶が蓄積するのは大脳、小脳、海馬あたりか。普通は時期系統で場所が変化するんだけど、ひょっとしたら岡部の場合、記憶の格納場所が違うのかも。いや、それよりも、脳内の損傷か何かが原因で、本来記憶の格納に使われていない部分が代役としての機能を果たしていて、その結果、記憶のロードが──」
 もう、紅莉栖が何を口走っているのか、俺には皆目見当が付かなかった。ただ、最後に口にした「出来れば直接確認してみたいわね」という言葉の意味だけは、イヤと言うほどに理解できた。
 拒絶した。ちょっと必死だった。なぜなら、目がマッドだったからだ。
「なに勘違いしてるのよ。誰もあんたの頭を解剖するなんて、言ってないでしょ?」
 嘘だと思った。詐欺師はみんな、そう言うのだ。
「だから、解剖する必要なんてないってば。そんな事しなくても、私の仮説の根底にある理屈は立証可能だし」
 そんな紅莉栖の言葉の真意を、俺はおっかなびっくり問いかける。
「この仮説は、あんたの頭に『この世界線での過去の記憶』が存在しているという事が前提なの。つまり、岡部の脳内にも主観に含まれない記憶が存在しているかどうか。それがこの仮説の根本とも言える。まあ一応、あんたの話からその可能性は高いと思ってるけど、でも確実とまではな言えない。ひょっとしたら、あんたの感じた違和感の正体が、まったくの見当違いだって事もありうる。でも、それさえ明確に出来れば、私の仮説の根幹部分は立証される。だからね、岡部──」

 ──もう一回作ってみようと思うんだ──

「で、あんたの記憶を外部に保存して、そのデータを分析すればいいと思うの。ね、いい考えでしょ?」
 果たして、その考えがいい考えなのかどうか、俺に判断など出来るわけがない。
「一応ね。解析に必要なソフトウェアは、私が居た研究チームが、私の論文読んで勝手に作ってたみたいなの。で、今それにちょっと手を加えてるところなんだけど……あと三日もあれば、何とか形には出来ると思う。いいタイミングよね。どう? 面白そうだとは思わない?」
 紅莉栖の発言には、誰にとって面白いのかという説明が欠落していた。渦巻きはじめる不安。だがしかし、有無を言わさぬ紅莉栖の瞳を前に、俺はその申し出を拒否するだけの精神力を持ち合わせてはいなかった。
 しぶしぶながらも承諾をする俺を見て、紅莉栖の顔がパッと輝く。
「そうだ。例の機械だけど、名前とかあった方が、あんた嬉しいよね?」
 何だろうと思った。まさか、これで気を使っているつもりなのだろうかと、のた打ち回りたい衝動に駆られた。
「前はレンジと合わせてタイムリープマシンだったけど、今度はタイムリープできないからな。超小型fMRIとかじゃ味気ないし……。よし岡部。好きに決めていいぞ」
 そんな紅莉栖の何とも言えない物言いに対し、俺がせめて一太刀と放り込んだ『HENTAI・ヘッドギア』という嫌味全開のネーミング。それを聞いた瞬間に、紅莉栖の双眸に鋭い光を見た事は──今さらながらに忘れようと思っている。

『本当に……俺はこれからどんな目に会わされると言うのだ……』

 誰でもない、自分の身を案じる。これから一体、何が行なわれるのか。心配するなと言う方が無理な相談であろう。そして同時に──
『リーディングシュタイナーの仮説。あの話は本当に正しいのだろうか……』
 紅莉栖から聞いた解釈の真偽。あの時はもっともらしく思えもしたのだが、しかし今こうして改めて思い返してみると──
『それだけでは説明の付かない事も、あったような気がするのだが……』
 いつの事だったか、もう忘れてしまった過去の経験。その中に、紅莉栖の仮説に波紋を立てそうな出来事が、チラホラと混じっているような、そんな気がしてきた。
『むう……』
 そんな事に頭をもたげていると、これまで作業に没頭していたダルの声が、ラボの中に響く。
「完成~!」
 その宣言をもって、俺はこれでまた紅莉栖の計画が着実に進行したのだという事を認識する。天井から目を離し、大きく伸びをしているダルの背中に目を向けると、やや複雑な面持ちでねぎらいの言葉をかける。
「ご苦労だったな」
「いや~、貫徹はやっぱしんどいお」
 ダルはそう言うと、その巨体を揺らしながら腰を上げ、重い足取りで冷蔵庫へと向かう。
 作業担当者が持ち場を離れた事で、俺の視界に手狭なパソコンデスクの上に広げられた作業場の状況が目に入った。作業場の真ん中。累々と横たわる工具や部品の中に、無造作に置かれた黒いヘッドフォン。その、見覚えのある形状を記憶の中に残る映像と照らし合わせてみると──
『やはり……同じような物が出来上がるか』
 新しく出来上がったばかりのはずのアイテムは、俺にとって見覚えのある外観であった。
『また、お目にかかる事になるとはな……』
 俺はさらに複雑化した心境で、作業台の上に視線を向ける。そんな俺の耳に、ダルのどこか怪訝そうな声が聞こえた。
「つーかさ、オカリン。作ってて思ったんだけどさ。何か変なんよ」
 冷蔵庫から、炭酸飲料のペットボトルをつかみ出したダルに視線を向ける。
「どうした?」
「いやね、どうしたって事もないんだけどさ。何かさ、凄い作業がスムーズに進むんだよね。わけ分かんない機械なのに、な~んか作り方を知ってるような……」
 そんな事を呟きながら、しきりに首を捻るダル。俺はそんな右腕の疑問に答えを告げる。
「よくある事だ」
 そう。今のダルが感じているという疑問。それはきっと、二日前に俺が感じていた違和感と、きっと良く似ているのだろう。だからきっと、誰にでもよくある事なのだろう。二日前に紅莉栖が言った通りに──

 気付けば、ラボの窓から差し込んでいたはずの弱々しい光が、その存在を消し始めていた。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ08
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/09 20:49
     8

「往生際が悪いではないか、クリスティーナよ。ん?」
 出来る限り低く絞った声で、唸り声を立てる。視線の先には、白衣をまとった紅莉栖の姿。俺はラボの中をゆっくりと移動しながら、華奢な身体の天才少女をじわりじわりと部屋の片隅へ追い詰めていく。
「そろそろ、観念すべきではないのか? んん?」
 口にしたのは、すでに何度も繰り返してきた降伏勧告。少しでも箔が付けばと、顔面に不健全な笑みを貼り付け、腕を紅莉栖に突き出して、両手の指をワキワキと戦慄かせる。しかし──
「だが断る」
 貼り付けた箔が、あっさりと引っぺがされてしまった。
 これまで同様、紅莉栖には俺の要求を受け入れる姿勢など微塵も見受けられなかった。そして、まるでその意思を体現するかのように、両腕を華奢な身体に巻きつけ、これまで以上の防御姿勢を築き上げる。
『ぬぅ、どこまでも強情な助手よ……』
 胸の内で吐き捨てるように呟く。と、それまで事態を傍観してきた外野から野次が飛ぶ。
「つーかオカリン。そのいやらしい手の動き、今後のR-18展開に期待せざるを得ないのだが」
 迷い事を口にしながら、鼻息を荒げるダル。
「そこ! 変な想像をすなっ!」
 間髪入れない紅莉栖の怒声。それを受けて、
「ほらダルくん、怒られちゃったよ~。エッチな事ことばかり考えてるからだよ~」
 ダルの横にちょこんと座っていたまゆりが、紅莉栖の叱責を受けてしょぼんと両肩を落とした。
「ああ、まゆりには言ってないから! 今のはHENTAI初号機に言っただけだから!」
 慌てて紡がれる紅莉栖のフォロー。その言葉に「そっか~。良かったよ~」と、まゆりが安堵の表情を覗かせる。
 そんなダルとまゆりを尻目に、「なら俺はHENTAI二号機か?」と憮然とし、「ならばいっその事、HENTAIらしくしてやろうではないか」と開き直る。そして、不適な笑みを貼り付けて、紅莉栖を正面に捕らえる。
「くふふふふ、助手よぉ。貴様に他人の心配をしている余裕などあるのかな?」
 俺の言葉に、紅莉栖が両目をスッと細める。
「何が言いたいのかしら……?」
「貴様はダルの想像を軽視しすぎではないのかと、言っているのだ」
「……意味が分からないわね」
「察しの悪い奴め。つまりだ。この俺様が本気になれば、か弱いセレセブなど、力任せでどうにでもなるという事だ。もう、あ~してこ~して、くふふふぅ」
 いっその事、舌なめずりでもしてやろうか──などと思いながら、まるで悪代官さながらの台詞を撒き散らす。そんな俺の様子に、まゆりが嬉しそうな顔で手をたたく。
「新キャラだよ~。悪漢オカリンだよ~。クリスちゃん、大丈夫かな~?」
「いけー! オカリーーーン!」
「ぐふぁははははは!」
 まゆりの心配とダルの後押しを受け、俺は盛大に両手を掲げ、威嚇の態勢をとる。が──
「ハッタリ乙。もやしっ子岡部にだけは力負けする気がしない」
「ぬぐ!?」
 あまりと言えばあまりの発言に、思わず二の句が告げられなくなる。世に名だたる天才少女の悪言を前にして、張りぼての悪漢岡部は風前の灯火のごとく大きく揺らめく。もっとも、最初から火などついてはいないのだが。
『助手の分際で、なんと生意気な……』
 などと、苛立ちにも似た感情を微かに覚えながらも、しかし正直なところ、俺としても紅莉栖を相手に本気で一戦交えようなどとは、微塵も思っていない。それは本心である。
『だが、かといって説得してどうこうなる相手とは思えん……』
 これまで頑なに、俺の要求を拒み続けてきた紅莉栖。そんな状態で何をどう説得すれば、この現状が好転するのか? まったくもって、その解答は見えない。
『とは言え、ブツは今、二つとも紅莉栖の手の中。このまま返すわけにも……。さて、どうしたものか』
 紅莉栖が白衣の奥に隠し持っている二つの小箱。その存在の奪取に頭を絞る。そんな俺の耳に、紅莉栖の声が響いた。
「岡部と荒事は、水と油。決して交じり合う事はない。これは自然の摂理よ」
 きっぱりと言い切る紅莉栖の言葉に、表に出していないはずの弱気を察知されたように感じつつ、そこに見た鋭い眼光に思わず一歩後ろずさる。それでも何とか喰らい付こうと、
「そ……そう言う貴様も、荒事などまるで向いていないように思えるが?」
 悔しさを滲ませて、そんな抵抗を試みる。
「かもね。だけど、私と岡部の差は歴然。それは力じゃなくて、精神的な優位性。結果、岡部は私に勝てない、絶対に」
「え~とぉ、つまりどういう事なのでしょうか~?」
 紅莉栖の発言をいまいち飲み込めていないのか、まゆりが軽く小首をかしげる。
「つまり、こう言う事よ。いい、まゆり。よく見ていて」
 紅莉栖はまゆりに前置きをすると、そのまま俺に向き直り──
「岡部っ!!!」
「うふぅお!?」
 物凄い勢いで睨まれ、三歩四歩と後ずさる。そして、勢い余って足がもつれ、床にドスンと腰を打ち付ける。ちょっと怖かった。
「分かった、まゆり? これが精神的な優位性というものよ」
 どこか勝ち誇った顔で、紅莉栖はまゆりに向き直る。
「おお~! すごいよクリスちゃん。触らずにオカリンを倒したよ~! まるでエスパーだね~」
 両手を高く上げて、はしゃいだ声を出すまゆり。
「オ……オカリン……なさけなす……」
 どこか落胆にくれた、右腕の声が聞こえる。
 俺は、床の冷たい感触を手のひらで感じながら声を荒げる。
「おのれ、横暴な助手めが! せめて! せめて片方は置いていくのが道理と言う物だろうが!」
 羞恥に顔を染めながらの俺の意見。だが紅莉栖は取り合おうとはしない。
「だから、それじゃ記憶データの比較が出来ないと言っている。何度同じ事を言わせる気?」
 紅莉栖は、白衣の奥から両手を突き出すと、右と左に一つずつ握った小箱を、俺の視線の上で軽く躍らせながら言う。
「岡部の記憶データと私の記憶データ。この二つの構造を照らし合わせる事が、私の仮説を立証するための近道なのよ。照らし合わせて、その違いを検証する。そうして対象を絞り込んでからデータ解析した方が、効率がいいのよ」
 だから、ハードディスクは二つとも私が持っていく。そう宣言する紅莉栖。その言葉の意味が分からないわけでもない。だがしかし──
「ならば、どうして持ち帰ろうとする! ここでやれば済む話ではないか!」
「残念だけど、ここのPCじゃスペックに難がある」
「なら、貴様のPCをここへ持ち込めばよかろう!」
「だが断る。誰が好き好んで、HENTAの巣窟にプライベートPCを持ち込むか。岡部。これもあんたの日頃の行いが悪いからよ。これを期に、そのセクハラ的な所業を悔い改める事ね」
「ぬぐぅ! ならばダルよ! 貴様のマイPCならば相当な高機能だろう! それを今ここへ!」
「だが断る。誰が好き好んでHENTAIの以下略」
「「お前が言うな!」」
 思わず、紅莉栖とハモってしまった。
 そして俺は、下から紅莉栖を睨みつける。それとは対照的に、勝ち誇った顔で俺を見下す紅莉栖の視線。そのあからさまに侮蔑を含んだ表情に、自然と歯軋りも立つと言う物。
『助手の分際で、どこまで横暴な……』
 などと思うものの、それで起死回生の妙案が浮かぶわけでもない。反論を続けられない俺とは対照的に、紅莉栖はサラリと言ってのける。
「とにかく、これは二つとも私が持って帰って検証する。だから岡部、あんたは男らしくあきらめろ」
 その、意思が込められた声色に、思わず顔をゆがめてしまう。
『それが出来たら、苦労していない』
 声にせず、悪態をつく。
 そんな俺の様子に、今度は路線変更でもしようというのか、これまで聞いた事も無いような猫なで声を出して説得にかかってくる。
「ね? いいでしょ? 私は実験に主観を挟まない性分だし、岡部だって、別に見られて恥ずかしいとか、そういうの気にしないよね? なんたって、マッドサイエンティストなんだもんね?」
 随分と暢気な物言いだと、そう思った。
『恥ずかしいとか恥ずかしくないとか、そう言う問題ではないのだ』
 俺の記憶がつまっているらしい、大枚はたいて購入したハードディスク。その中には、恐らくあの世界線やこの世界線やといった、本来ならば俺以外の誰も知りえる事のない情報が詰まっている事は想像に難くない。
 であれば、そんな物を無条件で紅莉栖に渡してフル解析でもされた日には、それこそどんな立場関係の礎になるか知れたものではないではないか。それに何より──
『中には、紅莉栖が知る必要の無い事だってあるはずだ』
 これまで俺がたどってきた歴史。その中には、今の紅莉栖にとって良くない物が、きっと混じっているだろう。
 だからこそ、俺の検閲後ならまだしも、持ち帰って一人で鑑賞などという行為を紅莉栖にさせるつもりには、なれないでいた。
『とは言っても……』
 例えそれを口にしたところで、それで紅莉栖の意思に変化が現れる保証など無い。それ以前に、この場でそんな言葉を吐き出そうものなら、好奇心旺盛なラボメン達によって、『何が見せたくないの?』と『何を知られたくないの?』と、根掘り葉掘りと質問攻撃されてしまいそうな気さえする。それはそれで、やはりどうにも面倒くさいと思った。
『……参ったな』
 答えを出しあぐね、眉間にシワを寄せる俺に、紅莉栖が折衷案とでも言いたげにこんな事を言いだした。
「じゃあ、こうしよ。解析して出てきたデータは、ラボに持ち込んでから見る。当然それは、岡部がいる時に限定する。それならどう?」
 その申し出に、思わず判断に困る。
「そうは言うが、しかし比較するのであれば、その段階で中身を閲覧する事になるのではないか?」
 口車に乗ってなるものかと、紅莉栖の提案に見えた疑問点をつっつく。
「大丈夫。比較の段階で、岡部の記憶データの中身を見る必要は無いはずよ」
「……はず?」
「ああ、はいはい。無い。見る必要はありません。だから、岡部の記憶を見るのは、解析データをラボに持ち込んでから。これでいいでしょ? と言うか、こちらもこれ以上は譲れないから」
 そんな紅莉栖の物言い。妥協案としては、少々分が悪いようにも思えるが、しかしこれ以上イタチごっこを続ける事も、正直しんどい。だから俺は、紅莉栖が口にした案の信頼性に対して言及する。
「……約束できるのだろうな?」
「約束する」
 キッパリと明言された紅莉栖の意思。それを前に、俺はシブシブながらも頷いて返す。
「……しかたない」
 その俺の返答に、紅莉栖はホッと息をつく。
「ご理解いただけて嬉しいですわ、マッドサイエンティストさん」
 妙に芝居かかった言い回しで、にこりと笑う紅莉栖。と──
「ねぇねぇクリスちゃん」
 俺と紅莉栖のひと悶着に段落が付いたのを見計らうように、まゆりが声を立てた。
「まゆしぃには難しい事は分からないのですが、オカリンの記憶を見るって、どういう事なのでしょうか?」
 その視線は、紅莉栖の手に握られたままの小箱の片割れに向けられていた。問いかけられた紅莉栖は、一瞬考え込んだ後に、口を開く。
「そうね。簡単に言えば、この中に入った記憶のデータを解析して、映像として構築しなおすってことなんだけど……」
 その紅莉栖の言葉に、ダルが声を荒げた。
「ちょ!? 記憶を映像とか、それってようするにfMRIじゃね!?」
「へぇ。知ってるの? 橋田って、意外と知識幅あるんだ。意外ね」
「いやそんな事よか、なに? ボクひょっとして、そんなん作ってたん!?」
「ま、正確に言えば、ちょっと仕組みは違うけど……概ねその通りかな。と言うか、現在のfMRIよりもむしろ精度は高いって言うか……」
「マジですか!?」
 一体何がそれほどに凄いのか。俺にとっては以前に見た事のある、記憶抽出ヘッドギアでしかなく、いまいちダルの過剰な反応に、理解を示せない。
「もっとも、解析ソフトは私が居た研究チームが作ったものだから、橋田に作ってもらったのは抽出装置だけだけどね」
 もはや、二人の会話に口を挟む事すら出来なかった。そしてそんな第三者状態は俺だけではなく──
「ねえオカリン。クリスちゃんとダルくんは、何のお話をしているのでしょうか?」
 小声で問いかけられ、俺は答える。
「つまりだ、まゆりよ。牧瀬紅莉栖は未来の猫型ロボットであると、まあ、そういう事だ」
 どこか適当な俺の言葉を受けて、まゆりが顔を輝かせた。
「そっか~! だったらクリスちゃんに、可愛い猫耳としっぽをプレゼントしなきゃだね!」
 両手をポンと合わせて、嬉しそうに微笑むまゆり。俺は助言する。
「それが良かろう。無論、ドラ焼き及び、ブルーの全身タイツを添える事を忘れるな。必須アイテムだからな」
 取り立てて意味などない俺の言葉が、正午を控えたラボの中に静かに木霊した。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ09
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/09 20:50
     9

