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[37010] 【完結】賢者と不死者と滅びの予言(ヴィーナス&ブレイブス二次)
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/06/01 22:15



当作品は株式会社ナムコさんより発売された、PS2用ゲーム“ヴィーナス&ブレイブス~魔女と女神と滅びの予言~”の二次創作です。
株式会社バンダイナムコゲームスさんから発売されたPSP版を元としていないことをご了承ください。

描写の中で、原作と設定が異なる可能性が多々あります。ご注意ください。
原作が非常に長いため、作者が設定を把握しきれていないためです。申し訳ありません。
また、それに関係して更新は不定期となります。ご理解をお願いいたします。

一話と最終話限定で三人称(っぽい何か)で、それ以外はオリジナル主人公の一人称です。
全十話予定中、一話が一番長くなりますが、一話と二話がクライマックスなのでご了承ください。
多少違和感を抱くことになるかもしれませんが、よろしくお願いします。



過去作
雨にも種を。(FinalFantasy8二次創作 完結済み ブログで公開)
無貌の神と箱庭(Persona4二次創作 完結済み Arcadia様で公開)
ネット小説家、同級生の家庭教師始めました。(オリジナル 完結済み 小説家になろう様で公開)





[37010] 1話 1029年 キーラの里にて 
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/03/17 07:25



アクラル歴1029年、後に混沌期と言われる11世紀の初頭。
アクラル大陸の人々の生活は、魔物の出現によって脅かされていた。
年々と数を増し、そして強大になっていく大型の魔獣たち。
例え小物であっても、戦う力を持たぬ人にとっては大いなる脅威である。
金を目当てに戦う者たちも、命は捨てられぬと匙を投げてしまう。

かと言って人々が剣を取るには、あまりにも魔物は強かった。
最弱と言われる子鬼族であっても、ただの人が幾人集まろうと意味はない。
圧倒的な体躯、全てを蹴散らすほどの暴力で、人の住処は脅かされた。

とはいえ、全ての人が無力であるわけでは決してない。
精霊の祝福を受けた歴戦の勇者たち。17の職種に着く彼らなら戦える。
戦士。騎士。剣闘士。幻術師。僧侶。神官。魔術師。魔女。冒険者。
アーチャー。ヴァルキリー。サムライ。ニンジャ。祈祷師。巫女。聖騎士。魔騎士。
彼らが徒党を組んで戦えば、どれだけ凶悪な魔物も恐ることはない。
それぞれの経験と技術を持ち寄れば、牙を防ぎその皮を貫くことすらできる。

――けれど。人は簡単に手を組みあえるものではない。
例え魔物を打ち倒すだけの勇者がいようとも、彼らが協力せねば倒せない。
賞金のために大型の魔物を打ち倒す、命知らずの達人がどれほどいるか。
それだけの賞金を出すことが出来る集団がどれほどいるのか。

数える程もいないことは考えてみなくてもすぐ分かることであろう。
それだけの実力者ならば、無謀と勇敢を取り違えることなどありえない。
無謀であると判っていても、戦おうと思わせるまでの賞金など出し得ない。
金のために戦う人間ならば、小物を狩れば済むだけの話なのだ。
魔物が自分の生活を脅かさない限りは、誰も大型の魔物とは戦おうとしなかった。

都市ならば、その周りを取り巻く外壁が彼らの生活を守ることだろう。
立地に恵まれ、そこに住む勇者が戦うのならば、大型の魔物であろうと守りきれる。
魔術師や魔女の魔術に守られた戦士たちが、弓兵の援護とともに斬りかかる。
正しく人海戦術だ。人は生きるために群れ、その論理は現代までも続いている。

ならば何故。各地にある村や里で、人々は生きていくことができるのか。
戦いを生活の手段とする者は都市よりもずっと少ない。外壁などあるはずもない。
精々が堀と柵で囲まれた程度で、2、3人の守り手しかいないというのに。

……それはやはり、戦う人間がいるからである。
王都ヴァレイの王都親衛隊や、城塞都市ゼレスの自警団。
彼らは自身のある場所だけではなく、付近の安全を守ることを是としている。
個人個人の目的は兎も角、集団として安全を目的として設立されたそれらの集団。
彼らによって守られることで、人々の生活もまだ続けられるものとなっていた。





――そして。この地、南アクラルにはその中で一際著名な集団がある。
彼らのことを人々は“騎士団”と呼ぶ。けれど、ただの騎士団ではもちろんない。
騎士団と名を打つものの、彼ら全てが騎士で構成されているわけではなかった。
精霊に祝福されし17の職種。騎士団と名乗るのは、ただ一つ。
その団長であるものが、他の追随を許さないほどの騎士であったという理由からだった。

騎士団団長、ブラッド・ボアル。彼の実力は才能だけによるものではない。
20代中頃に見える彼の容貌に反して、その年齢は人を遥かに超えてしまっていた。
373歳。不老の呪いを受けた彼の生きた時間は、それだけの経験へと変わった。
その実力は、親しき人との別れを繰り返した長い時間の中で培われたものだった。

何故彼が騎士団を築いたのか。それは彼が大切に持つ預言書にある。
今から19年前に女神アリアから託されたそれは、滅びを告げる預言書であった。
100年後、1099年に訪れる“滅びの大災厄”は世界の終焉をもたらす。
そう女神に伝えられたブラッドは、100年の間戦い続けよという使命を与えられた。

尽きぬ命を、魔物と戦う力を。そしてなによりも大切なものを奪われる恐ろしさを。
その長い人生で知っていたブラッドは、騎士団を率いて戦うことを決めたのだ。
勇者とともに戦い、数年ごとに訪れる災厄を回避していくことを女神アリアに誓った。
100年間、戦い続けると。人々のために戦い続けると決めたのだ。

――彼らは戦い続けている。見返りを求めず、ただ人の生活のために。
守るものがいない僻地の住民のために、片時も落ち着かずに歩き回って。
ブラッド以外の団員は、時間とともに成長し老いていく。いつまでも一緒ではない。
未熟なものが成長するまで戦い、そして能力の衰えとともに団を去る。
人生の全てを騎士団に捧げ、そして得るものはあったのだろうかと迷いながら。





そして騎士団は、今日もまた草原を歩いていた。
現在中心地としている水上都市スクーレから南、キーラの里を目指して。
目に付いた小型の魔物や、自分たちの糧となる獣を得ながら進む。
長い旅、長い戦いだ。自給自足でなければ、戦い抜くことなど出来なかった。

日が落ち始める前に、野営の準備。日が昇る前に野営を終え出発。
ブラッドにとっては場所を変え、人を変え、既に何年も繰り返したことだ。
行く先々の街で魔物が出た場所を確認し、歩みを止めることなく倒しに行く。
目標としていたキーラの里も、数ヶ月前に魔物が出たと酒場で聞いた。
より近い場所の魔物を倒し他の街を経由しながらも、ついに数日のところまできた。
――いつもと変わらないこと。けれども不可解なことが歴戦の勇者たちにはあった。

ここ数日、誰ともすれ違わない旅が続いた。それほど整備はされてないとは言え、街道。
神官や魔術師によって退魔の術を掛けられた道には、なかなか魔物は近寄らない。
術とは縁が薄いブラッドであっても、その術が効いていることは感覚で判る。
この街道は魔物が近寄らず、安全なのだ。ならば、どうして誰ともすれ違わない。

キーラの里が魔物に襲われているのなら、そこから逃げ出すものもいるだろう。
魔物の恐怖は故郷や生家を捨てても仕方ないと思わせるだけの力を持つ。
戯れのように襲ってくる魔物たちに、恐れをなして逃げる人々を騎士団は見てきた。
それを見て戦えぬものたちの為と、決意を新たにしたこともあった。

だというのに、この水上都市スクーレとキーラの里をつなぐ街道で誰とも会わない。
些細なことではあるが、これが間近に近づくまで変わらないとなると話は変わる。
もしかしたら誤報であったのかもしれない。それとももう既に魔物を倒したか。
或いは里の住人は全て逃げ出してしまって、残された里は崩壊してしまったのかも。

しかしその殆どはきっと杞憂に過ぎない。何故ならばブラッドには女神がついている。
ブラッドに都合よく行動してくれるとは限らないが、世界の維持には真剣な彼女だ。
騎士団が無駄な時間を使うことなど女神が許すわけもない、すぐに知らせに来ることだろう。
未だブラッドの前に女神アリアが姿を現さないのなら、これは無駄ではないのだ。

つまりキーラの里には騎士団がたどり着く必要があり、その予定は変わらない。
しかし、そうだとしたら奇妙なことになる。誰ともすれ違っていないことに変化はない。
“魔物は存在する”が、里の住人にとって“逃げ出すほどの脅威ではない”。
その両方を同時に満たしていること。女神アリアが出ないのは、つまりそういう意味になる。





最初に事態のおかしさに気づいたのは、ブラッドを除けば騎士団の最古参だった。
レオ・ガッタカム、32歳。彼は17年前に入団した一流の冒険者だ。
入団した当初は未熟であった彼も、先達の教えと経験によって今では団に欠かせない。
よく回る頭と口、慎重にして捻くれた性格を持って、魔物の討伐計画を担当している。
そんな彼が、周りを気にしながらブラッドに相談しに来たのである。

「――ブラッド、気がついてるか」
「……何をだ?」
「おかしいんだ。誰もキーラの里から逃れてきていない」

レオが最初に気付いたのは、彼の仕事に魔物の情報を収集することも含まれていたからだ。
魔物が出たと聞いた時から常に、どのような魔物なのかを調べ、対策を練る。
当然向かおうとする場所から逃げてくる住人は、最新の情報を持った存在である。
凶暴な魔物を無力化し、被害なく倒しきるためには、彼らからの情報は欠かせなかった。

レオに指摘されたことで、ブラッドも自身の抱いていた違和感の答えを知った。
そして団の中心である彼ら二人でその理由を考えたが、答えは出なかった。
“誰も逃げ出してこない”ことの理由が、アリアが忠告してこないことで尽く否定されたのだ。
魔物を倒せてはないけれど脅威でもない。そうでもなければ、この状況は説明できなかった。
――――そしてそれは、何も説明できていないのと殆ど同じことである。

野営の度に、ブラッドとレオは魔物のことを相談し合った。
魔物が里から離れてしまった。里が襲われていないならアリアが伝えてくるだろう。
倒せずとも脅威とならないほど痛めつけた。それだけの実力者がいるなどとは聞いたこともない。
キーラの里にいるのは守り手の戦士が一人と、年老いた僧侶が一人だと聞いている。
それだけで傷つけることが出来るわけもない。それに痛めつけたのならなぜ倒せないのか。

時間をかけずして行き詰ってしまったその会話に、風を吹いたのは年若い戦士だった。
アレフ・バルハン、17歳。18年前に退団した二人の団員の子供である。
未熟にして直情ではあるが、素質と熱意に恵まれた騎士団の未来の主力と見込まれていた。
“キーラの里にいる実力者”という話題に入ってきた彼は、とある噂を口にする。

「“賢者”っていうのがいるらしいですよ」
「賢者?」
「……僕もスクーレで聞いたことはある」

眉を顰めるレオに口出しをされながらアレフが説明したことを要約すると以下となる。
曰く、キーラの里には算術、文筆、礼儀作法に優れた賢者と呼ばれる人間がいるらしい。
数年前よりスクーレの商会では、その者に師事を受けた人間が頭角を現しているそうだ。
今ではキーラの里出身であると判れば、それだけの期待をかけられるという。

「まあどうせ、貴族の庶子とかそんなものだ。
 教育を受けていても、それを使う場所に恵まれなくちゃ意味ないぜ」
「そんな言い方するなよおっさん。
 誰も逃げてこないのも、その人が何かしたのかもしれないだろ?」

自らをおっさんと呼んだアレフを睨みつけながら、レオはその可能性を考えた。
……ないだろう。幾ら賢いとしても、人一人で魔物をどうにかすることなんて出来ない。
あり得るとしたら、魔物を罠に嵌め無力化したところに人数の多さで立ち向かうこと。
だがこれは都市や砦で、事前の環境と大量の人数と資材があって漸く成り立つ。
普段それらが揃っていない場所で戦っている騎士団だからこそ、無理だと判る。

レオがちらりと目を向けた先のブラッドも、同様に考えていたらしく苦笑している。
まだ経験の浅いアレフはともかく、この二人はキーラの里でも魔物を討伐したことがある。
魔物を罠に捕えるなど騎士団ですら難しいことなのに、寂れた村でそれが出来るのか。
現実的だとは思えない。しかし有り得ないと切り捨てるには、現状は不可解すぎた。
――ついに答えは出ずに。誰ともすれ違うことのないまま、キーラの里までたどり着いた。





里にたどり着いた騎士団が見たのは、静かで平穏な様子であった。
木材でできた柵が守るように取り囲み、その中には藁葺きの家屋が林立する。
街道とつながる里の入口では柵が開けており、そこには二人の見張りらしき住民がいた。
魔物に襲われているとは到底思えない、穏やかな生活が続いているようである。

微かに動揺する団員を押しとどめながらも、ブラッドは代表として見張りに話しかけた。
久々の来客に驚いた様子の彼らは、少し待っていろとブラッドを制して一人が奥へと駆けていく。
小さく聞こえた彼らの会話からすると、どうやら騎士団が来ることは想像されていたようだった。
間もなくして戻ってきたその青年に、騎士団が案内されたのは村の集会所だという小屋だった。

その道行の中においても、どうにも魔物に襲われたような形跡はない。
時折道交わす里の住人も騎士団の姿を見ても、何事もなかったかのように元に戻る。
普段たどり着いた村などでは、助けてくれと縋り付かれることすら日常であるというのに。
ブラッドたちは違和感を感じているのを隠しきれそうになかった。

連れてこられたその小屋は、騎士団全員が入ってもまだ余裕がある広さだった。
簡素ではあるがなかなか綺麗に維持されており、里の中では重要な場所であるとわかる。
歓迎されていないわけではない。ブラッドがレオに視線をやると同じくと言わんばかりに頷く。
何もないのであれば騎士団が厄介者だという自覚はある。魔物はいる、そう確信した。

「そいじゃ団長さんだけついときてくれ」と言う青年について、ブラッドは小屋を出た。
大筋この里の里役にでも会わせるのだろう、道すがら確認すれば里長が待っているとのこと。
そのついでに魔物はどうなったのかと聞くが、青年は悩む素振りを見せてから「長に」とだけ。
魔物が出てきたことは判った。青年がその後の経緯を知っていることも判った。
けれどそれ以上を彼が口にするのは禁じられているのだろうか、ブラッドは彼から聞くのを諦めた。

集会所から少し離れた、家屋が一定の距離で並ぶ中の少し大きな一つの前で青年は立ち止まる。
ブラッドがここなのかとその全貌を見上げていると、青年は軽く戸を叩いてから中に入った。
中の様子を伺いながらそれに続いたブラッドは、こじんまりとした部屋の中に人影を見た。
応接間としての役があるのだろう、木組みのしっかりとした卓には染め布が掛けられている。
そこに待ち構えていたのは、仕立てのよい服を着た一人の老年の男であった。

「長、お連れしました。リュートも直ぐに」
「ああ、ありがとう。見張りに戻っておくれ。
 お客人はお座りに」

案内をした青年に小さく頷くと、長と呼ばれた老人は向かいの椅子を手で示した。
振り返り出ていこうとする青年と会釈を交わし、ブラッドは使い込まれた椅子に座る。
その背後で静かに扉が締められる音がし、ブラッドは“団長”として長を見た。

がっしりとした体つきと日に焼けたその顔。最初の印象よりは若いかもしれない。
畑仕事から引退したという筋肉ではなく、まだまだ働き盛りなのだろう。
顔を見ればその瞳は生気に満ちたものであり、静かな迫力を感じさせる。
どうにも落ち着いたその様子は、魔物に襲われた集落の長のものではなかった。
さて、徒労だったかと思い始めていたブラッドに、掠れもしない声がかかる。

「――まずは騎士団の到着を歓迎します、団長殿。
 滞在の間、生活はご心配なきよう」
「それはありがたいが……魔物に襲われた形跡は見つからなかったが」

今までされたことのない対応に、多少身じろぎしながらブラッドは問いた。
歓迎されたことがないとは言わない。ただ、それは緊急の中においてのものだ。
一言目にあるのは助けを求める声であり、こう静かに応じられたことなど無かった。
ましてや生活の保証から始まったことなど、長い人生の中でも経験がない。

しかしながら、歓迎をされたということは騎士団が必要な自体なのだろう。
魔物か、あるいは盗賊団が現れでもしなければ、騎士団は厄介者に過ぎないのだ。
それにしては、余りにも被害を受けた様子は見られない。見張りも常識の範囲である。
ブラッドからしては、差し迫った危機があるようには思われなかった。
その言葉に、里の長はかすかに頭を上下に揺すると、小さく苦笑する。

「……皆無ではないのですがね。ここ数ヶ月は襲われていませんので」
「追い払ったのか?」

ブラッドの問いかけに里長はいいえと否定。言葉を選んでいる素振りを見せる。
ならばどういうことなのかと待つうちに、ブラッドは里までの道中をふと思い出した。
様子がおかしいとレオと話し合ったあの日の中でも、同じように考えたのだ。
その時も答えが出ることはなかった。今も、それを確かめているような気分になる

――襲われたのは確か。だが、倒せても追い払えてもいないのに村に被害はない。
ここまで来ると、想像の埒外としか表現の仕様がない。
この里についてからの妙な手際の良さも、未知のものであるのだ。
もしかしたらアレフが正解なのかもしれないぞと思いながら、ブラッドは返答を待った。
促すように視線を合わせると、済まなそうな顔をして頭を下げる。

「ああ、すみません。簡単に言えば“閉じ込めた”ということなのですが……
 説明を出来るものが、直ぐに参りますので」
「……あんたじゃ駄目なのか?」
「この里には智慧者がおりまして、な。
 閉じ込めたのも、そのものの提案によりますから」

どうやって、どこに。反射的な質問よりも先に、里長の言い方が気にかかった。
説明を出来るものが別にいて、それを呼ぶ。そのものを呼ばなければ説明ができない。
ブラッドは言外に感じたことを、まさかと思った。そんな訳がない。
里長が自らの里の危機を把握していないわけがない。責務があるのだ。

自分たちの住む集落に魔物が襲ってきたのなら、それに対処するのは住民だ。
実際に戦うことが出来るのは勇者だけだとしても、関わることには相違ない。
特にその集落において何らかの役割を負っているのなら、無関係でいられるはずもない。
だからこそ、ブラッドは里長が主導して対処したわけではないのか、と問いかけた。

――けれども、里長の返答はブラッドの予想を超えてしまうものだった。
いや。既に予想が出来る範囲は超えていたのだから、常識の範囲外である。
里長が魔物の対処を把握していないほど、全てを任せてしまえるほどの智慧者。
把握していないわけではないかも知れないが、事態をより詳しく知るもの。
これはアレフが大正解だな、とブラッドはレオの引きつる顔を幻視した。

「――そいつが罠でも作ったのか?」
「ええ、まあそういうことに、と」

つまりは都市にある防衛設備を、そのものの知識と技術で補ったというのだ。
これは強ち評判を超えるほどの逸材なのかも知れないぞ、とブラッドが思ったとき。
里長の言葉を遮るように小さく戸を叩く音が聞こえ、二人は揃ってそれを見た。
少しの間を置いてから、重いものが動く音と共に光が差し込んできた。





[37010] 1-2
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/03/17 07:30



逆光となり、ブラッドからはその誰かの顔ははっきりとしなかった。
ただその身長から男だろうと予想し、戸が閉められた時にはそれが正解だと判った。
一歩前に歩み出たその男は小さく頭を下げると、二人を見てから口を開いた。

「遅くなりました、長。こちらの方が?」
「ああ、そうだ。リュート、お前に任せるよ。
 団長殿、騎士団のことはこの者が担いますのでお願いします」

ブラッドを見ながらの言葉は、幾分か高い音が混じる響く声だった。
リュートと呼ばれたその男は、どうやら予想していたよりもずっと若い。
アレフよりは年上だろうけれど、俺よりも若く見えそうだとブラッドは思った。
里長は心より安堵したように息を着くと、青年に全てを任せると言い切った。

おいおいそれはないだろうと、心の中でボヤいたブラッドに青年が振り向いた。
年齢と実力は必ずも等しいわけではないが、それでも外見で得られる信頼はある。
流石に騎士団の命を預ける相手としては、余りにも頼りないその青年。
けれど顔を向けられ瞳を合わしたその時に、ブラッドは意外さを感じ、驚いた。

「――あなたがブラッド団長でしょうか。
 薬師をしているリュートと申します。滞在中のご用命はどうぞ私に」
「よろしく頼む。
 ……あんたが、評判の賢者なのか?」

ブラッドが一目見て感じたのは、例えようもなく場違いであること。
一人だけ浮き立っているように見える程に、別種の何かだと感じたのだ。
既に予想を幾度と超えられてはいるけれど、こいつが原因なのだろう。
恐らく20歳を超えて間もないその男を見て、ブラッドは小さく息を飲んだ。

――少なくとも、このリュートという青年はこの里の出身ではないだろう。
森に臨し、自然に恵まれたこの里で育ったにしては、余りにも細身である。
筋肉が付いていないわけではないが、間違いなく都市の生まれ。
その両手も、農作業をする荒くれたものではなく、細くて長い綺麗なものだ。

そしてそれ以上にブラッドに違和感を感じさせたのは、その仕草である。
伸びた背筋、必要以上の音を立てない所作は、明らかに高い教育を受けたもののそれ。
自身に向けられた視線も、見定めようとするものではあるが不躾なものではない。
物珍しさどころか僅かの感情も浮かばないそれが、こんな里で身につくはずもない。

なるほど、これは確かに。賢者という噂も強ち間違いではないかもしれない。
ハキハキとした口調も静かな瞳も、深い知性を感じさせるものである。
案外、ここでの生活は心配いらないかもな。ブラッドは先ほどの評価を改めた。
返事をしながらも確認をするブラッドに、青年の瞳は小さく揺れた。

「……ええ、そう呼ばれているみたいですね。
 ともかく、こちらへ。説明は場所を変えさせていただきます」
「判った、頼むよ」

感情を見せなかったその瞳が揺れ、その奥には戸惑いのようなものが見えた。
青年は小さく肯定すると、それ以上の話を断るかのように家の外へと視線を向ける。
あんまり触れられたくないことなのか、と受け止めたブラッドはそれに従った。
里長に別れを告げると、卓から離れ青年の背中に着いていった。





里長の家を出た二人が向かったのは、最初に案内された集会所であった。
道中に話を聞く限り、騎士団の生活の手配は本当に賢者が行うらしい。
食料の手配、寝具の手配。洗濯や掃除、炊事に人が欲しければそのように、と。
至れり尽くせりではないが、計画だった様子にブラッドは感心した。

「凄いな、まだ若いのに」
「若さが言い訳になるのなら良かったのですが。
 来るのが判っているのだから、前もって準備するまでですし」

静かに、落ち着いた様子のその姿は、外見とはあまりそぐわない。
明るい外に出て見れば、濃茶色の髪に薄く色づいた肌の色。
魔術師ほど小さいわけではないが、低くて細い体付きの小柄な青年である。
他の住人と変わらないはずの生成りのズボンと白のシャツが、別のものに見える。
身奇麗にしてあるせいかその雰囲気のせいか。垢抜けて見えるから不思議だ。

感情が読み取りにくいのは頂けないが、知性は頼りになるだろう。
やはり準備をしていたものか、とブラッドはここまでの手際の良さに納得をする。
さてそうなれば、この里の奇っ怪な状況について聞きたいところだが。
そう思って促してみると、顔だけをこちらに向けて答えてくる。

「――後ほど詳細をお伝えするので、簡略になら。
 長からはどのようにお聞きされていますか」
「あんたが罠を作って閉じ込めた、と聞いたな。
 どこにだとかは一切聞いてない」

多少考える素振りを見せるが、青年は嫌な顔もせずに素直に答えようとする。
そもそも動きの少ない表情だが、協力的であるのはありがたい。
少なくとも集落の住人にありがちな、排他的な感情を見せないのは好感が持てた。
どこか形式ばった、堅苦しい態度が一線を引いてるようなのは気になるが。
ブラッドはそれも悪くはないことかと思いながら、聞かれたことに答えた。

「……山間の洞窟に、魔獣族ヘルハウンドが住み着きました。
 入口を全て防壁で塞いで、中からは出られないようにしてあります」
「入口を塞いだって……その間に襲われなかったのか?」

ヘルハウンド。それ自体は騎士団に取ってしてみれば、大した脅威ではない。
二つの頭を持った巨大な狼で、力が強く素早いが、それだけである。
素早く暴れまわり、時折渾身の力で噛み付いてくるが、決して賢くはないのだ。
だがその分、獲物を見れば直ぐに襲いかかる獰猛な魔物だ。

入口を塞ぐともなれば、大きさにもよるだろうが短時間では終わらないだろう。
閉じ込めるには洞窟の中に魔獣がいなければならない。
物音もするだろうし、まさか気付かれなかったわけもない。
まさか犠牲を出してでも強行したのかと思ったが、青年は殊更声を荒げはしなかった。

「気付かれはしましたが、怪我人は出ていません。
 現状まで防壁も壊されることはなく、段々と弱っているようです」
「……どうやってかは、ちゃんと聞かせてもらうからな」

ははは。もうここまで来ると、幾らも予想が追いつかなくなってくる。
これは素直に全部聞いた方が早い気もするし、実際そうするつもりになった。
聞きたいことは幾らでもある。しかしそれを追求するのは、今ではない。
レオたちが待っている集会所を目の前にして、ブラッドは一旦話を打ち切った。





集会所の中は、既にくつろぎ始めた団員の姿でいっぱいだった。
呆気に取られたブラッドに、いち早く気付いたレオが近寄り話しかける。
ブラッドが長に会いに行ってから直ぐに、里人たちが来たそうだ。
それぞれの手に毛布や野菜などを持っており、それを届けにきたという。

「賢者が指示したんだと。
 ま、当の本人は来てなかったんだけどさ」

その言葉に、ブラッドはすぐ後ろで立ち止まっている青年に目をやった。
賢者と呼ばれる彼はやはり少し複雑そうな顔をしていたが、すぐ視線に気付いた。
頷いて見せたところから考えると、道中で聞いた手配を既にしていたのだろう。
彼はそのまま、数歩前に歩いて団員が見える位置で立ち止まった。

「――騎士団の皆さん。薬師のリュートと申します。
 この里にいる間、お世話役をさせていただきますので、よろしくお願いします」

張りのある響く声は、話をしていた団員の視線を急に集めた。
戦士や剣闘士の強い視線、魔術師や冒険者の探るような視線を一人受けてなお。
それでも少しも揺るがない声は、或いは人の前に立つことに慣れているようだった。

「運ばせたものは、騎士団の皆さんでご利用ください。
 不足や人手が必要であれば、私が責任を持ってご用意いたします」

ブラッドにとっては道中で聞いたのと同じことであり、確認に過ぎない。
けれど他の団員は、青年の見た目とそぐわない様子に驚いたようだった。
それはブラッドの隣に立っていたレオにとっても、同様のことであったらしい。
静かに青年を見定めようとする空間の中で、一番最初に声を上げた。

「まて。アンタが噂の賢者なのか?」
「……噂通りかは判りませんが、そう呼ぶ方もいますね」

掛けられた言葉に振り向いた青年の顔は、案外柔らかい表情をしていた。
レオの姿を確認すると、その割合幼い顔立ちに見合わぬ、真剣な瞳を見せてくる。
その中の確かな知性の輝きに気付いたのか、レオは困惑したようにブラッドを見た。
ブラッドは小さく苦笑しながらもそれに頷いて、青年の隣に歩み寄った。

「まあ、そういうことだ。頼れるのは俺が保証するよ。
 この里の状況について、俺たちに教えてくれないか?」
「……判りました。魔物の発生から順番にお伝えします」

短い時間ではあったが、ブラッドはこの青年は信頼出来ると踏んでいた。
レオを中心にした懐疑的な視線も、流石に団長の言葉に逆らうつもりもないらしい。
青年も気にした素振りを見せず、その静かな表情を騒がせることもない。
年齢は近いだろうに、感情的なアレフとは大違いだなとブラッドは思った。





魔物、ヘルハウンドが現れたのは今から3ヶ月ほど前のことであった。
最初にその片鱗に気付いたのは、山に入って猟をする里の狩人。
大型の獣の牙や爪によって傷つけられた木や、動物の血の跡が発見された。
その日の内に山に“何か”がいるという情報が里に伝わったのである。

対策として、発見をした狩人を中心に探索がなされたが判然としない。
その数日後には、里の家畜が夜間に襲われたことが判り、一時騒然となる。
里の周りにある柵の近くには、大型獣が飛び越え着地した跡が見られた。
これは魔物の仕業である。そう結論づくまでに時間はかからなかった。

残された足跡から“どれぐらいの高さで跳んだのか”を予測し、柵をその分高く。
相対的な高さを作るために、柵の外側は地面を掘って高さを下げる。
作業が間に合わなかった場所は一日中火を焚いて、見張りを置いた。
弓を使えるものを集め、守り手の戦士殿と僧侶様にも協力を依頼し、退治を計画。

数日後の夜に、その魔物は再度村を襲った。その時に魔獣族であることを確認。
火が焚かれた場所には近づかず、また高くなった柵を見て、魔獣は足を止めた。
飛び越えるのは無理だと判断したのだろう、体当たりをしたが、崩れない。
その間に集まってきた里人たちが一斉に弓を放つが、一本たりとも刺さりはしない。
唯一、僧侶様の祈りを背に受けた戦士殿の一撃が当たると、魔獣は逃げていった。

里の戦力では倒せはしない。かと言って、警戒態勢を続けることはできない。
幸いにも逃げた魔獣の血の後から、住処としている場所を特定することが出来た。
里から2時間ほど山を登った先の洞窟、その中に魔獣は住んでいた。

ヘルハウンドだと判ったことによって、僧侶様が夜行性であることを指摘。
火を恐れ、柵も数回までなら体当たりを防ぐことが出来るというのが判っていた。
里の柵を一旦崩し、組み立てるだけで構築できるまで再度加工。
麻の袋にそれぞれ土を詰めたもの、藁を詰めたものを用意し、洞窟へ向かった。

その洞窟が里人の薬草やきのこの採取場だったのも、ありがたいことだった。
洞窟には幾つかの出入り口があったが、その内で魔物が通れるのは限られる。
2つの小さな入口と、魔物の足跡も見られた大きな入口の計3つ。
魔獣はその最深部で傷を癒すために寝ていることを、戦士殿僧侶様と青年が確認。

男たちは大きな入口の中に、まずは藁を並べて火をつけた。
それが大きな火になったのを確認してから、柵を組み防壁を作った。
それを入口に立てかけ、持ってきた土の麻袋を幾重に並べた。
その場で大きな石や岩も集め、その一部にしていった。
魔物も物音で起きてくることはあったが、火を超えてくることは無かった。
残された小さな入り口は、里の子どもと女たちが土と石でより狭くし通れないようにした。

現状、小さな入口の中から夜毎吠える声が聞こえてくるが、それも疎らになった。
中には水路があり、またコウモリなどの小さな生き物も生息している。
それらを食べて生き残っているのだと推測され、まだ当分は死ぬことはないだろう。
里に危害を与えることはないと思われるが、里人の生活に必要な場所である。
騎士団には、可能であるなら小さな入口から侵入し、魔物を討伐していただきたい。





淀むことなく流れるような説明は、口を挟むような時間もなかった。
人前で話すことに相当慣れているのだろう、声が上擦るようなこともない。
訝しんでいた者たちも、流石に青年の賢さに疑問を抱くのはやめたのだろう。
その話が終わるまで、静かに黙って耳を傾けていた。

話が終わってすぐには、誰も反応することが出来なかった。
説明は論理的と十分に評価できるもので、話の内容も非常に合理的だ。
歴戦の勇者である騎士団にとっても、理想とも言える対策である。
急場の拵えでも、特定の魔物に対してならここまでの成果を出せるのだろう。

けれど騎士団は話が終わったのにも関わらず、口が出せない。
いつもであれば真っ先に口を開く、意見役のレオが黙り込んでいるからだ。
各々で考えることはあれど、騎士団としての方針を決めるのはブラッド。
そしてそれを支えるレオが口を開かないなら、先走ることはできない。

団員の視線を受けるレオは、眉を顰めて考えごとをしていた。
賢者が信用出来ないわけではない。その知恵は確かな重みを持っている。
説明に不足はなく、魔獣族への対処としては理想的なものであった。
なるほど、確かに里の全力を傾けることが出来るなら、可能なことだろう。
魔物の襲撃に怯える里人全員の手を借りることが出来るなら、であるが。

「――よく出来たな、そんなこと。
 誰も逃げ出させずに、誰が纏めたんだ?」

レオよりも先に青年に声を掛けたのは、団長であるブラッドだった。
先ほどの話は、非常に合理的な思考に基づいて考えられているだろう。
だがその中には、当然あったであろう里の混乱について触れられていない。
襲撃に怯えて里を離れる。自分が狙われなければそれでいいと閉じこもる。
話の通りにやれば出せる結果だが、それが感嘆に出来るなら滅ぶ集落などない。

誰が纏めたのか、質問こそすれど、それはブラッドの中で答えは出ている。
必要なのは対策を考える人間と、里人を説得する人間と、指揮をする人間である。
バラバラであるのが当然だが、しかしこの里の様子はそれを当たり前としていない。
本来なら中心となる里長があの調子なのだからと、ブラッドは青年を見た。

「……特に誰が纏めたなどということはありませんが。
 私の提案を皆さんが信じてくださったおかげです」

ブラッドの視線を受けた青年は、少し物憂げに瞳を伏せた。
幾らか思うところがあるらしい、顔を上げた時には暗い顔をしている。
さて、言葉を聞く限り対策は勿論としても、説得も賢者がしたのだろう。
その言葉通り、特に纏めたものがいないのなら、一番強く関わったのは彼になる。
予想はしていたことだが、この若さでそれをなすことが出来たのは。

「――よく。アンタみたいな若い奴の話が信じられたもんだな。
 小馬鹿にして聞きもしない年寄りどもがいたんじゃないか?」

ブラッドが思いを纏める前に、レオが引き継ぐように口にした。
若さというのは、特にこういった閉鎖された環境だと弱点になりやすい。
外的要因が入りにくいので、経験の足りなさはそのまま実力につながる。
それに、突出したものを嫌うのも、小さな集落にはありがちなことである。
そんな前提の中で、どうやってこの若さで信用させたのだろうか。

レオの言葉に、青年は今までで一番明確な感情を外に出した。
それまでの薄く物憂げな表情ではなく、苦々しさを感じさせるもの。
何かを思い返しているのだろうか、何も見ていない瞳が揺れる。
その様子にレオは確信を抱くが、それもまたよくある事に過ぎない。
何かを振り払うように短い髪をかきあげた青年は、波のない表情だった。

「……急な事態で、みんなには縋るものが必要だったんです。
 そこに自信がある人間がいれば、信じざるを得ないでしょう?」
「あんたには上手くやる自信があったのか?」

若干、押し殺したような声は、表情とは違って殺しきれない感情があった。
言葉に残る小さな悪意は、どこか偽悪的に自分自身へと向けられていた。
“里人が縋るもの”になったのは、決して青年が望んでいたことではないのだろう。
ブラッドは、自身で意地が悪いなと思いながら、始めて見せた襤褸をつつく。
青年は今度こそ、はっきりとその瞳に感情を載せてブラッドを見返した。

「何もしないよりはマシに出来る確信はありました。
 ――他の右往左往して騒ぎ立てるだけの人よりは、よほど」

若いな、とブラッドは思った。若者らしい潔癖さがある。
知性に裏付けされた理性が表に見えるだけで、根っこは年齢相応なのだろう。
実力本位で、無駄を嫌う。これは年を重ねたものほど邪魔に感じるのではないか。
昔のレオのようだ。ブラッドはその若さが、決して嫌いではなかった。

普段、里の中で邪険にするものが、土壇場で無能を晒し縋り付いてくる。
そんな状況だったのだろうな、と頭の回るものが憶測をした頃に。
賢者と呼ばれる青年は、自身が感情を出していることに気づいたのか、顔を伏せた。
多少バツが悪そうな声は、それでも人に聞かせることを忘れてはいなかった。

「……被害を減らすだけなら、そんなに難しいことでもありませんし。
 里の守り手と話し合って、後は状況に恵まれただけです」
「状況に恵まれたってのは?」

レオがあげた質問に青年は頭を切り替えたのか、声の調子が元に戻る。
空を飛ばない魔獣だったこと。これは里の守りやすさそのものに関わった。
夜行性で目が光に弱かったこと。火があれば身を守ることが出来た。
魔獣の狩りの間隔が3日と長かったこと。準備するだけの時間が出来た。
住処としたのが里人のよく知る洞窟だったこと。対策の余地があった。

青年はそれ以外にも、数え切れないほどの幸運に恵まれた、といった。
同時に何か一つが欠けていただけでも、これほど簡単には行かなかっただろう、と。
真実そう思っているのだろう、偉ぶることもなく疲れた表情を見せる。
騎士団はそこからただ困難をなんとか退けてきた苦労しか感じることができなかった。





[37010] 1-3
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/03/17 07:47



弱っているのなら、すぐにでも倒してしまおうと逸るアレフを賢者は制した。
今から行っては帰りは夜の山道を歩くことになるとブラッドに言ったのだ。
それでもいいなら案内をすると選択を譲ってきたが、気乗りはしないようだった。
ブラッドが視線でその意図を問うと、賢者は緊急ではないですからと苦笑する。

襲撃されるわけではないから、今すぐに倒す必要はこれといってない。
案内は青年と里の狩人がするが、青年だけでも出来るから日程には構わない。
後は騎士団の都合に合わせるだけだという青年に、ブラッドは頷いた。
言外に伝わる、今日ぐらいは休んではという思いを受けようと思ったからだった。
明日の朝に討伐に向かいたい。レオの視線を受けながら青年にそう伝えた。

小さく表情を緩めた青年はそれに了承すると、少し逡巡してから再度口を開いた。
繰り返しになるが、集会所の中にあるものは騎士団の好きにしていい。
何か足りないものや頼みたいことがあるなら、里人に頼んで私を呼び出して欲しい。
今の時点で何かあるだろうか、とそれまでと違った早口で述べてくる。

どうしたのかと一瞬気になったが、どうやら緊張の糸が途切れかけたらしい。
話を伝え切ったことで安心し、それ以上を考えていなかったことに気づいたのだろう。
取って付けたかのように慌てる様子は、見た目通りの年齢なのだろうと思わせる。
不死者では、ないな。そう思いながら、ブラッドは里の案内を頼んだ。

魔物の侵入を阻んだという柵や仕掛けを見に行きたい。
ブラッドやレオを中心とした騎士団の頭脳は青年に頼み、見に行くことにした。
集会所で討伐や夕食の準備に取り掛かる居残り組を置いて、集会所を出た。

里の周りを囲む柵は街道に繋がるものよりも、山に向かうものは幾分か高かった。
所々不揃いな高さと、かぶせられた布や藁や葉のついた木の枝が目に留まる。
その外側には聞いていた通りの低く掘られた地面があり、水のない堀のようだった。

青年の説明によると、作業の時間も材料も人手も足りていなかったという。
場所によっては布や藁だけで誤魔化してあり、よく見るとスカスカとなっている。
また閉じ込めるための材料にも流用したために、木材が抜かれた場所もある。
本来だったらこの場所で弓で仕留める積もりだったのだと、青年は事も無げに言った。





案内を終えた頃には日も暮れており、青年は明日の朝にと言い残し、去った。
久々の屋根のある場所での休息、そして携帯食ではない大量の食事。
それらを享受した団員が次々と眠りにつく中で、ブラッドとレオは星空の下にいた。
集会所の外、座れるように削られた丸太の上に座って、二人は顔を付き合わせていた。

「――信用するのか?」
「するさ。あいつに俺たちを嵌める理由はないしな。
 レオは疑いすぎなんじゃないのか?」

話題の対象となっていたのは、賢者と呼ばれているあの青年のことである。
彼の人格が、能力が、そしてその情報が信用できるものであるのか。
レオはどうしてもあの青年を信用しきれないと、ブラッドに問いただしていた。

レオが彼を疑うことには、明確な理由があるわけではない。
彼の指揮で行われた魔獣への対策も、その両眼で確認してきた。
実際の作業も把握しているらしく、聞けば明確な論理が返ってくる
なるほど、見た目の若さにそぐわないほどの知恵があることは認めよう。

里の中も確認したが、すれ違うものは彼にそれなりの礼を持って接していた。
中には胡乱げな視線を向けてくるものもいたが、それは騎士団もいたからだろう。
やはり“余所者”でしかない騎士団は、こういった場所では嫌われる。
けれど彼自身に対しても、確かに忌避の感情を持つものもいるようであった。
実力を持っていること。突出していること。それだけではないだろうとレオは思った。

だがそれ自体は信用しない理由とはなりえない。
“賢者”がこの里の異物であることも、その体形から何からで推測出来る。
逆に言えば、余所者である彼がその実力を評価されてるからこその態度だろう。
……そう、彼も余所者なのだ。それも、里だけではなく騎士団にとっても。

「……あんなのがこんな場所にいるんだぜ。
 信用できるはずがないだろ」

貴族の出身ではないだろう。それならばもっと高慢か、もっと卑屈である。
それに貴族だとしたら里人の態度も謎である。一歩引いてはいるが、そこに身分差はない。
ならば商人か或いは学者か。どちらにしてもこんな場所にいるには優秀すぎる。
精神は真っ当、身体は細いが健康に見える。見た目は幼いが悪くはない。
あれなら何らかの使い道はあるし、使い物にならないと捨てはしないだろう。

どこから見てもそれなり以上の人材である。こんな場所では異物でしかない。
それだと言うのに、その出身が予想も想像も出来ず、謎のままであるのだ。
能力は信頼に値する。だからこそ、その素性が信用ならない。
騎士団に対して協力する素振りを見せるのも、レオには怪しくさえ見えた。
滅多にいない協力的な人間も、その滅多が続く原因だと信じることは難しい。

ブラッドには、レオが言っていることも理解できないことはない。
怪しいとまでは思わないにしても、信用しないだけの材料は揃っている。
完全に信用できるほどには、かの存在は定かなものではない。
だがブラッドは賢者に、騎士団に対して害意を持っているとは思わなかった。

いつ恨みを買うとも知れないし、逆恨みなど幾らでもされることをしている。
けれど少なくとも、一つの集落を巻き込むほどの規模で嵌めることはないだろう。
嵌めるつもりならやり方が杜撰であるし、余りにも無駄が多い。
あれだけ頭の回る人間が、或いはそれを使って嵌めるなら、方法は他にもあるだろう。

それに。とブラッドは数時間前のことを思い返す。
賢者はずっと感情の見えにくい表情をしていたが、そこに害意はなかった。
今から考えると、その表情も策謀家としてのものというには余裕を感じない。
ただ自分の責任を必死に果たそうとするものではないか、とブラッドは思った。
総じて、あの若者に騎士団を嵌めようとする意志を感じなかった。

「……まあ確かに、警戒ぐらいはしてもいいかもな。
 明日も案内してくれるみたいだし」

とはいえ万が一のことに備えるのが、世界を守る騎士団の団長の勤めだろう。
何か不都合があって全滅するわけにはいかないし、被害を受けるわけにもいかない。
アリアの小言もフィニーの文句も耳に聞こえのいいものでは決してない。
何よりも目の前のレオがそうでも言わなければ、納得しそうにはなかった。





次の日の朝、鶏が鳴く声で目を覚ました騎士団は、戦いの準備をした。
武器を持って戦うものは命を預ける己の相棒を確認し、装備を身につける。
術や知識を活かすものは、頭を覚まし多様な術具の在庫を確認する。
そうしている内に集会所に訪れたのは、昨日の青年と一人の男であった。

物々しい様子の騎士団に面食らったらしく、青年はその表情を一瞬固くする。
すぐに取り繕ったものの、意識的に武具を見ないようにしている。
荒事には慣れていないらしいと、僅かに引き攣る顔を見てブラッドは思った。

青年と共に来たのは、これから向かう領域を猟区とする狩人であった。
聞けば魔物の痕跡を最初に見つけたのも彼であるという。
魔獣を恐れているのか不安そうにしているのを、賢者に何度も宥められている。
親子ほどの年齢差があるが、それを不思議に思うものはいなかった。

その狩人の先導で、里を外れて山の中へと騎士団は進んでいった。
街道ほどではないが、人が通れるように手の加えられた道は比較的歩きやすい。
騎士団には魔術師などの運動に優れていないものもいるが、遅れはない。
青年も、それほど強い足腰をしているようには見えないが平気なようだ。

怯えていた狩人も、その生業に関しては確かな実力を持つようである。
その歩みは淀むことなく、時折道の手入れをしながらも先へ先へと進んでいった。
少しずつ、少しずつと山の奥へと進むたび、その景色は濃い色になる。
里の近くに過ぎないことは判っていても、人を嫌う獣の領域がそこにあった。

道中に幾つかの古びた魔獣の爪痕。狩人が見つけたものであるという。
時間をかけて調べるまでもなく、大型獣がつけてから数ヶ月たったものと判る。
魔物が持つ瘴気の残留を感じることはなかったが、魔物の仕業なのは明確だった。

幾段の層が見える崖の麓を右手になぞり、更に歩き続けた。
最初は土色をしていたその崖肌も、やがては濃い褐色となっていく。
成分が変わって硬くなってきたことに気付いた騎士団は、少し気を張った。
洞窟があるのはそう遠くはないだろう。言葉にしなくても、伝わった。

やがて遠くに、人工的に盛られた崖に寄り添う小さな土の山が見えた。
ここが大きな入口だ、と立ち止まって説明する賢者に、団員は目を向けた。
入口の姿が見えないほどに土が盛られ、動かすのは短時間では無理である。

「他の入口は、少し手を加えれば人が入れますから」

ここには柵を取り外して作った防壁が崖に被されており、岩や土袋で塞がれている。
青年が小さく手振りで示した先を見ると、破れた麻袋や余りの材木がある。
ちょっとした規模の作業が行われた痕跡を見て、里の全力を傾けたのだと判った。

さらに奥に進んでいくと、今度は洞窟の入口だと判る場所が見えてきた。
遠くから見ると小さくないそれに近づいて見ると、やはり手の加えた跡がある。
洞窟の凸凹に嵌るように土袋や岩がはめ込まれ、その口径が小さくなっている。
元々の大きさの半分ほどになっているそこは、子供一人分の大きさしか無かった。

