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[33521] 魔法先生ネギま! ~Evectus est fabula~(魔法先生ネギま! × Dies irae)
Name: 愛宕◆38e00c08 ID:ee5a8350
Date: 2012/11/18 21:14
 あと一週間で二学期も終わりとクラスメイト達が浮き足立つなか、長谷川千雨は連日見る悪夢に悩まされていた。
 第二次世界大戦中のドイツで行なわれた事の追体験、それは劇に上がるチケットであった。

 にじファンから移転してきました。

 注意、残酷な描写あり

 2012/11/18 致命的な間違い修正。



[33521] 1 tantibus
Name: 愛宕◆38e00c08 ID:ee5a8350
Date: 2012/06/19 22:34

 またかよ。

 もうこれで何度目だろう。憶えていない。真っ暗闇の中、ぽつりと一人立たされ始まるのだ。

 ……夢を見る。

 独り言を零す。冷笑で頬が引きつり、鼻でも笑みが漏れた。それでは語弊がある。正しくは『夢の中に居る』だ。
 そう夢……、ここは夢の中で、夢を見ていると自覚があった。不思議な体験と言えるだろう。「こんなことがあったんだ」と切り出し、休憩時間を丸々使うぐらいの話題にはなるはずだ。なかには同じような体験をした、と名乗り出るものがいるかもしれない。
 嘆息が漏れる。それだけでは飽き足らず頭を振った。出来ない。そんな事が出来たらどれほど気が楽か。
 口にするのもはばかられる。怪談やホラー映画が好きなら、聴いてみたいと申し出る者がいるかもしれない。しかしそんな軽い気持ちで聴いたらきっと後悔するだろう。そんな生やさしい代物ではない。当人が引くほど陰惨で正気を疑われるレベルの内容だ。
 だから誰にも相談できずにいる。そもそもこんな事を相談出来る親しい友達がいないのだが、

 …………。

 ため息が漏れた。ここには自分しかいない。それでも誰かに尋ねてみたい衝動に駈られる。答えが返ってくるはずがないと理解していた。
 それでも――

 どうしたらいい。教えてくれよ。
 毎夜、毎夜、違う。そんなもんじゃねぇ、もう一週間ほど続いている。この頃は常に眠気に襲われていて、目を瞑っただけで寝てしまう。
 夢を夢と理解している。だからどうにか目を覚まそうとした。起きろ!! 眼を醒ませ!! と怒鳴っても目が覚めない。これまで何十回と行ったけど成功しない。
 どこか出口でもないかと、右に行ったり、左に行ったりもした。けどそんなものはなかった。暗すぎてちゃんと移動出来ているのかすらわからない。

 腹の内を明かしたところでなにも変わらなかった。スッキリもしない。達観するしかないのだろうか。いずれは醒める夢だ。悟ってしまえば実害はない。
 だが、ここまで理解していてもそれが出来ずにいる。悪夢の内容が超然と出来るような代物ではないからだ。
 泣きそうだった。これからそんなものを見せられると思うと。
 泣きそうだった。一人で抱え込んでいるのが辛い。
 なら誰かに相談すればいい。簡単な事だ。でもできない。それほど親しくもない、否、むしろ自分から壁を作っている相手にこんな話は出来なかった。プライドが、それも違う。奇異の目で見られるのが嫌なのだ。
 ただそれでも相談する方法がないわけでは無い。インターネットだ。自らのホームページでも良い。掲示板サイトもある。
 でも出来ない。パソコンの前に座り、キーボードに手を置いた途端、何故か指が動かなくなる。何度試しても、何度試しても指が動かない。不特定多数に知られるのがいやなのか。心ない意見も書き込まれるだろう。真剣に相談しても釣りだと判断されるかもしれない。
 しかしそんなことは百も承知のはずだ。なのに書き込みを拒否してしまう。誰かに知られるのを危惧している。

 ――――ッ!?

 指先が痺れだした。開演の合図だ。ゆっくりとゆっくりと丹念に、染み込ませるように痺れが拡がってくる。これが身体の隅々まで行き渡ると、自分が自分ではなくなる。
 否、自分が自分でなくなるというのも正しくない。肉体の支配権が奪われるだけだ。意識はハッキリしている。ただ指一本、自らの意志では動かせなくなるだけだ。
 
 ……ああ。

 気付くのが遅すぎた。それはいまに始まったことでは無いのかもしれない。ここに、この場に立ったその時からずっとこの調子だったのかもしれない。
 暗闇の中をただ茫然と立ち尽くす。
 声を上げる。
 出口を探して動き回る。
 そのどれひとつとして満足に行えていないのではないだろうか。痺れはこれから視点を追っていく人物の覚醒を意味しているのかもしれない。いや、別に寝ていたわけではない。むしろ繋がったと言うべきか。しかし釈然としない。その表現もどうもしっくりこなかった。
 闇が明ける。強烈な光に先導されて大量の情報が流れ込んでくる。しかしピントがまだ甘い。調整中だ。耳元では古めかしい映写機が回り出したような音が聞こえ気がする。ラブロマンスなら、と思わなくもない。
 しかし漂ってくるのはツ~ンと脳髄を貫くクレゾール。現実逃避気味な頭に活を入れる。表情は引きつっていたに違いない。動けばだが。
 最悪だ。これが臭った時の見世物は決まっている。第二次世界大戦、絶滅施設のある一室での出来事だ。
 空気の揺れを耳朶が捉える。遠い異国の言葉、ドイツ語。淡々と述べられるその内容を、字幕でも追わなければ意味が分からないはずなのに理解してしまう。
 唇がつり上がった。似ても似つかぬ男の声が響く。いつもこの声だ。甲高く特徴ある声が偉そうに指示を出す。
 慣れ親しんだ感覚が指先から伝わってきた。見なくても分かる。メスだ。手術用の小刀など握り慣れてないはずなのに、まるで身体の一部のようにしっくりと馴染んでしまい、笑いを誘う。
 もちろん強がりだ。喜悦で歪む頬に理由を付けたかっただけだ。
 笑みを浮かべているのはもちろん男。名称は不明。何度も聞いたが上手く憶えられない。顔も同じだった。何度か鏡に映る処を見た事がある。しかしかすみがかってよく覚えられない。
 それでもわかっていることは、自分達をアーリア人と呼び、ユダヤ人を代表とする劣等と蔑む相手に対して人とは思えない所業を嬉々として行う科学者だった。
 それは上からの命令に違いない。軍務である。しかし、この男は真性だ。マッドサイエンティストと呼んでいい。趣味と実益を兼ね、嬉々として非道の実験を繰り返していた。
 手術台に載せられている女と目が合った。顔貌、肌の色、ユダヤ人だ。
 彼女はこれからなにをされるのか理解しているのだろう。どうにか逃げようと暴れている。しかし手首、足首、肩口、太股の付け根、頭と動かないように革のベルトで堅く拘束されていた。
 ご丁寧に猿ぐつわもされている。口から漏れる慟哭はくぐもり言葉にならない。その処置は声が煩わしいからと言うわけではない。舌をかみ切らせないためのものだ。
 なにせこれから行われる施術に麻酔は用いられない。動かないよう、自死できないように工夫されていた。腰の辺りにもベルトを巻けば完全なのだが、下腹部まで裂くので邪魔になる、と巻かれていない。そんなこと細かなところまで分かってしまう。
 これは本当に夢なのだろうか、と疑問が生じた。男の名を覚えられない、顔が見えないのは、自分だと認めたくないからではないだろうか。なにかしらのフィルターがかかっており、それを取り払うとそこにいるのは、自分では無いのだろうか。夢と言うには余りに実在的すぎた。

