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[8641] 奇妙な果実 (H×H、オリ主転生、TS、R15、ダーク、グロ注意)
Name: kururu◆67c327ea ID:52df90f0
Date: 2014/07/05 14:28
奇妙な果実(H×H、オリ主転生、TS、R15、ダーク、グロ注意)




『前置き』

オリ主転生物で、オリキャラが大量に出て参ります。また、内容的にTSと、性描写と暴力描写、流血シーン、差別的な言い回しも多々出てきますので、そういうのを受け付けない方は、恐れ入りますがここで引き返していただけると幸いです。



おまけの登場人物蛇足(091102)

Chapter1


ゴドー・イワレンコフ
主人公を引き取って殺し屋として育てた人物。心臓病を患い、自分の技術を後に残すために、主人公に訓練を施した。ある組織の専属の殺し屋で、かつては某国の特殊部隊に所属していたこともある。対念能力者戦闘に秀でる。個人の能力も高いが、集団戦闘で指揮を執らせると無類の強さを発揮する。単なる技術の伝承者としてしか見なしていなかったはずの主人公に対して、いつの間にか芽生えていた感情に気づくことなく、死去した。操作系能力者。

能力名:影なき恐怖(ブービートラップ)
系統:操作系
ゴドーがもっとも頼みをおく武器、仕掛け爆弾の"爆薬"と"信管"に念をこめる、というただそれだけの能力。込められた念は爆発力を増幅させ、周囲に半径10メートル程度の円を形成する。ちなみに、全盛期のゴドーが一度に念を込められる爆弾の数は、軽く50個を超えていたらしい。


ユーリー・バシマコフ
つい最近、ヨークシンの殺人代行組合に入ったルーキーだが、殺しの腕は超一流。ゴドーの元部下。服薬暗殺者。

能力名:Ωジェル(オメガジェル)
系統:変化系
オーラをスポンジとジェルの両方の性質を持った物質に変化させる能力。防振・衝撃吸収性能にすぐれる上に、摩擦抵抗をゼロから無限大にまで自在に操作できるというオマケ付き。


Chapter2


バトゥ
ヨークシンを根城にするボーモント組の若頭(カシラ)。サングラスに真っ白なスーツがトレードマークの伊達男で、おまけに頬に傷跡があり、見た目は完璧にスジ系の人。組織内ではゴドーに次ぐ武闘派幹部だった。具現化系能力者。

能力名:弾丸ロック(heath maker)
系統:具現化系
ほぼ無尽蔵に周囲の気体を吸い込んで溜め込む銃弾。対象に命中するか術者から離れ過ぎると強度を保てなくって消滅し、込められたものを一気に開放する。


カルロ
本名、ジャンカルロ・ボッシ。ボーモント銀行ヨークシン支社、次長。組織の会計士。暴力はからっきしで気が小さい。盗品やブラックマネーを専門に商い、裏帳簿の管理を任されている。闇金融一筋20年のベテラン。


グレース・コードリー。
バトゥの秘書。18歳で一流大学を首席で卒業、28歳で世界有数の総合商社の企画部長にまで上り詰め、そこを男女トラブルに端を発する不祥事で辞職したという異色の経歴の持ち主。3×才未婚の母。


美津里京子(ミツリ・キョーコ)
ボーモント組傘下の居酒屋『バー・ミツリ』の雇われママ。蠱惑的な雰囲気を纏った和風美人。2×歳子持ち。放出系能力者。

能力名:死の絶叫(マルマン・ティーダ)
系統:放出系
放出系と操作系の複合能力。発声に合わせてオーラを放出、強力な超音波を叩きつけ、物体の分子結合を弱めて粉砕する。歌声に合わせてオーラを飛ばし、疲労やストレスを癒す効果もある。


キャスリン・ボーモント
ボーモント・ファミリー家長。本名、実年齢共に不明。世界中の暗黒街に顔が利き、あらゆる情報を自在に入手して組織を動かす謎の人物。すでに半世紀以上もヨークシン黒社会に君臨している。ビスケット・クルーガーとは顔見知りで犬猿の仲だとか。操作系能力者。

能力名:永遠の少女(アリス・イン・ナイトメア)
系統:操作系
癌細胞化した自らの体細胞を自在に操作する能力。能力者は小児癌患者で、生き延びるために死にものぐるいで念を会得した。すでに体組織のほとんどが癌細胞で構成されており、長い年月を子供の姿のまま生き続けている(名前の由来は松田聖子のオリジナルアルバムと、同タイトルのアクションホラーゲームから)。


ベノア・ボーモント
表向きにファミリーのボスを演じている老女。強化系能力者。

能力名:聖母は我を見守りたもう(Ave Maris Stella)
系統:???
祈りと信仰によって生まれた能力。その御手は全てを守る無敵の盾。


ハンプティ・ボイルド
キャスリンの執事。卵のような異形の男で、常に黒いタキシードを着込んでいる。体型からは想像もできないほど機敏に動き、力も強い。変化系。

能力名:天逆卵(ハンプティ・ダンプティ)
系統:変化系
オーラで包んだものをひっくり返す能力。


Mrブッディ
ヨークシンシティにのさばるマフィアの一人で、殺人代行組合の元締め。通称・Mrブッディ(精肉業者)。ドSの変態、ド畜生。見た目はデカくて邪悪なアン○ンマン。操作系能力者。

能力名:"お前は僕の肉奴隷(Perfect N・T・R)"
系統:操作系
オリジナルの首輪をつけた女性を下僕とし、命令を聞かせることができる能力。非能力者かつ女性限定ならば、多数の人間を同時に操作できる。
操作可能な人数をただ一人に限定し、それ以外を全員解放することで、能力者も操作可能。

ヴィヴィアン(仮名)
通称・人虎(レンフー)。ブッディの殺人代行組合に登録している殺し屋の一人。極度の刃物フェチで惨殺フェチ。オカマの変態。変化系能力者。

能力名:風刀(フェンジャン)
系統:変化系
オーラを刃状に変化させ、"オーラ刀"と化す能力。鋼鉄の硬度と白刃の切れ味を併せ持ち、伸縮自在。薄く鋭く、半透明で見えづらい。


ロイド兄弟
マイケルとリィロの双子の兄弟。兄のマイケルはブッディの手下で、配下の殺し屋達への連絡役。弟のリィロは殺し屋の一人。ただし、いざというときは殺し屋達の始末屋として活動する。具現化系能力者。

能力名:真昼の決闘野郎(ハイヌーン・ブリッド)
系統:具現家系
マイケル・ロイドの能力。銃型の念獣を具現化する能力。見た目は安っぽいおもちゃのピストル。対象の臭いを覚えさせると、相手がどこにいても居場所を追いかけて食らいつくナイスガイ。弾と本体は紐で繋がっていて、最大射程は100メートル。
早寝早起きがモットーで、日が暮れると寝てしまう。

能力名:深夜の決闘野郎(ミッドナイト・ブリッド)
リィロ・ロイドの能力。基本性能は兄と同じ。こちらは宵っ張りな性格で、昼間は寝ているが夜になるとフィーバーする。


ラッキー・ルッチ
ブッディ子飼いの殺し屋の一人。始終ニコニコと笑みを絶やさない男。蝶を引き裂いて喜ぶ子供のように、人体をバラバラに千切ることに楽しみを覚えている。強化系能力者。

能力名:ゴキブリ的な何か、あるいは肉団子(命名者、海パン)
系統:強化系
強化系能力の全てを生命力強化につぎ込んでいるだけの能力。能力者は強力なタフネスを獲得する(ベホマ使うボスキャラみたいなもの)。

海パン野郎
ブッディ子飼いの殺し屋の一人。本名不明。真冬でも海パン一丁、しかも紫ビキニの変態。真面目で口調も丁寧だが、常に表情が変わらない。特質系能力者。

能力名:孤独な観測者(カオスダイバー)
系統:特質系
物体を透過する能力。ただし、生物や念で具現化された物はすり抜けられない。
能力使用時にはヒレ、シュノーケル、銛、そして海パンを具現化して身に着ける。

能力名:矛盾する観測者(Another Heaven)
孤独な観測者(カオスダイバー)の発動中、能力者に触れている者にも能力が共有される。


ダミアン・ハーヴィー
自称・魔術師。ブッディの殺人代行組合に登録している殺し屋の一人。各地で複数のテロ活動を行い、指名手配されている。操作系能力者。

能力名:人造の悪魔(ジ・オーメン)
系統:操作系
自ら調合した有機溶剤に念を込め、念獣を生み出す能力。単純な命令しか受け付けないが自立行動可能。


ブーゲンハーゲン
ダミアンの助手兼念の弟子。白衣で眼鏡で巨乳で童顔という完璧生物。念能力修行中。


山田次郎(ヤマダ・ジロウ)
ハーレムで医院を営む目付きの悪いヤクザな医者。根は真面目だがひねくれ者。自他共に認める拝金主義者。強化系能力者。

能力名:俺は万能医療器具
系統:強化系
強化、放出系をバランス良く鍛えた複合能力。患部をにオーラを放出し、自己治癒力を強化する。医療活動専用。



Chapter3

ジェーン・スミス(?)
見た目20半ば程度のキャリアウーマン風の女性。会社の勧めで試験を受験しにきたというが・・・


王大人
赤龍幣の頭目。十老頭の一人。流星街出身。かつては卓越した巫蠱使いの暗殺者だった。具現化系能力者。


病犬
実力的に陰獣筆頭と目されている男。王大人の片腕。オーガニックに拘る健康主義者。酒もタバコも麻薬も嫌い。強化系能力者。



見た目は完璧にメタボ腹の中年親父。5年ほど前に陰獣になった男。リッツ・ファミリー所属。操作系能力者。


キャンディ・クルーガー
ストロベリーブロンドをカールにした少女。年下好みで美少年が大好物。どこぞの年上趣味な女とはそりが合わないらしい。


アラン・スミシー
ジェーンの上司。問題児ばかりの部下を持っているので心労が絶えないらしい。操作系能力者。



[8641] 奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.1 (R-15指定、グロ注意!!)
Name: kururu◆67c327ea ID:8d2e064e
Date: 2009/06/21 18:58









父親は飲んだくれて働かない。母親は男を作って出て行った。

そんなどこぞの新宿歌舞伎町。どこにでもあるクソ話。

グレて、つるんで、悪さして、ある日あっけなく、殺された。

遊び半分でシメた連中の中に、ヤー公の舎弟がいたらしい。奴らはオレがショバ代をピン撥ねしているのも気に食わなかった。

結果として、ぼこぼこにされて埋められた。喧嘩に自信はあったが、5対1じゃ手も足も出ねえ。

こんなクソみたいな世界ともおさらばかぁ、と腫れ上がった目で、ドラム缶風呂に詰め込まれるヘドロみてえなコンクリ眺めたのが、この世の見納め。

だが、面白いのはそこからだった。

確かに死んだはずだったのに、ちょっとわけわかんねえ。だって俺死んだよな?

なら、なんで、おぎゃあ、おぎゃあ、泣き喚いてんだ?

ああ、本気で神って奴ぁいるんだって確信した。ついでに、そいつがクソみてえなファッキン野郎だって事もだ。


















奇妙な果実 Chapter1 「You & I」prologue

















赤ん坊のころの記憶はほとんど無い。

ただ、寝て、食べて、泣いて。そんな当たり前の赤ん坊だったと思う。

いわゆる前世の記憶って奴も、赤ん坊にとっちゃ大して意味を持ってるわけじゃない。なにせ、自分じゃ立てない、しゃべれない、小便の世話すら出来ねえときてる。

混乱して泣いて喚くくらいしか出来なかった。つまり、何の変哲も無い赤ん坊だったってことだ。





二本の足で立って歩けるようになって、口も言葉をつむぐことができるようになった頃、オレはやっと現自分の現状を認識できた。

性別は女。まあ、そいつは、生まれ変わったことに比べりゃ、たいした事じゃあない。

母親は娼婦だった。父親は顔も知らない。

そんな境遇に、"オレ"は生れ落ちていた。







暗く小さな売春宿の一室、それがオレと母さんの暮らす部屋で、お客が来ると、俺は外に出る。

そして、母さんはいくばくかの金を手に入れ、パンを買って、一緒のベッドで眠る。そんな日々。正直、悪くは、なかった。

母さんは、昼から朝まで男に抱かれていた。そのことに嫌悪感は無い。

少なくともあっちの母親(売女)みたいに、内心で男を見下していたわけでも、食い物にしていたわけでもない。巧妙に押し隠した下劣さが、こちらの母親には感じられなかった。

単に、母さんには生活するために男に抱かれるしかなかった、ただそれだけのことだった。若い女は体を売るしか稼げない。そういう街なのだ、ここは。







外を歩くことが出来るようになってから、街を見て回る機会が増えた。

すぐに気がついた。

この街の奴らは、大人も子供も野良犬も、どいつもこいつも、ドブのような犬の目で、絶えず何かに脅えているか、さもなきゃ怨んで呪ってた。以前とさして代わり映えのしない、くだらない光景、そう思った。

だが、こちらの現実は、もっとずっとハードだ。

少なくとも向こうでは、食うことに困った経験はなかった。その意味では、以前のオレは恵まれていたのだということを実感した。なにせ、ここでは毎朝のように路上に餓死者が転がる。

テレビでしか見たことの無かった、人間が飢えて死ぬ現実。誰もが生きるために何でもする世界。救いようもない虚無と汚濁と絶望の螺旋だけが、ただ当たり前のように存在する、ゴミの掃き溜めのような、クソの街。

そんなものが、ここではあまりにもリアルな現実として用意されていた。







一つだけ救いがあったとすれば、それは、こちらの母親が、オレを必要としてくれていることだった。

寒い日には抱きしめて一緒に眠ってくれた。

自分はどんなに腹がすいていても、オレに自分の分まで食べ物をくれた。

微笑みかけてくれた。

頭をなでてくれた。

それが、涙が出るくらいうれしかった。

だから、体がまともに動かせるようになってから、オレはスラムの片隅で稼いだ。

置き引きにスリに引ったくり、二束三文のクソ駄賃のために女郎宿で雑用をしたり(主な仕事は使用済みのコンドームを洗うことだった)、他にもできることなら何でもやった。

正直、この辺の経験は、あっちで散々やらかした手前、やたらと手馴れているのだ。

以前は惨めさしかなかったが、今は多少なりとも救いがある。同じことをしているだけなのに、不思議なものだと思った。

以前は、ほんとにただのチンピラだったオレだが、この人がいてくれるだけで世界は変わった、変わったように感じられた。

母さんのために少しでも稼ぐことが、オレにとって無上の喜びですらあった。

母さんは、たぶん最初からスラムで生まれ育った人間じゃない。どんなにやつれていても、育ちのよさが顔に出ている。どんなに惨めな生活をしていても、顔に卑屈さが無い。オレはどうしょうもない人間だけど、そのくらいは分かる。オレは、そんな母さんが心の底から大好きだった。

母さんとオレの持ち物は、着たきりの服に、毛布が一枚、ほんの少しの金、商売道具の白粉が少々。これで全部。でも、なにも不自由なことは無かった。

毎日、明け方近くなってから、のそのそ母さんは部屋に戻ってくる。疲れ果てたような、十も余計に年をとった顔だった。その顔を見るのが、何より嫌だった。

オレは無理やり笑顔を作って、両の手を差し出す。

小さな手の上には数枚の銅貨。どんなにがんばっても、子供が一人、スラムで稼げる額など知れている。

母さんは、決まってオレを抱きしめてくれるのだった。それだけで、ひもじい思いも、女郎宿の亭主に蹴られた痛みも、忘れることが出来た。

ただ、オレを抱いている間、母さんはオレに泣いて謝り続けていた。それが、嫌だった。

謝らないで、オレは幸せだから、十分だから。一緒にいてくれるだけで、必要としてくれるだけで、オレは、オレは・・・・・・・・・・・・





幸せな日々は、長くは続かなかった。





パン、と乾いた音。

銃声だと気付くのに、どうしてだか時間がかかった。

後になって思い返すと、それはきっと、母さんが苦痛を顔に出さなかったせいだ。

母さんは、ただ歯を食いしばって、背の後ろにオレをかばおうとして、銃を向ける男をにらみつけていた。

打たれた瞬間すらもそのままの顔で、無言で母さんはオレに覆いかぶさった。

ごとん、と鈍い音。

後頭部に衝撃が走り、腐りかけた床がミシリと音を立てた。

母はオレを安心させるために、苦痛に引きつりながらも笑みを浮かべた。そして、黙ってオレを開放すると、出口を指差した。

い  き  な  さ  い

いやだ、いやだよ。

 い  い こ だ  か    ら

血を噴出した唇が、そう呟いた。

うっすら笑みを浮かべて、そのまま、母さんは動かなくなった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・。




「チッ・・・淫売め!」

ベッドに腰かけた男が、ヤニ臭い息を吐いて母さんを罵った。その手に握られた拳銃には、まだ硝煙がたなびいている。

瞬間に凍結する感情。

逃げるべきなのに、逃げなければならないのに、オレの足は動かなかった。いや、動けなかった。

ただ呆然と、動きを止めた母さんの姿を、阿呆のように見ていた。

「おっと、てめえには金の在り処を吐いてもらわないとなあ」

要約するならば、こういうことだ。

母さんは、わずかな蓄えを掠め取ろうとした、ケチな男に抵抗して、殺された。

苦しい生活の中で、母さんは少しずつ少しずつなけなしの金を貯めていた。

『いつか、学校に行かせてあげるから』

そう言って、自分が食べるものも削って、金をためていた。それを狙われた。

売春宿には、当然ながらタチの悪い客も来る。所詮はチンピラの溜まり場だ。

女を、子供を、自分より弱い奴を脅すことしかできないで、そうして得た稼ぎの全てを白い粉に捧げて、単に生きるだけ。どこにでもいる、ただのクズ。





それは以前の、オレの姿そのもの。





その日に限って、オレは少し早めに部屋に戻っていた。だから、その時の光景をありありと目撃してしまった。だって、母さんの誕生日だったから!!

カチリという金属音。それが、オレを現実に引き戻す。

銃口はオレに向けられていた。

「続きをしてもらわなくちゃあなあ!」

男は立ちあがると、動けぬオレの胸倉を掴み上げ、床に叩きつけるようにねじ伏せた。

次は、オレの番だ。

男はまだ母さんを抱いていなかったし、股間の赤黒いモノはいきり立っていた。

組み伏せられて、引き裂かれる服。大して上等なものでもなかったけど、お気に入りだった。母さんの買ってくれたものなら、なんだってそうだ。

首筋から、背を、腰を撫ぜ回る手に怖気が走る。胸を這い、寄せられる舌に吐き気がこみ上げる。拒絶するために顔を背けた。

それでも、オレは無抵抗だった。それが男にとってはダッチワイフのようでお気に召さなかったようだ。




まず、口を無理やりこじ開けられて、しゃぶらされた。

「オウ!オウ!」

むちゃくちゃに突きこまれ、息ができずに肺が焼けた。




涙を流しながら横目に映る、母さんだったもの。

虹彩を失った虚ろな眼、暗く、冷たく、もう何も映さない。

自分も、間もなく、ああなるのだと理解した。不思議と涙は出なかった。どこか現実感が無かった。体の感覚が、うそだと思いたかった。




仰向けにされて、股を開かされた。

性器を貫かれる瞬間だけは、苦痛を感じた。肉膜の避ける音が、ぐちゅりと生々しく体内に響いた。吐き気がした。

だが、悲鳴は額に突きつけられた銃のせいで、口から外に出なかった。その代わりに、苦痛と共に、オレの胸に感情が戻ってきた。

「アヒャ!!、げヒっ!、ヒッ!、ゲヒャ!、ヒあッ!!」

男が腰を振るたびに襲う苦痛、それが感情をさらに燃え上がらせる。

徐々に吹き上がる緋色の陽炎、

胸の奥深く、暗い淀みを糧に、猛り狂う焔、

視界を染めて膨れ上がる、破壊と殺戮の衝動。

それをじっくりと溜め込み、奥歯を噛み潰しながら、ひたすらに開放の時を待った。あまりにも噛み締めたせいで、唇が切れて血が滲む。

右手には、ガラスの欠片。いつかの客が持ち込んだ、割れた酒瓶。その欠片を握しめて解放のときを待つ。あまり強く握り締めたので、皮膚が破けて血が滲んだ。

怒りに染め上げられた脳裏から、何故か母さんの顔は消え去っていた。

そうして、ひたすら、じっと待つ。じっと、じっと、じっと。






やがて男は絶頂に至る。

いきり立った逸物から、四方八方に白濁液をほとばしらせながら、弛緩した笑みを浮かべて。

そして、オレは、逆襲のチャンスに歓喜した。

「うワああアぁァァァぁぁっ!!」

ガラスの欠片を、こけた下腹に突き入れる。幾度も、幾度も突き入れる。ずるりと埋まる凶器の先端。皮膚の下にゆれる丸い臓器が、ぐしゃと潰れる。その音に興奮して、さらに腕をめちゃくちゃに振り回す。赤が飛び散り頬を伝う。肉を裂く感触が頭に伝わる。もう何も考えられない。熱に浮かされたおつむに聞こえてくるのはドックンドックン、脈打つ己の鼓動だけ。熱い衝動に動かされて、ただ肉を食み骨を裂く。

やがてかき回しすぎたのか、とうとうガラスの欠片が砕けて散った。オモチャが無いかと周りを見れば、床に転がった銃を拾う。大きく開いた男の口が、紅い何かを吐き出している。さっきのお返しとばかりに、黒光りした立派なものをしゃぶらせてやる。ゆるい引き金を連続して引くと、がっくんがっくん踊るように跳ね回る。それが本当に面白くて、めちゃくちゃに銃口を振り回し、ぐちゅりぐちゅりとかき回した。

すぐに弾を撃ちつくし、素手でいいやとばかりに、男をバラシにとりかかる。白く細い手で、無残に捌けた男の腹を、肘まで埋まるほど深く抉る。不思議なことにオレの手は、まるでスコップのように、楽々肉を引きちぎった。不思議だ。だが、今はそれは喜ぶべきことだ。殺戮の興奮がすべてに勝る。腕を引き戻すのと一緒に、血と、紅くプリプリとした臓物が引き抜ける。生暖かい感触は、今一つ気持ちが悪かったが、気分は最高にハイテンションだ。面白半分に八重歯を当てて食いちぎると、鉄錆の味が口いっぱいに広がった。まずい。苦い。食えたもんじゃない。つばと一緒に吐き捨てて、再び肉を抉る作業に没頭する。抉る、抉る、ひたすら抉る。血塗れの手が乾くが嫌で、生暖かい臓物に嬉々として何度も突っ込んだ。今度は赤黒いゴムひもみたいなものが引きずり出されて、オレは歓喜の笑みを抑えられなかった。目を移せば薄桃色の塊が、右腕に絡みついていた。




「クケ、ケケケケ、クヒャヒャヒャヒャっ!!」

不規則に乱れた呼吸。不規則な吐息に肋骨がうめく。でも痛みを無視して、ただひたすら嘲笑い続けた。

ついさっきまで歪んだ笑みを浮かべていた男の顔は、原型をとどめず崩れていた。ついさっきまで、ビクビクともがいていたのに、もう、動かない。楽しい。

床に横たわる筋肉と臓物が複雑に組み合わされたオブジェ、砕かれた頭部、千切り取ったペニス。

オレの左手にはグズグズに崩れた脳漿が滴っている。塩気にも似た生臭さに激しく胃がムカついたが、気分は清清しい。新鮮な脳みそは、とても美しかった。

「クっ・・ク、クク、ぐえェ、ヒッ!・・クケケ、ヒャアハハ、ヒハアッ!!」

オレは、吐きながらまだ笑っていた。

最期に、男性器があった部分に、ずっぽりと二の腕まで埋まるほどにブチこんでやった。この貧相な逸物をメリメリと引き千切ってやった時には、男はビクンと大きく痙攣し、その後で全く動かなくなった。

ああ、死んだのだなと、熱に浮かされた頭でも理解できた。まあ、この男もあの世でイキ狂っているに違いない。オレの腕は男のモノよりよほど太くて長いのだもの。

生まれて始めて、最高に強烈な絶頂感を味わった瞬間だった。女の膣内に思う存分射精するよりも激しい幸福感と満足感。性交によらない性の快楽。

オレの幼い性器は、知らず知らずのうちにぬるぬるとぬめりを帯びて糸を垂らし、洪水のように滴って破瓜の血を洗い流していた。オレは、この世界で処女と童貞を同時に失った。





しばらくの間、快楽の余韻に浸っていたのだが、不意に手の冷たさに気がついた。

外はまだ雪が降っているのだろうか。生暖かかった臓物も、すでに冷え切っていて、握り締めた手も悴んで硬くなっていた。そのおかげで、ハアハアと乱れていた息も、熱に浮かされていた頭も冷えた。

不意に頭が冷えた。ささげ持っていた、なんだかよく分からない臓器を捨てた。ベチャリと音を立てて落下したそれが、ひどく汚らわしいもののように感じたが、床に落ちたところはプディングみたいで、少しだけ滑稽だった。

一心地つくと、先ほどまで、気にならなかった血錆臭が気になりだした。

我に返って辺りを見れば、狭い部屋の床は洪水のように血液で覆われ、足元でちゃぷちゃぷと音が鳴るほどだった。

部屋の隅には、オレがぶちまけた嘔吐物もあって、部屋の中はひどいにおいで満ちていた。

とりあえず、はめ殺しの窓を無理やり開けて、換気をした。内側に組み込まれた窓枠は強固だったが、オレが少し力をこめると、面白いように簡単に壊れたのが不思議だった。はて、いつからオレはこんなに力持ちになったのだろうか。

部屋の中に新鮮な空気が混じる。酒と汗とすえた臭いのする裏路地の、かび臭い空気がこれほど旨く感じられたことは、かつて無かった。

ぼんやりとまだ酔いどれ気分の頭で、考える。誰も部屋に入ってこなかった。

銃声が何度もしたし、男は喉をちぎるまでは、豚のような金切り声をあげ続けていて、それはかなり五月蝿かったはずなのだ。

誰も、助けには来なかった。誰も入っては来なかった。様子を見に来ることすら無かった。

ここはそういうところだ。この街の住人の特技は、物事を見ないことだ。

いつの間にか、心が冷え切っていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・現実に、帰還する。

「・・・母さん」

冷え切った頬に、生暖かいものが伝う。

母さんは白く美しかった。

目立った外傷は無く、腹部に滲んだ血の華だけが、服の模様のように思えた。

でも、もう、微笑んでくれない。

オレは、喪失感に打ちのめされた。




もう、一緒に寝てくれない。




オレの話を聞いてくれない。




抱きしめてくれない。




そう思うと、力が抜けた。








「・・・・・・・・」

不意に、体が鉛になったような急激な疲労感が襲ってきた。

皮膚の感覚は寒いのに、冷たいのに、全身が茹るほどに熱い。

揺らぐ視界、強張る筋肉。とても立っていられなくなって、母さんの隣に身を横たえる。

ふと気が付けば、体を覆っていた湯気のようなものが、途切れかけていた。あれほど威勢良く噴出していたのに、今は勢いを失っている。

それを見て本能的に悟った。おそらく、これはオレの生命そのものだ。これが完全に途切れたとき、オレもまた死ぬのだと。






気を失う瞬間、今まで沈黙を守っていたドアが、きっと軋みながら開く音を聞いた。

























パチパチと火の燃える音でオレは覚醒した。






「気が付いたか」

まだ瞼を開ける前から、そんな声が降ってくる。

自分の置かれた状況を知るため、まだ眠っているふりをしようとしていたのだが、その目論見はあっさりとやぶれた。

うっすら眼を明けると、そこにいたのは40歳くらいの男性。

背の高い、黒いシャツを羽織った大柄な男だった。堀の深い顔をして、厚い唇には深い傷跡が残り、右の瞼は焼かれたかのように爛れている。

オレは無造作に床の上に転がされており、男はそのすぐそばに、椅子の背を正面にして腰掛けていた。椅子の背に頬杖を付き、いかにもつまらなそうに、視線はオレに向けている。






やがて、男は無言で椅子から離れると、オレの着ていた服に手を伸ばした。

衣服を剥ぎ取られまいと、オレは強く抵抗したが、男は無表情に掌を振り下ろした。革の鞭のような張り手を、背中に3発もくらうと、抵抗の意志は挫けた。

背中から伝わってくる痺れるような痛みに言葉を失ってうずくまるオレを、男は無理矢理引き摺り起こし、乱暴な手付きで服を剥ぎ取り始めた。

オレは心の中で悲鳴を上げ続けていたが、不思議と涙は出てこなかった。悔しさと惨めさに、しゃくりあげる声が小犬の鳴き声のように口から漏れた。

全ての衣服を剥ぎ取られ、オレを丸裸にすると、男はためらい無く衣服を暖炉の火の中へ放り込んだ。

オレは呆然とした表情で、その様子を観ていた。犯されることに恐怖感は無い。ただ、力ずくでどうにかされてしまう自分の非力さが、この上もなく惨めで恨めしかった。

「放せ、放せよ! この野郎、放せったら!!」

だが、男は再びオレの髪の毛を鷲掴みにすると、力ずくで浴室まで引き摺って行った。

浴槽には既に水が張られていた。その中へ、頭から押し込まれる。

頬を刺す冷水の感触と、空気を求めて悲鳴をあげる喉が、ショックで麻痺していた意識を現実に引き戻した。

両腕でバスタブの縁を掴み、頭を持ち上げようともがく。

「ぐっ、グボ、ゲボェッ!!」

しかし、男の長い手にはさらに容赦の無い力が加わり、オレの頭を水中に押し込んだ。

オレは思わず頬の中へ溜めていた空気を吐き出してしまった。かわりに、大量の水を飲み込んだ。

オレは錯乱し、ムチャクチャに両手、両足をバタつかせたが、男の腕は鋼鉄のようにびくともしない。

やがて、四肢の感覚が遠のき、頭の芯が痺れたようなぼんやりとした鈍痛に変わった。






・・・・・・・・・・殺される・・






意識を失おうとしたその瞬間、今度は強い力で水中から引揚げられた。余りにも勢いがつよかったので、オレはそのまま後ろにへたり込んだ。

「げほっ、グ、げェええ!」

体を捻ってタイルの床に手を付き、犬のように四つんばいになって胃の中の水をゲーゲーと吐き戻す。やたらと塩分の強い涙が、さらに涙腺を刺激した。

吐き気がおさまると、水滴が落ち続ける前髪が急にうっとおしくなって、乱暴に掻き揚げた。そして、正面に立つ巨漢を見上げる。

男の、底なしの孔(あな)のような黒い眼には、何の感情も浮かんでいなかった。

この悪魔の容赦の無い暴力。このままいけば、本当に殺されてしまう。そう思った時、意外な事に湧き上ってきた感情は、『怒り』だった。

誰も救ってくれない、助けてくれない、泣いても喚いても・・・その事をはっきりと自覚したとき、ありとあらゆる理不尽に、強烈な怒りと憎悪がこみ上げてきた。

微笑みながら逝った、母さんの顔が思い浮かんだ。

オレは肩を上下させて荒い息をしながら、ありったけの力を込めて、男の顔を正面から睨み付けた。

気が付けば、オレの体からは、あの時のように、湯気のような緋色の光が立ち上って、炎のように揺らめいていた。

男は傷跡の無いほうの眉を釣り上げて、わずかに愉快そうな笑みを口元に浮かべた。だが、すぐにまた、元の無表情に戻る。

男は腰を落とし、オレの目の前に顔を突き出して視線を合わせた。

「ここで萎縮するようなら、用は無かった。命拾いしたな」

オレは唾液を吐きかける事で答えた。

唾は男の顔にかかり、粘度のある濁った液体が頬から垂れ下がる。

男は、ゆっくりと右手の甲で顔に付いた唾液を拭うと、そのまま強く振り下ろし、オレの頬を殴り飛ばした。

容赦無い一撃に、オレは浴槽の床に吹き飛ばされ、一瞬、意識がブラックアウトした。

男は顔の汚物をシャツの袖で拭うと、今だ床に這いつくばっていたオレに視線を投げた。

しばらく、いぶかしむように眺めていたが、やがて納得したかのように頷くと、無言でオレの背に右足を繰り出す。

ダン!!

骨も砕けよとばかりに、容赦の無い蹴りだった。事実、踏み抜かれた床板には、くっきりと足跡が残っている。

だが一瞬早く、オレはその蹴りを避けるように床を転がり、そのまま壁際まで転がって素早く立ち上がった。

視線は男の次の動きを牽制するように、微動だにせず固定する。男の一挙手一投足すらも見逃さないように。

「やはり、次の行動の為に休んで体力を回復していたか。いい判断だ。思ったより頭の回転も早い」

まるで追いつめた捕らえるように、ゆっくりと男がオレに近づく。

オレは浴室の角の一つに追いつめられると、何とか男の脇をすり抜けて浴室の外へ向かおうとした。

だが、ゆっくりとした動作に反して、男の左右のどちらのスペースからも、すり抜けるだけの隙を見つける事ができなかった。

そうこうしているうちに、男の腕がガッチリとオレの肩を捕まる。

オレは反射的に、男の太い腕に噛み付いた。シャツの裾をその下の皮膚とともに噛み破り、口の中に鉄さびの味が広がる。

しかし、男はそれでもオレの肩を放そうとはしない。肩に食い込む指の痛さに我慢できず、ついにオレは口を放した。

「噛み付くときは、相手の着衣を吟味しろ。急に布を引き抜かれて、前歯を根こそぎに持っていかれるのは珍しく無い」

男は淡々とそれだけを言うと、無造作にオレの首根っこをつまみ上げた。

無防備な状態に晒されたオレは、両足をばたつかせて逃れようとしたが、男のほうはそんな事には無頓着にオレを運び、冷水の満たされた浴槽に放り込んだ。

「身体を洗って血と汗を洗い落とせ」

男はそう言い残して、オレを残して浴室を出た。

残されたオレは、冷たい水風呂に鳥肌が立ったが、確かに何日も風呂に入っていなかったので、言われたとおりに体を洗った。

蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく飛び出て鳥肌がたった。だが、売春宿の泥水混じりのシャワーに比べれば、ここの水は非常に綺麗なものだった。






ぼんやりと頭から冷水に打たれるうちに、また母さんのことを思い出した。すこし、泣いた。

嗚咽は肌をたたく水音に紛れ、涙は水に流れて消えた。



















結局、浴室から出たとき、オレの唇はすでに紫色に変色していた。

体温を取り戻そうと全身を細かく震わせたが、歯の根も合わない。

男は暖炉の近くの椅子に掛けてあったバス・タオルを掴み、オレに向かって投げた。無言で体を拭くように促す。

オレが体を拭いている間、男は黙ってそれを見守っていた。

やがて、オレの体が十分に温まる頃合を見計らって、男はおもむろに切り出した。

「これから俺は、俺の持ちうるありとあらゆる戦闘技術を、お前に叩き込む。全身全霊で覚えろ」

その高圧的な物言いに、カッと全身の血が沸騰した。

「馬鹿言ってんじゃねえ!!寝言は寝てから言えよ、クソ野郎!」

思い切り噛み付いてやりたかったが、それは先ほど失敗したばかりだ。

とりあえず黙って様子を伺うことにした。もちろん隙を見せたら殺してやる。

だが、男はオレの怒鳴り声をまるで意に介さず、むしろオレの内心を見通すかのように続けた。

「そういう眼をした奴を、俺は何人も殺してきた。無駄に吠えて無様に死ぬ、犬の目だ。だが、もしお前が俺の訓練に耐えられたならば」

呟くようにそう言うと、男はぐっと息がかかるほどに顔を近づけた。だが、眼の焦点はオレにはあっていなかった。

オレは、反射的に殴りかろうとする腕を押さえるのに必死だった。

「お前の五体は兵器となり、魂は鋼鉄に変る。それはこの世でもっとも、価値のあるものだ」

やっと、気が付いた。この男はオレのことを見てはいない。まるで、オレを通して、他の何かを、誰かを見ているような、そんな感じなのだ。

それが、たまらなく不快だった。

「唐突に現れて好き勝手してくれるなあ、おっさん。分けのわからねえことを好き勝手にほざくのは勝手だが、オレがおとなしく従うとでも思うかよ!」

「お前が素直な生徒であることにはまったく期待をしていない。だが、生まれ持った資質がそれだけ恵まれているならば十分だ。後は、駄犬に鞭をもって体に覚えこませるだけだ。痛みと共に繰り返される反復学習は低脳な爬虫類にさえ効果がある」

その高圧的な物言いを聞いているうちに、また胃がぐらぐらと煮騰がるように怒りが沸いた。

それをおさえ込む事ができたのは、今はそれよりも聞かなくちゃならないことがあるからだ。もうどうにも我慢が出来なくなっていたので、率直に問い詰めることにした。

「母さんを、どうした!!」

男は、オレのその一言に、今までに無いほど鋭敏に反応したように見えた。不意に眼をそらし、小さな声で答えた。






「すでに、埋葬した。お前は三日三晩、眠り続けていたんだ」






その言葉を聴いたとき、また涙があふれた。

男は何も言わず、オレが泣き止むまで、ただじっと見ていた。

これが、オレと自称・殺し屋『ゴドー』との出会いだった。






…to be continued



[8641] 奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.2
Name: kururu◆67c327ea ID:e4be1639
Date: 2009/06/01 14:07
誤字修正、タイトル変更しました(090524)。







"殺し屋"ゴドーはただ一人、騒がしいスラムの界隈を何とはなしに歩いていた。

ゴドーにとって、この"何気なく道を歩くという"行為は、実は初めての経験だった。

そもそも、彼のこれまでの人生には、意味の無い行動というものは一切無かった。

軍にいた頃は特にそうだ。極めて効率的かつ効果的なアクションを常に求められていた。戦場ではそうしなければ生き残れなかった。

『ゴドー』という名も、特殊部隊に入ったときに与えられたコードネームだ。本名は入隊時に捨てさせられ、以来、ずっとゴドーと名乗ってきた。もう本名で呼ばれることに違和感を覚えるほどに、その名に慣れ親しんでいる。

ゴドーの生まれた国は共産主義思想が特権階級の傀儡に成り下がった全体主義国家だった。それ故に、諜報や暗殺など、非人道的な軍事行動を隠密裏にこなす特殊部隊、という何とも時代錯誤な存在が未だに必要とされ、まかり通っていた。

だが、馬鹿な政治屋どもが国の舵取りを間違った結果、資本主義の導入と同時に大量に発行され続けた通貨が暴落。深刻な経済危機を招き、最終的には無血革命によって倒れるという皮肉な結末を迎える。

軍は解体され、もともと非合法な存在であったゴドーの部隊は、新政府の手による裁判にかけられる前に、部隊の全員が国を脱出した。

その後は、紆余曲折を経て、部下達も一人、また一人と去っていき、気が付けばゴドーはただ一人、マフィアの用心棒に納まっていた。

ゴドーという男の履歴書をコンパクトに纏めれば、おおよそこうなる。

そして、今、ゴドーは最後の雇い主にも暇を告げ、正真正銘の一人になった。

マフィアという組織は、そう簡単に組織からの離脱を許さない。それがゴドーに許されたは、彼に時間が無かったからだ。






「ぐ、うっっ・・・」

唐突に歩みを止め、苦しげに胸を押さえるゴドー。しかし、周りの通行人は極力視界に収めぬように通り過ぎていくのみ。物事を見ないことがこの街の住人の特技なのだと、ゴドーには分かっていた。

あまり一般的な病ではないらしい。医者から病名と余命を告げられた時、ゴドーはそんな名前の病気があることを初めて耳にした。

すでにその病名も忘れたが、重要なのはこの病気には特効薬が存在せず、治療法も存在しないということだった。徐々に心臓が弱り、ある日突然に停止するという。

息を整えてから、再び歩き出す。

後悔は無い。

死への恐怖も無い。

事実を告げられてよりゴドーが考えたのは、病によって生じた、人生で初となる暇な時間というものをどう過ごしたものか、ということだけだった。

働きに働いて仕事中毒になり、定年後に時間をもてあますサラリーマン、それに近い。

会いたい家族もおらず、国に帰ったとて収容所生活が待っているだけ。友人もおらず、かつての部下達の所在もわからない。

もとよりあらゆる物事を必要最低限かつ合理的に行う男である。さて、残った時間をどう使ってよいものやら、思いつきさえしなかった。

だが、ゴドーには時間を無駄にすごすという思考もまた無い。自らの死に感慨は無いが、さりとてそれまでの時間はなるべく有意義に使いたいとは思っていた。






無言、無表情のままで、それでも長年の付き合いからゴドーが途方にくれていることを察したのか、ゴドーの雇い主だった女はこう言った。




『ねえ、もし暇ならさ、後継者を探してよ』


『君の戦闘技能、戦闘思考、培ったロジック、経験則、君のすべてを受け継ぐ者を。ゴドーのように考え、ゴドーのように行動できるものを育てあげたら、どうかな。君の時間が止まる前に』


『西に行くといい。占いには、そうある。例の女の占いだ。これはその通りに動けば100%的中する、極めて信頼性の高い情報だ』




ゴドーは、とくに異論もなく、その命令を受諾した。そして、この街に来た。

空は晴れている。大気は乾いている。周囲には人があふれ、誰もが自分のことに夢中でゴドーには関心が無く、ゴドーも彼らに関心が無い。





ゴドーは歩いている。歩みに迷いはなく、だが、探し物はまだ見つからない。

やがて、寂れた路地を曲がった。

ゴドーの歩みに戸惑いは無く、地図もあり、地形も十分頭に入っていた。

それ故に、その路地の先が行き止まりであることも分かっていた。

すぐに路地は三方を壁に囲まれた行き止まりになり、ゴドーは歩みを止めた。




と、同時に背後から突進してきた男の一撃を、当然のように避けた。

ゆるりと、流れるような動作で、相手の伸びきった右腕をつかむと、マッチを折るように逆折に曲げた。

襲撃者の腕からナイフが転げ落ち、地べたに倒れて悶絶した男の顔面を、豆腐のように踏み潰す。その間も、周囲への警戒は怠っていない。

襲撃者は残り二人。

「あ、アニキっ!」

「野郎、病気だったんじゃ!!」

いかにも慌てふためき、ド素人のように無駄な動作を繰り返している。その結果、人数の差という利を放棄してしまった。

ゴドーを前にして数秒もの時間を与えるという決定的なミスを犯した襲撃者は、すぐに打ち倒された。

接近しての一撃で一人、振り向きざまの一撃でもう一人。

絶妙な力加減で一人を絶命させ、もう一人を生かしたまま、口のきける状態のまま捕獲する。

「何が、目的で俺を襲った?」

首筋の辺りをつかんで持ち上げ、生き残った男に継続的な苦痛を与えつつ、声を出せるように配慮する。一見して素人同然のチンピラにはこれで十分だった。

「は、放せっ!放しやがれ傷野郎!いいか、俺たちゃっ・・・!」

「・・・いや、やはり話さなくてもいい」

グシャッ

ゴドーは男の口上を最後まで聞かずに、その頭を握りつぶした。

つい、習慣で目的を問うてしまったが、すでにゴドーは組織を離れた身だ。組織に対しての義理も、義務もなく、単に自分の身を守れればそれでいい。しかも、相手はいかにもチンピラで、背後を警戒すべきほどの相手でもない。

おおかた、以前ゴドーがつぶした組織の生き残りだろう、と見当をつけてゴドーは襲撃者に対して興味を失った。

対象の無力化を確認すると、ゴドーは再び周囲に気を配った。

殺人をなんとも思わず、その直後に自然な思考の帰結として、さらに周囲に気を配ることが出来る。

ゴドーという男の強さはここにあった。無意識レベルで行使される戦闘哲学。もはや、それは習性に近い。

三つの死体をそのままにして、路地を歩き出す。去り行くゴドーの背後で、町の住民が死体から金品を奪うように群がっていた。明日には金歯までむしりとられて捨てられているだろう。






ふと、そこで奇妙なものが目に入った。

ゴドーが殺人をした、その場所からちょうど真向かいにある古いアパートメント。

その2階の窓から、子供が一人、ベランダの手すりにしがみついて、深呼吸を繰り返していた。

殺人現場を見られたかもしれない。まず、ゴドーはその結論に至って、目撃者を排除すべく行動を開始しようとして、我に返った。

やはり殺し屋時代の習慣が抜けていないのだろう。この町で殺人の証拠を消す意味はないのだ。わざわざ隠さなくても、町中に死体は転がっているし、ありふれた町なのだ、ここは。

それに、子供は殺人現場を見ても悲鳴を上げるでもなく、恐怖におののくでもなく、いたって無機的にこちらを眺めていた。

そこでゴドーは、改めて興味を持って子供を観察することにした。

子供は、ここいらでは珍しい、金髪碧眼の白色人種の子供。年齢は、おそらく12、3才といったところだろう。多少目鼻立ちが整っていることを除けば、一見して、ごく普通の子供に見えた。

すぐに子供は視線をそらし、ふいっと部屋の中に消えてしまった。だが、ゴドーはそのわずかな時間で、子供の異常性を認識した。

ゴドーは子供のいた安宿の入り口を乱暴に開き、ドアのそばでポカンと口をあけている中年の男――――おそらくはこの店の亭主だろう、に一瞥を投げかけると、無言で階段を上がった。

そして階段を上がってすぐの小さなドア。ゴドーの経験と訓練に裏打ちされた方向感覚は、先ほどの子供がこの部屋の窓から見ていたことを告げていた。

なにより、まるで大型の猛獣の檻に立っているかのような奇妙な戦慄がゴドーの背筋を這っていた。

ゴドーは懐の武器に手をかけながら、突入の鉄則に従って、ドアの脇に身を潜めた。

わずかにのぞく隙間から、ドアに鍵がかかっていないことが分かる。内部から聞こえる息遣いも弱弱しいもので、ゴドーは懐から取り出しかけていたスタングレネードをしまいなおした。脅威度は低いと判断したのだ。

ドアは軽く軋んで、あっけなく開いた。部屋の中に一歩を踏み出す。






室内は、地獄絵図だった。床を浸す血液、飛び散った臓物と筋肉。

濃密な血液臭と性臭に混じって、はっきりとかぎ取れるほどに濃い麻薬臭。おそらくは、コカイン。それと女と、おそらくは成人男性一体分の肉塊。それだけで、ゴドーは何が起こったのか、おおかたを察した。

子供は、女の死体の側に身を横たえていた。胸が上下し、呼吸も荒いが、生きている。間違いない、先ほどの子供だ。

身を包むオーラは赤く脈打つように輝き、絶えず流動していて、凝を使わずとも感じ取れるほどに巨大だ。だが、限度を超えてオーラを垂れ流してしまったのだろう。オーラがつきかけて、死に掛けている。間違いない、念に目覚めたが、纏を使うことができないでいるのだ。

あまりに未熟で荒削りだが、原石としては申し分ない。

ゴドーは我知らず、興奮を覚えていた。あまりに興味をひきつけられていたので、捨て去ったはずの何かに執着し、興奮するという感情が自分に残っていたのだということに気がつくことすらなかった。

ゴドーの心は決まった。

「運のいい餓鬼だ。無理やり精孔を開いて、生き残れるものはそう多くない」

片手を餓鬼の腹部に当て、自身のオーラで少女を包み込み、周を行う。これで、少女のオーラが外部に漏れ出すことはない。

だが、所詮は応急処置だ。いつまでもこのままでい続けるわけにもいかない。

ゴドーがどうするか思案しながら周を続けていると、子供のオーラは自然と沈静化し、弱弱しくもゆったりとした纏を形成した。

いつのまにか子供は手足を丸め、胎児のような姿勢をとっていた。呼吸もゆっくりと静かになっている。体中から吹き出ていた汗も止まっていた。

ゴドーの背筋に、今度こそ冷たい汗が伝った。

「ありえない・・・・・・・まさか、これだけで?纏を習得した、いや、それとも本能のなせる技か」

思わず独り言が口をついて出ていた。それほど、ゴドーは興奮していたのだった。

知らず知らずのうちに、ゴドーは口元に微笑を浮かべていた。








奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.2








不愉快に過ぎる最初の出会いの後、ゴドーはおもむろに懐から拳銃を取り出し、黙ってオレに差し出した。どうやら自殺願望があるらしい。

「お前が、腐れジャンキーに喰らわせたのより、威力はデカイ」

確かにその銃は、黒くツヤがなく、強力な威力を想像させた。

ひったくるように奪うと、銃は手のひらにズシリとした感触が伝わった。

気のせいか、オレにはそれがまるで発泡スチロールで出来ているかのように軽く感じられる。しかし、鋼鉄でできた無骨なギミックは、本物の凶器の確かさを伝えている。いつだったか、露助の密売人からン万円で仕入れたのよりも重厚で凶悪そうだった。

オレはチロリと舌なめずりすると、クソむかつくツラに狙いを定め、引き金を絞った。もちろん安全装置を外し忘れるなどという、お約束の轍は踏まない。

ドン!

打った瞬間、轟音が鳴り響き、耳の奥がキーンと鳴った。強烈な反動に体が揺れたが、枯れ木のようなオレの腕は、見事に衝撃を押さえ込んだ。だが、残念なことに、弾丸は目標を大きくそれてしまった。

続けて引き金を引く。

ドン!

相変わらず鼓膜が破れそうな轟音だ。今度はふんばったので、弾はギリギリ右脇腹に命中した。

ゴドーは独活の大木のようにでかいし、オレは割と小さい。だから顔をねらうと反動で銃口が下に下がるか、上に跳ね上がる。どうやら胴をねらった方が命中しやすいようだ。

気をよくしたオレは、野郎の土手っ腹を穴ぼこだらけにしてやるべく、連続して引き金を引いた。

ドン!ドン!ドン!ドン!

クケケケケケ、ざまあねえ。これでこの野郎も・・・・・ん?


( ゚д゚)


(つд⊂)ゴシゴシ


(;゚д゚)


(つд⊂)ゴシゴシ

 _, ._
(;゚ Д゚) !?


「・・射程1mで6発中、命中3では先が思いやられる」

パンパンと、ゴドーは服についた埃を払った。

服にはよじれたような弾痕が3つあいていたが、それだけだった。破けた服の裂け目から除く肌には、青痣すらついてねえ。

もしかして野郎は未来から来た殺人兵器だったりするのだろうか。やばい、説得力がありすぎる。

「たいしたことは無い。素人は狙いが素直だから、銃口の角度から弾道は推測できる。後は弾着場所を"硬"でガードすれば、この程度の衝撃を受け止めるのは存外難しくないものだ」

ゴドーはこともなげにそういった。

"コウ"だか何だか知らないが、オレの期待を見事に裏切り、胸に鉄板を仕込んでいたとか、分かりやすい種明かしは無いようだ。

なおもアホの子の様に呆然とゴドーの破れたジャケットを見続けてるいたいけな幼女(オレ)。

それを見てゴドーは、これまでに無く不機嫌そうに舌打ちをした。

「いいかげん、自分もおかしいと気付け。大口径の銃をそんな姿勢で撃って、無事で済むような餓鬼がいてたまるか」

ゴドーは吐き捨てるようにそう言うと、オレの手から銃を奪った。

「こいつは454カスールをフルで撃つことのできる現在唯一の軍用銃だ。装弾数6発、総重量約3キロ。こいつの反動は殺人的だ。素人が下手に撃てば肩が外れるどころか、確実に骨折する。普通ならな」

オレに見せ付けるように、銃床から空の弾装を抜き取ると、再び懐にしまった。

「ぶっちゃけるとな、貴様は、そしてオレも、"念能力"という特殊な能力の使い手だ。オーラと呼ばれる生命エネルギーを自在に操り、脆い人体を強化して銃弾をはじいたり、強力な銃器の反動を苦もなく押さえ込んだり、そういった力を獲得した、まあ選ばれた人間ってやつだ」

最後の部分を口に出した時、なぜかゴドーの顔はひどく苦りきっていて、不愉快そうだった。

しかし、それにしても"念"。何だろう、どこかですごく聞き覚えがあるような、ないような・・・・・だめだ、思い出せない。

まだ先ほどの驚愕が抜けきっていないようで、おつむの動きがひどくゆるい。

「特に、お前は無意識のうちに念を覚醒させたタイプだ。ひどく希だが、たまにいるんだ。そういう手合いは、意識的に念を習得した奴より、強力な能力を発現させる場合が多い。オレが気まぐれに貴様を拾ったのも、まあ、それが理由だ」

そう言って皮肉げに頬を歪ませた。

・・・どうでもいいがこの男、こういう何気なく人を不快にさせる顔が非常に似合う。

「安心するがいい。俺はスペシャリストだ。どれほど無能な新兵も、心を失くした殺戮マシーンに仕立て上げてみせる」

無表情なツラが、心なしか嗜虐的な笑みを見せたような気がした。残念なことに、それはオレの勘違いではなかったと、二日目には嫌というほど思い知ることになる。


















「起きろ」

ゴドーのドスのきいた声が、俺の目を完璧に覚まさせた。

日が昇る前に叩き起こされ、缶詰と乾パン、水だけの食事。しかも、5分以内に食うことを強要され、顔を洗うまもなく訓練が始まった。

この体になってから、オレは朝がつらい。だが、ボサボサしていると、また何をされるか分からない(初日、すやすや寝ていた俺を、ゴドーは例によって水風呂に叩き落した)。

ぼぅっとした頭で、なんとか身支度を整えると、よたよたと外に出た。

ゴドーに連れてこられたアパートメントは、崩れかけた日干し煉瓦の集合住宅だった。

建物は相当古いらしく、いたるところで壁が砂状に崩れかけていて、俺たちの他に住人の姿は見えない。その、程よく荒れ果てた中庭が、即席の訓練場だった。

そこでまず教えられたのは、ナイフの扱い方だった。

「こういうのは口で教えても身に付かん。見て真似ろ。俺もそうだった」

渡されたのは、大振りで肉厚のナイフ。刀身はオレの腕よりも長く、ズシリとした感触が頼もしい。幅広の刃は見るからに凶悪なラインを描いていて、全体が「く」の字型に歪曲しており、ナイフというより鉈に近い形状であった。

「ん」

オレは内心でゴドーのうかつさをせせら笑い、しかし、いかにも可愛らしい子供の笑みで、素直に武器を受け取った。

そして、何気ない仕草でナイフを観察するふりをしながら、さりげなく両手で構えると、気合いを込めて突撃した。

「往生せェや!!!!」

タンクトップから覗いた腹、十字に割れた腹筋へ、ためらいなくナイフの切っ先を繰り出す。

だがしかし、

ばっちん!!

繰り出された張り手が、顔面に炸裂した。

そのままグローブみたいな掌が顔面に吸い付き、ぐわしっと頭を摘み上げられると、オレの脚は宙に浮いた。

「武器を、持った、とたんに、俺を、殺そうと、するとは、いい度胸だ、が」

一言一言、噛み締めるようにつぶやく言葉にはまったく感情がこもっていない。だが、額の青筋はビキビキと別の生き物のように蠢いている。ついでにオレの頭蓋骨もメキメキと軋んだ。

「わざわざ叫びながら、攻撃のタイミングを教える馬鹿がいるか」

まるで街のチンピラだ、とゴドーは吐き捨てた。つか、怒るポイントはそこかよ。

ゴドーは、脳みそに直接言い聞かせるように、俺の頭蓋骨を万力のように締め上げると、最後に思い切りシェイクさせてから、やっと開放した。ちなみに、如実に表情に表れていたはずのオレの内なる声(超がんぎまりのメンチ)は完全にスルーされた。

「いいか、いずれCQBも嫌というほど叩き込んでやるが、まず覚えるべきはナイフを使ったサバイバルだ。火起こし、穴掘り、ロープの切断、機材の加工から簡易調理まで、野戦ではこれ一本で大抵のことができる。武器としての使用は、二次的なものだ。まずは、こいつを使って、一人で生き延びられるようになれ」

つまり、楽しいキャンプのやり方を教えてくださるらしい。嬉しくて涙がとまらねえ。

「おい、おっさん。ボーイスカウトの引率がしたけりゃ、他所をあたり・・」

ばちん!

例によって例のごとく、オレが最後まで言い切る前に、分厚い張り手が炸裂した。

「それだけの口が叩けるなら、いいだろう、基礎訓練と平行して野戦の基本を"実戦形式"で躾けてやる」

・・・やべえ、地雷踏んだかも。

この後、えんえんと3時間もナイフを使い方を教え込まれ、失敗するたびに例の殺人張り手を食らわされた。






何度も往復されるビンタによって、遠のく意識の片隅で、オレは今更ながら自分の将来に不安を覚えた。

二日目は、こうして過ぎていった。
 






…to be continued



[8641] 奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.3
Name: kururu◆67c327ea ID:51af5503
Date: 2009/06/01 14:07
誤字修正、タイトル変更しました(090524)。








その日、まず、ゴドーはどこからともなく新鮮な死体を取り出した。

一見してどこにでもいそうな若い男。だらんと弛緩した手足と、紫色の唇から漏れ出した血液が無ければ死体だとは分からないほどだ。まだ顔色も良く、肌にもつやがあった。

「昨夜遅くに忍び込んできた。衣類と所持品から察するに、おそらく単なる物取りの類だろう。ここいらでは、別に珍しくも無い。ちょうどいいので、こいつを教材に使う」

ゴドーはおもむろに、死体の胸をナイフで一突きにした。そして引き抜くと、傷跡をオレに良く見えるように広げて見せた。

「このように、人体はひどく脆い。ナイフや鋭角な突起物、もしくは鈍器や素手の一撃でも容易に破壊できる。例え念で強化しても、所詮は生身の肉体だ。強化系で補強できる強度にも限界がある」

本当にそうだろうか? すくなくとも、目の前には大口径の銃器でも傷ひとつつけられなかったバケモノがいる。

「人体を外傷によって死に至らしめる場合、急所は三つに大別される。一つは、心臓や血管組織等の循環器だ。人体は3割の血液を失うと呼吸困難で死に至る。特に動脈部を傷つけられた場合には、筋肉の収縮や心臓からの圧力で、血液は非常に勢い良くあふれ出すので、まず助からない。適切な知識が無ければ止血も困難な上に、一度に大量の血液が排出された場合には、ショック死することもある」

次に、おもむろに懐から銃を取り出すと、頭部に向けて発泡した。死体の頭部に丸い穴が開き、ピンク色の脳漿がとろとろと滴ってきた。

「確実を決するならば、脳組織を損傷せしめることが極めて有効だ。脳へのダメージは、かすり傷でさえ致命傷となる。また、脳は強固な頭蓋骨に守られているが、頭部への打撃は脳震盪を引き起こし、致命傷とならずとも対象の戦闘能力を奪うことができる」

ゴドーは再びナイフを取り出すと、死体の腹を捌いた。

適切に刃を肉にめり込ませ、骨を断ち割り、皮を剥ぎ、たちまちのうちに取り出した臓物をオレの前に並べて見せた。まるで肉屋の軒先にでも並べられているような新鮮な肉塊の山。手馴れていた。

ちなみに、そろそろオレも限界だった。

「最後に、臓器への損傷も致命傷となることを覚えておけ。これらの臓器は構造も複雑で、傷を負っても自然治癒は困難だ。専門医の治療が無ければ、多少時間はかかっても確実に死にいたる。このように人体は弱点であふれている」

ここまでで何か質問は、といたってまじめな顔で問いかけたゴドーを尻目に、オレの意識はそこで途切れた。






えろえろえろえろえろ

ついさっき食ったばかりの朝飯をすべて吐き戻す、オレ。食道が胃酸で焼けるように熱い。しばらくはまともにものが食えそうになかった。

「まあ、新兵にはお約束の儀式のようなものだ。すぐに慣れる」

慣れたくねえ!!







奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.3







胃の中のものを全部吐き出すことから始まった朝。

さらに午前中から休み無く続けられたランニングに筋トレ、近接格闘訓練。すでにオレの筋肉は悲鳴を上げ続けていたが、不思議と訓練を始めた最初のころよりは格段に疲労が少ないように感じる。

まあ、それでもオレの全身は汗だく。つか、手も足も痺れてグウの音もでねえ。

だが、その上で、この変態サド野郎はいたいけな幼女(オレ)を虐待しやがる。地獄に堕ちろ。

ちなみに今、オレがどんな状態にあるかというと、椅子に目隠しをされて縛り付けられている。その状態で、タオルで包んだ棍棒で、ひたすらおつむをお馬鹿にされていたりする。

いつ頭部に殴打がくるのかわからないのがミソだ。殴られても体が緊張しないようにするための訓練、らしい。

いつどこからくるかもわからない打撃に対して、筋肉の脱力によって威力を受け流さなければならない。インパクトの瞬間に少しでも体が硬直すると、変態的な威力の張り手が顔面に炸裂するのだ。

ちくしょうめ、一度でいいから野郎の顔面をひたすらタコ殴りにしてみてえ。


パン!

「・・・っ!」

「いいかげん、わかりやすい殺意をだだ漏れにするのは愚かだと気付け」

・・ク、クケケケ、今にテメーの顔面を潰れたトマトにしてやっからナ。

バッチン!!!


・・・・・・

「すでに何度も言ったが、そんなガチガチに筋肉を緊張させていると余計にダメージを喰うぞ。もっとリラックスしろ」

ゴドーが殴打に使用しているのは鉄製の棍棒で、タオルで包んであるといっても殺傷力十分の凶器だ。しかも、打撃の威力に緩急をつけて、こちらは常に緊張感を強いられている。その状態でリラックスしろといっても無茶な相談だった。

とうか、どこの人間が目隠しされてタコ殴り状態でリラックスできるというのだ。

「目を閉じているからといって、攻撃のタイミングが掴めないというわけではないのだ。視覚以外の感覚をフルに使って、インパクトの瞬間を捉えれば、無駄に神経を使う必要もなくなる。理想は、常時、何に対しても反応出来る姿勢を維持しながら、五感のすべてで相手の攻撃を捉えることだ。流で防御しつつ、呼吸を操る事によって打撃を逃がせ」

ゴドーの拳はゆっくりと軽く当てているようにしか見えない動作で、内臓の好きな箇所に打撃を浸透させる事が出来る。それに対して身体を強張らせてしまったら、それでアウトだ。初めてゴドーの打撃を食らった日、内臓を目茶目茶にやられて、オレは三日三晩、まともに飯が食えなかった。

それを防御するには、徹底的に身体をルーズにし、打撃を逃さなければならない。これの習得は容易ではなかったが、今のオレにはなんとかできる。ただし、目が見えている状態なら。

「人間の持つ感覚の中で、もっとも情報の処理量が多く、頼ってしまいがちになるのが視覚だ。そのため、目が錯覚を起こすと人間は容易に判断を誤る。他の器官が野生動物に比べて著しく退化しているのも、それだけ人間が目に頼り切っているためだ」

ちなみにこの訓練をするときは、飯はなし。怒りと空腹がオレの感覚を異様に研ぎ澄ませていた。

目隠しによって視界を閉じられ、光が無く何も目で捉える事ができない。ゴドーの言ったとおり、他の感覚とやらを研ぎ澄ますべく、目隠しの裏でさらに瞼にギュッと力を入れて閉じたが、光がまったく無い状態では、本当に閉じているのかどうかも疑わしくなってくる。

「貴様は若く、飲み込みが早い。ここ数ヶ月の訓練を乗り越えて、すでに貴様の五感はそれ以前とは比べ物にならないほど鋭敏に鍛えられている。コツさえつかめば、そう難しくはないはずだ」

視覚を奪われた事で鋭敏になった耳に、ゴドーの鋭く、感情のこもらない言葉が突き刺さる。

と、同時に衝撃が走った。


パムッ


腹部に走る衝撃の重みは変わらない。だが、いかにも間の抜けた軽い音が、変化を物語っていた。

「・・・・まだ力みが抜けきっていない。が、だんだんモノになってきたな。その感覚を忘れず繰り返せば、いずれお前の五感は防衛本能を駆逐し、あらゆる攻撃を無効化する。続けるぞ」

あいよ、クソ野郎。









ゴドーに拾われてから約半年、オレは地獄のような訓練になんとか耐えて抜いていた(ちなみに地獄のようなというのは単なる比喩ではない)。

最初は、とにかくひたすら体力強化のトレーニングをやらされた。

毎日繰り返される走りこみと筋トレ、さらに障害物コースを走り、重い荷物を持たされたまま長距離を歩かされ、格闘訓練ではボコボコにされながら扱かれた。

そして、銃の取り扱い、応急手当、山岳踏破に野戦演習などなど。どの課題でも、ゴドーはひとつのミスも見逃さない。

訓練以外の時間も、気を抜くことはできない。常に機敏に動いていなければ、例の革鞭のような張り手が何発も飛んでくる。無表情、無愛想な面で、ビシバシと指示を飛ばし、精根尽き果てるまでとにかく動かされた。

次々と与えられ、規則正しく消化される訓練は、オレに疑問を感じさせる余裕すら与えなかった。

ゴドーの満足のいく結果を示す事ができなければ、追加の課題が加えられ、容赦なく例の殺人張り手が繰り出される。それを回避する為には、真剣にならざるをえず、余計な事を考えている暇なぞ無かったのだ。

無理やり誘拐されてきて、やっている事も強制されているだけなのだが、いつのまにかそんな事がどうでもよくなっていた。日々、いかに生き、要求される課題をクリアーし、自分の身の置き場を確保するかが、最大の関心事になった。それは、すなわちゴドーとの火花を散らすような戦いの日々に他ならなかった。


何より、そうして何かに打ち込んでいれば、母さんの死から意識をそらすことができた。


いつしかオレは、ゴドーの指示を注意深くきいていた。それを頭の中で整理し、どうやって課題をクリアーするかを考えるようになっていた。

ゴドーの課題は、時にはむちゃくちゃのように思えたが、やってみると案外どうにかなってしまうもので、オレはそれが可能かどうかについては、いつしか疑問を覚えなくなっていた。ゴドーがやれ、といったということは、オレにはそれができるということなのだ。

問題は、いかにそれを行うかだ。

それは、ゴドーの言葉の端々から読み取るしか無かった。この岩顔面は、いちいち懇切丁寧に教えてくれるようなかわいげのある男ではない。最初に宣言したとおり、時には体罰をもって、繰り返し繰り返し苦痛とともに刷り込まれることで、オレはいつしかゴドーの教えることのほとんどを覚えていった。





ちなみに、訓練を黙々と消化するそのうちに、オレの体にも変化が現れていた。

全身に均等に筋肉が蓄えられ、無駄な脂肪が削られていた。増大した筋肉を支えるために骨が伸び、手足と背丈が急激に伸びだした。ちなみに訓練開始前のオレの身長は約120cm、それが半年で40cm近く伸びている(身長、体重、体脂肪率などの数字はゴドーに定期的に計らせられていた)。

ゴドーに言わせると、適切な訓練(文字通りの地獄だ、アレは)と十分な栄養補給(塩辛いだけでまずい、量だけは豊富な犬の餌)のおかげで、慢性的な栄養失調状態にあったオレの体が、本来の成長力を取り戻したのだという。おまけに、念能力の発露も、肉体を活性化させ、急激な成長を助長しているのだそうだ。

初日に無理やり着替えさせられた、やたらと頑丈なだけで最低の衣服(迷彩柄の運動着で、後に本物の野戦服だとわかった)はすでにぼろぼろに擦り切れていて、手足の先が丸見えだった。それも、最初はぶかぶかですそを引きずっていたのが、今ではぱっつんぱっつんで、足も、腕も、ヘソまで丸出しだ。

ついでに白状すると、つい最近、生理もやってきた。

ある日の朝、股間に違和感を感じて起床時間の1時間も前に目が覚めた。

下腹部にしびれるような鈍痛と、軽い吐き気、全身を覆う疲労感と倦怠感。低血圧気味の頭を起動させ、これは腹でも下したかと思って下着をめくると、股間に薄赤い水のようなものがテロテロと流れ出してきていた。下着を薄ピンク色に染めていた半透明の液体が、経血だと気づくのにはだいぶ時間がかかった。

ああ、これが生理なのだとやっと気づいた。

何故だか、昔の女が生理通の度に薬を変えていたのを唐突に思い出した。そいつは、特に吐き気がどうにも止まらない状態で、低用量ピルやら漢方薬やら色々手を出していた。それでも生理の間は無性にイライラしていて、ちょっとしたことでも喧嘩になって、お互いに生傷が絶えなかった。結局、喧嘩別れしたのだが、今なら彼女の気持ちがわかる。

と、そこまで考えをめぐらせたとき、オレはこのことをゴドーの野郎に知られたら、と思い至り、何故だか死ぬほど恥ずかしくなった。

オレは無理して訓練を続けるつもりだったのだが、ゴドーはあっさりと不調の原因を見破った。そして、意外なことに、すぐに生理用品を用意した。少し前から、そろそろオレにもきそうだと思っていたらしい。

理由を聞くと、昔、生理中の女兵士がそんな臭いをさせていたから、らしい。思わず自分の臭いをかいで見たが、汗臭いだけでいつもと変わらないように感じられる。こいつは本当に変態なのかとオレは疑ったね。



やがて、オレがすべての課題を息を切らさずにできるようになったころ、訓練の様子が様変わりしてきた。

具体的には午後のトレーニングが座学に変わり、午前中とは一転して、実用的な様々な知識を教え込まれることになった。

講義の内容は多岐にわたった。簡易な語学から、通信機の操作、各種銃器の整備方法、爆薬の取り扱い方法、自動車の運転(これには実地も含んだ)、毒物や薬物の種類と効果及びその見分け方まで、日用化学品から爆発物を製作することまでやらされた。ゴドーの授業は意外にも要点を抑えていてわかりやすく、実用的なスキルとしてオレの身に染みていった。




さらに、もっとも重要な訓練が加わった。

もちろん、念能力の修行だ。




念の修行を開始した初日、ゴドーがまず行ったことは、俺に念の威力を見せ付けることだった。

その日、ゴドーは唐突に念の修行を始めると言い、町外れの荒野に連れてきた。このあたりは、少し郊外に出ると何もない荒野なのだ。いくつもの岩と礫が積み重なり、植物もほとんど生えていない。

とりわけ、岩の積み重なったあたりに来ると、ゴドーは語りだした。

「以前、一度だけ話したことがあったが、肉体の精孔という部分からあふれ出る、オーラとよばれる生命エネルギーを自在に操る能力、これを念という。念はオーラの性質によって6系統に分類され、能力者は基本的にそれに沿ったさまざまな特殊な能力を発露させる。念は極めて複雑で、奥が深い」

これまで一度として触れられることのなかった、念能力についての初めての訓練。オレは好奇心を刺激され、ゴドーの言葉を一字一句を聞き逃すまいと、真剣に聞き入っていた。

だが一方で、またか、とも思った。

この男、普段は訓練中でもめったに口を開かないくせに、一度話し出すと時々止まらなくなる。特にゴドー自身の得手とする戦闘技能について語りだすともう止まらない。小一時間はやたらと専門的なテクニカルタームをきかされ続ける羽目になる。

しかも、うかつにゴドーの話をさえぎると、恐ろしく機嫌を損ねる。唐突に近接格闘訓練をやると言い出して、これでもかというほどボコボコにされる。

オレはゴドーに悟られぬように、あくびが出るのをかみ殺した。

「だが、こと念能力を用いた戦闘では、基本的には、オーラの総量と、それを無駄なく効果的に運用する技術の差が、彼我の優劣を決定する。そして、健全な肉体、生命力にあふれた肉体ほど、より多くのオーラを生み出せる。俺が、まず貴様に肉体訓練を続けさせたのも、まずは体作りを優先させるためだ。貴様は今が成長期だからな。無理に念の技術を覚えるよりも、肉体の下地を整えるほうが、効果的だった」

そこまで話すと、ゴドーはおもむろに後ろに控えていた大岩に向き直った。大きさはゴドーの背丈の倍ほどで、厚みはさらにその数倍はあっただろう。

ところが、


「これが、念だ」

目の前にはパンチ一発で粉々になった大岩。

オレは心底びびっていた。すこし、ちびった。

「見ての通り、ただのパンチだ。こぶしに火薬や合金を仕込んではいない。つまりは、これが、念能力の恐ろしさだ」

オレは、呆然とゴドーの拳と、破壊痕を見比べ、その言葉に何度も頷いていた。

「念は素手で大破壊を生み出し、武器の携帯を不要とする。オーラを弾丸のように放出して相手を撃ち殺せば、銃弾は残らず、硝煙反応も生じない。さらに、念能力の中には相手を自在に操ってしまうものまで存在する。念を使って相手を自殺させれば、他殺であることを立証することは不可能だ。それこそ、証拠は何も残らない」

そこで、ゴドーはいったん言葉を区切ると、じっと俺の目を覗き込み、続く言葉を一語一語、念を押すように語った。

「わかるか、念能力を使った殺人は、殺人を立証することが極めて難しい。そもそも、現行のいかなる法も、念能力の存在など想定していない。念の存在を公に認めてしまえば、念能力そのものをいたずらに普及させるリスクあるからな。ゆえに、念を使えるものは、絶大なアドバンテージを持つのだ。そして、逆に標的が能力者だった場合、難易度は恐ろしく跳ね上がる」

そりゃそうだろう。生身で銃弾をはじき返すような非常識なやつらに対して、普通の殺人技術が通じるとは思えない。

ナイフの一撃を胸に滑り込ませる、銃器で狙撃する、爆破する、自動車事故や転落事故など不慮の事故に見せかける、もしくは素手で直接殺害あるいは捕獲する。どれも普通の人間を相手にした場合を想定した技術だ。

頭の悪いオレにだってそのくらいはわかる。

「強力な念能力者ほど、己の念に絶対の自信を持ちつつ、敵の能力を警戒し、油断をしない。野生の獣並みの身体能力と、人の狡猾さを兼ね備え、しかも予測不能の特殊能力を有するこの世でもっとも強力なバケモノだ。まともに相対すれば、リスクが大きすぎる。だが、念能力者も所詮は人間だ。念を持たないものでも能力者を打ち倒すことは不可能ではない」

そう言い切るゴドーの言葉には、いつしか熱がこもっていた。

怒声を発するときですら、ほとんど表情を崩さない男が、今は瞳に憎悪をみなぎらせ、感情をあらわに早口に喋っていた。

「卓越した能力者でも、威力の高い銃器や爆薬の直撃を喰らわせれば、高確率で殺傷できる。また、毒物や致死性のガス、あるいは火炎放射器や電撃トラップなどによる攻撃も極めて有効だ。どれも念では防ぎづらい。例え相手が最強の念能力者であったとしても、殺す術などいくらでもある。わかるか、こと戦闘に使用する限り、念も武器の一つに過ぎない!身心を兵器として鍛えた肉体に宿る、スキルのひとつでしかないのだっ!」

ハアハア、と肩で息をするゴドー。

しばし、沈黙が流れる。

ゴドーが息を整える間、オレは呆然と見守るしかなかった。

やがて、ゴドーは先ほどとは打って変わって、沈鬱な口調で語りだした。

「・・・・・俺自身は、どちらかというと、念に拠らぬ技術を得手としている。だから、オレが貴様に伝えてやれる技術も、結局はそれに尽きる。白状をすれば、念能力者としてのオレの技量など、たいしたものではないのだ。オレは、念というものの存在を知るのが、遅すぎた」

それだけを言うと、またゴドーは口を閉ざした。

じっと、吹き出た汗が足元に垂れてしみを作るくらいの時間がたったころ、ゴドーはためらうように、そこから先を口にした。

「理想を言えば、念による戦闘と、念に拠らぬ殺人技術、どちらのやり方にも精通する必要がある。やり方を覚えれば、逆に敵から身を守るやり方も自然と身に付くからな」

不意に、ゴドーの顔の半分が、疲れ切った老人のものになった。半分の顔の眼窩は落ち窪み、皮膚のしわがぎらつく太陽の下で濃い陰影を生み出した。

だが、もう半分には、いつもどおり、感情のない黒い瞳。

深すぎる井戸のような奈落が、オレを見通していた。

まるで、しゃべり過ぎた自分を恥じるかのように、ゴドーは口を閉じて何も語らず、ただじっとオレを見つめ続けていた。

「・・・・・話がそれた。今は、確実に念を習得しろ。言いたいことは、それだけだ」

そういうと、ゴドーは今度こそ口を閉ざした。





考えてみれば、このゴドーというのも奇妙な男だ。

なにせ、自称・殺し屋。一度だけマフィアの殺し屋をしていたということを聞いたことがあった。そのときは内心笑い飛ばしていたが、今ではそれを信じられる。

恐ろしく強く、人を殺傷することに関して比類ない技能を持ち、念能力という力まで使いこなす。この男について知っていることといえば、それだけだ。ただ、その雰囲気から、おそらく軍隊にいたことがあるのだろうと、オレはぼんやりと想像していた。

訓練に関しては鬼みたいに厳しく、それ以外の時間ではむっつりと何もしゃべらない、重苦しい空気を常にまとった男。(もっとも、半分は常に敵意剥き出しでつっかかるオレのせいかもしれないが)。

結局のところ、オレはゴドーについて何も知らないのだと、その時、初めて思い至った。





「・・・・・・・今日は、ここまでとする」

不意に、ゴドーは訓練の終了を告げた。

オレには、ゴドーの声が疲れきっているように聞こえた。

ちょうど、荒野の向こうに消え行く直前の太陽が、背を向け、歩み去るゴドーの背中を真っ黒く染め上げていた。

それを見て、心が冷え切った。

少し前から、思い出すかのように全てに対して諦観した自分が出てくる。こちらに来てから、いや、母さんが死んだ辺りから、疼き出した悪癖だ。

ふと思うのだ。何もかもが、実は都合の良い夢ではないか。本当のオレは、コンクリートに包まれて、暗く冷たい海の中で死にかけているのではないか、と。

ぼんやりとそんなことを考えながら、オレは暮れ行く太陽を見送った。











ドサリ

ゴドーは部屋の中にたどり着いた瞬間、膝をついてその場に倒れ付した。

「ぐ、はあっ」

不規則な鼓動を繰り返す心臓を押さえ、荒い呼吸を繰り返す。

だんだん、体が言うことをきかなくなってきている。

この半年、徐々に四肢に鈍痛が走り、身体機能も低下していた。

特に、ここ最近の衰弱はひどい。訓練中、椅子に座って指示を出すだけという時間も増えた。今日も、ほんの少しの念の行使で、ひどく疲労してしまっていた。

長くはないかも知れん、とそう考えて、背筋が冷えた。

自分の命が残りわずかなことぐらい、わかり切っていたことだ。死の覚悟は戦場にいた頃、かつての日々に済ませている。その後の時間は、所詮、余分な日々でしかないはずだった。

だが、今は違う。

奴にすべてを教えきらずに逝くのは嫌だった。時間が足りない、それだけがゴドーを焦らせる。

と、

PiPiPiPiPiPiPiPi!

持ち主の性格を反映した、飾り気のないデフォルトの電子音が鳴り響いた。

ゴドーはいかにも億劫なしぐさで、上着のポケットから、無骨な携帯を取り出した。それだけの動作が、これほど難しく感じたことはなかった。

相手の番号に心当たりはなかったが、ゴドーは着信ボタンを押した。

そのとたん、相手はいきなり話し出した。

『やあ、ゴドー君、お久しぶり♪ご機嫌いかがかな』

幼い声、それに反した不愉快な口調。

ゴドーの知り合いで、そんな相手はただ一人しかいなかった。かつての雇い主だ。

『そろそろ限界に近いんじゃあないかと思ってね。近況報告など聞きたくて、お電話しました♪』

『別に、このままいけば、もってあと数ヶ月、そんなところでしょう。あなたの元を離れる前に報告したとおりです。別に変わりはありません』

ゴドーの声はすでに平静そのもの。身をさいなむ苦痛も、完璧に押さえ込んでいる。

『ふふん♪相も変らぬ愛想のなさ、いつもどおりでまことに重畳。まあ、君の命はぶっちゃけ、どうでもいいとして、どうだい噂の彼女の仕上がりは』

相も変らぬ、耳の早さだった。昔から、この相手には隠し事が成功した試しがない。

『今日から、本格的な念の訓練に入ります。それ以外の技術については、あらかた仕込み終わっています』

『なるほど、なるほど、君らしからぬ時間のかけ方だ。親切、丁寧、コツコツと。いいねえ、だいぶご執心のようじゃないか。こっちも彼女に会うのが楽しみでならないよ。ってか君、ロリコンだったんだねえ、僕には指一本触れなかったくせにサwww  まあ、それはさておき』

ここで、電話の主の声に、ギラリと鋭いものが混じった。

『少しばかり忠告をするとね、急いだほうがいいかもしれないよ。君の抜けた穴はなんとか繕ったんだけど、最近、こっちも物騒になってきたんだ。ほら、君も知ってるだろ、ラチャダ通りのMrブッティ。殺人代行組合の元締め、君がいつか半殺しにして放置した人。まあ、僕がそうするように言ったんだけどさ、彼、最近物騒な玩具を手に入れたらしいんだよ。こちらの方で暴れる分なら、別に問題ないのだけど、どうにも動きが怪しんだ。一応、君も身辺に気をつけたほうがいい。何せ、マフィアってのはこの世で一番、自分の顔にクソを塗りたくられるのが嫌いな人種だし、執念深い。それに、君を殺せば名が売れる、なんて短絡的な思考を素でいく連中だ。まあ、"殺し屋・ゴドー"の名前が、ビックネームだったのは確かだしね』

殺し屋は、いつだって最後は殺し屋に殺される。

依頼を多数こなしてると、様々な闇の情報が殺し屋に蓄積してく。これが一定量をこえると、当然、不具合を持つ人間が出てきても不思議ではない。そして、卓越した殺し屋も、いつかは別の殺し屋に殺される。

それは、ゴドーとて例外ではない、そのはずだった。

だが、幸か不幸か、ゴドーは不治の病を患った。だからこそ、(感情で動く小物はともかく)これまでプロの殺し屋を差し向けられたことはなかった。放っておけば、いずれ確実に死ぬ人間の死期を早めるためだけに、リスクを犯す人間はいない。

『了解しました。気をつけます』

『うん、そうしてくれたまえ。いらぬ心配という奴かもしれないがね。人間年をとると、不安ばかりが先立って困る』

電話の主はそういって笑うと、最後に、そう言えば、と付け加えた。

『"彼女"の名前は、なんていうんだい?』

そこまで言うと、相手は急にキャッチが入ったと言って、電話を切った。



ゴドーは、その時初めて、自らが訓練を施している子供の名前を、知らないことに気づいた。



…to be continued




[8641] 奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.4
Name: kururu◆67c327ea ID:52df90f0
Date: 2009/06/07 21:07
指摘受けて修正しました。簡単な割り算を間違えるとは・・・・・・orz











ユーリー・バシマコフは階下の乱痴気様子を無感情に見やり、グラスの中の液体を一口だけ飲んだ。中身は単なるオレンジジュースだ。仕事中には一滴のアルコールも摂取しないのが彼のスタイルだった。

つい先日、雇用契約を結んだばかりのオーナーに呼び出されたのは、ヨークシンのラチャダ通り(ストリート)にある、ナイトクラブの一つだった。

店では、ほとんど裸同然の黒革の衣装の男女がステージ上で絡み合い、客は下品な笑い声を上げつつ、店の用意した女と淫楽にふけっている。

ユーリーが通されたのは、店の中でも奥まった一角で、フロア全体を見渡せた。周囲は完璧に黒服の男達にガードされ、しかも狙撃ポイントが可能な限りつぶされている。いわゆる、特別な客のためのゲストルームだった。

ユーリーのそばにもやたら露出の高い女が数名侍っていて、先ほどからたわいもない会話を一方的に話しかけ、酒や自らの肢体を薦めてくる。興味がなかったので、適当にうなずいているだけだったが、ちらりと横目で女の顔を観察すれば、目の下のべっとりとしたクマを、化粧で隠しているのが分かった。不摂生な生活がながいのだろう。先ほど、何気なく年齢を聞いたら、まだ十代だと答えたので驚いた。それより十は上だと思っていたのだ。この手の店に好きこのんで入ったことはなかったが、安っぽい、嫌な店だと思った。

ユーリーは再び思考を、目の前で特大ソファに窮屈そうに身を沈めた巨漢に戻した。男の周りには10人ほどの女が屯していた。肌の白い女もいれば、ほどよく焼けた褐色の肌の女もいた。さらに、見た目少年にしか見えないような胸の薄い女もいれば、モデルなみにスタイルのいい女もいた。

さまざまな美女達に囲まれたこの男こそ、ユーリーの新たな雇い主にして、この店のオーナーだった。

「やあ、ユーリー君、も、もしかして、こういう場所は気に入らないのかな。僕としては、君に精一杯楽しんでもらえるような場所を、指定したつもりだったんだけど」

目の前の人物は、生まれたての赤ん坊のような童顔(ただしサイズは10倍以上あるだろうが)を、オドオドとさせて悲しそうな表情を浮かべた。

「いえ、十分に楽しませてもらっていますよ。こんな刺激的な場所に来たのは久しぶりですから。ただ、私もそろそろいい年なので」

ユーリーは営業用のスマイルを浮かべてそう答えた。

眼前の男は、極めて個性的な容姿の持ち主だった。

座っていても2メートル近い巨体。ほぼ球体同然の胴体を、特注したという特大のTシャツに押し込み、シャツと同色のサイケデリックな柄の半ズボンから飛び出た足には、ゴスパンクのドレスで着飾った12、3才ほどの少女達が腰掛けている。

度重なるホルモン剤の投与のせいで、頭はきれいにはげ上がっている。その代償に手に入れたという声はまるで十代の少女のようで、極めて不気味だった。おまけにふくれあがった風船のような顔に、人なつこそうな笑みを浮かべ、一見して荒事に携わる人間に見えない。だが、その容姿こそがくせ者だった。

通称、Mrブッディ。このあたりで殺人代行業を取り仕切る組合の元締だ。腕のいい殺人狂を何人も手元に置き、さまざまな利害関係からくる殺人の依頼を、多数こなしているという。

最近では、徐々に殺人代行以外のシノギにも手を出していて、付近のマフィアとイザコザが絶えない。3年前にも同じように勢力を拡大しようとした事があったらしいが、その時はマフィア達の反撃を受けて、本人も半死半生の目に遭わされたらしい。懲りない男だ。

「そうなのかい。ああ、もしかして、君はホモセクシュアルなのかな。もしそうなら、遠慮無くいってよね。天使みたいなピチピチした男の子だって、僕の店にはたっくさんそろってるんだからさ」

そういって、ブッティはキャッキャッと耳障りな声で笑った。巨体の周囲に群がっていた女達もそろって笑い声を上げたので、ユーリーは久しく感じていなかった頭痛を耐えるのに必死だった。

「ミスター、そろそろ、例の話をさせていただいてもよろしいですか」

「うん、そうだね。それがいい」

ユーリーがそう言うと、ブッディは無言で太めのソーセージのような指をパチリと鳴らし、取り巻きの女達を下がらせた。だが、両膝に乗せていた二人の少女だけはそのまま残った。

「心配しなくてもいいよ。この子達は僕のとびっきりのお気に入りだから。僕以外の男には、誰だろうと口もプッシーも硬~く閉じてくれるんだよ」

ブッディがそういうと、二人の少女は淫らな声を上げた。

ユーリーは少女達を無視して、それ以上気にしないことに決めた。

「さて、ユーリー君。まずはご苦労様でした。先日、君に頼んだ二つのお仕事は完璧だったよ。例の会計士さんは、お魚の餌になっちゃったし、彼の奥さんと娘さんは心を入れ替えて、僕のお店で一生懸命働いてもらっているしね。うふふ、気持ちよくなれるお薬で、あそこをぐしょぐしょにしながら、もう4日も寝ずにお仕事中さ」

ユーリーは、フロアに溢れる嬌声の中に、自分が浚ってきた女達の声を聞いたような気がした。

「もう一つ、シティ銀行の頭取さんだけど、こっちもお見事でした。警察の皆さんも完璧に自殺って事で片付けてくれて、世話なしさ」

ブッディは愉快そうに壮大な腹を揺すった。

ここ最近世間を騒がせていた、大規模な不正会計事件。そのリストの中にはヨークシン市長、とあるマフィアの大幹部、そして現役の大統領補佐官の名前すら含まれていた。だが、そこにブッディの名前が入っていたのが運のツキだった。証人として名乗りを上げた公認会計士を、ユーリーは家族共々拐かし、本人はヨークシン沖で溺死させた。

この明らかな警告に、検察も二の足を踏むだろう。

また、シティ銀行の頭取は、ある大手マフィアのフロント企業に対する不正融資を追求され、口を割る寸前だった。マフィアの脅迫に脅え、警察の警備に囲まれた頭取を、その家族もろとも暗殺したのはユーリーの神業だ。

他殺に足る証拠なし、ガイシャの心神衰弱状態から一家心中を図るのも、あり得ないことではない。それが現段階におけるヨークシン市警の公式発表だ。どのみち、市警はマフィアンコミュニティーの息が大量に掛かっているので、これで決まりだろう。

もし、事件を冷静に見ることの出来る者がいたならば、一連の殺人に共通する要素に気付いた違いない。

家族全員を狙うという残虐さ、殺人施行の素早さ、現場に残されていたとしても、全て大量に出回ってる既製品であり、かえって捜査を混乱させる遺留品。

それは、殺人に日常的に慣れ親しんだ者の、犯行であった。

「ご満足いただけたようで、何よりです」

ユーリーは、にっこりと笑みを浮かべた。

別に罪悪感はない。彼が手を下さなくとも、別の誰かがやったことだ。

この町では、マフィア達に敵対する人間は、常に闇から闇に葬られて来たのだから。

「でさ、早速で悪いけど、新しいお仕事をお願いしちゃうね。ああ、今回のお仕事はヨークシンからうんと離れたところだから、ほとぼりを冷ますのにもいいんじゃないかな」

その言葉に、ユーリーは頷いた。

立て続けに同じ場所で2件もの仕事を終えた後だ。できれば、一度ヨークシンから離れたいと思っていたので、願ってもないことだった。

「それで、新しいお仕事なんだけど、依頼主は、実は僕なんだ。君もさ、"殺し屋・ゴドー"って名前、聞いたことあるでしょ」

その名を耳にしたとき、ユーリーの脳裏に落雷が落ちたような感覚が走った。

「"死神・ゴドー"、"殺人機械(キリングドール)・ゴドー"、他にもいろいろあるけど、どれもチープでドスがきいてるよね。3年前、忘れもしない"血の晩鐘の夜"。あの時は、些細な行き違いから、ヨークシンに拠点を構える3勢力5派閥11組織のマフィア全員が結託、あるいは敵対してさ、血で血を洗う大抗争に発展しちゃったんだ。そのとき、ゴドーちゃんは、5人にも満たない人数を使って、一晩で300人ものマフィアを殺したんだよ。」

その話を聞くたびに、心がふるえた。

まるで冗談のような殺戮劇。抗争開始の午前零時から夜明けまでの約7時間、単純計算で1時間に40人以上、つまり2分に一人は殺している。話の通り、部下が5人いたと仮定としても1人あたり50人のスコアだ。

例え、全員が念能力者だったとしても、銃器で武装した300名の人間を、砲撃や空爆の支援のない市街戦で鎮圧するなど不可能だ。普通ならば。

だが、ユーリーはそれが決して不可能ではないことを、誰よりもよく知っていた。

「僕のところにもお仕事の依頼がたっくさんきてね、手始めにあの女の組を狙ったんだ。あそこは規模自体はびっくるするぐらい小さいから、ちょろいとおもったわけさ。手元の兵隊50人をかき集めて、全員に銃で武装させて、他のマフィアとも共謀して、あのゴスロリ婆の淫売宿に向かわせたんだ。念使える奴だって10人以上いたんだぜ。ところが、蓋を開けてみれば、とんだモンスターの巣窟だった」

そこでブッディは言葉を切ると、机の上に置かれていた、2リットルはありそうな特大のピッチャーを手に取った。そのまま中身のコークを一息に飲み乾すと、フロア中の窓ガラスが震えるような盛大なゲップを吐いた。

「結局、そのときの手下は全滅しちゃった。僕もおっかない警告をされて、両耳をちょん切られちゃった。ひどいことするよね。しかも、あいつ、僕のこと、豚って言ったんだぜ、豚って!」

ブッディは頭の両側にある肉の穴を指さして怒声を上げた。

てっきり分厚い皮下脂肪に埋もれているのだと思っていたが、どうやらそこに以前は耳があったらしい。

「でもさあ、ゴドーちゃんてば、最近、病気になっちゃったんだって」

ブッディは、肉の切れ目のような目と口を、愉快そうな笑みの形にした。

「傑作だよね。薬も治療も効かないやっかいな病気だって。蛇の生殺しみたいに激痛が続いて、いきなり、ふっと死んじゃうんだって。主治医を脅して喋らせたんだ、確実だぜ。もうそろそろ、ろくに動けやしないんじゃないかなあ。うふふ、神様も粋なプレゼントをしてくれるじゃないか。それとも、これまでゴドーちゃんが殺してきた人たちの呪いってやつなのかなあ」

呪いなどというものが存在するなら、まっさきにこの豚野郎の息の根が止まっているだろう。ユーリーはそう考え、それは自分も同じだ、と自嘲した。

「それで、ゴドーちゃんもヤキがまわったみたいなのさ。あの女の下を離れて、今じゃ片田舎に引きこもって、小さな女の子と乳繰り合いながら暮らしてるって。殺し屋ゴドーちゃんは、とんだロリコンちゃんだったとさ。うふ、うふふ、うふふふふふふ」

もう耐えきれないという様子で、豚そっくりのいななきをあげるブッディ。

いい加減、つきあうのも億劫になっていたので、ユーリーは地図とゴドー達の顔写真、それと必要経費について問いただすと、ブッディはそのすべてに如才なく答えた。

趣味は最悪の男だが、さすがに長く殺人代行稼業を勤めてきただけあって、そこら辺の手際は手馴れている。

だが、ブッディはさらに依頼に注文をつけた。

「ゴドーちゃん殺したらさ、その女の子は生かしたまま連れてきてよ。気の強そうな青い目をした素敵な金髪さんじゃない。僕、一目で恋に落ちちゃった。ねえ、君たちの新しい姉妹に加えてあげようよ」

ブッディはグフフ、とよだれを垂らして愉快そうに笑うと、膝に乗せた少女達もケタケタと気狂いのような笑い声を上げた。

「ああ、あとついでに、ゴドーちゃんの首も切り取って持ってきてね。こっちは多少傷ついてもいいからさ」

証拠として持ち帰れ、ということだろうか。訝しむユーリーに、ブッディは破顔して見せた。

「ずったずたに切り刻んで、ネットでさらしてさ、あのゴスロリ婆に見せつけてやるんだ。そしたら、次はあの女の首をちょん切ってやる。きれいに剥製にして、着飾らせて、僕専用のオナホールにするんだ」

あまりにも悪趣味な指示に、ユーリーの忍耐力もそろそろ限界だった。

「・・・できるだけ、要望に沿うように、努力は、します。ただ、相手が相手ですので、あまり期待はしないで下さい」

ユーリーは、咄嗟にせり上がってきた怒声を飲み込んだ。やはり、所詮は殺人を快楽とするゲスだ。あまり長く下につきたい人物ではない。

ゴドー達の潜伏先を記した地図やら、資料一式を受け取ると、ユーリーはすぐに席を立った。

「では、私はこれで失礼します。いろいろ準備もありますから」

「うん、そうなのかい。残念だなあ、もう少し、楽しんでいけばいいのに」

引き留める雇い主に、再度断りを入れ、ユーリーはイスから立ち上がって背を向けた。



と、

その背中に、背後から声がかけられた。

「そういえば、君さ、ゴドーちゃんの元部下だったってのは、本当かい」

思わずユーリーの背中にヒヤリとするものが走る。

ゆっくりと振り替えると、ブッディは変わらぬほほえみを浮かべていた。だが、その目は笑ってなどいない。

ブッディの両膝に座っていた少女達も、瞳を剣呑にギラつかせ、その小さな手に銃器を握っていた。

「昔の話ですよ。今は、あなたが私のボスです」

そう言い残すと、ユーリーは今度こそ振り返らずに、店を後にした。














奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.4















薄黒い冬の雲、冷たく肌を刺す風が、草木の枯れた荒野をなでる。

オレがゴドーに拾われてから、およそ1年。暑い盛りも過ぎて、冷たい雪がちらつくようになってきた頃、訓練は最終段階に入っていた。



肩の辺りで無造作に切りそろえた髪が、風にゆれるのをかきあげ、オレはゆったりと自然体で構えた。

「肉体の強化は、念での戦闘では必須だ。生まれた時から慣れ親しんだ、己自身の肉体以上に、強化しやすいものはない」

正面には、同じく自然体で構えるゴドー。あらゆる殺人技術に精通した、最強の男。

ゴドーの手に武器はなく、徒手空拳。だが、腰にはナイフと拳銃が吊ってあり、さらにゴドーは全身に武器を隠し持っていることを、オレは知っている。ただ、ゴドーの能力は、ぶっちゃけ野戦専用みたいなものだから、この状況では気にしなくてもいい。

「想定、市街地における不意の遭遇、白兵戦闘。評価目標、敵戦力の無力化。時間制限なし、銃器を含めた武器の使用制限なし。ただし、逃走は許可されない」

オレは練で一気にオーラを倍加させ、その状態を維持する。堅、と呼ばれる念能力の応用技だ。

ゴドーによると、オレは生まれつき顕在オーラが飛びぬけて大きい特異体質らしい。ただし、潜在オーラの量は平均並みなので、調子に乗って飛ばしているとすぐにバテる。

堅を保てるのは、今のところ全力で2時間。戦闘中の緊張と疲労を加えると、30分も持てばいいほうだ。このまま睨み合っているだけで、すぐに消耗してしまう。

「フンっ!」

そして、対するゴドーはその場で全身を震わせた。

引き絞った筋肉の固まりのようなゴドーの体躯が、さらに一回りも二回りも大きくなったように錯覚する。知らぬ間にオレの背中はびっしょりと滝のような汗をかいていた。

生命力そのものだというオーラが、炎のようにあふれ出す。それは力強く、猛烈な勢いで全身を循環し、一欠片も無駄に散逸することなく、その身を覆い尽くす。いつ見ても、見事な堅だ。

来る!

刹那、オレは風と化していた。


脳裏にゴドーの言葉が蘇る。

『彼我の戦力、携帯している武器の種類、練度の差。常に手持ちのカードで現状を打破することを考えろ。例え、不利な状況下にあっても、敵が容赦することは、一切無い』

ゴドーとオレの技術の差は歴然。筋力も体重もゴドーが上だ。パワー勝負では比較にならない。

対して、オレが勝るのは、小柄な体躯を生かした瞬発力と小回りの良さだ。


突進してくるオレの体に合わせた、ゆったりとした右の一撃。それを、勢いを殺さずに体ごと回避する。

パシッ!

さらに、流れるように繰り出された指突は、正確にオレの眼球を狙っていた。咄嗟に、その指先が触れ合う程度に、いなす。

「シッ!」 ダン!

すり抜け様に放った、膝頭を狙った蹴りは、ゴドーの足にビクともせずに受け止められた。

ダンっ!

地面そのものを振るわせるのような音を響かせながら、間髪いれずに繰り出される凶悪な前蹴り。ゴドーの蹴りは、その気になれば強化コンクリートのブロックを粉みじんに砕くことができる。今のオレでは、単純に防御しても大ダメージを喰うだろう。

咄嗟にそう判断すると、袖口に隠しておいたナイフを手首のスナップだけで引き抜き、突き出した刃先で蹴り足を受け止めた。

ブシュっ!!

ゴドーの皮膚が破れ、血が噴出す。だが、浅い。

そのまま勢いを失わず、オレの脇腹にぶち当たって振りぬかれる蹴りの威力に逆らわず、オレは自ら後ろに飛んで距離をとった。

ゴドーも追い討ちをかけず、オレ達は再び睨み合った。

足首に浅い傷を負わせたが、今の蹴りでオレの肋骨も何本かイカレた。とたんに呼吸が苦しくなる。ヒビくらいは入っているだろう。

だが、これでいい。今の一連の動作で、仕込みは済んだ。

タン! タン! タン!

背中で隠しつつ片手で引き抜いた自動拳銃を、狙いを付けず方向だけ合わせて三度発砲する。これで残弾は6。頭の片隅に冷静にその数字を刻み付ける。

念で強化されたゴドーの体は、その気になれば50口径すら無力化する。9mでは傷一つつけられない。それでも目くらましにはなる。

パチパチと、うるさそうに片手で弾丸をはじくゴドー。視線はオレに合わせて微動だにもしない。

再び、オレは特攻した。

そして、ゴドーが迎撃のために左手を繰り出した、その時だった。

パン!!

不意に、ゴドーの左の二の腕から、青白い閃光を伴って、何かが弾けるような音が響いた。と、同時に火薬の焼けるような臭いが辺りに漂う。

オレが仕掛けた小細工に、ゴドーは眉一つ動かさず、ダメージも皆無だった。もとより、この程度の威力でゴドーの隙をつけるとは思っていない。それでも、今ので体勢が左に崩れ、オレの踏み込みに対する動作が一瞬遅れた。

ゴドーが軸足を踏ん張って姿勢を整えたときには、すでにオレは懐の中。

さらに押してくる相手の動きに合わせて、全身のバネを使って体を加速させ、瞬時にすべてのオーラを集中させた右拳を、打ち出す。ナイフや刃物は使わない。以前、心臓を突き刺そうとしたときに、ゴドーが胸に金属片を埋めているのがわかった。だから、今度は切り札を使う。

狙いは、心臓の真上。

オレがゴドーにたたき込まれた格闘技術は、目潰し、金的、頚椎をはじめとする急所への攻撃を基本し、極めて殺傷能力に優れている。徹底した構えの脱力は、スピーディかつ柔軟性に富んだ動作を生み、あらゆる場面から、瞬時に最適の対応を繰り出せる。

故に、当たれば一撃必殺。格闘技の常識ではあり得ないとされたその概念を、殺人を前提に組み直されたこの技は、かくも見事に体現する。

さらに、ゴドーはシンの伝統武術や、ヤーパンの合気道のテイストを取り入れることで、対念能力者戦闘に重きを置いた独特の技を生み出していた。

それが、この相手の動作に合わせて、ゼロ距離から繰り出されるカウンター。その衝撃は防具と筋肉に浸透し、内臓まで到達して破壊する。人を絶命させるためだけに生み出された、殺人拳。

その一撃が、吸い込まれるようにゴドーの胸に食い込んだ。

「ッシャアア!!」

ドゥン!!

枯れ木を揺るがすような気味の悪い音が響き渡った。

完璧に心臓を捕らえた。タイミングも完璧、威力も申し分ない。



それで、油断が生じた。

「グエっ!??」

突然ゴドーの両腕が跳ね上がって、虎バサミのようにオレを拘束した。前腕部をオレの頸部に回して、もう片方の腕で上腕部を抱え込む。こうなると逃げられない。

ゴドーはそのまま万力のような力で、ギリギリと気管を締め上げた。首の骨をへし折るかのようなフロントチョーク。思わず肺から空気が漏れて、潰れた蛙のような悲鳴を上げていた。

息が詰まり、呻こうとするが、ぶっとい腕が顎を圧迫して首へ食い込み、気道を塞ぐ。呼吸が止められる。すっと、頭から全身が冷えていくような感覚。

何とか逃げ出そうともがくが、力が入りにくいように間接部を押さえられている。もともと腕力でも、オーラの強化力でもゴドーのほうが上だ。

オレが覚悟を決めて、最後の隠し札(ジョーカー)をきろうとした時だった。

ふっと、ゴドーが力を抜いた。

「ゲホ!ゲホ!」

ヒューヒューと喉を鳴らしながら倒れ付すオレを、ゴドーは無感情に見下ろして、

「いいだろう、合格だ」

なぜか、そう言った。

「ゲホっ、グホッ、な、なんでだよ。結局、失敗したのに」

首の違和感を確かめるように、コキコキ鳴らして、骨の状態を確かめる。さすがに首を絞められたときには、背筋に冷たい汗が流れた。だが、それは顔には絶対に出さない。

「いや、今のは悪くなかった。硬での防御が間に合ったが、オレがお前の技と能力を知らなければ、それだけでケリがついていた筈だ」

それを聞くとと、オレも少しだけ力が抜けた。

「ハン、あんたがオレをほめるなんて、雪でも降るんじゃねえのか」

オレはそう軽口をたたいたが、ゴドーの言葉にまんざらでもなかった。

ゴドーの奴は、このごろはほとんど椅子に座ったまま指示だけ出していた。今日も、久々に近接格闘訓練(CQB)をする、と言い出したときは、少し驚いたものだ。ちなみに、例の張り手を食らわされる回数も激減していた。それだけオレの技量が向上した、ということなのだろうか。

「近接格闘については、もうオレの教えることはほとんどない。いずれ実戦経験をつんでいけば、完成するだろう。後は、射撃の腕前と、念の扱いだけがネックだが、これは一朝一夕では身に付かない。毎日少しでもいいから、教えたとおり修練を繰り返せ。費やした時間だけが、その不足を埋めるだろう」

何だろう、今日のこいつは、本当にどうかしている。こんなにオレを褒めちぎって、いったい何を狙ってやがるんだ。

ふと、ゴドーは何かを思いついたように話を変えた。

「そういえば、例の訓練は続けているだろうな」

「ああ、あれね」

オレは腰につるしていた小型のホルダーから、数本の小振りなナイフを取り出して見せた。

先端が細長く、重心の位置が微妙にずらされた、小さな諸刃のナイフ。投擲専用のスローイングダガーだ。

そのまま、おもむろにナイフの切っ先に視線を移したオレに、ゴドーはいぶかしげな視線を向ける。

「いや、オレがこいつ(ナイフ)を使って一番やってるのは、芋の皮むきと薪割りだな、って思っただけ」

「それがナイフの正しい使い方、というものなのだがな」

そう言って、ゴドーは珍しく苦笑めいた笑みを浮かべた。

最近では、飯と風呂の準備も、ほとんどオレの仕事になっている。

訓練の中身がエスカレートするに従って、オレたちは郊外の一軒家に移っていた(元は廃屋だった炭焼き小屋を多少手入れしただけだが)。周囲は、小高い山と深い森、流れの速い沢に囲まれた天然の要害。ここでオレはビバークのやり方、獣の捕らえ方、野草の見分け方をおぼえた。

このあたりは、飯屋どころか人家そのものが皆無なのだ。食料を調達するには50キロも離れた商店に買い出しに行くしかない。そのため、飯の中身は保存のきく芋や、乾物、缶詰ばかりだ。魚を釣ったり、野生の獣を捕らえて調理するのも、もう慣れたものだった。

もちろん、電気もガスもないので、朽ち木を集めて薪にするのが常だ。それを集めてくるのもオレの役割だった。

「やっぱ周使ってても、毎日毎日使ってりゃ、刃もこぼれるか」

オレは、軽く切っ先に指を当てて切れ味を確かめると、そのままナイフ全体にオーラを伝わらせるとた。

手のひらからオーラを放出する勢いを加味して、手近な木の幹に向かって投擲する。

「シッ!」    カッ、カッ、カッ、カッ、カッ、カッ!!

ナイフが何かに刺さる軽い音が連続する。

10メートルほど先の的には、6発中、2つが的の外周部に刺さり、残りはすべて的をつるした木の幹に突き刺さっていた。

それを見て、ゴドーは苦い顔をした。

「変化系能力者は、オーラを放出することを苦手とするので、威力が低いのは、まあ、いい。だが、命中精度は改善する必要がある」

実は、毎日訓練をしていながら、オレはいまだに射撃が下手だった。標的に狙って当てられるのはせいぜい10メートル。50メートルも離れると、拳銃ではまず当てられない(ちなみにゴドーの奴は、同じ距離の片手撃ちで、ワンホールショットをすることができる)。

そして、投擲術はそれより更に下手だった。

「投げナイフは、水際の上陸作戦や火薬を使用できない状況での限定みたいなものだが、貴様のような変化系能力者は、オーラを放出することを苦手とする。そこで、念をこめやすい投擲具を持ち歩くのが一般的なのだ」

ゴドーが射撃訓練と平行して、投擲術の訓練を始めさせたのは、オレの念系統が判明した後だった。

「まあ、手元からオーラを離さずに闘う術を身につけるか、接近戦に持ち込むノウハウを磨くという選択肢もある。ここらへんは、能力との相談だがな」

「そういうもんか」

訓練は続けろ、そう指示して、ゴドーは部屋に戻っていった。








負傷した片足の手当てを済ませると、ゴドーは長椅子に身を横たえ、無防備な姿をさらしていた。

先ほどの一撃、正直、あれは効いた。

その場で倒れなかったのは、単なるやせ我慢だった。額には脂汗がにじみ、全身の筋肉はいまだに痙攣を起こしていたよりによって、心臓狙いというのがまずかった。やってくれる。

苦痛にうめきながら、それでもゴドーは笑みを浮かべていた。

ぎこちない流、オーラの不足、念は発展途上だが、アレはそれを補って余りある完璧なタイミングで放たれた一撃だった。あの一撃をよけられるものなど、そうはいまい。

ゴドーが20年以上も研鑽してきた技術を、わずか1年でこうも見事に習得されると、むしろ清清しかった。

念能力のほうもだんだん形になってきている。自分が手も足も出ずに完敗するようになるのも、そう遠い話ではないだろう。もっとも、そうなる前に、墓の下かもしれないが。

負けるのを楽しみに思えるようになった時点で、自分は殺し屋としては終わっているのだろう、とゴドーは思った。

と、

PiPiPiPiPiPiPiPi!

ディスプレイに表示された番号は、見知らぬものだった。

また、あの人なのだろうか。まあ、あれから半年、そろそろ彼女に会わせてもおいてもいいかも知れない。

ゴドーは、そんなとりとめもないことを考えながら、電話を取った。

だから、次に聞こえてきた声は、完全な不意打ちだった。

『お久しぶりです、大尉。私が誰だか、わかりますか』

聞き覚えのある、声だった。

「・・・ユーリー・バシマコフ軍曹」

それは、かつての副官の名前だ。

電話の向こうの相手は、あなたの暗殺を依頼された、と言った。

「無駄なことをする。わざわざ、君に殺されなくても俺の命は長くない。おそらくは、あと・・」

『今更、戦死以外の死に方を選べる身ではない。かつて、そう言ったのはあなたですよ』

相手の声は冷静そのものだった。

『あの日、国を捨て、あなたが部隊の解散を宣言した日から、いくつもの仕事を転々としました。表稼業で稼ぐのはつらかった。どこへ行っても、戸籍を抹消された我々のような男に、まともな職などなかった。40近くにもなって、兵役を経験したこともないような、十も二十も年下の若造相手に、あごで使われる毎日でした。祖国のために、己の腕を血に染め上げて、死を厭わずに戦った報酬がこれだ』

吐き捨てるような口調、その心中は十分に察することが出来た。ゴドーにも身に覚えのあることだ。

『その後はお定まりの奈落です。犯罪に、手を染めました。強盗に、殺人、誘拐、そんなところです。不思議なことに、かつては命をかけて守っていた無辜の市民を手にかけても、何も感じませんでした。何度目かの殺人の後、嫌でも気がつきました。国家への忠誠だの、勲章の重み、栄誉と賞賛。我々は、そんなものがなくても、ほんの少しのはした金で、ためらいなく人を殺せるイカレタ人種だった。そのことに、もっと早く気づくべきでした。風の噂で、あなたもまたマフィアお抱えの殺し屋になっていると聞いたときは、因果を感じましたよ』

ゴドーは、黙って相手の独白に耳を傾けた。

『正直に告白しますとね、大尉、私はあなたを頼ってヨークシンに行ったのです。あなたは最高の指揮官でしたから。例え、マフィアの手先に堕ちたとしても、もう一度、あなたのような上官の下で、思う存分、身につけた技術を駆使してみたら、どんなによかったでしょう。だが、残念ながら、あなたは病を患われて、すでにヨークシンを離れた後だった』

チクリ、とゴドーの胸を、病気の苦痛とは異なる痛みが貫いた。

『そして今は、お互いに望まぬ対決を強いられている。残念ながら、あなたを見逃せば今度は私が殺されます。先ほど、クライアントからも釘を刺されました・・・・・・・・・・・すみません』

最後の一言だけは、無理やり、喉から搾り出すかのような声だった。

だから、ゴドーはかつての友に、こう言った。

「軍曹、我々の間に、そんな他人行儀は必要ない。互いに、与えられた任務を完璧に果たす。それが、我々の唯一の矜持だ。違うかね」

受話器の向こうで、息を呑む音がした。

『・・・・やはり、最後にあなたと話ができてよかった。大尉、次は戦場でお会いしましょう』

ゴドーは、しばらくの間、切れた電話を耳に当てたまま、ツーツーという音を聞いていた。

ユーリー・バシマコフ軍曹。元はナイフ格闘の教官で、サイレントキリングにかけては他に並ぶ者のいないプロのコマンド。いくつもの作戦で敵の偵察部隊を全滅させ、チームの勝利に貢献した。

おそらく、その技能は現役時代のまま、更に磨きが掛かっていても、錆び付いていることはあり得ない。

それに引き替え、今のゴドーはかつての身体機能を失っている上に、ここ一年ほど彼女の訓練にかまけて実戦を遠のいていた。経験では互角、技量でも互角、だが実戦の勘と念の力はユーリーの方が上だ。

勝てるのか、今の自分で。

ゴドーは、自問し、自答した。

思考にふけるゴドーの背後から、不意に、彼女が出てきた。

「なあ、ゴドー、そろそろ買い置きの食料が底を突きかけてるんだけど・・・・って、何だよ」

ゴドーは思わず、彼女を凝視していた。

そのまま、数秒見つめ合った後、何故か、ある言葉が口から飛び出ていた。

「・・・・は、何という」

「あん? 何だって?」

いざ、言葉にしようとすると、不思議に神経を使う。ゴドーらしからぬ、はっきりしない口調だった。

「お前の、名前は、なんというんだ」

その途端、彼女はぽかんと口を開けたまま固まった。

「な、何だよ、唐突に。い、今まで、一度も聞いたこと、無かったじゃんか」

「教えてくれ」

彼女は、もじもじと、妙に恥ずかしそうに悶えた。教え子がこのような仕草をとるのを、ゴドーは初めて目にした。

「あ、あんた、なんか変だぞ!」

「頼む。教えてくれ」

その迫力に押されてか、やがて彼女は、静かに己の名を口にした。



「・・・・アンヘル。その、オレには合わない名前だろ。でも、母さんが、つけてくれたんだ」

母親のことを口にしたとき、彼女、アンヘルの顔は、普段の男勝りな仕草がなりを潜め、女性らしい柔らかい微笑みを浮かべていた。

その顔を、美しい、とゴドーは思った。



「天使(Angel)か、いい名前だ」

ゴドーがそう言うと、アンヘルの頬にさっと赤味がさした。

「バッ、馬鹿野郎!くっだらねえ、こと言ってんじゃねえ!それよか、飯だよ、飯。もう芋も缶詰もほとんど残ってねーぞ。このまま干し肉と魚の薫製だけの飯なんざ、オレは願い下げだからなっ!」

妙にあわてふためいて、買い出しに行くと言って出て行ったアンヘルを、ゴドーは苦笑しながら見送った。

考えてみれば、自分の年齢からすれば、あれくらいの子供がいてもおかしくはない。かつてのゴドーならば、絶対に考えなかったであろう思考。それが不自然であるということにすら、今のゴドーには分からない。

最期の時間が迫ってきていた。

余命を宣告されてから、約一年。ゴドーの体は、事前の予想を裏切って、遙かに長持ちしていた。

だから、ほとんどの技術を彼女に伝えることが出来たし、もう自分がいなくとも、彼女は一人でやっていける。

自分は、いつ死んでも、大丈夫なのだ。そう頭で理解していても、いざ死の瞬間について考えると、なぜか震えが来た。

死にたくない、なんて感情は自分にはない。後継者も立派に育った。まだまだ未熟だが、後は経験を積んでいくことで、いつか自らを完成させるだろう。

そう、自分は、もう、必要ない。必死で自らに言い聞かせるゴドー。

だが、膝の震えは、不自然にも止まらない。その理由が、分からない。

正体の分からない恐怖が、ゴドーを襲っていた。



結局、不死身の殺人機械と称された男は、自らに芽生え始めていたある感情に、最期まで気付くことがなかった。










「よし、いけ」

ゴドーとの最期の会話を終えると、ユーリーは即座に部下達に指示を出した。

のそのそと、覇気のない顔(それでもギラつく目つきで)で動き出す男たち。全員が銃器で武装しているが、着ているものはみなバラバラだった。

部下、といっても彼らは組織抗争の先兵として使い捨てに使用される、いわゆる鉄砲玉だ。

組に義理を返すために、したくない殺人を請け負わねばなららなくなった、シノギの出来ない脳無しヤクザや、組に借金を負って逃げられなくなった情けない組員。それに、国外から移住してきた、正職に付く事が出来ず捨て鉢になった不法移民達。

所詮、一山いくらの安い命だ。

元は全員がド素人だったが、ユーリーの手で、銃の打ち方くらいは仕込まれている。

もちろん、念については教えていない。念を教えるのは時間がかかるし、所詮、鉄砲玉だ。数多く打って、少しでも当たればそれでいい。

それに、念を教えたことで、彼らが間違って生き延びてしまったら、あげくにいつかユーリーを殺しに来るかもしれない。自分の教えた念で殺されるなどというのは、願い下げだった。

彼らの役目は、文字通りの囮だ。その命をもって、敵の居場所をあぶりだすのだ。何せ、相手をするのは、あの大尉なのだから。

ユーリーは久しく忘れていた、血の滾りを覚えた。

ゴドー・イワレンコフ大尉(かつての部隊で使っていた偽名だが、今でもそう名乗っているらしい。もっとも、それはユーリーも同じだった)。念能力者で構成された特殊部隊『埋葬部隊(グラーベンコマンド)』の元指揮官。対念能力者戦闘では最優秀の成績を上げた、叩き上げのコマンド。個人の能力も高いが、その真価は集団戦闘で指揮を執らせた場合に発揮される。

だが、今のあの人に部下はいない。つまり、一人ですべての敵に対処しなくてはならなくなる。それなら、十分に殺(ヤ)れる。

病気を患って、かつての戦闘能力はほとんど失われているとのことだが、ユーリーは気にも留めていなかった。相手を呑んでかかるなど愚の骨頂だ。

「久々の人狩り(マンハント)になるな。いや、怪物退治か」

森の木立の中に消えていく部下どもの背中を見送りながら、ユーリーは久々に一服吹かしていた。

煙と臭いで敵に居場所をしらせてしまうから、かつて大尉から止めるように指導されたこともある。だが、どうにもこれだけは止められなかった。

藪蚊を追い払うのに効果があるし、何より作戦前の緊張感を程よくほぐしてくれるのだ。















後になって思い出してみると、それはオレが一生のうちでもっとも夢中になって駆け抜けた時だった。

ゴドーと出会って、約1年。その頃には、ゴドーに対する敵意は、もうずいぶん失せていた。

変わりに、心の中を占めていたのは、高い技術に対する賞賛、寡黙な男の背中に対する憧憬、そして、もしかしたら、ほんの少しの好意。

もし、他人に指摘されたら、オレは全力で否定するだろうが、そんなものが多かったように思う。

だから、オレは忘れていたのだ。

幸せなときは、続かない。



オレとゴドーとの、別れの時は、迫っていた。









…to be continued






[8641] 奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.5
Name: kururu◆67c327ea ID:f40763f1
Date: 2009/06/14 13:14

誤字脱字と指摘受けて気づいたところを修正しました。













オレは、大きめのコートのすそを翻し、市場のメインストリートを歩いていた。

住処の山小屋から車を飛ばすこと2時間、食料品の買い付けのために街に降りたのだ。

街は、クリスマス一色に染められていた。

いたるところに巨大なツリーが置かれ、派手な赤と緑のストライプのイルミネーションで彩られていた。道路には、マフラーや手袋などの冬ものを売る店や、ソーセージ屋、チーズ屋、クリスマスのお菓子の露店が立ち並んでいる。売り子の声がこだまし、行き交う人々にも活気が満ちていた。普段は表通りの健康的な雰囲気とは無縁のスラムも、この時期だけはどこか別種の賑やかさに包まれていた。

目当ての食料品店でも、クリスマスを当て込んだターキーやローストビーフ、燻製うなぎにロブスターといったご馳走が山と詰まれ、その横にはワインやシュナップスの瓶が並んでいる。さらにケーキやプディングの甘ったるい臭いがそこらじゅうから漂っていて、目の回るような賑やかさだった。

それらを横目に見ながら、オレはとりあえず目的の買い物を先に済ませた。

泥つきのジャガイモ3箱に玉葱1箱、オレンジ1箱、ドライビーンズの袋詰めを20ポンド、トマトペーストの缶詰20個、オイルサーディンの瓶詰めを20個、最後にベーコンの固まりを30ポンドほど買い込んだ。これに、カロリー補給用の飴玉やチョコレートを少し買い足せば、二人分の一ヶ月の食料としては十分だ。

クリスマスセールの期間だけあって、かえって普通の食料品はどれも割高気味だった。

腹いせに、オレはチキンのローストを丸ごと一つ、それとクリスマスケーキをホールで買った。どれも高カロリーで安い。ゴドーも文句は言わないだろう。

ただ、二人でこれをつつく様子を想像して、あまりの似合わなさに、思わず噴出してしまった。

今日はクリスマス。このくらいの悪戯は、許されるだろう。

買い込んだ食料品を、運転してきた軽トラの荷台に積み込むと、用は済んだ。

時刻は、午後の3時を回ったくらい。このまままっすぐ帰れば、日暮れ前にはたどり着ける。

空を見上げると、どんよりとした曇が厚く積み重なって、日の光をさえぎっていた。風は湿り気を帯び、いつ雪が降りてきてもおかしくはない。あまり時間をかけて、帰り道で降り出されても面倒だ。

着ていた長めのコートの前を閉じ、吹き込んできた冷たい風をやり過ごすと、オレは何とはなしに、出掛けのゴドーとのやり取りを思い出した。






「まて」

買出しのために軽トラに乗り込もうとしたオレを、ゴドーは引き止めた。

「先ほど、ナイフの刃こぼれを気にしていただろう。これを、くれてやる」

そういって、自分の肩から吊り下げていたナイフをはずし、ホルダーごとオレに渡した。

大ぶりな片刃のナイフ。柄にはツヤ消しの塗装がされていて、刀身は30センチ近くもある。実用性よりも見栄えが重視されているように感じられるサイズだ。何事においても実用性重視のゴドーの趣味に不似合いな気がしたが、試しに凝で見てみると、かなり強力な念が込められているのが分かった。刃先に指を滑らせるて確かめると、切れ味も凄まじい。

「ベンズナイフ、という。ベンニー=ドロンという100年ほど前の、大量殺人鬼が作った骨董品だ。見ての通り、念を込めて作られているので、多少手荒に扱っても性能に支障が生じることはない。そいつは初期型であまり人気のない型だが、余計な飾りがない分、頑丈さでは折り紙つきだ。かなり使い込んであるから、貴様の手には使いづらいかもしれんがな」

確かに、柄の部分が磨り減っていて、ゴドーの大きな指の形に変形している。ゴドーは常々、道具に愛着はない、せいぜい振り回して壊してやればいい、と口にしていたので、愛用の品というやつを持ち出してみせたは初めてのことだった。

訓練の教材以外の物をくれてよこすのも、初めてのことだったのでオレは面食らった。

まあ、貰えるものならもらっておく主義だ。遠慮なく受け取ることにする。

オレの体格だと、この大きさのナイフを吊るには肩か腰にまわすしかない。街で適当に皮紐を調達してくるのもいいだろう。

そう考えて、今度こそ軽トラに乗り込もうとしたところで、空からうっすらと白いものが落ちてきた。

「雪になるな。たぶん積もるよ、この冷え方だと」

このあたりは標高が高いので、冷えると雪が降りやすい。今から街に出ると、帰り道あたりで吹雪になるかもしれない。

ゴドーは、いつもどおりの無表情で空を見上げていたのだが、不意に、

「体を冷やすな。風邪を引く」

そういって、自分が着ていたコートを脱いで、オレに着させた。

灰色のウールを使った軍用コート。もちろんゴドーの体格にあったものだったので、オレが着ると膝下あたりまで届いてしまう。だけど、とても、暖かかった。


・・・・・・・・・本当に、今日のこいつは、どうかしている。


今度こそ呆然とするオレを残して、ゴドーはさっさと小屋の中に引き上げていった。

結局、オレはゴドーの顔をまともに見ることが出来なかった。







そんなやり取りを思い出しながら、ふと、商店のショーウィンドウに映る、自分の姿が目に留まった。

肩の辺りで切りそろえた母親譲りの金髪に、かなり色の濃い青い瞳。体つきはやや筋肉質だが、輪郭もバランスが取れているし、肌は健康的に日に焼けている。

ちなみに、着ているものも、いつもの野戦服ではない。

白いハイネックに、下は黒っぽいスキニーデニム。足元はこげ茶色の編み上げブーツ。その上からゴドーにもらったコートを羽織っている。

どれも街に出て自分で調達したものだ。これなら、街を歩くローティーンの少女達と、見た目だけなら大差ないだろう。

ゴドーにオレが教わったのは、ほとんどが物騒な技術だったが、飯の作り方、武器や衣類の手入れの仕方、それに読み書きや簡単な法律知識など、普通に暮らしていく上で必須となる生活知識も多かった。敵地への潜伏や諜報活動には、無理なく地域社会に適応できる生活感が必要なのだという。

どこから調達したのか、ゴドーがいつもの仏頂面で、外出用の衣類や女性用の下着、さらに生理用品まで渡された日には、さすがに元男の矜持(プライド)も彼方に捨て去り、自前で取り繕おうという気にもなる。

そのために、一応、年頃の少女達の服装などというものにも、多少は気を配っていた。少なくとも、周囲から浮いた格好はしていないはずだ。

あまり意識したことはないが、まず、美少女と言っていいのではないだろうか。ぼんやりと、そう思う。この体ですごすのも、もう慣れていた。

視線をそらすと、ショーウィンドーの中に陳列してある商品が目に留まった。

少し、躊躇ったが、思い切って店に入る。

「すみません、表に飾ってあったものを、見せていただけますか」



オレは、脳裏にびっくりした顔のゴドーを思い浮かべ、こみ上げてくる笑いを耐えた。













奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.4 














闇が、どこまでも続いていた。

ユーリーに指示された男たちは各々2、3名のチームに分かれて10組ほどが別々のルートで、標的の暮らしているという山小屋に向かっていた。

地形はなだらかな扇状地、山小屋はその天辺にある。山小屋の反対側は切り立った崖で、そちらはどうあがいても接近できるようなルートではない。唯一、車両が通れそうな太さのある登山道は、罠が仕掛けやすい一番危険なルートだ。そちらは別のチームが向かっているはずだった。それ以外のチームは、山小屋を包囲するように左右に展開しながら頂上を目指していた。

山歩きは意外に傾斜がきつく、山小屋から続く踏み慣らしただけの一本道以外に道らしい道はない。後はすべて、背の高い樹木の群れる密林か、太い雑草が生い茂るブッシュだ。

そこには、濃密な緑のあふれた天然の要害が男たちを待ち受けていた。

都会の光にあふれた偽りの闇しか知らぬものには、これまで決して体験したことのない、異質な闇。木々ははるか頭上まで伸び、濃密な樹木のそこかしこから、葉のこすれる音、樹木の間を通り抜ける風の声、そして巨大な動物たちの吐息と、威嚇のうなり声がどこからともなく響いてくる樹海。

しかも、今ではしんしんと冷たい雪が降っている。白い悪魔が視界を狭め、道程をさらに困難なものにしていた。

防寒具を貫通して冷たい風が全身をなで、すでに体は冷え切っていた。山歩きによる疲労と、体温の低下が体力を消耗させ、周囲の不気味さと一体となって男たちの心を削った。

我知らず、ぞくり、と肌が震えた。気がつけば、じっとりと嫌な汗が流れ落ちている。

「ヘイ、兄弟、びびんなよ。相手は一人だ」

「そうそう、1人頭20万ジェニーのやっつけ仕事さ、気楽にいこうぜ」

互いの緊張をごまかすように、男達は気楽そうな口調を装って会話を続けた。

「得物はなんでも好きなのを使えって、たんまり渡されてんだ。せいぜい派手に花火をぶちかまそうや」

事実、彼らは事前に大量の武器を渡されていた。

まず、全員に半自動の短機関銃が渡されていた。射撃が簡単で威力があり、銃身が短いので木々が密集した場所でも取り回しがやさしい。弾薬はすべて45口径で統一されていて、どの銃器にも使用でき、量も腐るほどあった。どれも丁寧に整備されていて、ジャムや暴発の危険はないという。これに、リボルバーが1丁ずつというのが標準装備だった。

さらに、好みによって銃身の長い銃器を選ぶ者もいたし、取り回しの楽な猟銃や散弾銃も用意してあった。散弾銃は近くから標的を狙う場合に便利だし、あまり命中精度を気にしなくていい。雪の降りしきる夜の闇、視界の悪さからこれを選ぶ者もいた。

あまりに重量のある得物はそれだけで消耗してしまうので、個人に持たされた武器はその程度だったが、おまけに各チームに一つづつ、切り札が渡されていた。

使い捨て式の、対戦車ロケットランチャー。

100メートル以内に接近して射撃することで、確実に標的にぶち当てることができる上に、使いようによっては戦車を一発でオシャカにする威力がある。使い捨てのために、常に単発でしか使えないが、それ故にシンプルで信頼性が高い。

1つ10キロもあるのが玉に瑕だったが、人間が担いで狙うこの武器はもっとも確実な最強の個人兵装だと、男達は教えられていた。

こいつをぶち込めば、相手がどんなモンスターでも殺せる。

1丁500ジェニーにもならないという非常に安価な兵器なので何発でも気楽に撃つことができたし、無くしたところで問題にはならない。そういう意味でも安心感があった。

「へへっ、とりあえずこいつをボロ小屋にぶち込みさえすりゃ、それだけでギャラは確定だからな。餓鬼にでもできる簡単な仕事さ」

指示された内容はこうだ。

すべてのチームが別々のルートを同時に進み、とりあえず頂上の山小屋にたどり着いたら、最初のチームがロケットを打ち込む。これで標的の拠点をつぶせる。

後は指定された位置につき、夜が明けるまで待機。標的に遭遇したら、とりあえずウォーキー・トーキー(小型無線機)で連絡を取り、本部に連絡する。ロケット砲が残っていたら喰らわせてやるのもいい。爆炎と轟音で、他のチームに敵の居所が伝わるからだ。あとはそのまま逃げればいい。

いつもの仕事と違って、標的のタマとるまで絶対に逃げるな、とかそういう脅迫はされていなかった。人数だって、1人の標的に対して、こちらは30人以上いる。それが男たちの緊張感を若干鈍らせ、安心感を与えていた。

「直接殺せれば300万のビッグなギャラが手に入る。それでこんなヤバイ仕事ともオサラバだ。今夜はイヴなんだ、俺たちみたいなチンピラにだって奇跡が起こせる日さ。手っ取り早く片付けて、酒と女であったまろうぜ」

男達は下品な笑い声を上げた。

軽いジョークに場が和んだ、その時だった。

カチッ!

何かのスイッチが入るような、奇妙な音を聞いた。

次の瞬間、


ボンッ・・・・・!


背後で、爆発が起こった。












雪の降りしきる中、ゴドーは息を殺し、ひたすらその瞬間を待っていた。

ゴドーが現役時代に兵士として一番学んだことは、待つということだった。密林の轍の向こうに、峠を挟んだ砂漠の向こうに、ツンドラの平原の向こうに、敵影が現れるのをひたすら待つ。

時に、空腹と退屈と、密林の藪蚊と毒蛇、照りつける太陽の灼熱地獄、あるいは氷点下の寒さと戦うことになる。一度の任務で持参できる水も食料もわずかなものだ。医薬品も不足したまま、熱帯の湿気からくる下痢や、砂漠での熱中症、凍土では手足の指が凍傷にかかって腐り落ちそうになったこともある。だが、ゴドーはそのすべてに耐え、不屈の精神を養った。

すでに仕掛けはしてある。それは地中に埋めたり、道端に設置するだけのシンプルな隠し方だったが、むしろ仕掛けは単純なほうが良いのだと、ゴドーは実体験から知っている。

かつて熱砂の戦場で、現地ゲリラたちにやられた手法。それを学びとり、絶大な効果を発揮する自身のスキルへと昇華させていた。そうやって、ゴドーとその部下たちは、あらゆる戦場を生き抜き、生還したのだ。

幸いにも、辺りは深いブッシュに、鬱蒼とした密林。隠し場所には不自由しない。積雪も仕掛けの痕跡を消してくれるので都合が良かった。

傍らの対人レーダーは、警笛とともに丘陵の裾野に迫り来る敵の影を捉えていた。

やがて、相手がキルゾーンに進入したことを確認すると同時に、ゴドーの"能力"も瞬時に遠く離れたポイントの、すべての情報を捕らえていた。

敵は三名、武装は短機関銃三丁に、同数の小銃、そして使い捨ての単発式ロケットランチャー。。ゲリラや反政府組織にはお馴染みの武器だ。威力は凶悪と言うのも生ぬるいが、発射時の後方噴射(バックブラスト)が激しいので、射手の位置が必ず露見する。そのため別名「スーサイドウェポン」と呼ばれている武器だ。

さすがにバシマコフ軍曹の仕事だけあって、必要かつ十分な装備が用意されていた。

だが、歩き方、身のこなしから推察するに、標的の練度は低く、何より念能力者ではなかった。それは、通常兵器が有効に機能することの証左だ。

つまり、こいつらは囮なのだ。

それを確かめると、ゴドーは無言でスイッチを入れた。


ボンッ・・・・・!


直後、彼方の空間に噴煙があがった。

爆風が降り積もった雪を押しのけて、白い火柱があがる。

発火の閃光とともに広がる空間の波。肉片が、飛び散る金属球に切り刻まれて地面に落ち、ぶちまけられる生々しい音。あらゆる情報が能力を介し、ありありと伝わってくる。

凄惨というのも生ぬるい光景を、ゴドーは無感情に確認し、脳裏に排除した敵の数だけを刻み付けて、次の標的へ向かった。




ゴドーの念能力『影なき恐怖(ブービートラップ)』は操作系に属する、非常にシンプルな能力である。

すなわち、ゴドーが最も頼みをおく武器、仕掛け爆弾の"爆薬"と"信管"に念をこめて操作するという、ただそれだけの力なのだ。

手ごろな爆発物と信管に込められたオーラは薄く広がり、設置箇所の周囲に半径10メートル程度の円を形成する。それに何かが触れれば、もちろん能力者はそのことを感知できる。爆発物に込められた念によって爆発の威力も底上げされるが、この能力の特異な部分と言えば、結局のところそれだけだった。

念で操作することで、ワイヤー等のトラップの痕跡は残らないし、いつでも自由に起爆させられるのも利点の一つだ。しかし、それとて遠隔信管の携帯を不要にするという程度のオマケでしかない。

地味な上に、さほど難しい技術でもなかった。ある程度修行を積んだ操作系能力者にとって、それはあまりに単純な能力なのだ。

一見、ゴドーほどの実力者が身につけるような力ではない。


だが、ゴドーという男の磨いたスキルを持ってすれば、それだけで十分すぎる。


ゴドーは知っていた。

戦場でもっとも恐れるべきは、戦闘ではない。移動途中を狙われることなのだ。

移動途中に仕掛けられる、遠距離からの狙撃や仕掛け爆弾。敵の姿は見えず、殺気もない、殺傷力を十分に持った完全な不意打ちの前では、念でのガードは間に合わない。かつてこの身をもって経験した戦訓が、ゴドーにそう教えていた。

特に圧巻なのは、指向性対人地雷を使用した場合だ。

最大加害距離、約250メートル。有効加害距離、約50メートル、加害範囲60度、最大仰角・俯角共に18度。一歩、キルゾーンに足を踏み入れれば、逃れる術は存在しない。

そして、ひとたび内部の高性能爆薬が起爆すれば、700個ものボールベアリングが扇状の範囲に発射される。超音速で飛来する鉄球の持つ運動エネルギーは一発あたり約60ポンドパウンド。念によって威力を底上げされておらずとも、人体など易々と貫通して、なお余りある。

点ではなく、面の範囲でバラ撒かれる鉄球を回避することなど不可能に近い。念能力の基礎にして奥義たる、"流"という技ですら、全面に展開するこの攻撃の前には何の意味もない。

結果、加害距離に足を踏み入れれば、念能力者であろうがなかろうが、ほぼ確実に、死ぬ。

そして、ゴドーという兵士は、この最高の対人殺傷兵器の運用に極めて長けていた。地形、状況、手持ちの装備、利用できるものは何でも利用して、常に敵の死角を突く技能をもっていた。

加えて、ゴドーは卓越した"絶"の使い手でもある。

絶とは、精孔を閉じてオーラを絶つ技術である。普段、微弱に流れているオーラさえ消すために、念に対する防御力は完全に0になるが、気配を消したり、極度の疲労をいやす時などには効果がある。

これによってオーラの流出を完璧に途絶えさせ、強行軍の疲労を癒すとともに、確実に標的を視認できる距離で潜むことができる。ハイディング(隠行)には必須とされる念能力だが、一方でゴドーは絶という技を、姿隠しのためだけに利用するのをナンセンスだと考えていた。

むしろ、ゴドーがもっぱら絶を使うのは、トラップの敷設時なのだ。

絶の状態で設置された数々の罠には、一欠片のオーラも付着しない。故に、凝によってそれらを見破るのは、事実上不可能。その状態でのトラップ発見には、専門的な知識と経験がいる。

さらに、念を通わせて能力者にわざと発見し易くしたトラップ、隠によってオーラを見えにくくしたトラップを併用し、ランダムに設置することで、心理効果はより高まる。

念を持たない者は、念によって遠隔操作されたトラップの直撃を受け、念に精通した者は、念に気をとられるあまり、念を使用しない単純な罠には存外に気が付かない。




隠れ、ひそみ、待ち続け、罠にはめる。

これを繰り返せば、確実に敵を殲滅できる。

それこそが、ゴドーの必勝法だった。

山小屋の周辺には、すでにありとあらゆるトラップが埋設され、完全なキリングフィールドと化していた。














そのチームからの定時連絡が途絶えたとき、ユーリーはいよいよイワレンコフ大尉が動き出したことを悟った。

元々このあたりは基地局が皆無なので、携帯電話は使えない。かといって、衛星電話は高価で契約も面倒なので、使い捨ての連中に渡すほどの数は用意できなかった。

そこで、手軽なウォーキー・トーキーを使って順繰りに報告をさせていたのだが、7番のチームから定時連絡が途絶えていた。おそらく大尉お得意のトラップに引っかかったのだ。

ユーリーは、無言で地図上の7の番号に×印を書き込むと、傍らの無線機のスイッチを入れた。

「"ヘッドチーフから各班へ、標的に動きがあった。ルイージ達の班がやられたらしい。隣り合った班は特に注意しろ。緊急時には、まず本部へ連絡をしろ。以上"」

例え、接敵されて静かに葬られても、このように連絡の途絶によって、ある程度の居所がつかめる。

イワレンコフ大尉の能力は良く知っていたし、こちらの能力も相手には知られている。ある意味では、非常に安心して戦える相手だ。

携帯できるトラップの数にも限界がある。

こうやって短時間のうちに消耗戦を仕掛ければ、いずれ弾薬を使い尽くすだろう。

つまり、部下達は弾薬を無駄遣いさせるための、生きた盾なのだ。

チームの大半は山の中腹まで上り終えていて、そこで第一報を受け取った。ユーリー自身は、いまだに麓の宿営地から一歩も動いていない。卓越した念能力者であるユーリーにかかれば、その気になれば山頂まで30分ほどで駆け上がることが出来る。

だが、相手は常に移動を繰り返し、いたるところにトラップを仕掛けているだろう。うかつに動けば、ユーリーとて男達と同様に、トラップにやられる。

イワレンコフ大尉にとっては、無駄な消耗戦をするよりは、手っ取り早くユーリーをおびき出して殺害するのがもっとも効率の良い方法だ。だからこそ、ユーリーはこうやって後方に退避して、相手の装備を消耗させ、疲労を蓄積させる戦術を取っているのだ。

それに、降りしきる雪もどんどん勢いを増していて、それはユーリーにとって有利な状況を生み出している。いつもなら、出撃時に天気にたたられると碌なことはない。縁起は担ぐもので、不吉な予兆は見逃してはならない。それはユーリーがかつて戦場で培った教訓だが、それも時と場合によるのだ。

勢いを増して降り続ける雪は視界を狭め、イワレンコフ大尉の狙撃能力を削ぐだろう。さらに、続々と地面に降り積もる雪は足音を消し、人のいた痕跡を消し去ってしまう。それは標的の発見を困難にすると同時に、こちらが敵に見つかる可能性も低くなることを意味した。となると、単純に数の多いほうが策敵範囲は広くなる。

それに、武装した数十人の兵士の戦力は、純粋な驚異だ。数の差で手数を増やし、重武装で個々の性能差を埋めている。部下の練度の低さを考慮に入れた、シンプルだが手堅い戦略だった。

気温の低下による体力の消耗も、一人ですべての敵に対処するしかないイワレンコフ大尉には不利に働くだろう。これで、単なる囮でしかなかった連中にも多少の意味が出てきた。体力が消耗すれば、どんな優秀なコマンドでもミスをするものだ。

場が混乱し、イワレンコフ大尉がミスを侵し、自らの居場所を晒した瞬間が、つけめだった。その瞬間こそ、音もなく標的に近づき、接近戦で仕留める技を得意とするユーリーにとって、独壇場になるのだ。

ふと、また一つ遠くで爆音がとどろいたような気がした。

手元の腕時計をみると、定時の連絡時間が過ぎている。ユーリーは即座に無線機を手に取った。

「"こちらヘッドチーフ、8班、応答せよ。繰り返す、こちらヘッドチーフ、8班、応答せよ"」

無線機からは、砂嵐しか聞こえてこない。

ユーリーはそのまま無線機のスイッチを全周波数に切り替えた。

「"ヘッドチーフから各班へ、さらにレイの班がやられた。何かあったら、なんでもいい、本部へ連絡をしろ。以上"」

再び、手元の地図に×印を書き加えた。

今度は先ほどの印から、そう遠くない位置である。

「何故だ。大尉は勝負を焦りすぎている・・・?」

先ほどから連続して地図に張り付けられる×印。それは、等間隔に並び、標的の出現位置を如実に示している。あまりに動きが単調すぎた。しかも、先ほどの襲撃から時間もそれほどたってはいない。そこに、かすかな違和感を感じた。

およそすべての戦闘行為においてもっとも重要な要素は、攻撃でも防御でもなく、索敵だというのがユーリー達が共に培った戦訓だ。

敵に見つかるよりも先に敵を見つけられれば、それだけで絶対的なアドバンテージを得る。例えば、戦場で兵士の死傷率がもっとも高いのは、移動途中を狙われる場合だ。移動ルートを先回りされて罠を仕掛けられれば、どんな大部隊もたやすく壊滅させられる。常に先手を打って奇襲を仕掛けられれば、多少の戦力の差など何の意味も無い。

故に、例え体力を消耗したとしても、襲撃はランダムな位置を狙い、時間差にも緩急をつけて相手をかく乱するべきなのだ。すでにイワレンコフ大尉には、ユーリーの繰り出した兵士達が、練度の低い単なる囮でしかないことは判明しているに違いないのだから。

無理をして短時間に殲滅を図るよりも、必要最小限の数だけを仕留め、多少時間がかかってもこちらの位置を探ろうとするのが、結果的にもっとも効率がいいはずだ。

それに、焦りすぎると、思いも寄らぬところでネズミが猫をかむことだってありえる。よほど身体強化に特化した能力者でも、使いようによってはMBTを行動不能に陥れるロケット砲の威力は、どうしようもないほどに強力なのだから。

ぼんやりと思考をめぐらしながら、ユーリーはタバコに火をともした。

少し吸い、揉みつぶして、再び火をつけるという行為を繰り返す。ユーリーが苛立っているときに、無意識にうちに見せる癖だった。

「少し、プランを修正するか」

脳裏には、あの人が病気に侵されているという、ブッディの言葉がよぎっていた。














「いい加減、起きやがれ」

脇腹を蹴飛ばされる激痛、そしてやや低めの少女の声で、男達は目を覚ました。

買い物から帰る途中、ちょうど麓あたりにたむろしていた男ども。彼らはアンヘルが車から降りて声をかけると、一様に顔を見合わせて下卑た笑いを浮かべた。

アンヘルにとって、その顔には見覚えがありすぎた。若い女と見れば、裸に剥いて輪姦(マワ)すことしか頭にない、ノータリンの下衆野郎。

反吐が出るような不快感を覚えたので、彼女の行動はすばやかった。

それを男達の視点から見るとこうなる。

とりあえず服を引っぺがそうと女の服に手をかけたら、次に気がつくと、無造作に雪の上に転がされていた。間の記憶はまるでない。

しかも、足と腕の親指の付け根、両膝の間接部を釣り糸で縛られていて、完全に身動きができない。どうやら武器も取り上げられたようだ。

そして件の少女は、ナイフ片手にこういったのだ。

「この雪の中、ハジキ抱えてうろついて、何してたんだ。まさか、そろってピクニックってわけじゃないよな」

チラチラと刃物を見せて脅迫しながら、アンヘルは妙な胸騒ぎを覚えていた。

つい先ほど、吹雪のせいで帰りが遅れることを連絡しようとしたのだが、ゴドーの衛星携帯は不思議とつながらなかった。どれほどコールを繰り返しても、それは同じだった。

いつどんなときでも連絡は絶やさず連携を心がけろ、それは彼女がゴドーに真っ先に教わったことの一つだ。

時間をかけてはいられない。とりあえずアバラの2、3本もへし折ってやろうと思っていたときだった。

男の一人がニヤニヤしながらこういった。

「なあ、お嬢ちゃん、ここであんたがストリップしながら、オレらのナニを世話してくれるってんなら、何でもしゃべっちゃうぜ。なあ、おい」

男達はそろって下品な声で笑った。

自分の外見が相手に与える効果というものを、これまでアンヘルは自覚したことがなかった。

それに哀れな男どもは、大量に摂取しすぎた酒とドラックのせいで、破滅的なまでに察しが悪かった。

だから、たたでさえ容量の少ない彼女の忍耐力のタンクは、火をつけられて爆発した。

「なあ、おっさん、ダーツゲームは好きか?」

と、唐突にアンヘルは言い出した。

その手元には、いつの間にか数本の小型のナイフが握られている。

「実はオレ、これが下手でさ。毎日練習してるんだけど、なかなか狙ったところにいかねえのよ。このままじゃ、こわーい岩顔面男にボコボコにされちまうんだ。だから、さ」

男どもは、ようやくこの時点で、なにやら嫌な予感に身をすくませた。

その少女は、歯をむき出しにして笑って見せたのだが、それがなにやらとてつもなく不吉に見えたし、実際、それは間違っていなかった。

「ちょいと、的になってくれや」

それは、まるで大型の肉食獣のような凶悪な笑みだった。

ここにいたって、目の前の少女が人間の形をした別の何かなのだと、男達は気付いた。













…to be continued



[8641] 奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.6 
Name: kururu◆67c327ea ID:9a793c58
Date: 2009/06/21 18:56

指摘受けて修正しました。

感想で指摘いただいたとおり、ウヴォーギンとの対比がしたくて、対戦車ロケット(RPG)を出しました。個人的にはサーモバリックしかないだろうと思いつつ、戦車云々の記述は原作対比で入れたいという二律背反に陥った末の表現です。いずれ折を見て整合性が取れるように書き直しますので、勘弁してくださいませ・・・・m( )m

それより頭の中でサブマシンガンを想定していながら、『軽機関銃』とタイプしているとは・・・・・orz
















ユーリーは、慣れた手つきで野戦服の裾をめくると、アンプルの中身を右腕の静脈に注射した。

とたんに、強烈な快楽とともに意識が覚醒していく。全身を巡るオーラも、目に見えて増加していた。ちなみに、アンプルの包装紙の薬効欄には、風邪薬とある。

崩壊前の祖国で、戦場で極度の緊張を強いられる激戦区の兵士等に配布されていたものだ。祖国の生み出した偉大な発明だ。国を出たときに大量に持ち出したが、だいぶ数も少なくなってしまった。

ユーリーは大きく息を吸い込むと、全身を震わせて久々の大好物を堪能した。四肢に活力がみなぎり、血液に直接氷を流し込まれたかのように、脳が冴え渡る。おそらく古の暗殺者達は、皆この恍惚状態に酔いしれて、夢中で殺人を繰り返したのだろう。

普段我慢している分、最高の気分だった。実に心地いい。

だが、使いすぎると副作用によって身を滅ぼす。少量を注意しながら使うのがコツだ。適用量は分かっているつもりだが、これにはまり過ぎると次第に見境がなくなって抜けられなくなる。多幸感に鈍った頭で分水嶺(ボーダーライン)を見極めなければならないので、扱いが難しい。これを使用し続けた結果、廃人になった連中をユーリーは数多く見ていた。

ユーリーは人心地つくと、手元の腕時計に目を落とした。定時連絡の時間はすでに3分ほど過ぎている。

無線機のスイッチを入れた。

「"こちらヘッドチーフ、4班、応答せよ。繰り返す、こちらヘッドチーフ、4班、応答せよ"」

本来なら向こうからかけてくるように指示していたのだが、元々おつむの足りない連中なので、こちらからかけたほうが手っ取り早い。

2、3度試したが、結果は同じだった。ユーリーは地図上に×印を増やした。

最初の襲撃からこれで×印は9個。残る一組は、万一の標的の逃走に備えて、麓に待機させていたのだが、先ほどから音沙汰がない。その後も、いくつかの班がやられているので、すくなくとも逃げだしたわけではないようだ。

つまり、これですべての班からの連絡が消えたことになる。

損耗率100%、昔の職場なら確実に営巣行きだが、ユーリーはむしろ街のクズどもを掃除しているような気分だった。

幸か不幸か、ここまでの経過は、まったくもって事前の予想通り。ただ、もう2、3時間はかかると思っていたので、それだけが意外と言えば意外だった。

およそ3時間ほどで、バラバラに移動していた10チーム、30人を見つけ出して始末する、というのはかなりのハイペースだった。装備や体力の消耗も激しいだろう。理由まではわからないが、確かにイワレンコフ大尉は焦っているのだ。

だが、それにしても、大尉の能力は厄介だった。味方だったときはこれ以上ないほど頼もしかったが、敵に回るとそのことが良くわかる。

通常、このてのトラップは、卓越した念能力者には、まず通用しない。

円、という技がある。

自分の必要な間隔までオーラを広げ、その中にある全ての物の形や動きを肌で感じることが出来るという、念能力の用技。索敵範囲は狭いが、精度が桁外れに高い対人レーダーのようなものだ。もちろん円は高等技術で、誰もが体得できるものではないし、展開できる"円"の大きさにも個人差がある。だが、この能力さえ身につけていれば、念を用いないトラップなど無力化できる。

ユーリーが無理せず維持できる円の範囲は半径約20メートル。トラップや不意打ちを警戒するには十分な距離だ。例え円の外から銃撃されても、ユーリーの身体能力ならば余裕で防御が間に合う距離でもある。

だが、ユーリーは決して円を使わなかった。

うかつに円に頼ることの恐怖を、ユーリーは良く知っていた。イワレンコフ大尉の仕掛けるトラップは、敵が念能力者であることを前提にして設置されているのだ。

トラップに用いられる仕掛け爆弾の種類は三つ。

念を込められたもの、絶を応用した"隠"という技術によって、込められたオーラを見えにくくしたもの、そして、まったく念を用いていないもの。

念を込められた爆弾は、周囲に半径10メートル程度の円を形成し、それに接触するか、もしくは能力者の遠隔操作で起爆する。念能力者であれば、広がったオーラを視認できるので、こちらの展開する円が接触しないように気をつけさえすれば、それをやり過ごすのは問題ない。

だが、中には"隠"でオーラを見えにくいように処理された爆弾もあって、これがやっかいだった。

このトラップの発見には、目にオーラを集中する技術、凝が欠かせない。そして、その状態では円が使えない。オーラを集中させる技と、広げる技。相反する技術を同時に使えるものなど存在しない。少なくとも、ユーリーは使えなかったし、使えるという人間の噂を聞いたこともなかった。それに、イワレンコフ大尉は"隠"の達人で、よほどうまく凝を使いこなさないと仕掛けを見破るのは難しい。

さらに、念を込めた爆弾ばかり警戒していると、一切のオーラが付着していない、普通のトラップにあっさりやられることになる。

そもそも仕掛け爆弾というのは、手榴弾をまとめて括り付けたり、ロケット弾の弾頭部を使ったり、指向性の対人地雷であったりと、念を込めなくてもすさまじい威力がある。円を封じられた状況下では、一切オーラの付着していないトラップを見分けるには、戦場で過ごした長年の勘と経験だけが頼りだった。

結局、この状況では凝を怠らず、注意をしながら地道に進む以外に手はない。

「・・・では、行くか」

思考に耽る間に、薬は全身を駆け巡って、ちょうどいい具合になっていた。

武装は、サイレンサー付きの携帯用サブマシンガン。音もなく闇夜に忍び寄り、肉薄して攻撃するには絶好の武器だ。威力もそれなりあるので、念能力者に対してもダメージを見込める。しかもプラスティック製で驚くほど軽い。

そして、何より頼りになる武器、愛用のバヨネット。

装備の確認をしていた、その時だった。

「"リーダー、リーダー、聞こえているか、クソッタレ!"」

不意に、沈黙していた無線機から、甲高いダミ声が漏れ出した。

即座に、ユーリーは無線機に手を伸ばした。

「"こちらヘッドチーフ。よく聞こえている。落ち着け、まずは所属と氏名をのべよ"」

とたんに、雑音交じりの怒声が聞こえてきた。

かなり混乱しているのだろう、意味不明なスラングが続くのを、ユーリーは耐えていた。

「"馬鹿野郎!これが落ち着けるか!!ファック、ファック、ファックだクソッ!!おい、リーダー、みんな死んじまったぜ!!みんなだ、ダミアンもリロイの奴もだ!オレがちょっとクソしてる間に、こんがりローストになっちまった!!おい、コラ、リーダー、わかってんのかよ、×××野郎!!"」

「"感度は良好だ。よく聞こえている。所属と氏名をのべよ"」

相手は極度に興奮しているようだった。目の前にいれば、もっと冷静に話せるように指の2、3本でも切り落としてやるのだが。

「"ファック!!エドワフだ、4班のエドワフだよ、クソ野郎!"」

「"そうか、エドワフ。状況を確認したい。つまり、攻撃を受けたのだな。そして、君一人生き残った"」

「"だから、そういってるだろが!頭沸いていんのかテメー!!"」

どうやら、チャンスが巡ってきたようだ。大尉は勝負を焦って雑魚を一匹、仕留め損なった。

その代償は高くつくだろう。

「"そうか、君は実に運がいい、何せまだ生きている。だが、冷静に考えてみろ。君一人生き残ったと言うことは、相手にすぐ気付かれる可能性が高い。おそらく、再攻撃がくるぞ。その前に何かしないと、どのみち死ぬ。オーケイ?"」

トラップというのは一度使ってしまうと再度仕掛けるには多少なりとも時間がかかる。おそらく次は狙撃か、確実な接近戦でケリをつけるはずだ。

「"クソッタレ、じゃあどうしろってんだ!!"」

「"落ち着け、手はある。まだロケットは残っているか"」

「"あ? ああ、あるぜ、俺が持たされてたからな!"」

思わずユーリーはガッツポーズを決めていた。

昔、大尉に教わったとおりの展開になってきた。戦場では先にミスを犯した方が、死ぬ。

「"でかした、君は本当に運がいい。先ほどの攻撃の方向は分かるな。だいたいでいいから、そちらに向けてぶっぱなせ。後は、まっすぐ逃げてくればいい。それで報酬は君のものになる。オーライ?"」

指向性の対人地雷は効果範囲が広いため、仕掛けた側はその反対側に潜んでいる可能性が高い。運よくロケット弾の有効加害範囲に潜んでいたら、多少なりともダメージを与えられる。ついでに大尉自身の仕掛けたトラップに誘爆でもしてくれたら、なおいい。

「"ああ、わかった。わかったよ、クソリーダー、この派手な花火をぶっぱなしゃ、それで仕舞いなんだな。やるよ、やってやるよ。その代わり、死んだ奴の取り分までオレのもんだ!それでいいな!!"」

「"ああ、かまわない。一発、いいのを撃ったら、君は英雄だ。幸運を祈るぞ、エドワフ"」

生きて帰れたらの話だがな、という言葉を飲み込んでユーリーは通信を切った。

連中に持たせたロケット砲は、すべてサーモバリック弾頭に換装してある。その有効加害半径は弾着場所を中心として10メートル。破片などによらず、爆風と高熱高圧で破壊と殺傷を行う。

これは強力な念能力者にも極めて有効だ。筋肉を強化し、皮膚組織を強靭にしたところで、所詮は肉と骨。どれほど念で強化したところで、たんぱく質は100度を超えると凝固する。

ユーリーは耳を研ぎ澄ました。

かすかに、どこかから爆発音が聞こえた気がする。

直後、再び通信機に連絡が届いた。

「"リーダー、リーダー、聞こえるか。いわれたとおりに、あてずっぽで一発撃ったぜ。これでいいんだな"」

「"ああ、こちらでも炸裂音を確認した。よくやってくれた。約束どおり、報酬は君のものだ"」

「"へ、へへっ、そいつを聞いて安心したぜ。じゃあ、俺は、とっととトンズラさ・・・・・(グキャッ!!)・・・・・・ツー、ツー、ツー"」

それきり、無線機は途絶えた。

ロケット砲の最大の難点は、発射時の後方噴射(バックブラスト)が激しく、射手の位置がモロバレになることで、発射後は速やかに移動する必要がある。だが、ユーリーはあえてそのことを教えていなかった。

すでに用済みとなった無線機を手近なブッシュの影に隠すと、ユーリーは今度こそ出撃した。

両手、両足にオーラを集中、そして次の瞬間にはその場から消え失せていた。

ただの一蹴りでユーリーが跳躍した距離、実に20メートル。

そのまま背の高い樹木の枝に、ビタリと片手を付けて張り付くと、するすると下まで滑り落ちつつ、適当な位置で静止する。そして、しなる枝の反動を利用して、次の枝へと飛び移った。

時折、地面に飛び降りて、樹木や手ごろな岩を足場にしながら、まるで蜘蛛か猿のような俊敏さで、針葉樹の生い茂る密林(タイガ)を音もなく移動していく。しかも、木々の間や、生い茂った枯れ草、降り積もった雪に紛れ込んだワイヤートラップを目ざとく発見し、慎重に回避しつつ、移動速度は落ちていない。

三次元空間を自由自在、不規則かつ俊敏な移動術。

これには、もちろん、種も仕掛けもある。

『Ωジェル(オメガジェル)』

オーラをスポンジとジェルの両方の性質をもつ物質に変化させる能力。

その衝撃吸収力は、22階から落とされた生卵を割らずに受け止められる程に優れ、移動の際の物音を完璧にシャットアウトする。しかも、いたるところに張り付きつつ、逆に表面の摩擦抵抗をゼロにすることまで可能。これによって垂直に近い壁面や木々の枝、その気になれば天井すらも、自在に足場として利用できる。

この能力を使用した、障害物の多い空間での隠密戦闘こそ、ユーリーの真骨頂だった。














奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.6 














オレは雪を掻き分け、"凝"をしながら慎重に獣道を進んでいた。



結局、男は二本目のナイフを突き立てられる前に、洗いざらい全てを喋った。

耳の先を少しかすらせただけで、よくペラペラとしゃべる口だ。本当のことを話すまで、目を抉るか、鼻を削ぐか、金玉をナッツのようにかち割ってやろうかと考えていたので、オレは少し拍子抜けしたが、糞尿を漏らして怯える連中の顔に恐怖以外の感情はなかった。信用してもいいだろう。

しかし、分かったことはそう多くはない。

連中には重要なことは何も知らされていなかったのだろう。使い捨ての兵隊なら、それも納得できる。男達の技量はオレから見てもお粗末なものだった。

重要なのは、ゴドーが狙われているということだ。敵は、30人ばかりのゴロツキども。だが、銃器や対戦車ロケットで武装しているという。そして、ユーリーという名の男達の指揮官。

危険な男、それが話を聞いて抱いたユーリーという男への印象だった。

必要十分な武装を用意する手際の良さ。手駒の能力を完全に把握して、効率よく使い捨てる的確な作戦能力。どこかゴドーにも通じる、容赦のない冷徹、冷酷な思考。

手ごわい、侮るべきではない敵だ。もしかしたら、いや、十中八九、念能力者だろう。この戦術は、最後に確実に標的にトドメをさせる戦力が用意されていなければ意味がない。



必ず、ゴドーより先に見つけて、殺してやる。

その思いだけが、頭の中を支配していた。

オレは、何故か焦っていた。

ゴドーが殺される、そう考えただけで、心臓が張り裂けそうになる。

正体の分からない恐怖に襲われて、冷静さを失っていた。



行きに使った山道は使えない。緊急時には、このルートはトラップだらけになるからだ。そのような場合におけるルートは、あらかじめゴドーと打ち合わせてあった。まさか、本当に使うことになるとは思わなかったが。

道中、オレは至る所に複数のトラップを発見していた。山岳ゲリラお馴染の、ゴドーの18番。

念によって強化された、無数のトラップによるキルゾーン。しかも、うかつに円を使用すれば、たちまちトラップの餌食になる。

これを仕掛けられたフィールドを抜け出すのは至難。しかも、ゴドーは絶えず獲物の動きを感知して、数キロ先から50口径の精密射撃を喰らわせる。仕掛け爆弾のトラップに、アンチマテリアルライフルの掃射を受けたなら、どんな念能力者もたちまちのうちに肉片と化す。

トラップにふれないように、注意深く、耳を澄ませ、足音を忍ばせて進む。

その間も雪は絶え間なく降り積もり、すでに足元が5インチ近くも雪の中に埋まるほどだった。

敵と会ったら、オレは刃物で音もなく片付けるつもりだった。

携帯している銃にはサイレンサーが付いていなかったし、どこに敵が潜んでいるのか分からない状況では、咄嗟の白兵戦が最も怖い。

やがて、オレは生物の息遣いを捕らえた。

地面に腹ばいになって耳をすますと、ほとんど雪面しかない地面を通じて振動が伝わってくる。

その中に、かすかに奇妙な振動があった。バランスを欠いていて、恐らく片足を引きずるようにして歩いているのだ。

もしかしたら、野生の獣かもしれない。降り積もる雪で臭気も消されつつあったが、大型の肉食獣のつめ跡を見つけていた。大きさと形状から、恐らくはヒグマだ。

このあたりは野生動物が多く、肉食獣に出会う確立も高い。普段なら、人工音を嫌う動物の対策に、携帯ラジオをガンガンにかければそれですむが、今それをやれば、潜んでいる敵に対して自分の居場所をばらしてしまう。かといって、冬越えの準備で食欲が増し、凶暴になったヒグマの相手をするのも骨が折れる。

すでにオレは"凝"を解き、"絶"で気配を断っていた。右手には、ナイフを構えている。

雪をひとすくいして口中に含み、息が湯気になって敵に見つかるのを防ぐ。

樹木の影に全身を潜ませ、相手が視認できる距離に近づくのを待った。




そして、生い茂る樹木の陰から姿を見せたのは、ゴドーだった。















「ゴドー!!」

アンヘルは、思わずゴドーに駆け寄った。

ゴドーは小脇に長大な銃身を持つ50口径の対物ライフルを抱えていた。頭には枯れ草を纏わせたヘルメットをかぶり、ケブラーやアラミド繊維を幾重にも織り込んだボディアーマーを身に付け、その上から雪上迷彩ポンチョをかぶっていた。

顔には白と灰色のドーランを塗りたくり、かすかに香る木の草と、鹿の糞の香りを纏っている。それは、完璧な偽装(カムフラージュ)だった。

だが、今は大量に満ちている別の臭いに圧倒されている。

すなわち、鉄とプラスチックと、肉のこげる嫌な臭い。

「・・・・・こんなところで、何をしている」

ゴドーの半身は、黒焦げであった。

右半身はロケット弾の爆発をもろに受け、凄惨なほどに焼け爛れていた。右手は原形をとどめず、小指を残して千切れ飛んでいる。左足にも金属片が突き刺さり、少なくない量の出血を強いられていた。頭部も右側からケロイド状に焼けただれ、髪の毛がごっそりと引き抜かれて、赤黒い表皮だけになっていた。

アンヘルは、思わず息を呑んだ。

「お、おい、ゴドー、いったい何が・・・!」

だが、その言葉をさえぎり、

バチン!   「ギャッ!」

とたんに、顔面に繰り出される張り手。満身創痍にもかかわらず、まったく威力は衰えていない。

アンヘルは目の回るような激痛に、思わず呻いていた。

「なっ、何しやがっ・・・る・・・」

思わず抗議の声を上げたアンヘルを迎え撃ったのは、重症にもかかわらず、いささかも覇気も衰えない、すさまじい殺気を漲らせたゴドーの目だった。

どんなときも感情を見せないこの男が、珍しく本物の怒気をむき出しにしていた。

「例え、近づいてくるのが親兄弟、気心の知れた仲間であろうとも、自分から姿を晒し、近づいて来る相手に声をかける。誰が、そんなことを教えた」

アンヘルは、肝を冷やしていた。

久々に、殺し屋・ゴドーの地金を目のあたりにした気分だった。

項垂れるアンヘルを尻目に、ゴドーは適当な石の上に腰を下ろすと、無言で怪我の治療を始めた。

焦げた組織と、そのまわりの白い水ぶくれを破らないようにしながら、ゴドーは左手のナイフで黒焦げのポンチョを切り捨てた。慣れた手つきで、患部に雪をすり込んでよく冷やす。降ったばかりの積雪は清潔で、細菌による感染の心配もない。

そして、携帯していた医療キットから清潔な針を取り出すと、水泡の中にたまった液体を抜いた。その痕に、感染を防ぐため抗生物質入りの油性軟膏を塗布する。最後に、特殊ガーゼを傷口に当て、それが張り付かないように注意しながら、包帯で巻きだした。

その間も、焦げた右手はピクリとも動かない。すさまじい苦痛が、ゴドーを襲っていた。だが、ゴドーは眉一つ動かさず、黙々と作業を続けた。

やがて、ゴドーの手が届かない背中の肉に包帯を巻く段になると、顔を伏せていたアンヘルが無言で手を貸した。

背中に突き刺さった金属片を取り除き、消毒薬を塗りこんだ。そして、ずれないように、だが動きを阻害しないように、ゴドーに教えられたとおりに包帯を巻く。

「・・・・・すでに、お前は、技術だけならオレを凌いでいる。それは、自信を持っていい」

治療を受けながら、ゴドーは唐突にそう言った。

ゴドーは先ほど、潜んでいたアンヘルにまったく気付いていなかった。これが敵なら、すでにゴドーは死んでいただろう。

油断していた。ロケット弾を喰らった時も、不意の攻撃に対処し切れなかった。近距離で巻き込まれた挙句がこのザマだ。生き残りがいるかどうか、もっとよく確認するべきだった。やはり、実戦の勘が狂っているとゴドーは思った。

ロケットを撃った男をくびり殺した後で、すでにその場で簡単な治療をしていたが、疲労が蓄積し、目はかすんでいたし、痛みはすでに無かった。体も冷え切っていた。

オーラも相当に消耗している。ゴドーの能力は単純であるが故に、数多くの爆弾に念を込められるのが長所の一つだ。それでも、数をこなせばそれなりに消耗する。使い捨ての爆弾に念を込めるというのも、使い慣れた得物のようには威力が上げられず、オーラの消費効率が悪いのだ。

何より、過度の負担によって、ゴドーの弱りきった心臓は、爆発しそうなほどに不規則な鼓動を繰り返していた。

あらゆる要素がゴドーの不利を、窮地を示している。

だが、ゴドーはすべてを冷静に受け止め、感情を押し殺していた。後悔は役に立たない。そして、焦燥はもっと役に立たない。

アンヘルに身を任せながら、ゴドーは身じろぎもせず、穏やかな声で諭した。

「先ほどは、お前が何故それほどに高ぶっていたのか、それは俺にも分からない。だが、感情に惑わされるな。怒りに憎悪、狂気や悲哀、あるいは義憤。強い感情は念に作用して、お前を強くも弱くもするだろう」

アンヘルはうな垂れたまま、まともにゴドーの顔を見ることが出来なかった。

ただ、ゴドーの静かな声が、何故か胸のうちをえぐっていた。

「だが、身につけたスキルまで見失うな。感情に突き動かされた短慮な行動は、自分の身のみならず、仲間すらも危険に晒す。心を熱く高ぶらせても、頭は氷水のように凍てつかせろ。・・・・・・・・・それが出来れば、お前は誰にだって打ち勝てる力を、すでに持っているんだ」

アンヘルが思わずはっとして顔を上げると、ゴドーは微笑んでいた。

それは、ゴドーが初めて見せる、優しそうな笑顔だった。

「ゴドー、オレは・・・・・」

呆然として、アンヘルが治療の手を止めた瞬間だった。

「伏せろ!!」

ゴドーの手に頭をつかまれ、アンヘルは引き倒された。雪原に押し付けられ、その上からゴドーの体が覆いかぶさる。

タタタタタタタタタタンッ!!!!!

同時に打ち込まれる軽い射撃音。

発砲音は極わずかで、薬莢の排出される音の方がむしろ大きい。恐らく、サイレンサーを使っている。ゴドーに庇われなければ、まったく気付かなかった。

「ゴドー、お前、オレをかばって!」

「大事ない、それより敵だ!」

ゴドーはすでに傍らの50口径を左手だけで構えていた。銃身の前部に取り付けられた2脚(バイポッド)を展開し、手ごろな岩に接地して、片手で無理なく狙いを付ける。

タタッタタッ!!

ゴドーは、2メートル近い銃身をもつそれを、まるでアサルトライフルか何かのように扱って、ダブルタップを行った。

岩や木など、あらゆる遮蔽物を根こそぎ貫通する威力のある弾丸が周囲に降り注ぎ、雪片が煙のように舞う。

一通り掃射が終わると、その向こうには、一人の男が立っていた。

シルバーグレイの髪を伸ばした、壮年の男。

その身をゴドーと同じボディスーツに包み、片手に短機関銃(サブマシンガン)を抱えていた。

「さすが、大尉殿。9mmパラでは牽制にもなりはしない。やはり、頼りになるのはコレだけか」

男は、サブマシンガンを放り捨てると、両手に大型の銃剣を構えた。

アンヘルは直感的に悟った。おそらく、こいつがユーリーだ!

「これを使え!」

ゴドーに押し付けられたのは、おそらく鹵獲武器であろう、サブマシンガン。マガジンも3本あった。

アンヘルは慣れた手つきで構えると、フルオートで引き金を引き絞った。

ドドドドドドドドド!!!

軽妙な射撃音とともに続々と吐き出される薬莢、鼻を突く硝煙の匂い。たちまちのうちに弾倉を丸一本使い切り、再び次弾を装填する。

二方向から浴びせかけられる銃撃。

だが、当たらない。

並外れた動体視力を持つ念能力者が二人がかりで、当たらない。

木立や岩石の影に隠れながら、不安定な影が猛スピードで跳躍し、樹木に取り付き、地面を這う。急加速して接近したと思ったら、不意に勢いを完全にかき消して急停止、そこから360度方向にタイムラグなしに飛び回る、すさまじいまでの超機動。目で追うことが出来ても、狙い撃ちが追いつかない。

それは、もちろんユーリーの念能力によるものだった。

四肢に展開したオーラの摩擦力を操作し、時に慣性力を一気に殺して静止するように急停止、時に静止摩擦力をゼロにして滑るように滑走する。足場の悪い雪原を、まるでコンクリートの地面のように、すさまじいスピードで俊敏に移動する、予測不能のフットワーク。ユーリーの能力は、接近戦においてもすさまじい威力を発揮していた。

ゴドーはそのことを知っていたし、アンヘルは知らないまでも、足元に何か細工があるのを見抜いていた。伊達にゴドーの訓練を耐え抜いたわけではないのだ。未知の能力者への対処法も、叩き込まれている。

だが、念(それ)だけでは説明がつかない。

アンヘルはともかく、すさまじい命中精度を誇るゴドーの射撃を前にして、相手にはいささかの躊躇も見られない。

どれほど強力な念能力者だったとしても、超音速で発射される弾丸を避け続けることなど不可能だ。オーラを防御に回して防ぎきるほうが、むしろ容易い。

事実、発射した弾丸の何発かは命中し、いくつかは男の着込むボディーアーマーに防がれていた。だが、それでもかなりの数が男の肉をえぐり、削っているのを二人の目は捕らえていた。

それでも、ユーリーはとまらない。

「おいおい、こいつ何もんだ!」

「無駄口をたたかずに撃ち続けろ!できれば四肢の間接がいいが、お前は無理せず中央狙いでいけ!」

さすがに射撃には信用がなかった。

ゴドーは無駄弾を使わないようにダブルタップで撃っていたが、アンヘルはそこまでの射撃技術を持っていない。方向だけ合わせて弾をばら撒いているだけだった。

だが、撃ち続けるうちに、アンヘルはあることに気づいていた。

この男は、おかしい。

この男の行動には、生物ならば誰もが持つ感情、『恐怖』がない。

無数の弾丸が殺到する最中に、極めて冷静な思考のまま、こちらをまっすぐ睨み据えて翻弄する。普通は、それが可能であっても必ず躊躇するはずだ。

しかも、ゴドーが使用しているのは、50口径の対物ライフル。その威力は、本来は人間への使用が禁止されているほどなのだ。

まるで、死や苦痛に対する恐怖が引き起こす生体反応が欠如しているかのようだった。

かつてアンヘルも、恐怖からくる肉体の硬直を押さえ込み、ダメージを逃がすための訓練を受けさせられたことがある。だが、この男の持つ雰囲気は、そういった訓練で到達できるレベルとは次元が違う気がした。頭のネジがイカレているとしか思えない。

やがて、アンヘルが3本目のマガジンを使い切り、ゴドーもまたライフルの弾を使い切った時、男はそれを見計らったかのように、まっすぐ突っ込んできた。

彼我の距離、約5メートル。

ここにきて、アンヘルはようやく相手の顔を捉えた。

堀の深い、年齢の判別しづらい顔だった。その皮膚には縦横にしわが刻まれており、男の過ごしてきた年月の厳しさを物語っている。

だが、何より特徴的なのは、血走った目に青白い肌、妙に気味の悪い薄笑いを浮かべた白い唇。

アンヘルはようやくその正体に気づいた。

「こいつ、服薬暗殺者(アサシン)か!!」

麻薬を摂取することで、身体能力を研ぎ澄ます暗殺者。

彼らは向精神系の薬物を常に服用することで、人体の限界を超えた能力を有し、あらゆる恐怖を麻痺させる。だが、訓練時も含めて常に麻薬を服用する必要があるため、強力な副作用に体を蝕まれ、著しく命を削る。必然的にほぼ使い捨ての兵士となるため、現在では廃れた戦闘術だ。

二人は、弾切れの銃をその場に捨てると、ユーリーを正面から迎え撃った。

「オアァァアァァァァァァ!」

ユーリーの奇声が、響いた。





続く瞬間は、緊張の連続だった。





刹那、掛け声と共に放たれたバヨネットの一撃は、容赦なく速かった。狙いは、無論ゴドー。

直進であるかのように錯覚するほどすばやい一撃だったが、決して直進ではなかった。例の奇怪な足捌きのリズムが視覚に幻覚をもたらし、さらに腕全体を鞭のようにしならせた攻撃が威力を加える。

足をやられているゴドーはその場で力を貯め、一撃を防御するためにオーラを左腕に集中させる。

と、同時にアンヘルは無言で飛び出した。ゴドーが一撃を受け止めた時点で、相手にカウンターを喰らわせるために。

一年間、二人は共に過ごしてきた。同じ戦闘技法を教え、教わってきた。それが可能とする、完璧な連携プレー。

それに対するは、烈風にも似たユーリーのバヨネット。先端の速度は、音速を突破していた。

その一撃が、吸い込まれるようにゴドーの左腕に振るわれると、一切の抵抗感なく振りぬかれた。まるで、バターをカットするかのように、切りはじかれる左腕。

そのときには、アンヘルの渾身の力を込めた刺突が繰り出されていた。狙いは、無防備な背中。

「ッシャァァア!!」

だが、すべてのオーラを集中させた一撃は、見事に空ぶった。

捕らえたと思った瞬間、ヌルリ、と油のような妙な感触が伝わってきた。

アンヘルの一撃はユーリーの皮膚の上を切り裂きながらも滑り落ち、ほとんどの威力を伝えることなくいなされた。

そして、完全に腕が伸びきったところで、その腕を捕まれる。腕はビタリと接着剤を付けられたように張り付き、そのまま突進の力を利用する形で投げ飛ばされた。

後に残されたゴドーには、すでに両手も武器も残されていない。

互いの体に触れ合える距離での近接格闘。大型の銃器はもとよりトラップも使えない。他に仲間がいたとしても、この近すぎる距離では何をしても味方を巻き込んでしまう。故に、相手もまた近接格闘で対応するしかない、そういう距離だった。

この状況を用意した時点で、ゴドーの負けであり、ユーリーの勝ちだったのだ。



心臓の真上、胸に仕込まれた鉄板を貫通し、ユーリーのバヨネットは根元まで、深々と突き立っていた。








冷たい刃の感触が、己の心臓に突き立ったとき、ゴドーは思った。

認めよう、死にたくない。

死にたくないが、死ぬしかない。

これまで、ゴドーはあらゆる感情を殺し、きわめて機能的な思考だけを繰り返していた。

何かに心を奮い立たせる、ということは一切なく、自らの身に叩き込んだ戦闘思考だけを頼りに戦ってきた。

ゴドーという男の半生、生き様が彼をそのような男に変えた。例え自らの死の間際だったとしても、感慨を覚えることがなく、黙々と機械のように戦い続ける戦闘哲学。そのように自らを作り変えた、"筈"だった。

兵士としてはあまりにも完成されたその精神。だが、心の力、感情の高ぶりが、時に爆発的な力を生み出す念能力には、その性格が災いした。また、常に安定したスタイルで戦い抜くことを至上とする実戦至上主義者のゴドーにとって、己の念に制約を科して、威力を高めるという選択肢もありえなかった。どんな制約・誓約も、戦い続けていればいつか容易く弱点に変わる。

それ故に、高い技量にもかかわらず、ゴドーの生み出せるオーラは少なく、能力にも限界があった。

だが、今は違う。

命の最期の瞬間にあって、ゴドーの念は、かつてないほどに高まっていた。

そして、その力をどう使えばいいのかも、ゴドーには良く分かっていた。

瞳に、涙をにじませてこちらを見ている教え子に、顔を向ける。







喉元まで血液がせり上がり、口元から血反吐を吐き出しながら、ゴドーは口を開いた。

「ぐ、軍曹、もっとも成功率の高い、暗殺方法が何か、お、覚えているか」

ユーリーはその言葉には耳を貸さず、無言でバヨネットを刺した左手に、力を込めた。

手首が、ギュルリとひねられる。

完璧なトドメ。

それを、アンヘルの目は捕らえていた。



だが、ゴドーは笑っていた。



その目はユーリーを見ていなかった。

アンヘルに、微笑みかけていた。

そして、


ニ ゲ  ロ


ゴドーの唇が、かすかにそう動いた。
 
それは、いつか見た光景の焼き直し、似て非なる既視感(デジャヴ)。





グレイの瞳がゆっくりと閉ざされた時、ユーリーはようやくゴドーの狙いを悟った。

包帯を巻いた下に、無数に括り付けられた、箱型の物体。

それは、爆薬だった。

「まさか、しまっ、自爆!!」





爆音が、轟いた。









「ゴドーーーーー!!!!!!!!」









その叫びは、雪原に木霊した。






…to be continud



[8641] 奇妙な果実 Chapter1 「You & I」ep.7
Name: kururu◆67c327ea ID:ca9257c5
Date: 2009/06/21 18:56





オレが自分の系統を知ったのは、念の修行が始まって1ヶ月後のことだった。

「念能力は、オーラの性質によって6つの系統に分類される。すなわち、操作、放出、強化、変化、具現、そして特質の6つだ。系統ごとに習得できる能力の性質に違いがあるので、まずは自分がどの系統に属しているのか知るのが重要だ」

座学を受けさせられるための狭い個室。

今は椅子は片付けられ、部屋の中央には机が一つ、その上に、木の葉を浮かべた水の入ったグラスが置かれている。

これで念の系統がわかる、とゴドーは言った。

「水見式、という。変化が顕著でわかりやすい上に、どこでも手に入るものを使用するので、よく用いられるオーソドックスな方法だ。後は、こいつに両手を当てて"練"をするだけで、系統を判別することが出来る」

"練"とは、体内でオーラを練り精孔を一気に開き、通常以上にオーラを生み出す技術。

元々オレは"纏"については、自覚のないまま使いこなしていたらしいので、詳しく説明を聞きながら教えられた念能力は"練"が初めてだった。ゴドーによると、オレは顕在オーラが飛びぬけて大きい特異体質らしく、一時的にオーラを増加させる"練"の習得に手間はなかった。

「まずは、オレがやってみせる。よく見ていろ」

ゴドーは両手の手のひらを、グラスを包み込むように添えると、練を行った。全身に纏っていたオーラが、みるみるうちに濃く、厚みのあるものになっていく。

同時に、水に浮かんでいた木の葉が、くるくると高速で回転しだした。

「このように、オーラに反応して、水か木の葉のどちらかに何らかの変化が生じる。木の葉が動いたのは、オレが操作系に属しているためだ。次は、貴様がやってみろ」

オレは言われたとおりに、グラスに両手を当てた。

イメージは、爆発。脳裏に刻まれた感覚を再現し、通常よりも多くのオーラを集中させる。

だが、

「え、アレ?何もおきねえ」

変化は訪れなかった。

オレは、なおもアホの子のようにオーラの量を増やしたが、結果は変わらない。

全身汗だくになりながら練を続けていたが、やがてオーラの勢いが弱くなって、通常の纏に戻ってしまった。練を長時間し続けるのは意外に酷なのだと気づいたが、今はそんなことどうでもいい。

グラスの中身には、やっぱりなんの変化も起きていない。

「な、なあ、オレってもしかして、才能ない?」

恐る恐る問いかけるオレに、ゴドーはあっさりこう言った。

「いや、その水をなめてみろ。おそらく味が変わっているはずだ」

言われたとおり、指ですくって舌先にもっていくと、かすかな塩味を感じる。それとともに、かすかなエナメル臭が口中に広がった。

「やはりな。お前は変化系だ。オーラの性質を変えて利用するのが得意なタイプだ」

わかってるなら途中で止めやがれ、馬鹿チン野郎。知らずに焦ってたオレがアホみてえだろが。

「ちなみに、ごく稀に水が毒性物質に変化する特殊な奴もいるらしい。味をみる時は注意しろ」

先に言ェえええ!