了解を得て調べた団員は、それを外すには“持ち上げる”動作が必要だと気付く。
押すだけではそこが広がることはなく、これは魔獣の手では動かせないだろう。
大した工夫が為されているということはないが、明確な人間の意志を感じるものだった。

「――この中、です。少し退かせば大人でも入れます」

御手数ですが、と本当にそう思っているのか判らない表情で青年は口にした。
騎士団の力自慢がその自慢の腕を振るうまでもなく、小さな岩を退かすだけであった。
それだけで人一人であれば優に通れるほどの穴となり、道は開いた。

この先には一本道の小道があり、洞窟の本道となる大きな道に繋がっている。
そこで分かれ道となっていて、右に進むと先ほどの大きな入口へと向かっていく。
その途中には左への上りの小道があり、それはもう一つの小さな入口への道である。

最初の分かれ道を左に進むと洞窟の奥への一本道であり、入口は無い。
空気穴で空気は流れており、水路もあるが人や魔獣の出入り口はほかにない。
迷うほど広い場所ではないが、日が差さず暗い分、道が判りにくいかもしれない。

「照明具はお持ちのようですし、必要ないかも知れませんけど」

淡々と告げる青年は自身の荷物の中から、小さなカンテラを取り出した。
中には油がなみなみと注いであり、長い時間燃え続けるものだと一目で判る。
青年は、必要なら分かれ道に置いて目印にして欲しい、とそれを右手に持った。
ブラッドがそれを受け取ろうと近寄ると、青年は小さく息を吸って、言った。

「……騎士団の皆さんを閉じ込めるつもりはありませんが。
 もしもそれを危惧しているのなら、私たちも中に付いて行きますよ」

ブラッドは伸ばしかけた手を一旦止めて、青年の顔を見た。
スっと静かになった空気は、明らかに騎士団が団長の指示を待つものだった。
歴戦の勇者たちの警戒する視線を受け、戦う力を持たない青年は静かに笑った。
その表情は微かに震えているが、内心よりどちらでもと思っているようだった。

ブラッドは、レオからのどうするんだと言わんばかりの視線を感じた。
誰よりも彼を警戒していたのはレオであるが、しかし今となっては戸惑うばかり。
判断を任されたブラッドは瞳を閉じ、開いてから手をもう一度、彼に伸ばした。
冗談交じり、だけど本気。ブラッドはそれを、彼の精一杯の誠意だと思った。

「――いや、いいよ。これは借りてくな」
「はい、どうぞ。
 私たちは皆さんが出てくるまで、待っていますから」

ブラッドは、その細い手から片手に乗るほどの小さなカンテラを受け取った。
青年から掛けられたのは、静かで温度のない声でなく、柔らかく穏やかな声で。
こんな声を団員以外から掛けられたのは、いつぶりだろうかとブラッドは思った。
うん。きっと俺の判断は間違ってない。ブラッドは少しだけ、笑ってみせた。

アレフを先頭に洞窟の中に入り、奥にいた魔獣を倒すのに時間は掛からなかった。
話通りの構造をした洞窟を、反響だよりに魔獣の姿を探し、前に進んだ。
弱りに弱った魔物は、その身体こそ大きく皮は硬かったが、それだけである。
借りたカンテラの油が僅かにも減らないうちに、元の場所へと戻ることが出来た。
……出入り口は塞がれることはなく、騎士団を待つ二人とは外で合流した。





里に戻った騎士団を待っていたのは、魔獣討伐のささやかな宴であった。
遠くから微かに、準備をする里人の明るい声が騎士団を出迎えてくれた。
決して大げさなものではないが、それでも里の広場に食べ物や酒が並んでいる。
騎士団が戻ってきた時には、いつでも始められるようになっていた。

絞められ、卓に並ぶ鶏や豚を見る限り、短時間で準備したものではない。
ブラッドは確認するように青年の顔を見るが、気付かない振りで逃げられた。
恐らくは朝、里を離れる前に手はずだけ整えていったのだろう。
里のものは魔獣が倒されたことよりも、騒げることを喜んでいるようだった。

騎士団にとって、討伐後にこういった場を設けられるのは初めてではない。
けれどそれは大抵において、魔物の襲撃で荒れた集落で行われてきた。
死んだ人間や失われたものを乗り越えるための、どこか悲しいバカ騒ぎ。
ここで行われている、明るい祭りのような宴とは、大きく異なったいた。
ブラッドは素直に、こんなことばかりだったら良かったのに、と思った。

団員はそれぞれ、自分らしいやり方で酒や食べ物を楽しみ始めた。
ブラッドが酒を交わす中で聞けば、魔物の出現で収穫祭が行われなかったらしい。
襲撃の被害は少なく閉じ込めたけれども、祭りの雰囲気ではなかったと里長はいう。
なんだ、いい機会だったのか。賢者はあれでちゃっかりしてるんだな、と。
そう思ったブラッドがその青年の姿を探すが、広場には見当たらなかった。

「ええと、賢者は?」

どこにいるのかという積もりで聞いたはずの言葉に、周りは静かになった。
それまで気持ちよく酒を煽っていた人間が、なんとも言えない顔で口を閉じる。
嫌われているのかと感じたブラッドだが、里長の困ったような表情に違うと思った。
なんとも言葉に悩んだ様子の里長は、逡巡した挙句に唇を湿らせて答える。

「リュートは、ですな。こういう場所にはこんのですよ。
 余所者といって嫌うものも少なくないですからな」
「……余所者、なのか?」

ブラッドの視線に、里長は気まずそうに肩を竦めて周りを見回した。
助けを求めた先、周りにいた他の里人は気まずそうに目を逸らすだけである。
ブラッドもその視線を追ったが、他のものは話すつもりはないらしい。
里長は若干声を潜め「ええ」と一言だけ呟くと、頭を振った。

「里の恥を晒すようですが、どうにも頭の固いものが多くて。
 毛嫌いして、厄介者扱いするものもおりますから」
「……へえ」
「魔物の襲撃から、表には出さなくなったのですがね……
 若い者が慕っていることも、気に入らないのですよ」

里長はそう言うと、大きくため息をついてみせた。
ブラッドが聞きたいこととは多少違うが、これから判ることも少なくない。
賢者本人の願いかはともかく、世代間の戦いの矢面にたっているのだろう。
あの年齢で里長や守り手からの信頼を得て、小さくない発言権がある。
それが里の外から来たのであれば、保守的なものは面白くないだろう。

逆に、変えていきたいと思う若者にとっては憧れの星に違いない。
里の萎びた感じとはかけ離れたあの雰囲気は、それだけで羨望の的になる。
その上で、普段は目の上のたんこぶになる年配の人間と対等以上であるのだ。
都会に憧れなくとも、あの姿を真似ようとするものがいてもおかしくはない。
そうして慕われていることも、腹立たしいと感じる人間はいるはずだ。

賢者は、何をとってもこの里の異分子でしかないのだろう。
それまで続いてきた里の営みを、急激に変えてしまおうとする力。
本当ならば世代と共に入れ替わることに、外から力が加わったのだ。
それがそつなく結果を出してしまうからこそ、なお問題になる。

さて。ならば、その賢者が一体どこから来た人間なのか。
逸材とまでは言わないが、どこでも引き取り手がありそうな素材ではある。
単純な興味というには、多少の願望が入ることをブラッドは否定しない。
しかし、それを知っているはずの里長は、これ以上を話すつもりはないらしい。
他の団員へと酒を注ぎに行ってしまったから、聞く機会を逃してしまった。





次の日の朝は大分訪れるのが遅かった。皆が寝坊していたのだ。
昼過ぎから始まった宴会は、日が落ちる頃まで続き、そして終わらなかった。
頭に回ったままの酒精にふらふらしながら、騎士団は荷物を片付け始めた。
例え体調が悪かったとしても、騎士団にはまだやらねばならぬことがある。

この里は無事であったが、他の集落が魔物に襲われていないとは限らない。
この辺境では、襲われている集落を知る方法など、余りにも限られている。
本当に危機が迫っているのならアリアが出てくるだろうが、それは避けたい。
小言もあるが、何よりも騎士団の実力不足だと言われている気がして嫌だった。

騎士団が昼食の片付けを終えた頃に、賢者と呼ばれる青年がやってきた。
遅いなと問いかけると、「朝来た時には皆さん寝てましたので」と返す。
誤魔化すように笑ったブラッドに、青年は表情も変えずに背の荷物を下ろした。
紐で背負うように作られた麻袋の中から、さらに小さな袋を幾つか取り出す。

「それは?」
「……うっかり、謝礼のお話を忘れていましたので。
 一応ではありますが、こちらで準備していたものです」

そう言って、青年はブラッドに手に持つ袋を差し出してきた。
思わず受け取って、その重さが一定ではないことに少しだけ驚いた。
重い袋はゴツゴツとした感触があり、固いものが入ってると思われた。
反対に軽い袋は極端に軽く、手にとった時にはカサカサと音が鳴る。

「嵩張るものよりも、街で換金しやすいものをご用意しました。
 それなりの金額にはなると思うのですが」

ふむ、目の前の青年が選んだというのなら、きっと外れはないだろう。
そう考えながら確認してもいいかと聞いたブラッドに、青年ははっきりと頷いた。
手に渡された3つの袋のうち2つを近くにいたアレフに預ける。
そして、紐でしっかりと括られたそれを広げて、中を確認した。

――結果だけ言うのなら、間違いなく破格と言える程の報酬であった。
ゴツゴツとした袋の中身は貴石の原石で、青と赤の色で満ちていた。
それほど質が高いわけではないが、それでも数と大きさが揃っている。
これだけでも、騎士団は当分生活できるはずだった。

残る2つの袋は、ホワイトローズベリーの日干しを詰めたもの。
そして毒抜き済みのベルボグ茸の傘であった。どちらも魔術薬の素材である。
どちらも軽く少量ではあるが、レオの話によるととんでもなく高額らしい。
驚く声に、青年は取れる場所と時期が限定されているだけだ、と軽く答えた。
それでも高すぎるとその訳を聞いたレオに、青年は小さく苦笑した。

この里ではこれらは珍しいどまりであり、欲しがる人は僅かしかいない。
金貨や銀貨に縁が薄いこの里では、物品交換が主となっているから持ち腐れ。
これらから価値を出すには、スクーレまで行かなければ行けない。
そして僅かな量だけを、その市場に流す必要があるのだと青年は言った。

「私は、里を騒がせたくはないですからね。
 お金目当ての柄が悪い方に、来て欲しくないんです」

スクーレで売ることが出来ない、余りを騎士団に渡したのだ、と。
元より換金できないので、騎士団に渡す分には全く損失にならないという。
それに各地を旅する騎士団であればどこで手に入れてもおかしくはない。
例えキーラの里で手に入れたとばれても、その時は知らばっくれるだけ。
里には全く影響がないんですよ、と青年は楽しそうに笑った。





そのうちに、集会所に賢者が作らせたという携帯食の束が運ばれた。
都市で買うものとは多少見た目は違ったが、十分な量と運びやすさである。
それらを複数に分け、騎士団内で荷物を分配する頃には酔いも醒めてきた。
賢者の青年と、そして里人の協力を得て、最後の撤収準備にかかった。

全てのことが終わったのは、丁度二日前にこの里にたどり着いた時間だった。
まだ日数が経っておらず、また雨も降っていないから野営の跡も残っていよう。
その再利用を目論んだブラッドたちは、昼を過ぎた時間だが旅立つことにした。

里長にそれを告げ短いやりとりを終えると、騎士団は里の入口に集まった。
ブラッドが見送りを断ったので、そこにいたのは数える程の人間だった。
里の中を見れば、そこにはいつもと変わらない日常を過ごす姿が見える。
魔物に襲われていたのでは無いから、日常に影響を与えなかったのだろう。
賢者と、元より入口にいる見張りの青年たちだけが騎士団を見送ろうとしていた。

騎士団が里を離れるのを見る三人も、実際に見送るのは一人である。
見張りの青年たちは、歳もそう離れていないだろう賢者に任せ、遠巻きに見ている。
それを見て、ブラッドたちは不思議に思うことはない。それが普通であるのだ。
閉じた世界に生きるものにとって、武器を持った余所者など犯罪者と大差がない。
ただ、それを当たり前としない、比較対象がいることが本来珍しいことだった。

騎士団をチラチラと見る者を横目に見る、困った顔の賢者こそが特異なのである。
知性の輝きを浮かべるその瞳は、気がつけば案外と感情豊かなものとなっていた。
敬語と丁寧な態度こそ崩しはしないが、そこに卑屈さなどは完全に無縁のものである。
穏やかながらも確かな意志を感じさせ、見るものが見れば生意気と映るだろう。

この姿を見れば、最初に見せたのが“賢者”という役割なのだと判る。
求められた役割を果たす緊張か、それとも彼なりの処世術といったあたりか。
感情を排しその役割に徹することで、侮られないようにしていたのが伝わってくる。
若者らしい活力と、若者らしくない理性。面白いな、とブラッドは思った。
その賢者は騎士団とともに里の入口までたどり着くと、姿勢を正しブラッドを見た。

「――改めて、魔獣の討伐ありがとうございました。
 これでこの里も、不安を感じることなく過ごすことが出来ます」
「いや、あんたが協力してくれたから楽な仕事だったよ。
 俺たちはトドメを刺しただけだからな」

これで最後の積もりなのだろう、賢者はハッキリと騎士団に感謝を述べた。
真っ直ぐな視線、真っ直ぐな言葉。そこには裏のない敬意が込められている。
眩しい、とブラッドは感じた。もしかしたら、初めて向けられた感情かもしれない。

平和な時には自身が邪魔になることを知っている騎士団は、集落に長居はしない。
魔物を倒したその時は感謝の視線を向けられても、すぐに厄介者に成り下がるのだ。
この里でさえ、そうだ。里を離れると告げた時の里長は、安心した表情を見せた。
最初から最後まで。騎士団に協力し、無自覚の悪意すら向けなかったのは。

「――どうして、そんなに協力してくれるんだ?」

疑問を思わず言葉にしてしまったブラッドに、青年は小さく目を丸くした。
首を傾け考える素振りを見せると、騎士団に視線を向けてから再度ブラッドを見る。
「里を守るため」と小さく言葉を述べてから、自分で違うなと思ったのか首を振った。
それから青年は、それまでよりもずっと穏やかに、さも当然と思っている声で答えた。

「騎士団の皆さんに協力しておけば。
 ……次に襲われた時も、快く助けに来てくれるでしょう?」

違いますか?と小さく笑う青年は、見た目よりもずっと強かであるようだった。
騎士団に対して、何の臆面もなく利用するためだと言ってのけるその姿。
それが余りにも鮮やかであるから、ブラッドも悪く思いようがなかった。
思わず気が抜け、言葉を失ってしまうほど。――憎めない、と思ったのである。

――――ああ、これは。ブラッドは青年のことをただ一つ“勿体無い”と感じた。
その知識や知恵ではなくこの性格を、人格を評価するものはきっとこの里にはいない。
人慣れしている。他人に合わせることを知り、相手を呑むことを知っている。
大きな街の酒場や、或いは教会の僧侶でこそ脚光を浴びるだろうその才能を。
ブラッドはこんな場所で朽ちさせるのは惜しいと思った。だから、決めた。

「――俺たちと一緒に来ないか?」

その言葉を聞いたとき、青年の顔は明確に凍りついたように見えた。
目で見える表情は引き攣りもせず、穏やかな笑みを浮かべているのにそれでも。
嫌悪や拒否ではなくその以前の段階、言われたことが判らないのではないだろう。
どうしたのかとブラッドが聞こうとした時に、青年は絞り出すように声を出した。

「……それは、勧誘、ということですよね。
 私に戦闘能力は欠片もないのですけど」
「あんたなら戦えなくても、十分騎士団でやっていけるよ。
 ……この里は、居心地が良くはないんだろ?」

ちらりと青年が視線を向けたのは、ブラッドが背に負う大剣である。
ああそういうことかと納得したブラッドは、気にすることではないと笑った。
その頭を持って、自分が誘われる可能性を想像もしていなかったとは言わせない。
それでも、誘われないだろうと思う理由があるからこその、反応だと思ったのだ。

けれど賢者と呼ばれるだけの頭と、それを活かしきる振る舞い方を知るなら。
例え自身で剣を持つことが出来なかったとしても、何の障害があるだろう。
ブラッドは使えると思った。そして青年なら何らかの役立ち方を見つけるだろう。
それでいい。ここよりもずっと、楽にいられる場所にいたくはないか。
この里から離れたくはないのか、と青年に問いかけたのだ。

最後の言葉に、青年は曖昧に笑って見せた。それは全てを物語っていた。
言われた言葉に、どこか悲しそうな笑みを浮かべながら、青年は小さく瞳を瞑る。
再度目を開けた時には、ブラッドを強く見つめ……そして、首を横に振る。

「――誘っていただけるのは光栄ですが。
 私には、この村に拾っていただいた恩がありますから」
「……そうか。無理強いはしないさ」

凛と響く静かな声には淀みはない。そこに曖昧さは微塵も存在しなかった。
確かな意志が宿る瞳には微かな憧憬こそ感じられたが、迷いは見えない。
誘われたことは、少なくとも決して嫌なことではなかったのだろう。
断られてしまったブラッドも、気になる言葉はあるが追求をすることはなかった。

そも、誘ったブラッドでさえ、了承されるとはあまり思っていなかった。
誰かに誘われただけで里から離れるようであれば、とうに離れていてもおかしくない。
何せ評判の“賢者”である。彼の教え子で優秀なら、その当人は引く手数多だ。
それでも居心地の悪い里を離れないのなら、そこには相応の理由があってしかるはず。
だから、ブラッドは気にしない。実力があるものは、その事情も複雑なものだから。

「すいません……本当に」
「いや、気にしないでくれ。
 もし気が変わったら、来てくれればいいさ」

すぐに引き下がったブラッドを見て、青年は悲痛さすら感じる表情になる。
本当に申し訳ないと思っているのだろう、ブラッドが微かに後悔するほどだ。
だからこそ、あっけらかんと言った言葉に、青年は淋しそうに微笑んだ。
はいと答えたその言葉には、明らかに社交辞令と判る響きが含まれていた。

少し離れたところで待つ、レオを始めとした騎士団の視線も強くなってきた。
これ以上の時間をここで過ごすわけには行かないと、ブラッド自身も気づいていた。
若干の名残惜しさを感じながら笑って別れを告げると、笑って「気をつけて」と一言。
なんかいいな、こういうのと、なんだかいい気分になったブラッドは歩き始めた。

会話が聞こえていたらしいレオやアレフが気を使ってくれるが、必要なかった。
ブラッドの気分は上向きだ。この世界は案外捨てたものじゃないなとすら思えていた。
残念でないわけでは勿論ないが、またキーラの里に来た時にでも誘えばいいだろう。
ブラッドはなんとなく、あのリュートという青年には、まだ縁があるような気がしていた。





[37010] 2話 1029年 水上都市スクーレ
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/03/17 14:57



――人生が平均寿命まで続いていくとして、その長さに絶望したことがある。
今まで過ごしてきた時間の数倍。自我が発達していない時期を引くと更に倍率があがる。
それだけの時間を、今までと同じように手探りで生きていく怖さを想像したことがある。
想像して、そして判ったのは、決して想像だけでは理解しきれそうにないということだった。

「――増してや、百年以上だよ百年。
 流石に、付き合ってなんかいられないよなぁ……」

馬車の上、ぐらぐらと揺れながら俺は広くて青い空を見上げた。
とにかく広い。馬鹿馬鹿しいほどに広い。邪魔するものがないのが原因だ。
広いのは空だけではない。視線を下げれば、そこには広々とした平原が広がる。
地平線すら見えてしまうこの風景に、俺はそこまで感動を覚えなかった。

昔なら。それこそ僅か3年前なら、きっとそれなりに何かを感じていたのだろう。
雄大な景色の中にいる自分のちっぽけさとか、まあなんだかんだで適当に。
けれど今となっては、ほとんど何も覚えない。敢えて言うなら暇だなあぐらい。
その理由を野暮ながら言葉にしてしまうなら、“慣れた”の一言になってしまう。

キーラの里から、北にある水上都市スクーレまでの、そう長くもない道のりの上。
急ぎ歩けば人の足でも15日を優に切るだろう道のりは、馬車なら当然更に短い。
中型の馬車に荷物を山盛りに、パカラパカラとゆっくり進んで、僅か4日。
馬を休ませる時間を大量にとったところで、往復でも10日を切ってしまうのだ。

数ヶ月に一度、スクーレに買い出しに行くわけであるが、その毎回について行くのだ。
3年前からだから……何度目だろうか。数えていないから判らないが、慣れたものである。
特に俺は馬車の御者など出来ないので、後ろで空を眺めている以外に仕事などない。
そうなれば、本当に見飽きるわけである。何せ一日中大して景色は変わらないのだから。

「リュートさん、なんかあったんすかー?」
「ないよ。ものすっごく何もないよー」

そんなわけで、色々考えてしまうわけである。ついでに独り言も漏れる。
後ろから声が聞こえれば、とりあえず確認してしまうのが人間の性であるわけで。
俺の後ろ、馬車の前面部で御者をしている2人が俺の方を振り向いていた。
それをひらひらと手を振って気にすんなとアピールすると、首を傾げてから前を向いた。

考えていたのは、1ヶ月前に里に訪れたブラッド・ボアル率いる騎士団のことである。
俺にとって、そして里にとって恩人である彼らは、また俺を勧誘した人でもある。
断ったこと自体は全く後悔していないわけではあるが、それでも思うことはなくもない。

彼らは“ウェル=バリウスの予言”というものを阻止している奇特な人たちだ。
アクラル歴999年から1099年までの百年を予言したもので、終末説的なあれである。
普通に考えれば眉唾にしか過ぎないが、実際にそのとおりに魔物が出現してしまう。
それを放置できないと、不死者の団長を中心に戦い続けている正義の騎士団である。

騎士団の存在も含めて、いつもの俺なら馬鹿馬鹿しいと思っていたかもしれない。
あるいは少なくとも人の為に命を張る誰かを、遠目に凄いなと嘆息していたのかも。
どちらにしても、そこに現実感なんてあるわけがない。実感が沸くわけがない。
でも。俺は彼らを知っている。彼らが何を考えて戦うのかを知っているのだ。
それどころか、これから何が起こるのかも。――何故なら、ここはゲームの世界だから。





気がついた時には、知らない場所にいた。方向も定かでない森の中だった。
夢だと信じたかったけれど、疲れる足や乾く喉はそれを許さずに現実と教える。
やっとのことで辿りついた山小屋には、保存用の食材と多少の物資があった。
必死になって火を起こし、そして漸く一息をついた俺はたった一冊の本に気付いた。

革の背表紙の古い本。装飾こそ控えめであるが、それなりの値段がすると思った。
ふと手に取って見たところ、英語。読める外語であったのが幸いだと思った。
強い癖がある文章だった。古臭く、読みやすいが妙に淡々としていた。
それでも読めたのは、俺が日本の大学生としては英語に親しみのある方だったからだ。

高校が海外交流が盛んだったこと。それに合わせて一年留学してたこと。
俺が入学してから英語教育に力が入りはじめ、うんざりするほど付き合わされた。
俺が外に行くだけでなく、外からもかなりの人数が入り、嫌でも英語が必要だった。
だからなんとか読めた。読んだ結果、それが聖書のような系統のものであると知る。
つまりは何らかの宗教を紹介するものであり、また歴史書の側面を持っていた。

読み進めたが、しかし俺はその本の歴史が全く知らないものだと気付いた。
いや俺自身、知らない歴史など幾らでもあるからそれ自体は全く問題ではない。
ただ少なくとも日本のものではないと思えたし、知っている国のものではない。
それでも俺は続きを求めた。ここがどこなのか、それを探れればいいと思っていた。
直感的に、無意識下で、俺はここが日本ではないと断定していたのだ。

時間の経過を気付かず、そして人が訪れたことにも気付かない程に熱中していた。
最初話しかけられたとき、人の声だとは判ったが、一体何を言われたのか判らなかった。
それは突然であったことよりも言葉そのものの問題で、言語が不明だった。
とにかく振り向いた俺が見たのは、筋骨隆々のたくましいおじさんたちである。

助けが来たと素直に思える程に、俺は心を許すことが出来なかった。
言ってはなんだが、妙に簡素な服と整えてない身なりは、柄が悪く見えたのだ。
警戒する俺に、彼らは首を傾げながら声を掛けてくれた。どうしたのか、と。
俺はその言葉を聞き取ることが出来た。もの凄く訛りの強い、英語であった。
直前まで英語を読んでいたからこそ、なんとか聞き取れるレベルの強い癖がある。

相手が見た目ほど危険な人ではないと、幾つか話す間にその仕草で大体掴めた。
粗野であり、洗練という言葉とはかけ離れているだけで、悪人ではないと感じた。
言葉を選ばずに言えば思考の構造がすごく単純で、会話の難易度もそれに伴っていた。
間違いなく日本ではないし、そして先進国でもないだろうなと俺は感じた。

結局、どうすれば事情を理解してもらい、助けを求めることが出来るか。
そんなことを考えているうちに、相手から俺を必要とする理由を見つけてくれた。
俺が手に持っていた本を指差して「文字が読めるのか!」と言われたのである。
それまでで“行き場がない”ことは伝わっていたらしく、俺は里に連れて行かれた。





その後は色々ありすぎて、俺には殆ど実感が沸かない時期が続いた。
俺が里に連れて行かれた理由は、“文字が読め算術が出来る者”が必要だったから。
年老いた僧侶様の後継となるものを、どこからか探さなければならなかったのだ。

僧侶様の仕事は、本当に多岐に渡っている。忙しさで目もくらむほどである。
教会に関わるものとして婚葬祭を司り、そして悩む人を導くだけでは終わらない。
街道や畑に魔物払いの術式を施し、安全に生活し働ける空間を築くこと。
病人には薬を施し、学を必要とするものにそれを教え、そして時には代書などで代理する。
都市に買出しに行くものが、騙されない様に着いていくのですら、その職務である。

しかし年月が過ぎれば当然僧侶様も年をとるわけで、精力的には動けない。
それまで後継を探していなかったわけでもないが、こんな辺境には人は来ないのだ。
そんな中で“事情アリ”の“読み書き算術礼節”をこなす人間が現れた。俺だ。
出来ることと出来ないことの違いは勿論あるが、それでもかなりをこなせるのも事実。
結果として、行く場もなく野垂れ死に確定コースの俺は、助けてもらったのだった。

助けてもらったのだから、幾ら余所者厄介者と言われても余り傷つくこともない。
事実だし、何より事実だし、なんと言っても事実であるからだ。ありがたいことである。
とにかく里の先生と、それと買出しについていく人力計算機として俺は雇われた。

流石に毎日汗水垂らす里人に囲まれれば、俺が恵まれていると判ってしまうわけで。
帰りたくないわけがない。けれどそれをぎゃあぎゃあ騒いで迷惑などかけられない。
実際には沢山の悩みとかがあったわけだが、苦労したことなど思い返したくもない。
いつだって俺は前向きに生きていくと決めたのだ。目をそらしてるとも言うが。





その日々の中で、俺が里の中で認められるに至ったのは二つの事柄が関わる。
ひとつはスクーレの市場を見たことで、高価格で取引されているものを理解したこと。
今まで僧侶様は“騙されないこと”に注意し、儲けようなどとは考えたことがなかった。
里人は数字は読めてもそこから利益を得る意味を、深くは理解していない。

里でハーブティー代わりに使ってるものが、ここだと銀貨と交換できる。
里だとみんなが必死で作らねばならぬものが、ここだと銅貨一枚と交換できる。
そしてそれに見向きもされないことに、俺がどれだけ驚愕したかという話である。
……経緯は省こう。だが、里の経済はそれまでよりずっと潤うことになった。

もうひとつは栄達を夢見る若者の、理想を実現する手伝いをしたことである。
この里は森と山で囲まれており、畑を広げるにはかなりの労力と時間を必要とする。
それと同時に魔物払いもしなければならないので、正直面倒くさくて仕方がない。
だから、農家の次男三男は都会を夢見る。夢見て、そしてあきらめていく。

若者が都会に出ようとすると、年長者たちによって間違いなく阻止される。
それは何も里のためだけではない。若者たち自身のためであるのだ。
今まで都会に出た若者は、極稀に上手くいって船の荷駄降ろしをする程度である。
殆どは野たれ死ぬか、それとも犯罪を犯していつか殺されていくのだ。
だから誰も外に出させようとはしないし、止めるためには必死にもなる。

まあそれでも夢を見る若者はいるわけで、そして俺に相談しに来るわけである。
そんな相談が来るころには、なんとなく俺もこの里での立場が明確になってきていた。
僧侶様の弟子で里長に目を掛けられ、そして若者たちの中での相談役という位置。
味方を作るのが上手い代わりに、敵を作りやすい性格だなあと自分でも思うわけである。
里長と僧侶様以外で、俺にさん付けをしない人は俺の存在を喜んでいない人だった。

立場に関わらず、頼まれたのだから必死に色々思考して試行するわけだ。
みんなの考え方とか能力とか、或いはスクーレでの聞き取り調査とかそんな。
すると答えは案外簡単だった。みんな貨幣経済というものを理解していない。
そういえば里の中では基本的に物々交換で経済は成り立っているのである。
外に出て貨幣経済に触れることが出来る、買出しに行く人間は限られていた。

これに気づいたときの俺のへこみ具合は、自分で言うのもなんだか凄かった。
だって野垂れ死んだ理由が、お金の手に入れ方が判らず食べ物を買えない、だ。
そんな先人たちの悲しみを想像するだけで、思わず授業に熱が入ってしまった。

とにかく読み書き算術とお金の意味と使い方、それと接客と敬語について教えた。
俺が教える限り、そんな見っとも無くて、そして悲しすぎる死に方は許さない。
満足できるまでになったときには、俺がこの里に住み始めてから1年の時間が流れていた。

そして俺は里長を説得し、僧侶様を説得し、その子の紹介状を無理やり書かせた。
キーラの里出身であることを証明し、読み書きや算術が出来ることを伝えるために。
買出しのときに連れて行き、酒場のウェイターとして雇われるまで、面倒を見た。
通ってはいけない場所や、何をどこで買えばいいのかとか、部屋の面倒まで見た。
絶対に死なせない。そう俺は決意していたから、そこまでやったのだ。

逆に言えば、そこまでやってどうやって野垂れ死ぬのだというわけだったり。
田舎者で多少もの知らずではあるが、純朴で素直でそして健康で力強い。
ここまで揃っていて、目を掛けられないわけがない。だから、一人目は成功した。

二人目からは難易度ががくっと下がる。それは既に実績が存在しているからだ。
酒場のマスターは一人目を信用しており、一人目は二人目を信用している。
一人目は生活に慣れてきているから、二人目が慣れるまでの面倒を見てあげられる。
その繰り返しだ。“健康で学のある働き者”が増えるたびに商人の中で話にあがった。
――結果、彼らを教えた俺の話を、おばかさんたちがしてしまったのだ。

噂というものが直ぐに尾ひれがついてしまうことは知っていたつもりだった。
ただそれが、こんな口伝えしか情報伝達のない環境だとこれほどだとは思わなかった。
俺自身恥ずかしいわ、それを知った子達が持て囃すわ、さらに嫌われるわ、と。
俺にとってはうれしいことではなかった。今でも余り賢者とは呼ばれたくない。





そうして賢者としての立ち居地が出来てしまったころに、魔物が出現した。
周りの人々がぎゃあぎゃあと騒いでいる中で、俺はちょっと違うことに動揺していた。
初めて大型の魔物を見た。それは、明らかに人を狙う化け物である。
魔物がいるとは聞いていたものの、俺は信じてなかった。信じたくなかった。

魔物の存在が重要なのではない。俺が気にしていたのはもっと別なことである。
魔物がいる。魔物を倒す騎士団がいる。予言に立ち向かう騎士団がいる。
水上都市スクーレという名前で既にいやな予感がしていた。時計塔もいやだった。
そして何より“ブラッド・ボアル率いる騎士団”が存在しているなんて、嫌だった。
それではまるで――――ここがVenus&Bravesの世界ではないか、と思ったから。

タイムスリップとか、その方が気分的にましだった。異世界でもいい。
ゲームに良く似た世界というのだけは、本当に気分が滅入ってしまった。
ああいうのは現実味がないからこそ許されるものである。特に生き死にが関わるのは。
だからこそ意識的に目をそらしてきていた事に、俺は向き合わなければならなくなった。

とにかく、色々騒がしい人たちを黙らせるために即興で演技をしつつ。
思い浮かぶ限りの魔物への嫌がらせをしていたら、案外なんとかなってしまった。
内心やっべーと思いながらも、表面上だけは賢者らしい冷徹な表情である。
それは騎士団が本当に里に来てしまってからも、同じことであった。

数年前の記憶通りの、大剣と大きな楯をもつブラッドに俺は倒れそうになった。
なんとレオもアレフもいる。ああ、本当にゲームの世界に来てしまったんだなと思った。
必死に混乱を表情に出さないようにしながらも、俺は色々なことを考えていた。

この先にある困難を、少なくとも起こり得る可能性を俺は知っているわけである。
騎士団だけが大変な思いをするのではない。大陸全土が大変なことになってしまう。
きっとそれはキーラの里も無関係ではいられないだろうな、と思うのも当然である。

だが、それと同時に目の前の騎士団を見て、その磨かれた身体や技術を感じる。
数年ではなく人生そのものを掛けて培ってきただろう、その重みが伝わるのだ。
この世界では、精霊の祝福を受けなければまともに魔物と戦うことは出来ない。
そしてその祝福は、生まれてから15歳の成年の儀までの鍛錬を評価するものだ。

決してゲーム画面上にあるものではない。今目の前にいる彼らは本物だ。
“生きて、そして死んでいく”彼らを、どうしてただの駒と見られようか。
実際にあって、そしてその実力を肌で感じて、彼らが掛けているものを知った。
彼らは世界のために騎士団とともに戦うことを、その生きる意味にしたのだ。

もしかしたら“英雄”に、“主人公”になれると少しでも思った自分が嫌いになる。
そんなわけがない。自分のことでさえ、未だにこれでいいのかと迷っているのだ。
日本に帰りたいと喚きたてるのは性に合わないが、それでも思い出さないときはない。
既にこの里で責任を負う立場になっていても、ぶれ続ける俺に人生は掛けられない。

たとえ、今22歳の俺が人生を掛けようと、まだ100年弱は残っているのだ。
現実問題、無理。そして精神的にも、最後まで見届けられないことには関われない。
己の人生よりも長いことが判っているものに、責任など持てそうにはなかった。

だからこそ、誘われたときには驚いた。評価されたことに驚いた。
もしかしなくても、あの様子だと俺を取り巻く人間関係への同情が主であろう。
嬉しいことは嬉しい。けれど、喩えようもないほどの怖さが俺を襲うのだ。
100年という時間は長すぎる。だから、俺は里の責任を理由にして断った。

「……まあ、言い訳に過ぎないんですけどねー」
「リュートさんまた何かあったんすかー?」
「ないよー。無さ過ぎて余計なことばっかり考えてるよー」

本当にやりたいことならば、幾らでも努力とアイディアでなんとかなるものだ。
なんとかするほど本気になれないから、俺は悩んで、そしてきっと機会を失う。
それでいい、と俺は思った。後から後悔すれば、それでいいのだ。
何年も前にプレイしたきりのゲームの記憶だけで、人の命は左右できない。
だから、これでいいのだと俺は俺自身を無理やり納得させていた。





[37010] 2-2
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/03/17 15:02



「――誰も居ないんですか?」
「返事はないみたいっすねぇ」

水上都市スクーレ、北2番街3番通路。この都市の中でも一番古い町並み。
昔ながらの建物が並ぶが、小さかったり押し詰めになっているわけではない。
人口が増えて無秩序に拡大する前の、余裕があるうちに作られたのだろう。
人は住んでいるはずなのに、どこかアンティークめいた様相を見せる。

その中にあるひとつの建物に、俺と護衛代わりの里人ランツとの二人で訪れていた。
スクーレには3人できたのであるが、残る一人は荷物番をしている。
だが、コンコンとドアをノックしたり、呼び鈴を鳴らしたのに現れる姿は無い。
酒場では、今はこの街にいると聞いてきたのだが。

ここはスクーレにおける、騎士団の本拠地だ。なかなかに立派な建物である。
何故この場所に着たかというと、勿論心変わりをした……わけがない。
一ヶ月前に里を助けてくれたのだから、機会があったら来ようと思っていただけだ。
想像していたよりもずっと早くに訪れることにはなったが、それはそれである。

とにもかくにもお礼をしにきたわけだが、どうにもノックの返事がない。
騎士団全員が揃って家を空けるものなのかなと、少し不思議に思ってみる。
だが返事がないのだから、それはやっぱり居ないということなのだろう。
時間を置いてまたくるべきか、それともお土産だけ置いて帰ってしまうべきか。

そのどちらも選びかねていると、中から微かな音が聞こえた気がした。
たぶん恐らく人の声。けれど、耳を凝らしてもそれに続く音はない。
むむむ。誰か居るのかなと眉を顰めている間に、隣の馬鹿が動いてしまった。
同じく音に気づいたのだろう、ランツはあっさりとドアを開けてしまったのである。

鍵を掛けてないのかと。抵抗もなく開いてしまったから止める間も無かった。
時々、田舎もの丸出しの行動をするからまだ独り立ちを認められないんだ。
そんな風に若干現実逃避しながらも、まあいいかと思ってちらりと中をのぞく。
微妙に埃っぽい空気、土臭さを感じる。なんで、と思いながら中に入った。

「誰か居ないっすかー」
「すいません、お邪魔します」

呼びかける声にやはり返事はない。玄関と、通路や階段の壁に反響する。
ふと下を見れば、自分がいる玄関には、大きさや形がばらばらの履物が並ぶ。
人は、いるよなあ。流石にこれだけの靴があって誰も居ないとは思わない。
外に出られないような事情でもあるのだろうか、と思った矢先のことである。

「――誰、だ……?」

小さく。本当に小さく声が聞こえてきた。掠れに掠れた声である。
ふと息を飲んだ。一瞬頭の中が空になる。普通の状況で出る声では決して無い。
ただ低かったりしゃがれているのならともかく、その声は活力が欠けていた。
何かがあった、と俺の頭は直ぐに結論付けた。助けが必要かもしれない。

「キーラの里からお礼に来ました。
 何があったか知りませんが、お邪魔しますよ」

勘違いなら後で謝れば済むし、状況を確認しようと返事を待たずに靴を脱ぐ。
そして早足に向かっていく先は、勿論先ほどの声が聞こえてきた方向だ。
階段の上ではなく、手前から二番目の部屋。反響から考えれば、そこだろう。
そう思った俺は同行人に確認を取ることなく進む。どうせついてくるし。

4分の3開きぐらいの木製のドアを奥に押すと、大きな卓が目に付いた。
装飾の少ない代わりに、かなりの厚みを持っていてそれはそれは丈夫そうである。
けれどその卓より、その奥側でうつ伏せる一人の男の方がよほど重要だった。
明るい茶髪しか見えないが、寝ているというより倒れているという方が妥当だろう。

先ほどの声の人物がこの人であるならば、意識はあるのだろう。
しかしどう見たって力無く伏せているようにしか見えないし、呼吸も小さい。
何事かと思って近寄った俺は、その人がブラッド団長であることに気がついた。

団長が倒れている。いやいや、異常事態にもほどがあるだろう。
他の団員はどうしたのだろうか。まさか同じように倒れているのだろうか。
靴があるのだし、恐らくこの建物にいるだろうに、まさか気づかないわけも無い。
だとすればこれは。毒、とか。襲撃、とか。そういったものなのかも知れない。

焦りながらブラッドさんから話を聞こうと、起こそうとしてバランスが崩れた。
いや幸いにも倒れる前に支えることは出来たのだが、今にも椅子から落ちそうだ。
そうでなくても力が入らないのか、首が不安定で嫌過ぎる。人形みたいだ。
自分よりも明らかに体格がいい相手に躊躇いながら、椅子から降ろして床に座らせる。
思っていたより、見た目より。軽かったので、案外静かに動かせた。

その間微かに開かれた目から、空ろな視線が俺を見る。意識はあるようだ。
だとすれば身体に力が入らないほどの何か。やはり、毒だろうか。
先ほどの掠れた声と力の無いこの様子を見れば、どうしたって緊急事態だと判る。
俺は腕でブラッドさんの背を支えながら、その顔を見て問いかけた。

「――大丈夫ですか?」
「……いや」

少なくとも意識がある。小さい声ではあるが、応答が可能なようなのだが。
確認するまでもなく脈はあるだろう。それよりも気になるのは力の無さである。
殆ど力の入らない手は、俺をつかもうとして直ぐに床に落ちてしまった。
その様子は、まるで何かで麻痺をしているとか、弛緩しているようにしか見えない。

「毒でも盛られたんですか?」
「…………違う」

おや、と思ったのは、ここで明確に違うと答えられたことである。
毒か判らずに口にしたのであれば、わからないと答えると思っていたからだ。
違うと断言できるということは、それは自身で理由が判っているということになる。
じゃあ一体なにか。自分で体調を理解できるのに、それに対処が出来ないとは。
不思議に思った俺に、ブラッドさんはゆっくりと自分の手を腹部に当てた。

「お腹が痛むんですか?」

答える力も無いらしい。その首を振って否と伝える姿は弱弱しかった。
お腹に事情があって、そして毒ではなくて、痛みも無い。さてそれは何だ。
ここで女性ならまた別の理由があるのだろうが、目の前の彼はどう見ても男性である。
なんだかすっごく嫌な予感がして、俺はうんざりする覚悟を胸に秘め始めた。
その上で、聞いてみる。大したことがなければいいが、想像と違うことを願いつつ。

「……違うとは思うのですが。
 もしも、空いたとか言ったらトドメ刺しますよ?」

思っていたよりも穏やかに口から出た言葉は、空気が凍るほどであった。
いつの間にか後ろに来ていた、キーラの里からの同行者が息を呑む音が聞こえた。
わずかな沈黙の後、ブラッドさんはゆっくりと手を動かし始めた。
それは腰元に向かうと、止める間もなく小さなナイフを少し出して、直ぐしまう。

何事かと見守るその手が向かったのは床で、“空いた”と血文字を描いた。
俺はとりあえず深呼吸してから立ち上がった。ブラッドさんの頭が床に落ちる。
「ぐえっ」と聞こえてきたが、こんなことのために態々自傷するなんて。
言わなければいいというものではない。というか更に駄目だと思う。
何があっても絶対に許さないと俺は誓った。決して俺が悪いわけではない。





馬鹿馬鹿しい理由で倒れていた団長さんだが、見捨てるわけには行かなかった。
なんで自分の家で行き倒れてるのだろうかと不思議に思いながら、荷物を開ける。
とりあえず手持ちの食べ物、土産として持ってきた自作の干し果実を口に押し込む。
山でしか取れない果実だから、これはこれで貴重なんだけど仕方がない。

口の中に甘味が入ってきたことで、若干目が覚めたらしく口を動かし始めた。
もぐもぐもぐ、ごくんと咀嚼と嚥下の後にまた口元に近づけると自分で食べ始める。
複数回それを繰り返すと、いつの間にか目を開けていたブラッドさんが俺を見ていた。
ゆっくりと身体を起こして、俺の持っている果実の残りを物欲しそうに見る。

「――食べます?」
「…………いいのか?」

いや、超絶に今更なんですけれどね。そんなに嬉しそうな目で見られても。
どうせお土産なんだしと、俺は木の箱詰めにしていたそれをそのまま押し付ける。
受け取るとほぼ同時にばくばくと食べ始めるブラッドさんに、俺は少し引いた。
どれだけお腹空いてたんだろうかと思うぐらいの勢いで、食べ尽くしてしまった。

とにかく、声を出し身体を起こせるぐらいには元気になったようである。
そんなに早く活力に変換できるとも思わないが、思い込みみたいなものだろうか。
何かを口にしたことで、残っていた体力が出せるようになったのかもしれない。
血色が悪いのは相変わらずだったが、それは団長さんに限り元々の話だ。
それならば話を、と。しかし理由を聞く前に、確認しなければいけないことがある。

「その、団長さん?
 騎士団の他の方はどうされたんですか?」
「……多分、上の階にいるんじゃないか?
 外に行く元気はないだろうから」

……なんだそれ、と脱力してしまう俺を、いったい誰が責められるだろうか。
確かに、団長が空腹で倒れているのなら、健常な団員なら助けているのは判る。
だからこの状況から考えると、他の団員は“いない”か“動けない”かの二択。
ブラッドさんの物言いからすれば、後者で、理由は聞くまでもないことだった。

「――色々。色々、お聞きしたいことはありますが。
 どうやら、皆さんに食べ物を用意するのが先みたいですね」
「……恩に着る」

本当だよ。素直に下げられた頭を見て、言いかけたその言葉を俺は飲み込む。
別に騎士団に恩を着せたいわけではないし、世話になったのも事実である。
ただ、一つ。面倒な事に関わってしまったことだけは、流石にうんざりだった。
不安そうに俺の顔を覗き込むランツを見て、俺は小さくため息をついた。





「――本当に助かった。
 今度こそ騎士団が全滅するところだった」
「……いや、もうなんでもいいですけど。
 一応、理由ぐらいはお聞かせ願えますよね」

今日だけで見飽きたブラッドさんの旋毛から目を背けて、俺はため息をつく。
流石に疲れてしまった俺には、“今度こそ”に突っ込む気力もなかった。
何度も似たようなことしてたのかなぁ。してたんだろうなぁ。
なんだかもう、理由も想像は出来ていたのだけれど、確認として聞いてみる。

――あの後、ブラッドさんに食料を渡した後が、本当の面倒事だった。
ブラッドさんに助けを求められた俺は、まずは団員の皆さんの無事を確認したかった。
上の階に上がってもいいかと、空腹が満たされ眠たげなブラッドさんに了承を得て。
そのまま寝息を立てるブラッドさんに腹を立てながら、階段を上り始めた。

騎士団本部を確認していけば行くほどに判るのが、建物の小汚さである。
古い建物なのは最初から判っていたが、それ以上に埃臭く、手入れされていない。
建物自体には手入れがされているのに、住環境的には殆どぼろぼろなのである。
いつ洗ったのかも知れないシーツで眠る団員さんたちに、俺の顔も流石に引きつった。