 追体験?

 否、追体験とはあくまで他人の体験をあとからなぞり、自分の体験のように捉えることだったはず。むしろこれは前世などオカルト的なもので表現するべき代物なのかもしれない。なにをそんな戯言を、と普段なら鼻で笑うような発想だった。しかしこうも続くと、否定することが出来ない。だがそれを認めると言うことは、自らが外道畜生であったと認めることだ。到底看過出来ることではない。
 メスが胸骨上部にあてがわれた。女が限界まで目を見開き、怯え、全身から汗を滴らせる。荒い息が猿ぐつわから漏れた。血走った目が、止めて、と訴えかけてくる。
 しかし、どうすることも出来ない。目を逸らすことすら出来ないのだ。皮膚を切り裂く瞬間に見せる女の顔が堪らなく好きだった。悦喜で満たされる。途轍もない感情の渦に飲み込まれ、吐き気がした。違う。本当は徐々に適応してきている自分が気持ち悪い。
 メスの先端に血の玉が出来る。押し込んでいく。骨に軽く接触した。そして一の文字を描くように手が引かれると、女の絶叫が――

「――千雨君! 長谷川千雨君!!」

 勢いよく顔を上げると、猿ぐつわが血でにじんだ異国の女はいなかった。代わりに無精ひげを生やした年齢のわりに老けて見える担任、高畑・T・タカミチが、憂いの表情を浮かべている。
 突然の場面展開に思考が噛み合わない。それでもスポットライトのように浴びせられる視線を感じ取り、限界まで見開かれた瞳だけが動き出す。
 見慣れた光景だった。英文が書かれた黒板。それに背を向けるクラスメートが凝視してくるのを覗けば、在り来たりな授業風景と言えるだろう。
 
(そうか……)

 居眠りをしている生徒を注意するために授業が中断されたのだと理解して、長谷川千雨は安堵した。初の快挙だ。その功労者は目の前の教師だろう。いまだ肩にかかった手には力がこもっている。

(自分では起きられないけど、他人(ひと)に起こして貰ったらいいのか)

 優しい、悪く言えばなにかと甘い担任が壇上からの注意だけでなく、こうして足を運んだ様子を見ると、眠りは深く起こすのにはさぞ苦労をしたに違いない。

「ありがとうございます」

 意識はしていなかった。本心からこぼれた言葉だった。
 そして訪れたのは静粛。時を刻む音も不要と音が止む。静寂に満ちていたはずの教室は、まだ静寂にはほど遠かったようだ。
 無理もない。タカミチの目も点になり、なにも言い返せないでいる。お礼をいわれるなど誰が予測出来ただろうか。クラスメートもそうだろう。まさかそんな手で反撃するなど思っても見なかったに違いない。
 とは言え、時が止まるなどと言うことがあるはずもなく、カチリと秒針が響くと同時に誰かがプッと吹き出した。笑い声が拡がる。まるで流れる時間を音で表現したかのようだ。
 千雨の時間も流れ出した。自分がなにを言ったのか、思い返し、驚愕。顔どころか首まで真っ赤になった。

「静かに!!」

 脱線の兆候を感じ取ったタカミチが、間髪入れずに声を張り上げた。これを放置すると授業にならなくなる。二年も受け持っていると手慣れたものだ。
 
「どこか身体の調子が悪いんじゃないのかい?」

 睨みを利かせていたタカミチが腰を折り、千雨の顔を覗き込む。目の下を注目していた。ファンデーションで隠しているが、そこには酷い隈が出来ている。

「い、いえ、大丈夫です。夜更かししただけなのですみません」

 チャンスだったのかもしれない。しかし素直に答えることは出来なかった。戦時中の残酷な所業を夢に見ます、なんてこんなところで言えるわけがない。

「そうかい? 調子が悪いならすぐに言うんだよ」

 注意らしい注意もなくタカミチが壇上へと戻っていくのを、ずれた伊達眼鏡を直しながら見た。気概が逸れたのかも知れない。
 
(あっ!?)
 