ゴドーはオレの内なる声にはまったく気づいたそぶりもなく、淡々と話を続けた。いまさら過ぎるがこの男、マイペース過ぎる。

「変化系は、強化系とも近いので基礎戦闘力が高く、比較的戦闘向きの系統だ。だが、特質系を別格として、6系統の中ではもっとも扱いが難しい。能力の特殊性では操作系や具現化系に及ばず、オーラを手放すのが不得手なので放出系とも相性が悪い。かといって、単純に距離をつめた格闘戦では、ガチガチの強化系に劣る。うまく立ち回るには、それなりに能力を工夫する必要がある」

つまり、中途半端な系統ってことか。

なんとなくテンションが下がった。

「意外とテクニカルな系統とも言える。見た目は普通にオーラを纏って戦っているようにしか見えないから、隣の具現化系と違って能力を見破られにくいのも利点の一つだ。ただ、変化させるオーラの性質は、一つか二つくらいにしないと効果が落ちる。それに、オーラを変化させるためには、長時間のイメージ修行が必要で、これが非常に厄介だ」

オーラを変化させる。

しかも、効果が単純で、応用の利く能力。


―――――――――――――ひとつ、思いついた。


「さて、何か思いつくものはあるか?」

そう聞くゴドーに、オレは即答した。

「なあ、なら例えば、――――なんてのは可能なのか?」

その答えを聞くとゴドーは、この男にしては本当に珍しいことに、口元に手を当てて笑いをこらえるような仕草をした。

馬鹿にされた、と思うよりも先に、オレはあまりの意外さに目を見張ってしまった。

「・・・・・・いや、ただ、お前の性格に、合いすぎていると思っただけだ。他意はない」

唖然とするオレに、ゴドーは軽く咳払いをすると、悪くない、と頷いた。

「理論的には可能だ。どうやって思いついた」

と、聞かれてもオレには答えようがない。

「いや、なんとなく、としか言いようがない。オーラを変化させるっていわれた時に、咄嗟に閃いただけさ」

普段なら、徹底的に突っ込まれそうな曖昧な返答だったが、意外にもゴドーは咎めなかった。

「念能力には、時にそういったインスピレーションも重要だ。能力を使い続けるにはフィーリング、相性の差も大きい。貴様が自分に合っていると思うのなら、それでいいだろう」

ただし、とゴドーは付け加えた。

「その能力を習得できれば、確かに強力な武器にはなるが、ひとつ致命的な弱点がある」

分かるか、と聞かれてもオレには答えようがなかった。何せ念というのが、どういうものなのか知ったのも、つい最近のことなのだから。

眉根を寄せて考えるオレにゴドーは、難しく考えることはない、と言った。

「例えば、オーラを炎に変化させる能力について考えてみるといい。変化系はオーラを放出するのが苦手なので、オーラを手元から離さないようにしなければ、期待した効果は得られない。だが、オーラを手放すことなく炎に変化させれば、言うまでもなく能力者自身が真っ先に火傷を負う。それを防ぐには、接触部をさらに大量のオーラで覆って保護しなくてはならない。つまり、効率が悪い。それと同じことが、その能力にも言える」

・・・・・・・・そりゃそうだ。

よく考えてみれば、当然のことだった。なんで思いつかなかったんだろう。

「変化系や具現化系に付きまとうジレンマだ。ほとんどの変化系能力者はそれを嫌って、効率のよい補助系の能力を選ぶ。だが、反面、そういった能力が強力な攻撃力を有するのも確かだ。案外、貴様の性格には向いているかも知れんぞ」

徹底した実戦主義者で、合理主義者のゴドーがそういうからには、何かデメリットを打ち消す方法があるのだろうか。

「その能力の特性と、実際に引き起こされる現象について、よく考えてみるがいい。今はまだ思いつかずとも、いずれ知識を身につけ経験をつめば、答えはおのずと出るだろう」











奇妙な果実 Chapter1「You & I」ep.7












「ゴドーーーーー!!!!!!!!」



一瞬の出来事だった。

すさまじい轟音と共に、爆圧が襲い掛かり、視界が白熱に染まったとき、アンヘルは声の限りに叫んでいた。自分の肉体が吹き飛ばされる刹那、衝撃で意識を失っていた。そのまま数十メートルは吹き飛ばされ、頭から雪の塊に突っ込んだようだった。

気がつくと、彼女は雪にまみれて倒れこんでいた。

意識を取り戻した時、辺りは、大量の熱気と、雪解けの水蒸気で視界が悪かった。

ただ、二人たちが戦っていた場所には、巨大なクレーター。

その中心には、何も存在しない。

黒く焼け焦げた大穴が、ゴドーという一人の人間のいた痕跡を飲み込み、すべてを消し去っていた。

「――――ゴドー?・・・・・ゴドー? おい、どこだよ?! 返事しろよ、ゴドー!!」

生き物の気配の消えた雪原で、アンヘルは顔から血色失い、目を腫らしていた。

何度呼びかけたところで、時が元に戻ろうはずも無い。受け容れられない現実。

「・・・・・・・・!」

虚ろな目に躊躇と嗚咽を浮かべつつも、彼女は満身の力を篭め、唇を噛み切って声を殺した。

と、

「やあ、小娘、お前も生き残ったのか」

突如、背後から掛けられる、声。

驚愕の表情を浮かべる間もなく、アンヘルは突き飛ばされた。バランスを崩した彼女の背後に回される腕、とがった顎に右腕を引っ掛けるようにして、締め上げられる。そのまま固定された。

アンヘルは動けない。動脈までは絞められていないが、呼吸が苦しくなる。

全身ボロくずのようになりながらも、悪鬼のように両目だけを光らせたユーリーが、そこにいた。








「お互いに運がよかったな」

ユーリーは満身創痍だった。

右目は、おそらく破片が直撃したのだろう、完全につぶれていた。ボディアーマーは木っ端微塵に吹き飛び、その下の野戦服も焼けこげていて、ダメージのすさまじさを物語っている。全身打撲に、重度の火傷、肋骨もほとんどやられているようで、呼吸は浅く苦しそうだった。おまけに左足は散弾を食らったようにズタズタになっている。

だが、あれほどの爆発を間近で喰らいながら、奇跡といっていいほどの軽傷だ。

「貴様、どうやって?!!」

「言っただろう、運が良かっただけだよ」

あの瞬間、ユーリーはとっさに能力を発動していた。

瞬時に、ボコボコとスライム状にふくれあがったオーラはユーリー自身を包み込み、爆発の圧力を受け止める。人間を中心に抱えたゴムボールのようなオーラの塊が宙を飛び、そのまま後方に吹き飛ばされた。

さらに、勢いに逆らわず表面の摩擦抵抗をゼロにすることで、石や爆砕片の直撃によるダメージを軽減することで、辛くも生き延びることが出来たのだ。この技こそ、未だかつて誰にも見せたことのない、ユーリーの切り札だった。

それでも、あれほどの爆発エネルギー。全身の至る所でオーラが剥げ、あるいは溶け落ちて肉体を焼き削った。

かなり時間が経ってから、埋もれていた雪溜まりからゆっくりと身を起こしたとき、ユーリーは思わず神に祈りをささげた。

「大尉が、せめて片腕が使えていれば、私を拘束して直撃を食らわせていたのだろうが。最後は運にすくわれた」

ユーリーは気づいていた。

大尉は単純な自爆攻撃を狙ったわけではなかった。全ては、ユーリー自身の行動まで、織り込み済みの罠だったのだ。

周囲に巧妙に隠されたトラップ。もちろん、オーラは一欠片も付着しておらず、大尉に気を取られていたユーリーは最後まで気づかなかった。というか、思いつきさえしなかった。自ら仕掛けたトラップの、ド真ん中に居座っていたなど。

自然に振る舞い、傷の手当などしながら、あの人は待っていたのだ。獲物が罠にかかる瞬間を。

そして、大尉の心臓にトドメを刺したその時、狩人がもっとも気を抜いてしまう、絶妙のタイミングで炸裂した大量のダイナマイト。さらに、足下に埋められていた、無数の対人地雷。

回避は不可能。致命傷には十分過ぎる大火力。

しかも、とユーリーは小娘を見やった。

爆風によって雪だまりにつっこんで、それがクッションになったらしい。ゆるい傾斜地に滑り落ちていたのもあって、破片の直撃も受けなかったようだ。ユーリー自身が投げ飛ばしたとはいえ、そう遠く離れていたわけでもなかったのに、不気味なほど無傷だ。

地面の傾斜と、爆風の殺傷角度、障害物の配置、周囲の人間と自身の立ち位置。すべてを計算に入れた上で、ユーリーに最大のダメージを与えつつ、小娘には傷一つ付けぬという神業。

自身の命すら、一つの道具として使い切った悪魔の計略。

今更ながらに、ユーリーの心臓は激しく脈打ち、汗が噴き出していた。

今、自分が生きているという奇跡が信じられない。だが、ユーリーはとっさの賭けに勝ったのだ。

「さて、残る疑問は、何故、大尉は勝負を焦ってつまらんミスを犯したか、だが」

ユーリーの手が、アンヘルの全身を無遠慮にまさぐった。

「ッ・・・・・!」

アンヘルはもがいたが、ガッチリと決まっていて抜け出せそうにない。大怪我を負っているにもかかわらず、恐ろしい力だった。

腰の拳銃や、手首の隠しナイフを没収し、最後に使わずじまいだった大型ナイフをホルダーごと取り上げる。そこから、ユーリーは小さな金属片を取り出した。

それは、小型の信管だった。

「やはりな。大尉の能力はこうやって簡易の発信機としての役割も果たす。これで疑問はなくなった」

種が割れてしまえば、拍子抜けするほど単純な理由だった。つまり、この小娘が向かってきているのがわかったからこそ、大尉はあれほど焦っていたわけだ。

ユーリーは初めて、かつての上官を馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「往年のコマンドが、最後の最後で仏心が出たのか。泣く子も黙る死神大尉が、らしくない。あまりにも、らしくないじゃないですか、大尉殿」

ひとしきり、クツクツと笑うと、ユーリーは冷めた視線で腕の中のアンヘルを見た。

この小娘は、拘束されながらも、こちらを殺意のこもった視線で睨み付けている。愉快であり、滑稽だった。

ユーリーは軽く肩をすくめた。

「そう睨むなよ、これも仕事だったんだ。それに、お前は見逃してやってもいいんだ。私は雇い主に、お前も爆発に巻き込まれて木っ端微塵になった、と報告するだけだからな。これだけの爆発跡だ、誰も疑いはしないさ」

聞き分けのない子供をなだめるように(むしろアンヘルは馬鹿にするされているように感じていたが)、さも優しそうな口調でそう言った。

「あとは、この街を捨てて、できれば大陸からも出て、習い覚えた技で気ままに生きればいい。その程度のことができるくらいには、あの人から鍛えられているのだろう?」

ユーリーは、穏やかとすら思える笑顔を浮かべた。

が、

「・・・と、ついさっきまでは思っていたんだがな」

その手につまんでいた、小型信管を握りつぶした。

「気が変わった。お前は豚野郎のところに連れて行く。せいぜい変態の慰み者になるといい」

ギラつく殺意を隠そうともしない。その目は、狂的な憎悪に満ちていた。

ヤニ臭い息、麻薬中毒者独特の血走った眼を目の当たりにして、アンヘルは無言だった。

顔を伏せ、組み伏せられている腕にも、まったく力がこもっていない。

ユーリーは、とりあえず手足の腱を切断するために、アンヘルを拘束したままナイフを振るおうとした。

だが、

ブチン・・・・・!!

その剣先を、頬が裂けるのもかまわず、アンヘルは歯で受け止めていた。さらに、柄に食いついて歯で噛み止め、そのまま、ユーリーの指を"食い千切った"。

「あまり、調子に乗るなよ、小娘」

ユーリーが、拘束している腕に力を入れ、絞め落とそうと力んだ時だった。

「クタバレ、腐れジャンキー・・・・!!」

低い、ざらついた声だった。一瞬、男の声だと思ったほどだ。

その顔には、凄惨な笑みが浮かんでいた。

ドォンッ・・・・・!!

爆発が起きた。

グレイのコートが四散し、突如としてアンヘルの全身から吹き出た爆風は、らしくもなく油断していたユーリーをものの見事に吹っ飛ばした。だが、爆風に吹き飛ばされ、たたきつけられた体を回転させて受身を取ると、危なげなく立ち上がる。

無様に転げまわったユーリーは、怒り心頭であった。

「クソ餓鬼がぁっ!!」

どうやら、大尉から技を教わったのは確からしい。

恐らく大尉と同じように、コートにでも爆薬を仕込んでいたのだろう。同じ手を二度喰らうなんて、どうやら俗ボケが進んでいたのは自分も同じだったと、ユーリーは自身を叱咤した。だが、三度目は無い。

ダメージは浅くなかった。特に左手は皮膚が盛大に破けて出血している上に、筋が痺れてしばらく使い物にならなそうだ。

利き手を封じられ、仕方なく右手にバヨネットを持ち替える。

「オアァァアァァァァァァ!」

歯を噛んで、憎悪に満ちた嬌声をあげながら、アンヘルに襲い掛かった。

ユーリーは普段の冷静さを失っていた。

あのイワレンコフ大尉を葬ったという達成感、無二の戦友をこの手にかけたという罪悪感。相異なる二つの感情が、すでに人間らしい思考を放棄していた麻薬付けの脳に、浮かれた熱を持たせていた。

結果、ユーリーは取り付かれたように、目の前の少女を嬲った。獲物の技量が中途半端に未熟で、遊ぶのにちょうど良かったのも災いした。

だから、高速移動術も使わなかったし、バヨネットも使おうとはしなかった。

あくまで、生け捕りにして、死ぬより苦しい汚辱を与えてやろうという考えにとりつかれていた。





一方、四足獣のような格好で、前屈みになって四肢を地に着け、アンヘルはまっすぐに地面を疾走していた。

腕力はともかく、スピードや瞬発力にはユーリーも目を見張るものがあった。それに加えて、"流"こそ荒削りだったが、オーラの総量は明らかにユーリーを超えている。

その一撃を、とっさに受け止められたことこそ僥倖だった。

ドゥン・・・!

「チッ!」

接触した場所から衝撃が走る。衝撃が全身を突き抜けるような独特の打撃。かなり入念に鍛えこまれていなければ、こうはいかない。

しかも、攻撃を受け止めた腕は、熱であぶられたように焦げている。単なる打撃ではない。接触箇所を中心として白い火花と、高熱の大気が一瞬にして炸裂する。

かつてはゴドーと共に戦い、念能力に目覚め、戦争人生20年を超えるユーリーすら、初めて出会うタイプの攻撃だった。

続いて、繰り出される乱打。それは、単なる滅多打ちに見えて、すべて急所狙いの指突。

だが、殺傷力十分の攻撃を、ユーリーは片腕だけでさばいていった。

確かに素早い攻撃で、すべてを防ぎきることはむずかしいが、一撃の重みは軽かった。

"流"もぎこちない上に、オーラの使い方がなっていない。経験不足なのが一目で分かる。

「軽いねえ、お嬢さん。お前では私に届かんよ!」

それを確認すると、ユーリーは攻めに回った。

ダンッ・・!!

軸足を回転させて繰り出される、すさまじい威力の篭った回し蹴り。

恐ろしく重みのある蹴撃は、クロスした両腕の防御を巻き込んで、見事にアンヘルを吹き飛ばした。

「・・・・ッツ!」

一蹴りで、数本の肋骨が折れていた。だが、幸い臓器に刺さってはいない。その焼け付くような痛みが、熱くなりすぎていたアンヘルの頭を冷やさせた。

認めろ、お前は弱い。アンヘルは、自らにそう言い聞かせた。怒りでのぼせ上がった頭に、冷却材を注入する。

力と感情を制御し切れなければ、生き残ることなどできはしない、と。

自然と、脳裏には、ゴドーの言葉がよみがえっていた。

『俺が貴様に伝えた技は、すでに反射のレベルで刷り込まれていると言っていい。後は、相手の能力を見極める洞察力と思考力を磨けば、自分の持ち札で何をすればいいのか、身に付けた技が教えてくれる。常に、その場の最適解を瞬時に導き出せるようになれば、もはや敵はいない』

意識が、恐ろしくシャープになっていく。

今にも火を噴きそうなほど熱く、怒りが猛り狂っているのに、頭は妙に冷たく、冷え切っていた。

その身を取り巻くオーラの量は、先ほどまでの比ではない。まるで、脳髄を駆けずり回る怒りが、そのままオーラに変わっているかのように。かつて彼女が念に目覚めた時と同様、オーラは赤く脈打ち、生き物のように蠢き、体中を嵐のように取り巻いていた。

さらに、今ではゴドーから授けられた技がある。あらゆる状況から最善の一手を生み出す、それは戦闘哲学。

だが、"それだけ"では足りない。

左手には、石礫。もう片方の手はだらりと垂れ下げ、拳を中心として強力なオーラを集中させる。その指の形は、まるで"何か"をこね回しているかのように蠢き、折り曲げられていた。






眼を光らせ、幽鬼のようにたたずむ少女の姿を見て、恐らく変化系に属する何かの能力だろう、とユーリーは看破した。

同時に、かつて味わったことの無いほどの危険信号を感じる。

距離をとった方がいい。そう判断すると、ユーリーは戦闘方法(スタイル)を変えた。

「フウォウ!!」

素早く能力を発動、やわらかく柔軟なオーラを紐のように引き伸ばし、鞭のように振るう。

接触時のダメージを上げるために、無数の砂利の破片が混ぜられ、その先端にはすさまじい切れ味を誇るバヨネットが取り付けられていた。

高速で振り回される切っ先は、アンヘルの動体視力をもっても見極められぬほどに、速い。

鞭のすばやさと、鎖鎌の威力を持った必殺の武器。これが、奥の手だった。

ブシュッ!!

間一髪、顔面に直進してきたバヨネットの先端を、アンヘルはギリギリでかわした。だが、頬の肉をざっくりと抉られる。

そして、

ヒュン・・・・!

ついで、後頭部を狙って"引き戻された"剣先を、今度は一瞥もせずにかわしていた。

死角、人は視界の及ばぬものに不安を感じる。だが、アンヘルは自らが纏うオーラを通して、皮膚に触れる空気を感じ、空気の触れるすべての物体を感じとっていた。

五感のすべてがフル稼動していた。あらゆる情報が自らに流れ込む超感覚。体から広がる目に見えない糸、その一つ一つが、周囲のすべてに繋がり、明確な形として脳裏に再現されていた。

ならば、もはやこの程度の『手品』に惑わされたりはしない。

バヨネットをかわした瞬間、伸びきったオーラが引き戻される前に、アンヘルはそれを掴んでとめた。

思ったとおり、やわらかく柔軟な感触だった。だが、強度はそれほどでもない。

手に触れると同時に、それは掴んだ手に吸着する。強力な粘着力、無理にはがそうとすれば皮膚を引きちぎられるだろう。そのまま掴んだ腕ごと、ぐいっと引かれて、ユーリーの側に引き寄せられていた。

その力に逆らわず、アンヘルはユーリーめがけて駆け出した。

そして、紐状に伸びたオーラに引き倒されてバランスを崩す前に、接着された右手を基点に"起爆"した。

ボォンッ・・・・・・・!!

爆発音と共に、引き伸ばされたオーラがブツリと切り飛ばされた。

オーラを引き戻す動作の途中で止まったので、途端にユーリーの表情は硬くなる。引いていた力が途切れ、一瞬、バランスを崩し、たたらを踏んだ。

さらにアンヘルは、接近しながら左手を振るった。手首のスナップだけで放たれた石礫。

しかし、狙いが甘い。ユーリーは少し体をずらすだけで、その一撃を回避した、つもりだった。

ところが、

バンッ・・!!!

すぐ横を通過した筈の礫が、爆砕した。

火薬でも仕込んでいたのかと訝る暇は、ユーリーにはなかった。

パンッ、パンパンパパパパパン・・・・・!

突如として、ユーリーの全身から、正体不明の爆発が連鎖する。

小細工をされた形跡もなかった。武器のたぐいは全て没収したはずなのに!

とっさに、ユーリーは"凝"を使っていた。

薄ぼんやりと見えたのは、点々と全身にへばりついた、粘土のようなオーラ。それが、ランダムに起爆し、小規模な爆発を生み出している。

先ほどからの妙に軽い乱打は、恐らく、このための布石。単純な打撃に見せて、何かの能力をユーリーの体に仕掛けていたのだ。

この爆発、一発、一発に重さは無い。堅を行っている状態なら、それこそダメージも皆無。所詮、爆竹程度の衝撃でしかない。

それでも、すでにバランスを崩していたユーリーは、この連鎖爆発によって致命的に隙を作っていた。

「ッシャァァアアア!!」

それこそが、アンヘルの狙いだった。

瞬時にオーラを拳に集中。相手の動作に併せて全身のバネを起動させ、最大威力の一撃を最大急所にたたき込む。ゼロ距離から繰り出されるカウンター。これこそ、ゴドーから受け継いだ技。

ドズン・・・・!!!

まるで、大型トラックに激突したのかのような衝撃がユーリーを襲った。

小柄な少女の肉体から繰り出されたとは、とても思えないほどの重み。

極めて強力な威力を持った、申し分ない一撃だった。それでも、あれほどの爆発の威力すら吸収してのけたユーリーの能力には、まだ足りない。

十分に余裕を持って受け止められると、ユーリーは思い込んでいた。が、

「グ、ゲボァッ・・・・!!」

気がつくと、血反吐を吐いていた

肋骨を残らずへし折られていた。しかも、内臓をやられたらしい。十分に評価したつもりでも、相手はさらにその上をいった。

だが、それでもユーリーは耐えた。盛大に悶絶しながら、意識を失うことも無く、ユーリーは倒れなかった。

そして、すでに相手の拳は、ユーリーのオーラに包んで腹部に固着させていた。もう、逃げられない。

ユーリーは、嗜虐的な目を、万策尽きた少女に向けた。

ニイ

しかし、アンヘルは、歯をむき出しにして笑っていた。

逆に、その笑みを見たとき、ユーリーは例えようのない、嫌な予感に襲われた。






やはり、この男は強い。アンヘルは素直にそう思った。

ゴドーと同じ、いやオーラの力強さは、それ以上。

しかも、相手の能力によって、打撃系の攻撃は全て威力を殺されてしまう。

確実に止めを刺すには、もう一手いる。

そして、アンヘルには、そのもう一手があった。

拳は相手の腹部にインパクトした姿勢のまま、密着状態。まさに理想のシチュエーション。

瞬時にすべてのオーラを拳に集中。要した時間は、わずかにコンマ1秒。

彼女は、初めて自身の"能力"を全力で行使した。






刹那、空気を引き裂く轟音が轟いた。







爆風に巻き上げられた土煙が晴れたとき、ユーリーはまず自身の体の状況を観察した。

痛みは、過剰摂取し続けた薬物のせいで失ったものの一つだ。何が起きたか確かめるには、直接目で見るしかない。

頭部、腹部、両手、両足・・・・・・・・・・それだけ確かめると、後は見なくとも異常は明らかだった。

自身の状況を完璧に把握するに至り、ユーリーはため息を一つついた。

タバコの箱から一本取り出すと、口に咥える。ライターを探そうと、懐に手を突っ込んでまさぐった。どうやら、戦闘のさなかに失くしたらしい。それなりに気に入っていた品だったが、まあ、もう使うことも無いだろう。

その間も、タバコは咥えた端から急速に血みどろに染まり、やがてポロリと落ちる。同時に、ユーリーの口からおびただしい血液が吹き出でて、そのまま崩れ落ちた。

仰向けになって、鈍い灰色の空を見上げながら、ユーリーはどうしようもないほどに己の敗北をかみ締めていた。どうやら、ずいぶんと頭に血が上っていたらしい。これだけ激しい感情を感じたのも、その感情に振り回されて冷静さを失ったのも、久しくなかったことだ。それでも、不思議と後悔は感じなかった。ただ、最後の一服を吸えないことだけが、残念だった。

「・・・・見事なものだ」

目の前で膝を突いていた小娘が、こちらをギロリと睨みつけるのを見て、ユーリーは不思議と気分が高揚した。

その腹は右半分から消し飛び、大穴が開いていた。

白い脊椎が露出し、もうどうやっても助からない。致命傷だった。傷跡にオーラを集中して出血を防いでいるが、この傷では数秒死ぬのが伸びるだけだろう。

ユーリーの全力の防御を持ってしても、これだけの傷を負わせた相手の能力。

それが何か、おおよその検討はついていた。

「だが、貴様、正気じゃないな。オーラを、爆発物にするなんぞ」

具現化系か、変化系かまでは分からないが、ほぼ間違いあるまい。ユーリーは確信していた。

その言葉に、ユーリーを完膚なきまでに打ち倒した相手は唇を吊り上げ、歯をむき出しにして笑って見せた。

「・・・最高にクールでイカス能力だろ。こいつは、オレのムカつき加減をそのまま爆発力に変えてくれる」

オーラを"爆薬に変化させる能力"、それが正体だった。

トリメチレントリニトロアミン、ジメチルジニトロブタン、セバシン酸ジオクチル、ポリイソブチレン、その他雑多な界面活性剤、etcetc・・・・・

複雑な化学物質の配合をもつ成分を、念で再現。さらに、己の意思でいつでも起爆できるという都合のいい属性を組み入れる。理論上は可能だが、科学的に複雑な物質を念で再現するのは極度に難しい。

この少女が念を覚えて一年あまりだというのが本当なら、紛れもなく天才だとユーリーは思った。

だが、普通はそれが可能だったとしても、あえてそんな危険で非効率的な能力は、誰も選ばない。

「だから、正気じゃないと言ったんだ。こんな至近距離で、そんな能力を使ったら、自分の体の方が吹っ飛ぶだろう」

事実、アンヘルの腕は、見るも無惨なほどに、焼け焦げていた。

爆風による擦過傷に、高熱による重度の火傷。爪は残らず剥がれ落ち、焼けて黒く干からびた皮膚が破れ、赤黒い肉が見えている。腕そのものを失うことになってもおかしくはないダメージ。

かつてゴドーが指摘した、この能力の重大な欠陥。それは、オーラを手放さずに爆発させると、能力者自身の肉体にダメージが跳ね返ること。

これまでの攻防で、オーラによる強化力と生身の肉体の力は、ユーリーの方が上なのは明白。普通に攻撃しても通じない。しかし、自らの肉体をガードできる程度の爆発では、ユーリーに致命傷を与えることは不可能。能力の発動によってオーラを消費する分、防御に回せるオーラが少なくなるアンヘルの方が圧倒的に不利。かといって、全力で高威力の爆発を起こせば、相手に与える以上のダメージを負ってしまう。自殺行為でしかない。

そんな不合理な能力でしかない"筈"なのだ。本来ならば。

先ほどの攻撃は、ユーリーの全力の防御を容易く貫通し、致命傷を与えるほどの威力だった。にも関わらず、アンヘルの腕は少々ローストされただけ。指も5本ついていて、皮膚がめくれ上がった様子も無い。同じ威力の爆風に巻き込まれたにしては、明らかに負傷が軽すぎる。

ユーリーは、その答えも正確に見抜いていた。

「どういう理屈かは知らんが、爆風に指向性を与えている、な」

「それも正解だよ、クソ野郎」

この能力にすると決めてから、アンヘルは毎日のように爆発物の取り扱いに関して、徹底的に座学と実地訓練を受けさせられていた。

爆発に指向性を与える理屈は、ひどく単純。

拳に集中させたオーラを、中央の窪んだ独特の円筒型に成形、すばやく能力を発動して爆薬に変化させ、対象への接触時に起爆させる。これにより、モンロー効果が発生、爆風は指向性を持つに至る。

拳は撃鉄、オーラは砲弾。

理屈の上では、起爆部を中心として放射状に発生する余分な爆風を抑え、威力は攻撃対象に収束される道理。破壊力が収束して底上げされる上に、防御に回すオーラも少量ですむ。

だが、それを念で実践するには、すさまじい精度が必要となる。

すばやくオーラを変化させる能力の発動技術、理想的な形にオーラを成形する技術、爆発の瞬間に起爆部を防護するためのオーラの高速移動術、そしてもちろん相手の対応を見越した上で起爆させるタイミング。

少しでも躊躇すれば、自分の起こした爆発によって大ダメージを受けるか、逆に爆発の威力は激減する。大威力を保ちつつ、すべてを理想的な形に揃えなければ、腕だけではすまなくなる。バックファイアで、自分自身が粉々に砕かれる。

そもそも、流を使用した単純な肉弾戦でさえ、すさまじい精神集中力を必要とする。寸刻みの攻防、ほんの少しのミスが致命傷になりかねない肉弾戦のさなか、さらにオーラの密度を操作する"流"という技を駆使するのは、念の極意と言われるほどに難しい。

恐らく、誤差をコンマ数パーセントの範囲で求められる程の高難易度。

神懸り的な奇跡のタイミング。

並みのセンスで出来ることではなかった。

「・・・・・まさしく天才か。大尉がほれ込むのも、無理なかったわけだ。まだ、ゲッ、グフ・・・ゴホッゴホッ・・・まだ、未完成な、ようだが」

「ああ、ゴドーにゃ訓練以外じゃ絶対使うなって言われてた。一歩間違えば、文字通りの自爆だからな。だけど、オレに言わせりゃ念能力なんて反則、使ったらテメーが痛え位のリスクで、ちょうどいいんだよ」

その言葉に、今度こそユーリーは絶句した。

確かに、これは自身の体が一切傷つかない、等という都合のいい技ではない。能力者自身にダメージがくるのは、防ぎようがない。

つまり、自身をダメージに巻き込むことを覚悟して、それを厭わず作られた能力。そう考えると、納得できるものもある。

強力な爆発を引き起こす、圧倒的な攻撃力。これほど強力な能力ならば、何かしらのやっかいな制約を必要としても不思議ではない。そして、厳しい制約ほど、戦闘中に危険が伴うものだ。

さまざまな感情が作用する念において、覚悟や制約によって能力が向上することは多い。つまり、この小娘は、あえて自らの肉体を巻き添えにする危険(リスク)を負うことで(おそらく意識してやっているわけではないだろうが)念の威力を高めているのだ!

その結論に至りながら、それでもユーリーは信じられなかった。

行使する度に自らダメージを追うような、非効率的な、いや、リスクが高いというのも生ぬるい能力を、あの大尉が身につけさせるなど考えられない。少なくとも、かつて戦場を共にしたイワレンコフ大尉は、リスクを背負うことをもっとも嫌っていたはずだ。

そこまで考えが至ったとき、ユーリー・バシマコフ元軍曹は、乾いた笑いを抑え切れなかった。

「は、ははっ、あはははは、ははっ、ゲッ、ひゃ、はっ」

結局、自分はゴドー・イワレンコフという人間の本質を、見誤っていたのかもしれない。

そして、この小娘の底力も。

最後の瞬間に、ユーリーはようやくそれを認めた。

「グッ、ゲプゥッ、ハア、ハア、・・・なあ、な、名前を、き、聞かせ、て、くれ、ないか・・ゲフ・・・・」

狂的な笑みを見せながら、今まさに死につつある男に対して、アンヘルは一遍の情けも持ち合わせていない。

だが、殺された相手の名前くらいは教えてやろうと思った。

「アンヘル、だ」

"地獄ではない(Un-Hell)"、か。

ユーリーは薄れ行く意識の片隅で、いい名前だ、と思った。

それきり、事切れた。




















それから、どれくらいの時間が経っただろう。





いつの間にか、雪は止んでいた。

白く埋め尽くされた、白銀の世界。

夜明けの薄明かりに照らされ、世界は静寂を詠っている。

大量の熱に焦がされた黒い焦げ跡、山野に散らばる無数の死体、そして、赤く染められた大地をも、雪は白く染め上げていた。



彼女はただ一人、白銀の野にたたずんでいる。



千切れとんでしまったコートの欠片を、一度だけ振り返るが、それも一瞬のこと。

うつろな眼窩は何も写すことなく、ただ、何もかもが無機質な白で埋め尽くされた世界を、俯瞰する。




ふと、その手がズボンに触れた。

ずっと、しまいこんでいたものを取り出す。

無造作にポケットにつっこんだまま、結局ここまで持ってきてしまった、ソレ。

照れくさかったので、包装はしてもらわなかった。

ベージュ色の、男物のマフラー。



ベシャッ!




皺になっていたそれを、地べたに乱暴にたたきつける。

高熱で解けた雪と、泥を吸って、見る見るうちにマフラーは汚れていった。


それきり、彼女は膝を突いた。


ようやく、感情が戻ってきた。


青い瞳はどこまでも深く、次々とあふれ出る雫に揺れている。


「・・・・・・・あんた、結局、何がしたかったんだ」


その声は、裏返っていた。


「勝手に、つれてきて、勝手に、訓練なんかさせて、・・・・・・・・・・・・・・・・・勝手に、オレを庇って、一人で逝っちまいやがった!!」


悲鳴が、山彦となって山野に響く。


その慟哭に応えるものは、一人もいない。













「また、一人だ」


涙が、とまらなかった。









…to be continud


次回、第一章完結の予定です。

最後までお付き合いいただければ、幸いです。




[8641] 奇妙な果実 Chapter1 「You & I」epilogue
Name: kururu◆67c327ea ID:ca9257c5
Date: 2009/06/21 23:14
冷たい雪の降る日のことだった。

オレは、殺し屋に出会った。











奇妙な果実 Chapter1 「 You & I 」 epilogue











イヴの前日の夜のことだ。

この頃はオレの訓練課題も一息ついたということなのか、ゴドーはもっぱら椅子に座って訓練の監督をしながら、オレがミスをするのを期待するように待ち構えていた。

基礎訓練、射撃演習、そして念能力の修行。ゴドーはオレがミスをするたびに容赦の無い指摘をし、だが例の張り手は滅多に飛んでこない。オレは自分の技術の向上具合を確認して満足を覚えると共に、わずかに張り合いの無さを感じていた。

特にこの季節は、昼が短く、夜は長い。夕刻、真っ赤に焼けた太陽が山稜に沈み、荒涼たる密林(タイガ)が真っ黒に染まる頃、この季節特有の濃い霧が出るのを待って、訓練は終了する(時に暗視スコープを使った夜間訓練もあったが)。

骨身にしみるような寒さ。薄い壁を通して、冷気が部屋に入り込み、暖められた部屋の暖気を削る。

オレ達は盥にお湯を張っただけの風呂を済ませ、二部屋しかない小屋で遅めの夕食をとっていた。

今日は薪の調達に手間取ったので、代わりに久々にゴドーが調理の腕を振るっていた。

大量のジャガイモ、玉葱、ドライビーンズの山、そして塩抜きした牛肉のベーコンをトマトベーストで煮込んだシチュー。それに、玉葱とあえたオイルサーディン。

手間がかからず、安く大量に作れて、カロリーが高い。どこかの郷土料理かと思っていたが、ゴドーがかつて覚えた軍隊料理らしい。生まれたときからスペシャリストだったような顔のこの男にも、ひょっとしたら下積み時代というものがあったのかもしれないと想像するのは、まるで未知の世界を覗き込むような不思議な感覚だった。

さらに、珍しいことに、卓上には透明の液体の詰まったガラス瓶が置かれていた。中身は、ジャガイモを蒸留したかなり強い地酒だ。

冷え込みの厳しい日に、ゴドーは稀にこの酒を取り出して、少量を摂取することがあった。手のひらにすっぽり収まるくらいの小さなグラスに半分、それもチビチビと舐めるように飲む。量も少なく、時間をかけて飲むので、案外この男は酒に弱いのかもしれない。これは、オレが知る限り唯一と言っていいゴドーの趣味(?)のようなものだった。

料理が並べられ、二人して椅子につくと、ゴドーは許可を出し、無言の食事が始まった。

二人ともかなりの早飯だが、決して見苦しくないスピードだ。交戦中でもないし、ガツガツと貪るのは行儀が悪い。食事は素早く、だが節度を保ち、貪らない。これは訓練の初期段階で身に付けさせられたことの一つだった。

やがて、料理をすべて胃に詰め込んだところで、ゴドーは初めて口を開いた。食事後のひと時は、その日の訓練の全体評価をする時間だった。

「貴様の能力、プラスティック爆薬を模したオーラの性質変化は、ほぼ形になってきたと言っていい。今後も系統別修行は欠かさず続けろ」

とりあえずは及第点と言うことだろうか。

毎日毎日、本物の爆薬を持たされ、童心に帰って粘土遊びをした成果だ。専用の信管が無ければ起爆しないとは分かっていても、非常に胃に悪い体験だった。もっとも、実際に起爆させるのは、派手な花火をするようで爽快だったが。

ちなみに、爆薬を味見をし過ぎて、痙攣、意識障害などの中毒症状を起こした記憶は新しい。

「基本は、変化、具現、変化、強化のローテーションだが、そろそろ放出系と操作系をところどころに混ぜてもいいだろう。貴様にとっては苦手な系統だが、その二つを鍛えておくと、中・遠距離戦での手数が増える。現状では、接近戦での使用が、もっとも効果的だが、これは自分の身も危うくする危険な技だ。形成炸薬弾頭の理屈で爆風に指向性を与えるといっても、少しでもタイミングがずれれば単なる自爆だ。放出系がまともに使えるようになるまでは、絶対に使うな。この前のように腕を失いかけたくはあるまい」

オレは無意識のうちに右腕を押さえていた。

包帯が取れたのは、つい最近のことだった。

「言うまでも無く、この能力のもっとも効果的な使用法は、相手に付着させたオーラを遠隔で起爆させることだ。念弾として放出してもいいし、格闘戦に組み込んで、相手の流に合わせて起爆させてもいい。だが、貴様は変化系、オーラの放出が苦手だ。この方法を実践するには、かなり放出系の修行をやりこまないと使い物にならない。かといって、本来の系統修行がおろそかになっても意味が無いし、厄介な制約や誓約を付けるのも馬鹿らしい。例え苦手な系統であっても地道に修行を続ければ、いつかは望む能力に仕上がる。焦る必要はどこにも無い」

ゴドーは、そう締めくくった。

そして、机の上の酒を手にすると、ちびりちびり舐めだした。

いつもなら、ゴドーは無言でグラス半分の酒を舐め、そのまま二人とも寝てしまうのだが、珍しいことにゴドーはオレに、一口勧めてきた。少量のアルコールは発汗作用があり、体力回復に効果があると言う。

言われるままに、ほんの一口、口に含んだ一瞬で肺と脳が焼けた。

「・・・・っ!ゲホッ、ゲホッ、な、なんじゃこれは」

昔好きだったジントニックやウォッカなんて生易しいものじゃなかった。つか、これは酒じゃない、工業用アルコールに少量の水をぶちまけただけの"何か"だ。

「まだ、お前には酒の味は早いか」

その様子を、ゴドーは面白そうに見ていた。

「"この仕事を長く続けたかったら、酒は控えろ"。かつて俺が指導を受けた教官の最後の教えだ。あの人の臨終のさなか、最後にもらった言葉でもある。もっとも、死因は慢性アルコール中毒の末の肝臓癌だったがな。あの時代は、人も、国も、病んでいた」

ゴドーは、珍しく饒舌だった。

「故郷では誰もがよく飲んでいたよ。大人も子供も、男も女も、老人達もそれなりにやっていた。冬場はこいつが無いと、凍死しかねないのだ。趣向品というより生活必需品だった。おかげで、今でも寒くなるとコイツに頼ることにしている」

訓練の時間以外はほとんど話をしようとしないこの男が、自身の過去を語るのが意外に思えて、オレは思わず話を促した。

「なあ、あんたの故郷って、どんなところなんだ」

すると、ゴドーは遠くを見るような顔つきで、淡々と語りだした。

「貧しい農村だ。ツンドラの端っこのわずかな耕作地を耕し、芋を育て、豚を飼っていた。親父は体を動かすしか能のない農夫だったが、馬鹿なりに実直な男だった。芋が好きで、豚が好きで、共産主義を信じて暮らしていた。俺には他に5人の兄弟がいたが、俺だけがこうなった。貧しさが嫌で、しみったれた暮しが嫌で、軍に入った。少なくとも軍は特権階級だったからな。言われるままに人を殺し続け、出世して、こうなった」

そういうと、ゴドーは僅かにまぶたを閉じた。

改めて観察すると、ゴドーの顔は傷だらけだ。

唇に縦に走っているのは、恐らく刃物で切りつけられた傷だろう。相当深い傷だったに違いない。片方のまぶたの上にも、熱で焼け焦げたような古傷がある。傷跡からして、視力に影響が出ていてもおかしくは無いだろう。浅黒く日焼けした皮膚には皺がより、ゴドーのすごした年月の激しさを物語っていた。

この傷の数だけ戦場があり、それがゴドーという男を形作ったのだろう。

「やがて流行り病で親父が死に、後に続くようにお袋も死に、兄弟もみんな国を出るか、親と同じ病で死んだ。その頃には俺も下士官としてはそれなりの地位にいたが、国自体が危なくなっていた。以前は、2・3ルブル、まあ500ジェニー程度があれば、パンでも肉でも好きなものが買えたが、やがてインフレが酷くなって、10万ルブル札なんてものまで発行されるようになった。国の経済はガタガタ、結局、すぐに破産した。その後、長年対立していた隣国に吸収合併され、俺達は新政府が樹立する前に国を出た。俺の部隊はかなり非正規(イリーガル)な任務に携わっていたからな。裁判に掛けられる前に、部隊の全員を連れて国を脱出した。もう、二度と、戻ることは出来ないだろう」

二度と戻れぬ故郷と言う言葉が、何故か胸に響いた。

それきり、ゴドーは沈黙した。グラスは空になっていた。

暖炉の薪が、カランと音を立てたので、オレは新たな薪をくべるフリをして、ゴドーの背後に回った。

大きな背中だ。このシャツの下にも、無数の傷があるのをオレは知っていた。

ゴドーはいつも、黒っぽい服を好んで着る。機能的な衣服だが、少し首元が寂しい。落ち着いた柄のスカーフか、マフラーでも着けさせれば、案外似合うのかもしれない。

その首筋が、とても寒そうに見えて、つい、オレは抱きしめようとして、手を伸ばしかけていた。

だが、

「そういえば、ここ最近、念能力の修行にかまけて近接格闘訓練を見ていなかった。明日は、久々に組み手をやってやろう。もちろん、実戦形式でな」

不意に、素に戻ったかのようなゴドーの声に、オレは慌ててその手を引っ込めた。

「はっ、最近、ほとんど訓練見てなかっただろ。この前とは違うってのを嫌ってほど見せてやらあ」

内心の動揺を抑えるように、オレはそう軽口をたたいた。もっとも、心臓は何故か張り裂けんばかりに不規則に鼓動をうっていて、血液が顔中を駆け巡っていた。

オレは一つ悪戯を思いついていた。

何の因果か、明日はクリスマス・イブ。都合のいいことに、ちょうど食料品も切れていたはずだ。買出しにかこつけて、街にでる口実が手に入る。

顔が笑みの形に崩れるのを、オレは抑え切れなかった。

「・・・?どうした?」

「なんでもないよ。そんなことより、明日は覚悟してろよ、オレは殺す気でやるからな」

「・・・・手を抜くような真似をしてみろ。地獄のような目にあわせてやる」

この男は、やると言ったら必ずやる。

少しばかり肝を冷やしながら、オレはまだ見ぬ明日に歓喜した。












そんな、夢を見た。












アンヘルはゆっくりと目を覚ました。
 
目を開け、体を起こす。周囲は暗闇であり、見覚えの無い暖かいベッドの上だった。

清潔そうな漆喰の塗られた四角い部屋。窓は小さく、小柄な体格のアンヘルでも抜けられそうに無い。

そっと体に触れる。欠損部は無く、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、問題なし。もっとも負傷が激しい右腕には真新しい包帯が巻かれ、全身の傷も丁寧に治療が施されていた。

白いシーツと、柔らかいベッド。服も、清潔そうなピンクのパジャマに着替えさせられている。

アンヘルは左手に刺さっていた点滴の針を慎重に引き抜いた。

ずいぶんと長い間眠っていたようだ。ぼぅっとした頭を覚醒させるのに時間がかかった。それでも、何をどうすれば良いのかは、解っている。

気付かれないようにベッドから降り、足音を忍ばせてドアの影に潜む。もちろん、絶も怠っていない。

耳を澄ませると、見知らぬ男の会話が聞こえてきた。

『全身打撲に、裂傷、擦過傷、両手は重度の火傷で、肋骨も何本かやられている。おまけに氷点下の雪原に長時間倒れていたので、手足が凍傷になり掛かっていた。破傷風の可能性もあるので、抗生物質も投与したよ。旅費交通費も合わせて、しめて163万とんで82ジェニー。キャッシュで頼む。ああ、もちろん死体処理は別料金だからな』

『領収書を出してくれ。最近は会計士がうるさいんだ。ああ、宛名はボス宛てで頼む』

少しずつ部屋に近づいてくる声に、アンヘルは身構えた。

部屋を見回しても武器になりそうなものは無い。しかも、どちらの足音も、非常に鍛えられていて、十中八九、念能力者。

全身を疲労感が覆っていて、全力を10とすれば3か4程度の力しか出せそうになかったが、泣き言を言っても始まらない。

だが、その足音はドアの少し手間でピタリと止まった。

同時に、アンヘルは自分の失策を悟っていた。うかつに"絶"を使ってしまったことを呪った。部屋にいるはずの人物の気配が消えたことで、逆に異常を知らせてしまったのだ。

瞬時にオーラを全開にし、戦闘態勢に入ったところで、部屋の外から戸惑いがちに声が掛けられた。

「ああ~、そう警戒しないで欲しい。私は医者だ、君に治療を施した者だ。ここは街のモーテルの一室だよ。この街には適当な病院も医院も無かったので、急遽ここをワンフロア借り切ったんだ」

アンヘルは息を潜め、男がそれ以上部屋に入ってこないのを見守った。

「ま・・・・・・安心してくれ。アフターケアを含めて、金の心配が無いから不義理はしない。君は大怪我をしている上に風邪をこじらせて、1週間ほど寝込んでいたんだ。特に、その右手、かなり危なかった。しばらくは動かすだけでもきついだろう。ところで、中に入ってもいいだろうか?」

ひとまず、様子を見ることにしよう。

この狭い部屋の中では袋のネズミ。アンヘルは片手でドアを半開きにし、自分から廊下に出た。

目の前には、三人の男女が立っていた。

「私はヤマダという。ヨークシンで開業医を営んでいる、しがない医者さ。こちらのレディはマダム・ミツリ。そして、こっちのインテリヤクザっぽいのがミスタ・バトゥ。一応、マフィア家業?、でいいんだよな?」

「・・・どうやら、一度あんたとはキッチリ話をつける必要があるようだな」

ヤマダと名乗ったのは、白衣を羽織った東洋人系の男だった。黒い髪を短く刈り込み、意外にがっしりとした体つきをした、目つきの鋭い男だ。

バトゥという男は、プラチナブロンドの髪をオールバックにし、目元にはサングラス、そして白いタキシードを着ていた。オマケに頬には刀傷らしきものまであり、控えめに言っても、どこからどう見てもヤクザ者にしか見えない。

そして、両者に共通するのは、念能力者だということだ。しかも、オーラの流れは淀みなく、ゴドーにも引けをとらないくらい鍛えこまれている。

さらに、もう一人。

唇は紅く、肌は抜けるように白く、長い黒髪の色っぽい美女。肩の開いた派手な絵柄の和服に、高下駄という、エキゾチックな衣装を着ている。

この女も能力者。しかも、男どもよりオーラの桁は二回りほど大きく、洗練されている。彼らが視界に入ってきたとき、アンヘルが最大に警戒心を抱いたのは、この女に対してだった。

足音をまったく立てず、気配もしなかった。ごく自然に、その女は廊下に立っていた。もちろん、絶を使っているわけではない。ただ、その身に纏うオーラがあまりにも自然に、淀みなく流れているので、アンヘルの危機感が働き出すのが遅かったのだ。

女は腕に、小さな赤ん坊を抱いていた。まだ1歳にもなっていないような乳飲み子で、こちらをくりくりとしたつぶらな目で、不思議そうに見ている。

そのミツリという女と目が合うと、にこりと笑顔を見せて軽く会釈してきた。ついでに、なにやら飲み屋の名詞を渡された。『バー・ミツリ』・・・・・なんだろう、酷く場違いな気がするのは気のせいだろうか。アンヘルは真顔で首をひねった。

「あなたがゴドーさんの娘さんね、話は聞いてるわ。私はミツリ、ミツリ・キョーコ。一応、ヨークシンで、ちょっとしたバーのママやってるわ。ちなみに、この子は一人息子のけーた」

ご挨拶して、とミツリが言うと、何故か赤ん坊はキャッキャッと笑った。

それで、アンヘルは毒気を抜かれてしまった。

「さて、とりあえず、こっちは名乗った。あんたも、そうツンケンせずに、名乗っちゃくれないかね」

バトゥという男が、そう言って促したので、アンヘルは名乗るだけ名乗ることにした。

「アンヘルだ。悪いが、性はない」

バトゥは満足げに頷いた。

恐らくこの男が交渉役ということなのだろう。残りの二人は後ろに下がっていた。

「ゴドーの旦那のことは、すでに知っている。とても、残念だった」

バトゥは、いきなりそういった。心なしか、気落ちしているように見えなくも無かった。

「俺達は、ゴドーの旦那の、まあ、昔の同僚だ。旦那が命を狙われているという話を聞いて駆けつけた。もちろん、暗殺の情報はずいぶん前に掴んでいたし、やろうと思えば防ぐことは出来ただろう。だが、ゴドーの旦那は組を離れた身だ。例え旦那が殺されそうになっても、ドンパチに手を貸すことは出来なかった」

悪びれもせずに、キッパリとそういった。

瞬間、アンヘルの中で殺意が芽生えた。疲労した体を無視して、オーラが爆発的に膨れ上がり、殺意が形となって周囲に満ちた。

それを見て、ミツリと言う女が一歩前に出るのを、バトゥは片手で制した。

「言い訳はしない。だが、旦那にゃデカイ借りがある。旦那が死んだなら、その借りは娘のあんたに返す」

その一言が、アンヘルを踏みとどまらせた。

「・・・・・・・・・・・娘?」

ずいぶん長い時間がかかってから、ソレだけを口にした。

「ああ、そうだ。少なくとも、ボスにはそう聞いたぜ、俺は」

娘、という言葉が何故か胸に刺さり、アンヘルの思考に冷水を浴びせていた。

それに、ゴドーを見殺しにしたというのは、絶対に許せないが、少なくとも筋(スジ)の通った話ではある。

「率直に言わせてもらえば、俺たちがここに来たのは、ゴドーの旦那から連絡があったからだ。近く、俺の教え子をそちらに送る、不出来な奴だが便宜を払ってやって欲しい、ってね。それに、うちのボスからも、あんたにその気があるのなら、組に入れてもいい、と言われている」

一度に様々な情報を渡されて、アンヘルは少し混乱していた。

だが、ゴドーがどこかのマフィアのお抱えの殺し屋だったというのは、聞いたことがあった。

少し、冷静に話を整理する時間がほしかった。

「・・・・・・・・悪いが、今は何も考えられない。それに、理由はどうあれ、あんたらがゴドーを見殺しにしたのも確かなんだろう。それで素直に言うことを聞けるほど、オレは人間ができていない」

「確かに、その通りだ」

バトゥはあっさりと認めた。

あまりにも気楽な口調だったので、逆にアンヘルが肩透かしを食らったような気分になったほどだった。

「実は、うちのボスからは、会ってみたいと言われたが、組に入れたいとは一言も言われてない。それに、今の組はゴドーの旦那が抜けた穴もなんとか埋まってるし、ぶっちゃけ人は足りてるんだ」

それが真実か否か。バトゥという男のサングラスに隠された表情は、アンヘルにも伺うことが出来なかった。

「それに、こういっちゃ何だが、うちのボスとは係わり合いにならないなら、それに越したことはないと思うぞ。あの人はちょっと変わってる。わりと昔気質な所があって義理は通すが、人情にゃ薄い。かなり偏屈で、敵も多いしな。それに何といっても、まあ、外見がアレだ。無理には勧めないよ」

その酷い言い様に、アンヘルは初めて、うっすらと笑みを浮かべた。

「門外漢のオレがいうのもなんだがよ、自分の所のボスを相手にすげえ言い様だな」

「あんたは、旦那の娘だからな。隠さず正直に話した。まあ、好きにしてくれ。さっきも言ったが、旦那にゃ、デカイ借りがある。あんたが他に何かやりたいことがあるのなら、ボスには俺が適当にごまかすし、必要なら手も貸す」

借り、という部分に力を込めて、バトゥが言ったので、少し意外だった。昔の経験から、本当に仁義を通そうとするヤクザというのが実在するとは、とても思えなかったからだ。

それに、ゴドーが人に貸し借りをつくるというのも、想像が出来なかった。

「意外だな。あいつは、ゴドーは他人に貸し借りを作るタイプじゃないと思ってた」

「確かに、あの人は貸し借りを作るタイプじゃなかった。ま、ぶっちゃけると俺が勝手に借りてるだけさ。だけど、本人に貸したつもりが全然なくたって、恩義を感じてるって奴は、結構多いんだぜ。俺もその一人さ」

他人の口から聞くゴドーという名の人物に、アンヘルはいまさらながら、あの人のことを何も知らなかったのだと、思い知らされた。

「旦那は、殺し屋なんて呼ばれてたが、俺に言わせるとちょっと違う。確かに組(ファミリー)の敵には容赦しなかった。でも、銃を持たない女子供は、絶対に手に掛けようとはしなかったよ。むしろ、率先して弱いものを食い物にするやつらから守ろうとしていた。ま、本人がどういうつもりだったかは、今となっちゃ分からんがね」

本当に、この連中がかつてゴドーと共にいたというのなら、話くらいは聞いてもいい。アンヘルはここに至って、ようやくその程度には警戒を緩めていた。

「今すぐ結論を出せとは言わない。ただ、判断材料にするくらいの気持ちがあるなら、ヨークシンシティ、ミッドタウンにあるボーモント銀行ヨークシン支社を訪ねてくれ。あんたの名前を出せば、話が通るように手配しとく」

銀行?という言葉にアンヘルが疑問を抱く間もなく、そういい残すと、話は終わりとばかりにバトゥは立ち去った。

それに、ヤマダという医者が続いた。

無言で立ち去ろうとするヤマダの背に、アンヘルが形ばかり手当ての礼を言うと、ヤマダは礼は結構、と言った。

「これはビジネスだ。死体の処理も含めて、彼からは悪くない値段をもらっているよ」

医者だと言う男はそう嘯いた。

「ヨークシンに来るなら、歓迎しよう。金さえ出せば、大抵の怪我は治療できる自信がある。あんたなら、いい客になってくれそうだ」

さも面白そうに、間違っても医者が口にするようには思えない台詞を残して、ヤマダもまた去った。

最後にミツリという女だけが残った。

彼女はいつの間にか片手に抱えていた買い物袋を掲げて見せると、満面の笑みを浮かべた。

中には、様々な女物の衣装が揃っていた。

「じゃあ、コレに着替えてくれるかな。実は私、このためだけに呼ばれたのよ。バトゥさんも山田さんも、妙に紳士的なところあるから、女の子の服を着替えさせる人が欲しかったんだって。おかげで私、今日はお店休むことになったんだもの」

片手に抱かれた赤ん坊が、再びキャッキャッと笑った。

ちなみに、この後、アンヘルはミツリにアレやコレやを試着させられ、最後には薄く化粧までされる羽目になった。






















アンヘルという少女をミツリに任せて、部屋に押し込むと、バトゥは自前のシガリロを噴かしていた。シガリロを吸うと、幸福感で満たされるのだ。やはり一番良いのは香りに尽きた。葉っぱをじりじりと焼いた独特の香りがたまらない。

ヤマダも白衣の懐から自前の紙巻タバコを取り出すと、封を切り、一本取り出して口にくわえた。バトゥがライターを翳してくれたので、軽く会釈して、火をともす。

小さなモーテルの廊下に、二人の男ふかすタバコの煙だけが満ちた。

「ドクター、遠いところをわざわざすまなかったな」

「いいさ。その分の金ももらっている。それにこの時期は病気持ちの旦那方もバカンスやら何やらで出かけてるから、正直暇だった」

先ほどは説明がしやすかったので、あえて言わなかったが、ヤマダは組の人間ではない。俗に言う闇医者という人種ですらなく、これでも正規の免許を持った開業医だった。

金払いがいいのでヤクザ者を大量に受け入れていたら、一般人が近づかなくなったという、曰く付きの医院の院長で、あまりに患者が寄り付かないので、最近は大病院の外来のバイトが主な仕事だというのだから、本末転倒もいいところだ。

だが、こういう時には融通がきくので、バトゥにとっては便利な人間だった。しかも、面倒ごとを嫌う人間なので、意外に口も固く、信用が置ける。

「・・・・いいのか、彼女に"本当の敵"が誰なのか教えなくて」

やがて、唐突に、ヤマダはそう切り出した。

「おしゃべりは止してくれよ、ドクター。あの子供は立派に旦那の敵を討った。すくなくとも本人はそう思ってる。なら、それでいいじゃないか」

バトゥは、シガリロの煙がまとわりつくのが気に障ったのか、サングラスを取った。

その下に隠されていた琥珀色の瞳は、意外なほどに澄んでいた。

「これ以上、血なまぐさいことに好き好んで首を突っ込むことは無いだろう。その点は、俺はボスとは意見が違う。あの子供は、まだ取り返しのつくところにいる。そこが、俺達とは決定的に違う。なら、今のうちに引き返させるべきだ」

最初、あのアンヘルという子供の眼を見たとき、バトゥはぞっとした。

深い海の底のように深く、冬の北海のように冷たい、青く輝く荒んだ瞳。

見慣れているスラムの餓鬼どもの目とも、また違う。鋭い刃物のような殺意の篭った目、人殺しの目だ。それが、あまりにも痛々しかった。

だから、これ以上、首を突っ込ませるべきではない。バトゥはそう思っていた。

ヤマダはその答えを聞くと、あきれたように首をすくめた。

「甘いというか何というか、正直、あんたヤクザ家業には向いてないと思うよ」

「ほっとけ。それに、これ以上敵(かたき)を横から浚われるわけにはいかないさ。ファミリーの仇は、ファミリーの者が討つ。それが筋(スジ)だ」

照れくさかったのか、バトゥはイライラとタバコをもみ消した。

「わからんな。ヤクザ者の考えることは」

ヤマダは再びあきれた様に首をすくめると、フィルター近くまで吸っていたタバコをもみ消した。





















街に一つしかない教会の集団墓地。

着ているのは、ミツリと名乗った黒髪の女に、着替えさせられた黒いワンピース。

オレは用意した花を、二つの墓に備えた。

ゴドーが建ててくれた、母・シルヴィアの墓。

その隣に建てられた、真新しい石造りの墓。

そこに碑銘はなく、墓の下にも遺骨はない。ただ、千切れたコートの欠片だけが、埋葬してあった。

オレの手には、ゴドーのくれたナイフだけが握られている。そのほうが、オレ達には相応しいのだと思った。

結局、オレは、あの男のことをよく知っていたようで、何一つ知ることがなかった。

もっと、話をすればよかった。

意地を張らずに、自分から聞いてみれば、きっとあの男は答えてくれただろうに。

いつも仏頂面で、何を考えてるのか分からなくて、でも、絶対に嘘はつかなかった。不器用で、誠実な男だった。

やり方は違ったけど、オレのことを真剣に見てくれたのは、母さんと、ゴドーだけだった。



「じゃあね、また来るよ、母さん。それと・・・・・・・・・・・・・・・親父」



改めて口にして、再び涙があふれそうになるのをこらえる。

眼下の冷たい雪が、ポトリポトリと垂れて落ちる雫を吸って、穴を穿つ。

涙もろくなったのは、女の体のせいだと勝手に決めて、オレは墓に背を向けた。

これからの身の振り方は何も決めていない。ただ、とりあえずは、あのバトゥという男について行ってみよう、とぼんやりと考えていた。

いろいろとありすぎたこの町を離れるのも、悪くないと思う。

















そして、オレは一歩を踏み出した。

降り続いていた雪はやみ、街は白く染められていた。

見上げれば、雲ひとつ無い空。

そこには、どこまでも青く、吸い込まれそうな碧空が広がっていた。












Chapter1「You & I」 end.




Thanks to all readers.

See you next Chapter「Strange fellows in York Shin」












蛇足的な後書き

まずは、ここまで読んでいただいた方々に無上の感謝を。

今回初投稿させていただきましたが、後半のアクションでは、あーでもないこーでもないと頭の中で思い悩みながら書き直しを重ね、あらためて自分の描写力の無さに苛立ちました。

皆様の指摘で気付かされることも多々ありました。これからもご指導いただければ幸いです。

次章の投稿には、少しお時間を頂きます。気長にお付き合いいただければ幸いです。



2009.06.某日



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep1
Name: kururu◆67c327ea ID:3cf690d4
Date: 2009/11/08 18:12
だいぶ時間経ってしまいましたが、第二章投下始めます。少々更新ペースが遅れるかも知れませぬ><












ボォオォォォ・・・・・!!

夜汽車は、むせび泣くような汽笛を上げた。

窓の外に移る景色はどこまで行っても白く、緩やかなカーブを描く雪によって覆われていた。動くものと言えば、未だ降り続く雪だけ。移り変わる景色は一枚オブジェとなって、客車を彩るインテリアと化していた。

大陸横断鉄道、この大陸を南北に横切る旧式ディーゼルの特急列車。

その三等客車の狭い座席の上から、オレは何とはなしに、変わらぬ車窓を眺め続けていた。

向かいの座席に座っているのは初老の婦人と、若い男が一人。先頃生まれたという老女の孫娘の話題で盛り上がっていた。男の方も、先頃子供ができたばかりで、養育費を稼ぐために都市に出稼ぎに行くのだという。

彼らと共通の話題を持たないオレはといえば、会話に参加することもなく、黙って耳を傾けていた。無口な女だと思われたことだろう。

暖房のために服を着込んだ人の群れから発する熱気で、車内は暑いくらいに暖められていた。

時折、車内を行き交う弁当売りが、ブリキの缶入りのヌードルや、サンドイッチ、ナッツの袋などを売りに来るが、そのたびに人垣の合間から、にょきにょきと紙幣を持った手だけが伸びて、商品を買っていった。

一度走り出せば70時間、休み無く走り続ける列車の中、娯楽といえば食べることくらいしかない。人々は旺盛な食欲を発揮し、車内には耐えることなく食べ物を租借する音だけが響いた。

雑多な食べ物の匂いと、饐えた人の汗の匂い、そして蒸れた車内の空気が入り交じり、オレは不快感に耐えていた。これでも夏場の旅よりはマシなのだという。

オレの生まれ育った街には交通手段が無い。元は鉱山街として潤っていたらしいが、何十年も前に鉱山は閉鎖され、街だけが残った。多くの住民はそんな街を捨て、今では政府からも見捨てられ、公式には地図の上にすら載っていない、そういう街だ。それ故、やがて悪党どもが跳梁跋扈する最果ての地へと変貌していった。

とっくの昔に鉄道も閉鎖されているので、最寄の街までいくのには、たまたま通りがかったトラックの運ちゃんに頼んで荷台を利用させてもらった。

そこから大陸横断鉄道に乗って、70時間あまり、オレは一路、ヨークシンと呼ばれる街を目指していた。






オレの人生が再び流転したあの日から、一月ばかりが経っていた。

腕の怪我も治りかけ、満足に動ける程に回復していた。だが、胸の中にポッカリと穴が空いたような思いだけは、いつまで経っても消えることがない。

ゴドー、オレに新たな人生を与えた男。

彼のいない生活、そこに意義を見出せなかった。それほど、オレの心の中には、あの男のことが根強く息づいていた。そう簡単に、割り切れはしなかった。

何をする気にもなれず、適当に身辺の整理をしながら空虚な日々をすごしても、日は昇り、落ちていく。

だが、ゴドーに教えられた哲学は、漫然と怠惰な絶望を貪ることを許しはしない。オレは、少しずつ身の振り方を考えていた。

バトゥ、ヤマダ、そしてミツリ。あの怪しげな連中がやってきたという、大陸一の大都市、ヨークシン。そして、かつてゴドーが殺し屋として暮らしていたという、街。名前くらいは耳にしたことがあった。

気が付けば、オレは故郷を後にしていた。

そこで、あの男が何を考え、何を望み、どう生きていたのか、少しでも知りたかった。そうすれば、前に進むことが出来るのではないか、そう思えてならなかった。

そんな安易な希望だけが、旅の理由だった。

今は、それ以外に、やりたいことが見つからなかった。








物思いに耽りながら、オレが車窓の景色に見とれていると、やがて列車は大きく揺れ、ブレーキがかかり始めた。

低いバリトンの声で車内放送が流れる。

「"本日は大陸横断鉄道オリエンタル急行をご利用いただきまして、まことにありがとうございました。当車両はまもなく終点グランド・セントラル駅に停車いたします。お荷物のお忘れにご注意ください。またのご利用を心よりお待ちしております"」

いつの間にか、窓の外の景色も、趣を変えていた。

舗装されたアスファルトの高速道を走る大量の自動車。高架線の下には商店街が続いていて、さまざまな異国の言葉が描かれた看板で溢れている。

海上貿易が盛んなためか、港湾には無数の船影が停泊していた。大半が蒸気船だったが、帆を持った小型の帆船もちらほら見える。

遠くに見えるセントラルパークの広大な敷地には、ジョギングにいそしむ人々があった。メインストリートを飾る針葉樹は、緑の葉と樹氷の複雑に絡み合う模様となって、ひとつのアクセントとして、街を彩っている。

そのすべてが、灰色に汚れた雪にまみれていた。

オレは思わず息をのんだ。高所から眺める街の風景は格別だ。

まるで人がゴミのように見えるのがいい。こういう場所を盛大に爆破したらさぞかし爽快だろう、と想像すると思わず頬がゆるむ。

最近気付いたことだが、何かを爆破するのは、その、とても楽しい。実際にやったらやばいので自重するくらいの分別はあるつもりだが。

それにしてもにぎやかな街だ。遠目からでもそれがよく分かる。

生まれ"直して"から、うらびれたスラムの町並みしか知らないオレにとっては、どれもが珍しい。多くの建物が立ち並ぶ大都会、だが、どこかゆとりのある設計で、かつて見た東京の町並みと比べてもはるかに洗練されているように感じられる。

冷たい風に乱れた髪をかき上げながら、オレは飽きもせずにその景色に魅入っていた。

やがて、列車は古びた石造りのホームへ入線し、停車した。

手荷物をまとめてホームへ降りると、エスカレーターを上がってさまざまな窓口のあるコンコースを抜ける。軽く挨拶をしてきたハンサムな駅員に切符を渡して会釈すると、オレは市内に一歩を踏み出した。

そこは、別天地だった。

地上数百メートルのビルディングが立ち並ぶ摩天楼。大通りは無数の自動車が流れる水のように波を打ち、多くの人間に満ちあふれている。流行に服に身を包んだ若者や、糊の効いたスーツを着込んだビジネスマン、地方から出てきたと思しきどこか垢抜けない衣服の人々、まさに人種の坩堝だ。

通りには無数の露天が並び、その脇を縫うようにしてギターをかき鳴らすストリートミュージシャンや、大道芸人達が大小のリングやボールでジャグリングの腕を競っていた。

降り積もった雪などものともせず、ここでは人の営みが続けられている。

その光景に、オレは圧倒されていた。

「さっすが世界一の大都市。ジュクもフクロも目じゃねえや・・・・・」

食べそびれた朝食代わりに、適当な屋台でサンドイッチを買う。硬めのバケットに新鮮なバターを塗りこみ、スライスしたオニオンとピクルス、ニシンの酢漬け。その上から赤いチャーリーソースがたっぷりとかかっていて、美味そうだ。

包帯を巻いた右腕をかばいながら、なれない左手でパンをちぎり、口の中に放り込むと、ツンと刺激的な香辛料の匂いが口中に満ちた。歯に染みるほどに酢がきついが、結構いける。

適当にパクつきながら、オレは物珍しそうに目抜き通りを歩いた。

すると、おのぼりさんそのままの顔をしていたからだろうか、金属のリングでジャグリングをしていた道化師(ピエロ)が一人、目の前にやってきた。ピエロはオレの右手の包帯に軽く目を走らせると、恭しく左手を差し出す。

思わずその手を握り返すと、ぶんぶんと大げさに握手をされた。

白い顔に水玉模様のメイク、フサフサとしたピンクの鬘。間近で観察すると、その顔は案外若い。もしかしたらオレとそう変わらない年なのかもしれない。

ピエロはにっこり微笑むと、大仰に一礼した。

「Welcome to the York-Shin city!!」













Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep1
 














午前9時半、バトゥは目を覚ました。

昨夜の連絡会ではだいぶ遅くまで飲んでいたので、まだ眠い。だが、しばらく表稼業のオフィスに顔を出していないので、そろそろ真面目に出社しないとまずかった。

隣に寝ている妻と、幼い息子を起こさないようにベッドから降りる。

妻とは生活時間帯が半日ほどずれている上に、お互い多忙の身だ。一緒に居られる時間は限られている。それでも互いの生き方を尊重するのが、彼らの生き方(スタイル)だった。

汗ばんだシャツを脱ぎ捨て、冷水と熱いシャワーを交互に浴びる。低血圧気味の脳を素早く覚醒させるにはこれが一番だったが、バトゥもそろそろ若くないので、たまにシャワーの後で軽い立ちくらみを起こすのが、ここ最近の悩みだ。

髭をそり、髪型をセットし、糊の利いたシャツとネクタイに袖を通す。派手すぎず、地味すぎない仕事用のスーツ。忙しい時でも、妻は彼のシャツに手ずからアイロンをかけるのを欠かしたことは無い。それがバトゥの一番の自慢だった。

ダイニングのテーブルには遅めの朝食が用意してあった。緩めのスクランブルエッグに野菜のシチュー。ラップに包まれたそれをレンジで温めると、バトゥは無言で食べ始める。いつもどおり、彼の好みの朝食だった。

食べ終わった皿とコップを洗うと、妻と息子を起こさないように、そっと頬にキスをしてバトゥは職場に向かった。

自宅兼妻の経営する飲食店から、ヤーパン製の乗用車を自ら運転すること、約20分。なじみの守衛に挨拶をすると、バトゥは自らのオフィスに向かった。

ボーモント銀行、ヨークシン支社長。

それが表向き、バトゥの肩書きだった。

高価な椅子にふんぞり返って、堅苦しい重役生活などはバトゥの本意ではない。ついでに言えばブランド物でない(が、それでも仕立てのいい)ビジネススーツ姿というのもガラではなかった。

クソッタレなホワイトカラーの真似事など、もとより荒事を好むバトゥの好みではない。だが、彼が任された銀行を利用する資産家たちの心証を害しないためには、こんな小道具も必要だった。

やらねばならないのなら仕方がない。バトゥはきつく締めすぎた首元のネクタイを緩めた。

すでに社員はほぼ全員出社している。文字通りの重役出勤だ。

本業の銀行業にはバトゥはお飾りのようなものなので、いてもいなくても変わらない。とりあえず出社して、メールに目を通し、適当に会議に出て頷いていさえいればよかった。実際、彼の顔を知らない社員も多い。

案の定、溜まっていたメールを適当に処理するうちに、一件、新着メールが届いた。

送信時間は、つい先ほど。

すぐさま添付ファイルを複合化キーで解凍、中身のドキュメントを貪るように読みふける。一通り内容を頭に入れると、バトゥは迷わず傍らの受話器を取り、慣れた手つきで番号を入力した。

相手はなかなか電話に出なかった。あげく、一度受話器を取り、直ぐにたたきつけるように切られる。

まあ、・・・・・・少なくとも外出してはいないらしい。

バトゥがもう一度電話をかけ直すと、果たして、相手は数コールの後に出た。


『・・・・こちら山田医院。今何時だと思ってる、まだ営業時間前だボケ!!』

『・・・・ドクター、客にその態度は無いだろう』

『ああ、あんたか。どうせメール見たんだろ。さっきまでそれを仕上げてたから、寝不足なんだよ。読めば分かるから、見ろ。以上』


受話器を置く気配が伝わってきたのでバトゥはあわてて引き止めた。読んで分かる程度のことなら、わざわざ早朝に電話までしない。


『ちょっと待ってくれ。確かに、読ませてもらったが、できれば作成者のあんたの口から直接聞いておきたい』

『ふん、それも料金の内というわけか。まあ、いいだろう』


山田は極めて不機嫌そうに、だが要点を分かりやすく説明しだした。金さえ出しておけば、それなりに働く男なのだ。


『例の場所で回収した死体だが、数は全部で31体。全員が20から30代と思われる成人男性だ。遺伝子データから戸籍を割り出したが、例のユーリーとかいう男以外には、特に不審な経歴の持ち主はいなかった。ただ、興味深いのは、ほぼ全員の体内から麻薬成分が検出されたことだ。種類は、最近スラムの餓鬼どもの間で大流行している新種の麻薬、"D・D"』


その名を聞いた瞬間、バトゥはピクリ、と眉根を寄せた。


『知っての通り、"D・D"は錠剤タイプの合成麻薬だ。口から服用するのがてっとり早いが、溶かして静脈注射にしてもいいし、粉末状にして吸引してもいい。アルコールとも併用できる。手軽さがうけて、ティーンエイジャーを中心に徐々にスラムの外にも出回り始めている』


実質的に市を牛耳っているマフィア達は、この麻薬の撲滅に血眼になっていた。

麻薬取引は利率の高い商売だが、反面、極めてリスクが高い。

事実、この大陸の中央政府は麻薬撲滅に血道を上げ、軍隊まで動員して潰しにかかっている。

政治家連中には鼻薬をかがせているが、経済活動を阻害し、治安の悪化に繋がる麻薬の問題だけは彼らの力も無力だ。治安の悪化は金融資本と観光業で保っている市の税収にダイレクトに響く。

故に、コミュニティーで定められたルート以外で麻薬を扱うのはご法度、見つかれば即破門、絶縁、制裁。それが、マフィアンコミュニティーの血の掟だ。

いったいどこの組織が、ふざけたまねをしているのか。互いへの疑心暗鬼、それが軋轢を生んでいた。

それは、バトゥ達、ボーモントファミリーにとっても頭の痛い問題だった。


『麻薬としては極めて安価な部類だし、手軽さもあって利用者(ユーザー)は多い。だが、31人中、30人という数字は無視できまい。例外は、例のユーリーという男だけだ。もっとも、こいつはこいつで、また別種の薬を常用していたようだがね。こちらは見たことも無い組成で、うちの設備じゃ解析は無理だ。専門家に任せたほうがいい』

『分かった。ご苦労だったな、ドクター。報酬は、いつもの口座に振り込んでおく。後で確認してくれ』

『了解。じゃあ、俺は寝るぜ。夜中までは電話にも出ないからそのつもりで』


山田が電話を切るのを確認すると、バトゥも受話器を置き、革張りのソファに深々と座りなおした。

朝一番から不景気な話を聞かされて、どっと疲労した気分だった。だが、今度の会合では、これが豚野郎を追い詰めるネタになるかもしれない。そう考えると、少しだけ愉快だった。

不意に、ドアをノックする音が響く。入室を促すと、入ってきたのは秘書のグレースだった。

ちょうど、時計の長針がゼロを指し示している。いつもどおり、彼女は定刻にはピタリとやってくる。

「おはようございます、社長」

抑揚に乏しい、感情の無い機械を思わせる声。だが、どこか皮肉気な響きだった。ちなみに、時刻はそろそろ11時を回る。

「おはよう。グレース」

そう答えて、バトゥは自分とあまり年の変わらない秘書の姿をまじまじと見つめた。

機械的なまでに抑制された表情が印象的な、若い女性。名前はグレース・コードリー。バトゥの秘書だ。

わずか18歳でこの国の最高学府を首席で卒業し、それから十年後、若干28歳で世界有数の総合商社の企画部長にまで上り詰め、そこを男女トラブルに端を発する不祥事で辞職したという、異色の経歴の持ち主だった。

正直な話、彼女の能力からすれば、もっと上の会社に抱えられてもおかしくは無いのだが、実家から近く、子育てに便利だと言うのが本人の談だった。同じ年頃の子供を抱えるバトゥには十分に納得できる理由だ。

「ご報告します。まずは、先週行われたヨルビアン連邦とロカリオ共和国との首脳会談の結果、両国間の懸案となっていた共通通貨・ジェニーの導入は二年後の実現を目途に協議を進める方針が確定しました。ヨークシン証券市場では個人投資家を中心にジェニーの利上げを狙った買いムードが高まっており、現在1ジェニー、0.8ロカロでの取引が始まっています。ミテネ連邦の各支社にはジェニー導入に伴う貨幣転換の準備を急がせる必要があると思われます。ATMと支払い端末、情報・簿記システムのジェニーへの転換作業など、支社の試算によりますと、一時的に10億ジェニー規模のコスト増となります」

「今度の役員会の目玉はそいつか。準備を急ぐよう、事業部の尻を叩くわけだ。株価はどうなっている」

「おもに電子、建設分野を中心に取引が進んでいます。この傾向は午前中いっぱいにわたって続くと思われます。本日の午前六時に入った情報では、ヤーパンのカクベニ商社がパドキア共和国の旅客輸送用モノレールプロジェクトを受注したことで、関連株が若干の上昇傾向にあります」

マフィアが本職とはいっても、表稼業に精通していなければ馬鹿にされる。

お飾りのバトゥが曲がりなりにも仕事を進められるのも、グレースのおかげだ。

「本日のご予定ですが、13時から管理職会議、保安部の巡視体制の見直しが報告事項に上げられています。また、16時より今年度下半期の業務報告会がありますので、ご出席ください」

バトゥは頷いた。

いつもなら、この後は1時間ばかり書類仕事になる。

「もう一つ。つい先ほど、受付にアンヘルと名乗る少女が来られて、社長との面談を希望されています。以前、ご指示を頂いたアンヘル嬢と思われますが、身分証明書の類をお持ちでなかったので、応接室にお通ししてお待ちいただいています。いかがしますか」

「・・・そうか、あの娘、とうとう来たか。分かった、会おう」

待ち人来る、といったところか。今頃ボスはウキウキしながら新たな手駒候補を品定めしているに違いない。この街のことであの人の耳に入らないことはないのだから。

まあ、バトゥにとっても仕事をさぼる絶好の口実が手に入ったわけだが。

「今日の仕事は全部キャンセルしてくれ。代わりに君が出てくれれば十分だ。報告は後で聞こう」

とぼけた仕草でそう言うと、グレースはうつむいて肩をふるわせた。

やがて、

「・・・・・・とりあえず、書類にサインだけ、しやがれ」

ドスのきいた声でボソッと呟くのを聞いて、バトゥは額に汗を浮かべた。

美女を怒らせると、怖い。















「・・・・・・・・・・・・・・・・・・暇だ。暇すぎる」

時計の秒針が動く、カチコチという音だけが応接室に響いていた。

アンヘルは何度目か分からないが、部屋のインテリアに目を移す。

龍が彫刻された木彫りの机、やたら座り心地のいいソファ、壁に掛かった絵画や、さりげなく配置された花瓶も素人目には高そうに見える。だが、虎皮の敷物やらシャンデリアやら、いささか成金趣味に過ぎないだろうか。昔、一度だけ目にしたことのあるヤクザのオフィスに雰囲気は近い。妙に威圧感のある部屋だ。まあ、一皮むけばマフィアの隠れ蓑ということか。

グランド・セントラル駅からサブウェイを乗り継ぐと、目的地はすぐだった。

それは、古びた石造り三階建てのビルディング。よほど古い建物なのか、時代がかった外観は見る者を威圧する。アンヘルにとっては今も昔も、まったく縁がなかった場所の一つだ。

『ボーモント銀行 ヨークシン支店』

その銀行の名前だけ聞いたことがあった。ゴドーの隠し口座のほとんどが、この銀行のものだったからだ。

アンヘルは若干緊張感を新たにして、ガラス張りの自動ドアをくぐり、窓口の女性に用件を告げた。

アポも取らずに押しかけたので、いきなり取り次いでもらえると期待はしていなかった。だが、名前と用件を告げると、すぐに店の奥に通された。あのバトゥと名乗った男が言っていたとおり、話が通っていたようだ。

しばらくお待ち下さいと、丁寧な物腰で対応した女性スタッフに通されたのは、やたらと金のかかっていそうな豪華な部屋だった。

それから、1時間あまりが経ったところで現在に至る。出されたお茶は、すでに冷え切っている。毒や薬を警戒しながらなめる程度に口をつけたが、味は悪くない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まあ、ぶっちゃけ、人にまたされるのは嫌いだ。


ガチャ


なので、ようやく現れた待ち人に、口調がトゲトゲしくなるのも致し方のない訳で。

「・・・まさか、本当に銀行屋とは、存外に尋常な。つか、正直、あんたのどこをどう見ても勤め人には見えねえ」

結局、それが第一声になった。













およそ一ヶ月ぶりに再開した第一声がそれだった。

「ほっとけ。人を見かけで判断するなよ」

とは言ったものの、大抵の場合、人は見かけで判断できるとバトゥは思った。

人と動物を区別する基準の一つとして衣服の着用を上げる動物学者もいる。それだけ、人は着衣から生じる雰囲気というものを重視する。

例外は警察と詐欺師と政治家だけ。立派な身なりで中身はほとんど屑ばかりだ。

では、この相手はどうか、というと判断に迷う。

ほっそりとした線の細い顔、肩の辺りで切りそろえられた金髪に、コバルトブルーの瞳。目つきが鋭い、というのを通り越して極悪なまでにキツイことを除けば、酷く美しい少女ではある。まあ、見た目だけは。

全身の所々に包帯を巻いているが、弱々しさは微塵も感じられない。ソファに気だるげに腰をかけ、うろんな目つきでこちらを睨み付けている様子はなかなかに迫力がある。

それ以上に気になったのは、目立たないように衣服の下に偽装されたホルスター。口径は、9mmだろうか。町中で持ち歩くのには適切な装備だ。

他にも、全身にそれと悟られぬように武器を携帯している。バトゥがそのことに気付けたのも、かつて全く同じように武器を携帯していた男のことを、よく知っていたからだった。

「・・・まあ、またせたのは正直悪かった。で、相談なんだが、実は俺もこれから昼飯なんだ。一緒にどうだい」

未決済の書類の山と(こちらを呪い殺さんばかりの形相で睨め付ける秘書の監視下で)格闘して、やっとこさ時間を空けたのだが、だいぶ昼も過ぎている。

空腹というのは只でさえ神経を苛立たせる。それにこの相手はあまり気の長いタチではない、というのはほぼ初対面に等しいバトゥにも察することができた。この少女、考えていることがすぐ顔に出るタイプだ。

「オーライ、オレはまだこの街にゃ疎い。あんたがイカした飯屋を紹介してくれるンなら願ったりだ」

不機嫌そうな表情を一変させて、あっさりと少女は頷いた。案外、腹芸が得意なのかも知れない、とバトゥは評価を改めた。

それとも、本当に何も考えていないだけなのか、彼女がこの街にしばらく居座る気ならば、いずれ分かることだろう。

「んじゃ、ちょっと待っててくれ。表に車を回すから。その間、そうだな、軽く社内を案内しよう」

バトゥが軽く指先で示すと、アンヘルを連れて部屋を後にした。









建物の中は、特筆するほど特異なものは何もなかった。

それほど広くもなく狭くもない、いかにもオフィス然とした空間。受付や事務室などが無機質に配置され、廊下には公園のベンチをそのまま持ってきたような木の長椅子が並べられていた。

それなりに清掃が行き届いているようだったが、建物自体の年月からくる壁や床の汚れ、染みは隠しようもない。もしかしたら、中古物件を買い取って利用しているのかもしれない。

それでも、広めに取られた窓口は、多くの人間でにぎわっていた。

身なりの良い紳士、親子連れ、老婦人等が行儀良く列を作って並び、それを揃いの制服に身を包んだ受付嬢が愛想良く微笑んで対応している。

そちらに向かって歩み寄りながら、バトゥが軽く手を挙げた。

「よお、カルロ」

「これは支社長」

窓口の向こうから軽く挨拶してきたのは、ひょろりと痩せ、眼鏡をかけたさえない風貌の男だった。パリッと糊のきいたスーツに身を包み、細い糸のような笑みを浮かべている。

「お疲れ様でございます。朝会においでにならなかったで、てっきりまた行き先不明の出張に出られたものとばかり思っていましたが」

皮肉気な口調を隠しもしない。どうやらバトゥは部下に恵まれているようだ、とアンヘルは思った。

バトゥは軽く肩をすくめると、特に気にした様子もなく男を紹介した。

「こっちはカルロ。うちの経営はこいつの肩に掛かってる。カルロ、こっちは客分のアンヘル」

「どうも」

アンヘルが会釈すると、カルロと呼ばれた男は糸のような笑みを崩さずに一礼した。

平凡なオフィス、こぎれいなスーツに身を包み、物腰も丁寧な従業員、そして訪れる客もカタギばかり。むしろ、見た目ヤクザ然としたバトゥがそこにいることの方が違和感を感じる。

アンヘルは、どうにも理解しかねるといった風情で首をひねった。

「あんたら、本当にマフィア?」

率直すぎる台詞だった。

「裏家業も切った張ったの時代じゃないんだよ」

カルロは軽く目を開き、バトゥは苦笑した。

「俺たちの主な商売は、盗品売買の仲立ち、闇不動産の委託管理、マネーロンダリングだ。多くのマフィアにはこれらのノウハウが致命的に欠如している。裏家業も、俺たちのような業種がなければ成立しないんだ」

そのため、自ら手を汚すことなく、中間マージンを扱うことでリスクを最小限に押さえ、確実に利益を上げることが出来るという。手堅い商売というわけさ、とバトゥはおもしろくもなさそうな口調でそう説明した。

「そのための表の顔として銀行業にも手を出していたんだが、今じゃむしろこっちの儲けの方が大きくなっている。裏の情報に通じることで、独自の投機プランが立てられるからな。それなりに儲けを出したことで投資家の関心を呼んだんだ。最近じゃ、むしろ表家業一本にしようかって話もあるくらいだ」

そこまで話したところで、バトゥは声を低くした。

「ただ、結局のところ、どっちつかずで恨みも買いやすい。金で解決できないトラブルも結構多いんだ。だから、"俺たち(念能力者)"みたいなのが必要になってくるのさ」

そんなものか、とアンヘルは納得した。

正直、話の半分も理解できていない。とにかくカタギの衆を脅し回ってショバ代をせしめるとか、そういう分かりやすいシノギではないらしい、ということだけは理解した。



と、そこまで話したところで、入り口のあたりで騒ぎが起こった。

「し、仕事、仕事をくれ。飯さえ食えれば、便所掃除だってなんだってやるから、仕事をくれ」

薄汚れた身なりの老人が、店の入り口で騒いでいた。

垢で真っ黒に汚れたボロを纏い、靴下とも靴とも、原型の分からないほどに崩れた布の固まりを履いている、典型的なホームレス。

この街では珍しくない光景だ。

ここまで来る道すがら、アンヘルはそのことを思い知った。

ヨークシンの街のそこかしこには、いたるところに薄汚れた浮浪者が屯していた。大半は老人か、子供だ。

彼らがこの街に集まる理由は、アンヘルには分かりすぎるくらいに分かった。冬の寒さをしのぐには、とにかく大きな街に居たほうがいい。

地下鉄の構内、公衆トイレ、商店街のアーケードの下。寒さをしのぐ場所には事欠かない。ゴミも豊富だから、服や靴の代わりを手に入れるのも不自由しないだろう。

他人事ではない。一年と少し前、アンヘルも間違いなく、その輪の中にいたのだから。

周囲の一般客がおびえて距離をとるのを尻目に、前へ出ようとしたカルロを、バトゥが抑えた。

「やあ、おじいさん」

頬に傷痕のあるサングラスの男、それだけでバトゥは威圧感がある。ホームレスの老人も、おびえた様子で上目遣いにバトゥを見上げた。

そしてバトゥは、すっと目元を覆うサングラスを、とった。

その素顔は、琥珀色の瞳をした、意外なほどに優しげな人相の男だった。

据えた嫌な臭いにも、汚い身なりにも嫌な顔一つせず、老人と顔を合わせる。

「おじいさん、悪いが、ここにはあんたにやってもらえるような仕事は無いんだ。すまないが、そこのストーブで少し暖まってから、出て行ってくれ」

どこか優しげな口調だった。

老人は、しばし呆然として、汚い自分の手とそれを握り替えしたバトゥの手を見ていたのだが、やがて両目に涙をあふれさせた。

「娘が、いるんだ。夫婦で、俺も一緒に暮らしてたんだ。でも、やつら、俺を汚いものでも見るようにして、畜生、なんで、俺を、孫だって、犬みたいに・・・!」

夢中になって語り出す老人の背中を、バトゥは優しくさすった。黙って話に聞き入り、時折相づちをいれ、うなずき返す。

鼻をすすりながら、涙を流して縋りつく老人をバトゥは嫌な顔一つせずに抱いて、裏口へ連れて行った。

去り際、バトゥが老人に数枚の紙幣をつかませるのを、アンヘルは見逃さなかった。













それから少しして、バトゥは愛車にアンヘルを乗せながら、夕刻のルートを走っていた。

バトゥの愛車は単に頑丈さだけが売りのくせに、古くから続くブランド名のせいで、やたらと値が張る外車だった。アンヘルの見たところかなりの伊達男のバトゥには、いかにも不似合いな選択であったが、バトゥ自身はその鉄板を貼り付けただけのような頑丈さが気に入っていた。9mm程度なら外装を抜かれることがないからだ。

バックミュージックはバトゥのお気に入り、DMCの"スラッシュキラー "。いかれたビートがストレスをほどよく和らげ、おまけに盗聴対策にもなる。もっとも、助手席のアンヘルには不評のようで、エンジンをかけると共に鳴り響いた大音響に、あからさまに不愉快な顔をされた。

バトゥは、アンヘルがいかにもさりげなく革張りの座席を撫で、危険物の有無を確かめていたのに気付いていた。なかなか抜け目ない性格のようだ。

日は既に大きく傾き、オレンジ色の光が町を照らしていた。昼飯を食うには微妙な時間だが、互いに腹は空いている。

車に乗り込んでから十数分、先に沈黙を破ったのは、アンヘルだった。

「・・・いいのかい、一度やると癖になるぜ」

バトゥは、何が、とは聞き返さなかった。

「あの爺さん、ベッポっていってな、昔はちょっとした馴染みだった。市の清掃局に雇われて、掃除夫をしていた。図書館、警察署、留置場、公衆トイレだって、真面目に掃除するいい奴だった。ところが、市はもっと安い賃金で働く会社に鞍替えして、ベッポは解雇された。以来、ああやって街中を彷徨ってる。この国じゃ、よくある話さ」

そこで、一度言葉を切ると、軽くサングラスの位置を正した。

「老人は嫌いか。それとも、貧困そのものが」

「何が、言いたいんだ」

「あんた、さっきは今にも噛み付きそうな顔してたぜ。自覚はあったかい」

運転席のバトゥからは、助手席から窓の外を見ていたアンヘルの顔を見ることは、出来なかっただろう。

貧しさをつらいと思ったことはなかった。それでも、幸せだったから。

だが、貧しさは憎い。母の命を奪ったものの一つだったから。

「俺もスラムの出さ。気持ちは、分からないでもない」

ぷいと不機嫌そうに顔を背け、アンヘルは空を見上げた。

雲の切れ間から覗く、灰暗い空に、湿った空気。雪の冷たさは、この街でも変わらない。

今にも振り出しそうな重みを帯びて、雲が一つ、ゆっくりと頭上を過ぎてゆく。

あの街で生きていた頃から大嫌いだった、灰色の雲と冷たい雪。

「・・・あんた、昔話をするほど年寄りじゃないだろう。おしゃべりは嫌われるぜ」

それきり、話は終いだった。












…to be continud



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep2
Name: kururu◆67c327ea ID:3cf690d4
Date: 2009/11/14 16:47
感想を頂きまして、ありがとうございます。続きを投下させて頂きます。
感想板での指摘ありがとうございます。うっかりplotから削除するのを忘れてました><














ドレイボット・アンダーソン、通称"ダニー・ボーイ"は、堂々とした態度でその店のドアーを潜った。

彼がこの店を訪れるのは初めてだった。というより、この町に来て間もないのだから、当たり前の話なのだが。

ダニーは、いわゆるギャングだ。

地元ではいくつもの違法賭博や飲み屋、そして麻薬密売人を抱える顔役(フェイス)の一人で、"ダニー・ボーイ"と言えば誰もが畏怖と尊敬のまなざしで彼を見る。

少年時代、寂れた屑鉄置き場のパーツ売りから身を起こし、やがて麻薬の密売に手を染めた。徐々に手下を増やし勢力を広げ、刃向かう同業者達(ライバル)を残らず始末して、今では町の唯一にして絶対の顔役にまで上り詰めた。

ダニーには、いわゆるカリスマがあった。どこか狂気の匂いを漂わせ、時に躊躇無く暴力をふるい、だが彼を慕う者達には良い思いをさせてやる。180センチを超える長身で、金髪の髪を綺麗になでつけたハンサムな彼には、それだけの魅力があった。

血と暴力で儲けてきた自分に出来ないことはないと信じていたし、実際、これまではそれでうまくやってきた。

オンリーワン。誰もがダニーを恐れ、気に入られようとする。

だが、ダニーはそれで満足しなかった。ダニーは常に新しい獲物を探し、見つけ、欲する。欲したら一も二もなく奪い取る。逆らう奴は皆殺しだ。

かつて貧しく、飲んだくれの父に悩まされ続けた子供時代の鬱憤を晴らすかのごとく、彼は自らの欲望に忠実だった。それがダニーという若きギャングの性(さが)だった。

そして、先月の初め、ついにダニーは故郷の町を手下に預け、自らは手勢を引き連れてこの世界一の暗黒街に意気揚々と乗り込んだ。目的は、新種の麻薬の取引だ。

まだどこの組織とも取引がないという、新型の合成麻薬。錠剤タイプで嵩張ず、新商品の試供品という話で仕入れ価格もアホみたいに安かった。試しにスラムの餓鬼どもを使ってバラ撒いてみたが、客の反応も上々だ。

そこで、ヤクをもっとばらまくため、ダニーは手頃な拠点を手に入れることにした。

バーやクラブ、それにカジノ。そういった猥雑とした場所はヤクを売りさばくのに適してる。その手の店には自然とヤクを欲しがる客が集まるものだし、ついでに娼婦を侍らせて売春宿にしてもいいし、武器の密売にも使える。一粒で三度も四度もおいしい稼ぎだ。

それ故に、クスリを卸してくれる取引相手が、良い"飲み屋"があると教えてくれたのは、渡りに船だった。


『バー・ミツリ』、それが店の名前だ。


やたらと重い木製の扉を開け、室内に踏みいる。すぐに、緩やかな下り階段が彼を出迎えた。店は半地下の造りになっているらしい。

石段を下りると、薄ぼんやりとした柔らかな光に満ちた空間が現れた。

足下には赤い絨毯が敷き詰められ、周りの壁はすべて竹(バンブー)か木製、おまけに所々に多彩な紙をあしらってあった。確か、ヤーパンのショージー?だっただろうか。紙で彩られたドアーはなかなかに趣がある。竹と笹で覆われた壁紙も、オリエンタルな雰囲気を醸し出して珍しい。

そんな風変わりな室内に、5人も座ればいっぱいになるカウンター、そして同じ数のボックス席があった。ちらほらと客の姿もある。それなりに繁盛しているようだ。

木彫りのカウンターの奥から、一人女がダニーを出迎えた。

「いらっしゃい」

赤くぷっくらした唇、艶のあるロングの黒髪に白い肌、そして垂れ目がちの黒い瞳の目元には、小さな泣き黒子が一つ。

結った髪に金細工の簪をつけ、身につけているのは黒地に金と赤の派手な模様が入った東洋のドレス。しかも、大きく開いた襟元からは、こぼれ落ちそうな大きな胸がのぞいている。

ダニーは思わず口笛を吹いた。滅多にお目にかかれない、いい女だ。

「お客さん、何にします」

優しげな微笑み。花に例えるならスミレか石楠花がよく似合う。思わず見とれていた。その声に、はっと我に返る。

「あ、ああ、カウボーイをくれ」

ダニーは、グラスを器用に操ってカクテルを作る彼女を見ながら、思わず微笑んだ。見れば、他の客も彼女に見とれている。

ボサノバのリズムが低く、会話を邪魔しない程度に流れていた。

オレンジ色の灯りが鈍く、彼女の横顔を照らす。

ダニーは長身で、ハンサムで、力(パワー)がある。故郷では彼が道を歩くだけで女達の方から寄ってきたものだ。女達は、そろって唇を突き出し、スカートの裾をまくって見せ、みだらなため息をつく。ダニーはその中から好みの女を選び、ウィンクをするだけでいい。女は喜んで股を開いた。

だが、正直、痘痕やら靨やらで荒れた肌を厚化粧で繕う安い女には、もう飽き飽きしていた。

「はい、お客さん、どうぞ」

染み一つ無い白い肌。白魚のような手が、カクテルのグラスを差し出していた。

思わず受け取ると、ダニーは出されたウィスキーのミルク割りをうまそうに飲み干した。ミルクが新鮮なのだろうか。口当たりがよくてコクがある。

同じものをもう一杯注文したところで、何気なくカウンターの隣に座っている少女に目を移し、相好を崩した。こちらも、なかなかの美女だ。

目の覚めるようなストレートのブロンドに、色鮮やかな青い瞳。そして、健康的な小麦色に焼けた、さわり心地のよさそうな肌。顔つきはまだまだ幼さを残しているが、もう数年もすれば頗る付きの美女になる。

着ているのは、赤いハイネックに皮のブルゾン、深緑のカーゴパンツがキマっていて、少女の野性的な魅力を増している。

彼女は、1ポンドはありそうな肉厚のステーキをむさぼっていた。

血が滴ってきそうなレアの肉にナイフを走らせ、一口大に切り裂きながら、無言で口元に運ぶ。付け合わせのポテトの山も見る見るうちに無くなっていった。マナーよくナイフを使いこなしているせいか、食べる動作は下品ではない。だが、まるで手品のように、肉とイモが恐るべきスピードで小柄な女の口に消えていった。

ダニーは思わず胸焼けがしたが、少女が頬に付いたステーキソースをチロリと舌でなめ取る仕草は、実にエロティックだ。

少々目つきがキツイのが玉に瑕だが、跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘を無理矢理押し倒してヒィヒィ喘がせてやるのも、まんざら嫌いではない。

「良い酒に、いい女。良い店だな、気に入ったよ」

新しいグラスを受け取りながら、ダニーはカウンターの女に話しかけた。

「あら、嬉しい。贔屓にして下さる」

彼女は、花のような笑顔を浮かべた。

ダニーはニッと自慢の白い歯を見せながら、微笑みを返す。

そして、

「この店は、いくらだい」

唐突に、それがなんでもないことのように話を切り出した。

椅子の背もたれに身体を預け、酒を味わいながら、重要なはずの問題をまるで新たな酒を注文するかのように結論から突きつける。それがダニーの優雅な仕事の進め方だ。

その言葉が理解できなかったのか、女は困ったように眉根を寄せた。憂いた顔も美しい。ますます欲しくなった。

「この店はいくらか、と聞いているんだよ、ママさん」

美しさに免じて、ダニーはもう一度だけ繰り返した。いつもならば二度目の言葉と共に銃をぶっ放している。

いかなる時も、ダニーは"No"という答えを許さない。

ダニーが、いくらか、と聞いたなら店を売ることはもう『確定』で、後は金額の問題だけなのだ。どうも、その当たり前のルールが、この街の連中にはまだ分かってないらしい。

「ノン、おふざけはダメよ、お客さん」

「ノン、いくらか、と聞いているんだよ、ママさん」

女はYesと口にせず、困ったように笑うだけ。

ダニーは、やれやれといった風情で肩をすくめた。冗談を言っている、とでも思っているのだろうか。

どうやらこの街の連中にも鉛玉(ブリッド)で思い知らせてやらなければ、分からないらしい。

ガチャン!

ダニーは笑顔のまま、飲みかけのグラスを放り捨てた。

ついで、するりと自然な手つきで懐から取り出したのは、45口径のリボルバー。

躊躇無く、発砲した。

PAM・・・!!

とたんにシンと静まりかえる店の中。すべての視線が、ダニーに集中する。

カウンターの女からも笑みが消えた。

「どうだい、そろそろ売ってくれる気になったかい、ママさん」

「・・・・ちょっと、オイタが過ぎるわね、ボーヤ」

女は切れ長の目をすっと細め、口元はダニーを嘲笑するように冷たく引き結ばれる。それがダニーを苛立たせた。

PAM・・・!!

二発目。狙いは、女の耳だった。

軽くかすめて、血を流させれば、この女も素直に言うことを聞くだろう。後は怯えた女を優しく諭して、店の主を呼び出させるのだ。恐らく経営者は別だろう、とダニーは踏んでいた。これでも彼はフェミニストを自認しているのだ。

そんな当たり前の未来をダニーは夢想していたのだが、次の瞬間、

パシッ

放たれた弾丸は、軽い音を立てて細い腕に、"つかみ取られた"。

つい先ほど、彼にカクテルのグラスを差し出した細い指、それと同じものが鈍い鉛色の弾丸をつまんでいる。

女はそれを、さもつまらなそうにカウンターの上に転がして見せた。

だが、驚愕している暇は、ダニーにはなかった。

「・・・・・おい、おっさん。ちょっと、表でろ!」

一瞬、男かと錯覚するほど低く、ドスの聞いた声。

真横から、地獄の底から響いてくるようなその声を聞いたとき、ダニーの背に大量の汗が噴き出した。

同時に、背後からむんずと利き手を捕まれた。恐ろしいほどの握力で、とてもふりほどくことはできない。ダニーは情けなくも悲鳴を上げた。

本能の命令するままに、ゆっくりと振り返った先には、頭からカクテルを浴びせられて怒り狂った少女が一人。

ただでさえ目つきの悪い彼女の眉間には、今やビキビキと極太の青筋が浮かんでいた。有り体にいって、鬼か悪魔だ。

先ほど、ダニーが投げ捨てたグラスは、騒ぎに目もくれずに肉をむさぼっていた少女に、当たった。当たってしもうた。

つまるところ、それが本日世界で最も不幸な男、ドレイボット・アンダーソンの最大の不幸だった。













Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep2












バキッ・・・!

バトゥが便所から戻ってきたとき、視界に映ったのは、見事な放物線を描いて吹き飛ぶ見知らぬ男の姿だった。

下から突き上げるように放たれた見事なコークスクリュー。拳のひねりが効いている。

さらに、倒れた男の股間を蹴り上げ、男として回復不能のダメージを与える少女、アンヘル。

赤い小便をまき散らしながら這いまわっている不幸な男を眺め、バトゥは思わず自慢のマグナムを押さえた。

「容赦ねえなあ・・・」

砕け散ったグラスに食べかけのステーキ皿、転がっていた拳銃を見やり、バトゥはおおかたの事情を察した。

愚かな男だ。"獣"というのは食事を邪魔されると怒り狂う。

「中途半端に痛めつけると逆効果だろ。こういう連中は、さ」

これほどの事をしてのけたと言うのに、少女は息の一つも乱していない。よほど鍛え込まれているのだろう。

「よお、姉ちゃん、ええパンチ持っとるのう。どや、ウチの組で働いてみんか」

立ち回りを遠目でニヤニヤ見物していたギャラリーの一人から声がかかった。

他の客は既に、関心を無くしたようにそれぞれの楽しみに戻っている。この店に来る客は、この程度のことで一々騒いだりはしないのだ。

「悪ぃが間に合ってるよ」

なれなれしく少女に近寄ろうとした男にバトゥは見覚えがあった。

黒いスーツを着込んだ小男、ハゲでちびでおまけに短足、一度見たら忘れられないような特徴的な男だ。だが、その外見が曲者だ。山椒小粒でピリリと辛い。喧嘩の腕は人並みだが、敵に回すとあまりのしつこさに辟易する、そういう手合いだ。

「ゼンジ、この姉さんはウチの客分だ。余計なちょっかい出すなよ」

「・・・・バトゥ、よりによってテメーんとこかよ。同情するぜ、姉ちゃん。こいつんとこに飽きたら、いつでもウチに来な」

その男、ゼンジは少女に半ば無理矢理名詞を握らせると、案外あっさり引き下がってくれた。一度半殺しにされたことのある男の顔くらいは覚えていたようだ。

だが、油断はできない。この男、これでもマフィアンコミュニティーを治める十老頭直系組織の組頭だ。その目はドブネズミのように抜け目なく、バトゥを睨み据えている。

「ゼンジさん、戦争ゴッコはノンですよ」

取りなすような、艶めかしいミツリの声に、ゼンジの顔は見る見るうちにニヤけていった。この男、ミツリに心底惚れ込んでいる。

「分かってるよ、ミツリ。ボーモントと手打ちは済んでる。この店の半径100メートル以内じゃ、ドンパチはやらねえ」

ミツリと談笑しだしたゼンジを尻目に、バトゥはアンヘルに自前のハンケチを差し出した。ブランド品の安くないものだったが、バトゥは女のためにはモノを惜しまない。

「サンキュ」

少女は礼を言い、それでミルクまみれの顔を拭いた。神経質そうに髪をすき、丁寧に拭き取っていく。男勝りな態度が目立つが、やはり女らしく髪の汚れが気になるらしい。

「災難だったな。最近、この手の馬鹿がまた増えててね」

バトゥは前屈みになって店から這い出そうとしていた男のケツを盛大に蹴り上げた。男はギャン、と犬のような悲鳴を上げた。

「この街は、観光収入と金融資本でかなり潤ってる。それに群がる貧困層と移民の流入、スラムの形成。ホテルやバーのミカジメだの、闇金融、盗品売買、武器密輸、麻薬取引、その他諸々。マフィアが噛みやすい商売の下地が整ってるんだが、おかげで世界でも稀に見るマフィア激戦区なんだ」

無我夢中で店の外に出て行く男の後ろ姿を、ゴミでも見るように見送り、バトゥはすぐに興味を失った。

「一旗あげようという新興組織が大陸中からヨークシンに集ってくるもんだから、年中抗争が絶えない。まあ、うちの組は規模で言ったらドンケツだからな。おかげで街の仕組みをよく知らねえ新参者には、絶好のカモに見えるらしい」

「オレの故郷もだいぶヤバイが、この街も相当なもんだ」

アンヘルが呆れたように鼻を鳴らす。




その時、ゼンジと会話を追えたミツリが、するすると店の奥に用意された小さな舞台に立った。

曲が、流れ始める。

イントロの間、彼女は祈りを奉げるように瞳を閉じて、佇立していた。

彼女が歌い出す、まさにその瞬間、ウェイターは仕事を一時中断し、クラブの照明がすべて落とされる。

そして、スポットライトが1本、ステージ上の彼女を照らし出した。





"Summer time"


ジャズとゴスペルを使った異色のオペラ、『ポーギーとベス』。

寂れた河岸の街、場末のキャットフィッシュ・ロウ(ナマズ横町)に暮らす、貧しくて悲しい、虐げられた黒人たちの物語。

足の不自由な小柄の青年ポーギーと、腕っ節の強い乱暴な大男のクラウン、その娼婦だったベス、そしてプレーボーイで麻薬密売人のスポーティン・ライフ。当時の黒人たちの過酷な生活を反映した、悲しい恋の物語。

その第一幕冒頭、生まれたばかりの赤ん坊に、クララが歌いかける子守歌だ。

この歌には二つの歌詞がある。

前半の歌詞は、文字通り、生まれたばかりの我が子に、クララが聞かせる子守歌。だが、後半の歌詞では、子供の成長を祈る内容になる。

それは、赤ん坊の父親、ジェイクが嵐に遭遇して行方不明となったとき、そしてジェイクの死を知ったクララが嵐に飛び込み、死んだ直後に歌われる。

孤児となった赤ん坊。パパもママも、もうそばにはいない。ラストでポーギーがベスを求めて旅立つとき、この赤ん坊は"町のお袋(セリナ)"に抱かれているのだ。

もちろん、アンヘルがそんな講釈を知るはずもなかったが、ハートは痛いくらいに伝わってきた。

何故って、その歌詞の意味するところは、嫌になるほど、分かりすぎるくらいに、分かったからだ。

優しさに満ちた歌詞と、もの悲しい旋律が胸を打つ。誰もが黙って歌に聴き入っていた。

時折、ゼンジの鼻をすすり上げる音が響いたが、誰もそれを咎めようとはしない。涙をこぼしながら、歌に聴き入っている。






歌い終わっても、はじめは拍手一つなかった。

やがて一人の客(もちろんゼンジだ)が拍手をしはじめると、突如として店全体が割れんばかりの拍手に包まれた。

アンヘルも、夢中で拍手を捧げていた。

そのとき、自分の頬を伝う熱い液体に、初めて気が付いた。












「ハイ、さっきはどうもありがとう。助かったわ」

歌い終えて、ミツリがアンヘルに近づいてきた。手には細長いグラスを二つ持っている。

「サイダーよ。この店自慢のヨークシンスタイル」

サイダーとは、新鮮なリンゴ酒を炭酸水で割ったソフトなアルコールドリンクのことだ。一見、簡単な飲み物だが、リンゴ酒の種類や炭酸の加え方、砂糖を加えるか加えないかでも、地方によって特色がある。

ミツリが差し出したのは、濁りの無い琥珀色の微発泡で、砂糖なし。ためしにアンヘルが一口飲んでみると、後味が軽くて飲みやすい。

「ここはバーよ。子供に出せる飲み物は、水とミルクとサイダーだけ。お酒は16歳を過ぎてから、ね」

「?・・18、じゃないんですか、キョーコさん」

「んーん、この間の規制緩和でタバコとアルコールとライトドラッグの年齢制限がまた下がったの。あの市長も最近落ち目だから、市民のご機嫌取りに必死だわ」

気取ったところのない気さくな女性、ステージの上の彼女とは別人に見える。

と、

「ねえ、あなた、なんで殺さなかったの。さっきのボーヤ」

不意に、ミツリは唇をゆがませてアンヘルにだけ見えるように笑った。酷薄な笑みだった。客に応対するときとも、ステージの上の顔とも違う。

「息の根を止めるべきだった、と?」

アンヘルは注意深く答えた。

先ほど、馬鹿な男が発砲した際には珍しく肝が冷えた。

発砲そのものに対してではない。その後のミツリの反応に、だ。

わざわざ指先で掴まずとも、彼女なら避けることも防ぐこともできただろう。アンヘルにすら可能だ。自分のスペックは把握しているし、そう難しい芸当ではない。その自分を超える力を持つだろう念能力者、できないとは思えなかった。

それに、威力の強いマグナム弾の初速は秒速500メートルをゆうに超える。それを、あろうことか指先でつまむなど、恐らくあのゴドーにすらできないだろう。少なくとも、アンヘルにはとても不可能だった。指先の力だけで、人体を打ち抜く弾丸の運動エネルギーを受け止めるなど、危なすぎて試そうとすら思わない。

しかも、とアンヘルはグラスを持つミツリの指先にさりげなく視線を這わせた。ちょっとした火傷の跡すらついていない。至って綺麗なものだ。

一瞬の内に練り上げられた大量のオーラに、それを指先に集中させる"流"の速度。やはりこの女、すさまじい力を持つ念能力者だ。

それに、あの時のミツリには、すさまじいほどの威圧感があった。息をするのが困難なほどの、恐ろしい気配。心を叩き折ってしまいそうなほどの禍々しい殺気。この世全ての不吉を孕んだかのようなオーラは、眼力だけで人が殺せるほどの迫力があった。

アンヘルが苛ついて、必要以上に馬鹿な男を痛めつけたのも、半分はそのせいだった。それに、ついつい敬語で話してしまうのも。

「ん~ん、もちろん店の中で殺しなんか願い下げよ。結局、掃除するのは私だもの。でも、どっちかっていうとあなた殺さずに済ませる性格に見えなかったから、ちょっと意外だっただけ」

「心外だ。オレはこれでも文明人なんだ。無駄な殺しはごめんだね」

アンヘルは人の命を軽んじたりはしない。そこまで割り切った考え方をするほど年を重ねていないし、若くも無い。出来る事なら手加減をしてやることもある。だが、敵に対しては何処までも苛烈になることができた。言ってしまえば、それがゴドーから教わったことの全てだ。

その言葉を聞くと、ミツリは冷徹な微笑を霧散させ、柔らかくほほえんだ。

「あなた、見た目通りの年じゃなさそうね。妙に落ち着いてるっていうか、老けてるっていうか、ねえ今いくつ?20くらい?」

「・・・・これでも、まだ十代なんだけど」

「あはっ、ごめんなさい。なんか、ゴドーさんと話してるみたいだったから、つい」

意外な言葉だった。性格も言動も、あの男とは違いすぎるだろうに。

ミツリは悪戯っぽく笑うと、指先でアンヘルの座っていたカウンター席を指し示した。

「その席、あなたが座るまで、誰も座らなかったのよ。何故だか分かる」

アンヘルは首を横に振った。

この席を選んだのは偶然だ。常に店全体を視界に治めることが出来、出入り口にも近い。適度な遮蔽物で身を隠すことも可能だったし、何より空席だった。

「あの人の、指定席だったからよ」

その言葉を聞いたとき、やっとアンヘルの中で覚悟が決まった。

優しげな微笑みを浮かべているときのこの人には、不思議な魅力がある。つい、なにもかもぶちまけて、身をゆだねてしまいそうな。しかも、それだけではなく、血と暴力が対話となる裏の世界にも詳しそうだ。

「・・・・・な、なあ、キョーコさん」

それを求めてきたのに、いざ口に出すとなると、勇気がいる。

アンヘルは、自分の鼓動がいつになく早まるのを自覚しながら、その言葉を口にした。






「教えて、欲しい。彼は、ゴドーは、この街でどんな風に暮らしていたのか。どんな些細なことでもいいんだ。オレは、それが、知りたい。知るために、ここに、来たから」

そう、上目遣いで告白した少女は、先ほどまでの切れすぎるジャックナイフのような雰囲気が嘘のように消えていた。

ミツリの目にはひどく弱々しく、年相応の少女に見えた。

だから、

「・・・・・私も、そう多くのことを知っている訳じゃないわよ、ゴドーさんのお仕事がお仕事だったし、それにあの人は自分のことを滅多に話さない人だったから。それでも、いい?」

少女、アンヘルはそれを聞くと、とても嬉しそうに微笑んだ。





































ヨルビアン大陸の西端に位置するヨークシン・シティは、超高層ビルが数多く建ち並ぶ大陸随一の大都市であり、政治経済の中地である。

その一方で、ヨークシンは世界最大の犯罪都市だ。

全世界の裏社会を統括するマフィアン・コミュニティーを支配する十人のゴッドファーザー、『十老頭』。その内、二人の直系組織をはじめとする五大組織を筆頭として、大小11もの組が入り乱れながら、鎬を削る暗黒街。

彼らの主な商売は、ホテルやバーのみかじめ料、麻薬の密売、盗品の売買、売春業に賭博業、最近では不動産業など、表分野の商売にも手を伸ばし、莫大な収益を上げていた。

マフィア達は、本来ならば彼らを取り締まる側の警察機構や政治権力にもその資金力を遺憾なく投入し、表の世界にも着実に影響力を増しつつあった。

そんなヨークシンの港湾から北に3ブロックほど先にあるダウンタウン地区、イーストエンドにあるラチャダ・ストリートのポルノ・バー、『バルバロイ』。

そこは、ヨークシンを治める五大組織の一つ、殺人代行組合の元締め、Mrブッディ直系の店だった。





ガッシャン・・!!

勢いよく振り下ろされた特大のピッチャーボトル。なみなみと注がれていたはずのコークを一気飲みして、ブッディは怒声を上げた。

「使えない!本当に使えないよ、ユーリーちゃんはよォオ!!死にっかけ一匹始末して、かわい子ちゃん連れてくるだけだろが!!あんだけ"弾避け"つれてったのに、返り討ちとかマジ有り得ねえ!!」

豚のように嘶きながら、周囲に山と積まれたジャンクフードを貪った。

ただでさえ大きな頬をこれ以上ないほどふくれさせ、咀嚼もスピーディに特大コークで胃に流し込む。

そのそばでは店の商売女たちが怯えながら、ハンケチで滝のような汗をぬぐい、空のピッチャーにお代わりを注ぎ足していた。

「正確には、"殺し屋"ゴドーも死んだって話ですよ。その後、ゴドーに囲われてた女に殺された、ってーのがリッキーの報告ね」

怒り心頭のブッディに、冷静に指摘したのは、ニット帽にサングラスをした若者だった。緑色のパーカーにスニーカー、元は黒だったらしい髪も無残に茶髪に染め、体中のいたるところに穴を開けて金のリングをつけている。見た目は典型的なストリートギャングだ。

「っかーーー!よりによってあのかわい子ちゃんに殺されたの?!ありえね~、つか、つかえね~。いや、それならマジ死んでくれてよかったわ、うん」

「それよりブッチさん、言われたとおり、ボーモントのやつらの居所は、ぜ~んぶ洗いましたよ。ほら、これ」

ニット帽の男は机の上に紙を広げた。それは、A1版の市内の地図で、ところどころに赤い丸と人物名らしきものが書き込まれていた。地図はついさっき印刷したばかりのように、ほのかに温かかった。

マフィア組織というのは複雑怪奇だ。わざわざ軒先に非合法組織の看板をぶら下げて活動する馬鹿はいない。組織の構成員は至る所に隠れ潜み、その実態を掴ませない。それが一種、マフィアという組織の強みなのだ、が。

「さっすがミッキー、いつもどおり仕事が早いじゃん。君みたいに超使える人がいてくれるから僕も安心できるんだよ~」

それを見ると、ブッディは先ほどまでの不機嫌が嘘のように、くねくねと全身の脂肪を揺らして狂喜乱舞した。

「みんなを集めてよ。そろそろ、あのゴスロリ婆殺そうぜ」











…to be continued



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep3
Name: kururu◆67c327ea ID:3cf690d4
Date: 2009/11/15 00:39
たくさんの感想を頂きまして、ありがとうございます。続きを投稿させて頂きます。

追伸 
寒くなって参りました、年末までには完結を目指します。












午後12時半、美津里京子(ミツリ・キョーコ)は目を覚ました。

旦那はすでに出勤済み。食事の皿は空になっていて、綺麗に洗ってあった。相変わらず豆な男である。

軽くのびをすると、ミツリはベッドから立ち上がった。

隣のベビィベッドを見ると、一人息子のけーたはすやすやとよく寝ている。

ぷに もきゅん ぷに もきゅん

軽く上下するほっぺをつつくと、くすぐったそうに寝返りをうつ。

親の目から見ても、手間のかからない良い子だ。だってだいたい寝てるし。それに、オシメとミルク以外じゃ滅多に泣かない。

ぱちくり

と、けーたが目を覚ました。つぶらな瞳を開いて、こちらを見返している。

少し眉根を寄せ、とても悲しそうな顔をされた。どうしよう。お昼寝のじゃまをしたのでご機嫌斜めなのだろうか。

口をくにゅくにゅさせているので、おなかがすいたのかもしれない。ミツリはけーたを抱き上げた。

可愛い息子の微妙な表情の変化から、何をして欲しいのかミツリには良く分かるのだ。血の繋がった親子ならではシンパシーがあるのだと、彼女は信じていた。

けーたの頭を左にして心臓のある側に抱く。胎内で聞き慣れた母親の心臓の鼓動が、生まれてきた赤ちゃんに安心感を与える、と病院では指導された。

服を捲り上げて、乳房をあらわにする。軽く上下におっぱいを揺すり、その後人差し指と親指で合わせるようにしながら中心部分に向けて押した。軽くマッサージをして乳頭をやわらかくすると、けーたのちっちゃい唇が吸い付いた。

片方ずつ、交互に、様子を見ながら30分くらいかけて飲ませる。ほんのりと生えかけの前歯が乳首に当たってむずがゆかった。そろそろ離乳食を考えても良いかも知れない。

飲ませ終わると、立て抱きにして、背中をぽんぽんと軽くたたく。けぷっ、とかわいらしいゲップが出た。

紙おむつを脱がせ、軽く汗ばんだ肌を脱脂綿でぬぐうと、汗腺をふさがない程度に軽くパウダーをかける。新しい紙おむつに代えてあげると、けーたはとてもうれしそうな顔で笑い、やがてうとうとと瞼を閉じ始めた。

気持ちよさそうに眠るけーた。いいことだ。寝る子は育つ。

仕事に励む旦那に、可愛い息子、店もそれなりに繁盛しているし、何一つ恐れるものはない。まるで絵に描いたような幸せな生活。それは、ミツリが長い間求め続け、やっと手に入れたものだ。

だから、別にこの程度のことは、心配事でも何でもないのだが。

「・・・でもねえ、ちょっと早熟っていうか、いくらなんでも早すぎるわよねえ」

すやすやと眠るわが子は、見事な"纏"をしていた。














Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep3














「もきゅ」

オレは、ぺちぺちと頬をさわられる感触で目を覚ました。

仄かな明かりに薄目を開けると、こちらを不思議そうに見つめる赤ん坊と目があった。ベッドに寝転がったオレの顔を、じーっと見つめている。確か、"けーた"とかいうキョーコさんの子供だ。

くりくりとしたつぶらな瞳、ふるふるゆれる柔らかそうなほっぺ、髪の毛も茶色っぽくてふわふわしている。かわいい。

ぱちくり

けーたは不思議そうにオレの顔を見つめている。

オレは寝転がったまま柔らかい胴を掴むと、自分のおなかの上あたりにのっけた。

剥き立てのゆで卵のようなすべすべぷにぷにの肌だ。とてもやわらかくて温かい。

赤ん坊は不思議だ。真っ白な心と純粋な好奇心、喜怒哀楽すら未分化な幼い魂。だから、だろうか。けーたのオーラは、どこか温かくてほのかに甘い。すり切れた心と体が、それだけで癒されるような心地よさ。正直、ずっと抱きしめていたい。

"纏"をする赤ん坊というのには正直驚いたが、まあ、親が親なので何があっても不思議ではない、ということにしておこう。

目元の黒子といい、微妙なたれ目といい、見れば見るほどキョーコさんに似ている。やはり親子か。

オレの金髪と青い瞳、どちらも母さんから受け継いだものだ。この子も、いずれ母親から、もっと多くのものを与えられるのだろう。そして、もしかしたら父親からも。

はて、そういえばこの子の父親、キョーコさんの旦那というのはどういう人なんだろう。あんな魅力的な人の旦那だ。キョーコさんの話だと真っ当な勤め人らしいのだが、さぞや立派な御仁なのだろう。いずれ挨拶させてもらわねばなるまい。

だが、まあ、そんなことより。

例え、相手が赤ん坊だったとしても、第三者のいる部屋の中、無警戒に眠ってしまったことを恥じるべきだろう。あの男が知れば、怒るより先に呆れたかもしれない。どうもあの女性の相手をしていると調子が狂う。

「うゅ」

再び、意味不明の幼児語。心なしかうれしそうである。

ちっこい手でぺちぺちとオレの頬を触りまくるけーた。お返しにほっぺをつんつん突いてくれる。

ほぉ~っと、なんかやたら気持ちよさそうに目を細める幼児は正直可愛すぎるので、つい、いぢり回したくなってしまう。

ほっぺをすりすりしてくる赤ん坊をあやしあやし戯れていると、やがてけーたはうとうとと眠ってしまった。驚くほど警戒心が希薄だ。ずいぶん人懐っこい赤ん坊である。

オレはけーたをその場に残すと、部屋を後にした。

狭い階段を下り、階下の店の暖簾を潜る。

聞こえてきたのは、懐かしい音だった。


シャリシャリシャリシャリシャリシャリシャリシャリ


イモの皮を剥く音。オレは思わず目をつぶって、その音色に耳を澄ませた。

実を極力残したまま薄い皮を丁寧に、そしてすばやく剥く軽快な音。それはやむことなく連続して響き、いっそリズミカルですらある。刃物の扱いに熟達した人間だけが知ることのできる、音。

かつて、この音を響かせるのが何より得意だった男がいた。その男の黒くて大きな背中が思い起こされる。

と、

「ああ、目が覚めたのね」

"絶"にはそれなりに自信があった。気配は消していたつもりだったのだが、相手にはバレバレだったようだ。あらためて、やりにくい人だと思う。

「・・・キョーコさん、今何時ですか」

脳はぐらぐらと煮え滾っていた。

身に覚えがありすぎる感覚。もちろん、二日酔いだ。

あれから、キョーコさんに話を聞きながら、ついつい勧められるままにサイダーをお代わりしていった。甘くて飲みやすかったので油断した。アルコール成分は弱いのだが、ああもカパカパ飲んでしまえば、結果は言わずもがなだ。

かつて慣れ親しんだ感覚に苦しみながら、オレは悟った。酒は控えろ、あの男の教えはもっと真面目に聞いておくべきだ。特にこの体は、アルコールへの耐性が低い。

同じ量を飲んだはずだが、キョーコさんの顔色は全く変わっていない。へーきのへーざ。オレはまた一つ、彼女を尊敬した。

「夜中の3時を少し回ったところかしら。店は閉めたわよ、うちは午前2時で閉店だから」

人差し指をあごにあてながらそう言った。どうでもいいがこの女性、ちょっとした仕草にも色気がありすぎる。

「シャワー浴びたほうが良いわね。奥の扉をまっすぐ行って、突き当りを右よ。着替えも、一応私のお古用意しといたから、サッパリしてらっしゃいな」

オレはぼんやりと頷いた。

代えの衣服はもっていたが、ここは素直に好意に甘えることにした。キョーコさんと背丈はそう変わらないので、サイズは気にしなくて良いだろう。

言われるままに店の奥を進むと、風呂場の場所は直ぐに分かった。

ゆったりとしたユニット式のバスタブに、シャワーが付いていて、いくつもの石鹸や香料、洗顔剤、他にも何に使うのかオレには見当も付かない洗剤類が並んでいる。

まず、全身に携帯していた武器を外し、直ぐ手に取れる位置に置いた。

9ミリ自動拳銃にマガジンが3つ、ハーフライフルの散弾銃(ショットガン)、投げナイフが1ダース、手榴弾二つ、スタングレネード二つ、プラスティック爆薬10ポンドに専用の信管、高圧の改造スタンガン、催涙ガス、無針注射器に薬物各種、etcetc。

最後に大振りのベンズナイフが一本。こいつが近くにないと、落ち着いて風呂にも入れない。

警察官(ポリ)にでも見とがめられたら言い訳のしようもない装備だが、偽装には自信がある。もっとも、バトゥあたりには気付かれていたに違いない。サングラス越しにこちらの武装を確認していたようだった(さすがにこんな量を持っていたとは気が付かなかったらしい。後にバレた時に呆れられた)。

オレは無造作に衣服を抜ぎ、最後に所々に巻いていた包帯を外した。

脱衣場の鏡には、全裸の女が映っていた。

昏睡している間に移植されたという皮膚は、既に元の皮膚と見分けが付かないほどに癒着している。

注意していないと気付かないほどの、微かな色の違いだけが、火傷の痕跡だ。アフターケアということで、処方されていた皮質の安定剤や、ビタミン、カルシウムの錠剤も、最近は必要がなくなっていた。この腕が、一度派手にローストされたと言われても、大多数の人間は一笑に付すだろう。

あのヤマダという医師、腕は確かなようだ。落ち着いたら、一度挨拶に顔を出しておくべきだろう。ああいう人間に顔を通しておくと、何かと便利そうだ。幸い金で動く性格らしいし、それに医者という人種は、何かと融通の利く商売だ。

オレは浴室に入って、シャワーの蛇口をひねった。とたんに、冷たい水が滝となって頭上から降り注ぐ。

冷たいシャワーを浴びながら、今日一日を振り返る。

文字通りのインテリヤクザ・バトゥに、あれほど強力な念を持つというのに一介のバーのママだという、ミツリ。いずれ一癖も二癖もありそうな連中だが、悪い人間ではないようだ。なんだかんだ言っても、こちらを気遣ってくれているのがよく分かる。

それに、強い。肌に刺すように研磨されたオーラがその証。少なくとも、能力者としては彼らはオレより高みにいる。今後、その気になって修行しても、追いつけるか否か、分のない賭けだとは言わないが、容易く到達できる山ではない。そう思う。

あのような人間囲まれながら、あの男は、この街で何を思い、どう日々を過ごしていたのだろうか。

結局、オレの思考はそこに戻ってきてしまう。

ただの未練だと分かってはいるが、人間、そう簡単に割り切れたら苦労はないのだ。

キュッとお湯になっていたシャワーを止めた。答えの出ない思考を切り上げて、風呂場を後にする。





―――――――――直後、オレは人生最大の試練と出会った。





かつて、男だったなどという矜持(プライド)など、とうの昔に喪失しているが、それでも完全に女として振舞うことに抵抗感がないわけではないわけで。自分でも中途半端だと自覚はあったが、そう、人間、そう簡単に割り切れたら苦労はないのだ。





その、つまり、脱衣場の籠に用意されていたのは、

ピンクの、ネグリジェだった。






「着替えの場所、分かった?」

完全に固まったオレを余所に、ひょっこり脱衣場に顔を出したキョーコさん。

「!?キョ、キョ、キョーコさん!!こ、これ!!」

「ん?ああ、着方がわからないのね♪」

「ちょっ、ちがっ、や、やめてっ!!」

「ふふふ、よいではないか、よいではないか~♪」

「――――ッ、○▲×◇?%&#*??!!!!!」

絹を引き裂くような悲鳴だった。

「あら、あいかわらず胸おっきい」

「ぴみゃっ?!!」



















客の捌けた明け方のバー。

扉にはすでに『COLSED』の看板が掛けられ、店内は奇妙な静けさに包まれている。

バックミュージックもなく、薄明かりに照らされたカウンターで、バトゥとミツリは寄り添ってグラスを傾けていた。

「恵太はどうした」

バトゥは一服付けようと懐に手を伸ばして、はたと気付いた。あれほど好んでいたシガリロも、最近では自宅で吸うのは控えているのだ。

タバコの煙は、幼児によくない。

「さっきまでぐすってたんだけど、ようやく寝てくれたわ。あのアンヘルって娘と一緒に。ほら、あの子って結構人見知りするじゃない。よほどあの娘のことが気に入ったみたい」

「まあ、男より女のほうが子供受けするっていうものな」

「あら、ジェラシー?いつまでたってもパパには懐いてくれないものね」

そう言って、ミツリはころころと笑った。

二人きり以外の場所では、互いに「ミツリ」「バトゥさん」と呼び合う。それは、夫婦になった時に決めた約束だ。

二人が守るものは多く、厄介は多い。故に、単なるバーのママと、その雇い主、それだけの関係を演じよう。それが、彼らの選んだ生き方だった。

「最近は、お仕事、大変?」

「可もなく、不可もなく、だ。カルロやグレース、他のカタギ連中に比べれば楽なもんさ。朝早くから、会議に接客、書類仕事。あげく日が変わるまで残業なんざ、想像しただけで寒気が走る」

「悪い人。お仕事サボって若い子とデートだなんて。グレースから聞いたわよ、あの娘をダシにして抜け出したんだって?」

バトゥは冷や汗が吹き出るのを感じた。どうやら恐るべき秘書の報復は、まだ終わっていなかったらしい。

妻の口元は笑みの形、だが目が笑っていない。

「・・・・・勘弁してくれ。公私混同ってのは、分かっちゃいたが、あの人の遺言だ。無碍にも出来ない。それに、あのレベルの念能力者にほいほい彷徨(うろつ)かれちゃ、騒動の元になる」

歯切れの悪い物言いに、キョーコもまた眉を曇らせた。

あの男のことが話題に出るたびに、未だに湿っぽくなるのは仕方がない。それだけ、バトゥにも、ミツリにとっても、関わりの深い人物だったのだから。

話は自然と、今日訪れた小さな客人のことに移った。

「キョーコ、あの娘のこと、お前はどう思った」

「どうって、・・・・普通の娘、だったかな。良い子じゃない。芯も強そうだし、落ち着いてる。もっと擦れてるかと思ったけど、案外ウブだし」

先ほどのやりとりを思い出して、ミツリはクツクツと笑った。

「それに重度のファザコン。あれは、男が出来たら苦労するわよ。愛情に飢えてて、それをどう表現したら良いか分からなくて、苛立ちをため込むタイプ。私の若い頃にそっくりだわ」

バトゥは、軽い驚きを持ってその言葉を聞いていた。

互いに息を合わせながら、時に相手とは違う視点をもてる。夫婦が補完すべきものを、この二人もまた有していた。

「後は、そうね。ザッと見ただけだけど、能力者としてはそれなりに鍛えられてるわね。若い割に、まずまずでしょ。ま、ゴドーさんの教え子なら、得手が"念"だけって訳じゃないんだろうけど」

かつて、この街で最も恐れられた男は、能力者を始末する術に何よりも長けていた。

狙撃に爆破、トラップや、各種兵装を使いこなす技術は言うに及ばず、本人の格闘能力も極めて高い。必要とあらば薬物や毒物すらも使用し、確実に標的の息の根を止める。念能力すら、あの男にとっては武器の一つに過ぎなかった。

そして、付いた渾名が"殺し屋・ゴドー"。

殺人を生業にする輩は、この街にも掃いて捨てるほどいる。だが、そのものズバリ"殺し屋"という異名を付けられたのは、あの男だけだった。

念能力者として見れば、決して優秀な部類に当てはまるわけでもなかったが、それでもあの男は強かった。

個々のスペックだけでは説明しきれない、本質的な"強さ"のようなものを、あの寡黙な男は備えていたのだ。

魂まで鋼鉄で出来ているかのような頑強な兵士。

それと同種の気配を、あの小さな客人も持っている。

だが、

「確かによく鍛え込まれているし、度胸もある。少々荒削りだが、上を見ればキリがないからな。だが、まだまだ子供だよ、あれは。感情がすぐオーラに出るタイプだ。それに、甘い」

夕刻の一件、バトゥがその場にいたなら、迷わず殺していた。

あの名も知らぬ男は、あろう事かミツリに向けて発砲したという。バトゥは女に銃を向ける行為すら嫌悪感を覚えるのだ。よりによって自分の妻にむけて鉛玉を撃ち込もうとした男を生かしておく程甘くない。

例え、それが妻に毛ほども傷をつけられないと、分かっていたとしても、だ。小物と思って顔を覚えなかったのが悔やまれた。

「もっと早く話を聞いておくんだった。そうしたら、生かして返しはしなかったものを」

平坦な口調だったが、そういう時にこそ、夫が腸の煮えくりかえるような怒りを覚えていることを、ミツリは知っている。

「物騒なことを言わないで。前にも言ったでしょ、店の中では止めてって」

ミツリは柳眉を曇らせ、強い口調でそう言った。

「・・・・・そうだったな」

もう若くもないのに、直ぐに頭に血が上るのはバトゥの悪い癖だった。望んで入った道でもないが、すでに裏稼業に首までどっぷりと浸かっている証だ。

だが、彼女、アンヘルは違う。まだ子供だ。15にもなっていないだろう。バトゥ自身、その位の年にはもう人を殺していたが、それは決して人に誇れるような話ではない。

どんな経緯で、あの少女がゴドーに出会ったのか、バトゥは詳しい事情までは知らない。恐らくボスなら知っているのだろうが、他人の過去にそこまで興味はないし、あえて知りたいとも思わない。詮索好きは嫌われる。特にこの稼業では。

だが、あの男がどんなつもりで、彼女に自分の技を伝えたにせよ、そして、あの少女にどれほど人殺しの才能があったとしても、それをどう生かすかは、結局、本人の手にゆだねるられるべきだ。

今なら、血と泥にまみれた世界とは手を切って、日の当たる真っ当な道を歩むことができる。その選択肢も残されている。

そして、それこそが、結局は一番良いことなのだとバトゥは思うのだ。

そんな自分こそ甘いのだと自覚はあったが、どうにも子供が出来てから、柄にもなく考えが保守的になっている。

「旦那は便宜を図ってくれ、と言ったが、それは決してあの娘に人殺しをさせるためじゃない。俺は、そう信じたいね」

バトゥは冷静な口調を変えぬまま、そう言った。

あの男が、どこから来たのか、どこであれほどの力と技術(スキル)を磨いたのか、バトゥ自信も脛に傷を持つ身なので、あえて問うことは一度もなかった。ある時、どこからともなくボスが連れてきた用心棒と、組の幹部。言ってしまえば、それだけの関係でしかなかった。

それでも、バトゥはゴドーを信頼していた。共に戦った。背中を守り、守られた。そして、命を救われた。

このクソのような世界の中で、本当に気を許せる仲間なんてものがいたとすれば、バトゥにとってのゴドーがそれだ。少なくとも、彼にとってはそうだった。

その男を、むざむざ見殺しにした負い目。それは、確実にバトゥの心に痼りを残している。

そんな夫の胸中を察したのか、ミツリはそっとバトゥの腕に寄り添った。

「・・・・・あなた、結局、私たちもゴドーさんも、同じ穴の狢よ。今更お為ごかしは滑稽だわ。でも、」

そういう人だから、一緒になろうと思ったのよ。妻は、笑顔を浮かべてそう言った。

子供を作ろう、そう切り出したときも、ひどく勇気がいったのをバトゥは覚えている。その時も、彼女はこれと同じ微笑みをくれた。

「でも、ボスに言われてるんでしょ、見てみたいって。それって、強制的に勧誘しろって事よね、あの人の場合」

「・・・・・・そうなんだよなあ。正直、どうしたもんかね」

あの娘に対する拘りは、あくまでバトゥ個人の感傷にすぎない。

そもそも、彼女をこの街に呼びつけようとした当の本人が、どういうつもりなのか、今ひとつバトゥもはかりかねていた。

その時、バトゥの懐から音楽が鳴り出した。

マルーン5のナンバーが、場違いなほど愉快に響く。バトゥは慌てて携帯を取りだした。

『"はっろーう、バトゥ君♪ や、夫婦水入らずの所を悪いね"』

幼い声に、歌うような独特の喋り口調。バトゥの心臓がドキリと跳ね上がった。

噂をすれば影、どころじゃない。あまりにもタイムリーだ。時々、このボスはこうやってこちらを監視しているとしか思えないような絶妙のタイミングで連絡を取る。

「・・・・・いえ、それより用件は?」

『"むふふ、噂の可愛い天使ちゃん、色々連れ回したそうじゃないかぁ♪冷たいなあ、ボクにも一目会わせてくれればいいのにぃ"』

まずい。バトゥの額に嫌な汗が流れた。

この上司は非常に気まぐれで、うかつに機嫌を損ねると、何をされるか分からない。

『"ま、用件は別なんだけどネ。君には東ゴルドーまで、愉快な出張をお願いしよう♪"』

どうやら真面目な話のようだった。

ほっとするのも束の間、バトゥは別の意味で眉をひそめた。

「東ゴルドー?そりゃまた、遠出ですな」

東ゴルドーとは、ヨルビアン大陸の南に位置するバルサ諸島、ミテネ連邦の東端にある、時代錯誤な独裁国家だ。

国家的に麻薬の栽培や武器の密輸、偽金作りにも手を出しているので、マフィア達とも関係が深い。バトゥも一度ならず足を運んだことがあった。

だが、大陸のどの国家とも国交がないため、入国するには面倒なルートを使わなければならない。片道1週間はかかる行程だ。

例の豚野郎が何時攻めてくるか分からない今、長く街を離れるのは本意ではなかった。

『"いあいあ、たった2泊3日の愉快なフライトさ。空軍にちょっとしたツテが効いてね、西ゴルドー側の絶対境界線まで片道10時間、そこから鉄道で首都ベイジンまで8時間。狭い国だ、後は君がチャチャッと仕事を済ませてくれれば、明後日のランチは自宅で優雅に楽しめるだろうヨ♪"』

軍用機をチャーターしたらしい。この国の、西ゴルドー在外基地まで動かしたようだ。いつもながら、ボスの持つ謎のコネクションには驚かされる。

『"例の"D・D"、ヤマダ君の報告書はボクも見たよ。実はね、正直なところ、これは全くの勘だったんだが、ボクは前々からヤクの供給元はミテネ連邦辺りが臭いと睨んでいたんだ。あそこはヨークシンからも近いし、東ゴルドーやNGL、他にも胡散臭い国が犇めいている。特に東ゴルドーは、この辺りじゃ最大の麻薬と武器の供給国だし、マフィアン・コミュニティーとも縁が深い。それで色々突いていたんだけど、意外なネズミが浮かび上がってきた。なんと、―――――――だよ。あの豚ちゃんが強気になるわけさね♪"』

その名前を聞いたとき、バトゥの眉が跳ね上がった。ネズミどころではない、大変な大物だ。

『"でだ、話の裏をとる必要が出てきてね、根回しを頼みたい。相手は東ゴルドー軍務省のチャン・シンスク大佐。首領様の血縁にあたるお偉いさんだから、対応には気を付けるように。出発は本朝6時、場所はヨークシン郊外の空軍基地。以上、よ・ろ・し・く・ね~~~☆"』

言いたいことだけ言うと、そのまま電話はブツリと切れた。

相も変わらず、人使いの荒いお人だ。

「また、お仕事が入ったの?」

黙って耳を澄ませていたミツリが、先に口を開いた。

「ああ、3日ほど留守にする。直ぐに出なきゃならねえ。・・・・・悪いな、こんな時期に」

「いいのよ。ねえ、お腹減ってない。シチューの残りが少しあるから、食べて行きなさいよ」

そう言うと、ミツリはそれ以上何を聞くこともなく、カウンターの奥へ消えた。

"親"の命令ならば、時にどれほど無茶でもやらなければならない。それが裏稼業の鉄則だ。

何年も連れ添っただけに、ミツリはその辺の機微をよく心得ていた。




















ヨークシンシティ、ミッドタウンの中央。

その洋館は、オフィスビルに囲まれたその一角に、場違いのように建っていた。

石造りの外壁は所々に苔が生え、延びた蔦が壁伝いに生い茂り、すでに枯れきった葉で覆っていた。さらに、背後に広がる無数のビルディングを縫って湿気を含んだ冷気があたりに漂い、館の外見をさらに古びたものへと感じさせている。

その扉の前に、シルバーグレイの髪をオールバックにした初老の紳士が一人。大柄な肉体を糊の利いたスーツに包み、全身から年齢を感じさせない生気をみなぎらせている。広い額の下に備わった両目は理知的で、精悍な輝きを放っていた。

時刻は午前3時ちょうど。人を訪問するには、非常識な時間だったが、彼にはそうせざるをえない理由があった。

紳士が湿ったコートを脱ぐと、どこからともなく丸い人影が現れた。

丸いというのは単なる比喩ではなく、その人物は本当に丸かった。まるで卵のような、首と胴体が一体化した体に、やたらと細長い手足。

頭部には髪も眉毛もなく、胡乱な輝きを持った両目だけがギラギラと輝いていた。その奇妙な体形を、黒い執事服に包んでいる。

紳士は特段気にすることも無く、奇妙な執事に話しかけた。

「マダム・ボーモントは御在宅かな。3時に約束をしている者だが」

低く力強い声で紳士が用件を伝えると、奇妙な執事は無言で肯き、先導するように歩き始めた。

ホールから二階に延びる廻り階段を上がり、まっすぐ奥へ延びる通路を進む。その一番奥に、重厚な細工が施された分厚い木のドアが見えた。

執事は滑るように足音を立てずに奥へ進むと、一度だけノッカーを叩いた。

「お通しして」

中から、幼い少女の声が答えた。

執事は軽くノブに触れた。すると、重く分厚い木製のドアが、ゆっくりと内側へ開いていく。紳士は促されるまま、豪奢な装いの部屋へ踏み込んだ。

部屋の主は、一番奥の暖炉の前で車椅子に座っていた。

すっぽりと全身を覆う黒いシックなドレスを着た、老女。

強い意志を現す紺碧の瞳、彫りの深い顔には幾重ものしわが刻まれ、すごしてきた年月の深さを感じさせたが、双眸から発せられる強い意志を感じさせる光は、見る者を圧倒する威厳を備えている。

年の頃は、初老を少し過ぎたくらいだろうか。だが、この人物の伝説が本当ならば、実年齢は100歳をとうに超えている。

背後には、先ほどドアの外から声を掛けたと思しき10歳くらいの幼女が、車椅子の取っ手に手を掛けていた。老女の孫娘だ。

こちらも黒いシックなドレスに身を包み、黙ってそばに控えている様子は、よく出来たビスクドールを思わせた。

「ご無沙汰しております、マダム・ボーモント」

眼前の老女に、紳士は目上のものに対する立場として語りかけた。

深々と頭を下げた紳士に向かって、老女は隣に立っていた幼女に何やら囁いた。その声はあまりに小さく、しわがれていたので、紳士の耳には届かなかった。

そして、幼女が口を開いた。

「こちらこそ、ご無沙汰しておりました。ご健勝そうで何よりです、ジョージ・マケイン議員。どうぞお掛け下さい。何もおもてなしはできませんが」

この人物が声帯を患って久しく、あまり大きな声を出すことが出来ないというのは周知の事実だ。そこで、孫娘が言葉を代行するのである。

マケインは、老女と挟んで向かい合う形に置かれた、布張りの椅子に腰掛けた。

ゆっくりと背もたれに体をあずけ、人の良さそうな笑顔を浮かべる。それは、対外用の仮面。軍で出世し、政治を学ぶ必要が出た辺りから身につけた癖だった。

本来ならば、このような悪所に足を運ぶのは、クリーンさをもって選挙を戦った彼の政治生命を揺るがしかねない。だからこそ、人目を避けて、こんな時間に訪問せざるをえなかった。

だが、その危険を推してでも、彼はこの場所に足を運ぶ必要があった。

目の前の老女は、脆弱な政治基盤しか持たない彼にとって、最大の後援者なのだ。

政治というのは、とにかく信じがたいほど莫大な金を必要とする。

演説、講演会等の選挙キャンペーン、さらに、敵対候補へのネガティブキャンペーン合戦。則ち、『お祭り騒ぎ』を延々とやるのだから、無理もない。選挙とは、本質的には『選挙資金による生き残り戦争』に他ならない。多くの候補者達がスキャンダルにまみれ、資金不足のために脱落する。

それに、庶民寄りでリベラル思想のマケインには、とかく大口のスポンサーが付きづらい。

資本家という奴は、給料が安く、いつでも手軽に首を切れる労働者を欲している。そして、彼らから金を受け取る政治家どもは、金持ちに都合のいい法律ばかりを作ってしまう。

二束三文の駄賃で労働者をこき使う連中には、労働者の味方を自認する彼の主張は、おもしろくないものだった。

それ故に、マケインは派閥から取り残されたが、クリーンなイメージによって大衆人気だけは高い。そういう社会情勢が、政治の打算が、彼をこの時代のリーダーの一人に押し上げた。

だが、その彼を支えてくれる唯一のスポンサーが、利得の権化とも言うべき裏社会の人間というのも、何とも皮肉な話だ。

軍を引退して政治の世界を志し、初の選挙戦に臨んだ当時40才の若造に、大量の資金を融資してくれたのは、この老女の所有する銀行だけだったのだ。

以来十年、何時、どんな"見返り"を要求されるか、彼は内心恐れていたが、今日に至るまで要求らしい要求は何一つ無かった。

そして、本日、彼は後援者から、初めての"お願い"をされたのだ。

マケインは、懐から一通の軍用封筒を取り出した。

「本日発行の命令書です。ヨークシン基地指令、そしてSOCの係官にも話を通しておきました。お望み通り、これを持った人物を、西ゴルドーのウーロン空軍基地まで送り届けてくれるでしょう。パイロットにも無用な詮索は禁止しております。これで、よろしいでしょうか」

その命令書が正式なものであることを確かめるように、老女の視線が表面に刻印された大鷲の紋章をなぞった。

老女は一つ頷くと、傍らの幼女に何事か呟いた。

「結構です。私どもは閣下のご尽力と友情に、大変に満足しております」

表情を変えぬ老女の代わりに、幼女が満面の笑みを浮かべた。

「これまで通り、私どもは、閣下の大望の実現に、協力を惜しみません。今回のように、極希に奇妙なお願いをすることがあるかも知れませんが、特にそれ以外の見返りも必要とはしません。この街が立ち直り、かつて失われた活気が戻る事で、われらもまた十分な利益を得ることが出来るのですから。ただし、」

最後に、幼女は一瞬目を細めると、相手を威嚇するように、言葉を続けた。

「聡明な閣下にはご承知のことと思いますが、所詮、我等もまた、この街の暗部に潜む者。我等は自身を晒す事を何よりも嫌います。故に、余計な詮索はなさらないようお願い致します。これまで通りに」










紳士が去り、しばらくたった後、車椅子に座っていた老女が、不意に立ち上がった。

ソレまでの気だるげな様子が嘘のように背筋をピンと伸ばし、傍らで付き添っていた『孫娘』に対して、深々と頭を下げる。

そして、少女もまた、人形のような佇まいを一変させていた。

「彼、思ったより使えそうだネェ♪」

チェシャ猫のような、人の悪い笑みを口元に浮かべ、紳士の座っていた椅子に、どっかと腰掛けて胡座をかく。

この館の本当の主にしてボーモント・ファミリー家長、キャスリン・ボーモントは機嫌よさげにそう嘯いた。

「いかさま。政治派閥から取り残され、大衆人気だけで担ぎ出された男、とばかり思っておりましたが。認識を改める必要があるようです」

老女もまた、先ほどまでのしわがれた老人の演技が嘘のように、濁りの無いはっきりとした口調で答えた。

「政治にも長けてるし、軍にもそれなりに顔が利く。早めに唾付けといて正解だった。さて、ミツリには悪いけど、バトゥ君にはまた愉快な出張に出てもらおう♪」

キャスリンは、とことこと木製の大きなキャビネットの前まで来ると、その引き出しを手前に引いた。中には、何とも不釣り合いな最新式の情報端末が収まっている。

慣れた手つきでボタンを操作し、秘匿暗号モードをオンにすると、専用回線の一つに接続した。

「はっろーう、バトゥ君♪ や、夫婦水入らずの所を悪いね♪」













…to be continued



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep4
Name: kururu◆67c327ea ID:3cf690d4
Date: 2009/12/05 15:57
感想を頂きましてありがとうございます。続きを投下します。


追伸
都合により2週間ほど僻地のダムに出張するため、すこし更新が滞ります><


















テリー・カドガン、通称"テリー・ザ・キッド"が故郷の町から慌てて駆けつけたとき、友であり同盟者であり、最高の相棒であるドレイボット・アンダーソンはジロリと彼を睨み付けた。

「遅い、遅すぎるぜ、テリー。こんなに待たされたら、ワォルマートに並んだ卵のパックがヒヨコに還って、雌鳥に卵を孕ませることだって出来るだろうよ」

いつもなら、互いに熱い抱擁を交わしながら再開を喜ぶのだが、ダニーはぐったりとソファにもたれかかったまま、無表情で酒をあおった。

手下達と共に数十台の車をぶっ飛ばし、数百キロの道のりをようやく駆けつけた盟友に、あまりと言えばあまりの言葉だ。

だが、テリーはその無礼な物言いを咎める前に、ダニーの変貌ぶりに絶句した。

あれほど神経質にセットしていた髪はボサボサに乱れ、無精ヒゲも伸び放題。おまけに目は血走っていて、口の端からは白い泡が飛び散っている。

吐息はアルコール臭く、麻薬臭も相当酷い。あれから酒とドラッグに溺れているという噂は本当のようだ。

「ダニー、ダニー、どうしたんだ!いったい何があったんだ!」

と、慌てた仕草でダニーを気遣う様子を見せたが、すでにテリーはおおよその事態を掴んでいる。

この街での新種のクスリの取引に、上手く煽ててダニーを向かわせたのはテリーだ。

ヨークシンでこの手の麻薬の取引を行うリスクを、テリーは重々承知していた。

付近のマフィアを怒らせるのは目に見えていたし、あまりにうますぎる話なので、裏を疑いもしていた。

だが、諦めるにはあまりにおいしい儲け話だったし、うまくいけばヨークシンに足がかりをつくることもできる。そうなれば、今は田舎町の一組長にしか過ぎないテリー達も、彼の暗黒街の一角に名を連ねることができるだろう。

こういうときこそ、腕っ節だけでおつむのないダニーの出番だと思ったのだ。

テリーは内心、暴れるしか脳のないダニーという男を軽蔑していたが、喧嘩の腕にだけは一目置いていた。

幼い頃から血の気の荒い男だったダニーは、15才にして空手のブラックベルトを持っていたし、ボクシングもヘビー級チャンプとタメを張る腕前だ。彼の殺人パンチの餌食となって、未だにベッドから立ち上がれない者は少なくない。殺しの腕も確かなもので、すでに7人、至近距離からマグナムをぶち込んで殺している。

血の気が荒く乱暴者のダニーに、冷酷で計算高いキッド。

互いの長所を生かし(=一方的に利用し)、短所を補って(=時に弾避けにつかって)、これまで彼らは栄光の階段を上ってきた。

テリー・ザ・キッドにダニー・ボーイ。二人が行くところ、向かうところに敵は無し。

だが、今のダニーの有様はどうだ。

「なあ、テリー、あの一件以来、俺がこの街でなんて呼ばれてるか、知ってるかい」

妙に静かな声音でそう問いかけるダニー。

テリーは無言で首を横に振った。

実際にはまだ一昼夜も経っていないのだが、ダニーには以前から麻薬中毒者特有の妄想癖があるのだ。

下手なことを言えばテリーですら殺されかねない。

そんな危険な雰囲気が今のダニーにはあった。

「"玉無しダニー"、"玉無しダニー"だ!"種馬ダニー"と呼ばれたこの俺様が、よりによって"玉無し"だとよ!なあ、おかしいだろ、テリー。笑え、笑えよ、我慢せずにさあっ!!」

ダニーは手に持っていたグラスを、盛大に床にたたきつけた。

「ヂックショォォオォオオ!!だ・れ・が、玉無しだァ!!まだ一個のこッてんだよ、ボケがあぁっ!!!」

そこに怒ってんのかよ!

テリーは思わず突っ込みを入れそうになったが、自重した。こんなつまらないことで脳天に鉛玉を打ち込まれてはたまらない。

「キッド、分かるだろ。あのアバズレが俺から奪った『お宝』はな、あのビッチがこれまでテメーの腐れ×××にくわえ込んだどんな×××より、××××な×××だったんだよ!!なあ、テリー、分かるだろ、テリー!!」

もうダメだ。こうなったダニーは、テリーですら手に負えない。

年がら年中、些細なことで激怒するダニーだが、ここまで怒り狂っているのは、彼の妹に手を出した碌でもない父親を絞め殺して以来のことだ。

こういう時には、何を言っても逆効果。ひたすら追従してダニーの思うようにさせてやるしかない。

それに、今回の一件を放っておくのもよろしくなかった。

相棒を"玉無し(チキン)"なんぞと揶揄されたまま放置すれば、暴力を背景に勢力に治めた地元の興業にも影響が出る(ダニーがとっととくたばってくれていれば、話は別だっただろうが)。この商売、舐められたら終わりなのだ。

聞けば、この猪馬鹿の"玉"を潰してくれたのは、ボーモント・ファミリーの連中だという。その名前はテリーも聞いたことがあった。ヨークシンを支配する五大組織の一つだ。ヨークシンでも最古参の組織で、表稼業の金融業を隠れ蓑にブラックマネーを専門に担う、いわば裏稼業御用達の闇銀行らしい。

ただ、顧客のマフィア達との軋轢を避け、闇金融以外のシノギにはほとんど手を出さないそうだ。構成員もごく少数、おまけにマフィアン・コミュニティーとも距離を置いているらしい。

そういう組織なら抗争に出せる兵隊の数も知れている。所詮、喧嘩の行く末は動員できる兵隊の数次第だ。相手も大っぴらな戦争は敬遠するだろう、というのがテリーの読みだった。

「ダニー、お前に手を出されて、どうしてこの俺が冷静でいられると思うんだ」

テリーはダニーに向けて、歯をむき出しにして凶暴な笑みを見せた。

その胸中は、すでに計算されつくされた怒りで滾っている。時に、テリーは自身にとって都合のいい感情を、自らに覚えさせることが出来た。

「やろうぜ、ダニー、やっちまおうぜ。そのアバズレに、俺らの×××を、いやというほど××××させてやろう。そして、この街の連中にも思い知らせてやろう。ダニーとテリーを怒らせると、どんだけテリブルなことになっちまうのかをな!」

「おおぅ、テリー!やっぱりお前は最高だ!最高の相棒(バディ)だぜ!!」

破顔一笑。とたんにダニーは不機嫌な顔を引っ込め、笑顔でテリーを抱擁した。

相も変わらず単純な男だと呆れたが、そんな事はおくびにも出さない。感極まったように咆哮するダニーを冷めた目で見ながら、テリーはその背をパンパン叩いてやった。

まあ、こうやって簡単に手綱をとれるから、時折短気から仕事をダメにすることがあっても、ダニーを切る気にならないのだ。

馬鹿と何とかは使いよう。至言である。

「テ、テリーさん、ちょっといいっすか」

その時、恐れて遠目に見守っていた手下の一人が、恐る恐るテリーに呼びかけた。

「(馬鹿野郎、空気読めよ。今、俺が何してんのか分かれよ!)」

テリーはその男の耳を引き寄せ、ダニーに聞こえないように小声で脅した。

「(で、ですが、取引相手のリィロさんが、隣の部屋で先ほどからお待ちで・・)」

「馬鹿野郎!それを早く言えよ!」

テリーは無能な部下をはり倒した。

使えない、使えなさすぎる。何で自分の周りはこんなボンクラばかりなのだろう。

すぐさまダニーを部下に押しつけ、テリーはタイを正して隣室の客人を出迎えた。

「大変お待たせして申し訳ありません、ミスタ・リィロ」

テリーは額を靴にこすりつけんばかりに頭を下げた。

「いんえ、いんえ、お気遣い無く。それと、俺のことはリッキーでいいっすよ。親しい奴はみんなそう呼びますから」

取引相手は、ヘラヘラと笑いながらそういった。

ソファに腰掛けてゆったりと足を組み、耳に当てたヘッドフォンから漏れ聞こえるイカレタビートに体を揺らして、チェケラッとトリップしてノリノリだ。

緊張感の欠片もない。ついでに人に話を聞く態度でもないが、テリーは苛立ちを飲み込んだ。

見た目は安っぽい小僧だが、これでも新種のヤクを格安で卸してくれる最高の飯の種だ。馬鹿丁寧に扱う位でちょうど良い。

相手はおもむろに切り出した。

「実はね、テリーさん、今日は取引の話、じゃあないんすよ」

サングラスを指で押し下げ、ぎょろりと飛び出た奇妙な目玉を覗かせる。

「お宅のダニーさんがボーモントの連中にエライ目にあわされたって聞きましてね。ちっとばかし俺達もお手伝いさせてもらおっかなあ、なんてね」

何言ってんだ、この若造。

「おっしゃる意味が、分かりませんが?」

「つまりね、うちからも兵隊ださせてもらいますよ、ってことっすよ」

リィロは親指で背後を指し示した。

そこに、壁を背に立っていたのは、一言で言って『不気味な女』だった。

肋骨が浮き出るように痩せ、肌は水死体そのもの。ガリガリに痩せこけていながら、目だけはギラギラ輝いていて、まるでハ虫類のようだ。

しかもその外見で、まるで安い娼婦のような、やたらと派手な真っ赤なボディコンに身を包んでいるのだから、もはや不気味という他ない。おまけに両耳に輝くシルバーのイヤリングは、今世紀最大の悪趣味、髑髏だった。

やけに瞳孔の開いた女の瞳が、虚ろにテリーを見つめ、切れ目のような口を笑みの形にしてみせた。ますますトカゲじみて気持ち悪かった。

「この人ね、すげぇんすよ、殺しの腕。俺がマジで保証済みっす。お宅らの兵隊にまぜて、好きなように使ってくれればそれでいいんで。そういうことで、ひとつよろしく」

なにがよろしくだ。

女の見てくれはともかくとして、テリーは訝しんだ。相手の意図が読めない。

はっきりいって、テリーの喧嘩に彼らが加勢するメリットが、ない。彼らとの関係は所詮、取引の相手。それ以上でも以下でもない。この業界、必要以上に恩を売って得する商売でもないだろうに。

それとも、彼らもボーモント・ファミリーに含むところがあるのだろうか。それが一番有り得そうだが、それなら加勢がたった一人というのが逆に腑に落ちない。

実のところ、テリーもこの取引相手の正体は知らないのだ。

お互いに相手の正体は詮索しない。ヤバイ仕事なら、そう珍しいことではない。

見本だといって事前に無償で渡された錠剤10キロ、それが無ければ取引しようとすら思わなかっただろう。

「ま、ホラ、商売相手だしね。何せ、お得意様だし」

相手はヘラヘラと笑うばかりで真意を掴ませない。話すつもりがないということだろう。怪しい。怪しすぎる。

だが、結局、テリーはその提案を受け入れた。

たった1人だ。当てにはならなくても邪魔にはなるまい。それに、兵隊は多い方がいい。

『野郎ども!お礼参りだ、準備しろ!!』

隣の部屋からは、場違いのようなダニーの雄叫びが響いていた。







リィロが去り、後に残った女にテリーは問うた。

「で、とりあえず、あんた、名前は?」

「好きに呼ぶと良いよ。ヴィヴィアン・スーでも、アグネス・チャンでもさ」

想像したとおり、トカゲのような声だった。

















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep4

















その日も、アンヘルは日の出前に目が覚めた。

時刻は午前6時にさしかかる辺り。・・・・あれから3時間ほど睡眠を取った計算だ。

ミツリに宛われた部屋は暖房が行き届いていて、早朝の冷気に係わらず暖かかった。

ベッドもウールと羽毛が使われていて快適だったが、粗末なベッドと簡素な毛布に慣れ親しんでいたアンヘルには、逆に落ち着かなかった。

まず、手鏡を取り出し、ボディチェックを行う。やや顔色が優れないのは、まだアルコールが残っているためだろう。軽い吐き気が残っていたが、問題はなさそうだ。

ベッドから降りると、握ったまま寝込んでいた銃を軽く整備し、ホルスターに戻す。

そして、件の寝間着を、着替えた。・・・・・・・脱ぎ捨てたそれを、極力意識しないようにしてベッドに置く。

身支度を整え終わると、アンヘルは部屋を後にした。

階下の店舗にはまだ明かりが点っていて、ミツリが一人でモップ掛けをしていた。

「おはよう、キョーコさん」

「あら、おはよう」

アンヘルは壁に立てかけてあったモップを手に取ると、床磨きを手伝った。

「いいのよ、あなたはお客さんなんだから、そんなことしてもらっちゃ悪いわ」

気を使われる方が肩がこる。そう笑うと、彼女は掃除を続けた。ミツリもそれ以上はなにも言わなかった。

しばし、二人で床を磨く音が響く。

昨日はウェイターやバーテンらしい従業員の姿もチラホラ見かけたので、そのことについて聞いてみた。

彼らはパートアルバイターで、基本はミツリが一人で切り盛りしているらしい。床掃除が終わったら、寝るのだという。

明け方に寝て昼過ぎに起き、夕方五時から夜中の二時まで営業時間。片づけと次の日の仕込み、その合間に家事洗濯、加えて小さな子供の育児というのは、そうとうの重労働ではないだろうか。働く主婦は偉い。

彼女の旦那も仕事が暇なときは手伝おうとしてくれるそうなのだが、あれでけーたは気難しく、旦那が面倒を見ようとすると、とたんに大泣きするらしい。それでも、あまり手間のかからない子なので助かっているそうだが、どうしても親の生活時間に引っ張られてしまう。

子供も宵っ張りになって困る、そういって彼女は笑った。

そんな他愛もない会話をしながらモップ掛けを終えた。

「そういえば、キョーコさん、バトゥさんに少し聞きたいことがあるんだけど、あの人に時間を取ってもらうことって、出来るかな?」

ヤクザの幹部といっても表稼業は銀行社長。時間を自由に出来る身ではないのかも知れない。そう気遣ってのことだったが、それを聞くとミツリは眉根を寄せた。

「・・・それなんだけど、バトゥさんは急な出張ができたそうで、二、三日ヨークシンを空けることになったわ。それであなたに言付け、『少し野暮用が出来たので行ってくる。悪いが、何かあったらミツリに相談してくれ』って」

出鼻をくじかれてしまった。まあ、こちらの用は急ぎではない。話を聞くのはいつでも出来る。

だが、図らずも暇になってしまった。

「それと、これを預かったから」

そういってミツリが差し出したのは、一枚のプラスティック製のカードだった。

どこぞの会社の社員証のようだが、色鮮やかな顔写真には、何時の間に撮られたものか、不機嫌そうなアンヘル自身の顔があった。

名義は、アンヘル・イワレンコフ。

「BSS(ボーモント・セキュリティ・サービス)。うちの銀行専属の警備会社よ。書類上は本物だけど、実際には単なるペーパー・カンパニーで、荒事系の組員が何人か所属してるわ。ちなみにバトゥさんがその筆頭で、社長も兼務してる。私も非常勤で・・・・って、どうしたの、じっと見つめちゃって」

「いや、ちょっと名前が気になっただけ。それより、キョーコさん、どうしてこれをオレに?」

「警備会社の看板を掲げてれば、銃の携帯も許可されるわ。警察とトラブルになりそうになったら迷わずそれを見せなさい。彼らにはそれなりに金を積んでるけど、中には金で転ばない堅物もいるし、他にもっと多くの金を積む人がいないとも限らないから」

ミツリは不思議な笑みを見せた。

酒場の女亭主、子持ちの主婦、そしてマフィアの幹部。この人はいったい幾つの顔を隠し持っているのだろうか。

まあ、貰える物なら何でも貰っておく主義なので、アンヘルは遠慮無くそれを懐に仕舞い込んだ。

それを見届けると、ミツリはふと気が付いたかのように、話を変えた。

「そういえば、あなたがこっちに来たら、ヤマダさんに連絡が欲しいって言われてたのよね。治療の経過を知っておきたいからって。もし、暇だったら行ってみたら」

アンヘルのあずかり知らぬ所で、ミツリは少女をなるべくボスに会わせないようにと、バトゥに指示されていた。ついでに、件の豚野郎のことも耳に入れないように、と。

ヤマダは懇意にしている男ではあるが、組の人間ではない。立場的には限りなくシロに近いグレー。

旦那が出張から帰るまでの間、とりあえずの時間稼ぎにはなるだろう、というのがミツリの読みだった。あまりにおおざっぱだが、その程度のことしか思いつかなかったのだ。

「ん~、確かにあの先生のところには、一度顔を出そうと思ってたから、ちょうどいいかなあ」

そんな事情はつゆ知らず、アンヘルは気軽に了承した。彼女もヤマダ医師には一度連絡を取りたいと思っていたのだ。

それに、これ以上ミツリの仕事場に居座る気はなかった。

ミツリは手に職を持ち、使える時間は限られている。彼女が仕事に対してひたむきで、プロの意識を持っていることは、短い付き合いのアンヘルにも分かる。一方のアンヘルといえば、今はゴドーの残した金を頼りにぶらついている身だ。貴重な時間を自分のために使わせるのは、正直、気が引ける。

「ヤマダさんの医院は、アップタウンのハーレムにあるわ。ちょっと入り組んだ路地にあるから、地図が要るわね」

そう言うと、ミツリはヨークシンの簡易マップを取り出し、赤いボールペンで○を付けた。

市が発行している二つ折りのパンフレットで、裏側がヨークシンの地図になっているやつだ。

「サンクス。ついでに宿を探すつもり。落ち着いたら連絡を入れます」

「あら、うちに泊まりなさいよ。どうせ部屋は余ってるし、そのつもりであの部屋用意したんだもの。貴女が居てくれると、けーたも喜ぶわ」

純粋な人の好意に触れるのは、久しぶりだった。気恥ずかしいけど悪くない。

だが、それに甘えてしまうのが怖かった。

「ありがたいけど、仕事の邪魔になりたくないから。けーたにもよろしく言っておいてください」

















ミツリの店を後に、街の北側へと向かう道を一人、アンヘルは歩いていた。

太陽が海の向こうから顔を覗かせ、早朝の冷たい空気が頬を刺す。

街はすでに活気づいていた。

共通語とアルファベット、そして漢字にも似た不思議な文字の躍るネオン街。恐らく移民達の街なのだろうとアンヘルは思った。

生きた鳥や無数の蛇をさばく屋台、朝早くから売春してる少女(仕事明けなのだろう。アンヘルが軽く手を振ると相手も挑発的な笑みを返した。同業者だと思われたらしい)、そして歩いている人間のほとんどが銃を持っている。まあ、少なくともにぎやかなのは確かだ。

この街の雰囲気には馴染みがあった。故郷の空気にそっくりなのだ。

時間帯のせいか、旅行者の姿は見えないが、カタギが踏みいったらケツの毛までむしり取られそうな暗い気配がある。不思議と気分が落ち着くのを感じた。

アンヘルはすいすい人の波をよけながら、通りを進んだ。

それは、一見、無造作にみえるほどに力の抜けきった動作だった。

早くもなく、遅くもない歩法。速度が一定ではなく、ランダムに緩急がついている。

音を立てず、空気を乱さない動きは、無駄な力が抜けきった完璧な自然体。緩やかに流れながら、いつでも臨戦態勢に入れるよう訓練された念(オーラ)。

自らに叩き込まれた技術を、アンヘルは意識することなく実践していた。

ふらりと道を歩きながら、昨夜、ミツリから聞いた言葉を反芻する。二日酔いのせいで脳が軽く煮立っているが、幸い、聞いた中身は一字一句覚えている。






『ゴドーさんについて、私が知ってる事って、正直あんまり無いのよね』

にぎやかな酒場の雰囲気を余所に、彼女は酒を飲みながら、ゆっくりと詩を朗読するように話をしてくれた。

『あの人はボス直属の用心棒みたいな扱いで、組の経営にはノータッチ。ボスやバトゥさんの依頼で、あちこち飛び回ってたらしいけど、仕事の内容は私たちには降りてこなかった。そのあたりの詳しいことが知りたければ、ボスかバトゥさんに尋ねなさい』

『住処の場所もよく分からなくてね。まあ、仕事柄、普段は身を隠していたんでしょうけど。でも、こちらから連絡を取ると、どこからともなく現れた。影のように実態がない、幽霊みたいな人だったわ。それは私たちも同じようなものだけど。こんな稼業だと、ね』

『時折、ふらりと店に来てはお酒を飲んでいった。私やバトゥさんと一緒に飲む時もあったけど、一人でいる時も多かったわ。決まって、今あなたの座っているその席でウォトカを飲むの。それも、混じりっけ無しの原酒で、ライムも水も氷も無し。小さなグラスでちびりちびり、時間をかけてゆっくり飲んでいた』

『ゴドーさんて、この辺りじゃかなりの有名人だったから、あの人が店にいる間は誰も近づこうとしなくてね。正直、商売あがったりだったわ』

そう言って、ミツリは懐かしそうに笑った。

『ただ、抗争の時には、ボスも含めて全員があの人の指揮下で戦った。普通の組なら、上意下達、"親"の言うことには絶対服従、って感じなんでしょうけど。実際、争い事に関してゴドーさんの右に出る人はいなかったもの。それは、あなたの方がよく知ってるんじゃない』

『安易な予想や、判断は決してしなかった。常に堅実な戦いを選んだ。それに、何をおいても味方の安全を最優先に考える人だったわ。"作戦は成功したが味方が全滅した、では話にならん"って。この人の言うとおりにすれば間違いないなって、安心感があった』

最後に、ミツリは不思議な笑顔を浮かべてこういった。

『バトゥさんは止めたがってたけど、あなたがゴドーさんみたいに生きていくというのなら、私は止めないわ。このご時勢、人殺しを生業にする人はいくらでもいるもの。まあ、たかが十四やそこらで酔狂だとは思うけど、あなたの人生ですものね』






得られた情報は多くない。だが、あの男の一端に触れることができた。

アンヘルの脳裏には、ミツリの最後の言葉がリフレインし続けていた。

迷い無く歩みを進めながら、物思いに耽る。

いつの間にか、細い路地に入り込んでいた。

タン!

突然、彼女は真横に向かって飛んだ。

重心の移動と体の方向転換を同時にこなし、事前の挙動なしに間合いを詰める。

そして、すぐ後ろを歩いていたサラリーマン風の男に向かって掌底を放つ。

「グハッ!」

内蔵に浸透するような強烈な打撃。男の胃液が逆流した。

同時に、その手から黒光りする拳銃が落ちる。

ついで、アンヘルはいつの間にか抜き放っていたナイフを、真横に向かって一閃した。背後から横薙ぎにされた刃を緩やかに避けつつ、相手の腕の腱を断つ。これで二人。

さらに、こちらに駆け寄ろうとした男の足元を、右足で薙ぎ払った。無様に転んだ男の頭蓋を鉄骨入りのブーツで思い切り踏みつける。何かが砕ける音と共に、その男は動かなくなった。

三人の男が倒れ伏す向こうから、さらに十数名ほどの男達がこちらに殺到してくるのが見える。

そろいの背広にトレンチコート、手にはナイフに特殊警棒、拳銃を構えている男もいた。

胡乱な目つきで男達を睨み据えながら、アンヘルは冷静に状況を観察していた。

敵戦力、15名、内三名無力化。全員が成人男子。武装は、ナイフ、特殊警棒、そして拳銃。口径は恐らく9ミリ。彼我の距離、僅か数メートル。

"彼"の声が、聞こえてきた。

『近接格闘においても、銃という武器の持つ優位性は変わらない。射撃という動作は、銃口の向きを変え、引き金一本引くだけで攻撃を可能とする。故に、体裁きに連続性が生じない。弾数の制限はあっても、威力と即応性において、ナイフよりも銃の方がはるかに勝る』

だが、今は両側を壁に囲まれている。不用意な発砲は跳弾を生み、自身に跳ね返る可能性がある。相手もうかつに弾をバラ巻くことは出来ず、加えて襲撃方向も前後に限られる。うまくこの場所におびき寄せたことで、数の利が殺されていた。

とりあえず、こちらを襲った目的が知りたい。

相手が吐きたくなるまで、痛めつけるべきだろう。

「よう、この間は世話になったなァ、嬢ちゃん」

男達の合間から、ぬっと出てきたのは、背の高い見覚えのない男だった。目が血走っていて、極度の興奮状態にあるようだ。

それに、濃い麻薬臭がした。

「それでな、この間の礼みてぇなッ・・?!」

ブチャ・・・!!

その言葉が終わる前に、無言で顔面に突きを入れていた。

指二本で目を潰し、強烈な踵落としで膝を付かせ、回し蹴りで鼻を削る。あまりに動作が速かったために、男は反応することすらできなかった。

「・・・まだ、やるか?」

右手に抜き取った目玉を乗せ、彼女は周囲に向かって話し掛けた。淡々とした口調が、周囲の気温を下げ、冷たい空気が流れる。

わざと派手な立ち回りを演じたのは、それだけ彼女が苛立っていたからだ。麻薬をする奴、バラ巻く奴。それは彼女がこの世で一番嫌いなものだ。

アンヘルは男達に立ち直る隙を与えなかった。

バキッと音を立てて、真正面にいた一人を後方へ殴り跳ばす。

狭い路地、背後の男達にぶち当たった男を盾にして、ナイフを振るう。盾にされた男のために、銃撃を戸惑う男達。その隙を、当然の如く彼女は見逃さない。

手刀を肩に叩き込んで鎖骨を折る。横蹴りをくれてあばらを折り、わざと肺に突き刺す。顎に蹴りを入れて割り、上下の歯を残らず折った。股間を蹴り上げ、悶絶させたところを踏み砕く。

男達は浮き足立ち、あまりに手応えがない。

念能力者であるアンヘルの身体能力は常人のそれを遙かにしのぐ。なにより、男達の動きはお粗末なものだった。

妙に1対1で向かってきたり、動きが大仰だったりと、無駄が多い。銃をうてるだけのド素人集団、というのがイメージ的にぴったり来る。せっかくの火力を生かし切れていない。

それにこの連中、口元にもニヤニヤと笑みを浮かべていて、緊張感と言うものがまるでないのだ。

尾行されているときもそうだった。やることなすこと大雑把で、身の隠し方や身振り手振り、歩調一つとってみても不自然さを消しきれていなかった。

だが、同情はしないし、酌量も与えない。嘲笑うでも無く怒声をぶつけるでも無く、アンヘルはただ冷めた目をして事を行う。心中はムカムカと苛立ちだけで満たされていた。

結果として、すでに半数が路面に倒れ伏して虫の息。これに、男達の戦意は挫けた。

すでに、戦場のリズムはアンヘルの思いのままだった。

だが、仲間をあっさりノされたことで、残りの連中は慎重になっている。不意打ちの攻撃が通じるのはここまで。相手が冷静になる前に、さらに場を混乱させて、一気に制圧を図るべし。

「じゃあなっ!!」

挑発的に言い捨て、脇目もふらずに逃走する。

「・・あっ?!」「クソッ!」「待て、このアマッ!!」

残された男達も、数秒遅れてアンヘルの後を追いだした。

先ほど店を出る時に見せられた地図、地形も路地の配置も、すでにアンヘルの頭に叩き込まれている。現在位置から数百メートルほど前方、そこに待ち伏せに絶好の十字路があるのだ。

戦闘とは、正面から撃ち合うことはではない。一方的に、敵を撃ちまくれる状況。それだけが戦闘だと、彼女は教えられた。

相手に十分な火器の備えがあれば、人数の差というのは純粋な脅威だ。手数の差は、火力の差。乱戦になれば危険な流れ弾も発生する。ならば、現状を打破する答えは何か。

"声"は、彼女に答えを告げた

則ち、人数の差、火線の差を覆す、一撃鏖殺の大火力。

走り続けながら、アンヘルは良いものを見つけた。

汚れた通りの角、山と積まれていたくず鉄の山に手を突っ込む。錆びた古釘を一掴み、大きめの空き缶に詰め込んだ。

そして、ちょうど十字路に差し掛かった時、彼女は路地を真横に曲がった。

その場に待機し、すばやく周囲を確認。後方から列になって突進してくる男達の他、人影は無い。

そこまで確認したところで、彼女は手に持っていた"ソレ"に、高性能爆薬を半ポンド、絶縁性のビニールパックを破って中身を詰めた。

最後に素早く"周"を行い、オーラを込めて投擲する。自身は通路の横に退避済み。目を閉じ、口を開けて衝撃に備えた。


自らのオーラを粘土状爆薬に変化させる能力。

どこにでも貼り付けられ、好きなときに起爆できる。


故に、投擲された次の瞬間、

ソレは彼女の意志に従って爆発した。



ズガアアアアン・・!!!!

一瞬の後、路地は溢れる白い光に飲まれていた。

凄まじい爆音、巨大な炎が辺りを包む。




後に残ったのは、全身を破砕片によってズタズタに引き裂かれ、こんがりと焼けた瀕死の男達。

血だまりに伏した哀れな連中を眺め、アンヘルは『にんまり』と笑った。

頭の中に聞こえてくる"彼"の声に従い、自らに染みついたスキルを振るう。その結果が上々に終わったとき、強い快感を得た。

ああ、そうさ、まだ"彼"は死んじゃあいない。

争い、戦い、殺し合い、その最中にこそ、"彼"は降りてくる。

「ああ、分かってるよ、ゴドー」

それは、壊れた笑みだった。
















「な、なんじゃこりゃァあ!!!」

自らの手下が全滅したのを見て、テリーは思わず悲鳴をあげた。

息を荒げながら手下どもの後を追ったが、普段の運動不足が幸いして、爆発に巻き込まれずに済んだのだ。

敵は雌餓鬼一匹、まずは軽く血祭りに上げて件の飲み屋に押し入る手はずが、まさか初っ端からの全滅エンド。ジーザス!

「へー、ほー、ふーん。やーるじゃん、あの子」

その横では、ヴィヴィアン(仮名)がさも面白そうに状況を眺めていた。喉の奥でうなるような笑いを響かせご満悦。

その有様がテリーの神経を苛ただせる。

「お前も行けよ、兵隊なんだろ!!」

「あん?おっさん、テメーの喧嘩だろ。ほらほら、大将、子分がみんなやられちまったぜ。ここは一つ、男をみせなよ」

「馬鹿野郎!あ、あんなバケモノとやりあえるかぁ?!」

テリーは、ハッキリ言ってチキンだった。つまりビビリだ。ヘタレともいう。暴力沙汰には極力係わらず、常にダニーに押しつけていたのも、結局はそのためなのだ。

青ざめて震えているその様子に、女はゴミでも見るような視線を投げると、大儀そうにこう言った。

「ああ、もういいから、お前死ね」

そして、"何も持っていない"右手をすっ、と一閃させた。

プシュゥゥゥゥゥゥゥ・・・・!!

派手に血飛沫が舞い、鮮やかな赤が視界を埋める

テリーは苦しそうに、パックリと裂けた首元を抑えた。

・・ぴくっ・・・ぴくっ・・・

「偵察程度の役にはたったかなー」

女はぽりぽりと耳の後ろをかいた。

ドサッ

人体が倒れこむ音が静かに響く。

丁寧に頬についた返り血を拭くと、あとはもう、転がっている死体なぞ気にもしない。

視線は、路地の向こうのアンヘルに向けられていた。

全身を舐めるように見つめる視線。赤く長い舌が、チロリチロリといやらしく唇を舐める。

「いいなァ、アレ。おいしそうだなァ、アレ。豚公に渡すのは、惜しいなァ」

「姐さん、お仕事忘れないで下さいよ」

その背後から声をかけたのは、リィロと呼ばれた男だった。

何時のまに現れたのか、足音一つたてていない。だが、とっくの昔に気付いていたヴィヴィアン(仮名)は振り向きもせず、視線はアンヘルに釘付けのまま。返事すらしなかった。

リィロは軽く肩をすくめると、懐から携帯を取り出し慣れた手つきでキーを叩く。相手は即座に出てくれた。

「チャオ、ミッキー。こっちの首尾は上々だよ。ヤクを卸してやってた連中の一つ、あー、ボニーだったか、ティディーだったか忘れたけど、そいつら焚き付けて例のロリータちゃんを襲わせてみったよ~。うん、やっぱり念能力者だったわ。しかも、かな~りやますね、あれは」

『"ん~、じゃあ、そうすっと、ボーモントの念使いは全部で6人になったってことかぁ・・・・・・ブッチさん、そこまで考えてねえだろうなあ。まだ、あの金髪女さらって来いって言ってたもん"』

「え~~、俺パス。あの嬢ちゃん、とにかくやることなすこと容赦がねえよ。おまけに、おつむの方も蛇みてぇに冷えてるタイプ。面倒くさ~い」

『俺だって嫌だよ!つか俺ら基本的に頭脳労働担当じゃん、取っ組み合いはレンフーの姉御とか変態爺とかラッキーの馬鹿とか、殺しがだーいすきな連中に任せとけばよくね?"』

「ああ、そういや一緒に付いてきてた姉御がすっげやる気出てる感じ、あのお嬢ちゃんに興味シンシン。これって、幸い?なのかなあ」

『・・・・それって別の意味でやばくね?』

まったく同感だったので、リィロは視線を元に戻した。

―――――――――が、すでにそこには誰もいなかった。

「ごめん、ミッキー。もう、手遅れみたい。飛びでてっちゃった、あのオカマ野郎」













「ヤッホ~、お嬢ちゃん。お姉さんとイイことしな~い」

戦闘の直後で、感度が最高に高められていたアンヘルの感覚(センサー)に、その人物はごく自然に捉えられた。

見た目、ガリガリに痩せこけた頬に黒く長い髪をした、不健康そうな女。

だが、エナメル製の短いスカートの股間部はパンパンにふくれあがり、その下の器官の形を如実に浮き上がらせていた。酷く欲情しているのが一目で分かる。

「大丈夫、大丈夫、お姉さんに任せてくれれば、トビッきり、気持ちよ~くしてあげっから、サ!!」

手にした得物はタイガーナイフ。複雑なラインを描いた見栄え重視のホビー用品だが、纏ったオーラはすさまじい。

その男は、全身から怖気が走るようなドス黒いオーラを発散していた。

バシャッン!!

念能力者であると認識した瞬間、アンヘルは背中に隠し持っていた散弾銃(ショットガン)を抜いた。即座に安全装置を外し、流れるような素早い手つきで発砲する。

脳裏には、ゴドーの言葉が蘇っていた。

『念能力者に対して、もっとも有用な武器の一つが、銃器だ。出くわしたら、迷うことなく発砲しろ。よほど身体強化に特化した能力者でも、威力の高い銃器を使えばダメージを見込める上に、相手の対応から力量や能力を把握することが出来る。避けるのか、防ぐのか、オーラの量や流の速度はどうか、それとも何か特殊な能力を使用するのか。それは貴重な情報だ。逆に、こちらは引き金を引くだけ、指一本動かすだけで事足りる。相手には一切の情報を与えない』

武装として散弾銃を選んだのも、アンヘルの悪辣な選択だった。

点ではなく、面での攻撃を可能とするこの武器は、流による局所的な防御を無効化する。攻撃範囲も広いので回避も困難。ただし、個々の散弾(ベアリング)の威力は軽く、知れたものだが、相手の対応を見極めるのにはうってつけの武器だ。

男は両腕をクロスして腰を落とし、防御の体勢をとった。

バシャッン!! バシャッン!! バシャッン!!

ポンプを引いて素早く排莢、第二射、第三射と続けざまに散弾を放つ。

だが、男はそのすべてに耐えた。見た目はただの変態だが、強い。

それを確認すると、アンヘルは迷うことなく腰のポーチから手榴弾を取り出し、ピンを外した。

通路を逃走しつつ、絶妙のタイミングで投擲する。もちろん、オーラを込めるのも忘れない。



再び周囲に轟く轟音。



そして爆風による煙が晴れた時、

「ヤってくれるね、お嬢ちゃん。あんまチョーシくれてっと、バラっバラにしちまうよ~!」

長い蛇のような舌が、滴ってきた血をいやらしく舐めあげる。

視線は、アンヘルが逃走した路地の向こうを睨み付けていた。











…to be continud



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep5
Name: kururu◆67c327ea ID:3cf690d4
Date: 2009/12/05 18:31
感想を頂きまして、ありがとうございます。続きを投下します。


前話の感想で指摘して頂いた点について修正しました。また、3話の曲名に関してはメイン掲示板に目を通し、考慮の末にそのままにさせて頂きました。

ご指摘ありがとうございます。















「こっぴどくやられたジャン、姐さん」

ヴィヴィアンと名乗った殺し屋は、唐突に現れた相手を睨め付けた。それだけで、気の弱い者なら卒倒しそうな殺気(オーラ)。だが、男はヘラヘラと堪えた様子もない。

「・・・仕事は止めだ。テメーのむかつくツラ見てたら萎えた」

「マジそれ。レンフーさんよお。あんた、マジで言ってんの、それ」

ポケットに手を突っ込んだまま、ふざけた態度は変わらないが、リィロの額に軽く青筋が立った。

知性派を気取ってはいるが、所詮はこの男もアウトロー、自分勝手で気短な性格だ。常人より強い力を持つ念能力者には、多いタイプの人間ではある。そうでもなければ、殺し屋なんぞに身を落としていないだろう。それはヴィヴィアン自身にも言えることだった。

「ついでに言っとくと、今度のヤマを受けると言った覚えはないし、アタシは何もあの豚公の手下に成り下がったつもりはねえ」

今回の仕事の中身は二つ。

ボーモント組武闘派構成員の暗殺、そして例の少女の誘拐。

報酬は前金で1000万、成功報酬はその十倍。念能力者が相手の大仕事の割には、ケチ臭いほどショボイ額。小遣い稼ぎにしては危険も多い。

金が目当てでこの稼業をしている訳ではないが、報酬には不満があった。それに、依頼人が豚野郎本人というのも気に入らない。仕事を斡旋するのが生業の口入れ屋が、他の稼業に色気を出してこんな真似をしていては信用もクソもない。

だが、断れば今後の仕事を干されるだけでなく、こちらが命を狙われる。相手はそういう下衆野郎だ。同業者達も嫌々ながら従っていたし、ヴィヴィアン自身もそうだった。ついさっきまでは。

「豚公に伝えな、アレは、アタシが貰う」

ヴィヴィアンは男を一瞥、ナイフを握りなおすとそう言った。

今度こそ、相手の顔色がはっきりと変わった。

これで豚公を敵に回したことになる。だが、ヴィヴィアンに後悔はなかった。

なにも、雇い主はあの醜く肥え太った豚だけではないし、奴の手下に成り下がった覚えもない。自分自身の快楽のまま、人生を楽しめなければ生きている意味さえない。

だから、ヴィヴィアンはさらに挑発した。

「小僧、テメーはさっさと帰って豚のナニでもしゃぶってな。それとも、ここでハラワタぶち撒けるかい?」

リィロは無言で両手をポケットから取り出した。

何度か一緒に仕事をしたこともあるので、お互いに能力は知っている。

この男の能力は、この距離でガチンコやるには不向きな力だ。加えて能力の使用に関しては制約もある。

それに、例え他の能力を隠しもっていたとしても、念使いとしての地力は高くない。やりあって負けるとは微塵も思わなかった。

そのことはリィロ自身にも自覚があったのか、しばし睨み付けた後、無言で背後の闇に消えた。

ヴィヴィアンは、しばらくリィロの消えた方向を凝視していたが、すぐに目をそらす。

長い舌をめいっぱいに這わせ、破れた頬や両腕の皮膚を一舐めすると、オーラを集中して止血した。

すでに、頭の中は先ほど見つけたばかりの楽しい玩具のことで一杯だった。





彼は、大きな剣術道場の跡取り息子として生を受けた。

母親譲りの美貌と、父親譲りの剣の才。

加えて、まるで"生まれる前からそれらを知っていた"かのように学問を理解する彼を、周囲は神童と持て囃した。

剣の道にも弛まず打ち込み、ついには流派の奥義である念能力すら会得して、免許皆伝に至る。

父と母と最愛の妹。家族に愛された何不自由のない暮らし。

だが、15の春、母が他界したときより彼の人生は狂う。失意に沈む父に、初めてレイプされた。

その時から、彼は母の衣服を身につけ、母のように振る舞うことを強要された。

母の身代わりに家事をこなし、実の父親に犯される毎日。

学校も辞めざるを得なかった。悪い噂がたって、学校は彼にとって辛い場所となっていたが、最終的には父が手を回して辞めさせた。彼を家に縛り付けるために。

周囲の白い視線、家に近づく者は居なくなり、道場も傾いた。

徐々に狂気に蝕まれていく彼を気遣ってくれたのは妹だけだった。泣きそうな顔で彼を抱きしめてくれる妹だけが、心の支えだった。

そんな日々も、長くは続かなかった。

ある日、疲れ切った顔で買い物から帰宅した彼を出迎えたのは、裸の父と、同じく裸で舌を噛み切った妹の姿。

もはや、彼を押しとどめるものは何もなかった。

彼は姿を消し、後に残されたのは、滅多切りにされた父親の亡骸だけだった。





その日から、自らの内に芽生えた欲望に、忠実に生きてきた。

男に抱かれた。男を抱いた。

女に抱かれた。女を抱いた。

他人と肌を触れ合わせていなければ、夜も怖くて眠れない。一人で居ると、虚ろな妹の姿が脳裏によみがえって魘される。そのうち慢性的な不眠症になった。

酒も煙草もドラッグも、自分を壊してくれそうなものになら何だって手を出した。どれもすぐに飽きたが、何度も体を悪くして、頬はこけ、徐々に人相も変わっていった。

結局、気分をハイにさせてくれたのは男女見境のないセックスと、殺人だけだった。

他人の肌のぬくもりか、他人の返り血のぬくもりか。違いは、それだけ。

偶然か必然か、殺した相手は全員男だった。偉ぶって他者を見下しているタイプの男を殺してやるのが、最高に良い。マフィアや腐った政治屋ども、父親を彷彿とさせるような中年男を殺すとき、我を忘れた。

自信に満ちた顔が徐々に青ざめ、最後には涙と鼻水でグシャグシャになって命乞いを始めるのを滅多切りにすると、もうたまらない。忘我の彼方で、これ以上ないほど気持ちのいい射精ができた。

だから、殺し続けた。何人も、何人も。

常に快楽に身を委ねていなければ、『正気』に戻ってしまいそうで怖い。狂ったままでいたかった。かつての自分を、捨て去りたかった。

だから、殺し屋になった。

もう誰にも、楽しみの邪魔はさせない。



今も、股ぐらはバキバキにいきり立っていて、もう止まらない。

女を相手にここまでエレクトしたのは初めてのことだった。

「ハッ、楽しい。楽しいねェ、お嬢ちゃん!」

懐から古いウォークマンを取り出した。

何年も愛用している品で、所々塗装が禿げて傷もある。

カナルタイプのイヤホーンを耳に詰め込み、音量を上げる。

再生ボタンを押すと、すぐにお気に入りの曲が始まった。

「フィーバー!!」

一瞬の後、彼は獲物を追って駆けだした。
















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep5















アンヘルは、なるべく人混みの多い場所を選んで逃走していた。

他人を巻き添えにする可能性もあったが、それを躊躇できるレベルの相手ではない。

先ほどの接触で、相手の力量は大凡掴んでいた。正直、念能力者としては歯が立つまい。今の装備と、身につけたスキル。すべてをフルに使ってなんとか、というところだろうか。

それに、とあの男の目を思い出す。

あの黒く淀んだ瞳を覗いた時、恐怖に襲われた。人食い虎に対峙したような感触だった。
 
以前にも、あの瞳を見たことがある。

身に纏う雰囲気は真逆だが、ゴドーと同じ、地獄にいる者の目だ。

ひとまず、ミツリの飲み屋に避難させて貰おうと思う。あの人達の所に厄介を持ち込むのは本意ではないが、四の五言ってはいられない。

あの建物は半地下の極めて頑丈な作りで、籠城にも都合がよい。

大通り沿いの最短距離、元来た道を駆け戻る。

その時、頭上から嬌声が聞こえた。

「HA!HA!HA!」

思わず、上を見上げる。

ビルの屋上から、飛び降りてきた赤いボディコンが目に映った。朝日が逆行になって見えづらい。咄嗟に体を前に放りだし、直撃を避けた。

「サイコアナールシィィーッス!!」

だが、あろう事か変態は、落下の衝撃を右足一本で押さえ込み、直後に強烈な回し蹴りを放った。

赤いヒールのかかとが肉に食い込み、苦痛とともに吹き飛ばされる。ガードした右腕を抜かれ、アンヘルはそのまま通りに面した細い路地を転がった。

受け身を取るのが間に合ったが、背中を強かに打ち付けてしまった。中身の詰まったポリバケツがクッションになってくれたおかげで大事はない。だが、代わりに、生ゴミを被った。・・・Fuck!!