生きてはいる。別に飢えて死ぬというほどに、活力がないわけではない。
だが、埃臭く土臭い中で動く気力もなさそうにしているのは、どうかと思った。
“今”はまだ大丈夫。しかしこのまま動かないなら、時間の問題だろう、色々と。

全体的に、人が住んでいる環境ではない。悪環境というのではなく文字通り。
なんというか、“人が住んでいる”環境ではないのだ。廃墟みたいな感じ。
そりゃ下手すると数年単位で人が住まないのだから、こうもなるのかもしれないが。
物が少ない。埃臭い。当然食べ物なんてどこにも見当たりそうにない。
 
元より、空腹で倒れる人間がいる場所に、食材など期待してはいないけど。
これは間違いなく買い物が必要になる。それも、かなりの量の。
騎士団の人数と性別と体格。それを考えたら、想像するだけでもうんざりした。

幸いの救いは、荷物持ちのランツがいることだった。力持ちっていいよね。
食材を求めて訪れた市場は、昼を過ぎて閑散としており、早々に見切りを付けた。
時間で左右される市場がダメなら、時間に左右されない商会に行くのが妥当である。
しかし、そこでは基本的に大量購入での値引きが前提なのか、単位価格が高かった。

単位当たり2割上乗せは流石に躊躇われたので、そこでの購入は断念した。
お金がないわけではないし、騎士団から請求するのも考えはしたのだが、やめた。
好意の押し売りはどうかと思うし、何よりも請求できるかが疑問だった。
何せ、こんな都市の中で空腹で倒れているのである。理由は押して知るべしだ。
恐らく、かなりの確率でボランティアにしかならない。俺は一応倹約家なのだ。

市場はだめ、商会もだめ。そうなると、他のところを探さなければならない。
不安そうな顔をしているランツを爽やかにスルーして、俺は目星をつけていた。
商会が大量購入を前提とするなら、既に大量購入している場所から買えばいいわけで。
なので、今日も部屋をとっている馴染みの宿屋に交渉するだけであった。

協力で一括購入することは、お店間でのやり取りとしては当然のものである。
個人が後からそこに入ってくるのは、流石に微妙な顔をされたが、今回だけのことだ。
古くなった黒パンを俺が買い取ることを含めて、割と短時間で交渉も終了。
そうして商会で買うよりは安く手に入れた食材を、ランツに運ばせて騎士団本部に戻った。

あまり手入れをされてなく、埃まみれの厨房を最低限片付けながら、調理を開始。
都市部だから葉物は高く、根菜……というか殆ど芋と燻製肉のスープを作成した。
ランツが食器類を井戸まで洗いに行っている間に、ひたすら芋を剥く作業にかかったのである。

作る量が作る量だから、お湯を沸かすだけでもかなりの時間が経過したり、大変だった。
ともかくそうして、自画自賛はとりあえず置いておき、団員の皆にそれを振舞った。
それまで動かなかった人たちが、食事の匂いでのそりのそりと一斉に動きはじめるのである。
とりあえず、不気味だった。そしてその中に団長さんの姿を見て、流石にイラっとした。

ものすごい勢いで無くなっていく食べ物と俺の気力が、器の底を着いた頃。
漸く俺の存在に気がついたらしい団員の皆様方は、俺のことを時間もかけずに思い出した。
まあ、そりゃ僅か一ヶ月前のことなのである。下手すれば里から街まで寄り道もしてないし。
色々思うところがないわけでもないらしいが、それはこちらも同じことである。
生暖かい視線を送っていると、ランツを含めた皆さんが自主的に後片付けに入ってくれた。

その中に団長の姿も見えた気がするが、すぐにくすんだ金髪の美青年が追いかけた。
よかった、まともな人がいてくれて。俺はそのレオさんに、思わず頭を下げた。
片付けで騒然とする食堂から離れて、最初に団長さんを見つけた部屋に3人で向かう。
騎士団の会議室というその部屋で、団長さんは決まり悪げに何度も俺に頭を下げたのだった。





[37010] 2-3
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/03/18 13:30



そして、疲れた俺の、現状説明の要求に至るわけである。
座っている適当に置いてあった椅子の埃臭さを気にしながら、俺はブラッドさんを見た。

「……理由、理由なぁ」
「流石に、何もなかったとは言わせませんからね」

ブラッドさんは先ほどまで下げていた頭を掻きながら、視線をあちこちに振る。
言いにくいことだろうことは判っているけれど、ここまでボランティアしたのだ。
これで言葉を濁されたら流石に怒る。特に何かはしないけどとりあえず怒る。
レオさんに助けを求める視線もすぐに躱され、団長さんはようやく俺を正面から見た。

真っ白な肌、赤い瞳、刺青だらけのその身体。どこか人間味の薄い外見である。
土臭く、人間臭いキーラの里の住民とは大きく違って、人より魔物に近いようにすら感じる。
ただ、そこに息づく鼓動は本物で、その瞳も達観こそしていても温かみを持つものだ。

怖くはない。怖くはないが、明らかに自分とは違った世界に住んでいる人である。
それを“文字通り”と言えた時代からは3年が過ぎたが、印象はまだ変わらない。
この人は戦いの中に身を置く人であり、そして300年の時間を生きてきた人であるのだ。
相対してようやく、何でこんなに普通に関わっているんだろうと、自分を不思議に思った。
自分と騎士団の“遠さ”を思い出していると、ブラッドさんは少し笑って口を開いた。

「――ああ、ここまでしてもらったわけだしな。
 そうだな。正直に言ってしまえば……」
「ええ」
「…………金がない」
「……あー」

――いや、まあ予想は出来ていたわけですけれど、と態々口に出しては言わないが。
実際に言葉にされてしまうと、何とも反応に困るものである。
思わず、予想していたのにも関わらず、聞いた言葉に天井を仰いでしまった。

そりゃ、この拠点の中を見れば、裕福と言えない生活をしていたのは一目瞭然。
補修を繰り返されただろう建物に家具。食べ物がないのはともかく、ものが全体的にない。
幾らこの場所に長々と居着くわけではないとしても、もう少し生活感がないものか。
廃墟かと一瞬思うぐらいには、閑散としていたのだ。掃除もされていなかったし。

「……生活に困るほど、ですか?」
「……ああ」

この生活も、お金がなかったら仕方がない……というか、至るべき当然の結果だ。
食べ物にすら困るぐらいなのだから、実際には生活“できていない”わけではあるが。
そこまで追い詰められるとは、どれほどの赤字が積み重なればそうなるのだろうか。

騎士団が赤字、というか支出超過を積み重ねるのは、想像するに容易いことである。
何せ、10数人の集団が定期的な収入なしに強行軍に近い旅を延々と続けるのだ。
生きて、死なない。ただそれだけのことにも当然食費は掛かり、生活するなら尚更だ。
日用品もこれだけの人数がいるのなら決して馬鹿にできない値段に積み重なる。

それに付け加えて、騎士団は生きるだけでなくて、旅をして戦わなければいけない。
旅装も武具も金食い虫であることには違いない。それが命を背負うものだから手を抜けない。
服も剣も鎧も何時かは悪くなる。魔法薬の類なんて大抵はその一瞬で使いきりだろう。
そこを節約したら、代償は命で払うだけである。死は思っているよりもずっと身近だ。

それだけの出費があるだろうにも関わらず、その収入は多分、限られるほどである。
騎士団が魔物を倒すことへの謝礼は、あくまで“暗黙の了解”に過ぎず、定額などない。
そもそもが魔物に襲われた集落であるので、払える金額など知れたものなのだ。
それを里長に聞いていたからこそ、俺はちょっとではないレベルで奮発したのだ。

俺のへそくりの内、低くない割合。街に出る子たちへの支援金として使う予定のもの。
次に街に出るだろうランツがまだまだ全然ダメなので、当分はいらないと吐き出したもの。
それこそ全部を捨て値で売ったところで、食費なんて幾らでも賄えるほどの積もりだ。

それでも足りなかった……溜まっていたツケでも払ったのであろうか。
ツケを払いきらなかったら、次を食べさせないと脅されたとか。いやそれはないか。
流石に払いきれないツケの為に所持金を費やして、自分を追い詰めはしないだろう。
ならば、この一ヶ月の間に極端な出費があったのかもしれない。家賃とか。

「討伐の謝礼が、不足していましたか?」
「いや、そうじゃないが……」
「では」
「…………まだ換金できてないんだ」

流石にここまで困窮しているのでは、外からの援助が必要だろう。
もう少し程度なら、俺の方から資金を出すことも出来るかと、そう思ったのだが。
……流石に耳にした言葉に、俺自身の耳か頭がどうにかなったのかと一瞬疑う。

「換金できてない……ですか?」
「ああ」

――――あれ。えっと、なんだか急に雲行きがおかしくなってきているのですが。
そんなに換金が難しいものを渡した記憶はない。換金しやすいものを揃えたはずだ。
原石とはいえ貴石、それと魔術薬の材料としては高額だがメジャーなものである。
金額にさえ拘らなければ、その日の内にだってお金に替えてしまえると思うのだが。

……お金に困っているから、出来るだけ高額で換金しようとした、とか。
いや、ベリーの日干しとベルボグ茸の傘は季節とかで値段は変動するだろうけど。
貴石なんてそう簡単に変動を予測できるものではない。というか変動しにくい。
手持ちがないなら、貴石を売って活動資金にしてしまえばいい。売らない理由がない。
ええい。考えているよりも、目の前にいるのだから直接聞いたほうが早い。

「……換金してないならまだ手元、ですよね」
「いや、違うが」

えー。なんでだろう、なんだか全く彼らの状況が推測できないでいる俺である。
相場を見計らうのなら、手元に残しておかないといけない。
というか、手元にないのなら普通に換金できてなきゃおかしくないですか。
食べ物にも事欠く状況で、本人たちも換金できてないと言ってるのだ。
それなのに、なんで手元にないのですか。あれ、もしかして俺がおかしいの?

頭がとっても混乱をきたしてしまっているので、思考を放棄して第三者を見てみた。
つまりは一人黙って俺たちの話を聞いているレオさんに、岡目八目を期待したのである。
腕を組み、まるで他人事のように静かな表情をしたレオさんは、小さく眉を顰める。
どうやらこのまま黙っている積もりだったらしい。面倒臭そうに口を開いた。

「――酒場のおっさんに仲介を頼んでるんだよ」
「仲介、ですか」
「手間賃を取られるけど、手っ取り早いからな」

そう言って、これでいいだろうと言わんばかりにレオさんはまた黙り込んだ。
仲介ってことはあれだ。恐らく現品を委託して、購入者との交渉を任せてるんだろう。
そうなれば確かに手元にものはないし、まだ売れてないなら換金も出来てない。
状況そのものには確かに適合している。ただ、全く腑に落ちる要素はない。

いや、なんでそんな遠まわしな手段を取るんだろう。今お金に困ってるのに。
その売り方だと、どうやったってお金が手に入るのは仲介先で売れてからである。
歩合で手数料を決めるのであれば、当然仲介者は出来るだけ高く売る。
そこまで日数は空けないだろうけど、それでも直ぐには手元に代金は戻ってこない。
だから、どう考えてもおかしいとしか言えないのだ。合理的ではない。

この街は商業が盛んな都市である。人の行き交いは激しく、表に裏に取引がある。
高額でリスクが高い取引ならば、当然信頼が必要になるだろうが、今は違う。
個人では高額であっても相手が商店なら別だし、何よりも現品を直接売るのだ。
だから、別に信用保証なんて必要ない。仲介なんて金がかかるだけで、意味はない。
それこそお金と時間を払って、手間を惜しむだけだ。欲しいものが真逆である。

「……お。おかしくないですか」
「何がだ?」
「今すぐお金に替えたいのに、なんで仲介頼んだんですか。
 時間かかっちゃうじゃないですか」

レオさんの言うような、手っ取り早さなんてどこにもない手段である。
手間を省いたとこの状況で言えるのならば、全力でもみあげを捻りあげてやる。
面倒臭いだけで飢えることを選ぶのは俺の想像の範囲外である。違うと信じたい。
しかし、俺の疑問の声にブラッドさんは、何を言ってるんだと言わんばかりだ。
こちらこそその視線を送ってやりたい所だが、とりあえず、弁解を待つことにした。

「――いや、だってな。
 薬草市も鉱石市も月に数回だし、ギルド管理だろ?」
「それは、そうですが」
「雑貨屋でも目利き出来ないって断られたら、他にないじゃないか」
「――――――――は?」

他にないとか、何を言ってるのだこの人は。思わず脳内がフリーズしてしまう。
即時換金という条件なしでも、ほぼ有り得ない選択肢を二つ並べて何を言うのだ。
限定市なんて、冗談にならないショバ代もあるし新参者が手を出す場所じゃない。
雑貨屋なんて、当然そんな末端小売で高額買取なんてするわけがない。ありえない。
どう考えたって高額薬草と貴石の原石を換金する場所としては向いてない。

それなのに何を当たり前のことをという顔で俺を見るこの人を、俺は信じられない。
冗談で言ってるのだと、俺を試しているのだと、そういう期待をして見返した。
けれどその視線にも赤い瞳は変わらずに俺を見る。助けを求めて、今度はレオさんに。
……ああ、だめだ。興味なさそうにそっぽを向いている。なんでここにいるのこの人。

まさか、である。もしこれを本気で言っているのなら、非常に馬鹿げている。
三百歳オーバーとか、百戦錬磨の勇者とか、積み重ねてきたものは一体なんだったのか。
俺は、恐る恐る、本当に恐る恐ると、そのまさかを確かめるために、言葉を選んだ。

「あの、本気で仰ってますか」
「……なにがだ?」
「いえ、ですから。
 ――商会とか、問屋とかは試してないので?」

それこそ、目利きが出来る人間がいる場所にいけば、話は済むのである。
価値が判り、それを買うだけの資金があり、それを必要としている場所さえ行けば。
信用で弾かれるなんてない。騎士団の名声がある以上は、少なくとも身分証明にはなる。

一つの店で断られても、より治安の悪い場所へ。安くても買ってくれる場所はある。
なんていったって、この街は水上都市。交通の要所で、人と物が行き交う魔都なのだ。
しかし、しかし。ブラッドさんは、先ほどから変わらない表情で、首をかしげた。

「……?
 そんなのは、商人だけが使う場所だろ?」
「…………一般向け窓口も……ありますから……」

――余りの衝撃に胸がいっぱいで、絞り出すようにしか声が出ない。
商人だけ。確かにそうだ、商人の場所である。だけど商人って一体なんだろう。
商人に資格があるのか。要らない訳ではない、営業場所によっては許可証がいる。
ただ、商会で取引をするだけであれば、職人ギルドが関わってない限りはいらない。

少なくとも、騎士団が旅の途中で手に入れたものを売るのに資格はいらない。
問屋は流石に妙な顔をされるかもしれないけれど、それでも一回きりなら構わない。
俺が食べ物を宿屋から半ば無理やり購入したように、無理ではないのだ。

どうしよう、俺の常識が通用しない。別に初めての経験ではないが内心焦る。
キーラの里からここに人を送る時にも、大体似たようなことを感じたことはあるが。
今回は少々状況が違う。都会を全く知らないと自覚していた里の住人と目の前の人は違う。
自分が知っていることが、自分の経験してきたものが正しいとどこかで信じているのだ。
だから、俺の言葉にも理解の色が欠片も見えない。よく判らないという顔である。

「……場所によりますけど、貴石も通貨として使えますよ?
 一粒ずつ、買い物で払っていけば良かったのでは」

まだ金融市場が発達しきっていないらしいここでは、メジャーな高額支払手段である。
里長でも知っていたのだ。都市に住んでいる彼らが知っていない訳がない、はずだ。
もう既に、大体無駄だということは判っている。それでも確認しなければ。
流石にこれぐらいは知っていて欲しい。知っていたらこうはなってないだろうけど!

そうなのか、と驚いた顔をするブラッドさんは、まあいい。もう諦めがつく。
それよりも、それよりもだ。先程から知らん顔して突っ立ってるそこの金髪だよ金髪。
冒険者歴何年だ。スクーレに住んでから何年、騎士団の参謀になって何年経ってる貴様。
俺とブラッドさんの視線が突き刺さり、澄ました表情が微かに引きつっている。

「買い物とかはレオがやってるから」
「……まさか、ご存知ないわけないですよね」

団長さんの丸投げは、立場を考えたら買い出しを担当しないだろうし、仕方ない。
余罪の追求はまだ後にしておいて、それより先に真相究明と複数犯の確保だ。
今団長さんに怒ったら、有耶無耶にしてはいけないものが有耶無耶になりかねない。

というか、レオさんはなんでここにいるのだ。団長さんのお目付け役ではないのか。
最初に片付けに紛れ込むブラッドさんを引き止めたから、普通の人だと思っていたのだが。
なのに興味なさそうにしているだなんて、何しに来たのという話である。
……実はあれだろ、片付けしたくないからこっちきただけだろ、と邪推してしまう。
なんとなく、この団長さんを含めたちゃらんぽらんぶりから、それで正しい気がした。

背けたままのレオさんの顔は無表情を維持しており、その表情筋に動きはない。
けれど、その瞳はそれなりに雄弁だ。揺らぎ、そして視点の先は一所で止まらない。
「レオ」とブラッドさんの穏やかな呼びかけに、レオさんは小さく肩を震わせた。
少しだけ、その声の持つ“深さ”みたいなものに、ほんの少しだけ呑まれそうになる。
レオさんは、腕を組んだままにちらりとこちらを見てから、呟いた。

「――仕方がないだろ。
 騎士団に入る前も入ってからも、貴石なんて縁がなかったんだから」
「まあ、そうだよな」

その声は、不機嫌というよりも、憮然と表現するのが一番正しいと思った。
考えるよりも先に頭を動かして、俺は反射的にブラッドさんの顔を見る。
それは、真偽を確かめるためではなくて、その言葉の真意を掴み損ねたからだった。
振り向いたブラッドさんは、恐らく戸惑った顔をしている俺に、小さく苦笑した。

「儲かる職業じゃないからな」

……ああそうか、と。一瞬の間を置いてから、俺の思考はその言葉を理解する。
騎士団が裕福な訳がないということは、出会うよりも前に判っていたことであった。
騎士団だけではない。勇者の“冒険者”ではなく、依頼を受ける“冒険者”もそうだ。
名前だけを聞けば華やかだけれど、内実がそうでないことは、俺にだって判る。
何よりも、レオさんが職業冒険者だったのは、十代の初めのことなのである。

あれ。何だか、俺は騎士団を勘違いしていたのかも知れない。冷や汗が出てきた。
ゲームの中に生きる、架空の人たちではないことは既に理解し、その積もりである。
生きている。けれど、俺はちゃんと目の前にいる人たちを、その有り様を正しく捉えたか。
“未来の為、人々の為に戦い続ける騎士団”という言葉に、瞳が曇ってはないのか。

「ほ、他の方は」
「似たり寄ったり、だな。
 昔は、そういうことを任せられるやつも居たんだが」
「今は」
「いないな」

内心、想定との違いに気づき、焦り出した俺と異なり、ブラッドさんは変わらない。
ブラッドさんの比較は、当然レオさんとそれ以外の団員とのものであるだろう。
レオさんと変わらない程度、そしてレオさんは参謀役を務める程にはその中でマシなのだ。
その生活力、のようなものは推して知るべし。きっと、高いものでは有り得ない。

団員の大半は、ギルドの類から依頼を受けて生活する元職業冒険者であるはずだ。
危険と隣り合わせであり、依頼者にとっては代わりがあって、報酬をケチれる程度の。
当然、高額な収入であるはずがない。自転車操業が出来るならまともな方だろう。
だから、貴石なんてものには縁がない。それほどの利用価値なんて持っていなかった。

知るはずがなかったのだ、と。呆然としたままの俺の理性が、漸く答えに気づく。
彼らは勇者ではあるが、完璧な英雄なんかではない。予言と戦うと決めただけの人間だ。
瞳が曇っていたことに、フィルターの存在に気付けば、今まで見たものが裏付けになる。

この建物の中には何もなかった。食べ物に困るほどに資金を管理できないのだ。
埃と土塗れのベッドの中で、お腹を空かせ食べ物が手に入る時を待っていたのを俺は見た。
俺が作った食事に、我先にと争うように、奪い合うように、空腹を満たす彼らを見た。
――この人たちは、立派な英雄などではない。ただの、食い詰めかけた馬鹿の集まりだ。

いやいや、と流石に頭の中で、俺自身でフォローする。
知らなくても仕方がないことを、知らないからと言って馬鹿にするのは、卑怯だ。
恵まれた人間の暴言であり、彼らを見て恵まれていたと気付いた俺がすべきではない。
俺は恵まれていたのだ。自分の頭と知識を活かし、評価される環境に。





[37010] 2-4
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/03/17 15:08



「――どうかしたのか?」
「あっいえ……その」

混乱した頭は、未だに思考を纏めきれていない。思うことが有りすぎる。
とりあえず、騎士団の体制になにか口出しをするべきだと思うのは、間違いない。
だけれどその内容は、まだ決まらずに。そして、本当に助言するかも決められない。

どこまで関わっていいのか。俺は彼らの人生に責任を感じたいとは思わない。
もしもここで俺が口出ししたことで、団員がどうにかなってしまうことがあれば。
団員だけではない、騎士団が潰れるようなことがあれば、世界に影響があるだろう。
俺はこの世界で生きてはいるけれど、イレギュラーな存在であるのは違いない。
俺は、この世界に責任なんて持てない。だから、どうしたものかを決められない。

そうして、俺は言葉につまる。不審に思っただろうブラッドさんにも返事が出来ない。
ブラッドさんがレオさんと困ったように視線を合わせるのを、俺は視界の片隅で見た。
どうしよう、なにか言わなきゃ。そう思えば思うほど焦り、思考は纏まらない。
そんな俺を見かねたのか、俺を明るい表情で見たブラッドさんは、明るい声で、言った。

「……いや、あんたのお蔭で助かったよ。
 下手すりゃ、騎士団全員で飢え死にするところだったからな」
「な」

何を、と言いかけたのを、必死に理性が押しとどめた。頭が沸騰しかけた。
あんたたちがしっかりしてなきゃ、世界が滅ぶのを判っているのかと、そう思った。
でもそんな他人任せなことは、言えない。百年戦い続ける人たちに、言えない。
無責任だ、と思った。そしてそれ以上に、そんなことを思った俺が無責任だと思った。

「……今後は、気を付けてくださいよ。
 そんな死に方は笑えませんから」
「ああ、努力するよ」

必死に感情を抑えながらの切り返しは、それでも多少の悪意が残ってしまった。
さらりと受け止められたのは幸いだったが、気付かれなかったのかどうかは判らない。
ここで別れ、関わらないのは確定事項にしても、あまり嫌われたいとは思わない。
俺自身が一ヶ月前に言ったのだ。助けられる側にも、それなりの態度がある、と。
俺は、責任を負えない。俺が嫌われて、里への救援が遅れるなんて、有り得ない。

「あ、と。そうだ。
 助けてもらってなんだが、代金は待って貰っていいか」
「……返さなくても結構ですよ。
 ただ、代わりに今から言うことを覚えておいてください」

ブラッドさんは申し訳なさそうに言うが、元よりボランティアの積もりだった。
俺のへそくりなんて、その内また貯まる。ちょっとぐらいなら減っても構わない。
だから、代わりに。吐き出しかけた悪意の欠片を、より適切な形に切り替える。

小さく首を傾げてから、ブラッドさんは少し真面目な顔をして俺を見つめた。
一瞬口を開けかけ、すぐに閉じたのは、俺がそれなりに真剣なのが伝わったからだろうか。
だったらいいな、と思った。例え今しか関わらなくても、何かを残せればいいな、と。
責任なんて取れないけれど、彼らの生活を少しでもマシにするぐらいなら、きっと出来る。

「――まずは、きちんと騎士団の本部ぐらい掃除してください。
 埃まみれの部屋で寝転がるなんて、もってのほかです」
「……え?」
「遠征に出かける前に、戻ってきたときの為に掃除をしましょうよ。
 簡単な掃除で住めるぐらいまで片付けておけば後が楽ですから」

ベッドのシーツは洗ってからタンスの中へ。帰った時は埃を払うだけに。
今みたいな環境に住んでいては、いつか病気になってしまう。
それが疲れが溜まっていたり、食事が不十分でない時だったら尚更だ。

「ものの売り買いも、酒場のマスターに頼るのはやめましょう。
 面倒くさくても、一回一回商会に自分で向かわないと、損します」
「あ、ああ」
「先ほど、昔はそういうのを任せられる団員がいたと言ってましたね。
 そう言う人に、ちゃんと後継者を残すように教えさせてください」

戸惑うブラッドさんを意図的に無視して、俺は言いたいことを並べ立てる。
多分、予想外のことだったのだろうなぁと判っているけれど、知ったことではない。
もっと優しい、騎士団への声援を期待していたのだろうが、俺にそんな筋合いはない。
寧ろ、お説教したいぐらいだ。勿論、俺にそんな筋合いはないからしないけれど!

「何より、食事です。
 命掛けで戦ってるんですから、身体は大切にしてください」
「……」
「万が一、空腹で力が出なくて負けるだとか、有り得ません。
 そんな馬鹿なことは、絶対に!……ないようにお願いします」

内心のはずの想いが、口調に現れる癖をどうにかしたい。今更ではあるが。
こういう時に、表面上でも取り繕えないから、里の大人たちに嫌われてしまうのだ。
ともかく、少しずつ言われていることを理解し始めたのか、ブラッドさんの視点が定まる。
呆気に取られた顔でなく、神妙に。少なくとも、視線を向けられる俺にはそう見えた。
忘れるなと強い想いを込めて見返すと、ブラッドさんは小さく笑って、頬を掻いた。

「――ははっ。
 ちゃんと食べろなんて言われたのは久しぶりだな」
「言わなくても、普通は出来るからですよ。
 なんで今まで無事だったのかが不思議なくらいです」

そうブラッドさんがどこか嬉しそうに見えるのは、俺の気のせいなのだろうか。
少しも効いていないのが少し悔しくて、俺は重ねて小言紛いの言葉を紡ぐ。
すると団長さんはレオさんと目を合わせ、俺に向きなおすと自分の腕をパンッと叩いた。
……あーもう絶対この人許さない。妙に小気味のいい音が俺をイライラさせた。

生意気なことを言って、不服で不満そうな視線を彼らに向けていると自覚していた。
それなのに、なんだか俺がそれを強めていく度に、ブラッドさんは嬉しそうな顔をする。
ブラッドさんの顔を見たレオさんも、どこか諦めたような顔をして俺を見ている。
その様子が俺にはなんだか不可解で、困惑しながらも、俺は吐き捨てるように言った。

「最初から全部やれとは言いませんから。
 騎士団の外から出来る人を引っ張ってきてもいいですし」
「外から?」
「騎士団の団員で出来ないのなら、という話です。
 もっとも、それはそれで信頼できる人を探すという手間が掛かりますけど」

それでも、外から探した方が多分早いだろうなぁ。そんな確信を持ってしまう。
いやだって、騎士団の団員が試行錯誤して決めていくよりは、探す方が早いだろう。
例えほぼ無報酬で人生を掛けさせるような仕事でも……厳しいな、嫌な仕事すぎる。
まあ、それでも奇特な人を探した方が、まだ早く済みそうな気がする。気がするだけだ。

――その時である。目を閉じてどっちがマシかと考えていた俺の手が、掴まれた。
驚いて目を開くと、座ったままのブラッドさんが手を伸ばし、俺の右手首を掴んでいる。
反射的に手をひこうとするけれど、動かない。どうやら、強い力が込められていた。
手首にかかる力はそれほどでもないのに、万力のように動かない。固定されている。

猛烈な嫌すぎる予感に顔が引き攣るのを自覚しながら、俺はブラッドさんの顔を見た。
澄み渡る青空のように晴れやかな笑顔で、何かを吹っ切ったような爽快さを感じてしまう。
まるで徹夜明けの朝陽を見るような気分で、俺は再度手を引いた。欠片も動かない。
抗議をするつもりで、引き攣る笑顔をブラッドさんに向けた。半ば、絶望的に。

「探す必要は、ないな」

穏やかに、それでいてどこか楽しげに。ブラッドさんは俺を見て、言った。
理解したくない。何を言ってるのか判らなければよかった。碌でもないこと言われてる。
余りの重圧に、気がつかない振りをしながら、俺は助けを求めた。レオさんだ。
右手を引くのを継続しながら壁を背に立つレオさんを見ると、微かな同情とともに目を逸らされた。
どうやら、レオさんも反対するつもりはないらしい。同情はしてくれているようだが。

「……あの。
 手を離していただきたいんですけど」

そしてここから逃げさせていただきたいんですけど。おうち帰りたいんですけど!
「ああ痛かったか?」とブラッドさんは手首にかかる力を緩めてくれる。でも動かない。
そうじゃない。そうじゃないんだ。問題はそれじゃなくて、握っていることにある。
さも逃がさないと言わんばかりのその手を離して頂きたい。なんでもいいから。

……気付かない振りが出来るうちに逃げないと大変なことになる。絶対になる。
話を聞く気は一切ないぞと目を伏せて、段々と右手を引く力を強めていく。
強く握り締めた拳は、それでも一向に動かない。痛くない辺り、手加減されているのだろう。
元の腕力に大きな違いがある。そりゃそうだ、体格の時点で一回りは違うのだ。

「――団員よりも騎士団を心配する人間なんて、初めてだ。
 あんたはこの騎士団に必要な人間だよ」
「…………以前ッ!
 お断り、させてっ頂いてると思うんですけど!」

畜生、少しも息が乱れていないのが、悔しい。こちとら頭脳派なのである。
筋肉死すべし。こういう時に、自分の非力さが本当に悔しく思えてくる。
現代日本の学生としてはそこまで小柄でも細くもないが、現役の勇者と力比べなど出来ない。
まだまだ逃走を諦めきれないので手を引き続けながらも、話をするためにその力を緩める。

ああ、と頷く団長さんは、一ヶ月前のことを決して忘れてはいないらしい。
逆に言えば、忘れてないけれど、今この狂行を働いているのである。最悪だ。
無理強いはしないと、あんなに爽やかに別れを交わしたのはなんだったのか!
心の中で覚悟を決めて、ブラッドさんを拒絶の思いを込めて睨みつける。

「――俺は、キーラの里で必要とされてるんです。
 今更、責任を投げるなんてこと、出来ません」
「知っている。
 それでも、あんたが必要だ」

落ち着いた声と落ち着いた態度は、俺の言葉を跳ね返すことなく、受け止めた。
精一杯の怒りを込めたはずのそれは、紅い瞳に吸い込まれていくようである。
揺るがない。年輪の違いか、埒が明かないと思うほどに、俺の怒りは届かない。
これ以上の感情なんて出てこないし、そして耐久できるほど続けられない。無理だ。
実際に体力が尽きる前に、俺は未来の負けを想像して、根気が折れてしまった。

「――俺はっ!
 まだまだ、里でやり残したことがあるんです」
「そうか」

目をそらし、顔を背けて。それでも、ブラッドさんが俺を見ているのが判る。
見返すことなんて出来ない。そんなことをしたら、多分、流されてしまう。
300年という時間の流れが、俺のたった20年ばかりの人生を押し流してしまう。
そんなのはいやだ。俺は俺の人生を生きていくんだ。自分で決めていきたい。

「命を助けてもらったからじゃないんです。
 まだまだ生徒に教えたいことだっていっぱいある」
「そうか」
「少しずつ、色んなことを変えてきたんです。
 今俺が居なくなったら、絶対に困る人が出てくる!」

一番は、俺が先生として教えている子供たちのことである。
色んなことを伝えたい。里の中だけでなく、世界を想像することを教えたい。
色んな価値観と色んな生き方があって、それぞれの幸せがあることを伝えたい。
社会と自然の仕組みを教えたい。その複雑さと、利用して工夫する楽しさを伝えたい。

知識を生活に使えないかと考えてきたのも、少しずつだけど形になってきていた。
若手と長老世代の対立も目立ってきている。誰かが調整しなくてはいけない。
折角良くなってきた暮らしが、俺が居なくなったら元に戻ってしまうかもしれない。
都会に憧れる若者の面倒を見る人間がいなくなって、また惨めに死んでしまうかもしれない!

これは言い訳なんかじゃない。俺自身、3年間で努力と諦観を繰り返してきたのだ。
3年前に突然何も判らずに全てを失ったのだ。俺はそこから漸く立ち直ってきたのだ。
たとえ恵まれた環境に救われたとしても、そこで積み重ねてきたものを捨てられない。
今度こそは、何も失いたくないのだ。俺はもう環境が変わることなんて嫌なのだ!

「――騎士団が嫌いというわけではありませんが。
 俺は里で生きていくと決めたんです」

例えこの先何があっても、あなたたちと同じ道は選ばない。歩む道は同じではない。
だから、手を。そう言おうとした時、突然会議室のドアが乱暴に開けられた。
バン、と叩きつけられるように開き、急な突風と複数の足音が部屋に飛び込んできた。
呆気にとられ、気を取られ。音の発生源に目を向けると、そこには二人の男の姿がある。

「……ランツ?」
「アレフか、どうした」

男、というには少し若いだろうか。まだ少年の面影を残す二人がそこにいた。
上背や筋肉の厚みで体格は確かに俺よりも大きいが、まだどこか頼りなさが残っている。
俺よりも5歳は年下だろう彼らは、部屋に飛び込んだ勢いのまま、ずかずかと踏み入る。
随分と息があった、というか。どことなく、同系統の動きで近寄ってきた。

二人とも、他の団員と一緒に片付けをしていたはずだが、一体何かあったのだろうか。
もし何か面倒事なら、丁度いい機会だし、巻き込まれる前に逃げさせてもらおう。
そう思って二人の動きを見守っていたが、どうにも団長ではなく俺の前に二人が並ぶ。
仏頂面した戦士の少年と、困惑した顔のランツが椅子に座る俺を見下ろしてきた。

「ブラッド団長、こんな奴入れることねえよ!
 嫌がって、やる気のない人間なんか必要ないぜ!」
「リュ、リュートさん。いなくならないっすよね?
 俺たちのこと、見捨てないっすよね?」

…………ええと。何だか口々に言いたいことを言ってくれているのであるが。
この調子だと、ドアの外で話を聞いていたのだろうか。ダメだと教えたはずなのだが。
指を指し、こんなやつとは中々の挨拶であるが、それに怒るほどの気力はない。
それよりも肩を掴んでくるランツの方がぶっちゃけ邪魔で仕方がないが、どうしよう。

少しだけ悩んでから、これは利用するべき状況であると俺は判断した。
突然の乱入者は、どちらも俺の追い風になってくれる主張をしてくれている。
アレフくんの物言いは、ちょっとどうかなと思わなくもないが、俺の望むところである。
ならば。ここは冷静になって、乗れるものには乗っておくべきだと思った。

「――大丈夫だよランツ、ブラッドさんも無茶は言わないよ。
 彼の言うとおりに、迷惑掛けないうちに里に帰ろうか」
「リュートさん……」

追い出されるのなら、それに乗るべきだ。今ならその流れに乗れるだろう。
そう思って立ち上がろうとして、未だにブラッドさんに掴まれていた右手が枷となった。
そこに込められた力は、依然として変化を見せない。まだ俺を逃がすつもりはないようだ。
できる限りの笑顔を作り、「失礼させていただきますね」と言った俺は、バランスを崩した。

たたらを踏んで、それがブラッドさんが手を引っ張ったからだと気づき、反射で睨む。
その俺に返ってきたのは、笑みをなくしてただ静かさだけを残した300年の視線。
呑まれかけ、ぐ、と歯を噛み締めた俺とブラッドさんの間に、人の影が割り込んだ。

「行かせてやれよ、ブラッド団長。
 賢者なんていなくても、今までやってこれただろ」
「アレフ」
「団長様、リュートさんは本当に里に必要な人なんです。
 俺たち若いのを、導いてくれる人なんです」

……どうやら、アレフくんは本当に俺たちの味方をしてくれているのだと、漸く気付く。
ちらりと向けられた視線は、複雑な感情と“行け”という言葉が込められているようだった。
重ねて、ブラッドさんに向けられたランツの言葉も、決して軽い響きのものではない。
そんな風に思われていたのか、などと感慨に耽る時間は今の俺にはあげられそうになかった。

俺は、いつの間にか外れていた視線を、再度ブラッドさんに向ける。
これが最後だ、と俺は思った。きっと、ここで俺かブラッドさんは折れると思った。
折れたくはない。だけど折れない自信なんてどこにもない。何せ、一度は折れかけた。
それでも、だ。俺は集められる覚悟を全部集めて、纏めて全部、瞳に込めた。

――――そうして見たブラッドさんの瞳は静かだった。感情はあるが、揺らがない。
俺が一喜一憂とともに、理性で押さえつけない限り振れ続ける感情とは、大きく違う。
それは、騎士団の団長である責務か。それとも、300年の経験かと考えて、違うと感じた。
その瞳の中に、なんだか凄く悲しい色を見たような気がして、俺は違うと直感したのだ。

悲しいとブラッドさんが思っているのではない。ただ、俺は、その瞳は悲しいと思った。
俺を必要とする熱意は確かにあって、抵抗にあっていることへの憤りも確かにある。
けれど、根本的な所に何かが足りない。それはなんだろうと場違いにも考えて、気付いた。

この人は、本当は俺を見ていない。俺が入団しようとしなかろうとどちらでもいいのだ。
それは俺個人にどうのこうのというのではなく、人そのものへの諦観であると俺は思った。
いつか、居なくなる。それは予定でもなく、不老不死である彼にとっては確定事項だ。
だから揺るがない。一々揺らいでいたら、精神が持たない。感情を摩耗させて、揺るがない。

切ないな、と俺は思った。この人は、やっぱり人とは違う時間を生きている人なのだ。
でも、俺にどうにか出来るわけではない。俺に出来ることなんて限られている。
もしどうにか出来るならと脳裏に浮かんだが、それは俺の仕事ではなく女神の仕事だ。
俺には何も出来ない。そう思ったときには、既に俺の瞳には一欠片も意志を宿せなかった。
それを見て、ブラッドさんは何を思ったのだろうか、小さく笑って、拘束を離した。

「……済まなかったな」

その言葉に、俺は答える術を思い浮かばなかった。考えても、言葉が出なかった。
何かを言わなくてはいけない。ただ、その度に俺は100年という時間を考えてしまう。
長すぎると諦めた時間を、この人は生きていかなければならない。戦わなければいけない。
重すぎて、重すぎて、俺にはなんと言っていいのかが本当に判らなくなってしまった。

いつの間にか、軽くなって漸く自由になった右手を握り締めていた。爪の跡が付きそうだ。
入団する気はなかった。それでも掴む手の力は、必要だという想いを感じて嫌ではなかった。
その力が強ければ強いほど、俺は必要とされていたから。俺の価値を保証されていたから。
もやもやして涙が出そうなのを必死にこらえ、頭を下げて、俺は無理やり声を絞り出した。

「……失礼します。どうか、お元気で」

頭をあげる。ブラッドさんの顔は見ない。振り返る。レオさんの顔も見ない。
ご武運を、と言おうとして、違うなと思った。この人は戦いに行くんじゃない。
この人は生きていくんだと思って、だからせめて元気でいてほしいと俺は思った。
生きて、生きて、最後まで生きて、救われて。それからを。

歩く。ランツは、きっと付いてくるだろう。だから、気にせずに外に向かって歩く。
背中に視線が刺さり、そして儚く消えていった。まるで日の光みたいだと思った。
アレフくんとランツが入ってきた時から、開け放したままのドアまで後数歩。
付いてくる足音を頭のどこかで認識しながら歩いていた時に、後ろから声がかかった。

「――助けてくれたこと、感謝している。
 この恩は、いつか必ず返すよ」

ブラッドさんの声、だ。俺は床に着いた足を上げかけて、そしてそのまま降ろした。
振り返りはしない、出来ない。今、ブラッドさんを見られそうになかった。
俺は一体どんな顔をしてるんだろうか、判らない。どんな顔であっても見られたくない。
もしかしたら、泣いているのかもしれない。或いは案外すっきりした顔をしてるかも。

「迷惑かけたな。
 あまり、気にしないでくれると助かる」

気にしないことが出来る人間だったら、きっと今でも振り向いてそっちを見てるよ。
そう思いながら、俺は唇を噛んだ。これで終わりだ。里で、俺は人生を終えていくんだ。
華やかな人生を期待したことがないとは言わない。英雄を夢見てないとは言えない。
けれど、手の届かない、先の見えないのは嫌だ。一度、全てを失ったのだからもう嫌だ。

俺の背中はどう見えているんだろう。きっと小さく、頼りなく見えているのではないか。
それでもこの背中には、色々な人の期待と不安を代わりに背負っているのだ。軽くはない。
あなたが背負う、世界ほど重いものではないけれど。それは代わってあげられないけれど。
せめて遠くからでも無事を祈っていよう。俺が死んだ後も、世界が無事であるように。

そう、100年後の未来へと想いを馳せた時である。
ブラッドさんが続けた言葉は、俺が思いもかけていなかったものだった。





「……ま、俺たちは馬鹿だから、次もあるかもな。
 今度は飢え死にするかもしれないけど、気にしないでくれ」





――――最低だ、この人。最悪だこの人。理解の後に、一瞬で脳が沸騰する。
本気で言ってるのかと振り返り、掴みかかり、怒鳴り散らしたい。けれど理性が抑えた。
間違いなくそんなのは、この人の望んだ展開だ。俺を煽りたいだけなのだと判ってる。
今ここで振り向いた瞬間に、俺の入団は確定してしまう。話には流れというものがある。

振り返ったら、何もかもが水の泡だ。背負ってるものの重さを自覚しているはずだ。
先ほどのランツの言葉を聞いて、自分の立場を、必要とされていることを認識したはずだ。
頭の中には、俺が積み重ねてきたものが浮かぶ。これからやりたかったことが並んでいく。
そのどれもが、みんなのために、必死に頑張ってきたものだ。投げ出したくないはずだ!





――――――――それなのに!





