あれは、もう何年前のことだったか。
あの頃は、母さんと二人。何もなかったけど、何も必要なかった。
強い風と、吹き付ける雪。耳を澄ますと、ゴオゴオという音。そう厚くない木の板に、トタンを巡らしただけの壁がギシギシと揺れた。
リノリウムの床は凍てつくように冷え、夜毎、室内に置いたタライの水に氷が張る。そんなオンボロ宿の一室で、オレと母さんは暮らしてた。
その日も、外は吹雪だった。こんな夜には、客も来ない。
室内には俺と母さんと、娼婦仲間が数人。ほとんどヘラヘラと涎を垂らしながら、壊れてた。
暇さえあれば、小さなガラスの粒にもにた結晶を指先で弄び、小指の爪くらいのそれを、見せつけるように舌先に乗せてなめしゃぶる。そうして、天井のシミを目で追っていた。
その都度、母さんはそっとオレを抱きしめるのだ。オレには、母さんの指の隙間から見えたそれがなんなのか見当がついていた。アイス(覚せい剤)だ。
「いのち、のじかん?」
「そうよ、アンヘル」
私の天使。そう呼んで、頬にキス。
くすぐったくて、うれしくて、大好きだった。人の肌が温かいことを教えてくれたのは、母さんだ。
「さまざまな生物がいて、生とともに死がある。どの生物にとっても、どのような生き方でも、そこには「生きてる時間」がみちている」
スプリングが馬鹿になっているソファ。逆さにしたバケツにベニヤ板をおいた机。それが、オレの学校だった。
「ながくても、短くても、「いのちの時間」にかわりはない。始まりがあって、終わりがある。花、人、鳥、魚、動物、どんな小さな虫にとっても」
母さんはおしゃべりしながらコップの中の水に指先を浸し、したたる水滴で文字を書く。オレは、こうやって字を教えてもらった。
俺はよく母さんの膝の上に座ってた。オレはまだちっこかったから、母さんの両足の間にすっぽりと収まってしまう。母さんに包まれている感触が好きだった。
ジーンズに包まれた太ももに頬を寄せていると、ぶかぶかのセーターに包まれた手が伸びてきて頭を撫でる。手のひらが暖かくて、くすぐったかった。
・・・幸せだった。
「なーに、カマトトぶってんの、シルヴィ」
個室部屋がある二階への階段。木の手すりに手をかけて、こちらを見下ろして微笑む黒人の女と目が合った。
「ジーナさん。・・・年季明けたって聞きましたけど?」
ブルネットの髪をボブにして、丈の短いピンクのワンピース、すらっとした足に白いタイツ。赤いパンプスがきまっている、そんな女。
この店一番の売れっ子、ジーナ。確か、会計士をしていた若い男と一緒に、町を離れると聞いたばかりだった。
「んーん、あいつ、金持って一人で逃げちゃった」
また、一からやり直し。そういいながら、ジーナは咥えたタバコに火をつけた。感情を感じさせない声だった。
「・・・それよりさ、ヨークシンで一稼ぎしてこようって話があるんだけど、あんたも乗んない?」
「ヨークシン、ですか?ずいぶん遠くまで行くんですね」
「ええ、バル・・?なんとかって店が、女の子募集してるのよ。ヨークシンつったら、花街としちゃ一等地じゃん。格安で斡旋してくれるらしいし、この際ちょっと遠征して一稼ぎしようかって話になってるの。あんたもどうせこの時期、暇でしょ?」
母さんは、困ったように眉根を寄せた。
これまでにも何度か大きな町に行くという話はあった。ジーナほどじゃないけど、母さんも売れっ子だ。育ちのよさそうな、品のある女を好む客は多い。特に、こういう町では。それに、母さんは育ちのよさを鼻にかけるところがないので、人気があった。そういう女を好きにできる。そういうシチュエーションを好む客が多かった。
でも、母さんはその度に断ってた。母さんは、何故か人の多い場所に行きたがらない。それは自分の生業を恥じているからではなく、誰かに見つかる事を恐れているからなのだと、俺は薄々気付いてた。
「あの親父、他の店にも声かけまくってるわよ。仲介料だけでも相当おいしいんじゃない?」
売春宿の主人というのは、あまり稼ぎのいい仕事じゃない。大部分は、安全代をせびりにくるチンピラに掠め取られる。必然的に、女達の手に渡る金も多くはなかった。
「あたしもさ、いつまでもこんな萎びた町にいたかないわ。あんたも、せめてもう少しまともに暮らせるところに行きたいでしょ。ま、さすがに子連れって分けには行かないだろうけどさ」
ジーナはオレの髪をわしゃわしゃと撫でた。
母さんは、どこかあか抜けてて、本人は気をつけているようでも、育ちの良さがつい出てしまう。だから、娼婦仲間との折り合いは悪かった。ハブられていた母さんを、フォローしてくれてたのがジーナだ。
「・・・いいお話です。でも、せっかくですが、今はこの子と居てやりたいんです」
オレは知ってた。
ジーナが母さんの上がりの中から、何枚か抜いて自分のものにしていたことを。たぶん、母さんも気付いてた。
「そっか・・・えらいわ、あんた。・・・あたしゃ、途中で放り出したけどね」
ジーナは、何を見ているのか分からない目つきで、タバコの煙を吐き出した。
次の日、店にいた大半の女が姿を消した。二度と、戻ってはこなかった。
体を売る仕事は、長くやれるものじゃない。
それでも、年季が明けるまで勤めれば、もう若くはない。
心、体、時間、命。あるいは女としての矜持(プライド)。
何もかも削りながら、みんな、今を生きていた。
だから、だと思う。
「・・・それが、理由か?」
・・・ああ。
Chapter2 Strange fellows in York-Shine ep17
両手足を地に着けた少女の体は、痛々しいほどに傷付いていた。
元は滑らかな光沢を放っていた金色の髪は無残に焼け焦げ、美しかった顔の右半分ともども、ケロイド状に溶けかたまっている。全身には刃物で抉ったような無数の傷跡。纏った衣服もボロボロで、黒いインナーだけが申し訳程度にその身を覆っていた。
折れて引きずるようにしている左手、かろうじて無事な右手すら、ヤスリで引かれたように肉が抉れ、血にまみれている。ただ、青い眼だけが、獣のようにギラギラと輝いていた。
常人ならば、単に少女が死に掛けていると思っただろう。だが、その場に居合わせた念能力者達には、また別のものが見えていた。
それは、太陽だった。
後から後からプロミネンスのように噴出し、無限の熱量をもって燃え盛るオーラの奔流。
赤く脈打つオーラそのものが高熱を放ち、少女の周囲の大気を陽炎のように揺らめかせ、明け方の冷え切った風を焦がす。
頭上の暗雲が割れ、朝焼けの輝きが一人の少女に降り注ぐ。
「・・・なんだ、これは・・・?」
突如出現した、おぞましいほど大量のオーラを直視して、我知らずダミアンは唾を飲み込んだ。
思わずよろめき、掌を頭に当てて天を仰ぐ。その声は、震えていた。
オーラというのは極論してしまえば生命エネルギーだ。科学者的としては、そう安直に定義してしまう事に反発を覚えるが、しかし実際に存在するものを安易に拒否するのも科学ではない。そういう意味では、良くも悪くもダミアンという男は自分の眼で見たことしか信じなかった。
死にかけているというのは、生命エネルギーが底を付いているということ。健全なオーラは健全な肉体に宿る。基礎修行をおざなりがちにしがちなダミアンとて、健康管理には大変に気を配っている。
では、目の前の女はどうかというと、自分でやっておいてなんだが、生きているのが不思議な状態だった筈だ。そう、文字通り死にかけていたというのに、・・・・・このオーラはなんだ?
これまでのほぼ全ての展開が、ダミアンの思い描いたとおりのものだ。既に勝利は確定し、状況は完結していた。その筈だ。
にもかかわらず、傷付き、倒れ伏し、後は1億ジェニーに換金されるばかりだった少女の姿は既になく、今、目の前には見知らぬ女が立っている。こちらに、恐ろしいほどの殺気混じりのオーラを叩きつけながら。
その全てに―――
「・・・ああ、もう、なんというのかな、こういうのは・・・・・・・・・そう、空気読めよ!!」
―――ちょっとこれまで感じたことが無いくらい、腹が立った。
「貴様はそこで終わるべきだろう!!いったいどれだけ貴重な時間と予算を浪費させれば気がすむのだ!!生け捕り指定だからと、手加減しておれば、つけあがりおって!!」
ダミアンはヒステリーのように叫んだ。
そもそも殺すだけなら、猛毒のガスか可燃物でも使っていれば当の昔に終わっている。生け捕り指定だったからこそ、余計な手間を踏んだのだ。それを、あろうことか炎精を退け、地精を砕き、虎の子の鏡魔までも晒す羽目になった。流石にそろそろ鬱陶しい。
しかも、そこで終わっていればまだ可愛げもあったものを、この始末。こうも反抗され続けると、いい加減ダミアンも1億ぐらいどうでもいいという気になってくる。
最初から神経ガスでも使って手早く終わらせればよかったか?いや、あの薔薇をどうにかされてしまったというのがそもそもの想定外だ。その事を思い出すと、再び怒りがこみ上げてきた。どいつもこいつも、よってたかって人の邪魔ばかりしてくれる。
ダミアンは胃の腑がグラグラと煮えたぎり、血圧が急上昇するのを感じた。高血圧の老体に鞭打つこの所業、もはや許せぬ。
・・・このダミアンという男、普段は知性派を気取っているが、自らの立てた計略を覆されると、途端に癇癪を持て余すという悪癖を持っている。それこそが、この男が各地で無差別大量破壊を繰り返す、何よりの原因だった。
「おとなしくしていれば、換金するまで生き延びられただろうに!」
そう吐き捨てながら、ダミアンは如才なく少女を凝視した。
改めて見ると、ものすごいオーラだ。
明らかに、一個人が捻り出して良い量ではない。中堅クラスの能力者の、ざっと十倍くらいあるだろうか。それは素直に認める。
しかし、どんなペテンを使ったかは知らないが、その手のイカサマというのは必ず後でしっぺ返しが来る。放っておいても、すぐに死体になりそうなものだが・・・まったく、馬鹿なことをしたという他は無い
念というのは、単純なオーラの量で勝敗が決まるものではない。むしろ、技術と工夫、頭の使い方が戦局を左右しうる。その点で言えば、目の前の相手は下の下。
「――――――おっと、ジェーン、お前はしばらくこいつらと戯れておれ」
すぐに相手をしてやる。そうダミアンが呟くと、無数の念獣が瓦礫の隙間から染み出すように現れた。それらは粘液を震わせながら形を成すと、黒い髪の女の下へと殺到する。
実際、危険性でいえば、目の前の少女などよりこちらの方が遥かに上だ。何せ、能力者としての下地も、潜った修羅場の数も違う。だが、既にダミアンの関心は、目の前で自分をにらみつける生意気な小娘に集約されていた。
(ケダモノが!!低俗極まりない脳筋能力者が!!)
