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[7688] コードギアス 反逆の兄妹 (現実→オリキャラ♀)
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2014/04/02 16:15
■始めに■

・このSSは「コードギアス 反逆のルルーシュ」の二次創作です。

・転生というか憑依というかそんな感じの出来事が起こってオリキャラとしてコードギアス世界に行っちゃった現実世界の人間(コードギアス視聴済み)が主人公です。

・テレビアニメ版しか知らない読者さんが読んで違和感のないものを目指しています。
 スピンオフ作品の内容は基本的に考慮しません。

・投稿速度はあまり速くできません。また、長期間更新停止することがあります。
 他の創作物や仕事などとの兼ね合いの都合上、これはどうにもなりません。途切れたら気長に待ってくださいませ。

・ごくわずかですが、rubyタグを使用しています。対応していないブラウザだと<>内がルビの文字になります。

・「イレブン」と「イレヴン」では後者の表記が正しいとはわかっておりますが、作者としてはアニメの音声のイメージが強いせいか
 「イレヴン」の方に違和感を覚えてしまいます(あれ「イレブン」って言ってますよね?)。
 よって「イレブン」で進めます。

以上をご理解いただいた上でお読みいただければと思います。

駄文とは存じますが愛情を込めて書いて参りますので、お付き合いいただますと幸いです。

(2014/02/08 改定)


※この小説はハーメルン様にも投稿しています。


■投稿履歴■
2009/03/31 STAGE0
2009/03/31 STAGE1
2009/04/02 STAGE2
2009/04/07 STAGE3
2009/04/13 STAGE4
2009/06/22 STAGE5
2009/06/28 STAGE6
2009/07/04 STAGE7(チラ裏からその他板に移動)
2009/07/27 STAGE8
2009/09/08 STAGE9
2009/09/30 STAGE10
2009/10/09 STAGE11
2010/02/17 STAGE12
2010/04/19 STAGE13
2010/04/27 STAGE14
2010/05/05 STAGE15
2011/01/18 STAGE16
2014/02/08 STAGE17
2014/04/02 STAGE18
※初出のみ。修正は省略。



[7688] STAGE0 皇子 と 皇女
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2014/02/08 19:39
「神聖ブリタニア帝国第十七皇位継承者ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア様、御入来」

 両開きの巨大な扉が開かれ、広大な空間に光が差す。堂々とした足取りで赤絨毯を踏んだのは、まだ年端も行かぬ少年であった。

 ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。

 数多く存在する皇帝の子らの中で、現在最も注目されている人物であろう。
 ただしそれはあくまでも『現在』に限っての話である。向けられる好奇の眼差しは持ってあと数日。数ヶ月後には噂にも上らなくなっているはず。この場に居合わせたほとんどの人間がそう予測していた。

 ――マリアンヌ皇妃はブリタニア宮で殺められたと聞いたが。
 ――テロリストが簡単に入れるところではありませんな。
 ――では、真の犯人は……?
 ――怖い怖い、そのような話、探ることすら恐ろしい。

 密やかに交わされる囁きの中、少年は毅然と顔を上げて歩む。澄んだ紫の瞳は正面に座する帝王の姿をまっすぐに見据えていた。実の父であるブリタニア皇帝シャルル・ジ・ブリタニアを。

 ――しかし、母親が殺されたというのに、しっかりしておられる。
 ――だが、もうルルーシュ様の目はない。後ろ盾のアッシュフォード家も終わったな。
 ――妹姫様は?
 ――ナナリー様は足を撃たれたと。目も不自由になられたとか。

 無責任に垂れ流されている静かなざわめきは、少年が玉座の前にひざまずくと同時に止まる。幼いながらも凛とした皇子が何を話すのか、そして皇帝が何と返すのか、人々の興味はそこに尽きていた。

「皇帝陛下、母が身罷りました」

 会話の出発点としては無難であろう。肝心なのはここからどう展開するかである。

「だから、どうした?」

「『だから』!?」

 眉一つ動かさぬ父の返答に、少年は強くこぶしを握る。

「そんなことを言うためにお前はブリタニア皇帝に謁見を求めたのか。子供をあやしている暇はない。次の者」

 徹底的に冷然とした反応であった。

 集まった面々は、やはり、と心中で漏らす。
 ルルーシュ皇子の母君、マリアンヌ皇妃は皇帝に切り捨てられたに違いあるまい。たとえ直接手を下したのではないにしても、皇族の住まう宮である。通常の警備体制が敷かれていさえすれば、そうそう侵入できようはずがない。

 皇子も一瞬で理解したのであろう。あるいは元から予想済みの答えであったか。掴みかかるかのような勢いで立ち上がり、皇帝を鋭く睨んだ。

「父上! なぜ母さんを守らなかったんですか!? 皇帝ですよね? この国で一番偉いんですよね? だったら守れたはずです! ナナリーのところにも顔を出すくらいは!」

「弱者に用はない」

「弱者?」

「それが、皇族というものだ」

 厳烈に言う皇帝の前で少年は唇を噛む。きつく、きつく。憤怒に満ちた表情は、告げられた父皇帝の理念を受け入れてなるものかと雄弁に語っていた。胸中に去来するのは妹姫の境遇であろうか。

 銃弾に撃ち抜かれて両足が不随になったナナリー皇女は、母親を目の前で殺されたトラウマから盲目となったと言われている彼女は、間違いなく――弱者だ。

 それを承知でありながら、皇帝は弱き者は必要ないと断言する。

「なら僕は、皇位継承権なんて要りません! 貴方の跡を継ぐのも、争いに巻き込まれるのも、もうたくさんです!」

 固唾を飲んで見守る人々の間にどよめきが起こる。激情に駆られる息子を皇帝は冷めた目で見つめた。

「――死んでおる」

「え?」

「お前は、生まれたときから死んでおるのだ。身にまとったその服は誰が与えた? 家も食事も、命すらも、全てわしが与えたもの」

 世界の三分の一を支配する帝王の瞳に苛烈な眼光が宿る。

「つまり! お前は生きたことは一度もないのだ! 然るに! 何たる愚かしさ!」

 立ち上がる。たったそれだけの動作。だというのに溢れ出る威圧はまさに津波のごとく。
 強者の理を是とするブリタニア皇帝の覇気である。並みの胆力で耐え切れるものではあるまい。いかに優秀な皇子であろうと、幼い少年にそれを求めるのは酷であった。

 気圧されて尻餅をついた息子に皇帝は冷厳に告げた。

「ルルーシュ。死んでおるお前に権利などない。ナナリーと共に日本へ渡れ。皇子と皇女ならば、良い取引材料だ」





 ルルーシュ皇子が退出させられて後、謁見の間にはわずかな喧騒が戻っていた。
 次に拝謁が許された人物もまた、先の皇子に負けず劣らず人々の関心を集める存在であったのだ。

 長くひかれた赤い絨毯の道をしずしずと歩くのは、少女であった。歳の頃はルルーシュ皇子とさして変わるまい。あどけなさの残る顔に表情はない。しかし内に秘める感情の程を示すかのように、瞳だけが爛々と輝いている。

 ――兄君さまの直後は酷ではないのか。
 ――しかし、先ほど陛下はルルーシュ皇子とナナリー皇女についてのみ、処遇を申された。
 ――同じことよ。傑物と目されようと、マリアンヌ様が暗殺されたのだ。もはや目は無い。

 やがて歩みを止めた少女は皇帝の眼前に膝をつく。ざわめきが引くと、皇女はゆっくりとおもてを上げた。

「父上、わたくしは以前、貴方のなさった演説に感銘を受けました。感動といってもよいでしょう。貴方の声に、口ぶりに、そして言葉に、心が震えました。先ほどもです」

 いったい何を言わんとしているのか。兄を打ちのめした言葉に感銘などと。

 この時点で奏上の終着点を予想できた者は誰一人として居なかった。いや、皇帝本人は例外であったかもしれない。己が娘の決然とした眼差しを受け止める皇帝ならば。

「弱肉強食。世界というものは、その理で動いている。つまりは、一片の偽りすら混じる余地のない、紛う方なき絶対の力がありさえすれば、世の中の全ての嘘を暴き、踏みにじり、駆逐できる。そういうことだと、わたくしは理解しております」

 まさか――。
 いや、あるまい――。

 数人の脳裏に一つの想像がよぎり、同時に皆が否定する。

 皇女の暴く『嘘』というのは、もしや。しかし、それを皇帝の前で口にするなど。

「だとして、お前はどうする」

 皇帝は厳かに訊いた。少女は静かに答える。

「兄上への先ほどのお言葉はまさしく道理。わたくしも同様に死んでいるのでしょう。父上からいただいたものを抜きに生きられないわたくしは、母を守れなかったわたくしは――力無きわたくしは、たしかに死んでおります」

 好奇。憐憫。期待。そして戦慄。
 聴衆の眼差しを一身に浴びながら、彼女ははっきりと宣言した。

「――なればこそ、いつか必ず、生きて、貴方のおられるその椅子に座ってみせましょう。本日はそれを申し上げに参りました」

 玉座の皇帝をアメジストの瞳で挑戦的に見上げる皇女。

 クラリス・ヴィ・ブリタニア。

 帝王に向かって宣戦布告の誓いを打ち立てた彼女は、この数日後、兄ルルーシュ、妹ナナリーと同じく、神聖ブリタニア帝国から姿を消すこととなる。

 人々の記憶から忘れ去られたかれら兄妹が歴史の表舞台に帰ってくるには、まだ長い時を必要とした。



[7688] STAGE1 交差する 運命
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2014/04/02 16:18
「ちょっと見てよ、毒ガステロだって」

「うっそ、マジ!?」

「大丈夫かなぁ。イレブンって何するかわかんないし、学生だから大丈夫ーなんて言ってらんないかも。ウチの学校まで狙われたりして」

「怖いこと言わないでよ」

「だって毒ガスだよ毒ガス。シャレになんないって。シンジュクなんて三十分と離れてないのに」

 興味九割、怯え一割。
 ノートパソコンに群がって騒ぐ学生たちを横目に教室を出ながら、そんな物だろうとルルーシュ・ランペルージは思う。

 事件のあったシンジュクはゲットーであり、ここアッシュフォード学園はトウキョウ租界だ。被占領地の人民が暮らす復興途中の地域と、植民地支配の拠点とするべく今もなお大量の資金が投入されている最先進の街。

 それはとりもなおさず、自分たちブリタニア人と『日本人』の名を奪われた被支配人民――イレブンとの間にまたがる深い差を示している。

 容易には突き崩せない壁だ。だが――。

 これを考えるたびに、ルルーシュの頭には目と足の不自由な最愛の妹の笑顔と、殺された母の面影が浮かぶ。
 そしてもう一人、幼い日に引き離された行方知れずの妹の姿。

 幸せに暮らしていた一家は、八年前、九歳の時に離散を強いられた。

 母マリアンヌは暗殺され、後ろ盾を失った皇子と皇女――ルルーシュとナナリーは外交の道具として、当時はまだ独立国であった日本へと送られた。人質である。

 そこでの暮らしはそう悪くはなかったと、今になってみれば思う。生活レベルこそ一般庶民並みかそれ以下に落ちたが、親友と呼べる存在もできたし、何よりも『安全』を盲信することができた。

 人質というのは無事であるからこそ人質として機能する。だからこそ、滅多なことでもない限りはそこまでの危険は無いのだろうと無邪気に考えられていた。
 預けられた先は日本国首相の家であったのだが、彼の人柄を見るに『滅多なこと』など起こりそうもなかったのだ。

 しかしその予想は最悪の形で裏切られることとなった。
 人質として子供を預けておきながら、他ならぬ実の父が戦争を仕掛けたのだ。

 要は、殺すつもりだったのだろう。普通に判断すればそうだ。
 たとえそうでなくとも、父皇帝にとってルルーシュたちの命がさしたる価値を持たないのは間違いない。

 ルルーシュとナナリーは何とか生き延びたが、暗殺を回避するため、あるいは政治の道具として本国に送還される未来を避けるために、公的には死亡扱いとならざるを得なかった。現在の姓ランペルージは偽の家名である。本当の素性を知っているのは匿ってくれたアッシュフォード家のみ。
 他に漏れればおそらく現在の生活は崩壊する。

 もはやルルーシュは明日という日が必ず無事にやってくるなどとは微塵も信じていなかった。

 そして双子の妹、クラリス。

 彼女に至っては日本に送られて以降一度も会っていない。消息は知らされておらず、名前すらも聞かなくなった。
 考えたくはないが、自分たちが殺されかけたのだ。そういう可能性は十分にあるのだろう。

 だから、誓ったのだ。
 ナナリーが幸せに暮らせる世界を作るために。母と妹の仇を討つために。

 ――ブリタニアをぶっ壊すと。

 そのための力は、既に手にした。

 ルルーシュは心の中で不敵に笑う。

 これが笑わずにいられようか。少し前までその誓いはただの妄想でしかなかったというのに。
 全世界の三分の一を支配するブリタニア帝国という現実は、あまりにも高く、険しい。だというのに、今なら手が届くのだ。

 いかなる相手にでも命令を下せる絶対遵守の力――ギアス。

 その有用性は証明済みだ。厳重な軍の警備を掻い潜り、なおかつ誰にも悟らせず、エリア11の総督であるクロヴィス皇子を殺害することができたのだから。

 自分の知略とこの力があれば、万の策でも練ってみせよう。

 与えてくれた緑髪の少女には全身全霊で感謝したいところだが、彼女は目の前で眉間を撃ち抜かれている。生きているはずがない。
 契約とやらを果たせず終いになってしまったのは申し訳ないが、せいぜい有効活用して供養にしてやるしかあるまい。

(しかし、シンジュクの事件はテロとだけ報道されていた。俺はたしかにこの手でクロヴィスを殺したのに、その情報が完璧に伏せられている。やつらの意図は何だ。考えられる展開としては、まず――。次に――)

 状況整理と計画立案を同時に行いながら、ルルーシュは生徒会室へと急ぐ。

 事を起こすにしても、学生の立場を捨てる気はルルーシュには無い。日常が守られてこそ、ナナリーは心安らかに過ごせるのだろうから。

 目的地に着いて扉を開けると、金髪の少女が仁王立ちで待ち構えていた。アッシュフォード学園理事長の孫、生徒会長のミレイ・アッシュフォードだ。

「おっそーい! 遅刻よ副会長! 罰としてキミには予算案一人作成の刑だ!」

 丸めた紙束がビシリと突きつけられる。

「終わりませんよ、それじゃあ。そんな妙な刑罰を言い渡してる暇があったら会長も作業した方がいいんじゃないですか?」

「なーにを他人事のように。ルルーシュが居ないと終わるものも終わらないって言ってるの。反省しなさい」

「わかってますよ。反省はしてます。それより資料を雑に扱うのはやめてください」

 太い棒状にされた紙束を受け取れば、案の定予算関係の書類だ。満足げにうなずくミレイに苦笑を漏らし、ルルーシュはテーブルに着いた。

「と、いうことでー。さぁ諸君、有能なる我らが副会長どのも参ったことだし、馬車馬のようにこき使って何としてでも今日中に終わらせるのだ! ガーッツ!」





 窓の外には夕焼けに染まる空。あまり熱心でない部活の生徒ならそろそろ帰り始める時間帯だ。
 生徒会室の中ではミレイが椅子から立ち上がり、大きく伸びをしていた。

「ふー、暗くなる前に終わって良かったわねー」

「ガッツの魔法の効果でしょうか」

「たまにはいいこと言うじゃないリヴァル。ガッツの魔法に掛かれば何だって出来ちゃうんだから」

 青髪の少年に笑いかけ、伸びを終了。ミレイはテーブルに両手をつくと、生徒会メンバーの顔を順に見回した。

「さて皆、頑張ったキミたちにはご褒美があります」

「ご褒美?」

「そ。面倒なお仕事も終わったし、パーッと楽しいトークのテーマでも提供しようかと思ってねー。今度本国から編入生が来るんだけど、その情報の横流し」

「そりゃご褒美じゃなくて自分が話したいだけでしょう」

「何か言ったかなーリヴァル君。情報秘匿しちゃうわよ」

 作成した書類の最終確認をしていたルルーシュは、耳に飛び込んできた意外な単語に顔を上げた。

「本国からですか? この時期に?」

 学期途中なのもそうだが、それ以前に治安の問題がある。徐々に摘発されてきているとはいえ、イレブンのテロリストはいまだ活発に活動しているのだ。細かいところまでは無理としても、占領地の大まかな状況くらい本国の臣民にも伝わっているだろうに。

「正確にはEUの方で生活してたらしいんだけどね。そっちは別邸っていうか、実家は本国みたい。ちなみにウチへは寮じゃなくて自宅から通学の予定」

「EUに別邸を持っていてエリア11にも家ですか? お金持ちですね」

「そうよー、子爵令嬢だもん。正真正銘のお嬢様。そしてルルーシュたちのクラスに編入予定。どう、気になる? シャーリー」

「ど、どうしてそこで私に……?」

 話を振られた少女はほのかに頬を染め、ちらりとルルーシュを盗み見る。反応を確認したミレイはニヤニヤと続けた。

「やっぱり気になるよねー。写真見たわよ、超美人」

「ど、どれくらいですか?」

「ルルーシュくらい」

「えーっ!?」

 大声を上げてシャーリーが立ち上がる。オレンジ色の長髪がばさりと舞った。しかし彼女の唐突なオーバーアクションはいつものこと。誰も突っ込まない。

「何でそこで俺を引き合いに出すんですか。女子生徒でしょう」

「そりゃあルル君が大量の女性ファンを抱える学園一の美人さんだからでしょう。ねぇ?」

「うぅぅぅ」

 意味ありげなミレイの視線を受けながら、シャーリーはよろよろと椅子に座った。

「それで、どこの家なんですか? 俺たちも知ってるようなところ?」

「なぁにー? リヴァルも気になるの? それがねぇ、聞いて驚きなさい、なんとアーベントロート」

「えぇ!? アーベントロートって、あのアーベントロート?」

「そう。そのアーベントロート」

「有名なの? ミレイちゃん」

 パソコンデスクについていた少女が控えめな声を出した。テーブルから少々離れたその場所は彼女の定位置である。生徒会室唯一のデスクトップパソコンはもはやほとんど占有物だ。彼女はいつもそこでマイナーな科学の研究をしている。

「ニーナは知らない? 第二次太平洋戦争で一攫千金を成し遂げたってので一躍名前が知られるようになったんだけど。まぁ一般常識かって聞かれるとそこまでではないわね」

「初めて聞いたよ。一攫千金って、どうやって?」

「株よ株。今軍で正式採用されてるナイトメアの開発に関係してる会社に、ありったけの資金を投下したの」

「そっか、ナイトメア法の成立って第二次太平洋戦争の後だから……」

「そうそう。当時は民間でも開発に参加できたのよねー。そんでもってアーベントロートは取得した株をナイトメア法案が提出される前に売っ払う。あんまり的確だったから一時はインサイダーの疑いも持たれたみたいだけど、結果はシロ。まぁそれまでは落ち目だったから、イチかバチかの大博打って感じだったんでしょうね」

 そこまで話すとミレイは渋い顔になった。

「あーん、私もやろうかしら。このままじゃ政略結婚まっしぐらよ」

 どうやら家の事情に思い当たったらしい。
 アッシュフォード家はアーベントロートと対照的に、ブリタニアの日本侵攻の頃から凋落を迎えて始めている。開発を主導していたナイトメアフレームが採用されず、加えてパーティー好きな当主の浪費癖がたたったのだとミレイは過去に話していた。

「あーーーっと、そういや博打って言えばさ、ルルーシュはやんないの、株? お前なら絶対成功すると思うんだけど」

 リヴァルが強引に話の舵を切る。
 彼のミレイへの好意はルルーシュの目から見るとかなりあからさまだった。見合いや結婚の話題が出るたびに動揺するのだ。

「別に俺はお金が欲しくて賭けチェスをやってたわけじゃないんだよ」

「うわ、成功できるのは否定しないのか。すごいご自信で」

「お前が言い出したんだろ、リヴァル」

「スリルが欲しいとか言うの? いい加減やめなよルル。痛い目にあってからじゃ遅いんだから」

 あまり褒められた趣味でないのはルルーシュも自覚している。少なくともシャーリーが咎めるのも無理は無いと思えるほどには。

 それでも、他にやりようがなかったのだ。

 自分たち家族を破滅に追い込んだブリタニアへの憤り。胸の奥で常にくすぶり続けている感情をうまく発散する方法が見つからなかった。
 巨大な帝国に喧嘩を売れるだけの力を持っていなかったから、貴族階級の馬鹿どもをやり込めて誤魔化すしかなかったのだ。

 だがしかし。

「やめたよ、もう」

「あれ? そうなの?」

「ああ。もっと歯ごたえのあるものが見つかったからね」

 そう、今のルルーシュの手にはブリタニアを打倒するための手段――ギアスがある。

 カジノに行くこともチェスの代打ちを引き受けることも無くなるのだろう。真に戦うべき相手と向き合えるようになったのだから。




 ◆◇◆◇◆




 空港に着陸した自家用機から一人の少女が降りてくる。

 白いワンピースのドレスに同色のつば広帽子。サングラスに隠されて双眸は窺えないが、露わになっている部分だけでも造作の美しさは疑いようがない。年の頃はおそらく十七、八であろう。ウェーブの掛かったアッシュブロンドが風に煽られてきらきらと陽光を反射していた。

「ここが――日本」

 感慨深げに呟き、少女は黒いガラス越しに周囲の風景を見渡す。

 トウキョウ租界に建設された民間のエアポート。周りには政庁を始めとする巨大なビル郡が立ち並び、その先には青く広がる空がある。

「そう……。これが東京――日本なのね」

 出迎えに来ていた数人の中から一人が歩み出る。がっしりとした体に黒いスーツを着こんだ壮年の男だ。

「『エリア11』へようこそ、お嬢様。あまり迂闊なことを仰らないでください。主義者だと思われますよ」

「あぁ、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの」

「承知いたしております。わたくしはエリア11でのお嬢様の警護を担当いたします、ジェイラス・バーンズと申します」

 男は片胸に手を当て、軽く頭を下げる。

「ありがとう。よろしく頼むわ」

「それでは早速エリア11の別邸をご確認なさいますか? お荷物は別に届けさせますので、何かご予定があればそちらでも構いませんが」

 少女は答えず、黙ってサングラスを取る。長いまつげに縁取られたアメジストの瞳が眩しそうに細められた。

「空の色っていうのは、変わらないわね」

「ええ、エリア11は環境にも十分に気を配っておりまして、空気の質は本国とも変わりません」

「そんなことを言っているんじゃないの。そういう視点も悪くないとは思うけれど。それはともかく、次の予定の話だったわね」

「はい。観光でしたら詳しい者もおります。なんなりとお申し付けください」

 少女は少し迷う素振りを見せてから、バーンズを振り返った。

「なら、できればゲットーのほうを視察したいのだけれど、案内をお願いしてもいいかしら」

 軽やかに告げられた言葉に、バーンズは眉をひそめる。

「ゲットー、ですか? お嬢様、汚らしいイレブンの居住区などわざわざご覧にならずとも。我らブリタニア人の暮らす租界こそが経済の中心です」

「本気で言っているの?」

「は?」

「違うわよね? まさか人口の大半を占めるナンバーズを抜きに植民地の経済を語れると本気で思っているの?」

「それは……」

 わずかに狼狽を滲ませる年長の男を、少女は冷ややかに見つめた。

「聞いていないかしら。私は嘘が嫌いなの。警護する自信が無いのなら正直にそう言いなさい。今すぐ解雇してあげるから。自信があるのなら私をゲットーに連れて行きなさい。二択よ」

 バーンズの喉がごくりと鳴った。清楚な令嬢然とした出で立ちでありながら、鋭い眼差しはこの少女の内面が決して見た目どおりでないことを否応無しに知らしめる。

「もう一度聞くわ。できればゲットーのほうを視察したいのだけれど、案内をお願いしてもいいかしら」

 バーンズはプロである。回答は一つ以外にあり得なかった。

「お任せください――クラリスお嬢様」





 租界の外縁へと向かう車中で、バーンズは隣に座る少女の様子を盗み見た。

 備え付けられたテレビは報道番組を垂れ流していたが、視聴している素振りはない。窓の外には初めて降り立ったエリアの見慣れぬ風景が広がっているのだから、そちらに注意が向くのは当然といえば当然か。
 ハイスクールに通う年齢であることもあってさすがに無邪気とまでは表現しがたいものの、綿密な都市計画の上に開発された近代的な街並みを眺める表情には、歳相応の豊かな感受性が覗いている。よこしまな感情など無しに、純粋に、綺麗で可愛らしい娘だと思う。

 だがその本質がいかなる形をしているのか、バーンズは掴みかねていた。

 アーベントロート家と契約して一人娘の警護を頼まれた際、依頼人からの資料のほかに、個人的にも可能な限りの情報を収集した。

 クラリス・アーベントロート。十七歳。
 エリア11に来る以前はEUにて生活。アッシュフォード学園に編入予定。学力はきわめて高いが、過去、教育機関には一切通っていない。学問、技芸は全て両親と家庭教師からの教授によるもの。

 絵に描いたような箱入りぶりである。

 ほとんど家から出たこともないような貴族の令嬢であるはずなのに、先ほど一瞬見せた眼力は明らかにその経歴を裏切っていた。
 おそらく勘違いではないのだろうとバーンズは睨む。

 アーベントロートは少し前までは明らかに没落の一途を辿っている家だった。それを立て直したのが投資家として名を馳せる現当主、つまりは護衛対象の父親だ。世間的にはそう言われている。

 しかし、昔から彼を知る人間は――生活の拠点がEUに移っていたためそれほど人数は確保できなかったが――口を揃えて『あの男にそんな能力はない』と断言する。その評価と現在の隆盛振りとの落差を埋める存在こそがクラリス・アーベントロートなのだと、ごく一部では噂されていた。

 偉大な投資家である父から手ほどきを受けているというのが表向きの情報だったが、逆だったとしても何ら不思議はない。
 会ってまだ半日と経っていないこの少女には、そう感じさせる何かがたしかにあった。

「バーンズ、貴方はこれ、どう思う?」

 いつの間にかクラリスの視線は車内に移動していた。その先にはテレビの画面がある。バーンズは促されるまま液晶のディスプレイを確認した。

「……テロですか」

 シンジュクゲットーで毒ガステロがあったのだという。鎮圧作戦はナイトメアを大量投入せねばならぬほどの規模となり、死者数は稀に見る数に上ったとのことだった。

「痛ましい事件ですね」

「あぁ、そうなるわよね。私でも貴方の立場ならきっとそう答えるわ。ごめんなさい、聞き方を間違えたみたい」

 クラリスはさして申し訳なさそうもなく淡々と言う。目は相変わらず画面の中のニューススタジオに向けられていた。

「エリア11が領土に組み入れられてから七年。なんで毒ガスなんて強力な武器が今になって出てくるんだと思う?」

 報道では毒ガスの出所は明らかにされていなかった。
 しかし単なるテロリストにそんなものを開発する力は無いだろうというのがバーンズの認識だ。

「終戦時から隠し持っていたのでは? おいそれと使えるものでもありませんし」

「だとして――いえ、だからこそ、かしら――そんな切り札を何の声明も無しに持ち出すもの?」

「言われてみれば、たしかに不自然ではありますね。ですが、あり得ないというほどでもないと思います」

「そうね。でも実際に起こった出来事というのは、突き詰めれば不自然ではなくなるはずなのよ。原因の存在しない事象なんてあり得ないんだから。もし不自然と感じるのだとしたら、観測者の視点がずれているか、情報が足りていないかのどちらかだわ」

「そう――なるのでしょうね」

 少し考えて、バーンズは頷く。

「観測者の視点が正しく、情報も十分に揃っている状況。それでもなお不自然なのだとしたら、それは『嘘』よ。視点が正しいと思い込まされている。情報が十分だと思い込まされている。そういうこと」

 クラリスは無表情にテレビに目を落としている。画面には凶悪な兵器を持ち出したイレブンどもを野蛮人だと評するコメンテーターが映し出されていた。

「報道というのは視点を限定できるし、公開する情報も選択できる。嘘だと思われたくないのなら、できる限り公明正大に行うべきだわ」

「この報道は、そうではないと?」

「どうかしら。ただ、私の感覚だと、毒ガステロの件は嘘が含まれていると考えた方が、不自然が少ないのよね」

「お嬢様は、これが誘導だと仰るのですか?」

「国家批判をするつもりは無いわ。もしそうだったとしても終戦からまだ七年しか経っていない占領地のことだもの、当然の判断でしょう。もっと単純な話よ」

「と、仰いますと?」

 クラリスはくすりとかすかに口の端を上げる。

「堂々とした嘘ってあんまり気付かれないものねってこと」

 結論を述べられたが、バーンズには今ひとつ理解できなかった。言葉の意味自体はわかるのだが、それが何を意図して出されたものなのかがよくわからない。

 結果として、バーンズは返事をできずに黙り込むことになる。

「ゲットー行きはまた今度にしましょう。毒ガスなんて出されたら守られようも無いわ」

「では、家のほうに?」

「そうね。明日は学校にお呼ばれしているし、今日は大人しく休むことにするわ」

「かしこまりました」

 わけのわからない沈黙から逃れられて、バーンズはひそかに安堵していた。




 ◆◇◆◇◆




 カーン、カーン――。
 終業のベルが鳴り響き、学生たちは帰り支度を始める。

 自宅や寮に帰る。部活に向かう。街へ繰り出す。放課を迎えた学生の権利として用意された様々な選択肢の中で、この日のルルーシュが選んだ行動はかなりの注目を浴びるものだった。

「カレンさん。ちょっと付き合ってくれないかな」

 まだ人が残っている教室で女子生徒に誘いを掛ける。
 しかもその相手が、容姿端麗、成績優秀、病弱であることを除けばおよそ欠点の見当たらないパーフェクトな貴族令嬢、カレン・シュタットフェルトとなれば、注視を受けるのは自明のこと。

「うん。誘ってくれると思ってた」

 などという思わせぶりな答えが返ってきたものだから、周囲のテンションは最高潮だ。キャーキャーと黄色い声を浴びながらカレンは席から立ち上がる。

「じゃ、行こうか」

 外野のざわめきを無視して、ルルーシュはカレンの手を引いた。





 連れてきた先は生徒会専用のクラブハウス、そのホールだった。舞踏会などもできるようにと広く作られた空間に、たったの二人である。寒々しい空気がルルーシュとカレンを包んでいた。

 病弱ということで学期が始まって以来最近まで一度も学校に来ていなかったこのカレンというクラスメイトを、ルルーシュはひどく警戒していた。

 ギアスの特性を理解していなかったためにミスを犯し、自分の立場を危うくしかねない失言をしてしまったのだ。今はまだ疑念の域に留まっているだろうが、知られてはまずい情報を一部匂わせてしまったのである。
 それは、カレンがレジスタンスとしてシンジュクのテロに参加していた事実をルルーシュが把握しているということ。

 カレンは決して体の弱いお嬢様などではない。ブリタニア軍から奪取したナイトメアフレームを巧みに操り、目覚ましい戦果を上げていた。

 ――素性を隠して通信で指示を与えていた、他ならぬルルーシュの指揮によって。

 あのときの謎の指揮官をカレンは探しているだろう。もし自分だと露見すれば、ルルーシュの日常は崩壊する。
 たとえそれがばれなかったとしても、テロリストであるカレンの正体を知っていると確信されてしまえば、口封じに消されると見て間違いあるまい。

 ゆえに、これを正しくない情報だと思い込ませなければならない。真実を嘘にしなければならない。
 自分は彼女をただのクラスメイトとしか認識していない。そう思わせるのだ。

 ギアスは同じ相手に二度は掛けられないらしく、一度使ってしまったカレンを相手に超常の力に頼るのはもはや不可能。

 だが、策は練ってある。仕込みも済んだ。だからこそのこのシチュエーション。二人きりの状況が作り出せたのなら後は合図を送るだけ。
 それでギアスを仕掛けたメイド――咲世子が動き、自分への疑惑は晴れる。

(チェックだ。カレン・シュタットフェルト!)

 勝利を確信したルルーシュが一手を指そうとしたそのとき、バタンと音を立ててキッチンへと続く扉が開かれた。

「よーし、食べ物できたから、そろそろ始めよっか」

 現れたのは様々な料理の載ったワゴンを押したミレイである。その後ろからは生徒会のメンバーたちが続いてホールに入ってくる。シャーリー、リヴァル、ニーナ。

 緊迫した空気を吹き散らされて固まってしまったルルーシュとカレンの前に、次々と皿が並べられていく。

「な、何ですか、これ?」

「あれ? 知ってて連れてきてくれたんじゃなかったの? カレンさんの歓迎パーティー。お爺様から頼まれちゃってねー。カレンさん体弱くて部活できないだろうから、生徒会に入れてあげてって」

 全く知らなかった。知らなかったのだが、それを正直に話してしまっては、ではなぜカレンをここに連れ込んだのかという話になってしまう。

「あ、いえ、こんなに気合を入れてやるだなんて思ってなくて。あんまり豪勢な料理が出てきたものですから」

「シャンパンもあるのよー。後でみんなでやりましょ」

「生徒会自らそれはまずいんじゃ……?」

「固いこと言いっこなし。ニーナが嫌って言うなら一人で控えてなさい。私たちは飲んじゃうから」

 にわかに活気付きはじめたホールで、カレンは流されるように初顔合わせになるメンバーと挨拶を交わし始めていた。ここからさらに連れ出そうとするのはあまりにも不審だ。

(仕方がない。チャンスを窺うか。どうせ人のいる前ではあっちも行動を起こせないんだ。何も急ぐ必要はない)

 ルルーシュは動揺を宥めて準備に加わる。

 料理の大皿がテーブルに乗り終わると、次いで取り皿のタワーが置かれた。さらにシャンパングラスが運ばれてクリスタルの輝きを添える。
 言ったときは口から出任せだったが、出来上がってみれば予想以上に豪勢なパーティー会場が完成していた。

「すみません皆さん、お手伝いできなくって」

 全ての用意が整った頃、電動車椅子の静かな駆動音が響いた。最愛の妹の来場を知ると、ルルーシュの頬には自然と笑みが浮かぶ。

「気にすることないよ、ナナリー。俺だって同じさ」

「同じじゃないわよ。ナナリーはゲストの持て成しをしてたんだから。ルルーシュと違って一番の大任を果たしたのよん」

「ゲスト? カレンさんの他にも誰かいるんですか?」

「あ、そっちは知らなかった? こないだ話した編入生。生徒会に入りたいってのは前から聞いてて。授業を受けに来るのはまだ先なんだけど、カレンさんの歓迎会を計画しちゃってたから、じゃあ一緒にやっちゃえーってね。人数多い方が楽しいでしょ? なんなら二回やってもいいんだし」

「そんなにやってたら家の傾きがまた――」

 軽口を叩こうとしていたルルーシュの唇が唐突に止まる。妹の後方に目をやった途端、口が動かなくなったのだ。

 ――まさか。なぜ。いや、その前に、本当に?

 自問の必要など無い。わかっている。それでもルルーシュはこれが現実なのかと自らに問いかけずにはいられなかった。

 八年だ。無論相応に成長して外見は変わっている。だとしても、自分が彼女を見間違えるはずが無い。

「初めまして、ルルーシュ・ランペルージ君。クラリス・アーベントロートです。よろしくね」

 大きく開かれたルルーシュの瞳には、ナナリーとよく似たアッシュブロンドの少女が写りこんでいた。



[7688] STAGE2 偽り の 編入生
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2009/09/08 11:07
「初めまして、ルルーシュ・ランペルージ君。クラリス・アーベントロートです。よろしくね」

 優しく微笑んで小首を傾げる少女は、間違いなくクラリスだった。

 『クラリス・アーベントロート』などではない。幼い日に引き離され、もはや再会を絶望視していたルルーシュの双子の妹――クラリス・ヴィ・ブリタニアだ。

 衝撃のあまり、ルルーシュは呼吸すら忘れていた。

「どうしたのですか? お兄様」

「あんまり美人だからびっくりしてるんでしょ。もしかして一目惚れしちゃった?」

 周囲の声などもはやルルーシュの耳には入っていない。

 ルルーシュの『家族』に対する情念は尋常の域を超えている。それは憎悪であり、殺意であり、また信頼であり、慈愛でもある。

 母の暗殺を指示したのが政敵である腹違いの兄弟姉妹たちのいずれかであり、それを見殺しにし、さらには自分たちを政治の道具扱いした挙句に謀殺しようとしたのが父であるという、その認識が大きく影響しているのだろう。
 最も身近な大人たちに裏切られた少年時代のルルーシュには、信じられるものはナナリーしか存在しなかった。いや、それは現在でも同じかもしれない。身体的弱者である妹を助けながら、その実、精神的には深く依存しているのだ。

 その異常とも言える愛情があってこそ、『ブリタニアをぶっ壊す』という誓いが生まれた。あの言葉の奥には、弱者を虐げて憚らない皇帝の理念を是とする国ではナナリーが幸せに生きられない、との観念がある。

 つまりは、妹一人のために世界を作り変えようとまで思えるのがルルーシュという少年だった。

 そこに現れた生き別れの妹である。
 クラリスを凝視するルルーシュの頭には、カレンから掛けられた疑惑という、目下全力を挙げて処理すべき最大の問題すら既に無い。

(クラリス……!)

 よろよろと歩み寄ると、ルルーシュは柔らかな少女の体を力強く抱きしめた。ふわりと立ちのぼる上品な香りが鼻腔をくすぐる。そして、体温。服越しに感じる人のぬくもり。

 生存を諦めかけていた妹が、生きて、腕の中にいる――。

 表現しがたい、複雑でいてあたたかな感情が、ルルーシュの胸を満たしていた。

 ――のだが、その感動は周囲の人間には一切伝わっていなかった。

「うわ、大胆。やるときはやるのねー、ルルーシュも」

「いくらなんでも初対面であれはやりすぎでしょう」

「殴られたら面白いと思わない?」

「ちょっとミレイちゃん、楽しみすぎだよ」

 副会長の突然の暴挙を目撃した生徒会の面々は、無責任に感想を言い合っていた。
 ファンの数は百人を下らないと噂されるにもかかわらず、特定の女性を作らなかったルルーシュである。わかりやすい好意を寄せているシャーリーには悪いが、ネタとしては極上だった。

「何かあったのですか?」

 状況を把握できていないナナリーがミレイに尋ねる。

「なんていうか、お兄さんがご乱心しちゃったみたいな? クラリスさんに抱きついちゃって」

「あ、そうなのですね。クラリスさんは素敵な方ですから、お二人が仲良くしてくださると、私もとても嬉しいです」

「うんうん、ナナリーはいい子ねー」

 クラリス本人に大して嫌がっている素振りが見えない――というかむしろ満更でもない風な表情をしているために、観客の空気はこの上なく軽い。

 しかし、この見世物を容認できない人物が一人だけこの場に存在していた。
 こぶしを握り締めてわなわなと震える少女。その名はシャーリー・フェネット。

「ルルの、ルルのぉ……ばかぁぁぁぁぁぁッ!」

 ホールに響く魂の叫び。シャンパングラスが力いっぱい床に叩きつけられる。

「……なんなのかしらこの騒ぎは。これだからブリタニア人ってやつは」

 ため息混じりに吐き出されたカレンの呟きは、ガラスの割れる甲高い音に紛れて、誰の耳にも届かなかった。





 しばらく経って、カレンとクラリスの歓迎パーティーは開始された。『しばらく』のうちの大半の時間がシャーリーをなだめることに充てられていたのは言うまでもない。

 水の入ったグラスを口に当てながら、ルルーシュは思案を巡らせる。

 既に興奮は去っていた。頭には普段どおりの冷静な思考がある。

 先ほどの行動は明らかな失態だった。調べられたくない裏のある自分は目立つ行動を避けねばならないはずだったのに。

 クラリスが編入手続きに際して自身のことをどう説明していたにせよ、ミレイはさっきの一幕で彼女の正体を見抜いただろう。アッシュフォード家はルルーシュとナナリーの素性を承知しているのだから。
 ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが人目も憚らず抱擁してしまう『クラリス』といったら、それはもう確定だ。

 ミレイの瞳がどうするのかと訊いている。

(生き別れの妹に似ていたとだけ説明すれば――この場の面子なら問題ない、か? ――いや、駄目だ。カレンがいる。あいつは俺を疑っている。不審な点があれば確実に探ってくるだろう)

 どう言い繕うにも、やはりカレンがネックになる。

 この期に及んでは前もって用意していた策もうまく作用するか危うくなってきていた。
 疑わしい部分は一つだけなら気のせいで済ませられるが、二つ三つと重なっていけばやがて確信へと至るのだ。見張られるようにでもなったら、何の身動きも取れなくなってしまう。

「それにしてもびっくりしたよ。ルルーシュのやついきなり抱きついちゃうんだもん。クラリスさん大丈夫だった? こいついつもはあんなじゃないんだけど」

 リヴァルの質問は無難にして当然のものだ。ルルーシュも逆の立場だったら似たようなことを言っていただろう。
 しかし正直その話題はやめて欲しい。クラリスが機転を利かせてくれればいいのだが――。

「ええ、平気ですよ。初対面じゃありませんから」

 耳に飛び込んできた言葉に、ルルーシュは水を噴き出しそうになった。

「待てクラリス! ――いや、クラリス、さん」

「別に恥ずかしがることはないでしょう。隠したいの?」

 まさか、言うつもりなのだろうか。生き別れの兄妹だと。それはルルーシュの考える中で最悪の手だった。

 止めるのは簡単だが、それでは後ろめたい何かを持っているとの疑惑を与えてしまう。そうなっては同じこと。

 状況を変える手段を探してすばやく周囲に視線を送るものの、発見されたのは良くない情報だけだった。
 カレンの双眸がわずかに細められている。あれは間違いなく怪しんでいる目だ。

「クラリスさんは、ルルーシュ君と前にどこかで会っているの?」

「ええ、この間テロがあったでしょう? あの日に街で会って。私エリア11って初めてだから、少し案内をしてもらったのよ」

(何を、言っている……?)

 記憶を辿るまでもなく、そんな事実は有り得ない。八年ぶりの再会だったからこそ、ルルーシュはあそこまで情熱的な行動を取ってしまったのだ。テロの日に会っているのならそのときに抱擁は済ませている。

(――待て。『テロの日』だと?)

 あの日自分は何をしていた。

 そう、レジスタンスの指揮を執っていたのだ。

 これはもしや、最善手ではないのか。
 高速で回転したルルーシュの頭脳はそう結論を下した。

 エリア11のただの平民学生とEU育ちの子爵令嬢が旧知であるなどとは普通は思わない。
 それゆえにルルーシュはカレンからの疑いを深めてしまったのだが、逆に言えば、過去に会っているはずがないとの先入観があるのなら、最近の出会いが否定されることは絶対にないのだ。

 すなわち。

 ――ここでクラリスに乗って話をうまく作ってやることで、テロ時のアリバイが確保される。指揮を執っていたのが自分ではないと証明できる。

 そこさえクリアしてしまえば、後はいくらでも言い逃れのできる自信がルルーシュにはあった。過去の失言などいくらでも取り返せる。

 ならば。

「言わないでよ、クラリスさん。クラスメイトになる人と、そうとは知らずに街をぶらついていたなんて恥ずかしいんだよ」

 苦笑を作ってクラリスに顔を向けると、妹は申し訳なさそうな顔をしながら、襟を直す仕草を見せた。

(あれは、サインか――『口裏あわせは後で』。なるほど。変わっていないな、クラリス)

 たわいの無い悪戯をして教育係から叱られそうになったときなど、適当に都合よくストーリーを作り上げて逃れようとしたものだった。
 子供の時分のそれは主にルルーシュのせいで失敗に終わることが多かったが、今は違う。自分はもう何年も何年も日常的に嘘をつきながら生きているのだから。

「ごめんなさい、言わない方が良かった?」

「いや、別にいいさ。言わなきゃ言わないで話がおかしくなっていただろうしね」

 親しげに話し始めたふたりを見て、シャーリーが可愛らしく眉を寄せた。

「怪しい。さっきは『初めまして』って言ってたのに」

「冗談のつもりだったのよ。まさかあんなリアクションをされるとは思わないじゃない」

「あー、やっぱりクラリスさんもそう思うよね。そうだよそう。なんでルルったらあんな、急に抱きしめたりするの。街でちょっと会ったくらいの関係なのに」

 小さく膨れたシャーリーの頬がルルーシュに成功を確信させた。

 彼女はもうルルーシュとクラリスの出会いがテロの日であったと信じている。
 今のふたりは平民と貴族の令嬢。エリア11で会う以外に面識など持ち得るはずがない。その固定観念が真実を捻じ曲げる。嘘を本当に塗り替えていく。

「心配してたんだよ、彼女のこと。テロに巻き込まれたんじゃないかって思ってたからさ。ほら、電話しただろ、シャーリー」

「あ、あのときのシンジュクがどうこうって?」

「そうそう、テロの騒ぎではぐれちゃってさ。探したんだけど全然見つからなくて。ずっと気に掛かってたんだ」

「だからって抱きしめるほど心配するー? まさか本当に一目惚れとか?」

 ミレイが茶々を入れてくる。彼女も『切り抜けた』と判断したのだろう。

「会長にも同じことが起きればわかりますよ。まぁ、抱きしめたのは俺もやりすぎだったと思います。でも直前まで仲良く話していた女性がテロに巻き込まれたかもって考えたら、それくらい不安になりますよ。少なくとも俺はそうでした」

 偽りの説明を作り終えると、ルルーシュは病弱な振りをする実行犯のテロリストを窺った。

(どうだ? テロの前に女性を引っ掛け、それを放置してテロを指揮、さらにはテロの被害に遭ったのではと抱きしめるほど心配する――そんな矛盾だらけの行動を取る奴はいないだろう? カレン・シュタットフェルト)

「カレンさんもそう思わない?」

「え、私……ですか? そう、ですね。きっと心配すると思います、そう、すごく」

 うつむきがちに話を聞いていたカレンは、顔を上げると、キャラ設定の通りに弱々しく微笑んで言う。瞳の奥にわずかな罪の意識を潜ませて。

 微妙な声の震えから彼女の心境を感じ取り、ルルーシュは心の中で勝利の笑みを浮かべた。

「そうだよね。カレンさん、優しそうだから」




 ◆◇◆◇◆




 ルルーシュ・ランペルージとナナリー・ランペルージは家を持たない。それは両親と親類縁者を亡くしているためだ。そういうことになっている。
 ではどこで暮らしているのかというと、生徒会のクラブハウスの一角を間借りしている。

 アッシュフォード学園には付属の学生寮があるが、目と足の不自由なナナリーを慮った理事長が、より快適に生活できるようにと提供してくれたのだ。

 学生たちが帰宅し、ナナリーのお世話係であるメイドの咲世子も辞した後。夜のそこは、いつもなら完全に二人きりの世界だった。

 ルルーシュが心からの安らぎを得ることのできる、唯一の空間。

 今日はそこに紛れ込んでいる別の人間がいる。
 しかし彼女は異物とはなり得なかった。ルルーシュにとっても、ナナリーにとっても。

「もしもし、私です、クラリス。歓迎会が長引いてしまって。ええ、そう。まだまだ掛かるわ。遅くなるから心配はしないで」

 ガチャリと受話器を置く音が響き、ルルーシュは電話の方向を振り返る。

「もういいのか?」

「ええ。これでゆっくりしても大丈夫。ナナリーが寝るくらいまで居ようかしら」

 足音と共にクラリスがリビングに戻ってくると、ナナリーの顔がふわりと綻んだ。

「お姉様、そんなことを言われたら私眠れなくなってしまいます」

「大丈夫だよナナリー。クラリスはアッシュフォード学園の生徒になるんだ。これからはいつでも会えるさ」

 八年ぶりの家族の再会である。事情を理解しているミレイと理事長のルーベンは、水入らずの団欒を妨げようとはしなかった。

 立ち入るにしても三人で話し合う場を設けた後にすべきとの判断が働いたのかもしれない。アッシュフォードが名実共に後ろ盾となっているルルーシュとナナリーはともかくとして、クラリスは現状では表向き繋がりのない皇族なのだから。

「でも、こういう時間はあまり持てませんよね? お姉様がここに遅くまで居るのっておかしいでしょうし。実家通いなのでしょう?」

「まぁ、それはそうだけど……」

 ルルーシュの表情がわずかに曇る。

 ナナリーの未来予想はおそらく現実のものになるだろう。
 今日についてはミレイがカレンの二次会をするという名目で皆を寮の方に引っ張っていってくれたから何とかなったものの、そんな手が何度も使えるはずがない。

 生まれた短い沈黙を破って、クラリスが口を開いた。

「いっそのこと、本当に恋人同士になっちゃおうか」

「おい! 俺とお前は兄妹なんだぞ! ――いや、待て」

 思案顔になるルルーシュにクラリスは言う。

「ルルーシュ君の熱烈なハグは初対面のときから惚れてたせいだったってことにしたほうが、信憑性増すんじゃないかしら」

「……そうか。案外、アリかもな」

「気付いた?」

「ああ、俺の今の反応こそが全てだ。『兄妹が恋人なんて有り得ない』。なら、それを逆手に取ればいい。そういうことだろ?」

 恋人同士が実は兄妹とは誰も想像すまい。

 どうせ見る者が見たら素性など一瞬でバレてしまうのだ。ルルーシュがクラリスを決して見間違えないのと同じように。
 顔を知られていない連中に怪しまれなくなればそれで十分。その観点で行くと、これは決して悪手ではないように思える。

「幸い今は戸籍も別じゃない。なんならいずれ結婚しちゃってもいいかもしれないわね」

「おい、さすがにそれは――!」

 やりすぎだ、と続けようとしたルルーシュの目に、感激したように手を合わせる妹の姿が映った。

「お兄様がお姉様と結婚したら、お姉様が本当にお姉様になるのですね! また家族に、いっしょに――!」

(ナナリー……!)

 か弱い妹を溺愛するルルーシュである。ナナリーが喜ぶのならそれだけで方針は決定してしまえる。
 問題となるのはあと一人の妹の方だが、発案者なだけあってクラリスも乗り気のようだった。

「決まりね。じゃあ今度デートでもして仲良くなりましょう」

「本気か?」

「結婚は保留にするとしても、選択肢として取って置けるように愛を育んでおくくらいはしたほうがいいでしょう。ここにも来やすくなるし。そういうわけだから――」

 クラリスは芝居がかった笑顔を見せて言った。

「あらためてよろしく、ルルーシュ君。今度ウチにも遊びにきてね。もちろんナナリーちゃんも一緒に」

「仕方がないなお前は。そうさせてもらうよ、クラリスさん」

「はい、ぜひ。私も伺わせてください」

 一瞬の空白の後、くすくすと笑い声が弾ける。
 楽しげに笑い合う三人の様子は、明るい未来を予感させるものだった。





 時刻は深夜に近い。
 体調を崩すと悪いと説得してナナリーを寝かしつけた後、ルルーシュはクラリスと二人の時間を作っていた。

 ルルーシュが話すのは、クラリスと別れてから今日までの、自分とナナリーの境遇についてだ。

 人質として送られた枢木の家のこと。そこでできた親友のこと。ブリタニアの日本侵攻のこと。ナナリーを背負って逃げた日々こと。アッシュフォードに助けられてから今日までのこと。

 全てを話し終えると、ルルーシュはクラリスに訊いた。

「――それで、お前のほうはどうしていたんだ?」

 リビングのテーブルを挟んで向き合った二人。間には紅茶のカップが二つ。

 クラリスはどう話したものかと少し悩む素振りを見せてから、切り出した。

「私は、アーベントロートという家に入れられたわ。知ってるわよね?」

「ああ」

「でもその情報は伏せられていた。どこに行ったか正確に把握しているのは、皇帝陛下のほかは、たぶんシュナイゼル兄様くらいじゃないかしら。ひょっとしたらコーネリア姉様も知っているかもしれないけれど、せいぜいその程度。自由になるお金ができてから調べてみたら、どこかで勉学に励んでいることになっていたわ」

「なるほどな」

 一般庶民の伝手で辿ればお忍びで学業中との結果に行き当たり、皇族関係者は処遇を決めた張本人が皇帝だと知っているから迂闊に手を出したりはしない。
 クラリスはそういう状況で世間から抹消されていたらしい。

「いったいいくら積まれたのか知らないけど、今の父と母は誰にどう尋ねられようと『クラリスは間違いなく私たちの娘だ』って大真面目に言い張るから、たぶんこっちの線を怪しむ人もいなかったと思う。本当、役者にでもなればいいのにってくらいの徹底振りよ。本物の愛情っぽく見えるのに実は嘘だってわかってるから、余計に腹立たしいのよね」

「そんなになのか?」

「ええ。せめて養子に向ける愛なら受け入れられたかも知れないのに、『お前はお母さんが腹を痛めて産んだんだ』、よ? 馬鹿にしているでしょう」

 言葉だけの情報ではあったが、ルルーシュにも共感できた。

 自分たちの母は輝かしい実績をもって皇室入りした『閃光のマリアンヌ』以外にはあり得ない。既にこの世にいないからこそ、過去の栄光は薄れることなく、また彼女に注いで貰った愛情の記憶も穢れはしない。
 マリアンヌの子に生まれたことはある種の誇りですらある。それを土足で踏みにじられているのだ。しかもその扱いを命じたのはおそらく仇である実の父のはず。
 精神的にかなりきついものがあるだろう。

「それはともかく、今でこそ割と資産もできたけれど、当時はそうでもなくて。当主がまたロクでもない奴でね。凋落の過程で知己が離れていって、侮られるくらいなら顔を合わせない方がいいってEUに引っ込んじゃうような男よ。皇帝陛下にあんな啖呵切っちゃったせいかしら、ほとんど完璧に封殺されたわ」

「だがお前は、その中でも財を成した。そこからでも這い上がってきた。落ち目だったアーベントロートを立て直したのは、お前だろう、クラリス。違うか?」

「否定はしないわ」

 さらりと言ってのけた妹の瞳に、ルルーシュはしっかりと目を合わせた。

「まだ――諦めていないんだな?」

 あの誓いを。

 確信の響きを持って紡がれた言葉。しかし、返答はすぐには返ってこなかった。

 ルルーシュの見つめる先、妹の視線はかすかに揺らぎ、やがて外された。

「……今は、考えていないわ」

「まさか、諦めたのか?」

 クラリスは答えない。その沈黙こそが答えだった。

「どうして。シャルルが、皇帝が憎くないのか。お前はあの日、奴の罪を暴き立てると誓ったはずだ。あのときのお前はどこへ行った?」

 責める口調ではない。純粋に疑問だったのだ。

 兄妹の運命を分けたあの謁見の日、自分にとっては強大だった皇帝と堂々と対峙してみせたクラリス。その姿はいまだルルーシュの心に印象強く残っている。

 幼いがゆえの分を弁えぬ発言であったとしても、そこには必ずやり遂げるという不退転の意志が宿っていた。少なくとも、あの場に居た者たちは皆それを感じ取ったはずだ。
 たとえ後日笑い種になるような幼稚な決意であったとしても、それはあの日、あの場所においては、間違いなく真実だったのだ。

「……いろいろ、あったのよ」

「いろいろって――」

「……ねぇルルーシュ。私ね、ずっと独りだったの。貴方たちと別れてから」

 クラリスは両手で包むようにしたティーカップに目を落としながら、ぽつぽつと話す。

「学校にも行っていないし、友達もいない。なかなか外に出られない家に、猫かわいがりする両親がいて。でもそれは赤の他人で、偽者で」

 うつむき加減のクラリスの表情は、ルルーシュからは窺えない。それでも、力無いその声から心情を推し量ることはできる。

「せっかく、ルルーシュとナナリーと会えたんだから、もうこれでいいかなって、思うのよ。頑張ったご褒美、あるじゃないって。さっきなんて、ナナリーが嬉しそうにしているのを見たらね、私それだけでもう、泣いちゃいそうになって……」

 ――八年。

 八年だ。兄弟姉妹に囲まれて無邪気に笑っていられたあの頃の自分たちは、もはや過去なのだ。

 純粋だった心が歪に捻じ曲がってしまったのを、ルルーシュは自覚している。
 程度の違いこそあれど、クラリスにしてもそれは同じなのだろう。

 その成長、あるいは変化を、喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、ルルーシュには判断が付けられなかった。
 ただ、そんなことは一切関係なしに、受け入れてやりたいと思う。

「……そうか。俺もお前に会えて、嬉しかったよ」

「うん……。それでね、さっきの話なんだけど、嘘の家でも、それでもウチは一応、資産家なの。個人で使えるお金もたくさんある。だから、貴方がアーベントロートに入ってくれたら、暗殺に怯えないで済むくらいの警備を、ごく自然に使えるの。もちろんナナリーにも。だから、もう――」

「わかったよ。言うな。俺たちにもいろいろあった。クラリスにもあったんだろ」

 ルルーシュは席を立ち、妹の隣に座りなおすと、華奢な肩にそっと手を置いた。

「そうだな。憎しみなんて忘れて、いつか、ナナリーと三人で、一緒に暮らそう。結婚でも何でもしてやるさ。その頃には、世界はきっと、もっとマシになってる。お前には皇帝なんて似合わないよ」

「うん……ごめんね」

「気にするな。お前は俺の妹なんだから」

 歳相応の少女に育ったクラリスの体を、今度は意識して抱きしめる。

「――ありがとう、ルルーシュ」

 肩に乗った妹の顔がどんなものだったのか、ルルーシュには知るすべはなかった。




 ◆◇◆◇◆




 教室には静かな熱気がくすぶっていた。主に男子生徒の付近から立ち昇っているものである。

 教壇に立つ担任教師の横に、ウェーブの掛かったアッシュブロンドを背中まで伸ばした美貌の女子生徒がいる。

 あの容姿と素性はウケて当然だろうな、とカレンは冷めた目で壇上を眺めていた。

「今日からウチのクラスで一緒に勉強することになった、クラリス・アーベントロートさんだ」

 教師に手で示されて、少女は一歩前に出る。

「クラリス・アーベントロートです。学校に通うのはこれが始めてで、右も左もわかりません。ご迷惑をお掛けするとは思いますが、仲良くしていただけると嬉しいです。よろしくお願いします」

 ぺこりとお辞儀を一つ。同時にどこからか歓声が湧いた。もはや我慢ならん、といった雰囲気である。

「席はルルーシュ・ランペルージの隣。わかるか? あそこだ」

 教師が指し示した先を確認すると、編入生はパッと笑顔を咲かせる。

「あ、ルル君、隣なんだ」

「ルル君!?」

 大勢の生徒が一斉に叫ぶ。驚愕に満ちた女子の声と、敵意がむき出しで込められた男子の声。その中に明らかに異質なものが混じっていた。
 もはやあれは殺意に近い。いや、本物の命のやり取りを経験しているカレンからすれば大変可愛らしいものではあるのだが。

 とはいえプルプルと拳を震わせているシャーリーは視覚的にだいぶ怖いので視界から外してしまうことにする。

「おいお前ら。騒ぐのは休み時間にしろ。クラリスは席に着きなさい」

「はい」

 編入生はなんとも嬉しそうに着席する。よろしくね、とはにかんだ様子で横の男の子に笑い掛ける仕草には、隠し切れない好意が滲んでいた。

 箱入りの貴族令嬢が外で出会った少年に恋をする。何か事件が起きて引き離された二人。もう会えないと思っていた相手の子に偶然再会、想いは一気に加速する――。

 なんともベタなストーリー。でも、だからこそ、そういうこともあるんだろうなと思っている自分がいる。

 それはひょっとしたら、ちょっとした憧れなのかもしれない。
 絶対にあり得ない、あったとしたら自分が許せない、そういったことなのだけれど、忌むべきブリタニア貴族の身分をカレンはたしかに持っている。しかも体が弱くて病室にこもりがちなんて、箱入りも同然の設定まである。

 そのせいなのだろう。

 だから、あったかもしれない唾棄すべき自らの姿を重ねて、応援してやろうとカレンは思うのだ。殺しかけてしまった謝罪も込めて。

 とはいっても、まぁシャーリーが怒らない程度にだ。つまりは態度には出さない程度。

 言ってしまえば、『関わるまい』ということだった。

 自分は決してカレン・シュタットフェルトなどという学生ではなく、紅月カレンという日本人の抵抗活動家なのだから。
 そんな雑事にかかずらっている余裕など無いのだ。





 授業が終わり自宅へと向かうカレンの眉間には、小さくしわが寄っていた。
 考えるのはブリタニアに対する抵抗活動のこと。

 規模が小さすぎる。大した成果が上がらない。

 カレンが毎日平穏に学校に通っているということは、すなわちブリタニアの支配が磐石であるということと同義である。だから学校に行く途中、家に帰る途中、嫌でも頭に浮かんでくる。

 少し前まではそんなことは特に問題にしていなかった。というよりも、問題になり得るという認識すら無かった。

 なぜなら、それは当然のことだったのだ。

 超大国ブリタニアの圧政に抵抗するレジスタンス。そう言えば聞こえはいいが、実情は単なるテロリストである。

 暴力に対して暴力で対抗するには、それに匹敵する暴力が必要となる。
 テロリストが振るうものは暴力であり、鎮圧に出てくる軍が振るうものもまた暴力である。
 二つの間に存在する力関係は、傍目から見ても、そしてカレンたち当事者から見ても、決して覆し得ぬものだった。

 要は、抵抗しているという事実そのものが欲しかったのだ。

 日本の灯火は消えてはいないと。自分たちの誇りはそれで保たれるのだと。

 ――しかし。

 カレンは出会ってしまった。絶対と思われていたその力の差を覆せる存在に。
 先日のシンジュクでの活動の際、どこからかナイトメアを調達し、卓越した指揮能力でブリタニア軍に大きな打撃を与えた謎の男。

 彼の協力があれば、彼が見つかれば、自分たちはもっと大きなことができるのではないかと、カレンは――いや、カレンのみならずおそらくレジスタンスのメンバー全員が大なり小なり期待を抱いている。

 中途半端に希望を持ってしまったがゆえに、現状に焦燥を覚えるようになってしまっていたのだ。

(焦っても仕方ないってのは、わかってるんだけど……)

 溜息を吐きながら家に入ると、玄関ホールでメイドに呼び止められた。ちょうど電話が来ているのだという。

 受話器を受け取って耳にあてた次の瞬間、カレンの瞳が大きく開かれた。

『無事だったようだな、Q-1』

「……その声はっ!」

 捜し求めていた謎の指揮官からの通信であった。





「扇さん、あのときの人から連絡がっ!」

 レジスタンスのアジトに駆け込んだカレンは、リーダーの姿を発見してすぐさま報告した。

「何だって!?」

「いや、待て、こっちが先だ! 見ろ!」

 振り返る扇をメンバーの一人が呼び止める。指し示した先にはテレビのモニターがあった。
 近づいて見てみれば、どうやらブリタニア軍の関係者が会見を行っているようだ。

『クロヴィス殿下は薨御された。イレブンとの戦いの中で、平和と正義のために、殉死されたのだ! 我々は殿下の遺志を継ぎ――』

「クロヴィスが、殺された……?」

 日本の――エリア11の総督である。やすやすと殺害できるものではない。内部の犯行でないとしたら、間違いなく最も殺しにくい相手であったはずだ。

 不可能。

 脳裏に浮かんだ単語を、カレンは無意識に否定する。

 ――否、できる。

 不可能だと思われていたことを可能にした男が、たしかに存在していたのだから。自分の追い求めていた男が。

「まさか、あいつが……?」

 カレンが漏らすと同時に、画面が会見会場からニューススタジオへと切り替わった。クロヴィス殺害事件について何か展開があったらしい。

『たった今、新しい情報が入りました。実行犯と見られる男が拘束されました。発表によりますと、逮捕されたのは、名誉ブリタニア人です。枢木スザク一等兵。容疑者は元イレブン――』




 ◆◇◆◇◆




『――名誉ブリタニア人の枢木スザクです』

 照明の消えた室内。
 スクリーンから溢れる光が、品の良い調度類を不規則にライトアップしていた。

 落ち着いた図柄の壁紙を照らし、毛足の長い絨毯を照らし、そしてベッドに腰掛けた少女の裸足のつま先を照らす。
 暗い空間に浮かび上がる肌は、闇の中ゆえにかひどく白く映えていた。

「さてルルーシュ、貴方はいったいこれからどう行動するのかしら。三人で暮らそうと言った貴方の言葉は本当? それとも嘘? もし嘘をつくのなら、つかれる覚悟も持った方がいいと思うのよ、私は」

 誰に言うともなく呟くと、少女はテレビのリモコンを操作した。機械越しの音声が途絶え、部屋には静寂が満ちる。

 唯一響くのは、透明で、無感情な、少女の声。

「貴方が嘘をつかないんだったら、私の嘘を本当にしてあげる。でもきっと、貴方は私とナナリーに黙って、ブリタニアに喧嘩を売ってしまうんでしょうね。――だって、『反逆のルルーシュ』なんだから」

 とさりと軽い音を立て、少女は仰向けに倒れこむ。

「……嫌な世界」

 白いシーツに、艶やかなアッシュブロンドが広がった。



[7688] STAGE3 その 名 は ゼロ
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2009/10/09 16:40
 昼休みの教室は騒がしい。
 それは多くの学校において当てはまる、ある意味世界の必然とも言える事柄であるのかもしれない。無論その法則はアッシュフォード学園でも例外なく適用される。

 シャーリーは喧騒に包まれた教室の中、さらに一段と騒がしい一角の様子を探っていた。顔を向けないようにしながら、耳をそばだてて。

 別に堂々と正面から見ても、自分自身が加わってしまっても、特に問題は無いのだろう。友人たちは嫌な顔をせず輪に入れてくれるだろうし、中心にいる人物にしても笑顔を向けてくれるだろう。
 わかっているのに、どうしてかそうする気になれない。

 自分でもよく掴めないこの複雑な心の動きが『恋』から来るものなのだろうと、シャーリーは深く自覚していた。

「ねぇねぇ、クラリスさんって今まで学校通ってなかったんだよね? 家庭教師ってどんな感じなの?」

「投資の勉強してるって本当?」

「ずっと家にいると初恋の人とかってどうなるの? やっぱり稽古事の先生とかになったり!?」

 新しくクラスメイトになった編入生――クラリスに群がった女子生徒たちが、口々に質問をぶつけている。

「あ、ええと、その……」

 一遍に話しかけられたクラリスはしどろもどろだ。声の調子から戸惑っている雰囲気がありありと伝わってくる。それなのに迷惑がっている風には聞こえない辺り、育ちと人柄の良さを感じさせる。

 そう、別に彼女自身は悪い子ではないのだろう。歓迎会でおしゃべりしたときも嫌な印象は受けなかったし、箱入りという割にはそんなに世間とずれた感性をしているわけでもなく、むしろいいお友達になれそうだとさえ思った。

 ただし、それは間に一人の男の子が入らなければの話。
 別に入ったからといって友達になりたくなくなったりするわけではないのだけれど、それでも、それを考えるともやもやとした妙な気持ちが胸にたまってくる。

 要するに、その『一人の男の子』こそがシャーリーの意中の相手なのだ。
 今クラリスの隣の席でヘラヘラ笑っているであろうナンパ男――そんな人間だとは少し前までは全然思っていなかったが――ルルーシュである。

(ルルのやつ、こないだまでカレンとアヤシイカンジになってたってのに、今度はまた別の子? しかも『ルル君』なんて呼ばせて喜んじゃって)

 隠そうとしているようだったが、少し前の数日間、カレンとルルーシュはお互いを意識し合っていた。間違いない。他の人の目は誤魔化せてもシャーリーの目は誤魔化せない。

 とはいえ、カレンについてはもう、勘違いだったのかと思うほどきれいさっぱり興味を失ってしまったようなので、この際忘れることにして。

 問題はクラリスだ。遠くから眺めて満足しているファンクラブの連中なんかとは違って、彼女はあからさまにルルーシュに好意をぶつけている。つまりはライバルである。
 質問攻めに遭っている今だって、きっと縋るような目で救いを求めているに違いない。水泳部所属でどちらかといえば肉体派のシャーリーでは似合わないだろうその仕草も、深窓の令嬢である彼女がやれば、たぶん男に対してすばらしい破壊力を持つ攻撃となるのだろう。

「ほら、クラリスが困ってるだろ。仲良くなりたいのはわかるけど、ほどほどにしとけよ」

 ルルーシュがいい気になって助けに入ってしまうのも頷ける。ただし納得はしたくないのがシャーリーの乙女心である。

「『クラリス』ぅ!? もう呼び捨て!? ルルーシュ君ってばそんなに手が早かったの!?」

「人聞きの悪いこと言わないでくれよ。前に生徒会で歓迎会をやったんだ。クラリスは編入申し込みのときから生徒会に入りたいって希望してたらしくてさ。メンバーはもう皆呼び捨てだよ。なぁ、シャーリー」

「ふぇっ!? わ、私!? え、うん! そうそう、ルルだけじゃなくって、皆『クラリス』って呼んでるよ」

 バっと勢いよく振り返ると、案の定楽しそうにしているルルーシュがいる。その横にはクラリスの整った顔が。

 彼女はたしかに可愛い。顔の作りだけで言うと可愛いというよりは綺麗系。綺麗な顔立ちなのに、たまに見せる恋する少女の表情がとても可愛いのだ。
 認めよう。クラリス・アーベントロートは同性から見ても魅力的な、麗しい見目をしている。美形のルルーシュとはお似合いだろう。着飾って二人で並んだら皇子様と皇女様だと紹介されても信じてしまうかもしれない。

(でも体なら! 体なら私のほうがっ! 脱いで見せたらきっとルルだって……!)

 ミレイ会長も褒めてくれているし、きっと男の子にも通用するに違いない。だからルルーシュと二人っきりになったときに、そっと、こう――。

「――って何考えてるのよ私はぁぁあああッ!」

 思わず上がった羞恥の悲鳴。

「な、なに? どしたの? シャーリー」

 想像していたことがアレなだけに周りの注視がたまらなく痛い。
 真っ赤になって縮こまるシャーリーを救済するかのように、ちょうどそのとき校内放送が入った。

『クラリス・アーベントロートさん。クラリス・アーベントロートさん。理事長室まで来てください。繰り返します。クラリス・アーベントロートさん――』

「あれ? クラリスさん何かあるの?」

「編入手続きの話じゃないかしら。まだ書類がいくつか残っているみたいで。ごめんなさいみんな、抜けるわね。お話はまた後にしましょう」

 席を立って教室を出て行くすらりとした立ち姿を見送りながら、シャーリーは「負けない」と決意を新たにするのだった。同時に、結局今までと同じく何かきっかけでもない限りはルルーシュにアタックしたりはできないんだろうな、と情けない自分に嘆息しつつ。





 アッシュフォード学園の理事長室に立ち入る人間は、普段はそれほど多くない。皆無ではないが、少なくともノックも事前の連絡もせずに入室するような人間は、部屋の主であるルーベンとその孫のミレイ以外にはいない。
 ゆえに、この場所は学園内で最も密談に適した空間であった。

 静かに入ってきた人物がドアを閉め終わるのを待って、ミレイは珍しく堅苦しい声を出す。

「お待ちしておりました、殿下。ゆえあって祖父は外しております。時間に限りがございますので、私だけにでも先にお話をお聞かせ願いたいのですが、構わないでしょうか」

「普通のしゃべり方で大丈夫ですよ、ミレイ会長。どこで誰が聞いているかもわかりませんし」

「あれ、そう? じゃあそうさせてもらうわね、ありがと、クラリス」

「……ものすごく軽いですね」

「うん。だってルルーシュで慣れてるから。いまさらね。さ、座って」

 応接セットのソファを勧め、自分は向かいに座る。

 一度許可が出たら皇族だろうと一切遠慮をしないのがミレイ・アッシュフォードである。それは一見しても二見しても軽さの表れ以外の何物でもないのだが、彼女をただの軽薄なだけの少女と見なしている者は、アッシュフォード学園には一人もいない。

 楽しめるときに楽しめるだけ楽しもうというのが誰もが知るミレイの持論であり、それが逆の場合にも当てはまることを皆が理解している。ゆえに学園内での人望は厚い。
 軽いように見えても締めるべきところはきっちりと締める。それがミレイという少女だった。

「それで、やっぱり兄妹ってのは伏せておく方向?」

「ええ。どう話を作っても私たちが兄妹というのは不審ですから。怪しい部分は無いに越したことはないでしょう」

「妥当な判断ね。歓迎会のときはびっくりしたわー、ルルーシュの奴いきなり抱きつくんだもん。一気にばれちゃうんじゃないかって内心ヒヤヒヤ。あの短時間でよくうまい言い訳を考えたわね。グッジョブ賞あげちゃいたい」

「なんですかそれ?」

「三つ溜まるとミレイ会長からルルーシュばりの熱ーい抱擁がー」

「辞退させていただきます」

「イケズ」

 唇をとがらせるミレイを淡々と無視して、クラリスは冷静に話を進める。

「あのときの件なんですが、本当のことにしてしまおうかと」

「テロの日に会ったってやつ? じゃないわよね。そこはもう覆しようがないし」

「ルルーシュが私に抱きついたのは、前回会ったときからただならぬ想いを抱いていたせいだった、ということにします。私が拒まなかったのも同様の理由。機を見てどちらかが告白をして、あるいはそれに準じた何かが起こって、私たちは恋人同士になります」

 話を聞くミレイの顔から次第におどけた色が消えていく。情報を吟味する彼女の目つきはわずかに鋭くなっていた。

「なんとなくわかるけど、狙いを聞かせてもらってもいい?」

「恋人だったら兄妹とは疑われないでしょうし、それ以上に、ルルーシュたちの部屋に堂々と出入りできるようになります。ナナリーとも一緒に、また、家族で過ごせる時間が持てます」

「やっぱそれか。ずっと離れ離れだった家族なんだもんね。そりゃ一緒にいたいわよね」

 ミレイは納得したように言ってから、重苦しい息を吐いた。

 クラリスたちヴィ家の事情をミレイはよく知っている。だからこの策がかれらにとって最善なのであろうことも重々理解できていた。
 だが、筋道だった理屈だけでは簡単に説き伏せられない感情というものも存在する。

 それゆえに、ミレイは問い掛けずにはいられなかった。

「あのさ、無理を承知でお願いなんだけど、ちょっと、考え直してみる気は無い?」

「理由を聞いても?」

「シャーリー、かわいそうで。わかるでしょ? ルルーシュに惚れてる生徒会の子。そんな出来レースの相手に負けちゃうなんて。あの子、あれですっごく真剣だから」

 言い終わると、理事長室には沈黙が下りた。

 即座にも答えの返ってこないこの微妙な間は、ミレイに対面の少女の心境を想像させる。
 きっと同じなのだろう。でなければ悩む必要などないのだから。

 ややあってクラリスから出てきたのは、やはり重い口調だった。

「……私は、好きにならないほうがいい相手って、いると思うんです」

「追われてる皇子様だから?」

「全部わかっていて恋をするならともかく、わかったときには手遅れの状況だったなんて、悲劇以外の何物でもないでしょう?」

「ルルーシュに明かせとも言えないし……か」

 ミレイはソファから立ち上がり、窓辺へと向かう。

 大して意識した行動ではなかった。強いて理由を挙げるならば、クラリスが硬い表情をしていたから、だろうか。
 向き合っているとなんだか鏡を見ているようで、それがまた面白くない感情を映し出すものだから、内と外から迫ってくるものに潰される前に逃げたくなった。
 たぶんそうなのだろうとミレイは分析する。だから、窓の外の青空を見ていると、少しだけ胸が軽くなったような気がしてくるのだ。

「まーねぇ、私もそういうのあるんじゃないかとは思うんだけどさ。応援してあげたいじゃない。女の子の可愛い恋。同じ女の子として」

「それには同意しますけど……。私も応援したいですよ、本音を言えば」

「でもやっぱり、ルルーシュたちの安全には代えられない――か」

「それと、彼女自身の命にも、です」

「……そう、なのよね。考えないようにしてたけど、万一のことが起こったら、そういう可能性も出てきちゃうのよね」

 窓の桟に手をつき、ミレイは今日一番の盛大な溜息を吐く。

「『好きにならないほうがいい相手』、か。ままならないわね」

「……そういうものですよ、世界って」

 達観したセリフでありながら、どこか認めたがっていない響きが混じっている。

 意外なところにルルーシュとの相似点を見出して、やはり兄妹なんだな、とミレイの頬には我知らず皮肉めいた笑みが刻まれていた。
 そんな悲壮な価値観が似てしまうなんて、笑い事で済ませていい部分ではないのだろうけれど。

「しょうがないか。知らないまま命賭けの恋愛になってるなんて、そんなのは映画の中だけにしたいもんね」

 ミレイは努めて明るく言い、クラリスを振り返った。

「うん、わかった。私も協力するわ。まぁ余計な手出しはしないって程度にだけど。ナナリーバカのルルーシュがどう思ってるかはともかく、クラリスがちゃんと考えて決めたんだろうってのは伝わったから。――ただし」

 ピっと一本指を立てる。

「真面目にやんなさいよ。シャーリーを悲しませないように。せめて普通の失恋って感じさせてあげられるように。中途半端にはしないで、嘘はつき通しなさい」

「そこは大丈夫です。私たちはもうずっと前から嘘まみれなんですから。そうと決めたらつき通す覚悟はあります。ルルーシュにもあるはずです」

「じゃあキスくらいは当然平気よね? 最低でもそれくらいはすること。シャーリーのために。本気で」

「それは……ルルーシュが変に恥ずかしがらなければ」

「もしそんなだったらあんたが強引に奪っちゃいなさい。もちろんディープなやつね。ぶちゅーって。そのときは私も見せてもらうから、よろしく」

 小首を傾げて微笑みかける仕草が時として下手な念押しよりも効果的であると、ミレイは経験的に知っていた。
 シャーリーの問題に心から苦慮してくれているのなら、きっとこれくらいで十分のはず。

「……善処します」

 予想にたがわず、クラリスは神妙な面持ちで頷いたのだった。




 ◆◇◆◇◆




 ルルーシュは駅構内のベンチに腰掛け、時が来るのを待っていた。
 間近に迫った、最初にして最大の決断の時を。

 いや、もはや決断は下されている。より正確を期すならば、覚悟が試される時、とでもなろうか。

 単純に機会や策についてのみ論じるのであれば、今後今よりも大きな決断を迫られる時はいずれやってくるだろう。
 しかしもっと根本的な部分、ルルーシュ自身の意志を問う意味で言えば、やはりこれは最大の分岐点であった。何しろ仮面越しとはいえ、自らをシンジュクテロの指揮官と名乗った上で、おのれの姿を日本の残党の前に晒そうというのだから。

 それを終えてしまえば、もはや後戻りは出来なくなる。

(……時刻表では、あと十分か)

 時計を確認しながら、ルルーシュはここに至るまでの過程を振り返る。

 数日前、シンジュクでのテロ活動の指揮を執った人間として、カレン・シュタットフェルト――紅月カレンの自宅に電話を掛けた。

 伝えた内容は、今日を指定して十六時にトウキョウタワーの展望室に行けという指示。

 予定通り定刻にトウキョウタワーを訪れたカレンに、サービスカウンターを経由させ、ギアスの力で身元確認を誤魔化して手に入れた携帯電話を渡した。

 それを使ってさらに連絡、環状五号線の外回りに乗るよう命じた。たっぷり一時間掛けて路線を一周する間に、カレンと付いてきたレジスタンスのメンバーの乗った電車を割り出した。

 そして同じ時間を掛けて、カレンたちは現実というものを強く認識しただろう。

 環状線は租界とゲットーの境目を縫うようにして走る路線だ。つまり、電車に乗っている間は常に、右にブリタニアの隆盛ぶり、左にエリア11の荒廃ぶりを見せ付けられることになる。
 その差を見つめれば、レジスタンスの面々は嫌でも自分たちの抵抗が無駄であると悟らざるを得まい。たとえアジトへ戻れば数日のうちに消えてしまう感想であったとしても、今現在それが実感として存在しているのであればそれでいい。

 何か心境の変化を促そうというのではなく、『無駄』だと感じさせること自体が重要なのだから。

 この場合の無駄とは、すなわち『無理』であり、『不可能』でもある。

 ルルーシュはその認識を利用するつもりだった。

 ギアスというトリックを用いて不可能を可能にする奇跡を演じることで、素顔の晒せない怪しさを有耶無耶にする。正体不明だろうが何だろうが、こいつについて行けば何とかなるかもしれない、こいつについて行かねばならない――そう思わせるのだ。

 それによりルルーシュは素性を隠したまま抵抗活動の指揮を執り続けることが可能になる。

 実際に起こす『奇跡』については何パターンか計画が用意してあったが、クロヴィス殺害の容疑者に仕立て上げられた人物の移送予定が先ほど発表されたため――死んだものと思っていた幼い日の親友スザクが生きて偽の犯人に選ばれていたと知ったときは驚きだったが――それを利用することにした。

 ここまでの条件は全てクリア。

 あと必要なのはキングの駒を動かす覚悟――おのれ自身がこの身をもって渦中に飛び込む覚悟。それのみ。

 しかし、とルルーシュは強く拳を握る。

 それは既にあるのだ。敗戦国の大地の上で『ブリタニアをぶっ壊す』と誓ったあの日から。

(――クラリス、お前はわかっていない。相手は皇帝だぞ。母さんを見殺しにしておきながら眉一つ動かさず、さらには俺とナナリーのいる場所へ兵を送り込むような人間だ。俺は戦争で地獄と化した日本の有様を、虐殺された人々の姿を、この目で見てきた。警備を強化すれば安全? あの外道にそんな常識が通用するはずがないだろうが)

 今更の話になってしまうが、ルルーシュにはクラリスが今なお皇帝の打倒を目指しているのであれば、自分の計画を曲げる意思があった。
 平民の学生が後ろ盾もなく立ち上がるより、一子爵家に押し込められているとはいえ、帝国貴族として財産を築いている妹の力を使ったほうがやりやすいに決まっている。

 だが、クラリスの牙は折れてしまっていた。もはや妹はナナリーと同じく守るべき存在なのだ。

 ならば、取るべき道は一つしかない。

(ああ、やってやる。俺がやってやるさ。お前たちが幸せに暮らせる世界を、俺が――!)

 ホームに入ってきた先頭車両を挑むように睨みながら、再度心に誓う。

 目の前に開いた扉にルルーシュが乗り込んだ瞬間、あったかもしれない別の未来の可能性の一つは、潰えた。





 静かに揺れる電車の中で、カレンは爆発しそうになる想いを抱えていた。

 既に一時間ほども同じ風景を見せられ続けている。流れる景色は違っても、意味するものは変わらない。
 侵略者に吸い上げられる祖国日本と、その略取によって繁栄を極めるブリタニア帝国。

「彼はいったい何をさせたいんだ。もう一周だぞ。次の連絡はまだなのか」

 扇のささくれ立った声が聞こえる。他のメンバーにしても気持ちは似たようなものだろう。
 ブリタニアへの憤りと、それを昇華させたところでどうにもならないという無力感。怒りが募るほどに絶望感が押し寄せる。わかっていても認めたくないから苛立ちという形にして逃げる。

 そろそろ誰かが下車の提案をしそうだとカレンが考え始めた頃、トウキョウタワーで受け取った携帯がバイブレーションで着信を知らせた。

「もしもし」

『私だ。先頭車両まで来い。そこで待っている』

 用件だけを一方的に伝え、通話は切られた。

「扇さん、彼が先頭車両までって」

「わかった。行こう」

 メンバーと共に指定の車両に向かうカレンの胸中は、ある意味恋にも似た感情に占められていた。

 シンジュクでの活動の日から今日まで、焦がれ続けた相手に会えるのだ。
 どんな男なのだろう。何を話すのだろう。何をさせたいのだろう。そして、何を為すのだろう。

 様々に渦巻く想いを胸に、踏み入れた先頭車両。
 そこに待っていた光景は、理解を超えていた。

 他に乗客の居ない車内に、一人佇む黒いマントの後姿。その頭部にはフルフェイスヘルメットのような黒い仮面が乗っていた。

 異様なシチュエーションに異様な人物。それだけでカレンの頭は軽い混乱に陥れられていた。それは他のメンバーたちも同じ。

 戸惑うレジスタンスを他所に、仮面の怪人はゆっくりと振り返り、言った。

「よく来た。私の名は――ゼロだ!」

 力強い宣言にうまく反応できた者はいない。

「ゼロ……」

「ゼロだと……」

 皆が告げられた名を呟くように復唱している。

 いや、カレンだけは違っていた。
 実際に会う機会があったらそれがどんな人物であろうと訊かねばならないことがあると、前々から心構えをしていたのだ。ゆえに衝撃からの立ち直りは早い。

「ゼロ、と言ったわね。確認させて頂戴。シンジュクで私たちの指揮を執っていたのは、貴方?」

「そうだ」

「クロヴィスに停戦命令を出させたのも?」

 ゼロはすぐには答えない。その間にカレンは思い出す。

 あのときの状況は明らかに異常だった。シンジュクゲットーを根こそぎ破壊しつくすような勢いで攻撃が加えられていたというのに、唐突に戦闘を止めるよう作戦区域全体に放送が入ったのだから。

 あれがもし何者かに脅されての行動だったとしたら――。

「クロヴィスを殺したのは?」

「おい、カレン。クロヴィスを殺ったのは枢木スザクだって発表が――」

「黙って。ねぇ、クロヴィスを殺したのは貴方なの? ゼロ」

 外部の犯行など不可能。さらに、生粋のブリタニア人は皇族に逆らったりはしない。
 その刷り込みがあるから、誰もが無条件に名誉ブリタニア人の内部犯――枢木スザクを疑わない。

 しかし、その『不可能』の常識を過去に覆してしまった人物が眼前に立っている。
 だとすれば、もしかしたら、銃の携行も許されない名誉ブリタニア人などよりも、底知れない可能性を秘めたこの男の方が、あり得るのではないか。

「そうだと言ったら?」

「もう一つ訊かせてもらうわ」

「何だ」

 カレンは睨みつけるかのような視線で仮面を見据えた。

「――貴方は、私たちを勝たせてくれるの?」

 これこそが最大の問題。もしこの男が本当に不可能を可能にするのだとしたら、全ての不可能が取り払われたその先には何があるのか。

 ゼロはいったい、何を、どこを見ているのか。

「勝つ? 勝つって、お前」

 扇たちには見えていないのだろう。
 当然だ。この一時間で自分たちの活動が無為であると痛いほど思い知らされたのだから。未来など想像できるはずがない。

 ならば、ゼロはどうなのか。わざわざレジスタンスを打ちのめすようなルートでカレンたちを引き回したこの男は。

「愚問だな。決まっているだろう。私についてくれば、お前たちは勝つ。勝たせてやる。私は、ブリタニアを倒す男だからな」

「お前、ブリタニアを倒すって、簡単に言いやがって! そんなことがホイホイできるなら誰も苦しんじゃいねぇんだよ!」

 玉城は理解していない。
 誰にもできないはずのことをできると事も無げに断言してのけるからこそ、この男には価値があるのだ。

 カレンの胸には静かな高揚が湧き上がりつつあった。

 相手は世界の三分の一を支配する超大国である。『ブリタニアを倒す』など、侍の血も、日本解放戦線も、どこのレジスタンスグループも言いはしない。言ったとしてもそれは建前だけだろう。
 つまりは、抵抗抵抗と声を上げながら、誰も前が見えていないのだ。皆が在りし日の日本の幻影に縋って誇りを保とうとしている中で、もしくは蜃気楼のように霞む淡い将来の断片をおぼつかない足取りで追っている中で、ゼロだけがはっきりとした勝利の展望を脳裏に描いている。
 たとえその構想が机上の空論にすぎずとも、その言葉が妄言として終わってしまうとしても、それだけでこの男には他にはない価値があるのだ。

 少なくとも、日本が占領されて以来一度も見ることのなかった『希望』のひとかけらを、シンジュクでカレンに見せてくれた。それは事実である。
 あとはその全貌を明らかにする能力があるのか無いのか。そこを見極めるのみ。

「わかったわ、ゼロ、私は貴方を信じる。仮面を被るのはそうしなければならない理由があるからでしょう。それも無理には訊かない。貴方を信じて、貴方に命を預けたいと思う。ただし、一つ条件がある」

 カレンはゼロを視界の中心に据えながら、鋭く言った。

「もう一度、力を見せて。不可能を可能にする、貴方の力を。手伝えることがあれば、手伝うわ」




 ◆◇◆◇◆




 クロヴィス第三皇子殺害の容疑者、枢木スザクが軍事法廷へと移送される日。
 その護送の模様を伝える報道特番が始まろうとしている頃、アッシュフォード学園の生徒会室には、六人の人間がいた。

 生徒会の面々――ミレイ、リヴァル、シャーリー、ニーナと、最近新しく加わったクラリス。ルルーシュとカレンの姿は無い。
 居るべき二人の生徒がいない代わりに、生徒会役員ではない中等部生、ナナリーがいた。

 彼女は部外者ではあるが、普段から生徒会のメンバーたちに可愛がられる存在で、会室に招かれることはしばしばある。
 今日はルルーシュが遅くなるということで、皆で特番をオカズにだらだらとゆっくり遊ぶ予定だから、良かったら来ないかと誘われたのだ。

「しっかしさー、ルルーシュのやつ、何やってんだろうな」

「リヴァルもルルのこと知らないの?」

「知らないよ。別に俺はギャンブルの仲介もしてないしさ。ナナリーちゃんほったらかしてどこほっつき歩いてんだか」

「私は別に構いませんよ。皆さんが良くして下さいますし、遅いといっても私が寝る前には帰ると仰ってましたもの」

「ナナリーちゃんは本当に良い子ね。ルル君が羨ましいわ」

 クラリスが横に座って手を握ると、ナナリーは恥ずかしそうに笑む。

「そうやってるとさ、クラリスとナナリーちゃんってなんだか姉妹みたいだよな。髪の感じとかも似てるし、二人とも美人だし」

「やだ、からかわないで頂戴、リヴァル」

「あ、良いわね。ちょっとナナリー『お姉様』って呼んでみて」

「ダメ! ダメなんだからね。私だってまだ呼んでもらったこと無いんだから。会長ヘンなこと言わないで下さい」

 即座に制止したシャーリーが立ち上がってミレイに怒った素振りを見せる。しかし見えていないナナリーには関係がなかった。

「お姉様」

「あああああ、言っちゃったああああ」

「じゃあシャーリーさんにも。お姉様」

「わああああナナちゃん愛してるよー」

 一転してナナリーに抱きつくシャーリー。

 そんな具合に和気藹々とした時間が過ぎていき。

「あ、そろそろ始まるみたい」

 ちらちらとテレビを確認していたニーナが言った。

 画面には護送車の通過が予定してされている道路の様子が映し出されている。沿道を埋め尽くした人々の多さを証拠の一つに挙げ、いかにクロヴィス皇子が愛されていたかをリポーターが語っていた。

 熱っぽい報道に耳を傾けるナナリーの体は自然と強張る。

 この場に集まったほとんどの人間には知る由も無いが、殺されたのはナナリーの腹違いの兄で、犯人とされている移送予定の人物は実兄の親友である。

 その心中はいかばかりか。正確に推し量るには複雑すぎる事情ではあるものの、穏やかでいられないのは誰にでも推測できよう。

 一端を把握しているミレイはそちらに目をやって、クラリスの繊手を握る年下の友人の白い手を見つけた。
 同時に、なぜナナリーがこの場にいるのか、その理由を察してしまう。

 本来、目の見えない彼女が報道を気にしているのなら、ラジオを聞くべきなのだ。実際、興味のあるニュースがあるときはいつもそうしているとルルーシュは話していた。

 殺された兄に関係する報道なのだから関心が低いはずがない。にもかかわらず、ラジオではなくテレビで護送の様子を覗っているのは、ここに実姉がいるからなのだろう。

 それがわかってしまえば、彼女の本心を透かし見ることは容易い。

 ミレイは他に気取られないように軽い足取りでクラリスに近づくと、小さく囁いた。

「ね、ナナリー部屋に連れて行ってあげてくれない?」

「いいんですか?」

「あんたもホントは二人っきりのほうがいいんでしょ。事件が事件なんだから。あいつらには私がなんとかうまく言っとくから、抜けちゃえ」

「……すみません、お言葉に甘えます」

 皆がテレビに注視している隙を見計らって退出するクラリスたちを見届け、ミレイは言い訳を考えて頭を悩ませた。





 部屋に着くなり、ナナリーはクラリスの袖を縋るように掴んだ。

「お姉様、スザクさんって、お兄様の親友なんです。私たちが預けられた家の人で、私にも優しくしてくださって。こんな、クロヴィス兄様を殺したりなんて、そんな酷いことする人じゃないんです……」

 ミレイの想像は一部当たっており、一部外れていた。ナナリーはたしかにクラリスと二人になりたがっていたが、それは主にスザクを心配していたためだった。

 クロヴィス皇子殺害の容疑者とされている枢木スザクは、日本国最後の首相の息子である。つまり、ナナリーとルルーシュが人質として送られた家の子供であった。
 幼少期を共に過ごしたスザクは、ナナリーにとっては殺された異母兄よりも兄らしい存在であり、ルルーシュにとってはただ一人の親友とも呼ぶべき親密な間柄だった。

 しかし、ブリタニア人のイレブンへの偏見は根強く、中でもニーナが彼らに抱く恐怖は病的ともいえる。それを知るナナリーにはあの場でスザクを気遣う言葉を口にすることはできなかったのだ。

「こんなの、嘘ですよね? スザクさんじゃないですよね? スザクさん、助かりますよね?」

「ええ。こんなのは嘘よ。嘘以外の何物でもない。スザク君はきっと助かる」

 クラリスは妹を安心付けるかのように力強く答え、ラジオのスイッチを入れる。

『さぁ、いよいよ護送車が見えてまいりました。物々しい警備態勢です。先導には第五世代ナイトメアフレーム、サザーランドの一団。代理執政官ジェレミア卿が直々に指揮を取る、軍の精鋭たちが先導に当たっております――』

 どうやら、スザクの乗せられた護送車をナイトメアで囲むような陣形を組んでいるらしい。機体の数は少なくなく、示威だけに留まらず、容疑者の救出を狙うテロリストが出て来ようものなら叩き潰してしまおうとの意図が明白に見えていた。

 むしろスザクを表に出すことで反乱分子を誘っているのだろう。この機会に叩くことができれば、現在エリア11の実権を握っている代理執政官ジェレミアの属する軍内派閥、純血派の力を伸ばすことにつながる。

 何も起きなかったとしても、容疑者のスザクはイレブン上がりの二等市民――名誉ブリタニア人である。軍部からの名誉ブリタニア人排斥を唱える純血派にとっては、裁判に持ち込んで有罪を確定させるだけでも利益を望める素材であった。

 どう転んでも純血派優位に推移する状況である。

 唯一例外があるとすれば、枢木スザクが奪われてしまった場合であろうが、それゆえに、そんなことは不可能である。
 そうされないために、ジェレミアはこれだけの戦力を揃えたのだから。

 多くの人間がこのまま何事も無く護送は終わるのだろうと予想していたその中で、事件は起きた。

『何かのトラブルでしょうか、護送車が停車いたしました。沿道から疑問の声が上がっております。わたくしにも状況が掴めておりません。――と、今、前方から車両が見えてまいりました。あれは……御料車です! クロヴィス殿下専用の御料車が前方よりやってまいります!』

「クロヴィス兄様の? どういうことなのでしょう?」

「さぁ、テロリストが何かを仕掛けてきたのかもしれないわね」

「スザクさん……大丈夫でしょうか」

 不安がるナナリーの頭を、クラリスがそっと撫でる。

「ええ、大丈夫よ。きっと大丈夫」

『――御料車の上に仮面の男が現れました! いえ、性別はわかりませんが、とにかく仮面の人物です! ゼロと名乗りました! 御料車の上に立ったゼロと名乗る謎の人物が、ジェレミア代理執政官と何か言葉を交わしているようです! この位置からは――』

 アナウンサーの声に被さって『近づけ』だの『マイク寄せろ』だのと聞こえてくる。放送事故である。
 雑音が消えたときには、今までとは違う人間の声がスピーカーから流れていた。

『違うな。間違っているぞジェレミア。クロヴィスを殺したのは――この私だ!』

「……これって、真犯人、なのでしょうか? だったら、スザクさん、助かりますか?」

「ここを切り抜ければ、最低でも一方的に裁かれるということは無くなるんじゃないかしら」

「そう、なのですね……スザクさん……」

 震える吐息を漏らすナナリーの指が、祈るように組み合わされる。

 しかしラジオの音声はノイズが混じって断片的にしか入らない。電波状況の問題ではなく、現場で何かアクシデントが起きているようだ。

 途切れ途切れの実況を総合すると、何か煙幕のようなものが使われたらしい。その混乱に乗じてゼロが枢木スザクを強奪したとの事。護衛のナイトメア部隊が何をしていたかというと、ジェレミアがテロリストに加勢して逃亡を幇助、部隊員にも見逃すよう命令を出したようだった。

 不明な点は多々あるものの、とりあえず、スザクもゼロも捕まらずにどこかへ消えてしまった、それは間違いないようである。

「ゼロという男も、わざわざ出てきてスザク君を連れて行ったんだから、殺そうという意思は無いんでしょう。良かったわね、ナナリー。スザク君、助かりそう」

 姉から補足を聞いて事態の推移を理解し終えると、ナナリーは大きく息を吐いた。

「よかった……スザクさん」

 妹の安らいだ表情を確認して、クラリスもまた柔らかく頬を緩めるのだった。




 ◆◇◆◇◆




「――で、我らがお嬢様はまだ帰らないんですかね、隊長」

 ラジオの中継が終わると同時に、隊員の一人がだらけた声を出した。
 バーンズはアッシュフォード学園の校門脇の塀に寄りかかり、若い部下に横目で視線を送る。

「好きな男の子ができたと仰っていた。幸せ者だな、その少年は」

 年頃の少女にしては喜びも密やかに報告してきた護衛対象の姿を思い出すと、バーンズはあの言葉は嘘だったのではないかと未だに疑わしい気持ちを覚えるのだが、部下たちはそんな事実を知らない。

「逆玉ですか? いいですねー、羨ましい」

「つーかその前に、学校に通うようになった途端にオトコですか? とんだお嬢様もいたもんですね。こないだもゲットーに行きたいとかやっぱりやめたとか、ワガママに付き合わされるこっちの身にもなってみろってんですよ」

 隊員の愚痴を聞きながら、起きた出来事だけを客観的に見ればそういう評価になるのかと、バーンズは脳内のクラリス資料に新しい情報を書き加える。

「ところで、俺らってなんでこんなことしてんですか。みたいな気分になりません? 俺ちょっとなってきてるんですけど。どっちかって言うと不審者ですよね」

「仕方がないだろう。お嬢様のお帰りがいつになるのかわからんのだから。敷地内に入る許可は得ておらんし、出来る限り近くで待っているようにとのお達しだ」

 見上げた空は既に暗くなっている。しかもだいぶ前から。学園から出て行く生徒もまばらになってきていた。

「ま、そのうち連絡を寄越すだろう。今のうちに交代で飯でも食っとくといい」

 校門に視線を移すと、拘束服を思わせる奇抜なファッションをした緑髪の少女が学園内に入っていくところだった。

 不審といえば不審な印象を受けはしたが、それは微々たるもの。行動までを含めたら確実に自分たちのほうが怪しいであろうし、あの少女が護衛対象に危害を加えるものとも思われない。

 すぐに意識から締め出したバーンズだったが、もし一つの情報を与えられていたら、彼は決して彼女を黙って通しはしなかっただろう。

 すなわち。

 ――あの少女は、一度銃弾で額を打ち抜かれているのだ、と。



[7688] STAGE4 魔女 と 令嬢
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2011/01/18 16:03
 アッシュフォード学園のクラブハウスには、一部、生徒や職員が立ち入りを自粛する区域がある。生徒会副会長のルルーシュ・ランペルージと、彼の妹ナナリー・ランペルージのために改装された、二人の暮らすささやかな住まい。

 普段あまり余人に踏み込まれることのない私的な空間へと向かう通路に、小さな足音が響いていた。
 発するのは住人ではない。淡い緑色の長髪をなびかせた一人の少女である。

 いや、少女自身は自分のことを少女などとは見なしていなかった。

 外見自体は二十歳に満たないそれだとしても、その肉体はたとえ一億の夜を数えようとも朽ちはしない。老いも病も侵すことは叶わず、致死性の負傷すらも再生してのける。
 不老不滅の呪いコード が刻まれたその身は少女というよりも、そう――魔女。

 少女は自らを魔女と認識していた。
 もはや人ではないのだと、幾らかの自嘲を込めて。

 魔女は歩く。ギアスを与えた少年の、その住処を目指し。

 過日、ギアスの授受により一つの契約が結ばれた。一方の要求が明かされないというアンフェアなものであったとしても、少年はたしかにサインをし、恩恵を手にした。

 ならば彼には契約内容を果たす義務がある。

 それが成った暁には、彼の生は地獄と化すだろう。
 そうと知りながら、少女はメリットだけを提示して契約を結ばせた。卑劣と罵られようと卑怯となじられようと、知ったことではない。なぜなら少女は、人の理など通用するはずもない、魔女なのだから。

 しかしながら、少年にはまだ契約を履行する能力がない。
 ゆえに少女は彼を近くで見守らねばならぬと判断していた。途中で死なれることのないように。確実に願いを叶えるために。

 おのれの利己的な思考を冷めた視点で分析しつつ、たどり着いた扉。
 その先で魔女は思わぬ相手と出会うことになる。

 単に遭遇の可能性についてのみ話すのならば、居るかもしれないとは予想していた相手。しかしその人物像が明らかに彼女の想定の範囲を逸脱していた。

 静かな異常性は、初対面の第一声から早速発揮されることになる。室内にて妹と歓談していたらしいアッシュブロンドの少女は、侵入者の気配を感じ取るなり、振り向いてこう言ったのだ。

「待っていたわC.C.。もしかしたら今日辺り来るんじゃないかと思っていたの。正解だったわね」

 契約者の少年にすら名を明かしていなかったはずの魔女――C.C.に向かって。

 二人の邂逅がこの先の未来にいかなる影響を与えていくのか、今はまだ、誰も知らない。




 ◆◇◆◇◆




 遠くでナイトメアの駆動音が鳴っている。
 徐々に離れていくランドスピナーのモーター音を確認し、ルルーシュは仮面の下でほくそ笑んだ。

 代理執政官ジェレミアの強権発動によって、捜索に出ていた部隊が無理やり引き上げさせられたのだろう。普通ならばありえないこの命令は、無論超常の力――ギアスの強制によるものである。

 護送途中の容疑者を奪われ、さらには実行犯のテロリストを積極的に見逃した責を問われ、ジェレミアの立場は悪化するだろう。はったりに使った『オレンジ』疑惑の作用の仕方によっては、内部分裂まで期待できるかもしれない。

 不可能と思われていたであろう枢木スザク強奪作戦の成功により、レジスタンス『扇グループ』の信頼は最低限確保できたはず。中でもカレンのゼロに向ける視線は、とりわけ期待に満ちていた。
 彼女以外についてはまだまだ信用も足りぬだろうし、勢力自体も小さい。それでも一応、今回の『奇跡』によって自分の手駒として使える部隊を手に入れた。そう見ていいだろう。

 だがその利用法について考察するのは後でいい。

(今考えるべきは――)

 ルルーシュはゼロの仮面越しに前方を見据える。そこには護送隊から奪取した枢木スザク一等兵が立っていた。作戦を手伝わせたカレンと扇は既にレジスタンスの元に帰してある。

 ゲットーの廃墟に二人きりの状況。

 ルルーシュにとって枢木スザクという人間は、七年前に離れ離れになった、唯一と言ってもいい――親友であった。
 頭に被った仮面さえなければ駆け寄って抱き合っていたかもしれない。

 しかし。

 この場においてはルルーシュはゼロ――ブリタニアの皇族を殺めたと宣言したテロリストである。
 そして、スザクはブリタニアの軍人であった。

 その立場が二人の再会の邪魔をする。

「奴らのやり口はわかっただろう、枢木一等兵」

 ルルーシュには、ゼロの正体が自分であると明かす気にはなれなかった。たとえかつての親友スザクが相手であったとしても。

 七年の時を経てスザクの心がどう変化したのか、名誉ブリタニア人として宗主国の軍に入っている親友が何を考えているのか、そこがわからなかった。

 思想が掴めない以上、危険性が計れない。
 おのれの行動に妹の命までもが掛かっていると承知しているルルーシュには、ゼロとして振舞う以外の選択肢が存在しなかった。

 ルルーシュは仮面を通して呼びかける。この選択が最善なのだと自分に言い聞かせながら。そう、もはや後戻りはできないのだから。

「――世界を変えたいなら、私の仲間になれ。ブリタニアは腐っている。君が仕える価値の無い国だ」

 スザクは瞳にたしかな光を宿し、ゼロの誘いに答えを返した。

「そうかもしれない。でも、だからこそ、僕は内側から変えて行きたいんだ」

 ブリタニアの破壊を誓ったルルーシュと、ブリタニアの改革を望むスザク。目指す地点の相違を端的に表す、一夜の出来事であった。




 ◆◇◆◇◆




 その空間には、わずかに緊迫した空気が流れていた。ルルーシュの私室である。
 主の居ない部屋に我が物顔で居座るのは、二人の少女。ソファに腰掛けたクラリスと、ブーツを脱いでベッドに乗ったC.C.。

 ナナリーに知り合い同士だと嘘の説明をして移動した先がここだった。

 悠然と構えているクラリスとは違い、C.C.の琥珀色の瞳にはかすかな警戒の色が滲んでいた。
 無理も無い。ただの契約者の妹に過ぎないはずだった相手が、いきなり得体の知れない存在に変わってしまったのだから。

 不老不死の魔女に関する情報は一般には秘されているはずだった。いや、一般という表現では生温い。世界中を見渡してもほんの一握りの人間しか把握していない、秘中の秘である。

 そうなるように仕向けたのは――世に出ぬように細心の注意を心がけていたのは、他ならぬC.C.であり、彼女は自身の長い生からその工作には十分な自信を持っていた。

 ゆえにその声には険しさが混じる。

「説明を求められるのはこちらのつもりだったのだがな。いきなり予定が狂ってしまった。教えてくれクラリス。誰から聞いた?」

「別に誰からも聞いていないわ」

「ではなぜ知っている?」

「それはね、私が特別だからよ」

 クラリスは妖しく笑って答える。

 特別。その単語はC.C.にさらに別の単語を連想させた。

 ルルーシュに対しては絶対遵守の力として発現したあの契約の恩恵は、結ぶ相手によって多種多様の変化を見せるのだ。

「お前、まさか――」

「いいえ。ギアスではないわ。そういう意味で言えば私はただの人。ギアス能力なんて持っていない。だいたい、あったとしても貴女には通用しないんでしょう?」

「情報を得るだけなら他人を経由させればいい。いや、問題はそこではないな。いったいどこまで知っている? 私にギアスが効かないなど、ルルーシュでも知らないはずだが」

「タダで話すのはリスクが大きすぎるわね」

「そこまで思わせぶりにしておいて今更代価を要求するつもりか? まぁ、交渉術としては常套なのだろうが。ただ、私にやろうとしても無駄だぞ。話したくないなら無理に聞き出そうとまでは思わん」

 C.C.の偽らざる気持ちだった。

 クラリス・アーベントロート――クラリス・ヴィ・ブリタニアは、たしかに不審であり、気になる存在ではあるが、結局はそれだけだ。

 C.C.の生きる目的とはただ一つ以外に存在せず、それ以外の全ては等しく余興である。そして最終的な目標地点に到達するのに必要なのはルルーシュのみ。
 クラリスが何を隠し持っているのだとしても、彼を害さないのであれば関知するところではなかった。単純に考えて、ルルーシュに何かを仕掛けるのであれば既にやっているだろうから、それが起こっていない以上、クラリスが何者であろうとそこにさしたる意味は無いのだ。

「早まらないでくれないかしら。誰も教えないなんて言っていないでしょう。リスクのある話だから相応の物を掛けたいと言いたかったのよ」

「乗ってやる義理は無いが?」

「それならそれで構わないわ。とりあえず私は話したいように話すから、どうするかはその後で判断すればいい」

「随分とサービスがいいんだな」

「当然よ。こちらはお願いする立場なんだから」

 クラリスは余計な表情を消し、正面の少女に透明な眼差しを送る。
 C.C.はその中に真剣な想いを見て取った。

「……いいだろう。聞いてやる」

「ありがとう」

 クラリスは気持ちを落ち着かせようとするかのように一度大きく呼吸を取り、それから居住まいを正した。背もたれから背中を浮かし、しっかりとC.C.を見据える。

「私は、これから一世一代の賭けに出るわ。今から話すことは、私の最大の秘密。だからそれを元手に、賭けをする。欲しい商品は、C.C.――貴女」

「なんだそれは?」

 訝るC.C.の視線を受けながら、クラリスはゆっくりと口を開いた。

「私ね、友達が欲しいの。貴女と友達になりたい。だから私は、誰にも明かしたことのない秘密を、貴女にだけ明かそうと思う」

「初対面の怪しい女と友達になるのか? この場合の怪しい女とは、もちろんお前のことだが」

「貴女が私をどう思うかは貴女に任せる。でも、私は貴女を友達だと思いたい。だから誠意の証として話をする。単にそれだけのことよ。その結果がどう転がるかについては――要するに、その辺りが賭けの部分ね」