 日付が変わる頃になると、陽のある時分までは辛うじて保たれていた微かな温もりも、ラボの中からその姿をすっかりと消していた。
 点けっ放しのブラウン管から垂れ流れ続ける映像をぼんやりと眺めながら、俺はソファの上で軽く身体を震わせる。
「かなり冷え込んできたな……」
 自分一人しかいないラボの中で、誰に向けてという分けでもなく、何となくで愚痴をこぼす。画面の中で繰り広げられる出演者どうしのやり取りも、日没と共に勢いを増してきた冷え込みを紛らわせるには至らない。
『と言うか、つまらん』
 俺は、テーブルに放り出してあった自家製の銃型リモコンを引っつかむと、緩慢な動作でどうにも興味の湧かない画面へと向ける。と──
「岡部、いる?」
 玄関扉の蝶番が擦れる音と共に、聞き覚えのある声が小さく響いた。
 俺はザッピングの予定をキャンセルし、上半身だけをねじって声のした方に顔を向ける。身体の動きに合わせるように、テレビ画面に向けられていた銃口が、玄関先に照準を合わせる。
「何だ、助手ではないか……」
 俺は、見知った顔に銃口を向けたまま、その思いがけない登場に眉根を寄せる。そんな俺の様子を見て、いつもの衣装の上からコートを羽織ったいでたちの紅莉栖が、怪訝そうに顔をゆがめて見せた。
「岡部、今度は何に影響された? 言っとくけど、そんなオモチャじゃ私は倒せないぞ」
 玄関先で愛用のブーツを脱ぎながら、なんとも不躾な視線を向けてくる紅莉栖。そんな物言いに、俺は口元を引きつらせながら誤解を訂正する。
「何を勘違いしている。チャンネルを変えようとしていただけだ。そこにたまたま、貴様が現れただけだろうが」
「あっそ。私はまた、マッドサイエンティストからハードボイルド路線にでも乗り換えたのかと思った」
 微かな笑みを浮かべる紅莉栖の言葉に、俺は銃口を降ろして憮然とした表情を作る。
「迷いごとを。たとえ棺桶の中に入れられようとも、俺は全力でマッドサイエンティストっぷりを披露する所存だ。それ以外の肩書きなど、眼中に無いわ」
「あら、それは残念。マッドよりハードの方が骨太な感じでいいのに。ま、ヘタレの岡部には設定でも荷が重いか」
 深夜に突然急襲をかけた上に、人の行動を勝手に誤釈し、あまつさえ嫌味を差し込んで嘲笑する。何と失礼千万な助手であろうか。
「で、どうした? 何か忘れ物でもしたか?」
 俺が軽く目をほころばせながら問いかけると、靴を脱ぎ終えた紅莉栖はラボに一歩を踏み込みながら首を振る。
「そうじゃなくて、例のデータの事で来た。とりあえず始めてみたんだけど、そしたらあんたに確認してもらいたい事が幾つか出てきてね。で、こうしてわざわざ足を運んだわけだ」
 紅莉栖の返した素っ気無い返答に、俺は微かにソファから腰を浮かせる。
「データって、昼間の奴か? もう解析が済んだと言うのか?」
「んな分けないでしょ。あんたの記憶データを全部解析しようと思ったら、それこそ軽く年を越すわよ。それどころか、もう一つ年をまたげそうな勢いね」
 紅莉栖はパソコンの前へと歩みを進め、細い指先で電源ボタンを押す。程なく、真っ黒だったディスプレイに表示される、お約束のメーカーロゴ。
「では、何を確認しろと?」
 俺はモニタに移されていく起動画面を視界の端に捉えながら問いかける。すると紅莉栖は、コートのポケットから小さなメモリを取り出して言った。
「とりあえず五枚。画像として辛うじて成立してる奴を持ってきた。それがあんたの記憶の、どの辺に該当するのかを確認したい」
 OSの起動を待つ紅莉栖が口にした言葉。その意味がいまいち飲み込めない。
「記憶の……どの辺? 意味が分からん」
「つまり、持ってきた五枚の画像が、岡部にとってどの世界線の記憶なのか。それを確認できれば、データ解析に必要な範囲を絞り込めるって事。本当は解析かける前に、データの格納分布や樹形図で、該当エリアをある程度絞り込むつもりだったんだけど、やっぱり中身みないと確信が持てなくて」
「で、俺に中身を確認しろと?」
「そ。そうでもしないと、冗談じゃなく、どれだけ時間がかかるか分からない状況なのよ。正直ちょっと、舐めてた」
 人間の記憶が、こんなに複雑で曖昧だとは思っていなかったと、苦笑いを浮かべる紅莉栖の表情を横目で見る。
「一応、私のデータの一部分を先に解析して、保存されてる記憶の傾向を推測してみた。その上で、だいたいの辺りをつけて、あんたのデータを持ってきたつもり。だから、私の推測どおりなら、持ってきた五枚は全部、どこか一つの世界線での記憶に該当するはずなんだけど……」
「何だか、ややこしいな」
 俺はやれやれといった面持ちで、ソファから腰を上げる。
「それくらい、別に急ぐ必要もないだろうに。別に明日でも良かったのではないか?」
 パソコンの前に陣取った紅莉栖に歩み寄りながらそう指摘すると、紅莉栖は少し困ったような顔を見せる。
「ん……そうなんだけど、何だか待ちきれなくて。それに……」
 他の世界線での記憶画像を、まゆりやダルを前に披露して良いものかどうか判断に困ったのだと、はにかんだ顔で紅莉栖が言った。
「考えてみたら、あんたの記憶って結構あれでしょ? だったら、初見は私と岡部だけの方が都合がいいかなって。で、こんな時間でも、岡部ならラボにいるかもしれないって思ったから……」
 そんな紅莉栖の言葉に、俺は「仕方ないな」と零しながらパソコン前のイスを引いて腰を降ろす。まるでそれを待っていたかのようなタイミングで、OSの起動完了を画面に見る。
「で、とにかく見ればいいのだな?」
 俺はマウスを動かして、紅莉栖が持参したデータの格納場所をたどる。
「うん。で、分かっただけで良いから結果を報告して」
 そう言うと、紅莉栖は踵を返してパソコン前から離れ、さっきまで俺が座っていたソファにストンと腰を落ろした。
「どうした。見なくていいのか?」
「そう言う約束だし」
 そう言ってソファの上で身体を丸める紅莉栖。その姿勢に「そう言えば、そんな約束もしたな」と、何となく彼女らしい律儀さ感じつつ、俺は再びモニターに目を向けなおす。
 マウスの操作を再開し、そしてそれらしいデータが入っていそうなフォルダまでたどり着く。
『確かに五つ……』
 フォルダの中に格納されていた五つのデータ。『01』から順番にナンバリングされており、ファイル名の末尾には、それが画像ファイルである事を示す一般的な拡張子がぶら下がっている。
『これが……俺の記憶データ』
 ここが目的の場所であると断定し、とりあえず一番若い番号をつけられているファイルにカーソルを合わせる。
『さて……何がでるか……』
 開いてみると最初に目に飛び込んできたのは、どこかピントのずれた、曖昧さが浮き彫りの画像だった。
『何だこれは……?』
 全体的な画像の乱れ。まるで、写真撮影にちょっと失敗してしまったような感じの出来上がり。
『手ブレ防止くらいつけとくべきだろ……』
 などと取りとめもない事を考えながら、目の間の画像を見る。確かにはっきりとしない絵面ではあるが、しかしそこに何が描かれているのかというくらいの判断は、辛うじて付ける事ができた。
『……黒っぽい……人間?』
 薄暗い背景の中に浮き上がる、微かに見覚えのある雰囲気。そこに見える色を手がかりに、自分の記憶を漁る。
『これは確か……』
 最初に浮かび上がったのは、いつかの世界線でフェイリスをめぐって対峙した、よく分からない黒尽くめの厨二病男。
『確か名前は低温がどうのとか何とか……。低体温症の男? ううむ、何だったっけ? 』
 記憶のすみを漁りまわしてみるものの、だがしかし、何となく違う。名前がという事ではなく、人物自体の認識が何となく──
『おお、違う違う! 思い出したぞ、あの時のバッチ屋ではないか!』
 不意に探り当てた記憶の画像。そのイメージが目の前の画像と重なる。
『鈴羽の持っていたラボメンバッチの偽造を、ダルが依頼した相手だ……』
 そうと分かると、これまで薄暗い印象しか持たなかった画像の中の背景が、急に夕刻の秋葉原裏道に見えてきた。不思議なものである。
『つまりこの記憶は、鈴羽を過去へと送り出すために、壊れたタイムマシンを修理していた頃の記憶……』
 そしてそれは、まゆりの元に繰り返し死が訪れた、あのα世界線での記憶だという事にあっさりと思い至る。
『にしても、無作為とは言えこのチョイス。ある意味、相当なレア人物を一発目に持ってくるとは』
 結果的には、一枚目からして早速該当する世界線を特定できる内容だったわけなのだが──
『引きが強いというかなんと言うか……』
 俺は開いた画像を画面から消し去ると、再び目の前に現れた五つのファイルに視線を向ける。
『紅莉栖は、五枚とも同じ世界線の記憶だとか言っていた。となると残りの四枚もα世界線での記憶ということか?』
 そう思うと、残りの画像を見る事が何となく怖くなる。率直なところ、α世界線での記憶は俺にとってあまり友好的な立場であるとは言いがたい。出来る事ならこのまま未来永劫、記憶の海に深く深く沈み込んでいてもらいたい対象というのが正直なところ。
『……ううむ』
 万が一にも、残りの四枚の中に繰り返し見続けてきた凄惨な映像が混じっていたらと思うと、マウスを操る指がすくむ。が──
『約束……だからな』
 意を決し、二枚目の画像に目標を定める。出来る事なら、あの忌まわしい記憶の画像だけは出ないでくれと願いながら。
 だがしかし、そんな心配は杞憂に終わり、二枚目、三枚目と閲覧を進めてくも、出てくるのは凄惨さの凄の字も見当たらない画像ばかりであった。
 二枚目に見た画像。相変わらずぼやけてはいるが、しかしその内容が自転車に乗る鈴羽の姿だという事だけは、不思議と確信できた。そしてそれもまた、紛れも無くα世界線での記憶に他ならなかった。
 続けて三枚目。なんと言えばいいのか、満を持するように今度こそ現れた黒ずくめの男。いまいち名前を思い出せない、低体温症の男の画像が引き当たる。色的な見解ならば、一枚目と合わせてすでにワンペア確定。現状を見る限り、紅莉栖の引きは中々に偏りを見せていると言えるだろう。
 そして四枚目。これには少なからず息を飲む。
『な……何だと!?』
 危なかった。とてもではないが、紅莉栖に見せるわけにはいかない。俺は画面に映し出された画像を素早く閉じると、神速ばりの指捌きで、件の画像ファイルをパソコン内の別の領域にコピーする。
『ふ。確保完了』
 そこに収められていたのは、いつか見た紅莉栖とまゆりの姿であった。
『肌色の多さが際立つ、至高の一枚だな』
 薄もやの奥に見える、対照的な二人のボディライン。ともすれば、例えぼやけ気味であったとしても、この画像に相応の価値が存在している事は明白であった。なれば、バックアップを保存するのも、当然と言えよう。
「ぐふ……ぐふふ……」
「どうした、岡部? 何か急に……と言うか、どうして息が荒れてる?」
 これまで黙ってソファに座っていた紅莉栖が、俺の心境の変化に気が付いたのか、背後から声をかけてきた。
「荒れてなどいない! 別に貴様の貧相な……」
 勝手に慌ててしまった。失態であった。
「貧相……? 岡部。ちょっとそれ見せろ」
 ゆらりとソファから立ち上がる紅莉栖。
「な、何を言うか! 見ないという約束ではなかったのか!?」
「正確には違うだろ。岡部の記憶を見るのは、解析データをラボに持ち込んでから。そう言う約束だったはず。一応気を使って、先にあんたに見てもらう体を取ってたけど……気が変わった。今見せろ」
 毅然とした紅莉栖の態度に、俺は奥歯を噛みしめる。
「助手よ……貴様、いつから詐欺師に成り下がった?」
「問答無用。というか、とりあえず鼻血をふけ、HENTAI」
「馬鹿な! 助手程度で鼻血など!?」
 慌てて鼻の下を手の甲で拭うも──
『ぬかった! 担がれたか!?』
 何の付着も見せない手の甲に、悔しげな視線を落とす。
『や……やばい……』
 ゆらりゆらりと近づいてくる紅莉栖の気配に、俺の中で危険を知らせる警鐘が、けたたましく鳴り響く。
「見れば……後悔するぞ」
「はいはい。いいから大人しく見せろ」
「だが断る!」
 声を絞り上げて拒否の意思を宣言する。が──
「却下だ」
 聞き入れてはもらえなかった。そして、俺の横にズンと立つ横暴な圧制者。
「早くしろ」
 静かな声色に、身体がすくむ。
「は……早まるな助手よ……」
「言っとくけど岡部。あんたには拒否権なんてない。だいたい、ホテルに帰れば大本のデータがあるんだぞ? しおらしく観念した方が、印象的に罪は軽くなるかも知れないわけだけど……どっちがいいか、選べ岡部」
 まるで、俺に死にザマを選ばせようとするような紅莉栖の台詞。その、余りにもハードボイルドな選択肢を前に、俺はガクリとうな垂れる。そんな俺を横目に見ながら、紅莉栖の手がマウスにかかる。
「で……何枚目?」
「……五」
「じゃあ、四枚目だな」
 もはや、生存は望めなかった。紅莉栖はマウスを動かすと、話題沸騰の四枚目へとカーソルを合わせる。そして──
「何これ?」
 鉄槌を覚悟した。
 あのα世界線において、俺が紅莉栖とまゆりの入浴を邪魔した出来事。紅莉栖は既に、その歴史が実在していた事を知っている。ならば物理的な流れを加味して現状を推測すると、今頃俺の頭上には、紅莉栖の振り上げた握りこぶしが眩く光り輝いている事なのだろう。
 俺は目をつぶり、衝撃に備える。が──
「何が映ってるの……?」
 衝撃の代わりに訪れたのは、紅莉栖の立てた疑問の声だった。
 ゆっりと目を開き、横に立つ紅莉栖を仰ぎ見る。その視線はモニターに向き、そしてモニターには件の画像が映し出されているものの、しかし紅莉栖の瞳がその画像の内容を認識しているようには見えなかった。
 そんな俺の観察を肯定するように、紅莉栖が口を開く。
「全体的に肌色だけど……」
 なんという事であろうか。紅莉栖には、この画像が何であるのか分からないようではないか。ラッキーではないか。
「岡部……これが何の画像なのか、あんたには分かるの?」
「ま……まあ、ぼやけているが、何が映っているくらいかの判別は……」
 素直に答えて『しまった』と後悔する。どう考えても、今の場面ならば『俺にも分からない』と答えるべきではなかっただろうか。そうすれば、まだ辛うじて紅莉栖の追撃を逃れるチャンスもあったかしれないというのに。
 俺は自らの愚策に、歯噛みする。だがしかし──
「私には分からないのに岡部には分かる? なんで?」
 うって変わった紅莉栖の表情。口元に指先を添えて、何時もの思考ポージングを披露している。
「ひょっとして……本来の記憶を持ってると、視覚から脳への情報伝達に、何かしらの修正がかかる……とか、ありえるかしら?」
 渡りに船とはこの事か。よもや紅莉栖自ら、話題の矛先をずらしてくれるとは思っていなかった。
『この期を逃してなるものか』
 俺は決死の覚悟で、紅莉栖の思考に飛びかかる。
「それは面白いではないか! 確かに視覚情報とは、目で捉えた光景を情報化して脳へ伝達! そして届いた情報を元に脳内で画像を再構成していると聞く! ならば、記憶の保持者が他者とは違う映像構成を脳内で起こしていたとしても、不思議ではない! いや、実に面白い解釈だ!」
 もはや必死であった。とりあえずそれっぽい単語を並べてみるものの、しかし自分が何を言っているのか、いまいち理解していなかった。だがそれでも、紅莉栖は俺の煽りを受け取ったようである。
「そうね。その可能性も……あるかもしれない。確かに、面白い……」
 口元に指先を添えたままで、しきりに頷き出す紅莉栖。そして──
「ねえ岡部。悪いんだけど、もう一枚だけ見せてくれない? それを見て、もしもあんたに判別できて、私には出来なかったとしたら……今回の件から趣旨が外れるけど、でもちょっと気になるから」
「よしきた!」
 一も二もなく快諾する。ずれ始めた紅莉栖の話題。そのズレを後押しするために、素早くマウスをつかみ取ると、まだ見ていない五枚目の画像へとカーソルを滑らせる。
「最後の画像は、こいつだ!」
 もはや、自分でもどうテンションをキープすればいいのか分からず、ただ思うままに声を張り上げてマウスボタンを力強く押し込む。有耶無耶になれ。その一心であった。
 そしてモニタに現れる、一枚の画像。その内容に、思考が硬直する。
「やっぱり分からないわね。どう岡部、あんたには分かる?」
 その問いかけに、俺はゆっくりと頷く。
「ああ……分かる。分からないわけが……ない」
 そこに現れた画像。そこに映る人物。俺は両目を見開いて、モニター画面を鋭く見つめる。
 忘れるわけがなかった。見た瞬間に、識別できた。きっと秋葉原の町並みであろう背景を後ろに、そこに立つ初老の男性。それが誰であるのかを。

『ドクター中鉢……』

 その姿に、思わず奥歯を噛みしめる。あの時に味わった鉄臭い血の味が胸の奥に蘇ってくる気がして、激しい嫌悪感が頭の中に湧き上がる。
『よりにもよって、最後がこいつか……』
 再びその姿をこの目に焼き付ける事になるとは、思っていなかった。画面越しの出し抜けな再開を前に、俺の心中に言葉にしがたい不愉快な感情が敷き詰められていく。
 貫かんばかりの視線をモニターに向けている俺。紅莉栖が心配そうに声をかけてくる。
「お、岡部どうした? 何か……怒ってる?」
「いや、何でもない」
 何時だったか。俺は紅莉栖に対して、中鉢と言う男を色々な意味で『偉大』だと、『感謝』していると、そう言った。その時の思いは、決して嘘ではない。だがしかし、それでもこうしてその姿を目の当たりにすると、どうしても、ある特定の感情が沸きあがってくるのを押さえられないでいた。
「ねえ、何かあったなら、教えて欲しい……」
 まるで、俺の押さえ切れない感情を汲み取るように、紅莉栖の少し落ち込んだような声が聞こえた。その寂しげな声色を聞き、はっとする。
「いやすまん。本当に大丈夫だ。なに、少々嫌な事を思い出しただけ。だがそれも、もう終わった事。だから、本当に何もない。すまんな、妙な心配をさせたか」
 慌てて、押さえそこねた感情の露出を取り繕う。
「別に、謝ってもらう事じゃないけど……」
「それよりもだ。とりあえず五枚とも見たわけだが、結果は聞かなくてよいのか?」
 少しばかりあからさま過ぎる話題転換にも思えたが、しかし俺が平然とした様子で表情を緩ませると、紅莉栖の表情も微かに和らいだ。
「ああと、そうだったわね。で、どうだった? 世界線の特定、できそう?」
「まあ何とかな。恐らく、この画像たちはα世界線……つまり、まゆりの死を避けられなかった、あの時の世界線の記憶なのだろう……」
 言葉にして、初めて何かが引っ掛かった。またしても持ち上がる疑念。
「そう。じゃあ私の立てた『岡部の記憶分布』は、一応間違ってなさそうね。これで、解析範囲を絞り込みやすくなった」
 繰り返す俺の心境変化に気付かなかったようで、先刻とは変わって満足げな顔を覗かせる紅莉栖。だがしかし──
「五枚とも、本当に同じ世界線なのだな?」
 そんな問いかけを思わず口にして、『しまった』と舌打ちする。これではまた、紅莉栖に要らぬ心配を植えつけるだけではないか。
「一応そのはずだけど? 五枚の画像はどれも同じ世界線の記憶。まあ、それがα世界線だっていうなら、ひょっとしたら岡部の主観から抜け落ちてる過去の記憶もあるかもしれないけど……全部、覚えてる画像だったのよね?」
 そう問いかけられて、俺は強く頷いてみせる。無論、嘘であった。だが、紅莉栖はそんな俺の嘘に気付いた素振りも見せず──
「んじゃ、早く戻って解析範囲を指定しなおさないとね。このまま続けてたら、解析終わる頃には本気で成人しかねないし」
 そんな言葉を言い残し、玄関に向かう。
 靴に足を突っ込む紅莉栖に、俺が帰り道の同行を申し出ると、紅莉栖は顔を微かに赤らめた。
「じゃ、お願いしようかな。本当言うと、来る時、少し心細かったりしたから……」
「了解だ」
 俺は白衣の上からコートを羽織り、手早く外出の準備を整える。そして、紅莉栖に続いて玄関から外へ出て、そして閉まっていく扉の隙間から室内に目を向けて思う。
『どうしてα世界線の記憶に、中鉢の画像がある……?』
 ラボの奥で、点けっ放しのモニタに映し出されている画像。そこに在る、在りえないはずの事実に、軽く眉根を寄せる。
 そして不思議だった。
『あれは本当に中鉢……だよな?』
 視覚に捕らえた姿かたち。それは紛れもなく、いつかラジカンで対峙した一人の男。見間違いようなど無かった。だというのに、くすんだ一枚の画像から感じ取った印象は、どこか俺の知っている初老の男性とはかけ離れているような気がして──
『分けが分からん』
 俺は湧き上がる疑問を押さえ込み、ゆっくりと扉を閉める。身を切るはずの12月の冷気が、なぜだかまったく気にならなかった。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ10
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/10 22:48
     10