「……………………判りました。
 団員で出来るようになるまで、ですけど」
「そうか」

振り返り、全力で押さえつけたせいで、逆に出しにくくなってしまった声を搾り出し。
俺は今度こそ、睨むことを、悪感情を持っていることを隠す余裕もなく、ブラッドさんを見た。
その顔は穏やかだ。煮えたぎるような俺の感情を知っているだろうに、嬉しそうである。
ああ、予定調和なんだなとその顔を見て思った。それもまた、怒りで呼吸が難しくさせる。

「――りゅ、リュートさん?!」
「ランツは黙って聞いてて。
 ブラッドさん、条件があります」
「……聞こう」

先ほどまで俺の後ろに、そして今は俺の斜め前にいるランツが、俺の豹変に慌てる。
そりゃそうだ。折角助け出したのに、今度は自分から飛び込もうとしているのだ。
申し訳ないな、と思う。けれど、今の俺は俺自身にだって止められそうにない。
ここまで来てしまったら、後は大事故を起こさないようにハンドルを切るしかないのだ。

「まず、本部の部屋を幾つか貸してください。
 キーラの里との連絡拠点としてここを使わせて貰いますから」
「ああ、勝手に使うといい」
「それと当然ですけど、俺の指示は聞いてください。
 聞いて、考えて、自分で出来るように覚えてください」
「団員に伝えておこう」

やらかした時ほど焦ってはいけない。二次災害を減らして、不幸中の幸いを目指す。
ここに住むならそれを利用すればいい。俺の里での仕事は、スクーレ関係が多いのだ。
スクーレで移住する若者を支援するのは、ここでだってできる。寧ろ効率がいいぐらい。
住まわせて、仕事と勉強を教えて、その上で独立させればいいのだ。手間が省ける。

一番の仕事、買い出しの補助だって簡単だ。ここにいる俺が商会代わりになればいい。
ここを倉庫替わりに出来るのだから、下手をすれば今までよりも高額で取引できる。
他の商店さんと軋轢を起こさないようにしなければならないが、そこまで面倒でもない。
商店さんというほど規模は大きくならないだろうし、騎士団を後ろ盾にすればいい。

ああ、里の人間関係も気にしなくても良くなるだろう。俺がいなければ若者は纏まらない。
それにスクーレに来たがる子はさっさと呼んでしまえば、こっちで躾けるだけである。
いきなり人数が減れば残った子は財産として大切に扱われるだろうし、関係は良くなるはずだ。
全員を纏めてこっちにこさせるような暴挙さえしなければ、コントロールできるだろう。

「リュートさん……」
「見捨ててないから。
 君もここに住んで、独立まで俺が面倒見る」

そうだ。丁度いいところに素晴らしい手駒がある。当分はこの子にも頑張ってもらおう。
どうせ騎士団はずっとスクーレにいるわけでもないし、定期的に里に戻ることだってできる。
遣りかけてたことで、ここから出来ることと出来ないことを区別しなければ。
全部を一度に捨てる必要なんてないのだ。ただ、俺の努力だけでなんとかなるものもある。

怒っているから逆に頭の回転が異常に早い。所謂、知恵熱というやつと似たようなものだ。
当然、今考えたことは全てが正しいとは欠片も思ってない。熟慮の上で、決定する。
それでも、感情と思考を向ける先があるのは有難かった。悔しさを堪える必要がないから。
――ああしかし。流石に少し熱で疲れて、思考が鈍ってきた気がする。頭が痛くなってきた。

「俺が面倒見るのは、生活と資金運用だけです。
 ここに住まわせて頂きますけど、討伐にはついていきませんので」
「ああ」
「後で、全部確認させてもらいますが。
 …………それよりも、先に言っておくことがあります」

痛む頭を手で押さえながら、伝えなければならないことを必死に探していく。
くそ、怒りのブーストが切れてきたみたいだ。脳内麻薬が切れて、ズキズキと痛み始める。
こうなれば、計画を立てるのは後回しだ。今言うべきことを先に言っておかなければ。
そう思った俺は、痛む頭とはち切れそうな血管を気にしながら、ブラッドさんを見た。

白い肌、赤い瞳。俺よりも高い背に広い肩幅。自然な筋肉に残る傷の跡。
瞳の奥の寂しさは未だ変わらない。それでも表情そのものは、悪びれもせず嬉しそうだ。
悔しい、と思った。結局はこの人の望むままになって、俺は何も変えられなかった。
何時かは居なくなる。俺はこの人よりも早く死ぬ。それが判っていても、なお悔しかった。
その悔しさを、収まっていない怒りが新鮮な内に伝えなければ。力一杯睨みつける。

「……不愉快でした。
 次はないので、覚えておいてください」
「ああ」

元より、俺があの言葉で怒ることを理解していたのだろう。ブラッドさんは素直に頷いた。
俺の印象では、普段はあんなことを言う人ではない。ただ、本当に俺を煽りたかっただけだ。
あんなに下種なことを言っても、それでも俺を必要としたのだと思えば、案外気分も悪くない。
勿論、今までの怒りを帳消しにするには全くと言っていいほど足りないのだけれど。

――次、か。一体どれくらいの時間をこの人と過ごすのだろう。短いのか、長いのか。
騎士団がこの街にいる時間は、きっとそう長くない。後数年で、王都に拠点を移すだろう。
その数年の内、討伐に出ていない間を共に過ごすだけ。想像よりも短く感じそうだ。
この人にとっては尚更、騎士団の歴史にも、僅か一瞬に過ぎないような関わりなんだと思う。

自分の存在のちっぽけさに、今更思うところなんてない。万能感なんて中学生の時に捨てた。
居場所があれば、誰かに必要とされていればそれで十分だ。何を不満に思うことがある。
そう思っていたはずなのに、急に時間が凄く怖いものに思えてきた。小さく心が震えた。

ちっぽけ過ぎて、すぐに消えてしまいそうだ。風に吹かれて何処かに飛んで行きそうだ。
せめて何かを残したい。このままこの世界で忘れられてしまうのは耐えられそうになかった。
ああ、これが功名心なのかも知れないな。人間が時間に立ち向かう、数少ない手段なんだろう。
俺は目の前の人に何かを残せるだろうか。そう思った時、伝えたいことが、もう一つ出来た。
目を閉じて、今までの3年間を思い出して、それから、俺はゆっくりと口を開いた。

「それと、これは覚えなくてもいいです。いいですが……
 ――俺はリュウタ・コウズケ、22歳。リュートと呼んでください」

上野竜太。それが俺の名前だ。名前だった。呼び難いらしくもう呼ばれないけれど。
この世界に来て、最初に喪ったもの。何故か俺は、目の前の人に知っておいて欲しかった。
覚えなくていいと言ったのは、もしかしたら強がりかもしれない。そうでないかもしれない。
ただ伝えたことで、俺は割と満足していたから、それでもう十分だと思った。
りゅ、りゅー?と目を丸くして、俺の名前を繰り返そうとするブラッドさんに、俺は笑った。





[37010] 3話 1033年 水上都市スクーレ2
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/03/22 21:56



カリカリ、とペンが紙上を滑る音がするのを、俺は手持ち無沙汰に聞いていた。
部屋に残っているのは後一人。彼が終われば、今日の授業は終了だ。
時々その手が止まるのを、それでも急かすような真似なんてするわけには行かない。
ただ待つ。俺が何かを言わなくても、必死だから口出しの必要なんてなかった。

1033年、水上都市スクーレ。騎士団本部一階、食堂――――兼、教室。
ここは俺の4年間の職場であり、住処だ。風通しは悪いが窓からの日差しで明るい。
奥には竈のある厨房と、地下室のある倉庫がある。俺の城、と言ったらおっさん臭いか。
いつの間にか、二十の半分を通り越してしまった自分の年齢を思いながら、笑う。

食堂の長テーブルに座り、紙に必死に書き込んでいるのは、騎士団の団員ではない。
精霊の祝福を受けた勇者ではあり、歳の頃は、俺よりも少し年上かもしれない戦士だ。
まあ、この期に及んで年齢なんて余り関係はない。教える側と、教えられる側だ。
必要以上に横柄になるつもりもないし、相手も礼儀正しいので、仕事はしやすい。

ものを教えることを仕事にしてから今年で7年。この世界にいるのと同じ期間だ。
それは、ここに住み始めてからも変わらない。ただ、明確に代金を取るようになった。
物々交換の代わりとして働いていたキーラの里とは違って、ここでは対価労働である。
半ば世捨て人の感覚だったのに、今となってはまた俗世に戻ってきたような気分だ。

「――先生さん、一枚終わったぞ」

ん、と紙を片手で受け取る。ぺらぺらと質は悪く、指を切らないように気をつける。
まあ、質が悪くても紙は紙だ。羊皮紙ではなく、植物の繊維で出来た所謂“紙”だ。
使っているペンも、つけペンの類ではない。芯を先に付けるタイプの鉛筆である。
消しゴムがないという問題はあるが、筆記具に関して、この世界で不自由を感じたことはない。

これらを俺が発明したから、などということはない。元々この世界に存在していた。
元の世界とは違って、この世界には“本当に魔術の使える”魔術師たちが生きている。
研究者であり技術者である彼らの恩恵は、こういう細かい所にもちゃんとあるのだ。
先人たちに感謝である。羊皮紙を使えと言われたら、値段的にも手間的にも死んでいた。

それはともかく。安物の紙にささっと目を通して出来を確認する。うん、まず字が汚い。
でも、酷い人はもっと酷いか。読める分だけ合格点として、ひとまず置いておく。
紙の内容は商会の注文票。もちろん本物ではなく、あくまで勉強の為に俺が作ったものだ。
別紙に相場表と問題条件があり、そこから計算し、注文票と帳簿を付ける作業である。

なぜ戦士にそんなものを、と聞いてくるのは、俺のことを知らず私塾と思って来た人だ。
元より、この場所は勇者や職業冒険者の為の場所でなく、商人の卵に向けてのものである。
それをそのまま彼らに対しても適応してしまっているのは、結局学びたいのは商売だからだ。
この都市で読み書き計算を覚えることは、商売と関わるのと大して意味が変わらないのだ。





4年前に騎士団に仮入団したが、俺は魔物の討伐についていくわけではなかった。
俺がブラッド団長と契約したのは、数年で本部と資金の管理を団員に教えることである。
その活動のメインになるのは騎士団がここに滞在するときであり、他は暇となる。
本部の維持をしながら、俺は俺と里からついてきた者の生活費を稼ぐ必要があった。

本当をいうのなら、里との行き来で商売で生活することもでき、その積もりであった。
ランツたちにちょろちょろと教えながら、交易の上がりを得るだけの簡単なお仕事。
その予定が狂ったのは、スクーレに住むと以前の教え子に伝えに行った時のことである。

既に独り立ちしている青年たちは、俺がスクーレに移住することを伝えると、狂喜した。
何事かと若干引きながら聞いてみると、実際に働き始めてまだ足りないことを理解したという。
ああ、そういうものだよなぁ。幾ら勉強しても完成しないものだよなぁ、なんて。
そういう気持ちは理解できないわけでもないと、割と好意的に引き受けたのが間違いだった。

里長への説明とか、色々な引越しまでのなんやかんやを終わり、漸く授業を始めた時だ。
仕事がない時間ならいつでも来ていいよ、と言った彼らは、他の厄介事を連れてきていた。
簡単に言えば受講希望者だ。おバカさんたちは先生を、俺のことを友達に自慢していた。
ずらずらと並んで来る商人見習いたちに、俺は顔が引き攣るのを一切隠せそうになかった。

そのあと、追い出すために「金を取るぞ」といったのも限りなく間違った選択肢だった。
つまり、俺は金さえ払えば教えると明言したのである。久しぶりに完璧な自爆をした。
完全に予定が狂って、そしてそれを止めることが出来そうな人間は、その時はいなかった。
騎士団は既に討伐に出ており、俺は言ったことの責任を取らざるを得なくなったのだ。

とはいえ、あくまで紹介があっての生徒であり、その段階では生徒数もそれほど多くなかった。
何よりも彼らには生業があり、毎日来るのではなく時間が空いた時に質問に来るだけだ。
ランツたちに教え込むのとは違って、既に働いている青年たちであるから手間もそうかからない。
本部の維持も里との交易拠点の仕事も、肉体労働を任せられる子達がいるのだから、楽だ。

そうして余ってしまった時間の使い道を、俺は酒場のマスターに解決策を求めに行った。
混んでいる時のウェイター替わりでもいいし、それとも代書屋でもさせてもらえないか、と。
何かをしていないと暇になってしまう。暇になってしまうと、余計なことを考えてしまう。
そうして細々とした仕事を色々と引き受けている内に、ギルドマスターに一つ仕事を頼まれた。

それが今目の前にいるような、職業冒険者への教育である。教えるのも軽い読み書き算術だ。
勇者たちにも様々な職がある。魔術師や神官なら当然その全てが出来るし、教育の必要はない。
けれど、戦士や剣闘士のような前衛職ではただ、剣働きしか出来ない者も珍しくはなかった。
そういった者たちに、簡単にでいいから手習いをしてやってくれないか、と頼まれたのである。

後から考えれば、俺はそれを頼むのに非常に丁度良い立場だったのだ、と気付ける。
一応とはいえ所属が騎士団で、利害関係とはほぼ無縁。教える能力にも目立った支障はない。
所謂私塾の先生や、フリーの魔術師などに比べると暇で、性格も排他的でなく割と温厚。
冒険者相手に怯えず、不定期な仕事の彼らであっても拠点があるから引き受けてあげられる。

ああ、俺はマジで都合がいいんだなーと気付いたとき、これは利用しなきゃなと思った。
……などと思った瞬間はもう既に利用し終わっている時である。無意識化であったが。
よく考えなくても、気がつけば主要な商会や店舗に俺の教え子が入り込み、働いている。
職業冒険者たちも裏と表両方のギルドで依頼を受けており、俺と完全に無縁の組織はない。
限りなく素で、俺の安全は俺自身が人徳のみで保持していた。自画自賛だが天然怖い。





「おっし、出来た」
「お疲れ様です」

そんなこんなで、いつの間にか蜘蛛の糸のようにスクーレに蔓延った俺。寄生虫である。
しかし、そんな力を使って何かを出来る程の才覚は俺にはないし、自爆するのが見えている。
結局は自分の命を守りきるのが精一杯で、やっぱりみんなの先生が分相応なのだと思った。
そういうわけで、俺は俺の仕事を果たすのみである。受け取った紙を一瞥する。

「どう、だ?」
「……読めて、伝わりもしますね。
 後は時間だけなんとかしてくれれば」

癖が強く乱雑な字も基本の形は狂っていないから、読むにあたって大きな障害にはならない。
内容も、大体は想定の範囲内に収まって、それこそ一瞬見ただけでも合格点だと判る。
ただしそれはあくまで、このテストの評価を紙面上だけで決めるという条件の元である。
テストを6人が同時に受け、彼がこれを解くのに他の全員が帰るまで以上の時間が掛かっている。
別に時間制限はないが、速く解けることに越したことはない。それは仕方がないことだ。

それは彼自身でも判っていたのだろう。小さく頭を掻くその表情は悔しそうだ。
とはいえ、精度自体は悪くない。別に商人として働くのではなく、冒険者としてなら。
受けられる仕事の幅を広げるため、詐欺られないためとしてなら十分だろう。
そう慰めると、少しだけ表情を緩める。男臭い笑い方は、俺には出来そうにないものだった。

「先生さんも付き合わせて悪いな」
「お金を取ってるわけですから」

この授業は時間単位でお金を取っているのではなく、内容の範囲でお金をとっている。
なればこそ、付き合うのは当然である。謝られる筋合いなんて、契約の範囲では、ない。
まあこの世界……時代、というか地域というか、まあスクーレでは、珍しい発想らしいが。
ここは色んな意味で緩くて、また別の意味では凄く厳しい。良くも悪くも感覚的なのだ。
俺は本来の意味で“商売”で教師をしている。だからこそ、どんな生徒でも受け入れる。

こんなことを言えるのも、俺が試しに他の私塾に敵状視察に行ったからであった。
いやあ厳しいわ。何アレ。先生と生徒は決して対等ではなくて、先生に教えを請う形である。
それで成り立つぐらいに学術は特殊技能であり、それを教える技術も価値があるらしい。
そんなわけで大抵の生徒は、うちの事務的さに慣れてもそれなりに礼儀正しいのである。
思うところはあるが、楽は楽だ。目の前の彼も、俺の機嫌を損ねないようにと気遣ってくる。

「――今日は早く終わらせる予定だったんだろ?
 確か、騎士団が帰ってくるって」
「もうそろそろ、といったところですけどね。
 予定だから気にしなくてもいいんですよ」

確かに、言われたことは間違いではない。だがそれで謝られるほど緊急性は高くない。
ブラッド団長から、あと一体討伐したらスクーレに帰る、と手紙が来たのは二週間前。
距離や討伐の時間を考えたら、あと数日ぐらいかかるかな、といったところである。
それこそ、授業がたかが1時間ずれ込んだところで、大した違いが出るほどではない。

騎士団が帰ってくるとなれば、長旅に出ていた14人を受け入れる準備が必要になる。
普段、この本部では俺を含めても4人で生活をしているから、色んなものが足りてない。
食べ物は買ってくればいいだけだし、掃除は欠かしてはないが、それとはまた別である。
何せ、長旅だ。その間にどれだけ装備や服が酷いことになっているかは、想像したくない。

始めて遠征を迎え入れた時に、俺は余りの酷さに目眩がした。全体的に酷かった。
よくみんなあんなので平気だなと思ったが、逆に潔癖だと俺が笑われる始末である。
汚れの塊を受け入れるのに、何よりも俺の覚悟が必要だった。さもなくば泣く。
なので、帰ると決めた時には、早い段階で手紙を出すようにとブラッドに言ったのだ。
それ以降、少なくとも俺の心構えが出来るぐらいの余裕は生まれるようになった。

「先生さんは、どうなんだ?
 久しぶりに団長さんが帰ってくるのは、嬉しくないのか」

……なんともまあ、答えに困ることを聞くものである。思わずどう答えようかと悩む。
直前に考えていたことが、第一回目の遠征終了時の、覚悟不足だったので失敗した時だ。
嬉しくないか、という時点で微妙なのに、今の俺にはその面倒くささが頭にあった。

「……正直、ブラッドがいない方が静かでいいですし。
 部屋も汚れないし、食事の量も少なくて済むので」
「先生さん……」

あんまりに素で答えたからか、期待が裏切られたような薄くがっかりした声である。
や、照れ隠しとか、そういうものだよ。俺の内心からするとね。本心だけれどさ。
残念ながらというべきかありがたがるべきなのか、今まで“無事”以外で帰ってきていない。
なので、帰ってくることへのありがたさは、理屈で判っていても実感したことはなかった。
流石にちょっとバツが悪い気分になって、もう少し自分でフォローしておくことにした。

「騎士団の話は、ここでも聞けますからね。
 特に感慨は湧かないんですよ」
「そういうもんか」
「精々、無事に帰って来て欲しい、ぐらいでしょうか。
 お説教も、元気な人にしかできませんから」

また無駄遣いをしてるんだろうな、とか。また余計なことをしてるんだろうな、とか。
これは、想像するだけでなく既に確定事項であり、勿論俺はそれを怒るわけなのであるが。
そういうのって、やっぱりみんなが元気であるから出来ることなんだろうなと俺は思う。
もしも、道中に救いきれなかった村があったりして、みんなが落ち込んでいたなら出来ないし。

軽く笑う俺の言葉に、キョトンとした様子の彼は「お説教、お説教か」と笑い出した。
はて。何かおかしいことをいったかなーと考えてみるが、特に思い浮かばない。
なんなのかな、と思って彼を見ても、長居して悪かったなと立ち上がり帰る素振りを見せた。
まあいいか。引き止めてまで聞く気もなかったし、入口まで送って今日の授業を終わらせた。





人が居なくなって静かになった食堂で、軽い片付けをしながら今後の予定を考える。
毎日の掃除はもうしてあるから、騎士団が帰ってくるとはいえこれ以上は必要ない。
食料の買いだめも、朝からランツに押し付け……任せたから俺は口出ししなくていいし。
あーお風呂の準備とか。絶対臭いし。お湯だけ張っておいてもいいかもしれないな。

いやいやそれより先に装備の片付けだろう。お風呂入るということは脱ぐということだ。
土と埃と汗と、後は血とかで汚れているかもしれないものが家の中に入ってくるのだ。
がちゃがちゃ動かせば、その分その場が汚れる。おっし通路の準備だけしてこよう。

入口から一階の食堂とお風呂まで、土や埃が付いたら困るものを別の場所におく。
んで、ああ装備を置く場所に古いカーテンでも敷いておけばいいか。被害は少なく!
お風呂を沸かそうかと思って、やめた。自分でやるのが面倒臭いことに気がついた。
二階から、掃除をしていたキーラの里からの弟子を呼んで、やってもらうことにした。
俺は力仕事とは無縁でいたい。自分の非力さを直視したくないのである。

そんなこんなで、厨房で久しぶりに使う大鍋の手入れをしていると扉の音が聞こえる。
ランツが帰ってきたのかなと思って耳を澄ませるが、近づいてくる足音が聞こえない。
ただいまもないのか、と不審に思って通路に出ると、入口から予想外の女性の声がする。

「――ちょっと。
 ブラッドはいないの?」
「……ヴィヴィさん、ですか」

足早に向かった入口には、堂々と仁王立ちした女性がいた。見知った顔である。
スラリと伸びた肢体、元の造形に足して、決して安くない金額をかけただろうその美貌。
大魔女の高帽子をその頭に、露出度の異様に高い服を着たスタイリッシュ大魔女だ。
俺の姿を見たその人は、不機嫌そうな顔を緩め、あっけらかんと笑い掛けてきた。

「リュートじゃない。
 そろそろブラッド帰ってきてない?」
「……まだですよ。
 あと数日かかると思いますけど」

この不老の大魔女がブラッドに会いに来るのは初めてではない。結構普通にここに来る。
始めてあった時には、その世界から浮き立ったような存在感に驚いたがもう慣れた。
なんでか名前を覚えられている辺りがちょっと不気味だが、悪い人でないことは知っている。
というか、この本部の名義がこの人である時点で、既にブラッドに優しすぎると思う。

それにしても耳が早いというか、早すぎるというか。流石にちょっと間違えすぎではないか。
この人が騎士団の動向を知っていることに関して、今更不思議に思ったりはしないけれど。
奈落、裏ギルドの重鎮以上の存在であり、俺よりも色々と詳しいのは間違いないのだし。
それなのに、ブラッドが帰ってくるよりも先に本部に来るとはヴィヴィさんらしくない。
そう思った俺がまだだと告げると、細くて長い指先を尖らせた唇に付けて、首をかしげた。

「あら、そう。
 急いでたらしいし、てっきり着いてると思ったんだけど」
「それは、判りませんが。
 取り敢えずまだ帰ってきてないですよ」

急いでた、というのは手紙からは判らないけれど、帰ってきてないのは事実である。
らしい、という辺り伝聞なのだろう。恐らくは裏ギルドのどなたかにでも聞いたのだろうか。
そこまでして騎士団の動向を逐一調べる気にもならない俺は、尊敬するばかりである。
そんなに、同じ長い時間を生きるブラッドが気になるのか。少しだけ、引っ掛かりを覚えた。

「……いやあ、大した情報通ですよね。
 ヴィヴィちゃん最高ですよね」
「まあね」

軽く絡んでみたけれど、当然あっさりと躱される。いや受け止められても困るけれど。
最初こそ、奈落の合言葉を振ると小さく視線を向けてきたものだが、もうスルーだ。
別に否定はしていないってことは情報元はそっちなのだろうけど、特に確認した意味はない。
気を取り直して、もしも彼女の言う通りに早く帰ってくるなら準備を急いだ方がいいだろう。
ヴィヴィさんに目を向けると、既に俺に興味をなくしたらしく、つまらなそうな顔をしている。

「……待っていかれます?
 お持て成しは出来ませんけど」
「んー……やめとくよ。
 あたし、待つのは好きじゃないんだ」

一応、というわけでもないが。すぐ帰ってくるならば、待ってもらってもいいか。
そう思って聞いてみたが、ヴィヴィさんはその肩を小さく竦めるだけである。
あー……なんか、この人らしいなと思っている間に「また来るわ」と俺に背を向ける。
黒色のマントを翻して、永遠を生きる大魔女はなんとも鮮やかにその姿を消してしまった。





[37010] 3-2
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/03/23 21:35



永遠の命そのものに憧れたことは、あんまりない。だって絶対に途中で飽きてしまう。
何せ、いつまで経っても終わりが来ないのだから、いつ飽きてもそれは“途中”なのだ。
それだけの時間を貰ったところで、他の全ては永遠ではないし、なくなってしまう。
手に入れて、失って。手に入れて、喪って。何回繰り返したら意味がないと感じるだろう。

それでも、少しだけ羨ましいと感じるのは、きっとそれが“寂しい”と知っているからだ。
既に“そうである”人がいて、その人が寂しいと感じていることを知っているからだ。
なくならないものがあるのなら、もしかしたらその長い時間に意味をあげられるかもしれない。
俺に永遠があれば、きっとあの人の寂しさを和らげてあげることが出来るかも、なんて。

「――はぁ」

まあ、あくまで、こんなことは永遠の命が自分にないから言えることである。
ブラッドを可哀想だと思うのは、取り敢えず本心からのことだと思うが、それだけだ。
実際に自分が今より長い人生を送ることが出来たとして、ブラッドの傍にいるか。
その時がこないと判らないことだし、そしてそのときが俺に来ることはきっと有り得ない。

永遠ではないから、俺は自分の人生を大切にしたい。自分で生き方を決めたいと思う。
今ここに居ることが、流されての結果ではないとは言わないが、少なくとも納得の上である。
この世界ではそう思えることが既に恵まれていることであると知っているから、尚更だ。
自分は“ここで生きている”。自分はここで“自分が望んだ有り様で生きている”。
そう思っていなければ、例え7年経った今ですら、自分の居場所が判らなくなりそうだった。

未だに思ってしまうのだ。これは夢なのではないか、と。目を覚めれば、と。
勿論、目覚めた時に知らない天井がそこにあることなんて、この人生に一度もなかった。
これが夢ならどれだけ良かっただろう。大学生活の続きを送れるのなら、どれだけ。

……けれど、それと同じぐらい思うのだ。もし目を覚ました時に“今更”現実に戻ったら。
もしも現実も同じように7年間経っていたのなら。俺は7年を失っていたのなら。
それはもの凄い恐怖である。7年前に19年間を失ったように、今度は7年間を失うのだ。
その時、俺に何が残っているだろう。現実での7年と、ここでの7年を失ったその時に。
今。俺が一体どこにいるのか、どこに居たいと思っているのか――――俺には判らない。

「――リュートさん。
 お風呂沸きましたよ」
「……あ、うん。ありがとう」

ぼんやりしすぎていたらしい。いつの間にか、それなりの時間が経っていたようだ。
声を掛けてくれた13歳の少年の頭をぽんぽんと撫で、その間に思考を現実に戻す。
次に何かを頼もうとして、考えて。何だか疲れてしまったので、休憩することにした。
ポケットの中に突っ込んだ小銭を渡して、適当に甘いものを買ってくるようにお願いする。
目を輝かせ走っていくその背中に、自分がお駄賃としては渡しすぎたことに気付いた。

はぁ、と。何やってんだろう、と改めて顔を上げる。天井が見えるだけである。
……さっきみたいなことを考えてしまうのは、俺に色々な余裕が出来てしまったからだ。
生きていくことには不自由していない。やることにも、話し相手にも、恵まれている。
俺を必要として、慕ってくれる人たちがいて。なんともまあ幸せな人生である。
別に追い詰められたいとは思わないけれど、さ。もう少し生徒を増やそうかと思った。

まあ、いいや。それは後から考えるとして、今は食堂でお茶でも入れておこう。
その内ランツも帰ってくるだろうし、焼き菓子でも食べれば少しは気も紛れるさ。
そう思って、ようやくぶりに扉を背にした時に、遠くから足音が聞こえたような気がした。

外から聞こえたそれに立ち止まったのは、この建物がある区域では珍しいからだ。
古い町並みで住む人は少なくはないが、余り騒がしい音を立てるような類の住人ではない。
それなのに、この決して薄くないドアを通り越して聞こえてくるのは、団体の足音だ。
……どうも近づいてくるような気配がして、俺は戦慄する。これは具足が立てる音だ。

――やばい。これは本当に不味い。なぜ俺はこのタイミングで人手を外に出した。
ヴィヴィさんが来たのだから、本当に騎士団が近くにいることは判っていたはずなのに!
ランツでもいいから早く帰ってこい。というか食べ物の準備すら出来ていないのだが!
いっそこれは逃げるか。なんで!と自分に取り敢えず突っ込んでから、俺は深呼吸した。

うん、せめてエプロンだけはしてこよう。どれだけ汚れてるか判らないし。
作業用の手袋もしておかなければ、鎧で手を怪我するかもしれないし取ってこなければ。
確か食堂に置いたままだ、と俺は振り向きもせずに小走りに奥へ向かう。
まるで逃げているようだ。そう思いながらも椅子にあるそれらを掴んだとき、音がした。
バタン。ガチャガチャ。ガヤガヤ。急激に騒がしくなった建物で、かき消すように声が響く。

「おおい、リュー!
 帰ったぞ!」

ブラッドの声、だ。声で判らなくても、俺をリューと呼ぶ人はブラッド一人だけである。
リュータ、と呼ぼうと何度も練習した挙句にリュートとすら呼べなくなった。
どうも舌が回らないらしい。レオは爺さんだから仕方がないと言っていた。まあ歳だよね。
そんなことはどうでもいいのだ。兎に角、エプロンと手袋をささっと付けて走り出す。

通路の先の入口には、多くの人が詰めかけている。バタバタと靴を脱いでいるようだ。
俺に気付いたブラッドが、俺を手招きする。そんなことされなくてもそちらにいく!
近づけば近づくほどに、人の匂いが強くなる。足を止めかけたが、そのまま走った。
具足を脱ぎ、そして鎧を外したアレフが二階にあがろうとするのを見て、俺は叫んだ。

「――そのまま二階には上がらないでくださいよ!
 俺、今度は絶対に掃除しませんからね!」

幸い、アレフは階段の手前で立ち止まってくれた。しかし代わりに俺が注目を浴びる。
ざっと全員を見渡して、誰も大きな怪我をしていないことに小さく心を安堵する。
ただ、その汚れも半端ではない。空気が土埃で煙ったように、まるで色づいたように感じた。
喉の調子が悪くなりそうだと思ったが、こんなところで噎せたら嫌味ったらしいことこの上ない。
少なくとも、それは命をかけて人を助けてきた騎士団にする態度ではない、と俺は思った。

「食堂に行って、装備は布の上に置いてください。
 順番にお風呂に入ってもらうので、そのつもりで!」

そう言って、俺は奥の食堂を腕で指す。二階に上がられたら溜まったものではない。
目を合わせた団員たちが、ぞろぞろと装備をつけたままに通路を歩いていく。
通り過ぎざまの臭いに一瞬噎せそうになって、鼻呼吸を止めることでなんとか凌いだ。
……あああ、気付いたら床がなんかザラザラしている。信じられない許されない。





「リュー」
「……ブラッド?
 どうかしたんですか」

後の片付けを想像して嘆いていると、俺はまだ残っていたブラッドに声を掛けられた。
いや、そこにいたのはブラッドだけではない。レオと、買い物を頼んでいたランツたち3人だ。
先ほどお菓子を頼んでいた子も戻ってきている辺り、ブラッドに捕まったのだろう。
何かあったのかと思った俺はブラッドの顔をみたが、安心したように緩んだ顔を向けてきた。

「いや、居てくれてよかったなってさ」
「……居なくなりはしませんよ。
 まだ、契約は続いているみたいですからね」

俺は、ため息をつきながらその視線に答える。言いたいことは判らんでもない。
正直、俺がここにいるという保証が俺の良心以外にないのは、お互いに承知の話だ。
俺がキーラの里に戻ればそれで終わる関係である。ただ、惰性で続いているだけだった。
最初に卑怯な真似をしたのはブラッドさんだから、俺だって投げ出してしまえばいいのである。

それでも何故か続いているのは、今更どちらでも変わらないな、と思ってしまったからだ。
結局はどこにいたって、人にものを教えて生きていくことに変わりはないだろう。
年長者、というか。元々の社会構造に関わっていた人たちから睨まれるのにも変わらない。
そしてその人たちが手出しを出来ないように、自分の立ち位置を作っていくのもそのままだ。
だとしたら。人間関係が広く、恨みが積もりにくいスクーレの方がマシかもしれない。

まあ、今後がどうなるかは誰にも判らない話である。行く場所が他にあるというだけだ。
“団員に資金運用を教える”という契約自体も、まだ完全に終わったというわけでもない。
そもそも彼らがスクーレにいる時間自体がそう長くないのだから、どうしようもなかった。
いつでも投げ出していいのなら、今投げ出さなくてもいい。だから、まだ契約は続いていた。

「――それで。
 他にないのなら、食堂に行って欲しいんですけど」
「いやいや。
 折角帰ってきたんだからさ、何かあるだろ?」

開幕から若干うんざりさせてくれる団長は、何だか期待に満ちた視線で俺を見る。
何かって。面倒臭いことを言い出したな、と内心思いながら、俺はそれが何かを考える。
どうせ聞いても答えない、というか。聞いて答えることなら最初から言う人ではあるし。
……ああ、そういうことか。帰ってくるのが急で、言っていないことがあると気がついた。
ため息をつきかけて思い止まる。俺は瞳を閉じて笑顔を作ってから、またブラッドを見た。

「――お帰りなさい、ブラッド団長。
 みんな無事に帰ってきてくれて、何よりです」
「ああ、ただいま」

――――確かに、頑張ってきた人を迎える態度ではなかったと、内心反省する。
命を掛けて誰かを助けても、助けられる被害者にとってはそれを感謝する余裕はない。
じゃあ、誰がその労苦を労うのだという話。ここにいる限りは、俺の役目なのだろう。
迎えるときぐらいは、笑顔でないと。この為に戦ったのだと思ってもらうために。
ブラッドは満足したのか、レオの鬱陶しそうな視線をものともせず、上機嫌に見えた。

「いやあ、いいなあこういうの」
「……君は帰ってくる度に言いますね、それ。
 飽きないんですか?」
「全く飽きないな」

そうですか、と俺は軽くスルーして、後ろで立っているだけのランツたちに視線をやる。
重そうな荷物は、恐らく頼んでいた食材なのだろう。布袋がぼこぼこしている。
ランツは俺の視線に気がついたのか、小さく首を傾げてきた。指示待ちをしていたらしい。
……話に割り込まないようにしてたのか。相手がブラッドなら、適当でもいいのに。

「……食べ物は食堂に。
 着替えとタオル、あと任せた」
「了解っす」

そう言って頷くと、他の二人を連れて、ランツは足早に俺の横を通り過ぎていった。
これで恐らく俺が何もしなくても、少なくとも団員が清潔になるまではしてくれるだろう。
何とも頼りになる青年に育ったものである。気がつけば疾うに20歳を超えていた。

正直、本音をいうのなら何時でも独立させられると思うが、それは俺の都合が許さない。
4年間、里の頃を含めると5年近く教えているから、生徒としては一番期間が長い。
その上で交易管理や教えることにも関わらせているから、俺の代理としても働ける。
今手放すには、余りにも優秀すぎた。惜しむらくは口調だけは以前と変わらないことか。

ランツたちの後ろ姿を見送って、そして未だに入口から移動しないブラッドに振り向く。
流石にここまできても奥に行こうとしないとなれば、何かがあったとしか思えない。
面倒臭いことでなければいい、と絶対無理な祈りを抱いて、うんざりしながら目を向けた。

ニヤニヤ……いや、俺の主観が入りすぎた。恐らくニコニコと笑っているブラッド。
それと不機嫌そうに仏頂面をしているレオがいて、それだけでも重めの話だと判る。
幸いなのは、ブラッドが上機嫌であり、団の存亡に関わるものではないということだ。
あえて言うならば、俺とレオに取って、面倒くさい系統の用事であるのだと思う。

「……まだ何かあるんですよね?」
「察しがいいな」

諦めて問いかけた俺に、ブラッドはこれ以上なく爽やかに笑い掛けてきた。
突き抜けた青空みたいな清々しい位に人の事情を考慮しない最高に嫌味な満面の笑みである。
思わず舌打ちを我慢し損ねそうになったのでレオを見ると、それはまた不愉快そうだった。
せめてこんな顔が常態化しないよう、眉間に皺が癖にならないように俺は気を付けよう。

緊急回避に成功したので、改めてブラッドを見る。しかし、その目は俺と合わなかった。
後ろを振り返り、こちらからは横顔しか見えない。視線を追うと開け放したドアがある。
いい加減閉めてください、と言いかけて。枠の端に小さく掛けられた指に気付いた。

誰かがいて、覗き込もうとしているのか。中々体験しない状況に反応に困ってしまった。
そも、俺は日頃より危機感がある人間ではない。危ない区域に一人で行かない程度である。
だからこそ、危ないかどうか、の判断が苦手である。誰か判らないから、動けない。
まるっと動きを止めてしまった俺とは対照に、ブラッドはその手を引っ張り、中に連れ込んだ。

どうやら、子どものようである。全体的に薄汚れていて、騎士団と同じだなと俺は思った。
手を引く様子に乱暴な所はなく、そして引かれる側もそれに抵抗をせずに従って。
ブラッドが連れてきたのかと至った時には、ブラッドはその子の肩に手を置いて俺を見ていた。

「――その子は?」
「拾った」

拾ったって。端的すぎて、何が何だか判らない。取り敢えずその子を検分する。
子どもと判断できたように、見た目からして背は高くない。細身っつーかガリガリだ。
魔女や幻術師には成人でも極端に背が低いものもいるが、この子は正しく幼い、と思う。
顔立ちも薄汚れているから判断はしにくいが、柔らかい子どもの輪郭であるように感じた。

服装は、一言で言うならボロボロだ。破れと汚れが目立ち、修復は厳しいだろう。
それでもよく見れば、その生地自体は悪くない。普通の範囲だが、しっかりしている。
サイズも適切なものであり、本人に合わせて作ったか購入したかのどちらかである。
つまりは、盗品ではないと俺は判断した。スクーレによくいる孤児の類ではない。

ううん。何歳か、と考えたが、正直生活環境や人種で本気で違う世界だから、判りにくい。
10前後、とあたりをつけたが、もしかしたら栄養失調なだけで、もっと上かもしれなかった。
服からも体型からも歳と、性別が判らなかったので、やはり顔をよく見なければ。
そう思って、顔をあげたところ、目があった。子どもは怯えたようにブラッドの後ろに隠れる。

――――いやいや。俺は別に怖くない方の人間である。見た目的にも、性格的にも。
俺を見て怯えるなんて、何かの冗談だ。人間そのものを怖がっているとでもなければ。
一瞬止まったが、何かあった子だと言うのはすぐに予想が着いた。多分、人災にあった。
ブラッドは、この恐らく人災にあった子を“拾う”と表現できる方法で出会ったのだ。
そして、他に方法がないと思って、俺の前に連れてきて、そして引き合わせたのである。

「……俺に預かれ、と」
「話が早くて助かる」

……ということで合っていたらしい。なら、ブラッドは保護者がいないと知ってるわけだ。
孤児かどうかはともかく、身寄りがない。人災にあったらしく、人間不信よりである。
恐らくはストリートキッズでもなくて、彼らのような図太い生き方を知ってはいないだろう。
つまりは、多分ここで俺が保護しないと言ったら、余程運がなければ野垂れ死に確定か。

うーん。事情を聞きたいところだけれど、聞くとしてもこの子がいる場所ではダメかな。
どうやって“拾った”のかにもよるけれど、まあ碌でもないことには多分間違いない。
所謂セカンドなんとやらをするのも気が進まない。そんなのは趣味じゃないからなぁ。

と、ここでレオに視線を向けてみる。イライラとブラッドを見ていて、俺に気付かない。
ってことはやっぱりレオは反対済みなのだろうな。だからこその不機嫌だと思われる。
人一人を拾って、生活の面倒を見る。これはまた、非常に面倒臭いことで大変なことである。
ブラッドがその場のノリで言いだしたのなら、居合わせたら俺だって反対しているだろう。
多分“拾った”その瞬間にも、他の団員が口出しできないような言い合いをしているはずだ。

「――えっと。
 ブラッドは賛成、レオは反対してるんですよね?」
「当たり前だろ!」
「では、俺も賛成です」

それなら、もう既に結論は出ていることである。ここにいる時点で、レオは負けたのだ。
レオは俺が反対してくれることを期待していたのだろうか、物凄い顔で俺を見てくる。
いや、まあ言いたいことは重々理解しているが。どっちにしても育てるのは俺であるし。
俺だって状況が違えば反対していただろうけど、既にその役目はレオがしたのである。

ブラッドが視界の片隅でうんうんと頷いているのが、全く気に障らないと言えば大嘘だが。
別に今回に関しては、俺に押し付けることになっても、俺を嵌めた訳ではないし。
これで俺が断れない状況に持ち込んでから、と言われたら流石に実家に帰らせてもらう。
元々ブラッドに振舞う愛想なんて持ち合わせていないけれど、サービス分も無くなるのだ。

レオは、単純にブラッドの軽挙妄動に怒ったのに加え、俺への心配もあったのだろう。
流石に遠征に連れて行けないし、団員でない俺に押し付けるのは気が咎めたのかもしれない。
んー。レオの思いやりを無駄にすることは判っているが。俺のスタンスは元よりこっちだ。
どうせランツたちも抱えてるんだから、後一人ぐらい増えた所で感覚的には変わらない気がする。
そう思って、そう深く思い悩むこともなく賛成したのが、レオには気に食わなさそうだった。

「おい、犬猫じゃないんだぞ?
 そんな簡単に決めるなよ」

ああうん。超正論である。多分俺も反対する立場ならそう言って止めていたんだろう。
ここで「見捨てる気か!」なんて言って、馬鹿げた喧嘩を出来るほどの元気はない。
っていうか、レオもそんな積もりで言ってるわけでもないだろうしな。考えろってだけだ。
犬猫じゃないんだから、簡単に捨てられないし、ちゃんと面倒を見ろよってことである。
そうだ。面倒臭くなさそうな切り返しを、ふと思い浮かんだので試してみることにした。

「……そうですね。
 犬猫ではないですからね」
「ああ。判ったら」
「自分の食い扶持ぐらい、稼げますよね」

俺の釣りに、レオが引っかかった瞬間に、手の平を全力で表に向ける次第である。
目を見開いてきたレオに、これ以上の議論を断る積もりで、勝利の微笑みを向けてみた。
それを見て一気に眉を限界まで顰めたレオは、鼻息をふくと俺の横を大股に過ぎていった。
ダンダンと似合わないほどの足音を立てて、奥の食堂へと向かっていく背中を見送る。

やりすぎたかなと思わなくもないが、相手はレオだ。いじられ慣れてるから平気である。
その大体の犯人であり、今回のことの大元でもあるブラッドが俺の隣に立っていた。
微かに見上げる程の身長差で見下ろされながら「頼むな」と言われて、流石にため息をつく。
声を作る必要も、表情を作る必要も無くなり、俺の口からは予想外に平坦な音が出た。

「……これっきりですよ。
 あんまり大人数は面倒見きれませんから」
「ああ。
 でも、反対はしないんだな」
「……今回は、レオが反対してくれましたし」

別に俺だって、孤児院みたいなことをしたい訳ではない。人助けは嫌いじゃないが。
こんなことばかりしていては、ストリートキッズが大勢押し寄せるかもしれないのだ。
そんなのは当然受け入れられない。今回は、他に生活できなさそうな子だからである。
あくまで、全てに“今回は”という注釈がつく。そして“今は”という注釈も。

今は俺とレオがいる。騎士団の有力者二人は、ブラッドのイエスマンではない。
寧ろ、お互いにどちらかはブラッドとは逆の立場になるように振舞っている感もある。
打ち合わせをしているわけではないが、そういう役割だ。多分、暗黙の了解である。

いつか、俺もレオも居なくなる。その時にブラッドは今のままで居られるのか。
俺たちのように、平気な顔をして反対を唱えることが出来る人間がその時にいるのか。
その時にならないと判らない。けれど、その時が来たらもう既にどうしようもないのだ。
騎士団を安定させるためには、決して一方的にならない方針決定が必要なのである。

だから。後進の育成が絶対に必要になる。一番の候補は疑うことなくアレフだ。
それとまだ入団はしていないけれど、ユマ・ランカンもそうなる可能性はあるだろう。
レオと俺で常々言ってきたことであり、そして俺たち自身でやってきたことである。
今更口に出さなくても、伝わってるのだろう。ブラッドの静かな瞳は俺を見ていた。
にらめっこになりそうなところを、俺はあっさりと目を逸らし、小さく息をつく。

「……まあ、いいです。
 そこの君、名前は?」
「ブラッドだ」
「あんたじゃない」

こんな場所でこんな話を長々と続ける気は、今の俺にはなかった。後ろを振り向く。
もうそろそろ、不安そうに一人でビクビクとしている子に、手を伸ばすべき頃だろう。
そうして、右手を伸ばして名前を聞いたときに、余計なボケを挟んだ馬鹿をローキック。
今度こそ、これから面倒を見る相手は、小さな声で視線を揺らがせながら音にした。

「……ウィル」
「綺麗な名前ですね。
 大丈夫ですよ、ここは安全ですから」

態とらしく大げさに痛がるブラッドを横目に、俺は新たな同居人を中へと迎え入れる。
伸ばした手が掴まれることはなかったが、それは仕方がない。いずれ慣れてくれればいい。
声を聞いて、漸く少年と判ったウィル君を連れて、戦場になっているだろう食堂に向かう。

この子はランツにも手伝わせよう。俺が基礎を教えた相手ではなく、ゼロからスタートだ。
そうすれば、俺に出来てランツに出来ないことはきっと無くなる。最終試験換わりだ。
ランツが俺と同じことが出来るようになれば、もっと色々手を出す余裕が出るだろう。
キーラの里も、騎士団も。今よりもう少しずつよく出来るかも知れない。楽しみなことだ。
「リュートさん!」と食堂から呼ばれる声に、俺はウィル君を見てから小さく駆け足になった。





騎士団がスクーレを離れ、王都ヴァレイにその拠点を移す1036年まで、後3年。
予言の悲劇は重なり、幾つもの別れがその年に集中している。それを俺は知っている。
そして、俺もその中の一人になる。スクーレから離れ、ついていくことは出来ない。

――あの時、ブラッドが何を言いたいのかは判っていた。判らない訳がなかった。
「騎士団にあんたは必要だ」この4年の間に、何度繰り返された言葉だろう。
その言葉に俺は一体どう答えるというのか。この人生を、本当に騎士団の為に使うのか。
いずれは答えを出さなければならない。何時か、その時は着実に近づいてきていた。





だけど。だけどさ、思うんだ。“何時か”が何時か来るのなら、その時決めてもいいだろ。
どちらでも選べるように、どちらになったとしても、決して不都合が出ないように。
今答えを出して、出さないのときっと変わらない。精々、俺の心持ちだけなんだ。
だから。選択肢を先延ばしにしてもいいんじゃないかなって、そう思うんだ。
――――――――――――――――――――――――――――俺はまだ、選ばない。





[37010] 4話 1036年 水上都市スクーレ3
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/08/07 22:15



人の命は長くない。100年を戦い続けるには、余りにもその寿命は短い。
一年、一年と時間を重ねる度に、少しずつ“若く”なくなっていく身体を感じる。
こぼれ落ちていくように時間が過ぎていき、過去の記憶も抜け落ちていく。
両親の顔は、名前は。友達の顔は。俺は一体どんな人間として生まれ育ってきたか。

怖い。いつか訪れる、何も思い出せなくなる日が怖い。その時俺に何が残るのだろう。
時々“本当に帰れないのか?”と、考える。考えかけて、すぐに怖くなってやめる。
帰りたい。帰りたくない。もし帰る方法が見つかったらと思うと、怖い。
この場所から離れることも、今の“故郷”がどうなっているのかを見ることも、怖い。

……正直。騎士団に関わったことには、帰る方法を探していた部分も少しはあった。
キーラの里で生活をしているより、ずっと可能性があるのでは、なんて。
その時の気持ちを否定するつもりはないが、今まで見つからなくて良かったとも思う。
このままでいいのだ、と思う。“このまま”が続くことなんて、有り得ないと知っていても。
アクラル歴1036年、災いの年。この世界に来て10年、俺は29歳になっていた。





この年、騎士団は重要な転機を迎える。災厄はスクーレを離れ、王都に舞台を移す。
一つの年に連続して二つの預言が現実となり、騎士団はその対応に追われることになる。
スクーレで魔将ナグゾスサールの不完全体を倒し、王都の襲撃を撃退する。
そして、その後の活動の拠点を王都に移し、本格的な闇の時代に立ち向かっていく。

しかし騎士団にとって転機となるのは、拠点を移すことだけではなかった。
騎士団にとって、そしてブラッドにとって、余りにも重すぎる別れがこの年に続く。
……それは、例え画面越しで見ただけの俺にとっても忘れられないほどの悲劇。
疾うに十数年を経っているのに、この年に起こることだけは、忘れられそうになかった。

冒険者、レオ・ガッタカム。1011年に入団、現在40歳にして騎士団の重鎮。
僧侶のウォルラス、アーチャーのフリーの系譜を引き継ぐ、ブラッドの相棒。
つっけんどんな態度に反して、優れた才覚と常識を持ち合わせた一流の冒険者。
多くの勇者が30歳を前に衰退を迎える中、25年という破格の現役時代を誇った。

神官、ミレイ・シミュオール。リーヴェ修道院所属、天賦の才を持つ幼き神官。
修道院に拾われ育てられた孤児。僅か6歳にしてブラッドに勝る守りの力を持つ天才。
騎士団とも縁があり、「大きくなったらブラッドのお嫁さんになる!」と宣言する。
その実力も言葉も、何時か訪れるはずの未来を誰もが当然のように期待していた。

時計塔の守り手、マユラ。誰も覚えていないような昔から、時計塔を守る不老の少女。
人に蔑まれようと、どれだけ疎まれようと、ただ一つの場所を守り続けてきた。
その正体は今はもう残り僅かとなった種族、神竜。彼女はたった一人で生きてきた。
人を愛し、人を信じ。彼らを守り続けるために、“精霊の河”を守護してきた。

この3人が騎士団から離れる。その離れ方はそれぞれとしても、結果として永遠に。
レオは衰退期を迎え、災厄を終えると「ダサい真似は出来ない」と自ら退団を望む。
ミレイは王都へ向かう雪山の強行軍で、ブラッドを魔物の牙から自らの命を持って守った。
マユラは漸く永遠の使命から逃れた所に、騎士団を守るために同族と戦い、命を失った。