・・・その時、彼の頭からは事前準備の段階で抱いていた警戒心などは、見事に吹き飛んでいた。
「出番だ、ゴレーヌ!」
立ち尽くしていた巨人が、造物主の命を受けて動き出した。
念獣、地精(ゴーレム)。その正体は、全身を構成する瓦礫片の縦横に、粘菌のように触手を伸ばし、つなぎとめている強力な接着剤に他ならない。
分子間を侵食し、癒着させるため、まず絶対に剥がれ落ちる事はない。それでいながら、非常に柔軟、且つ伸縮自在。ゴムのように強い反発作用を生み出し、それが筋肉のように巨体を動かす。この物理的な特性のおかげで、これだけの巨体を操りながら、術者の消耗は驚くほど少ない。
その最大の特徴は、吸着した瓦礫の膨大な質量にモノを言わせた防御力。
まるで機動するトーチカのようにあらゆる攻撃を受け止め、無力化する。多少の攻撃ではびくともしないし、例え削られたところで、文字通り痛くもかゆくも無い。しかも、削られた部位すら新たな瓦礫を吸着させれば、いくらでも再生する。そのための材料は、この場には無数にあった。
唯一の欠点は、重量故の鈍重さだが、これだけの巨体である。生身の人間と比べれば、ゴリラと虫けら。歩幅が違えば、機動力も違う。そう易々と逃げられるものではない。
一方、相手は身に纏うオーラこそ凄まじいが、満身創痍。死にかけもよいところだ。恐らく自己治癒力を強化できるほど、強化系に長けていないのに違いない。もう2、3発小突けば終わりだろう。
「叩き潰せ!!」
巨人は破壊された右手をそのままに、無事な左手を天高く掲げ、一気に落とした。
「ちょ、おま・・!!」
その握りこぶしの中に囚われていたオカマが、生命の危機に悲鳴を上げたが、もはやダミアンにはアウトオブ眼中。存在そのものすら忘却されている。
一方で巨人を迎撃する態勢をとった少女の表情も狂気に彩られており、オカマことヴィヴィアンの窮地に気付いた様子は微塵もない。
「ふざけんなっ!!」
間一髪―――火事場の何とやらだろう、ヴィヴィアンは自身を拘束している瓦礫の隙間に刀をねじ込み、地金がへし曲がるのも構わずこじ開ける。と、僅かな隙間から無我夢中で這い出した。
ほぼ同時に、拳はアンヘルに吸い込まれるように叩き込まれていた。
伸ばされる巨大な拳は少女の身の幅を優に超え、その先端は無数の突起が付いている。千切れた水道管や街灯、あるいは尖った鉄柵。そんな凶器の塊が、ゴオっと風きり音を伴ってアンヘルに迫った。
しかし、
「―――爆ぜろ」
小さく呟くだけの声。
その一言に導かれ、伸ばされたオーラが小さな左手に収束する。それが夜空に赤い燐光を棚引かせ―――――一瞬時に、巨腕が細切れになって吹き飛んだ。
響く、爆裂音。
それを目撃した全員が、動きを止めて絶句した。
「■■■■■■■■■■■■!!」
巨体が軋み、揺れ、傾ぐ。
物言わぬ巨像は絶叫するように全身を震わせると、今度は足の裏を振り上げた。自身の重量を最大限に生かすことができる攻撃、"踏み付け"だ。
それを再び、小さな腕が迎え撃つ。
「馬鹿な!!」
その悲鳴は、果たして誰のものだったか。
突き上げられた拳は巨大な足を粉砕し、続いて繰り出した蹴りは、前のめりに崩れて落ちてきた巨人の胴体を、いとも容易く断裂させる。
拳の一撃一撃が高密度のオーラを纏い、指向性を持った爆風が荒れ狂う。
溶解した石畳が赤々と光を発し、岩石蒸気となったかつてのゴーレムが、捲れあがった泥や土、へし折れた街灯を焼いていった。
「おおぉ!!」
その威力に、思わずダミアンは眼を見張った。まるで艦砲射撃を見るようだ。
インパクトの瞬間、纏ったオーラが漏斗を逆さにしたような独特の形状を取ったのを、ダミアンは見逃してはいない。
敵はモンロー効果を利用している。火薬学の初歩で扱う古典的な現象だが、単にオーラをたたきつけるより効果があるのは間違いない。プレート効果を利用していた事といい、多少は知恵の働くケダモノだ。
そして、確信する。
恐らく、この女は変化系の能力者。
能力でオーラを起爆性の高い物質に変化させている。固有の形をとっていないのがその証拠。具現化系という可能性は、もう排除してしまっていい。
専門家の間では、燃焼による爆発現象の内、発生する気体の膨張速度が音速に達しないものを『爆燃』、音速を超えるものを『爆轟』と呼んで区別するが、この破壊力は、まず間違いなく爆轟に達している。
これは、対能力者戦闘では極め付きにやっかいだ。
たんぱく質というのは摂氏80度で瞬間的に凝固し、それ以上の温度では燃焼する。どれほどオーラで強化されていようと、この物理的限界値が在る以上、生身の肉体の防御力に対する加算値は、この値に左右される。まともに格闘戦をやれば、格上の能力者にも通用するだけの攻撃力が、この能力にはあった。
まあ、それはまともに肉弾戦をすれば、の話だ。
「イフリーートォーーーー!!」
絶叫と共に、ダミアンの片腕が突き出された。
大仰な身振りにアンヘルが眼を奪われた刹那、地面から噴出す銀色の液体。
オイルのような異臭を放ちつつ、異形の念獣は猛スピードで飛び掛ると、一気に燃え上がった。地面から揺らめき立ち昇る蜃気楼のように、青白い炎の海が周囲の大気を嘗め尽くす。その余熱だけで大地は溶岩のように溶け崩れた。まるで火山地帯の間歇泉だ。
周囲の酸素をこの一瞬で奪い尽くした火の海は、その場の空間そのものを立体的に焼き尽くす。それも当然。摂氏にして数千を優に超える、極彩色の猛火。そのエネルギー量はいくら念に守られていたところで、脆弱なたんぱく質の塊を、固体から気体へと変えてあまりある。
だが――――突如、炎の壁は吹き飛んだ。
後には、女がその場に佇んでいた。体中を、焼け焦げさせながら。
全身に広がる創傷。熱傷、褥瘡、擦過傷、大量の内出血も見受けられる。発汗がおびただしく、顔色も悪い。呼吸が荒いのは肺水腫か?
加えて外耳孔からも出血。鼓膜が破れでもしたのだろう。もはや、マトモな聴覚は残っていまい。
「空を飛べるといって、空から来るとは、限らないねぇ」
ダミアンは、笑った。
率いる念獣どもはいささか数が減ったが、人一人囲んで叩くには十分。今も周辺の瓦礫や廃墟の隙間に潜み、ダミアンの命令を待っている。
何より、無理に勝負を焦る必要もない。
「さあ、お望みどおりの根競べだ、お嬢さん。思う存分、踊るといい。私はここで君がへばっていくのを、ただ見届けることにするよ」
相手は、能力を使うたびに、勝手に傷付いていく。
この危険すぎる力を、使いこなせていない。
いや、そもそもこの能力は、使うたびに嫌でも自身を傷つける。爆発による爆風の強さは、爆心からの距離の2乗に反比例するからだ。
例外的に、閉鎖空間における爆発はその限りではない。例えば、先ほどゴーレムの腕を粉砕して脱出した時などがそうだ。恐らく全身に纏ったオーラを一斉に起爆し、爆風で吹き飛ばしたのだろうが、大ダメージを負ったはずだ。
まったく、よほどの自爆好きと見える。イカレているとしか言いようがない。普通、胴体をつかまれた状態ででそんな能力を使ったら、バックファイアで自分がどうなるのか分かりそうなものだが。
ともあれ、ダミアンはこうやって断続的に念獣どもをけしかけてやればいい。地味だが、確実に出血を強要できる。後は煮るなり焼くなり自在に御座れ、だ。
念能力者としての常識で考えれば、これで打ち止め。あの反則も長く持つはずが無い。
だが――――
「くっ・・くくく・・」
少女の引きつるような、しかし、確かな、笑う声。
「・・・?」
懲りずに膨大なオーラを両手に収束すると、アンヘルは再び歩き出す。何の奇策も搦め手もない。いくらなんでも愚直に過ぎた。
(・・・さては、狂ったか?)
と、小首を捻ったところで、ダミアンは妙な胸騒ぎを覚えた。
はて、と首を傾げ、もう一度正面に視線を戻す。何か致命的な見落としをした気がしたような気がしてならない。
もう一度、状況を整理しよう。
相手は既に満身創痍。そして能力は使えば使うほど、ダメージを受けるという不条理な代物。一時的に膨大な量のオーラを得てはいるが、所詮は素人に毛の生えた程度の能力者だ、扱いきれていない。何を代償にして得た力かは知らんが、見事に宝の持ち腐れだ。
このまま爆発の威力を上げ続けては、ダミアンに手が届く前にダメージが蓄積して死ぬだろう。といって、爆発の能力に頼らなければ、窮地はぬぐえない。威力を下げてダメージをセーブしようにも、相手の技量では難しかろう。それに、他の念獣ならともなくゴーレムには生半可な力は通用しない。
やはり、ダミアンに負ける要素は一つもないではないか。
(・・・ああ。そういえば、一つ、とられたら厄介な手があるにはあるが・・・)
だが、いくらなんでもそれはない。とダミアンは思った。
何せ、その方法では、確実に・・・・
「・・・あ゛ぁ!!」
そこでようやく、恐ろしい事実に気が付いた。
誰あろう、ダミアン・ハービィこそは大量破壊兵器の製造と使用に関する第一人者である。そんな男だからこそ、いち早く気づくことができた。
誰もが見落としていた、アンヘルという念能力者の異常性と、その脅威に。
「Liquid No・・・・いや、全部出ろ!!」
呼びかけに応じ、瓦礫の山が爆発したように隆起し、再び巨人が姿を現した。足元に、無数の雑多な念獣を従えて。その全てが殺傷力の高い特殊成分を秘めている。
まさに万全の布陣。出し惜しみ無しの決戦兵力。
しかし、もはやダミアンにとって、それらはタダの壁に過ぎなかった。
この全てを使い潰して構わない。絶対に、あれを近寄らせてはならない!
「まさか・・・まさか、そんなことが・・!!!」
ない、とは言い切れない。
震え声でダミアンは呻いた。
(爆薬に、なるというのか?!あのオーラの全てが?!)
仮に、身に纏ったオーラの全てを爆薬に変化させられるのだとすれば。
それはもはや、人の形をした超大型爆弾と同義だ。
少女の身長は目測で170センチ前後。この国の女子平均身長から推測すれば、体重は60キロ程度。いや、やや筋肉質なのでもう数キロ加算されるだろうか。それを、おおまかに同重量のトリニトロトルエン、即ちTNT火薬に置き換えて計算した場合、起爆時の想定破壊力は・・・・!!
ゴクリ、と思わず喉が鳴った。
どう考えても、ここいら一帯を破壊しつくしてお釣が来る。
しかも、これは爆薬の量を最低に見積もった場合の数字だ。少女の全身から放出されているおぞましいほど大量のオーラは、どう見ても能力者自身の体積より遥かに大きい。
その上、相手が正確にはどの程度の爆発物を生み出せるのか、想定できない。ゴーレムを圧倒するあの威力、仮にプラスティック爆薬程の威力があれば破壊力は1.34倍、あるいはHNIWクラスなら2.4倍掛けになる。いや、それ以上の破壊力にならないと、いったい誰に断言できるだろう。
タチの悪いことに、念能力には覚悟だの決意だのといったダミアンの大嫌いな精神論が、ある程度ご都合主義的に実現されてしまうという邪悪極まりない性質がある。これがまた酷い事に、累乗倍くらいの加算率で念の威力を跳ね上げてしまう。
さて、変化系の能力者はオーラを手放すことを苦手とする。これは絶対だ。しかも、この女は能力者としてかなり未熟な部類に入る。これも確定だ。
先ほどの闘い方を見るに、オーラを念弾にして飛ばすとか、そういう『安全』な使い方は出来ないと見ていい。だが・・・だが、もしオーラを『手放す』という条件を放棄し、且つ最大威力を生むことだけを望んだら――――
「ふ、ふふ」
不意に、少女が小気味よさそうに笑う。
その顔を見て、思わずダミアンは悲鳴を飲み込んだ。こちらが、ようやくその意図を察したことに気付いたのだ。
――――そんな危険極まりない能力の持ち主が、ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべながらこちらににじり寄ってくるのだが、その理由とはいったいなんだろうか?
もちろんダミアンはその優秀な頭脳でもって、速やかに正解にたどり着いた。
「こ、こここ、この狂人めえっ?!!死にたいなら一人で死ねぇ!!!」
あの少女の形をしたケダモノは、敵と、つまり自分と刺し違える気だ!
スーサイドアタック、自爆特攻、あるいはKAMIKAZE!
この状況を簡潔に例えるなら、相手は全身に爆弾をたんまりと抱え、攻撃してきたら何もかも巻添えにして自爆するぞと脅迫しつつ、無抵抗のこちらをフルボッコしようとしているに等しい。まさにテロリストのやり口だ。
「アッハッハッハッハ!!」
キチガイじみた哄笑。
高笑いと共に少女が腕を一振りすると、そこから衝撃波が生じた。
稲妻のような轟音が響き、閃光が周囲を満たす。空気は帯電したように赤く発光し、爆風が吹き荒れる。群れ集っていた念獣が、その一薙ぎで吹き飛んだ。
有機溶剤の塊が、熱波に晒され溶け崩れる。異臭を放ち、高熱を放ち、連鎖的に誘爆する念獣の群れ。同時に、その中身が一斉にあふれ出す。
神経ガスが、猛毒の薬物が、高密度の爆発物が、あるは高温の火炎が、辺り一帯を地獄に変える。それこそが、ダミアンの作る悪魔達の真価。
だが、届かない。
人体に甚大な被害をもたらす、そのいずれもが、彼女の元まで届かない。
小波がより大きな波にかき消されるように、極限まで高められた爆風は、空間を断絶し、あらゆる有象無象を遥か彼方に吹き飛ばす。
空間広がる波紋。発生源を中心として、扇状に広がる破壊。赤い燐光が、その間に存在する全てを薙ぎ払った。
当然、後方に位置していたダミアンも無事ではすまない。
「おおおォォ・・・!!!!」
波打つような衝撃に、ダミアンの体が浮いた。
視界が反転する。横でも縦でもなく、不規則に。つまり、吹き飛ばされたらしい。重力を失い、背中から、何か硬くて重いものにぶつかる鈍い音がした。打ち付けられ、跳ね飛ばされて、転げ落ちる。口に入り込んだヘドロを吐き出しながら、ようやくダミアンは顔を上げた。
よろよろと立ち上がった途端、腰に激痛が走る・・・持病の腰痛だ(基本、デスクワークの多いダミアンは椎間板ヘルニアを煩って久しい)。独特の痛みに呻いたところで、慌てて敵の追撃に備えた。爆煙に巻かれて接近されたら、それこそアウトだ。
相手は、まだ元の場所に立ち尽くしていた。
突き出された黒い手袋が、白い煙を上げている。赤熱し、ブスブスと焦げて融解したそれが放つ異臭に、肉の焼け焦げる臭いが入り混じり、ダミアンの鼻腔まで届いた。
あの手袋自体は難燃素材で出来ているのだろうが、あまりに常軌を逸した高熱と破壊力に、その下の肉が耐えきれなくなっているのだ。
(・・・キチガイだ!!)