 深夜の秋葉原。クリスマスを控え、普段よりも幾分賑やかしく飾り付けられている街並みも、この時間帯とあれば、いささか賑やかさに事欠いている。
 決して十分な光量を保っているとは言えない街灯と、二十四時間営業の店舗から漏れ出る明かりに照らしだされる、薄暗く染まった大通り。その歩きなれた道程を紅莉栖と並んで歩きながら──
『どうしてこれほど、気にかかる?』
 俺は理解に苦しんでいた。
 ラボを出てからこれまで、頭の中でしつこく燻り続けている感覚。どこか居心地が悪く、どこか釈然としない思い。そんな物に際悩まされた俺の足取りは、微かな重さを伴って夜の街に響いて消える。
 ラボで紅莉栖に見せられた、あの画像。彼女の目には、不完全で抽象的な映像としか認識されなかった、初老の男性が映り込んだ画像。今こうして紅莉栖を彼女の利用しているホテルまで送り届けている最中であっても、目の当たりにした絵面が、どうしても頭の中から離れない。
 その『頭から離れない』という事実自体が、俺にはどうしても理解できないでいた。
「ねえ岡部。さっきの話なんだけどさ。一応あんたにも、私の記憶から解析した画像を、何枚か見てもらおうと思ってる」
 俺の横を歩く紅莉栖の声が聞こえた。
「ああ……」
 紅莉栖がかけた言葉に、俺は気もそぞろに返事を返す。
『どうして五枚の画像の中に、中鉢の姿が映っていた?』
 紅莉栖の言葉が正しければ、五枚の画像は全て同じ世界線のものであるはず。そして、その言葉どおり、四枚目の画像までは明らかに統一された世界線の記憶である事が、はっきりと断定できている。
「でさ。私に見えた画像があんたに見えなければ、さっきの『視覚から脳への情報伝達に対する修正』っていう推測に、実証が二つ付く事になるわけよね?」
「……そうだな」
 紅莉栖が語りかける内容に、俺は相も変わらぬうつろげな相槌を返しながら考える。
『五枚のうちの四枚。そこに見た内容は、俺の中にあるα世界線での記憶の内容と合致した。だとしたら、残った一枚もα世界線の記憶だと考えた方が自然と言える。だがしかし──』

 ──あの世界線では、俺は中鉢と出会っていないはずだ──

 そうなのである。俺と中鉢の接触。それはβ世界線やその後にたどり着いたシュタインズゲートなどと呼ばれる世界線での『7月28日』にのみ、起こりえたはずの事なのだ。
「これって、脳科学的には面白い内容だと思わない? 一般的には、視覚が捕らえた映像を、脳が誤認するって言う事例は多いわけよ。トリックアートとかが、その代表格ね」
「そうなのか……」
 どうしても、紅莉栖に対する返答に腰を入れられない。そんな俺の思考は、目の前にある理解できない状況に対して、ただただ闇雲に答えを求めて空回りを続ける。
『7月28日……か』
 中鉢はその日、ラジカンで『タイムマシン完成発表会』なるものを企画していた。そして、その発表会の会場にて、俺はDr中鉢と言う男に対して、初めて面識を持ったはずである。
 だがしかし、ことα世界線においては事情が違う。まゆりが繰り返し命を落とした、あの世界線。そこにおける7月28日では、中鉢は予定していた発表会を土壇場になってキャンセルしているはずなのだ。
『なら、どうしてだ?』
 α世界線の記憶だと思われる五枚の画像。その中に紛れ込んでいた中鉢の姿。その理由を探して思考を回す。
「でもさ、今回のケースは脳に誤認をさせているわけじゃない。視覚情報だけじゃ足りていない部分を、記憶に残ってる映像を頼りに、脳が勝手に補正をかけるように見える。これは今までに報告さえてないケースなわけよ」
「……ほう」
 もはや、紅莉栖の言葉の殆どが、俺の耳を素通りしていた。
『考えられそうな事といえば……』
 真っ先に頭に浮かんだのは、単純に紅莉栖の推測に誤りがあった可能性だった。紅莉栖が『特定の世界線の記憶:』だと当たりをつけた推測方法。それが正確性を欠いていたために、α世界線以外の記憶が五枚の画像の中に紛れ込んでしまった。それは十分に考えられる状況だとは言えないだろうか?
『何せ、事が事だ。いかに紅莉栖といえども、全てを完璧にこなすなど、不可能だ』
 率直に、そう思う──べきなのだろう。だがしかし、どういう分けか俺にはその考えが飲み込めない。
『あの中鉢の表情は……』
 画像の中に見た、中鉢の顔。そこから感じた印象が、唯一答えらしき形を取っている可能性を否定する。
『なんと言う顔をしていやがる……』
 今、俺の記憶に残っているDr中鉢という男の人間像。それはお世辞にも、誉められたものではない。だと言うのに、モニター越しに伝わってきた男のイメージは──
『本当に中鉢なのか?』
 そこに感じたのは、辛さと虚しさに埋め尽くされた必死さ。こうして言葉にすると、あからさまに中鉢らしい表情だと言えるのかもしれない。だが──
『何か、違う……』
 崩れ落ちそうな頼りない瞳の奥に、鋭い光と強い決意が見て取れたような──そんな気がした。そしてそんな姿から受ける印象が、俺の持っている中鉢像とどうしてもかみ合わないのだ。
『あれは……俺の知らない中鉢だとでもいうのか?』
 そんな事を考えると、不思議とその思いには納得がいってしまった。理由など無い。ただ何となく、納得をしてしまったのだ。
「ちょっと岡部、聞いてるの?」
 唐突に肩をたたかれ、目の前の光景が視界に飛び込んでくる。気付けばいつのまにやら、俺たちはラジカン前の横断歩道に差し掛かっていた。
「ラジカン……か」
 自然と、俺の目が川向にたたずむ見慣れた建物に吸い寄せられる。不思議と、思考の中心が痺れていくような感じを受けた。
『俺は……落下した人工衛星を見るために、ここへ来て……』
 知らぬ間に人通りが途絶えていた。俺は視線を持ち上げると、ラジカンの上部にめり込んだ異物に目を向ける。
「ちょっと岡部、どうしたの?」
 微かに耳を打つ声。だが、気にできない。
『ここからでは、よく見えんな……』
 辺りを見渡すも、依然として人気はない。当然だろう、封鎖されているのだから。
『もっと近くで……』
 肌を焼くような夏の日差しを煩わしく思いながら、行儀よく並ぶ白線と誰も居ない往来に向けて足を踏み出す。
「ちょっ! 岡部、何で渡るのよ! つーか赤! 赤だから! トラック来てるから!」
 背後から、誰かに呼び止められたような気がした。だが、それをはっきりとは知覚できず、俺は向こう岸に向けてゆっくりと歩みを進める。
『人工……衛星……?』
「岡部ぇ!」
 かすれそうに細い絶叫が耳を打つ。その叫びに、思わず反射的に振り返る。

 ──中鉢!?──

 視界に捕らえた姿に、戦慄を覚える。
『馬鹿な!?』
 あまりに唐突な光景に、目をつぶって頭を振り回す。そんな俺の耳を、低い男の声が叩き──
「岡部! 何やってる!」
 一瞬聞こえかけた声を、かん高い声が掻き消した。直後、強く腕を掴まれて引きずられる。何が起こっているのかと、ゆっくりと目を開ければ──
「く……紅莉栖……?」
 そこに居たのは中鉢ではなかった。そこに見たのは、暗がりでもはっきりと分かるほどに、顔面を蒼白にした紅莉栖の姿。必死の形相で俺の腕をつかみ、元いた歩道へと引きずり戻そうともがいている。
「これは……一体……」
「何でもいいから、とにかく来なさい!」
「……お、おう」
 俺は紅莉栖に引かれるまま、素直にその誘導に従う。そして、自分のいる場所と状況を改めて知覚して、鳥肌が立つ。
「何だこの状況は?」
「それはこっちが聞きたいわ!」
 横断歩道の中ほどから、ズルズルと歩道まで移動する。路地脇に、ただ意味が分からず立ち尽くす俺。その横を、大型のトラックが轟音を撒き散らしながら駆け抜けて行った。ヘッドライトの光が、強く目を焼いた。
「……ぐ」
 状況の把握が追いつかず、微かな目の痛みに唸り声を上げる俺。その横で、ヘナヘナと腰を砕く紅莉栖。
「大丈夫か……助手よ?」
「だ……大丈夫なわけ無いでしょ……」
 紅莉栖は小さな声でそれだけを告げると、今度は大きく息を吸い込み、地面に腰をくっつけたままで大声を立てる。
「何考えてるのよ! 深夜だってトラックとか走ってくでしょうが! 轢かれたらどうする、バカ岡部!」
 最もな意見だった。
「すまない。どうやら少し……ぼんやりとしていたようだ」
 分けがわからず、ただ取り繕うようにそんな言葉を口にする。
「ぼんやりですむか! ヘタしたら、取り返しの付かない事になってたかもしれないんだぞ!」
「ああ……本当に悪かった。以後気をつける」
「当たり前だ!」
 ぺたりとへたり込んだままで怒鳴る紅莉栖。その声に、微かな震えを感じる。
「何も……泣く事はないだろう」
「泣くか! どう見ても怒ってるだろ!」
「おおう……そうか。まあとにかく……速くホテルに──」
「もういい、ラボに戻る。バカ岡部をホテルから一人で帰すとか、もう心配で無理。このままラボまで戻る。いいわね!?」
 拒否できる雰囲気ではなかった。俺は仕方なく頷いて同意を示す。
 紅莉栖はよろよろと立ち上がると、来た道を戻り始める。ガシリと掴まれた俺の腕が、強く引かれる。
「1メートル以上、離れるなよ!」
 それは近すぎではないかと思ったが、しかしあえて何も言わなかった。
 そして、紅莉栖に腕を引かれながら、背後に顔を向ける。そして、思いだす。
『俺はあの時……最初の世界線移動が起こる前まで……中鉢に会っていた?』
 先刻体験した、まるで白昼夢のような幻影。その中で、振り返った俺の目に飛び込んできた、一人の初老の男性。その光景が、俺にはどうしてもただの目の錯覚だとは思えないでいた。
 そして──

 ──頼みたい事がある──

 それは、一瞬だけ耳に響いた、擦れた一言。微かに耳に残っている低い低音の声色に困惑する。
『頼むだと……?』
 確かではない。はっきりと聞き取れたわけではない。だがそれでも、今の俺には、その言葉と声と響きに、不思議と覚えがある気がした。そして、やはりそこには理由や根拠など無い。だがそれでも、確信だけは持ててしまった。
『……この俺に、何を頼むと?』
 その言葉を吐き出した相手が中鉢であるという可能性に、俺には困惑する以外に出来る事などなく──
『……何がどうなっている』
 紅莉栖に引きずられるようにして人気の少ない歩道を歩きながら振り返ると、闇に溶け込むラジカンの影姿が見える。そこにはもう、人工衛星の姿など見えはしなかった。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ11
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/10 22:49
     11

 紅莉栖に引きずられるようにしてラボに戻った後も、先ほど体感した奇妙な感覚の事が、どうしても頭から離れなかった。
 ソファに腰掛けた俺は、キッチンに立つ紅莉栖の後姿を視界の端に捕らえたままで、軽く頭をもたげる。
『あれは……ただの錯覚などではない』
 目を閉じれば、自然と浮かび上がってくる光景。その、どこか現実味に欠けた見覚えのある景色を思うと、あの時、自分の身に起きていた事に、何となくだが想像をつけることが出来た。
『あの光景は恐らく……』
 世界線の移動に伴って失われる記憶。それは俺以外の万人に当てはまる現象であり、本来ならば、観測者としての立場を確立してきた俺とは無縁の話しのはずだった。だが先日、そんな俺を指して紅莉栖はこう宣言した。

 ──あんただって、ちゃんと忘れてるのよ──

 それは、俺の持つリーディングシュタイナーに対して、紅莉栖が論理的な解釈を紡ぎ出す前に口にした台詞。
『観測者として不完全……か』
 確かにその通りなのだろうと思う。なぜなら、その言葉の示したとおりに、俺の中にもまた世界線の移動に伴って『失われた記憶』と言う物が存在していたからだ。
『俺は、移動した先の世界線で、それまで自分が何をしていたのか……知らない』
 だからこそ思う。
『あれは、俺の主観から抜け落ちてしまったはずの記憶だったのではないか……?』
 何かをきっかけにして、俺の主観から消えてしまったはずの記憶が呼び起こされた。その影響で、俺の目にあの幻が現れたのではないか──と、そう考えていた。
『失った記憶……か』
 荒唐無稽の話だろうか? いや、そんな事はあるまい。なにせこれまで、俺は度々そのような現象が仲間たちを襲う様を、この目で見てきたのだ。時には紅莉栖が、時にはまゆりが。そしてフェイリスやルカ子、萌郁たちが、失ったはずの記憶をどんな形であれ取り戻す一瞬は存在していた。ならば──
『俺だって、何かを切欠にして失ったはずの記憶を取り戻す事があっても不思議ではない』
 至極当然の話に思えた。そして、そう思うからこそ、垣間見た幻影の意味が分からなかった。
『あれはどういう事だ……?』

 ──中鉢──

 前触れ無くさかのぼった季節。人通りの途絶えた町並み。ラジカンの上部にめり込んだ人工衛星。そんな光景に紛れ込んできた、理解しがたい登場人物。
『どうして奴が……』
 横断歩道の中ほどで、振り返った一瞬に垣間見た初老の男。その予期せぬ再会が、俺にはどうしても理解できないのだ。
『あれは、α世界線の記憶のはずだろう』
 まゆりが死に、俺と紅莉栖とダルがSERNに囚われ、そして世界がディストピアなどという名の統治体制によって支配される未来。俺が目の当たりにしたあの幻影は、そんな歴史としての下地があって初めて成立するはずの風景。
『ならばどうして、そこに中鉢がいた?』
 何度も言うが、α世界線において俺と中鉢の間に直接的な接触はない。だというのに、幻覚の中にさも当然のように姿を表した好ましく思えない人物。その存在の意味を推し量りかねる。
『分からん』
 俺は視線を動かして、パソコンデスクの上に置かれたモニタに目を向ける。
 紅莉栖が持ち込んだ五枚の画像。紅莉栖の推測を信じるならば、五枚共に同じ世界線での記憶。
『四枚は、明らかにα世界線での記憶。だがしかし……』
 最後に見た一枚。その、にわかには信じられなかった内容が、まるで俺の見た幻想を事実であったと証明しているようにさえ感じてしまう。
『α世界線の過去で、俺は中鉢と面識があったというのか?』
 実状として、俺にはα世界線における過去の記憶は無い。だから、俺と中鉢が何かの拍子に知り合っていたという可能性もゼロではないのかもしれない。だがしかし──
『あの時点では、俺はまだ紅莉栖とすら出会っていないのだぞ? ありえるのか、そんな事が?』
 分からない。あまりにも、分からない事が多すぎた。
『……くそ、どうなっている?』
 パソコンモニタを睨みつけながら短く息を吐く。と、目の前にすっと差し出されるマグカップ。積み上げかけた思考が霧散する。
「ほら岡部」
 声のした方に視線を向けると、少し心配そうな紅莉栖の顔が視界を覆った。
「飲んで。落ち着くから」
「俺は取り乱してなどいないが?」
 紅莉栖が差し出すマグカップに手を添えながら、俺は平然とした声でとぼけて見せる。
「とてもそうは見えなかったから言ってるんだ。さっきのあんた、普通には見えなかった」
 鋭い指摘と言うべきか、それとも当然の指摘と言うべきか。
 真夜中の秋葉原。ラジカン前の路上で、紅莉栖を前にやらかしてしまった失態。彼女が目の当たりにした俺の異常は、その心中に不安を抱かせるには十分な状況であったようだ。
「なに、このところ少し疲れていてな。あまり心配するな」
 出来ることなら、要らぬ心配をかけたくは無い。そんな思いはいつもと変わらない。だから軽い口調で言葉をにごして見せる。
「テンプレどおりの言い分ね。そんなのじゃ、まるで何かありましたって言ってるようなものよ」
「変に勘ぐるな。本当に何でもない」
 事の次第に詰め寄ろうかとするような紅莉栖の姿勢を前に、俺はその追跡をいさめるように手のひらをハタハタと揺らして見せる。そんな俺の態度に「それなら良いけど……」と、紅莉栖は不服気な顔を作りながらも、それ以上の追及を思いとどまったようであった。そして言葉尻に付け加えるようにして──
「でも岡部、何か悩み事とかあったら聞くから、遠慮とかするな」
 そんな言葉を口にする。
 その、どこまでもお人よしで面倒見のいい言葉が、いかにも紅莉栖らしいものに思えた。だから俺は、敬意と感謝の念を込めて、いつも通りにホラを吹く。
「残念だったな。狂気のマッドサイエンティストであるこの俺の悩みは、その辺の一般人に解決できるような単純なものではないのだ」
 世間に名高い天才少女を前にして、身の程をわきまえない発言を口に乗せる。俺としては、そこから始まるはずの他愛ない会話のやり取りに期待していたのだが──
「そういう事言うな。私だって、あんたのために何かしたい。助けられてばかりってのも、私の性分に合わないんだ」
 やや予想とは違った展開を見せる紅莉栖の返しに戸惑う。その真摯な眼差しに、思わずお得意のキャラ設定も忘れて、真面目な顔で問い返す。
「いや、何を言っているのだ助手よ? これまで助けられて来たのは、むしろ……」
「それは他の世界線の話でしょ? 私が言ってるのは、そういう事じゃない」
 紅莉栖は言う。
 他の世界線での出来事は、確かに記憶の中にある。その中には、紅莉栖が俺を支えていた記憶も含まれている。だが、その記憶には実感が伴っていないのだと。
「今の私には、ラジカンで岡部に助けてもらったって実感しかない。何だかそう言うのって、借りを作りっぱなしみたいで、どうも落ち着かないのよね」
 義理堅いと言うかなんと言うか。消えてしまったにしろ、それでも事実として俺を支えたという歴史はあり、その記憶は俺と共有もしているのだ。ならば、それほど一方的に負い目を感じる必要も無いはずなのだが──
『不器用なやつめ』
 やれやれと言った様子で見上げると、紅莉栖は少し恥ずかしそうに目をそむけながら言葉を続ける。
「それに、ラジカンでの事だけじゃない。全部忘れてた私をラボメンに引き戻してくれたのもそうだし、パパの事だってそう。あんた前に言ってくれたでしょ? 狂気のマッドサイエンティストは二人も要らないって。パパを負かして、ただのオッサンに戻してやるって」
 紅莉栖の口から、気になる人物の話が飛び出した。一瞬、押し込めた疑念が再び湧き上がりそうになるも、何とかこらえて紅莉栖の言葉に耳を傾け続ける。
「あの頃ね。パパの行方が全然分からなくて、少し滅入ってたの。だけど、あんたの言葉ですごく楽になったんだ。岡部なら、本当に何とかしてくれるかもしれないって」
 紅莉栖の長い髪が、微かに揺れた。俺はそんな彼女の姿を見つめたままで──
「そうだったな。まだ、約束を果たしてはいなかったな」
 何時だったか交わした彼女との約束を思いながら、そんな言葉を口にする。と、紅莉栖が慌てたように顔を左右に振り回した。
「あ、違うから! 具体的な解決を期待してるとかじゃなくて、ただ何ていうのかな。岡部がそう言ってくれた事が素直に嬉しかったというか……」
「……青森か」
 小さく呟き、俺は表情に少しだけ真剣さを込める。もう一口コーヒーをすすり込むと、口の中いっぱいに独特の苦味が広がった。
『青森……』
 その遠い土地の名を、頭の中で反芻する。いつの間にか、押しとどめていたはずの疑念が再び小さく燻り始めていた。
『何か……分かるだろうか?』
 目の前に見える、気恥ずかしそうに振舞う紅莉栖の姿。本来ならば、その光景以上に俺の意識を捕らえるものなど無いはずであろう。だと言うのに、俺の思考は押さえの効かなくなった疑念に鷲づかみにされ、ゆっくりと傾き始める。
『まるで、絡み付かれているようだな……』
 自分の思考のあり方が余りに滑稽に思え、無意識のうちに口の端が吊り上る。
 数日前。ラジカンの前で小さな違和感を感じて足を止めた時から、ずっとそうだった。頭の中に湧き出る小さな疑問。それは時間を追うごとに次第にその影を深めていき、それに関わる幾つもの懸案事項は、常に俺の頭の中心にあり続けていた。
 そして今も、魅力的な紅莉栖の姿勢をないがしろにしてまで、俺の思考は揺れ続ける。そんな自分の思考回路が、少し信じられない思いであった。
『俺はいったい、何をこれ程までに気にしている?』
 自問してみるが答えは出ない。ただ、漠然とした疑問だけが頭をもたげる。そして、やはり疑念に対する自制は効かず──
「青森……行ってみるか」
 気付けば、そんな言葉を口にしていた。
「だから岡部、違うって。ごめん、変な言い方した。別に、そういう事を催促しているわけじゃないから」
 言葉の真意を汲み取りそこねたのか、俺の口をついた身勝手な思考を、どこまでも善良的に解釈する紅莉栖。
「だいたい、今青森に行ってもパパにはあえないだろうし……だから、無理しなくていいから」
 紅莉栖の言葉を聞き、胸の内で『確かに』と呟く。
『会える当てもないのに、行ってどうなる? それ以前に、仮に会えたとして、それでどうなる?』
 頭の中でとぐろを巻く疑問。その出発点は、紛れも無くこことは違う世界線での歴史。今さらそんな物を引っさげて、俺はどこへ行こうと言うのか?
『……馬鹿馬鹿しい』
 そう思う。そう思うはずなのに──
「紅莉栖。住所を……教えてくれ」
 中鉢に繋がる何かを、どうしても放っておく気にはなれなかった。
「ちょっと岡部、本気? でも、パパがどこにいるのかも分からないのに……」
「それでも、行けば何か分かるかもしれない」
 俺は一体、何を口走っているのだろう。まるで、心のどこかにある自分の知らない何かに急き立てられるような焦燥感。そうすべきだという使命感。どこか強迫観念にも似た何か。そんな得体の知れないものに突き動かされるかのように、遠方へ足を運ぼうとする意思が固まっていく。
「でも岡部、悪いよ……」
 紅莉栖が少し困ったような表情で瞳を揺らす。そこに、とても真っ白な想いを見た気がして、慌ててフォローを放り込む。
「勘違いの無いように断っておくが、貴様のために行くわけではない。俺自身が中鉢という男に個人的な興味を持った。それだけだ」
「あんたまた、そういう事ばっかり言って……。何そのツンデレっぷりは? 本当、反則ばっかり」
 紅莉栖が俺の横に腰を降ろし、微かに身体を寄せてくる。その、赤らんだ頬を見る限り、投入したはずのフォローは大して効果を発揮していないようであった。
「いやだから、そうではなくてだな……」
 再度訂正すべく口を開きかけるも、紅莉栖がそれをそっと遮る。
「いいって、分かった。あんたこういう時って、言い出したら聞かないもんね。でも岡部、借りは借りだから。だから、今借りてるものも、これから借りるものも、後でちゃんと返す。せめてそれくらいは約束させろ」
 もはや紅莉栖は、俺の本心を聞く耳など、持ち合わせていないように思えた。
「で、いつ行くつもりなの?」
 問いかけられ、咄嗟に返す。
「明日にでもと考えているが……」
 俺の返答を聞いた紅莉栖が、驚きの表情を作る。
「ず……随分と急ね。でも、うん。何とか予定をあわせる」
 そう言うと、ソファから立ち上がってコートを羽織る。
「お、おい助手よ、何を言って……」
「とりあえず帰って準備する。明日駅前に集合ね。時間は後でメールする」
「だからちょっと待て──」
 俺の静止も聞かず、紅莉栖はそそくさと帰宅準備を整えると、慌しくラボから出て行ってしまった。
「おおう……」
 紅莉栖を呼び止めようと差し出した右手が、虚しく空をつかむ。
『住所だけ聞いて……一人で行くつもりだったのだが……』
 だがしかし、目の当たりにした紅莉栖の様子に、今さらそんな言葉を投げつける事もはばかられ──
『何だか……どんどん話が妙な方向に流れていくぞ……』
 俺は胸のうちに一抹の不安を抱えながら、時計を見る。日の出まで、仮眠を取るくらいの時間は残されていそうではあった。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ12
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/10 22:49
     12