細かい経緯など覚えているわけがない。それでも、俺はこの結果を決して忘れてない。
もしもこの世界に来たときから騎士団に協力すると決めていたら、どうだったろうか。
もしかしたら、まだ少しでも記憶が鮮明な内に、それを紙にでも書き出していたか。
……今となっては、無意味な仮定である。俺は、訪れるだろう現実を受け入れるしかない。





そう。嫌が応にもここは現実であり、そこに生きている人間は努力する義務がある。
それは騎士団がスクーレを離れることで、契約を断ち切ろうとしている俺も例外ではない。
関係ないと言って投げ出すのは簡単だ。だけど、それで後悔しないとは俺は絶対に言わない。
そも、誰かが死ぬのが判っていて、それを何もせずに見守るのは、単純に趣味でなかった。

レオはこの7年間、殆どは遠征に出かけているとは言えど、一緒に生活をしてきた。
ミレイのため、ブラッドたちが魔物を倒して得た材料で薬を作ったのは、他の誰でもなく俺。
時計塔の周辺を、軽くではあるが掃除をして回ったのは、俺の教え子や関係者である。
死ぬと判っている人に会うのが怖くて直接の接触はなくても、知合いであることに違いはない。

“知っている”人だ。“知っている”人なのだ。それは、それだけでも助ける理由になる。
本当なら、災厄が訪れるたびに、人が死ぬ可能性なんて幾らでもある。訪れなくても人は死ぬ。
それでも俺はなんとも思わない。精々がお気の毒にくらいで、それもすぐに忘れてしまう。
知らない人が死んだ所でそんなものだ。ここに関して、俺は綺麗事を言うつもりは一切ない。

だけど、知り合いだ。そして、ブラッドや騎士団のみんなが大切に思っている人だ。
ブラッドが、騎士団が俺にとってなんなのか。契約以外に何が培われたのか、判らない。
けれど彼らが悲しむ顔を見るのはあまり好きではない。それどころか、多分嫌いだ。
だから俺は考える。他の誰でもなく、俺自身が後悔しなくても済むように、考える。

最初は、何が起こるのかを思い出そうとした。自分の身を守る為、と言い訳をしながら。
ブラッドの預言書をこっそりと覗き見て、そして書き留める。それだけで俺には十分だった。
時計塔が襲われ、そして浚われたマユラを助けるために、騎士団は西にあるレイラント砦に。
その後、王都に向かうため難関で知られる冬のキーディス山脈に挑み、そして二人死ぬ。

次は、騎士団がなぜそうしたのかを考えた。彼らを送り出す準備をするためだと嘯いて。
預言通りに時計塔が襲われ、レイラント砦に行ったのはマユラを助ける為である。
けれど、キーディス山脈に挑んだのは何故か。明らかにミレイとマユラが死んだ原因である。
これはただシンプルに、時間が無かったという一言で終わってしまうのだろう。
キーディス山脈を超えずに王都を向かうには、長い長い遠回りをしなければ不可能なのだ。

雪山に挑まずに済むにはどうすればいいのか。そんな手間の掛かる準備はしたくない。
その答えはただ一つ、時間である。時間さえあれば、遠回りをしても災厄に間に合うのだ。
西の砦を爆破するための、スクーレとの往復。そして王都までのベリアス湿地帯の移動。
それらを短縮出来るなら、もしかしたら騎士団は雪山を超えなくてもいいかもしれない。

――そして、俺は短縮する手段を思いついてしまった。考えついてしまったのだ。
西の砦はニンジャ、ユマ・ランカンを先に派遣しておくこと。湿地帯は馬車を使うこと。
水上都市スクーレでの7年間。俺は表ギルドにも裏ギルドにも依頼できるコネがある。
潤沢でないと言ったら嘘になる資金もある。考えれば考えるほど、簡単に出来ると思えた。

本当にやるのか、と。どれぐらいの時間をかけて悩んだのか、考えたくもない。
やるべきだ、と俺の感情は言う。同じように、やらない方がいい、とも言う。
無駄になるかもしれない、と俺の理性は訴える。それでも必要なことだ、とも主張する。
選べない。選びきれない。だから俺は出来る限り選択を先延ばしにする努力をしてきた。

馬車二台を手配する準備は出来た。幾つかの中継点ごとに馬を使い潰す手配もした。
短くない時期、ユマ・ランカンにスクーレで待機してもらう手配もしておいた。
……王都での新しい拠点の手配を、すぐにでも住めるようにとギルドを通して依頼した。
どれを取っても、決して安い金額ではない。だけど、払えないような金額でも有り得ない。

“やる”と決めたら、どれもすぐに行動に移せるぐらいまで、話を進めた。
けれど“やらない”と決めても、幾らかの出費をすれば辞められる程度までで止めた。
やると決めた時よりも、ずっと低い金額で辞められる。殆どただのような程度である。
協力してくれた人たちに予定通りの謝礼金を渡すだけで、軽く終わってしまう話なのだ。

だからこそ、辞めるタイミングを逃してしまった。ずるずると、下準備だけ済んでいく。
本当に協力してしまうのか。協力するとしても、それをどうやってブラッドに伝えるのか。
……それと同時に、俺は本当に騎士団との契約を終えて、キーラの里に帰ってしまうのか。
この二つのことを、俺が最後まで決めることが出来ないうちに。――その日は来てしまった。





災厄の日に対抗するべく、騎士団はスクーレの本部で焦れったい日々を過ごしていた。
イライラと焦る感覚が何もできない俺にも伝わり、戦闘の近さがこの身を灼くように感じた。
これは決して比喩ではない。戦闘態勢に入り、いつもは穏やかな団員もピリピリしていた。
使う言葉には微かに荒さが混じり、八つ当たり紛いの行動が散見されるようになったのだ。

いやだな、と思った。何も出来ない自分も、何かが出来るからこそ苛立つみんなも全部。
じりじりとしたプレッシャー。ピンと張り詰めたストレスが、日々の生活を押しつぶした。
気持ち悪い。いつもみたいな、多少頭が足りないほどの明るい日々が続けばいいのにって。
吐きそうなのを下唇を噛んで堪えてから何日目かに、本部に初めて見る顔が飛び込んできた。

白い肌。細い身体。明らかにブラッドの同類だと一目で判るその少女は、震えていた。
この人か、と心の底が押し迫ってしまった現実に冷え切るのを感じながら、俺は見守った。
生気を感じさせない真っ白な肌は、不安や恐怖からなのか元々か、俺には判らなかった。
「助けて」とか細い声でブラッドに縋る姿は、まるで別世界の話のように俺には思えていた。

引ききった弓がその矢を射ちだすみたいに、騎士団はあっという間に駆け出していった。
切り替えることも出来ず、事態にも現場にもついていけない俺はその背中をただ見送るだけで。
ただ一言「気をつけて」とブラッドに伝え、残された微かな微笑みだけを信じるしかなかった。

そうだ、と思ったときには、マユラの姿はどこにもなかった。着いていったのだろうか。
素直に失敗したと思った。ここに引き止めていれば、もしかしたら何かが変わるかも。
靴に履き替える手間も惜しんで外に飛び出したけれど、近くに人の姿は見当たらない。
ただ遠くに、時計塔と、それを中心に渦巻く黒と赤の霧が見えて、邪悪さを主張していた。

追いかけることが出来たら、どれだけ良かっただろう。けれど俺の足はその場で竦んだ。
今追いかけた所で、何ができるだろう。時計塔にマユラが辿り着く前にそれを止めれるのか。
そんなのは、立ち止まって考えている時点で無理な話だ。既に行動に移すには遅すぎる。
足を引っ張ることが目に見えて、迷惑をかけるのが目に見えているのに、動くことは出来ない。
……いや。本当は、ただ怖いだけだ。現実を目にして、受け入れる自信がないだけだった。

俺を追いかけてか、外に出てきたランツに腕を引かれて、俺は呆然と中に入った。
抵抗する必要はなかったし、そもそも自発的に行動できるような気力なんてなかった。
ランツが入れてくれたお茶を一口だけ飲んで、味なんか判らずにそのカップを置く。
知らず、歯を噛み締めていた。力が入りすぎて、ぼんやりとした痛みが口内を覆っていた。

自分の弱さが嫌になる。役割の違いと、素直に割り切れない自分の幼さが嫌になる。
思っていたよりもずっと俺の心は弱かったらしい。強いと信じ込んでいただけの話だ。
協力するか最後まで悩んでいたのに、いざとなれば何も出来ないことを歯がゆく感じる。
死ぬかもしれない人を止められなかった。そのことが、俺の心にぎりぎりとのしかかる。

俺はどこかで、物事が自分の思い通りに行くと思い込んでいたらしい。がっかりする。
なんて傲慢な話だ。いつか捨ててきたはずの万能感が、この身に残っていたことに腹が立つ。
もっと明確に行動に移していれば、頭の中で自分だけで考えているだけでなくて。
そうすればもっと何かが変わっていたのでないか、なんてことを考える自分にもイライラした。





「――リュー!」
「……ブラッド?」

手持ち無沙汰に、精一杯の日常を過ごそうと掃除をする俺に、唐突に声がかけられた。
ランツにすら置いていかれて、現実逃避と知りながら、布巾で食堂の掃除をしていた所だ。
日常の風景の中で、武装をしたブラッドと騎士団の姿は、僅かに浮いているように見えた。
切羽詰ったような顔は、現実に置いていかれたままの俺からは、どこか可笑しく感じた。

俺の様子がおかしいことにブラッドも気付いたのか、軽く眉を顰めて俺を見てくる。
ただ、必死に生きている積りで、全然そうでないことにショックを受けているだけの俺だ。
そんな浅はかな心情を知られたくない俺には、詮索するような時間がないのが有難かった。
ブラッドは、小さく頭を振ると真剣な瞳で俺を捉えた。赤い視線が俺の心を貫いた。

「マユラが魔物に浚われた。
 どうにか出来ないか?」
「……どうにかって」

なんで、俺にそんなことを聞くのか。魔物が関わるなら、俺でなくて騎士団の出番だ。
他の誰でもなくブラッドが、“どうにか”なんて曖昧な聞き方をするなんて、判らない。
そりゃ俺だって今まで何もしていなかったわけではないけれど、それは俺しか知らない。
乗り切らない感情で空虚に聞き返した言葉に、ブラッドは頭を掻いて応えてきた。

「フィニーが、アリアからリューに聞けって。
 俺たちはリューの言うことに従えばいいらしい」

――その言葉に、息を呑む。その様子を見るブラッドは、俺の言葉を待っている。
恐らく、ブラッドは女神の言葉も俺の言葉も、一切疑わないだろうと目を見て思った。
信じきっている。騎士団とマユラの命を、きっと俺が言った言葉に掛けてしまうのだ。
「そうですか」と小さく呟くことが出来たのは、今の俺からすれば、上出来だった。

歴史が変わった。女神アリアはマユラを助けに行くことを、否定しなかった。
預言書と直接関わりがない行動を否定するはずの女神が、ブラッドの行動を止めない。
そして、全てを見通すその瞳をもってして、俺のやり方が最適解であると告げたのだ。
無関係でなくても縁がないと思っていたはずの存在が、俺を指名したことに驚いた。

「……その。
 どこに行ったとかは……?」
「飛んでいって、判らない。
 行き先を調べてたら、フィニーが来たんだ」

フィニー、妖精か。俺は会ったことも見たこともないが、女神のお供であると知っている。
彼なら魔物の行き先を知っていてもおかしくないはずだ。それなのになぜ俺に。
俺が未来を知っていると知っているのかもしれない。いや、それだけじゃ説明にならない。
それだけなら俺に頼るようには言わない。やはり、俺のやり方が適しているのだろう。

ブラッドに、マユラを見捨てて王都に急げと告げるのが原作の流れだったはずである。
そうでなければ、間に合わないからと。ブラッドはそれに反抗していた、と思う。
けれど今の現実はそうでない。俺に従った方が、騎士団の為になると女神は判断した。
それがどうしてかを少しだけ考えて――――割とすぐに答えが出た。ユマ・ランカンだ。

今から急いでも、或いは俺の用意した馬車に乗っても間に合うのなら、他の要素だ。
女神アリアは騎士団の戦力にも口を出す。より強い人材を集め、予言に対抗するためだ。
マユラを見捨ててしまえば、ユマと会う機会が無くなる。それは騎士団にとっての損失だ。
だからこそ――だからこそ、俺が利用されるのだ。そう思ったら、急激に落ち着いてきた。

「……裏ギルドに行ってください。
 時計塔の監視を、依頼してましたから」
「奈落に、か」
「ニンジャのユマと、魔女のアリエノです。
 多分、魔物の行き先も見てるかと」

そうか、と目を輝かせて俺を見るブラッドに、俺は視線を合わせることが出来なかった。
俺は、恐らく西のレイラント砦に連れて行かれただろうことを知っている。
そして、堅牢で鍵が失われた砦を開けるには、ユマ・ランカンの爆薬が必要なことも。
それを知っていて、俺は彼女と、その知合いで俺の生徒であるアリエノに頼んだ。

「王都に行くための、馬車も用意してあります。
 幾つかの街に、馬の代わりを手配しているので」
「……」
「それに使えば、追いつくことも難しくないはずです。
 次の災厄にも間に合う……と思います」

中継点になる街には、表ギルドから依頼書と資金を持たせた冒険者を派遣している。
驛舎なり、牧場なりで待機しているはずだから、その場で馬を換えれば急がせられる。
大金だから、信用できる人しか選んでいない。俺の教えてきた人の中からお願いした。
これは俺がスクーレで積み上げてきたものだ。何もできない俺の、騎士団への餞別。

その全てをブラッドに伝えると、ブラッドは真剣な顔を緩ませて最高に嬉しそうに笑った。
この状況では余りにも場違いで、呆気に取られた俺は、伸ばされた手にも反応できない。
ぐしゃぐしゃ、と音を立てんばかりに大げさに、頭を撫でられていると直ぐに気がついた。
なんで、と思った俺がブラッドの顔を見ると、今度は頭ではなく肩を叩かれた。

「リューがいてよかった。
 ありがたく、頼らせてもらう」

――どうやら、感謝の表現であったらしい。軽く噎せながら俺はブラッドから離れる。
肩の痛みはともかくとして、ブラッドのその声に嘘は欠片も感じずに、俺は逆に曇る。
自分の価値が信じられなくなっている所に、その言葉はあまり嬉しくなかった。
頼るほどの価値は、俺にはない。若干投げやりに、伝えてない最後の言葉を伝えた。

「……王都に、次の拠点を用意しましたから。
 どうか、大事に使ってくださいね」

これは、俺にとっての別れの言葉。言外に“自分は使わないから”と潜ませる。
内心、今までここに住まわせてもらった家賃みたいなもの、とどこかで考えている。
俺はここから先のことは知らないし、ついて行く気は、迷いはしたけれどやはり無い。
だから、ここまでだ。準備はしてあげたのだからもう終わり。これでお別れだ。

ブラッドは小さく目を見開くと、がしがしと頭を掻いた。何故か少し照れくさそうだ。
俺の意図は伝わったのだろうか。そうだとしたら、一体何を思っているのだろうか。
なんでもいいや、と思った。どちらを選んでも後悔するのだから、本当に投げ遣りに。
――それなのに。俺の感情とは裏腹に、ブラッドは穏やかに笑って、そして言った。





「ああ。先に行ってるな。
 待ってるから、早く来いよ」





……それが、ブラッドの中では当然のことである、と良く判る口調で言うものだから。
一瞬、俺でさえもそれが当然の、あるべきままであるかのように錯覚しかけてしまった。
余りにも自然だったから、「それではまた」と口に出して答えてしまいそうになったのだ。
なんとか踏みとどまった俺は、微笑みのようなものを作って、ブラッドを見た。

ブラッドは自然体だ。いつも通りの、どこか飄々とした空気すら感じるカラッとした顔だ。
俺がここで最後にしようとしていることなんて、少しも考えてはいないのだろう。
これで俺を誤魔化すことが出来るほど、器用な人ではない。そこまで老練さは足りていない。
だから――だから。俺はこの場で別れを告げてしまうことが、正しいのか判らなくなった。

そもそも、正しいこととか、そういう問題ではない。二択だけど、○×ではないのだ。
キーラの里には恩がないわけではない。しかし、もう既に返したと言ってもいいだろう。
騎士団には逆に貸しがある。けれど、俺はその貸しを回収しようとは思っていない。
だから、ただの利害では決められない。だから、どちらが正しくも間違ってもいない。

俺がやらなければならないことは、幾らでもある。でも俺でないと出来ないことはない。
ああ、そうだ。俺はひたすら人に教え続けてきたのだ。ランツを筆頭に騎士団の団員にも。
キーラの里の、交易や出稼ぎの手伝いは、俺でなくてもランツだけでもできてしまう。
騎士団との契約、資金の管理も、最低限は教えてきたし、今ならなんとか出来てしまうだろう。

どちらでも選べるように、と。選択を先延ばしし続けてきた結果が、ついに出てしまった。
どちらでも、良くなってしまった。俺を縛るものなんて、もう何も無くなってしまっていた。
いつの間にか、俺はまたふわふわした立場に戻っていたのである。なんでもあって何もない。
思わず、誰かに縋りたい気持ちになって、つい目の前にいた人に視線を向けてしまった。

「――気をつけて来いよ」

それは、こっちの台詞である。戦場に向かおうとしている人間に言われる言葉ではない。
何を馬鹿なことを言っているのだ、本当に。俺なんて、別に気をつけるまでもない。
だけど、だけど。ブラッドがそんな積りで言っているわけでないと判っているのに関わらず。
――俺は、帰ってくる場所が、誰かが待っている場所があるというのが、凄く嬉しかった。

いつもとは逆だなと思った。いつもブラッドが喜ぶ言葉なのに、今度は自分が喜んでいる。
漸く気がついた。ブラッドも、自分の居場所が判らない人だったんだと気がついた。
あはは。10年来の新事実だ。俺が世界の迷子であるように、ブラッドは時代の迷子なのだ。
これは、仕方がない。きっとこれが運命だったのだ、と流石に諦めも付いてしまった。

「――ブラッド。
 言っておきたいことがあります」
「ん?」
「今回のことで、沢山のお金を使いました。
 当分は節約生活なので、無駄遣いはやめてくださいね」
「……覚えておくよ」

餞別にならなかったのならば、これはまさしく出費である。騎士団の予算内のことだ。
俺のへそくり、というか個人予算でやったことではあるけれど、これからは同一会計だ。
これからは里の交易からの上がり金を取れないのだから、余計な歳出は抑えなければ。
特に、一番好き勝手にお金を使うブラッドには、例え無駄でも釘を刺しておく必要がある。
一通り、苦笑したブラッドは、いつもどおりの穏やかな微笑みを浮かべて、言った。

「それじゃ、また後で」
「はい、また後で。
 気をつけてくださいね」

これ以上、引き止めることは出来ない。何せ、人の命を助けに戦いに行くのだから。
短い休憩を取ってブラッドの後に続く団員のみんなの背中を、見えなくなるまで視線で追う。
これが最後ではないから。まだ続きがある以上は、ここで引き止める理由なんてないのだ。
それよりも、俺はこれから話さなければならないことがある相手がいるのだから。





「――ごめん、ランツ。
 俺も、やっぱり行くね」
「了解っす」

食堂を出て、二階へ。俺の隣の部屋を開けると、机に向かうランツがいた。
帳簿を見て別の帳簿に何やら書き付けるランツは、俺の言葉に振り向きもしなかった。
それも、当然かもしれない。何年も一緒に住んできたのだから、予想はしていただろう。
だから俺も、それを咎めたりはしない。代わりに、指に嵌めた指輪を外して近寄った。

「引継ぎは……今更いらないよね。
 交易と私塾と時計塔と、後はみんなの世話でいいよ」
「判ったっす」
「騎士団と俺の分だけ資金は持ってく。
 あと、ウィルが独立するまではよろしくね」
「うっす」

後ろからランツに近寄って、そして帳簿の近くに、外したばかりの指輪をそっと置く。
宝玉の代わりに印章が付いたそれは、キーラの里の交易印兼、俺自身の証明印だ。
これは、俺には必要なくなった。これからはランツが使うべきものだと俺は思った。
それすらも、ランツはちらりと見ただけで、特別俺を振り返ったりはしなかった。

やっぱり、少しは怒っているのかな、なんて。それはそれで、仕方ないことをしている。
途中で投げ出したような積もりはないけれど、そんなのは俺から見た話でしかない。
置いていかれる人間にとっては、無責任に見えるのかな。見えても仕方がないと思う。
これ以上、顔を見せるなと言われたらどうしようか。流石にそう言われたら、少し悲しい。
そう思って、一度部屋から出ようとした矢先に、振り返ったランツに帳簿を渡された。

「キーラ商会の王都支店の帳簿っす。
 騎士団予算も移してあるっすよ」
「……そっか」
「印章は受け取るっすけどね。
 それはリュートさんが好きにすればいいっす」
「ありがと」

――いつの間にか、俺は教え子に追い抜かされていたんだなって、素直に嬉しかった。
俺の目を盗んで、王都に支店を作る手続きをさらりと済ませるほどの、手配力。
いつから準備をしていたのだろう。中をパラパラと見ると、建物の権利書やらもある。
間違いなく、俺がこの災厄の準備のために使った時間と同じくらいは経っているはずだ。

僧侶らしく、儲けを求めることをしなかった、俺を拾い助けてくれた里の僧侶様。
そして、それを引き継いで、みんなの利益になるように振舞って上積みだけ掬った俺。
更に俺の教えを受けて、生粋の現地人としてのバランス感覚で攻め続けるランツ。
これは商人としての才能の差ではなく、その人間としてのあり方が違っていたのだろう。
俺よりも遥かに商人に向いたその性格は、俺が心配するまでもなく上手くやるはずだ。

数年前から、判っていた。教えられることなんてもう殆どないっていうことは。
それなのに独立させずに、俺の代わりになれるようにと俺はランツを引き止め続けた。
謝ろうかと思って、でもそんなことをしたら失礼だと思って、俺は口を噤んだ。
……代わりに、最後まで残った、彼の商人としての粗に苦言だけ残していくことにした。

「――結局、その言葉遣いは直らなかったね。
 これからは君が代表だから、頑張って」

敬語がそれ程上手くないのは、キーラの里出身の若者に共通している悪癖である。
良くも悪くも教科書通りの発音しか出来ない俺と違って、ネイティブな分、癖がある。
田舎者だと甘く見られることも善し悪しだけど、使えるなら使い分けられる方がいい。
そう思って言った言葉に、ランツは今まで見たことのない、悲しそうな笑顔を見せた。

「頑張りますよ。
 わざと、やってきたことですしね」
「……なんで」

唐突に、流暢に喋って見せるランツに俺は思わず息を呑んだ。聞きなれない。
わざとって。何時からだ、それ。そんな喋り方が出来るのなら、なんでそんなこと。
何年も小言を言い続けてきたことだ。出来るなら、俺もそんなことはしてこなかった。
本当に意図が掴めない俺に、姿勢を良くしたランツは穏やかに、寂しげに微笑んだ。

「出来ない生徒でいたら。
 残ってくれるかなと思っていたのですが」
「……そっか」
「気にしないでください。
 リュートさんには、もう十分助けてもらいました」

口調から甘さが消えて、そこにいる人は、俺の知っているランツとは別人に見えた。
よく見れば、もう24歳の青年だ。スクーレでも中堅に当たる商会の会頭である。
いつまでも子どもではないのだ。いつまでも田舎者でいるわけがなかったのである。
これだけ近くにいたのに、ちゃんと見てあげられていなかったことに、涙が出そうだった。

「――ごめんね」
「何を謝ってるんですか。
 私に、これだけ大きな旗揚げの機会をくれたのに」

そう言って、先程までの寂しさを何処かに追いやった晴れやかで誇らしげな顔をする。
その姿は、どう見ても栄達を手に入れた若者だ。決して未熟な少年の姿ではない。
彼を育てたのは自分だ。そして彼は巣立って、俺の知らない大空へ飛び立っていくのだろう。
ブラッドもこんな気持ちを何度も味わったのだろうか。俺は、一回でも耐えられそうになかった。





「――――や」
「……ヴィヴィさん?」

ランツの部屋を出て、外の空気を吸いに行こうと玄関を出ると大魔女の姿があった。
壁に持たれて腕を組む姿は、誰かを待っているのだと、誰が見ても一目で判る。
彼女がこの建物で、態々嫌いな“待つ”ことをする相手は、一人しか心当たりはなかった。
だとしたら、彼女に伝えるべき言葉は一つである。残念なことではあるが。

「ブラッドでしたら、もう街を出ましたよ」
「知ってるよ。
 さっきの話はあたしも聞いてたから」

さっきの話、というと。ランツとのではなく。恐らくはブラッドとの話だろう。
あのとき俺に余裕がなかったから気付かなかっただけで、あの中にいたのだろうか。
なんとも、これだけの存在感がある人間に気付かないなんて、どれだけ散漫なのだろう。
少しだけ恥じ入りながら、ふと思いついた疑問を俺は素直に口にしてみた。

「……あなたは着いていかないんですね」
「あたしは、別に騎士団の味方をしてるわけじゃないからね。
 面倒くさいことに付き合うつもりはないよ」

それよりさ、と。ヴィヴィさんは上半身を俺に傾け、舐めるような目で俺を見る。
ジロジロとした視線は、面白がったものである。何か珍しい生き物をみるような感じ。
普通なら嫌悪を抱くようなその視線にも、相手が相手だから、流石になんとも思わない。
ただ、どうしようもない居心地の悪さだけがあって、俺は小さく身じろぎしてしまった。

「何者なのかなあ。
 ちょっと上手くやりすぎよね」
「……なにが、です?」

取り敢えず、相手が具体的な言葉を言っていないうちは、話に乗ることもない。
下手なことというか。何についての話かは大体の想像は出来るからこそ、尚更だ。
ギルドを通して色々したのだから、その情報はこの人には全て手に入るものである。
不審に思われても、仕方がないぐらいのことはしてしまった自覚はある。

あくまで、スタンスがハッキリしていないからこっそり動いていただけの話。
別に隠しているわけではないし、これから隠し続けていくつもりもないけれど。
それでも、自分の安全は確保し続ける必要がある。生きていくのに必要なことだ。
しかし、ヴィヴィさんは警戒しなくてもいいよと、大袈裟なまでに手を振った。

「あ、別に危害加えるつもりはないよ。
 確認しようと思っただけだから」
「……」
「馬車はともかく、ニンジャの子はちょっとね。
 どこまで判ってたのかなってさ」

俺が、何かを知っていたところまでは確定している。そういう話をしに来たようだ。
これは、逆に適当に誤魔化してしまうと危ない流れというものだと俺は思った。
実力が桁違いな人が見逃してくれている内に、事情は明かしてしまった方がスマートだ。
どこまで話すか、一瞬悩んで。そしてそれから言葉を選ぶのに数秒かかった。

「――大まかな、流れ、ですかね。
 もう殆ど覚えてないですけど」
「……へえ?」
「俺も、未来を知ってるんですよ。
 なにせこの世界の住人ではないですから」

この世界に来てから、初の種明かし。俺が賢者でいられた理由と身寄りのない理由。
思っていたより抵抗なく口から出た言葉は、大魔女を驚かせるには十分だったらしい。
その美しい形をした瞳を大きく見開いて、真っ赤な唇は愉悦に小さく歪んでいる。
――どうせ、長い付き合いになるのだ。仲良くやっていこうではないか、と俺は思った。





[37010] 5話 1045年 王都ヴァレイ
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/05/05 20:40



スクーレでやり残していたことを片付け、王都の襲撃が終わったころに漸く街を出て。
襲撃の傷跡が残る王都の街並みをくぐり抜け、用意していた新しい拠点に辿り着く。
期待した通りの場所や設備に若干の満足感を得ながら、俺はブラッドたちに再開した。
――そして、俺を待ち受けていたのは、どうしようもなく残酷な現実であると気がついた。

迎え入れてくれたのは、全て見知った顔の14人。ブラッドを筆頭に、アレフやユマ。
激しい戦いだったのだろうに、その全員が軽傷こそ負えど無事と言って差し障りない範囲だ。
どこか清々しい、やり遂げた顔をしている彼らを、疎外感を感じながら一人一人の顔を見る。
彼らと一緒に達成感を感じることは、これからもきっとないのだろうな、と俺は思った。

道中にも襲撃の激しさは聞いていたし、街に連なる廃墟はそれを証明しているようだった。
王都の住人にも、そしてラーズラス12世にも、騎士団は好意的に受け止められている。
これは、今まではなかったことだ。悪意を持たれずとも、何処か浮いた存在ではあったから。
そこを英雄的な扱いをされているなら、団員が晴れやかな顔なのも仕方ないのかもしれない。

この状況に眉を顰めるとしたら、それは調子に乗った団員に手を焼く役割を持った人間だ。
つまり俺か、それとも。そう思い、その人の顔を確認しようとして見回して、気付いた。
――いない。あの目立つ金髪が、あの無愛想で不機嫌な顔が、どこにも見当たらなかった。
いや、それだけではない。いるはずなのにいないのは、レオ一人だけではなかった。

再度、一人一人の顔を確認しながら見回した。ブラッドと、災厄の前からの団員12人。
そこに新たなメンバーとしてユマ・ランカンが加わり、総員で14人がここにいた。
足りない。予定よりも人数が少ないのだ。俺は、ここに16人いると思っていたのに。
レオともう一人。時計塔の番人、マユラがいないことに、俺は気づいてしまったのである。

焦らない訳がない。よりにも寄ってという組合せだけが、この場所に居合わせない。
勿論無事であり、今席を外しているだけと希望も抱いたけれど、それだけでは済まない。
どうしてもより悪い結果を想像し、そして俺の努力は無駄だったのかとも考えてしまう。
現実を、事実を確認するのが怖くなるほどには、俺にも彼らがいることが当然だったから。

そのままで、何も知らないままで居られたら、どれだけ気楽な立場なのだろうか。
だけど、間違いなく俺にそれは許されないだろうし、避けては通れないのは明白だった。
きっと青褪めているだろうと自覚のある顔で見たブラッドは、直ぐに真面目な顔をした。
それを見て、内心で“ああ、やっぱり”と、俺は回答を得てしまったのだった。





歴史の修正力だとか、運命だとか、そう言う言葉を軽々しく理由にするのは好きじゃない。
物事にはいつだって因果というものがあり、何もないところには煙は立たないのである。
何かを成して、何も変わらないなんてことは有り得ない。大小あれど、何か変わるはずである。
だから“何をしても変えられなかった”のではなく、“望んだ影響が生まれなかった”のだ。

そう、何も変わらなかったわけではない。けれど、俺が望んだ変化はそこに生まれなかった。
レオは退団した。マユラは死んだ。ただ一人、ミレイだけは雪山で死なずに済んだ。
王都は、恐らく俺が居なかった時よりはきっと被害は少なくなっている、そう思いたい。
ブラッドとアリアの間にも何かあったらしいけれど、そこは俺は一切関与するつもりはない。

因果、つまりは原因と結果。俺がしたことは結果に変化を齎さなかったわけではない。
ただ原因を、望んでいた結果に対するそれを見誤って、取るべき対策を間違えていたのだ。
レオとマユラが騎士団に残るために本当に必要だったことを、俺は成せていなかった。

考えてみれば、割と簡単な話だ。マユラの死因とは一体なんだったのだろうか。
本当に、俺が思っていたように“キーディス山脈を越えたこと”が原因だったのだろうか。
そんなことはない。確かに騎士団の戦力に影響を与えたし、ミレイが死んだのもそうだ。
けれど、それはあくまで“マユラが命を賭けた理由”に繋がるだけのものである。

では何故マユラは命を賭けなくてはならなかったか。それは騎士団を守るためだった。
マユラが元の姿に戻って戦わない限り、騎士団が、ブラッドが死んでしまっていたからだ。
業火の炎ディー。忘れられた種族、神竜である彼の力は、同じ神竜のマユラよりも強い。
100年を掛けて漸く戦えるようになるのに、今の騎士団にとっては流石に荷が重すぎる。

西の砦で出会ったことによって、彼は同族のマユラが生きていたことに気付いてしまった。
本来ならキーディス山脈越えの妨害をするディーを撃退するために、マユラはその命を使う。
けれど俺がいたことで、俺がやったことで、騎士団は雪山越えすることなく王都に辿り着いた。
……そして、たった一人の同族を追いかけて、無傷のディーも王都を襲撃してしまったのだ。

本来の予定よりも早く王都についた騎士団と、予定とは異なり無事に辿り着いたマユラ。
そして予定通り王都を襲撃する、威力の炎ザルードが率いる予言の魔物と、マユラを追うディー。
プラスが2つ、維持が1つに大きなマイナスが1つ。差し引きすれば結果は大きく変わらない。
――――折角生み出したプラスと、差し引きをしなければならなくなってしまったのだった。

結局、マユラが助かるには、ディーと戦わない流れを作らなければならなかったのである。
ディーにマユラの存在に気付かせず、追ってこさせない。出会わせず、連れさらわせず。
俺がするべきだったのは、あの時騎士団を追いかけていったマユラを止めることだった。
それをして漸く、ミレイだけでなくマユラの命を救う可能性が生まれることが出来たのだ。

俺がやってきたことは片手落ちだった。それは、マユラのことだけでは終わらない。
ブラッドの話によると、レオは西の砦からマユラを助け出した時に騎士団から退団したらしい。
あの時、ブラッドたちが本部に戻ってきた時には、既に話がついていたことであるようだ。
ヴィヴィさんから、レオの恩師が病に倒れたと聞いたブラッドは、即座に退団を認めていた。

その後押しをしたのは、雪山を通らずとも無事に王都に辿り着く手段を整えた、俺。
戦力は必要ではあるが、それでもブラッドはレオを無理に引き止めることなく退団させた。
ユマの入団と入れ替わる形で、レオは恩師のいるティゴル谷に向かい、騎士団を離れた。
その時に、ブラッドはレオから俺宛の伝言を受け取っていた。ただ一言「後は任せる」と。

考えてみれば当然の話だ。なぜ、あの時の俺は馬車だけで、全てが解決すると思ったのだろう。
いや、本当は考えてすらなかったのかもしれない。レオの退団は、仕方ないと考えていたのかも。
レオを引き止めたいなら、それこそ時を止めるしかない。彼の年齢はもう40を超えたのだ。
仕方ない。そう割り切ることが出来そうで、そして割り切るしかない“事実”でしかないのだ。

――――挨拶すら、出来なかった。騎士団を、ブラッドを任された事実だけが残った。
レオがティゴル谷で、恩師を助けるのであれば、きっともう会うことはないのだろうと思う。
病人を抱えてこれる距離ではないし、騎士団も俺も、会いにいくような時間は作れない。
交通網なんてないこの世界では、一度の別れはそのまま今生の別れ。今回もきっとそうだ。

もしかしたらもう会えない人に、その四半世紀を賭けたものを頼まれた。任せられた。
これは単純に、ブラッドの相棒としての役割を引き継いだだけでは終わらないのだろう。
レオは、俺に騎士団の未来を、騎士団を見守る役を“次の世代に引き継ぐ”役を渡したのだ。
自分が最後まで観きれない悔しさを、その感情を何時か俺も味わうことも含めて、全てを。

胸焼けする思いがした。吐きそうだとかそんなものではないが、どうしようもなかった。
個人の手には負えないものが、俺の背中に掛けられた。引き継いで行くことで漸く背負うものだ。
自分の意志でなく、それでいて自分の意志の余地が残されたまま、大きなものに取り込まれた。
俺が騎士団と生きると決めてすぐなのに。レオはやっぱり俺がそうすると見抜いていたのだろうか。
今となってはもう確認のしようがないな、と俺には、力なく笑うことしか出来そうになかった。

マユラが助からず、そしてレオが居なくなった所で、世界が大きく変わることはない。
寧ろ世界はそのまま回り続ける。俺という異分子をはらんでも、何も変わらずに回り続ける。
騎士団は魔物と戦い、俺はそれを支える。場所が王都に変わろうと、取り巻く人が変わろうと。
立ち止まっていても流れていく時間を、非情だと感じるか、それとも優しいと感じるか。
少なくとも俺は、取り残されているような感覚さえ別にするならば、それを救いだと思った。

時間は流れる。人は歳を重ねる。団員が入れ替わり騎士団は強くなる。ブラッドは変わらない。
噂を聞けば、スクーレでは商会が連合を組み、騎士団を真似た自警団を作ったそうである。
名前は伝わってこないが、年若い神官の少女や、彼らを支える商人見習いの少年がいるらしい。

ああ、時間が経つってこういうことなんだな、色々なことが変わっていくんだなと思った。
俺自身も、歳をとってきた。今はまだ元気でいられるが、その内隠居すべき年齢になるだろう。
その時には、レオのように騎士団を離れよう。誰かに、最後まで見届けられない悔しさを託して。
アクラル歴1045年、王都に来てから9年、レオが退団した40歳になるまで、あと二年。
俺は、自分よりも大きな役目を背負って、それでも自分の意志で生きてそして死んでいくのだ。





38歳になっても大きく変わることなんてない。何時まで経っても完璧な人間にはなれない。
昔は、元の世界でも小さかった頃は、“大人”と“子ども”には明確な違いがあると思っていた。
それが勘違いと気付いたのはいつの話だったか。多分、高校生ぐらいだったような気がする。
早いと思うか遅いと思うか、そんなものは個人の感覚に過ぎないし、そんなことには意味がない。

確かに重ねた年齢分の経験はあり、経験を重ねたことで感情の制御や我慢ができるようになる。
それでも結局は地続きの場所で明確な区切りなんてなく、あくまで社会上の区切りなのだと思う。
人は、何か大きな物事に出会った所で、別人になんてなれない。結局はそこにあるのが自分だ。
俺は俺のまま、摩耗していく。成長と言えたのは若い時の話で、今となっては削れていくだけだ。

ゆっくりと、ゆっくりと、小さな変化を積み重ねていく。俺だけではない、みんなそうである。
例え永遠を生きる存在であっても変わらない。ブラッドも何処か明るくなったように感じる。
それに何が影響しているのかは判らない。それでも、俺にはその変化は好ましいものだと思えた。
年月の間に積み重ねてきた小さな変化。ブラッドの変化に、俺も影響を与えているのだろうか。

俺にも、歳を取って若さの代わりに経験を手に入れたこと以外に、何か変化があるのかな。
思い返せばこちらの世界で19年。丁度今年で、二つの世界で同じ時間を生きたことになる。
子どもも作らず結婚もせず重ねた年月に、一体意味はあったのかと不安にならないこともない。
……うんざりしそうな思索をやめて、俺はどうしようもない現実に向きなおすことにした。

緩く閉じていた瞳を開けると、そこには見慣れたキッチンテーブル。紅茶は既に冷めている。
意識は向いていなくとも、身体だけを向き合わせていたのは、まあド派手な姿の女である。
どうにも不機嫌で、俺も現実から逃避したくなるような威圧感を放つ彼女、大魔女ヴィヴィ。
足を組み腕を組み眉を顰めるヴィヴィさんは、先ほどから苛立ちを隠そうともしていなかった。

「――ちょっと?
 聞いてるの、リュート」
「聞いてますよ。
 返答しようがないだけです」

先ほどから反応がないことに気が付いていたのか、ヴィヴィさんは俺にも怒りを向ける。
それに気のない返事を返すと、フン、と大きな鼻息を立ててから大きく椅子に座り直した。
幸いながら、俺に対して直接その不機嫌さをぶつける積もりはないらしい。ありがたい。
ま、それも当然である。俺は共通の知合いがいるから選ばれた“愚痴り相手”なのだから。

幾らイライラしていたって、愚痴を聞いてくれる相手にまで八つ当たりをする人は居ない。
意味もないしマイナスだらけだし、よっぽど後先を考えない限りは普通の人ならしない。
目の前の人が普通かどうかには少々の疑問があるが、普通よりも上等なのには間違いがない。
それはともかく、もう少しぐらいは真面目に聞こうと俺は姿勢を少しだけ正して前を見た。

「……まあいいけどさ。
 結局どのお店も駄目だったのよね」
「美味しいお店なんですよね?」

当たり前じゃない、とヴィヴィさんは頷いた。そりゃ彼女が勧める店なのだから当然だが。
食道楽、というわけではないだろうが、長い時間を楽しむことに費やしている人なのだ。
舌は肥えていて情報通、そして恐らく金銭的にも制限はないだろう。超絶グルメである。
そんな彼女が“どの店も”駄目だったというのだから、きっと相当なことだと俺は思った。

「最初は、ブラッドの好みの問題だと思ってさ。
 普段行かないような、安い店とかも行ったりしたの」
「そうなんですか」
「でも、どこ連れて行っても微妙な顔でね。
 何聞いても悪くないとしか言わなくて」

そう言ってヴィヴィさんは冒険者の宿、職人向けの食堂、労働者向けの酒場まで挙げる。
最初のはともかく、他は本来彼女が好むような場所ではないだろう。良く行ったものである。
多分、途中から若干ムキになっていたところがあるのだ。いつか美味いと言わせてやる、と。
それが無理だったからこそ、今ここに来て俺に愚痴をはいているのだろう。迷惑なことだ。

しかし、それだけなら彼女が不機嫌になるのは判らない。ブラッドは、元々そういう人だ。
ヴィヴィさんも半ば無理やり誘っていることは自覚しているだろうし、怒る人でもない。
それなのにブラッドに対してここまで怒りを向けているということは、きっと何かあったのだ。
どうせ、碌でもないことを言ったのだろうな、と俺は促すようにヴィヴィさんを見た。

「――最後にね、これぞってお店に連れてったの。
 これが駄目なら、手がないくらいの場所」
「どこです?」
「昔の団員の作ったお店。
 結構評判なのよ」

ああ、あそこか、とまだ微かに残っている記憶が思い出される。確か山賊亭だったか。
王都に来てそう経たない頃に、ブラッドが喜んでいた記憶がある。懐かしんでいた。
俺もブラッドに連れられていったことがあるが、まあ評判通りではあるな、と思ったものだ。
微妙に俺の好みの味とは外れていたものの、十分に美味しいと言える範囲だったのだ。

「それでどうだったんです」
「……美味い、とは言ったわ」
「……それ以外には」

何を言ったのだろう。どんな余計なことを言ったのだろう。聞きたくないけど気になった。
ヴィヴィさんをここまで苛立たせるような決定的な一言とは、一体どんなものなのか。
続きを促す俺に、永遠を生きる大魔女は大きく眉を顰めてからその貫くような視線を向ける。
あ、これ聞かない方が良かったかも。そう思った時には、どうやら遅すぎたようだった。

「――ホンット最低よ。
 言うに事欠いて“リューの飯の方がいい”ですって!」
「あぁ……」
「ブラッドじゃなかったらその場でビンタよビンタ」
「……いやぁ、それを俺に言われても困るんですけどね」

なんというか、ご愁傷様ですとしか言えない。怒りが俺に向いていないのが幸いである。
流石のブラッドだ。言っちゃいけないレベルの一言をあっさりと言うとは、いっそ尊敬だ。
フン、とそっぽを向くヴィヴィさんを見ながら、若干の冷や汗を軽く拭い、俺は考える。
……多分、美味しいと思ったのは本当なんだろうけど、気分が合わなかったんだろうな、と。

山賊亭の料理は美味しい。技術は確かで手間暇を惜しまず、食材だっていいものを使ってる。
当然、使う食材の最大パフォーマンスを引き出すべく、相応の調味料を使いこなしている。
ただそうなると全体的に味は濃くなるし、こってりしてくる。惜しまない分、味は濃い。
身体を動かすブラッドは味が濃いのは好きだが、油が濃いものはそれほど好んではいない。

うちの食事は作る俺に合わせているし、外で食べる食事よりは油が控えめなのは事実である。
遠征から帰ってきた騎士団がいる間は多少変えるけど、それでも限度というものもあるわけで。
……っていうかヴィヴィさんが連れて行った“安いお店”も味と油が濃いのではないだろうか。
余計なことをいうのは危険だが、ヴィヴィさんが好むような店を当たってた方が良かったような。
いや、今更だ。それよりも、こんな居た堪れない空気を変える必要があると俺は思った。





[37010] 5-2
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/05/05 20:46



「――それで、本題は?」
「なによ」
「まさかその話だけじゃないでしょう」
「そりゃね」

一度は不機嫌に返すヴィヴィさんも、重ねて聞くとつっけんどんながらも顔はこちらを向く。
チラリと俺に視線を向けると、まだ湯気を立てている紅茶に手を伸ばし、口に運ぶ。
その仕草に、言いにくい話なのかなと何処か頭の片隅で考えて、俺もカップを手にとった。
相変わらず冷めていて、目の前の人が知らず何かの魔法を使っていることに改めて気付く。
ヴィヴィさんは、小さなため息を一つつくと、カップを置いてから目をまた逸らした。

「――研究結果。
 出たけど、聞く?」
「……いい話なら」

どう考えても、その態度からはいい話であるとは少しも想像できなかったけれど。
9年前、彼女が漸く俺に興味を持ってくれた時から、俺は大魔女の研究対象になった。
彼女に取って、俺の存在はそれなりに、時間潰しになる程度には面白かったらしい。
それが良かったのか悪かったのかは判らないけど、ここにいる理由ぐらいは知りたかった。
小さな軽口を、少しだけ皮肉を込めたそれを聞いたヴィヴィさんは、同じぐらい小さく笑った。

「あんた次第、ね」
「心持ち次第、ですか」
「そんな感じ。
 リュートがどうしたいか、かな」

どうしたいかと聞かれて、直ぐに返答が出来るほど、俺の感情はまとまってはいない。
帰りたいというわけではないけれど、ひと目ぐらいは故郷をみたいなという思いはある。
もしもまだ両親が生きて、無事であるならば、俺が生きて、それなりに幸せだと伝えたい。
ただ、この場所で生きることを捨てるつもりはないし、背負った責任も投げ出せない。
そうして口篭る俺に、ヴィヴィさんは穏やかに微笑んでから、少し意地悪い顔をした。

「そもそも、さ。
 未来が判る程度なら、珍しくはないわけよ」
「……と、いうと」
「預言者だってそうじゃない。
 知らないハズのことを知れる人間は他にもいる」

ただ、その方法が問題になるのだと大魔女は言った。何処から情報を得たのか、と。
魔術を元にした占いだとか、何らかの高位存在に力を借りるだとか、方法は幾らでもある。
俺がそのうちの一人だとしたら、その記憶の“持ち方”が珍しいと魔女は瞳を輝かせた。
別の世界で生活した“連続した記憶”を持っていることが、見たことのない事例であるらしい。