こいつは自分が傷付く事など、いや、死ぬ事すらなんとも思っていない!
これは、もはやダミアンの理解を超えている。
念能力者は、程度の差はあれ、選ばれた人間だ。念を習得できるのは十万人に一人。才能を持つものだけに開かれた狭き門。それを潜り抜けた優勢種だ。
だからこそ、信じられない。
神に与えられた才能を、凡愚には決してたどり着けぬ境地を、こんな自滅的というのも生ぬるい能力に費やし、あまつさえ、他人にやらせるならともかく、こんな狂気の沙汰を躊躇なく実行するなどと!!
(いやいや・・・恐怖に飲まれてどうする。恐怖は悪魔の武器、飲まれたものが馬鹿を見る!)
自ら爆弾を身に纏い、人質を撃ち殺し、アッラー・アクバルと唱えるのはテロリストの常套手段だ。こちらの正気を疑わせ、相手の譲歩を引き出す。
つまりは、ハッタリ。そう、ダミアンの冷静な部分が指摘する。
だが・・・だが・・・
「・・・!」
両手をダラリと垂らした少女と、眼が合った。
焼け欠けた唇。噴出した鼻血。白い歯を剥き出しにした、狂気の笑み。赤いオーラが全身から噴出し、猛る。その全てに、例えようのない寒気を覚えた。
そして、再び少女は歩き出す。
「こ、こっちに来るなあァ!!」
ダミアンという男は多くの能力者がそうであるように、武術だの武道だのには一切興味がない。特に、戦いに喜びを見出す戦闘狂などとは無縁である。全ては金と実験のためだ。
そのやり方は、老獪を絵に書いたように抜け目ない。常に相手の弱点を探し、策を用い、状況に応じてさまざまな念獣を繰り出しては、確実に獲物を追い詰める。
しかもその間、自分は安全な場所で高みの見物。戦場に出てくるのは、トドメを刺す時だけ。腕に覚えのある筋肉馬鹿が、無様な末路を晒すのをとっくりと眺めるのが、何よりの好みだ。
だから、盛況な敵の前に身をさらすという状況は、これまで経験した事もなかった。
それが、卑劣極まりない男に、久方ぶりの『恐怖』という感情を揺り起こしていた。
抱えた爆弾、死の行進。
先刻、哀れな女性達によって演出された、狂気のパレード。
まるでその再現のように、アンヘルは歩いた。
違いは、ただ一つだけ。
彼女は自らの意思で、その場に立った。
自らの命を使いながら。
「クッ、クカカカカカカカッッ・・!!!」
全身ボロボロで、血反吐を吐きながら、それでも立ち上がり、相手を脅迫しだした―――少なくとも傍目にはそう見えていた―――アンヘルを見てヴィヴィアンの総身が震えた。
ほんの数日前に初めてやりあった、切れすぎるナイフみたいなクソ餓鬼。短い付き合いなのはともかくとして、よしゃあいいのに、自分から首を突っ込む馬鹿な奴だと思っていたが、ここまで馬鹿だとは思わなかった。
目には目を、歯に歯をというには、いくらなんでも度が過ぎている。
「あんの糞餓鬼ァ、妙なアドレナリン出しやがって!冗談と本気の区別もついてやがらねえ!だから餓鬼は嫌いなのよっ!」
あの餓鬼は燃費が悪い。
念を覚えたてなのを差っぴいても、オーラの上限はいいとこ中の上。おまけにあの能力だ。調子に乗ればすぐガス欠になる。あの時、意識を失ったのも、オーラを使いすぎた反動だ。無意識のうちに体が防衛反応を起こしたのに違いない。
たぶん、本当にぶちぎれて、ギリギリの状態じゃないと『ああ』ならないよう、体の方がリミッターをかけている。
そうそう、使えるわけはないのだ。ないところから、無理やりオーラを搾り出すようなイカサマは。何もかも搾り出されてオケラになる、そういうアコギな博打だ、あれは。
そこまで考えたところで、ヴィヴィアンは無性に腹が立ってきた。
「――――・・・っ!!」
勢い良く立ち上がろうとしたところで、こける。
見れば、左の掌に黄色いドロドロがこびり付き、瓦礫にしっかりと接着されていた。力を入れても、ちょっとやそっとでは取れそうに無い。
「あーもー、うっとおしい!!」
ベリッと、生皮をはぐ音。後には、赤い手形が残った。
「イチチ・・・ちょいと、奥さん。気付いてると思うけど、アレ、やばくね?」
隣で「アーアー」と喉の調子を整えていた人妻に、話を振った。
「ええ、まずいわよねえ。さすがにあのオーラで自爆されたら、ぞっとしないわ。巻添えになる前に、避難しとく?」
ヴィヴィアンは頭を抱えた。
一見、人当たりがいいので誤解していたが、この女は最悪だ。
「・・・あの子ってさあ、一応あんたらの身内じゃなかった?もちっと、こう、人情味とかあってもいいんじゃない?」
ミツリは一瞬、きょとんとした顔をしたものだが、やがて理解したように「ああ!」と相槌を打った。
「一応、気にはかけてるわ。知人の娘さんみたいなもんだから。でも、それだけよ。正式に組に入ってるわけじゃなし、正直微妙なところね」
この人妻の形をした何かは、困ったように頬に手をあて、むしろこちらを不思議ものでも見るかのよう眺めてくる。
「そっちこそずいぶん肩入れするじゃない?あの子とは殺しあったって聞いてるけど?」
「・・・別に。餓鬼が命張ってるのに、ケツ巻くって逃げるのが気に食わないだけさね」
そう言うと、女が唇だけ動かして薄く笑うのが彼には分かった。
心中を見透かすような、嫌な笑いだった。
「ま、そういうことにしといたげる。で、どうする気?あの子、完璧にテンパってるわよ。飛びついて、ひっぱたいて、説教でもする?命大事に!って」
ヴィヴィアンは顔をしかめた。
「攻撃してきたら自爆しちゃうぞ!って、『やるやる詐欺』かましてる希望はないかしら?」
ミツリは冷静に首を振った。
「それ、本気で言ってる?あのくらいの女の子には、自分の世界が全てよ。周りのことなんか見えてない。・・・悪いけど、出目の低い賭けには乗れないわ」
そこまで分っていて、見捨てるというのか。
ヴィヴィアンはその思いを口には出さなかった。自分にはその資格がまったく無かったから。
「・・・じゃあさ、ひとまずあのクソ爺を横合いから、さらっとぶっ殺しましょうよ。あたしがオフェンスで、あんたは後ろからサポート。オーライ?」
「目立ちたがりは早死にするわよ、お兄さん。その足じゃもう、持ち味のスピードが出ないでしょう?」
事実だ。
先ほど、巨人から脱出した際に、左足の腱を痛めている。
別に隠すつもりはなかったが、この女は事この期に及んでも、非人間的なくらい冷静に状況を把握しているらしい。
その事に、何故だかイラつく自分がいた。
「わたしも何とか出来るなら何とかするけどさぁ、どうにもならないものは、どうにもならないじゃない。・・・ねえ、本当は気付いてるんでしょ?あの子、たぶんもう助からないわ」
ニトロを使ったエンジンは、ただの一度で焼きついて二度と使い物にならなくなる。あの娘が使ったのはそういう力だ。
ミツリが痛ましそうにそう言うと、ヴィヴィアンは「いやいや」と首を振った。
「そこはそれ。あんたも気付いてたと思うけど、何とか出来そうなのが、今近くに来てるわけじゃん」
親指を立て、後ろをくいくいと指差す。
「さすがにヤマダさんでもきついと思うけどなぁ・・・」
ミツリはぼやいたが、引かないという点に関しては彼女も同意見だ。何せ、あの爺をここで殺しておかないと、枕を高くして眠れない。
「ジローちゃん見くびっちゃダメよ。たぶん、任せれば、何が何でもどうにかするわ。そこは、・・・あたしらとは、根本的に生き方が違うもの」
あの男は、口でどう言おうとも、傷付いた人間を放りだすことなどできない。
自分の力を人を傷つけることに使わず、『治す者』として自身に線引きをしている。そう腹を括っているからこそ、人を救うことにのみ、念を費やしている。
「・・・あーゆー、こまっしゃくれた餓鬼って、つい凹ませたくなるじゃない?テメーひとりで、この世の不幸の全て背負ってますってカンジでさ。そういう餓鬼の鼻っ面を引っぱたいて、生きろってぶちのめすのは、ちょっとしたカタルシスだわさ」
「それは・・・もしかして経験者は語るってやつ?」
ミツリは面白そうに男を眺めた。
「なんとでもおっしゃいよ。オタクも身に覚えがないかしら?」
「正直、ありまくりねー。バイクで走ったわけじゃないけど、十代の頃ってそんなものじゃない?」
膨大なオーラを纏いながら老人を追いつめている少女が、ミツリには泣きながら癇癪を起こす子供に見える。ギリギリまで追い込まれて、心の奥底に押し込めていたものが溢れたのだろう。
「何もいらない!こんなのいらない!だから、パパとママを返して!」・・・そう言って、泣きながら手当たり次第に手にしたモノを投げ捨てようとしている幼い子供。手に入れた力も、命も、何もかも捨てて、亡くしたものに追いすがろうとしている。失ってしまったものは、決して返ってこないというのに。・・・確かに、身に覚えのある話だ。
何もかも無くて、何もかも欲しくて、自棄のように暴れ回っていた、あの頃の自分。何もかも恨んで、呪って、いつ死んでもかまうもんかと、馬鹿ばかりやっていた十代の自分。「家族?恋人?仲間?友人?何それ、おいしいの?」そう、恥ずかしげもなく口にしていた馬鹿な自分。
「・・・ま、いいでしょ。あの子、けーたのお気に入りだし、出来れば生きててもらいたいのは確かだわ」
ミツリはため息を吐くと、全身に力を漲らせた。
ミツリの傷も浅くはない。何せ、数十分も氷点下数十度の極寒状態に置かれていたのだ。酸素欠乏症も相まって、体力の消耗は著しかった。
普段の数倍の時間をかけて"錬"を行い、なけなしのオーラを練り上げる。
ミツリの全身を、ねっとりと絡みつくような不気味な色合いのオーラが覆い、それに伴って呼吸が深く長くなっていく。
「どの道、爺に余裕がなくなってる今がチャンスね」
ようやくやる気を出した人妻を横目に、口から流れ出た血を袖でぬぐうと、ヴィヴィアンは太刀を構えた。
「んじゃ、ま。もう一働きしますか・・・・・・ゴホっ」
その手には刃こぼれ、地金の歪んだ鉄の塊。人と剣は一心同体、なーんて教えもあったっけ。そんな、馬鹿なことを思い出す。
「もう、一振りだけ。それで、いいからさ。・・・もちっとだけ、もってよね」
「あ、づっ――――・・・!!!」
身の丈に余る能力行使の反動に、全身の血が沸騰する。
瞬時に停止しながら、不規則な鼓動を繰り返す心臓。激痛と衝撃で麻痺する脳髄。末端から壊死していく神経。引きちぎられる皮膚。
錆びた刃で全身を引きかきまわすような痛みが、絶え間なく襲ってくる。すぐにでも、全て投げ出して泣き叫びたかった。・・・でも、できない。したくない。できるわけが、ない。
アンヘルは喉の奥からあふれ出た血を、無理やりに飲み下した。
「・・・・か?」
「は?」
かすれた声。風に流され、ダミアンには聞き取れなかった。
「・・・なあ、怖いか。でも、やらされる方は、もっと怖い」
「なら止めにしよう!!」
その言葉に飛びつくように、叫ぶダミアン。
だが、アンヘルはダミアンの言葉が聞こえていないかのように、続けた。
「・・・なのに、誰も気にしないんだなぁ、これが。当たり前みたいに、切り捨てて、受け入れて。・・・ああ、自分でも分かってるさ。自分に出来ない事は、口にするもんじゃないってさぁ・・・」
ダミアンには、分からない。
アンヘルの言葉が、理解できない。