饐えたゴミの臭いが鼻腔から侵入し、苛立ちを増幅させる。

男は唖然としている通行人に中指を押っ立てると、腰を振りながら路地に踏みいってきた。

「迷子の迷子の子猫ちゃん、貴女のおうちはどっこかっしら♪ヒャハハ!」

変態は歯をむき出しにしてイカレタ哄笑を上げた。

そして前屈みになると、四足獣のような格好で地べたを疾走する。

野生動物に匹敵する瞬発力と敏捷性だが、見切れないほど早くはない。アンヘルは剥き身で持ち歩いていたショットガンを構え、男に発砲した。

否、発砲しようとした。だが、出来なかった。一瞬早く、嫌な予感が背筋に走ったのだ。

直感に逆らわず、体を無理によじって回避する。男のナイフをやり過ごす。軽くあばらを痛めたが、それは正しかった。

ザシュッ!!

次の瞬間、定規で引いたかのような、まっすぐな切れ目が、背後のコンクリートの壁に走った。数秒の後、自重に堪えきれず、バラバラに崩れ落ちるコンクリート塊。

接触箇所を中心として、無数の斬撃が放たれたかのように、分厚いコンクリートがズタズタに切り刻まれていた。冗談ではない。こんな威力をまともに喰らったら、今のアンヘルの"硬"では容易く抜かれてしまう。

強い。しかも接近戦タイプだ。

ナイフ一本で分厚い壁を細切れにした本人は、薄気味の悪い笑みを浮かべてこちらに躙り寄ってくる。明らかに、この状況を楽しんでいた。

舐めやがって! 

アンヘルは心中吐き捨てたが、正直、分が悪かった。相手の能力の糸口すら掴めていない。

打撃、ではない。明らかに、何かの刃物による斬撃の跡。だが、壁はナイフの間合いのはるか外だった。

放出系の攻撃を疑ったが、それにしては破壊痕が滑らかすぎる。ならば・・・

「さっきは、と~っても痛かったよ。でもアタシってばすっごく感じちゃった。次は、何を見せてくれるのかなァ、いけないロリータちゃん」

男は歌うように嘲り、踊るようにナイフを振るう。

空を裂く音を聞く前に、アンヘルは全力で回避していた。

相手のナイフは未だ間合いの遙か外。だが、一瞬前まで頭部があった場所を、"何か"が通り過ぎる。

抱えていたショットガンの銃口が、その"何か"に切り飛ばされる刹那、アンヘルの動体視力はコンマ数秒以下の速度で実行されたその現象をつぶさに観察していた。

ソレに掠った自慢の金髪が数本、切り飛ばされて宙に舞う。

背後では、十数メートル先に設置してあった消火栓がまっぷたつに切り裂かれ、周囲に噴水を降り注がせていた。

予め可能性の一つとして予想していなければ、避けることも難しかっただろう。

「・・・オーラで出来た刃、いや刀か」

ナイフを振るう一瞬だけ、その刃先から板のような極薄のオーラが伸びた。

形状は、昔見たことのある日本刀に近い。おそろしく薄く鋭く、物質を切断するオーラの刃。

「アヒャヒャッ、バレちった。まあ、こんだけサービスしてれば、どんなボンクラでも気付くわな。気を付けてね、切れ味抜群だから。下手に触れたら問答無用でバラバラよん♪」





オーラを刃状に変化させる能力。

日本刀にも似た形状の念の刃。鋼の強度と白刃の鋭さを併せ持ち、しかも伸縮自在で相手に間合いを掴ませない。

そして、さらにもう一つ。恐るべき特性を備えていた。

オーラで構成された刃の先端部の厚さは、僅かに分子一つ分。それは、この世で最も鋭利な刃。

術者の理想を可能な限り実現させる、念という力のデタラメさ。

現代の技術が未だ到達不可能な、奇跡の具現だった。





アンヘルは、額に脂汗がにじみ出るのを感じた。

オーラで出来た伸縮自在の刃。相手の能力は判明したが、あまりにもヤバ過ぎる。

何よりオーラであるというのが嫌らしい。"隠"で気配を消しているのだろう、気付くのが遅れた。"凝"を怠ってはいなかったが、その状態ですら半透明で見えづらい。まして、高速で振り回される瞬間だけ伸びるとあっては、目で追うことも容易ではない。

伸縮自在というのも厄介だった。近接格闘に特化した能力だが、リーチに制限がないのでは間合いもクソもない。しかも、攻撃速度が異常に速く、シンプルであるが故に弱点も存在しない。少なくとも傍目に分かりやすいような弱点はない。

"発"以外の基本的な能力も相当なものだ。防御力もそれなりにある。下手な銃器ではまともに傷も付けられない。

出来れば、大型火器を用意し、遠距離から滅多打ちにしたい。だが、今、下手に後ろを見せれば殺される。

言うまでもなく、変化系能力者は、オーラを手放すことを苦手とする。

現在のアンヘルの力量では、オーラが体から離れた時点で爆発の威力も爆竹程度にランクダウン。これでは、よほど使い方を工夫しなければ、単なる全身自爆装置でしかない。

距離を詰めて念の一撃を叩き込むのが確実だが、うかつに懐に飛び込むのは危険すぎる。放出系、操作系能力の不足が悔やまれた。

修行し直そう、生きて帰れたならば。そう、密かに誓う。

だが、"力"が必要なのは今だ。そして、どんな能力も使い方次第。

アンヘルは役立たずとなった散弾銃に"周"を施した。途中で切り裂かれた銃身にオーラを詰め、爆薬に変化させる。

そして、無造作にそれを投げ捨てた。

壊れた散弾銃はアスファルトを滑り、相手の足下近くで緩やかに止まる。

変態はニヤニヤした笑みを浮かべたまま、足下のゴミを気にもせず、右手のナイフを振り上げた。

と、

バァン・・!!

ゴミの散乱したアスファルトの上で、マガジン内のすべての弾丸が一挙に炸裂した。

例え、爆竹程度だろうとも、爆薬や銃弾を巻き込んで炸裂させるには十分な威力。手にした火器は、すべて即席の炸裂弾へと変貌する。

瞬間、アンヘルは間合いを詰めていた。

閃光が視界を染め、炸裂したベアリングが無差別に襲いかかる。姿勢を低くして前面にオーラを集中、前傾姿勢で失踪する。予めこうなることを想定し、ダメージを喰らう覚悟でいれば、どうということはない。

手には抜きはなったベンズナイフ。自身に可能な、最大限のオーラを込めていた。

だが、突然の奇襲に対しても、相手は冷静だった。

間髪入れず念の刃が向けられ、アンヘルの握るナイフに衝撃が走る。突き出されたナイフは、オーラ刀に受け止められていた。

ギシギシと、互いの刀身が軋み合う。相手の瞳に自身を見出せるほどに近づいた、鍔迫り合い。互いの吐息すら肌で感じられるような、そんな極僅少の間合いで、彼と彼女は鎬を削る。

高く、刃金の擦れる音。

アンヘルの対応は素早かった。

ナイフに纏っていたオーラを素早く変化、その粘性の高いオーラで刃先を吸着する。さらに、切っ先を取り込むと共に、その横腹に適度な力を加えてベクトルを変えた。

刃物というのは横からの衝撃に対しては、単なる鉄の板と変わりはない。それは、念で構成されていたとしても同じこと。

鍔迫り合う力をいなして、アンヘルのナイフが襲い掛かった。

相手の動きに合わせ、全身のバネを使って瞬時に加速。刺突を、繰り出す。

ナイフの切っ先が、無防備な脇腹に向かって進むのが、スローモーションのように見えた。



刹那、血の赤が宙に舞った。











その時、ヴィヴィアンは目を見張っていた。

地べたに捨てた銃がいきなり暴発したのには確かに気を取られたが、そこに驚いたわけではない。この程度の手品に動じるくらいなら、とっくの昔に死んでいる。

その後の襲撃こそ、少女の真価だ。

これまでヴィヴィアンの全力の斬撃を受け止めた奴はいない。たいていは避けるか、そもそも間合いに近づこうとすらしなかった。

賢明な判断だろう。接近戦で彼とタメを張るには、斬撃を受け止められる防御力か、かわし続けられるだけの反射神経、もしくは高速の攻撃を見極められる"目"が必要になる。どれもクリアすべきランクは高い。不利な接近戦を挑むよりは間合いの外で戦った方がいい。

だが、受け止めながら力の方向を変え、捌いて"いなした"奴は初めてだった。

物理的な防御でこの能力を防ぐことは難しいが、この刃はあくまでオーラを変化させたもの。大量のオーラを練り込んで防御に当てれば、防ぐことは可能な道理。

少女の大型ナイフには、傍目に見ても大量のオーラが込められている。あまりのオーラの量に、留めきれずに迸ってすらいた。"周"が未熟なのもあるだろうが、ヴィヴィアンにはそれが少女の内面性の発露に思えた。

得物も良い。恐らく、ベンズの初期型。純粋に切れ味と頑丈さを追求したタイプだ。ベンズのご多分に漏れず、ナイフそれ自体にも相当強力な念が込められている。

だが、何よりヴィヴィアンが舌を巻いたのは、攻撃の威力を押さえ込んだ、少女の技だ。

全身の筋肉から力を抜き、打点に逆らわず、刃を受け止めながら威力を流す。言うは易いが、実行には多大な困難が伴う。彼の祖国の武術の奥義にも通じる、見事な技。

妙に武器に頼った戦い方をするのは技術が未熟なためかと思ったが、なかなかどうして、存外にセンスもいい。特に、見切りの良さは玄人並だ。

その技に見惚れると同時に、少女のもつ弱点もヴィヴィアンは正確に見抜いていた。

恐らく実戦経験が乏しいためだろう。オーラの流れが素直過ぎて、正直、酷く読みやすい。少し熟達した能力者ならば、鳥が風を見るようにその狙いを読めてしまう。

故に、

「・・・何でって、顔してるね。甘いよ、お嬢ちゃん」

少女は脇腹から血を流し、こちらを驚愕の視線で見ていた。

ヴィヴィアンの左手から伸びたオーラの刃。半透明の刀身には、ベットリと少女自身の血が付いている。

チロチロと、その血を舐め取った。アドレナリンが多いのだろう、血錆臭すら微かに甘い。少なくとも彼には甘く感じられた。

「見ての通り、アタシってば両刀使いなのよ。男も女もだ~い好き。刺すのも刺されるのも感じちゃう」

元来、ヴィヴィアンの能力は得物要らずの便利な力だ。手ぶらを装い、油断させてザックリできる。

それでも獲物に相対する時には必ず武器を携帯した。彼の能力はあまりに切れ味がよすぎて、肉を切り裂く感触が今ひとつなのも理由の一つ。だが、何よりも実態のある刃を持てば、相手は必ずそちらに注意を払う。

ナイフを持った右手はフェイク。注意を引きつけ、本命は利き腕の左。単純な心理トリックだが、案外見抜くのは難しい。そして、派手でチャチな得物ほど注意を引くのには効果的だ。

それが、今まさに証明されていた。

「勉強不足だったわね、ママのおっぱい吸って出直し・・・・・・・・・そんな目で、見ないでよ」

キッと、少女の視線が殺意に染まっていた。

傷も浅くないだろうに、激痛に耐えてこちらを睨む彼女はとても健気だ。ヴィヴィアンの嗜虐的な嗜好がそそられた。

意志の強そうなその瞳を、絶望と快楽で染めてみたい。

ますます、欲情してしまった。












「さあ、今度はどんな手品を見せてくれるのかなァ。恥ずかしがらないで、お姉さんに全部見せてごらん、可愛い可愛い子猫ちゃん♪」

甲高い声、嘲りの言葉、脇腹に走る痛み、路地裏の饐えた臭い。すべてが不快だった。

念能力に対する認識不足から生まれた油断。払った代償は大きい。

オーラを集中させて出血を防いでいるが、長くは持たない。臓器をやられている。縫う必要のある傷だ。血がぽたぽたと落ちる。

念という力の理不尽さを、改めて思い知った思いだった。

「・・・黙れ。いちいち、ギャアギャアうるせえんだよ」

変態は挑発に乗らず、こちらの体を舐めるように見つめた。顔、胸、腹、そして下半身。視線の意味は分かりすぎるくらいに分かったので、おぞましさに震えが来た。

冷静になれ、あの男の言葉を思い出せ。アンヘルは自身に言い聞かせた。

腹の底は煮えたぎっていたが、おつむは何とか冷えている。

相手の方がパワーもスピードも、技量も上。このオカマ、派手な見てくれの割に技巧派だ。

先ほど、彼女の脇腹を貫いた瞬間、躊躇無く手首を捻って内蔵を破壊しようとした。間一髪、対処が間に合ったのはゴドーの訓練で養われた条件反射のおかげに他ならない。実戦経験も豊富なようだ。恐らく、殺人の経験も。

もう、銃の暴発を利用した奇襲は効かないし、手持ちの火器も数少ない。加えて、この距離は相手の間合い。自分が今細切れになっていないのは、悔しいが相手の余裕でしかない。

この状況で、使える持ち札は二つ。

切り札が一つに、奥の手が一つ。それで仕舞い。冷徹な思考を維持したまま、その有効性を吟味する。

結論は、すぐに出た。

ナイフを、正眼に構える。

「おんやあ、まーだやる気?やっちゃうわけェ?」

相変わらず馬鹿にしたような口調に虫酸が走る。

その言葉を無視して、アンヘルは走った。

「クタバレ、変態!!」

せっぱ詰まった表情で、怨嗟を叫びながら特攻する。もちろん、この間合い、この速度では、とうてい目の前の変態に刃を届かせることは出来ない。

苦し紛れの悪足掻き。そう見えていてくれれば、万々歳だった。

「・・・ちょっち、残念。ま、若い割にいいとこいったのは褒めてあげる」

アンヘルは足下にオーラを集中させた。ナイフを構えたまま、次の踏み込みに備える。だが、恐らくこの相手はそこまで読んでいるだろう。相手の視線がそれを教えていた。

彼が彼女を迎撃しようと、左右の刃を突き出した瞬間だった。



アンヘルの足下が、爆発した。



ヴィヴィアンの瞳が、今度こそ純粋な驚愕に彩られた。

爆風は指向性を持って足の裏から吹き上がり、小柄な少女の体を瞬間的に加速させる。

それは、体捌きや筋力に依らない、予測不能の強制加速。

刀剣術の歴史は古く、既にありとあらゆる技術は過去のもの。足運び、挙動、仕草からどんな攻撃の型になるか、例え念で強化されようとも、それはおおよそ予想できる。

だからこそ、ヴィヴィアンには予想出来なかった。武術に、剣術に、刃物の扱いに、数多の実戦経験によって慣れすぎていたが故の、致命的な隙。

ザクッ!!

「・・グゥっ!」

ヴィヴィアンは咄嗟に左腕を晒してガードしていた。幸い、傷口は浅い。

だが、突き込まれた瞬間、傷口を刺す痛みと共に、恐ろしい予感が彼の脳裏をよぎった。

少女の横腹を蹴り飛ばしたが、一瞬、遅い。

軽く刺さったナイフの先端、それに纏われていたオーラが、傷口を巻き込んで起爆した。

バチュン!!

肉を千切る嫌な音が響き、傷口を焼かれる痛みが脳髄を抉る。

「やってくれたね、クソ餓鬼がッ!」

傷が浅かったのが幸いした。爆発の瞬間、相手を蹴り飛ばしたのもよかった。しかし、利き腕がイカレた。肉がえぐれて骨が露出している。すぐに医者に診せる必要があった。

可愛さ余って憎さ百倍。

ヴィヴィアンの胸中は、憎悪に満ちていた。





「ハッ!」

オカマ野郎の顔が初めて醜く歪むのを見て、アンヘルは笑っていた。

窮鼠猫を何とやら。獲物を前に舌なめずりは三流のやることだ。

「ざまあねえな、余裕ぶっこいてるから、そうなるんだよ」

だが、起死回生の一撃は不発に終わった。

腕を一本を潰したが、致命傷にはほど遠い。しかも、変態を激怒させた。怒りに憎悪、強い感情が念に作用して、オーラをよりいっそう攻撃的で禍々しいものにしている。殺されるか、いや、捕まれば恐らく生きたまま地獄を見せてくれるだろう。

それでも、アンヘルは笑った。

笑った瞬間に脇腹がよじれて激痛が走る。それでも楽しかった。

一矢、報いた。おかげで手負いの獣を相手にすることになったが、後悔はない。

怒りに燃える男の刃が、眼前に迫る。

左に飛ぶ。
 
同時に、さっきまで立っていた場所を無数の斬撃が切り裂いた。

目が霞む。内臓をやられると徐々に地獄の苦痛に襲われるのだ。体が重く感じる。

ナイフを腰だめに構え、横から胴の中心を狙う。だが、相手の切れ目のような眼を見たとき、下手を打ったのを悟った。

危ないと感じた時には遅く、肩口を手から生えた念の刃に打ち抜かれていた。鈍い痛みに歯を食いしばる。焼けた火掻き棒でも差し込まれたような痛みだが、脇腹の痛みに比べればどうということはない。

やはり、攻撃が読まれている。

アンヘルには原因が分かっていた。流が未熟なのだ。そんなことは、ゴドーとの訓練の最中にも、散々思い知らされていた。だが、今は純粋に命がかかっている。

弾かれるアンヘルは蹴りを放った。カウンターで鳩尾をなぐられる。

盛大に転ばされたが、彼女はすぐ横に転がり飛び起きた。腹筋を動員し、飛び起きる勢いを利用してナイフを繰り出した。

ぎりぎりと肉薄するが、情けないことに腕力では変態男に負けてしまう。

アンヘルは睨みつけ、流れる鼻血を舌で舐めた。口を開いて、唾液混じりの血を吹きかける。

ヴィヴィアンの視界が紅に染まり、同時に、左の脇腹を打ち抜かれていた。

アンヘルが左手に隠していた拳銃を全弾撃ち込んだのだ。いくら小口径といえど、ダメージは大きかった。オーラが集中された少女のナイフを防ぐため、オーラを両手に集中していたのが徒になった。

拳銃は指一本、引き金を引くだけで攻撃が可能。持ち手に込められたオーラがどれほど微弱でも、威力には関係がないのだ。

ヴィヴィアンの脳にも、大量のアドレナリンが吹き出していた。腹を打ち抜かれたのに、何故か楽しかった。

犬歯をむき出しにして、凶暴そうな笑みを互いに突きつけあっていた。

「ハハッ、気が変わった、この場で殺してやる!」

それでもまだヴィヴィアンの動きはアンヘルを上回る。腕力、体力、技術の差。純粋に修行に費やした時間。それが、残酷なまでに明確な、両者の差であった。

正攻法ではアンヘルに勝ち目などない。ゴドーから教わった、能力者を出し抜く手段。それをフルに活用して、目くらましの小技に終始する。勝機はそこにしか無かった。

「できるもんなら、やってみな!」

アンヘルには、まだ切り札が残されていた。刃の先端を相手の首に向け、ナイフのグリップに親指を当てる。

硬質ゴムのスイッチは、巧妙に偽装されていて外見からは分からない。だが、実際に握って感触を確かめると、ゴツゴツと固いグリップのそこだけが妙に柔らかい。初めてこの仕掛けを発見した際には、いかにもあの男らしい置き土産だと苦笑したものだ。

彼女が内心ほくそ笑みながら、スイッチに手をかけた、その時だった。

不意に、意識が遠のいた。

「・・・ッ!」

動悸に息切れ、そして目眩。体中の汗腺から汗が噴き出し、筋肉を虚脱感が襲う。

その症状には覚えがあった。

限界まで念を酷使し、オーラを出し尽くした時の症状、それに近い。端的に言えば、時間切れだ。

アンヘルの最大の弱点。則ち、持久力の不足。

単純な体力(タフネス)の問題ではない。念の消費効率、つまり念能力の未熟に起因する、オーラを効率的に使うための修行不足。"流"の速度に"纏"が付いていかず、必要以上にオーラを消費してしまう。

結果、蛇口の壊れた水道の如く、一度戦闘に入ってしまうと無尽蔵にオーラを使い続ける。そのため、燃料を垂れ流したまま飛行する軍用機のように、恐ろしく燃費が悪いのだ。

今のところ、平時にアンヘルが維持できる"堅"は2時間前後。それを、全力の戦闘時間に換算すれば、良くて30分ほど。それを過ぎればまともに立っていることすらできなくなる。

自身の限界を悟り、引き際を心得る。それは重要なことだと、アンヘルに念を教えた男にも何度も警告された。

だが、まだ若く経験の浅いアンヘルは己の分水嶺を見誤った。

数少ない実戦経験、そして戦闘の疲労と興奮、緊張感がそのことを忘れさせた。

堅が、解けた。

「あら、どったのかな~♪」

見た目にもソレが分かったのだろう。男の表情に余裕が戻った。

しまった、と思った時にはもう遅い。

集中力の不足、一瞬の油断。眼前には、振り下ろされた刃。

受け止めようにも、グリップを掴む腕にも力がこもらない。

せめて、最後に・・・

そこでアンヘルの意識は途絶えた。










相手のオーラがとぎれる一瞬、ヴィヴィアンは振り下ろした刃を寸止めした。

すでにフラフラの状態だった少女に軽く当て身を当て、意識を刈り取る。倒れたところを、片手で優しく抱き留めた。

さあ、これから楽しくなるという所だったのに。正直、肩すかしを食らわされた気分だった。

これまでの修羅のような戦いぶりが嘘のように、あまりにあっけない幕切れだ。思わずため息が漏れてしまう。股間のブツが萎えた。

「・・・意外。ま、いい勉強したと思って次はがんばんなさい」

意識のない眠り姫。凶暴なオーラは消え、眠っている状態では目つきの鋭い顔つきもゆるむ。こうやって眠ってさえいれば、美しいだけの少女だろうに。

変態は気分を変えて、ワキワキと変態的な手つきで少女の全身をまさぐった。裸に剥いてそのままヤっても良いが、今は先にやることがある。

案の定、少女は全身に武器を仕込んでいた。件のナイフに拳銃、投げナイフ、テグスに注射器、手榴弾。その他にも、呆れるほど大量の武器が至るところから出てきた。

恐るべき事に高性能爆薬すらあった。ヴィヴィアンはあまりこういうものには詳しくはなかったが、控えめに見てもこの量ならば、この辺り一帯を吹き飛ばすのに十分なのではないだろうか。

今更ながら、背中に冷たい汗が滴る。まるで歩く火薬庫だ。距離を詰めて接近戦に持ち込まなければ、これらの火器が火を噴いたに違いない。

武器を取り上げながら、変態は彼女の肢体を撫で回して楽しんだ。

小麦色の肌は、吸い付くような滑らかな感触を伝えてきた。無駄な肉のない引き締まった体つき。だが、バストやヒップは柔らかくボリュームがあり、腰はキュッとくびれている。男好きのする体型だ。肉感的な唇やアーモンド型の瞳も美しい。

上機嫌で、美少女を撫で回して悦に入る。

その時、背後からヴィヴィアンの機嫌をぶち壊しにする声がかけられた。


「よお、カマ野郎」


同時に、殺意を含んだオーラが吹き上がる。

ヴィヴィアンはゆっくりとした動作で振り返った。

そこには野球帽にサングラスをした、よく知る男が立っている。リィロだ。

どうやら、遠目に二人の戦いを監視していたらしい。そして、決着が付いたところで、ハイエナのように獲物だけかっさらおうと待ち受けていた、というわけだ。

だが、そんなことは今のヴィヴィアンにはどうでもよかった。

「・・・おい、犬コロ。テメー、今、何つった?」

ヴィヴィアンを知る同業者は、決して彼のことを"オカマ"とは呼ばない。なぜなら、それが彼にとっての禁句だからだ。不用意にその言葉を口にした者は、問答無用で殺されている。

その言葉をあえて口に出した、と言うことは。

「何度でも言ってやるよ、カマ野郎。ちっとばかし腕が立つからって、あんた前から気にくわなかったんだよなァ。優しいブッチさんも影で相当お冠だったんだぜ。でも今回はさすがに調子乗りすぎ。さっき、ブッチさんに連絡したらさ、あんた殺していいって許可が出たんだヨン。だからさ、チャッチャと死んでくれる?」

禁句を口にされてヴィヴィアンもブチ切れていた。

「なめんじゃねえ、小僧。ズッタズタの膾切りにしてやんよ」

眠り姫は地面に降ろし、改めて得物を構え直す。

利き腕は少女に潰されて動かない。加えて脇腹の銃創。幸い弾は貫通しているが浅い傷ではない。

その状態で右腕一本、それでもこの相手なら勝てると踏んでいた。

「穴一ケ増やしてやんよ、カマ野郎。嬉しいだろ」

リィロは徐にコートのポケットから、己の得物を取り出した。

銀メッキの装飾に木の取っ手。見た目は、安っぽいおもちゃのピストル。

ただ、本来ならばコルクの栓が付けられている銃口には、のっぺりと白い皺だらけの人間の顔面、というなんとも悪趣味な造形のフィギュアが収まっていた。その瞳は閉じていて、眠っているように見える。

実物の得物なのか、それとも念で具現化したものなのかまでは分からない。だが、その効果は知っていた。いずことも知られずに潜んでいる標的を探し出し、始末するにはこれ以上ない能力だ。何度か世話になったこともある。

男は銃口をヴィヴィアンに向けると、笑いながら引き金を引いた。

「ばきゅんw」

ポンッ!

瞬間、シャンパンのコルクが飛ぶような音が、ヴィヴィアンの"背後"で鳴った。同時に、

ズグン!

背後から、何かが脇腹を射抜き、ヴィヴィアンは悲鳴を飲み込んだ。

苦痛に耐えて視線を向けると、少女にやられた脇腹が盛大に出血し、破れた皮膚の隙間から奇妙な生き物が顔を覗かせていた。

『ヴィヒャヒャッ!!マッジーナ、オイ、オカマノ肉ハヨォ!』

気味の悪い皺だらけの顔、大きさは野球ボール程度。リィロの手にもつ玩具の銃、その先端に取り付けられたのと同じデザインの奇妙な生き物。だが、色は浅黒い。

その生き物の口からは、ビッシリと白く針のような歯が生えそろい、クチャクチャとヴィヴィアンの肉を咀嚼していた。

奇妙な弾丸は紐で本体と繋がっているようで、いつの間にか背後に立っていた男の手に持つ、リィロと全く同じデザインの銃に繋がっていた。

「チャオ、オカマちゃん、ガラにもなく油断したね」

「テメーは、マイケルッ!!」

ヴィヴィアンの口から、怨嗟と共に血反吐が漏れた。

その男は、豚公の秘書だった。どこからともなく現れて、殺し屋連中につなぎを取る連絡役。滅多に顔を見せず、正直なところ念能力者であることすら、今まで気付かなかった。

「あんたが悪いんだよ。あんまりブッチさん怒らせるからさ。俺らも舐められるわけにはいかないジャン」

ただでさえ、腕自慢の殺し屋連中を束ねる稼業。他の闇稼業以上に、舐められたら終わり。連中の顔を潰したら、こう出てくる事くらいはヴィヴィアンにも予想が付いていた。

だが、これは予想外だ。

「リッキーの能力は、あんたも知ってたよな。"深夜の決闘野郎(ミッドナイト・ブリッド)"、こいつは知っての通り夜専用の能力だ。けどね」

「"兄貴"の能力はさ、昼専用なんだな、これが」

マイケルは、普段決して外そうとしないニット帽にサングラスを、そしてリィロも目深に被っていた野球帽を脱ぎ捨てた。

その下からは、見分けの付かないほど、そっくりな顔が現れた。

「こっちが兄貴のミッキー。で、俺がリッキー。改めまして、ミッキー&リッキー!愉快なロイド兄弟でェーっす。よろしくね」

兄弟は腕を組んで嘲笑った。

「俺達ってば、言うこと聞かないお馬鹿チャン達の始末屋も兼務してんだよね。だから、普段は俺は滅多に顔出さねえんだ。知った奴は全員墓の下ってね」

改めて聞き比べると、隣の弟とそっくりな声と口調だ。

「ま、金髪ちゃんを捕まえてくれたのには感謝するぜ。俺らが責任をもってブッチさんとこに連れてくからさ、さっさと死ね」

ぐちゅりと、奇妙な弾丸が引き抜かれ、マイケルの構えるピストルに収まった。マイケルはそれを油断無く構え、リィロもまた懐から大口径の拳銃を取り出した。

万事休す。ヴィヴィアンの決断は素早かった。

傷口を無視して、足下の少女を再び抱える。脇に力がかかったため、傷口から盛大に出血したのを、意志の力で無視した。

右腕には少女を抱え、左手には彼女から勝手に奪った"武器"を持つ。

実際に使ったことはなかったが、使い方くらいは知っていた。



スタングレネードの閃光が、周囲を覆い尽くした。

















それより約24時間後。

東ゴルトー共和国、首都ベイジン。



「センセ、お待たせして、本当に申し訳ありません」

「ドウモ、ドウモ」とお辞儀を繰り返す糸目の男に、バトゥは鷹揚に頷いた。

首領様の血縁になるという例のボンボンは、商談とは名ばかりの要求を一方的に捲し立てると、言いたいことだけ言ってとっとと帰ってしまった。

核兵器の部品だとか、高性能コンピューターだとか、どれも東ゴルドーへの輸出が禁止されているものばかり。新手のジョークにしても笑えないので、バトゥはすぐに不愉快な体験と共に記憶から削除した。

その後、バトゥには酒と女が振る舞われ、そこで出てきたのがこの男だった。恐らく情報機関の人間だろうとバトゥはあたりを付けた。

馬鹿の面子を立たせた所で、ここからが本当の商談なのだ。

チップをせがむ女達にジェニー札を投げて追い払い、キムは人払いをするとさっそく商談に入った。

「麻薬に偽札、コピー武器。ちょっと毛色の変わったところで人身売買。この手の商売の需要は時代が変わっても変わりまへん。センセは何をお望みでッか?」

この犯罪国家が、国を挙げて極めて精巧な偽札作りに精を出しているのは公然の秘密だし、耕作可能な田畑の大半が麻薬畑で埋め尽くされているのも、驚くべきことではない。

貨幣制度の崩壊と、農業政策の失敗。後に残されたのは飢えた人民の群れだけ。失敗国家の見本のような国だ。

少しでも力のあるものほど国に見切りをつけ、我先に国庫に手を出して、国が破綻する前に利益を貪れるだけ貪ろうとする。

結果、五百万からなる最下層の人民は飢えた。

彼らは他に食うものが何もなければ、当たり前のように人を食い、さもなければ、売る。力の弱い女や子供、愛玩用として需要のあるものほど高値がつく。国は率先して人身売買に携わり、軍の船には麻薬や偽札、コピー武器といった主力商品に加えて、生きた人間が乗せられる。あくまで、商品として。

ここは、そんな最果ての国だった。

バトゥはトレードマークのサングラスで表情を隠し、極めて感情を廃した声で、相手に訪問の意向を告げた。

「キムさん、だったね。何か勘違いをされているようだが、われわれボーモント・グループは極めて健全な一民間企業だ。そりゃ、金になるなら、それなりに危ない橋も渡る。そうでなければ、こんなヤバイ国にきてまで商売をしようとは思わない。だが、麻薬だの偽札だの、洒落にならないような無茶はごめんだよ。そこは一線を引くように、社主からも厳命されている。我々が望むのは、あくまで対等な取引きで、欲しいのは例の情報だけだ。そこを勘違いされては困る」

これは本心だった。

麻薬に偽札、武器密輸。ある意味、マフィア稼業の正当なシノギではあるが、表稼業に比重を移しつつあるボーモントが手を出すには、あまりにダーティ過ぎる。

それに、ボーモント銀行の資本規模からすれば、いまさら数十億ジェニー程度の危険な小遣い稼ぎに手を出す必要はない。

「ついでに言わせて貰えば、慈善事業にも興味はない。お宅の国がどうなろうが知ったことじゃないし、お宅の人民にも同情はするが、それだけだ。我が社の利益に繋がれば、"問題ない(ノープロブレム)"」

この国の有様に思うところが無いわけではない。だが、偽善者ぶって人民に施しをしたり、ましてや演説をする気はまったくない。この国の人民には、おそらく偽善を偽善として受け止める余裕すらないだろうが、バトゥはそのことを故意に忘れようとした。

だが、キムはそれを聞くと、ますます機嫌良さそうに何度も頷いた。

「結構、結構。お人柄はよーく分かりました。そういうことなら、私も安心してこれをお渡しできます」

キムは、おもむろに黒革のファイルを一冊取り出すと、バトゥに示した。表表紙にも背表紙にも、タイトルは記されていなかった。

「お望みのファイルです。過去3年間、わが国から、『ミスタ・B』に出荷された『商品』のリストです」

こんな国にまで来た苦労が、ようやく報われた瞬間だった。









「結論から言えば、東ゴルドーは"シロ"です。少なくとも"D・D"に関しては、彼らも何も知りません」

手に入れた情報を、バトゥは早速報告していた。

この国からの外線はすべて盗聴されることになる。そのため、持参した衛星電話を使う。軍の衛星の一部に間借りした、機密性の高い回線だった。

『"やっぱなあ、この国の連中にあんな高度な麻薬を合成する技術なんて、ないって踏んでたヨ♪で、それだけじゃないんだろう"』

あれほど高度な合成麻薬。もし、東ゴルドーが供給源ならば、この国の連中はもっと積極的にアピールして売り込むはずだ。

だが今回、東ゴルドーでは全くその話を聞かなかった。

代わりに、別の切り札を手に入れていた。

「ええ、過去3年間、東ゴルドーから、豚野郎宛に出荷された武器のリストを入手しました。ある時期から、奴は大量の武器を購入し続けています。そして、それは"D・D"が出回り始めた時期とも一致する」

三年前、それはブッディがボーモントとの抗争の果てに、壊滅に近い打撃を受けた年だ。

あの時、手下を残らず失って、件の豚野郎は相当に焦ったはずだ。今まで血と暴力を背景に抑圧した連中からの報復も恐れただろう。

そして、無我夢中で再起を図り、見境無く御法度の麻薬にまで手を出した。それで得た金を使って武器と兵隊をかき集め、再び再起をかけてのし上がった。それが、バトゥ達の読みだった。

外堀を埋めて証拠を集め、次の連絡会で豚野郎を孤立させる。そうすれば、どうとでも好きなように料理できる。何も、ドンパチするだけが戦争ではないのだ。

五大組織同士の抗争ともなれば、正面の敵ばかりでなく背後にも警戒をする必要がある。

マフィアに仁義もクソもない。一方にかかりきりになっている間に、漁夫の利を狙う第三者に背後を突かれるなんて珍しくもない。特に、ボーモントのような少数精鋭の組では守れる拠点にも限度がある。三年前、大打撃を与えながらも豚にとどめを刺しきれなかった原因が、まさにそれだった。

だが、連絡会で豚の不正を指摘して追いつめさえすれば、さすがにマフィアン・コミュニティーも動かざるを得ない。

別口の調査から、あの雪の日、ゴドー達を襲った連中の武器が、東ゴルドー製のコピー商品だということが判明していた。あまりに大量の武器を用意してきた連中の手際に疑問を持ったのだ。

こちらは医者のヤマダには門外なので、別口の専門家に調査を依頼していた。その結果得られた情報が、バトゥの出張に繋がった。こういうお国柄だと、こちらもバトゥ程の人間が直接出向かなければ情報すら満足に得られない。

『"これだけの武器だ。ヨークシンに持ち込むにも、ルートは限られる。空から武器の侵入を許すほど、我が国の警察機構は甘くないヨ♪案の定、沿岸警備隊の勤務シフトに妙な穴が有った。彼らに流れている金を追ってみたけど、"リッツ・ファミリー"の息がかかっているのは間違いない。あそこは武器の密輸も手広くやっているから、海軍と海洋警察に顔が利く。新興組織の豚ちゃんがこのルートを使って武器や、恐らく例の"D・D"を持ち込んだとして、彼らが気付かない筈がない。"傷顔(スカーフェイス)"がどこまでこの件に食い込んでるのか、見物だネ♪"』

"傷顔(スカーフェイス)"こと、リッツ・ファミリー家長、ドン・リッツはマフィアン・コミュニティーを取り仕切る十老頭の一人だ。

もし、今回の一件にかの巨頭が裏で絡んでいるとしたら。

それこそ、バトゥがこんな国に来てまで根回しし、マフィアン・コミュニティーを巻き込もうとしている一番の理由だった。

「それにしても、秘密主義のここの連中がよく"こんなもの(リスト)"まで見せる気になりましたね」

東ゴルドー経由で得られる商売の利益は、今のところすべてマフィアン・コミュニティー自身が窓口となって下部の組織に分配している。

コミュニティーを通さずに直接商売をするのは、重大な協約違反だ。

もっとも、売り手である東ゴルドーの連中にしてみれば、商売の相手は多い方がいい。だからこそ、あっさりとリストが手に入ったのはバトゥにも意外だった。

『"フフン、彼らにとって見れば、武器をわんさか買い取ってくれる豚ちゃんは、それはいいカモだろうさ。でもね、あの豚ちゃんがバラまいてるヤクは、それ以上に彼らにとって目障りなのさ。例の調査資料をチラつかせたら、一発でOKしてくれたヨ♪そりゃそうだ、何せ同重量の末端価格で"D・D"は彼らの主力商品であるヘロインと倍近い価格差がある。しかも品質も悪くない。こんな捨て値でヤクをバラ巻かれたらどこも商売あがったりだ"』

そう言うと、電話の相手は小気味よさそうに笑った。

『"ま、いずれにせよ、"D・D"の供給源は不明なままなわけだが・・・・それは豚ちゃんを締め上げて直接聞き出そう。今は連絡会(クーポラ)での切り札を手に入れたことに満足すべきだ。早速、データをこちらに送っておくれヨ♪東ゴルドーを相手にした武器密輸、それも尋常じゃない量、これだけで豚ちゃんを屠殺するには十分すぎる理由さね。加えて"D・D"の一件、"赤龍弊(レッドドラゴン)"の王大人あたりが激怒するだろうよ。年の割に意気軒昂だからね、あの坊やは♪"』

十老頭の一人、それも大陸系組織を束ねる大物を相手に『坊や』呼ばわり。だが、このボスならばさもありなん。何せこの老人、ヨークシンに街ができる前から生きているらしい。

『"君も至急こちらに帰ってくれ。君のいない間に、こちらではもう第一戦が始まったヨ。銀行とミツリの店と、ボクの屋敷。ついさっき、物騒なの抱えた連中がわんさか押しかけてきてね、例の天使ちゃんも巻き込まれたみたいだ"』

「そいつは・・・!!」

寝耳に水だった。

『"安心しなよ、ミツリも可愛い坊やも無傷だ。君の妻がかつて何と呼ばれていたか、君の方がよく知っているだろう。屋敷の方はベノアとハンプティで対応した。天使ちゃんの方は辛くも自力で何とかしたみたいだね。今はヤマダ君の所にいるようだ。ただ、"』

そこで相手は一度言葉を切る。バトゥはゴクリ、と唾を飲み込んだ。

『"銀行の方に被害が出た。幸い、カタギ衆には怪我人の一人もでなかったんだが・・・・・・カルロが重傷だ。今、病院の集中治療室にいる"』

その声には、普段、感情らしい感情を見せないこのボスにはらしくもなく、『怒り』が混じっていた。












…to be continud




[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep5.5
Name: kururu◆67c327ea ID:3cf690d4
Date: 2009/12/22 00:09
感想を頂きまして、ありがとうございます。続きを投稿します。

ご指摘頂いたとおり、やはり前後関係がまずいことになっておりますので、この話はep5.5として修正させて頂きます><(ついでにちょこっと加筆修正)。
















その日の朝、山田次郎(ヤマダ・ジロウ)はハーレムのイーストエンドを足早に歩いていた。

朝といっても、それはヤマダの感覚で朝というだけの話で、すでに日は中天に差し掛かっている。

向かいのビルの隙間から、狭い路地のアスファルトが凍って白く輝いていた。冬のヨークシンは厚い雲に覆われているのが常だが、珍しくいい天気だった。

医院は基本的にヤマダ一人、看護士も事務員もいない。どんな時間だろうが看板に『CLOSED』と出しておけば、基本的には済んでしまう。時折、急患が来るのを除けば。

本業だけでは儲からないので、時折怪しいバイトを受けることもある。実際、一昨日までのバイトが期限内に終わらず、結局徹夜した後で昨日は一日寝ていた。おかげで朝になってもまだ眠かった。相手が単なるサンピンならやっつけ仕事でもいいのだが、ボーモント絡みの仕事だと気が抜けない。まあ、その分金払いは抜群に良いが。

ハーレムにある医院より歩いて数分、街を分ける大河に架かった高架橋、小さな食堂や立ち飲み屋が軒を連ねるガード下の一画に、その店はあった。

製麺会社の名前を染め抜いた暖簾を潜り、アルミの引き戸を開けると狭いカウンターが現れる。三畳間にも満たない狭い店、開けはなった戸から冷たい寒風が吹き込んだ。

「オヤジ、いつものだ」

捻り鉢巻きに坊主頭、ムッツリと寡黙なオヤジを絵に描いたような店主。戸口のヤマダには目もくれず、ただ傍らの競馬新聞に目を通していたのだが、注文を受けると無言で蕎麦を湯に放り込んだ。

よほど急ぎの仕事でもない限り、ヤマダは朝飯をこの店で食っていた。気が向けば三食蕎麦だけという日もある。オヤジの方も心得たもので、ヤマダの好物の食材だけは欠かしたことがなかった。このオヤジにはちょっとした貸しがあり、ヤマダはこの店では無理が利くのだ。

一介の立ち食いそば屋の店主に、ヤクザな医者のヤマダに握られるどんな弱みがあるのかはさておき、蕎麦をゆであげるオヤジの手つきは完全に熟練の蕎麦屋のそれだった。

程なく蕎麦が上がり、湯気の立つ丼をヤマダの前に置くと、オヤジは再び新聞を広げた。客には目もくれない。だが、ヤマダは気にしなかった。すでにヤマダの全神経は、目の前の丼にのみ傾けられていたのだ。

絶妙にコシの利いた十割の手打ちに、鰹節の利いた秘伝の汁。そして、その上に浮かべられたのは、カラリと揚がった竹輪天。

散りばめられた青のりの色味も美しく、"つゆ"に浸して口中に入れれば、サクリとした歯触りと共に柔らかい竹輪の弾力が心地よく歯を押し返し、その後にジンワリと出汁を吸った天ぷらのうま味が舌の上に広がるのである。

これこそ、まさに至高の竹輪天蕎麦。

かぐわしい新蕎麦の香りがヤマダの鼻腔を刺激した。ちなみに、ネギは抜いてある。

ヤマダは真新しい割り箸を割り、七味唐辛子を親の敵のように振りかけると、一気に蕎麦を手繰りだした。

カウンターに対しては真っ正面に向かずにおよそ28度の角度を持って斜めに構え、重心は外側の足に乗せて他方をリラックスさせる。丼の位置は高からず低からず、麺をすするにつけて胡蝶の舞うが如くに胸元をズズッと上下する。見事なほどに、隙がない。

しばし、ズバズバと麺をすすり込む心地よい音だけが店中に響き渡った。咀嚼もスピーディに、最後の一本を汁と共に胃に流し込み、食道を焼きながら熱と辛さが胃袋に広がるのをヤマダは楽しんだ。

丼を差し出されてから食い終わるまで、およそ一分。

「ごっそさん」

爪楊枝で歯に挟まった七味のカスをせせりながら、ヤマダは店を後にした。後に残されたカウンターには、350ジェニー分の硬貨が光っていた。





気の利いた朝飯をすませて店を出ると、ヤマダは食後の一服をつけた。懐から安い紙巻きを取り出し、100円ライターで火をつける。

医者がを煙草呑むのは職業倫理が云々と、学生時代に禿げた教授が謳っていたが、その後最初に就職した大学病院では勤務医のほぼ全員が喫煙していた。それだけストレスの多い職場だ。ヤマダも直ぐにこの味を覚え、やがて止められなくなった。

白い煙を吐きながら、何とはなしに真昼の川辺を見渡した。

今日のヨークシンは真冬には珍しい快晴。昨夜から雲一つなかったので、朝方はいつもより気温が下がっている。ヤマダの口から白い息が漏れた。

同じアップタウンでも、ここらはヤマダの住まうハーレムからセントラルパークを挟んで東側にあり、ちょっと雰囲気が違う。高級ブランドショップが軒を連ねるアベニューのような個性の強い大通りは一つもないが、古い商店と心落ちつく自然公園の密集する住宅街だ。

目の前には、ヨークシンを挟む大河が悠々と流れていた。

日光を反射し、いつもは灰暗い河も白く輝いていて、美しくすらある。昼間の景色もなかなか趣があるのだが、何よりここから見る夕日は最高だった。まるで映画のワンシーンのように、川面や木々が静かにオレンジ色の光に包まれて、何もかもが美しく見えるのだ。それが、故郷を飛び出て放浪医として無茶をやっていたヤマダが、ここを住処に決めた理由の一つであった。

雪を被った針葉樹が連なるリバー・サイド・パーク、遊歩道を散策する人々、鴨や白鳥が泳ぐ美しい河面、そして、白鳥の足をむんずと掴み、流れる冷水から身を引き上げるオカマが一匹・・・・・・・・・オカマ?!!

唐突に現れた不審者に、ヤマダは肝を潰した。

「テ、テツヤ?!」

その顔には、見覚えが在りすぎた。

「ア、アハハ・・ジ、ジロー、ちゃん、あ、なた、が・・・てんし、にみえ、る、わ」

煙草を放りだして慌てて駆け寄り、その腕に抱えていた小柄な少女を受け取る。金髪に浅黒い肌をした子供、確か、アンヘルとか言うゴドー氏の育てた能力者だ。

少女の意識はない。冷水に浸かりすぎたためだろう、全身が冷え切っている。何より、腹部の傷が酷かった。刃物で刺し貫かれたかのような傷に、ピンときた。恐らく、このオカマの能力だ。あまりに滑らかな傷口がその証拠。

軽く臭いを嗅ぐと、血液臭に混じって僅かに異臭がする。内臓までやられているらしい。

「こ、このこ、おね、が、い」

即座に、ヤマダは白衣の下から真新しい止血帯と応急セットを取り出した。

どちらもごつい救急箱に入っていて、とても白衣の下に収まるサイズには見えないが、そのことに突っ込む余裕のある者はその場にはいなかった。

少女の衣服を捲り上げ、まず患部を消毒した。傷口の大きさを確かめ、柔らかい腹部の傷痕に瞬く間に包帯を巻いて止血を完了させる。そのスピードは、蕎麦を手繰っていた手つきよりも早い。

さらに、自らのオーラを掌に集中し、患部に当てた。そこからオーラを送り込み、少女の自然治癒力を強化する。それが、念能力者としてのヤマダの能力だった。

ヤマダがオーラを送り込んだ部位では、瞬く間に血管の損傷が塞がり、毛細血管の肥大化が始まった。傷口の細胞が活性化し、血中のフィブリノーゲンが結合、線維束の形成を促す。タンパク質の合成を行う線維芽細胞も猛スピードで活動しだしていた。

現代医学は偉大である。あらゆる薬、医療器具、そして治療法が日進月歩で開発されている。だが、どのような医療でも、最終的には患者の体力、自然治癒力がモノを言う。もとより人体は、自己治癒に必要なさまざまな物質を体内で分泌している。医薬品として認知されている人工物質と類似の物質が、もともと体内で自然に分泌されていることが発見されたこともある。

ヤマダの能力は、自らのオーラを他者に分け与えることで、治癒力そのものを強制的に底上げすることが出来た。

本来ならば、ヤマダの専門分野である外科治療と併用しながら、ピンポイントで組織を再生させるのがこの能力のミソだ。患者の体に負担をかけずに、執刀の成功率を劇的に跳ね上げることが出来る。

だが、今はとにかく傷口を塞ぐことに傾注していた。

「・・・とりあえず、訳は後で聞くからな、テツヤ」

自分で殺しかけて、自分で助けようと言うのはどういうことだろう。

ヤマダは治療の手を止めずに訝しんだ。このオカマの性格は知り尽くしているのだ。

「に、臭い、消す、の、のに、必死だったのよ。あ、あのイヌコロ、八つ裂きに、して、やる」

馴染みのオカマは青ざめてガタガタ震えていた。

だが、顔色が悪いのは寒さのせいばかりではない。いつもより一段と派手なボディコンが、赤黒く変色している。

少女の傷も酷いが、この男の傷はそれ以上だった。

左腕には骨が見えるほどの穴が空いていた。傷口の周囲が焦げていて、大型銃器で出来た傷に近い。だが、何より酷いのは腹部だ。何かに食いちぎられたかのように、ギザギザの痕が脇腹の前後に出来ていた。恐らく、貫通している。出血も酷い。こんな傷で、よくも零度近い水の中を動けたものだ。

「い、・・・いそい、で、よ。じゃ、ない、と、あたし、し、ぬ・・・」

直後、倒れたオカマに同様の処置を行うと、ヤマダは二人を抱えて全速力で自宅に走った。



















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep7


















深い闇の中、オレはゴドーと向き合っていた。

「あんた、何がしたかったんだ」

寡黙な男は、表情を一切崩すことなく、その問いにも答えない。

鋭く深みのある灰色の瞳が、ただオレの顔を睨み据えていた。

「何故、オレを拾った。何故、オレに戦い方を教えた」

あの雪の日、彼を失うときまで、決して聞くことが出来なかった疑問。その答えは、すでに失われてしまった。

ゴドーの顔が、別の人間のモノに変わる。

血走った目、青白い肌、気味の悪い薄笑いを浮かべた白い唇。見覚えのある顔だ。

それは、ゴドーを殺した男、ユーリーだった。

『まさしく天才か。大尉がほれ込むのも、無理なかったわけだ』

キチ外のような笑顔を浮かべると、顔は再び変化した。

そして、バトゥの琥珀色の瞳が、向けられていた。

『旦那が死んだなら、その借りは娘のあんたに返す』

顔は再度流転し、次に現れたのは酒場の女亭主、ミツリだった。

『あなたがゴドーさんみたいに生きていくというのなら、私は止めないわ。このご時勢、人殺しを生業にする人はいくらでもいるもの』

冷ややかな口調でそう言うと、最後に金髪の女の顔に変化した。

『念だよ、あの男が自分で言ってただろ。お前に念能力があったから、あいつはお前を拾って手懐けたんだ。それ以上でも以下でもない』

呆れたように、鼻を鳴らす。

『お前だって、今更、どうでもいいんだろう、あの男の事なんて。死ねば人間は消えてしまう、母さんのように。お前は、代わりを欲しているだけだ。人恋しくなったから、この街に来ただけなんだ』

それは、オレ自身の、顔。

『餓鬼なんだよ、自分から他人を拒絶してるくせに、誰よりも優しくされたがってる。母さん、ゴドー、そして今はバトゥやミツリという連中に期待している。親身になってくれる人間にはすぐに尻尾を振って懐きやがる。結局、誰だっていいのさ』

薄い唇に、くくっと、下卑た笑みが浮かんだ。

「違う!オレは、本当に、あの人のことが知りたくて・・・!」

何故か、ズキリと胸に痛みを覚えて、気がつくと叫んでいた。

『違わないよ。そのくせ、妙に臆病なんだ。何が、"ありがたいけど、仕事の邪魔になりたくないから"、だよ。ずっと一緒にいると、相手の嫌なものまで見てしまいそうで怖い。だから、逃げただけだろ。自分から離れる、距離を取る、思い出の中に逃避する。思い出は変化しないから、何も言わないから、美しいだけだから』

胸を抉る言葉が痛い。

思わず、耳を押さえていた。

『それとも、闘争の臭いにつられて、この街に来たのかな』

青い瞳に、狂気が浮かんだ。

『確かに、この街は屑どもの集う蠱毒の壺だ。ここにいれば、いっぱい、いっぱい殺せる!』

気持ち悪い・・・嫌だ、止めて!見せないで!

『正直になれよ!楽しいんだろう、暴力を振るうのが。好きなんだろう、爆破が、殺しが、他人を踏みにじるのが、さ!』

「違う!楽しんでなんかいない!」

母さんや、ゴドーを奪った連中と一緒にするな!!

『あの男もさ、きっとお前と一緒だったんだよ。人を殺すのがだーい好きだったんだ。だって、そうでもなけりゃ』

「違う!あいつは、ゴドーはそんなんじゃない!!」

だが、声は残酷に告げた。

『"殺し屋"なんて、呼ばれないだろう』

「違う!!!」











PiPiPiPiPi………!!!!

「おわりだ、電気外すぞ」

低い男性の声で、アンヘルはまどろみから目覚めた。

下着の上に軽く羽織っただけの病院服が捲られ、ひんやりとした空気が入り込むと共に、全身につけられたいくつもの電極が外されていく。医者特有のやわらかな手が、背中から足先までの広い範囲を指圧しながらまさぐり、筋肉の状態を確かめた。

そこで、ようやくアンヘルの脳は働きだした。ツン、と病室独特の薬品の臭いが鼻腔を刺激する。

柔らかいベッドに、清潔なシーツ。床は清掃が行き届いていて塵一つ無く、レースのカーテンが卸された窓からは、うっすらと午後の光が漏れていた。シュウシュウと音を立てて加湿器が動いている。ヤマダの医院の診察室だ。

治療を受けながら、うたた寝をしていたようだった。夢を見ていたらしい。内容はよく覚えてはいないが、ろくな夢ではなかったようだ。頬に、涙の跡があった。

体力を消耗し、精神的に追いつめられると、どんな兵士もミスを侵す。特に負傷した際には精神的にも疲労する。悪夢を見るのは、分かりやすい信号の一つ。かつて、彼女に戦う術を教えた男はそう言った。

もちろん対処法も教えられている。耐えろ、慣れろ。だから、彼女は過酷な訓練に耐えた。これまでも、そして、これからも。

「よく寝ていたな。そのまま逝ってしまいそうだった、少しドキッとしたぞ」

その手のジョークを医者が言うと笑えない。

眠りから目覚めたばかりの筋肉には力が入らず、やっとの思いで俯せの状態から起きあがる。オーラも肉体も限界まで酷使したので、疲労感が酷かった。

加えて、刺された脇腹にもまだ違和感があった。だが、あれほど酷かった傷はほぼ完治していて、微かな痕跡しか残っていない。この医師の手にかかっていなければ、確実に死んでいた。

「また、ずいぶん無茶をやったもんだ。腹の傷は塞いだが、それ以外にも肉離れに筋肉疲労、全身の至る所が痛んでいる」

皮肉気な笑みを見せる男の顔を、極力見ないようにつとめながら、アンヘルはベッドの上に体を起こした。

「強化系の修行が足りないッてんだろ。分かってるよ、でもそのくらいの無茶が必要だったんだ」

未熟、未熟、未熟。こういう形で、改めて目の前に突きつけられると情けなくなってくる。アンヘルは、軽く自信を喪失していた。顔にも態度にも、一切出さなかったが。

しばし、まどろみの余韻にひたりたいが、治療はこれで終わりではなかった。

「ぼさっとしとらんで、とっととこっちに来い」

鋭い男の声に、アンヘルはのそりと亀のように動き出した。

「・・・手柔らかに頼むよ、先生」

白衣を羽織った東洋人系の顔立ちをした若い男。黒い髪を短く刈り込み、がっしりとした体つきをしている。見た目には医者というより、殺し屋か何かのようだ。

この医師と、まともに話をしたのは初めてだったが、恐ろしくぶっきらぼうで、おまけに口も悪いことが分かった。

「死にかけの体にデタラメをさせたツケをチャラにしてやろうというんだ。痛くなくては、ありがたみがあるまい」

医者と言うには鋭すぎる目つきでアンヘルを睨み据え、診療台にあごをしゃくった。

アンヘルは聞こえないようにため息をつき、素直に横になった。医者と天候には逆らわないのが彼女の信条だ。

ヤマダは俯せに台に寝そべった彼女の全身のまさぐり、細身の外見からは想像できない強い力で揉みほぐしていく。

「だいぶ筋に歪みが出ている。だが、このくらいなら自然治癒に任せた方がいい。早く治りたかったら、出来るだけ絶の状態でいろよ」

アンヘルは悲鳴をかみ殺した。あまりの痛みに返事をするどころではない。

「跳んだり跳ねたり、止めろと言っても聞く性分ではないだろうが、それならそれで体に負担をかけないやり方を覚えるなりしないと、本当にぽっくり逝っても俺は知らんぞ」

オレは今すぐ逝きそうだよ、という皮肉は口中で消えた。

ヤマダの手は機械のような正確さで、情け容赦なく筋肉という筋肉を揉みほぐし、ツボを刺激し、経絡の歪みを整えた。精孔を活性化させ、自然治癒力を無理なく増進させる。アンヘルはその間、ひたすら悲鳴をかみ殺して痛みに耐えた。

10分もすると全身から滝のような汗が噴き出していた。新陳代謝が活性化して、色素の濃い皮膚も桜色に染まる。

やがて、ヤマダの手がぽんぽんと背筋から足先を軽くたたき出すと、アンヘルはどっと力を抜いた。これが終了の合図なのだ。

「まあ、こんなもんだろう。針は無しだ。これ以上やると逆効果だからな」

そう言って、ヤマダは荒療治を終了させた。

「あ、ありがとう、ござい、ました」

蚊の泣くような声でそういうのが精一杯だった。

全身の筋肉が脱力していて、すぐには体を動かせそうにない。だが、しばらくすると嘘のように疲労が消え、けだるい心地よさに代わる。そして、驚くほど体が軽くなる。この男、口は悪いが腕は確かなのだ。

「腹の方はほぼ完治した。切り口が極めて滑らかだったから、繋げるのも容易だったんだ。打撲と擦過傷も、あらかた癒した。ただ、筋肉疲労の方は無理に治そうとすると歪みが出る。しばらくは、おとなしく養生しているんだな。金払えば、もう退院してもいい」

とたんに、ヤマダは電卓と請求書を取り出した。

治療を施した患者というのは、すでに患者であって患者ではない。この男にとっては金蔓である。ただし、ヤマダにとっては例外なく患者=金蔓となるので、つまるところ単なる金蔓と言い換えてもいい。ヤマダ本人にとっては、その性格が災いして友人と言うものがほぼ皆無であることなど、実に些細なことでしかなかった。

「で、いくらいくらいになるんだ」

この男が金に執着する性格だというのは、短い付き合いのアンヘルにもよく分かっていた。

もとより金にはあまり興味のないアンヘルだが、特別な技術には、それに見合う報酬を支払うべきだと考えている。それが自身の命を救ったのなら、なおのこと。

「一応確認だが、保険証の類はもってないよな」

ヤマダの質問に、アンヘルは真顔で頷いた。

生まれてこの方、そんなものは見たことも無い。もっとも、それは生まれる前からだったが。

「となると、全額実費払いになるから、こんなもんだ」

恐るべきスピートで電卓を叩き、ヤマダがはじき出した金額は、医療業界の知識など皆無のアンヘルにとっても、そう法外な値段というわけではなかった。

高いことは高いが、あれほどの腹の傷を一昼夜で復元したほどの手術の腕を鑑みれば、安い。と言うより、一般の医療機関にかかっても、ほぼ同程度の値段になるのではないだろうか。

「なんつーか、ぶっちゃけ意外だ。普通の値段に見える」

思わず口に出してしまったアンヘルに、ヤマダは軽く鼻を鳴らした。

「普通だよ。口止め料抜きならそんなもんだ。あんた、別に指名手配犯だの賞金首だのじゃないだろ。なら、そんなもんだ。それよか、何か身分証明書になるものはないのか。書類が書きにくい」

最近は役人がうるさいのだ、と嘯くヤマダにアンヘルは難しい顔をして懐をまさぐっていたのだが、ふと一枚のカードを取り出した。あの日の朝、ミツリに渡された社員証、BSSのカードだった。

「それがあるなら早く言えよ。ボーモントの社員なら、うちは基本タダだ。代金は後で会社がまとめて払う契約になってる」

ヤマダはぶつくさ言いながら、ペンを放り出した。アンヘルの手からカードを取り上げ、傍らの情報端末に繋がれたカードリーダーに通す。

「・・・すごいな。上限無しのフルコースか」

ヤマダが何やら感心していた時、不意に隣のベッドのカーテンが開かれた。

「ちょっとジローちゃん、この薬苦すぎ、甘いシロップ混ぜてよ」

顔をのぞかせたのは、一人のオカマ。

白い肌に長い黒髪、ほお骨の突き出たどこかハ虫類じみた形相をしている。あの朝、唐突にアンヘルに襲いかかってきた、あの通り魔だった。

その身を包んでいるのはあの派手なボディコンではなく、アンヘルと同じ病院服だ。点滴を打たれながらベッドに気怠げに横たわっていて、もとより不健康そうだった顔色はさらに悪く、白い包帯にまみれた姿は病人にしか見えない。だが、まるで大型肉食獣か何かが寝そべっているかのような、妙な迫力があった。

瀕死のアンヘルを山田の医院に担ぎ込んだのは、この男だという。

アンヘルが警戒感も露わに、無言で睨み付けると、軽くウィンクをされた。

気色の悪い笑みを浮かべた顔を見るに付け、胃の辺りがムカムカと熱を持ってくるのをアンヘルは感じていた。恐らく、それが殺意というものなのだろう。

「テツヤ、子供じゃねえんだから、飲め。そして寝ろ。本当なら今頃墓の下にいてもおかしくないくらいの傷だったんだ」

ヤマダはオカマの顔を睨みながらそう言った。心なしか、ぶっきらぼうな口調に磨きがかかっている。

「あら、心配してくれるの」

女の仕草で髪をかきあげて流し目。見慣れているのか、ヤマダの表情は変わらない。

「馬鹿。腹の傷も見てくれは塞がってるがな、中身はまだ酷いんだ。まったく、何でこれで死ななかったのか、教えて欲しいくらいだよ。言っておくが、酒もドラッグもしばらく禁止だ。死にたいなら好きにしろ」

「あら、つれないわねえ」

アンヘルは二人のやりとりを黙って見守っていた。

意識を取り戻し、このオカマの顔を見たとき、アンヘルは躊躇うことなく寝たきりの男に襲いかかり、殺そうとした。

だが、出来なかった。彼女の喉もとにメスを突きつけながら、ヤマダがそれを止めた。

曰く、『俺のところにいる間は、どっちもただの患者だ。俗世のイザコザは持ち込まない。殺し合いも無し。やりたきゃ、金払って退院してからやれ。それがここのルールだ。オーライ?』

どうやらこのオカマ、ヤマダとは浅からぬ関係らしい。

ヤクザな医者のヤマダと、この変態的通り魔にどんな関係があるのか、正直、想像も出来ない。まさか肉体関係じゃあるまいな、とアンヘルは緊張も新たにヤマダの様子を伺った。

微妙に生暖かい視線を向ける少女を余所に、ヤマダはオカマの診察を始めた。





「腕の包帯取るぞ」

「ん」

ヤマダが左腕の包帯を取ると、傷痕にはすでに薄ピンクの肉が盛り上がり、薄皮が傷全体を覆っていた。一昼夜でここまで復元できたが、当初は抉られたように焼けこげながら陥没していたのだ。

およそまっとうな原因でつけられた傷ではない。どうすればこんな傷ができるのか、別にヤマダは知りたくも無かったが、恐らくこれをやったのは、こちらを睨んでいる少女だ。

体を覆うオーラから、まだ少女が念に慣れていないことがヤマダには一目で分かった。だが、それでも彼の知る限り戦闘能力だけなら屈指の実力を持つこの男に、ここまでの深手を負わせたわけだ。何とも末恐ろしい。

軽く動かすように指示すると、オカマは軽く眉をしかめながらピクピクと痙攣するように指を動かした。神経はまだ上手く繋がっていないようだ。

「今の時点で動かせているなら、問題ないだろう。完治まで、ざっと2、3週間ってとこだな」

「ジローちゃん、大事な商売道具なのよ。きっちり治してね」

ヤマダは目の前の患者の顔をまじまじと見つめた。

黒い髪に、黒い瞳。いつもは化粧でごまかしているが、肌の色合いからもヤマダと同じ黄色人種であることが分かる。

今はこんな状態になっているが、これでも古い友人だった。この街に移り住んでから再開し、その変貌ぶりに驚愕したのは、そう遠い昔というわけではない。

嘆息する。

向こうもこっちがこんな稼業に就いているのを不思議がっていたが、この男の変貌ぶりに比べれば、たいしたことはないだろう。

そこで、ヤマダは声を潜めると、不信感丸出しの表情でこちらを眺めている少女に顎をしゃくった。

「・・・お前、趣味変わったのか。てっきりお前は真性のSだと思っていたんだが」

「アタシもそう思ってたんだけどねー。ほら、あの娘の氷みたいな青い瞳、あれでゴミでも見るみたいに見下されたり罵られると、もうたまんないくらいゾクゾクきちゃうんだな、これが。ん~、ジャストミート」

恍惚の表情を浮かべたオカマはクネクネと体をくねらせ、唇から熱い吐息を漏らした。

「・・・まあ、ほどほどにしておくことだ」

額に汗を浮かべたヤマダには、言うべき言葉が見つからなかった。

ちなみに、息を潜めて顔を寄せ合い、ひそひそ話に興じる男とオカマは正直怪しすぎたので、端で見ていた少女が自身の下世話な予想を確信にまで高めていたことなど、神ならぬヤマダにはもちろん想像も出来なかった。

少女の視線を余所に、ヤマダは腕の傷にもオーラを送り込み、神経系の再生を促すと、包帯を張り替えた。




粛々と治療を続けるヤマダを余所に、暇をもてあましたのか、オカマはこちらを睨み付けている少女に感心を移した。

「ねえ、そんな睨まないでよ、感じちゃうじゃない」

相も変わらぬふざけた調子のオカマに、口をきくのも不愉快だったのでアンヘルは黙っていた。ただし、いつでも臨戦態勢に入れるように身構えている。

「あなたとヤル気はもうないのよ。今は、他に殺さなくちゃいけない野郎が出来たから、そっちが優先」

警戒感を強めた少女に、オカマは肩をすくめた。

「・・・そもそも、なんでオレを襲った」

「あら、知んない?あんたの首にゃ賞金掛かってんだよ、お嬢ちゃん。掛けたのはラチャダ通りの豚公で、生け捕りオンリーで1億ジェニー。アタシもお仕事だったんだけどね、さっきまでは」

オカマは、そういうとヤマダの机においてあった携帯端末を操作した。程なく、ディスプレイに鶏や豚の骸骨が歩き回る趣味の悪いデザインのサイトが表示される。

『バルバロイ』なる懸賞金サイトのようだが、そこにはバトゥやミツリをはじめとした複数人の顔写真に加え、凄まじく凶悪な目つきをした金髪の少女、則ちアンヘル自身の顔が乗せられていた。写真の下には各々の大まかな特徴と、金額が表示されている。

「ほら、これ。ボーモント組の主要メンバー全員に賞金が掛けられてるでしょ。これ見たフリーの連中も押しかけてくるよ、きっと。ちなみに豚公の殺人代行組合、通称『バルバロイ』に登録している殺し屋には前金プラス成功報酬が1億追加され・・・・・・って何よこれ!あの豚公、アタシにまで賞金掛けやがったな!!」

賞金首リストの最新情報に、歯をむき出しにして極悪な笑みを見せる、オカマの写真が表示されていた。金額は、3億ジェニー。

「やられた、畜生、ぶっ殺してやる!」

「殺し屋稼業も大変だなあ、おい」

「・・・ジローちゃん、あんたも他人事じゃねえんだよ。これ!」

面白げにニヤニヤ見守っていたヤマダに、オカマは画面の一画を指し示した。

そこには、傲岸不遜な表情で他者を見下すヤマダの顔。金額は、2億ジェニー。

「なんだと?!・・・おのれ、人畜無害、品行方正、医師の鏡のような俺にまでこのような非道な仕打ち!豚め、以前ちぎれた耳と両手足を繋いでやった恩を忘れおって!」

それを見て急に発憤するヤマダ。

三者三様に事態を飲み込んでいる最中、不意に傍らの受話器が無骨な着信音を響かせた。

「はい、こちらヤマダ医院、今取り込み中だ。後でかけな・・・・・・あ、ああ、いや、マダム・ボーモント、もちろん、あんたの依頼なら最優先で引き受けさせて貰うが・・・何、カルロ氏が?!」

ヤマダの顔から、表情が消えた。


















同時刻、ボーモント組傘下『バー・ミツリ』前。



辺り一帯、瓦礫の山だった。

横転し、スクラップとなりはてた自動車の群れ、数十両。

めくれあがり、所々で縮れて粉々になっているアスファルトの残骸多数。

辺りの雑居ビルの窓ガラスは例外なく砕け散り、通りの左右に連なる街灯にいたっては飴細工のようにひしゃげていた。

そして、瓦礫の中心で倒れ伏す、銃を手にした数十名の男達。

その前で腕を組み、極めて不機嫌そうな面持ちで惨状を眺めやる、和装の美女が一人。

つまるところ、この大惨事の全ては彼女の手で引き起こされたものだった。

不意になり出すメロディ(こんにちは、あかちゃん♪)、その女、ミツリ・キョーコは豊かな胸の谷間から携帯電話を取り出すと、無言で耳に当てた。

『やあ、ミツリ、災難だったねえ。ま、君なら世界の終わりが来ても生きてそうだけど。一応、ご無事かにゃあ?』

「ええ、大事在りませんわ、ボス。息子にも店にも。ただ、前の通りがちょっとばかりズタズタになりまして、しばらく休業することになりそうです」

怒りを押し殺した声だった。

『ハハァ、久々に歌ったんだね、"鳴き女(バンシー)"ミツリ』

「・・・私を、その名で、呼ばないで、下さい。不快です」

一言一言、言い聞かせるようにミツリは口にした。顔にも不快感がにじみ出ていた。

『ごめんごめん♪それより、襲われたのは君の所だけじゃないんだ。銀行とボクの屋敷にも物騒な連中が押しかけててね、今、下でベノアとハンプティが対応中だ』

謝罪の意志など欠片も感じられない気楽な口調。だが、ボスは同じ調子でなんて事のないように、現在進行形でカチコミをカマされているという。まあ、さほど大事になってはいないのだろう。

ミツリがあしらった連中の中にも、念を使えるものはいなかった。同程度の戦力が差し向けられているとすれば、確かにたいしたことではない。重火器で武装した数十名の常人というのも、使いどころを間違いさえしなければ、立派な脅威ではある。だが、単純に正面からの力押しでは、怖くも何ともない。

ミッドタウンのボーモントの屋敷には、ボス本人を除いても強力な念能力者二人によって守られている。店を任されているミツリにとっても、この程度の数は脅威ではない。まあ、周囲に巻き込んで困る人間がいなかったことも幸いした。ミツリの能力は、問答無用で味方を巻き込むという欠点さえなければ、多対一では無類の強さを発揮する。

『タイミングが悪かった、バトゥ君を送り出した直後だったからネ。ま、今回は"BSS"にお仕事して貰うとしよう。こういう時のための連中だ。何時までもバトゥ君頼りじゃ下も育たない。まったく、君が現役復帰してくれりゃ面倒は何もないのに、サ♪産休の後は育児休暇、なんて理解ある雇用主なんだろうね、ボクは』

相も変わらず、無駄に話の長い老人だと、ミツリは思った。

「あら、私としてはこのまま穏やかな隠退生活に突入できると思ってたんですのよ」

『勘弁してくれ。バトゥ君も使える男だが、いかんせん、一度スイッチが入ると見境がない。彼の能力をそうポンポン使われては街が廃墟になっちまう。その点、ゴドー君はデリケートなミッションを難なくクリアしてくれる得難い人材だったねェ』

確かに、普段はマフィアにしては温厚すぎるミツリの旦那が、本気で激怒したら誰にも止められない(妻であるミツリ以外には、だが)。

純粋な破壊力だけなら、夫に比類する能力者は世界でも数えるほどしかいないだろう。

『ま、そんなことよりも、戦争準備だ。ここまで舐めた真似をされて、黙ってる程気が長くないんだヨ、ボクは』

言葉の端にぎらつくものを混ぜながら、ボスはそう言った。

「了解しました、グランマ」

その命令を、ミツリは酷薄な笑みを浮かべながら受諾した。







…to be continued



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep6
Name: kururu◆67c327ea ID:3cf690d4
Date: 2009/12/11 01:05
感想を頂きまして、ありがとうございます。今回はちょっと短いですが、キリがいいので続きを投下します。

指摘頂いた点について修正しました。キリスト云々については、原作の某団長と某筋肉の会話から在りかなぁとの判断です。ご指摘ありがとうございます。


追伸
EGO‐WRAPPINは最高です。














その日も、ジャンカルロ・ボッシは誰よりも早く出社した。

馴染みの守衛に挨拶してオフィス入ると、今日の業務を確認する。

まずは朝会での連絡事項の整理だ。

朝、仕事をはじめる前に朝会をする会社や商店が多いようであるが、この朝会をただ惰性で行ってはいけない。

経営が順調にのび、世間の評判もよくなる。多くの企業から金を貸してくれと声がかかり、事業もたやすくできる。そうなってくると、全員が真剣であった朝会も何となく気がゆるみ、形だけに終わってしまいがちである。社員も従業員も一番注意せねばならないのはこうした時期ではないかとカルロは考えている。

だからこそ、コンプライアンスの徹底、スケジュールの確認、その他庶務的な事項の確認・連絡が重要だ。何はともあれホウ・レン・ソウ。その徹底が良い仕事を産む。

従業員の一人一人の顔を見るのも大事なことだ。

暗い顔をしていないかどうか、つまり厄介な業務を抱えこんでいないかどうかに気を配らなければならない。部下の失敗は早めに見つけてフォローするのが何より大事だ。

部下のミスにただ怒鳴るだけの上司など論外。民間企業の至上命題は利潤の追求である。どんな部下でもその最大効率を引き出し、利潤を生むよう使いこなす。甘やかすのは論外だが、時には嘘や煽ても方便。それが出来なければ管理職として、一般職とは比べものにならない給与を受け取る資格はない。

カルロの業務はそれだけではなかった。

管理職筆頭の支社長が役に立たない以上(役に立たないと言うよりは、全く畑が違うだけなのだが)、最終的な業務の責任はすべて次長のカルロにかかってくる。

表稼業の他に、裏の仕事もカルロの領分なのだ。

闇不動産の査定や管理、世界中の銀行に設置された架空口座を駆使したマネーロンダリングに、闇取引された有価証券の売却。それに加えて、時折ボスを通して持ち込まれる怪しい物品(もちろん盗品だ)の目利きと売買の仲立ちもカルロの重要な仕事の一つだった。

特に、最近カルロを悩ませているのが、先月持ち込まれた大量の『緋の目』であった。

『緋の目』はルクソ地方の自治区に済む少数民族クルタ族の、『眼球』である。クルタ族は興奮状態になると、特殊な分泌物によって瞳孔が緋色に染まる。そして、その状態のまま死亡すると緋色が定着して残る。これが通称『緋の目』。

独特の光彩を持つ緋色は世界三大美色の一つに数えられ、闇ルートでは高値で取引される。しかも、クルタ族には何故か美形が多く、女性や幼い子供等、死体はもちろん、生きている状態でも価値が高く、熱狂的なコレクターもいる。

ただし、高額で取引されるため利潤も多いが、人身売買(もしくは人体部品の取引)である以上、表だった売買はもちろん違法だ。それも人身売買は全世界共通で最高刑が適用されるのでリスクが高い。

おまけに市場が狭くて売りにくく、足もつきやすい。膨大な数を誇るボーモントの裏顧客リストにも、人体収集家は多くはなかった。

ただでさえ扱いにくい商品の上に、持ち込まれた数はなんと300対以上。恐らく、1年ほど前に世間を騒がせたクルタ族の大虐殺、その被害者だろう。

このような商品を扱うこと自体、カルロに言わせれば論外だった。裏稼業といっても、カルロはこういうモノに嫌悪感を抱くだけの倫理観は持っている。

急ぎの仕事ではないというので、少しづつ時期を見計らって放出するしかないが、あの大量のホルマリン漬けの眼球と長時間付き合わなければならないかと思うと気が滅入る。彼らの恨み辛み、憎悪がカルロにまで襲いかかってくるような気がして、非科学的な悪寒に襲われるのだ。

それに、頭部のついたものもあった。幼い子供のものだ。それを見るたびに義憤に駆られるのは、恐らく年をとったせいだろう。

ボスの話によれば、この『緋の目』はいつもの得意客から持ち込まれたものだという。ボスもあまり気乗りしない様子だったが、今後もこういう商品を続けて持ち込むようなら、関係も考え直さなくてはならないだろう。いつもオールバックに、逆十字の悪趣味なジャケットを着た、薄気味悪い若造の姿が思い起こされた。

こんな火遊びは、カルロがもっと上に登ったら必ず止めさせてやる。

時代は変わっている。ボーモントも裏稼業からは足を洗って、健全な企業として堂々と稼ぐべきなのだ。それがカルロの信念だった。

カルロも若い頃は無茶をした。

現在、社会問題になっている消費者金融、そんなものが可愛く思えるような阿漕な高利で金を転がしていた。

移民二世のカルロには、他に職はなかった。所詮、移民がこの国でできる商売は、金貸し、豚飼い、下水の掃除夫。汚い仕事しか回ってこない。そのくせ汚れ仕事をする連中だと、どこにいっても見下した眼で見られた。そんな世間に反発するように、カルロは高利で金を貸し付け、強引に取り立てて金を稼ぎ続けた。

そんなある日、債務者の一人に後ろから撃たれた。幸い弾は脇を貫通したが、倒れて助けを求める彼に向けられたのは、白い視線だけだった。同情など欠片もない。どれほど人に恨まれていたのか思い知った。

そんな彼をひろってくれたのが、当時から幼女の姿をしていた組織のボスだ。

ボスはカルロが回復すると、まだ小さな場末の木造建築だったボーモント銀行に連れて行って、窓口に立たせた。

口の利き方一つ満足に出来ない小僧だったカルロは、退屈で面倒くさくて、何度も逃げ出そうとした。だが、ボスへの恩義がカルロをつなぎ止めた。日々、銀行の窓口に立ち、客の話を聞き、預金を受け取り、貸し入れの相談に乗った。

金を借りに来るのは貧しい移民が多かった。他の銀行で門前払いにあった者達が、最後に訪れるのがボーモント銀行だ。社主のボーモント家こそ、同じ移民の一族なのだ。我等がボーモント銀行だけは、移民達を差別せずに客として扱い、時に僅かな利息で金を貸し、職を斡旋してやることもあった。

もとより金のない移民達が顧客の多くを占めるので、銀行はあまり儲からなかったが、おかげでカルロに向けられる視線は変わった。少なくとも、同じ移民からは家族の一人として扱われ、感謝された。それだけのことが、彼には涙が出るくらい嬉しかった。

銀行を存続させるため、時には汚い仕事も受けた。相手は、悪事をはたらいてボロ儲けする暗黒街の住人達。むしり取れるところからは、むしれるだけむしり取った。その才能と経験が、カルロにはあった。それに、汚い仕事に手を染めても、カルロにはもうそれが苦にはならなかった。

なぜなら、



「可愛いお子さんですね」

窓口に預金を下ろしに来た若い女性。その膝に乗せられた子供がキョロキョロと落ち着き無く辺りを見回し、時折カルロに不思議そうな視線を向けている。

まだ幼い。恐らく三つか四つ。親にとっては一番可愛い時期だろう。

「小さなレディ、キャンディはいかがですか」

カルロがミルク味のキャンディを渡すと、かわいらしいピンクのリボンを振りながら少女は大喜びで口に入れた。

恐縮する母親に微笑みかけ、小さな掌と握手する。

「これから進学やら何やら、色々と大変でございましょう。実は私どもでは、大変お得な長期保証のプランを新しく売り出させて頂いております。お客様の生活設計のお手伝いが出来るのではないかと思っておりますが」

パンフレットを広げながら、微笑みを絶やさず、やんわりと商品を勧める。母親が説明文に興味を示し、こちらの言葉に耳を傾けたら、ほぼ契約は成立したも同じだ。

名前からして、恐らく移民の家系だろう。旦那の仕事は小さな商社の営業マンだという。あまり高給取りではない。幸い、利率の良いローンには、興味を持ってくれた。

郊外の一軒家とは違って、ヨークシンの町中では核家族化が進んでいる。最近では女性の社会進出もめざましいが、これぐらいの子供を抱えている家庭の多くは、旦那が外でバリバリ働いて稼いでいる間、細君は子供と一緒に家庭を守っている。ローンを組みに来る客も多い。

ローンの目的で一番多いのが車と住宅と、養育費だ。その三つは、人の一生の家計の中でも大金が必要になる。特に養育費と住宅は比重が大きい。しかも、昨今では教育費と医療費の高騰が著しかった。国が税制を改悪させた結果だ。碌でもない施政者達ばかりだから、こうなる。

裏の仕事に係わることが多いため、カルロ自身はこの年になっても所帯を持ってはいなかった。だが、家族というものには憧れがある。

ささやかながらも、こういう人々の役に立てるということを、カルロは誇りに思っていた。

「是非、旦那様ともご相談の上ご一考下さい。いつでもお気軽にご相談頂ければ幸いです」

カルロはその親子を、玄関まで見送った。

バイバイする子供に手を振りかえし、深々と頭を下げる。



その時だった。



社屋の正面、表通りに一台のライトバンが停止した。前を走っていた車を強引に押しのけて、路肩に駐車。カルロが不審に思った時には、サイドドアから無数の銃口が突き出ていた。

それを見たときには、もう何を考えるまでもなく、体が反応していた。

咄嗟に身を投げ出し、凶弾から女性と子供を守る。

同時に、背中を中心に無数の衝撃が走った。

次に感じたのは苦痛、というより熱さだ。無我夢中で親子を抱きしめ、我が身で覆う。

一瞬が永遠にも思えるような時間の後、カルロは親子共々地に伏していた。

薄れていく意識の中で、少女が泣きじゃくるのを感じた。母親が必死で子供を抱えている。怪我は、なさそうだ。



血相を変えた警備員達が駆けつけるのを尻目に、カルロの意識は途絶えた。
















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep6















西ゴルドーの空軍基地から最新鋭のステルス戦闘機をぶっ飛ばし、バトゥがハーレムの総合病院に着いたとき、ちょうどICU(集中治療室)の明かりが消えた。

扉の中から現れたのは、緑色の手術衣に身を包んだヤマダだった。無理を言ってヤマダを呼び出し、執刀を任せたのだ。病院側は当然ゴネたが、ボスが手を回して黙らせた。

念能力者としてのこの男の能力は、治療行為に特化している。少なくとも外科手術に関して、ヤマダ以上の人間をバトゥは知らない。

ヤマダはマスクを取ると、無言で首を横に振った。

その手は、血がにじむほどに握りしめられていた。この男がこれほど無力感に打ちのめされているのを、バトゥは初めて眼にする。ヤマダの肩にそっと手を置くと、手術室に入った。

赤く染まった手術台。緑色の布。血と消毒液の臭い。つながれた管。

電子音が弱々しく響き、それがカルロの命の火を示していた。

横たわったカルロの瞳が、うっすらと開く。

微かに唇が動き、バトゥは耳を寄せた。

カルロは、いつも店中に響き渡るような良い声で、客に丁寧な挨拶をする。

だが、今は、細い蚊の泣くような声だった。

「・・・子供は、あの子は、無事ですか」

子供、という言葉に心当たりはなかったが、バトゥは頷いた。

「無事だ。誰も、傷ついちゃいねえ。お前の、おかげだ」

絞り出した声は、かすれていた。

良かった。

そう口にして、カルロは笑顔で息を引き取った。





バトゥは、しばらく呆然として、穏やかな死に顔を見つめていた。

サラリーマンには致命的に向いていないバトゥに、カルロはことある毎に皮肉を言った。同じ裏稼業に身を置きながら、算盤に秀でたカルロに、荒事のバトゥ。趣味も趣向もまるで異なる二人だが、各々の分野を分担し、同じ理想を共有し、不思議と上手くやってきた。

組の在り方について、表稼業に比重を移すという方針は、カルロが率先して進めたことだ。

将来にわたって有効性を説き、ボスに嘆願して、そのためにがむしゃらに働いた。

頭でっかちの鼻持ちならない青瓢箪。当初はそう思っていたバトゥも、その熱意にいつしか感化され、出来る限りの後押しをした。念も持たず、算盤勘定だけで腕っ節のないカルロを軽視する者もいたが、それをバトゥが黙らせた。

バトゥにとってゴドーが戦友だったとすれば、カルロこそは盟友だった。



銀のケースを取り出すと、久方ぶりにシガリロに火を付けた。

芳醇な筈の煙は、何故か苦いだけだった。











次の日、冷たい雨が降り注ぐ中、葬儀は執り行われた。

場所は移民街の共同墓地。

カルロを慕って、驚くほど多くの人間がそこに集っていた。

皆、雨に打たれながら、熱い涙を零している。

「ジャンカルロ・ボッシ。彼のことをよく知る人は、彼が真に義の人であったことを知っておられることでしょう。彼は、我等の父であり、兄であり、また息子でした」

葬儀を引き受けたのは、カルロと旧知の仲だったという老いた神父。

かつてカルロと一緒になって悪事を働き、やがて別の生き方を選択した一人だった。

「いつくしみ深い神である父よ、あなたがつかわされたひとりの子、キリストを信じ、永遠の命の希望のうちに人生の旅路を終えたジャンカルロ・ボッシを、あなたの御手に委ねます。私達から離れてゆくこの兄弟の重荷をすべて取り去り、天に備えられた住処に導き、聖人の集いに加えてください。別離の悲しみのうちにある私達も、主、キリストが約束された復活の希望に支えられ、あなたのもとに召された兄弟とともに、永遠の喜びを分かち合うことができますように。わたしたちの主、イエス・キリストによって」

「アーメン」

祈りの声が唱和した。




泣き崩れた女性がいた。グレースだった。

幼い子供が黒いスカートの裾を握り、母親を不安そうに見ていた。

若くはないが独り身のカルロと、バツイチのグレース。二人は何かと趣味があったようで、時折ランチを一緒にしているところを見たことがある。バトゥも二人をくっつけようと何かと気を回していたが、裏稼業について思うところのあるカルロは、最後まで踏ん切りがつかなかった。だが、もう少し時間をおいて話し合えば、いつかは上手くいったはずだ。

ミツリが背中をさすり、グレースを抱きしめる。二人で泣いていた。




喪服に身を包んだ一団がいた。職場の同僚達だ。

皆、自発的に参加してくれた。カルロの裏の顔は知らずとも、仲間であることに違いない。カルロと親しかった同期の男達、全員が管理職だったが、各地の支店から駆けつけてくれた。カルロが眼をかけて指導していた若い行員は項垂れ、受付嬢達は互いに抱きしめあって泣き、彼の死を惜しんでいた。




こざっぱりとした服を着た老人がいた。掃除夫のペッポだ。

店にやってきた彼をバトゥが連れ出した後、カルロは密かに仕事を斡旋してくれていた。支社と契約している清掃会社に頼み込み、掃除夫として再び雇って貰うことが出来た。ベッポは店の廊下のしつこい汚れを、ピカピカになるまで磨いた。

棺を運ぶのを手伝っていた。嗚咽が、漏れていた。




よれたシャツを着た中年の男達がいた。

不況のあおりを食った失業者達。よく店に来ては、カルロが相談に乗っていた。預金もなく、住む家もなく、突然契約を打ち切られた人々。無利子で40万ジェニー、融資しようと決めたのはカルロだった。手渡しで10万ジェニー、住居手当に30万ジェニー。仕事は必ず見つかる、生きていれば何とでもなる。そういって、彼らを励ました。

無言で墓穴を掘るのを手伝っていた。目元が光っていた。




東洋人の男がいた。黒い髪を短く刈り込んだ、目つきの鋭い男。ヤマダだ。

彼が病院に到着したとき、すでにカルロは虫の息だったそうだ。もう見込みはなかったが、それでもヤマダは限界まで能力を酷使した。あの後すぐに倒れてしまい、意識を取り戻したのはつい先ほどだという。先に医院に運び込まれていた少女に、治療を行った直後だったらしい。

無言で、カルロを偲んでいた。




車いすに座った老女と、その取っ手を握る幼女、そして付き人の丸い執事がいた。

彼らの視線は険しく、感情のない表情からは何も読みとれない。だが、付き合いの長いバトゥには、彼らが心からカルロを弔っているのが分かった。




子供を連れた、喪服姿の若い夫婦がいた。父親と母親、幼い娘。

カルロが救った命だ。ありがとうございます。そう言って頭を下げ、墓に花を添えた。




金髪の少女がいた。アンヘルだった。

気丈な態度からは体調の不良は伺えないが、生死に関わる大怪我して、ヤマダの治療で九死に一生得たという。その身に纏う包帯が増えていた。喪服を纏って死者を弔い、バトゥの隣で悲しみに暮れる人々を静かに見守っていた。




誰もが故人を心から偲び、慕っている。

バトゥは葬送の列の最後尾で、己の無力さを噛みしめながら、今、己にできる役割を果たしていた。

「報告します」

平服の部下が喪服のバトゥに耳打ちした。

見た目にはくたびれた中年だが、この風体で誰よりも素手で人を拘束する術に長けている。さえない風貌も擬態の一つ、敵と異なっていながら、目立たず周囲に馴染んでいた。この男だけではない、バトゥの部下達は葬儀のそこここに配置され、喪服の一団にとけ込み、それでいて周囲を完璧に守っている。

狙撃ポイントは残らず潰され、無数に配置された監視カメラと平服の警備員、そして"BSS"の虎の子・デクストラ装甲車が周囲を警戒していた。

加えて、主要な道路には残らず市警の検問が敷かれている。葬儀の参列者以外はまず通れない。

「周辺に点在していた不審者13名を排除、3名を拘束しました。うち2名は能力者です」

そう報告した部下は念能力者ではない。もとより、バトゥの部下に念を使える者はいなかった。

念は膨大な学問であり、才能の世界でもある。不用意に精孔を開けば命に関わるし、ゆっくりと瞑想のうちに開花できる者は稀だ。故に、武闘構成員は非能力者で構成されている。

だが、彼らは能力者に対向する術を徹底的に教え込まれていた。全員が熱感知スコープを持ち、移動指揮車で各所に配置されたカメラから送られてくる映像を常時監視している。これで、能力者であるか否かを判別することができる。

"纏"により、念能力者は総じて基礎体力が高いため、常人とは体温分布が異なる。特に冬の寒さが厳しいこの季節、反応はより顕著に現れた。そして、"絶"で気配を消して近づく者には機械装置の目が有効だった。例え、"絶"を使用したとしても姿が消えるわけではない。目を増やし、カメラを通して監視すれば、気配を消しても意味はなかった。

そして、相手がこちらに気付く前に、対物狙撃銃のクロスファイアで片付ける。常人を舐めてかかっている能力者に、50口径の強壮弾を叩き込むのは造作もない。後には無惨に千切られた肉塊しか残らなかった。

情けは無用。蟻の隙間もない検問を突破した時点で、一般人が紛れ込んだという可能性は排除してもよい。

ある男がロジックとして確立し、男達に教え込んだ対能力者戦闘の定石。

男は報告を続けた。

「ただ、豚の子飼いは一人も確認できていません」

恐らく、豚野郎は子飼いの部下を出しては来ないだろう。

バトゥには確信があった。奴らは、自らの隠れ家でじっと待ってるのだろう。怒りに燃えた連中が、周到に用意された罠に飛び込むのを。臆病な豚には相応しい。

恐らく、今日ここに差し向けられた連中は、挑発なのだ。ボーモントの怒りを煽るための。

「ご苦労、警戒を続けてくれ。あと、念のためにウラディーミルとエストラゴンを後詰めに呼んでおけ。ここと銀行以外はがら空きになってもいい」

「ハッ!」

いつも通り、簡潔な返事。だが、バトゥはそこに少なからぬ決意の響きを感じ取っていた。

あの日、バトゥが遠い異国の地にあった時、彼らは銀行を警備していた。訓練された動きで襲撃者をたちまちの内に追い払い、だがカルロを守ることは出来なかった。バトゥは、部下達がそのことを負い目に感じているのを知っていた。

元を質せば、皆食い詰めてマフィアに身を落とした者達だ。

彼らを武闘構成員として組みに所属させ、隠れ蓑として機能させるために立ち上げた警備会社。

だが、ゴドーをアドバイザーとして彼らに訓練を積ませ、軍や警察の研修にも頻繁に出向かせたのはカルロのアイディアだった。最初は散々に扱かれてブーたれていた連中も、いつしか自分の職業に誇りを持って仕事をしていた。

カルロの本当の狙いが実はどこにあったのか、考えるまでもない。

今度こそ、葬儀に参加してくれた人々を守り抜くため、今、彼らは決死の覚悟で臨んでいる。

誰もが絶望と後悔の狭間で今を生きているのだ。頭のバトゥが弱音を吐くわけにはいかない。

それに、葬儀はこれで終わりではなかった。









その日の深夜、葬儀に顔を覗かせた者達のごく一部が、ボーモントの屋敷に集っていた。

屋敷の食堂、縦に並べられた机と椅子。皆それに腰掛けてうつむいている。

一人一人の前に、銀の皿とゴブレットが並べられていた。誰一人、口を開く者はいなかった。

手ずからワインをゴブレットに注ぎ、パンを皿に乗せて皆に配るのは彼らの主、キャスリン・ボーモント。

年老いた幼女は、普段の人形のような佇まいも、その裏に隠された道化のような素顔もかなぐり捨て、ファミリーのボスとしての威厳を露わにしていた。

その身を包むのは、黒いシックなドレス。現代ではゴスック・ロリータなどと呼ばれているが、彼女の生まれた時代では、これこそがフォーマルなドレスだった。

だが、今、身に纏う衣服の黒は、喪に服しているからに他ならない。

黙ってその後ろに続くのは、影武者を勤める老女ベノアに、執事のハンプティ。彼らは酒瓶とパンの籠を捧げ持ち、黙って主に寄り添っていた。

すべての皿とゴブレットが満たされたとき、キャスリンは厳かに告げた。

「これは我らが兄弟、ジャンカルロ・ボッシの血であり、肉である」

その声にあわせ、全員がパンを頬張り、ワインを一息に飲み干した。

「彼の魂は我らが血肉を借り宿とし、我らと共に永遠に生きるだろう。我らが絆は死してなお、決して砕けることはない」

キャスリンもパンを口にし、なみなみとつがれたワインを飲み干した。小さな口から血が滴るようにワインが零れ、白い内着を赤く染める。

ダンッ!

そして、ゴブレットを叩きつけた。

「だが、彼奴らの血と肉は大地に捧げよう!」

その声は、かつて無いほどの怒りに満ちている。

キャスリンは、腰に下げた愛用のツヴァイヘンダーを引き抜いた。

小さな体躯には大きすぎる程の巨大な両手剣。かつて彼女の祖国の英雄は、無数に並んだパイクの壁にこの剣をもって槍の柄を切り払い、活路を開いたと言われている。その故事にあやかって使い続け、無数の敵の血を吸ってきた剣(つるぎ)。

鈍い輝きが、キャスリンの憎悪に満ちた瞳を映していた。

「Dies ira!!」

生まれた時代、生まれ故郷の祝詞は現代ではすでに死語。

共通語に故郷の方言を交ぜた独特のイントネーションも、今日は抑えていた。他人には耳障りだと言われるが、それは彼女の懐古趣味の現れだ。その意味を理解できる者は、よほど酔狂な言語学者以外にはもはやいまい。

永き時をただ一人で生き続け、だが、この地にてようやく善き家族に恵まれた。

ボーモントに所属しているのは、全員が移民の子孫達だ。キャスリンの故郷の直系の者もいれば、ミツリやバトゥのように他民族の出の者もいる。だが、全員が彼女の家族だった。

自己の文化を保ちながら仕事・生活に従事し、同郷者同士での結束を大切にした移民達。その結果、リトル・シティと呼ばれる故郷の街並みを模写した町が、このヨークシンの随所にあった。

移民は仕事も収入も限られる。どの街もやがてはスラム化してしまった。

騒々しく不衛生で、常に病気が蔓延していた過密気味のスラム街。貧乏人、怠け者、汚らしい、無知、無学という固定観念で括られ、排斥された彼らにとって、団結することだけが武器だった。

その筆頭にたち、同胞を守ってきたのがキャスリンだ。コミューンの掟に誰よりも厳しく、時に自ら制裁を加えることもしばしばあった。

彼女がリーダーに上り詰めたのは、打算があり、欲があり、何より自分が生き延びるための策であった。決して単なる情ではない。

だが、それでもいつしかキャスリンは慕われた。皆から、"お袋(グランマ)"と呼ばれた。

そして今、目の前には、決意に満ちた目で彼女を見つめる多くの息子と娘達がいる。

清濁の狭間を見境無く泳ぎ続けてより幾百年。とうにすり切れたと思っていた感情が、どす黒い何かが、キャスリンの胸の内から吹き出していた。

カルロの死には、武闘派筆頭のバトゥを支社から動かした彼女にも、責任がある。

「Dies ira.solvet saclum in favilla teste David cum Sibylla.Quantus tremor est futurus,quando judex est venturus,cuncta stricte discussurus」

怒りの日。

「「「「Rache!!!」」」」

その祈りに続いて、全員が唱和する。

怒りの声が、屋敷全体に響き渡った。

各々の武器を手に、復讐を叫んだ。


















…to be continued



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep7
Name: kururu◆67c327ea ID:d10e35f7
Date: 2009/12/31 00:06
感想を頂きまして、ありがとうございます、続きを投下します。

年末までに完結を目指すとの事でしたが、もう少し延長させて頂きます。お目汚し失礼。










夕刻。

冷たい雨は、徐々に霙から白い雪へと変化していた。

冷気が墓地を包み、葬儀に訪れた弔問者も一人、また一人と暇を告げて去っていく。

葬儀とは遺体を葬り、残された家族への慰めと励ましを祈り、復活の希望を宣言するためにある。故人の死のために、その魂が天国へ行くために祈るわけではない。それは生きている者の祈りや供養でどうにかなるものではない。ただ天におわす神のみがお決めになることだ。

悲しみを胸に、生者は生きなければならない。今日を、そして明日を。

冷たくしめった墓地の土。徐々に雪を被り、世界は白に満ちている。

朽ちた枯れ葉を車輪で踏みつけ、キャスリン・ボーモントは車椅子を押していた。いつもの黒いドレスの上から、コートと揃いのベールを被り、傘も差ささぬままま冷たい雪が皮膚の熱を奪うに任せている。

すれ違いざま、上院議員のジョージ・マケインが軽く黙礼してくるのに、彼女も会釈を返した。

そう言えば、この男もカルロとは同郷だった。それなりに親しかったのだろう。マケインの老いた顔に、キャスリンは演技ではない悲しみを感じた。

なだらかな傾斜を描く墓地を下り、駐車場へと進む。

濡れたアスファルトの上を車椅子の車輪が回るたび、ちゃぷちゃぷと音を立てる。

既に迎えのリムジンが、駐車場の一角で彼女らを待っていた。

異形の執事が恭しくその扉を開く。

だが、車椅子の老女を中に通すと、キャスリンは外に残った。

「・・・少し、バトゥ君と話をしてくる。少しの間、待っていてくれ」

ヴェールに遮られ、キャスリンの表情を伺うことは出来なかっただろうが、老女と執事は黙って頷いた。

葬儀は滞りなく済んだ。この上は一刻も屋敷に帰り、今夜の準備をしなければならない。だが、その前にやっておくことがある。

駐車場の片隅では、揃いの制服に身を包んだ男達が撤収の作業を進めていた。

技術系の社員が忙しなく動き、カメラや赤外線監視装置、セントリーガン等の各種機材を手際よくワゴンに積み込んでいく。その周囲を武装した警備員がぬかりなく守り、作業を進めていた。

彼らはキャスリンの姿に気付くと手を止めて、敬礼をした。

「おつとめ、ご苦労様。よくやってくれた。葬儀でイザコザが無くてほっとしたよ。見事な手並みだった」

この場にいるのは、事情を知っている信頼のおけるものばかり。キャスリンも、普段の口調そのままに彼らの労をねぎらった。

葬儀に訪れてくれた者達に異変を察知させることすらなく、彼らは影から守り抜いてくれた。闇雲に暴れるしか能のないヤクザとは違う、プロの仕事だ。

その様子を観察し、キャスリンは密かに満足を覚えていた。カルロが提案し、ゴドーが育てた組織は、今や上手く機能している。

「だが、諸君らの務めは、これからが本番になる。すまないが、作業を急いでくれ」

その言葉に、誰もが大きく頷き、皆各々の作業に戻っていった。カルロの一件で、彼らの志気はこれ以上ないほど高まっている。

少し離れた位置で、バトゥがその様子を見守っていた。背後には、例のアンヘルという娘もいた。用事を済ますには、ちょうどよい。

バトゥは普段の白いスーツを、そのまま黒く染めたような喪服を着込んでいた。両手をポケットに突っ込んでいるのは寒さのためではなく、その下に武器を隠しているからだ。部下達に指示を飛ばしながらも神経を張りつめ、不意の襲撃に備えている。

キャスリンが近づくと、彼はサングラスを手でなおした。口元から、白い呼気が漏れる。

しばし、互いに無言で視線を交わす。

言いたいことは、双方にあった。

「ボス、この状況、後手後手に回っても勝機はありませんぜ」

先に沈黙を破ったのはバトゥだった。

拍子抜けするほどそっけない口調だが、キャスリンはひやりとした。

この子は昔から、本当に激怒している時ほど見た目に変化がない。

「いつ、どこを、誰が狙うか分からない。相手はテロリストもどきのド畜生だ。カタギを巻き込むことに一切躊躇がない。・・・このままじゃあ、カルロの奴も浮かばれねぇでしょう」

秘めた怒りを押し殺す、ドスの利いた声。やはり、すでにブチ切れている。

だから、キャスリンはあえて冷静さを装うことにした。

「三年前、あいつはボク達幹部を集中して叩こうとした。そのために、あえてファミリーの者ではなく、その身内を狙った。特に、女子供だ」

淡々とした口調で事実を指摘する。

「今回もそうだ。奴はあえて戦力を分散し、ボク達の拠点を同時に潰そうとしている。うちみたいな少数精鋭の組の弱みだね。すべてを守るには、手が足りない」

まさにその弱点を補うため、"BSS(ボーモント・セキュリティ・サービス)"という組織は作られた。

強力だが数の少ない念能力者は複数拠点の防衛には極めて不向きだ。故に、常人をして念能力者という超人を駆逐するための組織を作った。

必要だったのは、念を用いることなく念能力者を無力化するための、体系化された知識。そのために、キャスリンはゴドーという男を捜し出した。かつて北方の軍事強国が研究していた、対念能力者戦闘の成果。それをあの男は、余すことなく教授してくれた。

念能力者という"個"の強さに頼ることなき、システム化された組織としての強さ。それを、彼女は選択した。

「マスコミはボクの方で黙らせたが、ネットじゃあ、だいぶ噂になっている。――――――――もう、やらせるものかよ。次が起きる前に叩き潰す」

株価も落ちるしね、とわざとらしくキャスリンは付け加えた。

バトゥの瞳が面白くなさそうにこちらを睨む。この辺が、この男が一流の悪党になりきれない理由の一つだ。浪花節も結構だが、義理人情にとらわれすぎるきらいがある。

だが、キャスリンはバトゥのそういう所が嫌いではなかった。だから、この男が望めば、年齢相応に落ち着いてくれたなら、組織の舵取りを任せてもよいと思う。

しかし、

「それはそうと、そろそろボクにも彼女を紹介させてくれないかな」

少し離れた所で、こちらを興味深そうに伺っている少女に視線を移す。

見た目、キャスリン自身よりも5つか6つほど年上の少女。黒いワンピースの下からは、白い包帯が覗いて痛々しいが、身に纏う雰囲気は猛々しい。

一年と少し前、不治の病を患って引退を申し出たゴドーに、後継者を育ててみてはどうかと唆したのはキャスリン自身だ。

この街で"殺し屋"と恐れられた男、ゴドー。正規の軍事訓練を受け、実戦で磨き上げられた正真正銘の戦闘技能者(バトル・アスリート)。

あの技能、あの技量、このまま失うのはいかにも惜しかった。だが、正直、期待はしていなかった。体の衰えを察して潔く身を引き、だが余命をもて余していたあの男に、何か生きる目的を持たせてやれるならそれでよかったのだ。あれも、不器用な子だった。

だが、予想に反して彼はこの娘を残した。

そして、笑って逝ったらしい。

「初めまして、というべきなんだろうな。ボクの名前はキャスリン・ボーモント。他にも名前はあるけど、今はそう名乗っている」

既に、この娘も十分すぎるほどに事態に巻き込まれている。

「本当は、もっと念を入れて歓迎したかったんだが、こんな時だ。悪いが要件だけ、手短にすまさせて貰う」

青い瞳に、怪訝そうな光が浮かんだ。

恐らく、この少女は戦いの中にしか生きられない。そういう星の元に生まれている。

そして、だからこそバトゥは色々と手を回し、ラチャダ通りの豚から、そしてキャスリン自身からもこの娘を遠ざけようとした。その気持ちは、分からないでもない。

再び、バトゥに視線を移す。

「バトゥ君、マフィアにしては温厚に過ぎる君が、何かとこの娘に肩入れする気持ちもわからんではないがネ」

まあ、そう言う男だから組の暴力を担って貰っているのだが、という呟きは胸の内に仕舞い込んだ。

「老い耄れから一つ忠告しておこう。その手の気遣いという奴は、当人にとっては大きなお世話であることが多い」

バトゥは僅かに眉を顰めた。無言の威圧感で主を睨む佇まいは、さながら剽悍なドーベルマンを思わせる。

かつて、連邦警察対テロ部隊で"狂犬"と称された男の琥珀色の瞳と、キャスリンの鈍い銅色の瞳が、視線をぶつけあう。

「筋は、通せ。この娘は、すでに十分以上に事態に巻き込まれている。訳も分からず状況に流されるだけでは我慢なるまい。全部話すがいい。その上で、何をどうするもこの娘次第だ」

言いたいことは言った。

その言葉に何かを感じ取ったのか、少女の瞳が冷徹な輝きをもってバトゥを睨み据える。

青い炎のような眼差しを受け、バトゥも覚悟を決めたようだった。

この娘が襲われたと聞いたときから予感はあったのだろう。恐らく、すべてを聞けば、この娘の性格からして、自ら進んで鉄火場に足を踏み入れる。巻き込まれるのが、否、首をつっこむのが避けられないのなら、彼自身がすべてを語ってやるべきだ。他人の口からそれを聞かされていなかったのは、むしろ行幸。

バトゥ自身の口からすべてを語ってみせることが、せめてものケジメだ。

「・・・分かった。全部話そう。その上で、どうするか決めてくれ」
















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep7















復讐の狼煙は深夜にこそ上げるべきだ。

夜の闇で惨劇のすべてを覆い隠し、日の出と共に新たな朝を迎えるために。

夕刻からの雪はすでに止み、空には雲一つ無い。

白い満月が、積雪に反射して、昼間のように辺りを照らしている。

その鈍い月光に照らされて、二人はキスを切り上げた。



「じゃあ、行くか、キョーコ」

「ええ、バトゥ、シェリ(あなた)」



気温はすでに零下まで下がっているが、血は滾りすぎるほどに滾っている。むしろ暑い。なので、バトゥは特殊繊維で出来たトレンチコートを脱いだ。その下は、いつもの白スーツ。

だが、これも脱ぎ、シャツにベストだけになると、両肩から吊された二丁の旧式回転拳銃が露わになった。今は、火照りをさます冷気が心地いい。

隣に寄り添う妻は、見慣れたいつもの和服ではなく、フォーマルな黒のローブデコルテ。かつて、彼女がテロリストとして恐れられていた時代に着用していたものだ。それが、ミツリの覚悟の現れだ。

妻の腕の中には、二人の最愛の息子。こちらを不思議そうに見ている。

バトゥはサングラスを取ると、恐る恐る手を伸ばし、息子の頭に触れた。だが、頭を撫でようとすると、息子は母親にひしっと抱きついてしまった。

ひぐっ

「けーたー、見た目は怖そうだけど、パパはとっても優しいんだよ~」

ちょぴっと涙目の息子に"めっ"すると、ミツリは幼いほっぺを両側からつまんだ。

いつになったら、この子は父親に慣れてくれるのだろうか。嘆息すると、息子を頬に軽く触れ、軽く撫でる。

バトゥ。

すでに慣れ親しんだ名だが、彼自身は決してこの名を好んではいなかった。

"バトゥ"というのは、ヨルビアン西部の方言で、"野郎"を意味する。つまり、人名ではない。だが、バトゥが親から与えられた名前はこれだけだ。これ以外の名で、呼ばれたことはなかった。

本当の名前を誰も知らない、どこの生まれとも知れないスラム生まれの移民の子。だから、自分が親になったときには、せめて子供には良い名前を残そうと思った。

だから、恵太。恵まれ、太く逞しく生きて欲しい。

妻と子と、今のバトゥには守る者が多くいる。

それは、幸せなことだ。
















オレは青銅で出来た重厚な扉の前に座り込み、黙々と装備の手入れにいそしんでいた。

作業を開始してからそれなりに時間が経っている。時刻は深夜零時近い。そろそろ、出撃の時刻だ。

今夜、殴り込みをかけると聞いて、オレは無理を言って着いてきていた。もちろんバトゥは渋った。

だが、邪魔にはならない、いざというときは切り捨ててくれていい、そう言うと最後には折れてくれた。いや、折れたのではない。恐らく彼は、オレが無茶をするということを承知の上で、受け入れてくれたのだろう。

同行にあたっては、いくつか条件を付けられた。それが守れないなら半殺しにしてでも止める、とも。薄々気付いていたことだが、彼は完璧なスジ系の見た目に反して、とても優しい。少し、惚れた。

だから、自分に出来る最善を尽くす。

足手まといにならないように。

大理石の石畳の上に分解した部品を丁寧にならべ、ガスライトの明かりを頼りに一つ一つを丁寧に磨き、油を差し、グリスを塗る。

どれも新品同様の銃器だ。しかも性能は驚くほど高い。

青いビニルテープで包装されていて、真新しい鉄の臭いがキツかった。

「まるで戦争にでもいくようだなあ、おい」

呆れたように呟いたのは、いつもの白衣の上から厚手のダウンを着込んだヤマダ。この男も屋敷の中には招かれることなく、この場でボケーっと口から紫煙を吐いている

よほど暇をもてあましているのか、ヤマダは並べられた武器について質問を投げかけてくる。正直、ウザい。

「そっちの長くて黒光りした卑猥なラインの物体は?」

「個人用の肩担式無反動砲だ。対人、対物、対戦車、いくつかの榴弾を撃ち分けることが出来る。それと、卑猥とか言うな」

「そっちの黒くてグネった鉄の塊のようにしか見えない鉄の塊は?」

「散弾地雷。ベアリングをバラ巻くタイプの対人兵器だ」

ヤマダの質問に適当に受け答えしながら、オレは厚めのサンバイザーのようなもの手に取った。フレームの真横のスイッチを操作し、ドットサイトを調整する。

有機素材をふんだんに使用した最新鋭の暗視ゴーグル。

独特の虹彩を放つ有機視覚素子は知覚範囲が広く、しかもスターライトスコープと熱感知スコープの機能を任意に切り替えることが出来るという。重量も驚くほど軽く、長時間使用しても疲労が軽く、何より素晴らしいのはバッテリーの持続時間が従来品の3倍以上である点だ。

唯一の弱点は、湿気に弱く、水に浸かると一発で使用不能になることだったが、それを差し引いてもあまりある。

あの小生意気な餓鬼が、どうやってこんなふざけた代物を用意することが出来たのか少し興味が湧いたが、確かめる術はないのだろう。

「大抵の武器は手にはいるって言うから、洒落で言ってみたんだが、本当に出てきやがった・・・・・・あのキャスリンとかいう餓鬼は何者だ」

「知らない方がいいよ。俺も詳しくは知らん」

ヤマダは深々と、根の深そうなため息をついた。

答えを期待できそうにはない。もとより期待してはいなかったが。

オレは、傍らの長大な銃器を手に取った。

ハイポッドの付いた大型の機関砲。ボルトを目いっぱい引いてロックさせ、チェンバーを確かめてコッキングハンドルを引く。銃口を上に向けて引き金を引くと、重い音を立てて一発だけ発射される。やや、ガスレギュレーションが弱い。

手に馴染んでいない得物を使うのは不安が残る。だが、例のオカマ襲撃時に手持ちの装備はほとんど喪失してしまった。仕方がない。

整備を続けながら、別の質問をヤマダにぶつける。

「で、なんであんたはここにいるんだ」

「あの豚が俺にまで賞金を掛けてくれたんでね、戦争が終わるまでボーモントに身を寄せた方が利口だろう。ついでに怪我人が出たら治療してやれば金になる」

ヤマダは指先近くまで吸った一本を捨て、靴底でグリグリすると新たな一本に火を点けた。足下には吸い殻の山が気付かれているが、片づける気はないようだ。

「むしろ俺としては、あんたがやる気満々なほうが驚きだよ。一度死にかけたってのに、若いってのは怖いよなあ」

別に、こっちだって怖くない訳じゃない。そう言うと、ヤマダは馬鹿にしたように笑った。

「なら逃げればいいだろ。一文の得にもならないような喧嘩に命かけるってのは、狂ってるとしか思えないね。だが、まあ、好きにしてくれ。命の使い道までとやかく言う権利は医者にもない。死ななければ、また治してやるよ」

その台詞も、漂ってくるヤニの臭いも不快だったので、オレは口をつぐみ、作業に戻った。

すでにあらかた準備は終わっている。装備を、身につける。

メインの重機関銃に、背嚢に背負った無反動砲(カールグスタフ)、腰に携えた散弾地雷。その他にも、サブウェポンの拳銃に投げナイフ、手榴弾、プラスティック爆薬等、全身に携えた武装は、常人ならば身動きが取れない程の重さがある。

最後に腰の後ろ、すぐに引き抜ける位置にベンズナイフを差し込む。これだけは、なんとか回収出来た(というより、オカマが着服しようとしていたのを見つけたのだ。欲しかったらしい)。

資材の箱に腰掛けていた、もう一人の人物が、呆れたように呟いた。

「重くて身動きできない、とかそういうオチは無しにしてよ」

例の、オカマだった。

オレは、じっとりと猜疑心全開の視線を向けて黙殺する。ヤマダも明後日の方向を向いた。

「ちょっとちょっと、さっきから寂しいじゃないのよォ。二人して無視してくれちゃってさ」

ヤマダは単に口をきくのが億劫なだけだろうが、オレは意図して無視している。この変態に脇腹を串刺しにされたのは、そう昔の話ではない。

「ああ、そう言えばまだ名乗ってなかったわよね。アタシのことは好きに呼んでよ、ヴィヴィアン・スーでもアグネス・チャンでも。同業者の間じゃ、人虎(レンフー)で通ってるし。マリリンって呼ばれたこともある。馬並みだから馬麗琳(マー・リーリン)」

聞いてもいないのに勝手に喋り、ゲラゲラと下品に笑う。

おまけに、格好がまた巫山戯ている。

白いキモノに、足下の足袋に脚絆の色も白。おまけに、白いはちまきに、白い襷掛けまでしている。だらしなく伸ばしていた髪も、今は頭の後ろで一纏めにしていた。

「あ、このカッコ?ほら、チョッチ気合い入ってるっしょ。だって討ち入りじゃない、雰囲気出さなきゃ。『○れん坊将軍』とか、『○匹が斬る』とか」

甲高い声も耳障りだ。

いい加減不愉快だったので、どうしようかと悩んでいると、ちょうど背後で扉が開く音がした。


「さて、いくかい、嬢ちゃん」


館の扉を開け放ち、バトゥが現れた。

背後には、完全武装した屈強な男達。加えて、黒いワンピース姿のミツリに、時代がかった甲冑を着込んだクソ餓鬼(キャスリン)の姿もあった。

バトゥは扉の前で屯していた三人を順繰りに眺め、件のオカマに目を留めた。すっと眼を細め、サングラスを外して露骨に不審な目を向ける。

それだけの動作が、あまりに緊張感を孕んでいたので、オレは息を飲んだ。

だが、

「そういうのにゃ、あんま詳しくないんだが、業物なのか」

予想の斜め上だった。

視線は、オカマの腰に刺さった日本刀に向いている。

確かに、拵えも見事で、ただの骨董品には見えないのだが・・・

「和泉守兼定、二尺三寸。金に換えてやろうと思って、実家から持ち出したんだけど不思議に縁があってね。結局、手元に残りやがったのよ」

「ほう、実は俺もこの手のカタナにゃ眼が無くてね。後でじっくり見させて貰っていいか」

「いいけど、今日は散々振り回して、へし折ってやるつもりでいたのよ、アタシ」

「そいつはもったいねえ話だな。それなら売れよ。言い値で買い取るぜ、俺が」

和気藹々、とは言わないが、緊張感の欠片も無い会話。

「おい!!」

思わず、口を挟んでしまった。

すると、バトゥは困ったように頭の後ろを掻いた。

「この戦争が終わるまでって条件で、雇ったんだ。報酬は今後の身の安全、ボーモントからの不干渉。そんなところだ」

淡々とした口調だった。

あまりに気楽な調子だったので、オレは思わず眉根を引きつらせた。まあ、条件ついでにオレへの接触禁止も入れてくれるなら文句はないが。

「敵の敵は味方ってことで、勘弁してやれよ。こいつも賞金賭けられた上に、手負いの身だ。保身を図りたくもなるだろうさ。だがな、」

不意に、バトゥは歯茎をむき出しにすると、顔中の皮膚を引きつらせ、獰猛な笑みを浮かべた。

「精々後ろには気を付けることだ。下手なことしたら、ぶち殺す」

一瞬、体が硬直する。

噛み殺されるかも知れないと感じた。それくらい、本能に呼びかける危険な眼だった。

「え、ええ。了解したわ、ミスタ」

直接、殺気を向けられたオカマは気丈にも笑って頷いたが、よく見ると口元が引きつっている。

さすがの貫禄。オレはどうやら、このバトゥという男を相当過小評価していたらしい。心臓に悪い。



ほっとしたのも束の間、不意にくいくいっと、袖を引っ張られる感触がした。

振り返ると、そこにはちっこくてすべすべの生き物。

「うゅ!」

幼児がぽみゅっと抱きついてきた。かわいいボンボンのついた毛糸の帽子に、おそろいのちっちゃなセーター。スピスピと鼻息も荒くオレの体をよじよじして、ほっぺすりすり。

顔面にぴたりと張り付く幼児に気を取られ、その人物に気付くのが遅れた。

何時の間に現れたのか、目の前には時代がかった黒いドレスを着た老女がいた。無数に刻まれた皺の奥に落ち窪み、だが生気に満ちあふれてギラギラと光る鳶色の眼(まなこ)。

その眼に飲まれている内に、胸元に感触を感じて視線を移すと、枯れ木のような掌がオレの胸元にあてられていた。

何時の間に。そんな言葉が脳裏をよぎる。まるで気付かなかった。

しかも、

「おい、婆さん・・・ッ!」

その手を払おうとしても、ビクともしない。

まるで膨大な質量を持つ大岩か金属の塊のような感触に、我知らず、じっとりと汗が噴き出すのを感じる。

その時、ようやくオレは気が付いた。

触れられた掌を通して、老人のオーラがすべてを教えてくれる。巨大というのもばかばかしいほど膨大なオーラ。植物のように静かに流れる、纏。だが、音なき流れは底深し。ここまで"深い"オーラの持ち主は、初めて眼にする。

「・・・婆さん、あんた何者だ」

心臓を鷲掴みにされたような奇妙な感覚。

顔中に汗が噴き出すのを感じながら、オレはやっとの事でそれだけを口にする。

その耳元に、バトゥが囁いた。

「この人はボーモントの年寄り(プリモ・ヴォート)だ。・・・下手な口をきくんじゃないぞ、うちの組で一番おっかない人だからな」

老人は腰を屈め、視点をオレの目の高さに合わせて、興味深い物でも見るように覗き込んだ。

その視線はオレを人として見ていなかった。丁度、見事な細工を施された美術品を見定める鑑定士のように、オレの人格の向こうにあるものを眺めているのだ。まるで、オレ自身の心には、何の価値も見出していないかのように。

その瞳には見覚えがあった。

初めてゴドーに出会った時に向けられた視線。それに、そっくりなのだ。

老人は、口元をほとんど動かさずに声を発した。

「念の基礎は、しっかりと叩き込まれているね。それはいい。が、おかしいところがあるのには自分でも気づいているのだろう。どう直せば良いか、その方法も理解しているはずだ。そして、直す自信もある。違うかい?」

一瞬、虚をつかれて呆然とした。

「あの男に、その技を伝えたのは誰だと思っている。ゴドーは何も言わなんだか」

老人はようやく胸元にあてていた手を下げると、オレの顔にべったりと張り付いていた生き物をはがした。

「あれも不出来な弟子だったが、お前はもう少し見所がありそうだね。特にバランス感覚の良さは天性のものだ。これが終わったらせいぜい扱いてやるから、覚悟おし」

言うべき言葉が見つからなかった。

これが、この人物なりの励まし方だったと気付いたのは、ずいぶん後になってからのことだ。

頬を触られ、キャッキャと本当に楽しそうなけーたの笑い声が、場違いのように響く。

「ベノアさん、後をお願いします」

器用に赤ん坊をあやす老人に、バトゥは頭を下げた。

「矢面に立つお前に言うべきではないのだろうが、生きて戻るんだよ。それ以外に、本当に大事なことなんか、何もありゃしないんだ」

言いたいことだけ言うと、老人は赤ん坊を抱き、さっさと館の中に姿を消してしまった。






「さて、お前ら、準備はいいか!」

バトゥが吠えた。

普段の紳士的な態度は鳴りを潜め、全身に狂気とも呼べるほどの異様な迫力がみなぎっている。

その言葉に、誰も異議を差し挟むことなく、大きく無言で頷いた。

「相手は知っての通り、あの醜い豚野郎だ。遠慮するこたァない。存分に叩きつぶし、踏み砕き、皆殺しにして焼き払え」

バトゥは心底楽しそうだった。

いや、見た目通り、心底楽しいのだろう。歓喜をこらえきれずに口元が笑っている。断じて、作り笑いではない。

しかも、人食い虎か、何か大型の獣が、無理矢理人間のように顔面を歪ませたような笑みだった。



「死ぬのは、奴らだ!」



咆哮が、大気を振るわせた。




















その店は、ダウンタウンの端にあった。

港に隣接する倉庫の一つを改造して建てられたポルノバー、『バルバロイ』。

ストリップにSMショー、娼婦(コールガール)の斡旋を売り物に、影でドラッグの密売も行っていて、付近のストリートギャングや、はみ出し者の若者には絶好のたまり場だった。

だが、今は淫らな嬌声をあげ、見境のない乱交に耽る男女の姿はどこにもない。代わりに店を埋め尽くしていたのは、手に手に物騒な銃器を抱えた、目つきの鋭い男達。

フロアのあらゆる場所に染みついた酒とドラッグの臭いに、今では血と硝煙、銃器に塗られたオイルのそれが混じる。

その一角、入り口近くのソファに座って、得物の手入れをしている男がいた。

黒いインバネスに黒いスーツ、おまけに黒いアルスターコート。手にはステッキまで持っていて、舞踏会にでも参列している紳士のようだ。



名をダミアン。

ブッディの呼びかけに応じて集まった殺し屋の一人だった。



ダミアンは砥石をあて、自らのオーラを染みこませながら、得物を研いでいた。

細く鋭く、敵を抉り刺す愛用の仕込み杖。こいつで敵を膾切りにしてやるのを彼は好んだ。こんな時代がかった刃物を振り回す殺し屋はダミアンぐらいのものだろう。

だが、ダミアンは知っていた。己が最強であることを。

最後に錆対策のスプレーをかけ、全体を軽く拭うと、杖を模した鞘に刃を収める。

『はーい、皆さん、こっち注目~!』

ちょうどその時、店中のスピーカーから一斉に軽薄な声が流れた。

ブッディの腰掛ける特大ソファの前で、マイクをもった男が一人。サングラスにニット帽をした若造、ダミアンには馴染みの顔だ。"バルバロイ"の幹部、マイケルだった。

『知ってると思うけど、一応ルールの確認しますね。お手元のしおりをご覧下さ~い』

思わず、その場の全員が配られた冊子を開いた。

表紙にコック帽を被った豚のイラストのある小冊子。

うすっぺらで、家庭用のプリンターをそのまま使用して手作りしたようなチャチな作りだ。ただし、豚のイラストだけはやたらと凝っていて、皮膚の皺の一本一本までリアルに描写されていた。子供が見たら魘されそうな不気味さだった。

中身はバルバロイ謹製のビンゴブック。標的の顔写真と特徴、金額が記されている。

『賞金かかってるのは、載せてある連中だけね。後は何人殺してもゲームの"換金"対象になりませ~ん。額はしおりを参照のこと。本人だって確認できれば死体の一部でも構いませんが、その場合は生死の判定に時間がかりますので予めご了承くだせえ。ちなみに特別ルール、右下に乗ってるロリッ娘キャスリンちゃんと、金髪美少女アンヘルちゃんは、"五体満足、生きたまま"が換金条件なのでお忘れ無く。死んでたり、どっか欠けてたらビタ一文払いませんので、そこんとこヨロシク♪』

ふざけた口調でノリもよく、だが要点をおさえた説明ではある。

この男、ふざけた態度をしているが、それなりに頭は回るのだ。

「はーい、はい、はーい、質問!」

突如、元気の良い声でビシッと手を挙げたのは団子鼻に、皺だらけの皮膚をした個性的な人相の男だった。殺し屋の一人、念能力者のラッキー・ルッチだ。

体格は小柄だが肩の肉は盛り上がり、胸も厚く、上半身はたくましい。逆に足は縮こまって短く、高くもない椅子に腰掛けていてさえ床まで十分に届かない。靴だけが、やけに大きくて不格好だった。

この容姿で、しかも年柄年中ニコニコと底抜けに明るい表情を浮かべた珍妙な男だが、同じ顔で人を苦もなく縊り殺すことができる。

馬鹿でかい靴をぶらぶらさせながら、ルッチは上機嫌で質問を投げかけた。

「つまり、いつもどおりパパッと行って、皆殺しですネ!」

その問いかけに、マイケルは嘲笑うかのような笑みを見せたが、ルッチは気付かなかったようだ。

『ん~~~~、まあ、それでいいんじゃね?』

「ひやっほう。パーチイだぜ、ベイベー!」

歓声を上げる馬鹿を、ダミアンは冷めた目で見ていた。この男の脳みそはいつだってお花畑なのだ。

念能力だけならば、ルッチは他のブッディ子飼いの殺し屋より、遥かに抜きん出ている。身を包むオーラの強大さ、技術の高さも並ではない。

しかし、馬鹿なのだ。おつむのネジが緩んでいるとしか思えないほどの、馬鹿。

日が落ちるのは、地球が太陽の周りを回っているからだと理解できない癖に、なんでもないことのように念を使う狂人。体は大人、頭脳は子供。念の世界には稀に生まれる忌子だ。

だが、子供ほど純粋で残酷な存在もいない。そして、無知で純粋であるからこそ、強力な力を持っている。そういう手合いだった。



ルッチがくるくる回りながらはしゃいでいると、すっと別の場所から手を挙げた男がいた。

実に行儀良く黒革のソファの上に正座をし、無言で片手を上げて質問の意を示したのは、やはり変態的な男だった。

熊のように屈強な大男、しかし、真冬に海パン一丁。

その男の外見を一言で言い表すとこうなる。

目が痛くなるほど原色の紫をしたブリーフタイプの水着の他には、首元の金のネックレスをかけているのみ。おまけに長い茶色の髪をワックスで固めて揃え、まるで茸のエリンギのようにカットしているので救いようがない。

顔立ちはまあハンサムといっていいくらいに整っているのだが、とにかくその格好がすべてをぶち壊しにしていた。

ファンションセンスは人それぞれなので、ともかく彼に対して「あなたは変態ですか」と問いかける者も皆無だった。ある意味では、この空間の誰よりも浮いている。

本名不明。その外見から"海パン野郎"と呼ばれている殺し屋だった。

「豚殿、それがしに支払われる報酬についての確認でござるが、ボーモントに連なる某(なにがし)を一人抹殺する毎に、17才限定黒髪ロングの処女1人と交換、ということでよろしいか」

変態は、真顔で変態的な要求を口にした。

「もちろんだよ、海パン君。僕が選りすぐった美少女達を用意してあるから、楽しみにしていてね。それと、豚って言うんじぇねえ!」

ブッディが直接答えた。

ちなみに声は震えていて、豚のような嘶きが混じっている。

「かたじけない、豚殿。前に頂いた分はみんな壊れてしまったところ故、ちょうどよかったでござる」

変態は満足そうに頷いた。

周りから生ゴミを見るような視線が集中するが、まるで気にした様子もない。完璧にアウトオブ眼中。妄想の世界にひたっているようで、鼻から血が一滴垂れ下がっていた。

『・・・え、え~っと、気を取り直して、他に質問ないっすかね!』

妙な雰囲気の場を、マイケルが如才なく取り繕った。いずれ一癖ある殺し屋ばかり、この男も案外苦労人なのかも知れない。

他にも数名、いくつか"換金"条件について質問をした者がいたが、すでにダミアンの興味は失せていた。

先のルッチに、海パン、司会のマイケル、そしてダミアン。念を使える殺し屋は、他にリィロという小僧を入れて全部で5人(雇い主のブッディ自身を除けば、だが)。それ以外は所詮常人、単なる生きた盾だ。

普段なら、これに強力な接近戦能力で恐れられるオカマの念使いが加わるのだが、何故か今回は狩られる側になっている。しかも、賞金はボーモント組幹部に勝るとも劣らない3億ジェニー。せいぜい稼がせて貰うとしよう。

『他に質問無ければ、そろそろショータイムだぜ~。我等がブッチさん、最後に一言どうぞっ!』

マイケルはおどけた調子で、ソファにゆったりと腰掛けたブッディの口元に、マイクを差し出した。

マイクを受け取ったブッディの顔には、なんとも優しげな笑みが浮かんでいた。肉に埋もれた醜い赤子のような顔は、まるで仏像か何かのように神々しい。

一部で歓声が上がった。

殺人代行の元締めとして、数多の殺し屋を束ねるブッディには独特のカリスマがある。特に、付近のスラムに屯するストリートギャングやカラーチーム、鼻息だけは荒い餓鬼共の中には熱烈な信奉者も多いと聞く。

そういえば何時だったか、麻薬をバラ巻くのにずいぶんと役だってくれる、とブッディ自身が上機嫌で話してくれたことを思い出す。ついでに、使い捨てでいくらでも涌いてくる便利な連中だ、とも。




『さあ、みんな、カーニバルだよ!じゃんじゃん稼いでおくれよ!』

「「「Yeeeeha!!!!」」」





こうして、宴は始まった。











…to be continued



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep8
Name: kururu◆67c327ea ID:d10e35f7
Date: 2010/01/24 23:18
感想を頂きまして、ありがとうございます、続きを投下します。

指摘頂いて修正しました。

冷静に後から読み返すと、どう考えてもシングルアクションが入らなければおかしい場面でございました><赤面ものです(汗汗汗)。ご指摘ありがとうございます。

ハンドガンも修正致しました。作者の脳内では何故か「ハンドガン=デザートイーグル」でしたので、指摘頂くまで全く気付いておりませんでした(汗)








ポルノバー・バルバロイ。

殺し屋連中が各々の武器を手に店を後にする中、ダミアンは優雅にホットワインを飲んでいた。店の2階のラウンジで備え付けの新聞に目を通し、グラスを傾け、チーズをかじる。

「リオハか、この店にしては趣味がいい」

ヨルビアン西部、夏の暑い太陽と乾いた風土の生み出した酒精強化ワイン。その芳醇な香りを楽しみ、ダミアンはご満悦だった。

ふと、階下から何やら音が聞こえてくる。耳をそばだたせると、足早に階段を駆け上がる音が聞こえた。

ゴン!   「ぴぎゃ!!」

そして、勢い余って扉に激突する音。えぐえぐ、と泣き声まで聞こえてくる。

ダミアンは無言でグラスを傾けた。

ホットワインはグラニュー糖とクローブが絶妙に利いていて、美味い。腹の底からキュッと暖まる。そしてチーズを一囓り。黒胡椒入りのゴーダチーズは、パンチの重いシェリーに良く合うものだ。

数十秒後、

「せ~んせえ~」

白衣の裾を翻し、ドタドタと(そう、まさにドタドタという音だ)足音をたて、現れたのは一人の女性だった。

「・・・相変わらず騒々しい娘だね、君は」

黒いソバージュのかかった長い髪、頬にえくぼの浮かんだ童顔に銀縁の眼鏡をかけている。綺麗というより、かわいらしいという印象を受けるだろうが、体の起伏は非常に豊かだ。

巨乳である。眼鏡である。白衣である。そんな完璧生物は、ダミアンの助手兼念の弟子、ブーゲンハーゲン女史だった。

「だって、急いで持ってこいって先生言ったじゃないですかぁ」

舌っ足らずな独特のしゃべり方で、とても重かったたんですよぉ、と助手は訴えた。

彼女は両手に一抱えは在りそうな大型の缶を下げていた。加えてよほど急いで走ってきたのか、なにやら息も荒く、頬には朱が刺している。

「うむ、このクソ寒いのに外に出る気にならなくてね」

ダミアンは悪びれもせずにそう言うと、助手の運んできた大型缶の様子を確かめた。

この助手は恐ろしく手先が不器用で、おまけに重度のドジっ娘なのだ。ちょっと目を離すと"善意"から貴重な機材を破壊する。

「寒くて寒くて、おまけにナンパ野郎はくるわ、車上荒らしはくるわ。大変だったんですよぉ。しかも、何故か皆さんゴッツイ銃とかもってるんですもの」

「だったら君も、私と一緒に最初から店に入っていれば良かっただろうに」

「こんな卑猥な場所にはなるべく入りたくありませぇん!」

ダミアンは嘆息した。

この助手は確か、今年で三十路一歩手前の筈だ。

「・・・ふむ。ちなみに、私の留守中に訪れたというその人々はどうしたのかね」

丹念に缶を調べ、特に大事はないことを確認すると、もののついでのようにダミアンは問いかけた。

すると、途端に助手はにぱっと笑顔を浮かべた。

「それなら、"氷精(モラン)"さんに片づけて貰いましたぁ。皆さん氷漬けでお亡くなりになっていますので、後で実験に使用したいと思いまぁす!」

元気いっぱいに答える助手に、ダミアンも満足げに頷いた。

知的好奇心旺盛且つ前向きで明るいところは、この助手の唯一の美点だ。

「珍しく好評のようだね。前回、海魔(クラーケン)を作ったときには泣いて嫌がられたものだと記憶しているが、喜ばしいことだ。──────さて、ブーゲンハーゲン君、我々もそろそろ仕事にかかるとしよう。労働は尊い」

「はいっ!」

勢いよく頷くと、助手は携えてきた黄色い缶の取っ手を捻り、中身を床に零した。とたんに、どろりとした液体が口からこぼれ落ちる。虹色の光彩を放つ有機溶剤が、赤い絨毯の敷かれた床に染みを作った。ちなみに、助手が粗相をしでかしたわけではない。

中身の空いた缶の側面には、デカデカと『DANGER』という文字が記され、さらに複数の三日月と円を組み合わせた独特の意匠がペイントされている。バイオハザードのマークだ。

さらに、ブーゲンハーゲンは懐から複数の小型機械を取り出し、液体の上に振りかけた。

「"Liquid32"起動!」

芝居がかった仕草で、ダミアンは杖を指揮棒(タクト)のように振った。

瞬間、床に広がっていた液体が沸々と沸騰するように泡立ち、空中に飛び跳ねる。

それは上に撒かれた黒い機械の一つ一つを核として、その周りに液体がまとわりつき、一つの形を作った。滑らかな液体で出来た羽を持ち、虹色の輝きを放つ蝶。

瞬く間に、美しい羽を広げ、部屋中を舞い踊る何百という蝶の群れが現れた。

「お見事です、先生」

あまりの美しさに心を奪われ、助手が悩ましげな吐息を漏らした。


自ら調合した有機溶剤に念を込め、自立行動可能な念獣を生み出すことができる。

それがダミアンの能力、"人造の悪魔(ジ・オーメン)"であった。


「まずは相手の動向を探らねばな」

ダミアンは窓を開け放った。

すると、蝶はヒラヒラと極薄の羽を動かし、一目散に窓の外へと殺到する。

比重の軽い溶剤を用いて作られた偵察用の飛行型念獣、"羽虫(フェアリー)"。

正極及び負極材層およびリチウム塩電解質を有する発電要素が封入された有機溶剤は、羽の振動によって電圧を生じさせ、内部に取り込んだ小型盗聴装置やカメラの機能を維持することができる。

この能力も、始めはガラス棒も無しに試薬をかき混ぜることが出来る、という程度の力だった。

かつては製薬会社に勤務し、生物化学系プラントで研究を行っていた冴えないリーマン化学者。

だが、何故か念などという力に目覚め、今では各地で念能力の実験に伴う破壊活動を行い、指名手配されているテロリスト。

そんな彼にとって、殺し屋稼業は単なる小遣い稼ぎ以上の意味はない。

「では、ブーゲンハーゲン君、後は頼むよ」

「は~い!」

念獣から送られてくる情報を分析するのも、助手の役目だった。

















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep8


















ドレイボット・アンダーソン、通称"ダニー・ボーイ"は右目の眼帯のズレを正した。

まだ片目の視界に慣れていないが、それ以外の傷は完治している。怪しげな医院に運び込まれたときには、両膝の骨折に加え、自慢の鼻もへし折れていた。

医者の腕がよかったのだろう。やたら目つきの悪い、金にがめつい東洋人(イエロー・モンキー)だったが。・・・ダニーは幼い頃から教会に足繁く通っているので、白人種の優越性を信じて疑ってはいなかった。

もはやダニーに恐れるものはなにもない。

手下は全滅、相棒のテリーも殺され、地元の興業もパア。ついでに医療費が嵩んだせいで一文無しだった。

こうなったからには、ダニーをカタワにしてくれた、例の金髪の雌餓鬼をぶち殺してやらなければ収まりがつかない。

幸い、ヤクを卸してくれていた『バルバロイ』とかいう連中がボーモント組と戦争をするというので、ダニーも参加させて貰った。武器も大量に貸してくれた上に、首尾良く相手をぶち殺せば金も手に入る。ここで名を売って、殺し屋に転職するというのもいい。

そう、これまでだって、何度地に落ちようがダニーは見事に復活してきた。

幼い頃、飲んだくれの父親の借金を取り立てに来た、碌でもない借金取りを叩きのめしたのがダニーのギャングとしてのデビューだった。

以来、あらゆる悪事に手を染めて、どん底の生活からはい上がったのだ。

ダニーは路上に違法駐車していたトラックに近づくと、近場でドナー・ケバブを囓っていた運転手に目を留めた。

「ハロー、ボーイ。このトラックを貰うぜ」

「は?寝言は寝てから・・・」

PAM!

見事にひっくり返った運転手の死体をその場にうち捨てると、ダニーは慣れた手つきでキーを漁った。

トラックの運転席に収まり、アクセルを全開に踏み込む。エンジンの回転数が急ピッチで上がり、徐々にスピードも上昇していった。

このまま最高速度で突っ走り、ボーモントの連中に特攻(ぶっこみ)をカマしてやるのだ。

「いっちょやったるけんのー!!天国のママン!ドレイボットは男じゃけん!!そう、俺様の名は、不死鳥・ダニーだぁぁあ!!」


ボン!


軽く間抜けな音が鳴り響いたのはその時だ。

次の瞬間、車は爆発炎上した。














ボーモントの屋敷を一歩出ると、そこは殺し屋共が右往左往する無法地帯だった。

敵の根拠地だという風俗店を目指しながら、オレ達はモグラ叩きのように、次々とわき出る殺し屋共を撃ち殺していた。

今のところ、姿を見せているのは非能力者ばかりだが、敵にも能力者はいるという。それも、殺人を数多くこなしてきた、危険な連中が。

恐らく、そいつらは倒れ伏す哀れな連中の影に身を潜め、こちらを油断無く伺っているはずだ。

だが、オレは恐れてはいなかった。

目に見えぬものを恐怖する必要など無い。重要なのは、脅威の正体を見極めることだ。

銃弾を撃ち続けながら、オレはあの男の言葉を思い出していた。

『確かに、念能力は恐るべき非常識を体現する。未知の能力者と相対するとき、相手の能力を見極めることは非常に重要だ。だが、だからといってあまりに非常識な能力を想定するのはナンセンスだろう。念は万能ではない。そこの所をはき違えると、取り返しのつかないミスを生む。ようは、恐れず、慌てず、基本を守ることだ』

気配を殺す"絶"という技術は、一見万能な穏行術(ハイディング)で、卓越した術者ならばすぐ傍にいたとしても気付くことは出来ない。

だが、それだけでは不十分だ。

人間というのはどうやっても呼吸をするし、さまざまな生理反応を行う。移動した形跡、足下の草を踏む音、二酸化炭素の放出、そして体温。それら全てを隠すのは難しい。例えば、こんな風に。

オレは暗視スコープを起動させた。

有機素子を通して画面の裏のディスプレイにくっきりと浮かび上がる、人間大の熱源。それは冷えた大気のなかでこれ以上ないくらいに目立つ存在だ。

狙いを付け、引き金を絞る。

消音器をつけたから銃口から、乾いた軽い音を立てて弾丸が発射された。

パン!   「ぎゃっ!」

それは、隠れているつもりの襲撃者に狙い違わず命中した。負傷した人体から血液が漏れ出す様子が機器を通してありありと伝わってくる。だが、呼吸が止まった様子はない。対象は、まだ生きている。

ブシュッ!

オレが発砲すると同時に飛び出したオカマが、ひと息に首を掻き切った。

「・・・見覚えがないわ。たぶん、フリーの人ね。ご愁傷さん♪」

オカマは千切った首を持ち上げ、しげしげと眺めた。

趣味は最悪の男だが、腕前だけは最高だ。

音もなく、影もなく、凄まじいスピードで相手に肉薄し、一刀のみで片づける。攻撃の寸前まで気配を消し、高速で忍び寄る手際は野生の虎を思わせる。しかも、白い着物には返り血一つ浴びていない。このオカマ、やはり相当に強い。

オレの手にする大型銃器はマズルフラッシュが派手なので、一発撃てば必ず居場所が露見する。それは避けようのない構造的欠点だ。だが、この男のサポートさえ在れば、身の守りを気にすることなく援護射撃に専念できる。

つまり、その、あまり認めたくないことだが、オレのやり方とは最高に相性がいい。

「すごいわね、そのスコープっていうの?絶は完璧だったわよ、このお兄さん」

オカマは申し訳程度に手を合わせると、興味は失せたとばかりに生首を捨てた。

「そうでもない。満月ってのは運が悪かった。"凝"を使える能力者なら、昼間と同じだから、な!」

さらにもう一人、車の影からパチパチと掃射を行っていた人物に、50口径弾を撃ち込んで黙らせる。この熱感知機能というやつは相当使える。後でちょっぱってやろう。

掃射を喰らって四散した人体を眺め、オカマは口笛を吹いた。

「やるじゃん。つか、無視するの止めてくれたんだ。そっちのほうが、ちょっち感動」

確かに、このムカつくツラを見ていると腹の傷痕がややうずく。だが、

「馬鹿言ってないで働け、変態。言っとくが、なんかおかしな真似しやがったら、真っ先にオレが蜂の巣にしてやっからな」

ニッと歯を見せて笑う。

傷の恨みはあるが、ここで揉めても得なことは一つもない。

ここは、貸しにしておいてやる。そう言うと、オカマは首をすくめて仕事に戻った。

パン! パン!

軽い音が連続して鳴り響き、さらに二人、無様に地面に倒れ伏す。

だが、撃ったのはオレではない。

「・・・あの距離から二人同時に眉間を一撃か。いい腕だな、旦那」

「ふふん。煽てても何も出ないぜ、嬢ちゃん」

バトゥは左右の手に銃を持ち、見事な腕で敵をピンポイントに撃ち殺していた。右と左の腕を同時に動かし、別個の目標に対して正確無比な射撃を見舞う。今のところ、外れ弾は一発もない。

正直なところ、オレは二丁拳銃なんてのは、ただの与太話だと思っていた。一度試したことがあるので分かるが、右手と左手で別の目標を狙うにせよ、一つの的を二つの銃で狙うにせよ、二挺の銃で視線と照準を一直線に合わせるのは極度に難しい。

加えて、片手で一挺ずつ銃を扱うのは反動を抑えるのが困難だ。当然、強い反動で狙いが外れやすいのだが、この男は念能力者特有の身体能力で反動を苦もなく押さえ込み、面白いように命中弾を量産する。オカマとはまた違った意味での技巧派だった。

しかし、

「なんであんたはリボルバー?」

拳銃は片手で銃本体を、反対の手で弾倉なりスピードローダーなりを持ってリロードを行うため、両手に銃を持つと再装填が出来ない。このような乱戦では、それは致命的な隙になる。しかも、使っているのは回転式拳銃。リロードの手間は、自動拳銃の比ではない。

「口径がデカイのがいいんだよ。強壮弾を素で撃てる。強化系相手にまともな弾が通じると思うなよ」

バトゥはシガリロをくわえながら、余裕の態度で再装填を終わらせた。銃を一つづつ、ホルスターに収めての作業だ。その間、オレとオカマが場を持たせた。

「なら、オートマチックにしろよ。二丁もてばジャムも怖くないだろ」

「俺は浮気はしない主義だ。それにリボルバー舐めんなよ、一発勝負の個人戦ならシングルアクションの方が有利だろ。要はあれだ、片目つぶってよーく狙って撃つ、これよ」

「一発必中とか、どこぞの旧軍かあんたは。現代戦は火力だよ。弾をありったけぶち込んだ方が勝つんだ」

言いながら、オレは引き金を引き続ける。フルオートの掃射が、嵐のように路面を抉った。

「そう言うあんたは、もう少し当てられるようになった方がいいと思うね。こんなの続けてたら、弾がいくらあっても足りんだろう」

弾は目標をそれ、明後日の方向に飛んでいった。

まさに正論。

「ほっとけ!」

オレは照れ隠しに無反動砲を取り出すと、フレシェット散弾を撃ち込んだ。いや、命中精度がお粗末なことには、自覚はあるだ。

砲口から飛び出した榴散弾は、特攻をかまそうとしていたトラックを見事に爆砕した。














銃声と砲火をBGMに、ヴィヴィアンは白タキシードの伊達ヤクザと漫才を繰り広げる少女を静かに観察していた。

ここまでの道中、少女、アンヘルは行く手を塞ぐすべてに容赦しなかった。

ヴィヴィアンにやられて弱々しくベッドに横たわっていた時間がそれほど我慢がならなかったのか、それとも、ヤマダの治療が効を奏し、前にもまして力強くなったのか。その瞳は、控えめに言っても破壊と殺戮の暗い情熱に酔っていた。

青い眼は真冬の海のように暗く冷たく輝き、弾む吐息にうっすらと開いた唇は、知らず知らずのうちに舌なめずりをして、いつもより甘やかに濡れている。

黙ってさえいれば、あどけないと言っていい顔に血しぶきを浴び、一言も言葉を発することなくサクリサクリと静かに敵を屠っていく。

一条の暗い炎となって、戦場となった町中を駆け、金髪の髪を靡かせて少女が通った後には、まともに息をしている者は皆無であった。その動きは的確で無駄が無く、四肢は猛獣のようなしなやかさで生き生きと脈動した。

ヴィヴィアンは、ついつい攻撃の手を止めてその姿に魅入ってしまった。暗い、欲情を秘めた視線で。

初めてやり合ったときに見せた、爆風を利用した移動術に、傷口を破壊するナイフ捌き。最初はとにかくやたらと派手で、威力はあるが扱いづらそうな能力だと思ったが、なかなかどうして応用が利くものだ。

それに、共に戦い、その戦闘を間近に見ていて気付いたが、この少女の本来の戦闘方法(スタイル)は極めて堅実だ。

地形を読み、敵の潜んでいそうなポイントは大火力で真っ先に叩き潰す。背負った大口径のバズーカを無表情で撃ち混み続ける少女には、一種の悪魔的な美しさがある。ヴィヴィアンは欲情を抑えるため、さらなる殺戮に酔いしれた。

接近戦でも相当に腕が立つのは身をもって経験済み。小柄な体躯と体の柔らかさを利用した小回りと瞬発力はかなりのもの。筋もいい。恐らくは正規の軍事教練か、それに準じた教育を施されている。

やや実戦的すぎるのが気になるが、ゲリラに念を教えて回る馬鹿がいると聞いたことがある。物資のないゲリラやテロリストにこそ、念は理想の武器だ。恐らく、この少女もどこかで念を仕込まれたのだろうと勝手に想像した。だが、まだまだ未熟だし、何よりスタミナがない。体が成長しきっていないのも理由だろう。

未熟と老練が同居した、予測不能の珍商品。

今のままでも十分魅力的だが、念能力者として完成された姿も見てみたい。

何せこの少女、体術は完成されているくせに念の扱いはえらく雑だ。念についての体系的な知識は持ってるようなので、これは彼女の師匠の責任だろう。実戦本意なのは結構なことだが、基礎をしっかり固めていないと、自己流が染みついてしまって後で苦労する。

この娘には、まだまだ隣で助言をしてやれる存在が必要なのだ。

自分が、その役目をしてやるのも面白い。


「オアァァアァァァァァァ!」

プシュゥゥ・・!

怪鳥のごとき雄叫びを上げて飛びかかってきた男を、一刀のもとに真っ二つにしてやりながら、ヴィヴィアンはそんなことを考えていた。

そのためにも今は戦おう。思い切り、楽しみながら。



懐から愛用のウォークマンを取り出す。

人殺しには愉快な音楽が良く似合う。これもヴィヴィアンのジンクスだ。

だが、ボタンを押しても曲は流れなかった。どうやら、この間のドサクサで壊れてしまったらしい。時代遅れのカセットテープも、哀れワカメになっている。もう買い換え時だったのだろうが、惜しいことをした。

軽く鼻を鳴らすと、ウォークマンを放り出す。まあ、些細なことだ。頭の中でバックミュージックを鳴り響かせ、お気に入りの曲を脳内再生する。

「GO ACTION!!」

鼻歌など歌いながら、腰をくねらせて突貫した。

常にその場の快楽を最優先に生きる刹那的な享楽主義者。それがヴィヴィアンだった。
















「通り沿いはあらかた綺麗になったかなあ」

上空から戦場を俯瞰し、キャスリンは呟いた。

バトゥとアンヘルが掃射し、ヴィヴィアンが切り刻む。即興にしては良いコンビだ。

両手を前に突き出した格好で、丸い執事も頷いた。

ちなみに、彼女は横倒しになって宙に浮かんだ執事の背に腰掛けていた。万能執事・ハンプティにとって、地上三百メートルほど上空を自在に飛び回ることなど造作もないのだ。

「意外に使えるねぇ、天使ちゃん。例のオカマ君も病み上がりにしては動きが良いが・・・・・・ま、ルーキーと半死人、二人合わせて一人前か。うん、良い拾いものだ」

顎に手を当て、チェシャ猫のような笑みを浮かべる幼女。漂白されたような色の長い金の髪に、銅(あかがね)色の瞳、肌の色は死人のように青ざめた白だ。

その身を包むのは、黒いドレスではなく、鉄(くろがね)の甲冑。小柄な幼女の体型に合わせて鋳ってもらった特注の鎧だ。体にフィットして活動の自由を妨げない。最上級のウーツ鋼で作られた鎧は、独特の木目状の模様を黒と赤に塗装され、見るものに不吉と美しさを同時に感じさせる。

「でも、そろそろ本命の連中が顔を見せても良い頃合いだ。やっぱり今回ばかりはボク達の出番が来そうだね、ハンプティ」

戦場に立つのは、何時以来だろうか。

三年前、あの時は彼女の出番はなかった。ゴドー、あの血と鉄と炎で出来た魔人は、彼女が出る前にすべてを残らず片づてしまったからだ。だが、それ以前のこととなると記憶が定かではない。

逆に、最初に戦場に立った時のことは良く覚えている。髪を短く切って少年になりすまし、錆びた皮鎧を着込んで祖国解放を願う民兵に紛れて戦った。ざっと数百年は前のことだ。結局、あの戦争は100年続き、勝者のないまま両国の国境線を確定させた。

そして、二度にわたる世界大戦の記憶。塹壕に向かって突撃を行った騎馬隊が、重機関銃の群れになぎ倒された光景は、未だに忘れることが出来ない。

あの時、キャスリンは科学というバケモノの存在に恐怖した。いずれ、念能力などというものも、オカルト扱いされて歴史の闇に消えるだろう。

その時、夜の霧の向こうから、キュリキュリと鈍い音を轟かせる物体が目にとまった。大通りを、まっすぐ戦場目指して爆走している。

「確かに、例のリストには東ゴルドー製のコピー戦車もあったけどさぁ・・・。こんなもの、どうやって持ち込んだんだ」

見れば、眼下で戦っていた連中も手を止め、そちらを凝視している。

「・・・まずい」

キャスリンが懸念したのは、ソレの戦闘能力を恐れてのことではない。脳裏に浮かんだのは、この機に乗じて大暴れを始めそうな手下のことだった。

「ハンプティ、急げ!」

執事は大きく頷くと、急降下を始めた。

徐々に拡大される視界の中で、キュリキュリと、無限軌道でアスファルトにひびを入れながら鋼鉄の巨獣が現れる。それは、時速60キロの快速を保って爆走する、旧式戦車の群れ。

前面部に豊満な女性のバストをイメージさせる膨らみのある複合装甲。爆発反応装甲が追加装備された独特のフォルム。大きく突き出た主砲は信頼の破壊力、125mm滑腔砲。V型12気筒ディーゼルエンジンが雄叫びを上げた。

戦車は、200メートルほどの距離を保って停車した。

「オブイェークト!」

旧式戦車の乗車口が開くと、中から禿頭の中年男性が現れた。

「神は仰られました!目に見えるものに縋ってはならない。あなた方の心の中に神殿を築きなさい。そしてあなた方が築いた神殿の中に私は住まう、と!」

イっちゃった目つきで掌を天に掲げ、新手の宗教のような台詞を呟いている。

「「オブイェークト!!」」

綺麗に整列した三両の戦車の乗車口が次々と開き、中からは最初の男と見分けがつかないくらいそっくりの男達が現れる。

世界各国の旧式軍服(もちろん戦車指揮官)で現れたのは、三つ子兄弟の戦車乗り。通称、オブイェクト一家。文字通り、何とかが戦車でやってきたわけだ。

「諸君らは完全に我等が神によって包囲されている!彼我戦力差は明白、潔く投降されるがよろしかろう!今なら暖かいベッドも上等の食事も用意してある。仕官待遇を約束しよう!」

鼻息も荒く堂々と宣言する軍ヲタ。

だが、不幸なことに、この場には今更戦車くらいでびびるような面子はいなかった。

アンヘルは無反動砲を抱え直し、オカマは日本刀を鞘に収めて抜き打ちの構えを取った。

そして、バトゥは無言で両手の銃をホルスターに収め、代わりに両手を前の方に突き出す。

その手に、一丁の拳銃が具現化された。

鈍い輝きを放つ時代がかった旧式回転型拳銃(パーカッション・リボルバー)。異様に長い銃身が、戦車の砲塔に対抗するように突き出される。

だが、引き金が引かれる寸前、細い腕がそれを制した

「止めなよ、バトゥ。こんな場所で撃たれたら、ボクらまで吹き飛んじまう」

静止の声に、バトゥは無言で具現化した銃を消す。

キャスリンは、内心ほっとしていた。

額に軽く汗が吹き出すのを感じる。こんな戦慄を感じるのも久しぶりだ。

こんな場所で『あの銃』を撃たれたら、町が一ブロック完璧に消し飛んでしまう。単に威嚇のために出しただけなのか、分かっていてやったのか。前者であることをひたすら祈る。

「ミツリ、ここは君の出番だろう」

これまで沈黙を守っていた黒衣の女が、すっと前に躍り出た。身に纏う、静かに滾る巨大なオーラは、嵐の前の静けさを思わせる。

その姿は、今まさにスポットライトを浴びて立つ、オペラ歌手のようだった。

赤いルージュを塗った唇が開かれ、音無き旋律を紡ぎ出す。

キン、っと大気を鳴動させて、空間に衝撃が走った。

コンクリートにひびが入り、周囲の窓ガラスは砕け散る。

これこそが、夜の酒場で男達の魂を慰めて歌う女の、本当の舞台であった。





発声に乗せてオーラを放出する能力。

聞く者の疲労やストレスを癒すためにも効果を発揮するが、この能力の本来の用途は純粋な戦闘用。それも純粋な殺戮に特化している。






音は振動である。振動は運動であり、物体に圧力を与える。

則ち、高密度のオーラによって引き起こされた、高周波の破壊振動。

分子運動にすら影響を与えるほどに高められた音波は、原子核周囲の電子を加速、急激な摩擦熱を生じさせる。

結果、断続的に加熱された物体は分子結合を弱められ、崩壊に至る。

物理的な破壊力もすさまじいが、振動を伝えやすい水分で構成された人体に対しては、より致命的に作用する。振動によって中枢神経を破壊しつくし、絶命に至らしめるのだ。至近距離で巻き込まれたならば、問答無用で即死する。

だが、さらに振動を加速、収束させるとどうなるか。



「ぜ、全員乗車!総攻撃だ!!」

鼓膜をさいなむ高周波の振動に、軍服の男達はたまらず車内に引っ込んだ。

如何に驚異的な音波兵器といえど、分厚い鋼鉄に阻まれては効果は半減する。

それは、確かに正確な判断であった。

ただし、並の相手であったなら。



ミツリの様子を遠目に眺めていたアンヘルは、全身の毛が総毛立つのを感じた。それは、恐怖によるものではない。純粋な物理現象によるもの、静電気である。

極めて複雑かつ精密に操作された高エネルギーの音波により、周囲の大気が電離、イオン化。ミツリの前方の空間に発光体が形成される。

それはイオン化された大気、プラズマだった。

内部に超高熱を封じられた光球が臨界点を超える寸前、ミツリはすべての波動を前面に収束させた。

瞬間、真っ白な光の線が大地と平行に走る。

閃光はアスファルトを無残に焼け焦がし、膨大な熱量を持つ熱プラズマはすべてを融解させ、進路上にあるすべての物体を破壊する。

戦車の装甲は見事に融解し、砲塔が飴細工のようにとろけた。

内部の火薬と燃料に引火し、凄まじい爆圧が鉄の塊を蹂躙する。

「ギャアアアアアア!!!」

分厚い装甲に包まれていた人体も、一斉に発火した。

鉄の棺桶と化した車内から、たまらず外に逃げだそうと藻掻く。

加熱されたタンパク質が火脹れを起こし、あるいは溶けつつ破裂して崩れ落ちる。肉と鉄、その他雑多な化学物質の焦げるシューシューという音。そして、異臭が大気に混ざった。

「相変わらず、えげつない能力だよね、君のは」

踊り狂って飛び跳ねる哀れな"人間松明"を見やり、キャスリンは邪悪な笑みを浮かべた。

この能力は威力に比して、弱点も多い。

指向性を持たせることは出来るが、周囲の大気が無差別に帯電するため、味方が近くにいるときは使えない。オーラも激しく消耗する。放出までのタイムラグも長い。だが、一度発動してしまえば、まさに問答無用の破壊力。



"死の絶叫(マルマンティーダ)"。

それこそが"鳴き女(バンシー)"と呼ばれる女、ミツリ・キョーコの恐るべき能力であった。





耳を押さえつつ、その光景を遠くからつぶさに見ていたアンヘルは、驚愕していた。

初めて、この女性に出会ったときに感じた悪寒。

それは、正しかった。

こんな強力というのも生ぬるいデタラメな能力をもつ人間が存在するということが、信じられない。




ミツリは、ぞっとするような笑みを浮かべて惨状を眺めていた。

「ボーヤ達、うちに喧嘩うったんだから、覚悟しなさい。全員、優しく葬送(おく)ってあげる」














…to be continued



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep9
Name: kururu◆67c327ea ID:d10e35f7
Date: 2014/03/15 17:54
感想を頂きましてありがとうございます。続きを投稿します。

















「で、要件は何だ」

闇の中、葉巻の火が赤く光った。独特のにおいが紫煙ととも辺りに漂う。

贅を尽くした豪奢な部屋、その中心に据えられたマホガニー製の円卓。その五つの角に用意された五つの椅子、だが内三つは空席だった。つまり、この場にはたった二つの勢力しか顔を見せていない。

極めて深刻(テリブル)且つ緊急の事態ということで、深夜にたたき起こされた人物は、不機嫌な顔を隠そうともしなかった。

「一千道歉(千の謝罪を)。我等が祖国ではそのように性急に物事をすすめはしないのでな。だが、ここはヨークシン、合理主義こそが宗教の国だ。ならば我等もその流儀に合わせよう」

袖の長い中華服に、中華帽を被った小柄な老人だった。白い髭を腰の辺りまで伸ばし、皺だらけの手を胸の辺りで組み合わせている。醜い皺だらけの顔面は、黒く淀んだ奈落のような両目だけが生き生きと輝いていた。

胸に金の糸で刺繍を施されているのは、極めて精緻に描かれた東洋の竜(ドラゴン)。その足の指は五つあった。

五大組織筆頭、そして全世界のマフィアを統括する十老頭の一人に名を連ねる男、赤龍弊(レッドドラゴン)の王大人。

「まずは、ボーモント大姐の伝言を伝えよう。彼の方はこう言った、"邪魔をするな"」

低くうなるような声。喉を動かすたびに顔中の皺が蠢き、老人の不気味さをいっそうあおり立てる。

赤龍弊の呼びかけに応じて開かれた連絡会(クーポラ)。その議題は無論、この街の五大組織の内二つ、殺人代行組合『バルバロイ』と最古参のボーモント、この二勢力の全面衝突にある。

「"その前に立ちはだかり、その後ろから刃を突きつける者あらば、これも切って捨てるだろう。だから、余計な真似をするな、小僧ども"・・・だ、そうだ。」

マフィアン・コミュニティーを支配する十老頭、その一人を向こうに回して、ボーモント・ファミリーを率いる幼女は、これだけの啖呵を切っていた。

「年長者(レディ・エルダー)、彼の御老体には我等もそれなりの敬意を払っている。この業界で永く有名を勝ち得てきた人物だ。誰も無礼を働きたいとは思わない。故に、かかる事態に、我等"赤龍弊"は動かん」

含みを持った言い方だが、こうハッキリと口に出した以上、その下に連なる組織も含めてよけいな手出しをすることは一切ないだろう。

ヨークシンを支配する五大組織中最大規模の勢力を持つ大陸系の黒社会。"奇妙な死の王"とも揶揄される赤き龍の頭。並み居る龍頭(ルントウ)を押さえつけ、ただ一人老頭(ラオトウ)と呼ばれるの男の言葉は、それだけ重い。

「――――ただし、相手があの猪八戒ならば、だ」

老人は、落ちくぼんだ眼孔を光らせ、正面に座っている男を睨み付けた。

「・・・そいつは、どういう意味だ、クソ爺ぃ」

睨まれた男が、不愉快げに問いかけた。

派手な柄のアロハを着込んだ長身の男、がっちりと全身が筋肉にまみれていてたくましい。だが、その顔面には大小無数の傷痕が刻み込まれていた。

十老頭の一人、リッツ・ファミリー家長、ドン・リッツ。

元軍人や警官など荒事に長けた組員が多く所属し、武闘構成員数は五大組織中随一を誇るリッツ・ファミリー頭目。度を超えた暴力を躊躇無く行使することで恐れられる男。その異貌から、付いた渾名は"傷顔(スカーフェイス)"。アル・カポネの生まれ変わりのように嬉々としてマシンガンを乱射する危険な男。

だが、赤龍幣とは折り合いが悪く、ヨークシンの東西に縄張りを持つ両者は、今や中央のミッドタウンを挟んで冷戦状態にあると言って良い。

王大人は、無言で円卓に一冊の書類を投げ出した。それは、3センチ程度の厚みのある黒革のファイルだった。

「先ほど、ボーモントの使者が我等に預けていきおった。禁を侵す毒品交易に、武器走私。どちらも信頼に値する情報だと我等は判断した。故に、リッツ、我等の言いたいことは一つだけだ」

両者の瞳が剣呑に交わり、背後の護衛達がスーツの裾から武器を出す。

「裏切り者に、死を」

返答は、銃声だった。



















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep9



















午前二時半。

草木も眠る丑三つ時だが、ここは不夜城ヨークシン。降りしきる雪は夜半に止み、晴れ渡った空が広がっていた。

銀盆のような青白い満月、降り積もった雪は月光を反射して町を照らす。あの日もそうだった。だから、彼女は雪が大嫌いだった。冷たいところも、白いところも。

そのとき、気配が動いた。あまりにあからさまな、怯え混じりの殺気(オーラ)。

念の扱いを知らない一般人の垂れ流すソレは、正直酷く読みやすく、わざわざ暗視スコープを使うまでもなく、彼女にはあっさりと居場所が知れた。

場所は、今までノーマークだった配管の影。無数の水道管が露出しながら絡み合い、潜伏者をうまく偽装している。今、この瞬間まではよく隠し通したものかもしれない。しかし、攻勢に移るときには敵意でわかる。それが念能力者の持つアドバンテージの一つだ。

彼らには殺気があり、挙動がある。そして、彼女には技術があり、念があり、現代の奇跡たる機械装置の眼すらあった。

タタタタタタタッ!!

怒涛のような一斉射撃。

この戦闘に備え、彼女が選択した主武装は長大な銃身を持つ重機関銃。

使用弾薬、12.7ミリ徹甲弾。 総重量、38.1キロ。発射速度、毎分600発。 初速、853メートル毎秒。 最大有効射程、約1キロ。開発より70年以上経過する現在においても、基本構造・性能・更新コスト等、トータル面でこの機関銃を凌駕するものは今のところ存在しない。

身長160センチあまりの小柄な少女が担ぐにはあまりに無骨な兵器だが、彼女は軽々とそれを扱った。乱戦で必要なのは威力と射程、速射能力。そのどれをも必要十分に満たしている。

結果として、まっさらな雪に赤い斑点を残し、無数の人体が倒れ伏す。

飛び出した弾幕は微妙な撓りを見せながら着弾するや、降り積もった雪を舞い上げ、白い煙が月明かりを吸い込んで鈍く光る。音楽的なリズムすら醸して吐き出される連射、連撃、一斉射。それは、この世で一等愉快な音楽だった。

まるで鴨撃ちか、モグラ叩きな様相に、アンヘルは訝しんだ。

奴らは思い出したかのように散発的な攻撃を繰り返し、戦力を逐次投入し、おまけに練度もあまりにお粗末過ぎる。およそ、まっとうなプロなら決して侵さないようなミスを繰り返し、藁のように倒れ逝く。バトゥの話では、これでも本職の殺し屋達なのだというが、あまりに手応えが無さ過ぎる。

これは、もしや何かの罠なのか。そんな考えが脳裏をよぎるが、直ぐに自ら"否"と否定した。わざわざ兵力を無駄にすることに、どんな意味があるというのか。

浮かんだ疑問に答えを得る間もなく、次々に襲いくる銃声に次ぐ銃声、砲火の音。撃って撃って撃ちまくる。

この時点では、アンヘルの疑問は杞憂に過ぎない。この手の業界の事情に疎い彼女には、それが奇異に見えてしまったというだけのお話。

確かに、散発的で絶え間ない攻勢は、世の用兵家が厳に戒める戦力の逐次投入に他ならない。だが、それは敵手たる軍衆団に明確な指揮系統と連携が存在することが大前提である。

所詮、賞金目当ての殺し屋達。横のつながりはおろか、縦の命令系統すら持たない烏合の衆。彼らにとって、自分以外の殺し屋などは須く商売敵に他ならない。蹴落とすことはあっても手を携えることなど有り得ない。それが、この散発的な攻撃の理由であった。

だが、何より彼らの攻撃を単調且つ無秩序なモノにしていたのは、アンヘルの前方で猛威を振るい続ける、一人の女の存在に他ならなかった。














男達は一群の津波と化して、路地の各所を駆け巡っていた。

黒く日焼けした肌、薬漬けの青白い肌、黄色く垢じみた肌、酒に溺れた赤い肌。人種も様々、服装も様々、武装も様々。その全員が人を殺す術を持ち、人を殺すことを生業にする者達、"殺し屋"だった。その顔は一様に恐怖と焦燥、期待と野望、それらが複雑に混雑した表情に彩られている。

彼らは、混乱していた。

それも、砂糖に群がる蟻に、水を引っかければこうなるだろうという大混乱。

今宵の彼らの獲物は、数名の男女だった。それも、賞金は最低でも1億ジェニー(!)、最高額は10億ジェニー(?!)という前代未聞の大仕事。

女子供が大半だが、賭けられた額は二、三度人生やり直してもおつりがくる大金。ほとんどの首が"生死を問わず(デッド・オア・アライブ)"で、面倒もなく、後腐れも無し。武器も必要な物は大概用意してくれるという念の入りようで、これで参加しない奴がいたら脳みそが涌いている。ケチでしみったれの"バルバロイ"にしては大盤振る舞いだった。

一生に一度、あるかないかという大チャンスに、人生の階段を踏み外した者達は狂喜乱舞した。付近のチンピラ、ゴロツキ、アウトロー、いわゆる社会のゴミ達は我先にと獲物に群がった。

基本的に、その種の特殊なサービス業に従事する人種というのは、大凡、いつでも食い詰めている。ヨークシンにすくう屑という屑達は、ここが賭け時とばかりに、命をチップにベッドした。

しかし、その"人間の屑"代表選手、ヨークシンを実質支配しているマフィア達が不気味な沈黙を守り、両者の戦闘を傍観していたことについては、誰一人として疑問を持つことがなかった。

まさか。しかし。だけど。あるいは。そんな筈は。WHY?

甘い話にゃ裏がある。

ごく自然な思考の帰結として当然頭に浮かだろう疑問を、彼らは持たなかったし、持てなかった。

だから、現在の自分たちの状況を理解できなかったし、理解したくもなかったし、何より理解するだけの脳みそが致命的に欠けていた。

金の魔力というのは絶大だった。どんな麻薬よりも甘美な、その誘惑に勝てるなら、殺し屋ごときに身を落としたりはしないだろう。







「あぁ?狩り?殺す?ボーモントの連中を?」

ヨークシン・シティ在住、あるマフィアの中堅幹部―――仮にこの人物をマフィアA氏とするが、はその話を聞いたとき、思わず普段の威厳を捨てて間抜けな素顔を晒した。

直後、手に持っていたオールドパーのグラスを傾け、一気に喉に流し込んで"げっぷ"する。ついでにケツから屁をひった。

最後に、これはもうタチの悪すぎる冗談を耳にしたとばかりに耳かっぽじって、こういった。

「・・・ばっかじゃねえの。豚に煽てられて木に登っちゃあ、洒落にもならねえ」

その話を興奮しながら持ってきた、新入りの組員―――仮にこの人物をマフィアB氏とする、が拍子抜けするほどあっさりとした反応だった。

A氏はそれで興味は失せたとばかりに、再び週刊誌(下半身から社会を見るという一流の低俗雑誌だ)を広げたのだが、よく見ると雑誌の上下が逆さまになっている。

舎弟を可愛がるのに常に特殊警棒を使用する優しいA氏に「HAHAHA、そいつは逆ですぜ、兄貴」ともまさか言うことも出来ず、B氏は押し黙った。

室内に痛い沈黙が流れ、やがて、

「・・・ああ~、その、なんだ、おめー、まさかとは思うが、そいつに参加する気じゃあるめえな」

いかにもさりげない様子を装って、こそっと聞いてくるあたり、逆にA氏がこの一件にどれほどの興味関心を持っているかのよい示唆であった。

「あ、あの、まずいっすかね、やっぱり・・・」

新入りの収入というのは下についた兄貴任せで、とにかく金が欲しかった。この場は適当に誤魔化して狩りにでかけよう。B氏は賢明にも本音を口には出さなかった。

だが、

「まずいに決まってるじゃろ、ボケェ!!」

一転、くわっと目を見開き、つばを飛ばして力説するA氏の様子に、ビビリにビビった。先ほどのやりとり、ありゃ何だったのかと言いたくなるような激高ぶり。

ヤクザ稼業に従事する人種というのは、時に些細なことで激高する"短気さ"こそが、業界で一目置かれるための不可欠な要素の一つであり、ある意味職業上の適性としてあげられるのも確かである。このA氏にしても、意味もなく人を半殺しにすることなど日常茶飯事だったとはいえ、今回のこれはまさに地雷であった。

平身低頭、平謝りに謝りつつ、だがB氏はふとこうも思った。なんでここまで言われにゃならんのじゃあ、ワレ。

ボーモント叩きの尻馬に便乗して、うまく金をせしめるというのは良い思いつきではないだろうか。何せ、見たこともないような大金がかかっているのだ。何も殺し屋達にだけおいしい思いをさせることはない。加えて、組を一つつぶせる。

言うまでもなく、裏家業というのはそれがどんなシノギであるにせよ、利潤を生み出すリソースの上限が決まっている。そのため、時に武力闘争という形で表面化するリソースの奪い合い、即ち組織抗争にこそ、裏家業が裏家業たるが故の本質が隠れ潜んでいると言っても過言ではない。

ボーモントは家族経営が基本の昔気質な組で、人数も少ない。それは抗争に繰り出せる人間が少ないことを意味している。有名無実なだけで恐るるに値しない張り子の虎よ、とは当のA氏にして常々口の端に乗せていたところではなかろうか。

B氏は未だに発憤し続ける兄貴分をなだめ、すかし、頭を下げ続けつつも、恐る恐るそのことを指摘した。

すると、とたんにA氏は視線を外した。わざとらしく件の雑誌を広げながら、言葉を濁し、韜晦しつつも、A氏は釘を刺すことだけは忘れなかった。

「まあ、その、あれだ、うん、・・・・・・いいから、あそこにゃ手ェ出すな!」

些細な不幸ではあるが、B氏がその理由を知ることになるのは、全身の穴という穴から血を流しつつ、その人生の終演を迎える瞬間であった。






嵐が、吹き荒れていた。

血と殺戮の、嵐が。







「―――――来た。今、手前の路地まで迫ってる。かなりヤバイぞ、これは」

男達は、瞬時に戦闘態勢に入った。

「エディ、ロイを連れて反対側に向かえジェーンは退路を押さえろ」

指示を受けた者達は、無言で周囲に散っていく。戦いの場においてこのリーダーの指示は、最大限に優先して行わねばならない。その事を、彼らは今までの経験から知っていた。

殺し屋という人種は、およそまっとうな人間がつく職業であるはずもなく、大抵は食い詰めたヤクザが任される鉄砲弾、不名誉除隊させられた札付きの軍人や警官、命知らずの若者達(ストリートギャング)。そういったお天道様のあたる道を踏み外した者達の歩む、末路の一つ。

彼らは狩りに参加した者達の中でも数少ないプロだった。少なくとも、彼ら自身は自らをプロフェッショナルの集団だと信仰していた。

男達は着たきりのコートの前をしめ、ゆっくりと路地の壁の切れ目から身を乗り出す。分厚い煉瓦の壁越しにちらりと通りを伺う。ソレを眼にしたとき、思わず冷や汗が背を伝った。

ひたひたと、路地の曲がり角から現れたのは、若い女。

真っ黒な喪服のようなドレスを着込み、その端々から白い肌が見え隠れしていた。長い髪もだらりと垂れ下がり、顔面を覆い尽くしていて、そこから目玉がぎょろりと覗き、血のような真っ赤な唇が笑みの形を作っている。

女は黒いヒールのかかとを鳴らし、戦場となった大通りをするすると気楽に歩いていた。まるで、散歩をしているように。ホラーや怪談の類にしては妙にリアリティのある怪物だった。

そう、あれは女の形をした魔物だ。すでに何十人もの同業者が殺戮されている。それも一方的に、圧倒的に、これ以上ないくらいに鏖殺された。有り体に言って、バケモノだ。

その証拠に、あの女の影はこれまで見たどんな闇よりも深く、濃い。そして、全身に鳥肌が立つ程の殺意を発している。どす黒いオーラが女の全身を取り巻き、吐き気を催すほどのおぞましい気配が漏れている。

生命エネルギーの発露である"オーラ"を視認する能力は、もちろん彼らにはない。この世界の神秘、"念"についての知識もなく経験も皆無であった。故に、その感覚は別の言葉を持って認識されていた。

迫りくる死の予感を拭い去り、恐惶にも似た震えを払う。全身全霊で撤退を命ずる本能に、全力で逆らった。金の魔力が、正常な判断能力を蝕んでいた。

「ROCKN'ROLL A GO!GO!」

同時に、大小無数の弾丸が、女めがけて殺到した。

声で奇襲のタイミングがばれるリスクはあったが、飲み込まれそうになるくらい凶悪な相手の気配を跳ね返す為、出来うる限り大きな声を上げた。

銃撃は弾が尽きるまで続けられ、そして、女が動いた。

にっこりと優しげに微笑み、花のような笑顔を浮かべると、美しい唇を開く。

そこから悲鳴のような不協和音が漏れた、と思った瞬間には奇妙な現象が起きていた。

「馬鹿な・・?!」

男達は目を疑った。

黒い女を中心として、周囲の景色がどろりと歪み、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる。

銃口から飛び出した弾丸は、揺らぐ空間に触れると急激にその勢いを衰えさせた。そして、女の手前、ほんの数メートルほどの空中で、ついには静止する。金属の塊が、無様にもパラパラと落下し、カラカラと音を立てる。

揺らめきの正体は、何十何百と多重積層された、音の盾。それは弾丸の速度を減衰せしめ、直進を阻害し、ついにはその運動エネルギーをすべて奪い去った。如何に強力な兵器、武器でも相手に届かなければ意味はない。

「今度は、こっちの番ね」

波状に圧縮された超高周波を口から放ち、飛来する弾丸を無力化するという、常識はずれの防御手段を実現せしめた女は、何事もなかったかのように嘯くと攻撃を開始した。

人型音響兵器と化した女は、瞬時に膨大な量のオーラを生成、体内で凶悪な振動エネルギーに変換すると、一斉に放出する。

空間に、波紋が広がった。


「――――――――――!!!!!!!」


大量の空気が震え、音が死ぬ。

人の可聴域を遙かに超える音無き音。収束され、強力な破壊振動を伴った音波の渦。

それは、すでに、"音"等というレベルの現象ではなかった。アスファルトは巻き上げられ、あらゆるガラスが砕け散り、煉瓦やコンクリートの壁すらもグシャグシャに崩壊していった。

同時に、軋み合う金属にも似た、キィイインという鈍い音が響く男達の耳を苛む。耳の奥をかき回されるような痛みを覚え、無様に地面に倒れ伏した。

平衡感覚が働かない。吐き気がする。頭痛がする。まるで頭の中で巨大な鐘が鳴り響いているような。そう感じた瞬間には、体が宙を舞っていた。

吹き飛ばされる。何も見えない。脳が揺さぶられ、沸騰する。すでに痛みすら感じない。自らが地にいるのか空にいるのかそれすらもわからない。

致命的な威力の衝撃波は、瞬時に男達の中枢神経を侵し、苛んだ。音の凶器に脳を切り刻まれ、芋虫のように悶えながら、体中の穴という穴から血が流れ出す。

"音波攻撃―――――!!"

それが、彼らの最後の思考になった。

襲撃者達は藻掻き苦しんで這いずりまわり、絶命した。

「お馬鹿な子」

女は、酷く楽しそうだった。









「ん~、ミツリってば気張りすぎ。店を壊されたのがそんなに気にくわなかったのかニャア♪」

"鳴き女"の振りまく死と破壊に巻き込まれてはかなわんと、少し離れたところから、世にも邪悪な笑顔を浮かべてご満悦の幼女が一人。

「三年前を思い出しますね、ボス」

バトゥが口の端をゆがめながら、さも面白そうに追従した。

ついでに、うめき声を上げながらのたくっていた男の額に一発ぶち込んで"慈悲"を与えてやる。自分のあまりの寛容さに、バトゥは満足を覚えた。

「ハハっ、"狂犬(マッドドック)"バトゥ、"鳴き女(バンシー)"ミツリ、そして"殺し屋"ゴドー。確かに、あの日によく似ている。攻守は逆だが」

キャスリンは横倒しに宙に浮かび、椅子と化したハンプティに腰を掛け、優雅に足を組んだ。銅色の瞳を閉じ、夢見るように思索を巡らす。

バトゥ。マフィアにしては温厚すぎる男。だが、一度キレると見境無く暴れる元警察官。

ミツリ。組の傘下の飲み屋(バー)のママ。だが、かつては世界中の警察機構を震え上がらせたテロリスト。

殺し合いから始まったボーイ・ミーツ・ガール。紆余曲折を経て夫婦となったこの二人は、今でも組の最強戦力だが、かつてはこの二人すら、遙かに凌ぐ魔神がいた。黒く大きく、魂までも鋼で出来た殺人機械(キリングドール)そのもののような男が。

彼らを筆頭に、キャスリンの下僕共はいずれもヨークシンの闇社会に潜む怪物だ。強力な念能力者ではあるが、偏屈な性格が災いした業界の鼻つまみ者でもある。

能力者というのは、とにかく変わり者が多い。特に、念が強ければ強いほど、例外なくその人物の性格は歪んでいる。そんな連中を無理なく束ねるには、強力な力と冷徹な頭脳、そしてなにより強烈なカリスマが要る。以前は、あの男がその役割を果たしていた。

「あの時は僕らが守る側だった。境界線を踏み越えてミッドに流れ込もうとする馬鹿共を、ちょうどこの辺りで迎撃した。ああ、はっきりと覚えているサ。あの時も、ずいぶん歯がゆい思いをしたからネ」

この街は、今も昔も変わらない。互いに噛み合う毒蛇の巣穴だ。目の前の敵だけに気を取られれば、漁夫の利を狙う連中に、必ず後ろから突かれる。

「あの時、ボクはあえて戦いの火を飛び火させた。ヨークシン中のマフィア共を巻き込んだ大抗争に発展させた。誰もが敵となりうる混戦状態は、裏を返せば誰もがうかつに手を出せない膠着状態だ。おかげで、奴を叩くことにだけ集中することが出来た」

キャスリンは真っ赤な舌を出すと、チロリと唇を潤した。

上気した頬、愉悦の視線、クチュリとした水音が鳴り、"女"の顔で幼女が喘ぐ。

「今度も似たような状況を作ったよ。ヨークシンの二大巨頭、王大人とスカーフェイスの抗争だ。例のファイルを流してやったからね。付近のマフィア達はビビっちまって、こちらに手を出す余裕がない。ククッ、今夜だけで、いったいどれだけ人が死ぬんだか」

一転、さわやかな笑顔を浮かべ、ごっきげんな様子の自称・約百歳の幼女。

「・・・楽しそうだなあ、あいつら。あ、そこ押さえてろ、ヴィヴィアン」

絶縁性の手袋を着け、速乾性の硬化樹脂で固めたワイヤーをニッパで切断しながら、アンヘルは暢気に過ぎる連中を眺めて呆れていた。

路地のそこかしこには、当然のことながらワイヤーと、それに直結した罠が無数に張り巡らされていた。古来より、進撃を続ける突進軍を討ち留めるのは防塁であり、柵であり、あるいは無数に広がる地雷原だった。これもそれに近い、古典的な防衛線。

進路を遮られ、袋小路に陥った袋のネズミを平らげる。ただそれだけの単純過ぎるシンプルな作戦。それはとてもとても効果的だった。ただ一点、網にかかったのが、人食い虎の群れでさえなければ。

袋小路に殺到して、バタバタと撃ち殺される連中を尻目に、アンヘルはトラップの解体を進めていた。

多くは、感圧式地雷に、ワイヤでピンが抜かれるように施した古典的な仕掛け爆弾。無線操作でも起爆するし、赤外線センサーや地雷探知機の発する磁気を感知して起爆する仕掛けもあった。

いずれにしろ、中にたんまりと詰め込まれた爆薬が起爆すれば、念能力者であろうが無かろうが、等しくミンチになってしまう。必要十分な数を無力化し、進路を確保するのが彼女の役目だった。

傍らの小型大容量のコンデンサがうなり声を上げながら超高圧電流を発生させ、高出力の電磁波を振りまく。ジャマーが遠隔信管を無力化している間にめぼしいトラップを無力化しなければならない。できれば液体窒素が欲しかったが、贅沢は言うまい。

「絶対放すなよ、放すと死ぬぜ」

「あいあい」

地味な作業にぼやきつつ、アンヘルの作業を手伝っているのは、あのオカマだ。

バトゥやミツリにはこの手のスキルを求められるものではないし、キャスリンや異形の空飛ぶ丸い執事はといえば、あらゆる意味で問題外だ。消去法で残ったオカマは、意外にも手先の器用さを発揮し、細かい作業を難なくこなしてくれた(ベッドテクには自信があるの♪、とは本人の談である)。

本来ならリスクとをもなう直接解体よりも、爆薬でもろとも吹き飛ばしてしまった方が効率が良いし安全だが、橋梁や大通りに面した狭い路地、位置的にどうにもならないのものも幾つかあった。

最後の爆弾を無力化すると、我知らずアンヘルはため息をついた。

「・・・オーケイ、あらかた外し終わった」

吹き出た汗を拭い、装備を仕舞う。

「仕掛けた奴がボンクラで助かったよ。変に凝りすぎてるくせに、肝心なところで雑だ」

一個の爆弾に複数の起爆機能をつけるより、単純に爆弾そのものの数を増やした方がいい。時間も手間もかからず、解除するのも厄介だ。

こんな馬鹿げた仕掛けを彼女がしたら、あの男の張り手を食らっていただろう。

ひと息つくと、背嚢を背負い直し、傍らの武器を取る。

「でかした、嬢ちゃん。ここを抜ければ後は一本道だ。ミツリも俺も、全力で暴れられる」

バトゥが親指を上げてサムズアップ。さわやかすぎる笑顔がとてつもなく胡散臭い上に、頬には返り血がついている。アンヘルは頭痛を覚えた。

「・・・キョーコさん、あれで手加減してたんだ」

焼きつくされた鉄の塊、黒こげになった人体。先ほどの悪夢のような光景を思い出し、彼女は天を仰いだ。あの女性だけは、何が在ろうと敵にはすまい。

「うん、かな~り手加減してるよ、彼女。この辺りはまだボクらの縄張りだからね。あまり暴れすぎるとカタギにも迷惑がかかる。もう少ししたら奴らの勢力圏に入るから、それまで我慢だバトゥ君」

「さっさと"自前の銃"を抜きたいもんですがね、まあ、我慢しましょう。あと、少しだけは」

ケタケタと悪魔のように笑いながら、物騒な会話をする男と幼女を見て、アンヘルは悟った。うすうすと気付いていたことだが、この連中は正義の味方ではないし、ましてや善人でもないらしい。

だが、と訝しむ。

何故、この連中は、こんな派手な真似をしているのだろうか。

ここまでの道中、休む暇のない戦いの連続だった。死にものぐるいで挑んでくる哀れな連中を、控えめに言って虐殺した。殺戮を楽しむほど趣味が悪くはないつもりだが、戦闘行為に手を抜くことはありえない。

味方の最大リスクを回避しつつ、敵の最大効果点に、最大射程で、最大攻撃を、最大効率で叩き込み続ける。それは、彼女にとって当たり前の作業に他ならない。自ら戦うことを志願したのだ。それはいい。問題は、その"戦い方(ロウ)"だ。

屋敷を出てよりここまで、バトゥもキャスリンも、特にこれといった指示を出すこともなく、一行は『普通に歩いて』敵地に向かっていた。逃げも隠れもせず、堂々と正面から姿をさらしながら。殺し屋達はここぞとばかりに、街の暗がりから銃弾を浴びせてきた。

散発的に襲ってくる連中を相手に成り行き任せの戦闘を、文字通り力づくで粉砕し、蹴散らす。無数の屍の群れを築きつつ、決して歩みを止めることはない。

確かに、ここまで強力な念能力者が揃っているのなら、正面からぶつかった方が死体の生産効率が良いだろう。だがこれでは、敵に居場所を知らせて回り、あえて罠に頭から飛び込むようなものではないか。この連中の持つスキルならば、もっと効率の良い戦い方はいくらでもあるだろうに。

これでは、まるで・・・

その時、戦闘の高ぶりで精度を増した聴覚が、バシュっという独特の発射音を捉えた。

瞬時に思考を切り替え、自らを戦闘のためだけの機構として機能させる。

発射方向、全周囲。発射距離、600メートル。同時攻撃回数、全12発。

彼方より来たりくる無数の光。滅びを携え飛来する弾頭。見覚えのある後方噴射(バックブラスト)が夜闇に輝き、その安定翼が独特の風切り音を奏で、噴煙が空を染める。

それは、周囲のビルの屋上から一斉に発射された、ロケット弾の群れ。

「伏せろ!!!」

叫びながら、彼女は掛け値なしに死を確信した。

攻撃範囲が広すぎる。射程は遠い。威力は致命的。打つ手無し。

この種のロケットの弾頭には時限信管が用いられている。例え、ミツリが先ほどのように能力を駆使して防いだところで、弾頭は必ず起爆する。

そんな刹那の不安を一笑に付したのは、傍らの白装束の男だった。

「ビビんなよ、嬢ちゃん。こういうのはな、ビビったら負けだ」

言うやいなや、バトゥの全身から一瞬にしてオーラが吹き出した。

極めて薄く広く、バトゥの体を中心にして半球状に広がり続ける、巨大な"円"。半径は軽く200メートルを超える。これが、この男の極めて正確な射撃の種だった。

"円"は現れたときと同様、一瞬で消え去った。"円"の大きさと展開時間を両立させるのは難しい。だが、バトゥにはもうそれだけで何をどうすればいいのか分かっていた。

白いタキシードの裾を優雅に翻し、シガリロの煙を美味そうに吐きながらサングラスをずり降ろす。狂気に血走る琥珀色の瞳を露わにしてニタリニタリと笑う男。

迫りくるロケットを、この一瞬のみアンヘルは忘れた。男の狂気が空気を伝い、身震いするほどの怖気が背を伝う。

気の良い男、インテリヤクザ、白装束の伊達男、―――――NON。今の今まで、この男の何を見ていたというのか。

バトゥは愛用の二丁拳銃を空へと向け、続けざまに引き金を引いた。黒い銃口から赤い光が飛び出し、空に線を引く。赤い直線が、網膜に焼き付いた。

瞬間、爆炎が舞い、煉獄のような赤い炎が夜空を染め上げる。轟音が轟き、破壊された金属片が火の雨となって降り注ぐ。

ただ一発の拳銃弾が、ロケット弾を迎撃した。

続けて、パン、パン、パンとテンポ良く、〇.一秒の早撃ちがロケットの弾頭を正確に射抜く。

一発などは、撃墜したロケットの誘爆に巻き込み、一度に二つたたき落とした。

アンヘルは飲まれたようにその光景から目がそらせない。我を失い、魅入ってしまう。

一発撃ち漏らしただけでも、トラップの誘爆を引き起こし、周囲一帯を木っ端微塵に砕くだろう。あまりに狂気の沙汰だが、白装束の男は楽しそうだった。その口元が、何事か口ずさむ。楽しそうに、踊るように。


「Livin' La Vida Loca!(狂った世界に祝福あれ!)」


二丁拳銃を回りながら乱射し、鼻歌交じりに飛来するロケット弾を片っ端から撃墜する男。

気付いたときにはロケットはすべてたたき落とされていた。

噴煙が広がり、夜天を覆う。焦げ臭い火薬のニオイが、辺り一帯に満ちていた。

「・・・どんな弾丸だ。初速が早すぎる。目で追いきれなかった」

それだけ言うのがやっとだった。

「特注の強壮弾だよ。数が残弾より一つ多かったから、少し焦ったかな」

全然そうは見えない。男は愉快な射的ゲームを済ましたように、どこまでも気楽で楽しげだった。

この男のしでかした事は、言ってしまえば単純なのだ。

恐らく、とてつもなく無茶な炸薬を詰め込んだ弾丸を込め、念で強度を補った拳銃で発射する。"円"で位置と距離を把握し、"凝"を凝らして狙いを付け、強化した筋肉で反動を押さえながら、引き金を引く。

もしかしたら、操作系、放出系の能力を併用しているのかも知れないが、それだけのことなのだ。

ただ、それだけのこと。

「・・・畜生、まるで悪夢だ」

爆弾解体の疲労と緊張に、それが解けた直後の不意打ち。思わず、少女の口から本音が漏れた。

バトゥは笑うと、彼女の髪をわしゃわしゃと撫でた。その笑みには、先ほどまでの狂気は含まれていない。ただ、優しそうな、元気づけるような微笑み。

つい、その笑みに、魅入られてしまう。

心臓が、高鳴った。

「そうさ、嬢ちゃん。念ってのは、狂気の沙汰を『まかり通らせる』デタラメだ。敵も味方も、こいつを使って殺し合う。そりゃあ、狂ってるだろうよ。だが、もう逃げられねえぜ」

バトゥの手が唇をなぞり、甘い声が耳元で囁く。男が身に纏う硝煙と、シガリロの芳醇な香りが鼻腔を刺激する。

何故か、頬が火照った。

「あんたは自分で選んだ。望んでこっち側に足を踏み入れたんだ」

少女は、思わずその言葉にコクリと頷いていた。

闘争の意志を持って、一度鉄火場に足を踏み入れたのならば、どこまでも闘争のルールに従わねばならない。

彼女に植え付けられた鋼鉄の魂が、そう命じていた。



















「なんだ?!何をされた?!」

指定されたポイントで、指定された武器を持ち、指定されたタイミングで打ち込んだロケット弾。相手が木っ端微塵でも金は払う。その言葉を信じながら、引き金を引いた。

結果は、全弾撃墜。

無数の白煙が伸びた先、派手な花火が見られるという下衆な期待は、一瞬で驚愕に変わった。

だが、彼らには驚愕する時間も与えられなかった。

「へっろーう、はじめまして♪いけないオス豚ちゃ~ん、お・し・お・きの時間ですよ」

思わず周囲を見回し、屋上の入り口を振りかえる。だが、誰もいない。自分たち以外には誰も。なら、今のは誰の声なのだ。ここは、30階建てのビルの最上階なのに!

