<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[36073] 女騎士剣風帖  【シグナム×柳生十兵衛×天草四郎×宮本武蔵×真田忍軍×セイバー】
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/01/09 21:57
爺ちゃんの本棚から出てきた大量の時代小説を読んでて、自分自身つれづれなるままに書きたくなりました。
後悔はしていません。
できれば感想などいただけると幸いです。


話が進めば、由比正雪とか後水尾帝とか豊臣の残党とか他の作品の女騎士とか、色々ぶち込む予定ではあります。
どうかご期待下さいませ。



[36073] 第一話  「勝負」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2012/12/07 19:57
 吹きさらしの風がシグナムの頬をなぶる。

 まだ時刻は朝に近いとはいえ、時を追うごとに強くなっていく夏の日差しの中、その微風は一服の清涼剤となるはずであったが、シグナムは表情一つ変えない。
 木刀を中段に構え、眼前の男と対峙する彼女には、一風の涼しさを癒しと感じるような余裕は、すでに無かったからだ。
 いや、それはもはやシグナムにとどまらない。
 この試合を見守っている周囲の者たちも、もはや息をする間さえないほどの緊張状態に陥っている。
 いや、これはもはや「試合」などという、稽古的な意味合いの対峙ではないのだろう。
 敢えて言うなら、これは立ち合い――生死をかけた決闘と呼ぶに近い空気が、この場を支配している。
 シグナムが発する剣気は、正にその事実を裏付けていた。
 おそらくは、管理局の模擬戦でも、彼女がここまでの威圧感を発する事は無いだろう。
 それはまさに“殺気”と呼ぶにふさわしい、飛ぶ鳥さえも射竦めるかのような剣呑なものだった。

 例外があるとすればそれはただ一人、シグナムがこの場で相対している、その片目の男のみであったろう。

 彼女から五歩ほどの間合いに立つその男は、まるで自分がこの戦いの当事者である事さえ気付いていないかのように、手に持つ木刀をだらりとぶら下げ、まるで構えを取ろうとはしていない。
 いや、敢えてそれを構えと呼ぶならば――おのれの五体にまるで余計な力を込めないその棒立ちは、柔道や空手で言うところの“自然体”と呼ぶべきものであったかも知れない。
 つまりは、そんな無造作な姿勢にもかかわらず、シグナムにそう思わせるほどに、彼には隙がなかったのだ。



 この男が誰なのか――そんなことはシグナムにはわからない。
 いや、そもそもそれを言えば、ここがどこなのかも今がいつなのかも、彼女には見当もつかないのだ。
 わかるのは、ここが彼女も知らない、どこかの次元世界であろうということだけだ。
 目が覚めたら、シグナムはこの武家屋敷にいた。
 ただの屋敷ではなく、わざわざ“武家屋敷”と銘打ったのは、そこで彼女が接触を持った人々が全員、テレビの時代劇に登場するようなサムライ装束を身に付けていたからだ。
 ここがどこなのか、いつの時代の何月何日なのか――シグナムなりに礼を守って尋ねたが、返ってきたのは聞き覚えの無い地名に聞き覚えの無い年号。むろん“時空管理局”などという組織を彼らが知るはずもなく、正直シグナムとしては、途方に暮れるしかなかった。
 
 まあ、それはいい。
 問題はこの現状だ。
 いまシグナムは木剣を構え、眼前の、この片目の男との勝負に臨んでいる。
 どういう成り行きでそんな不可解な事態になったのか――まあ、そこには大した理由も何も無い。
 早い話が、彼女は喧嘩を売られたのだ。
 とはいえシグナム自身、この説明不能な状況において、そんな頭の悪い挑発にみすみす乗るほど馬鹿ではない自覚はあった――相手がそこら辺にいるチンピラであったならば、だ。
 もちろん彼女の応対をしたサムライたちは泡を食って男を止めようとしたが、彼は全く歯牙にもかけず「成り行きが気になるならば邪魔にならぬところで見物しておれ」と言うばかり。そして、何よりこの片目の男には、シグナムを誘って有無を言わせぬ何かがあった。
――いや、それは正確ではない。
 正しくは、シグナム自身が興味を持ったのだ。
 木刀を投げ渡して彼女を庭に誘った、この男の発する“剣気”に。



(強い……)
 そう思う。
 少なくとも、シグナムはヴォルケンリッターの“剣の騎士”としてこの世に誕生して以来、これほどの敵にめぐりあったことはない。
 いや、これまで確かに彼女と互角に渡り合った“敵”がいなかったわけではない。フェイト・テスタロッサをはじめ、シグナム自身が好敵手と認めた者たちは、かつても今も、いると言えば幾人もいる。
 しかし、そういう事ではないのだ。
 どれだけシグナムが認めた強さの所有者と言ったところで――たとえばフェイトやなのはたちは剣士ではなく、しょせん魔導師にすぎない。
 これはヴォルケンリッターの同僚であるヴィータやザフィーラにしてもそうなのだが、魔導師にとっては武器術や格闘技などは、やはり近接戦闘技術の一つでしかなく、射撃・砲撃魔法などを含めた、いわゆる「選択肢の一つ」でしかないのだ。
 そういう意味では、たとえフェイトやヴィータ、ザフィーラと言えど、地上に立ったまま武技のみを攻撃手段に限定して立ち合えば、やはりシグナムの剣の前には敵ではなかろう。

 だが、この男は違う。
 この男の発する気は、まさしくその剣技がシグナムに匹敵あるいは凌駕するレベルであることを充分に証明している。
 そして男の右目は、こんな状況でも変わらず閉じられたままだ。
 つまり、彼は本当の隻眼なのであろう。
 片目というのは視界が限定される分、近接戦闘においては明らかに不利である。にもかかわらず、シグナムが男から感じる気配からは、そんなハンディキャップを気にしている様子は微塵も存在しない。
(片目のハンデなど、とっくの昔に克服済みというわけか)
 そう判断せざるを得ないし、それだけでもこの男の技量の程は予想がつくというものだ。
 おそらくはベルカ時代、闇の書の実行部隊として片っ端から目に付いた騎士のリンカーコアを狩っていた頃でさえも、これほどまでの剣士には逢ったことが無かったはずだ。


 その瞬間だった。
 男が、不意にその口を開いたのは。
「おいおいシグナム殿、そなた笑ってるおるぞ」

 勿論そう指摘されたところで、シグナムには動揺は無い。
 男に言われるまでもなく、彼女自身、この立ち合いに表現しがたい喜びを感じている事は自覚していたからだ。
(そうか、私は笑っていたか)
 という思いが、珍しくシグナムに状況にそぐわぬ軽口を叩かせる。
「笑う女は珍しいか?」
「ああ、おれと向かい合って笑う女はなかなかいないからな。寝床の中ならともかく――」


 その刹那、シグナムは五歩の間合いを一気に詰めると、男の脳天に向けて渾身の一太刀を振り下ろす。
 並みの剣士、あるいは魔導師ならば、その下品な冗談を言う口を閉じる暇さえなく、シグナムの一撃の前に打ち倒されていただろう。
 彼女の剣にはそれほどの鋭利さと威力が込められていたからだ。
 だが男の木刀は、その攻撃のタイミングを予想していたかのように、無造作に彼女の剣を受け止める。

 木刀同士が、まるで金属音にしか聞こえないような鋭い響きを立て、そしてそのままガッキと噛み合い、シグナムと男は鍔迫り合いの姿勢のまま数センチの距離を睨み合う。
 だが、男の顔に浮かんでいたのは、睨み合いにふさわしい強面(こわもて)ではなく、むしろ爽やかな笑顔であった。
(舐められてるのか)
 などとは、シグナムは思わない。
 というより、もはや彼女にはそんなことをいちいち考える余裕さえも無かったと言うべきだろうか。
 鍔迫り合いからシグナムを力任せに突き飛ばすと、今度は男の剣が彼女を襲ったからだ。

(速い……!!)
 そう思う暇さえ無い。
 まさに思考を上回る速度で来襲する男の攻撃を、シグナムは反射のみの剣で弾き返す。
 しかも、彼女の反射行為は防御のみにとどまらない。
 男の連続攻撃の最後の一撃――顔面への片手突きを紙一重で避けると同時に、シグナムはさらに一歩踏み込み、そのまま男の大腿部にすれ違いざまの一撃を叩き込む。
 それは、絶妙のタイミングのカウンターとして勝負を決する一剣であった――はずだった。
 いや、現にこの戦いを見守る人垣からも、その瞬間に悲鳴に近い叫びが上がったほどだ。
 彼女が、男の懐に踏み込んだそのタイミングは、それほど絶妙にして致命的なものであったからだ。


 どうしてシグナムに予想できようか、その一撃がまさか空を切ろうとは。
 あまつさえ、その一撃のカウンターを取る形で、男がさらなる一撃を繰り出してこようとは。


「…………ッッ!!」
 言葉にならない叫びが、思わず彼女の口から漏れる。
 なんとこの男は、それほど完璧なタイミングで決まったはずのシグナムの攻撃を、ジャンプによって回避したのだ。それも、助走どころか何の予備動作もなく下半身のバネだけの跳躍で、である。
 しかも、1メートル近い高さに跳んだ挙句、まったくバランスを崩すことなく、さらに右手の剣を真一文字に振り下ろしてきたのだ。
 まともに喰らっていれば、彼女の頭蓋は無残に打ち砕かれていただろう。
 それほどの攻撃を、かろうじて身を引いて回避し得たのは、まさにシグナムなればこそであったろう。
 だが、ふたたび互いに距離を取ったとき、彼女の背中にあったのは、ただひたすらに冷たい汗のみであった。

「笑いが消えたようじゃな」

 男の顔には、変わらず笑みが浮かんだままだ。
 いや、さすがにシグナムにもわかる。
 彼の今度の笑みは、先程までのものとは違う。
 これは純然たる皮肉であり、嘲弄の笑いであると。
 が、にもかかわらず、シグナムは男の態度に怒りを覚えなかった。
 逆上はむしろ身をすくませ、剣を鈍らせる――そういう常識論ではない。
 シグナムの全身を巡っていたのは、むしろ先程以上の血のたぎり、であったからだ。


「信じられないな……まさか貴様のような男が、この世にいるなどとはな」


 何かの計算や挑発を狙っての言葉ではない。この一言は紛れもなくシグナムの本音だった。
 それを感じ取ったのだろう。男もそれまでの皮肉な笑みを引っ込め、逆に不審げな感情を眉間に浮かべる。
 しかし、男が何を考えていようが、もはやシグナムにはどうでもいいことだった。
 頬を伝う血の感触がある。
 おそらく、さっきの男の飛翔攻撃がかすめた時のものであろう。
 痛みは無い。
 むしろ、血の熱さが心地よい。
 人ならぬはずのこの身に、これほどまでに熱いものが流れていたというのか。
 その思いが、彼女の心に更なる高揚をもたらしている。              

 そして、彼女がふたたび喜びの表情を浮かべたことで、男の顔はまたも変わった。
 いや――戻ったというべきか。
 目元に浮かんだ不審げな感情は消え、彼もまた笑ったのだ。
 それはさっきのような皮肉な嘲笑ではなく、シグナムの笑みに呼応した自然なものであった。
「嬉しいか、シグナム殿」
「ああ、楽しいな」
「そうか、おれもじゃ」

 そう言いながら、男は初めて構えを取った。
 この期に及んでも、無造作に右手にぶら下げたままだった木刀を両手に握りなおし、ピタリと中段に構えたのだ。

「おおっ」
「十兵衛様が、構えを!」

 などと周囲がざわめくのがシグナムの耳にも届くが、彼女にとってはもはやそんな雑音も気にならない。
 構えとともに劇的な変化を遂げた男の剣気に、シグナムはまさしく全身が総毛立つ思いに駆られていたからだ――。




[36073] 第二話  「隻眼の男」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2012/12/07 20:01

 自然体に立ったままの男からも、もちろん隙など無かった。
 だが、まともに剣を構えた彼から発される威圧感は、もはやその比ではない。
 敢えて形容するなら“獰猛”“凄惨”とでも言うべきか。
 まさに地に伏せた一頭の魔獣と呼ぶにふさわしい迫力がシグナムを圧倒する。

――今までの剣は、まだ本気ではなかったというのか。
(いや、違う……)
 シグナムにはわかる。
 先程までの剣も、男にとってはそれなりに本気であったはずだ。しかし、それでもなお彼にとってこの戦いは、まだ技量の試し合いの域を出ないものであったのだろう。
 むろん稽古試合といえど、得物が木刀であるなら、まともに急所に入れば人は死ぬ。
 だから、木刀同士の稽古というものは、普通は寸止めを前提に行われる。
 しかし所詮は人間同士のやることだ。肉体が興奮状態に陥れば、寸止め前提の縮こまった攻撃など、なかなかできるものではない。
 現に、さっきのシグナムの脚部への一撃も、下手すれば男を一生不具にしかねないものであったし、その直後の片目の男の跳躍攻撃にいたっては、彼女が避けなければ確実に致死の威力を秘めたものだった。
 しかし、それでもやはり「つい」腕に力が込もってしまった「だけ」の剣には違いない。
(だが、これ以降は違うということか)
 すでにシグナムは理解している。
 おそらく男は、この期に至って、ようやくシグナムを強敵と「認めた」――そのつもりで剣を繰り出す事を決意したのだろう。

 もちろん彼女は、この隻眼の男が、どういう人物なのかという知識は無い。
 剣の名門――しかもその嫡男に生まれながら、そのあまりに殺伐な剣風ゆえに“梟雄”などと呼ばれて怖れられ、ついには実父から家を追放されたような人物であることなど、何も知らない。


 しかし、シグナムの表情は、なおも変わらなかった。
(つくづく熱くさせてくれる……)
 そう思いこそすれ、男の剣気に恐怖など覚えたりはしない。
 いや、むしろ自分に恐怖を感じさせてくれる敵であればこそ、それは彼女にとって喜悦の対象なのだ。
 そして、男が「その気」になった以上、この戦いの決着が、いずれか一方の死を以ってしか付かぬであろう事は、もはやこの場にいる誰の目にも明白だ。それが五割を超える高確率でシグナム自身の死を意味するだろうということも。
 が、彼女自身、その結果に不満を抱く気は無い。
 剣士として戦い、剣士として死ぬ。それだけのことだ。いや、むしろ自分を殺せるほどの剣士に逢えたという、この運命には感謝以外の言葉など無い。
――剣士の本懐ではないか。
 それこそがヴォルケンリッター“剣の騎士”たるシグナムの、まぎれもない本心であった。
 
 惜しむらくは、この得物だ。
 もしも今、自分の手の中にあるのがこんな木刀ではなく、愛剣レヴァンティンであったなら――そう思わずにはいられない。
 剣の実力において、この男に自分が劣るとはシグナムは思わない。
 だが、それでもやはり、人にはタイプの違いというものがある。
 この期に及んで言い訳がましく聞こえるかもしれないが、シグナムは木刀よりも真剣――具体的に言えば、レヴァンティンをこの手に握ってこそ、その本領を発揮するタイプであると自覚しているからだ。
 むろん雑魚が相手ならば問題はない。
 だが、この片目の男のような、おのれと互角の勝負が出来るような相手との戦闘ならば、その僅かな違和感は、それこそ致命的な差となって表れることは明白だ。

 そのレヴァンティンは、いま彼女の手には無い。
 なぜ無いのか――。
 ならばどこにあるのか――。
 まあ、それはおいおい本編で語ってゆく予定ではある。


 話を戻すと、つまり今のシグナムは、剣人として100%の実力を発揮できるコンディションではない。
 眼前のこの男のように、どこにでもあるような木刀を得物として、おのれのスペックをトップギアにまで持っていけるような器用さを、彼女は持ち合わせていないのだ。
 もっとも、この勝負をそんな言い訳で汚す気はシグナムには無い。
――無いが、それでもやはり思ってしまう。
(どうせなら、やはりこんな安い木刀などで立ち合いたくはなかったな……)
 シグナムに思い残す事があるとすれば、まさしくそれだけだ。
 いや、それともう一つ――。


「そういえば、貴様の名をまだ聞いてなかったな」


 男が「ん?」とばかりに少し意外そうな顔をする。
「まだ名乗っておらなんだか?」
「貴様は私を名で呼べるが、私は貴様を貴様としか呼べぬ。それは公平ではあるまい」
「ふふ……確かになぁ!!」
 

 その瞬間だった。
 二人は同時に大地を蹴り、数歩の間合いを互いに一気に詰め、その剣を同時に振り下ろした。
 男は結局、まだ名乗ってはいない。
 だが、会話の最中に不意をつこう――そんなセコい発想の攻撃ではなかった。
 男にしろ、そしてシグナムにしろ、おのれの内部に極限まで高まった剣気の導くままに肉体を解放しただけに過ぎない。剣士としての反射が、本能が教えたタイミングに従ったに過ぎないのだ。
 そして――両者が同時に振り下ろした袈裟斬りの剣が×字型に交差し、誰もが顔を背けるような音がこの場に響いた。


 それは、男の木刀と真正面から衝突したシグナムの木刀が砕け散った音だった。
 そして彼女の木刀を叩き折った男の木刀は、シグナムの鎖骨から数ミリのところで止まっている。
 

 天地晦冥であった現世に、夏の日差しとセミの声、そして山から吹き降ろす微風が戻ってきた――。
 シグナムも、男も、依然として、まるで彫像のように静止したままだ。だが、もはや両者の顔に笑いは浮かんでいない。
「これは……おれの勝ちか?」
「いや」
「ならば、そなたの勝ちか?」
「いや、それもあるまい」
 そう言い放つや、シグナムはくるりと男に背を向けた。
「引き分けだ。決着は一応貴様に預ける、という形にしておこうか」

(オイオイ、引き分けとは何のことだ)
(誰がどう見ても勝敗は明白ではないか)
 見物人たちの間から、そういう空気が沸き立つが、男はちらりと彼らの方を一瞥すると、
「未熟者めらが」
 と、イタズラっぽい笑みを浮かべて言い、手に持っていた木刀で地面を軽く叩いた。
「――ッッ!?」
 その瞬間、声にならない声が観衆たちから漏れる。
 なぜなら男の木刀は、地面に触れた途端に、乾いた音を立てて真っ二つになってしまったからだ。
 つまり、男がシグナムの木刀を打ち折ったのと同時に、シグナムも男の木刀の芯を砕いていたということなのだろう。


「引き分けか……ふふ……ならばそういうことにしておこうか」


 折れた木刀を楽しそうに見つめる男に、シグナムはふたたび視線を投げかける。
「――で?」
「ん、ああ……おれの名だったか?」
 そこで片目の男は不意に見物人を振り返り、
「腹が減ったぞ爺、朝餉(あさげ)の膳を用意せい! もちろんシグナム殿の分もな!!」
 そう言うと、今度はシグナムに訊く。
「そなたも食うじゃろう? で、箸は使えるのか?」
「あ……ああ、気を遣ってもらって済まないな」
「言うな言うな。それもこれも、そなたが予想以上の使い手であったればこそじゃ。この柳生ノ庄は強者(つわもの)こそが一番に尊敬される地じゃからな」
 そこで男は一度言葉を切り、からからと破顔する。
「加えてそなたが尋常ならざる美形じゃから――という理由も大きいかのう」
「…………」
 男に他意はないのだろうが、面と向かってそう言われれば、さすがにシグナムも面食らわざるを得ない。
 で、彼はそこで少し真顔になり、言った。

 
「おれの名は十兵衛――柳生十兵衛。この柳生ノ庄は我が父祖の地じゃ、お気が済むまで逗留なされい。この十兵衛、責任を持って客分として遇させていただく」




[36073] 第三話  「その前夜」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2012/12/07 20:20

――どこだ、ここは?

 目を覚ましたシグナムの意識に最初に走ったのは、まさしくその疑問だった。
 そこは土壁と、ショウジという紙の扉で区切られた一室。
 ベッドではなく、タタミという植物繊維で織られた床に直接敷かれたフトンという夜具。
 微妙に湿り気を帯びた空気に、外からひっきりなしに聞こえる虫の声。
(日本であることは間違いないようだが……)
 しかし日本とはいっても、シグナムはかつて己の――というより、彼女の主君である八神はやての故郷である海鳴市しか知らないのだが、それでも数年にわたって住み暮らした国だ。間違えようも無い。
 
(しかし、わかるのはそこまでか)
 シグナムは油断なく周囲の気配を読む。
 この和室に彼女以外誰もいないのは間違いない。天井裏や軒下にも誰かが隠れている様子はないからだ。
 この部屋の外からも、殺気や視線の類は感じないし、自分を遠隔視しているような魔力も感じない。
(誰もいない、か)
 まあ、近くに誰もいないだけで、機械式のマイクロカメラか何かを使っているだけなのかも知れないが。

(ならば)
 そこまで確認して初めて彼女は、布団をめくって立ち上がった。
 体に痛みは無い。充分に睡眠をとったためか疲労も残っていない。
 また、両腕、両足、十指を初めとする全身の関節にも支障はない。
 昏睡してる間に何らかの呪的処置を施されたり、怪しい薬物を投与された様子もなさそうだった。
(つまり、私をこの部屋に運んだ「連中」は、私に対する害意が無い)
 そう判断して差し支えはないだろう。

(というか、何だこの服は)
 浴衣や晴着といった着衣ではないが、おそらくは同じ様式の寝間着を着せられているが、勿論シグナムに、そんな服に着替えた記憶はない。
 もっとも、騎士甲冑は所有者の意図せぬままに解除される事もある。
 ある程度以上のダメージを心身に負い、魔力を維持できなくなった時などだ。
だが、騎士甲冑が解除されても、その時点で術者が裸になるわけではない。
 甲冑展開前の着衣に戻るだけだ。
 しかし現在シグナムは、かつて着ていたはずの管理局の制服を着ていない。
 つまり彼女を介抱した「連中」が、局員服を脱がせて、わざわざこの見たことの無い寝間着に着替えさせたということになる。

 その想像に、彼女は思わず眉をひそめた。
 無論、その「連中」に裸身を見られた、という女性的な悔しさではない。
 そんな無防備極まりない状態を、敵味方かも定かならぬ者たちに晒しながら、無様に眠り続けていた自分自身に対する、戦士としての意識からの苛立ちである。
(このシグナムともあろうものが、な……)
 そう、彼女は、すでに気付いている。
 彼女の自由を制限するような拘束器具は、どこにも見当たらない。
 むしろこの待遇は、まるで賓客か何かをもてなすような扱いだ。


 唯一、ネックレスのように首からぶら下げていたはずの彼女のアームドデバイス「レヴァンティン」が無い、という事実を除けば。


(まあいい)
 デバイスとの体内リンクはまだ切れていない。
 だからこそ彼女にはわかるのだ。
 レヴァンティンは、この地――いや、少なくともこの部屋のある屋敷の敷地内のどこかに必ずあると。
 むろん永年のパートナーとも言うべき愛剣が手元に無い心細さはある。
 だが、そういう負の感情を思考の基盤にするような脆弱さは、そもそも彼女の精神構造には存在しない。こういう不可解な状況下であればこそ、自分自身に、いま何が出来て何が出来ないかを把握しておく必要があるからだ。
 むしろ気になるのは、ここの「連中」が、自分からデバイスを取り上げた理由だ。

 とはいえ、本当のところレヴァンティンがこの屋敷の者たちに隠匿されたわけではなく、単に庭のどこかに落ちているだけという可能性も当然ある。
 あるが――そんな状況を想定しても仕方が無い。
 シグナムは戦士であり、それと同時に主君・八神はやてを守るための兵士でもある。
 常に最悪の状況を想定し、そういう状況に陥らぬためにはどうすべきか。さらには万が一、そういう状況に陥ってしまった場合はどうすべきか。
 そう考える癖が、長らく「闇の書」の実戦部隊のリーダーとして過ごしてきた彼女には、もはや染み付いてしまっているのだ。

――この私が何者であるかを知った上で、レバンティンを隠したのだとしたら。

(そう……危惧すべきはそこだ)
 シグナムはそう思う。
 なにしろ彼女たちの行使するベルカ式というスタイルは、ミッド式に比べて戦闘という目的にのみ特化しすぎており、日常に応用の利く魔法術式は少ない。その中でも、デバイスを介在させずにシグナムが使える魔法となれば、簡単な防御法術と飛行スキル、それから後は一つか二つといったところであろうか。
(デバイスを持たないベルカ騎士など、恐れるに足りないということか)
「連中」がそう解釈している――というなら、この待遇も納得できるのだ。
 むろん彼女の剣の腕は、たとえレヴァンティンが手元に無かったところで、いささかも劣化するわけではない。ベルカ騎士としての彼女の戦闘手腕は、その魔力ではなく、あくまでその圧倒的な武技にこそ基盤を置くものだからだ。
 しかし、いくら強がったところで実際の話、砲撃魔導師数人に遠巻きに包囲されて集中砲火でもされてしまえば、レヴァンティンを持たない今のシグナムには反撃のしようもないのだ。
  
 しかし、だからこそ――彼女はその胸を高鳴らせる。
(久しぶりだな……こういう感覚は)
 そう思うだけの余裕が、シグナムにはある。
「闇の書」の守護騎士時代ならばともかく、当代の主君たる八神はやてとともに時空管理局に入局して以降は、こういう、事態がまったく読めない状況というものはなかなか経験できなかった。
 ならばこそ、彼女の戦士としての本能がうずくのだ。
 まだ見ぬ強敵を捜し求める、その本能が。
 そして、彼女の第六感は囁いている。
 この地には、私が剣を振るうに足る相手がいる――と。


(……まあ、最近は胸糞悪い犯罪者としか剣を交えてなかったからな)
 シグナムは溜息をつくと、がらりと障子を開く。
 眼下には左右に伸びる廊下があり、その向こうは壁ではなく、一面の庭が広がっている。
 かつて海鳴にいた頃、テレビの時代劇で見た「ニホンテイエン」というほどに見事に整えられてはいないが、それでも地球でもミッドでも目にした事が無いほどに広大な庭であり、それだけで、この屋敷の規模が想像できるというものだ。
 部屋にこもった湿っぽい空気が排出されると同時に、涼しい夜風が彼女の髪をくすぐる。
 いや、それよりも彼女の目と耳を奪ったのは、耳をつんざく鈴虫やキリギリスの鳴き声。  
 そして、目を覆うほどに見事な満天の星々。
(うわあ……)
 シグナムはこの夜空を覆う大銀河に素直に感動する。
 むろん「闇の書」の眷属として世界と時代を巡って生きてきた彼女にとって、満天の星空など言うほどに珍しい光景ではない。
 だが、今回の覚醒以降、シグナムは海鳴やミッドチルダといった都市部を生活の拠点としてきたため、こういう夜景はひさしぶりだった。

「ふんっ」
 
 鼻息を漏らすと、彼女はそのまま布団の上にごろんと横になり、天井を見つめた。
 夜空を見上げたおかげで、毒気は抜けたようだ。
(どっちにしろ、今はじたばたしても始まらない)
 状況を見極めるには、やはりここの「連中」との接触が必要不可欠だ。
 そして、開き直ったかのように寝そべった彼女は、そのまま子供のように眠りに落ちた……。




[36073] 第四話  「挑発」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/01/10 20:33
 その気配は、まるで目覚まし時計のようにシグナムを惰眠からたたき起こした。

 障子に貼られた和紙越しに部屋に差し込む、晩夏の朝日。
 昨夜はあれだけ耳に心地よかった鈴虫やキリギリスが、日が昇ると同時に、まるで騒音のような鳴き声を喚き続けるアブラゼミにバトンタッチしたようだ。
 部屋の様子は昨夜から変わっていない。

 そして、例の気配の所有者――薄茶色の着物姿をした一人の女――は、障子をがらりと開けて、室内にいる自分を気にする様子もなく、この部屋に入ってきた。
 おそらくシグナムが覚醒しているとは夢にも考えていないのだろう。何かの童謡を鼻歌まじりに口ずさんでさえいる。
 そして、視線は合わさった。

「え……っっ!?」
 
 彼女は、布団から身を起こして怜悧な瞳を向けるシグナムの顔を、まじまじとみつめると――そのまま幽霊でも見たような表情のまま、脱兎のごとく、この部屋から飛び出していったのだ。

「ちょっ、待っ!?」
 思わず立ち上がろうとするシグナム。
 が、もはや遅い。
 開け放ったままの障子から廊下を覗くと、すばらしいスタートダッシュで逃げ去っていく女の背中が見える。
 この意外すぎる成り行きにシグナムはぽかんと固まってしまった。
 なにしろ、この世界で最初に出会った人間が、そのままファーストコンタクトを図る暇さえ与えず、シグナムを置き去りに脱兎のごとく逃げ出してしまったのだから。
 残された彼女は――起きぬけということもあって――その指先を、茫然と伸ばすことしかできない。
 いや、そんな彼女の思考停止も、せいぜい数十秒といったところで、不意に別の感情に切り替わる。

「くっくっくっくっ……」

(なんだこれは……いったいどういう茶番なんだ)
 彼女は笑った。
 無論それは苦笑というしかない笑みではあったが、しかしそれは、もはやこの事態を楽しんでもよいのではないかという、これまでと違った方向へ腹をくくった証であったと言えるだろう。

 
 女が戻ってきたのは、それから数分後だった。
 一体これから何が起こるのかと、むしろ好奇心をもって静観を決め込んだシグナムであったが、女に続いて部屋に入ってきた数人の男たちを見て、
(やはり、か)
 と、むしろ納得した思いだった。
 その男たちは、全員が着物――羽織に袴、さらに帯には刀をぶち込んだサムライ装束だったからだ。
 やはりこの国は日本――しかも、過去の日本をベースにした平行世界の一つなのだろう。
 むろん管理世界であるはずが無い。

 やがて、その一団の中でも最後に入室してきた白髪の老人が、
「ほう、どうやら本当にお目覚めなされたようですな」
 と呟きながら、シグナムの前に背筋をすらりと伸ばして端座し、その動作に合わせる様に男たちも皆、その老人の背後に続くように座する。無論シグナムも居住まいを正し、布団の上に正座する。
 かつて海鳴市の剣道場で覚えた座り方だ。もっとも、まさか彼女としても、こんな状況でその知識を生かすことになるとは予想もしていなかったが。
 だからこそ、老人がシグナムに向けて吐いた第一声は、彼女の虚を突いたものであったと言える。
 

「とりあえず“天女様”とお呼びさせて頂きますが宜しゅうござりますか? 拙者は、当地の留守居を主より任されておる狭川源左衛門と申します」


「てん、にょ……この私が?」
 あまりに予想外の言葉に、目をぱちくりさせるシグナム。
 そんな彼女に苦笑を向けながら、狭川老人は言葉を続ける。
「とりあえず言葉が通じるようで助かりましたわい。まあもっとも当方としても、貴殿の名も判らぬゆえに便宜的にそう呼ばせていただいておるだけ、というわけでもございませんでな。ご気分を害されたなら、申し訳ござりませぬ」
 そう言って、ぺこりと頭を下げる狭川老人。
 しかしシグナムにしても、聞き流すにしては“天女”というネーミングはあまりに異質だ。

「ああ、いや、そういうことではありませんが、その“天女”という名が便宜的ではないというのは?」
 しかし、その質問に狭川老人はむしろ、何故そんなことを訊くのかという表情を見せた。
 それはそうだろう。シグナムにとってこの地は、目的あって来訪した場所でも何でもない事実をこの老人は知らない。
 それどころか、彼女はようやく、おのれ自身が自分のことについて何も語っていないことを思い出す。
――いや、それだけではない。

(そういえば、なぜ私はここに……!?)
 シグナムは――いまさらな話だが――この世界に次元漂流した直接の原因となった出来事について、まるで思い出せない自分にようやく気付いたのだ。
 自分が何者であるかという基本的な認識はある。
 八神はやてと出会う以前も、それ以降の記憶もある。 
 だが――たとえば昨日、自分はどこで何をしていたのかという――いわば、ミッドにおける最後の記憶が完全に欠落しているようなのだ。
 なにより記憶が飛んでいることに気付かなかった自分にこそ、彼女は一番に衝撃を受ける。
(……これも次元漂流のショックだということなのか!?)
 

 しかし、そんなことは狭川老人にはわからない。
 会話の途中にいきなり呆然自失となったシグナムに、彼としては困惑というより心配したようだ。
「あの、天女様、いかがなされました? まだお体の具合が宜しくありませんかな?」
「あ、ああ……いや、なんでもありません」
「いえいえ、ご無理はなさらぬ方がよろしいでしょう。なんなら医者を呼びましょうか」
 そう言って背後のサムライに何かを言いつけようとする老人を引きとめようとするように、シグナムは言う。
「さ、狭川殿、お待ちください!」


「申し遅れましたが、我が名はシグナム。時空管理局首都航空隊シグナム一等空尉であります」


「しぐなむ……殿?」 
「はい」
 シグナムはそこで軽くうなずく。
 おそらくこの老人にとっては確実に意味不明な言葉が並べられた自己紹介であったろう。
 だが、それはいい。詳しい話はまた今度だ。
 今は老人が自分の名前を一応正確に聞き覚えてくれたというだけで充分なのだ。
 なぜなら彼女が訊きたい事は他にあるのだから。レヴァンティンのことも訊かねばなるまいが、それよりも何よりも、いったい自分がこの部屋にどういう経緯で運び込まれたのか、それを訊かずにはいられない。
 いやいや、それを訊く前に――。
 

「非常に申し上げにくいのですが、どうやら私自身、少々記憶が混乱しているようでして、おのれの現状について全く理解が追いついていないのです。なので御老人――狭川殿に伺いたい。ここがどこで、今日がいつであるのかを」


 さすがにこの質問も、さっきの発言以上に老人の予想範囲外であったようだ。
 彼は「はぁ?」という表情のまま、少しのけぞった。
 それはそうだろう。
 次元漂流者を見慣れた管理局員ならばともかく、そんな奇妙な質問をされた経験は、この老人としても、そう何度もあるとは思えない。
 彼の背後に居並ぶ武士たちもこのやりとりに、今まで以上に奇異な者を見る視線をこっちに向けてくる。中には小声でひそひそ会話をし始める者たちもいたほどだ。


「今は寛永十五年九月五日。ここは大和国柳生ノ庄という田舎の里じゃよ、シグナム殿」


 狭川老人の声ではない。
 もっと若い、力強い声だ。
 その声と同時に障子がからりと開き、新たに三十代ほどの男が一人、この部屋に入ってきた。

 この部屋にいる侍たちとは違って、袴もはかず、額も剃り上げず、無精ひげを生やした口元からキセルをくゆらせ、ぼりぼりと尻を掻いているその様子は、あからさまにズボラで、だらしなく、むさ苦しい。
 まるで時代劇で見かける貧乏浪人のようだ。
「若!?」
「十兵衛さま!?」
 武士たちはみな揃って振り向き、驚声を上げる。
 が、彼は狭川老人や武士たちに一瞥も送らず、ただシグナムに向けてのみ、ニッと男臭い、それでいて少年のように爽やかな笑顔を向けた。
 
 が、シグナムはその笑顔に癒されたりはしない。
 むしろ、その男の出現に殺気さえ沸き立たせていた。

(この男、いつからそこにいた……!?)
 むろんシグナムの名を呼んだからには、彼女が自己紹介をする前から障子の外にいて、中の会話を立ち聞きをしていたということになる。
 しかし、問題はそこではない。
 彼女は気付かなかったのだ。
 外部からこの部屋の様子を伺う気配の存在に。
(バカな……ッ)
 そう心に叫ぶおのれの声を懸命に抑えながら、彼女の視線は、まるで吸い寄せられたように男の顔――特に、糸のように閉じられた右目から離せない。
 しかも彼の物腰、身にまとった空気、さらに何より今シグナムに気配を悟らせなかった穏行から判断して、片目ながらも並々ならぬ使い手であることは間違いない。おそらくはシグナムでさえ、まともに戦って勝てると言い切れぬレベルの、だ。

 今この瞬間、ここに放たれたいくつかの言葉。
 カンエイ15年という年号や、ヤギュウという地名。
 さらに片目の男が呼ばれた、ジュウベエという名前。  
――無論シグナムには、それらの言葉に対する知識は無い。

 くりかえすが、日本という国は彼女の主君・八神はやての故郷であり、何よりシグナムたちヴォルケンリッターが数年にわたって住み暮らした地だ。
 だから、日本に対する最低限の知識は、いくらシグナムでも持っているが、その知識量は、基本的に日本に観光に訪れる外国人とあまり変わらない。
 しょせん彼女たちは、この国に生まれ育った日本人ではないのだから、それは当然であろう。
「サムライ」「ニンジャ」「スシ」「ゲイシャ」
 そういうワードに対する、いくつかのおぼつかない知識があるという程度だ。
 もっとも、それらに対する関心が皆無であるかと問われれば、そんなことはない。
 彼女は剣士だ。
 ならばこそ、この国がかつてサムライという剣士階級によって支配されていた事にも、その剣技が「ケンドー」という伝統競技として残されている事にも、それなりの関心を抱く余地はあった。海鳴市の剣道場でコーチを引き受けたのも、そういう興味が意識の中にあったからだとさえ言えるだろう。
 もちろん八神はやてのミッドチルダ移住に伴い、そういう興味は彼女自身が意識せぬままに、いつの間にか薄れ、消えてしまったが。

 だが、それでも分かることはある。
 たとえばそれは、眼前のこの男がただ者ではないという明確な事実だ。

 むろんシグナムは、狭川源左衛門を初め、ここにいる武士たちがみなかなりの使い手である事実に気付いていた。まあ、この地が「柳生」であるならば、むしろそれは当然の話なのだが、そこまでは彼女の知識では理解しようが無い。
 だが――それでもわかるのだ。
 あの隻眼の男は、ここに居座る連中などとは、まさしく異人種かと思えるほどに雰囲気が違う。こうやって彼の全体像を視界に捉えてみれば、それはもうはっきりと理解できる。
(強い、この男、とてつもなく……ッッ!!)


「ほう」
 シグナムの向ける視線の異質さに、さすがに男も気付いたのか、むしろ先程以上に興味深そうな顔をする。
「爺よ、どうやらこの天女様は、なかなかどうして、かなりのじゃじゃ馬らしいぞ」


「えっ!?」
 その言葉に、狭川老人が再びシグナムを振り返るより早く、彼女は立ち上がっていた。
 もとより理性が命じた行動ではない。
 反射だ。
 剣士としての本能が、シグナムの肉体に戦闘待機を命じたのだ。
 彼女は魔像のように布団の上に佇立し、例の隻眼の男と対峙する。
 その行動が、ここにいる狭川老人たちの目にどれほど不審なものに映るであろうかは、もちろん考えてなどいない。
 さらに今現在、おのれは寸鉄一つ身に帯びぬ丸腰であり、本当に戦闘となった場合は、男の腰の刀に対抗しうるすべは、剣士としての彼女自身には存在しないという理性的な状況判断も、今のシグナムには働いていない。
 それどころか彼女の瞳には、久しぶりに活きた剣人――さらにはその剣気と相対したことに対する喜びに似た感情さえ宿っている。

「なるほど、面白そうだなシグナム殿」
 隻眼の男も、彼女の放つ剣気に呼応するように、きゅっと口元を歪ませる。
 それは先程までの少年のように爽やかな笑顔とはまるで異質な、あたかも飢えた肉食獣が獲物を発見したときのような、獰猛な笑みであった。
 そして、視線をシグナムに固定したまま彼は、自分の一番近くに座っていた武士の一人に言う。


「ちょっと頼まれてくれぬか千八、一走り道場まで行って木剣を二本、ここへ持ってきてもらいたい」
 

 この一声に、さすがに一同は騒然となった。
「わ、若っ、何をたわけたことをッッ!?」
 狭川源左衛門などは狼狽し、掴み掛からんばかりの勢いで二人の間に割って入る。
 千八と呼ばれた若者は、そんな老人と片目の男をきょろきょろと比べ見て(え、俺どうすべきなの?)とばかりに空気を読もうとしていたが、
「済まんが、頼む」
 と、片目の男が人懐っこい笑顔を向けると、まるで躊躇していたのが嘘のような勢いで立ち上がり、
「はいっ、直ちに!!」
 と叫んで、部屋から飛び出してしまった。

 後に残された、しかめっ面の狭川老人に、片目の男はそのまま手を上げて「悪いな、爺」と詫びると、シグナムに再び視線を向け、
「どうじゃ、表に出ぬかシグナム殿」
 と誘う。
 むろんシグナムに否応のあるはずが無い。
 彼女は無言でうなずき、大股で男に続き、縁側から庭に飛び出した。


(土が熱いな)
 そう思って初めてシグナムは自分が裸足であることに気付く。
 むろんシグナムにとっては、裸足で大地を踏みしめる事など久しぶりだ。
 おそらくは去年の夏休みに、八神はやてと共に行った海水浴以来であろうか。 
 上空を見上げると、雲ひとつ無い青空が見える。
――ミッドより、この空は高いな。
 そう思う。
 彼女が暮らしていたミッドチルダの首都クラナガンは、高層ビルが立ち並ぶ都市圏であるため、地面から見上げる空は小さく、狭い。
 しかし、ここは違う。
 見上げる空が高いというのは、やはり気持ちがいいものだ。
 それは、たとえ大空を庭とする空戦魔導師の彼女であっても変わらない――。

「シグナム殿」

 振り返りもせずに彼女は、宙に放り投げられた木剣を受け取る。
 それを二・三度素振りし、木剣の感触や間合いなどを確認した後、初めてシグナムは男に向き直った。
「ほう」
 片目の男は、振り向いたシグナムの顔を見て、数度目かになる感嘆の声を上げるが、彼が何を感心したのかまでは、むろん彼女には判らない。
 いや、そもそもこの男と立ち合わなければならない、まともな理由などシグナムには無いのだ。

 あるとすれば――それは剣士としての本能だ。
 そこにいる者と自分の、いずれが強いのか、どちらの技が上なのか、それを比べずにはいられないという剣士の――いや、戦士の本能だ。
 かつて海鳴で少女時代のフェイト・テスタロッサを好敵手と認め、その真剣勝負を楽しんだように、シグナムにとって戦いとは、神聖なものであると同時に最高の愉悦であり、娯楽である。そして、そういう感情ならば、眼前の片目の男も自分と等しく持ち合わせていることも、シグナムにはわかる。
 ならばこそ、彼は喧嘩を売ってきたのであろうし、彼女はその喧嘩を買ったのだ。

 シグナムは握った木剣を中段に構え、
「来い――」
 と短く言った。



……つまりそれが、今朝の決闘に至るまでのいきさつであった。






[36073] 第五話  「クレーター」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2012/12/08 11:32

 蒸し暑い。
 まるでサウナにいる気分だ。
 額や顔どころか、もう髪の中まで汗でびっしょりだ。
 さらには髪で覆われて風通しの悪いうなじなども。
(そういえば海鳴の夏も暑かった)
 そう思いながらシグナムは手拭いで汗を拭く。もっとも、洗濯が済んで今朝に返してもらった管理局の局員服の風通しが、あまりよくないということもある。
 確かにこの湿気の不快さは、現在、彼女が居を構えるミッドチルダの夏にはないものだが、それでも、かつて日本に住んでいたシグナムにとっては、郷愁に似た懐かしさを催させる。

「暑うござるな、シグナム殿」

 そう言いながら、彼女を先導する形で前を歩いていた男が振り向く。
 顎からもみあげまで続く無精ひげや、口に咥えた古びたキセル、さらには糸のように閉じられたままの右目などからも、むんむんと壮齢の男臭さが匂ってくるが、しかし、男が周囲に与える印象に、不潔感や不快さは無い。
 その彫刻的な顔も、よくよく観察すれば気品があるように見えなくも無いが、それはあくまで好意的な見解であって、客観的に言って彼がいわゆる「イケメン」「ハンサム」と呼ばれる類の美男子かと問われれば、うなずく人間はまずいまい。
 
 柳生十兵衛――この男は、あの後改めてシグナムにそう名乗った。

「今年の夏は少々おかしいようでな。例年ならばこの時期になれば、もう少し涼しゅうなるのじゃが」
「いや、暑さはともかく、まだ歩くのか?」
「もう少しじゃ」
 と答えながら、十兵衛はぷかりとキセルから煙を吐き出し、ぼりぼりと尻を掻く。
 その野放図さは、後頭部に結われた団子のような髪――茶筅髷(ちゃせんまげ)というらしい――と、腰の帯にぶち込んだ刀がなければ、もはや武士にさえ見えないだろう。
 シグナムも思わず苦笑する。

「しかし行儀が悪いな十兵衛殿。とても御領主様の若殿には見えないぞ」
「よく言われる。まあもっとも、若殿と呼ばれるほどに若くもないがね」
 今では、狭川の爺以外には誰も“若”とは呼んでくれぬ――そう笑う十兵衛の顔には、一点の曇りも無い。
 無さすぎて――シグナムは少し引いてしまいそうになる。
(三十路を越えたはずの男が、こんな無邪気な顔が出来るものなのか)
 そう思ってしまう。
 少なくとも、彼女の周囲にいた管理局員の中には、そんな男は一人としていなかったからだ。
 

 いま二人は、柳生屋敷から少し離れた、とある雑木林の中を歩いている。
 あの、柳生屋敷での立ち合いから、すでに三日という時間が経過していた。


 二人きりではあるが、無論これはデートでもピクニックでもない。いや、十兵衛自身がどういうつもりかは判らないが、少なくともシグナムには、そんな意図は毛ほども無い。
 にもかかわらず、彼に声をかけられても断りもせずに、こんな森の中までついてきたのは、出会って間もないはずの柳生十兵衛に対して、言いようのない信頼感のようなものが何故かシグナムにもあったからだ。
 もっともそれはシグナムに限らぬ感情であるらしく、彼女の知る限り、この柳生ノ庄の住人たちは、士民を問わずみな十兵衛をよく慕っているようだ。
 普通に考えれば、土地の若殿様がお供も連れずに、シグナムのごとき正体不明の女とブラついていても、誰も何も言わないというのは、さすがにかなり特殊な話であると彼女にも理解できる。
 これもあるいは十兵衛の人格と――何よりその強さが信頼されている証である、と言えるだろう。

 いや、十兵衛もそうだが――それと同時に、この里の者たちの気性が、こんな山間部の集落にしては、めずらしく開放的だということもあるかも知れない。
 例の決闘のおり、この柳生ノ庄は強者こそが一番に尊敬される地だと十兵衛は言ったが、その言葉はまさしく正しかったと言うべきだろう。なにせ、それ以来、彼らのシグナムへの態度が、おそろしく好意的になったからだ。
 屋敷に詰めているサムライたちのみならず、実際に彼女の世話を担当している女中たちなどの言動にも、あきらかに尊敬の色が混じっている。
 いや、それどころか――今日この森に来るまでにも十兵衛と連れ立ってずいぶん歩いたものだが、その道行きですれ違った土地の者たちからの視線にさえも、警戒や白眼などよりも、あきらかに敬意の感情の方が多量に含まれていることに、彼女自身気付かずにいられなかった。もっとも彼女が着ている局員服には、皆いささか以上の好奇の視線を示したものだが。
 この地において、柳生十兵衛という存在と互角に戦ったという事実は、それほどまでに大きな意味を持たざるを得ないのであろう。