これは、9年前にも言われた言葉である。だからこそ、彼女は俺にも多少の興味を向けたのだ。
正直、預言者や占い師と同じと言われたのは、多少思うところがないわけでもないけれど。
それでも、なんとか出来そうな唯一の人が調べてくれると言ってくれたのは、有難かった。
例え戻る気がなかったとしても、どうしてこんなことになったのか、俺は知りたかったから。

「それで、私は調べたのよ。
 あんたが本当にその記憶を“体験したのか”“手に入れたのか”」
「……どっち、ですか」

あの世界での人生を体験してきた“俺”が、どうしてかこの世界に来てしまったのか。
それとも、あの世界での人生という記憶が、この世界にいた“俺”に流れてきたのか。
前者だとすれば“どうして”が問題になる。初めて聞いた時、大魔女は有り得ないと言った。
後者であるならば、その今ここにいる俺は“俺”になる前は、一体なんだったというのか。

連続した記憶を持っている以上、俺の感覚では前者以外には有り得ない。そう思ってしまう。
けれど理屈から考えれば、世界を移動するよりも、記憶だけ持っている方が現実的なのは判る。
“俺の記憶が本物かどうか”。それが、この9年間大魔女の暇つぶしの研究テーマであった。
どっちが俺にとってはマシなのだろうか。聞きたくないけれど、確かめたいなと思った。



「――手に入れた」



瞳を閉じて唇を噛んだヴィヴィさんは、凄く言いにくそうな表情をして、そして言った。
一瞬、聞かなければよかったと思った。胸にあふれる虚脱感が心を覆い尽くしそうになって。
それでも、まだ続きがあった。まだ聞かなければならないことがあるから、俺は聞いた。
救いではないかもしれないと思いながら、だけど聞かないと後悔するだろうなと思ったから。

「……じゃあ、ここにいる俺は?
 俺は誰だったんですか」
「……」
「俺は、間違いなく俺でしたよ。
 顔も身体も、服も全てが俺のままでした」

あの時、この世界に来たときのことは覚えている。服もカバンも使い慣れた俺のものだった。
水面に反射していた顔だって、俺以外の誰のものでもなかった。身体も俺のものだった。
他の誰かではなかった。少なくとも、この世界にいた誰かの体ではなかったと俺は確信している。
……もしも、他の誰かの身体だとしたら。そんなことは、考えたくもなかった。最悪だ。

虚脱したまま、自己嫌悪に苛まれる。誰かの身体を奪ったのなら、それは人殺しと大差がない。
それも20歳前後の若者の身体である。体格は恵まれてなくても、健康なものであった。
怒るような気力はないし、その対象すらも判らない。だけど、俺はいったい誰に謝ればいい。
静かに、それでも畳み掛けるような質問に、ヴィヴィさんは悲しそうな瞳で俺を見返してきた。

「――あんたは。
 あんたは、誰でもなかったんだ」
「……」

何を言うつもりなのだ、と俺は視線を向ける。まるで謎かけみたいな言い方は奇妙だった。
心の中は思っていたよりもずっと静かで、俺は現実を受け入れられていないのかもしれない。
じりじりと渦巻くものだけがあり、それすらも湧き上がる程の強い力を持ってはいなかった。
だから、ただ見る。ただ、この世界で一番魔術に優れた大魔女を、希望を込めて俺は見た。
大魔女は、視線を逸らさなかった。受け止めようとするその姿勢が、既に救いに見えた。

「この世界には、精霊の胎道っていうのがある。
 人間も、動物も、魔物も、全てが生まれる場所」
「……」
「あんたも、そこで生まれたんだ。
 この世界に来たときの姿で」

そこで、ヴィヴィさんは言葉を区切った。まだ続きがあるのは判ったが、促せなかった。
この姿のまま、あの時に俺は生まれた。そんな事がありうるのだろうか。あると言っている。
理解が出来ない。あの気がついた瞬間の前まで、俺は存在すらしてなかったというのだろうか。
混乱した俺を真っ直ぐと見て、ヴィヴィさんは俺の根幹について、言及してしまった。

「あんたはただの魔物。
 あたしにはそうとしか見えない」
「……」
「その記憶の世界が存在してるかも、あたしには判らない。
 あんたはこの世界の存在で、そこには戻れない」
「……人間ですらなかったんですね」

思わず漏れた感想は言葉の内容に反して、何処か楽しんでいる軽い響きがあって俺自身驚いた。
それはヴィヴィさんにとっても同じだったらしく、小さく目を見開くと少しだけ笑ってみせた。
静かで、優しさを込めたその表情は、ブラッドがするものとは少し違ったけれど温かかった。
その優しさがなんだか妙におかしくて、俺はなんだか力が抜けてしまった。疲れたのかもしれない。
俺の様子を見たヴィヴィさんは、先ほどまでの真剣な表情ではなく、いつもの悪戯な顔になった。

「あらら、あんまりへこまないんだ。
 少しぐらいは動揺しないの?」
「……どうでしょう。
 ある意味、繋がりが無くなってほっとしたかもしれません」

俺は、この世界で生まれた魔物。“偶然”俺の記憶を持って、俺として生まれた人型の魔物。
ヴィヴィさんが告げたそれは、なんの優しさもない事実ではあったが、その分厳しさもなかった。
元の世界とは、なんの繋がりもなかった。もしかしたら存在すらしていないのかもしれない。
それでもいいと思った。本物の俺が存在していても、していなくても、構わないと俺は思った。

存在していないのなら、俺の憐憫すら全ては虚空に放たれていく無価値なものでしかなくて。
存在しているのなら、本物の俺が、俺が生きていくはずだった人生の続きをそのまま生きている。
それならば、元の世界を諦めるまでもなく、俺は俺の道を生きていくしか出来なかった。
いい知らせだとは思わなかったけれど、これはこれで、一つの決別になったんだと感じた。





「リュー、いるか!」

思わぬ闖入者が俺とヴィヴィさんのお茶会に乱入したのは、二杯目の紅茶が尽きる頃だった。
俺をリューと呼ぶ唯一の人、騎士団団長ブラッドが、大きな物音と共に本部に入り込んだのだ。
扉が開けられ、そして呼び声が高らかに叫ばれても、俺は予想外過ぎて身体が止まってしまった。
ダンダンと足音を立てながら、何故か迷うことなく近づいてくる様子に、ハッとなった。

取り敢えず、今日帰ってくるなどという連絡は一切受けていない。予定外の話である。
確認するために見たヴィヴィさんも、多少驚いた様子で、俺の視線に軽く首を振る。
それでヴィヴィさんが何かしたわけでもないと判り、そして把握していないことだったと判る。
そうなると、ブラッドはかなり早い速度で移動している。緊急事態なのだ、と思った。

「ブラッド!
 何かあったんですか?」
「よかった、いたか」

立ち上がり、キッチンに飛び込むように入ってきたブラッドに、近寄りながら声を掛ける。
パッと見た限り、無事そうだ。具足を身につけた姿だが、怪我やなにかにあった様子はない。
少しだけ安心をして、ならば他の団員に何かあったのかと直ぐに切り替える。
手紙もなしに、ブラッドが戻ってくることなんて初めてだ。何かあったとしか思えない。
どんな事態なのだろうかと、俺を見て、露骨に安心した様子のブラッドの言葉を待った。

「リュー、旅の支度をしてくれ。
 ベリアス森まで来て欲しい」
「……何があったんですか。
 他のみんなはどうしたんです」

旅の支度、それ自体をすることは構わないけれど、それよりも気になることがある。
ブラッドがキッチンに入ってきて以来、大きな物音は他にどこからも聞こえず、静かになった。
それで俺は、騎士団がいないのだと気付いた。近くにいるなら帰ってきたことにも気付くはず。
まさか、ブラッド一人だけ。そんな滅多な状況などが今までにあった記憶は一切ない。
緊張感に身体を凍らせる俺に、ブラッドは不思議そうな顔をしてから、ゆるく笑った。

「……ああ、安心しろ。
 団員は森の村にいるし、全員無事だ」
「そう、ですか」

無事、という言葉に一息ついて、どうやら思っていた程の緊急事態ではないと表情で悟る。
あんなに急いでいたのだし、村人に魔女裁判的な何かをされているのかとでも思ったが。
しかし、そうでもないのなら何故ブラッド一人なのだろうか。急いでいた理由もわからない。
何より、俺を連れて行く必要があることなんて、ちょっと俺には思い浮かびそうになかった。
ブラッドも、説明を求める俺の視線に気付いたが、軽く頭を掻くと早口に言葉を出した。

「来てくれるだけでいい。
 その……見せたい場所があるんだよ」
「場所の説明は」
「来てくれたら判るから」

どうやら、説明をするつもりはないらしい。まあ、場所を見るだけというのなら構わない、か。
事前準備が必要なことなら、していかないと役に立てないが、そういうことではなさそうだ。
ならば、言葉通りの旅の準備か。とはいえ、旅慣れていない俺には余り必要なものが判らない。
騎士団の遠征の支度なら手伝ったことはあるが、それとは全く種類が違ったものであるだろうし。

「……何を準備すれば?」
「着替えだけでいい。
 食べ物や野営のことは任せろ」

「あ、はい」としか答えられないほどに、スパッと切り捨てられてしまって黙り込む。
――さて。ブラッドがもの凄く急いでいるのは判るのだけど、そう気軽に準備を出来ない。
そもそもベリアス森とは言うが、それほど近くはないし、どれだけの荷物にしたものか。
一時的にとは言え私塾を閉めることに関しても、それなりにやることがありそうだけれど。
どこまで急いだものかと立ち止まり思う俺に、ブラッドは少し困ったように言った。

「外のアレフに馬を待たせてるんだ。
 悪いけど、急いで支度してくれないか」
「……判りました」

……ブラッドが要求していたのは、本気で今すぐだったようである。なんとも急な話だ。
ええと、アレフも来ているのか。それで馬が用意されてて、俺を含めて3人での移動。
そうなると、馬車便よりも早くなるのかな。往復でも10日はかからないのかも。
頭の中で荷物を計算しながら、それで後は私塾と商会をどうするかを考えておかないと。
せめて手紙くらいは書いておこうと思った矢先に、ポンポンと肩が優しく叩かれた。

「さっさと行っといで。
 後は適当にさせとくから」
「頼むよ」

声を掛けてきたのはヴィヴィさんだ。その内容は、疑うまでもなくそういうことだろう。
適当に“させとく”というあたりが自分でやる気はないのが出ているが、構わない。
俺が急いで手紙を書くよりも、きっと適当に適当な人に任せて相応しくしてくれるはず。
有り難くその好意を受け取ろうとすると、俺の代わりにブラッドが先に返答してしまった。

「悪いな。
 今日はあんたに構ってられない」
「うん、忙しそうだしいいよ。
 またね、ブラッド」
「ああ、またな」

そうして、惚れ惚れとするほどにさらりと別れを交わして、ヴィヴィさんは出て行った。
急き立てられるように荷物を作り、そして引き摺られるように俺は馬に乗せられた。
外に待っていたのはアレフ一人と馬が2頭。早駆けの出来ない俺は、荷物として扱われ。
慌ただしく向かったのはウォルタランド南西。グランタロス湖にほど近いベリアスの森だった。





騎士団が、騎士団として移動するときの速度は決して早いものではない。寧ろすごく遅い。
災厄の預言でもない限りは、大人数で野営の準備や訓練をするのだからそれも当然だ。
長期間の遠征なのだ。必要以上の疲労を溜めることも、危険を侵すこともできないのである。
大人数が食べられるだけの食料を集め、そして次の日に影響が出ないように用事を溜めない。
それが騎士団の旅の仕方である。急ぎはするけれど、ある意味で非常に用心深いのだ。

しかし今回は違う。急ぎであるし、訓練をすることもない。そして何より人数が少ない。
例え俺という足手纏い……というか正しく荷物が居たとしても、大ベテランが二人なのだ。
俺から見れば無尽蔵としか思えない体力で移動し、適当にいた獣をさぱっと切り捨てる。
まともに捌く手間さえ面倒くさいと言わんばかりに、大雑把な肉の塊だけ焼いて食べる。

なんというか、強行軍過ぎて途中からは半分意識が飛んでいた俺。もうおっさんである。
けれど、その強行軍のお蔭で、僅か2日後にはベリナス森の端にはたどり着いていた。
ブラッドに導かれるままに、森の村にも寄らずに、更に緑の深くなる森の奥に連れられる。
流石に不安になってきた俺も、しかし二人の異様な雰囲気に口を挟むことが出来なかった。

大型の魔物なんて出てきていない。この二人を止められるような存在はこの場にいない。
それなのにピリピリとしていて、只管先を急ごうとする。俺はついていくのに必死である。
何を焦っているのだろう。何を怯えているのだろう。そう思うほどに、不気味であった。
追い詰められているように感じて、時折誰もいないはずの後ろを振り返り、確認した。

「――こっちだよ」

道すがら合流したのは、ニンジャのユマである。彼女の先導で、俺たちは森を進んだ。
つい先程までピリピリとしていたブラッドとアレフも、ユマと合流したことで少し落ち着いた。
「まだ大丈夫」という言葉で雰囲気を和らげる様子は、まるで危篤の病人がいるようだった。
少なくとも最初に言っていた様に、“見て欲しい場所がある”ような雰囲気とは思えなかった。

幾らかの休憩を挟みながらも、疲労困憊の俺が連れられたのは何の変哲もない泉だった。
ユマとブラッドの会話によると、近くで団員が見張りをしているそうだが、俺には判らない。
それにしても、どうしてこんな場所なのか。別に見た目的に綺麗だとかそういうわけではない。
ここだ、と最初にブラッドが言ったとき、俺はここで野営をするのかと思ったほどである。

荷物を預かるというアレフに、微妙に違和感を感じながら、俺は泉に何があるのかと近づいた。
水は文句なしに澄んでいる。しかし、別にそんなのはそこまで珍しいものでもないと俺は思った。
深さはそれほどでもないし、規模としても決して大きくはない。やはり特別なものではない。
ただ、敢えて言うなら水の流れがないことが少し不思議だった。地下水なのだろうか。

「――それで、ブラッド。
 俺に何が見せたかったんですか」
「……この泉だ」
「何の変哲もないように見えますけど……」
「もう一回見直せって」

不思議と言葉を濁したように感じるブラッドを問い詰めようとするが、アレフが割り込む。
視線を向け合い、直ぐに俺が根を上げた。今の体力と気力では、にらみ合いなんて出来ない。
どちらにしても状況を理解しているのは相手の方なのだ、逆らう必要もないだろう。
アウェイに過ぎる俺と、ホームに近いアレフでは、元々の条件も俺にかなり不利だった。

そうして俺は膝をついて泉を覗き込む。やはりなんのおかしい場所も見当たらないと思った。
魚や虫も……一匹も見当たらない。まさか毒の類かとも思ったが、どうなのだろうか。
毒の類だとしても、俺に何ができるだろう。薬師ではあるが、専門の魔術師には勝てない。
やはり、何故ここなのかが判らない。そう思った時に、俺の肩に誰かの手が乗せられた。

「――判るか?」
「何をですか、アレフ。
 何を見せたいんですか?」
「だからよく見ろって」

掛けられた声で、それがアレフの手であることを理解した。小さく体重を掛けられている。
判るか、と聞かれても何についてのことなのかがまず判らない。見れば判るというのか。
仕方ない。言われた通りに、もう一度覗き込む。動いた態勢に、アレフの手もついてきた。
身を乗り出して、そして水面に映る自分の顔を見る。いつもと変わらない、見慣れたものだ。

――その時だ。急に体勢がおかしなことになった。後ろから掛けられた力に前のめりになる。
水面が近づく。俺の顔が近づいていく。押しているのはアレフの手だ。焦る俺の顔。
何処か遠くを見ているようなアレフの顔を最後に見て、俺は泉の中に押し込まれてしまった。

水面に顔がついたその時に、最低限の理性が働いて息を止め、目を閉じた。苦しくはない。
だけれど、俺を押し込む力はまだ弱まらずに、ついには残った身体全部が投げ込まれる。
その時には、流石に止めていた息も続かなくて、毒かもと思いつつも、思わず水を飲み込んだ。
身体全体が泉に浸かった時に漸く身体を抑える力もなくなっていた。噎せながら立ち上がる。

濡れた服がうっとおしい。滴る雫が、俺の頬を撫でる。顔を拭きながら振り返る。
髪をかき揚げて、取り敢えず実行犯をにらみつける。悪びれた顔をした34歳の男だ。
こんな悪戯になんの意味があるのか。人に苦しい思いをさせて、一体何がしたいというのだ。
そう思って、首謀者だろうブラッド団長を見ると、なんとも言えない不思議な表情だった。

すごく嬉しそうな表情だと思った。少なくとも、笑顔に近い感情がそこにあると思った。
けれど、その中にあるのは寂しさだと感じた。一抹の不安を感じて、俺は少し意気を呑まれた。
それでも、このような狂行について、流石に全く怒らない気もなれない。苦しかったのだ。
だからこそ睨んでいたのに、その視線も穏やかな瞳に流されて、意味を無くしそうだった。

「――間に合ったみたいだな」
「そうだな、団長」
「……何の話をしているんです、お二人共。
 理由を説明してくれますか」

被害者を差し置いて、何の話をしてるのだ。まずは謝罪からするべきではないのか。
いや、この際謝罪などどうでもいい。取り敢えず、なんでこんなことをしたのか説明を。
俺が出せる一番静かな声でした要求は、アレフの「下を見ろ」という言葉で返された。
下を見たところで、ここにあるのは精々が泉だ。そう思いながらも従って――目を疑った。

見慣れない顔がある。見覚えのある顔がある。自分だけど自分でない、そんな顔があった。
最初は驚いて、そしてだんだん理解の色をそこに増し、呆気に取られた顔は絶望に染まった。
これは、間違いなく俺の顔だ。俺の感情と同じものを浮かべた、過去の俺の顔がある。
10代の中頃と思わしき、俺の顔。冷静になった頭が漸く答えを出した。ここは若返りの泉だ!

近くで、ブラッドとアレフの声がする。だけどそれはまるで別世界のように遠く聞こえた。
“素直に言ったら嫌がると思って”“騙すつもりはなかったんだ”耳に入っても頭に入らない。
いや、実際には理解もしている。それでも、思考と感情は中々現実には追いつかなかった。
ただ一つだけ思ったのは、俺の23年間が纏めてひっくりがえされたということだけだった。

「――なんで、俺を」
「決まってるだろ。
 俺の代わりはいても、リュートの代わりはいない」

思わず漏れた疑問に答えたのは、アレフだった。その口ぶりからすると、騎士団の為らしい。
そうか、騎士団の為に俺は若返らされたのか。アレフと俺と、どちらかを比べられたのか。
代わりがいなければ、俺は働かせ続けられるのか。重ねた年齢をひっくり返されてまで。
なんだ、これ。まるで俺の意思がどこにもないじゃないか。これは本当に人間の扱いなのか。

「……騎士団のため、ですか」
「ああ」
「人の人生を狂わせるんですか。
 世界のために戦う、騎士団の為に」
「ああ」

信じられなかった。そんなことをする人じゃないと、そんな盲信をしてはいなかったけれど。
必要があればする、それが騎士団には必要なことで、それは俺も例外ではなかったらしい。
静かな声が不思議と俺の口を滑らせる。理性よりも感情よりも、それよりも口が先に動いた。
既に何を言っているのか、自分でも判らない。こんな激情したのはいつぶりのことだろう。

「それは、本当に正義なんですか。
 それが世界の為なんですか」
「……」
「それがあなたの正義なんですか。
 ブラッド、本当に?」

俺は、一体何を信じていたのだろう。何でこんなに悲しい思いをしているんだろうか。
判らないけれど、ただ悲しい。こんな選択をしたことも、こんな選択をされてしまったことも。
俺を見つめるブラッドの瞳は、悲しみすらなかった。静か過ぎて、俺には判らなくなった。
「それは」と口を挟もうとしたアレフに視線をやる。口篭るアレフを尻目に、俺は続けた。





「アレフに聞いていません。
 答えてください――ブラッド団長」
「……ああ、そうだ。
 世界のために、あんたが必要だ」





――ああ、そうか。と俺は思った。なんだか、身体中から力が抜けてしまったのだ。
そこまで言い切られてしまっては、何も言うことなんてない。俺の意思なんて関係ない。
もう済んだことで、これからも惰性で続いていくことなのだ、と俺は思った。
世界が理由なら、仕方がない。それの犠牲者が俺であったのが、まだましだと思えた。

「次は俺の番だからな」そう言って笑うアレフは、僅か4年後、38歳で退団を迎えた。
後は任せた、と何処かで聞いた台詞を残して、彼は故郷バルクウェイに去っていった。
その背中はやり遂げた輝きと、重い荷物を手放した軽さがあって、今にも羽ばたきそうだった。
彼の役割はサムライのスルギ・ウォスマと、そして俺に引き継がれ、また騎士団は変わった。

レオだけではなく、アレフにも。置いていかれただけではなくて、託されてしまった。
段々と、俺の背中に背負うものが大きくなる。俺は俺だけでなく、他の誰かでもあった。
最初から人ではなかったらしいけれど、それにも増して、俺は一人の人間ではなくなった。
世界を超え、年齢を超え、俺は騎士団を成立させる機能を持った賢者になってしまった。
まだ、騎士団の戦いは終わらない。俺の戦いも、ついに何時まで続くのか、判らなくなった。





[37010] 6話 1070年 王都ヴァレイ2
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/05/19 17:59



二つ目の若返りの泉が見つかったのは、俺がまた30を少し越えた頃の話だった。
今度は誰かと比較されることもなく、俺が選ばれた。スルギが一も二もなく辞退したのだ。
あるがままを肯定し、無常であることをその信条とするサムライなのだ、当然の話である。
結果として、俺はまた15歳からやり直すことになった。胸糞悪さに吐きそうになった。
既に、ここに俺の意思が介在する余地なんてどこにもない。それもまた、虚しく思えた。

アレフ・バルハンが退団し、騎士団の中でブラッド以外では俺が一番の古株となった。
ユマ・ランカンが退団し、ついにスクーレからの団員は俺一人残して、全てが入れ替わった。
騎士団の中心はスルギ・ウォスマが継承し、より広い世界の中で騎士団は戦っていく。
俺の感情だけを置き去りに、世界も時間も騎士団も俺の役割も、また新しい局面を迎える。

少しずつ広がっていく黒の霧。出没する魔物は時とともに力を増して、世界は荒れていく。
時間は流れ、みんなが歳を取っていく。子どもが大人になり、そして子を成して死んでいく。
今を生きる人にとっては、生まれた頃から騎士団は存在して魔物を倒し続けている。
例えその中身が変わったとしても、騎士団は“騎士団”であり、彼らにとっての助けであった。

騎士団の内実よりも遥かに大きな“みんなが期待している騎士団”が実物はなくとも存在する。
期待で作られた“騎士団”の大きなハリボテの中に、本当の騎士団は存在して戦っている。
それは丁度俺と同じで、ただ、ハリボテの持っている力や役割に振り回されているだけだった。
“いつか騎士団が助けに来てくれる”ことが、ギリギリの線で人の生活を維持することもあった。

みんなの言う騎士団がただのハリボテであることを、俺とブラッドだけが正確に把握していた。
けれど、そのハリボテが誰かを救けうるものであるから、俺たちは化けの面を守り続ける。
魔物を退治し続ける“騎士団”として、そして深謀遠慮を持ってそれを支える“賢者”として。
そんな役割を演じ続けることが、世界に必要だと思ったから、俺たちはそう振る舞い続けた。

勿論、ハリボテではない現物の俺たちに出来ることなんて、実際には本当に限られている。
騎士団は目の前にいる魔物を命を掛けて狩っていくのが精一杯であるし、それ以上は出来ない。
俺なんて騎士団についていくこともできないから、魔物に対して何かをすることも当然ない。
手の届く範囲にしか、本物の俺たちには手を出せない。だからこそ、ハリボテは必要だった。

ハリボテがあるから、名声や評判があるからこそ騎士団と世界の為、俺に出来ることもある。
メルセット魔法団や北方辺境警備隊、オトラ聖地守護隊など各地の戦闘集団と連携すること。
スクーレや王都の商会同士で協定を結ばせて、交通網と流通網を強固なものにしていくこと。
最初の一手を俺が打てば、結局みんながやりたかったことだから後は勝手に現実になっていく。
いつだって誰かが何かをするまでは、体制は変わらない。その引き金だけ、俺は引いた。

そしてそれは、騎士団が足と協力者を得ること以外にも、色々なことにつながっていく。
特定の職種で構成されがちだった各地の自警団で人材のやり取りが行われ、より強くなる。
商業圏が広がったことで、より働き手が必要になる。暗い世相が少しだけ明るくなる。
発展の行き着くべき方向を知っているからこそ、提案するだけでも現実を変えられるのだ。

世界は少しだけ発展を先取りし、予言への恐れとは裏腹に、加熱していく人々の人生。
引き金となった俺や騎士団の名声が強まり、そして更に大きなハリボテになっていく。
果たすべき役割ばかりが大きくなり、俺の実力も理性も感情も何一つとして追いつかない。
それでも走り続けなくては背中の重みで潰れてしまうことだろう。それだけは出来ない。
俺に託されたものは、立ち止まり潰れることなんて、許されるものではなかったから。





――その日は朝から不思議と少しだけ、ヴァレイの街がざわついているように感じた。
いつもの喧騒に加え、言い争う声が絶え間ない。怒鳴り合う声もどこかで聞こえた。
ピリピリしているような感覚が街中を駆け巡っていて、伝染するように、広がっていた。
慌ただしく焦るような、それでいて小さなことで妙に激昂しているような、そんな感じ。

何かあったのだろうかと思案するけれど、特に思い当たる節は少なくとも俺にはない。
極端に治安が悪くなるような話は聞いていないし、商隊や移民が暴れているのだろうか。
それにしては局所的ではないなと頭を振って否定する。市場だけでなくもっと広い範囲だ。
まあ、いい。どちらにしても、俺にできることはないし、一過性だと信じるのみだった。

元よりなんの特別な力も持たない俺は、誰か力を持つ人に影響を与えることしか出来ない。
けれど、今回は事情も判らないし、誰が関わっているのかも予想することすらできない。
頼りの騎士団は、1070年の予言に立ち向かうために港街イルグールに向かってしまっている。
そうなれば、こういう日は巻き込まれないためにも、人ごみを避けるのが鉄則だと思えた。

商会の手伝いや習いに来た生徒たちを早めに帰して、騎士団本部の鍵を掛けて回る。
昔と違って、ここに住み込んでいるのは俺だけだ。なれば、用心するのも当然である。
幸い、ブラッドたちがいないのならば当分買い物が必要ないぐらいの蓄えは備えてあるし。
水源も引き込んでいるから、それこそ本当に外に出なくても、数日間なら問題はなかった。

それぐらい用心していたのは、今回の予言は魔物に煽動された人間が相手だったからだ。
ブラッド越しの、女神アリアがもたらした情報を信じるなら、これからは人間も相手らしい。
何十年も昔で記憶は薄いが、確かにそういうことがあると、残した記録には書いてある。
人間に剣を向けるブラッド達の心境は、どうなのだろうか。俺には心配する事しかできない。

とはいえ、予言の対象となっているのはイルグール、俺の住む王都ヴァレイからは遠い。
流石に予言の魔物ではないだろうし、王都には王都親衛隊や冒険者など、戦える人間もいる。
ただの人同士の争いなら心配するまでもなく、大型の魔物でも大事にはならないだろう。
それでも、予言の魔物だとしたら、と。取れる対策なんて、引きこもるしかないけれど。
そうして一人の一日を静かに、その時までは、遠くの喧騒を聞きながら過ごしていたのだ。

やばいな、とようやく俺が思い始めたのは、日が落ちてそれほど時間が経たない頃だった。
やがて沈静化するだろうと思っていた騒ぎは、夜の帳が落ちてからより深刻なものになった。
単発で、一つ一つは小さかった音が、どこか統制された組織だった音に変わってきたのである。
それが商業区から離れているはずの騎士団本部まで近づいてきたのだから、背筋が凍った。

何が起こっているのか。状況によっては、閉じこもっている訳には行かないかもしれない。
そう思って、この建物の中で一番見晴らしのいい、屋根裏倉庫の小窓から外を覗きみた。
……特段、特別でない住人が暴れている。冒険者でも、スラムの住人でもなく、ごく普通の。
個人個人の顔は特定できないが、徒党を組んで家々を襲いかかる姿は、暴動そのものだ。

暗闇の中で放たれた火に照らされた顔は、その服格好に似合わない、狂気の色である。
近衛騎士は、冒険者たちは一体どうしているのだろうか。彼らを止めないのだろうか。
そう思ってはみたが、数が多い。数十人の束が、幾つかの家をそれぞれ襲っていた。
手並み自体は騎士団を見慣れている俺には拙いものであるが、中々止められないのだろう。

何が目的なのかは判らないけれど、一つだけ確かなのは煽動している誰かがいることだった。
やり方そのものは稚拙でも、組織だった行動で同様の襲撃など、自然発生ではできない。
だとすれば誰かが、何らかの目的でやっている。それが魔物か人かに関わらず、危険である。
俺自身が目標だとは思わないけれど、巻き込まれたら即死レベルなのは間違いなかった。

けれど、対抗する手段など思い浮かばない。暴動が始まる前なら多少はあるかもしれないが。
調子づいた集団を止めるには結局はそれを上回る力で対抗するしかなく、俺にはできない。
今、俺に出来ることで最優先にするべきなのは、俺自身の身の安全を確保することだけだ。
ここが標的になる前に、逃げるか。しかし、あの集団のどれかにあった瞬間に終わりである。

だがこのままこの場所にいることは、この建物が対象になった時に全てが終わりになるのだ。
対象にならない偶然に期待しなければならないのは、対応として間違っているだろう。
決断するなら、まだ誰も襲いかかっていない今のうちである。どこに、どうやって逃げるかだ。
まさか何時まで続くのかも判らないのに、闇雲に逃げられるわけがない――と思った時だ。








「――こちらです、リュウタ・コウズケ。
 この場所から離れましょう」








……その名前が、俺のものであることを頭が理解するまでに、体感で5秒はかかった。
誰もいるはずのない後ろから聞こえた若い女の声に、振り返るまでに更に5秒はかかった。
結局その人がいったい誰かを確認するまでに、10秒以上の時間を掛けて、俺は見た。
白い衣を身につけたその女は、見た目こそ若いけれど、それ以上に確かな存在感があった。

一目見た瞬間に誰か判った。例え会ったことはなくとも、間接的に40年の知り合いだ。
亜麻色の髪は長く、白い肌は輝くような純白に包まれて、少なくとも人の美しさではない。
嗚呼、この人が。この人がそうなのかと、ふと現実を忘れて、俺は見入ってしまった。
女神アリア。いつの間にか、俺は口に出していたらしい。彼女は小さくうなづいた。

「リュウタ。
 ここにいては危ないわ」
「……あ、ええと……はい。
 何が起こってるので?」

もしかしたら、この人なら状況を知っているかもしれない。というか、知っているだろう。
何が起こっているのかを把握していなければ、態々こんな場所にいるはずもない。
事情を知りたいというのも勿論あったが、それ以上に逃走経路を考えなくては行けなかった。
ならば、どこまで、いつまで逃げればよいのかを、知っているならば聞いておきたい。
他に聞きたいこともあるけれど、言葉が出なかったし、そんな余裕は今はないと感じた。

「……予言の影響です。
 魔物の力が、ここまで及ぶのは予定外でした」
「本体は、イルグール、ですか?」
「ええ、夜の魔力が後押しをしたのでしょう。
 朝まで、この騒ぎは続きます」

やはり、予言か。ここに本体がいないのは、状況としては大分マシな方であると思えた。
騎士団ももうそろそろイルグールに着いているだろうし、朝までという時間も長くはない。
……ってイルグールに本体がいるのに、この人がここにいても構わないのだろうか。
いや。今はそんな場合ではないだろう。魔物の仕業なら、ここが襲われるのも時間の問題だ。
結局、魔物にとって邪魔なのは騎士団なのだ。騎士団を弱体化させたいなら、狙うはず。

「――朝まで、なんですね?」
「陽の光がさせば、正気に戻るでしょう。
 それまで何処かに隠れられますか」
「朝までなら、なんとか」

朝まで、という限定であるならば。襲われそうな場所を離れ、何処かに隠れるだけである。
人の多い町外れの住宅街や、商店街と職人街を避ければ、どこか適当な場所はある。
逃げるとするならば……近さも考慮すると倉庫街だ。ウチの倉庫ではなく、知合いの倉庫。
再度振り返り、チラリと見下ろした外の光景は、更に火災で明るくなっていた。

先程までよりも、ここに人の波が近づいてきている。今すぐ逃げるのが賢いだろうな。
朝になれば終わるのならば、際立った荷物も必要ないだろう。貴重品だけでいいはずだ。
経路的にも、場所的にも、危険がないわけではないが、決して無理な行程ではなかった。
小さく息をつき「よかった」と微笑んだ女神は、強い意志の瞳で俺の逃走を促した。





「――ありがとうございます。
 お蔭で助かりました」
「いえ。
 貴方を失うわけにはいきませんから」

逃走自体は、それほど困難な道のりではなかった。俺にとっては30年住んだ街なのだ。
小走りに裏道と側道を進む俺に、女神アリアは見守るかのようにふわりと浮かび付いてきた。
時折、右手の道に誰かがいると助言をしてくれたりと、本気で俺を助ける気のようだった。
知合いの商会の、倉庫とは名ばかりの事務所に紛れ込む俺に、最後まで付き合ってくれた。

逃げ込んだ倉庫は、倉庫街の中でも街の外により近い地区。倉庫よりは出納用の事務所だ。
割と雑多で、それほど高額でない商品の臨時引受と管理をするだけの、小さな倉庫。
だからこそ事務所の鍵も倉庫の鍵も簡単。事務所の鍵なんて、外に隠してあるほどだ。
倉庫ですら、コツを判っていれば簡単に開く。実は鍵すら必要ない程度の機密度である。
まあ、そうであるから今回も逃げ込む場所にできたのだが。今度お礼でもしておくべきか。

多少息が上がって肩で息をする俺と対照的に、女神は穏やかに微笑みながら俺を見ている。
その表情は、慈しむという言葉が非常によく似合うもので、母親にもこんな顔はされなかった。
この人には、俺なんてまだまだ子どもみたいなものなのだろうか。一応60は超えたが。
……はて。この人は、こんなに穏やかな人だったのだろうか。想像とはだいぶ違っている。
ブラッドから聞いた話だと、頑固で分からず屋だという話だったが――そうだ、ブラッド!

「――その、ブラッドについてなくて良いので?
 予言が迫っているのではないですか?」
「構いません。
 貴方を助ける方が、重要です」

本心からそう言っているらしい女神に、どれほどの過大評価しているのかと不安になった。
若干顔を引きつらせかけた俺に、女神はもう騎士団はイルグールで戦いを始めたと言う。
私に出来ることはもうありません、と言った彼女の顔は、可憐さと清々しさに満ちていた。
それに、と。女神はその顔に小さくいたずらな笑みを浮かべ、俺にその濃茶の瞳を向けた。

「ブラッドなら大丈夫。
 あなたもそう思いませんか?」
「……や、それには同意しますが」

なんというか、居たたまれなかった。騎士団、というか。ブラッドを信用しているのだろう。
その照れくささを微塵も感じさせない純粋な感情が、小っ恥ずかしさを感じるのと、もう一つ。
……友達より、兄弟や家族という言葉が合う人と、恋愛関係にある人と実質初対面なのである。
いや、実際にはまだそこまで関係が進んでないのかもしれないけれど、何れはそうなるのだ。

というか、今の言いようから考えたとしても時間の問題で、彼らにはまだまだ時間がある。
なんだよ。ブラッドも、俺に愚痴を言ってると見せかけて、ただ惚気てたんじゃないか。
これは、ヴィヴィさんも勝ち目なんか既にない。だからこそいい関係なのかもしれないけれど。
俺にはそれがいいことなのか、悪いことなのかは良く判らないし、言葉にならなかった。

「……ところで、妖精はどこへ?
 いつも一緒にいると伺っていましたが」
「フィニーには助けを呼ばせました。
 騎士団は、まだ戻ってこられませんし」

自分の思考と、それと色々な居た堪れなさを誤魔化すために、俺は適当な疑問を口にした。
もしかして、女神の代わりに騎士団を助けているのかと思っていたのだが、違っていたらしい。
誰を呼ばせたのかは知らないが、彼女は自身とその伴の両方を、俺を助ける為に使っている。
それは、彼女の持ってる手札のほぼ全てだろう。女神も、俺を必要だと思ってるのだろうか。

「――あなたの話は、ブラッドから聞いていますよ。
 ブラッドを助けてくださって、ありがとうございます」
「あなたと話すのは初めてですね、リュウタ。
 こちらこそ、世界への尽力に感謝を」

長い騎士団との生活の中で、お互いのことを知っていても、向き合ったことは一度もなかった。
俺は彼女を画面越し、そしてブラッド越しに知っていた。騎士団をどう導いているのかも。
彼女は、俺をその目で見ていたかもしれないし、ブラッド越しに知っているのかもしれない。
会ったことはなくても、同じ道を歩む人だ。お互いに思うことはあると思うけど、感謝もしている。
そう思って言った言葉は、俺を真っ直ぐと見据える静かな瞳で迎え入れられ、飲み込まれた。

「――本当に感謝しているのですよ、リュウタ。
 あなたのお蔭で、騎士団は大きく変わりました」
「いえ、俺は――」
「私は。私はブラッドから教えられたのです。
 だから、私はあなたに伝えなくてはならないことがあります」

感謝の言葉を重ねられ、そしてどこか憂うような瞳には、俺は嫌な予感を隠しきれなかった。
きっと、この先の言葉は俺は聞かない方がいい。そう断言できるほどに、強く直感した。
勿体づけられる言葉はいつだって、俺にいい感情をくれたことなどなかった。それが常だった。
それだというのに、女神はその口を更に動かす。俺に知りたくもない事実を告げるために。





「――あなたを騎士団に誘わせたのは、私です。
 あなたを引き止め続けさせたのも、私」
「……」
「あなたを若返らせたのも、全て私。
 他の誰よりも、あなたは騎士団に必要だったから」





――知っていた。そうでなくても、判っていたことだ。自分の価値は自分が一番知っている。
俺自身の自己評価はともかくとしても、俺はレオに並び、アレフに並び、そして今もここにいる。
それは間違いなく、騎士団基準での“逸材”で有り続けたことと同じだ。だから、当然のこと。
女神は世界の為に、騎士団を強くし続けるのだ。それは誰からも咎められることではなかった。

ただ。それを彼女自身がそうさせたということは、見通す瞳を持つ彼女がいったということは。
これは、そうなる“流れ”というものを、彼女が騎士団の為に用意したのと同じことだ。
手のひらの上。その場所で、俺を踊らせ続けてきたことを、彼女は今、俺に対して告げている。
嫌味とか悪意のある声ではない。ただ、本当に辛そうなのが、俺にとっては受け入れ難かった。

「何故……そんなことを。
 何故今おっしゃるのでしょうか」

正直、言わなくてもいいことだと俺は思った。少なくともこんな場所で言わなくてもいい。
もしかしたら俺が悪感情を抱くなどということを、欠片でも想像しなかったのだろうか。
一応、状況や関係性というものを理解しているから、無駄な争いをするつもりはないけれど。
彼女の意図がつかめなくて、俺は女神を訝しむ。そうして、彼女は寂しそうに笑った。

「――36年の災厄で、言われたのです。
 “リューと違って、あんたは何をしてくれた”と」
「…………え」

呆気に取られた俺を尻目に、女神は小さな昔話をする。騎士団と関わると決めたときのこと。
あの時、騎士団は時計台から連れさらわれたマユラを助ける為に、西の砦に向かおうとしていた。
女神はブラッドに“今、本部に戻れば”騎士団にとってより良い未来があると伝えていたらしい。
それは、俺が手配していたことだけではなかった。俺自身の入団も含めての話であったのだ。

俺が死ぬまで俺の全てを騎士団に捧げさせる。王都の災厄の後に、ブラッドに告げた言葉。
ブラッドはその時初めて、女神に怒りを直接向けたのだと、どこか懐かしそうに彼女はいった。
存在が確立してから初めて、他人と比較された女神は、全てが揺らぐような思いをしたそうだ。
限りある命を捧げることしかできない人間と比べられて、漸く人生の重さに目を向けられた、と。

「人が、世界に尽くすのは当然だと考えていました。
 決意や覚悟なんて、必要ないものと」
「……」
「ブラッドが怒るのも当然のことです。
 あなたは、人生まで掛けてくれたというのに」

そう言って、憂いでしっとりと濡れた瞳を俺に向ける。そんな目で俺を見ないで欲しかった。
判らない。俺は本当に人生を掛けたのか、本当に世界の為に掛けたのか、俺には判らない。
人の命は何かをなすためには短すぎて、その人生を掛けなければ何かを変えることなんてできない。
だけど、俺は何も変えてこなかった。俺は自分がやりたいように生きているだけの積もりだった。

「この30年、あなたをずっと見てきました。
 ……ごめんなさい。だけど、ありがとう」
「……なにが、です」
「私だけでは、ブラッドを支えられなかったから。
 あなたに救われた人は少なくありません」

だから、ありがとう。そう言って女神は美しく微笑んだ。綺麗すぎて、儚くすら思えた。
果たして、そんな言葉が向けられる程の価値が俺にあるのだろうか。俺にはやっぱり判らない。
自分の立ち位置が、この歳になってもまだ不安になる。いつか変わる日がくるのだろうか。
何時か、この生き方で良かったと思えるのだろうか。女神はですが、と小さく呟いた。

「ごめんなさい、リュウタ。
 恨むのなら、どうか私を恨んでください」
「……いえ。
 今更、ですから」

この人は、卑怯だ。そんな風に言われて本当に恨めるのなら、俺は最初からここにいない。
それに、流れてしまった時間は取り戻せない。起こってしまったことに取り返しなどつかない。
……結局は、既に過ぎ去ってしまったことで、その全ては自分が決めてきたことだから。
女神が導いていても、俺を誘い、引き止めてきたのはブラッドだ。彼女の責任とは思えなかった。





朝までまだ時間があるからと、眠るように促す女神に俺は甘えた。正直疲れていたからだ。
今の身体こそ、まだ20代前半ではあるが、それでも鉄火場には耐性があるわけではない。
そうして一度は目を閉じ、まどろみに揺れていた俺の意識も、近くなる喧騒でまた覚めた。
眠い目をこすり、隣りに座ったままの女神を見ると、どうにも状況は良くなさそうだった。

「――何が……?」
「……どうやら暴徒が近づいてきたようですね。
 気付かれないと良いのですが」

眉を顰めた女神は不安そうには見えないが、真剣な顔で俺を見返してから小さく微笑んだ。
大丈夫ですと言わんばかりのその表情は、どこか無理をしているように感じて、儚い。
本部の時とは違って、外の様子が確認できないのが困りものだ。状況の進み具合が判らない。
再度逃げるのか、それともここで隠れ続けた方がいいのかが、俺には判断できなかった。

「どう、されますか」
「助けを待つべきですね。
 もうすぐ来ます」

どうにも人のことを言えないけれど、他人任せといった感じの言葉に不思議な感じがする。
女神というのだから、何か出来ないのだろうかと期待をしなくもないが、ないなと頭を振る。
こんな状況で何かが出来るのであれば、そもそも騎士団に頼らずとも予言を回避出来る。
精々が、運命に関わったりする能力を持っているぐらいだろう。全知全能などでは有り得ない。

そう考えてしまえば、女神も騎士団の為に力を尽くしていることにはやはり間違いなかった。
人材を集め、そして災厄の時までに必要な状況を創りだす。俺のやっていることと大差はない。
そこに、俺は人間としての縛りに、彼女は女神であることに、縛られているだけなのだろう。
無力さに苛まれること。自分の行為に後悔し続けること。彼女に、少しだけ親近感が湧いてきた。

「――もっと前から話したかったですね。
 ブラッドへの愚痴とか、話題はありますよ」
「まあ。
 私はブラッドに不満なんてないわ」
「あの朴念仁ですよ。
 気が利くかと思えば、利かないし」

多分、きっと。もっと早くに会えていれば、何かが変わっていたのかもしれないなと思った。
お互いに一人で悩むことも少なくなっていただろうし、予言への対策も取りやすいかもしれない。
少なくとも、俺と女神が明確に協力していれば、ブラッドもそこに口を挟むことはないだろう。
今よりも、これからだ。これから一緒に二人でブラッドと騎士団を支えていけばいいと思えた。

「――それ。
 あたしも混ぜて欲しいなぁ」

その時、だ。倉庫の奥まった場所に座っていた俺たちの元に、静かに声が聞こえてきた。
声が発された元は、この倉庫のたった一つの出入り口。鍵が掛かったままの事務所への扉。
こんな状況で、そして唐突であったのにも関わらず、俺たちは緊張感を抱くことはなかった。
かちゃり、かちゃりと見えない力が鍵を開けて、そうして扉がゆっくりと開かれた。

「お待たせ。リュート、アリア。
 助けに来たよ」
「ヴィヴィさん」
「あたしを置いてブラッドトークとかさせないからね。
 ブラッドはあたしのなんだから」

そう言って、大魔女のヴィヴィはヒールの音も高らかに、寂れた倉庫へと入り込んできた。
派手なファーコート、大きな高帽子。華やかな容姿はどう見たって、こんな場所は似合わない。
ま、それを言ったら女神だってこんな場所は似合わないが。似合うのは、俺ぐらいである。
麻袋や木箱をそのブーツで避け、時折蹴り進みながら、倉庫の中央に仁王立ちをした。

「さて、移動しましょ。
 そろそろ状況が変わるからね」
「……どうなってます?」
「漸く対策が取れたってことよ。
 巻き込まれないウチに離れるよ」

そう言って、ヴィヴィさんは俺と女神を立たせる。長時間座っていたのでフラフラした。
巻き込まれるということは、この辺りが騒ぎの中心になるのか。追い詰めるのだろうか。
どこ主導で、どうするのかは気になるけれど、今はそんな状況ではないと聞くのを止める。
チラリと見た女神も、穏やかな表情で頷き返すから、ここはヴィヴィさんに頼ることにした。