最後に頭上を振り仰ぐと、果たして、そこには珍妙な物体が浮かんでいた。

スーパーマンのように、両手を突き出して飛行する丸っこい物体。球場の胴体には細長い手足が付いていて、首と頭は胴体と一体化している。黒い執事服を身に纏った怪人が、宙に浮かんでいた。

その背中で腕を組みながら、仁王立ちしているのは、鎧装束の少女。

赤黒いゴツゴツした鎧を着て、肩には冗談のように馬鹿でかい剣を担いでいた。鎧は全身をすっぽりと覆い隠し、唯一露出した頭の部分にだけ、ちょこんと幼女の首が飛び出ている。

「ボクの名前は、キャスリンちゃん。よろしくね♪」

幼い少女の姿で、悪魔が笑う。にっこりと、無邪気な笑みで。

小柄な体躯に冗談のような大剣を抱え上げ、少女はぴょこんと男の上から飛び降りた。

着地の瞬間、ズシン!という鈍い音が響き、ビルが揺れる。踵を揃えた両足で、着地点のコンクリートにヒビが入り、真下にいた男がミンチになった。

呆然とする男達を尻目に、グチャリ、ズチャリと赤黒い"肉のズボン"を脱ぎ捨てると、幼女は暴風のように突貫した。

剣が頂点まで振り上げられ、問答無用で叩き落す。男の頭頂部から股間まで、ブチブチと肉を引きちぎり、骨を砕きながら、唐竹割に切り下ろす。

二枚に裂かれた男の"ひらき"が転がるのと、仲間の死に悲鳴が上がるのは同時だった。

そこからは、もう悪夢だった。

小柄な少女が、身の丈よりも巨大な大剣を片手で振るう。

袈裟懸け、横凪ぎ、唐竹割。むちゃくちゃなチャンバラを見ているように、無造作に剣を振り回す。その度に、挽肉が出来た。

大剣に触れただけで、掠っただけで、肉が潰れ、骨が砕かれる。空いた片手で男の頭を殴りつけ、グシャリとトマトのように砕いた。

そこには技巧も何もあったものではない。力任せの強引な円舞。コンクリートは裂け、人体が消し飛び、巻き込まれた給水塔が宙を舞う。

相手が大柄な巨漢なら、鋼の筋肉と体躯を備えた威丈夫ならば話は分かる。理解の可能な恐怖として対処しようという気も涌いてくる。だが、駄目だ。これは駄目だ。ソレを為しているのは、見た目10才ばかりの少女なのだ。

まるで冗談のような光景。悪夢の国からきた少女(アリス・イン・ナイトメア)。

小柄な少女の体重を超重量の鎧で補い、大剣とバランスを取る。そして、膨大な質量の塊を『桁外れの膂力』で無理矢理に振り回す。ただそれだけの戦闘法。極め付きにシンプルで、見境のない、異常な暴力。

少女が長い舌を出し、頬に付いた血をペロリと舐めとる。その仕草は、酷く妖艶だった。

「今日のボクはお肉屋さん、とびっきり上等のミートパテをこさえてア・ゲ・ル♪」













…to be continued



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep10
Name: kururu◆67c327ea ID:d62afe87
Date: 2010/09/22 12:46
ようやく仕事が落ち着いてきたので久々に更新します。肩慣らしのつもりで書いてますので乱文失礼。










青い炎のような目が、バトゥをのぞき込んでいた。

奈落の底のように青い瞳。静かに、無慈悲に咎人を焼く青い炎を思わせる。暗闇の中でアンヘルの瞳孔は開ききり、瞳は恐ろしく澄んだ青に染まっている。

その眼を見つめていると、不思議と気分が高揚してくるのをバトゥは感じた。

挙動も、振る舞いも、言動一つとってもこの少女はあの男と違う。だが、その根底に根ざす哲学は同一のものだ。小柄な少女を通して、バトゥは巌のような男を幻視した。

少女の瞳が濡れたように光り、わななく唇が何か言葉を紡ごうとして、

「相変わらず、君は殺し合いの最中に妙なフラグたてるのが得意だよね、バトゥ君♪」

幼女の声が、不意に割り込んだ。

「ねえ、ほれた?ほれちゃった?何気にこれって重要だから、できるだけ詳しく♪」

顔を赤面させ、肩を震わせている少女をツンツンと突いてからかう幼女。

この男勝りな少女の珍しい一面を見たなぁ、と思いつつ、この後彼女が盛大に爆発するのを予想して、バトゥは一歩後ろに下がった。巻き込まれてはかなわん。

ところが、

「気をつけなよ、バトゥ君、こういうファザコン全開のお嬢ちゃんに限って、一度火が点くと感情を持て余して暴走したりするんだよネ♪。現代風に言うと・・・・そう、ツンギレ?」

あれ、ヤンギレだったっけ?等とこちらを巻き込む気満々の幼女。バトゥの眉間に青筋が浮いた。

さすがに一言言ってやろうとした瞬間、バトゥは背後に強烈な殺気を感じて振り返った。

「・・・楽しそうねえ、ミスタ。お嬢ちゃんも、まんざらじゃないって女の顔してたしぃ~」

ねっとりと全身に張り付くような、不気味な殺気の元をたどれば、指をくわえながらこちらを殺意(ジェラシー)全開で睨め付けているオカマが一人。

キャスリンが背伸びすると、バトゥにだけ聞こえるように、耳元で囁いた。

「あれも感情、というか欲情を抑えられないタイプだねェ。君とは違うタイプの狂犬だ。後ろには十分気を付けた方が良いヨ♪」

とにかくこの老人、ご機嫌である。

バトゥは思わずため息をついた。

「―――さて、漫才はここまで。そろそろ旧市街(オールドジェイゴ)だ。ここから、奴らの勢力圏になる。気合入れろよ、若造ども」

不意に、キャスリンが、口調を切り替えた。

おちゃらけモードからシリアスモードへ。この切り替えにうまく付いてこれないと、この組でやっていくのは難しい。気が付いたときには、いつの間にかすべてボスのペースに持っていかれるのだ。オカマと少女も、無理やり不味いものでも飲み込まされたような顔をしていた。

「見ての通り、ここは入植期に作られた古い街だ。市の再開発からも取り残されて、今じゃほとんどが廃墟だ。タチの悪い連中のたまり場になってる。姿を隠すにもトラップを仕掛けるにも絶好の場所、というわけだ。生憎と、陸沿いではここを回らないとやつらのアジトには抜けられない」

複雑に入り組んだ地形の懐奥深くまで敵を引き込み、各個に分断、撹乱し、叩く。

絵に描いたような戦術がすぐさま脳裏に浮かんだ。バトゥが敵方なら、必ずそうする。

襲撃するには絶好、防ぐには至難。

「さて、アンヘル君。君なら、あの男に"戦争"のイロハを叩き込まれた君なら、この状況、この局面、どう戦う?」

挑発的な笑みに、少女は迷うことなく即答した。

「大火力で建物ごと残らず吹き飛ばせばいい」

少女の顔は、限りなく真顔である。

邪魔にならないようにニット帽に括り付けてあった暗視スコープの電源を入れ、周囲をくまなく見回している。恐らく"凝"を併用しているのだろうが、正直、彼女のレベルではそれなりの能力者が本気で"隠"をしたら見破るのは難しいだろう。

「そこら中に隠れてるな。"絶"のうまい奴が、いる。このまま突っ込んだら、飛んで火にいる何とやらだ。・・・なあ旦那、TOWか迫撃砲はないか。テルミットをばら撒いてもいい。辺り一帯焼きつくそう」

少女は、どこまでも真顔だった。

確かに、どんな優れた装備を持ち、十分な練度を持った兵士でも、市街戦では実力をを発揮できない。無数の障害物が敵の姿形を覆い隠し、効果的な支援もままならない。そんな不利な状況にわざわざ飛び込むことはない。

「うん、いいアイディアだ。決まりだな」

満足げに頷くバトゥの脛を、キャスリンが蹴飛ばした。

ごつい具足の棘が刺さり、悶絶したバトゥを冷たく見下すと、幼女はアンヘルに向かってニッと人の悪い笑みを見せた。

「良い子だ、100点満点だね。もし、ここがどっかの紛争地帯や、前人未踏の秘境なら、だけど」

アンヘルは鼻で笑った。

「いまさら外面を気にする余裕があるのか?相手は戦車まで持ち出して来たんだ。それも、市街地のド真ん中で。あんたらマフィアってのは、そんなことまで隠蔽できるほど力があるのか?」

青い瞳は、凍てつくような鋭い眼差しを湛えていた。

「どう考えても正気じゃない。次に巡航ミサイルを持ち出されても不思議には思わないね、オレは」

この少女、念に関しては未熟もいいところだが、見るべきところは見ているようだ。

「ン、まあ。確かに、ネ」

キャスリンも苦々しい口調でそれを認めた。

ここにきて、豚野郎の思考が読めなくなってきている。

毎年、アンダーグラウンドオークションが開催される都合から、この街を支配する五大組織のみならず、マフィアンコミュニティーからも多額の金が、この国の政府中枢には流れている。

市長を中心としてヨークシンに関わる政治機構は残らず鼻薬を嗅がされているし、いざとなれば個人への脅迫手段も無数に抑えている。

だが、それだけで手綱が握れるほど国家という奴は甘くない。

自分達の庭でこんな派手な真似をされたとなると、さすがに軍警察組織や情報機関が黙っている筈がない。世界最高の経済力と、最強の軍隊を有するこの国を、敵に回すことになる。

例え、今日の一夜を生き延びたとしても、この国には居られなくなる。それどころか、落とし所次第では、地の果てまでも追いかけられ、暗殺される。

国家を敵に回すというのは、そういうことだった。

















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep10

















部屋の中は異臭で満ちていた。

食い散らかされたジャンクフードの紙袋と、放り出された汗まみれの衣類、そして山と積まれて朽ちたポルノコミック等が乱雑にうち捨てられた暗い室内。雑多な食べ物のカスと、複数の人間のあらゆる体液が入り交じった饐えた臭いで息苦しいほどだった。

その臭いの元は、ほとんど裸同然の姿にさせられた女達だ。

全員が十代から二十代の若い女。髪の色も肌の色も様々だったが、全員が整った顔立ちをしている。身に纏っているのは、局部むき出しのボンデージドレスに、ボディピアス、もしくは極彩色のランジェリー。首に巻かれた黒革のチョーカーが、犬の首輪のように女達を捕らえ、鎖に繋いでいた。

目を見開き、様々な体液を垂れ流しながら、無造作に床の上に転がされている女達は前衛芸術のオブジェのようであった。

部屋の中央には、革張りのオートクチュールの椅子がデンとしつらえられ、安っぽいスチール製の机がその周りを取り囲んでいる。机の上には、最新式のデスクトップコンピューターがいくつも唸りをあげていて、大量の廃棄熱を部屋の中に撒き散らしていた。

300キロもの体重を無理なく支えられるように特注された椅子に身を沈め、滴る汗が指を伝ってキーボードに付着するのもかまわず、ブッディご機嫌な様子でただただキーを打ち続けていた。

ほぼ球体同然に膨れあがった脂肪の塊から、ひょろひょろと生えるようにして伸びた短く不恰好な手足。度重なるホルモン剤の投与のせいで、きれいにはげ上がった頭部をぺちぺちと叩きながら楽しそうに笑うたび、分厚い脂肪がゼリーのように揺れた。

脂ぎった肌に、次から次へと吹き出るように玉の汗を浮かべ、それがパソコンの廃棄熱と相まって、エアコンが追いつかないほどの湿気と温度を提供するため、部屋の不快指数は上昇する一方だった。

部屋の壁という壁、天井という天井には大型のディスプレイが何十何百と鈴なりにぶら下がり、ヨークシン各所に設置された監視カメラの映像が映し出されていた。特にダウンタウン、ラチャダ通り一帯の惨状を。

それは、ヨークシン市警察の設置した犯罪抑止用監視カメラからのライブ映像だった。

本来ならば軍事施設なみにセキュリティが強固なシステムだが、ある市警関係者から通信プロトコルやID、パスワードの類をすべて提供させていたので、利用するのは簡単だった。今年ジュニアハイスクールにあがったばかりの娘が、ちゃちなステージの上で全裸に金粉まみれの姿で愉快に踊っている動画をネットに公開したら、件のシステムを納入した会社の役員を務める男は、半狂乱になってこちらの欲しがっていたものをくれてよこした。

それで難しい問題の殆どはクリアーできたのだが、実際にそれを自在に運用できるように機器をそろえて調整するのは存外に手間がかかった。機材はともかく、まさかシステム調整まで民間に発注するわけにもいかず、結局、裏家業に通じた専門家が必要だったのだが、幸いブッディにはその心当たりがあった。

「オッケイ、ミルキー、システム立ち上がったよ。ギリギリで間に合ったね、よーくみえてる。毎度毎度良いお仕事してくれるジャン♪」

「"当たり前だ!確認したらさっさと金払えよ、デブ"」 

ブッディに負けず劣らずの体重を誇る親友は、乱暴に言い捨てて電話を切った。

同時に、机の上に無造作に転がされていた別の携帯電話の一つが、新たな着信を告げた。

女の絶頂のあえぎ声がランダムに再生される愉快な音を耳にしつつ、ブッディはぶっとい指を器用に操って電話に出た。

「もしも~し、やあミッキー」

「"ブッチさん、こっちは地獄だ!魔女の鍋の底だよ、ひでえ有様だぜ、血風呂(ブラッドバス)だ、まったく。・・・おいおい、あそこ、死体が山になって積み重なってるぜ!初めて見た!"」

報告になっていいない報告を聞きながら、ブッディは声を出さずに笑った。

恐怖と混乱と興奮が八対一対一の割合でブレンドされた嬌声、最高にハイって感じにラリッている。肝の小さいこの男が、酷くビビっているのが容易に想像できた。生(ライブ)で見ると、さらに凄惨な光景なのだろうなあ、とブッディは羨ましく思った。

「ごきげんだね、ミッキー。でもねえ、こんなもんじゃあないよ。奴らが、あの人でなしのろくでなし共が、こんなモノで済ますもんかよ」

天井の右隅に括り付けられた画面の一つに、肉厚の剣で千切り飛ばされた男の首が映っていた。無理矢理に切られたギザギザの傷口からは多量の血液が流れ出し、土埃や小石が張り付いて汚らしい。カッと見開かれた両目から、血が涙のように滴っていた。

血の臭いが画面の向こうから漂ってくるような気がして、ブッディは勃起した。重度の糖尿からくるEDを患ってから、久しくまともに味わったことのない感覚だった。

思わず唾が沸いてきたので、傍らのスナックの袋をあさった。指の間に挟むようにして形を崩さず口元まで運び、ベロの上に乗せてから租借する。ハバネロを利かせた悶絶するくらい斬新な辛味がたまらない。

「死ぬよ。もっと死ぬよ。もっとたくさん、もっともっとたくさん。素敵だよねェ、楽しいよねェ、きっと奴らはたっぷり死なせて、だからたっぷり殺されるんだ」

電話の奥から一瞬、息を呑む音が聞こえた。

「"へ、ヘヘ、へ~~、う、噂の三年前の戦争ってのも、こんなに派手だったん、ですか?"」

どこか怯えたような声に、ブッディはにんまりと笑うと、巨大なナメクジのような舌で唐辛子パウダーと油でまみれた指を舐めた。

「ああ、思い出すねえ、懐かしいねえ、三年前。あの夜もそうだった。ああやって、僕の手下は皆殺しにされたんだ」

当時も、ブッディはそれなりに優秀な私兵集団を抱えていた。頭数だけなら、今よりもずっと多かった。

何せ、念を使える者だって10人以上いたのだ。もっとも、単に念が使えるだけ、というお粗末なレベルでしかなかったが。それでも常人が相手ならば十分以上に役立った。

金を貰って人を殺したがる殺人狂はごまんといるし、極普通の人間だって使いようによっては役に立つ。馬鹿と何とかは使いようなのだ。その程度の使い手を数人囲っておけば、殺人代行を維持するのに支障など何もなかったものだ。

「そう、思っていた時代が、僕にもありました」

だから、ツケを支払わされたのだろうなあ、と思う。

確かに、当時は調子に乗っていた。奢っていた。勢いづいていた。

自らの王国を築き上げるために、自らの腹を肥やすために、自らの欲望を満たすために、それこそ何でもやった。もっとも、それは今でもそうなのだが。

だが、確信していた。それが現実になることを。

あの奇妙な幼女が、地獄のような連中を引き連れてやってくるまでは。

「あの時、奴らが目の前に現れた時、僕はね、命乞いをしたよ。みっともなく、まるで豚のようにさ。やれと言われれば、あの男のケツの穴だって喜んで舐めたよ、たぶん」

切り落とされた耳の痕がうずく。こそばゆい感覚に、ブッディは頭の横をかいた。指の油がこすれて、ぬちゃりと不快な音を立てた。

「でもねえ、またあの地獄みたいな景色がまた現れたのに、不思議なもんさ。今度は、これを待ち望んでいた」

ブッディは傍らの床に放置していた少女を、床から引きずり上げた。脂肪で膨れあがり、皮がひきつったボンレスハムのような腕と、ぶっといソーセージのような指で撫で回す。

黒い皮のゴスパンクドレスを着せて、長い金髪に白い肌、細身の体をした年端もいかない幼女。顔立ちは、キャスリン・ボーモントに生き写しだった。もちろん、そう整形させたのだ、ブッディ自身が。

赤い色素を無茶苦茶に注射された少女の瞳孔は開ききり、すでに視力を失っている。

「"・・・ブッチさん。悪いこと、考えてるでしょう"」

電話越しの声からは、いつの間にか震えが消えていた。代わりに、クリスマスの玩具を待つ子供のような、期待と興奮が伝わってくる。

よだれを垂らし、痴呆のように瞳を潤ませる幼女を股間にまたがらせ、ブッディは悦に入った。柔らかいほっぺたに、べろりと舌を這わせる。

床には、大量の"D・D"と、何本もの注射器が転がっていた。

「うん、ミッキー、考えてるよ。とっても、悪いこと」

もうすぐ、本物が手に入る。

「でさ、金に目のくらんだ連中がいくら死んでもかまわないけど、これじゃちっとも面白くな~い。そろそろ僕らのターンにしようよ」

ディスプレイの青白い光を受けて、ブッディの3センチはありそうな分厚い肉の眉に、切れ目のような笑みを浮かんだ。吐き気を催すような、醜悪な顔だった。

背後を振り返る。

転がされた女達の群と、その間を縫うように設置された、無数のドラム缶。

「さあ、君らの最後のお仕事だよ」

ディスプレイの燐光に照らされ、缶の表面にペイントされた『DENGER NO SMOKING』の文字が浮かび上がった。










町は戦場となっていた。

飛び交う銃弾、ぶっとぶパトカー。控えめに言って、湾岸沿いのラチャダ通り一帯は火の海だった。

おっとり刀で駆けつけた警官(ポリ)どもが、どちらとも知らない攻撃に巻き込まれては宙を飛ぶ。

通りを一望できる雑居ビルの屋上から、眼下の惨状を見やり、リィロ・ロイドはうめき声を上げた。

兄のマイケル・ロイドも、隣のビルの上から同じ光景を目の当たりにしているはずだった。

「・・・アレ、やばくね?」

オペラの舞台に立っているかのような黒髪の美女。

映画から抜け出してきたような、女ランボーばりの乱射少女。

ご機嫌な様子で人を惨殺する甲冑姿のゴスロリ幼女。

刀に付いた血を長い舌で舐めとる、白い討ち入り装束も見事なオカマ野郎。

既に地球人類かどうかも怪しい丸い執事は余所においても、かろうじて見た目的にマフィアらしいのは、サングラスをかけた二丁拳銃の男だけ。だが、白いタキシードという時点で明らかに浮いている。

まさに奇人変人大集合、チンドン屋でもやらせれば流行るだろう。リィロ・ロイドは、負けず劣らぬ濃い面子の自分の仲間を余所において、呆れていた。

だが、見た目に騙されてはイケナイのである。

悪魔は人の皮をかぶる。相手が人畜無害そうな老女だろうが、ぼいんぼいんなギャルだろうが、保護欲ぽわわんな幼女であろうが、皮になったらかぶられてしまうのである。

念能力者は人の皮をかぶる。

ただし、皮をかぶっているだけで、中身はまっとうな人間様ではない。しかも、強力で狡猾な能力者ほど、普段は常人を演じているのでタチが悪い。

故に、人を見かけたら念能力者だと思え、これ常識。

能力者を見かけたら四の五言う前にまず殺せ、これ鉄則。

生け捕りなどという甘いことは絶対に考えてはイケナイのだ。

そんなことは、殺し屋生活ウン十年のリィロ・ロイドにとって言うまでもないことだった。

いつも仲良しリッキー&ミッキー。一度食らい付いたら絶対放さず、地の果てまでも追い続け、じっくりねっぷりいたぶり殺す。"ラチャダ通り"の恐怖の双子。

そんな彼の心境を、素直に言い表すとこうなる。


「約束が違う!」


ボーモントの念能力者が、あれほどまでにバケモノじみているとは、まるで予想もしていなかった。

気分は、ろくにレベル上げもせずにサクサクとイベントだけ進め、魔王城に乗り込んだ勇者か、もしくは経験値1のスライムか。正直、さっさと逃げ帰ってあったかいベッドにダイブしたい。

リィロの念能力は、策敵性能に秀でた力だ。

玩具の銃の形をした念獣に、標的の臭いを記憶させることで、相手がどこに逃げ隠れても居場所を正確に把握することが出来る。

もちろん、予めボーモント・ファミリーの主立った連中の"臭い"はすべて念獣に記憶済みだった。これもひとえに"臭い"を収集するため、朝もはよからポリバケツに頭を突っ込んだ成果だ(能力の詳細を知られないように、これらの作業は兄弟が分担して直接行った)。

ホームレスに混じってゴミを漁るのは屈辱的な経験だったが、おかげで仕込みは万全。

この能力の強みは、必ず相手の先手を取れることにある。

相手の動きを先読みして攻撃をかわし、いつでも好きなときに完璧な奇襲をかけることができる。

リィロの経験では、敵がどこにいるのか、どこに潜んでいるのかさえ分かってしまえば、後は数で囲んでボコってしまえばどんな能力者だって楽に殺せる。馬鹿な手下に物騒な武器を"わんさか"もたせ、後は高みの見物というのが、基本的な彼らのやり方(スタイル)だった。

故に、この"狩り"における二人の役割は、いつも通り標的の居場所を把握して連絡すること。これにつきる。

完璧な作戦だ。

否、完璧な作戦"だった"。

ところがどっこい。リィロの強いた完璧な筈の包囲網は、完璧に瓦解している。

「あーもー、なんつーチート!あっちだけズルして無敵モードかよ!」

ムキーっと髪をくしゃくしゃにかき乱すなど、人生初の経験だった。

これ以上ダラダラと役立たず共を投入したところで埒が明かない。金を貰って人殺ししたい連中はごまんといるので補充には事欠かないが、これではラチがあかない。埒をあけてくれるトランプを投げつけるラテン系の伊達男もいないので、自分達が直接出張らねばなるまい。それはぞっとしない想像だった。

何より、致命的なのは、あの女だ。

黒い髪を振り乱して、冗談のように破壊を振りまく黒髪の女。

あれには、すげく見覚えがある。つか、ぶっちゃけ、見覚えなぞあって欲しくはなかったが。

「・・・ありゃあ、ねーよなー。あんなのとガチンコしたら死ぬじゃん、俺」

リィロは、かつて兄のマイケルと共に、無頼漢どもを取り締まる側にいた。

だが、検挙した犯人を必ず死体にしたことから、すぐに国を追い出され、流れ流れて今では金づくで人を殺す仕事に転職した。ぶっちゃけ、こっちのほうが余程性に合っているので、転職は大正解だったのだが、以前の職場の経験はそれなりに役立っている。

あの、ミツリとかいう女。

顔にはまったく見覚えがないが、"あの能力"はよく知っている。警察組織に所属したことのある人間ならば、誰だって知っている。

鳴き女(バンシー)。

かつて世界中の警察組織を震え上がらせたテロ組織、"黒衣の楽団(ノクターン)"の大幹部。

楽団そのものは数年前、世界中の警察組織が手を組んだ一大殲滅作戦の末に壊滅した。

主立った幹部は全員が戦闘の末に殺害され、生き残りも確認されていない。その筈だ。

だが、あの能力。

奇声に合わせてオーラを飛ばし、聞く者を無差別に殺戮する、あの恐怖の能力は間違いなくかの有名なテロリストの証だ。

その威力は噂通りに強烈で、虎の子の戦車三台があっという間にスクラップ、いや、熔け固まって文字通りの鉄塊になってしまった。戦車の買い付けに奔走したリィロだからこそ、そのデタラメ具合がよく分かる。

「生きてたなんて聞いてねェ!」

恐怖と混乱が頂点に達したとき、リィロは懐に手を入れ、一本の葉巻を取り出した。

乾燥させた葉っぱをそのままくるくる巻いただけの雑な葉巻。グラム数万ジェニーの高価な葉っぱに火をともし、煙を心ゆくまで吸いこんだ。

こいつは強烈w 安っぽい合成麻薬とはモノが違うw

「・・・・・・ああ~、なんかもうどうでもよくなってきたなぁ、本当」

思うに、人間にとって一番大事なのは心の平安ではないだろうか。昔、教会で習ったことがある。『右の頬を叩かれたら、左の頬を引きちぎられる前にトンズラこきなさい』、と。

人、それを現実逃避と呼ぶ。

「"まったく、トンでもない連中だね"」

スパッーっと煙を吹き出して一人ご満悦のリィロの目の前に、数匹の蝶が舞い降りてきた。虹色の光を纏った銀色に輝く不定形の蝶。

その正体は、もちろんリィロも知っていた。

「だ、旦那ァ!!」

脳みそが一瞬で覚醒した。

「"やあ、リィロ君、高みの見物かい。まあ、私も人のことは言えないがね"」

やや聞き取りづらい、ノイズ混じりの機械音。

凶悪なテロリストとして指名手配されているあの男は、連絡をよこす際にも盗聴や逆探を警戒して、決して携帯電話を使わない。

「勘弁してくれよ旦那。正直、アレに正面から向かうのは自殺と同じだ」

名言だ、とリィロは思った。声には疲労の色が濃い。

「"私もだよ。互いの長所短所を補って遠中近距離を完璧にサポートしている。まるで動く要塞だ。加えて、上空のキャスリン嬢の動きも不気味だ"」

リィロは自分の耳に深刻な健康被害が生じたのではないかと疑った。

「上空?・・・空、飛んでるの?マジで?」

リィロはサングラスを外すと、空を見上げて"凝"をした。

確かに、何やら丸っこいシルエットがプカプカと浮いている。その上には、幼女の形をしたものが優雅に足を組んで腰掛けていた。

「うっわ、本当に飛んでる。そっかあ、念能力者って空飛べたんだぁ」

ノーベル奇天烈賞をねらえそうな大発見だった。

「"うむ、まあ、あらかじめこうなるだろうことは予想していたので、ブッディ君と準備を進めていたプランがある。聞きたまえ"」

なら最初から教えろよ、という呟きは口中で消えた。

「"まあ、単純なプランさ。古今東西の用兵の基本だ。敵戦力を分断して、各個撃破する。彼らと違って、我々にはチームワークは存在しない。無理矢理、一対一の状況を作り出す以外に手はあるまい"」

リィロは頷いた。確かに、一対一ならまだ勝ち目がある。

「"彼らがこのままルートを変えなければ、いずれラチャダ通りから、港湾沿いのリバーサイドに抜ける。そうすればバルバロイは目と鼻の先だ。ただ、そこまでいくには、途中で湾岸の再開発地区を通らなければならない。あそこなら障害物が多くて仕掛けやすい"」

リィロは脳裏にダウンタウンの地図を広げた。

オールジェイゴはダウンタウンの中でも、放棄された無数の廃ビルで埋め尽くされていて、襲撃するには絶好の場所だ。

そこの住人も、重度の麻薬中毒者や精神異常者、殺人鬼、逃亡中の犯罪者等、ヨークシンの中でもとりわけタチの悪いのがそろっている。彼らは基本的に自分以外の人間を等しく憎悪している。弾除けくらいにはなるだろう。

「"彼らもここにくるまでに弾薬をそれなりに使っただろうし、多少は疲労もしたのではないかな。そこで、だ。もうすぐブッディ君のよこした増援が到着する。"彼女ら"が時間を稼いでいる間に、私の方で大きな花火をあげることになっている。ま、それでケリがつけばそれでよし。最悪、強制的に彼らを分断するくらいはできるだろう"」

クツクツとこれ以上ないくらい、薄気味悪い笑い声が聞こえてきたので、リィロは戦慄した。

この無差別大量破壊をこよなく愛するテロリストが機嫌よさそうにしている時は、いつも決まってとんでもない事を起こす。

「"発奮したまえよ、リィロ君。上手くいけばみんなが幸せになれる。つまり、彼らはとてつもなく不幸になるだろう"」















…to be continued



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep11
Name: kururu◆67c327ea ID:0f854f34
Date: 2014/03/15 17:47
感想ありでした。長らく放置でしたが、再開しますです(汗汗汗
感想返しはまた後日に。

次回更新はGWくらいを予定です。

20120414、誤字修正><










スコット・コートニーはその日、会社のオフィスに午前10時過ぎに出社した。

ちなみに会社の始業時刻は8時30分であり、明らかな遅刻だったが、特に問題はなかった。ちなみに彼の勤め先はシステム開発の下請けの下請け、最初の発注をした大手からすれば孫会社ですらない底辺の請負会社だ。その中でもスコットは最底辺の下っ端の部類に入るのだが、それでも問題はないのだ。

なぜなら、その日は彼が会社に顔を出す最後の日だったのだから。

数日前に突然彼が希望した希望退職は、すったもんだの末に受理され、昨日の午前0時をもって彼はめでたく会社の業務とは一切無関係のない立場になっていた。

そのお陰か、今朝の目覚めはちょっとこれまで経験したことがないくらいすがすがしく、起き立てに歌など歌ってしまったほどだ。

できればその浮かれた気分のまま、気ままに散歩など楽しめればよかったのだが、オフィスの机やロッカーにいくつかの私物を取りにいかなければならないことを思い出した。とたんに憂鬱な気分に襲われたが、これでクソッタレな会社に足を運ぶのも最後だと思えば、むしろ、軽やかな足取りでオフィスに顔を出したのだ。

「やあ、シェリー、おはよう」

「・・・あら、スコット。おはよう」

いつもの社員用玄関ではなく、私服のままどうどうと会社の表玄関をくぐるのは新鮮な気分だった。

馴染みの受付嬢は彼の顔を見ると、微妙な笑顔を浮かべつつも首から提げていたカードを使って、彼を一般人立ち入り禁止の業務区画に通してくれた。

いくつか見知った顔がこちらを怪訝な顔で見ていたが、そのすべてを彼は無視してかつてのオフィスを目指した。嫌なことはさっさと済ますに限る。はやく余暇と自由を満喫したかった。

会社は築十数年のオンボロの借り上げビルの3Fにある。汚れがこびり付いた古臭いリノリウムの廊下に、コーヒーの染みだらけのフリーアクセス、そしてスケジュール表やら何やら雑多な書類が無造作に貼り付けられたコンクリート打ちっぱなしの壁。そのすべてがスコットには不快だった。

ゆがんでまともに開け閉めの出来ない金属性のロッカーから、いくつかの私物を取り出して持参のトートバックに放り込むと、それで用はすべて足りた。

なんてことはない。見慣れた、クソったれな職場だ。彼にとってはすでにケツを拭いた後のトイレットペーパーほどの価値もない。つくづく不快な場所だと思った。

その時、ガチャリと更衣室のドアが開いた。

「やあ、スコット。おはよう」

その顔を見るなり、スコットの顔に露骨に嫌そうな表情が浮かんだ。だが、次の瞬間には一目で作り笑いと分かる皮肉げな笑みを浮かべてみせた。

「やあ、ロブ。おはよう。いい朝だね」

その男の目の下には、幾重のもの深い皺と黒い隈があった。ワイシャツもよれよれで、無精ひげが伸びている。徹夜明けなのが一目で分かった。一つ、男の疲労した様子を発見するたびにスコットの機嫌は上昇した。

彼が会社を辞めた理由の大半は、目の前の男にあった。

スコットは地元でもそれなりに知られたハイスクールから、そこそこのレベルの地方大学に進み、そこをそれなりに見られる成績を収めて卒業した後、つつがなく就職した。

百年に一度といわれる大不況のさなか、彼と実家の持つなけなしの伝手をフルに活用しても、何とか内定を取れたのはこの会社だけだった。大学で専攻したネットワークシステムの知識を生かし、警備システムの維持管理を主業務に抱えるこの会社に貢献したい、というのが面接でのアピールポイントだった。だが、今思えばそれが間違いのもとだったのだろう。

そこで、この男と同期になった。ロバート・デニーロ。スコットと同じ移民二世だが、高卒だ。

スコットは何故だか初対面のときからこの優男が気に食わなかった。どこぞの映画俳優のような名前も、堀の深い顔立ちもだ。さわやかな笑顔と共に握手を求められたことすら、神経にさわった。後に、その第一印象は正しかったのだと思い知ったが。

おおよそ、ロバートという男は社員として平均的な仕事能力しか持たなかったが、それ以外のすべてを持っていた。

素直で礼儀正しく、ミスをしたら即座にしかるべき人物に報告、連絡、あるいは相談をし、隠さない。同じ過ちを二度と犯さず、学習の材料とし、自分で考えることも出来る。その上で、気が利き、元気で明るく、話しやすい人物とくれば、それだけで彼が会社でどう扱われるか分かろうというものだ。

おまけに、こつこつ努力して資格にも挑戦し、残業も苦にならないとくれば、どこの完璧超人だというほかはない。こんなのが同期にいてはたまらなかった。

チロチロと蝋燭にあぶられるような嫉妬は徐々に燃え広がり、いつしか明確な憎悪となった。それは徐々に内から外に漏れ始め、それは周囲へのわだかまりとなって、彼は孤立していった。そんな周囲の反応が、さらにマイケルの感情を逆撫でして孤立するという悪循環。

だが、やがて両者の"差"は残酷なまでに明確な形となって現れた。ロバートが部署の主任に抜擢されたのだ。主任とはいえ、いっぱしの管理職だ。ヒラと管理職では給金に明確な差がつく。屈辱だった。

結局、それが契機となって、もともと欠如しがちだったやる気が底を打った。それからは毎日どうやって会社を辞めるかと、そればかり考えるようになっていた。

だが、会社をやめるにしろ次の職場の当てはまるでなかった。実家もただの中流家庭、蓄えに余裕はない。それに、この国では一度失業すると再就職は難しい。どのような理由があろうと、一度リタイアした人間を企業は評価しない。加えて、今は百年に一度といわれる不況の真っ只中で、失業率は10%を超えていた。

やる気がうせれば自然と仕事に熱が入らず、細かいミスも増え、上司に怒られる機会も増えた。それがまたやる気の減少を招くという悪循環。

どうしようかと心の余裕を削られながら、ウダウダと酒場で一人クダを巻く日々の繰り返し。だが、酒場で接触してきた男からのちょっとした依頼が、彼の転機だった。

正直なところ、その話を持ち込んできたのは彼がもっとも嫌いな軽薄そうな外見の若者で、しゃべり口調もそこらのストリートギャングと変わらなかったが、話自体は魅力的だった。

彼の任されている、ある業務システムにちょっとした細工をするだけ、という拍子抜けするほど簡単な仕事の割りに、報酬は5000万ジェニー。

あまりにうまい話なので、裏を疑うには十分だったが、結局マイケルはその話に乗った。報酬は十分だったし、断る理由は何もなかった。仮にだまされたとしても、大した問題にはならないからだ。ログを改ざんして仕事を完璧に果たしたように細工するなど、彼にとっては日常茶飯事だった。

結果として、彼は依頼に完璧に答え、報酬はびた一文欠けることなく速やかに支払われた。

翌日、彼は満面の笑みで上司に辞表を突きつけていた。

「聞いたよ、スコット。ヨークシンを離れるんだって?」

「ああ、フィラデル・シティ郊外にちょっとしたアパートメントを買ったんだ。あの辺は大学があるせいで学生に人気が高くてね、店子も早々に埋まってくれたよ。これからは気ままな人生って奴を十分エンジョイさせてもらう。君も、ま、せいぜいがんばってくれよ」

悪意すらこめられた言葉だったが、ロバートは徹夜明けの隈が浮かんだ顔に笑みを浮かべた。

「そうか。おめでとう。心から祝福するよ」

急な退職に伴い、シフトの穴を埋めるために彼が徹夜を重ねているのをスコットは知っていた。正直、ざまがいいとしか思わなかったが。

「もうしわけないんだけど、この後少し時間をもらえないかな。君の新たな門出を祝うために、同期のみんなで用意したものがあるんだ。受け取ってもらえるとうれしい」

その申し出に、スコットは怪訝な顔をした。自分が同僚達に好かれているとは、彼自身は微塵も思っていなかったのだ。

しかし、満面の笑みでおいでおいでするロバートの顔は、徹夜ハイの人間だけが手に入れることの出来る聖者のような無私の笑顔が浮かんでいる。

「さあ、こっちだ」

ロバートの手が更衣室の奥の扉を開けたとき、何故だかスコットの背筋に冷たい汗が流れた。

開け放たれた扉の奥が、四角く闇を切り取ったかのように、黒く深く見えた。

「い、いや、ロブ。ありがたい申し出なんだが、やはり、私は」

扉の奥を見据えたまま、

「!?おい、ロブ!!」

ぐいっと、スコットは襟首をつかまれた。

思わずロバートを振返ると、そこには女性社員の心をつかんで放さないさわやかな笑顔は影も形もなかった。

「ハハハ、何をあわてているんだ、スコッティ坊や。いいから取りあえず、黙れ」

死んだ魚のような虚ろな眼。光を反射せず、口元に浮かんだ薄ら笑いが恐怖を誘う。

「ボーモント銀行の警備システム。・・・情報を漏らしたのは、お前だな」

耳元に口を寄せられ、腹の奥底から響いてくるような声で、そう囁かれた。

同時に、

「ロブ、そいつか?」

開け放たれていた扉からのっそりと出てきたのは、いかにも屈強な男達。そろいの黒いスーツに身を包み、胸元には『BSS』の社章が光っている。

どれもスコットには見知った顔だった。彼がシステム管理を担当したボーモント銀行ヨークシン支社の警備担当者だ。

男たちは打合せの際にいつも口数少なく、必要最低限のことしか話さない。それが、スコットには自分を馬鹿にされたような態度に見えたので、彼は内心嫌いぬいていた。だから、"例の依頼"を実行したときには、支払われる報酬以外のことで、暗い喜びをもたらしたものだ。

もとより愛想のない男達だったが、今や彼らは明確な敵意、いや殺意のこもった形相を向けている。

「あの銀行は、一見、寂れた古いオンボロビルだが、中身は最新鋭の警備システムで固められた電子の要塞だ。偽装された隠しカメラに、光学センサー、CCTV、セントリーガン。豚野郎が動き始めてから、巡回警備網も最高セキュリティに設定されていた。・・・その筈だった」

同じく、ロバートの瞳にも、明確な殺意と憎悪があった。

「ギャッ!!」

乱暴に、壁にたたきつけられ、スコットはつぶれたカエルのような悲鳴を上げた。

「お前が!豚野郎に横流ししやがったんだな!!」

恐ろしくて、ロバートがどんな形相をしているのか確かめる勇気すらなかった。

ひたすら、これは間違いだと、何かタチの悪い冗談だと、必死に言い聞かせようとしたがうまくいかない。脳が働かない。心臓の爆発的な脈動が、耳鳴りとなって頭の中に響き渡っていた。

「本当はな、お前がただのカタギだったなら、それでもまだ半殺し程度で済ませてやろうと思っていたんだよ。・・・カルロさんは、そういう人だったからな。だが、お前は誓いをしていた」

スコットは目を見開いた。

かつて、時代遅れの宗教儀式に参加するのと同じような感覚で受けた、組織の末席に座るための儀式。

その代わり、彼に求められたのはファミリーへの忠誠だ。具体的には、警察関係者と交友関係を築くことの禁止や、ファミリーについて尋ねたとしても一切答えないこと等。そして、もっとも基本となるのが、ファミリーへの敵対行為の禁止。

まさか、この人当たりのいい男がファミリーの一員で、しかもずっと格上のメンバーだったなどとは、夢にも思わなかった。

「一度目は、奨学金を免除されるほど成績が上がらなかった時、そして二度目は卒業後の内定を全部けられて、ここの職を紹介してもらったときだ。俺達は何度もお前に忠告をしたよな、そんなつまらないことで誓いを立てるもんじゃねえって。一度掟を立てたものは掟に縛られる。それは決してお前のためにはならないはずだ、とな」

マフィアにおける約定。服従と沈黙の掟、オメルタの掟とも言う。マフィアのメンバーになるための誓いをするとき、互いの親指に針を刺し血を出して、それを重ね血が交わることで一族に加わったとする儀式。

いかなることがあっても組織の秘密を守ることが求められ、メンバーになるときには神と両親の名において誓約する。これに反して秘密を暴露した場合は激しい制裁が加えられる。

「その挙句に、グランマを裏切り、ファミリーを裏切りやがった!おかげで、カルロさんが、俺たちの兄貴分が死んだんだぞ!!」

ミッドタウンの移民街に生まれ育った者の中に、ボーモント銀行の"裏頭取"ジャンカルロ・ボッシの世話にならなかった者はいなかったし、ましてや子供の頃に黒いドレスを着た少女に遊んでもらった記憶を持たない者など、一人もいない。

「た、助け・・ヒギィャ?!!」

こんなに大勢の人間の敵意に晒されることなど、生まれてから一度も経験のなかったスコットは、思わず悲鳴を上げかけて逃げ出そうとした。

だが、たちまちのうちに取り押さえられ、腹といわず、顔面といわず、蹴りを入れられる。

「ゆ、ゆるひて、ころさなひで!」

ロバートは、泣いて痛がるスコットの尻をもう一度盛大に蹴り上げた。

「いいか、今ここでてめえをぶち殺さないのは、たっぷりと吐いてもらうことがあるからだ。理由は、それだけだ」



後日、スコット・コートニーは、口に石が詰められ、拷問を受けた跡のある惨殺体となって発見されるのだが、それはまた別の話である。













Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep11












ジョン・コーウェンは塒にしている廃墟の一つで、拾ってきた空き缶の中で燃える火を、ぼうっと見つめていた。

現代のソドムとゴモラの町、ヨークシン。その成り立ちは、かつて新大陸に漂着した先祖達が原住民を七面鳥撃ちのような感覚で虐殺していた頃の、単なる物資の集積用に作られた港だ。だが、立地が良かったのだろう。船乗りを中心に徐々に人口が増え、家が立ち並び、町が出来た。

ヨークシンという名前もそのころに付けられた。新大陸開拓への希望を胸に、"光り輝く町であれ(York-shine)"とは初代町長が名付けたらしい。だが、"York"にはゲロという意味もある。今となっては、その意味の方が合っているのではないかと、ジョンはあの混沌とした町を見る度に思うのだ。

中でも彼が勝手に住み着いているオールドジェイゴは、ヨークシンという街をもっとも端的に表している。

入植期の古いインフラが市の劣悪な整備によって放置され、住民の大半がより便利な内陸部に引っ越した後の瓦礫で出来た廃墟の町。後に残されたのは貧乏人ばかり。それをいいことに徐々に移民崩れや悪党どもが入りびたり、いつしか誰からも見捨てられた。住民のほとんどは選挙権すら持っていないので、再開発が入る見込みもない。にもかかわらず、市はオールドジェイゴの再開発のために毎年多額の予算を計上し続けている。その大半が市長のポケットに入るのは、半ば公然の秘密だ。

ああ、すばらしきかな我が街、ヨークシン。

大陸最初の自治を確立したとされる希望の街。イッツ・ア・ヨークシンドリーム。

世間の怖さを何も知らされず、生ぬるい学生時代を夢と希望だけを吹き込まれて育てられる風潮は、本当に罪深い。だから、彼のように夢破れて堕ちるところまで落ちる人間が出てしまうのだ。

ああ、すばらしきかな我が街、ヨークシン。

ジョンは再び呟いて、意味も無く微笑した。一人で過ごすことが多くなってから、時折、声の出し方すら忘れてしまいそうになる。だからというわけではないが、独り言が目に見えて増えた。この悪い癖は抜けそうに無い。

一人笑いながら、再び、悴んだ手を火にかざした。

彼が勝手に住み着いたのは放棄された廃ビルの一室だ。周囲に飽きるほど並んだ同じ形のアパートメントと大差のない、レンガ造りのオフィスビル。恐らく、今は不動産の権利書すら忘れられ、誰か住み着きたいものが勝手に中に入っては、後から訪れたものに自分のものだと主張して賃貸料を請求する。彼もまた前任者に路上生活者にとっては法外な額を請求されたが、その男は今ではどこかの空き室で冷たく乾いている頃だろう。

ビルの壁面は穴だらけで、おまけに落書きの無い場所が無かったし、ガラス窓は皆割られていた。時折、拾ってくる古新聞等で目張りしても、雨や風、あるいは心ない連中の悪戯によってすぐにぼろぼろになってしまう。冬のヨークシンの寒さを耐えるには心許ない。

今日も今日とて、窓の外に広がる灰暗い空と、引き込まれそうなほどにどす黒い海を眺めながら、ジョンは再び紙くずを火に投げ入れた。冬場に道を歩くときに、なんでもいい、燃やせるものがあったら拾っておくのは彼が浮浪者になってから程なく覚えたことの一つだ。

静寂が耳に痛い・・・?

ふと、そこでジョンは遠くから響いてくる無遠慮な足音に気がついた。

ドン、ドンと古い木材を無遠慮に踏み抜く音。無遠慮な音だ。不愉快きわまる。一つドン!がする度に、彼の内面世界はかき乱された。

恐らくは、階下の廊下を足音を立てて歩きながら、大声でなにやら罵り合っている馬鹿者がいるのだ。足音が徐々にジョンのいる階に迫り、ジョンのいる部屋に近づいていくるにつれ、彼の不快感は高まっていった。

誰だ、私の孤独と静寂を乱すのは。

ジョンは無言で窓際に放置していた、ボロボロのハサミを手に取った。

全体が金属で構成された、無骨な布切りバサミだ。大振りで、握りの部分まで金属製なので、長時間持ち続けると手首が疲労して痛くなる。だが、何よりその頑健さを彼は気に入っていた。

三日ほど前に麻薬付けの娼婦をバラした後、血をぬぐいもせずに放置していたので切れ味は無いに等しい。ステンレス製なので錆は浮いていなかったが、今度の犠牲者には、大変残念なことになるに違いない。少なくとも、苦しみの無い死は与えられないだろう。

「ふ、ふふ」

ジョキン、ジョキン、と血が固まりきって開閉するのにえらく難儀するハサミ。それを意味も無く動かしながら、ジョンはさして意味も無く笑い声を上げた。

そのままハサミを動かし続け、指の付け根が痛くなり始めたところで、彼はジョキンを止めた。

「ふはははははははっ!」

目を血走らせ、肉をジョキジョキする快楽を創造して身もだえしながら、ジョンは駆け出した。

ハサミを持った両手を交互に動かしつつ、全力疾走である。

哀れな被害者候補が物音に驚いて逃げ出すことなど考えてもいなかった。

「フヒッ、フヒハハハハハハハ、さあ、今日も楽しい生肉祭りだ!パーチイだっ!みんなで肉を切り刻もう!すぐにみんなの仲間にいれてあげるからねェええ、マリア、アウラ、ライラ、コンスタンス、クリスティーーーンヌッ!!!」

これまで犯した殺戮の快楽を思い出しながら、ジョンはこれまで彼がバラした女たちの名を意味も無く連呼する。

彼の嗅覚が、廊下の角を曲がりきったところに、生きている何かがいるのを告げていた。

そして、

「うるせー!!」

彼が最後に見たものは、自分の顔面を粉砕する、刺青だらけの節くれだった腕だった。





「ったく!こっちは急いでるってのに、だからジェイゴは嫌いなんだ!どいつもこいつもお頭にウジの沸いているキチガイばっかりだ!」

お頭のおかしいジャンキーを裏拳一発で黙らせると、リィロ・ロイドは再び廊下を歩き出した。

「あ~もうっ!ヒーターの効いた部屋でデンと果報を寝て待ってるお方はえれえよなあ!ったく!何で頭脳労働担当の俺らがこんなんやんなきゃなんねーんだよっ!あの豚野郎めッ!!」

「おいおい、リッキー。すっげえ同感だけどよ、少しは、その、何だ、小声で怒鳴れ」

彼の兄であるところのマイケル・ロイドは寒さに身を震わせながら、リィロと同じように両手をポケットに突っ込んで、黙々と歩いていた。

「でも、あんちゃん、こんなん博打だぜ。九割九分九厘うまくいきっこないよ!ったく、あのイカレ野郎どもは自分らだけポップコーン片手にライブでスナッフムービー見てナニ決めながら、俺らにだけあぶねえ橋渡れってよ!そ・れ・も、この世にあらん限りのイフを集めたような大博打をよ!」

苛立ち紛れに、フーフーと息を切らして鬱憤をぶちまけるリィロを、マイケルは無言で見ていた。

やがてリィロが意気消沈したように肩を落とした。

「・・・なあ、あんちゃん。豚公が本当は何考えてるか、気づいてない筈はねえよな?俺らはそれなりに優秀な猟犬だっただろうけど、用が済んだ後で豚に煮て食われるのは御免だぜ」

「なあ、リッキー、ここに来るまで俺がそれを考えなかったと思うか?だがよ、どの道ここまでやらかしたんだ。今ここで俺らだけトンズラこいたって先はねえぜ。ボーモントか、それとも豚公か」

単に逃げを打っても、必ずどっちかに殺される。マイケルは、絶望的な表情でそう言った。

ずれたサングラスの向こうの瞳が床の角をじっと見つめている。兄の額に大量の汗が浮かんでいるのに、リィロはその時初めて気がついた。

不安、焦燥、そして、ほんの少しの安心感。

何でえ、兄貴だって同じじぇねえか、と。

「・・・さて、ここら辺でいいか、位置的には」

最上階が崩れかけた5階建てビルの4階。

眼下に旧市街地で一番広いとおりを見下ろし、バルバロイへの最短ルートにも重なる絶好のロケーション。その場で彼らに与えられた役割は、釣と餌。もっとも困難で、もっとも重要で、もっとも危険の大きい配役だった。

「さてさて、敵さんの様子はっと」

ポンっとコミカルな音を立てて、リィロの右手に玩具の鉄砲が具現化された。

銃身は銀メッキが施され、木の取っ手には安っぽい原色の塗装。カーニバルで売られているようなチャチな玩具だ。

銃口の先端部には、ゴルフボール大の奇妙な丸い顔が収まっていた。醜い、皺だらけの顔に、口には注射針のような白い歯が無数に生え、切れ目のような目には邪悪さがにじみ出ている。

『ウヒヒヒヒ、オイ相棒、ソロソロテメーモ焼キガ回ッタミタイダナ!』

「うるせー!いいから、連中の居場所を教えやがれ!」

『フヒヒ、セイゼイ足掻キナ、クソ野郎。サテ、例ノヤツラノ居所ハ、ト・・・ニオウ、ニオウゾ!・・・ココカラ三ブロック先ダ。ノンビリユックリ歩イテヤガル』

それだけ聞き出すと、リィロは念獣を消した。今はいちいち主人をからかう念獣の相手をするのも面倒くさい。

リィロの能力、『深夜の決闘野郎(ミッドナイト・ブリット)』は銃型の念獣を具現化する能力だ。

見た目は安っぽいおもちゃのピストルだが、対象の臭いを覚えさせると相手がどこにいても居場所を追いかけて食らいつくナイスガイだ。宵っ張りな性格で、昼間は寝ているが夜になるとフィーバーする。ちなみに、兄の能力『真昼の決闘野郎(ハイヌーン・ブリッド)』も基本性能は同じなのだが、早寝早起きがモットーで、日が暮れると寝てしまう。

マイケルとリィロは兄弟二人で朝と昼、どちらか一人しか能力を使用できないという制約を掛けることで、相手がどんなに離れていても、一度匂いを覚えさせていれば必ず追跡できるという無敵の追跡能力を得ていた。

実用的で強力な能力ではあるが、厳密には戦闘用の能力ではないので、ガチンコには向かないのが玉に瑕だ。

加えて、具現化系能力者の常として、具現化物を手元から放して運用するのが難しい。ピストルの弾は撃ち出した瞬間から、お粗末なほどに能力が劣化してしまう。それを回避するため、二人は銃と弾丸型の念獣を紐でつなぎ、手元から放さないことで能力を形にした。それ故に、この能力には明確な射程という制約が存在する。

弾丸を飛ばせる距離は、最大100メートル。つまり、奇襲を掛けるには位置取りが重要になる。

「地面まで、ぱっと見20メートル。1対2対ルート3で、真下から伸ばせるのは前後60メートルちょいってとこかね」

簡単な測量を目測で行うと、兄弟は顔を見合わせて頷いた。

チャチなバルコニーの手すりは錆てボロボロなので、落下しないように体重を掛けず、首を出し眼下の景色を確認する。月明かりに照らされて、ゴミと石畳を破壊して伸びる枯れ草やらヘドロやらが溶けかけの雪溜りと一緒くたになった灰色の景色。とおりをはさんだ向かい側には、同じく3階建てのレンガ造りのボロビルがそびえている。それが、彼らがこの場所を候補として選んだ最大の理由だ。

両手の指で四角を作り、ざっと見渡しただけだが、特に問題はないと二人は判断した。

「こっちは、準備よしか。後は他の連中がしくじんなきゃなあ・・・」

ぼやきながら、リィロは懐の携帯電話を取り出すと、履歴を呼び出してリダイヤルを選択した。番号は、ここ最近最も通話の多い相手だった。

『チャオ、りっき~~~♪』

開口一番、リィロの耳朶を打ったのは、いつもどおり不愉快なほど甲高い声だった。

声だけ聞けば少しロリ入った小悪魔系女子を想像してしまうところが、また罪深い。実際に、巨大で醜い肉塊からこの声が出ているところを直視するのは悶絶ものである。二人が愛用している帽子類やグラサンも、変装用というよりはこの醜い豚を視界に入れたときにSAN値が減らないようにするためのものだったりする。

「はいはい、ブッチさん。こっちは予定通り、例の場所に着きましたよ。連中の動きも、今のところ予定通りです。とりあえず、こっちへの追い込みはそっちでお願いしますね、いや割とマジで」

声に少々疲れと苛立ちがにじんでしまったのは、仕方の無いことだろうと思う。

『おやおやあ、おつかれちゃん♪今ね、ドクと話がついてね、とりあえず僕の人形を突っ込ませて様子探ることになったよ。んで、あとはドクがでっけえ花火を打ち上げるから、それが合図だよ。仕上げに君らがドジらなきゃ、晴れてミッションクリアー。後は海パンだのルッチだの、お頭のユル軽い連中に任せてしまえばいい。いつもどおりのクールなお仕事をお願いするね』

なんて粗の多い計画だろう。リィロはめまいを覚えた。

気軽にお願いなどと言ってくれるが、そのクールなお仕事を果たすために彼らが支払うリスクについて、この豚野郎はどう考えているのだろうか。

「りょ~かいっす。んじゃ、こっちは合図待ちますから、よろっす」

気の無い返事を返して、こちらから携帯を切ると、兄弟はそろってため息をついた。

「・・・じゃあ、あんちゃん、あっちよろしくな」

リィロが片手を軽く挙げると、すかさずマイケルがハイタッチ。室内に手を打ち付ける軽い音が響いた。

「おーよ、リッキー。"絶"は怠るなよ」

ほれ、と言って兄が投げてよこしたのは、熱々の缶コーヒーだった。

性格も能力もほとんど同じ兄弟なのだが、兄の方が色々な所に気が利いた。それが、ねたましく思えることもあったし、頼もしくもあった。

「サンキュ、あんちゃんも気をつけて。グッドラック!」

振り向きもせずに片手を挙げて去る兄を見送りつつ、缶のプルタブを開ける。いてつくような冷気の中、白い湯気が飲み口からこぼれ出た。そいつをクッと傾けて、心地いい熱が食道を焼くのを感じながら、リィロは腕時計に目を落とす。

夜明けまで後数時間。それを過ぎれば、チャンスは激減するだろう。

恐らく、これがこの街での最後の仕事になる。

目を閉じ、"絶"をしながら、リィロはひたすらその瞬間を待つことにした。
















ダミアン・ハーヴィーは、最後の調整に奔走していた。

彼の目の前には能力の行使に必須となる複数の溶液が詰まった大型タンクがいくつも並んでいる。無数のパイプとコードが繋がれた特注の合金製で、衝撃や高熱、あるいは酸。その他の化学変化にもめっぽう強い。その表面には複雑な成分表と化学式、あるいは彼の手によるメモ書きが無数に貼り付けられていた。

首と肩の間に挟んだ受話器に喋りかけながら、ダミアンは手元のキーボードを恐ろしい勢いで叩いていた。

「・・・ああ、リィロ君たちは配置に着いたのかね。それでは追い込みを掛けたいところだが、少し待ってくれ、ちょいと別件が出来た。なに、すぐ終わらせるよ」

普段はこういった通信機器の類を毛嫌いしているダミアンだったが、現代でこの手の通信機器と縁を切ってテロ活動に勤しむのは事実上不可能だった。今回のような活動資金調達にしても、念獣を使った通話だけでは限界があるからだ。そこで、今回のように会話だけ出来ればよいケースに限り、ダミアンはもっぱら業務用のデジタルMCA無線機を利用していた。盗聴は不可能ではないにしろ、物理的に基地局ごと移動してしまえば痕跡を手繰られることが無いからだ。もちろん立派な電波法令違反であり、ダミアンのアホのように多い犯罪歴の一つだった。

「とりあえず第一撃は君の仕事だね。彼らが"助ける"のか"見捨てる"のか、どちらにせよ私達に損はないな」

通話の相手は、もちろん彼の雇い主であるところのブッディである。

『そだね、僕としては廃品利用のつもりだから。ついでにリィロ君たちも、そろそろ御用済みなんだ。最後にうまいことやってくれるのを祈るばかりだよ、本当。それより、ドク。君のほうは大丈夫なの?』

語尾にほんの少し違和感があった。不信感を隠しきれていないのだ。

常に裏切りを警戒するのは、自分の人望の無さを良く知っているからだろう。

「ああ、あちら側に見知った顔がいるのを確認してね、慌てて対策しているだけだ。そう難しい作業ではないので、時間はかからないよ」

『そうなのかい?じゃあ、チャッチャと頼むね、ドク。何せ、僕としては君だけが頼りなんだからさ。』

八方美人というかなんというか、いつも体のいい事ばかり口にする男だとダミアンは呆れたが、口には出さなかった。彼としては報酬が支払われる限り、相手の性格やら言動には大して関心がないのだ。

「・・・っと言ってる間に、準備完了だ」

複雑なキータイプをし終えると、最後に「Enter」キーを押して、ダミアンの作業は完了した。それと同時に、タンクに新たな薬液が注入される音が響きだした。

ダミアンは軽く肩をまわしてコリをほぐすと、椅子の背に深々と腰掛けなおした。

ちなみにダミアンが腰掛けている椅子にしろ、机にしろ、オフィス用の既製品である。頑丈さと軽さだけが取り得のスチール製、折りたたむことができるので収納スペースと持ち運びの手軽さに特化しただけの市販品だが、室内にある家具類の殆どはほぼすべてに共通した特徴だった。

ダミアン自慢の、大型トレーラーのカーゴを改造した移動実験室。

見た目は古びた貨物輸送用の大型コンボイだが、塗装のはげかけた安っぽい外装を一皮剥けば、軍用の特殊合金と電磁的干渉を受け付けない特殊素材が何十にも張り巡らされた複合装甲が露になる。対戦車ミサイルのつるべうちを喰らっても原形をとどめる程度には堅牢だ。

その中はといえば、最新鋭の情報機器や簡易プラント、さらにはバスにトイレ、寝室等の居住スペース一式までもがコンパクトに詰め込まれている。それらに、ダミアン自慢の能力を駆使した超効率バイオマス燃料エンジンが膨大な電力を供給している。

それがテロリストとして常に追われる立場にあるダミアンの本拠地だった。

「では、始めてくれたまえ、ブッディ君」

『りょ~~かいだよ、ドク。いよいよ終わりの始まりだね。ちょっと僕、ゾクゾクしてきたよ♪』

ダミアンはその愉快過ぎて不愉快な声を聞き流していたのだが、その時、ふと気になっていたことを思い出した。

「そういえば、例のスパイダーマンもどきの彼は狩に参加しないのかな?姿が見えないようだが。確か名前は・・・そう、ユーリー君といったかな」

強力な商売敵の動向は、荒稼ぎを狙っているダミアンからすれば掴んでおきたいところだ。

すでにバルバロイ側の能力者の動向は街中に放った念獣によって、逐次掴んでいたのだが、その男の行方だけは一切掴むことが出来ていない。実力的にも、こちら側で唯一警戒に値する男なので、できればお祭りが始まる前に居場所くらいは把握しておきたかった。

だからこそ、

『ああ、あれなら死んだよ』

「・・・何?」

あまりにも軽く告げられた一言に、一瞬、ダミアンの声が呆けた。

『情けないよねえ、何せ15歳にもなってないような可愛らしいお嬢さんに殺されたんだってさ。信じられるかい?まったく、クソの役にも立たないとはまさにこのことだよ』

ブッディは舌打ちを一つすると、わずかに苛立たしさを混ぜて、そう罵った。それでもすでに興味を失ているようで、台詞の後半は割とどうでもよさそうな口調だったが。

だが、それを聞いたダミアンはまた別の感想を抱いていた。

「おい、聞いていないぞ。それは」

『じゃあ、でっけえ花火を期待してるからね!特等席で拝ませてもらうよ、ダン』

「まて、聞いていないぞ、それは、・・!」

大事なことなので二回繰り返したダミアンが、最後まで言い終わる前に通話は切れた。通話機から砂嵐にも似た独特の音が流れたとき、ダミアンは久々に他者に対する苛立ちを覚えた。

「馬鹿が。あの男は卓越した念能力者だった。おまけに元軍人で、恐らくは空挺(パラ)か特殊部隊(スペシャルズ)の出身だ。それがただの小娘に遅れを取るわけが無い」

ブッディは大して注意を払っていなかったが、ダミアンはユーリーという男を高く評価していた。

軍人というのは、言うまでも無く戦争のプロだ。世に暴力を生業にする人種は多くあれど、公に殺人の技量を認められる職種というのははそうはない。

職業軍人というのは、戦争という国家の緊急事態において、場合によっては死の危険もある最前線に出て職務を遂行することが求められる。その業務の性質上、彼らは『無制限の責任』を負うのだ。つまり、軍人はいざとなれば、自身の生存の危機を受容してでも職務に当たる。ありていに言えば、死ぬのも仕事の一つなのだ。

いざ交戦となれば、単に見つけた技能を発揮するだけではなく、その行動は条約で定められた交戦規定により制約される。また、平時においても居住地域を限定され、秘密保守や品位の維持、技量の保持を求められ、国家にそれを強要される。そういった重度の緊張感を常に求められ続ける職業というのも、ザラにはない。

彼らは日々喰うために戦い、戦うために喰っている。殺し屋ごときに身を落としたクズ共とは、そこが決定的に違うのだ。加えて、あのユーリーという男は非正規任務に付いていた節すらあった。

バルバロイの中では新参者だが、ダミアンは素直に認めていた。単純な直接戦闘能力に限定すれば、あの男こそ最強だったと。

「ユーリー?・・・ああ、先生が珍しくベタボメしてたナイスミドルのジャンキーさんですね」

隣でスナック菓子をポリポリしながら会話を聞いていたらしい助手が、気楽な口調で呟いた。事の深刻さをかけらも理解していなさそうな暢気な顔である。

この助手に緊張感が欠如しているのは今に始まったことでないので、ダミアンは無視して自ら手元のキーボードを操作した。部屋にいくつか取り付けてある大型ディスプレイの一つに、新たなウィンドウを表示させる。

そこには、ユーリー・バシマコフという能力者に関して、ダミアンが収集したデータが表示されていた。

人種や性別、血液型といった簡単なものから、身長、体重等の身体情報に加え、果ては念の系統、能力の詳細にいたいるまで。およそ一人の能力者に対して可能な限り調べ上げたデータ。

これはユーリーに限ったことではなく、優秀そうな念能力者を発見したときには、ダミアンは全員に対して同じだけの綿密な調査を行う。あたかも、実験サンプルの特性を把握するかのように。もちろん、今回の最重要対象であるボーモント・ファミリーに対しても、同じだけの作業を行っている。

だが、画面に表示されたデータの内容は、驚くほど薄かった。

実年齢、出身地、来歴、すべて不明。学歴、軍籍、記録なし。特筆すべきは重度の麻薬中毒者だったことだが、実際にどのような種類の麻薬を使用していたのか、それすらも把握できていない。

何より不気味なのは、念能力者としてあれほどの実力を持ちながら、ヨークシンに現れるまでの活動が一切洗えなかったこと。

ポッと出のルーキーの癖に、異常なほど実践慣れした元軍人の能力者。すべてが、彼をしても手を出すのに躊躇した男、ゴドー・イワレンコフに酷似している。

「念使いとしてのカテゴリーはA-(エーマイナス)。この街の能力者の中では断トツだ。系統は変化系、能力名『Ωジェル』。オーラを衝撃吸収力と摩擦抵抗力に優れたジェル状に変化させる、使い勝手の良い能力だ」

ダミアンは感情を感じさせない口調で、ディスプレイに映し出された情報を口に出して読み上げた。

「特筆すべきは、異常な程強固な防御力。あらゆる衝撃をほぼ完璧に吸収し、さらに摩擦係数をゼロから無限大にまで自在に操作可能。加えて、あの男はひた隠しにしていたつもりだっただろうが、熱伝導を著しく阻害する恐るべき特性すら兼ね備えていた」

能力者は、自らの能力の詳細を知られることを極端に嫌う。こと、戦闘能力に関わる情報の漏洩は生死を分ける。

恐るべきは、自立行動型念獣を駆使し、"生きた情報"を自在に集めるダミアン・ハーヴィーの手腕である。殺し屋家業など趣味と実益を兼ねた小遣い稼ぎにしか過ぎないダミアンにとって、むしろこちらのほうが本業なのだ。

すべては科学者の視点に立った、念能力の研究のため。ただし、『研究とは実践し、証明してこそ意義がある』というのがダミアンの信念だったし、不幸なことにダミアンの言う"実践"とは、大抵の場合、恐ろしく規模の大きな無差別大量破壊を伴っていた。

「死に場所を探しているかのような言動の見受けられる男でもあった。大方その辺が敗因だったのだろうが。・・・残念なことだ、ぜひ新たな"楽団"に迎えいれたかったのだが」

そう呟いて、ため息を一つつくと、ダミアンは思考を切り替えた。

「もし、あの男がもてる能力のすべてを使った上で敗北したというのなら、相手は化け物だ。仮に、直接戦闘に長けた強化系能力者でも、物理的な攻撃であの男の防御を突破するのは至難。つまり、それは物理を超えた異常な攻撃力の持ち主ということになる」

正直なところ、あのユーリーが全力で防御に回ったとしたら、対戦車砲の直撃を食らわせるくらいしか突破できないのではないだろうか。あるいは毒か、酸か、電撃か、さもなければ本当に戦車砲を使われたのか。能力者は無敵ではないし、殺す方法も無数にある。そう自分に言い聞かせながらも、ダミアンは脳裏に走った嫌な予感をぬぐえなかった。

「・・・まったく困ったものだな。まあ、いい。今更時間も無いのだ。――――ブーゲンハーゲン君、我々の給金はどうしてるかね」

「相変わらずですよ、先生。徒歩でオールドジェイゴ地区の外周部をゆったりお散歩ちゅうですわん♪」

助手が机の上に広げられた地図の上に、囓りかけのスナックを乗せるのを見て、ダミアンは軽く鼻を鳴らした。

市発行の縮尺図。既に放棄されて久しいオールドジェイゴ地区については、20年程前から更新されていない。だが、建物の間取りや路地の配置などは変化しようも無いので、参考程度にはなる。

「で、ブーゲンハーゲン君、君の査定はどうかね?」

狭い室内、小型端末の前で恐るべきスピードでキーボードをたたく手を止めぬまま、助手はいつもどおりの気楽な口調で答えた。

「ん~、オーラ量の計測値だと顕在、潜在予測値ともに対象B、Mが飛びぬけてますね」

ブーゲンハーゲンが巨乳を揺すりながら手元の端末を操作すると、新たなディスプレイに複数の顔写真が表示される。

真っ先に映し出されたのは、白いスーツにサングラスをした男と、黒い髪の東洋人風の女。即ち、ミツリとバトゥの二人だった。

「こっちでこのクラスに対抗できそうなのは海パンさんか、ルッチさんだけじゃないですか?対象C、Hもそれに続きますが、比べるとVとAは二回りくらい差がありますね。というかオカマさん、ほとんど死にかけだわ、この数値だと。でも、対象Aは要注意かもしれません。・・・すごいな、この子、顕在オーラだけならAA(ダブルエー)だ。潜在値はドンケツだからバランス悪いなあ」

最後に画面に映し出された金髪の少女の顔を、眉根を寄せて睨みながら、ダミアンはまぶたを閉じた。

傍らの仕込み杖を手にとって弄びつつ、沈思黙考。何かを考え込むときの彼の癖が、これだった。

「不確定要素を放っておきたくは無いのだが、仕方あるまい。これ以上はタイムオーバーになりかねない」

パチリと鳶色の瞳を開けたとき、初老のダミアンの顔には年相応の落ち着いた微笑があった。

「では実験を開始しよう。今日の課題は、念能力者の耐久性能についてだ。ブーゲンハーゲン君、記録の収集を確実に」

「あいあいさ~」















折からの雪が雨交じりのそれに変わり、冷たいみぞれがぱらつき始めていた。

どうやら、天候に祟られたようだと、アンヘルは嫌な予感に苛まれた。

天候は戦局を左右する重要な要素だ。雪ならともかく、この寒さの一番厳しい時期に雨やらみぞれに打たれて、下着まで濡れてしまうと、急速に体温を奪われる。基礎体力の高い念能力者にとっても危険な状況だ。

時は午前4時。そんな悪天候の最中、オールドジェイゴと呼ばれる寂れた旧市街地を、一行は進んでいた。

崩れたシャーベットのようになった雪でぐしゃぐしゃになったニット帽を脱ぎ捨て、アンヘルは悴んだ両手に息を吹きかけた。吐く息は白く、指先は赤い。悴んだ指先をほぐす様に暖めながら、彼女は同行者たちを見やった。



まず、先頭を歩いているのは、ミツリだ。

アンヘルの見るところ、純粋な念能力の技量という意味では、この女が最強だろう。音を武器とする彼女の攻撃範囲は極めて広く、しかも物理な防御力だけでは防ぎようがないという嫌らしさ。極めて殺傷力の高い振動波攻撃に、プラズマ火球。他にも何か隠し玉がありそうだった。

おまけに、どんな仕掛けがあるというのか、"円"を使っているわけでもないのに、待ち伏せやトラップの類をたちどころに見抜いてしまう。事実、ここまでの道中、アンヘルが解除を依頼されたトラップの大半はミツリが見つけたものだ。一見、無造作に歩いているようにしか見えないのに、あらかじめそこに何があるのか把握しているかのように、危険地帯に踏み込む前に的確に教えてくれる。恐らく、能力の応用だろうということくらいは想像がつくが、からくり自体は分からない。



次に、ある意味もっとも危険な位置、殿(しんがり)を務めるのが、バトゥだった。

両手をポケットに突っ込みながら、鼻歌でも歌いそうなほど気軽な調子で歩く白いタキシード姿のヤクザ者は、このうらびれた街には合いすぎるくらいに合っている。

サングラスに隠されて、その視線がどこを向いているのか、何に注意を払っているのかは分からない。目が命のガンマンが、何故視界を悪くするサングラスを愛用しているのかと思っていたが、逆に自分の視線、即ち射線を隠すのに一役買っているわけだ。

二丁拳銃を巧みに操るガンマンだが、能力者としてのこの男の真の力は、先ほど具現化しかけた拳銃に関するものなのだろう。だが、その力は最後の最後まで見せないはずだ。恐らく、アンヘルやヴィヴィアンの能力がそうであるように、その気になればいつでも効果を発露できる類の能力ではない。そう、直感的に理解していた。

バトゥは、何かデカいブツを隠し持っている。たぶん、出せば一発で場をひっくり返せるような、そんな能力。操作系か具現化系、もしかしたら特質系か。よほど制約が厳しいか、あるいはオーラの消耗の激しいかで迂闊には繰り出せないが、一度出せば一発逆転を狙えるような、そんな力を。

あるいは、それをちらつかせながら威嚇するのが、あの男のやり方なのかもしれない。一度疑い出せば、きりがなかった。



最後に、あろうことかプカプカと中空に浮くという、物理法則にけんかを売っているとしか思えない方法で周囲を警戒しているのが、件の執事風の男とキャスリンとかいう小生意気な餓鬼だ。

空を飛ぶ能力を得ているのは、恐らく例の丸い執事だろう(いや、本当に丸い胴体にひょろ長い手足がついている、という表現が正しい。おまけに、名前が"ハンプティ"とあっては、存在自体が悪い冗談のようにしか思えなかった)。ちなみにその主であるというチビジャリは、その背の上に足を組んで優雅に腰掛け、乗馬か何かを楽しんでるかのように、風に流れる長い髪を気持ちよさそうに手櫛で梳いている。

この二人にいたっては、いったいどんな能力を持っているのか、アンヘルには想像すら出来なかった。



無造作に一行の先頭を行くミツリに、殿を務めるバトゥ。キャスリンと例の執事は周囲を旋回しているので、必然、中衛を務めるのは残る二人だ。

つまり、

「うっわ、さみいなんてもんじゃないわ。カイロ持って来て正解、あたし冷え性だからね♪」

熱い熱いと、オレンジ色の携帯暖具を両手で弄んでいるのは例のオカマ、ヴィヴィアンだった。

寒さのせいだろう、青白い顔をさらに蒼白に染めているのだが、それがますます爬虫類染みて気持ち悪い。それがなんとなく不快だったので、アンヘルはつい睨み付けていた。

「やん、なんだか視線がトゲトゲしいわ。生理かしら?」

ククッと笑って手をヒラヒラさせてからかう仕草が更に不快感をあおる。

無視して歩き出そうとしたとたん、オカマに肩を掴まれた。

「ま、それは冗談として、何がそんなに気に喰わないのか、当てて見せようか?」

常に人を食ったような笑みを絶やさず、下品なジョークで馬鹿笑い。どこまでも人を食ったような不気味な男だが、時折、素に戻ったかのように真面目な話をさらりと混ぜる。そんな時は、決まってヒヤリとするくらい冷たい殺気が混じっている。

「馬鹿みたいに姿さらして、敵のドまん前までのこのこ出て行くのが気に喰わない」

ヴィヴァンは、なまじっかな女のそれよりよほど艶のある黒髪を、女の手つきでかきあげながら、ぴっと白い指を一本、あげて見せた。

「馬鹿みたいにのこのこ群がっては殺されに来る馬鹿どもが気に喰わない」

指を一本増やす。

「ラスト、絶え間なかった襲撃がいきなり消えて、不気味なくらい静かなのが何より気に喰わない」

二本の指を折りたたむと、親指をひとつ立て、それで首元を掻っ切るしぐさをして見せた。

「でしょ?」

「・・・まあな」

不承不承、アンヘルは認めた。

「とぼけんなよ、お嬢ちゃん。あんただってとっくに気づいてんだろ。あたしらが屋敷を出るときにいた黒服の連中。まるで軍隊みてーな、、やーな眼をした奴らだったけど、今頃、どこでなにをしてやがるんだか、想像くらいはつくだろう」

ピクリ、とアンヘルは肩を震わせると、その場で立ち止まった。首を回して、初めてオカマと真正面から視線を合わせる。

「こっちは賞金首が揃って優雅にピクニック!さあ、狩の始まりだ!稼ぎ時だぜ、セニョリータ!・・・これ以上無いってくらいに目立つ囮だわなあ。連中には札束がうろついてるようにしか見えてないでしょうよ。で、本命の連中は深く静かにお仕事中。ま、そんなところでしょ」

うっすらと、ヴィヴィアンは切れ目のような笑みを浮かべた。

「・・・お前、そこまで気づいてて何でそんなに余裕面なんだ?敵にも能力者はわんさかいるんだろ。そいつらの目当ても金なら、残らずこっちに向かってくるだろうに」

「あん?おいおい、お嬢ちゃん、こっちは殺すの殺されますので食ってんのよ。今更そのくらいでびびるわけないじゃん。いつだって、相手の能力や仕掛け方なんざ、分からないのが当たり前。それでも勝つつもりでやるのが念能力者の心意気ってね」

ヴィヴィアンはあきれたように肩をすくめて見せた。

神経を逆なでするような猫なで声が、再びカンに触ったが、同時に心中で深く頷いていた。それは、かつて彼女が教えられた対能力者戦闘の心構えに、驚くほど似通っていたのだ。

腹立たしさを飲み込みながら、アンヘルは認めた。やはりこの男、ただのイカレ野郎じゃないらしい。

「ついでに言えば、人生は楽しまなきゃ損だよ。そいつがブラッドバスなら、あたしは超ご機嫌さ。あたしにとっちゃ、鉄火場で馬鹿騒ぎが出来りゃどこでもいいのよ。むしろミスタのほうがマイノリティじゃないかしら、この街じゃ」

嘲るようにそう言うと、ヴィヴィアンはコリをほぐすように肩を回した。

「ま~ったく、豪儀な連中だよね。たかが一人、組員が殺された程度で組総出で復讐戦だなんて。今時珍しいくらいレトロなヤクザだわ」

そう言ってケタケタと笑う男を、アンヘルは冷ややかに見ていたのだが、

「――――ほら、その眼だ」

不意に、ヴィヴィアンがアンヘルの顔を覗き込むようにして、顔を近づけた。

「今、あんたドブみたいなイ~イ眼してるよ、お嬢ちゃん。自分で気付いてるかい?あんた、間違いなく、あたしらのご同類さね」

そう言うと、ヴィヴィアンは自らの頭を指差すと、その指をクルクルとまわし、最後にぱあっと手のひらを開いて見せた。

「ここ、イっちゃってるのよ」

血走り、焦点の定まらない瞳で上目使いにこちらを見上げ、さも満足げに血まみれの刀に舌を這わす。その表情は、どこからどう見ても完璧に狂人のそれだ。妙に饒舌だと思ったら、とっくの昔に脳内麻薬で天然ハイになってたらしい。それとも、モノホンのヤクでも決めているのか。

どちらにしろ、元から許容量の少ないアンヘルの忍耐力は、爆発寸前だった。

「このキチガイめ、単に殺しが好きなだけならモノホンの戦争か、さもなきゃお頭の医者にでもかかっとけ」

「ハッ、殺し屋が殺しを楽しんで何が悪いのよ。こんなクソ溜めみたいな家業に、プロ意識だの何だの持ち込むほうがチャンチャラおかしいわ。ぶっ殺したい奴さえキッチリ殺しとけば、後はあたしがナニ楽しもうが誰も文句なんか言わないでしょ?あたしにとっちゃ、コレは趣味と実益を兼ねたこの世で一番イカした娯楽よ。あたしは、殺しを楽しみたい。ただ、それだけ。それ以外はどうでもいいの。それ以外したくないの。それ以外、なぁんもないのよ」

ま、今はちょいと個人的事情ってやつでぶち殺したい奴がいるんだけどね、と。最後にヴィヴィアンはクツクツと空恐ろしい顔で笑った。

殺戮の快楽に酔っているのか、その眼はやや充血し、瞳孔が開ききっていた。黒い、孔のような眼だ。どこまでも暗く、そして深い。紛うことなき、狂人のそれ。だが、何故だかアンヘルには泣き笑いのようにも見えた。

恐らく、この男にはそれ以外、本当に何にもないのだ。守りたいものも、夢も、希望も、絶望すらも。金にも、権力にも、名声すらも興味がなく、野心さえ持っていない。この男に残っているのは、血と殺人の快楽だけ。それを求め続けて、いつかどこかで死ぬのだろう。おぞましいにも程がある。

その姿に、自分の未来を重ね合わせて、アンヘルはぞっとした。

恐らく、この男がゴドーと同じ目をしているのは、それが理由なのだろう。

だから、

「てめーと一緒にすんじぇねえ、ピー野郎。オレはもう、あの人たちから受け取ってるんだ。報酬ってやつをな」

思わず、そう答えてしまってから、まずいと思った。

「あら、意外。金で動くタイプにゃ見えないけどね、あなた」

案の定、ヴィヴィアンは、目を丸くした。

「金じゃねえし、物でもねえ。もっと別の、個人的なもんだ。ただ、それだけで、オレが命を張るには十分すぎる。それだけだ」

「あら、意味深じゃん。ふふ、興味わいたわ。聞かせてみなさいよ、その報酬ってやつをさあ」

顔をにやけさせ、ヴィヴィアンはからかうように問うてきた。

「うるせーな、てめえにゃ関係無いだろ。いいから、そろそろ黙って仕事しろ!」

こうなるのが分かっていたから、口に出さないようにしていたというのに。今のアンヘルは、先ほどまでの緊張感も吹き飛び、数秒前の自分を張り倒したい気持ちでいっぱいだった。

「そういう態度って、いくない!んな、あからさまに思わせぶりな言い方してさ、遠まわしに聞いてくれって言ってるようなもんじゃない。ねえ、ねえ、教えなさいよ。もしかしてミスタにイイ事してもらっちゃう、とか?」

アンヘルの不快指数が一気に跳ね上がったが、自分からボロを出した手前、迂闊に言い返すとどんな切り替えしをされるか分かったものではない。

黙って歩き出すと、今度は背後から袖を引かれた。

ねえ、ねえ、ねえ、と猫撫で声で繰り返し続けるオカマ野郎。まるで悪戯小僧に絡まれるようなしつこさに辟易する。

アンヘルは嘆息した。

「・・・わかった。これが終わった後で教えてやる。今は駄目だ、仕事しろ」

何せ、口に出した瞬間、自分でも恥ずかしさで悶絶してしまいそうなのだ。

報酬というのもおこがましい、ちょっとした贈り物。それが、彼らに気を許してしまった最大の理由だった。

「オーライ、生き延びる理由が一ケ増えたわ。じゃ、とりあえず、お嬢チャン・・・」

ヴィヴィアンはにんまりと笑って頷いたのだが、直後、その声に混ざるものが変化した。

アンヘルが気がついたときには、その眼は鋭く、彼女の背後をにらみつけている。

彼女が背にしている、レンガの壁を。

「頭、下げなよ!!」

その言葉と共に、アンヘルの襟元がぐいっと強引に後ろに引かれた。

咄嗟のことに悲鳴を上げる隙もなく、逆らうことも出来ずに引きずられる体。だが、アンヘルの動体視力は、その"現象"をつぶさに観察していた。

始め、彼女が背にしていたレンガの壁から、まさにニョキリといった具合に、細長い何かが突き出された。それは、ちょうど先ほどまでアンヘルの横腹があった位置を正確に射抜いていた。

その細長い先端がアンヘルの髪をギリギリでかすめながら通り過ぎ、同時に繰り出されたオカマの日本刀の刃先が、その鋭い切っ先にかち合うように繰り出された。

しかし、

「あぶなっ!!」

つきこまれた日本刀をすり抜けるようにして、金属製の槍のようなものは、ヴィヴィアンの顔面に迫った。

すり抜ける、というのは比喩表現ではない。文字通り、同じ軌道を描きながら、陽炎か何かのように刃をすり抜けて攻撃してきたのだ。それが幻ではない証に、間一髪、恐るべき反射神経を発揮して飛びのいたヴィヴィアンの頬が切り裂かれ、鮮血が宙に舞っている。

槍のようなものは、繰り出されたときと同様、瞬時に壁の中に吸い込まれていった。後に残った痕跡は、切り取られて中に舞った数本の金髪と、ヴィヴィアンの切り裂かれた頬の傷のみ。

以上が、わずか数秒の間に起こった出来事だ。

状況が終了したとき、アンヘルはいつの間にか現れたバトゥの胸の中に抱きかかえられるようにして、かばわれていた。

突然のことに、アンヘルは反応すら出来なかった。

直前まで繰り広げていた漫才じみた雑談を言い訳にできないくらい、油断していた。

「・・・危ない能力者がいやがんなあ。壁から出てきたのは、銛か?」

何かが飛び出してきた煉瓦の壁に、貫通したらしい穴はなく、すでに壁の向こうに人がいる気配もなかった。

「"絶"で隠れてたって感じはしねえな。突然攻撃の瞬間にだけ殺気が吹き上がりやがった。おまけに、壁には穴の一つも開いてねえ」

バトゥはアンヘルを腕の中にかばったまま、銃口の先を件の壁と、なぜか地面に向けつつ、同じように警戒しているヴィヴィアンに問いかけた。

アンヘルも確かに見た。あの細長い槍のようなものは、金属製の銛だった。先が三叉になっていて、鋭い刃の刃先には凶悪な返しがついていた。形状的には、浅瀬の海で漁師が使うような得物だ。

「そうよ、ありゃたぶん海パンね。厄介な奴が出てきやがったわ」

長い舌で頬から溢れた血を舐めとりつつ、オカマの視点はいまだ銛の飛び出てきた壁に固定されている。口元は獰猛な笑みの形だが、目は少しも笑っていない。

「海パン?確か、豚野郎の子飼いの能力者だったな」

「ええ、ミスタ。たぶん、あなたにはこう言ったほうが分かりやすいんじゃないかしら、"影男(シャドウマン)"って」

その言葉を聴いたとき、バトゥは心底面白そうな笑みを浮かべた。

「おいおい、マジかよ。それが本当なら、やっこさん、俺等みたいな俄か賞金首とは年季が違うぜ」

暢気そうに会話する二人を余所に、バトゥの腕の中で固まっていたアンヘルは、そこでようやく再起動を始めた。

「・・・旦那、すまねえ」

バトゥの胸から離れ、素直に頭を下げる。

まかり間違えば、自分は今ここで意気をしていなかったと理解していた。

だから、謝りつつも、近距離では取り回しの難しい機関銃を放り出し(どの道、あと少しで弾切れだった)、腰から小銃を取り出して周囲を警戒する。状況が状況だから仕方がない、と胸の高まりを覚えた自分に言い訳をしながら。

「うかつだぜ、嬢ちゃん。鉄火場じゃ、ちょいとした迷いが生死を分ける。ま、命がある限りは次に気をつけな。それよかヴィヴィアン、"影男"って、あの"影男"のことだよな?」

バトゥの慰めるような口調が、逆にアンヘルの胸をえぐる。対等とは見なされていない。その事実に、歯噛みした。

そんなアンヘルの気持ちを知ってか知らずか、バトゥの興味は完全に"影男"なる能力者に向いているようだった。

「まさか実在するとは思わなかったな。噂が本当なら、ロカリオ共和国の前大統領を暗殺した奴だ」

影男(シャドウマン)。

その通り名は、アンヘルもゴドーから聞かされたことがあった。現実性の薄い、一種の都市伝説のようなものだと。

それは、非現実的なほどに特殊で、ありえないとされながらも、存在を噂され続けた念能力者の話。

巷の都市伝説のように扱われながらも、恐らくは特質系に属する能力者であると、念能力者たちの間でささやかれ続けた伝説の殺し屋。



二年前、ヨルビアン大陸バルサ諸島の一つの島を占める連邦国家の一つ、ロカリオ共和国の終身大統領の座についていたポオ・サハコーが暗殺された。

そもそもミテネ連邦とは、テロ支援国家と名高い東ゴルドーを筆頭として、いずれ後ろ暗い事をしている国家郡が大国に対抗するために手を組んだという側面が強い。ロカリオ共和国もそのご他聞に漏れず、サハコーも世界最悪の独裁者の一人として数えられる最悪の男だった。

サハコーは民衆から教育を奪った。政治体制の矛盾を見抜きうるインテリ階級を極度に恐れ、弾圧したのだ。

首都は飢餓と疾病、農村への強制移住によってゴーストシティとなり、医者や教師を含む知識階級は見つかれば「再教育」という名目で呼び出され殺害された。始めは医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、どこかへ連れ去られた。

そんな無茶をして国が立ち行くはずも無く、やがて経済は崩壊し、通貨は廃止され、私財は没収された。何より、学校制度そのものが否定され、廃止されたのだ。人民は服従だけを学ばされた。ロカリオ共和国では未だの悪性の影響が残り、文盲率は世界最悪、未だ同国の経済復興を阻害する一因である。

その悪名高い男が、白昼堂々、大統領官邸で暗殺された。

事件はサハコーの死によりロカリオ共和国が無血革命を迎えたことで、一躍世界中から注目を浴びることとなる。

その日、サハコーは大統領官邸にある専用食堂で会食を行いつつ、会議をしていた。

昼食には豪華なランチに高級酒が並んでいたという。酒豪として名高かったサハコーは蒸留酒を一本飲みきり、午後から夕方の晩餐までは昼寝をするのが通例だった。

いつもどおり、ガブガブと琥珀色の液体をうまそうに飲んでいたサハコーは、突如、傾けていたグラスを食卓にぶちまけ、口から真っ赤な液体を垂れ流して絶命した。

死因は出血多量による、ショック死。

検死解剖の結果、サハコーは鋭い金属棒のようなものを突きこまれており、その外傷により死に至ったことが確認されている。傷は、正確に肛門を貫通し、脳髄にまで到達していたという。

傷跡の鋭利さと絶命までの時間が短かったことから、一瞬で串刺しにされて殺害されたというのが検死医の見解だった。

この事件のもっとも奇妙な点は、大統領が座っていた椅子にも、床にも、そしてその下の厚さ4メートルものコンクリートで出来た基礎工にすら、穴をうがたれた痕跡が無かったことだ。

この奇妙な暗殺者につけられた通り名が、影男である。

その正体は、推測が立てられている。

ありとあらゆる物質を、任意にすり抜けることができるとされる、物体透過能力者。



バトゥが感慨深そうに頷いた。

「噂の影男さんが豚野郎の手下とはねえ。敵さんも、本気出してきやがったな」


















ドレイボット・アンダーソン、通称ダニーボーイは焦げていた。

それはもう全身を真っ黒にローストされ、服といわず靴といわずにマダラ色の焦げ跡だらけのスーツをまとう背中は哀れを誘うほどに煤けていたかが、それでも何とか命だけは手放さなかった。

無意識のうちの焼け焦げ横転するトラックから脱出し、はいずりだして道路わきの空地に積もった雪溜まりの中に転がったのは、本能のなせる業だろう。

「うへ、うへへへへへへへい」

ボロ屑のようになりながら、地面に腹ばいに横たわったザマはまさに負け犬のそれだ。

だが、ダニーの心は挫けない!

「いいぃけない、いけないぜ、べいべえ!!」

煤で汚れ、鼻血を流れるままに任せた顔には、涙が浮かんでいた。

「ちくしょう、俺のことが嫌いなんだろ、神様!だが残念だったな、俺様の三番目の女にゃ『幸運の女神』ってあだ名がついてんだぜ!」

どうやらスーパーリラックス状態だった麻薬が一転、アッパーに入ったらしい。やたらと不適切な四文字スラングを連呼しつつ、じたばたと手を蠢かせながら、ダニーは咆哮した。

ここ数日のうちに何度も臨死体験を繰り返し、エンケファリンやβ-エンドルフィンといったお頭に愉快な物質がドバドバとダニーの脳内に流れ込んでいた。それらのハッピー注入が、リアルな麻薬と超化学反応を起こし、いまだ無知なる科学者には到達できない境地へとダニーを押し上げていたのだ。

つまりは、ガンギマリだった。

「フヒヒヒヒイ!!俺は無敵だぜええ、アイアム、チャンピオ~~ン!」

ただ一人、深夜の街中で、奇声を上げる男は怪しすぎるくらいに怪しすぎたが、誰もそれを咎めるものはいなかった。

「ウヒラウヒラアヒラ!!さて、一丁リベンジじゃあ!あの牝餓鬼めえ、こんどこそ股座に俺様のマグナムをって、・・・あん?」

新たなパウアに覚醒したてのダニーは、道の前方からゆらりと歩いていくる複数の人影に気がついた。

こんな時間帯にこんなところをうろついているなど、カタギではまずないだろう。かといって、彼と同じ抗争に参加している殺し屋連中にも見えなかった。

なぜなら、彼ら、いや彼女らの格好が、格好だったからである。

全員が十代から二十代の若い女。髪の色も肌の色も様々だったが、全員が整った顔立ちをしているのが特徴らしい特徴といえなくも無い。ただし、身に纏っているのは、局部むき出しのボンデージドレスや、極彩色のランジェリー。さもなければ、マニア向けのハイスクールの制服に、ヤーパン製アニメに出てきそうな奇天烈コスチュームだ。布地より地肌の露出割合の方が明らかに大きく、そこからタトゥーやらボディピアスが覗いている。首に巻かれた悪趣味な黒革のチョーカーだけが、唯一共通した装飾品だった。

全員が全員、空ろな目つきに口元からは涎をたらし、足取りだけはしっかりと、奇妙なほどに整列し、隊伍を組んで、深夜の街を行進する。あるいは、昼日中の中でなら、時期はずれの"スラット・ウォーク(あばずれの行進)"に見えなくも無かっただろう。

ただし、彼女らが手に持っていたのは、『ASS≠ASSAULT』だの『JESUS LOVE』と書かれたプラカードではなく、もっと物騒な得物だったわけだが。

彼女らの口元からは湯気が漏れ、髪や眉には白い霜が降りている。それでも行進をやめない。否、やめられないのだ。自分の意思では。



「・・・風俗嬢の集団出勤?」

結局は、それを目撃してしまったことが、ダニーの本日最後の不幸だった。



数時間後、道端にボロボロの状態で放置されていた彼は、幸運にも馬鹿騒ぎの後始末に奔走していた警官に保護された。

だが、その日を境に以前の記憶をすべて失い、脳の医者と過ごすことになるのだが、それはまた別の話である。











…to be continued






[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep12
Name: kururu◆67c327ea ID:bf401e74
Date: 2012/05/13 20:29





その女は、寂れたバーのカウンターで飲みつけない酒を飲みながら、男と会話していた。

男は、初めて見る顔だった。というか、彼女がこの店に足を運んだのは初めてだったので、見る顔全員が全員、知らない顔だったのだが。

いつも行きつけの店が(会社の上司の奥さんがやっている店なのだが)臨時休業中だったので、適当に彷徨って適当に決めた、そんな店。安っぽい雰囲気で、客のガラも悪そうだったが、彼女にはもうどうでも良かった。お酒に逃げることが出来れば、どこでもかまわなかったのだ。

男は嫌らしい笑みを浮かべながら、どんどん酒を注文して、彼女に飲ませ続けた。

サングラスにニット帽、顔にはピアス、指には指輪に、腕にはタトゥーがこれでもかとジャラジャラつけられている、そんな男。もう、普段の彼女なら絶対に口をきくことはおろか、近寄りさえしないだろう、そんな男。でも、彼女にはもうどうでも良かった。

一瞬だけ、実家においてきた幼い息子のことが酔いの回ってきた頭をよぎったが、酒を注文するペースは落ちなかった。

今夜だけは、何もかも忘れたかった。



私って、馬鹿なんです。



泣いて笑うという器用な表情を作った女は、とつとつと語りだした。



私、この街の生まれです。

父は教会の牧師で、母は音楽教師。ごく普通の、恵まれた家で育てられました。

地元の初等スクールに通って、母にピアノを教わって。夢は母と同じ音楽教師になることでした。その頃は、友達も多かったし、幸せだったのかもしれません。

でも、ミドルクラスに上がる頃に、ちょっとまわりの子達と距離が離れ始めたんです。

まわりの子は、みんな男の子に興味があって、いつでも恋バナをしてた感じです。その時、私も自然に混じっていれば、もっと普通で当たり前の女を学べたのかもしれません。

でも、私はプライドばかり高くて、当時はエクボも酷かったし、それにこの髪、すごい赤毛でしょう?男の子たちからも馬鹿にされるばかりで、つい言ってしまったんです。くだらないって。もちろん、村八分にされました。



そこで一口、淡い空色のカクテルを口に含んだ。



その後は、勉強ばかりしてた気がします。・・・ええ、成績はクラスで一番。少し意地になってたんでしょうね。でも、両親が褒めてくれるのは嫌いじゃなかった。それに学問に面白さも感じていたんです。だって、そうでなければ長続きしませんでしたよ、たぶん。

才能が、あったんでしょうね。飛び級に飛び級を重ねて、気が付いたら15の時に大学の門を潜っていました。お祝いに両親から車を買ってもらったのはうれしかったですね。通学に便利な、安物のセダン。今でも通勤に使ってます。

その後の、学生時代のことは省きますね。だって面白くも無い話ですもの。レポートの課題に追われたり、ゼミに入って教授にこき使われたり・・・今考えると、それ以外なにもしてなかったんですから。

転機は、大学を出て、就職してからでした。

・・・上司と寝たんです。18の時です、自分より20も歳上の人と。

生まれて初めて、人を好きになりました。ううん、そう錯覚してたんでしょうね、今考えると。

ええ、すぐに別れました。というより、向こうにしてみれば単なる遊びだったんでしょう。彼には奥さんも子供もいましたから。分かります。私が子供過ぎたんです、精神的に。

子供が出来たと告げたら、あっさり関係を切られて、ついでに会社も首になりました。あの人、役員会に顔がきいたし、次期社長の噂もあったから、トラブルを嫌ったんでしょうね。今思えば、そういう姑息なところのある人でした。それに、女だてらにって、嫌われてましたから、私。

その後は、両親の伝手で今の会社に入って、正直、仕事に逃げていた気がします。生んだばかりの子供の世話を、親に預けたままでね。あの子の顔もまともにみていたくなかったから・・・本当、最低の母親だわ。

でも、そこで彼に出会った。

最初は、あまり好きではありませんでした。というか、男の人全般を敵視してたんだと思います、その頃は。子供みたいでしょう?そんな女なの、私。

会議で顔を合わせても、意見が合わなくて、いつも口論ばかりしてた。

管理職になってもう長いのに、顔を見かけるといつも窓口にたってました。

で、つい言ってやったんです。

「あら、次長、管理職手当てを頂きながら、また窓口ですか」って。

言ってから、すぐに後悔しました。

うちの店、ほとんどの仕事があの人頼みだったんですよ。トップがマル暴以外じゃ役に立たないから、法学部卒のくせにね。

でね、彼、真顔でこう言ったんです。

「我々、銀行員は現場がすべてですよ、お嬢さん。現場の努力以外に、収益をあげる術などないのです。それが分からないなら、預金窓口で一からやり直しなさい」

・・・そのときは、人に怒られたの、久々だったし、言い方もきつかったから、もうムカムカしてしまって。

でも、後で冷静に考えると自分の馬鹿さ加減にもうんざりしました。

彼、渉外も担当してたんですよ。え?・・・ああ、分かりやすく言えば、外回りで仕事取ってくる営業みたいなものよ。一番、キツいお仕事かもね。ストレスも多いし、会社は自分が喰わせてるんだってプライド持たないとやってられないから、扱いも難しいの。



もう一口、先ほどより多めにカクテルを飲んだ。



その後、たぶん二、三日あとだったと思いますけど、先日のお詫びもあって、夕食を一緒にすることにしました。

上司にそう薦められたんです。あの人、仕事はからきしだけど、こういうのには聡いのね。ちょっと、びっくりするくらいお高いレストランのチケットを二人分渡されました。その後でお酒を飲んだバーも、あの人の奥さんがやってるお店だったわ。

そうね、自分から男の人を食事に誘ったのは、それが初めてでした。

いい夜でしたよ、彼は紳士的で、会話も私好みだったし、お店も素敵でした。

え?彼と寝たかって?・・・いえ、そういうのはありませんでした。残念だけど、ね。

別れ際に、極自然にタクシーを呼んでくれたの。私、へべれけだったし、それでもその日はとても充実した気がします。

それからはランチを一緒にしたり、休日にミュージカルを見に行ったり、家に招待したこともありました。二人で過ごす時間が多くなって、プラトニックな関係ってやつなのかしら、こういうの。とても、楽しかった。

でもね、楽しかったけど、一度も彼から求められたことなかったの。

だから、私、だんだん怖くなってきたんです。

彼にとって、私とはあくまで気の合う友人の関係でしかないのかなって。

それで私、彼には他に女が居ると勝手に思いこんで、最後まで自分の気持ちを伝えることが、出来ませんでした。



女がカクテルを一息に飲み干すと、男はすぐさまお代わりを渡した。



ありがとう。これ、おいしいのね。え?スパイスが効いているんですか?ふふ、お酒は良く知らないけど、気に入ったわ。



女はしばしグラスを弄び、もう一度、中身を一息に飲み干した。ほうけた顔が、一瞬だけ褪めたように冷えた。



別れは唐突でした。

つい、先日のことです。

ボーモント銀行の襲撃事件、その日、彼は亡くなりました。

え、よく知ってる?・・・そうね、だいぶ騒ぎになってるものね。

その日も、彼はいつもどおり窓口に立っていたそうです。

・・・それで、・・・彼は・・・・



レースのハンカチは、もう水分を吸い取る余地が無いくらいに、濡れていた。



お葬式の後、葬儀を取り仕切った父から、遺品を、渡され、ました。

自分に、何かあったら、私に渡してほしいって。

日記でした。古風な、布張りの。

それを、読んで、私は、涙が、止まりませんでした。

彼の字で、ずっとわた、私の事を、好きだったって。

他に女は居なかったって。

いずれ、自分はこうなるだろうって・・!

こんなの勝手だわ!!私にどうしろって言うのよ!!



空のグラスをカウンターに叩きつけた。



・・・ううん、本当に馬鹿なのは、私。

こんなに後悔するくらいなら、勇気をだして、告白すれば、良かったのに。

本当、私って・・・





「さてさて、ブッチさんにお届け物ですよ~っと」

泣き崩れ、眠ってしまった女を抱き上げながら、男は嫌らしい笑みを浮かべると、その場を後にした。

後には、砕かれてカクテルに塗された、D・Dの欠片だけが残された。













Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep12













そのパレードは、何処からやって来たのだろうか?



始め、大通りを眺めていたアンヘルの目に止まったのは、奇妙な人物だった。

歳の頃は22~3といったところだろう。若い女だ。

だが、何よりもアンへルの目を惹いたのは、女の服装であった。

喩えるならば案山子のように、服を着るというより纏っていた。ボロという訳では無く、組み合せがバラバラなのである。

ウェスタンを気取った若者が好んで着るような、膝の部分にフリフリの布地がついたジーパンに、上半身は蝶ネクタイにノースリーブのデニムシャツ。その上から丈の長い革のコートを羽織っているのだが、コートのボタンは止められず、だらしなくマントのように肩から垂れている。しかもその色が傑作、派手な蛍光色のピンクやブルー。

人通りの多いネオン街ならば、ちょっと毛色の変わったコールガールか、カジノバーの呼び込みで通っただろう奇抜なカッコウ。だが、明け方間近の廃墟の街では、壊れたショーウィンドウのマネキン並みに浮いている。

なにより、女の顔がまた強烈だった。

まるで幼児向けのTV番組に出てくるような、不気味なメーキャップ。ルージュで描かれた唇はコメカミまで達していて、目の周りにはこれでもかと青いシャドウが塗りたくられていた。

挙句の果てに、短く無残に刈り上げられた髪の毛は様々な染料をぶちまけたかのように乱雑に染め上げられ、まるでそれ自体がネオンサインのように人目を惹く。

女が漂わせる印象を一言で言い表すならば、狂気。それ以外の何者でも無かった。



「なんだありゃ・・?」

アンヘルの素っ頓狂な声が、廃墟の街に響き渡る。

その声に惹かれて、自然と他の者の視線も、自然と通りを進む女に集まった。

良く見るとダブダブのコートには、ルージュと思われる紅い染料で、汚い字体で文字が記されている。

『Are You FUCK'N Ready?!!!』

他にも細かい文字で何か描かれているようだったが、少なくとも彼女の位置からは確認できなかった。

女は通りのど真ん中でピタリと止まると、マネキンを思わせるカクカクとした動作で、芝居がかった大仰な礼をした。同時に、ドゥルンという奇妙な音が鳴り響く。

そして、

「"やあやあ、人でなし諸君、今日の稼ぎは十分かい?!"」

どこから放送したのか、調子の外れたアンプのせいで、金切り声混じりのシャウトだったが、それが聞こえたとき、思わずその場の全員の視線が一点に集中した。

「"なに?まだまだまだまだ喰い足りない?!いいとも僕の奢りだ、遠慮なく喰ってくれ!!"」

視線の集うその先には、苦虫を噛み潰した顔のキャスリン。

「この声、・・・豚公め!」

その声は、誰あろう、キャスリンその人のものとクリソツであった。

そして、キチガイじみた笑い声と共に、

「"さあ、楽園までのパレエドだあ!!!"」

大音響が鳴り響く。



その瞬間、街が蘇った。

供給されるべき電力は、当の昔にたたれている筈なのに。

配電のほとんどはすでに腐食しつくされている筈なのに。

バチバチと火花を散らしたネオンサインが深夜の街に光のラインを描けば、こなたの街路に設置された街灯が、点々と疎らに火をともす。ビルというビルに、通りという通りに、カラフルで強烈で、安っぽい色の明かりが咲き乱れる。

ピンクの光に照らされて、街はついにその正体を現した。

闇に埋もれ、崩れかけた廃墟の群れは、酒場、安っぽいホテル、ポルノ映画館、もしくはストリップ劇場。あるいは怪しげな看板を掲げているが何の店かも分からぬ残骸の群れ。

かつては大勢の娼婦がたむろし、道を歩けば死体に当たり、麻薬が札束と一緒に通貨として扱われた楽園の跡地。

そのすべてに、破れたポスターや性器を捩ったスプレーの落書きが、キチガイじみた花を添える。

割れた酒瓶とポルノ雑誌のページが散乱し、山と撃ち捨てられたビデオテープが中身のワカメを晒してつみ上がる。

ヨークシンの闇を形作った始まりの土地、オールドジェイゴはその一時のみ、かつての醜悪な歓楽街の有様を取り戻していた。



どこからか、狂った行進曲(マーチ)が鳴り響く。

猿の玩具が叩いてるようなシンバルを響かせ、マンドリンとリュートが気狂いのテンポを奏でれば、アコーディオンとフルートの合奏は全体をかき乱しながら旋律を生み出し、壊す。それらが奇妙なほど揃った足音と一帯となって、風変わりな音楽を生み出した。



主役は、大通りを行進する、無数の女達。

カウガール姿の女の背後から、続々と姿を現しては、隊伍を組んで行進するマネキンじみた人の群れ。

バニーがいた。ナースがいた。SMで使われるような露出が多すぎる拘束衣の女がいた。誰も彼も、まるで風俗街からそのまま飛び出てきたような格好だった。

そして、乱雑にカットされたショートの髪を、まるでペンキを直接頭にぶちまけられたかのように、ケバケバしい色に染められているのが無残を誘う。

首に付けられた揃いの黒革の首輪が、彼女たち自身の格好が、その"用途"を明確に示している。いったい何に"使われていたのか"、一目瞭然だった。

その手に握られているのは、さまざまな種類の銃やナイフ、警棒に鉄パイプ、あるいは爆弾。ありとあらゆる武器だった。



"スラット・ウォーク(SlutWalk)"と呼ばれる一種のデモ活動が、ある。

風変わりな格好、多くは肌を露出させ、わざと挑発的な格好した女性たちが目抜き通りを練り歩きながら、「わたしたちはスラットよ!」と叫ぶのだ。

"スラット(Slut)"という単語は、『だらしない』という意味を持っている。その『だらしがない』が、いつしか性的なだらしなさを連想させ、娼婦を意味するようになった。だから、女性が自分を他者に向かって「スラット」だと叫ぶのは尋常ではないのだ。

その始まりは、とあるロースクールで講義をしていた警察官が、「セクハラを避けたいなら、性的に挑発的な格好、つまりスラットな格好をしないことだ!」と主張したことに端を発する。

それを聞いていた女性たちは、当然のことながらカチンときて、女を古いステレオタイプに閉じ込めようとしている、と反発した。そこから『スラット』という概念が、フェミニズムの新しいあり方を表すようになった。

だが、今この場で行われている行為は、似て非なるどころか、まったく真逆。

女性を食い物にし、『スラット』であることを無理やりに強制させ、挙句の果てに使いつぶす。

この世でもっとも邪悪な、アンチフェミニズムの具現であった。





それらすべてを視界の端に収めながら、アンヘルは呆然と明かりの点いた街を眺めた。

バトゥは無言で、咥えたシガリロを吹き捨て、

「派手だねえ、どうも」

すぐ隣で、オカマがあっけにとられ、握ったカイロを取り落とす。

「なるほど、例のリストに載ってた"商品"がこれか・・・」

珍しく不快そうに街を眺めていたキャスリンが、執事の上から飛び降りた。

東ゴルドーよりバトゥが持ち帰ったファイルが示していた事実は二つ。

一つ、大量の武器密輸。

もちろん、東ゴルドーの特産品、世界各国のコピー武器だ。

そしてもう一つは、大量の人身売買の記録。東ゴルドーの誇る人肉市場が提供する、もう一つの特産品。

大半は、年端もいかない少女だった。

「・・・・・・・」

それを感情の無い瞳で眺めるミツリが、深く息を吸い込む音がした。

直後、攻撃が始まった。



パンと、特徴的な発射音。

直後、葬列じみた仮装の群れから、白い火球が吹き上がる。射手の背後に高熱のガスが噴出し、後続の数名が巻き込まれて吹き飛ばされたのだと気づいたときには、その兵器の正体に気づいた。アンヘルにとっては、すでに見慣れた兵器。携帯型の対戦車擲弾だ。

構造は単純且つ取扱も簡便、製造単価は安く、使い捨てで軽量、しかもそのわりに高い威力を発揮するので、ゲリラやテロリストにはこれ以上内ほど重宝される。この世でもっとも使用されているベストセラーの一つ。先ほどバトゥが鼻歌交じりに叩き落したものとまったく同じ兵器。

だが、先ほどと致命的に異なるのは、相手との距離が50メートルも離れて無いということだった。

「伏せろっ!!」

アンヘルが怒鳴り、

「いや、キョーコ!!」

バトゥが返す。

彼我の距離は、約50メートル。今度のこれは距離が近すぎて、もはやバトゥにも迎撃することは適わない。

「――――――――――――!!!!!」

黒衣の女が吸い込んだ息を吐き出すと共に、大気が高周波の咆哮をあげた。

ミツリを中心に衝撃波が扇状に開放され、弾頭の誘爆を誘う。複数の火球が地べたで破裂し、狂ったパレードの前衛集団を巻き込まれて吹き飛んでいく。

頬が熱波で煽られ、髪の毛が逆立ち、はじきとんだ破片が頬を掠めるのを感じながら、それでもアンヘルは目を離せない。

バタバタと人形のように砕ける数十名を盾にして、屍を無表情に踏みしだき、間髪いれずに第二陣が来た。

だが、今度はミツリにも防げない。

ミツリの能力は声を媒介にオーラを放出することで、対象を攻撃する。固定対象に向かって威力を収束させるのならばいざ知らず、広範囲をカバーして掃射するためにはそれだけで膨大なオーラを必要とする。

ミツリほどの手練となれば、即座にオーラを練り上げる速度も尋常ではない。が、警戒して"溜め"をしていた初撃ならばいざ知らず、タイムラグ無しに撃たれた次撃を打ち落とすのは、わずかな時間差で適わなかった。

その間を埋めたのは、

「・・・・・・・・!!」

宙を舞い、一行の前に躍り出た、丸い執事姿の男に他ならない。

すっと、地上すれすれを滞空しながら、前方につきだした両手にオーラを集中。枯れ木のような腕がタクトのように振り上げられるのと同時に、此方に殺到していた弾頭が、そろって明後日の方向にそれた。

まるで何かに引っ張られるかのように急上昇し、即座に起爆。

中空にて無数の火球を生じさせ、煙と炎、金属の破砕片が満遍なく辺りに降り注ぐ。

「コイツ、全然しゃべらないクセにすげえ・・!!」

叫びながらも、アンヘルは違和感に気づいていた。

何故、この距離まで接近されてしまったのか?

確かに、廃墟の街が隠れ蓑になっただろう。

さらには、姿に気づいた後も、奇抜な装束に目を奪われていて対応が遅れたというのもあるだろう。

だが、女達の接近を容易に許したのは、そればかりではない。

"凝"を通して見る世界にのみ、浮かび上がるこの違和感。

即ち、"絶"だ。

オーラの溢れ出す穴、『精孔』を閉じた状態にすることで、オーラが全く出ていない状態にする念能力の初歩、四大行の一つ。

こちらに向かってくる女達のほぼ全員が、ほとんどわずかなオーラも身に纏うことなく、気配を絶っていた。もちろん、それほど完璧な絶ではない、至近距離まで近づいてくれば気づく程度。だが、逆に闇夜の中では、ある程度接近されるまでは気づけない。

極論してしまえば、常人と能力者の違いは、そのオーラを垂れ流しにするか、纏によって留めているか、あるいはオーラそのものを絶つことができるかどうか、に尽きる。では、こいつらは全員が念能力者なのか?

だが、アンヘルは首を振ると、即座にその疑問を切って捨てた。

ことこの距離に至ってまで、オーラを隠し続ける意味は無い。それに、いくらなんでもいきなりこの人数、それも女ばかり能力者をそろえて投入してきたというのも、無理がある。

何らかの要因で、極めて"絶"に近い状態にはなっているが、"念"を扱えるわけではない。そう仮定した方がが恐らくまだ理屈に合う。

だが、それでもまだ疑問は残る。

例え気配を誤魔化したところで、姿が消えるわけでもない。アンへル自身が携帯し、利用している熱感知(サーモグラフィ)機器の目は、視界に入ってさえいれば、熟練した念能力者の絶ですらも、何の意味も無く見抜くことができる。この機械の目を通して映し出される、可視化された温度の視界を、どう誤魔化したのだろうか。

それに、と最後にアンヘルは静かにたたずむ黒衣の女と、白服の男に視線を移したところで、

「野郎、やりやがったな!!××××!!」

二丁拳銃が唸りを上げ、刹那の思考を打ち切った。

普段のバトゥからはとても想像できないような罵詈雑言。不適切な四文字熟語を叫びつつも(隣にいたアンヘルが軽くビビった)、その狙いは相変わらず正確だった。

目にも留まらぬ早撃ちで手足を打ち抜き、一度に数人を沈黙させる。例の特注弾丸を惜しんでいるのか、それとも別の理由からか、弾は通常の弱装弾であった。

後に倒れた人形は、それでも動き出そうと手足をばたつかせていたが、さすがに筋肉が断裂していては歩くことはおろか立つことさえできない。そこを背後から続々と現れる人形達に、踏みつけられていた。

彼我の距離はすでに30メートルあまり。

すでに念能力者にとってみれば、超至近距離と言っていい、近接格闘の間合い。

鍛えられたアンヘルの動体視力は、意識することなく敵を観察する。

極自然に相手の体の動き全体を把握しながら、まず視線が向かったのは、顔であった。

相手の顔を注視し、その表情から思考を追う。念の戦いは思考の戦いでも在る。

より速きは強きこと。相手の狙いを、動きを、能力を瞬時に見抜き、リアルタイムで行われる先読みと、普段の修練によって培われた反射。その両方が、念により強化された運動神経を通して、コンマ数秒以下の刹那の動きを可能とする。

だからこそ、理解できた。

相対している者たちの、正体を。



露出の多い卑猥な装束のその下で、手足は振るえ、指先は凍えている。

にも関わらず、動作がカクカクとすばやいのは、間接部を破壊する一歩手前の筋力を無理やり出させられているからだと、何故か理解できた。

肌は青いのを通り越して白く鬱血し、眉や髪の毛に白い針のようなものが無数に付着していた。霜が降りてるのだ。

現在の外気温は摂氏マイナス5℃。深夜の最低気温がマイナス10℃を下回ることもある冬のヨークシンにしては暖かいが、人体に有害な温度であることに変わりはない。

体温は冷気に奪われて低く、呼吸も途切れ途切れで覚束ない。この低温状況で、凍死するぎりぎりの状態でありながら、体を無理矢理動かし続ければ当然だ。だから、熱感知でも見分けがつかなかった。それほどまでに、冷え切っている。

そして、その顔に浮かんでいたのは、恐怖。圧倒的恐怖。そして絶望と諦観。

泣きつかれ、光を返さぬ瞳。疲れ果て、擦り切れつつも狂うことのできない感情。

泣き顔のまま、涙すら凍りついたかのような悲惨な、顔。

震える唇の群れが、ある一言のみをつむぎだす。

タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ・・・!!!!!

それが、女達の全てだった。



鍛え上げられた念能力者というのは、観察力に長けている。

心拍数に体重移動、微細な手の動きや目つき、瞳孔の動き。それら全てを瞬時に観察し、自動的に相手の思考をトレースし、状況を見極め、刹那の判断につなげる。

弛まない修練だけがもたらす、反射レベルでの行動。だがそれが今、アンヘルに望まぬ理解を強いていた。

なるほど、"絶"を使っているわけでもないのに、捕らえられなかった筈だ、と。自分でも妙に静かに納得したが、瞬時に腸(ハラワタ)が熱を持って沸騰した。

意思と肉体の自由を切り離された人形。故に、殺意も殺気もあるわけが無い。

あるのは、恐怖と絶望と悲嘆。それら全て似たいする諦観だけ。すでに自らをこうしたもの達に対する憎しみすらも、擦り切れているのかもしれない。

機械のように無理矢理動かされているので、殺気がない。念能力者ではないから、一般人と見分けがつかない。

何より、死に掛けてるから、オーラがほとんどない!

油断させてグッサリやるタイプの殺し屋としては、あるいは爆弾を抱えさせて突っ込ませる捨て駒としては、まさに絵に描いたような理想の兵士。

それを、まとめて使いつぶしているのだ。

「ありゃ、だいぶ歩かされてるねえ。足が笑ってるわ」

この格好で彷徨てりゃそうなるか、とオカマが人ごとのように呟くのをアンヘルは聞いた。

目をこらして見れば、直線に伸びる路上の上、少なくない数の『脱落者』があちらこちらに点々と、動物の死骸のように放置されていた。



そして、ジリジリと距離をつめてきた最初の集団が、ついに後10メートルに迫ったとき、

女達の一人が、手にソレを持っていることに気が付いた。

壊れた笑顔を浮かべつつ、ピン、と玩具か何かを弄ぶような手つきで、ピンを抜く。

両足が昆虫か何かを思わせる速度でガムシャラに動かして特攻し、

抱きつかれる寸前で、

「・・・――――――――!!!!」

耳元で聞こえた絶叫が、自らのあげた悲鳴だとは、すぐには理解できなかった。





ブッディの能力、『お前は僕の肉奴隷(Perfect N・T・R)』は他者を操作するタイプの典型的な操作系能力である。

自らの手で手製の首輪をつけた人間を、その自我を残したまま、ブッディの命令ならばなんであろうと実行する人形に変えることができる。

ただし、操作可能な対象は、女のみ。加えて、ある一つの条件が満たされた場合を除き、念能力者を操作することはできない。

さらには、この能力で操作された"人形"は極単純な命令しか受け付けない。一度に多数の人間を操れる代償として、そして人形の意識を残したまま操る代償として、精度が極端に低いのだ。

だが、この能力の怖さは、ヒトをいたぶることに異常なまでに特化しているという一点に尽きた。

一度この能力に囚われてしまえば、肉体の自由を完璧に奪われ、意のままに操られながらも、人形にされた人間の理性(自我)は残る。それのみが、何よりもこの能力を残虐非道なものとしていた。

つまり、人形にされた者は、苦痛を、恐怖を感じつつ、自らが一帯何をさせられているのか、一部始終を見せ付けられるのである。

その上で、気絶も、自我崩壊も、自殺さえも許されない。

能力の支配を命令を受けた人物の脳は、本来の主の命令を無視し、ロボットのように命令を忠実に実行する。

例え、それがどれほどおぞましい行為だったとしても。



父を、夫を殺され、陵辱された母娘。

人質としてさらわれ、麻薬漬けにされた少女。

無理矢理風呂に沈められた女。

祖国から浚われ、モノとして売られた少女。

誰も邪悪な男、ブッディからは逃げられない。





砕け散った"残骸"をみやり、バトゥがはき捨ててた

「ああ、やっぱりそうくるよなっ!!奴は、典型的な人形遣いだからなっ!」

思わず、といった調子で出てきた反吐はき捨てるような口調が、男の怒りの深さを物語っていた。ガンマンとして"眼"のよいバトゥが、自分よりずっと早く人形の正体に気づいていたのだと、アンヘルはそのときに気づいた。

人形遣い。それは他者を操作するタイプの、操作系能力者の総称だ。

対人戦闘において、極めて効果的で、もっとも忌み嫌われる能力者。彼らは特定の条件を満たすことで、他者を己の意思の下におくことが出来る。

「ボス、どうしやす?!無視して迂回するのは、可能っちゃ可能ですが?」

バトゥが改めて口にするまでも無く、この時、ここは一度離脱すべきではないだろうか?との疑問が、同時に全員の脳裏をよぎっていた。

重火器で武装した圧倒的多数の人間が無作為に火力をばら撒く状況は、念能力者であっても危険極まりない。おまけに距離をつめられつつある乱戦。しかも相手は距離をつめれば躊躇無く自爆攻撃を敢行する。

このまま纏まっていては、集中砲火を受ける。が、相手は念によって操られているとはいえ、所詮は常人。しかも、体力を消耗した女子供でしかなく、動きは鈍いのを通り越して鈍重。スピードに物を言わせて無視すれば、やり過ごせないはずは無かった。加えて、当然ながら罪の無い命をわざわざ手にかけなくとも済む、という心理も強く働いていた。

故に、この段階でもっとも適当な選択が、散開し、迂回してやり過ごしてしまうことであるというのは、言葉に出さなくとも全員の共通認識であったといえる。

しかし、直前に発覚したある事実が、その行動に待ったをかける。

「影男か・・・妙だと思ったんだ、あのタイミングで、中途半端に仕掛けてきたってのは」

「・・・確かに、嫌な状況だネ。迂闊に身動きが取れない」

先ほど、一行の中でも取り分け未熟な少女を襲った銛の一突き。

一見、失敗し、自らの能力を無為に露見するにとどまった筈の先の奇襲は、ここに来て思わぬ奇貨となっていた。

能力の奇妙さと、特殊性は先の遭遇で理解していたが、それ以上に厄介なのが、能力の運用方法である。

まず、場所が悪い。

両側を廃墟のビルに囲まれた長い一本道。しかも、古い町である。通りの幅は、狭い。そんなところに入り込めば、影男の危険度は跳ね上がる。

次に、タイミングが悪い。

影男の襲撃から、そう時間をかけずに開始された攻撃。それは、影男の能力に対して強い脅威と警戒を植えつけるには十分でありながら、対策を講じるには足りないという絶妙の間。

何より、円が通用しない。

物理的に建物や障害物の"中"に溶け込んでしまうために、例え"円"を広げようと、攻撃の瞬間まではその位置をつかめなかった。

そして、肉体にダメージを与えられている点から、生身の肉体はすり抜けることができないという制約が付けられている可能性が高い。今のところ、この攻撃には念で強化された肉体そのものが、唯一有効な防御策だ。しかし、一行の中に、強化系能力者はいない。

それが、影男の能力に対する脅威を演出し、思い切った行動に出られないという思考の罠を形成する。

あるいは、先の攻防にしても、不必要に殺気を放ち、あえて攻撃を失敗させるように仕向けることで、心理的な罠を作ったのではないかとすら思えてしまう。それがまた判断の遅れを生じさせていた。

その姿を見せることすらなく、"影男"は一行の心理に致命的な一突きを加え、枷をかけることに成功していた。

「なら、腹ァくくるしか、ないか」

一度、覚悟さえ決めてしまえば、"作業"自体は、そう難しく無い。

人形の数は、百名程度。計6名もの念能力者達に立ち向かうには、あまりに非力過ぎる。

横一列に並び、手に手に雑多な武器を構え、突撃してくる"人形"。

哀れだが、それで彼らが手を止めることは、無かった。

「タルい仕事ね。ねえ、ミスタ、"これ"別料金でいいでしょ?」

「・・・あぁ、いいぜ。ひっさびさに胸糞悪い殺しになりそうだな、おい」

静かで、抑揚のない、それでいて威圧感のある声だった。

刀を構える男から、二丁拳銃を構える男から、黒髪の女から、黒衣の幼女から、そして執事姿の男からも殺気が吹き上がる。

彼らの中でも常識的な部類に入るバトゥですら、もはや助けようの無い命を諦め、引き金に手をかけていた。祈りながら頭に一発、心臓に二発。せめて安らかに逝かせるように、と。

女達は哀れだ。だが殺す。

可愛そうな少女達。だが、壊す。

そんな意思が、無形の怒りが、吹き上がっていた。

ただ一人の、例外を除いて。




「・・・なんだ、これは」

単純な戦況分析として、敵の技量はお粗末である。手数も、火力も脅威だろう。加えて、異常なほどに統制が取れている。

カミカゼも脅威だろう。だが、爆弾を抱えているということは、先に火力ぶつけてしまえば、相手は勝手に自爆する。カミカゼのリスキーな部分は、一度火が点いてしまえば連鎖的に誘爆を狙えることだ。

震える体。

滝のように流れる汗。

同様を隠し切れず、千々に乱れる呼吸とは裏腹に、彼女の観察眼は的確にウィークポイントを見抜いていた。

もはや反射のレベルで仕込まれている思考は未だ健在、即座に敵戦力と戦術を分析し、最適な行動を選択し終わっている。

だが、優秀な参謀が必ずしも優秀な将軍足り得ないように、アンヘル・イワレンコフという少女にも、この瞬間に欠けているものがあった。決断力である。

自分の命を狙う悪漢どもが相手なら、もとより彼女に是非も無い。ただひたすら、いっそ清清しいほど残酷に、有象無象の区別無く、塵芥として薙ぎ払えよう。

だが、

『・・・確かに組(ファミリー)の敵には容赦しなかった。でも、銃を持たない女子供は、絶対に手に掛けようとはしなかったよ』

相手は武器を持っている。

――――だけど、女子供だ。

こちらを殺そうとしている。

――――でも、好きでやっているわけじゃない。

『安易な予想や、判断は決してしなかった。常に堅実な戦いを選んだ。それに、何をおいても味方の安全を最優先に考える人だったわ』

すでにこの距離だ。さっさと攻撃しろ。

――――分かってる!

操作系能力の開放条件は千差万別。リスキーだ。迂闊に近づけば自爆する。

――――分かってるって言ってるだろ!

「・・・こんなのは知らない。教えられていない。どうすればいい、ゴドー」

少女は一人、誰よりも信じられる男に語りかける。

だが、答えは無い。

内なる声はこの瞬間、彼女の期待を裏切って、何も語ろうとはしなかった。

当たり前だ。死者は何も語ろうとはしない。

それでも彼女が声を聞いていたというのなら、その声は、いつまでも"彼"にすがり付こうとしている、自身の声に他ならない。



不意に、真横の路地の壁が吹き飛んだ。

それが指向性爆薬によるものだと気づいたのは、無様に吹き飛ばされて石畳に叩きつけられてからだった。通常は建物への突入等に用いられる、所謂壁抜きである。

爆風に吹き飛ばされ、メキリと、肋骨が軋む音がした。

「・・ッグ!!」

だが、痛みにうめいている暇は与えられなかった。

目の前に迫るのは、サブマシガンの銃口。

瞬間、マズルフラッシュが網膜に残像を残す。

音を置き去りにして放たれた銃弾は彼女の上半身を幾重にも貫き、クロスした腕を抜いて防護服の間隙に潜り込む。一弾が、その首筋に吸い込まれた。

アンヘルは、首筋から鮮血を撒き散らしながら糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。

皮膚を貫き、血肉を抉ったが、なんとか数ミリの肉を抉るに留まった。

内側に着込んでいた特殊繊維のインナーが、彼女の生命を守ったのだ。

「ックソ!!」

即座に体勢を立て直すや、手にしていた小銃の引き金を引こうとして、気が付いた。目の前にいる"敵"が何なのか。

アンヘルは見た。

それは、全裸に金粉まみれの哀れな姿で、首からダイナマイトを数珠繋ぎにしたネックレスかけられた、自分と同い年程度の少女。

弾切れのサブマシンガンを放り出し、絶望の涙に歪みながら、少女の指が爆薬のスイッチに伸びる。

「・・待っ!!」

その光景は、彼女の脳裏に焼き付けられ、もっとも尊い記憶を蹂躙する。



おうち、かえして。

乾いた唇が、わななきながら、声にならない悲鳴を形作ったのが分かった。



閃光と爆音、炎と爆風。

今まで消耗を抑えるために抑えてきたオーラを全開にし、すべてガードへとまわす。

「っきしょおおおおお!!」

無様に吹き飛ばされ、硬い石造りの街路に叩きつけられ、転がりながらも、彼女はソレから目が離せない。

上半身のない――から、ビュクビュクと吹き上がる××が、まるで、まるで噴水のようで?!!!

気が付けば久方ぶりに、ゲーゲーと勢い良く胃の中の物を吐き戻していた。

その背に、

「・・・嬢ちゃん、もう下がってろ。見てらんねえぜ」

何の感情も感じさせないくらいに冷えきった声が降りてきた。

涙に曇った視界。うつ伏せになりながら上目使いに見上げれば、二丁の拳銃を無造作に携えたバトゥの姿。

「あいつらが、どんな経緯であんなことになってるかは知らねェし、知りたくもねェ。だがよ」

氷の刃を突き刺されたように、心臓が跳ねた。

「あんたが何か思い違いをしてるようなら、正直、困る。俺たちは慈善家じゃねェし、あくまで守るんのは"組(ファミリー)"だけだ」

爆弾抱えて特攻してくる相手に、そこまで情けはかけられねえ、と。

まるで気負ったところのない、疲れたような口調が、残酷なほどにバトゥの本音を告げていた。











もう、だめだな。

俯き、反吐をぶちまけながら両膝をついて屈み込んだ少女を見て、バトゥはそう思った。

「ああいうのを軽くどうにかできそうな御仁は、俺の知ってる限りゴドーの旦那だけだ。旦那はもういねえ。俺にもあんたにもどうにもできねえ。分かるだろ?」

冷えた口調で、さらにそう言い放つと、少女の背がビクンと痙攣した。

だが、言葉を続けながらも、バトゥはどこか妙に安心した気分で居る自分に気づいた。

改めてみると、小さな背中だ。女としてはまあまあ、背丈のあるほうかもしれないが、バトゥから見れば細っこい。

かつて、アンヘルという子供と最初に出会ったとき、バトゥは思った。荒んだ瞳、鋭い刃物のような殺意の篭った目、人殺しの眼。それが、あまりにも痛々しいと。

まったく、とんだ勘違いだった。

なぜなら、目の前でガタガタ震えている彼女の姿は、精一杯虚勢を張りながら、罪無き人間を手にかけるという恐怖に怯える、年頃の少女以外の何者でもなかったのだから。

金目当てに命を狙うクズ野郎どもならいくらでも殺せても、哀れな女子供には手をかけることができない。当然だ。それが普通だ。"ああいうの"を目の当たりにして、平然と引き金に手をかけられる自分の方がイカレテやがる。

この少女は感情がすぐ表に出るタイプだというのは、短いつきあいのバトゥにも分かっていた。

あれほど猛っていた彼女のオーラは、今はもう体の表面にかろうじてへばりつく程度のもので、弱々しく、消える寸前の線香花火を思わせる。

改めて観察する必要までもない。心が、折れてしまっている。

念には能力者の心情がダイレクトに反映される。一度心が折れてしまえば、念能力者は闘えない。回復には多大な時間がかかる。少なくとも、この戦いの間はもう役に立たないだろう。

でも、それでいいと思う。

念の世界に生きる恐怖を知り、念を捨てるのも選択の一つ。

そうすれば、もっとまともで、穏やかで、有意義な世界に生きることだってできる筈なのだから。

だから、あえてバトゥは冷酷な口調で言い放った。

「な、だから、もう下がってな。正直、俺も門外漢のあんたにこれ以上、手ェ汚させたくねえんだ」

ここまで手伝ってくれたことには感謝しているぜ、と。取って付けたように口にすると、未だうつむいたままの背を叩いて促した。

軽い背中が、とぼとぼと去っていくのを見送ると、バトゥは気持ちを切り替えた。

「・・・とっとと済ませよう。せめて、一発でな」



――――バトゥは気づいていなかった。

ヒトの悪い笑みを浮かべたヴィヴィアンが、泣き顔をからかってやろうとでも言うように、うつむいた少女の顔を覗き込んだことを。そして次の瞬間には、唖然とした表情で慌てて飛びのいたことに。

そして、小柄な背中が、退路とはまるで正反対の方向に消えたことに。

気づいていなかった。












「残念だったね♪残念だったね♪」

あっはっは、うっふっふ、と不気味に笑いながら、狂ったように残念だったねコールを続けるデブを視界の隅に収めながら、ブーゲンハーゲンは天を仰いだ。震える脂肪の塊は、常人とは異なる美的センスの持ち主である彼女にしてもあまりに不細工だったのである。

「ノリノリですねえ、豚さん」

ブーゲンハーゲンがコミケ明けでもないのに疲労を感じたのは、久々だった。

「彼、こういうの好きみたいだからねえ」

慣れているのか、ダミアンはどうでもよさそうに答えた。

「で、なんでこの人、ここにいるんですか?」

「死なれたらまずいだろう?ここに居るのが何より安全じゃないか」

彼らの尊い労働も、サラリーを支払う人間がいなければタダ働きになってしまう。

「うわあ、後で消毒しなきゃ」

ブーゲンハーゲンは戦いた。何せ、あの豚公は彼女のお気に入りのクッションをケツの下に敷いているのだ。

「さて、ブーゲンハーゲン君、彼女の準備はどうかね」

ちょうど先ごろ、マイケル・ロイドが捕獲してきた駒。ちょうどいいとばかりに、それを"切り札"の運搬役にすることにしたのだ。

「運転席で待機中です~♪」

「結構、タンクの中身は?」

「そちらも万全です!例の新型ですよね。これが市街地での初実験ですから、私、さっきからワクワクしっぱなしですっ!」

一転、キラキラとしたお目目で熱く語る助手の姿に、ダミアンも満足感を覚えた。使えない助手だが、少なくとも彼の仕事の高尚さを誰よりも理解してくれている得がたい人材でもある。

「私もだよ。まあ、威力は申し分ないのだが、いかんせん、実戦に耐えるにはまだまだ課題が多い。当面は小型化とコストダウンだな」

現在のところ、"アレ"が彼の期待する効果を発揮するには、専用の薬剤がタンクに一杯分というアホらしい量を必要とする。

だが、これは手間と時間と予算が無かっただけの話で、その気になって地道に研究に没頭すれば数年以内にクリアされるだろう。

基礎理論を完成し終えた後の、この手の細かい作業は、技術者であるより研究者であることを自認しているダミアンは苦手としていた。だが、今回ばかりは自らの手で完成させようという意欲にも燃えていた。

何せ、"アレ"は、彼の研究の集大成なのだから。

「何、基礎理論は完成しているのだ、このお披露目で適当なスポンサーが付いたなら、後は地道に改良すれば数年以内に完成させられる」

ダミアンは自信に溢れた口調で断言した。

「価格は?」

「ジェニー札を並べて縦横正方形になる程度にまで」

「大きさは?」

「人体に埋め込める程度にまで」

全人類にとって不幸なことに、この予言は数年後、実現してしまうことになる。

「すばらしい!なあんてすばらしいんでしょう!!」

甘い吐息を漏らし、なまめかしく舌をうごめかして、顔を紅潮させたブーゲンハーゲンは狂喜乱舞した。

メガネが光を反射し、薄暗い室内に三日月形の笑みがもれる。

「これでまた世界が変わりますわっ!で、先生、名前はもう付けられたんですか?!」

「一応候補は、ある。ほら、爆煙が特徴的な形になるだろう?だから、それに関連した名前をつけようと考えている」

ダミアンがその名前を呟くと、ブーゲンハーゲンはうっとりと目を閉じて、その響きに感じ入った。

「ああ、詩的ですね、先生。ますます惚れてしまいますわん♪」

「・・・冗談を言っている暇があるなら、データの解析作業でもしたまえ」

ダミアンはアホ子を見るような目で、助手に作業を命じたのだった。

「さて、私は私で時間稼ぎをしなくては、な。それに、彼女と最後の会話になると思えば、それはそれで、ちょっとした楽しみだね」

彼らの乗るトラックは一路、港を目指していた。










to be continued


後書きとか正直だるいので書くつもりは無かったのですが、ちょっとした愚痴をば。

その日、私はGWで帰省し、お布団に包まりながらつらつらとSS書いておりました。

久方ぶりに十分な睡眠時間。実家に帰ったという安心感。そして、春にしてはやや蒸し暑かった温度。思えばそれがフラグでした。

夜も更け、さあ寝ようかと、布団の横に放置したノーパソの電源をオフにし、その上にメガネを置いて眠ったのです。

目を覚ましたのは10時。

ああ、良く寝たなあと、目をクシクシしながら、いつもどおりメールチェックしようとノーパソを起動しようとしました。

その瞬間、目に入ったのは、明らかにぶち割られた画面。

中身の漏れ出す液晶。

おまけのように砕け散った眼鏡。

思わずアッチョンブリケをかます私に、隣の部屋で寝ていた妹曰く『なんだか寝ぼけてパソコンにヘッドバッドかましてたよ。あんまり不気味だから、引いた』。

そこで止めれ!!

メーカーに電話したら、修理代7万円。あーた、それ、購入時の値段と同じですから。

・・・というわけで、データをサルベージすることもできず、新しく用意したパソコンでつらつら打ち直したのがこれです。当初更新予定の半分くらいですが、後半分はたぶん月末くらい。

感想返しのデータもなくなったので、次回更新までに準備します、ごめんなさい。

以上、長文失礼。



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep13
Name: kururu◆67c327ea ID:bf401e74
Date: 2012/08/19 14:52
誤字脱字が多くなってます><
改めて修正しますので、出る前に取り急ぎ投稿します
んでは、ロンドン旅行に行ってきます。







狂騒じみた戦場を眺める廃ビルの上、もはや気狂い之様な戦況を見やる影二つ。

一人はノッポで、一人はチビ。

とりあえず服装から何から、"見た目"は完璧にキチガイじみている、そんな二人組だった。

「んっん~~??あっれえ、一匹たりないぞお?」

手をかざして戦場を見渡しながら、小首をかしげたのは身長140センチに満たないような小男だった。ダボダボの黒いジャージを着た下半身はヒョロリと小さく、逆にタンクトップの上半身は筋肉が隆起して逞しい。

「足りないのはお貴殿のおつむのほうであろう、ゴキブリ殿」

もう一人は、目の痛くなるような紫色のピチピチパンツ一丁のみの怪人だった。

こちらは身長180センチを優に超える長身、全身にみっちりと筋肉が張り巡らされているかのような筋肉質の巨漢。しかし、その筋肉は無駄に肥大しているわけではなく、引き絞られた弓のようなスマートさで全身を包んでいる。

顔つきは彫りが深く整ったものであったが、とにかくこの男、表情が一切変化しないのだ。その視線は常に一定で、じっとにらみ据えるように見つめているので、ところ構わずガンをとばしているように見えなくもない。加えて、斑のない金髪を皿のように広げ、さながらキノコのエリンギのようにしたユニークというのも難がある珍妙な髪型にしているものだから、救いようがない。そして、くどいようだが全裸にパンツ一丁。

「寒くない?ねえ、ねえ、寒くない?」

海パン男は、先ほどから風が吹きすさぶたびに「うっ」とか「はふゥ」と声を漏らしつつ、ピンクの乳首をピクンピクンと揺らしていた。ちなみに表情は変わらないので、寒さに耐えているのか、さもなければ痛覚を快感に変換する特殊技能の持ち主なのかもしれない。

「・・・男子が一人ぬくぬくしとるわけにもいかんで御座ろ?貴殿も脱ぐと幸せになれるで御座るよ」

ふざけた口調を装いつつも、その視線は先ほどからずっと、使い捨てにされる哀れな人形達に注がれていた。

「ま、それはともかく、件の少女は離脱したで御座るかな?行幸、行幸」

美少女は全人類の宝にして、我が未来の嫁で御座るニンニン、と無表情でうなずく海パン姿の変態野郎。

だが、一方の男も他人が変態だろうが何だろうか、そんな小さな事には拘らないおおらかな性格の持ち主だった。

「ヒャッハー!もしかしてさっきから僕ちん馬鹿にしてる?ねえ、馬鹿にしてる?」

特徴的な団子っ鼻に鼻水一つしたたらせ、シュッシュとシャドーボクシングを繰り出して見せた。軽く拳を突き出すような仕草だったが、その一発一発には恐ろしいほどの念が込められ、拳の速度は明らかに音速を超えている。

「馬鹿にしているつもりは毛頭ないで御座るよ、ゴキブリ殿。まあ考えてみるで御座る。貴殿の脳味噌が生まれながらに構造的欠陥を持っているのは、何人にも覆せぬ事実にて、確定的に明らか!」

故に、馬鹿が馬鹿であるのは自明の理。それが人様から馬鹿にされるのは天の理、地の定め。当たり前のことで御座候と、むしろあきれたように付け加えた。

一方で、公然と馬鹿だと断言された男は、むーんと目を細め、難しい顔をして唸っていた。

「むつかしい?!三文字で要約して!」

単に言い回しが理解できなかっただけのようだ。海パンは、本人以外には、そうと分からない程度のため息をついた。

「"かゆうま"で御座る。意味はググレかすで御座る。しかし、貴殿はアホの子にしても、悪意がないのが救いで御座るなあ。よしよし、アメちゃんを進呈仕ろう」

三文字ですらなかったが、小男の顔にようやく上機嫌な笑みが浮かんだ。

「あんがと~~!!!」

おつむの残念な子を哀れむように、海パンはよしよしともじゃもじゃの頭をなでつつ、紫のビキニの下から取りだしたキャンディを差し出した。

それを大喜びしながら受け取り、ピンクと白の渦巻き模様が描かれたキャンディを躊躇無く口に運ぶと、小男はご機嫌な表情でクルクル回って見せた。

「じゃあ、代わりにお薬あげるね!ブッチさんがいっぱいくれたの!!あたまぱーになるけどちょー幸せになれるって!!」

とたんに懐から粉末状に砕かれた何かの詰まったビニール袋と、蛇腹の吸い口がついたストローを取り出した。

「うふ。鼻から吸うと、ほんと幸せになれるお~~」

グルグルと回る目玉、スピスピともれる鼻息、ヒキヒキと不気味にうごめく両手でストローを器用に操ると、粉末状の何かを鼻からスハスハと吸いこむノータリン。

海パンはそれを見て深く頷いた。

「貴殿はその薬で破壊される大切な何かが、既に壊れているので御座るなあ。まあ、幸福は市民の義務故に、ある意味、勝ち組?」

小男はスハーっと白い粉を最後まで吸い込むと、ご満悦の表情で涎を垂らした。

「でもこのお薬たかいんだお!ねえ、おいちゃん、おこずかい欲しいお!!」

砕かれた(というか流通過程で砕けてしまった粗悪品の詰め合わせ)粉末状D・Dの詰め合わせが、どの程度の値段で取引されているか知っている海パンは、暗にぼったくられていることに気付いたが、黙っていた。

「おいちゃんて、某まだ20代でござるよ(#ビキビキ)・・・働かざる者なんとやら、そろそろ一稼ぎするがよろしかろう。某(それがし)も、新たな嫁がほすい!!黒髪ロングはツインテールであずにゃんにゃんにゃん♪」

クネクネと全身を揺らして顔面を紅潮させ、海パン男は眼下の光景を指さした。

「あ、じゃあゲームだね!まっけないよ~~、僕ちんが全部ぶちころしちゃうんだ!!」

二人の会話はかみ合っているようで、微妙に斜め上くらいにズレていたのだが、本人達はまるで気にもしていなかった。

「みーみーまいみーむーにーもー♪ぶーたのけーつーなーめーたー♪」

小男は奇妙に調子の外れた歌に合わせ、眼下の戦場で縦横無尽に暴れ回る5人の奇人を、順繰りに指した。

「そ・の・ひ・と・だ・あ、れ!!」

その指先は、最後に白いタキシードを着た男にぶち当る。

にひりっと、皺だらけの顔が邪悪にゆがんだ。

「ふむ、しからば某は・・・黒髪ロングの大和撫子は大好物で御座るが、アレはさすがにトウが経ちすぎている上に、いかにもおっかない。ここは予定通り死神博士殿に差し出すとして」

まずは、数を減らすべきでござろう、と。ぎょろりとした目玉が、同じく白装束のオカマに固定される。

いつの間にか、その手には3尺あまりの三つ叉の銛が握られていた。青いプラスチックでできたような、安っぽい見た目の柄に、銀色の光を放つ先端部の三叉。鋭い切っ先には凶悪な返しが付いていた。だが、男の変化はそれだけではなかった。

先刻まで素足だった足先には、ダイバーが素潜りで使うような黒いヒレ付きのゴム靴が、そして頭にはシュノーケルと一体になったゴーグルが具現化されていた。

「第一のコース!!選手、某!いっきま~~す!!」

一人は両手両足をそろえて頭からプールに飛び込むように、チャプリとコンクリートでできたビルの床面に吸い込まれるように消えていき、

「んじゃ、いっくよ~~!!ぱっぽーい!ぱっぽーい!」

もう一人は両手両足を広げ、地上20メートルはくだらないビルの屋上から、なんのためらいもなしに飛び降りた。



小柄な男の名をルッチ。

もう一人の男は、本名を誰も知らず、ただ見た目から"海パン"とだけ呼ばれていた。

時に午前4時30分。

戦場に馬鹿二名が追加されますた。

















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep13














その時、

「・・・!?」

バトゥが驚愕したのも無理は無い。

徐々に距離をつめつつある死の行進を前にして、腹をくくった直後のことだった。音も無く、気配も無く、すぅるりと地面から生えるようにして突如眼前に躍り出たのは、世にも奇抜な半裸の男。

もちろん、一目にて只者ではないことがバトゥには分かった。何せ、ほぼ全裸だ。真冬の夜中、明け方近くの一番冷える時間帯にパンツ一丁。しかも紫ビキニ。それだけで男が只者ではないと考えるものがいたら、そいつは目が腐ってる。

おまけに頭にゴーグル、足にはダイバーが使うようなヒレ、そして手には銛。間違っても深夜の戦場に出てくるような格好ではない。

一見すると、海辺の漁師か何かのようだが、何よりバトゥの目を引いたのはその手に携えられた銛だった。それはつい先刻、とある少女を襲撃し、今またその存在だけで状況を誘引している"影男"の証に他ならない。

しかし、それを理解すると同時に、当然のように別の疑問が頭に浮かぶ。

何故、堂々と姿を現したのか?

いや、そもそもそれ以前に、コイツが本当に影男だと結論付けていいのか?

後者の疑問はもっともだろう。"影男"として伝え聞く噂から、あるいは先刻の一撃から、この男の能力が物体を透過せしめるという恐るべき特性を備えているのは、もはや疑問の余地が無い。そんな特殊な能力の運用法として、もっとも効果的なのは"奇襲"だろう。

乱立する廃墟のビルの陰、あるいは崩れ落ちた煉瓦の壁、さもなければありとあらゆる地面の下。影男の襲撃を警戒すればこそ、彼らは大通りのほぼ真ん中に布陣していた。この場所ならば襲撃はほぼ下方向にのみ限定される。影男対策としては、即興だがそれなりに有効だろう。

では、コイツは本命のための囮か?

いや、それにしても自ら姿を晒すことに、意味はあるのか?

男が目の前に現れた瞬間からのコンマ数秒、バトゥは疑念に囚われた。何かある、と。

だが、次の瞬間、あらゆる思考を切り捨てる。

(・・・いずれにしろ、かかってくるなら叩き潰すまで!!)

相手の出方が不明なら、自らのもっとも頼みとする能力を最大出力で叩きつけるが最善だと、バトゥには分かっていた。先手必勝、攻撃こそ最大の防御。相手が何か小細工を仕掛ける前に、最大火力で葬り去る。それが何より有効な一手だと、経験から結論付けていた。

もちろん、念能力者として鍛え上げられたバトゥである。ここまでの思考に至るまで、ほとんどタイムラグは無い。ガンマンの性(さが)として、何より信頼できる武器、両手のリボルバーは男が視界の隅に映ったと同時に発射準備を終えていた。

しかし、先刻の『何かある』が一瞬、眼前の男にのみ意識を向けさせていたのもまた事実。

結果として、それが仇となった。


「ぱんぱかぱ~~ん!!!」


――――――直後、直上から襲い来る刺客。

頭上という絶対の死角、しかも振り仰ぐ動作すらも隙となるほどのタイミング。相手もまた、手練であった。

思わず頭上を仰ぎ見たバトゥの目に映るのは、赤黒く血管の浮き出た巨大な握り拳。白く霞む残月に重なるようにして、重力を味方につけた一撃が、ほんの数センチ手前に迫っていた。

「・・・・・っ!」

咄嗟にかざした左手から、ベキリと嫌な音が響く。と、同時にバトゥの背に強烈な一撃が入っていた。

「よけろ、この馬鹿!!!」

背に強烈な蹴りをかまされたバトゥは盛大に吹き飛び、路地のゴミ溜りに頭から突っ込んだ。直後、鳴り響く轟音。粉砕された石畳の欠片が宙に舞い、大量の粉塵が視界を覆う。

数十メートルの距離を一足飛びに跳躍し、バトゥの危機を救ったのは、誰あろうキャスリン・ボーモントであった。








ゴッ!!

十メートルほどの距離を一瞬にして跳躍後、大の男一人を本場仕込みのヤクザキックで蹴り飛ばすと、路面に亀裂を入れながら着地した。

「邪、魔!」

ついで、ドサクサ紛れに近づいてきた哀れな人形を片手で張り飛ばす。

まだ流す涙のあったらしい赤毛の女を、その一撃で放り捨てると、幼女の手元には女からちぎり取ったらしい、パイプ爆弾が握られていた。

亜鉛メッキ製の鋼管の表面には、寒さで張り付いたらしい赤い手形が付いていたが、キャスリンは気に留めずに(しかし、すばやく絶妙のタイミングで)宙へと捨てた。その間、コンマ1秒以下。ドン!、と妙にしけた音が響き、鉄パイプがはじけて中身の古釘やらパチンコ玉やらを撒き散らした時には、もうキャスリンは目の前の敵に集中していた。

「まーったく、ドイツもコイツも勘を鈍らせやがって!」

あの程度の攻撃、普段のバトゥなら避ける必要すらなく迎撃していた。

だがそれも無理も無い、とキャスリンは考える。

ここまでの道中、まるで砂糖に群がるアリのごとく、あまりにも弱い雑魚の群れを圧倒的な力で薙ぎ払い"過ぎていた"。直情型のバトゥ辺りが気合を入れるのは至極当然。だが、勝利は兵士の油断を誘う。

一つ、雑魚を血祭りにあげる度、わずかに、ほんのわずかに積み上げられる、油断と緩み。それはキャスリン自慢の手駒たる猛者共の心中に、呪いのように音も無く静かに、だが確かに堆積していった。

加えて、目に見えぬ疲労が溜りかけた頃合を見計らって投入された人形、多数。その哀れな姿に、また少し、ほんの少しばかり、心揺さぶらるることとなる。

そして、腹をくくった瞬間の、これ以上ないくらい気が張り詰めた間隙を突く形で繰り出された正面からの奇襲。

これを見抜くことができたのは、人の十倍の人生を生きたキャスリンのみ。能力者を嵌めるやり口を、良く熟知した外道の手管。敵ながら、天晴れ。キャスリンの脳裏には、全ての裏で操り糸を手繰りながら、ヒトの心を弄ぶ豚のような男の影がチラついていた。

だが、その天晴れの片棒を担いだ当人は、手を叩いて笑っている。

「やーるうっ!!」

男は、一言で言って異形だった。

チビで小太り、おまけに短足。肉が隙間なくみっちりと付いた上半身に、冗談じみて小さな下半身。頭頂部はツルリと剥げあがり、両側に丸くまとめられたモジャモジャの黒髪。顔といわず首といわず、目に見える部分は蛇腹のように皺だらけ。おまけに何の冗談か、特徴的な団子鼻をしているものだから、大道芸人に見えなくもない。

そんな不細工な顔に浮かんでいるのは、ニヤニヤとした知性のかけらも見られないような笑顔だ。口元から一筋たれたよだれが怖気すら誘う。見た目どおりのアホだと、割り切れればまだ気は楽だっただろう。全身に、アホのように膨大なオーラを纏ってさえいなければ。

その一撃は、石畳で舗装された街路を十数メートルに渡って叩き壊し、蜘蛛の巣状のヒビを入れて陥没させていた。パラパラと破片を落としながら、地面にズップリと刺さった二の腕を引き抜く男の動作こそ緩慢だったが、とてもその隙に仕掛けようとは思わない。

左右を見回してみても、例の季節感のない海パン男はとっくに姿を消していた。

「ああ、まったく面倒くさい(銛、か・・・嫌な野郎だ、さっきから振り回されちまってるねェ)」

年寄りを働かせてばかりじゃ、組織が終わるよ、と。呟きつつも"堅"に"凝"。不意打ちを警戒しつつも、目の前の怪物から目を放さない。

さて、面倒な馬鹿の相手を誰に押し付けようかと、改めて辺りを眺めれば、

「あんぎゃぁああ!!」

顔面を珍妙にゆがませ、全力疾走するオカマが一匹。

両手を懸命に振り回し、思わず唖然とした横顔を晒すキャスリンの目の前を右から左へ、短距離ランナーもかくやという洗練されたフォームで逃げている。その背後には、雨後の竹の子のごとく、地面からズボズボと高速で出し入れされる鋭利な"銛"。時折、銛を掴んだたくましい腕と一緒に、ヤーパンの民謡に伝わる怪物、カッパのような独特の髪型の変態が地面から顔を覗かせていた。

海パンは右手首をシュッシュと上下させ、全力疾走するヴィヴィアンを恐るべきスピードで地面を遊泳して追走しつつ、斜め45度の角度から正確無比な連続攻撃を繰り出している。対するヴィヴィアンはいっそリズミカルなほどの手つきで突き出される銛を火事場の何とやらで奇跡的に避け続けていた。

ところで二束歩行する人体というやつは、下側の設置面積が極端に少ない。故に、背中を見せる人間を地面の下から攻撃する場合、人体の"ある一点"に攻撃が集中することになる。

ザクザク、ドスドス、ズッコンバッコン

「安心するで御座るよ~♪何もしないから、ちょっとケツの穴が広がりきって死ぬだけだから♪」

ZAPZAPZAPER、ZAPZAPER!等と謎の擬音を口ずさみ、極めて真面目な顔で全力疾走するオカマの秘密の花園を狙う海パン男。

「それのどこに安心できる要素があるってのよ、馬鹿野郎!!」

「あァ~掘って~掘って~また掘って~♪」

世にも奇妙な徒競走は、やがて罪のない第三者を巻き込んだ。

「お退き、筋肉達磨!!」

「うわっはっはっはっは!!ひはははははひはひはひっ!!・・・・って、ういお?!」

両者を指差して、腹の皮が引きつりそうな程に笑い転げていた悪漢は、直後にその報いを受けた。

ザクリ!!

「ふんごぉおおおおぉお!!!!」

「ぬ?・・・手応え有り!そおれそおれ、ぐーりぐり!」

肉を抉る手応えが生じた銛の先を、ぐりぐりと捻って更なる致命的ダメージを与える海パン。だが、その攻撃が目標を大きくそれ、味方にあたってしもうたと気付くのが、少しばかり遅かった。

「?!・・・って、おお、チャバネゴキブリ殿。何ゆえ某の銛の先に座っておられるので御座るかな?」

あろうことか海パンの攻撃は、不幸にも見事なステップで攻撃をかわしたヴィヴィアンの背後にいたルッチのケツに命中してもうた。

「ごじゃるじゃないお!!これ!僕ちんのケツが二つに割れたお!!」

ルッチは背後を向くと、散々に破け散っただぼだぼのジャージのケツを指差した。そこには、哀れにも牡丹の花が咲くようにザックリと刺された丸見えの尻。

当然、その中心には名状しがたい何かがあるわけで・・・

汚らわしいモノを眼前に突きつけられた海パンの額に青筋が浮かび、終始無表情だった口元が初めて嫌悪に引きつった。

「ケツは二つに割れているのが当たり前で御座る!」

そう叫ぶやいなや、赤茶けた血のこびりついた銛を投げ捨てて逆ギレした。

「え~~んがちょ!!!」

投げ捨てられた銛は、ポン!とコミカルな音を立てて消え去ると、即座に新たに具現化されて海パンの手に握られる。

「ぬふぅ、まさか我が必殺の銛の前に"まいふれんど"を身代わりとして突き出すとは、何たる非道、なんたる外道!仇はとるで御座るよ、クロゴキブリ殿!」

直後に、さっさとクタバレばいいのにと、吐き捨てるように付け加えところを見るに、彼らの友情はとてつもなく良好らしい。

「僕ちんに謝れェえええ!!」

至極当然の怒りに身を震わせ、ルッチは海パンに殴りかかった。先ほどバトゥを窮地に追い込んだ怪力の一撃が命中する寸前、海パンは頭まで地面に沈み込んで回避する。

「むっきぃいいぃいいいい~~~~!!!」

顔を滑稽なほどに赤く染め、手近な地面を見境なくドカドカボスボスと叩き始めるルッチ。

そんな漫才じみた殺し合いを、どこか唖然とした表情で眺める幼女、キャスリンの心中を一言で言い表すとこうなる。

あらやだ、びっくりするぐらい蚊帳の外に置かれてるじゃない?

「・・・このゆとり共め!だからボクは円周率を"およそ3"にするふざけた法案には反対だったんダ!・・・とりあえずあの海パン一丁の変態が"影男"ってことでいいのかネ、ヴィヴィアン君?」

どうやらキャスリンの頭の中では"変態=ゆとり"の公式が成り立っているらしい。問題のありすぎる教育制度に一石を投じつつ、隣で息を整えていたヴィヴィアンに問いかけた。

「ひっひっふー、ひっひっふー・・・そーよ。んで、あっちの頭悪そうなチビがルッチ。気をつけてね、あいつ、頭パーだから絡め手は気にしなくていいんだけど、その分ガチンコじゃ馬鹿みたいに強いのよ。あのバルバロイ一の色物コンビのペースに嵌ると、内臓破裂か串刺しよん」

その一言を聞きとがめたのか、不毛な争いを続けていた馬鹿二人は即座に抗議の声を上げた。

「ぬふぅ!貴殿も我等の仲間で御座ろう!首チョンパのオカマ野郎殿!!」

「そうだお!僕ちん達はお友達じゃないか!!」

二人揃って荒ぶる変態のポーズ。

「我ら色物トリオの絆は、例え敵味方に別たれようとも決してちぎれぬ楔で御座る!」

キャスリンは脳内で、喜色満面の変態面を晒す二人の間に、このオカマを合成してみた。・・・まるで違和感が無かった。

「テメーらと一緒にすんじゃねえ!!はったおすぞ、ボケェ!!」

オカマは眼を血走らせて反論した。

「いや、そこはそれ。嫁も欲すい!!」

「うぃいぃいいいい!!お薬ちょーらいぃ!!!」

先ほどまで、一触即発気味の殺気は何だったのかというほどに、仲良さげに腕など組んでタップダンスなど披露するルッチと海パン。

キャスリンは頭を抱えた。久しぶりに、そう数十年ぶりくらいになんとも言えない疲労感を感じていた。

「ヴィヴィアン君、アレの相手は君に任すよ、仲良さそうだし。・・・ハンプティ、お前は人形どもを近寄らせるな。いざとなったら宙に浮かべときゃ、自爆もされないだろ、たぶん」

背後に控えていた男にそう告げると、何よりもキャスリンに忠実な従者は無言で一礼し、ふわりと浮かんで飛び去った。

「・・・さてミツリはと・・・ああ、彼女も新手の相手かネ?」

いつの間に現れたのか、通りを一つまたいだ向こう、黒衣の女と相対するように、黒いインバネスを羽織った時代錯誤なジェントルメンが、ミツリと何やら話している。見覚えのない顔なので新手だろう。

「フン・・・仕方ない。バトゥ君はいいところに入ったから、もう少しかかるかな?ま、その間くらいは」

馬鹿をどっちか引き受けるか、と。何気ない呟きだったのだが、"馬鹿"の一言に反応した馬鹿がいた。

「ば、か?・・ねえ、僕ちん馬鹿にしたね?ねえ、ねえ、馬鹿にしたよね?」

掛け合い漫才を中断し、ガラス玉のような瞳を邪悪に細めたルッチが、不機嫌そうに腕をブンブンと振り回し始めた。

「オカマと露出狂を除けば、おめー以外にいないだろう?天も哀れむ脳ミソの持ち主は、サ♪」

対するキャスリンは余裕しゃくしゃくの面構えで馬鹿にしたように微笑むと、肩に担ぎ上げていた大剣を構えなおす。

全長150センチ、剣身120センチ。形状は典型的な左右対称の西洋刀剣。ただし、刃の厚みは30ミリ程もあった。その常識外の厚みにより、切れ味はほぼないに等しい。加えて、総重量は軽く30キロを超えている。身長130センチあまりの幼女が手にするにはあまりにも巨大に過ぎる、異形の得物。もはやそれは刃というより、鈍器の類に近かった。

「僕ちんに馬鹿って言うなお!!馬鹿って言うほうが馬鹿なんだお!!」

この男にとって"馬鹿"の一言は一種の禁句(タブー)であるらしい。なんというか、子供のように表情の読みやすい男だとキャスリンは思った。ついでにお頭の中身が子供並みならなおよろしい、とも。

「ぶ、ち、殺すお?!」

ムっとした顔を隠しもせずに腕をぶん回す馬鹿面を、ハッと挑発的に嘲笑うと中指をおったてる。

「さっきからヤクの臭いがキツイんだよ、腐れジャンキー。アリンコみたいな脳ミソが蕩けきる前にかかって来ナ♪」

キャスリンが言い捨てるのと、ぷくぅっとありえないほどに頬を膨らませたルッチが突撃をかますのは同時だった。

「今週の僕ちんの必殺技!!」

何の小細工もない、素手の一撃。

ただの右ストレートの何が必殺技なのかはさておき、瞬時にその特大握り拳が眼前に迫った時、キャスリンは思わず、ほぅ、と感心した。

一瞬にして堅の状態に移行、のみならず全身のオーラを器用に操って拳に集中。その比率は拳が9に対し、その他は1。一見して攻撃にのみ特化した、思い切りのいい選択だ。

特筆すべきは、瞬時に膨れ上がった筋肉だろうか。打点となる拳はもとより、二の腕から肩口、背筋に至るまで、打撃の要とされる筋肉が瞬時に数倍の大きさに膨張していた。蛇腹のように細かな皺で覆われていた皮膚が限界まで引きつり、パンパンに膨れ上がってボンレスハムのようになっている。表皮の伸縮が、筋肉の膨張に追いついていないのだ。

なるほど、この男の皮膚が妙に皺だらけだった理由はこれか、と。すでに眼前数センチにまで迫った拳の先端部を見据えつつ、なおキャスリンには余裕があった。

念能力者としてはまあまあ使えている方だ。膨大なオーラが乗り切ったパンチ、脅威の一言に尽きるだろう。

だが、

「動きが素人くせェ・・!!」

ガキン!!、と金属同士がぶつかり合うような鈍い音が響きわたった後、

「ぐべェええ!!」

無様な悲鳴を上げて後頭部から倒れたのは、ルッチだった。

左右対称の形状を持つ西洋刀剣は、鍛鉄を発達させた末に完成された日本刀とは異なり、本質的に脆く、弱い。本来の用途は甲冑の隙間を縫って刃を押し込み、刺し貫くことにあるからだ。だが、刃自体に重量を持たせ、鎧の上から叩き伏せるために作りこまれた刀剣もまた存在する。

剣身の根元に存在する"リカッソ"と呼ばれる、刃を付けていない部位。遠心力を利用しつつ、取り回しが楽になるように工夫されたものであるが、キャスリンの細腕は、丈夫な麻布で覆われたそこと剣の柄、計二箇所を握りしめていた。

「柔よく剛を制す、剛よく柔を断つってネ」

大剣の柄頭は、ルッチの顔面に叩き込まれていた。

軽く一歩後ろに出された右足に支点を、リカッソに添えられた左腕を力点に、叩きつけられた拳の威力の大半を流しつつもテコの原理で倍加させた威力に、相手の突進力すら利用した柄頭の一撃。

「ふごーっ!!ふごーっ!!」

両手で陥没した顔面を押さえつつ、ジタバタ手足を振り回して悲鳴を上げるルッチの姿は滑稽だったが、キャスリンもまた追い討ちをかける余裕はなかった。

力点となった左手はジンジンと痺れきっていて、震えが止まらなかったのだ。

打撃を叩き込んだ柄頭を見れば、鋼鉄製のそれに細かな亀裂が無数に入っている。打撃を受けとめた刀身部も、数センチほどの弧を描いてへし曲がっていた。

まったく、人間としておかしな破壊力だといわざるを得ない。

「あーったく、クソ力出しやがっテ!だから強化系は嫌いなんダ」

大剣を地面に突き刺して掌をプラプラと振ってぼやきつつ、直後にキャスリンは半歩だけその場を飛びのいていた。

ドス!!

同時にそれまでいた場所を正確に貫く三叉の銛。

キャスリンは突き出された銛の先端をパシリと片手で掴み取ると、ちょうど地面から顔を覗かせたばかりの男と目が合った。まるで水面に浮いているかのように、地面から銛を抱えた上半身をあらわにした影男こと海パン姿の変態野郎が、無感情にキャスリンを眺めている。

この筋肉馬鹿を囮にして隙を突こうとしたのだろう。たいしたタマだ、味方を単なる駒か弾除けくらいにしか思っていない。いい根性してやがる、とキャスリンは一人嘲笑う。

「おや、オカマくんとの掛け合いにも飽きたかネ?」

乾いた唇を紫色の舌で湿しながら、幼女は目を細めて亀裂のような笑みを浮かべた。

「このキャスリンちゃんをお舐めじゃないよ、クソ餓鬼。ボクに不意打ちかまそうなんざ百年はえーわ」

見れば見るほど珍妙な格好の変態だが、キャスリンには分かっていた。ふざけた掛け合いの最中ですら、終始無表情のこの男の目には迷いがなく、動揺がない。完全に無機質なのだ。それは、己以外何者も信じないプロの目だ。

「・・・・・・っ?!」

キャスリンの嘲笑交じりの一瞥にも無反応だった海パンだが、掴み取られた銛を引き抜こうと力を込めた瞬間、僅かに表情が揺らいだ。小柄な幼女の姿をしたものが、軽くつまむようにして掴んだ銛の先端。だが、海パンがどう力を込めても、まるで微動だにしない。

半裸の上半身に筋肉が盛り上がり、柄を持つ手に血管が浮かぶ。が、銛は小刻みに震えるばかりで、まるで空中に停止してしまったかのように押しても引いても、横に動かしてもビクともしなかった。

数合の引き合いの後、力比べでは勝てないことを悟ったか、銛はあっけなくポンという音を立てて消滅した。同時に海パンも、チャポンと音をたてて土中に消える。

「ニャハハ、だんだんタネが割れてきたネェ♪」

ニギニギと、先ほどまで銛を掴んでいたキャスリンの片手には、硬質な金属の手触りがあった。どういう理屈かは知らないが、ウーツ鋼を加工した手甲を透過し、その下に包まれた生身の掌に、銛の感触が伝わっていたのだ。

つまり、生身の肉体は透過することができない、とみていい。まあ、そういう制約でもなければ敵にもダメージを与えられないのだから、ある意味当然か。

「さーって、次はどうくるかニャァ?」

そう呟くとキャスリンは、ようやく"しびれ"の収まった手を添え、大剣を逆手に構えた。

キャスリンが次の襲撃に備えるのと、のた打ち回っていたもう一人の馬鹿が復活するのは同時だった。

「ふんごおォおぉお!!!」

ルッチが両腕をゴリラか何かのように天に突き出し、雄たけびを上げた。

どう見ても重傷だった。右目は先の一撃でほぼ潰れ、硝子玉のような目玉がぞろりとした視神経とセットになって穴のような眼孔から飛び出ていた。特徴的な団子鼻も顔面の中心線からかなり外れた位置に移動しているので、恐らく完璧に圧し折れているだろう。

「ふん!!」

だが、ルッチはあろうことか飛び出ていた右目を無理やり眼孔に押し込み、コキリと折れた鼻を指先でつまんで元に戻した。

右目は真っ赤に充血しきっているので視力が回復しているのかいないのか定かではない。だが、再びブンブンと両腕を振り回すし仕草にはダメージを負った様子は伺えない。

「・・・ありえねータフネスだよねェ、コイツ。あの露出狂がゴキブリって言ってたのはこのことかネ?」

ルッチは再びぐるぐると腕を回しだした。

先ほどと同じく特攻の構え。馬鹿の一つ覚えのように、再び突っ込む気満々のようだった。

「もう許さないお!!おかげで僕ちんの"はにーふぇいす"が傷ついたお!!!」

大気をビリビリと震わせる大声に、眼孔に押し込んだはずの右目がポロリとこぼれ落ちる。と同時に、ルッチの上半身が爆発的に膨れ上がった。振り上げた両腕を中心に全身の肉という肉がミキミキと隆起し、質量保存の法則を無視して巨大化した。

小柄な骨格をして有り得ざる高密度の筋繊維が、皮膚を押しのけて膨張に次ぐ膨張を始め、ただでさえ肉厚だった上半身はさらに膨れ上がり、脆弱だった下半身すらジャージの裾を引きちぎる程の肉に包まれる。あまりにもおぞましい変身が終了したときには、もはや元の体格からは見当もつかないような体積にまで膨れ上がった巨漢がいた。

「・・・これは、これは」

数秒前までキャスリン自身とそう背丈の変わらなかった筈の男を前にして、キャスリンの額に汗が吹き出ていた。

筋肉の膨張そのものは、そう珍しい現象ではない。激しい運動を行った後などには、筋肉には疲労によって乳酸が蓄積し、浸透圧の変化によって通常よりも多量の水分を含む。加えて、通常以上に血液が流入することで、筋肉は水風船のように膨張する。所謂、パンプアップと呼ばれる現象である。

筋力は筋肉の断面積に比例するので、当然、その状態だと通常以上の力を発揮することが可能となる。一時的な筋力アップが有効に働く類のスポーツでは、その状態を長時間維持させるようなトレーニングを積むことも珍しくない。しかし、それにしてもこの膨張率は明らかに異常だった。動物として人間という種に許された変質の限度を超えているのだ。

と、そこまで考えが至ったとき、ようやくキャスリンは気が付いた。

皺と染みだらけで歪みきった皮膚と、上半身と下半身のバランスが崩れた、あまりにも歪な体型。リリパット症かと思っていたが、恐らくこの男が何の自重もせず、好き放題に肉体を酷使し続けてきたための反動だ。異常強化された筋肉が常軌を逸した運動をするたびに、筋は断裂し、骨は軋み、皮膚は無残に破け散る。そして、強化された自然治癒力による超回復。恐らくは、能力者自身の寿命を削りながら。

そんな無茶をしていれば脳にも影響がないわけがない。先ほどからの常軌を逸した言動には、虫を殺して喜び遊ぶ、無邪気な子供の狂気が見える。

つまるところ、ルッチとはそういう能力者だった。

「・・・アホ抜かせ、その馬鹿面はさっきとなんもかわってないよ。いや、珍妙な面がさらに滑稽になったかナ?」

余裕すらにじませた口調とは裏腹に、鎧下に隠された青ざめた肌には、薄っすらと鳥肌が立っていた。あまりに不愉快な想像に嫌悪感が抑えきれない。恐らく、これが同属嫌悪という奴なのだろうと、認めるのには酷く勇気が要る。

だが、その感情を表情にもオーラにもまるで出さず、ただただ相手を挑発してのけるのが、キャスリン・ボーモントという老人だった。

「ムッキぃいいィ~~!!!馬鹿って言った、また、馬鹿って言ったお!!」

もとより足りないノータリンのようだが、多少おちょくったほうが動きが雑になって大変よろしい。見るものを馬鹿に仕切った計算ずくの笑顔を見せると、キャスリンはやや歪の入った大剣を、小さな肩に担ぐようにして独特の構えを取った。

ルッチもまた両手を地べたにつき、スモウレスラーのように突撃の構えを見せている。ルッチの指先が硬い石畳の表面に、発砲スチロールのようにめり込んでいた。

両者がオーラを漲らせ、緊張がピークに達した、その時。

「背中がお留守ですよっとォ!!」

だが、場を動かしたのはそのいずれでもなかった。

拳を振り上げたルッチの背後から、日本刀(やまとがたな)の一撃が振り下ろされた。









分厚い。

初撃を、油断というのもおこがましいくらい無防備な背中に叩き付けた、ヴィヴィアンの感想がそれだった。

硬く、粘り、しなやかで、しかも重い。刃先に吸い付く肉の感触は、剣術使いが斬るのを嫌がるあらゆる要素を備えている。あえて言うなら、幾重にも重ねられた古タイヤに近いだろうか。少なくとも人のものではない。刀を介して手元に伝わる感触は、さんざんぱら人斬りをやらかしてきたヴィヴィアンしてみれば、ありえないの一言に尽きた。

言うまでもなくヴィヴィアンが手にした刀は最上級の業物である。反りは五分強、刃紋は互の目。三本杉に揃った互の目の焼き頭は丸みを帯び、一部尖り刃を交え、砂流し金線激しく入り、沸え強くムラ沸え付き。そして、古今東西あらゆる名工、名人、達者の多聞に漏れず、刀工自身の鬼気迫る"念"が込められている。炉に炎と共にくべられ、槌と共に叩きつけられ、テコや火箸から滴り落ち、ヤスリや砥石と共に刷り込まれる、刀工自身の執念が。

どれほど強力な念能力者の仕業だろうと(あるいは死者の念でもなければ)、物体に込められたオーラというものは通常は数年から数十年、あるいは百年もすれば消耗し、擦り切れてしまうものなのだが、少なくとも数世紀は経ているはずのこれは、未だ指先で触れれば凍て付くような冷気を感じるほどの"念"を纏っている。その上に、ヴィヴィアン自身のオーラをプラスし、この世でもっとも鋭利な刃を生み出す能力すらも加味して、これで斬れない物が在るほうがおかしい。

その筈だったのだが・・・

「ほンぎャァあ・・!!」

唐竹に叩きつけられた刃は皮膚をさっくりと切り裂くも、盛大に悲鳴を上げて激痛を訴えるルッチの鎖骨を叩き斬ったあたりで、止まっていた。刃の進みを止めたのは、みっちりと刃の先に吸い付いた肉厚の筋肉。さらに、筋肉が斬撃の威力を殺した上で、最終的に刃を受け止めた極太の骨。

肉を切らせて骨で受けるを地で実演した男は、盛大にのた打ち回りつつも、むちゃくちゃに暴れだした。

ブンブンと振り回される両腕から一足飛びに距離をとると、ヴィヴィアンは刀を正眼に構えた。

夜明け前の一番冷え込む時間帯である。時折吹きすぎる風も容赦なく体温を奪い、口中は白い吐息が漏れている。だが、白揃いの下できつめに巻かれたサラシによって手足の末端の震えは押さえられ、何より大事な指先は直前までカイロによって十分に暖められていた。

ポンポンと、懐中から取り出したカイロをもてあそび、ルッチ目掛けて放った。

直後、構えた段平を横凪に一線。オレンジ色の布袋はまっぷたつに切り裂かれ、中身の砂鉄が宙に舞う。

「わっぷぅ?!」

程よく焼けた砂鉄が、タダでさえ片目に慣れないルッチの視界を完全に奪い、

「チィエィ!!」

更なる一撃が脳天に落とされた、が・・・

「痛いお!何すんだお!」

その一撃も、ルッチの命を奪うには至らず。

皮膚をこそげ落としながら、丸みを帯びた頭蓋骨に横滑りするようにしてさばかれた。

ルッチが僅かに首をそらし、刃先を頭頂部の骨の継ぎ目から逸らしたのだ。命中の瞬間、こちらを異様な迫力で睨み饐えるルッチの目を見て、ヴィヴィアンはゾッとした。

「さっさとクタバレ、ゴキブリ野郎!!」

咄嗟に怯えた自分自身に舌打ちし、更なる連打を喰らわせる。

唐竹、袈裟斬り、胴切り、斬上げ、逆風、左薙、逆胴、逆袈裟、そして刺突(つき)。


その全てが一撃必殺の威力を持つ筈の斬撃を、交差された手が、肉厚の筋肉が、あるいは太い骨が受け止め、切られながらも巧みに致命傷を避けている。確実にダメージを与えられている筈なのに、まるで苦痛を感じていないかのように痛がるそぶりも見せず、動きも衰えない。

しかも、切り裂いたはずの傷口の肉は、ややもするとピタリとふさがり、出血が止まり、気付いたときに薄皮が張っている始末。これでは膾に刻んだところで、失血による消耗も狙えない。

「しぶといっ!」 

やがて、ヴィヴィアンが思わず放ってしまったイラつき混じりの一撃は、刃先を地べたに擦りつけた。金属が足元の石畳に打ち合わされる、チィンと澄んだ音と共に、手元に硬い振動が伝わってくる。

刃こぼれした刃先を視界に認めて舌打ち一つする間に、ルッチはゴリラか何かを思わせるような奇怪な動きで四つんばいになると、ヴィヴィアンから距離をとっていた―――ヴィヴィアンの攻撃がギリギリ届く一歩手前で。この男、本当にお頭の中身はアレなのだが、その分、勘が野生のケダモノ並みに鋭かった。

ルッチは馬鹿である。強化系の馬鹿で、身体強化くらいしかとりえがない。なので対処するのに頭を使う必要はないが、逆にこれといった弱点もない。それに、持った生まれた異常な打たれ強さとタフネスに、オーラの全てを身体強化に割り振っているので、とにかく死にづらい。

そんなノータリンが今までどうやって殺し屋家業を続けていられたかといえば、単に使い勝手の良い鉄砲玉にされていたからに他ならない。とにかくこの男、ひたすら丈夫で頑丈で、しかも馬鹿なものだから、ちょいと唆してやれば図に乗って、どんな危険な場所だろうが後先考えずに特攻する。先陣切らせる鉄砲玉に、これほど都合の駒もない。

これが並みの馬鹿なら百回以上死んでいるのだろうが、ケダモノ的な勘とゴキブリ的な生命力で毎度毎度生還し、挙句、付いた徒名が幸運野郎(ラッキー・ルッチ)。

味方の時は使い勝手がよかったが、敵に回ると鬱陶しい。

「・・・これだから強化系肉だるまは嫌いなのよねぇ」

打つ、撃つ、伐つ、逸らして捌く。

受ける、避ける、流して返す。 

そんな光景が、一拍の間も挟まぬように、繰り返されていた。

四つんばいで手足を駆使し、体の筋肉全体を異常収縮させ、ポンポンとゴムボールのように縦横無尽に跳ね回るルッチ。その一撃一撃のすべてが、掛け値なしに食らえば必殺のレベル。

対して、彼は幽鬼の歩行を思わせる、巧みな摺り足、継ぎ足で、間合いを取る。

その歩法は、鏡のように磨かれた氷面を滑るかのように、まるで摩擦を感じさせることがない。常歩から速歩、駈歩、襲歩まで、太腿の筋肉を使わず、膝下だけの摺り足で足音一つたてることなく、自在に路面を移動する。足の筋肉を不要に動かさず、膝下のみでするすると、ルッチの変則的な動きについていく。

瞳は相手を真っ向から見据え、普段のふざけた調子は欠片もない。静まり返った水面を思わせる澄んだ瞳で、相手の一挙手一投足にまで、全神経を集中させていた。

怪我と疲労のせいで、パワーもスピードも落ちている。そのままではルッチの異常な身体能力に追いつける筈も無い。だが、相手の次の動きを予測する"読み"の速さによって必ず先の先を取っていた。しかも、足を極力動かさず、無駄な動きを省き、体力の消耗を抑えながら。

それはもはや、念使いだからどうだという問題ですらなく、純粋にこの男が身に着けた技の妙だった。

(・・・ちくしょう、手になじむなぁ、コレ)

手に伝わってくる、ずっしりとした刀の重み。それが、『しっくり』とくる。

ヴィヴィアンの能力、"風刃(フェンジャン)"はオーラを刃のように変化させる能力である。極限まで薄く、鋭く、無類の切れ味を有しつつ、頑丈無比。加えて、刃の長さは伸縮自在。加えて極限まで薄くとぎすまされた刃は、高速で振り回されると、"凝"を使用した状態ですら見えづらく、その二つの特性によって、相対する相手に決して間合いをつかませない。

およそ接近戦においては、比類ない能力ではあるが、ある一点のみ、実物の刀に及ばないものがある。重みである。

軽いということは、利き手に負担をかけないということで、決して悪いことばかりでもない。だが、高速で振り回す際には風圧の影響をもろに受け、剣線は振れ、斬撃は鈍る。何より威力がない。

そして"彼"は、本来その重い刀を振り回して敵を倒すための技を教えられ、修行を積んでいた。それこそ、物心つく前から。

思えば、このところ力任せの戦い方しかしてこなかった。念能力を多用した、奇襲に次ぐ奇襲。まっとうな修行などしたのは、いったいどれほど前になることか。必然と勘は鈍り、腕も衰える。

しかし、ここにきて常人であれば構えるだけでバランスを崩しかねない刀の重みが、幼い頃より研鑽してきたこの男の本来の技を、徐々に取り戻させていた。

(・・・やっぱコレ使うと、クソ野郎の顔がチラつくのよねぇ)

一つ斬撃を送る度、剣に生き、剣に死ぬを地でいった時代錯誤な剣術馬鹿の顔が脳裏に浮かぶ。

(正直、余裕も無いし、妙なこだわりは捨てましょかッ・・!!)