 
「お、着いたようじゃぞ」
 その声に改めて前方を見直したシグナムはぎょっとなった。
 自分たちが今まで歩いていた鬱蒼とした森林が、なぜかその一帯だけは頭上から直射日光がさんさんと降り注いでいるのだ。
 いや、森の中の薄暗さに慣れた目に、不意に陽光が差し込んだため、彼女は思わず顔を背けたが、よくよく見ると、まるで怪獣が暴れたように樹々がなぎ倒されている。そのために、普段は葉で隠されていたはずの青空が丸見えになっているのだろう。
「こっちじゃ」
 十兵衛は表情も変えずに歩き続け、彼女も倒木をまたぎながら後を追う。


 そこにあったのは、半径50メートルほどのクレーターであった。


「なんだ……これは、隕石でも落ちたのか!?」
 なぎ倒された周囲の樹々から判断して、落下物はかなりの大きさであることはシグナムにも予測がつく。中心部は、着地の衝撃で地下水でも湧き出たのか、まだ沼と呼ぶほどの水量ではないが、泥水が溜まっている。
 だが、それはいい。
 わからないのは、十兵衛が何故ここにシグナムを連れてきたのかということだ。
 彼女は十兵衛を振り返る。
「やはり、説明せねばわからぬか」
 そう言いながら彼は倒木の一本に座り、キセルの煙草を詰め替えていた。


「そなたはここに倒れていたのじゃよ、シグナム殿」


 シグナムは絶句している。
 それはそうだろう。彼女としても自分が次元漂流者である自覚はあったが、まさか隕石のように宇宙から落下してきたなどとは、さすがに想像の範囲外だ。
 というより、
(そんなバカな、ありえない)
 という思いの方が、本音に近い。
 次元漂流というものは次元空間の一瞬のズレに人間が巻き込まれた時にのみ発生する。   
 が、それはシグナムの知る限り、あたかも神隠しのように周囲に物理的な痕跡をのこさないのが常なのだ。

「そなたを見つけた土地の猟師の話では、この森に流れ星が落ちたので様子を見にきたら、星ではなく“天女様”が倒れていた……ということらしい」
「…………」
「で、我らもこの地を預かる者として捨て置くわけにもいかず、その“天女様”を屋敷に収容したわけじゃが、正直言えば、少々薄気味悪いとは思うておったわけよ」
「…………」
「まあ、あの立ち合いでおぬしが、人の姿をした不死身の化物などではなく、柳生新陰流が通用する相手じゃということも分かったし、それでいささか安心したわけなんじゃが」
(なるほど……)
 シグナムとしてはうなずかざるを得ない。
 サムライたちの態度が好意的になった背景には、そういう認識の変化があったからなのか。
「しかし、おれとしても色々そなたに話を聞かざるを得ない事情があってな……本当はこんな野暮な事は訊きたくなかったんじゃが、まあ勘弁してくれ」
 そう言って十兵衛はシグナムに真顔を向ける。


「おぬし、本当のところはいったい何者なのじゃ?」





[36073] 第六話  「告白」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/01/10 20:36
「おぬし、本当のところはいったい何者なのじゃ?」


 シグナムとしても、その質問を覚悟してなかったといえばさすがに嘘になる。
 まあ、ここが管理世界ならば、普通に答えることに何の迷いも必要ない問いだろう。
 ならば、そんな質問をされることになぜ覚悟が必要なのか。
 簡単な話だ。
 ここは管理世界どころか、科学文明すら存在しない封建時代の「世界」だからだ。
 もしも万が一、おのれの正体をあますところなく正直に説明したとして、そのとき彼らは、どういう反応を示すであろうか。
 天女として奉られるくらいならまだいい。
 人知を超えた化物・妖怪として恐怖を抱かれでもしたら、シグナムはその足でこの里を去らねばならないだろう。
 十兵衛との決闘前――狭川老人に初めて天女呼ばわりされた朝ならば、まだこんな考えは持たずに済んだだろうが、もはや今では事情が違う。

 ミッドに帰れる手段があるならばともかく、次元漂流に巻き込まれてここにいる以上、言うまでもないことだが、シグナムにはこの地を離れたら身を寄せる場所のあてなど、当然無い。
 なによりシグナムは、この柳生ノ庄を――そして何より、今おのれの眼前にいる柳生十兵衛という男を、すでに気に入ってしまっている。
 ならばこそ、彼らに無用の警戒と恐怖を抱かせる可能性のある、自分自身の正体について、正直に話すべきか否か、彼女は非常に迷っていたのだ。
 
 まあ誤魔化すのは簡単だ。あの部屋で目覚めるまでの記憶が、まだ定かではないとでも言えばいい。
 一度シグナムと名乗っておいて記憶が無いなど、まともに通じるとは思えない弁解だが、それでもこの男なら静かに笑って受け入れてくれるだろう。
 少なくともこの柳生十兵衛という男は、シグナムが嘘をついたとしても、そこをあえて追求してくるような刺々しいところは無いと思う。わざわざ嘘をつくなら、つかねばならない理由があるのかと配慮した上で、
「そうか、わかった」
 と言ってくれる事だろう。
 しかし――十兵衛がそういう男であるならばこそ、シグナムは彼に偽りを語ってお茶を濁すという行為に、深いためらいを覚えていたのだ。


「……確かに十兵衛殿、私は貴殿らが言うような“天女”などではない」
「まあな、こんなに腕の立つ天女様なぞいてたまるか――」
「しかし、人間では無いというのも間違っていないのだ」


 その途端、男の顔から表情が掻き消える。
 しかし、ただ一つ残された男の左目には(やはりそうなのか)という、驚きにも似た光が宿ったのが、シグナムにも見て取れた。
「シグナム殿、それはそなたがこの日ノ本の人間ではない、という意味では――」
「――ない。今の言葉は正しく文字通りの意味だ」
「…………そう、か」
 大きく溜息をつくと、十兵衛はそこでシグナムに背を向けて立ち上がり、懐から取り出した種火で、口に咥えたキセルに火をつけた。

「まあ、そんなこともあろうかよとは思うていたが、な」
 そこで言葉を切った彼は、ちらりとクレーターを一瞥し、
「だいたい、流星として空から落ちてくるような女がまともな人間であろう筈がないわな」
 と、苦笑を浮かべる。
 しかし、シグナムはその笑いに応える言葉を持たない。言われてみれば確かに、自分が流星のごとく空から落下してきたなどという現実がある以上、誤魔化すもクソも無い。最初から自分が人外の存在である事を、自白しているようなものではないか。
 だがそれでも、彼らが自分の存在をどう解釈するかは、やはり彼ら自身の判断に委ねねばならない。
 だからシグナムは続けて口を開く。
 おのれの真実を残らず打ち明けるために。


「私は“夜天の書”によって生み出されたリンカーコア蒐集用プログラム“ヴォルケンリッター”の将。そして現在は、最後の夜天の主・八神はやてに従い、一等空尉として時空管理局首都航空隊に奉職する身だ」
「…………」
「ちなみにただの剣術使いでもない。むしろ貴殿らが言うところの妖術使いに近いだろう。空も飛べれば指から火を出すこともできるしな」
「…………」
「貴殿らと同じ言葉を話し、同じく箸を使って米の飯を食すのは、かつて私もこの日本という国に住んでいた経験があったからだ。もっとも私が知っている日本は、おそらくこの時代より数百年は未来のはずだが」
「…………」
「何か他に質問はあるか?」

 十兵衛は無言で首を振る。
 もっとも、彼がシグナムの言葉をすべて理解した上でその仕草を行ったわけではないということは、さすがに彼女にも分かった。十兵衛の表情には、もはや呆れや驚きさえなく、どちらかと言えば異国の言語を聞き流すような感情が浮かんでいたからだ。
「せっかく告白してもらったところ申し訳ないがシグナム殿よ、おれには今そなたが何を言ったのかすらもよくわからんのじゃ」
「……そうか」
「今の言葉を、おれにわかるように説明し直すことはできるか?」
 そう言われても、今度はシグナムが苦笑を浮かべざるを得ない。
「できない事は無いだろうが……貴殿にわかるようにと言われれば……むずかしいな」
「まあ、そうじゃろうなぁ」
 そう答えながら、十兵衛もシグナムにつられるように苦笑する。

「いや、そういえばおれも訊きたい事があるかの」
「なんだ」
「おぬしは今、おのれのことを妖術使いじゃと言うたのう」
「ああ」
「ならば、何故おれとの立ち合いでその妖術とやらを使わなかったのじゃ? 空を飛んで火を噴けるならば、おれに勝つことも簡単じゃったろうに――」
 しかし、シグナムはその言葉を最後まで言わせなかった。
 視線に静かに殺気を込めて十兵衛の口を遮ると、ゆっくりと立ち上がる。


「……貴様、このシグナムを侮辱する気か……ッッ!?」


 しかし十兵衛にとっては彼女の反応こそ意外だった。
「なぜ怒る? おれたちの兵法には空を飛ぶ敵に対する技など皆無じゃ。ならば空から攻めれば一本取るのも容易であろうというのは、自明の理であろうが」
「そんな勝利に何の意味があるかッッ!! 剣士同士の立ち合いに剣以外の技を使えと――そんな技を使わねば私は貴様に勝てぬと――そうほざく気かッッ!?」


「「「「「「「「「「「「「「「「「

 そう言われて、ようやく十兵衛はシグナムの憤慨を理解した。
 つまり彼女にとって十兵衛とは、持てる技術のすべてを出し尽くして戦う相手ではない、ということなのだろう。剣しか使えぬ者を相手には、おのれも剣以外の技を使わない。いやむしろ、技を限定することによって、初めてこの十兵衛と対等の土俵に降り立つ事になる――それがシグナムにとっての矜持なのであろう。
 まあ、その考え方自体は彼にも理解できないわけではない。
(侮辱してるのはどっちだという話ではあるがな)
 しかし、おそらく彼女は、技を限定する行為すなわち“手加減”と相手に解釈されても仕方が無いという事実に気付いてはいまい。気付いていれば、ここまで素直な怒りの感情を剥き出しに出来るはずが無いからだ。
 もっとも、十兵衛はその点を指摘してシグナムと口論する気はない。
 むしろ彼女の直情的過ぎる怒りに、微笑さえ浮かべてしまいそうになるのを懸命にこらえていた。
(化物だろうが妖術使いだろうが、中身はしょせん見かけ相応ではないか)
 そういう思いが、シグナムの告白によって生まれかけていた十兵衛の警戒心を、水のように溶かしていく。
 ならばこそ、彼は納得したように静かにうなずくと、片膝を付き、素直に頭を下げて詫びた。

「済まぬ、確かに今のはおれの失言だった。許せ」

「ああ、うん……いや、わかってくれればそれでいいんだ」
 十兵衛の率直すぎる謝罪にシグナムも少し面食らったようで、むしろ彼から目をそらすように横を向き、倒木に腰を下ろす。
 態度だけ見れば、まさしく十代後半の少女のように初々しい。
 そんな彼女に口元が緩みそうになりながら、十兵衛は近くの倒木に座り直し、ごりごりと頭を掻いた。
「そういえば、もう一つ質問があるのじゃが、構わぬかシグナム殿」
「……なんだ?」
「おぬしの持っておった首飾りについてじゃ」


 その言葉に、シグナムの横顔が一瞬あからさまに凝然となった。


「そなたが日ノ本の人間ではないということは、その肌や髪や眼の色を見れば誰にでも分かる。その口から何を聞くまでもなくな」
「…………」
「しかし今そなたは、自分は人間ではないと言うたのう? つまりその言葉を信じるならば、シグナム殿は紅毛人でも南蛮人でもないということになる――そこまではよいか?」
「……ナン、バン人?」
 案の定、シグナムはまばたきを繰り返し、自分が何を言われたのかも正確に理解していない顔をしている。
 そして、そんな彼女の態度に十兵衛は少し気が楽になっていた。
 だが、シグナムにはわからない。
「わかるように言ってくれないか十兵衛殿。いったい貴殿は何が言いたいのだ」
「いや、確かにまどろっこしくて済まないな」

 そう言いながら、彼は袖の袂(たもと)から、何かを取り出す。
 シグナムの視線が露骨な感情を持って、それに注がれる。
「これは屋敷に運び込まれたそなたの胸元にあったものじゃ。もちろん話が済めば返す気でおった」
 剣を模した十字のネックレス――アームドデバイス“レヴァンティン”待機フォルム。むろん十兵衛は、その何たるかも知らない。
 わかるのは、この十文字の紋章は、異人にとって命よりも大事な神の教えの象徴であると同時に、日本人にとっては悪夢に等しい邪宗門の宣教師たちの旗印である、ということだ。


「つまり訊きたいのは――そなたが南蛮人のバテレン(宣教師)にあらざれば、なぜキリシタンの“くるす”を持っているのか、ということじゃ」



「紅毛人」や「南蛮人」という言葉は、当時の日本では、双方ともにヨーロッパの白人種を指す。
「紅毛人」とはイギリスやオランダというプロテスタント系白人のことであり、「南蛮人」とはスペイン・ポルトガルなどのカトリック系白人を言う。
 いや、もっとざっくばらんに言えば「南蛮人」とは、布教を目的に日本に潜入を図る、カトリック系修道会の神父や宣教師のことであり、「紅毛人」とは幕府の朱印状によって貿易を許可され、日本に寄港するプロテスタント系商人――つまり、布教を目的としない白人たちのことである。
 この年――寛永十五年(1638)、すでに江戸幕府によってキリスト教は禁教とされ、布教を目的とする宣教師はもちろん、その信者までもが弾圧の対象とされていた。
 日本史上最大の農民反乱にして最後の宗教戦争というべき島原の大乱から、いまだ半年。
 幕府のキリスト教アレルギーは、これ以降高まる一方となってゆく。
 つまり、身元の知れない白人女性を柳生家が保護するには、今は最悪の時期だということなのだ。
 



[36073] 第七話  「愛剣」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2012/12/13 21:48
 

「客分として遇すると言っておいて済まないが、先日、そなたの存在を詰問する手紙を、うちの親父が江戸から寄越しおってな。いつもならば適当にあしらうところなのだが、まあ、おれとしてもやはり、本当のところを聞いておかねば誤魔化すにも色々と支障が出るでな」
「…………」
「言えぬか。言えぬなら無理に言わずともよい。もとよりそなたが空から落ちてきた女じゃという歴然たる事実がある以上、俗世のキリシタンやバテレンごときと関わりがあるとは、おれも思うてはおらぬ」
「…………」
「ただ――ならばこの“くるす”とおぼしき首飾りは何なのか。それを聞きたいというだけなのじゃ」
「……いや、その前に訊いてもよいか十兵衛殿」
「ん?」
「さっきから貴殿の言う、その“くるす”とか“ばてれん”というのは、一体何のことなのだ」

 十兵衛の顔から思わず笑みが洩れる。
 シグナムの顔に浮かんだ困惑は、まさしく芝居の余地など見当たらないほどに真剣なものだったからだ。
 むろんシグナムも数年の歳月を海鳴市で過ごした身だ。地球の世界宗教たるキリスト教に関する常識は当然ある。
 だが、彼女には日本史や世界史の知識が無い。
 無い以上、十兵衛が言うところの「キリシタン」や「バテレン」という単語の意味も――いや、そもそも彼が言わんとする話の内容と、彼女の知るキリスト教という存在が、とっさに結びつかなかったとしても無理はなかったであろう。
 だからシグナムとしては、さっきの十兵衛と同じように、自分が何を言われているのか理解できぬままに、その不可解な単語の羅列を聞き流すしか出来る事はなかったのだ。

 だが、十兵衛はいまさらながらに安堵する。
 初対面より三日しか経過していないが、それでも眼前のこの異人女が、およそ嘘のつけない性格をしている事は、すでに十兵衛自身も理解している。彼がシグナムに対して好感を持っているその起因の大部分は、その美貌や剣腕のみならず、その生一本な気性と言動にあったからだ。
 しかし、ヨーロッパ系白人種と見まがう外見と、十字架によく似た首飾りを、彼女がともに所有していた以上、十兵衛としても全くそこに触れずに済ますわけには行かない。
 たとえ、シグナムが空から落ちてきた人ならざる者であったとしても、だ。
 なにしろ、キリシタンをかくまったと幕府より嫌疑をかけられれば、柳生家一万二千五百石など、それこそひとたまりも無いからだ。
 ならばこそ、十兵衛はシグナムの口からハッキリと「自分はキリシタンとは関係ない」という言葉を聞いておかねばならなかったのだ。

「まあ……そう言ってくれるとは思ってたよ」
 そう言いながら十兵衛は、その首飾りをシグナムに差し出した。
「勝手にそなたのものをくすねたようで気を悪くさせたな。受け取ってくれ」


」」」」」」」」」」」」」」」

 差し出されたレヴァンティンをその手に受け取ったとき、シグナムの胸に溢れた感情は、失っていた“愛剣”を見つけた安堵でもなく、奪われた“半身”を確認した怒りでもなく、無事に“相棒”を返還してもらえたという感謝だった。
 何故そんな感情をシグナムが覚えたのかは、彼女自身にもわからない。
 いや、それどころか、いつものシグナムならば、十兵衛がレヴァンティンを取り出した瞬間に殴りかかっていても不思議ではなかっただろう。
 普段の彼女は、その程度には荒い気性の所有者だったはずだ。それどころか十兵衛に感謝を覚えたなどと――もしもミッドチルダの知人友人がそんな話を聞いたら仰天したであろうし、実際シグナム自身も、おのれの今の感情を他人に説明できなかっただろう。

 とりあえずレヴァンティンを取り戻した彼女が最初に取った行動は、瞳を閉じてそれを握り締めた右手を胸にかざし、もう二度と我が身から離さぬと誓うことだった。
 その美しさに、傍らで見ていた十兵衛が思わず絶句した事までは、彼女は知らないが――まあ、それはいい。
 しかし、彼女の心には、また別の思いが生じていた。
(そうだ……)
(やはり、この男には見せておいた方がよいのではないか)
(このレヴァンティンを使った私の――“烈火の将”としての姿を)
 
「……で、シグナム殿よ、祈りのさなかに申し訳ないが話を続けてよいか?」
 
 その声に彼女は目を開き、ちらりと男の方を流し見る。
 もっとも、これ以上は彼の話を聞く必要も無い。
 結局のところ十兵衛が何を聞きたいのか、すでにシグナムは理解しているし、その質問に自分がまだ答えていないこともわかっているからだ。
 シグナムは、ネックレスの鎖をおのれの首にかけながら、言う。
「十兵衛殿、貴殿の言う“くるす”とやらが何なのか私にはわからないが――このレヴァンティンは、そんなものでないことだけは断言できる」
「では……?」
「これは我が愛剣にして相棒、我が戦友にして騎士の魂だ」
 そう答えるや、シグナムがおもむろに立ち上がり、叫んだ。


「レヴァンティンッッ!!」


 その瞬間、彼女の体がまばゆい光に包まれ――そして数秒後、そこには純白の騎士甲冑に身を包んだシグナムが立っていた。
 無論その右手には、一振りの両刃の剣が握られている。
「それが……そなたの……」
「うむ。この騎士甲冑、この剣こそが我が“レヴァンティン”だ」

 シグナムの声に合わせるように鍔元のスライドが動き、魔力を刀身本体に再装填したカートリッジが、ガシャンという機械音とともに排出される。
 ベルカ式アームドデバイスの最大特色とも言うべきカートリッジシステム。
 むろん十兵衛がそれを知るはずもないし、魔法に対しての基礎知識を持たない彼に理解させようとしたところで、無意味に時間と手間を浪費するだけだ。むしろ百万言を費やして説明しようとするよりも、その目に直接見せる方が話は早いであろう。
(論より証拠……いや、この場合は百聞は一見にしかず、だったか)
 かつて海鳴で主君の少女に教わった日本のことわざを思い出し、シグナムはふっと微笑み、十兵衛を見た。一体これから何をする気だ、と言わんばかりの顔をしていた彼ではあるが、しかし次の瞬間、その表情はさらに凝然となる。
 シグナムがその魔力を解放し、宙にふわりと浮き上がったからだ。


「我が魂を返還してもらった礼に、貴殿にのみ、我が古代ベルカの秘技をお目にかけようと思う。その目でしかと見届けてくれ」



 風が涼しい。
 うだるような真夏の陽光の中、シグナムの赤いポニーテールが風に吹かれてふわりと揺れる。
(ああ、ひさしぶりだな、こういう風は)
 たとえ季節がどうあれ、遮蔽物の無い上空の涼しさは、やはり地上とは一味も二味も違う。
 次元転移直前の記憶が無いとはいえ、ミッドで首都航空隊の魔導師をしていたシグナムにとって、この風は、何よりおのれの肌に懐かしさを喚起させるものだった。
(やはり、空はいいな)
 そう思い、閉じていた瞼を開いて下を見下ろすと、豆粒ほどの十兵衛が、立ち上がることも忘れたまま口をぽかんと開け、自分を凝視しているのが見える。
 さっき、自分は妖術使いだと説明したときに、空も飛べると言っておいたはずなのだが。 
 しかも、その件で口論にまでなったはずなのだが。
(にもかかわらず、何を驚くことがある)
 とはシグナムは思わない。
 管理外世界の住人が初めて魔法を見たときの反応など、彼女にすれば見慣れたものであったからだ。
 くすりと微笑みながら、シグナムは右手にぶら下げたレヴァンティンに目をやる。

「久しぶりだな」
『はい、マスター』
「調子はどうだ?」
『問題ありません』
「そうか……よし」

 愛剣と短い挨拶を交わすと、彼女の目は不意に厳しくなった。
――狙うは、あのクレーターの中心部……ッッ!
 右手の剣をゆっくりと持ち上げ、頭上に掲げる。その構えは、剣道で言うところの片手上段に近い。
 そして、その姿勢のまま十兵衛に、クレーターから距離をとるように警告しようとした瞬間――まるで危険の匂いを察知したかのように、彼が手近な木陰に駆け込むのが見えた。
(さすがだな)
 シグナムとしても、そんな十兵衛の勘の鋭さに感服せずにないられない。

 本来ならば、鞘に収めたままカートリッジロードを行い、刀身に乗せる炎の魔力を集束させねば、この技の真の威力は発揮されないのだが……まあ、今回はそこまで「全力全開」の攻撃をする必要は無い。
 何より、今回のこの魔法の行使は戦闘ではない。彼に、シグナムの――ヴォルケンリッターの将たるおのれの姿を、柳生十兵衛に見届けてもらうためのものなのだ。
 それに、もしシグナムが本気の技をこの場で放てば、たとえ森の木陰に隠れていたとしても、それでもなお十兵衛が無事にすまない可能性の方が高い。管理局魔導師の非殺傷設定とは、あくまで魔法の直撃対象に対する設定であり、そこに余波として発生する爆風や衝撃波から他者を守るためのものではないからだ。
 なればこそ、シグナムはあまり得意ではない手加減というものをする気になったのだ。
(いわば“ミネウチ”というやつか)
 むろん両刃の剣であるレヴァンティンに、いわゆる峰はない。ないが、しかし、今とっさに脳裏に浮かんだその言葉は、シグナム自身を、十兵衛たちサムライに一歩近づけさせたような、そんな感慨を催させる。


「いくぞレヴァンティン、飛竜一閃ッッ!!」


 その瞬間、振り下ろされたレヴァンティンの刀身は、そのままムチのような連結刃となり、一直線にクレーターの中心部に突き刺さるや――大爆発を起こした。
 巻き起こった爆風は、クレーターに溜まっていた水や泥のみならず周辺の土砂までも吹き飛ばし、もうもうたる土煙が周囲を覆う。
(加減したつもりだったが……それでもやりすぎたか)
 正直そう思わなくもなかったが、しかし、この程度のことであの男が負傷したり、ましてや死ぬなどとは、どうしても彼女には思えなかったのだが……だがそれでも、霧のような土煙の中に、十兵衛の気配を確認した瞬間、さすがに安堵したものだった。

 やがて風が土煙を吹き飛ばし、視界が戻ると、シグナムはそのまま音も無く降下し、十兵衛の傍らに立つ。
 なかば呆れたような表情を見せる彼に、シグナムは誇らしげに笑った。
「これが我が古代ベルカの魔道の秘技だ」
「……妖術……か」
 十兵衛はシグナムを見、レヴァンティンを見、そして、そこからクレーターに視線を移した。
「……すごいものだな」
 と、つぶやく彼の表情に興奮はあれど恐怖は無い。
 その事実に、シグナムはふたたび安心する。


(やはりこいつは、魔法を見たところで、私に対して怯えを抱くようなヤワな男ではなかった)
 ある意味予想通りではあるが、しかし、その事実がシグナムには素直に嬉しい。
 おのれの見込んだ男が――彼女自身と一騎打ちで互角以上に戦える男が――見込みどおりの反応を示してくれたのだ。それが嬉しくないはずがない。
 もっとも、この柳生十兵衛という男と知り合って三日しか経っていないが、それでもシグナムが知る彼の気骨を鑑みれば、たとえ自分がどんな魔法をこの場で披露しようが、彼がシグナムを恐れ、おびえるという事はあるまいという確実な予感はあった。
 
 しかし、そのシグナムも……だんだん不愉快になってきた。
 以前よりさらに歪(いびつ)にえぐれたクレーターの爆発痕を、凝視し続ける十兵衛の目が、妙に熱くなりすぎている。というより、いつまでたっても自分を振り向かない男の態度に、苛立ちを覚えたと言っていい。
 シグナムが十兵衛に認めさせたいのは、あくまでもその剣の騎士としての技量であって、こんな魔力付与攻撃の破壊力ではないのだ。


「っっあああッッ!!」


 胸に溜まったモヤモヤした感情を、気合とともに吐き出すや、シグナムはくるりと身を翻し、足元に転がっていた倒木の一本を、一刀両断に叩き斬った。




[36073] 第八話  「据え物切り」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2012/12/15 11:30

「……ッッ!?」
 十兵衛はその瞬間、無意識のうちにうめき声を上げていた。
 シグナムの気合に振り向いた彼が見たものは、一本の倒木に白刃を振り下ろす彼女の姿だった。まるで人間の胴回りほどもある太さの倒木を、まるで大根でも切るように無造作に寸断したのだ。
 その光景にさすがの十兵衛も慄然となる。
 いや、驚くべきは倒木を両断した事ではない。その斬撃にまったく音をさせなかった事だ。

(音無しの剣……だと!?)
 据え物斬りとは、一般的に対象物が重くて硬いものよりも、軽くて柔らかい物の方が、剣士の技量が問われる、と言われている。
 だが、数十貫近くの重量はあるはずの倒木を、一太刀で両断することは、やはり達人級の術者でなければ不可能であろう。しかも、無音の斬撃ともなれば、なおさらの話だ。たとえ、その剣がどれほどの業物であろうともだ。
 現に、今のシグナムと同じことをやれと言われても――できない、と言う気はさらさら無いが――百度ことごとく確実に成功させる自信は、十兵衛には無い。その腰の刀たる三池典太もしばらく研ぎに出していないという事実もあったが、つまりは今シグナムがやって見せた技は、それほどまでに高等技術だという事なのだ。

 いや、確かに十兵衛はシグナムと立ち合い、その剣技の冴えを充分に理解しているつもりだった。
(見くびっていたつもりはなかったが……)
 だが、それでもやはり、十兵衛は彼女を見くびっていたと言うしかない。
 おそらくは、この剣を振るうシグナムは、木刀を得物としている時よりも、その強さにさらに一枚妙味が加わるのであろう。
(なるほど……面白え)
 憶えておこうと思う。
 いや、思うだけではない。背中がぞくぞくする感覚が止まらないのだ。
 それは、さっき目の当たりにしたシグナムの“妖術”に対する興奮ではない。
 一個の剣客として――刀術のプロフェッショナルとして、彼女の見せた剣技に対する興奮であった。
 

「十兵衛殿……笑っているのか?」


 シグナムからそう言われて、十兵衛は初めて自分が口元を歪ませている事実に気付いた。
「おおっと、これは済まぬ。いや、何もそなたの技を笑うたわけではないのだ。おれも思わず、その、つい血が騒いでのう」
 そう言いながら慌てたよう弁解する男を、シグナムはむしろ嬉しそうに見返す。
「わかっている。いまのは嘲笑ではなく、私の剣に貴殿が興奮してくれたという事だろう。それは貴殿の目を見ればわかる」

 あまりに直接的な女の言葉に、十兵衛は思わず目をそらし、ごりごりと頭を掻いたが、それでも照れ隠しのように言い返す。
「男に興奮した目を向けられて、そなたは不快には思わんのか?」
「不快どころか……次は十兵衛殿、貴殿が私を興奮させてくれる番だと思うんだがな」
 言葉だけなら、どこの女郎か酌婦かというような挑発的な台詞だが、二人の間にはそんな艶っぽい空気など一分も存在しない。シグナムの視線が、あからさまに十兵衛が腰にぶち込んだ刀――三池典太に一直線に向けられているのがわかるからだ。
「まあ、自信が無いなら無理にとは言わんが」
 そう言いながら、シグナムはその両刃の剣を鞘にカチリと納める。
 もっとも十兵衛には、いま彼女がどこからその鞘を取り出したのかすら見えなかったが、もはやそれを訊く気にもなれない。説明されたところでどうせ理解できるとは思えないし、なにより、顔を上げた彼女の目に、イタズラっぽい光が宿っているのが見えたからだ。


「いいだろう。まあ……そなたが股を濡らすに足るだけのものを披露できるかどうかは、わからんがな」


 そう言い、肩をすくめながら、すらりと腰の刀を抜き放ち、上段に構える。
 途端にシグナムの瞳から笑みが消えたのが見えたが、十兵衛にはもうそれもどうでもいい。
 そう、誰が見ていようが、そんな事は問題ではないのだ。
 十兵衛はすでに理解している。
 さっき目の当たりにしたシグナムの剣――大地に転がる巨木を、音もなく両断したあの太刀さばきが、まだ脳裏に生々しく残っている。
(あんなものを見せられて、落ち着いていられるはずが無いだろう)
 そう思う。
 肩をすくめたのも、溜息をついたのも、やれやれといった顔で下品な冗談を飛ばしたのも――全部演技だ。
 ここまで熱くたぎった血が、そう簡単に収まるはずも無い。剣を抜かずにはいられない――自分の肉体がそう主張しているのがわかるのだ。
(剣客の業、というやつか)
 そう思うおのれの口元に、思わず苦笑が浮かんでいたことを十兵衛自身気付いていたかどうか。
 だが、まったくの力みも緊張も見当たらぬ表情とは裏腹に、上段に構えられた彼の剣は、そのまま何の予備動作もなく、気合もかけず、無造作に振り下ろされた。


」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

 振り下ろされた十兵衛の剣は、シグナムがやって見せたように巨木を裁断するようなパワーや威力も示したわけではない。
 ただ、その一太刀は、地面に生えた一本のたんぽぽを切り裂いたに過ぎない。
 が、花屋がハサミで花をちょん切るのとは違う。
 十兵衛の剣は、頼りなげに風に揺れるたんぽぽの花と茎を、まるでキノコのように「縦に」切り裂いたのだ。
――それも、花びらに乗っていた一匹の熊蜂ごと、だ。
 次の瞬間、熊蜂はころりと二つになって転がり、それと同時に、そのたんぽぽも茎の根元から「二本」に分かれ、風になびいて揺れた。


 シグナムは絶句した。
 まさに神業と呼ぶしかない。
 自分がさっきやって見せた、倒木への無音剣とどちらがより難易度が高いかなどと言う気は無いが、それでも剣技としては超絶のテクニックを要求される行為であることに間違いは無い。少なくとも、シグナムは彼と同じ事をやれるかと問われたところで、それに応と答える自信は無かった。

 言葉を失い、呆然とそのたんぽぽを見つめるシグナムの傍らで、慣れた仕草で十兵衛は剣を鞘に戻し、
「まあ……そろそろ屋敷に戻るか。ここも暑くてかなわんしな」
 と言って彼女に背を見せ、歩き出す。
 自分が今見せた剣について、特に何かを語ろうともしない。
(いや、そういうことではないのだろう)
 無言で歩く十兵衛の後ろ姿を見れば、それはシグナムにもわかる。
 彼の肩や背中、あるいは腰の辺りに、抑えきれぬほどの興奮が覗き見える。
 おそらくは今の「たんぽぽ斬り」は、柳生十兵衛にとっても滅多に成せない会心の一撃だったのだろう。いま彼の正面に回れば、ブザマなほどに喜悦にまみれたニヤつきを口元に浮かべているであろうことは想像に難くない。
 彼女とて剣士の端くれだ。その気持ちはわかる。
(ならば今、さっきの剣を話題にするのは野暮と言うものか)
 そう思う。
 ならばこそシグナムは敢えて口を開く。
 とりあえず剣とはまったく関係ない「世間話」というやつを、だ。

「しかし十兵衛殿、腹が減ったな」

 十兵衛も、シグナムのそんな気遣いを理解したのか、ちらりと彼女に目をやると、照れたように話に応える。
「今日の昼飯は魚らしい。今朝、村の漁師から活きのいい鮎が何匹か届いたらしいからな」
「それは楽しみだな」
「しかしシグナム殿、腹が減るのはわかるが、あんまりメシをおかわりせぬ方がよいぞ。せっかくの美形が台無しではないか」
「昨日の夕食のことを言ってるのか? 仕方ないだろう、ああも美味しい米の飯は久しぶりだったしな」
「まあ、うちの里の米を気に入ってくれたのは何よりだが……しかし、そなたが四杯目の椀を給仕の者に差し出したとき、やつらも戸惑っておったではないか」
「そんなことは私の知った事ではなかろう。だいたい、人の外見で小食と決め付けることこそ失礼だとは思わぬか?」
「わかったわかった、では取り合えず、おれの食う分までそなたが食うのは勘弁してくれ。それと――」
「それと?」


 そこで十兵衛は、足を止めて真顔で彼女を振り返る。
「先程の“妖術”は、おれ以外の者には絶対に見せぬようにしてくれ」


「……わかっている。私もこの里の者たちに必要以上に怖れられたくは無いからな」
「ならいい、この話はここで終わりじゃ。さて――昼飯を食ったら、久しぶりに川釣りにでもいくか」
「稽古をしろ稽古を……師範代の月ヶ瀬殿も嘆いておったぞ、最近の十兵衛殿はろくに道場に顔を出そうともせぬとな」
「いいのか? おれが稽古に身を入れておれば、三日前の立ち合いも違った結果になってたはずだぞ」
「ならここで預けた勝負を再開するか? 私は構わないぞ」
「断る。やるなら少なくとも昼飯食って、釣りをしてからだ」
「だから、それがいかんのだと……」



 軽口を叩きながらシグナムは十兵衛に続いて山道を歩き出す。
 しかし、二人は知らない。
 この数日後には、シグナムはこの柳生ノ庄にいられなくなるという確実な未来を――。




[36073] 第九話  「月ヶ瀬又五郎」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2012/12/18 02:17

「おらおらぁどしたぁ!! もう一本ッッ!!」
「もうへばったのか貴様ぁ!! だらしねえぞぉ!!」
「違う、そうじゃない!! この太刀筋は昨日教えただろうが!!」
「痛い痛い痛い!! ちょっと待って止まって――いぎぃ!!」


 耳を澄ませば、こんな怒号が無数に轟き、鳴り響き、一つの巨大な不協和音として渦巻いている。
 いや、声だけではない。
 その声を発する大勢の人間の床板を踏み鳴らす音、竹刀を打ち鳴らす音が、それらの声と渾然一体となり、おそらく自分の正面にいる者が何を言ったか、この空間ではまともに聞き取ることもできまい。
 だが、それを残念がる必要はない。
 彼らはこの場所に、会話を楽しむためにきているわけではないのだから。
 ここにいる老いも若きも、男も女も、武士も庶民も、皆この「柳生」という地の住人を名乗るにふさわしい剣技を体得するために汗を流し、精魂を傾けているのだから。


 ここは柳生屋敷内にある新陰流道場。
 ちょっとした体育館ほどの敷地内に、まるで戦場のように数十人の老若男女が入り乱れ、それぞれが竹刀を手に、稽古に励んでいる。
 無論この時代に面・胴・籠手のごとき防具は存在しないため、みな身体のあちこちに青あざや打ち身、擦り傷などをこしらえており、無傷なままでいる者はいないように見える。
 とはいえ「竹刀」を稽古に使用している時点で、ハッキリ言えば、それまでの木刀や刃引きの実刀を使用した剣道の訓練とは、比較にならぬほどの安全性を実現してたとさえ言うべきであり、なればこそ武士ならぬ女子供でさえも、一般男性に混じって稽古をする事が可能になったと言えるかも知れない。
 まあ、ここでいう竹刀は現代のものとは違う、いわゆる袋竹刀という存在ではあるが、この「竹刀」という模擬刀の開発によって、日本剣道は型稽古中心の暗く閉鎖的な階級武道から、広く世間一般に流布される護身術として、その有り様を変えていく事となる。
 そして、「竹刀」を開発し、日本剣道史上に一大革命を起こしたのが、この柳生の地に新陰流を伝えた上泉伊勢守信綱その人であり、極論すれば、日本剣道の歴史は明確に上泉信綱以前と以降に二分する事ができるとさえも言えるのだが……まあそれは本編とは無関係な話なので、これ以上は言及を避けたいと思う。

 とりあえず、その熱気に溢れた道場の中に彼女――シグナムはいた。


(この男も、やはり出来る……!)
 中段に構えた竹刀を微動だにさせずに自分と対峙するその男の強さに、シグナムは改めて瞠目する。
 もっとも、この道場には、彼女でさえも五本に一本、あるいは三本に一本を譲るレベルの使い手がごろごろ在籍しており、シグナムはこの柳生という地の特異性に秘かに驚かずにいられなかったが……それでも、この眼前の男は、その中でもさらに出色であったと言える。
 この――道場師範代・月ヶ瀬又五郎を名乗る男は、おそらく柳生十兵衛と比較しても遜色のないほどの剣士であると断言できるだろう。
 仮にもあの十兵衛が師範代として道場を仕切らせるほどの剣士である以上、この月ヶ瀬又五郎という人物が凡骨であるはずもないのだが、それでも彼の強さは卓抜しすぎている。


(くる――!!)
 そう感じた瞬間、シグナムの肉体は即応していた。
 中段の構えから男は一気に間合いを詰め、真っ向唐竹割りに竹刀を振り下ろしてくる。
 その一撃をシグナムは受け止めるが、竹刀越しに彼女の頭蓋を、まるで直接ものをぶつけられたような衝撃が襲い、一瞬眼前が暗くなる。
 が、それでもそこで踏みとどまり、肺の酸素をすべて吐き出す勢いで彼女は気合いを吐いた。
「きえぁぁああああああッッ!!!」
 その裂帛の声とともに月ヶ瀬の竹刀を弾き返し、シグナム得意の連続攻撃を打ち込むが、しかし、その剣のことごとくは彼に受けられ、防がれ、あるいは弾き返される。
 のみならず、月ヶ瀬又五郎の放った袈裟斬りの一剣に――かろうじて防ぎはしたものの――シグナムは胸を直接押されたかのように吹き飛ばされてしまった。

 道場の壁にぶつかり、かろうじておのれの体勢を整える事はできたが、むしろ呆れんばかりの思いでシグナムは男を見上げる。
 ベルカ時代から数えても、ここまで敵の剣圧に翻弄された記憶は彼女には無い。
 まさに、おそるべき豪剣であった。
 防御したはずの又五郎の一剣の衝撃に、体の芯がまだ震えているような感覚が残っている。しかもそれは初めてではない。この男と剣を交えて以来、幾たびかのものだ。
 竹刀のような弾性と柔軟性に優れた模擬刀が得物であればこそ、いまの一太刀も受け止め得たが、おそらく木刀同士の試合であったなら、彼女の得物は確実に叩き折られていたであろう。実際、面や胴にまともに喰らえば、おそらくシグナムといえども昏倒は免れないはずだ。


 これまでこの道場で、又五郎と仕合ったのは三度。
 最初の一本は彼が取り、次の一本はシグナムが取った。
 そして三本目の仕合いが今、というわけなのだが――しかしそれでもこの男との対戦中にシグナムは、かつての十兵衛との戦いのような胸の高鳴りまでは覚えない。
(これは稽古だ)
 竹刀を得物とする立ち合いならば、どうしてもそういう感覚が抜けないからであろうか。
 逆に言えば、これが真剣での勝負ならば、おそらくは自分が勝つ――という根拠の無い自信が、まだ彼女の意識のどこかにあるから、とさえ言えるかも知れない。
 いや、完全に根拠が無いわけでもなかった。
 又五郎の豪剣には――それはそれで恐るべき太刀筋ではあるが――それでもなお、十兵衛に感じたような“怖さ”を感じない。ここにいるのが十兵衛であったとしたら、彼の剣さばきは、たとえ竹刀が得物であったとしても、木刀真剣に何ら劣らぬ“怖さ”を対戦相手に感じさせた筈だ。
 つまり、この男の腕は十兵衛に劣らぬにしても、十兵衛を凌駕するほどではない――。


 シグナムは竹刀を下げた。
 構えは下段。
 肩や膝に込められた力を抜き、瞼を半眼にする。
 すると、構えを変えたシグナムを見た又五郎の表情に、一瞬動揺が走った。
 今のは何の動揺だ――と、シグナムは思う。
 だが、思うのはそこまでだ。
(まあ……どうせやることは変わらないしな)
 これからシグナムがやろうとしているのは、全身の神経を集中しなければ実行不可能な剣さばきだ。自分からぐだぐだと雑念を発して、呼吸の乱れを誘発するわけには行かない。

「かぁぁッッ!!」

 眉間に走った動揺をすぐに消し、鋭い気合を発しながら又五郎はふたたび踏み込み、その剣を振るう。
――その一撃、まさに豪宕正確。
 得物を剣から鎚にでも持ち替えれば、巨岩をも打ち砕くであろう、豪にして剛なる正剣。
 シグナムはその剣を、これまでのようにおのが竹刀で受ける。
 が、これまでと違ったのは、さらにそこから膝・肘・腰のバネを使い、その衝撃を受け流したことだ。
「なっ!?」
 思わず声を上げた又五郎だが、さすがにそのまま竹刀で床板を打つような無様な隙までは作らない。一歩で踏みとどまるや、戦車のようにシグナムを振り返り、そのまま跳ね上げるような一撃を放つ。
 しかし、シグナムはまたしても体を柔らかく使い、その剣を受け流す。
 その挙動に全身を駆使していたため、とっさに攻撃に移ることまではできなかったが、それでも月ヶ瀬又五郎の豪剣に対する防御としては、ほぼ完璧に近い対応であったはずだ。
 現に、又五郎の顔には、今度こそ見間違えようもない動揺と驚嘆の表情が浮かんでいる。

 
「信じられんな……まさか江戸の殿と十兵衛様以外に、この剣を使える者がいるとはな」


 そう口走る又五郎の言葉に……しかしシグナムは表情を変えない。
(やはり、そうだったのか)
 さっきは敢えて考えないようにしていたが、それでもむしろ納得に近い思いが彼女の心に走る。
 この柳生の地に降り立ってすでに十日。
 いまやシグナムは、又五郎の口走った“エドのトノ”とやらが十兵衛の実父である但馬守宗矩だという知識もある。さらに今の言葉から察するに――又五郎は、その柳生親子の両者とも勝負し、その折に両者とも、さっきのシグナムと同じ剣を使ったらしい、という事実も類推できる。
 しかしシグナムにとっては、そんな情報はどうでもいいことなのだ。
 ただ今の言葉で注目すべき点があるとすれば、つまりこの男にとっては、シグナムの意図した剣さばきは既知のものであった、ということだ。
 なぜなら先程一瞬見せた又五郎の動揺――あれこそは、シグナムのやろうとしていることを予測し、その予測に驚かなければ浮かべようが無い表情だったからだ。
 さらに言えば、予測があるとすれば対策もあるはずだ、ということになる。
 考えすぎだとは思わない。
 現に男は、彼女の確信を裏付けるように笑ったのだ。


「いや、これはあるいは幸運であるかもしれんな……。まさか、いずれ十兵衛様相手に借りを返すために工夫した我が剣を、まさかこんなところで試せるとは思わなんだわ……礼を言うぞ、天女様よ」


(これは……ッッ!?)
 シグナムの汗が一気に冷えた。
 そう言いながら、又五郎は構えを変えたのだ。いや、構えを変えた――と彼女は思ったが、その表現はあるいは嘘に近い。
 なぜなら月ヶ瀬又五郎の取る中段の構えそのものには、1ミリの変化も見られないからだ。
 だが、それはあくまで外見的な話に過ぎない。
 いま彼が取るその中段の構えと、先程までのそれは――たとえ同じ構えであったとしても――明らかに別のものだ。余人は知らず、対峙している当事者のシグナムには、それがわかる。

 ならば何が変わったのか。
 さっきまでとまるで変わらぬ構えを続けていながら、何故ここまで伝わってくるものが違うのか。
(戦い方を変える気なのか……)
 そう解釈するしかない。
 これまでは中段の構えから、ただ徒然なるままにその豪剣を振るうことだけが又五郎の戦術だった。
 だがこれからは違う。
 この男の豪剣は、これ以降は充分な意図と計算を以って振るわれるということになる。
 おそらくは、それが又五郎の言うところの“工夫”なのであろう。
(面白い……そうこなくてはな)
 シグナムの中の声が、そう囁く。
 つまりそれは、この月ヶ瀬又五郎という男が、シグナムに十兵衛と同じ価値を認めた、ということではないか。剣士として、これ以上の誉れはあるまい。
「来い――ッッ」
 シグナムは短く叫ぶ。


 その声が道場に反響したのを聞いて、ようやく彼女は、それまで戦場のような喧騒に満ちていた場内が静まり返り、稽古に励んでいたすべての人間が自分たち二人の仕合いを注視しているという事実に気付いたのだ。
 



[36073] 第十話  「夕餉の膳」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2012/12/22 00:55