「ま、会えなければ、その時はその時よね。観光でもして帰ってくればいいのよ。ちょっとした小旅行だと思えば、それはそれでありなのかなって。ね、岡部もそう思わない?」
 同意を求める紅莉栖の言葉に、俺は渋い顔を作って投げやりに答える。
「……はいはい、そうでござーますね」
 そんな、まるでヤル気の見えない俺の態度を受けて、隣の席に腰掛けた紅莉栖が身体をよじって俺へと向き直る。
「ちょっと。せっかくの遠出なんだし、もう少し楽しそうにしなさいよ……」
 どこか不満げな紅莉栖の言葉。言いたい事は、分からなくもない。だがしかし、それは無理な注文と言う物であった。俺は生あくびを噛み殺そうともせず、盛大に撒き散らしながら気だるそうに肩を回す。
「何あんた? まさか私と二人で出かけるのが、不服だとでも言いたいわけ?」
 横顔に鋭い視線が突き刺さるのを感じ、俺は緩慢な口調で言葉を返す。
「誰もそんな事は言っていないだろ。ただな、助手よ。俺は思うわけだ。何もあれほど早く出発する必要など、無かったのではないのか……とな」
 しごく真っ当な意見を、列車に揺られながら俺を睨みつけている紅莉栖にぶつける。何だかんだで秋葉原を始発で立つ破目になったのだ。これくらいの嫌味を放り込んだところで、罰が当たるという事もあるまいと、そう思った。だがしかし、紅莉栖は俺の控えめな意見を、鼻で笑って吹き飛ばす。
「はっ、軟弱もの。岡部のクセに贅沢いうな。私だって昨日は寝てないんだからな」
「そのようだな。目の下にクマなど作りおって。邪悪な目つきが一段とパワーアップしているではないか、みっともない奴め」
「デフォルトでどうかしてる岡部にだけは、言われたくない!」
 ひときわ大きな紅莉栖の声が、俺の弱りきった鼓膜を貫く。睡眠不足に煽られる頭に、その響きはとても堪えた。
「だから、あれほど大きな声を出すなと……」
「だいたいね、あんたの気まぐれのせいで、こっちはギッシリ詰まってた予定をキャンセルしてきてるのよ? この新幹線代だって私持ち。だったらせめて、少しくらいは私に気を使うとかするべきじゃないの?」
 留まるところを知らない紅莉栖の主張。その圧倒するかのような勢いに気圧されながら、どうしたものかと困り顔を貼り付ける。
『寝ていないという割りに、随分と元気ではないか……』
 ずしりと重い目頭を指先で揉み解しながら、とりあえず、やたらと賑やかしい紅莉栖の鼻息を諌めにかかる。
「分かった。分かったから、少し落ち着け。俺は別に、貴様にケンカを売っているわけではない。ただ、向こうに着いたら色々と慌しくなるから、今のうちに可能な限り体力を温存すべきではないのかと、そう言っているだけではないか」
「ふざけんな。あんたが寝たら私は一人でどうすればいいのよ?」
 間髪いれずに返された紅莉栖の言葉。その意味を何となく掴みそこねて、俺は首をかしげて聞き返す。
「何を言っているのだ助手よ。一人で……だと? まさか貴様、この期に及んで『ぼっち』は寂しいとでも言うつもりではなかろうな?」
「ぼっちとか言うな!」
「謙遜するな。貴様がこれまで積み上げてきた、孤独な十八年と言う歳月は紛れもない事実だ。ならば胸を張れ、孤独な戦士クリスティーナよ」
「だから、変な肩書きを増やすな! じゃなくて、私が言いたいのは──」
「寂しくて死にそうだから構ってください。素直にそう言ってみろ」
 紅莉栖の言葉を上書きするように口を挟むと、胸倉を掴み上げられた。
「あんたって奴は……黙ってても喋ってても腹が立つ男ね……」
 顔を寄せられ凄まれる。が、俺は平然と切り返す。
「誉め言葉と受け取っておこうか」
 そして一つ、大あくび。そんな俺の態度に紅莉栖は何かを諦めたかのようにため息を付くと──
「ああ、もう何でもいいわ……。そんなに寝たいなら、どうぞ好きなだけ寝ててください」
 などと吐き捨て、腕組みをして座席の背もたれにドスンと背中を押し付ける。その振動が、連結している俺の座席を微かに揺らした。
「いいのか? 一人は寂しいのではなかったのか?」
「うっさい! 寝ろ! もう起きるな!」
 がなり立てるような大声が、睡眠不足に苦しむ俺の頭を揺さぶる。が、それでも一応は、体力温存の許可をもぎ取った事には変わりはなく──
「では、遠慮なくそうさせてもらおう」
 しれっと言い切ると、俺は重力にしたがって頭を横に傾けた。
「ちょっ!? 私の肩だぞ、勝手に使うな!」
「せん無い事を言うな。減るもんじゃなし」
「減る! 気品値が減る!」
「安心しろ。無い袖は振れない」
「無い分けないだろ!」
 眉を吊り上げ、肩のレンタルを拒否する紅莉栖。だが不思議と、乗っかった俺の頭を跳ね除けようとする素振りは見せなかった。それどころか、下らないやり取りが一段落する頃には──
「貸すだけだからな……。ちゃんと返せよ……」
 などと言って、その華奢な肩をさりげなく俺の頭に合わせていた。
「ああ、分かってる。倍にして返してやる」
 俺は小さく呟くと、ほのかな甘い香りに包まれながら、ゆっくりと目を閉じる。と──
「む?」
「はひ」
 俺の疑問の声と紅莉栖の妙な奇声が同時に響く。
「岡部、何か……ブルブルいってるんですけど……」
「ああ。ブルブルしているな」
「じゃなくて、あんたの携帯でしょうが。人の脚に押し付けてブルブルさせるな!」
「むう……」
 渋々閉じていた目をこじ開けると、俺はコートのポケットにねじ込んでいた携帯を引っこ抜く。
「ダルか……」
 文字盤に表示された文字列から、着信者名を知る。
「橋田?」
「ああ……」
 俺は短く答えると、腰を上げて席を立つ。
「ちょっと出てくる。考えてみたら、まゆりにもダルにも、何も言ってこなかったからな。一言いっておいた方がいいだろう」
「あ……うん」
 なぜだか、微かに名残惜しそうな表情を覗かせた紅莉栖から視線を外すと、俺は車両間のフリースペースへと足早に向かう。車内をすり抜けて車両の境目へと滑り込み、取り急いで受話ボタンを押し込んで携帯を耳元へ。
「俺だ」
 既にテンプレ通りと化した俺の第一声に、受話器の向こうから聞きなれた声が返ってきた。
「ああオカリン? ちょっとネット見てみ。今、面白い話題がでてるお」
 出し抜けな要望に、少し面食らう。
「どうしたと言うのだ、いきなり」
「いやね。行きつけのスレから出てきた情報なんだけどさ、今、どこぞの企業か団体が、面白い事になってるらしいんだお」
「面白い事だと?」
「そ。何でも、機密情報が外部にリークされたとかなんかで、ネットでちょっとした祭りになってるっつーか。関係者の間で、だいぶ話題になってるっぽいわけ。しかも──」
 意気揚々と語り続けるダル。その興奮冷めやらぬ声を俺は冷静に遮る。
「ダル。貴様いつからゴシップマニアに鞍替えした? というか、まさかそんな事のために、わざわざ電話してきたのではあるまいな?」
 やや問い詰めるような俺の口調に、ダルのへこたれない声が電波越しに届く。
「いや、絶対オカリンも興味ある話題だって。とりあえず、ネットつけてみ」
「だが断る」
「なぜに!?」
 俺のキッパリとした意思表示に、ダルの声が慌てた。
「絶対面白いって! このスーパーハッカーが保障するお!」
 取りすがるようなダルの言葉。しかし出来ない物は出来ない。
「面白いかどうかと言う問題では無いのだ。何せ俺は今、時速二百キロ以上で移動中なのだからな」
 俺の発言に、ダルの声がくぐもった。
「時速二百キロって何なん? ……オカリン、とうとう牧瀬氏に改造でもされた?」
「お前たちは、そう言う発想しかないのか……」
 俺はしわの寄った眉間に指先を押し当てながら、事の次第をかいつまんで説明する。
「んで、青森に向けて、大絶賛移動中だと……」
「ま、そういう事だ」
「クリスマス前の旅行とか……リア充乙っっっ!!!」
 聞こえたのは、あからさまな苛立ちを込めたダルの声だった。
「別に、リア充なつもりなど無いが」
「リア充はみんなそう言うお!」
 悲嘆にくれた叫びだった。が、ダルの口調はすぐさまいつもの調子を取り戻し──
「ま、そゆことなら、まゆ氏にはボクから言っておく」
 そんな提案をしてくれる。
「そうか、悪いな」
「いいって事だお。だがこれは、大きな借りだお。だから百倍返しを希望する。手土産は現金を所望してはばからない」
「やはりいい。まゆりには俺が伝える」
「冗談だってば。オカリン疲れてる? ノリが中途半端でね?」
「そ……そうか?」
 どちらかと言えば、妙な祭りとやらで浮き足立っているダルのノリの方に問題がある様にも思えるのだが。
「ま、いいや。んじゃさっき話したネットの件は、ラボのパソにブクマしとくから」
「ああ……そうしてくれ」
「帰ってきたら一見する事をお勧めするわけである」
「分かった分かった」
 最後に軽い挨拶の言葉を交わし、ダルとの通信が途絶える。
『リア充……ね』
 俺の現状を指摘したダルの言葉。その意味を自分の置かれた状況と照らし合わせてみる。
『状況だけを見れば、意中の異性と二人旅。確かにリア充なのかもしれん……』
 そんな指摘を素直に真に受けることができたなら、どれほど気が楽だろうか。この小旅行がただの観光目的だったなら、どれほど楽しく過ごせているだろうか。
 俺は、携帯を再びポケットにねじ込むと、ゆっくりとした動きで車両間から出る。
 紅莉栖と二人で、彼女の故郷に向けて、同じ道を歩む。
 本当ならば、それはきっと前向きな行動なのであろう。だというのに、俺の頭の中は、そんなリア充らしい展開を満喫できるような状態とは、決して言えるような状況ではなかった。
『結局俺は、どういうつもりなんだろうな……?』
 自問してみるも、やはり分かりやすい答えが出てくる気配などなかった。
『どれほど妙な事だろうと、どれほど気になろうと、全てはすでに終わった出来事ではないか。それを今さら……』
 今、自分が取っている行動。紅莉栖を巻き込んで、青森へと向かうという、この選択。そこに大きな意味などない事は、ちゃんと理解しているつもりであった。そして──
『きっと、青森へ行ったとしても、中鉢に会うことなど無いだろうし、何もわかる事など在りはしないだろう』
 きっとそうなるのだろうと、どこか予感めいたものを感じていた。だから──
『青森へ行き、何も得るものが無ければ……』
 そこで止めようと、旅立つ時にそう決めていた。
 数日前、秋葉原の横断歩道から始まった違和感。列車に揺られている時も、紅莉栖と下らないやり取りをしている時も、頭の片隅で常に幅を利かせてきた、あの疑念。そのピリオドを、青森という名の地に求める。それがどんな形の幕引きになろうとも、それ以上踏み込む事はしない。
『それで……いい』
 ちゃんとした解答。正解と思えるような何かが得られないのであれば、ひょっとしたらこの疑念は、いつまでも俺の中で燻り続けるのかもしれない。
『だが、それでも……』
 もし仮に、そんな感情が俺の中に残ったとしても、俺はそれを押し殺す。その決意を、俺はラボを出る前に固めたのだ。
 だから、紅莉栖の待つ座席目指して歩みを進める。
『全て終わったら、紅莉栖の事を考えてやらないとな……』
 そんな事を思いながら、お世辞にも繁盛しているとは言えない車内を早足で抜ける。やがて──
「どうした?」
 たどり着いて目にした光景。そこに見た紅莉栖の様子に驚く。
「あ……岡部」
 俺を見上げた紅莉栖の顔は、どこか青白く俺の目に映った。
「調子でも悪いのか?」
「んん……大丈夫、なんでもない」
 その言葉が、本心で無い事は明らかに見て取れた。
 俺は静かに紅莉栖の横に腰を落ち着ける。
「橋田、何だって?」
「いや、大した事じゃ無かった。それより、顔色が悪いぞ?」
「大丈夫だって、ほら!」
 その取って付けた笑顔に、不安定に揺れる紅莉栖の心境を垣間見た気がした。
『ひょっとして……無理して元気に振舞っていたのか?』
 明るさで塗り固めた表情を視界に捉えながら、そんな事を思う。
 考えて見れば当然だろう。これまで度々紅莉栖に心的外傷を穿ってきた男。今、俺達が向かっているその場所は、そんな男のお膝元だった土地なのだ。この現状にあれば、一番の当事者である紅莉栖が、冷静で元気一杯にいられるわけなど無いではないか。
『なるほど。一人じゃ寂しいはずだ……』
 そんな事を考えると、ここまで見てきた紅莉栖の振る舞いが、何とも痛ましい虚構だったように感じられてしまった。そして──
『同じか……』
 そう思った。終わりの見えない父親との関係。ひょっとしたら、紅莉栖もまた、そんな問題の終着駅として、青森の地を選んでいるのかもしれないと──そんな事を感じていた。
 だから、想いのままを言葉にする。
「心配するな。ちゃんとケリはつける」
 静かで力強く、そう伝える。紅莉栖は一瞬、目を見開いて見せるも──
「……分かった。期待するからな」
 何かを悟ったかのように短く答えた。そして目を閉じて俺の肩に頭を寄せる。肩から伝わる振動に、先刻までの不安定さは、もう無かった。
 紅莉栖の寝息を聞きながら、俺たちの想いは青森の地へと近づいていく。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ13
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/11 22:14
     13

『おおかた、予想通りの展開になりそうな感じだが……』
 俺は、紅莉栖が姿を消した引き違いの玄関扉に目を向けながら、細く息を吐き出す。
『やはり無駄足だったか?』
 空を見上げると、黒で塗りつぶされた瓦敷きの屋根が、冬の陽射しを弱々しく照り返している。
 古びた和風の建築物。その長い歴史を漂わせる佇まいを前にして、俺はぼんやりと紅莉栖が結果を携えて戻ってくるのを待っていた。
『まあ、この雰囲気では結果を聞くまでも無いのかもしれないが……』
 視界に捕らえる平屋建ての古びた家屋。初めて目にした時点で既に、そこに人の気配など感じられはしなかった。
 施錠されたままの玄関。庭先で奔放に伸び出した雑草の群れ。そして、建物本体から微塵も漂ってこない生活感。そのどこにも、ここ最近における人の出入りと言う物が、まるで感じられないでいた。
『恐らく……中鉢はここへ戻ってきてはいない』
 当然だろうと思った。中鉢にとっての主観。その内容を辿っていけば、奴がロシアから強制帰国させられた後で、のこのこと自宅へ戻ってくると言う状況は、いささか想像し辛いものであった。
『なにせ、あんな騒ぎを起こした後だからな……』
 紅莉栖の論文を奪ってロシアへと高飛びを試みた中鉢。奴はその直前に、秋葉原のラジカンでちょっとした傷害事件を起こしている。結果としてその事件は、『被害者不在』と言う形で有耶無耶になってしまったものの──
『しかし、中鉢はそんな事知らないはずだからな』
 だから、ロシアから帰国した後の中鉢が再び自宅へ舞い戻るという状況は、いささか起こりにくいものであるように思えた。
 傷害事件の現場に居合わせていた、自身をよく知る身内の存在。ロシア亡命の失敗で高まった、世間的な知名度。中鉢がこの場所に足を踏み入れる事を躊躇いそうな理由など、掃いて捨てるほどあるのだ。
「にしても……」
 俺は玄関から庭先にのんびりと歩みを進めながら、周囲の光景に視線を這わせる。
「どれくらいの間、放置されていたのだ?」
 敷地内の全体に広がる、伸び放題に背丈を伸ばした雑草。その群生を眺めながら、怪訝な思いで首をかしげる。
「随分と荒れているな……」
 雑草などと言う物に対して、俺は正確な知識など持ち合わせていない。だがしかし、それでも目の前に広がる荒れた庭先が、俺の推測している放置時間と少々食い違っているような印象を、何となく感じてしまう。
「中鉢が最後にここを出たのは、たぶん7月末ごろだよな? それから数ヶ月の間に、こんな荒れ方をするものなのか?」
 分からない。何度も言うが、草の伸びる速度など、俺はまったく知らないのだ。ただ、何となく腑に落ちない何かを、目の前の有様から感じ取る。そして──
『妙なのは、それだけではない……か』
 今、紅莉栖は建物の中にいる。そんな展開が可能だったという状況自体に、かすかな違和感を覚えていた。

