人間を助けようとした男がいた。
その理念の為。彼は「魔術師」という道を選び、数百年を生き続けた。
人間に絶望してもなお、目的の為に、静止し続ける。
台密の僧の一家の嫡子として生を受け、祈りと戒律が人を救うのだと教えられ鍛錬にいそしむ日々は、幼い心身を堅く、重く。鋼を思わせる頑健な体躯へと成長させていった。
密教の道へと進むからには、心を鍛えなければならない。心を鍛えるには己の肉体を極限まで酷使し鍛えなければならない。
過酷な日々に肉体が悲鳴をあげ、立つことも間々ならない日もあったが男の心は折れず、曲がらず。苦痛に耐えれば耐える程に鍛えられさらに頑強に、さらに強靭に。
過度の苦痛に耐えられる理由は単純であった。
人並み外れた自我。諦めという言葉はその男にとっての死語。たとえどんな難題であろうとも成し遂げるだけの不撓不屈の精神力を備えていたのだ。ゆえに、身体が心に合わせるようにして、強くなるは道理。
心は体を支え、体は苦痛に対し適応する。幾たびの苦行に耐え幾日も、幾年もすぎた頃。幼く小さな体はいつしか青年のそれへと変わっていった。
御影石を思わせる黒髪に、平均的な日本人を上回る体躯。苦行に耐える過程で表情を失くした顔付きからか、同門の者にすら、畏れられるありさまだった。
ふと。
木の影からこそこそと此方を覗き見る、童が数人。そちらの方へ目をやれば蜘蛛の子を散らすようにして逃げ去っていく。
物珍しさからか、好奇心旺盛な子供のこと。男の噂を聞きつけて僧舎まで足を運んだのであろう。
本人は気にもとめなかった。これからは己の手であの子等の笑顔を見守っていくのだと思うと、それで十分だったのだ。
代々受け継がれてきた、内と外を分け隔てる秘術。結界造りにも稀代の才能を開花させ。いつしか自他ともに認める、礼節と教義を重んじる、一人前の僧となった。
太平の世であったならば、男は極々平凡に生き、時間に老いて、人として死んでいっただろう。
だけども、それは仮定の話。
時代は巡り戦国の世。力は法であり、力が法であった暴虐の時代。
貴族衆の貧弱な治政に不満をあらわにした、地方の力ある豪族達による反乱。だれもかれもが野心を宿し、くすぶっていた火種は日の本全土を巻き込む業火へとなる。
武士の奇襲。税の強引な徴収。
焼かれる村。みせしめの為。
農民の悲鳴。無意味な殺戮。
消えていく平穏。荒ぶる戦乱。
手の内で冷たくなった、幼い命。
大きく、鋼のように強靭で、太い。それは男の手であった。硬い腕の中で、温もりが消えた骸を抱えながら。踏み倒され、手ひどく荒された田園の中で男は佇んでいた。
暗い僧服に身を包み、その顔もまた暗い。戦火に怯えるようすは欠片も見せず。失った笑顔の為に悲しむことすらできない。
あたりには首をへし折られ、鎧に風穴を開けられた死体が十数人ばかり転がっている。いまだ体温の残るそれは、一人の人間が産み出した惨状とは信じがたい。
鍛えられた拳は紙細工をやぶる如く、鎧を穿ち。刀槍で武装した武士にも引けを取らず、度を越した鍛錬で己の命を拾うことはできる、秘術を使えば命を永らえることもできる。だがそこまでだ。
殺すことでしか誰かを守れない。私は救いたかった、子供も武士も、全ての人間を。
男は泣かなかった。修行の果てに感情は捨てていった。強靭すぎる魂が、折れることを許さない。
男は全国行脚を始め、いたるところで人を救い続けた。それでも救えない、救いきれない。
争いを止めない人間。戦いを求める人間。恐怖から人を殺す人間。餓えをしのぐ為に人を殺す人間。金の為に人を貶める人間。安全の為に嘘を吐く人間。嫉妬から謀略を練る人間。人を殺す――――自分。
人を救おうとするたびに、それらが目に映る。耳に響く。心に残る。
それでも助け続けた、それでも諦めきれなかった。人は救う価値があるのだと信じたかった。
そして、男は人間を『止』めた。禁忌とされる法術に手を染め、いずれ滅びるであろう肉体を棄て、代替可能な人形を魂の憑代とした。
何度でも。助けた。
何度でも。殺した。
何度でも――――――。
男は立ち尽くす、血臭の漂う戦場で何度目の――いや何百、何千と戦場へとおもむき。可能なかぎりの人間を助けようした男の終着点。
薄闇が広がりつつある山々の中で繰り広げられた争いに、勝者などいなかった。ある者は槍ではらわたを掻き混ぜられ。ある者は流れ矢を受け眠るように。
生き残りはいるのだろうが、落ち武者はいずれ小遣い稼ぎが目的の農民に狩られるのだろう。武具や鎧は高く売れるのだから、当然といえば、当然といえる。
累々と死者が連なる。地獄とはこのような光景なのだろうかと、何故かそう思った。
あてもなく彷徨い、目的の「者」だったモノを見つけた。
一言で言えば若者。少年と青年の間ほどの年齢だろうか。神を信じ、人を信じ、私を信じてくれていた。
餓えた農民に手を差し伸べ、神の道を説き。それは英雄とでも呼べばよいのだろう。
力に屈さず、神に依る衆性の救済をと、そんな熱を帯びて語る一人の若者に。私は。
一欠けらの希望と言うものを感じていたのだろうか。
膝を突き、死の直前になにを見たのだろう。強張った形相のまま固まった表情に手を添える。
死後硬直からか開ききった瞼を閉じてやることすらできない。
もはや何も感じない。同胞を喪う悲しみに悲しまず。鎧を打ち砕き、内臓を潰す感触にすら思うことは何もなかった。
ただ、戦場で人を殺し、人を救う。それだけのことなのに。
いつも自分だけが生き残り、他人を救えず。自分の命しか救えない。先祖伝来の秘術を知り、鋼の肉体を持っていようとも。これは一体なんの冗談なのだろうか、滑稽にして度が過ぎているのではなかろうか。
何度繰り返しただろうか、何度繰り返すのだろうか。人間という救いきれない存在を、救いきるには一体どうすれば、いいのか。
殺戮の果て――――答えを得る。
人は死ぬ。どのうような善行を詰もうと。どのような悪行を働こうとも。人は死ぬ。
死を以てして人は完結する。それはいわば絶対。誰にも避ける事のできない終着点。
私に、人間を救うことはできない。ならば、せめて記録しよう。救えぬのならば。どのように生きたかでなく、どのように死に到ったかを。
始めよう。死の蒐集を。