「――で、それから?」
 手酌で盃を重ねながら十兵衛はシグナムに尋ねる。
 訊かれたシグナムは、なぜかそこで気まずそうにそっぽを向き、無言で口にめしを運んだ。

 
 ここは柳生屋敷内のとある座敷。
 シグナムが目覚めて以来、十兵衛は常に夕餉の膳を彼女の部屋に運ばせ、ともに食事と酒を楽しむことにしている。
 むろん一組の男女が酒食をともにするのだ。普通ならばそこから床入りまで続く色っぽい空気の一つも生まれて然るべきなのだろうが――それでも、柳生十兵衛とシグナムの間には、そんな艶めいた雰囲気はカケラも匂わない。
 なぜなら二人の会話の主な題材はつねに剣であり、武士道であり、禅であり、魔法であり、互いの世界の歴史であり……要するに色気のいの字もないような雑談だったからだ。
 十兵衛にとっては、異世界の剣士相手の会話というものは、それで充分に歯応えのあるものであったし、何よりシグナムという直情的な女を半分からかいながら酒を飲む時間は、彼にとっても非常に楽しいものだったのだ。


 まあ、それはいい。
 十兵衛がいま聞きたいことはそんな雑談ではなく、今日の道場でのいきさつだったから。
 彼にしても、このシグナムという女剣士と月ヶ瀬又五郎の対決には、非常に興味をそそられる物がある。
 だが、彼女はそっぽを向いたまま、不機嫌そうに言った。
「どうもこうもない。それからすぐに暮れ六つの鐘とやらが鳴り、月ヶ瀬殿が『本日の稽古はここまで』と叫んで、それで終わりよ」
「は?」
「ふざけた話だまったく。部活じゃあるまいし、時間が来たらハイ終了って……貴様たちは仮にもサムライであろうが! 何故もっと稽古に身を入れようとしないんだ!!」
 そう言いながら、まるでヤケ食いのように彼女は口の中に茶碗からめしを掻き込む。
 

(なるほど……)
 十兵衛は、そんな彼女を生暖かい眼で見ながら、盃を口に運ぶ。
「まあ、そう怒るなよシグナム殿。又のやつとて勝負を付けたかったのはそなたと同じはずであろうが」
「なんだその理解ある兄貴分みたいな言い草は……ッッ」
 しかし、そんな形で勝負に水を差された彼女からすれば、納得いかないのは当然だろう。
 ならばこそシグナムは、当たり前のようにその怒りの矛先を十兵衛に向ける。
「だいたい十兵衛殿、貴殿が最初からちゃんと道場で稽古を仕切ってさえいれば、私がこんな不愉快な思いをする事もなかったはずではないか!!」
「いや、それはないぞ」
 十兵衛は、その点だけはバッサリと切って捨てる。
「そなたの言う“ブカツ”とやらが何なのかは知らぬが、わが柳生道場の門弟は武家の人間だけではない。町人もおれば農民もおる。いや何より、女子供がおる以上、日が暮れたら稽古はそこで終わりにせねばならん――当然であろうが?」
「いや、しかしだな……っっ」
「ここはそなたの故郷とは違うのだ。夜になれば道は暗いし、人は空も飛べぬ。なれば日が落ちる前に門人どもを家に返してやらねばならぬ」
 しかし、そう言われてもシグナムはまだ納得していない顔でフンと鼻を鳴らし、十兵衛を睨む。

「私が言いたいのはそういうことではないぞ十兵衛殿。それとも、稽古を仕切っていたのが貴殿だったとしても、やはり私と月ヶ瀬殿の勝負を邪魔しただろうと言いたいのか?」
 シグナムの厳しい視線に、さすがに十兵衛は目をそらし、困ったようにコリコリと中指で顎を掻く。
「まあ……さすがにそれは、その場におらねば判断はつかんじゃろうが……しかし、それも違う話ではないか? おぬしの言葉を信じるならば、その勝負を遮ったのは当事者の又五郎自身なのじゃろう?」
「それだ」
 シグナムは身を乗り出した。
「わからないのはそこだ。なぜ月ヶ瀬殿は、自ら勝負をやめるような真似をしたのだ!? あの御仁は、暮れ六つの鐘とやらが道場に聞こえてくるまでは、間違いなく本気だった。それが何故だ!? 説明できるなら説明してくれ十兵衛殿!!」


(まあ、たしかにな)
 十兵衛は息を洩らした。
 まあ、シグナムの疑問ももっともと言えない事は無い。
 たとえば、かつて江戸にいた頃の若かりし日の自分が、今のシグナムと同じように「稽古の終了時間だから」などという理由で、勝負を邪魔されたらどうなっていただろうか。
(……まあ、そりゃ荒れ狂うだろうな、やっぱり)
 そう思う。
 だから、一応は言葉を尽くして説明してやるつもりではある。いまの十兵衛はもはや、父から家を追い出された頃の狂犬のようだった自分とは違って、又五郎がシグナムとの決着を避けた理由も、さすがに理解は出来る程度には歳を重ねていたからだ。
  

「まあ、要するに月ヶ瀬又五郎の本命は、あくまでこのおれ――柳生十兵衛との決着であって、今日たまたま道場で竹刀を交えたシグナム殿ではない、ということさ」


 決着――という言葉が十兵衛の口から出るに及んで、さすがにシグナムの目も冷静さを取り戻した。
「どういうことだ」
「どうもこうも言葉通りの意味さ。そなたの話では、又の字が本気になった頃には、すでに道場中の人間が、その勝負の成り行きに注目していた、というではないか」
「それが?」
「だからさ――そんな衆人環視の中で、自分が工夫した秘太刀を試すような真似はできないだろ?」
 その場にいた門人たちも、全員が百姓町人や女子供というわけではない。
 中には歴然たる柳生流の高弟も何人もいたはずだ。
 ならば、そんな連中の前で、おめおめと自分の“工夫”とやらを披露して、見極められでもしたら、一体どうなるか。
「傍で見ていた誰かに技を見切られて、その“誰か”がこのおれに、又五郎の秘剣とは、これこれこういうものでしたなどと耳打ちした日には、あやつがその“工夫”に費やした歳月がすべて無駄になってしまう――じゃろ?」

「…………ヤギュウ流の高弟とやらは、みなそこまで口が軽いのか?」
「やつらが言わずとも、おれが言えと命じれば言わずにはおれまい。なにしろ、おれはこの土地の若殿様じゃなからな」
「…………言えと命じるのか?」
「買いかぶるなよシグナム殿。又五郎は強いし、いずれつけねばならぬ決着ならば、おれも負けたくないからな」

 そこまで十兵衛が言って、シグナムはようやくフンと鼻を鳴らして身を引いた。
 だが、当然ながら、十兵衛の言葉に心底納得したようには見えない。
「まあ、わからなくもない話だが……十兵衛殿、月ヶ瀬殿と貴殿との間にはそこまでの因縁があるのか?」
「…………まあな」
 十兵衛は盃を口にしながら、そこで少し視線を外した。
 いま月ヶ瀬又五郎を名乗っている彼は、江戸の柳生道場での十兵衛の兄弟子だった男であり、江戸の道場では、よく「血みどろ」とさえ形容できるほどに激しい稽古試合を繰り返した仲だった。
 だからといって、十兵衛が個人的に又五郎を嫌っているということではない。
 あの頃の十兵衛にとっては、死力を尽くして竹刀を交える事のできる稽古相手は、父の柳生但馬守や弟の左門友矩以外には、江戸道場の席次筆頭であった月ヶ瀬又五郎――当時は違う名を名乗っていたが――しかいなかった、というだけの話なのだ。
 ただ、その当時を思い出そうとすると、どうしても父に勘当を喰らって廃嫡された「あの頃」を思い出してしまうので、あまり語りたくない話題だったのも事実だ。
 だから十兵衛は話題を変えた。

「まあ、それよりもシグナム殿、おぬしは又の剣をどう見た?」
「どう見た、とは?」
「そうだな……たとえば、このおれと比べてどうだ?」
 と、そこまで話したとき、二人の視線が同時に襖(ふすま)に向けられた。


「「「「「「「「「「「「「「

 しかし、両者の表情に殺気はない。
 襖の向こうから感じた気配と足音が、二人にとって既知の――柳生家の留守居役である狭川源左衛門のものだったからだ。
「爺か、いかがした?」
 しかし襖の向こうから聞こえてくる源左衛門の声は、十兵衛の問いかけのようにのんびりとはしていなかった。
「若殿……たった今、又十郎様がこの屋敷に到着されました」
「なに!?」
 十兵衛の眼が一気に険しくなる。
「江戸より大殿の書状を携えておられる、との事です」
「わかった、すぐ行く。座敷に通して待たせておけ」
 そう言いながら十兵衛は立ち上がり、襖をからりと開け、そこで初めてシグナムに振り返った。
「すまんなシグナム殿、今宵はどうやらここまでのようじゃ。めしのおかわりが欲しければ運ばせるが」
「いらんよ。私のことなどよりも、そのマタジュウロウ様とやらのところに早く行ってやれ」
 そう言ってシグナムも微笑した。
 

(今の笑顔は何だ?)
 とは十兵衛は思わない。
 シグナムは自分の存在が原因で十兵衛が父親から詰問されている事実を知っている。
 つまり、彼女は自分が十兵衛に迷惑をかけている、と解釈するのに充分な材料を持っている。そうでなければ席を立つ十兵衛に、あんな取り繕うような笑顔は向けまい。
(下手すれば……今夜中に姿を消しかねんな)
 そう思いながら、十兵衛は前を歩く源左衛門の背中をじろりと睨む。
 この老人がシグナムにも聞こえるように「大殿からの書状」などと言うからだ。
(じじいのくせに考えの足らんやつだ)
 と思うが、当然そんなことを口には出さない。いま十兵衛が考えるべきはそんな事ではないからだ。
(まあいい。それよりも今は又十郎だ)
 まあ、彼が何をしに来たのか――というより、父の手紙に何が書かれているのか――の見当はつく。
(親父め……ッッ!!)
 十兵衛はぎりりと奥歯を鳴らした。



 十兵衛の父――柳生但馬守宗矩は、徳川将軍家の剣術指南役として、柳生の剣名を天下に轟かせた人物であるが、しかし彼は同時代人と言うべき宮本武蔵や小野次郎右衛門、柳生兵庫らと違い、単なる剣術使いの枠に留まる人物ではない。
 但馬守は剣客である以上に江戸幕府の有能なる官僚であり、政治家であった。
 彼は、幕府初代の大目付(惣目付)として全国の諸大名を内務監察し、その凄まじい諜報活動によってお家断絶の口実・証拠を探り出し、徳川家の邪魔になった諸侯を片っ端から取り潰した。
 その標的は外様大名のみならず、幕閣として但馬守の同僚であるはずの譜代大名にさえも向けられ、本多正純、大久保忠隣・徳川忠長らの失脚・断絶にも関与しているとすら噂されており、江戸幕府の暗黒面を担う代表人物の一人として世間から怖れられた。
 柳生但馬守は、いわゆる“剣豪”と呼ばれた者たちの中で唯一、大名にまで出世した人物であるが、しかしそれは剣術指南役としてではなく、この大目付としての功績こそが評価されたからだとすら言われるほどだ。

 しかし、彼の大目付としての情報収集力の基盤となったのは、伊賀組・甲賀組といったいわゆる忍者たちではなく――いや、彼らの行動力も充分活用しただろうが――全国の大名家に派遣した柳生流の門弟たちであったことを考えれば、この男の底知れなさの片鱗が窺えるだろう。
 なぜなら当時の武家の価値観から言えば、侍というものは一度仕官すれば(たとえその仕官が師匠の斡旋によるものだったとしても)忠誠心の対象は政府たる徳川家や恩人たる師匠ではなく、直属の主君に向けられるのが普通であり、その主君を陥れるための間諜など、まともな神経を持った武士ならば到底やるべきことではなかったからだ。
 忍者たちのような先祖代々の職業諜者ならばともかく、当時の武家社会においては、単なる道場生を一個のスパイにまで仕立て上げるほどの影響力を発揮できる師匠というのは、やはり尋常ではない。つまり一人の指導者としても、但馬守が充分にカリスマを持っていたことは間違いないだろう。

 しかし、十兵衛にとっては、そんなことはどうでもいい。 
 十兵衛三厳にとって但馬守宗矩は、尊敬すべき父であり師匠であり、そして、おのれの相続権や右目を奪った憎むべき男ではあるが、それ以上にどうしようもなく肌の合わない相手だったのだ。
 その父からの手紙を携えて、弟がわざわざ江戸から現れた。
 十兵衛としてはやはり、溜息の一つも出ざるを得ない。




[36073] 第十一話  「柳生又十郎」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2012/12/27 00:15

 源左衛門の案内に従い、部屋に入ると、座していた武士が一人、こちらに向かって深々と頭を下げた。
 だが、その姿を見て十兵衛の顔に浮かんだのは、苦々しげな眉間の縦皺だった。
 その武士は、旅塵で真っ白に汚れた道中姿のままだったからっだ。
(確かに座敷に通して待たせておけと言ったのはおれだが……せめて新しい着替えくらい与えてやればいいものを)
 そう思ったが……しかし、顔を上げた又十郎の表情を見て、その考えは消えた。
 屋敷の者たちがそこまで気が利かないわけがない。この男は、おそらく自分の用件がいかに緊急であるか、いかに重要であるかを言下に見せ付けるために、敢えて汚れた旅姿を脱がずにいるのだろう。
(変わらんな、このひねくれ具合は……)
 十兵衛は舌打ちを懸命にこらえた。
 

 柳生又十郎――通称は主膳。名乗りは宗冬。但馬守宗矩の三男である。
 すでに老齢である但馬守に代わって将軍家兵法指南役を継いでおり、さらに、廃嫡された長男・十兵衛や、早逝した次男・友矩に代わって柳生家の家督をも後に継承することになる。
 長兄の十兵衛は、七郎と呼ばれた少年時代から、剣においてはまさしく天才と言うしかない素質を周囲に見せ付け、さらに次兄の友矩も、剣では十兵衛に一枚譲るものの、文武両道の秀才ぶりを発揮したが――そういう意味では、この三男の又十郎は、二人の兄に比べればいささか見劣りがする、と言わざるを得ない。
 むろん但馬守が将軍家指南役を継がせるだけあって、そこらの町道場の師範代や塾頭程度ならば充分に務まる腕を持っているが、それでも十兵衛や友矩の代わりに、柳生新陰流の次期総帥が務まる器量があるかと問われれば……やはり但馬守は大いに悩み、そして首を横に振ったであろう。
 剣士としては、しょせん彼はその程度の存在でしかなく、さらに但馬守が外に産ませた四男の義仙(後の柳生烈堂)と比べてさえ、その剣は劣っていた。極論を言えば、但馬守が産ませた男子の中で最も剣才に恵まれなかった男だとさえ言えたかもしれない。
 又十郎の不幸は、おのれの凡庸さを充分に知った上で、なお柳生家という一大ブランドの看板を背負わねばならなかったことであろう。
 なればこそ、この弟は、天才と称されながらもなお家を捨て、故郷の柳生ノ庄で悠々自適に暮らしている長兄を深く恨んでおり、十兵衛からすれば、その点がわずらわしくて仕方が無い。但馬守に勘当されて江戸から追放された時も、この弟とは一悶着あったほどだ。 
 つまり、十兵衛にとってこの弟は、父と同じくあまり見たくない顔の一つなのだ。


「又十郎か、久しいの」
「今は主膳、と名乗っておりまする」
「柳生主膳か。なかなかいい名ではないか――」
 という挨拶を遮るように、又十郎は兄に向かって唐突に吼えた。


「兄上は柳生家を滅ぼすおつもりですかッッ!!」


 しかし十兵衛も表情を変えない。
 無論この弟は自分に対して、普段からこんな無礼な口を利くような粗暴な男ではない。
 彼の十兵衛に対する憎悪は、直接的な嫌味や皮肉ではなく、もっと冷淡で雄弁な、氷のような視線のみで向けられるのが常だったからだ。
 しかし今日この場合は、又十郎の背景には父の但馬守宗矩がいる。ならば、この状況で彼が自分に遠慮などするはずがない。だからこそ、まさしく弟の言動は十兵衛の予想通りのものだった。
「……わかるように言え又十郎」
「茶番はおやめ下さい兄上、すべては我々の知るところとなっております。この柳生ノ庄に兄上が見知らぬ南蛮人をかくまっているという明白なる事実を、知らぬとお思いですかッ!?」
「あの者は南蛮人でもキリシタンでもない。天より星として落ちて参った“天女”じゃ」
「そんな戯けた冗談を信ぜよと仰せですか!!」
「これは異なことを」
 そこで十兵衛は初めて顔から薄笑いを消した。


「これが冗談でないことは貴様も知っているはずだろう“柳生主膳”」


 又十郎は沈黙した。
 たしかにシグナムが、ただの異人などとは完全に違う存在である事は、この柳生ノ庄の住人ならば、今では子供でも知っている事実だ。つまり、父の但馬守が動かした諜報機関が、まじめにこの地で情報収集をしたならば、シグナムという女が一体何者であるかを又十郎が知らないはずは無いのだ。
「おれも今更、あの女の存在自体を貴様や親父に隠そうなどとは思うてはおらぬ。しかし、あの女がキリシタンの宣教師などではないことだけはハッキリと保証できる」
「…………」
「この柳生十兵衛が、剣に懸けて保証すると断言しているのだ。それをも信ぜぬとほざくならば又十郎、もはやこのおれから言うべき言葉は何もないわ」

 そう言いながら十兵衛は、又十郎を見据える視線にわずかながらに殺気を込める。
 しかし、又十郎は目を伏せない。

「……確かに、いま兄上が仰せられた話をすべて嘘だと否定する気は、この又十郎にはあり申さん。しかし、こんなありえぬ話を世間の者どもが信ずるとお思いですか? 天から落ちてきた天女がどうこうなどという馬鹿げた話を」
「世間の者どもが何を言おうが、しょせん真実は一つじゃ」
「それでは柳生家は潰れてしまうと申しておるのです!!」
「誰が潰す?」
「土井大炊、松平伊豆、春日局、南光坊天海……数え上げればキリがありませぬ」
「みな親父の政敵ではないか! それこそおれの知った事ではないわ!!」
「子供のような事を申されますな兄上! 柳生家の当主が父上である以上、父上の敵は柳生そのものの敵でありましょうがッッ!!」
 そう一喝されても、しかし十兵衛は言い返さない。
 現実は、確かに又十郎の言うとおりだからだ――というだけではない。いま弟の口から飛び出した者たちの中に、聞き捨てならない名前があったことに不意に気付いたからだ。

「ちょっと待て又十郎……貴様いま“松平伊豆”……と言ったが、まさかそれは……信綱殿のことか!?」
 が、又十郎は兄の狼狽を全く不可解なものを見る目で一瞥すると、口元をゆがめる。
「何をとぼけたことを仰せある……松平伊豆といえば伊豆守信綱以外の誰がいると言うのです?」
 しかし、十兵衛にとってその言葉は、まさに青天の霹靂であった。
「馬鹿な……親父が……あの親父殿が……信綱殿を敵に回したというのか……!?」


 松平伊豆守信綱。
 江戸幕府の暗黒面を担当した柳生但馬守。そして、いわゆる“大奥”を確立して徳川家の家政を切り盛りした春日局と並び、三代家光を支えた「鼎の三柱」とさえ後に称される、江戸初期の大政治家である――が、この当時の柳生又十郎に、伊豆守信綱に対するそこまでの認識は、当然ながら無い。
 堀田正盛や阿部忠秋ら、いわゆる“六人衆”の筆頭として天下の政務を切り回し、その抜群の政治手腕によってすでに「知恵伊豆」の尊称を受けてはいたが、それでも後年ほどの高評価を、この頃の信綱が受けていたわけではなかったからだ。
 しかし、この弟は理解していないようだが、十兵衛が知る限り、あの松平信綱という人物は、春日局や天海のごとき権力亡者とは本質的に人間の出来が違う。
 彼は信念を持っている。
 損得勘定や気分次第で敵を選んだりはしない。
 なればこそ但馬守も、彼とだけは敵対せぬように細心の注意を払っていたはずだ。

 何故そんな事を十兵衛が知っているかというと、信綱が大名に叙勲される以前に、江戸の柳生道場に通っていた時期があったからだ。
 年齢的には信綱は十兵衛より一世代ほど年長であるが、それでも二人は同じ道場で汗を流し、竹刀を振っていた思い出がある。
 というより、すでに才気煥発の風を見せていた信綱を、但馬守は当時から剣の師匠としてではなく、幕閣の同僚として憚っていた気配があったのを十兵衛は憶えているのだ。
 もっとも当時少年だった十兵衛は、当時旗本だった彼を「信綱殿、信綱殿」と先輩どころか友達扱いしたものだが、酒も飲めない謹厳実直な松平信綱は、むしろそれを喜んでいるようでもあった。
――無論みな、昔の話だ。

 が、又十郎はせせら笑うように口元を歪ませる。
「いつの話をしておられますか兄上、いまや伊豆と言えば、反柳生の筆頭勢力にございますぞ」
「……そうなのか」
 十兵衛はむっつりと口を真一文字に結ぶ。
(ならば、どちらにしろ柳生家の先は知れたかもしれんな)
 そう思うと、十兵衛の中に、急速にこの弟に対する哀れみが募っていく。
 将軍家指南役を任されるほどの身になりながら、こんな使い走りをさせられている又十郎。この現実こそ但馬守がこの三男をどういう眼で見ているのかといういい証拠であろう。 
 しかも、又十郎自身にはおのれが使い走りだという自覚すら無いはずだ。おそらく彼自身は、父から、十兵衛を説得する重大な役を任せる、などと言われて、この柳生谷くんだりまで勇んでノコノコやってきたのだろう。
 そう思うと、憐憫という感情はむしろ簡単に苛立ちに摩り替わっていくものだ。

「又十郎、書状を見せろ」
「は?」
「これ以上、貴様と噛み合わぬ口論をしても埒が明かぬ。とっとと親父の書状とやらを見せろ!」

 この座敷で兄と対面した瞬間から、まるで苦い顔を崩さない又十郎だったが、「埒が明かぬ」などと言われて、そこにさらにムッとした怒りを浮かべる。
 しかし、もはや十兵衛にそんな弟を斟酌してやるような気持ちは無い。無言で差し出された書状をひったくるように奪うと、又十郎に一瞥すらも投げかけず、開いた文面に目を落とした。


 書状を又十郎に託した――という時点で、この書状がこれまで何度も送られてきた、単なるシグナム引渡し要求でないことは、十兵衛にも予想はつく。
 但馬守は父として、息子たちの不仲を理解している。又十郎が、江戸の権威を背負った強圧的な物言いをすることも、気性の荒い十兵衛が、そんな弟に激怒するのも、おそらく予測どおりであろう。
 ならばこそ、この書状には、これまでのようなただの命令だけではなく、十兵衛を動かすための交換条件を必ず記載してあるはずだ。
 もっとも、十兵衛をしてシグナムを引き渡させるような条件など、彼自身にも見当もつかないが。

(親父が何を言い出すつもりなのか、それ次第だな)

 それ次第で父の本気度の判別もつく。
 というより、但馬守が完全に“本気”でシグナムの身柄を欲しているならば、又十郎など寄越すわけがないのだ。父が飼っている伊賀者か甲賀者でも送り込んで、まず十兵衛に毒でも盛ろうとするのが先であろう。
 これまでの経緯から、シグナムを手中にしたければ、まず、この長男の存在こそが最大の障害である事を、すでに父も理解しているはずだったからだ。
 そして、あの父親は目的の邪魔になるならば、たとえ誰であろうと容赦する事は無い。
 いわんやそれが勘当した元嫡男であっても、対象が血縁だからという理由で“処理”を躊躇するような甘さを、柳生但馬守は持ち合わせていないのだ。それは誰よりも息子の十兵衛が知っていることだった。

 ならばこそ父は、おのれが本気であるように演出するために、何度も何度も要求を繰り返し、最終的に柳生家の後継者である又十郎まで使者として送って寄越したのだろう。
――息子相手に芸の細かいことだな。
 そんな父親に、長男としては苦笑を禁じえない。
 しかし十兵衛は、そういう但馬守の謀略癖を――又十郎などよりもよほど深く理解する事ができた。いや、父を理解できる十兵衛であればこそ、息子としても剣士としても、彼はどうしても父を尊敬しきれず、ついには親子断絶の悲劇という結果を招いたとすら言えるであろう。
 しかし、なればこそ逆に彼は、現時点で父が何を言い出すのかという点に、ある意味非常に興味があった。
 そして文面を読み続けていくうちに……十兵衛の目は、凍ったように動かなくなった。


 父の書状の文面は、ある意味簡潔であった。
 柳生ノ庄に隠匿されている異人の女。彼女がキリシタンの関係者でないと世に証明したくば、彼女自身の手によって、とあるキリシタンを一人討たせよ――十兵衛はその補佐をせよ――ということであった。
 それだけならば、単なる踏み絵と内容は変わらない。もっとも、絵を踏めというのではなく、キリシタンの首を刎ねろという時点で、父はシグナムが剣士である事実を認めている、ということではあるが
 それはいい。
 問題は、父が討てと指名したキリシタンの名であった。

――天草四郎時貞。

 島原の大乱で死んだはずの天草四郎が、実は生きて原城を脱出しており、異人の女剣士を護衛にして、今も密かに逃避行を続けているという。
 その四郎と護衛を、シグナムに斬らせしめよ。
 さすればその功によって、かの女をキリシタン・バテレンの手先と誹謗する者は誰一人いなくなるであろう、というのが書状の内意であった。
 しかし、それだけの事ならば(というには、四郎の生存はあまりに驚天動地の秘事であったろうが)十兵衛の胸はさほどに躍らない。
 彼の視線を、文面に釘付けになるほど興奮させたのは、次に書かれた文章を目にしたからだ。

――なお、われら公儀の手の者とは別に、天草四郎を独自に追跡、抹殺せんと動く兵法者が一人。
――その者、宮本武蔵。
――武蔵に四郎を討たせてはならぬ。
――万が一、天草四郎討伐に武蔵が障害となるならば、武蔵を斬れ。
――武蔵を斬れ。
――武蔵を斬れ。


「かはっ、はっはっはっはっはっっ!! ――親父めぇ!!!」


 十兵衛は哄笑し、そして豪快に吼えた。
 又十郎が、理解できぬ人間を見る目を向けてくるが気にもならない。
 十兵衛自身、宮本武蔵――この名を何度夢に見たかわからない。
 むろん一個の剣士としてだ。
 たとえ将軍家剣術指南役の柳生家が、いかに日本の剣壇を牛耳ろうと、それでも新免宮本武蔵の剣名は、それとは全く別の次元で天下に鳴り響いている。
 十兵衛の父・但馬守宗矩は武蔵と同世代の剣客ではあるが、しかし残念ながら父個人の剣名は「あれは剣客というより政治家だ」という世評も相まって、しょせん武蔵には及ばない。
 ならばこそ十兵衛――というより柳生一門にとって“武蔵”の存在は、まさしく目の上のたんこぶと呼ぶに等しい。

 いや、そんなことはどうでもいい。
 かつて“梟雄”と呼ばれた十兵衛の荒ぶる血は、年齢を重ねて随分落ち着いたものだが、それでも彼の本質は変わらない。
 十兵衛は戦いたいのだ。
 それも、相手は強いほどいい。
 武蔵ともなれば、相手にとって不足など無い。
 むろん機会があれば、それを逃す気は無かったが、幸か不幸か、そんな機会はこれまでなかった。
 いや、もし機会があったとしても、これまでなら但馬守が全力で妨害したであろう。柳生一族の誰かが武蔵に一対一の果し合いを挑んで、万が一、ブザマに負けでもしたら、柳生新陰流の名が地に堕ちるだけでは済まない。但馬守個人の政治生命さえ危うくなってしまう。
 が、今回は違う。
 あの臆病な父が認めたのだ。
 むろん十兵衛に負ける気は無い。だが、相手が相手だ。確実に勝てるなどとは言えるはずも無い。にもかかわらず――但馬守が認めたのだ。柳生十兵衛が、宮本武蔵と戦うことを。
 ならば、彼に否応があるはずも無い。


 吼えた後に又十郎に向き直り、先程までとはまったく別人のごとく上機嫌に叫んだ。
「又十郎、とっとと江戸に帰って親父に伝えよ! お指図ことごとく承ったと十兵衛が言ったとな!!」




[36073] 第十二話  「もう一人の女騎士」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/01/10 20:42
 宮本伊織は恐怖していた。
 わかっていたつもりだったのだ。あの女が只者ではないという事実は。
 義父・武蔵とともに小笠原家の客分として参陣した島原の乱。そこで彼が目撃したのは、まさに舞うがごとき剣さばきで、鎧武者どもをなで斬りにするヨーロッパ系白人種の異人の女。

 すなわち、いま自分たちの眼前に立ちふさがる――彼女である。

 いや、こうして真正面から対峙してみれば、それはもはや歴然だ。
 あんな禍々しい剣気を放つ女が、まともな存在であるはずがないのだから。
 いや、まさしくそれは剣気なんて生易しい空気ではないだろう。
(妖気、とでも呼ぶべきだなこれは……)
 などと考える余裕も、もはや今の伊織にはない。
 いや、その比喩はもはや冗談ではない。彼女が剣気を解放した瞬間、彼女の背後に自生していた雑木林から、十数羽の鳥が飛び立って逃げたのが見えたほどだ。
 それどころか、女の放つ“気”によって、風は震え、大地から湯気が立ち上っているようにさえ思える。



――寛永十五年九月某日。
 森と水田に囲まれ、人よりもセミの方が多いのではないかと思わせるような、のどかな街道筋のあぜ道。
 さんさんと降り注ぐ夕暮れの西日の中、その道を歩く村人さえいない。
 昨日までなら、それはのどかな山間の一風景でしかなかったはずだ。
 しかし、現在そこに展開されていたのは、まさに異様な光景だというべきであったろう。
 深編笠を被った旅装の武士――宮本伊織。
 いや、まだ彼はいい。この時代のこの国にとって、まだ常識の範囲内というべき存在だ。
 しかし、この武士と睨み合う一人の女――彼女は、どこから見ても非常識の範疇の人間だった。

 彼女は、江戸時代――寛永年間の峠道におよそいるはずのない、白人の女だった。その見事なブロンドヘアから類推するに、おそらくはアングロサクソンか、ノルマン系か。
 しかも、その美しさが尋常ではない。
 その髪は黄金のように光り輝き、その瞳は宝石のように翡翠色の光を宿し、その肌は磨き抜かれた大理石のように白く張り詰め、その美しさを例えるならば、まさに天上の妖精もかくやと言うべき美少女であろう。
 とはいえ、彼女はただ美しいだけの女ではなかった。
 その整いすぎた目鼻立ちに、人形のように人工的な匂いは塵ほどもない。
 彼女の表情には、眼前に対峙する相手への凛然たる闘志をうかがわせ、その強い意志こそが、彼女の発する美をさらなるものへと昇華させているのだ。
 いや、その顔に闘志が浮かび上がるのも当然であったろう。
 彼女は、何よりも戦士だった。
 紺碧の着衣と白銀の甲冑に身を包み、しかも信じがたいことに、この美少女には、その大仰な戦装束がまるであつらえたように似合っている。どこからどう見ても、昨日今日、初めてその鎧を身に着けた素人女には見えない。馬鹿か盲目でもない限り、この少女が歴戦の古強者である事を疑う者は、まずいまい。
 そんな彼女が、こんな田舎のあぜ道に屹立している光景のアンバランスさは、まさしく「奇妙」の一言でしか表現できなかったであろう。


 その女剣士を前に、すでに伊織は刀の柄に手を当てている。
 が、そのまま動けないのだ。
 かの剣聖・宮本武蔵に見出され、以降の人生をひたすら苛烈なる剣の修行に費やしてきた伊織だ。当然おのれの腕にも才にも自信はあるし、一対一で敵と対峙して、こんな蛇に睨まれたカエルのごとき立場に追いやられる自分など、まさしく予想だにしていなかった。
 むろん伊織がたった一人で、この者たち――天草四郎とその護衛の女剣士を追跡しているのも、独力でこいつらを捕らえ、あるいは斬り捨てるだけ自信があってのことだ。
 が、違う――!!
 彼女がここまで凄まじい“気”を発するほどの剣士であるとは想定外だったと言うべきであったろう。
 剣の勝負を決定付けるものは、しょせん小手先の技術ではない。
 おのれの“気”で、相手を呑んでかかれるかどうかにこそ、勝敗の趨勢はかかっている――というのが、いわゆる武蔵流の剣の極意である。
 そして伊織は、今日この日、初めてこの女剣士の発する本当の剣気を目の当たりにしたのだ。
 彼の足がすくむのは、残念ながら無理もないと言うべきだろう。

 いや……違う。
 本当はわかっている。
 むろん伊織を圧倒するこの女の剣気は本物だ。
 だが、彼の動きを封じている真なる理由は、それだけではない。
 それは眼前の女剣士の、その人間離れした美しさだった。
(いったい何なんだ……この女は)
 伊織の心の混乱は、ますます酷くなる。
 この女が人の姿をした妖怪・人外の類いである事は、すでに承知している。
 にもかかわらず、彼女の放つこの美しさは何だ!?
 かつて原城の陣で彼女が、華麗にして残虐無比な剣さばきで幕軍の一隊を皆殺しにしたのを目撃したとき、伊織はその強さではなく――美しさに絶句したものだ。
 そして、今ここで、伊織を睨みつける彼女の美しさは、かつての戦場を明らかに凌駕していた。
――美しき獣。
 彼女は、まさにそう呼ぶにふさわしい存在であったというべきだろう。
 

「むッ!?」
 刀の柄に手をかけたまま凝然と動けずにいた伊織が、その瞬間、背筋を伸ばして声を上げた。
 魔像のようにその場に佇立していた彼女が、ゆるゆると動き出したからだ。
 いや、正確には、動いたのは女の右手だけだ。
 何も持たない彼女の右手が振り下ろされた瞬間、大地に一本の線が引かれた。
 いや、線が「引かれた」のではない。この線を彼女が「書いた」のだ。
 伊織はすでに理解している。
 彼女の右手が無手に見えたのは、彼女の得物が(信じがたいことだが)いわゆる不可視の剣であるからなのだ。この、間合いの測りようのない見えざる剣によって、原城の陣で一体どれほどの兵が大根のように斬り捨てられたかわからない。
 いや、彼女の剣の荒唐無稽な点は、その透明さのみではない。
 その剣は、見た目と同じく切れ味においても、鎧武者を甲冑ごとどころか馬ごと両断するという非常識きわまりない性能を発揮し、寄せ手の兵たちを恐怖のどん底に叩き込んだのだ。
 そして今、彼女はその不可視の剣を以って、大地に一本の線を引いた。


「……私は、敵を前に怯えし者を斬る剣を持ち合わせてはいない」
 と言い、伊織を睨みつけると、さらに重ねて言った。
「追っ手よ、去れ!! この線より一歩でも足を踏み入れたならば、その命は無いものと覚悟せよ!!」


(こッ……ッッ!!)
 女剣士のあまりに人もなげな言い草に、さすがに伊織の額に青筋が浮かんだ。
 屈辱といえば、これ以上の屈辱はなかなか無いだろう。
 伊織は侍だ。死を担保に命をあがなうのが侍の渡世だ。
 いや、それ以前に彼は一個の男だ。どれほど美しかろうと――いや、美しければこそ尚更、女ごときから「怯えし者」などと言われる屈辱は、男ならばすべからく想像できるはずだ。
 たとえ、女剣士の剣気にその動きを封じられようとも、今この瞬間に与えられた挑発は、伊織の背中に活を与えるに充分な威力を持っていた。
(このキリシタンの化物めが……その大口を後悔させてくれるッッ!!)
 その憤りとともに、一歩を踏み出そうとした瞬間、伊織はおのれの肩をぽんと叩かれたのを感じた。


「…………武蔵、様!?」


 あまりの驚きに、彼のうわずった声が響く。
 無理もないだろう。本来ならば伊織と別行動をとって、ここより数里は離れた、とある宿場町にいるはずの彼の養父・宮本武蔵が、何かの間違いのように忽然と姿を現したのだ。
 ここにいないはずの武蔵がここにいるという驚愕と、さらに、その武蔵に背後に立たれたことにまるで気付かなかった事実に対する羞恥とで、伊織はしばし女剣士から目を離し、武蔵を見上げたまま絶句している。
 そして武蔵は、そんな養子の肩に無骨な手を置いたまま、静かに首を振った。
 言葉はない。
 しかし、この瞬間、伊織はおのれの頭に先刻以上に、カッと血が上るのを感じた。
 その意味を聞き返すまでもない。武蔵が言いたかったのはただ一言、
「よせ」
 という言葉に違いないことは、誰にでもわかる。

(馬鹿なッッ!!)
 確かに、ここで対峙した瞬間、伊織は初めて見るこの女剣士の本気の“気”に圧倒された。
 しかし、今は違う。
 今の自分の内部には、その時にはなかった気炎がある。与えられた屈辱によって燃え盛る怒りがある。
 やみくもに突撃をかまして勝てるとは思わないが、それでも精神的に圧倒されていなければ、少なくとも一矢報いるくらいは出来るはずだ。
 いや、それは希望的観測ではない。原城の陣で実際にこの女の剣を見た上で、伊織の理性が冷静に判断した客観的事実である。
 この女は、確かに強い。
 武における“気”の大きさとその実力は歴然たる相関関係にある。つまり、あんな妖気に見まがう剣気を発するような剣士ならば、その技術の底は間違いなく――非常に不本意ながら――伊織の及ぶところではない。
 だが、それは問題ではない。
 伊織は侮辱されたのだ。
 一人の男性として、ここまでコケにされて黙っていられるはずがないし、それを容認するような義父でもないはずだ。
 ならば何故そんな――。


「伊織、いかにそなたでも、あの女と霧の才蔵を同時には相手にするは荷が重かろう」


 弾かれたように伊織が振り向く。
 いや、彼だけではない。
 その言葉に、肝心の女剣士本人さえも、しばし武蔵を凝視し、さらにキョロキョロと周囲を見回した。
 当然であろう……このあぜ道には、依然として武蔵と伊織、そして彼女の姿しか見当たらない。隠れているにしても、そんな都合のいい場所は見当たらない。道の両側はカエルの鳴く水田だからだ。
 つまり「霧の才蔵」など、この場にいるはずがないのだ。
 にもかかわらず……、


「いや……さすがでござるな宮本武蔵殿。いつからあっしの存在に気付いておられやした?」

 
 伊織も女剣士も、今度こそ呆然となった。いや、それが小芝居でない証拠に、彼女が反射的に「馬鹿な……」と呟いたのが伊織にも聞こえたほどだ。
 その、いかにも人のよさそうな中年男の声が、どこから発されたのか、彼には全くわからない。水田の泥の中に完全に身を沈めて気配を殺しているというならともかく、そんな真似をしていたら普通に溺死してしまうではないか。
 しかし、武蔵はまるで動じた様子もない。
 伊織の傍らから一歩右手に移動すると、腰の大刀をすらりと抜き、口を開いた。

「伊織、忍びの相手はわしがやる。あの女は貴様が斬れ」
 
 その瞬間、伊織は再度おのれの養父を振り返った。
(武蔵様が自分を信用してくれてる……ッッ!!)
 その思いは、伊織にとって歓喜そのものだった。
 さっき首を振ったのは、戦力が未知数な「霧の才蔵」の存在を危ぶんだだけであって、あの女剣士の侮辱に甘んじろと伊織に言いたかったわけではなかったのだ。
「はいっっ!!」
 彼は力いっぱい頷いてみせる。
 と、同時に腰の刀をようやく抜き放った。


 霧の才蔵……またの名を霧隠才蔵。
 島原の乱には、その実キリシタンでも島原の農民でもない者たちも多数参加しており、たとえば関ヶ原で斬首された小西行長、関ヶ原後に改易された加藤清正、有馬晴信などの亡臣たちは、徳川の天下に強い憎悪を持ち、勇んで一揆軍に参戦し、その軍事技能を惜しむことなく発揮していたという。
 そして大坂の役で玉砕した真田左衛門佐幸村の亡臣たる真田の草の者――いわゆる真田忍軍も、その例外ではなかった。
 彼らは、そのいずれもが腕利きの忍び者であり、一流の武芸者に匹敵する戦士であり、特にその筆頭とされる「猿(ましら)の佐助」や「霧の才蔵」と呼ばれる二人の武名は、忍者という隠密行動を基本とされる職種であるにもかかわらず、天下に喧伝されるほどであった。
 彼らは天草四郎たちの原城脱出を幇助し、細川藩や黒田藩の藩兵たちの包囲をたやすく突破し、追跡を振り切り、まるで煙のように行方をくらませている。
 独自の追跡で、一度は彼らに追いついた武蔵と伊織も、その“十勇士”の一人である望月六郎を斬るのがやっとで、結果的にはまんまと逃げられてしまったほどだ。
 しかし、今この瞬間、自分たちはようやく尋常の対決の場を得た、と言えるだろう。
 先程ぶざまに女剣士の剣気に圧倒されておいて何だが、しかし伊織は、武蔵の傍らで剣を抜くならば、本来のさらに数割増しの実力を発揮できる自信がある。
 そして、いかに“真田十勇士”が相手であろうとも、天下の宮本武蔵が、たかが忍び一匹に遅れを取るとは伊織には思えない。
 だがその瞬間、この“親子”の足はピタリと止まった。


「いやいや、申し訳ございませんが武蔵殿、あっしたちはこの場を退かせていただきとうございます」


 その才蔵の言葉に、女剣士はまたしても驚きと――それ以上に満腔の不満をあらわにした表情を浮かべるが、しかし、この期に及んで姿を見せないこの「才蔵」という男は、おのれの予定を反故にする気はないようだった。
 うっすらとだが、それでも確実に、このあぜ道に不気味な乳白色の“霧”が浮き始めたからだ。
 仮にも「霧の才蔵」と呼ばれる男が使う、この“霧”が、単なる煙であるはずがない。
 いや、それを証明するように、才蔵の台詞がこの場に響く。
「参考までに申し上げておきますれば、この霧、吸いすぎれば気が狂って三日も経たずに棺桶に直行すること間違いなしの代物でしてな。……ああ、勿論あっしたちは“霧”の毒を中和する薬を服用しておりますゆえ、何ともありませぬが」

「うぬぅ…………ッッ!!」
 伊織は、思わず奥歯を噛み鳴らしそうな表情でうめき声を上げ、しかし、その足は前には進まない。
 こうしている間にも、その“霧”はますます深くなり、もはや女剣士の姿すらも見えなくなっている。いや、彼女を追うどころか、早くきびすを返して逃げなければ、すぐさま“霧”は風に乗り、この周囲一帯を覆い尽くさんばかりに濃くなってしまうだろう。
 だが、伊織の頭にどれほどの血が上っていようが、致死性の毒ガスだと言われて、その中に大声上げて突っ込んでいくような蛮勇は持ち合わせていない。
 そして、彼らが追うべき女剣士は“霧”にまぎれ、その姿を消した……。




[36073] 第十三話  「アルトリア・ペンドラゴン」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/01/05 02:29
 才蔵とその女は、薄暮のあぜ道を急いでいた。

 道に人気はない。
 だからであろうが、彼ら二人の歩く速度が、徐々に速くなってきている。
 無論、その瞬間だけを切り取って観察すれば、常人の普通の歩行と何ら変わらない。
 だが、違う。
 速いのだ。
 その動作は単なる歩行とまるで変わらず、たとえば競歩のような、小走りを無理やり歩行という運動の枠に嵌め込んだようなフォームではないが……にもかかわらず、速いのだ。
 もし彼の隣を歩いているのが常人だったとしたら、自分が何故この男と同じペースで歩けないのか判らぬままに疲れ果て、10分も経たぬ内に息が上がってしまうだろう。速く歩くという行為は、ゆっくり走るという行為よりも、よほど疲れる運動だからだ。
 それはそうだろう。才蔵が本気になれば、まだまだ昼夜兼行で一日四十里を走るほどの体力はあるのだ。
 外見的には、齢五十半ばを超える彼ではあるが、それでも、その体力は常人とは比べ物にならない。
……まあ、それも当然と言えば当然だろう。
 忍者とはいっても色々いるだろうが、彼はただの忍び者ではない。
 かつての大坂の陣で、主君の真田幸村とともに、その武名を謳われた真田十勇士「霧の才蔵」なのだから。

 もっとも才蔵自身、自分にまったく遅れることなく、ピタリと同じペースでついてくる傍らの女に、密かに感心してもいた。

 いまの彼女は、すでに宮本伊織と対峙していた折りの、青い着衣に白銀の甲冑などという派手な戦装束を着てはいない。どこにでもありふれた女物の和服を着用し、手甲脚絆に草鞋履きという、一般的な旅の女の姿になっている。
 勿論その<変装>は着衣のみにとどまらない。
 いわゆる日本髪のカツラを被って、そのまばゆい金髪を隠し、顔に泥を塗って、その白すぎる肌を隠し、その上から菅笠を被り、その美貌を隠している。
――が、それでもなお、彼女は美しいのだ。
 その凛然たる彼女の美貌は、カツラや笠で顔を隠した程度では、まるで損なわれていない。
 つまりそれは、彼女の魅力が、単にその目鼻立ちや肌質・さらに髪や瞳の色などという外的要因によるものではなく、あくまで彼女の内側より発されるものである事がわかる。
 まさに女性としては、羨ましがらずにはいられない“美”の所有者というべきだが、しかし彼女自身は、少なくとも、おのれの美しさなど歯牙にもかけていないようなのが、皮肉と言えば皮肉であるが。
 
 まあ性欲の対象としては、これ以上はないほどに魅力的な女性といえるであろうが……しかし、才蔵にとっては、その美貌も必要以上に目立ちすぎるというだけの困惑と辟易の材料でしかない。
 忍び者にとって他人の注目を浴びるという行為は、それだけで大いなるリスクを負うと言える。「目立つ」という事実は、才蔵たちの常識では、何よりもまず回避せねばならない最低限の禁忌なのだ。
 もっとも、いまさら才蔵にそれを責める気はない。
 美女の顔が美しすぎるからといって、その責任を本人に問うような馬鹿はいない――というだけの話ではない。
 才蔵は知っているからだ。
 彼女が、単に美しいだけの女ではないということを。
 いや、才蔵だけではない。
 かつての島原の大乱――原城の篭城戦を生き延びた者たちは、皆知っていることだった。
 一揆軍の軍師だった森宗意軒という老人の魔術儀式によって現世に召喚されたという、この美少女は、一揆軍のキリシタンたちにとっての守護天使役でありながら、それ以上に卓抜した戦士であり、優秀な参謀であり、有能な指揮官であり、十二万の幕府軍にとっての恐るべき死神であったことを。

 才蔵は、自分に遅れず黙々と歩を進める彼女を、ちらりと横目で見る。
 むろん彼女は、その瞬間に彼の視線に気付くが、特に言葉を返す様子はない。
 そもそも彼女は、その美貌を鼻にかけるような女々しい言動は一切しない代わりに、その普段の生活態度はむしろ男臭さすら漂わせるほどに無骨なものだった。
 が、いま現在、彼女が発信する不機嫌オーラは、もちろん日常のものではない。
 もとより才蔵は、彼女が激怒している原因について理解している。