ぺっと、手につばを吐くと、ヴィヴィアンは刀の柄を握りなおす。

「・・・・ひゅぅ」

途端に、呼吸が変わった。

正眼に構えていた刀を大きく天に担ぎ、振りかぶった刀の刃が水平になるほど後ろに反らした。

右足を前に出し、剣を持った左手を耳の辺りまで上げ、右手を軽く添えるという八相にも似た独特の構え。右肱をそこから少しも動かさず、手元を固定。左手だけで、あたかも石を投げるように剣を振り降ろすことで、より速い斬撃を送ることができる。

相対するルッチとの距離は、約6メートル。歩数にしておよそ6歩といったところ。だが、『脈が一回打つ間に、三間の距離を三歩で進む』という神速を誇る殺人剣の使い手にしてみれば、額を付き合わせている状態に等しい。

「キェエーーーッ!!!」

狂った猿の叫びにも例えられる独特の奇声と共に、ヴィヴィアンは瞬く間に六歩の距離を三歩で詰めた。

『二の太刀いらず』と称される大上段からの袈裟斬りが襲い掛かったのは、これまでどおり斬撃を食い込ませて止めようと、突き出されたルッチの左腕。

刃は、何の抵抗も感じさせない動作で振り下ろされた。

「うぃお?」

ビシャッ・・!!

後には、まるで最初からそこにあった物かの如くストンと地に落ちた、グローブのような左手首。

と、同時に、

「ゲッ、ハッ・・?!!」

ヴィヴィアンの鼻と口から、大量の血液が吹き出ていた。

視線をゆっくりと己のわき腹に移動させれば、そこには深く突きこまれた節くれだった右腕。金属ボルトのような五本の指が、臓物を掻き回していた。

「ちゃらり~♪鼻からぎゅ~にゅ~~♪」

切り飛ばされた片腕から如雨露のように血を吹きながら、悪ふざけの成功した子供のように、ルッチは愉快そうに笑っていた。

そのツラを見て、ヴィヴィアンと名乗っていた剣客・田中哲也もまた笑う。

――――――やられた。この構えは斬る力が強いが刀を振り切ってしまうので、攻撃後に隙が出来る。だから、最強の一撃でしとめきってしまわねばならない。

そう、昔の自分にはできた。知らないうちに、腕が鈍っていただけだ。

「・・・よかど。まこて、おもしとか!!」

狂いに狂って、畜生道をひた走り、外道に堕ちた一人の男。

されど、今この瞬間の面貌は、武士(もののふ)のそれだった。









「フフン、そろそろ地が出てきたようだネ♪」

ヒーロー好きの小さな子供か、オールドコミックファンが見たら目を輝かせそうなSAMURAIと超人ハルクの異種対決を眺めると、キャスリンは機嫌良さげに呟いた。厄介そうな肉達磨が、死んでもかまわない程度の捨て駒と勝手にやりあってくれる状況というのは、彼女にとって喜ばしい。

本当ならオカマに気を取られている肉達磨の横っツラを、思い切り殴り飛ばしてやりたいところだが、地面の下に隠れている海パン野郎を放置するのもよろしくない。どうせ、こちらが馬鹿どもに気を取られている隙に、漁夫の利を狙っているに決まっているのだから。

そう嘯きながら、幼女のような外見をしたものは、酷く悪辣に醜く笑った。

所詮、念能力者なぞ、どいつもこいつも一皮剥けば殺し合いの大好きなバトルジャンキーばかりだ、と。

「・・・んじゃあ、ボクはもう一人の馬鹿をなんとかしようかネ♪」

それは、ボクも同じか、と。自重するように笑うと、老いた幼女は余計なことを考えるのを止めた。

キャスリンは右手の手甲を脱ぎ捨てると、刀身に小さな掌を滑らせた。鈍く厚い刃である。切れ味は無しに等しい。だが、すっと鋭角にとがった刃の部位にすばやく指を滑らせると、生じた摩擦により青白い皮膚に切れ目が生じた。

さっくりと、白い肌に生じた赤黒い肉の切れ目より、ドロリと妙に粘度の高い血液が漏れ出す。それは重力にしたがって大剣の刀身を滴った。そして、まるで血液自体に意思があるかのように、赤い直線で攻勢された幾何学模様が、鈍い鉄色の地金を晒す刀身に纏わり付いた。

地面の下に潜行する敵相手に有効な攻撃手段があるわけではないが、やってやれないこともない。基本は、ちょいと昔に流行ったゲームと同じだ。地面の下にもぐったモグラが、頭を出したところに一発かましてやればいい。

どの程度息が持つのか知らないが、永遠と土の中にもぐり続けているわけにもいくまいて、と幼女はニンマリと微笑んで毒々しい赤い舌で唇を湿す。

―――――そこで、違和感に気が付いた。

いくらなんでも、静か過ぎる。

静か、というのは勿論、物音がしないという意味ではない。オカマと肉達磨の殴り合いはそれなりに騒音を提供しているし、何より先ほどから大音響で例の器用な音楽がかかりっぱなしなのだから。

だが、耳を澄ましてみても、爆発音はおろか銃声一つ聞こえてこない。

「・・・人形どもの、姿がない?」

餓鬼とじゃれていた間に横槍が入らなかった時点で引っかかるものはあった。が、てっきりハンプティがうまくやってくれたとばかり思いこんでいた。

通りをざっと見渡せば、いくつか死体と残骸が転がってはいるものの、つい先ほどまでアレほどワラワラしていた筈の、人形達が消えている。

代わりに、通りには無数に散乱した衣服と、武器。恐らく、彼女らが身につけていたのだろう、それ。

ほとんど傷つくこともなく、破け散った残骸でもない、中の人間だけが突如として消えうせたような遺留物の群れだった。

「・・・?!!」

あまりに奇妙なマリー・セレストをいぶかしげに見やっていたキャスリンは、不意に全身の毛が総毛だった。

虫の知らせ、という奴だろうか。何か良くないものがコチラに向かってくる、そんな気配が、嫌な予感がする。一瞬にして、正体のつかめない恐怖に全身が支配されていた。全身の細胞が悲鳴を上げ、積み重ねた経験と生存本能が悲鳴を上げる。同時にダラダラと汗が溢れ出、動機は加速度的に上昇する。

老女は元から青白い肌を白蝋のようにして、見た目どおりの幼女がするような不安げな表情をしながら、恐怖の正体を探ろうとした。

すでにオールドジェイゴも半ばを過ぎ、崩れた廃墟の街の終端に差し掛かっていた。もう、海が近い。連なった古いレンガ造りの建物の隙間から、水平線が垣間見え、潮の香りが鼻腔を衝く。徐々に日の光が漏れ始めていて、あたりを薄っすらと青白く照らし、崩れた建物が黒い影をノコギリの歯のように浮き建たせている。

この奥にあるのは、打ち捨てられた古い漁港の跡地。

目指すべきバルバロイはそこに在るのだが、

「・・・来る!」

怯えながらキャスリンの見つめる先。

廃墟の街の奥、あたりを満たす安っぽいピンクのネオンの光も届かない闇の奥に、小さな灯りが点った。

怪物の目玉のような、オレンジ色の二つの光。

徐々に近づくにつれて、それはトレーラーのヘッドライトだと分かった。

荷台には、いくつものドラム缶。缶の表面には『DENGER NO SMOKING』とペイントされている。

トラックの運転席に座っている人物が誰なのかに気付いたとき、キャスリンの中で何かがつながった。


















時は、少し巻き戻る。

オカマと海パン姿の奇人が奇妙な追いかけっこを始めたときのこと。

黒衣の女、ミツリ・キョーコはホロホロと笑っていた。

「・・・あらあら、まあまあ、にぎやかなこと」

すこしおばさん臭かったかしら?などと暢気なことを考えながら、奇妙な徒競走を見物していたのだが、

「さて。」

きびすを返すと、馬鹿騒ぎの行われている表通りから、少し離れた裏路地の一つに入っていく。

この場は、夫が復活するまでボスが持たせるだろう。

事ここに至っては、ミツリにとっては夫と子供と、あとはオマケで雇い主の命だけ守れればそれでよかった。

それよりも、この通りを調べるほうが先だ。

先ほどから、この先には彼女の"声"が届かない。

"声"が届かないのなら、実際に自分の目で見て確かめるほかはない。

通りから少し入った路地の奥に、段差のある丘陵に街路を設けた名残なのだろう、二つの石段にはさまれるようにして古びて壊れた噴水があった。元は水をたたえていただろう池には、落ち葉やゴミが無数につまり、黒いヘドロにまみれている。それらの上から薄く雪が降り積もっていたのだろうが、折からの雨によって解け崩れ、場をいっそう不衛生的で、混沌としたものにしていた。

緩やかな勾配を描いて続く石段の途中に、黒いコートを着た男がたっている。

その人物を眼にしたとき、ミツリの第六感ともいうべき何かが、修羅場をくぐり続けた経験が、最大級の警鐘を鳴らして全身を襲った。

「"・・・やあ、レディ"」

やや低い、中年を過ぎた男性の声。ノイズ交じりの妙にくぐもった声が、廃墟の街に響いた。

ミツリは何も答えず、無言で視線を向けると、堅を維持したまま凝を行う。

彼女の経験則からすると、敵が堂々と姿を現すのは、2つの場合しかない。

ひとつ、こちらと交渉する必要がある場合。それが命乞いであるにせよ、降伏勧告であるにせよ、何がしかこちらの反応を引き出す必要がある場合に、止むを得ず姿をさらすケースだ。

もう一つ、囮となってこちらの注意をひきつける場合。つまり罠だ。

だが、罠というものはそれが何であれ、一切の前触れ無く唐突に仕掛けられたほうが成功率は高い、というのがミツリの持論だった。姿をさらす、何かアクションを起こすというのはそれだけで相手に警戒心を抱かせる。

例外的に、自らの力を過信して堂々と姿をさらす馬鹿がいる場合もあるにはある。しかし、数々の修羅場をくぐってきたミツリにしてもそこまでお頭の弱い相とお目にかかったのは2、3度あるかないかなので除外する。

いずれにしろ、"凝"で警戒しておく必要がある。

――――――そういった冷静な思考が保てたのも、その男の正体に気づくまでのことだった。

「"再会の喜びは、出会いのそれに勝るとも劣らないもの。久しぶりだね、ジェーン"」

その人物は楽しげに笑うと、芝居がかった仕草で大げさに一礼した。

伊達か酔狂か、黒のアルスターコートに黒檀のステッキ、山高帽をかぶっていて物腰も穏やかである。よく磨かれた革靴といい、場所を間違えているとしか思えない。

ミツリは、その男の顔には見覚えが無かった。

だが、同じ服装で、同じ声をして、まったく同じオーラを身にまとった、最悪の男を知っていた。

「・・・生きていらしたんですね、コンダクター」

かつて彼女自身が所属していたテログループのリーダー。

「"ああ、うれしいよ。やはり君は一目で私だと分かってくれたね~"」

この顔に落ち着くまでにずいぶんと手を加えたものだが、と呟くと、男は頬を吊り上げた。

狐のような、というべきか。糸のような目と口元の笑い。一見、平日の公園で鳩に餌をあげていても違和感のない顔だが、見るものによってはこれほどおぞましい顔もない。

「"本当はね、ただの小遣い稼ぎのつもりだったんだよ、これは。だが、標的の中に見知った顔が在ったときは驚いたぞ。しかも、だ。よりによってこの国のど真ん中で、顔も変えず、堂々と暮らしているというじゃあないか。と、いうことは、だ"」

ぴっちりと笑顔の形に閉じられていた目が数ミリ開き、ダークブラウンの目玉が覗く。

同じく、笑みの形の口元が数ミリ開き、歯並びの白い歯が覗く。

「"やっぱり、君が裏切り者だったね~"」

貴重な実験を台無しにされた、科学者の憎悪。

が、すぐ顔は再び笑顔の形に戻った。

「"ところで、先ほどから鳴っているこのケタタマしい音楽、奇妙に思わなかったかね?ノイズキャンセラーというやつだ"」

周囲の環境音をマイクロフォンで収音し、これと逆位相の信号をオーディオ信号と混合して出力する。本来は音楽を聴くときに外部から侵入する環境音を軽減するものだが、近年、ヤーパンの放送機器メーカーがこれをさらに進ませた技術を生み出した。

先ほど一瞬だけ漏れた憎悪を感じさせず、男は生徒に講義をする教授そのものの顔つきで、むしろ機嫌よさそうに饒舌に語った。

「"音源の音を拾い、それと逆相になるような音を作りスピーカーから出力し空間で打ち消し合わせる。こうやって君お得意のエコーロケーション(反響定位)をかき消せば、きっと自分からきてくれると思っていた。おっと、もちろん選曲は私の趣味じゃないぜ?"」

まったく、あの豚は音楽の趣味も悪い、と嘯く男を尻目に、ミツリの眉が曇った。

反響定位。

イルカや蝙蝠など、一部の哺乳類が有する、自分が発した音が何かにぶつかって返ってきたものを受信し、それによってぶつかってきたものの距離を測る手段である。

複数方向へ発した音の反響を受信すれば、そこから周囲のものの位置関係、障害物との相対距離、形状、あるいは状態まで精査することも可能となる。これには波長の短い音の方が情報量が多いことから高い音ほど有用のため、多くの動物は人の可聴領域以上の音、すなわち超音波を用いている。

ミツリもまた、自らオーラを乗せた超音波を発することで、物陰からの不意打ちや罠の類を見破っていたのだが、

「・・・相変わらず、準備のいい人ですね」

厄介だった。

これでは、少なくとも反響定位等の出力の弱い放出系の技は無効化される。衝撃波を飛ばすタイプの攻撃も減衰を免れない。

「"うむ、悪いが君で実験させてもらおう。件のメーカーにデータを送れば、更なる改良製品の礎になるからね」

「相変わらず、他人を実験材料か金づる程度にしか思っていない。本当、虫唾が走りまーすわ」

だから、裏切ったのだ、と。

彼女は、今までのどんなコトよりも、暗い憎悪を込めて言った。

間違っても一時の母には見えない、ドス黒い顔で。

男は一瞬だけキョトンとした顔をしたのだが、次の瞬間には何かいいことを思いついたように、ニヤニヤと釣り目の笑顔をゆがませた。

「"ところで、息子が出来たんだそうだね。おめでとう"」

・・・なんだと?

一瞬で、憎悪に燃えていたミツリの心臓が、氷を流し込まれたかのように冷えた。

「"こころばかり、出産祝いを用意したんだ。綺麗な花火、いや花束かな?気に入ってくれるとうれしいな"」

ミツリの反応を面白がるように、男は芝居がかった仕草でピシッとステッキをある方向に向けた。

「"最後に話ができてよかったよ、ジェーン――――――そら、破滅がきたぞ"」

狭い路地を無理やり押し通すかのように、こちらにむかって爆走する一台の大型トレーラー。

目にした瞬間理解する。

自爆テロ、車爆弾、哀れな人形達のご同類。威力はこれまでの人間爆弾とは比べ物にならない、即席の巡航ミサイル。

ただし、その運転席でハンドルを握らされていたのは、

「グレエェェーース!!!」

ミツリが、初めて表情を崩し、泣きそうな悲鳴を上げた。





















同時に、


「あ」

「え?」

「い!」

「う!」

「お?!」

「うぃ??」

「ぬ?」

「む?!」


"ソレ"を目にしたとき、敵味方に関わらずその場に集った全ての能力者たちは、皆同じ感覚に襲われた。

全員が背筋に走る戦慄に戦き、各々の戦闘が強制的に中断される。

強い気配(オーラ)を読むことに長けた能力者であるからか、彼らは直感的に理解したのだ。

形容しがたい何かが、産み落とされることを。

この星に生まれた人類が、今だ経験したことの無い邪悪。

人の手による史上最悪の"人造の悪魔"が、今、産声を上げようとしていた。

トレーラーに詰まれた無数のドラム缶。

その中につめられた溶液たちは、ある反応を起こそうと必死に蠢いていた。

極めて精密に溶液自身が流動、変化することで、煮沸、攪拌、分離、析出、結合、分解・・・あらゆる反応が同時並行で実行される。

高度にして複雑、繊細にして緻密。

無数の化学反応が、各々理想とされる最適な状態で進行する。

念を込めた化学溶液自身に、最適な反応を強制する悪魔の芸術。

それが、『魔術師』ダミアン・ハーヴィ自慢の能力の真骨頂だった。

やがて、反応は臨界にいたり、結果は大量の熱を伴う爆発という形で結実する。








その日、ヨークシン上空に、巨大な薔薇の花が咲いた。








時に1994年1月31日、午前4時59分

後に"ミニチュア・ローズ"の名で呼ばれる悪魔の兵器は、産声を上げる。

ヨークシン・シティを恐怖に染め上げた惨劇の一夜、その終幕の一時のことである。

























その少し前のこと。



加速する馬鹿騒ぎの一方で、土中に逃れた件の男は、人知れず頭を抱えていた。

「やーれやれ、厄介な御仁に御座るなあ・・・」

図らずもバトゥが看破していたように、彼の能力の最大の強みは、なんといっても奇襲に尽きた。

時と場合と場所を問わず、一切の前兆を示すことなく実行される速やかな奇襲。しかも、修練を繰り返し、絶対の一撃にまで高められた"銛"の一突きは、極められた強化系能力者の肉体すらも貫き穿つ威力を持つ。

そして一撃したならばすばやく、地面あるいは障害物の"中"という、手近な絶対安全地帯に逃げ込める。これがもたらす効果は劇的である。いつでも力を溜めに溜めた最高の一撃を不意打ちで放ちつつ、相手の攻撃を受ける前に離脱可能。加えて戦場の只中でも、相手の奇襲を気にせず十分な休息が取れる。これにより、ありとあらゆる場面で必ず先手を収めることができるのだから。

もちろん、この特異な能力を最大限生かすため、彼は普段からあらゆる努力を行っている。行動、言動、あるいは格好。このところ少々有名になりすぎた故に、能力が噂として広まってしまったことは不都合だったが、ソレすら逆手にとって心理戦に持ち込むだけの器量が、彼にはあった。

しかし、この相手はどうにも勝手が違う。

彼に対した相手は、大抵の場合、まず彼の珍妙な装いと言動に驚いてくれるもので、そこからこっちのペースに持ち込むのは存外に難しくないのだが、この相手にはまずそれがない。

油断も隙も、ちょっとした動揺すらも存在しないかのように、オーラの動きが極めてフラットなのだ。あるいは石塊か植物か、さもなければよほど徳の高い聖者か坊主くらいしかありえないほどにオーラが静かすぎる。しかも、先ほどの一合にて分かったが、念能力者としての地力もあっちが上。単純な腕力も、技量も、ちょっと今まで出会ったことがないくらいにバケモノじみている。

見た目はゴス系の美幼女で、彼の広すぎるテリトリーに十分入っているのだが、何故だがまったく食指が働かない。美しいはずなのに、あの幼女を直視するたびに、何やら名状しがたい何かのように、本能が最大級の警報を告げていた。

健康な精神は健康な肉体に宿るものだという信念を持つ海パンとしては、自らの肉体美を晒す正義の全裸になんら臆するものを持たない。だが、あの幼女のオーラからは、それとはまったくの真逆のベクトルを感じていた。ありていに言って、死体か何かが強烈な怨念によって動いているかのような、そんな根拠のない非科学的な寒気を感じるのである。

「君子危うきに近寄らず?さりとて虎穴にいらずんば何とやら?しかして、あの極道幼女殿の首にかけられた10億ジェニーも捨てがたし・・・」

何せ嫁三人分にて候と、わけの分からぬ皮算用をはじきながら、上下左右の区別のない土中の空間で沈思黙考。因みにその間、両手は腕組みしつつ、カエル足で立ち泳ぎ。地中を、まるで水中等しく自由自在に泳いでいた。

「ひとまず様子を伺いながら、"彼女ら"をどうにかするべきでござろうな・・・」

思い悩んだところでいい知恵が浮かぶはずもなく、仕方無しに"息継ぎ"のために、戦場より少しはなれた路地裏に、チャプリと浮かび上がったのだが、

「・・・おやまあ」

そこで、彼女に出会った。

思えば、なんとも間の抜けた呟きだったと思う。

同時に、自分でも頬が緩むのが分かった。









…to be continud

あと2話くらいで終わります。



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-shine」 ep14
Name: kururu◆67c327ea ID:fb2e6dfd
Date: 2012/12/01 22:18
『先週末、ヨークシン・シティを小型ですが強力な竜巻が襲いました。

竜巻はごく短時間の打ちに自然消滅し、時間帯が明け方近くということもあって、人的被害はほとんど報告されていません。

冬のヨークシンは季節風と海からの湿った大気により、しばし大雪となることが珍しくありませんが強風被害は珍しい現象です。

しかし、専門家は3年前にもヨークシンで同様の現象が発生していることをあげ、近年の温暖化による異常現象ではないかとの意見を上げています。

ヨークシン地方気象台の専門家、オーリン・エバンズ氏は、今回の竜巻を「藤田スケール」でいうF0以上の規模と見ています。

「竜巻の通り道はダウンタウン地区に集中していた。突発的に生じた可能性が高い。生じたのは極短時間、被災範囲も規模に対しては狭かったが、トレーラーを数百メートル上空にまで巻き上げるなど、その威力はすさまじかった」とエバンズ氏はコメントしています。

トレーラー1台の重量は空荷でも約8トン、積荷を満載すると30トンを超えるといいますから、恐るべき威力というほかはありません。

今回の竜巻による死者はまだ報告されていませんが、少なくとも500棟以上の家屋が全半壊しています。

その9割が旧市街地の管理放棄地にあったため、被害届はほとんど出ていないのが実情のようです。

ただし、今回の騒動で注目が集り、市が再開発に着手する可能性が浮上しました。現地ではにわかに地価高騰の動きが出始めているようです。

異常気象ですらビジネスチャンスに変えようとするヨークショニア達の労働意欲には、あきれるのを通り越して敬意を抱かざるを得ません』



ケーブルテレビ局『チャンネル6』レポーター、エイプリル・オニールのレポートより


















頬をさす風。

硬い石畳の感触。

湿った冷気が足元から吹き込み、服を伝って吹き出る汗を瞬く間に冷やす。・・・その全てが、不快だった。

崩れかけた煉瓦の壁を背にし、息を殺して目を閉じる。

精孔を閉じ、絶を使った。

手には、革の鞘に収めたままの大振りなナイフ。ベンズとか何とか、詳しくは知らない。強力なオーラが込められてるが、抜き身のまま手にしては絶を使った意味がない。

口元を押さえ、冷えた空気と鼓動を一致させた。

正直に言えば、絶は苦手だ。噴出そうとするものを留める感覚は難しい。四大行の中では一番時間がかかったし、今でも完璧とは言い難い。それでも、あいつは及第だと言ってくれたが・・・

やがて、背にした路地の向こうから、ヒタヒタと裸足の足が地を踏む音。

規則性のない足運び、ほとんど掠れたような呼吸音。

音が後一歩に迫ったとき、オレは飛び出していた。

「ッ――――!」

呼吸一つ漏らさぬように、伸ばした手で首を掴む。

細い。少し力を込めただけで、折れてしまいそうな首筋。思わず、緩みそうになる手を、意志の力で留めた。

続く一連の動作は、もう夢中だった。

ナイフの先端にオーラを集中。首に巻かれた悪趣味なチョーカーの隙間に通す。外側に引き抜くように動かすと、すっと首輪は断ち切られた。

同時に、壊れた機械のように動いていた手足が、ピタリと止まり、ぐらりと首が垂れた。

全身から力が抜けて、地面にずり落ちそうになった女を抱きとめる。そこで、ようやく彼女の顔をまともに見る事が出来た。

・・・たぶん、年は十二、三歳程度。

身に着けているのは、局部を申し訳程度に覆う布切れのような下着だけ。その下の白い肌には、それ以外にも、全身には明らかに陵辱の跡があった。

ブラウンの瞳は、死んだ魚のように光を返さず、片方の目は開くのも困難なほどに瞼がはれ上がっていた。その上から、申し訳程度に湿布と絆創膏が貼ってあるのが、余計に無残だ。

足元は豆が潰れ、流れ出た血すら霜が降りて白い。爪は残らず割れていた。

思わず頬を摺り寄せると、あまりの冷たさに全身の毛が総毛立つ。まるで、柔らかい氷のように。

耳を近づけても、心臓の音は数十秒に一度のみ。呼吸も、髪の毛の一本も揺らせそうにないくらい細い。

その唇が、僅かに動いた。

・・・見なければよかったと、すぐに後悔する。ママ、そう言ったのが分かったから。

本音を言えば、すぐにでも次の娘に向かいたい。

でも、オレは、冷え切った体を抱きしめたまま、動けなかった。





"人形遣い"と揶揄される他者を操るタイプの操作系能力は、ほぼ二種類に大別される。

一つは遠隔操作型(リモート)。

対象を術者が遠隔操作することで、精密で柔軟な動作を可能とする。傍目には操作されていると分からないほど高い精度を持つ術者も居るらしい。使い勝手の良さから、大抵の能力者はこちらを選ぶ。

もう一つは自立行動型(オート)。

あらかじめ設定した条件に合わせて自動操作する能力。前者と違い、大雑把な命令しか与えられず精度は悪いが、一度に複数の対象を操作できる。

高度な術者はこの二つを用途に応じて使いこなすというが、今回のこれは明らかに後者。それが、厄介だった。

リモートの場合は操っている術者を殺せば、人形は解放される。操作者が居なくなるからだ。でも、あらかじめ対象に念を仕込んでおくオートでは、術者を殺しても人形は動き続ける。

しかも、対象の理性を奪わず、恐怖と苦痛を味あわせながら、駒として使い捨てるという能力。操作する事そのものより、対象を嬲るために生み出したのだとしか思えない。これ一つ取ってみても、術者の異常な人格が垣間見える。

まずい事に、そういう人間が強い執着や恨みを持ったまま死ぬと、その念は恐ろしく強くなり、自ずと執念の対象へむかう。ただでさえ体力のない一般人、しかも衰弱しきった体だ。耐えられるわけがない。

だから、術者を殺すことなく、開放条件を満たさなくてはならない。

雑多な格好をさせられた人形が唯一共通して装着していた、趣味の悪い黒革の首輪。

能力者の多くは使い込んだモノ、手になじんだモノ、あるいは思い入れの強いモノを媒介にして他者を操る事が多い。

人形が接近されたら自爆するように設定されているのは、首輪の解除条件を満たさせないように付加したものとも考えられた。

だから、あるいは・・・・そう思った。

相手は、所詮は常人。しかも、女子供だ。不意を付き、自爆される前に呪縛を解く。

あの人数を操作するのだ。一つ一つにそう多くのオーラを込められるわけがない。破壊するのはそう難しくはないはず。そう思った。

予想は、外れてなかった。

でも、

「・・・・ようやく、一人」

それが分かったところで、どうする?

ここは、まだいい。狭い路地だ。ここなら不意打ちは難しくないし、障害物も多い。

この場に配置された人形は多くない。大多数は大通りに配置されて、死の行軍を強要されてる。たぶん、今頃は・・・そう考えると、心が冷えた。

胸に抱く少女の感触は、ぐったりと気味が悪いほど軽くて、柔らくて、冷たい。

抱きしめて、暖めようとしても、ぜんぜん暖かくならない。体温が全て奪われる感触が、ひたすら怖かった。

・・・ああ、とっくに気付いてたさ。

もう、どうしようもないくらいに詰んでる。

でもさ、あんなの見せられたら、なんとかしたいって思うだろ?

・・・それで・・・それで、このザマじゃ、泣けてくるけど。

たぶん、バトゥはとっくの昔に気付いてた。

だから、オレを切った。あの人は、腹を括ってる。自分の大切な人だけでも守ろうと、さ。だから、目的らしい目的のないオレとは、違う。

それはいい。だけど、てめえで勝手に首突っ込んだ挙句、いざとなったら何もできやしない。そんな自分が、何より馬鹿で、惨めで・・・

「・・・・・・ごめん、ね」

ひたすら怖くて、夢中で抱きしめた。

昔、母さんがやってくれたみたいに。オレには、そのくらいしか、出来ないから。

顔が、もう死体にしか見えなくらい影が濃い。

呼吸が、どんどん弱ってく。

鼓動は、一分に一度きり。

その全部が、怖かった。



「――――ばかたれ、そういう時は医者を呼べ」


「・・・え?」



不意に、後ろから手が伸びて、抱いていた少女を奪われる。

その際に、ポンと頭を撫でられた。

振り返ると、タバコを咥えて飄々と佇む白衣の男。

脱いだばかりのダウンで、全裸の少女を包んでた。

「・・・無茶したな、お前さん。まあ、よくやった。後は、医者の仕事だ」

ヤマダは、俺を見て一瞬だけ微笑んだ。

「この娘でラストかな・・・・低体温症に、手足の凍傷、後は擦過傷に、軽い打撲が幾つかか・・・まあ、この程度なら何とかなるよ」

目を細めて呟くと、白衣のポケットから何やら黄金色の液体が詰まった容器を取り出す。

そして、ヤマダはフタを開けて中身をおもむろに口に含むと、いきなり少女の唇を奪った。

少女の喉が蠢いて、送り込まれた液体を嚥下した。

「ん・・・とりあえずこれでいい」

突然のことに混乱するオレには一瞥もくれず、山田は少女を抱いたまま歩き出した。

「・・っ、おい!!」

白衣の後姿が狭い路地の一つに入るのを見届けてから、ようやく我に返って後を追う。

ヤマダはするすると崩れかけた狭い路地を迷いもせずに歩き、やがて一軒の廃屋に入った。

後を追って中に入ると、その中は急ごしらえの野戦病院の様相を呈していた。

「時間がなかったから、応急措置の道具だけだ。後で、ちゃんとした設備のあるところに運ぶ」

そう言うと、少女を床に横たえた。

銀色の断熱マットが敷き、その上からピンクの毛布を敷いた簡易ベッド。

周りにはお湯のポットや清潔なタオル、その他にもオレには用途すら分からない医療器具や暖房器具が所狭しと並べてある。

そして、治療を施された女性達が、全身を毛布でグルグルにされ、ミイラ男のようにして何人も横たえられていた。

「ちと、体力を失いすぎてるか。年が年だから荒療治はしたくないんだが・・・止むをえん」

そう言うと、ヤマダは両掌に、一瞬で大量のオーラを練った。

これでも練は得意なほうなのだが、オレとは精度がふた周りほど違うだろう。それだけで、一種の完成された美しさがあった。

そして、少女の全身をくまなくさすりだした。

掌には金色に光る油のようなものが滲んでいて、それが青白い体に触れるたび、少女の体が呻くように振動した。

そのたびに、肌は薔薇色の潤いを取り戻してく。

まるで、魔法のようだった。

「アーユルヴェーダに基づく心身蘇生マッサージ。この手の患者は凍傷も怖いが、さし当たって低体温症が怖い。そこで、」

ヤマダは言葉を切ると、オレの目の前に、金色の液体が詰まった容器を差し出した。

「こいつを使う。俺が精製した特別性のセサミオイル」

足元には既に使用済みと思しき複数の空き瓶が転がっていた。

「黒ゴマ、鼈、当帰、海馬、海竜、犀の角、その他諸々。トドメに生きた至宝、龍のクソを入れて煮る。元は知り合いが調理用に自作したものだが、そいつを俺は医療用にアレンジした」

野生動物保護法違反の材料もちったあ混じってるがな、等と医者にはとても思えない邪悪な顔でニタリと笑う。

その顔は別として、得意気に解説してみせながらも、ヤマダの手は治療を休めない。全身をマッサージし、オイルを塗りこみ、さらにツボと経絡をオーラで刺激する。

それだけで、青白い顔が、みるみる生気を取り戻していった。

「普通なら、精気が尽きかけてる人間に使っても効果はない。だが、俺のはオーラを大量に練りこんであるから効き目が違う。本来は、オーラ使いすぎで衰弱したアホな能力者に使うんだが」

これで心身を即効で蘇生させ、しかも体にかかる負担は一切ないという。

力を漲らせ、エネルギーを取り戻し、津液(しんえき)を湧き出させる。おまけに人体に必要な必須栄養素が全て詰まっている、とヤマダは言った。

「後は針だ。こうやって特定の経絡を針で刺激して、オーラを送り込んでやれば・・・」

細くて長い治療鍼を、いくつもいくつも刺していく。そのたびに、手足の末端部がピクピクと赤く染まりながら、体温を取り戻していった。

これで最後とばかりに、患者を毛布でくるみ、グルグル巻きにするのを呆然と見守った。

「はい、一丁上がり」

ヤマダは毛布で包んだ彼女の体を、大きな大根か何かのように横にどけた。

死に掛けの人間をいともあっさり蘇生させる奇跡の技。

一連の動作には無駄がなく、流れるようにすばやく、気が付いたら終わってた。

思わず宝前としたオレを余所に、ヤマダは背後から魔法瓶を取り出すと、黒い液体を紙コップに注いでズズッと啜る。

「ふぅ・・・・・・飲むか?」

紙コップを受け取ると、安いインスタントコーヒーの臭いが鼻をくすぐる。

一口飲むと、思わずコップを額にあてた。まるで第三の目をマッサージするかのように。

自分でも、笑いがこみ上げてくるのが分かった。

「・・・ヤマダさん」

「あん?」

「ありがとう」

ヤマダは一瞬あっけに取られたような顔をして、すぐに顔をそらした。

少し赤くなっていたように見えたのは、オレの欲目か、気のせいだろうと思う。

「やめてくれ・・・前にも言ったが、俺のはビジネスだ。人様を治療して、代価をいただく。慈善事業に興味はないんだ」

そう言っても、彼女達のことは詳しく知らないが、治療費を払える見込みはないように思う。

昔、母さんとすごした売春宿に居た女郎仲間と、どこか似た雰囲気がするのだ。

釣られて、売られて、騙されて。それでも、笑って、嘆いて、悲しんで、苦界で生きる女のにおい。

それを告げると、ちょっと怖い顔でにらまれた。

「だからどうだってんだ、馬鹿・・・・・あるだろう。何か、さ。人間生きてりゃ、何か、払えるもんだ」

その一言で、もうオレはこの人のことが大好きになっていた。

「ごめんなさい」

だから、自分でも不思議なくらい、謝罪の言葉が自然に出た。

「・・・いいさ。だが、正直、そう素直に返されると調子が狂う」

何せ、普段は捻くれた人間しか相手にしてない。と、そう苦笑した。

かけるべき言葉が見つからなくて、オンボロの石油ストーブの炎を何とはなしに目で追った。

そして、コーヒーをもう一口。安くて苦い、舌に慣れた味。

ストーブにかけられたヤカンがシューシューと立てる音が耳に入る頃になって、ようやく頭が冷えた。

「・・・・なあ、今更だけどさ、ここに居る人、みんなヤマダさんが助けたの?」

そう、切り出すと、ヤマダは妙に神妙な顔をした。

パッと見でも、数十人は寝かされている。まだ奥の方に部屋は続いているようなので、もしかしたら生き残りは全員治療したのかもしれない。

この人数。重火器で武装し、近づけば自爆する。それをこの短時間で、しかも一人でやってのけたというなら、もはや人間業ではない。

「・・・ああ、なんというか・・・・その、な。・・・・俺がやったわけじゃ、ない。というか・・・俺は・・・その・・治療しただけさ」

そういうと、何故か彼は目をそらした。

コーヒー片手を弄びながら、一つ一つ注意して言葉を選ぶように呟く。

「・・・あんたらが屋敷を出てから、実は距離をとって、かなり後ろを着いてた。んで、途中で生きてる奴が居れば治療してた」

どうやら、敵味方の区別なく治療したという意味らしい。

彼も賞金をかけられていたというのに、無茶をする。

「かなり距離をとってたから、気付いてなかっただろ?戦闘に巻き込まれそうになったら、適当に逃げて隠れてたがな」

逃げ足だけには自信がある。そう、恥ずかしげもなく口にした。

その時に、分かった。

この人がキョーコさん達にも一線を引いている理由が。

そして、たぶんこの人は、決して自分の力を人を傷つけるために使わない人なのだ、と。

「んで、ここまで来たら、・・・・・マッパの姉ちゃんが、大量に倒れてた?・・・だから・・・うん、治療した。以上」

時折口ごもりながら、説明になっていない説明を口にする。

誤魔化すようにカップめんを二個取り出し、湯を入れてフタをした。・・・どうやら、嘘の苦手な男らしい。ちなみにシーフードにカレー味だった。

「じゃあ、誰が彼女達を"解放"したのかは知らない、と?」

単純なカマかけ。

知らぬ存ぜぬで適当にはぐらかすつもりなら突っ込んだが、その前に彼は惚けるのを放棄した。

「・・・心当たりは、在る。でもな、この業界、そういうのは口にしないのが仁義さ」

話はそれで仕舞い。

そう言い放つと、ヤマダの関心はカップめんに移ったようで、腕時計とにらめっこを始めた。

「・・・いいよ、オレも無理に聞きたいとは思わないから」

そう口にしながらも、強烈に好奇心を刺激される。

あの人数を、この短時間で無力化。しかも、生きたままで解放した。

誰が?何故?どうやって?

疑問は尽きないし、興味は在る。でも、

「聞くなっていうなら、聞かない」

「・・・そうしてくれ。奴は悪党だが、少なくともイカレ野郎じゃないからさ」

奴、か。

どうにもオカマの件といい、存外に顔が広いらしい。

オレが追求を諦めて別のことを聞こうとした、その時だった。

「え?!!」

「お?!!」

全身の毛が、一瞬で総毛立つ。

突如、猛烈な不快感を感じて、思わず"ある方向"を注視していた。

もちろん、そこには廃墟の壁しかないのだが、オレは確信していた。あの先で、何かとてつもなくよくない事が起きたのを。

その証拠に、ヤマダもまた目を見開き、声を上げつつ、同じタイミングで同じ方角を向いている。

だが、驚愕はそれで終わりではなかった。

「なっ・・!!!」

足元から突き出た、太い腕。

もはや悲鳴を上げる暇もなく、オレは足を掴まれた。

身に纏った服が"すり抜けて"いくのを感じながら、オレは一瞬で"地面の中"に引きずり込まれた。




















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep14






















初めて家族が出来た日のことは、よく覚えてる。




当時、ボクは根無し草の生活を続けてた。

年をとれないボクは一つの土地に居着くことが出来ない。

あまり長居をしすぎると、いつか必ず疑惑の目を向けられる。

マリア、テレザ、ジュヌビエーヴ、ミラルカ、サンドリヨン。いくつも名前を変えてきた。

エイジアン、エウロピア、カキン、ヤーパン、西ゴルドー。いくつも国を彷徨った。

土地を渡り歩きながら、その時代に最適と思う職業を点々とする日々。農夫に物売り、大道芸人、兵士、建築家、芸術家、あるいは娼婦。医者や聖職者だったこともある。

新しい自分になる前に、全てを捨てる。

何も不自由はないし、一人がいい。

そう、思ってた。



入植が始まって間もないこの大陸にやってきた頃の話だ。

この辺りはまだ港を中心として、掘っ立て小屋や畑が細々と寄り添う村だった。何もかもが足りなくて、冬になれば当たり前のように餓死者と凍死者が出る、そんな土地だ。

ボクの仕事は、パブのママ。

港に近い海辺に建てた、トタンをめぐらしただけの小屋で酒を出す。安価な娯楽だ。顔にちょいと派手めの化粧をすりゃ、見た目も誤魔化せる。ああ、影で金貸しもやってたかな。

その日も、ボクは酒を仕入れに波止場に向かって歩いてた。

そこで、あれを見ちまったんだ。

「ひん、ひん、ひぐっ」

道の反対側に、ぐしゅぐしゅと涙鼻水垂らして涙を堪えるジャリ。

街角のゴミ溜めに頭を突っ込んで、中身を漁ってた。畑に撒いたり、豚の餌にするやつさ。

ガリガリにやせこけた頬をして、目を血走らせながら、食べられそうなものを漁るのに必死だった。

時折、周囲で酒瓶を片手にたむろする男どもに蹴り転がされては、犬のようにはいつくばってゴミあさりに戻る。

男達は愉快そうにゲラゲラと笑ってた。

連中の顔には見覚えが合ったよ。みんな、パブの客だ。

農夫に坑夫、あるいは漁師。粗野で無教養で、気のいい男達。でも、彼らは無教養だからこその、残酷さも持っている。

ろくな医療もなければ学舎もなく、少し風邪が流行れば人が死ぬ。そういう時代だ。

そんな町で、親を亡くした子供は孤児になる。孤児になれば、すぐに死ぬ。

だから、こんなのは見慣れた光景だったんだ。

普段なら、見て見ぬふりをしただろう。

でも、その日のボクはちょいと虫の居所が悪かった。もう思い出せないけど、酒代を滞らせた馬鹿がいたとか、そんなところじゃないかと思う。

それで、ついやっちまった。

「あーもー、ちくしょう!」

髪を掻きまわしながら絶叫すると、思わずその餓鬼を抱き上げてた。

「餓鬼が、気持ち悪い真似すんじゃないよ!泣きたいときは、思い切り泣きゃいいんだ!」

纏わり付く蝿を追い払いながら、乱暴にあたまをなでてやると、そいつはきょとんとした顔をした。

そして、あろうことかボクにしがみついて泣き出しやがった。あのときは、心底どうしたもんかと思ったね。

まあ、自分でもなんであんな事をしたのか、今でもちょっと疑問だ。何せ、一文の得にもならないことは絶対にやらないのが自慢だったんだ。

ただ、あの餓鬼の顔だ。

カラスと腐りかけの骨を奪い合い、頭にはリンゴの皮を被ってた。

目が合ったとき、瞳に映っていた感情は、やっと有り付いた食い物を奪われる恐怖だけ。

だからだと、そう思う。

「あーあ・・・とりあえず、おまえ、名前は?」

「・・・うぃりあむ」

衝動的にひろってしまった餓鬼一匹。

さて、どうしたものかと思ったけど、いまさら放り出す気にもなれなかった。

つんつんと指先でつつくと、ほっぺたが気持ちの良い弾力で指先を押し返した。ふるふるゆれる。かわいい。

「フン・・・仕方ねえ。しばらく面倒みてやっか」



だが、一人拾うと、さらに一人。

らしくもない偽善を積み重ねた。

やがて子供らは、男になり女になり、父や母になって、新しい子が生まれた。

そんなことを積み重ねていたら、いつのまにか人が集まり、家が建ち、街ができていた。

『そろそろ、この街にも名前が必要でしょう、お母さん?』

あの子が、ウィリアムがつけたんだ。

"輝ける街であれ(York-shine)"、と。









「・・・もう、捨てられない」

足の震えは止まってた。

やるべき事も、分かってた。

いつのまにか、喉がカラカラになっている。

つばを飲み込もうとしても、上手く飲み込めない。

これから自分がしようとしていることに、吐き気を覚えた。

「・・・ハンプティ」

喉の奥から声を出すだけの作業が、思ったよりずっと困難だった。

それでも出てきた声は、自分でも嫌気がさすぐらい、何かを懇願する少女のものでしかなかい。

「奥様、みなまで仰られますな」

久しぶりに聞いた彼の声。

不意に目蓋が熱くなる。

そしたら彼は、ハンケチを取り出して、静かに涙をふいてくれた。

「ごめん、なさい」

なんて卑怯な女だろう。

「何をおっしゃいますか。奥様に拾われなければ、私などは当の昔にのたれ死んでおりました。十分有意義な一生で御座いましたよ」

ホッホッホ、と陽気に笑う彼の声。

笑うと顔中の皺が引き伸ばされて、年相応の顔になる。

バトゥに若頭を譲る前は、この笑いで組を引っ張ってくれた。

「お嬢さまにお伝えください。お風邪など召されませんように、と」

最後に、彼は人懐っこい笑顔を見せると、全身を折り曲げるようにしてお辞儀した。

「おさらばで御座います」

そうして、ぷかりと浮き上がると、ハンプティと呼ばれた男はトレーラー目掛けて激突した。

もう、涙が伝うのを止められない。

勝手な女だ。冷静な部分の自分がそう囁く。

今日だって何人も殺してる。他人の子だと思えば、いくらでも殺せる。

部下を死地に追いやるのも、これが初めてじゃない。

でも、ボクにはこうするしかなかった。

「ああ・・・」



・・・やがて頭上に星が瞬いた。



それを見守りながら、自分の中でまた一つ、何かが色を失う。

瞬間、ドスッと絶妙のタイミングで、地面から突き出た銛。

「・・・いい腕だ」

腹から突き出た銛の先端を摘みながら、キャスリンはそう思う。

大事な筋肉や臓器を残らず避けて、突いたというより隙間を通したという感じ。ただの能力頼みの馬鹿にできる芸当じゃない。

とりあえず銛に手をかけると、地面から顔をのぞかせた男と眼があった。

ニッと笑うと、相手がギョッとしたのが分かった。

そのまま腹の痛みを無視して、無様なエリンギカットをわしづかみにする。

「っ・・・・?!!!!」

軽く力を込めると、メキメキミキミキと頭蓋骨がずれる音がした。

体温、発汗、脈拍数、掴んだ掌から男の恐怖が伝わってくるのが少しだけ心地いい。

そのまま両手を首に添えて、軽く締め上げると、キュッと間抜けな音が鳴った。

殺す気はない。

殺してやらない。

いずれ、殺してくださいと言いたくなる。

一族郎党親類縁者悉く、こいつ自身の目の前で、小さく千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って千切って・・・!!!

ねえ、可愛い坊や。

おいしいおいしい、ミートパテ。

毎日こさえて食べさせたゲル。

「あははははははははあははははははははははあはっははっはははあ!!!!」

妄想を具現化すべく、右手に力を込めたときだった。

狂気の愉悦に歪んだ口から、ごぽっ・・滴り落ちた赤色の液体。

「・・・え?」

気が付いたときには、何かが肩から右胸を貫いていた。

ザクザクザクザクザクザク・・・!!!!

さらには、肩に、背に、腹に、腿に・・・何かが、突き刺さってゆく。

キャスリンの意識は、そこで途絶えた。
















「おおおおォぉお!!!」

急な減速をこらえきれず、車体はへし曲がり、タイヤのこげる臭いが辺りに満ちた。

全身を襲う苦痛を無視して、衝撃に耐える。

顔面をフロントガラスにしたたかに打ち付けて、髪の毛一つない頭部の至る所がすり切れる。だが、かまうものか。

車内を見れば、先ほどまでハンドルを握らされていた赤毛の女は消えている。少し不思議に思ったが、そちらの方が好都合。憂いは全て消え失せた。

両手両足を車体に密着させ、

「ぬンっ!!」

ありったけの力を込めて"周"をする。

すぐさま、オーラがトレーラー全体を覆いつくつ。

ずいぶん前から、老いの坂を下っている。全盛期の力はすでに無い。

老兵は死なず、去るのみ。老いては子に従え。

だから、彼は何も口に出すことはなかった。その必要もなかった。

だが、今なら、かつて無い力が出せる気がする。そんな気がした。

一息に、全てのオーラを変化させた。

途端に重力が反転し、天地が反転し、

世界の法則が『さかしま』に変わる。



地上、0m。



車体は地面を離れ、空回りする車輪が高い音を響かせた。

そのまま、上昇を開始する。

「おぉ・・!!?」

誰かが驚愕の叫びを上げたが、もはや彼の耳には届かない。



地上、10m。



やはり、これだけ質量があると浮かべるだけでも難しい。

彼の能力は、物体の持つ重量と質量に左右される。

対象が大きければ大きいほど、重ければ重いほど、オーラが大量に必要になる。

能力を発動させればベクトルは反転し、この世の万物は9.8m/s2の加速度で天に向かって落下する。

しかし、変化系のかなしい性(さが)。

オーラを手放せば、出せる力は激減してしまう。

困ったものだが・・・・・・まあ、いいか。



地上、50m。



先ほどから荷台に山と積まれたドラム缶から、シュウシュウと気味の悪い音がしている。

これだけの仕掛けだ。ただ爆発するだけとも思えない。缶に刻まれたバイオハザードのマークが不安をあおる。碌なことにはならなさそうだ。

できれば、海まで投げ捨てたい。

だが、少しベクトルを変えようとしただけで途端に落下が反転しそうになる。

やはり重すぎるのだ。

ほんの数キロで海なのに、残念。

なら、せめて天高く浮かべよう。



地上、100m。



後は、あいつが何とかしてくれる。

そう思いながら眼下を見れば、両手をついて土下座する白いスーツ姿が目に映る。

・・・馬鹿野郎。兄貴分に恥をかかせるな。

ののしりながらも、思わず口元に笑みが浮かぶ。

あいつが鼻ったれの餓鬼だった頃が脳裏をよぎった。

どこで聞きつけたか念を教えろとせがまれて、あまりのしつこさに辟易した。

駄目だといっても聞かなくて、思わずドツいちまったら精孔が開いて死にかけたが。

あの時は、後で奥様に半殺しにされた。



地上、500m。



視線を動かすと、泣きそうな顔のキョーコが見える。

キョーコは組の中でも新参者だ。

今はともかく、組に来たばかりの頃は、まるで十歳かそこらの少女のようだった。

常に気を張っていて、誰に対しても刺々しく、バトゥにしか心を開かない。ああ、そういえば例の少女とよく似ている。

おそらく、本質は未だ変わってないだろう。

でも、子供ができて落ち着いた。



地上、1000m。



後はカルロさえいてくれたらな、とそれだけが悔いだった。

若い頃は一番やんちゃをした奴だったが、その分、年を取ってからはみんなの苦労をしょってくれた。

ファミリーで、あいつの世話にならなかったものはいない。

あっちで会ったら酒でも飲もう。



地上、5000m。



額の傷から流れた血が眼に入る。

赤い視界のその先で、朝焼けに焼けた町が輝いていた。

遠くビルの間際には、ああ、麗しの我が故郷。

あの屋敷で過ごした日々が蘇る。

・・・お嬢様。



そして、上る。

上る、登る、昇る。

やがて、光が弾けた。











その日、ヨークシン・シティ上空に出現した閃光を目にした者は、少なかった。

何せ早朝のことだ。爆発の瞬間の閃光は、明け方の昭光に照らされて大して目立たなかったこともある。

ただし、ボンっと、爆発の規模の割りに生じた音は軽く小さかったが、それでも街の住人達を眠りから呼び覚ますのには十分だった。

よって、多くの者はその光景を目にした。地上数千メートルに出現した、巨大な一輪のバラを。

ジョギングをしている歩行者、教会の神父、新聞の配達員、さもなければ徹夜明けのホステス達。

ある者は、季節はずれの入道雲だと思い、

ある者は、主の奇跡だと祈りを捧げた。











「・・・・おいィ?」

その光景は、廃ビルに潜んでいたリィロ・ロイドからもよく見えた。

ヨークシン上空を走った、一条の閃光。

一輪の薔薇にも似た爆煙の巨大さが、何より雄弁に爆発の威力を物語っていた。

だから、リィロはその光景が理解できなかった。

ダミアンが大きな花火を打ち込んで、奴ら混乱した瞬間に、四方八方から滅多打ちにして皆殺し。それが、リィロが事前に聞いていた素敵なプランの全てだ。

だから、リィロはコソコソと闇討ちかませる場所に潜んでいたわけなのだが・・・

もし、あれが予定通りに地上で炸裂していたならば、と考えて全身の毛が総毛立つ。

「あんのクソ爺ッ!な・に・が"最悪でも分断できる"だ!!ハナからまとめて皆殺しのつもりだったんじゃねえか!!」

俺も含めてなっ!とリィロははき捨てた。

同時に、待てよ、と脳に直接氷水を流し込まれるような感覚を覚える。

兄は、マイケル・ロイドは、どこまでこの事態を把握していたのだろうか?

あるいは、別れ際に見せたあの焦りの表情は、巻き添えを恐れて一刻も早く現場を離脱しようとしていただけなのではないか。

そう考えると、足元がクラクラするような疲労を覚えた。

それが、真実ではない自信がなかった。

クラクラする頭を抱え、懐から葉巻型の精神安定剤を取り出すと、自前のジッポーで火をつける。

「・・・ああ、クッソ、もう味しねえよ」

震える指先から、葉巻が落ちた。

床に落ちた葉巻の火を見つめると、嫌な考えばかりが脳裏をよぎる。

マフィアの世界に仁義はないが、ケジメは在る。あまり目立ったことをやらかして余所の商売(シノギ)を潰したら、寄ってたかって嬲り殺しだ。

こんなロクでもない真似をしでかして、しかも失敗したとあっては・・・

「・・・うちとツーカーのリッツだって、知らん振りして蜥蜴の尻尾きりに決まってる。・・・でも、そのくらいは豚公だって読んでるだろう」

ちょっとやそっとの騒ぎなら、後で和解金やら何やらで手打ちにできる。そう踏んでいた昨日までの自分を殴りたい。

「豚め、この有様じゃ、元から賞金払う気もゼロだったってことかよ?!」

金に目のくらんだ連中を撒き餌代わりにばら撒いて、罠の中に引きずり込み、後は"人形"で足を止めてドでかい一発で一網打尽の皆殺し。

豚はキチガイだが馬鹿じゃない。

最初からそのつもりだったなら、もう高飛びの準備を終えているだろう。

このまま一人、この街に取り残されれば、・・・マフィア達にどんな目に合わされるか、想像したくもなかった。

いっそのこと、全部ゲロしてレッドドラゴンか女郎組合の頭目あたりに取り入るか?

そう考えて、即座に却下する。既に取引が通用するラインは超えていた。

考えれば考えるほどに、状況は詰んでいる。

「・・・ああ、ファンキン・ジーザス・クライスト」

世の中は狂ってる。

イエスは全身に釘を打たれた喜ぶマゾヒストで、ブッダは蜘蛛の糸で罪人をぬか喜びさせた挙句に、さらなる奈落へ突き落として喜ぶゲイのサディスト。ムハンマドは死ねばあの世で処女と乱パし放題とか抜かして信者をカミカゼさせまくるキ○ガイだ。

「・・・いっそのこと、このまま逃げちまおうか」

"絶"にだけは自信がある。

いつも、そうして逃げて隠れて、ドブネズミみたいに生きてきた。

自分は安全な場所に身を隠して手下を操り、自分より強い能力者達が寄ってたかって嬲り殺されるのをひたすら待つ。そんな時は、いつも下卑た快感を覚えた。

もう、いい。このまま嵐の過ぎ去るのを震えながら待とう。

半ば捨て鉢な気分でそう思った。

―――――――それを、目撃するまでは。

「――――・・・ッ?!」

リィロのいるビルの真下。

ちょうど、事前に確かめた射程圏内ギリギリの位置に、そいつはいた。しかも、ちょうど海パンとやり合っているようで、身動きでない様子だ。

バルバロイ主催のマンハントゲーム、カニバリズムナイト最大の賞金首が。

もちろん、先ほどの推測が当たっていれば、もはや賞金首を追い回す事に意味などない。そもそも主催者に賞金を払う意思がなければ、狩りは成り立たない。

だが、相手が"そいつ"なら話は別だった。

三年に及ぶ付き合いで、リィロは嫌というほど知っていたのだ。

Mr生肉業者(ブッディ)ことブチャーノ・ブチャラーデが、キャスリン・ボーモントに抱いている、おぞましい程の執着心を。

さらに、その場に海パンがいることが、リィロの考えを裏付ける。――――あの男なら、どんな大惨事の場所でも、確実に相手を捕獲できる。

それに、とリィロは唇をゆがめた。

バルバロイの殺し屋の中で、唯一人、海パンだけは豚公に"逆らえない"。それだけの弱みを握られている。だから、狩りの対価が金ではなく、一人だけ別のモノだった。

パチリパチリと脳内で、パズルのピースが合っていく。

伊達に悪党家業はやってない。悪知恵ってのはコンピューターじゃはじけねえ、とはどこぞの殺し屋の至言である。

知らず知らず、リィロは舌なめずりをしていた。

人質、脅迫、ブラフに恫喝。とりうる手段はいくらもあった。

「kick ass!!」

震える体を抑えて、取りあえずは深呼吸。

「運が向いてきたっぽいじゃねえか!」

ニタリと、思わず悪党じみた笑みが浮かぶのを堪えられない。やっぱり、奇跡というのは悪党にだけ訪れるものなのだ。

サングラスを放り捨て、眼下の相手をすばやく観察する。

やっこさん、海パンに夢中でこっちには微塵も気付いてないらしい。後ろから一発かますには、これ以上ない。

期待と興奮に胸が高鳴るのを感じつつ、落ち着け、と自らを戒める。

ギャンブルで大物手を上がる秘訣は、相手に自分の手札を決して悟られない事だ。息を殺し、気配を殺し、欲を殺して、さっくり奇襲。これに限る。

リィロはシガーケースから残りの葉巻を全て取り出すと、一本ずつ指の間に挟みこみ、まとめて盛大に火をつけた。

大好物の臭いに誘われて、偏屈な念獣が涎をたらしながら具現化された。

『ウヘヘヘヘヘヘィ!!相変ワラズ、イーノ吸っテンナぁ!俺ニモ吸ワセロヤ、ゴルァ!!』

いつもどおり、主を不快にさせる甲高い声。

しーっと指を一本立て、静かにしろとまず脅す。

「・・・仕事だぜ。首尾よくいったら、たっぷりと、好きなだけ吸わせてやる。だから本気出せ!」

低い声でそう言うと、念獣はコクコクと素直に頷いた。

涎がダダ漏れで、視線は手元のブツに釘付けである。

『景気イージェネエカ、ソウコナクチャヨウ、相棒!」

葉巻をまとめて口に放り込むと、念獣は器用に口の端をゆがめ、スパスパと極上の煙を吸い込んだ。これで手持ちは全てパア。数百万ジェニーが吹き飛んだ。

『オッシャアアアー!!ヒッサビサニ、本気モードジャ!』

念獣の瞳孔が縦に裂け、目玉が赤く輝く。

毎度この儀式をしなければ、満足に本気も出さないのだから、我ながら銭のかかる能力だ。

そうぼやきつつも、視線はビルの下から離さない。

相手は、未だ動かず。

いよいよ、天国の扉に近づいている。

「一生に一度のショットだ。ぱっくり頼むぜ、相棒」

『オウヨ、約束忘レンジャネーゾ、相棒』

引き金を引くと、ポーンとシャンパンのコルクが飛ぶような音が飛び出た。打ち出された念獣は、瞬時にピンポン玉大から直径2メートルあまりにも膨れあがった。

物理的におかしい巨大化をすると、一瞬にして百メートルの距離をゼロにする。

ひゅるひゅるぱくり。

念獣は、無数の牙をむき出しにし、ザックリと幼女の半身につき立てた。

『オエェェエエエ!!チョ、クッソマズイゾ、コラ!!普段ナニ食ッテイキテンジャ!!』

ビクビクと痙攣する小さな体を、ちょうど蛇がネズミを飲み込むように、頭をフルフルと振りながら、いかにもマズそうに飲み込んだ。

球体状の頭部は中身の形状を所々に浮かび上がらせつつ、発射された時と同様、一瞬で手元に引き戻された。

と、ようやくリィロは止めていた息を吐き、大音声に叫んだ。

「ラッキーッショォォット!!!」

一瞬で、アドレナリンが脳内を蹂躙する。

クルクルとその場で乱回転。

両手を叩いてスキップし、口笛を吹いて踊り狂う。

「おいしい目が出てきたんじゃねーか、これwwwwさすがにさっきのあれは死んだと思ったけどよ、いや結果オーライオーライ、ホームランっしょwww」

やたらめったら『w』をはやしながら、リィロは得意の絶頂にあった。

「ケケケッ、さ~て、ひとまずキャスリンちゃんとごた~いめ~ん♪」

ゴルフボール大の鼻頭をピンとはじくと、念獣はガバッと大口を開けた。

そこから覗いたのは、白と赤。

青白い、トイレの便器のような硬質な白さを持つ肌が裂かれ、黒いドレスは腐った木の葉のようにドロドロだった。その全てにべったりと赤いインクのような血が付着していた。

バルバロイの死体処理係として、この手の修羅場に慣れている筈のリィロでさえ、思わず金玉が縮み上る。

そして、赤い鮮血よりもなお赤い、焼けた銅色の不気味な目玉。

全身をズタズタにされながら、薄い唇がニタリと笑った。

「アイエエエエエエ!」

リィロは失禁した。

大急ぎで大口をバチンと閉じる。

『・・・相棒ヨ、正直、コノ世ノモノトモ思エネーグライ、クソマズイゾ、コレ。今スグ吐キ出シテ、イイカ?』

「ちょ、そのまま御ゆるりとモグモグしててくれる?!」

『マア、ドノ道、モウ夜明ケダシナア・・・』

「おおおう!ラリってる場合じゃねえぇぇぇ!!」

廃ビルの谷間から徐々に光が漏れ出していた。

リィロの能力は時間制限という制約が在る。使用できるのは太陽が沈んでいる間だけ。日が昇ったら念獣は睡眠モードに入って使えない。

いつもなら、常に行動を共にしているアニキに能力を引き継げばいいのだが、憎いあんちくしょうはどこぞにトンズラしやがったくさいのでマジでヤバイ。

もし、この中身が自由になったら、・・・そう考えただけで恐怖のあまり脱糞しそうになった。

もう何を確認するまもなく、リィロは懐から携帯を取り出した。

汗で滑る表面にイラつきながら、ようやくナンバーを探り出すと、相手は数コールも待たずに出た。

「へい、豚公!」

リィロは以前からいってやりたかった台詞を思い切り叫んだ。

『・・・やあ、リッキー。無事だったんだね、悪運の強いことだ』

相手は一瞬だけ言葉に詰まったようだったが、電話に出たということは多少"予想"していたのだろう。

「あぁ?!お・ま・え、やっぱ俺ごと殺そうとしたっしょ!!」

『いやいや・・・誤解が在るようだけど、ドクが何やらかすかまで僕が知ってたわけないじゃん。だってドクなんだから』

僕は連中の首に賞金かけただけだしねえ~、とあまりにも空々しい。というか、誤魔化そうという気すらないようだ。

「ざっけんな、豚野郎!!」

荒い息をつきながら、リィロはそこで一旦口を閉じた。

もっともっと罵詈雑言を浴びせかけていたかったが、今はともなく時間がない。

「・・・おい、てめーの御執心のキャスリンちゃん。今どこに居ると思うよ、豚公?ちなみに海パン野郎はしくじったぜ」

『・・・なんだって?』

ようやく豚の声から余裕が消えたので、リィロは少しだけ胸がすっとした。

「かわいいかわいいキャスリンちゃん、懐に入るかどうかは手前の態度しだいだぜ」

『その話、信じる証拠は?』

かかった!

思わず唇が釣りあがる。

「吹かすなよ、豚公。どうせ、そこら中にしかけた盗撮カメラでナニこいてたんだろ?」

最高の手札が、手元にある。

だが、高い手札をそろえただけじゃあ、ギャンブルは終わらない。

掛け金をさらにベッドさせるには、相手を"その気"にさせる必要がある。

「20億ジェニーだ。ビタ一文まけねえ。俺の口座にとっとと入金しな」

まずは、吹っかけて様子を見る。

『・・・お話にならない。あんまりふざけた事抜かすと、ためにならないぜ、リッキー坊や』

冷静に聞こえる声だが、いつものふざけた調子が消えていた。

「それでみんなチャラにしてやるってんだよ、豚。そしたら、キャスリンちゃんはきっちり届けてみんながハッピーになれる。ただし前払いだ。さもなきゃ、キャスリンちゃんはおうちに帰って、俺はこのままトンズラする。そういう話だ、オーライ?」

視界の端、モゴモゴと動く念獣の口の端には、赤紫色の血がこびり付いていた。


















「ぶふぅうぅー??!!」

どれほどの大惨事が起こるか、と。

その素敵な予感にワクテカ正座していたブーゲンハーゲンは茶を噴出した。

間の悪いことに、ケラケラと楽しげにペットボトルの紅茶(無糖)を口に含んだ瞬間である。

対座で同じく画面に見入っていた師匠の後頭部が大惨事になったが、そんな些細なことはどうでもいい。

「「・・・・・・・・・」」

"凝"で見つめる二つの眼には、朝焼けの空に浮かんだ薔薇の形の爆煙があった。

オーラを視認できる二人には、当然、その周囲に広く拡散した"何か"までもが見えている。

不意にダミアンが叫んだ。

「ファッキュゥーーー!!」

耳にした瞬間、ブーゲンハーゲンは彼が何と言ったのか理解できなかった。

・・・fuck you?

まさか師の口からこんな台詞が飛び出るとは、思いもしなかったのだ。

「せ、先生?」

「クッソ!!やられた!!おかげで、大事なプランが水の泡だ、チキショーー!!!」

ぐしゃぐしゃと髪をかきむしる姿を見るのも初めてだった。

「・・・し、しかし、これなら、アレの有効成分が広範囲にフォールアウトする筈では?!」

興奮状態にある師をなだめるように、その事を指摘する。

バラの爆風による殺傷半径は、およそ5百メートル。核を別格として戦術兵器としてはまずまずだ。

しかし、バラの真価は、その後の『反応』にある。

芸術的に掛け合わされた化学物質は相互に複雑多彩な反応を引き起こし、人間の体液そのものを有毒化する悪魔の毒を生み出す。

一度体内に摂取されれば、人体は即席の化学プラントと化し、発汗と共に複製された成分が空気中に拡散する。

徐々に濃度を落としながらも、感染者が感染者を生み出す負の連鎖が始まる。

「アレだけ拡散してくれたなら、むしろ被害は大きくなる筈です!!」

予期しない空中散布によって、バラの毒は広範囲に振りまかれた。

ならば、その分、薄く広く広がる。

感染者は増加し、最終的な被害はさらに増えるはず。

そう楽観論を述べるアホを、ダミアンは一括した。

「脳ミソわいてんのか、おめーは!!高度だ、あの高さが問題なんだよ!!風向計算舐めとんのか、オンドレェ!!」

「・・・あ」

ブーゲンハーゲンは遅まきに理解した。

そう、この手の化学兵器をに付き纏う、風向きと風速の問題。

大陸は暖まりやすく冷えやすい一方、海洋は暖まりにくく冷えにくい。冬には海洋の空気の方が暖かくなって上昇気流を生じ、それを補うために陸から海へと強い季節風(モンスーン)が吹く。

特に、気温が最低値に近づく明け方近くの海岸線では、極めて激しい突風が吹く。

地上で起爆させてさえいれば、速やかにヨークシンの街中が汚染されただろう。事前の計算どおりに。

だが、1千~5千メートル上空においては、強力な逆向きの風となるのだ。

「やはり・・・ほとんど海側に流される、な」

手元の計器に映し出される数字を見て、ダミアンは力なくうなだれた。

『バラ』は化学的には極めて不安定な物質で、熱分解や加水分解されやすい。放っておけば時間で無害なたんぱく質やアルコールに分解されて消える。

その性質も"売り"の一つだ。

安価な化学溶剤を使用することで製造しやすく、一度起爆すれば熱波と爆風による直接的被害に加え、新種の猛毒が空気感染することで感染者を雪だるま式に増やす絶大な威力。その上、数時間で無害化することで、後始末の手間もいらない。

安価で、強力で、スナック感覚で使用できる理想の兵器。

ライトなところがナウなヤングにも馬鹿受け間違いなしなのだ!!

だが、

「あちらにこんな伏兵が居たとはなっ!」

ブッディから渡されたデータ。三年前の抗争の折に得られたそれには、あの卵のような男のことはほとんど載っていなかった。

前回は、あまり目立ったことをしなかったらしい。完璧にノーマークだった。

あまりにも静かに自然に、空を飛行していたあの男こそ、最大の脅威だったというのに!





――――もちろんボーモント・ファミリー"隠居(コンシリエーレ)"、ハンプティ・ボイルドはそこまでの考えを持っていたわけではない。

可能な限りの限り市街から距離を置こうとして、結果的に高高度への投棄を選択せざるを得なかった。他に手がなかったから、結果的にそうなった。

つまりは、ただの偶然である。

だが、そこには幾つもの『if』が存在する。

事件後、ヨークシン市庁に設置された『災害』調査委員会。

表向きは超自然災害として処理され、秘密裏に葬られた報告書は告げる。

『バラ』はその"毒"によらずとも、威力だけで十分すぎるほど脅威だったのだと。

炸裂の瞬間、トレーラーに積載されていた複数の溶液は、それ自体が一次爆薬となって全体を加圧沸騰させた。

急激に膨張し、容器を破裂させて溢れた直後、中空にて沸騰、蒸発し、球状のガス雲を形成しつつ、引火。

結果、強力な衝撃波と共に、広範囲に高温のガスが撒き散らされた。

空気と化合した可燃ガスの爆発は、1平方センチメートル当たり数十kg~数百kgという、極めて高圧力の衝撃波を生み出した。

僅かな目撃証言によれば、これは白熱した火の玉、『火球』として視認されたという。

仮に地上で起爆していたならば、常識外の耐久力を持つ念能力者ですら一人の例外もなく死滅していたの疑いようがない。

空気と混合したガスによる爆発現象。

それは通常の爆薬のように、起爆部から放射状に発生するのではなく、広い空間そのものから生み出される。本来なら瞬時に収束する筈の『爆発』という現象が、「長時間」、「連続して」、「全方位から」襲ってくることとなる。

その効果は、絶大である。

爆心地は、摂氏3千度もの高熱と衝撃波によって完全に焼却、粉砕される。

仮に直撃を免れたとしても、鼓膜破裂、内耳器官破壊、重度の脳震盪、肺臓および内臓破裂、場合によっては視力の完全喪失等、人体に致命的なダメージを受けたのは想像に難くない。

仮に、戦車並みの強度と耐久力を持った能力者がいたとしよう。

なるほど、強固鍛えられた念により、肉体は鋼の防御力を発揮し、爆風による殺傷に耐えることができるかもしれない。

だが、所詮は肉と骨。

肺を侵し、酸素を奪い、その上で超高温・高圧のガス爆発を持続させる異常な破壊現象の前では、なんの意味も持たない。

そして、周辺の酸素を根こそぎ奪う程の激しい燃焼反応は、強い上昇気流を生み、最終的に大気上層に到達する巨大な一輪の薔薇(噴煙)を作り出す。

この間、わずか0.3秒。

逃れられるものなど存在しない。

その上で、能力者であるなしに関わらず有効な、猛毒を撒き散らすという用意周到な悪辣さ。

念能力者を確実に殺すという点に着目した場合、確かに『バラ』という兵器はこれ以上ないほどに効果的な、悪魔の芸術品であった。





だから、こそ。

その驚異的な破壊力が地上に伝播する、ギリギリ圏外での起爆。

毒の大部分を処理可能とした、高高度を吹き荒れる暴風の存在。

それらを可能とした、上空への投棄という選択。

単純な手段でありながら、結果的に一つ一つが理にかなっていた。

恐らく、その事実を全て認識できたものが居たとしたら、こう評しただろう。

奇跡、と。





一方でその奇跡に目論見を崩された男は、世の理不尽に身悶えした。

「つーか、そんな機動力があったら、とっとと手前だけ逃げられただろうが!そうするだろ、普通!!」

ダミアンは理解できない。

他人のために自分の命を差し出すという、オゾマシイ行為が理解できない。

そもそも人間は他人を食い物にしても自分だけが可愛いものだし、特に生命の安全がかかっているなら、その行為は正当化すらされる。カルネアデスの板の例を出すまでもなく、『緊急避難』として近代司法は認めている。

自己犠牲なぞ、はつまり体のいい自殺に他ならない。

生きたい、助かりたいというのは人間が当たり前に持つ感情だ。なりふり構わず自分だけでも助かろうとするのは、命が自然にもつ当たり前のエゴだ。

それが人として、生き物として正しい姿なのだとすら思う。

それが、こんな、こんなワケノワカラナイ非常識で、自分の大事な大事なプランが破壊されるなど、あってたまるか!!

もはや、理解できないのを通り越してオゾマシかった。


―――それでも、超高空で咲き誇るバラこそが、目の前の冷酷な現実だ。


「・・・先生、どうされますか?」

薔薇は、一発しか用意していない。

助手の不安そうな声が、ますますダミアンの苛立ちを煽った。

この一撃で、賞金首を皆殺しにし、金は総取りした上に、貴重な実験結果を得ることが出来た。

しかも、騒ぎが大きくなればなる程、それにまぎれて現場から逃げやすくなる。

さらに、昔ダミアンに散々煮え湯を飲ませてくれた、この国の警察機構や情報組織に意趣返しをしたうえで、裏切り者まで始末できた。

おまけに、裏世界でダミアンの名はいよいよ高まり、それが新たなスポンサーを生む。

時代遅れの全体主義国家、軍事独裁を若く独裁者、一神教の原理主義団体、さもなければテロリスト。金の出し手はいくらでも出来た。

一石で三鳥も四鳥も効果を期待できた、神の一手。

だが、実際にはコレだ。

「・・・やむを得ん、念獣どもを全て出す!」

「え?!まさか先生ご自身が、狩りを続けると?!」

「そうだ!せめて経費だけでも回収しなければおさまらんだろう!」

ダミアンは壁に埋設され金属盤の取っ手をまわし、手前に引いた。

壁の一部が観音開きに開くと、中には手書きの髑髏マークが描かれたボタンが一つ。

苛立ち紛れに、叩きつけるようにして押した。

『DANGER!!Caution - Biological Hazard !!Please blame promptly!!』

途端に、赤いランプが点滅し、けたたましい音を立てて警告音が鳴り響く。

狭い室内いっぱいにつめこまれた臓器のようなタンクが鳴動し、中身が鋼管を通って車外に排出された。

赤に黄色に緑に白。

サイケデリックな色調のゲルが地べたに奇妙な原色の海原を作る。

だが、すぐにそれらは蠢き、流動しながらも形を整え、次第に無数の塊へと変貌していった。

奇怪なクリーチャーの群れを眺めるダミアンの背に、

「おやおやあ、ドク~♪失敗しちゃったのかな?かな?」

振り返れば、狭い室内の半分ほどを占拠する男がニヤニヤと笑みを浮かべていた。

先ほどから、携帯電話片手に誰ぞと連絡を取っていたブッディだった。

「・・・業腹だが、その通りだよ、マイフレンド。だが、大丈夫だ、問題ない。肉体労働は甚だ不本意なのだが、小一時間待ってくれ。皆殺しにしてやる」

「オーライ、期待してるよ、ドク♪」

計画が見事にポシャったというのに、何故か妙に機嫌よさそうにしているブッディに、頭に血の上ったダミアンは気付かない。

「君はここで離脱の手はずを整えたまえ・・・一人で逃げたら、殺すぞ」

そう言い捨てると、ダミアンは傍らのコートを手に取り、戦場へと飛び出した。

「ハハハ、ドクが泡食ってるなんて珍しいや。じゃあ、助手ちゃん、僕らは一足先に船でまってようず♪」

ブッディは本当にうれしそうに、自らの腹をペチペチと叩いた。











爆心地の直下。

地上では、嵐が荒れ狂っていた。

先ほどまでの、無風状態が嘘のように廃墟の街を暴風が吹き荒れる。

砂塵が舞い、空き缶が乾いた音を立てて転がり集う。

その中心に、一人の男がいた。

「おやっさん!すんませんっした!!」

バトゥは、男泣きに泣いていた。

空へと向かう兄貴分を目にして、やっと自分の甘さを、馬鹿さ加減を悟る。

囮になって敵を釣り出したつもりが、逆に罠に浸かってた。

「必ずケジメつけますけぇ、どうか、どうか許してつかぁさい!!」

両手、両足を地に着けて、額を地べたに叩きつける。サングラスが割れて血が噴出した。

血の浮いた指先が石畳を抉り、砕けた欠片が風に乗って体にまとわり付く。

風が、ますます激しく吹きつけていた。

ようやく顔を上げたバトゥが黙って空を見上げたその時、光が瞬いた。

それを、見送った。

バトゥの裸眼は視力10。加えて、"視る"ことにのみ特化した"凝"だけなら、地上の誰にも負けない自信がある。

薔薇の形をした、薄気味悪いオーラに包まれた、不気味な雲。アレの正体は分からないが、徐々に海に流されている。放っておいてもよさそうだ。


―――なら、後は馬鹿を血祭りにあげるだけ。


不細工な粘度細工の群れを見ながら、バトゥはシガリロに火をつける。

最後の一本、すい終わるまでに皆殺しにしようと思ったが、どうやら相手は生身じゃないらしい。足止め用の"人形"といい、決して自分から危険な場所には出てこない上に、嫌らしい手ばかり打ってくる。臆病な豚にはふさわしいが。

シガリロを一気に吸い込むと、半分ばかり灰にしたところで噴捨てた。

既に、手には武器が握られていた。

一丁の旧式回転式拳銃(パーカッション・リボルバー)。

口径は拳銃としてはほぼ最大の45口径。

規格外の16インチロングバレル。

装弾時の重量は60オンスを肥える怪物のようなリボルバー。ウォルナット製のグリップには、オーバーサイズのスペーサーをかませてある。

開拓期に作られた、陸軍用の正式銃。

リロードするには、引き金をハーフ・コックにしてローディングゲートを開け、そこから1発ずつ装填、排莢しなければならない。もはや時代遅れの骨董品だが、その手のマニアに受けはいい。

固定フレームと単純なメカニズムにより、素でマグナム弾を使用できるのが唯一の強み。だが、実効制圧力はすばやいリロードが可能なオートマチックに比べれば格段に劣る。

もちろん、それは実銃の話。これは念で具現化したものだ。

しかし、グリップの木目やフレームの細かな傷、あるいは磨り減った引き金にも、金属の臭いが漂ってくるような質感があった。

この世で二番目に有名なガンマンが愛用した拳銃。初めてテレビで見たときから、欲しくて欲しくて堪らなかった。だから、自分が具現化系だと知ったときに迷わずにコレにした。

もちろん、当時の仲間達から馬鹿にされた。銃の本体はあくまで弾だ。わざわざ飛び道具を具現化するのは馬鹿げてる、と。

確かに、具現化系能力者は放出系との相性は最悪といっていい。

どんな強力な銃弾を具現化しようと"発射(手元から離れた)"された時点で念は弱まり、元の強度を保てなくなり、いずれ消滅する。

誓約や制約で雁字搦めにすれば何とかなるが、だったら初めから手元から放す必要のないモノを能力にすればいいだけの話。それが道理。

それでも、バトゥは銃が好きだった。

"てめえの好きにやってみろ"

そう言って、修行に付き合ってくれた兄貴分の言葉。

気が付けば、汎用性?応用力?そんなものはクソ喰らえだとばかりに、単一機能にのみ特化した能力者になっていた。

そいつを思い起こしながら、ガチリと撃鉄(ハンマー)を指で引き起こす。鋼鉄製のギミックが稼動し、シリンダーを回転させ、弾薬が発射位置まで移動した。

両手で構え、銃口を向ける。

曲芸じみた片手撃ちではなく、軍・警察の教本に載せたいくらいのフィスト・グリップ。

同時に、轟々とすさまじい風が吹き、ビルの合間を抜けて大音響のうなり声を上げた。

風が、バトゥの能力に呼応して徐々に強さを増していく。

もはや小型の低気圧と化し、風は逆巻きながら円を描く。

それに伴い、シリンダー内に弾丸が具現化されていった。

「・・・ああ、そういや、あの嬢ちゃん、いい事言ってたなぁ」

"大火力で建物ごと残らず吹き飛ばせばいい"

まったくもって同感だ。

"ここがどっかの紛争地帯や、前人未踏の秘境なら"

オールド・ジェイゴは建前上、市の管理地で関係者以外立ち入り禁止。"公式"には住民は独りも居ないことになっている。

なら、彼女はあの言葉を聞いて、どうしてこの場所が"そう"ではないと勘違いしたのだろう?

そんなことを考えながら、引き金を引いた。










そこは暗かった。

空中に放り出されたかのように足元の感覚がない。

おまけに重力まで消失したかのように、上下の感覚すらないときてる。

耳を澄ましても聞こえてくるのは静寂だけ。

そして、太い金属の塊のような腕で、オレは抱きしめられるように体を拘束されていた。

「・・・!?」

それだけのことを理解するのに、妙に時間がかかる。

相手のオーラに敵意が微塵もなかったからだと理解する前に、思わず悲鳴が出そうになった。

その口元を、ふさがれる。

「・・・ごめん。でも、君に危害を加える気はない」

体を動かそうともがく。

でも、がっちりと押さえ込まれていて身動ぎ一つできなかった。

「せめて、君だけでも・・・・早く、逃げてくれ。君は、君達は、こんな所に居ちゃいけない人だ」

その誰かが、耳元でささやいた。

若い、聞き覚えのない男の声。

「こんなところで闘い続けるには、君は、・・・優しすぎる」

・・・こいつ、何がいいたい?

「ごめん、俺にも事情が在る。だから、もういくね」

・・・

「早く、逃げるんだ」

その言葉を最後に、オレの体は再び地面に向かって浮上した。








気が付くと、冷たい石造りの床に寝そべっていた。

「・・・おかえり」

目の前には、カップめんをズルズル啜るヤマダジロウ。

顔をカップめんに固定したまま、視線だけこちらに向けてくる。

「その格好じゃ風邪引くぞ」

「え・・・キャァ!!」

言われて、ようやく気付いた。

自分が、素っ裸だということに。

案外可愛い悲鳴だな、などとフザケタことを呟きながら、ヤマダが着ていたダウンをこちらに放つ。

むくれながらダウンで体を隠す。

あたりを見回すと、着ていたもの、身につけていた武器、一つの例外もなく、近くの床に散乱してた。

・・・ああ、なるほど。そういう能力か。

種と仕掛けがいっぺんに理解できた。

たぶん、接触した人間にも能力が共有されるタイプの能力だ。

操作系や特質系には稀に在ると、あいつに教えられたことが在る。

「にしても、あの野郎。馴染みの俺より、嬢ちゃんの方を助けようとするとか・・・」

今度来たら、まあ、褒めてやる、と呟くヤマダジロウ。

うっすら額に冷や汗をかいている所を見ると、地上でも何やらあったようだ。

彼の視線を追えば、窓の外、薄っすら白み始めた黒い空に、一本の巨大な雲が立ち上っている。

「・・・さて、運よく命拾いしたところで、俺は引きあげるぜ」

カップめんを啜りつくし、スープの一滴まで飲み干すと、ヤマダは食後の一服をつけながらそう言った。

「知り合いの病院に応援頼んだ。そろそろ救急車が大挙して来る頃だ。俺はそいつに乗せてもらって、帰って寝る・・・あんたはどうする?」

ヤマダは悪戯っぽく笑っていた。

「選択は大雑把に二つ。一つ、ここで見た事全部忘れて、おとなしく俺と一緒に帰る。飯食って、風呂入って、ベッドでぐっすりと眠れる。病人用のでよけりゃ、うちのベッドを使わせてやる」

「・・・・・・」

「後の事は、誰かに丸投げすりゃいいさ。こんなイカれた馬鹿に付き合って、命投げ出すなんざアホらしい。逃げ出したって、誰も咎めるような筋合いじゃないよ」

そう諭すように語る彼の手元はタバコに火をつけていたし、口調も淡々としている。でも、オレを見つめる目元は、とても優しかった。

だから、だと思う。

何故だか、口元が笑みになるのを抑えられなくて。

オレを見つめていたヤマダさんの顔が、少しだけ曇った。

「―――――ん、戻るよ。コーヒー、ごちそうさまでした」

「・・・そうか」

たぶん、オレがそう答えるのが分かってたんだと思う。

彼の顔は、どこか寂しげで、でも穏やかだった。

「・・・こいつを、持っていけ。ゴドー氏の亡くなる前日に、前払いで依頼されたものだが、届いたのは昨日の昼だった」

そう言って、ヤマダが投げてよこした品を受け取った。

「最近開発されたばかりの超々耐熱繊維で出来てる。衝撃にも相当強いし、ケブラーやアラミドより柔軟だ。将来的には宇宙服の外装に使われる予定らしい。でも、今はまだ単位面積当たりのコストがべらぼうでな。たったそれだけで、これだけの額がかかった」

ヤマダが示した数字に絶句する。中古の戦車が買える値段だった。

「職業柄、こういう物を手に入れるのも得意だ。彼は、注文しただけで何も言わなかったが、たぶん君に渡すのが正解だろうと思う」

日付を逆算すると、奇妙な感傷が胸を打った。

一ヶ月遅れの、クリスマスプレゼント。

「・・・ありがとう」

今日、二度目の感謝の言葉。

ヤマダの口からタバコが落ちた。思わず呆けたような顔をさらしたこの男の顔こそ見もので、年よりもずっと幼く見える。

だが、それも一瞬の事。

すぐに、気まずそうに顔を逸らした。

「・・・さっきも言ったが、死ななければなんでも治してやる。だから、死ぬな」

この男なりの激励が、なんだか心地よかった。




















そして、山田次郎は金髪の少女を見送った。

「振られたかな・・・?」

後姿が見えなくなった頃、苦笑いを浮かべながら、一人そう呟く。

若いというのは確かに怖いが、眩しい。

自分が十代の頃はどうだったか。少なくとも、彼女のようにはとても振舞えなかっただろう。

山田という男は、基本的に念能力者という奴が大嫌いだったが、あの子のことは不思議と少しもそうは思わない。

たぶん、あの子が迷って、泣いて、苦しんで・・・そして、助けようとしたからだろう。

念使いは、経験を積めば積むほど、狂った世界に触れれば触れるほど、大切な何かを削り落としていく。

"ああいう"のを見て、とっとと敵だと割り切れたり、逆になんとも思わなかったり、まして一思いに殺してやろうとかいう奴がいたら、人として終わってる。少なくとも、山田次郎はそう思う。

だから、あの純粋さが、酷く眩しかった。

・・・まあ、眩しいことは眩しいが、それが正解とは限らない。十代には十代にしか見えない視点があるのだろう、が。

山田にしてみれば、ここらが潮時。

彼女に付き合って、虎穴に飛び込む勇気はなかった。

だから、せめてどんな怪我を負ってきても、生きてさえいれば治してやろう。

そう思いながらも、あくびが一つ。年のせいか、徹夜仕事がキツイのだ。

よっこいしょ、と。腰を叩いて立ち上がる。

それにしても、

「・・・もう数年したら、いい女になるね、あの娘」

そしたら、また口説いてみよう。

生きて帰ってこれたら、だが。





























暗い闇の中、灯りは卓の上の蝋燭一つ。

くちゃくちゃと、肉を咀嚼する音だけが響いていた。

こんがりとローストされた肉。ナイフを入れるとスッと切れ目が出来て、楽に切り分けるられるくらい柔らかい。滴る肉汁を舌に乗せると、さっぱりとしていてクセがない。それでいて、肉本来のうまみにあふれた濃厚な味が広がった。

ブッディは、感激のあまり両手を打ち鳴らした。

「ウンマ~イ!!肉に臭みがなくって、でも脂肪が適度にあって、もう最高!!」

食うことが快楽の全てを占める男にとって、"この肉"はまさに究極の味だった。

「・・・さて、そろそろ感想を聞きたいなあ。肉だるまになった気分はどうだい、キャスリンちゃん?」

暗い部屋の隅。

一人の幼女が、天上から鎖で吊されていた。

衣服は全て剥ぎ取られ、身を覆うものは何もない。

くすんだ金髪も無残に垂れ、瞼は閉じられている。

そして、本来なら手足のある場所には、革と金細工でできた"蓋"がかぶせられていた。

「切り落とした付け根にかぶせた細工物なんて、最高だろう?高かったんだぜ、それ。本物の革と十八金を使って、君のためだけに専門の職人にオーダーメイドしたんだ。まさかキャスリンちゃんに使ってもらえる日が来るなんて、供えあれば憂い無しだね!」

もうご機嫌といった様子で、ブッディは笑った。

切り取った手足は、既に腹の中に納まっている。

「いっちばん、おいちいハラワタと脳ミソは最後のお楽しみ。もうすこぉし・・・そうだね、もう2、3日も吊るっておけば糞小便が漏れ出て、肉から臭みが抜けるんだ。まだまだ我慢するよ。ただし4日以上は駄目だぜ、逆にうまみも抜けるからね。手足はいらないから先においしくいただいたよ。血の滴るレア、いや絶品絶品!」

まるで屠殺する家畜の下処理のことでも話すかのようにそう言うと、ブッディは上機嫌で笑い声を上げた。

「ふ、うふふふ、うふふふふふ。ようやくだ、ようやくだよ」

口元にたれた肉汁をナプキンで拭い、上機嫌でコークのお代わりを飲み干す。

「本当のことを言うとね、まぬけな連中だよね。たぶん、君の手下にみんなコロされちゃうよ。でもねえ、何人死のうが僕はかまやしないんだよ。20億はちと痛かったけど、君が手に入ったなら無問題(モーマンタイ)さっ!」

特大のゲップを浴びせかけると、俯いた幼女はかすかに身じろぎした。

麻酔もなしに切ったり貼ったりしたので、ちょっと壊れたかなと思ったが、どうやら意識は在るようだ。

ブッディは、幼女の耳元にバナナほどもある唇を寄せた。

「・・・君たちが色々嗅ぎまわっていたのは知ってたよ。僕も組を維持するのに色々ヤバイことしてきたからさあ、正直、潮時だったんだよね。このお仕事を続けるのも。でも急に店をたたんだところで、恨み買った連中に狙われるのも嫌だろう?問題はタイミングさ。だから、」

笑みを浮かべながら、脂肪の浮いた手でキャスリンの頬を撫でる。

空いた手で、机の上に何枚もかさねて置いてあったケースを手に取った。

白い、プラスチック製のケース。CDやDVDを収めるための、安っぽい店売りの規格品だった。

「これ、タイトルをつけるとしたら何かな?『ラチャダストリートの虐殺』?『ヨ-クシンの悲劇、邪悪な殺人集団』?それとも『市民の皮をかぶった悪魔、ボーモント一族』かな?・・・ま、中身は監視カメラの映像を適当に突っ込んだだけだし、画質もあんまりよくないんだ。けど、善良な市民のみなさんにはちょっとショッキングな映像だよね。スナッフビデオも真っ青だぜ」

ペチペチと、DVD入りのケースで頬を叩く。

もう、楽しくて楽しくてたまらないといった顔だった。

「コイツをネットに流せば、君らは晴れて社会の敵(パブリックエネミー)さ。この国のこっわ~い連中が寄ってたかって潰しに来るぜ」

リアルタイムで流さなかったのは、送信源を特定されるのを恐れたためだ。

「・・・馬鹿な奴だ。さっさと、そうしていれば、今頃企み通りになっただろうに」

かすれた声が囁く。

「・・ん?ああ、やっぱり聞こえてたんだね。それなら、」

ブッディは、黒い革で出来たチョーカーを取り出した。

身に着けた者を、ブッディの玩具に変える愉快な道具を。

ブッディの能力は、通常、念能力者を支配下におくことはできない。だが、"ある条件"を満たすことでそれも可能となる。それは、すでに事ここにいたっては、あまりに容易い条件だった。

「お人形になる時間だよ、キャスリンちゃん♪君が蓄えに蓄えた金の在り処、ボーモントの裏顧客リスト、それに関わる闇の情報。そして何より、」

豚の両目が、狂喜に見開かれた。

「不老不死の秘密。何もかも話してもらってから、楽しませてもらうよ」

・・・それが、狙いか。

ようやく合点がいった。

「全部ゲロって御用済みになったら、首から上は剥製にして、残りはハラワタまできれいさっぱり食べてあげる」

ブッディは、肉で埋もれた瞼を笑みの形に細めると、盛り上がった腹を叩いた。

「僕のうんこになるですよ」

もう、ぶりぶりっとね♪

下品な笑い声が響き、幼女が酷薄な笑みを浮かべた。










…to be continued


1番目はハリー・キャラハン。三番目は宍戸錠さん。







[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-shine」 ep15
Name: kururu◆67c327ea ID:d3ad4591
Date: 2013/01/17 00:45
12の冬、免許皆伝を言い渡された。



『一撃になんもかも込めて、後は考えっとな』

『ほいじゃ、やれ。口でいっかすってもしゃんない、真似てくいやんせ』

『あん?外した、避けられた、んだばどないすっとな?死せい』

これで修行もお仕舞いかと、首を捻った次の日には、目の前で大岩を真っ二つ。

念の修行が始まった。

『俺(おい)の術ば、爺様の爺様の爺様がたてたち』

『人の命ば奪る。術は殺してナンボじゃ。これが、俺の最後の教えぞ』

『哲也、命ァ、奪って来い。そいで、今日からおはんが頭(カシラ)じゃ』

降りしきる雨の中、震えながら刃物を持って佇む餓鬼。

すぐにポリが駆けつけた。

両手を押さえられ、無理やり得物を取り上げられたとき、どこかホッとした自分がいた。

取調室で出された、インスタントの味噌汁が、無性に塩辛かった。

でも、

『なしてじゃ!なしてお袋殺したった!!』

『ウッゼラシカ!!人一人殺せん餓鬼ャ育てち!そげん女子(おなご)は必要なか!!』

警察から戻った日、恐る恐る叩いた自宅の戸。

眼にしたのは、壁に飛び散った血、切り刻まれた周防の着物。

畳の上の、母の首。

『命とらねば、男子(おのこ)じゃなか!』

『尻ば、出せ!』

内側から、臓物を揺さぶられる痛み。

涙は枯れ果て、時々しゃくりあげる声が、まるで小犬の鳴き声のように口から漏れる。

腰を動かされている間、壁に手をつき、襖の染みを数えた。

『・・・あに、さ・・ま』

『恵子!!』

『跡継ぎば必要じゃき、孕ませようとしたった。母御と同じ、ええ具合じゃったちな。じゃが、ばってん、愚か者じゃあ。舌噛みよった』

『――――ッ!!!!』

赤飯を炊いた、次の日だった。

口から赤い泡を吐き、白目を剥いた無残な顔を見た瞬間、何かが壊れた。

『・・・見事。こいでおはんが頭じゃ』

四肢を切りとばされ、喉をかっ捌かれた血染めの姿で、それでもあいつは満足そうにほほえんだ。





夢か現か、まほろばか。

ヴィヴィアンと名乗った男は、その場に崩れ落ちていた。

刀を杖に、ゼエゼエとあえぐ自分の息で意識を取り戻す。

霞む視界、揺らぐ思考、脇腹に開けられた五つの穴。

それ以外にも、右手は捻られて骨が露出し、片目は腫れあがって役立たず。指先の感覚は当の昔に失せていた。

ドボドボと流れ出る暖かい何か。きつめに巻いたサラシの上から、白装束が赤に染まる。

軽い、とは言えない。縫う必要のある傷だ。

「アハハハハハハ!!」

団子鼻の男が、狂気を滲ませて眼前に迫る。

もう、指一本動かす力はない。最後のオーラは、傷口の止血に回していた。

頼みの刀は、血でドロドロ。刃こぼれも酷い。おまけに地金が歪んでた。

せめて、利き手がまともに使えれば、と。

今更、仕方のないことだが。

「ハハハハハ!・・・・ハ」

ピッと、男の頭頂部から赤い線が走った。

同時に半身が、ずるりと落ちる。中身が切断面から毀れて落ちた。

見事、正中線で真っ二つ。

これならあのクソ野郎も、及第点はくれるだろう。

「畜生め、ようやくクタバリやがった・・・」

ダボダボとおびただしい血を流して転がるヒラキを前にして、ようやく肩の力が抜けた。

「"――うむ、救いがたいミニマム脳ミソだ。それでも君を殺すのに多少は役立った"」

声は、真後ろから聞こえた。

振り返るのも億劫だが、首をめぐらすと、黒いインバネス姿の初老の男。

「・・・ようやくの御登場かよ、変態爺。いつもいつも、横から獲物をかっさらうタイミングで出てきやがって」

「"悪く思うな、オカマ君。君の3億もありがたく頂戴するよ"」

奇妙に甲高い金きり声で、雑音混じりに男は笑う。

そこでようやく、男の背後でブヨブヨと蠢く、青白い塊に気付いた。

全体的に白みがかった、鮮やかなケミカルブルーのスライム。色合い的には、夏の盛りによく食べる、ソーダ味のアイスキャンディーに近い。

大きさは、縦横に三メートルはあるだろうか。傘の開いた『ナニ』のような形状で、傘の下から数本の触手のようなものが飛び出て、うねうねと蠢いている。相変わらず、悪趣味なデザインだ。

見たこともない怪物だったが、何なのかは察しがついた。

凶悪テロリストにして狂気の科学者、ダミアン・ハーヴィの能力。

自ら調合した科学溶液に念を込めることで誕生する悪夢の念獣だ。

「"氷精(モラン)。不凍タンパク質を豊富に含んだ、一種の結合水だ。内部を緩やかに対流させ続ける事で、氷点下を下回っても摂氏マイナス40℃くらいまでは凝固しない"」

男は皺の浮いた顔に、好々爺のような笑顔を滲ませて解説した。

「"弱点は稼働時間が周囲の気温に左右される事だ。使う直前までキンキンに冷やしておかなければならないし、真夏に使うわけにもいくまい"」

表面の白っぽく見えるのは、大量に付着した霜のようだ。うねうねと形状を微妙に変えているところを見ると、確かに凍り付いているわけではないらしい。

原理は分からないし、分かりたいとも思わないが、その知識をもっと平和的に利用できなかったものだろうか。

ぼんやりとそんな事を考えながら観察していると、半透明の念獣の中に、何かが取り込まれていることに気付く。

よくよく目を凝らしてみれば、黒い衣服を纏った黒髪の女。

名前は思い出せないが、確かあのバトゥの妻だ。

視線に気づいたのか、ダミアンは機嫌よさそうに解説を続けた。

「"ああ、不意打ちで閉じ込めた。何せ、彼女の能力はよく知っていたから、当然対策をとった。粘度の高い液体は音をよく吸収する"」

手振り身振りを交えながら、子供がお気に入りのおもちゃを自慢するように熱弁をふるう。

相手が話を聞いているどうかなど、この男にはどうでもいいのだ。

自らの世界に没頭する、インテリ学者にはよくいるタイプの自己中男。

ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべながら、ダミアンは氷中の美女に語りかける。

「"ちなみにジェーン、知ってのとおりこの中は一種の念空間、私の胎内のようなものだ。自力脱出はまず不可能だぞ。オカマ君、もし助けたいのなら早くしたほうがいい。何せ、人体というやつはマイナス40℃以下の無呼吸状況で、あまり長く生存できるように出来ていない"」

・・・正直、この女を助ける義理はないし義務もない。

こっちが契約を結んだのは旦那のほうで、しかもピンチに陥った時には助ける云々は一切なし。死んだら終わりよ、ごめんなさいって、サインさせられた契約書にゃ載ってた筈だ。

あくまで、敵の敵というだけの関係。それだけ。

だが、上機嫌な爺のツラを拝むのは、純粋にむかついた。

「"ハハハハハ、さて―――そろそろ出てきたまえ"」

突如、ダミアンは視線の先を変えた。

廃墟の街の一点を、にらみつける。

「"絶はそこそこ使えているようだが、そのものすごい殺意をなんとかしないと意味がないぞ"」

・・・あーあ、やっぱり気付いてやがったよ。こんのクソ爺が。

この男は多種多様な状況に対応する能力こそすさまじいが、基礎能力は決して高くない。

だから、なんとか凌げるかとも思ったが。世の中そう甘くないらしい。

瓦礫の合間から、一人の少女が歩み出る。

のそりと、まるでライオンかなにかを髣髴とさせる動作で。

まぶしいくらいに色彩に富んだ金髪に、青い瞳。

「"君にだけは初めましてを言うべきだろうな、少女よ"」

その眼は、憤怒に満ち溢れていた。

最後に目にしたときの狼狽した様子は、欠片もない。

ただ純粋な殺意のみをあらわにして、眼前の敵をにらみつけていた。
















Chapter2 「Strange fellows in York-Shine」 ep15
















老人は、大仰な仕草で一礼した。

居場所はバレバレだったらしい。やっぱり、絶はまだ完璧にはいかないようだと、アンヘルは舌打ちした。

不意打ちという選択肢がこれで消える。

でも、事この期に及んで、逃げるという選択肢もない。

理屈ではなかった。

目の前のニヤニヤ笑いを、とにかくぶちのめしたかった。

「"やれやれ、すごい殺気だな。もっと老人はいたわるものだよ、お嬢さん"」

チャック・ノリスですらこれには勝てない、と男は叩きつけられた殺気を流し、むしろ愉快そうに笑う。安い挑発だ。

だが、一言も言い返さず、相手の一挙手一投足に注意を払う。

『敵とは話すな』・・・そう、教えられていたから。

「"・・・まぁ、いい。悪いが君には、私の実験に強制的に付き合っていただこう"」

男が大仰な身振り手振りで、両手を広げる。

すると、ヒビだらけの路面の隙間から、廃墟の物陰から、あるいは崩れ落ちた家屋の中から、それらは現れた。

ダミアンの能力、"人造の悪魔(ジ・オーメン)"により生み出された念獣。

操作系に長けた能力者は使い慣れた道具に念を込めることで、道具の持つ性能が飛躍的に増す。それは同時に使いなれた道具を手放せないというデメリットも生む。

しかし、ダミアンはそれこそが操作系の真骨頂だと考える。

一度物体に念を込めれば、ある程度効果は永続する。いわば、外部にオーラのストックを貯蔵することに等しい。

もちろん、物体に込めた念は磨耗していく。だが、それでもストックを活用すれば一度に使用できるオーラの総量は、他系統の能力者の追随を許さない。

理論応用に囚われぬ化学の鬼才、ダミアン・ハービィは念に目覚めた最初期からその利点に着目した。

暇さえあればオーラを自らの作品に注ぎ込み、強化し続ける日々。そうすることで、溶液それ自体の化学的劣化も遅延させることができる。

だが、この手法には先に述べたとおり、いかんともしがたい構造的欠陥があった。

彼は、大量の化学薬品を常に持ち歩かなくてはならなかった。

物資の輸送手段を確保しつつ、全世界を転戦。消費されるのは、莫大なマネー。能力の要ともいえる化学薬品の確保も、資金の浪費を著しく助長する。

結果、彼の能力は莫大な金銭的コストを必要とした。

テロリストとして追われる男にとっては、致命的とも言える欠点。

以来、悩まされ続けてきた。

すばらしい構想が、発想が、頭の中に次から次へとわいてくるのに!

立ちはだかる壁(金)、壁(金)、壁(金)!

出来るのに、出来ない。

クリエイター特有の問題に歯噛みし、資金繰りにあえぐ毎日。

資金稼ぎと実験、そして新規スポンサー獲得のためのコマーシャルを兼ねたテロ組織を立ち上げたことも在る。・・・残念ながら、理不尽にもつぶされてしまったが。

だが、ダミアンは腐れ官憲に追われつつ、コツコツと資金を集め、念獣に改良を加えて日々絶え間なく努力した。

そして、ようやくこれまでの努力を実らせ、自身の最高傑作『薔薇』をお披露目しようとした矢先にこの有様!ガッデム!!

「"・・・ふふふ、ふひひひはっ!"」

徐々に内心の怒りと不満が臨海を超え、心臓が大量の血液を送り込む。

ぶちぶちと額の毛細血管を刺激し、大量のアドレナリンが供給される。

ありていに言って、ダミアンは切れていたのだ。

「"さあ、まずは小手調べ!"」

とたんに周囲の路地や、石畳の隙間から惨み出てきたのは、赤や青、黒に白、あるいはラメの入った奇妙な色の粘液。それは、ぼたぽたとこぼれだすと急速にカタチを成していく。

あるモノは人型に、あるモノは獣型に、さもなければぶよぶよとした球形に。

表面はケロイド状に溶けだして泡を吹き、カタチを変えながら流動し、変化する外見は生理的な嫌悪感を誘う。

「"粘精(スライム)。実験の失敗作を廃棄処分するときに、適当にごちゃ混ぜにして作る手軽な一品だ」

まるで朝飯のオカズを紹介するかのように。

「念の込め方も雑だから動きも鈍い。だが、まあ、とにかく量だけはあるし、成分としては間違っても人体によく無い。直接手で触れないことをお勧めするね"」

周囲に満ち溢れた異形のモノを、男は簡潔に表現した。







対するアンヘルの顔に笑みはなく、それ以前に表情すらなく、身に纏うオーラにも変化はない。

ただ無言のまま右手に拳銃を構え、老人に向けて何の躊躇もなく発砲した。

パンパンパン、と乾いた音。

排出された三対の薬莢が地面に落ちる頃には、彼女の姿はその場から消えていた。

直後、転がるようにして飛び掛ってきた緑色の塊。

「―――っ!!」

再び大地を蹴って距離を稼ぐ間にも、地べたに粘液の跡を残しつつ、不細工な粘液の固まりはまるでナマコかカタツムリのような仕草で這い寄ってくる。

そちらに向けて、さらに数発。

パシパシと弾丸が表面をたたき、念獣の体に波紋を散らした。残弾を脳裏で数えつつ、相手を観察したが・・・目に見えて効果はない。

さらに側面から突っ込んできた紫色のドロドロを、転がるように避けた。

地面に手を付いたときに、小石で掌を傷つける。軽い痛みに眉を顰めつつ、一箇所に留まらないように足を動かし続けた。

動く、動く、動く。

動きながら観察する。

粘液で構成された、無数の念獣を操る能力。いささか変則的だが物体操作系の能力に違いない。

相手は筋肉はおろか、臓器も心臓も、脳ミソすら持っておらず弱点はない。ちょっとやそっとの衝撃ではダメージを与えられない。

姿かたちは一見すると、みな同じ。だが、仔細に観察すれば違いがある。

粘度の高いもの、低いもの。

動きの素早いもの、鈍いもの。

そばを通り過ぎるときに漂う匂いも、個々によって明らかに違う。揮発したアルコールのようなものがあれば、エナメルのように舌を刺激するようなものもいる。

ほかに特徴として・・・色に意味はあるか?と考えて無為を悟る。あるかもしれないし、ないかもしれない。

さすがにどの様な化学特性を帯びているかまでは、見ただけでは見当も付かなかった。そこまでの化学知識もない。だが、引火性の高いものではないように思いたい。それだけで状況が詰むからだ。

一つ、確かめてみるかと、後ろ手に腰のポーチを弄る。

紫色のぐちゃぐちゃとした粘度の低い一匹。体中にバブルをあわ立たせたそれが、数メートル程手前に来たとき、すでに彼女の手には武器が握られていた。

黒く握りこぶしほどの大きさの、プラスチック塊。

ピンを抜き、タイミングを見計らってバックステップ。周囲を見渡しつつ、背後へと下がる。

手榴弾が起爆したときには、アンヘルは手近な瓦礫の陰に隠れていた。

直後、空気が引き裂かれる強烈な轟音。塞いだ耳越しにも内耳を粉微塵に砕きそうな破裂音と振動が襲いかかった。

蛍光色の体液を撒き散らしながら、一体が四散して果てる。

「・・・ビンゴ!」

地べたを蛍光色に染めた念獣は、ぐずぐずと崩れながら動きを止めていた。最悪、再生するかもと思っていたが。

何より、引火しないのが確かめられた。当然といえば当然だが、術者自身が巻き込まれるようなものは持ち込んでいないらしい。

それ以外に分かった事は、術者本体を守りぬくことを優先されているということ。今も、爆発の瞬間に数体が盾になるように術者の直線上に出てきた。あとは雑多に群がって突撃を繰り返すのみ。

少なくとも念獣の形をとる事ができないくらいに、込められたオーラごと散り散りに吹き飛ばせばなんとかなる。

そこまでを、アンヘルは僅かな攻防で見抜いた。

問題は、

「・・・嫌な野郎だ」

一段高くなった瓦礫の丘に、腰を下ろした老人。

笑いの形に固定された顔で、こちらの一挙手一投足を瞬きもせずに見つめている。

一息に、能力者本体を叩ければ。

そう思いつつ、落ち着け、と自らに言い聞かせる。

そう旨くやらせてくれるわけがない。今は群がる有象無象を何とかしなければ、絡め取られて殺される。

息を吸う。

吸い込むだけで喉が痛くなるような冷気。思わず喉が動き、苦い唾液を飲み干す。

それで、呼吸が整った。

「・・・いきなり使う事になったな。ま、慣らし運転にはもってこいか?」

ポーチにしまっておいた黒い布の塊を取り出し、右手の五指に通す。さらに左手にも同じものを装着したところで、両手をパンと打ち鳴らした。

黒く艶のない素材で出来た手袋(フィストガード)。

あいつが、伝手を頼りに特注した一品。薄くしなやかで、軽く頑丈。それでいて耐熱耐圧性能は既存のあらゆる品を凌駕する。

布地の面積は広く、手首から掌までを覆いつつ指先部分は僅かに露出していて、精密作業に支障はない。

指を握れば布地が拳全体を覆うことで保護される。特に手の甲の部分は、金属とも陶器とも分からない不思議な装甲で補強されていた。

その内側は、ビッシリと奇妙な象形文字のようなものが刻まれ、そのすべてに念が込められている。神字という、物体に念を通しやすくするための技術だ。アンヘルはあまり得意ではなかったが、彼女に念を教えた男はコレがめっぽう得意だった。

神字に限らず、これも練習、あれも練習、そう言われ続けてきた。時間をかけずにできる事など、たかが知れると。

でも必要なのは、今。だから、こいつを用意してくれたんだろ?・・そう、胸中で問う。

両手を通すと手袋に込められた念が掌を包んだ。誰のオーラか、すぐに分かる。それが、何よりの安心感を与えてくれた。

「・・・一緒に、いこう」

堅!!

抑えていたオーラを全開にする。

イメージは、吹き上がる炎。あるいは爆発そのもの。

息を吸い込み、意図せず自然体に構えた。

体のどこも力ませず、周囲のどこへも神経を張り巡らし、なんにでも即座に対応できる姿勢。あいつが一番初めに教えた基本。

そう意識したときには、アンヘルは風になっていた。

一歩を踏み出すごとに、次の一歩の先が見える。駆けながら、意識がシャープになっていく。

前方、二体の念獣が細い鞭のような触手を伸ばしてくるのを、見もせずに避けた。

直後、横に跳ぶ。そのぎりぎりの視界の隅に敵を捕らえ、踊るような仕草で大仰に腕を振り下ろす。体の芯が流されないうちに、足の裏を地べたに叩きつけながら。

なんの小細工もない。

オーラを拳に蓄え、形を整え、繰り出すだけ。

後は、タイミングが全てを支配する。

息を吸うのと、吐く動作。同時にそれを行いながら、握りこぶしを突き出した。

「ッシャァァアアア!!」

漏斗のような独特の形状に整形されたオーラが起爆し、爆風は指向性を持って吹き上がる。

怪鳥のような雄たけびと共に、拳の先端が接触した瞬間、白熱する光が収束した。



それが、彼女の能力。

あるいは、あり方そのもの。

炎のように形はなく、水のように変幻自在。

だが、一度起爆すれば往く先の全てを吹き飛ばし、破壊する。



激震とひらめく閃光が、標的となったバケモノと真下の路地を、一瞬で焦がしつくす。

赤と黒が入り混じった爆炎が大地を染め、奇妙な悲鳴をあげて粉々に吹き飛ばされる粘液。爆風はすべて前方に集約され、危険な毒性を帯びた体液も彼女の体を汚す事すら適わない。

かつて雪原の戦場で相対した、軍人崩れの殺し屋を葬りさった一撃。その再現。

だが、今回のこれはあの時ほどの威力はない。その必要もない。

相手がこういう手合いなら、一点集中の打突ではどれほどの威力があろうと単に腕めり込むだけ。だが、起点から爆風が吹き上がるこの攻撃なら、

「―――いける!!」

効果は、絶大だ。

本来、この技は自身へのバックファイアを抑え、安全マージンを十分にとった上で放つのがコツ。それでも攻撃力だけなら同レベルの強化系能力者を凌駕する。

訓練の最中、そのギリギリのラインを見極めるのを誤り、一度ならず大怪我を負ったことすらある。故に自らの体を破壊しかねない威力で放つのは、論外。全力で放ちつつ、ただの一度でも生き残れたのは奇跡に等しい。

それに、今回は能力をサポートしてくれる武器もある。

攻撃の要となったのは、件の手袋。

付着した細かなゴミが燃えた焦げ目以外、僅かな傷すらもない。内部には断熱材が使用されているらしいく、手先にもほとんど温度変化を感じない。

これに凝を併用すれば、これまで以上の威力が出せる。

「"・・・思い切りのいいことだね。私が爆薬系の念獣を繰り出していたら、どうなったと思うかね?"」

老人が笑顔を消して茶々を入れる。

意識をそらされそうになりながら、背後から迫っていたスライムに再び拳を突き出した。直後に巻き起こる爆発。結果を最後まで見届けることなく、とにかく動き回って次に向かう。

敵とは話さない。視線を向けて伺いつつ、言葉には耳を向けることすらしてはいけない。

攻撃を繰り出すたびに、どれほどのオーラが残されているか計算しつつ、周囲を見渡した。

一気に絡めとろうというのだろう、念獣どもは方位の輪を縮めてきた。

だが、

「遅ェえ!!」

―――彼女の方がはるかに速い。

一歩で、数メートルをゼロにする跳躍。

動作は緩やかで、自然体でありながら、速度だけが異常だった。

急加速し、接近したと思えば、不意に勢いを完全にかき消して急停止。そこから360度方向にタイムラグなしに飛び回る、すさまじいまでに規則性のない乱数のような回避軌道。

それは、もちろんアンヘルの念能力によるものだ。

四肢に展開した粘度状のオーラを操作し、指向性の爆風による突発的な急加速。さらには吸着力を発揮して慣性力を一気に殺し、静止するような急停止。

足元は舗装されているとはいえ、老朽化が進み、至る所に亀裂の入った石畳。お世辞にも足場がよいとは言えない。その上を、まるでピンボールかなにかのように、デタラメな軌道を描いて疾駆する。

それは、かつて彼女と敵対した能力者が、得意とした走法だった。









「"・・・マーベラス"」

その全てに、老人は戦いた。

ただでさえ、念獣達の動きはとろい。

頼みの数を活かす事もできずに、バラバラに分断され、そこをすかさず各個撃破。

少女が右手、左手、あるいは両手を繰り出した瞬間に爆炎が吹き上がり、そのたびに数を減らしていく。これでは引き立て役以外の何者でもない。

両目を見開き、フーフーと息を荒げる姿は、既に人間には見えなかった。

しかも外見こそ可憐で華奢で、美しい少女のそれだというのがまた酷い。しかして動きは獣のそれであり、まともな人間とは思えぬ容赦のなさ。このクソ寒い冷気の中、大量の汗をかきながら動き回る少女は、苛烈なまでに猛々しい。

と、両者の視線が合った。

こちらをねめつける深いコバルトブルーの瞳に、憎悪と意思が宿っている。

ダミアンの総身が震えた。

・・・これは、ケダモノだ。

人間の癖に、念能力を修めた選らばれた人間の癖に、そんな事は端から眼中になく興味のない人種。

それなりに長い人生経験の中で、そういう精神の箍が外れた連中もダミアンはいくらか見てきた。敵に回すと、何より厄介な連中。

奴らはどれほど追い詰められようと、絶体絶命のピンチに陥ろうと、降伏も命乞いもしない。殺される事でしか止まらないし、止まれない。

戦うこと以外を端から放棄し、敵の喉笛に喰らいつくことしか考えられない頭の病気。

生粋の戦闘狂。生粋の猟犬。あるいはクソのような大馬鹿野郎。即ち、ダミアンの一番嫌いな人種だ。何せこの連中は宗教の原理主義者と同じで、理屈が通じない。

まったく、年端のいかない少女の姿をしているくせに、もうそれだけで終わっている。

「・・・ああ、恐ろしい。恐ろしいねえ」

思わず震えそうになる口元に、カップを口付ける。魔法瓶から注いだ紅茶が周囲の冷気に冷やされ、白い湯気を立たせた。

「"・・・さすがに手強い。少々本気を出そう。―――火精(サラマンドラ)"」

突如、ダミアンの背後からいくつもの奇妙な塊が飛び上がった。

中空を漂い、ゆらゆらと形状を変える銀色の粘液。

虹色の光彩を放ちつつ、薄く広いヒレを緩やかに蠢かせ、それは風を捕らえて優雅に泳ぎだした。その形は水中を泳ぐエイやマンタを髣髴とさせる。

その全身が突如として一斉に発火し、炎を吹き出した。

「"所謂、生きた燃料の塊だ。高熱を発して対象に取り付き、自分の体が燃え尽きるまで動く事を止めない。まともに食らえば骨も残らんよ"」

トウモロコシなどの穀物を有機化学処理してゲル状にした、バイオ燃料。

時に軍用機にすら用いられる高純度のそれは、きわめて高温で燃焼する。対象に取り付き、恐るべき浸透圧で衣服や皮膚へと染み込み、対象を焼き尽くすまで離さない。のみならず、周囲の酸素を燃焼しつくして酸欠状態を生み出し、物理攻撃の効き辛い強化系能力者にも高い効果を与える。

弱点は念獣本体を燃焼させるため、短時間しか活動できないことだったが、手軽で確実な攻撃手段としてダミアンが好んで使用するクリーチャーだった。

「"だが念には念を――――炎精(イフリート)!!"」

周囲に展開して、自らを焼きながら漂っていた"火精(サラマンドラ)"が、その一言で一箇所に集結した。

互いに共食いのように寄り集まり、火炎をたけらせ、火の粉を振りまく。

やがて、幾つもの炎が一体の魔物と化すと、見る見るうちに上昇し、下降した。

「"焼き尽くせ!!"」

それは、まるで流星のようだった。

赤い尾を引きずりながら、高度数百メートルから落下。

猛火を纏う生きた燃料の塊は、自ら意思を持って軌道を修正し、違うことなく目標へと着弾した。

しかし、

「おおおぉぉぉ!!」

相対する少女は微動だにもしなかった。

両手をかき抱くようにして、吼える。

口の周りの酸素が焼かれ、呼吸に不自由しながらも、ただ一つの正解を導き出す。

ドン、と軽い音を立てながら、全身から爆風が吹き上がった。

それが衣服にしみこんだ燃料を、表皮ごと吹き飛ばす。

「"なんと?!・・・・・!いや、プレート効果か?!"」

ダミアンは驚愕した。

薄いプレート状の爆薬の片面が比重の重い金属等で覆われている場合、爆風の大部分は覆われていない方へ向かって収束する。

硬を使ってまず全身を強化し、さらにオーラを薄い爆薬に変化ないし具現化させ、必要十分な威力を保ちつつ自身へのダメージを最小とする威力での起爆。本来は敵に取り付かれたときに無理やり引き剥がす手段だが、少女の形をしたケダモノは躊躇なく間違いなく、正解を選択したのだ。

結果、燃料と共に炎は爆散し、強制的に鎮火する。燃料のしみこんだ衣服と皮膚の表面も吹き飛ばしながら。

確かに、一見、理にかなった対処法。

そう、なのだが・・・

「"・・・君のその敢闘精神には敬意を払う。だが、正直に言おう、異常だよ"」

羽織ったジャケットは半ば以上黒焦げになって崩れおち、金髪は焦げてまだらに、整った顔の右頬は無残に焼け爛れていた。

ダメージは大だろう。そんな無茶をやらかして、唯で済むはずがない。

だが、顔面から垂れ落ちた血液をチロリと舐めとり、狂気の笑みを浮かべる姿は、あまりにも常軌を逸している。

「"一度、平和な心を養うセラピーを受けたまえ"」

そう嘯きつつ、この能力ならばあるいはあの男、ユーリーの能力を打ち破るのも不可能ではないかもしれぬ、とダミアンは納得した。

唯のケダモノではなく、強力な牙を持ったケダモノだと、改めて認識をし直す。

先ほどからの攻防を見るに、この少女の能力が爆発物に関するものであるのは、もはや疑いようがいない。変化系か具現化系か、どちらにしろ放出系とは相性が悪かろう。最大威力を発揮するためには十分に相手に近づく必要があるに違いない。

起爆性の高い念獣を差し向ければ、それだけで勝負は付いたかもしれない。が、この場には一匹たりとも持ってきていなかった。

何かの手違いで自身が巻添えになる可能性があるし、何よりこんな危険で非効率的な能力を身に着けたアホがいるとは、さすがに想定できなかった。

「"・・・まあ、並みの使い手なら攻めあぐねただろうが。相手が悪かったねえ、少女よ!"」

ダミアンは足下に置いてあった金属製の大型缶に足を乗せた。

足先が側面の円形スイッチを押す。

内圧を押さえ込んでいた金具が弾け、とたんに黄色い膿のような液体が噴出した。

僅か1立方平方メートルにも及ばない、数百リットル程度の粘液。だがダミアンの顔に浮かんだ狂気の笑みが、それがこれまで以上に致命的な兵器である事を確信させた。

「"Liqud42起動!!"」

ブクッと、はじけた液体が膨れ上がり、四方八方に飛び散ると同時に一瞬で地中に吸われて消え去る。

だが、それだけだ。

後に残るのは、ボロボロの煉瓦や石畳、漆喰の欠片が散乱した瓦礫の山、役目を終えた缶の残骸。







いったい何が起こったのか、アンヘルがいぶかしく思う前に変化は訪れた。

ゴゴゴという耳鳴りを響かせ、足元が揺れだした。

「・・・・なに?」

地の底から響いてくるような、不気味な鳴動。

地震にしては妙だった。震えているのは周囲の極僅かな面積だけのようだ。周囲の廃墟や圧し折れた街灯は平静を保っている。

「"地精(ゴっレェーーーヌッ)!!"」

老人が嬉々として調子外れのダミ声を張り上げた瞬間、大地が爆発した。

向かい合って対峙する黒衣の男の真下の土砂が、突如として天に向かって吹き上がる。

何か、巨大なものが生まれつつある――――!!

そう気付いたとき、アンヘルは駆けた。

術者を、黒衣の男を、ダミアンを殺るために。

しかし、

「"一歩、遅い"」

ダミアンは笑った。

波打つ大地。

盛り上がり、隆起する瓦礫の山。

腐って泥にまみれた石畳を飲み込み、崩れて砂に還りかけた煉瓦を呑み込み、『それ』は這い出でる。

「んな、アホなっ・・・?!」

怪物が顕現した。

思わず、息を呑んでいた。

ガラガラと、自らの体躯から垢や埃をかきむしるように、無数の瓦礫を弾きつつ立ち上がる『それ』。

上半身のみで、人の体躯の三倍は超える。

でっぷりととした腹をさらした、ずんぐりむっくりのシルエット。

その手は五指を折りたたみ、棍棒のように太く丸い。

大質量を支えるには、あまりにも短く、幅広の足。

巨体に見合わぬ小さな顔は、その役目を果たしている筈もなく、正しくただの飾りに過ぎない。

その構成は、煉瓦と漆喰、砕けた石畳、廃棄された乗用車、塗装のはげたピンクの看板、あるいは木材でできた梁。窓枠らしき木片にくっついたままのガラス片が朝焼けを反射してキラキラと輝ていた。

巨大というには、あまりに埒外。

廃墟の街に君臨する、廃墟でできた大巨人。

さながら、朽ちた街そのものが、形を成したかのように。

「・・・あぁ?」

見上げるような、否、見上げてなお視界に収まりきらぬという馬鹿げた巨体。

あまりにも巨大なものに相対したとき、人は忘我を覚え、圧倒される。

今のアンヘルがまさにそう。

戦闘機械のような男に叩き込まれた戦闘哲学を、刹那、忘れさせていた。

「"人食いバクテリア、というのを知っているかね?罹患すると、凄まじい速度で皮膚や筋肉を壊死させる病原菌の俗称だ"」

巨人の肩先に腰掛けて、老人は喜悦の表情で弁を振るう。

「"近年、深海底からその一種である、非常に珍しいバクテリアが発見された。こいつは、生物の細胞を侵食し、分子単位で『くっつける』という凶悪な特性を持っている。それを有効利用しようとした化学者がいたんだ。つまり、私だよ"」

その塩基配列を基に生み出された特殊なたんぱく質は、極めて強力な接着力を持つと同時に、特定の物質にしか吸着しないという、恐るべき特性を備えていた。

巨人の形を取った瓦礫の山の内奥で、粘菌のように蠢きながら夥しい菌糸を伸ばして増殖し、無数の瓦礫を絡め取り、筋肉のように吸着と収縮を繰り返す黄色い粘液。

それが、巨人の正体。

「"それが、これ。この世でもっとも強力な接着剤だ"」

分子間力に依るのではなく、分子同士を結合させるという、地上最強の接着剤。

分子間結合の密度、流動性を操作し、その場に存在するあらゆる物質を任意に吸着。外郭として纏いつつ、自在に稼動させられるという即興仕立ての大巨人。

「"お約束を無視して悪いが『emeth』の文字はどこにも無いよ"」

本来は、海底の奥底に眠るレアアースの鉱脈を吸着、回収するために生み出された技術。

これこそが魔術師を詐称する男、ダミアン・ハービィの切り札だった。

「"さて、面白い余興だったが、少女よ。そろそろ一億ジェニーになってもらおう。いや、小銭稼ぎと笑わんでくれ、これでも貧乏性なんだ。どんなに安い稼ぎだろうが―――"」

―――食えるものは食うタチだ。

同時に、豪腕の一撃が襲い掛かった。

「!!!!」

粉砕され、飛び散り、即座に巨体の一部として吸着される石畳。

実際には巨人の動きは鈍重にの一言に尽きる。

ただ腕を持ち上げるだけでも数秒。振り上げたのと同じ時間を使い、緩慢に振り下ろされた拳は、だがそれだけでこれ以上ないくらいの脅威だ。

拳一つがおおよそ乗用車と同程度の体積。腕の全長などは、まるで橋脚。それが高々と掲げられたかと思えば、自由落下して地べたを叩く。

ドスンと、大地が揺れた。

「でたらめだっ!!」

ズン、と大地を揺るがせて巨人が征く。

まるでテレビゲームの中のような非現実的な光景。

ガラガラと巨体から剥離した大小の瓦礫屑が、足下をいっそう混沌としたものへと変えていった。揺れる大地が地味に動きの自由を奪い、足場の悪さと共に表面に降り積もった白い霜が足運びを誤らせる。

あっ、と思ったときには、無様を晒した後だった。

逃げ遅れた体を無理やり動かそうとして、バランスを失う体。今にも頭上に振り下ろされんばかりの巨大な腕。

死の冷たい感触が喉元を這う。

「しまっ・・!!」

酷くゆっくりとながれる時間の中で、巨人の拳を形作るネオンの残骸やレンガ造りの家の壁面、そこに張られた無数の卑猥なチラシの全てが視界に迫った。

拳が到達する寸前、誰かが横合いから彼女を掴んだ。

「―――なにぼけっとしてんのよっ!!」

時間が元に戻る。

襟首を押さえられ、ひょいと引き寄せられた。まるで手荷物のように彼女を小脇に抱えながら、そいつはすたこらと走り出す。

直後、遠く離れてゆく視界の中、爆撃が直撃したかのような轟音と共に大量の土砂が巻き上げられた。

その頃になって、アンヘルはようやく自分が息をするのを忘れていた事に気付く。

自分を助けたのだろう人物に、意識を向けた。

「らしくねえだろ、嬢チャン!」

にっと、血の滲んだ唇を歪ませてオカマの刀使いが笑った。

「おま・・復活してたんなら、とっとと働けボケ!!」

呆然としたのは一瞬だけだった。つい噛み付くように怒鳴りつけると、オカマは鬱陶しそうに彼女を放り出した。

バランスを崩し、腐った泥の山に頭を突っ込みそうになる寸前で踏みとどまると、改めて眉を怒らせてにらみつける。

直後、後方―――それほど離れた位置ではない―――から聞こえた『ドズン』に肝を冷やした。

後ろを振り替えれば、つい先ほどまで居た辺りに、腕をたたきつけた巨人の姿があった。

「・・・まあ、誰かさんが爺の注意をひきつけてくれたおかげで、ちっとは休めたからね」

ヴィヴィアンも同じ方向を見つめながら、コキコキと両手両肩を鳴らした。

巨人との距離は目測で五百メートルはあるだろうか。小娘一人分の荷物を抱えながら、僅かな時間でこれだけ距離を置いたのなら、たいした健脚だった。

遠く、廃ビルのてっ辺から顔を覗かせ、こちらへとゆっくりにじり寄る巨人の姿。

二人で、それを見つめる。

あれはもはや個々で対抗してどうにかなる脅威ではない。策を考えなければならなかった。

「・・・嬢チャン、あんたなら、アレ、どうにかできそうかい?」

鼻血を舐めて、オカマが問う。

声は、酷く乾いていた。血の香り、狂気の欠片もない素の気配。視線は、こちらへ向かって動き出した巨人に向けたままだ。

「やってやれないこたあ、ねえ。ようは本体をぶっ殺せばいい。でも、手が足りない」

じっと、オカマの眼を見つめる。

何が出来るか、何が必要なのか。互いの手札は何か。自問し、自答する。あいつもこういう苦悩と焦燥を味わったのかと、意識の片隅で考えながら。すくなくとも彼女にとって、あの男は一切の迷いのない超人だった。

意図を察してか、それとも単に考えるのも面倒だったのか、ヴィヴァンは目の前にそれを掲げて見せる。

「あたしゃ、これよ」

鞘に収めた段平。和泉守兼定、ニ尺と三寸。既に切れ味の大半を喪失し、頑丈なだけの鉄の塊を、それでも誇らしげに掲げてみせた。

「相手がなんでも、コレでスッパリぶった切る、それだけ。それ以外は、なんもできゃしないわよ」

対人戦闘においてこの男がどれだけの脅威かは、身をもって知っている。

だが、相手は人ではない。

血も肉も神経も心臓も、脳みそすらない瓦礫の塊。込められたオーラが続く限り、腕がもげようが足がもげようが、頭を吹き飛ばされようが、問題なく動き続けるオートマトン。目測でも重量は数十トンあるだろう。まさに動く要塞だ。

いかにも重苦しい音を立てて石畳を粉砕し、崩れかけた家屋を粉砕し、錆だらけの街頭すらもへし曲げる巨腕。数十トンもの瓦礫の山を自らの質量としている巨人の拳。当たれば、否、かすっただけで終わる。

残された武器は、両手の手袋に残弾五発の拳銃、あとはナイフが一本きり。ポーチの中にはこまごまとした雑貨が少しあるが、それだけだった。だが、弾薬をやりくりして節約したおかげで、オーラの『持ち』は良い。

切り札が一つに、奥の手が一つ。悪い勝負じゃない。そう思いたい。

現状を認識し、敵を認識すれば、おのずと叩き込まれた戦闘哲学が、瞬時に実現できうる最善を導き出す。

こいつが、この男が使えるなら――――取りうる術はある。

「・・・一応確認だが、あれもスッパリできるのか?」

「ん~~、胴切りするにゃ、ちとぶっと過ぎるかな?腕か足なら問題ないわ」

「分かった・・・オレが野郎をひきつける。その隙に『スッパリ』やれ。手でも足でもいい。ぶった切って、あのデカブツ引き倒せ。そしたら、オレがトドメを刺す」

「あーら、おいしいとこだけ持ってく気?」

小気味いいとばかりにオカマが笑う。盛大に鼻血を振りまきながら。

アンヘルは顔に降りかかってきた血しぶきを嫌そうに避けた。

「できんのか、できねえのか?!」

「『できる』に決まってんだろ、舐めんじゃねえ」

「なら、決まりだ」

互いに顔を見合わせ、初めて笑みを交わす。

「ちなみに、その手順で殺しきれるっつー自信は?」

「・・四分六。でも、失敗しても死ぬだけだろう?」

断言するアンヘルに、ヴィヴィアンが口笛を吹く。

「ハハ、そいつは素敵だ。こんないい女と死ぬなら、これ以上はねえってか?最高だぜ、嬢チャン」

失敗しても死ぬだけ。

何故だかその言葉が妙にストンと腑に落ちる。怖くないはずはないのに、不思議と恐れを感じなかった。

「オーライ・・・じゃあ、まずは」

「ああ、距離を稼いで、引き付ける」

最後まで言わなくとも、互いに互いの言いたい事を察することができた。

奇妙な連帯感が、二人を包んでいた。

「"しくる"んじゃねえぞ、オカマ!」

「そっちこそ!」

二人は、直後に二手に分かれて駆け出した。まるで、二匹の獣のように。

廃墟の街の暗がりに、沈むように消え、走り出す。

走り、唐突に止まり、後ろを向き、また走る。

わざと後を追わせるように、こっちへこい、掛かって来いと、挑むように凶悪な目つきで睨みつけながら。

時折、申し訳程度に、パンパンと拳銃で威嚇にもなっていない威嚇、あるいは手に掴んだ石くれに念を込めて、投擲。

人間相手なら、ダメージはなくとも、牽制や眼くらましに程度なる筈の攻撃だ。

健気にも『戦い』を挑んだ虫けらに対し、巨人は大きく振り上げた足の裏で返答した。

「"かわいらしいお嬢さん、どこへ行こうというのかね。おとなしくしていれば多少は長生きができるというものだぞ。ぺちゃんこは嫌だろう?痛いぞ、たぶん、かなり!"」

老人が笑い、巨人が動く。

その度に大地が割れ、揺れて動いた。

そもそもダミアンは、まともに肉弾戦をするタイプの能力者ではない。当たり前の能力者がそうであるように、武術の心得すらない。

ダミアンの戦い方は、いつもいつでも唯の一ツ。

圧倒的暴力で、圧倒的火力で、戦場ごと敵を滅却する。

相手が家の中にいるなら家ごと、ビルの中ならビルごと、村の中なら村ごと、森の中なら森ごと。そして街の中にいるなら、街ごと殺す。

負けそうになったから遊戯の盤をひっくり返す、のではなく、最初から遊戯の盤ごとぶっ壊す事を前提にして戦いに臨む。

それは強力な爆弾の一撃、あるいは激烈な毒ガスの広域散布、さもなくば無数の自立稼動する劇薬でできた念獣の群れ、そして――――大巨人のもたらす大破壊。

唯の一度もまともに戦ったことはなく、それでいて唯の一度も仕損じた事はない。

そもそも彼はまともに土俵に立つ気がない。やる事なす事全てペテン。戦いそのものにすら、欠片も興味はない。

そんなダミアンの興味も唯の一ツ。

自らの作品がどれほどの戦禍を広げるか。それだけだった。

「"フハハハ!!いいぞ、最高だ!!いや、実はコレ、なかなか使う機会がないのだよ!何せ、ほら、あれだ。でっかいだろう?目立つし、動きはとろいし、こういうときでもなけりゃ、滅多に出せんのだよ!!"」

お気に入りのマイコン玩具を、思う存分に操縦する子供のように、老人は狂喜乱舞した。

ズゥン、ズゥン

巨人が、その巨大さを示す重い足音を響かせ、歩く。

歩きながら手当たり次第、蹴って殴って踏み潰す。廃墟の街を瓦礫の山へと変えながら。

唯それだけの動作で、十分すぎる程の脅威。

怪獣は、口から怪光線を吐かずとも、翼を広げ超音速で飛ばずとも、全てを焼き尽くす電撃を飛ばさずとも、ただ巨大であるという一事のみで恐ろしい災厄である。

それは山である。それは砦(トーチカ)である。元からの瓦礫である。壊れようが、砕けようが、構いはしない。

ただ行く手を阻む有象無象、その全てを掻き分け、なぎ払う。

その最中、生きた氷でできた念獣が、その中に閉じ込められた女が、フルフルと震えだしていたことに、誰も気付かなかった。






ズゥン、ズゥン

巨人がこちらへ向かい、歩いている。

何人も往く手を阻むこと能わずとばかりに、轟然と腕を振り、漫然と大地を踏みしめ、まっすぐにこちらへ向かってくる。

「・・・・・・・」

半ばから圧し折れ土砂に埋もれた橋脚の下に、彼女はいた。しゃがみ、這い、見つからぬように、だが逃げ隠れるためでなく闘うために待ち受ける。

その手にはワイヤー。指先をつっと、細く頑丈な合金製の糸の束に這わせると、後はもうタイミングを見計らうだけだった。

口には、鞘から解き放ったベンズナイフを咥えていた。強化プラスチック複合の柄を、歯茎が震えるほどに噛み締めて、待つ。

凍えてしまいそうなほど冷たい石材の上、一言もしゃべることなく、あまりにも鋭すぎる目を巨大なアレへと向けていた。

居場所がばれているとは思いたくなかった。だが、おおよその場所の見当は付いているだろう。そういう風に動いたつもりだ。あるいは、そこらじゅう全部、適当に踏み砕くつもりなのかもしれないが。

彼我の距離、100メートル。

その時点で、アンヘルは動いた。

音も立てずに走りだす。

意識が消え、闇に溶ける。

やがて暗闇に立ちはだかる巨大な人影を目の当たりにする。

既にズダボロのジャケットは脱ぎ捨てていた。体を覆うのは黒いインナースーツのみ。それが周囲の薄暗闇を味方とし、人間の意識の隙間にもぐりこむ事を容易にする。完璧とはいかない『絶』を道具の力でカバーする。

足を止めず、瞬間だけ身を沈め、そのまま右足を振り上げ、左足を振りぬく。ほんの一瞬で最速にまで達する瞬発力と、無音の動作。

オーラの強化に拠らない純粋な肉体能力を駆使した跳躍。それでも一蹴りで二メートルは飛び上がっただろう。手にしたワイヤーを引きずりながら、さらに一蹴り。

狙い違わず、ワイヤーが巨人の胴に掛かった。

「かかった!!」

そのまま、至近距離をひた走る。

背に通したワイヤーをさらに胴回りに届かせるため、方向を変え、巨人の正面に躍り出る。

極細の金属製ワイヤーの長さは、精々百メートルかそこら。あまり遠くまで動けない。それにワイヤーには余裕を持たせなければならない。張力は言うに及ばず、こんなふざけた質量に耐えられる筈もない。

トラップの敷設や敵の拘束、あるいは単純に機材をまとめるのに使える万能器具だ。状況を問わず、使用頻度の高い道具だ。

だが、彼女がこれを携帯している理由は、ほかにあった。

「"そんなもので止められるものか!"」

ようやく巨人に絡みついたワイヤーの存在に気付いたのか、肩口に座ったダミアンが叫んだ。

「ああ、だろうな!!」

叫ぶ間も、手袋越しにギリギリとワイヤーが手を苛んだ。

いくら手袋が頑丈だといっても、所詮は布地。手の甲の装甲をうまく使って緩めてはいるが、ワイヤーが肉に食い込む力は強かった。おまけに、今は手にオーラを集中してガードするわけにはいかない。オーラは別のことに使わなくてはならなかった。

アンヘルは変化系能力者だ。

オーラを爆薬に変化させる攻撃力特化の能力も、オーラを手放せば威力は激減する。ダミアンが看破したとおり、放出系能力とは相性が悪い。

なら、オーラを手元から手放さずに使用すればよい。そのための、道具。

周。

百メートル超のワイヤーの全てに念を通すのは骨だったが、やってやれない事はない。

「・・・おお?!」

ようやくダミアンが事態に気付いたところで、もう遅い。

「馬鹿が油断して"凝"も使わないでいるから、そうなる!!」

夜明けの薄暗闇に、赤い線が走る。

巨人の胴回りに絡みついたワイヤーが、そこに纏われたオーラが、瞬時に爆薬に変化。

一斉に起爆した。

赤い火花を散らし、断続的に爆炎を吹き上げる。

火薬の焦げる臭いが周囲に漂い、黒煙が視界を閉ざした。

巨人がたたらを踏み、両手を振り回しながら体勢を崩す。ぐらぐらとかしぎ、辺りに土砂や木片を振りまいた。

うまく体重を分散する体型をしてはいるが、直立二足歩行というのは立っているだけでバランスをとるのが難しい。しかも重量のある上半身が高い位置にあるため、一度揺れだすと安定が悪い。

特に、肩口などはもう震度8クラスの地震に等しかった。

「"おあああああ!!"」

たまらずダミアンは巨人にすがりつく。

もちろん、その隙をこの男が見逃すはずもない。

「いい加減、年貢の納め時さね、クソ爺・・・!!」

だらしなく顔面に垂れ下がってくる長髪をそのままに、白装束を血に染めて、それでも姿勢だけはピンと伸ばして真正面をにらみつける。

その手に掲げ持ったのは、抜き身の刀。

牙も爪も強靭な膂力すら持たない人間という種族が、最初期に考案した武器の一つ、剣。

その剣の果て、「斬る」のと「刺す」を両立させ、「折れず、曲がらず、良く斬れる」という刀剣の理想を突き詰めた末に生まれたのが、これだ。

だが、より遠距離から安全に人を殺す事のできる武器、銃器が登場してから急速に廃れた武器でしかない。今ではよほど酔狂な人間がスポーツとして使う程度だろう。

剣は習熟に時間が掛かるが、銃は撃ち方だけ知っていれば、技量そのものに差が生じない。より大量に、より遠距離から、より短時間で調達可能・・・そんな方法論だけを突き詰めれば実戦で通用してしまう武器だ。剣が廃れたのも分かる。

(クソ親父・・・間違ってたのは、やっぱりテメーだよ。ミサイルがバンバン飛び交う御時勢に、刀振り回して実戦がどうとか吹いてる時点で、あんたの方がおかしかったのさ!!)

「・・・ひゅう」

と、呼吸を読む。呼吸を合わせる。

彼我の距離は、六間とニ尺。

見上げるのもあほらしい巨体を前にすると、懐かしい、心地いい圧迫感が蘇る。

体調は最悪だ。

数日前に大穴を開けられた横っ腹に左腕。この短期間で戦場にたてるまでに回復したのは、ヤマダの驚異的な回復能力に依るものでしかない。

そのヤマダからも絶対安静を宣告されている。事実、体全体が泥のように重い。オーラは平常時の3分程度。さらに、先の一戦でどこぞのアホに治りかけのわき腹を抉られ、四肢にも甚大なダメージを負っている。

再び息を吸って、吐く。

オーラを集中させ、丹田にため込んだ。

もう派手なチャンバラをやらかす体力は残っていない。残ったオーラの全てを使い、全力で放てて一度きり。

その一撃に、なんもかもを込めて、振り下ろした。

「チェストォォオ!!!」

刹那、スローモーションのように、時間がゆっくり動くのが分かった。本当に命がかかった打ち合いのとき、稀に見られる現象だった。

人の脈を数えて四回半で『一分』。クソッタレな御先祖様はその数千分の一の時間で一刀を放ったそうだが、今ならそれに近づける。そんな気がした。

目の前には、太く馬鹿でかいコンクリートと煉瓦の塊。

命中の瞬間、刃の先端からオーラを伸ばした。

どれほど強力な一撃であっても、攻撃範囲は所詮、刀の間合い。巨大な物体を相手にすれば表面をニ尺と三寸ばかり抉って終わる。

だが、この能力は刀の間合い『以上』のものをぶった切るために身に着けたものだ。

目の前で大岩を真っ二つにしたあの野郎にあこがれて、身に着けた能力だ。

最後の最後で、―――まぁ役に立った。

「ざまあみろってんのよ、こんちくしょう!!」

巨大な足は、線を入れたかのように、スッパリと切れて崩れて落ちた。

それを見届け、ヴィヴィアンは高らかに笑う。

自分もまた馬鹿だと、諦めにも似た痛快さに支配されながら。






「ヴィヴィアン、よくやった!!」

初めて、男の名を呼び称えながら、アンヘルは飛び出した。

片足を失い転倒する巨人を見届け、焦げ落ちたワイヤーを放り捨てて彼女は駆ける。駆けながら、口に咥えたナイフを右手に持ち替えた。

横倒しになった瓦礫の巨体のその上を駆ける。今や陥落した砦に守られていた男、ダミアンを目指しながら。

一歩で後方に土煙が舞い上がり、二歩で突風が吹き荒れる。

三歩で地を踏む足は地から離れ、四歩の大跳躍で彼女の体は上空へ移動した。

まるでミサイルのようなオーラの起爆による跳躍、その勢いと強靭な脚力をもって飛びついた。

当然、巨人は体を揺さぶり、振り落とそうとする。

彼女は煉瓦の壁の残骸に陣取り、全身に力を入れて強烈な遠心力に耐えた。

突然、巨人がまとわり付く虫ケラを潰そうと、右手を振り上げた。

「"また、一歩遅い!"」

視界に彼女の姿を捕らえ、老人がニッと不気味な笑みを見せる。転倒したにも関わらず、振り落とされもせずに引っ付いていたのはさすがに能力者というべきか。だが―――

「―――――ッ!!」

叫びにならない叫びを上げ、アンヘルは体が軽くなるのを確かに感じた。

肉体が、先に動いていたのだと気付いたときには、反射的に横に飛んでいる。

飛びのいたその場を、黒く薄汚れた石作りの階段―――巨人の掌の一部が通り過ぎていった。だが、攻撃はそれで終わりではない。

人間を一握りに収めるほどの拳が五指を広げ、そのうちの一本が爆発したように大きく伸びてくる。

石の塊が左の腿にぶつかり、肉と骨が同時に傾ぐ嫌な音を体内で響かせる。見えていたが、避けようとはしなかった。速度を、落とせないから。

アンヘルは気にせず駆ける。ダミアンへと、まっすぐに。

別の一本の指がさらに爆発した。錆だらけの単管パイプが虫の標本を貫くピンのように、頭上から迫る。

それは焼け爛れた彼女の右頬をかすめ、後方へと抜けた。肉が抉れ、盛大に出血する。

血液が眼に入り、視界を覆う事だけが気になった。右手は決してナイフを手放さないよう、握ったままだ。

視界の先、皺だらけの顔を驚愕に引きつらせた老人の顔を目掛け、ナイフを差し出す。

さらに巨人の指が爆発し、出現したのは鉄の街灯。

錆に覆われた「鴉避け」の尖った先端が、背後から迫る。背筋を貫いて内臓を砕くつもりらしい――――だが、前進を続ける彼女の動きの方が速い。右の太ももとを掠り、肉を数グラム抉り取っただけで終わった。さらに耳を掠めていたようだ。耳の穴に何か液体が詰まるのを感じた。血液だろう。

どの道、止まらない。とまる気はない。止まるわけがないッ!

気が付けば、もう彼女の体はダミアンに触れられるほどに接近していた。

老人が、大きく口を開いて絶叫するのが見える。耳は、特に右耳はもう音をとらえれられなかったが、なんと叫んでいるのかは口の動きで分かった。

ナイフを突き立てるため引き、体を低く、さらに加速。

「"何故だ!何故、止まらない!!"」

もう、男を守るものは何もない・・・筈だったが。

地面が、巨人の肩口あたりが爆発するように隆起した。

ゴミやら空き缶やらを撒き散らして飛び出したのは、煉瓦の壁。穴だらけ、ヒビだらけ、ドア板の二枚ほどもないような小さな壁。それだけがダミアンに残された最後の守り、最後の盾。

能力者にとってしてみれば、薄皮のような単なる壁。

しかし、アンヘルにとって、自らの速度が仇となる。

咄嗟に、両腕を交叉してオーラを集中し―――だが、次の瞬間には激突する。

「か、はっ・・!!」

乗用車が壁に激突すると、自らの運動力によって車体を粉砕されるように、凄まじい衝撃が全身を襲った。

「"今のはちょっとひやりとしたぞ、少女よ!だが、チェックメイトだ!!"」

砕いて進もうとした途端に、瓦礫が彼女に群がった。

べたべたと服に、髪に、皮膚に何かが触れ、木片やら石くれやら、ゴミやら何やらがアンヘルを覆う。覆いながら拘束する。間接に取り付き、足元にへばり付き、その場に人型の瓦礫を生んだ。

自由にならない腕を無理やり動かし、彼女は切り札を突き出した。

震える腕に握られたナイフに、残ったオーラの全てを込める。

もちろん、振り回したナイフが到達するには遠い。ダミアンは間合いの一歩外。

ブンブンと無駄に振り回されるナイフを見て、ダミアンは小ばかにしたように笑った。

「"悪あがきはよしたまえ、みっともないぞぉ"」

己の勝利を確信しきった声を間近で聞いたとき、アンヘルは思った。

・・・勝った、と。

「オアァァァァァ!!」

アンヘルの奇声が響いた。

残りのオーラをありったけ変化させ、ナイフに込めると共に、柄元のスイッチを押す。

同時にナイフの刃だけが飛び出し―――

「"・・・へ?"」

間抜け面を晒す老人の額を、射抜いた。








こちらの体を掴もうとしたのかもしれない、緩慢な動作で、瞳を驚愕に見開いたままダミアンはその場に崩れ落ちた。

それを見届け、アンヘルはようやく肩の力を抜いた。

彼女が受け継いだベンズと呼ばれるナイフは、元はベンニー・ドロンという殺人鬼が作ったものだ。

人を殺す度に記念に作ったナイフで、その数は288本にも登ったという。当時から熱心な愛好家もいるため隠れた名品とされているが、コレクター以外にも愛好者は多い。コレクション目的ではなく、主に実用品として。

ベンズナイフは殺人目的で作られただけあって、強力な念が込められると共に、特殊な機能を持つものが多かった。あるものは傷口の縫合を困難にさせるために凶悪な形状の刃を持ち、またあるものは切りつけると同時に毒を流し込むための機構が備わっていた。

その中にあって、彼女の持つそれは頑丈さと鋭さは極めて高いが、形状はごく普通のナイフのそれと変わらない。

それも当然、仕掛けは刃ではなく、柄にあった。

中空になった柄に仕込まれた火薬は、スイッチによって起爆し、刃そのものを強力に射出する。

そして、彼女は自らオーラで起爆力を上乗せするという無茶をした。掌の上で爆竹を鳴らしても軽いやけどですむが、握った拳の中で鳴らせば指が飛ぶ。事実、どれほどの威力が生じたのか、手元に残ったナイフの柄は拉げ弾けていた。

「結局、最後の最後まで助けられたな・・・」

その威力を受け止め、彼女の手を完璧に保護したのは、黒い手袋。

どちらも、あいつが用意してくれた切り札。これががなければ、右手はズタズタだったろう。

視界の端では、力が抜けたように巨人が元の瓦礫の山に戻りつつあった。

体にまとわり付いていた瓦礫も、ガラガラと力を失ったように足元に崩れて落ちる。そこかしこに、いくらか黄色い膿の様なドロドロがこびり付いて気持ち悪かった。手でぬぐおうかと逡巡し、結局手を引っ込める。

あの男の話が本当なら、これは皮膚に癒着していようなものだろう。専門医に見せたほうがいいと判断する。ヤマダならいいようにしてくれるだろうと、何とはなしに思った。

もっとも、至る所に治療を受けなければならないレベルの怪我を無数に負っている。どちらにしろ彼には世話になるだろう。今更だが、ジンジンと全身が痛んでいた。

「・・・とりあえず、キョーコさんを何とかするのが先か」

いつまでもあんな氷の牢獄に閉じ込められたままでは、命が危うい。

その前に、打ち出したナイフの刀身を回収しようとして、一歩を踏み出した。





その時。

誰の意識からも逸れ、戦場の隅っこで取り残されていた氷の念獣が、弾けとんだ。

内側から、とてつもない衝撃で吹き飛ばされたかのように。

解放された女は当然のように青白い粘液まみれだった。体重を支えるものがなくなり、重力に従って落下する。それを、両足と両手で支えた。

「―――はっ、――――ッ!!」

四つんばいになり、ひとまず体内に侵入した液体を吐き戻す。怪物じみたばらばらの黒髪が、顔面に張り付くのを鬱陶しそうに払い、生物にまず何よりも必要なものを欲した。酸素だ。

そして、呼吸が確保されるとほぼ同時に、吸い込んだ息を即座に吐き出しつつ、ミツリはあらん限りの声で叫んだ。

「ぞいヅは、ダミーよ゛っ――――!!!!」

声が離れた位置に居たアンヘルに届いたのは、念で声量を増幅していたからだろう。

「・・・え?」

ベチャッ!!

同時に、地面から生えた巨腕が彼女を叩き潰した。まるで、虫けらのように。

石くれと瓦礫でできた拳の下から、見る見るうちに赤い血が河となって流れ出した。







ほぼ同じに、倒れたままのダミアンの遺体が内側に陥没するように崩れ、そしてそのまま―――――瓦礫の上を銀色をした液体となって、無残に広がっていった。

銀色の水溜りの中に転がったのは、黒く小さな機械。マイクとスピーカー、それにカメラだ。

やがてコツコツと靴音を響かせ、

「やあ」

まったく予想もしていなかった方向からひょっこりと、ダミアンが何事も無かったかのように現れた。

片手には魔法瓶に入れられた紅茶とカイロ、もう片方の手には杖を持っていた。

「あーくそさむい。まったく寒い。死ぬほど寒い。君ら若い者ならともかく、老骨にはこたえるねえ」

腰をとんとんと叩き、紅茶をズズッとすする。

「カイロがなかったら死んでいたところだ。まったく天才の発明だね、これは」

何で自分がこれを発明できなかったのか、と。まるでその事だけが今この場における最大の問題たと言わんばかりに、老人は語った。

ほぼ死にかけの少女のを眺め、観察をする。じろじろと眺め回しながら、いかにも大儀そうに種を明かした。

「鏡魔(ドッペルゲンガー)。有機EL素子を封じた生きたディスプレイ、のようなものだ。私自身のオーラを注入するから凝で見ても見分けるのは困難だ。だが、発光をするので夜間は見分けるのが難しくないとか、実は弱点もいっぱいある。敵が目の前に見えているからと、体温を確認しなかったのは早計だったね」

(・・・なるほど・・・なんて、無様)

アンヘルは喉元から、血反吐を吐き出した。

それはほぼ血液の塊で、遠くに飛ばす勢いもなく、唇にへばりついただけだったが、ダミアンは不快そうに一歩距離をとった。

「冥土の土産に知っておくといい。自立型の念獣というのは一度念を込めれば、術者が死のうが、あるいは"絶"を使っていようが動き続ける」

それで彼女に対して興味はうせたとばかりに、男は背後に振り返って歩き出した。

「・・・それにしても、ジェーン。君にしてはやけにあっさり囚われたと思っていたが、やはりチャンスを伺っていたな?」

土砂と瓦礫に押しつぶされ、そこから顔だけを覗かせている形のアンヘルからは、もう初老の男の白髪交じりのオールバックしか見えなかった。だが徐々にそれもどんどん遠ざかっていく。それは男と距離が離れていくというだけでなく、自身の視力が弱まっているからだと分かった。

「前々から疑問ではあったんだ、君の能力。物体の分子結合に影響を与えるほどの衝撃波を放つのだ。はっきり言って、発音体である君の肉体に影響がないはずがない。まさか、肉体そのものを音叉に見立てて、共鳴増幅の道具にしているは思わなかったが・・・」

男は戦闘の余波で破壊された路面を気楽そうに歩いた。

地面から引きはがされた土塊の上を大またで通り過ぎ、破壊された隆起した石畳を常人のように大回りに避けながら。

「そして、いざとなれば肉体そのものを強力な振動子(スタビライザー)にして、触れたもの全てを粉砕する、と。まったく悪魔のような女だな、相変わらず」

口では賞賛していながらも、口調は平静そのもので感情らしい感情は込められていなかった。

そして、黒髪の女の前に立つ。

一方の女、ミツリは頭を支える首に力を込めた。・・・実際には込めようとして、地面に倒れる。

動けなかった。声も出せない。

薄っすらとしらみつつある夜空、こちらを見下ろすように男が顔をのぞかせる。

呼吸は留まらず、疲れ切った肺をいつまでも収縮させた。それはどこまでも苦痛、だが止まるよりはマシ。止まれば、もう二度と動かない。

まぶたを精一杯開いたが、視界が霞んでいくのを止められない。

あいつが、かつて自分から何もかもを奪った男が、ダミアン・ハーヴィが手の届くところにいる。それなのに・・・!

男は余裕たっぷりに、続けた。

「・・・だろうね。そんな無茶をすれば、いくら強化していようが肉体が無事ですむはずも無い。悪いが、追い討ちをかけさせてもらおう」

ダミアンが構えた仕込み杖の先端から、バネ仕掛けの刃が飛び出した。

ほぼ同時に、瓦礫の山が立ち上がる。

能力者からオーラの直接供給を得て、先ほどよりも二周りほど巨大さを増した、巨人が。

その右手には瀕死の少女を、左手には白装束の男を掴んでいた。

「ヴぃヴぃあん・・・」

半眼を開き、少女が呻く。

左手の中の男は顔を俯かせ、両手をだらしなく垂れさせていた。

「・・・ちなみに、時間稼ぎは無駄だよジェーン。君の旦那さんの所には起爆性の高い念獣をダース単位で送り込んだ。拳銃使いでは、まあ相手をするのは難しいだろうね」

ダミアンは愉快そうに笑った。

君子危うきに近寄らず。バトゥの射撃精度と銃弾のばかげた威力は、単体としてはさして強くもない彼にとって脅威だ。暗殺(スナイプ)の危険を考慮すれば、おのずと選択は限られる。

ダミアンに、抜かりはない。

「・・・はっ!」

もはや覆しようもない勝利の布陣を整えた男に対して、それでもミツリは嘲笑う。クツクツと、空恐ろしい顔で、狂気の笑みを浮かべて。自分の夫が誰にも、何者にも負けるわけがないと、信じきっていたから。

女は笑いながら、いつでも相手に衝撃波を、死の絶叫を叩きつけられるように呼吸を整え、オーラを集中する。相手の一手の方が速いだろうと、確信してはいたが。

ミツリの能力は一見単純に見えて、実は複雑だ。発動前にはオーラを内部に蓄えつつ、必要な構成を緻密に編む必要がある。制御にしくじれば、まず自分の体が弾け飛ぶ。そのリスクを引き換えにして、『声』という音速で到達する遠距離攻撃を可能としている。

ミツリが凄惨な顔で逆転を狙い、ダミアンがにやけ笑いを浮かべつつ万全の体制でトドメを見舞う。

両者の激突の気配は急速に高まり、

――――唐突に失せた。

二人は、同時に同じ場所を振り向いた。

驚愕に見開かれた二対の視線の先には、弾け落ちた巨人の右手。

大きな音を立てて地面に崩れ落ちた瓦礫の山から、緋色の光が漏れていた。

「・・・くれて、やる」

僅かにもれた、虫が鳴くようなかすかな声。

だが、何故かその場の全員の耳に届いた。







その時、何が起こったのか、一番良く見える位置で見届けたのはヴィヴィアンだった。

彼は息を殺し、強烈な力で全身を締め上げる圧力、巨人の左手に耐えていた。それ以外のことを考える余裕はなかったし、できることもなかった。

だから、同じような状況に居たはずの少女が、自身を拘束していた腕を吹き飛ばしたときには、あっけにとられた。

「・・・おいおい、ちょっとがんばりすぎだろう」

餓鬼がクソ根性出してるってのに、手前の方がこのザマじゃあ泣けてくる。そんなことを考えながら、少々の嫉妬と状況を覆せるという希望を抱いて、ヴィヴィアンは少女を見た。

そして、絶望する。

地べたに這い蹲る彼女は、もう真っ赤だった。

怪我をしていない箇所がなく、血が出ていない箇所がない。シルエットが奇妙に歪んでいるのは、骨が折れているからに違いない。

髪が地面に付くほどに下げられていて、ヴィヴィアンからはその後頭部しか見えなかった。どのような形相を浮かべているのか・・・恐らくは、控えめに言ってもブチ切れているのだろうが。

だが、何より彼の眼を引いた変化は、その身に纏うオーラそのものだ。

赤く脈打つように蠢く奇妙なオーラが、大量に噴出ていた。それが暴風雨のように少女を取り巻いている。まるで、赤い嵐だった。彼女の怒りが、そのまま形を成したかのように。

いや、それよりも・・・

「ゲホッ・・・なんだ、この量は・・・?」

見間違いでは、ない。

先ほどまでほぼ枯渇しきっていて、衰弱していたはずだ。

纏を維持することすら危うかったのに、今では次から次へと火口から溢れるマグマのように、オーラが噴出し続けている。その量は控えめに見ても、かつて対峙した時の数十倍はあるだろう。だから、眼を疑った。

心の有様、即ち強い感情や信念、あるいは覚悟。それらが複雑に作用して、一時的に念が強まることはある。あるのだが・・・しかし、いくらなんでもこの量は馬鹿げている。

その時、ようやく少女が顔を上げ、思わずヴィヴィアンは息を呑んだ。

少女は笑っていた。

血と泥で固められた髪が一塊になって体に張り付き、その下の顔は、血にまみれていた。そんな有様でありながら、とても"安らかな"顔だった。

妙に穏やかで、影が薄くて、それでいて静かな。そんな微笑を浮かべていた。

まるで当たり前の、年頃の女の子がそうするように。

泣きながら、笑っているのか。笑いながら、泣いているのか。それすら、彼には判別できなかった。

だから、気付いた。

彼女が何を考えて、何をしようとしているかを。

「あんの、お馬鹿!!」

制約、あるいは誓約。

たった一つの願いを捧げ、代わりに代償を差し出す。

例えば、命を掛けたなら、文字通り"そのとおり"になる。カタギの世界でも稀に使われる言葉だが、能力者が使うと意味が異なる。

オーラが足りない・・・だから、他の『何か』で補っている。

何で・・・そんなもの命だのなんだの、『使っちゃいけないもの』を使ってるに決まってる!

それは一種の禁じ手だ。

勝てば、感極まった末に仁王立ちで大往生。

負ければ慙愧の念が呪いとなって現世に迷い、望みをこれ以上ないくらい最悪の形で遂げるだろう。この世で一番強いとされる、死者の念で。

いずれにしても救いはない。

恐らく、あの赤く脈打つような不気味なオーラは、彼女の命そのものなのだ。










彼女に念を教えた男ですら、予想だにしていなかった。

才能(タレント)、あるいは先天性(ギフト)。

纏から絶、そして練を経由して発に至る念の過程。その全てを無視し、あまりにも特殊な能力のみを一息に発動させる稀有な例外。

それは未来を綴る念人形であったり、他者の念を盗み取る本であったり、あるいは三つの「お願い」と引き替えにあらゆる願いをかなえる願望器として、具象化される。

だが、彼女の力は、『念』という奇蹟を修めていなければその意味さえ見失うほどにちっぽけだった。何より、代償があまりに重い。今の今まで、無意識のうちに記憶にロックをかけるほどに。

過去、彼女がこの力を使ったのは、僅かに二度。

いずれも『使わざるを得ない』状況において発動した、最小出力且つ最大効果を期待できる極僅かな干渉。

いずれも著しく消耗し、数日間完全に昏睡状態に陥るというリスクを支払うに至った。

そして今、その制限を自らの意思で取り払ってしまった。

悲鳴を上げて押さえつけようとする無我を押さえ込み、力づくでねじ伏せながら。

能力を認識し、意味を与え、名を与える。

そして、彼女は代償を差し出した。










・・・四肢を踏ん張って、立ち上がる。

力が漲っていくのに、徐々に自分が薄っぺらになる感覚。

何かが、体から抜け落ちていくようだった。

オーラが精孔から吹き出る感触に、少し似ている。

体が酷く重たくなり、引き換えに力が満ち満ちる充足感。

皮膚の感覚は寒いのに、冷たいのに、全身が茹るほどに熱い。

凍て付く風が吹き付ける中、汗が次から次へと流れて落ちる。

揺らぐ視界、強張る筋肉。

意識は朦朧としていながら、驚くほどクリアだ。

相矛盾する感覚には、覚えがあった。

まぁ、いいさ。妙に穏やかな気分で、そう思う。

どのみち、一度死んだ身だ。

いや、ゴドーに出会わなければあの日に、バトゥ達に拾われなければ、あの雪の日に。既に三度は死んでいる。

もう、怖いものなんかない。あるはずがない。

守りたいもの、守りたかったもの、もうない。

だから、命を助けてもらった恩。せめて命で返そう。

ただそれだけが、戦場に赴いた唯一の理由。

そこで、ようやく気が付いた

自分の本当の望みに。

・・・ああ、なんのことはない。



「それでいいよね、母さん・・・ゴドー」



オレが、この街に来たのは、

死に場所が、ほしかっただけだ。















命は、いずれ消え逝く短い蝋燭の炎だと人は言う。

強く燃やせば燃やすほど、速やかに短くなって消えていく。

だが、消える寸前にこそ炎は何より強く輝くのだと。





Где ж ты, мой Огонёк?






…to be continued



次回、第二章ラスト。

長々お付き合いいただき、ありがとうございました。

誤字修正



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-shine」 ep16
Name: kururu◆67c327ea ID:7b7bf032
Date: 2014/03/08 21:27











「・・・死んでいます、間違いなく」

部下を下がらせると、ドン・リッツは目蓋を親指と人差し指で無理やり開かせ、瞳孔の開ききった老人の死体を検分した。

「ヘッ、口ほどにもねえ」

無惨に蜂の巣になった老人を見下ろし、つばを吐く。見開かれた黄色い目玉に赤い血の混じった唾液が垂れおちた。

かつて飛ぶ鳥を落とす勢いでこの街に君臨した大陸ギャングも、老いぼれてしまえばこのザマだ。皺と染みだらけの皮膚、コロンでも誤魔化しきれない加齢臭。

まったく・・・年は、取りたくない。ドン・リッツは思わず眼を背けた。

幼い頃、ヤクザな軍隊に無理やり徴兵されてより5年。上官の金玉をけり潰して脱走し、こそ泥のようなしみったれた凌ぎを語繰り返しながら組織に入るまで10年。中堅どころの"ムジーク(漢)"から、ヴォルザコーニェ(大頭目)に上り詰めるまでさらに15年掛かった。そして、上がるところまで上がりきってしまった人間の望みなぞ、所詮ただ一つ。

永延の命。

呟きは口中で消え、誰の耳にも残らない。

「・・・それで、何人残った?」

室内は壁といわず床といわず無数の弾痕が刻まれていた。

破壊された家具を彩る赤い血、赤い肉、白い骨。その上に黒いスーツを纏わせれば、テンプレートなマフィアの出来上がり。まあ、便利ではある。自前で喪服を用意しているのだから葬式の世話はない。

室内に無数に転がる死体の大多数は東洋人だ。いずれも敵、レッドドラゴンの構成員だが彼の部下もまた多くが目鼻を床に埋めている。

「私を含めて7人です。とはいえ、半分は虫の息ですがね」

肩をすくめて答える男に、リッツは思わず舌打ちした。そう報告してくる部下自身も負傷している。連れてきた手練れのほとんどが討ち取られてしまった。さすがに手強い。

「・・・額、血が出てますよ」

「大事ない」

リッツ自身も何発か弾丸を食らっていた。どれも掠っただけで貫通してはいない。運が良かったのだ。

汗と返り血で拠れたシャツを乱暴に破くと、肌に施したおびただしい数の刺青があらわになった。収容所にぶち込まれるたびに彫り続けてきたものだ。今ではもう刺青のない部分の方が珍しい。

胸には、星。政権には決して跪かないという誓い。

右腕には、「悪魔は警察をつくり、神は犯罪者をつくりたもうた」。

左腕には、「警察は人間を更生させない」という文句。

右手の指には、黒い輪が6つ。6度刑務所に入ったという印。

左手には、麻薬と酒を象徴する、猫。

そして、ペニスには十字架。即ち、Fuck you。

「いいだろう。動ける奴は俺と戦争の続きだ。そろそろダウンタウンの決着も付いてるだろう。一人残って息がある奴をヤマダのとこへ連れて行け。見込みがあれば何とかするだろ。あれはそういう男だ」

「了解しました、ヴォルザコーニェ」

今晩だけでどれだけの金があのゴロツキ医者に流れ込むことか。金額を考えると憂鬱だったが、必要な出費とあきらめる。

息を吸うように殺人を行うリッツも、自分のために命を張った部下を救おうとする程度の度量はある。

こういうところで部下に恩を売っておけば、いずれまた盾として使える。後に美談が残り、あるいは伝説が生まれ、彼自身のカリスマを強化する。それが組織の力にもなる。

「ルキヤノフから連絡はないか?予定通りなら、赤劉大茶房に殴りこみの頃合だが?」

「音沙汰無しです。殺されたか、裏切ったか・・・野郎はタマが小せえから。ヴォル、なんだって奴にまかせたんで?」

「その位しか役に立たないだろ?適材適所だ。これまで奴に渡した酒代くらいにゃなる。それにお前、一つ奴を誤解してるぞ。裏切るほどの度胸もねえ、だから飼い続けて・・・・?!」

葉巻に手を伸ばそうとしていたリッツが、不意に顔色を変えたのを察し、部下達もまた同じ方向を注視した。

男が一人、いつのまにか部屋の入り口に佇んでいる。

生気のない顔をした、ひょろりと背の高い男。猫背気味で病的だが、目だけはギラギラと輝いている。

身に着けているのは上等のスーツだが、クリーニングに出してからいささか時がたちすぎているのは明白だった。ネクタイにはタイピンもなく、だらしなく首からぶら下げている。

肌が病的に白いのは、麻薬のやりすぎだろうか。目が充血しきって赤いので、その可能性は高い。死の恐怖から逃れるために麻薬漬けにした鉄砲玉をレンタルするのは、そもそもリッツがブッディに広めさせたビジネスだ。

と、そこまでを観察する間に彼も、彼の部下達も男の眉間に向かって銃口を構えている。

「誰だ、手前はっ!!」

ニッと不気味に笑う男の顔を正面から見た瞬間、ドン・リッツの背筋に冷たい汗が滴った。

「病犬!!」

マフィアン・コミュニティーを支配する十老頭が自慢の念能力者を持ち寄って構成した武闘派幹部、『陰獣』。

主な任務はコミュニティ共通の外敵(多くは首を突っ込みすぎる一般人やマスコミ関係者だが、時には警視や軍部まで手が及ぶ事もある)の排除。そして、裏切り者の粛清。しかも、陰獣が出動するのは一般構成員や下部組織では解決できない、特殊な案件が発生した場合に限られる。つまり、念能力者を殺すためだ。

ただし、陰獣とひとくくりにいっても、所詮は相争う組同士が送り出した武装構成員の寄り合い所帯にすぎない。むしろ、十老頭の面子を背負った組の代表という面が強く、横のつながりはないに等しい。馴れ合う事はなく、いざ事が起これば、背後に控える組の利害が優先される。

特に十老頭同士の利害が衝突した場合、穏便にすまないことが決定した時点で、互いが互いに最優先で排除すべき敵となる。これほど油断のならない職場関係もそうはない。

特に、目の前の男はレッドドラゴンの有する最強にして最悪の手駒だった。

「うちの、『蛇』はどうした?」

もちろん、リッツとて念能力者の脅威は理解している。だからこそ、この男には自らの最強の手駒を差し向けた筈だったのだが・・・?

病犬はその問いに答えず、血みどろに汚れた口元を笑みの形にゆがめた。笑うと唇の端から鮫のような不揃いの牙が覗く。入れ歯ではない。自前の歯を整形しているのだ。

「そら」

病犬は後ろ手に引きずっていたものを、目の前に投げ出した。

赤い髪の、大柄な男。筋骨隆々の逞しい体格をしているが、白目をむき、口から白い泡を噴いてビクビクと痙攣している。顔色は紙のように白かった。首筋には等間隔に並んだ傷があり、肉がえぐれて血が滴っている。

「調子こいてた割に、ちょれえ野郎だったぜ」

傷口が僅かに変色していた。毒だ。

山犬が牙に仕込んだ神経毒は、血中に浸透すると人体に深刻なダメージを与える。まず手足の末端の感覚が狂い、四肢の自由が奪われる。傷が深ければ意識を失うこともある。

実際、陰獣『蛇』は、変幻自在の蛇拳を振るう恐るべき使い手だった。病犬と技量に大差はなかったが、それが勝敗を分けた。

もちろん、殺すだけなら即死性の猛毒にすれば効果は高い。が、そもそもマフィアにとって『殺し』は威嚇の手段だ。動きを止め、生かしてさらった方が効果は大きい。何より、万が一毒が口内で漏れたとしても、死なずにすむ。

「うちのショイにカチコんできた連中も、あらかた殺した。残ってるのは、お前らだけだ」

ゾッとするような宣告を受け、部下どもの顔色が変わるのをリッツは感じた。明らかにヤバイ状況だ。

力づくでこの窮地を凌ぐのは不可能。相手の力は良く分かっている。だから、震えそうになる手を押さえ込み、笑う事にした。

「だからどうした、小僧。手前らの頭はもう殺した。この戦争は俺らの勝ち、お前らの負け。!それで終わりだ、アホンダラァ!!」

足元に転がる死体の頭を靴のそこでグリグリと踏みにじった。

ゆっくりと・・そう、できるだけゆっくりとした動作でだ。森で野獣に遭遇した人間がそうするように。

「なあ、こっちにつけよ、病犬。この爺がクタバレば、レッドドラゴンは跡目争いでしばらく動けねえ。お前がこっちに付けばまとめて皆殺しにできるぜ。折角の陰獣の地位、お前も失いたくはないだろ?」

そう口にした時には、リッツは自分が賭けに勝ちつつあることを確信した。今この瞬間に殺されていない。それこそ、相手に話を聞く気があるということだ。そう思う事にした。

だが、病犬の反応はリッツの予想の斜め上をいった。あきれ返ったといわんばかりに目を覆ったのだ。

「・・・つくづくおめでたい野郎だな、手前は。聞いてますかい、大人(ターレン)?」

「ああ、聞いておるよ」

不意に足下から声がして、リッツはギョッとした。

「・・・!!?」

刹那、彼の視界は180度反転した。

地面に落下しながら放物線を描くリッツの生首が最後に見届けたのは、噴水のように血をぶちまける自分と部下の体だった。










「ダメだな、この体はもう使えん。残念だ、使い勝手が良かったのに」

「左様で」

額に弾痕を開けたまましゃべり続ける老人に、病犬は適当に相槌を打った。老人というのは話がくどい上に無駄に長いものなのだ。

「目玉は外れかけとるし、あばらは全滅、おまけに内臓は十発も銃弾をくらってミンチになっとる。ひどいことをするわい。しかも、リューマチのせいで手足の痺れがとまらんときとる」

「左様で」

最後のはあまり関係ない気がしたが、病犬は気にせず血にまみれた口をタオルでぬぐった。

人間の血液というのは清潔そうに見えて危険な代物だ。まず感染症が怖いし、肝炎のリスクもある。特に薬物中毒の人間の血などはちょっとした化学兵器に等しい。

生来、顔色が悪いのでよく誤解されるが、病犬はこれでも健康第一がモットーだ。規則正しい生活を心がけているし、食生活はオーガニックに拘っている。麻薬などは論外で、それどころか酒もタバコもやらない。唯一の趣味は朝昼晩のジョギングである。

「・・・お前、最近わしの話を適当に聞き流しとらんか?」

「左様で」

そろそろ飽きたので、病犬は話題を変えることにした。

「ところで、よかったんすか?リッツを始末しちまって。奴らが弱体化しすぎるのもまずいんじゃねえすかね?ヨークシンを手に入れたがっているのは、他の老頭も同じでしょう?」

世界最大の暗黒街、ヨークシンシティを手に入れるメリットは計り知れない。

毎年開催される地下競売では、開催地特権として全収益の45%が転がり込む。競売目当てにヨークシンに集まるマフィア達が地元のバーやカジノに落とす金も、ちょっとしたものだ。それだけに、ヨークシンを狙う輩は数多い。

これまでは十老頭のうち、レッドドラゴンとリッツ・ファミリーの二者が、縄張りを分け合う形で他の8人を牽制していた。それが崩れた今、ヨークシンはマフィア達の草刈場になる。

「かまわん。リッツのところは直系の組頭に頭目を代行させる線で、元々話がついとる。多少混乱するだろうが、外様に手出しはさせん。万が一、厄介ごとを起こすアホ共が沸いて出たら、いつもどおりダウンタウンにまとめて押し込む。あれはそのために空白地帯にしとるのだ」

歴史上、優れた防御力を持つ要塞には、意図的に弱点が設けられているとされている。仕組まれた弱点に群がった敵を一網打尽に出来るからだ。ヨークシンはという街がまさにそれだ。

旨みのある縄張りはとうの昔に四つの組織で分割されていて、後に残ったダウンタウンは『搾りカス』。都市で生きぬく事のできない弱者や貧乏人、あるいはアンダーグラウンドにすら居場所のない本物のキチガイしか寄り付かない。

地理的にも市街地とは完全に隔離されているので、そこで何が起きようが、表向きには知らん顔が出来る。そもそも、よほどの事を起こされなければ、あえて手出しする必要すらない。

今現在、ダウンタウンを仕切っている顔役は件の豚野郎だが、過去何度も入れ替わってきた他の顔役と同様、程なく首はすげ変わるだろう。つまり、あの男はやりすぎたのだ。

「問題は、手打ちとしてリッツに差し出させる土地の取り分だが、ストダードの連中が口を出してきたよ。管理委託先を探しているなら請け負う、とな」

病犬は不服そうに鼻を鳴らした。

「戦争には傍観を決め込んでおきながら、分け前の話には混ぜろと?」

ヨークシンを影から治める五大組織最後の一つ、ストダート・ファミリー。

ヨークシンのノースエリアに居を築き、数多くの娼婦を抱える色町の帝王。近年では、この街の名物のミュージカルを初めとして、TVやラジオ、芸能界に深く食い込む大興行主にのし上がっている。その伝手を利用して、表の財界人とも付き合いが深い。

マフィア組織の中でも金融に傾倒したボーモントと同じく、コミュニティと程よく距離を置くことで独自の影響力を確保した異端児だ。彼らは常に特定の派閥に組みすることなく、潮目を読む事に長け、時代に合わせて巧みに立ち位置を変えてきた。

「風見鶏め、相変わらずツラの皮だけは厚いわい。いずれ目に物見せるとして、ひとまず無視してよかろう。それより、例のものは?」

「・・・一応、用意はできてやす」

病犬は何故か視線をそらしながら、指先を弾いた。パチンと軽い音が鳴り、部屋の外に控えさせていた部下達が、その『例のもの』を抱えて入ってくる。

「なにぶん、時間がなかったもので、ブラックマーケットじゃこんなもんしか手に入りやせんでした。その、つまり、率直に言えば愛玩用です」

この上司から殴りこみの直前に命令されたのは、身元を洗われても問題のない人間を一体調達する事。遺伝子データによる戸籍制が確立したこの世界では、そういう人間の供給先は限られる。

「・・・女?」

目の前に引き出されたモノを見ると、老人は眉をしかめた。

15歳程度の年若い少女。顔立ちにはまだ幼さが抜け切らず、長い黒髪を首の後ろあたりで髪留めでとめている。まだ起伏の乏しい体には、見事な刺繍が入った青いチャイナを着せられていた。

口には幾重にもガムテープが巻かれているので声は出せないが、目は恐怖に見開かれ、涙がとめどなく流れていた。哀れを誘う表情だが、老人にも病犬にも、まして両脇を固める黒服もさして気に留めた様子はない。

「・・・とはいえ、これ以上時間をかけると、本当に死んでしまう」

覚えておれよ、と恨みがましく呟くと、老人は準備を始めた。

まず、本物の死体になりつつある自らの体を部下どもに持ち上げさせ、固定する(部下達が本当に嫌そうな顔で作業しているのを、老人は見逃さなかった)。そして、枯れ木のような顔面を少女に向け、口を醜くゆがめて大きく開けた。

同じような格好で床に座らせられた少女と、視線が合う。互いに吐息が掛かるほどの距離だ。少女は怯えきり、老人から距離をとろうと必死にもがいたが、肩に食い込んだ黒服たちの腕はびくともしない。

「そう、怯える事はない、同胞よ」

老人は、額にあいた穴から脳ミソを垂れ流しながら微笑んだ。

「ホームに変わりはないか?議会は相変らずズレたところで迷走しとるかね?あの土地は未だにゴミと悪臭に満ちておるのだろう?」

老人は努めて優しく声をかけたのだが、少女は錯乱していた。フーフーと身をよじって何とか黒服の拘束から抜け出そうともがいている。

「樹老根多人老識多(老樹根多く、老人識る多し)。わしはお前の若い体を、お前はわしの知識と記憶を得る。互いに失うものは何もない」

少女の口のガムテープが外された。

無理矢理キスを迫るかのように、両者の口元が数ミリほどに近づけられた。

「――――や、やべてぇっ!!!」

少女が本能的な恐怖に突き動かされ、悲鳴を上げたときには、もう事は済んでいた。

「おう゛ぇええええええ!!!!」

何かを無理やり吐き戻すような、あるいは無理やり飲み込まされるような奇妙な音。同時に、ズルズルと何かが這い回るような物音と、床にボタボタと跡を引く謎の液体。小刻みに痙攣を繰り返す娘の体。

その全てに身の毛もよだつような嫌悪感を覚え、病犬はひたすら時間が経つのを待った。

やがて、

「・・・ふむ、思ったより悪くない」

全てが終わったときには、文字通りの死体に変わった老人の体が床に倒れ、先ほどまで泣き叫んでいた筈の娘が、何食わぬ顔で口元をぬぐっていた。

「おげえぇぇっ!!!」

あまりにも冒涜的な光景に、その場に居合わせた不幸な黒服たちの半数は失神し、残った者の半数は失禁した。さらにその内の半数は、天に祈りを捧げながら胃の中のものを吐き戻している。

「お前らなあ、昨日今日のサンピンじゃねえんだから、もう少し、こう、なんつーか・・・度胸?みてえな?」

「・・・勘弁してください、病犬さん」

上司の手前、一応叱ってはおいたが、気持ちは分かるといわんばかりの病犬だった。

「馬鹿どもめ・・・だが、まあ、許そう。この体、実際入ってみたら、えらく気分が良いから困るわい」

少女は彼らの態度にも、口で言うほどの不快感を覚えてはいないようで、むしろ楽しそうに腕をグルグルと回していた。

男どもの醜態を見下ろすその顔には、ゾッとするような妖艶な笑みを浮かべている。それは驚くほど、先ほどまで老人が浮かべていた表情に酷似していた。

「予定外に人格のストックが増えてしまった。まあ、プラマイゼロと考えれば悪くもないか。そうだな、次の体は自分で産むというのもよかろう」

なんならお前が種付けしてみるか?等と冗談にしても洒落にならない事を平然と言い出す少女に、病犬は引きつった笑顔を浮かべ慌てて首を振った。

「冗談の通じぬ男だ。さて、―――――ひとまず媽媽(マーマ)に伝えよ。こちらは済んだと」

「へい」

青いチャイナの少女はガラス張りの壁面から差し込んだ朝日に目を細めると、冷笑を浮かべた。日の光を避け、翳した掌の下で瞳孔が縦に裂けたのには、誰も気付かなかった。

「身の丈に過ぎた野心は身を滅ぼす。お前も肝に銘じることだ、病犬」

「・・・へい」

「未知生、焉知死(未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん)。永延のものなどありはしない」

少女はクツクツ笑うと、ビルの壁面から暁の街を見下ろした。

ドレスに刺繍された五指の龍が、朝日を受けて光っていた。


















Chapter2 Strange fellows in York-Shine ep16
















それは、奇妙な決闘だった。

敵を追い回す瓦礫の巨人の背を仰ぎ見ながら、向かいあう二人の男。

一人は白いスーツを着て、手には長銃身の回転式拳銃。

一人は半裸で、身を隠すのはブリーフタイプの海パンのみ。手には長めの柄の付いた銛を携えていた。

「さて、拙者も最後の一稼ぎといくで御座るよぉ♪」

「・・・・・・」

そう、惚けた仕草で銛を構える海パンの前で、白いスーツのヤクザは静かに拳銃を構えた。

寒風が吹きすさび、左右に並んだ石造りの廃墟を通るたび、不気味な風切り音を響かせる。凍て付くほどに冷やされた石畳が足の裏を冷たく焼く感触に耐えながら、海パンは激突の瞬間を待った。

能力を使うと強制的に身に着けているものが脱げてしまうのは、彼の能力の構造的な弱点だ。念で海パンを具現化するようになる前は、素っ裸で闘っていたので『ストリートキング』と呼ばれていたが。それに比べれば多少改善されたといえなくもない。が、冬場は辛い。

実際、鼻水が垂れ下がり、唇を青紫色にして震える姿は滑稽そのものだが、相手はそれに騙されてくれるぼんくらでもないらしい。

声を武器とする厄介な女はダミアンが受け持った。馬鹿のルッチは殺されたが、予想通りオカマに致命傷を与えてくれたので問題ない。ある意味ダークホースだった奇妙な執事は既に亡く、敵の首魁は豚の手に落ちたとのこと。全体としては、既に勝っている。

残る敵は、目の前の男唯一人。

ほぼ百発百中の命中精度を誇る恐るべきガンマン。特注なのだろうが、馬鹿げた威力の弾丸を目にも留まらぬ速度で連射できる技量はすばらしい。先ほどのロケット弾を迎撃した曲芸じみた早撃ちには、流石の海パンもあっけに取られた。

飛び道具を得物にする能力者はそもそも稀だ。恐らく物体に念をこめるのが特異な操作系か、オーラを物質化できる具現化系。さもなければ希少な例外、特質系。いずれにしろ1対1なら手ごわい相手だ。

海パン自身、具現化系よりの特質系なのでよくわかるが、この手の系統は茨の道だ。どこまでいっても強化系に劣るモヤシボーイなので、特殊能力を駆使して心理戦に持ち込む必要がある。搦め手無しでまっとうにやりあうには、純粋にパワーが足りない。そこで、自ずと戦い方も能力に特化したスタイルになる。

故に、こういう特殊能力頼みの手合いを潰すには、乱戦に持ち込むに限る。

海パンは周囲に視線を泳がせた。

赤に黄色に、青に白。その他雑多な色をしたサイケデリックな粘土塊が、白いスーツの男を包囲しつつあった。ドロドロとした跡を引き、瓦礫の隙間をかいくぐりながら、ジリジリと迫っている。ダミアンがよこした念獣だ。

ちょっとした刺激を与えると自爆するという、味方にまったく優しくないゲテモノだが、相手が海パンなら話が別だ。地面に潜ってしまえば大地という無敵の盾が守ってくれる。

念獣どもを囮にし、一斉に飛び掛った隙に一撃終了。負ける要素は一つもない。

「さーて、遺言はよろしいか?注射と同じで、いい子にしてればすぐに済むで御座るよ。ケツに穴が一つ増えるだけにて候」

ふざけた台詞は、単なるブラフ。念獣達が距離を詰める、時間稼ぎ以外に意味はなかった。




対してバトゥは、ドスの効いた声で一言だけ吐き捨た。

「Go ahead, make my day!」

おもむろに、一発打った。





カイン、と独特の金属音を響かせて撃鉄が落ちるのを、海パンは無意識のうちに眼で追った。"凝"を使い、クリアになった視界の先で、ずんぐりとした不恰好な弾丸が回転しながら飛んでくる。

海パンの優れた動体視力は、次に起こった現象をつぶさに観察していた。

銃弾は海パンの真横、数十センチばかりを横切って背後へと飛翔する。着弾したのはダミアンのクリーチャーがまとまって群れている辺り。そこには、傾きかけたレンガ造りの建屋があった。

古ぼけた廃墟とはいえ、鉄筋コンクリート製と思しき三階建ての建物。比べれば、ゴマ粒ほどにしか見えない小粒の銃弾が、吸い込まれるようにして消えていく。

直後、何もかもが吹き飛んだ。

「ひょ?」

閃光と、風圧。音圧によって大気が振るえ、強張った皮膚が振動する。

何か黒い固まりが物凄い勢いで吹っ飛んで来るのを、海パンは呆然と見つめていたのだが、次の瞬間、それが煉瓦の塊である事に気がついた。

「ほげえええぇぇぇ!!!」

悪夢のような光景を見つめながら、咄嗟に能力を発動させた。

すすけた窓ガラスがバラバラに砕け散り、光の弾丸となって体中に突き刺さる。もう半呼吸、能力の発動が後れていたらアウトだ。

海パンには、そこでもう一呼吸置く暇も与えられなかった。

「!!」

海パンは見た。

今度は、真正面から飛びこんできた弾丸が、パチンとはじけるような軽快な音を立てて、消える。同時に、海パンは吹き飛ばされていた。

「――――――ッ!!!」

凄まじい不協和音が三半規管を襲う。耳を押さえる暇もなかった。

ガラスの砕ける音、煉瓦の砕ける音、断末魔の悲鳴じみた暴風の吹き荒れる音・・・それらが立て続けに起こる打撃音。強烈な痛みと共に、途轍もない衝撃の連続が襲い掛かった。

「っぎ・・・!!」

急激な加速に体中の皮膚がまくれ上がりながら、ひしゃげていく。自分の体がピンボールのように空高く舞い上がる冗談のような感覚に翻弄される。ようやく上昇が落下へと変じたころには、海パンの意識は混濁していた。

能力が強制的に解除され、瓦礫の山に叩きつけられながら、なおも衝撃の威力は彼の体を放さなかった。無様に地面を転がり、ようやく体が止まったときには、もう指一本動かす力も残されていない。

体液が沸騰し、鼓膜は破れ、眼や鼻、あるいは毛穴、全身の穴という穴から血が噴出すような感覚。火傷するような熱さと、凍て付くような冷たさ。それを同時に味わいながら、胃の中のモノをブチマケた。

「おげぇェっ!!!!」

途轍もない衝撃の余韻が過ぎ去り、胃が空っぽになるまで吐いてから、ようやく自分が何百メートルも吹き飛ばされた事に気づいた。

「・・けほっ、ごほっ・・!!」

血反吐をぶちまけ、荒い呼吸を繰り返す。痛みが酷い。肺を傷つけたらしい。一呼吸するごとに、内臓が焼けるような痛みが全身を貫いた。

その時点で、ようやく気付く。最初の一発を外したのは、恐らくワザと。続く二発目を確実に当てるため、こちらが能力を発動するタイミングを、ずらされた・・・?