「ふむ」

 C.C.はベッドの上で奥の壁に寄りかかりながら、契約者の妹をじっと見詰めた。底にある意図を見通そうとするかのように。

 不死の魔女を相手にただの友人の地位を要求してきた人間など、過去に何人いただろうか。そこに打算の介在しなかったことが、果たしてあっただろうか。
 去来するのはそういった疑問。膨大すぎておぼろげになった記憶が、脳裏に浮かんでは消えていく。

「……ねぇC.C.、私はね、ずっと昔から、嘘まみれで生きてきたの。名前と経歴を作り変えられたからなんて意味じゃない。私がクラリス・ヴィ・ブリタニアであった頃から、まだ小さかった頃から、本当に、ずっと、嘘まみれで」

 友達になりたいと話した少女は、とつとつと心情を吐露していた。

「今だってそう。ルルーシュにも、ナナリーにも、学園のみんなにも、そのほかの全ての人たちにも。世界中に、嘘をついているわ。秘密があるのに、そんなものは無いって」

 クラリスはベッドにしかれたシーツに目を落とす。ほっそりとした手がきゅっとスカートを握った。

「……けど、もう限界かなって、最近感じるようになって。疲れて、苦しくて、胸が痛くて。それで、思ったのよ。一人くらい嘘をつかずに済む相手が――友達が欲しいって。そう考えたとき、一番相応しい相手として浮かんだのが、貴女だった。会ったことはないけれど、知識に存在していた貴女。だから、私の秘密を、貴女に教えたいの」

 そこまで話すと、クラリスは真正面からC.C.に顔を合わせた。
 まっすぐに視線をぶつけてくるの瞳を、C.C.はさしたる感動もなく淡々と受け止める。

 『友達』。
 その響きは、いつの間にかC.C.とってよくわからない何かを指すものになっていた。いや、実を言えば始めから実感の薄い単語だったのかもしれない。

 その身が魔女となる以前、物心ついた頃から奴隷の身分であった彼女には、当然のようにそんな相手は存在しなかったし、そこから救い上げてくれたシスターは、友人である前に親だった。美しく花開いた時分に近づいてきた者たちは、誰もが嘘か真かも判別できない愛を囁くばかりで。

 不老不死の呪いに掛かって以降は、人と対等の視点に立とうという意思自体が希薄だった気がする。

 たぶんそれは、魔女の起源が裏切りによるものだったことに起因しているのだろう。

 遠い昔、最も信頼していたシスターに騙されていたと知り――C.C.は人外へと堕した。

 その苦々しい記憶の残滓があるがゆえに、自ずと人との交流に壁を設けるようになっていたのだろうと、C.C.は冷静に分析する。
 歪な心を持つようになった自分は、無条件に他人を信じることができないのだ、と。

 紙一枚程度の厚みであろうと、そこにはたしかに壁がある。
 過去の契約者に対しては、親を演じ、恋人を演じ、友人も演じはしたが、同時に、願いを叶えるための道具として見ている冷徹な自分もいた。八年前まで計画に手を貸していた連中は、友人というよりは協力者で、現在まで交流が続いている人物は、たぶん腐れ縁というやつだ。

 だから純粋に友達、とだけ言われると、一気にイメージが曖昧になる。

 そのせいもあるのだろうか。無論長い生で人間性が摩滅しているせいもあるのだろうが、クラリスにそれを望まれても、ありがたいとも迷惑とも感じられない。
 眼前に座る人間がそれを望んでいるという単純な事実、それのみがある。

 しかしながら。この場合の無感動にはもっと大きな理由があった。

 それ以前の段階で、このクラリスという女には根本的な問題がある。

 魔女としての感覚がC.C.に告げていた。

「――嘘だな」

 それは直感の類ではあったが、同時に長い年月を経てゆるぎない確信を抱くまでになった、暦とした技術でもある。見誤る可能性は限りなく低い。
 幾星霜もの間他人の本心を疑い続け、磨耗して擦り切れてしまった、人であったモノの成れの果て。それこそが魔女C.C.なのだから。

「具体的にどこがとまでは指摘できないが、なんというか――そう、お前の態度は、真摯すぎる」

 受けた印象をそのままに伝えると、クラリスは途端に相好を崩した。堪えきれぬようにくすくすと肩を揺らし始める彼女には、先ほどまでの深刻な雰囲気は微塵もない。

「最高よC.C.。期待した通りだわ。その答えが聞きたかったの」

「何?」

「私は嘘つきだから。嘘を嘘だとわかってくれる人が友達としては最適だと思うのよね」

「ひねくれ者め。そんな対応で友達になりたいなどと感じるやつがいると思うのか?」

「そこはどうでもいいのよ。どうせこんなのは勝率のわからない賭けなんだから。ならできるだけ勝ったときの利益を大きくした方がいいでしょう? そのために、ありのままの自分を先に見せておくの。後で友達やめたなんて言われないようにね」

 真意の所在はともかくとして、とりあえず友達になりたいというのは本当らしい。
 C.C.は小さく口元を緩める。

「少しだけお前という人間がわかってきた。どうやら面白いやつのようだ」

「友達へ一歩前進したわね。いいことだわ。じゃあそろそろ疑問に答えましょう」

 クラリスは足を組み、ソファに深く背を預けた。どこか尊大さを感じさせる所作だった。見る者が見たらルルーシュに似ていると感想を漏らしたことだろう。

「それが地か?」

「その議論に意味は無いでしょう。どれも私よ。着ける仮面を変えているだけ。薄皮の真偽を論ずるなんてナンセンスだわ」

「見識だな」

「ありがとう。まぁ、話を戻しましょう。私の秘密――ありえないはずの知識についての話。ただ、その前にあらかじめ言っておくわね。どうやって知ったかについては捏造以外では納得のいく解答を用意できないから、そこは流して頂戴」

「ちなみに捏造ではない真実は何なんだ?」

「前世でルルーシュを主人公にしたアニメを見たの。もちろん貴女も重要登場人物」

「……わかった。もう聞かん」

 本当か嘘かを吟味する価値もない、ふざけた回答だった。
 C.C.は一度だけ嘆息し、身振りで続きを促した。

「さて。どこまで知っているのかという話だけど、私は限定的ではあるものの、ほぼ全てを知っているわ。ルルーシュがやろうとしていること、皇帝陛下がやろうとしていること、私とルルーシュたちが本土から遠ざけられた理由。それに、これから起こる戦乱の行く末」

「未来視まで付けるのか。大きく出たな。どうやって証明する?」

「アーベントロートの経歴を調べればいい。ウチが投資で成功したのはどの株が上がるか知っていたから。リスクを一切省みない非常識な売買をしていると思うわよ」

「いささか弱い気もするが、まぁいい。信じないと話が進まんのだろう?」

「理解が早くて助かるわ」

 クラリスは礼の代わりなのか小首を傾げて見せてから、さらに続けた。

「その未来の情報によると、まぁ、最終的には、ルルーシュの行動というのは、良い結果に結びつくんじゃないかと思うわ。ただし、『ある意味では』の条件付で。この時代の人は大勢死ぬけれど、その犠牲によって先の人々は何十年か、あるいは百年単位で平和を謳歌できる。迎えるのはそういう結末」

「なるほどな。『ある意味では』、か」

 C.C.はその注釈から、クラリスの言葉以上のことを想像した。

 ――ギアスは王の力。王の力は人を孤独にする。

 人の世の理から外れた力に携わり続けてきたC.C.がいつしか辿りついていた、ギアスについての真理である。

「ルルーシュがこれからやるのは戦争。だから当然、身近な人もたくさん死ぬ。ルルーシュ自身も戦場に身を置いて、後一歩で破滅するような窮地に何度も立たされて。それ以上に何度も何度も自分の心を傷つけて、傷つけられて。それでやっと、世界を良い方向へと持って行くの」

「……そうなのだろうな。あいつがブリタニアに戦いを挑むなら、予想できないことじゃない」

 現実的な側面だけで考えてもそうなるのは道理だし、ギアスという超常の力を用いるのならなおのこと避けられぬ運命なのだろうと、C.C.は読む。
 そう、当たり前のことだ。今ここで問題にすべきはそこではない。

「それで、その結果が見えているお前はどうしたいんだ? 私にそれを伝えて何を望む?」

「別に何も。最初に言ったとおり、私は貴女と友達になりたい。それだけよ」

 重くもなく、軽くもなく、強いて言えば投げやりな口調。しかし、だからこその重みがあった。少女の発言が本心からのものなのだろうとC.C.に確信を抱かせるほどの。

「さっきは言わなかったけれど、その未来というのは、私がいない場合の未来なの。占いとかによくあるでしょう、自分が関わると見えなくなるっていうの。そして、私はその結末がある意味ベストだと思っている。そこに辿りつくまでの過程も薄氷を踏むような展開の連続で。正直、どこがどう変わったらより良い結末に行き着くのかなんて、さっぱりわからない」

 だからね、とクラリスは皮肉げに笑う。

「私って、見方によっては、生きていないのよ」

 わずかに伏せられた瞳の奥にくすんだ色を見出して、C.C.は何故自分が友人候補に選ばれたのか、おおよその理由を悟った。同時にクラリスの知識が――少なくとも自分に関する部分については――紛い物ではないのだろうということにも確信を抱く。
 でなければ、自分が選ばれるはずがないのだから。

「……お前は、今見えている未来を崩したくないのか。つまりは何も出来ない、いや、お前の毎日は決定的な『何か』を犯さないためものでしかない――」

 そういうことなのだろう。
 そしてC.C.の願いとは、畢竟破滅である。

 虚無的な目的に向かうだけの自分と、後ろ向きな目的しか持てないクラリス。
 進歩のない生――人生とは言わない、ただの経験の積み重ねを続ける者同士。

 おそらくクラリスは自身とC.C.をどこかで重ねているのだ。

「正解。万が一の場合は皇帝陛下の悪巧みを阻止するくらいはやるつもりだけど、現状ではその程度しか。どう? 友達になれそう?」

「駄目だな。全然駄目だ。知り合いからスタートしろ」

 素っ気無く返した答えに、クラリスは嬉しそうに微笑む。

「それって拒絶はされていないってことよね? これだけわけのわからないことを話してそれなら上出来だわ。じゃあC.C.、話すことも話したし、最後に未来を知る私から貴女に、一つ耳寄りな情報をプレゼントしましょう」

「今度はなんだ?」

「――ルルーシュは契約を履行しない」

 さらりと出てきた言葉は決して聞き流せないものだった。C.C.の現在の生とは、ルルーシュに契約内容を果たさせるためだけにあると言っても過言ではないのだから。

 眉をひそめるC.C.にクラリスは再度告げる。

「もう一度言うわ。ルルーシュは貴女との契約を履行しない。その前に死ぬ」

「……実の兄の生き死にを随分と簡単に話すんだな」

「探りを入れても変わらないわ。私の知る未来ではそうなのよ。信じる信じないは貴女に任せる。こちらが言いたいのはただ一つ。だから私とも契約してくれないかしらってこと」

「馬鹿か。お前には生きる目的が無いのだろう。ギアスなど手にしてどうする? あれは人を不幸にする力だ」

「見解の相違ね。やることが決まっていないからこそ、武器は多いに越したことはないのよ。行使する機会が無ければ封印しておけばいいだけのこと」

 クラリスは指を組み、あごを引いてC.C.を見遣る。

「貴女にとっても悪い話ではないでしょう? ルルーシュが失敗したときの保険ができるし、契約を結んだことで私に流れる情報があるとしたら、それは既に全て知られている」

「その説得で私が折れると?」

「駄目なら最終手段ね。お友達に使いたい手ではないのだけれど、仕方が無いわ」

 言い終えるなりクラリスはポケットに手を入れ、携帯電話を取り出した。短縮でどこかに繋ぐと、すぐに耳に当てる。

「バーンズ、私よ。クラブハウスはわかるわね? 出入り口を抑えなさい。ライトグリーンの長髪をした少女が現れたら直ちに確保。学園側には私が話を通すわ」

「……校門にいた連中は、お前の私兵か」

 学園前にたむろしていた怪しい集団が思い浮かぶ。あの黒服たちは気を抜いてこそいたものの、間違いなく訓練された人間だった。逃げ切れるとは思えない。

 それ以前にC.C.はルルーシュをそばで守らねばならないのだ。それは生きる目的そのものとも言える。脅しか否かを判断するまでもなく、掛かっているものが大きすぎた。
 そして相手はその事情を察している。

 武力行使を仄めかされた時点で詰みだった。

「さてC.C.。不老不死の魔女。貴女が今の生を牢獄と感じるのなら、自由のある檻と自由の無い檻、どちらがお好みかしら」

「お前は私と友達になりたいんじゃなかったのか?」

「偉大なる皇帝陛下も仰っているわ。世の中は弱肉強食だって。でも私はそんな悲しい論理で友人を縛り付けたくないの。だから聞いてくれない? お友達としてのお願い」

「……あの親にしてこの子か。揃いも揃ってタチの悪い。いったいどういう育て方をした、マリアンヌ」





 C.C.は夜の部屋で、ベッドに横たわっていた。本来の持ち主はソファに転がって既に寝息を立てている。いろいろとあったようだから疲れているのだろう。

 帰宅したルルーシュにはいろいろと詰問されたが、本来話す予定だったこと以外は――つまりはクラリスとの会話、および契約については、一切伝えなかった。
 クラリスに話さないで欲しいと『お願い』されたためだ。

 正直なところ、ルルーシュに情報を与えたことでクラリスの見ている未来と乖離が生まれようが、C.C.にとっては所詮他人事に過ぎない。未来の知識を持たない身では判別のしようもないのだから。
 しかし、同様の理由で、ルルーシュに話さねばならぬといった使命感も無かった。

 おそらく先に会ったのがルルーシュのほうだったら、彼もクラリスには話すなと言っただろうから、まぁ早い者勝ちのようなものなのかもしれない。

 それにしても――。

「友達……か」

 面白い人間だったと思う。

 悠久を生き続ける呪いに縛られたC.C.の価値観は、楽しめるか楽しめないかという部分の占める割合がかなり大きい。それでも積極的に動いて物事を楽しもうと考えられるほど、健全な精神はしていない。
 享楽を良しとする考えが大きいにもかかわらず、楽しめるのなら楽しむという程度でしかないのだ。

 クラリスはその枯れ果てた思考回路に丁度良い素材だった。

 言うなれば、興味深い。

 ありえないはずの知識の源泉にも関心はあるが、そんな表面的なところではない。常識の枠を脱した存在などC.C.自身がその筆頭である。研究者ではない彼女にそこを解明したいという欲求は薄かった。

 そんなところよりも、あの少女には矛盾がある。大きな矛盾だ。そこがどう昇華されるのかを、暇つぶしに近くで見ていたい。その思いが強かった。

「なぁクラリス。干渉したくないというのなら、なぜお前はエリア11にいるのだろうな? 大胆不敵な行動が取れるのは、自分に自信があるやつか破滅願望のあるやつと相場が決まっているが――」

 おそらくは、とC.C.は想像する。

 クラリスの認識は間違っている。
 自分と彼女は似た者同士などではない。

「気付いていないのか、それとも気付かない振りをしているのか。あるいは私をも欺くか? いずれにせよ、人の理から外れた力というものは、やはり人を孤独の苦しみに放り込むらしい。ギアスでなくともそれは同じか。難儀なものだな」




 ◆◇◆◇◆




 桃色の長い髪をした少女が、ホテルの一室で難しい顔をしていた。

 少女の名前はユーフェミア・リ・ブリタニアという。
 神聖ブリタニア帝国の第四皇女である。

 まだ十六歳であることから世に出ずに学業に専念していた彼女は、この度、実姉コーネリアのエリア11総督就任に合わせて、副総督として表舞台に上がることが決定していた。

 そのため、今日が学生としての最後の休暇になる。つまりは、この日が顔を知られていない身分で外を出歩ける最後の日である。

 ここをいかにして有意義に過ごすかというのが、目下の一人会議の議題であった。

 現在滞在している部屋は二階。扉の外には専属のガードマン。正規のルートで外出しようとすれば、確実に誰かが付いてくる。それだけなら問題は無いけれど、きっとその人は自分の希望する行き先へは連れて行ってくれないだろう。むしろ何が何でも止めようとするはずだ。

 なにもいかがわしい場所へ行こうというのではない。ユーフェミアの目的地とは、シンジュクゲットーだった。

 姉の補佐とはいえ自分が治めることになるエリアである。現実を、異母兄クロヴィスが破壊命令を下したというシンジュクの様子を、その目で一度見ておきたかったのだ。

 しかしながら、求められるままに反乱分子の潜む地区まで皇女をエスコートするような護衛が居たら、その者は即刻解雇されるべきだ。それはユーフェミアにも理解できている。

 そこで彼女が取った行動は――。

「退いてくださぁい! 危なぁぁぁぁい!」

 窓からのダイブであった。
 いや、本当はカーテンを命綱にしてもっと安全に下りるつもりだったのだが、出だしから失敗していた。桟から足を踏み外して落ちた先は、親切な通行人の腕の中。

「……あら?」

 受け止めてくれた男性を見ると、偶然にも見覚えのある顔だった。有名人である。学生をやっている第四皇女などよりも間違いなく知名度は上だ。
 変装用に掛けていたのであろう大きなサングラスが思いっきり外れてしまっているので、簡単に気付けてしまった。

 枢木スザク。

 ゼロが真犯人宣言をするまでクロヴィス殺害の容疑を掛けられていた、名誉ブリタニア人の兵士である。

「大丈夫ですか? 怪我とか、してませんか?」

 がっちりと鍛えられた胸に抱かれて掛けられた言葉は、とても優しい響きがした。
 きっとすごくいい人なのだろう。こんな短時間でもわかってしまう。ひょっとしたらこれは天のお導きというやつかもしれない。

 即決で今後の方針を打ち立てたユーフェミアは、おそるおそるといった具合に、スザクにアプローチを掛けた。

「あの、私、悪い人に追われているんです。逃げるの、手伝ってくれませんか?」

 そう、始めはこんな感じで。この人となら一緒に街を回るのも悪くないに違いない。そして仲良くなったらお願いするのだ。

 シンジュクに連れて行っていただけませんか。と。




 ◆◇◆◇◆




 地面に突き刺さった大小様々なビルの残骸が、夕日を浴びて大地に長い陰を落としていた。砕けたアスファルトからは土が覗き、ときおり吹く乾燥した風に乗った砂埃が、遠くの景色を霞ませる。
 ところどころに穴を開け、あるいは中階から破壊されている建造物たちは、物寂しい風景に更なる荒廃の彩を与える、まさに負のオブジェとして存在していた。

 攻撃の激しさ、あるいは戦争の悲惨さを直截的に訴えてくる生々しい風景を眺めながら、バーンズは護衛対象に歩調を合わせてゆっくりと歩く。

 以前毒ガス報道のせいで流れてしまったゲットー視察ツアーが、この日実現していた。
 比較的活気のあるイレブン居住区を見て回り、租界で一時休憩を入れ、最後にやってきたのがここ、シンジュクだった。

 無言で進むクラリスの表情は険しい。
 推し量るよりほかないが、心中はおそらく自分と近いのではないかとバーンズは思う。

 それは、悲しみであり、哀れみであり、憤りであり、無力感である。全てがないまぜになって、腹の底からぞわりぞわりと這い上がってくるのだ。
 戦勝国民としての優越感の類は、あったとしても相当に薄いはず。でなければ、もう少し明るい顔をしているだろう。

「……バーンズ、貴方の意見を聞きたいわ。絶対に怒らないし、誰にも他言しないから、率直な感想をお願い」

 静かに問いかけてくる少女に、バーンズは重々しく答える。

「正直、ここまでとは思いませんでした。見せしめにしても、限度があるかと」

 シンジュク事変の後遺症は、今後長く尾を引くだろう。破壊の跡はバーンズの予想をはるかに上回る広範囲にわたっており、瓦礫の撤去も未だ始まっていない。虐殺により住民は激減したと聞くし、そもそももはや人の住める環境ではなくなっている。

「わたくしは主義者ではありませんが、ナンバーズとはいえ曲がりなりにも我が国の臣民となっている非戦闘員を相手に、ここまでやる必要があったのかと、疑問を覚えます」

「同感だわ」

 短く返ってきた声には、ただの小娘がちょっとした正義感でイレブンを憐れむのではない、たしかな反骨の意思が篭っていた。

 だとしても、それがどうにかなるというわけではない。バーンズもクラリスも主義者でないのは間違いないから、おそらくこの感慨は、一過性のものとして消えてゆくのだろう。
 日常に戻れば、クラリスはここの始末を請け負う業者がアーベントロートに利をもたらすかどうかを検討するだけなのだろうし、バーンズはそれで自分への報酬が増えたらいいと考えるだけ。

 たぶん、それだけのことなのだ。

「……私は、無力ね」

 小さく耳に届いた呟きに、バーンズは答えるべき言葉を持っていない。ただ黙って、クラリスと共に歩くのみである。

 そうしてしばらく散策を続けていけば、やがて戦禍の爪あとも見慣れてくる。大した感銘も受けずに周囲を見渡せるようになった頃だった。

 前方遠くにカップルらしき二人連れが見えた。
 おそらくは租界から来ているのだろう。綺麗な身なりをしているからすぐにわかる。

「珍しいですね。こんなところに若い男女が来るとは。デートコースには向かないでしょうに」

 何気なく言うと、クラリスは目を細めて道先を見つめた。そしてすぐに立ち止まる。

「……あれは、もしかして、枢木スザク? ……と、一緒に居るのって……まさかッ!? どんな偶然よ!?」

 悲鳴のような声を上げたかと思うと、すぐさま身を翻して走り出す。

 バーンズはこれまでこの護衛対象がこれほど取り乱した場面を見たことがなかった。さらに言えば、スカートを穿いてそんなに俊敏に動けるとも考えてはいなかった。加えてこんな場所で一人で走り出すとは想像もしていない。ゆえに反応が一手遅れた。

 一瞬にして数メートルほど離れてしまった少女の背中を後ろから追いかける。
 追いつこうとすれば簡単に達成できるだろうが、そうする気はなかった。先ほどの男女――枢木スザクと聞こえたが――かれらから逃げているのだとすれば、その間に自分を挟むのは当然の判断であり、少し距離が空いているとはいえ、護衛は自分ひとりではないのだから。進む先には部下がいる。

 だがそこに到着する前にクラリスが悲鳴を上げた。今度は本当に悲鳴である。甲高い少女の声が響き渡り、バーンズの胸には焦燥が湧く。

 なにが起きているのかわからない。見る限りでは何も異常は無いのに、護衛対象が恐慌に駆られているようなのだ。
 取り押さえるべきかとスピードを上げようとすると、少女は方向転換して近くにあった路地に駆け込んだ。

 少し入ったところでクラリスの足は止まった。追いついたバーンズに、少女は肩で息を吐きながら早口で言う。

「ごめんなさい、いきなり逃げたのは私のミスだったわ。あんまり驚いてしまって。冷静に考えたら他にもやりようはあったのに。でももうその失敗は取り返せない。だから貴方に尻拭いをしてもらいたいの。特別手当ては出すわ」

「それは構いませんが……いったい、何をなさって……?」

 クラリスはバーンズの目の前で服のボタンを外し始めていた。白い胸元が露わになり、レースつきの下着が覗く。

「時間が無いから余計な質問は無しでお願い。バーンズ、貴方は昔、軍人だったのよね?」

「……知っておられたのですか」

「貴方だって護衛対象の情報収集を人任せにはしないでしょう。同じことよ。それはともかくとして、実戦配備されている名誉ブリタニア人の兵士と徒手で戦ったら勝率はどれくらい?」

 名誉ブリタニア人は基本的には銃の携行が許されないため、軍に入ればひたすらに体一つでの戦闘術の修練を積む。それのみが自らを戦場で救うと知っているから、一心不乱に打ち込む。ゆえに一般的に名誉の軍人の格闘技術は高い。

 だがバーンズには名誉ブリタニア人制度ができる以前から訓練を続けてきた自負があった。

「一対一なら八割の相手には勝つ自信があります」

「いい答えだわ。変な見栄を張ろうとしない正直な貴方は好きよ」

 言いながらクラリスはバーンズの手を取り、おのれの手首を掴ませる。

「じゃあ、絶対に振り向かずに聞いて。これから来るのは間違いなく残りの二割だから、大人しくやられて頂戴」

「は?」

 気の抜けた返答をした瞬間。
 即頭部に衝撃を受け、バーンズの意識は刈り取られた。




 ◆◇◆◇◆




 枢木スザクはその日、なぜかデートのようなものを楽しんでいた。

 『なぜか』というのは、そうなった経緯が全くもって理解しがたかったからだ。
 ゼロの件での取調べから解放されて街に出たところ、突如上から降ってきた少女に奇抜な誘い文句で連れ出されたのだ。かなり可愛いその女の子が名乗ったユフィという名はたぶん偽名で、それがわけのわからなさに拍車を掛けていた。

 相手の子にも事情があるのだろうと追求しないでいるうちに、なんだか普通に楽しくなってきて、気がつけばもうだいぶ日の傾いた時間である。

「ユフィはなんで、シンジュクなんて来ようと思ったんですか?」

 廃墟と化した町並みを眺めつつ、スザクは隣に向かって訊く。荒れ果てた祖国の姿を見せ付けられると嫌でも気分は盛り下がるのだが、それを表に出さないよう、努めて明るく。ユフィの顔が強張っていたから、表面上の空気だけでも深刻にならないように。

「大した理由なんて無いんです。ただ、見てみたくて。見て、どう思うのかなって」

「そうですか。それで、何か感じた?」

「……はい、たくさん。うまく言葉にはできないんですけど、たくさん。今も感じてます」

「そう」

 願わくばそれがユフィの糧になりますようにと、スザクは心で想う。せめてそれくらいでもなければ、やりきれない。

 なぜならこれは、本当は毒ガステロへの報復ですらないのだから。

 重要物資をテロリストに奪われたため、それの奪還を目的にしらみつぶしの捜索が行われた。その際に邪魔な人とモノが手当たり次第に排除された。
 真実はそれだけのことで、言ってみれば軍の不始末のとばっちりである。

 そんな横暴がまかり通っていいはずがない。だが、スザクの身分では事実を世に明かすことさえも許されない。

 だから、とスザクは強く奥歯を噛み締める。

 この体制を何とかして変えねばならないのだ。

 道は険しく、先は長く、まだ取っ掛かりすら見つからない。それでも必ずやり遂げるという気概だけは、スザクの中に強く息づいていた。

「……スザク、あれって、もしかして」

 内側に入り込みかけていた思考がユフィの声で引き戻される。隣の少女が指差す方向を見てみれば。

 長いアッシュブロンドをなびかせて走る少女を、黒服の男が追いかけていた。

 何らかの事件性を匂わせる光景に、スザクの目は鋭利に細められる。その直後、少女のものであろう悲鳴が耳に飛び込んできた。

「ユフィ、ここで待って――るのは危ないかもしれないから、ゆっくり追いかけてきて。僕はあの子を」

 いかに連れが危険にさらされる恐れがあるといっても、現在進行形で襲われているらしい少女を放っておけるほど、スザクの正義感は惰弱ではなかった。むしろ自分の手で救える人間が居るのなら誰であろうと全力を挙げて救いたいと考えるのが枢木スザクである。

 ユフィに言い置き、即座に地を蹴った。

 スザクの身体能力は一部では人間の枠を超えていると噂されるほどのレベルである。走る速度は尋常のものではない。距離があろうが追いつかないなどという思考はまるで無かった。

 そして事実、スザクは間に合った。

 細い路地に追い込まれた少女が男に腕を掴まれている。華奢な鎖骨と服のはだけられた胸元を視認したとき、スザクの頭から事情を聞くという選択肢が消えた。
 スピードを緩めないままビルの隙間に飛び込み、減速を兼ねて壁を蹴る。三角跳びの要領で男の背後に到達すると、勢いよく片足を振り抜いた。足の甲に感じる衝撃。同時に側頭部を蹴り抜かれた男が崩れ落ちた。

 驚いたように目を見開いている少女に、スザクは声を掛ける。

「大丈夫ですか? 僕は、その、怪しい者じゃなくて。ちゃんとしたブリタニア軍の――」

「……ク」

「え?」

「……枢木、スザク……?」

 身を抱くようにして肌を隠す少女の顔には、怯えの感情が覗いていた。

 そこでようやく思い至る。ユフィと一日過ごしていたせいで感覚が薄れていたが、自分はついこの間までクロヴィス皇子殺害の容疑者としてニュースを賑わせていた危険人物なのだ。

 恐れられて当たり前だと思う反面、いかに自分がユフィに救われていたのかに気付く。彼女に会う前にこんな反応をされていたら、もっと気分が沈んでいただろう。だが今ならそれなりに落ち着いて対応できる。

「僕が怖いなら、これ以上は近づきません。約束します。警察に行くのでも租界に戻るのでも、僕はそこまで行くから、好きなだけ離れて付いてきて下さい。キミと同い年くらいの女の子もいるから、安心して」

「いえ……大丈夫です。電話すれば。その辺に家の者がいるはずなので……」

 スザクの申し出を震える声で拒絶し、少女は脱兎のごとく路地の奥へと走っていった。

 携帯を耳にあてているから、彼女の言葉が本当ならすぐに保護されるのだろう。
 そう思うことにした。たとえそうでなかったとしても、あれだけ怖がっている相手を無理やり引っ掴んで租界まで連れていったら、こっちが犯罪者だ。

 上を見ると、抉れたビルの形に切り抜かれた黄昏の空がある。思わず小さく溜息が漏れた。大通りに体を向けると、丁度追いついてきたユフィの姿が見える。

「スザク、あの人は?」

「もう大丈夫です。心配要りません」

「そうですか。良かった……」

 ほっとした様子の笑顔を見ると、こちらの頬も自然と緩む。

 やはり自分はユフィに救われていると、スザクは改めて実感した。




 ◆◇◆◇◆




 数日後、スザクは学校に通うことになった。私立アッシュフォード学園である。

 ユフィは実はユーフェミア皇女殿下という途轍もなく貴い人だったらしく、彼女の一声があって、スザクは学生の身分を手に入れられる運びとなったのだ。

 しかし、軍籍にある人間、しかも名誉ブリタニア人が一般のブリタニア人の学校に入るというのは異例中の異例で、スザクはその風当たりの強さを登校初日の朝から感じていた。

 まだクラスに入る前の段階、職員室に向かうときからである。向けられる視線に恐怖や敵意が混じっているのだ。

 だがそれにも慣れねばならないとスザクは思う。せっかくユフィが学生にしてくれたのだから。学べるだけ学んで、楽しめるだけ楽しむのだ。

 ひそかな決意を胸に、担任教師の先導で足を踏み入れた教室。
 そこでスザクは二度驚愕させられることになる。

 なぜなら。

 生死を危ぶんでいた幼き日の親友ルルーシュと、先日シンジュクで助けた名も知らぬ少女がおり、しかもその二人が隣同士の席でにこやかに談笑していたのだから。



[7688] STAGE5 盲目 と 仮面越し の 幸福
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2011/01/18 16:03
 アッシュフォード学園は歳若い健康的な男女の通う学校であるからして、授業と授業の合間の時間は当然のように喧騒に包まれる。それは文字通り当たり前のことで、その状態に陥らない休み時間というものは、すなわち異常である。
 普段よりも明らかに談笑の音量が控えめになっている教室。
 直接視線を送る者こそ少数ながら、意識の集中は疑いようもない。目を向けないまま、視界の端で、あるいは聴覚で、彼の動向を窺うのだ。

 枢木スザク。

 前日まで無かった名誉ブリタニア人の姿が一人増えただけで、室内の雰囲気はぴりりと張り詰めていた。
 気配を読むことにも長けた軍人のスザクにその空気を感じ取れないはずはない。いたたまれなさにか無表情に立ち上がった親友が教室から出て行ったのを見届けると、ルルーシュは隣に座る妹に小声で告げた。

「ごめん、ちょっと行って来る。前に話しただろ。あいつ、枢木の家の――その、友達なんだ」

 無意識に口調が淀んだのは、クラリスから彼女のイレブンに対する感情を聞かされたことが無かったと気づいたせいだろう。「いってらっしゃい」と、これもまた小さな返事を貰って立ち上がりながら、ルルーシュはその事実に思い至ってわずかに慄然とした。

 もちろん長年おのれを殺してきた妹のことだから、必要とあらば自分の好悪の感情など無視して笑顔で接することも可能なのだろう。しかし、できるならそんな不本意な演技はさせたくなかった。
 それ以前に、スザクとクラリスの間に不和が生じる事態そのものが既に問題である。どう問題なのかと言えば、主にルルーシュの感情的な部分になってくるのだろうが――。

(いや、そこはまぁいい。単に俺が目を瞑れば済むだけの話だ)

 ルルーシュは親友と妹なら何も考えずに妹を取る少年であったし、それは親友を自分に置き換えても何ら変わりのない事柄であった。
 つまりは、妹の安全が確保されるのなら、スザクとの関係など捨て去ってしまってもいい、その覚悟があるのだ。移送中の枢木スザクを純血派から強奪したあの日、ゼロの仮面越しに親友と相対したときに、ルルーシュ自身が強く認識したことでもある。

(考えるべきは俺の感情じゃない。スザクの立場が悪いのは何とかしてやりたいが、それよりも、現在のあいつの思想、意思、軍での立場、その辺りを確認することだ)

 スザクの背を追いながら、ルルーシュは考える。

 目下最大の問題は、クラリスのことをスザクにどう説明するかだ。

 枢木の家に預けられていた間、ルルーシュはクラリスについての話を一度もしていない。
 当時は、家族のこととはいえ、他国の重鎮に皇族の醜聞を進んで話したいと思わないくらいにはブリタニアへの愛国心が存在していたし、また、単純に泣き言を言いたくないというプライドもあった。
 ナナリーが話したにしても、彼女はクラリスを単に『お姉様』としか呼ばないから、名前までは伝わっていない可能性が高い。
 その線以外で幼い子供が表にも出ていない他国の皇女の名を覚える機会などあるまいし、属領となった後はイレブン、軍人となった今でも名誉ブリタニア人である。皇族関係の調べ物など許可されるわけがない。
 無論探りを入れて裏を取る必要はあるが、スザクは『クラリス』と聞いただけでそれをルルーシュの妹とは見なさないはず。

 その場合、クラリス・アーベントロートをスザクに何と紹介すべきなのか。妹なのか、友人なのか、それとも、恋人候補なのか。
 そこを判断するための材料が要る。

(やはり早めに話をしておく必要があるな)

 歩調を速めたルルーシュは、スザクを追い越しざま、制服の詰襟に指を入れ、引っ張って直す仕草を見せた。
 昔よく使った『屋根裏部屋で話そう』という意味のサインである。

 あの頃はただ楽しく語るだけでよかったのに、今は打算を抜きには話せない。一抹の寂しさがルルーシュの胸を掠めたが、その感慨が彼の決意を乱すことはなかった。





 ルルーシュとスザクは屋上のフェンスに並んで寄りかかり、空を見上げていた。他人の視線の無いここでなら、気兼ね無い会話ができる。

「安心したよ、無事で」

「お前のおかげだ、スザク」

 話題はシンジュクテロの日のことだった。
 ギアスの力を手にしたあの日、まだ無力であったルルーシュは、C.C.と共にブリタニア軍に囲まれた状態で、スザクと予期せぬ再会を果たしたのだ。彼らを窮地から逃がすためにスザクは上官に撃たれ、結果ルルーシュとC.C.はその場を脱した。スザクの存命は報道で明らかになり、一方スザクの側からはルルーシュたちの消息は知れないまま、今日に至る。

 互いの無事を喜びあい、軍事法廷からアッシュフォード学園入学までのスザクの経緯などを聞いているうちに、ルルーシュはスザクの人柄を再確認するに至っていた。

 変わってしまっている部分はあるものの、悪い変化ではない。
 尖っていたのが丸くなり、歳相応の落ち着きが出た。しかし、気の良い奴であり、根本的なところで優しい奴である、その部分は変わっていなかった。
 なによりも、話していれば自然に笑いあえるし、なんと言ったらいいのか、内から湧き上がってくる喜びがある。それが一番大きかった。楽しいのだ。

 戦後は名を偽らねばならなかったために、ブリタニアの日本侵攻以降にできた知り合いには、どこかで壁を作っている。ゆえに無邪気でいられた時分の友人であるスザクを特別視しているのだろう。
 そうルルーシュは自覚していたが、それを悪いことだとは思わなかった。切り捨てられないほどに傾注しているわけではないのだから、と。

 いかに心が弾んでも、当初の目的を忘れてはいない。

(この休み時間だけで全ての結論を下すのはさすがに無理があるか。情報が不足し過ぎている)

「なぁスザク、今俺たちはクラブハウスに住んでいるんだが、今夜寄っていかないか? ナナリーもきっと喜ぶ」

「いいの?」

「何がさ」

「だって……ほら、教室のみんなとかも、良い顔しないんじゃないかと思って。キミの隣の席の子、ちょっと名前はわからないんだけど、ふわふわした感じの長い髪の」

「クラリスか?」

 何気ない素振りを装って返しながら、ルルーシュは注意深くスザクの様子を覗っていた。
 ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの口から出た『クラリス』の名。
 知っている者ならば必ず何らかの反応が現れるはず。

「あぁ、クラリスって言うんだ」

 スザクの返答には何ら不審な点は無い。セリフだけでなく、口ぶりにも動揺は見られなかった。

(やはり、知らないのか……?)

「あの子さ、前にシンジュクゲットーで会って」

「シンジュクで?」

「うん。ちょっとトラブルに巻き込まれてたみたいだから助けに入ったんだけど、そしたらこっちの方が怯えられちゃって」

 スザクの言葉にルルーシュは眉を顰める。

(……クラリスがスザクに怯える? なぜだ? イレブン嫌いか? いや、それならそもそもシンジュクゲットーに行く理由の説明が付かない。ならばクロヴィス暗殺の容疑者だったからか? それも無い。あいつは沈着な人間だ。釈放された相手を無意味に恐れるような妄動は取らないはず)

「それ、本当にクラリスだったのか?」

「あんなに綺麗な子見間違えないよ。ちょっとルルーシュに似てる気がしたし。ああ、別にルルーシュが女っぽいとかいうわけじゃなくて」

 スザクはルルーシュとクラリスを似ていると認識していながら、兄妹であるという想像を一切働かせていないようだった。
 となれば、確定である。

(――知らないんだな)

 とりあえず選択肢が無いという最悪の状況は避けられた。クラリスがスザクを恐れる理由を確かめねばならなくなったが、それは後で本人に聞けば済むこと。元々スザクへの対応についてクラリスと協議する必要性は感じていたから、大した差は無い。

 内心で安堵の息を漏らすルルーシュの横で、スザクは固い面持ちで続けた。 

「まぁ、だからさ、そういうこともあったから、あんまり仲良くするのは良くないんじゃないかって。学校では他人でいるくらいの方がいいのかもしれない。キミに迷惑が掛かる」

「それは――」

 ルルーシュは思わず口ごもる。
 スザクの予想はおそらく間違っていない。そしてルルーシュに迷惑が掛かるということは、妹たちにもとばっちりの行く可能性を示唆している。

「下手をすればばれてしまう。キミたちの素性も」

「……それでも。ウチに寄るくらいはしろよ。ナナリー、ずっと心配していたんだ」

 早いうちにスザクの情報を得ておきたいという計算もあるが、もちろんこれもルルーシュの本心だった。またスザクと過ごせる時間が持てると知れば、ナナリーはとても喜ぶに違いない。

「迷惑だと思うなら見つからないように来ればいい。軍人なんだろ? 学生くらい撒けないでどうする」

 冗談めかして言うと、スザクの顔はふっと綻んだ。

「そうだね。ありがとう、ルルーシュ。じゃあ今日はナナリーに会いに行くよ」




 ◆◇◆◇◆




 ルルーシュが招いたスザクと歓談するナナリーは、本当に嬉しそうにしていた。
 ほんの一年ほどの期間ではあったものの、家族のような付き合いをしていた相手。それが七年もの間離れ離れになっていて、別離の後に消息が知れたと思えば、皇族殺しの重罪人として拘束されていたのだ。
 再会を喜ばないはずがない。

 兄の悪戯心で名を明かす前に手を握らせたら、瞬時にスザクのものだと断定してしまった。そのときのナナリーの喜びに満ちた笑顔を思い出すと、ルルーシュの口元は我知らず緩む。

「何笑ってるの。ナナリーのこと?」

「あぁ。お前に来てもらって本当に良かったと思ってさ」

 ナナリーが寝室に入った後、ルルーシュはスザクと二人きりで話す場を設けていた。ダイニングのテーブルセットに向かい合って座り、コーヒーを飲みながらの歓談だ。
 時間が時間なため心行くまでとは行かないだろうが、話しておきたいことはまだ残っている。友人として、またクラリスの兄として。

「ルルーシュは変わらないね。昔からナナリーが一番だ」

「悪いか?」

「ううん。ただ、ちょっとうらやましいと思って。まっすぐなキミが少し眩しい。僕は……変わってしまったから」

 目を合わせずに言ったスザクの口調には、ほのかな苦味が混じっていた。

「それが自然なんだよ。成長してるってことだろ」

「そう言ってもらえると救われるよ」

 柔らかな笑みを浮かべる友人の顔を眺めながら、こいつはたしかに変わったとルルーシュは思う。
 幼い頃のスザクは、優しさや気遣いはあるものの、傲慢さや利己的な思考がそれを覆い隠すように最前面に出ているような子供だった。良いか悪いかは別として、間違っても『救われる』などとは言いそうにない――他人に救いを求めるような弱さとは無縁のところにいる――そういう少年だった。

「なぁスザク、お前どうしてブリタニアの軍になんか入ったんだ?」

 ルルーシュはシンジュクテロの際、軍事行動中のスザクを目撃して以来の疑問を口にした。
 何故敗戦国最後の首相の息子が、元の自国民を虐げる宗主国の軍にいるのか。間にある事情が推測できなかった。少なくとも、枢木の家にいた頃のスザクは人並みの愛国心を持っていたと記憶している。

「お前ならまったく逆の道、例えば、枢木ゲンブ首相の息子として、抵抗勢力をまとめ上げる旗頭になることもできただろう」

「たしかに可能だったかもしれない。実際、担ぎ上げようとする人はいた。けど、それが良くないと、僕は気づいたんだ」

「ん?」

「僕の国は――日本は、ブリタニアに力で征服された。あまりにも理不尽な蹂躙だった。こんなのは間違っていると何度叫んだか知れない。だからこそ、そういうやり方は良くないと思うんだ。力で奪い取ったものになんて、何の意味も無い。得られるのは空しさだけだ」

「抵抗活動を否定するのか?」

「そうじゃない。日本人がかつての祖国を取り戻そうとするのは当然のことだよ。だけど、やり方が間違っている、そう言いたいんだ。変えたいのなら、ゆっくりでもいい、体制の中から変えていくべきだ」

 ルルーシュからしてみれば、スザクの主張には反駁を加えたい部分が多々存在していた。
 筆頭としては、完成された組織というものを甘く見ている点だろう。内部からの変革を望んでも、達成される前に、体制そのものに食いつぶされる。それがルルーシュの見解だった。
 しかしルルーシュの思想とは、すなわちゼロの思想でもある。これからゼロの仮面を被って様々な声明を発表していくであろうことを考えれば、ここでルルーシュとして本音の意見をぶつけるのは軽率と言えた。

「……それで、選んだ場所が軍なのか」

 中身の無い返事をするルルーシュとは対照的に、スザクの声には熱が篭る。

「そうさ。それに、彼らはあの戦争の悲劇をまた繰り返そうとしている。ならば同胞として、僕はその過ちを止めなければならない」

「……なるほどな」

 ルルーシュは心のうちに湧き上がる苛立ちを隠すように、コーヒーカップに口をつけた。

「『納得できない』」

「え?」

「そういう顔してるよ、ルルーシュ」

 ハッとして視線を上げる。

「別にいいよ。ルルーシュがブリタニアを憎んでいるのは知ってる。それに、キミには内側から変えていく手段さえ残されていないんだ。僕の話が甘っちょろい理想論に聞こえたって無理はない。でも、僕はこうしようって決めたんだ」

「……そうか」

 スザクの意志は固いように見えた。おそらく考えは変えられないだろう。
 となれば、ゼロとしての活動を続けるのなら対立は免れない。

 ままならない現実にささくれ立つ心を、ルルーシュは先程ナナリーに語っていたスザクの言葉を反芻して何とかなだめる。
 『技術部に配置換えになった』と言っていた。前線でぶつかることがないのならまだましと考えるよりほかない。

「それで、スザク。お前のことを疑うわけじゃないんだが、俺たちのことは――」

「大丈夫だよ。心配しなくていい。僕はキミたちのことを軍に密告したりはしない。絶対にだ。ルルーシュは、友達だから」

「……ああ。悪いな」




 ◆◇◆◇◆




 翌日の昼休み、クラリスは一人で猫と戯れていた。
 場所は学園の中庭、白毛に茶色のぶちの付いた可愛らしい猫である。

 なぜに猫、と一瞬疑問に思ったルルーシュだったが、大変心和む光景でだったのですぐに頭から締め出した。もっとも、ある程度歩み寄ったところでその愛すべき絵は崩壊してしまったのだが。

 逃げ去った猫を目で追いかけてから、クラリスは恨みがましい眼差しを向けてくる。

「どうしてくれるのルル君。逃げちゃったじゃない」

「ごめん。どうしたら許してくれるんだ?」

「追いかけて捕まえてきてくれる?」

「勘弁してくれ。肉体労働は苦手なんだ」

 苦笑して答えると、クラリスは立ち上がり、「じゃあ……」と近づいてくる。
 そして眼前でにっこりと告げられたペナルティ。

「――今夜一緒のベッドで寝させて」

「なっ!?」

 目を見開いて周囲に視線を送るルルーシュを、クラリスはくすくすと上品に笑いながら眺めている。

「大丈夫、誰もいないわ。いたらこんなからかい方しないわよ。ルル君ってそういう耐性なさそうだから」

「……お前な」

 どっと脱力して、ルルーシュは芝生に腰を下ろした。緑が近くなったせいか、空気に少し青臭い匂いが混じったような気がする。そよそよと吹きぬける風に心地良く目を細めていると、クラリスがすぐ隣に座った。妹と間近で顔を見合わせると、なぜだか小さく笑いがこぼれてしまう。
 
 この様子を見る者が見たら、新鮮な驚きを感じたかもしれない。
 ルルーシュは良くも悪くも冷めた印象のある少年である。そこが良いというファンも多いが、あと一歩の距離に壁を感じる友人もまた多い。余人を受け入れない領域に容易く入り込めるのが妹のナナリーだけであるというのは、彼をよく知る者にとっては常識となっている。
 そのルルーシュが、出会って間もない少女となにやら親密そうに笑い合っているのである。

 ルルーシュ自身は特に意識しての行動ではなかったが、それゆえに作り物めいたところが一切無い。ナナリーと同じ間柄――家族であるという事情を知らなければ、なにか特別な感情の介在を邪推せずにはいられまい。

「で、ルル君は何の用だったの? 無いなら無いで別に構わないけれど、マーリンの分くらいは楽しませてね」

「マーリン?」

「さっき逃げた猫の名前。結構仲いいのよ、私たち」

「俺は猫より期待されてないんだな。ここは妬くべきか?」

「猫に嫉妬なんてバカなことするより、自分を磨くのが正解でしょう。だいいち、人間が猫に勝とうってこと自体、土台無理な話なのよ」

「ならさっさと諦めて用件を話すよ。今日、ウチに寄って行かないか?」

 気安い雰囲気で話していたルルーシュは、そこで声のボリュームを下げた。

「……スザクの話をしたい。それと、C.C.――こないだゼロが現れた日にお前も部屋でナナリーと一緒に会っていると思うが、あの妙な女の話も」

 そのときは『知り合いだ』と機転を利かせてナナリーから隔離したとルルーシュはクラリス本人から聞いている。
 それで終わりなら話は簡単だったのだが、クラリスが帰宅してからもC.C.は部屋に居座り続け、今日に至っても一向に出て行く気配はない。ルルーシュにしても、軍に追われている上にこちらの素性を承知しているらしいあの危険人物を外に放り出す気にはなれずに、今や済し崩し的に同居人としての地位を認めてしまっていた。

「スケジュールが合わないなら無理に今日じゃなきゃってこともないが、できるだけ早い方がいい」

 クラリスは普段どおりの調子で答えた。

「いえ、問題ないわ。エスコートは頼むわね」

「わかったよ、お嬢様。じゃあ放課後、待っていてくれ」

 ルルーシュも何気ない口調に戻して微笑む。

 その後は軽いおしゃべりをして、午後の授業の前に教室に戻った二人だったが。

 ――偶然通り掛かった橙色の髪をした少女が、生垣に隠れて一部始終を目撃していたことなど、知る由もなかった。




 ◆◇◆◇◆




 C.C.はベッドに仰臥して、見るとも無く天井を眺めていた。シーツには未だ慣れない少年の体臭がほのかに残っている。

 このまま寝台を独占し続ければいずれは慣れるのだろうか。
 ……いや、あの未熟な少年を残して出て行くことなどありえないし、さらに寝床を譲る気がない以上、じきにこのベッドはC.C.の所有物としての性質を帯び始める。少年の残り香など消えてしまうだろう。その未来が確定しているのだから、慣れる慣れないの議論には意味が無い。

 少し考えればすぐに結論が出てしまうそんな下らない思考に時間を割いているのは、暇なせいだった。

 『今日はクラリスを連れて帰るから大人しくしていろ』と出て行ったルルーシュの言葉を守って、C.C.は外出せずに部屋で待機していた。
 無論、傍若無人の魔女たるC.C.に対して、そんな命令など何の強制力も無い。従ってやる義務は無いし、義理も無い。
 にもかかわらず言いつけに逆らわずにいるのは、一方的にスケジュールを入れられた夕方の会談――その相手がクラリスだったためである。

 脅しをちらつかせた交渉の末に契約を結ばされたあの夜からこちら、C.C.は一度もクラリスに接触していなかった。彼女から受けた『自分たちの関わりをルルーシュには伏せて置くように』との要請をしっかりと遵守しているのだ。
 その理由は単純で、特にばらす必要性を感じなかったからというのが最も大きい。

 なんにせよ、あの様々な意味で興味深い少女を連れて来てくれるのだという。ならば、と一人で時間を潰しているのだ。
 積極的に会いに行く気にはならないが、あちらから来るのなら会ってみたい。それがC.C.のクラリスに対する姿勢であった。

(――来たか)

 放課になって少し経った頃、C.C.は居住区内に入る人の気配を察知した。程なくして寝室の扉が開かれ、見慣れた契約者の少年の顔が現れる。招かれて移動したダイニングキッチンには、いつか見たアッシュブロンドの少女の姿があった。

「お久しぶりね」

「元気そうで何よりだ――それは何だ?」

 クラリスの胸に抱かれた物体に目を留め、C.C.は訊く。

「この子? マーリンというの。かわいいでしょう」

「かわいいとは思うが――」

「昼休みに俺のせいで逃がしてしまってな。猫とじゃれ合う時間が足りなかったからって、学校から連れてきたんだ」

 ルルーシュの補足を聞いて、C.C.は訝しく思う。
 クラリスという少女がそんなかわいらしい理由でわざわざ猫を引っ張ってくるとは考えにくい。

 二人きりで話した短い時間の中で、C.C.はクラリスへの評価をおおよそ固めていた。

 ルルーシュと同じ、どんな行動にも打算と計算を交えずにはいられないタイプ。
 明かせない秘密を抱えた状態で育ったがゆえの防衛本能のようなものなのだろうが、だとすればクラリスのそれはルルーシュよりも根が深い。彼女の秘密――ありえない知識は幼少の頃から共にあったらしいのだから。

(まぁ、猫についてはおいおいわかることか)

「それで、今日の会合は何が目的なんだ? ホスト」

 戸棚からティーカップを出している少年に尋ねると、彼は顔だけで振り向いた。

「お前の紹介だ、ピザ女」

「なんだ、ピザでお前の預金残高を減らすために居候しているとでも説明するのか?」

「アリかもな。実際それ以外何もしてないだろ」

 ルルーシュは水を入れたヤカンをIH調理器に掛けながら、クラリスに向かって言う。

「そんなに難しい話じゃないんだ。この女――C.C.はとんでもなく自己中心的な奴でな、自分の話したいことしか話さないし、自分のやりたいことしかやらない。だからそいつが今までどこで何をしていたかもわからないんだが、一つはっきりしていることがある。――C.C.は俺たちの素性を知っていて、しかも軍の一部に追われている」

「爆弾みたいな人ね」

「そうだな。だから見つからないように監禁でもするか、裏切らないように抱き込むかしなきゃならない。俺は後者を選んだ」

「ピザで釣ったのかしら」

「私はそんなに安い女じゃない」

「そう思って欲しいならもうピザは食うな。ナナリーが不審に思ってる」

 ルルーシュは盆にティーカップとソーサーを載せて戻ってくると、二人に座るよう勧めてからテーブルに着いた。
 椅子に腰を下ろしたクラリスが猫の額をくすぐりながら尋ねる。

「C.C.のこと、ナナリーには紹介していないの? 一緒に住んでるのに?」

「お前の方が先だと思ってな。クラリスがこいつをどう判断するか確認してから対応を決めたかったんだ」

「なるほどね」

 クラリスは少し考える素振りを見せてから、自分の意見を口にした。

「私は――」

 その後の展開は、C.C.からしてみれば完全な茶番であった。愉快な見世物でもあったが。

 当然というべきか、ルルーシュは妹にギアス関連の話をしないつもりのようだった。その縛りがあるために、C.C.との関係の説明にどうしても怪しい点が生まれてしまう。
 対するクラリスは、ルルーシュとC.C.の間に契約があったことを承知しており、さらにはC.C.にルルーシュを裏切れない事情があることまで把握している。しかしそれを明かす気がない。

 C.C.をここに置いておくという共通した結論が始めから出ているというのに、互いに公開できる情報に制限を抱えているせいで、いかに違和感のない論理展開でそこへ持っていくか、その過程に問題が生じるのである。

 そこはさすが似たもの兄妹というべきか、馬鹿馬鹿しい共同作業の結果、納得できる議論を経て着地点へと至ったようだった。

 ナナリーにも一緒に住むことになったと紹介することでまとまった。ギアスについては伏せ、その他の説明は全てするらしい。軍から匿っているという形になるようだ。
 これについては、ルルーシュは『ナナリーにはあまり面倒な秘密を持って欲しくない』と難色を示したのだが、クラリスが兄妹間で隠し事をすることの非を説いて納得させた。

 どの口で言うんだこの女は、というのがC.C.の感想である。
 対して、実の妹からその非難を浴びせられた際のルルーシュの反応のぎこちなさは――相手が一切を知っているクラリスでなければ致命的だっただろうとC.C.に思わせた。

「――この女についてはこれでいいとして、もう一つ議題がある」

 ティーポットからカップへと紅茶を注ぎつつ、ルルーシュが言った。
 C.C.と二人のときは絶対に自分から茶の用意などしないというのに、随分と気の利いた給仕っぷりである。

「スザクについてだ。あいつはまだクラリスが俺の妹だとは知らない。そこで、クラリスのことをあいつにどう説明するか。それを決めておきたい」

「ルルーシュの意見は?」

「俺の話をする前に、クラリス、お前に訊いておきたいことがある」

 話を向けられたクラリスはわずかに怪訝な顔になる。

「何かしら」

「スザクに何か悪い印象でもあるのか? シンジュクゲットーで怯えられたって聞いて」

 クラリスは「あぁ」と合点がいったように声を漏らした。

「あれは別にスザク君に含みがあるわけじゃないのよ。悪かったと思っているわ。あのときは近くにユフィ――ユーフェミアがいて。見つかる前に確実に逃げたかったから、出しに使ってしまったの」

「ユフィって、あのユフィが? ゲットーに? どうして」

「そこまではさすがに。偶然見かけただけだもの。――まぁ、そういう理由だから、私のことは気にしないでルルーシュの思ったとおりの意見を言ってもらって大丈夫。話を進めましょう」

「そうだな、本題に戻るか」

 ルルーシュは紅茶で軽く唇を湿らせてから切り出した。

「俺は昨日、あいつとだいぶ話をした。簡単な結論だが、そこまでは――根本的なところは、変わっていないように思う。もちろん全部が昔のままとまでは言わない。それでも、俺を裏切るようなことはしない。その点は信じられる。そういう感触だった」

 そこまで言って一旦言葉を切る。短い溜めのあと、ルルーシュは神妙な面持ちで言った。

「だから、話してもいいんじゃないかと思ってる。全て話して、いざというときには手を貸してもらえるようにしておいた方が」

 常に妹の安全を第一に考えるルルーシュが、秘すべき身分を明かしてでも頼りにした方がいいと話す。しかも七年ぶりに話した相手に対してである。
 C.C.にはそれが少々不思議に感じられた。身内以外にはそうそう心を開かない少年だと思っていたのだ。

「随分と信頼しているんだな」

「あいつはやっぱり――そう、友達なんだ」

 C.C.にとって『友達』とは定義の曖昧な単語だ。少なくとも、信頼と等号で結べるような代物ではない。
 先ごろ友達になりたいと近寄ってきたアッシュブロンドの少女などは、得体の知れないところが多分にあって、むしろ信じたり頼ったりなどとは最も遠い位置にいると考えられなくもないような人間である。

 『友達だから』と珍しく曖昧な根拠を口にした少年を見ていると、それでも、と益体も無い思考が頭を掠めた。

 自分にもいつか同じ言葉を言える日が来るのだろうか、と。

 隣に座るクラリスを横目で見る。彼女は視線に気づいてか気づかずにか、何の感慨もなさそうに淡々と意見を述べた。

「じゃあ、私の番ね。べつにルルーシュの判断を疑うわけじゃないんだけれど、もう少し、待ってもらっていいかしら。しばらくは恋人になりたがっている女友達を演じさせて頂戴。私も自分で確かめたいの」

「ああ、それはもちろん。なら、当面は現状維持だな」

「ええ、それで行きましょう」





 女同士の話があるとルルーシュを排除して移動した彼の寝室で、C.C.は定位置となっているベッドの上に腰を下ろした。

 クラリスは部屋の中に猫を放して自由に遊ばせている。
 部屋を借りる際、ルルーシュに『あまり私物を弄るな』と注意されていたというのに、守る気はまったく無いようだった。当然ながらC.C.にも守る気はないし、止める気もない。
 むしろ猫が男の子の秘密のアイテムでも見つけてくれれば大いに楽しめるのに、などと考えていたりする。

 ルルーシュが本気で発見を恐れているものはゼロの仮面なのだろう。たしかに見つかれば言い逃れの難しい品である。
 ただしそれは他の者の場合、である。今回に限れば、見られたところで何の痛手もない。なぜなら既にクラリスはルルーシュイコールゼロと知っているのだから。

 ゆえにC.C.はクラリスの行動に一切の手出しをしないのだが、一方で思う。

(無条件の信頼というのも考え物だな)

 クラリスはおそらくルルーシュの害になることはしない。その結論のみを見れば、クラリスを疑おうとしないルルーシュの判断は間違いではない。C.C.の見解とも一致する。しかし、そこに至る道程に決定的な違いがあった。

 クラリスから秘密を打ち明けられたC.C.からすると、『家族だから』という理由だけではあまりにも薄く思える。

 そう、無条件の信頼とは危ういものなのだ。

「――枢木スザクという男。信用できないのか?」

 問いかけると、クラリスは歩き回る猫を優しい目で追いかけながら答えた。

「わかる?」

「お前の場合、相手の本質を見極めるのに時間を掛けて観察する過程は必要ないだろう。重要な案件なのだから決定は早い方がいいだろうしな」

 つまりは、先延ばしにしたのは様子見ではなく、現状維持が最善であるとクラリスが判断したことを示している――その可能性が高い。

「初めての友達なんだろうから、ルルーシュは信じたいんだろうけどね」

 そう前置いてから、クラリスはスザクに対する評価を語った。

「今の彼は自己否定を糧に生きている。私の知識ではそう。どんなに固い意志があるように見えても、それは上辺だけ。真実の自分を覆い隠すためのものでしかない。自分の中に確たる信念が無いから、外からの要因で容易く軸がぶれる。そんな人を信用なんてできないでしょう?」

「自分を棚に上げてよく言う」

 C.C.は皮肉っぽく口角を上げる。
 自分が居ない場合に迎えられるであろう未来を崩したくないと語った少女。そんな後ろ向きなものを目標としている人間に、他者の信念云々を評する資格があるのかと。

 クラリスは小首を傾げてふてぶてしく返した。

「私にはあるもの。信念を持たないという信念がね。できる限り傍観者でいたいわ」

「まぁ、それも信念の在り方の一つなのかもしれないな。――で、その傍観者でいたいお前がどうしてあんなモノを持って来た?」

 C.C.は猫の方にあごをしゃくって尋ねる。余計な手出しはしたくないと言いながら、行動予測不能の動物を連れて来る。何か裏があると勘繰らずにはいられない行動だった。

「私の知識だとね、そろそろ猫が事件を起こすのよ」

「猫が?」

「そう、猫が。でも動物ってどう動くかわからないでしょう? どうせならリスクが少なくなるように自分でお膳立てしようかと」

「――いや、待て、クラリス。猫というのは、あれか?」

 C.C.の視線の先で、窓から黒い猫が侵入してくる。驚いたように眉を上げたクラリスがベッド脇に置かれていたトランクを開けると、黒猫はその中からゼロの仮面を探り当て、頭に被ってしまった。

「……私の情報ってすごいのね。まさかこんなのまでそのままになるとは思わなかったわ」

「……いよいよお前の未来視を疑えなくなって来たな。この後はどうなる?」

「猫が逃げてルルーシュが追いかける展開に」

「大丈夫なのか?」

「ルルーシュの部屋から出る瞬間さえ見られなければ、問題は無いでしょう。違う?」

 少し考えて、C.C.は答えた。

「まぁ、そうだろうな」

 何も知らずにC.C.がその光景を目にしたとしても、たぶん放置する。
 あのゼロの仮面である。持ち主でなくとも追い掛けたくなる人間は大勢いるに違いない。だとすれば、追っているからといってそれだけで所有者と判断されたりはしないはず。その程度の状況であれば、ルルーシュなら口八丁とギアスでどうとでも切り抜けられるだろう。

「窓から逃げられると面倒になりかねないから、適当なところまで私が連れて行くわ」

 言ってクラリスは黒猫を抱き上げると、寝室のドアを開けた。




 ◆◇◆◇◆




「うぅぅーーー。うー。うぅぅぅぅ。うーーー」

 クラブハウスの廊下にかわいらしいうめき声が響いている。発生源は橙色の長髪をした少女――シャーリー・フェネットである。

 昼休みに盗み聞きした話のとおりに――小声になってしまって聞き取れない部分も一部あったが――放課後になると、ルルーシュはクラリスを伴って居住区の方へと向かってしまった。何がしたいのかもよくわからないままその後ろを遠くから付けていたのだが、結局部屋の中まで付いていくことはできずに、こうして微妙な位置で悶々としている。

 いったい中では何が起こっているのだろう。やっぱり男と女だから、そういう、アレとか、あったりするんだろうか。

 具体的な絵までは思い浮かべることができずに、でも曖昧な想像力だけはたくましく肥大して、結果シャーリーは謎の声を漏らすことになっていた。

 進むことも戻ることもできずに、一定範囲の廊下を行ったり来たりしつつ、意味の無い母音を垂れ流す。
 どれくらいそうしていたのかはよくわからない。我に返ると、ひどく馬鹿馬鹿しい行為に耽っていたと、力なく肩が落ちた。

(私ってば何やってるんだろ。部活もサボっちゃったし、生徒会にも行かないで)

 クラリスが出てきたら何をしていたのか尋ねようとでもいうのだろうか。たぶんそうなのだろう。
 優しいクラリスはきっと何も無かったと言うだろうから、そのセリフを聞いて自分を安心させようとしているのだ。それが事実だと信じられる根拠なんてどこにも無いというのに。

 客観視したら途端に空しくなって、盛大な溜息が溢れた。

「帰ろ……」

 そう決めて、最後にルルーシュの部屋のほうを眺めたときだった。
 静かに扉が開いて、黒くて小さい四足の動物が姿を現した。

「……猫?」

 疑問形になってしまったのは頭部が何かに隠されて確認できなかったためだ。その何かが『何』なのかを正しく認識した瞬間、シャーリーの口から間の抜けた声が飛び出た。

「へ?」

(あれって……ゼロの仮面? なんで猫が? っていうか今あの子ルルの部屋から出てきたよね? なんで? どういうこと?)

 混乱して立ちつくすシャーリーの方へ、黒猫は足音を立てずに歩き出す。

 見れば見るほどにあのテロリスト――ゼロの仮面だ。
 あんな奇抜なデザインは他に無い。テレビ越しに見たことしかないけれど、それでも見間違えようが無い。

 ……となれば。だとしたら。

 考えたくないのに、頭が勝手に嫌な結論を導き出してしまう。

(もしかして、ルルが――?)

 ぞっと背筋が冷えた。
 本当にそうなのだろうか。皮肉っぽくて何を考えているかさっぱりわからない、それでいてどこか優しい、あの部屋の主が。

 呆然と目を見開いて扉を見つめていると、中から人影が歩み出る。

 白い手指。クリーム色の制服。――艶やかなアッシュブロンド。

「クラリス……?」

 自然とこぼれた呼び掛けを無視して、現れた少女は独り言のように呟いた。

「……どうしてもこういう予想外の事態というのは出てしまうものよね。やっぱりアーサーに投げっぱなしにするよりは、私も動くべきかしら」

「……何、言ってるの? ねぇ、今、ゼロの、仮面が――ルルが」

「ごめんね、シャーリー。あんまりやりたくはないんだけれど」

 会話が噛み合わない。
 言い募ろうと開いたシャーリーの口は、声を発することなくゆっくりと閉じられた。

 目だ。

 透き通るようなアメジストの色をしたクラリスの双眸が、見たことのない眼光を放っている。いつもどおりの見慣れた制服姿だというのに、たった一つ、瞳の印象が違うだけでこれほどまでに別人に見えてしまうのかと、シャーリーは気圧されつつも思った。

 そういえば、皇帝陛下もこんな色の目をしていたような気がする。紫水晶を思わせる瞳で、臣民を睥睨するのだ。
 帝王たる人物の資質なのだろうか、うまく言葉にはできないものの、爛々と光る陛下の目にはたしかにある種の『力』が宿っていると、何度か感じさせられたことがある。

 ――丁度、今目の前にいる、この女性のように。

 表情を硬くするシャーリーに向けて片手を伸ばし、クラリスは厳かに宣言した。

「クラリス・ヴィ・ブリタニアが削る――貴女の、時」

 忘れなさい。今の一分。貴女は猫なんて見ていない――。
 続けてシャーリーの鼓膜を打った声は、意味ある形を成す前に、ぼやけて消えていった。





「――あら、シャーリー、何をしているの? こんなところで」

「ふぇっ!? あ、クラリス? な、何してるんだろうね、私ったら」

 悶々とするあまり、少々意識が散漫になりすぎていたらしい。気が付くとルルーシュの部屋のドアが開いていて、廊下に立ったクラリスが不思議そうにシャーリーを見つめていた。

「ルル君なら中にいるわ。用があるなら呼びましょうか?」

 ほっそりとした指がインターホンを差す。

 シャーリーは慌てて手を振った。
 話なんて無いのだ。自分が何を目的にここまで付けて来たのかもよくわかっていないようなのが実情で。

「あああっ、いい、いいの。なんとなく足が向いちゃっただけで、別に用とかそういうのは」

「そう?」

「そうなの。じゃあ私は帰るからっ!」

 最高潮に達したいたたまれなさに、シャーリーが踵を返したときだった。

 ――ふぅぁぁああッ!?

 部屋の奥からなんとも素っ頓狂な声が響いてきた。と思うと、転げるような勢いでルルーシュが飛び出してくる。

「ああああッ! シャーリー、クラリス、猫を見たか!?」

「猫?」

 まったく記憶に無い。クラリスに顔を向けると、彼女もきょとんとした表情で左右に首を振る。

「いや、見ていないならいい! 悪かったな、邪魔して」

 返事を確認するなり、ルルーシュはものすごい勢いで二人の横を走りぬけていった。

「……なんだったんだろ、ルルの奴」

「さぁ……?」

 遠ざかっていく背中を見送ると、シャーリーは同じく呆気に取られている様子のクラリスと顔を見合わせるのだった。




 ◆◇◆◇◆




『――猫だっ! 校内を逃走中の猫を捜しなさーい! 部活は一時中断。協力したクラブは予算を優遇します。そしてぇ、捕まえた人にはさらにスーパーなラッキーチャンス! 生徒会メンバーからキッスのプレゼントだぁッ!』

 高笑いと共に生徒会長の指令を告知してくる校内放送を、C.C.は呆れ顔で聞いていた。

「……あの女は事態を引っ掻き回すのが本当に好きだな」

「でも良いことでしょう? 何事も楽しめるっていうのは」

「違いない。たしかに、素晴らしい性質だ」

 クラリスの説明によると、猫を追うルルーシュの凄まじいまでの必死さが、シャーリーの口からミレイの耳に入ったのだろうとのことだった。
 その猫は何かルルーシュに関する恥ずかしい秘密の物件を持って逃走しているに違いない、ならば先に捕獲して哀れな少年の弱みを握ってやらねばなるまい、という風に回るのがミレイの思考回路であるらしかった。

 そこで止まらず、さらにキッスだのなんだのを付け加えて混沌とした騒ぎに持ち込める頭脳を、C.C.は本心から眩しく思う。
 枯れてしまった人間には逆立ちしても不可能な発想だ。

 窓から外を眺めると、部活を中断した学生たちが校庭を駆け回ったり、植え込みを覗き込んだりしているのが見える。

「お前は遊んで来ないのか?」

 外の喧騒とは対照的に、クラリスはテーブルについて静かにティーカップを傾けていた。

「もう少ししたら行くわ。あんまり早すぎるのもね。どうせ提出先はこの建物の中――生徒会室なんだろうから」

「ん?」

「ルルーシュの追っている本物がどんな特徴を持っているかなんて、誰も知らないのよ。シャーリーにもギアスを使ってしまったし。だったら、ほら――」

 クラリスの手が指し示す先では、白毛に茶色のぶちの入った猫が、目を細めて頭を掻いていた。




 ◆◇◆◇◆




『各クラブの皆さーん、ありがとうございましたっ! ご協力感謝致します。諸君のおかげで、ついに猫が捕まりましたぁーッ!』

(――何?)

 息も絶え絶えになりながら黒猫を追うルルーシュは、スピーカー越しに聞こえてくるミレイの報告に眉をひそめた。

 猫はまだ逃げている。それは間違いない。その事実は目の前にはっきりと存在している。
 だとすれば、考えられることとしては。

(別の猫が捕まったのか)

 おそらくそれで正解だろう。この状況でわざわざ誤情報を流すメリットなどほとんど無い。

 誰がやってくれたのかはわからないが、しかしこの展開は助かる。グッジョブだ。ナイスアシストだ。抱きしめて感謝の程を伝えたい。

 酸欠気味で思考が少しおかしくなっている。自覚していてもどうしようもない。なぜなら酸欠だから。

 だらしなく口を開けて喘ぐルルーシュの耳に、続けて放送が飛び込んできた。

『そしてぇ! 生徒会副会長ルルーシュ・ランペルージ君、キミにご指名だッ! 直ちにクラブハウスの入り口まで出頭しなさい!』

「ぶぇほッ!」

 思いっきりむせ返る。

(指名って、もしかして、キスか? 誰が?)

 ルルーシュの頭が高速で回転する。

 猫というのは俊敏な動物である。今地獄の苦しみを味わっている自分は嫌というほど知っている。この悪魔のような敏捷性を持つ生物を容易く捕まえられる運動能力の持ち主はきっと只者ではない。
 いったい何者だ、と考えたとき、幼い頃に無尽蔵の体力で野山を引きずり回してくれた少年の顔が脳裏に浮かんだ。

(――スザク? いや、バカな。妙な想像はよせ!)

 かぶりを振る。

(真面目に考えろルルーシュ。意味のあることをだ)

 先ほどの放送で猫捜しは終了したはず。捜索に駆りだされていた連中は、おそらく次のイベント会場、クラブハウスへと向かう。

 となれば、今こそが絶好機。人が減るのなら、そいつらにギアスで手伝わせればいい。この方法なら高確率で回収に成功する。

 集まった生徒たちを待たせることになってしまうが、仕方がない。仮面を取り返すのが先だ。

 方針を固めたルルーシュは、崩れそうになる膝に力をいれ、肉体の限界に挑んでいった。




 ◆◇◆◇◆




 クラブハウス前には大きな人だかりができていた。
 出入り口の扉の前は地面より数段分高い小さなステージのようになっており、壇上にはマイクを持ったミレイと、その後ろにつき従うように立った生徒会の面々の姿がある。

 誰が猫を捕まえたのかはまだ明らかにされていないようである。
 大層上機嫌な雰囲気のミレイ会長は、興味津々の観客を抑えつつ、それでいて煽り立てるという離れ業を、巧みなマイクパフォーマンスで実現していた。

 その光景を遠くから眺めつつ、スザクは学校は楽しい所だと口元を緩める。
 あの輪に入ることはできなくとも、同年代の少年少女の健全な熱気を感じているだけで、軍務で荒んだ心が慰められるような気がしていた。その場を与えてくれただけでも、ユフィには感謝してもしきれない。

 やがてどこか疲れた様子でやってきたルルーシュが壇上に上がると、観客の興奮は最高潮に達した。
 黄色い声を上げる生徒たちを身振りで沈め、ミレイは息を吸い込む。

「さぁ! いよいよ我らが副会長どのがやって参りました! それでは発表致しましょう。みんなのアイドル、ルルーシュ・ランペルージ君の唇をゲットする権利を手に入れたのはッ!」

 誰かがゴクリとつばを飲み込んだ。

「――生徒会メンバーでごめんなさい! クラリス・アーベントロートさんですっ!」

 はにかむように笑うクラリスが一歩前に出ると、拍手や口笛と共に歓声が溢れた。

 清楚な感じで綺麗な子だから、きっと人気があるのだろう。スザクの目からでもルルーシュとならとても良い絵になりそうに見える。

 何か挨拶お願い、と会長からマイクを手渡されたクラリスは、堂々とステージぎりぎりまで歩み出た。

「あの! イベントと関係ない話で申し訳ないんですけれど、この場を借りて謝りたい人がいます。――枢木スザク君!」

 スザクは目を見開いた。完全に不意打ちである。どうしていいかわからずに棒立ちになっていると、不意にミレイ会長と目が合った。手招きしている。
 出て来いということだろうか。

 一気に喧騒を引かせた観客たちを迂回して、スザクは早足で建物へと向かった。ステージのそばまでたどり着くと、問答無用でミレイに引っ張り上げられる。

「私もこの展開は予想してなかったんだけどさ、クラリスならきっと悪いようにはならないから、胸張ってなさい」

 そう言われても居心地の悪さは誤魔化せない。注がれる無数の視線が苦しかった。それでも顔には出さずに、スザクは状況に流されるままアッシュブロンドの少女と向かい合う。

 クラリスは手にしたマイクを口元に寄せ、話し始めた。

「私は、スザク君に謝らなければならないことがあります。以前、といっても最近の話ですが、私は、暴漢に襲われそうになりました」

 息を飲んだようなざわめきが広がった。衝撃が過ぎ去る程度の時間を空けて、クラリスはさらに語る。

「大柄な、イレブンの中年男性でした。そのイレブンに追われ、路地裏に追い込まれて、腕をつかまれ、服を――」

 状況を想像してしまったのか、誰かがヒッと小さく悲鳴を上げる。その声が聞こえて、スザクはなんだか講談師と聴衆のようだと思った。

 そしてハッと気づく。

(もしかして、それが正解、なのか? 僕に謝りたいんじゃなくて、みんなに聞かせたいんじゃ……?)

 単に謝罪するだけなら二人きりのときにすればいいのだ。わざわざ人を集めて話したくないであろう暴行未遂の話などする必要は無い。
 しかし、なぜなのか。スザクにはその理由がわからない。

「――そのときに助けてくれたのが、スザク君でした。間一髪のところでイレブンの暴漢を昏倒させて、手を差し伸べてくれました。『自分は軍人だから安心して』と。なのに私は、動転して、スザク君から逃げてしまって」

 情感の篭ったクラリスの語り口に聞き入るように、いつの間にか、会場は静まり返っている。

「あのときは、本当にすみませんでした。そして、ありがとうございました。今私がこうして笑顔で学園に通っていられるのは、スザク君のおかげです。心から感謝しています。これは、その印です――」

「……え?」

 スザクの頬に触れる柔らかな感触。爪先立ちをしたクラリスの唇が顔の横にあった。

 これはルルーシュのキスイベントだったはずなのに、なぜ自分が、とスザクの頭は真っ白になる。
 それは観客の一部も同じだったようで、前列近くの生徒たちの数人が目を円くしているのが見えた。

「――お前っ、それはやりすぎだっ!」

 囁き声で、しかし強い口調でステージ奥から叱責が飛ぶ。と同時に前に出たルルーシュが、ひったくるようにしてクラリスからマイクを奪い取った。

「あー皆、ルルーシュだ。今日は会長の思いつきのイベントに付き合ってくれてありがとう。それでだ、良い機会だから、俺も言っておこうと思う」

 スザクに歩み寄って肩を叩く。

「こいつ、昨日編入した枢木スザクだが、俺の――昔からの、友達だ」

「へ?」

「そうなの?」

 生徒会メンバーが上げる声に、「ああ」とルルーシュは頷く。

「仲良くしてやってくれとは言わない。人それぞれに思想があるのは当然のことで、好き嫌いの感情も個人個人の自由のものだ。ただ、無用な先入観だけは、取っ払ってやってくれないか」

 ここまで来て、スザクはようやく事態を正しく認識できた。

「――クロヴィス殿下殺害の犯人は、こいつじゃないんだ。頼む」

 会釈程度とはいえ、頭を下げて見せるルルーシュ。

 胸からこみ上げてくるものがある。喉元を通り過ぎて瞳に溜まりそうになるそれを、スザクは唇を引き結んでこらえた。

 ルルーシュは、友達だ。

 クラリスという少女も、会ったばかりだというのに、あそこまでしてくれて。

(……ユフィ。僕は本当に、良い学校に入れてもらったみたいだ)

 静かになっていた観客の中からぽつぽつと声が上がり始める。自信家の副会長に似合わない殊勝な態度を揶揄する男子生徒の言葉がほとんどだったが、その響きには親しみの感情が滲んでいた。
 声は徐々に広がっていき、いつしか内容が判別不能になる。

 向けられる視線の数は変わらないままでも、スザクには居心地の悪さがいくらか減ったように感じられていた。

「はーい、ちゅうもーく、ちゅうもーく! さぁてー、前座も終わって場も暖まったところでっ! 本日のメインイベントッ!」

 ルルーシュからマイクをもぎ取ったミレイが観衆に告げる。

「キッスの時間です! というわけで、ルルーシュとクラリスは壇上に待機! 他の皆は降りる! あとは自分たちのタイミングで行きなさい。みんなで見ててやるから、安心してやっちゃいなー」

 スザクはミレイに袖を引かれて舞台から下がる。他の生徒会メンバーも階段を降りて、小さなステージの上には二人の少年少女だけが残された。

 やっぱりお似合いのカップルだと、スザクは先ほどよりもだいぶ温かな気持ちで、彼らを見上げていた。

 ややあって二人の距離は近づき。

 アッシュブロンドの少女は頬をわずかに赤らめながら、嬉しそうに。黒髪の少年は憮然とした表情で、しかしこちらも顔を染めて。

 無数の瞳が見つめるなか、二人はそっと、唇を重ねた。




 ◆◇◆◇◆




「やー、盛況盛況。大成功だったわねー。新しいメンバーも増えたし、万々歳」

 ミレイは生徒会室の椅子に腰を下ろし、テーブルに投げ出されていた何かの書類で顔をあおいだ。

 あの後、盛り上がった生徒たちを適当なところで解散させ、それからスザクを生徒会に誘った。
 アッシュフォード学園の生徒は、規則で必ず何らかの部活か委員会に所属しなければならないことになっている。どうせなら目の届く生徒会が一番だと判断したのだ。

 ミレイは特にイレブンに悪い感情を持っていない。かといって良い感情を持っているわけでもない。ブリタニア人と同じだと思っている。要は、大事なのはその人の人柄なのだ。
 生徒会のほかの面々も、ニーナを除けば概ね同じだろう。少なくとも、仲間のルルーシュとクラリスがあそこまでしたのだから、スザク個人に関してなら心配はいらないはず。

 結果、スザクは快く頷いてくれた。

 人員も増えたし、イベントも成功したしで、ミレイはご満悦であった。

 もっとも、キスの瞬間、「これはイベント、イベント。ルルは罰ゲーム、罰ゲーム。そう、罰ゲームなんだから」と念仏のように唱えていたシャーリーの姿は思い出さないようにしている。
 根がポジティブな子だから一晩寝て起きればすっきりしているだろう。実際、自主的なものではなく、イベントでの強制だったのだから。そんなものをネチネチといつまでも引き摺るようなタイプではない。

「それで、ルルーシュの恥ずかしい秘密って結局何だったんですか? クラリスの連れてきた猫が咥えてたあの封筒!」

 目を輝かせてリヴァルがミレイに訊いた。そこにルルーシュが割って入る。

「何の話です? 会長」

「まーたまた、とぼけちゃって。お前それで猫を追い掛けてたんだろ? もうブツはこっちにあるんだから、しらばっくれたって無駄だぜ」

「……あぁ、なるほど、そういうことですか」

 ルルーシュは口元に薄く笑みを刷き、得心が行ったという風に頷いた。

 落ち着いた仕草から危機感の薄さを見て取り、ミレイは内心でやはり、と息を吐く。一人で確認した便箋の内容を思い出すと、小さく苦笑が漏れた。

「なんていうか、あれは、公開できない代物だったわね。――ということで、封印! 皆には悪いけど教えられません。ルルーシュが再起不能になっちゃう」

「えー、会長ばっかりずるいですよ。私にもルルの秘密ー!」

「ダーメ。こればっかりはねー、さすがの私も公表するのは気が咎めるわ。見なかったことにするつもり。忘れて頂戴。私も忘れるから」

「ちぇ、つまんないの」

 リヴァルは口を尖らせ、シャーリーは不満顔になる。その程度で済んでしまうのが皆の良い所だ。

 そう、皆良い子達だから、スザクもすぐに馴染めるはず。

 クラリスとカレンと三人で何かを話している少年に視線を送り、ミレイは目を細めるのだった。




 ◆◇◆◇◆




 自室に帰り着くと、ミレイは鞄を開いて色気の無い真っ白な封筒を取り出した。クラリスが猫と一緒に提出した件の品である。

 そしてペンケースからハサミを取り出しつつ、思う。

 猫を捕まえて来たのは事実だから、ご褒美の口付けまでは許したけれど。
 でもやっぱり、公明正大なミレイ会長としては、そこまでの出来レースは認めるわけには行かないのだ。

「自分で捏造したラブレターで既成事実を作ろうだなんて。可愛い顔して黒すぎるでしょ、あの子。まぁ、皇族らしいっちゃらしいのかもしれないけどね」

 しょきしょきしょき、と紙を切り裂く音が鳴り。

 空のくずかごの中に、細切れになった紙片が散らばった。



[7688] STAGE6 人 たる すべ を
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2009/10/09 16:42
「――第七世代のナイトメアフレームでして、その能力は通常の……」

 特別派遣嚮導技術部――通称『特派』――の主任ロイド・アスプルンドは、試作中の新型ナイトメアフレームの有用性を総司令官――コーネリア総督に説いていた。
 今回の作戦行動への協力の申し出が却下されたためである。

 特派は第二皇子シュナイゼルの肝入りで創設された部署であり、彼の個人的な部隊と言ってもいい。対して、殺害されたクロヴィス皇子に代わって現在エリア11を統治しているのは第二皇女コーネリアである。
 そのため、特派とエリア11に置かれた軍では命令系統が異なる。作戦行動で協調体勢を取るには、軍から特派に協力を要請する、あるいは特派から軍に協力を申請する、そしてそれが了承される――そういった形式を成立させねばならなかった。
 研究開発以外に興味の無いロイドにとって、無用な戦闘に駆り出されないのは感謝すべきことではあったものの、反面、必要なときに十分な実戦データを採取できないという問題も存在していた。

 今はそのマイナス面が大きい。
 先ごろ、開発中の新型ナイトメアフレームランスロットが、実戦稼動に耐え得ると証明されたのだ。ゆえにロイドとしてはぜひとも作戦に参加してデータを収集したいところなのだが、その機会がなかなか与えられないのである。

「そのランスロット。パイロットはイレブンと聞いた」

「はい。枢木スザクと言いまして、たしかに名誉ブリタニア人です。しかしながら――」

 説得を続けようと試みるロイドの言葉を遮り、コーネリアは厳しく言う。

「一等兵から准尉に特進させた。それだけで満足せよ。ナンバーズなどに頼らずとも、私は勝ってみせる」

 強固な意思力を感じさせる切れ長の瞳が、刃物のような光を放つ。鋭い眼光に見据えられたロイドは、これ以上の行動の無意味さを悟らざるを得なかった。





「はーい! 解散解散! 今日は出番なし! おーめーでーとー! おしまい!」

 特派のヘッドトレーラーに帰るなり、ロイドは声を張り上げた。次いですぐに肩を落とす。

「やっぱり駄目でした?」

 案の定、といった風に訊く女性は、オペレーターのデスクにスザクと並んで座り、なにやら広げたノートの上におにぎりを並べていた。ランスロット開発メンバーの一人、セシル・クルーミーである。

「コーネリア皇女殿下はブリタニア人とナンバーズをきっちりとお分けになる方だからね、予想はできてたけど」

「まだ功績が足りないんでしょうか」

 シンジュク事変で敗色濃厚だったブリタニア軍が形勢を逆転できたのは、ランスロットの活躍あってのことである。そこまでの実績があっても認められないのかと、セシルは眉根を寄せた。

「そういう問題じゃないんだと思うよ。まぁ、人の主義思想にアレコレ言っても仕方がないから、ウチとしては殿下が盛大に負けてくれるのを祈るしかないね」

「ロイドさん! そういう発言は――」

「でもそれ以外に方法ってある?」

「……それは、そうですけど」

 ロイドの意見は過激すぎるものの、たしかに正論であった。

 自分たちは統治者であり、ナンバーズは守られるべき存在である――。
 コーネリアの持つ信念は、『ブリタニア人とナンバーズを厳格に区別する』というブリタニアの国是とも合致する。ブリタニア皇族が帝国の理念を体現するのは当然の振る舞いであり、非難されるべき点は微塵も存在しない。
 ゆえにこそ、特派の意向だけでは翻意を促すには絶対的に足りない。それはロイドが第二皇女の固い意思の在り様とともに最前確認したばかりである。

 前線に出るには状況の助け、つまり正規軍だけでは処理できないレベルの窮地が必要なのだ。

「とはいえ、相手はクロヴィス殿下とは違って武名の誉れも高いコーネリア殿下。ウチまで出番が回ってくることはそうそう無いだろうね。――ところで、なんだいそれ?」

「これですか? いいブルーベリーが入ったからジャムにしておにぎりに詰めてみたんです。ロイドさんもいかがです?」

「……いえ、遠慮しておきます」

 ロイドは眉間にしわを寄せ、目を逸らした。

 セシルには一流の研究者としての発想力を料理にまで活かそうとする困った悪癖がある。先ほどから神妙な顔で押し黙っているスザクは、今回の被害者であろう。

 哀れな少年の口内に存在していると予想される奇天烈な食べ物の味を想像しないようにしながら、ロイドは改めて尋ねた。

「そうじゃなくて、そっち。ノートのほう」

「ああ、これはスザク君の学校の宿題です。生徒会のお友達にも教えてもらってるらしいんですけど、それだけじゃ付いていけないからって」

「上手く溶け込めてるんだね。いいことだ」

「何でも偶然昔のお友達がいたんだとか。その子が仲良くなれるように取り成してくれたんだそうです。……って、なんで私が説明してるんでしょう? スザク君? どうかした?」

 セシルはようやく一言も発さない少年の異常に気づいたらしい。

「……世の中には知った方が良いことと知らない方が良いことというのがあるというけれど、これはどっちなんだろうね」

 ボクとしてはぜひ自覚して欲しいところだ、と心の中で続け、ロイドはスザクに声を掛けた。

「今日のお仕事はもう無いから、なんなら学校に行って勉強教えてもらって来たらどうだい?」

 逃げないとおにぎり全部食べさせられることになっちゃうよ、との本音は、これもまた口には出さなかった。

 基本的に研究第一で人を人とも見なさないきらいのあるロイドだが、セシルの手料理をリアルタイムで食べている人間にだけは、珍しく気遣いを見せることがある。
 つまりは、セシルの作る食べ物とは、そういうものなのだった。




 ◆◇◆◇◆




 アッシュフォード学園の生徒会室では、黒猫を抱いたカレンと白茶のぶち猫を指先であやすシャーリーがおしゃべりをしていた。
 カレンの胸で大人しく丸くなっている黒猫は、アーサーという。スザクがユーフェミアとデートらしきものをしていたときに、街で見つけて懐かれた――というにはやたらと彼に噛みつく――猫だ。もう一方は先日のキスイベントでクラリスが連れてきたマーリン。
 飼っているというほど面倒を見ているわけでもないのに、居心地がいいのか、二匹とも生徒会室に入り浸っている。学園の敷地内にうろついているのを見つけた生徒会メンバーが連れてくるというのもあるのだろうが。

「やっぱりルルってクラリスと付き合ってるのかなぁ……?」

「どうでしょうねー」

 いつから同じような会話をしているのか、シャーリーに答えるカレンの返事はかなり投げやりだった。アーサーに向かって話しかけているようですらある。
 しかし悩み事を抱えた様子のシャーリーは、視線をマーリンに落としているせいもあって、友人の誠意の無さに気づいていない。
 その場にはニーナもいるのだが、彼女に至っては完全に我関せずといった具合で、パソコンを弄りながら、片手間にテレビのディスプレイをちらちらと見ている有様である。

 軍務と謎の料理から開放されたスザクが生徒会室に入ってきたのは、そんなタイミングだった。

「あ、スザク君、おかえりなさい。今日は仕事なんじゃなかったの?」

「ただいま。そのはずだったんだけど、いろいろあって。僕のところは臨時休暇みたいな感じに」

 カレンの質問に、スザクは曖昧な言葉で返す。

 『いろいろ』の部分に反応してカレンは少々怪訝な顔になったが、口には出しては何も言わなかった。
 たとえ話したくても、軍内部の情報を漏らすのはご法度なのだろう。突っ込んで訊いてもスザクを困らせるだけだと、彼女のみならず、生徒会メンバー全員が既に知っていた。

「――あっ、そうだ! スザク君に聞いとかなきゃいけないことがあったの」

 だからというわけではないだろうが、突如顔を上げたシャーリーが別の話題を振った。

「何?」

「今度の連休って暇かな? 会長とニーナとクラリスと私、四人で河口湖に行こうって話になってて。よかったらスザク君もどう?」

 生徒会の面々に激しいイレブン嫌いとして知られるニーナも、スザクに対してはこのごろは拒絶反応を示さなくなっている。
 彼女の場合、思想的に排斥したがっているわけではなく、過去の経験から単純に恐怖心を持っているだけなのだ。仲間として過ごすうちに警戒する必要が無いと悟ったのだろう。
 今回の旅行にスザクを誘うのは、ニーナの了承もきちんと得られていた。

「へぇ、河口湖か。楽しそうだね。ちょっと待って、確認してみる」

 テーブルに置いた鞄をごそごそとやりながら、スザクは「そういえば」と黒猫と戯れている少女に顔を向けた。

「カレンは一緒に行かないの?」

「私は、旅先で体調を崩すと大変だから、遠出はあんまり」

「そっか。他のみんなは?」

「リヴァルはバイト。ルルもなんだかよくわかんないけど忙しいー、とかで、スザク君もダメだと男子は皆アウトになっちゃう」

 シャーリーは不満げに小さく唇を尖らせる。すると、探り当てた手帳を開いてスケジュールを調べたスザクが、申し訳なさげに言った。

「……あぁ、ごめん、僕も駄目みたいだ。その日は仕事が入ってる。せっかく誘ってもらったのに」

「あーー、いいのいいの。気にしないで。お仕事なら仕方ないし。ルルなんか理由も話さないんだから。きっとまたギャンブルとかそういうのよ」

「あれ? 前にそれはもうやめたって……」

 ニーナの言葉尻を奪うようにして、シャーリーはさらに続ける。

「『賭け事は』、でしょ。もっと手ごわいのが見つかったとか言ってたし、なんでルルはわざわざ危ないことに――」

「あ」

 不意に呆然とした声が上がった。なぜだか妙によく響いて、会話が一気に止まる。一同が声の主――カレンの方へと視線を向けると、彼女は目を見開いてテレビの画面に見入っていた。

『番組の途中ですが、総督府からの発表をお伝え致します。軍部は、テロリストの潜伏するサイタマゲットーに対して、包囲作戦を展開中です。コーネリア総督も現地入りしたため、立ち入り制限が発令されました』




 ◆◇◆◇◆




『二時間後に、総攻撃が開始される模様です。これにより、次の地域は――』

 豪華な調度品が並ぶ広い居間である。
 派手な柄のペルシャ絨毯。ごてごてとした装飾の施されたソファ。キュビズムというのか、難解な絵画作品が閉じ込められた金の額縁。

 正直なところ、バーンズの感覚では、それらの物品の中に、一品たりとも欲しいと感じられる品は無かった。
 高価なアクセサリを身に着ける者には、それなりの品と格というものが要求される。ぼろをまとった物乞いがダイヤの指輪をしていたら、高確率で盗品か何かと疑われるに違いない。
 それと同じことで、多くの財をつぎ込んで整えられた部屋に違和感無く居座るには、高貴なオーラとでもいうべきものが必要なのだ。

 早い話が、バーンズには似合わない。
 思うに、この部屋を作り上げた本人――アーベントロート子爵でも、場違いな印象は否めないのではなかろうか。

 しかしながら。

 ゆったりとソファの背もたれに身を預けている護衛対象の少女は、このきらびやかな空間にあっても存在感を損ねていないように思える。
 もっとも、一度だけ通されたことのある彼女の私室はもっと落ち着いた雰囲気をしており、そちらの方が似つかわしいのは間違いなかったが。

 バーンズは居間の入り口近くに控えて、臨時の報道番組を視聴する子爵令嬢を眺めていた。

 ハイスクールに通う年齢の少女だというのに、彼女は屈強な成人男性であるバーンズと密室で二人きりになるという状況を一度も恐れたことがない。
 常に使用人を家中に置く貴族の娘として育てられたがゆえの無用心なのか、それとも警護役への信頼の表れなのか。おそらくは後者だろうとバーンズは見当をつけている。

 いずれにせよ、バーンズにはクラリスと二人きりになる機会が多く与えられていた。
 両親を置いて単身エリア11に来ているせいもあるのだろう、特に屋敷の中まで張り付いていなければならない契約ではないのだが、「迷惑でなかったら」と、話し相手としてそばに居るよう要請されることがしばしばあるのだ。

 なぜそれに毎回従っているのかといえば、興味があるから、というのが一番だろう。クラリスの考え方に、人となりに、そして素性に、興味があるのだ。

 最近では、アーベントロートを立て直したのがこの少女であるとの疑惑は確信へと変わっていた。知性といい胆力といい、ただの十七の小娘ではあり得ない。もちろん世間知らずの深窓の令嬢に持ち得るものでもない。
 となれば、経歴そのものに、巧妙に隠された秘密があるのだ。それがクラリスを近くで見ながら過ごしてきたバーンズの結論であった。

 人を使ってまで明らかにしたいという欲求は薄かったが、何もせずとも得られる情報があるのなら得ておきたい。そういった好奇の意識が、二人きりの時間を作らせる一つの要因となっていた。

「――ねぇバーンズ、貴方は今回のこれをどう思う?」

 謎を孕んだ子爵令嬢は、テレビの画面を見たままバーンズに問う。

 物事について意見を求めるとき、クラリスがおのれの見解を先に述べることはまず無い。
 先入観のない回答を得て相手を読み解くための材料にしているのだろう。バーンズはそう捉えていたが、特に自分を偽ろうとはしていなかった。暴かれて危機に陥るような何かがあるわけでもないのだ。

「作戦の開始時間まで報道するということは、ゼロを挑発しているのでしょうね。出て来いと」

 市民に確実に浸透させねばならないのは避難誘導の類――立ち入り禁止区域だけであって、いつどこでどのように展開されるのか、などの細かい部分は、普通なら不利益にしかならない。
 ただし、罠に掛けたい相手がいるのだとしたら、意図的に情報を与えることで行動予測を絞り込むことができる。

「私もそう思うわ。それで、出て来るかしら」

「なんとも言えません。まだゼロは何の声明も出しておりませんから。目的が読めません。ただのテロリストと言うには進んで破壊工作をするわけでもなく、枢木スザクを奪取した理由もよくわからない。日本国最後の首相の息子というところに利用価値を見出したのかとも考えましたが、実際はすぐに解放されたようですし」

「そうね」

「あれだけ派手なパフォーマンスをしたのですから、劇場型の犯罪者であることは間違いなさそうですが、それゆえに、こういった突発的な誘いに乗るのは難しいのではないかと思われます。しかし、一方ではあのときの大胆不敵な作戦を考えると、相当自分に自信があるようにも見受けられます。そうなると――」

「来ないとも言いきれない」

「はい」

「完璧だわ。もちろん話し相手として、だけどね。私は専門家じゃないから。分析の方は――同意するとだけ言っておきましょう」

「光栄です」

 私見を述べ終えたバーンズに、クラリスは対面のソファに座るよう勧めた。促されるまま柔らかい座面に腰を下ろすと、向かいの少女は唐突に言った。

「本当、貴方は優秀ね。どうして軍を辞めたの?」

「それは……」

 不意の問いに返すには、わずかな時間を要した。単純に考えがまとまっていなかったためだ。簡単に説明できるものでもないし、話してしまっていいのかという懸念もある。

「――こういった作戦に、参加したくなかったからです」

 いつだったかシンジュクゲットーに視察に行った際のクラリスの様子を脳裏に浮かべながら、バーンズは答えた。
 破壊された町並みを見つめて、無力だと小さく呟いた少女。彼女はブリタニアの国是であるからというだけで、盲目的にブリタニア人とナンバーズを区別したりはしないのだろう。

 ならば、と口を開く。

「ご存じかと思いますが、わたくしは第二次太平洋戦争の際、グラスゴー乗りとしてエリア11侵攻に参加致しました」

 バーンズは七年前を思い返し、遠くに視線を投げた。

「ナイトメアフレームというのは、恐ろしい兵器です。鉄の塊が思い通りに動くんです。熟練すれば、本当に手足の延長のように操縦できる。搭乗者は戦場の高揚も相まって、奇妙な全能感を覚えます。少なくとも自分はそうでした」

 初期型グラスゴーのコクピットは死ぬほど暑いですからそこまで没入はできませんでしたが、と笑って見せたが、クラリスは特に反応しなかった。

「まぁ、それでですね、今でこそ対ナイトメア戦を想定したナイトメアなども出てきておりますが、当時はナイトメアの敵といったら、機動力で圧倒的に劣る戦闘用の車両と――それと、歩兵です。滅多なことでもなければ負けません。ですから……大勢殺しました。安全なコクピットの中で、神にでもなったかのような気分で、虐殺を繰り返しました」

 言葉を切る。
 黙って先を促すクラリスの顔には、肯定も否定も浮かんではいなかった。ただ事実を事実として受け止めようとする真摯な瞳がある。

「そして、終戦です。そのときになって――当面ナイトメアに乗って作戦行動に参加する必要が無いという段になって、ようやく、人間らしい心が戻ってくるんです。少しずつですが。荒廃した大地に目を向ける余裕ができてきます。……ショックでした。自分はナイトメアが実戦配備される前から戦場に行っておりましたから、いくらかタガが外れている自覚はあったんですが、それでもショックを受けました」

 無言のクラリスの目は、バーンズを捉えながら、バーンズを見ていない。沈思するかのように、真剣な眼差しはどこか別の場所で焦点を結んでいた。

「ナイトメアでの戦闘は全能感をもたらします。逆に言えば、降りたときには、自分がどうしようもなく『人』であると実感させられます。その巨大すぎる差の前では、ブリタニア人とイレブンの違いなど、大した問題にはなりません」

 話が終わったことを伝えるために「そういうことです」と付け加えると、ややあって少女の口元がふっと綻んだ。
 深く考え込んだ様子からの変化だったせいもあってか、その表情はこの上なく自然に見えた。 

 バーンズがこれまで観察してきたクラリスとは、常に冷静におのれを律しようと努める、およそ無防備な感情など表に出しそうにない少女である。

 それは間違いなく、彼が初めて目にする、クラリス・アーベントロートの飾り気のない微笑だった。

「バーンズ、貴方を選んで正解だったわ。そう、人は人よね。そういう考え方、好きよ。これからもそのままの貴方でいて頂戴。頼りにしているわ」

 何から護ったわけでもないのに、護衛対象から信頼を向けられる――そんな経験は過去にない。加えて、ブリタニアでは異端とされるであろうこんな価値観を、他人に真っ正直に語ったこともなかった。普段のバーンズは、面倒に巻き込まれないよう模範的なブリタニア人の仮面を被って人と接している。

 だからだったのかもしれない。正確なところはバーンズ自身にもわからない。

 ただ、柔らかなクラリスの笑顔を見つめる彼の胸には、曰く言いがたい、穏やかな温かさとでも呼ぶべき感覚が、しっとりと広がっていた。




 ◆◇◆◇◆




 サイタマゲットーの地下に張り巡らされた下水道。少数の電灯がほの明るく照らすトンネル内を駆ける、一つの影があった。
 黒をベースにしたスタイリッシュなスーツに、同色のマント。頭部にはフルフェイスの黒いマスク。

 ゼロである。

 ただし、外光を完全に遮断する黒ガラスの中にある顔は、ルルーシュのものではない。
 C.C.であった。

 地響きを伴う地上からの轟音は時を追うごとに発生の間隔を長くしていっている。今や完全に収まるのも時間の問題といえた。戦闘が収束しつつある証左である。

(やはり、負けるか……)

 C.C.が思うのは一人の少年のこと。
 サイタマゲットー壊滅作戦をコーネリアの誘いだと理解したうえで、敢えてその罠を中から食い破ろうと飛び込んで行ったルルーシュ。

 クロヴィスからギアスで聞き出したという、マリアンヌ殺害の犯人を第二皇子と第二皇女が知っているとの情報が、彼らしからぬ今回の軽挙を後押ししたのだろう。シンジュク事変の折にブリタニア軍を圧倒できた経験も、判断を狂わせる因子の一つになったのかもしれない。

 なんにせよ、C.C.からしてみれば無謀としか言いようが無い。

 にもかかわらず。

 ほんの数時間前、ルルーシュを止めようとして彼と対峙したC.C.は、結局その背を見送る行動を選んでしまった。

 ルルーシュの繰り出した、彼自身の命を使った脅迫に屈してしまったのだ。

 ……ただし、それは表面的な理由だ。

 根本的なところでは、説得を続けるうちに、制止したいという意思そのものが萎えてしまっていた。持論を述べるルルーシュの発言の中に、一つのフレーズを見つけてしまったがゆえに。

 『何もしない人生なんて――ただ生きているだけの命なんて、緩やかな死と同じだ』

 C.C.はその言葉が真理を言い当てたものであると、誰よりも深く知っている。何百年前からなのかも今となっては定かではないが、まさにその状態のまま、気が遠くなるほどの時を過ごしてきたのだから。

 もっとも、C.C.の場合は緩やかに死に向かったりはしない。ただ永久に、経験の積み重ねという無為の生を続けるだけだ。
 自らを限りなく死と近しい位置にあると認識しながら、肉体的には滅びることの叶わない存在。それが魔女C.C.である。

 だからこそ、止めることができなかったのだ。自分にはもはや届かない、まばゆい生の輝きを放とうする少年を。

 ゆえに、C.C.は一度見送った彼の後を追い掛けて戦場に赴こうとしている。

(もともと、こういう状況に備えてあいつのそばにいるんだしな)

 ルルーシュはシンジュクテロの際と同じ作戦で戦ったのだろう。そうならざるを得ないようにコーネリアが状況を整えたのだから、おそらく間違いない。

 サイタマゲットーを拠点とするテロリストに無線で指示を出し、ブリタニア軍からギアスで奪い取ったナイトメアを主力として、コーネリアを迎え撃つ。

 だが、それでは勝てない。C.C.の見立てではそうだった。

 その作戦で優位に戦闘を進めるには、大前提として、鹵獲した機体を操っているのがブリタニア兵であると敵に誤認させる必要がある。たとえ緒戦は不意を突けたとしても、物量が圧倒的に違うのだから、最終的には心理的な隙を作り出してそこを狙うしかなくなるのだ。

 しかし、相手は他国から畏怖をこめて『ブリタニアの魔女』と称される武人、コーネリアである。軍の錬度が違う。不審な動きをする機体があればすぐに見破られてしまうだろう。

 そうなってしまえばもうお終いだ。
 絶望的な戦力差の戦いにもかかわらずテロリストがルルーシュの指揮に従うのは、そこにわずかながらでも勝利の目を見出しているからに他ならない。劣勢に陥れば一気に瓦解するのは道理。

 そう、ルルーシュは勝てない。
 静まっていく爆音もそれを示している。寡兵が大軍を破るには戦闘時間が短すぎていた。

 ただ、C.C.の勝機ならばある。
 勝利条件は、敗北したルルーシュを逃がすこと。

 コーネリアが追い求めているのはクロヴィスの仇のゼロであって、ブリタニアの棄てられた皇子ルルーシュではない。
 ならば別の人間がゼロを名乗って囮になればいいのだ。それだけで脱出の隙は作り出せる。

(……クラリス、お前の予見はやはり間違っていないな)

 機を待ちながら、C.C.はこの先の展開を冷静に予測する。膨大な過去の経験という知識を材料に。

 この場を逃げ延びたルルーシュは、独力の危うさを知り、手足となる人間を集めようとするだろう。基盤となる組織を持とうとするだろう。そしていずれは、ブリタニアに真正面から対抗できる国を作り上げるのかもしれない。

 だとしたら、その過程で彼は否応無く、人を敵と味方に分け、それらを盤上の駒のごとく扱う冷徹さを身に着けさせられる。

 それはまさしく戦乱への道であり、王への道であり、同時に彼を孤独の闇へと誘う破滅の道でもある。

(いいさルルーシュ。誰が見捨てようと、私が最期までそばに居てやる。私とお前は――契約者なのだから)

 そうと知りつつも、それを止めようとする意思は、魔女たるC.C.には、無かった。




 ◆◇◆◇◆




 バーンズは居心地の悪い居間でクラリスとティーカップを傾けながら、テレビのスピーカーから流れるアナウンスを聞いていた。

『作戦は無事に終了した模様です。コーネリア総督も、先ほど政庁に戻られました。これにより、次の地域の立ち入り制限が解除されます――』

「ゼロの報道はありませんね」

 サイタマゲットーへの包囲作戦関連のニュースでは、ゼロについてはまったく言及されなかった。

 ということは、捕えられなかったのだろう。狙い通りにおびき出せたのかどうかは置くとして、結果はそうだ。
 これだけあからさまな誘いをしたのだから、作戦の真の目的がゼロ捕獲にあったと、少なくない人間が想像したはずだ。捕縛できたのならすぐに発表せねば不信感が生まれてしまう。よほどの事情でも無い限り、伏せておくメリットより公表しないデメリットの方が大きい。

「……逃げ切ったわね」

 クラリスの呟きが耳に入り、バーンズは訝しげに聞き返す。

「なぜ、逃げたと? 現れなかったという線は――」

「あぁ、勘よ。ただの勘。気にしないで」

 クラリスの『勘』はよく当たる。もしかするとどこかにソースがあるのでは、と疑ってみたこともあるが、見つけられたためしは無い。
 ただ、今回に限っては真実単なる勘なのだろう。怪しむべき点はどこにも存在しなかった。作戦行動の報道が始まる前から終わった後まで、同じ部屋で過ごしていたのだから。

「それより、さっきの話。河口湖の護衛の件、頼んだわ」

「はい。お任せ下さい、お嬢様」

 力強く頷いたバーンズの思考は、既に護衛隊の人員選出へと動いていた。



[7688] STAGE7 打倒すべき もの
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2009/10/09 16:42
 河口湖コンベンションセンターホテルの駐車場。オレンジ色の長髪をした少女が、目の前にそびえる高層建造物を、いささか気圧された風に見上げていた。