 タカミチが床に飲み込まれた。そんな事があるわけがない。眼鏡を外して、目頭をきつく押さえる。かりかりと音が聞こえてきた。恐る恐る目を開けるとタカミチは何事も無く板書を再開していた。
 
(やばいな。顔でも洗ってくるか)

 それ位でどうにかなるとは思えない。それでもなにもしないよりマシだろう。どうにかして眠気に打ち勝たなければならないのだから。
 暖かい教室。退屈な授業。凶悪な組み合わせが、眠気に加勢する。冷たい水と冬を体現したかのような廊下なら対抗することが出来るかもしれない。

(ああ、けど廊下でも眠れそう)

 がくんと頭が崩れた。手にしたシャープペンシルが視界に入る。いつの間にか逆手に握っていた。これでどうしようというのだ。
 背筋を伸ばした。危険水域を突破しそうだ。このままでは自傷も躊躇わないかもしれない。
 限界が近い。寝ないという選択肢は選べない。夢をどうにかするしかないだろう。悪夢になれるか、夢を見ないようにするか。

(でも、どうやって……)

 思いつかない。代わりと意識のすき間に睡魔が入り込み、視界の半分ほどに幕が下りた。
 意識が波間をたゆたう。ゆっくりとゆっくりと心地よいリズムで漂う。駄目だと理解しているが、目蓋を上げられない。悪夢だとわかっているのに、夢路に踏み込んでしまう。

「――!! ――!!」
 
 千雨が、はっと顔を上げた。その勢いのまま横を見ると、前髪ちょっと切りすぎなんじゃないか、と思える綾瀬夕映が、肩を揺らしていた。

「千雨さん大丈夫ですか?」

 心配しているのが表情からでも分かる。だが千雨の脳裡には、一年のころから成長してないな、ととても失礼な感想が真っ先に浮かんだ。頭がきちんと働いていない。

「……眠いだけですから」

 しっかりしなければいけないのに、意識が朦朧としてくる。頭が船を漕ぎ出す。椅子からずり落ちそうになって慌てて机に手をついた。思考に空白を作るとそのまま夢の世界に落ちてしまう。目蓋を無理矢理開き、なにかネタを探すが、見慣れた日常風景に目新しさなどなにもなく、ゆっくりと目蓋がずり下がってくる。

「くそ、なんかないか」

 眠気を振り払うように小刻みに頭を振るう。

「なにがです?」

 千雨が驚いて視線を声のする方に向けた。無意識のうちに口にしていたようだ。夕映が心配そうに見ている。 
 ちらりと高畑に視線を移す。授業中なので本来はこのような行為は慎むべきなのだが、これを利用すれば眠らずに済むかもしれない。それに聞きたいことも出来た。上手くすれば問題が解決する。

「あの……居眠りしている時、うなされてたりしてましたか?」

 タカミチの動向に注意を払いつつ、夕映の方に身体を傾け、小声で話しかけた。
 
「いえ、特にそのような様子は……むしろ眠りが深いのか、なかなか起きないぐらいで……、なにかうなされるような夢を見たのですか?」
「ま、まあ、いまから始まるというところで起きたので見ずに済んだというか……」

 言葉を濁し、千雨が若干苦虫を噛み潰したような顔をした。こうして会話をしてみると自分がどれだけ浅はかな事を考えていたか、すぐに気がつかされた。
 悪夢を見ている兆候が現れた場合、誰かに起こして貰えば良い、などと考えてしまった。先ほど実績を得たし名案だと思った。しかし、これには考えるまでもなく致命的な欠点がある。
 当たり前だがこれには起こしてくれる相手が居るのだ。百歩譲って学校ならまだしも、夜ともなると一晩中つきっきりで見張って貰う事になる。麻帆良学園女子中等部に通う生徒は皆、寮住まいだ。頼めないこともないのかもしれない。しかし流石に一晩となると、誰が引き受けてくれるだろう。

(そもそも同居人は別のところで寝泊まりしてるし、こんなことは頼めないか)

 実家ならまだしも、と視線を同居人に向ける。後ろ姿しか望めず、野暮ったいお下げが目についた。視線は黒板とノートを交互しているのだろう、お下げが微かに揺れている。 

「いい考えだと思ったんだけど……」
「いい考え? なにか悩み事でもあるのですか?」

 ハッとして千雨が頭を振る。返事が返ってくるなどとは思っていなかった。また知らず識らず口に出ていたことに遅れて気付くが、

「――――ッ!?」

 激しく鼓動を打った。思わず手を胸に当ててしまう。破裂したかのような挙動を見せたが、心臓は無事だった。ただ信じられないくらい収縮、拡張をいまも行っている。
 だが、そんなことよりも……

「……な、縄?」

 声は震えていた。瞬きしても消えない。薄汚れ、表面が擦り切れ、ささくれ立った縄が天井からつり下がり、夕映の首に巻き付いている。

「縄? 縄がどうしたんですか?」

 不快なはずなのに本人はまったく気付いていない。なにかの見間違いと視線を逸らすが、誰の首にも天井から伸びる縄が掛かっていて、千雨は息を呑んだ。

(ヤ、ヤバイ、洒落にならなくなってきた)

 きつく目蓋を閉じ、目頭を押さえる。

(ここはワルシャワじゃねぇ。麻帆良だ。そんなことあるはずがない)

 しかし、目蓋に夢で見た場景が浮かび上がり、先ほど見た光景と重なったとたん床板が……

(くそ)
 
 宙づりになった。もがき苦しむクラスメートなど見ていられない。無理矢理にでも目蓋を押し上げようとして、緊張が千雨を襲う。そんなことがあるはずがない。
 光と共に差し込んできた情景に、古めかしい縄などなかった。安堵が漏れ、夕映と目が合う。彼女は不安げな顔を浮かべている。

「いえ、何でもないです」

 眼鏡を机に置き、目を擦る。意味のないことだが思わずやってしまう。重症だ。夢と現の境が曖昧になってきていた。クラスメートを絞首刑にかけようとするなんて狂気の沙汰だ。
 
(夢を見ない方法を探してみるか)

 いつも通りに手を伸ばすが、そこにノートパソコンはなかった。一瞬、これも夢なのでは、と思ってしまったが、なんのことはない忘れてきただけだった。
 机に肘をついて頭を抱える。横から視線をずっと感じる。挙動不審なのは否めない。夕映は心配で授業に戻ることもが出来ないのだろう。
 だから、 