彼女が何を思い、何に憤り、何のために、この無謀な行為を続けているのか。
「・・・そうだよ、オレに何ができる。一人助けたからなんだってんだ。なら、なんで、オレはこんなことしてるんだ・・・?」
奈落の底のような目に、消え入るような声。
「あの時もそうだった。あいつは、逃げろといった。母さんも、逃げなさいって言った。二人とも、オレなんかを生かそうとして・・・オレなんかを庇って・・・」
壊れた、笑み。
呟きながら、アンヘルは一歩をつめた。
「それでも、ただ死ぬなんて、できない・・・。そんな事は、許してくれない・・・。精一杯生きなければならない・・・。生きぬく術を、あいつは教えてくれたから。母さんも望んでたから。・・・でもさ」
一歩、また一歩と距離をつめながら、独白は止まらない。
「・・・闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って!闘って!闘って!闘って!闘って!闘って!、闘って!、闘って!、闘って!、闘って!、闘って!、闘って!、闘って!!」
初め小さく、最後には気が狂ったように大声で「闘って」を繰り返し、足を振り上げ、踏みつける。一撃が炸裂するたびに、轟音が響き、火炎が猛り、空間が炸裂した。
それを目の当たりにしながら、ダミアンはもう動く事ができなかった。目の前の相手は、どう贔屓目に見ても、理性が剥げ落ちている。
「その後でなら、いいよね」
にっこりと、笑う。まるであどけない幼女のような、泣き笑い。
「だって、どうせ、コンクリート漬けで、暗い海の底で目が覚めるだけなんだから・・・」
そんな空恐ろしい声で呟かれたとき、ダミアンの恐怖は絶頂に達した。
瞳はドス黒く、真っ暗に濁っていて、目の前にいるダミアンすらも見ていない。
その顔に浮かんだ表情は唯一つ―――絶望だ。
失うもののない死兵こそ、この世で最も恐ろしい。
「お、落ち着きたまえ、お嬢さん!!そ、そうだ、そんな無茶はいけない!き、君の御両親も嘆かれる・・と思うぞ!!」
それまでどこを見ているか定かですらなかった瞳が、不意にダミアンを捕らえた。
血にまみれ、ほつれた金髪の下から、ギョロリと睨み付ける。青い、背筋が寒くなるほどに真っ青な目玉が怒りに染まっていた。
最後の一言が地雷を踏み抜いたというのは、ダミアンには理解できなかった。
「あの子の体は、冷たかった。・・・冷たかったんだ」
眼の痛くなるほどに赤いオーラが炎のように滾り、揺らめき、生き物のように蠢き騒ぐ。
「氷みたいに冷え切ってるのに、気味が悪くなるくらいに柔らかくて。オレの耳元で蚊が鳴くみたいに囁くんだ、ママって」
辺りを漂う埃や塵芥が、アンヘルの纏うオーラに触れ、バチリと火花を散らして破裂する。
何を言っているのか、ダミアンにはまったくもって理解できなかったが、とにかく拙い。
話の前後に脈絡が無い。唐突に別の話に切り替わり、整合性すらとれていない。相手は、明らかに錯乱している。
自暴自棄になって開き直った者ほど始末の悪いものはない。しかも、その相手に規格外の大量破壊兵器じみた力が備わっているすれば尚更だ。
「な、なあ、お嬢さん、き、聞きたま、・・いや、聞いてくれ!私が悪かった、謝る!!だから、落ち着いて冷静に話し合おう!!」
声が震えてしまったのは、この際仕方のないことだろう。
「あぁ?」
その一言に込められた感情に、ダミアンはギリギリの精神状態を感じとった。
容器に満たされ、表面張力で保たれた水。あるいはメルトダウン寸前の原子炉か。いずれにしろ、これ以上刺激するのは得策ではない。
まさか、自分が狂人の相手をする羽目になるとは、思いもよらなかった。こんなのは官憲の仕事だ。さもなきゃ医者か坊主でも連れて来い。間違ってもテロ屋の領分ではない。
ダミアンはもう何がなんだか分からなかったし、正直、分かりたくもない。だが、一つだけハッキリと、これだけは言える。自分は今、棺桶に片足を突っ込んでいる。
ダミアンの決断は素早かった。
(・・・・なんとか、速攻で仕留めるしかない!!)
自分が死んだ事にすら気付かぬほどに。
「そ、そんなことを言わずに、まあ聞いておくれ!!年寄りの話はきくもんだ!!」
後ろ手に杖の握りを軽く捻ると、先端から飛び出ていた刃が引っ込み、代わりに透明の液体がとろとろと流れ出す。それは地面に吸われることなく、にょろにょろと鎌首をもたげると、静かに瓦礫の隙間を這いだした。
毒獣(ヴァイパー)。
その名の通り、シアン化物系の猛毒に念を込めただけの代物。雑な仕組みの念獣だが、人体に触れると、浸透圧の関係で速やかに血中に取り込まれる。そうなれば、ほぼ即死だ。
組成としては単純極まりないが、いざというときのお守り代わりに常に携帯している一品だった。もちろん、"陰"を施すのも忘れてはいない。手っ取り早く殺すにはこれに限る。
ただし、これはダミアンの作る念獣に共通する弱点だが、動きがとろい。相手のスピードなら、難なく避けられてしまうだろう。
普段ならこれを気化させ、青酸ガスとしてばら撒く手もあるのだが、今それをするとダミアン自身も巻添えになる上に、あの恐るべき爆風で吹き飛ばされてしまうだろう。
確実に当てるには、もう一つ細工がいる。
「聞いておくれ、お嬢さん!あの可愛そうな女性達を操っていたのは私ではないんだよ!やったのはブッディだ、あの男がやったんだぁ!私は悪くない!」
ダミアンは、哀れな老人のように泣き崩れた。涙を流して膝を突き、両手を組んで慈悲を請う。
それを、空ろな瞳で見つめながら、少女は無造作に距離をつめる。好都合だった。
一歩、一歩と迫り来る相手に合わせ、後ずさりするダミアン。
無様な演技を続けながら、相手を望む方向に誘導する。ゆっくりと、そうゆっくりとだ。ジャングルで肉食動物に遭遇したときのように。
滴る汗がスーツの内側をぬらし、汗と老廃物のにおいを撒き散らす。それだけは、演技ではなかった。
やがて、とうとう背に瓦礫の残骸があたり、彼は追い詰められた。それは、先ほど破壊された地精(ゴーレム)の残骸、アンヘルによって分たれた上半身だった。
「お願いだぁ、許しておくれぇ!!―――――・・って掛かったぁ!!」
刹那、アンヘルは見た。
ダミアンが背中を預けていた瓦礫の山が、唐突に弾けとぶ。そこからあふれ出したのは、膿のような黄緑色の粘液。それは大きく膨れ上がり、獲物をを絡め獲る蜘蛛の巣のように、爆発的に広がった。
その正体は、ゴーレムの本体ともいうべき粘液。この念獣、土砂や岩石の外郭を纏わせ、巨人として運用するのは二次的な利用に過ぎない。本来の用途は、捕獲用だ。
「クカカカッ!!ざまあみさらせ、クソ餓鬼がぁ!!」
ダミアンが勝ち鬨を上げた時、いくつものことが同時に起こった。
初め、ヒューという風切り音。何かが高速で飛来する音、それが何よりも真っ先に、ダミアンの聴覚に届いた。ただし、そのときには彼の意識は、攻撃命令を下したばかりの念獣に注がれていて、それを気にするどころではなかった。
その視界の先には、どこの死角から忍び寄っていたものか、鎌首を上げた、鋭い鞭のような毒の蛇。それは既にアンヘルを射抜く起動を取っていた。
そして―――アンヘルは、背中に脅威が迫ってきたことを鋭敏な感覚で感じ取っていた。
だが、動けない。
その全身には汚らしい粘液が絡みつき、完璧に拘束している。
咄嗟に利き腕をかばい、左手を捨ててガードしつつも、なお粘液の糸は強力な吸着力と繊維のような頑健さで、アンヘルの体をその場に固定していた。
そのコンマ数秒もない時間の中、静かにアンヘルは無為を悟り、
「・・・ああ、もう。仕方ない、かぁ」
心の中で起爆スイッチを押そうとした、その時だった。
「え―――?」
ビシャリ、と。
液体の弾ける音。
「―――はっ?!」
空間に広がる波紋。見えない壁。
ダミアンの奥の手は、見えない壁にぶち当たったかのように、粉々に砕け散っていた。人体に致命的な影響を及ぼす液体、その一滴すら、アンヘルには届いていない。
「こ、これは・・まさか!!」
ダミアンには、それが凝縮された音波の壁だと、一目にて分かった。何せ、かつて彼を守るために振るわれた力なのだから。
「このくらいの嫌がらせは、ね」
振り向けば、黒衣の女が勝ち誇ったように笑っている。
「ジェーーン!!!」
怨嗟の声を上げたダミアンの足元から、噴水が吹き出るようにして、無数の念獣がわきだした。
念獣はダミアンを守るように立ちふさがったが、そのなけなしの手札も、かつてダミアン自身が兵器として育てた女には通用しない。
「・・・・――――!!!」
ミツリの喉が、小鳥が歌うような甲高い音色を吹き鳴らす。
すると、彼女の周りに六つの赤い光球が出現した。
空気の密度を圧縮して作り出す熱気弾。空気の塊を高密度に圧縮する事で、ジェットエンジンと同じ原理で高熱が発生、大気を赤く発光させる。さらにオーラを注ぎ込んで出力を上げればプラズマ火球となるが、こうやって威力を抑えれば数をそろえることができる。
赤い光は次第に白から青へと変化すると、次の瞬間、目にも止まらぬスピードで、ダミアン目掛け殺到する。
目も眩まんばかりの閃光が走ると、盾となった念獣どもがドロドロに溶けて蒸発した。地面は絵の具をぶちまけたキャンバスのように極彩色で染まり、周囲に悪臭が満ちた。
「・・・コンダクター。楽団を失った指揮者なんて、とうの昔に用無しでしょ?とっとと退場なさい」
ミツリは皮肉気で外連味のある不気味な笑みを浮かべていた。
「年貢の納め時だぜぇ、厨二爺ぃ!」
その背後では、凄まじい形相をしたオカマが、ボロボロの刃物を手にしていた。
今やどちらも手負いの獣、こちらを殺したくてウズウズしている。
「き、貴様ら・・卑怯だぞ!!」
虫の息の半死人どもを、まとめて甚振り殺す算段が、今や手持ちの念獣をほぼ失った状態で、三対一。これを卑怯と呼ばずして何と呼ぶのだと、ダミアンは半ば本気で思った。
「卑怯?今更、どの口が言うわけ?」
「そういう台詞は、正義の味方にでもお言いよ、悪党」
悪党どもは、舌なめずりをしながら、無防備な彼を殺そうとしている。
これは、何かの間違いだ。
インチキである!ペテンである!
だが・・・・だが、これは、さすがにもう無理だ。
ダミアンは、勝利を諦めた。
「・・・分った!私の負けでいい!!」
ならば、ココからは話し合いの時間だ。こちらも苦しいが、相手も苦しい。妥協の余地はあるだろう。
交渉の基本はダミアンも心得ている。何せ、テロリストには必須の技能だ。いかに冷静でイカレているか、相手に理解させるのがコツだ。それで大抵の相手はこちらの要求を鵜呑みにする。武力外交の基本だ。なのだが・・・
「なぁにぃ?」
口から血を吐きつつ、ほがらかな微笑で、少女は拳をふり上げようとしている。額に、メキメキと青筋を浮かべながら。
これは、もしや単にぶちきれているだけなのではないだろうか?
当然のことではあるが、理屈で動かない人間には、そもそも交渉の余地は無い。
・・・いや、気のせいだろう。
気のせいに違いない。
気のせいに決まってるじゃないか!
まったく年の割りに交渉のうまいレディだなあ、アッハッハ!