(・・・いや、この破壊力があれば、いささか的を外したところで、あまり意味はないな)

辺りの風景は、一変していた。

爆心地の周囲数百メートル四方は、何もかもが吹き飛ばされていた。構造物という構造物が薙ぎ倒され、石畳は残らずめくりあがっている。剥き出しにされた地べたの上に、噴煙に巻かれた小石や木切れ、塵芥が降り注ぐ。

まるで月面のクレーターだ。半ば朽ちた姿を晒していたレンガ造りの廃墟の群れは、もう跡形もなくなっていた。

(・・・なにこれ酷い)

ツンと鼻腔を刺激する臭いが、鼻腔を突く。

出元を探すと、すぐに案外近くに、黒く変色したドロドロの液体が、焼け焦げたようにして崩れていた。ダミアン自慢の念獣、その残骸に違いない。

煙と高熱を発して大地を焦がし、酷い異臭を放っている。同じものが至る所に点在し、キャンバスにぶちまけられた黒い絵の具のように、無残な姿を晒していた。

どうやら、先の攻撃は念獣どもを薙ぎ払うためのものだったようだ。百やそこらの数がいたはずだが、念獣としての形を保ったものは一つもない。根こそぎに、それこそ木っ端微塵に吹っ飛ばされていた。あるいは、この惨状は念獣どもが誘爆したためなのか・・?

結論のない思考にふけって現実逃避。だが、それは瓦礫を踏み砕く音によって中断された。

「――――よお、兄ちゃん」

男は愉快そうな口ぶりだった。だが、眉間には青筋が浮かび、眼は怒り狂って血走っている。

「久しぶりだな、さようなら」

相手は、どこまでも容赦がなかった。

「ちょ―――!!」

パン、と妙にかるい発砲音を耳が捉え、全身が一瞬で総毛立つ。

「おおおおおおっ・・・!!」

考えるよりも先に体が動くとはまさにこのこと。咄嗟に身を投げ出して正解だった。

海パンの能力は気体や液体、あるいは光等、元々すり抜ける必要のないものはすり抜ける事ができない。というより、それらを能力の対象にとってしまうと、能力の使用中は呼吸もままらなず、目も耳も使えない。そもそも、それらが脅威になるという状況そのものが海パンの想定外なのだ。つまり、直撃すれば、先ほどのように爆風で大ダメージを受ける。

後は、もう無我夢中だった。

潜る、潜る、ひたすら潜る。

もっと深く、ただ深く、さらに深く。砲撃の恐怖に突き動かされるまま、地の底深く沈降する。

「・・・・!!!」

間一髪、飛び込んだ地面の下で必死に手足をばたつかせる海パンの体を、緩やかな衝撃が揺らした。世界は震度5か6か。この深さでこの衝撃。地上付近ではどんな有様になっているというのか。

たった一発の攻撃でボロボロになった体が、無酸素運動の連続に悲鳴を上げた。酸素不足に脳が焼けるように痛むのを、必死なって堪える。地面に潜っている最中に能力が解除されたらどうなるか、考えたくもなかった。

十分に距離をとったところで、ようやく海パンは浮上した。息を止め続けるのも限界だった。

「ハアッ、ハアッ!!」

地面に頭だけ出して、思う存分酸素をむさぼる。

だが、間髪いれず、目の前に弾丸が飛び込んできた。

「―――!!!(おいィ!!!)」

再び暗い地の底へ、全力で潜ると同時に大音響が鼓膜を揺らした。

「HA!HA!HA!HA!」

白いスーツの白人は、腹の底から愉快だといわんばかりに高笑いを上げた。

海パンの頬を掠めた一発で、バラックの廃屋が数百棟ばかりが、木っ端微塵に粉砕。綺麗な球状に抉られ、未だ噴煙を上げるクレーター。

沸き起こった衝撃波は、四方八方に破片を撒き散らし、大地は爆ぜ、瓦礫の山が宙を舞う。ノリノリな様子で街を破壊する男は、明らかにキチガイじみていた。・・・誰かこいつを逮捕しろ!!

先ほどまでのチマチマした二丁拳銃はなんだったのかと問い詰めたくなるような、圧倒的火力。

これがパワーだ!ジャスティスだ!といわんばかりの高笑いが癇に障った。これだからこの国の人間は好きになれないのだ。

この威力、もはや一個人の戦闘単位を超えている。まるで爆撃機の集中空爆に晒されている気分だった。

しかも、こう頭を抑えられてしまっては、迂闊に浮上できない。このままでは満足に息継ぎもできなくなる。悔しいが、手も足も出なかった。

(一体どういう能力だ?!放出?操作?いや、・・・まさか、具現化系と放出系を同時に極めている・・?)

弾丸にこれほどの念を込められるのは、物体を操る操作系か、オーラを物体化する具現化系の筈。操作系の能力なら、実体のある弾丸を媒介にしていることになるが、そうすると着弾時に引き起こされる破壊力はどこから来るのか・・・そう考えると、具現化系の線も捨て切れない。しかし、体から放したオーラにこれほどの威力を与えられるのは放出系ぐらいだろう。

念能力者が100%極める事ができるのは、もって生まれた系統能力だけの筈・・・・・・では、この圧倒的なパウアーはどこからくるのか?

何をされているのか全然わからない。チートだとかズルだとか、そんなチャチなもんじゃない。何かとんでもないイカサマを味わされている気がしてならなかった。

こんなものと馬鹿正直に正面から喧嘩するのは間違いだ。街中やら何やら、人通りの多い場所に誘い込み、相手が能力を使用できないような状況下に追い詰めてから狩るに尽きる。そういう意味では豚の策が裏目に出た。

(しかし、奴の気力もそろそろ限界に近い・・・筈。いや、人間の精神集中力が無限大とかいうのは唯の理想論だ)

相手は既に戦闘開始から十時間以上戦い続けている。まあ、そうなるように仕向けたのだが。それにあれだけ威力、燃費は悪いに違いない。

では、このまま相手の集中力が費えるのを待って、ジリ貧覚悟で持久戦に持ち込むか?・・・否だ。

海パンの能力も燃費の悪さで言えばピカ一だ。加えて、能力を使用して物体の中を移動するには、『泳ぐ』必要がある。

遊泳というのは全身運動だ。地上を移動する何倍もの体力を消耗する。海パンは訓練によって時速40キロというマグロ並みの遊泳速度を身に着けているが、それは相応の酸素とエネルギーの消費を招く。

普通なら尻めくってトンズラがベストなのだが、・・・あいにく海パンには逃げるという選択肢が、初めから残されていないのだ。

(とりあえず、見た目はリボルバー。その性質を能力が受け継いでいるとしたら、弾数は全部で六発・・・・・今何発だ?)

相手は拳銃に深い愛着を抱いている。それは間違いない。とすると、その可能性も捨てきれないが。

今まで放たれた弾丸の数を数えようとして、海パンは思考を打ち切った。

(却下・・・そう思わせるためにあえてあの外見、という線もある。参ったな、考えすぎると自分から罠に嵌りそうだ)

オーラを物質化した弾丸なら、このくらいで弾切れはない。

(万事休す・・・どうせなら、イチかバチか・・・!!)」

腹を、括った。

口元だけを地面に晒し、瞬時に一呼吸を肺に取り込むと、海パンはより深みへと潜っていった。










「Tally Ho!!!」

一方、バトゥは鼻歌交じりに銃を乱射していた。

特にこれと言って狙いをつけているわけではない。辺りに存在する大きめの廃墟や瓦礫の山、あるいは倒れた鉄橋など、目に付くものは片端から射撃の的にし、片端から破壊する。狂気の笑いをあげながら、廃墟の街を瓦礫の山へと変えていく。

頭上では分厚くたれ込めていた雲が唸りを上げ、逆巻くようにバトゥを中心としてうねり始めた。まるで強力な台風のど真ん中に放り出されたかのような強風が、吹き荒れていた。

「っと・・・さーて、目立つ瓦礫はあらかた消えたかあ?」

バトゥは銃を肩に担ぐようにして、ようやく射撃を止めた。

既に周囲360度、数キロ四方はほぼ更地。舗装が引き剥がされ、瓦礫は吹き飛ばされ、まっさらな地肌が覗いている。

「ま、更地にする手間省いてやったわけだから、市から謝礼の一つもでるべきだと思うわけだが、カタギは辛いねぇ。影男さんよ、そろそろお開きにしようや」

地面の下で聞き耳を立てている相手に、話しかける。もっとも、別に相手が聞いていようがいまいが、バトゥにはどうでもよかった。

「おうっと・・・考えてるな。俺の能力を。これだけ強力な威力だ、どんな制約・誓約が掛かってるのか、とかな?ヒントをやるよ。見ての通り、こいつはリボルバーだ。後は、わかるな?俺がもう6発撃ったか、まだ5発か。実を言うと、撃ちまくってて俺にもわからん。断っとくが、ブラフじゃねえよ。銃ってのはそういうもんだ」

バトゥはニタニタと嘯いた。

「さあ、こいつは世界一強力な拳銃だ。直撃すりゃァ、お前さんのドタマなんて一発で吹っ飛ぶぜ。楽にあの世まで行けるんだ。運が良ければな。どうする?」



具現化系は物体化したものに、特殊な能力を付加する能力者が多い。

例えば、人や物を包んで小さくできる風呂敷、具現化した念や生き物以外なら幾らでも吸い込むことのできる掃除機、あるいは触れた部位を自在に閉じこめることのできる鳥籠と腕。さもなくば、とある島で念能力者専用のゲームに使用されるカード等等。

特に、物体の形状や容積、質量といった物理的性質に干渉するタイプの能力は、特質系に極めて近い。つまり、地道な修行でどうにかなる範疇を超えている。必要とされるのは、生まれ持った才能や特殊な血筋。さもなければ偶然という名の奇跡だろう。

だが、不可能ではない。十分修行すれば、そして多少難しい制約・誓約を付ければ、それに近い能力を生み出すことは可能。そう思って、バトゥという男は工夫した。

例えば、"特定の物質"を吸い込んで閉じ込める弾丸、という能力ならば。



「元ネタが分かっても黙っててくれよ。好きなんだ、こういうの。『最後の決闘』だってもう50回は観てる」

バトゥは愉快そうに先を続けた。

「その能力、あんま燃費がよくないんだろ?おまけにさっきから息が上がってて、もう持たないんじゃねえか?しかも、どこで何をしてたか知らんが、ずいぶんとお疲れの御様子」

銃口を、真下に向ける。

「ってことはだ、お前さんが次にやりそうなことは・・・・!」

次の瞬間、地面から銛が飛び出した。

「BINGO!!」

搦め手なし。相手の直近から、全力をこめた一撃。

バトゥはためらいなく引き金を引いた。








その時、――――――間近でバトゥの眼を見た海パンは、自分の読みが当たっていたことを確信した。

これは、とてもリスキーな賭けだ。

そもそも能力を使って物体の中に潜行している間は、当然視覚が塞がれる。相手から見えない位置にいるということは、海パンからも相手は見えない。その状態で狙った対象を攻撃するには、もっぱら耳に頼る。

必要とされるのは、相手の息遣いを聞き分ける耳のよさ、地面の微妙な振動を感じる鋭敏な皮膚感覚。それらを駆使して、見えない場所にいる獲物の位置を正確に割り出す、卓越したセンスと経験。そうして相手の位置を慎重に探り、確信が取れたところで一撃必殺。それが海パンの必勝法だ。

ところが、この相手ときたら、イカレタ銃撃のたびに大地は鳴動し、耳がおかしくなりそうな爆音が引っ切り無しに無しに轟き渡る。これでは、位置を割り出すどころではない。しかも、的を外して見当はずれな方向に浮上してしまうと、非常識な火力に身をさらす羽目になる。

だが、海パンには勝算があった。

確かに凄まじい威力だが、それ故に近距離では使えない能力だ。あまりに威力が大きすぎて、射手自身を巻き込む。

先ほどからの銃爆撃も、術者自身を巻き込まないよう、計算された範囲と射程にばら撒かれていることに海パンは気付いていた。つまり、術者の直近はむしろ絶対の安全圏。例え、銛の一撃が外れたとしても、この距離、撃てるはずがない・・・・と、並みの術者なら思うだろう。

だが、この血走った目、狂気の笑みはどうだ。

この男は、撃つ。自分を巻添えにしても、平然と撃つ。そういう男だ。

(やはりか、狂人め・・・だが、それでいい!!)

刹那、眼前に迫った弾丸。

即座に、纏っていた海パン、銛、脚ヒレの具現化を解き、全てのオーラを能力の維持と、全身の防御にまわす。筋肉をこわばらせ、衝撃に備えた。

相打ち覚悟、というわけではない。

このままでは、双方共に大ダメージを負う。だが、条件が同じなら海パンの方に分がある。

能力を維持し続けていれば、地面に叩きつけられるリスクがなく、飛散した瓦礫によるダメージもない。最初から一撃を喰らう覚悟でいれば、もう一発くらい耐えられる自信はあった。しかも、諸共に吹っ飛べば、傷の浅い方が仕切りなおしの速度は上だ。

あえて攻撃を受け、次で決める。それが海パンの結論だった。

しかし、

「・・・へっ?」

耳に聞こえてきたのは、パンと乾いた音だけ。

衝撃もなければ、イカレタ爆音もない。

思わず、動きが止まった。

――――当然、その隙を対面で待ち構えていた男が、見過ごすはずも無く、

「そうくると思ったァ!!」

陸揚げされた間抜けな海パンの顔面に、バトゥのワンパンが炸裂した。

「ぐぼぉっ!!!!」

胃液を吐き出しながら涙を浮かべたところに、さらに追い討ちのボディブロー。折れた奥歯が放物線を描きながら宙に舞う。

「寝んねにゃ早ぇ!!」

もはや拳銃を放りだし、ボクシングの構えを取ったバトゥ。渾身の強打が、腹筋の効かなくなった腹を打ち抜いた。これまでの鬱憤を晴らすかのごとき怒涛のラッシュ!

さすがに耐えかねた海パンが、能力を発動させて逃げようとすると、バトゥの腕が伸びてきて首元をがっちりとつかんだ。

「逃げんじゃねえ、ダボが!!」

手首が食い込むほどの握力で握られた首が、へし折れそうなほどに痛み、海パンは悲鳴を飲み込んだ。そのまま顔面をつかまれ、強烈な膝蹴りが顔面に決まった。

「グボァ・・・!!(・・・は、嵌められた!!)」

そこまできて、ようやく自分が手玉に取られていたことを悟った。

こちらがどう勝負に出るか完璧に見越した上で、狙い済ましたようなフェイント。そうなるよう、心理的に誘導された。

先ほどから銃を乱射し、周囲の廃墟を吹き飛ばしていたのは、銃の威力を見せつけて注意を引くと同時に、障害物を物理的に吹き飛すことで、こちらの隠れ場所を限定させるため。こうすることで、自然と奇襲を仕掛ける方向は、『下』に限られる。だが、そのためだけに周囲を更地に変えるというのは狂気の沙汰だ。

出会いがしらに仕掛けた心理戦を、見事にやり返されたのだと気付いたときには、もう何もかもが遅かった。

「ザッケンナコラー!スッゾコラー!」

バトゥは、とてもそこまで高度な心理戦を繰り出したとは思えないような形相で、ひたすらヤクザスラングを浴びせつつ、殴打を加えていた。自らの拳が傷付くのをいとわず、首根っこをひっ捕まえ、蹴って殴って唾を吐く。

そこからはもう、一方的な展開だった。

パンチドランカー状態の海パンの顔面は無事な場所が無いくらいに晴れ上がり、肋骨は残らず圧し折られていた。ついでに、いつもの癖でバトゥは財布の中身まで抜き取ろうとしたが、相手は海パン一丁なので、もちろん財布などもっていない。そのことに逆切れすると、ヤクザ屋さんにあるまじき大技、大回転後ろ回し蹴りを食らわせる。

殴る、殴る、ひたすら殴る。殴りすぎぐらいでちょうどいいとばかりに、無我の境地でまだ殴る。

ヒイヒイとわめく哀れな海パンは、文字通りヤクザの餌食になった哀れなパンピーでしかなかった。

「あぁ~~、すっきりした」

思う存分叩きのめして、ようやく溜飲を下げたバトゥは、倒れ伏す海パンの髪の毛を引っつかんで、無理やり引き起こした。爽快な笑顔を浮かべつつ具現化したコルト・シングルアクション・アーミーを、その口に突っ込む。

「ふぐっ!」

「おう兄ちゃん、化かしあいは俺の勝ちだな」



バトゥは具現化系能力者。当然、オーラを手放すことが苦手だ。

彼の放った弾丸は何かに命中するか、あるいは一定の距離を離れれば、強度を保てなくなり、消滅してしまう。そして、中に詰め込まれたモノはその瞬間、本来の『体積』を取り戻す。

即ち、膨大な量の"空気"が。

もし、たった一発の銃弾サイズの容積に収容された空気の塊が、弾丸が消失した途端、つまり能力の制約から外れた瞬間に――――それこそ音速はおろか亜光速に匹敵する速度で――――本来の体積を取り戻したとしたら、どうか。

それは、局地的に超ド級の気圧変化を生む。

開放された空気は周囲の空気や構造物を強引に押しのけ、超音速で伝播。凄まじい衝撃波となって、その周囲の全てを打ち砕く。

一般的に、爆発の破壊力は生成ガスの容積と膨張速度によって決定されるが、この急激な気圧変化によって導かれる破壊力は、それこそ常軌を逸していた。

例えば、TNT火薬の主成分であるトリニトロトルエンの生成ガス容積は、730 L/kg。つまり、TNT1キログラムが爆轟すると一酸化炭素、遊離炭素、窒素、水蒸気等の混合ガスが約730リットル発生する。その際の爆速、発生する熱エネルギー等の要素を脇におき、大雑把に換算すると、同程度の容積を収容、開放すれば同等以上の破壊力になる。

それはもはや1キロの爆薬を内包した榴弾を撃つのと同義だ。しかも、時間をかけて大気を取り込み続ければ、破壊力は飛躍的に跳ね上がる。

もちろん物質を縮小して収容するのは、敷居の高い能力だ。しかし、あらゆる物体、生身の肉体を対象にできる、といった能力に比べればクリアすべき難易度は低くなる。

対象は無機物の上に、気体というのはそれ自体が流体なので、形状の変化は無視できる。しかも、容器となる弾丸は生成し、発射するまでの間、手元から放す必要がない。これは具現化系にとってクリアしやすい条件を満たしている。

それがバトゥの能力、"弾丸ロック"のロジックだった。



「お前、初手から手の内晒しすぎなんだよ。ま、後はココの勝負だったけどな」

バトゥはツンツンと自分の脳ミソを突いた。

この能力で、一度に物質化できる弾丸の数は六発のみ。六発全て使い切らなければ、次弾は装填(チャージ)できないし、一度物質化した弾丸を使わずに消す事もできない。というより、この能力の制約では、弾を消した瞬間に中身が外部に漏れ出てしまう。

もし、新たに物質化した弾丸がチャージされる前に海パンがなりふり構わず特攻していれば。あるいはチャージ済みの残弾を一発でも残していたら、バトゥの勝機は薄かった。

相手の心理、戦術を把握し、あえて未チャージ状態の空砲をフェイントに使う、という思いきった選択(・・・あるいは狂気のギャンブル)をした、バトゥの読み勝ちだった。

「要はタイミングさ。人生、万事そんなもんだ」

もはや能力を使う余裕もなく、地面に仰向けに横たわる海パン一丁の巨漢。

それを冷徹に見つめながら、バトゥは引き金に力をこめた。密着した状態ならば、例え弾丸の中身が空っぽでも問題はない。弾は強度を失うことなく相手に到達し、威力を伝え、打ち抜くだろう。ごく普通の銃弾を撃つのと同じだ。

だが、

「あん・・?」

海パンの背中、やや左に寄ったわきの下に近い部位に、奇妙な縫合跡があるのに気付いた。

鋭利な刃物で深々と抉られたような傷跡。傷口こそ大きくはないが、手術用の糸で乱雑に縫い合わされている。薄くのぞいたピンク色の肉の盛り上がりの裂け目から、コードのようなものが数インチほど垂れ下がっていた。

「・・・なるほどな。こいつが豚公がお前さんを言いように操れたタネか?」

バトゥもおかしいとは思っていた。

ヨークシン上空に薔薇にも似た奇妙な形の雲を生み出した大爆発。あれは敵味方の見境無く殺すためのものだった。

海パンの能力なら、運がよければ生き残れるかもしれない。だが、普通、そこまでされて心理的に狩りを続ける気になるだろうか。だが、この男はまるで気にしたふうもなく、バトゥに向かってきた。

「どっかで見たやり口だよなぁ、おい」

傷口を注意深く見れば、肉がやや盛り上がっていることが分かる。形は、数センチほどの縦長の長方形。バトゥはかつてこれと同じものを見たことがあった。なら、対処の仕方も『同じ』でいいはずだ。

「ちょっと気張れよ、兄ちゃん」

「―――なっ、何を?!」

傷跡に指を突っ込み、糸を引きちぎろうとしたところで、ようやく海パンは事態に気付いた。抵抗しようとする腕を、バトゥは力づくで押さえつける。

「おとなしくしてろってんだ!野郎を押し倒す趣味はねえんだよ!」

ブチブチと糸がはがれるたびに、尋常ではない痛がりようで暴れる男を余所に、バトゥはついに傷口を押し広げ、それを取り出す。

「ふせろっ!!」

次の瞬間、バトゥはそれを思い切り真上に向かって投げはなっていた。

閃光と共に、大きな爆発。

やがて噴煙が風に流される頃合いになってから、バトゥが冷や汗をかきながら立ち上がる。

「・・やっぱなあ。体内に仕掛けるタイプの小型爆弾。体温、脈拍を検知して装着者が死んだり体外に取り出されると起爆する」

かつて、バトゥの妻に仕掛けられていたのとまったく同じタイプの爆弾。

「物体を透過できる、つーてもさすがに体内に埋め込まれちゃお手上げってことだな」

巧妙に、自分ではどうあがいても取り出せない位置に仕掛けられているところまで良く似ている。もっとも、おかげで対処法も同じだった。

爆発の噴煙を呆然と見守っていた海パンは、やがてよろよろと動き出すと、土下座の姿勢をとった。

「・・・助かり申した。これで彼奴ばらめに従う理由は消えたで御座る。この礼は必ずいたします故、今はこれにて・・・」

失礼させていただくで御座る。

その口上を最後まで口にすることはできなかった。眼前に銃口が突きつけられたからだ。

「惚けんなよ、色男。俺の眼は節穴じゃねえ」

目の前の男は、鼻面に突きつけた銃を微動だにも動かさず、発する殺気も引っ込めていない。

動けば、撃つ。

口にせずとも、そんな気配がヒシヒシと伝わってきた。

「お前みたいな野郎がな、こういう無茶に文句も言わずつき合わされてるってのは、身内を人質にとられた上で無理やりって、相場が決まってんだ」

さもなきゃ、身一つ、その能力で爆弾なんぞ仕掛けられる前にどこにでも逃げられただろう?、とバトゥは嘯いた。

完璧に見抜かれている。海パンは、今度こそ全てをあきらめた。

「親兄弟か?それとも女か?」

「・・・二番目と三番目、それと五番目の妻だよ。お察しの通り、人質にとられた上にこのザマさ」

もはや抵抗する気も失せたように、海パンはその場に膝を着いた。

討ち取った標的の賞金額に応じて、解放される約束だったが・・・。

そう途方にくれて項垂れる男を、バトゥは冷たく見下ろした。

「ハッ、どうせその女だって、こうやって人質にとることを前提に送り込まれたんだろうが。で、結局情が移ってドツボに嵌ると。・・・なんつーか、特殊すぎる能力を持った人間の末路みたいなのを、順当に歩んでるねえ」

ま、俺が言えたこっちゃねえけどよ。

そうぼやきながら、バトゥは携帯電話を取り出した。

「・・・ああ、ロブか?こっちはもう少し掛かりそうだ。そっちはどうなってる?。・・・順調?ベノアの婆様がハッスルし過ぎ?そりゃ結構。ところで一つ聞きてェことがあるんだが・・・」

海パンはこちらに銃を突きつけたまま、携帯越しに会話を続ける男を何とはなしに見ていたのだが、突如として悪寒に襲われた。

バトゥが、ニンマリと笑ったのだ。

さらに、件の銃をポンと消してしまうと、海パンの嫌な予感はいよいよ高まった。

「・・・うちの若ェ衆がよォ、豚公の本拠地にカチコミかましてる最中なんだが、そこで首輪をかけられた女を三人ばかり保護したそうだ。全員黒髪ロングで十代半ばの美少女だそうだが、お前さんのコレで間違ぇねえな?」

バトゥは小指を立てて見せた。

「お、おおぉ!!間違いないで御座る!マイハニーで御座る!」

海パンは歓喜の咆哮を上げた。

捨てる神あれば拾う神有り。爆弾から解放されただけでなく、嫁まで手元に戻ってくるとは、何たる幸運!

思わず狂喜乱舞しかける海パンに、バトゥは冷や水を浴びせた。

「何うれしそうな顔してんだ手前?人質をとられる先が豚公から俺らに変わっただけじゃねえか。あぁん?」

恐ろしい目つきで睨まれ、海パンは涙を流した。

「お前、悪党にゃ向かない性格だよ。転職を勧めるね。逃がす気はねえけどよ」

所詮マフィアだった。

「この世は神も仏もないで御座るぅ・・・えぐえぐえぐ」

滝のような涙を流す海パン。しかし、えぐえぐと口に出しているあたり、まだまだ余裕がありそうだった。

「何はともあれ、新たなマイご主人様、誠心誠意お使えいたしますで御座るぅ!」

即座にジャンピング土下座を決行する海パン。

バトゥはあきれたようにエリンギカットの後頭部を眺めた。

「切り替えの早ぇ野郎だな・・・。まあ、安心しろよ。俺らは優しいから、一生タダ働きの飼い殺しくらいで勘弁したるわ」

指を突きつけ、HA!HA!HA!と嘲り笑う。どこからどう見ても、マフィアだった。

「・・・またこういう展開で御座るか・・・もはや慣れっ子になってる自分が可愛い・・・・」

海パンは全てを諦め受け入れた人間だけが浮かべることの出来る、素敵な笑顔で滂沱の涙を流した。

「ま、それはともかくとして、寝返りを打った早々悪いで御座るが、正直、こちらの陣営に勝ち目はあるので御座ろうか?それで某の立場というか、行動も微妙に変わらざるを得ないので、ぶっちゃけて教えてほしいで御座る」

海パン的には嫁が戻ってくれば万事問題ないが、現状、ボーモントファミリーの状況は詰んでいるとしか思えない。

場合によっては寝返りの意味がなくなってしまう、と危惧する海パンに、バトゥは余裕の笑みで答えた。

「問題ない。豚野郎に本当に賞金払う気があったかは知らねえが、やっこさんの持ってた口座は、今しがた全部凍結させた。これで賞金目当ての俄かハンターどもは、とんだ只働きだ」

うちみたいなメガバンクを怒らせるからこうなる、と空恐ろしい顔でバトゥは笑った。

「豚の野郎、こんな時間に二十億ジェニーも動かしやがった。電子取引のセキュリティは銀行組織の命だが、銀行は銀行同士、蛇の道は蛇ってね。そっから先は芋づる式だ。世界中の銀行システムから豚と過去に取引のあったあらゆる口座を凍結させた」

世界中、既知のあらゆる銀行に働きかけ、ブッディの隠し持っていた口座をすべて洗い出したのは、カタギの社員たちの力だ。カルロの同期、同僚、彼を慕っていたすべての人間が、今この瞬間にもその作業に携わっている。

「"敵と戦うのに、直接手を下すのは、下の下。まず敵の動機から潰してやれば、そもそも戦いにはならない"・・・俺の盟友の言葉だ。今回は、それも含めて後手後手だったがな・・・」

バトゥの呟きの最後は、吹きすさぶ風に巻かれて消えた。

「・・・まあ、俄か賞金稼ぎどもに狙われ続ける心配がないのは、結構な事で御座るが・・・その・・・そちらの頭目が、豚公に捕まったと、聞いたで御座るが?」

海パンは慎重に言葉を選んだ。

一口にマフィアと言ってもさまざまだ。単にビジネスライクな犯罪組織の場合もあれば、舎弟関係にキッチリと線引きをした昔かたぎな組もある。両者に共通するのは、面子に拘る事くらいだろうか。とにかく非合法集団というのは、カモにしている連中に舐められたら終わりなのだ。

前者の場合なら、組のトップが殺されたところで条件次第で和睦もあるが、後者の場合はどちらかが皆殺しになるまで、血で血を洗う抗争に発展する。所謂、弔い合戦だ。

そんなものに巻き込まれては、面倒なことこの上ない。

「捕まった?ハハ」

バトゥは面白いジョークを聞いたとばかりに気味の悪い顔で笑った。

「そのくらいであの婆が死ぬなら、とっくの昔に俺がやってる」

妙にドスの効いた声で断言された。

海パンは気圧され、それ以上何も聞くことが出来なかった。ただ、何か途方も無い悪巧みが進行しているのだろうと考えて、自分を納得させた。

「まあ、問題ないなら、いいで御座るが・・・本当に。・・・すると、残るはあの逆切れ老人で御座るな。あれは中々やりにくい。年食ってるだけに慎重だし、その癖、頭に血が上ると見境ない故に」

切っても突いても、さして効果のない念獣を大量に相手にするのは骨が折れる。しかも猛毒や可燃物、あるは爆発物で出来ているので、迂闊に突くと馬鹿を見る。

しかも本体は安全な場所に隠れていて、滅多に表に出てこない。本人の性格も石橋を叩いて渡るタイプだ。勝利を確信してからでなければ姿も見せないので始末が悪い。

「分かってるさ。一度、経験済みだ」

「・・・?」

その微妙な言い回しに、海パンが再度問いかけようとしたその時、彼らの後方、ちょうど瓦礫の巨人が大暴れしていた辺りで、赤い光が瞬いた。

「お?」

「ぬ?!」

赤く、力強く、それでいて儚くも見えるオーラの輝き。

それが何かを知ったとき、バトゥは本日二度目の、そして生涯に残る傷を負うことになる。





―――――結局、バトゥが現場に到着した時、全ては終わっていたのだ。
















…to be continued




[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-shine」 ep17
Name: kururu◆67c327ea ID:7b7bf032
Date: 2014/03/08 21:18
あれは、もう何年前のことだったか。










あの頃は、母さんと二人。何もなかったけど、何も必要なかった。

強い風と、吹き付ける雪。耳を澄ますと、ゴオゴオという音。そう厚くない木の板に、トタンを巡らしただけの壁がギシギシと揺れた。

リノリウムの床は凍てつくように冷え、夜毎、室内に置いたタライの水に氷が張る。そんなオンボロ宿の一室で、オレと母さんは暮らしてた。

その日も、外は吹雪だった。こんな夜には、客も来ない。

室内には俺と母さんと、娼婦仲間が数人。ほとんどヘラヘラと涎を垂らしながら、壊れてた。

暇さえあれば、小さなガラスの粒にもにた結晶を指先で弄び、小指の爪くらいのそれを、見せつけるように舌先に乗せてなめしゃぶる。そうして、天井のシミを目で追っていた。

その都度、母さんはそっとオレを抱きしめるのだ。オレには、母さんの指の隙間から見えたそれがなんなのか見当がついていた。アイス(覚せい剤)だ。

「いのち、のじかん?」

「そうよ、アンヘル」

私の天使。そう呼んで、頬にキス。

くすぐったくて、うれしくて、大好きだった。人の肌が温かいことを教えてくれたのは、母さんだ。

「さまざまな生物がいて、生とともに死がある。どの生物にとっても、どのような生き方でも、そこには「生きてる時間」がみちている」

スプリングが馬鹿になっているソファ。逆さにしたバケツにベニヤ板をおいた机。それが、オレの学校だった。

「ながくても、短くても、「いのちの時間」にかわりはない。始まりがあって、終わりがある。花、人、鳥、魚、動物、どんな小さな虫にとっても」

母さんはおしゃべりしながらコップの中の水に指先を浸し、したたる水滴で文字を書く。オレは、こうやって字を教えてもらった。

俺はよく母さんの膝の上に座ってた。オレはまだちっこかったから、母さんの両足の間にすっぽりと収まってしまう。母さんに包まれている感触が好きだった。

ジーンズに包まれた太ももに頬を寄せていると、ぶかぶかのセーターに包まれた手が伸びてきて頭を撫でる。手のひらが暖かくて、くすぐったかった。

・・・幸せだった。

「なーに、カマトトぶってんの、シルヴィ」

個室部屋がある二階への階段。木の手すりに手をかけて、こちらを見下ろして微笑む黒人の女と目が合った。

「ジーナさん。・・・年季明けたって聞きましたけど?」

ブルネットの髪をボブにして、丈の短いピンクのワンピース、すらっとした足に白いタイツ。赤いパンプスがきまっている、そんな女。

この店一番の売れっ子、ジーナ。確か、会計士をしていた若い男と一緒に、町を離れると聞いたばかりだった。

「んーん、あいつ、金持って一人で逃げちゃった」

また、一からやり直し。そういいながら、ジーナは咥えたタバコに火をつけた。感情を感じさせない声だった。

「・・・それよりさ、ヨークシンで一稼ぎしてこようって話があるんだけど、あんたも乗んない?」

「ヨークシン、ですか?ずいぶん遠くまで行くんですね」

「ええ、バル・・?なんとかって店が、女の子募集してるのよ。ヨークシンつったら、花街としちゃ一等地じゃん。格安で斡旋してくれるらしいし、この際ちょっと遠征して一稼ぎしようかって話になってるの。あんたもどうせこの時期、暇でしょ?」

母さんは、困ったように眉根を寄せた。

これまでにも何度か大きな町に行くという話はあった。ジーナほどじゃないけど、母さんも売れっ子だ。育ちのよさそうな、品のある女を好む客は多い。特に、こういう町では。それに、母さんは育ちのよさを鼻にかけるところがないので、人気があった。そういう女を好きにできる。そういうシチュエーションを好む客が多かった。

でも、母さんはその度に断ってた。母さんは、何故か人の多い場所に行きたがらない。それは自分の生業を恥じているからではなく、誰かに見つかる事を恐れているからなのだと、俺は薄々気付いてた。

「あの親父、他の店にも声かけまくってるわよ。仲介料だけでも相当おいしいんじゃない?」

売春宿の主人というのは、あまり稼ぎのいい仕事じゃない。大部分は、安全代をせびりにくるチンピラに掠め取られる。必然的に、女達の手に渡る金も多くはなかった。

「あたしもさ、いつまでもこんな萎びた町にいたかないわ。あんたも、せめてもう少しまともに暮らせるところに行きたいでしょ。ま、さすがに子連れって分けには行かないだろうけどさ」

ジーナはオレの髪をわしゃわしゃと撫でた。

母さんは、どこかあか抜けてて、本人は気をつけているようでも、育ちの良さがつい出てしまう。だから、娼婦仲間との折り合いは悪かった。ハブられていた母さんを、フォローしてくれてたのがジーナだ。

「・・・いいお話です。でも、せっかくですが、今はこの子と居てやりたいんです」

オレは知ってた。

ジーナが母さんの上がりの中から、何枚か抜いて自分のものにしていたことを。たぶん、母さんも気付いてた。

「そっか・・・えらいわ、あんた。・・・あたしゃ、途中で放り出したけどね」

ジーナは、何を見ているのか分からない目つきで、タバコの煙を吐き出した。

次の日、店にいた大半の女が姿を消した。二度と、戻ってはこなかった。



体を売る仕事は、長くやれるものじゃない。

それでも、年季が明けるまで勤めれば、もう若くはない。

心、体、時間、命。あるいは女としての矜持(プライド)。

何もかも削りながら、みんな、今を生きていた。



だから、だと思う。



「・・・それが、理由か?」

・・・ああ。


















Chapter2 Strange fellows in York-Shine ep17


















両手足を地に着けた少女の体は、痛々しいほどに傷付いていた。

元は滑らかな光沢を放っていた金色の髪は無残に焼け焦げ、美しかった顔の右半分ともども、ケロイド状に溶けかたまっている。全身には刃物で抉ったような無数の傷跡。纏った衣服もボロボロで、黒いインナーだけが申し訳程度にその身を覆っていた。

折れて引きずるようにしている左手、かろうじて無事な右手すら、ヤスリで引かれたように肉が抉れ、血にまみれている。ただ、青い眼だけが、獣のようにギラギラと輝いていた。

常人ならば、単に少女が死に掛けていると思っただろう。だが、その場に居合わせた念能力者達には、また別のものが見えていた。

それは、太陽だった。

後から後からプロミネンスのように噴出し、無限の熱量をもって燃え盛るオーラの奔流。

赤く脈打つオーラそのものが高熱を放ち、少女の周囲の大気を陽炎のように揺らめかせ、明け方の冷え切った風を焦がす。

頭上の暗雲が割れ、朝焼けの輝きが一人の少女に降り注ぐ。

「・・・なんだ、これは・・・?」

突如出現した、おぞましいほど大量のオーラを直視して、我知らずダミアンは唾を飲み込んだ。

思わずよろめき、掌を頭に当てて天を仰ぐ。その声は、震えていた。

オーラというのは極論してしまえば生命エネルギーだ。科学者的としては、そう安直に定義してしまう事に反発を覚えるが、しかし実際に存在するものを安易に拒否するのも科学ではない。そういう意味では、良くも悪くもダミアンという男は自分の眼で見たことしか信じなかった。

死にかけているというのは、生命エネルギーが底を付いているということ。健全なオーラは健全な肉体に宿る。基礎修行をおざなりがちにしがちなダミアンとて、健康管理には大変に気を配っている。

では、目の前の女はどうかというと、自分でやっておいてなんだが、生きているのが不思議な状態だった筈だ。そう、文字通り死にかけていたというのに、・・・・・このオーラはなんだ?

これまでのほぼ全ての展開が、ダミアンの思い描いたとおりのものだ。既に勝利は確定し、状況は完結していた。その筈だ。

にもかかわらず、傷付き、倒れ伏し、後は1億ジェニーに換金されるばかりだった少女の姿は既になく、今、目の前には見知らぬ女が立っている。こちらに、恐ろしいほどの殺気混じりのオーラを叩きつけながら。



その全てに―――

「・・・ああ、もう、なんというのかな、こういうのは・・・・・・・・・そう、空気読めよ!!」

―――ちょっとこれまで感じたことが無いくらい、腹が立った。



「貴様はそこで終わるべきだろう!!いったいどれだけ貴重な時間と予算を浪費させれば気がすむのだ!!生け捕り指定だからと、手加減しておれば、つけあがりおって!!」

ダミアンはヒステリーのように叫んだ。

そもそも殺すだけなら、猛毒のガスか可燃物でも使っていれば当の昔に終わっている。生け捕り指定だったからこそ、余計な手間を踏んだのだ。それを、あろうことか炎精を退け、地精を砕き、虎の子の鏡魔までも晒す羽目になった。流石にそろそろ鬱陶しい。

しかも、そこで終わっていればまだ可愛げもあったものを、この始末。こうも反抗され続けると、いい加減ダミアンも1億ぐらいどうでもいいという気になってくる。

最初から神経ガスでも使って手早く終わらせればよかったか?いや、あの薔薇をどうにかされてしまったというのがそもそもの想定外だ。その事を思い出すと、再び怒りがこみ上げてきた。どいつもこいつも、よってたかって人の邪魔ばかりしてくれる。

ダミアンは胃の腑がグラグラと煮えたぎり、血圧が急上昇するのを感じた。高血圧の老体に鞭打つこの所業、もはや許せぬ。

・・・このダミアンという男、普段は知性派を気取っているが、自らの立てた計略を覆されると、途端に癇癪を持て余すという悪癖を持っている。それこそが、この男が各地で無差別大量破壊を繰り返す、何よりの原因だった。

「おとなしくしていれば、換金するまで生き延びられただろうに!」

そう吐き捨てながら、ダミアンは如才なく少女を凝視した。

改めて見ると、ものすごいオーラだ。

明らかに、一個人が捻り出して良い量ではない。中堅クラスの能力者の、ざっと十倍くらいあるだろうか。それは素直に認める。

しかし、どんなペテンを使ったかは知らないが、その手のイカサマというのは必ず後でしっぺ返しが来る。放っておいても、すぐに死体になりそうなものだが・・・まったく、馬鹿なことをしたという他は無い

念というのは、単純なオーラの量で勝敗が決まるものではない。むしろ、技術と工夫、頭の使い方が戦局を左右しうる。その点で言えば、目の前の相手は下の下。

「――――――おっと、ジェーン、お前はしばらくこいつらと戯れておれ」

すぐに相手をしてやる。そうダミアンが呟くと、無数の念獣が瓦礫の隙間から染み出すように現れた。それらは粘液を震わせながら形を成すと、黒い髪の女の下へと殺到する。

実際、危険性でいえば、目の前の少女などよりこちらの方が遥かに上だ。何せ、能力者としての下地も、潜った修羅場の数も違う。だが、既にダミアンの関心は、目の前で自分をにらみつける生意気な小娘に集約されていた。

(ケダモノが!!低俗極まりない脳筋能力者が!!)

・・・その時、彼の頭からは事前準備の段階で抱いていた警戒心などは、見事に吹き飛んでいた。

「出番だ、ゴレーヌ!」

立ち尽くしていた巨人が、造物主の命を受けて動き出した。

念獣、地精(ゴーレム)。その正体は、全身を構成する瓦礫片の縦横に、粘菌のように触手を伸ばし、つなぎとめている強力な接着剤に他ならない。

分子間を侵食し、癒着させるため、まず絶対に剥がれ落ちる事はない。それでいながら、非常に柔軟、且つ伸縮自在。ゴムのように強い反発作用を生み出し、それが筋肉のように巨体を動かす。この物理的な特性のおかげで、これだけの巨体を操りながら、術者の消耗は驚くほど少ない。

その最大の特徴は、吸着した瓦礫の膨大な質量にモノを言わせた防御力。

まるで機動するトーチカのようにあらゆる攻撃を受け止め、無力化する。多少の攻撃ではびくともしないし、例え削られたところで、文字通り痛くもかゆくも無い。しかも、削られた部位すら新たな瓦礫を吸着させれば、いくらでも再生する。そのための材料は、この場には無数にあった。

唯一の欠点は、重量故の鈍重さだが、これだけの巨体である。生身の人間と比べれば、ゴリラと虫けら。歩幅が違えば、機動力も違う。そう易々と逃げられるものではない。

一方、相手は身に纏うオーラこそ凄まじいが、満身創痍。死にかけもよいところだ。恐らく自己治癒力を強化できるほど、強化系に長けていないのに違いない。もう2、3発小突けば終わりだろう。

「叩き潰せ!!」

巨人は破壊された右手をそのままに、無事な左手を天高く掲げ、一気に落とした。

「ちょ、おま・・!!」

その握りこぶしの中に囚われていたオカマが、生命の危機に悲鳴を上げたが、もはやダミアンにはアウトオブ眼中。存在そのものすら忘却されている。

一方で巨人を迎撃する態勢をとった少女の表情も狂気に彩られており、オカマことヴィヴィアンの窮地に気付いた様子は微塵もない。

「ふざけんなっ!!」

間一髪―――火事場の何とやらだろう、ヴィヴィアンは自身を拘束している瓦礫の隙間に刀をねじ込み、地金がへし曲がるのも構わずこじ開ける。と、僅かな隙間から無我夢中で這い出した。

ほぼ同時に、拳はアンヘルに吸い込まれるように叩き込まれていた。

伸ばされる巨大な拳は少女の身の幅を優に超え、その先端は無数の突起が付いている。千切れた水道管や街灯、あるいは尖った鉄柵。そんな凶器の塊が、ゴオっと風きり音を伴ってアンヘルに迫った。

しかし、

「―――爆ぜろ」

小さく呟くだけの声。

その一言に導かれ、伸ばされたオーラが小さな左手に収束する。それが夜空に赤い燐光を棚引かせ―――――一瞬時に、巨腕が細切れになって吹き飛んだ。

響く、爆裂音。

それを目撃した全員が、動きを止めて絶句した。

「■■■■■■■■■■■■!!」

巨体が軋み、揺れ、傾ぐ。


物言わぬ巨像は絶叫するように全身を震わせると、今度は足の裏を振り上げた。自身の重量を最大限に生かすことができる攻撃、"踏み付け"だ。

それを再び、小さな腕が迎え撃つ。

「馬鹿な!!」

その悲鳴は、果たして誰のものだったか。

突き上げられた拳は巨大な足を粉砕し、続いて繰り出した蹴りは、前のめりに崩れて落ちてきた巨人の胴体を、いとも容易く断裂させる。

拳の一撃一撃が高密度のオーラを纏い、指向性を持った爆風が荒れ狂う。

溶解した石畳が赤々と光を発し、岩石蒸気となったかつてのゴーレムが、捲れあがった泥や土、へし折れた街灯を焼いていった。

「おおぉ!!」

その威力に、思わずダミアンは眼を見張った。まるで艦砲射撃を見るようだ。

インパクトの瞬間、纏ったオーラが漏斗を逆さにしたような独特の形状を取ったのを、ダミアンは見逃してはいない。

敵はモンロー効果を利用している。火薬学の初歩で扱う古典的な現象だが、単にオーラをたたきつけるより効果があるのは間違いない。プレート効果を利用していた事といい、多少は知恵の働くケダモノだ。

そして、確信する。

恐らく、この女は変化系の能力者。

能力でオーラを起爆性の高い物質に変化させている。固有の形をとっていないのがその証拠。具現化系という可能性は、もう排除してしまっていい。

専門家の間では、燃焼による爆発現象の内、発生する気体の膨張速度が音速に達しないものを『爆燃』、音速を超えるものを『爆轟』と呼んで区別するが、この破壊力は、まず間違いなく爆轟に達している。

これは、対能力者戦闘では極め付きにやっかいだ。

たんぱく質というのは摂氏80度で瞬間的に凝固し、それ以上の温度では燃焼する。どれほどオーラで強化されていようと、この物理的限界値が在る以上、生身の肉体の防御力に対する加算値は、この値に左右される。まともに格闘戦をやれば、格上の能力者にも通用するだけの攻撃力が、この能力にはあった。

まあ、それはまともに肉弾戦をすれば、の話だ。

「イフリーートォーーーー!!」

絶叫と共に、ダミアンの片腕が突き出された。

大仰な身振りにアンヘルが眼を奪われた刹那、地面から噴出す銀色の液体。

オイルのような異臭を放ちつつ、異形の念獣は猛スピードで飛び掛ると、一気に燃え上がった。地面から揺らめき立ち昇る蜃気楼のように、青白い炎の海が周囲の大気を嘗め尽くす。その余熱だけで大地は溶岩のように溶け崩れた。まるで火山地帯の間歇泉だ。

周囲の酸素をこの一瞬で奪い尽くした火の海は、その場の空間そのものを立体的に焼き尽くす。それも当然。摂氏にして数千を優に超える、極彩色の猛火。そのエネルギー量はいくら念に守られていたところで、脆弱なたんぱく質の塊を、固体から気体へと変えてあまりある。

だが――――突如、炎の壁は吹き飛んだ。

後には、女がその場に佇んでいた。体中を、焼け焦げさせながら。

全身に広がる創傷。熱傷、褥瘡、擦過傷、大量の内出血も見受けられる。発汗がおびただしく、顔色も悪い。呼吸が荒いのは肺水腫か?

加えて外耳孔からも出血。鼓膜が破れでもしたのだろう。もはや、マトモな聴覚は残っていまい。

「空を飛べるといって、空から来るとは、限らないねぇ」

ダミアンは、笑った。

率いる念獣どもはいささか数が減ったが、人一人囲んで叩くには十分。今も周辺の瓦礫や廃墟の隙間に潜み、ダミアンの命令を待っている。

何より、無理に勝負を焦る必要もない。

「さあ、お望みどおりの根競べだ、お嬢さん。思う存分、踊るといい。私はここで君がへばっていくのを、ただ見届けることにするよ」

相手は、能力を使うたびに、勝手に傷付いていく。

この危険すぎる力を、使いこなせていない。

いや、そもそもこの能力は、使うたびに嫌でも自身を傷つける。爆発による爆風の強さは、爆心からの距離の2乗に反比例するからだ。

例外的に、閉鎖空間における爆発はその限りではない。例えば、先ほどゴーレムの腕を粉砕して脱出した時などがそうだ。恐らく全身に纏ったオーラを一斉に起爆し、爆風で吹き飛ばしたのだろうが、大ダメージを負ったはずだ。

まったく、よほどの自爆好きと見える。イカレているとしか言いようがない。普通、胴体をつかまれた状態ででそんな能力を使ったら、バックファイアで自分がどうなるのか分かりそうなものだが。

ともあれ、ダミアンはこうやって断続的に念獣どもをけしかけてやればいい。地味だが、確実に出血を強要できる。後は煮るなり焼くなり自在に御座れ、だ。

念能力者としての常識で考えれば、これで打ち止め。あの反則も長く持つはずが無い。

だが――――

「くっ・・くくく・・」

少女の引きつるような、しかし、確かな、笑う声。

「・・・?」

懲りずに膨大なオーラを両手に収束すると、アンヘルは再び歩き出す。何の奇策も搦め手もない。いくらなんでも愚直に過ぎた。

(・・・さては、狂ったか?)

と、小首を捻ったところで、ダミアンは妙な胸騒ぎを覚えた。

はて、と首を傾げ、もう一度正面に視線を戻す。何か致命的な見落としをした気がしたような気がしてならない。

もう一度、状況を整理しよう。

相手は既に満身創痍。そして能力は使えば使うほど、ダメージを受けるという不条理な代物。一時的に膨大な量のオーラを得てはいるが、所詮は素人に毛の生えた程度の能力者だ、扱いきれていない。何を代償にして得た力かは知らんが、見事に宝の持ち腐れだ。

このまま爆発の威力を上げ続けては、ダミアンに手が届く前にダメージが蓄積して死ぬだろう。といって、爆発の能力に頼らなければ、窮地はぬぐえない。威力を下げてダメージをセーブしようにも、相手の技量では難しかろう。それに、他の念獣ならともなくゴーレムには生半可な力は通用しない。

やはり、ダミアンに負ける要素は一つもないではないか。

(・・・ああ。そういえば、一つ、とられたら厄介な手があるにはあるが・・・)

だが、いくらなんでもそれはない。とダミアンは思った。

何せ、その方法では、確実に・・・・

「・・・あ゛ぁ!!」

そこでようやく、恐ろしい事実に気が付いた。

誰あろう、ダミアン・ハービィこそは大量破壊兵器の製造と使用に関する第一人者である。そんな男だからこそ、いち早く気づくことができた。

誰もが見落としていた、アンヘルという念能力者の異常性と、その脅威に。

「Liquid No・・・・いや、全部出ろ!!」

呼びかけに応じ、瓦礫の山が爆発したように隆起し、再び巨人が姿を現した。足元に、無数の雑多な念獣を従えて。その全てが殺傷力の高い特殊成分を秘めている。

まさに万全の布陣。出し惜しみ無しの決戦兵力。

しかし、もはやダミアンにとって、それらはタダの壁に過ぎなかった。

この全てを使い潰して構わない。絶対に、あれを近寄らせてはならない!

「まさか・・・まさか、そんなことが・・!!!」

ない、とは言い切れない。

震え声でダミアンは呻いた。

(爆薬に、なるというのか?!あのオーラの全てが?!)

仮に、身に纏ったオーラの全てを爆薬に変化させられるのだとすれば。

それはもはや、人の形をした超大型爆弾と同義だ。

少女の身長は目測で170センチ前後。この国の女子平均身長から推測すれば、体重は60キロ程度。いや、やや筋肉質なのでもう数キロ加算されるだろうか。それを、おおまかに同重量のトリニトロトルエン、即ちTNT火薬に置き換えて計算した場合、起爆時の想定破壊力は・・・・!!

ゴクリ、と思わず喉が鳴った。

どう考えても、ここいら一帯を破壊しつくしてお釣が来る。

しかも、これは爆薬の量を最低に見積もった場合の数字だ。少女の全身から放出されているおぞましいほど大量のオーラは、どう見ても能力者自身の体積より遥かに大きい。

その上、相手が正確にはどの程度の爆発物を生み出せるのか、想定できない。ゴーレムを圧倒するあの威力、仮にプラスティック爆薬程の威力があれば破壊力は1.34倍、あるいはHNIWクラスなら2.4倍掛けになる。いや、それ以上の破壊力にならないと、いったい誰に断言できるだろう。

タチの悪いことに、念能力には覚悟だの決意だのといったダミアンの大嫌いな精神論が、ある程度ご都合主義的に実現されてしまうという邪悪極まりない性質がある。これがまた酷い事に、累乗倍くらいの加算率で念の威力を跳ね上げてしまう。

さて、変化系の能力者はオーラを手放すことを苦手とする。これは絶対だ。しかも、この女は能力者としてかなり未熟な部類に入る。これも確定だ。

先ほどの闘い方を見るに、オーラを念弾にして飛ばすとか、そういう『安全』な使い方は出来ないと見ていい。だが・・・だが、もしオーラを『手放す』という条件を放棄し、且つ最大威力を生むことだけを望んだら――――



「ふ、ふふ」

不意に、少女が小気味よさそうに笑う。

その顔を見て、思わずダミアンは悲鳴を飲み込んだ。こちらが、ようやくその意図を察したことに気付いたのだ。



――――そんな危険極まりない能力の持ち主が、ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべながらこちらににじり寄ってくるのだが、その理由とはいったいなんだろうか?

もちろんダミアンはその優秀な頭脳でもって、速やかに正解にたどり着いた。

「こ、こここ、この狂人めえっ?!!死にたいなら一人で死ねぇ!!!」

あの少女の形をしたケダモノは、敵と、つまり自分と刺し違える気だ!

スーサイドアタック、自爆特攻、あるいはKAMIKAZE!

この状況を簡潔に例えるなら、相手は全身に爆弾をたんまりと抱え、攻撃してきたら何もかも巻添えにして自爆するぞと脅迫しつつ、無抵抗のこちらをフルボッコしようとしているに等しい。まさにテロリストのやり口だ。

「アッハッハッハッハ!!」

キチガイじみた哄笑。

高笑いと共に少女が腕を一振りすると、そこから衝撃波が生じた。

稲妻のような轟音が響き、閃光が周囲を満たす。空気は帯電したように赤く発光し、爆風が吹き荒れる。群れ集っていた念獣が、その一薙ぎで吹き飛んだ。

有機溶剤の塊が、熱波に晒され溶け崩れる。異臭を放ち、高熱を放ち、連鎖的に誘爆する念獣の群れ。同時に、その中身が一斉にあふれ出す。

神経ガスが、猛毒の薬物が、高密度の爆発物が、あるは高温の火炎が、辺り一帯を地獄に変える。それこそが、ダミアンの作る悪魔達の真価。

だが、届かない。

人体に甚大な被害をもたらす、そのいずれもが、彼女の元まで届かない。

小波がより大きな波にかき消されるように、極限まで高められた爆風は、空間を断絶し、あらゆる有象無象を遥か彼方に吹き飛ばす。

空間広がる波紋。発生源を中心として、扇状に広がる破壊。赤い燐光が、その間に存在する全てを薙ぎ払った。

当然、後方に位置していたダミアンも無事ではすまない。

「おおおォォ・・・!!!!」

波打つような衝撃に、ダミアンの体が浮いた。

視界が反転する。横でも縦でもなく、不規則に。つまり、吹き飛ばされたらしい。重力を失い、背中から、何か硬くて重いものにぶつかる鈍い音がした。打ち付けられ、跳ね飛ばされて、転げ落ちる。口に入り込んだヘドロを吐き出しながら、ようやくダミアンは顔を上げた。

よろよろと立ち上がった途端、腰に激痛が走る・・・持病の腰痛だ(基本、デスクワークの多いダミアンは椎間板ヘルニアを煩って久しい)。独特の痛みに呻いたところで、慌てて敵の追撃に備えた。爆煙に巻かれて接近されたら、それこそアウトだ。

相手は、まだ元の場所に立ち尽くしていた。

突き出された黒い手袋が、白い煙を上げている。赤熱し、ブスブスと焦げて融解したそれが放つ異臭に、肉の焼け焦げる臭いが入り混じり、ダミアンの鼻腔まで届いた。

あの手袋自体は難燃素材で出来ているのだろうが、あまりに常軌を逸した高熱と破壊力に、その下の肉が耐えきれなくなっているのだ。

(・・・キチガイだ!!)

こいつは自分が傷付く事など、いや、死ぬ事すらなんとも思っていない!

これは、もはやダミアンの理解を超えている。

念能力者は、程度の差はあれ、選ばれた人間だ。念を習得できるのは十万人に一人。才能を持つものだけに開かれた狭き門。それを潜り抜けた優勢種だ。

だからこそ、信じられない。

神に与えられた才能を、凡愚には決してたどり着けぬ境地を、こんな自滅的というのも生ぬるい能力に費やし、あまつさえ、他人にやらせるならともかく、こんな狂気の沙汰を躊躇なく実行するなどと!!

(いやいや・・・恐怖に飲まれてどうする。恐怖は悪魔の武器、飲まれたものが馬鹿を見る!)

自ら爆弾を身に纏い、人質を撃ち殺し、アッラー・アクバルと唱えるのはテロリストの常套手段だ。こちらの正気を疑わせ、相手の譲歩を引き出す。

つまりは、ハッタリ。そう、ダミアンの冷静な部分が指摘する。

だが・・・だが・・・

「・・・!」

両手をダラリと垂らした少女と、眼が合った。

焼け欠けた唇。噴出した鼻血。白い歯を剥き出しにした、狂気の笑み。赤いオーラが全身から噴出し、猛る。その全てに、例えようのない寒気を覚えた。

そして、再び少女は歩き出す。

「こ、こっちに来るなあァ!!」

ダミアンという男は多くの能力者がそうであるように、武術だの武道だのには一切興味がない。特に、戦いに喜びを見出す戦闘狂などとは無縁である。全ては金と実験のためだ。

そのやり方は、老獪を絵に書いたように抜け目ない。常に相手の弱点を探し、策を用い、状況に応じてさまざまな念獣を繰り出しては、確実に獲物を追い詰める。

しかもその間、自分は安全な場所で高みの見物。戦場に出てくるのは、トドメを刺す時だけ。腕に覚えのある筋肉馬鹿が、無様な末路を晒すのをとっくりと眺めるのが、何よりの好みだ。

だから、盛況な敵の前に身をさらすという状況は、これまで経験した事もなかった。

それが、卑劣極まりない男に、久方ぶりの『恐怖』という感情を揺り起こしていた。






抱えた爆弾、死の行進。

先刻、哀れな女性達によって演出された、狂気のパレード。

まるでその再現のように、アンヘルは歩いた。

違いは、ただ一つだけ。

彼女は自らの意思で、その場に立った。

自らの命を使いながら。

















「クッ、クカカカカカカカッッ・・!!!」

全身ボロボロで、血反吐を吐きながら、それでも立ち上がり、相手を脅迫しだした―――少なくとも傍目にはそう見えていた―――アンヘルを見てヴィヴィアンの総身が震えた。

ほんの数日前に初めてやりあった、切れすぎるナイフみたいなクソ餓鬼。短い付き合いなのはともかくとして、よしゃあいいのに、自分から首を突っ込む馬鹿な奴だと思っていたが、ここまで馬鹿だとは思わなかった。

目には目を、歯に歯をというには、いくらなんでも度が過ぎている。

「あんの糞餓鬼ァ、妙なアドレナリン出しやがって!冗談と本気の区別もついてやがらねえ!だから餓鬼は嫌いなのよっ!」

あの餓鬼は燃費が悪い。

念を覚えたてなのを差っぴいても、オーラの上限はいいとこ中の上。おまけにあの能力だ。調子に乗ればすぐガス欠になる。あの時、意識を失ったのも、オーラを使いすぎた反動だ。無意識のうちに体が防衛反応を起こしたのに違いない。

たぶん、本当にぶちぎれて、ギリギリの状態じゃないと『ああ』ならないよう、体の方がリミッターをかけている。

そうそう、使えるわけはないのだ。ないところから、無理やりオーラを搾り出すようなイカサマは。何もかも搾り出されてオケラになる、そういうアコギな博打だ、あれは。

そこまで考えたところで、ヴィヴィアンは無性に腹が立ってきた。

「――――・・・っ!!」

勢い良く立ち上がろうとしたところで、こける。

見れば、左の掌に黄色いドロドロがこびり付き、瓦礫にしっかりと接着されていた。力を入れても、ちょっとやそっとでは取れそうに無い。

「あーもー、うっとおしい!!」

ベリッと、生皮をはぐ音。後には、赤い手形が残った。

「イチチ・・・ちょいと、奥さん。気付いてると思うけど、アレ、やばくね?」

隣で「アーアー」と喉の調子を整えていた人妻に、話を振った。

「ええ、まずいわよねえ。さすがにあのオーラで自爆されたら、ぞっとしないわ。巻添えになる前に、避難しとく?」

ヴィヴィアンは頭を抱えた。

一見、人当たりがいいので誤解していたが、この女は最悪だ。

「・・・あの子ってさあ、一応あんたらの身内じゃなかった?もちっと、こう、人情味とかあってもいいんじゃない?」

ミツリは一瞬、きょとんとした顔をしたものだが、やがて理解したように「ああ!」と相槌を打った。

「一応、気にはかけてるわ。知人の娘さんみたいなもんだから。でも、それだけよ。正式に組に入ってるわけじゃなし、正直微妙なところね」

この人妻の形をした何かは、困ったように頬に手をあて、むしろこちらを不思議ものでも見るかのよう眺めてくる。

「そっちこそずいぶん肩入れするじゃない?あの子とは殺しあったって聞いてるけど?」

「・・・別に。餓鬼が命張ってるのに、ケツ巻くって逃げるのが気に食わないだけさね」

そう言うと、女が唇だけ動かして薄く笑うのが彼には分かった。

心中を見透かすような、嫌な笑いだった。

「ま、そういうことにしといたげる。で、どうする気?あの子、完璧にテンパってるわよ。飛びついて、ひっぱたいて、説教でもする?命大事に!って」

ヴィヴィアンは顔をしかめた。

「攻撃してきたら自爆しちゃうぞ!って、『やるやる詐欺』かましてる希望はないかしら?」

ミツリは冷静に首を振った。

「それ、本気で言ってる?あのくらいの女の子には、自分の世界が全てよ。周りのことなんか見えてない。・・・悪いけど、出目の低い賭けには乗れないわ」

そこまで分っていて、見捨てるというのか。

ヴィヴィアンはその思いを口には出さなかった。自分にはその資格がまったく無かったから。

「・・・じゃあさ、ひとまずあのクソ爺を横合いから、さらっとぶっ殺しましょうよ。あたしがオフェンスで、あんたは後ろからサポート。オーライ?」

「目立ちたがりは早死にするわよ、お兄さん。その足じゃもう、持ち味のスピードが出ないでしょう?」

事実だ。

先ほど、巨人から脱出した際に、左足の腱を痛めている。

別に隠すつもりはなかったが、この女は事この期に及んでも、非人間的なくらい冷静に状況を把握しているらしい。

その事に、何故だかイラつく自分がいた。

「わたしも何とか出来るなら何とかするけどさぁ、どうにもならないものは、どうにもならないじゃない。・・・ねえ、本当は気付いてるんでしょ?あの子、たぶんもう助からないわ」

ニトロを使ったエンジンは、ただの一度で焼きついて二度と使い物にならなくなる。あの娘が使ったのはそういう力だ。

ミツリが痛ましそうにそう言うと、ヴィヴィアンは「いやいや」と首を振った。

「そこはそれ。あんたも気付いてたと思うけど、何とか出来そうなのが、今近くに来てるわけじゃん」

親指を立て、後ろをくいくいと指差す。

「さすがにヤマダさんでもきついと思うけどなぁ・・・」

ミツリはぼやいたが、引かないという点に関しては彼女も同意見だ。何せ、あの爺をここで殺しておかないと、枕を高くして眠れない。

「ジローちゃん見くびっちゃダメよ。たぶん、任せれば、何が何でもどうにかするわ。そこは、・・・あたしらとは、根本的に生き方が違うもの」

あの男は、口でどう言おうとも、傷付いた人間を放りだすことなどできない。

自分の力を人を傷つけることに使わず、『治す者』として自身に線引きをしている。そう腹を括っているからこそ、人を救うことにのみ、念を費やしている。

「・・・あーゆー、こまっしゃくれた餓鬼って、つい凹ませたくなるじゃない?テメーひとりで、この世の不幸の全て背負ってますってカンジでさ。そういう餓鬼の鼻っ面を引っぱたいて、生きろってぶちのめすのは、ちょっとしたカタルシスだわさ」

「それは・・・もしかして経験者は語るってやつ?」

ミツリは面白そうに男を眺めた。

「なんとでもおっしゃいよ。オタクも身に覚えがないかしら?」

「正直、ありまくりねー。バイクで走ったわけじゃないけど、十代の頃ってそんなものじゃない?」

膨大なオーラを纏いながら老人を追いつめている少女が、ミツリには泣きながら癇癪を起こす子供に見える。ギリギリまで追い込まれて、心の奥底に押し込めていたものが溢れたのだろう。

「何もいらない!こんなのいらない!だから、パパとママを返して!」・・・そう言って、泣きながら手当たり次第に手にしたモノを投げ捨てようとしている幼い子供。手に入れた力も、命も、何もかも捨てて、亡くしたものに追いすがろうとしている。失ってしまったものは、決して返ってこないというのに。・・・確かに、身に覚えのある話だ。

何もかも無くて、何もかも欲しくて、自棄のように暴れ回っていた、あの頃の自分。何もかも恨んで、呪って、いつ死んでもかまうもんかと、馬鹿ばかりやっていた十代の自分。「家族?恋人?仲間?友人?何それ、おいしいの?」そう、恥ずかしげもなく口にしていた馬鹿な自分。

「・・・ま、いいでしょ。あの子、けーたのお気に入りだし、出来れば生きててもらいたいのは確かだわ」

ミツリはため息を吐くと、全身に力を漲らせた。

ミツリの傷も浅くはない。何せ、数十分も氷点下数十度の極寒状態に置かれていたのだ。酸素欠乏症も相まって、体力の消耗は著しかった。

普段の数倍の時間をかけて"錬"を行い、なけなしのオーラを練り上げる。

ミツリの全身を、ねっとりと絡みつくような不気味な色合いのオーラが覆い、それに伴って呼吸が深く長くなっていく。

「どの道、爺に余裕がなくなってる今がチャンスね」

ようやくやる気を出した人妻を横目に、口から流れ出た血を袖でぬぐうと、ヴィヴィアンは太刀を構えた。

「んじゃ、ま。もう一働きしますか・・・・・・ゴホっ」

その手には刃こぼれ、地金の歪んだ鉄の塊。人と剣は一心同体、なーんて教えもあったっけ。そんな、馬鹿なことを思い出す。

「もう、一振りだけ。それで、いいからさ。・・・もちっとだけ、もってよね」


















「あ、づっ――――・・・!!!」

身の丈に余る能力行使の反動に、全身の血が沸騰する。

瞬時に停止しながら、不規則な鼓動を繰り返す心臓。激痛と衝撃で麻痺する脳髄。末端から壊死していく神経。引きちぎられる皮膚。

錆びた刃で全身を引きかきまわすような痛みが、絶え間なく襲ってくる。すぐにでも、全て投げ出して泣き叫びたかった。・・・でも、できない。したくない。できるわけが、ない。

アンヘルは喉の奥からあふれ出た血を、無理やりに飲み下した。

「・・・・か?」

「は?」

かすれた声。風に流され、ダミアンには聞き取れなかった。

「・・・なあ、怖いか。でも、やらされる方は、もっと怖い」

「なら止めにしよう!!」

その言葉に飛びつくように、叫ぶダミアン。

だが、アンヘルはダミアンの言葉が聞こえていないかのように、続けた。

「・・・なのに、誰も気にしないんだなぁ、これが。当たり前みたいに、切り捨てて、受け入れて。・・・ああ、自分でも分かってるさ。自分に出来ない事は、口にするもんじゃないってさぁ・・・」

ダミアンには、分からない。

アンヘルの言葉が、理解できない。

彼女が何を思い、何に憤り、何のために、この無謀な行為を続けているのか。

「・・・そうだよ、オレに何ができる。一人助けたからなんだってんだ。なら、なんで、オレはこんなことしてるんだ・・・?」

奈落の底のような目に、消え入るような声。

「あの時もそうだった。あいつは、逃げろといった。母さんも、逃げなさいって言った。二人とも、オレなんかを生かそうとして・・・オレなんかを庇って・・・」

壊れた、笑み。

呟きながら、アンヘルは一歩をつめた。

「それでも、ただ死ぬなんて、できない・・・。そんな事は、許してくれない・・・。精一杯生きなければならない・・・。生きぬく術を、あいつは教えてくれたから。母さんも望んでたから。・・・でもさ」

一歩、また一歩と距離をつめながら、独白は止まらない。

「・・・闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って、闘って!闘って!闘って!闘って!闘って!闘って!、闘って!、闘って!、闘って!、闘って!、闘って!、闘って!、闘って!!」

初め小さく、最後には気が狂ったように大声で「闘って」を繰り返し、足を振り上げ、踏みつける。一撃が炸裂するたびに、轟音が響き、火炎が猛り、空間が炸裂した。

それを目の当たりにしながら、ダミアンはもう動く事ができなかった。目の前の相手は、どう贔屓目に見ても、理性が剥げ落ちている。

「その後でなら、いいよね」

にっこりと、笑う。まるであどけない幼女のような、泣き笑い。

「だって、どうせ、コンクリート漬けで、暗い海の底で目が覚めるだけなんだから・・・」

そんな空恐ろしい声で呟かれたとき、ダミアンの恐怖は絶頂に達した。

瞳はドス黒く、真っ暗に濁っていて、目の前にいるダミアンすらも見ていない。

その顔に浮かんだ表情は唯一つ―――絶望だ。

失うもののない死兵こそ、この世で最も恐ろしい。

「お、落ち着きたまえ、お嬢さん!!そ、そうだ、そんな無茶はいけない!き、君の御両親も嘆かれる・・と思うぞ!!」

それまでどこを見ているか定かですらなかった瞳が、不意にダミアンを捕らえた。

血にまみれ、ほつれた金髪の下から、ギョロリと睨み付ける。青い、背筋が寒くなるほどに真っ青な目玉が怒りに染まっていた。

最後の一言が地雷を踏み抜いたというのは、ダミアンには理解できなかった。

「あの子の体は、冷たかった。・・・冷たかったんだ」

眼の痛くなるほどに赤いオーラが炎のように滾り、揺らめき、生き物のように蠢き騒ぐ。

「氷みたいに冷え切ってるのに、気味が悪くなるくらいに柔らかくて。オレの耳元で蚊が鳴くみたいに囁くんだ、ママって」

辺りを漂う埃や塵芥が、アンヘルの纏うオーラに触れ、バチリと火花を散らして破裂する。

何を言っているのか、ダミアンにはまったくもって理解できなかったが、とにかく拙い。

話の前後に脈絡が無い。唐突に別の話に切り替わり、整合性すらとれていない。相手は、明らかに錯乱している。

自暴自棄になって開き直った者ほど始末の悪いものはない。しかも、その相手に規格外の大量破壊兵器じみた力が備わっているすれば尚更だ。

「な、なあ、お嬢さん、き、聞きたま、・・いや、聞いてくれ!私が悪かった、謝る!!だから、落ち着いて冷静に話し合おう!!」

声が震えてしまったのは、この際仕方のないことだろう。

「あぁ?」

その一言に込められた感情に、ダミアンはギリギリの精神状態を感じとった。

容器に満たされ、表面張力で保たれた水。あるいはメルトダウン寸前の原子炉か。いずれにしろ、これ以上刺激するのは得策ではない。

まさか、自分が狂人の相手をする羽目になるとは、思いもよらなかった。こんなのは官憲の仕事だ。さもなきゃ医者か坊主でも連れて来い。間違ってもテロ屋の領分ではない。

ダミアンはもう何がなんだか分からなかったし、正直、分かりたくもない。だが、一つだけハッキリと、これだけは言える。自分は今、棺桶に片足を突っ込んでいる。

ダミアンの決断は素早かった。

(・・・・なんとか、速攻で仕留めるしかない!!)

自分が死んだ事にすら気付かぬほどに。

「そ、そんなことを言わずに、まあ聞いておくれ!!年寄りの話はきくもんだ!!」

後ろ手に杖の握りを軽く捻ると、先端から飛び出ていた刃が引っ込み、代わりに透明の液体がとろとろと流れ出す。それは地面に吸われることなく、にょろにょろと鎌首をもたげると、静かに瓦礫の隙間を這いだした。

毒獣(ヴァイパー)。

その名の通り、シアン化物系の猛毒に念を込めただけの代物。雑な仕組みの念獣だが、人体に触れると、浸透圧の関係で速やかに血中に取り込まれる。そうなれば、ほぼ即死だ。

組成としては単純極まりないが、いざというときのお守り代わりに常に携帯している一品だった。もちろん、"陰"を施すのも忘れてはいない。手っ取り早く殺すにはこれに限る。

ただし、これはダミアンの作る念獣に共通する弱点だが、動きがとろい。相手のスピードなら、難なく避けられてしまうだろう。

普段ならこれを気化させ、青酸ガスとしてばら撒く手もあるのだが、今それをするとダミアン自身も巻添えになる上に、あの恐るべき爆風で吹き飛ばされてしまうだろう。

確実に当てるには、もう一つ細工がいる。

「聞いておくれ、お嬢さん!あの可愛そうな女性達を操っていたのは私ではないんだよ!やったのはブッディだ、あの男がやったんだぁ!私は悪くない!」

ダミアンは、哀れな老人のように泣き崩れた。涙を流して膝を突き、両手を組んで慈悲を請う。

それを、空ろな瞳で見つめながら、少女は無造作に距離をつめる。好都合だった。

一歩、一歩と迫り来る相手に合わせ、後ずさりするダミアン。

無様な演技を続けながら、相手を望む方向に誘導する。ゆっくりと、そうゆっくりとだ。ジャングルで肉食動物に遭遇したときのように。

滴る汗がスーツの内側をぬらし、汗と老廃物のにおいを撒き散らす。それだけは、演技ではなかった。

やがて、とうとう背に瓦礫の残骸があたり、彼は追い詰められた。それは、先ほど破壊された地精(ゴーレム)の残骸、アンヘルによって分たれた上半身だった。

「お願いだぁ、許しておくれぇ!!―――――・・って掛かったぁ!!」

刹那、アンヘルは見た。

ダミアンが背中を預けていた瓦礫の山が、唐突に弾けとぶ。そこからあふれ出したのは、膿のような黄緑色の粘液。それは大きく膨れ上がり、獲物をを絡め獲る蜘蛛の巣のように、爆発的に広がった。

その正体は、ゴーレムの本体ともいうべき粘液。この念獣、土砂や岩石の外郭を纏わせ、巨人として運用するのは二次的な利用に過ぎない。本来の用途は、捕獲用だ。

「クカカカッ!!ざまあみさらせ、クソ餓鬼がぁ!!」

ダミアンが勝ち鬨を上げた時、いくつものことが同時に起こった。

初め、ヒューという風切り音。何かが高速で飛来する音、それが何よりも真っ先に、ダミアンの聴覚に届いた。ただし、そのときには彼の意識は、攻撃命令を下したばかりの念獣に注がれていて、それを気にするどころではなかった。

その視界の先には、どこの死角から忍び寄っていたものか、鎌首を上げた、鋭い鞭のような毒の蛇。それは既にアンヘルを射抜く起動を取っていた。

そして―――アンヘルは、背中に脅威が迫ってきたことを鋭敏な感覚で感じ取っていた。

だが、動けない。

その全身には汚らしい粘液が絡みつき、完璧に拘束している。

咄嗟に利き腕をかばい、左手を捨ててガードしつつも、なお粘液の糸は強力な吸着力と繊維のような頑健さで、アンヘルの体をその場に固定していた。

そのコンマ数秒もない時間の中、静かにアンヘルは無為を悟り、

「・・・ああ、もう。仕方ない、かぁ」

心の中で起爆スイッチを押そうとした、その時だった。

「え―――?」

ビシャリ、と。

液体の弾ける音。

「―――はっ?!」

空間に広がる波紋。見えない壁。

ダミアンの奥の手は、見えない壁にぶち当たったかのように、粉々に砕け散っていた。人体に致命的な影響を及ぼす液体、その一滴すら、アンヘルには届いていない。

「こ、これは・・まさか!!」

ダミアンには、それが凝縮された音波の壁だと、一目にて分かった。何せ、かつて彼を守るために振るわれた力なのだから。

「このくらいの嫌がらせは、ね」

振り向けば、黒衣の女が勝ち誇ったように笑っている。

「ジェーーン!!!」

怨嗟の声を上げたダミアンの足元から、噴水が吹き出るようにして、無数の念獣がわきだした。

念獣はダミアンを守るように立ちふさがったが、そのなけなしの手札も、かつてダミアン自身が兵器として育てた女には通用しない。

「・・・・――――!!!」

ミツリの喉が、小鳥が歌うような甲高い音色を吹き鳴らす。

すると、彼女の周りに六つの赤い光球が出現した。

空気の密度を圧縮して作り出す熱気弾。空気の塊を高密度に圧縮する事で、ジェットエンジンと同じ原理で高熱が発生、大気を赤く発光させる。さらにオーラを注ぎ込んで出力を上げればプラズマ火球となるが、こうやって威力を抑えれば数をそろえることができる。

赤い光は次第に白から青へと変化すると、次の瞬間、目にも止まらぬスピードで、ダミアン目掛け殺到する。

目も眩まんばかりの閃光が走ると、盾となった念獣どもがドロドロに溶けて蒸発した。地面は絵の具をぶちまけたキャンバスのように極彩色で染まり、周囲に悪臭が満ちた。

「・・・コンダクター。楽団を失った指揮者なんて、とうの昔に用無しでしょ?とっとと退場なさい」

ミツリは皮肉気で外連味のある不気味な笑みを浮かべていた。

「年貢の納め時だぜぇ、厨二爺ぃ!」

その背後では、凄まじい形相をしたオカマが、ボロボロの刃物を手にしていた。

今やどちらも手負いの獣、こちらを殺したくてウズウズしている。

「き、貴様ら・・卑怯だぞ!!」

虫の息の半死人どもを、まとめて甚振り殺す算段が、今や手持ちの念獣をほぼ失った状態で、三対一。これを卑怯と呼ばずして何と呼ぶのだと、ダミアンは半ば本気で思った。

「卑怯?今更、どの口が言うわけ?」

「そういう台詞は、正義の味方にでもお言いよ、悪党」

悪党どもは、舌なめずりをしながら、無防備な彼を殺そうとしている。

これは、何かの間違いだ。

インチキである!ペテンである!

だが・・・・だが、これは、さすがにもう無理だ。

ダミアンは、勝利を諦めた。

「・・・分った!私の負けでいい!!」

ならば、ココからは話し合いの時間だ。こちらも苦しいが、相手も苦しい。妥協の余地はあるだろう。

交渉の基本はダミアンも心得ている。何せ、テロリストには必須の技能だ。いかに冷静でイカレているか、相手に理解させるのがコツだ。それで大抵の相手はこちらの要求を鵜呑みにする。武力外交の基本だ。なのだが・・・

「なぁにぃ?」

口から血を吐きつつ、ほがらかな微笑で、少女は拳をふり上げようとしている。額に、メキメキと青筋を浮かべながら。

これは、もしや単にぶちきれているだけなのではないだろうか?

当然のことではあるが、理屈で動かない人間には、そもそも交渉の余地は無い。

・・・いや、気のせいだろう。

気のせいに違いない。

気のせいに決まってるじゃないか!

まったく年の割りに交渉のうまいレディだなあ、アッハッハ!

ダミアンは錯乱していた。

「よしきた!お互いプロなのだから、ここは遺恨なし、手打ちといこうじゃないか!い、いや、もちろんタダでとは言わないとも、タダでとは!だから・・・!」

相手にいくらまで値切らせるか、ソレが勝負どころだとダミアンは思った。

「・・・だから?」

「う、うむ、だからここは一つ穏便に・・・」

「だから?」

「・・・・え?」

「だぁからぁあああ・・・!!!!」

少女は血反吐を吐きながら、声を枯らして叫んだ。

「い、いのちだいじにぃぃぃぃ!!!!!」

自分の股間からアンモニア臭い液体が噴出していることに気付かず、ダミアンは叫んだ。

「馬鹿野郎・・・オレも地獄まで付き合ってやる。あの子に、何をやらせたのか、自分で味わえ」

夜闇のはるか端が、かすかに白みはじめていた。

少しだけ、海を振り向いアンヘルの横顔を、淡く白い光が照らし出す。視線を朝日に向けたその表情が、不意に憂いを帯びた寂しさを覗かせた。

だが、それも一瞬だけ。

アンヘルは、夜空に向けて手を伸ばした。

指先に点った赤い燐光が、空間に淡い軌跡を描く。光が走り、全身のオーラが波打ちながら、徐々に掌に集っていく。ゆっくりと、長い時間をかけて。乱気流のように全身を取り巻いていたオーラが、ただ一点に集まっていく。

始め、両手に一抱えもありそうだったオーラの球は縮み、やがて拳に収まる程度にまで収縮した。

すでに実体を持つほどに凝縮されたオーラの固まり。不気味に鳴動し、赤と白の点滅をゆっくりと繰り返す。しかもその感覚は徐々に短くなっていく。

秒読み、カウントダウン・・!!

ダミアンの脳裏をそんな言葉がよぎった。

それが何を意味するものなのか、今更思い巡らすまでもない。

「あああああ!やめろおおぉ!」

ダミアンが胸を押さえて悲鳴を上げ、足をばたつかせてゴロゴロと転がるように逃げ出した。アタフタと無様にも四つんばいになりながら、ゴーレムの残された下半身に取り付く。

「はああああぁッ・・・!!」

ダミアンはもう死に物狂いで精孔を活性化させた。

久々に行う煉。熟練の能力者のそれに比べれば、アホのように稚拙な念能力の基本技。研究にかまけて基礎修行を怠ったツケだ。全身を汗みどろにして生み出したオーラの全てを、崩れた巨体に注ぎこんだ。

「ゴレーヌ、突撃形態!!」

ダミアンが命令すると、岩石の巨人は即座にその巨体を変形させた。

巨大なニ脚が胴体に収納され、卵のような歪な球体を形作る。その側面に、新たな足が生えた。太く、短く、巨体を維持しながらも力強く大地を蹴るための四脚。さらに、胴体の前部には鳥の嘴にも似た円錐形の頭が、後部には太く短い尾が現れる。最後に、後頭部から首の上にまで傘のようなフリルが覆い、捩れた枯れ木のような三本の角が飛び出した。

その形は、かつて古代に存在したという巨大生物を模していた。

巨大な獣は前足を軽く地面に擦り付けると、闘牛に駆りだされた牛のように、頭部を前に突き出して突撃の構えを取った。

「いけ!!」

「■■■■■■■■■■■■!!」

全身を軋ませながら、突進を開始した。

この巨体と質量、さらに突進の運動量を加味すれば防ぐのは至難。おまけに突進という攻撃の性質上、当然逃げても追尾する。

だが、この場で重要なのは、この巨体と突進力から生み出される運動エネルギーだ。それが、後方のダミアンを守る盾になる。

ダミアンはその結果を見届けることなく逃げ出した。

脅威度を、見誤ってはいない。今は危険な殺人狂共に後ろを見せてでも、あの少女型爆弾から距離をとらなければならない。そう計算する老人は、どこまでも生き汚かった。

だが、一目散に駆け出したダミアンの右足に、激痛が走った。

「ぐ、はぁっ!!」

その場に、転倒する。

見れば、太ももに深々と刺ささった刀。その向こうには、こちらを見て冷笑するオカマの姿があった。

「キ、キサマっ!!」













直後、光が満ちた。














激発のとき。

アンヘルは見た。

殺すべき相手―――爺の盾となるよう、こちらに突撃する巨大な獣。

"岩―――?・・・またあのデカブツか"

懲りずに、良くやる。

特徴的な三本の角を突き出して、四足で駆ける瓦礫の巨体。ぱっと見、あの巨人ほどの体積は無いが、スピードは上だろう。速度も体積も、大型のトラック程度。つまり、衝突の威力もそのくらいというわけだ。

こっちはベトベトした接着剤のようなもので、地面に縫い付けられていて、どうにも身動きが取れない。だが、オーラを集中させた右腕は健在。能力を使うだけなら、問題ない。

どの道、ここまで来て、止める気はなかった。

"残らず全部、くれてやらぁ!!"

突き出した右腕に、固体状態にまで凝縮されたオーラの塊。いつの間にか、それを歪な漏斗型に整形していたことに気付いて、苦笑する。

ただそのまま起爆させるだけでも、十分な威力になっただろう。だが、かつてあの男に叩き込まれた技を、アンヘルは無意識のうちに使っていた。

その拳を、力の限り突き出す。

――――同時に、意識の箍が飛ぶほどの衝撃が、全身を貫いた。

拳の先にに閃光が迸ると同時に、水面のように空間が波立ち、うねる。すると、瓦礫の巨像に、すっと黒い点が生じた。それは見る間に赤熱し、溶解し、最後に気化すると、赤黒い噴煙をまといながら粉々に砕け散る。

直撃を受けた巨獣を易々と貫通した熱波の渦は、威力を保ったまま、その向こうに広がっていた廃墟郡を襲った。ヨークシンの古き悪しき時代の遺物は、まるで津波にさらわれた砂の城のように、一瞬で熱波に飲み込まれた。崩れ、焼かれ、散り散りに吹き飛んでいく。

物理的な威力、衝撃の反作用。平時の彼女なら――――何もかもを犠牲にして一事しのぎの力を得ていなければ―――一秒として生きていられたはずはない。

それほどの威力、それほどの奔流。

発生する高熱は全てを溶かし、衝撃波は溶け落ちたもの全てを薙ぎ払う。

制御せずに力を打ち出すことは、念能力者にとって禁忌だ。もとより物理を超越した埒外の力。正しく、何がどう起こるかわからない。

だが、アンヘルは構うことなく、全ての力を注ぎ込んだ。

なにもかも、自分に差し出せるものは全て振り絞って得た赤い力。その一片、一滴、一寸すらも残さずに、全力で使い切る。

視界は赤を通り越し、既に白熱したオレンジ色。網膜に緑色が焼きつく。

その爆発の中、轟々とおびただしい破壊音が耳に流れ込んでくるのを、彼女は冷静に捕らえていた。鼓膜など、とうに破れてはいたが。

掌を包んでいた、燃えぬはずの手袋が、沸騰して消えていく。その痛みと熱さが腕の先から肩に這い上がった。それでも止まらない。否、止められない。

「ああああああああっ――――!!!!」

彼女は、自分が悲鳴を上げていたことに気づいていなかった。ただ、何かが砕け散る感触がして、突き出した右腕の感触が、残らず消失したことだけはわかった。

指向性を持たせるといったところで、全ての破壊力を一方向にのみ向かわせる事などできはしない。

術者自身を焼き滅ぼすに、十分な衝撃と熱量。

全身の細胞が焼き尽くされる痛み。

それが、小さな少女を嘗め尽くす。

あの雪の日、初めて繰り出した自身の最強。それを優に千倍は上回る力が、彼女を内側から食い滅ぼそうと暴れ狂う。

その破壊力は、脆弱な人体を破壊しつくして余りあるだろう。そう、どこか他人事のように考える自分がいた。

時が止まる。

何もかもが、止まったまま過ぎていく。

光の中で、アンヘルはどんどん水底に向かって引きずり込まれてゆく感覚を覚えていた。

そして、落ちてゆく。赤く暗い、血の色をした暗闇に向かって、深く、深く。水底に向かって引かれるままに、力なくその身を任せて沈んで行く。

その感覚は、かつて感じたことのあるものだった。

あの日、あの時、あの場所で。

「・・・今、いくからね」









光が、全てを飲み込んだ。









音が消え、風が消え。

痛みが消え、熱さも消えた。

視界は黒く、何故か、暖かかい。



"ほんと、世話のかかる子だわ"



思い出したのは、ぬくもりの感触。母の腕の中の記憶。

誰かに抱かれて、髪を撫でられているような・・・



"無茶ばっかして、甘っちょろくて・・・あんた悪党にゃ向いてないわよ、お嬢ちゃん"



意識の無くなる寸前。



"だから、こっち側に来ちゃダメ。まだ若いんだから、精一杯生きて、恋の一つもしなさい"



そんな声を、聞いた気がした。



"じゃあ、ね"





・・・・。














































押しては返す波の音、吹き荒れる風の音。

その二つだけが耳の中に入り続けている。他には、何も無い。

薄目を開ける。

日は、既に昇りきっている。

青く澄み渡る空が、仰向けに寝転んだ視界の全てだ。

周囲の光景は、一変していた。

彼女の居た位置を基点として、扇状に広がった破壊痕。

見渡す限り、一面の焼け野原。

廃墟の街は無残に抉られ、残骸すらも焼き尽くされ、後に残ったのは溶け残った鉄柱と、赤く沸騰するガラスの荒野ばかり。朽ちた港は薙ぎ払われて、破壊の痕跡が大地と海を直結させている。今やこの場は、小さな入り江だ。

大量の海水が抉られた地面から進入し、波間に揺られて押しては返す。その都度、波は熱された地面を冷やし、ジュウジュウと白煙を上げている。辺りには、潮の臭いが満ちていた。

何故、生きているのか。

ふらっと手を上げる。干からびたように、白く豹変した左手。右腕の感覚は無かった。

何に触れたかったのか、自分でもよくわからない。その手は、あまり長くない時間、虚空をさまよったあげく、自分の胸の上に落ちる。それきり、もう体を動かす力もなかった。

・・・どうやら、長くないらしい。

漠然とそう思った。

恐怖も、後悔もない。

ここで死ぬのが自分の運命だったと言われれば、そのような気もする。

もう、生きる意味が見出せない。あの日、あいつに出会わなければ、自分の寿命は尽きていたのだから。後の時間はただのロスタイム、好きなように使って、力尽きたところでくたばる。そのことに何の文句もない。ただ、他人の思惑のまま、なすすべもなく殺されるのが嫌だったから足掻いただけだ。

ぽたり、と。

不意に、水滴が落ちてきて、彼女の顔をぬらした。

(ああ・・・・)

空から降り注ぐ生暖かい水の感触が、混濁した彼女の意識に輪郭を取り戻させた。

視界の向こうで、見覚えのある人が、瞳を潤ませているのに気付いて、思わず頬が緩んだ。

かえるんじゃ、なかったのかよ。

もう声が出せない。唇だけでそう伝えると、彼は肩を震わせながら、答えてくれた。

「・・・帰るさ。最後の一人を、回収してから」

本当、ぶれない人だな。

だから、

「・・・・・くれ」

最後の願いを、口にした。













山田次郎が現場に駆けつけたとき、少女の体は、燃え尽きた灰のようだった。

白く乾ききり、死斑の浮いた皮膚。骨に皮を貼り付けただけのように、細く、脆く、やせ衰えた体。そして、無残に、砕け散った右腕。眩しかったハニーブロンドの髪は、漂白されたように白く縮れていた。

その目は、どこまでも暗く、何の感情も宿していない。

それを見て、次郎の瞳に険しさが宿った。きし、と噛み合わせた歯が軋む。

これは、もう小手先で何とかなるレベルじゃない。

命の火が、消えかけている。

「はぁっ・・・!!!」

もう無我夢中で、ありったけのオーラを少女に流し込んでいた。

次郎自身、明け方まで忙しなく負傷者の救助に奔走していたので。疲労しきった体に残る力は多くない。いや、そもそも、こんな『燃え尽きてしまった』人間を何とかするのは、例え体調が万全だったとしても自分の腕では無理だろう。そう頭で判断したとしても、だからといって患者を見捨てる医者はいない。



乾いた砂漠の砂のように、次郎が注ぎ込んだオーラが次々に溶けて消えていった。

生命エネルギー、オーラを使い切ってしまっていて、もう僅かな生命力すら残されていないのだ。いくら次郎の能力が、他者にオーラを分け与える事で、自己治癒力を取り戻させる事ができるといっても、限度がある。

そこにあるのは、燃え尽き、乾ききった、ただの肉。

それに何より――――この患者は、助かる事を望んでいなかった。

「・・・これが、君か」

時折、能力を使って患者を癒しているとき――――相手が念能力者だったときには特に――――次郎にはその人間の歩んできた道程が垣間見える事があった。

過去、彼のもとに訪れた幾人もの人間の人生。彼の信念の半分は、その人たちの『思い』で出来ている。

今もまた、『彼女』が次郎に流れ込んだ。



  二度目の生。

   母親というもの。

    愛される喜び、愛される苦悩。

     銃声。

      喪失。憎悪。怒り。嘆き。苦しみ。
  
       力の覚醒。
         
        最初の殺人。

         男との出会い。

          奇妙な生活。



        男は何も語ろうとせず、ただ技術だけを彼女に伝えた。

       彼女は鬱積した感情の全てを男へとぶつけた。

      それでも、いつしか男の存在は彼女の中で大きくなっていった。



    雪の日。
 
     訪れた破滅。

      二度目の喪失。

       二度目の殺人。



  ・・・その果てに残されたのは、虚無だけだった。



喪失と慟哭を繰り返す、短い半生。

その帰結、その道のり。

この瞬間、山田次郎はアンヘルという少女になっていた。

思わず、問いかける。

「・・・それが、理由か?」

うっすらと、少女が微笑んだ気がした。

カサカサに乾いた唇が、何事かを呟く。

「・・・・・くれ」

「・・あ?」

掠れた声でつむがれたそれが、地名だと気付くのに、次郎は数秒掛かった。

ほんの一月前、この少女の治療をするために連れていかれた町。

そこに墓があると、彼女は伝えた。

『母さんと、あいつのところに、埋めてくれ』

意味を理解した時、次郎の脳ミソは沸騰した。

「誰が死なせるか!医者舐めんじゃねえ!!」

あの時、無理にでも引き止めなかった自分を、呪った。



「・・・次郎ちゃん、・・・何とか・・・なり、そう?」



背中越しに、体重を預けられる感触。あまりにも軽く、炭か何かのように、脆い。

それが、激情に我を忘れかけた次郎に、冷たい恐怖を呼び覚ます。

だから、彼は背後を振り返る事ができなかった。








声を出そうとすると、乾ききった喉が痛む。

「・・・何とか・・・して、ほしいんだ・・けど?」

治療を続ける男の隣に、崩れ落ちるように腰を下ろす。それだけで、炭化した足が砕けた。

「正直アカンが、なんとかするさ。治してやるって、約束しちまったんだ」

いつもどおりの、ぶっきらぼうな声。

それが、何より頼もしい。この男は、果たせない約束はしない主義だ。素人目には、もう無理かもしれないと覚悟していたが、この分なら持ち直すかもしれない。

「・・・いざとなったら、俺の命をくれてやる!」

断言した親友に、感謝する。

「ハハ・・・頼む・・わ。助けて、く、れなぃ・・・と、ばけて・・・でる、からね」

目が霞む。

「・・・てっちゃん」

ようやくこちらを振り返った親友の瞳から、涙がしたたり落ちていた。

二人、同時に助けられるほど器用な男じゃない。それを恨む気もない。

それに、ようやく・・・ようやく楽になれるのだから。

「・・・やっと・・・・そう呼んで・・・・・・くれたね」

昔みたいに。

狂っていった自分を、家族を、最後まで見捨てなかった親友。妹とも仲がよかった。三人で過ごした日々。それが、今はひたすら眩しく懐かしい。

・・・ああ、本当にらしくない事をした。他人より自分優先がモットーだったのに。

ここで死なせるには惜しい女だったから?これが済んだら、口説いて、拝んで、押し倒して、絶対一発キメてやろうとしたから?

いや、本当は分かってる。

姿、性格、趣味、趣向、何もかもまるで違うのに。

ただ、年が近いというだけで。

「・・・恵子」

ヴィヴィアンと名乗った男は、それきり目を閉じた。

覚めない夢を見るために。












「・・・お・・・の・・れぇ・・・!」

ダミアンは、大地に爪を立てて、怨嗟の声を上げた。

その半身は、つぶれていた。

高熱に晒され、爆風に五体を壊された挙句、吹き飛ばされながら大地に体を削られ、抉られ、時折跳ね飛ばされながら、幾つもの瓦礫に激突した。無事なところなど一つもない。全てが捻くれ砕けていた。生きているのが奇跡に近い。

身に纏っていた燕尾服型の念獣が全力で流体制御を行い、衝撃を吸収したことで、なんとか一命を取り留めた。ユーリーという男の能力を、擬似的に再現する実験から生まれたこれが無ければ即死だった。

もちろん、破壊力を完璧に削ぐことはできない。代償に、両腕と両足、右の眼球はもう使い物にならない。内臓がつぶれ、出血も酷い。このままでは死んでしまう。

呻きながら懐をあさり、折れた指で通信端末を探り当てる。機械が壊れていなかったのは、不幸中の幸いだった。

この借りは、いずれ必ず、返す。

そのためにも、今は生き延びねばならない。

「・・・ブ、ブーゲン・・・・ハーゲン・・・・君・・・・回収を、頼む・・・」

その時、背後に背負った朝焼けから、一つの影が彼に掛かった。

「・・う・・?」

振り返る力もなく、うなだれた後頭部に、突きつけられた固い感触。

「いいから、もう死んどけや」

直後、一発の銃弾がダミアンの頭を吹き飛ばした。







バトゥが、現場に到着した時、全ては終わっていた。

軽くゴミ掃除を済ませると、まず妻の無事を確認する。

「・・・悪い、遅れた」

頭を下げると、妻は大事無いというふうに微笑んだ。

「いいわ。何とかなったから。まあ、流石に爆発の瞬間は肝が冷えたけどね」

全身ずぶぬれで寒そうにしている妻に、自分の上着をかけてやり、改めて周囲を観察する。

事切れた男と、瀕死の女。そして治療を続けるヤマダを見て、バトゥは大方の事情を察した。

最後まで本名を名乗らなかった男の亡骸に、そっと手を合わせる。

「最後の最後で、男見せやがったか・・・」

気付いたら、そう口から漏れていた言葉を、

「・・・うるせえ!」

ヤマダが、一喝した。

「餓鬼に命張らせるような野郎が、えらそうなこと抜かすな!!」

押し黙ったバトゥを心配そうに見つめ、ミツリは物言いたげにヤマダに視線を移す。

その肩をバトゥ自身が掴んで止めた。

無言で首を振る。言い訳を、するなと。

自分自身に跳ね返って来る言葉を、ヤマダはあえて口にした。その事が、わかったから。

そんな夫を見て、ミツリは眉根をよせた。いくばくか逡巡し、悩ましそうにため息をついた後で、別のことを口にする。

「・・・ボスは?」

「予定通りだ。奴と、ケリを付けに行った」







































「・・・おっかしいねえ?」

ブッディは首を捻っていた。

先ほどから例の動画を電脳ネットにアップロードしようとしているのだが、何度やっても弾かれる。何度かリロードを繰り返すうちに、ようやくネットとの接続が切断されていることに気がついた。

ここの通信システムは、『甲板』に設えた特注のパラボラアンテナを通して、軍事衛星に間借りした専用回線を使っている。物理的な機器障害の可能性は低い。となるとシステムエラーだろうか。

コマンドプロンプトを呼び出し幾度と無く「ping」を打ってみたのだが、返ってくるのは「Request timed out.」。他のIPをいくつか試しても変化がない。

「ちぇっ!ミルの奴、中途半端な仕事しやがって・・・デブめ!」

ブッディは癇癪を起こして、キーボードを叩き割った。

だが直後に、まあいいや、と思い直す。NGLについてから、改めてゆっくりと作業すればいいだけなのだから。何せ時間はたっぷりとある。

これだけはアジトから持ち込んでいた特注の椅子をグルリと回転させると、背後に吊るされていた全裸の幼女と目があった。

夢にまで見た光景が、今、現実になっている。

憎たらしげに、幼女は両目を歪ませてはいるが、四肢を切り落とされて肉達磨にされては、文字通り手も足も出ない。このままレイプ動画の撮影会に突入してもいいくらいのおいしいシチュエーションに、思わず頬がほころんだ。こんな事なら汁男優を幾人か調達しておくんだった、とブッディは思った。例のスナッフムービーと共にキャスリンちゃんの完全無修正裏デビュー動画を同時配信すれば、さぞやアクセス数を稼げただろう。

「まあ、それは後のお楽しみにとっておこう。先にお人形になってもらうよ、キャスリンちゃあん♪」

そう言うと、ブッディは鋲のついた黒革の首輪を取り出した。

「肉奴隷の証。こいつをつけた女を、たちまち僕の言うことなら何でも従う、雌奴隷に変える便利な玩具さ。でもね、奴隷といっても、心まで変えちまうのじゃないぜ。感情のないロボットを相手にしても、おもしろくもなんともないからね」

ブッディは両目をいやらしく細めて笑った。さも愉快だといわんばかりに。

「自我はきっちり残ったまま、自分が何をされているのか十分理解しながら、それでも僕の言うことに逆らえなくなるんだ。素敵だろ。ストリートキングやら何やら、公開ネット配信で社会的に抹殺してから、壊していくのも、これが中々おもしろくてね。高慢ちきな女が股を自分から開いて、泣き叫びながら壊れていくところなんざ、爆笑ものさ」

他者を操る操作系能力は珍しくないが、操作の条件は能力者の趣味趣向が多分に反映される。キャスリンはヘドが出そうな不快感を覚えた。

「まあ、そういう無理やりプレイがいいって客もいるけど、ド淫乱な変態が好きだって客も少なくないし、そのままじゃ店に出すのに不都合だからね。大抵はシャブ漬けにして理性まではぎとっちまうんだ」

得意げに語りつつ、ぶっとい指を器用に操って、幼女の首に革の首輪を巻いていく。

「さあ、これで君は僕のものだよ!」

きっちりと首輪のバックルを止めたとき、ブッディは歓喜のあまり涎をたらしながら、満面の笑顔で両手を打ち鳴らした。

「ぶっひゃっひゃー!!これだから悪党は止められねえ!!」

格好つけたイケメンやシリアスめいたぶりっ子野郎を下種な罠で追い詰めて、ぐちゃぐちゃなバッドエンドに叩き落すのは外道だけの特権だ。やり方が下卑ていればいるほど、それは楽しめる。毎度毎度この瞬間は、悪党をやっていてよかったと、心の底から思うのだ。

三年前、無様に命乞いをした記憶、心の奥底にくすぶり続けた恨みつらみ。それが残らず消し飛んでいくこの至福!

ブッディは得意の絶頂にあった。

「うひひ・・・!さあ、まずは教えてもらおうか!銀行システム秘中の秘、AdministratorのIDと認証コードをさ!ボーモント銀行の保有資産、残らず引きずり出して破綻させてやるぜぇ!」

キャスリンが両目を見開きながら、口を開くのをブッディは愉快そうに見守った。

能力に囚われた者は、自分の意思とは無関係に、知っている事を口に出してしまう。ブッディにとっては、相手が女なら、必要な事を聞きだすのに拷問すら必要ないのだ。

だが、

「・・・あの子はねえ、ボクをたいそう嫌ってたんだよ」

幼女は、まるで意味不明なことを口にした。

「平気でボクの方針に逆らって、勝手に回収の見込みもないような連中にも融資を決めちまうんだ。普通なら首が飛ぶよ。それでも、損した穴を埋めるどころか、盛り上げるくらいの仕事をしてね、だからあまりボクも文句を言えなかった。おまけに、首にするならいつでもやってみろって態度でさ」

おかしい。

ブッディはキャスリンの首にかけられた首輪をもう一度確かめた。

確かに、キッチリと首に巻かれている。

「銀行は物を作らない、商品はサービスそのもの。人件費がどれだけダイレクトに反映されることか・・・。お前、金利を1%いじるってのが、どんだけ大変か想像がつくか?」

ブッディの能力は、対象が女でありさえすれば、問答無用で操作できるというわけではない。

念能力者は、能力の対象外。大人数を同時に操る能力を選択した操作系能力者は、得てして、このように対象を制限する制約を付加するものが多い。その制約と引き換えに、自身の能力不足を底上げする。

キャスリン・ボーモントは念能力者。故に、首輪をつけても、それだけなら能力の対象とならない。

しかし、ある条件を満たしさえすれば、その制約は外れるよう、ブッディはあらかじめ能力を定めている。

「販売士、簿記、企業診断士、FP(ファイナンシャルプランナー)、宅検、不動産鑑定士、etcetc。努力家で、資格だって人の倍以上もっていた。正直、あの子くらいの才覚があれば、うちみたいなヤクザな会社なんか辞めたって、幾らでも稼ぎ口はあっただろうさ。あの子にどれだけヘッドハンティングの話があったか、ボクが知ってるだけでも両手の指に余る。でもね、あの子はうちを辞めなかったんだ」

その条件は、他の全ての人形を解放すること。

"たった一人の雌奴隷(Only One)"

そうすれば、例え対象が念能力者であっても(女でありさえすれば、だが)、能力が発動する。

「もう管理職になって長いのに、いつだって率先して窓口に立っていた。一番好きだったのは融資相談。人の人生に係わることができるから、人の役に立てるからって」

ダウンタウンのアジトを放棄する時、手持ちの人形はほぼ全て爆弾を抱かせて突っ込ませていた。もっとも、あの時点は、まさかキャスリンを手に入れられるとは思っても見なかったが。船に連れ込んだのは、海パンの人質である3人の女達だけだ。

その3人も非能力者で、しかも戦うこともできないただの普通の女なので(そういう女を何人も抱えている時点で、ブッディは海パンをよほどのアホだと思っている)、例え能力から解放したところで、普通に拘束して室内にぶち込んでおけば問題無い。大量の海水に囲まれた『この場所』ならば、さしもの海パンの能力でも、救いだすことは不可能だ。

だから、能力の発動条件は完璧に満たしているはずだ。

なのに、何故?!まさか男?!

思わず視線を裸体に這わせたところで、

「・・・おい、豚公」

キャスリンが薄気味悪く笑った。

なんともケレン味のある邪悪な笑顔だったので、思わずブッディの背筋に冷たい汗が流れ落ちた。

「おげぇっ!!」

―――そこで、腹に途轍もない衝撃を受けた。

完全な不意打ちだ。200キロを超えるブッディが、部屋の端まで吹き飛ばされ、壁に激突して止まる。

分厚い脂肪を抜いた『拳』は、内臓に到達して衝撃を伝えた。ブッディは身動きする事もできず床にはいつくばった。胃液が逆流し、溶けかけた肉が床を汚す。ひとしきり身もだえした後で、ようやくブッディは相手の姿を見返した。

青白い肌を晒した全裸の幼女。滑らかな大理石を思わせる肌に、しなやかな肢体。幼女だけが持ちえる美とエロティシズムを兼ね備えた肉体は、握りこぶしを突き出したポーズで天井から吊り下げられていて・・・・

「・・・って、腕ぇ?!」

ブッディは驚愕した。

こちらを見下ろす幼女の肩口には、あろうことか先ほど自身の腹に収まったはずの右腕が、拳を振りぬいた姿勢でついていたのだ。

「・・・操作系能力は早い者勝ち。そんな基本すら忘れてっから、こういう轍を踏むんだよ」

その言葉に、ブッディはピンときた。

操作能力は早い者勝ち。既に能力者によって操作されているものを別の能力者が操作することはできない。

「ま、まさか・・・お前は・・・!」

「そうさ、ボクも操作系の能力者さ」

幼女が勝ち誇ったように笑った。

「でもね、ボクの能力は他人を操ったりなんかできない。たった一つのものを操るだけで、ボクのメモリは満たされてしまっているんだ。ボクが操ることができるのは、この身に取り付いた悪魔だけだ」

そう静かに語る間に、今度はキャスリンの下半身に異変が起こった。

腿の付け根辺りから切断され、黒い革細工で蓋をされていいた肉が、ボコボコと蠢く。やがて蓋は、内側からの圧力に耐えかねるように弾きとび、そこからズルリと新たな足が出現する。

異常な事態に、わけが分からず混乱するブッディを余所に、キャスリンは手足の調子を確かめるようにグルグルと回し、感触を確かめた。やがて納得がいったのか、自身を拘束していた鎖に手をかけると、一息に力をこめた。

自身を宙吊りに固定してた鎖が引きちぎられ、キャスリンの体はそのまま直下に落下する。生えたばかりの両足で着地すると、バランスを崩したようにふらついた。だが、すぐに姿勢を整える。

キャスリンが四肢を取り戻す間、ブッディはただ震えることしかできなかった。

「ボクの体には悪魔がとりついている。そのせいで生まれた村を追われ、教会の連中に追い回される羽目になった。ざっと4、5百年は昔の話だ」

当時は、無知な一般庶民の間では魔女や悪魔が当たり前のように信じられていた。暴力や窃盗とならんで、魔術を使った者が当たり前のように裁きの対象となり、処刑された。知識階級にあった宗教者は、むしろ魔女として告発された者をどうやって無罪放免にするかで頭を悩ませていたものだ。

魔女として訴えられた者の多くは、辺境の町や村、もしくはその近郊に住む女性だった。貧しく教養がなく、知人が少ないといった特徴を持つものが多かった。

取調べは苛烈を極め、当然のように拷問が用いられた。当時は民事に関して、権力者ではなく民衆が自発的に行う民衆裁判によって治安を維持する伝統があったのが、悲劇を後押しした。教養のない市民は、とかく短絡的な手段に走るものだ。熱い釘をさし、指を締め上げ、頭を水につけて、自白を強要した挙句に魔女として処刑する。それが、当たり前だった。

処刑方法としては焚刑が多かったが、絞首刑もあったし、溺死刑もあった。キャスリンはそのすべてを体験している。一度なぞ、首を切り落とされたこともあった。

だが、生き延びた。生かされた。

彼女の体内に巣食う、悪魔の力によって。

「悪性腫瘍。つまりは、癌さ。ボクの体は、もうすっかり癌細胞に取って代わられてるのさ」

人間の身体は、数十兆個にもなる細胞でできている。これらの細胞は、正常な状態では数をほぼ一定に保つため、分裂・増殖しすぎないように分裂回数が制限されていて、一定数の分裂を行うと細胞周期が自動的に停止し、それ以上は分裂できなくなるのだ。

ところが、この細胞の遺伝子に異常がおきると、正常なコントロールを受け付けなくなることが稀にある。そうすると細胞の寿命を決定するDNAの末端部にある構造、テロメアが再生し、異常な増殖によって正常な細胞を侵す。これによって、体機能に致命的なダメージを与えてしまう。これが所謂、癌である。

癌化した細胞は、無制限に栄養を吸収して増殖するため、体が急速に消耗する。しかも臓器の正常な組織を見境無く癌細胞に作り変えて圧迫し、機能不全に陥れてしまう。そして異常な内分泌により正常な生体機能を妨げ、免疫不全等の合併症を引き起こさせる。

癌は、今なお人類が完全に克服することの出来ない、難病中の難病である。

しかも、キャスリンの生まれた時代には放射線医療や免疫療法はおろか、切除手術なんて気の利いたものはなかったし、そもそもまともな医療知識すらなかった。

全身を腫瘍に冒されて、醜く爛れた子供。確かに悪魔が取り付いたようにしか見えなかったのだろう。村中から追い回され、罵倒され、身の毛もよだつような虐待を受けた。

それでも彼女は汚泥を啜り、家畜の餌をついばんで、這い回りながら生き延びた。

「ま、運が良かったんだろう。とっ捕まって引き渡された先の坊主が、たまたま念使でさ、おかげでこいつを飼いならす術を覚えられたよ」

『永延の少女(アリス・イン・ナイトメア)』

それは、全身の癌細胞を常時操作し続けることで、正常な細胞と同じ働きを代行させる、ただそれだけの能力。小児癌に侵され、実の両親に殺されかけた子供が、死に物狂いで身に着けた、生き延びるためだけの力。

ただし、そのせいで彼女は子供を産むことが出来なくなったが。

「・・・この体になってよかったと思った事は一度も無いけど、まあ、便利なことは確かだね。そう簡単には死なないし、こいつをちょいと操作すれば、腕だろうが足だろうが、その気になれば臓物や脳みそすら無限に作り出せるから」

ひょいと上げられた手の平に、ドクンドクンと脈打つ肉塊があらわれた。心臓だ。

さらに、白くて華奢な少女の腹肉の上を、解剖済みのカエルのような腸(ハラワタ)が縦横無尽に蠢きながら泳ぎ回り、小ぶりな乳房に現れた唇がケタケタと笑い声をあげる。

青白い顔面に浮き出た4つの目玉がウインクを返すのを見て、ブッディは発狂した。

「ヴゃあああああああああああああああ!!!!」

声にならない悲鳴。それは屠殺される豚の嘶きに酷似していた。

いつのまにか、ブッディの脂肪に覆われた顔面が、さらにぶくぶくと膨れ上がり、赤黒い異様な肉の盛り上がりに埋め尽くされていた。しかも、それは顔面だけでは済まない。腹から背中、手足、あるいは内臓に至るまで全身のありとあらゆる部位に、赤い腫瘍が浮き出ていた。

同時に、気が狂うほどの痛みが全身を襲う。

「・・・そろそろ効いてきただろう。血の滴るレア、あれだけボクの"肉"をたらふく食べたんだ。お前、もう楽には死ねないよ」

キャスリンの癌化した肉片の一部を、例え細胞の一個ですら体内への侵入を許したならば、それは恐るべき速度で増殖を開始する。健全な細胞に食らいつき、浸食し、肉体を内側から破壊しつくす、この世で最も強力な毒。

「ひいぃいいい・・・!!!」

ブッディは苦痛にのた打ち回りながら、無我夢中で這い蹲る。この幼女の形をしたバケモノから、なんとか距離をとりたかった。

「キモの小さい奴だね。これがお前が散々ほしがってた、不老不死のタネだよ」

キャスリンは、豚のように逃げ惑う巨漢の後をヒタヒタと追いつめる。

PiPiPiPiPiPiPiPi!

その時、卓上の内線電話が鳴り響いた。

ブッディは恐怖と苦痛から立ち直れず、逃げ惑いながら震えている。

その受話器を、キャスリンが取り上げた。

「もしもし・・?」

ブッディの声は、キャスリンの声を元に作り出したもの。逆に、キャスリンの声もブッディのそれとは区別がつかない。

案の定、電話の相手は、勘違いをしたようだった。

『ブッチさん!!侵入者だ!!ボーモントの奴ら、どっからともなく現れやがった!!』

悲鳴のような声に、キャスリンはニンマリと笑みを浮かべた。







サンタ・フラメンコ号。

表向きは西ゴルドーとヨークシンを行き来する、パドキア共和国船籍の貨物船。だが、実際には山と詰まれたコンテナの大部分は、絶賛経済制裁中の東ゴルドーや、表向きは輸出入など存在しないはずのNGLへと出入りし、表ざたに出来ない物資を往来させる密輸船。それがブッディの本拠地だった。

領海ギリギリを親潮とランデブーしていたサンタ・フラメンコ号に異変が起きたのは、ちょうど東の海に日が昇りきった頃合だった。

洋上に響く爆音と、海原に刻まれた幾重もの白い軌条。

高速で回転するターボプロップエンジンの奏でる咆哮が鳴り響き、風圧で大海原に波紋が刻まれる。その数は全部で六つ。

海面スレスレを飛行し、一定の距離に達したところでアクティヴ-レーダー波を発振。水上目標を探知するや、

「アタック・ナウ!!」

ガンシップ、攻撃ヘリコプターの30ミリ機関砲が、鈍重な船体に叩き込まれた。

放物線を描いて艦橋に突っ込んで行く赤い曳光弾が火柱を上げ、船員たちを次々と吹き飛ばしていく。さらに追い撃ちのロケット弾。降り注ぐ機関砲が人体を粉々に粉砕し、ロケットが面単位で焼き尽くす。

突然の空からの急襲に混乱する船の上を、三機の武装ヘリは船体を掠めるように航過した後、再び上昇して旋回。体勢を整え、再度攻撃をしかけた。問答無用で機関砲やロケット弾を叩き込み、その隙に飛来した三機の輸送ヘリが、幾人もの兵士達をヘリボーン降下させていく。

船内には警戒警報が響きわたり、目まぐるしく明滅する非常灯の光が、慌しく駆け回る船員たちを照らし出していた。ある者は切羽詰った声で携帯電話に話しかけ、またある者は何事かと左右に瞳をさまよわせた。

乗組員達は、混乱していた。

彼らはこの密輸船の構成員ではあるが、ブッディの直接の手下ではない。ブッディの取引先、『D・D』の供給元から船ごと貸し与えられた人員だ。ブッディと直接的な資本関係がないからこそ、ボーモント・ファミリーの情報網を持ってしても、このカラクリを発見する事ができなかった。

彼らが知らされていたのは、今日でヨークシンのアジトを引き払い、根拠地であるミテネ連邦に帰港するということだけ。このような襲撃があるとは聞かされていない。それが、混乱に拍車をかけていた。

「なんだこりゃあ!!」

弟を切り捨て、ただ一人今回の顛末を知らされたが故に船内に残っていた男、マイケル・ロイドは船べりで一人絶句した。

一瞬遅れて、慌てて頭を下げる。這いつくばって重機関銃の斜線から退避した、まさにその瞬間、後ろにいた部下達が粉々に吹き飛ばされた。

それを見て思わずゾッとする。

30ミリは装甲車相手に使用される兵器だ。そんなものを喰らったら、念使いだろうがなかろうが、等しく木っ端微塵になってしまう。

「マイケルさん、やつら降りてきました!どいつもこいつも冗談みたいに武装してます!!」

脳がフリーズ寸前なマイケルを余所に置き、さらに最悪の報告が続く。

「火災発生!エンジンをやられました!航行不能です!!」

この場につめているのは、船の航海に必要な技術者だけだ。銃を撃つ事くらいはできるが、完全武装したプロを相手にできるとは思えない。そういうのが得意な連中は、既に序盤で捨て駒にしてしまっていた。

「・・・ちっくしょう!!冗談じゃねえ・・・お前ら・・」

付いて来い。その言葉を最後まで言う事はできなかった。

刹那、パシュンと気の抜けた音が背後から響く。

「何っ!?」

弾かれるように振り向けば、壁に散った赤い染み。背後にいた部下の一人が、方を打ち抜かれて悶絶している。

狭い船内だ。挟み撃ちの危険に思い至ったマイケルは、瞬時に背筋が冷たくなった。

「伏せろォっおおお!!」

誰かが叫んだその声に、反射的に身を伏せる。

何かが弾ける強烈な衝撃音と、閉じた瞼にも感じられる白い光。連続した銃声。手榴弾の破片が頬を切り裂き、衝撃で打ちつけた頭が脳震盪を引き起こす。

赤く染まった視界の向こうに、黒い戦闘服に身を包んだ一団が映った。

「毎度おなじみボーモントセキュリティサービスでございまーす!」

「こんにちは!死ねぇ!!」

「くたばれもしくは死ね」

男達は口々に歓声をあげながら、腰溜めに構えたマシンガンの引金を引き絞った。

軽快な音が響き、銃弾の雨はマイケルの周囲で立ち尽くしていた部下達の体を四分五列に引き裂く。喉を、頭部を、心臓を、膨大な鉄量で撃ち抜き、衝撃が人体を吹き飛ばして辺りを一面血まみれに変えた。全面を鉄板に覆われた狭い船内である。兆弾すらも脅威になる。

「撃ちかえせ!!」

その言葉に、やや遅れて反応した部下達が、散発的に銃撃を開始した。手にしたサブマシンガンを無作為にばら撒き、ひとまず反撃を試みるも、その士気は低い。

無理も無い。ふざけた口調の連中だが、相手は明らかにプロだ。こちらが反撃に出る前に、一糸乱れぬ動きで左右に退避し、的確にこちらの数を減らしている。

そして、その先頭を突っ走るのは、この場にはまるで似つかわしくない、黒いドレスに身を包んだ老婆だった。

(念能力者!!)

老婆を見て、咄嗟にやばい相手と判断したマイケルは、瞬時に『愉快な素敵な豆鉄砲(ファンキーショット)』を具現化した。

「ケケケッ!グッモーニン、相棒!!」

この拳銃型の念獣は寝早起きがモットーで、日が暮れている間は使い物にならないが、既に日は昇っている。

「うるせえー!いいから喰い殺せ、ばっきゃろー!!」

怒鳴る暇も惜しいと、引き金を引いた銃口から、巨大化した白いフィギュアヘッドが飛び出した。老婆を食い殺さんと大口を開け、念獣は無数に生え揃った牙をむき出しにする。

それに対し、老婆は胸の前で両手を組むと、厳かに祈りの言葉を捧げた。

「Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum,benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui Jesus.Sancta Maria mater Dei, ora pro nobis peccatoribus, nunc, et in hora mortis nostrae.Amen」

『聖母は我を見守りたもう(Ave Maris Stella)』

祈祷が終わると共に、老婆の背後に、光輪を背負った聖母の像が顕現した。

イエス・キリストの母、ナザレのヨセフの妻。ヨアキムとアンナの娘。おお、見よ、その慈しみ深き眼差しを・・・

マリア像がその御手を拡げると、光り輝く壁が空間を満たした。祝福の地、何人たりとも侵すこと能わず。その聖なる光に触れるやいなや、銃弾は運動エネルギーを失って落下し、不浄の念獣は砕け散る。

そんな非常識な光景を目にして、マイケルは顎が落ちそうになった。

「んなアホな?!――――ブギャ!!」

思わずアホ面をさらしたマイケルを意に介せず、長身の老婆は狭い船内をひとっ飛びに駆け上がると、その頭部を一蹴りで粉砕した。

「・・・やれやれ、年だね。あたしのカポエイラもなまったもんさ・・・。こら、お前達!婆にばっか働かせてんじゃないよ!!」

老婆は靴に付着した脳漿を嫌そうに眺めると、後ろを振り返り、慌ててこちらに駆けてくる若造どもを三白眼で睨み付ける。その背後に佇んでいた聖母は既に消えていた。

「そら行けぇ!!お前達、ここが命の捨て時だよ!!」

あんまりな発言をする老婆に、男達は不満の声を上げた。

「婆ちゃん、バトゥのカシラに言ってることと違ェじゃねえか!!」

「俺らの命も大事にしろよ!!」

「給料上げろ!!」

口答えしながら、それでも前方に鉛弾をばら撒く悪餓鬼どもに、老婆は鼻を鳴らしてみせた。

「ハン!だったら早く身を堅めるこったね、馬鹿孫ども!!ひ孫の顔見せたら大事にしてやるよ!!」












「・・・やっぱり船で移動してたか。普段は公海上に退避させていて、必要なときだけ夜陰に紛れて着上陸を繰り返す。おかげで、居所がつかめなかったヨ」

ゲホッと、幼女が口から吐き出したものを見て、ブッディは目を細めた。

黒いコードの付いた、数センチ程度の長方形。軍用の小型発信機だ。

ブッディは驚愕した。

まさか、囮になってたというのか?一組織のボスともあろうものが、自分で?

「誰かさんが、わざわざこの首に10億も、しかも生け捕り指定で賞金かけてくれたんだ。最初から、こうするつもりだったさ」

本当に捕まってしまったのは、計算外といえば計算外だったが、些細な事だ。と幼女は嘯いた。

「それだけじゃない。お前、さっきから必死に電脳ネットにアクセスしようとしてたようだが、それは不可能だ。何せ、ここいら一体の通信インフラは末端の基地局から、ルートネームサーバ郡を含めて、一時的にうちの会社の管轄下にある」

ルートネームサーバは電脳ネット構成する最重要のファクターだ。

電脳ネットは、無数のホスト名やドメイン名の中から対応するIPアドレスを探し出し、相手先を特定することで成立するが、ルートネームサーバーはDNS構造の最上位に位置し、アクセス制御を統括する起点である。

全世界に13基存在するルートネームサーバの最終決定権は、国連を支配するV5の管轄化におかれている。一時的とはいえ、これらに規制をかけるには、文字通り国家クラスの権力が必要となる。

「戦う前に勝利を得るのがこの業界の鉄則だ、豚公。まあ、だいぶ後手後手に廻って煮え湯を飲まされたがね・・・」

赤黒い瞳に怒りを漲らせ、ヒタヒタと幼女が迫り来る

ブッティは悲鳴をあげてのたうち回り、必死に逃げ惑った。だが、やがて壁際に追い詰められると、勢い余って奥の壁を覆い隠していたカーテンをつかむ。

そして、

「・・・・・・!!」

『それ』を目の当たりにしたとき、キャスリンは言葉を失った。

大型コンテナ船の左右、端から端まで打ち抜きの、ブッティの私室。その壁いっぱいに、上下左右をくまなく埋め尽くすように陳列された、人間の頭部。

はく製、ホルマリン付け、あるいは皮細工のインテリア等等、その全てに名前と年齢、人種、民族が記されたタグがつけられ、丁寧に陳列された人体コレクション。

その全てが、年端もいかぬ少女たちだ。

乳飲み子から、成人一歩手前の少女まで、あらゆる階層の女達が、空ろな眼科を晒してこちらを睥睨していた。中には耳長族、首長族、一角族にクルタ族等、希少種族のものもある。

さらに、あきらかに食用加工された真空パック詰めの筋肉や臓器の一部が、冷蔵ケース一杯に詰められていた。

(首から下は、もうほとんど、こいつの腹の中か・・・)

気が付くと、キャスリンは唇を噛み切っていた。

「・・・じわじわ時間をかけて嬲ってやろうと思ってたが、やめだ。この子たちまで、往くべきところに逝けなくなる」

すでに腫瘍はブッディの全身を覆いつくし、おびただしい膿を噴出して、辺りに腐臭をばら撒いている。
その間、神経組織を直接刺激され、ブッディは地獄の苦痛を味合わされていた。絶えず襲い来る激痛に耐えられなかったようで、既に意識は無い。

「ボバァァァアア!!」

泡を噴いてうなされていたブッディだったが、その苦しみ方が急に変わった。

醜く膨れ上がった赤黒い肉に、火傷のような白い水泡が生じ、そこから透明な液体が流れ出した。ブッディが全身に溜め込んでいた贅肉、その脂肪という脂肪が、油分を凝縮され、脱水されて可燃性の高い油脂へと変わっていく。

流れ出した油が足首を浸すほどに溢れた時、キャスリンはテーブルに置かれた髑髏の盃から、蝋燭を引き抜いた。溶け落ちた蝋が皮膚を焼くのも構わず、素手で握り締める。その蝋燭からも、人の脂の臭いが立ち上っていた。

もう何を言う気にもなれず、キャスリンはその火を落とした。

(灰は灰に・・・塵は塵に・・・)

油は、一瞬で燃え上がった。

炎が、膨れ上がった肉も、部屋中に並べられた人体も、その一切合財を焼き、ただの灰へと変えていく。哀れな躯達と共に、その身を焼かれながら、キャスリンは微動だにしなかった。

黒く焼け焦げた表皮が割れ、その下の真紅の肉を猛烈な勢いで新たな皮膚が覆っていく。焼け落ちた唇の肉が見る間に盛り上がって白い歯を隠し、毛根が増殖して髪が伸びた。

焼かれては再生し、再生しては焼かれるの繰り返し。その間、破壊と再生の痛みをキャスリンはうめき声一つ上げずに受け入れる。

やがて、船内を完全に制圧した老婆がその部屋に駆けつけた頃、火は既に消えていた。焼き尽くされた室内にはただ一人、火傷の跡一つない、綺麗な体のキャスリンが立ち尽くすのみ。

老婆は何も言わず、用意していた着替えをキャスリンに渡した。

「すまなかったね、ベノア。ボクのわがままに、付き合わせちまった」

「・・・ご自愛下さい、お母さま」

背を向けたまま、そう告げるキャスリンがどの様な表情を浮かべていたのか、老婆には分からなかった。

「・・・あっちの様子は?」

「バトゥめが、抜かりなく。ただ、例の子供が、死にかけているとのことです。助けるには、お母様のお力がいるでしょう」

「助けろって?バトゥ君の好きなケジメか・・・。ま、いいだろう。身内でもない人間を巻き込んで命張らせたんだ。祝儀もなしじゃ、組の沽券に関わる。・・・それに」

今は、そういう気分なんだ。

最後の一言は、言葉になる前に口の中で消えた。













「ドクター。ボスがその子の治療に同意した。もう10分ばかりで駆けつけるそうだ」

「・・・そうかい」

バトゥは、感情を感じさせない声でそう告げると、携帯電話を懐にしまった。ヤマダは当然だとばかりに頷くと、それきり口も利きたくないとばかりに背を向け、一心不乱に少女の治療を続けている。

ため息をついたバトゥの耳に、妻が小声でささやいた。

「あなた、ボスを亡き者にするなら、今がチャンスじゃなくて?船ごと沈めれば、さすがにあの人もお陀仏だと思うけど」

「・・・そうしたいのは山々だがな、タイミングが悪い。あの子を治療できるとしたら、ボスぐらいだろう?」

だが、いずれ、必ずやる。その言葉を、バトゥは飲み込んだ。

この組ではどれほど上に行こうと、トップの座は入れ替わらない。組織のボス、キャスリン・ボーモントが不死者だからだ。

あの女は、ああ見えて自分の持ち物には執着する。仮に、気まぐれで組をお下げ渡してくれたところで、自分の影響力は保持するだろう。

それでは、いつかまたあの幼女の形をした怪物が組織の実権を握る。二十年後か三十年後か、それくらいあの女にとっては何のこともない。

「それに、今殺せたところで、カルロがいねえ。組の半数は俺につくだろうが、残りはみんなベノアの婆様につく」

キャスリンを排除し、銀行を組から切り離して表家業にする代わり、残りの暗部はバトゥが引き受ける。それが、かつてカルロと交わした盟約だった。

「何、また出直しだ。カルロが育てた連中の中にゃ、こっち側に聡い奴だって何人かいる。そいつらが力をつけるまでに、抱きこんでみせるさ」

忌々しそうに、バトゥは朝焼けに白く輝く海を見た。

遠く水平線の近くで、破壊され沈没しつつある大型タンカー。

バトゥの目には、船の後部から飛び立つヘリの姿が見えていた。
















「バトゥは、また動かなかったね」

「左様で」

「いつまでも、意気地のないことだね」

「左様で」

「お前も、気に入らなければ、いつだって出て行っていいんだよ」

「・・・・・・」

「ハンプティがさ、お前に風邪ひくなって」

「・・・いずれ、あちらで茶を酌み交わす事もありましょう。それまでは、お茶は私がお入れいたします、お母様」
















…to be continued


長くかかりましたが、次回エピローグです。



[8641] Chapter2 「Strange fellows in York-shine」 epilogue
Name: kururu◆67c327ea ID:7b7bf032
Date: 2014/03/18 00:11
リィロ・ロイドは走っていた。

力のかぎり、あらん限りの速度で走っていた。

抱えていたボストンバックを足がつられた拍子に取り落とし、中身の一万ジェニー札が地面にばら撒かれる。それでも拾い上げる暇は無い。

もうダメだ。あんな怪物を敵に回した時点で勝ち目はなかったのだ。とっとと逃げなければ、奴らはどこまでだって追いかけて殺しに来る。

「よぉ」

と、その時、リィロの最も聞きたくない声が、聞こえた。

「おわァああああああ!!!」

同時に、足元が前触れなく爆発。空中高く投げ出され、受身を取ることもできずに地面に叩きつけられる。

痛みに呻くリィロの足下に、転がる何か。それを見て、思わず悲鳴を上げた。

「アニキなんだろ?ひろってやったらどうだ」

最初、それが何かわからなかった。

酷い悪臭を振りまく、腐りかけた何か。頭蓋骨をかち割られ、目玉は飛び出て、腐りかけた脳漿がはみ出した、それ。

兄、マイケルの首。首元から千切られた生首が、空ろな眼孔を晒していた。

言葉も無いリィロに、男は、とても柔らかな口調で微笑んだ。

「家族ってのは、大事だよなぁ。俺もな、この世で一番家族が大事だ」

男の手が、リィロの顔面を鷲掴みにする。

腕に滴っていた血が、べったり付着するのを感じて、リィロの顔は恐怖でぐしゃぐしゃに歪んだ。恐ろしいほどの力がかかり、顔面を地べたに押さえつけられ、悲鳴を上げることもままならない。

「ご、ご、ご、ごめんなさい!!許して!!殺さないで!!」

涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながらリィロは叫んだ。

男は軽く肩をすくめ、リィロの顔面を路面に叩きつけた。グシャリという音がして、鼻の骨が砕けた。歯が砕けて、舌の上に転がる。

「ゆ、ゆふして、くだひゃい・・おねひゃい、しみゃふぅ・・・!!」

涙混じりに懇願することしか今のリィロには許されない。

男はリィロの顔面を掴んだまま、アスファルトにグリグリと擦り付けた。恐ろしい腕力で、とても抜け出せそうにない。まだ舗装して間もないアスファルトの臭いを間近に嗅ぎながら、リィロは前後に摩り下ろされた。

デコボコしたアスファルトの表面に、ジャリジャリとリズミカルに踊る顔面。その間、リィロはこの世のものとも思えない悲鳴を上げ続けた。だが、徐々に唇と鼻が完全にムースになるにつれ、物理的に声を出すことが不可能になった。

やがて血と皮膚と肉が下ろされた塊がアスファルトの目地に溜まり、リィロが痙攣すらしなくなると、男はその顔を掴み上げて覗き込んだ。瞼は飛び散って眼球は地に落ち、目の部分にぽっかりと空いた孔だけが残る髑髏顔。鼻は白い骨から二つの鼻腔が除くだけだった。唇は完全にすりおろされて、前歯は全て抜け落ちている。

「なかなか、男前になったぜ」

バトゥは笑いながら、血まみれの髑髏に銃口を突きつける。

「ちょいと虫の居所が悪かったんだ。苦しめて、悪かったな」

銃声が、響いた。













その数日後。

海パンはこの日、組織のボス、キャスリン・ボーモントに初めて面通しされた。

あの後、彼の身分はボーモント・ファミリー預かりの食客ということで落ち着いたが、組織の連中は事件の後始末に東奔西走していたようで、妻達ともども釈然としない心持のまま穏やかな日々をすごさせてもらった。その影で、どんな扱いが待っているか、戦々恐々としていたのも確かだったが。

「やあ、久しぶりだね、海パン君?」

キャスリンは、いかにも機嫌よさそうに、朗らかな笑みを浮かべている。この幼女に首を圧し折られそうになった時の感触が未だに忘れられない海パンにとっては、恐怖を煽るだけだったが。

「こちらはミスタ・リッポー。ボクの古い顔見知りで、今でも多少仕事の付き合いがある、という程度の仲だ」

幼女の後ろに控えていた男が、申し訳程度に会釈する。

「どうも」

リッポーと紹介されたのは、奇妙な髪型の小男だった。背丈は彼の腰から少し上くらいしかなく、時代錯誤な丸目がねの向こうの瞳は、笑みの形にゆがめられている。笑顔を職業的に作りなれた人間の顔だ、と海パンは思った。

特徴的なのは、やはりパイナップルのヘタのような形にまとめられた髪型だろう。頭頂部の毛だけを伸ばし、それ以外を見事に剃りあげている。

この特徴的な外見に、リッポーという名前。もし、この男が、海パンの知っている人間と同一人物だとしたら、それは高額の賞金首を専門的に狩るブラックリストハンターの上位に位置する男だ。

「で、実はボクはこんなものを持っている♪」

幼女は指先で弄ぶように、一枚のカードを取り出して見せた。それは、ハンターランセンスだった。

ハンター、それは稀少な事物を捜し求める事に生涯をかける者達の総称である。ハントの対象は財宝、賞金首、美食、遺跡など幅広く、中にはライセンスを持たない自称・ハンターも数多いが、キャスリンが提示して見せたのは、数百万分の一の難関と言われるハンター試験を突破したものだけが得る事のできるプロの証。

それは通常のものとは異なり、表面に一つの星が描かれていたのだが、そこまでの違いは海パンには分からなかった。

「特別に認められたハンターは、政治取引によって死刑囚を含む重罪人を社会奉仕に従事させることが出来る。もし、君が豚ちゃんのところでしてきた"お仕事"とやらを一切合財ゲロしてくれるんなら、リッポー君にとりなして司法取引を仲介してやってもいい」

・・・読めた。

この連中、自分をダシにして、一切の責任を豚に擦り付けるつもりなのだ。

「正解。でも、悪い話じゃないだろう?その場合は、ボクの『保護下』で自由の身にしてあげることが出来るヨ♪」

幼女はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。

「どうするのかは、君が選びたまえ。どちらにしろ、ボクらボーモントからの不干渉は守ろう。ただし、この条件がのめないなら、警察やハンター協会が動いてもボクらは君を庇い立てしない。君の情報を渡すことにも一切ためらわない。そういう話だ、アレクサンドル・ミュラー君?」

自分の素性も何もかも、この相手にはばれているらしい。

海パンは、深く頷きながら、自らの首に特大の首輪がつけられたのを思い知った。



















Chapter2 「Strange fellows in York-shine」 epilogue



















『・・・続いては金融に関するトップニュースです。長く一族経営を保ってきた投資信託銀行ボーモントキャピタルが100年以上続いてきた「伝統」に終止符を打ちました。その伝統とは、一族のメンバー以外が経営の采配を振るうというものです。

今回、初めてボーモントの姓を持たない社員、グレース・コードリー女史がCEOに任命されました。コードリー氏は大手金融某社からの引き抜き社員で、社歴は3年と短く、この人事は辞任した前CEO、ベノア・ボーモント氏の英断と噂されています。

かつてボーモント一族は1900年代に直系の血を引く幹部達をそれぞれ5大陸主要都市に派遣し、ダイナスティー(王朝)を築いたことで有名です。つまり同族経営というのが同社のコア・バリューなのです。

そして、ボーモントにはもうひとつ新しい変化が起きています。それは新たな本社屋の建設です。そう言うと、「本社を新しくすることくらいどうした」と思われる方もおられるかも知れません。ですが、これは同社にとって極めて重要なことです。

最近では薄れてきた伝統ですが、ヨークシンの"シティ(金融街)"では、著名なバンキング・ハウスの住所がどこかというだけで、どのライバル会社の話をしているのか業界通ならたちどころにわかるのです。つまり、金融界のある種の「隠語」なのです。

例えばヨークシンでタクシーに乗り、「ミッドの60番街へやってくれ」と伝えれば、それだけでタクシーの運ちゃんは「ボーモントですね」と、背筋をピンと伸ばして応えてくれますし、商社マンが上司から「ミッドの動きを探れ!」と言われたら、ボーモントキャピタルの事を指しているわけです。

しかし、90年代初頭の金融ビッグバン以降、金融業界再編の流れが加速し、著名な老舗銀行の多くが次々と買収され、統廃合を繰り返しました。その関係でオフィス・スペースの移転が相次ぎ、最近では立地の伝統がすっかり薄れてしまった感があります。

その中にあって、ボーモントキャピタルは同族経営を堅持し、M&Aにも巻き込まれず、これまで昔ながらのスタイルを堅持してきました。従って今回の新社屋建設も新しい場所に移るのではなく、旧社屋を取り壊して同じ場所に立てなおされるとのことです。

著名な建築家トーマス・ライト氏の設計した新社屋は、これまでの古き良きヨークシンを体現する煉瓦作りのレトロな雰囲気から一転、未来的なデザインになっています。その斬新なデザインにこそ、時代の波に取り残されず、旧体制からの脱却を図るボーモントの決意のようなものが感じられます。

以上、ミッドランド・ガーデンよりチャンネル6のエイプリル・オニールがお伝えしました』













・・・付けっぱなしのラジオから、ニュース番組が流れてきたことで、アンヘルは目を覚ました。

ベッドから這い出て、冷蔵庫から大き目のケースを取り出す。中身は濃い目にいれたインスタントを覚ましたアイスコーヒー。冷たいままのそれを一気に胃に流し込むと、寝ぼけた頭が動き始めた。

時刻は早朝。日が出てまだ間もない。

向かいのビルの隙間から、狭い路地のアスファルトが冷気で白く輝いていた。春先といっても、まだまだ肌寒い。この時期のヨークシンは厚い雲に覆われているのが常だが、珍しくいい天気だった。

昨夜はカフェのバイトが長引いて、帰ってくると同時にベッドにダイブした。商品の棚卸しを手伝うと、時給に加えてささやかなボーナスと、賄いが振る舞われるのでありがたい。でも、重い荷物を積み卸す単純作業の連続は体にこたえた。酷使した左手がかなり重い。

右腕の拳に少し力を入れたが、曲がったのは2本の指だけだ。小指と薬指、そして中指は震えながらも動こうとしない。まだまだリハビリが必要らしい。包帯が取れたのはつい最近の事なので、無理はいけないといわれたばかりだが、財布の中身がごく僅かだったというのも同じくらい切実な事情なのだ。

まあ、たまにこんな重労働もあるが、暇なときには本が読める。今の仕事には満足しているのだが、お金はあまり貯まらない。そろそろアパートの家賃を払わなくてはならなかった。

財布を開いて中身を確かめる。広告のチラシから切り取ったクシャクシャの割引券にまぎれて、擦り切れた1000ジェニー札が数枚。平和なバイトも結構だが、もうすこし実入りのいい仕事がほしい。ひとまず今日の飯代が在ることを確認すると、シャワーを浴びて、外向きの服に着替えた。

ショートニットにデニムのミニ。その上から薄手のパーカーを羽織る。みんな、バイト先の店長のお古だ。退院してから、手持ちがほとんどなかったから、処分しようとしていた古物をもらえたのは正直ありがたい。モード系のファッションが多いのはあの人の趣味だと思うけど、何気にどれも値が張るんじゃないだろうか?

身支度をすませると、アンヘルは机の上に目を移した。

そこにあるのは、元の形が判別できないくらい溶け落ちた黒い塊。かろうじて、かつてそれが手袋だったと判別できる程度のスクラップに、砕けて焼け付いた刃の欠片。

どちらも退院する際、かかりつけの医師に持たされたものだ。自分の持ち物だったというの話だが、これが何なのか、アンヘルには見当もつかなかった。

「・・・・ドー・・・?」

不意に、口を突いて出た言葉に、自分でも驚く。

何を呟いたのか思い出そうとしても、頭に靄がかかったようにその部分だけ思い出す事ができない。ここ一ヶ月、ずっと悩まされ続けてきた現象なので、もう慣れっこになっていた。

「・・・本当に、こんなんで思い出せるのかね?」

ため息をつくと、部屋を後にした。

アンヘルが暮らしているのは、ヨークシンのハーレムにある安アパートだ。毎晩、天井でねずみが暴れているようなオンボロで、退院してからもう一月あまり住んでいる。

他に入居者のいないアパートを出ると、街はとうに動き出していた。土地がら、背広を着た勤め人の姿はなく、道を歩くのはブルージーンズの労働者や貧乏な学生が多い。

角の小さなキオスクのレジから、馴染みのおばちゃんが手をふって挨拶してきた。

「おはよう、ケイト。景気はどう?」

アンヘルはスタンドのミルクパックと、ソーダブレッドを一つとって差し出しながら笑顔で挨拶した。

「いいもんか!三件先にコンビニが建ってから客はみんなそっちに引っ張られちまった!」

ジェニー硬貨を受け取りながら、彼女はイライラと頭を振った。相変わらず早口だ。

ハーレムの人々は初見の人間には極めてドライだが、少し仲良くなるとフレンドリーに接してくる。最初の頃は戸惑ったが、今ではそれが心地いい。一人暮らしの寂しさを、彼らが紛らわせてくれた。

「じゃあね、また来るよ」

「そうかい。いつでも寄ってくんな!」

寒さに身を震わせながら、ミルクパックをあけた。歯がしみるほどに冷たいが、残っていた眠気がそれで消し飛んでいく。次いで、ビニールを破ってソーダブレットにかじりついた。レーズンにナッツがたっぷりと入った柔らかいパンはケイトのお手製で、ヨークシンの朝にはポピュラーな食べ物だ。

バイトに、急がなくては。















「記憶喪失?」

「ああ。一時的なものだと思いたいがな。具体的には、一年と少し前から、彼女が目覚めるまでの間・・・あの人と過ごした一年あまりの記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているようだ。俺は体の方が専門だから、それ以上のことは分からん」

心の事は、特に。そういうと、ヤマダはタバコに火を点した。

あの日から、数か月。

一事は危篤状態だった少女は、なんとか持ち直した。今ではハーレムの一角で療養を続けながら、日々を生きている。その間、キャスリンはヤマダのもとを定期的に訪れ、経過の報告を受けていた。

実際、少女が死地を脱出したのはキャスリンの能力に拠るものが大きいとはいえ、ほぼ不眠不休でオーラを注ぎ込み続けたヤマダの献身あってのことだ。もしキャスリンの能力だけで人を治す事ができるなら、そもそもカルロを死なせる事は、なかったのだから。

あの頃のヤマダは、目元は落ち窪んで濃いクマに覆われ、細い顎は無精ひげが伸び放題。白衣もくたびれたようにクタクタだったが、目の光だけは鋭く、ギラギラと輝いていた。医者の不養生と言っても、聞かないだろうと思ったので何も言わなかったが、ポックリいっても不思議ではない雰囲気だった。

その甲斐があってか、少女は一月ほど前に意識を回復したのだが、一つ問題があった。

彼女は、一部の記憶を失っていた。

「記憶か・・・さすがにそっちはボクも専門外だね。ざっとカルテをみさせてもらったけど、体のほうは今のところ問題なさそうだが・・・出来る事は全部やったし・・・」

血も肉も、ボクに与えられるものは全部与えた、と。

人間の細胞はおよそ3ヶ月で全て入れ替わる。所謂、新陳代謝だ。欠損部や破損部に取り付かせて擬態させたキャスリンの細胞は、順調に行けばもうそろそろ全て少女自身の細胞に置き換わっていることだろう。

ただし、とキャスリンは重い口調で続けた。

「君も気付いたとは思うが、生命力がごっそりと削り取られたように消失している。ある程度は回復する見込みもあるが、どうしても欠けてしまった部分は残るだろう。こればかりは、ボクにもどうにもならない」

削られた命、寿命は、二度と元には戻らない。

蝋燭の火を人の命に例えるなら、蝋に油をぶち込んで、一時的に無理やり火を大きくしたようなものだ。そのせいで、残された時間が短くなってしまった。

「彼女が後十年生きられるか、二十年生きられるか、さもなければ五年も持たないのか、ボクにもわからない。もちろん、それ以上に生きられる可能性だってあるが・・・・・・ただね、少なくとも当たり前の人間よりはずっと短くなるだろう。それが、あの子が求めた奇跡に支払った代価だ」

事件後、戦闘の跡地にできた直径数キロあまりのクレーターを見て、キャスリンは戦慄した。ダウンタウン地区の半分以上は吹き飛び、今や跡地は巨大な入り江になっている。

直接その瞬間を見たというミツリによれば、火事場の馬鹿力にしても、とても念を覚えて一年やそこらの人間に出せる出力じゃ無かったそうだ。こんな形で才能を発露させた人間は、キャスリンも初めて見た。

体、心、命、記憶・・・そのために、いったい何をどれだけ差し出したのやら、見当もつかない。しかも、そこまでして得たオーラの全てを、あの子は破滅の力に変えてしまった。

オーラを爆薬に変化させる能力。

こういった直接攻撃力に長けた能力は、オーラを手放すことを苦手とする変化系の抱えるジレンマだ。自分が傷付かないよう、体をオーラで保護して加減をすれば、相手に届く力も半減する。といって、全力で能力を使えば、自身の破滅を招く。そんな能力を使い続ければ、いつか身も心もボロボロになってしまう。

それでも、あの娘はそういう力を選択した。

他人を傷つけるためには、まず自分が傷付かなくてはならない、そんな力を。

「破滅的な人生観を持った子だね。・・・あいつめ、なんて能力者を育てちまったんだ」

子供というのは難しい。何人育てても、未だに慣れたためしがない。精神的に未成熟な分、時にもろく、時に強く、融通が利かない。二律背反、アンバランスな心と体。子供のうちから念に目覚めたものの多くが持つリスクだ。

「大事な記憶だからこそ、代価として持っていかれたのか・・・それとも、単に大事なものを失った記憶を忘れさりたかっただけなのか・・・」

今となっては、恐らく誰にも分からない。だが、幸か不幸か、あの子はその絶望すらも失った。

「・・・ま、生きてさえいれば、何とやらだが」

キャスリンの言葉に、ヤマダも頷いた。

生きてさえいれば、とりあえず人生というやつは続くのだ。

「ちなみにそれ、彼女には?」

「落ち着いたら、全部話す。患者には嘘をつかないのが、俺の主義だ」

ヤマダは静かにそう言った。

何かを受けれた人間の顔。それなりに長いつきあいのキャスリンにも、初めて見せる顔だった。 

「人の生き方を決める権利は、医者にはない。死地に赴く事がそいつの選び取った人生なら、俺には止められない。だがな」

そう言ってタバコの火を揉み潰したヤマダは、とても医者だとは思えない、奈落の底のような恐ろしい目をしていた。

「それでも生きているのなら、何をしたって治してやるさ」

キャスリンには、かける言葉が見つからなかった。

「・・・精々高い診療報酬を請求するんだね、ヤマダ君。言っとくけど、書類はキチンと出したまえヨ。いつもいつも、どこの馬の骨とも分からない患者の分まで水増しして請求されては、会計士を誤魔化すのが大変だ」

やるなら、もっとうまく誤魔化せ。そう、キャスリンは言外に伝えた。

この国では、医者というのはあまり儲かる商売ではない。良くも悪くも自由主義を崇拝し、あらゆる社会保障を認めず、自由診療を続けてきたのがこの国だ。貧富の差は医療保険の差、受けられる医療の差となって、両者の間に溝を穿っている。儲かるのは一部の大病院と専門医だけだ。

それでも、ここハーレムでの医療格差はマシな部類に入る。ヤマダが、ここに住みだしてからは。

「・・・ついさっき、市立病院から連絡があったよ。あの子が助けた女の子、持ち直したそうだ。一事は精神的にかなり危うかったそうだが」

あの日、ヤマダ外1名が救った女性達は、市内の病院に搬送され、治療を受けていた。その多くには身寄りが無く、しかも心に深い傷を負っていて、アフターケアを必要としている。さすがのヤマダも体の傷は治せても、心の傷までは癒せない。

「親御さんが見つかって、病院に駆けつけて来られてからは、なんとか快方にむかってるそうだ。助けてくれた人に、一言、礼が言いたいとさ」

その話を聞くと、キャスリンはなんともいえない気分になった。

「あそこの診療部長は医大の同期でね。堅物な男だから、なんと誤魔化したものやら・・・」

困ったな、と口にしながら、どこかヤマダはうれしそうだった。

事件の全貌は公には伏せられている。不用意に情報を流すことはできない。その点はヤマダも承知済みだ。何より、肝心のあの少女に記憶がないとあっては、会わせることもできないだろうが・・・

それでも、

「こんなクソみたいな世の中でも、何一つ救いがないわけじゃない。俺は、そう思いたいね」

束の間、キャスリンはほんの少し、気持ちが軽くなったような気がした。しばらくこの気分に浸り、善人ぶっていたかったが、仕事はまだまだ残っている。

「・・・じゃあ、そろそろボクは行くよ」

「ああ、振込みはいつもの口座に」













キャスリンがリムジンでミッドの屋敷に戻ると、既に日は中天に差し掛かっていた。約束の刻限には間に合ったが、屋敷の玄関には既に客が訪れていた。

一人は見た目14、5歳程度の少女。

腰まである黒い髪を後ろに流し、五本指の龍が描かれた紅いチャイナドレスを着ている。肌色は病人のように白く、血のように赤い唇に、長い煙管を咥えていた。

もう一人は黒いスーツを着た男。

細身で長身、ガリガリにやせているが、視線は凶悪なほどに鋭い。おまけにヤク中かなにかのように青白い顔をしていた。黒いスーツの首にだらしなくネクタイをぶら下げているが、両手はポケットから出している。目玉をぎょろぎょろと動しながらせわしなく周囲を警戒しているようだった。

「お久しぶりです、媽媽(マーマ)」

少女はキャスリンの姿を目に留めると、唇の端を優雅にゆがめて笑いかける。顔の造作はまるで違うのに、笑い方はキャスリンその人とあまりにも似通った笑みだった

ドレスの裾を翻してシナを作る少女を見て、キャスリンは思わず眩暈を覚えた。

「ドラ息子め、また体を取替えやがったな・・・」

「ええ、女になったのは初めての経験ですが、たまにこういう刺激もいいものです。長い人生、ちょっとした刺激が新たな生活の活力を生む。そして、久しぶりだな、妹よ」

「お久しぶりです、お兄様。どうぞ、奥へ」

皺でひび割れた顔をニコリともさせず、老女は少女達を部屋の奥へと促した。

「病犬、お前はここでお待ち」

紅いチャイナの少女はそういい捨て、不服そうな男をひとにらみで黙らせると、老女が差し招くまま扉の向こうへと消えていく。老女を後ろに控えさせ、キャスリンもその後に続いた。

「まったく、だいたい何さ、王大人って。偽名にしてもひねりがなさ過ぎる。ミドルスクールの教科書並みだ」

「上の名前は覚えやすいほうが下っ端連中にはいいのです。しかも、ありきたりで、目立たない。電脳ネットで検索されても、あまりに検索対象が多すぎてまともに引っかかりません。時代が変わったということですよ、媽媽」

新緑の香りに包まれた長い外廊下を渡り、今までいた棟とは別の建物へ移る。広い屋敷に人気は無いが、廊下が面している広い中庭に設えられた庭園は良く手入れされ、絶妙のバランスで季節の木々が植えられていた。

四方を二階建ての屋敷に取り囲まれた小さな中庭、その中央に、小ぶりのガーデン・ハウスがあった。木造の平屋で、くすんだ藁葺きの屋根に、古びた色合いのベイウィンドウ。壁の煉瓦はいたるところが苔むしていた。

古く、重厚で、憂鬱なたたずまいを見せる巨大な屋敷の中で、まるでこの場所だけは、時代がかった民家を引っこ抜いて移植したかのように、素朴なつくりだった。中の家具も、高級ではないが、使い込まれた木のぬくもりを感じさせるものが揃っている。

実際には、この家のあった場所に、後から屋敷が立てられたのだが。その事を知る4人のうちの1人は、先日、故人となってしまった。

田舎屋敷のダイニングそのままの小さな台所で、3人はお茶を囲んだ。

「さて、まずは例の薔薇の話だが」

キャスリンは手ずからお茶を入れると、スコーンとジャムを出して振舞った。

「流石に大統領府の連中が真っ青になって後始末に走り回ってるよ。今のところ目立った被害はヨークシン沖で大量の魚の死骸が上がったくらいだけど、一歩間違えば人口800万のこの街が全滅していたから無理も無い。おかげで情報部は上の首がまとめて入れ替わったらしいね。大統領は本気だ」

スコーンを齧りながら、少女が真面目な顔で頷く。

「去年の春に、ヤーパンでカルト宗教が地下鉄での化学テロ起こしたばかりでしたでしょう?連中、それを当てこすりにして追加予算を計上していたようですが、実際にはこのザマですから、そら大統領もキレます。正直「ざまあ」と思わないでもありませんが・・・あの男も二期目を控えているタイミングだ。冒険は避けるでしょう」

キャスリンもそれに同意した。

「もちろん、表ざたにはできないから、突発的な異常気象ってシナリオで通す気だ。またしても真相は闇の中。泥は現場の連中が被ればいいとして、ボクらとしては奴らに貸しが出来たと思えば、そう悪い取引でもない。後始末は奴らが何とかするだろう。ただ、流石にダウンタウンはもう放置できないってことで、再開発が決定した」

「さもありなん」

長らくヨークシンの闇を形成してきたダウンタウン地区も、これを機に抜本的に整理される事になった。今はまだ、政府内でも内々の決定だが、遅くても再来週には公式に発表されることだろう。

その点、キャスリンは抜かりなく、グループ系列の不動産会社や建設業者に、開発特需を当て込んで、今から準備するよう密かに指示を飛ばしている。

「では、本題だ」

キャスリンが顎をしゃくると、チャイナの少女は持参のバッグから、書類の束を引っ張り出して二人に渡した。クリップ止めされた数枚のA4書類を手渡されると、キャスリンは無言で表面の文字を目で追う。しばらく、幼女と老婆は無言で書類の中身を頭に入れていたのだが、やがて少女が口火を切った。

「D・Dの供給元は、ミテネ連邦、ネオグリーンライフの自治領でした」

今回の騒動の一番の謎にして、そもそもの発端。新種の麻薬"D・D"の流通経路。

「なんてこった・・・。キチガイじみた環境団体の中でも一番キレた連中だ」

ネオグリーンライフ。通称・NGL。ヨルビアン大陸バルサ諸島の南端に位置する島、ミテネ連邦を構成する5つある国のうち、西端の一国だ。

エコロジー団体が運営する自治国であり、200万人を超える人口のうち99%を占める構成員が、機械文明を捨て自然回帰と自然保護を目的とした、自給自足の生活を送っている。

このNGLが、似たような目標を掲げる他の団体と異なっているのは、その機械文明排除に関する徹底振りだ。金属や電子機器はおろか、石油製品やガラス製品の持ち込みすら法律で禁じられ、違反した場合は最悪極刑もありうる。銀歯や整形用シリコンなどが体内にある者は、摘出しない限り入国も許可されない。

そういった極端な自然回帰主義を掲げている組織だが、実は成立直後から、黒い噂が耐えない。

「ええ、表向きは多少過激な環境団体を装っていますが、色々ときな臭い噂の耐えない連中です。今回の件を鑑みるに、黒で決まりでしょう」

お茶で喉を湿すと、少女は「しかし」と続けた。

「NGLは医者の診療すら拒否して自然死を受け入れる、本物のマジキチ集団です。そういうのを敵にまわすと厄介ですよ。何せ、原理主義者ってのは理屈じゃ動かない。しかも、まずいことに著名人や芸能人、一部の政治家にも奴らのシンパがいます。下手に手を出して、ロビー活動に走られたら目も当てられない」

「だね。ボクも少し頭が痛いよ。うちの銀行にもNGLの募金用口座がある。毎月そこそこの金がまとまって送金されていたはずだ。顧客の中にもNGLの大口支援者がいるし」

「仮に官憲に事情を伝えたところで、場所がNGLでは本土の土を踏むのも一苦労です。何せ、機械類が一切持ち込み禁止の国だ。仮に入国できたとしても証拠を掴むのが難しいとくれば、国際警察も二の足を踏むでしょうな」

キャスリンは忌々しそうにスコーンにかぶりつき、少女は胡乱気に煙管を咥えて煙を吐き出した。

「たぶん、D・Dに関わってるのは上層部のごく一部だけだろう。末端の構成員は教義とやらを信じてる真っ当な狂人・・・ボクならそういう手を使う」

豚公の船、沈めるんじゃなかったと、キャスリンは今更ながらに後悔した。探れば、まだまだ何か出てきたかもしれない。

「・・・なあ、この件、仮にマフィアン・コミュニティに情報を流したら、どうなると思う?」

嫌な予感を覚えてキャスリンが問いかけると、少女は困ったように微笑んだ。

「恐らく、媽媽が危惧されている通りになるかと。コミュニティにとって、麻薬がばら撒かれる事そのものは問題ではありません。コミュニティの影響下にないルートを介した流通が、商売に不都合なだけです。故に、どの組も我先に取り込みをはかるでしょう。D・Dの市場価値は計り知れません」

「・・・やっぱり、直接的な干渉は危険すぎるね。しばらく放置だ。一応、それとなくボクから政府関係者に情報を流しとこう。豚からの供給は絶ったから、ヨークシンへの流入はしばらく抑えられる筈だし。とはいえ、いずれ同じことをやりだす馬鹿はでてくるだろうなあ・・・」

キャスリンは喉の渇きを覚えて、茶を一口啜った。

「それはさておき、媽媽。このところ『裏』の力が増しすぎていると思いませんか?今回の一件も、元をたどればそれが遠因です」

少女が、迂遠な言い方をしたので、キャスリンは目を瞬かせた。

「何が言いたいのさ?」

人の悪い笑顔を浮かべ、少女が自分の首筋をトントンと手刀で叩いてみせた。

「少々、毒抜きが必要ではないかと」

二人の剣呑な視線が、空中で交わる。

「正直な話、私は最近危惧していたのですよ。『裏』が力をつけすぎて、多少暴走する馬鹿が出るくらいならいざ知らず、やりすぎて『表』の直接介入を招くのはさすがに面白くありません」

その危険は、内心キャスリンも恐れていた。

「マフィアン・コミュニティーそのものは悪くないアイディアでした。本来なら絶えず争う筈の裏社会に、一定の相互利益を持たせることで、秩序を生み出すことができた。おかげでこの街のような例外を除けば、組同士の表立った対立も少なくなり、世界的にも治安が幾分改善できました。しかも、闇物資の流通も、ある程度監視が行き届くようになっている」

かつてマフィアン・コミュニティ、その原型を準備させたのはほかならぬキャスリンだ。

目の前の息子に命じ、犯罪集団にとって、互いに争いをなくし、目立たず潜在化することが相互利益に繋がることを説き、犯罪シンジケートの構築とその運営の合議制化、制裁機関の設置などを考案した。それが今で言うところの十老頭と陰獣だ。

これにより、それまで血縁関係や古いしきたりに従って動いていたマフィアが、近代的なビジネス組織、即ちマフィアン・コミュニティへと変貌したのだ。

キャスリンにしてみれば、抗争ばかり繰り返す馬鹿どもを、監視しやすいように一まとめに括りつけただけだったのだが。

当時は、マフィア同士の過激極まりない抗争が日常茶飯事のように起きていた。それが「大量虐殺」として新聞をにぎわせ、表社会の関心を呼びつつあったため、ある意味では苦肉の策だった。

しかし、と少女は続ける。

「それが裏社会に力をつけさせ過ぎました。所詮、影は影。それを忘れて暴走しだしたら、後に待っているのは悲惨な悪循環が生み出す倍倍ゲームです。治安の悪化が税収の低下を招き、経済を落ち込ませ、それが更なる治安の悪化を招く。だというのに、若い連中にはそれが分からない」

「経済と同じだね。誰もがバブルだと分かっていながら、過剰な投資を止められない。いずれ、破局が訪れるその日まで」

「破局なぞ起きてもらっては困ります。何せ、私は媽媽よりだいぶ長生きをするつもりなんですから」

「そうかい?・・・・で、どうしろと?」

「処分しましょう。下手を打ちそうな連中を集めて、残らず全部」

あっけらかんと笑いながら、少女はあまりにも過激な策を、いとも容易く口にした。

つい最近、大量の血が流れたばかりだというのに、このドラ息子はまた抗争を引き起こすつもりらしい。

「媽媽のところの顧客に一人、面白い男がいるでしょう?アレを使います」

逆十字を背負った、イカレタ男が。と、少女が笑みを深くしたので、キャスリンは頭痛を覚えた。

「・・・アレはうかうかと使われる男じゃないよ。ヘタに手を出せばこちらが噛まれる。だから、わざわざボクは奴の動機をつぶして、標的になるのを避けてるんだ」

奴の持ち込む盗品を扱うことで。

『あの男』にとっては、『盗む』ことそのものが目的だ。一度盗んだものをまた盗むほど、酔狂ではない。それに、膨大で厄介な盗品を捌けるルートは限られる。ボーモント銀行の抱える盗品マーケットは、その分野でも老舗中の老舗だ。

結果的に『あの男』がボーモントを狙う動機が消え、相互に利益関係が生じる。

「流石に危険すぎるね。一歩間違えば、あの幻影旅団とコミュニティをまとめて敵に回しかねない」

「媽媽はあれを過大評価しすぎですよ。所詮は盗賊です。うまそうな餌を目の前に投げてやれば、食いつかずにはいられない。私も流星街にはそれなりに顔がききますし・・・・まあ、仕込には何年か必要かもしれませんが、幸いにもこの街には毎年九月にアレがある。天の時、地の利、人の和。その全てを抑えられましょう。何も問題はありません」

暢気そうな長男の言葉に、キャスリンは軽くため息をついて首を横に振った。

どうにもこのドラ息子は他の兄弟の誰よりもキャスリンに似てしまったようで、ことの他陰謀を好む。それだけならまだしも、敵を見くびる悪癖があった。

傍らの娘をチラリと見ると、僅かに眼を細めて頷いている。なんと、意外にも反対ではないらしい。この二人の兄妹仲は最悪なのだが、珍しい事もあるものだ。

さて、どう説き伏せたものかと頭を悩ませていると、キャスリンはカップが空になっていることに気付いた。

「ハンプティ、悪いがニルギリティーを・・・」

そこまで口に出したところで、ようやく自分の無様に気付く。

「・・・どうぞ、お母様」

横合いから差し出された、新たなティーカップ。

キャスリンはそれを受け取ると、淡い琥珀色の液体に目を落とした。息子と娘の顔を、まともに見ることも出来ずに。

「ありがとうよ・・・」

例え体は不滅だろうと、魂は劣化する。永遠なんて、どこにもない。それが証拠に今回もこのザマだ。

それに引き替え、子供達は、いつまでも子供のままじゃない。そんな、何百年も前に分かっていた事を、もう何度、目の前に突きつけられたことか。

ならば・・・一度、任せてみるべきなのかもしれない。

「・・・分かった、お前が仕切りな、可愛い坊や」

「謝々(シェシェ)」

少女は老獪に笑った。

「でも、面倒になりそうなら、早めにお母さんに相談しておくれ」

「もちろんです。我らはファミリーなのだから」































ミツリは午後の気だるい時間を過ごしていた、

表に『closed』の看板をかけ、客の去ったテーブルを拭いて回る。砂糖の瓶の残りを確認してると、足元でポテポテと、捕まり立ちを卒業し始めた息子が、スカートの裾を掴んで自己主張しているのに気付いた。さっきまでクッションに触れて遊んでいたのだが、飽きたので構ってほしいらしい。

息子を抱きかかえ、椅子の上に降ろす。視点が高くなったことで、息子はきょろきょろと周囲をうかがった。

「けーたー、もう少しでお店終わりだから、それまでいい子にしてね~~」

「あぃ!」

ほっぺをぷにぷに突くと、息子はたちまち笑顔になった。最近、おしゃべりを覚えだした。子供の成長は、早い。

あの日から、ミツリは基本的に暇を持て余していた。

事後処理だとか、その手の面倒な仕事は戦闘要員の彼女には廻ってこない。おとなしくバーのママさん家業に戻るはずだったのだが、店の入り口が半壊しているので、営業再開にはしばらくかかる。

そこで、隣の空き家を借りて、カフェなぞ始めてみたのだが、これが妙に性に合ってしまった。夕刻から始まる仮営業のバーよりも、売り上げも上なのだ。

「アンヘルちゃん、それ終わったら、今日はあがっていいわよ」

「はい、店長」

コーヒーや紅茶を扱う店なので、渋がつかないよう洗物には気を使う。バイトの娘が水道を捻って、洗剤の泡を洗い落とすたびに、制服のミニスカートがふりふりと揺れた。

こじんまりとした店だし、どうせ趣味のようなものなので一人で切り盛りしてもよかったのだが、バーの方の古馴染みが訪れたりと、そこそこ忙しい。そこで、リハビリがてら働く場所を探していた女の子の面倒を見る羽目になったのだが、そのウェイトレス姿が妙に似合っていて、はからずも結構な数の男性客を呼び寄せてしまった。

もう、いっそのこと、このままカフェの営業を続けて、バーの深夜営業を自粛しようか。そうすれば、もっと子供と一緒にいられる時間が増える。それに、旦那はあれでコーヒーにはうるさい男だ。きっと嬉々として力になってくれるだろう。

そんなとりとめもないことをぽつりぽつりと考えながら、彼女が洗い物を片付けるのを見守った。

「店長、おわりました」

「はい、ご苦労様」

バイトの店員、アンヘルはぬれた手を花柄のタオルでぬぐった。食器はピカピカに磨かれていて、汚れ一つ無い。この子は案外几帳面で、家事には向いている性格だ。

一月前、バイトの面接で再開した少女は、その数ヶ月前に共に激戦を繰り広げた人間と同一人物とは、とても思えなかった。

それから一ヶ月、『初対面』のカフェの店長として接してみて分ったのは、よくも悪くも、当たり前の女の子でしかないということだけだ。

ミツリは、かつてこの子が、自分の旦那に気のあるようなそぶりをしていたことに気付いていた。女は自分の持ち物には敏感だ。それでも、そ知らぬふりをしていたのは、別に悋気を隠していたからではない。それが恋愛感情などではないと、分ってしまったからだ。

無意識のうちに、父性の愛情を求める代償行為。あの時、その事を指摘していたら、きっと彼女は傷付いただろう。

そして、今では戦うことを知らない、ただの普通の女の子。

背負っていた影も、絶望も、そしてあの男のことも、置き去りにして。

それが、いい事なのか、悪い事なのか、ミツリには分からなかった。

「・・・ねえ」

ポツリ、と気付いたら口から言葉がこぼれていた。

「わたしね、ちょっと前まで、戸籍がなかったのよ。ろくでもない所で生まれちゃって。そのせいで、少しだけ、苦労したわ」

戸籍。それは、おおよそこの世界で、あらゆる人間が唯一平等に持たされるものだ。

全ての人間の兵歴、学歴、戸籍、病歴、DNA、その他ありとあらゆる情報はデータ化され、社会的に管理されている。国民一人一人、捨て子でさえも国民番号がつけられ、そのデータは国際人民データ機構とよばれる機関によって運用され、そこには過去60年分以上ものデータが全て保存されているという。

このコンピュータに不法侵入し、個人情報を消すことは殺人と同等の罪として国際法で認定されている。公にされているだけで、すでに20名以上の人間が侵入を試みただけで殺人未遂の罪で逮捕されていた。しかも、仮に侵入に成功してデータを書き換えたとしても、0.1秒後には元のデータに修復されてしまうほどの強固なシステム。

一度このシステムに登録され、社会に存在を許された人間は、例え死んだとしてもその情報だけは永延に残る。ただ一つの例外をのぞいて。

流星街。

この世の何を捨てても許される場所。独裁者の人種隔離政策に始まり、1500年以上前から廃棄物の処分場となっている地域。政治的な空白地帯で、公式には無人とされているが、実際には廃棄物を再生利用することで、数百万もの住人が暮らしている。捨て子や犯罪者、住処を失った民族などが集まったことで、今では多人種のルツボだ。

この場所で生れ落ちた人間は、誰一人、戸籍をもつことができない。

「既に存在する戸籍データを書き換えることは不可能。でも逆に言えば、存在しない戸籍データを書き加えることも不可能」

本来ならね、とミツリは天井を見つめながらそういった。

あの街の主力商品は、人だ。戸籍を持たない人間が、非合法に売買されている。

それは、日常的に犯罪を犯さなければならないマフィアたちにとっては、理想的な消耗品だ。加えて、念が使えるものは、高値がつく。

ミツリの場合、売られた先が、たまたまテロ屋だっただけの話。

「・・・でもね、今の私はただの主婦で、ジャポン出身のバーのママ。ヨークシン在住の一般市民よ」

テロリストのバンシーでもなければ、流星街生まれのジェーン・ドゥでもない。

旦那が無理をして、そこから連れ出してくれたおかげで、今の自分がある。まあ、戸籍を用意してくれた件も含めて、ボスには頭が上がらなくなってしまったが。

「ええと・・店長?」

何を言っているのか分からないと、不思議そうな顔をしているアンヘルを伺い、ミツリは頬を寂しげに歪ませた。

「生きてさえいれば、何だって手に入るわ。人生はやり直せるのよ。いつだって、どこだって、何度だって・・・」

世界は残酷なだけではないのだと。

こうなる前に、教えてあげればよかったのだろうか・・・?

「・・・ひぅ」

悲しげな声がして我に返ると、息子が椅子の上で、ふるふると涙を溜めている。構ってくれないのが寂しくて、悲しくなってしまったようだ。

「ごめんねー、けーたー」

ほっぺをぷにぷに触ると、暖かい。

張り詰めていた空気が、それで和んだ。

「・・・ごめんなさいね、へんなこと話しちゃった。忘れてちょうだい」

「あ、いいえ・・・」

曖昧に笑う少女を見ながら、手を伸ばして抱っこをねだる息子を抱き上げる。

最近気付いたのだが、この子はどうも女の子に触られると喜ぶのだが、男に触れられると大泣きする。いったいどこの誰に似たのやら。少しだけこの子の将来が不安になった。まあ、言ってしまえばその程度の悩みでしかない。

この子のためならば、自分はいくらでもヒトデナシになれるのだから。
























バイトを終えて、店を出ると、既に日が摩天楼に差し掛かっていた。西日が目に痛い。

カフェ・ミツリの営業は昼時の10時から15時まで。休憩を挟んで17時以降はバーの営業になるそうなのだが、未成年のわたしは、当然アルコールを出す店の営業には関われない。

平日昼過ぎの中途半端な時間帯、人気の無い57番街のストリートを歩きながら、わたしは先ほどのやり取りを思い出していた。

わたしには、ここ1年あまりの記憶が無い。

具体的には、母シルヴィアとノーマンズ州で暮らしていた頃から、つい最近までの記憶のほとんどが。

聞くところによると、母親を亡くしてこの街にでてきたところでハリケーンの事故に巻き込まれ、凄まじい大怪我を負ったそうだ。右腕が"もげかけ"て、全身傷だらけの酷い有様だったらしい。そして、今は遠い親戚だという人物に世話してもらいながら、この街で療養生活を送っている。

かつての自分がどんな人間だったのか、顔見知りだったというヤマダ先生に教えてもらったが、ちょっとピンとこない。まるで映画の向こう側にいる人物の話を聞いているようで、現実感がないのだ。

その代わり、時折、ワケノワカラナイ感情がわきあがることがあった。

そんな時、何かをしなくては、と焦りにも似た気持ちがわく反面、何をしたらいいのか分からず、もどかしさを抱える自分がいる。

たぶん、わたしは大事な何かを無くした。

それだけは、漠然とわかった。まるで、胸の中央にぽっかりと穴があいたようで、しかもそれが何なのか分からず、気持ちが釈然としない。

それが、母さんの事だというのなら、分かりやすくて納得できるんだけど・・・何かが、ささやいてくるのだ。それだけじゃないって。

モヤモヤを抱えながら、わたしが小走りに帰宅の徒につく途中、教会の前で老いた神父と若い女性が話していた。

「神父様、ありがとうございます!私、迷いが吹っ切れましたわ!」

「いえいえ、あなたの道が開けたのなら幸いです」

メガネで巨乳で白衣という、なんとも微妙な格好の女性だったが、顔の造作は悪くない。後ろ頭に二本たらしたお下げと、顔のそばかすがチャーミングだ。

医者か薬剤師か、さもなければ大学やら何やらの職員だろうか。見た目は、おっとりとした印象を受けるので、教育関連の職種かもしれない。

「先生が亡くなられて、私一人でどうしようかと思っていました。でも、私、先生の志を継ぎます!世界中をバラのお花畑で満たして見せますわ!!」

花屋には見えないので、バイオ関連とかそういうインテリな職種だろうと思って、わたしはそれ以上の興味を失った。

女性は神父の手をとって勢い良く握手すると、まさに頭がお花畑といった具合で、踊りながらその場を去っていく。その後姿を、なんとはなしに見送った。

ふと、そこで角の公衆トイレから出てきたばかりの男と目が合った。男性の顔にまったく見覚えが無かったが・・・わたしは、痛々しさを覚え、思わず目を伏せていた。

「ママン、ママン、女の子だ!女の子がいるよ!」

「ホホホ、ドレイボットちゃん、ぶちのめしますよ。さ、下半身を露出したまま出歩いてはいけません」

唖然とする他のスタッフを余所に、平然と男のズボンを引き上げさせたのは初老のシスターだった。

やたらと筋骨隆々な大柄な女性。シスターというより下町の肝っ玉母さんといった感じなので、なんとなく親しみを覚える。

「許してあげてね、お嬢さん。この子はうちに来たばかりなのだけど、だいぶ脳をやられてしまっているのよ」

麻薬のせいでね、とシスターは悲しそうに付け加えた。

見れば、神父とシスターが数人、首から募金箱を捧げ、横断幕の前で麻薬の撲滅と被害者救済のための寄付を叫んでいる。

無言で1000ジェニー札を一枚、募金箱に入れると、シスターは驚いたように眼を丸くしてから十字を切った。

「神様のご加護がありますように」

その言葉が終わる前に立ち去り、数歩、歩いてからすぐに後悔する。

あれはなけなしの金だった。財布の中身は素寒貧で、バイトの次ぎの給料日まで、もう少しある。明日からどう生活しようかと、素朴で深刻な疑問が脳裏をよぎるが、さほど不安はない。食うや食わずの生活には慣れているのだ。

「「「Hail, Holy Queen enthroned above, Oh Maria!」」」

きびすを返したその背後で、突如、合唱の声が上がった。

声に後を引かれて振り返ると、シスターの一団が芝生の真ん中に並んで、歌声を響かせていた。ひとりひとりの技量はそれほどでもないのだが、普段から練習しているのだろう、統一感があってすばらしい。

アコーディオンで伴奏を担当しているのは、先ほどの神父だ。恰幅のよいシスターが、オペラ歌手顔負けの声量であわせながら、ヒップホップを踊るかのように指揮をとっていた。

ゴスペルにしてはあまりに明るく楽しそうな歌声に見物人が寄ってきて、手拍子をあわせて歌い出す。

「「「Oh Maria!!」」」

繰り返されるそのフレーズには、聞き覚えがあった。何年か前にヒットした映画で使われていたので、一時期リミックスが大流行したはずだ。確か映画のタイトルは・・・と思い出したら、トタンに一杯喰わされたような顔になるのが自分で分かった。

「・・・ちょっと皮肉が効きすぎてないかな、神様?」

天にましますファンキン野郎に心の中で毒づくと、今度こそ本当にきびすを返す。

「よう」

と、そこで今度は白衣の上から厚手のコートを着込んだ男性に出くわした。お世話になっている医師の、ヤマダ先生だった。今日は色々と出くわす日だ。

「こんなところでどうした?」

「バイトの帰りですよ。先生は?」

「往診の帰りだ。ここのセンターの患者の。週に二回、ここのシフトに入ってるんだ」

ああ、だからヤマダ先生のところは火曜と水曜が休みなのかと、わたしは納得した。

教会の運営するメディカルセンターでは、重度の薬物依存症患者が隔離され、入院治療を受けているという。

薬物依存の患者は、症状が悪化している場合には自殺のリスクもあって、24時間体性で治療を続けなければならない。いわゆる禁断症状のせいで、患者が暴れまわる事もあるので、これだけでも大掛かりな設備が必要となるそうだ。入院中は依存症の度合いによって、臓器の機能低下や感染症、合併症への対処が必要なので、医師の常駐を必要とするらしい。

当然、維持するための経費も、莫大なものになる。

「市からの補助金もスズメの涙だ。ここのセンターは、母体が教会だから、まだ経営が安定してるほうだが。それでも経費はカツカツさ。患者も、娼婦やホームレスが多い」

どこぞの金満家からの寄付で、ようやく成り立っているようなものだと、ヤマダ先生は何故だか忌々しそうに呟いた。

しばらく二人で立ち話をしていたのだが、急にわたしの胃が、くぅ、と鳴った。

ヤマダ先生がプッと噴出し、私は思わず赤面してしまう。

・・・くそう、これでも育ち盛りの女の子なんです、先生。

昼時は忙しくて、余分に作っておいたランチ用のサンドイッチを二つ摘んだだけだったからなあ・・・。賄いを期待して、朝ごはんをパン一個で済ましたのが間違いだった。・・・いや、最近何故だが男性客が増えて、一気に忙しくなってしまったのだ。

「なら、一緒に夕飯はどうだ?近くに安くてうまいパンケーキをたらふく食べさせてくれるダイナーがある。バターとブルーベリーのジャムを滝みたいにかけて食べると、うまいぜ。付け合せに出てくるベーコンにソーセイジ、ハッシュドブラウンなんかも結構いける」

晩御飯に甘いもの・・・悪くないなあ。

思わず唾を飲み込んだのが分ったのだろう、ヤマダ先生が目だけで笑っていた。

「じゃあ、いくか。ここから10分くらいのところにある」

先にとっとと歩き出した先生の後を、わたしは慌てて追った。

話し込んでいる間に、日は摩天楼の向こうに落ちていて、巨大なビルの影が周囲を覆っている。わたし達は徐々に人の増え始めた通りを連れ立って歩いた。ときおり、蹴り上げられた木の葉が足元で舞い、生ぬるい風が髪を揺らす。もう、冬も終わりだなあ。

急に、冬の最後の名残のような冷たい風が吹いてきて、わたしはつい首筋を縮めた。

それを見て、ヤマダ先生が、
 


「体を冷やすな。風邪を引く」



そういって、自分が着ていたコートを脱いで、"わたし/オレ"に着させた。












突然、涙を落とした少女を見て、ヤマダは慌てた。

一体何が悪かったんだろうかと自問自答する。まさか、コートの臭いが気になったとか・・?確かに改めて鼻を近づけると、汗に複数の薬品の臭いが染み付いていて、酷いものだ。女の子に渡すには都合が悪かったと認める。忙しさにかまけていたとはいえ、コートくらいはキチンとクリーニングに出すべきだった!!

・・・とまあ、山田次郎はそのくらい混乱していた。何せ、女の子に泣かれるなんて、初めての経験だったから。

少女はしばらく静かに涙を落としていたのだが、やがて

「ごめん、なさい・・・でも」

鼻をすすり上げ、青い瞳に涙を湛えて次郎を見上げた。

「でも・・・昔、誰かに同じことを言われた気がして・・・」

嗚咽を漏らしながら揺れる後頭部を、次郎は黙って抱き寄せた。あの日から、くすんだように変色してしまったアッシュブロンドの髪を撫でる。

・・・いずれ、この子は全てを思い出してしまうのかもしれない。その時、自分には何が出来るというのだろう。

しばらく、そうやって道行く通行人の人目を引きながら、少女の背中を撫でていると、震える小さな肩に淡いピンク花弁が一つ、はらりと落ちた。

上を見上げると、名物のサクラの花が一輪、蕾をほころばせている。

「・・・今年は、早咲きだな」



それは、長い長い冬の終わり。

春が、来た。
















fin.