「あ、あの……夢を見ない方法って知っていますか?」

 余り踏み込んでほしくないが、質問を繰り出した。待っていたかのように夕映は「夢を見ない……ですか?」と返し、一拍間を開けてから、

「パッと思いつくのは睡眠薬ですかねぇ。効果があるか試したことがないので分かりませんが……」
 
 と答えた。
 千雨は「睡眠薬」とぽつりと零して、気になることを聞いた。

「睡眠薬って、薬局で買えるんでしょうか?」
「どうなのでしょう」
 
 夕映が首を捻る。千雨もこれまで睡眠薬のお世話になった事は無いので知らない。そもそも寝られないわけではない。むしろ、簡単に寝入ることは出来る。

(こういう場合って精神安定剤とかいうやつの出番か? となるとカウンセリングとかが必要なんじゃ)

 千雨の顔が若干引きつる。その時は、どんな夢を見るか語ることになるだろう。しかし、それはあまりに変質的で語りたくない。

(でも、このまま続くようなら恥とかそんなことは言ってられないし……、頭やられてさっき見たようなことを本当に実行しちまったら……)
 
 ブルリと身体が震えた。あり得ないし、絶対にあってはいけない。しかし、その場面が容易に想像出来てしまう。
 否定するように唇をきつく噛んだ。嫌と言うほどに嗅がされた血臭が口の中に広がり、眉が歪む。それが不快ではなかったのでなお歪む。
 千雨はゆっくりと息を吐き出すと、緊張の面持ちで手を上げた。







 ――それは多夢かもしれないわね。

 おっとりした感じの声が頭の中に響く。

「多夢ねぇ」

 と千雨は復唱する。
 意を決して向かった保健室。一時間目と学校が始まって間もないとあってか、先客は誰もいなかった。
 好都合だった。しかし養護教諭と対面するとなかなか話を切り出せなかった。ふたりきりのチャンスは限られているのに。休み時間にでもなれば他に体調を崩した生徒がやってくるかもしれない。誰かに聞かれるのは嫌だという思いが、千雨の背を押した。
 そうして話してみると、恐怖を呼び起こす夢ばかり見るというのは睡眠障害の一つらしい事が分かった。その際、夢の内容についてはホラー映画のようなものとお茶を濁した。

「どうするかなぁ、問題は人間関係に学校環境でのストレスだよな」

 頭が痛くなってくる。他にも原因になりそうなものを聞いたが、この二つに関して身に覚えがありすぎるほどピッタリと当てはまっていた。

「真面目すぎるのなかな……はぁ」

 2-Aというクラスに適応できていない。適応しようとする努力もしていないが、むしろそんなクラスメートをバカにしている。とは言え、こういうことになると考えてしまう。

「もうちょっと気楽に生きられればなあ」
 
 どうもクラスメートがすることを笑ってやり過ごすことが出来ない。それがストレスになっている事も十分過ぎるほどに理解していた。

「脳天気というか、なんというか……」
 
 考えただけで鼻で笑ってしまう。こういうところがいけないのだろう。しかし、そう易々と性格なんて代えられるものではない。
 もちろん、クラスメート全員が全員と言うわけではないが、なにか切っ掛けがあれば、すぐにたがを外し、悪のりをしてお祭り状態にしてしまう人間が多いのが現状だ。
 
「お子ちゃまが多いんだよな」

 だからと言って、看過できるほどに達観することも出来ず、そこから生じるジレンマが即ストレスに繋がってしまっている。自身の沸点の低さにも原因はあるだろう。

「ため込むんじゃなくて、本人達の前でキレるなりした方がいいのかも…………でもそれってどうなんだ?」

 千雨の表情が曇る。嫌な奴。空気が読めない奴と思われないだろうか。そんなことが間髪を容れず思い浮かんだが、振り払うように頭を小刻みに振った。矛盾している。

「部屋に帰ってブチギレてもこれだもんな。キレても一時的にはスッキリするけど、根本的な問題の解決にはなってないし」

 次の日には同じような事が起こることもある。思い返してみるが、不思議と苛立ちは憶えなかった。むしろバカ騒ぎするクラスメートは楽しそうだ。本当はそれに混ざれないことに対して、焦燥感のようなものを知らず知らずに抱いているのかも知れない。

「バカに付き合ってられないんじゃなくて……端っこで見ている自分を認識するのがイヤなのかも」

 その結果、居たたまれなくなって逃げるように早退してしまう。あり得ないでもない。自分が気付いていないだけで、むしろこの場合は、目を逸らしていると言うべきか。実際、ネットアイドルなんてものをして、クラスメートにも負けず劣らずのバカ騒ぎを行っている事実が重くのし掛かった。

「まあ、その……なんだ。ちやほやされるの好きだもんな」

 ストレス発散の場であると同時に、普段の生活で満たされない欲求を満たすことが、原動力になっていないと言い切れない。

「そういや私って……友達らしい友達もいないんだよな」

 なんか言ってて悲しくなってきた。その線引きをしたのは誰でもない自分だ。バカとは付き合ってられないと、でも案外付き合ってみるとバカでもいいのかもしれない。

「踊る阿呆に見る阿呆だっけか、そうだよな。はぁ~、まあ、何はともあれ、今夜だな今夜。今夜、夢を見たら病院に行こう」

 言葉の隅々からまだ決心が付かないのが丸わかりだった。その事実から目を逸らすように千雨は空を見上げる。日はどっぷりと暮れて、満月が見事に輝いていた。

「今日次第だ」

 人通りがないため、遠慮なく大きな独り言を呟く。自分に言い聞かせるように。
 不安はあるが、こうやって気に病みすぎるのも良くない。連日連夜見る悪夢によって、植え付けられた眠れば悪夢を見るのではないかと言う不安が、多夢を誘発する要因のひとつにもなり得るそうだ。
 