「私たちが泊まるのって、こんなに立派なトコだったんですか……?」

 眼鏡を掛けた緑髪の少女も、首を傾けて最上階の方向に視線を投げている。こちらは声も出ない様子。

 後輩たちの呆けたような反応を確認したミレイは、してやったりという顔でクラリスと微笑み合った。

 今回の旅行を計画するにあたって、シャーリーとニーナには、宿泊先についての相談にほとんど参加させなかった。というよりも、はじめはきちんと四人で話し合っていたのだが、どうせなら派手な思い出になるように、とミレイが高ランクのホテルを探し出したあたりで、庶民の二人はパンフレットを見るのを恐れ始め、どんどんと釣り上がっていく宿泊料金に「そんなところムリです、行けません!」とキレ気味にシャーリーが言い放ったところで、相談が打ち切られた。「じゃあ私とクラリスで決めとくわね。お金は責任持って私たちで用意するから任せて」とミレイが強引に押し切って、そのまま現在に至る。

 そして到着してみればこの光景である。驚くのも無理はない。

 周囲のほとんど三百六十度がキラキラと太陽光を反射する湖面。吹きぬける風が租界とは違うさわやかな自然の香りを運んでくる。

 このホテルは湖の中に建っているのであった。埋め立てによって作られた小さな島の上に建設されているのだ。周りに何の建造物も無いため、余計に高さが際立って見える。

「喜んでもらえて嬉しいわー。頑張って選んだ甲斐があったわね」

「っていうか会長……」

 おそるおそるといった具合に口に出されたシャーリーのセリフを、ニーナが引き取った。

「……ここって、今ちょうどサクラダイト生産国会議が開かれている所じゃ?」

「そのとおり。皆勉強してるのね、エライエライ」

「いや、わかりますってそれくらい」

 サクラダイトとは、主に高温超電導体の製造に使用される地下資源である。軽量高出力のモーターや発電機を生産する際に、高温超電導体が部品として欠かせないのは言うまでもなく、ナイトメアフレームの動力機構すらこれを抜きには成立しない。戦略物資としても最も重要な位置にあるとされている鉱物だ。
 エリア11におけるサクラダイトの採掘量は世界最大であり、市場への供給量は全体の約七割を占める。そのため、毎年このエリア11の河口湖コンベンションセンターホテルで、国際分配レートを決定する会議が開催されるのだ。

 つまりは、世界のVIPが滞在するほどの格を持ったホテル。それが、アッシュフォード学園生徒会の面々が宿泊しようとしている場所なのであった。





「うっわぁー、すっごいですよ会長! ほら、ニーナとクラリスも!」

 窓――というより全面ガラス張りの壁――に貼り付いて、シャーリーが歓声を上げた。

 時刻は夕方。山の端に隠れつつある太陽が黄金の光を放ち、周囲を橙に染めている。既に夜の帳も下りはじめ、空は紫から赤を経て黄色へと至る、鮮やかなグラデーションに彩られていた。湖に映りこんだそれらの色彩が、美しい眺めをさらに一段幻想的なものに押し上げている。

 ホテル内を数時間かけて見てまわった後、部屋に戻ってみれば、すっかり夕暮れ時になっていた。
 せっかく超高級な宿泊施設に泊まるのだから、今日はホテルを堪能する日。本格的な観光は明日から。ということで、四人でわいわいと遊んできたのだ。

 一行には一応、クラリスから「メンバー全員護るように」との指令を受けた護衛が何人か同行している。しかし、そこまでの危険は無いだろうとの彼女自身の判断から、四六時中そばに付いて回るような警護のされ方はしていなかった。世界各国の要人が会議に参加している今、ホテル内には何もせずとも厳重な警備体制がしかれているのだ。
 その分不自由な思いをさせられた部分はあったものの、租界の外への恐怖心をぬぐいきれずにいたニーナの気がそれでだいぶ楽になったようで、慣れた後は心の底から楽しく見物することができた。トータルではプラスとしていいだろう。

「ふふー、ホテル選び私たちに任せて良かったでしょ」

「ほんとに。なんていうか……ご馳走様です」

 シャーリーがぺこりとお辞儀をすると、クラリスがくすりと笑む。

「いいのよ気にしなくて。好きで勝手にやったことなんだし。それにほら、お金で買えない価値があるって言うじゃない」

「言うっけ? っていうかその前にこれってお金で買ってない?」

「違うわ。そこじゃなくて。みんなで楽しく過ごす時間。それはお金には換えられないでしょう? お金なんてのはただのトッピングよ。一番価値のあるものに珍しい味付けをするだけなの。きらきらきらーってね」

 ……さすがはお金持ち。なんてぶっ飛んだ考え方なのかしら。
 顔を逸らして小声で言うシャーリーに、ミレイが苦笑した。

「わかってあげなよシャーリー。クラリスって学校通うのウチが初めてなんだから。ここは大富豪のご令嬢にお金では買えないって認定されたのを素直に喜んどくのが正解」

「あぁ、そっか。ごめんね。ありがと、クラリス」

「私も……えっと、ありがとう」

「なんだかそうやって面と向かって感謝されるのも変な気持ちね。別に大したことをしたわけでもないのに」

「まぁまぁいいじゃない。ところで、ディナータイムにはまだ早いけど、みんなどうする?」

 お風呂だの、外の風が浴びたいだの、枕投げ大会だのの意見が飛び交う中で、クラリスが申し訳なさそうに言った。

「私は少し、会議のほうを見て来たいんだけれど、他に行きたい人なんていないわよね?」

 会議とは無論、サクラダイト生産国会議であろう。会議場に入るのは当然無理だが、ホテルには内部の模様を映し出すモニターがいくつか設置されていた。夢中でホテル見学をしていた際には誰も目を向けなかったものだ。

「あ、クラリスってやっぱりそういうの興味あるんだ?」

「一応ね。これでも投資家の娘だから」

 問われたクラリスが頷くと、友人たちは口々に言う。

「行きたいなら行ってきたら? 直接見る機会なんてなかなか無いだろうし」

「うん。私はちょっと、難しいのはアレだから遠慮しとくけど」

「私も経済系は……」

 三人ともあまり乗り気でないらしい。

「じゃあ私だけで行ってくるわ。夕食までには終わると思いますが、もし戻らなかったら連絡を入れてください」

 ミレイに軽く会釈をして、クラリスは生徒会メンバーの前を後にした。
 カードキーを持って扉を開ける。部屋を出て完全に一人になると、すぐに表情から柔らかさが消えた。

「……この機会に何としてでも会っておかないと。偶然のニアミスなんてもうやりたくないもの。寿命が縮むわ」

 腰近くまで伸ばされた長い髪をなびかせ、早足で歩く。向かう先は中継モニターの置かれたロビーではない。現場――会議場である。

 目的地に着くと、ちょうど審議がひと段落付いた頃らしく、扉の中からぞろぞろと参加者たちが出て来ているところだった。

 素早く走らされたアメジストの視線が、一人の人物の上で止まる。
 桃色の髪をキャリアウーマン風にきちっと編みこんだ、眼鏡の女性である。いや、よく観察すれば、その顔立ちが女性と言うよりも、少女と呼ぶべきあどけなさを強く残していることに気づけたかもしれない。

 クラリスは静かに息を吸い込むと、しっかりと顔を上げ、喉を振るわせた。

「――ユフィ!」

 呼びかけられた女性が振り返る。唇に指を当てたクラリスの姿がその目に映った一拍の後、女性の眉が驚いたように跳ね上がった。

 腹違いの姉妹が、八年ぶりの再会を果たした瞬間であった。




 ◆◇◆◇◆




 ブリタニア人の父が保有する無駄に広い邸宅を出るなり、カレンはシンジュクゲットーへと足を運んだ。
 租界を抜ければ、すぐに荒涼とした風景が目に飛び込んでくる。
 荒れ果てた日本人の街。破壊し尽くされたかつての繁華街。

 廃墟と化した町並みに立つと、カレンの胸には苛立ちにも似た焦燥が湧いてくる。
 ただし、その対象はブリタニアだけではなかった。

 おのれの暮らす租界の豪邸と、扇たちレジスタンスのメンバーが潜伏するゲットーの廃屋。
 ブリタニアの学生としてのカレン・シュタットフェルトと、日本人の抵抗活動家としての紅月カレン。
 さらに連鎖的に思い浮かぶのは、サイタマゲットー壊滅作戦の報道を生徒会室で視聴していた、自分の姿。

 カレンが学校へきちんと登校するようになったのは、シンジュク事変以降のことである。今年度の出席日数は編入生であるクラリスとほとんど変わらない。
 ほとぼりが冷めるまで大人しくしていた方が良いとの扇の判断を受け、ブリタニア人の生の反応を見る目的もあって、学校に行くことにしたのだ。ゼロとの邂逅の後は、追っての指示があるまでは、という彼自身からの命に従い、そのままの生活を続けてきた。

 楽しくなかったと言えば嘘になる。生徒会の面々は皆個性的で、日本人のスザクにも気取ったところなく接してくれている。不快なところなど欠片もない。
 それがあってこそ、敵であるブリタニア人の真っ只中に通いながらも、平静を保ち続けていられたのだろう。それはおそらく間違いない。

 しかしその反面、初めて体験する安穏とした学生の時間は、想像以上に、カレンに大きな影響を与えていた。

 先日、生徒会室でサイタマゲットー壊滅作戦のニュースを目にしたとき、カレンは愕然とした。

 ――自分はいったい、何をしているのだろう。

 日本人の血が薄まっているような錯覚に襲われた。紅月カレンとは、こんなにも簡単に、ブリタニア人に傾いてしまうのか、と。

 同時に、ゼロを待っているだけの現状に疑問を抱いた。

 ただ、それが惰弱な精神力から目を背けるための逃げ道であるとも自覚していた。
 枢木スザク救出の奇跡を目撃したあの日、彼を信じて従うとたしかに決めた。ならば与えられた役目を果たしていればそれでいいはずなのだ。ゼロに対する信頼と期待は未だに薄れていないのだから。
 にもかかわらず現在の状況に焦りを覚えてしまうのは、弱さの表れに他ならない。

 そうと知りつつも、カレンは今日行動することを選んだ。ゼロに今後の計画を問おうというのである。
 潜在的には、彼の自信に満ちた声で何か命令を下して欲しい――活動家としての紅月カレンを強く規定してくれる言葉を与えて欲しい、そう願っていたのかもしれない。

 ともあれ、カレンはレジスタンスの隠れ家へと赴いた。ゼロへの通信を許可されているのが扇だけだったためだ。

「扇さん――」

「あぁ、カレン。いいところに来た」

 用件を話す前に、扇のほうから告げられる。

「さっきゼロから連絡があった。何でも、プレゼントをくれるんだとか」

「プレゼント、ですか?」

「新しいアジトだそうだ。ゼロもそこにいるらしい。これから移動する」

 直接ゼロに会えるのなら、願ってもない。

 カレンは胸に広がる安堵のようなものを努めて意識しないようにしながら、扇に頷いた。

「わかりました。私も行かせてください」




 ◆◇◆◇◆




 高級ホテルの、しかし特上ではない等級。エリア11の副総督に就任する以前、ユーフェミアが外で泊まるのは、大体がこのランクの客室だった。無名の学生として過剰に目立つことのないよう心がけていたためである。

 今回宿泊するのもそのような部屋だ。

 ユーフェミアはサクラダイト生産国会議に参加しているものの、エリア11副総督として審議に加わっているわけではない。隅に控えて立ち会っているだけである。どちらかというと、勉強の意味合いが強いのかもしれない。地味に見えるように変装もしているし、出席者リストに名前も載せていないから、参加者たちからすれば、何をしに来たのかよくわからないどこかの小娘だろう。

 身分を隠しているからにはロイヤルスイートに宿泊するのも妙な話で、予約させたのは慣れ親しんだ半端に高級な普通のシングルルームである。
 学生時代の名残か、ユーフェミアはこの程度の部屋の方が落ち着けて好きだった。

 けれど、今は落ち着けない要因が目の前にある。

「――まさかクラリスがエリア11にいたなんて。どうしてもっと早くに知らせてくれなかったんですか?」

「無茶言わないでよ。今の私はただの子爵家の娘。ユフィは第四皇女殿下にして副総督閣下。アーベントロート子爵本人ならまだしも、私なんかじゃどうやったって取り次いでもらえないわ」

 二人きりの室内。ベッドに腰を下ろしたユーフェミアの正面には、椅子に座った八年ぶりの姉の姿があった。
 顔を見ているだけで心が踊る。

 母親こそ違うものの、故マリアンヌ皇妃たちヴィ家の住まうアリエスの離宮には、実姉コーネリアとともにしばしば遊びに行かせてもらったものだ。歳が近いおかげもあって、双子の兄妹とは他の兄弟姉妹と比べて格段に仲が良かった。
 本当のことを言えば、あの頃にはたしかにあったルルーシュとナナリーの姿が無いのが、寂しく、悲しい――そういった気持ちは深いところに存在している。しかし、もっとつらく感じているであろうクラリスが何も言わないのならその話題には触れまいと、ユーフェミアは上手く感情をコントロールしていた。

 そう、せっかく会えたのだから、今はこの幸運をただ喜べばいいのだ。

「お姉様もご一緒できたらよかったのに」

「コーネリア姉様? 居たら怒られるんじゃない? 『会議そっちのけで何を遊んでいる』って」

 クラリスが悪戯っぽく目を細める。

 サクラダイト生産国会議は、実は現在も続けられている。
 ユーフェミアは小休憩で会議場を出た際にクラリスを発見すると、すぐに自室に連れ込み、以来会議には戻っていない。付け人にはいろいろ言われたが、現場にいたところで何をするわけでもないし、あまり問題にはならないだろうと無理やり押し通した。

「大丈夫です。もし怒られても、そのときはクラリスに誑かされたって言いますから。きっと私のことは許してくださいます」

「それでまた私だけが罰を受けるの? ひどいわね、久しぶりに会った姉に全部なすりつけようだなんて」

「違いますよ。クラリスなら何とか言い逃れができると思って。信頼の証です」

 幼い日を思い返しながら、顔を見合わせてくすくすと笑う。

 今でこそ皇女らしい分別を身に着けた二人も、小さい頃はよくやんちゃをして叱られたものだ。そんなとき、クラリスは何度もユーフェミアを庇ってくれた。
 本当は二人で計画した悪戯でも、クラリスが自分から誘ったと言えば、コーネリアは決してユーフェミアをきつく咎めはしなかった。幼稚な嘘など容易く見抜かれていたはずなのに。
 今にして思えば、たぶんあれはユーフェミアに対する偏愛だけがそうさせたのではなかったのだろう。一つしか歳の違わない異母妹を守ろうとする、幼いクラリスの健気な矜持を立ててやっていたのだ。

「やっぱり変わっていないの? 姉様は。今でもあんな感じ?」

「ええ、あんな感じです。周りに厳しくて、自分にはもっと厳しくて、でも私には優しくて。ちょっと過保護かなって思うところもありますけど」

「そう、懐かしいわね」

「政庁に戻ったら、面会できるように私が話を通しておきます。お姉様も会いたいでしょうから、きっとすぐに会えますよ。今度一緒に食事でも取りましょう」

 弾んだ声を出すユーフェミアとは対照的に、クラリスは落ち着いた調子で返した。

「それは楽しそうね。でも、実際に会うのは控えたほうがいいわ」

「どうして、ですか?」

「さっきも言ったでしょう。ユフィは副総督閣下で、私はただのクラリス・アーベントロート。姉様についても同じこと。皇女殿下が成金みたいな子爵家の娘と仲良くしていたら、いい顔をしない人がたくさんいるんじゃない?」

「何とかします!」

「何とかって、だいたいまだ皇帝陛下のお赦しが出たわけでもないのよ? きっと姉様も反対されるわ」

 クラリスがブリタニア皇宮から追放されたのは、皇帝に面と向かって簒奪をほのめかすような発言をしたことへの責を問われての沙汰――皇位継承権が剥奪されていないことを考えれば、謹慎処分のようなものだ。絶大な権力でブリタニアを統べるシャルルはわざわざ本心を他人に語ったりはしないが、事実から判断してほとんどの人間がそう理解している。穿った見方をする者は、利用価値が見つかるまで何処かの檻で飼い殺しにするつもりなのだ、と言う。
 いずれにせよ、皇帝に黙って表に顔を出していい身分ではない。

「でも……せっかく近くにいるのに」

 目を伏せるユーフェミアに、クラリスは続けて言った。

「それに――ゼロという男もいる。彼はクロヴィス兄様を殺したと宣言した以外には、何の声明も出していない。もしかしたら、枢木スザク強奪というのは、大々的に犯行宣言をするのに都合の良い舞台だった、というだけなのかもしれない」

「それが、どういう?」

 クラリスはルルーシュともども昔から頭が良かった。ゲームでも勉強でも、ユーフェミアは勝てたためしがない。
 それはいいとしても、たまにこう意図のわからないセリフが出てくるのは勘弁して欲しかった。双子の間では通じていたようだから、ちょっとだけ除け者になったような気がして悲しかったのを覚えている。

「結論を言ってしまうと、ゼロはブリタニア皇族に恨みを抱いている人物の可能性がある。根拠なんてすごく薄いんだけどね。一応可能性としてはあり得る」

 ここまで説明されれば、ユーフェミアにも姉が何を言わんとしているのか察しがついた。

「――だから、あまり目立つことはしないほうがいい、と?」

「ええ。総督だったクロヴィス兄様を暗殺できるような人が相手になるんだとしたら、ウチの護衛では少々荷が重いでしょうね。目を付けられないのが一番安全よ。貴女たちの影に隠れるみたいで、少し申し訳なくはあるけれど」

「いえ、そんなことは」

 ユーフェミアはとんでもないと首を振る。

 相手がゼロであろうが、他のテロリストであろうが、あるいは政敵の兄弟姉妹であろうが、無防備な皇族など格好の的でしかない。隠れようとするのは当然であり、また匿うのも当然だ。

 そう。
 今のクラリスには、クラリス・ヴィ・ブリタニアであればすべからく達成されているべき水準の、そのはるか下の警護しか望めないのだ。
 それで今まで無事に生活して来られたのは、彼女がクラリス・アーベントロートたろうと細心の注意を払っていたからなのだろう。狙われる理由の無い、一子爵令嬢であろうと。

 ――籠の鳥。

 ふとそんな言葉が思い浮かんだ。

 不自由と引き換えに手に入れた身の安全。
 自分などよりもずっと聡明なクラリスがそんな窮屈な立場に甘んじているという現状に、ユーフェミアは言いようのないもどかしさを覚えた。

「何とか、できたらいいんですけど。申し訳ありません」

「何でユフィが謝るのよ。私のは自業自得だし、むしろこっちが皇女殿下にお礼を申し上げたいくらいだわ。囮になってくれてありがとうございますって」

 クラリスは笑みを孕んだ口調でからかう様に言う。

「もう、クラリスったら」

 つられてユーフェミアの頬も緩んだ。

 そのときだった。

 窓の外から響いてくる突然の轟音。
 同時に大きな振動が高層階にあるユーフェミアの部屋を襲った。

「何!? 地震でしょうか!?」

「いえ、なにか爆発音が聞こえたわ。確認した方が良さそう」

 既に揺れは収まっていた。
 クラリスに手を取られ、ユーフェミアはよろけながら室外へと出る。廊下では皇女の護衛と子爵令嬢の護衛が、各々の無線で同僚と連絡を取り合っていた。

「バーンズ、状況は?」

「先ほどの爆破で橋が落とされたようです。おそらくはテロかと。グラスゴーに似た機体を押し立てたイレブンどもが、地階から強襲してきたとのこと」

「ナイトメアが……!?」

 一瞬にして重苦しい沈黙が一同を包む。

 警備用のナイトメアが配置されているのは湖の外周だ。万一事が起こった際、建造物および内部の人間に被害を与えないためである。
 その態勢が仇となった。橋が落とされたとなれば、満足な応戦は不可能と見て間違いないだろう。

 だが、短絡的に警備責任者を責めることはできない。機体数に限りのあるナイトメアを運用するにあたって、こんな事態は想定しないのが当たり前なのだ。

 なぜなら、テロリストの取ったこの行動には、先がないからだ。

 おそらく敵はサクラダイト生産国会議の参加者たちを人質に、何らかの交渉を行うつもりなのだろう。
 しかし、どこの国の要人を盾に取る計画であったとしても、エリア11を統べるのは苛烈さで鳴らす武断の皇女コーネリアである。テロリストの要求など呑むわけがない。
 それは誰の目から見ても明らかだ。無論各地に潜伏する反ブリタニア勢力も承知しているはず。

 そして立てこもった場所は逃げ場の無い小島である。いわば、物資補給も援軍も望めない篭城戦。ナイトメアのエナジーが続くうちは地形の恩恵で優位に戦えるだろうが、そんなものは長くは続かない。となれば、包囲殲滅の未来は必定。

 普通の人間ならそんな破滅的な作戦を選んだりはしない。

 そう、普通の人間ならば。

『地上十五階まで制圧されました! 物量差から見て、抵抗はいたずらに被害を増やすのみと考えます! 敵があれでは戦術も意味を成しません!』

 無線機のスピーカーが上擦った男の声を垂れ流す。

『奴らは――狂人です! まったく死を恐れていません!』

 わずかに流れる無言の時。

「……投降させなさい」

 血を吐くようなクラリスの声音が、居合わせた面々の心情を代弁していた。





 数十分後、ホテルの宿泊客たちは薄暗い食糧貯蔵庫に押し込められた。

 沈鬱な面持ちをした人質たちを取り囲むように、短機関銃を構えた軍服姿の東洋人が十数人で見張りに立っている。監視こそしているものの拘束を施していないのは、抵抗するすべが無いと高をくくっているためだろう。
 すべての人間が厳重に武装解除されたのだから、きっとその認識は正しい。小声でなら多少の会話すら許されるという好待遇も、同じ理由によるものに違いあるまい。

 監視者のうちの一人が引き金を引くだけで、ここに居る全員が命を絶たれてしまうのだ。

 震える吐息を漏らし続けるニーナの肩を抱きながら、ミレイは自分の意外なほどの冷静さに少々の驚きを覚えていた。
 だからといって事態が好転するわけでもないのだが、年下の友人を元気付けることと、状況を確認することくらいならできる。

 テロリストは同じ客室にいた者たちをわざわざ引き離したりはせず、特に座る場所を指定することもなく、このだだ広い部屋にまとめて放り込んだ。
 だから、ミレイの横にはニーナのほかに俯いたシャーリーがおり、クラリスはいない。彼女は少し離れた位置で、桃色の髪をした眼鏡の女性と隣り合って腰を下ろしていた。
 さすがはブリタニアの皇女と言うべきか、この状況にあってなお瞳は輝きを失わず、むしろいつもより鋭利に光っているようですらある。
 その脇には護衛隊長だと紹介された壮年男性の姿があった。

 そこまで確かめて、ミレイは自分のそばに居る三十前くらいの男に顔を向けた。
 護衛隊の一人だと、こちらもまたクラリスに紹介された人物だ。少し話したくらいでしかないが、割と気の利く人間という印象を受けていた。

「……これって、何とかならないんでしょうか?」

 男はミレイからの不意の問いかけに少し眉を上げてから、しっかりとした口調で答えた。

「たとえここを逃げられたとしても、退路が確保できていなければ意味がありません。ですが、どうにもならないということは無いはずです。彼らも自殺志願者ではないでしょうから、何らかの脱出手段を用意しているに違いありません。そこを見極められれば、道は開けます」

 返ってきたのはミレイの望む回答だった。

 気休めでも何でもいいのだ。明るい情報で少しでもニーナとシャーリーに希望を見せてあげられれば、それで。

 ミレイの意図はきっちりと伝わっていたのだろう。感謝の意を込めて微笑んでみせると、男は力強く頷き返してくれた。

 その顔の向こうに、ふと開く扉が見えた。左胸に派手な階級章を付けた恰幅の良い男が、堂々とした足取りで倉庫に入ってくる。
 男は鞘に入った日本刀で軽く床を叩き、人質たちに注意を促した。

「自分は、日本解放戦線の草壁である。我々は日本の独立解放のために立ち上がった。諸君は軍属ではないが、ブリタニア人だ。我々を支配するものだ。大人しくしているならば良し。さもなくば!」

 皆までは言わず、威圧するように視線を巡らせる。

 そこで、ゴゥンと、下のほうから地響きのようなものが伝わってきた。すぐに草壁の無線機に通信が入る。

『――ライフライン、および物資搬入路の地下トンネルを爆破崩落させました』

「何ですって!?」

 女性の鋭い声が上がる。見ればそれはクラリスだった。瞠目して草壁を凝視する彼女を無視して、無線機は淡々と報告を続ける。

『これにより、地下部分は完全に浸水。水道と電気系統に致命的な損傷が発生すると見られますが、予備の物で十分に維持が可能。自在戦闘装甲騎の動力源も、予定通り二十四時間分は確保できております』

「ふむ、これで背水の陣の完成か」

 草壁は重々しく頷いた。

「馬鹿な!」

「なんてことを……!」

 事の重大さを理解したらしい数人が、信じられぬ、といった顔をする。いや、この期に及んでまだ諦めていなかったうちの数名が、としたほうが正確か。

 人々のざわめきを吹き散らすかのように、草壁は大音声で宣言する。

「もとより玉砕覚悟! 我々に退路など必要ない!」

 イレブンの軍人たちが追従して雄たけびを上げた。吹き荒れる野蛮な熱気に悲鳴を漏らしかけるニーナを、ミレイは強く抱きしめる。

「狂ってる……!」

 誰かが呆然と呟いた。

「貴様! 狂っているとはなんだ!? 草壁中佐を狂人扱いするか! 武士道の精神を解さぬブリタニアの豚がッ! 来いッ、貴様が最初だ!」

 イレブンの兵士が中年男性の胸倉を掴む。乱暴に引き起こされてうめく男性に眉をひそめるミレイは、自分でも気づかないうちに疑問を口にしていた。

「最初って……?」

「我々の要求に対してブリタニアから何らかの返答が得られない限り、諸君には三十分おきに一人づつ屋上から飛んでもらう。最終期限は二十四時間後である。それまでに要求が受け入れられない場合、非常に不本意ではあるが、全員に死んでもらうことになる」

 余りの通告だった。

 衝撃が大きすぎたのか、逆に誰もがさしたる反応を見せなかった。ニーナですらだ。
 一人が騒げば連鎖的にパニックに陥ると本能的に皆が悟っていたのかもしれない。その末路は考えるまでも無く、向けられた銃口が示している。

 目を瞑って縮こまるニーナを、ミレイは胸に掻き抱く。視線の先では、唇を引き結んだクラリスが考え込むように宙の一点を見つめていた。
 
「ルル……!」

 祈るようなシャーリーの声が、いやによく耳に響いた。




 ◆◇◆◇◆




 カレンたちレジスタンスのメンバーがやってきた場所は、とある貸し倉庫だった。

 弱々しい照明のみを光源とした空間。薄闇の中に巨大なシルエットが浮かび上がる。よく見てみれば、それは自走式のキャンピングカーであった。
 どうやらこれが新しいアジトとなるようだ。

 ゼロに招かれて車内に足を踏み入れると、車の中とは思えぬほどの豪勢な内装が一同の目を奪う。
 二階建ての広々とした車中には、少数の構成員から成る組織とはいえ、扇グループのメンバー全員が生活できそうな、充実した設備が揃っていた。寝室やトイレ、キッチンは言うに及ばず、居間のような空間にはテレビまで備え付けられている。

 他の仲間たちが新アジトの検分に気を取られている中、カレンは悠然とソファに座るゼロに一人歩み寄った。

「どうした、カレン?」

「ゼロ、あの……」

 あれほど会って意を確かめねば、と思ってたのに、いざ面と向かうと言葉が出てこない。
 もしかするとゼロの被る黒い仮面がそうさせたのかもしれなかった。光を弾く黒ガラスは中の人物の表情を窺わせず、代わりに奇妙に屈折したカレンの顔を映し出している。

 自分の心と向き合っている――。ふとそんな妄想に捕らわれた。

 だが、紅月カレンの精神はその思考に溺れる愚を許さない。頭に浮かんだ脆弱な幻想をすぐに振り払い、意識して背筋を伸ばす。

「ゼロ。私たちは、このままで良いのでしょうか」

「このまま――とは?」

「先日、サイタマゲットー包囲作戦のニュースを見ました。言うまでもありませんが、成功に終わったと。コーネリアは現在も各地に飛んで抵抗勢力を潰しに掛かっています。他の日本の人たちが懸命に戦っているというのに、私たちは、待機したままです。これで、本当に良いのでしょうか」

「ふむ」

 ゼロは返答に少しの間を持たせた。

「ではカレン、逆に訊こう。きみの意見はどうだ。どうすれば良いと思っている?」

「それは……」

 口ごもる。
 答えは出ない。それは当然のこと。自分たちの才覚では無為に命を散らすほか無いと強く実感したからこそ、カレンたちレジスタンスはゼロに運命を託そうと決めたのだから。

「何もできないとわかっていても、『何かをしなければ』と感じずにはいられない。きみに限らず、扇たちも同じなのだろう。その愛国心を、私は得がたい物だと思う。無論きみたち自身もだ。だからこそ、軽々しい行動で命を危険に晒して欲しくはない。だが――。カレン、きみの質問に答えよう。このままでは、良くない」

「なら――」

 カレンの瞳が期待に輝く。

「そうだ。私たちは動かねばならない。雌伏の時は終わった。私たちは、私たちの目指すところを示すために、これから立ち上がる。付いてきてくれるか、カレン」

「はい! ゼロ」

 仮面の男の言葉は、怪しい風体をものともせず、カレンの胸に浸透してくる。
 この人に従えば未来は開けるのだと。自分はブリタニアの打倒を約束したゼロの配下、紅月カレンなのだと。

「それで、その目標というのは――」

 問いかけようとしたとき、誰かがテレビの電源を入れた。スピーカーから流れるリポーターの声が耳を打ち、カレンの口は止まる。

『河口湖のコンベンションセンターホテル前です。ホテルジャック犯は――』

 河口湖。ホテル。ジャック。

 断片的な単語がパズルのように組み立てられ、脳裏に生徒会メンバーの面影が浮き上がる。カレンは思わず画面を振り返っていた。
 たとえ自分が日本人の活動家であったとしても、やはり彼女たちは友人だった。その認識は消せるものではない。

 シャーリー、ミレイ、ニーナ、クラリス。
 
 顔を強張らせるカレンのそばで、ゼロが勢いよく立ち上がる。

「……何だこれはッ!?」

 強く拳が握られ、黒手袋がぎしりと革の音を立てた。

「『何だ』って、日本解放戦線の草壁中佐が、人質を取ってホテルに立てこもったらしい」

「そんなことはわかっている! なぜこんなことをする奴らがいる!」

 初めて見るゼロの剣幕にうろたえた様子で、しかしはっきりと扇が答える。

「たぶん、独断専行じゃないのか。日本解放戦線は最大の反ブリタニア勢力だ。さすがに、こんな馬鹿な作戦を指示する組織じゃない」

 ゼロは低く唸る。仮面の奥の面持ちは見通せない。それでも明らかに見て取れるほどの激しい怒気が溢れ出ていた。

「……許してはおけん。こいつらを許すわけには行かない。絶対にだ」

「いや、ゼロ、気持ちはわかるが、仮にも彼らは日本の同志だ。許せないって言ったって――」

「『同志』? 違うな。間違っているぞ扇。奴らは同志などではない」

 ゼロは握り締めていた拳を解き、一同を見渡した。

「いい機会だ。今ここで私たちの目指すものを教えておこう。私たちが戦うべき相手は、ブリタニアであり、ブリタニアの理念だ。たとえブリタニアの代わりに新しい国が建ったとしても、同じ論理で動くのであれば何も変わらない。――ならば!」

 ゼロの怒りは噴き出すようなものから静かに燃えるようなものへと変化している。しかしその激情はたしかにそこに存在し、仮面の男の弁舌に力を与えていた。

 黙して聞き入るレジスタンスの表情が引き締まる。

「私たちが打倒すべきは、ブリタニア的主義、すなわち、強者の思想そのもの! 弱者を虐げてはばからない奴らは、一人たりとも許すわけには行かん!」

 上向きにされた手のひらが、力強く何かを掴むような仕草を見せる。

「私たちの目指すところ、それは――正義の味方だ!」



[7688] STAGE8 黒 の 騎士団
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2011/01/18 16:04
 トウキョウ租界の高級住宅街の一画に、その建物はあった。純血派の発起人にして領袖たる、ジェレミア・ゴットバルト辺境伯の私宅である。既に辺りは闇に落ち、落ち着いた静寂が屋敷を包み込んでいた。

 シックな色合いに統一された品のいい廊下を、一人の女性が歩く。
 浅黒い肌に銀の髪を持つ彼女の名は、ヴィレッタ・ヌゥと云った。おのれの才覚のみを頼りに、若くして騎士侯の位とジェレミアの右腕という立場を手に入れた才媛である。

 ほんの少し前まで、彼女は自身の好況が、永遠とまでは言わずとも、この先もしばらく続くものと信じていた。所属する純血派が順調に勢力を拡大していたからである。
 いや、その表現では少々語弊がある。純血派の成長性におのれを賭けるに足りる価値を見出したからこそ、過去のヴィレッタはこの派閥に身を投じる決定を下したのだ。上昇志向の強い彼女は、立身栄達への近道として純血派を選んだのである。

 いずれにせよ、彼女の見立ては間違っていなかった。
 クロヴィス皇子薨御の折、領袖のジェレミアが代理執政官としてエリア11の実権を掌握した事実が、それを裏付けている。そのときには、この流れのまま頂点へと駆け上がる足場が目の前に用意されているのではないかと、不謹慎ながらヴィレッタは内心でほくそ笑んだものである。まさに純血派の絶頂期であった。

(……それが今ではこのザマか)

 ジェレミアの私室へと歩みを進めながら、ヴィレッタは奥歯を噛み締める。
 コーネリア総督はホテルジャックテロの対応のために現地へと飛び、軍の有力者たちもそれに同行した。にもかかわらず、ジェレミアは租界の守りを任されるわけでもなく、ただ自宅での待機を命じられている。ヴィレッタには何の沙汰も無いが、副官なのだから追従するのが当然である。

 コーネリア総督の着任以降、枢木スザク強奪事件の責任を問われた純血派は、まともに軍事行動に参加させてもらえていなかった。オレンジ疑惑の追求までされたジェレミアに至っては、営倉から出て来られたのも最近の話である。
 純血派の力は大幅に削がれ、ジェレミア自身も派閥内での求心力を失ってきている。
 ヴィレッタの視野には、完全崩壊の未来も可能性として入って来ていた。そこまでは行かずとも、かつての権勢を取り戻すのはかなり難しいに違いない。

 どう転ぶにせよ、ヴィレッタにとっての問題は、今後の身の振り方である。
 もともとヴィレッタは純血派の掲げる理念――ブリタニア軍はブリタニア人のみで構成されるべき、という思想には、そこまでの共感を抱いてはいなかった。かといって反感を覚えることも無い。彼女が買っていたのはあくまでも純血派の成長性なのだ。
 ゆえに、ヴィレッタは既に派閥を立て直す方法よりも、純血派の力に頼らずに上を目指す方法についてを考え始めていた。

 結果、答えの一つは見つかった。というよりも、おそらく一つ以外にはあり得ないだろう。それほどまでに、ジェレミアの――ひいては副官であるヴィレッタの立場は悪い。少なくとも、普通に軍務に従事するだけではろくな出世が望めないことが確定的なくらいには。
 ならば、この苦境をもたらした原因そのものによってあがなうよりほか無い。

 つまりは、ゼロの捕縛である。

 軍が総力を挙げて追い求めているテロリストへと至るための鍵を、ヴィレッタは持っていた。確証があるわけではないが、どこかで繋がっていると信じている。

 誰に明かしてもまともに取り合って貰えぬであろう情報ではあるが、ジェレミアだけは別だとヴィレッタは考えていた。どうやら聞くところによると、取り合ってもらえぬとの予測を成り立たせる根幹部分――そこにある不可思議な出来事を、彼もヴィレッタと同様に体験しているようなのだ。

 そのために、彼女は今夜ジェレミアの邸宅に足を運んだのだった。

「ジェレミア卿、ヴィレッタです」

 やがて目的地に辿りついたヴィレッタは、ノックをして中へと入った。

「来たか」

 ソファに腰掛けたジェレミアは、テレビでホテルジャックに関する臨時報道番組を視聴していたようだった。画面には被害者の家族たちに対するインタビューの模様が映し出されている。

「人質救出作戦は、水中、上空、どちらの経路も上陸すらできずに失敗したようだ。水際に布陣したナイトメアに阻まれて接近すらままならない、というわけだ。かといって長射程の砲撃など行えば、ホテルごと人質を殺してしまう結果に結びつきかねん。狂人どもの策にしてはなかなかやるではないか。無論、戦略としてはマイナスでしかないがな。――して、ヴィレッタ。何があった? まさかコーネリア殿下が出撃命令を下さったなどということではあるまい?」

 ジェレミアは小さく鼻を鳴らし、自嘲気味に口の端を上げる。

「いえ、残念ながら」

「わかっている。この状況では一人二人ナイトメアを上手く操縦できる者がいたとしても、大した役には立たん」

 ジェレミアは三十歳にならぬ若さで純血派を有力派閥にまで育て上げただけあって、精悍で男ぶりも良く、なおかつ知的である。戦場においては好戦的であるところが欠点といえば欠点だが、それを欠点と感じさせないだけの技量が備わっているのもまた事実。
 およそ隙の見当たらない男であり、だからこそヴィレッタは賭けてみようと思ったのだが、ごく最近、明らかな短所ができた。

「その、私の用件というのは……ゼロについてなのですが」

「何? ゼロだと!? 何かわかったのか!」

 弾かれたようにソファから背を離し、声を荒げて食らい付く。これこそがジェレミアの欠点である。おのれを失脚へと追い込んだゼロに対する異常なまでの敵対心。執念とも言えそうな執着。ゼロに関することになると、普段の沈着さが失われてしまうのだ。

 あらかじめ過剰反応を予想していたヴィレッタは、冷静に答えた。

「ジェレミア卿は、枢木スザクを奪われたときのことを覚えていないとお聞きしました」

「ヴィレッタ! お前まで私を愚弄するのか!」

「いえ、そうではなく。……実は、私も過去に一度、シンジュク事変で記憶の喪失を体験しているのです」

「……なに?」

 低く聞き返すジェレミアの瞳に、理知的な光が戻ってくる。

「その直前、学生服の少年に会ったのを覚えています。顔までは覚えていませんが。それに、そのあとの会話の内容がどうしても思い出せないのです。ジェレミア卿も、ゼロに会ったところまでは記憶しているとのこと。――似ているとは思いませんか?」

 ジェレミアは一度吟味するように視線を宙に投げてから、しっかりとヴィレッタに目を合わせた。

「……その話、詳しく聞かせてもらえるか」




 ◆◇◆◇◆




「――『覚えていない』? 何をふざけているんだ!」

 夜の湖畔に呆れ混じりの怒声が響き渡る。Hi-TVのプロデューサー、ディートハルト・リートは、人を馬鹿にしているとしか思えぬ部下の言葉に苦々しく顔を歪ませた。

「そんな、俺に言われても。俺も聞いただけなんで。なんか、気づいたら三号車が盗られてたってギブソンが」

「はぁ!?」

 河口湖のホテルジャック事件の報道のために現地入りしていたテレビスタッフが、報道車を一台盗まれたというのだ。
 番組を部下に任せきりにして湖に釣り糸を垂らしていたディートハルトは、報告を受けて詳細を聞き出そうとしたのだが、返ってきた答えが『覚えていない』である。忌々しげに舌を鳴らし、釣竿から手を離して立ち上がる。

「で、その三号車は今何を?」

「それが……ゼロが放送を」

「え!? お前ッ! どうしてそれを先に言わない!」

 怒鳴るように言うと、ディートハルトは即座に身を翻し、仮設スタジオへと走った。使えない奴め、と悪態をつく彼の胸には、軽い後悔と、それをはるかに上回る歓喜が湧き上がっていた。

 枢木スザク強奪事件を目の当たりにしたときから、ディートハルトの世界はゼロを中心に回っていると言っても過言ではない。いや、ゼロはあれ以来表に出てきていないため、正確には回ってすらいない。
 護送中の容疑者を真正面から奪い去ったあのときの大胆なパフォーマンスに、仮面の男の派手な言動に、ディートハルトの心は深く震えた。新しい時代が人という形をとって目の前に現れた――そうとさえ感じられた。
 それほどまでにゼロという存在に衝撃を受け、心酔していたのがディートハルトという男である。

 ゼロの映らない番組に価値を見出せなくなり、給料分の仕事すらやる気が起きなくなりつつあった彼にとって、この盗難された三号車からの放送という事件は、責任問題を頭から追いやってなお余りあるほどの吉報だった。

 スタジオに着くなり、ディートハルトはスタッフに詰め寄った。

「ゼロは!? ゼロは何と言っている! 流しているんだろうな!?」

「とりあえず、流してますけど」

「良くやった! 今後も全て流させるんだ。上が何を言ってきても突っぱねろ。責任は全部私が取る!」

 言い置いて、すぐに三号車からの映像が映し出されているモニターへと目を向ける。画面の向こうには、待ち焦がれた人物の黒尽くめの姿があった。

『――コーネリア総督は、人質となった臣民を大切に思うがゆえに、強攻策を控えておられるご様子。武断の皇女とされながら、守るべきところをしっかりと理解しておられる。素晴らしいお方だ』

 演説を聞いていた一人のスタッフが少し不審げな顔をした。

「……今のこの状況って、本当にそういうことなんですか?」

 ディートハルトはモニターに目を落としたまま、ゆるく首を振る。

「いや、違うだろう。お前も何か感じたからこそ聞いたんだろうが、きっと裏に何かがある。コーネリア総督はテロに屈するようなお方ではない。個人的な印象で言えば、人質ごと砲撃で殲滅しても不思議はない、そういう性格に思える」

 着任してそれほど間もない総督のことだから、断言はできない。しかし、ディートハルトは報道部の人間として様々な資料に目を通していたし、直接政庁まで赴いたこともある。それらの経験が伏せられた情報の所在を予感させていた。

「ただ、これは一般視聴者に向けての放送だ。ゼロにとって大事なのは、そっちなんじゃないのか」

 仮面の男は夜の河口湖畔をバックに、大仰な身振りを交えながら語っていた。

『――しかしながら、人質救出については有効な手を打てずにおられるようにお見受けした。ならばここはひとつ、最後に私に賭けてみてはいただけないだろうか。罪無きブリタニア市民の命――救ってみせる、私なら!』

 力強く言い放つと同時に、ばさりとマントが翻る。

「……来た。これだ。これこそがゼロ!」

 ブリタニア軍が総力を尽くしても果たせなかったことを達成できると言ってのける。
 しかもその内容がイレブンに捕らわれた人質の救出だ。

 ブリタニア皇族を殺めたと宣言した口で、ブリタニア人を助けると言う。矛盾した行動のようでありながら、彼特有のオーラ、カリスマ性とでも呼ぶべきものが、根底に何らかの信念が存在すると強く訴えてくる。

 ディートハルトの目はゼロの中に英雄的な資質を見出さずにはいられなかった。
 興奮気味の眼差しが見守る先で、黒衣の怪人はさらに続ける。

『私はこれからテログループとの交渉に向かう。使用するのはボート一隻だ。コーネリア総督には狙撃を控えていただきたい。私は仇かもしれないが、死んだ者と生きている者、臣民を思い遣る心を持った貴女なら、どちらが大切か、正しく判断できるものと信じている』

 ゼロがそう締めくくると、三号車からの映像はそれきり途切れた。

「これは……。ゼロが人質を助けるって、本気でしょうか?」

 スタッフが半信半疑の面持ちで問う。ディートハルトはすぐに頷いた。

「そうだろう。さっきの放送はそのための布石と見ていい。全国放送であそこまで言われれば、総督も手を出しづらくなる。民衆とは理でだけで動くものではないからな。救出に向かう人間を殺せば、人質を殺したも同じ。自力で救出が成せるのなら話は別だが、それは失敗したとゼロが強調していた」

「なるほど。いざとなったらテロリストごとまとめて攻撃すればいいだけの話ですしね。ですけど、テロリストの方は大人しくゼロを中に入れますかね?」

「死を待つしかやることのない状態で、世間を騒がせている謎の人物が会ってくれるって言って来たら、お前は面談を断るか? しかも奴らにとってはそれが同じテロリストの英雄だ」

 さらにはたったボート一隻分の戦力である。通らないことはまずありえない。

「問題があるとすれば――」

「どうやって救出するか、ですか」

「ああ。そこまでは私にも皆目見当が付かない」

 しかし、とディートハルトは心の中で思う。

 ゼロならやり遂げてしまうのだろう。常人には及びも付かない発想力で。常識はずれの方法で。
 そこについては妙な確信があった。彼は必ず成功させると。

 それよりも、やはり判然としないのは目的である。
 この行動の先に何があるのか。そして彼の思考の果てに見えているものはいったい、何なのか。

 今回の登場は、その遠大な視野を元に指された一手なのだろう。

「しっかりカメラ回しておけよ。ゼロはこれを機に間違いなく何かをやる。単に人質を助けて終わりなんて、そんな奴じゃあない」

 ディートハルトは部下の肩に手を置き、闇の中に立つ巨大なホテルへと鋭い視線を向けた。




 ◆◇◆◇◆




 コンベンションセンターホテルの食糧貯蔵庫には、重苦しい空気が充満していた。どんなに周囲に無頓着な人間であったとしても、この場に放り込まれたら気づかずにはいられまい。

 無論ユーフェミアについても例外ではなかった。
 声を殺してさめざめと泣く女性や、苛立ち混じりの溜息を何度も吐く男性がすぐ近くにいるのだ。それ以外にも、囚われた当初と比べて明らかに減っている人口密度が、絶望的な雰囲気に拍車を掛けている。
 連れて行かれた人数は数えていた――というよりも自然と数えてしまっていたが、考えないようにしていた。その数字はそのまま死へのカウントダウンとなるのだ。四十八に達するとき、全ての人質の命数は尽きる。

 滅入りそうになる気持ちを、ユーフェミアはそばで毅然と顔を上げているクラリスを見て誤魔化す。姉の眼光はこの窮地にもかかわらず、思慮深く、冷静で、不安のひとかけらも宿していない。そこにあるだけで、何かの力を与えてくれそうだった。

「……バーンズ」

 クラリスは隣に控えている護衛隊長に囁く。

「地下の物資搬入口まで閉ざされたとなれば、もう侵攻経路は一つも残されてはいないでしょう。あのコーネリア殿下が大人しく交渉に応じるとも思えない。となれば、考えられる展開としては、一つ」

「長距離からの砲撃、ですね」

「ええ。報道カメラも入っているでしょうから、臣民の目も意識して、たぶんぎりぎり崩壊させられる程度の砲撃にしかならないはず。それでもここはきっと大きな揺れに襲われるわ。見張りたちにも必ず隙ができる。その期を逃さず掴みなさい。同じ死ぬにしても、抵抗した結果のことにしたいわ。それまで油断なくね」

 バーンズだけでなく、ユーフェミアの護衛の面々も頷く。
 おそらくは皆それを考えていたのだろう。わざわざ口に出したのは鬱々と圧し掛かる空気を少しでも軽くするため。

 ただ、ユーフェミアはその予想が現実のものになるかどうか、今ひとつ疑わしい思いを拭えずにいた。
 ユーフェミアの知るコーネリアの性格から考えると、やるつもりなら既にやっていなければおかしいのだ。ブリタニアの第二皇女が魔女と恐れられるのは、戦場での卓越した能力はもちろんのこと、非情に徹して効率の良い作戦を採用できることから、という点も大きく影響している。
 時間が経つごとに人質が殺されていくこの状況において、砲撃を先送りにするメリットなど何も無い。ただし、急いで決行する場合のデメリットならば簡単に思いつく。

 つまり、ユーフェミアの命を巻き込みかねないという問題があるからこそ、コーネリアは強攻策に出られずにいるのだろう。

 妹を溺愛する姉の心遣いを、ユーフェミアは嬉しく思う。同時に、そのせいで喪われる命が増えるのであれば、いっそ切り捨てて欲しいとも思う。
 それ以上に、ただ黙って事態の推移を見守るしかできないおのれ自身に、言いようのない無力感を覚えていた。

 もしかしたら、ここにクラリスが居なければ、ユーフェミアは代わりに何とかして周りの人間を鼓舞しようとしていたのかもしれない。きっと彼女ほど上手くはできなかっただろうけれど、一応皇女として。

 だが現実には、ユーフェミアの姉はたしかにここに居て、身分を隠しながらも、皇族としての役目を十二分に果たしている。できる限りの手を使い、臣民の心の安寧を護るという役目を。
 だからといって彼女一人に任せきりにしていいという理屈が通るはずもないのだが、クラリスがあまりに的確に振舞うものだから、ユーフェミアは一切行動せずにいた。知識も機転も一般人の域を大きく超えない自分などは、余計なことをしない方が良いのだろう、と。

 その判断はきっと正しい。しかしゆえにこそ、それが幼い時分に盾になってくれた姉に対する一種の甘えであることに、彼女は気づいていなかった。

「――時間だ」

 入り口の扉が開き、軍服のイレブンが姿を現した。もう何度目になるのか思い出したくもない、死刑台への誘いだ。

 三十分おきにやってくる獄吏が誰を指名するのかは、特に決まっていない。目に付いた者が引っ立てられて行くようだった。
 このときばかりは泣き声も囁き声も止む。
 静寂に満たされた空間に、兵士の履いた靴が、かつりかつりと硬質な音を刻む。一定のリズムで繰り返される軍靴の反響音が止んだとき、ヒッと息を呑むような声が聞こえた。
 まだ若い女の声だ。ユーフェミアがそちらを確認すると、やはりそれは十代半ばから後半くらいに見える女の子だった。
 眼鏡を掛けた緑髪のその少女は、目の前に停止した黒いブーツを凝視し、そこからゆっくりと視線を上げていく。やがて東洋人特有の彫りの浅い顔にまで達したとき、堪え切れぬように、震える声で小さく漏らした。

「イ、イレブン……」

「貴様! 今何と言った!? イレブンだと!? 我々は日本人だッ!」

 兵士が少女を睨みつけ、短機関銃の銃口を向ける。

「わかってるわよ、だからやめて!」

 金髪をした少女が庇うように眼鏡の少女を抱いた。軍服の男は構わず怒声を張り上げる。

「我々はイレブンではない! 訂正しろ!」

「訂正するから!」

「何だその言い方はッ!」

 しんとした倉庫の壁は、口論する男女の声を鬱陶しいほどよく響かせた。
 止めに入る者は誰も居ない。人質たちは顔を伏せるか、痛ましげにそちらを窺うばかり。皆わかっているのだ。下手に関わっては自分のほうに矛先が向いてしまいかねないと。

 やがて男は眼鏡の少女の二の腕を掴み、強引に立ち上がらせた。どうやら彼女が今回の生贄に決定したらしい。縋りついた友人らしき二人の少女が、力任せに床に突き飛ばされた。

「いやッ! いやああああああああッ!」

 狂ったように首を振り、金切り声を上げて拒絶する緑髪の少女を、男は引きずるようにして無理やり歩かせる。ろくな抵抗もせずに諦念の面持ちで連行されていった今までの犠牲者たちと比べ、その様子はあまりにも残酷で、陰惨で、耐え難い痛ましさを心に刻み付ける。

 胸の悪くなる光景を、ユーフェミアは無力感を噛み締めながら眺めていた。
 この状況を一変させる手段が、確実に一つある。名乗りを上げればいいのだ。皇女であると。なのに、それを行使していいのかどうか、そこの判断がつけられなかった。

 なぜなら、同じ手を打てる人間が隣に居るから。ユーフェミアよりずっと賢明で、皇族らしい分別を持った彼女が、その手を使わずにいるから。

 一時の感情に任せて考えなしの行動に走ったら、いろいろなものを台無しにしてしまう気がして、ユーフェミアは焦燥を抱えつつも、動き出せずにいた。

 悲鳴を上げ続ける少女がだんだんと出口に近づいていく。友人らしき少女たちは別の軍人に銃口を向けられて、一定以上近づけずにいる。
 鼓膜を打つ甲高い声が、自分を責めているような気がした。助けられるのになぜ助けない、と。

 少女の体が出入り口の扉をくぐる直前、ユーフェミアは堪えられなくなって大きく息を吸い込んだ。
 その瞬間だった。

「――待ちなさい」

 耳に飛び込んできたのは、凛とした声。

「日本解放戦線というのは、嫌がる女の子の悲鳴を聞いて喜ぶような下衆の集まりなの? もしそうなら唾を吐きかけるくらいしかやることがないのだけれど、違うのなら少し話をさせてくれないかしら」

 ユーフェミアのそばに、すっくと立ち上がる少女の気配があった。柔らかなアッシュブロンドがふわりと弾む。

「何だ貴様は!?」

「その子の友達よ。どうせ殺すなら誰でも同じでしょう。私なら喚きもしないし暴れもしないわ。大人しく殺されてあげるから、私にしなさい」

 いきり立つ兵士に向かって、クラリスは冷然と答えた。

 泣き叫んでいた少女が暴れるのをやめて、ぎこちない動作で振り返る。泣き腫らした目が大きく開かれ、小揺るぎもせずに立つ少女の姿を映し出した。

「クラ、リス……?」

 呆然と呟く眼鏡の少女をそのままに、クラリスは監視者の軍人たちを見回す。

「ねぇ、どうなの? 構わないでしょう? 泣いて逃げようとしている女の子を無理やり突き落とすより、自発的に飛び降りる人間の方が絵面的にもソフトでいいんじゃないかしら。日本解放戦線の名声をこれ以上はないというレベルにまで叩き落したいのなら、話は別だけれど」

 大半のイレブンは黙っていた。クラリスの言が正論であると認めてしまっているのだろう。しかし、眼鏡の少女を捕らえた男は違っていた。

「ふざけるなッ、誰が貴様らブリタニア人の意見など――」

「やめろ」

 激高する男をたしなめるように、落ち着いた声がかぶせられた。いや、そこには少々うんざりとした響きが滲んでいる。

「その娘の言うとおりだ。誰であろうと変わらん。ならば協力的な人間の方がいい」

「ですが、田辺少尉……」

「貴様は次の時間まで外で頭を冷やせ。今回は自分がその娘を連れて行く、いいな?」

 厳しく言われた男は、忌々しげに少女の腕を解放した。

 ユーフェミアには少尉の心中が推察できた。ここからまた眼鏡の少女を連れて行くという流れになれば、再びあの叫び声を聞かねばならない。一時的に静かになったからこそ、あの聞くに堪えない悲痛さがより一層強く実感できる。

「……ユフィ、大丈夫、策はあるわ。そうやすやすと殺されたりはしないから、安心して」

 微笑みかけられ、ようやくユーフェミアは自分の表情が固まっていたことに気づいた。我に返ると同時に、とんでもない失敗を犯してしまったのではないかと、逆に体が強張った。

 クラリスの言う『策』は簡単に想像がつく。少し前にユーフェミアが検討していたのと同じ手だ。たしかにそれで自分自身を交渉材料にできれば、ぎりぎりまで生き延びることが可能だろう。けれど、それではよしんば今回のホテルジャックから生還できたとしても、その先がない。
 クラリス・ヴィ・ブリタニアは、クラリス・アーベントロートとして生きているからこそ、誰にも狙われずにいられるのだから。

 その事実に思い至り、ユーフェミアは強烈な自責の念に駆られた。
 そう、冷静になって考えれば、クラリスに名乗りを上げられるはずがなかったのだ。ユーフェミアとクラリスは同じ駒を持っていたけれど、取り巻く環境がまるで違う。皇族だと露見した瞬間に、クラリスの安全は崩壊するのだ。

 ならば、手札を切るのは自分であるべきだったのだろう。
 思った途端、居ても立ってもいられなくなった。

 幸い手遅れにはなっていない。クラリスは決定的な言葉を口にしていないのだから、まだ取り返しはつく――。

 はやる気持ちに任せて声を上げようとしたとき、腰を曲げたクラリスの指が上から降りてきて、ユーフェミアの唇を押さえた。

「やめなさい。大丈夫だから。貴女のそれは私なんかのために使うにはもったいないわ。本当に我慢できないと思ったときのために取っておきなさい」

「そんな……」

 言葉を失って周囲を目を走らせたユーフェミアは、渋面をしたクラリスの護衛隊長を見つけた。バーンズは縋るようなユーフェミアの視線に気づくと、険しい顔をしたまま、諦めたようにゆっくりと首を振った。

「……お嬢様は常々、『嘘が嫌い』だとおっしゃっております。ですから、信じてもよいのではないでしょうか。少なくとも、わたくしにはお嬢様の殺される姿が想像できません」

 バーンズが言い終えると、クラリスは一度頷き、背筋を伸ばす。そしてイレブンの少尉に向けて、嫣然と笑んで見せた。

「さぁ、エスコートして下さいな。地獄の底まででもついていってあげましょう」





 田辺光彦は、なぜ自分がこのような破滅的な作戦に参加したのか、今になっても正確には把握できていなかった。
 草壁中佐からの命令はもちろんあったが、中佐自身今作戦の無謀さは自覚していたようで、士気の低い腰抜けは要らぬという建前で、希望しない者には不参加の道も用意されていた。独断専行の暴挙なのだから、そこで隊を抜けて日本解放戦線の本隊に合流したとしても、厳しく罰せられることはなかっただろう。

 ――おそらくは、と田辺は自己を分析する。

 にもかかわらず今ここにいるのは、疲れてしまったからだ。死に場所が欲しかったのだと思う。

 圧倒的な戦力差で祖国を踏みにじっていったブリタニアは、憎さと同時に絶望感をも植えつけていった。それでも、誇りと憤怒を胸に、片瀬少将率いる日本解放戦線に加わり、抵抗活動に身を投じた。
 そこでも感じさせられたのは、やはり突き崩せない壁だった。
 だからもう、やめたくなってしまったのだろう。変えられぬ現状に憤るのも、破れぬとわかりきった鉄壁を殴りつけるのも、やめたくなった。やめたくなって、『日本人はここにいる!』と叫んで死ぬ、この作戦に参加したのだ。

 しかし、諦念に飲まれてしまったおのれを認めたくないから、その結論を受け入れられない。この分析も、努めて客観視することで予想の範疇を出ないように予防線を張っている。
 だから結局は、『なぜ参加したのかわからない』となる。

 ……本当に、なぜ参加したのか。

 後ろ手に縛られて目の前を歩く少女の後ろ姿を見ていると、その想いは避けようもなく湧いてくる。
 年端も行かない非戦闘員の婦女を殺めるような作戦で存在を主張したとしても、悪名を高める以外の役には立つまいに。

 だからといって今さら降りることはできない。
 田辺は予定通り屋上手前の踊り場まで辿りついたところで、少女を座らせた。交渉に進展があった場合に備え、人質殺害の細かなタイミングについては草壁中佐が指示を出すことになっている。あとは司令部からの連絡があるまでここで待機していればいい。その後は――。

「ねぇ」

 至近に迫った未来を思って田辺が重い息を吐いたとき、無言のまま従順に歩いてきた少女が、突如口を開いた。

「貴方が今何を考えているのか、教えて欲しいわ」

「黙れ。大人しくしていろ」

「どうせ時間まで待つだけでしょう? なら、これから死に行く私に最後の手向けをくれたっていいじゃない」

 少女の言を聞き、田辺は苦虫を噛み潰したかのような顔で舌打ちした。
 忌むべきはおのれの心である。切り捨ててしまうのが軍人としては正しいとわかっているのに、話をしてやりたくなってしまう。

 喋るなとも言えずに口を噤む田辺に、少女は再度語りかけた。

「教えてくれない? 後学のために。いえ、間違えたわ。冥土の土産、というのが正解よね、この場合」

 涼やかな声は、死を目前にしているとは到底思えぬほどに凪いでいた。

 不意に不審を覚えた田辺は、少女の整った顔を正面から見た。怯えも諦めも浮かんではいない。透き通るような紫の瞳がしっかりと見つめ返してくる。

「これから若い娘を殺そうとしている貴方の心の中には、いったい何があるのかしら。憐憫? 愉悦? 罪悪感? それとも、興奮でもしている?」

 一瞬、田辺の背筋に言い知れぬ悪寒が走った。質問を並べ立てる口調には微塵の揺らぎも無く、虚勢を張っている素振りは見られない。どこまでも自然で、それこそが不自然だった。処刑台に立たされた十代の娘の反応とはとても思えない。

「……答える必要は無い」

 簡潔に言い、田辺は視線を壁に移す。しかし端的な拒絶の意は通じず、軽やか声音は即座に耳に滑り込んできた。

「必要不必要の話じゃないの。貴方が話したかったら話せばいいのだし、話したくないのなら話さなければいい」

「黙れと言ったはずだ」

「その命令は意味を持たないわ。私はこれから死ぬのよ? 貴方に従って何の利があるというの。でも、それは貴方にとっても同じこと。私に付き合ったところで何の益も無いし、何の不利益も無い。だから、貴方のしたいようにしたらいいと言っているの。話したくないのなら一言そう言えばいいわ」

 田辺は再び口を閉ざす。

 正直なところ、話をしてやるくらい構わないのではないかという思いはある。なのに、返事をすることができない。馬鹿馬鹿しい話かもしれないが、無力なはずの少女とただ二人でいるだけで、妙な緊張感を覚えていた。

 未知に対する恐怖のようなものだったのかもしれない。田辺には、この状況で下らない雑談に興じようとする少女の精神構造がまったく理解できなかった。

「ねぇ、なぜ黙っているの? 少しでいいのよ。こんな機会滅多にないもの。興味があるの。貴方の考えていること、教えてくれない?」

 田辺は答えを返さない。胸中には得体の知れないざわめきがあった。
 話したくないと口にできない自分の甘さがこの居心地の悪い緊迫を生んでいるのだとしたら、早めに捨ててしまった方がいいのかもしれないと、田辺は漠然と思う。

 わずかに流れた沈黙を破ったのは、二人のうちのどちらでもなかった。

『田辺少尉、時間である。人質を突き落とせ』

 ノイズ交じりの男性の声が通信機から漏れる。

 ようやくこの気味の良くない時間が終了するようだ。
 それを喜ぶべきなのか悲しむべきなのかは、田辺は努めて判断しないようにした。どちらにしても気分のいい解答にはならない気がしていた。
 彼を動かしたのは軍人としての義務感である。

「了解」

 短く返答すると、田辺は再び少女の顔に目を向けた。今度こそ死があと一歩にまで迫っている。ほんの一分後か二分後かそこらだ。だがやはり恐怖の類はない。代わりにあったのは、小さく釣り上げられた唇だった。

「……何が可笑しい」

 お前はこれから死ぬのだぞ、と言外に含めて睨みつけるが、少女は気づいた様子もなく、ふふ、と一段笑みを深くした。

「いえ、貴方はあまり時計を見ないのね、と思って。こちらの話よ」

 最後までよく掴めない少女である。もしかすると元からどこか狂っていたのだろうか。だとしたら少しくらい話に乗ってやっても良かったかもしれぬ。
 頭を掠めた思考は今となっては何の意味も無い。田辺は少女を立ち上がらせようと手を伸ばした。

「もういい。行くぞ」

「いいえ、行かないわ。また最初からお話をしましょう。いいわよね? だってまだ伝令なんて届いていないんだもの」

 少女は笑んで言う。

「今度こそ、貴方の気持ちをきちんと聞かせて欲しいものだわ」

 アメジストの瞳が妖しく輝いた。




「コーネリアは何の返答も寄越さんか……」

 臨時司令部となったホテルの一室で、草壁は唸るように呟いた。

 成果の得られる可能性がほとんどないことは作戦立案の当初から推測できていたものの、実際に行動に移したからには多少の期待は生まれてしまうものだ。要求自体は呑まれずとも、交渉に漕ぎつけたという前例だけでもここで作り出せれば、今後の礎にならないとも限らない。

 しかし無理なのだろうと、草壁を含め司令部の全員が予想していた。

 数分前、人質を殺害するよう田辺に指示を出した。彼が殺すのは若い女子だという話だったが、それでもおそらくコーネリアは動くまい。冷血無比なブリタニアの魔女に諾と言わせるには、たとえ女子供であろうと、一般市民や会議参加者の命では足りないのだ。皇族でも捕らえられれば別なのだろうが、そんな高難度の策を立案実行できる人材がいたなら、草壁たちはここで無為に死のうとはしていなかったに違いない。

 草壁の呟きを最後に、司令部には沈黙が下りていた。
 重苦しい雰囲気はない。皆が覚悟を決めているためである。この期に及んで事態を好転させねば、などという使命感を持った者は一人としていないのだ。それゆえの落ち着きであり、静けさだった。

 どれほど経っただろうか、誰かが口を開いた。

「田辺少尉からの報告がありませんね」

「そう言えば、たしかに遅いですな。確認を取ってみてはどうでしょう」

 部下の発言に草壁が重々しく頷く。

「うむ、何か問題でも起こったのかもしれん。状況を説明させよ」

 指示を受けて一人が通信を行う。
 田辺から受け取った返答を聞いた草壁は、耳を疑った。

「――『記憶にない』だと? 気でもふれたのかあやつは!」

 人質殺害の命を受け取った覚えが無いというのである。
 田辺に指令を与えたのは間違いのないことであり、彼のした『了解』という返事も多くの者が聞いている。あれからまだそれほど経っていない。常識では考えられぬことだった。

「いや、考えても栓無きこと。もう一度指示を出しておけ」

 それだけで済んでしまうのは明日までの命であるからに他ならない。罰則を適用するまでもなく、田辺は草壁同様二十四時間後には死んでいるはずなのだ。
 人質を全て殺してしまえば、ホテルを占拠した軍人たちを守る物は何もなくなる。そうなれば相手はあのコーネリア。皆殺しは避けられない。何もせずとも確定された死がすぐそこにあるのだから、些細な失敗を咎めるのに人員を裂くのは馬鹿らしい。草壁はそう判断した。

 もしかすると、人を送るべきだったのかもしれない。その選択肢もあった。ただ、どちらが正解だったのかは、結局明かされずじまいとなった。
 田辺の一件が進展を見せる前に、室内に興奮した声が響いたのである。

『ゼロです! ゼロが小型のボート一隻でやってきます! 人数はゼロを含め八人! 武器の有無は確認できません!』

「何? ゼロだと!? ゼロがここに向かっているというのか!」

 見張りに立っていた兵士からの通信を受け、草壁が椅子から立ち上がる。司令部はにわかに騒然となっていた。

 ゼロといえば、今エリア11で最も有名な人物の一人である。しかもブリタニア側ではなく反体制側の人間であり、有能であることは枢木スザク強奪事件の実績から見て間違いない。
 その彼がいかなる腹案を持って死地確定となったこの陣に入り込むのか。不可能と思える起死回生の策を持ってくるのか、あるいはブリタニア軍の妨害のないところを見ると、人質解放の交渉でもしようというのか。

「どうされますか、中佐」

 軍人たちの目が草壁に集まる。

「通せ」

 実を言えば、田辺少尉からの報告はその後ももたらされなかったのだが、もはや誰一人として話題に上らせることはなかった。





 ゼロの率いるレジスタンスの面々は、彼の用意した黒い隊員服を身に付け、河口湖の人工島に上陸していた。
 ホテルの入り口付近に立つ黒尽くめの人影は、全部で七つ。リーダーである仮面の男の姿はない。ゼロは既に数人の兵士に伴われ、一人司令部へと向かった後だった。

「本当に大丈夫だってのか、この戦力を相手に」

 湖面に向かって構えた数機のナイトメアを見据えながら、玉城が苛立ち混じりに言う。
 口にこそ出さないものの、他のメンバーも同様の不安を抱いていた。

 ゼロの語った信念の力強さに心を打たれ、また彼の才に賭けるべき価値を見出し、皆で作戦に従うと決めた。とはいえ、その判断に一時の熱に後押しされた部分がないとは言い切れない。敵の主力を視界に納め続けていれば、認識は次第に揺らぎ始める。
 内部で破壊工作をするという手も用意されていたのだが、外で足止めをされ、一歩目で破綻していた。もちろん元から『上手く行けば』の注釈付きの策ではあったものの、「無理ならひとりでやってみせる」と言ってのけたゼロの言葉を、いったいどこまで信頼していいのか。

「やめなさいよ。今更でしょう。ここまで来たら、もう、ゼロに賭けるしかないわ」

 カレンが神妙な面持ちで言う。玉城の舌打ちを聞きながら、彼女は闇にそびえる巨大な建造物を振り仰いだ。

 一方、コンベンションセンターホテルの廊下を歩くゼロ――ルルーシュは、扇グループの心理状態など一向に意に介してはいなかった。
 現在の彼の最大の目的とはクラリスの救出である。それが達成できるのであれば、ナナリー以外の犠牲なら何でも払う意志があった。つまり、ゼロが作戦会議の際にメンバーに言った「上手く行けば」は、完全に文字通りの意味でしかなかったのである。多少作戦成功率が上がるかもしれないという程度の期待。上手く行くよう工作する時間も労力も惜しかったし、それで万が一メンバーに被害があったとしても、「作戦行動中のことだから仕方がない」で済ませるつもりでいた。
 というよりも、より正確には、考えを回す余裕が無かった。それほどまでにルルーシュは焦り、激怒していたのである。

 泰然とした足取りの裏で駆け出しそうになる脚の筋肉を抑え、黒光りする仮面で苛立ちに満ちた表情を隠している。

(コーネリアの行動の遅さ、そこに狙撃されなかった事実を加味すれば、人質の中にユーフェミアがいるのは確実。となれば、脱出の際の安全も確保できる。作戦の前提条件はほぼクリアされたと見ていい。だが――)

 黒ガラスの下、ルルーシュの瞳が射殺すような眼光を放つ。

 問題はクラリスだ。彼女がどういった扱いを受けているのか。
 自らの安全面を考えればギアスの射程圏内で直接コーネリアと交渉をしてからボートを出すべきだったのに、そうする手間を惜しんだのは、クラリスの身を案じたためだ。
 まさか殺されてはいないだろうと思うが、それが根拠の無い希望的観測に過ぎないことも理解している。時間が立てば経つほど殺害される可能性が上がっていくということも。
 だからこそ、ルルーシュは湧き上がる焦燥を消せずにいた。

 やがて司令部にたどり着き、兵士が来訪を告げる。

「ゼロを連行しました」

「了解した。中に入れ」

 警備の兵に通されて足を踏み入れた内部には、数人の将校をそばに控えさせて悠然と座る男――草壁の姿があった。
 憎むべきテロリストどもの首魁を発見したルルーシュの怒りは頂点に達する。沸騰しそうになる思考を冷ましている間に、草壁が口を開いた。

「どういうつもりで乗り込んできたのかな、ゼロ。人質解放の交渉をしようというのか。それとも、我々と手を組むつもりか」

「場合によっては、どちらの道も可能性はあった。だが、無理だ。貴様たちは救えない」

「なんだと貴様! 草壁中佐を――」

「よさんか」

 いきり立つ部下を片手でいさめ、草壁はさらに問う。

「それで、救えない我々をどうする? 神を気取って罰しようというのか。元より明日までの命だというのに」

「違うな。私はただお願いをしに来ただけだ」

 静かに告げると、ルルーシュは気持ちを落ち着けようと深く呼吸を取った。感情に任せて『死ね』とギアスを掛けるのは容易い。だがそれでは後が続かなくなってしまう。

「お願い? そんなものを我々が聞き入れると思うのか」

 草壁が怪訝な声を上げ、軍人たちの視線が黒衣の男に集中する。

「聞き入れるさ」

 不敵な声音が返るなり、ゼロの仮面のギミックが作動した。左目の部分に長方形の穴が開く。そこにはクラリスのものと良く似た、神秘的に輝く紫の瞳があった。

 そしてルルーシュは命令を下す。
 何人にも逆らえない、絶対遵守の王の下知であった。





 食糧貯蔵庫には相変わらず重苦しい雰囲気が垂れ込めている。わずかに軽くなっているように感じるのは、気のせいなのかそうでないのか。
 ユーフェミアは姉がそうしていたように、唇を引き結んで軍人たちの動向を窺っていた。

 クラリスが連行されてから優に三十分以上が経過している。にもかかわらず、次の被害者がまだ出ていない。
 前回の生贄が生き延びている証拠と判断すればいいのか、もしそうだとして、それを素直に喜んでいいのか、ユーフェミアにはどちらもわからない。
 ただできることは、せめて皇女らしく、と堂々としていることだけである。クラリスが大丈夫と言ったその言葉を信じて。

 さすがに兵士たちも不審を覚えたのか司令部と連絡を試みているが、何度も繰り返しているところを見ると、はっきりとした返答は得られていないようだ。それで彼らは余計に不審を募らせる。
 徐々に降り積もる不安と苛立ち。
 元々二十四時間も生きられないのが確定しているという異常な環境である。暴発するのは時間の問題だったのかもしれない。

 一人の兵士が人質に難癖を付け始めた。クラリスが身代わりとなったあの眼鏡の少女と、そのとき彼女を連れて行こうとしていた男だ。一度は外に出ていた彼は、いくらか前に戻ってきていた。

「貴様、隣まで来い。我々が日本人だとじっくり教え込んでやる!」

「そんなのわかってますから! 何で今頃言い出すんですか!」

「今になって口の利き方を改めても遅い! お前たちも一緒だ!」

 男は威圧するかのような大声を放ち、少女の友人たちに銃口を向けた。空いた手が眼鏡の少女の細い手首を乱暴に掴む。

「いやああああああッ!」

 数十分前に聞いたものと同じ金切り声が、再び室内に反響した。

 今度は誰も止めようとはしないだろう。前回もクラリスがぎりぎりで声を上げるまで、皆知らぬ振りをしていたのだから。そのクラリスも、今は居ない。

 現状の把握が終わると、ユーフェミアの体は勝手に動き出そうとしていた。目敏く見てとった付け人が制止するように手首を掴む。

「いけません副総督」

 しかし左右に首を振る付け人を振り切って、ユーフェミアは敢然と立ち上がった。

「おやめなさい!」

「今度は貴様か! 何なんだいったい!?」

 狂気を孕んだ男の睨みをしっかりと受け止め、変装のための伊達眼鏡を片手で取り去る。

「わたくしはブリタニア第四皇女、ユーフェミア・リ・ブリタニアです」

 瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れた。次いで一気にどよめきが広がる。男は驚きにか、眼鏡の少女の手首を離した。衝撃が過ぎ去る間も与えず、ユーフェミアは畳み掛けて言う。

「わたくしを貴方たちのリーダーに会わせなさい」

「――いいや、その必要は無い」

 突如第三者の声が響いた。張りと艶のある、どこか引き込まれるような魅力を持った男声である。

 いつの間にか入り口の扉が開かれ、そこに一人の人物が立っていた。草壁中佐と将校たちを左右に従えた仮面の人物だ。その手には拳銃が握られ――。

「ゼロ!?」

 誰かが叫んだとき、銃口が火を噴いた。同時に草壁たちの持っていた銃器が銃声を撒き散らす。
 時間にしてわずか数秒、戦闘とも呼べぬ一方的な蹂躙が終わった後には、崩れ落ちる見張りの軍人たちの姿があった。

「……な、ぜ……中佐……」

 口から血を流した男が驚愕の面持ちで問いを吐き出す。草壁は表情も無く淡々と答えた。

「我々は自決せねばならない」

「草壁中佐は今回の行動の無意味さを悟ったのだ。私の説得に応じ、最後は自らの手でけじめをつけようと決心された」

 事の経緯を説明したゼロは、最後にもう一つ付け加えた。

「君たちは、解放される」

「……解放、だって? じゃあ、助かるのか、俺たちは」

「もちろんだ。私はそのために来た。私の仲間もいる。武器を持たない者であれば、彼らが安全に脱出の先導をしてくれるだろう」

 何秒か掛けてゼロのセリフの意味が浸透すると、倉庫内には爆発的に歓声が広がった。
 抵抗すれば無事ではすまないと暗に伝わってくる部分はあったものの、気にするほどのことではない。このまま何もしなければ助かると言っているのだから。

 草壁たち将校は既に立ち去っていた。殺された兵士の銃を拾えば直接復讐することも可能だろうが、誰も追い掛けようとはしていなかった。
 ゼロの言葉に嘘がなさそうだったためだろう。
 放っておいても他のテロリストを道連れに自害するに違いない。今の一幕には、そう信じさせるに足りるインパクトがあった。

 あまりの急展開に停止していた脳が活動を再開するなり、ユーフェミアはすぐに倒れた眼鏡の少女に歩み寄った。

「貴女、大丈夫? 怪我は無い?」

「……は、はい」

 少女がか細く答えると、そこにゼロの声が掛けられる。

「人質は――これで、全員なのか」

 黒いガラスに遮られて顔までは見通せないが、その視線は眼鏡の少女たちのグループに向けられているようだった。
 金髪の少女がゼロを振り返る。

「たぶん、会議の参加者たちは別のところに」

「他は?」

「他は……あとは連れて行かれた人が何人か。屋上から突き落とすって言ってたから、居るとしたら――」

 言い終えるかどうかという時点で、ゼロは身を翻して駆け出していた。
 遠ざかっていく背中を見送ってから、ユーフェミアははたと気づく。

 ――クラリス。

 直後、ユーフェミアの体は走り始めていた。
 相手がテロリストだとしても――いや、だからこそか――皇女なのだから多少無茶な行動を取っても大目に見てもらえるはず、そういった勘定があったことは否めない。とはいっても、やはり根底にあったのは姉の安否を気遣う心である。

 優しさから生まれてくる衝動に任せて行動できるのがユーフェミアの一つの美点であり、それは皇女という観点から見ると、多くの場合欠点になり得る。
 眼鏡の少女の件に続き、その悪い癖がまた出てしまっていた。

「副総督! まだ安全と決まったわけでは!」

 背後から掛かる護衛の制止の声を受け流し、ユーフェミアは屋上へと急いだ。





 ルルーシュがそこで目にしたのは、血に濡れた少女だった。

 屋上へと向かう階段の最後の踊り場。半階上にある扉の窓ガラスから降り注ぐ弱々しい月の明かりが、その場を演出する唯一の照明だった。
 青く沈む闇の中、白いワンピースに黒々とした血の染みを浮かび上がらせ、少女――クラリスは壁にもたれて座っていた。

 アメジストを思わせる瞳が開かれていることに安堵し、衣服に傷の無い事を確認して二度安堵する。そして端正な顔に浮かぶ険しい表情を認識し、ルルーシュは自分の立場を思い出した。

 クラリスのすぐそばには、頭部と胸部に数発の銃創を刻まれた男の死体があった。いくらか離れ、こめかみに穴を開けて倒れ伏す兵士の死体がある。

「仲間割れを、したの。『我々は自決せねばならない』って、そっちの人がいきなり撃ってきて」

「……そうか」

「これは……貴方に、お礼を言ったらいいのかしら」

「一応は、そういうことになる」

 立ち尽くしたまま硬い口調で言う仮面の男に、クラリスはふっと笑い掛けた。血まみれでも、優しい笑顔だった。

「じゃあ。ありがとう。助かったわ、本当に。死ぬかと思った」

 そこでようやく妹を救うことができたのだと実感できて、ルルーシュの膝は崩れそうになった。駆け寄って抱きしめてやりたいと思った。

 だが、被った仮面がそれを許さない。

 かといってどう接するべきなのかという心算も、ルルーシュの中には無かった。
 ただクラリスを助けたい、その一念でここまで来たのだ。これからの活動のための布石にしようと考えた部分はあっても、そこはあくまで打算でしかなく、行動の理由にはなっていない。

 自然と訪れる膠着。生まれた短い空白は、闖入者の登場によって破られた。

「クラリス! 無事だったのですね!」

 走ってきた人影がゼロの衣装の横を通り過ぎ、桃色の髪がさらりと流れた。ユーフェミアである。第四皇女がクラリスの横に身をかがめていた。

「はい、なんとか助かりました。ですが、わざわざここまで来て下さらなくとも。立場をお考え下さい」

 クラリスの言葉にユーフェミアは一瞬虚を突かれた顔をして、すぐに持ち直した。

「でも、心配だったんです」

 おそらくは敬語を使われたことに戸惑ったのだろう。ルルーシュはそうあたりをつけ、二人がホテルで旧交を温めあったようだと目算を付ける。

「それよりも、何故――」

 関係を勘繰られることを恐れてか、ユーフェミアはゼロの仮面に顔を向け、強引に話題を振ってきた。

 実のところ、仮面の下に隠れるルルーシュにとって、その工作はまったく意味を成さないのだが、それのおかげで彼はおのれを取り戻すことができた。
 ユーフェミアにならば取るべき態度は決まっているのだ。ただゼロとして振舞えばいい。そこに心の痛みなど生まれない。

「貴方は何故、兄を殺したのですか」

「クロヴィスのことですね」

「はい」

 真剣な表情を浮かべるユーフェミアに、ルルーシュはゼロの声で語った。

「私が銃口を突きつけたとき、彼は私におもねり、命乞いをした。最後まで。イレブンを殺せと命じたその口で」

「だから、殺したとでも言うのですか」

「いいえ、違います」

 正直に話せば、ルルーシュがクロヴィスを殺した理由には、私怨の占める割合が非常に大きい。少なくとも、自分たち家族を破滅へと追いやったブリタニア皇帝の息子であるというだけで、殺意は成立した。
 その論理をユーフェミアにぶつけることに躊躇いは無い。たとえ幼馴染であろうと。過去に淡い恋心を抱いていた相手であろうと。ナナリーとだけ心を通わせるようにして過ごしてきた長い歳月は、ルルーシュの価値観を歪なものへと変貌させている。
 しかしクラリスが目の前に居ては、『皇帝の子だから殺した』などとは間違っても口にできなかった。

「彼は、無力な民間人を殺戮するような作戦を展開した。それ自体が私には許せなかった。彼を生かしておいては何度も同じことが繰り返されてしまう。その未来を避けるためにこそ、私はクロヴィスを殺したのです」

「ならば姉も――コーネリア総督も殺すのですか。サイタマゲットーを壊滅させた」

「ええ。できればこの手でそうしてやりたいと思っていますよ。――話はここまでにしましょう。お迎えが来たようです」

 ルルーシュが振り返ると、階下にはユーフェミアの護衛らしき人間が数人到着していた。何を言わせるよりも先に、先手を打って話しかける。

「こちらのお嬢さんで助けられる者は全てのようだ。これより脱出に移る。ただし――」

 黒い仮面に四角い窓が生まれ、ギアスを宿す左目が露わになる。無論、その様子は角度の問題から、少女たちの視界には入っていなかった。

「私たちの安全確保のために、皇女殿下をお貸し願いたいのだが、構わないだろうか」

 そうして、ホテル内の騒動には終止符が打たれた。




 ◆◇◆◇◆




「来た、ゼロだ! 切り替えろ!」

 三号車からの映像が受信されると、ディートハルトはすぐさま食い入るようにモニターに見入った。

 小型の救命艇に乗った人質たちが岸に到着する様子を流していたHi-TVの臨時報道番組は、ここでゼロの動向を伝える内容に中身を変化させた。

 黒い衣装の男女数名を両脇に並べた仮面の男が、画面の中央に映し出される。黒服たちの顔はバイザーで隠され、下半分程度しか判別できない。そのまま数秒ほど無言の時が流れ、ゼロの演説が始まった。

『人々よ。我らを恐れ、求めるがいい。我らの名は――黒の騎士団!』

 それはエリア11全域に、ゼロの思想を端的に、そして印象深く知らしめるものだった。

『我々黒の騎士団は、武器を持たない全ての者の味方である。イレブンだろうと。ブリタニア人であろうと』

 視聴する者は皆、各々の思惑をもって彼の声明に聞き入った。

 出る幕の無かった特派の主任。その横で険しい顔をするランスロットのパイロット。

『日本解放戦線は、卑劣にもブリタニアの民間人を人質に取り、無残に殺害した。無意味な行為だ。草壁中佐は自らの非を悟り自決したが、それが無ければ、我々が制裁を下していた』

 日本解放戦線に身を寄せる客将。彼直属の四人の部下。

『クロヴィス前総督も同じだ。武器を持たぬイレブンの虐殺を命じた。このような残虐行為を見過ごすわけには行かない。ゆえに制裁を加えたのだ』

 ゼロの間近で救命艇に揺られる第四皇女。G-1ベースで歯噛みするエリア11現総督。

『私は戦いを否定しない。しかし、強い者が弱い者を一方的に殺すことは、断じて許さない! 撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけだ!』

 車椅子に座る盲目の少女。彼女の世話をする名誉ブリタニア人のメイド。

『我々は、力ある者が力無き者を襲うとき、再び現れるだろう。たとえその敵が、どれだけ大きな力を持っているとしても』

 騎士団の母体となったグループのリーダーを務めていた男。バイザーで素顔を隠すハーフの少女。

『力ある者よ、我を恐れよ。力無き者よ、我を求めよ。世界は、我々黒の騎士団が――裁く!』

 この日からほんの数日の後、ゼロ――黒の騎士団の行動理念は、エリア11の全ての者の知るところとなる。




 ◆◇◆◇◆




 シックに統一された家具が落ち着いた雰囲気を演出する、ゴットバルト家主人の私室。

「テロリストが騎士を名乗るだと? ふざけおって」

 忌々しげな男の声が壁に跳ね返る。
 ジェレミアであった。

「騎士とは主に仕え、主を護るものだ。忠義を尽くす相手無くして、何が騎士か。そうは思わんか? ヴィレッタ」

「当然のことかと思います。私にもジェレミア卿が」

 黒の騎士団は、自分たちが漠然とした弱者全てを護る存在――弱者に仕える騎士だと言いたいのだろう。ゼロの主張がそういった意味合いを持っていることをヴィレッタは理解していたが、敢えて口にしたりはしなかった。ジェレミアにもそんなことはわかっているはずなのだ。

「嬉しいことを言ってくれる」

 気遣いを察してか、ジェレミアはフと小さく笑った。

 ヴィレッタは過去に、ジェレミアに騎士としての矜持とは何かと問うたことがある。どこまで賛同するかは置くとして、その際の返答から、彼の皇室への忠誠心の高さを知っていた。
 それが一番に向けられるのは、今となっては潰えたヴィ家である。ジェレミアは八年前にマリアンヌ皇妃が殺害されたまさにその日、アリエスの離宮で警護をしていたのだ。騎士として無双の実力を誇った閃光のマリアンヌへの憧れと、彼女の暗殺をむざむざと許してしまった自責の念とが、ジェレミアのヴィ家に対する無類の忠誠の源泉となっている。

 だが、その至心が真に発揮されることはおそらく今後無いのだろうと、ヴィレッタは思う。
 マリアンヌ皇妃はこの世に無く、遺児であったルルーシュ皇子とナナリー皇女もエリア11で命を落とした。唯一残されたクラリス皇女は、皇帝陛下御自らの手により存在を抹消されたも同然の処置をされたと聞く。

 ジェレミアが黒の騎士団に反発を覚えるのは、その辺りも関係しているのだろう。誠の忠節を知るおのれには仕えるべき相手が居ないというのに、テロリストたちは仕える対象を曖昧な多数に定め、自分たちの勝手なルールで騎士を騙る。それが気に入らなさを助長しているのかもしれない。

 ヴィレッタにはジェレミアの煩悶の全てを理解することはできなかったが、それでも――おこがましい言い方をすれば――かわいそうだと感じる。
 とはいえ、口に出したところでどうにかなることでもない。いくら慰めを言っても、ヴィ家は戻ってはこないのだから。
 複雑な想いを抱えながら、ヴィレッタは黙ってテレビに目を移した。

 ゼロからの中継は既に終了している。画面には無事の再会を喜び会う家族の姿や、新たにやってきた救命艇から陸地へと飛び移る人質たちの模様が流されていた。

「――なッ」

 と、そのとき、ジェレミアの体が落雷に打たれたかのようにびくりと震えた。

「どうされました?」

 ソファから身を乗り出すジェレミアの瞳は、こぼれ落ちんばかりに大きく見開かれている。血にまみれていたためか即座にカメラを外されたようだったが、その直前、彼の視線の先には、つややかなアッシュブロンドを背中まで伸ばした、ハイスクールくらいの年齢の少女が映し出されていた。

「まさか、あのお方は……!」

 ヴィレッタの問い掛けなど耳に入っていないかのように、ジェレミアは呆然と呟いた。

 執務机に置かれた古い写真立て。
 シンプルな意匠が施された木枠の中には、過ぎ去りし日のヴィ家の四人が、幸せそうな笑顔で佇んでいた。



[7688] STAGE9 白雪 に 想う
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2011/01/18 16:07
 その日、Hi-TVトウキョウ支局の資料室には、三人の男女が居た。

 一人は職員である。河口湖の一件でプロデューサー職を追われたディートハルト。
 彼はゼロの演説を上層部からの停止命令を無視して放送し続けたことと、三号車を盗難されたことの責任を取らされる形で、資料整理の閑職へと回されていた。

 後の二人はブリタニア軍人であった。この日ようやく待機命令が解かれて自由に動けるようになったジェレミアと、彼の副官のヴィレッタ。

 この三人には過去に接点があった。枢木スザク移送――今となっては枢木スザク強奪事件として有名だが――の模様を伝える報道特番の予定が組まれた際、当時代理執政官であったジェレミアが、反イレブン色を強くするようにとプロデューサーのディートハルトに要請を行ったのだ。

 その縁があって、彼らはひと気のない部屋で一同に会する機会を得ていた。

 三人が見ているのは、河口湖事件の折に放送されていた臨時の報道番組である。

「止めろ。今のところだ。少し戻してもらえるか」

 真剣な面持ちでモニターを見つめていたジェレミアが声を上げた。ディートハルトは言われるままに数秒ほど巻き戻し、一時停止を掛ける。

「そう、この場面だ」

 静止した画面に映しだされているのは、救命艇から陸地に移る人質たちの姿だった。ジェレミアはそのうちの一人を手で指し示す。白いワンピースを血で染めたアッシュブロンドの少女だ。

「彼女がどういった素性の者なのかを調べてもらいたい。個人的な頼みゆえポケットマネーから支払うことしかできんが、報酬は弾むと約束しよう」

「何者です?」

「私もそれが知りたいのだ。少し、昔の知り合いに似ているように思えてな」

 ふむ、とディートハルトは返答に間を持たせた。

「ご自分で調べられても良いのでは? データ丸ごとはさすがに無理ですが、このコマ一つをコピーして行かれるくらいならお見逃しできますよ」

「そうしたいのは山々なのだがな、我々はこれから軍務でナリタ連山に向かわねばならん」

「ナリタ――たしか、日本解放戦線の本拠地があるとか無いとか」

「……切れすぎるのも考え物だな」

 鋭さを増すジェレミアの眼差しを、ディートハルトは肩をすくめて受け流す。

「買いかぶりを。私は左遷された身ですよ。貴方たちと同じように」

「だとしても、このままで終わるつもりも無いのだろう? そこでだ。こちらが本題なのだが、もう一つ頼みたいことがある」

 ジェレミアが言葉を切ると、ヴィレッタが後を継いだ。

「私立アッシュフォード学園。そこの男子生徒を調べてもらいたい。ゼロと何らかの繋がりがあると思われる」

「ゼロと、ですか」

 告げられた情報を吟味するかのように、ディートハルトの瞳がわずかに細められた。





 来客が立ち去った後、ディートハルトは椅子に深く腰掛け、ひとり思案していた。

 ジェレミアから提示された依頼は二つ。
 一方は、河口湖テロの報道に一瞬だけ映っていた少女の身元捜索。もう一方は、アッシュフォード学園の男子生徒の調査。

 前者はともかくとして、後者は雲を掴むような話だった。名前も顔も不明ながら、とりあえず男子生徒の誰かが怪しいというのである。
 とは言え、閑職に追いやられて時間だけは有り余っているディートハルトにとっては、ある意味最も適した仕事かもしれない。また、事実ゼロの秘密に迫れるのであれば、いかに労苦の重なる作業であろうと安いものである。普通であればそう考えるだろう。

 結論としては、ディートハルトはどちらの依頼も請け負った。

 ただし、この判断には裏がある。

 ジェレミアたちには色好い返事を返したディートハルトだったが、実のところ、アッシュフォード学園の男子生徒の件については、真面目に取り組む気がなかった。
 マスコミの人間としてはあるまじき姿勢なのかもしれないが、彼にはゼロの正体を積極的に暴こうという意志が無い。ゼロの活動が阻害されてしまうことを恐れているためだ。
 ディートハルトが撮りたいのは、ゼロという素材そのもの――計り知れない可能性を秘めた『ゼロ』という人物と、その軌跡なのである。中の人間が何者であろうと、本人が明かそうとしないのであれば明らかにする必要などないというのが持論だ。無論、自分から正体を暴く工作などしようはずがない。

 ではなぜ依頼を受けたのかと言えば、ジェレミアたち、ゼロの身辺を探る人間の動きを掴むためだった。
 行動の予測が立てられれば妨害も可能になる。

 そして、それとは別にもう一つ、この件には誰にも言えない大きなメリットがあった。

 ディートハルトは心中でほくそ笑む。

(……これで、黒の騎士団への手土産ができた)

 そう、彼はブリタニア人でありながら、黒の騎士団への参加を画策しているのである。

 河口湖での鮮烈なデビューからこちら、黒の騎士団はメディアを騒がせ続けていた。
 民間人を巻き込むテロ、横暴な軍人たち、犯罪組織、さらには汚職政治家、営利主義の企業など、法では裁けない対象を、毎日のように一方的な判断基準で断罪している。ただ、大衆にさしたる反発が表れないところを見ると、その基準は世間の認識に合致しているのだろう。

 今や黒の騎士団は英雄だった。イレブンたちの間では言うまでもなく、潜在的にはブリタニア人の中にも彼らを歓迎する風潮がある。
 黒の騎士団員を発見しても通報しない人間が次第に増えていき、比例するように組織自体も急速に拡大していった。現在も入団希望者は後を絶たないという。

 間近でゼロを撮りたいと願って止まないディートハルトである。契機が訪れればそこに飛び込むつもりでいた。
 とは言え、ブリタニア人であるからには、スパイの疑いを持たれるのは当然のこと。ならば疑惑を覆せるだけの何か、あるいはスパイであろうと構わないと思わせるだけの何かを示さねばならない。
 その何かが、この日手に入ったのだ。

 この流れで軍部の人間とのパイプが確立されれば、この先も有益な情報をいち早く入手できるかもしれない。
 一度の情報提供だけで入団審査を通るとまでは楽観視していないが、これが大きな足がかりになり得るのは間違いない。

(今私の手元には、軍部が極秘裏にナリタヘ遠征しようとしているという、強力な情報カードがある。この機を逃す手はない。しかし――)

 ディートハルトには一つ気がかりな点があった。

(あの血まみれの少女。なぜジェレミアは自分で調べようとしない?)