Next

舞台は数年後、第287期ハンター試験。

大人になった少女は、未だ煉獄の中にいた。

次章、Chapter3 The TEST






[8641] Chapter3 「The TEST」 an prologue
Name: kururu◆67c327ea ID:7b7bf032
Date: 2014/03/15 22:57




an prologue









薄目を開けると、太陽が徐々に水平線の端に消えていくところだった。

押しては返す波の音、風に揺れるヤシの木の音。その二つが耳の中に入り続けるだけの、穏やかな時間が過ぎていく。

どうやら、うたた寝をしていたらしい。陽気は暖かく、バンガローに設えられたデッキの上、日傘に守られながら寝椅子に横たわっていればそうなる。だが徐々に日が傾き、風に冷たいものが混じり始めていた。

女は寝そべっていた寝椅子から、半身を起こした。傍らのサイドデッキには、読みかけの本が風にページをめくられている。

静かな島だ。船便の乗り換えの都合で滞在する羽目になったが、そうでもなければわざわざ来ようとは思わなかっただろう。自然が色濃く残り、入り江からのぞくサンゴ礁が美しい、典型的な田舎の離島。午前中、ゆっくりと島全体を歩いてみたが、3時間も掛からない。

島の主な産業は漁業のようだ。一応、旅行者が月に何人か立ち寄るそうだが、滞在する者は珍しいらしい。このバンガローもほとんどは空き家なのだそうだ。

西日に目を細めながら、そんなどうでもいい思索にふける。こうやって一人、穏やかな時間を過ごすのは、いつ以来になるだろうか。

と、その時。

「おまちどうさま!」

そう言って、楽しげに彼女の顔を覗き込んだのは、黒いトゲトゲした髪が特徴的な少年だった。バンガローを経営している家の子供だ。夕食を届けにきてくれたらしい。

この島についてから、およそ2日。明日の昼の便で島を出るので、僅か3日ばかりの逗留だが、初日の夕食以外は、バンガローの中で取るようにしていた。

昨夜は民宿の食道で食事をしたのだが、レストランも兼ねているようで、その日の仕事を終えた漁師達でにぎわっていた。料理の味は悪くないし、量は十分、そうガラの悪い酔客がいるわけでもないのだが、猥雑な雰囲気が苦手なのだ。若い女が一人でいるのが珍しいのか、しきりと声をかけられたのも、鬱陶しい。今は、しばらく一人でいたい気分だった。

今夜のメニューは、塩で焼いたイワシに、サバのオリーブ煮。そして一度天日干ししてからぶつ切りにしたタコのサラダ。メインはミンチにした鰹をカレー風味に味付けして、団子にして油で揚げた料理だ。季節柄、鰹がよく捕れるのか、今日は三食の全てに鰹の料理が付いてきた。

それに、いかにも素朴な形をした手作りのパンが二つ。サラダのドレッシングに使われている酸味の強いチーズと、オリーブも自家製らしい。よく冷えたコロナビールが一本あるのがうれしかった。

料理の盛られた皿を見ると、湯気で被せられたラップが白く曇っている。暖かいうちに運んでくれたようだ。ラップを外すと、湯気と共にむあっとした磯の香りが立ち上って鼻孔をくすぐった。

皿の上に敷かれたバナナの葉の香りがアクセントになって、いかにも食欲をそそるのだが、女は僅かに眉をひそめた。一人分にしては量が多すぎる。

「一緒に食べてもいいかな?」

どうやら自分の分も持ってきたらしい。よく見ると、確かに取り皿が二つある。

これで少年がもう三つか四つ年が上だったら、図々しいナンパのツケを支払わせてやるところなのだが、相手はミドルスクールにあがる前の子供だ。そそくさ食事を始めた少年に、女は苦笑しながら自らの食器を手に取った。ちょうど、一人で食事をするのも味気ないと思っていたところだ。

料理を口に運びながら、少年はしきりに外の世界のことを聞きたがった。

この島は僻地ではあるが、未開の土地ではない。テレビやラジオがあり、ネットも繋がれていれば、遠洋漁業の中継地として人の出入りもそれなりにある。それでも、生まれながらの島民にしてみれば、狭い世界というわけなのかもしれない。

「いいけど、わたしも人に語って聞かせられるほど、あまり持ち弾は多くないよ?」

とはいえ、女の経験談は離島育ちの少年にとっては(おそらくは多くの一般人にとっても、そうだろうが)夢物語のようだった。

生まれ育った、冬になると河まで凍り付くような土地で過ごした話。世界最大の暗黒街を抱える街で、のさばるマフィアどもと渡り合った話。毒蛇や猛獣に脅かされながら、ジャングルで麻薬組織と戦った話。

・・・恋の話は、まだ早いか。そんな埒も無い事を考えながら、彼女に話せる事を話せる範囲で、淡々と言葉を繋いで聞かせる。

「君は、雪を見たことがあるかな?」

「ううん。テレビでしか見たことないや」

まあ、そうだろう。高温多湿のこの島では雪はおろか、寒さそのものに縁がないのかもしれない。

「わたしは雪の多い内陸地の生まれだ。むしろこの島の暑さの方が珍しいね」

子供を相手にする気安さもあった。身内でもない人間に、何かを語って聞かせるというのは、女にとっても新鮮な体験だ。久方ぶりに摂取したアルコールが、口を軽くした原因だろう。

少年にキラキラした目で見られたのはこそばゆかったが、年頃の男の子というのはこういった反応を返すものなのかも知れない。知り合いの子供のように、女と見れば口説きにかかるよりは健康的だろう。

そんなことを話しながら、二人で魚介の料理に舌鼓をうっていれば、時間がたつのも早い。皿が空になる頃には、女はこの少年がすっかり気に入っていた。

日は既に落ち、あたりには夜の帳が下りていた。それでも、真っ暗闇というわけではない。星明り、月明かりが満ち、海をうっすらと青く染めている。そして、耳をくすぐる潮騒の音。都会では味わえない幻想的な風景に、女は思わずため息をついた。

やがて女の話がひと段落すると、今度は少年が島での暮らしを話してくれた。

彼の遊び相手だという仲のいい動物達の話。島の中央にある大きな沼とそこに住む主(ぬし)の話。ノウコという同世代の女の子の話。

女は少年の話に耳を傾け、相槌を打ち、素朴な話に聞き入った。

そういえば、昨日バンガローを借り受ける際に応対したミトという女性と(雰囲気はよく似ているのだが)顔立ちはあまり似ていない。思い切って聞いてみると、やはり血は繋がっていないのだという。

「でも、家族だよ!」

そう断言する少年には、都会の子供にはない純朴さを感じたので、女は微笑んだ。

いずれは家を継ぐのか?そう聞いてみると、意外な答えが返ってくる。

「ハンターになりたい!!」

女は思わず眉をしかめたのだが、それを見た少年が、少し寂しそうにしたのに気付いてしまった。

子供があの手の冒険家業にあこがれる気持ちは分からないでもない。だが、彼女の地元、ヨ-クシンで『ハンター』といえばアウトローな連中の俗称だ。

とにかくハンターとかいうのは、ライセンスを有したプロでさえ怪しげな手合いが多い上に、アマチュアの『自称』ハンターともなれば、そこらのチンピラやゴロツキと大差ない。いずれにしろ反社会的な人種なので、彼女は嫌っていた。

もちろん、立派な業績を残して認められたプロもいる。だが、比率としては前者の方が圧倒的に多い。そして人間は、どうしても悪目立ちするほうに、目がいってしまうものなのだ。

一瞬、そう諭して少年に弁解するか、とも思ったが言葉が喉から滑り落ちる寸前で、止める。

あえて純真な子供の夢を壊すこともない。子供というのは放っておいても、いずれ大人になる。それまでの間は夢を見る権利があるのだ。かつて彼女自身が夢を見ない子供だったからといって、他人の夢を否定するのは間違っているだろう。

それに何の因果か、ハンター試験に用があるのは女も同じだった。









「・・・そういえば、まだ君の名前を聞いてなかったかな?」

「俺はゴン。ゴン・フリークス!」








これが女と少年、ゴン・フリークスとの出会いだった。















…to be continued

序盤のさわりだけですが。
三、四話で短く終わらせられればなあ・・・




[8641] Chapter3 「The TEST」 ep1
Name: kururu◆67c327ea ID:7b7bf032
Date: 2014/03/30 21:50
誤字修正








海面は、先ほどまでの時化(しけ)とはうって変わって、穏やかな凪になっていた。

風は変わらず刺すように冷たいが、じっとりと肌に露が浮くほどに湿度が高い。黒い雲には切れ目が生じ、心地いい日の光が薄汚れた甲板を照らし出している。

時代遅れの蒸気船にふさわしい木製の甲板。飴色に変色した手すりに頬杖をつきながら、ゴン・フリークスは海鳥の声に耳を傾けていた。

独特の細長い首とくちばしを持った鳥。注意して見ると黒と白の模様があるのが分かる。海鶴だ。

「どーした、小僧?今頃船酔いか?」

「・・・もっとでっかい嵐が来るね」

すぐ後ろでパイプを吹かしていたひげ面の男が、語りかけてきた。

「ほう、なぜそう思う?」

「風が生ぬるくて湿気が多いし、ウミヅルも注意しあっているから」

海は気まぐれだ。晴れたと思えば、すぐ時化る。

野生動物はそういった気象の変化を機敏に感じとる能力を持っているのだが、離島で自然に親しんで暮らしてきたゴンはそのことをよく知っていた

「小僧、くじら島から入船したんだったな。親父は何してる?」

「ハンター!!写真でしか知らないけど尊敬してる!!」

ゴンは勢いよく答えた。

「!・・・嵐の規模と到来時間を予想できるか、小僧」

「波の高さはさっきの嵐の倍くらいかな。このスピードで進めば三時間くらいで衝突すると思う」

上出来だ。船長はパイプを燻らせると、満足げに頷いた。

今回の客は、目の前の少年を含めて4人。

クジラ島を出航した時点では他にも50人程の客が居たが、先の嵐でちょいと揺れた程度で泡を食って逃げ出した。根性のない連中だ。既に乗客リストを照合し、『審査委員会』には不合格の通知を送っている。

『足きり』を見事通過した他の三人は船室に控えていて、思い思いに過ごしていた。

一人は金髪の小柄な少年。

年はゴンより少し上で16、7程度。青い民族衣装のようなものを身に纏っていて、船の揺れを気にした風も無く文庫本のページをめくっている。

そう言葉にしてしまうと、時季はずれのバックパッカーか何に見えなくもないが、この船に乗っている時点でその可能性は排除していい。

もう一人は、黒髪を短く切りそろえた長身の男。

ヤクザかホストのようなカジュアルスーツにサングラスをかけていて、言葉の端々からガラの悪さが滲み出ている。年齢は三十路前後ほど。

グラビア誌に眼を通しながら、だらしなく口元をにやけさせている様子など、いかにもその手の業界人らしい風情だが、筋モン特有の嫌な空気を感じさせないのが不思議といえば不思議だった。

最後の一人は女だ。

黒いビジネススーツを着た白人で、アッシュブロンドの髪を後ろできっちりとシニヨンに結い、ノンフレームの眼鏡をかけている。見たところ、年は二十の半ばくらいか。まず美女と言っていい整った顔立ちなのだが、隙のない服装と笑み一つ浮かべない表情から、お堅い雰囲気が漂ってくる。

こちらは備え付けの椅子に腰掛け、缶コーヒー片手に外字新聞に目を通していた。顔色は涼しいものだ

皆、三者三様に一癖ありそうな連中ばかり。まあ、ハンターになろうとするような人間は、クセのない方が少ない。

「今年は、ちっとは骨のありそうな奴がいるようだな・・・」

どこかで、海鳥が一声鳴いた。
















Capter3 The TEST ep1
















「結局、客で残ったのはこの4人か。名を聞こう」

船室に残った乗客を呼び寄せると、船長は一人ひとりを見渡して、そう問いかけた。

「俺はレオリオという者だ」

「俺はゴン!」

「私の名はクラピカ」

「・・・ジェーン・スミスです」

最初のひとりは気さくに、次のひとりは元気良く、続くひとりは明瞭に、最後の一人は胡乱気に答えた。

4人。多いともいえるし、少ないともいえる。だが、ここ数年の平均からすれば、まずまずと言っていい。もっとも不合格者の数も、ここ数年は等比級数的に増え続けているのだが。

「お前ら、何故ハンターになりたいんだ?」

毎年毎年、何度繰り返したか分からない質問を、今年も最初にぶつけてみた。

「・・・?おい、えらそーに聞くもんじゃねーぜ、おっさん。面接官でもあるまいし」

黒髪のヤクザもどきが食いつく。見た目どおりガラの悪い男だ、マイナス1点。船長は心の中で採点をつけた。因みにマイナス3点で失格である。

ハンター試験の予選に明確な採点基準はないのだが、船長はその年、その時、その場の気分で、気ままに点をつけている。

「いいから答えろ」

目じりに険を滲ませて睨みつける男に、船長もまた一瞥で返した。

「何だと?」

よほど気が短いのか、すでに男の放つ気配は剣呑を通り越し、殺気立っている。

険悪になりかけた空気を払うかのように(もっとも、そういう意図はなかったのかもしれないが)、一番年下の少年が勢い良く手を上げた。

「はい!俺は親父が魅せられた仕事がどんなものか、やってみたくなったんだ!」

黒い目をキラキラと輝かせ、元気良く答える態度には非常に好感が持てる。

他の試験官がどういう基準で審査するかは知らないが、少なくとも船長は能力さえあれば性格はどうでもいいとか、そういうストイックな考えは持っていなかった。どれだけ優秀でも、クズ野郎がハンターになるのはいただけない。

「おい待てガキ!勝手に答えるんじゃねーぜ。協調性のねー奴だな」

そういう意味では、この男はとっとと不合格にしてやってもよかった。

「いいじゃん。理由を話すくらい」

「いーやダメだね。俺は嫌な事は決闘してでもやらねェ!」

実際の話、よくいる手合いだ。ハンターのような、ある意味ヤクザな商売に魅かれる輩とすれば、よくいるタイプだというほかはない。とはいえ、何も知らされずに不合格というのもフェアではないだろう。この男も、足きりは既に通過しているのだから。

「私もレオリオに同感だな」

静かに成り行きを見守っていた金髪の坊ちゃんが、そこで口を挟んだ。

もっともらしいウソをついて嫌な質問を回避するのは容易い、だが偽証は恥ずべきだと考える・・・云々と。レオリオという男が「レオリオ"さん"と訂正しろ!」と妙なところに食いついたが、クラピカは無視して長々とそう演説した。見た目どおりの理屈っぽいインテリ坊やのようだ。マイナス1点。

「・・・それじゃ、お前らも今すぐこの船から降りな」

これ以上意味のないやり取りをグダグダ続けるのも飽きてきたので、船長はストレートにいくことにした。

自分がハンター試験委員会に雇われた試験官であること、すでに試験は始まっている事。

過去幾度も口にしてきた説明の言葉を、テープレコーダーのように繰り返す。

「お前らが本試験を受けられるかどうかは、俺様の気分次第ってことだ。最新の注意を払って俺の質問に答えな」

そう締めくくると、沈黙が満ちた。

しばし、船がギシギシと揺れる音のみが、辺りに響く。

言うべきか、言わざるべきか、3人は迷っているようにも思えた。だが、どの道、ここで自分を納得させる答えを言えなければ、ハンター試験は失格だ。

気長に待つつもりで船長が懐からパイプを取り出して火をつけ、一口吸った時、

「私は・・・・・クルタ族の、生き残りだ」

最初に口火を切ったのは、意外にもクラピカだった。

「4年前、私の同胞を皆殺しにした盗賊グループ、幻影旅団を捕まえるためにハンターを志望している」

苦渋に満ちた声。だが、同時に決意と覚悟が言葉の端々に満ちている。話を聞いて、船長は無理も無いと思った。

細部は省いた説明だったが、船長はクラピカがあえて言葉に出さなかった部分も知っている。何せ、有名な話だ。あまりに陰惨な事件なので、よく記憶に残っている。詳細をぼかしたのは、子供、ゴンには聞かせたくなかったのかもしれないし、本人もあえて口には出したくなかったのだろう。

クルタ族はルクソ地方に住む少数民族だ。

感情が昂ると瞳が燃えるような深い緋色になるという特異体質を持っていて、この状態で死ぬと緋色は褪せずにそのまま残る。これは通称「緋の眼」と呼ばれ、「世界七大美色」に数えられるほど美しい。だが、それが悲劇の原因だった。

4年前、たまたま彼らの居住地である森に迷い込んだという旅人が発見した時には、クルタ族の集落、村民128人の全員が殺されていたという。

純潔のクルタ族は家族毎にそれぞれ向かい合わせで座らされ 体中に刃物を刺され生きた状態で首を切られ、持ち去られていた。クルタ族以外の、外部から移り住んだ数少ない定住者(その多くがクルタ族出身者と婚姻関係にあった)や一族との混血児は、眼球こそ残っていたが、無残に潰されていたという。しかも、死体に付けらた傷の数は、一族の物よりはるかに多く無惨だった。

そこから推測された事件の凄惨なあらましは、世間を震撼させた。

クルタの血族以外の者は、みせしめとして賊に傷つけられた可能性が極めて高い。彼らを傷つける一部始終をクルタ族の者に見せつけることで、「緋の目」に変わった者の首を、つぎつぎ斬り落としていったというのが、地元警察の公式発表だ。

これは怒りによって引き出される「緋の眼」が最も美しく、闇世界で珍重されるという事実からも裏付けられている。子供の死体の傷が多かったのは、親に苦しむ様を見せつけることで、より強く「緋の眼」を引き出す狙いがあったと思われる。

死体のそばには、メッセージが残されていたらしい。

『我々は何ものも拒まない。だから、我々からなにも奪うな』

それは幻影旅団、そう呼ばれる危険度Aクラスの盗賊団が残すとされるそれに、一致していた。

「・・・賞金首狩り(ブラックリストハント)志望か」

幻影旅団はA級首だ。あまりにも危険すぎて、熟練のハンターでも迂闊に手を出せない。

「死は全く怖くない。一番恐れるのは、この怒りがやがて風化してしまわないかということだ」

淡々と、感情を押し殺した声でそう述べるクラピカに、もう船長は何を言うつもりも無かった。

気の毒な話だ。同情してもいい。だからと言って、易々と合格にしてやるつもりもない。いささか相手が悪いが、復讐のためにブラックリストハンターを志す人間は少なくないのだ。

その話の最中、ジェーンと名乗った女が暗い瞳でクラピカを見ていたのが、妙に印象的だった。

「要は敵討ちか?わざわざハンターにならなくたって、出来るじゃねーか」

そう突っかかるレオリオを、クラピカは鼻で笑う。

「この世で最もおろかな質問の一つだな、レオリオ」

ハンターでなければ入れない場所、聞けない情報、出来ない行動・・・云々と。そう小ばかにした口調で諭すものだから、いよいよレオリオの形相が凄まじい事になっている。

今にも喧嘩を始めそうな雰囲気の二人に、嫌気の差した船長は、話に割り込んだ。

「おい、お前は?レオリオ」

「オレか?あんたの顔色を伺って答えるなんざまっぴらだから、正直に言うぜ。金さ!!」

でかい家に、いい車、うまい酒。そう続けたレオリオは分かりやす過ぎるくらいに分かりやすく、ハンターになる目的を金だと断言したので、船長は納得した。

ありそうな話だという以外にない。とはいえ、それで減点するつもりもない。所謂、ハンタードリーム、一攫千金を夢見てハンターを目指すものは数多いし、それが悪だと一概に決め付ける気はなかった。所詮、人間は食わねばならないし、そのためには金が要る。

今度はレオリオを面白そうに見ている最後の一人に、船長は話の矛先を向けた。

「いいだろう。最後は、あんただな」

女は眼鏡の位置を正すと、そこでようやく口を開いた。

「率直に言えばスキルアップのためです。上司に参加を勧められました」

身も蓋もない答えだった。何の感情も持たない冷めた眼で、事務的にそう口にしているのが伝わってくる。

「今の仕事に就く前は、ハンターを志したこともあります。合格すれば夢が叶ったことになりますね」

冷え切った声だ。夢や希望の欠片も含んではいない。

馬鹿にされた気がして、船長はイライラとパイプを吹かした。

「・・・おたく、何屋だ?」

「ただのOLですよ」

船長はいぶかしげに睨んだ。

他の三人も同様だ。

「そいつは、難儀なこったな。あんたの会社は葬式も出してくれるのか?ハンター試験で毎年どれだけの人死にがでるか、知らない訳じゃないだろ?」

遠まわしな皮肉だったが、女の表情にはヒビ一つ入らない。

「ご心配なく、生命保険には加入済みですから」

その眼鏡が、光を反射して冷たく光った。

・・・こいつはもう、失格にしてくれよう。船長は半ば本気でそう思っていた。

まるで本心を明かす気がないのは明白だ。おまけに「ジェーン・スミス」などというふざけた名前。あからさまに偽名くさい。

この女は、見た目は4人の中で、ある意味一番真っ当と言っていい。身なりはしっかりしてるし、応対した船員への言葉遣いも丁寧なものだった。そもそも女の受験生はそれだけで珍しい。だが、4人の中で一番船長の癇に障るのも、この女だった。

理由は、目だ。

ドブか泥のように濁っていて、光を返さない。なんとも嫌な饐えた眼つき。それが何より気に食わない。まるで裏社会の人間が、見た目だけカタギを装っているかのような、薄気味悪い気配が漂ってくる。

最近のヤクザ屋は、チンピラ(つまり鉄砲玉)以外はフツーのサラリーマンみたいな見た目なので始末が悪い。だが、目つきが明らかにカタギと違う。そういう眼で女を眺めれば、この小奇麗で隙のない服装もインテリマフィアの一張羅に見えなくもない。

人間の目利きには、これでも船長は自信があった。伊達に長いこと船の上で飯を食っているわけではないし、審査委員会にはこういった経験を買われているという自負もある。

船長が心の中で一気にマイナス三点をつけようとした、そのときだ。

「品性は金で変えないよ、レオリオ」

またもやクラピカとかいう若造が、余計な一言を放った。やはり餓鬼だ。空気を読まない。

「・・・三度目だぜ。表にでな、クラピカ。うす汚ねェクルタ族とやらの血を絶やしてやるぜ」

案の定、とうとうレオリオがブチきれ、今度はその言葉がクラピカを激昂させる。

「取り消せ、レオリオ・・・」

クラピカの瞳は、暗い怒りに燃え滾っていた。

今にも殺し合いを始めそうな両者。その双方に、船長は心の中でマイナス1点を加算した。これでリーチ。くだらない理由で殺し合いにまで発展する馬鹿どもには、そろそろ愛想が尽きかけていた。

「おい、こら!お前ら、まだ俺の話が終わってねーぞ!」

甲板に出て行く二人に、一応声をかけてみるが、見事に無視される。

そのやり取りを、ジェーンが一歩はなれたところで見守っていた。例のじっとりと底冷えのする眼で、その場の全員がどう動くかを観察している。

「放っておこうよ」

静かにそういったのは、ゴンだった。

「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」

その一言に、船長は驚愕し、ジェーンもまた眼を丸くした。

「ミトおばさんが教えてくれた、俺の好きな言葉なんだ」

二人が怒っている理由はとても大事な事だと思う、だから止めないほうがいい。と、小さな賢者は口にした。親父譲りの、黒く深い瞳で。

「・・・至言だね。カーネギー語録にも似たような言葉があるけど、わたしにはそちらの方がしっくり来る。残念だな、あの女性と、もっと語り合っておけばよかった・・・」

これまでの鉄面皮を一変させ、女が優しげに、そしてやや悔しそうにゴンに向かって笑いかけたので、船長は息を飲んだ。

ゴンもまた笑みを浮かべている。どうやらこの二人、面識があるらしい。

「船長!!」

その時、副長が息せき切って室内に飛び込んできた。

「予想以上に風が巻いてます!」

そして告げられた最大風速、実に80ノット。

「なんだと?!」

瞬間風速は100ノットを超え、風速計の針を振り切ったと告げられた時、船長の顔から血の気が引いた。

一般に、人が「立っていられない」とされる風速がおおよそ50ノット。これはその倍以上だ。今すぐ対策をしなければ、船が転覆する危険がある。予定では、もう一度ワザと危険海域を掠め、受験生の度胸試しをするはずだったが、これはもうそれどころではない。

「気象レーダーも真っ白です!!スーパーセルクラスですよ!!」

普段の冷静沈着さをかなぐり捨ててあせる副長を落ち着かせると、船長は矢継ぎ早に指示を飛ばした。

まず、通信士に近場の船舶や気象センターに情報を送らせる。異常気象に遭遇した時の船乗りの義務だ。万が一、自身の船が転覆した時の保険でもある。そして、船員と乗客全員(と言っても目の前の2人に、出て行った二人だが)にライフジャケットを着させるよう、航海士達に徹底させる。最後に、大急ぎでマストを畳め!、と命じようとしたところで、大事な事に気が付いた。

・・・ちょっとまて。そんな強風の吹き荒れる甲板に、あの二人は出て行ったのか?しかも、ライフジャケットも着ずに?!

この辺りの潮の流れは恐ろしく速い。しかもこの嵐、下に落ちたらまず浮かんではこれまい。ライフジャケットがあろうが無かろうが。だが、一瞬の浮き沈みが生死を分けることもある。

もうこれはハンター試験の試験官だからどうかという以前に、1隻の船を預かる船長として、見過ごせなかった。

船員法第12条、船長は、自己の指揮する船舶に急迫した危険があるときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽くさなければならない。

船長が大急ぎでライフジャケットを身に着け、甲板に駆け上がると、そこはもう修羅場だった。

船に乗って数十年を過ごした船長からして、恐ろしくなる程の暴風。横殴りの雨が吹きつけ、まともに眼も開けられない。吹き付けられる海水と風が瞬く間に体温を奪っていく。そして轟く雷鳴。白い稲光が暗闇の空を白く染めた。

巨大な波がマストの上まで立ち上がり、大量の海水がデッキに降り注いだ。足元はすでに洪水のようで、命綱をつけ、安全柵に拠りかからなければまともに立って歩く事もままならない。そんな中、綱を引き、マストをたたんで、嵐に耐える船員達の顔には使命感があった。

「船がひっくり返るぞ!帆を揚げろ!」

「急げ!!マストが持たない!」

手早く指示を出して部下達に発破をかけていると、船長は顔面に衝撃を感じて思わず手で押さえた。

「痛ぅ!!」

カラカラと甲板に転がる白い物体。握りこぶしほどもある雹だった。

「まずい・・・寒波の中に突っ込んだな!!」

思わず海を見ると、地上から雲へと細長く延びる高速な渦巻き状の気流、トルネードが立ち上がるところだった。

分厚く天を覆いつくしてうねる雲、地を生き物のように蠢く黒い波。天と地が限りなく近づき、その狭間にあるすべてのものを飲み込まんとしている。

「こりゃあ、伝説の白い嵐だ!!」

誰かが叫んだ。

現代ではダウンバーストの名で知られる現象。穏やかな海に突如現れ、あらゆる船を藻屑と化す白い嵐。古く船乗り達に恐怖されてきた悪魔が、彼らの船に牙をむいていた。

・・・だというのに。

「お前ら、いいから中に入れ!!」

ようやく船長は目的の二人を見つけると、船室の扉を指差して怒鳴った。

「今すぐ訂正すれば許してやるぞ、レオリオ」

「てめえの方が先だ、クラピカ。俺から譲る気は全くねェ」

甲板の上で睨み合いを止める気配の無い馬鹿野郎、二名。この凄まじい強風に堪えた様子も無く、平然としているのはさすがにハンター志望というべきか。

前言撤回。

「よし、お前ら、そんなに殺し合いたきゃ向こうでやれェ!!」

船長は逆巻く海原を指差して怒鳴りつけた。こいつら、もう不合格だ!

「船長、俺も何か手伝う!!」

いつの間にか甲板まで付いて来たゴンが叫んだ。こいつは、もう合格だ!

思わず「よし来い」と返しそうになる寸前で、別の声がそれを邪魔した。

「ダメ、君は船内にいなさい!」

船員から受け取ったライフジャケットをキッチリと身につけ、ジェーンがゴンの肩を抑えていた。その眼に先ほどまでの優しげな光は既に無く、無機質に少年をにらんでいる。

「それより、中で散らばっている船具を固定して!あれが飛び跳ねると洒落にならない!」

ピシャリと、反論を許さないとばかりに怒鳴りつけ、その上で子供にさせられるギリギリの事を指示する。咄嗟の判断としては上出来だ。

「うん!」

ゴンは、ハッとしたように息を呑むと、船内に駆け戻って行った。

「すまねェ・・・本来なら俺が言うべきだった」

船外の作業と船内の作業では、危険性がまるで違う。

"あの"ジンの息子。それが判断を鈍らせてしまったことに、今更ながら気付いた。

「いえ。子供が無茶したら、しかるのは大人の義務ですから」

お気になさらず。と、そう当たり前のように口にする女性に対して、船長はかぶっていた帽子をずりおろし、顔を隠した。恥じたのだ。

が、それも一瞬の事。

「わたしは甲板で遊んでる船具を固定します!」

受験生とはいえ、自分の船の客にそこまでさせていいものか、という思いが一瞬だけ浮かんだ。

「頼む!」

今は猫の手も借りたい。船長は即答した。

先ほど女がゴンに言ったとおり、揺れで固定の甘い船具が飛び跳ねると、船員の命にかかわるのだ。

女は頷くと、速やかに船具をロープで固定しだした。足元を乱した様子も無く、しかも忙しなく動き回る船員達の邪魔をしないよう、気を使いながら作業を進める。

船長は軽く眼を見張った。この女、揺れる船上を熟練の船乗りのように動いている。しかも、これだけ動き回って息を乱していない。

おまけに、パイプにロープを固定した結び方は、もやい結び。まるで教科書に載せてやりたいくらいの手際に思わず舌を巻いた。ロープワークの基本が出来ていないと、咄嗟にはできまい。

「お前さん、船に乗った経験があるのか?!」

「ええ、軍用の揚陸艦でしたがね!!」

女はマスト綱を引くのを手伝いながら、叫び返した。

これが巌のような男ならともかく、タッパがあるとはいえ相手は若い女だ。全身ずぶぬれになりながら、ひるむことなく海の男達の間に混じって働く姿は、一種の美しさがあった。

「ジェーンさん、中の方は終わったよ!」

船内に続く入り口で、ゴンが顔を見せて報告した。

「ご苦労様!こっちも大体終わった!」

額に掛かった飛沫をぬぐい、もはや雨のせいで視界をふさぐだけの代物になった眼鏡を外す女。その下の瞳は、濃いコバルトブルー。

思わず、船長が眼を奪われた時だった。

「ぎゃっあう・・!!」

しまった、と思ったときにはもう遅い。

「カッツォ!!」

今年船に乗ったばかりの新入りが、折れたマストに引っ掛けられて、暗い海に投げ出された。

時化た海は、人間が想像もつかない魔物じみた怖さがある。

一度海面に投げ出されれば、上下左右を全て海水に取り囲まれる恐怖が襲う。必死に両手足を動かせ、海面に顔を出せたとしても、海というのは僅かな凪ですら呼吸を確保するのが難しい。ましてや時化ともなれば海面には潮や噴霧が常時吹き出て、まともに息が出来ない。

その状態で波に揉まれ、冷たい海水に冷やされ、体力を急速に失っていく。まず、助かることそのものが奇跡だ。

スローモーに展開される、光景。

吹き荒れる風、うねる波、煽られる体、そして近づく死。



―――そこに飛び込む影二つ。



レオリオが、クラピカが、片手でデッキの手すりを掴みつつ、もう片方の手を伸ばす。

直前までにらみ合いをしていた二人が、いつの間にか駆けつけていた。

「チイッ!!」

「・・・!!」

・・・が、届かない。

伸ばしたその手が、あと10センチほど届かない。

中空で、今まさに海に飲み込まれんとしている船員の顔に、呆然とした表情が浮ぶ。その顔を、正面で手を伸ばしていた二人は、まざまざと見せ付けられた。

その時、

「やめなさい・・!!」

悲鳴のような女の声が、木霊した。

「ゴン?!!」

ゴンが、船員の足を掴んでいた。自ら、身を投げ出して。

その足を、レオリオとクラピカは掴み取る。意表を突かれた筈の目の前の展開に、思考を停止させることなく動けたのは、いかなる時でもチャンスを生かし、ピンチを凌ぐ機転を備えたクソ度胸。それを、この二人は間違いなく持ち合わせていた。

「っぎっ!!」

「クッソ・・!!」

とたん、二人分の体重が、彼らの全身に襲い掛かる。

そこで再び悲劇が起こった。

ずるり、とレオリオの靴が、荷重に耐えかねてズレだした。ほぼ同時に、手すりを掴むクラピカの濡れた手が、滑り落ちる。

4人いっぺんに、逆巻く海へ投げ出されようとしたところで―――

「あぁ!!」「え!」「お!」「なんと!」

―――4人いっぺんに引き上げられた。

片手でクラピカとレオリオの服をまとめて掴み取り、ジェーンが仁王立ちに立ち尽くしていた。

もう片方の手で手すりをわしづかみにし、しかも足元はこの嵐で酷い惨状にもかかわらず、根っこが生えたようにピタリと甲板に静止して動かない。4人分の体重を片手で受け止め、力づくで持ち上げていた。

重機のような凄まじいパワー。凄まじい腕力に、全員の体が中に浮く。


・・・もし、この場に念能力者がいたなら気付いただろう。女の両手足に展開された奇妙なオーラが、掴んだ人間と手すり、そして踏みしめた甲板とを吸着させていた事に。


気が付くと、4人の体はまとめて甲板上に投げ出されていた。

その瞬間、ゴンは見た。

冬の海のような凍て付く青い瞳が、自分を見据えて瞬くのを。









「よくやった、坊主!」

「礼を言うぞ!」

船員達はゴンたちを取り囲み、口々に湛えた。

「あいてっ!鼻うっちゃった・・・」

だが、当の本人はといえば、鼻を押さえて暢気そうに呟いている。

「・・・・・」

そのゴンをジェーンがにらみつけていた。はたで見ている船長すら足のすくむような、剣呑な気配を纏いながら。

・・・無理も無い、と船長は思った。ゴンはそれだけの無茶をした。と、思う反面、そのおかげで船員の命を救われた身としては、なんとももどかしく、助け舟を出し辛い。

ジェーンが口を開きかけ、

「この・・!!」

怒りの声が解き放たれようとした、その時。

「なんという無謀な!!下は激速の潮の渦で、人魚さえ溺れるといわれる危険海流だというのに!!」

「俺たちが足を捕まえなかったら、オメェまで海の藻屑だぞ、このボゲ!!!」

相変らず空気読まない男どもが割って入り、異口同音に怒鳴りつけた。

そんなとこで決闘してたクセに、とでもいいたそうな顔つきのゴンに、二人はなおも言い募る。

だが、レオリオは怒鳴りながらもゴンや、投げ出された船員のボディチェックをし、一方のクラピカは再び海に投げ出されないよう、全員の体を命綱につないでいく。

右腕に触れられた船員が顔を引きつらせたのを見て取ると、レオリオが患部を確かめて添え木をした。どうやら投げ出されたときに痛めたようだ。レオリオが慣れた様子で治療を行う手つきは、かけつけた船医が驚くほどに的確だった。

その間も、顔を怒りで紅潮させ、二人はゴンをしかりつける。だが、

「でも、つかんでくれたじゃん」

その何気ない一言が、場の雰囲気を和ませた。

「あ・・・ああ」

「まーな」

そんなやり取りを見守るうちに、ジェーンの体から力が抜けたのが、船長には分った。

「お前さんは、いいのかい?」

面白がるように言う船長に、女は苦笑しながら答えた。

「・・・言いたいことは、全部言われてしまいましたから」

ジェーンは顔から水滴を滴らせながら、濡れた髪を撫で付けた。眼鏡を外したままでいるところを見ると、ただのファッショングラスのようだ。衣服が濡れて体に張り付いていて、妙になまめかしい。

身長があるのと、地味なスーツのせいで今まで気付かなかったが、かなりグラマラスだ。出るべきところは出ていて、引っ込むべきところは引っ込んでいるボンキュッボン。

船長は年甲斐も無くドギマギしてしまった。だが、船員どもが好色そうな視線で女を眺めているのに気付くと、一喝した。

「おめーら!!さっさと持ち場に戻れェ!!」

「「へい!!」」

一目散に散らばっていく船員どもを見て、呆れたように頭を抱える船長を余所に、いつの間にかクラピカとレオリオが握手を交わしていた。

「ふ」

それを見て、何故か、無性に笑いがこみ上げてきた。

「くっくっくっ・・ははははは!お前ら、気に入ったぜ!!」

どうやら、このところロクでもない受験生ばかり見てきたせいで、自分の人を見る眼も相当曇っていたようだ。

「今日の俺様はすごぉく気分がイイ!!お前ら4人、責任を持って審査会場最寄の港まで連れて行ってやらぁ!!」

その言葉に、4人が眼を見合わせて笑みを浮かべる。

いつの間にか、あれほど強かった風はやみ、空には晴れ間がのぞいていた。海も静まりつつある。

海は気まぐれなのだ。海の男も、だが。









「では、わたしは服を着替えてきます。流石に濡れたままでは気持ち悪いし、風邪を引きますので。後はよろしくお願いします、パドック船長」

ずぶぬれのまま作業を手伝っていたので体が冷えたのだろう。ジェーンがきびすを返して船内に戻っていく。

「おう、任せときな!!」

笑顔で去っていく女を、船長は親指を立てて見送った。

・・・後に、船長はふとした拍子に、この時のことを回想する。自分はいつ、この女性に名前を教えたのだろうか、と。

一方、その後姿をレオリオが鼻の下を伸ばしながら眺めていた。

「へっ、ただの冷血眼鏡かと思ったら、結構いいとこあるじゃねえか」

「・・・だが、ただものではない。お前も、気付いてるだろう?」

「まあな」

レオリオとクラピカは揃って、ジェーンが4人を引き上げた辺りを眺めた。

「見ろよ。細身のくせに、えれえパワーだぜあの姉ちゃん」

木製のデッキの上、シューズで踏み抜かれたと思しき足跡があった。さらにデッキの手すり、女がつかんでいたらしきそこには、くっきりと手形が残っている。指紋すら写っていそうな程に、指の形が残った鋼管を見たとき、クラピカの背筋に冷たい汗が流れた。

顔を上げると、似たような表情を浮かべたレオリオと目があう。

「これが、ハンター試験というものか・・・」

「同感だ。ま、本選に参加する前に、化け物と乗り合わせたってのは、ある意味運がいいかもだぜ。ちったあ、覚悟が決まるだろ?」

違いない、とクラピカは苦笑した。

「よろしく頼む、レオリオさん」

「よせやい、レオリオでいいぜ、クラピカ」

クラピカは花のように笑い、レオリオは照れくさそうにサングラスの位置を整える。

そのやり取りを見ていたゴンが微笑んだ。

「それにしても、良く見りゃすげえ美人じゃねえか、あの女。・・・よっしゃ!いっちょ口説いてくるぜ!」

そう言って、船室に駆け戻ろうとするレオリオ。その言葉に、ゴンとクラピカは、本気であっけにとられた顔をした。

「レオリオ、本気で言ってるの?」

「何がだよ?」

ゴンの言葉にいぶかるレオリオに、クラピが苦笑しながら正解を口にする。

「・・・女性の、左手の薬指にはもっと注意を払うべきだよ、レオリオ」

ゴンは昨夜、そしてクラピカは出会った時には、もう気付いていた。

彼女の指に輝く、プラチナのリングを。
































薄暗い船内に、響く電子音。

辺りに人気がないことを確かめると、女は携帯を取り出した。

『・・・連絡が、遅い』

相手の声は少し苛立っていた。

「すみません。思わぬトラブルがありました」

『トラブル?お前ともあろう女が珍しいな』

「たまたま乗り合わせた船で受験生3名と接触したのですが・・・」

『例の船長の船か?』

「はい。そのうち一人はくじら島の住民で、船便の都合で一泊した先の民宿の子供でした。まさか今年のハンター試験に参加するとは思いませんでしたので、宿泊名義に使った「ジェーン・スミス」を急遽使い続ける事に」

おかげで用意しておいたドーレ港からザバン市までのルートが、使えなくなってしまった。

名前だけならどうとでもなるが、どうせもう一生縁はあるまいと、余計な事まで喋ってしまったのが運のツキだ。ちょっとしたバカンス気分で酒まで飲んでしまったのがまずかったのだろう。

それにしてもあの餓鬼め・・!完全に逆怨みだという自覚はあったが、先の事と言い、とんだ天然トラブルメーカーだ。

『なるほどな・・・』

「以後、気をつけます。他の受験生は未成年者1名に、成人男性1名の計3名。そろって勘の鈍そうな連中です。現状では、このまま彼らと行動を共にしつつ会場を目指すのが、振る舞いとしては自然かと」

『カバーとして利用できる、というんだな?』

「はい。以後は「ジェーン・スミス」として不自然な行動にならないよう、気をつけます」

『了解した。幸運を祈る。では――――"例え、死の陰の谷に歩み入るとも"』

「ええ―――"死の谷を、兵士は進む"」

通話を終了させたとき、女は死んだ魚のような眼で、携帯の液晶画面に写る相手の番号を眺めていた。

全身には、水滴が滴ったままだった。
















・・・to be continued

序盤は動きが無いのでさらっと。



[8641] Chapter3 「The TEST」 ep2
Name: kururu◆67c327ea ID:7b7bf032
Date: 2014/03/30 22:50
【ハンター試験会場案内】

ハンター志望者に配られる通知。試験開始の日時と大雑把な場所だけしか記されていない。僅かな情報を頼りに会場へたどり着かねばならず、これもまた志望者を絞り込むための試練となっている。














船が目的地に着いたのは、それから三日後のことだった。

予定の日時からすると1日近く早かったが、これでも安全な航路を選んで進んだので遅れた方だという。一度外洋に出てしまうと時代遅れの蒸気船では風任せの部分が多々あるということらしい。

その間、穏やかな凪が続いたので、初日のアレを知っている身としては拍子抜けした反面、安心したのも確かだった。やはり彼らも船乗りだ。航海が安全に済むのに越した事はないのだろう。

航海の合間、ゴンは年頃の少年らしい好奇心を発揮して、船員達に何かと可愛がられながら、船のイロハを教えられていた。その様子を見て気付いたのだが、この少年、集中力がずば抜けている。というか、一度何かに熱中すると、他のことが目に入らなくなるようだ。まあ、良くも悪くも子供だということか。さすがに、時化た海に躊躇無く飛びだした件では、肝が冷えたが。

一方の自分はといえば特にすることも無く、といってゴンのように必要もないのに船の手伝いをする意義も感じなかったため、手持ちの武器の手入れなどをしていた。出来れば射撃訓練もしておきたかったが、船の上では難しいし、練習に使える程の弾の持ち合わせもなかったので仕方無い。

銃というのは案外繊細な武器だ。ほんの50発も撃っただけでバレルの中は真っ黒けになる。一番汚れのつきやすい薬室を、金ブラシでゴシゴシ削るように磨いていると、ちょうど船内に顔を出したばかりのゴンが、こちらを見ているのに気付いた。興味を惹かれたらしい。

「・・・ねえ、ジェーンさんって、普段どんな仕事してるの?」

「ジェーンでかまわないよ、ゴン君。そうだね・・・地域社会の安全保障に貢献する仕事、ということにしておこうか」

すぐそばで聞き耳を立てていたレオリオが飲みかけのコーヒーを噴出し、クラピカは開いていた本で引きつった顔を隠した。

「俺もゴンでいい。・・・アンゼンホショウって何?」

「殴られる前に殴り倒す事だよ。平和は力でしか保てない」

それがうちの会社のモットーだと、女は眼鏡を光らせて力説した。

実は上司への痛烈な皮肉だったが、ゴンは純粋に困惑した顔をしている。やはり離島育ちの少年には、世知辛い都会の流儀は理解しにくいのだろう。

「例えば、ビジネスを円滑に進めるために、先手を打って取引相手の家族構成や通勤通学経路を調べ上げたり、夜中に公衆電話を使って「お孫さん可愛いですね。最近物騒ですから、何か事故があるといけませんよね」等と連絡するのはよくあることですが・・・」

それは恐喝だ、とそばで聞いていた二人は思ったが、生き馬の眼を抜くビジネスの世界では、商売敵の弱みを握ろうとするのは、もはや常識なのだと女は断言した。

「ですが、ちょっとした些細な行き違いが、重大なトラブルに発展してしまうケースも、ままにある。私はそのような場合に、平和裏且つ可及的速やかにトラブルを解決することをモットーとした、非営利団体に所属しているのです」

そこで女はにっこりと口元を笑みの形にして見せたが、目は笑ってなどいない。

ゴンは、不思議な人だなあと思った。
















Capter3 The TEST ep2


















「とうちゃんのようにでっけえのを1本に、こんなに太えのを2本おまけして、どうだ!!」

うなぎの叩き売りのおっさんが、辺りをチョット見回して口上をぶつ。うなぎの燻製の叩き売りは、この時期の港町ならどこでもやっている風物詩だ。男がうなぎの尻尾のほうを握って、しきりに上下に振ると周りを囲んだ客からクスクス笑いが漏れた。

声を張り上げる売り子と、それに答える客。そんなやりとりがいたるところで見かけられる。縦横無尽に街を満たす狭い路地、そのいずれにも小さな商いをする店が鈴なりに並んでいた。

いったい幾らの値がつくのか分からない豪奢な絨毯を扱う店、軒先にエイを思わせるような巨大なヒラメを何匹も吊った店。その隣にはオリーブの塩漬け、緑色をした唐辛子のピクルス、カブの酢漬けを売る店がある。他にもチーズや野菜、香辛料、無造作に切り分けられた羊肉を量り売りする店もあった。看板を掲げてもいない小さな茶店の軒先では、ターバンの男達が小さな器でチャイを飲んでいる。

猥雑で、にぎやかで、とにかく人が多い。朝早くだというのに活気がある。ドーレ港は、そんな街だった。

接岸に1時間、入港手続きにさらに1時間、彼らが実際に船を下りた頃には、7時を過ぎていた。ちょうど朝食の時間帯なので、適当に近場の屋台で買い物をする。

気温は昼の汗ばむようなそれとは違い、寒いくらいだ。はく息が白い。ビリっとした朝の空気を吸いながらの朝食も悪くなかった。

ペラペラなプラスティックのナイフでバターを薄くして、押し付けるようにパンに塗る。やがて焼きたてのパンの温度でバターがとけ、ちょうどいい具合になったところをうなぎの燻製を挟んで口に運んだ。見れば、ゴンも同じようにしている。彼女のやっているのを真似たらしい。酸味のあるライ麦入りのパンパニッケルが、濃厚なうなぎの脂肪とよくあう。

既に食べおえたレオリオは大型の市街図を見上げて首を傾げ、クラピカは難しい顔つきで、観光用の地図を開いている。

どこを見回しても酷い人ごみだ。4人はその人の群れの中に入り、歩いた。

「それにしても、すげェ人だな。えーと、ザバン市に向かう乗り物は・・・?」

人ごみの中を歩きながら、レオリオはバスや鉄道を探して辺りに視線をめぐらせた。後ろにはクラピカとゴン、数歩遅れてジェーンが続く。

ゴンはこれほどの人間が集まっているところを始めてみたようで、おのぼりさんそのままの風情できょろきょろと辺りを見回している。

「おそらく、彼らのほとんどが我々と同じ目的なのだろうな」

クラピカが如才なく指摘した。

確かに、視線鋭く、剣呑な気配をこれ見よがしに振りまく男達は、地元の人間には見えない。季節はずれの旅行者という風情でもなく、しかもそんな連中が街中いたるところに溢れている。

彼らは一様に高速バスやタクシーの停留所に長蛇の列をなしていた。これ全てがハンター試験の受験生だというのだから恐れ入る。最後尾の人間が何時間待ちといったプラカードを抱えているのを見て、レオリオが絶望したようにため息をついた。

地元でこんな不審者の団体を見つけたら、速攻でYSPD(ヨークシン市警の略)に通報されるだろうな、とジェーンと名乗る女は思った。

「・・・君達はこの後どうするんですか?例の船長に言われたとおり、一本杉を目指す?」

船を下りた時、船長から最後のアドバイスとして言われたのが、山の上の一本杉を目指せ、というものだった。

その言葉に、レオリオが難しい顔をして唸る。

「そりゃおかしいぜ。見ろよ、会場があるザバン地区は地図にもちゃんと載ってるデカイ都市だ。わざわざ反対方向の山に行かなくても、ザバンの直行便のバスが出てる」

受験生達のたむろする辺りを眺めて、そう指摘した。

気持ちは分からなくもない。だが、この時期、試験会場周辺の公共交通機関はハンター協会の意向で、運行に意図的な制限が加えられている。直行便などは残らずフェイク、いずことも知れない場所を延々と乗り回される嵌めになるという。

「とりあえずオレは行ってみる。きっと何か理由があるんだよ」

ゴンは迷い無く、一本杉を目指して歩き出した。

「お前、少しは人を疑うことを覚えた方がいいぜ。オレはバスで行くことをすすめるね」

内心、レオリオに同意する。「人を見たら泥棒だと思え」だ。

レオリオの言葉は、世の中の世知辛さになれた人間の物言いだったが、わざわざそれを忠告するあたりに、この男の本質が見え隠れしているように思う。

実際この手のチンピラじみた人間を彼女は毛嫌いしている(・・・いつぞや、上司に同属嫌悪だと指摘されたときには本気でぶちのめしてやろうかと思った)のだが、不思議とこの男には嫌悪感が沸いてこないのだ。

一人歩き出したゴンの背を追い、クラピカが後に続く。

「!・・おい、クラピカ?」

「船長の言葉・・・というよりもゴンの行動に興味があるね。しばらく彼に付き合ってみるさ」

このクラピカという青年の動機を聞いた今となっては、もう少し切羽詰ったなりふり構わない行動をするかと思いきや、存外に冷静で、しかも悲壮感を感じさせないのが意外だった。まあ、事件から4年もたっていれば、落ち着ついたものなのかもしれない。鉄火場での余裕の無さは死に直結するので、決して悪い事ではない。

「けっ、意外に主体性のねー奴だな。あんたは、どうするかい?」

去り行く背中に悪態をつき、レオリオはこちらに視線を向けた。

「・・・わたしも一本杉を目指してみます。わたしの場合は、純粋に船長の言葉が気になるだけですがね。今更嘘を言ったところで、あの男に得はない」

などと、体よく外面を繕いながら、女の内心は穏やかではなかった。

表向き、この試験への参加は休暇を利用した私的なものだ。そのくせ、定期的な連絡を欠かすなというのは、存外にこちらを気にかけてくれているということなのか、と思わないでもない。まあ、彼らにしてみれば自分は、それなりに使える駒の一つなのだという自覚はあった。

しかし、一時的であるにしろ組織の元を離れ、ひとりで何が出来るかといえば、ありふれた他の受験生とそう変わらない。後ろ盾もなく、それほど資金があるわけでもない自分が、穏便にハンター試験を乗り切ろうとすれば、打てる手は限られる。

何せ、ハンター協会の目と耳は多く、手は長い。

このドーレ港にすら、どれだけ協会の息が掛かった人間がいるか知れたものではない。先の船長がいい例だ。彼のような予選審査を担当する人員が、数多く潜んでいるに違いない。

自分のような歓迎されざる人間が受験生に混じっているとバレたら、表立った妨害をしかけてくるかはともかくとして、陰に日向に嫌がらせをするくらい、彼らはやるだろう。

だから、船長の助言に従うのが、現状のベターだと思いたかった。ああいった、利害関係を外れたところで生きる人間の言葉は、それなりに信が置ける。

「そうかよ・・・。オレは地道にバスで向かう。じゃーな、短い付き合いだったが達者でな」

レオリオの言葉にいじけたような、すねているような微妙な響きが混じっていたので、女は苦笑した。思ったより、可愛げのある男だ。

「・・・ちなみに、例年、試験会場のある場所へ直行する移動手段は、協会の息が掛かっているそうですよ。あれだけ待たさた挙句、どこに運ばれる事やら」

「え?」

「まあ、それだけの話です。御機嫌よう」














天気は良くも無ければ悪くもなかった。

山を登り、街道から見上げる空は白く薄っすらと雲が濁っている。かといって雨が降る気配も無い。乾いた砂が丈の短い草むらから風に引き剥がされて飛んでいく。

街道は舗装されているわけではないが、ジャリが敷き詰めてあり、そこそこ整備された道だった。水はけがいいようにとのことだろう、中央部がやや高くなっている。つまり、それなりに人の往来があるということだ。

この分では、あの一本杉にたどり着く頃には日は暮れている。今夜は野宿だな、とクラピカは思った。

峠を下り、また登る。気温は暖かく、徐々に髪が汗で湿ってきた。上着を脱いでしまいたかったが、これには武器を仕込んである。迂闊に外したくはない。

そっと、自然な動作で後ろを歩く女を見た。

黒のスーツを着こなし、うっすらと分かる程度の薄化粧、ノンフレームの眼鏡。旅行用のデイパックを背負っているところなど、出張中のキャリアウーマンそのものだ。

都会のオフィス街ならいざ知らず、ハンター試験のような荒事に参加するのは違和感がある。だが、あの嵐の際に見せた手際、そしてその後の航海でも、実に手馴れた様子で銃器の手入れを行っていた。相当に腕が立つと見ていいだろう。

ジェーン・スミス。

ヨルビアン大陸では非常にありふれた女性名の一つだ。名前不明の人物を指して名づけられたり、あるいは訴訟において仮名として用いられる。

そして、偽名の代名詞だ。小説などの創作作品において、登場人物がジョン・スミスと名乗る場合、それが偽名であることを暗示している。

あの時。

4人まとめて嵐の海に投げ出されかけた時、彼女には自分達を見捨るという選択肢もあった。そうすれば、ライバルが3人減る。だが、そうしなかったからと言って、信用していいものか。

下種の勘繰りかもしれないが、あの場では、試験官である船長の目が合った。だから、彼の心象を悪くする行動をとらなかっただけなのではないか。そう考えてしまう自分に、嫌悪感が募る。

これでクラピカも12の頃に一族を皆殺しにされてより、子供一人、復讐の一事を糧に世間を渡り歩いてきた男だ。見るべきところは見ているし、考えるべきことは考える。いざというとき、どうするのかを。

船長に質問された際、彼女が口にした、「会社」「上司」といったフレーズ。

あれが、単にうわべを繕った言葉だとはクラピカには思えなかった。何らかの犯罪に関わる組織に身をおいている人間、そう考えるとしっくりと来る。

そんなことを考えながら歩を進めていたのだが、不意に山間部を吹き抜ける風が、クラピカの髪を細かく揺らした。

思わず目を細めたのだが、その時、相手がこちらを見ていることに気付いた。

ゆっくりと視線を前方に戻す。額に浮き出た汗は、陽気のせいだけではない。クラピカは思考を打ち切った。

いつの間にか、山腹に広がる小さな村にたどり着いていた。









「うすっ気味悪いところだな。人っ子一人見あたらねえ」

レオリオが周囲を見渡して唸った。

「でも・・・いっぱい人いるよね」

「うむ、油断するな」

そこら中から聞こえる複数の人間の息遣い、そして足音に衣擦れの音。かなり大量の人間が周囲に潜んでいる。ゴンとクラピカがそう指摘すると、レオリオは耳をそばだてる仕草をし、周囲をうかがったが、すぐに無為を悟ったようだった。

「ふ、ふん!あいにく俺は普通の人間なんでな」

悔し紛れの言葉が終わるかどうかという時、不意に白い仮面で顔を隠した男(あるいは女か?)が、路地の合間から姿を現した。続いて同じ格好をした大勢の人間がぞろぞろと現れ、彼らを取り囲む。

仮面の口の部分はガスマスクのような形状をしているし、目の部分にはガラスが埋め込まれていた。それを見て取ると、女は懐からハンカチを取り出し、口に当てた。途端に漂うツンとした樟脳系の香りに、さまざまな香りがブレンドされた刺激臭。

レオリオが周囲に気をとられる中、クラピカだけがその行動の意図に気づいたようだった。ゴンもぴくりと反応したが、その正体までは分からなかったのだろう。

気付け用のフランコンドセル。解毒用の芳香成分が含まれている。実際にガス攻撃を受けているのだとしたら、もう手遅れかもしれないが、幾分マシになるだろう。能力者対策に毒やガス。常識だ。

こちらを不思議そうな目で見ているゴンを、いざというときに庇える位置に移動した。

やがて彼らの前に、杖を突いた老婆が現れた。仮面は着用せず、素顔を晒している。それに周囲の集団も、手には武器を持たず、こちらを取り囲むばかりで何も行動を起こそうとはしてない。

意図をはかりかねているうちに、件の老婆がくわっと目を見開いた。

「ドキドキ二択クイ~~~~~ズ!!」

パチパチと周囲の仮面の集団が拍手を送った。

・・・いったい、これは何のコントだろうか?

「これから一問だけ、クイズを出題する。考える時間は五秒だけ。もし間違えたら即失格。ハンターになるのは諦めな。回答は全て1か2で答えること。それ以外の曖昧な答えは全て間違いと見なす」

なるほど、これもハンター試験の関門の一つということか。

流石というべきか、想像の斜め上を行く試験ばかりだ。

「ちょっと待てよ、まさかこの4人で1問てことか?」

もしこいつが間違えたら俺まで失格だろうと、何故かクラピカを指差して文句を言うレオリオに、クラピカは逆の可能性があまりに高くて泣きたくなると返した。全くもって同感である。

「でも3人のうち一人が答えを知っていればいいんだから楽だよ」

クラピカにヘッドロックをかけて頭をグリグリしだしたレオリオを、ゴンがそう諭した時だ。

「おいおい、早くしてくれよ」

背後から、男が一人、現れた。

「何なら俺が先に答えるぜ」

ボロボロの胴衣のようなものを纏った短髪の男。

膝やかかとにラバー製のプロテクターを付け、背中には、何やら歪な形の木の棒を背負っているのだが・・・まさかアレは武器のつもりなのだろうか?

いずれにしろ珍妙な格好だ。とても荒事に長けた人間には見えない。

「へへへ、悪いなボウズ。港でちょいと立ち聞きしちまってな」

「?」

不思議そうな顔のゴンに、レオリオが船長との会話だよ、と耳打ちする。

もちろん、女もトラッカー(追跡者)の存在には気付いていた。ゴンやレオリオはともかくとして、クラピカあたりは気付いていただろう。追跡をかわす手段も叩き込まれてはいたが、連れが3人もいては現実的に無理だったので、放置していただけだ。

気配を消してはいなかったから、少なくとも念能力者ではない。それを別にしても尾行の技術はお粗末なものだ。

自ら姿を現したのは、痺れを切らしたのだろうか?自分なら、先に進んだ連中をかませ犬にして、どういう質問をされ、どんな答えが正解か、まず確かめてからにするだろう。そういう意味でも、この男はたいして脅威とは思えなかった。

「・・ゆずろうぜ」

一番噛み付くかと思ったレオリオが、あっさりと引いた。それで問題の傾向をはかろうというのだろう。この男、意外に冷静な判断もできるらしい。

「それでは問題。お前の母親と恋人が悪党につかまり、一人しか助けられない。①母親、②恋人。どちらを助ける?」

問題とやらを聞いて、女は驚愕した。

まさか・・・これは本気か?

こんな問題に普遍的な答えなど無い。それとも、まさか老婆の好みの答えを予想しろとでも言うのだろうか。

「①!!」

間髪いれず、男は答えた。

深く悩んだ様子は無い。適当に答えただけだというのが、男の顔に書いてある。

「何故、そう思う?」

「そりゃあ~~、母親はこの世にたった一人だぜ。恋人はまた見つけりゃいい」

ヘラヘラとした答え。

瞬間、ゴンとクラピカがビクリと震えた。・・・思わず殺意がもれてしまったようだ。気をつけなければ。

レオリオはそのことには気付かなかったようだ。というより、その余裕が無かったのだろう。静かに、肩を震わせている。

老婆はしばらく背後の仮面の集団とぺちゃくちゃと何かを話していたようだが、やがて、

「通りな」

道を空けて、男を通したので、ピンときた。

「ふざけんじゃねェッ!!こんなクイズがあるかボゲェ!!こんなもん人それぞれだ!!「正解」なんて言葉で括れるもんでもねえ!!」

意気揚々と去っていく男の背中を見て、レオリオが咆哮する。この男、既にキレていたのだ。

「ここの審査員も合格者も全部クソのヤマだぜ!俺は認めねーぞ!!」

一方のゴンは何やら難しい顔で唸っていて、こちらに気付いてはいないようだ。レオリオなどはもはや怒髪天を突く形相で怒り狂っている。

・・・仕方が無いな。

「それが、問題だというのなら、わたしも答えさせてもらいましょうか」

ただ一人、冷静を維持していたクラピカに目配せすると、彼は眼を見開いた。

「恋人です」

迷うそぶりすら見せずに、そう口にする。

あえて、先の男とは正反対の答えを。

老婆が、こちらに注意を向けた。

これは既に男に対して出された問題だ。故に、答えを認めず新たに別の問題を出されるかとも思ったが、老婆はその事には触れず、別のことを聞いてきた。

「理由は?」

「私の母は、まさにその状況下で殺された。だから、私にはもうその選択しか選べません」

唸りながら考え込んでいたゴンが思わず息を呑み、女を凝視する。

レオリオも驚愕した顔を隠せず、唯一クラピカだけが痛々しいものでも見るように、あるいは同病相哀れむかのように静かに見守っていた。

「・・・そうかい」

今度のペチャクチャは、先ほどよりずっと時間がかかった。

「通んな」

老婆と、背後の仮面の集団が、再び道を開ける。

・・・これで、いい。

同じ質問に対して、示された二つの答え。

そのどちらに対しても、返された言葉は同じだった。ならば、クラピカ辺りには、もうカラクリが分った筈だ。

「ではお先に・・・」

女は、振り向くことなく、去っていった。














「!!」

去り往く女の背中を見ながら、耳に飛び込んできたかすかな悲鳴を聞いたとき、クラピカは事の真相を確信した。

かなり小さな物音だ。声の感じからして、男のもの。とすると・・・

「・・・・!!俺は引き返す!!別のルートから行くぜ!!」

「レオリオ!!」

「何だよ!!まさかまだこんなふざけたクイズ続けろってのか?」

怒り狂っているレオリオはともかく、ゴンの聴力なら気付いたはずだ。

「待ちな!!」

老婆の顔を見てクラピカは悟った。こっちが『答え』を見抜いたことに気付いたのだ。

「これ以上のおしゃべりは許さないよ」

ピシャリと言い切った老婆に、カラクリを伝える手段を奪われたクラピカは、もう祈る事しか出来なかった。

「ここから余計な発言をしたら即失格とする!!さあ、答えな。①クイズを受ける②うけない」

「①だ!!」

即答する。

レオリオが苦々しい顔でこちらをにらんでくるが、構ってはいられない。

(・・・気づけレオリオ、簡単なトリックだ!)

先のやりとりを冷静に見ていれば、気付いたはずだ。

同じ質問に対して返された、二つの答え。そのどちらにも、老婆は「通れ」としか答えていない。

「それじゃ、問題だ。息子と娘が誘拐された。一人しか取り戻せない。①娘②息子、どちらを取り戻す?」

その言葉に、もうレオリオは何も言う事は無かった。

近場に詰まれていた廃材の山から、適当な大きさの木切れを掴むと無言で圧し折り、適当な大きさになったそれをヒュンヒュンと振り回して素振りする。

「5、4、3・・・」

老婆カウントダウンをする声だけが、辺りに響いた。あえて、時間切れがあるのだと宣告する事で、こちらの余裕を奪う戦術だろう。悔しいが、激昂しているレオリオの様子をみるに効果は抜群だ。同時に、それはクラピカの導き出した答えが、正しい事を示している。

カウントダウンの間、ゴンは難しい顔で腕組みして何かを考え込み、クラピカはレオリオの短慮をはらはらしながら見守った。

やがてレオリオの素振りが、老婆のカウントダウンと同期し、

「ぶ~~~~、終~~了~~」

子憎たらしい顔で老婆が試験の終了を告げた瞬間、その一撃が振り下ろされた。

バキン、と乾いた音が鳴った。

「っぐ!!」

瞬間、クラピカは老婆とレオリオの合間に体を滑り込ませた。手持ちの武器を取り出して、レオリオの一撃を受け止める。

やはり体格からくるパワーの差は歴然だ。腕力ならレオリオの方が上。その力に推し負けないようにするので精一杯だった。

両者の激突に耐え切れず、レオリオの手にした木材が砕け散る。

「何故止める?!」

「落ち着けレオリオ!ジェーンの気遣いを無駄にする気か!!」

その言葉が、幾分レオリオに冷静さを取り戻させた。

「気遣い、だと・・?!」

「そうだ。我々は合格したんだよ、レオリオ」

未だ凄まじい形相を崩さないレオリオに、クラピカは静かに告げた。

「沈黙。それが正しい答えなんだ」

考えてみれば難しい話ではない。

「キミ自身が言っただろう、「正解なんて言葉では括れない」と。その通り、このクイズに正解なんて無い。答えが①でも②でもないなら、もう沈黙するしかないんだ」

激昂してさえいなければ、さすがにレオリオもあの時点で気付いたはずだ。

どちらの答えを口にしても、正解にはならないという事に。

「だから、彼女はわざわざそれを伝えるために、あえて逆の答えを口にしたんだ」

「し、しかし、さっきの野郎も・・・?」

「正解とは言ってない。通れといっただけだ。さっき、彼の悲鳴が聞こえた。恐らく魔獣に襲われたんだろう。つまり、この道は正しい道じゃないのさ」

その言葉に、老婆が満足そうに頷いた。

「御名答。本当の道はこっちだよ。一本道だ。2時間も歩けば頂上に着く」

仮面をつけた男が二人、彼らの右手の壁に手をかけると、左右に開いた。後には、ぽっかりと口を開けた先に続く一本の道。その奥のほうには、光が見えていた。

扉は壁と同化するように彩色されている。これでは、注意して見てもそこに扉があるとは、気付かなかっただろう。

「じゃ、じゃあ・・・ジェーンのやつは・・?」

後ろめたそうに口に出したレオリオに、老婆は「安心しな」と言った。

「正しい道への行き方は、これ一本きりじゃない。もちろん、あの女には、ちゃんと別の道を教えてあるよ」

レオリオは、恥じるようにサングラスをかけなおした。

「バアサン・・・すまなかったな・・・」

「なんの、お前たちみたいのに会いたくてやっとるようなもんじゃ。いいハンターにおなり」

その時、ずっと黙ったままだったゴンが、長いため息をついた。

「ふぅ~~~、ダメだ!!」

何がダメなのか困惑するレオリオとクラピカを尻目に、どうしても答えが出ない、とゴンは呟いた。

緊張の連続の後だっただけに、思わず、笑いが漏れてしまった。この少年、どうやら今までずっと考え続けていたらしい。

だが、ひとしきり笑う二人に、ゴンは真剣な表情で告げた。

「―――でもさ、もし本当に大切な二人のうち一人しか助けられない場面に出会ったら」

どうする、と。

その言葉に、今度こそ二人は言葉を失って固まった。

それを、老婆が満足そうに見守っていた。













やがて。

3人が歩いていった方向をいつまでも見つめていた老婆だが、仮面をつけた男が一人、その裾を引いた。何やら、切羽詰った様子である。

「なんじゃい?」

「それがオババ、さっきの女性なんですが、正しい道を教える前に走っていかれてしまいまして・・・」

「なんじゃと?!」

その時、はるか遠く、先に男と女が通っていった道の向こうで、凄まじい轟音が鳴った。

鳥が一斉に飛び立ち、無数の獣の鳴き声が山野に木霊する。

思わず眼を見開くと、日の暮れかかった薄闇の森に、赤い炎が揺らめいていた。そして、空に向かって立ちあがった黒い噴煙。

・・・いったい、あの森の奥で何が起こったのか?

噴煙が風に巻かれて姿を消す頃合になって、まっすぐ伸びた山道から人影が一つ、彼らのほうに向かってやってきた。黒いスーツを着た、先ほどの女だ。背には、男を一人背負っていた。

老婆の前までやってくると、女は背負っていた男を静かに横たえた。

男は意識を失っている。その背には、恐らく逃げ傷だろう、大きな三本の爪あとらしき傷が走っていて、張られたガーゼと包帯を赤く染めていた。

「応急手当は済ませましたが、野生の獣の爪で負傷している。そうなると破傷風が怖い。後を、頼めますか?」

じっとりと、底冷えのする眼で見られて、思わず老婆は一歩後ずさった。

「あ、ああ・・・」

唖然としたまま、ただそれだけを口にする。

女は無傷だった。スーツにすら、汚れの一つもついていない。

まさか、あの凶暴な魔獣が巣食う場所に立ち入り、男を助け、しかも無傷で出てきたというのだろうか。

「この男、ずっと母親の名前を呟いていましたよ」

それ以上、何も言うことなく背中を見せた女に、老婆は思わず問いかけていた。

「お前さん、何故じゃ・・・?」

何故、男を助けたのか。何故、こちらを非難しようとしないのか。

それは、どちらの意味にもとれた。

「ただの成り行きです。それに・・・これでも、わたしは元警察官だ」

そうして、女は再び元来た道を戻っていった。

魔獣の犇く、困難な道を。

その背中に、老婆は言うべき言葉を持たなかった。













一度引き返し、再び歩き出してから、4時間と少し。

ようやく頂上が見えてきたところで、女はほっとした。

夜闇の中で、先の見えない登山は正直堪える。長距離踏破訓練でしごき倒された思い出がよみがえって少し憂うつになった。

道中、いたるところに魔獣注意の看板が出ていたが、結局、例の男を助けたとき以外は静かなものだった。

最初に全力で『堅』を行い、殺意と共にオーラを周囲へと放って威嚇したのが効いたらしい。後は、逆に『絶』で気配を消していた。男を助けた際に、少し大きめのを一発かましたので、それも効いているかもしれない。

野生の獣は鋭敏だ。自らより強いものへと襲い掛かる事はそうはない。よほど飢えているか、あるいは子供のいる巣にでも手を出さない限りは。そういう意味では、普段、彼女が相手にしている念能力者どもに比べれば、相手にしやすかった。

やがて、遠めにも巨大な一本杉が徐々に近づいてきた。

よほどの巨木だろうとは思っていたが、間近で見ると本当に大きい。

その根元に、一見のログハウスが建っていた。

「ジェーン!!」

ゴンが、手を振っていた。こちらに気付いたのだ。

違う道を歩んでも、同じ方向に進んでさえいれば、また出会うこともあるだろう。人生って、そんなものだ。

その両脇には、レオリオとクラピカもいた。無事、一人もかけることなくたどり着けたようだ。

どちらもほっとした顔を浮かべている。気のいい連中だ。あの船長のような人種に気に入られるのも分かる。

彼らの背後には、二人の男女と、さらに二体の大型の獣がいた。二足歩行し、人語を操れる獣、魔獣だ。

確か、凶狸狐だっただろうか?人に化ける能力を持った厄介な奴だが、知能が高いため、逆に無闇に人を襲う事も無かった筈だ。

ゴン達に敵意が無いところを見るに、あれが試験の関係者という事なのだろうが・・・。まさか魔獣が試験官をしているとは思わなかった。

「ジェーン・スミスさん、ですね?」

ヒッピーのような革ジャンを着た男が進み出て、自分達は道案内(ナビゲーター)だと名乗った。

ナビゲーター。ハンター試験会場の場所は毎年変わる。その正確な位置を把握し、有望そうな志望者を会場まで案内する役割を負う者。彼らの案内無しで会場にたどり着くのは至難の技だ。

男は、実はあのクイズでどう答えようとも、失格にはならないのだと言った。

沈黙、という回答に行き着いた人間には安全な道が示されるが、それ以外を口にした人間にもチャンスは与えられる。彼らに示されるのは、迷路のように入り組んだ山道。しかも凶暴な魔獣の縄張りになっている。そこを通り抜け、山頂にたどり着けたなら、それも良し。

どちらにしろ、ハンター試験に臨む資格は満たすのだという。

予想していた通りだったので、特に驚きは無い。さもなければ、少なくともあんな答えを口にはしなかっただろう。

「麓のオババから、あなたを会場へお連れするようにと伺っています。本当なら、この場で我々がさらに試験をする手はずだったのですが。・・・正直な話、あの老人がそこまで推す人間は珍しい」

男は面白そうに笑った。ということは、既にゴン達はその試験に合格したということか。

そこで気付いたが、男の頭には、そして背後の女にも魔獣と同じ形の長い耳が二本突き出ている。どうやら彼らも凶狸狐が化けたものらしい。

「それに、この道を無傷で通り抜けてきた時点で、今更、我々がテストをするまでもありません」

ゴン達が通った安全なルートを使えば、4時間ほどで頂上につくことができたそうだ。多少時間が前後したとはいえ、あの険しく困難な道を、大差ない時間でクリアしたことで、必要な技量は見て取れたということだろう。

「皆さん合格です。会場まで御案内しましょう」

凶狸狐が両手を広げると、そこには皮膜でできた翼が垂れ下がっていた。どうやらここから空中遊泳で会場まで連れて行ってくれるらしい。

さて、仕事柄、ヘリや輸送機、飛行船を使う機会は多いし、グライダーで空を飛んだ経験もあるのだが、空を飛ぶ生き物に連れられるのは初めてのことだった。



それにしても怖い試験だ。彼らにも、麓の老人にも名乗ったつもりはなかったのだが。それとも、ゴン達が話していたか・・・

どちらにしろ、本試験でも気を抜く事はできなさそうだ。





飛び立つ寸前、クラピカが小声で女に問いかけた。

「なあ、ジェーン」

「なんですか?」

「あのときの答えは、本心だったんじゃないのか?」

あのとき、がいつの事を指しているのか、女は正確に理解した。

「・・・何故?」

「なんとなく、そう思った」

「なら、そういうことにしておきましょうか」
















・・・to be continued




[8641] Chapter3 「The TEST」 ep3
Name: kururu◆67c327ea ID:7b7bf032
Date: 2014/04/15 13:28
誤字修正



ヒソカの第一印象について

『・・・もしわたしが試験中でさえなかったなら、見かけただけで逮捕拘束、あるいは射殺に踏み切るような最悪の変態です。頭の中に「Fuck you!」と「Kill you!」しかないようなキチガイに、念能力という刃物を与えたらこうなるだろうという見本でしょう。・・・・ただ、さらに最悪なのは、ハンター試験の本選には似たり寄ったりの変態が他にも大勢いたことです』

А・Iのレポートより抜粋






上記レポートに対する上司の所見

『・・・お前は人様のことをとやかく言えるのか?』
(ボールペンで書きなぐられた後、乱暴に消された痕跡有り)











ハンター試験、本選の行われるという会場は、ザバン市の地下深くにあった。

直径十メートル程度の円柱を縦半分に切って横にしたような、恐ろしく広く奥行きのある場所。薄暗く、湿気があり、温度は低い。そこここにパイプやダクトが張っていて、天井には古ぼけた蛍光灯がチカチカと点灯している。ここに来るまでに使ったエレベーターが、かなり時間をかけて下っていたので、恐ろしく深いところにあるのだろうが、実際にどの程度の深さかまでは分からない。

どうやってハンター協会がこんな場所を用意したのかは知らないが、察しは着く。恐らく、戦争中の防空壕か何かだろうとあたりをつけて、ヒソカはそれ以上の興味を失った。

実際、彼は退屈しきっていた。

(1点、3点、5点、2点・・・)

薄暗い会場内、ハンター試験に参加する受験生の一人ひとりを観察しつつ、頭の中で点数をはじく。

点付けの基準はヒソカ自身も良く分かっていない。強いか弱いか、あるいは闘って面白いかどうか、それを己の勘にかけ、瞬時の頭の中に浮かぶ数字が全てだ。

(3点、1点、0点・・・点数外♠)

軽くあくびを一つ。

そうそう期待はしてなかったが、これは酷い。

クズ山ばかりを見せられ続け、既に試験開始まで残り僅か。少々退屈になってもしかたがないだろう。

(ん・・・27点♥)

掃き溜めに鶴。

視線を向けると、今まさに、エレベーターの出口(つまり試験会場の入り口)から、黒髪ツンツン頭の少年が出てくるところだった。

(連れの二人は・・・25点に24点♦)

金髪の少年に、黒髪の長身の男。どちらもいいオーラを出している。原石としては申し分ない。

青い果実。そんなフレーズが自然に脳裏に沸いた。今はまだダメダメだが、前途有望そうな若葉が見える、そんな感じ。

自分の趣味をスムーズにするためだけに受けた試験だが、新たな獲物を物色する場としてもそれなりに有意義だった。何せ、能力者だけでも"5人"も参加している。

ヒソカはそっと周囲に目を這わせた。

一人は黒いスーツを着た、眼つきの鋭い男。

極端なまでに黒目が小さく、頬はこけていて、肌は異様なまでに青白い。一見すると"シャブ中"か何かのようだが、ヒソカの見るところ、かなり健康的なオーラの持ち主だ。

男は壁に背を預けて腕を組みながら、目玉をぎょろぎょろ動かし、周囲の受験生を観察している。

強くないが、退屈しのぎにちょうどよさそう。そんな感じの55点。

二人目は、チビで小太りのおっさん。

だらしなく肉のついた顔に、切れ目のように細い目。同じく細くゆがめられた口。笑っているのかにらんでいるのか、ちょっと判別しにくい顔つきだ。残り僅かな髪の毛にポマードをギトギトに塗って整え、七三分けにセットしている。

これで、くたびれたスーツでも着ていれば仕事にうらびれたサラリーマンそのものだが、着ているのは黄ばんだランニングシャツに短パン。ビールと枝豆片手に寝転がり、野球中継でも見ていそうな格好だ。

ハンター試験の場にはあまりに不似合いな男だが、念はそこそこ。まあ、先の男よりややマシという程度の60点。

三人目は、珍しいストロベリー・ブロンドの髪をカールした17、8程度の美少女だ。

小柄でややスレンダーな体型に、ピンクと黒のゴスパンク系ワンピース。シルバーのアクセサリーをこれでもかとジャラジャラ付けている。

この少女、何やら蕩けきった危ない表情で、やたらと連れと思しき少年に絡んでいた。

「キルアきゅんたら、もう、恥しがりやさんなんだからぁ♪ハアッハアッ、キルアきゅん、キルアきゅう~~~ん♪」

「しつけーんだよ、いい加減にしろ!!」

じゃれ付かれている白髪ツンツン頭の少年も、能力者ではないがヒソカの勘にビビっとくるものがある。現時点では40点そこそこ。将来とても有望そうだ。

この少年が心底嫌そうにしながらも、強く出られないのは、少女の技量を直感的に見抜いているからに違いない。

90点、及第だ。思わず、舌なめずりをしてしまう。

その二人を、4人目の男がじっと睥睨していた。

「・・・・・・・」

全身に針を突き刺したモヒカンカットの胡乱な男。その正体は、暗殺一族として名高いゾルディック家の長男。

正体を知っているのは、この男とヒソカがそれなりに浅く乾いた関係を維持しているからに他ならない(・・・とはいえ、試験会場で鉢合わせるとは思ってもみなかったが)。他者に興味のないこの男が関心を払っているという事は、あの白髪の少年こそ、彼の執着している『弟くん』なのだろう。

技量としては文句なしの95点。可能なら是非とも殺しあってみたいが、恐らくまともに戦ってはくれないだろう。タダ働きもタダ死にも真っ平御免、いつか本人がそう口にしていた。

そして最後の一人は、逞しい体つきをした巨漢だった。

壁際で両足をそろえて折りたたみ、独特のポーズで座っている。他の受験生からは距離をとられていて、男の周囲だけはぽっかりと穴が空いたように人気が無い。

・・・まあ、何せ、格好が格好だ。

この相手には、さすがのヒソカも点数がつけられない。恐らく、基礎能力だけなら高くなさそうだが、そう単純に点をつけようとすると、ヒソカの中の何かが"待った"をかける。

もしかしたら、かなり特殊な念の持ち主かもしれない。地力で劣っていても、特殊能力を駆使してカバーするタイプ。ちなみに、今現在一番タイマンをしたい男(クロロ)が、その筆頭だった。

(さて、こんなところかな・・?)

チロリと、舌先で唇を舐める。

時間も時間だ。もうめぼしいのはなさそうだと思った、そのときだ。

突然、ヒソカのセンサーが反応した。

(100点満点!!)

ちょうどその時、一人の女が入り口から姿を見せた。

黒いジャケットのスーツに白のシャツ。足元はシックなウォーキングシューズ。アッシュブロンドの髪をシニヨンにしていて、身持ちの硬い女といった印象を受ける。

いずれも一癖二癖ありそうな他の受験生達と比べれば、見た目はかなりまともな部類に入るだろう。カタギ以外の何者にも見えない。だからこそ、ある意味ではこの場の誰よりも浮いていた。

だが、ヒソカにはそんな上っ面な見た目などはどうでもいい。

この女も念能力者。それも、かなり鍛えこまれた。それはいい。

だが、これはどういうことだろう?

(95、90、80、70・・・・・・67点?)

女を視界に捕らえたときから、徐々に数字は下がりだし、最終的に60ちょいで落ち着いた。しかも、かなりおまけしての話。

疑問と共に落胆の吐息が漏れる。自分の勘が外れる事は滅多にないのだが・・・?

(・・・うん、見れば見るほど、そこまで強いと思えない。でも、なぜかなぁ、頭でそう思ってても、直感的には100がでちゃうんだよねぇ? )

こんな事は初めてだ。よほどうまく力を隠しているのか、それとも・・・まあ、いい。試験が始まってしまえば、ドサクサ紛れに確かめるチャンスもあるだろう。むしろ楽しみが増えた。

受験生のレベルでこれなら、ハンター試験、思ったよりも楽しめるかもしれない。世界はヒソカの玩具箱、獲物は多ければ多いほどいい。

そんな事を考えながら舌なめずりをしていると、例の女と目が合った。

暗く冷たく、ドブか泥のように濁った瞳。光をまったく反射せず、全て吸収しつくす深海の青。いいねえ、とそう思う。

ヒソカが歓喜の視線を向ける中、件の女はカツカツと彼のほうに歩いてきた。

そして、ゾクゾクする予感に全身を震わせる彼の横を通り過ぎ、



「ほげェえええええ!!!」



全裸の巨漢を張り倒した。





















男は眼を閉じ、瞑想にふけっていた。

鍛え抜かれた筋肉に包まれた逞しい肢体。きっと結ばれた口元から漂う戦士の威圧感。全身に纏った只者ならぬアトモスフィア。その圧倒的な気配に、いずれ一癖ありそうなハンター試験の受験生すらも彼を避け、遠まわしに見守りながら戦慄するのみ。

だが男は、その好奇の視線を気にする事もなく座禅を組み、ひたすら精神を統一していた。ショッギョムッジョの心を会得したものだけが手に入れることの出来るチャドー。至上最も過酷とされるハンター試験を前にして、男は完璧にリラックスしている。

男は全裸だった。その身に纏っているのは、紫色のブリーフ一丁。

さらに、ルチャかプロレスのレスラーのような覆面で頭部全体を覆っている。紫のラメ入り生地に、金のファー、目の部分にはメッシュ素材が使われているので、どんな顔をしているのか全く分からない。

いよいよ試験開始の時間も迫った頃合になり、男はようやく目を開けた。



――――そして、凄まじい勢いで股間を蹴り上げられた。



「ほげェえええええ!!!」

咄嗟に硬でガードしなければ大事なゴールデンボールが潰れかねない一撃を受け、体重100キロ近い男の全身が宙に浮く。

「何を、してやがりますかね、あなたは・・?」

ゴキブリのようにピクピクと痙攣しつつ、股間を押さえてうめき声を上げる男を、長身の女が見下ろしていた。口元に、空恐ろしい冷笑を浮かべて。

「ううう、いきなり無体な・・・・って、怪奇人間爆弾殿では御座らんか!お久しぶりで御座る~~!」

両手をパタパタ振って親愛の情を示す巨漢。だが、女は殊更に不快そうに眉根を吊り上げた。

「人をどこぞ怪人みたいに言うんじゃありませんわ。ぶち殺しますますわよ?」

クールビューティぜんとした佇まいのまま、いきなり変態じみた格好の男を張り倒した女に対し、その連れであるところの3人は完璧に引いていた。何故だが、いきなり使い出した女言葉がとても怖い。

「えと?・・・知り合い?」

戸惑いつつも、ゴンがとてもつぶらな瞳で問いかけた。

全裸の巨漢を前にして臆した様子はなく、自然に話しかけるところなどは、純粋を通り越して朴念仁の領域に足を踏み出している。

女がその質問にどう答えようか迷っているうちに、覆面パンツが復活し、ぴょこりと飛び上がってゴンの前にジャンピング正座を決めた。

「ふふふ、良くぞ聞いてくれたで御座るよ、見知らぬ少年!!聞かれて名乗るもおこがましいが、某こそは魔都・ヨークシンの闇を駆り、強気を助け弱きをくじく正義のヒーロー、怪傑ミスター・ブリーフ!!」

筋肉を蠕動させてダブルバイセップス。

ポージングに合わせてピクンピクンと逞しい胸襟が揺れ、その場の全員が思わず一歩後ずさる。

その後頭部に、女のかかと蹴りが炸裂した。

「あべし!!」

床にヒビを入れて顔面から激突した男の後頭部をグリグリしながら、女は生ゴミを見るような眼を向けた。

「見ての通りの変態です。わたしの地元では、かなり有名な男ですよ」

5年ほど前から、ヨークシンの街を騒がしだした自称・ヒーロー。

銀行強盗を成敗したり、事故で炎上した車から乗員を助け出したり、火事の現場でけが人の救助活動を行ったりと、幾つもの慈善行為をこなしてはいるものの、それ以上に数々の不可思議な事件を引き起こして新聞を賑わしている変人だ。

地元の市議会と癒着していたマフィアの組に殴りこんで壊滅させたのはともかくとして、YSPD48分署で起こした『婦人警官強制ストリートキング事件』など、万死に値する卑劣な悪行も数多い。あれで彼女の同僚は、2回目のデートを前にして振られたのだ。

「そ、そんな!!某は地道に社会奉仕活動をしていただけで御座る!!」

それが取引条件の一環だった故に、等とわけのわからないことを呟いている巨漢を見据え、女の拳は密かに震えていた。

既に警察手帳を返上した身だが、これがハンター試験の会場でさえなかったなら、この場で射さ・・・もとい逮捕していただろう。犯罪者に対しては市民にも逮捕権がある。

「・・・猥褻物陳列罪およびその他の容疑で指名手配されていた男です。絶対に近づいてはいけませんよ」

この男が起こした重要事件のほぼ全てにおいて、後に全ての被害者が何らかの犯罪に関わっていた事が判明し、起訴無効の判断が下された。

だが、事件現場から逃走し、事情聴取を徹底して拒否する非協力的な態度を含め、警察関係者からはボロクソに嫌われている。・・・誰だってこんな格好の変態に手柄を浚われたくは、無い。

その他、幾つかの案件で法に違反しているものの、いずれも軽犯罪に過ぎない。結果的に功績の方が大きく、民主党のジョージ・マケイン議員を始めとして、議会には恩赦を与えるべきだという意見が根強くある。だが、彼女を含む現場の人間の大多数はこれに反対し続けていた。こんなのを野放しにさせては、さすがに市警の面子にかかわるからだ。

ところが先年、ヨークシンでは『トップレスおよびその他公共良俗に関する法律』が改定されており、この変態的な格好ですら、罪に問えなくなってしまった。あの法律が通ってしまったのはヨークシン市警最大の痛恨事だ。

現役時代に命がけで逮捕しようとして、捕まえ切れなかった苦い思い出が蘇り、女は思わず憤死しそうになった。

ちなみに、その最大の罪は窃盗。大勢の女性から大事なものを奪っていった悪漢である。

「うううう・・・昔は愛らしい女の子だったのにぃ・・・今では血も涙もない官憲の犬・・・時の流れは無常で御座る、ニンニン」

「アホな事言ってっと、本気で吊るしますよ。それと、市警は去年の春に辞職しました」

巨漢の首根っこを締め上げて持ち上げる女。ニコニコとさわやかな笑顔を浮かべているが、額にはいくつもの青筋が浮かんでいる。

「ぎ、ギブ!!ロープで御座る、ロープ!!」

宙に吊るされジタバタと暴れる男の首は、徐々に締め上げられていった。首元をがっちりと掴んだ細い指が、見る見るうちにぶっとい首にめり込んでいく。

実際のところ、パンツの男はこの女の『能力』を知っていたので、この状況はちょっと洒落にならなかった。万が一、この状況で『能力』を使われたら、瞬く間に首無し死体の出来あがりだ。

「ちょ、本気で止めて!怖いで御座るから!!止めて許して、止めて許して、止めて許して!!」

ジタバタと手足を振り回して怯えるパンツ一丁の巨漢に、それをつるし上げて薄く笑う女。

「・・・(・・・他人のふり)」

「・・・(・・・離れよう)」

周囲の視線を集めまくる二人に、既にレオリオとクラピカなどは他人の振りをしていたのだが、逆にあえて二人に近づこうとする猛者が存在した。

「や、やあ、大変そうだね、海パン君」

「おお、マイニューフレンド、トンパ殿!!お助けくだされぇい!!」

そう叫んでパンツの男が手を伸ばしたのは、四十の半ば程度の中年男だった。

小太りの体型に、ポマードで撫で付けた髪。動きやすそうではあるが、あまり手入れのよくない安物を着ているので、見た目はそこらによくいるおっさん以外の何者でもない。

男は人懐っこそうな笑みを浮かべると、「まあまあ」と二人の間に割って入った。

「会場で騒ぐのは良くないぜ。みんな神経質になってるんだからさ。ともかく、一杯飲んで落ち着きなよ」

そういうと、缶ジュースを取り出して、その場の全員に配りだす。

この男、名をトンパという。

実は試験を受け続ける間に年を取り、今では他の受験生を潰す事のみが生きがいになってしまったというハンター試験の名物男だったのだが、今回は相手が悪かった。

取り込み中のところを邪魔された女は、差し出されたジュースに一瞥もせず、にっこりと微笑んだ。

「Fucking shut up」

「え?」

「・・・失せろ」

軽く殺意の込められた瞳に睨みつけられただけで、男は引きつった笑みを浮かべながらコクコクと何度も頷き、慌てて逃げ去った。

会場のどこかでヒソカがにんまりと笑い、ハリネズミのような格好をした男が、じっと警戒するような視線を女に注いでいた。

その時、試験の開始を告げる鐘が響きわたった。
















Capter3 The TEST ep3


















試験の開始から、既に6時間あまりが経過していた。

一次試験の試験官、サトツとかいう男に指示された課題は、自分の後を着いていく事。

だが、そうして先頭を歩き出したヒゲのジェントルマンの後について走り出してから、既に6時間。距離にして80キロは走っただろうか。

国際オリンピック委員会に規定されたフルマラソンの長さは42.195km。フルマラソンより長い距離を走るウルトラマラソンの世界記録が100キロを6時間13分33秒なので、それに比べればややぬるく感じるかもしれないが、そもそも今回のこれとは条件が違う。

まず、持ち込みOKの試験なので、各人がそれなりに重量のある武器や道具を持ち込んでいる。靴や服装も、身軽なスポーツウェアというわけでもない。

さらに、行き先も道筋も知らされていないという事。その心理的なストレスが、緊張感を生み、呼吸を乱し、体力を消耗させていく。

それに、場所も悪い。薄暗い灯りに照らされた、長い長いトンネル。代わり映えの無い景色が、どこまでも続く。そして温度も湿度も変化しない。

すると、視覚、嗅覚、そして触覚といった感覚神経からの刺激が減り、その状態でひたすら何時間も走らされることで、思考と感覚が鈍りだし、感覚遮断状態に陥る。高速道路で長時間運転していると、眠気を誘うのと同じ現象だ。

実は、トンネルは一本道に見えて、幾つかの分岐が存在している。既に幾人かの受験生が脇に逸れ、暗いトンネルのいずこかに消えていっていいた。思考力の鈍った状態では、こんな単純な道筋すらも間違えてしまうものだ。これに耐えるのは、訓練された軍人でも難しい。

女が手元の時計を確認すると、思ったよりも時間が経過していた。徐々に時間間隔が狂ってきている。

(・・・まるでレンジャーの訓練だな)

この手の試験は各国の特殊部隊でも採用されている。耐久試験としてはポピュラーな部類だが、それだけに効果的だ。

ただ、ひたすら後を着いていく、というだけの行動が、これほどに体力と精神力を試される。さすがはハンター試験といったところか。

おまけに、いつの間にか道は急な登り階段になっていた。しかも、階段はあまりにも長すぎて、先が見えないほどだ。

この苦行に、既に周りで走っている受験生の多くが息も絶え絶えだが、中には未だに余裕を見せる者たちも存在していた。その多くが、彼女自身を含めた能力者だ。『纏』により、常人が垂れ流しにしている生命エネルギーを留められる念使いは、その分消耗が少なく、体力に秀でている。

「Mama and Papa were laying in bed~♪Mama rolled over and this is what she said~♪」

特に、隣で軽快に歌い続けているパンツ一丁の怪人には、疲労の色が全く伺えなかった。

「Good for you!Good for you!and good for me!and good for me!Mmm good!Mmm good!」

(・・・こいつ、まさか海兵隊あがりか?)

男の周囲にはぽっかりと穴が空いたように人がいなかった。

パンツ一丁のこの男がいるだけで、周囲の受験生が距離をとるのだ。目立つ事この上ないが、内緒話をするのには好都合だ。

実際、先ほどからレオリオとクラピカが何やら深刻そうな話をしている。クルタ族が襲われた理由だの、難病にかかった友達を救うために医者になるだのといった事情が漏れ聞こえてくる。

だから、彼女も彼らに倣うことにした。

「・・・お前達、一体何をたくらんでいる?」

声を低めて、そう囁く。

前を向き、視線を合わせないようにしながら、隣の男にだけ聞こえるような小さな声で。

すると、海パンの男は周囲をうかがい、聞き耳を立てるだけの余裕のあるものはいないと判断してから、小声で話し出した。

「・・・何のことで御座るか?」

女はすぐには答えず、まっすぐ前方を見定めた。

ジェーンと名乗る女の数十メートル先を、二人の男が走っている。

一人は、黒いスーツを着たやせぎすの男。そして、その隣を走る小太りの男。

「うざってぇ・・・。用がねェなら先にいけよ、蛭」

「グシュシュシュ!つれないねえ、病犬ちゃん」

黒服がイラついたようにガンを飛ばし、中年男が気色の悪い声で笑う。

両者は肩肘を突きつけあいながら、対抗意識丸出しで並走していた。そんなに仲が悪いのなら、わざわざ並んで走らなければ良いだろうにと思ったが、面子を重要視する"彼らのような人種"には、仕方のないことなのかもしれない。

思わず、ため息が漏れた。

「惚けないで。・・・何故、この場に"陰獣"が二人もいるんですか?」

世界中のマフィアを束ねる十老頭の実行部隊。それぞれの長が組織最強の武闘派を選出して結成した強力な念能力者の集まりだ。

しかも、今回姿を見せているのは、ヨークシンで縄張りを分割しているリッツファミリーと、レッドドラゴンが有する最悪の手駒。病犬と、蛭。

ヨークシンでは絶対に関わってはいけない連中だ。軍・警察関係者、それも彼女のような立場の人間で、あの二人を知らなければ、それこそモグリ。

そして、隣を走るパンツ一丁の怪人も、存在感では引けをとっていない。現役時代に散々煮え湯を飲まされたが、彼女も今では、この男が4大組織の一角、ボーモントファミリーの子飼いの能力者だと知っている。

ヨークシンを影から支配するマフィア達の中でも、それと知られた実力者が、何故、ハンター試験くんだりまで出張ってきているのか?

「う~~~ん、何やら誤解があるようで御座るが・・・あの御仁達と某は、無関係で御座るよ。っていうか何故にこんな下っ端仕事に彼らが出てきたのか、その方が不思議で御座る」

マスクに覆われた男の顔からは、一切の表情がうかがえず、そのオーラも微動だにもしていない。

「下っ端仕事?」

「うぃ・・・正直、どこまで話したものやら・・・」

実際のところ、今回の件については某も微妙な立場なので御座る、と海パンはぼやいた。しばらく唸り、思い悩んでいる様子だったが、やがて重い口を開く。

「天空闘技場、知っているで御座るな?」

「ええ、もちろん」

天空闘技場。それは、世界最大の賭博場だ。

パドキア共和国の東に存在する、地上251階、高さ991m、世界第4位の高さを誇るタワー。その全ての階層が、あらゆるギャンブルを提供する超巨大カジノになっている。

その最大の目玉は、ピットファイト。

一日平均、4000人を超える腕自慢が集まり、年中無休で格闘技の試合を催している。地上1階から始まるその試合は、より強いものがより上の階層にいけるシステムとなっていて、上へ行けば行くほど勝者に支給されるファイトマネーもより高額になる。その全ての試合が賭けの対象になっており、電脳ネットを介して24時間、どこでも誰でも参加できる超人気のオンライン賭博を提供していた。これを目当てに、純粋に格闘技の試合を目当て訪れる者も少なく無いという。

タワーそれ自体も、ホテルやショッピングモール、レストラン、映画館、スパやエステのみならず、銀行や保険会社までも完備しており、年間10億人とも言われる観光客にあらゆるサービスを提供している。もはや、娯楽を目的とした一つの街と言っていい。

そして、その全てを取り仕切るのが、十老頭を筆頭とするマフィアン・コミュニティだ。

「あの手のギャンブルも、最近は需要が頭打ちなので御座るよ。稼ぎ頭の天空闘技場も、集客率は横ばい状態。新規の需要も難しいようで御座ってな。格闘技ファンというのも、深いが狭い世界なので。・・・というわけで、新規顧客の獲得のため、ハンター試験に目をつけたアホがおったので御座る」

一般に、商売としてのギャンブルが成立する要因は3つある。

一つは、利益率。

賭けに勝った時の見返り、リターンがなければ、そもそも誰もギャンブルなどには手を出さない。

確立が低くとも大金が手に入るか、あるいはコンスタンスな確立でそこそこの金が手に入るか。方向性は違えど、その成功比率が賭け事の人気を左右する。さらに、当然のことながら、胴元の儲けがなければ商売としては成立しない。

二つ目は、公平性。

イカサマ、八百長といった、所謂ゴトの存在。それを排除しなければ、ギャンブル事態が成り立たない。

そして、最後の三つ目は、エンターテイメント。

昨今、この手のギャンブルはいくらでも巷にあふれている。そして、あらゆる賭博において、利益を生むシステムは100年ほど前にパリミュチュエル方式が考案されて以来、さほど大差は無い。つまり、一つ目の要素、賭けの控除率が軒並みお団子状態なのだ。

よって、これだけ賭け事のタネが乱立しては、それ以外の要素に目が向くのは、むしろ当然の流れだ。

例えば、天空闘技場の場合は、素人のド付き合いからセミプロ同士の本格的な格闘試合、果ては、世にも珍しい念能力者のタイマンまで、あらゆるレベル層の賭け試合が、キラーコンテンツとなっている。

では、そのギャンブルのタネとして、ハンター試験はどうか。

「・・・世の中、大金を払ってでも人が死ぬところを見たいというロクデナシは、驚くほど多いで御座るよ。そんな連中には、何が起こるかわからないハンター試験は、まさに絶好のショー。毎年のように死人が出る上に、準備や設営は全て協会持ちで手間が掛からない。それに、大枚の掛かったゲームにありがちなイカサマを差し込む余地も無いで御座る」

もしそんな真似ができたら、逆にコミュニティが主導してライセンスを荒稼ぎしてぼろもうけしているで御座るからな、と海パンは面白くもなさそうに付け加えた。

賭けの公平性はハンター協会が保障してくれるというわけだ。しかも、公然と人死にがでる程に危険に満ちていて、エンターテイメント性も十分。高額なギャンブルのネタとして、申し分ない。

おまけに男の言うとおり、会場の設営から課題の準備まで、何から何までハンター協会が持ってくれる。元出はゼロ。うまく賭けのシステムを作り上げれば、楽に儲けを上げられるだろう。言ってみれば、野球賭博のようなものだ。

こんな面白いショーを、ライセンス欲しさに試験に参加したクズどもだけが楽しむなど、言語道断・・・というわけか。

(これだからマフィアは嫌いだ。何でも商売のタネに変えやがる・・)

「安全な場所にいながらこの世の地獄を見たいとは・・・有り余るほど金を持っている人間というのは、始末の悪いもので御座る」

この男の所属する組は、別に金に困っているわけではないが、ろくでもない金持ちどもとのシガラミが多く、断るに断りきれなかったららしい。

と、男がそこまで話したところで、ピンと来るものがあった。

「まさか・・・」

同時に、背筋に冷たい汗が流れるのがわかった。

「・・・そう、見ているので御座るよ。この場の一部始終を、大勢のマフィアや、あるいは闇社会に魂を売り渡した金持ちどもが」

思わず、周囲を見回す。

薄暗い坑道内。聞こえてくるのは、多くの人間が走る靴音に、荒い息遣い。疲労困憊の顔をした、受験生。

試験会場を探し当てることすら難しい試験だ。事前に監視カメラを設置するのは不可能。という事は、いるのだ。この中に、マフィアから送り込まれた人間が、他にも。

確かに、下っ端仕事といえなくも無いが、同時に陰獣クラスが出てこないと、生き残るのが難しくもある。・・・とはいえ、それで十老頭の虎の子が、出張ってくるほどのものだろうか?

(まだ何か・・・ほかに狙いがある・・・?)

疑い出せば、きりが無かった。

「まあ、今回は商売として成立するかどうかの見極め、試し興行で御座る。これで、もし、うまくいくようなら・・・」

次回から、本格的にギャンブルが成立する。

そうため息混じりに呟く海パンの声は、やりきれなさに満ちていた。

(なんにしても・・・面倒な状況になった・・・)

「では、あの二人もその口と?」

「さあ、そこまでは・・・。だいたい所属する組が違えば、ただの商売敵で御座るし。・・・とまあ、こちらの事情はざっとそんなもので御座るよ」

色々と突っ込みどころのある説明だったが、筋が通っているように思えなくも無い。

「そういうことにしておきましょうか・・・」

「信じる信じないはそちらの勝手。それで、そちらは何故、こげな試験に出てきたので?」

「スキルアップのためですよ。上司に参加を勧められました」

「すきるあっぷぅ?そちらの『会社』の事情は存じぬが、はてさて・・・?」

マスク越しにも、胡散臭そうに見られているのが女にはわかった。確かに、自分で言っておいてなんだが、嘘くさい理由だ。

「それに、あのピンク髪の少女。見たところ、貴殿の連れらしき少年達と懇意に話しているようで御座るが・・・何者で御座る?」

知り合いなのだろう、と言われて回答に困った。

ゴンやクラピカ、レオリオあたりはまだいい。彼らは光るものを感じさせるが、現段階では念も覚えておらず、そこまでの脅威ではない。

しかし、先ほどからあの3人と、気安げに話している二人。

一人はゴンと同い年くらいの、白髪のツンツン頭の少年(キルア、とゴンに名乗っているのを彼女も聞いていた)。

同じ少年と言っても、世慣れた言動と飄々とした態度は、ゴンとは方向性がまるで違う。いかにも都会育ちの「最近の子供」といった感じだが、注意深く観察するとただの少年ではないのが分かる。

この長距離を走っておいて、息の一つも乱ておらず、しかも足音の一つも立てていない。ゴン達と談笑している時も、何気なく周囲を観察し、注意を怠っていなかった。やる事なすこと、全てが妙に玄人じみている。

そして、

「クラピカさん、っておっしゃるんですねぇ。わたしぃ、キャンディ・クルーガーって言いますぅ~。気軽にキャンディちゃん、って呼んでください!!」

「・・・わかった。それより走りながら擦り寄らないでほしい。走りづらい」

「叔母がぁ、ハンターしてるんですぅ。だからぁ、私もハンターになろうかなぁって思ってるんですよぉ~~」

「・・・だから、走りづらいのだが・・・」

辟易した様子のクラピカに擦り寄る、ストロベリーブロンドの髪をくるくるとカールにした小柄な人物。

黒とピンクのパンキッシュなゴシックドレスに身を包み、首から下げたファッション・タイには「pussycat」のロゴ。さらに、ペンダントや指輪、ブレスレットといったシルバーのアクセサリーを、いくつもいくつも付けていた。

ついさっきまでは、キルアにべったりと寄り添っていたのだが、今はしきりにクラピカにモーションをかけているあたり、どうやら面食いらしい。

言動は年頃の少女特有の甘ったるい調子で、一見、歓楽街にたむろする若者といった見た目だが、纏うオーラは只者ではない。その事を海パンもまた見抜いていた。

「黒い髪の男と少年、それに金髪の坊やは確かに知り合いですよ。といっても、試験会場までの道すがら、たまたま居合わせただけですがね。あちらの白髪の少年達のことは、知りません」

「左様か・・・ま、そういう事にしておくで御座るよ」

見事に切り返されてしまった。が、お互い様だ。

ひとまず、互いに腹のうちを晒しあった(という事にした)ところで、海パンは唐突に話を変えた。

「それはそうと、その指輪、どうしたで御座る?」

この変態に、プライベートな事情に触れられたくは無かったが、こちらも聞きたいことがあったので、女は素直に答えてやることにした。

「この間のクリスマス休暇の時にね。式は挙げてないけど」

「それはそれは・・・おめでとうを言わせてもらうで御座るよ。ちなみに拙者の五番目の妻にも子ができもうしてな。出産祝いに一つライセンスなぞ手に入れて、売っぱらおうというのも参加した理由で御座るよ」

他人の家の事情に興味は無かったが、まさかこの男に家族(・・・しかも本人の談によれば妻が五人も!?)がいるとは、世も末だ。

そういえば、前に出くわしたときに比べて体つきがたるんでいる。微妙に腹が突き出て、体つきもやや丸い。念も微妙に弱まっている。まさか、幸せ太りとでも言うのだろうか?

「そうですか。それと・・・一応彼らには、ジェーン・スミスで通ってるんで、試験中はそれで頼みます」

やや前方を走っているゴンたちに冷たい視線を向けてから、女は言った。

「おお、世を忍ぶ仮の姿で御座るな!」

「同士同士!」と言われた瞬間、本気で殺意が沸いた。本音は、今すぐこの場で射殺したい。が、今は他にも確認すべきことがあった。

「・・・ところで」

「ああ、気付いてるよ・・・」

急に男が口調を変えたので面食らったが、気を取り直し、あまり顔を動かさずに、視線だけを後方に向ける。

二人の背後を、一定の距離を保って走る一人の男。

顔面にペイントを施し、道化師じみたふざけた格好をしているのだが、その身に纏うオーラは凄まじい。ここまでこなれたオーラの持ち主は、久方ぶりに見た。

先ほどから二人とも走る速度に緩急をつけ、ワザと距離をとるように努めているのだが、前に出るでもなく引き離されるわけでもなく、測ったように一定の距離を保ちながら着いてくる。

抑えきれないといった、凄まじい殺気を放ちながら。

先ほど、ジュースを差し出してきた小男に思わずいらだってしまったのも、半分くらいはそのせいだった。あれは、どう見ても"今の自分"では決して勝てないレベルの、強力な能力者だ。

「アレは、あなたの知り合いですね」

隣を走る変態に勝るとも劣らない変態だ。当然の帰結として、その関係者という線をまず疑うべきだろう。

だが、そう断言すると、男はマスク越しにもわかるほど、唖然とした表情を浮かべた。

「濡れ衣で御座る!あんな変態的なお友達はいないで御座るよ!激おこ、ぷんぷん!!」

パンツ一丁の怪人は自らのことを棚に上げて憤慨した。

「じゃあ、なんなんですか、あの野郎は?」

「"野郎"とか地が出てるで御座るなぁ・・・・。あの殺人ピエロ殿は、某が会場に来たときからあんな感じだったで御座るよ。名前はヒソカ。あの御仁、去年も試験を受けに来て、気に入らない試験官を半殺しにして失格になったそうな」

「・・・殺人?」

女は、思わず目を鋭く細めた。

「YESYESYES。試験の待ち時間中に、何人か殺していたらしいで御座るよ。つい先ほどマイフレンドに認定したトンパ殿から聞きだしたので間違いないで御座る。何せ34回も試験を受けているべテランだそうな」

人に毒入り飲料を勧めるのはいただけないで御座るがなぁ、と男は呟いた。

・・・あの男か。会話の切り替えと、ジュースを勧めるタイミングがやや不自然だったので、警戒して正解だった。

「ま、なんにしても、触らぬ神に祟りなし。某も先ほどから、マイプリティおケツちゃんのあたりに視線をビンビン感じて困るで御座る。何せ某、掘るのは得意でも掘られるのは真っ平御免にて候」

嬉々とした表情で後ろを走っている男の股間には、テントが張られていた。

男はブルブルと振るえ、女も生理的嫌悪感に鳥肌が立つ。

「股間がエレクチオン。・・・しかし、強そうで御座るなぁ。いや流石はハンター試験。トンパ殿にしろ、曲者ぞろいで困るで御座るよ。いかがかな、ここは一つ、試験を乗り越えるために手を組む、というのもありでは御座らんか?」

「あなたと、ですか?」

確かに。チームプレイはハンター試験の常識という話だ。

相手は能力者。それも実力は良く知っている。

女は視線を男の背中に移した。

ホームセンターで売っているような、三叉の銛。これまた安物のナイロン製のロープで背中に括られているので、あまりにもみすぼらしい。滑稽ですらある。誰も、これが必殺武器だとは思うまい。だが、そう思わせる外見こそが曲者だ。

その気になれば無手を装いながら、いつでも物質化して取り出せるのが具現化系能力の強み。それを捨て、わざわざ物体化した上で得物を持ち歩くことは、それだけで心理的な罠を生む。いざ実戦というときに、『隠』を使って武器の気配を消されたら、それだけで有効な初見殺しになるだろう。あらかじめ知っていなければ、自分も見事に騙されただろうな、と女は思った。

幾度となく事件の現場に居合わせたので、この男の能力くらいは把握している。もっとも、自分の能力も知られているだろうが。

例えばこの男、能力の発動中は服を着ることができない。その特殊極まりない能力を発動すると、あらゆる固形物を全てすり抜けてしまうからだ。その際に、いきなり着ていた服が脱げてしまえば、流石に怪しまれるだろう。ならば、最初から服を全て脱いでいればいい。この見た目や奇異な言動すらも、フェイクの一つ。そうやって、全裸でいても怪しまれないような状況を作りだしている。なんにしても、怖い男だ。

とすると、まんざら悪い話でもない。

「冗談。馴れ合うつもりはありませんよ・・・マフィアの犬め」

「あ、やぱし」

「とはいえ、私も既に警察官ではない。状況次第では考えましょう」

女は眼鏡を光らせた。

「おおおぅ!!ハニー、ハニー、愛してるぅ!!」

「・・・ぶち殺しますよ」

そんなじゃれ合いをしている間に、とうとう階段が尽きた。

四角く区切られた穴から、地上の光が漏れ出ている。そこから蒸した高温の空気が流れ込み、頬を撫でた。

湿った土と、植物の臭い。さらに、無数の獣の臭い。

トンネル内の薄暗がりに慣れた目を細め、広げる景色を目の当たりにすると、思わずため息が漏れた。

「・・・湿原」

膝丈程度の草木が無数に生い茂り、その隙間に疎らに点在する低い木々。いたるところに点在するくぼ地には、水がたまり、大小無数の池を形成している。

「最悪だ。こんな装備で湿地帯を行軍する羽目になるなんて・・」

見渡す限り、全てが広大な湿原。地平線の辺りは霞んでいて、天と地の境目が薄らいでいる。恐らく、濃い霧が出ているのだ。その中を、進まなければならない。

手元の磁石を確認すると、案の定、針はふらふらと動いてまともに方向を示さなかった。土地が強い磁気を帯びているのだ。

こんな場所では携帯電話の基地局も期待できない。かろうじて、衛星経由のGPSは生きていたが、二次試験の会場がこの大湿原のどこかに隠されているとしたら、試験官とはぐれてしまったら、それでアウトだ。

(・・・保険をうっておいたほうがいいな)

その隣で、パンツ一丁の男が額に汗をかきながら、同じく目を見張っていた。

「確かに、これは酷い」

その言葉を聴きつけたのか、ヒゲのジェントルが面白そうに解説を始めた。

「ヌメーレ湿原。通称"詐欺師の塒"と呼ばれています」

この湿原にしかいない珍奇な動物達。その多くが人間をも欺いて食料にしようとする狡猾で貪欲な生き物とのこと。二次試験会場へは、この場所を通っていかなければならないという。

「この湿原の生き物は、ありとあらゆる方法で獲物を欺き、捕食しようとします。標的を騙して食い物にする生態系・・・詐欺師の塒と呼ばれる所以です。十分注意してついて来てください。騙されると、死にますよ」

と、そこまでサトツが話したところで、騒ぎが起きた。

「ウソだ!!そいつはウソをついている!!」

今しがた登ってきた階段の上り口、シャッターの降りた建物の陰から、一人の男が姿を現した。

凄まじい異臭をまとわりつかせた男だった。糞便の臭いが着ているものに染み付いている。シャツもズボンもボロボロでもとの色がわからない。しかも、膝と脇に血を滲ませ負傷している様子だ。

まるで、そこらの浮浪者から奪い取ってきたかのような風体。それに、衣服に染み付いたかすかな死臭。それを感じ取って、女は目を細めた。

当の本人は、鋭い視線で、サトツをにらみつけている。

「そいつはニセ者だ!試験官じゃない!オレが本当の試験官だ!!」

そうして、後ろ手に持っていたものを居並ぶ受験生達の前に投げ出した。

猿だ。手足のひょろ長い、毛の薄い猿。温度と湿度の高い亜熱帯に生息する猿は、体温調節のために手足が長いというが、恐らく湿原に生息する固有種なのだろう。

だが、問題はその猿の"顔"だった。

「ヌメーレ湿原に生息する人面猿!!」

優雅なラインを描くグレーの髪、ややカールしたヒゲ。頬骨は尖っていて長く、目は薄っすらと細長い。半開きになった口から除く鋭い牙も、口を閉じていればわからないだろう。

注意して見れば細部に違いがいくつもあったが、全体の印象としては、試験官本人にそっくりだった。

それを見たとき、サトツが不快そうに眉根をひそめた。

「人面猿は新鮮な人肉を好む。しかし、手足が細長く、非常に力が弱い」

そこで自ら人に扮し、言葉巧みに湿原に連れ込んで、他の生き物と連携して獲物を生け捕りにする!!・・・と得意そうに続けた。

なるほど、確かに言葉は巧みなようだと、女は感心していた。

能力者の眼から見れば、どちらがニセモノかなど一目瞭然だ。

「ダウト」

騒ぎを乾いた目で見物しながら、パンツ一丁の男もどうでもよさそうに呟き、女はゴンとキルアの後ろに移動していた。いざというときに、彼らをかばう事にの出来る位置に。

もちろん警戒すべきは、こんな下手な芝居を打つ『猿』ごときではない。騒ぎに乗じて、殺気を漲らせている男から、だ。それに、別のもくろみもある。

「そいつはハンター試験に集まった受験生を一網打尽にする気だぞ!!」

受験生達は動揺し、サトツと男を見比べている。

少し頭を働かせれば、こんな場所にいきなり現れて、突っ込みどころ満載の告発をしている薄汚れた男の方が明らかにおかしい。

だが、長距離のマラソンをこなしたばかりで、多くの受験生は思考能力を削られていた。そこに、あの試験官そっくりの猿だ。あんなものを見せられては、動揺しても仕方が無い。

と、その時。

「が・・!!」

ヒュっと、風を切り、何かが飛来する音。気が付いたときには、男の顔面に無数のトランプが突き刺さっていた。

男は仰向けに倒れ付し、痙攣していたが、やがて動かなくなった。その半開きになった口からは、人面猿と同じ鋭い牙がのぞいている。

一方、同じタイミングでトランプを投げつけられたサトツは、見事な手際で全てを掴み取っていた。

「クック♠なるほど、なるほど♣」

小気味よさそうに笑う男、ヒソカが、その手に持った無数のトランプをシャッフルしていた。

そして、それまで死んだふりをしていた猿が、仲間の死を見て慌てて逃げさろうとしたのだが、

「ゲェギャ・・!!!」

ヒソカの無造作な粋激でほふられた。

「これで決定♦」

軽くオーラを纏わせたトランプの一撃。流れるように滑らかで、正確だ。トランプという薄く小さく、しかも重みの無いものを使ってこの威力。やはり、相当の実力者だ。投げる一瞬でトランプにオーラを纏わせた、"周"の技術も見事だった。

「そっちが本物だね♥」

ヒソカがサトツを指差して、自信たっぷりに断言した。

「試験官は審査委員会から依頼されたハンターが無償で任務につくもの。我々が目指すハンターの"端くれ"ともあろう者が、あの程度の攻撃を防げないわけがないからね♣」

「・・・褒め言葉と受け取っておきましょう。しかし、次からはいかなる理由があろうと、私への攻撃は試験官への叛逆行為と見なして即失格とします」

いいですね、とサトツはヒソカに念を押した。

受験生達の視線は、もう猿とヒソカに釘付けだった。ゴンと、キルアも顔を硬くしてヒソカを見つめている。

女はその肩に手を置き、耳元に囁いた。

「二人とも、あの男に、近づいてはいけませんよ」

その言葉に、キルアがハッとしたように女の方を振り向いた。額には玉の汗。恐怖6割、好奇心4割のその顔を、できるだけ優しげな顔を作って見返す。

「相変らずおっかない女人で御座るなあ」

男が小声でぼやいた。・・・勘のいい奴だ。

「あらぁ、このオバハンどなたですぅ?キルアきゅんのお知り合い?」

さらに、薄く笑って事態を見物していた例のゴスロリピンクが、挑発的に笑いかけた。

(・・・この野郎。言うに事欠いて、オバハンだと?)

「・・・っ!!」

キルアが、怯えた表情で一歩後ずさる。

女がどんな表情を浮かべているか、それを見ることが出来たのは、その正面にいたキルアだけだった。

「・・・ミス・キャンディ、でよかったですか?初対面の人間に、あまり失礼な口をきくものじゃありませんよ?」

「あは、ごめんなさ~~い!私ってぇ、思ってることをつい口に出しちゃうんですぅ。てへぺろ♪・・・でもぉ、いっくらキルアきゅん達が可愛くてもぉ、保護者ヅラはないなぁって、ねえ?」

馬鹿っぽく笑うピンクの目だけは、少しも笑ってなどいない。

両者の間で殺気が漲り、目に見えない火花が散った。



その一方で、

「いい加減にしろよ、血吸い野郎(コックサッカー)!」

黒服の男、病犬が両手の指をコキコキと鳴らして、不機嫌そうにはき捨て、

「ゲシュシュシュ、やるかい、ワンちゃん?」

メタボ腹をぽんぽん叩いて、蛭と呼ばれた男が笑う。

こちらはこちらで、一戦始まりそうな勢いだった。



「・・・ああ、もう好きにして」

「楽しそうだねえ♥」

その両者を見て、海パンは天を仰ぎ、ヒソカが楽しげに唇を舐める。



こうして、本試験は始まった。













to be continued






[8641] Chapter3 「The TEST」 ep4
Name: kururu◆67c327ea ID:feb546b9
Date: 2014/07/05 14:26
誤字修正







詐欺師の塒、と呼ばれるヌメーレ湿原に足を踏み入れてより、しばしのこと。

霧の出てきたのを見定め、男は一人、静かに受験生の列を離れた。この一団がすでに先頭集団から切り離され、迷走しているのに気付いたからだ。

だが、それは彼には都合がよかった。

「さっさと済まして帰るとするか・・・」

騒がしすぎるあの街を、余り長く空けはたくない。

男は、体に留めたオーラを、一気に増幅した。念能力の基本となる4大行の一つ、『練』だ。

この状態を維持し続けると、『堅』という応用技になる。全身を通常よりもはるかに多いオーラで覆うことで攻防の力を飛躍的に高める必須技能だが、必要とされる難易度もそれに比例して高い。

今はそこまでする必要はないので、全力の練ではなかった。何せ"今の状態"では、出せていつもの"7割"。それに、今後のことを考えておくと、少しでもスタミナは残しておきたい。

高めたオーラを、身体の一点に集中させる。応用技の一つ、『凝』。これまた念での戦闘には必須の技術だ。一般的には、目にオーラを集めて『視る』力を強化することを指して言い表される。隠れ潜んだ敵やトラップの発見に重宝する上に、そしていざ戦闘に入っても、これが相手の能力を見破るための基本だ。

だが、男は集めたオーラを、鼻へと集中させた。

途端に嗅覚が強化され、臭いが色を持った。右と左の各鼻孔が互いに独立して機能し、脳に異なる信号を送信。信号は脳内でステレオ処理され、臭いの距離と方向、対象の状態までも彼に伝えてくる。

常人でも、訓練すればにおいが左側と右側のどちらから来たか判断できるようになると、科学的に証明されているが、普段からこの能力を鍛えている男の嗅覚は、犬のそれすらも凌駕していた。

両手を突き、地面に密着するように鼻をうごめかせる。静かに目を閉じ、もたらされる膨大な情報を吟味した。

周囲に満ちる腐った泥と水の臭い。そこに生息する雑多な生物の臭い。それに混じって、大量の人間の汗と老廃物の臭いがする。

さらに仔細に臭いをかぎ分けると、雑多な臭いの中にもいくつかの特徴が見えてきた。わずかに香るオーデコロン・・・例のサトツとかいう試験官のつけていたものだ。それに、かすかに香るアクアシトラスの消臭剤・・・これは彼もよく知るヨークシンの名物男、ブリーフ野郎のもの。他にもいくつもの臭いが地面の上に残留し、それが彼の目に『線』として浮かびあがってくる。ほどなく、男は目的の人物の臭いを探り当てた。

運がいい。そう遠くには行っていない。今ならすぐに追いつけるだろう。

「・・・つーわけでな、俺は仕事をちゃっちゃと済ませてぇ。お前と遊んでやる時間はねぇんだよ」

気配を消し、足音を消して忍び寄ろうと、彼の鼻は誤魔化せない。

「あんたにゃ、なくとも俺にはあるんだよ。いいから殺ろうぜ、犬コロちゃん」

いつの間にか、病犬の背後に、蛭と呼ばれる男が立っていた。

男から漂ってくる臭いに含まれる、大量のアドレナリン。興奮、緊張、みなぎる殺意。それらが微妙にブレンドされた、殺し合いに慣れた人間独特の感情。相手の汗の臭いから、そこまでを読み取ったときには、病犬もまたオーラを高め、戦闘に備えている。

(・・・こいつ、本気か?)

理解できない。

一体、この男はどうして自分に突っかかってくるのか。

この男の所属する組と何年か前にもめたことはあったが、それはこの男が陰獣として取り立てられる前の話で、そもそもその組とも当の昔に手打ちは済んでいる。それに陰獣同士の私闘は原則としてコミュニティの協定違反、重罪だ。

「それは、リッツ・ファミリーの意思か?」

「ケケケ、吹くんじゃねえよ。ストダードの小娘にケツ舐めさせられた野郎がよぅ」

ただでさえ細い目を、さらに吊り上げ、蛭は肉の切れ目のような笑みを浮かべた。同時に、蛭の全身からオーラが噴出した。

"練"によって通常以上にオーラを漲らせ、それを維持した状態、『堅』。となると、やはり本気らしい。

これは1次試験の間に本命を片付けるは無理かもしれない。内心、辟易しながら、病犬もまたオーラを全開にした。

「一度吐いた唾は飲めねェぞ、デブ公」

病犬の本気のオーラに、対面する蛭が緊張感も新たに身構えた、その時だ。病犬はおもむろに両足にオーラを集中し、そして・・・

「じゃあな!!」

一目散にダッシュした。

後に残されたのは、唖然として細い目を丸く見開き驚く蛭。

「・・・・えええええ!!ちょ、お前、逃げんじゃねえ!!みんなに言いふらしちゃうぞぉおおおお!!!!」

だが、慌てて風に翻る黒い背広を追いかけようと、走り出した瞬間、

「なーんつってなぁ!!」

「げひっ・・・!!!」

急制動をからの跳躍。病犬の飛び膝蹴りが、メタボめいた蛭の三段腹にめり込んだ。















「あれはマチボッケなる、世にも珍妙なるカエルで御座る。獲物が真上を通るまで口を開けて待ち続けるという」

「・・・意外に博識ですね」

突如、地面から飛び出てきた巨大なカエルが、数名の受験生達を飲み込む様を横目で眺めながら、彼らは走りつづけていた。

一人は黒いビジネススーツに身を包んだ女。アッシュブロンドの髪を後ろできっちりとシニヨンに結い、ノンフレームの眼鏡をかけている。僅かに額に浮かんだ汗を、レースのハンカチでぬぐいながら、さして呼吸を乱すことなく走っていた。

もう一人は、ロレスのリングから抜け出てきたような奇怪な格好の男だ。身に纏っているのは紫色のピチピチパンツ一丁。その上、顔面は金色のラメ入り覆面で覆っている。あまりに怪しい格好に、周囲の受験生達も彼にだけは近づかないよう距離をとっていた。

「これでも大学で博物学を専攻していたで御座る」

ブリーフ一丁の巨漢は得意げに鼻を鳴らした。

(・・・それがどうしてマフィアの手先に落ちぶれた?)

小一時間ほど問い詰めたかったが、すぐにそんな悠長な状況ではなくなった。

霧が、薄く湿原に疎らに生える木々の合間から、静かに吹き込んできた。あっという間に足元が白く霞だし、やがて視界を奪うに十分な濃霧となる。一面、真っ白に煙った湿原に、猿やコヨーテ、あるいはそれ以上に巨大な生き物の鳴き声が、幾重にも木霊し、方向感覚を狂わせた。

足元は腐った草が幾重にも堆積した柔らかな泥と、疎らに生えた硬い葦が延々と連なる湿地帯。しかも、大小無数の沼地があちらこちらに点在している。一歩、踏み誤れば水中にドボン、だ。

その上を何時間も走っていると、粒子の細かい泥が足元を跳ね回ってスーツの裾を汚す。こんな事ならジャングルスーツで来るべきだったと女は後悔したが、後の祭りだ。徐々に靴下にまで染み出した水分が、不快なことこの上ない。女は足元をオーラでコーティングしたが、ほとんど焼け石に水だった。

それ以上にいやらしいのが、この強い熱気だ。強い太陽光線によって暖められた霧が、ミストサウナもかくやという湿度と温度で絶えず襲ってくる。汗に濡れたシャツが肌に張り付く感触がひどく不快だった。速乾性、高通気性に優れた軍用のアンダーシャツでなければ、今頃服を脱ぎ散らしたい衝動に駆られていただろう。

体をぬらしたまま走っていれば、体力の消耗も馬鹿にならない。つい、いつもの癖で食事を軽く済ませていたのが裏目に出てしまった。あまり胃に物を詰めていると、戦闘で被弾した際に内蔵を汚すのだ。まさか、市街地にある試験会場に赴いたら、百キロを超えるマラソンを強いられることになるとは夢にも思わなかったので、仕方が無い。

ここまで走ってきただけでも、かなりのカロリーを消費していた。チョコレートや飴玉を口に放り込んで凌いでいるが、もう少し胃に食べ物を入れておくべきだった。空腹は集中力を削ぎ、集中力の欠如は即、死に繋がる。

女は、もはや視界をふさぐだけの代物になった眼鏡を外した。

視力が悪いわけではない。射撃の際、硝煙や火薬滓から目を保護するためのアイテムだ。

この状況では目に水滴は入らなくともグラスそのものが濡れたり曇ったりで、余計に視界を悪くしている。曇り止め仕様とはいえ、気休め程度。体温が上がると、どうしてもダメだ。

「有効視界は10メートルくらいか」

「で、御座るな。・・・それよりいつの間にやら我ら、先頭集団からはなされて御座らんか?」

女の隣を走っていた海パンがぼやいた。

このブリーフ一丁の怪人は霧が出始めたあたりから、目にオーラを集中させる"凝"という技を使っている。視力を強化し、ごく僅かなオーラの痕跡を調べるにはうってつけの技術だが、物理的に視界をふさがれたこの状況では限度がある。

女は視覚補助用のバイザーを取り出して着用した。電源を入れるとバイザーのモノアイが光り、熱感知や赤外線探知を合成した電子の視界が網膜に投影される。

「大型の熱源多数・・・人間のものじゃないな。恐らく、湿原特有のナマモノ・・・わずらわしい」

この濃霧だ。まともに視界を確保でる人間は限られる。質のいい視覚補助装置を持っているか、裸眼で何とかできるほど目の良い人間。あるいは、視力に頼る割合が常人よりも少なくて済む念能力者くらいだろう。

「・・・で、なにやら手立てがあるので御座ろう?先ほど、少年らになにやら仕掛けていたようで御座るが?」

「ええ、発信器をゴンとキルアに一つづつね」

女はあっさりと認めた。

先ほど、人面猿がヒソカに殺された一件。

誰もがあの基地外ピエロの凶行に目を奪われていたその隙に、いたいけな少年を庇うふりをして、実際にはこれが目当てだ。

彼女の連れの3人が知れば驚くだろうが、この女がそういうやつであると既に知っていた海パンには、驚きは微塵も無い。

「彼ら、試験官の真後ろを走ってましたから、二次試験までたどり着く可能性が一番高い。保険としては悪くないでしょう?さすがに腐ってもハンターというか、試験官本人には仕込めませんでしたがね」

「ふむ、ならば我らも素直に試験官に張り付いていた方がよかったのでは?」

「アレと面(ツラ)を突き合わせて走りたかった?わたしはご免だ」

「ああ、なるほど・・・」

確かに、試験官のすぐ後ろにはゴンとキルアが走っているが、そこには当然のように彼らに付きまとうピンクのドリルが控えている。

「・・・正直安心したで御座るよ。もしかしたら軽くドンパチるかと思って内心ビビりまくりだったので。あれは、恐らくさすがの貴殿でも手に余る」

「え?知ってるのかよ?」

思わず口調が素に戻りかけた。

先ほど、意味深に「知り合いだろう?」と問いかけられたので、てっきりこの男も相手の正体がつかめないのだとばかり思っていたのだが・・・?

「え?・・・何故、あんなろくでもないのとつるんでるのか、それが聞きたかったので御座るが・・・?」

どうやら双方の認識に、重大な隔たりがあるようだ。

「いや、本気で知らないから。あんな不気味な変態女、知ってたら別にとぼけやしません」

「ああ、そう言えば貴殿はそっち系のパイプが細かったで御座るな・・・。あれは最近、ヨークシンの裏社会でそこそこ名が売れてる御仁で御座るよ。ぶっちゃけて言うと、ストダード・ファミリーが最近になって高額で雇い入れたという・・・・殺し屋で御座る」

「殺し屋ぁ?」

女は心底嫌そうに呻いた。

「うぃ。あの組、最近は露骨に余所にちょっかい出して御座ってな。噂では十老頭の地位を狙ってるとかなんとか。まあ、そこで暴力担当に雇い入れたのがあの女で御座る。性悪で金と光り物と美少年が大好きな上に、性格悪くて根性がねじ曲がっていると、もっぱらの評判にて候」

殺し屋と聞いたときから女は嫌な予感がしていたのだが、想像以上にろくでもない奴だ。

「だが、強い。どこぞのダブルハンターの姪とか言う触れ込みは眉唾だとしても、実力的には陰獣クラスとか。些細なことで喧嘩ふっかけられたレッドドラゴンの病犬が、笑いながらドつき倒されたのは語り草で御座る」

この男は、裏も取れてない噂話を盛って話すタイプではない。となると、それは全て事実なのだろう。

女はますます憂鬱な気分になった。何せつい先ほど、その相手に思わず喧嘩を売ってしまったのだから。

「だとしたら、相当の手練(てだれ)だな。すると、あの女も例のギャンブル関係ですか?」

「さあ、そこまでは?」

陰獣、病犬。あの見た目不健康そうな男の背後にいるのは、大陸系黒社会の中でも最悪の組織だ。彼らは文化的に面子を何よりも重視する。にもかかわらず、あのキャンディとか言う女が今まで生き延びているということは、レッドドラゴンすら手を出しあぐねているほど、腕が立つということ。

あるいは、陰獣がハンター試験に乗り込んできたのも、あの女の命を狙っての事だろうか。何せ、受験生同士がトラブルを起こして刃傷沙汰になるのはハンター試験では珍しくないらしい。試験のドサクサ紛れに死体が増えても、誰も気にはすまい。

まったくもって、きな臭い話だ。正直、聞かなければよかったと、女は後悔した。

「ああ、もう本当に面倒くさくなってきた・・・」

そう言ってため息をつく女を、海パンがじっと見据えていた。






・・・さて、一見クールビューティを装っているこのジェーン・スミスという女が、腹の中で何を考えているかくらい、付き合いの長い海パンにはわかっている。

(あ~~、これはもう面倒くさくなってきたから、まとめて吹き飛ばしたらアカンかなぁ、とか思ってる感じだ・・・)

これでよく警察の採用試験に受かったものだが、良く考えたらヨークシン市警は『マフィアが警察の看板を掲げている』と言われるほどの最悪のゴロツキ集団だ。そのモットーは、『犯罪者に人権なし、逃がすくらいなら迷わず殺せ』・・・よく考えたら、これ以上無いくらい適材適所かもしれない。

彼自身、日々笑顔の絶えない職場で胃を痛めているのだが、先ほど眼鏡を光らせながら懐に手をやる女と、ニタニタと笑いながら薄気味悪い鬼気を振りまく少女が対峙した時には、それに勝るとも劣らないプレッシャーがあった。気分はまさにグラウンドゼロ。あのキルアとかいう白髪頭の少年などは、死ぬほどおびえていたが、さもありなん。

海パンは、この女が無感情に人を射殺するところを何度も目にしている。何せ、ヨークシンでは凶悪犯罪は珍しくないし、現場に駆けつけたYSPD(ヨークシン市警)のゴロツキどもがホールドアップした犯人を鼻歌交じりに蜂の巣に変えるなど日常茶飯事(チャメシ・インシデント)だ。

市警の人間は上も下も、一発400ジェニーの弾丸と1回2000ジェニーの無縁仏の火葬料金で、街の治安が改善できるならよほど経済的だと考える人間ばかり。あの街では『人権』すらも、金で買わないと意味を持たない贅沢な概念なのである。

一方で、あのキャンディとかいう女もたいがいだ。周囲に振りまかれる薄気味悪いオーラが、人格のゆがみ具合と、化物具合を何より如実に示している。しかもそれが未成年にしか見えない小柄の少女の形をしているというのだから、不気味なことこの上ない。もっとも、その正体に心当たりのある海パンにしてみれば、ひたすら頭が痛かった。

それにしても、あのキルアとかいう少年にはまったくもって同情を禁じえない。

キャンディに散々弄ばれ、疲れきった顔をしているところなど他人とは思えない。運の悪そうな、薄幸そうな顔つきにも妙に親近感が沸く。幼女の形をした化け物にこき使われる身としては、他人事に思えなかった。間違いなく彼も海パンと同じ、"被害者"の側に属する人間である。

後で慰めちゃろう、と海パンは密かに誓った。






その一方で、鉄の心臓を持つ女の形をした野獣はスマートフォンを取り出し、画面を見て首をひねっている。

「ぬ?どうしたで御座るかな?」

海パンはいやな予感に襲われて、首をめぐらして女の手元を覗き込んだ。この辺り一体の地形図と思しき画面の中に、赤い点が二つ光っている。これが、おそらく例の発信機なのだろう。それはいい。

問題は、二つの光点がまったく別方向に移動していることだった。

























キルア・ゾルディックは走っていた。

一次試験が始まってすでに10時間。湿原に足を踏み入れる前から通算しても、もう100キロ以上を走っている。だが、彼にはさほど疲労は無い。このくらいなら、まだ実家の訓練の方がよほ鬼畜めいている。ただ、肉体的には余裕でも、精神的には疲れきってクタクタだった。

その原因は、背後から彼の背に覆い被さり、柔らかな頬をすり寄せてくる少女だった。首に手を回し、身体を押しつけて絡んでくる。

「あっは~~ん♪ほっぺすべすべぇ~、こらーげんたっぷり~~、やっぱ若い子っていいわぁ~♪」

耳朶をくすぐる甘い吐息、背には柔らかな胸の感触。細くて白い指がキルアの顎を撫でる。

年頃の少年ならば若いリビドーに刺激を受けてしかるべきシチュエーションだが、その対象となっている少年は、全身に冷たい汗をかき、身の毛もよだつような恐怖に戦いていた。

別に、少女の重みに耐えかねているわけではない。・・・いや、ある意味ではそうなのかもしれない。

小柄な体格のキルアだが、いざとなれば常人離れした怪力を発揮できる。瞬間的な荷重に限れば優に百トン以上。キャンディの身長は見た目160センチ程で女性としては平均的なのだが・・・その重量ときたら、まるで肉厚の大男を背負っているかのような感触が、背に伝わってくる。

(いったいなんだってんだ・・・この女は!!)

キルアは、自らの境遇に歯噛みしていた。

実家の家業に嫌気がさして、母親と2番目の兄貴を刺して家を飛び出したのが数日前。

自由にカタギの町を散策するのはおもしろかったが、そこで色気を出してハンター試験なんぞに手を出したのが運のツキだった。首尾よく試験会場を探し当てたまではよかったのだが、そこで出くわしたのが、この少女型の怪物だ。

"あっら~~♪ねえボク、お名前はぁ?"

相手は、出会いがしらに甘ったるいピンクシュガーの香水の香りを振りまきながら、甘ったるい言葉をかけてきた。ピンクと黒のゴスパンク系ワンピ-スに、くるくるとドリルのようにカールしたピンクの髪。まるで少女漫画から抜け出てきたような毒々しい原色の美少女。

自分をあからさまに子供扱いして絡んできた少女に、思わずイラッとして、気がついたときには加減もせず、みぞおちに一発決めていた。

"だめだめぇ、女の子には優しくしないともてないぞぉ♪"

だが、相手は、キルアの抜き手を軽々と受け止めた。

そのまま、そっと手を握りしめられた時には、恐怖で顔が青ざめるのがわかった。自分の手を柔らかく握る小さな手は、死体のように青白く冷たい。思わず力任せに振りほどこうと手を引いたが、どれほど力をこめてもがこうが、ビクともしなかった。

間近に顔を寄せられて、思わずその目を覗き込んだとき、キルアはようやく気付いた。

どす黒く、奈落の底の様に濁りきった目玉。

キャンディと名乗ったバケモノは、口をニタニタと笑みの形にゆがめ、そこから伸びた舌がキルアの唇をなめ上げる。

顔を這い回る赤い舌の感触はあまりにも気持ち悪くておぞましい。だが、それ以上に、少女から立ち上ったあまりにも薄気味悪い気配にキルアは戦いた。

それは彼が誰よりも苦手としている男・・・一番上の兄に、あまりにも似ていたのだ。

世界は広い。怪物は、ほかにもいる。

それがキルアが家を出て、最初に覚えた教訓だった。

あれ以来、少女はべたべたとキルアに引っ付いて、何かとちょっかいをかけてくる。まるで年頃の少女のように甘い空気を放ちながら。

そのギャップに辟易しつ、完璧に弄ばれている自分に歯がみした。それでも、逃げる事も、立ち向かう事もできず、体は震えて動かない。

『勝てない敵とは戦うな』

それが、兄に叩き込まれた言葉だった。

「ん?・・・あらぁ、これはこれは・・・うひひひ」

不意に、それまで思うさまキルアを嬲っていたキャンディが、何かを感じ取ったかのように目を細めた。口元に手を寄せ、楽しそうにクスクスと笑う。

その顔が、一瞬だけ、ゾッとするような陰惨な笑みを浮かべた。

「・・・キルアきゅん、ちょ~~っとだけ、野暮用ができちゃった。すぐ戻ってくるけど、試験官から離れすぎちゃダメよ」

覆い被さるようにして引っ付いていたキルアを離すと、キャンディは明後日の方向に走り出した。

「すぐ戻ってくるからぁ。待っててね~~♪」

(・・・二度と戻ってくるな!!)

キルアの心の声は、如実に表情に表れていた。

やがて派手なピンクと黒のワンピースが、いつの間にか湧き出していた濃い霧の向こうに消えたとき、キルアは思わずよろめいた。

どっと疲れが襲ってきた気がする。いや、あの女がいなくなったおかけで気分は軽くなったし、心なしか頭がすっきりした気もするが・・・

隣に、少し後ろを走っていたゴンが並ぶ。

「大丈夫?」

あからさまにホッとした表情を浮かべたのがわかったのだろう。彼を気遣うゴンの表情が、何となくうれしかった。

同年代の子供が、自分以外にもハンター試験に参加していると知ったときには驚いたが、キャンディがいたせいで、まともに会話するのはこれが初めてだ。

「・・・ああ、ゴン、さっきあの眼鏡女が言ってたよな、ヒソカには近づくなって」

「うん」

「見た感じ、あの女も相当だったけどさ、不気味さで言えばヒソカよりキャンディの方が数段上だ」

実際、ヒソカはわかりやすい。あれは血を見たくてうずうずしている殺人狂だ。ある意味、キルアの同類と言えなくもないので、何となくシンパシーを感じる。

だが、あのキャンディにはキルアの一番上のアニキと同じ・・・いや、あるいはそれ以上のおぞましい何かを感じる。

「・・・わかるよ。俺もあの人には、絶対近づきたくない」

ゴンが、まじめな顔でうなずく。

キルアは知る由も無かったが、こう見えてゴンは自然環境の豊かに残る離島で暮らし、野生動物と交わって暮らしてきた野生児だ。

その生活の中で培われた、野生の勘とも言うべきものが、囁いていた。あの少女の形をしたものに、近づいてはならないと。

あのジェーンと名乗ったあの女性にも、ゴンは一種、危険な臭いを感じとっている。クジラ島で出会った時に、話をしてみたいと思ったのも、半分くらいはそれに興味を覚えたからだ。

だが、あのキャンディという少女の形をした"何か"や、ヒソカという男は違う。ジェーンが牙を隠した猛獣だとすれば、ヒソカやキャンディは人の皮を被った悪魔、そんな印象を受けた。

二人の少年は、額に汗をたらして、互いの顔を見合う。

「・・っといけない。先頭から大分離されてるぜ。ペース上げるぞ、ゴン!」

立ち止まって話をしているうちに、試験官からかなり話されている。

キルアは走る速度を上げた。ゴンもまた、キルアに遅れないようペースを上げだした。

「うん・・・あれ?レオリオとクラピカがいない?」

いつの間にか、やや後ろを走っていたはずの、二人の姿が消えている。さらに、その後ろにいたはずのジェーンに、ブリーフと名乗る覆面パンツの姿もない。

何か、いやな予感がした。

「・・!おい、ゴン!!」

「ごめん、先に行ってて!」

ゴンは、一人、濃霧の立ちこめる湿原を逆走しだした。
























Capter3 The TEST ep4
























霧の中に飛び込んだキャンディは、幾ばくもしないうちに、背後を振り返った。

そこには、体中に針のようなものをつきさしたモヒカンカットの男が一人。無表情にキャンディを見つめている。

「あ~~ら、何か釣れたと思えば・・・あなた、どなたですぅ?」

キャンディは小首を傾げた。

「・・・・・・・・・」

甘ったるい口調で喋る少女の問いかけを無視し、ギタラクルことイルミ・ゾルディックは、無言で両手をしならせた。

袖の下から音もなく手のひらに滑り落ちた鉄針を、間髪入れず、一息に放つ。念を込められた針は、無数の軌道を描いて、小柄な少女に迫った。

通常、この手の投擲武器の有効射程は7、8メートル程度と、弓や銃に比べてあまりに短い。だが、その威力は達人ともなれば大口径の拳銃に匹敵する上に、直線的な銃弾よりも軌道が読み辛い。

しかも、手首のスナップをきかせて投擲された針は、彼の一つ下の弟が作った特殊合金製。非常に強靱にできていて、見た目からは想像もできないほどに重量がある。幼い頃から修練を積み、操作系の念能力に目覚めたイルミの放つそれは、威力も射程も桁が違っていた。

・・・なのだが、

「はい、拍手~~♪」

キャンディの両手の指の間には、イルミが投げ付けた針が残らずつかみ取られていた。

ニタニタとあざけり笑いを浮かべる少女は、未だ健在。銀製のアクセサリーがちりばめられたゴスパンク系のワンピースにもほつれ一つ見当たらない。合金製の針が小さな手の中で、小枝のようにポキポキ折られ、その足元に散乱した。

そして、続く一言が、イルミの警戒心を決定的に高めた。

「弟くんが心配だったんですかぁ、お兄ちゃん?心配しなくともぉ、キルアきゅんはきっちり食べてあげますわぁ」

もちろん、性的な意味で。

キャンディは舌で唇をなめあげながら呟いた。その瞳は、隠しようもないほどに醜い欲情に濡れている。

それを見て、イルミの眉間に青筋が張り、握りしめられた拳がギリギリと音を立てた。

感情の無かった瞳には、今や殺意がみなぎっていた。相手の正体は、わからない。だが、こちらのことは確実にばれていると思ったほうがいいだろう。

故に、イルミの脳は極めて単純な思考を行った。

"わからない・・・なら殺す!"

わからないものは殺す。知っている事を全てを吐かせてから。

イルミのオーラが瞬時に様子見のそれから本気の殺意へと切り替わり、それを見たキャンディが小馬鹿にした風に鼻を鳴らす。

「わかりやすくて大変結構だわさ・・っとぉ!!」

背後から、いきなり加えられた鈍器の一撃を、キャンディはコミカルな動作で避けた。

さらに、飛びのいた先に突き出されたナイフを軽く摘むようにして受け止めると、ナイフを突き出した男の首を掴み、締め上げる。そこに、再び無数の針が飛来した。

キャンディは当然のように掴んだ男の体を前に押し出す。針は肉の盾を貫き、男はビクンビクンとのたうって絶命した。キャンディは出来立ての死体をゴミのように投げ捨てる。

ちょうどその時、霧の中から無数の影が現れた。

皆、一様に焦点の合っていない呆けた顔で、無機質にキャンディを取り囲み、手にした武器を構える男達。その頭部には、幾つもの針が突き刺さっていた。

胸にはプレート。全員が受験生だ。

「操作系ですぅ?」

キャンディは殴りかかってきた先頭の男と、その背後の男をすれ違いざまに拳で打ち抜いた。利き手を砕き、一瞬で無力化する。ついで、男達が転倒した隙にオマケとして両膝と左手首を踏み潰した。ボキリ、と嫌な音がして、関節が完膚無きまでに破壊される。男達は手足の関節を砕かれたために起き上がる事ができず、ジタバタとゾンビのように蠢いた。

操作精度は良くないが、この人数を同時に支配下に置いて操り、しかも本人は念をこめた針を使った遠距離攻撃を仕掛けてくる・・・まず間違いなく操作系に属する能力者だとキャンディは判断した。

強化系の能力に劣る操作系能力者の弱点を、遠距離攻撃に重点を置くことでうまくカバーしているのがいやらしい。しかも、人形達は、殺すか、最低でも手足を砕いて物理的に動けないようにしないと、痛みを無視して攻撃してくる。

そうやって観察している合間にも、針と人形は容赦なくキャンディに襲い掛かった。多数の人形が雑多に攻撃を繰り出しながら、さらに隙間を縫うようにして無数の針が投擲される。もちろん、キャンディは積極的に人形達を盾にして針を防いだ。

そういったやり取りが数合繰り返され、両者は互いに互いの力量を見て取った。

そして、同時に確信する。

((ああ、こいつは、本物だ・・!!))

男の一人が、両手を広げてキャンディに掴みかかってきた。後ろからさらに二人。

捨て身の同時攻撃。一瞬でもいいから、こちらの動きを止める気だ、と見抜いたその瞬間には、キャンディは上に跳んでいる。

同時に、四方から針が襲う。身動きの取れない空中、針は狙い違わずキャンディの全身に命中。盛大に血しぶきが舞い、ピンクと黒のサイケデリックな衣装が赤いマダラに染まった。

「・・・!!」

キャンディはふらつきながら着地すると、自らに突き立った針を忌々しそうに引き抜いた。

その目が、針が直撃して歪に変形してしまった銀十字のチャームに注がれると、初めて不機嫌そうに細められる。血管の浮き出た手でチェーンから引きちぎり、グシャグシャに握りつぶした。

「クロムの新作だったのになぁ・・・」

同時に、どす黒いオーラが、キャンディの全身から吹き出した。それは見るからに邪悪な意図に溢れ、イルミ自身のオーラと比べてもなお暗くおぞましい。

キャンディが右腕を真上に掲げると、見る間にその腕が数倍にも膨れ上がった。

腕の筋肉が瞬く間に異常発達し、細く青白いかったそれが、彼女自身のウエストよりも太く、節くれだったものへと変わっていく。それほど尋常ならざる変形をしながら、右腕以外の部分は元の少女の形が保たれていた。まるで小柄な少女の体の右腕だけを、巨人のそれに付け替えたかのようだった。

生物としてのバランスが、明らかにおかしい。本来なら肉体全体のバランスを崩すほどの歪な異形にも関わらず、少女は何でもないことのように丸太のような巨腕をブンブンと振り回している。漲るオーラも、先ほどまでとは完全に別物だ。

イルミが叩き込まれた技の中にも、自らの肉体を操作し、例えば爪をナイフのように鋭く尖らせるといった技法がある。だが、少女が目の前で見せた現象は、明らかに一時的な肉体強化の範疇を越えていた。

(・・・オーラを集中して、一時的に筋肉を活性化した?・・・いや、強化系か?)

次の瞬間、目にもとまらぬスピードで、拳の一撃がイルミの視界に飛び込んできた。

「・・・・!!!」

咄嗟に、人形どもを前に押し出して、盾にする。イルミが正面に飛び込ませた、スキンヘッドの受験生がその直撃を受けた。

男は、内臓を口から吐き出しながら、まるでホームランボールのように風を切って霧の彼方に消えていく。さらに、その左右にいた男達も、あおりを食って数十メートルほど大地と平行に吹き飛ばされた。人形タチは全員が倒れ伏したまま、起き上がってくる気配はない。完全に壊れてしまったようだ。

寸前まで立っていた大地が、爆発するように吹き飛んでいるのを見て、イルミは嫌な汗をかいた。軽く掠めただけの左腕が、痺れきっていて動かない。

ゆっくりとこちらを振り返ったキャンディの腕は、もう元の細さを取り戻している。

僅かに冷や汗をかいたイルミを見て、キャンディは心底楽し気な笑みを浮かべると、懐から何か小さなものを取り出した。

「さて、お坊ちゃん。これな~~んだ?」

それを人差し指と親指でつまみ、イルミに見せ付ける。その正体を察したとき、イルミの顔色が、目に見えて変わった。

「・・・やっぱり。キルアの坊やにコレ埋め込んだのは、おめーだな?込められたオーラが良く似てっから、そうじゃないかと思ったぜぇ」

縫い針程度の大きさの、極めて細く小さな、針。イルミがキルアに仕込んでいたものだった。

初めて、あっけにとられて呆然としたマヌケ面を晒したイルミを見て、キャンディは溜飲を下げたようにクツクツと笑った。

「"操作系殺し"としちゃあ、使い古された手だね。効果としちゃあ、深層心理に何かの暗示をかけるか、さもなきゃ記憶操作ってとこかぁ?」

操作系の能力が、どれほどえげつないものかは、イルミ自身が誰よりもよく良く知っている。何せ、彼自身がそういうの力の持ち主だ。

体を操作され、自殺させられるくらいなら、まだマシだ。一度操作されてしまったら、どれほどおぞましい行為を強制させられるか、知れたものではない。そんな能力に、何より大事な弟が晒されるなど、考えたくもない。だから、イルミはキルアが家の外に出て、家業に携わるようになった頃から、あの針を埋め込んでいた。

その効果はゾルディックの外に漏れると不都合な記憶を消し、キルアに自身より強いものと戦わないよう、暗示をかけること。

記憶の封印は、念を覚えていない弟を外部に出す以上、必要不可欠な措置だ。特に、あの『ナニカ』については、何があろうと絶対に外部の人間に漏れてはならない。そのためには、こうするのが最善だった。

例えキルアが拷問に対する訓練を積んでいたところで、自白させる念の持ち主がいれば、必要なことを聞き出すのに拷問の必要すらない。だが、本人が知らないものは吐きようが無い。何も知らないということそのものが、結局は弟の身を守ることに繋がる。

さらに暗示を植えつけることで、キルアが念能力者と対峙するリスクを減らすことができる。

既にキルアの強さは相手が念能力者でさえなければ、どんな相手でも一蹴できるレベルにある。自分より強いものとは戦わない、という条件で暗示を仕掛けておけば、まず念能力者と戦うようなことにはならないだろう。

そして、こうやってイルミ自身の操作系能力の対象にとっておくこと、それがある意味では何より重要だ。操作系の能力は早いもの勝ち。既に他の操作系の能力の対象となっているものを、他の能力者が操る事はできない。

それが、未だ念の存在を知らされていない弟に、彼がしてやれる最大の防御策であり、愛情だった。

「あたしも別に趣味だけで、キルアの坊やに引っ付いてたわけじゃないんだなぁ、これが。この程度の小細工を見抜くだけの時間は、十分にあったわさ」

その針が、この女の手の中にある、ということは・・・!!!

「ケケケ、この針が抜かれたってことはぁ、キルアきゅんはもうあんたの能力の対象外ってこと。この意味、わかるよねぇ?」

イルミは、およそ考えられる限り最悪の想像をした。

「さて、あたしも他人に念をかけるタイプの能力を持ってる。弟君にはすでに能力を仕掛けた。もう、いつでも殺せる。・・・つったら、どうよ?」

キャンディは指先で針を弄びながら、これ以上無いくらいに、悪意のこもった笑みを浮かべて嘲笑う。

その一言を聞いたとき、イルミの頭からあらゆる疑問と焦燥が、残らず消し飛んだ。

「ンなことしたら、お前を殺すよ!!」

思わず、地の声が漏れた。

ドス黒いオーラを全身から噴出し、凄まじい形相で怒鳴りつけるイルミ。

常人なら、それだけで気をやられ、運が悪ければ即死するほどの殺気が辺りに満ちる。

殺気に当てられて、数キロ圏内にいた生物は、一斉に逃げ出した。ヌメーレ湿原に生息する危険生物達が、ただ一人の人間の放つ殺意と敵意に怯え、我先に散っていく。

だが、その常軌を逸した殺意の嵐に晒されながらも、キャンディは上機嫌な様子でイルミに指を突きつけ、さも面白いとばかりに爆笑した。

「プギャー、ッヒャヒャヒャヒャwwwwwこいつぁケッサクですぅー!!・・・人質が有効だって自分から言ってるようなもんじゃねーか、ばーか。交渉ってーものがわかってないねえ、ヒヒヒ。さて、あちらをご覧くださぁい!」

キャンディが、細い指で指し示した先には、うめき声を上げて立ち上がろうとする一人の男。

先ほどまで、イルミの操り人形だった男。だが男の頭部に刺さっていたはずの針は、一本も無い。先ほどの仕掛けた際に、キャンディの手ですれ違いざまに引き抜かれていた。

男は怯えきっていた。

イルミの能力から開放された途端、卓越した念能力者二人分の殺気に晒されたのだ。本選にまで残った受験生とはいえ、その恐怖は筆舌に尽くしがたいものがある。

「ひィぃいいいいい!!!!」

涙と鼻水、さらに股間から小便を垂れ流し、男は発狂一歩手前の形相で逃げ出した。いや、正確には逃げ出そうとした。だが、実際には砕かれた手足をジタバタ動かし、イモムシのようにのたくるだけだった。

キャンディは男を見下ろすと、可愛らしくニコっと笑った。

同時に、パチン、と指を鳴らす。途端に、男が胸を押さえて苦しみだした。そのまま10秒ほど胸元をかきむしってもがいた挙句、やがて白目をむいて動かなくなる。

その一部始終を、二人は見守った。

「とまあ、こんな感じでお手軽に心臓止めてみました♪」

ニィっと口元を歪ませ、キャンディは悪魔の笑みを浮かべた。

「さあさあ、弟君にはどんな死に様をお望みかしらぁ?」

少女の形をした悪魔は、イルミの神経を出来るだけ逆撫でするよう、これ以上無いくらい甘ったるい猫撫で声でそう嘯く。その緋色の瞳には、他者を見下す愉悦がうかんでいた。

イルミは苦悩と共に確信した。

もし、この女がたった今実演して見せたように、遠隔で人を殺せる能力を持っているのだとすれば・・・・これ以上自分が何か仕掛ければ、相手の性格からして、あっさりキルアを殺すだろう。恐らく、そういう趣味の持ち主だ。

「大事な大事な弟君、惨殺?撲殺?最近流行の硫酸浣腸なんてのもオツだわさ。腸が焼け爛れて絶対助からないのに、死ぬまで時間が掛かるから無残無残♪それとも、シンプルに窒息死なんてのもどうよ?美少年がクソ小便漏らしながら、もがき苦しんで死ぬなんて、もう想像しただけでイっちゃいそう!!」

口角から涎をたらして、キャンディは欲望に濡れた眼を虚空に彷徨わせて笑う。

弟を相手にどんな妄想をしているのやら、イルミは想像する気にもならなかった。重要なのはこの女がその想像を現実にする前に殺す事だ。

このふざけた仕草すら、恐らくはただのブラフ。そうやってわざとイルミの怒りに油を注ぎ、楽しんでいるのだ。思わず、反吐が出そうになった。

「それでも、やりますぅ?」

反射的にその顔面に針を叩き込もうとして、震える腕をイルミは気力で押さえつけた。

最悪な事に、この相手は(正体不明の即死能力を別にしたとしても)イルミが本気でかかっても殺せるかどうかわからない程の力量を備えている。

少なくとも、相手に能力を使わせる前に息の根を止めるのは不可能に近い。いや、仮に奇跡的に殺せたとしても、こういう手合いを下手に殺すと、死の瞬間に生じる死者の念がその執着対象に振り向けられる事になる。念を覚えていないキルアでは、その怨念には耐えられない。

そこまで考えが及んだとき、生まれて初めて、イルミは純粋な恐怖に襲われた。そんな相手の手のうちに、何より大事な弟が囚われている。

これまでイルミは仕事の都合で、標的の家族を人質にとる事はあっても、逆に家族を人質をとられた経験は一度もない。

それはそうだ。彼の家族は、ほとんどが彼自身と同じかそれ以上に強い。未だ非力な弟達や、イルミに比べると技量の落ちる母親などは、基本的に厳重に警備された屋敷の中から出ることが無い。

こういう事態に対応するためのロジックが、イルミには致命的に欠如していた。

『勝てない相手とは戦うな』

それは、イルミ自身が、弟に口がすっぱくなるほどに繰り返し教え込んだ言葉。暗殺者としての彼自身の哲学でもある。だから、これまでイルミは自分より強い相手と戦う依頼は受けていない。

それが、イルミにとっての不運だ。

彼は自分より狡猾で、卑劣で、悪辣で、邪悪な人間との交戦経験が、極端に少ない。やりあった事があったとしても、それは全て格下。実力的に、問題にはならなかった。これまでは。

勝てない相手と戦わない。それは暗殺者にとっては、理にかなった考え方だ。だが、その前提から一歩ふみ出さざるをえなくなった時、途端に脆さを露呈する。

「へえ、他人を平気で捨て駒にする男でも、家族は大事なんだね・・・意外だったわ、マジで」

イルミの表情やオーラから、心中の変化を読んだのだろう。キャンディは、心底意外だとばかりに目を軽く見開いている。

「まあ、それならそれで、あたしとしちゃ話が楽ねえ。で、大事な事だからもう一回言ったげるけどさあ・・・」

ポリポリと頭をかきながら、キャンディは親指と中指をすり合わせ、いつでも指先をはじけるように構えた。

「言うまでも無く、これ脅迫だから。あんたがあたしの言う事聞くっつーならよぉ、考えてやってもいいぜぇ?」

そこまで言うと、不意に、キャンディは背後に跳躍した。

どうすべきか、思考に囚われていたイルミは、それに反応するのが一歩遅れた。その隙に、キャンディはもう霧の中へと消えている。

「時間やっからよぅ、よーく頭冷やして考えなぁ~~」

しまった、と思ったときには、もうキャンディの気配すらもその場から失せている。

「くっくくくっくくくくく、ひーっひひっひひひゃひゃひゃひゃひゃ!!!」

不気味な高笑いをこだまさせ、悪魔は霧の彼方に消えていく。

後に残された男は、声にならない悲鳴を上げた。その拳の間からは、夥しい血が零れ落ち、湿原の泥に吸われていった。






















同時刻。

「やるねボウヤ?」

ゴンの目の前に、怪物がいた。

「釣竿?おもしろい武器だね?ちょっと見せてよ?」

身構えるゴンに、ヒソカは気安げに歩み寄る。

きっかけは何かと言えば、はぐれた仲間を追った自分だろう。だが、何故こんな状況になっているのかと言われれば、正直言ってわからない。ただ、運が悪かったのかと思わないでもない。

霧の中、特徴的なのコロンの香りを頼りに、ゴンがレオリオ達を見つけたとき、既に辺りは血の海と化していた。

『君達まとめて、これ一枚で十分かな?』

トランプを手にしたヒソカの一言が、惨劇の始まりだ。

薄紙の刃が煌めく度に、人体が宙に舞い、血の雨が降って濃霧を赤く染めあげる。その装束にすら一滴の返り血も浴びることなく、道化師は舞い、踊った。

地を這うような跳躍を繰り返して標的へと接近し、影が駆け抜けた後には、急所を切り裂かれた無残な死体が残るのみ。気が付いたときには、二十人からいた受験生達は草葉の露と成り果てて、湿原の泥に埋もれている。

大抵の死体は、衣服に守られていない首筋にトランプを潜り込ませられるか、頭部そのものを断ち割られていた。首をやられた人体は、心臓の強靭な圧力で大量の血を体外に押し出す。溢れでた血が地面のぬかるみに混ざり、ヘドロを紅く染めていった。死体の上に無数の鳥が舞い降り、思いがけない御馳走に舌鼓を打ち、不気味な鳴き声を上げた。

その一部始終を、ゴンは見届けた。

大量の鉄の臭いが鼻を突き、正直、頭がどうにかなりそうだった。ゴンは無意識のうちに気配を消し、地面に伏せて、息を潜めた。

視界の先で、真正面からヒソカに飛び掛るレオリオ。余裕の笑みで腕を振り上げるヒソカ。

瞬間、もうゴンは釣竿を振りかざして飛び出していた。



・・・そして、気が付けば喉元に腕を差し込まれ、ヒソカに顔を覗き込まれている。

「仲間を助けにきたのかい?いいコだね~~~♣」

ゴンは見た。

楽しみで殺す人間の眼。

刹那的な快楽のために人を殺す人間の眼。

それは、ゴンが今まで出あったことの無い、奇妙で底の知れない生き物だった。

しばし、何かを確かめるようにゴンを見つめるヒソカだったが、やがて納得がいったのか、にこりと優しげに微笑んだ。意外なほどに毒の無い笑顔に、思わずゴンは唾を飲み込む。

首を掴まれていた腕を解かれ、ゴンは数歩後ずさった。

ヒソカが口を開いて、何事か呟こうとした、そのときだ。

パンと虚空に乾いた音が二度響きわたった。

「FREEZE!!」

さらなる乱入者が、飛び込んできた。

二人が振りかえると、頭部に黒いゴーグルをかけた女、ジェーンが両手で銃を構えている。ダブルタップで放たれた二条の弾丸は、咄嗟に身を翻したヒソカの顔面を僅かにそれて、その頬に僅かに火傷の跡を作っていた。

その背後には仮面をかぶったブリーフ一丁の男が眼を見開き、唖然とした表情で女を凝視していた。








「・・・確立二分の一でハズレ。相変らず運が無いな、わたしは。・・・こんなことならケチらず個別識別タイプにしとくんだった」

でも高いからなぁ、と女はバイザーを額に押し上げながらぼやいた。

もちろんゴンには何のことだか分からない。ゴンが理解できたのは、自分が窮地を脱したということだけだ。

「おいィ!!!?ナンデじゃああああ!!なして撃った?!!」

「動くな!」と警告しながら、いきなり問答無用で銃弾をぶち込むという暴挙に及んだ女に、海パンが突っ込んだ。

この野蛮人に、まずは穏便に話し合うとか、そういう平和的な思考はないものだろうか。

「つい、癖でね。アホが死体の山こさえてたら、四の五言う前に撃てって警察学校で叩き込まれたんですよ」

どちらかというと、それはもう獣の習性に近いだろうと、さらに突っ込む余裕は海パンにはなかった。女は冷えた目でヒソカを睥睨し、銃口を向け続けている。ヒソカが動いたら、まず間違いなく次弾を発砲する気だ。

女は視線をヒソカに向けたまま、気絶しているらしきレオリオへ顎をしゃくった。

「ゴン、レオリオを担いで逃げなさい」

有無を言わせぬ口調だった。

「え?・・・でも!」

「早くしろ!任せられるから、任せてる!!」

「!―――わかった!!」

ようやくゴンは頷くと気絶したままのレオリオを担ぎ上げ、一目散に霧の向こうへと走り去る。

「・・・まったく、動かしづらい餓鬼だ」

女はそう舌打ちをすると、改めて周囲を観察した。

地面に散乱する、無数の死体。その頭部、胸部、あるいは頸部には、トランプが深々と突き刺さっている。

凝で見ても、何の変哲もない紙製のトランプだ。これが人通りの多い場所だったら、いずれ警察が現場検証をする事になるだろうが、これが複数の人間を惨殺した凶器だとは誰も思うまい。十中八九、別の凶器で殺害された人間の傷口に、後からトランプを押し込んだのだと錯覚するだろう。

結果、現場は混乱し、捜査はかく乱され、単なる猟奇犯罪として処理される。これが、念能力者のタチの悪さだ。

女が口元に獰猛な笑みを形作り、ヒソカが威嚇するように喉を鳴らす。

それを見ていた海パンは「恐ろしい事になった」とでも言うように顔を引きつらせた。

"身を固めて少しは落ち着いたかと思ったら・・・!!"

もちろん、こんなキチガイどもの乱闘に巻き込まれては堪らない。我関せずと気配を消して、静観を決め込もうとしたのだが・・・

「う~~ん、彼は合格だったから、別にいいんだけどねえ♦・・・まあ、いいや。ついでに君"達"も審査してあげるよ♥」

「ちょ、"達"って僕もかよ?!!」

思わず"素"をもらして絶叫した。

「早速、状況が折り合いましたね。よろしく頼みますよ、相方さん」

その原因を作ったのは自分だろうに、女はいけしゃあしゃあと嘯きながらすごくいい笑顔で笑っている。

死んだ魚のようだった眼は銃を手にした時から生き生きと輝きだしており、こちらへ向けられた鋭い視線が「逃げやがったら、ただじゃおかねー」と極めて如実に語っているので、海パンは頭を抱えた。

これで新婚1ヶ月も経っていない人妻だというのだから、何かが激しく間違っている。

「ちょ、いや、ノーカン!!ノーカンで御座る!!」

ヒソカは舌なめずりをしながら狂気の笑みを浮かべるだけだ。どう見てもやる気満々である。

「諦めろ。・・・こいつ、やる気だ!!」

女がバイザーを下げると、モノアイが再び点灯する。能力者と高速でやりあうには、裸眼の方が有利だろに、といぶかしむ海パンを余所に、女は9mm弾を驟雨の如く浴びせかけた。

強力な念能力者が銃撃に晒された場合、稀に見られる非常識な対応が三つある。銃弾を避けるか、防ぐか、あるいは何らかの能力を使用するかだ。

ヒソカの対応は、前者だった。地面に貼り付くような低姿勢を保ったまま、卓越した動体視力で弾丸の到達方向を見切り、予測線の上に体が重ならないよう動く。

一般的な9mm弾の場合、銃弾の速度は秒速360m程度。音速で飛翔する金属が数メートルの距離から放たれて、避けられるわけがない。だが、鍛えられた念能力者というのは、しばしばこの一般的な見解を無視した行動を可能とする。

人間は銃弾を放つ際、引き金を引き、標的を殺すという意思を持つ。その信号、殺気の膨らみをオーラを通して察知、攻撃のタイミングと到達地点を素早く割り出し、身をかわす。それが、あたかも銃弾そのものを避けているかのように常人は錯覚してしまう。

だが、撃つ側もまた能力者の場合、結果は見事に逆転する。

「・・・!!」

弾丸はヒソカへ立て続けに命中し、皮膚が破け、血がが弾け飛んだ。

ヒソカは体を捩って背後へと身を躍らせ、距離をとる。それでも射線は外れず、弾丸は正確無比にヒソカ目掛けて着弾し続けた。

動体視力、認識力、判断処理能力が互角なら、単純に動作の素早さが状況の結果を左右する。そして、拳銃という武器は狙いを付けてしまえば、後は引き金を引くだけで事足りるのだ。

しかし、

(9mmがまるで豆鉄砲・・・化物め!)

弾丸はヒソカの皮膚に着弾し、表面を抉ったが、決定打には程遠い。9mmのホローポイント弾では相手の筋肉を貫通できないようだ。そう観察する間にもさらに続けて二発撃ち、弾倉に残った残弾は4。

火線を絶やさぬまま、女は片手撃ちに切り替えた。重心が切り替わり、バランサーと照準の役目を兼ねた腕が2本から1本に減り、発射の衝撃がより強力に体を襲う。

それでも、鋼管に指紋が残るほどの握力で掴まれた強化ポリマー製のストックは微動だにもせず、次の瞬間にはヒソカのコメカミに一発の命中弾を生み出した。不機嫌そうなヒソカの瞳を無表情に見返したときには、既に背中のホルスターから愛用の銃を取り出している。

瞬時に引き金が引かれ、硝煙が銃口から噴出した。

「ッ―――!!」

火を噴いたのは、ヨークシン市警の標準装備、12ゲージのショットガン。女が撃ち放ったのは、銃身を短く切り詰めたソードオフスタイルだ。有効射程は短いが、閉所で取り回しやすく携帯しやすい。

弾種は、熊撃ち用のスラッグ弾。高威力の銃弾が一条、ヒソカに迫った。

結局の所、戦闘の趨勢を決めるのは火力と鉄量だ、というのがジェーンと名乗る女の哲学だ。現役時代に"ミンチ製造機"と呼ばれた女デカは、何の感情も含まない視線をヒソカに向け、機械のような無機質さで引き金を弾き絞る。

対して、ヒソカは一枚のトランプを翳した。

念を通し、同じ薄さの鉄板程度の硬度を得た紙切れは、「キンッ!」と甲高い音を響かせて金属の矢を弾き返す。オーラを一箇所に集中させる"凝"と、集めたオーラを物体に纏わせる"周"。高度な技術を苦も無く使いこなすヒソカの技量は卓越していた。

その合間にも、さらに二度三度と響く発砲音。

ヒソカの掌に収まる一枚の紙っぺらは、武器に頼る女をあざ笑うかのように硬質な音を響かせ、二の矢、三の矢をあさっての方向に弾き飛ばす。その合間も突進を止めてはいない。ヒソカと女の距離は、もう後一歩にまで縮まっている。

だが、続く4発目が発射された時、思わずヒソカは目を見張っていた。

銃口から瞬時に赤い閃光が走り、コレまでとは比べ物にならない大音響が鳴り響く。なぜならば、女がマガジンの4発目に意図的に仕込んだ弾丸は、炸薬も弾頭も、一般規格から完全に外れた特注品。初速も威力も桁が違う。

4(死)の語呂合わせは伊達ではない。ライフルの連射に眼が慣れた、絶妙のタイミングで放たれる、正面からの奇襲。

ヒソカは身をよじった。完全にかわせない事はわかっていたが、もう能力を発動させるのに集中している暇は無かった。そして・・・

「・・・特注弾ってわけかい?」

頬をザックリと抉られたヒソカが、狂気の笑みを浮かべた。裂かれた頬から、白い歯が僅かにのぞいている。

女は気にせず銃口を下げ、炸裂音を続けざまに引き起こした。銃が小刻みに揺れ、白い煙と火花を吐き出す。銃口から飛び出たのは、無数のペレットだった。

ソードオフのショットガンには、銃口付近のチョークが無い。必然、発射直後に散弾の拡散が始まる。拡散した散弾が実際にどの様な軌道を描くかは、射手自身にすら予測不能。しかも拡散範囲が広く、有効射程は短い。故に、至近距離では凶悪な殺傷力を持っている。

1発目から続いた単発攻撃、しかも4発目に仕込まれた強壮弾の脅威を凌いだ者であれば、思わずオーラを集中させ、"凝"ないしは"硬"で防ごうと、無意識のうちに身構える。その意識の隙を付く形で繰り出される、面単位の攻撃。

だが、実際のところ、この散弾一発一発の威力は、先のライフル弾に比べればやや低い。だが、被弾面積が格段に広く、マンストッピングパワーに優れているた。

これで相手が全身にオーラを散らし、"凝"や"硬"の防御を解かせた上で、本命の第六発、貫通力に勝るフレシェットでトドメをさすのが女の必勝法だった。このジェーンを名乗る女は、とにかく能力者の意識の裏をかくことに、何よりも長けている。

そして、無数の金属ペレットが眼前に迫ったとき、初めてヒソカが能力らしきものを発動した。

「それだけじゃ、合格ラインには遠いよ・・!!」

突如、弾の動きが止まった。

見えない壁に当たったかのように、鉛の散弾が中空で静止している。いつのまにか、ヒソカが両腕を広げ、その間に展開されたオーラの塊が、銃弾を残らず受け止めていた。

(オーラで受け止めた!!変化系・・・ジェル、粘土、いやゴムか?!!)

オーラの塊は弾を取り込み、後ろに引き伸ばされながらその威力を削いでいく。よく噛まれたチューインガムのように伸びきったオーラは、その実、ゴムの性質を併せ持ち、強力な反作用を内側に溜め込みながら、激発の時を待っていた。

ヒソカの能力『縮自在の愛(バンジーガム)』。オーラをガムとゴムの性質を持たせる能力。良く伸び、伸びたぶんだけ良く縮む。しかも、付けるもはがすも自由自在。使い方は千差万別、使い手の発想次第で無限の応用力を発揮する。

やがて、弾の直進する作用と、ゴムの反発力によるせめぎあいがピークを超えたとき、"伸縮自在の愛(バンジーガム)"は、ペレットを発射されたのと同じだけの力で、射手自身に投げ返した。

刹那、女は勘に従って横にとんだ。

寸前まで自身のいた位置を散弾が横切っていき、完全に避けきった次の瞬間には、ヒソカが眼前に迫っている。両脇を締めた小さな構えだ。ヒソカは小刻みな一歩と共に、トランプを握った片手を打ち出した。

横にかわすには体格に差がある。彼女は女性としては大柄だが、ヒソカに比べると頭一つ分小さい。腕も足もリーチで劣る。かといって、さらに後ろに引いたところで、突進の加速力を得ているヒソカのほうが速度で勝る。

一瞬の躊躇が、女の判断を鈍らせた。

その隙にヒソカは懐に飛び込み、トランプを閃かせた。狙いは、人体の急所の一つ、首筋だ。

しかも、悪辣な事にヒソカは右手で掴んだトランプを差し出す一方で、左の手に新たなトランプを隠し持っている。その左の刃は後詰めに控える一方、万一外した所で二の太刀で即座に首を狙える位置にあった。

「チィ・・!」

女は右のトランプを、右手に持っていた弾切れの拳銃で弾いた。トランプは強化ポリマーと金属複合のフレームに半ばまでめり込み、スクラップに変える。

ついで、即座に左のトランプが繰り出された。その軌道は、女自身の体とヒソカの重なり合う間隙を縫い、眼前に迫るまで女自身には感知し得ない位置にある。

「あっ」と右の刃を迎撃した女の目が見開かれる。そして、咄嗟にショットガンを投げ捨て、トランプの軌道に左腕を差し出した。

女がスーツの下に着込んでいるインナーはケブラー繊維を縫い合わせた防刃仕様。だが、スピードを殺されるのを嫌って、さほど厚さも頑丈さも期待できる代物ではない。そのまま女の左前腕部は、切り飛ばされるかと思われたが・・・

「?!」

キン、と硬質な音が鳴り、今度はヒソカの眼が見開かれた。

瞬間、接触部からオレンジ色の火花が上がる。トランプの先から伝わってきたのは、柔らかな肉を切り裂く感触ではなく、硬質の金属とカチ合ったそれ。

服の裾を切り裂くようにして、現れたのは一本のナイフだった。

刃のそりのややきつい、独特の形状をしたナイフ。それを逆手に構え、女が振るった一撃は、一瞬早く飛び退ったヒソカのトランプを、切り口も鮮やかに真っ二つに裂いている。

ヒソカは、思わず口笛を吹いた。

それは、かつて彼女と殺し合い、だが最後には彼女を守って逝った一人の男が、死ぬ間際まで携えていた武器の成れの果て。折れ、曲がり、焼き焦がされ、無数の刃こぼれを生じさせつつも、後に残された一振りの日本刀。その残骸から打ち直された一振りのナイフには、かつての持ち手の念が宿っている。

刃に込められたオーラは薄く鋭く、半透明。高速で振るわれれば、誰がその正体に気付けることだろう。実体の刀身に薄くまとわりつくようにして形成されたオーラの刃は、薄さにして僅かに分子一つ分。

この世で最も鋭利な刃を、女は静かに構えた。

「ナイフ相手にもよくやる・・・よほど"トランプ遊び(gin rummy)"がお好きなようで」

揶揄するように嘲り、ガラクタになった右の拳銃を捨てる。

幾多の戦乱を乗り越えて磨り減ったナイフのグリップは、既に体の一部となっている。自然体で構える姿は、堂に入っていて、一朝一夕で身に付くものではなかった。

「すくなくとも下手な銃弾より、ずっと役にたってるんじゃないかな?覚えときなよ、奇術師がトランプを手にしたら、出来ない事は何もないの♠」

今度はナイフを使った近接格闘か、と。妙な興奮に支配されたヒソカは、新たなトランプを取り出し、念をこめる。

その手に握られたのは、スペードのエース。

「マジシャン?ハハ、道化の間違いだろう」


―――が、ヒソカの期待は一瞬で裏切られた。


相手にかける言葉すらもフェイクの一つ。女は挑発的な台詞でヒソカの注意を左のナイフに向けさせつつ、右手の袖から滑り落とした新たな武器を掌の中に納めていた。

それは、側面に小さな穴が均等に開いた、黒い円筒形の物体。

女はニッと笑いながら、片手で手榴弾のピンを引き抜いた。

「自爆っ!?」

目の前に投げ出されたそれを目にしたとき、ヒソカがそう思ったのも無理は無い。この距離で手榴弾を使うなんて、どうかしている。遮蔽物は無く、このままでは女自身も鉄の嵐に巻き込まれる。

オーラに包まれたそれが、視界の隅で地面に落下するのを、ヒソカは"凝"で捕らえつつ、全力で防御に廻った。手榴弾一個程度なら、耐えられないこともない。"手札"はまだ温存する・・・結果的に、その判断が仇となった。

信管の遅延時間は約1秒。プラスチック製の容器に収められたアルミ粒子の粉塵と過塩素酸カリウムが瞬間的に発火する。直後、100万カンデラを超える閃光と、200デシベルの爆音が響き渡り、ヒソカの五感を直撃した。

「っぎゃ!!」

すこし離れたところで成り行きを見守っていた海パンが、両耳を押さえて悶絶した。

ちなみに、彼は爆心地から10メートルほど離れている。にもかかわらず、この有様。もちろん、直近で炸裂したヒソカは、それだけでは済まない。

「っぐ!!!」

瞬時に目蓋を閉じ、手を翳したところで既に遅く、強烈な光は網膜に緑色の残像を残して、その機能を奪った。通常、この手のフラッシュバンは相手を傷つけず無力化できるよう、あえて威力を落としているものだが、女の"能力"で威力を増強されたそれは、ヒソカの鼓膜を直撃し三半規管を麻痺させた。

すべてが光に飲み込まれた中で、唯一、その実行者だけが即座に状況を利用する。

発光より一瞬早く、女が頭部に装着したゴーグルからモノアイが消え、対閃光防御に切り替わっていた。耳には最初の発砲前から、イヤープラグを詰められている。

女はコンマ一秒のタイムラグすらなく、ヒソカに飛び掛った。

トドメに選んだのは、より確実な接近しての一撃。この世で最も鋭利な刃物が、空を裂いてヒソカに迫る。だが・・・

「?!!」 

刹那の後、女のナイフは空を切る。

慌てて周囲を見渡せば、距離を隔て、悠然とこちらを佇むヒソカの姿がある。

焦点を結ばず収縮を繰り返す瞳孔に、両の耳から垂れ落ちる血痕。体はバランスを崩したように奇妙に揺らぎ、未だ回復しきっていないのが一目でわかる。

スタングレネードを何の防御策も為しに、直近で受けてはいくら念能力者といえどもダメージは深刻だ。その状態で、女の繰り出すナイフよりも素早く動けるはずが無い。

ところが、実際にヒソカは一瞬のうちに、十メートル以上の間合いを開けている。

身体能力を強化して、あてずっぽうに飛んだにしては、妙だった。足元は柔らかい泥、これで踏ん張りがきくわけがない。

女は一瞬前までヒソカが立っていた場所を見た。ヒソカと自分自身の足跡がいくつも残っている。だが、そのいずれにも、急激な力が加わった痕跡が見受けられない。

(瞬間移動?・・・いや、慣性力を発生させるとか・・・操作系か具現化系・・・あの妙に拘っていたトランプが能力のキーなのか?先の能力とは別物か・・・?)

相手の能力がどんなものか、とっさに考えた付いただけでも、これだけの選択肢が脳裏に浮かぶ。いずれの考察にも穴があり、決定打にはかけていた。能力者との戦闘は、これがあるからいやらしい。馬鹿正直に自分の手の内を晒す馬鹿はそういないのだ。

ヒソカが背後に背負った一本の木と彼の胴回りが、ほんの一瞬前まで、極めて伸縮性の高いオーラで結ばれていたことには、流石の女も気付けなかった。

「チャンスじゃないか、こないのかい?」

思わず躊躇した女に向けて、ヒソカが右手をくいっと上げる。

「なら、そっちから来て貰おうかな♥」

ヒソカがニタリと不気味な笑みを浮かべた瞬間、女の体が強引に引き寄せられた。

「?!!」

咄嗟に女は"凝"を使った。"陰"で気配を殺された弾力のあるオーラが自らの左腕と、ヒソカをつないでいる。それは、先ほど切り結んだ際に、ヒソカの残した置き土産だった。

しまった、と思ったときには、もう遅い。

ゴムのような収縮力をもったオーラによって、すさまじい力でヒソカの方に引き寄せられていた。こうやって女の方から引き寄せられてしまえば、目が見えていようがいまいが関係ない。

バランスを崩され、たたらを踏んだ女と、一撃のために力を溜めて待っていたヒソカ。

ヒソカが手にしたスペードのエースが、眼前に迫った。

「舐めるなッ!!」


―――そのときにはまた、女も自らの能力を使っていた。


トランプが体に届く寸前、女の全身からロケットエンジンのような高温、高圧のガスが吹き上がり、強烈な推進力を生んだ。それはヒソカのバンジーガムの収縮力を超えて、女の体を無理やりに引き戻す。

必然的に、オーラの一端を握っていたヒソカにも、同じだけの加重が加わった。

「―――!!」

咄嗟にヒソカは女と自らの体をつないでいたバンジーガムを手放した。

これ以上は、自らのオーラに右腕を持っていかれそうだったからだ。無論、ただ手放したわけではない。手放す直前に、右手に構えていたトランプに長く伸びたオーラの一端を貼り付けている。

自然とトランプはオーラを貼り付けられたもう一端、女の左腕に吸い込まれた。

「痛ぅ!!」

女は、その場に片膝をつき、荒い息を吐いた。トランプに裂かれた右の傷はそう深くない。インナーのおかげで、出血も内輪だ。

むしろ、自らの能力行使の反動が、全身を襲っていた。

起爆物質に変化させたオーラを推進剤替わりにし、全力噴射させた回避機動。その移動速度は一瞬で相対速度2000m/sを突破し、女の体を無理やり超音速で動かした。その結果、ゴムの収縮力を強引に引き戻し、難を逃れたのだ。

だが、体をオーラで強化できる念能力者とはいえ、あまり無茶をすれば肉体の許容限界を超えて、多大な負荷がかかる。

横軸ベクトルへの急激な機動は、女の体液を強烈な慣性力で一方へと押しやっていた。片眼は毛細血管の破裂で真っ赤に染まり、一時的に視力を失いつつある。何より、血液の偏りで頭が朦朧としていた。所謂、レッドアウトとよばれる現象だ。おかげで、バランスが安定せず、立っているのがやっとだった。

「・・とと!!」

一方で、強力な収縮力を発揮していたオーラが消えた瞬間、ヒソカも僅かにバランスを崩し、前に一歩を踏み出していた。

しかし、結果的にそれがヒソカの命を救った。

「せいやっさぁ!!」

直後、地面から飛び出て、直前までヒソカのいた場所を貫く銛。

鋭い銛の切っ先は、ヒソカの尻から背中の半ばまでを浅く切り裂いて、すり抜けた。

「残念無念。あとちょっとで御座ったのになあ」

ようやく耳鳴りが消え、聴力の戻り始めたヒソカの耳に、惚けた声が聞こえてきた。

薄く像を結びだした視界に移るのは、ブリーフ一丁の変態だ。

どうやって地面から攻撃を仕掛けてきたのかはわからなかったが、そういう能力の持ち主なのだろう。それにしても、仲間のピンチを利用してヒソカの命を狙うとは、この男もいい性格をしていると、ヒソカは思った。

「・・・君らってさあ、仲間じゃなかったの?」

「え?」「え?」

その問いかけに、二人は揃って驚いた。仲間、という言葉の意味がまるでわからなかったからだ。

状況が折り合えば協力しようと約束はしたが、所詮、それだけの関係に過ぎない。どちらかが不慮の『事故』で死んでしまえばそれまでのこと。そこまで馴れ合う関係ではない。

不思議なものを見るように互いに視線を送りあう連中を眺めて、ヒソカは楽しくなってしまった。どちらもいい具合にヒトデナシだ。思わず笑みがこぼれてしまうのを抑えられない。

「いいねぇ、君達、最高だ!!」

緑色の残像が染み付いて何も見えなかった目が、徐々に像を結びだしている。

密かにヒソカにヒトデナシ認定されるという前代未聞の屈辱を味合わされているとは露知らず、何かおぞましいものでも見るかのように、二人はヒソカを眺めているのが、ぼんやりと視界に写った。

「さあ、続きをやろうか!!」

ヒソカは、未だに焦点の合わない瞳を彷徨わせながら、余裕たっぷりに笑って見せた。

その態度を、二人はいぶかしむ。

これがそこらのチンピラの言動なら、迷わず射殺しているところだが、女は動くに動けない。ただのハッタリだと、どうしても思えない。まだまだ切り札を隠し持っているのか、と考えてさせられてしまうだけの不気味さを、このヒソカという男は持っている。

そこで誰よりも冷静な判断を下したのは、パンツ一丁の奇人だった。

「・・・潮時、で御座るな。これ以上時間をかけると、それこそ試験に落ちてしまう。得なことは何もないで御座るよ。このアホと殺しあうために、ハンター試験に来たわけでは御座らん」

海パンの指摘は的を射ていた。

既に試験官と離れてから30分近く経過している。確かに、これ以上時間をかけて距離が開くと、女の手持ちの簡易受信機では、反応を拾いきれなくなる可能性があった。

「ゴン少年も、無事逃げ果せた頃合。時間稼ぎは十分で御座ろ?・・・相変らず、君は子供に甘い」

(・・・さすがに、見抜かれてるな)

しばし、逡巡してから、女はため息をついた。構えていたナイフをホルスターに収める。

そこへ、ヒソカが挑発的に言葉を投げかけた。

「いいのかい?ここで僕を殺しておかなくて。たぶん、後で後悔するよ♣」

余裕綽々の表情で言われても、女は馬鹿にされているようにしか感じなかった。

「・・・人を快楽殺人鬼みたいに言うんじゃねえ、バカタレ」

「同感」

女は口調を一変させて吐き捨て、海パンは心底うんざりしたように同意する。ほぼ同時に、女は後ろ手に持ったものを、ヒソカの手前に投げ放った。

途端に、盛大に黄色い煙が噴き上がる。

鼻腔に進入して粘膜を侵す、激痛にも似た感覚。催涙ガスだ。

ガスは男女の姿を隠すと、同時にヒソカの追撃を阻む壁になる。その向こうで、二人が全力で遠ざかっていくのをヒソカは見送った。

「あらら・・・逃げられちゃった♥」

そう呟くヒソカ自身も、荒い息をついていた。

激しい戦闘の末、殆ど体内の酸素を消費した状態で、五感はまだ本調子ではない。これ以上深追いする必要もないだろう。

見定めは済んだ。後は、最適のタイミングで狩り殺すだけだ。

「さて、試験に戻ろっかな♦・・・その前に、パンツ変えなきゃね♠」

ヒソカは射精していた。



















「まずいな・・・完全にはぐれてしまった」

気絶したままのレオリオを背負い、クラピカが呻いた。ゴンはレオリオの手提げ鞄を釣竿に通すようにして担いでいる。中身が詰まっているのか、結構重い。

レオリオを担いでヒソカから逃げ出したゴンだが、途中でクラピカと合流する事はできたものの、他の受験生達とは完全にはぐれてしまっていた。

あせるクラピカに、ゴンは平然と言った。

「ジェーンがどこにいったのかは、分かるよ」

彼らを探し当てるのに、ゴンはレオリオのコロンのにおいをたどった。だから、同じように臭いをたどればいい、とゴンは答えた。

「その、彼女もそんな特徴的な臭いがするのか?」

そう困惑したようにクラピカが問いかけると、ゴンは困ったように微笑んだ。

「・・・あんなすごい火薬の臭い、何キロ離れてても分かるよ」











to be continued





[8641] Chapter3 「The TEST」 ep5
Name: kururu◆67c327ea ID:feb546b9
Date: 2014/07/05 22:23

二次試験の会場と、示されたのはプレハブ作りの建物だった。

そこそこの広さがあり、100人やそこらなら入りそうだ。入り口と思しき場所には鉄製のシャッターが閉まっていて、中の様子は伺えない。だが、ゴーゴーと奇妙な音がその中から響いていたため、周囲にたむろする受験生達はそろって首を傾げている。

その場所までたどり着いたとき、女は軽い立ちくらみに襲われ、よろめいた。レッドアウトの後遺症もそうだが、慣れない能力を使ったせいで予想以上に体力を消耗しているらしい。

ハンカチで汗を拭きながら、ミネラルウォーターのボトルを取り出し、半分ほど飲み干す。

十分な水分補給は疲労回復に効果があるが、一気に飲みすぎると直後の運動が辛い。トイレも近くなる。二次試験でどんな課題が出されるかわからないが、用心しておいたほうがいいだろう。

ゆっくりと水を口に含み、喉を潤していると、不意に携帯が着信を告げた。番号は、意外な人物のものだった。

『私だ』

「・・・アラン課長?確か、次の連絡は試験終了後の筈では?」

『ああ、そのつもりだったのだが・・・お前、ヒソカに目を付けられたな』

たいした地獄耳もあったのものだ。ヒソカとやりあう嵌めになったのは、ほんの1時間前のことなのだが。まさか、常時監視されているのじゃあるまいな、と背筋が薄ら寒くなるのを覚えた。

「多少じゃれただけですよ。・・・知ってるんですか、あの男のこと?」

『知ってるも何も、そこそこ有名人だよ。我々の業界ではね』

それだけお前には知らされていないことがある、と言外に含みを持たせた言い方だった。情報に疎いのは半人前の証、それがこの上司の口癖だ。

『奴は一種の快楽殺人鬼だ。本名、実年齢、出身地共に不明。殺人歴多数。判明してるだけでも、名うての念能力者が27人殺されている。系統はお前と同じ変化系、オーラをゴムに変えるらしい』

やはりか。あの後ずいぶん考えたが、最初に見せた能力が、オーラをゴムのように変化させるものだとすれば、奴の手品のタネもおおよそ説明が付く。

シンプルだけどいやらしい能力だ。地形や状況を利用して幾らでも応用が効く上に、弱点らしい弱点が見当たらない。つまり、相手に能力を知られてもまったくマイナスにならない。

"いいのかい?ここで僕を殺しておかなくて。たぶん、後で後悔するよ"

あの言葉、案外本心だったのかもしれない。

あの時、周囲は開けた平野だった。草木も疎らにしか生えておらず、おまけに足元はぬかるんだ泥。奴にしてみれば地形や状況を利用しづらい、アウェーだった筈だ。

左腕の袖を見る。

ケブラー繊維複合のスーツの袖を切り裂いたのは自前のナイフだが、その下の左腕に巻きつけるようにして隠していた金属製の鞘を拉げさせたのは、ヒソカのトランプだ。

この鞘はあまりにも切れ味が良すぎる刃物を、安全に固定しておくための特別製で、中で刃を両側から挟み込むようにして保持するように出来ている。当然、強度は折り紙つき。

それが、まるで極薄の鉄板をぶつけられたかのように、中ほどで歪んでいる。たかがトランプでこれなら、まともな武器を持てばどれほどの威力になるのか想像もできない。

てっきりどこかの組織の諜報員か、さもなければマーセナリだと思っていたのだが・・・何が楽しくて殺人鬼などをしているのか分からないし、別に知りたくも無かった。

『精々気をつけることだ。何せ、奴はあの幻影旅団の一員だからな』

なんとまあビッグネームが出てきたものだ。クラピカが知れば血相を変えるだろう。でも、教えないほうがいい。教えたら、たぶんあの青年は死に急ぐから。

それにしても、ただのクズの集まりかと思っていたが、あのレベルの能力者が他にゴロゴロしているのだとすれば・・・幻影旅団、脅威だ。

『もう一つ忠告しておく。例のブリーフ男な、ありゃ相当な食わせ者だぞ』

「どういう事です?」

奴はあの後、「貴殿と組むと命が幾らあっても足りんで御座る」等とぼやいていたので、これ以降の試験でも協力を持ちかけてくるのか微妙なところだろう。いずれまたヒソカに狙われでもしたら、敵の敵は味方の理屈で利用できると思っていたのだが・・・?