「せいばー殿……そろそろ機嫌を直しませぬか?」


 その言葉に、彼女――セイバーは、まるで刃物を思わせる鋭い一瞥で応じる。
 もとより、そこに言葉はない。
 並みの男なら睾丸が縮み上がるような視線であったが、才蔵はむしろ溜息しか出てこない。
 一騎打ちを邪魔されて腹を立てるのはわかるが、仮にも一軍の将であった者ならば、そんな個人の武勇に対する矜持など、所詮は足軽の勇であることは理解できるはずであろう。
 ならば、いつまでもそんな安い怒りに溺れられては困るのだ。
 もちろん才蔵にも、おのれの身に叩き込まれた戦闘技術に対する誇りやこだわりはある。あるし、理解も出来る。たとえ相手が宮本武蔵であったとしても一対一でむざむざ遅れを取るつもりはない。
 が、それでも、話は別なのだ。
 彼は忍び者だ。
 おのれに対する誇りなど、勝利よりも優先すべきものではない――という教えを、まず最初に頭に叩き込まれている。そんな彼らにとって「卑劣」「悪辣」などと呼ばれるカテゴリーに属する戦術上の禁忌は、一切存在しないに等しい。
 
「あっしとしても、これ以上言い訳がましく弁解をする気はございませんよ。ただ、貴女様ならば、あっしの行動を理解していただけるはずでございましょう」
「…………」
「無論あっしも、せいばー殿の腕を信頼しておらぬわけではございませぬ。なれど、戦には万が一ということがあります。万が一の事態を想定して、その後背を守るために、出向いたまででございますよ」
「…………」
「現にあっしがいなけりゃ、あの場で、武蔵と伊織の宮本親子を同時に相手にせねばならぬ状況になってたはずでございましょう? せいばー殿の武勇がいかほどのものであろうとも、あの二人と同時に立合って、必ず無事に生きて帰れるなどと仰るほど、目の見えねえわけでもございませんでしょう」
「…………」
「そもそも今のあっしらにとって、せいばー殿の存在がいかに重いものであるかは理解されておられるはず。立ち合いを邪魔されてお怒りなのはわかりますが、いい加減そろそろ――」


「サイゾー、あまり私をあなどるなよ」


「……ッッ」
 気付いたときには、才蔵は彼女から数間の距離に跳び下がって、懐の忍刀に手すら掛けていた。
 その言葉に付随した殺気が、才蔵には一瞬本物に思えたからだ。
 しかし、セイバーが次の刹那に浮かべた表情は、怒りどころか――微笑であった。
 さすがに才蔵も、しばし絶句する。
 無論それは喜悦や歓楽といった笑顔でない事くらい見ればわかる。
 それはまさに、泣き顔に近いほどに寂しげな微笑であったからだ。

「いや……昔の私ならともかく、今の私では、な……」

 それは自嘲だった。
 ここにいる彼女は便宜上「セイバー」を名乗ってこそいるが、もはや、かつて無敵を誇った剣士の英霊ではない。
 もし彼女が、かつての「セイバー」であったなら、たとえ眼前に対峙したのが武蔵であろうが新撰組であろうが、まったく歯牙にもかけず、鎧袖一触になぎ払ったに違いない。
 当然であろう。聖杯戦争のサーヴァントとは、まさしく人知を超越した「超存在」なのだ。たとえ当代最強を謳われる武芸者であろうとも、まともに正面から戦って勝てるはずがない。人間とサーヴァントとでは、まさしくそこまで歴然たる力の差が存在するのだ。


 では、サーヴァントとは何か?
 それを語る前に、まず「聖杯戦争」について説明せねばならない。
 六十年に一度の周期で、日本の冬木市で開催される聖杯戦争――七人の魔術師たちが、万能の願望機と呼ばれる“聖杯”を懸けて殺し合い、唯一残った勝者のみが、その“聖杯”におのれの願望を実現させる権利を得るという、魔術師たちの一大イベントがある。
 もっとも、主に直接戦うのは魔術師たちではなく、彼らがそれぞれ召喚した歴史上の英雄たちの霊であり、その英霊たちは、一種の使い魔として魔術師たちに使役されるのだ。
 その存在を“従者(サーヴァント)”という。
 かつて性別を偽り、イギリスの伝説の騎士王「アーサー王」として生きてきた過去を持つ彼女は、これまでに二度、この聖杯戦争に「剣士(セイバー)」のクラスのサーヴァントとして召喚され、そして二度とも、最後まで勝ち抜いたという実績を持っていた。
 おそらく歴代の聖杯戦争で出現した無数のサーヴァントの中でも、ほぼ一・二を争うレベルの実力を誇る英霊――かつての彼女は、そう断言してもいいはずの戦士だったのだ。
 しかし、ここは冬木でもなければ、今は聖杯戦争でもない。
 いわば今ここにいる彼女は、聖杯とは全く関わりない別の召喚儀式によって現界した一個人“アルトリア”という名のブリテンの少女に過ぎないのだ。

 いや、これは洒落や諧謔ではない。
 セイバー自身信じられぬことだが、今の彼女は“英霊”でも“サーヴァント”でもない、歴然たる肉体を持った一人の人間だった。
 サーヴァントでない以上、マスターからの魔力供給も受けられず、かつて生前の彼女に不老不死の肉体を与えたという“全て遠き理想(アヴァロン)”の加護も失ったままの彼女は、原城の一揆軍の他の兵と同じく飢えと乾きに苦しみ、容赦なく吹き付ける海風によって風邪を引き、さらに彼女自身、選定の儀式以来、遠く忘れ去っていた「月経」という現象と、それに伴う発熱や嘔吐・疼痛に悩まされたほどだ。
 彼女が今「セイバー」を名乗っているのは、アルトリアという自分の本名を名乗る事に少しは憚りがあるから、というだけの理由に過ぎない。

 しかし、それでも彼女が、かつてブリタニアからスカンジナビア、さらにはガリアにまで及ぶ大帝国を建国した、伝説の騎士王である過去までが無に帰したわけではない。
 その騎士としての剣技や、王としてのカリスマや将としての軍事能力、さらに――黄金の鞘こそ喪失したままであるが――かつて彼女の愛剣であった対城宝具・聖剣エクスカリバーはいまだ健在である。
 原城の篭城戦において分裂寸前であった一揆軍の人心をまとめ直し、総大将であった天草四郎をよく補佐し、作戦参謀として多くの献策をし、戦術指揮官として軍を指揮し、総勢十二万ともいう幕府の大軍を相手に半年以上も持ち堪えることが出来たのは、まさしく彼女の力によるところがあまりにも大きい。
 その個人戦闘力も、かつてのサーヴァント時代に比べるべくもないが、それでも原城では、押し寄せる敵兵十数人を一気に斬り伏せ、さらに“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”の一閃は、幕軍総司令官であった板倉内膳正を、その本営ごと消し飛ばす威力を発揮したほどだ。
 もっともその発射直後に、彼女は三日間の昏睡状態に陥ってしまったのだが、それでも見様によっては充分に超人的な戦闘力を所有したままだと言えなくもない。
 が、それはしょせん余人の意見である。

 彼女にとって自分の現状は、たとえ余人の目にどう映っていようが、それでもかつての往時に比べれば、見る影もない無力な残骸に過ぎないのだ。
 味方に心配され、お目付け役がこっそり背中を護衛し、しかもその存在に気付けない自分など、聖杯戦争に参戦していた頃にはまさしく考えられない事態だろう。
 しかし、それが今の――アルトリア・ペンドラゴンの現況なのだ。
 自嘲の一つも浮かべたくなっても仕方はなかろう。


 しかし才蔵は、当然そんな彼女の過去を知らない。
 知らない以上、その自嘲に応える言葉を持ち合わせていない。
 出来ることといえば、忍刀から手を離しながら、
「……せいばー殿?」
 と、うつむいて口を閉ざす彼女に、心配そうな声をかけることくらいだ。
 しかしセイバーは、その寂しげな表情をまったく崩さず口を開く。


「サイゾー、あのムサシという男に、私の剣は勝てると思うか?」


 才蔵は、あんぐりと口を開けたまま言葉を失っていた。
 時には傲岸に思えるほどに強気な態度を崩さぬこの少女から、まさかそんな弱気な台詞を聞こうとは思わなかったからだ。
「いや、せいばー殿そんな……」
 そんな彼に、セイバーは真顔で畳み掛ける。
「世辞や気遣いは要らん。そなたの眼から見た真実だけを聞かせてくれ」



[36073] 第十四話  「弱音」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/01/10 20:46
「世辞や気遣いは要らん。そなたの眼から見た真実だけを聞かせてくれ」

 さすがに、そこまで言われては才蔵としても応えざるを得ない。
 忍び者の彼にとっては、敵との実力比較など、大して有意義な話とは思えないが、それは彼女には通用しない価値観だという事は、これまでの付き合いですでに知っている。
 ならば訊かれたことを誤魔化して適当に茶を濁すという選択肢は、才蔵には無い。
 困惑した表情を隠さず、才蔵は天を仰ぐと、
「……とりあえず、まあ、これ以上立ち話もなんですし、歩きながら話しましょうか」
 そう言いながら歩き出した。
 無論これまでのような、早足ではない。


「…………正直、難しゅうございますな」
「…………」
「あの伊織とかいう若造が相手ならば、さすがにせいばー殿が尋常な立ち合いで遅れを取ることはありますまい。なれど、相手が宮本武蔵ということなれば……」
「勝てぬか?」
「勝つ、というだけならば、あるいはたやすい話でございましょうがな」
「……“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”……か」
「貴女様のあの光は、砦を丸ごと吹き飛ばす威力がおありだ。アレをまともに喰らって生きている人間など、この世にはおりますまいよ」
「そういう話を聞きたいわけではないということも、そなたは知っておるはずだろう」
 そう言って真顔で才蔵を睨みつけるセイバーに、彼はボリボリと頭を掻く。


「なれどせいばー殿、そもそも貴女様は確か一度、武蔵とは立ち合われているはず。あっしの目から見て如何などと問うまでもなく、貴女様は御自分でその答えをお持ちのはずでございましょう?」


 そう言われてしまっては、セイバーに答える言葉はない。
 確かに彼女はかつて原城の防衛線で、幕軍の小笠原隊との遭遇戦の折に武蔵と剣を交えている。
 この寛永の世に現界を遂げて以来、自分の人間としての肉体の不便さに閉口していたセイバーであったが、それでも正直言えば、篭城戦の戦闘に参加しているうちに、おのれの強さに自信を取り戻しつつあったのも事実だ。
 だが、その自信を粉砕したのが、例のミヤモトムサシという名の剣客なのだ。
 彼は強かった。
 しかも、その強さの底をセイバーは見たとは思えない。
 雑魚の有象無象などとは、まったく異質な存在だった。
 確かに“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”を放てば、勝負はつく。それも一瞬に。
 だが、さすがにそれは彼女の“騎士王”としての気位が許さない。
 いや、それ以前に、その選択肢を許さない別の事情さえ、今の彼女にはあるのだ。

 今のサーヴァントならざる彼女の肉体では、おそらくもう“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”級の魔力放出には耐えられない。
 半ば無意識の習慣と化している“風王結界(インビジブルエア)”ごときとは違う。あの宝具が要求する魔力消費は、もはや自身の生命維持にすら影響を及ぼすレベルなのだと、一度使用してセイバーはすでにハッキリと思い知っていた。
 おそらくアレを発射できるのは、あと一回。
 しかも、撃った瞬間に彼女はおのれがどうなるのか、想像もつかない。
 よくて意識喪失、下手をすればショック死する可能性さえあるのだ。
 なればこそ、確実にタイミングと相手を選ばねばならない。たとえセイバー本人が勝敗を危ぶむような最強の剣客が相手であろうとも、それでももはや、たかが「人間」相手に浪費していいような切り札ではないのだ。
 眼前の才蔵は、その事実を知らない。
 ならばこそ彼女は、かつて以上におのれの“剣士”としての実力に依存せざるを得ないのだという事情さえも。


「私は……まだシロウを救っていない……まだ死ぬわけにはいかない……」


 無論ここで彼女が言う「シロウ」とは「士郎」ではなく「四郎」――原城より彼女たちとともに脱出した乱の首魁・天草四郎時貞その人である。
 しかし、やはりセイバーにとって「シロウ」という名の少年は、特別な対象なのだ。
 彼を「救う」ということは、平穏無事に彼の逃避行を完遂させる、という意味ではない。
 ただ天草四郎を逃がすというだけの話なら、才蔵ら忍者たちに任せれば済む。才蔵たち真田忍軍ならば、たかが少年一人を無事に匿うくらい何でもないはずだ。
 だが、そうではない。 
 すでに天下のお尋ね者である彼を「救う」ということは、彼を罪に問い、刑に処さんとする法と、その政府――江戸幕府と徳川家を何とかするしかない。
(そんなことができるか……今のこの私に……)
 そう思うと、セイバーの表情は曇らざるを得ない。
「セイバー」であった頃の彼女ならばともかく、今の「アルトリア」は、かつての自分に比べてあまりにも非力なのだ。
 しかし才蔵は、そんな彼女に敢えて厳しい表情を見せる。


「せいばー殿、あんた少々、考え違いをしちゃいませんかい?」


 弾かれたように顔を上げるセイバーの胸倉をつかむと、才蔵は怒りのままに言い放った。
「あんまりふざけちゃいけませんぜお嬢ちゃん、あんた自分ひとりで戦ってるつもりなんですかい!? あっしたちは、あんたにとっちゃそんなに頼りにならない連中なんですかい!?」
「サイゾー……」
 いつも愛想笑いを欠かさないこの五十男の怒声は、さすがに衝撃だったのか、しばし彼女も呆然となっていた。
 しかし、才蔵はそんな彼女にも容赦しない。
 というより、彼は原城の頃から、いい加減苛立ってもいたのだ。
 作戦立案に関しても戦闘指揮においても、必要以上に正面攻撃や先陣での一騎駆けにこだわる、彼女の思考の悪癖に。

「あんたそもそも、さっきから一体何をガキみてえな事言ってるんです!! 相手が自分より強けりゃ、そこで戦いは終わりなんですかい? 負けて死ぬのは確定なんですかい? そうじゃねえでしょ!? 戦いってのは、そんな簡単なもんじゃねえでしょ!?」
「…………」
「まともに技を比べあってどっちが上か? そんなことは勝敗にゃ関係ねえんですよ! 戦いってのは、要するにすべからく合戦なんですよ! 合戦である以上、相手の裏をかき、不意を突き、罠を張り、背中や寝込みを襲うのは当然の事でしょうが!!」
「…………」
「重要なのは勝てるかどうかじゃない。勝てるように戦えるかどうかなんだ。一対一で敵わねえなら二対一で当たればいい。剣の腕で敵わねえなら弓なり銃なり使えばいい。そうでしょう!?」
「…………」
「あっしは一介の忍び者だ。騎士道やら武士道やら正直よくわからねえが、それでも、そんな御託はしょせん戦に勝って初めて言えるもんだってこたぁわかりやす!! あっしにもわかるようなことが、なんであんたにゃわからねえんですかい!!」


 そこまで怒鳴り散らしてから、才蔵はハッと我に帰ったように手を離して、うつむきながら片膝をつき、それでも堅いままの口調で言った。
「……無礼の段はお詫びいたしやす。しかし、あっしはどうしても一言、せいばー殿に言わずにおれなかったんです」
「わかっている」
「あっし如き忍び者風情が、せいばー殿にまともな口を利こうなんて許されざることだというのは重々承知しておりやす。されどあっしにゃ――」
「わかっていると言っている」
 セイバーは才蔵に最後まで言わせず、言葉と同時にその右手を差し出した。


「……かつて私は、衛宮切嗣という男に仕えたことがある」


 むろん才蔵にその名について知識があろうはずがない。
 だが、顔を上げた彼の網膜に飛び込んできたのは、さっきまでの苦悩の表情を、むりやり抑え込んだように微笑する、彼女の美貌だった。

「切嗣は、まぎれもない外道であったよ。私の前で騎士道を誹謗し、戦場を侮辱し、英雄を否定した」
「…………」
「彼の立案する策は、そのことごとくが私に受け入れ難い悪逆非道なものばかり。我が存在を無視し、我が言葉を無視し、徹底して我が力を道具のごとく扱った」
「…………」
「むろん我らは、その最後の瞬間まで相容れることなく、それどころか怒りのあまり一度は剣を向けたことさえある。立場上は我が主であるにもかかわらずな」
「…………」
「しかし、それでも奴は信念を持っていた。悪を憎んでなお悪を為し、それでも結果として正義を得られるならば、この世のすべての悪を引き受けてみせるという信念をな」
「…………」
「サイゾー、確かにそなたの言葉は正しい。今から思えば……私も少しは切嗣のやり方を理解しようとするべきだったのかも知れないな」
「…………」


 いつの間にか、彼女の顔から、その辛そうな笑みは消えていた。
「やはり私は、いい加減独りよがりになりすぎていたのかもしれん。今のそなたの叱責は、深く心に響いたよ。ないものねだりは……やはり戦という現実にはそぐわない。そんなことは百も承知していたはずだったのにな」
「せいばー殿……」
「これからも力を貸してくれ。霧のサイゾー」

 あらためて名を呼ばれ、才蔵は子供のような笑顔で彼女の差し出された手を握り返し、そのまま立ち上がった。
 むろん握手という習慣は、当時のこの国には無い。
 だが、差し出された彼女の手には、これ以上は無いほどに感情がこもっていた。才蔵でなくとも、その手を握り返したであろう。


「あっしでよければ喜んで」
 

 そう言ってセイバーに見せた才蔵の笑顔は、いつもの彼の、感情を窺わせない営業スマイルのごとき笑顔とは違う、爽やかさと喜びに溢れていた。
「ただし、今度から私に隠れてこっそりお目付け役になったりとかは勘弁してくれ。いいな?」
「へえへえ、森殿にもそう言い聞かせておきますよ」
「まあ、あの骸骨老人が私の言葉を素直に聞くとも思えぬがな」
「そこはそれ、物は言い様ってやつですよ……それよりも急ぎやしょう。日が暮れる前に皆と合流してえ」
「そうだな……いい加減お腹も空いたしな」
「つーか、せいばー殿は少し食いすぎなんですよ。その細い体の一体どこに入るんですかい」
「原の城ではほとんど食事らしい食事も取れなかったしな。埋め合わせのためにも無意味な我慢はせぬと決めたのだ」
「無意味な我慢って、まったく……」

 数分前とは打って変わって、ぐちぐちと喋りあいながら、一組の男女はあぜ道を再び歩き始め、やがて彼らは、みるみるうちに地平線の果てに消えていった。




[36073] 第十五話  「乱の推移」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/01/11 20:58

 島原の乱――それは日本史上最大の百姓一揆にして、日本史上最後の宗教戦争である。

 寛永十四年十月二十五日、島原半島に始まった農民たちの武装蜂起は、翌二十六日には島原城を包囲し、落城寸前にまで追い込んだという。
 たかが百姓相手にたった一日でそのザマとは島原藩の侍どももだらしないことよ、と嗤うのは簡単だ。
 だが、過酷過ぎる年貢増徴収とキリシタン弾圧政策に追い込まれていた農民たちの勢いは、すでに尋常のものではなかった。さらに年来の凶作が彼らをさらに背水の陣に追い込んでもいた。
 もはや農民たちにとっては、役人を殺し、領主を殺さねば、自分たちの餓死は間違いないといった窮地にまで追い込まれていたのだ。
 百姓たちをそこまで追い込んだ島原藩こそ、むしろ自業自得と言えるかもしれない。
 現に、島原藩が救援を要請した近隣諸藩も同じ意見だったのか、一揆が島原四万石全域に拡大しても、幕府の指示がないことを口実に、いっさい動かなかった。
 十月二十七日、天草でも武装蜂起が勃発し、島原の一揆勢と合流するや天草支配の拠点であった本渡城を攻撃、さらに十一月十四日には富岡城を攻め、城代家老の三宅藤兵衛を敗死させた。

 さすがに座視できる状況ではないと幕府も認めたのか、この頃になってようやく近隣諸藩に動員令を下し、一揆勢は次第に追い詰められていく。
 下策であると知りつつ、三万七千人の一揆勢が、旧領主であったキリシタン大名・有馬晴信の居城であった原城に入城したのもそのためだ。
 一方、幕府軍は九州のみならず、四国・中国の諸大名を動員し、平戸のオランダ商会に命じて、原城に艦砲射撃まで撃ち込ませた。
 さらに十二月十日・二十日と幕軍は総攻撃を行ったが、一揆勢の士気は高く、結束は固く、寄せ手の軍はあっさり迎撃されて敗走しており、さらに一月一日の三度目の総攻撃の際には、総大将の板倉内膳正をはじめ死傷者四千人ともいう大被害を出して、幕軍は文字通り一揆勢に蹴散らされている。
 幕軍は大軍ではあったが、しょせん諸藩の兵の寄せ集めであり、さらに総大将の板倉内膳も少禄の御書院番頭にすぎず、あきらかに統率が取れていなかったともいう。
 さらにこの頃の原城には、徳川家の天下に不満を持つ豊臣系の牢人がすでに数多く入城しており、軍事面での強固なサポートになっていたのも事実だが――しかしそれでも一揆勢の強さは少し常軌を逸しているとしか思えない。

 だが、板倉内膳の後任として着任した松平伊豆守信綱は、さすがに前任者の轍は踏まなかった。
 彼は力押しの城攻めから兵糧攻めに切り替え、また、籠城中の一揆勢に硬軟とりまぜた調略工作を開始した。
 天草四郎をはじめ、一揆勢首脳陣の家族を拘束して降伏勧告を行ったり、幕軍に投降した者には罪を問わぬなどといった懐柔、さらには一揆勢が当てにしていた南蛮キリスト教国からの援軍の可能性も絶たれたことを通告し、一揆勢の士気を萎えさせようとしたのだが、それでも幕軍に投降する者は一人もいなかったという。
 また、江戸の許可を得て更なる動員令をかけ、幕府軍は総勢十二万の大軍団に膨れ上がり、原城の包囲網は陸海ともにアリ一匹這い出る隙間もない鉄壁のものとなった。

 そして二月――城内の食糧は尽きた。
 一揆勢はもはや、飢餓地獄もかくやというほどの悲惨な状況となった。
 彼らは土壁や、海岸絶壁の海藻まで口にし、餓死者の死肉を食う者までいたという。
 そんな城内の窮状は甲賀忍者・望月与右衛門らによって逐一幕軍の本営に通告され――松平伊豆守は、二月二十七・二十八日、満を持して総攻撃をかける。
 一揆勢は首魁・天草四郎をはじめ、城中に篭っていた者は女子供に至るまで三万七千人すべてが皆殺しにされ、乱は鎮圧された――という事になっている。表の歴史では。
 

 史書は記さない。
 原城の一揆勢が三度にわたって幕軍の総攻撃を退けて見せたのは、一揆勢の軍師・森宗意軒が、黒魔術の秘密儀式によって召喚した女騎士――アルトリア・ぺンドラゴンの作戦立案・戦術指揮能力、さらには彼女の対城宝具“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”の威力によるものであった事実を。
 しかしまあ、それでも彼女の存在は、あるいは原城の城攻めに参加した者であれば雑兵足軽に至るまで知っているはずだ。
 紺碧の着衣に白銀の甲冑、そして不可視の剣を振り回して防戦の陣頭指揮を取る異人の女騎士は、その美貌も相まって、十二万の幕軍にとって人外の妖術使いに等しい恐怖の対象だったのだから。
 だが、とりあえず彼女のことは、まあいい。
 ここで重要なのは、史書には記されていないもう一つの事実だからだ。
 すなわち天草四郎は死んでおらず、江戸に送られた四郎の首級は影武者役の偽首であり、本物の彼は幕軍の目を逃れて、まんまと逃げ延びていたという事実――である。


 それを松平伊豆守信綱が知ったのは、乱の鎮圧数日後のことだった。
 無論その報告を聞いて、伊豆守は慄然となった。
 彼は、幕府軍の総指揮官であり責任者である。もしもこの件が明るみになれば、それは、即ち彼の責任問題になるということだ。
 賊軍の首謀者を討ち洩らしたというだけではなく、そもそも江戸の将軍に虚偽の報告をしたという件の責任まで取らされてしまうだろう。
 もしそうなったら伊豆守は失脚するだけでは済まされない。切腹は当然のこととして、彼が藩主を務める川越藩も、まず廃絶を免れないであろう。

(わしはまだ失脚するわけには行かぬ……ッッ)
 伊豆守はそう思わずにはいられなかった。
 単なる政治的野心のためではない。
 むしろ理想のためだ。
 この国の政情は、まだまだ不安定で、しかも将軍家光はいまだ若年で、現段階ではとても名君と呼べる器ではない。
 今この時期に自分が政治の表舞台から追い出されるわけには行かないのだ。
 もちろん伊豆守は、将軍家光の懐刀であり、現政権のブレーンの一人としてそれなりの権力を持っている。しかし、権力があるという事は逆に言えば、政敵も多いということだ。
 何か一つ、致命的な失策をやらかせば、彼らはよってたかって牙を剥くだろうし、そうなってしまえば、いかに伊豆守といえど、どうしようもない。

 
 むろん彼は彼なりに手は打った。
 この一件を隠匿するどころか、逆に、幕軍に参加した九州諸藩の藩主たちを集めて、彼らに四郎捕獲の全面協力を乞うたのだ。
 むろん彼は政治家だ。ただで下げる頭は持っていない。
 四郎生存の情報がもし江戸城に洩れれば、その責任は総大将の自分のみならず、幕軍に参加した外様大名たちにさえも負わされかねない。それが嫌なら自分に手を貸せと、暗に脅しをかけたのだ。
 もちろん常識から言えば、責任転嫁もはなはだしいというしかない脅迫だが、それでも九州諸藩は、近年の幕府の大名取り潰し政策を目の当たりにしてきている。
 幕府ならば――というより柳生但馬守ならば、そんな言いがかりにも等しい口実で、御家断絶を宣告してくる可能性は非常に高いと言わざるを得ない。
 さらに伊豆守は、幕府内のおのれの地位が安泰である限り、九州諸藩の味方となって廃絶・改易をさせないことを誓約し、結果的に言えば、この一件を口実に伊豆守は、九州諸藩の外様大名たちをおのれのシンパとすることに成功した、とさえ言える。

 その後、島津・黒田・細川・鍋島・小笠原といった諸藩が団結して、四郎一行を九州から出さぬために、極秘裏に街道筋に非常線を張り、さらに彼らの足取りを追うために大量の人員が投入されたが――それも最終的に犠牲者を量産する結果にしかならなかった。
 四月五日、四郎とその一行は、まるで開き直ったかのように白昼堂々、黒田家の警備兵三十人を蹴散らして関所を突破し、さらに彼らを追跡していた細川兵二十人も、その関所から程ない場所で全員死体となって発見された。
 しかも話はそこで終わらない。
 四郎一行は、むしろ自分たちの存在をアピールするかのように、街道筋や宿場町に網を張る諸藩の兵を、まるで通り魔のごとく無造作に殺戮して回ったのだ。
 現在まで、彼らの手にかかったと見られる兵たちの数は、およそ百人を下るまい。
 
 さすがの伊豆守もこういう結果は予想だにしていなかった。
 この日この時まで彼は知らなかったのだ。
 四郎の傍らに侍り、護衛しているのが、例の妖術使い――異人の女騎士であることを。
 さらにその二人を、そもそも燃え落ちる原城より救い出したのが、大坂の陣で武名を上げた“真田十勇士”たちの残党であり、その名うての忍者集団があらゆる手段を使って彼らの逃走の援助をしていることを。
 そして、さすがに――ただの兵隊の頭数をいくら増やしても、連中は確保できない――そう判断せざるを得なかった。


 松平伊豆守が、小倉藩主・小笠原忠真を通じて――宮本武蔵に、密かにコンタクトを取ったのは、五月十五日。
 それから数ヶ月にわたって、彼らの死の鬼ごっこが繰り広げられる事となる。


「「「「「「「「「「「「「「「

「佐助、お江から連絡(つなぎ)がきたというのは本当か」
「はい、船は当初の段取り通り、明日に小倉に到着するそうでござる」

 そう訊いたのは、つるりと綺麗に禿げ上がった、というよりまるでシャレコウベのような外見をした不気味な老人。
 その声も、外見にふさわしい泥を煮たような、ぐつぐつといった響きだった。
 それに応じて答えたのは――老人ほど特徴的な顔をしていないが――道ゆく人が見れば思わず振り返るほどに、猿そっくりな相貌をした男だった。
  
 老人はその名を、森宗意軒。
 関ヶ原で、石田三成と共に斬首された小西行長の亡臣で、かつての島原一揆軍の軍師。
 そして女騎士セイバーを黒魔術の儀式で召喚した、おそらくは現在日本で唯一の“魔術師”でもある。
 猿顔の方はその名もズバリ、猿(ましら)の佐助。
 いや、別名の「猿飛佐助」といった方が世間的には聞こえがいいかもしれない。
 真田忍軍“十勇士”の筆頭であり、主君・真田幸村亡き後は、彼らの指導的役割を担ってきた人物である。
 そして、彼らの背後に鎮座するもう一人の少年。

「四郎」
 宗意軒が、背後を振りかえりながら呼びかけると、少年は軽くうなずき、
「では宗意、予定通りにお願いしますよ」
 と、言った。
 口調こそ丁寧であるが、その声には不思議な力強さが込められている。

 その少女と見まがうような美少年は、ここにいる二人とは、傍目には異人種かと思わせるほどに雰囲気が違う。
 その顔立ちや立居振舞には、まるで貴族の御落胤を思わせるような気品があった。
 しかし、ただ品がいいだけの少年に、武装蜂起した三万七千の人間を統率する指導力など発揮できるはずもない。
 乱のさなかにあっては、集団ヒステリー状態に近い心理だったはずの農民たちや、徳川に恨みを持つと言うだけで一揆に加担した豊臣系牢人たちからも支持を獲得し、なにより宗意軒に召喚されたはいいが、当初は乱への参加をしぶったセイバーを説得するなど、乱の指導者としては、その責任を立派に果たすだけの能力と器量を持っていた人物だと言える。
 

 彼の名は天草四郎。
 宗意軒と同じく小西家牢人・益田甚兵衛の息子であり、本名・益田四郎時貞という――。




[36073] 第十六話  「天草四郎時貞」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/01/17 04:29

 原城を脱出した四郎とその一行は、そのまま島原湾を東に横切り、肥後に上陸するや、そこから北上を続け、今では豊前小倉まで五里ほどの距離にある、とある山小屋に身を隠していた。
 むろん移動を仕切っていたのが真田忍軍である以上、素直に街道を歩いたわけではなく、山越え谷越え道なき道を踏破する過酷なルートを主に選択したわけだが、それでも、彼らは時折思い出したように街道に姿を見せたりもした。
 諸藩の兵で編成された非常線や阻止線を正面突破し、自分たちの存在を誇示するためである。
 天草四郎がまだ生存しており、徐々にではあるが、北に向かって移動しつつある――そう追っ手に認識させるための計画的行動だ。

――むろん陽動のためである。

 とはいえ、当初の予定では、彼らはそんな乱暴な移動をするはずではなかった。
 四郎はあくまで原城で死んだ事になっている以上、あくまで秘かに忍びやかに、小倉まで移動を果たす予定だった。
 だが、松平伊豆守が想定以上に早く四郎の生存に気付いたため、予定を変更せざるを得なかったのだ。
 陽動を兼ねて、道中の各所で正面突破を繰り返し、逆に存在を誇示する事で、諸藩の兵を街道筋に分散させ、移動の本命ルートである山岳地帯を手薄にさせるという案を出したのは、一行の軍師役である森宗意軒である。

 そして、寛永十五年九月三十日。
 この山小屋に辿り着き、一時の拠点として使用する事を決めたのが今日から五日前。
 ここに佐助と宗意軒、そして四郎を残して、真田忍軍の忍び者たちはみな四方に散り、思い思いに諸藩の兵たちを相手に戦闘を繰り広げている。
 由利鎌之介と穴山小助は北に。
 海野六郎と筧十蔵は東に。
 そしてセイバーと才蔵は南の街道に向かい、そこで単独行動している宮本伊織を斬り捨てているはずであった。


 しかし宗意軒は、四郎の「予定通りお願いしますよ」という言葉にかぶりを振る。
「いいや、少し方針を変更した方がよさそうじゃ」
「変更?」
「うむ」
 しかし四郎は不意に聞かされた予定変更に納得いかぬかのように眉をしかめる。
「説明して下さい宗意軒」
 だが、そう言われて口を開いたのは、宗意軒ではなく、その隣に座って地図を睨んでいた佐助であった。
「このまま小倉に行けば、拙者たちはおそらく幕府の手の者に包囲される可能性が非常に高いということでござるよ」
「どういうことです?」
 そう尋ねながら四郎は彼の傍らまでやってくると、そのまま佐助が広げていた地図に目を落とした。

 宗意軒は言う。
「このまま陽動を繰り返し、わしらは門司の港から船で下関へ渡る――と見せかけ、小倉から日本海航路の船に乗り込んで、一気に越前まで移動するというのが、当初の予定だったんじゃが……どうも兵の配置が胡散臭い」
「と言うと?」
「小倉までの街道筋の警戒が手薄すぎる。巧妙じゃが、明らかに意図的なものじゃ」
「つまり?」
 と、結論を促す四郎に、またも佐助が宗意軒の言葉を引き取る形で告げる。


「つまり、おそらく松平伊豆は拙者たちの策に気付いている――そういうことでござる」

 
「…………」
 四郎は一瞬、瞑目したが、それでも表情に動揺はない。
「では、別の港から新たに違う船を手配しますか?」
 と尋ねる。
 しかし、宗意軒はまたも首を振る。
「いや、ここは裏の裏をかいて、そのまま門司から乗船しようかと考えちょる――佐助、お江に改めて連絡(つなぎ)を頼めるか?」
 問われて、しかし佐助は首をひねる。
「それは別に構いませぬが、果たしてそれで伊豆を騙せますか否か……」
「わからん。わからんが、試してみる価値はあるはずじゃ」
 そう言った宗意軒の表情は、あくまで厳しいものだった。

 この森宗意軒という老人は、仮にも島原一揆勢の軍師役を担っていた存在だ。権謀術数の駆け引きは決して苦手ではない。
 それどころか、むしろその洞察力は、状況によっては人の心が読めるのかと思わせる精度と正確さを見せるほどだ。
 しかし、その彼が読みあぐねているのだ。
 松平伊豆守という男の出方を。
(さすがに知恵伊豆と呼ばれる男だけのことはある、か)
 四郎も、そう思わざるを得ない。
 当初の推測では、自分たちが派手に動けば動くほどに、四郎生存を江戸に隠蔽しておきたい伊豆守は、政治的な事後処理に忙殺されざるを得ず、包囲網の具体的な指揮までは手が回らなくなるはず……と宗意軒は読んだようだが、どうやらそれも甘かったということらしい。

 だが、四郎は気になっていた事を訊いてみる。
「しかし宗意、当方も戦力を分散せずに当たるなら、むしろ小倉を正面突破した方が、逆に話は早いのではありませんか?」
「……そう都合よく行くかのう?」
「佐助の猿、才蔵の霧、セイバーの剣に宗意の魔術、そしてもちろん鎌之介や十蔵たちとて十人力の忍び者です。やり方次第では何とでもなると思うのですが……」
「却下じゃ」
 宗意軒は、むしろ生徒を見る教師のような暖かい眼を四郎に向ける。
「海風のきつい港では才蔵の“霧”は使えない。何より十人二十人程度の人数が網を張る関所破りならともかく、おそらくは百人以上が待ち構える罠に、自分から飛び込む愚は犯せんわい。何より――」
 そこで宗意軒は一度言葉を切ると、改めて四郎を見据え、言った。


「その罠には、間違いなく武蔵がおるはずじゃ。危険すぎるわ」


 老人が口にした武蔵という名は、四郎から間違いなく言葉を奪った。
 彼も、原城でセイバーが武蔵と一対一で戦い、そしてついに勝利を得られなかったという事実を知っていたからだ。
 そもそも前話におけるセイバーと宮本伊織の対決は、真田忍軍の哨戒網に「宮本伊織が武蔵と離れて単独行動をとっている」という情報が確認されたことが発端だった。
 宮本武蔵が天下一と評される伝説的武芸者であることは周知の事実だが、その養子たる伊織も当代一流水準の剣客である事は間違いない。その二人が肩を並べて「島原の残党」を追ってくるのだ。これは正しく容易ならぬ敵と言わねばならない。
 いや実際、彼ら二人は、九州諸藩の有象無象の兵士数千よりも余程おそるべき追跡者であった。
 神出鬼没の隠密行動が可能なはずの真田忍軍をピタリと追尾し、あまつさえ「十勇士」の一人である望月六郎が、彼らの手によって斬られている。
 その宮本親子が、なぜか今、単独行動をとっているという。
 まともな脳のある者ならば、あからさまに罠を疑うところだが、あまりにも露骨過ぎるからこそ、森宗意軒は、逆に罠ならぬ千載一遇の好機なのではないかと判断を下し、彼らの襲撃を命じたのだ。

 まあ結果としてセイバー・才蔵のコンビが伊織を斬ることはなかった。
 セイバーが伊織を挑発したタイミングで武蔵がその場に出現した事から考えても、罠を張っていたのは武蔵サイドであったことは明白だし、むしろ彼女の目付け役に才蔵を付けた宗意軒の判断は正解だったことになる……が、現在この山小屋にいる四郎たちは、さすがにそこまでの事実は知らない。
 しかし、宗意軒の言葉に黙り込んでしまった四郎を慰めるように、佐助は微笑みかける。


「しかし、とりあえず拙者たちは、少なくとも四郎殿とせいばー殿だけは、なんとしてでも江戸に辿り着かせるつもりでござる。そのために、たとえ我ら真田忍軍が一人残らず朽ち果てる事となろうとも悔いはござりませぬ。その点だけは御信頼下さりませ」


 が、四郎の顔からは先ほどとは別種の困惑が消えない。
「佐助……いつも言っているでしょう。そういうことを言うのはもういい加減に――」
 しかし佐助はかぶりを振る。
「いえ、四郎殿がどう思われようとも、これは拙者たちの存念の問題でござりますゆえ」
「しかしですね」
「四郎殿は実際、かつての主君・真田左衛門佐(さえもんのすけ)亡きのちの、生きる屍同然であった我らに、再び忠君の悦びを与えて頂いた、新たなる主君にござる。その忠誠に命を惜しむわけには参りませぬ」
 そう言いながら片膝を付いて上目遣いに真摯な視線を向ける佐助に、しかし四郎は、彼の言葉を遮るように強い口調で言う。
「ならばこそ言うのです――佐助」
「はっ」
「貴方は僕を“主君”と呼ぶ。しかし僕はキミを家来扱いする気はありません」
「な……ッ!?」
 家臣とは認めぬ――当然そう言われたと解釈した佐助は、顔色を変えて色めき立つ。
 が、四郎は言う。


「貴方たち真田忍軍は――いや、貴方たちのみならず、宗意も、セイバーも、みな大事な僕の“同志”であり“仲間”です。家来扱いする気はありません」


 四郎のその言葉に、佐助はもとより、海千山千の古強者であるはずの宗意軒までもが、一瞬呆然となる。
 かつて島原の陣中でこそ盟主として上目遣いに接したが、元来、この天草四郎という少年を在野より拾い上げ、乱の首謀者として祭り上げたのはこの森宗意軒という老人である。
 いわば宗意軒にとって、彼は格好の傀儡であったわけで、現に宗意軒は、乱の只中にあった時からも二人きりになれば四郎に対等な口を利いたし、原城脱出以降は、もう人目を憚ったような敬語は完全に使わなくなった。
 が、当然それは四郎自身も納得づくのことであり、そこに感情的対立が発生する余地はない。
 しかし、それはあくまで老人の側からの気持ちであって、四郎はこの自分の態度をどう感じているかまではわからない。
 この利発すぎる少年は、ひょっとしたら自分を煙たく思っているかもしれない――そう思えなくもない瞬間が、過去に何度かあったからだ。
 だが、今、彼は自分を同志・仲間と呼び、臣下ではないと強く言った。
 宗意軒とて、元をただせば戦国生き残りの男だ。亡君・小西行長とともに朝鮮の役や関ヶ原で、死線を幾度もくぐった“いくさ人”の端くれである。
 たとえ武士である以上に魔術師としての誇りを抱く者であっても、そこまで言われて何も感じないほど、その血は冷え切っていない。
 そんな宗意軒と佐助を、四郎はまっすぐ見つめ、なおも言葉を続ける。


「ならばこそ言っておきます。命を粗末にする事は許しません。我らはこれ以上一人も欠けることなく全員で江戸に到着するのです。よろしいですね?」


「「ははぁっ!!」」
 仲間であり同志だと言われたばかりの二人であったが、それでも四郎のいまの言葉を前に、佐助と宗意軒はともに居住まいを正し、膝を屈し、首を垂れ、まるで臣下の礼を尽くす者のように応えた。
 そして……そんな二人を、またしても困ったように見下ろす四郎がそこにいた。





[36073] 第十七話  「服部半蔵」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/01/28 12:00
「で、まだ歩くのか十兵衛殿」
「なんだ、もうヘバったのかシグナム殿」
「…………ッッ!」

 シグナムにしてはかなり勇気を要する一言だったのだが、小馬鹿にしたような笑みとともに、柳生十兵衛にそんな言葉を返されては、彼女は憮然と黙るしかない。
 実際のところ、十兵衛の言うとおり、シグナムはすでにかなりバテバテだったからだ。
 はっきり言えば、これ以上歩き続けると疲労が顔に出てしまいそうな確実な予感がある。
 無論それはシグナムの気位が許さない事態ではあるが……しかし、いかに彼女であっても、しょせん現実には抗えない。


 まあ、無理もないと言えなくも無い。
 そもそも魔法文明の世界に生きてきたシグナムにとって、長距離移動の手段とは魔法による飛行であり、もしくは交通機関や車輌を利用することなのだ。
 それを、百キロ以上もの果てにある目的地に向けて、ただひたすら歩くなどという行為は、彼女にとってあまりに非常識であり、想定しがたい状況であったのだ。
 もっとも彼女自身、この時代の徒歩による旅というものを甘く見ていたフシがあるので、自業自得と言えないこともないが。

 むろん彼女は、仮にも“闇の書”の剣の騎士だ。腕力、脚力、持久力などという基礎体力に於いて、普通の人間に劣る要素は存在しない。
 しかし、舗装されてもいない道を、一定の速度を保ちながら長時間、さらに長期間(といってもまだ五日目だが)歩き続けるという行為がもたらす疲労は、ただのワンダーフォーゲルとはわけが違う。
 いや、それでも傍らを歩く十兵衛の顔に、シグナム同様の疲労が滲み出ていたならば、まだ彼女のプライドも保てたはずだった。
 しかし、深編笠から見え隠れする男の表情には、一片の曇りさえも見えない。
 それどころか、彼の口元に浮かぶ、何かを期待するかのような微笑は、ますます深くなるばかりだ。

 ともかく十兵衛との旅も、これで五日目だ。
 日暮れとともに宿に入り、払暁には出立する。
 食事も、所持金に限度があるので、満腹になるまでメシを食うというわけにはいかない。
 いや、宿があればまだいい。日が暮れても宿場町に辿り着けない場合は、当然のように野宿だ。いかに早寝早起きであっても木陰に筵(むしろ)を敷いての眠りでは疲れきった肉体は完全に回復しない。
 それどころか、その場合の食事は、冷えて固くなった握り飯と、水だけだ。
 いや、さらに言えば、昨日の野宿でその最後の食糧も尽きた。
 現金を使い果たしたわけではない。食糧を入手できるような店や集落に到着するまでの辛抱ではあるが、町どころか人家すら昨日からまったく見かけない以上、二人にはどうしようもない。
 ゆえに、いまや二人は、昨日以来何も口にしていなかった。
 ここ十年間、海鳴やミッドチルダで現代文明の恩恵に肩まで浸かって生きてきたシグナムにとっては、こういう日常はかなりしんどいものだったのだ。


「シグナム殿、ようやくメシが食えそうだぞ」
 その一言に顔を上げたシグナムは、街道の隅に置き忘れられたかのように建っている、一軒の茶屋の存在が、ようやく視界に入ってきた。
 思わずホッとする彼女だったが、その瞬間に隣でくすりと笑った男の顔が目に入る。
「いま笑ったか」
「いや、別に」
 そう言いながらこちらを見返す男の顔には、いつものように上機嫌な微笑が貼り付いている。
 さすがにイラッとしたが、それで取り乱すような醜態をさらす気は、シグナムには無い。
 というより或いは、もはやそんな元気は彼女にはなかったと言った方が正確な表現だったか。
 結局彼女は、フンと不機嫌に鼻を鳴らすと、変身魔法で我が身を、この時代の平均的な日本人女性の姿に変化させ、
「……何度見ても凄いのう、その妖術の便利さは」
 と、呆れたように首をひねる十兵衛を無視するように、数百メートル先の茶屋に向けて重い足を運んだ。
 

 ここが日本のどこなのか、すでにシグナムにはわからない。
 いや、わからないという言い方は少し正しくない。
 彼女は、宿に着くたびにここがどこかと尋ね、十兵衛はそれに対して答えてくれるのだが、残念ながら彼の答える地名も――いや、そもそも目的地の地名さえも、彼女の耳にはまったく聞き覚えの無い土地であったからだ。
 本当は、あと何日歩き続けねばならんのかと訊きたいところだったが、さすがにその質問だけは彼女の誇りが許さない。
 特に、シグナムがその疲労を懸命に隠し通していることを、十兵衛がうすうす気付いてそうだと感じてからは、一層そういう質問をしにくくなってしまった。
 まあ、それでも自分たちが西に――九州に向けて進んでいる事くらいは理解している。
 とりあえず関西・関東・四国・九州といったブロック名や、東京・大阪・名古屋といった主要都市くらいは彼女もかろうじて憶えているが、逆に言えば、彼女はその程度の知識しか持っていないという事だ。
 海鳴に住んでいた数年の間に、この国の地理にさほど興味を持たなかったことを、シグナムは最近になって深く後悔し始めていた。

 もっとも、そんな事は今はどうでもいい。
 彼女の目下の興味は、眼前に置かれた山盛りの麦飯に集中していたからだ。



「あらまあ……随分とおいしそうに食べはるお嬢さんやねえ」
 ガツガツと掻き込むようにどんぶり飯を食うシグナムを見ながら、茶屋の女主人の老婆が、十兵衛に微笑ましそうに囁く。
 その言葉に思わず苦笑いを浮かべる十兵衛だったが、自分たちが昨日から何も食べていない状況を説明してやると、老婆は納得したようにうなずき返す。
 そして彼は、逆に老婆に頼んだ。
「女将(おかみ)、済まぬがおかわりを頼む」
「あい」
 笑顔でそう答えながら、老婆は店の奥に引っ込んだ。