 軍務があるのはわかる。しかし、そんなものは大したタイムロスではないはずなのだ。日本解放戦線の本拠地を叩くと言えば大仰に聞こえるが、客観的に戦力差から分析する限り、それほど日数の掛かる作戦になるとは思えない。
 少女の素性を調べるだけなら、その後に自らの手でやれば事足りるのではなかろうか。

 その短い時間を惜しむというのは、すなわち、そこに急ぐだけの理由があるということだ。
 今でこそ落ち目にはなっているが、軍内でも有数の派閥を率いていた男が重要視するだけの理由が。

(学生の方は形だけの報告で済ませるとして、少女の方は――やはり調べてみるべきか)

 今後の方針を固めると、ディートハルトは席を立ち、黒の騎士団と接触するために行動を開始した。




 ◆◇◆◇◆




 トウキョウ周辺に点在する黒の騎士団の拠点のひとつ。巨大な倉庫のような空間に、十数体のナイトメアが並べられていた。
 ブリタニアの日本侵攻の際に主力として用いられたグラスゴーによく似たデザインである。日本側が鹵獲したグラスゴーを元に複製、改造を施した、無頼という名の機体であった。

 黒の騎士団の成長は認知度、人員数のみに留まらない。無論表立ってのことではないが、ナイトメアの所有を可能にするまで、支持団体の数も増えていたのである。

 中でも飛びぬけて大きな援助を申し出たのが『キョウト』と呼ばれるグループだった。

 この無頼にしても、半数以上がキョウトの資金によって配備されたものである。
 それだけに留まらず、かれらは黒の騎士団に対する期待の程を示すかのように、この日一つの贈り物を届けさせていた。

 腰に片手を当てて悠然と構えるゼロの前で、カレンが目を見開いて上方に視線を送っている。

「これが、紅蓮弐式……!」

 そびえる紅色の機体は、日本で――いや、世界で一騎しか存在しない純日本産のナイトメアであった。ブリタニア産のものとは設計思想が異なるものの、換算すれば第七世代ナイトメアフレーム相当のスペックを誇るという、恐るべき代物だ。
 ナイトメア開発最先進国であるブリタニアですら、第七世代のナイトメアフレームはランスロット一騎のみしか開発されていないと言えば、その凄まじさが伝わるであろうか。

 これまで絶対的と思われていた力関係を覆す可能性を秘めた機体である。

 興奮を隠せぬ様子のカレンに向けて、ゼロがキーを放った。ちゃらりと金属音を響かせて手中に収まった固い感触に、カレンは目を落とす。

「これ……?」

「紅蓮弐式は、カレン、きみの物だ」

「私が? でも、今は人も増えたし、紅蓮の防御力なら貴方こそが――」

「きみがエースパイロットだ。私は指揮官、無頼は使うが、戦闘の切り札はきみだけだ」

 一度は辞退しようとしたカレンだったが、期待と信頼の滲んだ言葉にわずかに喜色を浮かべ、そしてすぐに神妙な顔になって頷いた。

「はい、わかりました」

 そこへ、かつかつと小さな靴音が響く。バインダーを手にした扇が奥から歩いてくるところだった。

「ゼロ、ちょっといいか?」

「何だ?」

「変な情報が上がって来た。入団希望のブリタニア人からだ。我々を誘い出す罠じゃないのかな。裏を取ろうにも、迂闊にこの男に接触するのは危険だし、かといって無視するには大きすぎる情報だ。どうすればいい?」

 扇は仮面の指揮官に資料を手渡す。一番上の紙面には情報提供者の氏名と簡単な経歴、別紙に報告の内容が記されていた。

 まとめれば、ディートハルト・リートという名のテレビ屋からもたらされた、週末に軍部がナリタ連山への大規模な遠征を行うらしいという情報のようである。

 少し考える素振りを見せてから、ゼロは言った。

「――週末はハイキングかな。ナリタ連山まで」




 ◆◇◆◇◆




「うーん……うーん、うぅーーーん……」

 ルルーシュが生徒会室を訪れたとき、真っ先に目に入ったのは、壁に寄りかかって腕組みをするミレイの姿だった。

「何を唸ってるんです? またどこかの部活が無理難題を吹っかけてきたんですか?」

「いやぁ、そうじゃなくてさ。何か面白いイベントでも無いかなーって」

 軽い調子で告げられた悩み事に、ルルーシュは小さく苦笑する。

「この間アーサーとマーリンの歓迎会をしたばかりなのに、まだ遊ぶ気ですか」

 生徒会メンバーに可愛いがられている二匹の猫は、今日も元気にクラリスとシャーリーにじゃれついている。微笑ましい光景に目を細め、ルルーシュは椅子に腰を下ろした。

 ニーナはいつもどおりパソコンの前。カレンとリヴァル、スザクの姿は無かった。

 ミレイはわかってないわね、と一本立てた指を左右に振り、悪戯っぽく笑ってみせる。

「せっかくモラトリアムやってられるんだから満喫しとかないと。もったいないじゃない。あんたたちと違って私は今年で卒業なんだし」

「気持ちはわかりますけど、まだあれから一週間ですよ。予算だって無尽蔵にあるわけじゃないんですし――」

「あーんもう、そういう正論はいいのよ。遊びたいときに遊ばなきゃ絶対あとで後悔するんだから」

 浪費癖で家の傾きに拍車を掛けたアッシュフォード家当主の血は、ミレイにもきちんと流れているらしい。ルルーシュは生徒会長の将来を少々心配したが、口には出さなかった。

「会長!」

 シャーリーがピッと片手を上げる。

「はい、フェネットさん。発言を許可します」

「何かやるなら外でできるのがいいです!」

「外?」

「ほら、ちょっと前まであんまり出られなかったじゃないですか。マスコミがうるさくて。そろそろいなくなったみたいですし、ここは屋外でパーッと元気に!」

「体育会だねぇシャーリーは。でもいいかもね。その方向で何か検討してみよっか」

 うんうんと頷くミレイを眺めながら、ルルーシュはしばらく前の学園の様子を思い浮かべていた。

 ホテルジャック事件のあと、アッシュフォード学園には大勢のマスコミ関係者が訪れるようになった。人質となった生徒たちにインタビューを求めようというのである。

 理事長のルーベンは、それらの全てを禁止した。

 記者たちが敷地内に踏み入るのは当然厳禁。
 学園生や教職員にも、無責任な事件の伝聞や、たとえ確かなものであっても人質となった生徒の情報をみだりに広めないようにと厳命した。被害者の感情を考慮できないような者は厳罰をもって処すると。

 表向きは教職者としての至極真っ当な判断であったが、その裏に人質となった理事長の孫――ミレイの存在があることを誰もが承知していた。生徒たちの間には退学すらあり得るのではないかとの憶測が広まり、結果、執拗なマスコミの攻勢にもほとんど折れる者は出なかったようだ。

 その強硬な態勢の理由にはもう一つ裏がある。
 ルルーシュ以下、ほんの数人しか知らぬ真実。

 ルーベンが守ろうとしていたのはミレイではなく、クラリスである。もちろんミレイを大切に思う気持ちもあっただろうが、取り返しの付かない事態に発展しうるのは皇女であるクラリスの方だ。
 アーベントロートの護衛も全力を挙げて協力し、クラリス本人も幾らか金を使ったと言っていた。

 その甲斐あって、ホテルジャック救出時の生中継で放送された一瞬以外では、クラリスの顔は一切世に出なかった。他の生徒会メンバーについてもほとんど差は無い。
 最近では旬が過ぎたのか、報道関係者らしき人影を見ることもなくなっている。

 窮屈だった日々から解放されたお祝いを野外で行うというのは、案外良い案なのかもしれなかった。

「でもさ、実は少しテレビ出てみたかったー、とか思わない?」

 ミレイの問いかけに、シャーリーはばつが悪そうに首をすくめた。

「ちょっとだけ。実際は一回出たらもううんざりってなるんでしょうけど」

「きっとそういうもんよね。クラリスは?」

「私は絶対に嫌です。犯罪の被害で顔を出すなんて。興味本位の視線に晒されるって考えただけで気持ちが悪くなりません? 同情を求めているみたいに受け取られるのも癪ですし。ニーナもそう思わない?」

「えっ、私?」

 パソコンデスクについていた少女は、チェアを回してクラリスに向き直る。

「テレビに映るのどうかしらって。カメラも来ていたでしょう? ちょっとくらい出たいと思ったりした?」

「私は、その……」

 端正な相貌と真正面から向き合うと、ニーナはすぐにおもてを伏せ、しどろもどろに答えた。

「クラリスとか、みんなみたいに、綺麗じゃないし……」

「そんなことはないでしょう。ニーナは可愛いのに着飾ろうとしないから自分で勘違いしちゃってるのよ。なんなら今度二人で買い物に行く? 私が似合いそうなのを選ぶわ。眼鏡も取って髪型も変えて。アクセサリもつけてね。きっと見違える――」

「ダ、ダメッ! そんなの!」

 ニーナの上げた声は珍しく大きく響いた。皆が虚を突かれて呆気に取られ、生徒会室には奇妙な沈黙が訪れる。

 過ぎた時間はおよそ五秒ほどだっただろうか。
 一番先に回復したのはクラリスだった。

「……まぁ、無理にとは言わないけれど。さすがに少し傷付くわね。そんなにきっぱり拒絶されると」

「ぁ……ごめん、そういうつもりじゃなくって」

「そう? ならいいわ。また今度誘わせて頂戴」

「え、あ……うん。今度ね」

 少しばかり歯車が噛みあわなかっただけと言ってしまえばそれまでだが、どことなく空気が落ち着かない。
 居心地の悪さを感じたルルーシュは、生徒会室に来た本来の目的を果たすことにした。

「なぁ、クラリス、これから空いてないか? ナナリーが会いたがってるんだ」

「ナナリーちゃんが?」

「ああ。帰りに寄っていってくれると助かる」

「帰りっていうか、別に今からでも大丈夫。出ましょうか?」

 クラリスは両手に抱いていたマーリンを床に下ろす。妙な雰囲気を作ってしまった自覚があるのだろう。ルルーシュの提案を助け舟と捉えたのか、返答は早かった。

「そうだね、遅くならないほうがいい。じゃあみんな、悪いけど、俺たちはこれで」





 ルルーシュとクラリスが出て行ったあとの生徒会室には、どこかぎこちなさが残っていた。三人とも気心の知れた仲だから、そう長続きはしなかったが。

 シャーリーが連れ立って出て行った二人の関係を怪しんで憤り、ミレイがからかい混じりになだめ、ニーナがときおり突っ込む。そんな時間がいくらか続き、やがてシャーリーも寮に帰った。

 二人きりになり、ミレイが過去の資料のファイルを捲ってイベントのネタを探していると、ニーナが思いつめたような顔で口を開いた。

「あの! ミレイちゃん」

「うん?」

「私、ユーフェミア様に会いたいんだけど、どうにかならない?」

「ユーフェミア様?」

「うん。ホテルジャックのとき助けようとしてくださったのに、お礼、言ってなかったから……。ずっと気に掛かってて」

 ミレイはわずかに眉を寄せ、考え込むようにうーんと喉を鳴らす。

「ウチも昔ならそれくらいできたんだけどねぇ。今はどうだろ、無理なんじゃないかな」

「そっか……」

 落胆したように息を吐くニーナを見つめながら、ミレイは何気ない口調で続けた。

「私よりクラリスに頼んだら? 今ならウチなんかよりアーベントロートの方がよっぽど力あるし、あの子なら何とかすればいけるかも」

 本当にその案で成功するとは思っていない。むしろクラリスは積極的に皇族との接触を避けようとするだろうとミレイは予想していた。

 ただ単に、先ほどのニーナの態度が頭に残っていただけなのだ。とはいっても確たる何かがあったわけではない。なんとなく引っかかっていたから、引き金となったらしいクラリスの話題を振ってみた。その程度の話だ。

 果たして、ニーナはうつむきがちになって言った。

「だ、ダメ! クラリスじゃ……その、ダメなの」

 やはり何か屈託があるらしい。

「……まぁいいけどね。喧嘩してるとかじゃないみたいだし。でも、自分で解決できないようなら、あんまり溜め込みすぎないうちに相談しな。なんでも聞いてあげるから」

 ミレイは優しく微笑むと、ニーナの頭にぽんと軽く手を置いた。




 ◆◇◆◇◆




 クラリスと並んで部屋に戻ったルルーシュに早速投げ掛けられたのは、C.C.からの笑い混じりの声だった。

「今日は嫁を連れて帰ってきたか」

「何だそれは? 引きこもりすぎて妄想と現実の区別が付かなくなったのか?」

「私をそこいらの阿呆と一緒にするな。お前の妹から聞いた。『お兄様とお姉様は将来結婚するんです』とな」

「ああ、それなら『嫁』は間違いね。ルルーシュがウチに入るんだもの。婿よ」

 さらりと返したクラリスに、C.C.はわずかに目を見開く。

「まさか、本気か? ナナリーも半分冗談のような口ぶりだったのに」

「さぁ、どうかしら。でも私は、そういう選択肢もあっていいと思うのよ」

 言って鞄を置き、ダイニングテーブルの椅子を引く。

 クラリスがルルーシュの部屋に訪れる頻度は、ここ最近で一気に増えていた。
 マスコミから逃れるためという名目を最大限に利用したのである。夜遅くまで時間を潰し、日によってはそのままベッドを借り――何度かそうやっているうちに、生徒会メンバーもなし崩し的にこの関係に口を挟まないようになっていった。

 もはや勝手知ったる我が家のような気安さだ。

 どうでもいい雑談を交わしながらルルーシュが紅茶の支度を始めると、電動車椅子の静かな駆動音が鳴った。

「おかえりなさいませ、お兄様。お姉様もようこそいらっしゃいました」

「ただいま、ナナリー」

「お邪魔するわ」

 やがてポットにお湯が入り、四人でテーブルを囲む。全員の手元に湯気の立つティーカップが行き渡ると、ルルーシュは切り出した。

「今日はクラリスに頼みたいことがあって。週末に家を空けるんだが、そのときナナリーを預かって欲しいんだ」

「旅行でも行くの?」

 実際は黒の騎士団の活動である。
 ディートハルトというブリタニア人からの情報を元に、ナリタまで遠征をする計画を立てたのだ。しかし馬鹿正直にそんなことを言えるはずも無い。

「まぁ、そんなものだな」

「C.C.さんも一緒なんですって。お二人で二泊して来るんだそうです」

 ナナリーが少し寂しそうに補足する。妹の沈んだ表情を見たクラリスが、ルルーシュに胡乱な眼差しを送った。

「泊まり? C.C.と? ナナリー抜きで? ……ふぅん」

 ルルーシュの唇がへの字にゆがむ。
 歳若い男女二人が外泊してこようというのだ。いかがわしく聞こえるであろう自覚はあった。想像通りの反応ではあるのだが、やはり妹に冷ややかな対応をされるのはこたえる。

「ずっと一緒に住んでいるんだから、そういうのもあるわよね。C.C.って美人だし」

「やっぱり、そうなのですね……お兄様」

 何かの確信を深めたのか、ナナリーの声も一段トーンが落ちていた。

「何だルルーシュ、お前そういうつもりで誘ったのか」

「そんなわけがあるか! お前は黙っていても付いて来ようとするだろうが。だったら始めから連れて行った方が面倒が無い。それだけのことだ。妙な邪推をするな」

 興奮気味にまくしたてるルルーシュに、クラリスは薄い目になって口の端を上げて見せた。

「まぁ、そういうことにしておいてあげましょうか。無理に白状しなくても大丈夫よ」

「違うと言ってるだろ」

「安心して。帰ってきたとき私の相手をしてくれたら怒らないから。その代わり、どれだけ上手になったか教えてね」

「何の話だ?」

「わからなかった? なんならこれからベッド行く? って言ったらわかる?」

「おま……っ!」

 ルルーシュは絶句して視線を泳がせる。すると、笑いをこらえるように不自然に口元を引き結んでいる下の妹が視界に飛び込んできた。

「ナナリー?」

 声を掛けるとぷっと小さく吹き出す。そしてくすくすと上品に肩を揺らした。

「お姉様が以前、お兄様はからかうと面白いって教えてくださったんです。『こういう方面は受け流すのが得意じゃないみたいから、今度弄ってみましょう』って」

 一気に事情が飲み込めて、ルルーシュは疲れたように嘆息した。

「……お前な」

 ナナリーにロクでもないことを吹き込むな、とクラリスに抗議しようとしたところで、「大成功」と楽しそうに手を合わせている妹たちの姿が目に入る。ルルーシュは考えを改めて無言のまま口を噤んだ。

 クラリスが部屋に来るようになって、ナナリーは幾らか明るくなった。C.C.の影響もあるのかもしれないが、どちらにしても兄妹二人で暮らしていたときよりも笑顔が増えたのは間違いない。
 それを思えば、自分が出しに使われることなど不快でもなんでもないのだ。

 温かい気持ちで紅茶を口に運んでいると、やがて笑いを収めたクラリスがルルーシュに向き直った。

「それで、今週末はナナリーをウチに招待すればいいのかしら」

「そうして貰えると助かる」

「咲世子さんにお願いしてもいいんですけど、わがままを言ってみたくなって。お姉様の家、行ってみたいなって」

 実はこれはナナリーが言い出したことだった。世話係のメイドに依頼しようとしていたところを、クラリスに頼めないかと言ってきたのだ。
 普段自分を前に出すことがあまり無い妹の希望である。ルルーシュはできるものなら全て叶えてやりたいと思っていたし、おそらくもう一人の妹もその気持ちは変わらないだろう。

「駄目でしょうか?」

 躊躇いがちに聞くナナリーに、クラリスはフっと柔らかく頬を緩めた。

「まさか。歓迎するわ」




 ◆◇◆◇◆




 週末。

 ナリタ連山での作戦行動は、戦後のエリア11では稀に見る大規模なものとなっていた。最大の反抗勢力を叩き潰そうというのだから当然と言えば当然ではあるが、だとしても動員された戦力は圧倒的である。

 最新鋭ナイトメアフレームグロースターを駆るコーネリア総督の親衛隊をはじめ、ブリタニアの主力兵器であるサザーランドが配備された部隊。その人員数は実に四個大隊に上る。
 さらには予備戦力として謹慎を解かれた純血派の部隊が控え、友軍としてランスロットを擁する特別派遣嚮導技術部が後方に待機している。

 敵戦力の詳細は不明ながら、過去のテロに投入された武装から鑑みるに、一方的な展開になることは誰の目からも明白だった。作戦が開始されれば、日本解放戦線は一日と持たずに壊滅するに違いない。

 『獅子は兎を狩るにも全力を以ってす』というが、その典型であろう。
 コーネリアはいかに彼我に隔たりがあろうと決して油断などしない性質をしており、部下たちにもその気質は浸透していた。
 末端に至るまで、その士気は高い。

 しかし、何事にも例外というものは存在する。今回におけるそれは、後方に配置された純血派であった。

「このような場所では、我々の名誉を取り戻す機会など与えられないではないか……!」

 サザーランドのコクピット内で、ヴィレッタは同僚の騎士キューエル・ソレイシィの苛立たしげな声を聞いていた。

 キューエルは元は忠義に篤い典型的な純血派の将校だったのだが、枢木スザク強奪事件の後にはジェレミア排斥を画策したこともある、今では反ジェレミア勢力の筆頭とも呼べる位置にいる男だ。

「たしかにな。後ろ備えとは、純血派も落ちたものだ」

 冷静に応えるジェレミアに、キューエルはさらに激高する。

「オレンジッ! よもや貴様誰の招いた結果か知らぬとは言わんだろうな!?」

「私だな。それは素直に謝ろう。しかし、ここで気を急かしては作戦に良い影響を与えんぞ、キューエルよ」

 少し前までのジェレミアであれば反応したであろう『オレンジ』の蔑称。転落のきっかけとなったゼロとの一件を想起させるその言葉を受けても、今日の彼は落ち着いていた。

 この変化の理由を知っているのは、本人を除けばヴィレッタただ一人だ。

 ――クラリス・ヴィ・ブリタニア。

 テレビに一瞬だけ映っていた血まみれの少女の名を、ジェレミアはそうだと断言した。
 潰えたはずのヴィ家の生き残り。マリアンヌ皇妃の忘れ形見。自らが仕えるべき絶対の主君であると。

 ヴィレッタの見るところ、ジェレミアがゼロに対して尋常ならざる執念を燃やしていたのは、地位を失墜させられたこと自体を恨んでいたためではない。位を上げる可能性を失ったことにより、皇室に近づく――忠義を尽くす機会が奪われたと憤っていたのだ。

 そこに、もはや手の届くことは無いと思われていた最上の人物が登場したのである。その喜びは計り知れない。零れ落ちたものを全て取り戻し、さらに溢れさせるほどの歓喜を味わったに違いあるまい。
 むしろ漠然と上を目指していた頃よりも安定したようにも思える。

 皇女の御許に参じて肯定的な言葉を賜れば、これがさらに磐石のものとなるのだろう。
 その日はおそらく遠くない。あの優秀なテレビ局の男ならば、時間を掛けずに身元を明らかにしてくれるはず。

 ディートハルトへの依頼は、現実的に実行し得る、皇女と接触するための最短の方法だ。

 待機を命じられていた期間にヴィレッタが進言した、誰か人を使って調べさせてはどうかという案。これは信用できる者が居ないとの理由で却下されていた。

 軍の人間を私用で使おうとすれば不審なこと極まりないし、かといっておいそれと事情を明かせる問題でもない。相手は有望株とされながらも行方の隠されていたブリタニア皇女である。利用方法など嫌になるほど考え付く。しかも下手に情報が広まれば暗殺の恐れもある素性だ。

 その点、外部の人間であればそこまで不自然も無く依頼できる。
 ゼロに繋がる手がかりをカムフラージュに混ぜてやれば、どこのものとも知れぬ少女の裏まで探ろうなどとは考えまい――。

 ジェレミアは今回の行動についてそう説明した。

 ナリタへ遠征する数日を惜しんだことについては、他に気づいた者がいた場合に備えてできるだけ早く情報を得ておきたいというのがジェレミアの弁だったが、本音では拝謁の時期を早めたいだけなのではないかというのがヴィレッタの見立てである。

 いずれにせよ、上官の沈着さは戦場においては歓迎すべき材料だ。
 ヴィレッタは鋭く意識を研ぎ澄ませながら、出撃の合図が掛かる時を待った。

「――後ろ備え。良いではないか。私はこの戦で果てるわけには行かんからな」

 誰にともなく言う、ジェレミアの不敵な声が聞こえた。




 ◆◇◆◇◆




 トウキョウ租界に建つアーベントロート邸には、珍しい人物の姿があった。

「ここがクラリスさんの家なのですね」

「ええ。ようこそ、ナナリー」

 電動の車椅子に乗った、ジュニアハイスクールくらいの年頃のかわいらしい少女だ。足が不自由なのに加えて目も見えないらしく、屋敷に入るまでは介添えのメイドが付いていた。

 何者なのかとバーンズが問えば、クラリスは恋人の妹なのだと言う。横で聞いていたナナリーという名前らしい件の少女は、「もう恋人になったのですか?」と、驚きよりもからかいの多く含まれた口調で返していた。

 バーンズはそのセリフの内容と親密さとのギャップに違和感を覚え――結局なにも見なかったことにした。学校で会うことも無いであろう歳の離れた少女が、兄との関係をネタにクラリスと笑い合えるのはどこか不自然だったが、それは自分とは関わりのないことなのだ、と。

 このときバーンズの脳裏には、クラリスと初めて会った日の会話が蘇っていた。
 毒ガステロの報道を眺めながら、理知的な少女はこう語った。

 ――実際に起こった出来事というのは、突き詰めれば不自然ではなくなるはずなのよ。原因の存在しない事象なんてあり得ないんだから。もし不自然と感じるのだとしたら、観測者の視点がずれているか、情報が足りていないかのどちらかだわ。

 ――観測者の視点が正しく、情報も十分に揃っている状況。それでもなお不自然なのだとしたら、それは『嘘』よ。視点が正しいと思い込まされている。情報が十分だと思い込まされている。そういうこと。

 バーンズがクラリスの決定的な『不自然』を見つけてしまったのは、ホテルジャック事件のときである。

 クラリスが部屋まで赴いて親しげに話をしていた桃色の髪の少女――ただ単に護衛をつけられる身分のどこかの令嬢なのだろうと思っていた彼女が、実はユーフェミア第四皇女だった。

 EUで箱入り育ちをしていた子爵令嬢と、ブリタニアの最中枢で育ったであろう皇女。
 面識などあるはずがない。

 これ以上はない『不自然』だった。

 ユーフェミアが皇女であることは確定している。となれば、クラリスの方が『嘘』なのだ。

 ここまでは以前から薄々感付いていた事柄である。では、ホテルジャックの一件を加味して、ブリタニア皇族と親しげに話ができる育ちをした少女が『何』なのかと考えると――。
 そこでバーンズの思索は止まる。

 本人に尋ねれば、おそらくクラリスはもう隠そうとはすまい。疑わしい材料は既に揃っているし、聡明な彼女がそれに気付いていないはずはないのだから。

 だが、バーンズには訊けなかった。訊けなかったし、自分で裏づけを得て結論を出すこともしなかった。
 そうしてしまえばもはや後戻りはできないと知っていたから――そして、別の世界に身を投じるだけの覚悟がなかったからだ。

 ゆえに、バーンズは今日も疑問を口にせず、過度な装飾を施されたリビングで、歳の離れた二人の少女の様子を眺めている。

 車椅子からソファに移されたナナリーは、ぴったりと寄り添ってクラリスと座り、談笑しながら紙を折っていた。

「できました!」

 パッと笑顔を咲かせて差し出した手のひらには、翼を広げた鳥だろうか、小さな紙細工が乗っている。

「あら、鶴?」

「はい、咲世子さんに教えてもらったんです。この鶴を千羽折るとね、願いが叶うんですって」

「素敵な願掛けね。ナナリーは何をお願いするの? ……あ、待って。当ててみましょうか」

 クラリスは小さな手の上から紙の鶴を取り上げ、尻尾の先を摘まんでくるくると回転させる。
 しばらくそうして間を持たせてから、言った。

「――『優しい世界でありますように』」

 ナナリーは驚いたように眉を跳ね上げる。

「すごい、ぴったりです。どうしてわかったのですか? お兄様から聞きました?」

「いいえ、違うわ。私もね、同じことを願っているのよ。優しい世界でありますようにって。だから、みんなが同じことを願っていたらいいわねって、それで言ってみたの」

 話すクラリスの表情は、口にした内容と同じく、とても優しい。

 柄でもないと自覚しながら、バーンズは胸中でその願いに賛同した。
 戦争など無ければいいし、人が人を虐げることなど無ければいいと思う。優しい世界というのは、そういった場所なのだろう。

「じゃあ、クラリスさんも鶴を折りましょう? 二人で願えばきっと二倍叶います」

「何よそれ。でもいいわね。私も暇なときに折ることにしましょうか」

「はい!」

 苦笑しながら頷くクラリスに、ナナリーが顔を向ける。

「あ、折り方はご存じでした?」

「ええ、大丈夫。――そうだ」

 クラリスは思いついたように言うと、テーブルにあった紙を手に取った。

「ナナリー、折り紙教えてあげよっか。鶴のほかにも」

「クラリスさん、折り紙がお出来になるのですか?」

「ええ、ほんの少しだけれど。私も日本で暮らしていたことがあってね」

 何気なく出てきた言葉に、バーンズの眉がピクリと動いた。
 またしても『不自然』だった。もはやこれは『嘘』と言ってしまった方がいいかもしれない。

 だとしても、バーンズには取るべき行動などありはしないのだ。

 無言で見つめる視線の先で、純真そうな少女は無邪気に楽しげな声を出す。

「まぁ、本当ですか? いつ頃の話なのでしょう。私とお兄様が日本にいるときですよね?」

「そうね」

 過ぎ去った日々に想いを馳せるかのように、クラリスはどこか遠い場所に視線を投げた。

「――ずーっとずっと、昔のことよ」




 ◆◇◆◇◆




 ナリタ連山の山頂付近に、一陣の風が吹いた。薄っすらと天から降りてきていた雪が、羽毛のように舞い上がる。

 ブリタニア軍よりも先にナリタに入っていた黒の騎士団は、幾つかある峰のうち、日本解放戦線の本拠地に程近い位置のそれを目指していた。
 ルルーシュは単身先行し、ギアスで解放戦線の監視小屋を攻略。部隊の到着を待っているときに、その光景を目撃した。

 はらはらと舞う雪の中、ちらりと別の色彩が見える。白の中に映えるライトグリーンは、よく知った少女の髪だった。

「――C.C.、何をしてるこんなところで」

 小屋を出て歩み寄ったルルーシュに、C.C.は振り向かずに言った。

「ルルーシュ、お前はなぜルルーシュなんだ?」

「哲学を語ってる余裕は無い」

「家の名はランペルージに変えた。だが、ルルーシュという個人は残した。甘さだな、過去を捨てきれない」

 C.C.の指摘は的を射ていた。だがそれを悪いとは思わない。

 ルルーシュは、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアとして過ごした日々に誇りを持っている。
 家族四人で過ごした時は、間違いなく自我の礎となっており、それを否定する気など微塵も無い。戻りたいとまでは思わずとも、懐かしむことならある。

 甘さと言うのなら、たしかにそうなのだろう。

 それでも、魔女を自称する目の前の女に言われる筋合いは無いと思った。あまりにも価値観がずれすぎている。

「だからってC.C.はやりすぎだろう。人間の名前じゃない」

 C.C.は応えず、首を傾けて空へと視線を送る。

 一度強めの風が吹いて、長い髪と一緒に雪華を巻き上げた。

「ルルーシュ、雪がどうして白いか知っているか?」

 C.C.は振り返り、かすかに笑む。

 透き通るような表情だった。邪気のない、儚げな微笑み。だというのに、奥にある感情は見通せない。
 魔女の心は深く遠い――過ごしてきた年月と同じほどに遠い場所にあるのかもしれなかった。

 答えを返さないルルーシュに向けて、C.C.は淡々と告げた。

「――自分がどんな色だったか、忘れてしまったからさ」




 ◆◇◆◇◆




 その晩、少女は夢を見た。



 色鮮やかな世界。

 場所がどこなのかは正確にはわからなかった。たぶん、誰かの部屋だ。

 家具の類ははっきりと見えるのに、人の顔はぼやけている。
 それでいて、響く言葉は明瞭だった。

 ――ねえ、何かオススメのアニメってない?
 ――なぁに、■■ったらまた?

 ざらり。
 一瞬ノイズが混じった。

 けれど、そんなことにはお構い無しに、会話は続いていく。

 ――別にそんなに熱心に見てるわけじゃないんだけどね、作業中とか横で垂れ流しにしてると、なんか落ち着くから。
 ――とか言ってー、■■って超詳しいじゃん。

 ざらり。
 もう一度。耳障りな音が大事な何かを塗りつぶしてしまう。

 ――勧められたやつだけだよ。BGM代わりに何度も再生してるとさ、勝手に覚えちゃってんのよね。
 ――まーたまたぁ。今度イベントとか連れてったげるから。
 ――遠慮しとく。そこまでハマりたくない。
 ――んじゃあ、私がすっごいオススメを紹介してあげよう。■■の好きそうなやつ。

 ざらり。
 唇の動きを追おうにも、曖昧な輪郭はそれを許してくれない。

 ――あんたはきっとハマるわ。そして私とイベントに出たくなる!
 ――それはない。
 ――えー。友達甲斐の無いことを。そんな寂しいこと言う■■には教えてやんない。

 ざらり。
 映像自体にもノイズが掛かり始める。

 きっとこの世界はもうすぐ消えてしまうのだ。
 まだ、聞けていないというのに。

 ――わかったよ。出るかもしれないから。教えて。なんていうの?
 ――よっし、そこまで言うのなら教えて進ぜよう。そのアニメはね――。




 ◆◇◆◇◆




「――コードギアス……か。はは……」

 ベッドの上に身を起こし、少女は力なく笑った。

 照明の消えた部屋には、二人分の息遣いがある。目を覚ました少女のほかに、すぐ隣で穏やかに寝息を立てている、もう一人の少女。良く似たアッシュブロンドがシーツに広がっていた。

 少女は静かに寝台から下りると、絨毯を歩いて室内に設えられた小型の冷蔵庫に向かった。取り出したミネラルウォーターのキャップをひねり、飲み口を唇に当てる。こくりこくりと小さな音が鳴るのに合わせ、軽く反らせた白い喉が上下に動いた。

 ボトルを置くと、小ぶりな口から大きな溜息が漏れる。

「……ナリタって、雪降ったのよね、きっと」

 足音を抑えてしずしずと机まで行き、学生鞄からパスケースを取り出す。中を開けば、アッシュフォード学園高等部の学生証があった。顔写真の横に、氏名を示す文字が書き込まれている。

 印字された名前にしばらく目を落とした後、ベッドで眠る少女に視線を移す。
 そして天井を仰ぎ、少女は再び大きく息を吐いた。

「……ねぇC.C.、貴女の本当の名前は、何ていうのかしら」

 ポツリと呟く。
 それはひどく頼りない、迷子のような声音だった。

「私、わかんなくなっちゃったよ。自分の名前」



[7688] STAGE10 転機
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2011/01/18 16:06
 トウキョウ方面からナリタヘと向かう一本の道路。
 普段はそれなりの交通量がある道だったが、今に限って言えば上りも下りもさほどの車両がなかった。下りに関してはむしろほぼ皆無と言ってしまった方が正しいかもしれない。
 理由は単純で、軍部によって通行が規制されているためである。ナリタ連山での軍事行動のために取られた措置であった。

 見渡す限り無人となったその道を、二台のトレーラーが走っていた。上り方向ではなく下り方向に。状況を考えれば、先に置かれた検問で足止めを喰らうか、引き返すことを余儀なくされるのは確実だった。
 しかし、他の車が無いのを幸いとばかりに、トレーラーは広い道路を法定速度をはるかに越えたスピードで走り続ける。

 この車両に乗った面々からしてみれば、交通規制など知ったことではないのだ。ブリタニア軍の都合など全て踏み潰したところで何ら心に感じることは無い。

 彼らのリーダーは藤堂鏡志朗という男だった。
 日本解放戦線に客将の身分で身を寄せる旧日本軍の中佐である。

 同じ旧日本軍に端を発する組織にいるにもかかわらず、なぜ客将などという特別な立場が成立するのかといえば、それは彼の成した功績に原因があった。
 第二次太平洋戦争当時、後に『厳島の奇跡』と呼ばれることになる戦いによって、唯一ブリタニア軍に土をつけることに成功したのがこの東堂鏡志朗である。実際には奇跡などというものではなく、綿密な情報収集と卓越した指揮能力があってこそ得られた、当然の勝利であった。ゆえにこそ彼の評価は高いのだ。

 藤堂は無人の道路の先を見つめ、表情を険しくする。彼の優れた戦術眼をもってすれば、現在の状況が示す結論は明らかだった。

「朝比奈、千葉、無頼改の準備だ。後ろの卜部、仙波にも伝えろ。ナリタを囲む形での交通規制――事は既に始まっている」

 キョウトからの申し出を受けて無頼の改良型ナイトメア『無頼改』を受け取りに行っていた帰りである。新型の兵器があることを喜ぶべきなのか。本部で対応に当たれなかったことを悔やむべきなのか。
 一瞬だけ考えて、藤堂は首を振る。
 相手はブリタニアの魔女だ。包囲の中に閉じ込められてしまえば、死を先延ばしにする程度の抵抗しかできまい。ならばこれは僥倖と言うべきなのだろう。

「藤堂さん、検問が!」

「速度を緩めるな、強引に突っ切れ」

「了解!」

 指示を受けた朝比奈がアクセルを踏み込む。巨大な黒い車体が速度を上げて突っ込むと、道路に立ったブリタニア軍人たちは蜘蛛の子を散らすように道を空けた。
 簡易の検問所を破壊して、トレーラーはさらにナリタヘと進む。

「……間に合えば良いが」

 助手席で腕を組む藤堂は、一つの情報も見逃すまいと鋭く目を細めた。




 ◆◇◆◇◆




 同じ頃、ナリタ連山は混乱の渦中にあった。
 ブリタニア軍と日本解放戦線の戦闘のせいではない。

 土砂崩れである。

 これは自然的なものではなかった。
 山頂付近に伏せていた黒の騎士団の新型機、紅蓮弐式の武装『輻射波動機構』によって山中の水脈を爆発させ、無理やりに山を崩したのだ。もっとも、その事実を正確に把握しているのは実行に移した黒の騎士団のみであったが。

 反則ともいえる自然の力に見舞われた両軍の被害は甚大だった。
 圧倒的な制圧力で敵の本陣に踏み入らんとするまで戦局を進めていたブリタニア軍も、まったく力が及ばぬと歯噛みしていた日本解放戦線も、土砂に飲まれて多くの人員が信号を絶った。

 後方から被害状況を纏めようとしているブリタニア軍のG-1ベース。山の内部で地震の直撃を受けた解放戦線の本部。混乱の度合いはどちらも大差あるまい。

 そんな中、比較的平静を保っていられたのは、山の崩れる瞬間を直接、それでいて巻き込まれはしない程度の至近距離から目撃していた純血派の面々だった。

「まずいな、これでは殿下が孤立してしまう」

 神妙な顔で呟くジェレミアに、ヴィレッタが通信越しに応えた。

「救援に向かいますか?」

「いや、参謀府の指示を待つ。ここのポイントを確保しているべきなのかも知れん」

 落ち着いて見解を示した直後、ジェレミアの眉が跳ねた。
 視線の先には山頂から滑るように斜面を下りてくるナイトメアの部隊がある。隊列を組んだ機体は土砂を避けながらコーネリアの親衛隊へと向かっていた。

「あれは……この状況で日本解放戦線が動けるとは思えんが……。となれば――まさか!」

 ジェレミアは急ぎG-1ベースへと通信を入れる。

「山頂より出現した新たな敵勢力が殿下のもとへと接近中! 黒の騎士団と思われる!」

『なっ!? 確かな情報ですか!?』

「間違いない、映像を送る」

 事態を確認した参謀府の返答は早かった。

『土石流による地形の変化を把握次第、総督に後退のルートを提示します。純血派の部隊は半数で黒の騎士団の足止めを。残り半数は伏兵に備えて殿下の援護に回ってください』

「了解した。――キューエルよ!」

 通信を切るなり、ジェレミアはすぐさま喉を振るわせた。対応の早さといい、朗々たる声質といい、若手将校の筆頭とされていた頃を思い起こさせる堂々とした振る舞いである。

「汚名を雪ぐチャンスが与えられたぞ! 貴公はゼロの捕縛に向かえ! 私は残りを率いて殿下の救援に向かう!」

 命を受けたキューエルは部下を引き連れてサザーランドを走らせた。山肌に点在する林の一つを目指し、ナイトメアの一隊が砂埃を巻き上げる。
 勇壮な後姿を見送りながら、ヴィレッタはジェレミアに機体を寄せた。

「よろしいのですか?」

「私がゼロの方に行かなかったことか?」

「はい」

「この手で奴を倒したくないと言えば嘘になるが、それよりも私は殿下をお護りしたいのだ。そう何度も目の前で皇族殺しを許して堪るものか」

 ジェレミアの手の届く――届いたかもしれぬ範囲で皇族が殺害されたのは、過去に二回ある。
 マリアンヌ皇妃の暗殺と、ゼロによるクロヴィス皇子の殺害だ。
 皇室への篤い忠誠心を備えたジェレミアの想いは、ヴィレッタにはひしひしと感じ取れた。

「それにな、ヴィレッタ。キューエルは血気に逸っている。防戦に使える心理状態ではあるまい」

「そこまで見越しておいででしたか」

「一歩間違えば私がああだったかもしれん。ゆえにこそ、だな。そこでだヴィレッタ、場合によってはキューエルの隊は崩れる可能性がある。いざというときのサポートをお前に頼みたい。行ってくれるか」

「承知致しました」

 短く返答すると、有能な女騎士は機体を操って身を翻した。

 ヴィレッタ・ヌゥという軍人の優れたところは、その冷静さにある。内に激情を秘めていながら、それを完全に抑え込む理性を絶対に手放さないのだ。
 おそらくその力の源泉は、上昇願望という強い渇望――死しては絶対に望みが叶わないという自らへの深い刷り込み――そこから来ているのだろう。戦場の高揚に呑まれることも、恐怖で判断が鈍ることも無い。命を落としてしまっては、たとえ大将首と引き換えだったとしても負けなのだから。

 キューエル隊を追って林へと入っていくサザーランドの背中に、ジェレミアは一度信頼の眼差しを送る。そして後方に向き直ると、自らの隊に号令を掛けた。

「我らはこれよりコーネリア殿下の救援に向かう! 皇族の方々をお護りすることこそ騎士の本懐と心得よ! これは最大の名誉である! 皆の者、私に続け!」





 金色に塗装されたランスがぎらりと獰猛に陽光を反射する。赤紫の巨躯がマントを靡かせて体を反転させると、風を切る穂先は遠心力に乗って吸い込まれるように黒い胴板を貫いた。慣性のままに天へと持ち上げられた敵の機体は、投げ捨てられると同時に爆散する。

「……脆弱すぎる」

 グロースターのコクピット内で不機嫌そうに呟いたのは、ブリタニアの第二皇女、コーネリア・リ・ブリタニアであった。

 彼女を苛立たせている直接の原因は敵の弱さではない。
 コーネリアはそれなりに歯ごたえのある相手の方が楽しめる気質をしていたが、かといって立場を忘れて没入してしまえるような愚かな将ではなかった。全体から見れば敵が脆いに越したことがないのはしっかりと理解している。

「状況はどうなっている!」

 羽虫のようにうるさく纏わりついてくる数騎の無頼をいなしながら、コーネリアはG-1ベースの参謀府に向けて鋭く問うた。

 山崩れによる部隊の断裂、少しずつ明らかになってくる被害の凄まじさ、それらが胸の内に暗雲を運んできていた。
 加えて、大した力が無いにもかかわらず、しつこく攻撃を加えてくる日本解放戦線の部隊。

 コーネリアを倒せば状況が好転すると考えているのか、時間稼ぎか、あるいはただの恨みからか、災害に飲まれなかったナイトメアが執拗に親衛隊にぶつかって来ていた。とは言え、機体性能もパイロットの技量も最高峰に近いコーネリアの親衛隊と、型落ちのような機体を碌に実戦を経験していない者が動かしている日本解放戦線。コーネリアの側に負ける要素はただの一つも無い。
 このような局面でなければそれほど気にはならなかっただろう。しかし、今だけはその弱さが鬱陶しくてたまらなかった。どうせ傷の一つも付けられぬのだから始めから出て来るな、と。

『我が軍の被害は甚大です。信号の返りは全体で二十パーセントを切っております。ダールトン将軍の無事は確認されましたが、アレックス将軍からの信号は途絶えたままです』

 渋い顔で報告を受け取りながら、ランスで敵の機体を破壊する。見れば専任騎士のギルフォードも同じタイミングで一騎を撃破したところだった。
 部下の頼もしさにわずかに頬を緩め、その表情はすぐに一変した。

『たった今入った情報です! 山頂付近から黒の騎士団が現れたとのこと! 総督の親衛隊を目指して駆け下りている模様!』

「奴が――ゼロが現れたというのか!」

『所属不明の機体です。確証はありませんが、かなりの確率で間違いありません。足止めに純血派の半数を向かわせました。残りには総督の救援を命じております。すぐに退路を示しますので、ここは合流してお下がりください』

 コーネリアは応えを返さずに、グロースターを横へと飛び退かせた。一瞬前まで立っていた空間をスラッシュハーケンが空しく穿つ。躱すと同時に身を返した赤紫の機体は、お返しとばかりに振り向きざまにハーケンを射出した。

「貴様らの攻撃には流れが無い。美しさが無い」

 グロースターはランドスピナーを唸らせ、体から離れていく武器を追うように直進する。進行方向の先にいた無頼は後ろに跳んでハーケンを避けた。地面を抉った鋼鉄の楔を回収しつつ、コーネリアは追いすがって横なぎにランスを振るう。弾かれた無頼がよろけて倒れこんだ場所には、赤紫に塗装された別のグロースターが走りこんでいた。地面に向けて突き出されたランスが正確にコクピットを刺し貫く。

「そして何よりもまず連携がなっていない。まるで烏合の衆だ。――我が騎士ギルフォードよ、やはり卿は頼りになるな」

「もったいないお言葉です」

 専任騎士をそばに控えさせていくらか余裕を作りだすと、コーネリアは再び参謀府との回線を開いた。

「先ほど純血派を来させると言ったな。奴らに功を焦る気配は無いのか?」

『ジェレミア卿は大変落ち着いている様子でした。今のところ作戦に支障をきたす恐れは無いかと存じます』

 コーネリアは周囲の戦況に目を走らせ、数秒ほど考える素振りを見せた。
 ギルフォードを始めとして、親衛隊の面々は日本解放戦線の部隊を圧倒している。完全に沈黙させるのも時間の問題と思われた。

「よし、ならばある程度近くにまで寄せ、いま少し待機させろ。こちらは十分に戦えている。ここで合流するよりもさらに効果的に投入できるタイミングがあるはずだ」

『了解致しました。ではそのように。脱出ルートが確保でき次第、再度ご連絡致します』

 G-1ベースとの通信が切れると、ギルフォードが言ってきた。

「姫様、離脱する気がありませんね」

 コーネリアの狙いを読んだのだろう。苦笑交じりではあったものの、たしなめる口調ではなかった。

「クロヴィスの仇がすぐそこにいるのだぞ? 大人しく引き下がってなどいられるか。ゼロが突破して来るようなら、純血派も投入して一気に殲滅してくれる。奴を叩けるなら囮にでもなんにでもなってやるさ」

 にやりと口の端を上げたコーネリアの笑みは、まさに肉食獣のそれだった。





 ヴィレッタは草木の茂る林でサザーランドを走らせていた。
 ジェレミアの懸念どおり、キューエル隊は盛んすぎるほどの士気を保って進軍しているようである。進行経路に沿って障害物が取り払われているにもかかわらず、ヴィレッタには追いつくことができないのだ。

 無論、そのままの意味にしてしまっては語弊がある。
 機体を限界まで酷使すれば合流することは可能だろう。ただ、そこまでする価値がヴィレッタには見つけられなかった。これから戦闘をしようというのにランドスピナーのモーターを焼け付かせるような操縦をする意味などありはしない。

 機影は見えないものの、先頭の数騎を限界まで働かせて道を切り開かせ、直後から主力が追っているのではないかというのがヴィレッタの想像だ。
 一刻も早く進まねば皇女を抑えられてしまうという事態であれば正しい判断だっただろうが、距離から計算するにそこまで切羽詰った移動をしなければならない状況でもない。

 要は焦っているのだ。
 自分たちの退路――戦場での退路ではなく、軍内部での立ち位置としての退路が閉ざされているがゆえに。
 そこがクラリス皇女を見出したジェレミアと他の純血派将校の決定的な差だった。

 正直な話をしてしまえば、ヴィレッタはジェレミア以外の純血派、特にキューエルなどの反ジェレミア勢力の旗頭になり得る人物には、ここで潰れてもらってしまった方が良いのではないかと考えている。
 今のこの行動を見るだけでも、明らかに足を引っ張りそうな素質を撒き散らかしているし、人一倍おのれを律することに長けたヴィレッタの目線からは、余計に際立って見えていた。

 だからという面もあったのだろう。現場への到着はいくらか遅れてしまっていた。
 戦場音を拾い、林に潜んで接近してみれば、既に戦闘は始まっている。

 戦況によってはすぐにでも飛び出すつもりでいたヴィレッタだったが、敵勢力の一騎を視認して踏みとどまった。

(何だあのナイトメアは……?)

 今までに見たことの無い、紅色をした機体。識別信号を確認すると、交戦しているのはキューエルのようだった。

 鋭い踏み込みとともに振るわれたスタントンファの一撃を、敵機は上に跳んで避ける。
 スタントンファの強みは両腕に装着されている点だ。射程が短い分小回りが利き、左右の腕から連続した攻撃を放つことができる。
 落下に合わせて繰り出されるはずだった第二撃は、上方から体を捻りつつ飛んできた敵機の蹴りによって封殺された。真紅のナイトメアはバランスを崩さずに着地すると、衝撃吸収のために曲げた膝をそのままバネにしてサザーランドに飛び掛かる。一連の挙動が異様に早い。蹴りつけられて上体を流してしまったキューエルが体勢を整え終える前に、攻撃的なフォルムをした銀色の右手がサザーランドの頭部を鷲掴みにしていた。

(あの右手……何かある)

 ヴィレッタが睨むように見つめる先で、サザーランドの青紫をした装甲がボコボコといたるところを膨らませ始める。気色の悪い半球が体躯全体を覆ったとき、サザーランドは弾けるように爆発した。
 あの新兵器の効果なのか、単なるマシントラブルなのか、オートイジェクトは作動していなかった。キューエルは間違いなく戦死だ。

 ヴィレッタの喉がゴクリと鳴る。
 最近のキューエルには冷静さに欠く部分があったものの、彼の技量自体は決して低いものではない。無論ジェレミアやコーネリア、ギルフォードなどの飛びぬけた一線級の実力者と比べれば見劣りはするが、それでも隊の指揮を任されるだけの能力は確実にあったのだ。

 そのキューエルがいともあっさりとやられてしまった。
 こうして眺めている間にも、あの赤いナイトメアは尋常ならざる機動力で戦場を駆け回り、一騎、また一騎と純血派の機体を沈めていっている。
 もはや足手まといには消えてもらった方が良いなどといった利己的な打算を働かせていていい場面ではなくなっていた。

 ヴィレッタは指揮官を失って狼狽している味方機に通信で声を張る。

「私はジェレミア卿の副官、ヴィレッタ・ヌゥだ! 生き残りたくば私の指揮下に入れ!」

 サザーランドを林から出し、アサルトライフルを乱射する。純血派の面々が自分の位置情報をぎりぎり認識できる程度の時間を置き、ヴィレッタはケイオス爆雷を投擲した。

「私たちの役目は足止めだ! 倒す必要はない! 功を焦るな! 距離を取れ! 接近せねばあの右手は使えないはずだ! 距離を取って弾幕を張れ!」

 空中で高速回転する爆雷から四方八方に弾丸が放たれる。敵味方の区別無く降り注ぐ全方位攻撃を、ヴィレッタは即座に木に隠れることでやり過ごす。
 ケイオス爆雷の危険性を理解していたサザーランドのパイロットたちは、皆退避に成功したようだった。対する黒の騎士団側にはいくつか被弾した機体が見られる。

「よし、奴らはひるんでいるぞ! 時間差でケイオス爆雷を投げ続けろ! 余裕があればどこかに仕掛けてもいい! その間に一旦退いて態勢を立て直す!」

 ヴィレッタは後方に敵影の無いことを確かめると、銃弾を撒きながら後退していった。





 岩のような山肌が剥き出しになった地点。山中にできた狭い平地では、一つの戦いがだんだんと収束に向かっていた。

 コーネリアは、数を減らしてきた日本解放戦線の部隊を相手取りながら、その報告を聞いた。

「足止めの純血派がやられた?」

『今はヴィレッタ卿が指揮を取り、なんとか食い止めております。ですが、新型ナイトメアの情報も上がってきております。突破は時間の問題かと。総督には一刻も早く退避していただきたく――』

「退路の確保はできたのか?」

『先ほど地形の把握が完了致しました。ポイント9を抜けてポイント6を経由し、ポイント2へと移動するルートなら、土砂に閉ざされて通行不能になっている地点はありません。そこからG-1に向かって下されば、問題なく帰還が可能です』

 ふむ、と一つ頷き、コーネリアは傍らに立つ騎士に話を振る。

「どうするギルフォード? 純血派を破った黒の騎士団の新型というのも面白い。迎え撃ってやるか? それとも戻るか?」

「私は姫様の騎士なれば、全て御心のままに」

 ギルフォードは、本音としてはコーネリアに退いて貰いたいと思っている。
 しかし同時に、異母弟の仇を討ちたがっている主君の心情も見通していた。無論敬愛する第二皇女の望みを叶えたい気持ちも強い。そこに余りにも脆弱だった日本解放戦線の戦力状況を加味すると、自分でも気付かぬうちに、黒の騎士団など取るに足らぬという先入観が生まれてしまっていた。

「フ、止めんのだな。よし、ならばここの敵戦力を殲滅し次第、ヴィレッタの救援に向かう。ジェレミア隊には迂回路を――」

「――殿下! 後方より新たな敵影です!」

 コーネリアの指示に割り込むように、親衛隊機から通信が入る。

「またかッ! 次から次へと虫のように!」

 顔をしかめて吐き捨てた瞬間、報告にあった方角から敵の機体が現れた。斜面を上ってきた勢いをそのままに、飛び上がって平地に着地する。その数は五つ。

「新型……? いや、カスタム機か」

 藤堂鏡志朗と彼直属の四人の部下――四聖剣の駆る無頼改であった。

 戦場に乱入した五騎のナイトメアはランドスピナーを巧みに操り、蛇行するように高速で移動する。バラバラに動いているかのように見えた各機が、突如タイミングを合わせて一騎のグロースターに殺到した。五方向から次々と振るわれる廻転刃刀の斬撃。チェーンソーのように唸りを上げる刃を、グロースターは一本目を躱し、二本目にランスを合わせ、三本目で片腕を落とされ、四本目で袈裟斬りにコクピットを破壊された。

 流水を思わせる華麗な連撃に、ギルフォードは瞠目する。

「あの動き、只者ではない……」

 もちろん親衛隊側にも慢心はあった。日本解放戦線など物の数ではないと。さらには初見の攻撃である。
 撃破される要因は少なからず存在していた。とは言え、そこを逃さず突けるのは相手の優れた技量あってこそのものだ。

「姫様、お気を付けください。今までの敵とは格が違います」

「わかっている。油断はせぬ。来ると言うのなら逆に討ち取ってくれる」

 実際のところ、客観的に分析すれば、新たに現れた敵部隊の実力は親衛隊にも引けをとってはいなかった。機体性能でも搭乗者の腕でも。指揮官機を操る者に至っては、専任騎士のギルフォードに匹敵するレベルかと思わせるほどの能力を窺わせている。

 無頼改とグロースターで数を比べれば親衛隊が上回ってはいるものの、この状況になるとただの雑魚でしかなかったはずの無頼の存在が地味に効いてきていた。わずかに気を取られた隙を、無頼改が執拗に狙ってくるのだ。

 一方的だった戦況は五騎のナイトメアが加わったことにより膠着状態に陥っていた。
 お互いに戦力を削れないまま、拮抗した時間が続いていく。

「姫様、ここは一旦お下がりください。ジェレミア隊と合流して態勢を整えましょう。このまま長引けばゼロの部隊もやってきます」

 ギルフォードからの提案に、コーネリアは大きく頷いた。

「よし、ならば逆手に取ってやる。参謀府、ジェレミア隊を五時方向からポイント9へ向かわせろ。ギルフォードよ、ジェレミア隊移動の時間を稼いだ後、ポイント9まで来い。戦力を集中させ、挟撃により一気に叩く!」

 マントを翻し、グロースターを敵から遠ざける。戦場から離脱する直前、コーネリアは親衛隊に言った。

「無頼の追跡は阻止するな。奴らだけなら私が撃破する。カスタム機の一騎や二騎受け持ってやってもいいが……やつらは誘いには乗らんだろうな」

 大口ではなく、コーネリアには二騎程度なら打ち倒せる自信があった。敵の真の脅威は最大五騎による高い連携技術にある。逆に言えば、少数なら個人のテクニックで付け込める部分が無いわけではないのだ。それはあちら側も理解しているはず。
 だからこそ、戦力の分散は無いだろうというのがコーネリアの予想だった。

「まぁいい。――ギルフォード、この場は任せた。死ぬなよ」





 主戦場から離れた後方。ナリタ連山の麓には、勇壮にそびえる巨大な陸戦艇があった。ブリタニア軍の本陣が置かれたG-1ベースである。

 ブリッジでは参謀府の人間がせわしく動き回っている。戦場各地から寄せられる情報を整理し、地図上に反映、そこから導き出される指示を各部隊に送っているのだ。

 土砂による地形変化の把握も終わり、悲惨な部隊状況も大体が明らかになり、作業が落ち着き始めた頃だった。

 通信兵が鋭い声を上げる。

「ヴィレッタ卿より連絡! 黒の騎士団が転進したとのこと!」

「方角は?」

「八時方向、目的地はポイント9と思われます!」

「なっ!? 総督が敵を誘い込もうとしている場所ではないか! それではこちらが挟撃を受けてしまう! すぐに総督とギルフォード卿に連絡を!」

 最悪の状況変化に、ブリッジは騒然となる。

「駄目です! ギルフォード卿は動けません! 急に敵の足止めが厳しくなったと!」

「ぐっ、もしや黒の騎士団と日本解放戦線は連携を取り合っていたのか……? その上でこちらの狙いを読んで……!」

 表情を険しくする参謀たちを追い込むように、間を空けずさらに歓迎できない情報が入ってきた。

「総督は――敵の新型と遭遇したとのことです! 黒の騎士団は新型一騎だけを先行させて、ポイント9に伏せさせていた模様!」

「馬鹿な! そこまで読まれていたというのか!? ありえん」

 参謀が悲鳴のように叫んだ。ブリッジに重苦しい呻き声が満ちる。

「純血派を急がせろ。新型とは言え、コーネリア様がやすやすとやられるわけがない。撃破される前にジェレミア隊と合流できれば勝ちだ」

「しかし、黒の騎士団の本隊も転進して向かっています。それにジェレミアにはゼロとの内通の疑いもあります。奴から情報が漏れていたと考えれば、この敵の動きにも納得が……!」

「だがギルフォード卿は動けぬ様子、他に動かせる部隊が無い!」

 参謀たちは唾を飛ばしあう勢いで意見を戦わせている。

 その様子を、ユーフェミアは硬い表情で眺めていた。

 第四皇女は戦場に来るような教育は受けていないのだが、今回は例外だった。
 戦いの実際を見てみたいと姉に掛け合ったら、コーネリアは仕方がない子だ、という態度を全面に出して、それでも快くここまで連れてきてくれたのだ。危ないことはするなよ、と苦笑いをしながら。

 姉の言葉に従うのはやぶさかではなかったし、これは勉強の一種なのだから、こうして黙って立っているのは悪いことではない――というよりも、この場で周りから求められている副総督の行動はそれなのだろうとはわかっている。けれど、そうとわかっていても、ユーフェミアは何とも言えない焦燥を覚えてしまっていた。
 おそらくこれは、姉の危機でなかったとしても避けられない心理だっただろう。

 ここ最近特によく味わうことになった感覚だ。

 こんなとき決まって心に浮かんでくるのが、クラリスの顔だった。
 籠の鳥のように不自由な身分に閉じ込められている優秀な姉と、自由でありながら羽ばたく翼を持たない自分。

 そんな情けない状態では申し訳が立たないといろいろなものに挑戦してみたものの、何をしても大した成果が上がらない。
 そのたびにユーフェミアは、ホテルジャック事件で再会して以来、結局誰にもその存在を明かせなかった異母姉に、心の中で謝罪するのだ。ごめんなさい、と。

 ただ、それは当然のことでもある。努力だけでは届かない限界があるのは誰にとっても当たり前で、ユーフェミアは元々、シュナイゼルやコーネリア、ルルーシュ、クラリスのように、後見貴族の話が出たことも無い。その事実から鑑みれば、華々しい活躍ができる資質を備えていなくても、なんら不思議なことなどないのだ。

 そうと知りつつもそこで大人しく諦めてしまえないのが、ユーフェミアの長所でもあり、短所でもあった。自分の出る幕ではないとしても、『何かをしなければ』と考えずにはいられないのだ。
 そこから来る熱が、ユーフェミアを動かした。

「あの!」

 唐突に声を上げた副総督に、皆の視線が集中する。

「友軍は、出せないのですか?」

「友軍とは……特派ですか?」

 特派の機体はたしかに強力だ。敵の新型と同じく一騎で戦況を覆し得る。にもかかわらず話に上がらないのは、コーネリア自身がナンバーズのパイロットを認めていないためである。

「ですが……枢木は」

「総督が特派を使いたがらないのは知っています。ですが、それに縛られて総督自身の命を危うくするのは愚かなことではないでしょうか。何か問題があるようなら、責任は私が取ります。いかがでしょう?」

 ユーフェミアは参謀たちの顔を見渡してはっきりと言った。ホテルジャックの経験で、皇族はうろたえた姿など見せてはならないのだとクラリスから学んでいたためだ。
 これが実践できるかどうかは能力ではなく心の強さ――胆力の問題であり、ユーフェミアはそういう意味では、間違いなくブリタニア皇帝の血を引いていた。

 結果、皇女の決然とした想いは参謀たちに伝わった。
 特派が出し辛いのには、かの部隊が帝国宰相シュナイゼルの直属であるという理由もある。その辺りの命令系統のもつれも、副総督クラスの直接の命があるなら飛び越えてしまえるのだ。

 参謀たちが頷きあったとき、ブリッジのスクリーンにメガネを掛けた白衣の男の顔が大写しに現れた。特派の主任、ロイド・アスプルンドである。

『ハーイ、ご指名ありがとうございマース!』

 ニヤニヤと笑顔を貼り付けながら、敬意の欠片もない口調で礼を述べる。
 この男のこういったふざけたところが特派の遠ざけられる一因でもあるのだが、絶対に改善はされないだろう。この場においては矯正しようと考える者もいなかった。

 ロイドの顔は頬をつねる女性の手によってすぐに画面から引っ張り出される。後には、既にパイロットスーツに着替えた茶髪の少年の姿があった。
 瞳に宿る光を目にして、ユーフェミアはおのれの判断が間違っていなかったことを確信する。彼なら確実に姉の窮地を救ってくれると。

 そして、第四皇女は堂々と胸を張り、名誉ブリタニア人の騎士に告げた。

「枢木スザク。ユーフェミア・リ・ブリタニアが命じます。総督を救出しなさい」

「――イエス、ユアハイネス」





 ポイント9は、言ってみれば峡谷のような地形である。水食によるものではないのか、あるいは枯れてしまったのか、川は流れていないものの、両脇に切り立った崖がそびえる隘路だ。
 そこに二騎のナイトメアが対峙していた。

 コーネリアの愛機グロースターと、カレンの駆る純日本産ナイトメア紅蓮弐式。

「コーネリア、投降してくれない? あんたにはもう逃げ道は無いわ」

「フン、愚かなり黒の騎士団! 貴様さえ倒せば活路は開く!」

 コーネリアの気合と共にグロースターが走る。腰だめに構えたランスで赤い装甲を刺し穿たんとランドスピナーが唸りを上げた。トップスピードで突進してくる機体を、紅蓮は大きく横に跳んで避ける。瞬間マントが翻った。グロースターは砂埃を巻き上げながら素早く反転すると、赤い敵機が空中にあるうちにスラッシュハーケンを射出する。
 避けようがないと思われた鋼鉄の楔は、紅蓮が突き出した右手の平――そこから照射された高周波によってあっけなく止められた。勢いを失くしたハーケンはそのまま掴み取られ、輻射波動を受けて握りつぶされる。

「くっ、噂の新兵器か!」

 毒づくコーネリアの見つめる先で、紅蓮弐式は跳躍の勢いを上手く殺して岩壁に着地した。体が地面に落ちるより先に、たわめた脚を伸ばして壁から跳ぶ。
 一直線に空中を迫り来る鋼鉄の人体に、コーネリアは槍先を合わせようとした。風切り音を纏わりつかせて突き出される金色の穂先。それが紅色の胸部に接触する直前、紅蓮は空中で体を捻った。

「何だその機動は!?」

 鋭い刺突に紙一重の空間を貫かせながら、赤い機体はグロースターの隣に着地する。そこからの反転動作はこれ以上は無いほどに早い。ランスを突き出した姿勢から慌てて体勢を戻そうとしているグロースターの手を、紅蓮弐式は右手で掴む。
 すぐさま発動した輻射波動機構によってボコボコと泡立っていく赤紫の腕部。制御不能部位が胴体にまで及ぶ前に、コーネリアは右腕をパージした。ランドスピナーで後退すると同時に、主を失った腕のパーツは紅蓮の手の中で破裂する。

「ふざけるな……スペックが違いすぎるぞ……!」

 コーネリアがコクピットで呻いた。
 今までの短い戦闘だけで理解できてしまっていた。アレに一対一で攻撃を当てるのは不可能だと。敵の目的が捕縛でなければ、既に完全に機体を破壊されていたかもしれない。

 距離を取ったまま動こうとしないグロースターを睨み、カレンは操縦桿を握りなおす。

「どうしたの皇女様。そっちが来ないなら、こっちから行かせてもらうよ!」

 紅蓮弐式のランドスピナーが唸りを上げる。対するグロースターは正面からぶつかる姿勢を見せず、さらに後退する。

 コーネリアとしては、もはや時間稼ぎしか道は無いとの結論に至っていた。逃げに徹したところで大して持ちはしないだろうが、やらないよりはましという判断である。

 紅蓮の放つ格闘戦の攻撃を、片手を失ったバランスの悪い機体で何とか避け続ける。蹴りを防御し、手刀を片手で弾き、赤い塗装の中で不穏に輝く銀色の右手を跳び退って避ける。
 無駄の無い動きで連撃をいなせるのはひとえにコーネリアの技量の為せるわざだったが、それゆえの落とし穴が存在していた。
 紅蓮の右手の射程圏外ぎりぎりまで離脱したと思った瞬間、ガコンと音を立てて腕部のギミックが作動したのだ。

「――伸びただと!?」

 前腕一つ分ほど長さを増した紅蓮の右腕が、一本残ったグロースターの左手を捕らえんと迫る。

「取ったッ!」

 銀色の五指が赤紫の腕を握ったとき、カレンはおのれの勝利を確信した。しかし次の刹那、その認識は崩壊する。ファクトスフィアが頭上から飛来する物体の急接近を捉えていた。
 カレンは掴んだ獲物を放し、バックステップでその場を離れる。直後、轟音と共に砕かれた地面が岩塊となって飛び散った。もうもうと立ち込める土煙の中には、青紫のナイトメア、サザーランドの姿がある。

「何とか、間に合ったようですね」

「ジェレミアか! 良く来てくれた!」

 砂埃が晴れる頃には、崖上からワイヤーを伝って純血派のサザーランドが次々と下りてくる。その中の一騎が予備装備のランスをグロースターに手渡した。コーネリアほどの腕前があれば、片手であろうともまだまだ戦えるのだ。

 中破したグロースターを後ろに庇い、部下たちを左右に置いて、ジェレミアは紅蓮弐式に向き直った。

「これで形勢逆転かな? イレブン」

「――いいや、もう一度逆転だ、オレンジ君」

 スピーカー越しの不敵な声が響くと同時に、辺りに銃声が満ちた。道の先から無頼の一団がアサルトライフルを連射しながら突っ込んでくる。

「ゼロ!?」

 その叫びは誰の物だったか。コーネリアか、ジェレミアか、カレンか。あるいは全員だったかもしれない。
 いずれにせよ、皆が一流のパイロット、エース級だけあって、ゼロの乱入で必要以上に気を乱したりはしなかった。
 ジェレミアはコーネリアと共に機体を蛇行させて銃弾を避けながら、部下に言う。

「私は殿下と協力してあの赤い機体を引き付ける。残りはゼロを捕らえろ。奴を抑えれば赤い機体も止まる。ゼロを捕獲することこそ、すなわち殿下をお護りすることである! 騎士の本懐を存分に果たせ!」

 一方、黒の騎士団側ではゼロがカレンに指示を送っていた。

「なんとしてもコーネリアを捕らえろ。皇女さえ手にしてしまえば、あとは何があろうと交渉で逆転が可能だ。こちらのことは気にしなくていい」

「はい、ゼロ!」

 コクピットの中で一人頷くと、カレンは紅蓮弐式を加速させた。純血派と黒の騎士団から離れた位置に立つ二騎に向かって、猛然と前進する。手前にいたサザーランドに飛び掛かり、空中で蹴りを放つ。
 ジェレミアは相手が宙に居るにもかかわらず、迎撃体勢を取らずに横方向に避けた。カレンにしてみれば、コーネリアのときと似たやり方で機体性能に任せた初見殺しの手を使うつもりだったのだが、既に情報が渡っていたのかもしれない。
 地面に着地した紅蓮弐式に、スタントンファの右の一撃が迫った。すぐさま膝のバネを使って飛び退いたところに、追いすがるサザーランドの追撃が放たれる。左腕が振るう素早い打撃を、紅蓮は右手で掴み取った。輻射波動の侵食が始まると同時に、ジェレミアは左のトンファを放棄する。間を置かずに右のトンファが風を切る唸りを上げた。紅蓮は後ろにステップを踏んで回避する。左のトンファはもはや存在しない。追撃はありえないと思われたその瞬間、サザーランドはスラッシュハーケンを発射した。
 一連の挙動にまったく淀みがない。芸術的な機体操作で襲い掛かった連撃の最後の一手を、紅蓮は輻射波動で受け止めた。

「なるほど厄介な武装だな……!」

「――だが、もう一手だッ!」

 ジェレミアの忌々しげな呟きに呼応するように、サイドから回り込んだグロースターがぎらりとランスの穂先をきらめかす。常識的に考えて躱せるはずがない、完璧なタイミングだった。
 鋭く突き出された槍の先に、しかし真紅の機体の姿は無い。

「何だと!?」

 端的に言ってしまえば、紅蓮弐式とは常識で測れるナイトメアではなかったのだ。それこそが第五世代と第七世代の間にまたがる絶対的なまでの差である。

 空中へと逃れていた紅蓮弐式は、地上に向けてスラッシュハーケンを射出する。肩口を正確に射抜かれてグロースターの左腕が地に落ちた。

 これでもうグロースターは戦えない。
 本来の言葉どおりの意味で、皇族を護る騎士の本分を果たす機会がやってきた。だというのに、なんという絶望的な状況か。
 ジェレミアが皮肉げに口端を上げたとき――。

 岩壁が爆発した。





 ルルーシュは、その光景をサザーランドと交戦しながら目撃した。他の黒の騎士団員たちと同じく、道に転がる巨大な岩石に身を隠して、アサルトライフルを撃ちながら。
 銃弾の中を飛び出していって敵機を撃破できる者などほんの一握りだ。自分がそこに当てはまる人種でないことをルルーシュは自覚していた。

 そのおかげで――客観的に戦場を見られる位置にいたからこそ、はっきりと見て取ることができた。

 左右にそびえる崖の一方を貫いて、新しいナイトメアが姿を現していた。特派の最新兵器、ランスロットである。

 片手にライフルを携え――信じられない破壊力だが、あれが山をくりぬく弾丸を放ったのだろう――粉塵が収まるのを待つかのように待機している白い機体。

 ルルーシュは新たに出現したナイトメアを睨むように見据えた。

「――ゼロ、どうしますか?」

「カレン、コーネリアはどうなった?」

「両腕は落としました、後は護衛を倒せば」

「よし、ならばあの白兜を破壊しろ。奴を排除すれば私たちの勝ちだ!」

 相手はシンジュク事変で煮え湯を飲まされたナイトメアである。あのときのでたらめな機動力はよく覚えている。
 しかし、カレンが負けることは考えていない。むしろ紅蓮弐式ならあの機体が出てきても勝てると読んだからこそ、今回の作戦に踏み切ったのだ。

 ルルーシュが岩影で純血派との交戦を続けていると、紅蓮と白兜は激しく格闘戦を繰り広げながら、切り立った崖を登っていく。つくづく馬鹿馬鹿しい機体とパイロットである。
 やがて二騎のナイトメアが崖上に姿を消すと、コーネリアのそばからサザーランドが離れた。

(ジェレミアがこちらに来るか……。紅蓮は白兜一騎に任せて十分と判断されたのか? いや、大将を捕らえれば勝ちという条件はあちらも同じ。コーネリアの性格なら、戦力が増えた分の余剰をすぐに攻撃に回すのは当然か)

 ルルーシュは仮面の下で思案を巡らせる。

 ジェレミアの実力はエース級だ。そして騎士団側は雑兵ばかり。機体のスペックを考えれば時間は掛かるだろうが、間違いなく銃弾を潜り抜けて的確に攻撃を加えてくる。
 ここで問題となるのは、何体までなら破壊されて良いのかという点だった。

 黒の騎士団のナイトメア総数は決して多くない。減らされるのは痛手だが、結局ナイトメアはモノであり、再配備することは可能。
 ならば何が問題なのかと言えば、『負けた』という印象が生まれるのがまずい。

 ゼロの求心力の源は、ルルーシュ本人のカリスマ性に加えて、起こした『奇跡』にある。不可能を可能にする力を見せるからこそ、絶対に勝てないと思われたブリタニアを倒せるのではないかという幻想を人々に見せられるのだ。

 そのゼロがここでブリタニアに『負ける』ことは絶対に避けねばならない。
 山崩れによってブリタニア軍の八割を撃破しようが、騎士団側の勢力があまりに削られてしまえば、敗北感が生まれて来てしまう。

 対する勝利条件は、『コーネリアを捕らえる』がベスト。予期せぬ日本解放戦線――おそらくは藤堂――のアシストもあって、かなりのところまで迫っている。
 しかしそこまではできずとも、『ぎりぎりまで追い詰めたが、あと一歩及ばなかった』なら、今まで圧倒的弱者だったイレブン側は戦勝感を味わえるだろう。それが最低のラインだ。

 カレンが手こずるようなら、そこが覆らないタイミングを見極めて、手遅れにならない内に退かねばならない。

「カレン、まだか!」

「すみません、ゼロ。こいつ、思った以上に強い……!」

 芳しくない返答にルルーシュは顔を歪める。早々に決着の付きそうな戦況ではないらしい。
 時間が経てば経つほど敗北が近づいていく中で、一発逆転の大勝利を夢見ていい状況なのかと聞かれれば、答えは否。

 まだブリタニアとの戦いは始まったばかりなのだ。ここで小さな勝利を上げておくことは、今後の布石にもなる。

「――カレン、撤退だ。時間が掛かりすぎた」

「申し訳ありません」

「いや、いい。よくやってくれた。――全軍に告ぐ! 黒の騎士団はこれより撤退する! 各自所定のルートを使って撤収に移れ!」

 戦線にやってくるエースが弾幕を突破する前に、無頼の集団は後退を開始した。





 脱出ルートには概ね森の中が定められている。要所要所にトラップが仕掛けられ、場所によっては対ナイトメアミサイルを装備した兵士が伏せられていた。優秀な工兵歩兵の働きにより、追撃の手は次第に弱まっていく。
 当初の計画通り、よほどのことでもなければ脱出は成功するはずだった。

 ――そう、『はずだった』。

 ルルーシュは無頼のコクピットの中で奥歯を噛み締めていた。

 周りを木々に囲まれた開けた一角。対峙しているのは一騎のナイトメア。トラップを掻い潜り、ミサイルを回避し、どこまでも追ってきた青紫の機体。
 ジェレミアのサザーランドだった。

 純血派領袖の機体操作能力はルルーシュの予想を越えていた。
 いや、それは致し方ないことだったのかもしれない。エリア11にいる限り、本気になった本物のエースの能力を実際に目にする機会など無いのだから。

 それだけならまだ良かった。

 最大の問題は、追っ手がジェレミアだったことにある。
 他の人間であれば投降するふりをしてギアスを掛ければそれで済んだというのに、この相手にはそれができない。

 ルルーシュの絶対遵守のギアスは強力だが、一つ厄介な制限があるのだ。
 『一度使った相手には掛けられない』という制限が。
 枢木スザク強奪事件の際にギアスを掛けてしまったジェレミアには、もはや超常の力は通じない。

「どうしたゼロ? もう小細工は終わりか? ならば最後にその身で私と戦ってみるか? それとも大人しくくだるか?」

 勝ち誇ったジェレミアの声が響く。

(……どうすればいい。考えろルルーシュ。……投降するか? 皇子だと言って。いや、駄目だ。この場は助かるかもしれないが、ジェレミアの記憶を消すことができない以上、いずれナナリーとクラリスにまで事が及んでしまう)

「どうした、来ないのか。では、力づくで引きずり出すしかあるまいな」

 サザーランドが一歩を踏み出したとき、森の中から一人の少女が走り出てきた。ライトグリーンの髪を長く伸ばした白い服の娘である。

(C.C.? 何故ここに)

 ルルーシュが疑問を発するより先に、C.C.はサザーランドの足に手のひらを付けた。

「こいつにショックイメージを見せる。間接接触だが試す価値はある。成功したらその隙に逃げろ。もし失敗したら、私が死んで盾になってやる。その間に逃げろ」

「何を言っている!?」

「説明している暇は無い」

 言い終えるなり、C.C.の額の赤い文様が輝きだす。風が巻き起こり、髪を靡かせ、そして淡い光は数秒ほどで消えた。

 サザーランドは片足を前に出したまま停止している。

「……どうなっている?」

「成功したようだ。こいつは今過去のトラウマを見ている。具体的な内容まではわからんが。理解したならさっさと逃げろ。いつまで続くかの確証はない」

「お前はどうするんだ?」

「今は動けない、だから早く――」

 さらに重ねて言おうとしたところで、サザーランドがアサルトライフルを持ち上げた。

「なっ!? もう復帰するのか!? 早く逃げろ!」

 C.C.の叫びが響いた瞬間、巨大な銃口が火を噴いた。





 ジェレミアは過去の記憶を追体験させられていた。
 いや、そこまで明確なものではない。過去にあったような気がする体験だ。

 思い出したくない苦い記憶。
 その中には実体験を自ら脚色してさらに恐ろしいものに変容させてしまった、事実とは異なる記憶というものが混じっている場合がある。

 ジェレミアのそれはまさに、何度も夢に見た、しかし現実には一度も見ていない、記憶めいた何かだった。

 敬愛するマリアンヌ皇妃が銃弾に倒れる姿。ナナリー皇女が脚を撃たれる光景。
 何者かもわからぬ、銃を持った人型の闇がヴィ家の人々を害していく。

 もう一つ、拳銃を持った黒衣の男にクロヴィス皇子が殺害される場面。
 犯人の頭には黒い仮面が乗っており、それが近頃世間を騒がせている『ゼロ』なのだと、ジェレミアは散漫になった自我で漠然と理解した。

 二つの映像が繰り返し繰り返し再生される。他に混じっていた無数の記憶は、二つの強烈な負の印象に塗りつぶされて、どんどんと存在感を希薄にしていく。

 いつしか、体験していない二つの記憶はぐちゃぐちゃに混じりあい、一つの映像へと収束していた。

 アリエスの離宮で楽しそうに談笑するヴィ家の面々に、なぜかクロヴィス皇子が加わっている。
 その微笑ましい風景に、黒衣を纏った仮面の人物が突撃銃を構えて乱入してくるのだ。
 驚く間も与えずに、仮面の男――ゼロは銃を乱射して、無数の銃創を刻んでいく。相手が事切れてもやめずに、体がミンチになるまで無限の銃弾を撃ち続ける。
 ジェレミアはそれをどこか近くて遠い場所から見ていて、やめろと言っても、殴って止めようとしても、届きそうなのに決して届かない。

 ――ジェレミアの見ていたショックイメージは、そういうものだった。

 覚醒はしない。まだまだ完全な覚醒はしないのだが、現実との境界はそれでも次第に近づいてくる。
 そのとき一番最初に認識した――思い出した事実が『ゼロが目の前に居る』ことだった。

 ジェレミアは深く混濁した意識で、『ヴィ家とクロヴィス皇子を惨殺したゼロが目の前に居る』と思った。夢の中では殺したくても殺せなかった憎き相手が眼前に立っていると。

 だからジェレミアは、アサルトライフルの引き金を引いた。





 胸部の装甲を至近距離から撃たれた無頼は、すぐにパイロットにエマージェンシーを伝えた。狙いが曖昧だったためコクピットの破壊にまでは至らなかったものの、まともな操縦は不可能、事によっては爆発する可能性もあった。

 目を見開いたC.C.がルルーシュの名を鋭く呼ぶ。琥珀の瞳にオートイジェクトで射出されるコクピットが映った。
 空中を走る黒い鉄塊に向けて、サザーランドがスラッシュハーケンを放つ。万全のジェレミアならば絶対に外すはずのない攻撃。しかし不幸中の幸いというべきか、ハーケンの一撃は中心を逸れ、箱を揺らすに留まった。金属部品を飛び散らせながら、パラシュートを開いたコクピットが林の中へと落ちていく。

 パイロットの状態がどうなっているのか、サザーランドはそれ以上の行動をしようとしない。

 C.C.はナイトメアの足部から手を離すと、即座に走り出した。
 絶対に死なせてはならない、契約者の少年の下へと。





 パラシュートの落ちた場所に辿りつくなり、C.C.は駆け寄ってコクピットを開けた。

「ルルーシュ! ルルーシュ! 生きているか!? 死ぬな、ルルーシュ!」

「……黙れ……C.C.。誰が聞いてるか……わからない」

 ルルーシュの返答はひどく弱々しかった。ゼロの仮面は脱げており、どこかが痛むのか、頬の筋肉がピクピクとひきつるように動いている。

「あぁ……くそ、意識が飛びそうだ」

 そう言いながらも、薄っすらと開いた目には徐々に光が戻ってくる。

「……大丈夫か?」

「大丈夫なわけが……ないだろうが。全身痛くて、どこが一番悪いのかも、わからないぞ……」

 ルルーシュは緩慢に体を起こし、何度も何度も呻きながら、コクピットから這い出してくる。
 C.C.が手を貸そうとすると、触るだけで痛いからやめろと言う。真実なのか、無駄に高いプライドのなせるわざなのか。おそらく後者だろう。
 強がりを言えるくらいなら死ぬような怪我ではないのかと、C.C.はそこでやっと安堵の息を吐いた。

 ルルーシュは少し休憩を挟んだだけで、よろけながら立ち上がった。

「歩けるのか?」

「本当は動きたくもないんだが、そうも言ってはいられないだろう、この位置じゃあ」

 ブリタニア軍が布陣している範囲からはもう抜けている。とは言え、ジェレミアが追ってきていたのだ。仮に彼が動けなかったとしても、その異常が確認されれば誰か別の人員が送られて来るのは想像に難くない。
 
 両足で立ったルルーシュは、おそるおそるといった具合に少しずつ体を動かした。

「……打撲は全身、それに伴ってところどころに擦過傷。内臓系はおそらく無傷。左手は、もしかすると――いや、確実に折れているな。だが腕で良かった」

 血色の悪い顔をしかめながら、一歩二歩前に出る。

「大丈夫だ、これなら歩ける。離脱するぞ」

「救援を呼んだ方がいいんじゃないのか?」

「ばらけた場合には各自で安全な場所まで脱出する手筈になっている。通信による逆探知の危険性を考えれば、下手に連絡を取らない方がいい。それに――」

 ルルーシュは言葉を切ると、忌々しげに嘆息した。

「万一カレンでも来てこの怪我を見られてみろ。俺は来週から学校に行けなくなるぞ」

 ならどうするんだ、黒の騎士団には顔を出さないつもりか、という問いを、C.C.は飲み込んだ。今はその説明を求めるよりも、この場を逃れることだ。

 そうして逡巡している間にも、ルルーシュは少しずつ歩みを進めている。
 C.C.の視線の先にある少し離れた黒い背中が、ゆっくりと振り返った。

「言い忘れていた。お前のせいで酷い目に遭ったぞ。魔女め」

 皮肉っぽい笑顔を浮かべてそんなことを言う。
 そして一度息を吸い込むと、不自然なほどの真顔になって、ルルーシュは続けた。

「――だが、お前のおかげで助かった。ありがとう、C.C.」




 ◆◇◆◇◆




 大浴場で広い湯船を満喫した後、C.C.は浴衣に着替えて自室へと向かった。

 ナリタ近辺にある旅館の一つ。その最上階。特に高級でもない、二人用の十畳強の和室である。
 中に入って扉を閉めると、そろそろ日は落ちて、窓から夜の空気が流れ込んできていた。

「無事だったか?」

 タイミングよく上がった声はC.C.に向けられたものではなかった。
 包帯の上に私服を来た姿のルルーシュが、座椅子に腰を下ろして誰かと電話で話している。

「そうか、皆は脱出できたのだな。良くやってくれた。やはり君はエースだ。これからも頼んだぞ、カレン」

 なぜこんなところでくつろいでいるかについては、元からそのつもりだったからとしか言いようがない。
 始めからカムフラージュに二泊する予定だったのである。宿自体は予約済みであり、ルルーシュの怪我についても、土砂被害に巻き込まれたと言えば特に追求はされなかった。病院も相当忙しいらしく、救急車を呼ばれるようなこともなく、あっけないほど簡単に部屋を借りることができた。

「――私は、今は合流せずに身を潜める。また追って連絡を入れる。きみたちも今日は各々で体を休めるといい」

 通話を終えると、ルルーシュはC.C.に呆れたような目を向けた。

「暢気なものだな。浴衣まで着て極楽温泉気分か」

「旅は楽しむタイプだ」

「マイペースなだけだろ」

「否定はしない。――で、どうするんだ?」

 C.C.は昼間からの疑問を口にした。
 怪我をした体で表に出られないと言うのなら、いったいどうやって活動するのか。

「治るまで隠れるのか?」

「まさか。そっちの方が問題だ。少なくとも今日勝ちはしたんだ。浮かれてるなら引き締める必要があるし、もし消沈してるならお前たちは勝ったんだとゼロが宣言してやらなきゃならない。放っておいて上手く回るほど、まだ黒の騎士団は成熟しちゃいない」

「じゃあどうする? 学校を休む気はないのだろう?」

 学校の方は聞かずとも答えは大体わかっていた。
 ルルーシュは日常を手放すことを恐れている。妹たちに心配を掛けまいと――平穏を崩すまいとしているのだろう。
 ついでに言えば、妹が関わる以上、どう説得しようと意見を翻すことがないのも明白である。

 ルルーシュは問いに返さないまま、片手でごそごそと旅行鞄をあさる。やがて何かを探し当てると、C.C.に放ってきた。
 どうやら小型の機械のようである。

「何だこれは?」

「変声機だ」

「……まさか、お前――」

 嫌な予感を覚えたC.C.が最後まで言い切る前に、ルルーシュが言葉をかぶせた。

「ゼロの仮面はフルフェイスだ。内に篭った声にならないように、始めからエフェクトを掛けて外に出す機構が組み込んである。そこにそれを噛ませてやれば、お前も立派なゼロになれる」

「……正気か?」

「使わずに済むならそれに越したことはなかったんだがな。仕方がない。いくらブリタニアの医療が発達してるからって、骨折を治すのに一日二日で済むわけじゃない。仮に今回だけ隠れたままやり過ごしたとしても、どうしたって黒の騎士団に顔を出さなきゃならないときは来る」

 軽い口調で言うと、ルルーシュはさらに続けた。

「それに、逆に考えればメリットもある。ここでルルーシュ・ランペルージがゼロではないというはっきりとしたアリバイを作っておけば、後々役に立たないとも限らない。使い方次第のカードになるだろうがな」

 説明を聞き終えたC.C.は眉をひそめ、思案顔になった。

「……いいのか? 私で」

「良いか悪いかじゃない。お前しかいないんだ」

 たしかにそうかもしれない。ギアスを使って誰かを仕込むという手もあるにはあるが、それでは柔軟性に疑問が残る。
 ルルーシュからしてみればほかに選択肢など無いだろう。

 ゼロの正体である黒髪の少年は、もう一度自分の荷物を漁ると、一枚のディスクを取り出した。

「予想される会話の受け答えについては、既にマニュアルができている。今回の作戦を踏まえた修正版は朝までには仕上げる。俺に破滅して欲しくなかったら帰るまでに死ぬ気で覚えろ」

 いや、死なないんだったか、と漏らして、ルルーシュは小さく唇を釣り上げた。

「あとは堂々としてればバレないさ。お前は態度だけはでかいからな。そこは心配していない」

 結局C.C.はその夜寝るまで、諾とも否とも答えを返さなかった。




 ◆◇◆◇◆




 朝のアーベントロート邸には燦々とした光が降り注いでいた。

 柔らかな陽光が差し込む食堂で妹と並んで朝食を取っていたクラリスは、珍しく食事中に近づいてくる使用人の姿を認めて、軽く首を傾げた。すぐそばまで歩み寄った使用人は、耳元に口を寄せて囁く。電話が入ったとのことだった。

 クラリスはナナリーに断ってから、食器を置いて立ち上がった。部屋を出て廊下に向かう。受話器を取ると、相手はC.C.だった。

「あら、電話を掛けてくるなんて初めてじゃない? こんな朝から何かあった?」

『面倒だから要点から先に行く。ルルーシュが怪我をした。私に替え玉になれと言っている』

「え……?」

 虚を突かれた様子のクラリスの口から、小さな母音がこぼれた。

 C.C.の声は聞き手の状態などお構い無しに、前日のナリタの出来事をかいつまんで垂れ流していく。警戒しているのかいろいろとぼかしてあったが、クラリスには伝わったようだった。
 黒の騎士団が山を崩したこと。コーネリアを追い詰めたこと。ルルーシュがジェレミアに撃たれたこと。彼が隠し切れない怪我をしたこと。

『――そういうわけで、私に要請が来た』

 事情説明を聞いているうちに、クラリスの表情は段々と引き締まっていった。

『ルルーシュは私なら問題なくこなせると言ったが、あいつの立場ではそう言うしかない。知っているのは私だけだと思っているのだからな。他に選択肢が無い状態で不安要素など口にするものか。だが――』

 C.C.は話にわずかな間を空ける。
 クラリスの目が鋭利に細められた。

『私なら、この件に関して完璧に把握している人間に一人心当たりがある。ちなみにあいつの行動理念についても私よりもはるかに詳しく知っているはずだ』

 黙り込んだクラリスの視線は、宙を捉えていながら刃物のように鋭い。
 恐ろしく真剣な表情だった。もしもC.C.がこの場に居たならば、ルルーシュが深く思考を回転させているときと非常によく似ていると気付いただろう。

『私は自分の取り得る最善の手を使ってルルーシュをサポートしてやりたい。あいつには期待している』

「……つまるところ、貴女は何が言いたいのかしら」

『わかっているのだろう? お前がやってやれ。私よりも適任だ』



[7688] STAGE11 もう一人 の ゼロ
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2011/01/18 16:08
 艶やかに磨き上げられたリノリウムの床。硬質な印象のある白い壁。
 ブリタニア政庁の廊下には、三人分の靴音が響いていた。
 エリア11総督コーネリアと専任騎士のギルフォード、そして軍部の重鎮ダールトン将軍である。

 進む先には会議室がある。
 三人のほかに文官も集め、ナリタの件を受けての今後の対応を協議しようというのである。

 先日の討伐作戦はたしかに成功した。ただしそれは日本解放戦線の壊滅、その一点のみに焦点を絞った場合の話に過ぎない。
 当初の予定とは大幅に異なる過程を踏み、ブリタニア側にも惨憺たる結果が残されている。

 山崩れと黒の騎士団の奇襲により、作戦に参加した人員のうちの七割強が帰らぬ人となった。もちろんエリア11に駐留している全兵力を差し向けたわけではなく、全体としてはまだ十分な戦力が維持されている。だからといって少ない被害だったとは決して言えない。
 また、作戦の大きな目的として、解放戦線本拠地の記録および物資を押収することにより、そこから資金提供の流れを把握、疑わしい団体に対しての動かぬ証拠を手に入れる、というものがあったのだが、これについても全てが土砂の下に消え、不可能となった。
 解放戦線の戦力はほぼ全滅したとは言え、指導者の片瀬は落ち延び、藤堂と四聖剣も脱出したという。ゼロの身柄も抑えられず、重要人物の捕縛にはことごとく失敗している。

 現状確認をそこまで進め、コーネリアはわずかに思案顔になった。

(ゼロの捕縛と言えば、ジェレミア。あやつにいったい何があったというのだ?)

 ジェレミアのサザーランドが無頼の指揮官機の追撃に出たとき、コーネリアはゼロの命数が尽きたと確信していた。
 一度はゼロを逃したジェレミアだからこそ、二度はあるまいと思っていたし、実力的にも彼ならば申し分無いはずだった。

 しかし実際に報告を受けてみれば、作戦区域から外れた地点で単独でいるところを発見されたジェレミアは、当時放心状態だったという。何を話しかけても反応せず、しばらく経って意識が戻ったときには『ゼロをあと一歩まで追い詰めたところまでは覚えている。だがその後については何が起こったのかよくわからない』と答えたらしい。

(解せぬ。あの男が嘘をつくとは思えんが――)

 実直を絵に描いたような男の生真面目な表情を脳裏に浮かべ、コーネリアは内心で苦笑した。

(もし真実なのだとしても、馬鹿正直に報告することなどなかろうに。あれでは嫌疑を掛けてくれと言っているようなものだ)

 軽く振り返り、半歩後ろを歩くギルフォードに視線を送る。

「ジェレミアのことだが、卿はどう考える?」

 既に検討済みのことだったのだろう。ギルフォードの返答には淀みがなかった。

「前回彼がゼロを取り逃がした際、取調べの指揮を取ったは私です。あのときは、現場での不可解な行動を除けば、不審な点は一切見つかりませんでした。おそらく今回取調べをしても、同じ結果に終わるでしょう。ですが、二度も続くとなると、内通の疑いは拭いきれぬかと」

「やはりそうなるか」

 返答を確かめると、コーネリアは小さく息を吐いた。

「殿下はオレン――ジェレミアのことを疑ってはおられないのですか?」

「私はあやつの人柄を知っておるのだ。皇族殺しなど絶対に見逃せる男ではない」

 コーネリアとジェレミアの付き合いは古い。ここ数年こそ接点が無かったが、始まりは八年前にまでさかのぼることができる。

 現在のジェレミアを形作る根幹になったとも言える、アリエスの離宮でのマリアンヌ皇妃暗殺事件。忌まわしきあの出来事が起きた日、警備の責任者だったのがコーネリアである。つまりは上官と部下の関係であった。
 コーネリアも深い自責の念に駆られたが、ジェレミアも同等か、下手をするとそれ以上に悔いていた。皇妃への忠誠の篤さを感じ取ったコーネリアは、それからジェレミアとしばしば連絡を取り合いながら、事件の裏を明らかにしようと駆け回ったのである。結局真相を暴くことは叶わなかったが。

 ともあれ、コーネリアの目から見て、ジェレミアの皇族に対する忠義は疑いようのないものだった。そのジェレミアがクロヴィスを殺したゼロに与するとはどうしても考えられない。

「とは言え、これは私個人の印象に過ぎぬ。あやつが裏切っていないとする客観的な根拠になり得ぬということはわかっているさ」

 あえて淡白に言ったコーネリアの心情を察してか、ダールトンが意見を述べた。

「二度にわたってゼロを逃がしたのは事実ですが、今回については姫様をお救いした功績があるのも確かです。疑わしいというだけでは厳罰に処することもできませんし、ここはひとまず謹慎処分として、しばらく監視をつけることにしてはどうでしょう」

「ふむ、妥当なところだろうな。やましき部分が無いのなら、いずれ疑いも晴れよう」

 首肯して応えたコーネリアは、これで純血派も終わりか、と呟いた。

 嫌疑の掛かっている段階でジェレミアに部隊を預けることはできぬであろうし、キューエルをはじめ、旗頭になり得る人材も先の戦闘で散った。今すぐに消滅とまでは行かずとも、ここから盛り返すのはおそらく不可能だろう。

「……疑わしき者を排するために作り上げた派閥が、トップの疑惑によって潰えるか。皮肉なものだな」

 コーネリアの述懐は無機質な壁に反響して、はかなく消えていった。




 ◆◇◆◇◆




 クラリス・アーベントロートが自宅に友人を連れてくることはほとんど無い。特に意識してのものではないのか、探られたくない裏の素性があるためなのか、あるいはそれに付随して起こり得る面倒ごとに巻き込むまいとしているのか。どれが正解なのかは定かでないが、そういう事実は存在している。
 親しい友人であるところの生徒会の女友達ですら、一度まとめて遊びに来たことがあるだけで、二回目以降は無い。

 滅多に来客がないアーベントロート邸のクラリスの私室に、今日は立ち入りを許された人物がいた。ライトグリーンの髪を長く伸ばした少女――C.C.である。
 ナリタからの帰りにナナリーを迎えに来た際、そのまま家の中に招かれて現在に至る。

 ルルーシュは妹と一緒に恋人の広い邸宅を散策していた。
 到着したときには吊られた腕とガーゼの貼られた顔を見てクラリスが騒いだり――事前にC.C.が電話で伝えていたため、完全な演技である――それを聞いていたナナリーが泣きそうになったりとひと騒動あったが、今は落ち着いたものだ。

「――どうぞ。楽にして頂戴」

「ここがお前の部屋か。いきなり趣味が良くなったな」

 控えめな図柄の壁紙と、高価そうでありながら自己主張の強くない調度類。成金趣味を丸出しにした玄関ホールやリビングと比べ、クラリスの部屋はC.C.の好みに近い雰囲気をしていた。

「これでも皇族だから。品のあるお金の使い方は知っているつもりよ」

 クラリスが椅子に座ると、C.C.は断りも入れずにベッドに腰を下ろした。柔らかい掛け布団に尻を沈ませ、契約者の少女に向き直る。

「早速だが、昨日の件は受ける気になったか?」

 電話での会話でははっきりとした返答は得られていなかった。受諾されるかどうかについては半々だろうとC.C.は踏んでいる。

 C.C.の観察する限り、クラリスの実兄妹に向けている感情は本物だ。ルルーシュほどの偏愛は無くとも、そこにある愛情は疑いようが無い。
 話によれば、アーベントロートに入って以来、親は偽者、友人も無しの状態で育ったと聞く。クラリスのことだから波風立てぬよう無難に娘を演じていたのだろうが、そんなクラリスだからこそ、そこに親子の愛が生まれなかったことも容易に想像が付く。
 ルルーシュと同様、クラリスにとっても、幼少期を共に過ごした真の家族というものは特別なのだ。

 そこだけを切り取って考えれば、兄の一大事である。一肌脱ぐに違いないという予想に大きく傾く。それを結論としてしまえないのは、クラリスの中にあり得ない知識が存在しているせいだった。
 未来に起こるであろう出来事を崩さずにいたいと語る少女。今回のC.C.の代理登板が予定調和なのだとしたら、彼女は絶対に首を縦には振らないだろう。

 だからといって何もせずに相手の出方を待つつもりはC.C.には無かった。
 なかなか答えを返さない少女に向けて、一枚のディスクを放り投げる。受け取ったクラリスは小さく顔をしかめた。

「……まだ受けるとは言っていないのだけれど」

「知らん。ちなみにそのマニュアルだが、私は一文字も覚えていない」

 ルルーシュには覚えたと言っておいたが、そんなものは当然ながら出任せである。

 C.C.の無責任な発言を聞くと、クラリスは睨むように眼差しを鋭くした。

「どうして引きずり込もうとするの」

「お前の事情など知らんと言っただろう。お前がやった方がルルーシュの安全性が高まる。私にとって重要なのはそれだけだ」

「勝手な人ね」

「そうとも。私はC.C.なのだから」

 にやりと笑んで見せると、クラリスは呆れたように嘆息した。突っ込みを入れないのはC.C.の性格を正しく把握している証拠なのだろう。しかし依頼を承諾しようとする気配は無い。

「まだ足りんのか? それで納得できないなら、もう一つ付け足してやる」

 言ってC.C.は足を組む。

「なぜお前はわざわざ死のうとする? お前の知識と才覚はギアスを持ったルルーシュに比肩し得るものだ。どうして生きてその能力を使おうとしない?」

 これは初めてクラリスと会った日からの疑問だった。疑問というよりは興味深い点といった方が正確かもしれない。

「それが不自然だから、私を動かそうというの?」

「後付けの理由だ。大した意味は無い。ただ気になる部分ではある」

 もう一人の契約者であるルルーシュは、行動しないことは死と同義だと断言した。生きているだけの生など無価値であると。
 無為の経験を重ね続ける魔女はその意見に大いに同意する。

 だが一方のクラリスは言ったのだ。
 自分の居ない場合に迎えられるであろう未来を崩したくないと。表舞台に上がる気はない――つまり、生きる意志がないと。

 限られた手段を用いて必死に生きようと足掻く少年を間近で見守っているC.C.にとって、その在り方はあまりにも歪に見えた。

「前にも言ったでしょう。私は自分の知識にある未来――私の居ない未来がある意味でのベストだと思っている。そういうことよ」

「それはわかっている。私が聞きたいのは、なぜその『ある意味』を取り除こうとしないのかについてだ」

「そこも話したわ。どうやったらより良い未来に行き着くかなんてわからない」

「嘘だな」

 C.C.は即座に否定する。永い時を生きた魔女としての感覚が告げる、明確な違和感があった。
 図星を指されたと見ていいのか、クラリスは不機嫌そうに眉をひそめた。

「私の目から見て、お前の能力はルルーシュに見劣りするものではない。常に何十何百の可能性を想定し、最善の一手を選び取ろうと模索できる人間だ。不確定な部分はあるにしても、幾つか方法は思いついているはず。聞いたぞ、あいつとチェスをして勝負になったそうじゃないか。もちろんゲームがそのまま現実に持って来られるという意味ではないが」

「何年前の話よ。今やったら負けるわ」

「だとしてもだ。論点をすり替えるな。チェスの話は理由付けの補強に過ぎん。一番の根拠は私自身だ。私自身の経験が、お前がそういう人間だと語っている」

 まっすぐな視線を向けるC.C.に、クラリスは淡白に言葉を返す。

「いやに熱心ね。ルルーシュが本命だとばかり思っていたのだけれど」

「契約云々は関係ない。生きられるのだから生きてはどうかと勧めているだけだ。死人の先輩として」

「素敵なアドバイスをありがとう。でもそれを決めるのは貴女じゃないわ」

 硬質な声から拒絶の意思を感じ取り、C.C.は小さく嘆息した。

「たしかにそうだな。そこを言われてはどうしようもない。お前の人生だ。好きにしたら良いさ」

 結局は他人の事である。強制することなどできぬし、そもそも命ある死者を自認する魔女には、人に変心を促す熱など残ってはいない。
 C.C.は大きな枕を手繰り寄せ、クッションにするように胸に抱き込んだ。クラリスの手元に向けて軽く顎をしゃくって見せる。

「とにかく、それはお前がやれ。ルルーシュの代役など私には務まらん」

 クラリスはしばし瞑目し、わざとらしく息を吐いた。まぶたを上げると、仕方がないといった風に口を開く。

「……わかったわ。やりましょう」

 この結論は最初から決まっていたに違いない。C.C.が最初に予想したとおり、予定調和であれば否、イレギュラーであれば諾と。C.C.の感覚を信じるならば、今までの短い会話で翻意したわけではなさそうだった。

 では回答を先延ばしにしたのはなぜなのか。何か特別な反応を期待していたのか、それとも単純に会話を楽しんでいただけなのか。
 どちらなのかと疑問が浮かび、おそらくは前者だろうとC.C.は直感的に思った。しかしそう判断することになった理由がすぐには出てこない。

 深く考えれば正解に辿りつけそうな気がしていたが、情熱を持ち得ぬ魔女は早々に思考を打ち切った。特に答えを出す必要のある事柄ではないと。先に考えるべきはルルーシュの安全についてである。

 クラリスはパソコンのスイッチを入れると、椅子を回転させてC.C.に体を向けた。
 
「コピーを取る間に今後の話をさせて頂戴。C.C.にも少し手を貸してもらわないといけないから。ルルーシュにはバレない方がいいんでしょう?」

「お前を巻き込んでいると知られたら本気で切り捨てられかねん。相談はしておくべきだろうな」

 C.C.は枕に乗せた顔を頷かせる。するとディスクのケースを開けたクラリスが、ふと思いついたように言った。

「……これって、もしかして共犯関係っていうやつなのかしら」

「そうなるんじゃないのか? ルルーシュに対して二人で共謀しているのだから。――そうだな、私とお前は共犯者だ」

 C.C.は目を細めて悪戯っぽく返す。

 クラリスは一瞬だけ手を止め、口元をわずかに綻ばせた。どこか諦めたような、それでいて嬉しがっているような、一言では表せない複雑な表情だった。

「……そう、共犯者ね、私とC.C.が。そのセリフはもちろん、ルルーシュには言っていないからこそ、出てきたのよね」

「その通りだが、それがどうかしたのか?」

「いいえ、別に何も。こっちの話よ」

 淡々とした返答だったが、その意図するところは読める。おそらく先ほどのセリフはルルーシュに言うはずの言葉だったのだろう。
 細かいところでは既にいくつも『知識』と齟齬が生じ始めているらしい。

 そうと気付いたC.C.は内心で先の展開に思いを馳せ、しかし表には一切出さなかった。





 C.C.たちを見送った後、クラリスは自室に戻っていた。ちなみにナナリーを介護すべき人間が負傷していたため、かれらの帰路にはアーベントロートの車が用意された。

 机についたクラリスの前には、電源の入ったノートパソコンがある。表示されているものはC.C.から渡されたディスクに入っていた資料だ。
 几帳面すぎるとも取れるほどに隙の無いルルーシュは、会話についてのマニュアルの他にも、覚えるべき事項として様々な情報を一緒に纏めていた。

「――ナリタでは背水の陣を強調する策を使わなかったの? それにしてはみんな随分と協力的に動いたようだけれど……」

 呟きながら別のファイルを開き、じっくりと目を通す。各団員のプロフィールとルルーシュから見たかれらの思想、態度についてなどの雑感を書き連ねたものである。

「……この時期にしては玉城の反発も弱い。黒の騎士団、少なくとも扇グループからの信頼は篤いと見ていいのかしら。だとしたら――使えるわね」

 クラリスは真剣な面持ちで閲覧を進めていく。
 ひとりきりでの状況確認作業は、その晩遅くまで続けられた。




 ◆◇◆◇◆




「ちょ、どうしたのそれ!?」

 週明けルルーシュが生徒会室に顔を出すと、真っ先にぶつけられたのはミレイの驚いた声だった。視線は吊られた左腕に向けられている。

「週末ナリタまで旅行に行ってまして」

「ナリタって――もしかして巻き込まれたの? ナリタのアレ」

「たぶんそれです、ナリタのアレ」

 ルルーシュは鞄をテーブルに乗せると、片手で椅子を引き、腰を下ろす。
 同じクラスのシャーリーには既に話が済んでいたというのに、肝心の彼女がいない。クラスの違うリヴァルとニーナが目を円くしてルルーシュの方を見ていた。

「ナリタのアレってお前、黒の騎士団の山崩し? 軍のナイトメアを壊滅させたっていう」

「え? あれって黒の騎士団がやったの? 自然的なものじゃなくて」

 疑問を口にしたニーナに、リヴァルが顔を向けた。

「いやぁ、確かなトコはわかんないけどさ、ネットじゃ黒の騎士団の新兵器だって噂で持ちきりだぜ。っていうか大丈夫なの? それ」

「ただの骨折だ。そんなに深刻な怪我じゃない。そのうち治るさ」

 ルルーシュが返答すると、リヴァルは一瞬だけ安堵の表情を浮かべ、すぐに興味本位の質問を向けてきた。

「じゃあどうだった? 実際見てみた感じとして。人為的なもの?」

 大してこたえた様子も無く生還した自分が目の前に居るのだから、仲の良い友人の反応としてはそんなものだろう。内心で納得しつつ、ルルーシュは苦笑して返した。

「素人が遠目に見ただけでわかるはずないだろ。巻き込まれたって言っても直接じゃないんだ。馬鹿みたいな話だけど、逃げてる人の波に揉まれて、転んだところを踏まれてさ」

「それで骨折ぅ? カルシウム足りてないんじゃないあんた? 牛乳飲んでる?」

「これを機に毎日飲むようにしますよ」

 ルルーシュの説明は作り話だったが、完全な嘘というわけでもなかった。そういう事例もあったらしい。
 輻射波動の引き起こした水蒸気爆発の威力が予想以上に強力だったため、土砂災害が避難先の住民の所にまで届いてしまったのだ。そこまで多人数ではなかったものの、軍属以外にも死傷者は出ていた。

 罪悪感に痛む胸を、ルルーシュは妹たちの笑顔を思い浮かべて押し隠す。

 ゼロの活動はやらねばならないことなのだ。
 犠牲を伴う覚悟はある。これからも。この先も。
 流した血に報いるためにも、必要以上に悔やむことは許されない。立ち止まるわけには行かない。

「――どしたの? 急に真面目な顔になって。やっぱりまだ痛む?」

 少し意識が飛んでいたらしい。気がつくとミレイの心配そうな顔があった。

「え? ああ、そうなんです。今日はそれを言いに来たんですよ。急ぐ仕事が無かったら先に上がりたいんですけど、構いませんか? 今日だけじゃなくて明日からもしばらく許して欲しいんですが。まだ体が痛くて」

 ミレイは顎に手を当てて考えるポーズを見せてから、フッと笑った。

「ホントはあんたには書類整理頼みたかったんだけどね。数少ない男手だし。でもさすがにその怪我じゃ、体動かす仕事させるわけには行かないか。いいわよ、ゆっくり休みなさい。でもその分治ったら扱き使ってやるから、覚悟しとくこと」

「すみません、迷惑を掛けます」

「怪我人が気を遣わないの。こっちにはリヴァルがいるんだからダイジョブよ」

「え!? 俺だけですか!?」

「『え』じゃない。ルルーシュが抜けるんだから抗議する前に二倍手を動かしなさい」

「そんな、横暴ですよ!」

 リヴァルの非難の声を聞きながら、ルルーシュは席を立った。
 なんだかんだ無茶を申し付けているミレイだが、本気で仕事を丸投げにしたりはしない人間だというのはわかっている。リヴァルをからかいながら、自分もいつも以上に働くのだろう。
 自然と浮かんでくる笑みを感じつつ、ルルーシュは鞄を肩に掛けた。

「じゃあリヴァル、頼んだぞ。俺の分、しっかり働けよ」

「おい、ルルーシュ! 待てよ、おい!」

 助けを求める悲痛な叫びを聞き流し、生徒会室を出る。

 ドアを閉めるなり、ルルーシュは真剣な面持ちになった。

 頭にあるのはC.C.のことである。
 予定通りに動いているなら、今頃は黒の騎士団のアジトに行っているはず。
 重要な案件が出てきた場合には答えを保留するよう言ってあるから、まずい事態に陥る危険性はそれほど高くない。とは言っても、何らかの予期せぬイレギュラーが起きないとも限らない。いつでも対応策を練られる態勢を整えておきたかった。
 そのためにルルーシュは生徒会の欠席を決めたのである。

 生じ得るいくつかの問題を脳裏に浮かべながら、閑散とした廊下を歩く。角を曲がると、不意に反対側から歩いてきていた生徒にぶつかりそうになった。
 慌てて足を止めると、眼前にあったのは見慣れたクラスメイトの姿である。

「シャーリー?」

「あ、ルル? これから帰り?」

「申し訳ないとは思ったけど、この怪我だからさ。少し休ませて貰うことにして」

「そっか、大変そうだもんね。家のこととかも片手じゃ余計に手間が掛かるんだろうし」

「咲世子さんも居るからそこまででもないよ。まぁそういうことだから、また明日教室で」

 すれ違おうとすると、素早く移動したシャーリーに道をふさがれた。逆に移動しようとすれば、障害物も逆に動く。もう一度逆に。結果は同じ。
 妙に決然とした空気を発散していたシャーリーは、お互いの動きが止まると、首を下へと傾けた。 
 うつむき加減になると、その表情はルルーシュの位置からは窺えない。

「あの、シャーリー? 通して欲しいんだけど」

 声を掛けると、シャーリーはバッと勢い良く顔を上げた。

「ルルッ!」

「は、はい」

 ただならぬ迫力に気圧されたルルーシュは、身を引かせて返事をする。すると、若干後ろに反った胸元に一枚の紙片が突きつけられた。
 シャーリーはほのかに頬を紅潮させ、視線を泳がせる。

「あ、あのね、ルル。明日の夜って、暇? これ、コンサートのチケット、なんだけど……。その、私って寮じゃない? お父さんあんまり会えなくて、でもよく私のご機嫌取りにって、こういうの送ってくるの。――あの、クラリスとかと何か予定があったりするなら、断ってくれていいんだけど、その、ペアの席、だから」

「俺と?」

 しどろもどろの誘いを聞きながら、ルルーシュは差し出された紙片を手に取った。確認してみれば、なるほどコンサートのチケットである。

「べ、別に変な意味は無くてね! ただチケット二人分で、余ってるから、どうかなって……」

 シャーリーの声は尻すぼみに小さくなっていき、おもてはどんどんと下を向いていく。と思うと、いきなり身を翻して走り出した。

「じゃ、渡したから! また明日ね!」

 駆け足で遠ざかりながら、顔だけで振り向いて手を振るシャーリー。
 そっちは生徒会室じゃないと声を掛けようと思ったときには、その背中ははるか遠くにあった。

「……何なんだシャーリーのやつ」

 ルルーシュはひとりぼやいて再びチケットに目を落とす。

 指定の時刻には特にスケジュールは入っていない。というよりも、ナナリーを第一に考えるルルーシュである。ゼロとしての活動ができないのなら、夜分の予定など入りようがなかった。

(C.C.に代役をやらせている裏でわかりやすいイベントをこなしておけば、アリバイの強化にも繋がる――か。あちらで何か問題が起きたとしても、シャーリーなら抜けられない相手というわけでもない。一緒に出掛けるのも一つの手かもしれないな)

 とりあえずの判断を下し、ルルーシュは豪勢な装飾の施された紙片をポケットにしまいこんだ。




 ◆◇◆◇◆




 黒の騎士団のアジトの一つである巨大なトレーラー。
 この豪華な車のリビングに、八人の人間が集まっていた。古株の団員である旧扇クループのメンバー七人と、黒い仮面の指導者――ゼロである。

「キョウトから紅蓮弐式を上手く使ったって褒められたよ。感動だったなぁ」

「でも、あの白兜を……」

「気にすんなって。時間さえあったらカレンが勝ってたぜ」

 一番奥のソファに悠然と座るゼロの前で、組織の中核メンバーたちが口々に先日の作戦についての感想を言い合っていた。皆口調は軽く、表情も明るい。
 あと少しのところまでコーネリアを追い込んだのは、間違いなく自信に結びついているようだった。

 にぎやかな話し声が飛び交う横をすり抜けて、扇がゼロに歩み寄る。隣に立つと、懐に手を入れて一通の書状を取り出した。

「これ」

「何だ?」

「キョウトからの招待状。ぜひ直接俺たちに会いたいって。明日迎えを寄越してくれるらしい」

 渡すタイミングをはかっていたのだろう。扇が切り出すと、メンバーたちは話を中断してゼロに注目した。
 キョウトというビッグネームからの誘い。この一大事に不敵な指導者がどういった反応を見せるのか、皆興味津々の様子である。

 視線を浴びる仮面のリーダーは泰然と構えて言った。

「それほど騒ぐことか?」

「『それほど』って、キョウトですよ!?」

 カレンが驚いたようにソファから身を乗り出す。
 興奮を隠し切れぬ少女に、ゼロは問いで返した。

「そう。相手はキョウトだ。では、私たちは何だ?」

「何って……黒の、騎士団……?」

「その通り。私たちは黒の騎士団だ」

 ゼロは一度首を縦に振り、背もたれに深く身を預ける。そしてメンバー全員に言い聞かせるように、ゆっくりと続けた。

「私たちは、私たちが黒の騎士団であることに誇りを持たねばならない。黒の騎士団とは、私たちの理念を体現する組織だからだ。つまり、黒の騎士団に誇りを持つということは、私たちの理念に誇りを持つということでもある」

 そこまで話し、赤髪の少女に顔を向ける。

「それを踏まえてもう一度聞こう。カレン、私たちは何だ?」

「……正義の味方、ってことですか?」

「そうだ、私たちは正義の味方であり、弱者の味方だ。ならば、私たちは、私たちの矜持に掛けて、私たちの理念以外で他人を測ってはならない。金とは力だ。もちろんキョウトがその資金力で弱者を虐げているとは言わない。しかし、私たちは黒の騎士団である以上、キョウトという名前が背負う金と権力、そこのみに注目して媚びへつらうことは、絶対にしてはならない」

 ゼロのセリフが続くうちに、メンバーの顔には次第に理解の色が広がっていった。

 キョウトとは秘密結社である。ブリタニアの公認を得た何らかの団体を隠れ蓑にして資金や兵器を蓄え、裏で抵抗勢力に提供しているのだと言われている。
 そういった組織だからこそ、実態は謎に包まれている部分が多い。
 少なくとも、ゼロ以外のこの場の面々は、誰一人としてキョウトについての情報の詳細を知らなかった。判明しているのは、日本の武装勢力を影で支える最大の資金源であるということ。日本解放戦線に多大な援助をしていたこと。せいぜいがその程度だ。

 弱者の味方たらんとする黒の騎士団の理念を尊ぶのなら、キョウトの思想、主義を把握しないままで、かれらからの招待に浮かれてはならないのである。大量の資金を持つ者とは、それだけならばただの強者でしかないのだから。

「そうだな。きみの言うことは正しい」

 指揮官席の脇に立っていた扇が、ゼロの注意を引くように一歩前に出た。

「俺たちは黒の騎士団だ。金持ちだからってだけで相手に頭を下げるのは間違ってる。招待主がキョウトだからといって、卑屈になっちゃいけないってのもわかる。だが、ブリタニアと戦うにしたって、資金が無いことにはどうにもならない。人が増えれば出費も増える。ナリタの作戦じゃナイトメアも壊された。キョウトに認めて貰えなきゃ、俺たちの財政はいずれ――」

「そこについては問題は無い」

 扇の言葉を遮り、ゼロは言った。

「今回の召喚は黒の騎士団全体というよりも、私個人の見極めが目的と見ていい。私が眼鏡に適う人間だと認定されれば、それだけで条件はクリアされる」

 確信の響きで推測を述べたゼロに、足を組んでふんぞり返った玉城が胡乱な眼差しを送る。

「つってもよぉ、それが一番難しいんじゃねえのか? おめえは相手がキョウトでも顔見せらんねえんだろ? 俺たち幹部にも秘密にしてるくらいなんだからよ」

 気安いというより、単に粗暴な印象の強い口ぶりである。
 仮面の人物にレジスタンスのリーダーを譲りたいと扇が打ち明けた際、一番の難色を示したのがこの玉城という男だった。

 そのときはカレンが声を大にしてゼロの起こした奇跡について説き、扇が追従するように彼への期待の程を説明した。玉城以外のメンバーからは積極的な反対は上がらず、結果ゼロへのリーダー就任要請は決定された。
 かといって諸手を上げての賛成が得られなかった案件だけあって、当初は表向きは方針に従いながらも――と言っても当時は待機命令ばかりだったが――裏で不審を口にするものは多かった。

 その傾向が薄まり始めたきっかけが、ホテルジャック事件である。
 犯行グループに向けられた尋常ならざるゼロの怒りを目のあたりにしたとき、扇グループの面々は彼の中に確たる信念があることをはっきりと感じ取った。弱者の敵に対する赫怒、強者の思想に対する憤怒を目撃し、ブリタニアの打倒を掲げるゼロの意志は疑いようがないと悟ったのである。

 以降は徐々に関係が緩和され始め、現在に至っている。

 しかし玉城の憎まれ口だけは変わらなかった。作戦時に反発を示すことこそ無いものの、本心の所在を確かめた者は居ない。

「――玉城、きみは私の素顔が見たいか?」

 ゼロが問うた。

 玉城は鋭く仮面をねめつける。そのまま考え込むように黒光りするガラスをじっと見つめ、やがて視線を外した。

「……顔見せたらやってけねえっつーんなら、仕方ねえだろ。たしかにおめえは怪しいけどよ、ちゃんと日本人のこと考えて動いてるってのは、俺にだってわかる」

 ぶっきらぼうではあったが肯定的な回答だった。玉城も仮面の指導者の資質に賭けるべき価値を見出していたのである。

 ゼロは満足げに頷き、元のリーダーに話を振った。

「扇、きみはどうだ?」

「知りたくないと言えば嘘になる。だが、きみはゼロだ。確かな信念と、あのコーネリアを出し抜く実力を兼ね備えた、我々の指揮官だ。その事実だけで、俺は十分だと思う」

「ありがとう。この通り、私にはここに集まったきみたちからの信頼がある。ならば、キョウトに我々を認めさせることなど容易い」

 自信に満ちたゼロの声が響くと、メンバーの間には安堵の気配が広がった。
 この人物ができると言ってできなかったことなど過去に一度も無いのである。

 どんなに困難な作戦でも――不可能と思えることですら必ず実現してきた。枢木スザクの救出も成功させたし、ナリタの作戦ではブリタニア軍に大打撃を与えた。ホテルジャックの際には実質ひとりで人質を救出している。
 ゼロの起こした奇跡の数々は既に団員の心を強く掴んでいた。

「扇、二三私の質問に答えて欲しい」

 ゼロはメンバーたちの座る正面の方向を見据えながら、そばに立つ男に尋ねた。

「私の居ない黒の騎士団に未来はあると思うか」

「何を言うんだ今更。きみが居たからこそ、俺たちはここまでやって来れたんだ」

「ではもう一つ聞こう。黒の騎士団の無い日本に、未来はあるか」

 わずかに考える素振りを見せ、扇は答える。

「自惚れるわけじゃないが、日本解放戦線も九割方壊滅状態だ。まともに戦えるのはもうウチだけだろう。黒の騎士団が無ければ、日本は終わりだ」

「黒の騎士団無くして日本の明日は無く、私無くして黒の騎士団は無い。つまり、きみは私の肩に日本の未来が掛かっていると考えている――そうだな?」

「あ、ああ。その論法で行くなら、そういうことになる」

「他の者はどうだ?」

 黒の騎士団の幹部たちは互いに顔を見合わせた。そして首肯するなり、同意の声を上げるなり、各々の方法で賛同の意を示す。
 全てのメンバーの反応を確認し終えると、ゼロは再び口を開いた。

「ならば明日キョウトに行く者たちに、一つ頼みたいことがある――」




 ◆◇◆◇◆




 翌日。

 放課後になるとルルーシュは私服に着替え、租界内の公園に向かった。
 学校にいる間に昨日の件について了承する旨をシャーリーに伝え、待ち合わせの場所をそこに決めたのだ。

 目的地に到着すると、ルルーシュは周囲を見回した。辺りに特徴的なオレンジの髪は見当たらない。
 どうやら早く着きすぎてしまったようだった。

 しばらく待つことにして、公園に立っている街灯に背を預ける。

 頭に浮かぶのはやはり黒の騎士団のことと、ゼロ役を任せている少女のことだった。
 C.C.本人の言によれば、今のところ特に変わった事件は起きていないらしい。しかしルルーシュの予想が正しければ、そろそろキョウトが何らかの行動を起こすはずだった。

 これまでのかれらの最大の支援先であった日本解放戦線は、ナリタの一件で壊滅状態に追い込まれている。人員も武装も激減し、残った人材を考えれば、もはや資金を投入したところで建て直しが不可能なことは明白。
 となれば、浮いた資金を流す先として黒の騎士団が第一の候補に挙がるのは確実だった。

 その際の交渉を優位に進めるため、ルルーシュは以前から秘密結社キョウトの中核メンバーの絞込み作業を行っている。裏づけ確認を急がせている部分が確定すれば必要な資料は全て揃う――そういった段階まで進んではいるものの、まだ終わってはいない。
 ルルーシュが先頭に立てる状態なら情報の不足などギアスでカバーできたのだが、今回は正攻法で行かねばならないのだ。それを思えばキョウトの動きが遅いのは非常にありがたかった。

「――ルルー! お待たせ!」

 考え事をしていると、耳に馴染んだソプラノが響いた。呼び掛けに顔を上げれば、私服姿のシャーリーが公園の入り口から駆け寄って来る。
 いつもがローファーなせいか、かかとのあるパンプスを履いた細い足首がなんとなく危なっかしく見えた。