ダミアンは錯乱していた。
「よしきた!お互いプロなのだから、ここは遺恨なし、手打ちといこうじゃないか!い、いや、もちろんタダでとは言わないとも、タダでとは!だから・・・!」
相手にいくらまで値切らせるか、ソレが勝負どころだとダミアンは思った。
「・・・だから?」
「う、うむ、だからここは一つ穏便に・・・」
「だから?」
「・・・・え?」
「だぁからぁあああ・・・!!!!」
少女は血反吐を吐きながら、声を枯らして叫んだ。
「い、いのちだいじにぃぃぃぃ!!!!!」
自分の股間からアンモニア臭い液体が噴出していることに気付かず、ダミアンは叫んだ。
「馬鹿野郎・・・オレも地獄まで付き合ってやる。あの子に、何をやらせたのか、自分で味わえ」
夜闇のはるか端が、かすかに白みはじめていた。
少しだけ、海を振り向いアンヘルの横顔を、淡く白い光が照らし出す。視線を朝日に向けたその表情が、不意に憂いを帯びた寂しさを覗かせた。
だが、それも一瞬だけ。
アンヘルは、夜空に向けて手を伸ばした。
指先に点った赤い燐光が、空間に淡い軌跡を描く。光が走り、全身のオーラが波打ちながら、徐々に掌に集っていく。ゆっくりと、長い時間をかけて。乱気流のように全身を取り巻いていたオーラが、ただ一点に集まっていく。
始め、両手に一抱えもありそうだったオーラの球は縮み、やがて拳に収まる程度にまで収縮した。
すでに実体を持つほどに凝縮されたオーラの固まり。不気味に鳴動し、赤と白の点滅をゆっくりと繰り返す。しかもその感覚は徐々に短くなっていく。
秒読み、カウントダウン・・!!
ダミアンの脳裏をそんな言葉がよぎった。
それが何を意味するものなのか、今更思い巡らすまでもない。
「あああああ!やめろおおぉ!」
ダミアンが胸を押さえて悲鳴を上げ、足をばたつかせてゴロゴロと転がるように逃げ出した。アタフタと無様にも四つんばいになりながら、ゴーレムの残された下半身に取り付く。
「はああああぁッ・・・!!」
ダミアンはもう死に物狂いで精孔を活性化させた。
久々に行う煉。熟練の能力者のそれに比べれば、アホのように稚拙な念能力の基本技。研究にかまけて基礎修行を怠ったツケだ。全身を汗みどろにして生み出したオーラの全てを、崩れた巨体に注ぎこんだ。
「ゴレーヌ、突撃形態!!」
ダミアンが命令すると、岩石の巨人は即座にその巨体を変形させた。
巨大なニ脚が胴体に収納され、卵のような歪な球体を形作る。その側面に、新たな足が生えた。太く、短く、巨体を維持しながらも力強く大地を蹴るための四脚。さらに、胴体の前部には鳥の嘴にも似た円錐形の頭が、後部には太く短い尾が現れる。最後に、後頭部から首の上にまで傘のようなフリルが覆い、捩れた枯れ木のような三本の角が飛び出した。
その形は、かつて古代に存在したという巨大生物を模していた。
巨大な獣は前足を軽く地面に擦り付けると、闘牛に駆りだされた牛のように、頭部を前に突き出して突撃の構えを取った。
「いけ!!」
「■■■■■■■■■■■■!!」
全身を軋ませながら、突進を開始した。
この巨体と質量、さらに突進の運動量を加味すれば防ぐのは至難。おまけに突進という攻撃の性質上、当然逃げても追尾する。
だが、この場で重要なのは、この巨体と突進力から生み出される運動エネルギーだ。それが、後方のダミアンを守る盾になる。
ダミアンはその結果を見届けることなく逃げ出した。
脅威度を、見誤ってはいない。今は危険な殺人狂共に後ろを見せてでも、あの少女型爆弾から距離をとらなければならない。そう計算する老人は、どこまでも生き汚かった。
だが、一目散に駆け出したダミアンの右足に、激痛が走った。
「ぐ、はぁっ!!」
その場に、転倒する。
見れば、太ももに深々と刺ささった刀。その向こうには、こちらを見て冷笑するオカマの姿があった。
「キ、キサマっ!!」
直後、光が満ちた。
激発のとき。
アンヘルは見た。
殺すべき相手―――爺の盾となるよう、こちらに突撃する巨大な獣。
"岩―――?・・・またあのデカブツか"
懲りずに、良くやる。
特徴的な三本の角を突き出して、四足で駆ける瓦礫の巨体。ぱっと見、あの巨人ほどの体積は無いが、スピードは上だろう。速度も体積も、大型のトラック程度。つまり、衝突の威力もそのくらいというわけだ。
こっちはベトベトした接着剤のようなもので、地面に縫い付けられていて、どうにも身動きが取れない。だが、オーラを集中させた右腕は健在。能力を使うだけなら、問題ない。
どの道、ここまで来て、止める気はなかった。
"残らず全部、くれてやらぁ!!"
突き出した右腕に、固体状態にまで凝縮されたオーラの塊。いつの間にか、それを歪な漏斗型に整形していたことに気付いて、苦笑する。
ただそのまま起爆させるだけでも、十分な威力になっただろう。だが、かつてあの男に叩き込まれた技を、アンヘルは無意識のうちに使っていた。
その拳を、力の限り突き出す。
――――同時に、意識の箍が飛ぶほどの衝撃が、全身を貫いた。
拳の先にに閃光が迸ると同時に、水面のように空間が波立ち、うねる。すると、瓦礫の巨像に、すっと黒い点が生じた。それは見る間に赤熱し、溶解し、最後に気化すると、赤黒い噴煙をまといながら粉々に砕け散る。
直撃を受けた巨獣を易々と貫通した熱波の渦は、威力を保ったまま、その向こうに広がっていた廃墟郡を襲った。ヨークシンの古き悪しき時代の遺物は、まるで津波にさらわれた砂の城のように、一瞬で熱波に飲み込まれた。崩れ、焼かれ、散り散りに吹き飛んでいく。
物理的な威力、衝撃の反作用。平時の彼女なら――――何もかもを犠牲にして一事しのぎの力を得ていなければ―――一秒として生きていられたはずはない。
それほどの威力、それほどの奔流。
発生する高熱は全てを溶かし、衝撃波は溶け落ちたもの全てを薙ぎ払う。
制御せずに力を打ち出すことは、念能力者にとって禁忌だ。もとより物理を超越した埒外の力。正しく、何がどう起こるかわからない。
だが、アンヘルは構うことなく、全ての力を注ぎ込んだ。
なにもかも、自分に差し出せるものは全て振り絞って得た赤い力。その一片、一滴、一寸すらも残さずに、全力で使い切る。
視界は赤を通り越し、既に白熱したオレンジ色。網膜に緑色が焼きつく。
その爆発の中、轟々とおびただしい破壊音が耳に流れ込んでくるのを、彼女は冷静に捕らえていた。鼓膜など、とうに破れてはいたが。
掌を包んでいた、燃えぬはずの手袋が、沸騰して消えていく。その痛みと熱さが腕の先から肩に這い上がった。それでも止まらない。否、止められない。
「ああああああああっ――――!!!!」
彼女は、自分が悲鳴を上げていたことに気づいていなかった。ただ、何かが砕け散る感触がして、突き出した右腕の感触が、残らず消失したことだけはわかった。
指向性を持たせるといったところで、全ての破壊力を一方向にのみ向かわせる事などできはしない。
術者自身を焼き滅ぼすに、十分な衝撃と熱量。
全身の細胞が焼き尽くされる痛み。
それが、小さな少女を嘗め尽くす。
あの雪の日、初めて繰り出した自身の最強。それを優に千倍は上回る力が、彼女を内側から食い滅ぼそうと暴れ狂う。
その破壊力は、脆弱な人体を破壊しつくして余りあるだろう。そう、どこか他人事のように考える自分がいた。
時が止まる。
何もかもが、止まったまま過ぎていく。
光の中で、アンヘルはどんどん水底に向かって引きずり込まれてゆく感覚を覚えていた。
そして、落ちてゆく。赤く暗い、血の色をした暗闇に向かって、深く、深く。水底に向かって引かれるままに、力なくその身を任せて沈んで行く。
その感覚は、かつて感じたことのあるものだった。
あの日、あの時、あの場所で。
「・・・今、いくからね」
光が、全てを飲み込んだ。
音が消え、風が消え。
痛みが消え、熱さも消えた。
視界は黒く、何故か、暖かかい。
"ほんと、世話のかかる子だわ"
思い出したのは、ぬくもりの感触。母の腕の中の記憶。
誰かに抱かれて、髪を撫でられているような・・・
"無茶ばっかして、甘っちょろくて・・・あんた悪党にゃ向いてないわよ、お嬢ちゃん"
意識の無くなる寸前。
"だから、こっち側に来ちゃダメ。まだ若いんだから、精一杯生きて、恋の一つもしなさい"
そんな声を、聞いた気がした。
"じゃあ、ね"
・・・・。
押しては返す波の音、吹き荒れる風の音。
その二つだけが耳の中に入り続けている。他には、何も無い。
薄目を開ける。
日は、既に昇りきっている。
青く澄み渡る空が、仰向けに寝転んだ視界の全てだ。
周囲の光景は、一変していた。
彼女の居た位置を基点として、扇状に広がった破壊痕。
見渡す限り、一面の焼け野原。
廃墟の街は無残に抉られ、残骸すらも焼き尽くされ、後に残ったのは溶け残った鉄柱と、赤く沸騰するガラスの荒野ばかり。朽ちた港は薙ぎ払われて、破壊の痕跡が大地と海を直結させている。今やこの場は、小さな入り江だ。
大量の海水が抉られた地面から進入し、波間に揺られて押しては返す。その都度、波は熱された地面を冷やし、ジュウジュウと白煙を上げている。辺りには、潮の臭いが満ちていた。
何故、生きているのか。
ふらっと手を上げる。干からびたように、白く豹変した左手。右腕の感覚は無かった。
何に触れたかったのか、自分でもよくわからない。その手は、あまり長くない時間、虚空をさまよったあげく、自分の胸の上に落ちる。それきり、もう体を動かす力もなかった。
・・・どうやら、長くないらしい。
漠然とそう思った。
恐怖も、後悔もない。
ここで死ぬのが自分の運命だったと言われれば、そのような気もする。
もう、生きる意味が見出せない。あの日、あいつに出会わなければ、自分の寿命は尽きていたのだから。後の時間はただのロスタイム、好きなように使って、力尽きたところでくたばる。そのことに何の文句もない。ただ、他人の思惑のまま、なすすべもなく殺されるのが嫌だったから足掻いただけだ。
ぽたり、と。
不意に、水滴が落ちてきて、彼女の顔をぬらした。
(ああ・・・・)
空から降り注ぐ生暖かい水の感触が、混濁した彼女の意識に輪郭を取り戻させた。
視界の向こうで、見覚えのある人が、瞳を潤ませているのに気付いて、思わず頬が緩んだ。
かえるんじゃ、なかったのかよ。
もう声が出せない。唇だけでそう伝えると、彼は肩を震わせながら、答えてくれた。
「・・・帰るさ。最後の一人を、回収してから」
本当、ぶれない人だな。
だから、
「・・・・・くれ」
最後の願いを、口にした。
山田次郎が現場に駆けつけたとき、少女の体は、燃え尽きた灰のようだった。
白く乾ききり、死斑の浮いた皮膚。骨に皮を貼り付けただけのように、細く、脆く、やせ衰えた体。そして、無残に、砕け散った右腕。眩しかったハニーブロンドの髪は、漂白されたように白く縮れていた。
その目は、どこまでも暗く、何の感情も宿していない。
それを見て、次郎の瞳に険しさが宿った。きし、と噛み合わせた歯が軋む。
これは、もう小手先で何とかなるレベルじゃない。
命の火が、消えかけている。
「はぁっ・・・!!!」
もう無我夢中で、ありったけのオーラを少女に流し込んでいた。
次郎自身、明け方まで忙しなく負傷者の救助に奔走していたので。疲労しきった体に残る力は多くない。いや、そもそも、こんな『燃え尽きてしまった』人間を何とかするのは、例え体調が万全だったとしても自分の腕では無理だろう。そう頭で判断したとしても、だからといって患者を見捨てる医者はいない。
乾いた砂漠の砂のように、次郎が注ぎ込んだオーラが次々に溶けて消えていった。
生命エネルギー、オーラを使い切ってしまっていて、もう僅かな生命力すら残されていないのだ。いくら次郎の能力が、他者にオーラを分け与える事で、自己治癒力を取り戻させる事ができるといっても、限度がある。
そこにあるのは、燃え尽き、乾ききった、ただの肉。
それに何より――――この患者は、助かる事を望んでいなかった。
「・・・これが、君か」
時折、能力を使って患者を癒しているとき――――相手が念能力者だったときには特に――――次郎にはその人間の歩んできた道程が垣間見える事があった。
過去、彼のもとに訪れた幾人もの人間の人生。彼の信念の半分は、その人たちの『思い』で出来ている。
今もまた、『彼女』が次郎に流れ込んだ。
二度目の生。
母親というもの。
愛される喜び、愛される苦悩。
銃声。
喪失。憎悪。怒り。嘆き。苦しみ。
力の覚醒。
最初の殺人。
男との出会い。
奇妙な生活。
男は何も語ろうとせず、ただ技術だけを彼女に伝えた。
彼女は鬱積した感情の全てを男へとぶつけた。
それでも、いつしか男の存在は彼女の中で大きくなっていった。
雪の日。
訪れた破滅。
二度目の喪失。
二度目の殺人。
・・・その果てに残されたのは、虚無だけだった。
喪失と慟哭を繰り返す、短い半生。
その帰結、その道のり。
この瞬間、山田次郎はアンヘルという少女になっていた。
思わず、問いかける。
「・・・それが、理由か?」
うっすらと、少女が微笑んだ気がした。
カサカサに乾いた唇が、何事かを呟く。
「・・・・・くれ」
「・・あ?」
掠れた声でつむがれたそれが、地名だと気付くのに、次郎は数秒掛かった。
ほんの一月前、この少女の治療をするために連れていかれた町。
そこに墓があると、彼女は伝えた。
『母さんと、あいつのところに、埋めてくれ』
意味を理解した時、次郎の脳ミソは沸騰した。
「誰が死なせるか!医者舐めんじゃねえ!!」
あの時、無理にでも引き止めなかった自分を、呪った。
「・・・次郎ちゃん、・・・何とか・・・なり、そう?」
背中越しに、体重を預けられる感触。あまりにも軽く、炭か何かのように、脆い。
それが、激情に我を忘れかけた次郎に、冷たい恐怖を呼び覚ます。
だから、彼は背後を振り返る事ができなかった。
声を出そうとすると、乾ききった喉が痛む。
「・・・何とか・・・して、ほしいんだ・・けど?」
治療を続ける男の隣に、崩れ落ちるように腰を下ろす。それだけで、炭化した足が砕けた。
「正直アカンが、なんとかするさ。治してやるって、約束しちまったんだ」
いつもどおりの、ぶっきらぼうな声。
それが、何より頼もしい。この男は、果たせない約束はしない主義だ。素人目には、もう無理かもしれないと覚悟していたが、この分なら持ち直すかもしれない。
「・・・いざとなったら、俺の命をくれてやる!」
断言した親友に、感謝する。
「ハハ・・・頼む・・わ。助けて、く、れなぃ・・・と、ばけて・・・でる、からね」
目が霞む。
「・・・てっちゃん」
ようやくこちらを振り返った親友の瞳から、涙がしたたり落ちていた。
二人、同時に助けられるほど器用な男じゃない。それを恨む気もない。
それに、ようやく・・・ようやく楽になれるのだから。
「・・・やっと・・・・そう呼んで・・・・・・くれたね」
昔みたいに。
狂っていった自分を、家族を、最後まで見捨てなかった親友。妹とも仲がよかった。三人で過ごした日々。それが、今はひたすら眩しく懐かしい。
・・・ああ、本当にらしくない事をした。他人より自分優先がモットーだったのに。
ここで死なせるには惜しい女だったから?これが済んだら、口説いて、拝んで、押し倒して、絶対一発キメてやろうとしたから?