「そうだよな。さっきはちゃんと寝られたんだから」

 九時半頃から起こされるまでの午後六時まで、夢を見ることなく熟睡した。これは負の連鎖を断ち切ったと考えて良いのではないだろうか。

「またなにかあったら相談に来なさいって言ってくれたんだしな」

 口角を無理矢理に上げて、笑みを作る。辛気くさくなっていては元の木阿弥だ。もっと気楽になるべきだ。

「そう、見なきゃいいんだ見なきゃ」

 声を弾ませる。あとはクラスメートとの関わり方を見直せばいいだけだ。その手段にも見当は付いているが、それにはかなり勇気がいる。

「でもそれはちょっとあざといかな」

 ネットアイドルのキャラは受けを狙って過度に装飾している。自分自身を曝け出していると言うのとはまた違う。

「まあ、それはあとあと」

 ふっと疑問が浮かび上がった。苦笑していた千雨の表情が真顔に戻る。

「でも、なんでナチなんだ?」

 それだけはどうしても引っ掛かった。ホラー映画みたいな夢を見ると言う下りについて、養護教諭は見解を聞かせてくれた。昔見た映画やドラマの記憶を、自分が考えつくもっとも恐ろしいストーリーに合わせて再生しているのではないかと。

「でも、再生するにしてもあんなドキュメンタリーとか見たことあったっけ」

 ないとは言えない。ゲットーや殲滅施設でおこなった実験の数々については、まず医療現場をテーマにしたドラマが山ほどある。千雨もいくつか見たことがあった。もちろん夢のような陰惨な内容では無い。しかしそこはホラー映画で補うことが出来る。それらを組み合わせて構成している可能性は非常に高い。

「案外、暗示だったりしてな。私って映画監督とかそういう才能があるのかもしれない。あのリアリティだもんなぁ。ヤバ、クリエイティブすぎる自分の才能が怖い」

 と口にした瞬間、寒々しい冬空から冷たい風がプレゼントされ、身体が震えた。

「おお、寒!! バカな事言ってないで早く帰ろう」

 震える身体を抱くようにして腕を擦る。ふと腕時計に目が行った。時刻は七時をだいぶ回っている。駅から寮まで徒歩十分と言ったところだが、倍以上の時間をかけてしまっていた。

「身体も冷えるわけだ」

 寮に着いたら先に風呂に入るか。身体が芯から冷えている。その方がいいかも、と考えながらハァ~と息を吹きかけて、かじかんだ手を擦り合わせた。 

「うん?」

 東の空に低く昇る大きな月が陰ったような気がした。だが、月は相変わらず煌々と光を放っている。

「なんかの見間違いか」

 妙に気になり夜空を見上げるが、雲なんてひとつなく、むしろ空気が澄み切り、多くの星の瞬きを望むことが出来た。

「なんだったんだろ」

 些細な事だが気になる。周囲を見渡すが、これと言ったものはない。
 千雨が首を捻りながら桜並木に足を踏み入れる。その瞬間、背筋に冷たいものが走り、怖気に足を止めた。

「なんだ?」

 眉間に皺が寄る。

「あれ?」

 視界の真ん中にある自動販売機。桜並木の中程に置かれたその影になにか居る。

(変質者か?)

 誰もいないことをいいことに延々と続けられた独り言が鳴りを潜める。ポケットに忍ばせた携帯電話に手が行くが、どうも頼りない。
 なら止せばいいのだが、放っておくとまずい状況のような気もする。変質者でなく病人と言うことも十分にあり得る。この辺りは寮しかない。時間も時間だ。この寒さも相まって人が通る可能性はかなり低い。これまで誰にも気兼ねなく独り言を続けられたことも、人が居ないことを証明している。こんな状況で、もし持病で動けないとしたら、師走の寒空は命に関わるだろう。
 だから、らしくもなく見過ごす気になれなかった。似たような境遇にあるからに違いない。

(見間違いじゃないよな?)

 警戒しながらゆっくりと近づく。音を立てないように注意を払いながら歩を進め、じっと自動販売機を凝視する。
 
(やっぱあそこに誰かいるよな)

 まだ距離があって詳細は分からないが、どうにも影が不自然だ。自動販売機の影にウサギの耳にようなものがちょこんと突き出ている。

(あ、あれ?)

 息を呑んだ。心臓がどきどきと鼓動を打つ。

(あれって足……だよな?)

 自動販売機の影から女性の足が投げ出されている。間違いない。見覚えがある靴も履いていた。千雨が視線を下げる。同じものを履いている。麻帆良学園女子中等部指定の革靴に違いない。

(やっぱり病気かなにか……か?)

 それでも歩幅が変わらない。緊張感が消えないのだ。頭の中に事件性と言う文字が浮かぶ。 
 そわそわして周囲に視線を走らせてしまう。桜の木の陰、ベンチの下等、人影はない。あと隠れられるとしたら自動販売機の裏だが、そこは確認出来ない。

「あ、あの~、大丈夫ですか?」

 なるべく自動販売機から距離を取りながら、声を掛ける。ちょっと上擦った。しかし、女性からの返事は無い。
 周辺の気配を探りながら、近づいていく。いつでも逃げられる体勢を心がけ、携帯電話もポケットから引き抜き、指を『1』に置いた。

(やっぱだれか居るよな)

 酷く落ち着かない。どこからか視線を感じる。とても不快な視線だ。
 後ろを向くが誰もいない。前もいない。右も、左も。人影はないはずなのに、誰かいるような気がますます強くなる。
 少女が起きているのか。千雨の喉がゴクリと鳴った。気持ちが浮き足立つ。
 足を投げだし自動販売機に背中を預けるようにして座っている。頭を垂れていた。長い髪がベールの変わりを果たしているため、顔は見られないが、クラスメートではないと判断した。
 戸惑う。本当に妙な気分だ。それに説明がつけられない。見たことがないのに見たことがあるように思えるからだろうか。大浴場、食堂、廊下、学校でも、電車や通学路、どこかで顔を合わせていても不思議ではない。

「あ、あの~……――――――ッ!?」





[33521] 2 omen
Name: 愛宕◆38e00c08 ID:ee5a8350
Date: 2012/06/19 22:36

 硬めの靴底が砂を噛んだ。
 長谷川千雨の肩が跳ね上がり、刹那遅れて痛みを覚えるほどに勢いよく首が回転、視線が桜並木を疾走する。
 音の発生源はすぐ側からだ。距離にして数メートルと離れていないはず。
 焦点を合わせるまでもなかった。通りに人影はない。だから間髪入れずにベンチ、木陰、ガードレール、煉瓦を積み上げて出来た膝ぐらいの囲い、と持ちうる最高の速度で眼球を動かすが――

(いない!? どこに行ったんだよ?)