「そんなに急がなくていいよ。転ぶぞ」

「転びません! これでも運動部なんだから」

「だからだよ。その靴履き慣れてなさそうだ」

「そんなことないのに。もう、ルルったら」

 シャーリーはかわいらしい膨れ面になってルルーシュの前までやってくる。足を止めると、呼吸を整えるように数秒空けてから、照れくさそうに微笑んだ。

「えと、それじゃあ、今日はよろしくお願いします」





 会場が開くまでにはかなりある。今はまだ夕方にもならない時刻で、コンサートの開演時間は夜だ。
 その間を埋めるべく、ルルーシュとシャーリーは並んで街を歩く。

 特別お金を使った遊びをしなくても、シャーリーはとても楽しそうだった。店を覗いたり談笑したりしているだけで、輝くような笑顔を見せる。
 くるくると変わるクラスメイトの表情を眺めているうちに、ルルーシュの頬には自然と笑みが刻まれていた。

 ――思えばこういう風に友人と過ごす時というものを、長い間忘れていたような気がする。

 最近は時間ができれば黒の騎士団に顔を出すか、裏での工作の方法を考えるかしていた。
 辛いと感じたことはないが、それでも負担にはなっていたらしい。メインの仕事が『待つこと』になっている状態でのこの外出に、ルルーシュは自分でも意外なほどの安らぎを覚えていた。

「ね、ルル、ちょっと休まない?」

 何軒目かのウィンドウショッピングを終えた頃、シャーリーが言った。

「この先に行ってみたかったカフェがあるの。ケーキがおいしいんだって。ルルってそういうの平気?」

「ん? ああ、大丈夫だよ。行こうか」

 別段プランのある散策ではない。軽く了承してルルーシュが一歩を踏み出したときだった。

「――あ、待って」

 女物の小振りなバッグから電子音が鳴った。
 シャーリーは中から携帯を取り出し、ディスプレイを確認する。どうやら電話らしく、片手で謝罪するような仕草をしてから、今出てきた店の外壁のほうへと歩いていった。

 プライベートな会話を盗み聞きする趣味は無い。ルルーシュは歩道の往来に視線を送ってしばらく待つことにした。

 道行く人々の顔はブリタニア系ばかりで、東洋系はほとんどいない。
 ここはブリタニア人の街なんだなと、普段ではあり得ないような間抜けな思考が浮かんだ。

 それこそがルルーシュが安らいでいる――珍しく無防備である証拠だった。

 シャーリーは数分で戻ってきた。先ほどまでとは打って変わって、その雰囲気にはかげりが生まれている。軽くうつむかせた顔に前髪が掛かって、表情を隠している。だというのに、発散される重苦しい空気だけでただ事ではないと知れてしまった。

「あの……ルル。ごめん」

「ん? どうした?」

 眉間に小さくしわを寄せ、シャーリーは言いにくそうに続けた。

「電話、お母さんからでね。なんか、お父さん、出張でナリタの方に行ってたんだって……。そしたらさっき軍の人から連絡が来て、こないだのに巻き込まれた可能性があるから、その……遺体確認してほしいって」

「え……」

 ルルーシュは呆けたような声を漏らした。

「お母さん手が離せないみたいで、私が行くことになって。――や、そんなことないとは思うんだけどね!」

 シャーリーは気丈に笑顔を作り、胸元で手を振る。
 その様子を見つめている自分の顔が凍りついていることを、ルルーシュは明確に感じていた。

 にわかに頭が真っ白になっていた。

 『こないだの』とは、ナリタで黒の騎士団が起こした土砂崩れのことだろう。
 ルルーシュが立案して、ルルーシュが指示を出した――全てがルルーシュの手による作戦だ。

 それが友人の父親を殺したかもしれないという。

「結構掛かるみたいだから、たぶん、コンサートは無理。せっかく予定合わせてもらったのに、ごめんね」

「あ、あぁ。それは別に。俺のことは気にしないで、行って来た方がいい」

 何とか搾り出した声には明らかな狼狽の色が滲んでいた。
 しかしシャーリーは一切気付いた様子を見せない。もしかしたら――いや、間違いなく、彼女も同じくらい動揺しているのだろう。

「じゃあ、またね」

「ああ、また」

 ぎこちない挨拶を交わし終えると、シャーリーは踵を返して雑踏の中へ消えていく。

 華奢な背中が視界から完全に消えてしまうまで、ルルーシュはその場からわずかにも動けずにいた。




 ◆◇◆◇◆




 廃墟と化したゲットーの路地に、黒塗りのリムジンが停車した。大型車としてはそれほど大きくない。後部座席の乗車人数は、快適に過ごすなら四人が限度だろう。

 運転席に座る男は、反ブリタニア武装勢力を支援する秘密結社キョウトの、お抱えの運転手だった。黒の騎士団の幹部を案内するようにと派遣されたのである。

 男が車の中で周囲を窺っていると、しばらくして黒の騎士団の団員服を来た者たちが現れた。
 人数は三人。男性が二人に女性が一人である。あらゆる意味で有名な仮面の指導者の姿はない。
 男は車外に出て客人たちに一礼した。

「お待ち致しておりました。黒の騎士団の幹部の方々ですね?」

 やってきた団員たちは挨拶を返し、それぞれ、扇要、玉城真一郎、紅月カレンと名乗った。
 この中にゼロが居るのかと訊くと、彼は少し遅れて来るのだと言う。少々不審ではあったが、まだ指定の時間を過ぎているわけでもない。何か事情があるのだろうと、男は深く追求しなかった。

「失礼ですが、こちらで武装解除をお願いしてもよろしいでしょうか。建物の構造上の問題で、この車で主の下まで行かねばなりませんので」

 正確には『車で主の下まで行く』というよりは、『車両の進入可能な場所で主が待っている』とした方が近い。万一に備え、ナイトメアの使える広さを持った空間を対面の場として設定したのである。

 もっとも、主に危険が及ぶ可能性は限りなく低いと運転手の男は見ていた。黒の騎士団の立場からすれば、キョウトに弓引くメリットなど何もないのだから。
 旧日本勢で最大の資金力と最大の政治的人脈を有するのがキョウトである。関係をこじらせて良いことなど何一つない。
 それを理解できない人間はいないだろう。

 運転手の予想の通り、扇たち三人は大人しく武装解除に応じ、車内に入った。

 男がひとり外で待っていると、路地の薄暗い空気の中に細長いシルエットが浮かび上がる。
 足元まで伸びた黒いマントと、特徴的な黒の仮面。ゼロであった。
 手には何か大きなアタッシュケースのようなものを持っている。

「悪いな。お待たせした」

「いえ、定刻通りです。早速で申し訳ございませんが、武装解除をお願いしてもよろしいでしょうか。他の幹部の方々は先ほど済ませ、車内でお待ちになっております」

 窓にカーテンの掛かったリムジンを手で示し、男は言った。
 ゼロは応えず男の横を通り過ぎる。そのまま車を半周回り込むと、断りも入れずに助手席のドアを開けた。

「何をなさって……? ゼロ様にはそちらのお席ではなく――」

「ここに私の武器を置かせてもらう」

 言うなり座席にアタッシュケースを乗せ、蓋を上げてみせる。しかし内部には何も入っていない。
 訝る男の見つめる先で、ゼロがマントを広げた。

「――なっ、それは!?」

 目に飛び込んできたのは、ホルスターに収められた大量の拳銃である。一丁や二丁ではない。一人で扱える限度を明らかに越えた数の拳銃が装備されていた。

 まず第一に用途が不明であり、次に交渉に行くのに厳重な武装をするというのが常識的ではない。
 絶句する男に構わず、ゼロは次々にケースに銃を入れていく。程なくして全てをしまい終えると、何事もなかったかのように蓋を閉めた。

 バタンという音が響き、そこでようやく運転手の男は我に帰った。

「……失礼ですが、こちらでも調べさせていただきます」

 何を考えているのか読めない以上、他に何かを隠し持っていないとも限らない。
 男はゼロのそばに歩み寄り、探知機を使って全身を改める。結果としては怪しい反応は見つからなかった。

「結構です。無礼を致して申し訳ございませんでした」

「疑いは晴れたようだな。では――」

 男の謝罪を確認すると、ゼロは閉めたばかりのアタッシュケースを再び開けた。そして中から数丁の銃を取り出し、蓋を閉める。

「……何のご冗談ですか?」

 眉をひそめる男を振り返り、ゼロは答えた。

「ちょっとした余興だ。きみに一つ手品をお見せしたくてね。あったはずの銃が消えるという。もっとも、それに気付く頃には手品のことなど覚えてはいないだろうが」

 黒光りする仮面が男の顔と真正面から向き合う。次の瞬間、左目部分に小さな窓が生まれた。覗く瞳にはアメジストの輝きが宿っている。

「――さて、戻りましょうか」

 かすかに漏れて来た肉声は、歳若い少女のそれだった。




 ◆◇◆◇◆




 黒の騎士団の中核メンバーがリムジンを降りたとき、かれらの前にはガラス張りの壁があった。
 その向こうに広がっていたのは無骨な金属に覆われた山の斜面である。視線を別の方角に移せば、トウキョウ租界だろうか、はるか遠くに巨大なビル群の立ち並ぶ近代的な都市が見える。

 周囲に広がる景色を見回すと、扇が驚愕の声を漏らした。

「ここは……富士鉱山!?」

「嘘だろオイ!? そんなところに来られるわけ――」

「でも間違いないわよ! この山、この形!」

 玉城とカレンは窓に張り付き、興奮した様子で外の風景を眺めている。
 二人とも自分の中の知識と照らし合わせ、扇と同じ結論を導き出したようだった。

 そしてそれは正しかった。
 黒の騎士団の面々が連れて来られたのは、富士鉱山に建設された一連の施設のうちの一つだったのである。

「マジかよ……侵入者は尋問無しに銃殺だってのに……」

 ブリタニアの日本進攻の大きな目的として一般的に挙げられるのが、ここで産出されるサクラダイトだ。
 この鉱物の重要性は誰もが知るところであり、同時に富士鉱山に足を踏み入れて許されるのがごく限られた人間だけであるいうのも、また有名な話だった。

 会談の場所がここであるという事実だけで、黒の騎士団の幹部たちには大きな衝撃が与えられていた。

「こんなところにまで力が及ぶなんて、やはりキョウトはすごい……!」

 扇が圧倒されたように呟いたとき、窓の外が黒く覆われ、室内に赤い照明が灯された。

 ゼロたちが振り返ってみれば、そこは屋内にしてはかなりの広さを持った空間だった。
 最奥にある一段高くなった畳張りの床に駕籠かごが置かれており、周りに護衛らしき黒服たちが立っている。中にはすだれで上半身を隠した人影が胡坐を組んで座っていた。
 この人物が今回の招待主であろう。

「――醜かろう? かつて山紫水明、水清く緑豊かな霊峰として名を馳せた富士の山も、今は帝国に屈し、なすがままに陵辱され続ける我ら日本の姿そのもの。嘆かわしきことよ」

 反響した老人の声はしわがれたものでありながら、重ねてきた年輪を思わせる深みと威厳を兼ね備えていた。
 キョウトの代表と思しき人物が行動を開始したのに合わせてか、黒の騎士団幹部たちの前に、ゼロが一人無言で歩み出る。

「顔を見せぬ非礼を詫びよう。が、ゼロ。それはおぬしも同じこと。わしは見極めねばならん。おぬしが何者なのかを。その素顔、見せてもらうぞ!」

 キョウトの老人が手に持った杖の先をゼロに向けた。すると呼応するように左右の暗がりから数騎のナイトメアが現れる。アサルトライフルを手にした無頼であった。

 カレンの目つきが鋭さを帯びた。

「私たちを、脅すつもりですか」

「卑怯と言うのなら言うがよい。確かめねばならぬのだ。――扇という者がいると聞いておる。その者がゼロの仮面を外せ」

 後ろに控えていた黒の騎士団の面々から、扇が一歩前に出る。しかしそこで歩みは止まった。引き締まった表情は決然とした意志の所在を感じさせる。

 扇はすだれの奥に潜む老人をしかと見据え、告げた。

「――嫌です。ゼロの仮面を外すことは、できません」

「なに?」

「できないと言いました。正体など知らずとも、ゼロは我々のリーダーです。それは間違いありません。そして彼は、素顔を見せることはゼロとして死ぬことだと我々に語りました。そうなればもう、リーダーとしての活動は続けられないと」

「おぬし、この状況でわしの命に従えぬと言うのか」

「キョウトの力の強さは知っています。富士鉱山をじかに見せて頂いて、正直、心が震えました。ですが、だとしても、我々に命令を下せるのは、ゼロだけです」

「小僧が! 賢しき口を!」

 キョウトの老人が吼えるように声を上げた。溢れ出る気勢に煽られるように、そびえ立つ鋼鉄の巨人がアサルトライフルを構える。

 その瞬間銃声が鳴った。

 乾いた音は巨大なナイトメア用の銃器のものとは明らかに違う。人間が手に持って使うタイプの――そう、拳銃から出る音だ。
 しかしキョウトの側に先走った真似をするような輩などいるはずがない。今回の段取りは事前に徹底して通達されていたのだから。

 だとすれば――。

 状況を素早く察した無頼の一騎が庇うように駕籠の前に出た。黒服たちが武器を出そうと懐に手を入れる。

「やめい!」

 老人の制止が大きく響いた。無頼は駆動音を収め、護衛たちは動きを止める。そして一同の視線が一箇所に集中した。

 張り詰めた無数の眼差しの中心。それはゼロの背後だった。
 そこには銃を構えた玉城の姿がある。

 銃口の向けられた先は――ゼロの背中。

 黒いマントの端には小さな穴が開いている。先ほどの銃弾はゼロのそばを掠め、床を穿っていた。

 老人の声の余韻が完全に消え去ると、辺りには不気味なほどの静寂が満ちた。

 緊迫する無音の中、カレンと扇が真剣な面持ちで腕を上げる。その手には拳銃。照準はぴたりとゼロに定められていた。

「――このゼロの仮面。剥ぎたければ剥ぐがいい。撃ちたければ撃つがいい。だが我らに危害を加えたのなら、同時にこの私も死ぬと心得よ」

 沈黙を破ったのは、力強い、朗々とした声だった。

「そしてその瞬間、お前たちの未来は消える! 日本の命運は尽きる! 日本解放戦線が潰えた今、ブリタニアを打倒するのは、このゼロと! 我ら黒の騎士団以外にはあり得ない!」

 かつりと靴音が鳴った。ゼロがゆっくりと歩き出す。

「貴方たちもそう考えたからこそ、我々を招いたのではないのか? キョウトの代表――桐原泰三」

 ゼロの口にした名前に反応して、黒服が銃を取り出した。

「貴様! 御前の素性を知るものは生かしてはおけぬ!」

「やめいと言うておろうが!」

 キョウトの老人――桐原は先走る護衛を即座に止める。
 それこそがゼロの発言が真実を突いていたと示す何よりの証左。

 このとき、黒の騎士団とキョウト、両者の立場は完全に逆転した。
 キョウトはゼロを殺せないという真情を先に露呈してしまったのである。黒の騎士団側は逆にゼロの殺害しての全滅も辞さないというほどの覚悟を見せたことによって、場の主導権を握ることに成功していた。

 動くに動けぬ無頼と黒服たちの間を、仮面の怪人は悠然と進む。

「――桐原泰三。サクラダイト採掘業務を一手に担う桐原産業の創設者にして、枢木政権の影の立役者。しかし戦後は一転、身を翻し、ブリタニアの植民地支配の積極的な協力者となる。通称『売国奴の桐原』。その実態は、全国のレジスタンスを束ねるキョウト六家の重鎮」

 駕籠の前にまで至るとゼロは歩みを止めた。
 キョウトの代表と黒の騎士団の指導者が、すだれ一枚を隔てて対峙する。

「貴方たちが支援先を選別する時代は終わった。黒の騎士団無くして、日本の明日は無い」

 桐原は低く唸る。筋張った手がきつく杖を握り締めた。

「それと同じく、私無くして黒の騎士団は無い。そして――仮面無くしてゼロは無い。私は誰にも素顔を晒せない。黒の騎士団にも。もちろんここにいるそちらの護衛の方々にも。――しかし」

 ゼロはそこまで話すと、不意に口調を和らげた。

「桐原公。キョウトの代表が貴方で良かった。貴方一人になら、お見せしてもいい」

「……どういうつもりだゼロ。正体を明かせぬと言うたおぬしがなぜわしに」

「それを話すには、一対一の対話の場を用意して頂かねばなりません。どうしますか、桐原公」

 キョウトの老人はしばらく溜めを持たせてから、部下の一人に指示を出した。





 桐原が選んだのは十畳ほどの和室だった。同じ建物の中に作られていた応接用の一室だ。
 ゼロと老人はテーブルを隔てて座り、手元には茶の入った湯呑みがある。
 落ち着いた部屋の雰囲気とは対照的に、二人の間に流れる空気は固い。

「人払いは済んだ。おぬしの顔を見せてもらおうか、ゼロ。たしかに、黒の騎士団以外に日本の未来を託せる組織は無い。が、おぬしがそれに相応しい人物かどうかは、また別の話よ」

「仰ることはもっともです。わかりました」

 ゼロは仮面に手を掛け、ギミックを操作してロックを外す。頭から取り去ると、艶やかなアッシュブロンドがふわりと流れ出た。

 桐原は目を見開く。

「――なんと。女子おなごであったか。しかもおぬし、日本人ではないな」

「はい、お察しの通りです」

 桜色の唇から溢れた声音は、涼やかな少女のものだった。それでいて凛とした耳触りの良さがあり、苛烈なゼロの声質とどこか通じる風情がある。

「日本人ならざるおぬしがなぜ戦う? 何を望んでおる?」

「ブリタニアの崩壊を」

 少女は気負いのない様子で、当然とばかりに言った。

 現状の力関係を考えれば大言壮語と取られて仕方のない発言である。
 相手の心底を見通さんと、桐原は露わになったゼロのおもてを眼光鋭く見据える。

「そのようなこと、できるというのか、おぬしに」

 少女は堂々と上げた顔で老翁を見つめ返しながら、はっきりと答えた。

「できます。なぜなら、私にはそれをなさねばならぬ理由があるからです」

「理由、とな?」

「私の名は、クラリス・ヴィ・ブリタニアといいます」

 桐原はもう一度目を見張った。

「『ヴィ・ブリタニア』だと? まさか、八年前にあの家で人身御供として預かった――」

「はい。枢木首相の家に送られた皇子ルルーシュは私の兄であり、皇女ナナリーは私の妹です。公のご芳名は手紙で拝見したことがございました」

 桐原は驚愕の面持ちで少女――クラリスの顔を眺め、やがて納得したという風に頷いた。

「その瞳……言われてみれば、あの子供によう似ておる」

 旧日本時代、桐原には枢木政権との太いパイプがあった。その付き合いは個人的に枢木首相の自宅に招かれるほどである。
 いつだったかそこで目にした異国の皇子。凛とした面差しを好もしく感じたのを今でも覚えている。成長すればひとかどの者になるだろうと。

 もっとも、その彼――クラリスの兄ルルーシュは既にこの世にいない。他ならぬ父皇帝の起こした戦争によって帰らぬ人となったのだ。

「……なるほど、ならばブリタニアを倒さねばならぬというおぬしの理由は明白。素顔を晒せぬ訳も得心が行った」

「信じて頂けるのですか?」

「わしはこの歳になるまで大勢の人間を見てきた。それなりの目は持っておるつもりだ。それにな、黒の騎士団に賭けざるを得ぬというのは紛れも無い事実。であれば、信じるより他に無かろう」

「では――」

「情報の隠蔽や拠点探し、その他についても可能な限り協力しよう。おぬしの素性については、わしが墓まで持って行く」

「感謝致します、桐原公」

 クラリスは正面を向いたまま礼を言った。毅然とした態度にはおのれへの自負と、なすべき難事に対する強い想いが滲んでいる。

 母国、そして肉親へと戦いを挑まんとしている少女に、桐原は炯々とした眼で問いを掛けた。

「往くか、修羅の道を」

「――それが、我が運命ならば」

 世界中を相手に自らを偽り続ける少女が見せた決然とした意思。
 C.C.であれば察せたであろう偽物の真意に、桐原が気付くことはなかった。




 ◆◇◆◇◆




 クラリスは扇たちと別れた後、私服になって租界を歩いていた。暗くなった空からは結構な勢いで雨が降っており、差した傘がざあざあと雨滴を弾いている。

 今日の出来事を思い返してか、少女は雨音に紛れるくらいのかすかな呟きを漏らした。

「――案外スムーズに行ったわね」

 ボロが出たらギアスでやり直そうかと思っていたんけれど、と続け、小さく口角を上げる。と思うとすぐに笑みを収め、真面目な顔になった。

「それにしても、修羅の道を往く覚悟……か。すごいわね、ルルーシュは」

 目を伏せて、雨に濡れた道を歩く。
 道路に弾ける水滴の音に囲まれて、少女の声は誰にも届かない。ただひとり、彼女自身の耳と心以外には。

「殺す覚悟。殺さない覚悟。助ける覚悟。助けない覚悟。どれでもいいから、必要なのにね、ほんとは」

 それきり黙りこみ、人通りの少なくなった夜の街を無表情に進んだ。
 向かう方角は自宅である。ゼロの活動のために護衛は遠ざけられており、周囲には本当に誰もいない。

 ひとりきりでの夜の散歩を終え、アーベントロート邸の門まで帰り着く。すると、そこには雨に打たれて立つクラスメイトの姿があった。

「……シャーリー?」

 薄弱な街灯に照らされたオレンジ色の髪が、夜の闇に沈んで普段の輝きをなくしている。

「……クラリス、私、なんかぜんぜんわかんなくて、気付いたら、来ちゃってた」

 ずぶぬれになった少女は濡れた路面に目を落とし、ぽつりぽつりと話した。その声はひどく弱々しい。

「クラリスに黙って、ルルのこと誘ったから、罰なのかな。悪いって思ってたのに、誘っちゃって、喜んじゃって。ばかみたいに」

 瞳に涙が浮き、顔面を打つ水に混ざって流れていく。

 まとまりの無い心情を吐露する少女を目の前に置き、クラリスは立ち止まったまま動かずにいた。表情は固く強張り、傘の柄を握る手にはきつく力が込められている。

「お父さん、死んじゃった。何にも悪いことしてなかったのに。黒の騎士団に殺されちゃった。……ねぇ、私、どうしたらいいんだろ。どうしたら……私」

 シャーリーの言葉には嗚咽が混ざり、次第に途切れがちになっていく。

「……お父さんっ……!」

 立ち尽くす二人の周りを、降りしきる雨の音が取り囲んでいた。



[7688] STAGE12 歪み
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2011/01/18 16:08
 父の死に顔は、それは悲惨なものだった。死因は生き埋めになっての窒息だろうと聞いた。

 ナリタに置かれた仮設の遺体安置所でシャーリーが目にしたのは、見間違えようもない、父の亡骸だった。認めたくはないけれど、認めるしかなかった。

 土砂に飲まれた際に傷ついたのであろう、ぼろぼろになった手。幼い日に優しく頭を撫でてくれたあの温かくて大きな感触を、シャーリーは鮮明に思い出すことができる。
 その際に笑いかけてくれた父のいつくしむような眼差しを、忘れることなく覚えている。

 でもそれは、もう記憶の中にしか存在しないのだ。

 そう思うと、視界が滲んだ。ハンカチを目に押し当てると、涙に濡れて既に湿気を帯びている布地が、さらに湿り気を帯びていった。
 どれだけ泣いても涙が止まりそうになかった。

 アッシュフォードの寮に入ってからは滅多に会うこともなくなった父。いつも一方的に甘えていたばかりで、あまり孝行をした記憶もない。今更考えてもどうしようもないというのに、そんな後悔が浮かんでは消えていく。

 瞳に溜まる雫をぬぐって顔を上げると、外は夜闇に沈んでいた。
 ナリタからトウキョウ租界へと戻ってきた駅の構内。夕方までは晴れていた空に分厚い雲が掛かり、大粒の雨を降らせている。降りしきる雨滴が路面に弾け、周囲を白くけぶらせていた。

 傘を買おうかと一瞬だけ考え、そのまま外に踏み出した。
 風邪を引いて高熱で寝込んでしまえたら幸せなんじゃないかと思った。それに、雨に紛れてしまえば、きっと流れる涙も気にならなくなる。

 自然と足が向いた先は、自室のあるアッシュフォード学園の寮ではなかった。とはいっても、他の目的地があったわけではない。ふらふらとさまよい歩いているだけだ。
 どちらかといえば真面目で優等生なシャーリーは、一人で夜遊びなどしたことがなかったし、よしんば経験があったとしても、ずぶぬれになった服装で店に入ることはできなかっただろう。

 せめて涙が止まるまではと考えたのかもしれない。もしかしたら本当に風邪を引きたいのかもしれない。
 どちらなのかも判別できないほど、心がぐちゃぐちゃになっていた。胸の奥が掻き乱されて、思考が意味の無い空回りを繰り返して、自分が何をしているのかもよくわからない。

 けれど。

 ――本当は誰かに縋りたかった。

 それだけは間違いなくわかる。そしてその誰かが誰を指しているのかも。

 慰めて欲しい。抱きしめて欲しい。全部、忘れさせて欲しい。

 でも、してはならないと思った。

 斜に構えているようで優しいところもあるルルーシュには、傷ついた友人を放っておくことなどできはしないだろうから。求めればきっと、シャーリーの望むままの行動を取ってくれる。
 だからこそ駄目なのだ。そんな卑怯な手段で、脅しみたいな手を使って彼の体だけ手に入れて、それでいったい何になるというのだろう。ルルーシュにはたぶん、他に好きな子がいるというのに。

 考えないようにしていただけで、心の底ではわかっていた。
 ルルーシュがナナリー以外とあんなに親しくしているのなんて見たことがなかった。誰に対しても例外なく築いているはずの壁が、彼女――クラリスに対してだけは存在していない。
 そして、クラリスがルルーシュに想いを寄せていることなど火を見るよりも明らかで。

 二人がいずれ恋人になるのは当然の帰結と言えた。もしかしたらもう付き合っているのかもしれない。正直、自分の感情を抜きにすればお似合いだとさえ思える。

 そんな中に要らない火種を放り込んでも、かれらとの関係をぎくしゃくさせる結果にしかならない。

 幸か不幸か、そう判断できるだけの理性は残っていた。

 そんなことを考えていたせいだろうか、あてども無く歩いて辿りついた先は、クラリスの家だった。

 ふと思いつく。
 彼女に黙ってルルーシュとデートをしたことを詫びたら、少しは気が晴れるだろうか。まったく罪悪感の無い行動だったわけではないのだ。比較で見れば微々たる物ではあるものの、胸の悪さの原因の一端にはなっている。
 ルルーシュと同じく優しいクラリスは、父が亡くなったことを同時に報告したら、デートの件など咎めたりはしないだろう。穏やかな声で気にするなと慰めてくれるに違いない。

 これも卑怯な手段だとは自覚している。でも、それくらいの救いは望んでもいいはずだと思った。

 だってまだ、涙が止まらないのだから。

 インターホンを押してみたところ、クラリスは不在とのことだった。中に上がって待つよう勧められたが、断った。クラリスがいないのなら、まだ雨に打たれていたい。

 門柱にもたれていくらか経った頃、傘を差したアッシュブロンドの少女の姿が遠くに見えた。目の前までやってきたところで、涙混じりに訴えた。自分は悲しいんだよ、辛いんだよ、と。
 ルルーシュとデートをして、それに罪の意識を抱いていることも仄めかした。

 やっぱり、ずるいやり方だと感じた。
 けれど少し、胸が軽くなった。

 クラリスはしばらく硬い表情でシャーリーの方を見つめ、それからふっと微笑んでくれた。

「とりあえず、中に入りましょう。お風呂貸してあげるから。ね? こんなことをしていたら風邪を引いちゃうわ」





 シャーリーは促されるままに広い浴場と着替えを借りた。
 どちらも慣れない高級なものだった。良い香りのするソープを使い、わざわざおろしてくれたらしい肌触りのいい新品のスリップに袖を通したら、現金なもので、それだけで幾分落ち着きが戻ってきた。

 元来明るい性格のシャーリーは、元々それほど暗い思考にとらわれることのできない性分をしている。
 雨に打たれ続けるという非日常的な状況から、汚れを落としてさっぱりとしたいつもの自分に戻ったら、一緒に悲しさも流れ落ちていた。少なくとも涙が止まる程度には。もちろん全てを水に流せるはずなどない。

 着替えを済ませると、シャーリーは使用人の女性に先導されてクラリスの部屋へと連れて行かれた。コンコンとノックの音が廊下に響く。

「お嬢様、ご友人様をお連れしました」

「ありがとう。入れてあげて」

 扉越しの返答を受けて使用人がドアノブを捻る。
 通された部屋の中では、料理の乗ったテーブルに着いたクラリスがニュース番組を見ながら待っていた。画面に映っていたのは復興途中のナリタからの中継のようだったが、詳しく確認する前にスイッチが切られた。

「ご飯まだだったでしょう? 食欲無いかもしれないけど、一緒に食べてくれない? ひとりで食べるよりシャーリーと一緒の方が私も楽しいから」

「あぁ、私の分まで用意してくれたんだ。じゃあ、うん、ありがと。ごちそうになります」

 並べられた料理は一般庶民が自宅で食べるものとは明らかに違っていた。どこの高級レストランだと突っ込みたくなるような華やかさである。
 とは言え、クラリスは普段からこういう食事を取っているのだろうから、遠慮するのもおかしな話だ。シャーリーは大人しく席に着いた。

「お酒もあるから、もし良かったら飲んで。ワインくらいだけど」

 白ワインのボトルを手にとって、クラリスが悪戯っぽく笑う。

「よく飲むの?」

「いいえ、たまに。考えたくないことがあるときだけ。私は酔うとふわふわしてきてそのまま寝ちゃうのよ。――ああ、今日はもちろん寝ない程度にしか飲まないわよ」

 そう言って胸の前で軽く手を振る。

「いくらつらくても、一晩寝て朝が来れば、だいたいは何とかなるものだから」

 そういうものだろうか。

 ――そんなものなのかもしれない。

 父を喪った喪失感には耐え難いものがあるけれど、だからといって後追い自殺を考えるほどかと言われれば、決してそれはない。
 命を絶つ意思が無い以上、シャーリーの毎日はこの先も続いていくのだろうし、新しい朝を迎えるたびに、少しずつ、癒されていくのだろう。
 たぶん、みんなそうやって生きているのだ。

 だとしたら、一番つらい夜をアルコールで誤魔化すのは、たしかに賢いやり方なのかもしれなかった。

 自分と同い年の女の子にしては、お酒との付き合い方がだいぶ大人びている。
 こんな風に、たまにすごく年上のお姉さんと話しているような錯覚を味わわせてくれるのがクラリスだ。何を言っても笑って受け止めてくれそうな安心感がある。
 今思えば、そういった印象がどこかにあったからこそ、ここに足が向いてしまったのかもしれない。

 もし酔っ払って愚痴っぽくなっても、クラリスなら嫌な顔など見せずに付き合ってくれるのだろう。

「じゃあ、いただこうかな。飲みなれてないから、変になっちゃったら止めてね」

「どうしようかしら。変になったシャーリーを見ているのもちょっと楽しそうだわ」

「もう、そういうのはやめてよ」

 ミレイやリヴァルがお酒を持ち出したら止める側に回ることの多いシャーリーだが、今回は厚意に甘えることにした。

 テーブルに置かれたグラスに、クラリスがワインを注いでいく。気を利かせてくれたのか、使用人には部屋に近づかないように言い置いてくれていたようだった。案内をしてくれた女性も既に退出している。
 自分も酌をした方がいいのだろうかと思い付いたときには、もうクラリスは二人分のグラスを満たしてしまっていた。

「それじゃあ、いただきましょうか」

 そうして、二人きりの晩餐は始まった。





 どれくらい経ったのだろうか。時間の感覚が曖昧だ。時計を見ると、深夜十二時近い。そういえば、クラリスの家に来たのは何時頃だったのだろうか。
 早く帰らなきゃ、と思って、直後泊まって行く約束をしたのを思い出した。というか、そもそも泊まるのでなければこんな時間まで友人宅に居座っていていいはずがない。

「――そしたらね、お父さんったら『シャーリーにももっと好きな人ができるんだ』って言うのよ。私はこんなにお父さんが好きなのに!」

 頭では時間のことを考えていたのに、口では変わらない調子で喋っている。その慣れない感覚が少し面白かった。

「ねえ、聞いてる?」

「ええ、聞いているわ。シャーリーはお父さんが大好きなのよね」

「うん、大好き。面と向かっては言えなかったけど、やっぱり、好きだったな」

 本音を口にしたら、何度目かわからない涙が目に浮かんだ。けれど、いつからかその意味合いは変わってきていた。今はもう、雨の中を歩いていた頃とは明確に違うと自分でも感じられる。
 どうしようもなく、ただ悲しくて泣いているのではなくて、父が死んだという事実を受け止めた上で、気持ちの整理をつけるための涙。泣いて泣いて、涙が枯れてしまったら、そこで一つの区切りが付けられるのだろう。

「……むあああああ! 黒の騎士団許すまじ! お父さん何にも悪いことなんてしてなかったっていうのに!」

「酷いわよね。でも、恨むなとは言わないけど、変に頑なにならないでね。黒の騎士団もシャーリーのお父さんを狙って攻撃したわけじゃないんだし。原因はブリタニアの側にも平等に存在しているわ」

「うん、わかってる。でも今日だけは言わせて。言わなきゃやってらんないの」

 そう、本当はわかっているのだ。父は巻き込まれただけなのだから、復讐を考えたりとか、仇を討とうと画策したりするのは、少し筋が違う。もちろん黒の騎士団の心証は最悪になったが、それだけのことだ。
 妙な妄念にとらわれたりせずに、父の死を受け入れて日々を平穏に過ごしていくのが、一番の餞になるのだろう。

 何杯目かも覚えていない、半分ほどワインの入ったグラスを乱暴に唇に運ぶ。もはや味もよくわからない。甘味と酸味が絶妙に混ざり合っていたはずのそれは、今となってはただ思考を鈍化させるだけの液体だ。

「それ飲んだらもう終わりにしなさい。お水持ってきてあげるから」

「えー、やだぁ。もっと飲むー」

「明日はお母様のところに行くんでしょう」

「行きたくない」

 唇を尖らせると、クラリスは大げさに息を吐いて見せた。

「朝起きても行きたくないんだったらウチで休んでていいから。今日はもう寝た方がいいわ。これ以上飲んだら体壊しちゃう」

 クラリスの言には一理も二理もある。どう考えてもそれが正しい。そうと理解できても、素直に従うのはなんだか癪だった。クラリスの目が妄想で思い描いたことのある理想の姉みたいな優しい色をしていたから、甘えてみたくなったのかもしれない。

「じゃあさ、一緒に寝て。あのおっきなベッドで。ならやめたげる」

 やたらと広い室内に置かれている、天蓋突きの豪勢な寝台を指差す。小さく見積もってもセミダブルはありそうだった。

「本気?」

「独りになったら、変なこと考えちゃうかもしれないから」

 これは本心からの言葉だった。
 もしも今日クラリスのところに来ずに独りでいたら、もしくは別の人と過ごしていたら、こんなに明るい――と言ってしまうと語弊があるが――気分にはなれていなかっただろう。数時間前の自分と照らし合わせると、魔法でも使われたんじゃないかと疑いたくなってしまうくらいの変化だ。

「どうせなら最後まで面倒見て。今日だけでいいから。感謝してるよ、ほんとに」

 アルコールでふやけた脳に鞭打ってはっきりと告げる。クラリスは予想通り、柔らかく微笑んで言ってくれた。

「仕方ないわね、今夜だけよ。私は安くないんだから」





 それからしばらくして、クラリスとシャーリーは同じベッドに入った。
 酔っていたのに加えて疲れもあったのだろう。横になるとシャーリーはすぐに寝息を立て始めた。家族を失くした当日にしては、寝顔は殊のほか安らかだった。

 こうして何事も無く寝付いたかのように見えるシャーリーだが。

 実はこの晩、クラリスがギアスを使用した回数は十度以上に上る。ネガティブな方向に落ちて行きそうになるたびに、会話をやり直して思考を誘導していたのである。

 むろんその事実は、クラリス本人以外に知られることは無かった。




 ◆◇◆◇◆




「彼は、敬虔なる神の信徒であり、我らの良き友人であり、また、妻にとっては良き夫であり、子にとっては良き父でありました」

 トウキョウ租界のとある霊園に、十数人の人間が集まっていた。シャーリーとその母、エリア11に在住しているフェネット家の親類、故人の友人知人、神父他、葬儀を執り行う業者の人間。それに、アッシュフォード学園生徒会の面々である。

 居合わせた人々の心境を映し出すかのように、空は鈍く曇っていた。

「――それでは、彼の眠りの安らかならんことを」

 最後の挨拶が済み、墓穴に収められた棺に土がかぶせられる。粛々と進められていく作業に耐え切れなくなったのか、故人の妻が「もう埋めないであげて」と泣きながら地面に膝をついた。シャーリーがなだめるようにその肩を抱く。

 ルルーシュは表情を殺して、その様子を眺めていた。

 胸の悪くなる光景だった。

 疑いようもない。誤魔化しなど利かない。
 この惨状を作り上げたのは、他ならぬルルーシュだ。

 それをどう受け止めていいのか、心の整理が付いていなかった。

 覚悟していたはずだった。理解していたはずだった。

 これまでも手にした銃で実の兄を殺し、ナイトメアの武装で敵兵を葬り、そしてギアスの力で幾人もの命を絶ってきた。
 人の死に心を痛める段階などとうに過ぎたと思っていた。

 だが、そうではなかったらしい。

 親しい友人の父を死に追いやり、それに嘆く人々の姿を見て、そしてようやく、ルルーシュは『人を殺す』ということの意味を正しく知った。
 人を殺すという行為とその結果。それは、これほどまでに重いものなのだ。

 だからといって今更やめられるかと言えば、やめられるわけがない。
 ブリタニアをぶっ壊すと強く宣言したあの日の決意はそんな脆弱なものではない。なんとしてでも妹たちが幸せに過ごせる世界を作り上げねばならないのだ。
 それは絶対の誓いだった。

 だからこその苦しみである。
 やめられないと確定しているのに、その行動がおのれの胸を刺すのである。

 きつく奥歯を噛み締めているうちに、埋葬が終わったらしい。喪服姿のシャーリーが生徒会の面々の前にやってきた。
 その顔は意外に晴れ晴れとしていた。一仕事終えたというか、故人への別れが済んで、一つの区切りが付いたのかもしれなかった。
 どちらかといえば、他のメンバーたちの方が深刻な面持ちをしている。ミレイとクラリスはそうでもないようだったが。

「……あの、シャーリー」

 こらえきれないように、カレンが小さく呼びかけた。
 シャーリーの父を葬った土砂災害の直接の引き金を引いたのは、紅蓮を操っていたカレンである。おそらくルルーシュと似た心境に陥っているのだろう。

「なに? カレン」

 首を傾げるシャーリーを見つめながら、カレンは拳を握り締めた。そして迷うように一度まぶたを閉じる。
 わずかに流れた沈黙の後、カレンはしっかりと目を開けた。

「いいえ、なんでもないの。この度は、ご愁傷様でした」

 ――強い。
 ルルーシュは素直にそう感じた。

 安易な謝罪に走らず、それでいてシャーリーと――おのれの罪と真っ向から向き合って見せた。他の者にはわからずとも、ルルーシュの目からは罪を受け入れた上で前に進もうとする強い意志が感じ取れた。
 カレンには自らの行動を正しいとするたしかな信念が、そのために犠牲を伴う覚悟があるのだろう。

 対してルルーシュは一言も発せない。ただ事態が推移するのを無言で眺めているだけである。

 するとリヴァルが横から一歩出た。

「あの、なんか、ゴメン。俺、ホテルジャックのとき、テレビとか見てて、黒の騎士団ってちょっとカッコイイかも、とか思ってて。掲示板でも、スッゲーとか、適当なこと書いちゃったりして」

「いいよそんなの。全然関係ないって。私だってホテルのときはすごいなって思ったりもしてたから。助けてもらったしね」

「あ、うん、そっか」

 シャーリーの返答はこれ以上はないほどに前向きだった。肩透かしを食らったかようにリヴァルの口が止まる。
 自然と生まれた会話の隙間に、ミレイがぱんぱんと手を叩いた。

「ほーら、みんなそんなに辛気臭くなんないの。本人がいいって言ってるんだから、その話はもうこれでおしまい! シャーリーもその方がいいよね?」

「はい。もう、いっぱい泣きましたから。いつまでもうじうじしてたって、お父さんもきっと喜ばないでしょうし」

 ミレイはこういったときの空気を読む能力に長けている。彼女が問題ないと判断したのなら、シャーリーは本当に大丈夫なのだろう。

「良い泣き方したのねー。シャーリーなら立ち直れると思ってたけど、こんなに早く吹っ切れるとは思わなかったわ」

「自分でもちょっと驚いてます」

「なんかヒミツでもあるの?」

 ミレイが好奇心たっぷりに訊く。シャーリーははにかむように少しおもてを俯かせた。

「一番酷かったときに、クラリスが一晩付き合ってくれたんです。たぶん、それのおかげ。あんまり大きい声じゃ言えませんけど、お酒を飲ませてくれて。添い寝までしてくれて」

 そう言い終えるか終えないかというとき、ルルーシュのそばから「え?」と小さな声が上がった。
 隣にいるのはニーナである。視線を移すと、なぜか驚いたような顔をしていた。

「……どうした?」

「う、ううん。なんでもない」

 尋ねてみると、ニーナは慌てて首を振る。

「そうか」

 追求すれば別の返答が出てきそうな態度だったが、ルルーシュには人の内面をほじくり返して喜ぶ趣味はなかったし、心境的にも他人に関わっていられるような状態ではなかった。

「……ルルーシュは」

 会話を終わらせたつもりだったところに、ニーナの方から声が掛かる。

「ルルーシュは、クラリスがシャーリーと一晩過ごしたって聞いて、何にも思わないの?」

「ん? 女同士だろ。何を邪推したらいいんだ?」

「そう……だよね。ごめん、変なこと聞いた」

「いや、気にしないでいいよ。ちょっと恥ずかしいけどね。それだけ俺がクラリスと仲良いように見えてるってことだろ?」

「……うん。そうかも」

 ニーナは呟くように答え、それきり口を開かなかった。

 結局ルルーシュはシャーリーとろくに話をしないまま、アッシュフォード学園へと帰ることになる。




 ◆◇◆◇◆




 ディートハルトはHi-TVトウキョウ支局の資料室で一枚の写真を眺めていた。ジェレミアより身元確認を依頼された例の少女が写っているものである。

 クラリス・アーベントロート。

 その名前はすぐに判明した。
 ホテルジャック事件の現場となったコンベンションセンターホテルには宿泊客の名簿が無事に残っていた。有力テレビ局のプロデューサーとして世の中の表も裏も見てきたディートハルトにしてみれば、存在している個人情報を吐き出させることなどさしたる難事ではない。

 ただ、そこからが問題だった。

 クラリス・アーベントロートはどの線を辿って洗ってみても、ただの『クラリス・アーベントロート』でしかなかった。
 無論、大勢の護衛がついている子爵家の令嬢を確証も無い段階で直接見張ることなどできるはずがない。下手を打てば身の破滅である。
 書類上からと間接的な聞き込みからの情報で得た結論は、件の少女はやはりただのクラリス・アーベントロートだということであった。

 つまりは、近年頭角を現し、経済界に一躍名を馳せたアーベントロート子爵――その一人娘であると。
 ジェレミアとの接点などどこにも見あたらない。
 普通に考えれば、書類などには載らない、本当にプライベートな知人なのだとするのが自然ではあるが――。

(しかし、何かがおかしい)

 長年情報というものと密接に関わりあってきたディートハルトは、そこに何らかの違和感を覚えていた。

 どこが、とは断定できない。人に説明しろと言われても難しい。ただ何か、心に引っかかるものがあった。

 ディートハルトはおのれのそういった感覚を信じることにしている。今回も例外ではなかった。

 ジェレミアには既に調査結果を伝えてある。ナリタの失態で謹慎中と聞くから今すぐの行動は叶わないだろうが、いずれ処分が解ければ動くだろう。
 そのタイミングが勝負だと考えている。

 黒の騎士団に有用な情報は一つでも多く欲しいのだ。結果が空振りなら空振りでもいい。疑わしい部分には目を光らせておくべきである。
 それがディートハルトの方針だった。

 写真をしまい別の資料に目を通していると、部屋の外からバタバタと慌しい音が聞こえてきた。
 椅子から立ち上がり、扉を開ける。廊下に出ると、丁度資料室を通り過ぎようとしているかつての部下の姿があった。

「おい、何があった?」

「あぁ、ディートハルトさん。政庁から連絡が入ったんですよ。日本解放戦線の片瀬の足取りが掴めたって。これから特番の準備です。――あぁ、すみません、ディートハルトさんはもう関われないっていうのに」

「いや、構わんさ。頑張れよ」

「はい、ありがとうございます」

 昔の仲間は会釈をして走り去っていった。その背を見送り、ディートハルトはニヤリと笑む。
 ナリタの件に続き、ふたつめの大きな情報。これで黒の騎士団の信用も幾らか得られるだろうと。





 結果から言えば、かつての部下が漏らした情報は、ディートハルトに予想以上の成果をもたらした。
 アジトの一つに招かれ、直接トップと対面する機会を与えられたのである。

 夢にまで見た仮面の男。その姿が眼前にある。画面越しではなく、カメラ越しではなく、手の届く距離に厳然と。
 避けようも無く湧き上がる興奮を理性で宥めつつ、ディートハルトはゼロの前に立っていた。

「情報提供者――ディートハルトと言ったな」

「はい。お目にかかれて光栄です、ゼロ」

「コーネリアが海兵騎士団を投入し、解放戦線の片瀬少将の捕獲を目論んでいる。本当なんだな?」

「はい、局では報道特番の準備に入っています」

 見つかった片瀬は現在タンカーでの国外脱出を図っているらしい。ナイトメアの積載はなく、積荷の大部分は流体サクラダイト。
 どの国に行っても貴重な資源として扱われるかの物質は、どんな貨幣よりも資金としての価値は高い。それを元手に他国からの保護を受けようというのだろう。もしくはどこかに潜伏しようというのか。 

「……片瀬は結局藤堂と合流できず終い。つまり今の解放戦線に確たる武力は無い。逃走資金代わりの流体サクラダイトのみが頼り――」

 考え込むように言葉を切ったゼロに、扇が尋ねる。

「どうする? ゼロ」

「我々は黒の騎士団。ならば答えは一つ。片瀬少将を救出した上で、コーネリアの部隊を叩く!」

 自信に満ちたゼロの回答を聞き、ディートハルトは自分の持つゼロへの認識がとりあえずは間違っていなかったと安堵する。

 ゼロが予想通りの人物であれば、ここでの返答はそれ以外になってはならないのである。
 正義の味方を自称する以上片瀬を救出しないという選択肢は存在せず、また奇跡を見せ続ける男としてはコーネリア軍に打撃を与えないという結果では今ひとつ弱い。

 問題は、それをどこまで本気で考えているかである。あるいはどうやって実現するか。
 少なくとも、ディートハルトの頭脳では正攻法でその両方を成立させる手段などどうやっても思いつけない。

「作戦行動の詳細は追って出す。扇は出撃の準備を進めてくれ」

「わかった」

 頷きを返す幹部の男を見ながら、ディートハルトは鋭く目を光らせた。

(ゼロ、ここで貴方の真価がわかる。私としてはただの理想論者でないことを願うばかりだが――)




 ◆◇◆◇◆




 ナナリーとの夕食を終えて部屋に戻るなり、ルルーシュはソファに座り込んで一切身じろぎをしなくなった。考え事をしているにしては目の色が淀んでいる。食事の最中には笑顔を取り繕っていたものの、ナナリーも何か感付いているようだった。

(クラリスから聞いてはいたが、ここまで腑抜けるとはな)

 C.C.は契約者の少年から視線を外し、呆れたように嘆息する。
 これで潰れてしまうようならとんだ見込み違いだが、もう一人の契約者はおそらくそうはならないと言っていた。

 クラリスの予想はあくまでも予想である。彼女本人の口から聞いたことこそないものの、C.C.の見立てではそろそろ例の『未来知識』からも乖離し始めている。
 だが、それでもクラリスの知識は強い。なぜなら人の本質というものを予め知らせてくれるからだ。

 スザクが信用できないと初対面――いや、対面せずとも断じられたのと同じ。
 クラリスが立ち直れると判断したのだから、ルルーシュは立ち直れるだけの資質を秘めているのだ。

 とは言え、このまま放置しておくわけにも行かない。部屋の雰囲気がじめじめとしてたまらなかった。

 ベッドの上でクッションを抱え、C.C.は訊く。

「――悔いているのか? 友人の父親を巻き込んだことを」

「……黙れ」

「やめたくなったか? あれだけの人間を巻き込んでおいて。殺しておいて」

「……黙れと言っている」

 ルルーシュの口から漏れるのは搾り出すような声である。相当参っているようだ。

 しかしC.C.には慰撫してやる気など一切無かった。クラリスからも発破を掛けるよう頼まれているし、それが無くとも、覇気を失ったままのルルーシュではC.C.の願いに届かない。他人に縋るのではなく、自力で殻を破ってもらわねばならないのだ。

 ゆえにC.C.は殊更に冷たく言う。

「ゲームのつもりででもいたか? お前はこれまでも多くの人間の命を絶ってきた。その手で。あるいはその言葉で。そいつらにも家族はいた。恋人も友人も。まさか、理解していなかったとでも言うつもりか?」

 嘲るような口調。ルルーシュはソファを軋ませて荒々しく立ち上がった。

「黙れ! わかってる! 全部わかっているさ! 今まで俺がしてきたことも、その意味も! 今更やめられるわけがないってことも! だから俺は……ッ!」

「その罪を忘れないように、心に刻みつけよう――か? 経験から言うがな、そんな行為に意味は無い。お前が自分を責めても死んだ人間は生き返らんし、お前の認識がどうであれ、お前の罪が消えることはない」

 激昂するルルーシュとは対照的に、C.C.はどこまでも冷淡だった。

「いくら悔いても得られるのはお前の心の安息だけだ。大量虐殺をしてもまだ自分は人間らしい感情を持っている、罪の意識に苛まれる良心を持っている――そうやって自分を悲劇の主人公にして慰める。そんなものは私に言わせればただのオナニーだ」

 鼻先で笑い、口の端を釣り上げる。

「ああ、口先だけの頭でっかちな童貞坊やにはそれがお似合いか?」

 ルルーシュの体が弾かれたように動いた。C.C.の肩を掴み、そのままベッドに押し倒す。ふわりと舞ってシーツに落ちるライトグリーンの長髪。白い手に掴まれていたクッションがばさりと床に転がった。

「――私を犯すか? また一つ意味の無い罪を自分に刻むのか? そしてあとで謝罪して救われた気分になるのか?」

 C.C.はただ言葉を紡ぐ。怒りに満ちたような、今にも泣き出しそうな、それでいて奥に燻る炎を宿した少年の瞳をまっすぐに見据え、ただ淡々と。

「世界を変えたいのだろう? なら動けルルーシュ。歩みを止めるな。志を持ち続けろ。それがお前が殺してきた人々への、唯一の餞だ」

 交わり続ける視線と視線。

 ルルーシュの歯はきつく食い締められている。憤怒の形相のようでもあり、圧し掛かる責め苦を撥ね退けようと力む地獄の囚人のようでもあった。それはまさしく少年の葛藤を表していたのだろう。
 ルルーシュは良くも悪くも頭の良い人間だ。理性的で、打算的で、『結果は何よりも優先する』などと本気で口にできる。だからこそ、自分を責めるという行為に何ら建設的価値が無いということを嫌でも理解してしまう。

 それが幸せか不幸せかは置くとして、この少年がルルーシュという少年である以上、結論は始めから決まっていた。

 やがてルルーシュはC.C.から視線を外し、ベッドを降りた。ソファに座りなおした彼の顔つきは、先ほどまでとは明らかに違う。まだまだ頼りなくはあるものの、ルルーシュ本来のふてぶてしさがたしかに戻ってきていた。

「……報告を寄越せ。キョウトの動きはどうなっている。まだ何の音沙汰もないのか」

 何事も無かったかのように要求する姿に、C.C.は小さく笑みをこぼす。プライドの高いルルーシュらしい行動だった。
 今ばかりは突っ込んでやることもあるまい。

「あぁ、その件だがな、言い忘れていた。既に片がついている」

「何?」

「数日前、ゼロはキョウトの代表と会談し、全面的な支援の約束を取り付けた。ゼロがお前だとはばれていない」

 ルルーシュが目を見開く。

「馬鹿な、どうやって……!? いや、その前になぜ事前に相談しなかった!」

「話したら止めただろう?」

「当たり前だ、他人の立てた不確定な策になど乗れるか!」

「だからだ。お前を信用させる手段が無かった。だが私には確実に成功させられる確信があった」

 これについては、ルルーシュに強く咎められることは無いだろうというのがクラリスの予想だった。怒りはするだろうが今までの関係に支障をきたすほどではないと。
 なぜなら、ルルーシュ本人が出て行けない――つまり、ゼロの正体を明かせない、ギアスを使えない、この条件下で今回以上の結果を望むことが不可能だからだ。クラリスはそう語った。
 結果を重視するルルーシュだからこそ、この奇跡のような成果を無視することはできないと。

「……どうやった?」

「協力者を使った。悪いが詳細は明かせない。個人的な伝手だ。安心しろ、そこから情報が漏れることは絶対に無い」

 返答を聞くとルルーシュは舌打ちする。事後報告というものは彼の管理外の出来事だ。どうやっても取り返しがつかないとわかるからこそ苛立つのだろう。

「――ギアス関係者か?」

「それについては黙秘させてもらう」

「関係者だな。その反応でバレバレだぞ。そもそもギアスでもなければゼロの正体を明かさずにキョウトからの全面協力など取り付けられるわけがない。腹立たしいがたしかにその結果はこれ以上は無い最善のものだ」

 ルルーシュは面白くなさそうにフンと鼻を鳴らした。

「つまり、俺のほかにもお前と契約したやつがいるってことだ」

 紫水晶の瞳が鋭さを帯びる。

「何人だ? 契約の内容は? 俺と同じなのか?」

 射抜くような視線がC.C.を刺した。
 C.C.は答えない。

「答えろC.C.!」

 わずかに流れる沈黙。

 C.C.は億劫そうに口を開いた。

「私に当たるな。腹が立つのは察するが、もっと冷静になれ」

「お前が熱くさせてるんだろうが!」

「どうだか。シャーリーの父親を殺したこともまだ整理しきれていないんだろう?」

 向けられる怒気を受け流し、C.C.は不敵に笑う。
 指摘が図星を突いていたのか、ルルーシュは低く唸って言葉を止めた。

「とにかく、この件に関しては何を言われようがお前に話すつもりは無い」

 C.C.がこれで終わりとばかりに淡々と言うと、ルルーシュはそれ以上を求めずに引き下がった。いや、引き下がらざるを得なかったのである。
 現時点に限って言えば、立場が上なのは確実にC.C.の方である。ゼロの代役という替えの利かない役目を務めている――とルルーシュが信じている――彼女には、それを辞めるというカードを切ることができる。そうなってしまえばルルーシュはお終いだ。

 C.C.に降板の意思は無いが――元々やっていないのだから降りるも何も無い――ルルーシュはおそらく、勝手気ままな魔女に対してそういうことをあっさりと言いかねない人間だという認識を持っているだろう。

「……我侭な女め。キョウトの件はあとで詳細を提出させろ。今はそれで勘弁してやる。それから、今後は絶対に勝手なことをするな。一度俺に判断を仰げ」

「ああ、そうしよう。これをどうするかはお前が決めろ。――最新情報だ」

 C.C.は袖口からディスクを取り出し、ルルーシュに放り投げた。

「日本解放戦線の片瀬が流体サクラダイトを積んだタンカーで国外逃亡を図っている。コーネリアは海兵騎士団を使っての捕獲を目論んでいるらしい」

 『お前が決めろ』と最前口にしたC.C.だったが、この件については実は片瀬を爆殺する方向に誘導するようクラリスから要請されていた。違う展開になるとディートハルトの忠誠心に悪影響が出るかもしれないからと。

 どうやらその男は非常に有能らしく、ゆえに行動が読めないと逆に厄介になる可能性が高いとのことだった。

「私としては自決に見せかけての爆殺を進言する。下手に落ち延びさせて勝手な行動を取られても面倒だろう。やつが生きていては藤堂を引き込むこともできない。生きたトラップとして使うのが、一番効率の良いやり方じゃないのか」

 C.C.はもうしばらく前から、未来がクラリスの知る道を辿る可能性は限りなく低いと見ている。しかし、だからといって積極的に脱線させてやろうというつもりも無かった。

「どうする? これ以上罪の意識に苛まれたくないのなら、逃亡の手助けをしてやるのもいいとは思うが」

「もうそれは言うな。お前の言うとおりだ。たしかに悔いても意味は無い。そんなもので世界は変えられない。――俺は決めたさ、人の死にいちいち足を取られたりなどしない、修羅になってみせると」

 毅然として答えたルルーシュの瞳には、確たる意志の光が覗いていた。




 ◆◇◆◇◆




 トウキョウ租界近郊の夜の港。

 幾らか経って、ルルーシュはサザーランドのコクピットの中にいた。作戦区域近辺の哨戒に当たっていたブリタニア軍の兵士からギアスで奪い取ったものである。

 不測の事態が起こった際にはここからゼロの機体に指示を送る手筈になっている。奇襲を仕掛ける側の黒の騎士団にECMを使用する予定がないのだから、普通に考えれば通信手段は確保できる。
 今回の作戦は戦闘行為である。可能なら直接指揮を取りたかったが、それには多大なリスクを伴う。それゆえの苦肉の策であった。

 片手による操縦ではナイトメアを満足に操ることなどできぬし、となれば敵に不覚を取る危険性が格段に高くなる。そうでなくとも腕を庇う動きからカレンにゼロイコールルルーシュと疑われないとも限らない。万一正体を見破られてしまえば全てが終わりだ。妹にまで類が及んでしまう。
 妹たちを危険に晒す事態と黒の騎士団が戦闘で大負けする事態、どちらがマシかと聞かれたら、考えるまでもなく後者だった。

 もっとも、ルルーシュは今作戦で敗北を喫するとは考えていない。

(この機体に登録されていた機体情報と位置情報。これによりブリタニア軍の行動予測は絞り込める)

 海兵部隊によるタンカーへの強襲で片瀬を確保。その後、陸戦部隊で残存兵力を叩こうというのであろう。
 無論片瀬に気取られぬようにという配慮もあるのだろうが、ブリタニア軍の布陣は無数に立ち並ぶ倉庫群を遮蔽物にしての広く浅いものだ。中心位置となる片瀬のタンカーへは無類の威力を発揮するだろうが、側面からの備えは決して上等とは言えない。
 
(戦闘というよりは殲滅。コーネリアめ、黒の騎士団の介入は想定していないと見える。ナリタのときもそうだったが、あのディートハルトという男――使えるな。取り立ててやるべきか)

 それも今回が罠でなかったと結果が出てからである。まずは今夜を乗り切ることだ。

 状況確認を終えると、ルルーシュは通信のスイッチを入れた。機体に備え付けのものではなく、自前で用意したものだ。

「C.C.、本当にナイトメアの訓練はしていたんだな?」

「何度も言わせるな。直接戦闘にならなければ問題はない」

 返ってくるのは不遜な魔女の声ではない。仮面越しの怪しい男の声だ。

「……ぐっ」

「どうした?」

「……自分の声と会話するというのは、想像以上に気持ちが悪いな」

「そんなことを言いに連絡を寄越したのか?」

「いや、最終確認だ。手順は頭に入っているな? 聞きたいことがあれば今聞いておけ」

「完璧だ。大人しくそこで見ていろ」

 タンカーの船底に仕掛けた爆弾を遠隔操作で爆破させ、積荷の流体サクラダイトに引火させる。その爆発でタンカーを攻撃していた海中戦力を無力化し、生まれるであろう混乱に乗じてコーネリアを叩く。

 それが今回ルルーシュが立てた真の作戦だった。『真の』というのは、黒の騎士団には『片瀬を救出してコーネリアを討つ』という正攻法しか伝えていないからだ。

「何度も言うが――」

「前線には出るな、だろう? 自分の実力くらいわかっている。深追いもさせない。適当な戦果を上げたところで引き上げさせる」

 本心を言えば、今夜コーネリアを生け捕りにしたい。それが最善ではある。とは言え、こちらが万全の状態でない状況であえて難度の高い目標を設定することもない。無論団員たちには最上を目指すよう命令させたが、それは建前である。

 そこまで話したところで、サザーランドに通信が入った。これより作戦に移るとのことである。

「よし、作戦開始だ。頼んだぞ、『ゼロ』」

「任せろ」





 紅月カレンは紅蓮の操縦桿をきつく握り締めた。
 戦闘行為は既に開始されている。いや、あれは戦闘ではない。一方的な蹂躙だ。ナイトメアと従来兵器との戦いとは、十中八九がそういう展開になるものだ。

 ブリタニア軍の水中用ナイトメア、ポートマンが片瀬のタンカーに取り付き、船の推進力を奪っている。陸上からの射撃が甲板で応戦する旧日本軍の兵士を殺戮していく。ミサイルランチャーを抱えた男が血しぶきを上げて海に転落していくのが見えた。

 助けに入りたくないと言えば嘘になる。叶うものなら今すぐにでもコーネリアの所に打って出て状況を変えてやりたい。

 だが、カレンは既に決めていた。ゼロの手足になろうと。
 命令が降りてない以上、いくら動きたくても行動してはならない。

 シンジュク事変で夢を見せてくれた謎の男は、その後も次々に奇跡とも思える偉業を達成し、いまだその歩みを止めていない。その先にはきっと日本の未来があるのだ。
 そう信じ、ゼロに賭けようと決心したからには、その道程を妨げてはならない。その命令に疑問を持ってはならない。
 加えて紅蓮弐式という最新兵器を託された自分は、戦術上非常に重要な位置を占める。だからこそ、その行動に一瞬の躊躇いも覚えてはならないのだ。

 ――ゼロの命に無条件で従う。その過程で生まれる犠牲を厭わない。

 紅月カレンという少女が胸に固く抱いた、信念とも呼べるものだった。

 しかし、その想いが強固であるからこそ、彼女は気付かない。それが思考を他人に丸投げにする、一種の逃避であるということに。

 ブリタニア軍のポートマンが次々とタンカーに取り付き、直接の侵攻を開始する。
 状況の変化を待つカレンに、ついに指示が入った。

「出撃!」

 ゼロの合図と共に、黒の騎士団のナイトメア部隊を乗せた輸送用のボートが、コーネリアの本陣へと向けて発進する。

 次の瞬間、カレンの体に鈍い振動が伝わってきた。波のうねりによるものではない。それとは別、空気の震えだ。舟の外では激しい風が吹き荒れている。
 片瀬の乗ったタンカーが爆発炎上していた。ピンク色の炎色反応を見るにおそらくはサクラダイト。

「片瀬少将、さすがだな。ブリタニア軍を巻き込んで自決とは。――日本解放戦線の血に報いたくば、かれらの遺したこの機を逃すな! 敵戦力が態勢を整える前に、ナイトメアを海に叩き落せ!」

 ゼロの声に後押しされながら、カレンはファクトスフィアの捉える敵陣を鋭く見据えた。




 ◆◇◆◇◆




 ――時は過ぎ。

 ひと気のない倉庫裏にサザーランドを運び、周囲を確認する。どうやら巡回のナイトメアはここまでは来ないようだった。ならば問題はない。生身の人間が相手なら片腕だろうがギアスでどうとでもなる。

 ルルーシュはコクピットを降り、先ほどまでを振り返った。

 作戦は概ね想定の範囲内で展開し、そのまま終了した。黒の騎士団側の被害はきわめて軽微、対してブリタニア軍に与えた損害は甚大である。やはり流体サクラダイトの威力は凄まじく、作戦に参加した海兵部隊は壊滅状態と言ってもいい。
 コーネリアを捕らえることは叶わなかったが、それも予想の範疇。白兜の戦闘データを取ることもできた。次に戦うときにこちらのカードが揃っていれば、もはや奴に勝ち目はない。

(それにしても――)

 ルルーシュの思索はさらに時間を遡る。

 考えるのはC.C.のことである。

 自室で腐っていたルルーシュを小馬鹿にしてくれた。そのおかげで目が覚めたというか、奮起する気力が湧いてきたのだから、それ自体には感謝はしている。面と向かって言ってやる気などないが。

 問題はそのあとだ。

 ――キョウトとの交渉。

 協力者を使って最上の返答を引き出したと言っていた。
 その結果はたしかに評価に値する。直接の対面ができない状態のルルーシュでは絶対に不可能なことをやってくれた。

 だがしかし。

(あいつは俺のために自分からそんな積極的な行動を取る女だったか?)

 C.C.は過去何度かルルーシュの窮地を救うために自発的に動いたことがある。
 サイタマでコーネリアに捕まりかけたときに逃亡の手助けをした。ナリタの件でもジェレミアから逃れるのに手を貸した。限界まで遡れば、シンジュクでギアスを渡したあと、身を呈して銃弾に撃たれたのもそうだったのかもしれない。

 しかし、それらはルルーシュの身の安全に危機が迫ったからこその救援だったのではないだろうか。ルルーシュはそう判断していた。あの魔女はことあるごとに『お前に死んでもらっては困る』と口にしている。

(それに、『協力者』と言うのも怪しい)

 ギアス関係についてはこれまでも必要以上は一切口にしなかったC.C.だから、詳細を明かせないという言葉が出て来るのはわかる。
 隠し事は多いがその分嘘は吐かないのがあの魔女である。情報の漏れる心配がないというのなら、本当にそうなのだろう。

 だからといって疑わしい印象を持つなというのは無理がある。

 そしてもう一つ。
 今夜のブリタニア軍の動きについての情報を渡してきたとき。

(あのとき、C.C.は『自決に見せかけての爆殺を進言する』と言った。その策は正しい。理に適っている。俺もそう考え、そうするよう指示を出した。だが――)

 C.C.が今まで、作戦行動に関して問われる前に自分の意見を出してきたことがあっただろうか。

(俺の考えすぎかもしれないが、最近のあいつは何かおかしい――)

「――おい、止まれ! そこの少年!」

 考え事をしながら歩いていると、前方から停止を呼びかけられた。銃を構えた軍人らしき男である。

「どうやってこのエリアに入った! ここはブリタニア軍の作戦区域だぞ!」

「どうやって? 簡単なことさ。お願いしただけだよ、『通せ』とね」

 ギアスを乗せて言葉を投げる。男は銃を降ろして脇に退いた。

「……わかった。通れ」

 するとコンテナの陰になっていた暗がりから声が掛かる。

「おい、何を言っている!?」

(もう一人いたのか! 面倒な!)

 新たに現れた男に視線を合わそうと、ルルーシュは薄闇に目を凝らす。

 その瞬間、銃声が耳に届いた。サプレッサーを通した小さな音である。
 ギアスを掛けようとしていた男が側頭部を撃ち抜かれて崩れ落ちる。次いで再度銃声が鳴り、ギアスに縛られたままの男が正気に戻る前に絶命する。

 事態を把握したルルーシュは身を翻してコンテナの陰に滑り込んだ。
 襲撃者の正体は不明ながら、警告も無しに発砲するところから判断するに軍人ではない。厄介な相手だが、勝機は十分にある。目を見さえすれば勝ちなのだから。

 こちらから話しかけて反応を窺うべきか、だとすればその際の第一声は――。

 わずかな時間で練り上げた策。それが実行に移されることはなかった。その前に相手が行動を起こしたのである。

「――駄目だねェ、ルルーシュ。全部ギアスで片をつけようとするから」

 『ルルーシュ』。『ギアス』。聞き捨てならない二つの単語を口にしながら、そいつは姿を現した。

「一思いに撃っちゃった方がいいときだってあるんだよ? それともまだ、人を殺すのに躊躇いを持ってるのかなァ?」

 足元まで伸びる白いコートに、首の裏で一括りにした白い髪。

 そしてその顔を見たとき、ルルーシュは自分の活路が急激に狭まったのを感じた。
 きわめて透過率の低い濃紫のサングラスをつけている。あれではギアスは掛けられない。

 ルルーシュの焦燥を他所に、現れた少年は悠然と言った。

「はじめまして、ルルーシュ・ランペルージ君。いや、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア殿下とお呼びするべきかな?」

(何だこいつは……!? どこまで知っている!?)

 内心の衝撃を押し殺し、ルルーシュは怪訝な顔を作る。

「ヴィ・ブリタニア? 誰か別の人と間違えているんじゃないですか? 僕はただの学生で、ここに来たのもただ迷い込んだだけで……。そんな高貴な名前なんて――」

「C.C.は怪しいよねェ。キミに黙って勝手なことをした。もしかしたら今もしているかもしれない」

「なっ、貴様なぜC.C.のことを――!?」

 思わず飛び出る本音。だが取り繕う気はなかった。この得体の知れない男を相手に今更言い逃れができるとは思わない。全て知られていると考えて掛かったほうがいい。

 それよりもC.C.の名が出てきたことが重要である。これはキーになる。

 不老不死の魔女について知っている存在は非常に限定されている。
 旧クロヴィス政権下で秘密裏にC.C.の研究をしていた部署の人間か、それ以前にC.C.と接触を持っていた者。
 これまでの会話からの情報も加味して、一番可能性が高い解答は――。

(まさか、ギアス関係者か!)

「気付いたァ? さすが、頭の回転が速いねェ。でも今はボクのことはいいんだ。それよりもC.C.だよ。彼女、あやしいだろう? キミに隠れてひとりでこそこそ動いてるし、契約の内容も話さない」

 白髪の少年はにやりと口角を上げて見せる。ひどくいやらしい印象のある笑みだった。

「そろそろ切捨て時なんじゃない? 監禁場所に困るようなら、ボクが責任を持って管理してあげるよ」

 ルルーシュからは窺えないサングラスの下で、ギアスを宿した瞳が鈍く輝いていた。



[7688] STAGE13 マオ の 罠
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2014/02/08 18:54
 淡く輝く月を映し出し、水面は静かに波打っていた。遠くでナイトメアの駆動音が小さく響いている。

 ブリタニア軍による片瀬少将捕縛作戦の舞台となった、トウキョウ租界近郊の港である。
 黒の騎士団の部隊は既にこの場に無く、一方奇襲を受けたブリタニア側はいまだ撤収を終えていない。目標となる片瀬のタンカーが無くなった今、布陣を隠す必要はなく、少し前までには無かったサーチライトの光が辺りを照らしていた。

 その照明の届かない位置、作戦区域はずれ近くのコンテナの影で、二人の少年が対峙していた。
 黒の騎士団の作戦行動の終了に合わせて現地を去ろうとしていたルルーシュと、彼の前に突如現れた白髪の少年である。

「――貴様、何が目的だ」

 ルルーシュは相手を鋭く睨み、唸るように訊く。

「そんなに怖い顔しないでよルルーシュ。ボクは戦いに来たわけじゃないんだ。キミにギアスとC.C.のことを教えてあげたくてね。気になるでしょ?」

 対する少年の口調は軽い。
 しかしそんな態度で誤魔化されるほどルルーシュは甘い育ち方をしてこなかった。紫の瞳がさらに鋭利な雰囲気を帯びる。

「うーん、信用してもらえないかなァ。じゃあとりあえずゆっくり説明できる場所に行こうか。ここはうるさくてかなわない」

(『うるさい』? 何のことだ?)

 ルルーシュはわずかな引っかかりを覚えた。
 ランドスピナーのモーター音はかすかに聞こえてくるのみ。そのほかに耳に届くのは穏やかな波の音だけだ。

 訝るルルーシュを尻目に、白髪の少年は周囲の警戒もしないままコンテナの陰を出る。

「おい、そんなに無防備に――!」

「『俺まで見つかったらどうする』? 大丈夫さ。絶対に見つからないよ。巡回の人間が近づいて来たらすぐに察知できる。ボクは思考を読むギアスを持っているんだ。他人の考えていることが声として聞こえてくる。その気になれば深層意識まで読み取れる。回数制限も、目を見るとかの制約も無い。効果範囲は集中力次第で最大五百メートル。C.C.にだけは通じないけど」

(こいつ、なぜ――)

 疑問が浮かぶと同時にルルーシュの頭脳が高速で回転した。
 幾つかの解答案とその正否の確認法、そして目の前の人物への対処策が瞬時に練り上げられる。

 白髪の少年は見透かしたように口元をゆがめた。

「『なぜそんなことを話す』? 『うるさい』の意味がわからなかったみたいだから。それにさっきも言ったでしょ? ボクは戦いに来たんじゃない。話をしに来たんだ。キミに信用してもらいたくてね」

「――C.C.と契約したのか」

 ルルーシュはあえて会話を省き、一瞬で辿りついた思考の終着点を口に出した。当然ながら前後の繋がりなど皆無だ。普通の人間なら怪訝に思うところだが――。

「そう。キミの考えているとおり。ボクはC.C.と契約してこの力を手に入れた。十一年前にね。だからC.C.に聞けばボクのギアスのことは全部わかってしまう。隠しておく意味なんてないんだ。今ここで決着をつける意思がない以上はさ」

(俺の思考過程と同じだ。そして返答にまったく淀みがない。こいつ、本当にこちらの考えを読んでいるのか――)

 手の内を晒すというのは、使い方によっては手札を切ると同義である。
 能力を自ら開示するというこのカードは、ルルーシュからわずかながら警戒心を取り去ることに成功した。
 それ以上に、頭脳で勝負するタイプの彼にとって、この相手が非常に相性の悪い人間であると否応無しに知らしめていた。 

 思考を読み取る人間に対して弁舌は意味を成さず、銃を使おうにもやはりギアスがネックになる。殺意を抱いた瞬間それが伝わってしまうのだ。そしてどこを撃とうとしているかも。対人戦闘においては絶大なアドバンテージである。早撃ちの名手でもない人間の銃弾を躱せる程度には彼も訓練を積んでいるだろう。

 ルルーシュは内心で歯噛みしつつも認めていた。
 相手の要求を呑む以外に、この場を切り抜けるための方策がない。

「……いいだろう、話を聞いてやる。だがその前に名を名乗れ。信用されたいのならな」

「ごめんごめん、自己紹介は基本だよね。聞かなくてもわかっちゃうから忘れてたよ。ボクの名前はマオ。C.C.の、キミの前の契約者だ」

「ルルーシュだ。どうせ全部ギアスでわかってるんだろう。説明は省く」

「十分だよ。それじゃあ、移動しようか」

 マオと名乗った少年は踵を返し歩き出す。促されたルルーシュはそのあとに続かない。

「ついて来ないの?」

「誰がお前のような怪しい奴と一緒に行動できるか。話すことがあるなら今ここで話せ」

 厳しく告げると、マオは不機嫌そうに嘆息した。

「ここじゃあんまり時間を取れないよ。ブリタニアの奴らが来ちゃう」

「だったら手短に済ませるんだな」

「わがままだなァ。それがブリタニア皇族って奴なの? ああ、本気で『ボクが怪しいから』なのか。説得してる暇は無さそうだ。わかったよ」

 マオはしぶしぶといった様子で戻ってくる。

 その行動からルルーシュは確信する。
 相手にはなんとしてでもこちらに聞かせたい情報があるのだ。おそらくはそれにより何らかのリアクションを促そうというのだろう。
 となれば、この場における安全は確保されたと見ていい。

「そんなに警戒しないでいいって言ってるのに。まぁいいよ。時間も無いことだし、早速一つ目を話そうか」
 
 マオはコンテナに背を預け、腕組みをして指を一本立てた。

「まずはギアス能力について。ギアスは使い続けるうちにその効力を増していく。ボクはもう自分のギアスをオフにできない。常に周りの声が聞こえてしまう。キミもきっといつかはこうなる」

 ルルーシュはハッとなってマオを見た。もたらされた情報の示す未来が予想できたからだ。

 絶対遵守のギアス能力がオフにできなくなる――。
 つまり、何気なく口にしたセリフが全て強制力を持ってしまうということだろう。それはもはや便利な力でもなんでもない。そこまで行ってしまえば単なる枷だ。日常生活にすら支障をきたす。

(いや、待て。マオの言葉が――)

「本当だよ。なんならC.C.に確認してみればいい。彼女は嘘をつかないだろう? 隠し事はするけど。ボクもこうなるなんて聞かされなかった。――うん、その通り。頭の回転が速いと説明が楽で助かるよ。この話が嘘だったらボクの信用は一気に無くなる。だからすぐにバレる嘘をつくメリットなんて存在しない。信じてもらえたみたいだね」

 ルルーシュの思考を代弁し、白髪の少年はさらに続けた。

「どうしてC.C.はこんな重大なことを明かさなかったと思う?」

「……使わせたいのか。この力を」

 もちろんギアスを貰う前なら契約をスムーズに進めるためにデメリットを伏せていたと考えるのが自然だ。だがあの魔女は今に至るまでこの事実を隠していた。

「聞いたことは無いけど、たぶんそうだろうね。その先に彼女の望みがあるんだ」

「契約内容を知っているのか?」

「それを言う前にC.C.はボクの前から消えたよ。ただ、最低限の予想くらいならできるよねェ。C.C.の場合、教えないってことは何かそこにメリットがあるってことなんじゃないかな? 例えば、明かしてしまったら契約者が拒否するような内容だ――とか」

 ルルーシュもそれは考えたことがあった。
 つかみ所の無い人間ではあるものの、C.C.の性格はなんとなく把握できてきている。そこから判断して、おそらくマオの推測は間違っていない。

(……ん?)

 ふと違和感を覚えた。

 ルルーシュはこれを過去に『考えたことがあった』。さらに今現在もそこから結論は動いていない。
 マオは深層意識までも読み取れるのだ。そんなことはわかっているはず。わざわざ口に出して確認する必要などない。

 ――そこまで思索が進み、気付く。

 つまり、この会話には意味が無い。会話の内容自体には。

 だとすれば、マオの真意は別にある。

「……なるほど」

 心の中にある疑念を掘り起こし、再確認させることこそが会話の裏に隠された真の意図。
 ルルーシュはそう睨んだ。

「お前の目的は俺とC.C.を仲違いさせることか。――思考が読めれば人を誘導し、思い通りに操るなど容易い。想像以上に厄介なギアスだな、それは」

 指摘を受けたマオは呆けたように一瞬言葉を失う。ルルーシュの発言は的を射ていたのだろう。かと思うと額に手を当てて笑い出した。

「ハ……ハハハハハッ、すごいやルルーシュ。たったこれだけの情報で全部ばれちゃうなんて。何も知らなかった『ボク』が負けるわけだよ」

「何のことだ?」

「こっちの話。――謝るよルルーシュ。キミを甘く見ていた。ここからは小細工抜きで話そう。これ以上疑われたくないしね」

「もう遅いとは思わないのか?」

「だとしても、ボクにはこうするしかない。二つ目に行こうか。ボクの目的について」

 マオは笑みを収め、指を二本立てて見せた。顔を突き出すように上体を屈める。サングラスに隠された瞳に狂気じみた光が宿った。
 直接目を見ることのできないルルーシュからでもそれは感じ取れる。にじみ出る雰囲気が先ほどまでと明らかに違っていた。
 どうやら小細工抜きというセリフは信じていいらしい。

 マオは囁くように、それでいてよく響く声音で言った。

「ボクはC.C.が欲しいんだ。キミを誘導しようとしたのもそのためさ」

「――復讐か?」

 ルルーシュは低く訊く。

 真っ先に思いついたのがそれだった。
 ギアス能力がオフにできなくなるという状況。マオの場合は四六時中他人の心の声が聞こえてくるという。どれだけの苦しみなのかは想像に余りある。毎日が拷問のようなものだろう。
 詐欺のように前情報も無しでそんな状態に置かれ、挙句そのまま放置されたのだ。殺しても飽き足らないほど憎んでいたとしても不思議は無い。

「そんなことはどうだっていいだろう。とにかくボクにはC.C.が必要なんだ。キミが処分すべきと判断したら、ボクに譲って欲しい。正義の味方の黒の騎士団に『少女を監禁しろ』なんて命令は出せないでしょ? ボクなら責任を持って管理してあげられる。場所だってもう用意してある」

「……信用していいのか?」

「信用なんてしてないくせによく言うよ。――でも、キミは今、万一の場合の選択肢の一つとしてボクを数えた」

「厄介な奴め」

「褒め言葉と受け取っておくよ」

「褒める気なんか一切無いってわかってるはずなんだがな」

 ルルーシュは忌々しげに吐き捨てる。

 たしかにルルーシュはC.C.に対していくらかの疑念を抱いている。現時点でこそその重さは彼女を用いる利益を上回っていないものの、永遠に天秤がひっくり返らないとは言い切れない。
 一歩間違えばマオの甘言に乗せられて今日切り捨てるべきとの結論を下していたかもしれなかった。

 なんにせよ、そうなったときに困るのが魔女の扱いだ。

 ルルーシュたち兄妹の秘密を知っているからには、そのまま放り出すことはできない。不死身ゆえに殺害は不可能。拘束しようにも、マオにも指摘されたとおり、黒の騎士団は監禁には使えない。
 重石をつけて海に捨てるだとか、コンクリートに生き埋めにするだとか、そういった手段が打てるかどうかといったところだ。
 これにしても相手は得体の知れない力を持つ魔女である。監視できない状況では何らかの手で抜け出してこないとも限らない。ルルーシュとシンジュクで接触したときも、C.C.はテレパシーのようなもので呼びかけてきたのだ。あれが他の人間に届くだけでアウトだ。

 その現状を鑑みると、マオに引き渡すというのは間違いなく一つの手ではあった。

「――ルルーシュ、キミは必ずC.C.を排除したくなるよ」

「大した自信だな」

「まァね」

 マオは愉快そうに笑むと、自分の頭を人差し指の先で叩く。

「ココに入っている情報を一つ出すだけで、キミはC.C.を見限るはずさ」

「だったら今出したらどうだ? 自信あるんだろ」

「そうしたいのは山々なんだけどね、もう時間切れみたいだ。人が来る」

 コンテナの角まで歩き、マオは一度振り返る。

「やっぱり興味を持ってくれたね。じゃァあとで電話でもするからさ、ちゃんと聞いてよ。――またね、ルルーシュ」

 既に策が成功した後であるかのような嬉しげな声を残し、白髪の少年は夜の闇に消えていった。

 遅れてやってきた歩哨は二人だった。軍人たちは白いコートをなびかせて逃げた人影と残された死体とを見比べて事情を聞きだそうとしてくる。
 「忘れろ」とギアスを掛けながら、ルルーシュは知り合ったばかりの少年のイヤらしい笑顔を暗中に幻視していた。




 ◆◇◆◇◆




 ルルーシュがクラブハウスの自室エリアに帰りついたとき、時計の短針は十二近くを差していた。
 玄関の扉を閉めると、奥から電動車椅子に乗った妹がやってくる。

「おかえりなさい、お兄様」

「ただいま、ナナリー。こんな時間まで起きてたのか?」

「もう、お兄様の方が私が寝るまでには帰るって仰ったのに。だから眠れなかったんですよ? 反省してください」

「ごめん、悪かったよ。ちょっと変なのに絡まれてさ」

「え……大丈夫でした?」

「ああ。何も無かったよ」

 心配そうな表情をするナナリーの頭を、ルルーシュはそっと撫でる。柔らかい髪越しに伝わってくる体温を感じると、ひどく温かい気持ちになった。

「少し気分が悪くなった程度。ナナリーの顔を見たらそれも全部吹き飛んだ」

「まぁ、お兄様ったら」

 ナナリーは安心した様子でくすぐったそうに笑う。そして入り口に顔を向けると、かわいらしく小首をかしげた。

「あら? C.C.さんはいらっしゃらないんですか? 出て行くときはご一緒でしたよね」

「ああ。途中で別れてさ。あとで帰ってくるよ」

「喧嘩でもしました?」

「まさか。心配することないよ。いつもどおり仲良くやってる」

 優しく微笑みかけ、ナナリーを促してリビングに入る。

 茶を入れようとすると、ポットのお湯が少し冷めていた。温めなおして二人分のティーカップを用意する。二人で向かい合ってテーブルに付き、紅茶が一杯無くなる分の時間だけ談笑した。
 本音を言えばあまり体の強くないナナリーには早く寝て欲しかったのだが、自分のせいで長起きさせてしまったという負い目もあった。純粋に妹と話すのが楽しかったというのももちろんある。

 C.C.が帰るまでと渋る妹を寝かしつけ、それからルルーシュは不自由な片手でシャワーを使った。

 寝間着に着替えて湯上りの牛乳を飲んでいると――骨折した際ミレイに飲むと言ってしまってから、なんとなく毎日飲んでいる――玄関の扉が開いた。リビングに顔を出したのはライトグリーンの髪をしたおなじみの少女である。
 C.C.はルルーシュの方を一瞥するなり、フッと小さく笑った。

「似合わんな、それは」

「帰って早々何だ?」

「客観的に見てみろ。ブリタニアをぶっ壊すと息巻いている黒の騎士団のトップが、パジャマで牛乳を飲んでいるんだぞ? 滑稽極まりない」

「そっくり返すぞ魔女め。何百年生きたのか何千年生きたのか知らないが、悠久の時を生き続ける神秘の結晶が、ピザ無しには生活できないってのは何だ?」

「わかっていないなルルーシュ。美人は何を食べても絵になる。だがいくら美男子だろうと、テロリストの親玉がパジャマで牛乳を飲むのは明らかにおかしい」

 そう言われてみれば一理あるような気もしてくる。
 ルルーシュは憮然となって浴室をあごで示した。

「とにかく。さっさとシャワーを浴びて来い。その後で報告を寄越せ」

「覗くなよチェリー」

「いいからとっとと行って来い!」

 怒声を受け流し、C.C.は悠々とリビングを出て行く。その後姿を見送ったルルーシュは、コップを片付けてから自室に入った。

 ソファに深く背を預け、考える。

 C.C.のこと。彼女との関係を。

(……俺とあいつは、単に契約を結んだ、それだけの間柄だ。互いの利害が一致しているからという一点だけを理由に、今の共同生活、共犯関係が成立している。とは言え――)

 ルルーシュは認めていた。

 小憎らしい性格ではあるものの、C.C.とのやりとりにいくらか安らぎを感じている自分がいる。
 もちろん常に笑顔で付き合えるような間柄ではない。軽率な行動を嗜めねばならないこともある。傍若無人な振る舞いに腹の立つこともある。
 それらのマイナス面も含めて、なんと言うか――日常の一コマになりつつあるのだ。

 ナナリーにしてもそうだろう。妹の場合はルルーシュとは違い、純粋に朗らかな関係を築けているようだ。
 C.C.はもうナナリーにとって、家族とまでは行かないものの、それに近い距離感の人間になっている。同じ屋根の下で暮らしているのだ。当然の帰結といえる。

 C.C.が居なくなったらナナリーは悲しむだろうか。いや、確実に悲しむ。
 そしてどのような説明を行ったとしても、「仕方ありませんね」と気丈に微笑むのだ。どこか寂しさを滲ませた表情で。

 ルルーシュにはその様がリアルに想像できる。

 それを思えば、怪しいという印象だけでは圧倒的に弱い。切り捨てるにはデメリットの方が大きすぎる。
 よほどのことがない限り、そこは覆らない。

(だとすれば、マオの言う『情報』ってのは、いったい何だ?)

 想定できるものはそれほど多くない。かといってルルーシュの中からは絶対に出て来得ない秘密が無いとも限らない。
 結局のところ、深く検討することにあまり意味は無かった。この件に関してはマオからの連絡を待つほか無い。

 今後の活動とC.C.とのことを考えながら時間を潰していると、やがてテーブルに置いた携帯電話がバイブレーションで着信を伝えた。

 ディスプレイに表示された発信者の欄は非通知になっている。

(――マオか)

 時間が時間だ。おそらくはそうに違いない。
 あの少年は去り際に『あとで電話でもする』と言っていた。番号はギアスで頭から抜き取ったのだろう。

「――どうした? 出ないのか?」

 ルルーシュが無機質に震える携帯を見つめていると、部屋の扉が開いた。C.C.がタオルで髪を拭きながら入ってくる。

「相手はわかってる。電話を取ればあっちの思う壺だ」

 音声のみでの通信というのはマオにとっては強い武器だろう。電話に出た側は声の調子からしか心理を読むことができず、対するマオは一方的にギアスで心の本音を聞くことができる。
 自らの不利を理解しているがゆえに、ルルーシュには電話での会話に応じる気がなかった。

 おそらくそういった考えも筒抜けになっているのだろうが、それでもこうして今、電話は掛かってきている。
 これが何を意味するのか。

 それはこちら側の優位性である。

 ルルーシュはそう考えた。

 マオはなんとしてでも情報を与えねばならないと考えているのだろう。そう認識しているからこそ、電話に出る気がないとわかっている相手に対して電話を掛けるというアクションを起こさざるを得なかったのだ。

 その判断は正しい。

 実際、今夜中にマオの動きが見られなければ、ルルーシュは明日の朝からでも彼の抹殺のために動くつもりでいた。

 現時点ではC.C.を排除する必要性を感じておらず、よってマオの言う『監禁場所』に用は無い。生かしておくメリットはそう大きいものではないのだ。
 対して彼の持っている情報は非常に危険だ。既にルルーシュたち兄妹の素性を知られている。それだけで消えてもらうには十分な理由となる。

 マオとしてはこの評価を逆転させねばならないのである。

 掛かってきた電話一本から相手側の事情を推測し、ルルーシュは心の中で呼びかけた。

(マオ、聞いているか。今お前は俺の半径五百メートル以内にいるはずだ。そして何か決定的な情報を流し、それを受けての俺の思考を読もうとしている。だから俺は聞かない。どうしても話したかったら今から五分間だけ留守電にしておいてやる。そこに入れろ。気が向いたときに確認する)

 少しするとテーブルの上で鳴っていたバイブ音が止んだ。ルルーシュは電話を手に取り、留守録をセットする。

「何をしているんだ?」

「さてな。全部俺の妄想で終わる可能性も無くはないが――予想が正しければすぐにまた掛かって来るはずだ」

 テーブルに置き直した携帯電話を眺めること数秒。先ほどまでと同じバイブレーションの音が室内に反響した。ほどなくして留守番電話の応対が始まる。

「どうやら読みが当たったらしい」

 ルルーシュはにやりと笑んで不死の魔女へと視線を向けた。

「――C.C.、明日は少し遠出しようと思ってる。付き合え。今のことはそのときに説明する」




 ◆◇◆◇◆




 租界内の寂れた路地裏。
 街灯は無く、前方遠くに見える大通りの明かりが、人気の無い小路によりいっそうの物寂しさを与えていた。

 暗がりの中でピッという電子音が鳴る。ほとんど同時に石壁を蹴り付ける乾いた音が響いた。

「ふざけやがってあのガキ……!」

 歯軋りをしながら手に持った携帯電話を握り締めるのは、白髪をした東洋人の少年――マオであった。

 留守録に話しかけている間は何とか平静を取り繕うだけの理性を保てていたものの、もはや限界だった。
 ギアス越しに聞こえてきた、こちらの内面を見透かすようなあの言葉。

「ふざけやがって、ふざけやがって……! こっちがその気になればオマエを殺すことなんて簡単なんだぞ……!」

 搾り出すような声で呪詛を吐く。誰にも聞かれることのない歪んだ心情は暗闇に吸い込まれて消えていく。

 苛立ちは最高潮だった。
 先ほどルルーシュの策に乗せられてしまったのが直接的な原因である。しかしそれ以前に、マオはここ最近常に胸に燻る不快な物を感じ続けていた。

 それは『面倒な感じ』である。

 そもそもマオがエリア11に来たのは、港でルルーシュに語ったとおり、C.C.の身柄を欲したためである。
 その理由は復讐などというものではない。本人としてはもっと崇高な、愛とも呼べる想いによる行為だと信じている。

 ただ、実際のところその感情はひどく幼稚なものだ。恋情と呼べるものでも、愛情と呼べるものでもない。友情ではありえないし、家族に対する親愛であるかも怪しい。

 マオという少年は幼い時分にC.C.と契約し、思考を読み取るギアスを手に入れた。
 以来、他人との正常な精神交流というものをほとんど行っていない。なまじ人の考えがわかってしまうがゆえに、その考えを生み出す根本にある想いにまで思索を巡らすことが無いのだ。その状態のまま今の歳になってしまった。

 だから、彼の感情に対する考察には結果しかない。過程が抜け落ちている。
 例えば『Aという人物がBという人物からプレゼントを貰ったら嬉しい』。こういった事例があった場合、普通なら『AがBに好意を抱いているのだろう』といった推測が働く。その前提があって初めて、プレゼントが意味を持つからだ。
 マオはその過程を考察することが無い。なぜなら、好意の有無など考えずとも、誰に何を貰うのが一番嬉しいのかという最終地点が読めてしまうのだから。

 他人に対してそのような交流の仕方しかして来なかった彼は、当然ながら自らの中にある感情もあまり発達していない。

 C.C.に対しては『好き』だから『欲しい』。この程度である。本人的にはいろいろな言葉で修飾することも可能だが、そこに実感が篭ることは無い。
 その『好き』にしても、周囲の心の声という雑音に四六時中悩まされ続ける環境で、唯一ギアスの効かない『静かな』相手だったから、という点も大きく関与している。
 彼の精神は恋愛感情が芽生えてくるほど成熟していないのだ。

 ともかく、C.C.を欲したマオは彼女の足取りを掴んでトウキョウ租界に来た。

 そのときまでは良かった。小躍りしそうになるくらい心が晴れ渡っていた。彼女と深く関わっている人間を全て殺してしまえばそれで事足りると簡単に考えられていたからだ。
 それで望みは叶うと。再びC.C.と一緒の暮らしができると。そのために別荘まで買ったのだ。
 白馬の王子様よろしく彼女を誑かした悪人から颯爽とC.C.を救い出し、二人だけの世界へ行く。それがマオの計画だった。

 それがおかしくなり出したのは、クラリスという少女の存在を知ったときからだった。

 どういった現象によるものかは不明ながら、彼女は明らかに常識はずれの存在だった。あの少女は自分が生まれていない場合の世界――いわゆるパラレルワールドというやつの知識を持っているのである。
 始めは単なる妄想かとも思ったが、それにしてはあらゆる事象が現在の状況と合致しすぎていた。結論として、マオはそこから得られる情報が真実であると判断した。

「……あれが無ければルルーシュなんて今すぐ殺してやるっていうのに」

 アッシュブロンドの少女の顔を脳裏に描き、呪うように呟く。

 クラリスの頭の中を読んでしまって以降、マオはC.C.が無条件に自分を一番に好いてくれているとは信じられなくなっていた。
 あの『知識』では、最終的にルルーシュに味方したC.C.がマオを殺している。認めたくはなくとも、C.C.が二人を天秤にかけた場合、ルルーシュを選んでしまわないとは言い切れない――そう理解してしまっていた。

 ゆえに、今の彼には単純に障害を排除してしまえばいいという考えを結論とすることができない。
 ルルーシュを殺害した自分を、もうC.C.は見てくれないかもしれない。その懸念があるからだ。

 ならばどうすればいいのか。
 思いついた策は一つだった。

 ――ルルーシュの方からC.C.を捨てさせる。

 そのためにいろいろと画策して動いているのだが、回りくどい手というのは成果が実感できずどうにも面倒だった。
 後一歩のところにC.C.が居るというのに手を差し伸べられない苛立ちもある。

「……でも、それももう少しだ。待っていてC.C.。今迎えに行ってあげるから」

 想い人の名を口にして、ようやくマオは多少心の安寧を取り戻した。目を閉じて、耳につけたヘッドホンからの音声に集中する。

『そうだ、マオ。安心しろ、マオ――』

 そう、焦ることは無い。
 電話に録音された情報を聞けば、ルルーシュは絶対にC.C.を許さない。彼女はもうすぐ自分の許にやってくる。
 それは既に確定しているのだ。

『よくできたな、マオ。気にするな、マオ。そばに居てやる、マオ――』

 永遠にループする理想の女性の声を聞きながら、マオは暗闇でいやらしく唇をゆがめた。




 ◆◇◆◇◆




 ルルーシュは翌日C.C.を市街に連れ出した。以前は軍に追われている身であまり出歩くなと言っていたものだが、ゼロの代役などで外出が必要不可欠となった今では、その言いつけも無かったことになりつつある。

 別段目的地も無く数十分ほど街を歩き、適当なところでタクシーを止めた。

「どこへ行くんだ?」

「特に決めてない。とりあえずは適当に走って、最終的にはどこかの駅だろうな」

 C.C.は怪訝な顔をして車に乗り込む。
 何の説明もしていないのだから当然だ。

 これはマオのギアス対策だった。
 半径五百メートル以上を追跡不能な速度で移動する。そうすれば少なくともリアルタイムで思考を読まれる心配は無くなる。それほどタクシーの通りが多い地区ではないから、仮にマオが跡を付けていたとしてもこれ以上の追跡は不可能だろう。

 さらに念のため、駅に着くなり一番発車時間が近い列車に乗り込んだ。どうやらトウキョウ租界を離れシズオカ方面に行く路線のようだった。
 一番後ろの車両から乗客の顔を確認しつつ前の車両へと進んでいく。先頭まで来ると人の姿はかなりまばらになった。
 公の交通機関を利用するのは主にブリタニア人だ。トウキョウに比べて再開発の進んでいない旧日本の市街へとわざわざ足を運ぶような者はなかなかいないのだろう。

「――大丈夫のようだな」

 結局、懸念していた東洋人の少年の乗車はないようだった。閑散とした車内のボックス席にC.C.と向かい合って座り、ルルーシュは一つ息を吐く。

「やっと落ち着いて話ができる」

「何なんだいったい? 随分と警戒していたみたいだが」

 訝しむC.C.に、ルルーシュは端的に答えた。

「マオという奴が来てな、お前が欲しいと言ってきた。俺の前の契約者だそうだな」

「マオが――?」

 C.C.の眉が小さく撥ねた。

「その反応。やはり知らなかったか」

「ああ。初耳だよ。あいつがエリア11にいたなんて」

 昔の知り合いの話だというのに、大して心を動かした様子もない。もっともそれが本心なのか単なるポーズなのかは、ルルーシュには判断が付けられなかった。

 C.C.は一つ頷き、得心が行ったという風に続ける。

「なるほどな。ならこの行動も頷ける。ギアスの有効距離から逃れるためか」

「あいつのギアスは強い。特に俺との相性は最悪だ。正直、効果範囲に居たままじゃ勝負にすらならないだろう」

 頭で戦うタイプの人間では後手に回らざるを得ない相手だ。ルルーシュはその中でも筆頭である。どうやっても思考を空っぽにできない。常に先の動きが読まれてしまう。

「そうだろうな。それで、どうするんだ? 作戦会議か?」

「その前にC.C.、お前に少し話がある」

 ルルーシュは真剣な顔になって契約者の少女を見据えた。
 無論マオ対策を練るのも重要だが、それより先に今ここで言っておかねばならないことがある。

「マオはギアスについて有益な情報をくれたよ。使い続けるうちにこの力はオンオフの切り替えが効かなくなるんだってな」

 C.C.は窓に目をやり、重そうに口を開いた。

「……使ううちに、ギアスはその力を増して行く。克服できない者は自らの力そのものに飲み込まれていく」

「なぜ黙っていた?」

 マオとの会話は元々ルルーシュの中にあった疑念を掘り起こしただけだ。魔女に対する不信は植え付けられたものではない。元からたしかに存在していたのだ。真っ向から向き合っていなかっただけで。

 紫の瞳が射抜くように端正な少女の顔を見つめる。

 ルルーシュの問いに返答はやってこない。契約者の少女に表情は無かった。ただ無言で、流れる景色を眺めている。

「フン、またお得意のだんまりか。ならこっちから言ってやる。お前は俺にギアスを使わせたかったんだろ」

 C.C.は逡巡するような間を持たせ、やがてわずかに目を伏せた。

「……ああ」

「それが俺を破滅させると知っていて」

「……そうだ」

「魔女め」

 呟くように口にしたとき、C.C.の顔にかすかな痛みのような感情が走ったように思えた。しかしそれは一瞬で消え落ち、後に残されたのは能面のように無感動な、死人めいた顔だった。
 だからというわけではないが、ルルーシュはさして間を空けずに告げる。

「一つ言っておく。俺はお前が信用できない。今のこの関係は単なる利害の一致の上に成り立つだけのものだ」

「……だろうな。わかっているさ。私は魔女だ。信用されたいなどとは始めから思っていない」

 自嘲気味に発せられた声。その言葉尻にかぶせるようにして、ルルーシュはさらに言った。

「だが、それでも――」

 ルルーシュはこの先もギアスを使う。たとえそれが自らを破滅させるものだとしても。
 元より何のリスクも無しに手に入る力だとは思っていない。契約時からそれは薄々感じていた。

 そう、最初からそうなのだ。
 信用など無いまま始まった関係がいつの間にかここまで延びていて、そして信用など無いまま、いくらか距離が縮まっていた。

 だから、それでいいのだろう。

「――それでも俺は、この薄氷を踏むような関係が、少しでも長く続けばいいと思っている」

 C.C.はハッとまぶたを上げた。金色に輝く琥珀の瞳がかすかに揺れている。
 先ほどとは打って変わった、人間味のある表情だった。
 目元が柔らかく細められ、唇に柔和な笑みが刻まれる。

「……そんな風に言われたのは、初めてだよ」

 C.C.は嘘をつかない。ならばこれは本当なのだろう。

 不器用な奴だと思う。ずっとこうしていられればもっと別の生き方もできるだろうに。
 ただ、そういったところも含めてのC.C.だ。それで構わない。それで十分でもある。変化を促すような間柄ではないのだから。

「可愛げが無いからだ。俺だってナナリーがいなきゃこんなことは言わない」

「ひねくれているからな」

「お互い様だろ」

 小さく笑みを浮かべ合い、どちらからともなく打ち消す。

 しばし会話はとぎれ、二人の間にはガタンゴトンという列車の音だけが響いていた。
 旧日本時代に敷設されたレールの上を走る車両は、一定のリズムで心地良い振動を与えてくる。

 そうしてしばらくの空白の時が過ぎ。

 ルルーシュは足を組んで背もたれに身を預けた。

「さて、本題に戻るぞ」

「マオのことだな」

「ああ。あいつは俺たち兄妹の情報を知りすぎている。できるだけ早く手を打っておきたい。そのためにはギアスの効かない人間の――お前の協力がいる」

 真剣な眼差しを送るルルーシュの目を、C.C.はしっかりと受け止める。

「いいだろう、手伝ってやる。しかし、それで何とかなるのか? お前もさっき言っていた通り、マオのギアスは強い」

「出し抜く方法はある。あのギアスは作戦を練る立場の人間が持つべきものじゃない。四六時中雑音に悩まされてるんだ。どうやったって集中力は乱れる。俺だって同じ状況になったら判断をしくじるかもしれない。付け入る隙は必ず生まれる。――それともう一つ」

 思考を読むという力がもたらす情報はたしかに強い。個人と個人の戦いでは無類の強さを発揮するに違いない。
 だが戦術と戦略は違う。巻き込む対象を広げていったときには、分析力というものが必要不可欠になってくる。その点においてマオには限界がある。

「あいつのギアスは心を読む。その能力自体に避けようのない落とし穴がある。真実の声が聞こえてしまうせいで、相手の心理を疑う必要がない。その時点で既に、奴からは情報を分析するための一番身近な機会が失われている。幼少期からそんな状態に置かれているんだ。健全な頭脳を要求するのは酷というものだろう」

「ということは、お前が言いたいのはつまり――」

「マオの思考能力は子供と同じだ。あいつの頭は策略を巡らせられるようにできていない。そうじゃなきゃこんなポカはやらなかったはずだ」

 言ってポケットから携帯電話を取り出す。ディスプレイには留守録機能に伝言が残っている旨を示すマークが表示されていた。

「昨日の電話はマオからだったのか」

「ああ。あいつがなんとしてでも伝えたがっていた情報だ。これを教えることで俺に何らかの行動を促すつもりだったんだろう」

 相手は思考を読めるギアス能力者だ。無策に自分の手の内をばらしたのではあるまい。何の保険も無しにそんなことをすれば秘密の露見を恐れるルルーシュに命を狙われるであろうことは簡単に想像がつくはず。
 となれば、この電話に入っている情報こそがその抑止力になり得る力を秘めているのだ。

「要はマオにとっての一番大きなカードだ。ならばあいつはどんな手を使ってでも直接俺に聞かせるべきだった。ギアスの有効範囲内で。だがマオは焦って判断ミスをした。おかげで俺はノーリスクでこの札の中身を見ることができる」

 マオのギアス勢力下で耳にすれば危うかったかもしれないが、反面、思考を読まれる危険性の無い場所で対応策が練られるのであれば、こちらの強力な武器になる。

 ルルーシュは一つボタンを押し、スピーカーを耳にあてた。すぐに再生が始まる。

『ルルーシュ、ボクの負けだよ。たしかにこの情報はなんとしてもキミに伝えたかった。じゃなきゃボクの命が危ういし、その前に、これが言いたくてキミと接触したんだ』

 特徴的な粘っこい喋り方は間違いなくあの白髪の少年のものだった。

『もしこれを聞いてC.C.を切り捨てるべきだと判断したら、ボクが回収しに行ってあげる。あぁ、受け渡しのときには拘束してどこかに放置してもらえるかな。こっちがC.C.に殺されるなんてイヤだから。ギアスの効かない相手って言うのは厄介でさ』

 留守電ってのは短いんだよね、前置きはこれくらいにして本題に入るよ――。

 電話から漏れる声はそう話す。ここからが重要な部分なのだろう。

『――C.C.はキミの妹を巻き込んでるよ。クラリスを』

 ルルーシュの瞳が驚愕に見開かれた。

『彼女はキミの次の契約者だ。もちろんキミのときと同じく、いずれ破滅するような力だなんて情報は与えられていない。もしかしたらいずれナナリーも巻き込まれるかもね』

 衝撃をやり過ごす暇も与えずに、録音された声はなおも信じ難いセリフを吐き続ける。

『そしてもう一つ。C.C.はクラリスにゼロをやらせている。ルルーシュだっておかしいと感じていただろう。いくらキミのためだからって、C.C.はマニュアルを覚えるなんて面倒なことをしたりする女じゃない。やってたのはクラリスだ。そう、彼女は何度も危険に晒されている。キミの知らないところで。C.C.に乗せられて』

 我知らずごくりと喉が鳴った。心臓がドクンドクンと脈打っている。手のひらにじっとりと汗が滲んでいた。

『最後に、これを知ったことをクラリス本人に気付かれちゃいけない。彼女のギアスは記憶を消す。回数制限は無い。だから使うのを躊躇わない。それは身内に対しても同じ。キミとは違ってね、ルルーシュ。消されちゃうよ、キミの記憶も』

 視界が黒く染まる。
 それで自分が目を閉じていることに気づいた。

 様々な事柄が瞬時に脳裏を巡る。
 もたらされた情報。その意味。利用価値。己の取るべき行動。

『話はこれで終わり。どう動くかは任せるよ。ただ、さっきも話したとおり、監禁ならボクが責任をもってやってあげる。場所だってもう用意してあるんだ。期待してるよ』

 その言葉を最後に、ピーと録音終了を示す電子音が鳴る。
 ルルーシュはまぶたを降ろしたまま、携帯電話をポケットにしまった。

 深呼吸をする。

 そのまま数秒。

 まぶたの裏に最後に浮かんだものは、『そんな風に言われたのは初めてだ』と微笑んだ、最前のC.C.の顔だった。

 やがてルルーシュは目を開けた。

「……状況が変わった。マオへの対応策を練る前に、お前に確認しておかなきゃならないことができた。黙秘は許さない。必ず答えてもらう」

 正面を見据えるルルーシュの瞳にはギアスの輝きが宿っている。
 魔女を相手に意味が無いなどということはわかっている。それでも抑えられなかった。
 絶対に真実を聞き出さねばならない。

「――C.C.、お前はクラリスと契約したのか」



[7688] STAGE14 兄 と 妹  心 の かたち (前)
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2014/02/08 18:56
※STAGE14は前後編に分かれていますが、これは初出の際一記事で投稿したところ、
長すぎて携帯から見られないとのご指摘をいただいたため、分割したものです。
書いた人間としては一つの話として通してお読みいただけることを想定しています。
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 神聖ブリタニア帝国は近年、強大な国力に任せた強引な侵略行為を繰り返している。

 一つ国を併呑したかと思えば、占領地の情勢が不安定なうちに、そこを足場にしてさらに別の地域へと戦線を拡大させる。一歩しくじれば足元を掬われかねない性急過ぎる国策だ。
 それは単に皇帝シャルル・ジ・ブリタニアの苛烈な性質を反映しただけのものであるとも、裏に何か急がねばならぬ理由があるのだとも言われている。どちらが真実であるのかは、皇帝その人のみの知るところである。