『先に中を見てくる。もしパパが居たら、その時は呼ぶから……』

 俺にそういい残して、玄関から建物の中へと姿を消した紅莉栖。だがしかし、俺達がたどり着いた時点では、玄関の鍵はしっかりと施錠されていたのだ。それが──
「まさか本当に、植木鉢の下にあるとは……」
 鍵の閉まった玄関の前で、紅莉栖が呟いた台詞。
『私が小さかった頃は、いつも植木鉢の下に鍵を隠してたんだけど……あるわけないわよね』
 直後、何の気なしに動かした植木鉢の下から現れた、玄関の鍵。
「何のために……誰のために隠していた?」
 聞けば、中鉢は妻子と距離をとったあと、ずっと一人身であったそうな。そんな天涯孤独なはずの男が、今さら外出する事を理由に、鍵を屋外に忍ばせておく理由と言うものが、いまいちハッキリとしない。
「まったく、何から何まで、得体の知れん男だ」
 何度か見た事があるだけの、それなのによく知っている科学者崩れのしなびた男。その存在が、未だによく理解できない。
『だが……』
 庭先の中ほどで歩みを止めて、踵を返す。
『どれだけ引っ掛かろうとも、ここで何も分からなければ……この件はそれで終わりだ』
 玄関先へと戻りながら、東京を立つ前に固めた決意を、もう一度だけ強く握り締める。
『本当ならば、俺も中に入って何かないか探してみるつもりだったが……やめだ。これ以上、深入りする必要など無いはずだ』
 もう十分だと思った。
 既に全ては終わった事なのだ。だから、たとえそこに小さな違和感があろうとも、それを追求する事に、何も意味などありはしない。その事は、十分に承知済みなのである。だからこそ、もうこれ以上俺の気まぐれに紅莉栖を巻き込む事を、よしと思うことなど出来はしないのだ。
 俺に、ここで待てと言った紅莉栖。一人で玄関から姿を消した紅莉栖。その時見た彼女の青白い横顔が、視界に焼きついていた。怯えの中にあって、必死に奮い立とうとしているような意思を、肌で感じていた。
『俺の気まぐれで、またあいつに辛い思いをさせてしまったな……』
 自らの浅慮さを悔やみながら、玄関先まで舞い戻る。と、同じタイミングで引き違いの玄関扉が開かれた。
「おう、戻ったか助手よ。やはり不在だったか?」
 扉の奥に馴染みの姿を見つけ、俺は明るい振る舞いをもって、その帰還を出迎える。が──
「…………」
 俺の言葉に、まったく反応を見せない紅莉栖。怪訝に思い、再度問いかけながら歩み寄る。
「どうした? 居なかったのだろう?」
 俺がそう言った瞬間、紅莉栖の身体が力を失ったように、その場に崩れ落ちた。
「おい!?」
 慌てて駆け寄り、へたり込んだ紅莉栖の身体を抱きとめる。酷く呼吸が乱れていた。
「どうした!? 何かあったのか!?」
 状況の把握が追いつかず、ただデタラメに声を荒げる。そんな俺とは対照的に、紅莉栖は落ち着かない呼吸の隙間を縫って、短い言葉を口にする。
「……分からない」
「分からないって何だ!? まさか中鉢が中に!?」
 慌てる俺の声に、紅莉栖が否定の意味を込めて小さく首を振る。
「パパは……いなかった。でも……分からない。もう、意味が分からない……。あんなの、在り得ない……」
 その、どこか浮き足立った声色に、俺の困惑が大きく膨れ上がる。
「何があった?」
 吹き上がりそうになる不安を押さえ込み、力強く問いかける。そんな俺に、紅莉栖は震える右手を差し出して──
「それは……何だ?」
 その華奢な手に握り締められている紙束に視線を落とす。
「これは……設計理論……これは──」

 ──タイムリープマシンの設計理論──

 抱きしめているはずの紅莉栖の言葉を、とても遠くから聞いたような気がした。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ14
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/11 22:15
     14

 車窓の外を流れていく真っ黒な景色に目を向けながら、俺は隣の座席に腰掛けた紅莉栖の様子を窺う。
 青森発東京行きの列車に乗り込んでからと言う物、紅莉栖は終始無言のまま、ただひたすらに持ち帰ってきた紙束とにらみ合いを続けていた。そんな彼女の横顔にちらちらと視線を送りながら、俺は青森の地で見た信じがたい光景を思いだす。
『あれは……』
 紅莉栖と二人、連れ立つようにして訪れた中鉢の自宅。そこで見つけた、中鉢の手書きで記されている、在ってはならないはずの書類。そして──
『でたらめにも、程というものがあるだろう』
 声にすることなく、吐き捨てるように胸の内で呟く。
 震える紅莉栖にいざなわれ、踏み込んでしまった古い和風建築の家屋。その一番奥の部屋で目の当たりにした、異様な物体。その正体を紅莉栖から聞かされた時は、全身の毛が逆立ったものだ。
『見た目には随分と違いがあったが、しかし紅莉栖の見立て通りならば……』
 部屋の一つを占領せんばかりの、巨大すぎた機械の塊。俺には最初、それがなんだか分からなかった。ただ、その異様な風体を前に、気後れして絶句していただけだった。そんな俺に紅莉栖が伝えた言葉。

 ──これは、タイムリープマシン──

 その解答に、俺は耳を疑わずにはいられなかった。
『あれが本当に、タイムリープマシンだと言うのか?』
 紅莉栖の言葉を疑う事は容易い。形が違いすぎるからと、在るはずがないからと、頭ごなしに反論する事など造作も無かっただろう。だが──
『α世界線でタイムリープマシンを組み上げた本人の言葉を、どうして俺が否定できる?』
 そう思い、飲み込んだ。口の中に放り込んだ事実。それは俺の軟弱な身体に対して大きすぎる代物だった。だがそれでも、無理やり飲み込まざるを得なかった。
 それは、俺の前で身体を震わせていた紅莉栖の中に、空虚にうつろう感情を見てしまったからなのかもしれない。
『完全に、消化不良だな……』
 俺は隣の紅莉栖に悟られぬようにため息を付くと、彼女が一心不乱に目を通している書類を盗み見る。
『まるで分からん』
 紙の上に踊り狂っている文字の羅列。その、母国語とはかけ離れた並びの様に、解読に喰らい付こうとする気力すら失われる。
『せめて、日本語で書かれていれば……』
 などと考えるも、しかし例えそれが読解可能な言語で構成されていたとしても、所詮俺などにその意味を理解する事などできるはずもない──と、そんな自虐的な思いが頭をもたげる。
 俺は書類から目をはなすと、顔を上に向けて列車の天井を仰ぎ見る。視界に映る無機質な光景が、何とも分かりやすいものに見えた。だがしかし、頭の中に渦巻く思考は、お世辞にも分かりやすいものだとは言えそうもない。
『あれが本当に、タイムリープマシンなのだとしたら……』
 部屋の中にそびえ立っていた機械の塊。それは本来ならば、この歴史上のこの時代には存在しないはずの異物。
『中鉢は、どうやってあれを作った?』
 分からない。
 タイムマシンに関する見解。それをジョンタイターから丸っと引用していたエセ科学者。それどころか、娘が書いた論文の出来栄えに嫉妬し、それを持ち逃げしようとした、うだつの上がらない外道者。そんな男の手元に、どうしてそんな物があったのか、想像する事すら適わない。そして何より──
『奴は……タイムリープをしているのか?』
 やはり分からない。どれだけ考えたところで、その疑問に対する答えを導き出すなど、俺にできるはずもない。そんな事は、十分すぎるほどに自覚していた。だがそれでも、得体の知れない一人の男の辿ったであろう歴史というものが、どうしても気にかかってしまう。
 中鉢の自宅で見つけた、時代設定を無視した横暴な機械。それが利用可能なのかどうか。そして、それは利用されたのかどうか。結局のところ、天才科学者として名高い紅莉栖にすら判断する事はできなかったのだ。だから、今俺の手の内に、明確な事など何一つとしてありはしない。
『くそ……』
 煮え切らない状況が疎ましく、俺は歯噛みをしながら静かに悪態をつく。と、今まで書類の束と格闘していた紅莉栖の身体が、大きな動きを見せた。
「ああ……」
 悲痛な色の小さな呟きと共に、手にした紙束をヒザの上に押し当て、そして身体を折りたたむようにして額を紙束に押し付ける紅莉栖。
「……どうした?」
 どうしたもこうしたも無い状況だという事は、嫌と言うほどに分かっている。だがしかし、他にかける言葉が見当たらず、俺はそんな問いかけと共に紅莉栖に顔を向けた。
「信じられない。間違いなくパパの字なのに、信じられない」
 紅莉栖はうわ言のように一頻り呟くと、ゆっくりと伏せた上体を持ち上げ、そして俺に向き直る。
「岡部……判断して……。私じゃ、どうしても状況を客観的に見られない。だから、これからする私の推測を聞いて、その上で私の考えが正しいのかどうか、あんたの意見を聞きたい……」
 瞳を深く陰らせた紅莉栖の申し出。あの紅莉栖が。俺などよりも何千倍も頭の良い天才少女が、まるで懇願するような視線を向けてくる。そんな瞳を向けられたのであれば、本来なら一も二もなく二つ返事で頷き返すところだろう。だが──
「俺ごときに……そんな大切な……」
 おいそれと承諾する事は躊躇われた。だから、歯切れの悪い返事を返す。当然だろう、事が事なのだ。ただの厨二病大学生でしかない俺などには、余りにも荷が勝ちすぎている申し出であることは明白だった。だと言うのに──
「お願いだから」
 瞳の中に、強い願いを込めた紅莉栖の言葉。正直言えば、気乗りしない。だがそれでも、これまで何度も俺を支え続けてくれた彼女の思いを、むげに突っぱねる事などできるはずも無く──
「く……仕方なかろう」
 俺は渋々ながらも頷いてしまう。
 本心とは違う俺の承諾に、張り詰めていた紅莉栖の表情が少しだけ和らいだように見えた。
 そして始まる紅莉栖の話。
 彼女の言葉に耳と意識を傾ける俺は、その余りにも突飛な内容に唖然としてしまう。
「つまり……あのタイムリープマシンらしき物は、他の世界線でお前が作り上げたものよりも性能が高いと、そういう事か?」
 信じられない思いで問いかける俺に、紅莉栖は小さく頷いて見せる。
「……そのはず。もしもあの機械が、この設計理念に沿って作られているのだとしたら……私が作った48時間縛りの未完成品よりも、性能としてずっと安定した物になっているはずなの」
「そんな馬鹿げた事が……」
 信じられない発言に、俺は大きくかぶりを振る。しかし、紅莉栖はそんな俺の否定を打ち消すべく口を開く。
「でも、事実だと思う。ここに書かれてた時間跳躍に対する概念。それは、私が考えたタイムマシン理論なんかよりも、ずっと洗練されている。悔しいけど」
 俺は、狐につままれたような心境で、紅莉栖の言葉に聞き入る。
「私の作ったマシンでは、送る側の記憶と送られる側の記憶の差が大きければ大きいほど、タイムリープに失敗する可能性が高くなった。だから、成功と失敗のボーダーラインとして、48時間という縛りを設定に組み込んだ。だけど……」
 紅莉栖は再び手にした書類に目を向けながら、言葉を続ける。
「パパの書いた計画書の中では、その問題が解決されてる。送る側と送られる側で、転送する前に記憶間にある齟齬のすり合わせを行なうように設計されてた。だから、無限に……とまでは言わないけど、それでもかなり長い時間の跳躍が可能になってる」
 紅莉栖の言葉を聞けば聞くほど、考えをまとめようとする俺の思考は、盛大にとっ散らかっていく。
「冗談だろう? そんな事が可能だと?」
「何とも言えない。ただ……記憶間の誤差に対する概念は、正直、私が考えた事も無いような内容……ううん、私だけじゃない。この世界の誰もが、考えもしないような概念だった……」
  揺れ惑う紅莉栖の物言いを聞きながら、俺は湧き出た言葉をそのまま吐き出す。
「ならばそれは、中鉢が勝手に妄想しているにすぎない、眉唾な思想という事ではないのか?」
 そんな俺の意見に、紅莉栖は瞳を微かに震わせた。
「私だってそう思いたい。でも、この計画理念を見る限り、どうしても──」
 紅莉栖は一瞬黙り込み、そして何かを決意したように、重々しい口調で言った。
「この中では、その概念が『すでに確定されている事実』のように、表現されている」
 紅莉栖は言う。
 中鉢の直筆だと思しきタイムリープマシンの設計書。その中で『記憶の齟齬』に関する概念は、あたかも周知の事実であるように扱われているのだと。そして、そんな表現は『記憶の齟齬』だけに関わらず、他の部分にも度々見受けられれているのだと。
「時間の流れ方に対する見解や、瞬間的な質量の保存。そして何より、光の速さを越える粒子の存在。そのどれもが、誰でも知りうる事が出来るような情報として扱われてる」
 紅莉栖が立てた、余りにも常軌を逸した発言に、意識せずとも声が荒立つ。
「馬鹿馬鹿しい! 光の速さを越える物質だと!? それでは相対性理論はどうなる? かのアインシュタインが提唱した理論を、蔑ろにするつもりか!」
「少なくとも、この書面の中では、相対性理論はすでに崩壊していた。それどころか、そのエキゾチック物質が飛行する具体的な速度まで数値として記述されてる」
 その言葉に愕然とする。が、紅莉栖の言葉は止まらない。
「だから、パパの書いた理論では、タイムリープにカーブラックホールを必要としていない。その粒子を利用してのタイムトラベル理論が元になってるから……」
 酷く、口の中が乾いていた。
「そんな……そんな事が、あるわけが……。もしそれが全て真実だとしたら、それは現代の科学技術の水準を遥かに上回っている。それではまるで……」
「そう、それはまるで──」

 ──オーバーテクノロジーそのものなのよ──

 戦慄く俺の言葉を遮った紅莉栖の意見。その意味に、背筋が凍りついた。
『オーバーテクノロジーだと?』
 それは、現代科学の技術では、到底表現する事の適わない、遠い未来の技術や知識。一般的な常識の範疇ならば、それは嘲笑される的となりえるはずの世迷い言。
 だがしかし、これまで多くの経験を共にしてきた俺と紅莉栖には、そんな絵空事を鼻で笑い飛ばすことなど出来るはずがなかった。
「だから……パパはきっと……」
 紅莉栖の声が、小さく震える。俺の思考が頓挫する。
 まるで、とても強い感情を無理やり押し込めようとしているような、小さくて激しい心の揺れ。そんな紅莉栖の振る舞いに、俺の目は釘付けになる。
「パパは……未来からタイムリープしてきたんだと……そう……思って……」
 たどたどしく紡がれる推測。揺れ幅を増やし続ける悲痛な声。
「歴史……を……変えるために……。失敗の歴史を……塗り替えるために……」
 紅莉栖の言葉を聞いた瞬間、俺の中にいつかの記憶が蘇る。
『まさか……』
 死に物狂いで紅莉栖を救い出した日。忘れる事など出来ない、短い夏の果てにたどり着いた執着駅。それは、俺にとって何物にも変えがたい一幕で、そして──
『中鉢にとっては……人生最大の汚点』
 馬鹿なと思った。いくらなんでもと、そう思った。だがしかし、紅莉栖の震える声が、そんな俺の思いを否定する。
「パパなら……やるかもしれない。あの日が気に食わないからって……取り付かれたみたいに……全てを犠牲にしても……」
 紅莉栖の手が足が、大きく震え出す。俺は、何もする事が出来ず、呆然とその姿を視界に焼き付ける。
「きっと……ロシアへの亡命を……そのために私の論文を……もう一度奪おうって……」
 崩れ落ちるように上半身を塞ぎこみ、自らの膝に顔を埋める。そして──

 ──私のパパは、そういう事をする!──

 俯いたままで、途切れそうな絶叫を吐き出す紅莉栖。それ以上、彼女の悲痛な声を聞き続ける事は、どうしても耐えられなかった。
「結論を出すな! まだ、そうと決まった分けではない!」
 俺は紅莉栖の両肩を強く掴むと、力ずくで上半身を起き上がらせる。ふせっていた紅莉栖の瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。
「じゃあ何よ!? 私の推測間違ってる!? 間違ってるの、ねえ!?」
 その、取りすがるような心細い感情に、出すべき言葉が見当たらない。
「お願い! 否定してよ岡部! 論破してよ、私の考えが間違いだって!」
 否定できるだけの根拠がなかった。だから、何も言えなかった。
『ぐ……』
 奥歯を噛みしめる。
「怖い……怖いよ……。いつかまた……世界線が変わるとか……もう嫌だよ! 一緒にいたいだけなのに、何でよ! 何でパパまで!?」
 瞳を震わせ、身体を震わせ、心をどこまでも震わせ続ける天才少女。俺は彼女を強く抱きしめながら──
『……違う』
 何かを感じていた。
『何かが違う……。紅莉栖の推測は、何かが間違っている……』
 それは、論理性など欠片も見当たらない、ただの直感だった。その思いに、根拠などなかった。だがそれでも、今まで見た事も無いほどに取り乱す紅莉栖を前に、俺は必死にその直感にしがみ付く。
「それは違っ──」
 言葉が続かなかった。
『何と言えばいい!?』
 俺の中に渦巻く感情。紅莉栖の求める俺の否定。だがしかし、それを言葉として伝える方法が、どうしても分からない。
 天下に名高い天才少女。そんな彼女を心底震え上がらせている、理路整然とした状況の把握。そんな完璧すぎる何かを正面に見据えながら、俺は余りにも無力であった。
「岡部! 何か言ってよ!」
 嗚咽交じりの悲鳴じみた声が、鼓膜を激しく強打する。俺は紅莉栖を抱きしめたまま、心の中で絶叫を上げる。
『中鉢! 貴様は何を考えている!?』
 激しい咆哮が頭の中を駆け巡る。が、顔には出さない。激しく取り乱している紅莉栖を前にして、それだけは絶対に許されない。
 青森へと向かう前、この遠征を最後に、全ての疑問に終止符を打つつもりだった。そして紅莉栖もまた、この小旅行を最後に、父親への未練を断ち切るつもりだったのではないかと、何となくそんな事を考えていた。
『だから俺は……』
 例えそこにどんな答えが待っていようとも、全てを飲み込んで、この物語にピリオドを打つつもりでいた。だというのに──
『こんな物で納得など……』
 納得など出来ない。こんな終わりなど、俺も紅莉栖も望んでいない。
 自分と紅莉栖を取り巻く、得体の知れない状況。そして、紅莉栖の推測に感じた、否定的な直感。それを噛みしめ、声にならない唸り声を上げる。
『中鉢!』
 そして蘇る、幻想の中で見た初老の男。夜の秋葉原で再開した、幻の中の男。
 そのとき見た男の姿を──
 そのとき聞いた男の言葉を──
 強く強く噛みしめながら、俺は紅莉栖を抱きしめ続ける。それだけが、今の俺にできる唯一の事だった。
 そして、俺の憤りと紅莉栖の慟哭を乗せた列車は、足を止めることなく物語の終着駅へと近づいていく。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ15
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/11 22:15
     15