『ボーモントといえば、闇金融の最大手だろ。そこが何で今更、門外漢のギャンブルなんぞに手を出すんだ?奴らの銀行の資本規模は、今や小国の国家予算をはるかに凌ぐ。今更、ダーティな賭博に絡んでくるのは不自然だろう。銀行屋はリスク管理にはシビアだぞ』

マフィアが納税額でトップ10に入るのだから世も末だ、と上司は嘆いた。

『今やあの組織は、"裏"の組織がカバーとして"表"の看板を掲げているのではなく、"表"の大企業が経済戦争の走狗として"裏"を操ってる状態にすぎん。献金を受けている政治家も多い。おかけで我々も迂闊に手を出せない』

なるほど。そういう連中があの男の背後にいるわけだ。となると、奴にも用心したほうがいいらしい。

まったく世の中というのは、どいつもこいつも敵だらけだ。

『とまあ、いずれも今のお前のセキュリティクリアランスでは知る権利のない情報だ。本来はな』

その言い草に、少しばかりカチンときた。

「・・・で、それを何故わざわざ教えてくださったので?あなた、そこまで部下思いじゃないでしょう?」

声に皮肉気な調子が混じるのは仕方の無い事だろう。

未だ顔を見せることなく、いつも電話越しにこき使ってくれる上司に対しては、含むところもある。

どうせこの声も、素のものではないのだろう。オーラを感じ取る事のできる能力者も、間に電子機器を通されてしまえば無力なものだ。

『決まってる。お前のような問題児に下手に情報を与えておかないと、どんな無茶をやらかすかわからん。最後に詰め腹切らされるのはこの私だからな。・・・ともかく、今のバイト扱いに不満があるなら"合格"してみせろ』

「・・・了解」

『では、健闘を祈る・・・――――"例え、死の陰の谷に歩み入るとも"』

「"死の谷を、兵士は進む"」

携帯をしまいこんだとき、片手に握っていたペットボトルが使い物にならなくなっている事に気付いた。握りつぶすまではいっていないが、変形が酷い。後で水筒代わりに使おうかと思っていたのだが、これでは使い物にならないだろう。

嘆息すると、苛立ち紛れにボトルを投げ捨てる。転がった残骸から中身がこぼれ、白く発泡しながら、辺りに強い刺激臭を振りまいた。

それを見て、再びため息。

パチンと指を弾くと、ペットボトルが軽い音を立てて砕け散る。破片は目の細かい砂のようになるまで粉々になると、すぐに周囲の土砂に入り混じって跡形もなく消え去った。

その様子を、薄ら寒い笑みを浮かべながら彼女は見守った。

「・・・いずれ、こうしてやる」

その言葉は、一体誰に向けられたものか・・・



ちょうどその時、物言いたそうな少年が、こちら向かって歩いてくるのに気が付いた。
















トコトコと無防備にジェーンに近づいていったゴンは、しばし何やら話していた。

始終俯き加減に頭を下げており、一方のジェーンは遠めにも不機嫌そうにしている。何か説教でもされているようだ。

例のキャンディとかいう女は、アレきり姿を見せていない。そのせいで、ようやくキルアにも落ち着いて辺りを観察するだけの余裕が戻ってきていた。出来る事なら、このままあの女が失格になってくれているのが一番なのだが・・・

「あ」

ゴン!っといい音。

頭の上にたんこぶを作ったゴンが、すごすごと帰ってくるのをキルアは見守った。

「何やってんの、お前?」

「お礼。ヒソカから助けてもらったから。そもそもなんであんな状況になったのかってきかれて、レオリオを助けようとしたって言ったら、無茶しすぎって怒られた」

よほど強く殴られたのか、頭の上に小さなたんこぶができていた。ゴンは頭をすりすりと撫でている。

「それで・・・"危険を承知で試験を受けたんだから、レオリオが死んでもただの自己責任だ"・・・だから、ほっとけって」

それをきくと、キルアは頬を吊り上げて、人の悪い笑みを浮かべた。

「澄ました顔して、えげつねーこと言うな、あの女」

「うん。でもレオリオは仲間だしほっとけないよ」

ゴンの顔は不服そうに歪んでいた。

「ていうか、なんだかんだ言って、あいつだってお前のこと助けたんだろ?矛盾してるじゃん」

「俺もそう思ったんだけど、そしたら"子供が屁理屈言うな"って殴られた」

「うっわ、何様だっつの。すげー上から目線。つか、子供だからって舐めてんのが気にくわねー」

「うん、でもさ・・・その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」

ゴンの唐突な一言に、キルアは首を傾げた。

「俺のおばさんが教えてくれた、俺の好きな言葉なんだ。言い方はきついけど、ジェーンが怒ったのは、とても大事な理由があるんだと思う」

そのくらいには、信用してるのだと。

ゴンははにかむように笑った。

「そりゃまあ、理由は人それぞれあるだろうさ」

キルアは頭をポリポリかきながら、ジェーンに目を走らせた。彼女は再び携帯電話を取り出して、何やら話し込んでいる。

その姿は一見、カタギのキャリアウーマンそのもので、こんなヤクザな試験に出てきたのか場違いに感じられるほどだ。

だが、とキルアはジェーンの足元に視線を移した。

「見ろよ、あの女の足元」

「・・・?」

キルアの言わんとすることがわからなくて、ゴンは首を傾げた。

「ところどころ汚れちゃいるけど、ドロッドロの湿地を走ってきたにしちゃ、綺麗なもんだ。あのヒソカって奴もそうさ。ぜってー、なんかあるぜ」

「何かって、何?」

「何か、さ」

キルアは、意味ありげに断言した。



その時、二次試験の開始を告げるベルが鳴った。


















Capter3 The TEST ep5




















「足跡だ」

ゴンが指さした辺りの地面を眺めて、キルアが腰をかがめた。

くぼみに指を突っ込み、指先にこびりついた泥を臭いをかぐ。

「湿ってる・・・まだ新しいぜ。臭いも強い、まだ近くにいるな」

この二人はすっかり意気投合したようだ。ゴンのほうはこれまで同年代の子供が近くにいなかったようだから無理もない。すぐ友達になれるのが子供の特権なのだから。

それに、と例のキャンディとかいう女の姿を目で探した。先ほどからオーラを目に集中させ、警戒しているのは、別に獲物を探すためだけではない。

少なくとも、目に見える範囲には姿はない。それとも、相手はよほど『絶』に卓越しているのだろうか?

二次試験の会場に着いたときには、既に姿は無かったが、まさかあれだけの能力者が1次試験で落ちているとは、思えなかった。

どこかでこちらを、というよりキルアを伺っている筈だ。あの女のねっとりと絡みつくようなオーラが、キルアに向けられている事に、彼女は既に気付いていた。

もっとも、あの女が姿を見せない事で、キルアに笑顔が戻ったのはいい事だった。

「長細い蹄が2つ。シカと似ていますが、後ろに1対副蹄があります。あたりを引きましたね、ゴン」

うっすらと湿った腐葉土の上に、特徴的な蹄の跡。足跡は柔らかな土に深々と残っていて、蹄の主はかなり重量があることが見て取れる。歩幅もかなり広い。

第二次試験の課題は料理、美食ハンター二名を満足させる料理を作ること。

まず、ブハラという巨漢の男が指定した料理は、豚の丸焼き。豚の種類は自由とのことだが、この試験、本質的には料理というより狩猟に近い。

広大な敷地の中から、特定の野生動物をハントするというのは、ハンターの試験としてはまさにうってつけなのではないだろうか。丸焼きにして持って来いというのも、おそらくはどれだけ肉を傷つけることなく仕留められるか、そのチェックを兼ねている。確かに、下手に痛めつけられたジビエは食べられたものじゃない。

それに、ハントの対象が豚というのがいやらしかった。

野生の豚は低山帯から平地にかけて、雑草が繁茂する森林や草原に生息し、特に水場の近くを好む。生命力が強く、雑食性なので、荒れた環境にも適応して繁殖する。知能も高い。おかげで、世界中ほとんどの地域で見かけることがきる。

反面、意外に気性が荒く、家畜用に改良された品種でも、飼育員が襲われて食い殺される事例が後を絶たない(※作者注:実話です)。特に野豚は非常に突進力が強く、牙も鋭いので危険な動物だ。鼻が発達していて、臭いをかぎ分ける能力も鋭い。うかつに近づくと、すぐに察知されて逃げられてしまう。

決して珍しい獲物ではないが、といって容易く捕まえられるものでもない。

あのブハラとメンチとかいう試験官、見た目は美女と野獣を地で行くでこぼこコンビだが、中々どうして、審査内容は素人目にも理にかなっている。一次試験もそうだったが、試験内容そのものは奇をてらわず、オーソドックスでありながら、難易度が高い。

肩にかけていたショットガンを正面に持ち直し、ポンプを引いて初弾を送ると、レオリオがギョッとした顔をした。

「・・・銃は反則じゃねえか?」

「試験は持ち込み自由ですよ」

案外キモの小さい男だ。か弱い女性が身を守るために、銃で武装するのは常識だろうに。それに、持ち込んでいるのは銃だけではない。

「だが妙だな。これほど多くの足跡があるとは・・・最低でも20頭、多ければ50頭近い群れがいることになるぞ」

クラピカが乱雑に散った足跡を見ながら首をひねった。

「好都合じゃねーか、数が多けりゃ奪い合いにならなくて済むだろ?」

確かに、獲物の数が少なければ、受験生同士で奪い合いという名の殺し合いがおこる。レオリオもその危険は察していたらしい。

「それはそうだが・・・野生の豚はあまり大きな群れを作らない。せいぜい10数頭程度の家族単位で行動するか、単独で縄張りをさまよう。しかも、これは足跡からして1頭1頭が尋常じゃない大きさだ」

クラピカは両足を広げ、地面に残る前足と後ろ足の蹄の跡に合わせてみせようとしたが、収まりきらなかった。男性としては小柄な体格のクラピカだが、それでも1歩の間は1メートル以上ある。

「そうですね。野生のイノシシだと300キロ近い固体が仕留められた例がありますが・・・それにしてもこれは異常だ。群れの個体すべてがほぼ同等の大きさです。そのクラスの豚となると、わたしには心当たりが一種類しかありませんね」

歩幅から目算すると、1頭辺りの体長は約2メートル、体重は200キロはあるだろうか。平均的なイノシシの体重は70キロ前後なので、三倍近くある計算になる。

「そりゃいったい、どういう豚だ?」

レオリオがげっそりした顔で呟いた、そのときだ。

轍を掻き分け巨大な生き物が、のそりと姿を現した。

「!!?」

「・・・ああ、やっぱり」

見た瞬間、女はその正体に気が付いた。

世界で最も凶暴な豚、グレイトスタンプ。巨体とそれに見合った体重を武器に、大きくて頑丈な鼻で敵を潰し殺す危険生物だ。

「でかっ!!」

思わずレオリオが叫んだ時には、巨大な豚の大群が、一斉に突進してきた。

だが、

「よっと!!」

額を一撃して、あっというまにゴンが一匹仕留めれば、

「こいつら、どうやら頭部が弱点だぜ」

「巨大で硬い鼻はもろい額をガードするための進化というわけだ」

レオリオが弱点を見抜けば、クラピカはしたり顔で分析する。

「とったど~ !!!」

覆面パンツの変態が銛を片手に、勝どきを上げた。

他の受験生達も、勢い込んで次々に豚を狩っていった。

グレイトスタンプが討ち取られていく最中、女は手にした銃の引き金に指をかけることなく、その様子を見守っていた。その視線は、グレイトスタンプが飛び出てきた轍の中に向けられている。

「そういうことか・・・」

ため息混じりに呟いた瞬間、茂みの中から、小さな影がいくつも飛び出してきた。

「子供のためなら、命張るのが親だものね」

親豚にすがるようにして駆け出したのは、まだ生まれて間もない、子豚。幾ら凶暴な豚と言っても、いきなり襲い掛かってくるのは妙だと思っていたのだ。

「・・・ごめんね」

手首を軽く振ると、掌にすっぽり収まるくらいの小さな刃がすべりでた。

ピッ、とすり抜けざまに一閃。

頸部から大量に出血した子豚は、後ろを流れていた小川に突っ込むようにして動かなくなった。

軽く十字を切り、既に事切れた子豚の眼を閉じさせる。そして、血を流しつづける傷口を、小川の水にさらした。

後から後から噴出す血が小川の水を赤く染め、指先に伝わる肉の感触から、生き物の暖かさが失われていった。

その様子を、ゴンが不思議そうに見ていた。

「何してるの?」

「血抜き。これをしないジビエは、食べられたものじゃないから」

そういうと、親豚を担ぎ出そうとしていたキルア達の手が止まる。

・・・まさかとは思うが、そのまま火にぶち込むつもりだったのだろうか。

「せめて臓物は抜かねばならんでしょう。生でハギスをかじるようなものです」

このジョークは理解されなかったようで、ゴンもキルアも首を捻った。

「・・・まあ、好きにしてください」

よく考えたら、餓鬼どもが穏便に失格になるぶんには余計な心労がなくて都合がいい。

ひとまず豚を捌こうとしたところで、ゴン!という鈍い音がした。そちらを振り向くと、一目散に逃げ去ろうとしていた子豚の一匹を、サングラスをつけた男が杖のようなもので殴りつけている。

若い黒人だ。年は二十の後半くらい。狩猟用らしいベストに鹿撃ち帽をかぶっていて、それだけなら猟師か何かに見えるが、首にやたら大きなレースのエリザベスカラーをつけている。そのせいで、まるで大道芸人のような滑稽な印象を受けてしまう。

ちなみに、杖に見えたのは、よくよく観察してみれば長めの柄を持った棍棒だ。木製で、先が潰れたように膨らんでいる。

男は仕留めた子豚を吊り下げると、こちらに向かってにやりと笑った。

「お互い、狙いは一緒だったみたいだな」

「そのようですね」

女が仕留めた獲物に目を走らせると、男は意外な申し出をした。

「どうだ、この課題、協力しないか?」

「というと?」

男はゲレタと名乗った。

「俺は血抜きと解体をする。その間に火起こしを頼みたい。さっきから見ていたが、あんた相当サバイバルになれてそうだ。二人で組んで作業を分ければ、もっと時間を短縮できるぜ」

どうやらこの課題の最大のポイントに、ゲレタという男も気付いていたようだ。

「最大の敵は、時間だ。そうだろう?」

ゲレタは確信をこめて断言した。

『試験はあたし達が満腹になった時点で終了よ』

確かに、ブハラとかいう試験官が体格並みに大食だったとしても、豚の丸焼きのようなボリュームのある肉料理を、そう何十匹も食べられるわけがない。恐らく、この試験を突破できるのは実質十数人程度。つまり、いかに早く料理を提供するかが、ポイントになる。

ならば狩猟の難易度を考慮しても、子豚を捕らえた方が断然有利だ。捌く手間も、焼き上がりにかかる時間も成獣より短くてすむ上に、味もいい。

「グレイトスタンプの子供は美味いぜえ。柔らかくてジューシーで、野豚特有の臭みも内輪だ。キロ単価で1万を超えることだってある。俺みたいな商売じゃ、おいしい獲物なのさ」

ゲレタはサングラスの位置を整えながら、解説して見せた。

「俺は猟師だ。血抜きも解体作業も慣れてる。それに、さっきから見ていたと言っただろ。あんたを敵に回すと厄介になりそうだと思ったから、協力しようと言ったんだ。下手な小細工はしないよ」

初対面も同然の相手だ。信用は出来ないが、その言葉には合理性がある。

「いいでしょう。正直、血の臭いは苦手だ。助かります」

いざ事を決めてしまうと、後の作業は二人とも実に素早かった。

女は濡れた木の葉や土をどけ、浅く掘って乾いた土を露出させた。子豚を二匹分、ちょうど焼き上げられるだけのスペースを作ると、大き目の石を拾って火床を囲むように被う。余り大きめに作らないのがコツだ。広すぎると、薪を必要以上に使ってしまうから。

かまどが出来上がると、女は枯れ草を拾い集めて、ライターで火をつけた。熾き日がくすぶり、白い煙を上げて燃え広がるのに併せて、徐々に大き目の枯れ枝を放り込んでいく。

その合間に、ゲレタは小刀一本で2頭分の子豚を瞬く間に捌いた。まず食道を切り、後門から内臓と背骨、そして肉にへばりついた肋骨を一本一本丁寧に引き抜いていく。中身がきれいになったところで、最後にゲレタは適当な大きさに切った生木を、頭から後門まで貫通させた。さすがに言うだけあって、その手際はたいしたものだった。

肉を捌く間も、手を伸ばせばすぐ届く位置に、彼の得物は置かれている。

棍棒は、実際には恐るべき武器だ。打てば槌、突けば槍、守れば盾、投げれば弓代わりになる。リーチも長く、調達も容易。重量も申し分ない。

小刀を振るうゲレタの掌は、長年重量のある得物を振るってきたためだろう、皮膚が厚くなり、無数のタコが出来ていた。

「・・・ところで、普段からそんな格好をしているのですか?」

「こいつは一張羅さ。普段は、もちっと実用的な格好をしているよ」

女はあいまいに笑った。このエリザベスカラーもどきは彼独特のファッションセンスによるものらしい。

やがて、火の加減を見て納得したように頷くと、ゲレタはその場に腰を落とした。胡坐をかいて例の棍棒を肩と首の合間に載せ、自由になった両手で器用に二頭の子豚を焼き上げていく。

丸焼き、しかも直火焼きというのは単純に見えて繊細な料理だ。火力が強すぎれば丸焦げ、弱ければ生焼けになり、往々にしてその二つが同時に起こる。

ゲレタは火の通りが均一になるように、火の当たる位置を変えていき、満遍なく肉に火を潜らていった。皮に残った産毛が燃えてパチパチと火の粉が弾け、表面の水分が見事に飛ばされていく。

徐々に肉の内側に火が通ってくると、ゲレタは一端肉を火から遠ざけ、遠火でじっくりとグリルした。皮から油が染み出し、なんともいえない香ばしいにおいが辺りに漂う。

肉の面倒を見ながら、ゲレタは静かに何かを食み出した。

「あんたもやるかい?」

そう言うと、ゲレタは彼女にプラスチックのタッパーを差し出してくる。何だろうと思って覗き込めば、無造作に切り分けられた果実のようなものが、白い果肉を晒していた。

「ペヨーテだ。感覚が鈍るから狩りの前にはダメだが、体に骨をおらせた後は、こいつに限る。疲れが吹き飛ぶぜ」

ウバタマサボテン。様々な天然のアルカロイドを含んだ一種の幻覚剤だが、正しく使用すれば中毒は起こさない。ネイティブの間では今でも薬として珍重されている薬草だ。

ゲレタは果肉を噛みながら、筋肉の緊張をほぐすようにコキコキと腕をめぐらした。あれだけのマラソンをさせられた後だ、無理も無い。

礼を失さないよう、少しもらって舌先に運んだが、酷い苦味に顔が歪む。

タッパーを返すと、ゲレタは声を出さずに笑った。

「慣れると病み付きになるんだがね。鎮静作用があって、リラックスできる」

「いえ、結構。試験には初参加ですからね、なるべく緊張感を削ぎたくない」

「殊勝だな、ルーキー」

それを最後に、しばし会話が途絶え、豚の焼ける音だけが響いた。

森のそこここでは同じように白い煙が上がり、受験生達が四苦八苦しながら豚を焼いている。

その多くが火が強すぎて丸焦げにしているものか、逆に火が弱すぎて生焼けになりそうなもの。ゴンやキルアは前者で、クラピカは後者。あろうことか臓物を抜かずにそのまま直火に放り込んでいる猛者は、レオリオと海パンだ。肉の焼き方一つでも、性格がよく現れている。

なんとかグレイトスタンプを仕留められた受験生のうち、半分ほどは同じようにして折角の肉を台無しにしていた。彼らは恐らく失格だろう。だが、中にはゲレタと同じくらい巧みに肉を調理するものもいた。

例えば、サングラスをした三つ編みの女性。

しとめた子豚を手にとって首筋にナイフを滑らせている。背に背負っているのは、鉄の銃身に木のストックを使った単発式の狙撃銃。サングラスをかけているので彼女の表情はいまいちよく分からないが、こちらを見る口元は笑っていた。

そしてムスリムらしい白いターバンの男などは何の冗談か、5、6メートルはありそうな大蛇を引き連れ、肉を焼きながら子豚を丸呑みさせている。

さらに、確か会場入りしたときに毒入りジュースを渡してきた不届きな中年男も、意外にも巧みに子豚を焼き上げていた。

そのことをゲレタに伝えると、ほとんど彼と同じハンター試験の常連だと言う。

「毎年、見知った顔が少しずつ消えて、見知らぬ顔が増える。みんな、少しあせりだした頃合だよ。今年こそはって気張ってるぜ」

俺もそうだがね、と感情の無い声で呟きながら、ゲレタは弱くなってきた火に薪を足した。

再びの沈黙。

二人は交わす言葉もなく、ただ肉の焼け上がるのを待った。













やがて、イの一番に焼け上がった肉を試験官に差し出すと、二人はそろって合格を言い渡された。・・・なのだが。

「うん、おいしい!」

ゲレタはサングラスをずり下ろして目を見張り、例の三つ網みの女は口元を心底嫌そうにゆがめ、蛇使いの男も無表情ながら額に汗をかいている。

「これもうまい!」

ゴンは笑顔のまま固まり、キルアはうめき声を上げ、レオリオは顔を引きつらせながら、大量の丸焼きがブハラの口に消えていくのを見守った。

「うんうん、イケる!」

クラピカなどはブハラの食べた量が明らかに彼自身の体積よりも多いことに、物理的な疑問を抱いてしまったために、哀れにも混乱しきっている。

「これも美味!」

驚くべき事に、あの海パンすらもあっけに取られた顔をしていたが、さもありなん。

「あ・・・ありのまま今起こった事を話すで御座る。ブハラ殿のお腹が満杯になる前に、先を争って丸焼きを届けたと思ったら、全部の豚が一匹残らずお腹の中に消えていた。な・・・何を言っているのか、わからねーと思うで御座るが、某も何をされたのかわからないで御座る。頭がどうにかなりそうだった・・・念能力とかプロハンターとかそんなチャチなもんじゃあ、断じてない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったで御座るよ」

細心の火加減で焼き上げた最高の豚も、あるいは生焼け、黒こげ、ほぼ消し炭、さもなくば料理と呼ぶのもおこがましい異形の何かすら。

有象無象の区別無く、等しく腹に収めていく。

ああ、悪食ここに極まれり。

「ああ、おいしかった!もうおなかいっぱい!!」

大量に詰まれた豚骨の山を見据えて、最後にジェーンと名乗る女が天を仰いでつぶやいた。

「・・・Amazing」
















「結局食べた豚全部おいしかったって言うんじゃ審査になんないじゃない」

「いいじゃん、それなりに人数は絞れたし。細かい味を審査するテストじゃないしさ」

「甘いわね、アンタ。美食ハンターたるもの、自分の味覚には正直に生きなきゃダメよ」

例のプレハブ建屋の入り口が開け放たれ、何か冒涜的な何かを目の当たりして心を砕かれていた受験生約70名を待ち受けたていたのは、無数の調理台が並んだ空間だった。

「わたしの課題は、スシよ!」

釈然としない面持ちの受験生達に、次の課題が告げられる。

(((スシ・・?!スシとは・・・?!)))

見たこともきいた事も無い料理の名前に、いったいどんな料理なのか検討すらつかず、受験生達の困惑の声が上がる中、メンチは小さな島国の民族料理だと説明した。

「最低限必要な道具と材料はそろえたわ。スシに不可欠なゴハンはこちらで用意したし」

つまり、その料理の正体を推理し、提供する事が後半の課題ということ。

食材調達がメインだった前半とは明らかに趣が違った。

「ヒントをあげるわ!!中を見てごらんなさーーーい!!ここで料理を作るのよ!!」

メンチは居並ぶ調理台を示して見せた。

調理台は簡素なもので、まな板と包丁の置かれたステンレス製の調理スペースのほかには、蛇口の備え付けられた流し台が一つついているだけ。

調理器具としてボウルやバット、布巾に皿が並んでいる。それに塩、胡椒、砂糖に酢といった基礎的な調味料が少々。そして、各調理台に一つ、大きな木製の平べったい桶のようなものが必ず置いてあった。

桶の蓋外すと、ツンと刺激的な香りがする。加水加熱されてアルファ化したライスだ。においの元は、おそらく酢。

「ライスだけで作るのかな?」

「道具とか見ると他にも何か使いそうだぜ」

調理台には水回りは完備されているが、およそ料理というものをするに当たって必要となる、もう一つの重要の設備が見当たらない。つまりは、コンロ。すると、スシとやらは火を使わない料理ということになる。

多くの受験生は、まずその点に疑問を持った。

世界には数多くの料理があるが、火を使わない料理を食する民族は稀だ。

「そして最大のヒント、スシはスシでもニギリズシしか認めないわよ!」

スシの正体すらわからないのに、さらに『ニギリ』がつくとはこれ如何に。

課題の糸口がつかめず、各自が困惑して試行錯誤する中、ほくそ笑む男がいた。

「(この課題もらったぜ!!まさか俺の国の伝統料理がテストになるとは!!)」

思わずガッツポーズをかましたのは、ニンジャ装束を着たスキンヘッドの男。

彼の名は、ハンゾー。神秘の国ジャポンは雲隠れの里から来た由緒正しいニンジャである。

「(しかし、ここで浮かれてたら、周りに知ってるのがばれちまうからな。知らねーふりしてさりげなく一人だけ合格しちまうのが利口なやりくちだぜ!)」

挙動不審な彼の様子をいぶかしむ周囲の視線には、全く気がつかずに狂喜乱舞するニンジャ。

その肩を、叩くものがあった。

「ドーモ、ハゲ・ニンジャサン。ブリーフ・ニンジャです」

金のモールで縁取られた紫色のおくゆかしいメンポ。鍛え上げられた裸体を包むものは、股間のブリーフ一丁のみ。

質実剛健を体現したかのような逞しい巨漢がくりだしたのは、古事記に乗っている作法にのっとった実際礼儀正しいアイサツ。

古式ゆかしいその所作に戸惑いつつも、ハンゾーは同じくアイサツの姿勢を整えた。

「ドーモ、ブリーフ・ニンジャサン・・・なんて言うと思ったか!!ブリーフなんて流派は俺の国にゃねえ!!お前らみたいなフリークスがいるからニンジャが誤解されまくるんだ!!一体ニンジャを何だと思ってやがる!!それに俺はハゲじゃねえぞ!!いや、実際ハゲだけどハゲニンジャじゃねえええ!!!」

ハゲ・ニンジャクランなどという流派はジャポンに存在しないため、実際彼の指摘は正しい。

しかし、彼に声をかけた狂人はそんな些細な事は気にしなかった。

「このような異国の地でめぐり会ったのも、恐らくは始祖ケムマキのお導き。この場でスシを知るのは恐らく我らが二人のみで御座ろう。ここは一つ、同じニンジャ同士、協力するで御座るよ、ハゲゾー・ニンジャサン」

口先三寸で『スシ』を知っていそうなハゲを丸め込もうとする怪傑ブリーフ。実際、彼はニンジャどころか、ジャポンがどこにあるかすらも知らない。卑劣!!とても正義の味方のすることではなかった。

ハゲじゃないと絶叫するハゲと覆面パンツの裸体の男は、周囲の視線を集めまくっている。

さらに、この場にはもう一人、スシを知る人間が存在した。

「この課題、いただきました」

いかにもインテリめいたスーツの女が眼鏡を光らせて断言したので、思わず周囲の人間は聞き耳を立てた。

「知ってるの?」

何の遠慮会釈無く彼女に問いかけたのは、例によって例のごとく空気を読まないゴンである。

「ええ、スシ・バーは今ヨークシンで一番ホットなトレンドです。アフターファイブにスシ・バーでシャンパンを傾けるのがクールな余暇の過ごし方なんですよ」

デキるキャリアウーマンそのままの笑顔で断言する。

スシはソバと並ぶ旦那の好物の一つであり、デートの際にシャンパンと一緒に食するのはまんざら嫌いでもない。

彼女は得意そうな顔を隠しもせず、調理スペースにおもむくと、調理器具や材料を確認しだした。その一挙手一投足を周囲の受験生達が見逃すまいと凝視している。

しかし、しばらく流し台の下を探ったり、他の調理台を見たりしていた女は、やがて困惑したように頬に手を当てた。

「・・・おかしい。魚肉は自分で調達しろということでしょうが、バジルやアボカドはおろか、クリームチーズもなければ、マヨネーズソースすらない。これでいったいどうやってスシを作れというのでしょうか?」

「スシってマヨネーズがないと作れないの?」

ゴンがとても真摯な瞳で問えば、

「スシにマヨネーズソースは必要不可欠です」

女は真面目な口調で即答する。

その瞬間、魚肉をメインに据え、バジルにアボカド、クリームチーズにヴィネガーライス、それらを使い分け、マヨネーズで味付けし、シャンパンと共に饗されるエレガントな料理の輪郭が、その場の全員の脳裏に描き出されてしまった。

「欲を言えばキャビアやフォアグラもほしいところですが・・・しかたない。食材をそろえるのが大変そうですね!」

そう言い残すと、女は一目散に食材調達へと走り去る。その後ろ姿を、ゴン達は追っていった

「(スシ・・・!!よほどの高級料理に違いねェ!!)」

「(ああ、そんな料理を課題に出すとは、あの試験官・・・鬼だ!!)」

「(ジーザス!!なんて年にあたっちまったんだ!!)」

後に残されたその他大勢の受験生達は混乱している。

「おいィ・・!!!」

その時、地獄の底から響くような声が響いた。

「ハンバーガーとバーベキューしか食わねえ国の連中が、えらそうにスシ語ってんじゃねーぞ、ゴラァ!!あたしゃ"ニギリズシ"しか認めねっつってんだろが!!」

怨嗟の声を上げたのは、試験官メンチ。

「ふざけたもん出しやがったら、問答無用で落としてやっからなぁああああああ!!!」

キチガイじみた怒りの形相をむき出しにしてメンチが咆哮をあげる度、会場中のガラス窓が震えた。鬼か夜叉めいていて実際コワイ!!

雄雄しくも肩を怒らせるメンチの姿を、残された一同は恐懼して見守った。







そして、半刻後。







「ダメっ!!ネタの切り方が全くダメよ!!筋目に対して直角に切る!!やり直し!!」

メンチはキレた笑顔でまた一人、出された料理にダメだしをした。

憤怒の表情を収めた代わり、内なる怒気は留まる事を知らず、大気を震えさせ、罪の無い受験生を怯えさせている。

「ニギリが強すぎ!!シャリが堅くてほぐれない!!」

受験生達が試行錯誤の末に恐る恐る差し出した皿は悉く宙を飛び、料理の運ばれた口からは、次の瞬間には怒声が放たれる。

「メンチ、それは少しキビしいよ」

「あんたは黙ってな!!」

見かねて口を挟んだもう一人の試験官、ブハラもメンチのあまりの形相を前にして沈黙した。

すべてはハゲ・ニンジャことハンゾーが、思わず料理方法をばらしてしまった事に起因する悲劇である。

意気揚々とスシをメンチに差し出したまでは良かったが、おいしくないと切って捨てられた挙句、

『飯を一口サイズの長方形に握ってその上にワサビと魚の切り身を乗せるだけのお手軽料理』

と、思わず口を滑らせたハゲゾー。

その言葉に、メンチが激昂した。

「鮨をマトモに握れるようになるには十年の修行が必要だって言われてんだ!!キサマら素人がいくらカタチだけマネたって天と地ほど味は違うんだよボゲ!!」

それからというもの、味に対して妥協できなくなった彼女は、次々と届けられるスシのカタチをしたナニカを口に入れては切り捨て、切り捨ててはまた新たな皿を口中に放り込む。その結果、未だに合格者はゼロ。

正気にては大業ならず、グルメハンターはシグルイなり。

そして、撃ち捨てられた皿の山を前にして、体育座りで落ち込むスーツの女が一人。

「おかしい・・・これこそがSUSHIのはずだ・・・くそう」
彼女の皿に盛り付けられているのは、乏しい食材を生かして作られた本場仕込のヨークシン・ロール。

加熱調理した魚介を果実や野菜とライスで包み、ノリ・ペーパーで裏巻き(外側から酢飯、海苔、具の順になるようにした巻き方)にすることで、生の魚介や海苔に抵抗感のあるヨルビアン大陸の人間でも無理なく食べられるように考案されたSUSHIである。

メインの食材はロブスター。

近場の湖沼で獲った大振りのロブスターを軽く塩茹ですることで臭みを消し、あえてシパイシーソルトのみで調理し、周囲の森林で採取した野草や果実をとともに仕上げた、ハイクオリティな一品。味の決め手は野鳥の卵と酢から作った特性マヨネーズソースだ。

実は、何気に料理はめっぽう得意なのだ。

ブルックリン伝統のトスカナ・スタイルをアレンジした自信作だったが、何故か一口も食べられることなく速効でダメだしを受けてしまった。

因みに、ロブスターを獲るに当たって、彼女は問答無用で手榴弾を水中にぶち込むという手法で付近の魚を一網打尽にしている。受験生同士の殺し合いすら許容されるハンター試験で、法律や常識を語っても仕方がないのかもしれないが、衝撃波にやられた数名の受験生が水上に浮かんでいたのをゴンたちは見逃さなかった。

もっとも、それをやらかした女はまったく気にしておらず、他の受験生も無茶をやらかす彼女を恐れて見なかったふりをしている有様だ。そして、今やヒソカや海パンと同じくらいの危険人物として受験生達に認識されていた。

「・・・真似しなきゃよかったよ」

「うっ・・・」

隣で、キルアがふてくされたように呟いたので、彼女は少しばかり心を抉られた。

キルアの皿の上に盛り付けられているのは、同じくロブスターを使ったロール・スッシー。だが、こちらはファヒータのテイストを取り入れたコネチカットスタイル。さっとバターでソテーされたロブスターを、刺激的なチリソースで味付けした西海岸由来の一品だった。

だが、なんの因果か、同じく速効で落とされている。

「えぐえぐえぐ・・・なんで某まで・・・」

そのさらに隣では、全裸の巨漢が床に正座で泣いていた。

ニンジャの癖に押しに弱いハンゾーを口先三寸で丸め込み、スシの情報を聞き出したまでは良かったが、先に料理を提出したハンゾーが作り方を全員にカミングアウトしたのが運のツキだ。怒れるメンチの次なる標的にされ、わけのわからぬまましめやかに撃沈。悪漢にふさわしい末路である。

さらに、ゴン達にいたっては(レオリオはいざ知らず、あろうことかクラピカまでもが)ハンゾーが作り方をばらす前に、生きた魚を飯の塊に突っ込んでメンチに差し出すという暴挙に出て、当の昔に轟沈していた。

あまりにも厳しい審査に、徐々に通夜めいた雰囲気の漂いだした試験会場。

その時だった。

「ど素人どもが、オーガニック・スシを舐めんじゃねえよ。―――――おい、姉ちゃん!!」

「あぁ?」

般若の形相のメンチは、目の前に現れた男をにらみつけた。

黒いスーツの上着を掴んで背に引っ掛け、白いシャツを腕まくりし、無造作にネクタイを外した細身の男。

病人のように青白い肌には、真新しい生傷がいくつも走っていて、いかにも筋モン特有の気配を放っている。それに、男は能力者だ。

メンチは男を一にらみすると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「俺の鮨だ。食ってみろ」

「ハン、自信有りって面構えね。今度はどんなゲテモンもってきやがったのかしら・・・って、これは!!」

皿ではなく、木目の美しい木の板に飾られた数巻の鮨。

小ぶりのドジョウを白焼きにし、あえて塩のみで味付けをしてシャリに盛り付けたものに、自然薯をすって野草を添えたもの、そして山鳥ものと思しき小さな卵を茹でて輪切りにして握った鮨。

珍しいネタではないが、それだけに拵えには念がいっていて、見た目も十分に美しい。

そのいずれも一手間かけた珠玉の鮨であるのが、メンチには一目にてわかった。

「いいじゃない、こういうのを待ってたのよ。いただくわ」

絶妙な配分で飯に混ぜられた酢の香りに、鮨の下に敷かれた大振りな笹の葉の香気が鼻腔をくすぐり、食欲をそそる。

思わず、メンチは鮨を手に取り口に入れていた。

「ん・・・美味い!!」

まずは一つ目。手前に置かれた白焼きの鮨。

口中にてまず感じたのは、舌先に僅かに感じる程度に振られた塩だ。この塩だけのシンプルな味付けが、旬のドジョウのあぶらの乗った白身によくあう。それに、食べやすいように骨きりがしてあって、小骨が少しも気にならない。

続く自然薯の鮨は出汁とともによく練られていて喉にするりとすべり落ち、〆の卵の鮨は、恐らく山鳥の卵を使ったのだろう、市販のものとは比べ物にならない濃厚な味わいが舌に口福をもたらした。

いかなる技法によるものか、黄身の部分と白身の部分が入れ替わり、中央の白身の回りを黄身が取り囲んでいる。常とは異なる色彩のコントラストが、美しさを際立たせていた。

ワザマエ、ならぬエドマエ!!

「ネタの選択もすごいけど、何より秀逸なのはこのシャリの美味さ・・・・あんた、あたしが用意したシャリを使わずに、自分で炊きなおしたわね!!」

男はにやりと笑った。

「ああ。シャリは研ぐもんじゃねえ、磨くんだ。米のとぎ汁から色味がなくなるまで、徹底的にな。そうやって糠臭さをそぎ落としてこそ、シャリといえる。ま、糠に含まれる栄養まで落としちまうから、俺も鮨作るとき以外はそこまでやらんがね」

そう言うと、男はメンチの用意した桶のシャリを手に取った。するりと米粒を掴み揚げる手つきは、熟練のすし屋のそれだ。

良い米を用い、良い水を使ってたかれた飯。米酢で三分くらいの色がつく程度に馴染ませてあるのを男は一目で見抜いた。ここまでは、生粋のオーガニックマニアである男の眼から見ても合格点を与えられるだろう。

鮨というものは、とにかくまず材料がよくなくては上等には仕上がらない。とは、かの北大路魯山人の言葉である。

「あんたの作ったシャリも中々だったが、大量に作り置きしたせいだろう、少しばかり酢が揮発しちまってる上に、水分が失われて本来の味を損なってる。せめて桶には濡れ布巾をかぶせておくべきだったな!!」

「くっ!!」

痛いところを付かれて、メンチは驚愕した。

「・・・時間が無かったのよ。2次試験までどの程度合格者が出るか読めなかったし。一次試験参加者全員分の米をたかないといけなかったから・・・」

メンチは悔しそうに俯いた。

といって、他人の手を借りてシャリを用意するなど、料理人としての彼女のプライドが許さない。最高のシャリを全員分に用意しようとあがいた末に、結局それが仇になってしまった。

「それに、試験官さんよ。そんなしゃちほこばって食っちゃあよ、鮨どころか何食ったってうまくねえぜ。肩の力、ぬいたらどうだい」

「・・・そうね。料理をおいしく食べるには気持ちも大事・・・少し、熱くなりすぎてたわ」

先ほどまでの兇状は、既にメンチの顔には無かった。

人は、真においしいものを食べると、穏やかで幸せな気分に浸ることができるのだ。

「おいしかったわ。ご馳走様」

「おうよ」

辛口試験官の素直な賛辞に、男もまんざらでもなさそうにニヒルな笑みを浮かべる。

そして、ついに最初の合格者が発表された。

「105番ジャック・イルネス、二次試験合格!!」

名を呼び上げられ、不適に鼻を鳴らしたのは誰あろう、マフィアン・コミュニティは十老頭自慢の走狗、陰獣・病犬だった。

冷静さの戻ったメンチの顔を見て、他の受験生達も胸をなでおろし、病犬へと賞賛の視線を送っている。

その姿を、顔面をボコボコに腫れさせたメタボ腹の男がにらみつけていた。

「次は俺だ!!」

同じく陰獣、蛭が対抗心をむき出しにして皿を差し出した。

「ふふん、次はどんな・・・あん?」

余裕を取戻し、続けて試験を行おうとしたメンチだったが、男の差し出した皿を見て、一気に顔色を変えた。

枯れ草か何か、こげ茶色をした小さなものが、歪に握られた白い酢飯の上に乗っている。

「うああああああぁ!!!!」

もちろん、メンチは一目でその正体に気付いた。

「俺の好物、昆虫寿司だ!!」

蛭は自信満々の笑顔で言い放った。

「カラっと高温の油で揚げたカマドウマと酢飯の織り成すコンビネーション!!ぷりっぷりの腹を食い破れば、濃厚なミルクみたいな味のハラワタがぷちゅっと飛び出てきてうめえ!!足もしっかり揚げてあるからカリカリしててスナック感覚でいける!!そいつを贅沢にスシにした!!さあ、食ってくれ!!」

蛭の眼は、"本気"と書いて"マジ"と読むそれだった。彼は、本当においしいスシを差し出しているつもりなのだ。

ウジムシ入りチーズや虫のわいたまま食するセップ茸、満干全席にも入っている蠍の素揚げ等、世界には虫を食う民族は意外に多いし、メンチもグルメハンターとして世界を廻っているので、そのくらいの知識はある。世界的には、うまい食べ物を食って育った虫はうまいという認識が多数派だということも理解している。

栄養学的に見ても、蛾の蛹や幼虫などは、乾燥重量の50%以上がタンパク質であり、ミネラル類にも富むため、非常に効率的な食べ物であることも知っている。

生態学的に見ても、昆虫は食べた植物エネルギーを体質量(ボディマス)に変換する効率が平均40%にも上り、魚類の10%や恒温動物の1~3%に比べて非常に優れているので、極めて効率の良い動物性蛋白質であることも理解している。

繰り返すが、上記のことをメンチは理解している。・・・ああ、理解しているのである。

だが、理解できるという事と、生理的に受け入れられるかどうかというのは、全く別次元の問題だ。

「ふぁっきゅうぅぅぅ!!!!ってめええええええ、なんつーものをスシに乗せやがった!!!」

「ほげええええええええええええ!!!!」

怒りとともに繰り出された右ストレートは、見事に蛭のどてっぱらを打ち抜き、はるか場外へと吹っ飛ばしたのだった。








その後、更なる怒りに駆られたメンチの審査は辛酸に辛酸を極めた。

結局、通報を受けたハンター協会会長ネテロの仲裁により、冷静さを取り戻したメンチは新たな課題を用意する事となったのだった。
































「次の目的地は明日の朝8時到着の予定です。こちらから連絡するまで各自、自由に時間をお使いください」

再試験の行われたマフタツ山から、次の試験会場までは協会の用意した飛行船で移動とのこと。

多少なりとも、体を休められそうなのは純粋にうれしい。それにしても、色々と濃い一日だった。

ちなみに例のやり直し試験というのがまたクセもので、切り立った断崖絶壁の合間に巣を作るワシの卵をとってくるというものだった。

下まで数百メートルはありそうな切りたった崖はほぼ直角。おまけにはるか下を流れる川から湿気が登ってくるせいか、露にぬれてすべる事この上ない。そういう条件下で受験生達に躊躇なく紐為しバンジーをやらせるというのは、スシを作らされるよりよほど狂っていると思ったものだ。

ともかく、今は少しでも疲労を回復させなければならない。

シャワーを浴び、汗の臭いの染み付いた下着とシャツを着替えると、ようやく人心地ついた。

協会の飛行船は、全長200メートルはある巨船で、気嚢のヘリウムガス容積は15万立方メートルほど。収容人数は300名を超える。内装にしても、シャワー室や休憩室、食堂、展望フロア、仮眠室などなど、設備が充実していた。民間用船舶としては総じて高性能な船だ。それが、ハンター協会の組織力をうかがわせる。

食堂のカウンターでレモネードと軽食を注文し、早めの夕食をとっていると、隣の席に見覚えのある女性が座った。

「ハイ。私はスパー。あなたは?」

オレンジ色の紙を三つ編みにし、サングラスをかけた女。二次試験の最中に見かけたスナイパーだ。今はライフルは携帯していないが、ジャケットの内側にホルスターを吊っているのを彼女は見逃さなかった。

「ジェーン・スミス。そちらは?」

そのさらに隣に、ピンクの巨大な帽子をかぶった少女が一人。こちらはスパーよりも幾分若く、20の手前というところか。

「あたしはポンズ。よろしく」

件の帽子は、フェルト生地か何かで出来ているらしく、この形状でも型崩れしていない。室内でも被ったままというのは少々行儀が悪いが、何か武器でも隠しているのだろう。

「女の受験生は珍しいからね、ちょっと興味がわいたのよ」

スパーは氷の浮かんだグラスを傾けながら、笑って見せた。

「あんた、ルーキーでしょ。初めてでここまで残るなんて、たいしたものよ。今年は全体的にレベルが高いわね。正直、1次試験であらかた落ちると思った」

ということは、彼女らは既に何度か試験を受けているということか。そういえば、ゲレタがそんなことを話していたような気もする。

「私は今年で三回目。普段は保護森林で密猟者を狩ってるわ」

「あたしは二回目よ。これでもアマチュアのハンターなの」

ポンズが目を合わせながらサンドイッチをぱくついた。

「わたしは、今はちょっとした調査会社の契約社員をしています」

「契約社員、ねえ。所帯持ちでハンターになろうって受験生も珍しいけどさ」

スパーは左手の指輪に気付いていたようだ。

「ええ、時間が残されているうちに、できる限りのことをしておきたくて。・・・後で、後悔したくないですから」

静かに紡がれた言葉が、紛れもなく本心だった事には、スパーもポンズも最期まで気づく事は無かった。

「・・・ところで、参考までに聞いておきたいのですが、試験はあといくつくらいあるのですか?」

いい機会なので、女は気になっていた事を思い切って聞いてみた。

試験の回数を読み間違えて、うっかり合格してしまっては元も子もないのだ。

「その年によって違うかな。でも、平均して5つか6つくらいみたいね」

ということは、あと3、4つは試験が続くわけだ。

「私は最高4次試験までいった事があるけど・・・地図や磁石はおろか、食料もなしに密林地帯に放り出されて、24時間以内に40キロ先のゴール地点に来いって言われてバンザイしたわ。ちなみに、3次試験までぶっ続けでこなして、体力的にも限界だったし。こういう仕事してるからね、それがどれだけ無茶か、よくわかるのよ。だから、迷わず諦めて次の年に賭けた」

距離だけなら一次試験の半分にもならないが、平地とジャングルでは踏破に必要となる条件が全く違う。

なるほど、あの1次試験でもかなりキツイ課題だと思っていたが、ここから先はさらに過酷になるらしい。まだまだハンター試験を舐めていたようだ。

「げっ、そんなのまであるんですか、スパーさん。体力勝負ばっかじゃん!」

ポンズが嫌そうに呟いた。

同感だ。まあ体力と精神力が大事というのはどんな仕事でも同じなのだろうが。

「そうよー、二人とも休めるときにしっかり休んどきな。審査委員会の目的はあくまでも、受験生の能力を厳密に見極める事。この飛行船が次の試験会場だったとか、実は試験開始は8時とは限らないとか、その手の底意地の悪い引っ掛けはやらないから」

その後、二言三言、互いに抱負なんぞを語り合うと、女同士のささやかな夕餉は早々に解散した。

ポンズは仮眠室で早めに休み、スパーは武器の手入れに戻っていく。

こちらも銃の手入れを済ませて休みたいところだが、先にしておくことがある。

(奴らに、釘を刺しておかないとね・・・)

袖に隠したナイフの柄を、無意識のうちに掴んでいた。













時刻は午後十時―――受験生達の多くは明日に備えて休んでいる頃合だが、受け持ちの試験を終えてしまった試験官たちにしてみれば、ちょうど気を抜いてくつろげる時間帯だ。

広くは無いが、それなりに品のいい内装のプライベートラウンジで、彼らは遅めの夕食をとりながら、今年の受験生達の話題に花を咲かせていた。

「一度ほとんど落としといてこう言うのもなんだけどさ、今年って中々ツブぞろいだと思うのよね」

そう切り出したのは、赤い髪をいくつもの三つ編みにした独特の髪型の女、メンチだ。

「でもそれはこれからの試験次第じゃない?」

メンチみたいな試験官じゃ一人も残れないだろうとブハラは思った。

「けっこういいオーラだしてた奴いたじゃない。サトツさんもそう思いません?」

「ふむ、そうですね」

その言葉にグレーのスーツの紳士は興味をそそられたように頷いた。目を通していた新聞を畳むついでに、傍らのワイングラスで喉を潤す。中身は澄んだ色合いの白だ。

「新人(ルーキー)がいいですね、今年は」

「あ、やっぱりー!」

メンチは頷いた。

「あたしは105番が一押しね!」

「(まあ、あんなスシを出されればね・・・)」

ブハラは何食わぬ顔でチキンのフライを口に運んだ。気難しいメンチとうまくコンビを続けるコツは余計な事を口に出さない事だ。

「しかし、彼は要注意ですよ」

そこで、難しい顔をして口を挟んだのはサトツだった。

「サトツさん?」

「聞いたことはありませんか?全世界の裏社会を牛耳るマフィアンコミュニティ、彼らが要する強力な能力者集団の一人です。ハンター専用サイトで顔写真を見た覚えがありますよ。確か・・・陰獣?でしたかな。16番の男も同じくそのはずです」

「・・・ああ、あのゲテモノ出してきたやつ」

メンチは昆虫のスシを思い出してしまったのか、気持ち悪そうに体を震わせた。

あの時は、思わずブッ飛ばしてしまったが、あの男はメンチの繰り出した拳の威力を自ら後ろに飛ぶ事で相殺していた。ケロリとした表情で立ち上がったのを見たときには、拳に伝わってきた肌の冷たさも相まって、ゾクリと鳥肌がたったものだ。

「我々プロハンターはかなり優遇されていますし、ライセンスを大金で買いたがる物好きも多い。結果として、悪用のみを考えて試験を受けに来る輩は後を絶たないわけですが、今の試験のやり方ではそういう連中を排除しきれません」

サトツは、含みのある物言いをした。

彼はハンター十ヶ条と現行試験制度の改定論者だ。

「ま、それはさて置くとして、私は断然99番ですな。彼はいい」

あのキルアという白髪頭の少年、サトツが見たところ、念を習得していない者たちの中では実力的にトップクラスだ。今の時点であれだけバランスよく素地を備えているとなれば、将来が楽しみなことこの上ない。

「あいつきっとワガママでナマイキよ。絶対B型、一緒に住めないわ!」

メンチのような芸術家肌の人間は、感覚(フィーリング)で物事を判断することが多い。職業柄、あくまで理詰めで捉えるサトツとは、その点で相容れないものがあった。

「ブハラは?」

「そうだね―――新人じゃないけど気になったのが、やっぱ44番・・・かな」

44番、ヒソカ。

彼のことを口にしたとき、メンチとサトツの表情が目に見えて曇った。当たり前の事だが、あの男の危険さには二人とも気付いていた。

「メンチも気付いてたと思うけど、255番の人がキレ出したときに一番殺気放ってたの、実はあの44番なんだよね」

「もちろん、知ってたわよ。抑えきれないって感じのすごい殺気だったわ。でも、ブハラ知ってる?あいつ最初からああだったわよ。あたしらが姿見せたときからずーっと」

「ホント?」

「そ、わたしがピリピリしてたのも半分くらいはそのせい。ただのバトルジャンキーか、それとも快楽殺人鬼か。・・・ま、もう半分は"あの女"のせいだけどね」

"あの女"がどの女のことを指すのか、サトツとブハラには心当たりが合った。

時折、受験生達の中に紛れ込んでくる念能力者。そして、今年の受験生の中で、女の能力者は二人いる。

2次試験の最中、ずっと気配を殺すようにして成り行きを見守っていた、ストロベリーブロンドの髪の少女。

そして、黒いスーツを纏ったアッシュブロンドをシニヨンにした女性。

どちらも思わず目を見張るくらい強力な能力者だ。

だが、どちらかというとブハラは、ピンクの少女のほうにより薄気味悪い気配を感じていた。

「406番・・・生理的に受け付けないわー、ああいうお高くとまってる感じバリバリの女って!」

「(ああ、そっち・・・ていうか、メンチは単にSUSHIが気にくわなかっただけなんじゃ?)」

ブハラはその言葉を飲み込んだ。

「それに、あいつら絶対"例のあれ"っしょ?よくもまあ毎年、能力者ばっか送り込んでくるわ。そもそも連中の都合でハンター試験つかうなっ、つー話よ!」

その言葉にはブハラのみならず、メンチの罵詈雑言を眉をひそめて聞いていたサトツも、控えめながら頷いた。

先に話に出た裏社会の連中もそうだが、ハンター家業からしてみると、彼らのような連中の振る舞いが気に食わないのは皆同じだ。

「奴らいつも上から目線だし、面倒事ばっか押しつけてくるし!んで、いざとなったら力尽くでゴリ押しするし!!」

「・・・俺も連中が好きな訳じゃないよ。何かっていうと、こっちの首根っこおさえつけようとしてくるのは純粋にムカつくしさ」

「私は、半分諦めていますね。何せ彼らを敵に回すと私のハントは立ち行きません。発掘はおろか、事前調査の許可すら下りなくなります」

サトツがため息をついた。遺跡ハンターの泣き所だ。

「・・・あなた方がフリーダムすぎるんですよ。こちらに言わせればね」

不意に、響いた声。

思わず全員が声の聞こえた方を振り向くも、そこには開け放たれたドアがあるだけだ。

「サトツ氏が指摘されたとおり、ハンターに与えられた特権は、個々人の欲望を満足させるためのものではありません。少なからず公費が投入されているという事実をお忘れなく」

今度の声は、先ほどとは逆側の壁。

渦中の人物は壁に背を預け、腕組みをしながらその場の全員を睥睨している。

「(――――速ぇ!!)・・・へーほーふーん、自由はあんたらの専売特許だと思ってたけど?」

メンチは、内心を押し隠して挑発的に笑った。

「もちろん、自由は尊重されるべきものです。我々はコミュニストでもファシストでもない。つまりは、程度の問題ですよ。――――例えば、試験に私情を持ち込んで、受験生のほぼ全員を失格させようとしたり、とかね」

ジェーン・スミスを名乗る黒いスーツの女は、眉一つ動かさず皮肉を口にした。

「・・・で、何の用?一応言っとくけど、ここは試験官専用の控え室だから。用がないなら、つまみ出すよ」

「そろそろあなた方もこちらの正体に気付かれる頃合だと思ったので、一応の忠告を。わかっているとは思いますが・・・わたしに対する意図的な妨害行為は、あなた方のためになりません。それが言いたかっただけです」

その言葉を聞いたとき、ブハラとサトツは眉をしかめ、メンチは薄く笑った。それは空恐ろしくなるような凶暴な笑みだった。

「そんな気、まったくないわよ。こっちにしてみりゃ十把一絡げの受験生と変わりないんだし」

ま、それで落ちたら爆笑ものだけどね、と。

売り言葉に買い言葉。

二人の女は視線を交わした。一方はヘドロのような瞳に無表情、一方はニッコリと笑う。

「―――――結構です。では、よい夜を」

反発、猜疑、不信。三者三様の視線を向ける一同の前をゆっくりと横切ると、女は出てきたときと同じドアをくぐった。

女が後ろに手にドアを閉める瞬間、

「犬がっ!」

はき捨てるような声が、女の背後から響いた。

「・・・犬で結構」









そして。

扉が閉まった瞬間、三人は力を抜いた。

「うはー・・・・・・正直、しんどい」

最後に罵声を浴びせたメンチは、ソファに深々と座り直し、ため息をついてぼやいた。

思いっきりガンとばしやがって、と文句を言いつつ首筋をもみほぐす。

あの女の放っていた壮絶なオーラに当てられたのだ。

「にしても、無愛想な女だこと。まるでどっかの映画の殺人ロボットみたいだったわ」

ブハラは眉根を寄せたが、サトツはまた別の感想を抱いたようだった。

「なかなか的を射た表現です。私もあそこまで無機質なオーラの持ち主は初めて見ました。しかも不気味なほど大きくて、強い」

まじめな顔で同意したサトツの額は汗にまみれていた。

「俺はメンチが手を出すんじゃないかって、そっちの方が不安だったんだけど?」

ブハラがとがめるように言うと、メンチは唇をつり上げてみせた。

「まさか。普段ならどうだが分かんないけど、一応、今は試験官やってるじゃない?そうそう下手なことしないって」

といいながら、二次試験で一度受験生をほぼ全員失格にしているのだから説得力がまったくない。とブハラは思った。

「それにまじめな話、たぶん三人同時にかかっても手に負えなかったと思うし」

「え?!」

ブハラは驚いた。

強いと感じていたが、まさかそこまでとは思っていなかった。しかし、額に汗を垂れ流したメンチの表情が、それが紛れもなく本音だと告げている。

「私も同感です。居るところには居るものですね、あのクラスの能力者が」

サトツは手のひらに吹き出した汗をハンカチでぬぐった。

「我々にとって、戦いの強さとはあくまで"手段"であって目的ではありません。自衛のためであったり、時には不法な同業者や密猟者と戦うこともありますが、それでも戦闘そのものを目的にする者は稀だ。そういう意味では先ほども言った通り、44番は異端児です」

「でもサトツさん、あいつ"すっごく"嫌な女だけど、あの男の同類って感じでもないじゃない?」

メンチはやたら"すっごく"を強調しつつ、難しい顔でうなった。

もちろん、気に入らない女ではある。が、ヒソカとは受けた印象が全く違う。ヒソカのオーラは強烈だ。強烈な悪意と殺意、加えて全身を常時視姦されているような不快感が一緒くたに襲ってくる。

第二試験の間中、あの男はメンチにのみ分かるよう、殺意混じりのオーラをたたきつけてきた。オーラを操る術に長けた能力者ならではの嫌がらせだが、おかげで神経を削られ通しだったので良く分かる。あの女のオーラとは感触が違う。

あの女のオーラは、どこまでも非人間的で無機質だ。家畜の屠殺場で動く自動機械というのは、もしかしたら、ああいうものなのかも知れない。先ほどは冗談で口にしたが、実は未来から来た殺人兵器だと本人が口にしたら、理屈抜きで信じてしまうに違いない。あれはヒソカとはベクトルの異なる狂人だ。

「それも同感です。ヒソカが快楽殺人鬼なら、彼女は職業殺人者のそれに近い」

「しかも、組織の飼い犬になって、ですか?」

メンチが皮肉気に笑った。

「ええ。住む世界が違う、と言ってしまえばそれまででしょう。しかし、何故そこまでしてと思わざるを得ない。彼女達の生き方は、正直理解に苦しみます」

サトツは、そう締めくくった。


















「あ、ジェーン」

「ゴン。それにキルア君、でしたか?」

試験官の控え室を出たところで鉢合わせしたのは、ゴンとキルアだった。

「キルアでいいぜ。クン、なんて尻が痒くなる」

キルアが不機嫌そうに目をそらしたので女は「おや?」と思った。こちらを見る視線に、何か探るようなものを感じたからだ。

「わたしはちょっとお花をつみにね。君らこそどうしたんです?」

「俺たち、ネテロさんとゲームやるんだ。ゲームに勝てたら、ハンターの資格をくれるんだって!!」

ゴンが楽しそうに笑った。

「ゲームでライセンス?」

「暇ならお前さんもどうかのう?」

不適に笑うキルアの視線の向こうには、笑みを浮かべた白髪の老人がいる。

ハンター協会会長、アイザック・ネテロ。

人が悪いので有名な爺らしい。上司にも気をつけるように言われていた人物だ。見れば見るほど単なる枯れた爺だが、あまりに静かによどみなく流れるオーラは、彼女の知る最も強力な能力者にも引けを取っていない。

老人は面白い玩具を見つけたとばかりに人の悪い笑みを浮かべていたので、女は嫌な予感にかられた。

「・・・遠慮します。明日に備えて体を休めたい」

そう断った時だった。

「なんだあれは?!」

誰かが、叫んだ。

見れば、数人の受験生が窓から曇天の向こうに輝く赤い光を指差している。

赤い光点は徐々に近づいてくると、やがてその正体があらわになった。

協会の船と同高度ぎりぎりを漂うように遊弋しているのは、全長250メートルはあろうかという気嚢をもった巨船。

まるで甲殻昆虫のような鋭角なラインを描いた船体は、艶のない黒で彩られていて、見るものを圧倒する威圧感があった。船体の横腹には、うまくカモフラージュされてはいるが、見るものが見ればレーダードームや速射砲といった武装が見て取れる。

それが、全部で三隻。突如現れた飛行船団は編隊を組み、協会の船と同方向に進んでいた。

「威圧的な飛行船だな・・・」

女はキルアの疑問に答えた。

「マザーウィル級、サヘルタ合衆国製の高速輸送艇です。恐らく軍の払い下げ品でしょう」

もっとも、運用者の手で改修が施されているのだろう、見覚えの無い装備がいたるところについていた。

「ふーん」

ゴンが興味のなさそうに相槌をうった。

速度の差は圧倒的なようで、三隻はたちまちのうちに協会の船を追い抜くと、黒い雲海の彼方に消えていく。

ハンター協会の飛行船は、大人数の輸送に適した大型船だが、民間で使用されているタイプなので、軍用船舶に比べればさすがに足の速さで劣る。しかも、あの三隻はそれだけの快速を出していながら、エンジンの駆動音が恐ろしく静かだった。

黒い巨船の船尾にアルファベットの"B"の文字を取り入れた意匠(エンブレム)が刻印されているのを、彼女は見逃さなかった。そのマークには嫌というほど見覚えがあったのだ。

「・・・ボーモントセキュリティサービス。ボーモントグループ専属の警備会社、というよりもボーモントの利益活動を守るためだけに存在する私設軍隊のようなものです。この辺りではあまり目立ちませんが、エイジアン大陸では猛威を振るっていました」

女の眼鏡が、光を反射して白く瞬いた。

その時、

「はぁい、何の話をしてるんですかぁ♪私も混ぜてくださいよぉ♪」

甘ったるい声が、フロアに響いた。

カールにされたストロベリーブロンドの髪を揺らし、ゴスパンクのドレスを纏った少女が現れる。

その少女の姿を目にした瞬間、キルアは顔色を変え、大量の汗を流しながら震えだした。

キャンディ・クルーガー。

二次試験では全く姿を見せなかったので、まさかとは思ったが1次試験で落ちた可能性も考慮していたが、・・・・やはりそこまで甘くはなかったようだ。

キャンディの後ろには、ひっそりと息を潜めるようにして佇む、全裸にブリーフ一丁の男の姿があった。

「(・・・まさか、奴ら手を組んだのか?!)」

海パンと、目が合う。

ヴァイオレットの派手なマスクからのぞく両目には、常と変わらず一切の感情は浮かんでいないが・・・いや、この男にしてはやや焦燥しているように見えなくも無い。

「(何が、あったのか・・・?)」

キャンディは、亀裂のような笑みを浮かべていた。























船内の喧騒を離れ、奥まった一角にその二人は佇んでいた。

一人は物憂げに窓の外の景色をぼんやりと見つめ、もう一人は何が楽しいのか、クツクツ笑いながらトランプをうず高く積んでは、自分で崩す。その繰り返し。

飛行が安定しているとはいえ、揺れる飛行船の床でそれをやれるのは、たいした器用さだった。

「・・・楽しい?」

「うん、すっごく♥」

ヒソカはとてもよい笑顔で、再びトランプを積み出した。

「積んで崩すのが、特にいい♦ボクにとっては、何もかもがそうさ♣」

「・・・それは、少し分かるかも。うちの稼業も、にたようなところあるから」

そう、まずは積むのだ。

客観的な事実と状況を整理し、思考を積み上げた先にこそ、答えはある。

すべてはキルアのために・・・

イルミ・ゾルディックは再び思考に没頭した。
























to be continued…


原作再開だぜ、いやっほおおおおおおおおおおおおお!!



[8641] Chapter3 「The TEST」 ep6
Name: kururu◆67c327ea ID:405e1e52
Date: 2015/03/21 23:20
ハンター試験一日目、深夜。

地上よりはるか上空を、次なる試験会場へと移動する飛行船の中で、ハンター協会会長アイザック・ネテロは奇妙な客を迎えていた。






疲労困憊で眠りについてしまったゴンを寝かしつけた後のことだ。船長になるべくゆっくり航海してくれるよう一報を入れた後で、ネテロは軽く汗をぬぐっていた。

念も使えぬ小僧二人。ボールを取り合うだけの簡単なゲームだったが、それなりに楽しませてくれた。

ネテロの方からは手を出さないとの約束だったが、実際にはさらに適当に手を抜いていて、右手と左足はほとんど使っていなかった。その事に気づいたキルアは早々に諦めて退散し、逆にゴンは決して諦めずに立ち向かってきたのだが、そのあたりに二人の性格の違いがよく現れていておもしろい。

ただ最後、ゴンに突撃をかまされたときだけは少し肝が冷えた。腹にオーラを集中させれば、逆にゴンの頭のほうが潰れてしまうし、といって普通に受け止めるとこちらが痛い。結果的に右手を使って逃げざるを得なかったのだが・・・やっと右手を使わせた!と喝采をあげたゴンの顔こそ見ものだった。やはり血は争えない。

ジンの息子にゾルディックの跡取り。彼らをはじめとして、今期は随分と前途有望な若者が集まったものだ。

いやさ、だからこそ惜しい。

豊作の年には決まって問題児も多く入り込むものだが、今期のそれもまた凶悪な面子が揃っている。

キャンディ・クルーガー、ジェーン・スミス、ギタラクル、そしてヒソカ。

他にもアクの強いやつらがごろごろいる。連中の出方次第では彼らの内ほとんどが、あるいは全員が生きて帰れないだろう。それは、なるべく避けたいが・・・

と、そこでネテロは思考を打ち切った。

同時に、甲高い少女の声が響く。

「はっろ~~う♪久しぶりだね、因業爺。まだお迎えが来ないのかい」

背後の扉が開き、そこから慣れ親しんだ気配の持ち主が入ってきた。

もっとも、決して歓迎したい人物というわけではない。

「そりゃこっちの台詞じゃよ、強突く婆」

スカートの端をつまみながら可愛いらしく会釈したのは、およそ『婆』という言葉には似つかわしくない人物だった。

小柄な体格のネテロと比べても頭二つ分か、あるいはそれ以上に小柄な体躯の幼女。

手足は細く、肌は死人のように病的に白いが、瞳は真新しい銅のように赤い。身に着けているのはいたるところにフリルをあしらったショートスリーブのシックなドレス。漂白したように白みがかった金髪を腰の後ろ辺りまで伸ばし、頭には黒いリボンのついたヘッドドレスを着けている。

唇には黒いルージュ。ぞっとするほど赤い舌をのぞかせて、幼女の姿をしたものはニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべていた。

だが、見た目に騙されてはならない。

ネテロに気配を悟らせず、この距離まで近づける者などざらにはいない。

相手は、齢120を超えるネテロをして、なお倍以上の人生を生きる怪物だ。

「とりあえず一杯どうだい、アイザック。マローネの100年もの。久々に競りに出てたんで、思わず手を出しちまった。嫌いじゃないだろ?」

キャスリン・ボーモントは楽しげに笑うと、片手に持っていたワインボトルを指し示した。

グラスを二つ取り出し、栓に軽く指先を当てる。とたんに細い人差し指の爪が一瞬で錐のように細く鋭く変形すると、幼女はそれをコルクに突き刺し、ポンっと小気味いい音をたてて引き抜いた。

「うむ、善哉善哉」

この相手にうかつに借りを作ると後が怖いが、ワインくらいならいいだろう。赤い液体の注がれたグラスを、ネテロはほくほく顔で受け取った。

芳醇な香りをたのしみつつ、静かに口に含み、じっくりと味わう。

時間の経過のみが生み出すことのできる酸味と苦味、甘味とえぐ味。そのコントラストが実にいい。

「投資するなら国債よりワインだ。ここ100年くらい高級赤ワインの実質利回りは、年換算で4.1%になる。ちなみに連合王国国債が1.5%、美術品が2.4%、切手が2.8%くらいさ。株式は5.2%だけど、あれはリスクも高いから素人さんは手出しするもんじゃない。いざというときに価値が下がりにくいビンテージワインは、投資対象として若い女の子や主婦層に人気が高いんだ。おしゃれだしネ♪」

100年。実際に目の前の老人が言葉にすると説得力が違う。

何せ、ちょうど100年前、ネテロがハンター試験に合格した年の試験官がこの女だ。既にそのころから巨万の富を築いていると評判だった。

「こう世界的に金利が低いと、銀行に預けてたって1ジェニーにもなりゃしないよ。ボクが言うんだから間違いない」

ネテロは呆れたように首をふった。

「まだ金儲けにかかずらっとるんかのう。もう100回は生まれ変わって遊んで暮らせるくらいもっとるじゃろうに」

「まさか!まだまだ足りるものかい。今の世の中、金でしか解決出来ないことも多いぜ」

金の亡者め!

ネテロはジト目で見つめたが、幼女はどこ吹く風だった。

「お前さんみたいな年寄りが金を握ってはなさんから、若いのが年金の支払いもできんくらいに貧乏するんじゃよ」

非正規雇用の増加にブラック企業、ワーキングプアー・・・etcetc。そんな時代の悪化を巧みに利用し続けているのが、目の前の悪党に代表されるハゲタカファンドの連中である。

「アハハハハ!まったくいやな時代だよねえ!本当なら70年代には実質経済の成長は飽和状態に達してたってのにサ♪情報技術が金融と結びついたもんだから、さあ大変。世界全体の実質資本は金融商品の50%もあればいいほうなんじゃない?」

ケラケラと楽しそうに笑いながらキャスリンは一口100万ジェニーの高価な液体を一息に飲み干した。

唇の端に赤い液体が一筋垂れるのを、チロリとなめとる仕草を見て、まるで吸血鬼のようだとネテロは思った。他者から血の代わりに金を吸い上げる魔物だ。

「なんだい、馬鹿に食いつくじゃないか?そろそろ老後のことでも考え出したのかい?ええ?」

ネテロはもう苦笑するしかなくなって、ワインの残りを飲み干した。

今なおハンター協会を背負って立ち、最強の能力者の地位に留まり続けるネテロに対して、「老後」などという言葉を向けられるのはこの老人くらいのものだろう。

「そこそこ安全に利ざやを稼ぎたいなら、インデックス投資かETFが一番だぜ。S&P500に連動したETFでも買っときな。ここ10年のスパンで利回りを平均化すりゃ、単年度あたり7%にはなる。こいつは、キーマンショックの影響を含んだ上での数字だ」

あの時は流石のボクも往生したがね、とキャスリンは続けた。

数年前に発生した、某巨大ヘッジファンドの破綻に伴う金融恐慌。一時はサヘルタを中心とした世界恐慌に発展しかけ、今なお世界経済に負の影響を残している。

「実際には税金引かれるからそこまでいかねーかなぁ。政治家とか死ねばいい。軍事費あんなにいらねっつーの。研究費ならともかく」

昔からこの手の話題になるとキャスリンの顔は生き生きと輝きだす。それは、ネテロとはまた違う獲物を追いかけるハンターの顔だ。

ネテロは嘆息した。

「あいもかわらず意気軒昂じゃのう、ご老体。ワシのことはともかく、自分はいつ引退する気なんじゃ?」

それを聞くと、キャスリンはフンと馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「何いってんだい。生涯現役はお互い様だろ、ボケ爺。ボクが引退するのは、ボクが死ぬときか、資本主義そのものが死ぬときサ♪」

それでは永遠に生き続ける気なのだろうか・・・?

思わずネテロは陰鬱な気分にとらわれたのだが、

「なぁに、そう遠い未来のことじゃない」

キャスリンの口調にほんの少し冷ややかなものが混じったので「おや?」とネテロは思った。長い付き合いのネテロだからこそわかる微妙な変化だった。

「90年代の半ばから、世界経済は事実上、二次元から三次元にシフトしている。IT革命の脅威ってやつだね。情報技術ってのは、金融とすごく相性がいいんだ。しかも、1933年にボク自身が成立させた不文律、銀行が他の金融機関を所有することを禁止する伝統も廃止されて久しい。それが貧富の差を極端に開かせた。r>gだね」

「でもさ」と、揺れるワインの水面を見つめながら、独り言のように続ける。

「貧富の差は、進みすぎると経済そのものを窒息させる。あまりにも一局に集中してしまった富は、正常な経済活動に還元されない。当たり前だね。どんな贅沢をしたって、人一人が生む消費活動なんてたかが知れてる。ブランド品なんかがその典型だ。ごく一部の層しか必要としない高価過ぎる嗜好品は、経済の潤滑油にはなり得ない。規模が小さすぎるんだ」

キャスリンは残り僅かになった酒を、グラスに注ぎ足した。

「貧乏人は言う。「俺たちは99%だ!」「富の不均衡は是正すべきだ!」って。でも金持ちにも金持ちの理屈がある。難しい話じゃない。感情論だよ。「なんで、ろくに稼げもしないクズどものために、俺たちが身銭を切るんだ」ってね。・・・・どっちの理屈もわかるんだよねェ、ボクとしては」

いつのまにか、その口調からはおどけた調子が消えている。

「今後、貧富の差は拡大し続ける。それも加速度的に、だ。そしたら、また革命かな?83年前のように、あるいは208年前のように・・・」

その奈落の底のような目で、数世紀もの間何を見続けてきたのやら、ネテロには想像も付かない。

「せめて通貨を統一してやりゃあ、もう少し世界がまともになるかと思ったんだけどなぁ・・・。資本単位の共通化は戦争の発生を不可能に追い込む。・・・皮肉だね、格差の是正に最も効果があったのは結局、戦争だったっていうんだから」

キャスリンは自嘲するように鼻を鳴らすのを、ネテロは静かに見守った。

共通通貨ジェニー採用の影で、この人物が暗躍していたという噂は、ネテロも耳にしたことがある。

「最近、おもしろい本が出たよ。今ヨークシンで一番読まれてる本だ。よかったら読んでみな」

どこに隠し持っていたのやら、キャスリンは分厚い本を取り出した。『Le Capital』・・・白い表紙に金文字の修飾が入った、いかにもお堅そうな本。

ネテロは見ただけで頭が痛くなった。所詮、こちとら根っからの武道家だ。脳筋上等。その手の分野は専門外である。

よく見ると、本には至る所に付箋紙がはさんであった。相も変わらず、勉強熱心なようだ。

「ハハハ、その手の議論はまたの機会にのう。これでもわしゃ多忙なんじゃよ。・・・で、まさか酒の差し入れのためだけに顔を出したわけじゃなかろ?お前さんを招待した覚えはないんじゃがな?」

そろそろ老人の長話に付き合うのも飽きてきていたので、ネテロは単刀直入に聞くことにした。

経験からして、この女がこうやって韜晦してみせるのは、決まって何かをやらかすときだ。

今回は何をしでかしてくれるのかという不安感、そして何をしでかしてくれるのかという期待感。その両者を押し隠し、とぼけた顔を崩さぬままネテロは注意深くキャスリンの横顔を観察する。

「・・・リッポー君に呼ばれたんだヨ。試験の手伝いに、ね。ついでに、古なじみの顔を見に来ただけさね」

キャスリンはボトルに残った酒を残らずグラスに注ぎ込み、ゆったりと"結婚(マリ)"しながら、芳香を味わっている。表情からは、既に何の感情も読み取れなかった。

「今年はえらく豊作だそうじゃないか?4次試験で受験生に張り付かせる試験官の数が足りなくなりそうだってんで、はるばる重い腰を上げたんだ」

確かに、この分では4次試験で必要な試験官が足りないという懸念は当然だろうし、それに対して早めに手を打つというのも分からなくもない。

だが、そこでよりによってなぜこの人選なのだろう。

「3次を通過した後の人数次第だけど、4次試験の前にボクが特別試験をするかもね。さっき、うちの船がこの船追い越してっただろ?あれはそのための小道具をいくつか積んでたんだ。ま、期待しておくれヨ♪」

嫌な予感しかしなかった。




























ヨークシンシティ、ミッドエリアの一等地にその建物は建っていた。

地上110階、420メートルにもなる、直方体型超高層ビル。

50年代半ば、老朽化した付近一帯を再開発で全て更地にし、巨大なオフィスビルを複数作って貿易関係の企業を集積させるという計画が持ち上がった。当時はヨークシンに鉄道の終着駅があったこともあり、商業区の発展が急務とされたのだ。しかし、経営は60年代のモータリゼーションの発展によって頓挫し、親会社は破産した。

債権回収に赴いた『とある銀行』によって土地が差し押さえられ、ビルの施工計画も白紙に戻されかけたが、当時、力を持ち始めていた"とある団体"がそれに待ったをかけた。

その後、計画は『とある団体』のテナントを入居させることを条件に、再始動することとなる。

設計は抜本的に見直され、有効面積を増やし賃貸収入を上げるため、フロア内に一本の柱もない大空間を可能とさせるチューブ構造が採用された。これはビル中央にエレベーターやライフラインを集中させつつ、外壁全体に鉄骨の支柱を配して重量を支えるという、当時としては極めて画期的な施工だった。これにより、同じ床面積を1階から最上階まで確保することが可能となり、後に続く高層ビル郡の魁となった。

また、ヨークシン港に面したローワー・ミッドタウンは四季を通して風が強く、超高層ビルへの影響が懸念されたが、チューブ構造の柔軟性は頑強なタワー中心部に揺れを集中させるため、暴風時でも最上階付近ではほとんど揺れを感じないという利点があった。

70年代初頭に、ヨークシンの新たなシンボルとして落成したその建造物の名は、セメタリー・ビル。

『とある団体』こと、マフィアン・コミュニティの肝いりで建造された、超巨大複合商業施設。

その最上階の特別室には、ヨークシンの闇を支配する4家族が顔をそろえていた。







「通らば、リーチ」

オーラスの局面で高らかにリーチを宣言したのは、スキンヘッドの黒人だった。

象牙の牌を触る太い指には、大降りの宝石を付けた指輪をいくつもはめ、身に着けているのはド派手なピンクと黒のスーツに、白いカシミヤのマフラーという、いかにもなギャングスタイル。

ヨークシンに生まれヨークシンに育った生粋のマフィア、ジェラーノ・ストダード。

別名、ポルノ界の帝王。元は裏町を取り仕切る娼婦組合の元締めだが、アダルトビデオのネット配信事業にいち早く目をつけ、今や年商1000億ジェニーに上がろうかという一大興行に成長させた立役者だ。

最近では有り余る財力を用いて、ケーブルテレビ局を買収し、その伝手で芸能人や著名人、あるいはセレブな階層との付き合いも多いという。その一方で、人気女優を何人も囲っていたり、有名ブランドの商品を店ごと買い取って散財したりと、私生活の派手さでも知られている。

その右手は牌を弄びながら、左手は脇に侍らせた愛人の胸を弄んでいた。

「Oh,Yes!!Oh,Yes!!」

あえぎ声を上げたブロンドの女は、最近ジェームズに取り入ってテレビの出演枠を勝ち取った若手女優の一人だった。

「悪いが、そいつはロンだ」

ジェラーノの上家に座る青年が、栄和を宣言した。

ダークグレーのカジュアルスーツをすきなく着こなした二十歳前後の優男。モジャモジャとした黒髪の天然パーマを収まり悪く撫でつけ、線は細いが整った顔立ちをサングラスで隠している。牌をいじくる右手の甲には、黒い蠍の刺青(タトゥー)が刻印されていた。

「黙テンか。しかもメンピン。しょっぱいぜ、リッツの若旦那」

「これでまくってトップ確定だからだよ」

そう肩をすくめて見せたのは、5年前に起きた"とある抗争"以来、落ち目に転じたリッツ・ファミリーを見事に立て直した若き頭目、スコルピオ。

血で血を洗う身内同士の抗争の末、実の父親を殺してドンの座を奪い取り、暗黒街に新たな伝説を築いた超新星。そのカリスマに魅せられてスコルピオの元に集うアウトローは後を絶たない。

史上最年少の十老頭は、よく切れるナイフのように静かな威圧感を漂わせていた。

「横から失礼、頭ハネですわ」

点棒代わりの札束を(ちなみにレートは1点1万ジェニー)部下に運ばせようとしたジェラーノの手をとどめ、自らの手牌を倒したのは、下家に座る女性だった。

十老頭筆頭、赤龍幣(レッドドラゴン)を率いる王大人の代理人、王麗華(リーファ)。

年の頃合は20の手前。黒く艶のある長い髪を後ろに流し、切れ長の瞳に赤い唇。スリットのきつい真っ赤なチャイナには、金糸で縫い取られた五指の龍が輝いている。

近頃、王大人は体調が優れないとかで、もっぱらこの孫娘を名代に出すのが常だった。

「あちゃあ、三色ドラ・・・チッチか。ま、美人に当たったほうがまだマシだわな。小姐、今度二人っきりで食事でもどう?」

「あら、お上手ですこと」

麗華は見事な金細工の煙管から口を離し、血のように赤い唇をうっすらと笑みの形に歪めたが、切れ長の瞳は少しも笑ってなどいない。

「婆さん、あんたはいつもどおりの見物麻雀か?」

「・・・・・・」

スコルピオに揶揄され、黙って手牌を見せたのは、対面に座る喪服じみた黒いドレスの老婆だった。

「ほ、混老頭、対々和、ドラドラ!!」

「ダブロン有りなら飛んでたよ、お前」

邪悪な笑みを浮かべた老婆の手牌を見て、ジェラーノが息を飲んだ。

老婆の正体はボーモント・ファミリー家長、ベノア・ボーモント。5年ほど前に表舞台からも裏舞台からも姿を消したキャスリン・ボーモントに代わり、組を動かしている古狸だ。

マフィアとしては飲み屋にカジノを1件づつ持っているだけの小さな組にすぎないが、歴史の古さは随一。ヨークシン最初期の移民を纏め上げ、今なお移民2世、3世達の元締めとしてあらゆる分野に少なくない影響力を持っている。何より、背後に一大金融グループを抱える財閥総帥としての顔が大きく、その資金力は他のマフィアの及ぶところではない。

表家業が成功するにつれて、マフィアン・コミュニティからは徐々に距離を置いていて、かつては出品される品のほぼすべてにボーモントの息がかかっているとされた恒例の闇オークションにしても、今では義理掛けに一つか二つ、そこそこの品を出す程度。同業者からは、本格的に足を洗うのも時間の問題と見られていた。

さすがに御膝元であるヨークシンの情報には耳を尖らせているようで、こういった会合には参加し、波風の立たぬ程度に口を挟んでいる。

「そろいも揃って、呼吸が読み易過ぎるのさ」

この手の心理戦と確率論が組み合わさったギャンブルは、念能力者のもっとも得意とするところだ。卓越した念の使い手に、博打のヘボはいない。

「よく言うぜ、婆さん。どうせ老い先短ぇんだ、若いのに小遣いくれてやったってバチはあたらねえだろうがよぅ」

ジェラーノが嫌そうにぼやいた。

千点で1000万ジェニーが動くこの場のレートでは、大物手は不要。先ほどからジェラーノとスコルピオは互いに小ぶりな役で振り合い、両者の隙をつく形でリーファが点棒を稼ぎ、ベノアは振らず上がらず見物を決め込んでいる。

「さて軽く1局打ったところで、もう一勝負といきたいところだが、先に仕事の話を済ませちまおう」

札束の清算が一段楽したところで、今日の会合の発起人であるジェラーノが、場を仕切りなおした。適度に社交を交わしたところで、ここからが本題だ。

「俺たちに新たな稼ぎをもたらしてくれるハンター試験だが、二次試験までが終了したところで会場移動の真っ最中。ちょうど一休みってところだな。ご覧のとおり、お客様どもにはすこぶる好評だ」

ジェラーノは周囲の薄暗闇に両手を広げた。

薄闇に包まれた室内に浮かび上がるのは、白を基調としたラウンジに、無数の黒い革張りのソファ。

モノトーンを基調とした空間には、広々としたボックス席に、落ち着いた雰囲気のバーカウンターが複雑な幾何学模様のように配置されていた。

四方の壁や天井に設えられた液晶ディスプレイには、どうやって撮影したものか、一次試験の最中に命を散らした受験生達の哀れな末路が、延々と映し出されている。

その陰惨極まりない光景をツマミに、無数の男女が酒や賭博に現を抜かしていた。

セメタリービル最上階、ワンフロアぶち抜きの特別室を借り切った、ストダード・ファミリー直系の秘密クラブ『悪の園(タルタロス)』。

会員は政治家、弁護士、会社社長、大学教授、あるいは政府職員等等・・・いずれも地位と名誉を併せ持ち、余人が知れば耳を疑うような職種の者たちばかり。世の中にそれと知られた人格者が、この秘密クラブには数多く名を連ねている。

客達は、みな顔を隠す仮面を付けていた。

目元のみを覆い隠す極彩色のマスク、それは注意して観察すれば個人を特定するのはそう難しくない程度の代物。

だが、それは互いの正体を詮索しないという、暗黙の了解を確認するための小道具でしかない。このクラブの唯一のルールは、互いの正体を探らない事。それだけ。それ以外の全てが、この場所では許される。

普段、表社会で生きるためにかぶっている紳士淑女の仮面を脱ぎ捨て、心のうちに抱えた黒い欲望をさらけ出し、"下種"になることのできる愉悦を味わう事。それが、クラブの趣旨。

そんな彼らに欲望のはけ口を提供し、変わりに恥部を押さえ、秘密を守らせることで、組織の意向に逆らえなくする事。それが、クラブを提供する者の趣旨。

かつて"バルバロイ"なる新興組織が開催していた地下クラブ。それを引き継ぎ、現在の形に落ち着かせたのがジェラーノだった。

ちなみに、当時のクラブ主催者は、調子に乗って他の組織の利権を食い出したために、他の4組織によってよってたかって粛清されたといわれている。少なくとも表向きマフィアンコミュニティにはそう報告された。

「ボス、そろそろ時間ですが」

「ああ、わかってる」

部下からマイクを受け取ると、ジェラーノはスーツの襟を整え、安っぽいクイズ番組の司会者のような仕草で大仰に両手を広げた。

「紳士淑女の諸君!!楽しんでるかい?今夜も刺激的な夜がやってきたぜ!!」

その言葉はフロア全域に響き渡り、その場の全員の視線がジェラーノに集中する。

「さぁて、堅苦しい挨拶は抜きにして、一丁おっぱじめようか!!」

ジェラーノが指を弾くと、背後の壁が左右に割れ、そこから壁一面を埋め尽くす巨大なディスプレイが現れた。

そこに映し出されたのは、

『ぷっろでゅーさーさぁああああああああん!!こんばんちゃああああああああああああっす!!!』

ピンクと黒に彩られた、サイケデリックな美少女。

今回の賭博を仕切るストダード・ファミリーから送り込まれた試験参加者にして、直属の殺し屋。

ストロベリーブロンドの髪を揺らしながら、キャンディ・クルーガーはまるで年頃の少女の如く、けたたましく笑った。

『ハ~~イ!ファンの皆さん、グッドイブニング!!エログロ・スプラッタ系超絶人気アイドル、キャンディちゃんどぇ~~っす♪』

ちなみにキャンディの後ろには陰獣の姿も映っていて、各々気だるそうに突っ立っていた。

蛭は何やらおぞましいものを見るようにキャンディを見つめ、病犬は忌々しそうに舌打ちをしている。さらにその背後では、海パンがつまらなそうに鼻クソをほじっていた。

「・・・?キャンディちゃん、綺麗なお手手が血まみれなんだけど、なんかあったのかなぁ?」

キャンディ笑顔は悪魔のように素敵だったが、Vサインをかました両手は誰かの血にまみれている。

『あ、これ?ついさっき船の中でナンパされたんですぅ。キャンディったらうれしくなって、ついやっちゃったの!テヘペロ♪』

まるで今気付いたとでもいうように、血まみれの両手を恥ずかしそうに後ろに隠して、この笑顔である。

ジェラーノは肩をすくめると、気を取り直して画面に向き合った。

「じゃあ、キャンディちゃん、始めておくれ」

『はーーい。さあ~~って、あの子もどの子もみんな気になる下馬評のお時間よ!今回はハンター試験3次会場に向かう飛行船から、特別生放送でお伝えしておりま~~~す♪』

キャンディの映し出されていた画面が左右に二分割され、右側に有力馬、もとい受験生の名前と顔写真、そして賭けのオッズが表示された。

『やや盛り上がりに欠けた出だしで始まりましたハンター試験ですが、まさかの本選1次試験から大量の死者、行方不明者続出で大番狂わせとなりました!詐欺師のねぐらと呼ばれる危険生物うごめくヌメーレ湿原に、あえなく散った受験生は200名超!!』

客が一斉に歓喜のため息をつく。

このクラブでは普段、多額の負債を抱えた多重債務者を適当に見繕って、互いに殺し合わせるといったお気楽なバトルをネタに、軽いギャンブルを提供している。

だが、同じネタばかりを繰り返せばいずれ飽きられる。常に新しい刺激を与え続けなければ、目の肥えた客どもは満足してくれないのである。

そこで注目されたのが、ハンター試験。

史上最も過酷とされる、公然と人死にの多発する悪魔のゲーム。これを見世物にしない手は無い。

夢や希望、あるいは野心。そのすべてを抱いてハンター試験に参加した受験生達。若く、才能があり、野心漲る連中が、みるも無様に死んでいくところなど、そうそう拝めるものではない。

『過酷なことで知られるハンター試験ですが、マフィアもびっくりなおっそろしい試験内容のおかげで、オッズは乱高下を繰り返しておりま~~す!!』

賭けは試験が続く限り夜毎繰り広げられるが、試験期間は1週間から2週間と程ほどの長さがあるため、そこそこ長丁場となる。観客もさすがに一日中ライブで中継を見守り続けるわけにはいかないので、運営側が編集した映像のダイジェスト版を、専用会員サイトにアップすることでお茶を濁していた。

賭けの基本は誰が合格するか、であるが、何人の受験生が生き残るか、あるいは誰がトップで試験を通過するかなども賭けの対象になっている。

単勝、連勝単式、順不同の連勝複式、一、二、三位を予想する三連単。あるいは好みの選手を三人選んで順不同の三連複・・・etcetc。もちろん各々で倍率が馬鹿みたいに違う。

レートは一口100万ジェニー。今のところ最大倍率は1200倍(もちろん大穴)なので一発当てれば一夜で一財産できる計算だが、それでも運営費と経費を全体から差し引いた額を当選者に配当しているだけだ。興業主の儲け――――控除率は二割五分。何もしなくても四分の一は胴元に転がり込むのだ。

『では改めて有力馬の紹介です!』

「ジャジャン!」と安っぽい効果音と共に画面に『カチグミ』『カネヅル』『種馬』『実際ヤスイ』等のテロップが表示される。

『まずは気になる大本命!賭け率1位はもっちろんこのあたし、受験番号219番、キャンディ・クルーガーちゃんでーーっす!!みんなぁ、愛してるぅ~~♪』

キラキラと目を輝かせながら両手を組んでアピールタイム。プロデュサーことジェラーノに仕込まれたあざとい演技に、一部のファンはもうメロメロだった。

『ただし、どこぞの年考えろなゴスロリ筋肉婆ぁに通報するやつがいたらぶっ殺すから、夜露死苦!!』

あざとい笑顔を維持したまま両手で中指をおったてるキャンディに、観客達は下品な歓声を浴びせ、会場中が異様なテンションに包まれた。

強力な実力を持った殺し屋であることのみならず、キャンディは美しさと悪辣さ、そして独特のカリスマを併せ持っている。彼女がヨークシンに姿を現してから、まだ半年も経ってはいないが、既に多数の熱烈な信奉者達を獲得し、いまや暗黒街のニューヒロイン。

悪趣味な見世物に、ジェラーノは手駒の優秀さを誇るように自慢げな笑みを浮かべた。だが、スコルピオはどうでもよさそうに酒のお変わりを注文し、リーファは煙管に新たな刻み葉をつめる作業に気をとられていた。老婆にいたってはちらりとも感心を示さず、居眠りでもしているように、両目を浅く閉じている。

『気になる二番手は、受験番号44番、最近評判の殺人鬼、基地外ピエロ・ヒソカ!!』

モニターに頬の返り血を妖しく舐めとるヒソカの横顔が映し出された。

一次試験で大量殺戮を行った際の映像のようだが、左手でこっそりピースサインをかましているところを見ると、どうやら隠し撮りには気付いていたらしい。

『本選開始当初はさして注目されていませんでしたが、1次試験終盤で見せた大量殺戮がオッズに響いて、この人気!!』

カメラは徐々に切り替わり、ヒソカの惨殺シーンをノンテロップで映し出していった。

トランプ一枚を振りかざし、次々に人を血祭りにあげるヒソカの姿は一種、魔的な美しさがある。人の首が中に舞うたび、観客達は拍手喝采。さながら古代のコロッセオのように流れる血に酔いしれた。

『さーて、噂の幻影旅団の切り込み役がどこまで無茶やらかすか、楽しみですね~~♪血しぶき、惨劇、酒池肉林!!』

ケタケタと笑いながら、キャンディは上機嫌で解説を続けた。

『意外や意外な三番人気は受験番号406番!元・ヨークシン市警の殺人刑事、"先にこいつを逮捕しろ!"でおなじみの、"殺戮天使(ジェノサイド・アンヘル)!!』

画面に死んだ魚の目をした女の顔が映し出されると、先の熱狂は一転し、会場中から一斉にブーイングが巻き起こった。

「誰でもいいからあのアマぶっ殺せ!!」「爆乳もませろ!!」「輪姦せ!!」「アヘ顔さらさせたるわ!!」

あの暴力警官に叩き潰された組織の数は、両手の指に余りあるのである意味妥当な反応である。が、逆に言えば相手の恐ろしさは嫌というほど身にしみているので、それがオッズの人気に表れている。

この耳を覆いたくなる罵詈雑言も、実際には本人に手出しできないが故の反応だった。誰だって危険物に手を出して死にたくはない。人は妄想の中では自由なのである。

『なんつー斜め上の人気。でもうらやましくないし、憧れもしない』

突如として巻き起こったレイプ・コールにキャンディは珍しく頬を引きつらせていた。

『しかしこの人、よく大手を振って娑婆を歩けるもんですねえ。いくら相手が犯罪者だって、殺した数は三桁に届くとかなんとか。噂じゃ、所轄警察署の同僚全員皆殺しにして姿を消したって話ですが・・・いやはや、さすがの私もどん引きだわ』

キャンディはやれやれと呆れたように頭を振るが、客席からは「お前が言うなw!」と冷やかしの声が飛んだ。

『同じく同率3位がもう1人!受験番号82番、ボーモントの誇るリーマンヒーロー、定時上がりの正義の味方!!歩くわいせつ物ことMrブリーフ!!』

キャンディの背後から、怪しい金ラメマスクの怪人が登場した。たくましい筋肉をもった巨漢が妖しくポージングをかますと、乳首に直接取り付けられた受験番号のプレートがプルプルとゆれる。

画面の向こうにパンツ一丁の怪人が現れると、突如として一部のコアなファンから絶叫があがった。

「Hoooooooo!!」「OH!HENTAI!!」「アニキ!!」「変体仮面!!」「抱かせて!!」「抱いて!!」「俺ん中で出せよ!」

どいつもこいつも目を血走らせ、もっこりとしたふくらみの素敵なブリーフの辺りに視線を集中させている。

『ねーわー・・・ほんと海パン大好きねェお前ら。いったいあれのどこがいいんだか小一時間問い詰めたい、マジで』

素でドン引きしつつもプロ根性を発揮して解説を続けるキャンディだが、その額からは一筋の汗が垂れている。

『さ、さーて気を取り直していきましょう!1位から3位までを解説したところで、次は皆様に期待の有力馬をご紹介したいと思いま~~っす!!その名は、受験番号301番、ギタラクーーーール!!』

その言葉とともに、画面が唐突に切り替わる。キャンディに代わって映し出されたのは、長く伸ばした黒髪の美しい、端正な顔の青年である。

観客の一部から困惑の声が上がった。これまでほぼノーマークの選手だったからだ。

手元の冊子(賭け馬一覧表、詳細プロフィール&解説つき)を広げるも、記載されている顔写真―――全身に針を突き刺したマゾ野郎―――と画面の向こうのイケメンとを一致させる事ができず、全員が首を捻っている。

『見た目の違いに困惑された方もおられることでしょう。ですが、正真正銘、彼こそがギタラクルの名で試験に参加していた人物にまちがい御座いません!イカレタ針人間こそは仮の姿、これがギタラクル氏の素顔なので~す♪』

画面の中に、再び妖しい笑みを浮かべたキャンディが登場した。

その細い腕をギタラクルと呼ばれた青年のほおに伸ばし、ぺたぺたと撫でさすっている。

『さあ皆様、御拝聴くださいませ!これまでまったく正体不明のギタラクル氏でしたが、ここにきて恐るべきダークホースだったことが判明しました!な・な・なんと!その意外な正体とは、あの、あの伝説の暗殺一家、ゾルディック家のご長男、イルミーーーーー・ゾルディィィッッック!!!!』

「「「おおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉ!!」」」

キャンディがこぶしを利かせてその名を告げると、観衆から絶叫が上がった。

伝説のゾルディック家の名前が出たことで、その場のテンションはうなぎのぼり。何せ、この場に集う人間で、かの暗殺一族を知らなければそれこそモグリである。

気の早いものは既に席を立ち、会場隅にもうけられた賭券販売コーナーに突進している。同時にオッズも急上昇。観客どものミーハーぶりを示すように、他の候補者を一気に押しのけ、一躍イルミがトップに躍り出た。

『あ゛あ゛~~ん、ぐやじぃ~~!ぬーがーれーだー!でもかんじちゃうびくんびくん!下着の中までぐっちょりよん♪!!』

びくんびくんと震えながら床をのたうちまわるキャンディ。その姿をイルミが生ゴミでも見るかのように見下していた。

「HAHAHA!!さすがにゾルディックの名を出されちゃあ、かなわねぇなあ。キャンディちゃん、ちょっと相手が悪いかもしれないけど、がんばっておくれ!」

『うん、あたちがんばゆ!!』

・・・等と掛け合いを繰り広げながらも、実際にはジェラーノは内心でほくそ笑んでいる。

何せ、彼の手駒であるキャンディが一番人気という状況は、組の力を示すという意味では悪くないのだが、賭けの興行としては面白みに欠ける。何より、皆が皆、安全確実な優良馬に賭けてしまうと、胴元の取り分が減るのだ。

だが、ここでビックネームを持った『当て馬』が登場し、客の関心を引っさらっていくとなると、話が違う。

こうやってオッズの比率を操作した上で、最終的に彼の子飼いのキャンディを勝たせてしまえば、多額の掛け金がごっそりと胴元のジェラーノに転がり込むのだ。

もちろん、先ほどヌメーレ湿原でやりあったイルミとキャンディのひと悶着と、その後のやり取りは観客たちには伏せられている。賭けの一切を取り仕切る、ジャラーノだからこそ可能なトリックだ。

そのために、ゾルディックの名を持つが故に『当て馬』に選ばれ、弟を人質にとられた上でクズどもの見世物に成り下がっているイルミこそ、いい面の皮だった。

「・・・・・・・・・」

静かに佇むイルミだが、当然その心中は、煮えくり返っている。

・・・このとき、イルミはいつか必ずマフィアとか十老頭とか皆殺しにしてやろうと硬く決意していた。

『伝説の暗殺一族(笑)こわいですねー!!おそろしいですねー!!』

イルミの肩口によじ登ってうりうりと頬ずりするキャンディ。その笑顔には悪意が滲み出ていた。イルミは微動だにせず、無表情を貫いていたが、よく見ると握り締められた手元が細かく震えている。

そのことに気付いたスコルピオや麗華あたりは、うっすらと人の悪い笑みを浮かべていた。

他人の不幸は蜜の味。それも暗殺一族として名高くも恐れられているゾルディックが、なすすべも無く無様な玩具に成り果てているのだから、愉快なことこの上ない。

『ちなみに、彼のかわいいかわいい弟君ことキルア・ゾルディックきゅんも試験に参加しておりますわん♪』

続く一言に、イルミの肩がビクンと僅かに震えた。

『なお、このままあたしがハンター試験を終了するまで無事だった場合、キルアきゅんにはとーーーっても素敵なグチャドロ・バッドエンディングをプレゼントすることを確約いたしまーーーす!!』

「・・・!!!!」

イルミは視線で人が殺せたら百回は殺せそうな物凄い形相を浮かべた。

『ゴンきゅんやクラピカきゅん達との強制BLプレイとか!!』

キャンディが両手でファックサインをかますと、女性層から歓声が上がった。

「っきゃああああああ、キルアきゅ~~ん!」「クラピカ様はお肌のキメが細かくて、お化粧のノリがよさそうですわねえ。まったくプレイが楽しみですのことよ」「ええ、キルア様との絡みがどうなるか、想像しただけで濡れてしまいますわ」「あら、奥様はキルクラ派でございますの?悪趣味ではなくて。ゴンキルが最高でございますわ」「ほほほ、奥様、表にでやがれですわ」「まあまあ、よろしいじゃありませんの。ちなみに私はイルキル派ですわ」「ええ、美少年を見たらカップリングを妄想するのは婦女子のたしなみですもの」「男の娘×女装ショタは業界の標準ですものね」「そういえば奥様のところのお子様、女装が板についてきたとか?」「ええ、恥ずかしながら今ではお尻の拡張に挑戦中ですわ」「すばらしいですわ」「ええ、まったく」

有閑マダム達の不穏当な会話をよそに、キャンディが恍惚とした表情で、ずっこんばっこんと腰を突き出す仕草をすると、魅惑の腰つきに一部のコアすぎる観客達はさらなる黄色い歓声をあげた。

『さあさ、果たしてイルミおにいちゃんは、弟きゅんのぷりてぃポークビッツにすっごいことをされる前に、このあたしの魔の手から救い出すことができるのでしょうか?!!』

ちなみにノリノリでマイクを握るキャンディを眺めながら「これさえなけりゃなあ・・・」とジェラーノが割と深刻なため息をついていた。ジャポンの人間ではあるまいし、あまりにも未来に生き過ぎている変態には、さすがの彼も付いていけないのである。

『ぐへへへへへへへへへ!!さ~~って、残りの連中はさっくり紹介するわよん♪つっても、トップ4改めトップ5以下はほっとんど横ばいね。陰獣(笑)の皆さんがんばって~~!!』

キャンディがケラケラと馬鹿にしきった風に笑うと、会場中から「陰獣(笑)」と同調して失笑が漏れた。

手駒を馬鹿にされた二人の内、スコルピオは黙って手の中のグラスを握り砕いた。

敵対者の心臓を抉り抜くと噂されるスコルピオの右手。掌に刻印された蠍のタトゥーが酒に濡れ、不気味な色合いのオーラを放ちながら妖しく輝く。

「・・・おっと、いけねえ。ちっとばかし加減を間違えた。同じのをくれや」

「へい」

部下に代わりを持ってくるよう命令する姿からは一切の感情はうかがえない。だが、嘲笑を浮かべていた観客を青ざめさせるには、十分な迫力があった。

それを横目に見ながら、麗華はゆったりと煙草の煙をくゆらせる。

煙管を弄ぶ細い指先に絡みついていた黒い蛇は、毒の滴る牙をむいてシューシューと唸りだし、胸元でブローチの代わりを務めていた蠍が尾を振り回して威嚇を始め、さらに金の簪の先端で飾りのように動かなかった大蜘蛛は不気味に足を蠢かせた。

「好好、乖乖(よしよし、いい子いい子)。帰ったら"やわらかいお肉"を食べさせてあげますからね。もう少し静かにしてなさい」

毒蟲達の嘶きに、場は再び静まり返った。

だが、それで彼らへの嘲笑が全て消え去ったわけではない。

「ケッ、アカンたれのボンボン共が!」

「もうお前らの時代じゃねーんだよ」

ごく一部の者は、ひそひそと嘲りの言葉を口にした。間違っても、本人達には届かない程度の声で。

マフィアンコミュニティの暴力装置、抑止力として機能するはずの『陰獣』が、容易く失笑を買うこの状況。それこそが、ある意味では今回の騒動の発端だった。

『皆様、さらに、ここで重大発表が御座います!!』

一通りの紹介が終わり、賭けの予想で盛り上がり始めた観客達へ、最期にキャンディは爆弾を投げ込んだ。

『本ハンター試験にはヨークシンを代表する4家族から代表者1名が参加しておりますが、見事ライバルを叩き落してハンターライセンスを手にした者の組には、なんと!!新たに十老頭の地位が与えられまーーーす!!』

嘲笑を浮かべるキャンディの瞳は、明らかに麗華とスコルピオに向けられていた。




























Capter3 The TEST ep6





























「何してるんだろね?」

「さあ?でも、あれって、俺らの飛行船追い抜いてったやつだよな?」

高い塔の天辺から下を覗き込む少年二人、もちろんゴンとキルアである。

現在の高度は地上約300メートル。わずかな傾斜を持った円筒形の石造りの塔の頂上から、彼らは身を乗り出して地上の様子を伺っていた。

見上げれば雲一つない青空、周囲には途方にくれた様子の受験生達。自分達を此処まで連れてきた大型飛行船はタラップを格納し、既に飛び立ってしまっている。

ちなみに周囲には落下防止の安全柵や注意喚起の警告表示すら存在しない。滑らかな曲線を描く円形の塔の最上階から一歩でも足を踏み誤れば、地上までさえぎるものは何もなかった。明らかに建築基準法に違反しているため、教育委員会や市民団体あたりが見たら騒ぎだしそうだ。

先ほどから彼らが不思議そうに眺める先には、黒く巨大な飛行艇が三隻。開けた草地にロープで係留され、まるで大型の魚類のような巨体を晒している。

飛行船は後部格納庫のハッチが開かれていて、そこから貨物車両がひっきりなしに出入りしては、大量の物資を塔の最下部に運び込んでいた。その周囲を黒い防具をまとった男たちが、アサルトライフルを手にしながら警戒にあたっている。どいつもこいつも、下手な国の軍隊よりよほど錬度が高そうだった。

しかも、歩兵以外にも軽装甲車が多数配置されている上に、上空は武装ヘリまで旋回して警戒に当たっている。

「(幾らなんでも重武装すぎる。奴ら何を運んできた?)・・・連中は"基本的"には、警備会社です。大手のひとつと言っていいでしょう。特に、デリケートな美術品や骨董品の輸送に関しては、業界でも随一の技術と信頼性を持っているとか何とか」

二人の横で同じく地上をうかがっていたジェーンが、"基本的"の部分に力を込めて説明した。

「美術品?」

「ええ。例えば油絵などは輸送の際にも温度や湿度の管理に気を使うので、専用の機械が必要不可欠だとかなんとか。これは上司の受け売りだけどね。様子を見た限りだと、単にその手の通常業務の一環かと思わないでもない」

といいながら鋭い目つきで眼下を伺うジェーンの瞳は、悪党を見定める警察官のそれだ。

「でも、場所が"ここ"だというのなら、可能性がもうひとつ。つまり、"人"。やつら、民間刑務所の経営も行ってたはずだから」

「「?」」

ゴンとキルアの顔に疑問符が浮かぶのを見て、塔の外壁を観察していたクラピカが説明を補足した。

「ここは刑務所だよ。それも、世界各国から通常の刑務所で持て余された凶悪犯ばかりが集められるという曰く付きの。名前は確か・・・トリックタワー、だったか?」

さすがはブラックリストハンター志望というべきか。よく調べている。

トリックタワー。

それは絶海の孤島に聳え立つ、世界最高の大監獄。

塔の形をした刑務所の高さは地上約300メートル。外壁は窓一つ無い滑らかな平面になっているため、壁面を伝って地上に降りるのはほぼ不可能。周囲の森林には人肉を好む怪鳥が放し飼いになっているので、例えロープやザイルを使用したとしても、ロッククライミングに挑戦するのは極めてリスクが高い。その内部にいたっては、無数の罠や悪辣な仕掛けが犇く難攻不落の迷宮だという。

運よく地上に降りる事ができたとしても、周囲は海。直近の島まで10キロ以上の距離がある上に、水は冷たく、潮流は極めて速い。しかも、獰猛なサメの巣になっている。トリックタワーこそ脱出不可能の刑務所の代名詞だと、司法関係者の間では一種の語り草だ。

とはいえ、囚人の移送にしても、少々警備が行き過ぎている感はあった。

「まあ、極真っ当に生きていれば、一生縁の無い場所ね(・・・今は放っておくしかないな。"今は")」

ジェーンは持っていたスコープの電源をオフにした。

辺りを見回せば、事情に通じていそうなパンツ一丁の怪人の姿はすでにない。やつの能力はまさにこういう試験にはおあつらえ向きだ。恐らくはすでに合格者第一号として、最下層まで降りているに違いない。

「あ!」

「お」

不意に、変わらず下を見続けていたゴンとキルアが何かを発見したように呟いた。

「どうしたの?」

「たいした事じゃねーよ。さっき壁をロッククライミングしてった無茶な奴がいただろ?そいつが落ちただけさ」

「うん。でっかい鳥が群がってきてさ、そしたらヘリコプターが近づいてきて機関銃で追っ払ったんだけど・・・」

ゴンは口ごもったが、ジェーンはおおよその事情を察した。

周囲を旋回している武装ヘリの先端についているのは20ミリ機銃。あんなもので人間を撃ったら粉みじんになってしまう。

「たぶん、流れ弾があたりでもしたんだろ」

キルアが無感情に言い放った。ドライな子供だ。

目にオーラを集中し、はるか地面の下に広がる赤い染みを視界に納めると、ジェーンはそれ以上の興味を失った。

「・・・で、先ほどから君は何をしてるんです、レオリオ君」

背後ではいつくばって足元を調べていた男に、意識を向ける。

「見りゃわかんだろ。入り口探してんだ」

レオリオはこちらを振り向くと、眼鏡の位置を正して不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「それとクンは止めてくれ。ケツが痒くなる。そんなに年は離れちゃいねえだろ?」

なんて失礼な。

見た目からしてレオリオは30手前というところだろうが、こちらはまだ二十歳をすぎたばかりだ。服装や髪型は意図的に年上に見えるように整えているが、それにしても同年代はないだろう(・・・後に彼女は、実はレオリオが同い年だったという驚愕の事実を知ることになる)。

船で会ったときから思っていたが、この男はデリカシーに欠けるところがある。同姓には好かれるが、異性には距離を置かれるタイプだ。

「どこに入り口があるってんだ、これ?」

内心で機嫌が急降下していたジェーンを余所に、レオリオは首をひねっていた。

三次試験の課題は『生きて下まで降りてくること。制限時間は72時間』。

外壁を伝っていくと、どうなるかは、先ほど不幸な誰かが身をもって示してくれた。塔の中に侵入して下層を目指すしか手は無いだろう。となると、内部への入り口が、必ず辺りにある筈なのだ。

だが、年月が経って雨風にすり減らされ、滑らかな表面をさらしたコンクリートの床面には、眼を凝らしても切れ目一つ見当たらない。

「ああ、そういうこと」

納得したようにつぶきながら、ジェーンは苛立ち紛れに片足を上げると、即座に踵を打ち付けた。

直後、「ドン!」と周囲全体が揺れるほどの轟音が発生し、思わずレオリオは飛び上がってしりもちをついた。

塔の外壁はよほど強固な素材で出来ているのだろう、砕けはしなかったが、その表面に亀裂が生じている。幅10ミリはあろうかという大きな亀裂が、乱雑な蜘蛛の巣のように縦横無尽に走っていた。

続いて、ジェーンは肩に背負っていたデイパックをおろすと、中から『赤い円筒形をしたナニカ』を取り出す。

周囲では同じように床を探っていた受験生達が、何事かと此方をうかがっていたのだが、彼女が取り出したものを見ると、泡を食って逃げ出した。賢明な判断だろう。

「入り口なんてものはね、無いのなら作ればいいんですよ」

ジェーンは気にした風もなく、ケーキに蝋燭を刺すようにそれを亀裂に差し込むと、懐から取り出したジッポーで『導火線』に火をつけた。

その動作にはあまりにも迷いが無く、すべてがスピーディに進行したために、レオリオはあっけにとられたまま動く事を忘れ、アホのように口をあけて一部始終を見守った。

――――だが、その火花が根元に至ろうかというところで、ようやく認識が現実に追いつく。

「なにやっとんじゃお前はぁあああああ!!!!」

レオリオの背後では、ゴンとキルア、そしてクラピカが既に遠くに避難していた。

なんて友達がいのないやつらだ!とレオリオは憤慨したが、今は命の方が大事だ。

「うおおおおおおおお!!!!」

間一髪、レオリオが頭を抱えて身を投げ出した瞬間、大爆発が起こった。

轟音と爆風が同時にレオリオの体を襲い、体が一瞬浮いた感じがして、気が付いたときにはゴロゴロと転がるようにして吹き飛ばされていた。身を投げ出した瞬間に、耳を覆っていなければ鼓膜をやられていただろう。

やがて、噴煙が収まった後には、大穴が開いていた。

「・・・ではお先に。ああ、そうそう。恐らく、中では服役囚達が襲ってくる可能性があります。ここの囚人達はさっき話したとおり、極めて凶悪なので重々注意してくださいね」

呆然と穴を見守るレオリオを余所に、ジェーンを名乗る女は朗らかな笑顔でそう言った。

「Good Luck!」




足元に開いた大穴へと体を躍らせる女を見送ると、思わずレオリオは天を仰いだ。

「・・・お前の方がよっぽど危ねえ!おい、あいつの後についてくのは止めようぜ。あの女の無茶に巻き込まれたら命がいくつあっても足りゃしねェ」

「「「同感」」」






















ジェーンが降り立ったのは、四方をレンガに囲まれた正方形の空間だった。

部屋の天井部分には、つい先ほど彼女自身が破壊した大穴が無残に刻まれている。

足元は砕かれた石材やコンクリート、鉄筋の残骸などが四散していて足の踏み場にも困るほどだが、幸い、出口と思しき場所はすぐに検討がついた。

四方の壁に一角に設けられた、鋼鉄製の板。

表面には取っ手や鍵穴に相当する部位は見受けられず、完全に壁に埋め込まれる構造になっていて、少々の力ではびくともしない。ただの一枚板同然の造りだが、表面をコンコンとノックすると、重い反響音が静かに響く。予想したとおり、向こう側は空洞だ。

反響音からすると、かなり分厚い。10ミリ、いや20ミリはあるだろうか。拳銃で打ち抜くには少々厳しい。

どうしたものかと思案していたところで、不意に声が響いた。

「"ここは、問いかけの道"」

頭上を仰ぎ見ると、天井に程近い辺りに、スピーカーらしき機器が壁に埋め込まれるようにして設置してあった。

「"ゴールまでの道筋で出題される、すべての問いに答えよ。正解ならば扉は即座に開き、間違えれば1時間後に開く。正しく問いに答え続ければ、最短の道を行くことができるだろう"」

つまり、間違えれば間違えただけ、残り時間が減少していくということだ。

その問いかけとやらが何問あるかは知らないが、72問間違えれば、その時点でアウト。移動時間を考慮すれば、その半分も間違えれば試験の突破は厳しいだろう。

「"では第1問。世界で最も高さのある人工構造物を次の中から選らべ。①天空闘技場、②セメタリービル、③世界樹・・・"」

・・・なんだこれは。つまるところ、ただのクイズじゃないか。

女はあきれ果て、ばかばかしいとばかりに懐からナイフを取り出した。もちろん、そんなルールに付き合う気は微塵も無い。

一次試験でヒソカと相対したときに使用したナイフ。その刃を鞘から抜き放ち、髪の毛一本入るかどうかという壁と扉の隙間に差し込んでいく。

この世で最も鋭利な刃は、何の抵抗感も無く隙間を上下に移動し、扉を施錠していた閂を断ち切った。

この単分子ブレードもどきは、武器というより、もっぱら工作器具として重宝する代物だ。ドアや窓の隙間から差し入れ、音もなく鍵を破壊したり、頑強な金庫を手早くこじ開けられるなど、用途が広く便利に過ぎる。

固定金具を物理的に排除すると、女はナイフを仕舞い、扉に強烈な前蹴りをうちはなった。

ガン、と金属のひしゃげる音が響き渡り、鋼鉄製の表面に見事な足型を残して扉が外側に向かって倒れこむ。ジェーンの靴は一見ただのビジネス用のウォーキングシューズだが、踏み抜き対策にチタン合金が仕込まれている。

後には、長方形の四角い形をした孔が暗く覗いていた。とたんに、冷たい冷気が流れ込んで前髪を揺らすのを手で押さえながら、目を細める。風は湿り気を帯びていて、僅かにかび臭い。

通路の奥は薄暗く、"凝"を使っても、暗い通路の奥まで見渡すことができない。かなり距離があるらしい。耳をそばだてても、特に物音は聞こえてこない。

ジェーンはスコープを取り出して装着すると、暗視野モードへと切り替えた。同時にオーラを抑えて"絶"の状態を維持しつつ、五感を研ぎ澄ませ、何が起きても即座に対応できるよう、気持ちを切り替える。

逃げ場の無い狭い通路だ。当然、不意打ちや挟み撃ちを警戒しなければならない。

両手で拳銃を構えると、ジェーンは薄暗い通路を慎重に進みだした。

「"繰り返す。世界で最も高さのある人工構造物を次の中から・・・"」

背後で、未だクイズを読み上げる声が、むなしく響いていた。














その後、二時間あまり

途中、幾度か出題されたクイズをことごとく無視し、物理的に障害を排除して女はすすんだ。その方が早いからだ。

扉を切り裂き、あるいはけり倒し、さもなければ爆破処分して粉みじんに打ち砕く。その足取りに迷いは無く、戸惑いも無ければ、遠慮会釈も一切ない。

ある意味ではこれ以上ないくらいに楽なルートである。クイズが出題された扉をこじ開ければ、それが最短の道になるのだから。

とはいえ、試験をする側もそうマヌケではないだろう。いずれどういう手にでてくるやら・・・さて、どうしたものかと考えをめぐらせながら、幾度目かの扉を破壊し、かび臭い通路を進む。

「・・・・?」

ふと、その足が止まった。

同時に、目と耳にオーラを集中させる。

通路の奥、もう100メートルばかりいったあたりに、数人の人影が立っている。さらに、強化された聴覚が背後から迫り来る数人分の足音を捕らえた。

ジェーンはその場にしゃがむと、靴紐の緩みを確認するフリをしながら、観察を続けた。

暗視機能の感度を上げると、おぼろげながら不審者達の背格好を確認できる。

服装は目立つオレンジと白の横縞がはいった、木綿の上下。テンプレートな囚人服だ。彼女自身、一度だけ袖を通したことがある。

顔にはベージュの紙袋を逆さにしたような覆面を被り、丸く切り取られた二つの孔から眼だけをのぞかせていて、人相はまったく判別できない。両手は囚人らしいというべきか、金属製の手錠でつながれていたが、両足は自由に動かせそうだ。

何より重要な情報。どいつもこいつも、オーラは垂れ流しだ。

つまり、能力者ではない・・・と判断するのは早計だろうか?念の上手いやつの中には、見事に常人に化けるおっかないタイプもいる。

それに能力者でなくとも、手数さえそろっていれば立派な脅威だ。武装と錬度が十分で、卓越した指揮官に率いられた戦闘集団は、下手な念使いなど苦も無く狩り殺す。

(・・・数は正面に5、後ろに4。なるほど、わかりやすくて大変結構)

女は内心ほくそ笑んだ。

どちらにせよ、絡め手無しの真っ向勝負。力づくで片付く状況は、彼女の好みだ。難しい事を考える必要がなく、敵を殺せばそれで済む。

靴紐を結びなおす振りを続けながら、ジェーンは何気ない仕草で右の二の腕を探った。すると、僅かな間をおいて、スーツの袖口から『緑色の小箱』のようなものがするりとすべり落ちた。

曲面を帯びた金属製の表面には、文字が刻印されている。『FRONT TOWARD ENEMY』・・・・文字のある方を背後に向け、設置金具を展開し、起爆装置の代わりに自らのオーラを僅かに込めた。準備完了。

ゆっくりと立ち上がり、足取りを再開する。

拳銃は腰のホルスターにおさめ、無手を装った。歩みも、ごく自然に見えるようにゆっくりと。

やがて両者の距離は徐々に縮まり、互いに相手を判別するのに苦労しない程度に近づくと、正面に立っていた一人が、鷹揚に口を開いた。

「よお、姉ちゃん。俺達は・・・」

・・・馬鹿な男だ。交渉のイロハがわかっていない。

下卑た嘲笑を言の葉に滲ませながら、男が最後まで言い切る暇を、彼女は与えなかった。

ニッコリと花のような笑みを浮かべつつ、次の瞬間、

「FREEZE!!」

0.2秒の抜き打ちが火を噴いた。

ピス、っとサイレンサーを装着した拳銃から、気の抜けた音を響かせて薬きょうが排出された。それが床に落下する前に、もう一発。弾丸は正面にいた二人めの眉間に、正確に風穴を穿つ。

弾種は貫通力に優れたスチール・コア(鋼製弾芯)。ボディアーマーに使われる強化繊維の弱点である、鋭く尖った刃物の特性と、セラミック・プレートの泣き所である打撃による破断を、同時にもたらすことができる。これは、時に体組織そのものが非常識な防御力を発揮する、強化系の能力者相手にも効果が高い。

拳銃用に調整された特注弾だが、反動の大きさは既にハンドガンの域にはなく、軌道もかなり不安定になる。20mm厚の鋼板を10mで貫通できるのが魅力だが、極端に接近しないとまず当てられない。念能力者が使用することを前提に、開発された装備なのだ。

「「「?!!!」」」

頭蓋骨をコルク抜きされ、脳漿をぶちまけながら即座に二人が無力化される。

ヒソカとの一件で懲りたので、弾は全てこれに入れ替えてあった。もちろんワイルドキャットなのであまり手持ちは多くない。が、背に腹はかえられない。

仲間が二人も射殺されるのを見て、残りの人間に動揺が走るが手に取るようにわかった。

「・・・!!ちょ、まてお前!!」

呆然としたのも束の間、ようやく我に返った男が怒声を上げたが、半呼吸遅い。

まさか、出会いがしらに問答無用で攻撃を仕掛けられるとは思ってもいなかったらしい。

昔の人はいい事を言った。兵は節足を尊ぶ。先んずれば人を制す。あるいは、先制核攻撃は宣戦布告の前にすべし。

「ギャアア!!」

間合いに飛び込むと同時に、股間にぶら下がっているわかりやすい弱点を蹴り上げた。

男はもんどりうって倒れると、見る間にズボンを赤い小便で汚しながら悲鳴を上げた。殺さないように多少加減したが、鉄板入りの靴で急所を打ち抜かれればそうなる。そのまま男の顎に手をかけてこちら向かせ、涎にまみれた口元に9mmのサプレッサを突きつけた。

仲間を人質にとられたことで、残りの連中の足が止まった。

「・・・お前達は何者だ、何が目的だ。答えろ。5秒待つ。1、2・・」

なるべくドスを利かせた声で、囁く。

交渉とは、こうやって有利な位置を確保してから行うものだ。

逆らえば殺すし、5秒過ぎても殺す。そう言外に示した、つもりだった。

だが、この連中はよほど勘が鈍かったらしい。

「はぁ?!頭沸いてんのかテメー!!すぐにそいつを離しやがれ、×××女!!いきなり二人も殺しやがって、どういうつもりだ!!いいか、これ以上俺達に指一本でも傷つけてみやがれ!!試験がどうなってもいいのか、オラァ!!」

顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げる。

胃液くさい息を吹きかけられてうんざりしながらも、彼女は恐るべき忍耐力を発揮して時間が過ぎるのをまった。

その数秒の間も、敵の観察は怠らない。

正面の敵は残り二人。

一人は全身から怒気と殺意を漂わせ、もう一人は恐怖と驚愕に打ちのめされているのが手に取るようにわかった。

念能力者はオーラに含まれる感情を感じ取る事ができる。

他の能力者がそれをどう感じているのかは知らないが、彼女に言わせればオーラに含まれる意思や感情というのは、臭いに近い。特に殺意や敵意は、さびた鉄のようにやや酸いて生臭かった。さながら脳の一部が痺れるような刺激的な臭いだ。それが、自らの心のうちにかすかに残る戸惑いや良心をそぎ落とし、純粋な殺意に変える。

殺気を漲らせている方は、人質を無視して襲い掛かってきそうなほどだったが、もう一人は、逆に今にも逃げ出しそうなくらい腰が引けている。

ちょうどいい、こいつを残そう、とジェーンは思った。

「・・・5」

無常にタイムリミットを宣告すると同時に、引き金を引く。

「っぎゃ・・!!」

とたんに、屠殺されるガチョウにも似た悲鳴があがり、床に赤い染みが増えた。

「・・・!!野郎、取り押さえろ!!」

「やりやがったな!!」

「畜生、あの女頭がおかしいぞ!!」

次の瞬間には、正面にいたもう一人の心臓を打ち抜いていた。膝を突いた男の頭部にさらに一発入れて息の根止める。

「ひっ、ヒイイィィ!!」

最後の一人は、予想通りというべきか、こちらに後ろを見せて逃げ出した。

追う必要はない。それより背後の脅威の殲滅が先だ。

決して広いとは言えない通路、しかも左右に逃げ場の無い直線を、こちらへ向かって走ってくる。

ジェーンを名乗る女は少しばかり呆れた。本当に勘の鈍い連中だ。十字を切りたくなるほどに。

状況を認識するのが遅すぎる上に、判断能力も欠如しているとしか思えない。

こちらは銃器で武装している上に、問答無用で攻撃する意思があるのが今の一連の流れでわかった筈だ。あちらは人数はいても火器はなく、しかもこの場は遮蔽物の存在しないロングストレート。馬鹿正直に向かってきたところで、死体を増やすのが関の山だろう。ここは一端引いて出直すのがセオリーだ。

かつてYSPD57分署で相手していたヨークシンのクズどもは、もう少し知能があった気がする。ここに送られてくる程の重犯罪者なら、もう少し歯ごたえがあっても良かろうに。

と、そんな事を考えながら、足元に転がる命の火の消えた肉塊を引っつかみ、背後へと向けた。

死体を盾のように押し出し、その後ろに身を隠す。

別に仲間の死体を翳して動揺を誘おうというわけではない。彼女が考えているのは、もっと悪辣な事だった。

ニッと、こらえきれず口元に笑みが浮かぶのを自覚しながら、ジェーンは指先をパチンと弾いた。

「・・・FREEZE」

次の瞬間――――通路全体が、衝撃に揺らいだ。

鳴り響く大音響。爆風が行き場をなくして通路の前後に吹き荒れ、音速でぶちまけられた700個ものベアリング球が鉄の嵐となって、哀れな人体を粉みじんに打ち砕く。

背後から駆けつけてきた4人に向かって火を噴いたのは、先ほど彼女が設置した置き土産――――クレイモア対人地雷。

紛争地帯で日常的に使用され、兵士達に何より恐れられる最悪の兵器。

屋外で使用された場合の最大加害距離は約250m、有効加害距離は約50mとされているが閉所環境で使用された場合、この兵器の威力はそれだけに留まらない。

兆弾が兆弾を生み、逃げ場を失くした爆風が本来の威力を累乗倍ほど上回る破壊力を生んで荒れ狂う。通路はさながら、巨大な銃器のシリンダー。その渦中に放り込まれた人間がどうなるかは、押して知るべし。

まさに狂気の沙汰である。

見通しのきかない閉所環境で対人トラップ、というのは戦場のセオリーだが、まさか自らも殺傷範囲内に留まりながら、凶悪な対人地雷を炸裂させる等とは、誰が予想しえるだろう。

そんなキチガイじみた所業を嬉々として実行した張本人は、肉の盾で爆風とベアリングを受けきると、用済みになった肉塊を打ち捨てた。

「少し耳がキーンとしたかな・・・」

好戦的な笑みを浮かべつつ、女はイヤープラグを取りながら頬に降りかかった返り血を舐め上げた。

敵を残らず片付けたところで、既に彼女の意識は周囲に向けられている。

爆発の瞬間には衝撃に備えるように"錬"によって増加していたオーラは、既に薄く広く通路一杯に広がっていた。

念能力の高等応用技、円。

通常、体の周囲を数ミリから数センチの間隔で滞留させているオーラを、必要な間隔まで広げる技術。これによりオーラに触れたモノの位置や形状を肌で感じ取ることができる。

彼女のそれは、絶好時で半径約50メートルほど(女性の宿命だが、やはり生理の前後だと精度は落ちる)。あまり得意な技ではない。それでも狭い通路の前後を警戒するには十分だ。

同時に、電子スコープの機能をフルに活用する。

(・・・ガス反応なし、熱源(サーモ)なし、ドップラーレーダー反応なし。状況、オールグリーン。結局能力者は紛れ込んでいなかったか・・・切り札一つ、無駄撃ちしたな・・・)

当面の脅威を排除したと判断したところで、一息ついた。

逃げ出した最後の一人は、と周囲を探せば、通路の奥であっけなくのびている。背後から爆風に煽られ転倒したようだが、目だった出血はなさそうだ。対人地雷のベアリングは一方方向に収束されるので、反対側にいればそこそこ安全だが、それでも半径50メートル以内は危険区域とされるので、運がよかったのだろう。

ここまでにかかった時間は、約一分弱。

ロングストレートの通路は血反吐に塗装されて酷い有様だった。空気中に飛散した血液の匂いが酷く、鼻に不快だった。床は滑らかな石材で出来ているからか、血液が染み込むことなく水溜りをつくっていて、その上を歩くと靴底が容赦なく滑りそうだ。

自分のこさえた死体の山を目にしても、特にジェーンに感慨はなかった。

所詮、どいつこいつも終身刑を宣告された凶悪犯ばかり。どの道この"監獄"に送り込まれた時点で、彼らに人権は存在しない。



何より、

『生きて、下まで降りてくること』

それが、3次試験の課題。

それだけが、受験生に告げられた全て。

故に、この歩く凶器のような女は、ごく当然の思考の帰結として、試験内容をこう解釈していた。

『生きて下まで降りてこい。障害は全て実力で排除せよ。手段、方法は問わない。以上』

もとより、手段を選ぶ気はなかった。












ジェーンは生き残った最後の一人に軽い『気付け』(中指を掌にくっ付くまで逆反りに折り曲げる事を、ヨークシン市警ではそう呼ぶ)を施すと、無理やりにたたき起こした。

男は悲鳴とともに飛び起きたが、すぐには状況がつかめなかったようで、困惑したように周囲を見回した。そして、仲間の死体と、銃口を突きつける見知らぬを視界に納めたところで、再び悲鳴を上げる。

「ちょっ、止めて!殺さないで!!」

おどおどと震えだし、土下座で命乞い。

「言え、知ってる限りの事を」

「言う!何でも言うよ!!」

涙と鼻水を出せるだけ垂れ流しながらのその言葉にうそはない、と彼女は判断した。

いざとなれば指を順に切り落としてやるつもりだったが、楽が出来るならそれにこしたことはない。

男はダボ付いた囚人服の上からでもわかるほどに線の細い体つきをしていた。服の上からでもわかるほど逞しい体つきをしていた他の連中とは、明らかに空気が違う。

だから、殺さず残した。警官として生きた3年余りの間に見分けることができるようになった、凶悪犯特有の気配。所謂、血の臭いがしなかったから。

銃口を突きつけながら無理やりマスクを剥ぎ取ると、意外なほど整った顔立ちが現れた。意外なほどに若い。というより、幼い。恐らく、十歳半ば。ゴンやキルアより2、3上だろうか。恐らくクラピカあたりと同年代の、少年だ。

その若さで、どうしてこんな人生の永久流刑地に放り込まれるはめになったのやら・・・

「ぼ、ぼくらは、審査委員会に雇われた、試練官だ。じゅ、受験生を、足止めするように、しっ、指示されてる・・・」

男はしばしの間、過呼吸に陥ったように深く深呼吸を繰り返していたのだが、やがて落ち着いたのか、瞳に恐怖を浮かべながら語りだした。

「あ、あんたがルールを無視して進んでくるから!!だ、だから、ぼくらが呼び出されたんだ!」

ジェーンは鼻でせせら笑った。

ルールとはそれを強要できる力のあるものだけが定める事ができる。それがこの世界の唯一にして絶対のルールだ。

「い、1時間足止めするだけで、刑期が1年減刑されるって、そう言われて!!だから、だから助けてくれ!!ぼくは殺される程の事は何もしちゃいないんだ!他の連中とは違うんだよ!!」

少年の言葉には、ブラフを疑うほどの非論理性は無かった。ありそうな話だという他は無い。

彼らからすれば、受験生を足止めすればするほど自らの刑期が短くなる。おおかた、女一人と高をくくり、じわじわと残り時間のすべてを使って嬲るつもりでいたのだろう。まあ、今回は相手が悪かった。

(それにしても、刑期の減刑ね・・・)

口元を隠しながら、女は皮肉げな笑みを浮かべた。それがウソだと知っていたからだ。

司法関係者でトリックタワーの名を知らないものはいない。

至上最も堅固な刑務所。

脱獄不可能の代名詞。

世界各国の刑務所で持て余された凶悪犯ばかりを受け入れる、最期の流刑地。

ここに収監されるのは、全員が懲役100年以上を宣告された超長期の服役囚だけ。

囚人は基本的に死刑制度の廃止された国から送り込まれるのだが・・・実際には、このタワーに送り込まれるということそのものが、事実上の極刑に値する。

何故なら、この塔の中は治外法権。

あらゆる法が意味を持たない無法地帯(アンタッチャブル)。

この塔に放り込まれた囚人が、かつて生きて再び娑婆に出たことは、一度もない。

「君は何をして、ここに収監されたの?」

できるだけ声色を柔らかくして、穏やかに問いかける。この相手には、そのやり方の方が効率的だ。

少年はしばし口ごもり、突きつけられた銃口とジェーンの顔を見比べながら震えていたが、やがて観念したように白状した。

「ま、麻薬だ」

瞬間、思わず引き金を引きそうになった手を留めるのに、今日一番の忍耐を必要とした。

「・・・なるほど?続けなさい」

こちらの空気が変わったのを敏感に察知したのか、少年の怯え方がひどくなったが、銃床で小突いて、再び口を開かせる。

「ね、ネットで造り方を買ったんだ。元値なんかすぐに取り戻せるからって。それで、遊び半分で造って、ネットで捌いてさ・・・」

こちらを上目遣いに伺いながら、ようやくそれだけを口にする。

「・・・それで?」

その一言を口にするのに、再び大量の忍耐を必要とした。

「そ、そのうち、製菓用の着色料で色付けしたり、デザインを変えたりしたら、飛ぶように売れるようになったんだ。ふぁ、ファニーキッチンて知らない?ぼ、ぼくが、考えたブランドなんだけど」

ジェーンは思わず天を仰いだ。

何年か前に大流行した合成麻薬。その中でも一番有名なブランドだ。

成分としてはお粗末極まりないが、催奇性が高く、依存度も高く、おまけに毒性も強い。だが、カラフルな色や形に加工され、スナック菓子や化粧品のような洒落た包装による差別化を図った事が、ティーンエイジャーの心を掴んだ。

あまりにも凝った意匠のそれは、一見して麻薬とはわからなかったために発覚が遅れたのが、悲劇を後押しした。

粗製乱造された上に質の悪い着色料で色づけされた合成麻薬は、特にアルコールと併用された場合には極めて強い化学変化をおこし、数多くの命を奪った。例え、命が助かったとしても、重度の障害が残ったという。

また、学校という一種の閉鎖社会の中でのみ流通していたのが、事態の拡大を促した。一度火のついた流行はさらに大量の劣化コピーを生み、一時はサヘルタの全ハイスクールの8割超で流通していたという曰く付きの代物。

大勢の少年少女がスナックを摘むように麻薬を口にし、あまりにも高い代償を背負ってしまった。

「くそっ!!だいたい、ぼくが何をしたって言うんだよ!!ただ、作って売っただけじゃないか!!買うのを無理強いした事なんて一度もない!!欲しくなければ買わなければいいんだ!!」

ヒステリーを起こしたように、泣き叫びだした少年を見て、ジェーンはなんとも言えない気分になった。

「・・・でも、そのために多くの人間が死んだんだよ」

「知らないよ!!麻薬だって最初から説明して売ってたんだ!!知ってて飲んだなら自己責任じゃないか!!」

子供だ。だが、子供ほど純粋で残虐なものもない。その才能を、もっと別の方向に使えばよかったのに。

だが、もう、彼は手遅れ。自分に出来る事は何もない。

「・・・いいでしょう。一応、聞いておくけど、下までの道を知っているかな?エレベーターのある場所でもいいが、知っていたら教えて欲しい」

刑務所の構造は囚人に知られないように、念入りに情報を管理するものだ。望み薄だとわかってはいたが、せめて道順を推測する材料になればいい。

「で、出口までの道は、知らない。そんなこと、看守が教えてくれるわけ無いじゃないか。で、でも、エレベーターの位置は知ってる。それに乗せられて、こ、この階まで来たんだ」

しめた、と女は内心で思った。

「それは、どこ?」

ニッコリ笑うと、少年はさらに怯えたように後ずさった。

「か、壁だよ!い、今は、しまってるけど、右手の奥の壁が開くようになってて、隠し通路がある!その奥だ!!」

確かに、レンガ作りの壁面がずっと奥まで続いている。このどこかに隠し扉があるのだろう。

彼の話が確かなら、そこから塔の管理区画内部に入れる可能性があった。

純粋に刑務所としての機能を持ったフロア。囚人達の房や、食道、風呂、トイレといった生活のためのスペース。あるいは、囚人を管理する側、看守達の詰め所や利用区画もあるだろう。そういった場所は、受験生を通過させないよう、構造的に区切られている可能性が高い。

ジェーンの目的は、まさにそれだ。

狙いはもちろん、看守たち。彼らは職員用のIDや、タワーの見取り図を持っている。それを無理やり奪えばいい。あるいは脅迫して出口まで案内させるというのも悪くない。

職務を果たしているだけの善良な労働者を脅かすのは本意ではなかったが、これも試験である。

「ありがとう。おやすみ。――――せめて、いい夢を」

「へ?・・・ギャッ!!」

銃床で軽くコメカミを殴打すると、少年は簡単に意識を失った。加減したので、2、3時間ほどで目を覚ますだろう。

崩れ落ちた体を壁際に寝かせる。殺しはしない。この子には、罪を自覚するための時間が必要だ。

それきり気持ちを切り替えると、ジェーンは聞き出したとおり、右手の壁を調べだした。

よく注意して調べると、確かに髪の毛一本ほどの隙間が煉瓦の壁に走っている。表面を撫でると、風化して砕けた煉瓦の粉がべっとりと付着した。建造されてから結構な年月がたっているようだ。

耳を当てると、かすかに機械の駆動音のようなものが聞こえる。この辺りが怪しい。

背負っていたデイパックをおろすと、中からこぶし大の大きさの包みを一つ取り出した。透明のパックに包まれた、石膏のようにのっぺりと白く四角い、粘土状の物体。プラスチック爆薬だ。

壁を破壊するだけなら、自前の"能力"を使ったほうが手間もかからず安上がりで済むのだが、どうせこの様子は隠しカメラで監視されている。ハンターどもに、手の内をさらしたくはない。先ほどわざわざ虎の子の対人地雷を使ったのも同じ理由だ。

まるで王子様に恋焦がれる年頃の少女のように、うっとりと爆薬のもたらす破壊を想像しながら、ジェーンを名乗る女はさらに黄色いコードと信管を取りだした。

そして、素晴らしいマジキチスマイルを浮かべながら、絶縁ビニールにつつまれたパックに手にかけたところで、

「"・・・・そこまで"」

頭上から、声が聞こえた。

同時に、バシャっと空気の抜ける音がして、手前の壁の一部が内部に引っ込み、人一人がやっと通れるかどうかという程度の四角い穴が開く。

「"来たまえ、アンヘル・イワレンコフ"」

あの街を出た瞬間から、一度も名乗っていない筈の本名。

その声には、聞き覚えがあった。










狭い入り口を潜り抜けると、そこから先は一本道だった。

赤い点滅灯が道案内のように連なった薄暗い通路をひたすら歩き、時折現れる階段を登り、あるいは下り、さらに歩き続ける。

左右の壁は、つい先ほどまで見慣れていた煉瓦や石造りのものとは、明らかに造作が異なっている。コンクリート打ちっ放しの壁には、コードやラック、あるいは配管類が縦横無尽に這い回っていた。

動力用、あるいは通信、制御用の配線なのだろうが、囚人や受験生といった外部の人間が通るルートに配置するにしては、あまりに無用心に過ぎる。つまり、本来なら部外者の浸入を想定していない区画、ということ。

やがて、行く手にぼんやりと薄明かりが見えてきた。暗がりを光に導かれて進み、通路の出口を抜けると、広い部屋が現れる。

まず目に入るのは、広々とした室内の壁面いっぱいに設置された幾つものモニター。そこには、タワー各所で今まさに三次試験に挑んでいる受験生達の姿が、余すことなく映し出されている。

部屋の中央には、横長の操作卓がしつられられていて、小さなパイプ椅子に腰掛けながら、小柄な人物が画面をにらんでいた。

それは奇妙な男だった。

頭頂部の毛だけをパイナップルのヘタのような形に伸ばし、それ以外の部分は見事に剃っている。背丈は彼女の腰から少し上くらいしかなく、小柄な体躯を灰色の上衣とスラックスで包んでいた。

こちらに背中を向けている時点で、いかにも隙だらけの姿勢なのだが、全身から放たれている洗練されたオーラが、その人物の卓越した技量を雄弁に物語っている。

その姿を見たとき、彼女の背中に冷たい汗が流れた。・・・思えば、三次試験の受験会場が『ここ』だと知った時点から、こうなる予感はあったのだ。

その場で軽く十字を切り、覚悟を決めると、踵をそろえて直立不動の姿勢をとった。

「お久しぶりです、リッポー教官」

『ジェーン・スミス』と名乗っていた女、アンヘル・イワレンコフは、椅子にかけたままの後姿へ陸軍式の敬礼をした。

「ここでは所長と呼べ」

第三試験官、リッポーはそこでようやく振り返ると、答礼を返した。












「息災そうだな、イワレンコフ」

リッポーの声には不機嫌さが滲み出ていた。

時代錯誤な丸眼鏡が光を反射して冷たく光っている。

アンヘルは思わず冷や汗をかいた。この男の恐ろしさは、骨身にしみているのだ。

声が震えそうになるのを自制しつつ、慎重に答えた。

「オールバニの教練場でお会いしたのが最後ですから、かれこれ一年ぶりになりますでしょうか。御壮健そうで幸いであります。まさか、所長が今回の試験官を務められているとは、不覚にも思い至りませんでした。・・・本当に」

敬礼を解いても、姿勢は「気をつけ」のまま。軍人が、自分より階級が上の将官・士官の前でそうするように。

既に教官と訓練生の関係ではないが、身に染み付いた習性が、この人物への服従を強制していた。

「白々しいうそをつくな。トリックタワーが試験会場だと知った時点で、お前なら想像が付いた筈だ」

その通りである。

「お前が試験に参加していると聞いたときから、嫌な予感はしていたが・・・。案の定、設備はすき放題に破壊するは、試練官として臨時雇いした囚人達は皆殺し。貴様はハンター試験に戦争でもしにきたのか?」

人をテロリストのように言わないでほしい。本当に戦争をする気なら、初手からタワーごと破壊している。

「それとも、一人生かして残しただけでも、多少は人格がまるくなったと評価すべきかな?」

「お褒め頂き光栄です」

「皮肉だ、ばか者!」

リッポーがしかりつけると、アンヘルは反射的に背筋を伸ばした。

「どうせ私が止めなければ、看守を人質にでもとって下まで案内させていたのだろう?」

まったくもってその通りである。

(・・・さすがはリッポー教官、何もかもまるっとお見通し。やりにくいことこの上ないな)

「うちの看守も質は悪くないのだが、お前がその気になって暴れだしたら手に負えまい。・・・まあ、いい。楽にしろ」

「Sir, yes, sir!」

ようやく許しが出たので、アンヘルは姿勢を崩した。

「さて、試験官としては甚だ遺憾ではあるが、お前は特例として三次試験を免除する。隣に部屋を用意しておいた。試験が終わるまでそこでおとなしくしていろ。終了の1時間ほど前になったら、出口に送り出してやる」

思わぬ言葉に、アンヘルは困惑した。

「はっ、過分な厚意を頂き、恐縮です。・・・しかし、その、わたしとしては、大変ありがたいのですが・・・よろしいのですか?」

楽が出来るのにこしたことはないが、ハンター試験の試験官としては、それでいいのだろうか。

この人物は旧知の仲だからといって、こういった不正を許容するタイプでは無い。

「構わん。今さら、お前にこの程度の試験は意味がない。テストとは必要な資格と能力があることを確認するための手段に過ぎない。ライセンスは、そのおまけについてくる証明書のようなものだ。本来はな」

リッポーは首元に手をやると、首からかけていた細いチェーンを手繰り寄せた。その先端についているのは、掌に収まる程度の大きさをしたプレート。ハンターライセンスだ。

指先で弄ぶれるライセンスを、アンヘルは興味なさそうに見守った。

「我々ハンターは使い勝手のいい道具として、各国でかなり優遇されている。ライセンスに付属する数々の特権しかり。悪用を考えて試験を受けに来る輩は、後を絶たない」

そんな連中さえいなければ、こんなガラクタは全員にくれてやってもかまいはしない、とリッポーは断言した。

相変らず無茶を言う男だと呆れる反面、妙な安心感を覚えた。

「・・・過分な評価を頂いているのは、素直にうれしく思います。ですが・・・失礼ついでに正直な話をさせていただきますと、意外でした」

「何がだ?」

リッポーは小首を傾げた。

「所長にこうやって、接していただける事が、です。何せうちの会社は、とにかくプロハンターの方々には受けが悪い。どんな嫌がらせをされるかと、少しばかり不安でした」

会社がしてきた所業を思うと、ハンター達の気持ちもわからないではない。だが、あまり感情的になられても、以後の任務に差しさわりがでる。それを見越したから、飛行船の中で例の三人に釘を刺したのだ。

そう告白すると、リッポーは鼻をならした。

「他の同僚ハンター諸氏ならいざ知らず、我々ブラックリストハンターはお前の会社ともそれなりに付き合いがある。馴れ合いは御免だが、請われれば、見込みのありそうな新人に念能力のインストラクターもする。・・・もっとも、お前の場合は"リハビリ"に近かったがね」

アンヘルがリッポーを苦手とする最大の理由。

それは、この男が念の師匠の一人だからだ。

技も、癖も、能力すらも、この男には全て知られている。

そんな相手を敵に回したくはない。

「何より、お前を野放しにして、これ以上タワーを破壊されてはかなわん。お前が壊した施設の修理に、いったい幾らかかると思っている?」

・・・それが本音か。

アンヘルは苦笑した。この人らしいと言う他は無い。

「請求書はうちの課長に送ってください。あの人はそれが仕事です」

責任者は責任を取るためにいるのだ。

内心ざまあ見ろと思いながら、そう嘯くと、リッポーは目を細めて人の悪い笑みを浮かべた。

「本人に伝えておいてやろう。ちなみに、お前の上司と私は同じ年にハンター試験を受けた仲だ。それ以来の腐れ縁なのだが、知らなかったか?・・・喜べ、あるいは嘆け。お前、相当、奴のお気に入りらしいぞ」

「え?・・・マジですか・・・」

なんてこったい!!

アンヘルがこの世の終わりのような表情を浮かべると、リッポーは面白そうにクツクツと笑った。

「変り種の噂はどこの組織にいても流れてくるものだが、お前、初ミッションで目立ちすぎたな。国連軍が手を付けられなかったシャワ共和国の反政府ゲリラを単独で粉砕とは。物的証拠として残すはずだった麻薬畑やら精製工場まで木っ端微塵に吹き飛ばさなければ、完璧だったがね」

それを言われると辛い。あの時は頭に血が上りきっていて、デリケートな判断をする余裕がなかったのだ。

「・・・好きで一人でやったわけじゃありません。退却は許可されなかったし、合流予定だった俄かハンターどもは速攻でつぶされやがったし。おまけに急遽送られてきた傭兵(マーセナリ)の連中は金もってばっくれやがったんです。・・・傭兵を雇うなら、せめてノーウェル基金を通してくれって、散々上に念押ししたはずなんですけどね、わたし」

密林地帯で本部から孤立した上に、重火器で武装した念能力者に集団で襲われるのは中々ゾッとしない経験だった。幸い、経験値の足りない連中ばかりだったのでなんとかなったが。

もちろん、お膳立てを仕切ってくれたアホな係官は後で徹底的に締め上げてやった。

「非合法作戦なら正規ルートを使いたくないというのはわかる話だ。今回の件にしても、デリケートなミッションを任せるに値するか否か、見定めるための試験だと私は思う。その手の資質をみるのには、確かにハンター試験はうってつけだ」

試験をいいように利用されるのは業腹だが、とリッポーは付け加えた。

「身を固めると、人間は心理的に守りに入る。いざというとき逃げを打つ人間に勤まるほど、お前の所属した組織は甘くない」

その瞳は、アンヘルの左手の薬指に注がれていた。

「・・・肝に銘じます」

久々に、人に説教をされた気がした。

最後の一言が、この人物なりの老婆心なのだと気が付く程度には、気心が知れている。

さて、そろそろ下がらせてもらおうかと思ったところで、リッポーのにらんでいた画面の一つが、突然砂嵐に変わった。

「・・・?右端のカメラは故障ですか?」

「いや、さっきまでは映っていたが・・・はて?」

リッポーは手元の機器を何やら操作した。

「カメラ側のトラブルだな。別のに切り替える」

何度かカメラを切り替えると、ようやく砂嵐がやんだ。

画面の向こうでは、二人の男が対峙していた。

『待ってたぜ、ヒソカ』

一人は、毛皮のチュニックを着た野性味溢れるファッションの男で、両手に短刀を構えていた。

もう一人は・・・

「ヒソカ!それにもう一人の方も、何やら見覚えがあるような、ないような?」

「ほら、アレだ。例の研修のときに、私に無理やり付いてきて・・・お前が対人戦闘訓練にかこつけてボコボコにした」

「ああ、アレですね」

二人ともアレ、アレと連呼するが、どちらも男の名前は思い出せないようだった。

画面の中では、ちょうどそのアレが、ヒソカに喧嘩を売っている。

『去年の試験以来、貴様を殺すことだけ考えてきた。この傷の恨み・・・・・今日こそ晴らす!!』

もちろん二人の眼には、彼我の実力差は明らかだった。

「なんて無謀」

「同感。しかし、カメラを潰したのはこいつだな」

男は両手に構えた短刀を、ギュンギュンと回転させるように振り回して悦に入っているが、対するヒソカは余裕の表情を隠そうともしていない。

「何であの程度の男が試験官に?」

「協薦枠で推されて、断りきれなかっただけだ」

「キョウセン?」

「教会推薦ハンター。バリストンとかいう若造が副会長になってから、幅を利かせ始めた奴らだ」

リッポーは不機嫌そうに吐き捨てた。

どうもそのバリストンとかいう人物に、あまり良い感情を抱いてないらしい。

所詮は人の作った組織というべきか、ハンター協会も内実はドロドロとしたものがあるようだ。

「正直な話、お前を隔離するのも、奴らに口を挟ませないようにするためだ。一応、ここは公費で作られた施設だからな。無闇に破壊されて、試験制度改定の口実にされてはたまらん」

「人を危険人物みたいに言わないでください」

そんな掛け合いをする合間も、二人の視線は画面の向こうに固定されている。

『無限四刀流!!くらえ!!」

男は短刀に回転を加えたまま、ヒソカに向かって投げ放った。

高速回転する刃物は曲線的な軌道を描きながらヒソカに迫り、同時に男もさらなる二刀を構えて襲い掛かる。

飛来する二刀に自ら構えた二刀を加え、4つの短刀を入れ替えながら自在に操るオールレンジ攻撃。

恐らくは、短刀に念を送り込み、高速回転させながら自由自在に操る能力。たぶん操作系だ。

ヒソカの堅を易々と突破しているところを見ると、ナイフの切れ味はそこそこ。中々器用な真似をする。しかし、威力は悪くはないが、障害物の多いところでは扱いにくそうな能力、というのが正直な感想だ。

それに、

「単調ですね」

「だな。もう2、3手で詰みだろう」

リッポーが他人事のように言った。

折角4本ものナイフを操っているのに、攻撃パターンが驚くほど少ない。

それなりに複雑な軌道も、何度も見せられれば目が慣れる。自分の体を目隠しに利用した簡単なフェイントすら、初回の一撃以外は易々と避けられてしまった。それが、術者の限界だろう。

案の定、五分もしないうちに形勢は逆転した。

『確かによけるのは難しそう。ならとめちゃえばいいんだよねー♥』

飛来したナイフを受け止めて構えるヒソカの表情は、ケレン味たっぷりの笑顔に彩られている。

ついでとばかりに、ヒソカが短刀を回転させながら操って見せると、男の顔が目に見えて引きつった。

『なんだ♦思ったよりカンタンなんだ♣』

その言葉は恐らくブラフ。いくら何でも、練習もせずにこんな曲芸が成功させられるわけはない。

もちろん、二人はヒソカが手に奇妙なオーラを展開しているのに気が付いていた。ゴムのように衝撃を吸収しつつ、接着剤ように粘性を発揮してナイフの柄を確実に絡めとったのだ。

ただし、画面越しに戦闘を客観視できるからこそ見抜けただけだ。実際に相対して戦闘を繰り広げながら、相手の心理を巧みに見透かすヒソカの言動に惑わされていては、気付くのは難しいだろう。

よほどの使い手でも、ヒソカが飛んでくるナイフを素手で受け止めたものと誤解する筈だ。

『無駄な努力、ご苦労様♠』

『ぐっ・・・くそォオーーー!!』

そのことに気付けず、精神的に動揺した時点で、勝ち目はあるまい。

数秒後、男はあっさりと首をはねられていた。ご丁寧にも、自分の得物で。

「・・・44番ヒソカ、要注意ですね」

ヒソカという男、人の精神を追い詰め、なでさするのが悪魔的にうまい。

「確かにな。ここまで殺傷能力に長けた能力者を見るのは・・・お前以来だ」

暗に揶揄されているようで、アンヘルは眉をひそめた。

「私は命令がなければ誰も殺しません」

それは命令があれば誰でも殺すと言っているのと同義だが、リッポーはあえて指摘しなかった。

「・・・では、そろそろ下がらせていただいてよろしいでしょうか」

「ああ。くれぐれも、おとなしくしていろ」

リッポーが念を押しつつ顎をしゃくると、奥の扉の一つが音もなく開いた。

それ以上興味を失ったようで、再びモニターを監視する作業に戻っていた。

「部屋にシャワーはありますでしょうか?三日三晩風呂なしというのは流石にきつい。これでも女の端くれですので」

リッポーは、ずうずうしい、とでも言いたそうな目つきをしたが、口にはしなかった。

「風呂とベットとトイレはついている」

本来は囚人の面会者が宿泊するための施設だそうだが、造られてから一度も使われた事がないらしい。

「ただし、食事の味には期待するな。囚人と同じものしか出せん」

「了解です。久しぶりのムショの飯というのも、悪くないです」














女の背中が十分に遠ざかり、ドアの向こうへと消えたところで、リッポーは背後を振り返った。

「・・・あいつ以外にこの場に客を招待した覚えは無いのだがな。そろそろ出て来い」

その言葉を合図にして、突如として床からすっと生えるようにして、一人の男が現れた。

筋骨隆々の逞しい肉体をした男。ロングの髪を茶髪に染め、中々端正な顔をしている。だが、身に着けているのは紫のブリーフ一丁のみ。

変態は、リッポーに向かって芝居がかった仕草で一礼した。

「初めまして、ミスタ。私の名はミュラー。ボーモントの御老体からメッセージを預かってまいりました」

その言葉を聴くと、リッポーの片眉が不快そうに跳ね上がった。























所長があてがってくれた部屋にたどり着くと、まずシャワーを浴びた。

衣服に染み付いた血と埃と、火薬の臭いが気持ち悪い。戦地ならともかく、射撃後の火薬滓が目に入ったら失明の危険性もあるので、可能ならシャワーを浴びるのが鉄則だ。

滝のように流れ落ちる水滴で、ファウンデーションが中途半端に流れだした。

手持ちの洗剤を使ってメイクを毛穴から追い出したところで化粧水を含ませたコットンで顔をぬぐう。その下には、大小無数の傷。顔は商売道具の一つなので、なるべく傷つかないように気を使っているが、所詮生傷の絶えない職場だ。

一通り体を清め終わると、全裸のまま力なくベッドに倒れ込んだ。

僅かに気だるさを感じていた。試験開始から連続して体を酷使したせいか、疲労が内側から滲んでくるようだ。気を張っているうちはいいが、少しリラックスすると虚脱感に襲われる。特にめまいが酷かった。

これは、恐らく命の時間を示すサインだろう。

あと、何年生きられるのか。

あと、何回戦えるのか。

まるで見当も付かなかった。

ただ、自分の時間が終わるまでに、為すべきことを為しておきたい。

こんな自分にも、愛してくれる人ができたのだから。















あの日から5年。

女になった少女は、そういう生き方を、選んでいた。




































5 years ago








夏のヨークシンは気温が高く、蒸し暑い。

八月の盛りともなれば40℃まであがる時期もある。

街中にあふれかえる放置車両は、ボンネットで目玉焼きを焼けるくらいに熱されるので、必然的に火事が多くなり、消防車のサイレンがひっきりなしに鳴り響くのも夏の風物詩の一つだ。

アンヘル・イワレンコフは消防車がサイレンとBORN(クラクション)を派手に鳴らしながら、猛スピードで走っているのを横目に見ながら、両手で耳をふさいだ。

全身は汗でびしょびしょで、ぬれたワンピースが体にまとわりついて不快感を倍増させ、ついでに透けて浮き出た下着のラインに周囲の男性の視線が集中していたが、暑さにへばっているアンヘルには気にしている余裕がない。北国育ちのアンヘルは寒さに強い分、暑さにはとても弱かった。

「ううう、クーラーが恋しいよぅ」

思わずそうつぶやくと、隣を歩いていた友人のジェシカが呆れたようにため息をついた。

「アンジェってば、教室出てから三歩に一回くらいそう言ってるよね」

ジェシカは春先から通い始めた高校でできた友人だ。受講クラスが被ることが多かったことから、いつの間にか親しくなったクラスメイトの一人である。

ブルネットの髪をボブにしたジェシカは線の細い東洋系の顔立ちをしていて、切れ長の瞳と口元のほくろがチャーミングだ。赤いビスチェにデニムのホットパンツが似合っている。

常に彼氏が3人以上いるというのが本人の談だが、そのわりに擦れた感じがしないし、意外に初な反応を見せるときがあるので、アンヘルは単に見栄っ張りなだけではないかと内心疑っていた。

ちなみに、ジェシカはアンヘルのことをサヘルタ風に"アンジェラ"ないし、略称の"アンジェ"と呼ぶ。確かに、こちらではその発音が一般的だ。

"アンヘル"というのはオチマ連邦あたりの読み方なので、亡くなった母はあちらの出身だったのではないかということに気が付いたのは、実は最近のことだった。

「ランチどうする?あたしは午後の講座ないけど、あんた今日は3限まであるでしょ?急がないと遅刻するよ」

ランチの定番、学内のカフェはこの時間が一番混雑する。ビュッフェ方式なので注文が後れることはまずないが、利用者数に対してテーブルの数が少なすぎるのだ。うかうかしていると席がすべて埋まってしまう。

「ところが、今日の3コマは休校なのです。キール先生、腰痛めたらしくって」

「ああ、若い奥さんもらって調子こいてたもんね、あの禿げ。じゃあ、今日は外で食べる?そのまま午後から適当にぶらつこうよ。あたしもバイトのシフトまで中途半端に時間あるから暇なんだ」

アンヘルは額の汗をハンカチでぬぐいながら、首を横に振った。

「ううん、悪いけど今日はまっすぐ帰るよ。同居人というか大家さんに昼ごはん用意してあげなきゃいけないから。それに引越したばかりで、まだ荷解きが済んでないの」

「そういやあのボロアパート、とうとうご臨終したって言ってたね」

ダウンタウンの再開発がハーレムまで飛び火して忙しいってパパが言ってた、とジェシカは思い出すようにつぶやいた。

「でも、大家ってあのヤマダでしょ?目つき悪くて口の悪い、ヤクザみたいな医者の。いい年したおっさんなんだから、ほっといてもご飯くらい一人でどうにかするんじゃない?」

サヘルタ人らしいドライな価値観を持つジェシカは、理解しかねるといった感じで眉根を寄せた。

彼女は南部の出身なので、思っていることをズケズケと口に出す癖がある。いい子なのだが、損な性分だとアンヘルは思った。

「家事とか手伝う約束で家賃まけてもらってるから、ダメだよ。それに、ジロウさんて放っておくとソバ粉のヌードルばっかり食べちゃうから」

野菜やたんぱく質をしっかり取らせないと、とアンヘルが意気込むとジェシカは面白そうに流し目をよこした。

「ふふん、見た目イケイケの癖に根は真面目なんだよねえ、アンジェって。ま、それはともかくとしてさあ・・・・・・あんた、あのおっさんとどこまでいったのよ?もうやらせちゃった?ん?」

人の悪い顔をして、ジェシカはアンヘルの豊満な胸をつついた。

「ちょ!え、あの、その・・・と、とりあえあず『おっさん』はないのではないかと。ジロウさんまだ32だし」

念能力者であるヤマダジロウは実年齢に反して、見た目は二十歳そこそこ程度と意外に若々しい。

「30過ぎたら男はおっさんでいいのよ!それより、あんた前は"ヤマダ先生"って呼んでたのが、いつの間にか"ジロウさん"になってるじゃない。ますます怪しいわ!」

的確な突っ込みにアンヘルはたじろいだ。

「白状しろぅ!!」

そのまま豊満に育ったわがままボディを撫でこくりされながら、アンヘルは今日は本当に暑いなあと、等と埒もない思考(現実逃避とも言う)にふけった。




















ハーレムはヨークシンのアップタウンに位置している。

南端はセントラル・パーク、北端はハーレム川、西端はモーニングサイド・パークに面していて、東端は5番街。東西に走る125丁目がメインストリートで、黒人系移民が数多く住んでいる。ハーレムの中では、ここが旅行者の主要な目的地だろう。

ヤマダ医院は、そんな一角に建っていた。

「ちょっと薄い、かな?」

アンヘルは遅めの昼食を準備していた。

スープをお玉にすくって味見をする。ジロウは患者の治療に大量のオーラを消費するため、食事は塩分は濃くする必要がある。アンヘルは塩を一つまみ鍋に加えて味を調えた。

今日はジロウと自分の二人分でよいが、入院患者が出たときには人数分の食事を作るのも彼女の仕事だ。

先週までは馴染みのケイトが糖尿病の治療で一時的に入院していた。脂肪を落とした専用の食事を用意しなくてはならなかったので、ひどく苦労したものだ。しかも、苦労して作った食事は当然のことながら不評だった。サヘルタ生まれはジャンク上等、油はこってり、味付けはきつく、ケチャップとマスタードのない食事など考えられない・・・というのが普通なので無理も無い。

慣れた手つきでスープの鍋に具材を放り込みながら、合間にパンを切りわけ、トースターに突っ込んでいく。

ここいらの主婦は安息日(スボタ)明けの日曜日に、一週間分のパンを焼く。ナッツやレーズンをたっぷり入れて、ソーダ(重曹)で膨らませたアイリッシュブレッド。明日は聖金曜日なので、そろそろパンも乾いて固くなってきていた。

スープとジャガイモをマッシュしたのに、冷蔵庫からザワークラウトを出して添えれば、簡単な昼食の出来上がり。これがこの街のいつものご飯というやつだ。

肉っ気が得意ではないジロウのために、スープはもっぱら魚のウハー。朝はあっさりしたシチーにしてしまうことが多かったが、やはり体力仕事をこなすには肉がいる。

大降りのカジキのアラを骨ごと放り込み、タマネギ、パセリ、セロリ、粒コショウで味を調える。煮立ってきたら丁寧にアクを取るのがコツだ。出汁がきいてきたらアラをとって裏漉しし、今度はニンジン、ビート、キャベツに、カジキの切り身を入れてひと煮立ちしたら出来上がり。

今日はカジキが安かったからそれにしたが、以前、鮭とニシンのウハーを作ったときには「サンペェージィル(?)みたいでうまい」と褒められた。何やら故郷の味に近かったらしい。

そうかと思えば、ものの本から見よう見まねでヤーパンのスッシーを作った時など、酷く不評だった。アボカドの下拵えを失敗していたか、さもなければマヨネーズの塩気が足りなかったのだろうか?どうにもヤポンスキの味覚は独特だとアンヘルは思った。

彼と知り合ってから半年。互いの好みがわかるくらいには、距離が縮まって、気心が知れている。

スープの鍋から灰汁をすくいきり、古びたガスコンロの火を止めると、アンヘルはエプロンを脱いでダイニングの椅子に腰掛けた。

椅子の背に体重を預け、鍋から立ち上がる湯気が虚空に消えるのをぼんやりと眺めながら、ジロウの仕事が終わるのを待つ。

壁掛け時計が時を打つのを耳しながら、両足を抱え、頭を下げてうずくまった。

一人の時間は、苦手だ。

余計なことばかり考えてしまう。

古ぼけた時計の鐘が鳴り、ちょうど正午を教えた。

「・・・ジロウさん、そろそろ仕事終わったかなぁ」

ヤマダジロウ。

身元引受人で、同居人。

事故で大怪我を負った自分を治療してくれた恩人。

何もかも忘れて、呆然としていた自分の面倒を見てくれている、優しい人。

ヨークシンでは珍しい黒髪黒眼の東洋人で、顔つきはやや線が細く面長だが、それなりにイケメンと言っていいのではないだろうか(ただし、眼つきの悪さが全てをぶち壊している)。名前や外見からして、ジャポンの出身なのは間違いないだろう。

職業は医者。それも、免許を持った正規の医者で、ハーレムでは珍しく高等教育を受けている。

身だしなみは案外だらしなく、年がら年中、着崩れたシャツに安物のスラックスを着まわしていて、その上に薄汚れた白衣を纏っている。髪は短めにしているというだけで長さが常に一定していない。靴下は頻繁に左右の色が違っている。共同生活を始めてまず彼女がしたことは、適当に散らばった洗濯物の中から、同じ柄の靴下を見つけることだった。

口は悪いし、いい加減なところがあるのは否めないが、仕事には決して手を抜かない。

夜中だろうが明け方だろうが、戸口を叩くものがいれば無条件で受け入れる。娼婦やホームレスが最後に頼るのは、結局のところヤマダだ。(もちろん、味を占めて彼をカモろうとする不心得者は、ちょっと洒落にならないくらい悲惨な目に合わされるのだが・・・いや、マジで)。ハーレムの住人なら、誰もが一度は彼の世話になる。

でも、誰も彼が本当はどこから来たのか、知らないという。

性格はともかくとして、医者としては腕のいい人だ。それがなぜこの国で、しかもわざわざ治安の悪いハーレムで医者をやっているのか、不思議といえば不思議な話だが、改めて聞いてみたことはない。そのあたりの立ち入った事情は、聞く気になれない。

思い切って聞いてみれば、案外簡単に話してくれそうな気もするのだが・・・寡黙な彼の背中が、あえて聞いてくれるなと言っているように感じられて、躊躇してしまう。

この街では、ハーレムでは、脛を傷を持っていないほうが珍しい。

何よりアンヘル自身、過去をなくした人間なのだから。

「・・・・・・・・・」

頭を振って、ため息を一つ。

記憶が戻らない事に関しては、既に諦めにも似た気持ちを抱いている。

人は生きていれば何かを忘れる事もあるし、何かの弾みで思い出すこともある。日常なんてその繰り返しだ。

思い出せないのなら、思い出さなくともいい。そう考える、自分がいる。

・・・いや、本当はわかってる。

思い出すことで、何かが、決定的に変わってしまうような、そんな気がするのだ。今の自分が変わってしまうような、あるいは、いなくなってしまうような・・・。それが、怖かった。

今の生活は、嫌じゃない。

自分の居場所があり、隣にいてくれる人もいる。



失いたくは無い。

もう、二度と。

















「よし、飯の時間だ」

オンボロ時計が飯の時間を告げると同時に、ジロウは治療の手を止めた。弾みで注射針がむき出しの神経を抉り、腕を差し出していた男が泡を吹いて悶絶したが些細なことである。

「続きは2時間後だ。とっとと失せろ、患者ども」

全身に刺青を施したいかにもヤクザらしい、むしろヤクザにしか見えない、ヤクザのようなヤクザを文字通りの意味で蹴りだす。

「ありあっしたあああ!!」

「「「したあぁぁぁあああ!!」」」

町のクズどもも彼の前では比較的おとなしい。揃って奇声を上げて礼を言い、おとなしく病室を出て行く。ジロウを怒らせるとどういう眼にあうのか、この町のチンピラならよく分かっているのだ。

今日は朝から患者(つまりはカネヅルだ)が多かったので、いささかくたびれていた。

「あ~腹減った。さて、今日のスープはと・・・マグロか?」

「カジキです。アラが安かったからそれにしたの」

「うん、うまそうだ。いただきます」

ジロウはコキコキと肩や首筋をほぐしながらテーブルにつくとすぐにスプーンを手にとった。向かいに座った少女は、略式の祈りを捧げ、十字を切ってから後に続く。

ジロウは無神論者だ。「唯物史観と唯物弁証法が俺の神」である。

一度その件を話したときには、酷くアンヘルに驚かれたのをよく覚えている。ジャポンの人間は大多数が無信仰者だと言ったら、とんでもないマッポー国家なのだろう、とひどく戦慄されてしまった。

一人暮らしの長かったジロウは、食事中に会話をする習慣がない。しばしの間、二人は無言で料理を口に運んだ。

よく咀嚼しながらゆっくり飲み込む少女に対して、ジロウはかなりの早飯だ。ろくに噛まずに飲み込もうとするのは体によくないので、何度か彼女に諌められたのだが、これが中々なおらない。

ちなみにアンヘルがゆっくりと食事するのも、健康のためというよりも、飢えに慣れた人間の習性のようなものだろうとジロウは思っていた。ハーレムに住む人間には、よくあることだ。

「ご馳走様」

「お粗末さまです」

やがて食器を空にして両手を合わせると、ジロウは楊枝で歯をせせりだした。まだ彼女の皿には料理が半分ほど残っている。

「学校、楽しいか?」

「うん、楽しい」

「友達、できたか?」

「できたよ。仲良くなったのは3人くらい」

「授業、どうだ?」

「ん~、難しいけど何とかついていけてる、かなあ?」

「いい成績とれとは言わんが、落ちこぼれると奨学金打ち切られるから気をつけろ」

「うっ・・・が、がんばります」

「高校程度の内容なら俺にも教えられる。分からなかったら聞けよ」

「・・・はい」

頭を抱えだした少女を半眼でにらみながら、ジロウは食後の一服を付けようとして、やめた。さすがに年頃の女の子の前でなら、食事時にタバコを控えようとする程度の気遣いはする。

少女、アンヘルがハーレムで暮らし始めてから、約半年。

未だ短期のバイトを掛け持ちしながらその日暮らしをしていた彼女に、学校に通えとせっついたのは、ほかならぬジロウだ。

彼自身が後見人になり、市民登録は意外なほどあっさり済んだものの(治安の極めてよくないノーマンズ州出身の彼女が、こうもすばやく市民証を得られたのは、どこぞの金満家一族の差し金ではないかとジロウは疑っている)、彼女の将来を考えれば、せめて高校くらいは卒業させておきたい。

医院の空き部屋に居候させたのも、バイトの数を減らして学業に身を入れさせるためだ。自宅兼診療所の一室を空けて住まわせ、家賃やら生活費やらは、家事手伝いをやらせることで相殺させている。

数は減ったものの、バイト自体は続けさせていた。小遣いやら何やら、多少の収入源は必要だろう。学業に差しさわりない程度の労働なら、そこまで彼女の私生活に口を出す気はなかった。

学費はついては、奨学金プログラムを受けさせている。あまり素行や成績がよくないと後で倍プッシュの支払いを求められるので、その点は彼女にもきつく言い聞かせてあった。

そんなわけで、三ヶ月ほど前から少女と同居し、学校に通わせだしたのだが、それはジロウにとって、思わぬ副次効果を生んだ。

具体例を幾つか挙げると、まず、知らないうちに薄汚れた室内がピカピカに磨かれるようになった。

小汚かった廊下は毎日ブラシがかけられ、今や小さな花瓶までがおかれている。カビくさかったカーテンは定期的に取り替えられ、ジロウの衣服も頻繁に洗濯されてシワが目立たなくなった。食事も、まともに調理されたものが三度三度出てくる有様だ。

ありていに言えば、健康的で、文化的な、人間らしい暮らしをさせてもらえるようになってしまった。・・・なんてこった。

恐るべき家事能力を発揮してジロウを驚愕させた少女は、空いた時間でバイト(・・・さすがにここまでやってくれるのなら、むしろこちらが金を払わないといけないのではないかと、最近ジロウは罪悪感を覚え始めている)をし、さらには教会で奉仕活動まで行っているらしい。

高校の社会奉仕プログラム(ヨークシンではすべての公立学校で、奉仕の時間が義務化されている)で、例の麻薬障害者センターを希望したのだそうだ。さすがに危険だし、専門的な知識も資格も持たない学生に勤まるものではないので断られたらしいが、代わりに、教会での奉仕を勧められたという

修道服のシスターに混じってチャリティーバザーやコーラス隊に参加しているのを、仕事帰りに何度か見かけたことがあった。

「仕事、忙しい?」

タバコの吸えない口寂しさに、ぼんやりと物思いにふけっていたところで、不意に我に返る。

「あ?・・・ああ、最近またゴロツキどもはドンパチに忙しいらしくてな。大儀なこった」

ジロウは付近のマフィアやチンピラ達を金になるという理由で受け入れてはいるが、心情的にはひどく嫌っている。口に出したことは一度もないが、ジロウは暴力を憎んでいた。

「リッツ・フェミリーが内ゲバやらかしてるとかなんとか。稼ぎ時ではあるが、はた迷惑な話だ」

マフィアが大手を振ってのさばるこの街では、ジロウ達のような"一般市民(少なくともジロウは自分のことを一般市民であると信じている)"もこの手の話題と無関係ではいられない。自然と耳聡くもなる。特に、西ブロックを傘下におさめる大組織の内紛となると、穏やかではない。

「うわあ、最悪」

アンヘルはスプーンを口にくわえ、困ったように頬に手を当てた。

リッツ・ファミリーはヨークシンの主要な港を残らず牛耳っている。主な商売は密貿易や密入国、あるいは為替トリックを用いたマネーロンダリングなど、何でも御座れ。おまけにこの街きっての武闘派で、彼らの仕切る波止場では毎日のように夜中に人が沈められている、ともっぱらの噂だ。

何よりたちが悪いのが、港湾組合を牛耳り、労使交渉を操っていることだ。貿易産業のある意味ではキモの部分のため、司法も迂闊に介入できない。

「しばらくウェスト・リバーには近づかない方がいい。巻き込まれてはかなわん」

「うん。でも、バイトあるから、どうしよう・・・」

「あ、確か港湾で荷降ろしのバイトしてるって言ってたな・・・休めないのか?」

「土日限定でもあそこは実入りがいいんですよぅ。でも巻き込まれたくないし、困ったな・・・まったく、クズどもめ」

最期の一言を吐き捨てる瞬間、少女の眼の光が明らかに変わったので、ジロウは息を飲んだ。

「あーあ、ミツリさんにバイトのシフト増やしてもらうかなぁ」

次の瞬間には、アンヘルの表情は元の柔らかさを取り戻している。

椅子の背に体重を預けて眉根を寄せる彼女の姿は、当たり前の少女のそれだった。

「・・・カフェのバイト、まだ、続けてたんだな」

「うん。最近ミツリさんとこ、制服が変わったんですよ。ジロウさん知らなかったでしょ?」

「あのピンクのフリフリ?」

「今は夏限定のブルーです。ストライプ柄で可愛いの」

適当に相槌を打ちながら、ジロウは内心の動揺が声に漏れでないようにするのに、必死だった。

春が過ぎ、夏の声を聞く時分になってから、時折、この少女が以前の苛烈さを取り戻す瞬間がまれにある。あの、青い炎のような瞳を取り戻す瞬間が。

ジロウは、この少女のかつての姿を知っていた。

やりきれない怒りと絶望を抱えて、修羅のように戦う子供。自らの身を焼きくすまで、止まる事ができ無かった、あの姿を。

結局、彼女の命をつないだのは、かつてジロウがただ一人友と呼び、やがて袂を分ち、この街で再開した挙句、最期を看取ったとある男だ。

ただし。

命の代償は、記憶と時間。

以来、彼女、アンヘルは別人のように、つつましくも穏やかな生を送っている。あるいは、これがこの少女の本来のあり方なのではないだろうかと、思っていたのだが・・・

アンヘルが食事を終え、食器の片づけを始める時分になるまで、ジロウは自分の手元を押さえていた。薄手のワンピースの上からライトブルーのエプロンを羽織り、流し台に向かう小さな後姿を見つめながら、震える指先で煙草を取り出し、火をつける。

いつもなら食器を流しに運ぶ位は手伝うのだが、ジロウは思考に囚われていて、考えがいたらない。アンヘルもまたジロウの微妙な空気を察したのか、何も言わなかった。

しばしの間、食器をあわ立て、洗い落とす音だけが室内響く。

やがてテキパキと洗い物を終えた少女は、自室に戻るでもなく、ぼんやり煙草を燻らせていたジロウの対面に座った。

宿題でも片付けるのかと思ったら、彼女が地味な灰色のスクールバックから取り出したのは、黒地の革手袋だった。頑丈でつくりのしっかりした造りの品だが、年頃の女の子が身に着けるには、やや無骨に過ぎる。

アンヘルはそれを身に着けたり脱いだりを繰り返し、感触を確かめたり、あるいは舐めて味を確かめたりし始めた。もちろん、遊んでいるわけではない。

具現化系の能力を身に着けるためのイメージ修行、その一環だ。

「なんだ。結局、それにしたのか?」

「ですよ。ウィンドウショッピングしてたら、なんか一目で気に入ったから」

念能力には咄嗟のインスピレーションも大事。いつか、どこかでそんな話を聞いたような気がするのだと、少女は微笑んだ。

「そうか・・・」

かつてあの男からジロウに依頼され、あの日、彼女に手渡した品。

それに、よく似ている。

「・・・手袋、ね。君にしては珍しく考えたな。身に着けて使うものだから、具現化系とは相性がいい。それに装着した状態でも両手が自由に使えて、動作の妨げにならない」

しかも、小さくて形状もそう複雑ではないので、本来の系統が具現化系ではなくても能力として作りやすい。それに目立つ物ではないので、多少人目の多いところで使っても不自然には見られないだろう。

「ですです。最初は衣服とか着られるものにしようかなって思ってたんだけど。服って案外イメージするのが難しかったからやめにしました。脱いだ状態と着た状態じゃ形も随分違うし、着た状態だと背中とか肩口とか見えづらくって修行しづらいから。鏡とか使うと、いまいちしっくりこないですし・・・」

アンヘルは難しい顔でうなった。

最近は授業の合間や休み時間にもこの作業を続けているらしい。おかげで、友人から変な目で見られるそうだ。無理もなかろう。

ジロウ自身は強化系の能力者なので、この手の修行はやったこともない。

「身に付けるもの、手放さないものを物体化するのがセオリーらしいな。変化系や具現化系はオーラを放出する能力とは相性悪いから、分かる話だ」

それは、かつて彼に念を教えてくれた友人の受け売りだった。

「普通は、手にした状態で扱える武器や小物なんかにするのが多いらしいが・・・」

具現化系の能力は、術者のイメージが他の系統よりもダイレクトに能力に反映される。

より攻撃的な能力に仕上げようとすれば、それはイメージに反映され、攻撃的な外見の物体が具現化されることになる。故に、闘争にのみ使用される道具、武器を具現化する能力者は、より攻撃的な特殊能力を物体化した物に込めやすい。

これは何も念能力に限った話ではない。

例えばスポーツの選手、特にプロ野球の選手などは、イメージトレーニングを欠かさない。

感覚的な物言いになるが、放ったボールが打たれると感じてしまったピッチャーは必ず"打たれる"し、逆に打てると確信した打者は必ず"打つ"。特に、心の有様がより直接的に能力に反映される念能力者の場合、その作用は顕著になる。

「武器とか、そんなのおっかないもの要りません!」

ぷくっと頬を膨らませ、少女はは不満気につぶやいた。その顔が意外なほどかわいかったので、思わずジロウは噴出してしまった。

「いや、すまない。一般論を言ったまでだ」

先ほどまで抱いていた蟠りが、心の中で急速に消えていくのを自覚する。まったく、我ながら現金なものだとジロウは思った。

「にしても、何でいまさら具現化能力がほしいんだ?変化系の"発"は使えるようになったんだろ?」

かつての力、オーラを爆薬にする能力は、使用できることを確認している。

フィーリングというやつだろうか、念を覚え直してさほど時もたっていない頃、少女はいともあっさりとかつての能力を再現してしまった。

ただ、そこで欲を出したのが実にまずかった。

試しに小指の爪ほどのオーラを変化させ、実際に起爆させてみたところ、以前彼女のすんでいたアパートの一室を木っ端微塵にふっとばすはめになってしまった。

「あんな能力、それこそ使い道ありませんよぅ。昔の自分は何考えてこんな能力にメモリ突っ込んだのか、問い詰めたいです」

物騒すぎてまともに使えたものじゃないと、アンヘルは涙目で訴えた。

確かに日常生活で使い道のある能力ではないとジロウも思う。はじめにオーラを爆弾に変えると聞かされた時に、この子がアホのようにお口をあんぐりあけてびっくりした顔をしていたのは、ちょっとした見物だった。

それで、なんとかもっと便利で使い勝手がよくて平和的(←ここ重要)な能力を作ろうとあがいているらしい。最初は変化系の能力をあれやこれやと作ろうとしていたようだが、悉く失敗したそうだ。おそらく、最初に作った能力のせいで、変化系のメモリが枯渇しているのだ。

今では変化系と相性のいい具現化系の能力を作る方向にシフトしたらしいが、そちらもあまり芳しくはなさそうだ。相性がいいといっても、生来の系統に比べれば威力も精度も落ちるのだから、仕方がない。どこまで使い物になるのか、見当もつかなかった。

「どんな能力も使い方しだいだぜ。その能力も・・・そうだな。ビルの発破解体であるとか、花火みたいに使ってバーベキューの余興にするとか、後は・・・ああ、近所の野良猫を追っ払うのにも大活躍だぞ。良かったな」

「・・・ううう、ちきしょう、勝ち組がいじめるよぅ」

医者で強化系で癒し系能力者とか、どんだけ勝ち組ですかといじける少女を見て、ジロウは思わず頬が緩むのを我慢できなかった。

「必殺技なんて無ければ無いで、不便は無いだろ。だいたい、大抵の人間は四大行を身につけるだけでも精一杯なんだ。それだけで10年越しの修行になるんだよ、普通はな。それを10台半ばで応用技まで覚えた挙句、必殺技なんて贅沢言ってるとバチが当たるってもんだ」

そう、言い諭す。

彼女もそれはわかっていたのだろう。力なく「はい」と答えると、それでも蚊の鳴くくらいの声で続けた。

「でも、もっと、その・・・人の役に立つ能力がほしかったです」

しゅん、とうな垂れた少女の頭を、ジロウはわしゃわしゃと撫でた。

「系統別の修行は1日30分もやりゃあいいから、地道にいけ。それより、今は基礎をみっちりやっておく方がいい。錬や絶の修行を続けるだけでも地力がかなり違ってくるぜ」

それだけでも、君には十分な効果があるのだから。

とは、ジロウは口にしなかった。

念の基礎を完璧にものにすれば、少なくとも生命エネルギーの無駄な消費を抑えられる。この子の『残された時間』を幾分伸すことができるだろう。

・・・そうでもなければ、念など教えはしなかった。

念能力なぞ、ろくなものじゃない。

「・・・?どうかしましたか?」

不意にジロウにじっと見つめられて、アンヘルは小首をかしげた。

「いや。なんでもない・・・」

この子に残された時間は、多くない。

削られた時間が後どれほど残されているのか、それも分からない。

このまま当たり前の人間がそうであるように、老いるまで自覚することすらないかもしれないし、ある日ぽっくり死んでしまうかもしれない。

ジロウは、未だそのことを、彼女に告げることができないでいる。

「どんな能力を込めるのかは、決まったのか?」

暗い思いを誤魔化すかのように、言葉をつむいだ。

「うん、決めてるけど、内緒です。うまくいかないかもしれないから」

ほにゃっと柔らかく微笑む少女の顔を見て、心が軋むのを感じた。

患者に余命や病名を告げる瞬間というのは何度やってもなれるものじゃない。だが、これまでジロウは例外なく口に出してきた。

『落ち着いたら、全部話す。患者にうそを言わないのが俺の信条だ』

あのときキャスリンに告げた言葉は、本心からのものだった。

だというのに、未だ、打ち上げることが、できずにいる。

本音を言えば、迷ってた。

話せば、記憶が戻ってしまえば、彼女はいずれまた戦いの中に戻っていくのではないか。そんな気が、する。あの激しくもまっすぐな魂は、そういう生き方を選ぶと。

そう考えると、自然と口が重く閉ざされる。

このまま普通の学校に通い、普通の友人に囲まれて、普通の社会に入り混じって暮らす。当たり前の人生。当たり前の幸せ。普通の一生を送ることができるだろう。

それで、いいじゃないか。

その方が、幸せなのではないか。

ただ、自分の信条を曲げる。それだけでいい。

あの日。

ヨークシンが戦場になった、あの悪夢の夜。ジロウは、彼女の背中を引き止めなかった。

自身の信条にしたがった結果だ。

その罪の証が、今、目の前にいる少女に他ならない。





ヤマダジロウは気付いていなかった。

彼女が居なくなってしまうことを、いつしか恐れていたことに。




















今は過ぎ去った穏やかな日々。

不器用な少女と、同じくらい不器用な男。

二人は・・・










・・・to be continued

また半年たってしもうた・・・orz



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