 いずれにせよ、この戦略が現在まで破綻を見せていないのには、ブリタニアに優秀な人材が多数存在していたことが大きな要因として挙げられる。

 その筆頭が帝国宰相――第二皇子シュナイゼル・エル・ブリタニアであった。
 軍略にも政略にも無類の才能を発揮する、次期皇帝に最も近いと目されている人物である。

 その彼は今、ブリタニア領内のとある船廠にいた。船廠と言っても単なる造船所ではない。第二皇子の私財によって建造されたものであり、研究所にとしての色合いが強い。兵器開発の最先端を行く機関――特別派遣嚮導技術部の管理下にある工場だ。
 満足そうに細められたブルーの瞳が眺めるのは、一隻の戦艦である。名をアヴァロンといった。ランスロットの開発者でもあるロイド博士の発案した『フロートシステム』により、飛行能力と空中静止能力を獲得した、世界初の浮遊航空艦である。

「ついに完成か」

「あとは最終テストと調整を終えれば全工程の終了と聞きました。一両日中には完工となる見込みです」

 感慨深げなシュナイゼルの呟きに、直属の士官カノン・マルディーニが返す。職員はそばにおらず、今は二人きりでの視察となっていた。

「EU戦線に持っていくおつもりで?」

「いずれはそうなるだろうね。アヴァロンを投入すれば戦況は劇的に変化するはずだ。私自身がある程度前線に近い位置で指揮を取れるようになるのだから。それでなくとも、空を飛び銃弾を受け付けない船というのは、存在しているだけで脅威に映るだろう」

 浮遊航空艦アヴァロンにはランスロットにも搭載されているシールド発生装置――ブレイズルミナスが装備されており、下方からの攻撃は一切艦体に届かない。加えて砲撃も可能なのだから、相手としては堪ったものではあるまい。理論上ではあるが、航空戦力を排除したあとでなら単艦で戦場を制圧し得る。

「ただ、まずは試運転も兼ねてエリア11に行こうと思っているよ。もちろんEUの情勢がもう少し落ち着いてからだけどね。――神根島、だったかな、例の遺跡は」

「バトレー将軍の報告ですか?」

「ああ。クロヴィスがやろうとしていた研究だ。成果が出るまで支援してやりたい」

 シュナイゼルはあごに手をやり、小さく笑む。

 今は第二皇子の部下となっているバトレーという男は、以前は殺害されたクロヴィス皇子のもとで将軍をしていた。文官出の彼はどちらかと言えば学者肌の人間で、当時は幾つかの研究を主導する立場にあった。その功績を目に留めたシュナイゼルが、クロヴィス暗殺事件の責を問われて監獄送りにされそうになっていたところを拾い上げたのだ。
 バトレーが特に力を入れていた研究は二つあり、人体実験を必須としていたそのうちの片方は、適合する素体がないとの理由から現在頓挫している。もう一方が件の『遺跡』の研究だった。

 眺めるようにアヴァロンを見遣る皇子の瞳が、かすかな鋭さを帯びる。

「それに、実に興味深いじゃないか。皇帝陛下が各地に点在する遺跡に沿って侵略を進めているという彼の考察は。もしかしたらあのお方の真意が掴めるかもしれない。一度実地を見ておきたくてね」

 帝国宰相として世界制覇の戦略を練り、実行しているシュナイゼルではあるが、皇帝より下されたその命に完全に納得している訳ではなかった。

 同じ外交手段をとるにしても時期というものがある。たしかにブリタニアの圧倒的な国力はまだまだ世界第一位の座から落ちそうにない。とは言え、立て続けの侵略行為による疲弊は確実に積もっているのだ。
 そんな当たり前のことが理解できない皇帝ではない。しかし宰相として理由を問うても解答は得られないのである。曰く『お前が知る必要はない』と。

 一方的に打ち切られた皇帝との対話を思い出し、シュナイゼルは眼差しを険しくする。そしてすぐに表情を和らげ、カノンに「戻ろう」と告げた。今考えても詮無きことである。

 ドックを出ると、そこは研究所の中だ。清潔に保たれた廊下に二人分の足音が響く。
 ゲストルームに帰る道すがら、思いついたようにカノンが言った。

「エリア11といえば、コーネリア殿下は苦戦しているようですね」

「黒の騎士団かい?」

「ええ。だいぶ勢いに乗ってきている様子。よもや押しきられることは無いでしょうが、平定には時間が掛かりそうですね」

 軽い口調で話すカノンに、シュナイゼルは面白そうに返した。

「それはどうかな」

「すぐに、片が付くと?」

「いや、その逆だよ。場合によってはコーネリアは負けるかもしれない」

「まさか……それほど買っておられるのですか? あのゼロという者を」

 カノンは若干の驚きと共に主の横顔を見る。冗談を言っている気配は無い。

 シュナイゼルは真顔になって頷いた。

「読みどおりなら、という注釈つきだけどね。私には一人、ああいう行動を取りかねない人間に心当たりがあるんだ」

 カノンは再度の驚きに見舞われた。
 エリア11に現れた仮面のテロリストの名はブリタニア本国でも次第に広まりつつある。しかしその素顔について知る者はおらず、飛び交っているのは流言飛語の類だけだ。

「殿下には、ゼロの正体の目星がついていると?」

「あくまで状況からの推測だよ。確信じゃあない」

 そう前置きをして、シュナイゼルは語った。

「単純な事実を述べれば、その人物は丁度ゼロが現れた時期にエリア11に入った。能力を考えても、決して不可能とは言えない資質を秘めている。加えて動機も十分だ。だけど、何を考えてそんなことをしているのか。そこまではわからない」

 カノンの眉根がわずかに寄る。

「どういう意味です? 動機があるならそれが理由になるのでは?」

「普通の人間ならね。単純にそうとは行かないのが彼女だよ」

「彼女……? ゼロは女性なのですか?」

 疑問を口にしたところで目的地に到着した。自動で開くドアをくぐった先は快適に空調の整えられた広い客室である。
 ゆったりと作られた大きめのソファに腰を下ろしたシュナイゼルは、質問に答えないままブランデーを所望した。カノンはグラスを用意して棚から酒瓶を取り出す。琥珀色の液体が注がれると、シュナイゼルはグラスを手にして口を開いた。

「カノン。きみはクラリス・ヴィ・ブリタニアという名前を覚えているかい?」

「ええ。第三皇女殿下ですね。マリアンヌ様のご息女の。成長すればシュナイゼル殿下の対抗も可能なのではないかと、兄君のルルーシュ殿下ともどもよく話題に上っておりました」

 とは言っても、それも今となっては八年の昔、あの忌まわしき皇妃暗殺事件の前までの話である。
 事件の後、クラリス皇女は一度だけ皇帝に拝謁し、以降どこともわからぬ場所での謹慎を命じられているのだと聞く。そうやって宮廷から姿を消し、いつの頃からか噂をされることも無くなった。
 ルルーシュ皇子とナナリー皇女の訃報が届いた一時期に憐れみを込めて話題に上らせる者がいたが、それが最後だ。

 しかし、カノンは前に主から『クラリスの居所を知っている』と打ち明けられたことがある。どういう意図をもってのことか、皇帝が伝えたらしい。
 以来、シュナイゼルは影ながら彼女の動向を見守っているとのことである。細部までは調べられなくとも、大まかな状況程度は把握していると聞いた。

「……まさか、クラリス殿下が?」

 カノンはおそるおそる訊いた。いくら皇位継承争いから脱落した姫君とはいえ、テロリストとして見なすのには抵抗がある。

「有力候補と思っている。ただ、さっきも言ったとおり、何を考えてそんなことをしているのかはわからない。だから状況からの推測の域は絶対に出ないと言っておこう。決め付けて掛かるのは論外だよ」

 シュナイゼルはそこで一旦言葉を切り、ブランデーの香りに目を細める。そのまま一度瞑目すると、まぶたを上げて宙を見た。

「私は、自分では人の思考や感情の機微には聡い方だと思っているんだがね、彼女に関してだけは、一度も見抜けたためしがない」

「シュナイゼル殿下が……ですか?」

 そばに控えるカノンは確かめるように口にする。

 シュナイゼルの言は自惚れでもなんでもない。カノンの知る限り、主以上に他人の内面を見通す能力に秀でた者は存在しなかった。いや、主と同等の者さえ居ないと断言できる。
 状況の展開予測に単なる物的環境だけでなく、心理面の要因までをも精確に加味できるのが、シュナイゼルの最も恐るべき部分の一つなのだ。

「彼女がどう行動するのかは読める。だけど、それは彼女の思考を読んでいるわけじゃない。彼女が被っている仮面が彼女をどういった行動に走らせるのか、そこを推測しているだけだ。その本質――つまり、何を思って仮面を被っているのかについては、まったくわからない」

「仮面――ですか」

「そう。クラリスの仮面は私から見ても完璧だったよ。気持ちが悪いほどに。彼女はマリアンヌ様を敬愛していたが、それはおそらく娘の仮面を被っていたからだ。もちろん当時の私はそんなことを疑いもしなかったけどね」

 しかし、とシュナイゼルは続ける。

「八年前、クラリスが陛下に面と向かって簒奪を仄めかしたあの謁見。カノンは知っているかい?」

「話には聞きました。当時は有名でしたから。なんでも、御歳九つとは思えない気迫だったとか」

「そう、そのときだ。あの謁見の日、私は違和感を覚えた。『できすぎている』と。なぜなら、彼女は私の想定していた『皇帝陛下の望む皇女』そのものの行動を取ったのだから。私が彼女の立場だったら、きっと似たようなことを申し上げただろう。――それで、ふと思ったのだよ。もしや、彼女は私と同じく役割を演じる類の人間なのではないか、とね」

「役割……」

 カノンには思い当たることがある。

 シュナイゼルは民衆から親しまれる皇子であり、敵国からは恐れられる皇子であり、また兄弟姉妹には優しい皇子である。どれもがシュナイゼル・エル・ブリタニアであり、どれが彼の素顔ということもない。全ては使い分けなのだ。相手が欲するものを鋭く察して、的確に演じ分ける才能に長けている。

 それこそがシュナイゼルを人とは違う位置に押し上げる、他人には持ちえぬ絶対的な長所であり、同時に主の唯一の短所でもあるとカノンは感じていた。
 何にでもなれる反面――いや、その卓越しすぎた技能と実力が備わっていたからこそ、そういった育ち方をしてしまったのかもしれないが――何かになりたいという欲がない。本人が望みさえすれば、確実にブリタニア皇帝の玉座にでもつけるだろうに、だ。

 それと似た能力をクラリス皇女は持っていたという。

「母親を殺された怒りを力へと変えて反旗を翻す皇女。それでいて激情に支配されるわけでもなく、冷静な思考は保ったまま。いかにもあの方が喜びそうな人物像じゃないか。九歳であれだ。強者へと成長しそうな資質を十分に感じさせる。事実、彼女だけが兄妹の中で別の扱いを受け、今も一人生き延びている」

 クラリス・ヴィ・ブリタニアは分を弁えぬ発言をしたために存在を消されたのだ――多くの者がそう考えている中で、シュナイゼルは違う見方をしているようだった。そのまったく逆、見込みがあるがゆえに生かされているのだ、と。

「ただ、私の知る限り、アリエスの離宮で幸せそうに過ごしているクラリスは、あれほど苛烈な人間には見えなかった。九歳児としてはありえないほど聡明だったのは間違いないがね」

 シュナイゼルは何かを思い出すように遠くを見つめ、眼光を鋭くする。

「そう、以前から違和感はあった。彼女には熱が無い。頭が良いがゆえの冷静さなのかと思っていたけど、きっとそうじゃなかったんだろう」

「……熱、とは?」

 カノンが尋ねると、シュナイゼルは「そうだね」と一瞬だけ考えた。

「例えば、彼女とは何度かチェスをしたことがある。けどね、これが面白くないんだ。弱いという意味じゃない。クラリスは年齢の割に恐ろしく強かった。制限時間に幾らかハンデをつければ私と互角になるレベルだ。なのに、面白くない。勝とうという意志が感じられないんだ」

「手を抜いて?」

「いや、全力を尽くしてはいたんだろう。でなければ私の自信は粉微塵だよ。そうじゃなくてね、親が子供に遊んでくれとせがまれたら、まっとうな人間なら拒まないだろう? 内容がチェスで、相手が強かったら、真面目に対局もするだろう。でも、何が何でも勝ちたいという欲求は生まれるかな? 彼女の打ち筋はそういう印象だよ」

 今にして思えば、クラリスは何に対しても冷めた子供だった気がする。そしてその場でそうと気付かせない。
 それこそが、『彼女の仮面が完璧』と言う所以だ――。

 シュナイゼルはそのように締め括った。

 カノンは黙って聞きながら、考えていた。
 それは主にも言えることだと。

 並ぶ者が無いほど有能でありながら、目指すものが無い。欲が無い。熱が無い。
 側近として一番多くの時間を共に過ごしているにもかかわらず、素顔が窺えない。

 シュナイゼルとはそういう人物なのだ。真実の自分を絶対に表に出さず、何らかの仮面を被った『シュナイゼル・エル・ブリタニア』という人間を、チェスの駒か何かのように寸分の狂いもなく操る。

 不意に、ゼロの仮面の下にシュナイゼルの顔があるという想像が頭をよぎった。

 ――もしそうなら、たしかにコーネリア皇女でも勝てないだろう。

 表情を厳しくするカノンのそばで、第二皇子は静かにグラスを口に運ぶ。

「そうでなければいいと思っているんだけどね。悲しいじゃないか、きょうだいで殺しあうというのは」

 悲しいと話すシュナイゼルの口調は、言葉とは裏腹にひどく淡々としていた。




 ◆◇◆◇◆




 エリア11のトウキョウ租界に、その屋敷はあった。
 再開発時の区画整理によって大きく確保された敷地面積は、一般住宅のそれを遥かに上回る。外周を囲う塀の内側には綺麗に整えられた庭が広がり、その中心にブリタニアの建築様式で立てられた瀟洒な洋館が佇んでいる。
 近年名を上げ始めた富豪アーベントロート子爵の、エリア11における別邸である。

 月の出た静かな夜だった。
 塀の内部で警備任務に当たっていた男は、耳に届く小さな物音を聞きつけた。発生源へと歩いていくと、その先には門がある。
 警備の男は、そこで暗がりにうずくまる人影のようなものを発見した。手にした懐中電灯の光を当て、息を呑む。

 門柱に寄りかかっているのは少女だった。それだけならば問題は無いが、衣服にこびりつく赤い色が目を引いた。
 血であった。

「――おい、きみ、大丈夫か!?」

 慌てて駆け寄り顔を覗く。
 血色は悪くないように思えた。しかし所詮は懐中電灯の明かりである。当てになるものではない。

 救急車を呼ぶのが先か、医術の心得のある仲間を呼ぶのが先か――。
 いずれにせよ、と通信機を取り出した男の手首を、少女の手が掴んだ。肌には血の跡が残っている。

 驚いて顔を見る男に、少女はしっかりとした口調で言った。

「大丈夫だ。医者は必要ない。道具さえあれば自分で手当てできる。それよりもクラリスに伝えてくれ。――C.C.が来たと」





 数分後、クラリスの居室には湯と布で血のりを洗い流すC.C.の姿があった。不滅の呪いに縛られた魔女の肉体には既に傷一つ残っていない。
 ゆったりとしたシルクのガウンに袖を通す少女を眺め、クラリスが口を開いた。

「自分で撃ったの?」

「夜だからな。確実に取り次いでもらえる方法を取らせてもらった。野宿など性に合わん」

 話しながらウエストにサッシュを巻き、襟元を整える。

「『野宿』? ルルーシュの所って門限とかあったの?」

「いや、そうじゃない。さっきの怪我をやったのはたしかに私だが、数時間前にはルルーシュに撃たれたよ。当たりはしなかったが。拘束されそうになって逃げてきた。もうクラブハウスには住めん。今日から厄介になる」

「……は?」

「マオが来たらしい。お前にゼロをやらせているのがあいつにばれた。契約のことも」

 立て続けに並べられる言葉に、クラリス呆けたような顔になった。さすがにすぐには理解が追いつかなかったようだ。

「それ……本当に?」

「証明する方法は無い。好きに判断しろ。ただ、今日から私はここに住む。それは確定事項だ。部屋を用意してくれ。どうせ余っているのだろう?」

「それは、そうだけど……」

「なんだ? まさか同室がいいのか? ベッドは一つしかないように見えるが」

「そういう意味じゃなくて――はぁ、わかったわ。いいでしょう。隣の部屋を使って頂戴。私の私室だから好きにして」

 疲れたように溜め息をつき、クラリスは机の引き出しから鍵を取り出した。アンダースローで軽く放ると、C.C.の手のひらにぴたりと収まる。

「随分と簡単に了承したな」

「まぁ、展開としては別に不自然じゃないから。あるかもしれないとは思っていたのよ。貴女があんまり一方的に話を進めるものだから、どうしてやったものかと少し考えちゃっただけで」

 棘の混じったクラリスの口調に、C.C.は悪戯っぽい笑みで応えた。

「早く慣れることだ。何百年もこれで来たんだ、今更改めたりはできん」

「……そうね、それが良さそう。とりあえず明日の朝はピザを焼かせるわ。面倒な催促をされないうちに」

「わかってるじゃないか――と言いたいところだが、残念ながらそれではサービス不足だ。夕食を取れていなくてな、今すぐに食べさせてもらえるとありがたい」

「……ルルーシュって思った以上に苦労してたのね」

 クラリスは天井を仰いで盛大に嘆息すると、壁に設置された内線電話の受話器をとった。

「夜遅くにごめんなさい。お客様が空腹を訴えていらっしゃるから、ちょっとお料理をしてくれないかしら。メニューはピザ以外認めないそうよ。恨み言があったら直接お姫様に言って差しあげて。私が許すわ」





 しばらくして、シックな木製のテーブルの上に湯気の立つピザが乗せられた。
 時刻はもう真夜中だった。広い庭を備えているせいもあるとはいえ、外は非常に静かで、廊下を歩く使用人もいない。

 ミネラルウォーターの入ったグラスを手にするクラリスの対面で、C.C.は八つに切られたピザの一カットを口に運ぶ。

「ふむ、悪くない」

 人の家の料理に勝手な評価を下す少女に向けて『何様のつもりだ』という視線を送りながら、クラリスが言った。

「不老不死って体型も維持されるの? 夜食にピザ一枚って正気の沙汰じゃない気がするんだけど」

「それくらいの役得が無くてどうする。羨ましいなら代わってくれ」

 気のない素振りで返しつつ、C.C.はさらにピザを頬張る。クラリスは小さく肩をすくめた。

「言う相手を間違えているんじゃない? ルルーシュにやらせるつもりなんでしょうに」

「案外お前の方が近いのかもしれん。追い出されたと言っただろう?」

「ええ、言ったわね。でも私には貴女の言葉を真実と断定するだけの材料が無い。嘘とも断じ切れないけどね」

 淡々と返される言葉に、C.C.は面白そうに口元を緩める。

 クラリスは他人からもたらされた情報を無条件に鵜呑みにはしない。ルルーシュと同じ性質だ。

「たしかにそうだろうな。それで、お前はどうするんだ?」

「今すぐに何かをするということはないわ。貴女がここに置いて欲しいと言うなら、居たいだけ居させてあげる。もしかしたらルルーシュにギアスを使った方がいいのかもしれないけれど、それも焦る必要はない。状況を見極めてからで十分」

「いいのかそれで? マオが来ているのだぞ?」

「いいのよそれで。私はルルーシュという人間を信じているから。彼の考え方と能力をね」

「む?」

 C.C.はピザを食べる手を止め、どういうことかと視線で問いかける。クラリスはグラスを横に退け、テーブルの上で指を組んだ。

「貴女が本当にルルーシュに見限られたのだとしても、そうでないにしても、それとマオの件は話が別よ。でしょう? マオがどう認識しているのかは知らないけれど、私にはナナリーを危険に晒す可能性のある存在を、ルルーシュが放置しておくとは思えない」

 つまり、クラリスの見立てでは、ルルーシュがマオの抹殺、もしくは封殺のために動く――そういうことになっているのだろう。

 何かを考えるように、C.C.の琥珀の瞳が若干の鋭さを帯びた。
 クラリスは構わずに話を続ける。

「そして、マオがわざわざ私と貴女の関係をルルーシュに話したということは、イコール彼が一番簡単な決着の方法を望んでいないことを示している。単純なルルーシュの殺害、もしくは排除という方法を」

「だろうな。ルルーシュを除くだけならあいつがゼロだと軍か警察に言ってしまえばそれでお終いだ」

「でもマオはその手を使わなかった。遠回りの手段――策略でルルーシュを陥れようとしている。だったらもう、負ける理由なんて存在しないわ。マオのギアスが最も力を発揮するのは、一対一での真正面からの戦い。それを放棄した時点で、彼に勝ち目は無い。相手がルルーシュである以上はね」

 だからクラリスが手を出す必要はない。そういうことであるらしい。

「随分あいつを買っているんだな」

「だって私の兄さんよ? 思考が読めるだけの子供なんかに負けるはずないじゃない。出し抜く策は必ず考え付いているわ」

「ルルーシュの採った作戦がわかるのか?」

 C.C.の質問に、クラリスは首を横に振って答えた。

「まさか。けど、これもそれでいいのよ。わかってしまったら負けだもの。マオに読まれてしまう。貴女が『撃たれた』と言ったのはいい材料だわ。もしかしたらあの発言自体がルルーシュの指示だったのかしら? その可能性も含めて、真偽の判別できない情報が加わったおかげで、私の中にあるルルーシュの行動予測に幅が出た。今の段階で――そうね、マオに対しては七通りは思い付く」

 一瞬考える素振りを見せ、クラリスは続けた。

「ここを出発点に先を読めば、私なら一つに付きさらに十通りの未来を予測できる。もちろんそんなにきっちりと数えられるものじゃないけれど。便宜上合計で七十とするわ。このうちのどれが当たるかはわからない。もしかしたらどれも当たらないのかもしれない。私に判断できないからには、マオがこれを読んでも意味はない」

 そこまで言って、頭の中を示すように指先でトントンと側頭部を叩く。

「手持ちの情報と絡めてココを読み解く力を彼が持っているのなら話は別だけど、ありえないでしょう?」

「なるほどな」

 C.C.は頷く。

 七十もある可能性から一本を割り出す作業など、あの少年にできるはずがない。ギアスによって得られる情報で判断材料が十分に揃っていたとしても、きっと分析作業などやろうとすらしないだろう。

「少なくともお前がルルーシュの足を引っ張ることはないということか。だから何もせずに待つと」

「ええ。どんな展開になるにせよ、私の予想が正しければマオは近いうちに退場するはず。何かをする必要なんてないのよ。状況を見て、なんならルルーシュにギアスを掛けて、この一件はそれで終わり。貴女もクラブハウスに戻れるでしょう」

 それに、とクラリスは続ける。

「何にしても、自分から積極的に行動するのは私のやり方じゃないわ。動かずに済む限りは流れに任せたい」

「『傍観者でいたい』、というやつか?」

「ええ」

 説明は終わったということか、クラリスは脇にやっていたグラスを手に取り、数口水を飲んだ。

 持っていたピザを皿に置き、C.C.は一度ナプキンで手を拭く。手触りのいい布を指で弄びながら、対面の少女を見遣った。
 C.C.の側からすれば話はまだ終わっていない。むしろ聞いておきたい事柄ができていた。

「――言うまでもないことと思うが」

「なに?」

 クラリスが目を上げる。

「現在の状況は、例の未来知識と完全に乖離しているはずだ。『知識』の中にクラリス・アーベントロートは存在しないのだから。マオの狙いが私であり、その私が今ここに居る以上、事態は確実にお前を巻き込んで行く。今回ばかりはどうやっても裏方にはなれない」

「わかってるわよ。そんなこと」

「それでも動かないのか?」

 C.C.の問いかけにクラリスは長いまつげを伏せ、億劫そうに、しかしはっきりとした口調で答えた。

「『ずれて』しまっている部分については、何が起きても『詰まない』ようにしておく。それが最低限であり、それで十分でもある。誰に勝とうとしているわけでもないんだから、危険を冒してまで先手を取る必要なんてない」

「それがお前の生き方か」

「……まぁね」

 淡白に返された短い回答。
 端正な相貌に走った一瞬の苦い表情を、C.C.は見逃さなかった。マオでなくてもその心の声は伝わってくる。

 ――こんなの、生きてるって言わないんでしょうけれど。

 そう聞こえた気がした。

 胸へと響いてきた幻聴を反芻し、C.C.は手拭きを置いて席を立った。どこへ行こうという目的はなかった。ただ単に、真正面から向かい合って話し続けるべき事柄だと思わなかったのだ。クラリスはきっとそれを望まない。
 珍しく他人に気遣いを見せたC.C.は、体を窓へと向け、椅子に座る少女を横目で見下ろした。

「クラリス、何を恐れている?」

 クラリスはわずかに眼差しをきつくして、テーブルを挟んで立つ少女を見上げた。

「……唐突過ぎるわね。質問の意図を測りかねるわ」

「若さから来る勢いを無謀と等号で結べないのと同じように、老成した慎重さと臆病は別のものだ。私にはどうも、お前のそれは後者に思えてならない」

「私はまだ十七歳よ。老成しているなんて――」

「『クラリス・ヴィ・ブリタニア』はな」

 反論を封じ込めるように、C.C.は重ねて言う。

「たしかにその肉体は十七年しか生きていない。それは事実だろう。だが、そこに宿る精神はどうだ?」

 C.C.は以前からクラリスの『知識』にある疑問を抱いていた。

 それは『なぜ変化しないのか』という点である。

 未来は決して一個人の主観で確定できるものではない。
 過去に現れた先読みのギアス能力者は、おのれの能力について、確率の高い可能性の一つを見ているのだと言っていた。ゆえに状況の推移に応じて見える未来の形が変わってくるのだと。
 それは当然のことだ。でなければ未来予知には何の意味も無くなる。変化させられるからこそ、予備知識として有用になるのだ。

 しかしクラリスの知識にそれは当てはまらない。状況が変わってもその分だけ『ずれていく』だけなのだ。

 まるで、既に起こってしまった後ででもあるかのように。

 そこでC.C.は一つの結論に至った。

「最近確信するようになったんだが、お前は未来を知っているんじゃない。一度未来を見てきたのだろう? それが別の人間としてなのか、あるいはいつかお前が言ったように、アニメとしてなのかは知らないが」

「もしかして貴女、未来からの逆行なんてものがあり得ると思っているの?」

「死なない体がここにある。常識など思考の枠を狭める枷の役にしか立たん。そんなものよりも目に映る現実を優先する」

 毛足の長い絨毯を踏み、C.C.は前方へと歩き出す。
 ガラスの向こうには星の輝く夜空があった。どれだけの時を経てもほとんど変わることのない、永久にあり続ける光景だ。

「私の中には数え切れない年月分の経験がある。統計データには事欠かない。そこから判断して、お前が十七年しか生きていない人間だとはどうしても思えない。アーベントロートで飼い殺しにされていた経歴を加味すればさらにそうだ」

 生まれたときから皇室という特殊な環境で育てられ、その後は落ち目の貴族の娘となり、そこでは深層の令嬢として扱われた。
 そんな人間が突然戦後の混乱も収まっていないエリアに来て、何の動揺も違和感もなく、一般学生として完全に溶け込めている。

 そんなことが可能だろうか。
 断じて否である。

 ならばどこかで足りない経験を補っているとしか考えられない。
 たとえそれが現実的でない発想だとしても、超常のものとしてコードとギアスが既に存在しているのだから、考慮に入れないのは単なる思考の停止だ。

 窓辺に辿りついたC.C.は、桟に手を着き、外の景色に目を遣った。

「お前なら承知のことと思うが、私は一時期、ギアス嚮団というところにいた。ギアスについての研究を行っている秘密機関だ」

 C.C.はそこで嚮主と崇められて名目上のトップに収まり、気が向いたときに協力要請に応じる程度の相手をしていた。今となっては過去の話だ。

「その頃に一つ面白い研究報告を聞かされたことがある。かれらが言うには、ギアスの力には本人が潜在的に願っている望みがいくらか反映される――そういう傾向があるらしい」

 振り返り、クラリスを窺う。契約者の少女は睨むような目でC.C.を見つめていた。

「お前のギアス、詳しくは知らないが、『記憶を巻き戻す』効果がメインだろう。もし自分自身にも使えるとしたら――どうなんだろうな?」

 問うように言って言葉を切り、独り言のように淡々と続ける。

「もっとも、私の知る限り、本当の意味での時の壁を越えることは、ギアスの力をもってしても不可能だが」

「……結局、何が言いたいの」

 呟くように口にしたクラリスの表情は固い。怒りでも、苛立ちでも、悔悟でもない。どれとも違い、それでいてそれらの全てでもあるかのような、ひどく複雑な顔をしていた。
 ただ一つ間違いないのは、アメジストの瞳が抑えようともしていない剣呑な色を帯びていたことである。相手が魔女でなければ今にもギアスが発動しそうなほどの。

 向けられる鋭い眼光を歯牙にもかけぬ様子で受け流し、C.C.ははっきりと告げた。

「――クラリス、お前はいったい『いつ』を生きたいんだ?」

 問われた少女に返事はない。

 互いの視線が交わったまま、無言の時間が流れた。
 夜の屋敷は限りなく静かで、窓の外からは何の音も響いてこない。かすかに鳴る時計の音だけが、室内の空気を揺らしていた。

「……知ったような口を叩かれるのは、不愉快だわ」

 やがてクラリスが目を外し、話は終わったとばかりに水の入ったグラスを唇につけた。

 その様をしばらく眺め、C.C.は小さく息を吐いて窓から離れた。

「……すまなかった。お前の問題だな。口を挟むことではなかった」

 軽く謝り、部屋の出口へと向かう。

「今日はもう寝るとしよう。明日から世話になる」

 緊迫した空気は既に霧散していた。とはいえ、これ以上話すのはお互いにとって良いことではなさそうだった。
 ドアノブに手を掛け、C.C.は最後に一度振り向いた。

「ピザ、おいしかったよ。料理人に礼を言っておいてくれ。次からは残さないとも」

 バタンと小さな音を立て、広い廊下に出る。
 上を見ると、天井には煌々と光るシャンデリアがあった。

 自分の体を照らす輝きが、C.C.には妙に鬱陶しく感じられる。

「……まったく、何をやっている。ルルーシュだけを見ていればいいはずなのに」

 溜息混じりにこぼれた言葉は、誰に聞かれることもなく、廊下の奥へと消えていった。




 ◆◇◆◇◆




 時刻は昼。

 マオはとある建物の屋上からクラリスの屋敷を窺っていた。
 もちろん視覚的に覗いているわけではない。視線が通る位置では相手側からもマオの姿が見られてしまう。
 目標よりも高いビルの屋上、転落防止の柵よりもよりもだいぶ内側の場所に立って、ギアスで人々の動きを読んでいるのであった。

「どうなってるんだ、クソ!」

 苦虫を噛み潰したかのようなしかめ面で地面を蹴る。

 C.C.がアーベントロート邸に転がり込んだ翌日である。状況は思ったような展開を見せていなかった。

 クラリスはゼロの代役を続ける気でいるし、ルルーシュが怒鳴り込んでくることも無い。
 当然マオの許にC.C.はやって来ない。護衛の居る家の中に入ってしまったせいで、直接奪いに行くことすらできなくなった。

 現状がどういった思惑の上に出来上がったものなのか、マオには理解できていなかった。
 たぶんルルーシュの策の一環なのだろう。そこまでは想像が付く。だがその先がわからない。

 なぜなら、ルルーシュの頭の中に作戦に関する情報が存在していないからだ。

 マオが留守番電話にメッセージを残したのは一昨日のこと。ルルーシュはその次の日――つまり昨日、マオを撒いた先でその中身を聞いたのだ。そこまではルルーシュの記憶に残っている。そこでどういった反応をしたのかからが、もう無い。
 しかし、そこで何かがあってC.C.はクラリスの家に行ったのだ。きっとそうだと思う。

 ルルーシュの思考を読んでも空っぽなのは、おそらく彼が自分にギアスを掛けて忘れさせたからだ。
 その記憶自体もルルーシュの脳内には残っていないのだが、マオにはクラリスから得た知識がある。だから最低限の想像が付く。

 あの『知識』では、ルルーシュはマオのギアスに対抗するために、自分で立てた作戦を自分で頭から消していた。
 今回もそうなのだろう。

 しかし、そこがわかっても意味が無いのだ。肝心の策がわからないのだから。

「ルルーシュ……! クラリスに知られちゃ駄目だって言ってやったのに……! 記憶を消されてもいいのか!? あの女は絶対に躊躇わないぞ! 何を考えてるんだ……!」

 わからない。

 わからないが、少なくとも物量で追う作戦は取っていないようだ。
 そんな大規模な命令が出ているのなら何らかのそれらしい動きをギアスが発見しているはず。自分でも黒の騎士団のアジトを何箇所か調べてみたけれど、そういった痕跡は一切見つけられなかった。

 だからそれはない。そこまではいい。

 しかし現状ではそのくらいしかわからない。

 クラリスの頭の中に答えはあるのかもしれないが、選択肢が多すぎて全てを確認する気すら起きなかった。やったところでそこから絞り込む方法が無いし、だいいち全部が外れている可能性もある。
 そんなあからさまに徒労に終わることが予想できる作業に労力を注げるほど、マオの精神力は強くなかった。

 そうするともう、答えはどうやっても出てこない。
 始めから自分で考えていれば何らかの推測は立ったのかもしれないが、先にクラリスの思考を覗いて無数の可能性があることを知った後では、おのれの出した解答に自信を持てるはずなどなかった。

 ならばどうしたらいいのか。

 吐き気を催すほどの苛立ちを感じながら、マオは結論した。

 わからないなら、わからないまま、自分の思うように事態を動かす工作をするしかない。

 待っていても状況は変わらないのだ。クラリスはルルーシュ任せにしてしまっているし、ルルーシュも昨日確認した限りでは待ちの体勢に入っている。
 このまま放置しておくだけではC.C.は手に入らない。

「……ボクにはC.C.がくれたこのギアスがある。あんな奴に負けるわけないんだ……! C.C.、力を貸して……」

 ヘッドホンに手を当て、漏れてくる声に意識を凝らす。絶え間なく聞こえていた心の声という雑音が次第に薄れて行き、世界が自分とC.C.だけになっていく。
 数分間その作業を続け、マオは平静を取り戻した。

 考えるべきはどうやってC.C.をクラリスの家から引きずり出すかだ。
 これをクリアしなければどうにもならない。

 ルルーシュの策についてはもはや悩むだけ無駄との結論を下している。けれど、C.C.がアーベントロート邸に行ったのがルルーシュの指示によるものだったとすれば、彼女があの屋敷に居られなくなる状況を作るだけで、策の妨害ができるのではないか。そんな気がする。
 だからたぶん、そのための作戦を練ればいい。

 それが成功したら、あとはもう、ルルーシュなど放ってC.C.をさらっていけばいいのだ。

(そう、それでいい。簡単なコトじゃないか)

 方針を固めたマオの顔には、晴れやかな笑みが浮かんでいた。



[7688] STAGE14 兄 と 妹  心 の かたち (後)
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2014/02/08 18:56
 ある日の放課後、枢木スザクは一人で街を歩いていた。授業が終わり、勤務場所へと向かおうというのである。

 最近では、クロヴィス皇子殺害の容疑は名実共に晴れていた。
 一時期はサングラスで変装せねば出歩けない状態だったが、この頃は特にそんなこともない。たまに敵意の篭った視線を感じることはあるものの、それはたぶん名誉ブリタニア人制度自体に批判的な人間の目だ。要するに、シンジュク事変が起きる前から浴びせられていた類のものである。

 ゆえに、ブリタニア人の中に混じって街路を歩くスザクの顔は明るい。――のだが、不意に首の裏にピリリと感じるものがあって、立ち止まった。
 無意識による気配の察知なのか、第六感による予知なのか、自分でも上手く説明できないその曖昧な感覚を、スザクは非常に信頼していた。戦場においてこれに命を救われたことは一度や二度ではない。

 ゆっくりと歩行を再開しながら、今度は意識して気配を探る。肌と耳で空気の流れを読み、素早く走らせた視線で異常を探す。

(――見つけた)

 少し先の路地に入り込んだ白いコートの少年。何気ない素振りでありながら、発見される直前までスザクを注視していた。
 少年が消えた先は、正確には路地と言うより単なるビルとビルの隙間といった感じのひどく細い道で、ここからでは日の光もあまり差さないように見える。

 誘いだろうか。おそらくはそうだろう。

 直感で理解しつつも、スザクは正面からそれに乗ることにした。
 自惚れではなく事実として、おのれの体術なら銃を持った相手にでも遅れは取らないと自負していたし、罠だったとしても、ルルーシュのように頭を使えるタイプの人間ではない自分には、予めの対策を立てることなど出来はしない。体一つで挑むしかないのだ。

 普段どおりの歩調で進み、件の角を曲がる。
 高い建物に挟まれた通りは狭く、やはり暗い。

 無人の道を警戒しつつ進んでいく。すると、奥にさらにあった建物の隙間から、先ほどのコートの少年が現れた。髪は白く、よく見れば顔立ちは東洋人のもの、それもエリア11ではあまり見かけない中華系だ。

「よく来たねェ、枢木スザク」

「やっぱり僕に用があったのか。何者だい?」

「ボクのことはいいよ。単なる善良な一市民――軍への情報提供を義務づけられているブリタニアの民だと思ってくれればさ」

「ブリタニアの民……名誉か? でもエリア11には――」

「気持ちの話さ。出身は中華連邦だから」

 一瞬浮かんだ違和感を打ち消すように、少年は出自を口にした。腰に手をあて、首を傾けてスザクを見る。

「ボクの素性はどうだっていいだろう。別に犯罪を犯して手配されているわけでもない。要は目的が伝わればいいんだ」

「……つまりきみは、何か軍に伝えたい情報を持っているということか」

「そうそう、そういうことだよ」

 数度頷き、口元に薄く笑みを浮かべる。

「キミの友達に、クラリスってコ、居るよねェ」

「クラリス……?」

 スザクは告げられた名前をおうむ返しに呟いた。あまりに意外な切り出し方だったからだ。

 クラリス・アーベントロート。
 学校のクラスメイトで、生徒会の仲間で、たぶんルルーシュの恋人。

 アッシュフォード学園生徒会のメンバーは、スザクにとって学生の自分を規定してくれる一番わかりやすい象徴のようなものだ。
 軍人の視点に立っているときに聞かされて少々戸惑わされた。もちろん態度に出したりはしない。そのくらいには訓練されている。

「彼女、ホテルジャックのときにゼロと接触してるんだ。直接言葉も交わしてる」

「あぁ、それは聞いた。助けに来てくれ――」

「今も接触してるよ」

 セリフに被せて出された発言に、スザクの口は止まる。

「もう一度言おうか。クラリスは今もゼロと接触している。テロリストだ」

「何をバカな」

 言葉の意味を理解した瞬間、否定がこぼれていた。

 ちょっと意地の悪いところはあるものの、クラリスは基本的には穏やかな気性をしているし、家だって資産家の貴族で、ブリタニアに敵意を抱く理由があるとは思えない。
 エリア11で最も有名なテロリストとなど、結び付けられるはずがなかった。

「わかってるよ、ボクに信用が無いのは。でもこれは事実なんだ。嘘だと思うなら調べてみればいい。彼女の家には決定的な証拠が眠ってる」

「馬鹿馬鹿しい。何者なんだきみは。どうして自分を選んでこんな下らないことを話す?」

「キミもわからない人だねェ。ボクのことはどうでもいいって言っただろ? でも、キミに話した理由は簡単さ。彼女は有力貴族の子女だ。信憑性の薄いタレコミで動いてくれる人なんていない。『間違ってました』で済む相手じゃないからね」

 白髪の少年はポケットに手を入れ、ゆっくりと辺りを歩く。

「だけど、キミなら違う。友達という免罪符がある。だろう?」

 スザクに向けられた顔にあるのは、小さく口角の上げられた唇。
 何を意図してのものなのかは不明ながら、好きになれそうにない笑みだった。

「話にならない。言うことがそれだけなら自分はもう行く」

 厳しく言って踵を返す。一歩を踏んだスザクの耳に、背後からの声が届いた。

「それならそれで別にいいけどさァ、でももうキミ、ちょっと疑っちゃってるよねェ」

「そんなことは――」

「あるよ。そんなことはある。キミはもうクラリスを疑っちゃってるんだ。ほんのちょっとの疑惑だけどねェ。けどその小さなトゲは少しずつ少しずつ、キミたちの関係にヒビを入れていく」

 知らないうちに足が止まっていた。
 顔だけで振り向いて睨みつけるスザクを、白髪の少年はどこか歪んだ笑顔で見つめていた。

「いいの? 何とかして解消しなくちゃずっとそのままだ。一度調べて潔白を証明した方が、スッキリしていいんじゃない?」

 スザクは答えず、前を向き直して路地の出口へと再び足を進める。

 去っていく後姿を見つめ、少年は一段笑みを深くした。その笑い方はやはり、スザクが最前好きになれないと感じた、イヤらしいものだった。




 ◆◇◆◇◆




「クラリス、晩御飯はまだか?」

 テーブルについて何やら紙を折っているクラリスを眺めながら、C.C.は無駄としか思えない広さを持つベッドでゴロゴロと転がっていた。

「前から気になってたんだけど、何でほとんど動かないのにそんなに食べたくなるの?」

「コードを持つ者は無飲無食でも体に不調をきたしたりはしない。もちろん食べれば消化器官は働くが、栄養の吸収は無い。だから食べるのは完全な私の趣味だ」

「要するにただの食いしん坊なのね」

 自分で食べたいときにピザを取って食べていたルルーシュの家と違って、クラリスの屋敷では食事の時間は大体決められている。
 勝手に破ってデリバリーを使っても特に咎められたりはしないだろうが、この家で出されるピザはC.C.にとっては真新しい代物で、しかも美味い。だから素直に待つというわけだ。

「しかし、お前に折り紙の趣味があったとはな」

「意外?」

「外面だけ見ればそれなりに絵にはなっている。ただ、性格的に似合わんだろう」

 率直に告げると、クラリスはふふ、と柔らかく微笑んだ。

「これね、ナナリーと約束したのよ。暇なときに折るって。千羽鶴。知ってる?」

「ああ。日本の風習だな」

 妹の話をするクラリスの表情はとても優しい。C.C.も釣られて頬を緩めてしまうほどだ。

 掴めないところのある少女だが、やはりここはルルーシュと同じなのだな、と思う。

 血のつながりの無いC.C.から見ても、ナナリーには守ってやりたくなるようなところがある。経験上、内面まで全て純真で美しい人間などあり得ないとはわかっているものの、それでもそんな印象をまったく外に出すことが無いという時点で、あの少女は奇跡のような存在だ。
 C.C.ですらそう感じてしまうのだから、実の姉としては大事にしてやりたくて仕方がないだろう。

「手伝ってやろうか? 折り方なら知っている」

「願掛けなんだから人の手を借りちゃ駄目でしょう」

 思いつきの申し出はもっともな言葉で断られる。
 手持ち無沙汰を紛らわすように布団に顔をうずめると、慣れない寝具の香りが鼻腔を満たした。

「そんなに暇なんだったらC.C.も自分でやったら? 紙くらいあげるわ」

「千羽も折りたいとは思わん」

「ホントにわがままね」

 呆れた声が響いたとき、内線電話が控えめな電子音を立てた。

 クラリスは立ち上がって部屋の隅へと向かう。受話器を取って二言三言話すと、通話を終えた。

「夕食か?」

「いえ、来客みたい。スザクだって」

 クラリスの口調は落ち着いたものだ。だが目つきが少しばかり真剣さを帯びていた。

「ついていってもいいか?」

「どうぞ。ただ見つからないようにね。シンジュクで見られてるんでしょう?」

「わかっている」

 頷いてベッドを降りると、C.C.はクラリスに続いて部屋を出た。

 二人で連れ立って歩けるのは玄関ホールの手前までだ。それより先ではスザクに姿を晒すことになってしまう。
 広い家といってもその程度ならそんなに時間の掛かる距離ではない。目的地に到着すると、C.C.はホール手前の廊下に控えた。

 今までいた部屋は二階にあり、最短で玄関に向かうと、ホールに作られた階段上から階下を臨む形になる。
 入り口の扉前に立った茶髪の少年は、学生服姿でありながら、常には無い固い表情をしていた。
 対するクラリスは普段通りの態度だ。ゆったりとした動作で階段を下っていく。

「いらっしゃい、スザク。どうしたの? こんな時間に一人で。みんなに言えない内緒の相談の類なら、すごく素敵だと思うけれど」

「クラリス。僕は――自分は、ブリタニア軍准尉枢木スザクとしてここにいます。貴女に、黒の騎士団との内通の容疑が掛けられている」

「何の冗談?」

「本気です。任意になりますが、捜査にご協力いただきたい。今ならまだ、この疑惑は自分一人しか知りません。やましいところが無いのなら、応じるのが貴女のためです」

 ホールから漏れてくる会話はなにやら剣呑なものだ。
 廊下に隠れて聞いていれば、大体の事情は汲み取れる。C.C.はそっとその場を離れた。

 ――どうやら安穏としていられる時間は終わったらしい。

 来た道を静かに戻り、クラリスから貸し与えられた部屋に入る。窓を開けて近くに巡回の警備がいないことを確認すると、桟に足を掛け即座に跳び降りた。天井の高さが一般住宅よりもかなりあるアーベントロート邸だが、二階程度ならそれほどの高度でもない。芝の生えた地面にふわりと降り立つ。
 すらりと膝を伸ばして立ち上がったC.C.は、点々と外灯の立つ庭を音もなく走り出した。




 ◆◇◆◇◆




「仕事だって言うなら別にいいけど、調べても何も無いわよ?」

「あるか無いかを判断するのは自分です」

 玄関で問答する若い男女の様子を、バーンズは少し離れた位置から観察していた。使用人たちを奥の部屋に下がらせ、脇に控えて一人で事態の推移を見守っている。

 実は、枢木スザクが来た際に玄関で応対をしたのは、バーンズである。外門で押されたインターホンに出た使用人に、来客の雰囲気に鬼気迫るものがあると交代を頼まれたのだ。自分では対応しきれないかもしれないと。
 だからクラリスがこの場にやってくる前に、軽い事情の説明は受けていた。

 とはいえ、やはりまだ動揺を拭い去るには時間が足りていない。胸に曖昧にわだかまるものがあった。それは危機感のようで、焦燥感のようで、安堵感のようでもあり、また喪失感のようでもある。
 胃の奥に溜まって、今にも喉元をせり上がってきそうな不快な錯覚をもたらしていた。

 バーンズはまだ、クラリスが『何』なのかという件に断定を下していない。ついていく決意も無いし、かといって縁を切る決心もついていない。
 付き合い方を決めかねている段階で、この急展開を迎えてしまった。何かひどく、自分が意気地の無い人間に思えていた。

 唇を引き結ぶバーンズの視線の先では、クラリスがスザクと連れ立って歩き出そうとしていた。
 家の中を案内しようというのだろう。広い家だから、部外者に一人で回らせるのはたしかに効率的でない。

「じゃあクラリス、きみの部屋から見せてもらいたい」

「ええ、構わないわ。ついてきて頂戴」

 言ってクラリスが階段に足を掛ける。

 瞬間、バーンズの体が何かに突き動かされるように行動した。
 当然それはおのれの意思によるものなのだろう。しかし、バーンズがその行為に気付いたのは、完全に動いた後だった。

 白い少女の手首を、ゴツゴツとした男の手が掴んでいる。

「――バーンズ?」

 振り返ったクラリスの目がわずかに見開かれていた。

 この少女はこんな些細な動揺を表に出すことすら滅多にない。きっと本気で驚いたのだろう。
 当たり前だ。やった本人すら無自覚だったのだから。

 ただ、それでもバーンズは起こしてしまった行動の理由を理解していた。一つ深い呼吸を取り、目を見てはっきりと告げる。

「行ってはいけません、お嬢様」

「何を言うの」

 バーンズは応えず、戸惑ったように立ち尽くしているスザクに視線を送った。

「お嬢様が普段使っていらっしゃる部屋は二階の一番奥、右手になります。そこから手前に二部屋、それと正面の部屋もお嬢様のものです。後ほど人を遣りますので、先にお一人で行ってください」

「バーンズさん……?」

「お願いします」

 一度は怪訝そうにしたスザクだったが、年長の男性からの真摯な眼差しを受け、表情を改めた。引き締まった軍人の顔で頷く。

「わかりました。ご協力感謝致します」

「待ってスザク!」

 クラリスの制止を背中に受けながら、スザクは階段を登っていく。足取りに淀みはない。

 きちんと認識を改めたようだ。軍務の一環なのだから、情を持って当たるべきではない。
 過去に軍に所属していたバーンズは、こういった場合の情けの不要さを知っていた。

 閑散としたホールに乾いた靴音が響く。かつりかつり、かつりかつりと。

 やがて少年の後姿が視界から消えた頃、嫌疑を掛けられた少女は低く言った。

「放しなさい、バーンズ」

「その命令には従えません。貴女と枢木は友人同士だ。真に疑いを晴らしたいなら、捜査の邪魔をするべきではない」

「邪魔なんてしないわ。するはずがないでしょう」

 鋭い眼光で下から見上げてくる少女の言葉を、バーンズは言下に否定する。

「残念ながら、わたくしはその言葉を信じられません」

「それはどういう意味かしら。私に掛かった濡れ衣を肯定するということ?」

「いえ、ただ単純な事実として、貴女は頭の回転が速い。口も上手い。誰にも気づかれることなく、枢木の捜査の目を逸らしてしまうかもしれない。どうやるのかなど想像も付きませんが、そういう芸当が可能な人間だ。わたくしはそう思っております。行くべきではない」

「それは、私が行けば貴方が私を罪人と断定する――そういうこと?」

「平たく言えば、その通りです」

 冷厳に言い放つと、玄関ホールには沈黙が降りた。

 クラリスは唇を閉ざし、バーンズも口を開かない。

 恐ろしく真剣な顔になった少女の目は、バーンズを視界に捉えながら、どこか違うところで焦点を結んでいる。
 長く護衛を務めてきた男は知っていた。それはクラリスが常ならぬ勢いで思考を回転させているときの合図だ。

「脈が――」

「え?」

「脈が、上がっていますね。焦っておいでですか?」

 手首を捕らえた指の先。そこに感じるかすかな脈拍が、少女の心理を伝えていた。

 クラリスはどうあってもスザクの行う部屋の検分に付き合わねばならないと考えているのだ。
 信じたくはないが、おそらくはそういうことなのだろう。当たって欲しい予想ではなくても、事実は事実として受け止めなければならない。
 バーンズは胸中で嘆息しながら、鍛えられた手にわずかに力を込めた。心の状態に引きずられて体の制御を失うなど、プロのやることではない。

 厳しくおのれを戒めていると、視線の焦点を戻したクラリスがバーンズを見た。

「……教えて。貴方はいつから私を怪しいと思っていたの?」

「材料は以前からありました。ですが、結論を出したのはつい先ほど、貴女の反応を見てからです」

「その、材料というのを教えてもらっても?」

 短い間を空け、バーンズは答える。

「わかるはずのない黒の騎士団の行動予測を、貴女は『勘』と言って何度か当てて見せた。一度も外すことなく。それが私にはずっと不思議だった。――そう、わかるはずがないんです、黒の騎士団と繋がっていなければ。それに貴女は、はっきりとした言葉にこそしませんでしたが、ブリタニアの現体制に不満を抱いていたはずだ」

「……それだけ?」

「最近の行動もおかしい。何度か完全に護衛を排除して外出しておいででしたね。いったい何をなさっていたのですか?」

 バーンズが訊くと、クラリスは瞑目して大きく息を吐いた。観念したようにも見え、また見方によっては安堵したようにも見えた。

 どちらが正解だったのか、バーンズが答えを出す前にクラリスは目を開けた。
 どういったことなのか、その瞳には先ほどまで浮かんでいた焦燥が見られない。代わりに確たる理解の色が湛えられていた。

 クラリスは口を開く。その声音に揺るぎは無い。

「バーンズ、貴方らしくないわ。随分と雑多なピースを集めてパズルを組み立てたわね。その不恰好な完成図を貴方に教えたのは、白髪の東洋人の少年?」

 告げられた言葉に思わず絶句する。

 たしかにバーンズは今日街でそういった人物と遭遇し、歳に似合わない奇妙な話術で疑念の存在を認識させられた。
 しかし――。

「……なぜ、それを」

「――なるほど。これで話はわかったわ。おかしいと思ったのよ、貴方は私が黒の騎士団と繋がっているなんて馬鹿な妄想を抱いていなかったはずだもの」

 桜色の唇がゆるく笑みを形作った。

「貴方は騙されているわ。その少年はこう言って唆したはずよ。『クラリス・アーベントロートとは早く縁を切った方がいい。あの女の正体には薄々感付いてるんだろう』――違う?」

 バーンズの心臓が高く鳴る。驚愕というよりも、それは戦慄に近かった。

 クラリスの中にどれだけの情報があってその推論が出てきたのかはわからない。

 だが、完璧だった。

 少年の口にした文句もほとんど正しければ、その内容が示しているところも正しい。 

 クラリス・ヴィ・ブリタニアという人物の名を、バーンズは知っている。というよりも、最近皇族関係の調べ物をしていて名前を見つけた。
 しかし、それを目の前に居る『クラリス』と結びつけるような証拠を探すことはしていない。

 遊学中のはずの皇女が名と経歴を作り変えられ、子爵家に閉じ込められている――。もし本当にそうなのだとしたら、そんなものと関わり合いになりたいとは思えなかったからだ。
 漂ってくるのは陰惨な政争の匂い、あるいは一般人が知ってはならない秘密の香りだけである。

 ただ、避けられるものなら避けたい――その気持ちがあってなお、バーンズはこのクラリス・アーベントロートという聡明な主が好きだった。

 ゆえに今日まで見て見ぬ振りをして護衛契約を続けてきたのだ。おのれの取るべき態度を決めかねたまま。

「きっと正解よ、バーンズ。私が思うに貴方の推測は間違っていない。私の部屋にあるのはそっち。だからこの手を放しなさい」

 クラリスは静かに言う。

 バーンズは動かない。いや、動けなかった。

 アメジストの瞳に宿る、常にはない強い光。それを目にした瞬間、否応無しに納得させられてしまっていた。

 ああ、この人はそうなのだと。あの力強い皇帝のお子だと。

「――聞こえないの? 私は『放せ』と言ったのよ」

 反応できないバーンズに向けて、クラリスはさらに続ける。

「貴方何様? 何の権限があって私を拘束しているの? あぁ、違うのかしら。権限など要らないと、そういうつもり? それだけの覚悟があるのね? それなら止めないわ」

 覚悟など無い。だからこそバーンズは揺れてしまったのだ。このままでいいのかと。
 その内心を見透かすかのように、少女の声はするりと滑り込んでくる。

「――でも、もしそうでないのなら、やめておきなさい。今なら見なかったことにしてあげる。ただのクラリスでいてあげる」

 バーンズの喉がごくりと鳴った。クラリスは噛んで含めるようにはっきりと告げる。

「もう一度言うわ。放しなさい、バーンズ。スザクに見られたら言い逃れのできない品がある」

 それから数秒。少女を捕らえた腕は力を失っていた。掴み続けてなどいられるはずがない。
 そんな無礼を働いていいお方ではないのだろうし、だいいち、もはやそんな気も無かった。

 不遜を承知で言えば、相手は二周り以上も年少の女の子だ。庇護欲を掻き立てられない相手ではないし、それ以上に、彼女自身にとても惹きつけられるものがある。

 胸に湧き上がるこの感情は紛れもない本物だ。そう自覚できていた。

 するりと手の中から抜け出した白い手首は、そのまま体から離れていく。階段をのぼっていく少女を目だけで追いながら、バーンズはポツリと言った。

「……貴女は、本当に口が上手い。枢木はきっと、何も見つけないまま、満足して帰るのでしょうね」

「それが一番でしょう。私と彼は友達だもの。こんな風に気軽に家に来てもらえる幸福を、手放したくないわ」

 二階へと辿りついた少女は、アッシュブロンドを靡かせて最後に一度だけ振り返った。

「――もちろん、私と貴方が今こうやって気安く言葉を交わせている幸福もね」

 そう残して消えていったクラリスの口元には、作り物とは思えない、穏やかな微笑が浮かんでいた。

 そうしてホールは無人になった。

 ひとり佇み、バーンズは高い天井を見上げる。

 誤魔化されたのか、逃げられたのか、あるいは救われたのか。どれが正しいのかはよくわからない。気持ちの整理もまだ完全には付いていない。
 ただ、今の関係をこの先も続けていけたらいいと思った。いずれ崩壊は訪れるのだろうが、少なくともそれまでは。
 かりそめであれなんであれ、彼女がバーンズと過ごせる今を幸福だと言ったのだから、それでいいのだろう。

「……光栄です、殿下」

 広い空間に小さく、男の声が響いた。




 ◆◇◆◇◆




 星の輝く空の下。

 だだ広い屋上に立った東洋人の少年が、腹立たしげに喚いていた。

「あのクソオヤジ! 何であんなに簡単に丸め込まれるんだ! ギアスも無しで言いくるめられちゃうって何なんだよ!? 今のあいつはホントにゼロだってのに! ちょっと調べれば証拠は出て来るんだ!」

 周囲の全てを遮断しているかのように、少年は視線も動かさずに不満を吐く。周りを警戒する必要などあまり無いと考えているのだろう。もしくは興奮しすぎて注意力が散漫になっているのか。
 いずれにせよ、彼は背後から近づいている人影に気付いていなかった。

 暗い夜の屋上を歩く黒い影は静かに進み、少年の後方数メートルの位置で停止した。

「生きている人間にはな、マオ、思考だけじゃ把握しきれない、想いの力というものがあるんだよ。だからお前は読みきれないんだ」

 人影――C.C.は寂しげに言う。

「私が……教えてやれなかったせいだな」

 呟いた言葉は夜の闇に吸い込まれて消えていく。

「……C.C.?」

 マオはびくりと肩を震わせ、おそるおそるといった風にゆっくりと振り返った。暴走したギアスの宿る両目に、ライトグリーンの長髪をした少女が映る。

「C.C.! 本物のC.C.だ! 何でここに!? ボクに会いにきてくれたの!?」

「残念ながら、ノーだ」

 返答と共に銃声が鳴った。駆け寄ろうとしていた少年はバランスを崩し、コンクリートの地面に倒れこむ。
 ズボンに広がる赤黒い染み。大腿部に弾痕が刻まれていた。

 C.C.は片手で拳銃を構えたまま、もう一方の手で携帯電話を耳に当てる。

「ルルーシュ、ビンゴだ。お前の読み通りの場所にいた。脚を撃った。もうマオは逃げられない」

『さっさと殺してしまえ。そいつはどうやったって敵にしかならない』

「わかっている。すぐに済ませる」

 電話はしばらく前から繋がっていた。クラリスの屋敷を出たあと即座に掛けたのである。

 枢木スザクがアーベントロート邸にやって来て、クラリスへの疑惑を口にした瞬間。それが作戦行動開始の時だった。

 絶対遵守のギアスには特殊な使い方がある。何らかの合図、あるいはキーワードを設定し、それを条件として特定の反応を促すというものだ。
 ルルーシュは今回これを応用した。

 『C.C.から連絡が入るまではマオの対処法についての一切を頭から消せ』というギアスをおのれに掛けたのである。無論、思考を読むマオのギアスへの対策である。
 その代わり、ギアスの効かないC.C.の頭には作戦内容が入っている。そういう寸法だ。

 この場所に来るまでの会話で情報の逆流は済ませ、ルルーシュの脳内には今、現在の状況と共に、彼の立てた策の全てが収まっていた。

「C.C.、ルルーシュと話してるの? ……そうだ! C.C.、どうしてこの場所が!?」

 マオは地面に倒れながらも、懸命に這って来ようとしている。
 その様子を熱の無い目で見つめながら、C.C.は携帯電話に話し掛けた。

「教えてやったらどうだ? どうせもう逃げ場は無いんだ。それくらいいいだろう?」

『俺は殺せと言ったはずだが。――C.C.、お前まさか心の準備ができてないなんて言うんじゃないだろうな?』

「大丈夫だ。殺せる」

 C.C.の手にある拳銃は、マオの頭部にぴたりとレーザーポインタを当てている。引き金を引けばすぐにでも射殺できる状態だ。射手がコードを持つ魔女である以上、ギアスでタイミングを読むことは不可能。脚を撃たれたマオでは回避は難しい。

『……まぁいい。話してやるか』

 ハンズフリー設定に切り替わった携帯から、ルルーシュの声が溢れる。

『マオ、お前の思考はシンプルすぎる。他人の考えは読めても、そこから予測を立てるための分析力が追いついていない。それがお前の限界であり、敗因だ』

 スピーカー越しでも朗々と響く張りのある男声。

 憎むべき敵の存在をたしかに認識し、マオは血走った目でコンクリートを殴った。

「ルルーシュ……! やっぱりオマエが……ッ! どこだ! どこにいる!? ボクの中に入って来い、オマエを覗き見てやるッ!」

『何でわざわざそんな誘いに乗ってやらなきゃならないんだ? 行かなくても始末はそこの女がやってくれる。俺はC.C.がお前と対峙できる舞台を整えるだけで良かった』

 それが一番確実なやり方だった。

 ルルーシュ自身がマオと直接対決するのでは仕留めきれない可能性が高い。
 五百メートルの索敵能力を持つ相手に物量作戦がどこまで通じるのかは未知数。あまりに動員数を増やせばブリタニアに気取られる。

 その点ギアスの通じない魔女であれば、マオにこれといった優位は存在しない。先手を取られさえしなければこちらの勝ちだ。

『クラリスのところへC.C.をやれば、お前はそこからその女を出す工作をせざるを得なくなる。あの警備へ押し入って力ずくで奪い取るのはどう考えたって難しい。搦め手に出るのは読めていた。騒ぎを起こした後、内部の様子をお前がギアスで窺うことも』

 先日ルルーシュにC.C.との離間の計を仕掛けてきたことから、マオがギアスを利用して人を動かす策に手慣れているのはわかっていた。
 自分で出向くことのない作戦を使うからには、経過の確認は必然的に現場から離れた位置でのことになる。ギアスで状況把握のできるマオである。監視機器などに頼る可能性は限りなくゼロに近い。

『であれば、そのときお前がクラリスの家から半径五百メートル以内にいることは確実。アーベントロート邸の敷地面積を考えれば、範囲はさらに大幅に絞り込める。その中で東洋人が長時間留まっていても不審に思われない場所。加えて、できればひと気の少ない方がいい――これだけの条件が揃ってるんだ。お前を見つけることは容易い』

 実を言えばこの場所以外にも何箇所か候補はあったのだが、教えてやる義理は無かった。そのうちのどこにいたとしても、回るのにそう時間は掛からない。結果は同じだっただろう。

「じゃあオマエは、今日の出来事を全部読んでたってのか!? ボクの立てた作戦を! ふざけんなよこのガキッ!」

『まさか。そこまで自惚れちゃいない。俺に読めていたのは、お前が間接的な手段でC.C.の奪還を図るだろうというところまでだ。だが、それで十分だった。お前の下らない工作については何の心配も要らなかったからな』

「どういうことだよ! 何の手も打ってなかったってのか!?」

『俺はクラリスを知っている。あいつの力を誰よりも信頼している。お前が何を仕掛けようが、クラリスが出し抜かれることは万に一つもない。たとえお前が常人にない力を持っていようと――あいつが同じギアスの力を持っている以上は』

 そう。

 ゆえにこそルルーシュはまず最初にC.C.に確認したのだ。

 ――お前はクラリスと契約したのか、と。

 状況を正しく認識するために。
 妹を戦力として数えていいのか――クラリスに戦う意志と力があるのかを確かめるために。

『お前の思考を混乱させる目的でC.C.に『撃たれた』と言わせたが、それだけであいつは俺の意図を悟ったんだろうな。お前に特定されない程度、つまりは可能性の一つとして、だろうが。そう判断するだろうことも俺にはわかっていた。そうなればあいつが俺の邪魔をしないように行動を控えるだろうってことも』

「そんな、バカな!? 言ってやっただろうッ!? クラリスにバレれば記憶を消されるって! 共闘なんて正気の沙汰じゃない! ――いや、そうだ。何でクラリスのところへC.C.を行かせたりなんてできたんだ! その時点でオマエに教えてやった情報はあいつに流れちゃったんだぞ!?」

 声を荒げるマオの目は零れ落ちんばかりに見開かれている。
 きっとまったく理解できない、想像すらできないのだろう。

 C.C.にはその理由がよくわかる。なぜなら、その答えを出すことができないようにマオを育ててしまったのは、他ならぬ自身なのだから。

『マオ、お前は一歩目を間違えた。俺に情報を与えることで、お前は自分にチェックを掛けてしまったんだよ』

「何だよそれ!? ワケのわからないことを言うんじゃない! お前はあれでC.C.を見限るはずだった! そうだろう!? 妹を巻き込んでるんだぞ!?」

『ああ、その通りだ。C.C.が俺に黙ってクラリスを巻き込んでいるのだとしたら、たしかにもう野放しにしておくことなどできない。ナナリーのことがあるからな。だが同時に、クラリスが既に巻き込まれているのだとしたら、俺はC.C.をお前に預けたりなどしない。アーベントロートの力での封殺を考える』

「どうして!? 言っただろう、それは不可能だ! アーベントロートなんて使えない! クラリスはオマエの記憶を消す! あいつはそういう女だ! 現にボクが死んだらオマエの記憶を消そうって今も考えてる!」

『お前馬鹿か? 本当のことを言えば何でも信じてもらえるとでも思っているのか? 俺には心の声なんて聞こえないんだよ。クラリスの真意なんてわかるはずがない。だったらあとは俺自身の感情として、クラリスとお前、どちらが信用に足りるか。それだけだ』

 マオの問題は、本質的なところで人の感情を理解していないところにある。行動に直結する思考が読めてしまうがゆえに、それを生み出す原因となる想いというものを実感として知ることができない。

 だからうまく考慮に入れることができないのだ。

 ルルーシュが妹たちに向けている、無条件の愛という要素を。

『わかるか? マオ、お前は初手から詰んでいたんだよ』

 嘲るように投げられた一言。

 マオは歯軋りをしながらコンクリートに指を立てる。指先の皮が破れて血が滲んだ。痛みのためにかさらに表情が歪んでいく。

『終わりだ、C.C.。これ以上の引き延ばしはできない。やれるな?』

「ああ、大丈夫だ。マオは私が仕留める」

 C.C.は短く返しながら、這いつくばる白髪の少年を冷めた瞳で見つめていた。

 ここに起きている事態の責任を誰かに問えるとしたら、その対象は全て自分だ。
 マオが負けたのは正常な愛を注げなかったC.C.が原因だし、ルルーシュがマオに狙われたのはC.C.が彼を選んだせいだ。マオがいびつ極まる育ち方をしたのは、最低限の教育すらせずにC.C.が放り出したためだし、C.C.が偏執的に求められる理由もそこに端を発している。

 ルルーシュがこの役をC.C.に言い渡したとき、彼は非情に告げた。
 『お前が捨てるときに始末しなかったからこうなった』と。

 正しい。どんな否定も思いつかない。

 いつかのあの日、C.C.は無邪気に纏わり付いてくる少年を殺すことができなかった。

 形だけの愛情しか持ち合わせていなかったC.C.なのに、マオはそれが本当だと信じきっていた。ニコニコと笑いながら嬉しそうに名を呼んだ。馬鹿な子供だった。
 でもたぶん、そんなところが好きだった。
 幼いマオが向けてくる感情は混じり気の無い純粋な好意だったのだと思う。長らくそんなものと接していなかった自分にとって、無下に拒絶してしまうには、それは少々眩しすぎた。その温かさは凍った魔女の心に染み込んで、少し融かしてしまったのだろう。

 それが――間違いの始まりだった。

 以前のC.C.なら見込みがないとわかった時点で確実に息の根を止めていたはずなのに、できなくなってしまっていた。

 その過ちの結果が、今目の前にある。

 C.C.は銃を構え、片足でなんとか立ち上がろうとしている少年を見据えた。マオは顔を上げて見返してくる。

「C.C.、ボクを殺すの?」

「ああ」

「嘘だよね? 言ってくれたじゃないか。そばにいるって」

「すまない」

 何に対しての謝罪なのかは判然としなかった。過去のセリフが偽りになってしまったことか、それとも今手に掛けるようとしていることか。
 おそらくは両方なのだろうが、それだけに重みに欠ける。

 そんな不誠実な言葉で送るのは非礼に過ぎる。
 自分の中にもしこりが残るだろう。たとえ時と共に消え去ることがわかっているものだとしても、それはたしかに、自らが犯した罪の名残なのだ。

 だからC.C.は、最後に言った。

「マオ、たぶん私は、お前が好きだった」

 引き金を引く。
 響く発射音。

 マオの体は弾かれたように跳んだ。――横に。

 視認不能な速度で宙を走った弾丸は、コートを掠めて虚空へと消える。
 琥珀の瞳が動いた先で、片足の脚力で跳躍した少年は屋上の柵に激突した。地面と平行に伸びる金属のポールに上体を預け、そのまま向こう側へと落ちる。
 あとは一メートルほど足場があるだけ、その先は夜の奈落だ。

「マオ、まさかお前――馬鹿な真似はやめろ!」

 叫んで銃口を向ける。揺れるレーザーポインタの光を胸に受け、マオはフッと笑った。

「何言ってるの? 殺そうとしてるのにさ。やっぱりC.C.は、ボクが好きなんだ――」

 場違いに嬉しそうな声が耳に届いたとき、マオの体が視界から消えた。

「マオ――!」

 C.C.は柵へと駆け寄り、ポールに手を掛けて跳び越える。
 下を覗けば、少年の体ははるか下の歩道にあった。

 ピクリとも動かない。内臓を痛めたのか、口から溢れた血が地面に広がっていった。まばらに通っていた通行人の一人が隣に歩み寄る。

 そこまでを見届け、C.C.は空を見上げた。

「マオ、また私は……!」

 拳を握ってそのまま一呼吸。

 C.C.は踵を返して建物内へと走った。
 マオの足には銃創がある。誰が見ても自殺とは判断すまい。急いで現場を離れなくては捜査の手が回ってしまう。

『C.C.、どうなった? マオは?』

「屋上から飛んだ。悪いがとどめは刺せなかった」

 階段を駆け下りつつ報告する。

「だがこのビルの高さはお前も知っているだろう。少なくとも私はあれで生き延びるような人間を過去に見たことが無い」

『わかった。まぁ問題は無いだろう。脱出が難しくなるようなら詳しい状況を説明しろ。ルートを提示する』

 予定が狂ってしまった。冷静にならねば離脱に失敗する。
 これしきのことで自分を見失ってはならない。

(そんな弱さがあるから、私は――)

 胸中で苦々しく呟き、C.C.は奥歯を噛んだ。




 ◆◇◆◇◆




 租界に作られたその公園は、時間のせいかひどく閑散としていた。
 月の光が淡く木々を照らし、洒落た外灯の明かりが敷き詰められたタイルの形をくっきりと浮きあがらせている。

 ルルーシュは噴水の縁に座り、考え込むように茫とした視線で宙を眺めていた。
 かすかに水のにおいがする。しぶきに冷却された空気が思考を落ち着かせてくれるような気がしていた。

「ルルーシュ」

 掛けられた声に、横を向く。私服姿のクラリスが歩いてくるところだった。

 C.C.から事情は聞いている。悠々と出てこられたところを見ると、スザクからの疑いは晴れたのだろう。

「お疲れ様。面倒を掛けたな」

「お互いにね。マオという人は?」

「もう終わった。問題ない」

「そう」

 クラリスはすぐそばまで来て立ち止まった。ルルーシュは自分の隣を軽く叩いて示す。

「座るか?」

「ううん、歩きたいかな。駄目?」

「いや。どっちかって言ったら俺もそういう気分だ」

 腰を上げ、立ち上がる。顔を見合わせ、どちらからともなく並んで歩き出した。
 夜の風は水場から離れても涼やかに肌を撫で、心地良い刺激を与えてくれる。穏やかな気持ちだった。

 恋人同士になるという話だったのに、思い返してみれば外でのデートらしいことなどした記憶がない。
 兄妹としての言葉を交わさざるを得ない今が一番それらしいとは、現実とは皮肉なものだ。

 これから話す事柄は決して楽しい部類の話題ではないだろう。クラリスも承知のはずだ。
 なのに、妹と二人で歩くという状況だけで心が安らぐのだから、自分はもう本格的にひとりでは生きて行けないと思う。

 クラリスに歩調をあわせてゆっくりと足を進めながら、ルルーシュは切り出した。

「――記憶、消すのか?」

 マオには妹を信頼していると言ったルルーシュだが、それはあくまであの少年との比較の話に過ぎない。本気でマオの発言が出任せだと信じられるほど、盲目的ではなかった。

「そのつもり。――止める? ルルーシュがギアスを使えば、それだけで防げるけど」

「そういうお前は何で問答無用でギアスを使わないんだ?」

「……なんでかしらね」

 苦笑しながら、ぽつりと言う。

 韜晦しているのだろうか。それとも本当にわかっていないのだろうか。

 いずれにせよ、事実としてクラリスは一方的に自分を押し付けることを選ばなかった。こうして話す場を設けてくれた。
 ルルーシュはそれを彼女の気遣いと受け取っている。

「……俺はお前に、ギアスを掛けないよ」

「そっか」

「知ってたか?」

「そうだろうとは思ってたわ」

 クラリスは小さく口元を緩めた。自然な微笑を浮かべた横顔はとても優しく見える。

「お前が何を考えてるのか、俺にはわからない。けど、俺とナナリーに向けてる笑顔が嘘だとは思えないし、ナナリーを一番に愛してるのだって、見てたらわかる。――だから、いいよ」

 ルルーシュがブリタニアを打倒しようと誓った最大の理由はナナリーの存在だ。ナナリーが幸せに過ごせる世界を作りたいと願ったがゆえに、黒の騎士団を結成し、ゼロをやっている。

 死亡を覚悟していたクラリスがエリア11に現れて、そこに理由がもう一つ重なった。

 あの日、八年ぶりに妹の姿を見たルルーシュは、全てを受け入れて愛してやりたいと思った。あれからしばらく経った今、その想いは褪せるどころか、実感として深く心に根差すようになっている。

 C.C.との契約の件をクラリスが黙っていたことは、見方によっては騙されていたと取れないこともない。それを知ってなお、ルルーシュの心は在り方を変えなかった。
 もちろん驚きはしたし、疑問を感じもした。けれど、それだけだ。

「これはお前にとって必要なことなんだろ? お前がナナリーを害さないことだってわかってる。お前がC.C.と関わってる事実は消しようがないし、もしあいつがナナリーに何かしようとするなら、その歯止めはお前がやってくれる。だろ?」

「もちろん。そんなことは絶対にさせないわ」

 クラリスは力強く頷いた。

「だったらもう、俺には拒む理由なんて無い」

 ここでルルーシュが記憶を失えば、クラリスはゼロの代役を続けることになるのだろう。

 止めたくないと言えば嘘になる。
 しかし、クラリスの才覚を信頼もしていた。危険ではあるが、ギアスまで付いているのならそこまで案ずることもない。この先永久にというならともかく、骨折が治るまでのせいぜい数週間だ。

 クラリスという不確定要素を抱え込むことで、ゼロの計画にいくらか支障の出る可能性はあるが、この活動自体がそもそも妹たちのことを想ったがゆえのものである。その手段のために目的そのものをないがしろにするなどありえない。

 ギアスを使えばナナリーのトラウマを取り除き、彼女の目を開いてやることができるとわかっているにもかかわらず、ルルーシュにはその方法を実行に移す決心がつけられないのだ。人の心を操るギアスというのは、それほどまでに忌むべき力なのである。
 妹が何を目標としているのだとしても、そんなものを使って無理やり意思を捻じ曲げてまで、クラリスを止めたいとは思えなかった。

「――だから、いいよ。消してくれ」

 ルルーシュは言って立ち止まった。クラリスは数歩先まで進み、振り返る。

「理由は訊かないの?」

「聞いても忘れるだろ」

「そうね」

 クラリスは少し寂しげに笑った。

「そんな顔するな。たまには頼っていいんだ。たった三人の、兄妹なんだから」

 ナナリーにするように微笑みかけ、懐から手帳とペンを取り出す。

「自分に手紙を書いとくよ。俺のギアスで記憶を消したことにしておく。お前にも何か考えはあるんだろうが、こっちの方が面倒が無いだろ」

 さらさらと、ペンを走らせる音だけが響いた。書くことを書き終えると、ルルーシュは顔を上げる。

「まだ何か、言うことはあるか?」

「ううん、何にも。ありがとう、本当に」

 礼を言うクラリスの顔がなんだか儚げに見えた。
 それはもしかしたら相手ではなく、自分が消えてしまうからなのかもしれない。

 正確なところはわからなかったが、ルルーシュは妹を元気付けるよう、笑顔を作った。

「今日、短かったけどさ、楽しかったよ、お前と歩けて。だから今度また、誘ってくれ。俺は忘れてるだろうから、お前のほうから」

「――ええ、必ず」

 クラリスはしかと首を縦に振る。

 この晩ここで起きたことは、兄の記憶には残らない。ギアス――王の力は、同じ王たる資質を秘めた相手でも、例外なくその効果を発揮する。

 しかし――だからこそ、今日の日を決して忘れまいと、少女は心に誓った。



[7688] STAGE15 絶体絶命 の ギアス
Name: 499◆5d03ff4f ID:5dbc8fca
Date: 2014/02/08 18:57
 ある日の放課後、アッシュフォード学園クラブハウスの生徒会室には、爽やかな日の光が降り注いでいた。集まった面々の表情も晴れやかである。

 ミレイ、シャーリー、ニーナ、カレン、クラリス。リヴァルにスザクと、そしてルルーシュ。それと忘れてはいけない、アーサーとマーリン。
 生徒会の全メンバーが揃って、副会長を囲むように立ち並んでいた。

「それじゃあみんな、準備はいい?」

「はーい!」

 会長の呼びかけに、ルルーシュを除く全員が返事をする。

「それでは! 我らが有能なる副会長、ルルーシュ・ランペルージ君の回復を祝しましてっ! おめでっとー!」

 パンパンパンと、ミレイの音頭に合わせてクラッカーの音が鳴った。降り注ぐ紙吹雪を浴びるルルーシュの腕には、昨日まではたしかにあった三角巾の白い色が無い。ギプスが取れ、ようやく元通りの生活が送れるようになったのだ。

 しかし盛り上がる周りとは対照的に、紙片を頭に乗せたルルーシュは呆れ顔だった。

「祝って貰えるのはありがたいですけど、こんなに大げさにやることでもないでしょう。死の縁から生還したって訳でもないんですし。たかが骨折ですよ」

「たかが骨折、されど骨折。あんたに頼めない仕事があったのは確かなんだから、大人しく祝われときなさい」

「そうだぜルルーシュ。俺はこれでやっと会長の横暴な命令から解放される」

 リヴァルが冗談混じりの涙声で言った。
 彼はルルーシュと分担で行われるべきだった力仕事のほとんどを回されていたのだ。軍務で居ないことの多いスザクより負担は格段に大きかった。
 とは言え、リヴァルがミレイから申し付けられる用事を嫌がることは絶対にない。惚れた弱みというやつである。何でも二つ返事で了承していたのをルルーシュははっきりと覚えている。

「そうか。そりゃ大変だったろ。会長は無茶苦茶だからな。今度は俺が代わりに全部やってやろうか」

「いや、それはちょっと……」

 リヴァルの好意はわかりやすい。仕事だろうがなんだろうがミレイと交流する機会があるのは嬉しいのだろう。
 ルルーシュが唇を緩めると、妙に真面目な顔をしたスザクが目の前にやってきた。

「ルルーシュ、おめでとう。本当に良かった」

 ミレイ以下、他のメンバーは半分ルルーシュをからかって遊んでいるのが一目瞭然だというのに、この少年にだけはそういった雰囲気が一切無い。

「……何でお前はそういちいち――いや、ありがとう」

 ルルーシュは一度疲れたように嘆息し、苦笑しながら頷いた。このくすぐったさがスザクの良いところなのだ。

 そんな具合に各々の口から祝いの言葉が述べられる。ルルーシュも言ったとおり、実際はたかが骨折なので、特にプレゼントが送られたりするようなことはない。
 そうやって一通りの挨拶が終わると、生徒会室は立食パーティーの会場と化した。とは言っても大した料理があるわけではない。今日のこれはギプスの取れたルルーシュの姿を見たミレイが唐突に思いついただけの、完全な突発イベントだったのだ。せいぜいデリバリーで取ったピザが数枚ある程度である。

 メインのルルーシュ弄りも終わり、皆が和やかなムードでおしゃべりを続けていると、ミレイが突然椅子の座面に立ち上がった。
 また何か妙なことを思いついたのかと胡乱な視線を送るルルーシュに、ビシリと指が突きつけられる。

「ルルーシュ君、きみに一つ指令を言い渡す!」

「なんですか、藪から棒に」

「副会長回復記念イベントを企画開催しなさい!」

「は?」

 思わず間の抜けた声が漏れる。

「今やってるこれは何なんですか?」

 既に行われているんじゃないのかと訝るルルーシュに、ミレイはチッチッチ、と一本立てた指を振って見せた。

「これは副会長回復お祝いパーティー。あんたがやるのは副会長回復記念イベント」

「いや、言葉の違いはわかってますよ。俺が訊いてるのは内容的にどう違うのかってところです」

「私たちがやってるのは、副会長の復調をお祝いするイベント。私があんたにやれって言ってるのは、副会長が心配してくれた全校生徒に感謝の気持ちを捧げるイベント。違うでしょ?」

 説明を受けてルルーシュの表情に理解の色が生まれる。ただ納得はしていなかった。

「言ってることはわかりましたけど、そんなに大々的にお返しするほど心配してもらった覚えなんて無いんですが――」

 骨折したからといって何か特別な対応をされたという記憶は無い。初日はさすがにいろいろ聞かれはしたものの、それはむしろ気遣いというより興味本位の質問がほとんどだったような気がする。
 などと言ったところで、正論の通じないことはミレイのキラキラとした瞳を見ればわかる。ルルーシュは諦めたように溜息をついた。

「……わかりましたよ、やればいいんでしょうやれば」

「うん! 話のわかる部下をもって幸せ! というわけで、ルルーシュがなんかやってくれるみたいよー、みんな協力してあげてね!」

 お祭り好きの会長はニコニコしながらメンバーに声を掛ける。

 口々に了承する仲間たちを眺めながら、日常ってのは良いものだなと、ルルーシュは軽く頬を緩めた。
 非日常がすぐ隣にあるからこその、そして永遠には続けられないとわかっているからこその、実感だった。





 やがて日は落ち、生徒会室は普段の落ち着きを取り戻していた。

 病弱なカレンは体調を考慮して、リヴァルはバイト、スザクは軍務と、それぞれの理由で既に場を後にしており、部屋に残っているのは五人だけだった。
 その状態もそろそろ崩れつつある。

「じゃあ、私はこれで。だいぶ遅くなってきたから。また明日ね」

「送ってくよ」

 鞄を持って軽く手を振るクラリスを見て、ルルーシュが立ち上がった。

 部屋の入り口まで行き、振り返ってミレイに視線を送る。

「会長、今日はもう帰ってきませんから、あとはよろしく。シャーリーとニーナも、またな」

「おっけーい、またね。送り狼作戦成功したら、レポートよろしく」

「会長の期待してるようなことは起こりませんよ」

 淡白な返答を残し、扉はバタンと音を立てて閉まった。

 ルルーシュとクラリスが去った後、室内には短い沈黙が降りていた。
 それを破ったのはミレイである。二人の消えたドアの先を透視するかのように、彼女の目はわずかに細められていた。

「……なんかさ、いい雰囲気になっちゃったよね、あの二人」

「ですよね。入り込めないっていうか。前からそんなトコありましたけど、もう本格的に。最近は普通にデートとかしちゃってるみたいですし」

 同じく扉に目をやっているシャーリーの口元には、かすかな、儚げな笑みがあった。

「失恋しちゃった?」

「……たぶん」

 シャーリーはわずかに目を伏せて返す。そしてすぐに振り切るかのように、さっぱりとした顔になった。

「でも、割とスッキリしてるんですよね。こんなに簡単に話せちゃうくらい。もちろんルルのことはまだ好きだけど、クラリスならいいかなって。負けたって素直に受け入れられてるんです」

「お父さんのとき慰めてもらったし?」

「それもあるのかも。よくわかんないけど、あの二人なら仕方ないなって、何かもう納得しちゃってる自分がいて」

「そっか。いいわよねー、そういうの。青春の一ページー、みたいな?」

「もうっ、からかわないでくださいよ。なんでそうやって何でも冗談にしちゃうんですか」

 シャーリーはぷっと小さく頬を膨らます。

「そんなに凹んでないみたいだからさ、こっちが重くしちゃったら逆に悪いかなって。気に障ったなら謝るけど」

「いいですよ別に。会長がそういう人なのはわかってますし」

「ありがと。シャーリーはやっぱりいい子だねー」

 笑い混じりに軽く言いながら、ミレイは椅子から立ち上がった。テーブルからコーヒーカップを取り上げて、窓辺の方へと歩いていく。

 パソコンデスクについていたニーナは、二人のやりとりを無言で見つめていた。それほどわかりやすく表に出ているわけではないものの、彼女の表情は失恋したと口にした少女よりも深刻そうに見える。
 昔から付き合いのあるミレイはその様子に気付いていたが、しかし触れることはしなかった。内向的なところのあるニーナに対して無理に事情を聞き出そうとするのはあまり上手い付き合い方とは思えなかったし、それ以前に、自分の中にも問題を抱えていた。

 ミレイはひと気のない夜の校庭に一度目をやり、シャーリーの方に体ごと振り向いた。

「私もさ、見習わないとね、あんたのそういうトコ」

「そういうとこ?」

「スパッと潔いところ。いつまでも逃げ回ってたって、結局どうにもなんないのよね」

 窓枠に寄りかかり、コーヒーカップを唇に運ぶ。一口飲むと、フッと自嘲気味に笑った。

「私またお見合いでさ。今度はもう逃げらんないかなって。本気でイヤだって言ったらまだ許してもらえるのかもしれないけど、私の気分的に。のらりくらりしてるだけじゃ、駄目なのよね。どっかでけりをつけないと」

 アッシュフォード家はマリアンヌ皇妃の没後――つまり政争に破れた結果、爵位までも剥奪され、没落が始まった。今ではかつての権勢は見る影もない。
 ミレイを有力貴族に嫁がせることで凋落に歯止めを掛けようというのが家の意向なのだ。

「会長……」

 事情は知っているものの、あまりに世界が違いすぎて、シャーリーには掛けるべき言葉が見つけられなかった。失恋した自分の方が何倍も幸せに思える。ミレイにはまっとうに恋をする権利すら与えられていないのだから。

「あぁぁゴメンゴメン、そんなに深刻にならないでよ。まだ何が決まったってワケでもないんだし」

 眉根を寄せるシャーリーに向けて、ミレイは気にしないで、と手を振ってみせる。

「別にそんなつもりで言ったんじゃないの。ただ話の流れっていうかそんな感じで」

「それはわかりますけど……。私が何を言ってもどうにもならないってのも」

「ならいいじゃない。だからこの件はもうこれでおしまい! もっと楽しい話をしましょ」

 ミレイは窓の桟にカップを置くと、テーブルに戻って天板に両手をついた。普段通りの悪戯っぽい顔になった生徒会長を見て、シャーリーもいつもの調子を取り戻す。

「楽しい話ってどんなのですか?」

「ルルーシュのイベントに秘密のスパイスを仕込んでやる計画とか。ね、ニーナも考えよ」

「私も?」

「ちょっと会長、ルルの邪魔しちゃ駄目ですよ!」

「シャーリーちゃんはやっぱりルル君が大事なんだ?」

「そういう言い方は――」





 明るい声が漏れ始める格子窓。

 そこを外壁側から眺め、視線を上にずらしていくと、建物の屋根に辿りつく。生徒会室がある棟の天辺だ。

 傾斜の付いたその屋根の上に立ち、遠くに目を遣っている人影があった。白い髪を首の裏で一括りにしたコートの少年である。
 彼の見つめる先では、黒髪の少年とアッシュブロンドの少女が、並んで夜の校庭を歩いていた。談笑しながら校門へと向かっていく。
 やがて門柱を曲がった二人の姿が視界から完全に消えると、コートの少年はニヤリと口の端を上げた。

 見る者に不快感を与えそうな、イヤらしい印象のある笑みだった。




 ◆◇◆◇◆




 クラブハウスのランペルージ兄妹居住区では、C.C.とナナリーがダイニングでテーブルを挟んでいた。
 基本的に傍若無人で他人の事情など顧みないC.C.ではあるが、一緒に暮らしている少女が盲目で足も不自由となれば、一応茶を入れる気遣いを見せるくらいの分別はある。二人の手元には薄っすらと湯気を立てるティーカップがあった。

「今日はお兄様遅いですね」

「ギプスが取れたからな。大方ミレイ辺りに弄られてるんだろう。そのうち帰って来るさ」

「はい、そしたら私たちもお祝いしましょうね」

「そうだな。あいつのカードで一番高いピザを奢ってやろう」

 不老不死の魔女に戸籍などあるはずもなく、当然預金口座など持ってはいない。デリバリーが使われる際はいつもルルーシュのクレジットカードから彼の預金残高が引かれていた。

 悪戯っぽく笑うC.C.に、ナナリーが楽しそうに返す。

「またピザですか? 太っちゃいますよ、C.C.さんあんまりウチから出ないのに。おなかプニプニーってなってません?」

「心配するな。いい女は何を食べても太ったりしない。影で努力できるからな」

「まぁ! やっぱり何か秘訣があるんですね、私も見習わないと」

「ルルーシュなら丸っこくなったお前でも愛してくれると思うが?」

 からかうように笑いかけると、ナナリーは少しはにかむように言った。

「でも、世の中の人はお兄様だけじゃありませんから」

 当たり前のように出てきた言葉を聞いて、C.C.は小さく口元を緩めた。

 自分がこの家にやってきた当初と比べて、ナナリーはいくらか変わったように思う。
 兄を大切にする気持ちは同じでも、二人きりで生きているかのような危うさを見せることがなくなった。以前は、ルルーシュの帰りが夜遅くになるだけで不眠に近い状態なって翌日体調を崩したり、世話係のメイドが辞した後、独りの部屋で思いつめたような顔をしていたりしたものだが、最近ではそういったことはほとんど無い。

 幼い頃にもう一人の兄と慕っていたスザクが現れたせいもあるだろうし、実の姉がちょくちょく遊びに来てくれるおかげもあるのだろう。もちろんこうやってC.C.と話す機会ができたことも影響しているに違いない。

 ナナリーを大事に想う部分は皆共通していても、やはりそれぞれで愛し方は違う。特にルルーシュの愛は異常なまでに盲目的だ。接し方がまったく同じになることなどあり得ない。

 たったそれだけの変化でも、少しずつ少しずつ、彼女の世界は広がりつつあるのだ。

 柔らかく笑んだC.C.が話を続けようと口を開いたとき、玄関の方で物音がした。

「お兄様かしら」

 耳の良いナナリーがすぐに顔を向ける。

 やがてダイニングのドアがゆっくりと開かれると、現れた人影を見たC.C.の体が固まった。

 見開かれた魔女の目に映っているのは、全身包帯姿の東洋人の少年である。白いコートを羽織り、手には拳銃を持っている。構えた武器の照準は車椅子の少女に向けられていた。


「――マオ……お前、生きていたのか」

「そうだよ、C.C.。嬉しい?」

「お知り合いですか?」

 状況を飲み込めないナナリーが戸惑いがちに訊く。

「……ああ。あまり歓迎したくない相手だが」

 C.C.は油断無くマオを見据えながら、椅子から立ち上がった。
 家の中で銃など携帯していない。既に後手に回ってしまっていた。

「ロックはどうしたんだ? ここには鍵が掛かっていたはずだが」

「壊したさそんなもの。別に隠れる気なんて無いから。C.C.、ボクは堂々とキミをさらって行くんだ」

 マオは片手を懐に入れ、銀色に光る手錠を取り出した。無骨な金属の輪はそのまま放り投げられ、木製のテーブルに落ちてガチャリと音を立てる。

「それ、付けて。後ろ手に」

 C.C.は手錠を一瞥し、襲撃の意図を見通そうと再びマオに目をやった。
 いや、考えるまでも無く、マオの狙いはC.C.だ。それは始めから知れていた。数週間前ルルーシュの所に姿を現したときから。

 頭を使うべきはそこではない。
 この状態から何の被害も無しに脱出する方法はおそらく存在しない。ではどうやったら最小限に抑えられるのか。ここを考えねばならない。

「やらないならナナリー撃っちゃうよ。まァ、それでも駄目ならC.C.も撃つけどねェ」

 動こうとしないC.C.の思考を見透かすかのように、マオは言う。

 ギアスの効かない魔女であっても、状況が状況だけに伝わってしまうのだろう。ルルーシュのように超高性能の思考回路を持っていれば別だったかもしれないが、いくら永く生きたといっても、C.C.はそういう意味では普通人の域を脱していなかった。

「マオ、私がお前について行けば、ナナリーには手を出さないんだな?」

「やっぱりC.C.は最高だァ! ボクの話なら全部言わなくてもわかってくれるんだね!」

 心底嬉しそうに笑い声を上げる少年を鋭く睨み、C.C.は重々しく頷いた。

「……いいだろう」

 おもむろに手錠を手に取ると、腕を後ろに回し、両手首にはめる。
 ここは大人しく従うのが最善と思えた。

「C.C.さん!」

 聴覚だけで事態を把握したのか、盲目の少女が声を上げる。

「大丈夫だナナリー、後でルルーシュが来る。私もきっと無事に帰ってくる」

 安心させようと言ったC.C.をあざ笑うように、マオがニヤリと口角を上げた。テーブルを回り込み、車椅子に手を掛ける。

「残念。大丈夫じゃないよナナリー。キミにも来て貰う」

「待て! 話が違う!」

 眉を跳ね上げるC.C.を、マオは妙に静かな目で見た。

「ねェC.C.、ボクは最近までずっと嘘はいけないって思ってたんだ。C.C.が嘘はダメだって言ってたから。でも、『本当のことを言えばなんでも信じてもらえるとでも思ってるのか?』なんて、バカにしてくれたヤツがいてさァッ!」

 ガンッと強く壁を殴る。突然鳴った乱暴な物音にナナリーの顔が強張った。

「だったら、同じじゃない。嘘をついたって。何にも悪いことなんて無いでしょ?」

「マオ、お前、そこまで――」

 少年の様子はビルの屋上で見たときと明らかに違っていた。あのときは少なくともC.C.に対しては最後まで純粋な眼差しを向けていたというのに。
 元から危うかった精神の均衡がさらに崩れたのかもしれない。一度死にかけたためか、それとも会わないうちにルルーシュへの怒りが肥大しすぎたのか。にじみ出る雰囲気が前回よりも狂気じみていた。

 C.C.の記憶に残る素直だった子供の面影は、今やどこにも見出せない。説得の言葉はどうやっても届かないのだろう。否応無しに悟らされていた。

「さァ、来てC.C.。来なかったらナナリーを人質にしてルルーシュを殺しちゃうよ」

「……わかった」

 血を吐くように言って、C.C.は唇を噛んだ。





 C.C.はナナリーと共に、学園裏手に待機させられていたトラックに乗せられた。荷台部分が上下と側面四方を覆う密閉型になっているタイプだ。
 ナナリーは猿轡を噛まされ、車椅子の上から縛られている。C.C.は着ていた拘束服のベルトを口元までがっちりと締められ、床に転がされた。脱出はおろか声を上げることすらままならない。

 マオはそういった状況を作り上げると、荷台の扉を閉め、トラックの助手席に乗りこんだ。

 運転席に座る男は四、五十代のブリタニア人である。顔色は悪く、表情は不自然なまでに固い。現在進行形で行われている犯罪行為に、脅しによって無理やり参加させられているのだ。
 運転手の男は冷や汗を垂らしながら、横にいる東洋人の少年を見た。

「……どこまで行けばいいんだ?」

「道はボクが指定するから、指示通りに走ってくれればいい」

「それで、いいんだな?」

「もちろん。大人しく従ってくれれば、どこにも漏れたりしないよ。――キミが黒の騎士団に加担してるなんて情報はね」

 ねっとりとした口調でマオが言うと、男は固い顔で頷く。トラックのエンジンが掛かり、四人を乗せた車両は夜の街へと静かに滑り出した。




 ◆◇◆◇◆




 その日、政庁の一室に一人の男が出頭を命じられていた。純血派の領袖ジェレミア・ゴットバルト辺境伯である。

 いや、その表現では語弊がある。ジェレミアを領袖と認める人間が少なくなったということも無論あるが、それ以前に、純血派は今や派閥としての体裁を保てていなかった。

 有力士官がナリタの戦闘で軒並み命を落とし、隊を指揮できる階級を有した数少ない人材であるジェレミアは、副官のヴィレッタと共に転落の引き金を引いた張本人として求心力を失った。そのためである。
 もともとの構成として、キューエルを始めとする上層陣は純血派の思想に賛同する人間で固められていたが、下位の者はそうでもなかったという、そのせいも大きい。権勢のみに寄り添っていた軍人たちは、機を見てコーネリア軍内の派閥に乗り換え、それによりいっそう力を失った純血派はさらに人材を流出させていく――。

 負のスパイラルに放り込まれた純血派は、ジェレミアが謹慎処分を受けている間に、ほぼ消滅寸前と言っていい状態に陥っていたのである。回復はもはや不可能、遠からず完全に消えるであろうことは誰の目から見ても明らかだった。

 ともあれ、久方ぶりに政庁にやってきたジェレミアは、他に誰もいない会議室で、とある人物と対面していた。
 立ったまま彼と向き合っているのは、エリア11総督コーネリア・リ・ブリタニアである。

「――本日付で軍務への復帰を許可する。正式な辞令は後ほど届くはずだ」

「では、私の容疑は晴れたのですか?」

 内通の疑いが掛けられていると明確に告げられていたわけではないが、状況から見て嫌疑が掛かるのは当然のこととジェレミアは判断していた。ゆえに謹慎処分は失態への懲罰と同時に、ひそかに監視を付ける目的で行われたものなのだろうと。

「一応は、そうだ」

 頷いたコーネリアに、ジェレミアはわずかに眉根を寄せた。

「『一応』、とは?」

「卿に限らず、そもそものところで、もはや個人を疑ってどうにかなる段階ではなくなっておるのだ。黒の騎士団の協力員は至るところに潜んでいる。体制側に隠れている主義者どもも多数加担していると見て間違いない。誰か一人を拘留したところで、もう情報の漏洩は止められんのだよ」

 コーネリアは体を横に向け、窓の外を見た。思い返すのはここ最近の情勢である。

 ナリタの一件で黒の騎士団の存在感は絶大なものとなった。
 日本解放戦線という旧時代の遺物を退場させて最大の反抗勢力へと至ったかれらは、コーネリア軍に対する勝利というたしかな実績を引っさげて、イレブンたちに新たな時代の到来を夢見させた。
 その影響はイレブン側だけに留まらず、ブリタニア側にも波及した。元から潜在的に存在していたブリタニアに反感を抱くブリタニア人――いわゆる『主義者』と呼ばれる者たちが、わかりやすい支援先を手に入れてしまったのである。

「認めたくはなくとも、事実は事実として受け止めねばな。誰を信じて誰を疑えばよいのか、誰にも正確なことはわからん。『一応』というのはそういうことだ。こうなってしまっては、反抗の芽そのものを摘み取る以外に、解決の方法はあるまい」

 コーネリアは不愉快そうに漏らした。

 芽を摘む――敵を叩くと簡単に言っても、状況は決して芳しくないのだ。

 テロリストの延長である黒の騎士団に明確な本拠地など必要ない。ゆえにどこを攻めればいいという目標がない。ゼロの旗印の下に集まった組織であるから、彼を捕らえれば片は付くとわかっているものの、正体も所在もまったく掴めない。
 資金提供を断とうにも、そちらの方面でも尻尾を見せず、疑わしい団体はあっても踏み込めるだけの証拠が出てこない。

 仮面の指導者というのは非常に厄介な敵である。今の所、現れたところを捕縛するという後手の策しかとれないのだ。
 加えて素顔を晒さずとも人々を惹き付けるカリスマ性が備わっているのも問題だった。

「黒の騎士団の活躍で各地の反抗活動が勢いを増しつつある。ゼロに続けとな。私自ら出向かねばならぬ案件は、この先どうしても増えてくるだろう」

 コーネリアは淡々と現状を述べ、ジェレミアに向き直った。

「今日卿をここに呼んだのは、こちらの用件だったのだがな。私はそろそろユーフェミアに専任騎士を持たせるべきなのではないかと考えている。私が地方に遠征する機会が多くなる分、誰か信頼できる者をつけてやりたい。あやつも副総督だ。親衛隊を作る権限はある」

 その言葉だけでジェレミアは事情を察した。

 あるじとなった皇族の安全を一番近い場所で護るという、最も重要かつ、最も名誉な役割を任される、騎士の中の騎士。それが専任騎士だ。一定以上の要職についた皇族は、この専任騎士を中心として親衛隊を持つことができる。

 実力至上主義のブリタニアにおいて、この職に就く権利は全ての人間が有している。軍内での地位は一切関係しない。あるじとなる皇族がおのれの意思で選びさえすれば、制度上はナンバーズですらも許されるのだ。

 この際一般的に重視されるのは、実力、家柄、そして思想――すなわち皇族への忠誠心である。

 ジェレミアは騎士としては疑いようのないエースであり、辺境伯ということで家柄も良い。マリアンヌ皇妃暗殺の際の激しい悲嘆を誰よりも深く知っている当時の上官のコーネリアであれば、彼の忠節を高く評価していてもおかしくはない。

 率いるべき派閥が潰えた今なら、余計な部下の能力に左右されることもなく、純粋なジェレミア個人の資質だけが注視される。敵との内通の容疑が晴れたとすれば、候補に挙がるのは当然の流れだった。

「書類上で他の候補と区別することはできぬが、口頭で勧めることならできる。無論最終的な判断を下すのはユーフェミアになるが、私は卿の実力と忠義を信頼している」

 コーネリアはかつての部下であった男の顔を見据えた。

「ジェレミア・ゴットバルト。どうだ? 卿にその気があるのなら、口添えしてやるが。純血派ももう解散だ。ユーフェミアのために、一からやってみる気はないか? 卿なら家柄も申し分ない」

 ジェレミアはすぐには応えなかった。

 口頭で勧めると言っているが、実質的にはこれはほぼ内定と同じである。ユーフェミアは軍事方面に関する教育を十分に受けておらず、軍内部に人脈もない。任命権はあっても選ぶ能力がないのだ。
 コーネリアが推薦する人物であれば十中八九その通りに決まるだろう。

 専任騎士とはすなわち皇族の親衛隊長だ。一般の軍と命令系統が違うとは言え、軍関係の最高職の一つである。
 普通の者なら確実に諾と答えるであろうこの問いかけに、しかしジェレミアはまったく別の言葉で返した。

「コーネリア様、クラリス殿下のことは――」

 正面に立つ男の神妙な顔を目にし、コーネリアは視線を外した。仕方の無い奴だ、と言わんばかりに小さく息を吐く。

「まだあやつのことを気に掛けているのか。わからんでもないが。私は卿のその忠節をこそ、信頼しているのだからな」

 コーネリアが最も憧れた、いや、今もなお憧れ続けている無双の騎士、『閃光』のマリアンヌ――その息女、クラリス・ヴィ・ブリタニア。
 ヴィ家の最後の生き残りとなった今では、彼女の忘れ形見として、親マリアンヌ派であった貴族たちを再び一つに纏め上げる可能性を秘めている、最重要人物の一人だ。もっとも、皇帝自らの手によって行方を隠された現在では、誰もそんなことが実現できるとは思っていないが。

 だが、ジェレミアは政治的な理由とは無縁のところでクラリスを求めている。アリエスの離宮が暗殺者に襲撃された後、彼が離散した一家の四人が写った写真を、まるで自分の家族の物ででもあるかのように大事にしていたのを、コーネリアはよく覚えている。
 姉である自分と同じく、純粋に心配をしているのだろう。それがわかるからこそ、コーネリアの口調は重かった。

「……クラリスのことは知らんよ。仮に知っていたとしても、どうしてやることもできん。立場というものがある。どんな些細な形であれ、クラリスを援助してやるということは、皇帝陛下の裁定を無視することと同義だ。エリア総督が国主の決定に従わぬような人間では、国が立ち行かんだろう」

 苦々しく言って、最後に付け加える。

「無論、心情としては助けてやりたいが」

「……やはり、そうですか」

 ジェレミアは一度頷くと、凛々しい皇女の顔を見つめ、口を開いた。

「ユーフェミア殿下の騎士としてご推挙いただけるのは、大変光栄に存じます。ですが――」

「いや、いい。言うな。元より今すぐ返答を貰おうとは思っておらん」

 コーネリアは皆まで言わせずに遮る。

 皇帝直属の騎士であるナイトオブラウンズを除けば、最高の名誉である専任騎士の椅子。誰もが欲しがるその地位を、あっさり蹴ろうとしてのける。迷わずそうできるからこそ、この男は素晴らしいのだ。そう再認識していた。
 ヴィ家に立てられた忠義の程は尋常のものではない。

 だからこそ惜しい。ここで諦めるには勿体なさすぎる人材だった。

「時が来たらまた改めて答えを聞こう。しかし、先ほどの言葉で確信した。やはり卿は騎士となるに相応しい人物だ。良い返事を期待しているぞ」




 ◆◇◆◇◆




 夜のトウキョウは至る所でネオンを光らせ、不夜城の様相を呈している。
 とは言ってもそれは租界全体を覆うものではなく、やはり静かな地域というものも存在している。住宅街――特に高級住宅があるような区画に近づけば、比較的閑静な街並みの見られることが多くなってくる。

 アッシュフォード学園を出たルルーシュとクラリスは、繁華街を抜け、静かな通りを歩いていた。等間隔に設置された街灯が、歩道脇に作られた植え込みをほの明るく照らしている。
 人通りはほとんど無い。
 アーベントロートの警護役はいるものの、護衛対象の令嬢が恋人とプライベートな時間を過ごしているのだ。当然ながらそれとわかるような形で張り付いたりはしていなかった。

「ルルーシュは、誰かほかの子とこういうのしたりしてた?」

 二人並んで足を進めながら、アッシュブロンドの少女が隣の少年に訊く。

「いや、家まで送るのなんてクラリスが初めてだよ」

 アッシュフォード学園は生徒の大部分が寮生である――というより、一部の特権的な身分の子女以外は、全員が近くに併設された寮に入っているから、遠くまで誰かを送っていくというようなことは通常起こり得ない。

「そうじゃなくて、街を歩いたりとか」

 あぁ、とルルーシュは納得したように声を上げた。

「偶然外で会って一緒になることはあったけど、示し合わせて遊びに行ったりはほとんど無いな。たまにシャーリーに誘われたくらいか」

「もったいないって思ったりしなかった? 健全な青少年として。その気になれば選り取り見取りなくらいモテてるのに」

「思うわけないだろ」

「家に帰ったらナナリーがいるものね」

 クラリスはふふっと笑う。つられるようにルルーシュも口元を緩めた。

「まぁでも、お前とこうやって歩くのは、悪くないと思うよ」

 そう考えると、C.C.の存在が急にありがたく感じられてくる。あの魔女がナナリーの相手をしてくれているからこそ、ルルーシュはもう一人の妹とも交流できるのだ。

 もっとも、こういった和やかな時間は今後次第に取りづらくなっていくのだろう。ルルーシュはそう想像する。怪我が治ったからには、もうゼロの活動を停滞させていていい理由は存在しないのだから。

 ルルーシュが骨折していた間、世間的にも黒の騎士団内でも、仮面のリーダーの姿が見られる頻度は非常に少なかった。言うまでも無く、代役ではボロの出る危険性があるためだ。ルルーシュはC.C.を派遣する回数を必要最低限に抑え、できる限りは通信での指示に留める方針を固めていたのである。

 ゆえにこの数週間、黒の騎士団が大規模な作戦行動を取ることはなかった。その分地盤固めは着々と進んでおり、ディートハルトという男が見せた予想以上の手腕も手伝って、租界内外の地下協力員の組織化はかなりのところまで進んでいる。計画を新たな段階に進めるための準備は、確かな歩みで進行していた。

 その一方で、ルルーシュ個人としては、ゼロをやり始めて以来の、休暇のような時を持つことができていた。無論不測の事態に備える気構えを絶やすことはできず、黒の騎士団の活動計画の策定など、やるべきことは山積していたが、それでもアジトに行けない以上、肉体的には比較的自由な時間が多かった。

 これを使って何をしていたかというと、いわゆる家族サービスというか、ランデブーというか、逢引というか――端的に言ってしまうとクラリスとのデートである。

 今夜こうして二人で歩いているのもその延長だ。
 放課後に連れ立って街へ繰り出したり、遅くなったら家まで送ったり――日によってはナナリーも交えてそういったことをしている。