 ソファの上で眠り込んでしまった少女の顔を眺めながら、俺は小さく息をつく。赤味がかった髪の色が、冷え切ったラボの中で、俺の目にはとりわけ暖かに映った。
「紅莉栖……」
 青森からの帰り道。新幹線の中で、自らの立てた推測に激しい動揺を見せた紅莉栖。それからの彼女が見せた、気丈さを前面に押し出した振る舞いを思い出すと──
『大した根性だと言うべきなのだろうな……』
 つい、そんな事を思ってしまう。
 過去が変わってしまうかもしれない。自分の父親がそうしてしまうかもしれない。そんな憶測を口にしながら取り乱し、俺に「否定しろ」と「論破しろ」と詰め寄った紅莉栖。だがしかし、そんな紅莉栖らしからぬ動揺も一時のもので、程なくするとその表情にはいつもの冷静さが舞い戻っていた。
 その平然さを模った表情は、新幹線を降り、列車を乗り継いで秋葉原を目指す最中も変わることはなく。だから、ラボへと繋がる夜道には、彼女の立てる凛とした靴音が響き続けていた。だがしかし──
『頑張りすぎなんだよ、お前は……』
 ラボにたどり着いた途端、崩れ落ちるように床に腰を落とした紅莉栖。これまで台頭していた毅然とした表情は鳴りを潜め、代わりに姿を現したのは、追い詰められたように青ざめて震える怯えた少女の顔。
『無理もない……』
 ラボの玄関をくぐった瞬間に、小さく嗚咽を響かせ始めた気丈な少女。俯いて俺の腕に取りすがり、「離れたくない」と「もういやだ」と、うわ言のように同じ言葉を繰り返す。そんな年下の少女を抱きしめたのは、目にした姿が余りにいたたまれなく思えたからなのだろうと、今さらながらにそう思う。
 だから、ソファの上から聞こえてくる静かな寝息に、今はせめてもの救いを感じている。俺の腕の中で、泣き疲れるようにして眠った紅莉栖。そんな彼女が、今だけでも小さな安息に浸ってくれている事を祈る。
『もっとも、それでどうなる分けでもないのだがな……』
 俺は小さくため息を吐き出すと、床に直接腰を降ろしてソファに背中をもたれさせる。
 紅莉栖と共に訪れた青森。そこで見つけてしまった、存在してはいけない機械。そして、時代設定にそぐわない、知り得るはずのない知識。
『中鉢がタイムリープ……か』
 それは、目にした全ての状況を加味した上で、紅莉栖自らが導き出した推測。
 紅莉栖は言っていた。自分の父親が、過去に犯した失敗を塗り替えるため、遠い未来からはるばる時間を遡ってきているのかもしれないと。そして俺もまた、そんな紅莉栖の意見が、的を大きく外しているとは思えないでいた。
『オーバーテクノロジーとは、またご大層な話ではないか』
 中鉢の手書きで記されていた書類の束。その中に、無造作に組み込まれていたらしい、未知の知識。その原因を辿っていくと、紅莉栖が立てた『中鉢タイムリープ説』と言う物は、確かに理に適っている物のようにも感じ取れる。だがしかし──
『例えそうだったとしても、それで俺たちが大騒ぎをする必要など、あるのだろうか?』
 今の俺は、紅莉栖が口にした推測を前にしながら、どこか危機感とは程遠い、安穏とした考えを揺らしていた。
『確かに……』
 確かに、新幹線の中で紅莉栖から始めてその推測を聞かされた時こそ、背筋が凍りつくような感覚に陥った。だが、今こうして冷静に思考を走らせてみると、紅莉栖の立てた推測に対して大きな脅威を感じる事はなかった。なぜなら──
『紅莉栖の推測が正しいのならば、中鉢の目的はあくまでも『航空火災で焼けてしまった論文』の保護という事になる』
 ならば、中鉢がその過去をどう塗り替えようとも、それで起こる変化に俺や紅莉栖は無関係のはずなのだ。だから──
『仮に中鉢の目論見が成功したとしても、俺たちの身辺に大きな変化など起きはしない』
 そう考えるのも当然だろう。結果として、中鉢は娘の手から論文を奪い去る事に成功しているのだ。ならば、7月28日の俺たちに対して、中鉢が何かしらの変化を求める必要性など、どこにもありはしない。
 だからこそ、中鉢がオーバーテクノロジーを駆使して目的を成就しようとも、その事を大した脅威だとは感じられないのだ。もっとも──
『回避したはずの世界大戦が再燃するという可能性はあるかもしれないが……』
 いつかの世界線で、俺に救いを求めるために過去へと飛んできた、軍服姿の少女を思いだす。
『もし、そうなったら……鈴羽、すまん』
 心の中で、届くはずのない詫びを小さく響かせ──
『いや、やはり世界大戦も起きはしないか』
 と、胸で呟きかけた謝罪の言葉を引っ込める。
『中鉢の自宅に、タイムリープマシンがあったのだ。ならば、奴の計画は難航していると考えるべきだろう』
 遠い未来でタイムリープマシンを作り出し、過去を変えるために時間を遡ってきたかもしれない男。そんな男の自宅で見つけた、タイムリープマシン。それの意味するところを考える。
『タイムリープは記憶だけの跳躍。物質を持ち運ぶ事はできない。ならば、青森で見たアレは、未来で中鉢が作り上げた機械では無く、時間を遡った中鉢が新たに作り直した代物だという事だ』
 では、どうして中鉢は、遡った先の時代でもタイムリープマシンを作り上げたのか? 答えは至って単純であった。
『中鉢は過去を変えるために舞い戻ったものの、それに失敗した。だからまた作って、再び挑戦を繰り返そうとしている……?』
 そう考えるのが自然では無いだろうかと、そう思った。そして、初老の男性が悪戦苦闘する様を思い描くと、いつかの自分の姿が湧き上がる。
 おぞましい歴史を見せつけられた、あのα世界線。繰り返し死んでしまうまゆりを救うために、俺は紅莉栖が作り上げたタイムリープマシンで何度も何度も世界線に挑んだ。
『だが結局、俺は世界線の収束に勝てなかった。ならば中鉢も、この世界線の収束にもてあそばれているのかもしれない』
 ありえないことではないと思う。現に、俺はあれからリーディングシュタイナーを観測していない。ならば、あれ以降、少なくとも世界線のダイバージェンスは大きく動いていないはずなのだ。
『歴史を変えようと、過去に戻った。だがしかし、世界線の収束に阻まれ、その計画は今でも頓挫し続けている』
 もっともらしい展開だと思う。紅莉栖の推測どおり、過去に手を加えようとしている中鉢。だが結局上手くはいかず、そしてそれは、これから先も上手くはいかない。
『この世界線では、それが確定している歴史……なのかもしれんな』
 それが、『第三次世界大戦の不発』に起因しているのか、はたまた『論文が失われる』事や『中鉢の亡命失敗』に根ざしている事なのかまでは分からない。だがそれでも、この世界線の意思が、中鉢の望みを門前払いにしているのではないかと、そう思う。そして──
『やはり、中鉢のタイムリープは、脅威にはなりえない』
 そう、結論付ける。
『……まったく。あの時、すぐにこの話を紅莉栖に聞かせてやれればよかったのだが……』
 列車の中で、俺に「否定しろ」と「論破しろ」と取り乱した紅莉栖。もしもあの時、すぐにこの考えを口にする事が出来ていたのなら、紅莉栖の不安を少しでも和らげてやる事も出来たのではないかと、少しばかり悔やむ。そして、これこそが紅莉栖の推測に感じた違和感の正体なのだと──
『いや……違う……』
 何かが違うと思った。
『あの時感じた違和感は、こんなものではなかったはずだ』
 俺は、掴んだ結論を掲げる事を躊躇い、その解答から手を放す。
 東京へと向かう新幹線の中。そこで聞かされた紅莉栖の推測。そして湧き上がった違和感。
『俺は、何を感じていた?』
 その時受けた感覚。その正体が気にかかり、俺は必死に記憶を呼び起こす。その時湧き上がった感情の正体を求めて、どこまでも真っ直ぐと思考を向ける。
 そして、気が付く。
『紅莉栖の推測に感じた違和感は……ラジカンの前で感じたものと……良く似ていた気がする』
 それは、冷め切った缶コーヒー片手に、俺の足をラジカン前の横断歩道に釘付けにしていた疑問。その疑問の出所が、紅莉栖の推測に対する疑問と、なぜか重なっているように思えた。
『ラジカン前での違和感。その正体は……おそらく俺の知らないα世界線での記憶……』
 それは、紅莉栖が俺に話したリーディングシュタイナーに対する仮説。俺の主観にも、抜け落ちている記憶があるのだと言い、俺を『観測者』として不完全であると断言した時の、紅莉栖の理論。
『α世界線での……記憶』
 俺は床から腰を持ち上げると、ラボの片隅に置かれたパソコンに向かって、ゆっくりと歩みを進める。
『紅莉栖が持ち込んだ画像ファイル。あの五枚は、全てα世界線での記憶のはずだった。だがそこに、出会っていないはずの中鉢が紛れ込んでいた……』
 パソコン前までたどり着き、指先で電源ボタンを押し込む。程なくモニタに現れる、見慣れた画面。マウスを手に取り、目的の画像へと操作を進めながら──
『あの時、中鉢は……』
 昨夜経験した、現実味に欠けた出来事を思い起こす。
 夜の秋葉原で俺を飲み込んだ幻影。そこに見た景色は、紛れもなくα世界線のそれだった。そして、その中に姿を現した一人の男。その理由を、その歴史の流れる様を、頭の中で思い描く。
『中鉢はあの時、俺に何を伝えた……?』

──頼みたい事がある──

 幻が伝えた言葉。それを見て湧き上がった感情。その真の姿を求めながら、モニタに現れた画像の男に目を向ける。そして、感じる。
「やはり……違う」
 湧き上がった言葉を、そのまま口にする。それは理屈ではなかった。
『中鉢……あの男は……』
 紅莉栖は言っていた。
 自分の父親ならば、そういう事をするだろうと──
 自分の失敗を帳消しにするために、再び娘の手から論文を奪い取りに来るだろうと──
 途切れそうな絶叫で、悲痛な思いを迸らせていた。だが、俺は思う。
『間違っている……。間違っているぞ、紅莉栖……』
 それは理屈ではなく、ただの感情だった。だがそれでも、そんな感情に任せた思いは、先刻までの順序立てされた考えを押し流して、俺の中に何かを芽生えさせる。

 ──伝えねば──

 紅莉栖に向けて、何かを伝えなければならないと、激しい衝動に駆られた。
 使命感にも似た思いが、俺の足を動かす。本当は、彼女が目を覚ますまで、ゆっくりと寝かせておくつもりだった。だと言うのに、俺の足は止まることなく眠り込んだ紅莉栖の側まで進み続ける。湧き上がる衝動に後押しされるかのように、艶やかに伸びた長い髪にそっと手をのばし──
『何を伝えるというのだ?』
 それが分からなかった。微かに残っていた理性が、衝動に抗って俺の手を止める。
『何だ……何なんだ、この感情は……』
 寸でのところで止まった自分の手が悔しかった。そんなわけの分からない理由で、奥歯を強く噛みしめる。
『ここまで来て……ここまで来ているというのに……』
 衝動と理性の板ばさみ。俺の顔が苦悶の様相を模る。伸ばした手が、俺と紅莉栖の間で小さな往復を繰り返す。
『何がある……そこに、何がある……』
 記憶の奥底に薄っすらと見えるもの。その正体を求めて、俺はこれまで以上に神経を研ぎ澄ま──
「んお!?」
 驚いて小さな悲鳴を立てる。ポケットの中で鳴り響く携帯電話の音に、伸ばしかけていた手が、思わず引っ込む。
『まだ早い! 起きたらどうする!?』
 まだ、紅莉栖に伝えるべきものが見えていない。準備は整っていないのだ。俺は慌ててラボの隅へと移動しながらポケットから携帯を引っこ抜く。
「だ、誰だこんな時間に!?」
 声を抑えて、電話の主を批難する。と──
「おんやぁ? その様子だと、マジで牧瀬氏と事に及んでいる最中だったと推測するわけだが」
 聞きなれた声で、とんでもない推測が飛んできた。
「ダ、ダルか!? こんな時間に何のようだ!?」
「あ、いやごめん。本当に最中だったとは思わなんだ。えっと、またかけ直すから……」
 何だか、物凄い勘違いをされている気がした。
「何を言っている! 最中ってなんだ!?」
「いや、R18タイムかと」
「ふ……ふざけるな!」
 思わず声を大にして、慌てて紅莉栖の様子を窺う。どうやら、今の声で目を覚ましたという事は無いようだった。紅莉栖の寝息が、小さくラボに響き続けている。
 俺は安堵の息をつくと、ダルに向けてそれが誤解である事を説明する。
「んじゃ何? 牧瀬氏パパには会えずに、すごすご帰ってきてると?」
「し、仕方なかろう」
「二人で青森まで行って、泊りもせず日帰り。オカリン……GJ!」
「余計なお世話だ」
 一通り、からかわれた。正直、そんな戯言に付き合っているヒマなど無いのだが、それでも不思議なもので、聞きなれた声と手馴れたやり取りに、張り詰めていた心の中に、少しだけ余裕が生まれる。
「ま、オカリンの弛まぬヘタレっぷりについては、明日ラボで詳しく聞くとして。それよりもさ、ラボに戻ってんならアレ見てみるといいお」
「あれ? あれとは何だ?」
「言ったっしょ? どっかの企業か団体が、面白い事になってるって」
 ダルの言葉を聞き、青森へと向かう列車の中で交わした電話でのやり取りを思いだす。
「すまんが、今、そんな余裕は無い」
「そう言わずに。オカリンの大好きな陰謀説だかんね。しかも、けっこうな信憑性があるってんで、今じゃ『これヤバくね?』ってなってるつーか。マジ、スレの祭りもでかくなってきてるし。ま、本家は日本じゃないから、こっちの騒ぎは完全に蚊帳の外だと思われ」
「……日本じゃない?」
「そ、フランス。さっき情報出たばっかだけど、槍玉に上がってたのがSERNだって話が出てきたお」
 ダルの発言に含まれていた固有名詞。その言葉に思考が弾ける。
「せ……SERNだと!?」
 俺の驚きを、ダルが肯定する。
「んで、そんな話し聞いたら、タイムマシンスレの住人としては放置しかねるっつーか、もう、オカリンに電話するしかないっつーか」
 朗々と語り続けるダルの言葉に、電話を持つ俺の手が微かに震える。
「ま、とにかく見てみなって。パソにブクマってるから、すぐ行けるし。あ、でもそのブクマ、もう過去ログか。ま、とにかくそゆ事で」
「おいダルっ!?」
 呼び止めようとするも、ダルは一方的に電話を切ってしまった。通話終了を告げる機械音を小さく聞きながら、俺は導かれるようにパソコンの前へと舞い戻る。そして、デスクトップに貼り付けてあったネットサイトのブックマークを見つけ出すと、そのアドレスを辿る。
 モニタに現れた過去ログと思しきその内容に、素早く目を走らせながら絶句する。
『ば……馬鹿な……』
 話題の中心に添えられているもの。それはダルの言葉が示すとおり、某研究機関に対する下らない陰謀論であった。
『なぜ……こんな事に……』
 大本の情報源は、フランスの匿名掲示板らしい。そこに投下されているらしい情報が、どうやら和訳されて日本の掲示板にも張り出されているようであった。
 俺は、漁るようにして書き込まれている文字列を追っていく。
 その中には、ある研究機関が、独自に『小型ブラックホール』の生成をなしえていた事。それを利用しての、時間跳躍実験が繰り返し行なわれている事。そして、その過程の中に、非人道的な実験が含まれている事。そんな内容の文章が、絵空事のように書き込まれていた。そして──
「エシュロンだと……」
 それは軍事利用を目的とした通信傍受の設備機器。それは、科学分野の都市伝説としての有名どころ。そして──
『あの夏の、全ての切欠……』

 ──牧瀬紅莉栖が、何者かに刺されたようだ──

 ダルに当てた一件のメール。意図せずDメールと成り果てた、そんな一文。その存在をSERNに捕捉可能とした機械。
 そんな眉唾代表のような存在までもが、フランスの掲示板には書き込まれているらしかった。それどころか──
『実際に研究機関のサーバーをクラックして、エシュロンが捕捉している第三者のメールを、独断で公開までしたのか……?』
 普通なら、よくある陰謀論であろうつまらない話題。そんな物に類まれな信憑性を与えているのが、公開されている膨大な数の傍受メールとその内容。そして、それに送り覚えがあるという数名の書き込み。そんな第三者の反応を得て、騒ぎは一気に巨大化していったようであった。
 俺は過去ログを読み終えると、現行と思われる場所を見つけ出して、再び読み漁る。
『この時点で、SERNだと特定されている……』
 そしてスレに浮かび始めた、古いパソコンの型番。SERNの特別隔離サーバーに格納された情報を解析できる、特別な機械。それを話題の火付け役らしき人物が所持している事が、ネット上で明かされていた。
「信じられん……。ラウンダーの事にまで、触れているのか……」
 組織名や構成員までは明かされていないらしい。だがそれでも、古いPCを回収するための下部組織が存在し、その組織の活動内容にもまた、非人道的な行為が含まれている旨までもが、ネット上に晒されているようであった。
「誰かが……SERNを潰そうとしている?」
 そう思わずにはいられない。その人物は今、フランスにあって、巨大な組織を相手に奮闘を繰り広げているかのように、俺の目には映った。
「一体、誰が……?」
 当然沸いてくる疑問。だが、その答えはすぐに知れる。
『光の速さを越える粒子の存在……だと?』
 その誰かは、SERNの人道から外れた研究を停止し、先日、タイムトラベルに対する研究方向の変更を持ちかけたのだと明かしているらしい。そして、そんな存在しないはずの粒子の具体的な検出方法までも、研究機関に向けて示唆した事を告げていた。だがそれでも機関側の態度は変わらず、それを見かねて情報漏洩に踏み切ったのだと、そう告げていた。
 無論、大多数の見物人たちは、その突拍子も無い意見に後ろ向きな姿勢を示している。当然だろう。今、この時代において、アインシュタインの提唱した相対性理論は、絶対なのだ。
 だがしかし──
『まさか……』
 頭の中に、一人の男が浮かび上がる。
『まさか、そんな事が……』
 信じられない思いで、画面を食い入るように見つめる。
 そして、全てを読み上げた俺に分かった事。それは──

 ──岡部君。君に頼みたい事がある──

『何をしているのだ……。あの男は、何をしようとしているのだ!?』
 微かに湧き上がる、失われた記憶の続き。激しい混乱に苛まれながら、俺は頭を抱え込む。
『俺は、何を頼まれた! あの時、中鉢は俺に何を頼んだ!?』
 俺の知っていたはずの、学者崩れの一人の男。牧瀬紅莉栖を娘に持ち、学会から追放され、家族から見放され、たった一人でマッドサイエンティストとしての道を駆け抜けていた男。そして、娘の才能をねたむあまり、その命に手をかけようとした男──
『違う』
 もう一度だけ、反芻する。
 そう、違っていたはずではないか。俺の認識は、間違っていたのだと、さっき気付いたばかりではないか。
『奴は……何のためにタイムリープを……?』
 分からなくなった。目前にぶら下がった状況の何もかもが、理論的な思考を拒絶する。そして、画面の中に見つける、ありえないはずの言葉。その極めつけの単語に、頭がどうかしてしまいそうになる。
『ディストピア……だと』
 もう、驚きを口にする事すら適わなかった。
 定期的に投下され続けている、匿名の書き込み。その文章の中に、不意に現れたらしい意味不明の単語。ネット上では、その言葉が何を指し示しているのか、在ること無いこと、憶測ばかりが飛び交っている。だが、そんな単語の意味を、俺は嫌と言うほどに知っていた。
 それは、この世界線には決して存在しないはずの言葉。まゆりが死に、生き残った俺達もSERNに囚われてしまうはずの未来。そこでしか実現しないはずの陰謀。そんな物が、この世界線の中に紛れ込んでいるという事実に、気を失いそうになる。

 ──リーディングシュタイナーは、あくまでも人間としての能力の範疇にある──

 いつか聞かされた紅莉栖の言葉が、これ以上ないほど明確に思い出された。そして同時に、俺が失ったはずの経験。その切れ端までもが、芋づる式に地中深くから引き抜かれる。

 ──この闘いの全てに決着が付いた後、もしも君が私との出会いを覚えていたのなら──

 地表に顔を出し始めた記憶の欠片。妄想の中で模られていく、震えるような激しい想い。必死に押さえつけている理性が、大きな突風に晒されて激しく揺れ惑う。
 何を信じて、何を疑えばいいのか分からない。既に判断基準など崩壊している。だがそれでも──
『紅莉栖。お前の父親は……』
 未だ眠り続けている少女に目を向ける。そして頭の中に、揺らめきながら湧き上がる、短い一言。

 ──娘に伝えて欲しい──

 膝が笑い出す。意識の外で再生された、聞き覚えの無い言葉。その響きに、身体の感覚が遠のいていくような感じを受ける。
『俺は……約束した……?』
 分からない。思い出せない。だがそれでも──
『あの男の言葉に……俺は頷いた』
 浴びせられた願いに対して、その時自分が取った行動。その結果だけは明確に自覚できる。それもまた、理屈などではなかった。だから、たどり着く。
『観測者は、俺一人ではなかった。……そういう事か』
 馬鹿馬鹿しいだろうか? 荒唐無稽だろうか?
『だったら何だ』
 神から与えられし、特別な能力。それを否定した、紅莉栖の仮説。そして、この世界を駆け回るディストピアの文字。
 薄暗いラボの中を微かに照らす、モニタの明かり。そこにしたためられた一人の男の現状を、食い入るように見つめる。
 俺の長かった夏。繰り返し世界に翻弄され続けた俺の戦いは、あの7月28日に紅莉栖を救い出した事で、幕引きを終えている。だがしかし──
『奴の戦いは、まだ終わっていない……』
 そう思った。
 何度も言う。全ては直感。理屈も理論も、そこにはない。だから、全ては俺の妄想なのかもしれない。全ては、いつか見た夢の中での経験なのかもしれない。だがそれでも──
『俺はまだ、あの時の約束を果たしてはいない』
 だからこそ、約束を果たさねばと、どうにもならない程にそう思った。その決意に、ほんの少しの理屈も必要ではなかった。
『何を伝えればいい。紅莉栖に、何を伝えろというのだ?』
 記憶の断片。その尾びれを掴んで、力任せに引き寄せる。だがしかし、つかみかけた切れ端は、繰り返し俺の手からすり抜ける。
『どうして思い出せない!』
 歯噛みする。
 妄想の中で感じた想い。その言葉に込められた、きっと下らない想い。その存在を頑なに信じ、見えない何かを手探りで捜し求める。
 頭の中で、力なく優しげに微笑む初老の男性。そのしわくちゃな顔が吐き出した言葉に、目尻を吊り上げて思考を手繰る。だが、どうしても思い出せない。
「くそっ!」
 悔しさだけが吹き上がる。自らの不甲斐なさに、涙が滲む。
 世界線の移動と共に失われる記憶。それを自在に操れない事実に、嗚咽が漏れる。
『紅莉栖に伝えねばならない。だがそれ以前に、俺が──』