いや、本当は分かってる。
姿、性格、趣味、趣向、何もかもまるで違うのに。
ただ、年が近いというだけで。
「・・・恵子」
ヴィヴィアンと名乗った男は、それきり目を閉じた。
覚めない夢を見るために。
「・・・お・・・の・・れぇ・・・!」
ダミアンは、大地に爪を立てて、怨嗟の声を上げた。
その半身は、つぶれていた。
高熱に晒され、爆風に五体を壊された挙句、吹き飛ばされながら大地に体を削られ、抉られ、時折跳ね飛ばされながら、幾つもの瓦礫に激突した。無事なところなど一つもない。全てが捻くれ砕けていた。生きているのが奇跡に近い。
身に纏っていた燕尾服型の念獣が全力で流体制御を行い、衝撃を吸収したことで、なんとか一命を取り留めた。ユーリーという男の能力を、擬似的に再現する実験から生まれたこれが無ければ即死だった。
もちろん、破壊力を完璧に削ぐことはできない。代償に、両腕と両足、右の眼球はもう使い物にならない。内臓がつぶれ、出血も酷い。このままでは死んでしまう。
呻きながら懐をあさり、折れた指で通信端末を探り当てる。機械が壊れていなかったのは、不幸中の幸いだった。
この借りは、いずれ必ず、返す。
そのためにも、今は生き延びねばならない。
「・・・ブ、ブーゲン・・・・ハーゲン・・・・君・・・・回収を、頼む・・・」
その時、背後に背負った朝焼けから、一つの影が彼に掛かった。
「・・う・・?」
振り返る力もなく、うなだれた後頭部に、突きつけられた固い感触。
「いいから、もう死んどけや」
直後、一発の銃弾がダミアンの頭を吹き飛ばした。
バトゥが、現場に到着した時、全ては終わっていた。
軽くゴミ掃除を済ませると、まず妻の無事を確認する。
「・・・悪い、遅れた」
頭を下げると、妻は大事無いというふうに微笑んだ。
「いいわ。何とかなったから。まあ、流石に爆発の瞬間は肝が冷えたけどね」
全身ずぶぬれで寒そうにしている妻に、自分の上着をかけてやり、改めて周囲を観察する。
事切れた男と、瀕死の女。そして治療を続けるヤマダを見て、バトゥは大方の事情を察した。
最後まで本名を名乗らなかった男の亡骸に、そっと手を合わせる。
「最後の最後で、男見せやがったか・・・」
気付いたら、そう口から漏れていた言葉を、
「・・・うるせえ!」
ヤマダが、一喝した。
「餓鬼に命張らせるような野郎が、えらそうなこと抜かすな!!」
押し黙ったバトゥを心配そうに見つめ、ミツリは物言いたげにヤマダに視線を移す。
その肩をバトゥ自身が掴んで止めた。
無言で首を振る。言い訳を、するなと。
自分自身に跳ね返って来る言葉を、ヤマダはあえて口にした。その事が、わかったから。
そんな夫を見て、ミツリは眉根をよせた。いくばくか逡巡し、悩ましそうにため息をついた後で、別のことを口にする。
「・・・ボスは?」
「予定通りだ。奴と、ケリを付けに行った」
「・・・おっかしいねえ?」
ブッディは首を捻っていた。
先ほどから例の動画を電脳ネットにアップロードしようとしているのだが、何度やっても弾かれる。何度かリロードを繰り返すうちに、ようやくネットとの接続が切断されていることに気がついた。
ここの通信システムは、『甲板』に設えた特注のパラボラアンテナを通して、軍事衛星に間借りした専用回線を使っている。物理的な機器障害の可能性は低い。となるとシステムエラーだろうか。
コマンドプロンプトを呼び出し幾度と無く「ping」を打ってみたのだが、返ってくるのは「Request timed out.」。他のIPをいくつか試しても変化がない。
「ちぇっ!ミルの奴、中途半端な仕事しやがって・・・デブめ!」
ブッディは癇癪を起こして、キーボードを叩き割った。
だが直後に、まあいいや、と思い直す。NGLについてから、改めてゆっくりと作業すればいいだけなのだから。何せ時間はたっぷりとある。
これだけはアジトから持ち込んでいた特注の椅子をグルリと回転させると、背後に吊るされていた全裸の幼女と目があった。
夢にまで見た光景が、今、現実になっている。
憎たらしげに、幼女は両目を歪ませてはいるが、四肢を切り落とされて肉達磨にされては、文字通り手も足も出ない。このままレイプ動画の撮影会に突入してもいいくらいのおいしいシチュエーションに、思わず頬がほころんだ。こんな事なら汁男優を幾人か調達しておくんだった、とブッディは思った。例のスナッフムービーと共にキャスリンちゃんの完全無修正裏デビュー動画を同時配信すれば、さぞやアクセス数を稼げただろう。
「まあ、それは後のお楽しみにとっておこう。先にお人形になってもらうよ、キャスリンちゃあん♪」
そう言うと、ブッディは鋲のついた黒革の首輪を取り出した。
「肉奴隷の証。こいつをつけた女を、たちまち僕の言うことなら何でも従う、雌奴隷に変える便利な玩具さ。でもね、奴隷といっても、心まで変えちまうのじゃないぜ。感情のないロボットを相手にしても、おもしろくもなんともないからね」
ブッディは両目をいやらしく細めて笑った。さも愉快だといわんばかりに。
「自我はきっちり残ったまま、自分が何をされているのか十分理解しながら、それでも僕の言うことに逆らえなくなるんだ。素敵だろ。ストリートキングやら何やら、公開ネット配信で社会的に抹殺してから、壊していくのも、これが中々おもしろくてね。高慢ちきな女が股を自分から開いて、泣き叫びながら壊れていくところなんざ、爆笑ものさ」
他者を操る操作系能力は珍しくないが、操作の条件は能力者の趣味趣向が多分に反映される。キャスリンはヘドが出そうな不快感を覚えた。
「まあ、そういう無理やりプレイがいいって客もいるけど、ド淫乱な変態が好きだって客も少なくないし、そのままじゃ店に出すのに不都合だからね。大抵はシャブ漬けにして理性まではぎとっちまうんだ」
得意げに語りつつ、ぶっとい指を器用に操って、幼女の首に革の首輪を巻いていく。
「さあ、これで君は僕のものだよ!」
きっちりと首輪のバックルを止めたとき、ブッディは歓喜のあまり涎をたらしながら、満面の笑顔で両手を打ち鳴らした。
「ぶっひゃっひゃー!!これだから悪党は止められねえ!!」
格好つけたイケメンやシリアスめいたぶりっ子野郎を下種な罠で追い詰めて、ぐちゃぐちゃなバッドエンドに叩き落すのは外道だけの特権だ。やり方が下卑ていればいるほど、それは楽しめる。毎度毎度この瞬間は、悪党をやっていてよかったと、心の底から思うのだ。
三年前、無様に命乞いをした記憶、心の奥底にくすぶり続けた恨みつらみ。それが残らず消し飛んでいくこの至福!
ブッディは得意の絶頂にあった。
「うひひ・・・!さあ、まずは教えてもらおうか!銀行システム秘中の秘、AdministratorのIDと認証コードをさ!ボーモント銀行の保有資産、残らず引きずり出して破綻させてやるぜぇ!」
キャスリンが両目を見開きながら、口を開くのをブッディは愉快そうに見守った。
能力に囚われた者は、自分の意思とは無関係に、知っている事を口に出してしまう。ブッディにとっては、相手が女なら、必要な事を聞きだすのに拷問すら必要ないのだ。
だが、
「・・・あの子はねえ、ボクをたいそう嫌ってたんだよ」
幼女は、まるで意味不明なことを口にした。
「平気でボクの方針に逆らって、勝手に回収の見込みもないような連中にも融資を決めちまうんだ。普通なら首が飛ぶよ。それでも、損した穴を埋めるどころか、盛り上げるくらいの仕事をしてね、だからあまりボクも文句を言えなかった。おまけに、首にするならいつでもやってみろって態度でさ」
おかしい。
ブッディはキャスリンの首にかけられた首輪をもう一度確かめた。
確かに、キッチリと首に巻かれている。
「銀行は物を作らない、商品はサービスそのもの。人件費がどれだけダイレクトに反映されることか・・・。お前、金利を1%いじるってのが、どんだけ大変か想像がつくか?」
ブッディの能力は、対象が女でありさえすれば、問答無用で操作できるというわけではない。
念能力者は、能力の対象外。大人数を同時に操る能力を選択した操作系能力者は、得てして、このように対象を制限する制約を付加するものが多い。その制約と引き換えに、自身の能力不足を底上げする。
キャスリン・ボーモントは念能力者。故に、首輪をつけても、それだけなら能力の対象とならない。
しかし、ある条件を満たしさえすれば、その制約は外れるよう、ブッディはあらかじめ能力を定めている。
「販売士、簿記、企業診断士、FP(ファイナンシャルプランナー)、宅検、不動産鑑定士、etcetc。努力家で、資格だって人の倍以上もっていた。正直、あの子くらいの才覚があれば、うちみたいなヤクザな会社なんか辞めたって、幾らでも稼ぎ口はあっただろうさ。あの子にどれだけヘッドハンティングの話があったか、ボクが知ってるだけでも両手の指に余る。でもね、あの子はうちを辞めなかったんだ」
その条件は、他の全ての人形を解放すること。
"たった一人の雌奴隷(Only One)"
そうすれば、例え対象が念能力者であっても(女でありさえすれば、だが)、能力が発動する。
「もう管理職になって長いのに、いつだって率先して窓口に立っていた。一番好きだったのは融資相談。人の人生に係わることができるから、人の役に立てるからって」
ダウンタウンのアジトを放棄する時、手持ちの人形はほぼ全て爆弾を抱かせて突っ込ませていた。もっとも、あの時点は、まさかキャスリンを手に入れられるとは思っても見なかったが。船に連れ込んだのは、海パンの人質である3人の女達だけだ。
その3人も非能力者で、しかも戦うこともできないただの普通の女なので(そういう女を何人も抱えている時点で、ブッディは海パンをよほどのアホだと思っている)、例え能力から解放したところで、普通に拘束して室内にぶち込んでおけば問題無い。大量の海水に囲まれた『この場所』ならば、さしもの海パンの能力でも、救いだすことは不可能だ。
だから、能力の発動条件は完璧に満たしているはずだ。
なのに、何故?!まさか男?!