 しかし、肝心のシグナムが、いまの十兵衛の言葉に難色を示す。
「十兵衛殿……今のは私のための、か?」
 何故そんな事を訊く?と言わんばかりの顔を十兵衛が向けると、シグナムは頬を少し赤らめて強い口調で言う。
「私のための配慮なら、余計な心配というべきだ。私とてこの旅の予算が無限でない事くらいは承知しているつもりだぞ」
 そう言いながら、空になったどんぶりを、卓上に置く。
 相変わらず彼女は、自分が他人に気遣われているという状況が、苦手で仕方がないらしい。
(いつもながら面倒な女だ)
 とは十兵衛は思わない。
 こういう面倒臭さも含めて、十兵衛は彼女の人柄を気に入っているからだ。
 だから彼は言う。

「勘違いはいかんなシグナム殿、このおかわりは、おれのめしだ」
「…………」
「もっとも、そなたがおれのおかわりに付き合ってくれるというなら、こちらとしても頼むと言うだけじゃが」
「……なら、まあ、仕方ないな」
「よし」

 十兵衛はうなずき、それと同時に老婆が、盆に二人分のめしのおかわりと、おかずの焼き魚を乗せて、店の奥から現れる。
 さすがに焼き魚は頼んでいないと言ったが、老婆は笑って、うちの麦飯を美味そうに食ってくれた礼だと言う。
 シグナムは慌てたように、遠慮の言葉を吐いていたが、しかし十兵衛は老婆にぺこりと頭を下げ、当然のように盆から焼き魚を受け取る。
 シグナムも、そんな十兵衛の態度に少し違和感を覚えたような顔をしていたが、それでも空腹には勝てないと見えて、一礼をした次の瞬間にはその魚を口に放り込んでいる。
 その豪快な食べっぷりに、十兵衛は、柳生ノ庄での最後の夜のことを思い出していた。


」」」」」」」」」」」」」


「つまり、私にそのアマクサシロウなる少年を斬れ――ということか」


 そう言いながら、憮然と眉をしかめるシグナムではあったが……しかし、そのまま彼女は何も言わず、黙り込む。
 弟・又十郎と久しぶりに顔を合わせ、怒鳴りあい、睨み合ったその晩。
 十兵衛は弟を別室に休ませてから、眠らずに待っていたシグナムの部屋に再び戻り、父・但馬守宗矩の寄越した書状の内容を読んで聞かせた。
 柳生家が南蛮人宣教師を匿っているという疑惑を晴らしたければ、天草四郎――原城を脱出した、隠れキリシタン最大の大物たる少年を斬れ、という。
 その結果、シグナムは石のように沈黙し続け、うつむいたまま微動だにしない。

 無論その表情を見れば、彼女がいま何を思い、何を考えているかなど一目瞭然だ。
 いかにも不快そうにしかめられた眉。
 正面に座す十兵衛にこそ向けられていないが、うつむく彼女の畳に向けられた視線は、トゲの様に硬く鋭い。
 なにより、その全身から発する空気こそが、彼女が十兵衛の言葉にどれほど気分を害したかを証明している。
 しかし、そこまで明確に十兵衛の言葉に対して怒りの感情を浮かべていながら、その口から、
「このシグナムを、使い捨ての刺客として扱う気か」
「我が剣は、戦士ならぬ少年を斬るためのものではない」
「私が、我が身の保障と引き換えに、見知らぬ子供を手にかけるようなクズと思うてか」
 等といった拒絶の言葉が、即座に飛び出してこないのは、やはりこの地で十兵衛と柳生家に世話になった恩義があるという意識のためか。 
 だからこそ、十兵衛は言ってやる。

「いや、その必要はない」

 そう言って、盃に満たされた酒を、ぐびりと一気に喉に流し込む。
 ふたたびシグナムに十兵衛が視線を向けたとき、案の定、彼女はまばたきを繰り返し、自分が何を言われたのかわからぬ顔をしていた。
 だからこそ、十兵衛は言ってやる。
「天草四郎を誰が斬ろうが、そんなことはどうでもいいのだよ。最終的に四郎の首級が上がれば、それをそなたが斬ったということにすればいいだけなのだから」
「……私が斬ったことに、する……?」
「ああ。おれが斬ってもいいし、親父が使ってる伊賀組の連中に任せてもいい。要するにシグナム殿が手を下す必要はないということだ」
「……いや、それはまあ、ともかくとして……何かが間違っていないかそれは?」
「なんだ、おぬし自分でやりたいのか?」
「そんなわけあるか!!」
「ならば問題あるまい」
「しかし……しかしな……」
 そこで一度言葉を切り、目を据えて十兵衛を睨むと、シグナムは言った。
「ならば十兵衛殿、おぬしの目的は何なのだ? その少年の命が目的ではないのなら、何故そこまで――」


「知れたこと――宮本武蔵と立ち合わんがためよ!!」


 そう言いながら思わず前のめりになった自分の勢いに、眼前のシグナムがのけぞったのが見えたが、もう十兵衛にはそんな事もどうでもよかった。
 だから、彼はその興奮に任せて、口から本音を吐き出す。
「はっきり言えばシグナム殿、そなたや天草四郎の問題など、おれにとっては所詮は口実というか、大義名分にすぎぬ」
「口実、だと?」
 あまりの言い草に、シグナムも思わず顔色を変えるが、しかし興奮状態の十兵衛の口調は変わらない。
「そうともよ。天草四郎をシグナム殿に討たせ、そなたが南蛮人宣教師ではないと証明して見せよ、というのが親父の寄越した書状の趣旨じゃが……おれにとって重要なのは、その後じゃ」
「あと?」
「我らと同様に四郎を狙っているという武蔵の存在を捨て置くわけにはゆかぬ。柳生家としては宮本武蔵にだけは、四郎の首を譲るわけにはいかんのだ。だからこそ武蔵を討てと親父は言う」
「で……?」
「つまり、そなたと天草四郎という口実を挟めば、おれは宮本武蔵と立ち合うことが出来るということじゃ。最強と謳われて久しい、あの武蔵と戦うことができるのじゃ、この柳生十兵衛がな!!」
「…………」
「しかも単なる稽古試合ではない。親父が「討て」と言った以上は、つまりこれは何でもアリの真剣勝負じゃ。これで心奮えぬようならば、それはもはや剣の道に生きる資格は無いと言うべきじゃろう!!」


 まるで何かに取り憑かれたように一気にまくしたてる十兵衛だが、もはやその目はシグナムを見てはいない。
 十兵衛が見ているのは、おのれの心のうちに佇立する宮本武蔵という、まだ見ぬ強敵であって、いま自分が吐いている言葉さえも、もはや誰に向けられたものではなかったのだ。
 そして、そんな十兵衛を見ては、さすがにシグナムも冷静になったらしい。
「とりあえず落ち着け十兵衛殿、さっきから貴公の唾がこちらに飛んできてかなわぬ」
 と言われてしまったので、十兵衛もやや赤面しながらそっぽを向いて頭を掻く。
「だがそれでも、強者との戦闘こそ剣士の本懐と言う十兵衛殿の気持ちは、私にもわからんでもない」
「ほう……!」
 そう言われて顔を上げた十兵衛の前には、いつもの表情に戻ったシグナムが、自分の盃に酒を注いでいるところだった。
「いいだろう。その旅の目的があくまで貴公と宮本武蔵の決闘にあると言うのならば、私とて興味はある。どこに行くのか知らんが、付き合ってやろうではないか」
 彼女はそう言って屈託の無い笑顔を浮かべ、そして盃の酒を一気に飲み干した。


」」」」」」」」」」」」」」」

「ふう……」
 いかにも満足したような溜息をつきながら、十兵衛はぽんぽんと腹をなでる。
 丸一日、腹に何も入れていない身であれば、こんな場末の茶屋の麦飯でさえ、ここまで美味に感じるものか。
 ちらりと傍らのシグナムを見ると、彼女も堪能したように空のどんぶりを置き、茶をすすっている。
「さて……女将どの、ではそろそろ、お愛想を願おうか」
 そう言いながら振り返ると、老婆はうなずきながら答える。
「へえ、お二人様で二十五文でごぜえます」
「ほう、随分と安いではないか」
「いえいえ、こんな古ぼけた山茶屋の出す麦飯なぞ、その程度の値が相応でごぜえますだよ」
 と言って微笑む老婆に、十兵衛は言う。


「あまりに人の好い言葉ばかり並べると、かえって怪しゅうございますぞ、服部殿」


 ぎょっとしたようにシグナムは老婆を振り返り、そして十兵衛の顔を振り返る。
 逆に老婆の表情は、さっきの孫を見るような微笑から何一つ変わらない。
 しかし、いまさら取り繕ったところで無駄なのだ。
 この老婆が、伊賀組頭領の服部半蔵であることは、すでに十兵衛にはわかっている。
 もっとも、半蔵とて本気で老婆の演技をしていたわけではなかったろう。
 気付く者なら気付く、といった程度だが、それでもすでにヒントは出ていたのだから。
「この魚は、伊賀の服部郷でしか取れぬ“つじも”という川魚でありましょう。そんなものを食膳に出されれば、この十兵衛にも、さすがにわかろうというものでござるよ」
 

「かっはっは、さすがは天下の柳生十兵衛! お見事お見事!!」


 十兵衛といえど、名指しで褒められて悪い気はしないが、それでも手を叩いて笑った老婆の声だけが――先程までと完全に違う、壮年の男性の声であったのが、ある意味すさまじく不気味な光景だった。
 もっとも、不気味だったのは、その声色だけではない。
 老婆――半蔵は、曲がった腰を伸ばすでもなく、皺だらけの顔の筋肉を戻すでもなく、身にまとったその空気だけを一変させたのだ。
 その雰囲気の剣呑さというより、あまりに見事な気配の変質っぷりに、シグナムは反射的に身構えながらも、それでも絶句しているようだった。

 だが、十兵衛は屈託なく言う。
「久しぶりにござるな半蔵殿」
「およそ六年ぶりでござろうかの、十兵衛殿」
 無論そう答える老婆の姿は、十兵衛が知っている侍装束の服部半蔵とは似ても似つかない。
 しかし、いま彼が発するこの気配は、十兵衛が知る半蔵のものに間違いなかったのだ。
 そして半蔵はそのままシグナムに視線を向けると、
「シグナム殿でござるな? それがしは服部半蔵と申す者。以後お見知りおき下され」
 と言い、さらに彼女の返事を待つことなく、ふたたび十兵衛に視線を向けた。
「さて十兵衛殿、久闊を叙する暇もなく申し訳ござらぬが、天草四郎とその一党の新たなる所在が判明いたしました。ゆえに柳生家との盟約に従い、服部半蔵自ら、貴殿らを道案内させて頂きまする」
「うむ」
「天草四郎は現在、豊前・小倉に向かっておるとの事。早急に捕捉し、これを斬れとの公儀の沙汰にござる」
「小倉、か……」

 十兵衛は瞑目する。
 豊前小倉――そここそが、あるいは次なる決戦の地に選ばれるのかどうか。
 それはまさに神のみぞ知ることだった。




[36073] 第十八話  「その前夜」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/03/24 21:03
「かぁぁッッ!!」
 鋭い気合とともに一歩踏み込み、武蔵は上段に構えた木剣を振り下ろした。
 ただの木剣ではない。
 たっぷり水分を吸い込んだ船の櫂(かい)を削って、武蔵自らが作った木剣だ。
 その大きさ、重量ともに、まともな刀の比ではない。
 まともに振り回せば、彼自身の手の長さも相まって、その間合いは一丈(約3m)にも及ぶであろうし、それほど巨大な凶器を、並の木剣と同じように軽々と扱えるのは、青竹を片手で握りつぶしたという、この宮本武蔵の腕力あってのことだ。


 が――それほどの武蔵の木剣による攻撃を、彼女はまともに受け止める。

 
 むろん、素手の女に為せるわざではない。
 たとえ、その南蛮人の女の両腕に、剣や槍どころか、一切の得物が見えなかったとしても、だ。
 一撃を受け止められた武蔵には、女の両拳に握られた、風のように透明な剣の感触が、ハッキリと伝わったからだ。
 だが――もちろん武蔵はブザマに驚いたりはしない。
 この女剣士が、不可視な剣を使うこと自体は、武蔵もすでに知るところであったからだ。
 いや、むしろ驚くべきは、その少女の繊手で宮本武蔵の一撃を受け止める技術であるというべきだが、それさえも武蔵は驚かない。
 この眼前の少女が、そのたおやかな外見とは裏腹に、まこと恐るべき剣技の所有者である事実を、武蔵はすでに知り抜いているからだ。

 
 ここは戦場。
 原城に籠城する一揆勢と幕府軍による、日に何度か行われる小競り合いの一幕。
 しかし、そこで実施されている行為は人間同士の殺し合いだ。「小競り合い」などという言い方こそ、全兵士にとっての侮辱となる表現かも知れない。
 が、それはまあいい。
 問題は、殺し合いという、人間同士の極限行為が行われているこの場に於いてさえ、彼ら二人の織り成す光景は、他人の視線を集めずにはおけないほどの異彩を放っていたという点だ。
 現に周囲の兵は、敵も味方も手を止め、互いに戦うことさえ忘れたかのような顔で、この二人の対決に見入っている。
 合戦中とはおよそ信じられぬ光景ではあるが、それでも彼ら雑兵たちを責めるのは酷というものだろう。
 要は、それほどまでにこの――武蔵とセイバーの対決が、衆目を引き付けてやまぬ凄まじいものであった、ということなのだから。


 むさ苦しく肩まで伸びた、異臭すら発する蓬髪。
 食い詰め浪人のようなボロボロの着衣。
 さらには、外貌だけを見るならば、彼がもはや老人と呼ぶべき年齢であることは誰にでも判別がつくであろう。
 にもかかわらず、まるで野獣のように爛々と輝く双眸。そして、全身から発散されるその精気。
――そこにいる彼は、誰がどう見ても「宮本武蔵」そのものであった。
 だが、その武蔵の巨大な木剣を、鍔迫り合いの形で受け止める一人の少女。
 その少女は、まさしく有り得ないほどに――美しすぎた。
 もっとも、その表情は凛然たる闘争心に染められており、不気味に光る武蔵の金茶色の瞳の視線に射竦められるどころか、その眼光を完全に跳ね返している。客観的に見て、そんな彼女には優艶たる「女性美」の要素など皆無だとさえ断言できよう。
 しかし――それでもなお、彼女は美しいのだ。
 そして、何よりもこの光景を異様たらしめているたった一つの点は、まさしくそれほどまでの美少女が……天下に名だたる宮本武蔵と互角に戦っているという事実だった。


 フンと鼻息を洩らすや、武蔵はおのれと鍔迫り合いを続けていた女を軽々と押し飛ばす。
 いや……むしろ、彼女の方が武蔵の力を利用して後方に跳んだと表現する方が正確であったろうか。
 とにかく女は、その一瞬のうちに武蔵から、数歩どころか数間の距離をとる。
 だが、逃がさない。
 武蔵はその距離を一呼吸で詰めると、まるで竹刀のように軽々とその木剣を振るう。
 しかし――女もむざむざと防戦一方にはならない。
「はァァッッ!!」
 女も気合を張り上げて、その透明剣で武蔵の一剣を弾き返す。
 いや、弾き返しただけではない。
 武蔵の勢いを逆に利用して、確実に迎撃を仕掛けてくる。
 五合、十合、十数合――たちまちのうちに火花さえ飛び散りそうな激しい打ち合いが、両者の間に展開される。

 目にこそ見えないが、確実にそこに存在している剣――しかも、それがただの剣ではない事も武蔵は知っている。
 もっとも肉眼に不可視な時点でただの刀剣でない事は馬鹿でも判るのだが、問題はそこではない。
 女の持つ武器は、まさに物理的な刃物ではありえないほどの――まさしく斬人斬馬を可能とするほどの鋭利さと、並みの日本刀ならまとめてへし折る武蔵の木剣を正面から受け止める頑強さを併せ持つ「剣」なのだ。
 
 それほどに厄介な剣の連続攻撃を、武蔵の木剣は防ぎ切り、とっさに距離をとる。
 一呼吸のうちに五連撃から六連撃を放つ少女の腕だが、それがまた、速いだけではない。
 重く鋭く、そして響くのだ。並みの剣士ならば、それこそ一秒間に何度斬殺されているか知れたものではない。
 そんな攻撃を防ぎ得るのは、それこそ武蔵の得物がこの木剣であればこそだ。
 かつて豊前小倉の船島での決闘で使用したのと同様の、櫂を削って作った木剣。
 天才・佐々木小次郎の長刀「物干竿」を、さらにしのぐ長さと重さと堅牢さを兼ね備えた大型鈍器。
 とはいえ、むろん彼の腰にも大小の刀はある。
 赤銅作りの伯耆安綱――後世では国宝認定されるほどの名刀だ。
 だが、この女の見えざる剣を相手にするには、ただの刀では危ういのだ。たとえどんな名刀だろうが、受けた瞬間に刀ごと真っ二つにされかねない。
 現に――防ぎ切ったはずの女の攻撃で、武蔵の頬から一筋の血が流れ落ちる。

(このわしに見切りを損なわせるとはな……)
 などとは武蔵は思わない。
 なにしろ相手が相手だし、その得物も得物だ。いくらなんでも例外過ぎる。
 もっとも、宮本武蔵が敵の斬撃を見切り損ねたなどと知れたら、彼の門弟や支援者、さらには養子の伊織なども仰天するだろう。
 武蔵は、額に米粒を貼り付けて相手に剣を振らせ、その米粒だけを斬らせる事ができる。
 まさに人間離れした動体視力と空間認識力を持ち合わせているのだ。
 そんな武蔵にとっては、相手の振るう剣など、おのれの剣で防ぐまでもない。身をそらして回避すればいいだけのものでしかない。
 もっとも、それはあくまで相手がただの敵であるならば、だ。
 しかし、この女はただ者ではない――どころの敵ではない。


 この女は化物なのだ。
 それも人に対する賞賛や恐怖の形容詞としての意味ではない。
 正真正銘、文字通りの意味としての存在なのだ。


 女の腕がまさしく達人級の境地にあることも、さらに得物の剣が物理法則を無視した非常識なものであることも、武蔵はもちろん理解している。
 だが、これは諧謔や冗談の話ではない。
 いや、そもそもポルトガルをはじめヨーロッパのカトリック各国が、援護を断念した原城の隠れキリシタンどもの元に、忽然と現れた西洋人の少女というだけで妖しすぎるのだ。
 そして、その上で数々の妖術――不可視の剣などという手品まがいの術ではない。幕軍総帥の板倉内膳正を、その本営ごと消し飛ばす怪光線までも使いこなすとなれば、もはや妖術使いというより、妖怪そのものといった形容を受けても、まったく不思議ではないだろう。


 女は武蔵から二間ほど離れて、身構えている。
 この女と戦うのは武蔵にとっても初めてではあるが、それでも、この戦場で女の剣さばきを見るのは初めてではない。
 受けに回っては不利であることは、すでにこれまでの見分でわかっている。
 むろん女の剣が不可視だというだけで、その間合いを測り損ねる武蔵ではない。
 しかし、間合いは測れても、それでも女の技量までは、完全に測り切れるものではない。
 現に、予想以上に伸びてきた彼女の一太刀に、武蔵は頬を切られている。
 ならばどうする?
 簡単な話だ。
 攻撃は最大の防御――そして、この木剣はあくまでも攻撃にこそ、その威力を発揮する。
 それこそ、かつて佐々木小次郎の頭蓋を叩き割った「巌流島」のように。

 武蔵は一歩踏み込み、八双の構えから袈裟切りの一太刀を叩き込む。
 女は身を翻して、その一撃を回避すると、間合いを詰めようとする。
 武蔵の木剣が長大であるほど、懐に入られてしまえば不利になることは、子供でもわかる理屈だからだ。
 が――させない。
 踏み込んできた女の顔面に、狙い済ましたように木剣の握り――柄頭をぶち込む。
 それを女は、のけぞって回避する。
 さすがの反射神経と言うべきであろうが、しかしその瞬間、武蔵の眼がギラリと光った。
 のけぞった分だけ女の体勢が崩れたからだ。
 が、木剣の柄頭がかわされた分だけ、武蔵の体勢も流れてしまったことは間違いない。
 だが、それはあくまで木剣を得物とするならば、の話だ。
 武蔵は木剣から両手を離し、そのまま踏み込みながら、腰の大刀を抜き打ちに薙ぎ払った。
 その一撃に、本来ならば真一文字に胴斬りにされ、女は死ぬはずだった。
 しかし、すでに女はそこにいない。
 妖怪じみた身軽さで後方に跳び、距離を取った後だったからだ。

(さすがだなッッ)
 むしろ賞賛を覚えながら、さらに踏み込んで追おうとした武蔵であったが、その瞬間、まるで突風のような風のカタマリが武蔵の顔を叩いた。
 並の人間なら、あっさり吹き飛ばされ、数間先の地面にブザマに転がされていただろう。
 むしろその場に踏みとどまり、微動だにせぬ武蔵をこそ褒めるべきであったか。
 そして女は、武蔵から数間の距離を保ち、その戦闘体勢を維持していた。
 いや、それだけではない。
 先程まで不可視であったはずの黄金の剣が、彼女の右手にその姿を現している。
 さすがに今のギリギリのやりとりで、剣を隠す妖術に神経を使う余裕は無くなったものと見える。
 いや、実のところ武蔵の目を奪ったのは、光り輝くその宝剣などではない。
 彼が思わず視線を引き付けられたのは、女がその貌に浮かべる鬼相であった。



 鬼相……確かにそう呼ぶにふさわしい鬼気を、セイバーは惜しげもなく発散していた。
 が、その表情に込められていたのは、単なる憤怒や屈辱といった攻性の感情だけではない。
 彼女の内心を支配していたのは、敵に対する闘争心以上に、かつてに比べてあまりにも衰えたおのれの魔力に対する絶望。
 なにしろ、さっきセイバーが後退しながら放ったのは、万軍をも吹き飛ばすと評された風王鉄槌(ストライク・エア)なのだ。それが、この眼前の小汚い剣客の、顔をそらせる威力さえも持ち合わせていなかったとなれば、その魔力の低下具合は、まさに彼女の想像を遥かに超えるレベルであると見なければならない。

(わかっていたつもりだったが……ここまで衰えていたというのか……ッッ!!)
 サーヴァント時代に比べ、あらためて思い知る自身の弱体化ぶりに、彼女は膝から崩れ落ちそうになるほどの衝撃を覚える。
 むろん、今はショックで脱力することを許されるような状況ではない。
 そして、改めて覚える、敵剣士に対する戦慄。
 いかに魔力が衰えようとも、セイバーがその身に宿した剣の腕までが生前以下まで劣化したわけではない。
 現に彼女は、これまでこの乱で百人近い幕軍の兵を斬殺している。
 そのセイバーがここまで苦戦するような剣士が、こんなところにいるとは思わなかったのだ。


「ローニン……貴様、名は?」


 しかし男は黙して答えない。
 答える代わりに、男の取った行動は一つだった。
 大刀の鞘にかかっていた左手を外すや、そのまま流れるような動きで、腰の帯にぶち込まれていたもう一本の剣――小刀を抜いたのだ。
(…………ッッ!!)
 その瞬間、セイバーは自分が彼に名を訊いたことも忘れた。
 おのれの魔力の劣化具合に、鬼相を浮かべるほど絶望したことさえ忘れた。
 彼女の背中には、電流のようにゾクリとした寒気が走り抜け、その視線は、男の立ち姿に釘付けになってしまったからだ。
 とはいえ両手に剣を持った眼前の男が――かつて双槍を得物として彼女と戦ったディルムッド・オディナのごとき仰々しい構えを取ったわけでもない。
 むしろ逆だ。
 右手に大刀、左手に小刀を持ち、その両腕をだらりと脱力したようにぶら下げている。
 素人ならば、この男が単に両手に剣を握り、無造作に突っ立っているだけにしか見えないであろう。
 中世英国史にその名を刻むアーサー王――騎士王アルトリア・ペンドラゴンであればこそ、わかるのだ。
 男の棒立ちが、まさに美しささえ感じさせる程に完璧な構えであることが。

 完璧――といえば確かにその構えは完璧だった。
 敵の攻撃に備え、迎撃するための四肢と得物の配置。
 それらを合理的に、かつ効果的に動かすための、心気の凝らし。
 先程までの長大な木剣を構えていたときでさえ、この男には隙らしい隙など無かった。それがいまや、さらに一変してしまっている。
(まるで鉄壁の城塞だ)
 と、セイバーは思った。
 そう――敢えて言うなら、木剣を得物にしていた彼から発されていたのは、攻撃を重視する空気であり、それに対して、いまの両刀を構える彼からセイバーが感じるのは、防御を主眼にした空気であった。
 その堅固なる気配は、こちらから仕掛けようにも、そのあまりの隙の無さに、思わず攻撃を躊躇してしまうほどであった。


 その時だった。
 陣貝と軍鼓の二重奏――幕軍の退却の合図が、幕軍本陣の方角よりけたたましく夜空に鳴り響いたのは。 


」」」」」」」」」」」」

「――で、せいばー殿、そこからどうなすったんでやんすか?」

 語りがそのくだりに到着してから、しばし沈黙し、いつまでたっても口を開こうとしないセイバーに、焦れた聴衆一同を代表して才蔵が質問する。
 もっとも聴衆と言っても、この場には才蔵を含めても四人しか人間はいないのだが。
 霧の才蔵。
 猿(ましら)の佐助。
 天草四郎
 そして真田忍軍“十勇士”の一人たる、筧十蔵(かけい じゅうぞう)――の四人である。
 由利鎌之助と穴山小助の二人は、斥候に出ていて、彼らが現在の拠点としているこの山小屋にはいない。
 四人は今、畳すら敷かれていないこの山小屋の板間に、思い思いに腰をおろし、くつろいだ姿を見せている。
 が、彼らがしている会話は、むろん単なる雑談ではない。



 島原の乱において彼ら真田忍軍は、そのすべての戦闘に参加している。
 だが、戦場において宮本武蔵と対峙したことのある者は、実は彼らの中にはおらず、敢えて言うならセイバーしかいない。
 無論それは彼らが敵を選んで、逃げ回っていたという意味ではない。
 本来は諜報技能者であるはずの忍びが、兵士として戦場に参加する行為は「戦忍び」と呼ばれ、その役割は当然ただの足軽や雑兵とは違う。戦場に紛れ込み、敵軍の将もしくは部隊指揮官の首を取り、戦場の流れを自軍有利に持ち込ませるための特殊任務なのだ。かつての大坂の陣では、かれらの手によって、東軍の武将が何人殺されたかわからない。
 話を戻すと、天草四郎一党を追跡する九州諸藩の追っ手たちの中でも、いまや宮本武蔵の存在は、かなり重要なものになりつつある。
――たかが剣術使いごとき、鍛えに鍛えた真田忍びの我らにかかれば何程のことやあろう。
 そういう意識が彼らに無かったといえば、さすがに嘘になる。
 だが、かつてそう言って笑った“十勇士”の一人・望月六郎は、武蔵に斬られている。
 いまや、戦士としての武蔵の剣を侮る者はここにはいない。
 そのため、武蔵の剣さばきの記憶をセイバーから聞き出している、というのがこの場の趣旨なのだが……彼女にも思うところがあるらしく、話はそうスムーズにはいかないようであった。


「ん、ああ?」
 我に返ったかのような顔をしてセイバーが振り返り、四人の遠慮の無い視線にまた顔をそらす。
「どうもこうもない。退却の鐘をきっかけに男は構えを解き、私に背を向け、その場を去っていったのさ」
――我が名は、新免宮本武蔵。
 彼は染み入るような声でそう言い、しかし彼女の名すら聞こうともしなかった。
 両手の刀を腰の鞘に納めるや、木剣を拾って、その場から立ち去っていったのだ。
 その悠然たる背中に斬りかかる、などという選択肢は当然セイバーには無い。
 むしろ武蔵は、そんな彼女を信頼して背を向けたようでさえあった。


「はぁ!?」
 呆れたような顔をして、筧十蔵が声を上げる。
 さすがにムッとしたような表情をするセイバーだが、それでも彼の無礼に対して、反射的に怒鳴り散らすような真似はしない。
 彼ら「シノビ」と言われる者たちが、自分とは著しく異なる戦場の価値観を持っていることは、すでに彼女も認めるところだ。
 その意見の相違について、いまさら口論する気にはならない。
 しかし、彼女がそのつもりでも、相手までが同じ理解を示してくれるとは限らない。
 果たして十蔵は、セイバーの予想通りの言葉をその口から吐き出した。

「そん時に、せいばー殿自慢の剣を武蔵のケツに突き刺してりゃあ、今頃こんなにグチグチ悩まずに済んだんじゃないッスかね?」

 それは、彼ら忍者の思考法からすれば当然至極というべき疑問であるが、しかしさすがに物には言い様があるだろう。
 現に十蔵以外の者たちは、今の発言にもセイバーから目をそらして何も言わない。それどころか、むしろ(やめとけ)と言わんばかりに佐助の肘が十蔵を突く。
 この筧十蔵という男は、佐助のように謹厳実直ではなく、才蔵のように三枚目を気取ったひょうきん者でもなく、かなり嫌味な皮肉屋であった。
 才蔵が言うには、むろん真田家に侍奉公していた時分から、そんな無遠慮な口を周囲に叩いていたわけではなく、大坂の役以降の泥をすするような牢人生活が、彼の人格をより意固地なものにしたらしい。
 が、そんな事情はセイバーにはどうでもいい。原城でともに籠城していた頃から、彼女はこの十蔵という男が好きではなかったからだ。
 もっともセイバーが彼を嫌う以上に、十蔵も彼女を嫌っているようでもあったので、お互い様というべき間柄だったが。



「しかしセイバー、今キミは武蔵の構えに手が出なかったと言いましたが、それでもエクスカリバーの切れ味を思えば、あるいは刀ごと武蔵を斬ることもできたのではありませんか?」
 そう質問をしてきたのは天草四郎だ。
 とはいえ、それは純粋に戦闘技術上の疑問というより、十蔵の皮肉によって悪くなったこの場の空気を換えるためのものであるようだった。
 その意図を汲んだのか、セイバーも思わずホッとしたような顔をするが、しかし次の瞬間には瞑目して首を横に振った。
「いえシロウ……相手がただの雑兵ならば、それも可能だったでしょうが、あのムサシというローニン相手ならば、やはりそれは無理だと言うべきでしょう」
「それはやってみねばわかりますまい」
――いや、やらずともわかることもある。
 そう言いたげな口調で、セイバーは四郎を見る。

 確かに、聖剣エクスカリバーの切れ味と、その所有者たるセイバーの腕ならば、鎧武者を馬ごと両断することさえ可能だろう。
 とはいえ、それはあくまで、並みの人間を相手にした場合の話だ。
 武蔵ほどの技術があれば、その刀でセイバーの全力の斬撃を受け止めることも、決して出来ぬことではないだろう。
「よしんば奴の剣を斬れたとしても、おそらく一本が限度であって、両手に持った二本の剣ごと奴を斬るというのは不可能でありましょう」
 セイバーは、まるで眼前に武蔵本人がいるかのような殺気を虚空に放ちながら、静かに言った。
「いや……たとえ刀の一本を斬り飛ばせたとしても、私が剣を振り下ろしきらぬ内に奴は、我が間合いに入り込んでいるはずです」
「つまり?」
「私は斬られていた……ということです」
 他の状況なら知らず、武蔵ほどの使い手に、カウンターの形で間合いに入られるということは、そういうことなのだ。
「…………」
 四郎は沈黙した。

 いや、四郎だけではない。この場にいる全員が、等しく言葉を失っていた。
 セイバーが自己の技量に絶対的な自負を抱いていることも、さらにはその自信が自惚れに聞こえぬほどの実力者であることも、この場にいる誰もが知っている。
 にもかかわらず、この女にこんな表情で、こんな発言をさせるような相手が、一体どれほどの使い手だというのか。
 いや、それ以上に、いまセイバーが言ったような芸当が本当に可能だとしたら、その手並みの程は、まさに恐るべしという以外に表現の仕様がなかった。
 武技の心得の無い天草四郎ならばともかく、一騎当千の忍びである彼ら真田忍軍が、それを理解できぬはずが無い。
「武蔵という男は、それほどのものなのか……」
 静寂が支配するこの場に、佐助のつぶやき声だけが染み入るように響いた――。
 
 
「つまり……その野郎が出てきた場合は、この俺が相手をするしかねえってことッスね」

 
 そう言いながら一同の沈黙を破ったのは、筧十蔵。
 彼の右手には、それまで影も形も無かったはずの短筒が、何かの手品のように握られている。

 かつて幸村から、忍びの身でありながら真田家の鉄砲組の指南役を任されていた彼は、狙撃や早撃ちのみならず、鉄砲の整備・管理・改良から火薬の調合に至るまで精通したプロフェッショナルであり、いわゆる砲術全般のエキスパートであった。
 その知識や技能は、おそらくは今日からでも、ヨーロッパのどの国であろうと軍の砲兵隊長が務まるほどのものであったろう。
 むろん彼が持っていたのは知識だけではない。
「ガンマン」としての腕も当代一流であった。
 たとえば、いま十蔵が弄んでいる短筒という銃器だが、これは銃身を短くして携帯を可能にした一種のハンドガンであるが、現代のいわゆるピストルの類いとは違い、火縄がなければ発射もできず、銃身も短くライフリングも無いため弾道が安定せず、命中率も悪い。有効射程距離はおそらく二間(約3・6m)がいいところであろうか。にもかかわらず十蔵は、この短筒を使った早撃ちのみならず、命中率においても飛ぶ鳥を撃ち落すほどの腕を誇るのだ。
 また短筒以上に、長銃身のいわゆる種子島を使っての狙撃でも、標的を外したことはなく、彼が戦場で命を狙って殺せなかったのは、大坂の陣での家康くらいであったという。

 むろん筧十蔵も、本来は忍者だ。
 一日に数十里を走りきる脚力や、隠密行動のための気息のコントロール、さらには剣や手裏剣を使った闘術などは当然の必修技術として習熟している。
 が、十蔵は「忍者」としての自分以上に、「ガンマン」としての自分に誇りを持っていた。
 そのため、戦場での「戦忍び」での彼の任務はもっぱら長距離での狙撃担当であり、さらに個人戦闘においても、手裏剣や刀ではなく愛用の短筒を主に使うのが彼の癖だった。
 いや癖というより、こだわり――と呼んだ方が十蔵的には正確だったかもしれない。
 そのため原城での篭城戦では、彼はセイバーに戦場での一騎打ちにおける銃器使用の正当性を問われ、口論になったこともある。
 まあ、騎士王アルトリア・ペンドラゴンとしては、銃を持たぬ相手を銃で撃つという行為を「卑怯」と解釈するのは当然となのだが、この二人の間の空気が露骨に険悪になったのは、それがキッカケと言ってもよかった。


「まあ……確かに、十蔵に任せるのが順当ってことになるかねえ」
 才蔵が、溜息混じりにゴリゴリと頭をかく。
 いかに宮本武蔵が卓絶した剣士であったとしても、しょせん銃には敵わない。
 自分に向けて射られた矢を剣で打ち落とすことは出来ても、銃弾を打ち落とすことは出来ないからだ。
 何より才蔵は、真田忍軍の他の者と違い、実際に武蔵という男をこの目で見ている。
 彼の剣さばきをその眼で見たわけではないが、確かにセイバーに弱音を吐かせるほどの凄絶の剣気を、身をもって経験している。
(あの男は、たしかに強い……)
 一対一ならば勝ち目はない――などと言う気はないが、それでも、たとえ佐助の猿や由利鎌之助の鎖鎌でも、個人戦闘ならば心もとないというべきだろう。
(もしくは俺の“霧”が使えればよかったんだけどねえ……)
 海風の強い湾岸部では、才蔵の“霧”は使えない。特に今回の作戦目的は乗船だ。そのためには海風は完全に逆風になってしまう。
 やはり、確実に武蔵を仕留めたいならば、筧十蔵の“銃”という選択肢は当然であると言わねばならない。
「たしか南蛮にゃあ『銃は剣より強し』って言葉があるそうでやんすね?」
 そう言いながら才蔵はセイバーを見るが、彼女は無表情――というより、もはや金属的というべき顔で、
「知らんな」
 と、短く言い捨てる。

 その隠しきれぬ殺気と宙の一点を見つめる鋭い瞳から、おそらくはいまだに虚空に浮かべた武蔵を睨みつけているのだろうな、とはわかる。
 わかるが――それはある意味、まるでおのれの剣を否定されて拗ねているようでもあったため、非常に感じの悪い態度に見えた。
 もっともセイバーが生きていた五世紀のイングランドに「鉄砲」なる兵器はまだ存在していないので、彼女がそんな格言を知らないのは当然とも言えるのだが……。
 必然、十蔵は得たりとばかりにその舌鋒をセイバーに向ける。

「おやおや、せいばー殿はまさか、この期に及んでも『剣士の戦いに飛び道具は卑怯』なんて世迷言を申されるおつもりッスか?」
 
(おいおい、お前――)
 そう言わんばかりの表情を、当の十蔵とセイバー以外の、三人はみな一斉に浮かべた。
 しかし筧十蔵の口は閉じない。
「そういや俺ぁ、原城のときも散々頂戴しましたっけ、その“卑怯”なる有り難い御言葉を」
 まさに白眼としか形容しようのない視線を、十蔵はセイバーに向ける。
 逆にセイバーは、直前までギラギラに殺気立っていたとは思えぬほどに冷静な顔になっていた。
「散々言った憶えなどないぞ。私が貴様にその言葉を吐いたのは一度だけだ」
「何度言ったかは問題じゃねえんだよ!! おめえはかつて俺を侮辱した、それが許せねえつってるんだよぉッ!!」
「おい筧ッッ!!」
 怒鳴りながら立ち上がる十蔵に、さすがに佐助が彼を制する。

 だが、セイバーは顔色も変えない。
 冷静というより怜悧ともいうべき表情で、十蔵を真正面から見据えて立ち上がる。
「せいばー殿ッッ!!」
 才蔵も慌てて彼女と十蔵の間に入る。
 明日にも死地に飛び込もうというのに、今はこんなところで内輪もめなどしていられる状況ではないのだ。
 しかし、立ち上がったセイバーは、才蔵の肩に手を置くと、
「サイゾー、どいてくれ」
 と、彼を脇へ押しやり、そのまま再び十蔵の前に出る。
 むろん、こんな睨み合う形でセイバーと対峙することになった十蔵の眉間には、さらなる険が走る。
 そして、山小屋に冷気のような緊張がピンと走った、まさにその瞬間――この場にいた全員がさらに呆然となった。
 なんとセイバーは、その場に膝を付き、正座の姿勢でうつむいたのだ。


「……かつて、たった一度とはいえ、そなたとそなたの鉄砲を侮辱したことを認めよう。その事実に対して、今ここで謝罪させてもらう」


 あまりに予想外の成り行きに、当事者の十蔵も何も言えない。
 が、セイバーはそのまま頭を上げ、
「確かに私には、いま語ったようにミヤモトムサシなる剣士と因縁がある。しかし、だからといって奴との再戦にこだわる気はない。ジュウゾウが奴の相手をするというなら、喜んで譲りもするし、手助けもさせてもらう」
 と、言い重ねた。
 そして、その言葉は、ここにいた全員をさらに唖然とさせるには充分なものだった。

「どうかしたのでござるかセイバー殿……?」
 おそるおそるといった風に佐助が尋ねてくる。
 いや、佐助のみならず、天草四郎までが半ば心配そうな表情で、
「何があったんだいセイバー? 以前のキミならそんなことは絶対に言わなかったはずだろう」
 と訊いてくる始末だ。
 無論これまでの自分の言動を振り返れば、それも当然と言うべきだが、セイバーは軽く笑って彼らの疑問をいなした。
「そんな不思議なものを見るような顔をするな。少し考え方を変えただけだよ」

 その言葉に、才蔵はむしろ愉快そうに口元を緩める。
 しかし、佐助も四郎も不審げな目をやめない。
 この頑固すぎるほどの騎士道主義者に、そんなことを言わせるほどに衝撃的な「事件」があったのなら、自分たちはそれを知っておく必要があるとでも言いたげな表情だった。
 ただ、この意外すぎる成り行きでむしろ冷静になったのか、筧十蔵だけは不敵な笑いを、美しく背筋をピンと伸ばした正座姿のセイバーに向ける。
「いやいや面白いじゃないッスか、せいばー殿。それじゃあアンタ、これからは俺たちの忍者流の戦のやり方にいちいち口を挟まないってことでいいんスね?」
「いい加減にしろ筧!」
 佐助がたまらず十蔵の軽口を制するが、
「いや、よかろう」
 と、むしろセイバーはその佐助を制するように言った。
「これからは貴公たちから提案されるいかなる策であろうとも、それを卑怯というだけの理由でむげに却下しないことを誓おう。それが勝利のためのものであるならば、な」
 その言葉も、やはりかつてのセイバーからすれば考えられない発言ではあったが、それでも十蔵の目から皮肉めいた光は消えない。

「せいばー殿、忍びのやり口を舐めちゃいけませんぜ。必要とあらば川に毒を流したり、敵将の身内をさらったりするのも俺たちの仕事の内だ。アンタにそれを手伝えますかい?」

 さすがにその言葉には、彼女も形のいい眉を少ししかめ、答えない。
 だが、いま十蔵が言ったことも一面の真実であることは確かだ。
 彼ら忍びたちの技術・知識・能力は一般的なサムライたちなど足元にも及ばない。
 だが、世間の常識的には、彼ら忍びの扱いは決して高くない。
 それどころか、小者・足軽と同じく階級的にも士分に入らぬ最下級の存在であり、その過酷な任務に見合う評価を得ているとは、お世辞にも言いがたい。
 しかし、理由を問われれば、答えは単純だ。
 目的達成のためならば、いわゆる「武士道」の埒外にあるような非常識な手段でも実行するのが彼ら忍びであり、それこそが彼らの存在理由なのだ。
 なればこそ彼らは、周囲から怖れられ、蔑まれ、そしてその現実を当然のものとして――むしろ誇りを持って受け入れてきたのだ。
 ならばこそ十蔵はセイバーに問う。
 貴様に、その覚悟があるのかと。


「まあ、そう意地の悪いことを申すな十蔵」


 そう言いながら、ふらりとその場に現れたのは、骸骨のようにやせ細った老人だった。
――森宗意軒。
 島原の乱の実質的黒幕にして、逃亡を続ける四郎一党の参謀的存在。
 そしてセイバーを現世に召喚した、おそらくは日本唯一の魔術師である。
「安心せいセイバー、そんな汚れ仕事をやらせるために、わしはそちを召喚したわけではないわ」
 そう言いながら山小屋の中に入ってきた老人は、しかし何か言いたげに口を開いた十蔵を一睨みで黙らせる。

「人にはそれぞれ役割というものがある。十蔵よ、そちの砲術を余人が真似できぬように、この女にはこの女にしか出来ぬことがある。あとはそれに見合った役を、おのおのがこなせばそれでいいのじゃ」

 その言いようは、まるで若者を諭す年長者のような穏やかな台詞だが、しかし実質は違う。
 森宗意軒は、まるで蛇のような冷たい妖気を視線に込めながら十蔵に語りかけている。
(これ以上いらざる喧嘩を続けるようなら、ぶち殺すぞ貴様)
 そういう意思が、まるで真冬の寒気のように物理的に伝わってくる。
 ここまで露骨な殺気に意識を乗せられては、さすがに筧十蔵といえど、口をつぐんで一歩引かざるを得ない。そして、彼のそんな様子を満足げに確認すると、
「さて、では本題じゃ」
 と言いながら、老人は懐から取り出した一枚の地図を、山小屋の板間に広げた。
「実はたった今、斥候に出ていた鎌之助と小助が戻ってのう」
「ほう」
 その言葉に、一同の顔つきが一瞬にして変わる。
「結局、小倉と門司のどちらの港を選ぶのですか?」
 そう訊く四郎に、宗意軒は眼を光らせ、答える。
「……小倉じゃ」


「決行は明日じゃ。明日の払暁、わしらは小倉に向かう。よいな?」


 その軍師の宣告に、一同の顔に一斉に緊張が走った。



[36073] 第十九話  「小倉の海」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/03/30 01:46
 豊前・小倉。
 旧豊臣政権時代では、北九州における大陸との交易拠点の一つとして栄えた港町ではあり、また日本海航路の重要な海港拠点であるため、桟橋には大型の北前船がズラリと並んでいる。
 もちろん船のみならず人も多い。
 大量の積荷を船に搬入する荷運び人や、その荷物の検閲をする荷役人。
 さらにそれらの積荷の商取引を、船が出港するギリギリまでし続ける海運商人。
 また、出航まで時間があるのか、船を下りて道端でサイコロ賭博をしたり、娼婦をからかってたり、雑談にいそしむ水夫たちの姿も普通に見かける。
……しかし、それでも小倉の地元民が見れば、今日の港には、いつもにくらべて人の姿が多すぎるように見えたであろう。
 なにより所在無さげにうろつく目つきの悪い男たちの数が多すぎる。
 豊前小倉藩小笠原家の武士たちが、松平伊豆守の指示のもと、侍装束を脱ぎ捨て、この港に張り込んでいるのだ。

 むろん現時点で入港中の全ての船は、小倉藩の手によって一隻残らず調査の手が入っている。
 船舶の乗員や積荷搬入の関係者はもちろん船主の海運商人に至るまで、四郎一行に協力しそうな豊臣浪人ならびに隠れキリシタンとは、一切無関係である事実が証明されているし、そうでない者たちは、少なくとも現在この港にはいない――と聞かされている。
 無論そんな報告を鵜呑みに信じる気は、伊豆守には最初から無い。
 この港のどこかに、小倉藩の目をくらまして四郎一行の脱出に協力するために、擬装された船がいることは間違いないのだ。
 だからこそ、この船着場の数百人の兵はもとより、港自体を包囲するように数千人規模の兵が配置され、さらに沖合いには、四郎一党の出航を万が一許した際のために、大砲を積んだ軍船が待機している。
 傍目には完全な包囲網が敷かれているように見えなくも無い。