 ──俺自身が、全ての真実を知らなければならない──

 そんな衝動が、頭の中を占拠する。俺は紅莉栖の寝息が届く席へと舞い戻り、床に腰を据える。そして深く考えこむ。
 太陽が、ゆっくりと東の空へ昇り始める頃、紅莉栖は静かに目を覚ます。そして、それを涙と共に待っていた俺の中には、無理を通して道理を引っ込めるような、そんな馬鹿げた計画の実行が、決断されていた。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ16
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/12 22:20
     16

「自分が何言ってるか、分かってるの岡部!?」
 企てた計画を話し終えた俺の耳に、顔色を変えた紅莉栖の怒声が鳴り響く。
「ああ、分かっている」
 目を閉じたまま、俺は手短に言葉を返す。その答えに、紅莉栖の語気はさらに跳ね上がる。
「全然分かってないじゃない! 何のつもりか知らないけど、あんたのやろうとしている事は単なる自滅行為よ!?」
「……かもな」
 紅莉栖の言葉が、至極、真っ当な指摘なのだという事はよく分かっていた。だがそれでも、これからやろうとしている馬鹿げた真似を取り止める気など、毛ほどにもない。だから──
「それでも、気になってしまうのだ。仕方なかろう」
 愛想の無い口調で、そんな言葉を口にする。
「仕方ないって何よ! パパの理論がデタラメだったら……私の理論が間違ってたら、どうするのよ!」
 ゆっくりと目を開きかけ、そこにいたたまれない程に必死な紅莉栖の形相を見て、俺は耐え切れずにまぶたを閉じなおす。ヘタレ代表の俺などには、とても正視し続ける事の出来ない光景だった。
 そんな俺を相手取り、紅莉栖は荒げていた声を一度落ち着ける。そして今度は、諭すような声色で言葉を続ける。
「いい岡部、よく聞いて。あれはただの仮説なのよ? まだ、ちゃんとした確証なんてない。パパの理論だってそう。オーバーテクノロジーなんて、全て嘘っぱちかもしれない。だから、何と言われても私は協力する気なんて無い」
 それは、余りにもはっきり向けられた、彼女の意思。俺は言う。
「大げさに考えるな。いつもやっていた実験と同じ。いつもと何も、変わりなどしない」
 それはまるで、口にした計画を他愛の無い日常生活の一部だとでも言わんばかりの俺の言葉。そんな物言いに、紅莉栖が呆れたような声を出す。
「どこがよ。無茶にも程って物があるでしょ……」
 その、微かな震えを押し殺すような響きに、今度こそ俺はまぶたを開く。そこに見えたのはやはり、顔を不安に歪ませた紅莉栖の姿だった。俺は静かに口を開く。
「無茶か。確かに、その通りなのかも知れん。だが……だからこそ、お前に頼んでいる」
 俺の立てた、無謀な計画。それを実践し、その上で成功させられる人物など、この世で紅莉栖を置いて他に無い。だからこそ、俺は紅莉栖の瞳を真っ直ぐと見つめ返す。
「そ……そんな目で見たって……出来ないものは出来ないから……」
 紅莉栖を正面に据える。その眼差しは、いつものようなフザケ半分の高飛車なものでも、ましてや自らの苦境を嘆いてのものでも無い。ただそこに、深く刻み込んだ決意だけを携えて、俺は紅莉栖を見続ける。
「たのむ……紅莉栖」
 真っ直ぐと、想いを伝える。
「酷い事を言っている事は分かっている。とんでもない重荷を、お前に背負わせるかもしれない事は、十分に承知している。それでも俺は……お前だからこそ頼んでいる。だから──」

 ──俺の記憶を、改造してくれ──

 俺の言葉に、紅莉栖の肩がビクリと震えた。
 俺が紅莉栖に向けて伝えた計画。それは至って単純なもの。先日、紅莉栖の提案でハードディスクに取り出した俺の記憶データ。その配置を任意に操作した上で、再び俺の脳内に上書きしなおすという、余りにも下らない目論見。
 そして、そんな机上の空論も裸足で逃げ出すような計画を、現実可能だと思わせるだけの条件も揃っていた。
 すでに、他の世界線で確立されている、記憶データの上書き技術。それに加えて、紅莉栖の唱えたリーディングシュタイナーに対する理論と、記憶配置に対する分布基準。さらには、青森から持ち帰った中鉢の書類にあった『記憶間の齟齬に対するすり合わせ』の概念。
 その全てを組み合わせる事が出来るのならば、俺の立てた計画は──

 ──そりゃ、出来ない事はないだろうけど──

 目を覚ました紅莉栖に、中鉢のタイムリープが俺たちにとっての脅威とはならない無い事を見せ掛けの理論で説き伏せた後、だまし討ちするように投げかけた俺の問いかけ。『そんな技術は、実現可能だろうか?』と、世間話でもするように放り込んだ疑問の言葉。その質問に──

 ──でも、どうしてそんな事を聞く、岡部?──

 何も知らずに正直な感想を述べた紅莉栖。その素直さに後ろめたい感情を抱えながらも、俺の望みが揺らぐ事は無い。
『全て上手くいけば、再びあの時の記憶を──』
 取り戻せるかもしれない。
 今、俺の主観から抜け落ちている、俺の知らない世界線での経験。そして、伝えなければいけない何か。渇望してやまない、想いの正体。
 そんな物を求めて、俺は紅莉栖に無理難題を吹っかけている。完全な観測者となる。そんな俺の我がままが、紅莉栖の顔から笑顔を奪い去っている。独善的な俺の想いが、今、紅莉栖を辛い目に合わせている。
『だが、例えそれでも……』
 決意は変わらない。俺は感じてしまった。だから揺るがない。
『きっと……俺はあの男に、借りがある。言葉に言い表せない程に大きな、とても大きな借りがある』
 そこに、根拠などない。その思いに、何も痕跡など無い。だがしかし──
 画面の中に見た、男の表情が──
 夜の街で耳にした、幻影の中の言葉が──
 電脳世界で取りざたされている、一人の男の戦いが──
 俺の目から、涙を零させた。俺の口から、嗚咽を漏れ出させた。ソファの上で眠っていた紅莉栖。その傍らで、意味の分からない衝動に、胸の内を激しくかき乱された。
『まだ、約束を果たしていない』
 そして、俺を突き動かしているその想いもまた、理屈などではなかった。
「ねえ岡部……。どうしてそんな辛そうなの?」
 静かな問いかけに、俺は答えない。俺は辛くなどない。
「誰かのためなの……? その涙は、他の誰かのためなの?」
 やはり俺は答えない。涙など流していないし、この選択が誰のためでもない事を知っているから。
 そんな、何もかもを押し殺しきった俺に、紅莉栖がそっと身体を寄せる。
「何でそこまでして、あの世界線にこだわるの……?」
 紅莉栖の唇は、微かに震えていた。俺はその問いかけにも、答えられなかった。
「お願い。せめて、それだけは教えて……。何があったのか。私だって、知らなければ協力できない」
 それはきっと、紅莉栖にとっての最大の譲歩。だがそれでも──
「…………」
 震える唇からは、何の想いも出なかった。漏れ出させる事は、どうしても出来なかった。だからその代わりに── 
「……気に食わない。気に食わないのだ」
 取り繕わない感情を、二回だけ繰り返した。
 そんな俺の的外れな解答に、紅莉栖は俺の胸に顔を埋めて囁く。
「もしも、それでも私が断ったら……あんた、どうする?」
 俺は紅莉栖の肩に腕を回して、その温もりを感じる。
「ならば、他に出来る奴を探す。……それだけだ」
 俺の言葉に、紅莉栖が俺を見上げて小さく笑う。
「嘘でしょ?」
 紅莉栖の問いかけに、俺も唇を震わせて小さく笑う。
「ああ、嘘だ」
 そして、短い口づけを交わす。俺の震えも紅莉栖の震えも、それを境にして嘘の様に止まる。触れ合っている身近な温かさ。それを記憶の中心に焼き付ける。そして──
「馬鹿みたいに頑固だよね、あんたって」
 唇を離した紅莉栖が、温もりのこもった言葉を口にする。
「それはお互い様だろう。貴様とて、相当なものだぞ」
 俺が軽口を振り絞って見せると、紅莉栖は「それもそうか」と小さな笑顔を覗かせながら、その繊細な指先で俺の胸をトンと押した。
「ハードボイルドは、あんたには荷が重いって忠告しただろ? 身の程をわきまえろ、ばーか」
 俺は紅莉栖から少しだけ身体を離して、にやりと笑う。
「ああ、まったくだ。返す言葉も無いな」
 そんな俺の受け応えを皮切りに、ほんの短い間、二人で微かな笑い声をラボに響かせる。そして──
「……分かった。協力する」
 小さな笑いが収まった後、紅莉栖がゆっくりとそう言った。
「……助かる」
 感謝の言葉を伝える俺の眼前で、紅莉栖が人の悪そうな顔をして、指を二本付き立てた。
「だけどそれには、条件が二つある」
「二つ? 何だ、言ってみろ」
 俺は、小首をかしげながら言葉を促す。
「まず一つ目。岡部の計画をちょっと修正する。あんた、α世界線での経験全部を取り戻したいって言ってたけど、でも流石にそれは危険すぎる。移動するデータの量が、膨大すぎるの」
「つまり、何が言いたい?」
「つまりよ。配列を変更するデータを、絞り込むって事。その上で、どのエリアを操作するのか吟味する。そうしておけば、失敗する可能性はぐっと下がるはずだから」
 紅莉栖の提案に、なるほどと頷く。
「分かった。で、具体的にどうすればいい?」
「そうね。この前見てもらった画像と同じ要領で、他にも画像を抽出するから、それを基準に手を加える範囲を絞り込む。これでどう?」
 この土壇場でも理路整然とした、出来すぎる助手の偉大さを噛みしめながら、俺は伝える。
「ならば……五枚目に見た画像だ。それがあった周辺を中心にして、移動をして欲しい」
 即答して見せた俺の対応に、紅莉栖は一瞬、面食らったような顔を見せるが──
「了解。五枚目ね」
 返す言葉で、俺の意見を承諾した。
 紅莉栖は、あの五枚目の画像に、何が写っていたのか認識していない。ならばきっと、その内容が気になっているはずだろう。だというのに、そんな疑問を投げかけず、ただ黙って俺の提案に頷いてみせた。そんな彼女の心遣いに、感謝と謝罪を深く抱きこむ。
「それで、もう一つの条件とは何だ?」
 俺が条件の提出を促すと、紅莉栖の顔が少し赤らんだ。
「えっと……クリスマスだけど……」
「クリスマスがどうした?」
 問いかけるも、先刻のような歯切れのよさは影を潜め、そして出てきた言葉に、今度は俺が面食らう。
「クリスマスは……私と……だな。ええと……何と言うか……」
「どうした? はっきり言え。俺にできることなら、何でもしてやるぞ」
 どうにも煮え切らない紅莉栖の態度を、俺は再び後押しする。と──
「私と二人っきりで!」
 飛び出してきた条件に、一瞬思考が硬直し、そして直後に腹の底から込み上げてくる振動。こらえきれず、噴き出す。
「く……くふふふふふふう!」
「わ、笑うな!」
「こ……これが笑わずに、いられるか! ふあはははは!」
 天井を仰ぎ、そして大声を張り上げる。
「何だ助手よ! 随分とお手軽な条件だな!」
「悪いか!?」
「いや、悪くは無いが、しかし本当にそんな事でいいのか?」
「だってしょうがないでしょ! それが良いんだから!」
 顔面を真っ赤に染め上げた紅莉栖の顔を見つめ、俺は盛大に声を張り上げる。
「よかろう! ならばオマケに、貴様が泣いて喜ぶようなプレゼントをつけてやる! 感謝しろよ、ぼっち助手!」
「もう、ぼっちじゃないし!」

 ──岡部と一緒だし!──

 笑ってやった。思い切り、涙を流しながら笑ってやった。紅莉栖も笑った。真っ赤な顔をして、声を立てて大笑いしていた。そして──
「いつ……始める?」
 一頻り笑い疲れた後、引き締まる紅莉栖の表情。その表情につられて──
「……早い方がいい」
 そう答えた俺の顔も、張り詰めている。
「手を加える場所がはっきりしているなら、データの改竄自体は今夜にでも終わると思う。岡部の記憶にデータを上書きするソフトも抽出に使った物の応用だから、それほど手間は掛からないと思う。一応、前に作った記憶だけはあるし」
 そう告げられた紅莉栖の言葉を基準に、俺が思い描いた計画の決行日時が決まる。
「作戦開始は……明日の早朝。それで良いわね?」
「依存は無い」
 そして紅莉栖は、コートを羽織る。
「これからホテルに戻って、すぐに作業を始める。何かあったら連絡するから」
「ああ、了解だ」
 端的な返事を返し、俺はブーツに足を突っ込んでいる紅莉栖に声をかける。
「紅莉栖……」
「……何?」
「手を抜くなよ」
「誰に言ってる」
 そう言った紅莉栖は、ラボのドアノブに手をかけて、ゆっくりと安作りの玄関扉を押し開けた。そして振り返り──
「岡部……。あんたの計画ってさ、ひょっとして全部……私のため?」
 そんな問いかけを投げて寄越した。俺は、何一つはばかる事なく、想いのままを口にする。
「そんな分けがなかろう」
 俺の返した答えに、紅莉栖は満足げに頷いてみせる。
「そう。それを聞いて、安心した」
 不思議と今の短いやり取りに、俺と紅莉栖の絆を感じた気がした。
 ゆっくりと閉ざされたラボの玄関。その扉の向こう側から微かに響く靴音。それは、凛と背筋を伸ばして前へと進む、紅莉栖の真っ直ぐな思いを乗せた音。そんな頼りがいのある靴音が、俺の耳にはいつまでも残り続けていた。
 そして翌朝、俺の立てた計画が実行される事となる。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ17
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/12 22:21
     17

 ──だから伝えて欲しい。色々とすまなかったと──

 茹だるような夏の日差しの中、唐突に告げられた要望に俺は問う。
「分からんな。それは何に対する謝罪だ?」
 男は答える。
「全てだよ。何もかも……全てだ」
 返された不透明な解答に、俺は小さな苛立ちを覚えた。
「まるで意味不明だな。だいたい貴様、娘がどうとか言う前に、まず、この俺に謝罪を申し出るべき立場では無いのか?」
 俺は、ラジカンに背を向けたまま、眼前に立つ男をびしりと指差した。
「ドクター。なぜ貴様は今日の発表会を中止した? 完成したタイムマシンの発表会だったのだろ? 土壇場で怖気づくくらいなら、初めから大口なぞ叩くな。人騒がせにも程があるだろう」
 一介の大学生という身分でありながら、それでも俺は胸を張り、眼前に立つ男の科学者としての在り方を問いただす。
 そんな俺を前にして、男は俺の苦言など意に介した素振りも見せず、平然と言ってのけた。
「怖気づいたという分けではない。ただ単に、発表会など出来る状況に無かったと言うだけだ。君も知っているだろう? そこのビルで、今日の正午に何が起きたのか」
 こんな状況では、発表会も何もあったものではないだろう。そう言った男の言葉に、俺の眉が微かに跳ねる。
「ふざけるな。貴様がドタキャンしたのは、衛星が落ちてくるよりも前ではないか。それを言うに事欠いて……言い訳するなら、もっとマシな理由を持って来るのだな」
 冷徹な声で問い詰める。そんな俺の指摘を受けて、男は顔に小さな笑みを浮かべた。
「私としては、言い訳をしているつもりなど無いのだがね」
 その堂々とした物言いが、どうにも癇に障った。俺は苛立ちを剥き出しにして、唸り声を上げる。
「……馬鹿にしているのか、貴様?」
「そうではない。単に、こうなる事を知っていた。だから予定をキャンセルした。それだけなのだよ」
 男が告げた言葉。その内容が、どうにも腹に据えかねた。
「よく分かった。どうやら貴様は科学の徒などではなく、妙な宗教の元締めにでもなったつもりのようだな」
 蔑むような目を向けて罵ると、あろう事か、男は顔に貼り付けた笑みを助長させた。
「宗教家か。確かにそれも、悪くないのかもしれないな」
 そう言うと、なぜか楽しげに笑う男。かもし出される得体の知れない雰囲気が気味悪く、俺は一歩後ずさる。男は構わず言葉を続ける。
「だが、残念ながら私は科学者だ。科学者でなければ……ならないのだ」
 そして男は、顔の上から笑みを消し去った。
「君は……この世界に意思があるのだとして、ではそれは、どんな物だと思うかね?」
 予想だにしない問いかけに、俺はもう一歩後ずさりながら、男の言葉を払いのける。
「勧誘なら間に合っている。他所でやってもらおうか」
 キッパリと拒否を示した俺の態度。しかし、男の言葉は止まらない。
「とても強固な意志。そう言えば、聞こえは良いだろう。だが、常に同じ結果だけを迎える流れ。過程など無視した、不条理な結末。そんな面白味に欠けた実状に、何の価値があるかね?」
 問いかけられても、返す言葉など持ち合わせていない。俺は無言で、更に一歩後ずさる。
「私は科学者だ。そんな物を認めるわけにはいかない」
 男は低い声を響かせながら、俺に向かって一歩、にじり寄る。
「だからこれまで、色々な方法を試した。娘と奴らの因果を断ち切る。そのために、出来うる限り、あらゆる方法を試し続けてきた。だが結局、奴らによって見世物のように祭りたてられる彼女の行く末に、何の変化も現れはしなかった」
 真っ直ぐ向けられた視線に気圧され、俺の後退が止まらなくなる。それに合わせる男の歩みもまた、止まる気配はない。
「ならばと思い、今度は彼女自身の歩む道を捻じ曲げようとした。そのために、何度も何度も跳躍を繰り返し、幼いあの子がその道に幻滅してくれればと……科学などと言う物に傾倒しきった人間の、その成れの果てを見せ付けもした」
 気持ちが悪かった。踵を返してこの場から離れたいはずなのに、俺の足は惰性のような後退ばかりを繰り返す。
「確かに……。確かにここより十年前のあの日、それで一度は何かが変わったのかもしれない。だが、その変化は、私の求めてきたものとは、余りにもかけ離れていた。死期が大幅に早まるなど……どうして受け入れられる」
 喉の渇きを覚える。もはや、この男が何を言っているのか、皆目検討が付かなかった。だが、俺を捉えるその瞳に、底の見えない深い何かが見える気がした。
「そして、再び舞い戻ったこの世界。私はね……」
 男の視線が俺から外れた。思わず、その視線の行き先を追いかけて振り返る。
「どの世界の行きつく先も、不愉快で仕方が無いのだよ」
 男の視線。その先に、ラジカンの屋上にめり込んだ人工衛星を見る。
「だが結局、私一人の力では何一つ変える事はできそうに無い。だから──」
 男の言葉が耳に響く。

 ──だから君を、巻き込む事にした──

 男の視線が、再び俺を捉える。意味も分からず、全身の毛が逆立った。
『こいつは何を言っている?』
 自問するが、無論答えなど出ない。出るはずが無い。
 戸惑う俺に、繋げられた男の言葉が追い討ちをかける。
「岡部君……」
 名前を呼ばれ、顔が引きつる。伝えた覚えの無い俺の名が、男の口から飛び出したことに戦慄を覚える。
 目を白黒とさせる俺。男の言葉は終わらない。
「君はほどなく、私の娘と出会うだろう」
 俺は、微かに唇を震わせながら、その圧力に抗う。
「な……何を分けの分からない事を……」
 しかし、男は俺の抵抗をあっけなく打ち捨てる。
「これから君は出会う。なぜなら、そうなるように私が仕向けたからだ」
 突拍子も無い言い草に、俺は乾いた口で言葉を振り絞る。
「も、妄言を……」
 紡ぎ出した拙い反論。しかし男は、俺の言葉を否定する。
「だが、事実だ。必ずそうなる。娘と君は、切欠さえあれば色々な形でめぐり合う。これまで、いつもそうだった。だから今回、私は意図的に切欠を与えた。娘は今、この街に来ている。そして、岡部君。君ならば──」
 