思わず視線を裸体に這わせたところで、
「・・・おい、豚公」
キャスリンが薄気味悪く笑った。
なんともケレン味のある邪悪な笑顔だったので、思わずブッディの背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
「おげぇっ!!」
―――そこで、腹に途轍もない衝撃を受けた。
完全な不意打ちだ。200キロを超えるブッディが、部屋の端まで吹き飛ばされ、壁に激突して止まる。
分厚い脂肪を抜いた『拳』は、内臓に到達して衝撃を伝えた。ブッディは身動きする事もできず床にはいつくばった。胃液が逆流し、溶けかけた肉が床を汚す。ひとしきり身もだえした後で、ようやくブッディは相手の姿を見返した。
青白い肌を晒した全裸の幼女。滑らかな大理石を思わせる肌に、しなやかな肢体。幼女だけが持ちえる美とエロティシズムを兼ね備えた肉体は、握りこぶしを突き出したポーズで天井から吊り下げられていて・・・・
「・・・って、腕ぇ?!」
ブッディは驚愕した。
こちらを見下ろす幼女の肩口には、あろうことか先ほど自身の腹に収まったはずの右腕が、拳を振りぬいた姿勢でついていたのだ。
「・・・操作系能力は早い者勝ち。そんな基本すら忘れてっから、こういう轍を踏むんだよ」
その言葉に、ブッディはピンときた。
操作能力は早い者勝ち。既に能力者によって操作されているものを別の能力者が操作することはできない。
「ま、まさか・・・お前は・・・!」
「そうさ、ボクも操作系の能力者さ」
幼女が勝ち誇ったように笑った。
「でもね、ボクの能力は他人を操ったりなんかできない。たった一つのものを操るだけで、ボクのメモリは満たされてしまっているんだ。ボクが操ることができるのは、この身に取り付いた悪魔だけだ」
そう静かに語る間に、今度はキャスリンの下半身に異変が起こった。
腿の付け根辺りから切断され、黒い革細工で蓋をされていいた肉が、ボコボコと蠢く。やがて蓋は、内側からの圧力に耐えかねるように弾きとび、そこからズルリと新たな足が出現する。
異常な事態に、わけが分からず混乱するブッディを余所に、キャスリンは手足の調子を確かめるようにグルグルと回し、感触を確かめた。やがて納得がいったのか、自身を拘束していた鎖に手をかけると、一息に力をこめた。
自身を宙吊りに固定してた鎖が引きちぎられ、キャスリンの体はそのまま直下に落下する。生えたばかりの両足で着地すると、バランスを崩したようにふらついた。だが、すぐに姿勢を整える。
キャスリンが四肢を取り戻す間、ブッディはただ震えることしかできなかった。
「ボクの体には悪魔がとりついている。そのせいで生まれた村を追われ、教会の連中に追い回される羽目になった。ざっと4、5百年は昔の話だ」
当時は、無知な一般庶民の間では魔女や悪魔が当たり前のように信じられていた。暴力や窃盗とならんで、魔術を使った者が当たり前のように裁きの対象となり、処刑された。知識階級にあった宗教者は、むしろ魔女として告発された者をどうやって無罪放免にするかで頭を悩ませていたものだ。
魔女として訴えられた者の多くは、辺境の町や村、もしくはその近郊に住む女性だった。貧しく教養がなく、知人が少ないといった特徴を持つものが多かった。
取調べは苛烈を極め、当然のように拷問が用いられた。当時は民事に関して、権力者ではなく民衆が自発的に行う民衆裁判によって治安を維持する伝統があったのが、悲劇を後押しした。教養のない市民は、とかく短絡的な手段に走るものだ。熱い釘をさし、指を締め上げ、頭を水につけて、自白を強要した挙句に魔女として処刑する。それが、当たり前だった。
処刑方法としては焚刑が多かったが、絞首刑もあったし、溺死刑もあった。キャスリンはそのすべてを体験している。一度なぞ、首を切り落とされたこともあった。
だが、生き延びた。生かされた。
彼女の体内に巣食う、悪魔の力によって。
「悪性腫瘍。つまりは、癌さ。ボクの体は、もうすっかり癌細胞に取って代わられてるのさ」
人間の身体は、数十兆個にもなる細胞でできている。これらの細胞は、正常な状態では数をほぼ一定に保つため、分裂・増殖しすぎないように分裂回数が制限されていて、一定数の分裂を行うと細胞周期が自動的に停止し、それ以上は分裂できなくなるのだ。
ところが、この細胞の遺伝子に異常がおきると、正常なコントロールを受け付けなくなることが稀にある。そうすると細胞の寿命を決定するDNAの末端部にある構造、テロメアが再生し、異常な増殖によって正常な細胞を侵す。これによって、体機能に致命的なダメージを与えてしまう。これが所謂、癌である。
癌化した細胞は、無制限に栄養を吸収して増殖するため、体が急速に消耗する。しかも臓器の正常な組織を見境無く癌細胞に作り変えて圧迫し、機能不全に陥れてしまう。そして異常な内分泌により正常な生体機能を妨げ、免疫不全等の合併症を引き起こさせる。
癌は、今なお人類が完全に克服することの出来ない、難病中の難病である。
しかも、キャスリンの生まれた時代には放射線医療や免疫療法はおろか、切除手術なんて気の利いたものはなかったし、そもそもまともな医療知識すらなかった。
全身を腫瘍に冒されて、醜く爛れた子供。確かに悪魔が取り付いたようにしか見えなかったのだろう。村中から追い回され、罵倒され、身の毛もよだつような虐待を受けた。
それでも彼女は汚泥を啜り、家畜の餌をついばんで、這い回りながら生き延びた。
「ま、運が良かったんだろう。とっ捕まって引き渡された先の坊主が、たまたま念使でさ、おかげでこいつを飼いならす術を覚えられたよ」
『永延の少女(アリス・イン・ナイトメア)』
それは、全身の癌細胞を常時操作し続けることで、正常な細胞と同じ働きを代行させる、ただそれだけの能力。小児癌に侵され、実の両親に殺されかけた子供が、死に物狂いで身に着けた、生き延びるためだけの力。
ただし、そのせいで彼女は子供を産むことが出来なくなったが。
「・・・この体になってよかったと思った事は一度も無いけど、まあ、便利なことは確かだね。そう簡単には死なないし、こいつをちょいと操作すれば、腕だろうが足だろうが、その気になれば臓物や脳みそすら無限に作り出せるから」
ひょいと上げられた手の平に、ドクンドクンと脈打つ肉塊があらわれた。心臓だ。
さらに、白くて華奢な少女の腹肉の上を、解剖済みのカエルのような腸(ハラワタ)が縦横無尽に蠢きながら泳ぎ回り、小ぶりな乳房に現れた唇がケタケタと笑い声をあげる。
青白い顔面に浮き出た4つの目玉がウインクを返すのを見て、ブッディは発狂した。
「ヴゃあああああああああああああああ!!!!」
声にならない悲鳴。それは屠殺される豚の嘶きに酷似していた。
いつのまにか、ブッディの脂肪に覆われた顔面が、さらにぶくぶくと膨れ上がり、赤黒い異様な肉の盛り上がりに埋め尽くされていた。しかも、それは顔面だけでは済まない。腹から背中、手足、あるいは内臓に至るまで全身のありとあらゆる部位に、赤い腫瘍が浮き出ていた。
同時に、気が狂うほどの痛みが全身を襲う。
「・・・そろそろ効いてきただろう。血の滴るレア、あれだけボクの"肉"をたらふく食べたんだ。お前、もう楽には死ねないよ」
キャスリンの癌化した肉片の一部を、例え細胞の一個ですら体内への侵入を許したならば、それは恐るべき速度で増殖を開始する。健全な細胞に食らいつき、浸食し、肉体を内側から破壊しつくす、この世で最も強力な毒。
「ひいぃいいい・・・!!!」
ブッディは苦痛にのた打ち回りながら、無我夢中で這い蹲る。この幼女の形をしたバケモノから、なんとか距離をとりたかった。
「キモの小さい奴だね。これがお前が散々ほしがってた、不老不死のタネだよ」
キャスリンは、豚のように逃げ惑う巨漢の後をヒタヒタと追いつめる。
PiPiPiPiPiPiPiPi!
その時、卓上の内線電話が鳴り響いた。
ブッディは恐怖と苦痛から立ち直れず、逃げ惑いながら震えている。
その受話器を、キャスリンが取り上げた。
「もしもし・・?」
ブッディの声は、キャスリンの声を元に作り出したもの。逆に、キャスリンの声もブッディのそれとは区別がつかない。
案の定、電話の相手は、勘違いをしたようだった。
『ブッチさん!!侵入者だ!!ボーモントの奴ら、どっからともなく現れやがった!!』
悲鳴のような声に、キャスリンはニンマリと笑みを浮かべた。
サンタ・フラメンコ号。
表向きは西ゴルドーとヨークシンを行き来する、パドキア共和国船籍の貨物船。だが、実際には山と詰まれたコンテナの大部分は、絶賛経済制裁中の東ゴルドーや、表向きは輸出入など存在しないはずのNGLへと出入りし、表ざたに出来ない物資を往来させる密輸船。それがブッディの本拠地だった。
領海ギリギリを親潮とランデブーしていたサンタ・フラメンコ号に異変が起きたのは、ちょうど東の海に日が昇りきった頃合だった。
洋上に響く爆音と、海原に刻まれた幾重もの白い軌条。
高速で回転するターボプロップエンジンの奏でる咆哮が鳴り響き、風圧で大海原に波紋が刻まれる。その数は全部で六つ。
海面スレスレを飛行し、一定の距離に達したところでアクティヴ-レーダー波を発振。水上目標を探知するや、
「アタック・ナウ!!」
ガンシップ、攻撃ヘリコプターの30ミリ機関砲が、鈍重な船体に叩き込まれた。
放物線を描いて艦橋に突っ込んで行く赤い曳光弾が火柱を上げ、船員たちを次々と吹き飛ばしていく。さらに追い撃ちのロケット弾。降り注ぐ機関砲が人体を粉々に粉砕し、ロケットが面単位で焼き尽くす。
突然の空からの急襲に混乱する船の上を、三機の武装ヘリは船体を掠めるように航過した後、再び上昇して旋回。体勢を整え、再度攻撃をしかけた。問答無用で機関砲やロケット弾を叩き込み、その隙に飛来した三機の輸送ヘリが、幾人もの兵士達をヘリボーン降下させていく。
船内には警戒警報が響きわたり、目まぐるしく明滅する非常灯の光が、慌しく駆け回る船員たちを照らし出していた。ある者は切羽詰った声で携帯電話に話しかけ、またある者は何事かと左右に瞳をさまよわせた。
乗組員達は、混乱していた。
彼らはこの密輸船の構成員ではあるが、ブッディの直接の手下ではない。ブッディの取引先、『D・D』の供給元から船ごと貸し与えられた人員だ。ブッディと直接的な資本関係がないからこそ、ボーモント・ファミリーの情報網を持ってしても、このカラクリを発見する事ができなかった。
彼らが知らされていたのは、今日でヨークシンのアジトを引き払い、根拠地であるミテネ連邦に帰港するということだけ。このような襲撃があるとは聞かされていない。それが、混乱に拍車をかけていた。
「なんだこりゃあ!!」
弟を切り捨て、ただ一人今回の顛末を知らされたが故に船内に残っていた男、マイケル・ロイドは船べりで一人絶句した。
一瞬遅れて、慌てて頭を下げる。這いつくばって重機関銃の斜線から退避した、まさにその瞬間、後ろにいた部下達が粉々に吹き飛ばされた。
それを見て思わずゾッとする。
30ミリは装甲車相手に使用される兵器だ。そんなものを喰らったら、念使いだろうがなかろうが、等しく木っ端微塵になってしまう。
「マイケルさん、やつら降りてきました!どいつもこいつも冗談みたいに武装してます!!」
脳がフリーズ寸前なマイケルを余所に置き、さらに最悪の報告が続く。
「火災発生!エンジンをやられました!航行不能です!!」
この場につめているのは、船の航海に必要な技術者だけだ。銃を撃つ事くらいはできるが、完全武装したプロを相手にできるとは思えない。そういうのが得意な連中は、既に序盤で捨て駒にしてしまっていた。
「・・・ちっくしょう!!冗談じゃねえ・・・お前ら・・」
付いて来い。その言葉を最後まで言う事はできなかった。
刹那、パシュンと気の抜けた音が背後から響く。
「何っ!?」
弾かれるように振り向けば、壁に散った赤い染み。背後にいた部下の一人が、方を打ち抜かれて悶絶している。
狭い船内だ。挟み撃ちの危険に思い至ったマイケルは、瞬時に背筋が冷たくなった。
「伏せろォっおおお!!」
誰かが叫んだその声に、反射的に身を伏せる。
何かが弾ける強烈な衝撃音と、閉じた瞼にも感じられる白い光。連続した銃声。手榴弾の破片が頬を切り裂き、衝撃で打ちつけた頭が脳震盪を引き起こす。
赤く染まった視界の向こうに、黒い戦闘服に身を包んだ一団が映った。
「毎度おなじみボーモントセキュリティサービスでございまーす!」
「こんにちは!死ねぇ!!」
「くたばれもしくは死ね」
男達は口々に歓声をあげながら、腰溜めに構えたマシンガンの引金を引き絞った。
軽快な音が響き、銃弾の雨はマイケルの周囲で立ち尽くしていた部下達の体を四分五列に引き裂く。喉を、頭部を、心臓を、膨大な鉄量で撃ち抜き、衝撃が人体を吹き飛ばして辺りを一面血まみれに変えた。全面を鉄板に覆われた狭い船内である。兆弾すらも脅威になる。
「撃ちかえせ!!」
その言葉に、やや遅れて反応した部下達が、散発的に銃撃を開始した。手にしたサブマシンガンを無作為にばら撒き、ひとまず反撃を試みるも、その士気は低い。
無理も無い。ふざけた口調の連中だが、相手は明らかにプロだ。こちらが反撃に出る前に、一糸乱れぬ動きで左右に退避し、的確にこちらの数を減らしている。
そして、その先頭を突っ走るのは、この場にはまるで似つかわしくない、黒いドレスに身を包んだ老婆だった。
(念能力者!!)