「それで、どこへ?」
「裏道通って教会。
 そこまで行けば、なんとかなるわよ」
「……商業区通りません?」
「状況が変わったの」

人通りが多い場所は避けた方がいいのではと思ったが、彼女が言うならそうなのだろう。
残念ながら、状況の把握具合やそういうお仕事に関して、俺が大魔女に勝てる要素はない。
……教会の神官と僧侶が中心なのかとは少し思ったが、それを裏付けるものは特になかった。
ただ、余り治安が良くない場所を走ることになるのだけは、今の状況でも少しうんざりした。





愛用のホウキに腰掛けて、低空飛行で街をゆっくりと飛ぶ永遠の大魔女ヴィヴィ・オールリン。
見えざる翼を優雅に羽ばたかせ、これも静かにふわりと俺の後ろを付いてくる女神アリア。
そして、地面をバタバタと音を立てて走る俺。見た目的にも、内実的にも優雅さが足りてない。
まだ23歳で良かったと思う。30後半でやれと言われたら、少し泣いていたかもしれない。

喧騒は、まだ近い。道を換えれば、あっという間に暴徒に出会い巻き込まれてしまうだろう。
そんな場所であるのに、ヴィヴィさんの先導は揺るがない。誰にも会わず真っ直ぐに進む。
不思議ではあるけれど、ある意味で一切不思議ではない。彼女なら出来て当然だと思った。
そうして、少しずつ騒がしさから離れていく。俺たちは、人の流れを逆流しているようだった。

「……本当に追い詰めてませんか?」
「教会と親衛隊主催。
 出資者は商会連合だからね」

それは、また。何というか豪華な顔ぶれというか、実質上の王都の総戦力に近いのではないか。
近衛騎士団と冒険者を付ければ、完全に総戦力である。よくこの短時間で纏まったものだ。
王の一声でもあったのだろうか。朝までで終わるのならば、余り犠牲が出なければいいのだが。
流石に全部纏めて焼き討ちなどということはないだろうけど、気分はあまり良くはない。

「――大丈夫ですよ、リュウタ。
 犠牲は殆ど出ません」
「ま、ね。
 追い詰めて、結界で囲むだけだもの」
「……手を回されたので?」

聞いた言葉に、返事は返ってこなかった。それは、つまりは外れでないという意味だろう。
というか、倉庫街でやるのならば普通に商会連合が嫌がるだろうし、なんかあったのだろうか。
……ボランティア精神?なさすぎてびっくりした。後ろめたいことがあるのが、妥当か。
イルグールからの商隊が変なものを運んできたのかなと予測したけれど、現状では意味がない。

「……これから、ですね。
 何もかも」
「そうね。
 まだ続くもの」

何が続くのかは、お互いに明言しなかった。終わらないものなんて、幾らでもあった。
この裏道はいつか途切れるけれど、この騒ぎは朝になれば終わるけれど、それでもきっと。
幾つかの道を駆け抜けて、清浄な気配の帯を通り過ぎて、そして俺たちはまだ走る。
人の気配がなくなって、そして俺の足音と、そして荒くなった呼吸だけが響いていた。

一瞬でも立ち止まれば、息を付きなおすのに数分掛かるだろう。それ程に俺は走っていた。
立ち止まれない。酸素が足りてない。こんな場所で他の二人の足を引っ張れる訳がない。
男の子にも意地ってものがある。60歳を超えていても、弱みを見せたくない相手はいた。
そうして走り続けていた時に、俺は何処からか風切り音が聞こえた気がして、横に跳ねた。

「――――!」

爆発するような音を立てて、俺が進んでいただろう場所に長い棒のようなものが刺さる。
よく見直すまでもなく、矢であろう。嫌な予感には“立ち止まって”は逆に行けない。
それを聞いたのが、一体誰にだったかは既に覚えてはいないけれど、九死に一生である。
その人に俺は感謝でもなんでもすることにした。もしも、このあと生き残れたら。

振り返ったヴィヴィさんも、急には止まれない。それが乗り物であるから尚更だった。
矢の位置からはどこか高い場所からの狙撃だと判る。真っ直ぐと道の真ん中に刺さっていた。
横に跳んだ俺は壁際。そして、道の真ん中にはほぼ無防備な状態の女神が立ち竦んでいた。
次弾がこないわけがない。そう思ったときに、最期の酸素を振り絞って身体を動かした。





「――――――――伏せて!」





叫びながら、飛び込んだ。女神の身体を引いて壁際に連れ込もうとして、出来なかった。
あと一回を避けられたら、きっとヴィヴィさんがどうにかしてくれる。そう信じてた。
思っていたよりも女神の身体は暖かく、そして生きている重みがあって、軽くはなかった。
引き倒せないならば、と覆いかぶさるように俺は飛び込んで、歯を噛み締め目を閉じた。

……襲い掛かる衝撃と痛みは、鈍かった。そして、風切り音よりもずっと先だった。
点ではなくて面の衝撃に息を詰めながら、噎せるように目を開ける。目の前は空だった。
何故、と思った。倒れている俺が起き上がろうとするよりも先に、風切り音が貫いた。
一瞬の時間があってから、ばちゅん、という濡れた重い音が響いて、そして何かが倒れた。

「――この!」と何処かでヴィヴィさんの声がして、続くように爆音と光が走った。
荒れた呼吸と身体の痛み。このまま目を閉じれば楽になれると思いながら、身体を起こす。
このまま現実を見なければ、俺は辛い思いをしなくても済むと思いながら、目を開ける。
そうして見回した地面に倒れていたのは、赤で染められた純白の女神その人だった。





「無事ですね、リュウタ」
「――なんで」





貫かれたのは、胸。完全に貫通しており抜けるはずもない。それなのに女神は笑っていた。
状況的に、俺が倒れたのは彼女が俺を倒したからだ。彼女の表情が裏付けているように見えた。
血が地面に流れる。矢は刺さったままなのに、どうやら傷口はそれよりも大きいらしかった。
止血をしなければ、人ならば死ぬ。女神ならばどうかなど、冗談でも言いたくはなかった。

戻ってきていたヴィヴィさんに目を遣るけれど、眉を顰めた真剣な顔で頷きもしなかった。
ただ、行動にも移すことはなく、ただ横たわる女神を見ていた。握り締めた手が痛そうだ。
魔女は癒しの力を持たない。それは例え大魔女になったとしても変わらないのだろうか。
俺たちに出来ることは、正直なかった。後は、彼女の女神の力しか頼れるものはなかった。

「……治せますか」
「治せません」
「――なら、なんで!」

期待を込めて聞いた言葉は、さも当然であるかのように言う女神に、裏切られてしまった。
判っていて、そんなことをしたのか。判っていて、俺の代わりに射たれたというのか。
ふざけるなと思った。あんたは女神で、最後まで予言に関わる使命があるのに、と思った。
感情で動いたのなら馬鹿馬鹿しい話だった。けれど、それでも女神は穏やかに口を開いた。

「――私より、あなたの方が必要だから」

その言葉に、俺の頭は真っ白になった。何処かで聞いた言葉だと思った。それも何度も。
どれだけの人が、俺にその言葉を言っただろう。俺に、何かを託していったのだろう。
レオがいた。アレフがいた。ユマがいた。全ての団員と、協力者がそこにいた。
“俺”でない俺、賢者としての俺の中には、彼らがいた。彼らの意思がそこにはあった。

白かった肌は、透明に近づいていた。力をなくし、そして命の色をなくしていく。
身体中から失われていくものは、一体何だろうと思った。掬ってでも入れ直したかった。
先ほど感じたはずの暖かさは、もうそこからは消え失せていた。人形みたいだと思った。
それなのに、女神はゆっくりと震える手を起こし、屈む俺の頬に手を当てて、また笑った。

「ブラッドを、お願いします。
 困った人だから、あなたでないと」
「知ってるよ。
 あなたと一緒に支えてきたんだから!」

だから、俺だけでは支えられない。あんなに子どもっぽい300歳、面倒見切られない。
俺一人で何かをしてきたわけがない。あなたが予言を、俺が騎士団を見てきたのだ。
どちらが必要かなんて、ナンセンスだ。二人がいたから何とかなってきたというのに!
それなのに、彼女は本当に満足そうだった。悔いなんて何一つ残っていないと、笑った。








「――私には、あなたの代わりはできませんから。
 あなたに私の力を託します。どうか、世界を救って」








ふわり、と。一瞬、風が吹いた。
その直後に、視界を何かの花びらが埋めた。

白くて、柔らかな形をした大量の花びら。
暗闇の中なのに、それだけは以上に鮮やかだった。
その花が、百合であることに気が付いたとき、風が止んだ。

風が止んだ時、そこには女神の姿はなかった。
花びらも地面に溶け込んで、消えていく。

反射的に掴もうとして、既に一枚握っていた。
手を開き見ていると、俺の手の中で溶けるように消えてしまった。








「――――なんだよ、それ。なんだってんだよ!
 何押し付けてくれてんだ。無責任にも程があるだろ?!」








泣きそうになった。彼女の生きた証が何も残らなかった。俺は思うままに、叫んだ。








「世界なんて、遺志なんて、人に押し付けるものなんかじゃねえ!
 それなのになんでみんな、こんな簡単に押し付けるんだ!」








重すぎて、背負いきれないものばかり押し付けられてきた。その挙句がこれだ。








「俺は、あんたに、みんなに生きていて欲しかっただけなんだ!
 何で俺の中に任せるだけ任せて、満足して終らせるんだよ!」








悔しくて、悔しくて、堪らなかった。全部が、この手をすり抜けていなくなった。
それなのに、立ち止まれない。俺の背中には彼らの思いが全て掛けられていた。
最期まで、彼らの代わりに走り続けるしかない。足を止めることなど、俺自身許せない。
俺は、ヴィヴィさんが見ていられないと止めてくれるまで、その場で叫び続けていた。

朝になるよりも早く暴動は収まった。親衛隊の努力と、教会の結界術が解決をもたらした。
フィニーの案内と妖精の道を通った騎士団は、海路よりも遥かに早く戻り現状を知った。
未だ片付けが進まない本部の中で、女神の最後を聞いたブラッドは一言「そうか」といった。
ただ、それを聞いた時のブラッドの、一瞬の空虚な顔。それを見たヴィヴィさんの顔。
吐き捨てるように言ったヴィヴィさんの「勝ち逃げね」という言葉は、忘れられそうになかった。





[37010] 7話 1082年 王都ヴァレイ3
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/05/25 11:03



人の命は短くて、そして時代という大きな流れの前には、影響など僅かにも残せられない。
それはただの人でも、選ばれた勇者たちでも、そして女神アリアでも同じことだった。
どんなに重要な人間でも、それが必要であるからこそ、その立場は誰かにとって代わられる。
女神にとってのそれが、俺とフィニーであることが彼女の救いであればいいと思った。

俺は時が経っても老いない身体と、遥か過去の鮮明な記憶、予言を読み解く力を継いだ。
フィニーは人の運命を繋ぎ、広い世界の全てを見通し騎士団を導く力を受け継いだ。
女神が死んで、そして数日後に騎士団本部に現れた彼は、泣きはらした赤い瞳をしていた。
これからどうするのか、と。遠回しに彼に選択を委ねたのだけれど、彼は静かに言った。

「あんたに従うよ。
 アリア様がそうしろって言ったんだ」

その言葉を聞いて、俺は納得してしまった。彼の背中にも託されたものがあるのだ。
重すぎて、勢いで駆け抜けなければ動けない。同時に、それはすがりつくものでもあった。
立ち上がるために、前に進むために、例え重荷であったとしても必要であるのだろう。
その重さと、彼の心境には身に覚えがあった。フィニーとは協力出来ると俺は思った。

けれど、女神の力と立場を引き継いだ俺たちであっても、女神アリア本人にはなれなかった。
ブラッドは昔にも増して、空を見上げるようになった。そこには雲以外何もないのに。
祈りの森に行く回数も増えた。フィニーは本部に居着き、そこには誰もいないのに。
喪ったものは一体どれほど大きかったのか。生まれた隙間で想像出来てしまいそうだった。

予言を伝え対策を練る俺と、戦いの場にも付いていき、騎士団を導く妖精のフィニー。
例え不老になったとしても、俺が戦えないことには変わらず、遠征についていくことはない。
結局、世界は続いていく。たった一人を欠いてしまっただけでは時間は止まってくれなかった。
俺もフィニーもブラッドも、世界中の全ては走り続ける。その先に未来があると信じて。





「――状況は、どう?」
「最悪よりはまし、ですかね」

話し相手から目を逸らし、窓の外を見ると、昼間だというのにどんよりとした空が見えた。
最近では、すっきりとした青空など数える程だ。いいところ真っ白で、暗い灰色が常だった。
まるで世界の行く末を表しているようだ、と最初に言ったのは、一体どこの誰だったのか。
強ち間違ってもいないと思わされてしまうほど、憂鬱な気分になるのは間違いなかった。

空を見上げて気分が底に沈む前に、視線を室内に戻した。外が暗いから目を慣らすまでもない。
騎士団本部の、一回の一角に設けた小さな応接間は、他の場所よりも少しだけいい調度だ。
目の前で、その飾り彫りのなされた椅子に、足を組んで妖艶に座るのはヴィヴィさん。
促すような視線に小さくため息をついて、俺は聞かれたことに真面目に答えることにした。

「商会連合は落ち着いてます。
 酷いのは、教会と貴族たちですね」
「……話は聞いてるけど、そんなに?」
「余裕がある分、手当たり次第です。
 案内人を優遇し始めたりね」
「……あっちゃー」

ヴィヴィさんは、椅子に座ったままに天井を仰いだ。帽子から放たれた髪がサラリと揺れる。
投げやりになりたい気持ちは良く判る。時代の波に煽られて、まともな人間が減ってきた。
世の中に蔓延した終末の気配に、人々は酔い始めた。ふわりふわりと思考が狂っていく。
誰も、未来を信じきれない。悪い今よりも、マシな未来になるという希望さえ難しかった。

「奈落は、どうです」
「いつも通りさ」

何せ、あいつらはどん底には慣れているからね、とヴィヴィさんはサラリと言った。
未来への希望など元よりなくて、そこにあるのは欲望だ。尽きることのない原動力である。
だからこそ彼らはこの、凶悪な魔物が頻出し、黒の霧が人々を苛む狂った世界でも強い。
それを羨ましいといっていいのかは判らないけれど、ある意味で頼もしいと俺は思った。

世界は狂い始めた。異様な頻度で出没する魔物は、歴戦の勇者たちでも太刀打ち出来ない。
黒の霧と呼ばれる病は人々を無情に襲い続ける。最初は高熱、続いて黒い斑点と手足の震えと死。
魔物を退けられなかった街は壊滅し、辛うじて助かった人々によって、その恐怖は伝染する。
そうして逃げ場を求める人間たちに、広がる病はどこへ逃げても無駄であることを知らしめた。

ヴァレイとスクーレ、フェルミナの商会連合は、それでも冷静を保つ数少ない組織だった。
スクーレの裏表の両ギルドもそう。各地の自衛団の中には、連絡が取れなくなったものもある。
どこまで耐えられるか、どこまでなら規律を維持し、人間の生活を守り通せるのか。
それが、少しでも影響力を持っている俺たちが果たすべき、いなくなった人との約束だった。

「食料が回ってるからね。
 最悪、魔物だけ倒せばスクーレは持つよ」
「……頼もしい、ですね。
 商会次第といった訳ですか」

魔物からの安全、そして安定した食料の供給。それらが維持されていれば、人の狂気も安らぐ。
親衛隊と、近衛騎士団、教会がある王都。裏表のギルドとスクーレ騎士団があるスクーレ。
これに、商会連合が仕事を出来る間は、大陸中央部は潰れない。潰れたら人類は最後である。
連携を取りにくい各地の都市が零落していく中で、ここまで維持が出来たのは暁幸だった。

欲望が動力源になるスクーレはともかく、商会連合が活きているのは、黒の霧の影響が大きい。
他の集団に比べ明確に患者が少なく、人数が減っていないことが、彼らの組織力を支えていた。
奈落や親衛隊が率先して流通網を護ってくれることも、最後の砦の自覚を与えるのだろう。
結果として、昔からの権勢を維持することが出来ているからこそ、今の彼らの活躍があった。

それに対して影響力を失う一方なのは、王族を含めた貴族たちと傍観を続ける教会である。
自身の健康ばかりを気にして外に出ず、医者や神官、僧侶を招いて治療と祈祷をさせるばかり。
挙げ句の果てには終末思想のネルゴーの案内人まで、心の支えとさせている始末だった
その間にも人心は荒れに荒れ、税収は下がり続けている。今となってはいるだけの存在だ。
明確な方針を出さない教会も同様だ。現場は動くから、足手まといにならないだけましだった。

「後、17年。
 ……それまで保ちますかね」
「平気でしょ。
 黒の霧が悪化しないなら」
「そう、ですね」

今年は1082年。最後の予言までは後17年に迫っていた。それまで、人類は保つのか。
これ以上、黒の霧……伝染病が加速して広まらない限りは、俺とヴィヴィさんは行けると予想した。
その先にまだまだ戦いが続くと判っていても、そこまでを乗り越えられなければ意味はない。
――そう。女神アリアが死んでから、12年。世界の荒廃は止まらず、加速する一方であった。

「……もう、結構経つんですね」
「……アリアのこと?」

小さく漏れた声に、ヴィヴィさんは耳ざとく反応した。潜めた声で、静かに俺に聞いてくる。
俺は頷いた。お互いに、彼女について思うところがあるのには、少しも変わりなかった。
恐らく、きっと。交わした言葉は数える程でも、縁の深さだけなら、ブラッドに負けなかった。
その彼女がいなくなってから12年が経ち、世界は滅びの危機に瀕しつつも辛うじて継続していた。

「――何も、変わらなかったですね」
「そうだね」
「……寂しいですね」
「……そう、だね」

虚しいと思った。誰より未来を案じていた女神は、僅かな知人に哀しまれるだけで消えた。
“未来の為に”“世界の為に”“騎士団の為に”命を賭けて俺を救って、彼女は何を得たのか。
相も変わらず戦いは続いていて、平和など遠い幻想だ。見えない底までひたすら沈んでいく。
彼女の死は何かを変えたのだろうか。世界の前では、女神の命ですら塵芥に終わるのだろうか。

それを知るのは、この世界の結末を、最後まで見届ける権利と義務を持った俺たちだけだ。
けれど、最期を看取った二人なのに、彼女が俺たちの会話に上ることは今までなかった。
避けていた、としか言いようがない。避けられていたとしか、お互いに言いようがない。
俺とヴィヴィさんにとって、女神アリアという存在は余りにも大きすぎて、触れられなかった。

彼女のその死が、俺たちにとって重すぎる痛手になっていたことは、欠片も疑いようがない。
その理由はお互いに色々あるだろう。自責の念や、それともお互いへの遠慮とか、きっと。
今この時、ついに話題に出せたのは、時間が俺たちを漸く許してくれたからだと思った。
だから、俺は聞いた。この12年、どれほど気になったとしても、口に出せなかった禁忌を。





「――ずっと、気になっていたんです。
 あの時本当に、あなたは敵に気付かなかったのかなって」





ヴィヴィさんはその目を見開いた。その後直ぐに苦い顔をして、唇を噛み締めたようだった。
その姿を見てやっぱり俺は、ヴィヴィさんも、俺の知らない何かを背負っていたんだと思った。
考えても見なかったことというよりは、聞かれたくなかったことを聞かれた時の反応だ。
唇を噛んだまま少しの躊躇の後に、ヴィヴィさんは静かな瞳で俺を見ながら、重い口を開いた。

「――何故?」
「……判らなかったから」

端的にも程がある省略された質問を、俺は“何故そんなことを聞くのか”と思い、素直に答えた。
本心から、彼女を疑っている訳ではなかった。ただ、あり得ると思った時、俺は不安になった。
もしそうだとしても、何が変わるわけでもない。過去はやり直せないし、失ったものは戻らない。
だけど。もしも女神が死んだことに何かの理由があるのなら、俺には知る必要があると思った。

あの時、あの場所にいたのは俺とヴィヴィさんと、そして女神アリアと襲撃者の4人だった。
結局、ヴィヴィさんの一撃で消し飛んだ射手は、イルグールが送り込んできた刺客であった。
イルグール港とスクーレのギルドと王都の商会の、何れも主流派でないものが手を引いた狂行。
魔物の影響を受けたといえ、俺たちの誰かを殺しただけで何かが変わるなど浅慮にも程がある。

けれど。襲撃者はともかく、ヴィヴィさんなら事前に何かを掴んでいてもおかしくない、と。
そうでなくとも、大魔女である彼女なら、誰もいない街に潜む狙撃手に気付けたのではと。
もしそうだとしても、動機など判らない。もしかしたら不意の衝動に従ったのかもしれない。
可能性だけなら、いくらでもあった。だから今まで、俺は怖くて聞くことを躊躇い続けてきたのだ。

「……正直、どちらでもいいんです。
 俺はただ知りたいだけだから」
「……わざとでは、なかったよ」

ヴィヴィさんは、いつもからは信じられないような、沈み込んだ弱々しい声で呟いた。
震える言葉には強さなどない。口から出た言葉を、自分自身でも信じきれないのだろう。
そのか細い声に、自分自身驚いたようなヴィヴィさんはビクン、と大きく身体を震えさせる。
それが、引き金となったのだろう。まるでバネがついているが如く、跳ねるように話し出した。

「――きな臭い話は耳にしてた。
 襲撃があるかもと予測はしてた」
「……」
「来るなら、弓使いだとも思ってた。
 あんたたちが戦えないことも判ってたよ」

一度口を開いてからは、まるで堰が切れたようにヴィヴィさんは言葉の奔流を畳みかけてきた。
先程までとは打って変わった強い口調は、俺に断言するだけでなく、自身に言い聞かせるようで。
けれど、その勢いに反して語る内容は。否定するというよりも、明らかにその逆に傾いていた。
彼女が言っているのは、まるであの結果が予定通りだとでもいうような、そんな言葉が続いた。

それを聞いても俺は、ヴィヴィさんならそうだろうなと、自分でも驚く程に動揺しなかった。
人の流れも物の流れも金の流れも、どれだけ隠そうとしてもその痕跡は必ずどこかに残る。
暗殺をするのなら戦士や騎士より、魔術師や僧侶よりはニンジャやアーチャーであるだろう。
誰にだって想像できる範囲だからこそ、彼女が見落とすわけがない。だからこそ俺は判らない。

……だって。だってあの時、この人はあの混乱の中に、俺と女神の二人を助けに来たのである。
本当にアリアを、それとも俺をどうにかしたいのだったら、助けに来なければ済む話だったのだ。
そしてそれも決して確実性のある方法ではない。ヴィヴィさんならもっと上手く出来たはず。
確実に、狙った方を潰すこと。彼女なら出来ることを、なんでしなかったのかがずっと謎だった。

ならば彼女は何も狙ってなくて、全ては偶然で起きたこと。そう信じ切れたらきっと楽だった。
それが一番信憑性が高いと判りつつ、俺は女神アリアが偶然で死んだとは思いたくなかった。
かといって、ヴィヴィさんが襲撃を予測した上で、何の対策も取らなかったとは思えない。
そして、彼女の連ねる言葉は後者を肯定するもので、しかしてそれで終わるわけもなかった。

「だけど、あたしなら護りきれる。
 そう思ってたし、今でもそう思ってる」

それは自身の力への絶対的な信頼。大魔女として積み上げたものを、信頼しているのが判った。
けれどその言葉自体は、結局何の答えにもなっていない。対策をとらなかった理由に過ぎない。
それが事実であるならば、最悪の結果が出た今では、それこそ笑えないレベルの慢心だ。
ヴィヴィさんには似合わない。一瞬感じてしまった失望を、俺は自分相手にすら隠せなかった。

ただの油断から起こってしまった出来事であるのなら、この話は終わりだ。続ける意味がない。
例えどれだけ優れた勇者であっても、気が緩む一瞬があるのは、それは避けられないことだろう。
その一瞬が訪れた瞬間に悲劇が起こっただけならば、俺はただヴィヴィさんを傷つけただけだ。
誰も悪くないなんて言わない。だけど、俺の弱さも彼女の慢心も、今更責める価値はなかった。

……正直、それでもこうして失望してしまうのは、もっと特別な何かがあると思っていたからだ。
心の何処かで、俺のせいじゃないと思いたがっている自分がいることには気がついていた。
女神の命が自分のせいで失われたのではなく、何か理由と意味があったと、俺は信じたかった。
俺も、ヴィヴィさんを笑えない。戦う力としての弱さだけでなく、精神面でもこんなに弱いのだ。

「……だけど」

微妙な空気で押し黙ったその場を変えたのは、ヴィヴィさんの小さな搾り出すような声だった。
いつの間にか、お互いに俯いていたらしい。視線をあげると、同じ目線の瞳と目があった。
後悔と躊躇いで曇った色に染められたその瞳は、俺を見ているのに、俺を見てはいなかった。
その目に呑まれつつ言葉の続きを待った俺に、大魔女は漏れ出すように、小さく呟いた。

「なぜ守れなかったのか、判らない」

呆然としたその言葉には、感情が載っていなかった。だから俺はそれが彼女の本心だと思った。
襲撃があると事前に予想はしていた。状況も実力も、それを防ぐには十分に揃っていた。
それなのに、あの一瞬だけ緊張が緩んだのは。あの一瞬だけ、反応が遅れてしまったのは。
ヴィヴィさんの唇も手も、まるで地震が起きているかのように小さく身震いを繰り返していた。

計画なんてしていなかった。きっと、それは事実に違いないだろう。でも、その後は。
本当に偶然だったのか。本当に、その一瞬に全ての偶然が重なってしまっただけであるのか。
もしも、自身の感情が、あの時に手を鈍らせたのではないかと、ヴィヴィさんは震えていた。
今となっては判らない一瞬の時の感情。それが、女神アリアを殺してしまったのでは、と。

「――嫌いじゃなかったのよ。
 そりゃ、いなけりゃいいとは思ったことはあるけど」
「……」
「少なくとも、こんなのは望んでなかった。
 これじゃあの子の勝ち逃げじゃない」

だから、わざとではなかった、とヴィヴィさんは言う。けれどやはり芯のない震える声で。
こんなことはヴィヴィさん自身も望んでいなかったのだ。だけどそれでも、可能性はあった。
“判らない”というのが、ヴィヴィさんの心の底からの、彼女を苦しめた解答なのだろう。
この12年、考えれば考えるほどに違うとは言えなくなってくる、逃れられない束縛だ。

答えなんて知りようがない。今となっては、その可能性があったという事実だけがある。
こんな結末を望んでいなくても、あの一瞬に判断を鈍らせてしまうことは、確かにありえた。
目の前で唇を噛みしめる彼女は、いつもの艶やかで華やかな永遠の大魔女とは大違いであった。
いつも超然としていて、執着なんてしない。そんな彼女が、今は後悔で立ち上がれない。

――それなのに、俺は心の何処かでそれを喜んでいる自分がいることに気がついていた。
良かった、と安心したのだ。彼女が人を嫌い、嫌いになりきれない普通の人間であることに。
知合いを失ってしまったことを、自分にその責があるかもしれないことを後悔することに。
暗く澱んでいることを理解しながらも、目の前の貴女が俺と同じであることを喜んでいた。










俺がいつの間にか歪に笑っていたらしいことに、ヴィヴィさんの視線で、漸く気が付いた。
訝しむまでもなく、直接問いかけることに躊躇いがあるような表情だから、俺も直ぐに判った。
この歳になると、敢えて触れないことも多くなりすぎた。ヴィヴィさんなら、尚更だろう。
だから、俺もこれといって取り繕ったりはしない。取り繕い、隠す必要性を感じなかった。

とはいえこの話は続けるものでもない。女神についての話は俺は既に納得し、乗り越えた。
そもそも知りたかっただけなのだ。今となっては答えがわからないのも、一つの事実だった。
失ってしまったものはもうどうにもならない。女神の為に出来るのは、遺志を守るだけだ。
俺はこの数年を掛けて調べてきた、俺だから出来る、世界を守る方法の話を始めることにした。

「黒の霧、ですけど」
「……」
「うちの関係者が、被害少ないの。
 知ってますよね」
「……なんか判ってるの?」

俺は、ヴィヴィさんの言葉に答える代わりに、にやりと口元を歪ませるだけにとどめた。
奈落のある水上都市スクーレは、その環境もあって黒の霧が猛威を振るう地域の一つだ。
大規模な水路が街中を駆け巡り、古くからある町並みの中にはスラム街もあり、清潔ではない。
元より健康にいい場所とは言いにくいその環境で、伝染病が流行らないわけがなかった。

それに対して俺の周りでは案外大した被害は出ていない。騎士団はもちろん、商会連合もだ。
王都、フェルミナ、そしてスクーレの商業区では、それほど大きな流行になっていない。
その全てが俺の仕業とまでは言わないけれど、方針を示し、そして対策方法を教えてきた。
水銀が薬という根も葉もない噂や、ネルゴーの案内人に帰依するよりはマシなはずだった。

「――」
「聞かせて」

ヴィヴィさんは、先程までの曇り陰った瞳ではなく、曇りつつも真剣な目で俺を見つめる。
俺も、判っている、知っていると言えるほど、何かを判っても知っているわけでもない。
色々なものを繋ぎ合わせた結果だけなら、ここにある。その活かし方も、またあった。
広範囲に拡め犠牲者を減らすことだけでなく、ここでヴィヴィさんに伝えることもそうだった。

黒の霧と呼ばれる伝染病が出てきて数十年。大流行してからはまだそう長く経っていなかった。
けれど、ただ手を拱いていただけの訳がない。出来ることを考える時間は、余る程であった。
純粋な伝染病なら、感染源と感染ルートが必ずあるはずだ。調べる時間も金も人脈も持っていた。
見当たり次第に調べられるほど無尽蔵ではない。けれど、俺はその心配とは無縁でいられた。

“似たような病気”なら元の世界にもあった。そしてこの世界を、俺はある程度知っている。
どんな対策なら効果がありそうなのか、誰がどんな目的で起こしたものかが判っている。
それ自体が病気を治すわけではないけれど、治療法を考案する上での時間と費用は節約できた。
試行錯誤と躍進を繰り返す研究が、あっという間にある程度までの形をなしたのである。

「――あれ。
 霧とはいいますけど、水じゃないです。
 結構粒も大きくて、荒いですし」

一日中マスクをしてみると、良く判る。霧ではなくて、塵や埃、灰の方が余程近い存在だった。
水に溶けないことも、濾過を依頼した魔術師たちの実験で判るまで、時間は掛からなかった。
霧を吸わなければ、病気になる恐れは格段に減る。予想していた結果も、当然のように出た。
浄水器やネズミ退治、当たり前のような衛生環境の管理も、目立った効果を出すに至った。

結局、黒の霧への対策に成功したことが、商会連合が権勢を保ち続けている理由であった。
設備に投資するだけの初期資金があったし、そしてそれに成功した時の予想利益も大きかった。
だからこそかは知らないが、俺の教え子たちは、俺の言葉を信じ、拡め、実践してくれたのだ。
完全に無条件で信じたわけではなかったが、それでも彼らの御蔭で救われた人は大勢いるだろう。

「あの霧というか、灰ですね。
 あれを大量に吸わない限りは病気にならない」

実際には人によってその許容量も異なってくるだろう。単純な意味での体格もあるだろうし。
それ以上に元の体力も、発症するかの分水嶺となるという推測も確かめられないけれど、出来る。
まずはこの一点を突破するだけでも、患者数は大幅に減ってくる。手当の余裕も出てくる。
それに、と。俺はもう一つある、とっておきの治療法を少しだけ意地悪な顔をしながら伝えた。

「――黒の霧、実は魔法薬効くんですよ。
 解呪系に限って、ですけど」

この世界には呪いが実在する。いや、元の世界にあったのかどうかは俺には判らないけれど。
技術としての呪い。それは観念的な、言語とかそういったものではなくて、魔術の領域だ。
広義では人が他者やものに対して掛ける全ての魔法。狭義では、その内効果が長期間に及ぶもの。
“呪いに掛けられた状態”がある以上は、それを解決するための手段があるのも当然だった。

そして、黒の霧にはその状態を解決する手段が効果を出す。病気であるのに解呪できてしまう。
逆に普通の薬はどんなものであっても利きにくい。効果はあるが直接の解決策ではなかった。
そこから考えてしまえば、一体黒の霧がどんなものであるのかは、少し頭が回るなら推測出来る。
当然、魔術の専門家、現存する一人の大魔女であるヴィヴィさんは直ぐに気づいたようだった。

「――灰を媒体にした、呪い?」
「かも、しれませんね」

結果だけを見れば、間違いなくそうだろう。それ以上の検証は俺にはできなかったのだけれど。
つまりは魔力を通した灰によって、“高熱を出し、黒の斑点を出させる”呪いをかけているのだ。
高熱を出しているのは身体であり、対応した薬は一応の効果を見せるから、中々気付けない。
そこまで計算して作られたものであるなら、ヴィヴィさんには劣るけれど、かなりの実力者だ。

――そう、実力者。これは当然自然発生ではありえないし、魔物のやり口とは思いにくい。
ここまでの知恵を持つに至る魔物なら、当然その戦闘能力も間違いなく、高等な部類である。
性質上凶暴である魔物がこんな手段を取るとは、有り得なくはないが、考えにくかった。
それよりは呪いを操り、病気であると見せかけ、都市部を中心に襲う知恵を持つ人間である。

「これって」と呟いて、口元に手を当てるヴィヴィさんも間違いなくそういう結論だろう。
いい勘だ。俺が元の世界の知識という前提があるから知っていたことに、彼女も辿り付いた。
これを起こしたのは人間。そしてかなり高等な魔術を使え、更には裏仕事にも詳しい人間だ。
条件に当てはまるのは、俺の知合いだと一人。その永遠の大魔女が、今俺の目の前にいた。

「もし、人為だとしたら。
 それを成しうるのって誰でしょうね」
「……あたしだって言いたいの?」

いいえと俺は首を振る。ヴィヴィさんに、こんなことをやるような理由は一切ないだろう。
それに俺は答えを知っている。これを起こしたのは、彼女の知合いの大魔女になれなかった魔女だ。
黒の炎ニーザ。彼女がどこに潜伏しているか知らないし、そもそも本当に彼女の仕業かも判らない。
だからヴィヴィさんにも名言はしないけれど、ここまで伝えれば、彼女なら自力で探し出せる。

「……あなたならもっと上手くやりますし。
 でも、やり口自体はそちらより、ですよね」

疑った素振りを見せた挙句曖昧な言い方にした俺に、ヴィヴィさんは顔を歪ませ、睨んできた。
しかし、それぐらいで俺は揺らがない。こちらとてそれなりに修羅場は潜ってきたのだ。
さて、そちらの意味を、魔女ととるか路地裏の人ととるか。どちらでも答えにたどり着ける。
要は、魔物のやり口でないと伝わればいい。そうすれば、何もないよりは答えに近づくだろう。

――俺一人だけ、背負ってなるものか。彼女にも、“女神アリア”を背負わさせてやる。
俺たちはこの世界を変えてしまった共犯者であるのだ。苦労はお互いに分かち合うべきである。
女神アリアが死んで、世界は更に混乱の真っ只中。解決の兆しなど、僅かにも見えなかった。
世界は、まるで死んでしまった彼女が太陽であるかのように、薄暗く曇るばかりであった。

女神アリアが死んで12年。世界はまだまだ終わらない。混乱もまだまだ終わりはしない。
太陽が沈み、今は正しく夜の時代だ。誰も彼もが眠り、夜の住人だけがその人生を謳歌する。
段々闇が深くなる。次の太陽が昇る時、眠ったものたちは無事に目を覚ませるのだろうか。
それでも、俺は騎士団を、ブラッドを信じるだけだ。いつか、新しい太陽がこの世界を照らすまで。





[37010] 8話 1099年 王都ヴァレイ4
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/05/26 22:23



黒の霧は止まらない。元より身体の弱い王子ロイが崩御し、ラーズラス13世は気力をなくした。
「諦めた先に未来は始まる」とネル教は叫び、救いを求めた人間に、来世での救いを与える。
狂犬と呼ばれる戦士イゴール・ナヴァロは狂気の暗殺者として、人のままで死の象徴となった。
そのどれもが終末を想像させる。そのどれもが、黒の炎ニーザが手を引いた人工の悪夢だった。

噂を持って、人々の想像力を持って人を狂わせるのなら、同じ土俵で真っ向勝負してやろう。
噂が流れる内に、尾ひれはひれがついて、そして人々の不安を煽るように話が作り替えられていく。
それならば、最初から作り替えられる余地のない情報を、広範囲に提供したら一体どうなるか。
“真実を伝えるとは、安心を伝えるということ”と駈けずり回る青年を、俺は甘い言葉で誘った。

「大量の紙と印刷技術と流通経路、いりません?
 今ならなんとそこに信頼性もあげますよ」

概要だけ把握している活版印刷の技術に、遥か昔の記憶頼りで、見よう見まねの新聞作成。
そこに今まで培ってきた人脈による、紙の仕入れと商品を取り扱ってくれる店舗の紹介。
俺の名前や商会頭の名前、なんなら貴族やフェルミナ市長の認証印でも貰ってきてもいい。
ここまで言われて、傀儡としりながらも乗らないでいられる青年、レッド君ではなかった。

レッド新聞社として発足したその企業、スポンサーとして並ぶ名前は最初から破格であった。
最初は王都ヴァレイに10日に一枚だけ。それだけでも、あっという間に情報は広がった。
商会の流通と同じ速度で情報も広がっていくのだから、大陸の殆どを僅かな時間で覆い尽くす。
必要とされるごとに段々とその枚数を多くし、範囲と刊行の早さを増していくことができた。

信憑性があり、その上で確かに安全な情報が広まると同時に、大魔女ヴィヴィは動き回った。
彼女の持つ全ての魔術、彼女の持つ全ての情報源を持って、黒の炎を追いかけ続ける。
噂を使って動き回る以上、その痕跡を消しきることなんてできない。彼女は追跡し続けた。
ネル教の集会、黒の霧を広める儀式を着実に妨害し、一つ一つ戦力を潰して追い詰めていく。

彼女一人では、魔物とネルゴーの案内人に守られたニーザを直接仕留めるには至らなかった。
けれど、一つ一つ潰されていった邪教の儀式は、その成果を十分にあげることはできない。
恐らく本来の歴史よりもずっと、ずっと小さな規模でしか黒の霧は広まらずに沈静化した。
1099年、黒の祈りを騎士団が止めるまで、結局黒の炎ニーザは逃亡生活の中で終わった。





最後の予言、1099年の大災厄。“すべての世界は死ぬ”と括られた100年の終結。
365年に一度の皆既日食、その日に、精霊郷の全ての魂が一度にこの世界中を循環する。
そのたった一度の機会を、黒き無限の災いは逃さない。魂を貪り、その力を最大化する。
皆既日食“闇のしずく”の日に、精霊郷に潜り込んで、循環器であるウルの塔を破壊するのだ。

それに対抗するのは、予言に立ち向かってきた不老不死のブラッド率いる騎士団の14人。
風に愛された巫女、マキ・シスチャ。狂犬と呼ばれた隻腕の戦士、イゴール・ナヴァロ。
傑物と呼ばれるその二人以外にも、歴戦の、それぞれの想いを継いできた勇者たちがいた。
そこに永遠の大魔女、ヴィヴィ・オールリンはやはりいなかった。それがらしいと思った。

1100年まで後一月を切った今日、ブラッドたちはついに王都から旅立つ決心をした。
目標となるのはスクーレの西、ベリアス湿地帯。その土地で最後の予言が現実になる。
これで魔物との戦いの時代は終わり、そしてまた新しい15年を迎えるのだろうと思った。
案外穏やかな表情で気負ったことなく旅立とうとする騎士団の、最後の見送りをした。

「忘れ物、ないですよね」
「ああ」

携帯食料、魔法薬。武装も全ては準備を整えた。持っていけるものに限度があるのが残念だ。
もしもなんでも入るような袋があるのなら、倉庫の5個分ぐらいは今日中に用意するのに。
そもそもが身軽さを望むブラッドたちだから、俺が厳選したものの半分も持っていかない。
それは単純に俺がいつも用意しすぎるからだが、出来ることの少なさに今日も悔しさを覚える。

ブラッドは、いつも通りだ。穏やかな表情は、最後の戦いに行くとは少しも思えなかった。
イゴールもお守りを握り締め、微妙な顔をしている。人から期待されることをどう感じたか。
マキは少しだけ緊張しているようだった。怖いけど、頑張る。その顔は、そう言っていた。
フィニーは複雑そうな顔をしていた。どこか寂しそうに感じたのは気のせいじゃないだろう。

「……気をつけてくださいね。
 無事に戻ってくれば、なんとかしますから」
「ああ、すぐ戻ってくるさ。
 全部片付けて、な」

なんとかの内容なんて判らない。だけど、その時にできる最善を彼らの為に尽くしてみせる。
そう思っていった言葉に、ブラッドは事も無げに笑って見せた。悔しいほどに、頼れてしまう。
見送る側は俺なのに、俺の方が落ち着かされてしまうことには、いつまで経っても慣れない。
いつも、言葉通りに戻ってきてしまうのだ。俺の心配なんて、いつも杞憂に過ぎなかった。
そのことが悔しくて、俺はブラッドから視線を外す。その先にいたのは、小さな妖精だった。

「フィニーも、よろしく」
「……ああ。
 アリア様の分も、ボクがやる」

彼は俺の半分ではないけれど、片割れではあった。女神の力の半分を継いでからの相棒だ。
俺はアリアになれなかったし、フィニーでさえ女神にはなれなかった。当たり前だった。
彼女が抜けた穴を完全に埋めることなんて誰にもできないけれど、形だけでも継いだのだ。
憧れの人の遺志を果たす彼の戦いに、俺は手出しはできない。せめて、祈るだけだった。

「イゴールも、マキもお願い。
 ブラッドを助けてあげて」
「大丈夫、任せて」
「…………へっ」

1082年、湾岸都市メゾネアで孤児になったところをブラッドに救われたマキ・シスチャ。
その10年後、同じメゾネアで彼女は、恩を返すためと言って騎士団への入団を望んだ。
この10年と少し、王都を中心に暴れまわった狂気の暗殺者、イゴール・ナヴァロ。
今年、ネル教の集団自殺<黒の祈り>を止めるために、騎士団との共闘を選び、入団した。
戦えない俺や、そして騎士団に未来を信じるものの代わりに、彼らは戦いに向かうのだ。

何を言えばいいのか、毎回判らなくなる。例え92年という長い時間を生きていても、だ。
定型文のようなものがあればいいな、と思う。ありはするけれど、それは余りにも陳腐だった。
そんなものでは、この思いを伝えることなんてできない。だから、いつも悩んでしまう。
…………結局、今回もかっこいい別れの言葉なんて思い浮かばなかった。だから、笑った。

「俺はいつも通り、ここにいますから」

その言葉にブラッドは笑った。それに釣られて、団員が笑った。みんなが笑った気がした。
結局、俺は遠征についていったことなどなかった。二回の泉は、戦いに行ったわけじゃない。
いつも俺は迎える立場だった。本部から長期間離れたことなどこの年までついぞなかった。
ここは、騎士団の目的地だ。遠征は、本部に帰るまで遠征である。その場所を俺は守っていた。
ブラッドはひとしきり笑い終わると、荷物を背負い直してから、俺に拳を握ってみせた。





「――行ってくる!」










「――ブラッドは行ったみたいだね」
「……ヴィヴィさん。
 やっぱり、ついていかないんですね」

いなくなった騎士団と、入れ替わるように入ってきたのは、やはりヴィヴィさんだった。
気になるのなら、素直に見送ればいいのにとは、彼女の寂しそうな瞳を前には言えなかった。
彼女は、大魔女のヴィヴィは世界の為に戦うような女じゃない。ついていかないのは当然だ。
何かがあったことは間違いなくて、その何かにも想像は出来たけれど触れられそうにない。

見送ったその場で、本部の入口、会議室の前で、俺は彼女が来るのを予測し、待っていた。
なんとなく、来ると確信していた。なんとなく、ついていかないことも、理解していた。
騎士団の足音が遠ざかり、聞こえなくなってくる中で、俺は彼女が来ることを期待していた。
入り込んだヴィヴィさんは、そのか細い腕で後ろ手にドアを閉めると、弱々しく立ち尽くした。

その姿は、やはりヴィヴィさんらしくはない。幾ら彼女の落ち込む姿を見慣れても、やはり。
力なく自らの身体を抱きしめるその様子は、ただの儚くて美しい、極普通の女の子だった。
視線は所在無さげに彷徨い、俺の瞳を一度見つめてからそれを維持できない様子で地に落ちた。
ヴィヴィさんが話し出すのを待っていると、結局ヴィヴィさんは俯いたまま、呟いた。

「……あたしね。
 ブラッドに振られちゃったんだ」
「……そう、ですか」

正直、やはりという感想しか出なかった。ブラッドの想いを、女神アリアから取り戻せなかった。
女神アリアがいなくなってから、その隙間の大きさに、ブラッド自身が気づいてしまっていた。
それが悪いとは、言わない。それが良かったとも言えない。それがきっとあるがままだった。
だから、俺は頷くことも出来なかった。気分的に、理解以外の言葉は言ってあげられなかった。

ヴィヴィさんも、俺の態度に不服である様子は一切見せない。ただ、言いに来ただけだろう。
そも、そんな安い同情を好むような人ではなかった。あくまで彼女は、大魔女ヴィヴィだった。
俺も、安い言葉で慰められるようなヴィヴィさんを見たくはなかった。だから、何も言わない。
聞いてあげようと思った。長い時間を賭けた恋愛の末路を、聞き届けてあげたいと思った。

「――何が駄目だったのかな。
 アリアには届かなかった」
「……」
「リュートにまで、負けちゃったよ。
 二人だけでは足りないって、言われちゃった」

――後半部分は、流石にちょっと予想外だった。それでも、ブラッドが言いそうだと思った。
ブラッドは人と人が生きているその中で、大切な人達を守って生きていくことを選んだ。
ヴィヴィさんは、その不老の人生を、もう悲しい想いをしたくないからと、二人を選んだ。
それはどんな話をしたのかを聞かなくても、俺の知っている二人だったら、そう決めたはず。