 これが始まった時期は、丁度記憶が消えてしまった後からである。その頃のある日、クラリスが突然デートをしようと言い出したのだ。
 たぶん、その理由は忘れ去られた記憶の中にあるのだろう。それまでクラリスは、そこまで積極的に偽りの恋人関係を進展させようとはしていなかった。

(……きっとそのはずだ。そこで何かがあったに違いない)

 ――そう。

 今のルルーシュには、数日分ほど記憶に空白がある。

 その間のことは、はっきり言ってあまり詳しくはわかっていない。単純に調べていないからだ。

 途切れる前の記憶は、片瀬少将が爆殺された作戦の後、サザーランドを降りた辺りまで。そこから先は、夜の公園で手帳を手にしていたところから始まっている。

 手帳にあったメモ書きによると、C.C.を欲するギアス能力者が現れ、彼の思考を読む力に対抗するため、ルルーシュのギアスで意識の一部を手放したということだった。加えて、C.C.への疑惑も気にしなくていいと書かれていた。もちろんもっと詳細な文章で。

 その説明自体にはまったく訝しい点は無かったのだが、ルルーシュはそこである違和感を覚えた。
 記憶が消えてしまったら、その分を可能な限り補完しようとするのが当然である。にもかかわらず、メモ書き以上のことは調べても大した意味は無いといった旨が記されていたのだ。

 これだけで、ルルーシュは一定の事情を察した。

 記憶を消す前の自分が、メモを読んだルルーシュがそう理解すると予測した上でこのような書き方をしたのであろうということまで。
 要するに、深く追求すればおそらく何らかの形でクラリスに行き着くのだ。しかし消えてしまったルルーシュはそれを忘れた方がいいと判断した――そこまで読み取ることができた。

 だからルルーシュは調査を放棄したのである。

 無論、裏づけを取らなくても状況分析だけで予想できていることもある。というか、ルルーシュの優れた頭脳は、考えまいとしてもそういった部分を勝手に推測してしまう。
 とはいえ、どれだけ現状と見比べて齟齬の無い推論を組みあげられたとしても、客観的証拠がなければそれは想像の範疇を出ないのだ。頭の中だけで出来上がったものは、どうやっても事実にはなり得ない。

 ゆえに結局は、『詳しくはわかっていない』となる。

 ただ、それでいいと思っていた。妹を慮ったがためにの結果であることは、疑いようがなかったから。

「――どうしたの? 考え事? 必要なら相談に乗るけど」

「あぁ、すまない。大したことじゃないんだ。帰ったらナナリーが何かお祝いでも考えてるのかなって。そういうのやりそうだろ? あいつ」

「なら早く帰らなきゃね。なんなら今ここで引き返しても怒らないわよ」

「でも不機嫌にはなるだろ。だからって逆に喜んで送り出すって言われても困るが」

 クラリスを送っていくのもナナリーと家で話すのも、ルルーシュにとっては同じくらい大事なイベントだ。どちらか一方を選ぶよう求められても答えを出すのは難しい。

 今はC.C.がナナリーの相手をしてくれているからクラリスの方に来ているが、それがなければきっと逆転していたはずだ。とは言っても、これが百パーセントいつでも適用されるかというとそうでもなく、クラリスに十回誘われたらたぶん全部を断ることはできなかったと思う。
 もっとも、C.C.が家に居ない状態ならクラリスがそんな提案をすることなどあり得ないのだが。

 ともかく、ルルーシュにとってはナナリーもクラリスも同じくらい大切な妹だった。年齢も身体状況も違うから扱いに差は出るが、気持ちの面ではどちらが上ということもない。

「じゃあとりあえず歩くペースを上げましょうか。それなら私も送れるし、ナナリーもあんまり待たせずに――」

 そのとき、クラリスの言葉に被さるようにルルーシュの携帯が着信を告げた。ディスプレイを確認すると、見慣れた名前が表示されている。

「ナナリーからだ」

「どうぞ」

 促されて電話を取れば、耳に届いたのは聞き覚えの無い声である。

『ルルーシュ、ボクだよ』

「……誰だ?」

 ルルーシュは眉根を寄せた。電話越しの音声変化を考慮して記憶の捜査域を広げてみても、該当する相手は見つからない。

『キミは覚えてないだろうけど、ボクは一回キミに負けたんだ。殺されかけちゃってねェ。いや、キミは確実に殺したつもりでいたんだよねェ』

 訝っていたルルーシュの顔が一気に引き締まる。

『それがさァ、生きてたんだよ。ブリタニアの医学ってすごいよね。あんな状態からでももう動けるようになっちゃうんだから。詰めが甘かったねェルルーシュ、死体確認を怠るから』

「まさか、C.C.を奪いにきた――」

『そうそう、キミの書いたメモにあったでしょ。マオ。思考を読むギアス能力者』

 特定できた。記憶に無いのも当然だ。忘れてしまった相手なのだから。

 これで事態は把握できた。
 始末したはずの敵が死なずに生きていた。そしてナナリーから携帯を奪った。そういうことだ。

 ならば取るべき行動は一つしかない。

「用件を言え。ナナリーは無事なんだろうな?」

『――お兄様っ!』

 答えの代わりに妹の声が返ってくる。

『この通り、ナナリーは無事だ。キミ――いや、キミとクラリスがこちらの要求に従ってくれたら、何もしないよ。このまま無傷で返してあげる』

「貴様……!」

 クラリスまで巻き込もうというのか。

 怒りに目の前が染まる。だが熱くなっても事態は好転しない。交渉ごとでは先におのれを見失った方が負けだ。
 ルルーシュは努めて冷静になろうと呼吸を深く取った。

「……何が望みだ、C.C.か?」

『違うよ。C.C.のことはもういいんだ。だってココにいるから。考えを改めたんだよ、面倒な小細工なんて要らないって。やっぱりC.C.はボクが好きなんだから。変に回りくどいことなんて考えずに、始めからこうやってさらっておけば良かったんだ』

「なら何が目的なんだ! なぜナナリーをさらった!」

 語気も強く問い掛けるルルーシュとは対照的に、マオの口調は腹立たしいほど落ち着いていた。

『ボクはさァ、キミに『参ったー』って言わせたいんだよ。心の底からの声が聞きたいんだ。一回酷い目に合わされちゃったからねェ』

「ガキめ」

『挑発は通じないよ、キミの思考は丸わかりなんだから。とにかく、キミに反省してもらうための舞台はもう用意してある。これから教える場所に、今すぐクラリスと二人で来て貰えるかな? もちろん、アーベントロートの護衛は置いてね』

 ルルーシュは隣に立つ妹を見る。
 こちら側のセリフだけでおおよその事情を察したのだろう。クラリスは険しい表情で頷いた。

『わかってるとは思うけど、ボクは今キミの半径五百メートル以内にいる。考えは全てお見通しだ。もし余計なことをしようとしたら、ナナリーは死んじゃうよ。覚えといてね――』




 ◆◇◆◇◆




 マオはとある教会の礼拝堂、一番奥のステンドグラスの下で時を待っていた。死の縁へと追い込んで地獄の苦しみを味わわせてくれた憎き仇敵が、この場にやってくる瞬間を。

 無人の空間は蝋燭の明かりを思わせる控えめな照明でライトアップされ、幻想的な雰囲気を作り上げている。
 ざわざわと耳に届く雑音は、今この場に限っては、間近に迫った勝利を祝福する歓声のようにさえ感じられていた。

 今のマオに油断は無い。クラリスから得た知識で二度負けたことを知っており、さらに前回はこの身で実際に敗北したのだ。万全の状況を用意した。

 外から近づいてくる二人の男女の思考は、しばらく前から完璧に監視している。小賢しい策を弄する隙は一秒たりとも無かった。電話が終わった後すぐに護衛に待機を命じ、大人しくこの場に直行している。
 さらに言えば、クラリスの記憶は連続している。一度も途切れていない。先に対策を立ててギアスで忘れさせているということはあり得ない。
 閑散とした立地だから、元々少ない通行人がわざわざ目を付けて侵入してくる展開などまず起こり得ないし、関係者は先に始末してある。

 ならばもう負ける要素は無い。

 あの兄妹も知っての通り、思考を読むギアスは一対一の状況で最も力を発揮する。余人の付け入るスペースを与えない今回ならば完全に優位に立てる。
 クラリスのギアスはルルーシュと同じく目を見て掛けるタイプのもの。サングラスを装備したマオには通じない。
 枢木スザクのようなギアスを無視できるほどの超人的な身体能力は、あの二人には備わっていない。

 全ての環境が勝利を示唆していた。

 やがてギィと両開きの扉が開き、黒髪の少年とアッシュブロンドの少女が姿を現した。

「――ようこそ、泥棒ネコども!」

 マオは両腕を大きく開いて歓迎の意を表す。
 ルルーシュは軽く睨むだけでそれを無視した。

「貴様がマオか。下らない戯言に付き合っている暇は無い。ここまで来てやったんだ、さっさと話を進めろ」

「せっかちな男だねェ。でもいいよ、キミの焦りがビンビン伝わってくる。喋り方からも、心の声からもね」

 素っ気無い態度で隠そうとしても、マオには本音がわかる。ルルーシュの胸は焦燥で満たされていた。

 マオは軽く笑ってクラリスに視線を移す。
 隣に立つ兄と比べると、彼女の思考ははるかに冷静だった。しかしそれが事態を好転させる役に立たないということも正確に理解しているようだった。正しい認識だ。

「そっちの女は、焦ってるというよりは、半分諦めてるね。あとは、ちょっと怖がってる? さすが、頭のいい人間は少しの情報からでも簡単に答えに行き着く。その通り。キミが想定している内で一番可能性の高い未来が、そのまま正解だよ」

「御託はいいと言ったはずだ。ナナリーは何処にいる。無事なんだろうな」

「キミの大事な妹はこの教会の奥にいるよ。C.C.もそこだ。ただし、爆弾も一緒にね」

 眼差しをきつくするルルーシュを悠然と眺めながら、マオは懐に手をいれた。手のひらに収まる程度の小型の機械を取り出すと、一度上に投げてキャッチする。

「スイッチはこれ。遠隔操作で爆発するんだ。この部屋までは届かないけど、人ひとり殺すには十分な威力がある」

「――C.C.まで巻き込む気か」

「どうせ死なないんだ。多少怪我したって同じさ」

 もちろん血を流さずに済むならそれに越したことはない。けれど、逃げようとするなら撃ってでも止めなければならないとは元から思っていたし、それでも駄目なら四肢を切り落とすのも仕方が無いと考えていた。
 爆破くらい今更のことだ。

「とにかく、キミたちが不審な動きを見せたら――いやその前に、小賢しい策略を頭に浮かべたら、その瞬間ボクはこれを押す。ナナリーはドカンだ」

「……クラリス、そいつの言っていることは本当だ。信じられないかもしれないが、妙なことは考えるな」

 ルルーシュが青褪めた顔で口にする。クラリスは無表情で頷いていた。

 マオはフフンと鼻を鳴らす。滑稽でたまらない絵だった。
 何も言わずとも、クラリスは思考を読むギアスについての全てを把握している。記憶を消すのを許したりしなければ、こんな阿呆のようなセリフは出てこなかったというのに。

「バカだねェキミは。本当にバカだ、そんな女を信じて。自分がどれだけマヌケなことを言ってるのか、知らないのはキミだけだよ、ルルーシュ。でもその救いようのないバカさ加減に、ボクは負けちゃったんだよねェ。認めるよ。――だからさァ、今度はボクがそのバカさを使って、キミを滅茶苦茶にしてやりたいんだ」

 マオは起爆スイッチを持っていない方の手をコートの内側にやる。そこから一丁の拳銃を取り出すと、長椅子に挟まれた中央の通路に放り投げた。
 銃は床に敷かれた赤い絨毯の上に落ち、ゴトリと硬質な音を立てる。

「クラリス、それで自殺するんだ。そしたらナナリーを助けてあげる」

「なっ、貴様ッ!」

 ルルーシュが目を見開く。一瞬で意図を理解したようだ。

 マオにはどちらか一方しか助ける気が無い。

 クラリスが死ねばナナリーは救われる。クラリスが死のうとしなければナナリーが殺される。そういうことだ。
 なぜ両方殺さないのかといえば、それをやったらルルーシュに生きる理由が無くなってしまうからだ。自分で自らの命を絶ってしまう。
 妹を喪った上で生きて苦しんでもらわねばならないのだ。

 だがまだ甘い。そんなことでは終わらせない。それだけで許せるなら、もっと簡単にマオが直接片方を殺している。

「ねぇ、聞こえないの? 早く拾ってよ、その銃。小難しい手順は要らない、引き金を引けば弾は出るからさ」

 促すと、クラリスは特に大きな反応を見せないまま、神妙な顔で足を踏み出した。銃の落ちた場所まで行き、床に手を伸ばす。
 細い指がグリップに届く寸前、マオは声を掛けた。

「はい、一回」

 クラリスの肩がビクリと震えた。

「今キミはそれでボクを撃つ隙を窺おうとしたね?」

 全てが見通せていた。
 実際に対面したことの無かったこの少女は、思考を読む速さ、そして思考を読んでから行動に移るまでのタイムラグを測ろうとしたのだ。そして可能なら出し抜こうとしていた。

 だが彼女はこれで理解した。それは不可能だと。

「これがボクのギアスだよ」

 撃つ瞬間だけを読むのではなく、撃つという行動に至る前段階の予兆までをも読む。
 何処を狙うかを読む前に、まず殺意があるかを読み、その前に殺意が生まれ得る下地があるかを読む。そういった積み重ねにより、予めの対応を可能とするのだ。

「キミが引き金を引くより、ボクがスイッチを押す方が早い。二回目は無いよ」

「……わかったわ」

 深く頷いた少女の白い手が、今度こそ銃把を握った。

「待てクラリス! 早まるな!」

「邪魔しちゃいけないよルルーシュ。キミは黙ってそこで見ているんだ。一歩でも動いたら、ナナリーを殺す」

 マオの言葉を聞き、ルルーシュの顔が憤怒の色に染まる。

 聡明な少年の複雑なはずの思考回路が、わけのわからない支離滅裂な何かに浸食されつつあるのを、マオは心地良く感じ取っていた。
 窮地を脱するためのシミュレーションを何度も何度も高速で繰り返し、そのたびにエラーを吐き出している。だんだんとその試行は現実味の薄い方向に発展していき、さらにそれがいかに馬鹿げた設定であるかが自分で理解できてしまうから、進むことも戻ることもできずに混乱し始めている。

 普段のルルーシュであればそれが逆に思考能力を減退させるだけの愚行だとすぐに気付いただろうに、妹の命が掛かっているというだけでやめることができない。事態を打開せねば、という思いが強すぎるのだ。

「クラリス、ここまで来るんだ。そしたらルルーシュの方を向け」

 マオの指示に従って立ち上がった少女は、銃を持ったまま礼拝堂の奥まで進んだ。静かに振り向いて兄と向かい合う。

 そこまでを確認すると、マオは一歩横に引き、芝居がかった身振りで宣言した。

「さァ、刑の執行を始めよう!」

 これで準備は整った。ここから最後の一手を指すのだ。

 ルルーシュはもう一刻の猶予も無いと考えているが、実はそうではない。このままでは進まないし、よしんば進んだとしても面白くない結果になる。
 なぜなら、クラリスの兄妹に対する感情が常識的な範疇に留まっているからだ。ナナリーを大事に想ってはいるものの、その度合いはルルーシュのそれとは大きく異なる。自分の命を容易く犠牲にできるような精神を持ち合わせていない。

 妹のために死ねるかと訊かれれば、迷った末にノーと答える――クラリスはそういう人間だ。

 ゆえに後押ししてやらねばならない。彼女が命を絶てるように。
 単純な利害計算でナナリーを見捨てるべきとの結論を下す前に、彼女の価値観を粉砕してやらねばならないのだ。

 ステンドグラスの前に立つ少女を視界の中心に置き、マオは歌うように軽やかに話し始めた。

「仮面ってのは、元来何かの役になりきるために被る物だ。真実の自分を覆い隠すためにね。わかるだろう? クラリス」

 まっとうな人間なら誰にでも、見られたくない自分、他人に見せたくない部分というものがある。それは綺麗なものであれ醜いものであれ、心の中で一番大切にされている領域であり、他人が土足で踏み込んでいい場所ではない。
 だから人は仮面を被るのだ。その本質とも呼ぶべき自己を護るために。

 『心を開く』というのは、この仮面を自ら取り去ることを指す。それは本当に特別な相手に対してのみ行われるべき崇高な行為であり、ゆえにこそなかなか達成されることがない。

 だがマオは、この仮面を問答無用で剥ぎ取る力を持っている。

 それこそが思考を読むギアスの真骨頂であり、同時に最も恐るべき点である。

 無言で佇むアッシュブロンドの少女に向けて、マオは言う。

「キミはさァ、クラリス・ヴィ・ブリタニアって素顔の上に、いろんな仮面をつけてるよねェ。友達に見せる顔、護衛や使用人に見せる顔、偽りの両親に見せる顔。けどそれは全部クラリス・アーベントロートとしての仮面でさ、その内側には、兄妹を大切に思うクラリス・ヴィ・ブリタニアとしての自分を持っている。それは覆しようのない、キミの本質とも言える部分だ。キミとどれだけ深く付き合っても、そこはきっと誰も疑えない――」

 一旦言葉を切り、イヤらしく口の端を釣り上げる。

「――キミは嘘が上手いから」

 マオのギアスはクラリスの内面を完全に暴いていた。

 彼女の仮面は硬い。完璧だ。それはとりもなおさず、中にしまわれている物が、それだけ厳重に守られねばならないということでもある。

 ――つまりクラリスは、仮面を破壊されたら際限なく転がり落ちるタイプの人間だ。

 マオは立ち尽くす少女から視線を外し、教会の中をゆっくりと歩き始めた。

 ルルーシュはその様をただ見ていることしかできない。彼の頭は絶望に支配されかけている。一旦駄目だと破棄した試行を、無駄だと知りつつさらに反芻する――そんなことしかできていない。それもひどく遅いスピードで。

 浮かんでくる笑いの衝動を抑えながら、マオは続けた。

「そう。違うんだよね。嘘なんだよねェ。キミの場合、本質を築く土台になってるクラリス・ヴィ・ブリタニアっていう自分がもう、仮面なんだ」

 おのれがクラリス・ヴィ・ブリタニアとしてこの世にあると認識した瞬間から、彼女の自我は確たるものとして既に存在していた。別の人間のものとして。この世界が辿るであろう未来の知識と共に。
 それが彼女の不幸の始まりだった。そこに拍車を掛けたのは、身分に相応しい、賢明すぎた頭脳である。

 家族に対する愛情が生まれるより先に、自分という立場の人間が背負うべき義務というものを正しく理解してしまっていた。それが容易く放棄できる類のものではないということも。

「皇族としての自分、ルルーシュとナナリーのきょうだいとしての自分。臣民に、世界に対しての責任を負わなきゃいけない自分と、家族を愛する自分。キミの中では常のその二つの自分が危うい均衡で揺れ動いている。ルルーシュみたいに盲目的に家族だけを求められたらよかったのにさ、キミの精神は、そう簡単に考えられるには、少し成熟しすぎてた」

 こつこつと一定のリズムで足音を慣らしながら、マオはなおも話し続ける。

「だから全てを知っていても何も決められない。数十億の命を犠牲にしてきょうだいを救う覚悟も持てないし、きょうだいを救うために世界の人々を見殺しにする覚悟も持てない。『詰まないようにする』なんていう消極的な方法でしか世界に関われない」

 マオは足を止め、少女にニヤリと笑んで見せた。

「でもさァ、いいじゃない、悩まなくても。キミはそもそもクラリス・ヴィ・ブリタニアなんて人間じゃないんだから」

 その一言を告げた瞬間、パキリと、仮面のひび割れる音が聞こえた。

 アメジストの瞳が揺れる。視線の焦点がぶれる。

 釣られるようにしてルルーシュの心が激しく動揺していた。
 今やマオの言葉も耳から入ってそのまま素通りしているような状態だ。咀嚼も吟味もできていない。
 思考を読むギアスが他人を操れる側面を持つものだと悟っているために、掛けられる一言一言がクラリスを自殺へといざなうカウントダウンとしての性質を帯びたものなのだとわかってしまう。話の内容より、マオが口を開く度に妹が死に近づいていく――単純なその事実の方が重すぎるのだ。

「そう、知っているよ、クラリス。期待しているだろう。キミはボクがこうするのを期待していたね? こうなる可能性を考えながら何の対策も立てなかったのはなぜだ? そうだ、この展開を望んでいたからだ」

 クラリスは、マオが生き延びてこういった行動に出る未来を、たしかに想定していた。その上で放置していた。ただしそれはほんのわずかな確率としてだ。
 だがその事実だけで十分なのだ。マオのギアスはどんな小さな心の闇でも大きく成長させ得る力を持っているのだから。

「そして今も、ボクが言葉を掛けるのを待っている。決定的な言葉を。わかるよ。全部わかる。キミの考えは全て。キミは自分で決心できないから、ボクに引き金を引かせようとしているんだ」

「……そんな、ことは――」

「あるさ。そんなことはある。それが事実だ。知ってるだろう? ボクはキミの心が読めるんだ。深層意識まで」

「……違う」

 クラリスがこぼした弱々しい声には、何の力も篭っていなかった。ただ単に口から漏れただけ。それだけのものでしかない。

「違わないよ。だったらなんでエリア11に来たんだ? 何にもしたいことなんて無かったはずなのにさ。要は死にたかったんだろう? でもそれは悪いことじゃない。正しい考えだ。それで楽になれるんだから」

 マオは囁くように言い続ける。心の隙間を埋めるように。

 本人が目を背け、見ずとも構わないと放置している空隙の形を正確に読み取って、ぴったりと嵌るどす黒い塊を流し込むことができる――それがマオのギアスだ。
 人としての心を持つ限り、その悪魔めいた甘言に抗うことはできない。

「その銃を使うんだ。それで終わりだ。もう何も考えなくていい。何も迷わなくていい。キミはすべての重荷から解放される。あるべき自分に戻れるんだ」

「……あるべき、わたし――」

「大丈夫だ。これは無駄死にじゃない。キミの犠牲でナナリーが助かるんだから」

「ナナリー……。そう――ナナリー、助けなきゃ。わたしが」

 拳銃を持つクラリスの腕が震えながら上がっていく。鉛の弾丸の発射口が白い喉に向けられた。
 繰り返される呼吸が荒い。色を失った唇の奥でガチガチと歯が鳴っていた。

「――だめだ! やめろクラリス! お前はそいつに誘導されているだけだ!」

 扉の前に立つルルーシュが片手を伸ばし、たえきれぬように叫んだ。

「あれ? いいの? そんなこと言っちゃって」

 マオはニヤニヤと笑いながら起爆スイッチを見せびらかす。

「ねェ、本当にいいの? クラリスを止めちゃって。可愛い可愛いナナリーが死んじゃうよ?」

 ルルーシュは屈辱に歪む顔で床に膝をつき、両手を付いた。そして肘を曲げ、頭を垂れる。絨毯に額をつけ、搾り出すように言った。

「マオ、わかった……俺の負けだ! 俺の命ならくれてやる、だから、だから二人を……! 二人を助けてくれ……!」

「駄目に決まってるでしょ? キミは最初から自分の命を一番軽く見てるんだ。全然つりあわないよ」

 マオは知っている。ルルーシュは過去、会釈以上に深く頭を下げた経験が無い。その彼が土下座である。いかに追い詰められているかがわかる。
 心の声を聞けばさらに磐石だ。ルルーシュは本心から敗北を認めている。

 マオは笑いを堪えるのに必死だった。
 C.C.を奪った上に、あの日ビルの屋上で電話越しに散々小馬鹿にしてくれた挙句、死の一歩手前まで追い込んでくれたこの少年が、心の底から許しを請うているのだ。
 これが笑わずにいられようか。

 だがまだだ。まだ余力を残している。

 本当に状況を変えたいのなら、使えばいいのだ、人の意思を捻じ曲げる力――ギアスを。それでクラリスは助かる。無論、それは同時にナナリーの死を免れ得ぬものと確定させる行為なのだが。

 だからこそやらせたい。

 このまま終わってはマオがクラリスを殺したことになってしまう。ルルーシュ自身が愛のために自らの手で愛する妹を殺める。それが達成されてこそ、完璧な復讐を果たしたと言えるのだ。

 マオは顔面蒼白で立ちすくむ少女に向けて、呪文のように囁いた。

「何をしている。早く撃て。そうだ、死ねば戻れるかもしれない。こんなつらい決断を強いることのない、安らげる場所に。元いた世界に」

 クラリスの指が引き金に掛かる。血の気を失った唇が小刻みに震えていた。

 ルルーシュの耳にはもはやマオの声は一切届いていない。大きく見開かれた紫水晶の瞳が映すのはただ一つ、処刑台に立たされた妹の顔だけだ。

 あと一歩で陥落する。マオは確信した。

 ルルーシュの思考は完全にぐちゃぐちゃだった。普段の冷静さなど欠片も残っていない。だがクラリスを助けたいという考えだけはその中で明確な形を保っている。それこそが愛なのだろう。そしてそれゆえにルルーシュは限りない絶望を味わうのだ。

「さァ、はやくその引き金を引くんだ。それで全部元通りだ」

「やめろ! やめろ、死ぬな、クラリス! クラリス――」

 ルルーシュは唇を戦慄かせ、虚空を見据えるクラリスの目に視線を合わせる。

 そして大きく息を吸い、叫んだ。

「『――――!』」

 言った。ついに言った。ギアスを掛けた!

 ルルーシュは自らが忌むべきと認識している力をクラリスに使い――それによってナナリーの死刑執行書にサインしたのだ。
 比喩など一切無く、まったくの事実として、今のルルーシュは死ぬよりつらい目にあっている。本人がそう思っている。心底からそう感じている。

 こんなに愉快なことは無い。これほど痛快なことは無い。

 本当に気持ちが良かった。最高の心地だった。まさに天にも昇るような気分だった。

 その気分のまま――。

 マオの手から起爆スイッチが吹っ飛んでいった。




 ◆◇◆◇◆




 いったい、これは何だ? 今何が起きた?

 ルルーシュには、今目に映っている光景が信じられなかった。しかしそれは紛れもない現実だった。

 クラリスの手には銃。彼女の腕はまっすぐに伸ばされていた。最前まで不快な言葉を撒き散らしていた少年の腕へと。
 包帯の巻かれた彼の手の中にはもう、ナナリーの命を脅かしていた爆弾のスイッチは無い。銃弾を打ち込まれた衝撃によって飛んでいったのだ。

 一拍遅れてマオは驚愕に目を見開く。何が起きたかわからないという顔だった。間髪入れずに起きる再度のマズルフラッシュ。
 さらに立て続けに銃声が鳴る。一度、二度、三度。
 理解させる間も与えず、宙を走った弾丸は全て残らずマオの胸部に吸い込まれた。

 クラリスは先ほどまでとは打って変わったひどく冷めた顔をして、崩れ落ちる白いコートの少年に歩み寄る。そして何事かを言おうと唇をわななかせるマオの顔面を踏みつけて固定すると、その頭部に最後の銃弾を撃ちこんだ。

 誰が見ても疑いようもないほど明確に、マオは死んだ。あまりにも呆気ない幕切れだった。

 おそらく彼は自分が撃たれるとは微塵も思っていなかったのだろう。
 当然だ。人の思考が読めるのだから。あの状態のクラリスにマオを殺す意思などありはしなかっただろうし、ルルーシュにもクラリスに撃たせる気はなかった。

 こんな結末は予想しておらず、もちろん望んでもいなかった。

 だが現実は無情に、ルルーシュに受け入れ難い結果を突きつける。
 おそらくこれは望み得る――いや、望み得ないほどの最上の結果だったのだろう。あの状態から妹二人が助かる方法はどうやっても見つけられなかった。

 しかし、そんなこととは関係なしに、目の前の光景が途轍もない重みで胸に圧し掛かっていた。

 そう。
 マオは死んでいた。完璧に、明白に、死体になっていた。

 ――妹を殺人者にするつもりなど、これっぽっちも無かったというのに。

(何だ、これは……? 馬鹿な。なぜだ。何が起きた? 俺は、何をした……?)

 どちらが大切だったというわけではない。どちらの命が重かったというわけでもない。どちらかを選んだつもりも無い。
 ただ単に、目の前で命を絶とうとしている妹を死なせたくなかった。生きていて欲しかった。
 ただそれだけだった。

 それだけを思って、ルルーシュは叫んだのだ。

 ――『生きろ!』と。

「……クラリス、お前、何で――」

「ルルーシュ、私は生きなければならないわ」

「それは……わかる」

 誰よりもよくわかっている。おそらくクラリス本人よりも。ルルーシュこそがそのギアスを掛けた張本人なのだから。

 だからこそわからない。
 ルルーシュの告げた命令は『生きろ』であって『撃て』でも『殺せ』でもない。ギアスの強制力は絶対だ。掛かってしまえば他の行動など取れるはずがない。

 考えられる可能性としては、『生きる』という目的にマオの殺害が必要不可欠だった場合である。そこまでは推測できた。その先、どう繋がってこの結果をもたらしたのかが、ルルーシュにはわからなかった。
 自殺を断念すればそれだけで達成できる命令だったはずなのだ。

「……クラリス、どうして、そいつを……?」

 呆然としたまま、ルルーシュは訊く。

「決まっているでしょう。私が生きる上で障害になるからよ」

「生きるって、お前……」

「わからない? 貴方も感じていたんじゃないかしら、『今の自分は死んでいる』と」

 ルルーシュは息を呑んだ。唐突に理解した。

 クラリスは『死んでいた』――自分を死人と認識していたのだ。ギアスを得る前のルルーシュと同様に。
 だから『生きろ』のギアスで在り方そのものが変わってしまった。その結果がこれだ。

 つまりルルーシュは、彼女の一番深いところ――クラリスの根本にある何かの錠前を、無理やりこじ開けてしまったのだ。

 相手の意思を踏みにじる、忌まわしきギアスの力によって。

 微動だにできずただ妹を見つめるだけの少年に、凛とした声が掛かった。

「『ごっこ』は終わりよ、ルルーシュ。死人の振りなんかもうやめるわ。私はクラリス・アーベントロートじゃない。クラリス・ヴィ・ブリタニアとして、この世界を変えて見せる」

 アッシュブロンドをなびかせて振り返り、力強く宣言したクラリス。きりりと引き締まった表情には、なるほどこれが皇族かと言わしめる風格が漂っている。何人たりともそれを否定できないだろう。

 しかしルルーシュにだけは理解できていた。見逃すことなどできはしない。目をそらしたりなどできるはずがない。
 それこそが、おのれの罪の証なのだから。

 ――決然とした意志の光を宿すアメジストの輝き。愛する妹の瞳の中には、ギアスに支配された人間特有の、目に見えぬ濁りとでも言うべき何かが、たしかに存在していた。



[7688] STAGE16 落日
Name: 499◆5d03ff4f ID:54b4b616
Date: 2014/02/08 21:06
 豪奢なベッドに腰掛け、ルルーシュは項垂れていた。アリエスの離宮を出て以来馴染みのなくなった天蓋が、うつむきがちの顔に陰鬱な影を落としていた。

 絨毯の敷かれた広い部屋は、アーベントロート邸の客室である。頭上に設置された豪勢な照明器具の明かりはひどく細い。客人の心情を表すかのように、室内は寒々しい静寂に支配されていた。

「クラリス、俺は――」

 薄闇の中、ルルーシュがポツリと呟く。弱弱しい声だった。
 言うことが終わったのか、あるいは元から中身のある話などするつもりが無かったのか、黒髪の少年はそれ以上口を開こうとしない。

 C.C.は壁に寄りかかりながら、その様を眺めていた。

 監禁場所から脱出した後、ルルーシュとナナリーはC.C.と共にクラリスの家に招かれた。あそこで別れて各々の家に戻るのは好ましくないだろうとの彼女の判断があったのだ。色々な――本当に色々な――ことが起きたのだから、と。

 誘拐の被害にあったナナリーは、口では気丈に「平気です」と言っていたものの、本心は不安がっているに違いあるまいし、兄のルルーシュは目に見えてわかるほど憔悴していた。さして動揺の無いC.C.は元から気の利いた慰めなど口にできるキャラではないから、この三人を一まとめに放置するのはクラリスからしてみれば不安だっただろう。

 そしてその提案をした当のクラリスにしても、C.C.の目からはどこかがおかしいように映っていた。
 具体的にどこがと指摘できるほどではない。ただ、たしかに何らかの違和感があった。口調や表情、声の調子などの表面的なところではなく、纏う空気と言うのか、そういった漠然とした何か――名状しがたい感覚的な部分に変化が生じているように感じられたのだ。

 とは言え、そういった深い話をナナリーの前ですることは出来ず、疑問を覚えつつもC.C.はおとなしくクラリスの邸宅に入った。

 そこから大体一時間ほどが過ぎている。

 ルルーシュは、ナナリーをクラリスに預けて独りでバスルームを借り、その後誘われた夕食は断って――妹と同席できるケースとしては非常に珍しいことだ――、宛がわれたこの部屋にふらふらとやってきた。
 契約者の異常をいち早く察知していたC.C.は先に室内で待っていたのだが、ルルーシュはそれにも気づかない様子でベッドにへたり込み、以来ずっとこの調子である。

(――これは相当に参っているな。シャーリーの父親のとき以上か?)

 無限の時を生きる魔女にとって、一二時間待つ程度のことにはさほどの苦は無い。ただ、消沈して物言わぬ相手を眺めるだけという行為はあまり愉快とは言えなかった。それがおのれの運命を預けるべき人間の姿だとするならなおのこと。

「ルルーシュ、何があった?」

 おもてを伏せた少年の頭頂部を見つめながら、C.C.は訊いた。

「話してみろ。今回の件はマオに止めをさせなかった私にも原因がある」

 返答はすぐにはやってこなかった。しかし『黙れ』とも『出て行け』とも言わないところをみると、本心では吐き出したいと思っているのだろう。
 プライドが高すぎるのも面倒なものだな、と益体もないことを考えたとき、弱りきった声が耳に届いた。

「――クラリスに、ギアスを掛けた」

「……なるほど」

 C.C.はルルーシュが親しい人間にギアスを使うのを極端に厭っていることを知っている。ならばこれは当然か、と納得しそうになって、思いとどまった。

 違う。
 それだけではない。

 ルルーシュの精神は決して脆弱ではない。一時的に躓くことはあってもそこから立ち上がり前へと進める人間だ。世の中が思い通りにならないとき、世のあり方を嘆くのではなく、自分の無力を責め、悔い、やがて自己に打ち勝って世界を変革しようと考えるのがこの少年である。
 現実に打ちのめされたとき、ルルーシュは自分の中でおのれの弱さへの苛立ち、怒り――そういった激情を燃やす。その熱で折れそうになる心を磨き上げるのだ。
 安易に他人に頼らないからこその孤高なる強靭さ。ギアスに打ち勝つ王たるものの資質である。

 だというのに、今のルルーシュには内にくすぶるものが見えない。熱がない。

 この感触をC.C.はよく知っている。
 自分の一番身近にあるもの。あるいはクラリスが頑なに抱えているもの。そしてルルーシュからは最も縁遠かったはずのもの。

 死の香りである。

 根の深さを感じ取ってC.C.はわずかに眼差しを鋭くした。

「クラリスにギアスを掛けたと言ったな。何を命じた?」

「……『生きろ』と。そう命じた」

 思わず絶句する。

 それはクラリスの意思を尊重したいのであれば最も掛けてはならないギアスだ。あの屈折した少女は常におのれを『死んでいる』と認識していたのだから。
 生き方が百八十度変わっても不思議は無い。

 いや、変わったのだろう。だからこそルルーシュはここまで悄然としているのだ。犯した禁忌の代価があまりに大きかったからこそ。

 言葉を返せずにいるC.C.の方を見ないまま、顔を俯かせたルルーシュはぽつぽつと話した。

「ナナリーの命を交換条件に、マオがクラリスに自殺を迫ってな。それで、あいつが死のうとして――」

「……そうか」

「知っていたのか? あいつが自分を死人と考えていたことを」

「ああ」

 C.C.は短く返した。いまさら誤魔化しても意味などない。
 愛する妹に関する隠し事である。激高するかもしれないとC.C.は少々気構えをする。しかしその肩をすかすように、ルルーシュは淡々と言った。

「……俺は知らなかったよ。だが、そんなのが言い訳にならないってことぐらいわかってる」

 少年の手のひらが拳の形を作る。

「そう、わかっていた。わかっていたんだ、これがやばい力だってことは。わかった上で、俺はお前と契約した」

 握り締めた手にぎしりと力が入った。
 そこに込められているのは後悔の情か、それとも憤怒の念か。以前のルルーシュならば確実に怒りが勝っていたはずだ。
 それが察せていたからこそ、C.C.はこれまで打ちひしがれる少年に対して嘲るような態度が取れてきたのだ。それが奮起を促す材料になると確信できていたから。

(だが、今のこいつは――)

 C.C.の脳裏に、つい先ほどクラリスから死亡を告げられた、かつての契約者の顔がよぎる。振り払うように一度目を伏せ、壁から背を離した。静かに歩みを進め、ベッドに腰掛ける少年の前にそっと立つ。

「……ルルーシュ、慰めて欲しいのか?」

 口からこぼれ出たのは、蕩けるようなやさしい口調だった。数多の男を虜にした魔性の少女の甘い声音。

 そういえば、マオにもこうやって話し掛けていたものだった――。
 無意識の感傷が込み上げ、その段になってC.C.はようやくルルーシュの評価をひどく下げてしまっている自分に気がついた。
 もしこの扱いに反発しないようであれば、かなり危うい――いや、王の力に打ち勝つのは完全に不可能だろう。

「ふざけるな……」

 C.C.の懸念を跳ね除けるように低い声を出し、ルルーシュはゆっくりと顔を上げた。露わになった目には剣呑な光が揺らめいている。

「人に縋ってどうする。――いや、縋ってどうにかなるなら喜んで縋ってやるさ。恥も外聞もプライドも全部まとめて捨ててやる。だが、そうじゃない。そんなもので解決する問題じゃない」

 そこまで言い、ルルーシュは正面に立つ少女から視線を外した。

「……わからない。いくら考えてもわからないんだ。どうしたらいい? どうしたら償える?」

 再び深く項垂れる。つややかな黒い前髪に隠されて、俯いた少年の顔は窺えない。しかし血を吐くように搾り出された声が、その心情を何よりも雄弁に語っていた。

「俺はクラリスを――今日まで生きていたあいつを、殺してしまったんだぞ……!」




 ◆◇◆◇◆




 政庁の執務室。
 コーネリア・リ・ブリタニアは重厚な趣のある大きな机について、パソコン上の画面を眺めていた。机を挟んだ先には、信頼厚い二人の側近の姿がある。

 最近特によく開かれるようになった三人きりでの会議の風景である。

「昨日までに捕らえた黒の騎士団の関係者ですが、協力員が大多数、正式な団員でも末端の構成員が限界のようです。上部とは完全に情報が遮断されているようでして、確かなことは掴めませんでした」

 手元の資料に目を落としながら、ギルフォードが歯切れよく報告する。喋り口のよさとは裏腹に、あまり芳しい情報ではない。

「結局、何も進んでおらぬということか」

「残念ながら」

 自らに仕える騎士の落ち着いた声を聞き、コーネリアは疲れた息を吐いた。

「いかにゼロが有能であろうと、単独でここまでの組織力を作り上げるなどできるものではない。人材の面でも育ってきているのだろうな、黒の騎士団は」

「まだ慌てる時期ではありません。各地には所在の割れているテロ組織が多数あるのですから、まずはそこから潰していけば。いずれは繋がりも見えましょう」

 ギルフォードの弁は正論であった。

 黒の騎士団は次第に力を増してきており、既にエリア11最大の反ブリタニア勢力となってはいる。とは言っても、現状そこまで恐れるほどではないのだ。活動の中心がカントウブロックなのだから。
 エリア11の植民地支配の中枢がトウキョウ租界なのは言うまでもない。黒の騎士団の勢力圏と一致してはいるものの、同時にブリタニア側で最も戦力の整っている地域でもある。攻め落とされることなどまずあり得ないのだ。
 憂慮すべきは各地のテロ組織が黒の騎士団と連動していっせいに動くケースであった。そうなれば鎮圧は可能でも被害の拡大は免れない。エリア11の統治に長く尾を引く影響を残すだろう。

「やはり、全国の掃除を早急に済ませねばならぬな」

 眼光を強めるコーネリアに、ダールトンがたしなめるように口にした。

「ですが姫様、急いてはなりませぬぞ」

「わかっている。我らは治安を安定させたいのであって、不当にイレブンを弾圧したいわけではないのだからな。何事も締め付けすぎれば噴出する。暴動に発展せぬよう節度は保つさ」

 頷いて言ったコーネリアは、それから小さく苦笑した。

「それにしても、難しいものだな、過剰に戦力を残したエリアの統治というのは。早く綺麗にしてユフィに渡してやりたいものだが」

 ユーフェミアはまだまだ知識も経験も足りず、決して評価の高い皇女ではないが、それはあくまで現在の話である。成長すれば悪くない統治者になれるとコーネリアは信じていた。姉の贔屓目も自覚はしていたが。
 今は戦後の混乱が残っているために強力な指導力が求められているというだけで、本来何でも独りでできる必要などないのだ。不得手な面は得意な者に諮るなり任せるなりすればいいのだし、そういった人材は広いブリタニアを探せば豊富に発見できる。
 ユーフェミアに必要なのは、自分に何ができて何ができないのかの把握と、人を見る目だ。
 勉強しても訓練しても身につきにくい資質の部分――専横に走らない良識や、意志の強さなどは元から備わっている。特に意志の強さは折り紙つきだ。父皇帝に似たのだろう、こうと決めたら梃子でも動かない。
 不測の事態の起こりえない情勢で経験を積むことができれば、必ずや皇族としての義務を果たせるだけの人物に育つだろう。

 妹を想ってコーネリアが頬を緩めたとき、コンコンとノックの音が響いた。

「総督、ユーフェミアです」

「入れ」

 扉を開いて執務机の前まで歩み出たユーフェミアは、きりっと引き締まった表情をしていた。ホテルジャックのときに何か思うところがあったのだろう、その直後からしばしば見られるようになった顔である。
 こういうとき、ユーフェミアは決まって何かをさせてくれと言ってくる。内容は副総督として日常与えられている職務――エリア11ではコーネリアが名実共に強権を有しているから、それほど重要な仕事ではない――の範囲を超えた部分に手を出したいという申し入れであったり、政策に対するちょっとした意見の具申であったりと、日によって様々だ。

 コーネリアはそれらを、失敗しても大きな問題にはならない範囲についてなら、ほとんど無条件に受け入れるようにしていた。結果としてはうまく行かないこともあるようだったが、それで構わないと考えている。全てがユーフェミアの糧となって、最終的にはプラスになるのだからと。何事も小さなことから始め、失敗しつつ学んでいくのが常道なのだ。

「今日は何だ? 副総督」

 コーネリアが問いかけると、ユーフェミアはまっすぐな目で言った。

「先日、専任騎士のお話を伺いました。私も持つべきだと」

「その話か。この間したな」

 コーネリアは首肯する。正式な協議はいずれするということで、雑談の話題に軽く提案だけしてあった。

「広く選んだ候補者のリストをくださるということでしたが、きっと私が見てもよくわからないと思うんです。ですから、いっそのこと総督に十名程度に絞っていただいて、その中から決めるようにさせてもらえないでしょうか」

「それは構わぬが、いいのか? お前の騎士なのだぞ?」

 専任騎士は主の生命を一番に近い場所で守る人間である。命を預ける相手の選択にそこまで他人を交えさせていいのかと、コーネリアはかすかに目を見張った。
 迷うようならこちらから推薦するつもりではいたとはいえ、当の本人から話があるとは思ってもみない。

「はい。その代わり、ローテーションでも構いませんので、候補者の方と数日間一緒に過ごさせていただけたらと。ギルフォード卿を見ていても感じるのですが、騎士というのは、全幅の信頼とともにそばに置いておける人でなければ駄目だと思うんです」

「ふむ、たしかにその通りだ」

「それで、よく考えてみたんですけど……」

 ユーフェミアはそこで一度言葉を切り、凛とした眼差しで姉を見た。

「いくら有能でも――人柄もわからない方々から選ぶことは、私にはできません」

 きっぱりとした妹の発言を聞き、コーネリアは納得すると共に心に湧き上がる温かいものを感じていた。
 自らの目で信頼できる者を選び、任命する。騎士の選任とは本来そうあるべきなのだ。
 選べないようならこちらで見繕おうなどと考えていた自分が馬鹿のようだった。ユーフェミアはこんなにも成長していたというのに。

 実際にそういった厳しい意識で選考するとなると眼鏡に適う者はなかなか見つからないものだが、それならそれでいい。多少の時間など一番にふさわしい人間を騎士とできるメリットと比べればどうと言うこともないのだから。その間は仮にダールトンでもつけてやれば事足りる。

「いいだろう、そのように調整しておく。お前の思うようにやるといい」

 頷いて後押ししてやると、ユーフェミアは顔を輝かせて頭を下げた。

「ありがとうございます、総督」

 その後軽く日程の相談をして、歳若い副総督は部屋から退出して行った。

 桃色の髪が消えたドアを見つめながら、ダールトンが目を細める。

「お変わりになられましたな、ユーフェミア様は」

「まだまだ子供だよ。少しは自覚が出てきたようだがな」

 素っ気無く返したコーネリアの口元には、隠し切れない微笑が浮かんでいた。




 ◆◇◆◇◆




 マオによる監禁事件があった翌日。

 朝食を取った後、C.C.はルルーシュと共にクラリスの部屋を訪れていた。
 できれば昨夜のうちに話をしたかったのだが、ナナリーとふたりで寝たいから、という犯罪被害にあった少女の姉としてのまっとうな理由を突きつけられて断念させられていた。もっとも、ルルーシュはギアスを掛けてしまった妹と顔を合わせるのを先送りにしたいようだったが。

 ちなみに学校については欠席する旨をミレイに伝えてある。ルルーシュたちの素性を知っている彼女なら、三人同時の休みとなれば深い事情を語らずとも勝手に邪推をしてくれるため話が早い。言い訳などしなくてもそれらしい欠席事由を向こうででっち上げてくれるのだ。
 ナナリーはその際に呼んでもらった咲世子に付き添われ、別室のベッドで休んでいる。

 この時間、クラリスの部屋には格子窓からすがすがしい日差しが注ぐ。元から広い室内は、自然の明るさにライトアップされてより広々として見えた。

 部屋の主が二人の男女を自室に招き入れ、テーブルセットの椅子を勧める。

「どうぞ」

「いや、俺はいい」

 妹の誘いを固い声で辞し、ルルーシュは入り口近くの壁に背を預けた。もう一方のC.C.は返答すらせずにベッドに直行する。
 協調性のない客人を順に眺め、クラリスは肩を竦めてひとりテーブルに着いた。置かれていたティーセットで一人分の紅茶を用意すると、不満げに小さく口を尖らせる。

「せっかくウチのお茶を淹れてあげようと思ったのに」

「お誘いはありがたいが、今日はティーパーティーをしに来たのではない。それならそれで後日また呼んでくれ」

 つれない少女の反応に「残念ね」と呟き、クラリスはそちらに目を向けた。

「なら用件をどうぞ」

 寝台に乗ったC.C.は置かれていた大きなクッションを胸に抱いた。なめらかなシルク地のクッションだ。

「まずは教えてほしい。今のお前はどういう状態なのだ?」

「ルルーシュに掛けられたギアスのこと?」

 クラリスは何気ない調子で確認の質問を返す。その発言に顔を上げたのはルルーシュだった。

「待ってくれ。クラリスはギアスについて知っているのか?」

 マオからもたらされた情報についての記憶を失っている彼は、魔女と妹の関係についても忘れてしまっている。自分の筆跡による見覚えのないメモ書きから漠然とした推測はしていたものの、敢えて確信を得ることはしていない。

 事情を察したクラリスが「そこから話したほうがいいのね」と兄に向き直った。

「答えはイエスよ。私もC.C.と契約したの。隠していたことは謝るわ。でもそれはお互い様でしょう? 貴方だって私にギアスのことを教えてくれなかった」

 妹からの説明を聞くと、ルルーシュは睨むようにC.C.を見た。

「お前が口止めしたのか」

「まさか。私はお前たちとは違う。面倒な策謀を巡らせたりなどしない。言うなと頼んできたのはクラリスだ」

「なぜそんなことを。もしそうなら、俺たちは協力し合えたんじゃないのか?」

 ルルーシュの声音は疑問とも悔悟ともつかない微妙な色合いを帯びていた。少なくともあまり楽しげでないことだけは間違いない。
 問われたクラリスの顔には、対照的に悪戯っぽい微笑が浮かんでいる。

「なら訊くわ。貴方はどうして私にギアスのことを隠していたの?」

「それは、お前を巻き込みたくなかったからで――」

 そこまで答え、ルルーシュはハッとしたように言葉を止めた。
 事実だけを見ればお互いやっていたことは同じなのだ。

「そういうことよ。ルルーシュが私に手伝ってくれと言ってきていたら――いえ、計画の一端でも話してくれていたら、私はきっと貴方と手を取って戦う道を選んでいたでしょう。少し別の理由もあったけれどね」

 クラリスは椅子の背もたれに身を預け、悠然と話す。

「でも、そんなのは今となってはどうでもいいことだわ。現在の私は情報を共有すべきだと考えているし、実際にこうして話す場を設けている。それで十分じゃない? 私はもう昨日までの私じゃないんだから」

 くすりと笑って見せる少女の様子を眺め、C.C.は悪趣味な奴め、と内心で嘆息した。
 何を考えているのか、クラリスはわざとルルーシュの罪悪感を刺激するように言葉を選んでいる。彼女の能力なら逆にそこを避けて話を進めることも可能だろうから、意図的なものに違いない。
 渋面になって押し黙るルルーシュを視界の端に捉えながら、C.C.はそちらは放置することにした。今はあいつのケアをしている場合ではないのだから、と。

「そろそろ話を戻してもいいか? 昨日までとは違うと言うからには自覚できているのだろう。どういう状態になっている?」

 クラリスは一度ティーカップを口に運ぶと、そうね、と言葉を探すように呟いた。

「頭の中を弄られるのってどんなに不快なのかと思ってたのだけれど、案外なんともないみたい。ギアスに掛かっている自覚があるのに、それを不快に感じる思考もギアスで封じられている――そういう感じかしら」

 ルルーシュの顔がさらに歪んだ。
 おのれの犯した罪の結果がつまびらかにされていくのである。しかもクラリスは怒りも恨み言もなく事実を述べる。それは単純に罵声を浴びせられるのよりも深く心をえぐる光景に違いなかった。意志を踏みにじられて憤らない人間など本来居るはずがないのだから。

「完璧なマインドコントロールね。操られているのがわかっていてなお、作られた感覚に従うのが自然としか思えないんだもの」

「そこはもういい。わかった」

 完全に黙り込んでしまったルルーシュを横目で一瞥し、C.C.は続きを促す。

「具体的にギアスはどう作用しているんだ? 今のお前は『生きている』のだろう? 何を目指している?」

 超常の力により『死んでいる』ことを禁じられたクラリス。彼女の思考はどこに向いているのか。
 前向きに生きてみようなどといった漠然とした意思に留まるような人間ではない。

 ギアスに支配された少女は不敵に口角を上げた。

「私はブリタニア皇帝になるつもりよ。この世界を何とかしたいならそれが一番確実でしょう。ルルーシュと違ってまだ皇位継承権を持っているんだから。必ずナナリーも幸せに過ごせる世の中にしてみせるわ」

 登場した最愛の妹の名前にもルルーシュは反応しない。胸中では様々な想いが渦巻いているのだろうが、表面上は微動だにせず話に耳を傾けている。

「しかしお前はシャルルに追放されたのだろう? まだ赦しも出ていない」

「陛下にとって、皇位継承権がある人間は全員同一線上よ。私はただ少し後退させられたってだけ。レースから下ろされたわけじゃない。継承権が剥奪されなかったのは、その気があるなら挑んで来いというメッセージでしょう。たぶんね」

 クラリス・ヴィ・ブリタニアが宮廷から姿を消す要因となった八年前の謁見。そのとき既にクラリスの『詰まない』生き方は始まっていたのだろうとC.C.は想像する。
 苛烈な発言でシャルルを挑発したのは、ルルーシュと同じ扱いをされぬようにするためだったに違いない。その方策が八年を経た今役に立とうとしている。本人の意向に沿った形なのかどうかはもはや不明だが。

「無視できない力をつけて戻れば赦しなんてそれだけで出るわ。ブリタニアは実力のある人間を遊ばせておく国じゃないもの」

 おそらくこの見立ては正しいのだろう。そしてそれを見越してクラリスはアーベントロート子爵家を立て直したのだ。詰まないために。
 つまり、クラリスには今回の事態にならずとも自らブリタニア宮に返り咲こうと動く可能性があり、かつそれを考慮に入れていたことになる。

 ならばやはり――。

(クラリス、お前は本質的には死人などではなかったよ。私とは違っていた)

 それがこういう展開になってしまったのはあまり愉快ではない。もっと別の道もあったはずなのだ。クラリスは決して死に切ってはいなかったのだから。
 とは言え、感傷を抜きにしてみれば、今のクラリスには間違いなく生気と野心があふれていた。それこそ昨日までのルルーシュのように。
 それ自体はC.C.にとっては喜ぶべきことである。挑む目標があるのならギアスを使う機会は必然的に増えるのだろうから。

「――ただ、宮廷に戻るにしても戻り方ってあると思うのよ。お母様の派閥に居た貴族を引き付けられるだけの存在感を示さなきゃいけない。アーベントロートのお金だけじゃ高が知れているし。一番効率よく帰れるように下準備をしないとね。手伝ってくれる、ルルーシュ?」

 クラリスは壁際に力なく立っている兄に声を掛けた。口調こそ穏やかでかわいらしいものの、やっていることはえげつない。
 断れるはずがないのだ。ルルーシュは元から妹に甘かったし、そこに加えて本人から罪悪感を抉られた直後なのだから。
 C.C.はクラリスがこういったやり口を取る人間だと初対面のときから理解していたが、裏の顔を知らぬ少年はこれもギアスによる変化と捉えているかもしれない。だとしたらまたそこで罪の意識を深くするのだろう。
 全くいやらしい交渉術である。

「ああ、もちろん。俺にできることがあったら何にでも使ってくれ」

 C.C.の予想にたがわず、ルルーシュは何の反発も無く了承した。彼には彼の構想があっただろうに。

「なら、当面は今までどおりゼロをやっていて頂戴。ルルーシュにはこうならなければ進めていたであろう計画があるでしょう? それをそのまま続けて欲しいのよ。舵取りが必要になったら指示は出すから」

「わかった」

 明快な答えを返したルルーシュ。しかし表情に生気は薄い。
 人前に出ればそれなりに取り繕いはするのだろうが、何らかのきっかけが無い限り、この表情が根底に残り続けるのだろう。
 C.C.にそう思わせるまでに、ルルーシュの傷心は深刻だった。




 ◆◇◆◇◆




(――クラリス・ヴィ・ブリタニア)

 いったいどのような人物なのだろうか。

 テーブルを挟んで座る精悍な男の顔を見ながら、ヴィレッタはそう考えずにはいられなかった。

 謹慎が解かれたことで今後の方針について話さねばならぬ、との理由からジェレミアの私宅に招かれ、朝食を振舞われている。
 眼前に広がるのは騎士侯の俸給ではなかなか手の届かない、本物の上流階級のための料理の数々だ。ジェレミアは優秀な軍人だから、任務のためなら質素な食事でも大人しく受け入れる。反面、辺境伯の格に恥じぬよう、使うべきところには惜しまず金をつぎ込むのもまたこの男だった。
 幼い日には想像すらできなかった、豪勢でいて瀟洒な食卓が目の前にある。だというのに、目指したはずの貴族の味も今はあまりよくわからない。

「どうした? 食わんのか?」

「いえ、もちろん頂きます」

 促されてナイフとフォークを動かすも、ヴィレッタの意識の大半は料理の感想よりも今後の展開予想に回されていた。
 
 ジェレミアが作り上げ、自分がその片腕として確固たる地位を築いていた純血派は、早晩完全に潰えると見て間違いない。現状で既に組織は瓦解しており、立て直せる可能性を持つジェレミアも特に未練を感じていないように見える。
 そこはいい。むしろベストだ。枢木スザク強奪事件での失態があまりに大きいジェレミアでは、普通にのし上がるには限界がある。いまさら派閥の復権を計ったところで先は見えているのだ。

 重要なのはここから先である。

 ヴィレッタは、元は件の失態のマイナスをゼロの捕縛という功績で帳消しにし、あわよくばプラスにしようと考えていた。
 そこに降って湧いたのが、亡きマリアンヌ皇妃の息女――クラリス・ヴィ・ブリタニアの消息情報である。

 閃光のマリアンヌの人気、騎士としての実力はヴィレッタもよく知るところである。平民から皇帝に見初められたという身の上のため、一部の皇族貴族から疎んじられる傾向にあったにもかかわらず、軍属を中心に圧倒的な存在感を放っていたのか彼女だ。

 クラリスはそのマリアンヌの遺児の最後の生き残り、しかも十七歳という。ならば、『次期皇帝に』という話を持ち出す人間が現れてしかるべきと思われる。しかしそんな気配はどこを探しても欠片もない。
 クラリス・ヴィ・ブリタニアは皇帝より追放処分を受けており、宮廷では話題に上らせる者すら皆無に近いのだ。

 ここが大きな問題になる。

 ジェレミアはクラリスの立場など関係無しに、敬愛するヴィ家の人間に仕えられればそれだけで無上のの幸せと考えているようだが、ヴィレッタは違う。

 調査を依頼したディートハルトの情報によると、クラリス・ヴィ・ブリタニアは――あのテレビ屋は彼女が皇女であると気付いていないようだったが――クラリス・アーベントロートという名で生活しているらしい。ヴィレッタも知る貴族の家の娘として。
 護衛は居るには居るが、所詮は雇われであり、強い結びつきのある関係ではない。軍から派遣されている人間は存在しないようで、完全に一子爵令嬢として振舞っている。

 であればおそらく、ジェレミアが接近して深い間柄――それこそ専任騎士のような立場になることは可能ではあるのだろう。そしてヴィレッタがそれに次ぐ椅子に就くことも。しかし皇族の第一の騎士と言えば聞こえは良いが、現実のクラリス・ヴィ・ブリタニアは皇族として扱われていない。
 それでは意味が無いどころか、ヴィレッタにとってはマイナスである。将来が完全に閉ざされてしまうのだから。もっとも、そのような事態になるようなら、ジェレミアはついて来なくてもいいと別の道を提示してくれるだろうが。

 ただ一方、クラリス・ヴィ・ブリタニアに皇族に復帰する可能性があるのなら、これは人生でも最大クラスのチャンスと言えた。
 皇族の側近としての地位が与えられるだけでなく、マリアンヌの唯一の息女である彼女には、能力によっては次期皇帝の目もあり得る。ここまで来るのはもはや夢物語の類と自覚してはいたが、それでも若干の興奮は抑えられなかった。

(……やはり、見極めが肝要か――)

 ヴィレッタは意識を落ち着かせ、対面のジェレミアを見る。
 もう食事は終わってしまったようで、軽くワイングラスを傾けている。気付いてみれば自分の皿も空になっていた。手には水の入ったグラスがある。何か二言三言雑談を交わした記憶はあるが、大した内容ではなかったはずだ。

「ジェレミア卿」

 グラスをテーブルに置き、ヴィレッタは話し掛けた。

「クラリス殿下のもとへは、いつ?」

「さして急ぐ必要もあるまい。殿下の安全はある程度証明されたのだしな」

 ジェレミアの謹慎期間中にクラリスに対するアプローチが無かったことで、計らずも、彼女の正体に感づいた人間のいる可能性が極めて低いという予想が成り立っていた。
 ならば下手に近づけば逆に身の危険を与えかねない事態にもなり得る。というのがジェレミアの見立てようだった。謹慎が解除されたとはいえ、それと同時に全ての監視が解かれたと確信できるほどブリタニア軍は甘い組織ではない、と。

「ですが――」

「いや、正しくは急げなくなったのだ。コーネリア様からこんな物を頂いてしまってな」

 ジェレミアはテーブル脇のバッグから書類を取り出すと、「見てみろ」と差し出した。ヴィレッタは少々怪訝な顔をしながら手に取り、言われるままに書面に目を通す。

「これは……っ!」

「ユーフェミア様の騎士に、だそうだ」

 簡単にまとめれば、ユーフェミアが騎士候補と何日か過ごしたいと言っているから、できるだけ日程を空けておけという通達である。

「おめでとうございますと、言うべきなのでしょうか」

「光栄ではあるな」

「お受けに?」

「辞退はできんだろう。コーネリア様がじきじきに百人超から十人以下にまで絞った候補者のリストだ。その中に私を入れて下さったのだぞ。ここで断れば殿下の顔に泥を塗ることになる」

 ジェレミアがこの人事をあまり歓迎していないことは発言からも察せる。この男にとって専任騎士の椅子など、ヴィ家への忠義の前ではなんら心を動かす要因にはならないのだろう。

 ただ、ヴィレッタはここにも鋭く出世の道を見出していた。
 正直に言って第四皇女殿下はあまり出来がよろしくなく、遠くから見ている限り人間的にも好きになれそうなタイプではない。それでも間違いなく皇女という身分は持っているのだ。平定が済めばコーネリアの後任として総督になるという噂もある。
 おそらく皇族としては最低ランクに近い評価だろうが、だとしても親衛隊長の側近となれるなら十分な地位が約束されるに違いない。少なくとも現状ただの騎士侯でしかない自分にとっては。

「どうなさるおつもりです?」

「任務として形式的にこなすだけだ。他の候補者はユーフェミア様の騎士ならば誉れと考えるだろうからな、熱心にアピールするだろう。私が選ばれることなどあるまいよ」

 ヴィレッタの心を知ってか知らずか、ジェレミアは淡々とそう話した。




 ◆◇◆◇◆




 ルルーシュを先に帰した広い室内で、C.C.はクラリスと向き合っていた。
 テーブルについた彼女の腕には、ベッドから持ってきたクッションがある。クラブハウスの部屋でいつも抱いているチーズ君の感触が忘れられないのだ。デリバリーピザのポイント景品であるあのぬいぐるみは、残念ながらクラリスの家には存在しない。

「あまり良い抱き心地ではないな」

「だったら返してきて頂戴。椅子には椅子のクッションが置いてあるでしょう」

「尻に敷くものと腕に抱くものは違う」

「そうかもしれないけど、でも貴女が今持ってるそれも抱くものじゃないと思うわよ?」

「納得だ。だからいまひとつなのだな」

 C.C.は席を立ってベッドに行く。クッションをマットレスの上に置いたところで、再び口を開いた。

「私だけ残したのはどうしてだ?」

「確認しておきたいことがあって。今までとは状況が違うから」

 受身であったこれまでと積極的に動くこれからでは、必要な情報量が違うということなのだろう。詰まない生き方ではない、勝つための生き方には不可欠な武器だ。ルルーシュもできる限りの情報を集めようとしていた。

「何だ?」

 C.C.は椅子に座りながら訊く。席に着いたことで茶は断られないと判断したのか、クラリスがティーポットに湯を入れた。

「まずはお母様のことね。あの人は私のことを知っている?」

 死んだとされているクラリスの母――マリアンヌは、実はテレパシーのようなものでたまにC.C.に話しかけてくる。『知識』を持つクラリスは母の生存とその能力を把握していたのだろう。

「どうだろうな。あいつがどこからどうやって物事を知覚しているのか、私にはわからないんだよ」

「質問を変えるわ。私のことを話した?」

「『どう育てたらあんな娘になる?』とは訊いた。安心しろ、『知識』の話はしていない。あいつには思うところが無いわけではないからな。全部の情報を渡してやるほどの義理は感じていない」

「なら、とりあえずそこは大丈夫と見ても良さそうね」

 クラリスは一つ頷き、ティーカップに紅茶を注いだ。ソーサーに乗ったカップからは落ち着いた花の香りが漂ってくる。

「茶請けは無いのか?」

「知らなかった? 私ってコードが無いから食べた分だけ太っちゃうのよ」

 悪びれず言う様子に、C.C.は苦笑を漏らす。

「わかったよ。付き合ってやる」

 こういうところは変わっていないようだ。
 というよりも、目的地を見据えるようになった以外はほとんど元の思考パターンのままに見える。クラリスはおのれを偽るのが得意だから、本人が表に出そうとしない限り、日常会話レベルのやり取りで変化を見つけるのは至難の業だろう。

「そういえば、ここの親はどうしているんだ? アーベントロートの親は」

 カップを口に運ぶクラリスに訊くと、彼女は「あぁ」と小さく言った。

「あの人たちはブリタニア本国で引きこもってるわ。資産運用の一部は任せてあるから、やる気があるなら暇は潰せるでしょう」

「冷たい娘だな」

「適度な距離よ。私はちゃんと娘をやっていたの。なのにエリア11に行きたいって言ったときにあっちが放り出したんだもの」

「そう仕向けたのだろう?」

「人聞きの悪い言い方をしないで。軽く危険性をほのめかしただけよ。軽くね」

 そう言ってクラリスはずるそうに微笑む。

「まぁ感謝はしているわ。あの人たちが臆病なおかげで自由を満喫できているんだから」

「『悪巧みの邪魔をされていない』の間違いだろうに」

「そうかもね」

 短く返し、クラリスは少し真面目な顔になった。C.C.が紅茶を一口飲む間待ってから、会話を再開する。

「話を戻しましょう。二つ目の質問。暴走したギアスを抑えるコンタクトレンズ、作れる?」

 ギアスは使い続けるうちに力を増して行き、やがては発動と停止の制御もできなくなる。
 クラリスの場合はおそらく、時に関する単語を口にしたら、視線の交わる位置でそれを耳にした人間の記憶が、その分だけ見境無く消えてしまうことになるのだろう。ルルーシュのギアスと同じく、日常生活に支障をきたすことは間違いない。

「レシピは頭に入っている。容易く作れるものでもないが、お前の財力ならまったく問題はないだろうな」

 ギアスの暴走対策は、嚮団でも優先的に研究が進められていた分野だ。目を見て掛けるタイプのギアスについては一定の成果を上げることに成功していた。その結晶がこの特別製のコンタクトレンズである。

「だが安心はするな。効果が永遠に続くものではない。ギアスの力が強まっていけばいずれ抑えきれなくなる」

「大丈夫よ、その前に全部終わらせるわ。あとで紙に書き出して頂戴」

「了解した」

「ありがとう、私からの用はそれで全部」

 話を終えたクラリスはティーカップを口元に運ぶ。C.C.は背もたれに背中を預け、優雅に紅茶を楽しむアッシュブロンドの少女を眺めた。
 こうしていると、外面からは以前と変わったようには思われない。しかしその内側は確実に変わっているのだ。

「これで知識から完全に外れたな」

「そうね」

「何か感じるものは無いのか? 悔しさだとか悲しさだとか。あるいは他の――」

「どうなのかしら。ただ、嫌ではないわね」

 判然としない物言いだが、そういうものなのだろう。ギアスに強制されて行われた意思決定の結果というのは。
 納得しつつも、C.C.は胸に去来する一抹の感慨を認めていた。

「今更だが、もしかしたら私は、死人だ死人だと言っているお前が好きだったのかもしれないよ」

「何よそれ。本当に今更じゃない」

 そう笑ったクラリスの顔は、C.C.の目からはどこか寂しげに見えていた。




 ◆◇◆◇◆




 天蓋に切り取られた狭い天井に、見慣れない壁紙が貼ってある。住み慣れたアッシュフォード学園のクラブハウスでも、遠い日に別れを告げたアリエスの離宮でもない。
 クラリスに貸し与えられた客室のベッドに仰向けに寝そべりながら、ルルーシュは『自分の居場所はどこなのか』と益体もない自問をしていた。

 ここはアーベントロート邸だ。妹の暮らしている家である。
 その明白な事実が不意に揺らぐのである。

 奇妙な感覚だった。

 ルルーシュはクラリスを殺してしまったと認識している。単に『殺した』と言葉にすると少し違和感があるが、本人の中からは絶対に出てくるはずの無い意思を植えつけてしまったという点で、元の人格を決定的に破壊してしまったことは間違いない。その観点からすると、『殺した』という表現はそれほど的外れではないように思える。
 その自分が当のクラリスに歓迎されて一室を提供されているという現状が、どうにもおかしく感じられてならない。許されていいはずのない人間がこうしてのうのうとしていることに、無視できないねじれを感じるのだ。

 だからルルーシュの中の弱い部分が『ここはお前の居ていい場所ではない』と囁やいて認識を歪め、切り離せない冷徹な部分が『現実を直視しろ』と訴えて逃避しそうになる思考を呼び戻す。
 そしてその無意識の攻防を眺め、おのれがいかに弱っているのかを冷静に分析している自分が居る。
 そのうちのどれが強いということもないから、最終的には『自分の居場所はどこなのか』などという下らない思考に脳内を支配されて動けなくなっている。

 そこまで理解してなお、ルルーシュは無為に天井を見つめるだけの行為をやめられなかった。

「――まだ呆けているのか」

 扉の開閉音の後、聞きなれた少女の声が耳に届いた。

「C.C.か」

「動かなくていいのか? クラリスから頼まれたのだろう? 今までどおりの活動をしろと」

 それはわかっている。動かねばならないのだろう。クラリスに従い彼女の手足となって行動するのが唯一の贖罪となるのだろうから。自分は彼女の人格を殺してしまったのだから、こちらも自らを殺して贖うほかないのだ。
 そう結論を出したのに動けない。体が鉛のように重かった。

 ただ、この状態が長続きするものでないことはわかっている。ギアスを得る前の自分は精神的にはずっと死んでいたのだから。その頃に戻るだけの話だ。一晩も経てばまた学校に行けるくらいには回復するはずだ。いや、しなければならない。

 黙ったままでいると、静かな足音が聞こえた。ゆっくりと近づいてくる。そしてベッドの端に重みが加わった。C.C.が腰を下ろしたのだろう。

「……俺は――間違ってたんだろうか。クラリスに協力を仰いでいればよかったのか」

 天井を見たまま呟く。質問というよりは独り言のようなものだったが、返事はやってきた。

「物事に正解も不正解もない。お前も知っているだろう。正しいか正しくないかを決めるのは人間の主観だ。お前が間違ったと思ったのなら、間違っているのだろうさ」

「厳しいな」

「そうとも、私は魔女だからな。厳しいついでに言ってやる。その議論に何の意味がある。正しかろうが間違っていようが過去は変えられない。さっさと完結させて次に繋がる思考をしたらどうだ? お前はブリタニアを倒して妹が幸せに暮らせる世界を作るのだろう?」

 厳しいと口では言いつつ、C.C.の口調は普段にはない柔和さを持っていた。

「それはもう、俺のやることじゃない」

「お前の思っている世界は待っているだけで変わってくれるほど脆弱なのか?」

「クラリスは優秀だよ、俺なんかより」

 子供のようだと自覚しながら、ルルーシュは投げやりに答えた。こんなに弱りきった姿を見せられるくらいこの女のことを信頼していたのかと、頭の別の部分が考えていた。

 C.C.は何も話さない。ルルーシュからも特に言うべきことはなかった。
 二人で口を閉ざしたまま、流れていく幾ばくかの静寂。。

 ふと衣擦れの音がしたかと思うと、仰臥したルルーシュの視界にライトグリーンの色彩が映り込んだ。続いて琥珀色をした神秘的な瞳が見える。見慣れた少女の美貌だ。
 いつの間にか、四つん這いになったC.C.が上に乗っていた。

「何をしてる」

 嬉しさも不快さもなかった。跳ね除ける気も起こらないし、逃げる気にもならない。ルルーシュの中に渦巻いているのは虚無的な感覚のみである。
 下を向いた少女の肩から薄緑の髪が流れ、少年の胸元に落ちた。

「ルルーシュ――忘れていいと言われたら、どうする?」

「どういう意味だ」

 意図の汲み取れない質問だった。呟くように問えば、C.C.は感情の読み取れない、透明なまなざしを向けてくる。

「クラリスのギアスは記憶を消す。お前は自らに刻まれた過ちを無かったことにできる」

 ルルーシュの内に一瞬怒りが生まれた。どこまで惨めになれと言うのかと。しかしそれはすぐに消え落ちる。つまり、そんな馬鹿げた提案を持ちかけたくなるほど自分が覇気を失っているということなのだ。

「あり得ない。そこまで落ちぶれたくはない」

「……そうか」

 応えたC.C.の声はどこか沈んでいた。

「なぁ、それは、俺が行動しないとお前との契約を果たせないからなのか? だから――」

「ルルーシュ」

 遮るように言い、C.C.はそのまま顔を近づけてくる。接触する前に少し逸らし、ルルーシュの頭の横にその端正なかんばせを埋めた。服越しでも感じられる柔らかな少女の肢体が、体の前面に密着する。

「何を――」

「このまま聞け」

 耳障りのいい声が耳朶のそばで鋭く囁いた。

「――この部屋は盗聴されている可能性がある。明日の放課後、シンジュクゲットーの毒ガステロ慰霊碑まで来い。そこで話がある」

 ルルーシュは表向き無反応のまま、脳内ですばやく思考を回していた。

 盗聴している人間。これはクラリス以外にはあり得ない。ここは彼女の私宅なのだから。
 ではなぜなのか。これもわかる。必要だからだ。情報とは武器である。分析の時間を十分に取れるなら、集めて損をすることはまず無い。だがそうとわかっていても、ルルーシュでは家族に盗聴器を仕掛けることはできないだろう。
 そこをやってしまえる――いや、ルルーシュに見えないところでやりかねないと思わせる態度をC.C.に取ってきたのがクラリスなのだろう。

 思わず笑ってしまいそうになる。
 本当に優秀だ。この冷徹さは自分には持ち得ない。クラリスの向けてくる笑顔は本心からのものだと明らかにわかるのに。それでいてやるべきことをやれるのが彼女なのだ。

 わずかに瞑目し、目を開ける頃には、C.C.は体から離れていた。

「柄にもないことをしてしまった。後はひとりでなんとかしろ」

 普段どおりの調子で言い、ベッドを降りる。ルルーシュが横目に視線を送ると、一方的に用件だけを告げた少女は、既に寝台から離れようとしていた。

「相変わらず理解しがたい女だ」

「それはお前に経験が足りていないだけさ」

 C.C.は一度振り向いてそう残し、部屋から立ち去って行った。




 ◆◇◆◇◆




 アッシュフォード学園高等部の校舎に終業の鐘が鳴り響く。勉強道具一式をかばんに詰め込んだシャーリーは、立ち上がって黒髪のクラスメイトに歩み寄った。

「ルル、今日生徒会でイベントの話しようと思うんだけど、副会長回復記念――だっけ? 復調? とにかくそれの。昨日ルルが居なかったときにちょっと相談してね――」

「悪い、今日は少し用があって」

 かばんにノートパソコンをしまいながら、ルルーシュは淡白に告げる。

「そんなこと言ってると会長が勝手にいろいろ決めちゃうよ」

「しょうがないだろ、外せない用事なんだ」

「まぁ、それはそうなんだろうけど……」

 シャーリーは尻すぼみに言って隣に席に顔を向けた。意味ありげな視線を受けたクラリスは、小さく左右に手を振る。

「違うわよ。私も何も聞いてないもの」

「何でそんなに隠し事ばっかりなのルルは。そんなんじゃクラリスだって――」

「埋め合わせはするから。それじゃ。また明日な」

 席を立ったルルーシュは軽く手を上げて挨拶すると、足早に教室から出て行った。後ろ姿を眺めていたシャーリーの表情がわずかに曇る。

 今日のルルーシュはどこか元気がなかったように思える。友人に聞いても『いっつもあんな感じでしょ?』と返す子がほとんどで、自分でも確信はない。クラリスも放り出していったあの馬鹿は、普段から斜に構えていてクールだという評判を得ているから、たしかにそんなものだといえばそんなものなのかもしれない。
 でも、やはりシャーリーにはどことなく不安定そうに見えたのである。皆の言うところのクールな振る舞いは、内心を覆い隠すための仮面のように感じられて。
 だから生徒会で騒げばちょっとでも元気が出るかと思ったのに。

「――なんか、今日のルルってちょっと変じゃなかった?」

 ゆっくりと帰り支度をしているクラリスに訊くと、彼女は驚いたように少し眉を上げた。

「びっくりしたわ。気付くものなのね」

「あ、やっぱりそうなんだ? 何かあったの? 知ってる?」

「一応はね。でも私から話すことじゃないと思うから」

 そういう類の問題は誰にでもある。特定の相手にしか明かせないというのなら仕方がない。
 好きな――ひょっとしたらそろそろ『好きだった』にする努力をするべきなのかもしれない――男の子の異常を察せたことが誇らしく、同時に『特定の相手』に入れなかった自分に恨めしい気持ちになる。
 生まれた微妙な感情を生来の明るさですぐに振り払い、シャーリーはクラリスに尋ねた。

「立ち直るの時間掛かりそう?」

「ある程度は長引くんじゃないかしら。その後どうなるかは――彼次第ね」

「もしかして、割と深刻っぽかったりする?」

「気にしないでいいわよ。私たちはいつもどおり接していれば。人に話さないっていうのは、自分で解決するって意思表示と同じだもの。余計なことをしたらおせっかいになるでしょう」

「そっか」

 冷めた意見のような気もしたけれど、大人な物の見方のような気もする。
 結局シャーリーは歳に似合わぬ落ち着きを持った友人の言葉に従うことに決めた。

「まぁしょうがないよね。じゃあ私たちだけで行こっか、生徒会」

 教室を見回しても他の生徒会メンバーの姿はもう無い。

「ごめんなさい。実は私も駄目なのよ」

 ゆったりと返したクラリスは、小首を傾げてやわらかく微笑んだ。

「今日は家に届け物があるかもしれなくて。私じゃないと受け取れない物だから」




 ◆◇◆◇◆




 C.C.は大きな大理石の碑に寄りかかり、夕焼けに染まる空を眺めていた。

 いまだに復興の始まらないシンジュクゲットーの眺めは悲惨そのものだ。
 アスファルトが砕かれてむき出しになった地面。窓ガラスの割れたビル。折れた鉄骨を晒す破壊された建物跡。いびつな形をした様々な影が、沈みかけた太陽に照らされて長く伸びていた。
 荒れ果てた廃墟の一角に、場違いに綺麗に整地された区画がある。

 クロヴィス皇子薨御の折、彼の没した地ということで、シンジュクゲットーにはその功績を称え、死を悼む碑が建てられた。そのとき大勢の死者を出したイレブン側の住民感情を考慮し、形だけとはいえ大きく離れた地点にテロ被害者の慰霊碑も同時に作られたのである。

 C.C.の居るこの場所がそうだ。

 ただ、あくまでついでの工事の域は出ず、規模は非常に小さい。ブリタニアの見え透いた厚意をありがたがるイレブンはほとんどおらず、そもそもシンジュクゲットーが人の住める環境でなくなっていることもあり、訪れる者はほとんどゼロに近い状態だ。

 それは今日も例外ではない。
 見渡す限り無人の死に絶えた街。砂埃でけぶる景色の奥に、やがて黒い人影が現れた。
 C.C.のよく知る契約者の少年――ルルーシュである。

「待たせたみたいだな」

「構わんさ、時間までは指定していない」

 C.C.は石碑から背を離し、歩み寄ってきた少年と数メートルほど離れて対峙した。
 足を止めたルルーシュの顔には、別段何の表情も浮かんではいない。

「何の用だったんだ? クラリスに聞かれるとまずい話ってことはわかるが」

「ルルーシュ。お前には期待していた。だからこそ訊きたい」

「何だ?」

 C.C.は一度息を吸って間を持たせた。
 これから掛ける問いの意味は非常に重いのだと――その事実を自らに刻み込むように。相手に伝えるように。

「――お前は自分の手で世界を変えるんじゃなかったのか?」

 固い空気を感じ取ったのか、ルルーシュはあごを引き、契約者の少女を鋭く見た。

「昨日も聞いたな、それは」

「ああ、だからもう一度聞かせてくれ」

「話したとおりだ。世界を変えるのは俺の役目じゃない。俺にできるのはせいぜいがサポート。メインはクラリスだ」

「本気なんだな?」

 問われた少年は少しの間沈黙を保つと、C.C.から目を外し、地面に視線を落とした。

「……他にどんなやり方がある。それだけのことをした――あいつを殺してしまったんだぞ。その俺が一人のうのうと生きて世界を変える? 何の冗談だそれは。あり得ない。俺にはもう、自分を殺してあいつを後押ししてやるしか道はない」

「どうだろうな。少なくとも、クラリスはお前のギアスを咎めはしない」

「それはあいつがギアスに掛かっているからだろうが……!」

 ルルーシュはこぶしを握り、顔を上げた。眉根を寄せた渋面にはおのれに対する憤りと後悔の念が滲んでいる。

「なぜ言い切れる? お前はクラリスに同じことをされたとしてあいつを咎めるのか?」

「それとこれとは――」

「同じだ」

 C.C.はルルーシュの否定の弁を遮り、畳み掛けて言った。

「同じことだよルルーシュ。お前は妹になら何をされても構わないと思っている。それだけあいつらを大きな存在と認識している。たった三人の兄妹なのだろう? どうして逆もそうだと信じられない」

「そうじゃない。そういうことじゃないんだC.C.。あいつが俺を責めるかどうかじゃない。俺自身が自分を許せないんだ」

「本音が出たな。お前のそれは結局はただの独り善がりだ。誰にも問われていない罪の罰を受けることに何の意味がある。『クラリスを後押ししてやるしかない』? お前がそれで救われたいと思っているだけだろうが」

 C.C.は表情を引き締め、それでいて内心では祈るような気持ちで契約者の少年を見つめていた。
 反駁して欲しいのだ。激昂して欲しいのだ。揺れ動く激しい情念こそが、人が生きている最たる証なのだから。

 しかし、叩き付けた言葉に返答は無い。

 しばしの無言の時。ふたりの間を乾いた風が吹き抜ける。
 やがてルルーシュは重そうに息を吸い、吐くと同時に肩の力を抜いた。

「……あぁ、そうなんだろう」

 出てきたのはそんな返事だった。

「そうなんだ。俺はクラリスの事情なんか関係無しに、自分のために、自分を罰しようとしている。あいつに従うのはタイミングよくそれらしい道が提示されたからってだけだ。これで償えるかもしれないって、飛びついただけなんだ。――そう、意味なんかない。わかってる。わかっていて、抜けられないんだ」

 ルルーシュは力なく項垂れる。

 C.C.の口から大きく嘆息が漏れた。
 これはもう、終わったと見るべきなのだろう。覇気にあふれていたはずの少年の目には、いまや闘志の欠片も無い。

「……残念だよ、ルルーシュ」

 呟くように口にし、C.C.は足下を踏みしめた。

「私は始めに言ったな。ギアスは王の力だと。望んで人の下に付く者を王とは呼ばない。自らを統べる能力すらない者に王たる資格など無い」

 厳しく言い切り、懐に手をやる。取り出されたのは無骨な鉄の凶器。
 拳銃である。

「俺に死なれると困るんじゃなかったのか?」

「以前はたしかにそうだった。今は事情が違う。お前は死に、代わりにクラリスが死人をやめた。ギアスの効果だろうがなんだろうが、これは事実だ。私の願いはあいつに叶えてもらう」

 あの少女はルルーシュをも上回る徹底的なリアリストだ。兄を殺したC.C.は許されないかもしれないが、そこで足を止めたりはしない。ギアスを使い続け、いずれは遥かな高みに到達するだろう。
 魔女たるC.C.にとって重要なのはその一点のみで、対象に道半ばで果てる心配が無いのなら、そばで見守る必要も無いのだ。であれば、あとはどうとでもなる。

「酷い女だ。用済みになったら消すのか」

「元からそういう関係だと思っていたが?」

「少しは丸くなったように見えたんだがな。マオを生かしておいて失敗したのがそんなに堪えたか」

 見透かすような言葉にC.C.は小さく唇を噛む。
 告げられた指摘はきっと正しい。マオの再襲来が無ければ、ここまで早い段階でルルーシュを殺さねばならないとは考えていなかっただろう。見限る際に命を絶たなかった不始末の結果を見せ付けられた直後であるがゆえに、同じ轍を踏んではならないと強く思うのだ。

「まぁいい。撃つなら撃て。覚悟は出来てる。俺がしたいのは自己救済に過ぎないと暴かれてしまったしな」

「……黒の騎士団はどうする」

「ゼロの代役でキョウトの代表と面会したのはクラリスだろう。それはもうわかってる。あいつの考えている策も大筋でなら予想は付く。俺が居なくても、あいつが代わりにゼロをやれば成立するはずだ」

「ナナリーは」

「クラリスがいる。あいつにならナナリーを任せられる。たとえ俺がいなくなったとしても、俺のやりたかったことを代わりにやり遂げてくれるはずだ」

「……お前は大馬鹿だよ」

 この少年はあのか弱い盲目の少女から向けられている想いを本当に理解していないのだろうか。ルルーシュはルルーシュという一個の人格だ。能力が同等だとしてもクラリスでは代わりにはならないというのに。

「どうした? 撃たないのか?」

「本当に……それでいいのか」

 いらえは無い。代わりにすべてを打ち捨ててしまったかのような静謐な眼差しが返ってくる。それが全てを語っていた。

 C.C.は銃を手にした片腕を持ち上げる。鋼鉄の銃身が朱の光を浴びてぎらりときらめいた。

「ルルーシュ……お前となら――」

 言い掛け、小さく首を振る。

「いや、死に逝く者への感傷など必要ないな。私はC.C.なのだから」

 そんな当たり前の感情など遠い昔に名前と共に捨て去ったのだ。

「さよならだ、ルルーシュ――」

 白い指先が引き鉄に掛かる。

 バァンと。

 夕日の色に染まる廃墟に、銃声が響き渡った。




 ◆◇◆◇◆




 瞬間、C.C.が腕を押さえてしゃがみこむ。その直前、弾かれたように手から放り出される拳銃をルルーシュの目は捉えていた。

「狙撃!?」

 思わず声を上げる。あまりの唐突な展開にルルーシュは自然と狙撃手を探してしまっていた。ギアスを掛けねばと無意識で考えつつ。次いでライフルを相手にそんな思考をしている自分を自覚し、身を翻して遮蔽物となる瓦礫に体を滑り込ませた。
 その段になってようやく気付く。

(なんだ――俺は死にたくないのか)

 さっきまでは本気でC.C.に殺されてもいいと納得していたはずなのに。

 浮かんだ益体も無い考えは即座に振り払う。ならば生き延びるための思考をせねばならない。こんなところでわけのわからないまま殺されるのは自分の死に方ではないと本能が拒否しているのだから。

(敵は何者だ? ブリタニア軍? それとも皇室? 人数は? 名乗り出れば助かるのか――?)

 刹那の内に知るべき情報をリストアップし、高性能の頭脳が本格的を回転し始めようとしたとき、紫水晶の瞳が異常を見つけた。

(C.C.が撃たれていない? 敵じゃない――のか?)

 銃声は最初の一発だけで、サプレッサーを使った銃弾が撃ち込まれている様子も無い。さらに状況把握を進めようとしたところで、「ランペルージ様!」と遠くから声が届いた。
 ルルーシュは溜めていた息を大きく吐く。それだけで大体の事情は把握できた。自分のことをそう呼ぶのはクラリスの家に仕えている人間だけなのだから。

 瓦礫の陰から体を出すと、走ってくる壮年の男の姿が見えた。バーンズといったか、専属のボディーガードのような存在だとクラリスから紹介を受けた人物だ。
 息も切らさずルルーシュの前までやって来ると、男は気遣わしげな声を出した。

「ご無事でしたか、ランペルージ様。もう大丈夫です。まだ一人が狙撃位置に待機していますから」

「バーンズさん……でしたよね? いったいこれは――?」

「あの少女――C.C.と言いましたか――彼女が貴方の殺害を目論んでいる危険性があるとお嬢様が仰いまして。失礼ですが監視するようにと。貴方ではなく、彼女の方をですが」

 あちらも友人だと聞いていたんですがね、とルルーシュの横を通り過ぎ、うずくまる少女の片腕をひねり上げる。
 射手の腕が良いのが使った銃の特性なのか、どこからも出血はしていないようだった。

 苦しげに息をつきながら、C.C.はルルーシュを見上げた。

「……クラリスにしてやられたな。どうやら、お前を殺すことは叶わなかったようだ」

 空いた手も取り上げられ、後ろ手に拘束されながら、それでも魔女は薄く笑う。

「ならば生きてみろ。お前はまだ真の意味では死んでいない。再びお前自身の生きる目的を手にできる可能性を秘めているのだから」

 ルルーシュは契約者の少女を横目で見下ろし、同じく薄い笑みを返した。

「当たり前だ。どこかの女が殺したいと言い出さない限りは、自分から命を絶とうとは思わないさ」




 ◆◇◆◇◆




『――はい、お嬢様の懸念していた通りでした。対象は問題なく確保。今から帰還します』

「ありがとう。最高の働きよ」

 アーベントロート邸の令嬢の私室。
 アッシュブロンドの少女がベッドに腰掛け、携帯電話を耳に当てていた。

『しかし、本当によろしいのですか? 警察に行かずとも』

「いいのよ、その子は友達だから。それに軍や皇室に見つかると面倒な身の上でね、あんまりそっちには見せたくなくて。その代わり、ちょっとウチで窮屈な思いをしてもらうことになるかもしれないけれど」

『わかりました。では後ほどそちらでまた』

 電話を切り、後ろ向きに倒れこむ。シーツの上に広がる長い髪。その中心で少女ー―クラリスは満足げな微笑を浮かべた。

「これで黒の騎士団とゼロは私の手の内。少し危うかったC.C.については拘束しても怪しまれない口実を手に入れた――」

 ふふっと軽やかに笑い声を立てる。

「ルルーシュなら『条件はクリア』って言うのかしらね」

 呟いて笑みを収め、クラリスは上体を起こした。乱れた髪を軽く手櫛で整え、机に向かう。
 置かれたパソコンには既に電源が入れられていた。モニターに表示された資料に目を落とそうとしたところで、部屋の外から騒がしい音が響いてくる。

 よく聞いてみれば、それは音というよりは声のようだった。数人の男女が言い争っているような喧騒だ。それがだんだんと近づいてくる。

「なにごと?」

 クラリスはわずかに眉をひそめ、入り口の方へと歩いていった。扉を開けた瞬間、防音壁を失った声はうるさいほどに流れ込んでくる。

「お待ちください!」

「お止まりください! お嬢様は今!」

 軽く首を傾げて廊下へと出る。そして騒ぎの中心に目をやったとき、クラリスの表情が固まった。
 見開かれたアメジストの瞳に映っているのは、五十過ぎほどに見えるブリタニア系の男性である。

 桜色の唇が小さくわなないた。

「――お義父様……っ!?」



[7688] STAGE17 崩れ落ちる 心
Name: 499◆5d03ff4f ID:54b4b616
Date: 2014/04/02 16:16
 落ち着いた調度品が控えめに揃えられた一室。華美にならず、それでも最低限の高級感は保たれている。貴族の部屋であるならば少々貧相と評されたかもしれないが、この場合はこの程度がベストであろう。ここは貴族の居室などではなく、学園の理事長室なのだから。

 応接用のテーブルに着く老年の男は、ルーベン・アッシュフォードといった。ここ私立アッシュフォード学園の理事長である。

 アッシュフォード学園は国に認可を受けたまっとうな教育機関である。しかしその運営事由には表に出せぬ含みが存在する。
 ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアと妹のナナリー・ヴィ・ブリタニア。世間の目から隠さねばならぬかれらに一般的な生活を与えるには、設立者の裁量でいかようにもできる閉鎖的な環境が必要なのだ。
 とはいえ、情勢の安定せぬ占領地での学園経営、しかも設立者自らが現地入りしてその教育方針を保障するというのは、終戦から七年を経た今でも珍しいビジネス。予想以上の収益を上げる事業であることもまた事実である。

 それらのわかりやすい理由を抜きにしても、ルーベンは学園経営を絶対に放棄するわけには行かぬ責務と認識していた。

 単純に孫娘がかわいいからだ。

 家督を譲って隠居したルーベンにとって、もはや家の再興などそれほど執着を持つべき事柄でもなくなっている。何かの拍子にチャンスが転がり込んでくるのなら、という程度の姿勢でしか臨んでいない。
 しかし現アッシュフォード家当主夫妻はそうは考えていないようで、いまだに家の復権を達成すべき至上の目標と捉えている。
 かれらの一番の犠牲者がミレイだと、ルーベンはそう思っていた。

 祖父の贔屓目を抜きにしても健全に育ったと胸を張って言える孫娘が、親からの電話で表情を曇らせる様を何度も見てきた。家のために身分ある男と結婚しろときつく言われ続けているのを知っている。
 悲しいのはミレイがそれを避けられぬ運命として受け入れてしまっている点だ。彼女は学園卒業までの期間を自ら『モラトリアム』と定め、その期間を目一杯楽しもうとしている節がある。言葉として聞いたことこそないものの、未来を諦めてしまっているからこその明るさではないのかとルーベンは感じるのだ。

 だからといって、現当主に再興を断念するよう促すことなどできるはずがない。それは前当主としての領分をあきらかに越えている。

 ゆえにこそ、ミレイがミレイらしくあれる学園だけは決して手放してはならぬと思うし、その内部には世俗の汚さと切り離されていて欲しいのだ。
 だというのに、今年になって非常に危うい因子が学園に入ってきた。

 クラリス・アーベントロート。本名をクラリス・ヴィ・ブリタニア。

 彼女自身は悪い人間ではないのだろうが、その素性がよくない。アーベントロート子爵家自体がある意味有名な家であり、真実の身分に至ってはブリタニア皇女である。しかもマリアンヌの娘。アッシュフォードが匿っているルルーシュ、ナナリーと実姉妹なのである。
 万が一素性の露見することがあったら、何がどう連鎖してどう暴発するか想像もつかない。少なくともアッシュフォード家にとって面白い事態にならないだろうことは確実と言えた。

(だから――)

 それらの事情が全て脳裏に思い描かれ――。
 しかしルーベンは現状にどう対処すべきなのか、すぐには判断を下せなかった。

 応接用のテーブルを挟んだ正面には、四十代程度に見える品の良い顔立ちの婦人が座っている。服装はスーツだが物腰は柔らかく、仕事着として着慣れている風ではない。硬めの服装のわりに身につけたアクセサリが少し主張しすぎており、上流階級に育ったルーベンにはあまり上品な着こなしとは思えなかった。

「――申し訳ない。もう一度お名前を伺ってもよろしいですかな」

 考えて出した場つなぎの質問に、婦人はやんわりと微笑んで答える。

「ラウラ・アーベントロート。こちらに通っているクラリス・アーベントロートの母です」

「――それでは、これは?」

 ルーベンは机上に置かれた一通の封筒を手で示す。そこには見逃せない文字が流麗な筆致で踊っていた。

「ご覧の通り、退学届ですわ」

「ご令嬢の?」

「ええ、娘の」

 当然とばかりに帰ってきた返答に、ルーベンは瞑目した。深呼吸して状況を整理する。

 クラリス・アーベントロートの母と名乗る女性が娘の退学届けを持ってきた。
 規則上、未成年である生徒の同意がなくとも、一応保護者の裁量で提出された退学届けは受理することができる。だが通常、退学となればその前段階で生徒と教師の会話があってしかるべきだし、ルーベン個人としてもそれは無くてはならぬものと考えている。理由もわからず「退学します」「はい受理します」では健全な教育機関とは言えまい。
 そうでなくとも、相手は『あの』クラリスなのだ。軽々しく扱っていい問題ではなかった。

「失礼ですが、クラリスさんとはご相談されましたか?」

「いいえ、それはこれからです。ですがクラリスならわかってくれるでしょう。私たちを困らせるようなわがままなんて言ったことの無い子ですから」

「それは、また……」

 言葉に詰まる。
 子供はわがままを言うべきだし、聞き分けの良すぎる子供が幸せに育つとも思えない――教育者として、また子を育て、孫を持つ者として、そういった理念を持つルーベンだが、相手が退学届けを出している状況で言うような話でもない。もっとも、ミレイの口越しに聞く大人びたクラリス像が真実のものなら、親相手に無理を言うことなど本当にありえないのだろうが。

(それはともかく――だ)

 ルーベンは考える。
 『クラリス・アーベントロートの親』に、クラリス・ヴィ・ブリタニアの意向を無視できるような権限があるのだろうか。
 仮に皇帝より許しを得ていたとして、この婦人――ひいてはアーベントロート子爵に、それを振るえるだけの胆力があるのだろうか。
 以前耳にしたアーベントロート子爵の評判――むろんクラリスがアーベントロートに入る前の物だ――を鑑みるに、それほどの人物とはどうしても思えない。

(もしや、殿下の素性を知らされておらぬのか……?)

 だとすれば、退学届けを受け取ることはできない。少なくともクラリス本人に意思を確かめるまでは。ルーベンはクラリスが皇女であると承知しているのだから。皇族の進退について、本人を排除した決定など下せるはずがない。

(ここは探りを入れてみるべきか)

 ルーベンは姿勢を正し、対面の婦人の顔を見据えた。

「これを受け取る前にいくつか質問をさせて頂きたいのですが、構いませんかな」

「ええ」

「では、ラウラさんはご令嬢のことをどうお考えですか?」

「どう――とおっしゃいますと?」

「何でも構いません。クラリスさんに対するお気持ちを聞かせて欲しいのです」

 ラウラは考えるように少し間を空ける。程なくして出てきたのは、何の曇りも無いまっすぐな口調だった。

「クラリスは私の宝です。もちろん、ショーケースに入れて飾っておきたいという意味ではありません。あの子のためにならなんでもしてあげたいと思いますし、実際、できるつもりでいます」

「そうとお考えでしたら、なぜエリア11に一人で送り出したのですか? しかも今になって連れ戻したいなどと」

「それは――」

 ラウラは一度言葉を切り、軽く苦笑した。

「エリア11で一人暮らしをさせたのは、あの子がそれを望んでいるように思えたからです。直接一人で行きたいと聞いたわけではありませんが、遠まわしにそう伝えたがっていると、私と夫は感じたのです。先ほども申しましたとおり、わがままなど言ったこともない子ですから、それが精一杯の自己主張だったのでしょう」

「では、連れ戻したいというのは?」

「簡単な話です。以前と今とではエリア11の情勢が全く違いますでしょう。黒の騎士団というテロリストが幅を利かせ、とても危険な状態だとしきりに報道されています。そんな場所に愛する娘を一人で置いておきたいと考える親がいますか?」

「非常に納得の行く理由ですな」

 ルーベンの目から見て、ラウラの様子には何ら不審な点はなかった。娘を愛し、その身を案ずる至極まっとうな親の姿勢を見せている。作り物めいた点は一切見受けられない。
 しかしそれこそが不審だった。ラウラは実の親ではないのだから。
 無論、養子を育てる親と実子を育てる親の間にさほど大きな違いがあるとはルーベンも思ってはいない。
 問題なのは、彼女の場合は単なる養子縁組ではないという点である。間違いなく国家の上層部が絡んでいる案件で、アーベントロート夫妻は何らかの指示を受けているはずなのだ。
 そのような不穏な娘に、通常の家庭と同じように愛情を注ぐことができるのかと考えると、どうも難しいのではないかとルーベンは結論せざるを得ない。
 にもかかわらず、ラウラの在り方はあまりにも自然――そう、自然すぎるほどに自然なのだ。逆に不自然なほどに。

(……なんとも言えぬが、やはり殿下のご意向を無視すべきではあるまいな)

 黙りこむルーベンに、ラウラは穏やかに問うてくる。

「退学をご了承いただけますか?」

「ご母堂のお気持ちはよく理解できました。私も子と孫を持つ身として共感する部分が多くございます。ですが、やはり一度クラリスさんとご相談なさったほうがよいでしょう。わがままを言わぬといっても、それが我慢していないのと同義というわけではありませんから」

「そうですか……。いえ、そうですね。心配するあまり少し急ぎすぎていたのかもしれません。娘も学園の友達ときちんとお別れをしたいでしょうし。今夜にでもユーグ――夫も交えてゆっくり話してみることにします」

「それがよろしいでしょう。ご令嬢もしっかりと納得した上でのご決断なら、学園側も快く送り出せます」

「ありがとうございます。それでは本日はこれで」

 ラウラはテーブルに置かれたままだった退学届けをバッグに仕舞いこみ、理事長室を出て行った。
 小さな音を立てて閉まる扉を眺め、ルーベンは大きく息を吐き出す。

「面倒なことになったものだ」

 クラリスの存在はアッシュフォードにとっては爆弾のようなものだ。彼女だけならさほどの問題にはなるまいが、ルルーシュとナナリーに繋がってしまう可能性があるのが限りなく危険だった。
 生きている皇族を死亡扱いにして隠していただけで反逆罪に問うのは可能だろうし、そうなればもう言い逃れなどできない。
 仮にアッシュフォードにかつての権勢があったならば、皇子皇女を秘密裏に三人も抱きかかえた状態は、使いようによっては強力な武器になっただろう。だが今のアッシュフォードに政治的駆け引きを行う力などありはしないのだ。

「大過無く済めばよいが……」

 ルーベンは最愛の孫娘の笑顔を思い浮かべ、再び重い溜息を吐いた。




 ◆◇◆◇◆




 ユーグ・アーベントロートにとって、クラリス・アーベントロートとは何かといえば、それはひどく返答に困る問いである。

 愛する娘。それは間違いない。間違いなく一つのの回答ではあるだろう。
 ではそれが答えの全てかと聞かれれば、そこでイエスと返すことは難しい。妻のラウラにとっては、きっとクラリスは最愛の娘以外の何者でもないだろう。誰に対しても――偽りようのない自分自身の心に対しても「クラリスは愛する娘です」と胸を張って宣言できるはずだ。

 しかしユーグはそうではない。外面をいくら取り繕ったところで、自分の心にだけは嘘はつけないのである。

 ユーグは決して自分が出来の良い人間だとは思っていない。むしろ、『どちらかと言えば』などと注釈を付けるまでもなく、おのれのことを無能だと認識している。
 子供の頃から貴族の生まれでなければ周囲から馬鹿にされていただろうと妄想するくらい運動が出来なかったし、勉強も良かったときで人並みの成績しか残していない。
 成長したところでそれは変わらない。自分で舵を取ったあげくに潰してしまった事業は一つや二つではないし、華々しい夜会では壁際が常に定位置だった。
 そうして、何もできないおのれを見る知人たちの視線に勝手に自分で耐え切れなくなり、自ら望んで社交界から姿を消した。

 妻との出会いはまさに奇跡だったと言える。出会いそのものが、ではない。それは父――先代アーベントロート家当主――のお膳立てでなされたもので、別段珍しいものではなかった。
 ユーグが奇跡だと感じるのは、こんなどうしようもないごく潰しの男を好いてくれる女性が存在したことに対してである。

 そしてもう一つ。
 彼女がクラリスという突然変異とも言える才能を産み落としたこと。

 ラウラは別に出来の悪い人間ではなかったが、かといって特段優れた人間でもなかった。妻という贔屓目を抜いても容姿はそれなりに整っているとは感じるものの、それだけだ。他に特筆すべき事項は無い。

 そんな両親から生まれた娘だというのに、クラリスは何をやらせても常人離れした結果を叩き出した。
 特に頭の回転は凄まじく、十歳を過ぎる頃には、家庭教師とディベートをさせようとすれば相手が逃げ出すほどになっていた。もちろんその後からは本人が必要だと言った教師以外は招かなくなっている。

 ユーグの人生に転機が訪れたのもその頃だ。
 クラリスが投資をしてみたいと言い出したのである。

 もしやと思い好きにやらせてみたところ、馬鹿馬鹿しいくらいに上手くいった。
 数年の後にはアーベントロート家の資産は何百倍にも膨れ上がり、何もしていないユーグは誰もが一目置くアーベントロート子爵として社交界に返り咲くことになっていた。
 夢でも見ているのかと今でもたまに思うほどだ。

 十を少し超えたくらいの娘が投資で大成功するなどとは誰も思わない。だから皆が勝手にユーグの手柄にする。
 しかし本当は違うのだ。ユーグは相変わらず何の取り得も無いごく潰しのユーグでしかない。才が無く、小心者で、そして卑屈なユーグのまま。

 クラリスが居るからこそ、ユーグは今のユーグでいられるのだ。
 クラリスが居て初めて、ユーグはユーグ・アーベントロート子爵たりえるのである。

 だから、ユーグにとってクラリスはただの『愛する娘』ではない。

 では何なのかと言えば。

 ――ユーグには答えは出せない。
 ただの『愛する娘』でないことはなんとなくわかる。だがそこから先に思考を進めることが出来ない。進めてはならないと無意識が制止する。
 それこそが才に恵まれなかった凡庸な一般人の限界であり――そして幸福な部分でもある。

 当のクラリスならばこう答えただろう。

『本人に自覚はないだろうけれど、きっと義父は私のことを、とてもとても大切な――『道具』だと認識しているわ。自分が望む自分であるためのね』




 ◆◇◆◇◆




 エリア11にあるアーベントロート邸には今夜、普段よりも多くの明かりが点されていた。
 理由の一つは単純で、使用されている部屋がいつもより多いということ。そしてもう一つの理由には、今日やってきたこの屋敷の所有者が貴族らしく浪費を美徳としていることが挙げられる。

 そしてその気質は行われている晩餐会にも適用されていた。
 広いダイニングのテーブルに乗っているのは在席した人間だけでは到底食べきれないであろう美食の数々である。

 かといって、その豪勢さに圧倒されるような人間はこの場にはいなかった。
 この食事会を手配したユーグはもちろんのこと、彼の行いに慣れている妻のラウラも当然のことと受け入れている。
 ルルーシュとナナリー、それにクラリスは元皇族であり、この程度で心を動かされるような育ちをしていない。もっとも、目の開かないナナリーはそもそものところでメニューの内訳を完璧には把握していないが。
 そして残る一人。
 C.C.は物事に圧倒されるという心の動きを失って既に久しい。

 そう、バーンズによって拘束されたはずのC.C.は、今自由の身となって晩餐会に参加していた。
 部外者――両親のいる家を監禁に使うことはできないとクラリスが判断し、扱いを客人へと改めたためだ。ちなみに警護の名目で何人か張り付くことになっており、かれらには脱走だけは必ず防ぐようにと言い渡されている。

 ルルーシュとナナリーがこの場にいるのもクラリスの客としてだ。

 クラリスはナナリーのことを数日前に誘拐事件に遭ったばかりで、心身ともに回復していない状態だと正直に説明した。その際に身寄りの無いことを合わせて伝え、ルルーシュともども自宅に泊めていることを無理なく両親に了承させている。
 C.C.については魔女とはいえ肉体自体は同年代の女性であるから、深く追及されるような不審な点はもともと無い。単純に友人とだけ紹介された。

 別邸に三人も客が居ると聞いたユーグ・アーベントロートは、相手が全員――彼の認識の上では――平民であるにもかかわらず、それならば皆で晩餐を取ろうと提案した。
 そして後ほど帰宅したラウラ夫人を加え、今に至る。





「――クラリス、学校は楽しいかい?」

「ええ、とても。毎日充実しています。友達もたくさんできました」

 ルルーシュは食卓につき、隣に座るナナリーの食事を手伝いつつ、偽りの親娘の会話に耳を傾けていた。

(何なんだ、この状況は)

 クラリスの両親がエリア11の邸宅にやって来たと聞いたとき、ルルーシュは危機感を抱いた。
 なぜならクラリスの両親は偽者であり、そういう任務を皇帝から与えられた――言わば皇帝直属の部下のような存在だと思い込んでいたからだ。もしそうであればヴィ家の事情も知っていることになり、ルルーシュとナナリーの正体の露見する確率が非常に高くなる。

 ――いざというときにはギアスを使わねばならない。

 そう身構えていたというのに、ふたを開けてみればアーベントロート子爵夫妻はルルーシュとナナリーに対して何の反応も示さない。あまつさえクラリスが友人だと紹介すればこうして快く夕食を振舞ってくれるほどである。

(まさか、何も知らされていないのか? クラリスのことは皇女ではなく、どこかの貴族の子女とでも? ――わからない。当面はクラリスに合わせるしか)

「ほう、クラリスには他にも友達ができたのか。いいことだ。僕は友人に恵まれなかったからね。うらやましいよ」

 平民が相手なら当然といえば当然かもしれないが、子爵はルルーシュたちにはほとんど水を向けず、娘とだけ会話を続けている。

「だけどもう充分だろう。エリア11は危険だ。EUも情勢は不穏だし、僕たちと一緒に本土へ帰ろう。そうすれば安全だ」

「おっしゃることはわかりますが、私は――」

「学校なら本国にもある。通いたいなら通っていい。クラリスならまた友達も作れるだろう」

 黙って食事を取っていたナナリーがわずかに表情を曇らせた。
 事前に軽く聞いてはいたが、やはり子爵夫妻はクラリスを本土へ連れ帰る目的でここへやって来たらしい。
 ならばナナリーはルルーシュと似た気持ちでいるに違いない。
 ルルーシュの場合は『ブリタニアはまた俺たちから奪おうというのか』という怒りもあるが――。

 ――焦りと不安。

 この二つの感情の占める割合が大きい。
 これ以上妹にこの会話を聞かせたくはなかった。

「申し訳ありません、子爵様。せっかくお食事に誘っていただいたのに恐縮ですが、妹の体調が優れないようですから、退出させていただけると」

「ああ、すまないね、気付かなくて。ゆっくり休むといい。――クラリス、いいかい?」

「もちろんです。後で見舞いに行くわ」

 退出はあっけなく認められた。
 見るからに身体的弱者だとわかるナナリーに対して無理強いをする人間はそもそもあまりいない上に、今は誘拐事件の後である。この判断は当然のものだが、それでも無礼だと言って激高する可能性があるのがブリタニア貴族である。
 少なくともルルーシュの認識ではそうだ。

(やはり善良さだけが取り柄の凡庸な男に思える。演技などできそうには見えないが――。いや、今はナナリーが優先だ)

「ありがとうございます、子爵様」

 自然と浮かんでしまった人物評を頭から振り払い、ルルーシュは礼を言って席を立った。偽の親娘に見送られながら、車椅子を押して部屋を出る。
 ナナリーも特に抵抗はしない。行動らしい行動は去り際に「申し訳ございません、ご馳走になりました」と一言挨拶をしたことだけだった。





 宛がわれた部屋に帰りつくなり、ルルーシュはナナリーに袖を引かれた。
 弱々しい力ながら、そこにははっきりと不安が滲んでいる。

「お兄様、お姉様は――。私たち、また離れ離れになってしまうのですか?」

「大丈夫だよ、ナナリー。クラリスはどこにも行かない」

「ですが、子爵様が……」

「たとえ子爵がなんと言おうと、あいつがお前を悲しませるようなことするはずが無いだろ」

 腰をかがめたルルーシュが目線を合わせて言うと、ナナリーは袖を握る手をそっと離した。

「大丈夫……でしょうか」

「ああ、何も心配は要らない」

 ルルーシュは妹の頭を優しく撫でて立ち上がると、扉の向こうを鋭く睨んだ。

(ああ、心配要らないさナナリー。いざとなれば、俺がギアスで――!)