老婆を見て、咄嗟にやばい相手と判断したマイケルは、瞬時に『愉快な素敵な豆鉄砲(ファンキーショット)』を具現化した。
「ケケケッ!グッモーニン、相棒!!」
この拳銃型の念獣は寝早起きがモットーで、日が暮れている間は使い物にならないが、既に日は昇っている。
「うるせえー!いいから喰い殺せ、ばっきゃろー!!」
怒鳴る暇も惜しいと、引き金を引いた銃口から、巨大化した白いフィギュアヘッドが飛び出した。老婆を食い殺さんと大口を開け、念獣は無数に生え揃った牙をむき出しにする。
それに対し、老婆は胸の前で両手を組むと、厳かに祈りの言葉を捧げた。
「Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum,benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui Jesus.Sancta Maria mater Dei, ora pro nobis peccatoribus, nunc, et in hora mortis nostrae.Amen」
『聖母は我を見守りたもう(Ave Maris Stella)』
祈祷が終わると共に、老婆の背後に、光輪を背負った聖母の像が顕現した。
イエス・キリストの母、ナザレのヨセフの妻。ヨアキムとアンナの娘。おお、見よ、その慈しみ深き眼差しを・・・
マリア像がその御手を拡げると、光り輝く壁が空間を満たした。祝福の地、何人たりとも侵すこと能わず。その聖なる光に触れるやいなや、銃弾は運動エネルギーを失って落下し、不浄の念獣は砕け散る。
そんな非常識な光景を目にして、マイケルは顎が落ちそうになった。
「んなアホな?!――――ブギャ!!」
思わずアホ面をさらしたマイケルを意に介せず、長身の老婆は狭い船内をひとっ飛びに駆け上がると、その頭部を一蹴りで粉砕した。
「・・・やれやれ、年だね。あたしのカポエイラもなまったもんさ・・・。こら、お前達!婆にばっか働かせてんじゃないよ!!」
老婆は靴に付着した脳漿を嫌そうに眺めると、後ろを振り返り、慌ててこちらに駆けてくる若造どもを三白眼で睨み付ける。その背後に佇んでいた聖母は既に消えていた。
「そら行けぇ!!お前達、ここが命の捨て時だよ!!」
あんまりな発言をする老婆に、男達は不満の声を上げた。
「婆ちゃん、バトゥのカシラに言ってることと違ェじゃねえか!!」
「俺らの命も大事にしろよ!!」
「給料上げろ!!」
口答えしながら、それでも前方に鉛弾をばら撒く悪餓鬼どもに、老婆は鼻を鳴らしてみせた。
「ハン!だったら早く身を堅めるこったね、馬鹿孫ども!!ひ孫の顔見せたら大事にしてやるよ!!」
「・・・やっぱり船で移動してたか。普段は公海上に退避させていて、必要なときだけ夜陰に紛れて着上陸を繰り返す。おかげで、居所がつかめなかったヨ」
ゲホッと、幼女が口から吐き出したものを見て、ブッディは目を細めた。
黒いコードの付いた、数センチ程度の長方形。軍用の小型発信機だ。
ブッディは驚愕した。
まさか、囮になってたというのか?一組織のボスともあろうものが、自分で?
「誰かさんが、わざわざこの首に10億も、しかも生け捕り指定で賞金かけてくれたんだ。最初から、こうするつもりだったさ」
本当に捕まってしまったのは、計算外といえば計算外だったが、些細な事だ。と幼女は嘯いた。
「それだけじゃない。お前、さっきから必死に電脳ネットにアクセスしようとしてたようだが、それは不可能だ。何せ、ここいら一体の通信インフラは末端の基地局から、ルートネームサーバ郡を含めて、一時的にうちの会社の管轄下にある」
ルートネームサーバは電脳ネット構成する最重要のファクターだ。
電脳ネットは、無数のホスト名やドメイン名の中から対応するIPアドレスを探し出し、相手先を特定することで成立するが、ルートネームサーバーはDNS構造の最上位に位置し、アクセス制御を統括する起点である。
全世界に13基存在するルートネームサーバの最終決定権は、国連を支配するV5の管轄化におかれている。一時的とはいえ、これらに規制をかけるには、文字通り国家クラスの権力が必要となる。
「戦う前に勝利を得るのがこの業界の鉄則だ、豚公。まあ、だいぶ後手後手に廻って煮え湯を飲まされたがね・・・」
赤黒い瞳に怒りを漲らせ、ヒタヒタと幼女が迫り来る
ブッティは悲鳴をあげてのたうち回り、必死に逃げ惑った。だが、やがて壁際に追い詰められると、勢い余って奥の壁を覆い隠していたカーテンをつかむ。
そして、
「・・・・・・!!」
『それ』を目の当たりにしたとき、キャスリンは言葉を失った。
大型コンテナ船の左右、端から端まで打ち抜きの、ブッティの私室。その壁いっぱいに、上下左右をくまなく埋め尽くすように陳列された、人間の頭部。
はく製、ホルマリン付け、あるいは皮細工のインテリア等等、その全てに名前と年齢、人種、民族が記されたタグがつけられ、丁寧に陳列された人体コレクション。
その全てが、年端もいかぬ少女たちだ。
乳飲み子から、成人一歩手前の少女まで、あらゆる階層の女達が、空ろな眼科を晒してこちらを睥睨していた。中には耳長族、首長族、一角族にクルタ族等、希少種族のものもある。
さらに、あきらかに食用加工された真空パック詰めの筋肉や臓器の一部が、冷蔵ケース一杯に詰められていた。
(首から下は、もうほとんど、こいつの腹の中か・・・)
気が付くと、キャスリンは唇を噛み切っていた。
「・・・じわじわ時間をかけて嬲ってやろうと思ってたが、やめだ。この子たちまで、往くべきところに逝けなくなる」
すでに腫瘍はブッディの全身を覆いつくし、おびただしい膿を噴出して、辺りに腐臭をばら撒いている。
その間、神経組織を直接刺激され、ブッディは地獄の苦痛を味合わされていた。絶えず襲い来る激痛に耐えられなかったようで、既に意識は無い。
「ボバァァァアア!!」
泡を噴いてうなされていたブッディだったが、その苦しみ方が急に変わった。
醜く膨れ上がった赤黒い肉に、火傷のような白い水泡が生じ、そこから透明な液体が流れ出した。ブッディが全身に溜め込んでいた贅肉、その脂肪という脂肪が、油分を凝縮され、脱水されて可燃性の高い油脂へと変わっていく。
流れ出した油が足首を浸すほどに溢れた時、キャスリンはテーブルに置かれた髑髏の盃から、蝋燭を引き抜いた。溶け落ちた蝋が皮膚を焼くのも構わず、素手で握り締める。その蝋燭からも、人の脂の臭いが立ち上っていた。
もう何を言う気にもなれず、キャスリンはその火を落とした。
(灰は灰に・・・塵は塵に・・・)
油は、一瞬で燃え上がった。
炎が、膨れ上がった肉も、部屋中に並べられた人体も、その一切合財を焼き、ただの灰へと変えていく。哀れな躯達と共に、その身を焼かれながら、キャスリンは微動だにしなかった。
黒く焼け焦げた表皮が割れ、その下の真紅の肉を猛烈な勢いで新たな皮膚が覆っていく。焼け落ちた唇の肉が見る間に盛り上がって白い歯を隠し、毛根が増殖して髪が伸びた。
焼かれては再生し、再生しては焼かれるの繰り返し。その間、破壊と再生の痛みをキャスリンはうめき声一つ上げずに受け入れる。
やがて、船内を完全に制圧した老婆がその部屋に駆けつけた頃、火は既に消えていた。焼き尽くされた室内にはただ一人、火傷の跡一つない、綺麗な体のキャスリンが立ち尽くすのみ。
老婆は何も言わず、用意していた着替えをキャスリンに渡した。
「すまなかったね、ベノア。ボクのわがままに、付き合わせちまった」
「・・・ご自愛下さい、お母さま」
背を向けたまま、そう告げるキャスリンがどの様な表情を浮かべていたのか、老婆には分からなかった。
「・・・あっちの様子は?」
「バトゥめが、抜かりなく。ただ、例の子供が、死にかけているとのことです。助けるには、お母様のお力がいるでしょう」
「助けろって?バトゥ君の好きなケジメか・・・。ま、いいだろう。身内でもない人間を巻き込んで命張らせたんだ。祝儀もなしじゃ、組の沽券に関わる。・・・それに」
今は、そういう気分なんだ。
最後の一言は、言葉になる前に口の中で消えた。
「ドクター。ボスがその子の治療に同意した。もう10分ばかりで駆けつけるそうだ」
「・・・そうかい」
バトゥは、感情を感じさせない声でそう告げると、携帯電話を懐にしまった。ヤマダは当然だとばかりに頷くと、それきり口も利きたくないとばかりに背を向け、一心不乱に少女の治療を続けている。
ため息をついたバトゥの耳に、妻が小声でささやいた。
「あなた、ボスを亡き者にするなら、今がチャンスじゃなくて?船ごと沈めれば、さすがにあの人もお陀仏だと思うけど」
「・・・そうしたいのは山々だがな、タイミングが悪い。あの子を治療できるとしたら、ボスぐらいだろう?」
だが、いずれ、必ずやる。その言葉を、バトゥは飲み込んだ。
この組ではどれほど上に行こうと、トップの座は入れ替わらない。組織のボス、キャスリン・ボーモントが不死者だからだ。
あの女は、ああ見えて自分の持ち物には執着する。仮に、気まぐれで組をお下げ渡してくれたところで、自分の影響力は保持するだろう。
それでは、いつかまたあの幼女の形をした怪物が組織の実権を握る。二十年後か三十年後か、それくらいあの女にとっては何のこともない。
「それに、今殺せたところで、カルロがいねえ。組の半数は俺につくだろうが、残りはみんなベノアの婆様につく」
キャスリンを排除し、銀行を組から切り離して表家業にする代わり、残りの暗部はバトゥが引き受ける。それが、かつてカルロと交わした盟約だった。
「何、また出直しだ。カルロが育てた連中の中にゃ、こっち側に聡い奴だって何人かいる。そいつらが力をつけるまでに、抱きこんでみせるさ」
忌々しそうに、バトゥは朝焼けに白く輝く海を見た。
遠く水平線の近くで、破壊され沈没しつつある大型タンカー。
バトゥの目には、船の後部から飛び立つヘリの姿が見えていた。
「バトゥは、また動かなかったね」
「左様で」
「いつまでも、意気地のないことだね」
「左様で」
「お前も、気に入らなければ、いつだって出て行っていいんだよ」
「・・・・・・」
「ハンプティがさ、お前に風邪ひくなって」
「・・・いずれ、あちらで茶を酌み交わす事もありましょう。それまでは、お茶は私がお入れいたします、お母様」
…to be continued
長くかかりましたが、次回エピローグです。