一人だけでは、嫌なのだ。ブラッドはみんなの中で生きていくことを、望み続けてきた。
ブラッドがいて、団員がいて、そして口うるさい俺が文句を言いながらみんなの世話を焼く。
そんな日常をブラッドは好きなのだ。例え永遠でない時間でも、それを選んできたのだ。
たった二人では、駄目なのだ。どちらの思いも理解できる俺としては、すごく悲しかった。

「……勝てると思ったのにな。
 少なくとも、あんたには」
「……」
「あたしは、待つのは嫌いなんだ。
 あんたみたいには、なれなかった」

ヴィヴィさんは、弱音を吐いていた。俺にはなれないと、小さな泣き言をその口で言った。
少しだけ、俺は優越感を抱いていた。彼女ともあろうものが、俺にはなれないと認めたのだ。
他の誰でもなく、ヴィヴィさんが。そういう意味でなくても、ブラッドではなくて俺を見た。
俺は喜ぶ気持ちを心の奥底に隠しながら、彼女の勘違いを、一つだけ訂正しておこうと思った。

「俺は、待ってないですよ」
「――――え?」

何を言っているのか判らない、とばかりに、永遠の大魔女はその美しい顔を俺に向けた。
彼女が言いたいことは、俺には良く判る。俺はいつだってここにいて、騎士団を迎えていた。
だけど待つことと迎えることは、必ずしも同じことではない、少なくとも俺の中では違った。
この反論は、自分のためではなかった。ただ、伝えた方が彼女が楽になると思ったからだった。

「ここはここで戦場なんです。
 剣を持たないだけ、静かですけど」

昔。遥か遠い昔に、生きることは戦いの連続だなどという言葉を何処かで聞いたことがある。
今ここで、戦うという言葉の定義などをするつもりはないけれど、俺も少し同感だった。
ブラッドたち騎士団がしているのは、間違いなく戦いだ。命を賭けて、未来を購っている。
それがなければ、世界が滅ぶ。それは明確な事実であったけれど、果たしてそれだけなのか。

魔物は、ブラッドたちが進んでいく方向にのみいるわけではない。未だ、どこにでも蔓延る。
そいつらから王都やスクーレ、人の領域を守り続けるのも、もちろん戦いだと思う。
そして、彼らが戦い続けられるように、物資の流通を未だに止めようとしないのも戦いだ。
生きていく希望を失ったネル教信者に、惰性でもいいから生きる道を指し示すのも戦いである。

どれが欠けても、世界はおかしくなっていく。もしかしたら、それが切欠で滅ぶのかも。
それならば、俺たちは俺たちで命を掛けているのには違いない。判りにくいだけだと思う。
まあ、そんなのは言葉遊びに過ぎないと言われたら、やっぱりそれもその通りだった。
俺たちも本気だけれど、血を血で拭う戦いとは別物であることは承知の上で、また俺は思う。
――どんな手段を尽くしても、ブラッドが帰ってくる場所を守り続けるのが、俺の戦いだと。

「繰り返しますけど、俺は待ってません。
 俺がいる場所に、騎士団が戻ってくるだけです」
「……」
「それに、もし。ブラッドが負けたら。
 それを継いで上げなくちゃいけませんし」
「……あんたが?」

目を見開くまでもなく、ヴィヴィさんは怪訝そうな顔で俺を見た。当然だと俺は苦笑する。
俺に戦う力はやはりない。俺ができる努力では、精霊は俺に祝福を与えようとはしなかった。
もしかしたらと思ったことはあったけれど、それでも俺に自分の限界は越えられなかった。
そんな俺に何が出来るのか、例え口に出さないだけの分別があっても、その目は雄弁である。

それでもだ、ブラッドがもしも負けた時も、俺たちは滅ぼされてしまうわけには行かない。
例え現状で最強の戦力である騎士団がいなくなったとしても、俺たちは生き続けるのだ。
その為に、旗頭が必要になる。ブラッドが居ないなら、せめて後を継ぐのは自分でありたい。
なに、これまでにも沢山の人の想いを継いできた。ならば、後一人ぐらいは変わらない。
俺の心の中の決意に、俺はまた心の中で“それに”と付け足してから、ヴィヴィさんに告げた。

「俺じゃないですよ」
「……?」
「英雄は、ブラッドだけじゃありません。
 他のみんなだって、その資格があります」

今だって、騎士団だって、戦っているのはブラッドだけではない。勇者たちも戦っている。
未来を創るのがたった一人なら、ブラッドに騎士団なんていらなかった。だから、違う。
団長が戦える必要なんて、きっとない。ただ、みんなが協力する状況を作れればそれでいい。
それだけなら、俺の得意技だった。今までとやっていることは、殆ど変わらないのである。

俺は既に一人で戦っているわけではない。レオが、アレフが、ユマが、スルギがいた。
彼らが背負ってきたはずの誰かの想いも俺の背中には載っていて、俺は決して一人ではない。
俺がブラッドたちに期待しているように、誰かの期待も俺の背中に覆いかぶさっているだろう。
それに。女神アリアも言っていただろう。「百の勇者を率いて」みんなで戦っているのだ。

ブラッドが無事に帰ってきたところで、戦いは続く。もしかしたら終わらないかもしれない。
俺が知っている歴史では、ナグゾスサールとの最後の戦いでウルの塔が壊れてしまうのだ。
大精霊エルゴーフェンは怒りに狂い、世界の抗体アグレスを用いて、世界を浄化しようとする。
浄化の過程で全てを壊す。魔物を、人類を、そして世界自身を壊し。そして、世界は終わる。

最後の戦いが終わり、それからブラッドたちが帰ってくるまでに、必ず時間差が生まれる。
その瞬間を守るのは、その瞬間の混乱を収集することが出来る人間は、そう多くないはずだ。
ならば、そのうちの一人としての自覚があるのだから、俺は戦い続けなければならない。
どれだけの被害が出ても、当然。だって俺は、それだけの人の想いを受け継いできたのだから。

「……はは。
 なんだ、勝てるわけないじゃん」
「ヴィヴィさん」
「ブラッドがあんたを選ぶのもわかるよ。
 あんたは、一人分じゃないんだね」

――今更言われなくても、当たり前である。俺は何十年も前から“俺”一人ではなかった。
賢者という役割に引きずられ続けて、それでも俺はまだ俺のままでここに立っている。
それに気付けなかった時点で、ヴィヴィさんは勝てなかったのだ。勝利者のいない戦いだ。
泣きそうな顔でヴィヴィさんは笑った。途中から、本当に涙が溢れて、それでも笑った。

ヴィヴィさんとブラッドの道は違ったのだ。どれだけ歩いても、もう重なることはない。
それがすごく悲しかった。もっと、ブラッドを追いかけるヴィヴィさんを見ていたかった。
何かを言おうとして、止めた。俺が思っている感情は、別に伝えたいものではなかった。
俺はヴィヴィさんの涙が落ち着くのを待って、それから彼女を安心させるように笑った。

「……元気、出ました?」
「ん、ありがと。
 あたしも、もう行かなくちゃ」

そうして外へ振り返ったヴィヴィさんに、どこに行くかなんて、野暮なことは聞かない。
もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないと思ったけれど、それもまたそれでいい。
遠ざかる瞬間、微かに「またね」と聞こえた気がして、俺にはそれだけで十分だった。
それだけで、俺の100年弱は報われた気がした。だから、まだ頑張れそうだと思った。





――――さあ、俺たちの戦いを始めよう。





[37010] 9話 1115年 澄み渡る夕暮れの下で 
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/05/29 20:49



ウェル=バリウスの予言、13巻99第56章3節に語られる、1099年、滅びの大災厄。
騎士団が抗い続けてきた滅びの予言の最終章。全ての世界が死ぬと綴られた、その結末。
<黒き無限の災い>ナグゾスサールは、闇のしずくを機として精霊の門を越え精霊郷に乗り込んだ。
循環器、ウルの塔よりあふるる魂を飲み込んだナグゾスサールは、世界を滅ぼす力を手に入れる。

ブラッドたち騎士団は、予言の成就を阻止するため、ナグゾスサールを精霊郷まで追いかけた。
ウルの塔に辿り付いた彼らは、世界を滅ぼすため自らを無限の災いに取り込ませたディーと戦った。
激闘の果てに彼らを討ち果たした騎士団だが、その戦いの余波でウルの塔は崩れ去ってしまった。
循環器の消滅。それにより、精霊が管理していた魂の循環が誰の手も及ばなくなったのだった。

それに反応したのは、大精霊エルゴーフェンだ。精霊郷とウルの塔を管理する彼は激怒した。
魂の循環を管理し、全ての命を運営する役割を持った大精霊は、世界を最初からやり直すと決めた。
彼は、その身体を滅びの大精霊、ザイ=アングレアと変えた。世界を原始に戻すと決めてしまった。
そして予言は更に次のページ、1115年の予言へと続く。戦いは終わらなかったのである。

この未来を知っていた、可能性を知っていたことを俺は否定しない。寧ろ肯定しかできない。
ただ、ウルの塔の破壊を避けるべきなのか、それとも破壊するべきなのか、俺には判らなかった。
一つだけ言えるのは、これをブラッドたちに伝えても、止められるとは思えなかったということだ。
建物並の巨体と戦いながら、周りへの影響を気にしろだなんて、流石に忠告出来そうになかった。

結局、俺はブラッドに、その可能性があることを一言も伝えずに、騎士団を送り出したのだ。
運命に任せる、と言えば聞こえはいいかもしれない。ただ、単純に最後まで決められなかった。
魂の管理をされ続けること、更に戦いが続くこと。どちらがいいとは、俺にはよく判らなかった。
だから伝えず、任せた。どちらになったとしても、後悔するのは俺だけでいいと思ったのだ。

世界を原始に戻すと決めたザイ=アングレアは、抗体である狂精アグレスを世界に解き放った。
空を黒で埋め尽くすアグレスの群れを見たとき、それを見て絶望する人々を見たとき、後悔した。
それでも、後悔し続けるような時間なんてなかった。アグレスは文字通り世界を食い尽くすのだ。
みんなを正気に戻し、守りを固める。以前から予想していた、そして昔からの俺の仕事だった。

一つだけ。アグレスの存在で、騎士団がナグゾスサールを無事に倒したことも、判っていた。
だから俺の心は挫けない。各地の防衛隊を繋ぎ、各地の流通網を繋ぎ、そして世界の情報を繋いだ。
戦っているのは一人だけでも、一つの組織だけでもない。俺の仕事はそれを伝えるだけである。
商会が物資と情報を繋ぎ、それによって防衛隊の勇者たちは心を奮い立たせて戦い続けるのだ。

世界は終わらない。人類は簡単に押し負けたりしない。そう信じ込んだら、人類は負けない。
精霊郷から戻ってきたブラッドたちは、活き活きとした人々の顔を見て驚いてから笑った。
この表情を守らなければ、と。彼らの声援を背に、騎士団は1115年の予言に立ち向かった。
グランタロス湖でのザイ=アングレアとの最終決戦。そして、それにすら騎士団は勝った。





長い夜が明けて、ついに太陽が昇った。戻ってこないものはたくさんあるけれど、それでも。
決戦を終えたブラッドたち騎士団は、あっという間に王都に戻り、そして多くの人に囲まれた。
違う場所で戦っていた勇者たちや、仕事を続けて世界を守り続けてきた多くの商人たち。
それと、彼らを信じて日常を続ける役割を持ったみんなに、騎士団は迎え入れられたのだった。

それに混じろうかとは、何故か思わなかった。俺はここ、騎士団本部で待つべきだと思った。
色々な人に揉みくちゃにされて、色々な人と色々な話をして、漸く帰ってきたのは昼過ぎだった。
俺は何の変哲もない、特別な日のものではない、いつも通りの食事の支度をして待っていた。
帰ってきたブラッドたちの武装を外して、いつもの遠征と同じ片付けをしていたら夕方になった。

――精霊郷はなくなり、魂の循環は管理されなくなった。人も魔物も精霊も、この世界に住む。
魂の循環を力の源としていた精霊たちは、その力を失った。俺もブラッドも不老不死ではない。
この世界に特別なものは僅か数名を残して、いなくなってしまった。その数名も何処かへ消えた。
これからは、魔物でも精霊でも不老不死でもない、ただの人間の歴史が始まるのだと思った。

そんなことを考えながら、洗濯物を取り込んだ。アグレスの黒点のない空は15年ぶりだった。
澄み渡る夕暮れは、深いオレンジ色に染まっていた。その綺麗さに、思わず俺は立ち止まる。
漸く、終わったんだ。ついにその実感が少しだけ湧いた。満足感と空虚感に、同時に襲われた。
いつの間にか肩が軽くなっていた。俺の役目は、継いだ意志には、応えられたのだろうか。

過去は過去だ。起こったことは変えられないけれど、それは既に過ぎ去ってしまったことだ。
過ぎ去ってしまったことを、無かったことにはできない。一つ一つが、更なる今に繋がっていく。
何もかも、これからだ。そう思ったときに俺の肩がつつかれた。弱く、小さな手だった。
力自慢が多い騎士団では、こんな手の大きさなのはたった一人。妖精のフィニーだけだった。

「フィニー」
「お疲れ。
 ――ボク、そろそろ行くよ」
「……当ては、あるの?」

フィニーは、小さく首を振った。彼は、迎えに来た他の妖精と生きていくことを選ばなかった。
“少し、旅をしたいんだ”そう言ったフィニーは遠い目をしていて、別の何かを見ていた。
残念そうにする妖精たちに、フィニーは笑った。旅が終われば、また一緒に遊ぼうと約束した。
当てのない旅は、一体いつまで続くものなのだろう。彼女の背中を追いかける旅は、一体いつまで。
掛ける言葉に迷っている間に、フィニーはふわりくるりと空中を踊るように回って俺の前に来た。

「リュウタはアリア様になれなかったけどさ。
 ……悪くは、なかったよ」

そう言って、フィニーは何処かへ行ってしまった。何処に行ったのかは、俺には判らなかった。
俺にはフィニーを引き留める権利も、理由もなかった。名残は惜しいが、それまでだった。
彼が女神アリアに心を縛られたままなのは、よく判った。だけど、俺には何も言えない。
世界は広く、自由なもの。彼がそう思えるのは、果たしてどれぐらい先の未来になるだろうか。
妖精であるフィニーの時間の長さなど予想もつかない。ただ早く何かが見つかればいいと思った。





「フィニーは行ったか」
「……ブラッド」

思わずそこに立ち尽くしていた俺に声を掛けたのは、勝手口から出てきたブラッドだった。
怪我の治療をしていたのだろう、身体の所々に白い布が巻かれており、激戦だったことが窺える。
しかし、穏やかな表情はそんな痛々しさを感じさせない。心配は、きっと不要だと思った。
武具を全て外し、身軽な格好のブラッドは、スタスタと俺の近くまで歩み寄ってきた。

「リューは、これからどうするんだ?」
「……取り敢えず、片付けですけど」

反射的に、軽口で応えた。聞かれてすぐに自分のことを考えられるほど俺は器用じゃない。
そういうのじゃないですよね、と改めて視線で問うと、ブラッドは静かに頷いた。
これからどうするか。平和になった世界でどうやって、何をして、生きていくというのか。
今まで、一度も考えなかったことではない。考えて、押し迫る現実に先延ばししてきたことだ。

戦いが終わったからといって、今までの役割が全てなくなったわけでは決してないだろう。
復興のために、協力していくつなぎ目として、まだまだやらなくてはいけないことはある。
けれど、それが終わったら。100年の使命を終えた時に、一体俺には何が残っているのか。
やりたいことの、明確な展望はない。ただ幸いながら、生きていくのに不自由はなさそうだった。

「……色々と誘われていますし。
 その中の何処か、ですかね」

以前から、俺を誘う声だけは多かった。勿論、騎士団があるからと全部を断っていたのだが。
今のままキーラ商会を維持してもいいし、教え子たちの店に厄介になるのも悪くはないだろう。
新聞社に本格的に関わるのも学校でも開くのもいい。王宮でも名誉職ぐらいなら得られるか。
やりたいかと聞かれると素直に頷くことは出来ないが、やれそうなことは幾らでもあった。

ただ、うん。燃え尽き症候群か、それとも実年齢からか。やはりそれほど気乗りしない。
すぐさまに新しいことを始める気分にはなれなさそうだ。隠居でもしたい感じである。
それでも俺一人だけなら、なんとでもなるだろう。無計画で楽観的だけど、多分そうだ。
この先どうするかなんて決めてはいない。けれど、何処に辿り着くのかだけは明確であった。

「要は、生きるだけ生きて、それから死にます。
 これからは、みんなと同じです」
「……ああ、そうだな。
 俺も同じだ」

そう言って、ブラッドは少し寂しげな微笑みを浮かべた。昔を思い出しているのだと、俺は思った。
俺の4倍の時間を、傭兵や山賊、騎士団として過ごした彼は、一体どれほどの死を見ただろう。
仲間として、敵として。守るべきものとして、無関係なものとして、何人の命を見届けただろう。
生きて、そして死んでいけること。とうの昔に失ったものを、彼は漸くその手に取り戻した。

それに喜ぶのは、ある意味で傲慢かもしれない。この百年、生きたくて死んだ人の数は膨大だ。
ブラッドも、死にたくて死にたい訳ではきっとない。ただ、終わらないことは嘆いていた。
永遠に続く命と、終わらないかとも思った戦い。そう考えた時、ブラッドが心配になった。
もしかして、長すぎる戦いが終わったせいで、目標を無くしているかもと思い、俺は聞いた。

「そういう君は、どうするんです?」
「――ああ、ええと」
「……?
 何かあるんですか」

微妙に言い淀むブラッドを不思議に思った。もっと言うならば、確かに嫌な予感がした。
人に聞いておいて、自分の未来を考えたことがないとは思えない。きっと何かあるはずだった。
それなのに口ごもるブラッドを見て、何も思い浮かばなかったから、俺に聞いたのかと思った。
けれど、どうもそうではなかったらしい。ブラッドは照れくさそうに頬をかくと、言った。

「――騎士団で、村を作ろうかなって」
「それは、また。
 …………正気です?」
「ああ、団員も放り出せないしな。
 他に思い浮かばなかった」

思わず、絶句した。予想外だったからというよりは、その発言の規模に驚いたのである。
開拓村とは、また果てしなく厄介なことを考えるものだ。流石にそんなものの知識はない。
それでも想像するだけでも、それが困難であることは瞭然である。簡単な訳がなかった。
家も畑も何もない所に、人の生活圏を作るだなんて。初動の難しさを考えたくもなかった。

それでも、敢えて考えてみる。場所は決まっているのだろうか。最低限の寝起きはどうなのか。
水はどうだろう。井戸が必要な場所ならば、職人を呼んで作るまでは住めないのでは。
食べ物もそうだ。狩りが出来ても、肉だけでは生きていけない。どうしたって余所頼りだ。
最初からそこに住むよりは、少し離れた場所で物資を管理しながら環境を整えた方が良さそうだ。

最低限雨風を防げる場所を作り、水の確保を出来るようにしてから、食糧を持って移住。
場所にも寄るだろうけれど、それが一番現実的だろうか。これならまともな気がしてくる。
勿論、その移住するまでに滞在する近隣の集落に多大な迷惑を掛けるのを前提として、だ。
そうでなけりゃ、余程の資金と優れた運営者が必要だ。ぶっちゃけ俺じゃ間違いなく無理。

ブラッドは、団員のみんなはどう考えているのだろうか。行き当たりばったりではないだろう。
そう思い、チラリと見た筈のブラッドと目があった。直ぐに逸らされ、見られていたと判った。
その視線の意味を、何かを期待しているようなそんな瞳を見て、理解できない関係ではない。
ああ、またそういうことなんだな、と思った。彼らには、ブラッドには俺が必要なままなのだ。
目を閉じて、数秒。意志を固めるまでもなく、俺の答えは既にたった一つに定まっていた。

「それで、リュー」
「いいですよ」
「……いいのか?」

最後まで言われなくても当然判る。何を期待されていたかなんて、その顔で一目瞭然だった。
俺についてきて欲しい。今までの“いつも”を、これからも続けて欲しいと瞳が言っていた。
だから、わざわざ言葉にする必要なんてない。俺たちの意志疎通に、手間をかけるなんて面倒だ。
言われるまでもなく、即答した俺を不思議そうな顔で見るブラッドに、俺は笑ってみせた。

「――今更、です。
 見放したりできません」

だって。ブラッドにとっての“いつも”は、この百年、俺にとっても“いつも”であったから。
考えるまでもない。言われるまでもない。新しくないことだから、決意なんていらなかった。
それが多分、あるがままだと思った。わざわざ違う道を進むほど、他の道には惹かれなかった。
みんなと一緒に生きていくのは、きっと楽しいと思えた。理由なんて、それで十分だろう。

俺の返事を聞いたブラッドは、少し微妙そうな顔をしてから、嬉しそうに笑った。
いつぶりか判らない程の笑顔は、この夕焼け空よりも、余程晴れ渡っているような気がした。
うんうん、と満足そうに頷きながら、ブラッドは上機嫌に左手を差し出してくる。
何だか、その澄み渡る笑顔も満足そうな顔も、俺を無理矢理騎士団に入れた時を思い出す。
普段なら苛立つだろうそれも、今日ぐらいはまあいいかと、そう思って、伸ばされた手を俺は握った。










「よろしく、リュー」
「はい、ブラッド」










そして、彼の物語の終わりを告げよう。これから始まるのは、彼のなんの変哲もない人生だ。
それまでに比べたら物語る必要もないほどの穏やかな生活。渇望していた平和がそこにあった。
相も変わらず彼の周りには多くの人がいた。沢山の教え子と、沢山の友人に囲まれていた。
上野竜太はついに生まれ育った世界に帰ることはなかったけれど、彼はいつでも笑っていた。

しかし、そんな彼にもたった一つだけ。その人生を終えるまでの長きに渡った悩み事があった。
彼と終生の親友であった騎士団団長ブラッドは、畑を耕し獣を狩り生活をするようになった。
遠征をしないブラッドは、それまでを取り返すかのように竜太とともにいることに拘ったのだ。
何時でも何処でも付き纏おうとするブラッドには、彼も少しだけ手を焼かされ続けたのだという。





[37010] 最終話 時間の果てに
Name: re◆c175b9c0 ID:9d6a3570
Date: 2013/06/01 23:57



アクラル大陸、11世紀。その時代は、紛れもなく混沌の時代であったと言われている。
魔物と呼ばれていた、今では既にいない人類の敵対者は、その暴力を各地で振るった。
今ほど発達していない医療では、蔓延する伝染病には対抗出来ず、死骸が並んだという。
そして、人々の噂はそれを上回る混乱を齎した。無責任な噂は被害を拡大させる一方だった。

しかし、そんな苦境の時代においても、人類の歴史が歩みを止めることは一切なかった。
各種伝染病の治療薬や予防法が産まれたのはこの時代であるし、新聞もこの時期発祥だ。
今に繋がる科学知識や技術は、この時代に培われたものが少ない所か、異様に多いと言える。
ある意味で、混沌期に追い詰められたことにより、今の人類の発展があるのかもしれない。

この時代の史料は非常に多い。知識層の増加、製紙技術の向上による生産と供給の安定化。
これらが結びついたことによって、文章としての記録がなされることが圧倒的に増えたのだ。
王宮を舞台にする貴族たちの華やかな生活や、教会の僧侶たちの慎ましい生活だけではない。
商人たちの生業や、あるいは新聞などの一般市民向けの文章すら、この時代にはあった。

交通網が発達したことにより広がった経済圏は、ただの口約束では仕事を不可能にした。
今の時代ほど多くの物がやり取りされはしなかったが、一つの取引に掛かる時間は長かった。
記録がなくては仕事ができない。読み書きを為さずして出来るのは小さな仕事だけだった。
読み書きが出来れば、誰でも成り上がれるチャンスがある。そういう時代でもあった。

そうして、時代は文書に記録されていく。貴族の日記、商人の取引記録、僧侶の日誌。
ありとあらゆることが文章にされていく。世界のこと、国家のこと、そして個人のことも。
一つの情報は他の情報と繋がり、連綿たる世界を組み上げる。全体図を浮かび上がらせる。
当時の世界の有り様は、残された膨大な資料を組合せ、そして類推することができた。

しかし、同時にこの時代の膨大な史料の中には、あるはずのものがそこになかった。
当時、各地に存在していた魔物からの防衛団の中でも、最も大きな役割を果たした“騎士団”。
彼らを直接記録した文書は存在しない。日誌も日記も帳簿も、何一つとして残っていない。
まるで、そこには何もなかったかのようである。彼ら自身が残したものは見つからなかった。

それでも、騎士団の存在は紛れもない事実だ。莫大な資料の中にも彼らを確認できる。
王宮の参内簿、フェルミナの入市管理簿、各地の自衛団との関わりは調べれば直ぐに見つかる。
彼らが読み書きを出来なかった集団であるということは、それらから否定されている。
統制の取れた、帳簿の管理が出来る組織であることを、取引記録は物語っているからだ。

騎士団の史料は、恐らく何らかの理由を持って、散逸したと考えるのが一般的である。
誰かが、何らかの目的をもって為したことだというのは、歴史家たちの共通認識だった。
この時代の膨大な史料にその存在を保証されているが、存在を消したかったものがいる。
その理由も、実行者も、度重なる研究を通しても明らかにならない、歴史の謎であった。

その中で異彩を放つ、騎士団研究における史料がある。唯一、それだけは残されていた。
1400年代に発表されたとされる、“VENUS&BRAVES”という歴史物語。
レッド新聞社発行、騎士団団長ブラッド・ボアルを主人公とした100年の戦いの記録である。
時代が遅れていたからか、大量に刷られたからか、この本だけは散逸しなかったのである。

これは、あくまで小説だ。歴史史料としての信頼性には、完全にではないが欠けている。
女神アリアの存在。ブラッド・ボアルを始めとする不死者の存在。精霊郷の存在。
ある時期を境に、魔術というものを失ったこの世界では、彼らをそのまま信じられない。
創作物に過ぎないとして、研究するに値しないとするのは、当然の反応であるとも言えた。

それでもこの本が着目され続けるのは、これが歴然とした年代記でもあるからだった。
各種史料から類推される当時の生活や起こった事件は、問題なく正確であることが判っている。
例え、細部が異なっていようと、数字に明らかな誇張が入っていようと、参考にはなった。
この本自体の信憑性の研究が、騎士団研究の本流であるというのも一つの事実であった。

研究対象としての歴史だけではない。この物語は娯楽性にも優れた書物として今でも人気だ。
子どもの寝物語とするには長く、また陰惨な描写が多いが、それでも幅広い年代に知られている。
その分、近年の歴史ブームにおいても、かなり初期から注目されてきた時代であり、作品だ。
創作対象としても、英雄性と物語性、逸話に事欠かない騎士団は、引っ張りだこである。

そんな中でその小説が注目を浴びたのは、それが小説として優れているからではなかった。
文章力では幾らでも上があり、そしてキャッチーさという観点では寧ろ低い方だった。
それでも、100年を書ききった執念。長い時間を掛けたものを完結させたことへの評価。
インターネット上で公開されたそれが、多くの人の目を集めた切欠はただそんなことだった。

注目されたことで、見る人が見れば気付くことに、気付ける人がついに目を通してしまった。
VENUS&BRAVESの、歴史上の不備。いたはずの人に触れなかったという事実。
その小説は、賢者と呼ばれた、医療や経済界に大きな影響を与えた人物の存在に触れていた。
触れるどころではない。彼が話の主人公として、騎士団の歴史を追いかけていたのである。

VENUS&BRAVESは、違った。彼への言及を最初から最後まで、全てを避けていた。
直接の関係があったかの史料はなくとも、同時代で同場所に存在していたのに拘らずである。
彼が為した業績は、膨大な史料が物語り、騎士団であっても無関係ではいられなかったはずだ。
騎士団と賢者を結びつけたのは、研究史上珍しくはないが、その精度がまた異常であった。

その特徴に、数字上の嘘がつかれていないというのがある。可笑しいぐらいに正確なのだ。
専門の研究者であっても、史料を持って事実だと認めるほどの研究としての精度である。
或いは、VENUS&BRAVESよりも歴史的には正確であるかもしれないと、認められた。
ただのインターネット小説が注目を集めてしまったのは、そう言った理由が強かった。

そうして集めてしまった注目であるが、当の作者は押し寄せる書籍化の波を全て断った。
「書きたかっただけ」と一言のもとに切り捨てたのは、若干14歳の細面の少年であった。
その反応もまた彼自身に注目を集めるだけ集め、そして世間は新しい話題に移っていった。
時はアクラル歴2010年。バルクウェイの崩壊と騎士団成立より、1000年が経っていた。










その少年には生まれる前の記憶があった。物心ついた程に、自ずと思い出した。
生まれる前の記憶と言えど、別に胎内やその前後の記憶があるわけではない、その前だ。
少年が持っていたのは、前世と言われる類の記憶である。今の自分になる前の、記憶だった。
明瞭にして具体的、余りにもハッキリと思い出せるものだから、気持ち悪いほどである。

勿論、馬鹿げていると言われるのが目に見えているので、両親であろうと口にしなかった。
特に現世の家族を嫌っているなんていうことはないし、折角なら仲良くやっていきたい。
“起こってしまったことは、既に過ぎ去ってしまったことだ”と、昔の知合いは言っていた。
過去に引き摺られて、今の人生を悪いものにしてしまうなんて、少年は望まなかった。

前世の少年は、小さな妖精であった。生まれる前の少年は、“フィニー”と呼ばれていた。
アクラル大陸の混沌期において、女神アリアのお供をしていた、羽を持つ小さな妖精。
“フィニー”は戦いの後旅を続けた。何を探しているのかも判らず、世界中を当てなく巡った。
ただ、この広い世界の何処かには、自分が求めているかもしれない何かがあると思った。

海を渡った。別の大陸に行った。山を越えた。地に潜った。ありとあらゆる場所を巡った。
それでも、何も見つからなかった。自分の心の中に、ぽっかりと空いた穴を埋める“何か”。
この隙間を埋める何かを求めているのだと気付くまでに、それだけで100年は掛かった。
その間に騎士団はみんな死んだ。時間に限りのある人間なのだから、それは当然だった。

騎士団が死んだのを知っても、“フィニー”は寂しくはなったが、変わらなかった。
心の隙間が更に広がることはなかったし、勿論小さくなるようなことも、一向になかった。
段々、自分が何をしているのかが判らなくなりながら、“フィニー”は旅を続けた。
世界が様替わりしていく様をその目で見ていた。これがみんなが守った世界なのだと思った。

あるとき、“フィニー”は王都に寄った。ボロボロになった城壁がまだそこにあった。
街の中を姿を隠し飛び回っているときに、ふと何かに呼ばれた気がして大正門に向かった。
多くの人が行き交う中で、“フィニー”は大正門に身体を預けて、ひと休憩した。
そうして少し時間が立った時に、彼は目を疑った。見覚えのある顔が正門の下にいたのだ。

ブラッドと、女神アリア。当然本人でないことは、その背丈から一目瞭然だった。
まだ幼いと言える少年と少女は、それでも彼らに瓜二つ。生まれ変わりだと直ぐ気が付いた。
何処かやんちゃで、悪戯な顔をした少年。それを咎めながらも、楽しそうな少女。
幼馴染なのだろう、とは思った。きっと、この二人は幸せになるだろう、と思った。

そして、“フィニー”は旅を止めた。彼の心に空いていた隙間は、その瞬間に埋まった。
なんのことはなかった。彼が探していたのは、幸せになっていた女神アリアであったのだ。
旅を止めた“フィニー”は、妖精たちとの長い遊びの日々を、漸く迎えることになった。
人里離れた場所で、そして時には人里で、彼らは飽きることなくあそび続ける日々を送った。

その日々にも、終焉が訪れた。明確な幕引きはなかったが、段々と静かになっていった。
世界から魔法の力が、不思議の力がなくなっているらしかった。妖精たちは眠りに付いた。
もう目覚めることはないだろうことは判っていても、別に恐れることではない。
ただ自然に帰るだけだと、最後の最後まで、一人で残った“フィニー”も静かに眠った。

“フィニー”がその長い時間を終えたのは、少年が生まれる500年は昔であっただろう。
その間彼は生まれ変わらなかったのか、それとも何も思い出さなかったのかは判らない。
少年にとっては、どうでもいいことだと思った。調べようがないから、気にしようもない。
今度は、人として生きていくのだ。アリア様と同じだと思ったら、少しだけやる気が湧いた。

人間として生まれ、人間として生きていく。妖精の頃とは、大分感覚が違うなと思った。
何より、死というものがある。昔は“悲しいもの”であったが、今は“怖いもの”だ。
自分にも訪れる可能性があると気付いた時は、流石に少しは動揺したが、今では落ち着いた。
“フィニー”が少年になってから14年。彼は、学生として日常を過ごしていた。

少年の生きる時代で、学生が避けることが出来ないのは、所謂学校や授業というやつだ。
まるで、昔賢者がやっていたようなことを、更に広範囲に時間をかけて行っている。
流石にうんざりしないではいられない時もあるけれど、少年はそれが案外嫌いではなかった。
これをして人生を変えていった例を幾らでも見たことがあり、勉強の価値が知っていたからだ。

ある日の授業で、少年は“フィニー”として生きてきた時代について、学ぶことがあった。
その時に紹介された歴史は、彼が知っていたものとは大筋が同じで、そして違うことばかり。
教師に紹介されたVENUS&BRAVESという本を、少年は興味が湧いて読んでみた。
……有り得ない、と思った。誰がこんなものを書いたのかと思って、直ぐに答えが判った。

その本は、余りにも詳細過ぎた。その本は、少年が知っているブラッドたちそのままだった。
それなのに、女神アリアは生きていた。それなのに、賢者は影も形も存在しなかった。
こんなことをする人間に、心辺りがないわけではなかった。出版時期も、それを後押しした。
理由は判らないけれど、あの人はこれを歴史としたがったのだ。少年はそう思った。

それから少年も小説を書き始めた。何故書き始めたのかは、彼自身にも良く判らなかった。
ただ、書かなくてはいけないと感じた。誰かに伝えなければいけないと思ったのである。
正しい歴史とか、そんなものはどうでもよかった。ただ、何かを誰かに伝えたいと思った。
そうして発表したその小説が、評価されようとされなかろうと、少年にはどうでもよかった。

結果的に評価されて、色々な話題に登るようになった。少年はそれもどうでもよかった。
少年自身が注目を集め、天才美少年だの、色々と言われるようになった。どうでもよかった。
そうして皮肉気に、或いはやる気なさ気に、答えて言ったのにも色々な反響があった。
厨二病と言われ、それもまあ年齢的には確かだと少年は思った。正直、どうでもよかった。

賢者がいたこと、賢者が為したこと、女神が生きた様を伝え、それでもまだ足りなかった。
何が足りないのかを、少年は良く判らなかった。昔と同じように心に隙間が出来ていた。
空虚な日々は、それでも止まらない。昔とは違って、少年自身の時間も流れていた。
いずれはこの空っぽさも感じなくなるのだろう。妖精と違って、人は忘れることが出来る。
少年がそう自身を慰める日が続いていたある日のこと、思いがけない出会いがあった。










その出会いは、決して偶然であるわけがなかった。相手が少年を探し、出向いてきた。
ある日、授業後直ぐに帰宅しようと、少年は教室を出て階段を降り、昇降口から外に出た。
部活動の準備に走る生徒、同じように帰宅する生徒の波に乗り、流れるようについていく。
そうして学校の正門に辿り付いたとき、少年にはポカリと空間が空いているように見えた。

少なくない人数が動いている中で、その一角だけは誰もいない。そこだけを避けている。
カーブを描いて避けて横切る彼らは窮屈そうに密集している。人口密度が高そうだった。
けれど、その割には歩いていく生徒たちはそれを不思議がった様子はなく、自然であった。
何かそこにあるのだろうか。比較的背が低い少年は、通り過ぎ様に横目だけで確認した。

明らかに場違いな女がいた。パッと見だけで、あの女を避けているのだと理解できた。
しかし、すぐに少年は違和感を抱いた。避けているのに、一人として彼女に注目していない。
学校に用事があるはずもない、派手な女だ。何かの噂になってもおかしくないと思った。
理由があるに違いない。彼女が何者であるかを不思議に思った少年は、その女を良く、見た。

――最初に目に入るのは、そのド派手なファーコートだ。安物なんかでは絶対にない。
続いて長い栗色の髪。一種異様な程の露出度の高さは、それだけで場違いであった。
それだけではない。絶世の美貌と抜群のスタイルは、芸術品だと言われた方がしっくりきた。
良くも悪くも人間離れした容姿の女は、自身を見る少年の視線に気が付いたらしかった。

ぞわり、とした。スタスタと歩み寄ってくる姿は、まるで人並みをかき分けるようだった。
彼女を中心に出来ていた円形の人の流れは、彼女の動きに付いてくるように動いた。
何かの結界でもあると言われた方がしっくりくるほどで、そして実際にそうだと思えた。
誰一人として、この違和感だらけの状況でも反応しない。彼女の力に違いないだろう。

少年は、女が近づいてくるまで動けなかった。女の、存在感に呑まれたのである。
目の前にきた派手な女は、背が高かった。履いているブーツだけでなく元が高いのだ。
異様な程の美貌と、不思議な力を持った女は、ジロジロと少年のことを見てきた。
やがて女は満足したのかうんうんと頷くと、小さく柔らかな微笑みを浮かべて、言った。





「やっぱり、あんただったんだね。
 ……妖精くん」
「それはこっちの台詞だよ、大魔女。
 ……あんた、まだ生きてたんだ」





目の前にいるのが比喩でもなんでもなく、大魔女であることに少年は直ぐに気が付いた。
高帽子がなくとも黒一色でなくとも、その存在感は変わらない。昔と同じだった。
……昔と同じまま。彼女は、やはりあの時代からずっと一人で生きてきたのだろうか。
いや、一人かどうかは判らない。しかし、間違いなくあの時の彼女と同一人物ではあった。

900年ぶりだろう再会に、妖精だった少年は、何を言えばいいのかが判らなかった。
穏やかに自身を見つめる表情には、たったひと欠片の悪感情も見出すことは出来なかった。
そこには、ただ懐かしむような色だけがあって、それもまた少年を少し曇らせた。
なんのようか、など問う必要はない。あの小説を見たから会いに来たのに違いなかった。

「よく、ボクだって気付いたね」
「何言ってんのさ。
 あんなに見つけて欲しそうなもの書いて」

う、と言葉に詰まるのは、少年が言われた言葉を完全には否定しきれないからだった。
あの小説には、少年にしか書けないことが沢山あった。妖精しか知らないことばかりだった。
賢者が騎士団と共に戦った、あの100年弱。全てを知る人間など、他にはいなかった。
あれを書いたのは、少年が“ボクはここにいる”と主張したかった面を、否定できなかった。

少年しか書けないことを、少年が知っていることを知っている存在は、そう多くない。
賢者自身か、或いはブラッドか目の前にいる大魔女か――それとも、女神アリアだけだ。
気付いて欲しかったのは、その中の誰でもいいとは、少年には口が裂けても言えない。
だけれど、もしも誰かが気付いてくれるのならば、それはそれで誰でも構わなかった。

そもそも、自身と同じように、記憶を持っている彼らが生きているとは思っていなかった。
大魔女は生きているかもしれないとは思っていたが、それでも可能性止まりに過ぎない。
ただ、もう一度女神アリアに会える可能性があることを、少年は我慢できなかったのだ。
そんな気持ちを知ってか知らずか、「あんたしかいない、そうでしょう?」と大魔女は笑った。

「……あんただって。
 あんただって、あんなもの書いたじゃないか」
「ん?」
「……アリア様が、生きてるなんて。
 なんであいつを消したんだ?」

少年には、大魔女の意図が全く判らなかった。最初に読んだ時から、ずっと疑問だった。
賢者の存在を消した理由が判らない。賢者が最初からいないとした理由が、想像もできない。
女神アリアを生かした理由が判らない。女神アリアとブラッドを幸せにした理由が判らない。
その二つをするのなら、最初からブラッドを支えたのは大魔女とすればよかったではないか。

VENUS&BRAVESを知った時から、大魔女以外に書けないことは判っていた。
その上で、騎士団の記録を抹消してまで、賢者を消した目的が余りにも不可思議であった。
そんなことをしてまで書いたのは、ブラッドとアリアのハッピーエンドなのである。
大魔女には、なんの得もない。何故かと問いかける視線に、大魔女は瞳を逸らした。

「――マシだと思ったんだよ
 アリアに、一途なままよりね」
「……?」
「死んだアリアじゃないんだ。
 あたしは、生きているアリアに負けたかった」

だからさ、と大魔女は苦笑した。その表情に込められた感情は、良く判らなかった。
少年はまだ恋をしたことがない。妖精であったときも今でも、そんな感情とは無縁だった。
ただ、それが執着と似たものだとするならば、少しだけは理解できるような気もした。
ブラッドが、死んだ女神アリアを想い続けていたことは、妖精もずっと見ていたから。

アリア様も生きていたら、あんな風に幸せになれたかもと、あの小説を読んだとき思った。
ブラッドと、というのは癪だったけれど、それでもあんなに幸せそうなお姿は見れなかった。
少年が創作の中でも、その幸せな末路に救いを感じたように、大魔女もそうなのかもしれない。
大魔女が救いを見出したのは、ブラッドが生きているアリアと結ばれたことであったとしても。

あれは、彼女自身の救済のために書かれたものなのだ。彼女のプライドを守るために。
大魔女が望んだのは、空想の中でブラッドと結ばれることではなく、完全に負けること。
それが救いになるのかは少年には良く判らなかったけれど、別に知りたくもなかった。
知りたかったのは目的であって、その詳細ではない。だから、少年は続けて聞いた。

「――じゃあ、もう一つは?
 なんで、記録まで消して回ったの」
「……難しいな。
 なんて言えば伝わるんだろ」

大魔女は、顎に手を添えた。難しそうな顔をして中空を見る。その瞳は既に今を見ていない。
そうでもしなければ、上手くアリアとブラッドを幸せにすることが出来なかったから。
後の世に神格化されてしまったから、彼がそんなのを望んでいないと思って、優しさで。
今の時代に知られてしまうと困ってしまうことがあったから、結果的には仕方なく。

理由を並び続ける大魔女は、どの理由も自分自身で納得が言っていないのは丸判りだった。
どれも、ある程度は事実なのだろう。少年が想像していたものと、大きくずれてはいない。
その目的が複数あったのならば、一つに絞れないのも、仕方がないのかもしれない。
ことはそう単純ではなかったんだ。そう納得しようとした時に、大魔女は小さく呟いた。





「――うぅん。
 折角、あたしだけのものだったのにな」





少年は、何かを言おうとして、止めた。その言葉に何を言えばいいのか判らなかった。
今微かに大魔女が漏らしたのは、あの賢者に対する、一体どんな感情であったのか。
彼女はどんな想いをして、今の言葉を言ったのか、聞く勇気が少年にはなかった。
居た堪れなくなった少年は、更に続けて質問をした。別の話に変えてしまいたかった。

「――これからどうするの、アンタ」
「ウフフ、決まってるじゃない。
 生きていくのさ、自分のためにね」

聞かれると判っていたのだろうか、大魔女は嬉しそうに、スラスラと口にした。
なぜそんなに嬉しそうなのか、少年はいまでも、大魔女を理解できそうにないと思った。
微妙な顔をする少年に女はクスクスと笑い、それを見た少年は少し不機嫌になった。
そんな姿を見て、大魔女は悪戯な顔をした。人を誂うのが、相変わらず好きなようだった。

「生まれ変わったのは、あんただけじゃないの」

そう言って、大魔女はその右手を開き、手の平を上に向けて左手をその指に添えた。
「最初は、あの巫女」大魔女はまず、親指を一本折った。白い指が4本になった。
「次はあの小さな魔女さん」小指を折りたたんだ。手入れされた爪は華やかだ。
「あの神官もね」薬指を畳み、ピースした。残りは、人差し指と中指の2本になった。

「それに、ブラッドと、アリア。
 あんたも見たはずよね」

そう言われて少年は気付いた。大魔女と妖精は同じ世界の同じ時代を生きていたのだ。
妖精が見つけたアリアの幸せという答えは、生まれ変わったアリア自身の姿で見た。
――しかし。しかし、あの時既にアリア様とブラッドは、共に生きる未来が見えていた。
それを判らない大魔女ではないだろう。そう思って見ると、彼女は大きく頷いた。

「あたしは待つのは好きじゃない。
 だから、あたしは探してるの」

時間はかかったとしても、と大魔女は歌うように言った。今にも踊りだしそうだ。
前回は、アリアのものになった。でも、あたしにはまだ永遠の時間があるのだ!
例え思い出せなくても、生まれ変わることは出来る。思い出させることも出来る!
だから、と大魔女は笑った。華やかに、満開の花が咲き誇るように、美しく笑った。








「次は、あたしを好きになってもらうんだ」








華やかな微笑みを向けられた少年は、何も言えなかった。何もかも、重すぎた。
決意の秘められた瞳と満開の笑顔は、永遠の時を生きる悲壮感などとは、完全に無縁だった。
彼女は大魔女だ。大魔女は自身で望み続ける限り、その生を終わらせることはない。
彼女の人生は、いつまで続くのだろうか。――終わりを望むことは、あるのだろうか。

時間というものを、恐怖したのはこれがきっと初めてだ。彼女の時間は、長すぎる。
いつかの賢者も、こんなことを言っていた記憶がある。その感情が漸く少し理解できた。
言葉に詰まってしまった少年を横目に、大魔女はその場で大きく背伸びをした。
首をコキコキと鳴らした彼女は、晴れやかな笑顔で少年を見た。深い鳶色の瞳だった。

「あたしの話はこれで終わりだよ。
 まだ、話すことってある?」
「……」
「――そっか、それじゃあね。
 限られた時間を、精々幸せに」

言っている言葉の厳しさの割に、嫌な感じはしなかった。ただ、明らかな事実ではあった。
彼女よりも早く死んでいくという事実。妖精ではない彼にとっては避けられないことだ。
超越してしまった彼女にとっては、ある意味で、最大級の祝福であるかもしれなかった。
失ってしまったものを持つ者への、少しの憧憬と嫌味を込めた呪いでありまじないなのだ。

彼女はコートと、長い栗色の髪を翻して少年に背中を向けた。手をひらひらとさせた。
ゆっくりと遠ざかる背中に、声を掛けられなかった。立ち止まらせることは出来なかった。
女はきっとこれからも、永遠の時を飽きるまで生きていくのだろうと、少年は思った。
その先に、何かが見つかればいいと思いながら、見えなくなるまでその背中を見送った。




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