 聞き間違い、と脳裡に居座る。だが、それはない、と押しのけた。
 幻聴ではない。確かに聞いている。なら結果が付いてこないというのはどういうことだろう。音の大きさからも距離は離れていないはずだ。

(やっぱり気のせい……か?)

 緊張に張り詰めた糸が緩むように表情の引きつりが収まった。

「だよな。聞き間違いだよな」

 無理矢理にでも納得させるように声が漏れる。気持ちを切り替えようと頭を振りつつ、力なく座り込む少女に向き直った途端、ゴクリと生々しく喉が鳴った。

(な、なんだよ。なんでドキドキしてんだ)

 慌てて目線をずらす。心臓の様子がどうもおかしい。手も大量に汗をかき出している。落ち着かない。視線もそわそわし出すし、足が動かない。

(そ、そうか!? そうだよな。確かに聞いたもんな。聞き間違いなんかじゃないよな。このまま放置したらマズイよな。でも見てもいなかったし……待てよ。つうことはだ。見当違いの方角を探し回っていたってことじゃないのか? 危険をどうにかしらせようとだから身体の調子がなんかおかしい? だよな)

 だったら何者かは……

(――うしろ?)

 背中がぞぞっと粟立つ。不快感を振り払うように全身を大きく使って後ろを向くが、視界を遮る壁などなかった。街灯の光に浮かび上がるのは石畳とベンチ、あとは名称の桜並木だけで、その先に建つ寮が灯す明かりまで見通せる始末だ。

(こ、こっちでもないのか……、そうなるとやっぱり自動販売機の裏――――――ッ!?)

 はぁああ、と千雨の口から盛大なため息が漏れた。息と一緒に膝まで折れそうになった。確かに間違えていた。方向ではない距離感を。
 
「クソ、絡繰かよ……もう少しだったのに」 

 立ち姿に苛立ちを憶える。緑色の長い髪に特徴的な耳当てをした絡繰茶々丸の頭部だけが闇に浮かんで見えた。黒を基調とした服装を着込んでいたため、桜通入り口に佇んでいても闇夜に紛れこんで見えなかったのだ。

(――って待てよ)

 茶々丸は通りに足を踏み入れてもいない。こちらの様子を立ち止まって観察している。まるで近づくのを躊躇しているかのようだ。これまでの自分の行動を思い返してみれば、奇行に見えなくもない。だからためらっているのかもしれないのだが、

(と言うことはだ。絡繰はいま桜通に到着したってことだよな? すると何者かはまだこの付近にいるってことじゃないのか?)

 茶々丸との距離は離れすぎている。いくら静寂に包まれているとは言え、常識的に考えて砂利を踏んだ程度の音は聞こえないはずだ。
 
(だからって私でもないぞ)

 自動販売機に背を預け座り込む少女は――
 一ミリたりとも動いているように見えない。こうなると自分達以外に音を立てた者がいると考えるのが妥当ではないだろうか。

「でも……あれ? 視線が……、やっぱり気にしすぎなのか」

 納得がいかないまま首を捻る。人通りのない寒々しい夜の並木道。こんなところを一人で歩いていると怖さを感じない訳でもない。なによりいまは精神的にも疲れている。さらに座り込み頭を垂れる少女もいた。複数の要因が作用しあった結果、犯罪の可能性を視野に入れ、過剰に反応してもおかしくないだろう。

「ってそうだ。いつまでもこのまま放置してたらやばいんじゃ……」

 千雨が茶々丸を呼ぼうと口を開く。しかし、唇がまごつき、上手く言葉が発せられない。

「だからなんだってんだよ」

 茶々丸を呼ぶことを逡巡してしまう。手招きしようにも、手首を捕まれているかのように腕が上がらない。
 視線が何度も名残惜しそうに少女に向けられ、とても歯痒くなる。意識を失い力なく座り込む彼女に引き付けられてしまう。

「こんばんは長谷川さん」

 茶々丸の声で我に返った。いつ横に来ていたのか、その姿を視認すると思わず舌打ちを返しそうになった。なにかおかしなことがこの身に起きている。彼女の登場は喜ばしいことなのに、頭の中では真逆の感情が沸々と湧きだしていた。
 本当にどうにかなりそうで、それを押し止めるように取って繕い千雨が声を絞り出す。

「……こんばんは」
「先ほどからどうしたのですか?」
「あ、ああ、その……」

 口籠もって、思わず少女の方を見てしまう。
 
「そこになにかあるのですか?」

 茶々丸の位置からは見えないのだろう。確認に向かおうと前を通り過ぎる。
 だが、
 
「ああ!!」

 と未練がましく千雨は声を上げてしまった。

「どうしました? 突然大きな声を上げて」

 歩みを止めることは出来たが、表情の乏しい茶々丸がそれと分かるぐらいに不審げな顔を作っている。

「あ、いえ、そこに人が倒れているんですが……もしかしたらなにかの犯罪に巻き込まれた可能性がありそうなんです。それでその犯人が、そこの影にいるかもしれないので不用意に近づくのはどうかと……」

 ゆっくりと腕を持ち上げる千雨、茶々丸がその指先を視線で追い掛ける。

「自動販売機ですか? 分かりました。私が確認してきます」
「え、でも」
「大丈夫です。卑劣な変質者程度には負けません」

 茶々丸は恐怖心をかけらも感じていないのだろう、警戒などすることなく大胆に自動販売機の裏に回り込もうとする。
 その後ろ姿に千雨ががっくりと肩を落とした。彼女は人間ではないロボット――ガイノイドだ。本人がそう言うのだから、誰かいたとしても簡単に負かす事ができるのだろう。それが堪らなく残念でならない。