 ◆◇◆◇◆




 翌日の放課後、アッシュフォード学園の生徒会室には生徒会のメンバーが集まっていた。
 シャーリー、リヴァル、ニーナ、スザク、それにカレン。ルルーシュとクラリスは不在だった。

「――クラリスが退学!?」

 生徒会メンバーの唱和する声を聞きながら、ミレイはやっぱりこうなるか、と考えていた。
 祖父から聞いた退学届け提出の一件について話そうとした途端、この騒ぎだ。

「まだ正式に決まったわけじゃないんだけどね。昨日親御さんが学校に来て退学届けを出そうとしたって」

 そう付け加えると、メンバーたちはミレイの方に歩み寄ってくる。

「何でそんなことになるんですか! 何も問題なんて無かったでしょう!?」

 叫ぶようなリヴァルの言葉に、全員が頷く。

「問題のある無しじゃなくて。ほら、エリア11って最近危ないじゃない? 黒の騎士団の活動が活発になって来てるし。ご両親はやっぱり心配で、本国に連れて帰りたいみたい」

 ミレイの返答を聞くと、皆が言葉を失って重い息を吐いた。カレンとスザクの表情は一際苦く見える。
 黙り込む一同の中、ニーナが顔を上げて聞いた。

「クラリスは――クラリスはなんて言ってるの?」

「本人はアッシュフォードに残りたいって言ってるみたいなんだけど。でもそれだけで親御さんを説得できるとは思えないし……」

 アッシュフォード学園に通っている生徒の大半は、親の仕事の都合でエリア11に滞在することを余儀なくされている家庭の子供で、何の事情もなしにわざわざ本国からやってきている者は皆無に近い。
 自分たちがエリア11に住んでいる以上、願望も込めて、そこまで――本土に帰らなければならないほどに危うい状態だとは誰も考えていないが、比較したときにこちらのほうが危険なのは言うまでもない。
 安全な本土に住めるのならそちらのほうがいいというのは当たり前なのだ。特に情勢が不安定になりつつある昨今では。

 クラリスの両親の弁はまっとうすぎるほどにまっとうだった。何の反論の余地も無いほどに。
 ゆえにこそ室内の空気は重い。

 十代後半という年頃は、大人の理屈が充分に理解できて、それでもうまく納得できない年代である。
 仲間が去ってしまうと聞いても、その理由が正当なものだったら、子供のように駄々をこねることはできない。かといって『家庭の事情なら仕方ない』と簡単に受け入れられるほどに大人でもない。そういった微妙な年齢なのだ。

 けれど。

 ミレイは自分たちの歳が、大人の理屈に対して『納得したくない』とわがままを言っても許されるギリギリの年代でもあるとも知っていた。
 口癖のように『モラトリアム』と口にするのはそのためだ。タイムリミットが近いとわかっているからこそ。

 だからこそ、今の自分に許される手段で仲間を助けたいと思う。

「ね、みんなクラリスにはまだここにいて欲しいって、思ってるよね?」

「当たり前です! でもそんなこと言ったって……!」

 拳を握って俯くシャーリーに、ミレイはできるだけ茶目っ気たっぷりに言った。

「私に一つ考えがあるんだけど――どうする?」




 ◆◇◆◇◆




 C.C.はクラリスの居室でベッドに腰掛け、クッションを胸に抱いていた。部屋には他にもう一人、パソコンデスクについて思案顔をしているクラリスがいる。
 ナナリーは自室で休んでおり、ルルーシュは遅れてしまったゼロの活動のツケを取り戻すべく、黒の騎士団に赴いているところだ。

 C.C.が手持ち無沙汰に髪の毛を弄っていると、クラリスが苛立たしげな息を吐いた。

 その様子を見て、C.C.は思案する。

 ――こいつは今、何をもって自分が『生きている』と認識しているのだろう。

 自らを死人と称していた頃のクラリスはこんな風に無防備な感情を表に出すことはなかった。実際にどう感じていたのかまでは知るよしもないが、少なくとも他人に気取られるほどの熱は――そう装っているのでなければ――なかったはずだ。
 そのクラリスが、これほどまでにわかりやすく焦燥を表に出している。

 この変化がどこから来ているのか。

(それがわかれば、あるいは――。いや、考えても仕方のないことか)

 精神に干渉するギアスに外側から手を加えるのは難しい。
 コードを持つC.C.ならば、超常の手段を用いて契約者の内面に方向性のある刺激を与えることも可能だが、それは所詮切っ掛けにしかならない。本人に抵抗の意思が無ければ呪縛を解くには至らないだろう。
 そもそも、C.C.にはクラリスに掛けられたギアスを解くメリットが無い。契約した以上はギアスを行使してもらわねばならないのだから。死人に戻ってもらっては困るのだ。

 思索を打ち切って契約者の少女に再び視線を向けると、クラリスはそれに気付いてか椅子を回してC.C.に向き直った。

「参ったわ」

「育ての親のことか?」

「まさかあの人たちがエリア11に来るなんて。完全に不意打ちよ」

 どうやらクラリスはアーベントロート子爵夫妻の扱いに苦慮しているらしい。
 昨日の夕食時の話では、クラリスにきちんと納得してもらってから退学手続きをするという一応の結論が出ていたが、だからと言って永遠に先延ばしできるものでもない。
 これは理性的なクラリスなら数日中に気持ちの整理を付けるに違いないと向こうが信頼しているからこその判断でしかなく、本当に娘の意向を尊重しようなどとは考えていないはずだ。
 となれば何らかの対応は必須。
 何も知らない一般人が身近にいるとなれば、動きづらくなるのは考えるまでもない。すでに影響の一つとしてC.C.が解放されている。
 この邸宅を拠点のひとつにしようと考えていたのなら、波紋の大きさは計り知れない。

 ただ、それはクラリスにとっての事情である。
 傍若無人の魔女たるC.C.には関係のないことだった。

「いい親じゃないか。ちゃんとお前を愛してくれている」

「冗談に付き合っている暇は無いわ」

「冗談を言っているつもりはない。今の情勢でエリア11に直接乗り込んでくるなんて、以前お前から聞いた腑抜けの親には不可能だろう?」

 他人事のように軽く言うC.C.に、クラリスはわずかにまなざしを強めた。

「だから何?」

「その腑抜けを後押ししたのはお前への愛情だよ」

「違うわ。お義父様にあるのは執着よ。愛情じゃない」

「似たようなものだろう。愛情があるから執着が生まれる。矛盾もしない」

「愛情が無くても執着は生まれるわ」

 クラリスは鋭く言い切った。
 C.C.にはその語調がこの少女には珍しい頑なな姿勢を表しているように感じられた。死んでいたはずの過去のクラリスが、自らの内面に踏み込まれそうになった際に見せた強硬な態度と同じく。

 C.C.の見たところ、アーベントロート子爵夫妻は皇帝シャルルのギアスに掛かっている。もちろんクラリスも承知しているだろう。
 その効果は記憶を書き換えること。
 あの哀れな夫婦はシャルルによってクラリスを実の娘だと思い込まされている。

 ただし、皇帝のギアスはルルーシュのものとは違い、意思を捻じ曲げるものではない。
 書き換えられた記憶を持った上でどう行動するかは本人たちの自由となる。

 たしかにかれらは八年前、『クラリスを愛する親』という役割を与えられたのだろう。
 しかしそこから現在までのアーベントロート一家の関係性に、ギアスの介在する余地はないのだ。
 良好な関係が築けたにしろ、そうでないにしろ、それを為したのはクラリスも含めたかれら自身の業である。

 興味深げに目を細め、C.C.は言う。

「まあいいさ。他人の心など推測しても水掛け論にしかならん」

「そうね、やめましょうか」

 クラリスが同意して頷いたのを確認し、C.C.は再び口を開いた。

「それで、何をそんなに苛立っている。ルルーシュにギアスを掛けさせれば済む話だろう」

「駄目よ」

「なぜだ」

「両親のことは私の問題だから。自分で片をつけないと」

「ルルーシュと同じだな。詰まらんところでプライドにこだわる」

 C.C.は呆れたように言った。
 どうしてこの兄妹はこうおかしな部分で融通が利かないのだろうか。いつもながらそう思う。そこが面白い部分でもあるのだが。

「ならばほかの手を使えばいいだろう。お前ならいくらでも考え付くはずだ。まさか何も策が無いとでも言うつもりか?」

「それは――たしかにそうなんだけどね……」

 クラリスは逡巡するようにC.C.から視線を外す。そして考え込むように黙り込んだ。
 いや、実際に深く思考を回転させているのだろう。どこにも焦点を合わせない視線はクラリスが沈思しているときのサインだ。

 クラリスの中ではいくつかの対処法が既に浮かんでいるはず。その内の全てに何らかのデメリット、問題点が存在している。ゆえに取るべき一手を決めかねているのだ。
 どれが一番良い手なのか、あらためて検証しているのだろう。

「――くっ」

 C.C.の観察する前で、突如クラリスの秀麗な顔が歪んだ。苦痛に耐え忍ぶ負傷者を思わせる苦悶の表情だ。

「いきなりどうした?」

 問いかけに気付いた様子もなく、クラリスは両手で頭を抱えて身を屈ませる。その唇は苦しげに何かをつぶやいていた。

「わた……しは……」

「どうした? おい?」

「いや……わたしは……やり、たく……っ!」

 C.C.はハッと目を見開く。

(こいつ――まさか抗っているのか!? ギアスに!)

 そうに違いあるまい。

 おそらくは感情を排した場合の最も効率的な手段が何なのか、それが確定したのだろう。そしてその手が『死んでいる』クラリス――つまり本来のクラリスの心情的には一番取りたくない方法なのだ。
 そこをルルーシュのギアスが捻じ曲げようとしている――。

 ギアスに掛かっている自覚があるからなのか、『生きろ』の文言があいまいすぎて強制力に欠けるのか、はたまた強靭な精神力のなせるわざか、今のクラリスは明らかにギアスを跳ね除けようと足掻いていた。

 C.C.は驚愕に包まれながら、静かな攻防を見守り続ける。
 手を出すことはできなかった。
 正直なところ、自分がどちらを望んでいるのかもうまく理解できてはいなかった。
 ギアスに屈服して欲しいのか、それともギアスに打ち勝って欲しいのか。

 もしもクラリスがギアスを克服するのであれば、C.C.は奇跡の瞬間を目の当たりにすると同時に、契約履行の可能性の大部分を閉ざされてしまうことになる。ルルーシュがあの調子な以上、クラリスが再び生きることをやめれば、契約が果たされることなどほとんどありえなくなるだろう。
 そうと知りつつも、ただ盲目的にクラリスの敗北を望むこともできなかった。
 どうしてかできなかったのだ。

 C.C.が固唾を呑んで見守る中、やがて少女の内側で行われていた壮絶な戦いは終焉を迎える。

 クラリスは大きく深呼吸をすると、自分の手で乱してしまった頭髪を手櫛で整えた。立ち上がってC.C.を一瞥する。

「見苦しい姿をさらしてしまったわね。でももう大丈夫。迷ってなんかいられないわ。私はクラリス・ヴィ・ブリタニアなのだから」

 堂々と言い切った口調と同様、その表情には確固たる決意と自信が浮かんでいる。
 しかしそれらはかつてのクラリスからは縁遠いものである。

(やはり……駄目だったか)

 C.C.は深く息を吐いた。
 それが安堵の吐息なのか憂いの溜息なのか、自分でもわからないまま。




 ◆◇◆◇◆




 黒の騎士団のアジトの一つ、巨大なトレーラーの一室で、ブリタニア人の男が携帯電話を手にしていた。
 ディートハルトである。

 宗主国の人間ということで入団当初は団員たちからの明らかな隔意を感じていたが、それも少しずつ薄まりつつある。
 スパイの疑惑を拭えたか、もしくはスパイであっても構わないとされるだけの存在感を示せている証拠だろう。情報分野でゼロの言う『結果』を出しているのは間違いないし、実際、仮面の指導者からは信頼の言葉を賜っている。
 こうして直通の回線での通話が許されているのも証拠の一つと言えるに違いない。

 そう、電話の相手はゼロである。
 内容はアジトに常駐できない身の上であるらしい指揮官への現況の報告だ。ここ数日は姿を現していたものの、相手をせねばならない人間はディートハルトだけではなく、充分な時間が取れていなかった。

「――キョウトとインド軍区の間で話がついたため、あとは開発チームとラクシャータの到着を待つだけです」

『黒の騎士団の組織再編はどうなっている』

「組織の細胞化は現在92パーセント。構成員も階層1から14まで割り振ってあります。ゼロの指示通り、ブリタニアの所有する倉庫にも協力員を送り込みました――」

 ディートハルトは資料に目を通しながら淀みなく報告を上げる。
 ゼロからは特に問題点の指摘はない。どうやら全てに及第点をつけて貰えたらしい。

『やはりきみは優秀だよ。冠絶している』

「――っ、ありがとうございます!」

 ディートハルトは一瞬言葉につまり、感極まって礼を述べた。
 自分でも意外に感じてしまうほど、この仮面の指導者に心酔してしまっている。

 ディートハルトの生涯において、これほどまでにおのれを魅了した存在はいなかった。
 この男の行く末を、未来を、物語を、見たい。そして撮りたい。
 その欲求の前ではもはやブリタニアへの忠誠などゴミに等しいものになってしまっている。
 この先もどんな汚い工作だろうとやってみせる自信があった。

 喜びを押し殺し、ディートハルトは最後の報告を伝える。

「それと、藤堂と四聖剣についてはまだ捜索中です」

 すると電話の向こうから意外な答えが返ってきた。

『その件だが、私に心当たりがある。直属の協力員から情報提供があった』

「直属の――ですか?」

『何か問題でも?』

「いえ、決してそのような……」

 問題はない。問題はないが、疑問ではあった。
 いったいゼロはどのような伝手でそういった協力員を得ているのだろうか。

 ディートハルトは黒の騎士団内の情報の大部分を統括する立場になっており、そういった方面に関しては最も詳しいという自負がある。加えて、自身がブリタニアのテレビ局員で、個人的にブリタニア軍人ともパイプを持っている。
 そのディートハルトでさえ知りえない情報をもたらす者とはいったい何者なのか。
 少なくともその辺の一般人でないことは確実、下手をすればブリタニア軍内でもかなりの地位に立つ人間の可能性がある。

 そのような人物をどうやって篭絡したのか。

(やはり、ジェレミアとヴィレッタの推測は正しかったということか――)

 ディートハルトは以前、ジェレミアとヴィレッタから男子学生の調査を依頼された際、その生徒に人を思い通りに操る超能力のようなものが備わっているのではないかとほのめかされた。
 荒唐無稽な話だという自覚はあったのだろう、あいまいな表現に終始していたが、総合すればそういう結論になる。
 もしその学生がゼロで、なおかつ本当にそのような不思議な力を持っているのだとしたら――。

(ならば素晴らしい! そう、世界の前では人は駒でしかない! まさにカオスの権化だ!)

 人の尊厳そのものとも言える自由意思をむりやり奪い、思うままに操って自らの駒とする。
 人を人とも思わぬ悪魔の所業。

 それはディートハルトの崇拝をさらなる強固なものにする材料にしかならなかった。
 彼の撮りたい物は人ではないのだ。時代を代表する人間でもまだ足りない。時代そのもの――その人物こそがイコール時代である、そう評せるほどの超人的存在の軌跡をカメラに収めたいのである。
 人の枠を超えた英雄、メシアの如き神人。あるいは全世界を恐怖で統べる魔王であっても構いはしない。

 ただ、おのれの価値観が一般から逸脱しているという自覚を正しく持っているディートハルトは、絶対にこの秘密――ゼロの名声を落とすような秘密は秘匿し続けねばならないとも理解していた。
 内心を押し隠し、静かに尋ねる。

「では、藤堂の居場所は」

『潜伏場所まではわからない。わかったのは藤堂と四聖剣の合流地点だ。枢木ゲンブの墓。そこに奴らは現れる。時間までは指定されていない。隠密行動のできる人員を手配して動きがあるまで張り込ませろ。確保にはナイトメアの使用を許可する」

「かしこまりました、ゼロ」




 ◆◇◆◇◆




「――ただし、ブリタニア軍部から奪った情報だということは忘れるな。あちらもこの機会を狙っているはずだ。周囲の警戒は決して怠ってはならない。いいな?」

 ルルーシュはアッシュフォード学園のひと気のない校庭の隅で、ディートハルトと連絡を取っていた。
 今日はあいにくの悪天で、ざぁざぁと傘を打つ雨音がうっとうしいことこの上ない。とはいえ、誰かに聞かれる危険性を考えれば見通しのいい外に出るのは必須とも言える。

 全ての用件を話し終えると、ルルーシュは電話を切って生徒会室へと足を進めた。

 ディートハルトには今回の情報はブリタニア軍からもたらされた物だと伝えたが、実際は違う。藤堂と四聖剣の合流予定地を知らせてきたのはクラリスだ。
 情報の入手方法は不明ながら、優秀な妹の言うことだから信頼性は高い。間もなく藤堂たちはゼロの手に落ちるだろう。

(これで駒は揃った。あとはラクシャータさえ到着すれば全ての条件はクリアされる)

 懸念事項があるとすればナナリーの安全か。
 ゼロとしての活動が大規模化していく今後、ルルーシュは愛する妹のそばに付いていられない時間が増えていく。戦乱に身を投じるのだから、命を落とす可能性だって充分に考えられる。
 となれば、自分の代わりにナナリーを守る騎士として誰かを配置しなければならない。

 その人物として、ルルーシュはスザクを候補に上げていた。

 ナナリーとスザクは八年前から仲が良かったし、今も関係は良好だ。マオにさらわれる以前は二人で談笑する姿もしばしば見られていた。

(ナナリーを守る騎士。その人間にとってナナリーが生きる目的になるのなら――)

 それが一番良い。ルルーシュはそう考えていた。

 ただしそれは少し前までの話。
 今は事情が違う。

 クラリスが皇帝に弓を引く決意をしたからだ。
 彼女は――ギアスに掛かっているせいだというのがひどく心苦しいが――ブリタニア皇帝になると言った。そしてナナリーが幸せに生きられる世界を作ると。
 そのための前段階として、クラリスは充分な影響力を持って宮廷に復帰する。八年前に父皇帝から『死んでおる』と評された無力な皇女ではなく、独力で凛と立つ有力な皇位継承権保持者として。
 そうなれば、もはや庇護下のナナリーを政治の材料にするなどということが軽々しくできるはずがない。目も見えず、足も不自由な皇女が皇位継承争いで他の候補者の障害になることはありえず、ゆえに暗殺の心配も限りなく低い。
 クラリスに対する武器として利用しようと考える人間はいるだろうが、そう予想できる時点で、彼女はその対策に万全を期す。そんな工作を絶対に許すはずがない。

(クラリスに任せておけばナナリーの安全は確保される。他に問題があるとすれば――)

 アーベントロート子爵夫妻の存在。
 かれらの来訪はクラリスにとっても完全な不意打ちだったようだ。いくらか悪影響はあるだろう。
 ただ、これについてはあまり心配していない。始めは予想外の展開で動転したものの、一晩経つ頃には冷静に考えられるようになっていた。

(クラリスなら既に何らかの対応策を講じているはず。何も言って来ないということは問題にならないと見ていい)

 それに、いざとなればルルーシュのギアスがある。
 仮に夫妻が皇帝直属の情報局員だったとしても、絶対遵守のギアスさえあれば篭絡できるのだ。
 もっとも、ルルーシュの人物眼はかれらが特殊工作員である可能性は限りなく低いと告げていた。おそらくはクラリスのことを皇族と聞かないまま、金を積まれて両親役を請け負った馬鹿な貴族だろう。

(大丈夫だ。全ては順調に進んでいる)

 状況を整理している内に目的地に到着していた。
 ルルーシュは生徒会室の扉を開ける。

 すると、目に飛び込んできたのは珍しく真面目な顔で意見を戦わせる生徒会メンバーの姿だった。

「なんですか? この騒ぎは」

「もう、何やってたのよルル!」

「クラリスのピンチだってのに、お前遅すぎ。昨日も用事だとか言って顔出さないで」

「ピンチ?」

 怪訝な顔をするルルーシュに、ミレイが答えた。

「本人から聞いてないの? お母様が退学届けを出しにきたって」

「ああ、そのことですか」

 安堵したルルーシュが軽く返すと、スザクが神妙な口調で言ってくる。

「知ってたなら何でそんなに暢気に構えてるのさ、恋人なのに。クラリスが居なくなってもいいって言うの?」

「そうじゃない。少し前からナナリーが体調を崩しててさ。ちょっと大変だったから」

 数日前の誘拐事件については誰にも話すまいと決めていた。
 マオの殺害に関してはギアスを掛けた人間に自首をさせており、クラリスが罪に問われる可能性は皆無に近い。だからと言って進んで話したい話題でもなかった。
 犯罪被害など一般的にも人に言いふらしたいものではないだろうから、たとえ隠していたことがばれたところで特に不自然でもあるまい。
 そういった判断がある。

 ルルーシュの言葉を受けて、スザクは心配げな顔になった。

「ナナリー、まだ良くならないの?」

「もうほとんど良くなってる。今は大事を取って休ませてるだけだ」

「そう、なら良かった」

「だったらクラリスでしょ!」

 リヴァルが興奮気味に声を上げる。
 それをスルーしてルルーシュはミレイに体を向けた。

「クラリスと今のこの状況、いったいどんな関係があるんです? 会長」

 話を振られたミレイは、待ってましたとばかりに意味ありげな笑顔になる。

「副会長回復記念イベントってあったじゃない?」

「ああ、一日授業を潰してスポーツとバーベキューをやるってやつですね」

 ルルーシュに無茶振りされた企画は紆余曲折を経て無難なところに落ち着いていた。
 しかし。

「あれ無しになったから」

「は?」

「もっと健全なイベントにしまーす」

「健全って……正気ですか?」

 ミレイの口から『健全』。頭がおかしくなったかとルルーシュは思う。
 元のスポーツとバーべキューにしても、いつだったか『ぱーっと外でやれるイベントがしたい』と言っていたシャーリーの意見を出発点にして順調に企画が進んでいたところに、ミレイがどうせなら着ぐるみでやりたいだの、目隠しビンゴカップルゲーム――これについての詳細はルルーシュも知らない――を混ぜたいだの無茶苦茶言って来るのを宥め、なんとか軟着陸させたという経緯がある。
 もっともミレイはルルーシュに秘密で何かのネタをプログラムの途中に仕込んでいたようだが――それはまぁいい。
 ともかく、ミレイ・アッシュフォード会長の立てる企画は普段から奇天烈極まりなく、『健全』などとは間違っても言えない類のものばかりなのである。

 リアクションに困るルルーシュに、ミレイはフッと苦笑して見せた。

「そりゃあ、ガラじゃないって自分でも思うけどさ。私たちからアピールできるのって、こういうことくらいしかないじゃない」

「アピール?」

「そ。アッシュフォード学園はこんなにいい学校なんですって。クラリスはこんなに充実した学園生活を送っているんですって。そういうところを見せられたら、クラリスのご両親も考えを変えるんじゃないかと思って」

「会長……」

 言葉に詰まる。
 唐突に、ルルーシュの胸に込み上げて来るものがあった。
 クラリスを気遣うミレイの柔らかな表情を目の当たりにして。その優しい声音を耳にして。
 周りを囲む生徒会の仲間たちの姿を見て。

 なぜだか急に実感したのだ。

 ここは自分たちの居場所だったのだと。
 自分とナナリーの居場所であり、クラリスの居場所でもあったのだと。

(だが、俺は――)

 ルルーシュは自らこの場所を捨てる決意をし――そして捨て去る気のなかったクラリスにはギアスの力で無理やりその決断を強いた。
 無意識の内に握られていた両の拳に力が篭る。

 本来であればこの相談にはクラリスも参加していたのかもしれない。
 その『if』の光景がルルーシュには簡単に想像できる。

 ミレイの無茶を宥めるクラリス。
 カレンやシャーリーと笑い合うクラリス。
 ニーナにそっと微笑みかけるクラリス。
 リヴァルとスザクをからかって笑うクラリス。

 一瞬のうちに幻視された風景は、しかし現実のこの場には存在しない。

 ――そんな現実は存在しないのだ。

 膨れ上がる罪悪感を精神力でねじ伏せる。
 咎人のおのれには、もしもの幻想に浸って立ち止まる権利などない。
 自らが敷いてしまった残酷なレールの上を歩き続けるしかないのだ。

 ルルーシュは内心の懊悩を完璧に押し隠し、代わりに晴れやかな笑顔を作った。
 これが贖罪なのだと自分に言い聞かせながら。

「とてもいい考えだと思います。もちろん俺も協力しますよ」




 ◆◇◆◇◆




 メンバーの帰った後の生徒会室。
 照明は点けられていない。窓から入ってくる弱々しい外灯の明かりだけが室内を照らしていた。昼から降っていた雨はいまだに止む気配を見せず、BGMのように小さな雨音を部屋に響かせている。
 物寂しい薄闇の中、椅子に座ってテーブルの上を見つめる一人の少女がいた。

 ニーナである。

「クラリス――私、どうしたら……」

 ぽつりと呟く。

 ニーナ・アインシュタインにとってクラリス・アーベントロートという存在が何なのかと聞かれれば、おそらくニーナは『友人』と答えるだろう。そうとしか答えられるはずがないし、周囲の皆もきっとそう捉えているはずだ。

 でも、ニーナはそれが全てではないとも知っている。
 人前に出ると気の小ささからすぐに混乱したり、感情に振り回されて自分を制御できなくなったりしがちな面があるけれど、それでもニーナは高校生の若さにして日の当たらない科学分野の研究ができるくらいには科学者の気質をしていた。だからこうして静かな状況に身を置くと、頭が冷静になっていろんなものが見えてくる。
 あるいはそれは自分自身の心であったりもする。

 ニーナはこれまで、この気持ちを敢えて直視しないようにしていた。単純に、認めたくなかったからだ。

 初めてクラリスを友人以外として意識したのは、ホテルジャック事件のときだった。

 恐怖の象徴のようなイレブンのテロリストに引っ立てられて、今にも殺されそうになっていたとき――もう助からないと絶望しかけていたまさにその瞬間、クラリスは立ち上がってニーナの身代わりになると宣言した。
 何が起こったのかわからなかった。
 けれど、少しして事情が飲み込めると、テロリストを前に堂々と立つ友人の姿が、皇女様にも匹敵する高貴なものに見えた。もともとの非凡な美貌もあいまって、光輝く女神様のようにさえ思えた。
 だって彼女は自身の命を犠牲にしてニーナを――こんなどうしようもない、顔も心も綺麗なんてとても言えない自分なんかを救うと言ってくれたのだ。

 そんなこと、普通の人間にできるだろうか。
 できるはずがない。

 その後だってニーナは心の中でさえクラリスにお礼を言うことも謝ることもなく、解放されるまで自らの安全について考えることしかできなかった――自分はそれほどまでに醜い人間だというのに。

 事件後にニーナがクラリスとうまく接せなくなったのはこのせいだ。
 自分みたいな汚い人間が彼女に触れようなんておこがましい。
 そんなことで彼女の神性が揺らぐはずはないけれど、でもニーナ自身がその行為を認められなかった。

 ――そう、思っていた。

 いつからだったのだろうか。女神様を人の身に貶めて、恋慕の情を抱くようになったのは。
 正確にはわからない。ひょっとしたら始めからだったのかもしれない。

 ニーナが第四皇女殿下に会ってお礼を言いたいと考えたのは、ユーフェミア殿下のお姿を間近で見て、敬愛を新たにしたいと思ったからだ。

 ホテルジャックの際、再度イレブンのテロリストに目をつけられた自分を救ってくれたのは、今度は皇女殿下だった。感動し、感激し、素晴らしいお方だと思った。
 ただし、それだけだった。
 ユーフェミア殿下は自らの地位を交渉材料にニーナを助けてくれただけで――その時点で畏れ多く、とてつもない出来事だとは理解しているものの――別にクラリスのように命を投げ打ったわけではない。穿った見方をすれば、身分を明かしたことで逆に突発的に殺害される危険性が減ったとも言える。

 事前のクラリスの行為がなければ、もしかするとユーフェミア殿下のほうを女神様のようだと崇め奉っていたかもしれない。
 でも実際のニーナは第四皇女殿下ではなく、ただの学生のはずのクラリスのほうにより深い神性を感じてしまったのだ。

 ただ、尊崇の念なんか友人相手に持つものじゃないし、持っていたらうまく付き合っても行けない。だからユーフェミア様にそれを移そうとした。
 皇族への憧憬に転嫁して、クラリスとはなんとか友人として接していきたいと思って。

(でもきっと――)

 それは欺瞞だ。嘘だ。

 自分を騙すための嘘。

 本当は、ずっとクラリスが好きだったのだ。ずっとクラリスを性愛の対象として見ていた。
 相手は女神様なのに。
 そんな感情を持っていい相手じゃないのに。醜悪な人間でしかないニーナなんかで釣り合いの取れる相手じゃないのに。

 女神様を対等の位置にまで引き摺り下ろし、浅ましい情欲をぶつけたいと願っている――その事実を認めたら、もっと自分が汚れてしまう気がして。

 だから代わりにユーフェミア様を好きになろうとしていた。
 皇女様への憧れならいくらでも誤魔化しが効くし、相手が日常的に視界に入ってくるわけでもない。
 そうすることができれば、こんな醜い感情はいずれ薄れて消えていってくれるだろうと。

「なのに――」

 何も――まだ何も整理できていないというのに、クラリスが目の前から去ってしまうかもしれない。
 いや、去ってしまうのだろう。ミレイたちがいろいろと頑張っているのはわかるが、ニーナはそれで両親の翻意が促せるなどとはほとんど思っていない。

「どうしたら……」

 言いようのない焦燥が湧き上がる。
 だって必要なのだ。クラリスが。
 気持ちの着地点がわからないままでも、それは断言できる。

 ニーナにはクラリスが必要なのだ。

 世界の誰よりも光り輝いていて、それなのに自分なんかのことをお世辞でも可愛いと褒めてくれて。認めてくれて。
 会えなくなると想像しただけで目の前が真っ暗になる。全身が引きちぎられそうな気がする。
 連れ去ろうとする両親が――彼女の親だとは理解していても――憎らしくて仕方ない。

「どうして、こんな――」

 こんなひどいことが起こるのだろう。

 そう思いつつ、何気なくテーブルの上を眺め――ニーナはある一点で目を止めた。
 少し前まで生徒会メンバーが行っていた作業はまだ途中の状態で、軽く片付けられただけのテーブルにはいろいろなものが乗っている。
 薄いブルーの瞳が捉えているのは、どこにでもあるありふれた文具だった。

 カッターである。

 ニーナは細い指をそろそろと伸ばし、冷たいプラスチックの感触を手の中に収めた。

 別にそれで何かをしようと考えたわけではない。
 ただ、なんとなく思った。

 ――クラリスの親に会わなきゃ、と。




 ◆◇◆◇◆




 アーベントロート邸の豪奢なリビングでは、珍しい光景が展開されていた。
 きらめくアッシュブロンドをなびかせる少女がヴァイオリンを弾いている。

 旋律に聴き入っているのは、良くも悪くも目だったところのない五十がらみのブリタニア男性――ユーグ・アーベントロートと、その妻ラウラである。

 やがて艶やかなヴィブラートで歌い上げられた演奏に、ユーグは惜しみない拍手を送った。
 一定のレベルを超えてしまうと演奏の良し悪しなどほとんどわからなくなってしまう彼にとって、大切なのは娘が自分たちのために曲を聴かせてくれたという事実そのものである。

「いい演奏だったよ。音楽の素養がないから他に褒め方がわからないけど、とにかく素敵だった」

「ええ、ありがとうクラリス。でも貴女、少し怠けていたでしょう? 私の耳は誤魔化せないわよ」

 ラウラの言葉に、少女――クラリスはばつの悪そうな笑顔を見せた。

「ごめんなさいお母様。あまり時間が取れなくて」

「学校が楽しかったから?」

「そうです。みんな良くしてくれて。それに全部初めてのことだったから、私本当に楽しくて」

「そう。いい学校なのね」

 親しげに交わされる親娘の会話は、割って入った使用人の声で中断された。

「――お嬢様」

「どうしたの?」

 クラリスが顔を向けると、使用人の女性は手にしたインターホンの受話器を示す。

「ご来客です。アッシュフォード学園のニーナ・アインシュタイン様と」

「お友達かい?」

 尋ねる父に「そうです」と返し、クラリスは部屋の入り口へ進んだ。
 インターホンの画面を見ると、ここまで雨に打たれて来たのだろう、ずぶ濡れになった緑髪の少女の姿がある。不自然なまでに神妙な顔には血の気が薄く、目の下にはうっすらと隈も浮かんでいる。明らかにただごとではない様子だ。
 クラリスは用件を聞く前に一方的に告げた。

「すぐに行くわ、そこにいて」





 しばらくして、アーベントロート邸の宿泊客は一人増えることになった。

 体の冷え切っていたニーナをとりあえずクラリスが風呂に入らせ、その後に二人きりで用件を聞く運びとなったのだが、いつにも増してか細い彼女の声は、要領を得ないことを呟くばかりだった。
 具体的な用事があったのかどうかすら定かではない様子で、この状態で放置するのはさすがにまずいと感じたクラリスが自室に泊めることにしたのである。

 ――という経緯を、ニーナは半分夢の中のような心地で思い返していた。

 クラリスの家に一人で来たという緊張もあったし、彼女の両親に会わなければならないという決意も心の負担だったし、かばんの中に忍ばせたカッターを思えば余計に心拍数は上がる。

 現実感が薄い。

 ベッドの上で身を起こし、ニーナはそう感じた。
 とても着心地のいい、それでいて全く着慣れない感触のパジャマを着ていることも理由の一つだろうし、いつもとは違う空間に身を置いているのもまた理由の一つだろう。

 それに。
 隣に目をやると、暗い部屋の中、静かに寝息を立てるクラリスの姿があった。

 ニーナ・アインシュタインが、クラリス・アーベントロートと同じベッドで寝ている。

 現実なわけがない。現実であっていいわけがない。

 いや、ニーナの感覚器、五感の全てが、これは現実だと告げている。
 それを正しく認識していてなお、煮詰まって湯立ちきった頭はこれを夢幻の世界の出来事のように感じさせていた。
 なぜなら、そう思わなければやれない――自分の思いつきを実行に移せないから。

 ニーナはなるべく振動を立てないよう、静かにベッドを降りる。足音は高級な絨毯が完全に消してくれた。
 屋敷の中は完全に寝静まっているらしく、耳に入ってくるのはしとしとと小さく響く雨の音だけだ。
 入り口のそばに置かれていた通学かばんをそっと開け、中からカッターを取り出す。

(私が――私が、やらなきゃ)

 これは人の皮膚だって簡単に切れるけれど。頚動脈を狙えばたぶん殺すことだってできるけれど。
 でも平気。
 だって、使おうと思ってるわけじゃない。
 これからするのは話し合いだ。ちょっと話をするだけ。
 だから、これは交渉のための道具。ただそれだけのもの。

 言い聞かせ、口内に溜まった唾を嚥下した。
 片手にカッターを握り締め、震える手でドアノブを掴む。

 ――瞬間、ヒッと喉が鳴った。

 肩に乗せられた感触がある。柔らかな人肌のぬくもり。
 ゆっくりと視線を移すと、繊細な女性の手があった。

「ニーナ」

 呼びかけられ、振り返る。
 女神のように美しい人が、咎めるでもない、優しい瞳でこちらを見ていた。
 ネグリジェに包まれた女性的な体が、そっとニーナを抱きしめる。

「大丈夫、私はここにいるわ。どこにも行かない」

 耳元に聞こえる、聞きなれた少女の声。
 その穏やかな音色は、緊張で強張った心をそっと解きほぐしていくかのようだった。
 両手から力が抜ける。手の中から滑り落ちたカッターが絨毯に当たってこつりと小さな音を立てた。

「……本、当?」

「貴女が私を見限らない限り、私は貴女のそばにいる」

「そう……そうなんだ……」

 クラリスの言葉が真実かどうかなんて、当然ニーナにはわからない。
 ただの気休めに過ぎないのかもしれない。
 それでも、張り詰め過ぎて正常な判断力を失っている頭には充分に響いた。
 ニーナだってこんなことをしたいと思っていたわけではないのだ。よくわからない強迫観念に駆られて先走ってしまっただけで。
 その異常な使命感から解放されただけで、全身に安堵が満ちる。

 視界がにじんだ。瞳に溜まった雫が頬を滑り落ちていく。
 へたり込みそうになる体を、クラリスが一際強く抱きしめた。

「ニーナ、ホテルジャックのとき、私がどうして貴女を助けたいと思ったか、わかる?」

「……わからない。私なんて……こんなことしちゃうような、ばかで……どうしようもない人間なのに」

 嗚咽まじりにとつとつと話す。次から次へと涙があふれてうまく言葉にならない。

「あの日言ったでしょう。貴女たちと過ごす時間は、何にも変えがたい宝だって。ニーナのことを絶対に失いたくないと思った。貴女だったから、私はああする勇気が持てた」

「……嘘。クラリスは優しくて、強くて……私じゃなくったって……」

「そんなに自分が認められない?」

「だって……かわいくなくて……卑屈で、卑怯で……こんな自分なんか――」

「そんなことないわ。貴女はとてもかわいいし、自分を卑怯と言えるのは他人を思いやれる証拠」

 穏やかな口調でかけられる声を聞きながら、これではいけないと思う。
 自分は彼女の優しさに甘えて、そこに溺れてしまいそうになっている。
 クラリスに好いてもらう資格なんてないのに。そんなことが許されるような綺麗な人間じゃないのに。

 ニーナは脱力した肢体に鞭打って、自らを抱擁する温かい腕から身を離した。
 泣き腫らした目で対面に立つ少女の顔を見る。
 本当に、女神様のように美しい。心の底からそう思う。自分なんかとは大違いだ。

 こんな素晴らしい人に、触れていていいはずがない。
 好かれていいはずがない。

「じゃあ……これでも、そう言える?」

 アメジスト色の双眸を見据え、震える息を吐く。

 今から言うセリフは決定的だ。決定的に、これまでの関係を破壊する。
 クラリスはニーナを嫌いになり、遠ざけるだろう。
 でもそれでいい。それがいい。その方がいいのだ。

 そう思い、ニーナは告げた。

「――私、クラリスが好き。友達としてとか、人としてとかじゃなく、クラリスのことが、好きなの」

 クラリスは真顔になり、それきり何の反応も示さない。少なくとも表向きは。
 途端にニーナの弱い心は恐怖に支配される。こんこんと湧いてくる不安を誤魔化すかのように、言葉は勝手にあふれ出した。

「嫌でしょ。気持ち悪いでしょ。私なんかに好かれて、嫌でしょ」

 なんと答えて欲しいのかなんてさっぱりわかっていなかった。
 きっとクラリスは迷惑そうな顔をする。
 確信に近いその予想があっただけ。自分の願望などもともと思考の外だった。

 なのにクラリスは口を開こうとしない。

「なんで言わないのよ。ねぇ、言ってよ――嫌って言ってよ……言いなさいよ……嫌って……言いなさいよ……!」

 ニーナの声は途中から途切れ途切れになり、しまいには嗚咽が混じっていた。

 本当に、何で言ってくれないのだろう。
 そんな優しさなんていらないのに。

 さらに言い募ろうとして――ニーナは声を発する前に口を閉じた。
 桜色の唇が薄く開かれるのが見えたから。

 そうしてクラリスの言葉を待っているうちに。

 ニーナの唇はふさがれていた。瑞々しい、同性の唇によって。

 そのまま数秒。

 たっぷりと時間をかけてニーナがその事実を認識した頃、柔らかな感触はゆっくりと離れていった。
 呆然と、正面に立つ少女の顔を見る。明かりのない部屋だというのに、その頬はわずかに色づいているように感じられた。

「ニーナ、貴女はかわいいわ。私が保証する」

 優しく微笑んで、クラリスは言う。

「自分を――嫌いにならないで」

 もう駄目だった。
 両足から力が抜け、小さな尻がぺたりと絨毯に落ちた。

 ニーナの中で何かが決定的に崩れた瞬間だった。

 けれどそれは決して嫌な感覚ではなかった。むしろそこには清々しさすらある。
 ずっと背負い続けてきて、背負うのが自然すぎて、いつしか背負っている事実すらわからないようになっていた、とてもとても重い石を、ようやく投げ捨てられた――そんな気分だった。

 何度目かになる涙が両目に溜まる。
 ここが他人の家だということも、今が深夜だということも、もう関係がなかった。

 女神のように慕う少女に見守られながら、ニーナは声を上げて泣いた。



[7688] STAGE18 運命 が 動く 日
Name: 499◆5d03ff4f ID:54b4b616
Date: 2014/04/03 00:20
ハーメルン様にも投稿開始しました。内容は同じです。こちらへの投稿をやめるつもりもありません。
というかどちらかというとこっちを先に更新すると思います。
確定ではありませんが、あちらにはイラストを付けるかもしれません。
お好きなほうで読んでください。
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 第二次太平洋戦争後、エリア11のトウキョウ租界にはブリタニアの資本投下により様々な施設が建造された。緻密な都市計画の上に成り立った街はもはや旧日本時代の面影をほとんど残していない。
 そうして作られたものの一つに、軍の所有するエアポートがある。平時には民間に解放されないその空港に、数人の軍人、役人を従える二人の女性がいた。

 皇族専用機のタラップの前に立ってヴァイオレットの長髪を陽光に輝かせているのは、エリア11総督コーネリア・リ・ブリタニアである。
 そして彼女の正面にいるのは第四皇女ユーフェミア・リ・ブリタニア。

 地方遠征に出立する総督への簡易の見送りの場であった。

「イシカワの動きにはこれまでにはない大胆さがある。バックにいるのは中華連邦だろうな」

「承知しております。鋼髏(ガン・ルゥ)を確認したとの情報もあると」

「ならば話は早い。これは北陸を平定する好機だ。ゆえに今回の遠征は予想以上に長引く可能性がある。副総督としての立場はわかっているな?」

「はい」

 ユーフェミアが真剣な顔で頷くと、コーネリアは対照的にフッと表情を緩めた。

「よし。こちらにはダールトンを残しておく。何事もよく諮ってな」

 ユーフェミアは再び了承を返す。しかし態度とは裏腹に、その胸には暗澹たる気持ちが渦巻いていた。
 コーネリアの言う『よく諮れ』を形式的な言葉としか受け取れないからだ。あってもなくてもさほど変わらないアドバイスなのではないか、と。

 事実として、副総督であるユーフェミアの裁定を必要とする案件はこれまであまり無かった。皆無ではないものの、重要案件はほとんどゼロである。そしてこの先もそうだろうとユーフェミアは予想していた。姉である総督自身が妹の力不足をよく理解し、そのように環境を整えているためだ。
 ユーフェミアがいなくてもブリタニアのエリア11統治にさしたる影響は無いだろうし――ありえない仮定だが――総督の不在を狙い、副総督の権力を振りかざして独裁に走ろうとしても、そうはできないようになっている。

 それが過保護な姉からの一つの愛情の形であるとはわかっている。それでもユーフェミアにとってこの現状が愉快なものでないことは間違いなかった。『お前は無能だ』と遠まわしに言われているような気がして。
 無論、ユーフェミアにしても自分に充分な能力が無いことは自覚している。だからこそ余計に感じてしまう。この扱いがひどく理にかなったものであると納得できてしまうからこそ、自らの不甲斐なさを強く認識することになるのだ。

 わずかに滲んだ暗い表情をどう受け取ってか、コーネリアは力強い笑みを浮かべた。

「心配するな。中華連邦が絡んでいるといっても、所詮はテロリストの延長だ。じきに平定して戻ってくる」

「もちろん総督の勝利は揺ぎ無いものでしょう。無事の凱旋をお待ちしております」

 ユーフェミアは気を取り直し、努めて明るい顔を作る。

 そうして挨拶が終わると、コーネリアは専任騎士のギルフォードを引き連れ、タラップを上っていった。

 やがて離陸した飛行機を見送り、ユーフェミアは振り返る。すると、見慣れないブリタニア将校の姿が目に映った。二十代半ば程度に見える、なかなかに男ぶりのいい青年だ。
 第四皇女の専任騎士候補の一人である。
 コーネリアのお墨付きを得ているだけあって家柄もよく、常にはきはきと喋る溌溂とした態度は、否応無しに人柄の良さを感じさせる。文句なしの優良物件だろう。

 ただ、ユーフェミアは何日か一緒に過ごしてきたこの彼に対して、『違う』という感触を抱いていた。この青年に命を預けることはできないと思うのだ。今まで見てきた騎士候補たちと同じように。
 言うまでもなく、彼の騎士としての力――武力は素晴らしいのだろう。それこそ、ユーフェミアの生命を何者からでも守り抜いてくれるほどに。
 でも、それだけでは駄目なのだ。一緒に歩んで行きたいという意識が一時たりとも生まれてこないのだから。
 そんな人間を一生そばに置こうなどとはどうしても考えられなかったし、そういった内心を押し殺して騎士にしてしまっては、忠誠をもって仕えてくれる相手にも失礼極まりない。

 だからきっと、この人を騎士にすることはないだろう。

 そう思いつつも表には出さず、ユーフェミアは代わりに告げた。

「では政庁に行きましょうか。今日も一日、よろしくお願いします」

「イエス、ユアハイネス」




 ◆◇◆◇◆




 ルルーシュはトウキョウ租界にある高級住宅街を歩いていた。
 道路には昨夜までの雨の名残があるものの、空には嘘のように快晴が広がっている。気持ちのいい朝だった。
 隣には電動車椅子に乗ったナナリーと、彼女を挟んだ向こう側にニーナがいる。アーベントロートの家から学園に帰る途中だ。

「クラリスさんの家、すごかったですよね」

 楽しげに話すナナリーに、ルルーシュは小さく苦笑して返す。

「ああ、ほんとに。すごすぎて毎日あそこで過ごすのは少し疲れそうだ」

「お兄様ったら。でもあんまり長居しないこのくらいがちょうどよかったのかもしれませんね。私もいつもの家のほうが落ち着きます」

「似たもの同士だな、俺たちは」

 急にやって来たニーナは無論のこと、ルルーシュとナナリーも今日からはクラリスの家を出る予定でいた。単純に、親がいては居心地が悪いからだ。
 実の姉妹が隣にいるというのに他人の振りをせねばならず、さらにそのクラリスは他人と親子の関係を装っている状態。『家族』というものに対してねじくれた感情を持っているルルーシュは、アーベントロート夫妻と心穏やかに付き合っていける気がしなかった。たとえ相手に他意がないにしても。

 ルルーシュが人の良さそうな子爵の顔を思い出していると、ナナリーが傍らを歩く少女に顔を向けた。

「ニーナさんはどうですか?」

「私もちょっと無理かな。息が詰まっちゃいそう。たまに遊びに行くくらいならいいんだろうけどね」

 少女たちはくすくすと笑い合う。
 生まれた会話の間を縫って、ルルーシュはニーナに向かって尋ねた。

「そういえば、昨日は何の用だったんだ?」

 ルルーシュはニーナに関して、昨夜遅くにアーベントロート邸を訪ねてきたという単純な事実しか知らない。クラリスからはあまり言いふらすようなものじゃないと濁されていた。
 それでも、雨の中、夜遅くに貴族の友人の家を、しかも両親がいると承知の上で訪問するというのは、明らかに尋常な事態ではない。何か大きな事情があったのだろうとは推察できる。
 聞かないほうがいいのかもしれないが、ニーナが普段よりも元気そうにしていることから、好奇心を優先しても問題にはなるまいと判断した。

「寮の門限も過ぎてただろうし、なにか緊急の問題でもあったんじゃないかと思って」

 ニーナは特に気分を害した様子もなく、軽い口調で答える。

「大したことじゃないの」

「そうなのか?」

「うん。すごく重くて大変な悩みがあった――ような気がしてただけで、たぶん、本当はそんなに大きな問題じゃなかったのかな。そんな感じ」

「なんだそれは?」

「なんなんだろうね。自分でも今になったらなんだかよくわからなくて。昨日まではすごくたくさん、嫌なことがあったはずなんだけど、クラリスに、その――色々打ち明けたら、魔法みたいに全部すっきりしちゃって」

 ニーナは本当に何かから解放されたのだろう。疑いようもないほどに、彼女の様子は今朝から一変していた。最近は常に何かに思い悩む素振りを見せていたというのに、その気配すら見受けられない。

(――ギアスを使ったのか)

 おそらくはそうだろう。
 クラリスなら単純な口だけで他人の心を動かすことも不可能ではないはずだ。しかし、その能力はどうやっても人の範疇を出ない。これほどまでに完璧にプラスの方向に持っていくことなどできるものではない。

 それを可能にするのがクラリスのギアスだ。

 対象の記憶を消すことができるということは、すなわち、対象の行動を実際に確認してから、それをなかったことにできるということである。動作の先を読むことも可能なら、会話を通じて思考を読むことも可能。
 思考に加えて会話の流れまでもが読めているのなら、相手の望むタイミングに相手の望む言葉を掛け、そして相手の望む行動を取ることができる。他人の心を救うのにこれほど適したギアスもないだろう。
 逆に言えば、マオのギアスのように思考を誘導し、意のままに操ることも可能ということだが、会話すら無しに意思を捻じ曲げる絶対遵守のギアスを持っているルルーシュには、そこに忌むべきものを見出すことはできなかった。むしろ少しの羨望すらある。

 一緒に歩くニーナの明るい表情を見れば、なおのことその想いは強まる。クラリスのギアスは、ルルーシュのギアスでは成し得ない奇跡を起こすのだ。

 緑髪の少女はいつもの三つ編みをしておらず、ゆるくウェーブの入った髪を背中に流している。セットする時間が無かったのかと思っていたが、きっとそうではないのだろう。

「なるほど、だから髪を下ろしたのか」

「うん?」

「心境の変化で髪形を変えたり、髪型を変えて心機一転をはかったり。よくあることだろ。特に女性はさ」

 ルルーシュが言うと、ニーナははにかむように微笑みながら、少し顔を俯かせた。

「……そう、なのかな。別にそういうつもりはなかったんだけど。クラリスが、こっちのほうが良いって、整えてくれたから」

「俺もそう思うよ」

「え?」

 驚いたように顔を上げるニーナに視線をやり、ルルーシュは言った。

「似合ってる、その髪型」

「――ありがとう、ルルーシュ」

 そう微笑むニーナの表情は、かつて見たことがないほどに穏やかなものだった。




 ◆◇◆◇◆




 過度に豪奢な装飾の施されたアーベントロート邸のリビング。時刻は昼に近く、大きな面積を割かれている窓からは明るい日の光が注いでいる。

 バーンズは相変わらず慣れることのできないこの部屋の椅子に座っていた。クラリスに勧められて一緒に紅茶を飲んでいる。もし子爵がいれば『護衛風情が』と良い顔をされなかったかもしれないが、娘のほうはそういったことにはあまり頓着しないたちである。

 そのアーベントロート子爵夫妻は、現在エリア11観光に出かけていた。家にいたところでやることもないのだから妥当な選択だろう。
 ただ不在中、C.C.という少女を屋敷に置いておくことに関して全く難色を示さない点については、バーンズはいまいち賛同しかねる思いがしている。

 アッシュフォード学園は単位制の学校であり、毎日朝から夕方まで全ての授業を受けなければならないわけではない。それでもクラリスは今日も午後から登校しなければならないし、他の日にしても休日でなければ一日中家にいることはできない。
 にもかかわらず、娘の友人のC.C.はずっと屋敷に居続けるのだ。使用人以外に人のいない家に。
 普通の親なら何か事情を聞くなり咎めるなりするのが当然である。それをしないのがこの家庭のいびつさを端的に現しているとバーンズは思う。

 むろん、ユーグ・アーベントロートに貴族特有の平民に対する無関心さがあることは否定しない。庇護が必要なはずの十代の娘だろうと、違う世界の住人などどこで何をしていようが本当に気にならないのだろう。
 しかしそれはC.C.に対しての話であって、彼女の滞在する場所に対しての話ではない。
 娘の友人とはいえ、事情も聞かずに自宅に素性の知れない人間をとどめておくのは通常の感覚ではありえない。

 それが許されるのは、やはり力関係が逆だからに違いあるまい。つまり、クラリスが上で、ユーグが下なのだ。
 バーンズは既にそう確信している。

 しかもそれは『クラリスが皇女であるから』ではない。昨夜からの親子のやり取りを見ていて、それはありえないと結論した。
 ユーグは見た目どおりの平凡な男で、皇族に対して親として振舞うことができるような胆力を備えた人物ではない。十中八九、子爵夫妻はクラリスの正体に気付いていない。

 となれば、ユーグは単に、親であるにもかかわらず娘に逆らえないのだ。
 いびつである。

 ただ、それでもこの家庭は幸せなのだろうと、バーンズはそうも思っていた。
 人並み以上に分別のあるクラリスが親に無茶を言うことなど無かったのだろうし、なにより――単純にそう見えていた。
 裏のあるクラリスが腹に何を押し隠しているのかなど知るよしもないが、少なくともバーンズの目からは幸せな一家に見えていたし、願望としてもそうあって欲しいと願っている。

(しかし――)

 バーンズは対面でティーカップを傾ける少女の顔を見つめる。

 冷たい表情だ。
 両親と過ごしていたときの温かさは影すらも窺えない。

 少し前までは見られなかった鋭い顔つきである。
 バーンズのよく知るクラリスは、一人でいるときでも柔らかい雰囲気を崩さない少女だった。
 だというのに、それがある日を境に変化した。
 ナナリーという少女が誘拐事件にあった夜。事件が収束して帰って来たクラリスは、以前とは別人になっていた。纏う空気が変わった――その程度の差でしかなくとも、四六時中そばについていたバーンズには明確に感じ取れていた。

(何か心境の変化が、おありだったのだろうな)

 紅茶を一口飲み、バーンズは広い部屋の中を眺める。
 きらびやかな調度品が並ぶ部屋の中に、一つだけ場違いに質素な細工物がある。紙で折られた鳥だ。それが翼を閉じた状態でいくつもいくつも連ねられ、壁に掛けられている。

 ふと思い、バーンズは言った。

「オリガミ、でしたか。されなくなりましたね」

 以前のクラリスは、登校前などの小さな空き時間――ちょうど今のような――には、折り紙を折るのが半ば習慣のようになっていた。
 ナナリーとした約束を律儀に守っていたのだろう。エリア11には鶴を千羽折って願いを込めるというという風習があるらしく、それを二人でやろうと笑い合っていたシーンをバーンズはよく覚えている。

 クラリスは一度壁にかけられた鶴に目をやると、懐かしむように少し目を細めた。しかしその優しげな表情はすぐに消える。後に残ったのは冷徹に現実を見つめる冷めた瞳だった。

「あれはもういいのよ」

「まだ千羽に達していないのでは?」

「願掛けって、自分ではどうにもならない事柄に対してするものでしょう? 手を尽くして、これ以上はもうどうしようもないというときに」

「そうでしょうね」

 神頼みの類は最後の手段だ。信心深い人間にとっては別なのかもしれないが、現実主義者のバーンズはそう認識している。

「自分では達成できないと思っていたから――いいえ、そうじゃないわね。自分で動く気がなかったから、私は千羽鶴に願いを込めようと思ったの」

「では――」

「ええ。今は違う。私は自分の力でやることにしたから」

 ――だから、あれはもういいのよ。
 壁に掛けられた作り掛けの紙細工を眺め、アッシュブロンドの少女は語った。

 バーンズはその願いの内容を知っている。

 『優しい世界でありますように』。

 クラリスはもう一人の優しい少女とともに、世界のあり方を願ったのだ。
 神ならぬ身では傲慢とも思えるその願いの実現を、今、彼女はおのれの力でやり遂げると言った。

(――ということは、やはりご決心をなさったのか)

 貴族の子女から皇女へと戻る決心を。

 その結果がこれなのだとしたら、世界とはなんと皮肉なものなのだろうか。バーンズはそう感じずにはいられない。
 優しい世界を作ると決めたせいで、当人から優しさが失われている。以前のクラリスならたとえ実質的な意味がない行為だったとしても、仲の良い少女との約束を無下にしたりはしなかっただろうに。

 もっとも、当然といえば当然かもしれない。今のこの世界の大部分を動かしているのはクラリスの実の父親である。そのシステムを破壊し、新たにその位置に座ろうというのだ。
 親族に挑み、一族の作り上げてきたものを破壊する――。

 ――修羅の道である。

 半端な優しさなど持たないほうがいいのだろう。
 きっとその生き方は多くの敵を作る。十代の少女が歩むには余りに厳しく、険しい道のりだ。

 しかし、なればこそ、バーンズはクラリスに付いて行きたいと思う。
 年長者としてそばで見守りたいと思うし、また臣下として、過度に人の道を外れそうなときには諌めねばならないとも思う。
 何よりも、自分自身願っていたのだ。優しい世界であって欲しいと。

 ならばもはや何を躊躇う必要があるというのか。
 バーンズは半ば熱に浮かされたようなおのれの心境を自覚しつつも、意を決し、口を開いた。
 おそらくは今が『そのとき』なのだと感じつつ。

「お嬢様――いえ、殿下」

 クラリスは驚いたように眉を上げ、それから面白そうに笑んだ。

「バーンズ、その呼び掛けをすることの意味、貴方なら正しく理解しているのでしょうね」

「自分ではそのつもりでおります」

 無言で見つめる少女の視線にさらされながら、バーンズは席を立った。クラリスの座る椅子の横まで行き、ひざまずく。
 元軍人らしい、美しい跪礼であった。

「わたくしは、貴女にお仕えしたく存じます。ブリタニアという国ではなく、クラリス・ヴィ・ブリタニアという――貴女個人に」

 クラリスは立ち上がり、バーンズに向き直る。そして厳かに告げた。

「ジェイラス・バーンズ。貴方の決意、しかと受け取りました。これからも頼りにしているわ。ともにこの世界を変えましょう」

 バーンズの胸に熱く込み上げるものがあった。おのれの選択に間違いはなかったのだと、根拠のない確信が脳髄を満たす。
 万感を込め、バーンズは返した。

「――イエス、ユアハイネス」




 ◆◇◆◇◆




 ルルーシュは久しぶりに帰って来たクラブハウスの自宅エリアで、IH調理器を操作していた。
 ヤカンに水をいれ、湯を沸かす。沸いた湯をポットに移し、コーヒーを淹れる――。
 何気ない行為が日常を感じさせてくれる。何もせずとも至れり尽くせりなクラリスの家での待遇も悪くはなかったものの、やはり自宅でこうしているほうが落ち着くのは間違いない。

(いつの間にかすっかり庶民感覚になってるな)

 苦笑しつつ二つのコーヒーカップをダイニングテーブルに置くと、カップを手に取ったナナリーが言った。

「咲世子さん、今日はいらっしゃらないんですか?」

 普段ランペルージ兄妹の世話係をしているメイドの咲世子は、現在は不在だった。C.C.の存在を隠さねばならないことから最近は来てもらう頻度を減らしてもらっていたが――これには頻繁に訪れてくれるクラリスの存在が大きく寄与した――それでもナナリーが学園外に出る際には付き添ってもらうのが常だ。アーベントロート邸からの帰路でそばにいなかったのがナナリーには少し不思議だったのかもしれない。

「少し休暇を取って貰ったんだ。子爵が来なければもう少しクラリスのところに厄介になる予定だったからね、こんな機会でもなければまとまった休みはあげられないし、ちょうどいいかと思って」

「そうだったのですね。でしたらゆっくりお休みしてもらってください。私は一人でも大丈夫ですから」

「こちらから休んでいいと言ったのに途中で戻ってきてもらうのも悪いしな。そうさせてもらえると助かる」

 マオによる誘拐事件からいくらか経ち、ナナリーの様子は以前と変わらないほどになっている。ルルーシュの目から見ても、数日程度なら咲世子抜きでも大した問題は起こるまいと思えた。
 もっとも、聡い妹は姉の様子が以前と微妙に異なっていることにうすうす感づいているらしく、そのせいで若干不安に駆られることはあるようだ。とはいえ、そこはもう慣れてもらう以外には対処のしようがない。事実、クラリスは変わってしまったのだから。

「それにしても、お姉様、ご両親の方が来られて楽しそうでしたね」

 そうだったのだろうか。
 ルルーシュにはよくわからない。
 どんな様子だったか記憶を手繰ろうとして、両親と接するクラリスの態度にあまり注意を払っていなかったことに思い至った。

「……そうだったか?」

「お兄様は気付きませんでした?」

「ちょっと、いろいろ考え事があったから。そこまでちゃんと見てなくて」

 アーベントロート子爵夫妻とともに過ごす間、ルルーシュの思考の大部分は、かれらにクラリスが皇女であるという認識があるのかどうか――ひいては自分とナナリーの素性に思い至る可能性があるかどうか――その一点を見極めるために動いていた。だから当然のように全神経のほとんどが夫妻の一挙一動に向けられており、相対するクラリスがどんな風だったかまでは把握しきれていない。

「声の調子が私たちとお話するときとあまり変わらないんです。とってもくつろいでいたみたい」

「それくらいは不思議じゃないだろ。あいつだって俺たちと同じように日常的に嘘をついているんだ。取り繕えないはずがない」

「そうでしょうか。生徒会の皆さんとお話しするときでも少し硬いことがあるのに」

「……え?」

 ナナリーの言葉にルルーシュの思考が一瞬止まる。完全に予想外のセリフだった。

 ルルーシュの知る限り、クラリスに生徒会メンバーを遠ざけている印象はない。非常に近い距離感で付き合っているように見えていた。

「そう――なのか?」

「本当ですよ。いつもというわけではありませんが、生徒会の皆さんとお話するときはたまに声の調子が変わります。ほんの少しだけですけど」

 ナナリーは特に自信がある風でもなく、単に当たり前のことを述べているだけといった様子で淡々と言う。どうやら盲目の妹はルルーシュには知覚できない些細な違いをはっきりと認識しているらしい。
 目が見えない分、耳から入ってくる情報には敏感なのだろう。ナナリーは顔色を窺うこともなく、ただ声の調子だけで相手の機嫌や感情を読み取らなければならないのだ。その発言には充分な信頼性があった。

「ご両親とのお話ではそういう感じは受けませんでした。不満を口にされたときもごく自然な口調で。だからきっと仲がよろしいんだと」

「気付かなかったよ。それであんなに不安がってたのか」

「ええ……なんだかお姉様が、取られてしまいそうで」

「大丈夫だ。そこは心配しなくていい」

 いざとなればルルーシュのギアスでどうとでもなるのだ。根拠を正直に明かすことはできないが、心配がないのはたしかなことである。
 とはいえ。

(ナナリーの言ってることはおそらく真実だ。ということは――クラリスは両親を疎んじてはいないのか?)

 ルルーシュにしてみれば、生徒会メンバーに対してすら何の隔意も感じ取れなかったのだ。むしろ非常に仲が良いと思っていた。当のメンバーたちもそうだろう。
 そのミレイたちよりも、仮の両親のほうがさらに親密であるという。

 クラリスと別れてから再会するまでの八年間、彼女にどんなことがあったのか、ルルーシュはほとんど知らない。たしかに以前、本人から子爵はろくでもない人間だと聞かされていたし、侮辱的な扱い――実子としての扱いをされたとも聞いていた。それを快く思っていなかったともクラリスは漏らしたはずだ。

 しかし、口ではなんとでも言えるのである。日常的に嘘をついているルルーシュは、他に判断材料がある場合、証言というモノをあまり重視しない。
 自分がクラリスに騙されていたとしても、気にすることは無いと思っている。他人のためにつく優しい嘘だって存在すると知っているから。

(仮にクラリスの家族仲が悪くないとするなら、ギアスは本当の最後の手段としたほうがいいだろうな。これ以上あいつを苦しめることは、俺にはできない)

 仲のいい身内をギアスに掛けられて喜べる人間などいるはずがないのだから。
 ルルーシュの中では当然の判断だった。




 ◆◇◆◇◆





 辺りには夜の帳が下りていた。月の輝く美しい夜である。
 トウキョウ租界の外れにある霊園。そこは旧日本時代の名残を示す数少ないスポットの一つだ。戦禍によって破壊されたものは仕方がなくとも、さすがに死者の眠りを積極的に妨げるのは憚られたのか、再開発の際にも当面は維持しておくべきと判断されたようである。

 ブリタニアの土地となり、今では訪れる者のほとんどいないその場所に、四人の人間がいた。老年の男と中年の男、そして若い男と女。いずれも東洋風の顔立ちをしている。
 名はそれぞれ、老年の男が仙波、中年の男が卜部、若い男が朝比奈、若い女が千葉といった。藤堂鏡士郎に心酔する旧日本の戦士たち、四聖剣の面々である。

「皆無事だったようだな」

「うむ、あとは藤堂中佐を待つのみか」

 再会を一通り喜び合った彼らがしばらくその場に待機していると、暗い霊園の奥からコートに身を包んだ長身の男がやってくる。

「藤堂さん!」

 いち早く気付いた朝比奈が声を上げた。続いて残る三人もそちらに顔を向ける。

「良くぞご無事で」

「遅くなってすまない。皆も変わりないようで安心した」

 歩み寄ってきた仲間たちに応えると、藤堂は厳しい顔で言った。

「各々話もあるだろうが、長居はしないほうが良い。首相にご挨拶をしてまずは場所を移そう」

 藤堂は近くにあった立派な墓石に体を向ける。故枢木ゲンブ首相の墓である。リーダーに倣い、残る四人も同様にして墓石に向き直った。

「さすがに線香は上げられませぬか」

 表情を曇らせる仙波に、藤堂も苦々しい口調で返した。

「火はまずいな。だが状況が状況だ、首相もお許しくださるだろう」

 五人とも追われる身であることは自覚している。本来ならこのように見晴らしのいい場所で墓参りなどするべきではないのだ。それでも、敗戦時からともに戦ってきた日本解放戦線が潰え、拠りどころを失った今、その事実を伝えて決意を新たにすることは、彼らにとって必要な儀式であった。

「線香一つ上げぬ非礼をどうかお許しください。日本を取り戻した暁には、あらためて皆で参ります」

 手を合わせ、しばし黙祷する。祈りを捧げ終えると、藤堂は背後に並ぶ部下たちを振り返った。四人とも既に祈りを終え、隊長の顔を見つめている。何らかの符丁を示すように一つ頷く藤堂に、承知したとばかりに部下たちも頷き返す。そうしてかれらは藤堂を先頭に枢木ゲンブの墓前を後にした。

 鋭い目つきで周囲を警戒する藤堂たちが霊園の出口までやってきたとき、事態は動いた。前方から駆け足でやってくる集団の影がある。視認できる距離になってみると、ブリタニアの軍服を着た一団であった。
 現れたブリタニアの軍人たちは無言で藤堂たちの前方に展開する。退路を探して後ろを向けば、そちらからも足音を立てて駆けて来る集団の姿。

「これは――」

「情報が漏れていたのか、いったいどこから」

 周囲を見回し、船場と卜部がうめくように漏らす。

「そんなことを言っている場合か! まずいぞ、囲まれた!」

 千葉の言葉通り、新たにやって来た軍人たちも素早く展開し、藤堂たちは完全に包囲状態となる。

「藤堂さん、どうしますか?」

 朝比奈の問いかけに、藤堂は眉を寄せた。
 多少の敵なら突破できる自信のある彼らではあったが、周りを取り囲む敵の数は許容量を明らかに超えている。
 頭領の藤堂が囮となって部下を逃がすのが唯一の道だろうが、果たしてその機が見出せるかどうか――。
 行動できずにいる藤堂の前に、敵の隊長らしき男が歩み出る。

「藤堂鏡士郎だな?」

「……そうだ」

「貴様には第一級反逆罪の容疑が掛かけられている。おとなしく縛に付け。さもなくば――」

 隊長が見せ付けるようにホルスターから拳銃を抜いた瞬間。
 暗闇に銃火が走り、銃声が辺りに響いた。あまりにも激しいそれはナイトメア用の銃火器によるものである。
 銃撃音に気付いたときには、包囲網の一部を形成していた軍人たちが血しぶきを上げて吹き飛んでいた。

「アサルトライフル! ナイトメアだと!?」

 叫んだ卜部が暗闇を睨む。
 仙波が唸るように言った。

「新手か? しかしなぜブリタニア軍を……」

「いや違う、あれは無頼だ!」

 千葉の声に応えるように暴力的な駆動音を鳴らしながら現れたのは、藤堂たちの見慣れた機体。日本製の黒い戦闘装甲騎、無頼である。日本解放戦線の無き今、関東ブロックでその武装を所有している勢力はただ一つ。

「――黒の騎士団か!」

 複数の人間が同時に正解にたどり着き、誰とも無い声が上がる。
 生身でナイトメアに対抗するにはミサイルランチャーでも用意しなければ不可能。それをよく知る軍人たちは下手に応戦せず、立ち並ぶ墓石に素早く身を隠した。
 同じく周囲の障害物の陰に飛び込んだ藤堂たちの耳に、敵隊長の怒声が届く。

「なぜこのような場所に黒の騎士団が現れる! 警戒に当たっていた部隊は何をしていた!?」

「トレーラーです! 強引に検問を突破してきた車両からあの機体が!」

 無線機越しに返ってくるのは上ずった声である。そうしている間にも無頼のアサルトライフルは墓石を破砕し、生身の軍人に無慈悲な銃弾を浴びせている。

「応援は出せんのか!? このままでは全滅する!」

「無理です! 警戒を厳しくすれば藤堂たちに気取られるとのことで、近辺にナイトメアは配備しておらず――!」

 回答を聞いた隊長は憤怒の形相で歯噛みし、次いで叫んだ。

「藤堂たちを捕らえよ! 敵の狙いは奴らだ! 奴らの身柄を盾にして時間を稼げば増援が来る!」

 指示に応え、ブリタニアの軍人たちが墓石に潜む藤堂たちに殺到する。障害物から出た者は容赦なく撃ち殺されていくが、全滅には程遠い。加えて黒の騎士団はたしかに藤堂の身柄を欲しているらしく、彼に近づいた軍人には銃火は向けられない。結果として藤堂と四聖剣の周りは瞬く間に乱戦模様となった。

 向かってくる敵に銃弾を撃ち込みながら、藤堂は形勢の不利を悟る。こちらが相手を殺して構わないのに対して、盾として使うつもりでいる敵はこちらを殺すことができない。そのアドバンテージは絶大なものだが、数が違いすぎた。ブリタニア軍は藤堂たちをどれほど評価していたのか、五人に差し向けるには明らかに過剰すぎる人員が投入されている。
 切歯する藤堂の視界に、地面に押し倒され、取り押さえられる千葉の姿が映った。もはやこれまでかと覚悟を決めようとしたとき、その心境をあざ笑うかのように、千葉の上に乗ったブリタニア軍人が崩れ落ちた。仰向けに倒れた男の胸には見慣れぬ武器――クナイが突き刺さっている。

「何者だ!?」

 どこからか誰何の声が上がったのと同時に、ブリタニア軍人がもう一人倒れる。そうして夜の闇からにじみ出るように現れたのは、黒い装束を纏った人影であった。
 新たに登場した人物は圧倒的な体術でブリタニアの軍人たちを次々に沈めていく。さらに遅れてやって来た黒服の一団が状況を決定付けた。藤堂たちにも見覚えのあるその服装は、かれらが黒の騎士団の所属であることを示すものである。

 戦いの趨勢が決した頃、最初に飛び込んで来た黒装束が藤堂たちの前にやって来た。恐るべき武力を見せ付けたその人物は、近くで見てれば若い女性である。藤堂は内心で驚きつつも、表面上は平静を保った。

「黒の騎士団の篠崎咲世子と申します」

 黒装束の女の口調は、戦闘の高揚も疲れも感じさせない、淡々としたものだった。

「貴方がたをアジトまでお連れするよう仰せつかっております。無論、客人として。付いて来てくださいますね?」

「危ないところを助けていただき、感謝する。厚意に甘えるとしよう」

 時間が経てばブリタニアのナイトメア部隊が動く。警戒網も強化されているに違いない。藤堂たちには是非の無い選択であった。




 ◆◇◆◇◆




「――それでは、アッシュフォード学園生徒会長のわたくしミレイ・アッシュフォードが、スポーツと芸術の祭典、名づけて復活祭の開催を、ここに宣言いたしまーす!」

 晴れやかな空にはつらつとした少女の声が広がっていく。続いてボンボンボン、と花火の音が響いた。

 その様子を放送室で確認していたルルーシュが、やや呆れ顔でミレイに言う。

「ここまでやらなくてもよかったんじゃないですか? 昼ですし、やっぱりあんまり見えてませんよ」

「何言ってんの。こういうのは最初が肝心なんだから。あんたもOKしてたじゃない」

「ナナリーにネコの鳴き真似をさせるのとどっちがいいかって聞かれたら、それは花火のほうがいいって言いますよ。真面目にやるって話はどこに行ったんですか」

「まぁまぁ、これくらいはいいじゃない。あんまり実情と違いすぎてもぼろが出ちゃうかもしれないし」

 言い合う二人の様子を、ニーナは少し離れた場所から眺めていた。隣にはクラリスの姿がある。

 今日は数日前から軌道修正して急ピッチで計画を進めてきたイベントの当日だ。
 ミレイの命名した『復活祭』は、もともとがルルーシュの回復記念だったから、というとてつもなく適当な理由で付けられたもので、名前から期待されるような大仰なものは全く存在しない。始めから企画されていたスポーツ――これは事前に組み分けされた複数のチームで様々な競技を行い、合計点数を競うというもの――に、急遽『芸術』を付け加えただけのイベントである。
 この芸術にしても、突然に決まったものだから大したことはできない。ちょうどクロヴィス殿下の定めた芸術週間が近く、学園では通常の授業を潰して芸術作品の制作をすることになっていたから、それを少し前倒しにして、出来上がった作品を校内に展示した――それだけだったりする。

 しかし、これが重要なのだ。

 放送機器から離れたミレイがクラリスを振り返る。

「ご両親にはちゃんと声掛けてきた?」

「もちろんです。私も生徒会の役員だって伝えたらずんぶんと楽しみにしてくれたみたいですから、きっと来てくれると思います」

 つまり、展示物を見てもらうという名目で、学園を外部に開放したのである。
 もちろん、貴族であるクラリスの両親が学園を見たいと言えば、通常の授業風景も見られるように便宜が計られただろうが、そんなものを見せても仕方がない。今回のように楽しく健全に過ごす学生たちを通して、そのように過ごすことのできるイベントを運営しているクラリスを見せたいのだ。そうすることによって、アーベントロート子爵夫妻の翻意を期待したい――。そういった思惑である。

 とてもミレイらしい考えだとニーナは思う。人間の善性に頼る――日の当たる明るい道を歩み続け、なおかつ手ひどく裏切られたことの無い人間にしかできない発想で、それはいつでも楽しそうに笑う金髪の幼馴染にはとても似合っている。
 ニーナにとって、そういう風に物事を考えられるミレイはうらやましく、同時に疎ましくもある存在だった。
 誰に対しても快活に接するミレイを見るたび、ニーナは彼女のように生きられない自分にコンプレックスを感じていたし、何かとニーナを気にかけて遊びに連れ出そうとする姿には、哀れみと同情の念を勝手に幻視していた。

 そういった小さな不満を少しずつ少しずつ溜め込んで生きてきたのが少し前までの自分だったのだと、ニーナは妙に晴れやかな気分でミレイを眺めている。

 まるで悪い呪いから解放されたかのようだ。

 認めて欲しい人に認めて貰えた。ただそれだけのことで、自分がいかに馬鹿げた妄想に囚われていたのかがわかった。
 自分が思うほど自分は周囲より劣ってなどいないし、劣っていないのだから見下されてもいない。

 クラリスが整えてくれた髪形で学校に顔を出した日、ニーナはクラスメイトから『似合っている』や『かわいい』といった言葉を掛けられた。きっとそれまでのニーナだったらその賛辞を素直に受け取れず、皮肉を言っているに違いないと独りで暗い想念を肥大させていただろう。
 でもそうじゃないと今なら自信が持てる。

 ――クラリスが、かわいいと認めてくれたから。

 ニーナが隣に目を向けると、アッシュブロンドをした美しい人は優しく微笑み返してくれる。
 とても幸せだった。この笑顔を素直に受け入れられることが。
 それだけで充分。

 ニーナはクラリスからルルーシュを引き剥がしてその座に収まりたいなどとは全く思っていない。自分が底辺の人間から一般の人間に格上げされたとしても、やっぱりクラリスは女神様で、恋人になるとかそういうことは、なんだか違うという感じがするのだ。

「うまく行くと思う?」

 ニーナが尋ねると、クラリスはふざけ合っているルルーシュとミレイを見つめながら口を開いた。

「うまく行かせましょう。みんな頑張ってるんだから大丈夫」

「親のことも?」

「そっちはどうかわからないけど、駄目でも私がちゃんと説得するから。今はイベントに集中しましょう」

「そうだね、わかった」

 返事をするのと同時に、ミレイとルルーシュの話も終わったらしい。副会長を連れた会長がニーナたちのほうにやってきた。

「さぁてー、開会宣言も終わったし、今日一日、頑張って盛り上げましょう!」

 ミレイは見せ付けるように胸の前で力強く拳を握って見せる。すると横にいたルルーシュが呆れたような声を出した。

「いや、盛り上げるのは要りませんよ。会長がそれをやるとまた変な方向に行くでしょう」

「えー、なんでよー」

 締まらない二人のやり取りを眺めながら、ニーナは自然と小さく笑い声を上げている自分を見つけていた。




 ◆◇◆◇◆




 ユーフェミア・リ・ブリタニアはリムジンの後部座席に座りながら、窓の外を流れていくトウキョウ租界の風景を眺めていた。気持ちよく晴れた青空の下、遠く立ち並ぶビル群がゆっくりと流れていく。
 格式ばった公務の際は皇族専用車両を利用することが推奨されるが、今日はそういった用件ではない。では何の用で外出しているのかと言えば、自分でもよくわかってはいなかった。表向きは、近日中にあるクロヴィス記念美術館の落成式の前に、彼の墓前に竣工の報告に行くということになっているものの、どこかから要請された行事ではない。ほとんどプライベートなものだ。

 今のユーフェミアの仕事は、とにかく騎士候補と共にすごし、彼らの中から騎士となる人間を選ぶことが最重要視されている。それ以外のことは要求されていない。何か仕事が無いかと聞けば回っては来るのだろうが、実務上意味の無い今回の行動が許されている点を見れば、特に必要とされていないことは嫌でも実感できる。

 だからこそ早く騎士を選ばねばならない。そう考えながら、その思いのみが空回りしているのが今のユーフェミアだった。自分でも自覚していたため、優しかった異母兄の前で心中を打ち明け、少しでも心を落ち着けようと思ったのだ。

 車内に視線を移すと、備え付けられたモニターが昼のニュースを流していた。内容は朝の時点で確認したものばかりで、あまり興味のある番組ではない。
 さらに目だけで横を見ると、そこには精悍な顔つきをしたブリタニア人の男性がいる。今日の朝から一緒に過ごしている専任騎士候補だ。名前はジェレミア・ゴットバルト。

 彼のことは、正直よくわからない。
 ジェレミアという騎士は良くも悪くもあまりユーフェミアに干渉してこない男だった。他の騎士候補は――さりげなくではあるものの――隙があれば自分を売り込もうとしていたものだが、ジェレミアにはそういったそぶりが全く無いのだ。そういった接し方では人柄が掴めない。
 それでも、優秀な自己を見せ付けてこない姿勢は、自分に自信の持てないユーフェミアにはとても落ち着けるものだった。

 窓の外には相変わらず快晴が広がっている。澄み渡る空を見ると、なんとなく溜め息が出た。

「――私では、殿下の騎士には相応しくありませんね」

 不意に隣から声が掛かる。珍しく話しかけて来た男の顔には、何の感情も浮かんではいなかった。ただ思ったことを口にしただけ、といった風だ。

「ユーフェミア様はいつも浮かない表情をしていらっしゃる」

「……申し訳ありません。ジェレミア卿に不満があるというわけではなくて――」

 何を言うべきか、ユーフェミアは逡巡した。
 自分の気分が上向きにならない理由はよくわかっている。ただ、それを騎士候補の人間に明かすべきなのかどうか、そこの判断が付かない。
 迷った末、あくまで自然体を貫くこの騎士になら、話してもいいのではないかと結論した。このジェレミアなら意思にそぐわない追従をすることは無いだろうから。
 きっと自分の中だけで抱えていても前に進めない問題なのだ。

 意を決し、ユーフェミアは口を開く。

「私は、騎士となる方を自分で選びたいと総督に申し上げました。人から押し付けられた選択をするのではなく、自分の目で確かめて、しっかりと自分の意思で選びたいと」

 ジェレミアは少し驚いた顔をした。今回の計らいがユーフェミアからの提言でなされたと知らなかったのかもしれない。

「ただ……よくわからないのです」

「わからない、とは?」

「総督が推薦してくださった方は、皆さんすばらしい方だとは思うのですが、その、騎士というものは、それだけで選んでしまって良いものなのでしょうか?」

「――と、おっしゃいますと?」

「騎士とするということは、その方に生涯仕えていただくということです。わたくしはその方に命を預け、その方の人生の大部分を頂くのです。ですから、真にわたくしのことを理解して、わたくしの考えに賛同してくださる方にこそ、騎士になっていただきたいと思っています」

 ユーフェミアが自分なりの見解を述べると、ジェレミアは少し考えるように間を空けてから言った。

「……誠に無礼ながら、ユーフェミア様がそこまで深いお考えをお持ちとは存じ上げませんでした」

 本当に無礼な話である。しかしながら、無理に持ち上げることなくここまで率直な口を利いてくれる男に、ユーフェミアは好感を抱いた。外から見た自分はきっとその程度の評価なのだろうと自覚していたからだ。そこをおだて上げて来る人間には白々しさを感じていたものである。

「つまり、殿下は騎士としたい方が見つからないとおっしゃりたいのですね?」

「貴方の前で言うのは失礼に当たるのかもしれませんが……その通りです」

 口に出して誰かに話したことは無いが、ユーフェミアはナンバーズとも手を取り合える社会が作りたいと思っている。副総督就任前にスザクとシンジュクゲットーに行った際、強く感じたことだ。
 人が人を虐げるのはとても悲しい。どんな人間でも幸せに過ごせる世の中が作りたい。

 今はまだ力の無いユーフェミアが、いつの日にか実現したいと願う夢だ。

 しかしこれはブリタニア人とナンバーズを区別するというブリタニアの国是と真っ向から対立するものであり、なかなか受け入れられる思想ではない。
 正直な話、今までの騎士候補の男たちからは、イレブンに対する明確な蔑視が窺えた。
 そういった人間を命を預ける相手にしようとはどうしても考えられない。

「早く決めねばならないとは思うのですが……」

 重い口調で俯くユーフェミアに、ジェレミアは拍子抜けするほど軽く言った。

「別によいのではないでしょうか」

「え?」

「急いでお決めになる必要は無いでしょう」

「そう――なのでしょうか?」

「ユーフェミア様の認識は正しくございます。何をも置いて主のために生きられる人間でないのなら、騎士になどなるべきではない。殿下も、そういった相手でなければ騎士としないほうがよろしいでしょう。お互いのためになりません。考えの合わぬ人間など論外です」

「ですが、総督からは騎士を持てと」

「そのほうがいいというだけでしょう。殿下ご自身が騎士を持たぬことに不安を感じないのであれば、コーネリア様にお伝えするだけで済む話です。合う人間が居なかったと」

「……そうなのかもしれませんが、それでは――」

 言いよどむユーフェミアに、ジェレミアがわずかに眉を寄せる。

「何か問題がおありなのですか?」

「ええと……」

 ユーフェミアは話すべきか迷い、結局打ち明けることにした。話せない理由など特にないと気付いたのだ。ただ単に自分が少し恥ずかしいというだけで。

「こんなことを言うと子どもだと笑われそうですが――早く一人前になりたいんです」

 ジェレミアは理解できなかったのか、いっそう深く眉根を寄せた。
 ユーフェミアは苦笑しながら続ける。

「わかりませんか? 仮にも副総督なのに、こんな風に好き勝手に出歩いていても何にもお咎め無しで、普通に国が回るんですよ。まるで、何もするなって言われてるみたいに……」

「そうではないでしょう」

「え?」

 悩み続けてきた問題にあっさりと否定を返され、ユーフェミアは相手の顔を改めて見た。ジェレミアの引き締まった表情にはわずかに柔らかい色がにじんでいた。

「たしかに、今はユーフェミア様のお力がなくとも統治が成り立つのかもしれません。であれば、殿下はその幸運を喜びこそすれ、嘆くべきではございません」

「喜ぶ――とは?」

「割り振られた役目に重みがない――それは裏を返せば、ユーフェミア様は過剰に政務に縛られることなく、如何様にもお好きに学べるということではございませんか。そうして充分な力をお持ちになれば、周りの評価など嫌でも付いて参ります」

 諭すように優しく掛けられたその言葉に、ユーフェミアはハッとした。

 言われてみればその通りだ。
 これまでユーフェミアは地位にふさわしい仕事をしなければならない、人に認められなければならないとばかり考えていた。しかし、そうではないのだ。
 何よりもまず、地位にふさわしい人間になる。そこを目指すべきだったのだ。

「皇女殿下のお心を推し量るなど不遜の極みではございますが、姉君はユーフェミア様にそれを期待しておられるのだと思いますよ。いずれこのエリアを名実ともに統治することになられる貴女様に」

 政務に臨む姿勢に関しては厳しいコーネリアも、プライベートの時間には以前と変わらずユーフェミアを甘やかしてくれる。ジェレミアの弁はたしかに正しいのかもしれない。本当は間違っているのだとしても、そのように考えれば胸は軽くなった。
 ジェレミアに対する感謝の念が広がる。ユーフェミアは冗談めかして言った。

「ジェレミア卿は、わたくしの騎士にはなりたくありませんか?」

 問われた男は表情を固くし、ユーフェミアに訊き返した。

「なぜ、そのようなことを?」

 半分以上冗談のつもりだったが、ユーフェミアはこの男なら自分の騎士としてもいいのではないかと少し思い始めていた。皇女であるからというだけで追従してくるわけでもなく、いろいろと忌憚の無い意見も言ってくれるジェレミアは、正直これまでの候補の中では群を抜いて好もしい。
 ただ、その独特の態度がユーフェミアに対する熱意の無さから来ているものなのだろうと察してもいた。

「なんとなくです。なんとなく、貴方は私の騎士になりたいと思ってはいないのだろうと感じたから」

「そう……ですね」

 ジェレミアは固い表情で黙り込み、やがて言った。

「どのようにお誘いいただいたとしても、ユーフェミア様の騎士になることはできません。私には、既に主と定めたお方がおりますので」

「どなたかお聞きしても?」

 ジェレミアは再び黙り込む。
 口にするのが憚られるような相手なのだろうか。
 無理に話す必要はないと伝えるべきかどうかユーフェミアが考え始めた頃、ジェレミアは厳かに言った。

「――クラリス・ヴィ・ブリタニア殿下です」

 目を見開く。
 その名はユーフェミアにとっても非常に重いものだ。幼い頃によく遊び、八年も行方知れずとなって、そして最近になってようやく再会できた、異母姉の名前。
 ユーフェミアはクラリスを非常に優秀な姉として尊敬し、また慕いながら、常に負い目を感じてもいる。非凡な才覚を持つ皇女であるはずの彼女が子爵家の一令嬢として窮屈な立場に身を置いているのに、何もできない自分が副総督という地位についてその座を腐らせていること。ユーフェミア自身には何の責任も無いのかもしれない。それでもその事実は彼女の心を確実に圧迫していた。

「クラリスのことを、知っているのですか?」

「直接お話したことはございませんが、マリアンヌ様が暗殺されたあの日、私はアリエスの離宮の警備をしておりましたから」

「では……それからずっと?」

「はい」

 ジェレミアの口調は固い。
 その心境を察するのは、ユーフェミアには容易かった。

 間違いなく、ジェレミアも負い目を感じている。ユーフェミアのそれなど比べ物にならないほどに。
 マリアンヌの暗殺を阻止できていれば、一家は離散を強いられることもなく、クラリスは皇女のままの身分でいられ、ルルーシュとナナリーが死ぬこともなかったのだ。
 言わば、ヴィ家――ひいては唯一の生き残りであるクラリスの全ての受難は、マリアンヌが暗殺されたことに起因する。
 その事件の発生を許してしまったのが当時の警備隊員――ジェレミアなのだ。

「――クラリスに会いたいと、思いますか?」

 自然と口をついて出ていた。
 今度はジェレミアが瞠目した。

 ユーフェミアはクラリスが名前を変えてエリア11で生活していることを知っている。何の後ろ盾も無く、援助もできない状態で下手に存在を明かせば危険だと思っていたから誰にも話せなかったが、この男になら話してもいいのではないかと思えた。
 曲がりなりにも皇女であるユーフェミアの専任騎士の座を蹴ってでもクラリスに仕えたいと言った人間だ。確実に信用できる。姉の力になってくれるだろう。

「無論、叶うのならば今すぐにでもお会いしたく思っております」

 力強い返答を聞いて、ユーフェミアは会わせるべきと判断した。
 こういったときの行動力には常人離れしたところのある彼女は、すぐにどうやって対面の場を設けたものかと考え始め、ふと車内にあったモニターに目を留めた。

 全国ニュースから地方ニュースへと内容の切り替わった番組の中では、どこかの体育館かホールらしき場所からレポーターが中継をしている。

『こちらの作品をご覧下さい。ここアッシュフォード学園では、クロヴィス殿下の芸術週間に合わせ、作品展示を一般に公開しているんです――』

 タイミングよくもたらされたその情報を、ユーフェミアは天啓のように受け取った。




 ◆◇◆◇◆




 アッシュフォード学園の校門に、まばらに人が吸い込まれていく。
 暦の上では休日の今日、やってくる人間は多くも少なくもないといったところだ。数で言えば決して多くはないだろうが、付近の住民や生徒の父兄辺りしか興味を持たないであろうイベントにやってくる人間として考えると、少ないとも言えない。

 昼の報道番組で取り上げられたからだろうか。

 校門脇に駐車されたHi-TVの中継車に寄りかかりながら、ディートハルトは小さく嘆息した。

(本当にくだらん仕事だ)

 少し前までテレビ局の資料室に追いやられていた彼は、最近になってようやく外回りの仕事に出てこられるようになった。と言っても今回のような毒にも薬にもならない小さな地方ニュースの取材への帯同ばかり。報道の最前線でプロデューサーを務めていた人間に屈辱を味わわせ、辞職に追い込もうという意図が明らかに透けていた。
 だとしても、ディートハルトにはテレビ局を辞める意思は全く無い。職場には未だに彼を慕うかつての部下たちが何人もおり、そこから重要な情報を得ることができるからだ。
 Hi-TVは黒の騎士団の活動に欠かせない情報源なのである。

 それを思えば何の面白みもない仕事にも多少のやりがいは生まれる。クルーの撤収はまだかと学園の敷地内に視線を移すと、遠くのグラウンドでサッカーをしている学生たちの姿が目に入った。
 やたらとへばっている様子の黒髪の少年が悪い方向に目立っている。学校行事だからと慣れないスポーツに駆り出されたのだろう。

(気楽なものだな、学生というのは。しかしこんな平和な連中の中にゼロがいるというのは、どうにも――)

 違和感の拭えない話である。

 仮面の指導者の正体がアッシュフォード学園の生徒なのではないかと疑っているディートハルトだが、人を人とも思わぬ苛烈なあの男が学生に混じって生活していると考えると、どうしてもおかしく感じてしまう。

(だからこそ、うまいカムフラージュになっているのかもしれんが)

 興味を失って校門前の道路へと顔を戻すと、遠くのほうから歩いてくる集団が視界に入った。
 ディートハルトは表情を引き締め、中継車の陰に身を隠すように移動する。集団の中に見知った人物の顔があるように見受けられたからだ。
 目を凝らし、確信する。

(あれは――ジェレミア?)

 見慣れた軍服姿ではなく黒いスーツに身を包んでいるが、直接の対面もあるディートハルトには見間違えようがない。かつて純血派の領袖として一大勢力を築き上げていた男である。
 隣にはクリーム色のスーツを着た若い女。大きなサングラスを掛けているため細かな顔立ちまではよくわからない。桃色の髪をアップにしている。
 その後ろにもスーツを着た男女が一人ずつ続いていた。

(こんなところにいったい何の用が……?)

 ゆっくりと近づいてくる一団を眺めていたディートハルトは、彼らが校門まであと数メートルといった位置になって、気が付いた。
 ユーフェミアである。桃色の髪をした女は第四皇女ユーフェミア・リ・ブリタニアだ。となれば、ジェレミアは近々専任騎士を選ぶという話になっていた彼女をエスコートしているのだろう。騎士候補として。

 奴もくだらん仕事している――そう思えたのは一瞬だった。
 ユーフェミア一行が校門へと足を進めたからだ。

 ディートハルトはただ単に彼らがどこかへ移動する途中であるとしか認識しておらず、大して面白くもないイベントを行っている学校へ向かうとはほとんど予想していなかった。

 ゆえにひどく驚き――同時に何かあると直感した。

 多くの場合、慮外の事態が起こるのには慮外の事情が存在する。目的地がアッシュフォード学園であると判明してもなお、ディートハルトにはユーフェミアがそこへ行こうとしている理由について大して思い当たるものが無いのだ。

(これは――ちょうど良い仕事ができたな)

 ディートハルトは意味の無い待機をやめ、校門へと消えていくユーフェミアたちの後を追った。

 遠くでサッカーの試合終了を告げるホイッスルが鳴っていた。




 ◆◇◆◇◆




 枢木スザクは作品の展示がされている体育館の入り口で、一般客の案内を行っていた。
 主に展示と関係の無い校舎のほうへ行かないように注意を促す役と、万一揉め事が起こった際の仲裁役ということになっている。
 これまでは何も問題が起こらず順調に進んでいた。

 ふと入り口にやって来た人物の気配を感じ、スザクはそちらを振り返る。するとそこには見覚えのある男の姿があった。

「ジェレミア卿!?」

「久しぶりだな、枢木よ」

 以前クロヴィス殿下殺害の容疑者としてスザクを逮捕したジェレミア辺境伯である。思わぬ人物の登場に思考が止まる。
 名を呼んだきり硬直したスザクに、ジェレミアは小さく笑った。

「安心しろ、私はもう貴様を捕らえたいなどとは思っておらん。今日は別の用事だ」

 ジェレミアが言うと、彼の陰から一人の人物が姿を現す。
 桃色の髪をしたスーツ姿の女性だ。サングラスで顔を隠した彼女の正体に、スザクは一瞬で気が付いた。

「ユーフェ――」

「ユフィです。そう呼んでください。いつかのように」

 思わず声を上げそうになったスザクに、ユーフェミアは被せるように言った。

 スザクもすぐに理解する。
 こんなところで不用意に皇女様の名前を出したらどうなるか。ユーフェミアも視察を続けられなくなるし、イベントも大混乱するし、全く良いことがない。

 皇女としての扱いはしないほうがいいのだろう。

「久しぶりだね。どうしたの? こんな所に」

「ちょっと会いたい人が居て。クラリス・アーベントロートって知ってます?」

「クラリス? 生徒会でいつも一緒だからよく知ってるよ」

「ちょうどいいわ。案内してもらっていいかしら。ホテルジャックのときに仲良くなったんですけど、こんな機会でもないと会えなくて」

 直接の会話はナリタ連山での作戦終了時以来だったが、変に硬くならずに話ができた。
 スザクにとってユーフェミアは皇女であると知る前に仲良くなった相手で、彼女のことは敬わなければならないとわかっていても、叶うならあまり格式ばった付き合い方はしたくない――もちろん友達として接したいという意味で――という意識がある。
 こういったプライベートな場面で会えたことは純粋に嬉しかった。

「わかった。でも少し待って。場所をセッティングするから」

 会釈程度に礼をし、スザクは一度その場を去る。
 ユフィの願いをかなえるのにやぶさかではないが、その前にやっておくべきことがあった。
 体育館からひと気の無い用具室へと入り、携帯電話を取り出す。すぐに繋がった相手に、スザクは端的に告げた。

「ルルーシュ、ユフィ――ユーフェミア様が来てる」

「なんだと? いったいどうして」

「クラリスに会いたいらしい。ホテルジャックのときに知り合ったみたいだ。体育館から生徒会室に連れてくから、鉢合わせしないように。会うのはまずいんでしょ?」

「ああ、今顔を合わせるのは避けたい。教えてくれて助かった。俺はナナリーと隠れてる。帰ったらまた伝えてくれ。頼んだぞ」

「わかった」

 電話を切ると、クラリスにも連絡を入れる。生徒会室にユーフェミアを連れて行くから人払いをして待っていてくれるよう頼むと、彼女は驚いた様子で、しかし快く了承してくれた。もっとも、皇女様に指名されて断れる人間は同じ皇族でもなければまず存在しないだろうが。

 事前準備を全て終え、スザクはユーフェミアを伴って外へ出る。
 彼女に従ってやって来たジェレミアと他二人の人間は、当然といえば当然だが、主人の行動には何の口出しもする気がないようで、黙って後を付いてきた。

 皇女殿下はゆっくりと歩きながら、サングラス越しの視線で興味深げに学園内を見渡している。バスケットコートやテニスコートで試合をする学生たちや、緑あふれる校舎の風景などを、とても眩しそうに。

「スザク、学校は楽しいですか?」

 突然、ユーフェミアがそんなことを訊いた。

「もちろんだよ。毎日が充実してる。僕にこんな幸せが味わえるなんて思ってもみなかった」

 全部きみのおかげだ。そう言外に伝える。

 ユフィの口添えで入学できた学園だから、たとえどんなひどい扱いを受けたとしても、学校を辞めなければならなかった彼女の分まで楽しまねばならない。スザクは始め、そういった悲壮な決意をしていた。けれど、ルルーシュやクラリス、生徒会の仲間たちに受け入れられて、いつの間にかほとんど誰からも蔑視を受けなくなっていた。
 今では本当に、心からいい学校だと思っている。

「みんな、僕が名誉だなんてこと何にも気にしてないみたいに、良くしてくれるんだ」

「やっぱり、日本人とブリタニア人でも仲良くできるんですね」

「できるさ。同じ人間なんだ。お互いに歩み寄る心があればできないことなんてない」

「そう――そうですよね」

 ユーフェミアは嬉しそうに微笑んだ。

「前から聞きたかったんですけど、スザクはどうして、日本人なのにブリタニアの軍に入ったんですか?」

 スザクは少し言いよどむ。
 その問いはスザクの根幹に関わるものだ。しかしそれを信念と呼んでいいのか、人に話すべきものなのかどうかは、常におのれに問い掛け続けている。いや、問い掛け続けなければ維持できなくなりそうだとうすうす感づいている時点で、それは信念とは呼べないのかもしれない。
 それでも、やはりスザクに言えることはただ一つだった。

「力で無理やり奪い取ったものになんて、何の意味もない。僕はずっとそう考えてきた。テロなんて無意味な行為だよ。それで得られるのは行き場のない悲しみと、どうしようもない空しさだけだ」

「だから――ブリタニア軍に入った?」

「そう。この手で同胞の命を断つことになるかもしれない。それは覚悟してた。それでも、ルールを破るよりはマシだと思ったんだ」

「ではスザクは、日本の方々が全員降伏しておとなしくブリタニアに投降すれば、全ては円く収まると? ルールを守るというのはそういうことですよね」

「少なくとも、余計な血の流れることはなくなる。その先はわからない」

「わからない?」

「正直、ブリタニアのイレブンに対する弾圧には目を背けたくなるものがある。そこをどうやって改善していくのか、どこまで改善できるのか。より良い生活を勝ち取るための先の見えない戦いが、また始まるんだと思う。でもそうやってルールに従って手に入れた権利は、誰にも否定できない。ならイレブンの人たちはそれを目指すべきだ」

 スザクが言い終えると、ユーフェミアは話の内容を吟味しているのか、短い時間唇を閉ざした。
 しばらくして口を開く頃には、その顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。

「ありがとうスザク。わたし、日本の方のために何をしたらいいのか、なんとなくわかった気がします。まだ政策に反映する力はありませんけど、いつか必ず、貴方たちの願いを形にして見せます」

「こちらこそありがとう、期待してるよ。でもそれはもうただのユフィのセリフじゃないね」

 スザクが茶化すと、ユーフェミアは「あ」と口を押さえ、くすくすと肩を揺すった。

 もうすぐクラブハウスに着く。難しい話はそろそろ終わりにするべきだろう。
 隣を歩く少女に笑い掛けながら、スザクは努めて明るい声を出した。




 ◆◇◆◇◆




 ジェレミアは胸に湧き上がる高揚を抑えきれずにいた。
 アッシュフォード学園のクラブハウスの廊下を歩きながら、まるで初恋の相手に告白をしに行く初心な少年のようだとさえ感じていた。
 口の中が乾く。どんな顔をしていいのかわからない。

 そのような状態だったために、名誉ブリタニア人の枢木スザクが皇女殿下と親しげに話していようが、その内容がどんなものであろうが、さしたる気にはならなかった。自分のことで精一杯だったのである。

 やがて生徒会室の前に辿り着く。そこには黒いスーツを着た体格のいい壮年の男が立っていた。子爵令嬢として生活しているクラリス殿下の護衛隊長であるらしい。
 ここまで来れば案内はもう必要ないとまずスザクが帰された。さらにクラリスとの会話は余人に聞かせてよいものにはならないと予想されるため、室内に入る人間をユーフェミアとジェレミアの二人に絞る。残りの人員は部屋から少し離れた地点で待機することとなった。

 一歩踏み出し、軽くドアをノックする。
 扉越しのくぐもった声で「どうぞ」と小さく返ってきたとき、ジェレミアは自分の体がびくりと震えるのを感じた。
 隣に立つユーフェミアが頷く。
 ノブに手を掛け、ジェレミアは扉を開いた。

 晴れた屋外から日の光が降り注ぐ部屋。
 そこにあったのは、間違えようのない、夢にまで見た少女の姿だった。

 アッシュブロンドをした彼女は、しかし部屋に入ったジェレミアを目にして、ひどくうろたえた様子を見せた。アメジスト色の瞳を大きく見開き、何かを言おうとするかのように口を開いて、結局何も言わずに唇を閉じる。
 そうして数秒ほど無言の時間が過ぎると、少女は一つ息を吐き、ユーフェミアに視線を移した。

「……お久しぶりです、ユーフェミア殿下。こちらのお方は?」

「久しぶりです、クラリス。スザクから聞いていませんでした?」

「いえ、全く。おそらく私が一方的に存じ上げているお方だと思いますが、お名前をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」

 少女が問う。
 ユーフェミアに視線で促され、ジェレミアは自ら名乗ることを許されたのだと理解した。
 一歩前へ進み、片膝をつく形でひざまずく。

「私はジェレミア・ゴットバルトと申す者。皇帝陛下より辺境伯の地位を賜っております」

 おもてを上げ、少女の顔を見る。そこにはもう狼狽の色は浮かんでいない。心中を推し量ることは不可能ながら、表面上は凛とした貴族の表情になっている。
 向けられる静謐なまなざしに喜びを覚えながら、ジェレミアは情動に突き動かされるように、想いを言葉に乗せた。

「無礼とは存じますが、私にも、貴女のお名前をお聞かせ願えますか」




 ◆◇◆◇◆




 クラブハウスの一室でジェレミアが膝をつく――。

 その様子を、ディートハルトは離れた位置からはっきりと目撃した。
 オペラグラスを目から離す。

 運動場のほうでイベントをやっている今、クラブハウスの周辺には全く人の気配がない。ゆえにこそディートハルトは近くで聞き耳を立てる作戦を断念したのだが、結果的には正解だった。
 人の目が無いと安心したのか、ジェレミアは決定的な行動を取った。
 大貴族であるあの男がひざまずいたのである。

 それはしばらく前から気に掛けてきたクラリス・アーベントロートという少女の正体に迫るための、あまりにも巨大なヒントだった。

(辺境伯のジェレミアが臣下の礼を取らねばならない相手。そんな人間などごく限られている――!)

 会話が聞こえない以上、もう重要な情報は出揃ったとみなして構うまい。
 オペラグラスをしまい、ディートハルトは中継車の停めてある校門へと走った。

 乱暴にドアを開けて無人の車内に入り、私物のノートパソコンを引っ張り出す。探すのは皇族のデータベースだ。
 后だけで三桁に上るブリタニア皇族のデータなど、報道畑のディートハルトといえど全ては把握していない。しかしここにならあるはずだった。

 はやる気持ちを抑えつつ調べることしばし、ついにディートハルトの目の前に求めていた情報が現れた。
 我知らず口元に笑みが浮かぶ。

(クラリス・ヴィ・ブリタニア、八年前から遊学中とあるが――。なるほど、そうか……! そういうことだったのか!)

 親衛隊もなく、軍の庇護もなく、それでいて皇位継承権を所有しているブリタニアの皇女。
 これは黒の騎士団にとっての強力な武器となる。

(なんという……なんという逸材だ!)

 ディートハルトは抑えきれぬ感情に任せ、哄笑を上げた。




 ◆◇◆◇◆




「無礼とは存じますが、私にも、貴女のお名前をお聞かせ願えますか」

 そう告げたジェレミアは、アッシュブロンドの少女の前で片膝をついたまま、やってくる返答を待った。
 無言でこちらを見つめるアメジストの双眸には一種異様な迫力があり、それは何も言わずとも、同じ瞳の色をしたシャルル皇帝の眼力を髣髴とさせる。
 言葉でも事前情報でもなく、今のジェレミアは実感として彼女が何たるかを理解していた。

 そして少女はおもむろに桜色の唇を開き、ゆっくりとその名を口にした。

「――クラリス・ヴィ・ブリタニア」

 瞬間、ジェレミアはかつて味わったことのない至福を全身に感じた。脳天から爪先まで、細胞の全てが喜びに打ち震えている。

「本当に――本当に、生きておられた」

 かすれた声がのどから漏れた。
 この感動をなんと言ったら良いのだろうか。ジェレミアには到底表現できそうもない圧倒的な歓喜である。
 意識しないうちに口から言葉があふれていた。

「クラリス殿下、私を御身のそばに置いてはいただけないでしょうか」

「どういう意味かしら」

 クラリスは静かに聞き返す。

 突然にこんな願いを口にするのは途轍もない不敬である。困惑させてしまうのも当然だ。
 わかっていて、ジェレミアは止められなかった。

 八年も想い続けて来た相手なのだ。この機会を逃せばいつになるかもわからない。ことによっては一生届かないかもしれない。
 それだけは許せなかった。
 もはや手の届かない、マリアンヌ妃の面影が心に残っているからこそ。だからこそ、ジェレミアはこの機を逃してはならぬと強く思う。

「不遜を承知で申し上げます」

 気を抜けば溢れそうになる涙を気力で封じ込め、ジェレミアは正面に立つアッシュブロンドの少女を鋭いまなざしで見上げた。
 神聖ブリタニア帝国の第三皇女――クラリス・ヴィ・ブリタニアを。

「このジェレミア・ゴットバルトを――貴女の騎士にしていただきたいのです」


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