 だが、それでも松平伊豆守信綱は不安だった。
 むろん伊豆守とて、自分の標的がただの隠れキリシタンや忍者の残党程度であったなら、こんな不安を覚えなかっただろう。
 現在の幕閣には、大老の土井利勝、大目付の柳生宗矩、さらには伊豆守信綱を筆頭として実際の政務を取る堀田正盛・阿部忠秋ら六人衆(後の若年寄)など、徳川二百六十余年の歴史の中でも稀なほどに、まさに綺羅星のごとく人材が揃っている。
 だが、その中でも、この松平信綱ほどに種々の才に恵まれた男もいるまい。
 彼は政治家としても、官僚としても、さらに将軍家光の秘書役としても一流の才腕を持ち、さらに将としての軍才にも非凡なものを持っており、現に彼が指揮を取って、島原の反乱拠点であった原城を陥落させている。
 のみならず、一個の武人としても柳生流の免許持ちで、十兵衛や武蔵といった達人級ではないにせよ、その気になれば剣一本で充分めしを食える腕を持っていた。
 まさにオールマイティとは彼を指す、と言うべき人物ではあるが、しかし伊豆守自身、おのれはしょせん治世の能吏であり、乱世の奸雄ではないという評価を下していた。
 その自己評価が正しいかどうかはわからない。
 しかし、彼自身のその思いが謙虚さを生み、その謙虚さが他者の眼に「松平伊豆守」という人物像を、さらに大きく見せる役割を果たしていた。
 
 だが、それほどの伊豆守信綱にして、不安なのだ。
 あの天草四郎とその一党は、まさしく彼の知る常識の範疇から逸脱した力を持つ者たちであったからだ。
(やつらのあやかしの術は我々の常識では測りきれぬ……)
 という思いが、伊豆守の心中に暗澹たるものを青かびのごとく繁殖させていたのだ。

 あの異人の女は、その身から謎の怪光線を発し、幕軍総司令官であった板倉内膳正を爆殺している。
 むろん彼自身は、その「妖術」の発揮された瞬間を見たわけではない。
 だが、跡地を見れば、その術の凄まじい威力を想像するのは、むしろ容易だ。
(もしも、あの「妖術」を使われたら……)
 伊豆守の眉間に縦皺が寄る。
 想像するまでも無い。仮にも、砦一つを跡形も無く吹き飛ばす怪光線だ。
 今この瞬間にその光線が発射されたら、港は大混乱に陥るだろうし、その隙を突いて四郎一党が船に乗り込み、出航することは充分可能だろう。
 さらに、いったん遮蔽物の一切無い海上に出てしまえば、怪光線の威力は、文字通り最大限に発揮されるに違いない。
 大砲を積んだ軍船ごときが束になって包囲網を敷こうとも、まさに一撃で陣を破られ、やつらの脱出を許すだろう。

 むろん予想される事態への対策は講じてある。
 そもそも例の怪光線は、一度それを発射した異人の女騎士がその場で倒れ、三日間寝込んでしまったという情報さえある。
 その情報を信じるならば、あの光線は連続使用が可能なほど便利な代物ではないのかも知れないが、むろん希望的観測にすがって、そうではない可能性を無視するほど伊豆守は愚劣ではない。
 むしろ、彼の心を憂鬱にするのは、そこから先の話だ。
(そもそも奴らの使う「妖術」は、例の怪光線だけなのだろうか……)
 という点に尽きる。
 確かにあの女騎士は、自らの剣の刀身を透明にする妖術を行使しているという報告もあるが、そんな小技など、伊豆守は最初から問題にはしていない。
 彼が怖れるのは、あの怪光線と同じ規模の破壊が可能な妖術が、まだ存在するか否かという一点のみである。
――もしも、そんな妖術が複数存在するというなら。
――そして、それらを四郎一党が自在に使いこなせるとしたら。

 無論その想像には彼の理性がブレーキをかける。
 四郎一党がそこまでの力を持っているとしたら、そもそも島原の乱で幕軍が勝てるはずが無いのだから。
 だが、嫌な予感が止まらないのだ。
 乱の――原城籠城の時点ではともかく、あれから半年の時間が経過している。
 過去を根拠に、現時点での彼らの力を測ることは危険ではなかろうか。
 もしも、もしも万が一、伊豆守の嫌な予感が的中したなら――。
(そうなれば、もはや私一人の手には負える事態ではない……ッッ)
 そう思う伊豆守の視線がさらに鋭くなる。
 切腹覚悟で江戸に事態を報告し、幕府の権力と軍事力の全てを使ってでも、四郎一党を止めねばならない。
 しかし……そうなれば、少なくとも伊豆守の失脚は確実だ。

 保身になど興味はない。
 もし三代将軍・徳川家光にとって、自分の存在が無意味であるなら、伊豆守はただちにおのれの腹を掻き切り、四郎を逃がした責任を取ったであろう。
(だが、そうなれば……)
 伊豆守は瞑目する。
 家光は名君の片鱗はあれど、いまだ若年にすぎ、彼がその器を開花させるためには、まだまだ伊豆守の補佐が不可欠だ。
 もし現時点で伊豆守が幕政の最前線から姿を消せば、家光ごとき若造は、たちまちのうちに大老の土井利勝に実権を奪われてしまうだろう。
 そうなれば、あたかも執権職に実権を奪われた鎌倉将軍のごとく、あたかも管領職に実権を奪われた室町将軍のごとく、江戸幕府において将軍位の独裁権力を樹立させることは、もはや不可能に違いない。
 いや――少なくとも、それを自分の目の黒いうちに許すわけにはいかない。
「天下」のためではなく、「徳川家」のためでもなく、家光個人への忠誠のために、彼はまだまだ今の地位を失うわけには行かなかったのだ。
 

「伊豆殿……本当に奴らは来るでござろうか」


 その言葉でふっと我に返った伊豆守は隣を振り返る。
 窓もなく、用意された行灯がなければ昼でも闇になる一室――そんな港の片隅にある粗末な倉庫に待機し、松平伊豆守はいま作戦の前線指揮を取っている。
 本来ならば、こんな役目は彼ほどの地位の人間が担うべきものではない。
 だが、この期に及んで作戦指揮を他人任せにできるほどに、彼はのんきな男ではなかった――。

 そんな伊豆守に、なれなれしげな口を利いたのは、彼の隣の床机に腰掛ける若い男。
 豊前小倉藩主・小笠原忠真。
 一介の地方官の息子から現在の地位まで成り上がった伊豆守信綱とは違い、生まれながらの三代目大名ではあるが、それでもボンボン育ちの能無しではない。
 それどころか、むしろ小倉藩の人材登用などに辣腕を振るい、たとえば武蔵の養子の伊織を単なる剣人として扱わず、その吏才を認めて家老に抜擢するなど、殿様にしてはなかなかに仕事の出来る人物だと言ってもいい。
 少なくとも、現状の伊豆守にとっては、腹を割って意見を交換できる数少ない一人だった。
 だから伊豆守は、満面の自信に溢れた表情で忠真に言い返してやる。


「ええ、奴らは間違いなくこの小倉にやってきます」


(何故そう断言できる?)
 そう言いたげな視線を向けてくる小笠原忠真だが、伊豆守は謎めいた微笑を浮かべるのみで何も言おうとはしない。
 いや、敢えて言葉にしていないだけだ。
 忠真は気付いていた。
 伊豆守の沈黙と微笑は(何も言わずに私を信じてくれ)という彼なりの意思表示であることを。
 小笠原忠真にとって、この松平伊豆守信綱という男は、単なる中央政府の高級閣僚でもなければ、この一件に自分たち九州の諸大名を巻き込んだ厄介者でもない。
 いや、余人が彼をどういう目で見ていようが、それでも忠真にとってこの男の頭脳・胆力は、尊敬すべき対象であった。
 ならば、この若き小倉藩主にとって、いま言うべき言葉はただ一つしかない。
「わかりました。では、このまま四郎どもを待ちましょう」
「……ええ」
 その言葉に、伊豆守はむしろ重々しげにうなずいた。

 

(やれやれ……)
 まったく表情を動かしてこそいなかったが、それでも実は伊豆守は、小笠原忠真の対応に、安堵のあまり胸をなでおろしていたのだ。
(小倉の藩主が忠真殿で助かったな)
 と、までは思わないが、それでもここにいたのが忠真ほどに物分りのいい人間でなかったら、ここで質問攻めが始まっていたかもしれない。
 そうなっていたら、下手をしたら最悪の場合、露見した可能性さえあったのだから。

――四郎一党が小倉にやってくるという伊豆守の意見が、実は他者に明晰な論理で説明が出来るようなものではなく、ただ、伊豆守の勘と推測を根拠とするものでしかない、ということがだ。
 
 もっとも、伊豆守自身はおのれの意見を、確信――と呼べるほどに自信を持っている。
 島原の乱の軍師・森宗意軒。
 乱の勃発から現在に至るまで、四郎たちを実質的に差配している参謀役。
 もっとも伊豆守自身は、原城で戦死した板倉内膳に代わって現地に赴任した二代目の司令官なので、原城籠城以前の一揆勢の戦術・戦略を体験してはいない。
 しかし、それでも城攻めを通じて強いられた苦戦の数々は、その作戦立案を担当したという森宗意軒という「人間」を知るには、充分すぎるほどのものだった。
 だからこそ断言できるのだ。
 伊豆守はすでに、軍師としての宗意軒の思考傾向を「理解」している――と。
 状況に応じて、宗意軒がどういう結論を見出すか、もはやおおよその見当が付く――と。

 プロファイリングという言葉がある。
 日本では主に犯罪捜査に用いられる手法で、犯行そのものをあらゆる角度から行動科学的に分析し、犯人の人格・思考を推測して容疑者を特定するというものだ。
 伊豆守が言っているのは、その順序を逆にした行為だといえばいいだろう。
「犯人」の思考の方向性を把握してさえいれば、次なる「犯行」の具体的な予想も可能だということだ。
 もっとも、伊豆守が知覚した宗意軒の“癖”は、彼自身が明確に言語化して他者に説明できるようなものではなく、いわば感覚的なものにすぎない。
 だから、小笠原忠真がどんなに困惑した表情をしても、伊豆守は彼に何も言わず、敢えて沈黙を守るしかなかったのだ。もしも彼が何かを言えるとすれば、
「己を敵の立場において、その行動を予測するのは軍略の基本です。しかし、敵将の思考を理解できるならば、その予測はより完全な形で行える――私が言っているのはそういうことです」
 という理屈くらいであったのだから。
 
 もっとも、伊豆守の「プロファイリング」は、単なる予断・推測ではない。
 宗意軒の思考を誘導するためのエサも、充分に撒いてある。
 小笠原忠真に依頼したその「撒き餌」も、伊豆守の希望通り撒かれていることはすでに確認してある。
 だから、伊豆守の表情には曇りは無い。



「「「「「「「「「「「「

「しかし森殿、なぜ小倉なんでやんすか?」

 山小屋にいる全員――佐助、十蔵、セイバー、天草四郎らが等しく思っている同じ疑問を、才蔵は敢えて問い、宗意軒は答えた。 
「以前四郎には説明したが……門司から下関へ渡ると見せかけて、小倉から出航するという、わしら本来の策はすでに敵に読まれておるとな」
「その話ならば、すでにシロウから聞いている。ならばこそ、裏の裏をかいて我々は、本来陽動であったはずの門司に向かうと」
 そうセイバーが口を挟む。
 が、宗意軒は静かに首を振る。
「どうやら、伊豆の奴はわしらがそう考えることまで読み切っておったようじゃ」
「それは?」
 天草四郎が老人に聞く。
「さっき偵察から帰ってきた穴山小助と由利鎌之助の話を合わせて考えるとな……どうやら小倉に比べて門司に配された兵の数は半分ほどらしいのじゃ」

「……へえ?」
 思わず頓狂な声を洩らした才蔵に代わり、天草四郎が皆を代表するように老人に問う。
「ならば、なぜ敢えて警戒の厚い小倉を選ぶのです?」
「だからこそ、じゃよ」
 と、答える宗意軒の表情には、自信が溢れていた。
「二人の報告によると、門司の兵は数こそ少ないが、その士気は高く、精兵揃いであるように思えるそうじゃ。それに比べて小倉の兵は数こそ多いが、その惰気は明白で、到底わしらを本気で止めるための警備には見えぬとな」
「それだけですか?」
「まだある」
 そこで息を切り、宗意軒はにやりと笑った。


「門司の兵の中には、宮本武蔵の姿があったそうじゃ」


 その名を聞いて、さすがに全員の目の色が変わった。
 武蔵という男をテーマに、たった今まで彼らはミーティングを重ねていたところだったのだから、それは当然であろう。
「なるほど……それなら確かに、小倉に向かうべきだと言うしかないな」
 セイバーが納得したようにうなずく。

 これまで幕府軍の追跡や阻止線を、自在に蹴散らしてきた四郎一党にとっても、最も警戒を要する存在こそが宮本武蔵であることは、四郎追捕の総指揮官である松平伊豆守も承知しているはずだ。
 なにしろ武蔵は、原城で幕府兵をなで斬りにしたセイバーと互角に戦い、さらに原城以降の追跡戦でも、四郎一党に忠実に追いつき、“十勇士”の一人である望月六郎を斬るという結果を残している。
 その武蔵を、小倉ではなく門司に配置しているということは、四郎一党の本命たる目的地が門司であると、伊豆守自身が判断したからに他ならない。
 ならば、その裏をかくのはむしろ当然であろう。

「……まあ、宮本クンも今回は命拾いしたって話ッスかね」
 十蔵が、これみよがしに短筒を弄びながら言い、一同の苦笑を誘う。
「とにかく明日払暁、我らはこの山小屋を引き払い、小倉に向かう。よいな?」
 そう言いながら、宗意軒の頬にも苦笑が浮かんだままだ。

 もちろん彼らは知らない。
 その笑みさえも、敵将・松平伊豆守の用意した「撒き餌」の結果である事実を。 


」」」」」」」」」」」」」

 その瞬間だった。
 薄暗い行灯のみを唯一の照明とする暗黒の倉庫内に、突如強烈な光が差し込んだのだ。
 それの意味するところはただ一つ。
 何者かが、この倉庫の扉を開け、中に入って来たのだ。
「誰じゃ!?」
 反射的にそう問う忠真ではあるが、それは愚問というものだろう。
 ここに松平伊豆守と小笠原忠真がいることを知る者は決して多くはない。
 
「殿、阿波でございます」
 小倉藩小笠原家家老・三浦阿波守。
 しかし、そんな名前はどうでもいい。
 重要なのは、彼がここへ来た理由なのだから。
 そして、その重要さを知る三浦家老は、可能な限りの冷静さを装いながら、しかしそれでも抑えきれぬ興奮とともに、忠真ににじり寄り、それを告げた。


「外詰めの兵どもから報告がありました――四郎ですッッ!! 天草四郎とその一党が、商人に変装して姿を見せましたッッ!!」


 思わず床机から立ち上がった忠真。
「…………ッッ!!」
 外詰めの兵とは、この小倉港を包囲するように配した三千の兵のことで、いわばこの包囲網の外郭にあたる部署の者たちだ。
 が、それはいい。
 忠真の目は、見事おのれの“予言”を的中させた伊豆守に注がれている。
 しかし、それも一瞬だった。
 彼は、すぐに我に返り、おのれの役目を思い出したかのように叫んだ。
「すぐさま陣貝を吹け! 全ての兵を集めて奴らを包囲し、斬れ!!」
 と。
 が、それを遮るように冷静な声が、蔵の中に響いた。


「なりませぬ。気付かぬ風を装い、奴らが船に乗り込むのを待つのです」


 小笠原忠真は、今日三度目になる奇異の視線を、伊豆守に向ける。
(何を馬鹿な、この港にいるのは、四郎を捕らえ斬り捨てるための兵ではないか)
 そう言いたげな――先程までとは違い、咎めるような鋭い視線を伊豆守に送るが、それでも伊豆守は動じない。
 むしろこれまで以上に冷静な声色で、三浦に言う。
「よいですか、奴らを船に乗せるのです。それまで断じて手を出すことは許しません」
 が、そう言われた三浦阿波守は何も言えず、困惑したように忠真を見上げる。
 当然であろう。
 たとえ松平伊豆守が天下の老中であろうとも、彼の直接の主君は小笠原忠真であり、この港にいる全ての兵は小笠原家の兵なのだから。

 しかし、忠真の判断は早かった。
――伊豆殿の脳裏には、ここから先の局面の全ての絵図面が、完成された形ですでに存在しているのだろう。
 そう解釈するや、おのれの父親ほどの歳の家老に向け、硬い口調で命じた。
「構わぬ、すべて伊豆殿の指図どおり動け。これはわしからの命令じゃ」
「はッ!!」
 そう答え、主君に背を向けて駆け出そうとした三浦だったが、
「阿波!!」
 と呼び止め、忠真は重ねて申し付けた。
「抜け駆けに逸って我が命に逆らいし者には死を与える。なればこそ四郎どもには絶対に手を出すな。兵どもにそう伝えい!!」
 その若き主君の厳しい表情に、むしろ頼もしげなものを見る視線を送り、三浦家老は改めて、
「ははッッ!!」
 と平伏し、そして蔵を出て行った。
 残ったのは、忠真と伊豆守の二人だけだ。
 そして、忠真はしばしの沈黙の後、伊豆守を振り返り、言った。

「つまり、敢えて連中を海に出す理由がある、ということですか伊豆殿」
 
 伊豆守は、この頭の回転の速い青年の言葉に満足げにうなずく。
「いま我らが一番怖れねばならぬ事態は、四郎を逃がすことです。しかし、海上ならばその心配はない。奴らを一度海に出し、そこで船ごと沈めてしまえば、いかにキリシタンの妖術使いといえども溺れ死ぬしかないからです」
「……なるほど」
 ようやく納得したように忠真は微笑する。
「それに、船着場でいかに連中を包囲しても、武蔵を欠いた我が藩の兵では、奴らを結局取り逃がす恐れも、少なからずござりますしな」
 そう自嘲気味に言う忠真に、伊豆守は何も言わずに苦笑いをする。
 武蔵を門司に配置したのは伊豆守の指示だから――ということだけではない。
 どう言い繕うとも「小笠原家の兵では、しょせん白兵戦で四郎一党を斬ることは難しい」という意味の発言は、武家の面目を著しく傷つけるものだからだ。
 だから、伊豆守は意識を切り替えたように立ち上がり、言い放つ。


「どちらにしろ、この海こそが奴らの三途の川になることは間違いありません」


 が、その肝心の海戦においても、伊豆守が内心に不安を抱いている事実を、小笠原忠真はまだ知らない。



[36073] 第二十話  「出航」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/06/10 18:06
 今この瞬間まで、そこには誰もいなかった。
 しかし、今はいる。
 数歩の距離まで迫ったセイバーの標的である大砲。その前に、まるで壁のように立ちふさがる女。
 おそらく、さっきセイバーを空中から攻撃した後、余裕を持って、そこに降りてきたのだろう。
 甲冑の上から洋服らしい上着を着込んだ、セイバーの知らない戦装束。
 いや、それ以上にセイバーの目を引いたのは、その女の外貌だった。
 その女は、セイバーが見慣れた平たい顔の日本人ではなく、ヨーロッパ系を思わせる白人種だった。さっき行使した“火”属性を象徴するように、その髪は燃えるような赤に彩られ、その瞳は猛禽のような鋭い視線をセイバーに向けて放っている。
 いや、“火”の魔力付与攻撃を仕掛けてきた以上、この女も魔術師であるはずだし、ならば日本人でないのはある意味当然と言わねばならないが、しかし、セイバーの覚えた違和感は、女の放つその剣気だった。

 魔術師は剣気を放たない。
 いや、それ以前にこの女は魔術師ではない。
 そいつが右手に持った剣が証明するように、女は、誰が見ても一目でわかる「剣士」だった。
 セイバーと同じく、一本の剣を自らの分身として振るい、呼吸するように、食事するように敵を斬り捨ててきた――そういう生き方をしてきた者。
 しかも、騎士道もしくは武士道的な戦闘美学を、おのれのプライドとして抱く者。
 さもなければ、さっきの回避運動で体勢が崩れたセイバーは、一刀の元に斬殺されていなければならない。
 あの瞬間の彼女は、まさしく隙だらけだったのだから。
 いや、それどころか今この瞬間でさえも……。


「十兵衛殿、わかっていようが手出しは無用だ」


――そう。
 女が声をかけたのはセイバーに向けてではない。
 セイバーの後ろにいる、もう一人の存在。
 無論セイバーは、女と対峙した瞬間には、背中の気配に気付いていた。
 そいつは、眼前の女ほどにむき出しの剣気を放ってはいなかったが、それだけにその落ち着いた存在感は、この赤毛の女と同様に、容易ならぬ敵であることを立証していた。
 つまり、こいつらはその気になりさえすれば、二人がかりであっさりセイバーを殺せたということだ。
 しかし今、赤毛の女はその選択肢を自ら捨てた。
 そして背後の存在も、(やれやれ)と言わんばかりの溜息とともに、その殺気を収めたのがセイバーにもわかった。
 ここまでお膳立てされれば、もはや赤毛の女の言い分を理解せざるを得ない。


「つまり、貴様の望みは一騎打ち、ということでいいのだな?」


 そういってセイバーは、背後の敵に対する一切の警戒を解いた。
“一騎打ち”という言葉を聞いた瞬間に、赤毛の女が子供のように微笑したのが見えたからだ。
 わかっている。
 この女は私と同じだ。
 一瞥でわかる、この世界に本来いるはずのない存在。
 だがそれだけではない。
 女として以上に、戦士として、自分と同じ匂いがするのだ。
 人斬りが好きなのでも戦争が好きなのでもない。
 闘うのが好きなのだ。
 一対一で、対等な、強者と、命を懸けて、勝負するのが好きなのだ。
 死や敗北は、あくまでもその結果でしかない。
 ならばこそ、セイバーは言う。
「我が名はアルトリア……人はセイバーと呼ぶ」
 ならばこそセイバーは問う。
「貴公の名を聞かせよ」


 そして、その問いかけに、赤毛の女は誇らしげに答えた。
「時空管理局一等空尉……いや、最後の夜天の主・八神はやてが守護騎士」
――シグナム、と。


 むろんセイバーには「ジクウカンリキョク」なる組織も「ヤガミハヤテ」なる人物も聞き覚えは無い。
 しかし、ここで敢えて無粋なツッコミを入れるほど彼女は野暮ではないし、もはやそんな些細なことはどうでもいい。
 重要なのは、剣を交えるに足る相手がここに――自分の眼前にいるということだ。
 なればこそ、セイバーは言う。
「いくぞ、シグナムとやら!!」


「「「「「「「「「「「「「「「「

――二人の女騎士が出会い、剣を交えるその六十分前。
 小倉港の桟橋からは、一隻の船が出港しようとしていた。


「抜錨!!」
「艫綱(ともづな)解けぇ!! 出航するぞぉ!!」
「よぉし、行き足ついたぁ!!」
「総帆開けぇ!!」
「舵固定! 進路このまま!! よぉそろぉッッ!!!」

 などといった船乗りたちの専門用語が飛び交い、甲板上や帆柱周辺は、何人もの船員たちが忙しげに走り回る中、帆に風をはらんだ船は、桟橋を離れて、ゆらりと進み始めた。
 そんなせわしげな空気の中、達磨のように太ったヒゲ面の船長だけは、そのまま無言で腕を組み、船首に屹立したまま水平線の彼方を強い視線で睨みつけている。
 勿論その背中に、お前も働けよと無粋なツッコミを入れる船員は誰もいない。
 この船長が身にまとう空気は、それほどまでに完成された「海の男」のものだったからだ。

 彼の名は堺屋新左衛門。
 この船の船主にして、小倉を拠点に日本海航路を交易地盤とする海運商人である。
 真っ黒に日焼けした全身の肌。
 一見太っているように見えても、よく見ればその肉体は、船乗り独特の分厚い筋肉に覆われていることがわかる。
 また、その褐色の肌よりさらに黒いひげが顔の下半分を覆いつくし、まるで三国志の関羽将軍のごとき貫禄が、船長の全身を包んでいる。
 とはいえ、外見年齢だけでも明らかに五十歳以上であることが見て取れる彼が、戦国生き残りの「元いくさ人」であることは、子供にも想像がつくだろう。
 もとより、この堺屋――御堂新左衛門――といえば、かつては中国・朝鮮・東南アジアにまで押し出した倭寇の一手の将であり、さらに小西行長に仕えてからは、その水軍で名を知られた男であったが、小西家はもとより、豊臣家さえも大坂城とともに滅亡して久しい現在、もはや男の旧名を知る者はこの世にはいないはずだった。
 カネを積んで小倉よりの密航を依頼し、いま船倉に身を隠している数人の客。
 その中にいるかつての同僚――森宗意軒を除いては。

 
「かしら」
 と呼ばれた声に振り返ると、副長格の清太郎がこちらに走り寄ってきた。
 が、彼の口から出たのは、船乗りには日常であるはずのいつもの大声ではない。
 むしろ真夏の怪談話でもするかのような囁き声だった。
「なんだかんだと、何事も無く出航できたようですね?」
 無論そこにホッとしたような響きは無い。
 覚悟していた一悶着が起きなかったということは、それはそれで喜ぶべきではあるが、それでも油断は出来ない。
 逆に、海にこそ罠を張っているのだとしたら、乗船の際に手出ししてこなかったのは当然だし、さらに面倒はここからだという話になってしまう。
 清太郎も、それを言外に含ませているつもりなのだろう。
「あの連中、やっぱり断れなかったんですか?」
 と、いかにも厄介を背負い込んだと言わんばかりの顔で聞いてくる。

 が、新左衛門には、その今更ながらの質問にまともな返事をする気はない。
 第一、目の前で小判を積まれた時はコイツだって、惚れた女と祝言が決まったような顔で喜んでいたのだ。
 それを今更「断れなかったのか」と、こっちに責任を押し付けるのような言い草をするところが、また笑止千万ではあるが。
「言うな」
 と、鋭い視線を伴った重い声で新左衛門は答える。
 これでも戦国生き残りの一睨みだ。他の者ならその視線の鋭さに口答えなど出来なくなってしまう。
 もっとも最近は特に生意気な口を利くようになってきたこの青年は、のけぞりこそしたが、それでも船長の一瞥で自分の言い分を完全に封印してしまうほど従順ではない。
 だからこそ、新左衛門は敢えて言葉を付け足してやる。

「あれは俺の昔の主筋の連中だ。何か頼まれたら無下にはできん」

――だから今更ゴチャゴチャ言うな。
 そう言わんばかりの口調で、清太郎の反論を封じる。
 生粋の船乗りであるこの青年に、武家奉公の倫理はわからない――ということはない。
 封建社会の価値観の根幹が“主従”という人間関係にある以上、たとえ漁民町人といえども、その関係に付随する感情を理解できないということはありえないからだ。
 そして眼前の若造は、新左衛門の“主筋”という言葉の絶対的な響きに言葉を失い「このまま何もなきゃいいですけどね」と捨て台詞のように吐き捨て、不貞腐れたように背を見せた。

(いちいち口の減らない奴だ)
 新左衛門は清太郎の背中を見終えると、そう思いながら太い鼻息を洩らす。
 とはいえ、清太郎の生意気すぎる態度に怒りを覚えるには、新左衛門は歳を取りすぎていた――という話ではない。
 正直な話、自分が彼の立場ならば、やはり同じことを思っただろうし、同じことを言ったはずだ。
 たとえ何をどう言い繕おうとも、船倉の連中が小倉藩に追われているのは間違いないし、ひいてはこの船――「堺屋」という看板そのものを危機にさらす原因ともなる。
 それどころか、下手をすれば連中の逃亡幇助で、自分たちまで罪に落とされかねない。
 これは子供でもわかる理屈だ。
 船の、というか店の関係者としては文句の一言くらいは言いたくなって当然だろう。
 いまさら侍時代の旧縁をほじくり返す意味など、新左衛門本人にはともかく、堺屋という「法人」にしか縁を持たない清太郎たちに、理解しろなどと言うこと自体の無意味さは承知している。
 むろん彼ら現部下たちも、新左衛門がどこの誰であったかまで知っているわけではない。
 が、それでも彼が、元は豊臣系大名の牢人であったことくらいまでは、うすうす察しがついているであろう。
 逆に言えば、徳川家による幕府成立以降に「商人」という新興階級に台頭した者たちの大半が、新左衛門と同じような「侍崩れ」であることは間違いない。なればこそ、小倉藩が小倉港に寄港している商人や船乗りの身元調査をしているらしいと聞いたときも、新左衛門は特に何も感じなかった。新興階級なればこそ仲間を売るような仁義しらずは、滅多にいない。むしろ(無駄なことを)と腹の中で嗤ったくらいだ。
 腕一本・才覚一つで世を渡ってきた新左衛門にとって、小倉藩など所詮その程度の存在に過ぎない。
 が、それでも――敵に回して得をする権力など、この世には存在しないのも事実だ。
 しかし、清太郎には悪いが、もうこれはそういう話ではないのだ。

 
 かつての主家たる小西家が、関ヶ原の戦後処理で取り潰されて、約四十年。
 それ以来、新左衛門はおのれが建てた「堺屋」という看板に隠れて、一個の商人として生きてきた。
 だから何だ?
 そう問われても返す言葉など無い。
 新左衛門としても、そんな過去に対する感情など、とっくの昔に整理がついているはずだったからだ。
 が、過去の亡霊のようなかつての同僚とさっき顔を合わせて、彼の胸のうちに芽生えた感情は――新左衛門本人にさえも意外なことに――巨大なまでの「羞恥」だった。

 彼らが、おのれの商人としての立場を危うくするであろう“招かれざる客”であることは間違いない。しかし、今なお「小西家牢人」として現世をさまよっている亡霊のような彼らに比べて、名を捨て、過去を捨て、武士としての矜持も何もかもを投げ捨てて世渡りをしている自分の、なんと醜く、恥ずべき姿であることか。
 そして、その身を焼くほどの羞恥を一度意識してしまったら、もう駄目なのだ。
 昨日までの、銭勘定を基盤とする商人としての日常的な思考そのものが、もうどうしようもなく色褪せて見えてしまう。
 そうなってしまっては、もう駄目なのだ。
 昨日までの自分を否定することの無意味さを、充分に理解しながらも、それでも否定せずにはいられない。
 そうなってしまっては、もはや明日以降の日常をどう過ごせばいいというのか。

 いや、確かにこれは新左衛門自身、わけがわからない心境だと言うしかない。
 先祖代々の主君というならともかく、彼にとって小西家など所詮おのれ一代限りの奉公先に過ぎない。
 いやそもそも小西行長自身、羽柴筑前守時代の秀吉に拾われた堺の薬屋のせがれであり、さらに言うなら、その秀吉自身、元をただせば尾張の貧農の子でしかない。
 無論それは、この時代の人間の意識にとっても重要な点だ。
 つまり――清太郎にはああ言ったが――本音を言えば、新左衛門にとっても武家的な価値観などは、あくまで一時の方便であったにすぎず、主君・摂津守行長本人に対してならばともかく、小西家という家や血筋に対する尊崇など、現役の武士であった頃からそれほど持ち合わせてはいなかったという事なのだ。
 もっとも、それは彼個人が特に薄情な人間であったということではない。
 彼も、彼の主君も、ついでに言えばその主君の主君も、先祖代々続く生粋の武士ではない。主君本人ならばともかく、その家という「法人」に対してまで忠誠を尽くす価値観をさほどに持っていない。
 なればこそ秀吉は信長亡き後の織田家を追い落とし、さらに、秀吉が草莽より拾い育てた多くの大名たちは、秀吉亡き後の豊臣家を見限って家康に協力し、恥も外聞もなく自家の保存を最優先の目的とした行動を取ったのだ。もっとも加藤清正・福島正則といった彼ら豊臣系の大名のほとんどは、最終的に徳川によって取り潰されてしまったが――しかし、それを自業自得と嗤うつもりは、新左衛門にはない。
 まあ、それはいい。
 要するに新左衛門にとって、今おのれが森宗意軒に対して抱いている“羞恥”という感情自体が、非常に納得のいかないものであったということなのだ。


 溜息を一つつくと、新左衛門はようやく動き出した。
 船の行き足は順調だ。
 風も追風だし波も穏やかだ。
 新左衛門は甲板に突き出た入り口から階段を降り、そのまま廊下を人気の無い方向に移動する。
 この船は、日本海航路用の大型船――いわゆる「北前船」と呼ばれる種類の物なので船倉は広く、大きい。人間の数人程度なら隠そうと思えばなんとでもなる。
(とはいえ……どうすべきか)
 新左衛門は、数十回目になる自問を脳裏に浮かべ、ごりごりと頭をかいた。

 
 船倉の奥、積み上げられた米俵の陰に隠れるように、連中はいた。
「おお新左、此度は本当に世話になったのう。おぬしの心遣いと忠誠には、亡き殿も“はらいそ”でさぞかし喜んでおられるであろうぞ」
 一同の中心に居座り、大声で自分を呼ぶ、骸骨のような外貌を持つ、この老人。
 名も覚えている。
 小西家時代にさほど友誼を結んだ記憶はないが、それでもその特徴的な外見は、余人と間違えようが無い。

「そんな話はいい。それより森、本当に新潟でこの船を下りてくれるんだな?」

 新左衛門の切り込むような一言に、さすがに森宗意軒といえどもムッとした様だったが、しかし、一瞬後にはすぐに好々爺とした笑顔に戻る。
「おおよ、新潟まで運んでくれるだけでも我々としては大助かりじゃ。おぬしにはもう、どれだけ感謝しても感謝しきれぬのう」
 という、宗意軒の声と同時に、スッと立ち上がった一人の若者。
「御堂新左衛門ですね。宗意より貴殿のことは耳にしていましたが、しかし、此度は本当に世話になります。貴殿の尽力に感謝します」

 その眼光。
 その声色。
 そして間違えようも無い、全身から匂い立つような、その気品。

 気が付いた瞬間、新左衛門は自分がこの船倉の床に膝を付き、額を床にこすり付けるような勢いで平伏している自分を発見した。
 が、そんな自分を意識しても、顔を上げようとは思わない。いや、平伏したまま体を微動だにさせようとも思えない。
 そんな新左衛門に、宗意軒が口を開く。
「亡き殿の忘れ形見、小西弥九郎様じゃ」
 鼓膜を震わすその名に、新左衛門のうなじがびくりと震える。
 むろん知らぬ名であるはずがない。
 かつて秀吉に拾われた当時の小西行長の旧名ではないか。
「父を直接知らぬ私ですが、いまは宗意の進言もあり、かつての父の名を名乗っています。いずれこの名も、この小西の血とともに私の子に譲ることになるものではありましょうが」
「おお……おおお……ッッ!!」
 たまらず新左衛門は顔を上げる。
 もはや溢れる涙を止めようも無い彼の目には、眼前の若者の顔さえハッキリと視認できなかったが、それでもこの青年――いや、少年と呼ぶべきか――が、何者であるかは、もはや確信を持って理解できる。

「御堂……新左衛門でござりまする、若殿ぉ!!」

 新左衛門は泣いた。
 この数十年――いや、関ヶ原で何もかもを失ったあの日以来、流すことさえほとんど無かった涙は、まるでこの日のために溜め込まれていたといわんばかりに、とめどなく流れ落ち、船倉の板敷きの床に小さな水溜りを作った。
 いや、当然であろう。
 あの日滅んだはずの小西家は、ここに復活したのだ。
 雌伏の日々は終わりを告げた。
 小西家家臣・御堂新左衛門は、数十年の空白を経て、ようやくおのれの主たる小西家の後継者に巡り会えたのだ。
 もはや一分のためらいも無い。
 新左衛門が稼ぎ、溜め込んだ蓄財も、そしてこの船も、いや、この命さえも、何もかもをこの御方のために捧げよう。
 彼は、何の疑いも無く、おのれの心にそう固く誓った。

 そして、号泣しながらひざまずき顔を上げようとしない新左衛門を、自ら「小西弥九郎」と名乗った少年は、複雑な顔で見下ろした――。


「「「「「「「「「「「「「「「

「しかし“暗示”というものは、何度見ても愉快なものではないな」

 日本髪のカツラを脱ぎ、着物の襟元をくつろがせながらセイバーが言う。
 新左衛門はすでにこの場にいない。
 彼は涙を拭き、船長としての任を全うするために甲板に戻っていった。
 そのためか、この場にいる全員に、ある種の弛緩した空気が流れている。
 だからなのだろう。
 セイバーも誰に遠慮することなく、魔術師への嫌悪感を剥き出しにした感情を、宗意軒に向けている。
 もとより宗意軒も、セイバーのそんな視線など歯牙にもかけない。

「なんじゃセイバー、おぬしはもう二度と“卑怯”などという言葉は使わぬと昨日言うておったじゃろうが。あれは嘘か?」

 そう言われては彼女としても黙るしかない。
 まあ、セイバーの気性を考えれば、彼女が眉をひそめるのも当然ではある、とは宗意軒も思うが。
 人間の感情を欺き、操り、弄ぶ所業――この船の主である堺屋新左衛門に宗意軒がかけた“魔術”とは、客観的に見てそういうものであったからだ。まともな神経を持つ人間ならば、目をそむけずにはいられまい。
 それくらいは宗意軒もわかる。
 が、この場においてそんな複雑な表情をしているのはセイバーと四郎だけであり、真田忍軍の者たちは、むしろ賞賛と尊敬のまなざしを自分に向けているのが皮肉ではあったが。
「しかし森殿、まったく便利なものですな。その暗示なる術は」
“十勇士”の中でも比較的人格者であるはずの佐助でさえ、感嘆とともにそう言う。
 まあ、それもある意味当然であったろう。
 他者を欺き、忍び、潜み、情報を入手することこそが、諜報技能者であるはずの彼ら忍びの職業目的なのだ。こうまで真正面から、他人の心を操れる技能を羨まぬはずがない。
 
 
 堺屋――御堂新左衛門が、かつて小西家において宗意軒と同僚であったことは、事実として間違いない。
 が、そんな彼に暗示をかけ、我々に自ら望んで協力するように仕向けたのは、宗意軒の魔術の結果である。
 今日という日に都合よく小倉と門司を出航する船をリストアップするくらいの下準備は、宗意軒としても真田忍軍に命じて、当然やらせている。その責任者に“暗示”をかけて、自分たちの乗船に協力させるためであったが、しかしそれにしてもその中で、たまたま旧知の人間が小倉にいたという偶然は幸運としか言いようが無い。
 そのための材料として、小西家の旧臣であった過去の記憶を刺激するために、天草四郎に「小西弥九郎」なる偽名を名乗らせもした。
 もしも新左衛門が正気であったならば、四十年前に滅んだ小西家の御落胤が生き延びていたなら、その年齢も相応のものでなければおかしいということに気付いたはずだし、少なくとも、どう見ても十代にしか見えない少年が、摂津守行長の息子であるはずがないと、瞬時に判断したであろう。
 宗意軒が憶えている限り、御堂新左衛門という男は、その程度には頭の回る怜悧さを持ち合わせていたはずだからだ。

 が、まあいい。
 とにもかくにも、船は小倉を出た。
(とりあえずこれで、少なくとも次の停泊地までは安全であろう)
 などとは、宗意軒は思わない。
 この船に乗り込むまで、自分たちがおびただしい監視の目に晒されていたことなど、すでに承知していたからだ。
――ならば何故、奴らは自分たちに手を出さず、むざむざ出航するのを見過ごしたのか?
 宗意軒は溜息をつきながら、その場に腰を下ろす。
 無論そんな疑問の解など、彼にはとっくに見当が付いている。 
 そして、彼のそんな予想を裏書するように、甲板へ通じる階段から再び、どたどたと聞き覚えのある足音が響いてきた。


「若殿! 一大事でござりまする!」


 そう言いながら、慌てふためくように船倉の、自分たちの前に飛び込んできた男。
 むろん、そんな聞き慣れぬ言葉で彼らを呼ぶ者が誰であるかは明白だ。
 いかにも主君を守るような風情で、四郎の前に腰を上げた宗意軒が、
「どうした?」
 などと訊くまでもなく、新左衛門は喚くように言う。
「戦船(いくさぶね)が四隻、一直線にこの船を追ってきます!! 奴ら、この船を包囲するつもりでございますぞ!!」
確かに聞き捨てなら無い情報ではあるが、宗意軒は冷静に突っ込む。
「落ち着け新左、その船が追っ手であるとは限るまい。ひょっとすると単に同じ方角に急いでいるだけの船団かも知れんじゃろう?」
 が、新左衛門の表情は変わらない。
 むしろ、その緊張を増大させながら、旧主の忘れ形見たる少年を振り返る。
「いや、拙者も最初はそう思ったのですが、先程やつらの船から、この矢文が打ち込まれたのでございます!」
 そう言いながら一枚の紙を差し出し、新左衛門はさらに続ける。


「停船せねば攻撃する、とありまする! これはまぎれもなく若殿に対する公儀の追っ手でございましょう!!」




[36073] 第二十一話  「海戦 (其の壱)」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/06/15 02:46

「停船せねば攻撃する、とありまする! これはまぎれもなく若殿に対する公儀の追っ手でございましょう!!」

 
 しかし、その報告を前にしても四郎一党の中には、動揺を示した者はいない。
 セイバーはもとより、真田忍軍の面々も(やっぱりな)といった表情を崩さなかった。
 彼らもまた、宗意軒同様に、自分たちが乗船の際に監視されていた事実に気付いていたからだ。あの露骨な視線に気付いていなかった者といえば、この中では戦力的には素人に近い天草四郎ただ一人であったろう。
 が、その四郎とて――少々青ざめてはいたが――その戦慄すべき報告を聞き、特に取り乱すこともなく口を開く。
「して御堂殿、貴殿はいかがなさるおつもりでござるか」

 新左衛門はその言葉に、むしろ怒りを覚えたように興奮し、叫んだ。
「これは異なことを!! 拙者がこんな脅しに屈して若殿を売るような真似をするとお思いでござるか!?」
「では?」
「知れたこと!! 何が何でも逃げ延びて、若殿には指一本触れさせませぬ!!」
「御堂殿……」
「おやめくだされ、そんな他人行儀な……かつての殿のように、拙者のことは新左とお呼び下され!」
 頬を真っ赤にさせて新左衛門は、再び泣きそうな顔をしながら言う。
 四郎は、そんな彼の前に歩み寄り、膝を付いて肩に手を置き、「小西弥九郎」として、その言葉に応えた。

「新左、そなたの忠義、有り難く思います。そなたたちのような家臣に恵まれ、父はさぞかし幸運な主君であったのですね」

「おお……おおお……なんと勿体無い御言葉を……ッッ!!」
 男泣きにむせぶ新左衛門ではあるが、しかしその涙も所詮は宗意軒のもたらした“暗示魔術”の結果であると思えば、四郎も内心複雑なものを抱かずにはいられない。
 が、今はもはや、そんな物思いにふけっていられる様な情況ではない。
「新左、泣くのは後です。今はその追っ手とやらを蹴散らすことをまず考えましょう」
「は――ははぁっ!!」
 と、再び平伏し「これはお見苦しいところをお目にかけました」などと言いながら、袖で涙をぬぐう新左衛門を視界の端に収めながら、四郎は厳しい表情で仲間たちを振り返る。


「それでは行きますよ皆さん、宜しいですね?」

 
 その優しげな言葉とは裏腹な、凛然たる四郎の威厳にセイバーは――いや、彼女のみならず真田忍軍たち、そして森宗意軒さえも反射的に片膝をつき、「「「ははッ!!」」」と応えた。


」」」」」」」」」」」」」」」
 
(しっかしアレですな、四郎殿はひょっとして本物の大名様の御落胤だったりするんでやんすかねぇ?)
 才蔵が、甲板に続く階段を上りながらセイバーに小声でそう話しかけてきた。
 さっきの一瞬、あの場にいた全員が四郎の威に打たれ、ひざまずいた――そのことを言っているのだろう。
 暗示魔術で四郎を旧主の御曹司と勘違いしている御堂新左衛門や、謹厳実直な佐助ならばいざ知らず、無頼奔放というべき森宗意軒や筧十蔵のような男にまで反射的に膝を付かせるなど、やはりあの少年はただ者ではない。
 が、セイバーに言わせれば、そんなことはいまさら言うまでもない話だった。
 原城の篭城戦でも、あの少年は何度もカリスマ性を発揮して、分裂寸前だった一揆軍をまとめ直し、落城のその日まで裏切り者や降伏者を一人も出さないほどの指導力を発揮していたではないか。


 しかし、もうそんなことはどうでもいい。
 事態は、いよいよセイバーの最も怖れた方向に流れつつある。
 その事実が、彼女の背中を硬くする。
 いつもは応じる才蔵の軽口にさえも答える気がしない。


 階段の最後の一段を上り、甲板に出る。
 生ぬるい潮風がどっと全身を洗う。
 が、その瞬間には、すでにセイバーは変装用の仮衣ではなく、戦闘体制を整えていた。
 顔と金髪を覆い隠していた菅笠と日本髪のカツラを脱ぎ捨てるや、魔力を解放し、紺碧の着衣と白銀の甲冑を具現化し、さらには“風王結界(インビジブルエア)”をも解除し、黄金の聖剣エクスカリバーを衆目の前に現界させた。
 途端にどよめく声が周囲に沸くが、もはやどうでもいい。
 セイバーはそのまま船尾に走り、追っ手の船団とやらを視認する。
(あれか)
 御堂新左衛門の言ったとおり、確かに四隻の大型船がこっちに向かって速度を上げつつある。

「家紋が無いな」
 隣から森宗意軒の声がする。
(確かに)
 静かにセイバーはうなずく。 
 日本の水軍は、その帆布に家紋を染め抜いている場合が大抵だと聞いたが、あの四隻は無地の白布を使っている。
 すなわち、この海戦の勝敗に家名を主張する気が無い、ということだ。
「まあ、そりゃそうなるかのう。すでに死んだはずの天草四郎の首を上げるための船戦(ふないくさ)など、仕掛ける側にしても名乗りを上げるわけにはいくまいからのう」
 納得したように老人がつぶやく。
 が、それだけではあるまいとセイバーは思う。
「勝ち名乗りを上げられぬほどに汚い真似をしてでも、ということかも知れんぞ?」
 そう言いながら、セイバーは宗意軒を振り向く。
 老人も、薄笑いを浮かべながら応える。
「じゃな。戦船が商船に――それも四対一で仕掛ける船戦など、世間的には充分に“卑怯”の範疇じゃからのう」
“卑怯”というワードにのみ力を込めて吐く老人の嫌味ったらしさに苛立つ余裕など、すでにセイバーには無い。
 すでにその時、この海戦は新たな局面を迎えていたからだ。