「誰もいませんが本当に誰かいたんですか?」

 聞こえてきた声に千雨は思わず、「チ、クソ」と悪態をついた。その瞬間、何かが弾けた。心の中に沸々と沸き立ち泡状で堪っていたものが一つになり、カッと脳髄が熱くなる。それに名を付けるとするなら怒りだろう。

「どうかされましたか?」
「い、いえ、そうですか、誰もいませんか……すみません手間を取らせて、気のせいだったようです」

 心中に渦巻く思いをひた隠すように薄く頭を下げる。とたん、なぜ自分ですぐに確認しなかったのか、と後悔の念がどっと押し寄せてきた。チャンスはいくらでもあったはずだ。

(くそ、絡繰じゃあなあ)

 本当に勿体ないことをした。今回は諦めた方がいい。千雨は気持ちを切り替えるように小さく頭を振り、

「大丈夫ですか?」

 と少女の側で片膝を付いて肩を揺らす。

「――っと!!」

 必要以上に力が入りすぎていたのか少女が横に倒れてしまう。千雨が慌てて手を伸ばす。なんとか転倒は免れたがその弾みで頭が大きく横に倒れた。顔が顕わになり興味に目が追い掛けようとするが、意志に反して行き着いた先は首筋だった。
 細くて白い首。月明かりに輝いて見えた。

「……縊り甲斐が――えっ!? なんだこれ?」

 首筋二カ所に穴が開いている。穴の直径はボールペンぐらい。我知らず千雨が自分の首に手を当てた。指が血潮を捉える。そこにあるのは頸動脈だ。すると少女の穴もそこに穿たれていることになる。しかし、そんな大きな穴が開いているにもかかわらず、血が一滴たりとも流れ出ていないが不思議でならない。

「どうなって……まるで吸血鬼みたいだな。まさか――――えっ!?」

 突如として脳裡に浮かぶ死蝋のような肌をした長身の男。サングラス越しでも煌々と見える真っ赤な瞳。苛立ちを隠せない口許が……

「違う」
 
 考えを否定して千雨が頭を小刻みに振った。

(あいつはこんなやり方はしない。そもそも……)

「なにが違うのですか?」
「へ? あ、ベイは……え、あ、いえ……」

 千雨が怪訝な顔をする。つい今し方、口にしようとした言葉が思い出せない。なにかおかしい。意識すると妙に身体がうずきだし大声で叫びたくなる衝動に駆られた。なにかが喉までせり上がってきたので我慢するが、噛み締めた歯の隙間から漏れ出すように、ううん、と悩ましげな声を上げて身体を振るわせてしまう。

「長谷川さん?」
「あ、なんでもありません」

 怪しむ茶々丸の視線を受け、取り繕う千雨が早口で言う。

「それよりもどうしたらいいんでしょう。生きてますけど呼び掛けても返事が」
「応急処置は私がしますので、長谷川さんは救急車の手配をお願いします」
「わかりました」

 入れ替わるようにしてしゃがみ込んだ茶々丸の背を見下ろす。それは正しい行為のはずなのに彼女の存在がどうしても千雨は看過できなくなる。率直にって邪魔だ。彼女を見ていると苛立ちばかりが募ってくる。絶好のチャンスだったのに。邪魔者を排除しようにも継ぎ目の見える硬そうな首ではそそられない。

「長谷川さん? 大丈夫ですか? 先ほどからどうも様子がおかしいのですが」
 
 手を止めて茶々丸がふり返ったので、千雨が強張る表情を緩めた。 

「すみません、ボーッとして」
「そうですか、学校での事もありますし、体調が優れないのなら電話も私のほうで」
「大丈夫です。至って健康だと思います」
 
 ただ……お前が邪魔なんだよ。と茶々丸に聞こえないよう口の中だけで呟き、千雨が背を向けた。表情から感情の色が消えている。それは茶々丸に勝るとも劣らない。

(もういいや、コイツうざいし。潰してもいいだろう? そうだ。そうすればこの鬱陶しい感覚からも解放される。我慢なんかする必要は無いんだよな。ああ、でも、こいつ人間じゃないから証拠が……、あ!? そうか記憶装置を処分したら問題ないのか)

 そんな思考に交ざるように、

 ――茶々丸、やはりそいつはなにかおかしいぞ。
 ――はい、先ほどから危険な単語も口にしています。
 ――ああ、少々手荒になっても構わん。拘束しろ。

 突然、聞こえてきた声。脳に直接刻むようなこれは幻聴などではない。千雨はこの感覚を知っていた。

(絡繰と……あとこいつはマクダウェルだな? ああ、視線はお前だったのか。なるほど……、つまりお前らが犯人ってことだ。ああ、それいいな。仕掛けやすいように隙を作ってやるよ。だから早く出てこいよ。絡繰(鉄)なんかじゃそそらねぇんだ)

 千雨がボタンを押した振りをして電話を耳に当てる。人形なんてどうでもいいと思うと、すぐに頭の中から絡繰茶々丸の存在が消えた。
 ゾゾッと鳥肌が立ち、背中を駆け上がってくる。
 来た。
 捕まってやってもよかったのだが、身体が無意識に反応する。
 軽く膝を曲げ、地面を蹴った。背後で風切り音が聞こえた。空中にあったがふり返るように反転し様子を見る。いままでいた場所では茶々丸がつんのめるようにして、自分を見上げていた。無表情だが驚いているに違いない。
 そして――