 ──最初の世界で、娘のために世界中を敵に回していた君ならば……あるいは──

「下らない支配体制も、愚かしい戦争も無い世界。私一人では手の届かなかった夢物語も、君の存在が混ざりこめば……何かを大きく変えられるかもしれない」
 そして男は一度言葉を止めると、しばしの沈黙の後、意を決したように口を開く。
「これから君は、色々な経験をする事になるかもしれん。多くの問題に、頭を悩ませる事になるかもしれん。いや……そうでなければ困るのだ」
 男の瞳が、ほんの僅かな曇りを見せる。
「そして、上手く事が運んだのならば、恐らく君は私を軽蔑し、憎しみすら抱く事になるだろう。だが、それでいい。全て必要な事なのだ」
 男の声が小さく震えた。
「だから、もしも……」
 男の顔が、大地を向く。
「もしも全てに決着が付いた後。君が私との、この短い出会いを微かにでも覚えていたのなら──」

 ──娘に伝えて欲しい。すまなかったと、ただ一言だけでいい──

 俺はそんな男の言葉に、肯定の言葉も否定の言葉も返す事が出来なかった。ただ何も出来ず、立ち去っていく男の後姿を呆然と眺めているだけだった。
『一体、何だというのだ』
 男から一方的に聞かされた、意味の分からない話。世迷い言の頂点でも極めそうな妄想。そこに見た果てしない感情を持て余し、俺は顔をしかめながら頭の中で反芻する。
『牧瀬……章一……』
 最後に聞いた男の名前。その羅列を記憶の片隅に刻み込みながら、俺はポケットに手を入れる。
 歩き去っていく男の後姿。なぜだか、その男の背中を何かの形で残しておきたいと、そんな事を思った。そんな想いは、ひょっとしたら──
『馬鹿馬鹿しい。もし仮に、奴の話どおり娘とやらに出会ったところで、そこまでサービスしてやる義理などあるまい……』
 俺は思いなおしたように、起動しかけた携帯電話のカメラ機能を中断する。そして、携帯を手にしたまま、男の姿が視界から消えるのを見続け──

 立ち入り禁止区域に指定された、誰も居ない往来のど真ん中。ラジカンに背を向け、携帯を片手に立つ俺の意識が──その瞬間、大きく揺れ動いた。



[29758] 無偶奇跡のオカリンティーナ18
Name: hana◆38e201f2 ID:dba827e7
Date: 2011/12/12 22:22
     18

 柔らかな日差しが差し込むラボの中。俺は奥歯を噛みしめたまま、目を覚ます。ゆっくりとまぶたを持ち上げれば、視界に入り込む見慣れた天井。呻き声を立てながら、重たい上半身をソファから引き剥がして身体を起す。と──
「岡部!?」
 慌しい声で、名前を呼ばれた。緩慢な動作で、声の主へと顔を向けて問いかける。
「俺は、どうなって──」
「大丈夫なの!? ちゃんと分かる!?」
 まるで、火事場から転がり出るような勢いで、俺の元へと駆け込んでくる紅莉栖。その必死な形相を前にして、口にしかけた言葉を途中で飲み込んだ。
 余りに切羽詰った紅莉栖の様子に、俺は問いかける内容を変え、改めて口を開く。
「……どうした?」
「どうしたもこうしたも……ああもう! ああ、もうっ!」
 要領を得ない紅莉栖の叫び声。真っ青な顔を、俺の胸へと押し付けてくる彼女の行動。そんな状況から、何となく何があったのかを察する事が出来た。
「ひょっとして、俺は気絶していたのか?」
「そうよ! 記憶のデータを上書きした直後に、あんた気を失って! それから何しても起きなくて! どうして良いかわかんなくて!」
 取り乱すままに声を荒げる紅莉栖。
「そうか。心配をかけたな」
 俺は静かにそう声をかけると、しがみ付いている紅莉栖の頭に手を乗せる。そして、時計に目をやりながら聞く。
「俺は、どれくらい気を失っていた?」
 俺の言葉に、紅莉栖の頭が微かに震えた。
「えっと……まあまあ……」
 答えになっていなかった。
「何だそれは……」
 俺はため息を付きながら、計画の実行前に見た最後の時刻を呼び起こし、視線に捉えた時計の針と照らし合わせる。そして──
「確かに、まあまあ……だな」
 算出されたその内容に思わず小さく噴出すと、紅莉栖がむくれて声を立てた。
「な、何だ岡部のくせに! 私がどれだけ心配したと!?」
 俺の反応がいただけなかったのか、しがみ付いたままで俺を見上げる紅莉栖。先刻まで青ざめていた表情に、ほのかな赤味が戻っている。
「時間が長いとか短いとか、そう言う問題じゃなくて! あんな真似した直後に岡部が気を失ったら、そりゃあ慌てるのが正常な反応というか!」
 まくし立てるような紅莉栖の言い訳。俺は「分かった分かった」と合いの手を入れながら、紅莉栖の両肩に手を乗せる。そして、その華奢な身体を優しく引き離す。
「あ……」
 俺と紅莉栖の境に出来た狭間。その些細な距離に何かを思ったのか、紅莉栖が小さく声を零した。一瞬、寂しげな表情を顔に過ぎらせるも、俺がのそりとソファから腰を上げると、それに習うようにして紅莉栖も立ち上がる。そして、少し躊躇いがちに口を開いた。
「ねえ……何か思い出したの、岡部?」
 実行した計画。その結果を問う紅莉栖。彼女の瞳に、薄い不安の色を見る。
「ああ。一つ……約束を思い出した」
 取り戻した全てを集約し、それだけを短く返す。そして、立ち上がった紅莉栖の脇をすり抜けて、ゆっくりとした足取りで窓の側まで歩み寄る。まだ、少々足元がおぼつかないが、それでも今は外の景色が見てみたかった。
『ここからでは、見えるわけなど無いのだがな』
 視界の全てを覆うのは、いつもと何も変わらない外窓の景色。この場所から。この世界から、あの景色が見えないことなど分かっている。だがそれでも、じっとその先にある何かに想いを送り──
『気に食わん……』
 静かに拳を握り、音を殺して奥歯を噛みしめる。
 記憶の中にだけ残された、最後の光景。ちっぽけな願いだけを置き去りにして、俺の前から立ち去った男。
 そんな、何もかもを背負い込んでいるとでも言いたげに見えた男の後姿。結局、何の形にも残る事のなかった最後の景色。そんな記憶に残された映像が──
『どこまでも……気に食わん男め』
 俺にはどうにも腹立たしくて仕方がなかった。
『何が、そうでなくては困るだ。何が……必要な事だ』
 失われたはずの記憶。取り戻した言葉。その全てが、今はどうしても気に入らない。だから、窓の外に向けた目が微かに吊り上る。小さな歯軋りの音が零れ落ちる。
『世界の意思だと? 俺ならばだと? そうなるように仕向けた……だと?』
 幻のような記憶。その中で耳にした男の言葉を、頭の中でひとつづつ反芻する。そして──
『何もかも、貴様のお膳立てだとでも言うつもりか……』
 やりきれない思いで窓枠に手をかける。自然と指先に力が込もった。
 中鉢が口にしていた予言まがいの戯言。それは妄言などではなかったのかもしれない。事実、その多くが俺の主観の中に『起きた歴史』として焼きついているのだ。だからこそ、思う。
 この街で経験した、一人の少女との出会いも──
 世界の意思とも言える何かに翻弄され続けた苦悩も──
 最後に手に入れた、満足のいく未来も──
 そんな全てが、一人の男によってお膳立てされた奇跡。偶然などどこにも存在しない、無偶の奇跡だったのではないか──と、そんな馬鹿げた事を考えてしまう。
『これで……』
 思い出すのは、男が一瞬の躊躇いの後に口にした言葉。自らを軽蔑するだろうと、自らを憎むだろうと、そう予言していた男の言葉。そして、その言葉どおりの道筋を辿ってきた俺の意思と主観の歴史。
『これで貴様は……満足か?』
 沸き上がる感情を抑えきれず、肩を震わせる。握り締めた窓枠が、微かに鈍い音を立てる。
 悔しかった。どうしようもなく悔しかった。
 その感情が、自らの功績を掠め取った男に対しての憤怒からなのか──
 中鉢の手のひらで踊らされていたかもしれない事に対しての羞恥からなのか──
 それとも、盲目的に一人の男を蔑み続けてきた自分に対しての侮蔑からなのか──
 分からない。だが、それでも悔しくて仕方がなかった。
 不安定に燻る感情。その宛所が分からず、俺は窓から覗く景色を睨み続ける。と──
「約束って……何?」
 俺の耳に、紅莉栖の静かな声が響いた。
 控えめで、微かに揺れる声。俺は外の景色から目を離し、ゆっくりと振り返る。そこに見えたのは、不安げに瞳を揺らす紅莉栖の顔。そして耳の奥で蘇る、とてもちっぽけな頼まれ事。

 ──娘に伝えて欲しい。すまなかったと、ただ一言だけでいい──

 失った記憶の片隅で、見つけてもらえるその時を、ずっと待ち続けていたかもしれない、小さな約束。一方的に託されただけの、取るに足らない約束。そして、余りにも容易く遂げる事ができてしまう、簡単な約束。
 たった一言、短い言葉を紅莉栖に向ける。それだけで、一人の男の願いが叶う。それだけで、全てを丸く収める事が出来る──そんな約束。
 そんな何もかもを理解して、俺は思いを決める。だから、不安げに瞳を揺らす少女を真っ直ぐと見つめ、何もかもを終わらせるために口を開く。
「……下らない約束だ」
 紅莉栖が更に問いかけを重ねてくる。
「誰と……何を約束したの?」
 俺は答える。
「さあな」
 無愛想な声で言い切って、紅莉栖から視線を離す。そして俺は、歩き始める。
「さあなって……さっき思い出したって言っただろ?」
 窓の側から離れ行く俺の背後から、紅莉栖の不満げな声が聞こえた。その言葉に、俺は何も答えない。ただ、黙ったままラボの中を縦断し、目的の場所までたどり着く。そして、目当ての物を漁りながら──
『何もかも、貴様の思い通りになると思うなよ』
 胸の奥で吐き捨てる。もう、腹は決まっていた。
 好き放題しゃべり倒した挙句、一方的に伝言を押し付け、勝手に自己完結を決め込んでいる男。俺の答えを確認する事もなく、何もかもを悟ったような顔をして、俺の前から立ち去る男。
 そんな男のしょぼくれた後姿が気に食わない。何も知らず、蔑み続けてきた男の願い。その想いが、どうしたって気に食わない。だから──

 ──自分で言え、ヘタレ科学者が──

 託された願い。それに対する俺の答えは、もうとっくに決まっていた。
『力づくでも……引きずり出してやる。無理やりにでも、伝えさせてやる』
 そんな決意を強く抱きしめ、やっと見つけた小さな冊子を掴み取る。
 心当たりならあった。その場所が必ず正解だとは限らない。だがそれでも、昨日、モニターの中で見た知らぬ土地に向けて思いを馳せる。そこで今でも、一人の男が機関を相手に奮闘している事を強く願い──
『貴様など、ただの中年オヤジであるという事を……必ず思い知らせてやる!』
 何時かのような誰かを慰めるための口先ではない。その場しのぎのでまかせなどではない。本気の思いを胸に刻み込みながら、手にした紺色の冊子をポケットへと捻じ込む。
 と──
「岡部……今の、パスポートじゃない」
 一瞬晒しただけの代物。その正体を、紅莉栖が的確に言い当てて見せた。
「何を考えてるの……?」
 明らさまに震えを帯び始めた紅莉栖の声。
「岡部! ちゃんと話して! 何を見てきたのか話して!」
 ラボを横切った俺の軌跡を追いかけて、俺の元へと詰め寄ってくる紅莉栖。
「お願いだから!」
 悲痛な声が耳を傷める。その声色に耐えかねる。だから一言、口を滑らせる。
「すまん。しばらく……会えなくなりそうだ」
 その言葉に、紅莉栖が両目を寂しそうに歪めた。
「約束のため? 約束を守るために……行くの?」
 両手を胸の前で組み、身体をすぼめて俺を見る紅莉栖。俺は答える。
「そうではない。俺は約束を……破るために行く」
 どうにか搾り出した俺の答え。沸き上がる感情を出来る限りに乗せた俺の言葉。それを聞いた紅莉栖の顔に、微かな微笑が栄える。
「そっか。じゃあ……仕方ないな」
 俺も小さく微笑んで返す。
「すまん。出来るだけ早く戻る。だから少しだけ──」

 ──待っていて欲しい──

 そう口にしようとした瞬間だった。
「お、おい!?」
 紅莉栖の見せた唐突な行動に、俺は目を丸くする。何の脈絡もなく、突然俺にしがみ付いてくる紅莉栖。それは愛しい抱擁などと言えるものではなく──
「な……何をしている!?」
 泡を食って声を荒げる。そんな俺を尻目に、紅莉栖の上げた奇声が大きくラボに響いた。
「捕った!」
 そう叫び、俺の身体から素早く飛びのく。そんな彼女の意味不明な行動に目を白黒とさせながら──
「どういうつもりだ……?」
 唸り声を上げる。
 俺から少し距離をとって立つ紅莉栖。微かに息を荒げる少女の手に握られた、紺色の小冊子。今起きた状況が、嫌と言うほどに理解できた。
 俺は手を差し向けながら、声色を落とす。
「そいつを返せ、紅莉栖」
 有無を言わさぬ強い口調。だがしかし、紅莉栖は俺の要求に頷かない。それどころか──
「私も行く」
 とんでもない事をキッパリと、言ってのけた。
 絶句する。まるで手のひらを返したかのような紅莉栖の態度。その変化に戸惑いながら口を開く。
「ば、馬鹿な事を……」
 俺に同行すると明言した紅莉栖の言葉。だが、その申し出を受け入れる事など出来ない。
『SERNのお膝元に紅莉栖を連れて行く事など……』
 出来るはずもなかった。
 失われていた記憶。その中で聞いた中鉢の言葉。

 ──見世物のように祭りたてられる彼女の行く末に、何の変化も現れはしなかった──

 何度も繰り返し、SERNの手に落ちるらしい紅莉栖。確かにそれは、こことは違う世界線なのだろう。ならば、紅莉栖とSERNが接近したとしても、何の問題も無いのかもしれない。だがそれでも──
「ダメだ。お前はここで待っていろ」
 払拭しきれない危機感に突き動かされて、俺は紅莉栖の提案を突っぱねる。
 この世界を翻弄する意思。そんな物をどうしても信用する事はできなかった。しかし、それでも、紅莉栖は俺の拒否に頷こうとはしない。
「いやだと言っている。岡部、あんた約束を破りに行くって言ったよな?」
「だったら何だ?」
「私との約束も破るのか? クリスマスは二人きりで過ごすって約束しただろ! その約束まで破るのか!?」
 強い想いを突きつけられる。
 俺は確かに約束していた。クリスマスを二人きりで過ごすと、彼女が泣いて喜ぶようなプレゼントを渡してやると──
 そう、約束していた。だから俺は、紅莉栖の指摘に反論を出しあぐねる。そんな俺を正面から見据える紅莉栖。その叫びは終わらない。
「誰かとの約束を破って、その上で私との約束も破って! どうせ全部誰かのためだとか、そんな馬鹿みたいな事だろ!」
 紅莉栖の叫びに怯む。思わぬ直球にたじろぐ。
「な、何を根拠に……」
「根拠なんてあるかっ! あんたが岡部だから! 岡部はそう言う風に出来てるから、だから言ってる!」
 紅莉栖の怒声には、もはや根拠の「こ」の字も見当たらなかった。だがしかし、やはり返す言葉が見つからない。あたかも、俺のど真ん中を射抜くような紅莉栖の想いに、俺は何も言い返せない。
「約束を破りまくって、それであんただけ嫌われて自己完結? それで主人公気取りか!」

 ──調子に乗るなヘタレ科学者が!──

 その一言に。ついさっき、俺が他の誰かに向けたはずだった揶揄の言葉に、頭が揺れた。想像以上の精神的な衝撃に、足をもつれさせて尻餅をつく。
 ラボの床に腰を落とした俺。そんな俺を見下ろして紅莉栖は言う。
「何でもかんでも自分の思い通りになるなんて思うな! あんたが何と言おうと、絶対一緒に行く! 絶対だ!」
 もはや、何の言葉も出てこない。拙い呻き声すら紡げない。俺の思考が、ゆっくりと止まっていく。そんな俺の前で、紅莉栖が静かに膝を落とす。
「だから……」
 細い両手が、俺の首筋に回る。
「だから、全部自分でどうにかしようとか、そんなのもうヤメよ」
 紅莉栖の想いが、俺の中に染み渡る。
「岡部が何に怒ってるのか分からない。岡部が何を怖がってるのか分からない。だけどね岡部──」

 ──世界が、いつだって無慈悲だとは限らないだろ──

 不思議だった。その一言に、俺の中でこれまで経験してきた数々の出来事が、堰を切ったように溢れ出す。
 この街で一人の少女と出会い──
 過ちを繰り返し、仲間たちの思いを踏みにじり──
 大切な幼馴染と、掛け替えのない思い人を救うために奔走し──
 そしてたどり着いたこの世界。
 それからも、色々な事があった。少女を仲間に引き戻したり、過去に戻って再燃した災厄をねじ伏せたりした事もあった。
 そのどれもが、苦悩と苦痛に彩られた歴史。だがそれでも、最後には必ずハッピーエンドを迎える事の出来た、とても優しい歴史たち。
 そんな一つ一つを頭の中で思い描き、身体の奥へと飲み下す。そして、想う。

『全てが、世界の意思……』

 むくりと起き上がる馬鹿げた思考に、自ら噴出す。余りにも日和った考えに、腹がよじれる。
 この場所を手に入れる。そのために、俺は戦った。紅莉栖は苦悩し、仲間たちは思い悩み、そしてあの男もまた奮闘している事だろう。
 そんな全て歴史を世界の意思などと言う安っぽい言葉で片付けるつもりは無い。だがそれでも──
「その方が……面白いではないか」
 ボソリと呟く。吐き出した息が、紅莉栖の髪を軽く揺らした。そして俺は、紅莉栖に申し出る。
「世界とやらに本当に慈悲があるのなら……それを教えなければならない奴が居る。だから紅莉栖……俺と一緒に来い」
 その要請に、俺にしがみ付いたままの紅莉栖が大きく頷いた。
「よく分からないけど、無論だ」
 紅莉栖の声が、小気味よく俺の耳を叩いた。
 そして俺は立ち上がる。
「世界の意思か。相手としては申し分ない。それでこそ──」

 マッドサイエンティストと言う物だろうが

 そして、高笑いを上げる。もう随分長いこと、響かせていなかったトレードマーク。この時、この場ばかりは、全身全霊を込めて高ぶらせる。
 これから向う先で、何が待ち受けているのか分からない。ひょっとしたら世界の意思とやらは、慈悲などと言う物をこれっぽっちも持ち合わせてなどいないかもしれない。
 だがそれでも構わない。
 全ての想いが必ずハッピーエンドを迎える。そんな世界の構造を信じ、前を向く。
『待っていろ、中鉢。この俺から……迫りくるハッピーエンドから逃れられると思うな!』
 心の中で、もう一人のヘタレ科学者の名を叫ぶ。迫りくる、逃れられない宿命を旗として掲げる。そして、床に膝をついたままの紅莉栖に手を差し伸べる。
「行くぞクリスティーナ。後悔するなよ!」
 紅莉栖が俺の手をとって答える。
「はいはい、厨二病乙。それからティーナじゃあ……まあ、いっか」
 どこか投げやりな応対と共に、紅莉栖もまた微笑を湛えて立ち上がる。

 ラボの中に差し込む冬の日差し。その優しい光が、俺と紅莉栖を照らし出す。この場所から始まり、そしてこの場所で終焉を迎える物語。その全ての過程が、今一つの終わりを迎える。
 そしてこれからもまた、誰かの意思で紡がれていくだろう多くの歴史。そんな物を夢見る足音が、ラボの中から飛び出して、世界中に響き渡り続けていく──

                                             おそまつさまでした


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