 追撃船団の中央の船から、軍鼓とおぼしき響きが轟くと、四隻の戦船から一斉に矢が放たれたのが見えた。
 ただの矢ではない。
 鏃(やじり)を包む赤い光がここからでも見える。
 つまり、火矢だ。それが数十本。
 この当時の船舶というものは、当然のことだが木造船であり、それゆえに火に弱い。
 船体もマストも一度ついた火が燃え広がれば、あっという間に火だるまになってしまう。
 が、一度焼けた船というものは、もはや再利用が不可能になるため、艦船の――特に大型船の貴重さを知っている水軍同士の海戦では、あまり火矢という兵器は使われることは無いのが世間的な常識であった。
 しかし、それでもこの攻撃は当然、森宗意軒には予想範囲内のものであった。
「かはっ! たわけどもが!!」
 そう罵った老人は、口中で素早く“呪言”をつぶやき、その途端、空中の火矢は何かの手品のように散開し、バラバラになって海中に落ちてゆく。
 宗意軒が使った“風”の魔術だ。
「ソーイケン、そなた“風”の属性だったのか」
 彼の、魔術師としての意外な腕前に、セイバーは反射的に口元を緩める。
 それに応じるように、この、おそらくは日本唯一の魔術師も誇らしげに、
「なめるな馬鹿者、海上の気流操作なぞ大した芸当でもないわい」
 と言い返す。
 事態が変わったのは、その瞬間だった。


「なッ!? なんだぁッッ!!??」

 
 大波にでも煽られたかのように突如、船が揺れたのだ。
 それと同時に巨大な水柱が船の右舷に立ち上り、その衝撃にぐらりと傾いた船体は、次の瞬間には逆方向に揺り返し、先刻と同じように傾いた。
 その甲板を、跳ね上げられた海水が大粒の雨のように叩く。
 いや、その直前にこの船の乗員全ての鼓膜に届いた、一発の轟音があった。
 それはある意味、四郎一党には馴染みの音。
 海上より原城を包囲したオランダ艦隊から発射された艦砲射撃と同じ響き。
 が、後方から迫る追撃船団から放たれたのは数十本の火矢のみであることは、セイバーも知っている。
 つまり――。


「かしらぁッッ!! 前方の島影から、別の船団がッッ!!」


 悲痛な声で清太郎が叫ぶ。
 が、それよりも早く、セイバーは動き出していた。
 地震というより、まるで赤子を乗せる揺りかごのように、右に左に傾斜する甲板を、バランスを崩すことも無く船首まで一目散に駆け寄る。
 そして、水平線の彼方に目を凝らすまでも無く――やつらはいた。
 後方と同じく、きっちり四隻。
 やはり帆布に家紋を記さぬ匿名の船団が、この船の進路を塞ぐように舷側をこっちにむけて海上を進んでくる。
「前と後ろから挟み撃ち、か……ッッ!!」
 隣からは、佐助の歯軋りするような声が聞こえてくる。
 いや、佐助一人ではない。
 その後に続くように、揺れの収まりかけた甲板を走り、真田忍軍の忍びたちが続々と船首に集う。
「こんなこったろうとは思っとったが……やっぱキッチリ罠は張られとったっちゅう事かよッッ」
 そう呻いたのは十蔵だ。
 が、それに応じる声はない。
 というより、余計なお喋りをする余裕はすでに無かったと言うべきか。
 先ほど、この船を砲撃した大砲が、ふたたびこちらに向けて火を噴いたからだ。

「ぐうッッ!!」

 大気を震わす砲音。
 船を揺るがす着水音と衝撃。
 直撃こそしなかったものの、大型の北前船が木の葉のように波の上を翻弄される。
「おッ……これちょっとヤバいんじゃね!?」
 言わずもがなの言葉を誰かが叫ぶが、それが誰かはセイバーにはもう分からなかった。



[36073] 第二十二話  「海戦 (其の弐)」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/06/21 19:54
「おッ……これちょっとヤバいんじゃね!?」

 言わずもがなの言葉を誰かが叫ぶが、それが誰かはセイバーにはもう分からなかった。
 揺れる船から海に落とされないように甲板にしがみつくのが精一杯だったからだ。
 そして、さらに続く三発目の砲弾。
 帆布をつらぬき、大穴を開けて船の後方に着水する。
 さすがに後方からの衝撃と波は、さっきの二発ほどの横揺れをもたらさなかったが、問題はそこではない。
「か、かしらぁ、帆に穴がッッ!??」
 船員の誰かが喚きたてる。
 これで、この船の機動性はさらに低下したはずだ。つまり、大砲の直撃を喰らってしまう確率が、さらに高まったことになる。

 が、それでも判ることはある。
 この船を翻弄している「前方船団」の艦砲射撃であるが、しかし奇妙なことに先程から砲撃をしてくるのは戦船は、船団中央の一隻のみなのだ。
 というより、発砲の間隔から考えても、その一隻にも大砲はどうやら一門しか存在していないのではないか――そう判断せざるを得ない。

 まあ、当然と言えば当然であろうか。
 いや、そもそもヨーロッパ諸国の海軍ならばいざ知らず、この当時の日本には、大砲を装備した軍艦なるものは存在しないはずなのだ。
 大砲という兵器は、日本においてはそれほどまでに希少かつ貴重なものであったということである。
 かつて大坂冬の陣で、家康がオランダから入手した三門の大砲を使って数十発の砲弾を大坂城に撃ち込み、その威力に怯えた淀君が、外堀の埋め立てという軍事的にありえない和睦の条件を飲んだという逸話がある。
 もしもそのエピソードが実話であったとするならば、徳川家康という男は、大砲という兵器の威力をすでに知っていたということになるが、それでも家康は、この旧来の軍事兵制を一新させるはずの新兵器を生産も輸入もせず、自軍に配備もしなかった。鉄砲の威力を認め、金に糸目をつけずに日本最大の鉄砲隊を自軍に編成した信長とは違い、家康という男の頑ななまでの保守性をそこに読み取ることができる。
 艦船同士を接舷させての白兵戦が主たる目的であった「水軍」ではなく、艦砲射撃による広域攻撃を目的とする「海軍」を日本が所有するには、少なくともあと二世紀――幕末まで時を待たねばならない。
 まあ、それはいい。
 つまりは、この前後あわせて八隻の追撃船団には、大砲は一門しか存在しない――そう考えるならば、こちらとしても動きようはある。


「せいばー殿、こうなったらアンタの“えくすかりばー”で、あの大筒を撃ってくる一隻を沈めておくんなせい!!」


 才蔵がそう叫び、四郎一党の他の者たちも(そうかその手があったか)と言わんばかりの視線を彼女に向けた。
 が、セイバーはその声に答えない。
 無視ではない。
 聞こえなかったわけでもない。
 ただ彼女は、痛みをこらえるような表情のまま、無言のままうつむいた。

――そう。
 彼女が恐れていたのは、まさしくこういう事態だったのだ。
 近接戦闘技術では対応できない、飛び道具による敵からの攻撃と、それに対抗すべく要求される“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”の行使。
 むろん予期できる事態ではあった。
 セイバーと真田忍軍によって構成される天草四郎一党の戦闘力は、宮本武蔵レベルの剣客でなければ渡り合えないほどのものであり、その事実はこれまでの逃亡中に、いやというほど追っ手の幕軍たちが思い知らされているはずだったからだ。
 なれば、わざわざ海上におびき出した自分たちを、何の工夫もなく水軍としての通常戦闘である白兵戦で仕留められるとは、さすがに考えないであろう。
 ことに、松平伊豆守ほどの男が作戦の指揮を取るならば、それは尚更だ。
 ならば海上で張られている罠とは、数に任せた飛び道具による包囲戦であろう――と、ここまではセイバーにも予想することは出来た。
 そして、それに対抗できるのは、おのれの“約束された勝利の剣(エクスカリバー)の一刀だけであろうということも。

 いや、もちろんセイバーといえど、この期に及んで対城宝具級の魔力砲を、たかが人間ごときの戦船に撃ち込む行為が“卑怯”だ、などと考えていたわけではない。
 むしろ、かつてのサーヴァント時代と同じ身体状況であったなら、彼女は何の躊躇もなく新しい仲間と自分自身を守るために、この切り札を使ったであろう。
 が、そうではない。
 現状の彼女には“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”を行使することに関しての重大な懸念がある。
 聖杯戦争の頃とは、もはや違うのだ。
 今の彼女は英霊でもなければサーヴァントでもない。
 魔術師・森宗意軒個人の魔力と召喚儀式によって、この寛永十五年の日本に現界したアルトリア・ペンドラゴンは、サーヴァント時代とは比較にならぬほど劣悪な状態で受肉しており、行使できる魔力も、その反動に対する耐久力も、かつてに比べて著しく制限を受けていたのだ。
 その証拠に――以前、原城の篭城戦でこの宝具を使用し、敵将の本陣を破壊した時には、セイバーはその膨大過ぎる魔力放出に肉体が耐えられず、三日三晩こん睡状態に陥った。
 そして、そのとき彼女は思い知っていた。
 今度この対城宝具を使えば、おそらくは自身の生命に関わるであろうということを。
 が、セイバーのこの恐れを真田忍軍たちは知らない。
 彼女を召喚した森宗意軒も知らない。
 知っているのは、彼女から個人的な相談を受けた天草四郎のみであった。


「おい、せいばー何で黙って――」
「新左、舵を左に!! とりあえず包囲を抜けて下さいッッ!!」
 無言をつらぬくセイバーを糾弾するように声を荒げる十蔵の声を、さらに遮るように四郎が叫び、とっさに新左衛門が反応する。
「取舵急げッッ!!」
 新左衛門が叫び、操舵手は指示通り左に舵を切り、前方の四隻と後方の四隻の中間を抜けようとするが……しかし帆に穴の開いたこの船では、もはや通常の速度は出せない。
 むしろ、風を帆に受けたことによって、穴はさらに広がり、帆布はズタズタになってゆく。
「後方船団」からは砲撃がこない代わりに、やむことなく火矢がこの船を襲い――いや、後方のみならず、いまや「前方船団」からも、火矢の発射が開始され、宗意軒が上空の気流操作で懸命にそれを防いでいる。
 が、それでは足りない。
 四郎は叫ぶ。

「宗意、“風”の威力を上げなさい! この船全体を包み込むように“風”で壁を作るのです!!」

 むろん宗意軒は、いきなりの命令に(おい待てよ)といわんばかりの表情をする。
 四郎の言う通りの――火矢だけならともかく、艦砲射撃の直撃や着水の際の衝撃波から、この船全体を防御する“風”――ともなれば、要求される魔力や集中力は気流操作ごときとは違いすぎるからだ。
 が、それでも四方八方から引っ切り無しに襲来する火矢の雨を、気流操作で防御しながらでは、何かを言い返すような暇も無い。
 いや、そもそもこの危機的現状では、もはや「そんなことは出来ない」などと言える状況では無いことは確かだった。
 しかも、便宜上は「亡君の御曹司」として仰ぎ奉っている相手からの言葉となれば、尚更だ。

「長くは持ちませぬぞ!!」

 そう叫び返した老人は、口中で何事か呪文のような言葉を囁き、その瞬間、彼の体が黄土色の魔力に包まれ、船員たちや新左衛門は、まさしく奇跡を見るような視線を宗意軒に向ける。
 が、奇跡が起こったのは次の刹那であった。
 まさしく竜巻のごとき風のカーテンが、船体全体を囲むように巻き起こり、立ち上ったのだ。
「な、なんじゃこれは……ッッ!!?」
 船員たちが絶句して、立ちすくむ。
 魔術の存在を知らぬ者たちが、魔術の行使を見た際に起こる当然の反応というべきか。
 だが、今は当然、そんな状況ではない。
「今のうちです新左、破れた帆を換えて下さい――早くッッ!!」
 四郎の具体的な指示に、正気に戻った新左衛門は「御意ッ!!」と応えると、自ら船員たちを指揮して、帆布の交換作業を開始する。
 そして四郎は、最後にセイバーに顔を向け、言った。

 
「セイバー、エクスカリバーを撃つ必要はありません、それよりも波を渡ってあの船を無力化して下さい!!」

 
「シロウ……」
 セイバーが何かを言おうとするが、四郎は皆まで言わせない。
「湖の乙女の加護で水面を走れる貴女ならば、あの船までも一走りのはずです。そして船に乗り込みさえすれば、貴女一人であの船を制圧することはたやすいでしょう。あそこには水夫と砲兵しかいないはずですから」
「いや、しかし……」
「早くッ! 宗意がこの船を守っているうちにッッ!!」
 そう叫ぶ四郎の瞳は――しかし、その荒げた声に反して、いつもの理性的な光が放たれていた。
 つまり、彼は冷静だということだ。
 セイバーに“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”を撃たせない――という以上の意味を込めての指示だということなのだろう。
 ならば彼女に異存のあろうはずがない。
「…………承知ッ!」
 重々しくうなずいたセイバーは、そのまま舷側に向けて走り出し、欄干を飛び越え、海上にその身を躍らせた。
 森宗意軒は、そんな彼女の後姿と、毅然たる四郎の顔に交互に視線をやりながら、初めて納得したように、
「なるほど……確かにのう」
 とつぶやいた。


「四郎殿、どういうつもりでやんすか」
 という質問は才蔵のものだが、彼のみならず真田忍軍全員が、疑うような視線を真一文字に向けてくる。
“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”を撃つな――という四郎の指示は、彼らにとってそれほど不可解なものだったからだ。
 だが、四郎は冷静な表情で首を振った。
「わからんのかそんなことが」
 代わりに森宗意軒が才蔵を怒鳴りつける。
「大筒を装備しているのが、あの船一隻とは限らぬわ。あれを沈めてセイバーが倒れた瞬間に、もう一隻がこっちを撃ち始めたら、わしらは今度こそ最期であろうがッ!!」
 不気味な黄土色の魔力に包まれながら、天を支えるような姿勢で竜巻を制御している宗意軒が何かを喚きたてている絵は、真田忍軍からすれば――お喋りはいいからそっちに集中してくれよ――と言いたくなるものであったが、それでも納得いかない言葉には人は反論せずにはいられない。
「馬鹿な……なぜ敵がそんなまどろっこしい真似を!? 今この場でそいつが撃ってこない理由がどこにあるんです?」
 が、老人に投げかけられた質問は、四郎が引き取る。
「セイバーにエクスカリバーを「撃たせる」ことが目的だとしたら? 彼女の放つ光は一発撃ったらその場で意識を失うほどのものです。こちらに反撃の手立てを無駄撃ちさせて、その後こちらをゆっくり料理するための陽動だとは考えられませんか?」
「まあ、わしが伊豆なら、少なくともその程度の策は講じるじゃろうな」
 四郎の尻馬に乗る形で宗意軒もそう言い切る。

「…………」
 確かにそう言われてみれば、確かに才蔵は反論する言葉を持たない。
 なにしろ、セイバーは原城で一度この技を使い、三日三晩意識を失っているという歴然たる事実があり、それは真田忍軍どころか原城にいた島原一揆軍の全員が知っている話なのだから。
 となればむしろ、その情報は敵方にも知られていると考えても不思議はないだろう。
 味方全軍が等しく知ってるようなセンセーショナルな情報を、敵が知らないなどという冗談は無いからだ。
 敵軍の指揮を取るのが「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守ならば、それは尚更だ。
 そして知られている可能性がある以上、対策は必ず立てられているものと考えなければならない。
 となれば、彼女に確実な昏睡をもたらすその切り札は、この状況においては使用を控えるべきだという結論もやむなし、ということになる。
 考えすぎだと言われても仕方がない理屈ではあるが、これまでの経緯を省みても、松平伊豆守という男の計略は、どれだけ警戒しても、しすぎるということはないのだから。
「まあ、それでもとりあえず後詰めは必要でしょうから――鎌之助、お願いします」
 四郎はそう言いながら、そこにいた男を振り返り、彼は(ええ~私が!?)と言わんばかりに顔をしかめた。
 

」」」」」」」」」」」」」

 派手な水音ともに、セイバーは海中に身を沈めると、宗意軒の行使する竜巻の圏外とおぼしき辺りまで水中を泳ぎ、そこで初めて波の上に顔を出す。
 砲撃を仕掛けてくる例の船の方向を確認すると、残り少ない魔力を使い、その水面に足をかけた。
(三分だ。三分以内に片をつける)
 セイバーの目が光る。
 いや、目だけではない。
 淡い燐光のごとき魔力光が彼女の全身を輝かせ、波を蹴立てて彼女は目的の敵艦めざし、疾駆する。

 彼女が見るところ、魔術師としての森宗意軒は一流と呼んで差し支えない技量と魔力を持っている。なんといっても、このアルトリア・ペンドラゴンを召喚したほどの術者なのだから。
 が、それでも、あの竜巻ほどの術式をいつまでも行使できるほどの魔力量は持ち合わせてはいまい。
 セイバーはそのタイムリミットをあと五分と見た。
 ならば、余裕を見ても三分。それ以内にやるべきことを済ませてしまわねば、万が一の場合に対応できまい。
 万一の場合――いや、もういい。
 そうなったら、そうなったで、また考えればいいだけのことだ。
 今は、眼前の敵を払うことだけに集中するべきだ。
 そういうことを、思うともなく思いながら、セイバーは海上を走る。
「前方船団」の船員たちがざわついているのがわかる。
 当然だろう。水面の上を異人種の女が全力疾走して、自分たちに向かってくるのだ。
 現実にありえない光景を目の当たりにして、何も驚かない人間などいない。
 船員たちが慌てながら、こっちに矢を射掛けてくるが、そんな狼狽しながら射た矢など当たるものではない。
 セイバーは笑みさえ浮かべながら、それらの攻撃を無視し、そのまま目的の船の舷側を駆け上がって、甲板に飛び乗った。




[36073] 第二十三話  「海戦 (其の参)」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/06/28 23:08
 セイバーは笑みさえ浮かべながら、それらの攻撃を無視し、そのまま目的の船の舷側を駆け上がって、甲板に飛び乗った。


 そこにいたのは、まるで妖怪変化でも見るかのような、恐怖そのものの表情を浮かべた船の乗員たち。
 腰を抜かしたように甲板にへたり込む者もいれば、帆柱の陰に隠れようとする者もいる。
 セイバーが思わず頬を緩めたのは、怯えている者たちの割合的に、一目見て非戦闘員とわかる水夫よりも、腰に剣をたばさんだ者たちの方が明白に多いということだ。
 笑止なことだが、そんな彼らでも国許に帰れば、肩で風を切って闊歩するようなサムライたちなのだろう。
 いや、それでも抜刀している者たちも何人かいる。
 弓を引き絞ってこちらに狙いをつけてるのは、さっき矢を射掛けてきた弓兵か。
 その勇敢さや良しと心意気を汲んで、相手をしてやりたくもなるが、残念ながら今はその暇も惜しい。
 セイバーは彼らを意に介さず、船首に視線をやる。
 そっちの方向から、顔をしかめそうになるほどに強烈な硝煙臭が漂ってきているからだ。
 そこにあるのは、一対の車輪に乗せられた、一抱えほどもある大きさの黒光りする鋼鉄の管。
 無論セイバーは、大砲の実物など見たことはなかったが、それでもその異形の物体が、彼女たちを乗せた船を脅かした長距離兵器に間違いないであろうことは、一瞥で判った。
(あれか)
 セイバーは走り出した。

 船首の大砲に向けて走り出した彼女を見て、サムライたちもようやく我に返ったのか、声を荒げて追いすがってくる。
「ちぇすとぉぉ!!」
 そう叫びながら斬り込んでくるサムライを一人、足を止めて後ろ殴りの一剣で斬り捨てると、セイバーはその死体を盾代わりにして、弓兵たちが射る矢を防ぐ。
「こっ、こん化物女がっ!!」
「人のむくろを盾にするたぁ、戦場の礼儀を知らんがかよ!!」
「異人とはいえ、おはんも剣士の端くれじゃろうがっ!!」
 狼狽したように叫ぶサムライたち。
 無理もなかろう。死体を盾に飛び道具を防ぐという戦法は、この国のいわゆる「ブシドー」には存在しない行為だからだ。
 が、セイバーは歯牙にもかけない。
 もう他人の言葉にいちいち動揺するのはやめたのだ。
 そのサムライの死体を背負うような形で担ぎ上げると、彼女はそれを背中を守る盾代わりにしながら、再び走り出す。
 船首にあるのは例の大砲と、その専門の砲兵らしい二人だけだ。しかもその二人は腰に刀も刺していない非戦闘員らしい。
 つまりセイバーにとって、現状における敵の攻撃は後背からに限定されている。
 ならば「盾」を背負えば、その攻撃も無視して標的の無力化に全力を注げるという道理だ。
「どけぇぇぇッッ!!」
 と一声叫ぶや、砲兵の二人が恐怖と狼狽のあまり、彼女に道を譲るように逃げ散るのが見えた。
 それでいい。無益な殺生はこちらも望むところではない。
 死体から手を離し、右手に持つ黄金の聖剣を振り下ろして、そこにある長距離兵器を鉄クズに変化させる――はず、だった。


 その瞬間に、彼女の頭上から降り注いだ、その“剣気”さえなければ。


「ちぃっ!!」
 反射的にセイバーは身を投げ出すようにその場から飛びのき、同時に、その剣気に導かれるように、直前まで彼女がいた甲板を寸分の狂いもなく「何か」が貫通し、床に大穴を空けた。
 むろんセイバーは、その攻撃が魔力を帯びたものであることに気付いている。
 それが単なる魔力弾ではなく、鞭状の何かに“火”の属性魔力を付与した物理攻撃であったことも。
 もしその炎の魔力が大砲に装填されている火薬に引火したら、この船ごと沈みかねない大爆発を起こしただろう。
(迂闊なやつめ)
 とは、セイバーは考えない。
 正確には、今のセイバーには何かを考える余裕は無かった。
 素早く体勢を立て直し、剣を構えた彼女の前には、すでに一人の女が立っていたからだ。


 今この瞬間まで、そこには誰もいなかった。
 しかし、今はいる。
 数歩の距離まで迫ったセイバーの標的である大砲。その前に、まるで壁のように立ちふさがる女。
 おそらく、さっきセイバーを空中から攻撃した後、余裕を持って、そこに降りてきたのだろう。
 甲冑の上から洋服らしい上着を着込んだ、セイバーの知らない戦装束。
 いや、それ以上にセイバーの目を引いたのは、その女の外貌だった。
 その女は、セイバーが見慣れた平たい顔の日本人ではなく、ヨーロッパ系を思わせる白人種だった。さっき行使した“火”属性を象徴するように、その髪は燃えるような赤に彩られ、その瞳は猛禽のような鋭い視線をセイバーに向けて放っている。
 いや、“火”の魔力付与攻撃を仕掛けてきた以上、この女も魔術師であるはずだし、ならば日本人でないのはある意味当然と言わねばならないが、しかし、セイバーの覚えた違和感は、女の放つその剣気だった。

 魔術師は剣気を放たない。
 いや、それ以前にこの女は魔術師ではない。
 そいつが右手に持った剣が証明するように、女は、誰が見ても一目でわかる「剣士」だった。
 セイバーと同じく、一本の剣を自らの分身として振るい、呼吸するように、食事するように敵を斬り捨ててきた――そういう生き方をしてきた者。
 しかも、騎士道もしくは武士道的な戦闘美学を、おのれのプライドとして抱く者。
 さもなければ、さっきの回避運動で体勢が崩れたセイバーは、一刀の元に斬殺されていなければならない。
 あの瞬間の彼女は、まさしく隙だらけだったのだから。
 いや、それどころか今この瞬間でさえも……。


「十兵衛殿、わかっていようが手出しは無用だ」


――そう。
 女が声をかけたのはセイバーに向けてではない。
 セイバーの後ろにいる、もう一人の存在。
 無論セイバーは、女と対峙した瞬間には、背中の気配に気付いていた。
 そいつは、眼前の女ほどにむき出しの剣気を放ってはいなかったが、それだけにその落ち着いた存在感は、この赤毛の女と同様に、容易ならぬ敵であることを立証していた。
 つまり、こいつらはその気になりさえすれば、二人がかりであっさりセイバーを殺せたということだ。
 しかし今、赤毛の女はその選択肢を自ら捨てた。
 そして背後の存在も、(やれやれ)と言わんばかりの溜息とともに、その殺気を収めたのがセイバーにもわかった。
 ここまでお膳立てされれば、もはや赤毛の女の言い分を理解せざるを得ない。


「つまり、貴様の望みは一騎打ち、ということでいいのだな?」


 そういってセイバーは、背後の敵に対する一切の警戒を解いた。
“一騎打ち”という言葉を聞いた瞬間に、赤毛の女が子供のように微笑したのが見えたからだ。
 わかっている。
 この女は私と同じだ。
 一瞥でわかる、この世界に本来いるはずのない存在。
 だがそれだけではない。
 同じ異邦人として以上に、戦士として、自分と同じ匂いがするのだ。
 人斬りが好きなのでも戦争が好きなのでもない。
 闘うのが好きなのだ。
 一対一で、対等な、強者と、命を懸けて、勝負するのが好きなのだ。
 死や敗北は、あくまでもその結果でしかない。
 ならばこそ、セイバーは言う。
「我が名はアルトリア……人はセイバーと呼ぶ」
 ならばこそセイバーは問う。
「貴公の名を聞かせよ」


 そして、その問いかけに、赤毛の女は誇らしげに答えた。
「時空管理局一等空尉……いや、最後の夜天の主・八神はやてが守護騎士」
――シグナム、と。


 むろんセイバーには「ジクウカンリキョク」なる組織も「ヤガミハヤテ」なる人物も聞き覚えは無い。
 しかし、ここで敢えて無粋なツッコミを入れるほど彼女は野暮ではないし、もはやそんな些細なことはどうでもいい。
 重要なのは、剣を交えるに足る相手がここに――自分の眼前にいるということだ。
 なればこそ、セイバーは言う。
「いくぞ、シグナムとやら!!」
 そして、火花散る剣戟音が、その場に巻き起こった。

」」」」」」」」」」」」」」

(案の定、一騎打ちの決闘ごっこに勤しんでいたのね……)
 真田忍軍“十勇士”の一人たる由利鎌之助は、溜息をつきそうになるのをこらえながら、そう思った。
 彼は今、船の舷側の外壁に、ヤモリのようにへばりつきながら、気配を消して甲板の様子を窺っている。



[36073] 第二十四話  「海戦 (其の四)」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/07/05 20:55

(案の定、一騎打ちの決闘ごっこに勤しんでいたのね……)
 真田忍軍“十勇士”の一人たる由利鎌之助は、溜息をつきそうになるのをこらえながら、そう思った。
 彼は今、船の舷側の外壁に、ヤモリのようにへばりつきながら、気配を消して甲板の様子を窺っている。


 セイバーが飛び出した直後に、天草四郎から彼女のフォローを命じられた鎌之助は、しぶしぶといっていい顔のまま、続いて海に飛び込んだ。
 どちらにしろ敵船に向かうのなら、前方船団の他の船の乗員たちの視線が、森宗意軒の巻き上げた“竜巻”か、もしくは沈みもせずに海上を全力疾走するセイバーの姿に集中しているうちでなければならないからだ。
 で、鎌之助は海中を泳ぎ切ってこの船に辿り着き、その手持ち武器である鎖鎌をザイル代わりにして甲板が見える位置まで舷側をよじ登ってきていた。
 登攀している間は、鎌之助ほどの手練の忍びであっても無防備状態になってしまうが、構うことはない。どうせ甲板でセイバーが大暴れしている状況では何も出来やしないのだ。

 もちろんセイバーならば、船の一隻程度ならその剣で制圧することも困難ではない。
 が、何事にも不測の事態というやつがある。
 万が一、彼女の戦闘が膠着状態に陥ったなら、助太刀に入る者が必要になるだろう。
 なにしろ“竜巻”を操る宗意軒の魔力が尽きる前に、どんな手を使ってでも、この船の大砲を沈黙させねばならないのだから。
 その理屈は鎌之助にも理解できる。
 ならばこそ、彼は顔をしかめながらも四郎に反論もせず、黙ってここまできたのだ。
 だが――。
(三つ子の魂百まで、ね……)
 まるで果し合いか稽古試合のごとく、一対一でセイバーが敵と剣を交えている“絵”を見ると、その地金はやはり騎士道主義の石頭のままなのだなと思わざるを得ない。
 
 むろん鎌之助にも状況を見る目はある。
 彼女が闘っている赤毛の女も、さらにその背後で、船員たちに混じって二人を見ている隻眼の武士も、ともに只者ではないという事実に気付いている。
 おそらく彼ら二人と同時に戦ったら、いかにセイバーといえど間違いなく助からない。
 ならば現状の、二人の女による一騎打ちの形は、あるいは乱戦を回避するためのセイバーの機転なのかも知れない――とは鎌之助は考えない。
(あの子は間違いなく、自分の“決闘”を状況より優先させたわね)
 そう確信する。

「はッ!!」

 セイバーの気合が甲板に響く。
 それを待ち受けていたかのように、真正面から唐竹割りに振り下ろされる赤毛の女の大剣。
 防ぎもせずにそれをかわし、踏み込もうとするセイバー。
 赤毛の女の剣先は跳ね上がり、セイバーを追尾するように斜めに斬り上げ、しかしセイバーは、その一撃さえも予期していたかのように、腰をかがめてよける。
 しかし、かわせたのはそこまでだった。
 赤毛の女の足が飛び、姿勢を低くしたまま懐に入ろうとしたセイバーのみぞおちを、強烈に蹴り上げたのだ。
「かはッ!?」
 予想外の攻撃にセイバーの動きの止まった刹那、赤毛の女の袈裟切りの一剣が叩き付けられ、凄まじい音が周囲に響く。
(やられた!?)
 鎌之助の位置からは一瞬、そう見えた。
 赤毛の女の剣が、セイバーの肩に食い込み、血が吹き出たのが見えたからだ。
 が、そう見えたのも束の間、赤毛の女の剣が、ギリリ……という金属同士の擦過音とともに、セイバーの肩から持ち上がる。
 敵の剣をむざむざ喰らったわけではなかった。エクスカリバーはしっかりと赤毛の女の剣を受けていたのだが、それでも受け切れずに傷を負った――ということらしい。
 だがセイバーは、その負傷にひるむどころかむしろ喜ぶかのように目を輝かせ、そのまま鍔迫り合いの形に持ち込み、睨み合う。

「やるではないか」
「貴様こそな」

 鍔迫り合いの体勢のまま数秒。
 二人の女は何の気合もかけず、それでいて二人同時に距離を取り、互いに視線を絡み合わせている。
 赤毛の女は大砲を背にし、あくまでそれを守護するように立ち塞がり、セイバーはそんな女をあくまで正面から斬り伏せようと睨み合う。
 そして、その二人の女剣士を取り巻く周囲の者たちは、彼女たちの非常識なまでの剣さばきに、呆気に取られたような表情のまま立ちすくんでいる。
 この一騎打ちを余裕を持って検分しているのは、おそらく例の片目の男だけであろう。

(やれやれ……)
 まあ、いま鎌之助が考えた――乱戦回避のための一騎打ち――という思惑も、少しはセイバーにあったことは確かだろう。
 あの女は直情径行ではあるが、決して馬鹿ではない。
 鎌之助にとってもセイバーは原城以来の戦友である。馬鹿か利口かくらいは知っているつもりだ。
 が、それでも彼は自信を持って、セイバーがおのれの欲求と美学に従って、あの赤毛の女と向かい合っていると断言することができる。
 その論拠は、赤毛の女の、その笑顔だ。
(戦いながら、あんな顔で笑うような女が、せいばー以外にまだいたなんてねぇ)
 鎌之助は、げんなりしながらそう思う。
 世間は広い。腕の立つ人間などいくらでもいる。
 だが、命のやり取りをしながら、あんなに自然に、無邪気に、子供のような微笑を浮かべられる者など、そう滅多にいるものではない。
 つまり二人は似た者同士なのだろう。
 そんな相手に一対一での決着を持ちかけられたら、敢えて拒むような真似は、セイバーには到底出来まい。
 しかし――。

「…………悪く思うな、シグナムとやら」

 そのセイバーの呟き声が聞き取れたのは、鎌之助の忍者独特の聴力があればこそだったであろうか。
 しかし、鎌之助は(おや?)と思ったのは、その言葉にではない。
 その瞬間、彼女の背中が、不意に悲痛な感情に歪んだからだ。
 目は口ほどにものを言うという言葉があるが、こと内に秘めた感情の吐露に関しては、背中は顔よりもよほど正直だ。
(何かやる気ね)
 そう気付いたのは、どうやら鎌之助だけではなかったらしい。
 隻眼の男もまた、
「シグナム殿気をつけろ!!」
 と声を上げるが――すでに間に合わない。


「風王鉄槌(ストライクエア)ッッ!!」


 その瞬間、巻き上がる突風。
 全くの不意討ちだったためか、赤毛の女はなすすべなくその場から船外――空中にまで吹き飛ばされ、セイバーの眼前には――誰もいなくなった。
 セイバーは、そのまま足を止めずに黄金の剣を振り下ろし、鋼鉄製の大砲を叩き割っていた。


「「「「「「「「「「「「

 シグナムは最初、何が起こったのかわからなかった。
 まるで「空気の壁」と表現すべきような風のカタマリに突然、全身を叩かれ、気が付けば彼女の足には床の――甲板の感覚がなかった。
 いや、足の感覚に頼るまでも無い。
 視界を埋め尽くすのは、雲一つ無い青空。
 そして照り輝く太陽。
 さっきまで眼前にいたはずの――セイバーと名乗った金髪の女の姿は、そこにはない。
 まるで記憶が断絶したかのように、目の前の景色に関連性が無かった。
 が、その瞬間、背中から水をぶっかけられた感覚が彼女を襲う。

(……ッッ!!)

 いや、違った。
 気付けばシグナムは冷たい水の中にいた。
 水をかけられたわけではない。
 上甲板から空中に放り出され、落下し、背中から海面に叩きつけられたのだ。
 さすがにシグナムは正気を取り戻し、ごぼりと息を吐いた。
 海面に顔を出す。
 その数メートル横に、真っ黒な鋼鉄のパイプが落下し激しい水音と水柱を立てたのは、タイミング的に全く同時のことだった。
 もしも彼女が顔を出すポイントが体一つ分ずれていたら、シグナムはこの鋼鉄の落下物に顔面をまともにぶつけ、致命傷を負っていたであろう。
 が、そんな事実に戦慄を覚えている暇は無い。
 落下してきたそれは、ただのパイプではない。シグナムが守るはずだった、例の大砲の砲身だったからだ。

「かあああッッ!!」

 叫ぶと同時に魔力を放出し、さらに上昇して高度を取る。
 と同時に、デバイスをリロードし、空になったカートリッジが無骨な機械音と共にスライドから排出される。
 骨の髄まで叩き込まれた空戦魔導師としての反射運動。
 十数メートルを一気に上昇し、眼下にあるのは、さっきまで自分たちが戦っていたのであろう戦船。
 が、その甲板には、例の金髪の女の姿は見えない。
 船首一帯の数メートルを、黒い霧のような何かが包み込んでいたからだ。
 さっき女と交戦していたときには、そんなものは甲板には無かった。
 しかし金髪の女が、その煙というか霧の中にいるのは、間違いないだろう。
 そう思った瞬間、シグナムの心の中で何かがブツリと音を立てて切れた。
「レヴァンティンッッ!!!」
 怒りと共に振り上げられる右手の魔剣。
 
「よせっ! やめろシグナム殿ッッ!!」

 という十兵衛の声が耳朶を打たなければ、おそらくシグナムは、何の迷いも無くその黒い靄の中に、炎の魔力を宿した連結刃を撃ち込んでいただろう。
(あぶなかった……)
 怒りに我を忘れそうになっていても、さすがにそう考えるだけの理性はシグナムには残っていた。
 さっき自分の傍らの海面に落下してきたのが例の大砲である以上、あの黒い粉塵の正体は明らかだ。
――黒色火薬。
 金髪女が大砲を切断したときに、砲身に詰められていた火薬が巻き上げられ、船首全体を覆う、あの黒い霧のようなものを形成しているのだとすれば、もしそこに自分の炎の魔力攻撃をぶち込めばどうなるか、結果は馬鹿でもわかるだろう。
 だが、それで彼女が冷静になったかと問われれば、残念ながら「否」と答えるしかない。
 むしろシグナムの怒りは増幅されたと言ってもいい。
(剣士の戦いを侮辱しおって……ッッ!!)

 まあ、しょせんは風の強い船上での出来事だ。
 巻き上げられた火薬の粉塵など、一分も経たぬうちに吹き飛ばされてしまうだろう。
 そのときにもう一度、あらためて決着をつければいいだけのことだ。
 あの女が“風”を使うというなら、それもいい。
「そういう戦い」を望むと言うなら、こちらも剣での戦闘にこだわる理由は無い。
 今度は自分も容赦なく“火”を使うだけだ。
 一人のベルカ騎士として、空戦魔導師として、持てるスペックをフルに駆使して戦わせて貰うだけの話だ。
 いや、本来シグナムが積み重ねてきた戦いとは、そういうものであったはずだ。
 一般的な魔導師にとって武技とはあくまで近接戦闘用の技術であって、戦闘手段の全てではない。
 持てる能力をぶつけ合い、総合力で敵を凌駕した者だけが勝者を名乗り、生き延びることができる。
――むろん余人は知らず、シグナムにとって剣とは単なる戦闘技術の一つではない。
 だが少なくとも、そういう戦いこそが、シグナムの知るベルカ騎士の戦場であり、戦闘であったはずなのだ。
 わかっている。
 そんなことは百も承知だ。
 にもかかわらず――何故こうも心が苛立つというのか。
「ちっ!!」
 誰に聞かせるわけでもない。だが、それでも聞こえよがしな舌打ちをする。


 そう。
 その問いの答えもまた、シグナムにはわかっている。
 あの女のせいだ。

 
(たしかセイバー、とか言ったか)
 その姿を、一瞥した瞬間にわかった。
 この女は自分と同じだ。
 ただの異人女でもなければ、ただの女剣士でもない。
 管理世界か、もしくは管理外世界かはわからないが、それでも何処かの別世界から「ここ」にやってきた異邦人。
 しかも自分と同じく、その戦闘技術の基盤も、戦闘美学の在り方さえも「剣」に置く、一個の戦士。
 そして、それを証明するかのように、シグナムと互角に渡り合って見せた、あの剣さばき。
 なにより、生死をかけた戦いの最中に、自分と同じ笑みを浮かべることが出来る女。
 おそらくはこの世界で、シグナムが唯一、互いの存在を心底から分かり合える可能性を持った相手――立場を変えればそう言えたかも知れない女だったはずだ。

 にもかかわらず、あの女は勝負の決着を「剣」ではなく「魔法」に頼った。
 シグナムを甲板から吹き飛ばしたあの突風――あれが単なる偶然の自然現象だなどという冗談はありえない。「魔術」か「魔法」かは知らないが、明らかにアレは金髪女の発動した“技”であり“術式”だったはずだ。
 それが許せない。
 他のサムライどもを相手にするならともかく、このシグナムを相手に、そんな真似をするのは明白なる背信であり、侮辱であるとさえ言える。
 むろん自分たち二人の間に、何らかの直接的な交渉が存在したわけではない。そんな得手勝手な思い込みを相手に――しかも明確なる「敵」に強制するなど、寝言・妄言と一笑されても仕方の無い理屈だ。
 が、シグナムはそうは思わない。
 真正面から対峙して、互いの眼を見た。それで充分だったはずなのだ。
 その眼を見てシグナムが彼女を理解したのと同様に、あの女もシグナムを理解していたはずなのだ。
 にもかかわらず……女はシグナムとの決着を、剣以外のものに頼った。
 それが許せない。
 許せるはずが無い。

 ぎりりと奥歯を鳴らし、シグナムは、そろそろ火薬の靄が晴れそうになっている船首甲板に、一直線に向かった。



[36073] 第二十五話  「海戦 (其の伍)」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/07/15 00:33

「よせっ! やめろシグナム殿ッッ!!」
 
 空中で、右手に構えた剣に炎を宿したまま、こちらに振り下ろそうとするシグナムに対し、十兵衛は反射的にそう叫んでいた。
 すでに船首は、金髪の女が叩き斬った砲身に詰められていた黒色火薬の粉塵が、視野を覆い尽くす勢いで立ち上っていたからだ。
 シグナムはその声に打たれたように動きを止めてくれたが、逆に十兵衛の周囲にいた侍たちは、むしろ動き出すきっかけになったかのように一斉に剣を抜き、ゴホゴホと咳き込みながら黒い霧の中から姿を現した金髪の女に向けて襲い掛かってゆく。
 むろん彼らの剣が、あの女に対抗できるものではないということはわかっている。
(無駄なことを)
 とは十兵衛は思わない。
 命を捧げて死をあがなうのが武家の奉公というものだ。その職務の中には「犬死に」「無駄死に」さえも含まれる。
 が、それはいい。
 彼らが金髪女に向かっていったならば、それはそれで少しばかりの時間稼ぎにはなるだろう。

――何に対する時間稼ぎか?
 決まっている。
 先程からこちらの様子をずっと窺っている、あの悪趣味なノゾキ野郎を斬るための時間稼ぎだ。
 腰の刀――三池典太光世を抜き放ちながら十兵衛が振り向くと、そこにいたのは、舷側の欄干を乗り越えて、甲板に飛び込もうとしている一人の男。
 そいつは、自分の存在がまさか気付かれているとは思ってもいなかったのだろう。目が合った瞬間、驚愕に瞳を見開いたのが十兵衛にも見えた。
 彼にとってはおそらく、金髪女に向かおうとする武士たちを、その背後から攻撃する意図で姿を現したのだろうが、しかし周囲と正反対にこちらを振り向いて剣を抜いた十兵衛は、まさに予想外だったらしく、甲板に飛び込もうとするその動きは無防備そのものだった。

 だが、それでもさすがと言うべきであったろう。
 その男が無防備であったのは、正しくその一瞬だけであったからだ。
「ちぇぇいッッ!!」
 男は甲板に降り立つと同時に、妙にオカマ臭い気合と共に、その右手に握られた鎖分銅を十兵衛に投げつける。
 すでに男に向けて走り出していた十兵衛にとって、それはカウンターというべき攻撃ではあったが、しかし十兵衛は顔面に向けて投じられた分銅を、首を振り、そのわずかな動きで余裕を持って回避する。
 しかし――次の瞬間、十兵衛の表情は凍りついた。
 左耳をかすめる形でかわした鎖分銅が、次の瞬間、十兵衛めがけて「戻ってきた」のだ。
「なッッ!?」
 足を止め、本能的に身をかがめて回避していなければ、その分銅は間違いなく、十兵衛の後頭部を打ち砕いていただろう。

「へえ……今のをよけるんだ」

 言葉だけを聞けば嘲弄と解釈されて仕方ない台詞だが、男の声にはむしろ、十兵衛を賞賛するような響きがある。
 いや、この気持ち悪いオカマ口調の男の言う通り、確かに今の十兵衛の反射神経は、客観的に瞠目すべきと言うべきなのだろう。
 この男が投げた鎖分銅は今、確かに空中でその軌道を変えた。
 一度よけた相手の武器が、次の瞬間その背後から戻ってきて改めて自分を襲うなど、誰が予想できようか。
 むろん十兵衛も予期していなかった。にもかかわらず、彼はその攻撃を回避したのだから。

 妙に粘液質な視線で十兵衛を見ながら、男はさら口を開いた。
「ねえ色男さん、アナタひょっとして……柳生十兵衛?」
「ほぉ、なぜ知ってる?」
「わかるわよそれくらい。隻眼の名剣士といえば柳生の嫡男の代名詞みたいなものだし」
 そう言いながら、男は両手に持った、それぞれ長さ三尺(約90センチ)ほどの鎖を振り回し始める。
「でも、さすがの江戸柳生でも、チャンバラはともかく、こういう得物相手の仕合は道場で教えてないみたいね?」
 鎖を二本持っているわけではない。
 一本の鎖の両端に、それぞれ分銅と鎌が取り付けられているのが鎖鎌という武器の特徴だが、男の所持しているそれは、通常の鎖鎌よりもいささか鎖の部分が長いのだ。床に垂れ下がっている鎖の長さから換算しても、おそらく全長は二丈(約6メートル)近くあるだろう。
 右手の鎖の端には分銅が。
 左手の鎖の端には鎌が。
 その両手に持った鎖を、男は凄まじい速度で回転させる。
 鎖の末端の分銅と鎌は、それぞれ遠心力により肉眼で捉えきれぬほどに加速され、それをまともに喰らえば、致命傷を負うことは間違いない。
 いや、問題はそこではない。
 この男は、おのれが投じた分銅や鎌の軌道を、鎖を握る手元の動き一つでコントロールすることができるのだ。
 いま、十兵衛が避けた分銅が、再び後方から彼を襲ったように。

(なるほど……これが鎖鎌か……親父が言ってたのとは少し違うな)
 かつて父の但馬守宗矩は十兵衛に、鎖鎌とは、その鎖分銅を相手の武器に巻き付けて奪い、鎌でとどめを刺す武器だと言っていた。
 だが、達人レベルの使い手が操る鎖鎌が、ここまで恐るべき得物であるとは、今の今まで十兵衛は知らなかったのだ。
 というより、そもそもこの男がこれほどの使い手であったという事実こそが、十兵衛にとっては最大の誤算であったと言うべきか。
 なぜなら、舷側に隠れ潜んでいたこの男を、一太刀で始末できると踏んだからこそ十兵衛は、周囲の武士たちが一斉に金髪女に向かったときに、敢えて逆に、この男に斬りかかったのだ。
 金髪女が武士たちを相手している間に、男を斬り、そしてあらためて金髪女と一対一で対峙する彼の予定だったのだ。
 が、いまやその予定は大幅に狂ったと言うしかない。
 十兵衛が男に苦戦しているうちに、金髪女は武士たちをあっさり斬り捨て、即座にこちらに援護に来るだろう。
 先程のシグナムと逆パターンだ。
 このままでは十兵衛は、この二人の男女から挟み撃ちにされてしまうではないか。
 いや、現に事態は十兵衛の怖れた通りに動きつつある。 

「がッッ!!」
「ひぎぃ……ッッ!!」

 背後から聞こえたのは幾つかの悲鳴、そして血と死体が甲板に投げ出される音。
 十兵衛の足元にごろんと転がる、いかにも無念そうな表情の武士の生首。
 反射的に十兵衛は半身になり、鎖を振り回す男と共に、自分の背後にいるもう一人を視界に入れた。
 そこにいたのは例の金髪女。
「来ていたのかカマノスケ」
 侍たちを皆殺しにした返り血であろうか――黄金の剣を朱に染め、何の感情も浮かべぬ目でこっちを見ている。
「とりあえずこっちは済んだ。そっちはどうする?」
 女の問いかけに、男は十兵衛に視線を固定したまま口を歪め「――そうねえ」と低く嗤った。


「じゃあ……ちょっと手伝ってよ」
 
 
 男がそう言った瞬間、十兵衛は、思わずのけぞっていた。
 男の右手の分銅は十兵衛に投げつけられ、同時に金髪女がこちらに向けて走り出したのが見えたからだ。
(まずい……ッッ!!)
 この二人を同時に相手にして生き延びれるとは、いかに柳生十兵衛であってもまず思えない――。


 その瞬間だった。
 上空から、何かが、来た。
 何が来たのかは十兵衛にはわからない。
 だが、来た。
「それ」は、まるでカメレオンの舌のように十兵衛の体に巻きつくと、鎖分銅と黄金の剣が届く前に、彼を空中にさらったのだ。

「なぁっ!?」
「ちッ!!」

 男が驚きの声を洩らし、金髪女が激しい舌打ちをしたのが聞こえたが、十兵衛にとっては問題ではない。
 おのれの体に絡みついた紐状の何か。
 そして、まるで釣りの様に自分を空中に引っ張り上げた彼女。
「シグ……ッッ!?」
「十兵衛殿ッッ!!」
 シグナムは左手で、まるで抱き寄せるように十兵衛の腰の帯を掴んで引き寄せ、十兵衛もとっさに刀を左手に持ち替えるや、右腕をシグナムの肩に回して自らの体を固定し、そこでようやく自分に何が起こったのか理解した。
 彼女の愛剣レヴァンティンは、見た目どおりの金属のカタマリではなく、芯に通されたワイヤー沿いに刀身が分割し、鞭状になる。
 その連結刃が十兵衛の腰に巻きつき、彼を空中に回収したのだ。

 シグナムは連結刃を一瞬で通常の刀身に戻すと、ニヤつきながら十兵衛の顔を一瞥し、
「ふふふ……十兵衛殿でもあんな顔をするのだな」
 と、皮肉っぽくささやく。
 その言葉に十兵衛は、頬どころか耳まで真っ赤になって、無言で顔をそむけずにはいられない。
 だが、そんな十兵衛とは対照的に、彼女の口元がほころんでいたのはそこまでだった。
 シグナムは戦車のごとき勢いで振り返ると、その燃える視線を金髪女に向けた。
「さて、それじゃあ――さっきの続きを始めようか」
 真っ赤に充血した彼女の視界の中には、あくまでも鎖鎌の男は入っていないようでさえあったが……しかし、そんな彼女を十兵衛は制止する。

「いや、ちょっと待てシグナム殿」
 
 その言葉に、何を言われたのかわからぬ顔でシグナムが振り返るが、しかし十兵衛は彼女の方を見ない。
 彼の視線は海上の、とある一点に向けられていたからだ。
 そこに浮かぶは、天草四郎とその一党が、身分を偽り、逃亡の足代わりにしたという北前船。
 今の今までその船は、キリシタンの妖術とやらで生み出された“竜巻”によって、火矢や大砲から守られていたが、いつの間にかその“竜巻”が消え、海上にその船体があらわになっている。
 いや、それだけではない。
 一体どういう奇跡なのか、大して風も吹いていないこの状況で、その船はまるで蒸気船のごとく自走し始めたからだ。

 



[36073] 第二十六話  「海戦 (其の六)」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/07/20 01:34
「若殿ッッ、帆布の張り直しが終わりましたぁ!!」

 という御堂新左衛門の声を聞き、天草四郎の顔にようやく明るさが戻った。
「ありがとう……よくやってくれました新左」
 そう答え、新左衛門の目を見ながらうなずくように頭を下げる。
 もっとも、今この船は宗意軒の巻き起こした“竜巻”の壁に、周囲360度をすっぽり包まれている状態だ。四郎の声が彼に聞こえたかどうかはわからない。
 まあ、軽く頭を下げた四郎を見て、また感動した様にうつむいて震えていることからも、取りあえず四郎の感謝の意思は、新左衛門に通じたものと判断していいだろう。
(しかし、本当によくやってくれた)
 と、四郎としても思わざるを得ない。
 なにしろ宗意軒の“竜巻”は、前後の船団からの火矢や砲弾の軌道をむりやり変えさせるほどの烈風を伴って吹き荒れており、その風は“竜巻”の内側にいるこの船にも当然影響を及ぼしている。
 具体的に例えれば、新左衛門とその奉公人たちのやった帆布の交換は、嵐の強風の中でメインマストの張替えをやるに等しい危険な作業だったと言える。

 しかし、その作業は終了した。
 ならば待つべき報告は、あと一つ。
 そしてその果報も、寝て待つまでも無く四郎の耳に届いた。

「しろ……若殿ォやりました! せいばー殿がやりましたッ!! 例の大筒を見事破壊したようですッッ!!」

 叫び声の主は、佐助だ。
 セイバーと鎌之助を送り出してから、四郎が指示を出したのだ。
 二人が敵船に乗り込んで、無事に大砲を破壊できるかどうかを確認するためには、誰か一人が“竜巻”の外に出て、「前方船団」を監視する者が必要になる。
 だから四郎は、佐助にそれを頼んだのだ。
 真田忍軍の忍びたちは、みな狩人並みの鋭い五感を持っているが、特にそれが鋭いのは、ましらの佐助と呼ばれる“十勇士”のリーダー格だったからだ。
 そして彼は、荒れる海面を泳ぎながら、鋼鉄の砲身がその戦船から切り落とされるのを視認し、海中を泳いで“竜巻”の内側に移動し、この船に戻ってきたというわけだ。
 
 とりあえず、この修羅場を生きて逃げ延びるための準備がようやく整った。 
 四郎は森宗意軒の元へと走り、黄土色の魔力光を発しているその肩を叩いてささやく。
「宗意、ご苦労でした。“竜巻”を解除して下さい」
「……ッッ!?」
「破れた帆布は新たに張り直しました。そして大筒もセイバーが始末してくれました。もはや“竜巻”は必要ありません」
 老人は一瞬、自分が何を言われたかわからぬような表情を浮かべた。
 無理もなかろう。
 この老人は、海水を巻き上げ、竜巻と見まがう勢いでの“風”を起こすため、ほとんど没入状態に近い集中力で、おのれの魔力を行使していたのだ。
 が、それでも次の刹那には、その目に怜悧な光を取り戻し、こくりとうなずいた。
 黄土色の魔力光が薄らぐと同時に“竜巻”は次第に低くなり、やがて風は止み、上空に巻き上げられていた水も全て、雨のように甲板や周囲の海面に降り注いだ。

「……じゅ、寿命が五年は縮んだぞ、これは」
 そう言いながら、甲板に大の字になって横たわる宗意軒。
 しかし、四郎は首を振る。
「まだです宗意。まだあなたの仕事は終わっていません」
 と強い口調で言った。
「……なんですと?」
「あなたが“竜巻”に使っていた“風”を今度は、この船の速度を上げるための「追い風」として、もう一度使います。お願いできますか?」

「それは……わしに死ねと仰るんですか?」
 体力の限界を超えた魔力行使は、その肉体に多大な負担をかける。
 今の今まで、大型船を艦砲射撃から防護する規模の“竜巻”を発現させていた宗意軒からすれば、その言葉は、ある意味当然過ぎるものであったろう。
 が、発言の殺伐さの割には老人の顔に悲壮感はない。むしろ口元には皮肉っぽい笑みさえ浮かんでいる。
 むろん四郎は、その宗意軒の表情が意味する感情を読み取っている。
 読み取った上でなお、その言葉に応じるように彼も笑ったのだ。


「何をいまさら……かつてあなたが僕に言ったではありませんか。その死に意味を持たせる権利こそ人間の持って生まれた唯一の自由であると」


 それはかつて森宗意軒が、島原での武装蜂起の計画を“天草四郎”と名乗る以前の彼に話したときの言葉。
 小西家旧臣・益田甚兵衛の息子でしかなかった四郎に、島原一揆軍の指導者となることを決心させた言葉。
 隠れキリシタンだった父からキリスト教の薫陶を受け、衆目を集めるほどの美貌と聡明さ、そしてカリスマを持ち合わせながらも、それでも自分を「名もなき民草」の一人としてしか規定していなかった少年に、冷静に考えるならば自暴自棄の集団ヒステリーとしか思えぬ武装蜂起のリーダーとしての死を決意させた言葉。
 運命に忍従した結果の死ではない。
 運命に抗い、新たな道を切り開かんとした結果の死。
 それを選択させた老人の言葉。

「それを言われては……わしも返す言葉がありませぬな……」
 観念したように言うと、横たわったままの老人は四郎に背中を預け、胸元で祈るように手を組み“呪文”とおぼしき言葉をつぶやく。
 そして、宗意軒の体は再び黄土色の魔力光に包まれた。
「おお……っっ!?」
 あたかも孫と祖父に似た雰囲気をかもし出す二人の様子を遠巻きに見ていた、この船の乗員たちの口から、先程と同じ畏怖の感嘆が洩れた。
 なぜなら、老人が光り始めて数秒後、先刻の“竜巻”に見まがうほどの烈風が、追い風となってこの船に吹きつけ始めたからだ。
 新左衛門が精一杯の声で叫ぶ。
「よし、面舵一杯!! この風が吹いているうちに包囲を抜けるぞッッ!!」


」」」」」」」」」」」」」」

 上空に浮遊する赤毛の髪の女。
 右手の剣を赤く輝く“火”の魔力に包み、肩を貸すような姿勢で、さっきセイバーたち二人の攻撃から救出した片目の男を抱きかかえ、彼女――シグナムは空中に停止し、こちらを傲然と見下ろしている。
 いや“こちら”ではない。
 シグナムの視線の先にいるのは、あくまでもセイバーただ一人であり、隣に居並ぶ由利鎌之助など、文字通り眼中にないのが一目瞭然だったからだ。
 現に鎌之助本人も、バツの悪そうな表情で「あ~、私ってお邪魔?」などとセイバーにささやいてくる。
 それほどにシグナムの視線は露骨だった。
 その瞳は――兵士としての殺気でもなく剣士としての剣気でもない――シンプルなまでの怒気に彩られ、彼女が何を言いたいのかは、まさに明白だった。 
 そしてセイバーは、その正直すぎる彼女の視線に、ズキリと胸が痛むのを覚えた。

(まあ、無理はない、か……)
 そう思う。
 自分が――もっとも少し前の自分だが――あの赤毛の女と同じ立場だったら、さぞかし人目を憚らずに怒気を撒き散らしたことであろうと思えるからだ。
 甲板で対峙し、互いの目を見合った瞬間から、自分たち二人は通じ合うものがあった。
 それは誰にも否定し得ない明らかな事実であり、ならばこそ、導かれるままに自分たちは剣を交え合ったのだから。
 
 だがまあ、済んだことをこれ以上ぐだぐだ言っても仕方がない。
 セイバーにはセイバーの事情がある。
 いくら通じ合うものがあったとしても、あのときの彼女には、シグナムとのんびり一騎打ちに興じている暇は無かった。
 そもそもセイバーの最優先事項は敵との戦闘ではなく、大砲の無力化だったのだから。
 なればこそ、この話はこれで終わりなのだ。
 そう思いながら、セイバーは隣に居並ぶ由利鎌之助をちらりと横目に見る。
 いま考えるべきは、この状況をいかに乗り越えるか、だ。

 上空の赤毛の女は、惜しげもなくその魔力を剣に溜め込んでいる。
 だがそれでも、セイバーがそのサーヴァント本来の能力を今でも発揮できるならば、現況を打破することは、さほど困難ではないのだ。
 なにしろパラメーター的には彼女の対魔力はA。
 クラスA以下の術式は全てキャンセルされ、聖杯戦争当時の、いわゆる「現代の魔術師」が行使するレベルの“魔術”では傷一つ付けられない――ということになっている。
 しかし、ここで問題が一つある。
 今回のこの召喚に際して、おのれの「設定値」がかつてのサーヴァント時代とは比較にならぬほど劣化しているという事実だ。
 その対魔力が本来の効力を発揮したなら、あの赤毛の女の術式を、自分の体を盾代わりに受け止めたとしても、セイバーが死ぬことはまず在り得ないだろう。
 しかし万が一、能力が数値どおりの効果を発揮しなかった場合、セイバーは確実に死ぬ。
 いや、死ぬのは彼女だけではない。
 横にいる、この由利鎌之助という男も、運命を共にする結果になってしまう。

 ならば、そんな攻撃よければいいじゃないかと言われれば、やはりそうもいかない。
 赤毛の女が発する魔力から類推するに、その魔力攻撃は「対個人」としてはかなり恐るべき威力であろうことは想像がつくが、それでもこの船を一撃粉砕させるほどの威力はないだろう。
 しかし、属性が“火”である以上、セイバーがよけた攻撃が甲板に直撃すれば、数秒後にはこの船全体を炎上させるだけの熱量があることも間違いない。
 ならば、赤毛の女がセイバーだけに狙いを絞っている今こそ不幸中の幸いというべきか。
(いま私が船外に飛び出し、海上を走って逃げれば、少なくともやつの攻撃の累がカマノスケに及ぶことはない)
 セイバーはそう思った。

 書けば長かったが……まあ所詮は一瞬の心模様に過ぎない。
 空中のシグナムを視認するや、それから一秒とかからぬうちにおのれの取るべき行動を選択し、セイバーは動こうとした。
――その瞬間だった。


「ちょっとせいばー、私たちの船が、なんかこっち向かって進んでるんだけど……」


 鎌之助の言葉に、セイバーが海を振り向くと、確かにさっきまで彼女たちが乗っていたはずの北前船が動いている。
 いや、その様子は「動く」などという表現には相応しくないほどのスピードであり、まさに波を蹴立てて驀進してくると言い換えた方が表現的には適切であろうか。
 追っ手からの火矢による長距離攻撃を完璧に防いでいた“竜巻”の結界は解除され、破れたはずの帆布も張り替えられており、船は本来の姿を取り戻して、文字通りこちらに突っ込んできているのだ。
(なるほど……)
 その光景を見て、思わずセイバーも納得する。
 現代世界を舞台にした冬木の聖杯戦争ならばともかく、この時代の海戦には派手な結界も攻撃宝具も必要はない。
 船体が原形を保てるギリギリの機動力さえ発揮できるならば、逃げるも戦うも、それで全て事足りる。そして“風”の魔術師さえいれば、それはいくらでも可能なのだ。何しろ帆船は風によって動くのだから。

(……ッッ!?)
 反射的にセイバーは上空のシグナムを見上げる。
 あの女の魔力攻撃が、この船ではなく、こちらに向かって突っ込んできている北前船に向けて発射されたらどうなるか。
“竜巻”の結界越しならばともかく、今の無防備状態のあの船に、彼女が全力攻撃を打ち込んだら、一体どのような結果をもたらすだろうか。
(――まずい)
 セイバーの表情が一気に青ざめる。
 おそらく、船の追い風を操作しているであろう森宗意軒には、シグナムの“火”の属性攻撃を防ぐ手立ては無いだろう。それどころか、あの老人は、こんなところにセイバー以外の異邦人が存在し、しかもそいつが魔術を使うなどとは、まるで想像していないに違いない。
 いや、現にシグナムが肩にかかえる片目の男が、動き始めた四郎の船を指して何かを言っている……。

 奴に考える時間を与えてはならない。
 おのれの戦術的有利を認識させてはならない。


「“約束された(エクス――」


 不思議と迷いは無かった。
 先程さんざん頭に浮かんだシグナムに対する負い目の感情どころか、この宝具の行使が自分の命に関わるという危機感さえ、セイバーは思い出しもしなかった。
 シロウを――四郎を死なせてはならない。
 ただ彼女の脳中にあったのは、ただそれだけだったからだ。


「――カリバー)勝利の剣ッッ!!」


 その声と同時に、黄金の剣から刀身を凌ぐ輝きの閃光が放たれる。
 敵味方含め、この海にいた者全てが目をそらし、耳を塞ぐような大爆発が青空を彩ったのは、まさにその瞬間だった。




[36073] 第二十七話  「海戦 (其の七)」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/07/28 03:35
 セイバーとシグナムがその攻撃意思を動作にうつしたタイミングは、奇しくも全くの同時であった。
 むろん何らかの示し合わせがあったわけではない。
 言うなればこれは、二人の女戦士の本能が導いた結末というべきか。


 金髪女が一度海を振り向き、さらに改めて上空の自分たちを見上げた時、その視線に含まれていたのは、先程までの睨み合いにはなかった明白なる殺意。
 そして、それに触発されると同時に、シグナムも動き始めていた。
“闇の書”の守護騎士としての戦歴が、思考より早くシグナムの体を反応させたのだ。
 帯を掴んで抱きかかえていた十兵衛を海に放り投げ、同時にレヴァンティンをボーゲンフォルムに変形させる。
 その弓に光の矢をつがえ、引き絞るまで一秒とかかってはいまい。
 さいわい刀身の変形と矢の生成に費やすカートリッジ二個分の魔力は、この高度に上昇するまでにリロード済みだったことが幸いした。
 それはシグナム最大の攻撃魔法。
 かつて一撃で、“闇の書”の複合四層式バリアを三層まで破壊したという、爆炎の矢。
 その名を、烈風の隼――シュツルムファルケンという。
 金髪女が何かを叫びながら、その黄金の剣から光を放ち、シグナムはそれを迎撃するために魔法の矢を放つ。
 

 結果から言えば、下手に防御法術など展開しなくて正解だったと言うべきだろう。
 シグナムの――というより彼女たちヴォルケンリッターの行使する古代ベルカ式魔法は、あくまでもその重点を攻撃に置いている。
 たとえ彼女が持てる全魔力を費やしてシールドやバリアを張ったとしても、それでセイバーの対城宝具“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”を防御できたかどうかは、果てしなく怪しい。
 その光は――たとえサーヴァント時代から比較すれば、3・4割の威力減があったとしても――島原の大乱では幕軍司令官だった板倉内膳正を、本陣ごと蒸発させた「破壊光線」なのだ。
 おそらくは展開されたバリアやシールドなど、石を投げつけられた窓ガラスのごとく叩き割られ、シグナムをこの世から消失させた可能性は大きいだろう。

 むろんシグナムの行動に何らかの意図や計算があったわけではない。
 彼女はただ、その戦闘本能に導かれるままに動いたに過ぎないからだ。
 もっともシグナムは、経験から知っていたはずだった。
 盾で防ぎきれない弾丸は、こちらからも同様に弾丸を撃ち込み、迎撃するのが最も効率的な防御であると。
 その知識が彼女の反射行動を催し、そして彼女を“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”の直撃から救う結果となった。


「「「「「「「「「「「「「「

 不意にシグナムから空中に放り出された柳生十兵衛であったが、その数瞬後には、彼女が何故自分を投げ出したのか、まざまざとその理由を知る事となる。
 二つの魔力が正面衝突した結果、発生した、大気を震わす大爆発。
 それが起こったとき、十兵衛はまだ落下の最中――つまり空中にいたからだ。彼が着水したのは、その直後だった。
 海面へ叩きつけられ、普通ならばその衝撃で失神、溺死という過程を当然たどるはずだった柳生十兵衛だったが、しかし彼は死ななかった。
 というより彼自身、自分が死に瀕していたなどと気付いてさえいなかっただろう。

 あの爆発を落下中に見た十兵衛には、
(またも救われたのか、おれは)
 という意識が当然ある。
 それは――もとより正体不明の“天女”であるシグナムとは違い、あの大爆発に巻き込まれていては、さすがに助からなかったはずだという確信。
 ただの人間である十兵衛を死なせないために、あの瞬間シグナムは彼を掴む手を離すしかなかったのだ。彼女と共に爆風にさらされるよりは、あの高度から自由落下で着水する方がよほど生存率は高いはずなのだから。
 そう思えば、たとえ海面に叩き付けられた衝撃がどれほどのものであろうとも、失神などしてはいられない。
 この数分のうちにシグナムに二度も命を救われたという事実に対し、十兵衛の胸のうちに生まれた感情は、むしろ感謝よりも羞恥を多分に含むものだったからだ。
 むろん命を救われた事実を「屈辱」と解釈するほど、彼はひねくれてはいない。
 しかし少なくとも十兵衛はおのれの剣名と実力に、少なからぬ自負を抱いている。シグナムのごとき妙齢の美女に、しかもこの短時間に、何度も借りを作ったと認めることは、心に苦味が走らざるを得ないのだ。
 まあ、その意識こそが、彼をブザマな溺死から遠ざけたと言えるかもしれないが。
 

 ごぼりと息を吐き出すや、左手に握ったままだった刀を口にくわえ、懸命に水をかいて十兵衛は海面に顔を出す。
 それは、爆風に煽られ、意識を失い人形のように脱力したシグナムが、海に落ちたのとほぼ同時であった。
(死なせてたまるか)
 その思いは、もはや十兵衛にとっては意地に近いものがあったかもしれない。
 沈みゆくシグナムに向けて全力で泳ぎながら、彼にはもう、その一事のみしか頭に無かったのだから。
 

」」」」」」」」」」」」」」」

 固く閉じられていたまぶたをゆっくりと開く。
 ぼんやりとではあるが、徐々に由利鎌之助の視界には、空の青と海の青以外の眺めが像を結び始めていた。
 鎌之助の目をくらませたのは、空中で起こった大爆発よりもむしろ、その寸前のセイバーの「えくすかりばー」が原因となるところが大きい。
 突然のこととはいえ、あの閃光をまともに見てしまったのだから、誰であろうと多少は目が眩むのは当然だろう。
(せめてさ、やる前に何か一言あってもいいでしょうに……)
 そう思いながら鎌之助は軽く頭を振り、目をこすり、まばたきを繰り返す。
 そして、ようやく回復させた彼の視界に飛び込んできたのは、意識を失い、甲板に倒れこんだセイバーの姿だった。

「はぁ……」
 鎌之助は改めて溜息をつく。

 セイバーがここにこうして昏倒している原因を知らないわけではない。
 彼女の最大奥義である「えくすかりばー」は、その威力相応の反動を使い手にもたらし、現にセイバーは原城で一度三日間の昏睡状態に陥っている。
 それはいい。彼にとってもそれは既知の知識だ。
 彼が理解できないのは、その「えくすかりばー」を何故いきなり彼女が、空中の赤毛の女に向けて行使したのかということだった。
 あの怪光線を「使わず」に、艦砲射撃を無力化するするためにこそ、彼女や自分はこの船に直接乗り込んできたのではなかったのか。
 いやそもそも、どうせ奥の手を使う気ならば、さっき真正面から対峙した時点で使っていれば、話はもっと早かったはずではないのか。
 にもかかわらず、何故セイバーは……。

「ちっ」
 まあいい。
 そんなことは後でヒマになってからこの女に聞けば済む。
 だが彼にとって舌打ちをこらえ切れない問題は、セイバーが失神してしまったことにより、彼女の面倒を鎌之助が見なければならなくなったという事実だ。
(なんで私が「女」に触らなきゃいけないのよ……もう!!)
 鳥肌が立つ思いでセイバーを左手一本で小脇に抱え――振り向きもせずに右手に持った鎖分銅を一閃させる。

「ぎっ!!」
「おごっ!!」

 悲鳴を上げた者が二人。
 悲鳴すら上げられなかった者が、同じく二人。
 あわせて四人分の死体が、新たに甲板上に生産される。
 由利鎌之助は、自分に斬りかかろうとしていた複数の敵を視認すらせずに、殺気だけを頼りに振り回した鎖の一閃で、その頭蓋を叩き割ったのだ。
(そういや、まだこの船には敵がいたんだっけ)
 そこで初めてそう思い、鎌之助は周囲を一瞥する。
 遠心力で加速された鎖分銅の直撃を喰らい、血と脳漿を撒き散らした、見るも無残なむくろが四体。
 そして、その背後から、今までどこに隠れていたのか、十人ほどの武士たちが、刀を抜き、あるいは弓を構え、彼を遠巻きに囲んでいる。

 まあ当然といえば当然だろう。
 鎌之助とセイバーは、この船を制圧したわけでも何でもなく、ただその大砲の破壊に成功したというだけなのだから。
 海面を走り回って剣から光線を発射する金髪の女や、そいつと互角に戦って空を飛び回る赤毛の女――この船の侍たちを恐怖させた、二人の妖術使いはもうここにはいない。
 ならば、本来この船の戦闘要員として配されていた武士たちが、ただの人間でしかない由利鎌之助にまで、腰を抜かして怯える道理はないのだ。
 いやむしろ、一度は醜態を晒した自覚があればこそ、もはや彼らの気力は逆に不退転の決意を伴うものとなったのかもしれない。たとえ敵が、いま四人の仲間を文字通り「瞬殺」してみせた、凄まじいまでの鎖鎌の手練であったとしてもだ。
 が、鎌之助の顔には、そんな決死の覚悟を決めたらしい武士たちに包囲されてなお、何の不安もきざしてはいない。
 むしろ侍たちの顔の造作を品定めするように見回し、しかも彼は、その右手にセイバーを抱えたまま離しもせず、鼻息を洩らして、つまらなさそうにつぶやいた。


「いい男はいないわね……さっきの柳生クンはなかなかそそられる素材だったけど」


「ふっ」
 ふざけるな――と最後まで言うことさえ出来ず、一歩を踏み出そうとした武士は、顔面を叩き潰されてその場に転がり、血まみれの鎖分銅はゴムひものように鎌之助の手元に戻る。
 その鮮やか過ぎる手並みに、侍たちの輪の中に一瞬の動揺が走る――が、もはや彼らはひるまない。
 甲板に転がった仲間を捨て置き、残った九人は一斉に鎌之助に襲い掛かる。
 しかし、鎌之助にとってはその一瞬の隙だけで充分だった。
「私に相手をして欲しかったら、もう少し男っぷりを磨いて出直しなさいなッッ!!」
 そう叫ぶや、反撃するどころか彼はくるりと背を向け、そのまま舷側に向けて走り出したのだ。
 男たちにとっても、この得体の知れぬ鎖鎌使いの行動はまさに予想外であったろう。
 舷側の向こう側は一面の大海原なのだ。
 いかに追い詰められての行動としても、この状況で女を抱えたまま海に飛び込むなど、自殺にしか思えない……。


「あッ!!」
 武士たちの一人が驚きのままに叫ぶ。


 自殺どころではなかった。
 鎌之助が海に飛び込んだ瞬間――こちらに向けて驀進してきていた天草四郎の北前船が、まるでタイミングを計ったようにこの船とすれ違ったのだ。
 彼はセイバーを抱えたまま、空中でその船に鎖鎌を投げつけ、その先端の鎌は、すれ違おうとした北前船の船体に音を立てて突き立った。
 二人の男女を海面に引きずりながら、その船は折からの追い風に乗って、そのまま水平線の彼方まで速度を緩めることなく消えていった。




[36073] 第二十八話  「目覚め」
Name: バシルーラ◆74606097 ID:46558887
Date: 2013/08/03 11:54
(……生きてる?)
 セイバーが目を覚まして最初の思考がそれだった。

 おのれの生存という事実に疑問符が付くのは、自分が“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”を行使した記憶がセイバーにも残っていたからだ。
 自身の最後の切り札たる対城宝具の使用は、ショック死を予測させる程の反動を肉体に及ぼすと彼女も確信しており、むろん覚悟もしていた。
(簡単には死ねぬ)
 と思い至るがゆえに、自分や仲間たちが乗る船に、敵船から艦砲射撃を撃ちかけられても、その破壊光線による反撃を躊躇したほどであった。
 が、それほどの危険技を(シロウが危ない)という、いわゆるとっさの判断からの反射行為で使ってしまったところが、ある意味セイバーらしいと言えない事も無いだろうが。

 とりあえず生きてはいる。それはいい。
 彼女は身を起こし、周囲を見回す。
(どこだここは)
 確かにそこは見覚えのない部屋だった。
 塵一つ落ちていない六畳の和室。そこに高級そうな布団が敷かれ、彼女はそこで眠っていたのだ。
 まるで広壮な武家屋敷の中にでもいるように周囲は森閑としているが、もとより彼女に思い当たる場所はない。
 とはいえ、昏睡していた自分への待遇から考えても、どうやら囚われの状態で無いことくらいは見当が付く。
(サナダの者たちの隠れ家の一つか?)
 とは思うが、原城以来の付き合いでしかない真田忍軍の隠れ家など、彼女が知るはずもない。たとえどれほど生死を共にくぐろうとも、しょせん自分たちはそれ以上の関係ではないのだ。
 そう考えると、セイバーにも少し寂しさが募る。
 そのとき、からりとふすまが開いた。


「セイバー……気が付いたのですか!?」


 天草四郎だった。
 彼女が意識を回復させているとは思ってもいなかったのだろう。
 部屋の中にいる者に何の声もかけず、ふすまを開いた彼は、布団から身を起こしているセイバーを見て、しばし眼を丸くしていたが、次の瞬間、抱きつかんばかりの勢いで部屋に入ってきた。
 むろん二人は恋人でも男女の仲でもないので、そこで熱い抱擁が展開されたというわけではなかった。
 しかしそれでも、そんな彼の様子はかつての衛宮士郎を思い出させ、セイバーは思わず頬を染めて顔を伏せてしまう。
「よかった……本当によかった!!」
 が、そんなセイバーの内心はともかく、そう言って彼女の右手をとり、喜びに震え、涙まで浮かべる四郎の顔はもうくしゃくしゃだった。
 ひとかけらの下心もない、子供のように純粋な感情表現。
 そんな四郎の頭を、余裕を取り戻したセイバーは微笑みながら撫でてやる。
「心配をかけましたねシロウ、でももう大丈夫です」
「でも……でも……もう本当にダメかと……ッッ」
「まあ、わしはそんなに心配もしとらんかったがのう」

 この場にいないはずの第三者の声。
 セイバーが思わず顔を上げると、まるで骸骨のような容貌の小柄な老人がふすまの向こうから顔を出し、皮肉っぽく笑っている。
 不意の闖入者の登場に、四郎もさすがに我に返り、羞恥に顔を染めながら、さっとセイバーから距離を取る。
 同じくセイバーも少々ばつの悪そうな顔をしながら、咎めるように言う。
「のぞきは悪趣味だぞソーイケン」
 しかし森宗意軒はむしろそんな二人を、微笑ましそうな目で見ながら部屋に入ってくる。
「そなたを召喚したのはわしじゃぞセイバー。例の“約束された勝利の剣(エクスカリバー)の反動がどれほどのものかはともかく、そう簡単に死ぬような設定値で召喚儀式はしとらんわい。じゃがな……」
「なんだ」
「切り札の使用にそこまで危機感を覚えておったなら、四郎だけではなく、せめてこのわしにも一言相談が欲しかったと思ってな」

 そう言って眉をしかめる宗意軒に、さすがのセイバーも一瞬痛いところを突かれたような顔を見せる。
「……すまぬ」
 と、殊勝な表情のまま詫びを入れるが、
「まあ、わしがおぬしに信頼されておらなんだだけと言えば、そこまでの話じゃがのう」
 と、続けながら畳にあぐらをかく老人に、セイバーは思わず眼を見張った。
「どうしたのだソーイケン、貴方は少なくとも私にそんなことを言うような方ではなかったはずだが?」
「何をたわけたことを。わしの隠れた優しさに今頃気付いたそちに、人を見る眼が無かったというだけの話じゃろうが」
 そう言いながら高笑いをする老人は、以前にもまして胡散臭く見えたものだった。
 四郎とセイバーはたまらず視線を交し、苦笑を洩らしあう。

「――で、ここはどこなのだ?」
 雑談はここまでだとばかりに表情を改め、怜悧な目で尋ねるセイバーに、四郎も宗意軒も一斉に微笑を消した。
 そして、数秒の沈黙の後、気まずい表情のまま天草四郎が口を開いた。


「セイバー、ここは紀州徳川家の大坂藩邸です」


「…………トクガワ?」
 セイバーは、自分が今何を言われたのか、とっさに理解しかねる顔になっていた。
「私の記憶が確かならば、トクガワというのはこの国においてあなた方を弾圧した中央政府の支配者だったはずだが」
「その分家じゃ。紀州徳川家というのはな」
 バツの悪そうな表情のまま、宗意軒は言う。
「つまり、早い話が敵ではないか。何故そんなところに我々は身を寄せているのだ?」
 そう問うセイバーの口調に咎めるような空気は無い。
 ただ、あまりにも想定外すぎる現状に対する疑問を、子供のような素直さで尋ねているだけのように見えた。
 なればこそ、それに答える立場の二人の表情は晴れない。
「予定通りの現状というわけではないわ。我らにとっても思わぬ成り行きというしかないのじゃからな」
「成り行き?」
「セイバー」
 そう呼びかけるや、天草四郎が表情を改め、彼女を振り返る。
「まだ言ってませんでしたが、あの海戦からすでに十日がたっています。キミが眠っている間に色々あったということです」
「それでは説明になっていない」
 そう言ったセイバーは、初めて目に怒りの感情を浮かべた。


「まさかシロウ……あなた方は我々を当局に売って安全を確保した、などと言う気ではないでしょうな……ッッ」


「なにを馬鹿な!!」
 さすがに天草四郎も顔色を変えて反論しようとするが、宗意軒は、手を差し出してそれを封じる。
「そう興奮するな四郎。ここがどこかを理解したなら、こやつが我らを疑うのも仕方はあるまい」
 と言いながら居住まいを正す老人には、すでにいつもの他人をからかうような空気はない。その瞳に宿るのは、軍議で作戦を発表するときのような真剣さだった。
「とはいえセイバーよ、うぬも本気でわれらが徳川に身を売ったなどとは思ってはいまい?」
 さすがにセイバーとしてもその言葉には黙るしかない。
 もしも四郎や宗意軒が自分たちを売ったとすれば、少なくとも彼女や真田衆たちは牢獄にでも放り込まれていなければならないし、この二人が監視も付けられずに屋敷内を闊歩していられるはずもない。
 いくら寝起きではあっても、そのくらいの道理はセイバーにもわかる。
「一から事の顛末を話してやろう。少し長い話になるがな」


」」」」」」」」」」」」」」

(生きてる……?)
 シグナムが最初に目を覚まして最初の思考がそれだった。

 もっとも、あの瞬間のシグナムは、そこまで死を覚悟したわけではなかった。
 あの金髪女が放った魔力光。
 おそらくまともに直撃していたら、跡形も無く自分は蒸発していただろうという確信はあるが、それでも彼女は記憶していた。おのれを意識喪失に導いたのは、その魔力光をシュツルムファルケンで迎撃した際に発生した爆風と衝撃波であることを。
(ふっ……)
 そう思い返すと、思わず苦笑が洩れる。
 この世界に移転する際、流星か隕石のごとく大地に激突し、森林の真ん中にクレーターを刻み付けてなお柳生屋敷で平然と目を覚ました自分なのだ。
 爆風に煽られ、海面に叩き付けれた程度で死ぬとは思えない。
 もっとも、自分本来のスペックを考えれば、現状での非常識な頑丈さは不可解と言うしかない。“闇の書”の守護騎士――ヴォルケンリッターは決して不死身ではないのだから。

(まあいい)
 むくりと身を起こすと、彼女は周囲を見回した。
 塵一つ落ちていない六畳間。
 自分が眠っていたのは、一瞥しただけでわかる、柳生で彼女が使っていたものより明らかに高級そうな布団。
 いや布団だけではない。
 部屋の造作を見れば、ここが大和の柳生家よりも一段格上の屋敷であることは、なんとなく想像がつく。
 が、広壮な屋敷の割には、明らかに猥雑な人の気配、物音が部屋の周囲から伝わってくるのだ。特に――。
 シグナムはちらりと、その方向に目をやる。

 この六畳間は、部屋の東西こそ壁であるが、南北はふすまと障子によって出入り自由となっている。ふすまの向こうは、おそらく廊下であろうか。人が行き交う気配が頻繁にある。
 が、障子の向こうは中庭にでもなっているのか、障子紙越しに柔らかい日光が部屋をぼんやりと照らしているのだが、そっちの方向から尋常ならざる騒がしい物音が伝わってくるのだ。
 もっとも、その庭で誰が何をしているのか、シグナムにはおおよその見当はつく。
 布団を跳ね上げ、立ち上がると、彼女は障子をからりと開いた。
 そこには――シグナムが予想していた通りの光景があった。


 激しく木刀をぶつけ合う二人の男。
 もっともそれは稽古試合ではなく、どうやら型稽古のようであり、一人が攻め、もう一人が受けに徹している。
 しかし「攻め方」の振るう太刀筋の鋭さ、さらにそれを見事に防ぐ「受け方」の剣さばきから見ても、両者共にかなりの腕前であることは間違い無さそうだ。
 もっとも、その「受け方」を勤めるのが柳生十兵衛であることから、シグナムが感服した手練も当然と言わねばならないが、ならば、残るもう一人は誰なのか――それに気付いた瞬間、その意外さに彼女は目を見張った。
 そこにいたのは松平伊豆守信綱その人だったからだ。


 むろんシグナムは松平伊豆守の顔を知っている。
 峠の茶屋で老婆に変装して自分たち二人を待っていたニンジャ――たしか服部半蔵とかいう男だったか――に小倉で引き合わされた人物というのが、この伊豆守だったからだ。
 そのときに十兵衛から、彼はこの国の中央政府の権力者の一人であると、非常に大まかな説明は受けた。
 が、シグナムが彼に対する第一印象は、むしろ学者ような物静かな男だなという程度のものでしかなかった。
 この伊豆守という男が身にまとう空気が、政治家・権力者といった人種独特の脂ぎった雰囲気とは、あまりにかけ離れていたからだ。
 少なくとも、十兵衛を相手に木刀を振り回すようなイメージは皆無だったと言っていい。
 もっともシグナムは知らないが、この松平信綱という男は、かつて江戸の柳生道場で、十兵衛や荒木又右衛門、田宮坊太郎らとともに剣の修行に励んだ仲であり、最終的には免許皆伝を許された剣士でもある。彼を論ずれば「知恵伊豆」とまで称される政治的手腕ばかりが話題になるが、野に下れば、その剣一本で充分にめしを食える男だった。

「はッ!!」
 やがてその男は、中庭に響きわたる気合と共に、おそらくは型の決めである一剣を、受け手たる十兵衛の頭上すれすれにピタリと止める。
「……ここまでにしておきましょうか、十兵衛殿」
「はい、信綱殿」
 と、両者は一呼吸の間を置き、離れ、互いに一礼を交し、そして男たちはこちらを振り向いた。


「おう、これは天女様――お目覚めになられましたか」


 そう言われ、シグナムも一応、貴人への礼を守ってその場に座し、頭を下げた。
 おそらくは彼女が顔を出した瞬間から気付いていたであろう十兵衛も、伊豆守の後ろから、にっこりと手を上げて見せる。
 が、シグナムは一瞬視線を交わして十兵衛に応えこそしたが、すぐにその目を伊豆守に固定する。
「はっ。ご心配をおかけし、まことに申し訳ござりませぬ」
「いやいや、元をただせばそなたの負傷は全て、私の依頼に端を発するもの。謝罪と感謝をするならば、それは少なくとも私の方でありましょう」
 そう言いながら、シグナムの肩に手を置き、
「十兵衛殿ともども、よく戦ってくれました。心から礼を申します」
 そう真摯な表情で声をかけた。
 これが仮にも天下の老中からの言葉と思えば、シグナムが普通の日本人であったなら、感涙にむせぶほどの反応を見せたであろう。
 しかし彼女のリアクションはむしろ周囲の想像を絶したものであった。


「あなた様のおっしゃる“礼”とは、このようなお言葉一つで済まされる程に軽いものでございますか?」

 
 何かの皮肉や冗談の類いではない。
 その証拠に、そう言った彼女の目は、反骨・挑戦というよりもむしろ相手の非を咎めるような光を帯びて伊豆守に向けられている。
 無礼と言えば無礼すぎるこの言動に、伊豆守も十兵衛も等しく、絶句してしまった。
 なにしろ相手は天下の重鎮。江戸幕府の執政たる松平伊豆守信綱だ。たとえ五十万石の太守であっても、彼相手にこんなぞんざいな口は利けまい。
 しかし――シグナムにはそんなことは関係ない。
 彼女が憚るべき相手は、直接の主たる八神はやてただ一人であり、その厳然たる事実を前にすれば、たとえ眼前の男が何様であろうとも、所詮は管理外世界の「地方政府の一有力者」に過ぎない。
 礼儀を守ればこそ現地の秩序に従いもするが、相手が礼を尽くさぬならば、言いたいことを敢えて抑える筋合いは無い。
 それがシグナムの道理であった。
 つまり――彼女は怒っていたのだ。

 無論シグナムが何を考えていようが、この時代のこの国の価値観的に、彼女の言動は非常識すぎた。
「無礼でござろうシグナム殿、おやめなされっ!」
 彼女の保護者役である十兵衛が、たまらず二人の中に入ろうとする。
「信綱殿、この者は本来、現世の人間ではありませぬ。それ故この――」
 が、そんな彼の言葉を封じたのは、続いて放たれたシグナムの言葉だった。


「伊豆守様……あなた様は、このシグナムと十兵衛殿を殺す気でおられたのですか?」

 
 小倉沖で天草四郎一党を海上で待ち伏せた八隻の艦隊。
 その中でも唯一大砲を装備した船に乗り込み、シグナムと十兵衛の二人に、その大砲を守るように依頼してきた人物こそが松平伊豆守であった。
 老中としての命令ではなく敢えて“依頼”という表現を使ったのは、この二人が、むしろ立場的には伊豆守自身の「政敵」と呼ぶべき柳生但馬守宗矩の関係者であったからだ。
 とはいえ、十兵衛は父・但馬守に勘当された身の上であるし、シグナムにいたっては、その身柄をめぐって親子喧嘩の種になっているほどなので、厳密には二人は「柳生家の関係者」とはとても言えないのだが、それでも伊豆守は礼を尽くして頭を下げた。
 十兵衛にとっても伊豆守は、元をただせば柳生道場時代の同窓生でもあるし、そもそも父親の政治的立場など、彼にとってはどうでもいい話だ。
 さらに、十兵衛の食指を動かしたのが伊豆守の以下の言葉である。

「宮本武蔵殿を陽動に使う以上、四郎一党の曲者どもと互角に戦える剣人は、おそらくはこの九州諸藩にはほとんどいないはずです」
「特に、一党の中の金髪碧眼の女剣士などは、島原の陣中において武蔵殿と五分に渡り合うほどの強者でありましてな。十兵衛殿が今このとき、この小倉の地におられたは、まさに天佑と言うべきか」
「いや、その女剣士のみならず、あやつらの一党には猿使い、霧使い、鎖使いに銃使いと油断ならぬ者どもがひしめいておる。これまで九州諸藩の兵を使い、連中を追跡したが、恥ずかしながら現在まで、当方には二百人以上の死傷者が出ておるほどです」


 政治には興味は無い。
 ならばこそ父・但馬守と伊豆守の政治的不仲も知ったことではない。
 敢えてそう公言して憚らぬ十兵衛ではあるが、しかし、伊豆守の言葉には激しく胸を揺さぶられるものがあった。

 そもそも宮本武蔵と実戦で真剣勝負をすることが出来る――というのが、十兵衛をしてこの旅に出向かせた第一目的であった。
 つまりそれは、彼が松平伊豆守指揮下の天草四郎捕縛作戦を妨害する立場であるという意味だ。
 だからこそ服部半蔵は、十兵衛とシグナムをわざわざ小倉まで道案内したのである。半蔵が組頭を勤める公儀隠密・服部組は、幕府大目付たる柳生但馬守指揮下の諜報機関だからだ。
 しかし小倉に到着してみれば、半蔵が十兵衛を案内したのは父の政敵たる伊豆守信綱の屋敷であり、伊豆守その人の居室であった。
 むろん十兵衛は困惑した。
 もしここで彼が伊豆守に加担したとなれば、父を――いや、柳生家とその指揮下の公儀隠密団そのものを敵に回しかねない。
 いかに政治に対する興味がなかろうとも、十兵衛とて人の子だ。実の父親や実家を敵に回す覚悟までは持ち合わせていなかった。
 が、そこで伊豆守が口にしたのは――この一件に関しては、柳生家との間で話がすでに付いているという言葉であった。

 武蔵と戦える、どころではない。 
 つまり父の意思としては、最初から武蔵を「味方」として共同作戦をせよということであり、さらに状況を見て、天草四郎の手柄首を横取りにせよということであり、そのためであれば――という条件付きでの武蔵との交戦許可であったに過ぎなかったのだ。
 十兵衛としては多少、白け顔になっても仕方なかっただろう。
 ぶっちゃけた話、この件にシグナムの身柄保証という一因がなければ、このままUターンして柳生に帰ってやろうかとも思ったほどだ。
 しかしそれでも、武蔵と互角の強さを持つ敵と戦える、という伊豆守の言葉は、彼の剣士としての好奇心を刺激するには十分だった。
 だからこそ十兵衛はシグナムと共に、伊豆守の“依頼”を了承したのだ。
 戦船に搭載された大砲を、四郎一党の手から防衛するという任務を帯びて。



「結果的に、伊豆守様の御依頼を果たしえず、船の大砲をセイバーに破壊されるを許してしまったのは、確かに当方の失態。なれどその件とは別に、このシグナム、伊豆守様にお尋ねしたいことがあります」
「…………」
「あなた様は、セイバーの切り札が、剣からの砲撃魔法であることを御存知だったのではありませんか?」

 シグナムの言う「セイバー」という名が、例の金髪女であることも、「砲撃魔法」なる言葉が、原城にて板倉内膳正を吹き飛ばした怪光線であることも、伊豆守には、なんとなくだが想像はつく。
 が、彼は答えない。
 道場時代から、投げかけられた疑問には理路整然と答え、質問者を逆に黙らせる程に弁の立つ松平信綱がだ。
 十兵衛は、シグナムよりもむしろ、黙して語らぬ伊豆守に不審げな視線を向けるが、それでも彼の口は開かない。
 しかしシグナムは、彼の沈黙を質問に対する是認と解釈したのか、さらにその視線を鋭くしていく。

「もしもセイバーが、こっちの船に乗り込んで大砲を破壊するなんてまどろっこしい真似をせず、即座に砲撃魔法で艦砲射撃に応戦してきていたら、我々はなすすべなく死んでいたでしょう」
「…………」
「もしも事前にあの女の切り札の話を聞いていたなら、まだ対応の仕様もあったでしょう。しかし、私は何も聞かされてはおりませんでした」
「…………」
「結果から言えば、私たちが今こうしてここに生きているのは、ただの偶然でしかありません。いや、客観的に見て死んでいた可能性の方がはるかに大きいでしょう」
「…………」
「敵戦力の重大情報を意図的に隠匿し、我らを死地に赴かせた理由が――そんなものがあるならばですが――是非お聞かせいただきたい」


「…………まあ、そなたが左様に申されるのも、ある意味仕方のないことではありますな」


 そうポツリとつぶやいた伊豆守に、十兵衛は唖然となった。
 まさか事ここに及んで、彼がシグナムの主張を認めるとは思わなかったのだ。
 それはシグナムも同様であったと見えて、一瞬まばたきを激しく繰り返した。
 が、伊豆守はまるで何事もなかったかのように彼女を振り返ると、
「とりあえず中に入りましょうか」
 と言い、にこりと笑った。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.18168091773987