「なんだそんなところにいたのですか?」

 着地と同時にもう一人に千雨が声を掛けた。気付かない訳だ。そんなところに登っているとはつゆほどにも思わなかった。捜索の際、除外するまでもなく候補にすら挙がらなかった。
 三メートルほどの街灯の上、黒いマントに身をくるみ、魔女を連想させる三角帽子を被った金髪赤眼の少女が立っている。目が赤くなっているところだけが普段とは違うが、クラスメートのエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに間違いない。
 頬が緩み、上気する。目尻が下がり、瞳も潤む。獲物としてこれ以上のものは無い。多少不満な点は脆弱でないことだろうか。これから行われることは、無力であるに越したことはない。その点で彼女は違うだろう。美眉を顰め、睨み付けるその瞳が如実に語っている。

「降りられますか? なんなら手伝いますけど」
「ふん」
 
 街灯を軽く揺らすと、エヴァンジェリンがマントを広げ、重力を感じさせずに舞い降りてくる。傾斜の緩い坂道を滑り落ちるようだ。
 音も無く着地するその優美な姿に、我慢が限界を迎える。
 幕が上がった。
 先ほどの理性的な問いかけが嘘のように歯を剥き出して千雨が飛び出す。今すぐ殺す。もう殺す。と殺した後の事も考えて狂笑に酔う。
 少し顎を上げて睨んでいたエヴァンジェリンが、卑下するように口を歪め、

「まるで獣だな」

 と吐き捨て、己が従者に目配せした。
 背中が展開、推進装置がせり出し、ボッと破裂音をひとつ立てると千雨との間合いを詰める為、茶々丸が射出された。
 ジェット噴射を利用した移動は大したスピードだった。目にも止まらない。まして初動もなく氷の上を滑るように移動するそれに遠近感すら狂い出すはずなのだが、千雨は易々と反応して見せた。眉間に深い皺を寄せて憤怒に顔を歪める。
 茶々丸などどうでもいいのだ。標的はエヴァンジェリンただ一人。
 
「邪魔すんじゃねぇ鉄屑が!!」

 吼えた。苛立ちがピークに達し、膨れ過ぎていまにも身体を破裂させてしまいそうな殺意に、脳髄が犯される。
 どうしてくれよう。考えるまでもない。左の拳を握り固める。
 蔑視を浴びせられ多少変化の出た茶々丸の顔面に向けて突き出した。
 だが、重量、強度、推進力すべてにおいて茶々丸に勝る点がない千雨が勝てる道理もなく。いやそれどころか中途半端に力が出た分、顔に触れた拳が衝撃に耐えきれず砕けた。それだけで済めば御の字だったが、反応するとは思っていなかった茶々丸が止まれなかった。いかなる交通事故でもマシに思える衝撃音を桜通に鳴り響かせ、千雨を撥ねた。
 五メートル、十メートルを超え、十五メートルほどでようやく接地。しかし衝撃が減衰することなく、さらにバウンドしながら十メートル、転がり十メートルいったところでようやく止まった。

「お、おい死んだんじゃないのか?」

 動揺の隠せないエヴァンジェリン。顔が強ばり、真っ青だ。流石に人死にを出すと彼女としてもマズイ事になる。
 茶々丸が無表情で顎を下げると、胸部を撫でた。そこにぶつかったのだ。ぐじゅっと骨ごと肉を押しつぶす感覚が再生される。そして、自らが引き起こした結果にようやく辿り着いたように狼狽えだし、深々と頭を下げた。

「も、申し訳ありません。なにかする前に捕まえようとしたのですが」

 しかし、そんな主従の心配を他所に、当の千雨は仰向けに倒れたまま夜空を見上げて、三十メートル以上離れた会話を聞いていた。
 言われれば確かに初めての体験だった。目まぐるしく入れ替わる天地に、大きく揺さぶられる身体。ジェットコースターなんて目じゃない。しかし、アトラクションであるならどんなに危険そうに見えても安全性は確保されているもので、その通り痛みはまったくなかった。
 ああ、と気付く。そういえば視界が狭くなっていた。右眉辺りから顎、そして胸、脇腹の辺りまでがいままでとは形状が変わっている。意識すると気持ち悪さを感じるが、所詮その程度だ。
 それよりも問題なのは熱しすぎた鉄が形を保っていられなくなるように、それに近い状態にある脳だろう。いまにも蕩けそうになっている。頭の中は、愛と形容してもなんらおかしくない程に狂おしいエヴァンジェリンへの思いと、その逢瀬を迎える為の邪魔者である茶々丸への殺意が渦巻き炉心と化していた。だからかもしれない痛みになど構っていられないのは――

「ごっ、が、はぁ――ッ」

 喉の奥に堪った血で噎せ返る。吐いても吐いても止めどなく溜まる血に何度も咳き込む。

「う、動いた。い、生きてるぞ茶々丸」
「長谷川さん動かないでください!!」

 エヴァンジェリンには心が浮き足立つが、茶々丸はかんに障る。邪魔するつもりか、立ち上がらなければ目的が達せないではないか。そうはいかない。たかだか血が喉に溜まるぐらいでなんだ。こんなおいしい機会はもう訪れないかもしれないのだ。標的は血を吸うバケモノなのだから問題ないはずだ。感謝されても非難される謂われはないだろう。そしてそれに組みする機械を破壊しても……
 殺意を原動力にバネのように跳ね起きた。多少痺れが走り、よろめいたがなんなく立つ。息を呑む音を聞いた。どこか幽鬼を連想させる千雨の姿にエヴァンジェリン達が眼を剥いてる。構わない。千雨は左半顔だけで笑みを作り、馳せる。それにはエヴァンジェリンが怒鳴った。

「だから動くなと言っているだろ!!」

 愛しいバケモノの言葉だったがそんなものは聞けない。忠告を無視して距離を詰めながら茶々丸を睨む。戸惑いを隠せないのか、どうすればいいのかエヴァンジェリンに問うように顔を向けていた。
 その余裕な態度にますます感情が加熱される。次は負けない。しかし、素手は駄目だ。なにか違う。ずれている。探さなければいけない得物(自分)を……
 たかだか三十メートル、時間はさほどない。ここにあるのは桜の木と、ベンチ、自動販売機に、ガードレールと煉瓦の囲い。どれも千雨のお眼鏡にかなうものではなかった。あれがあれば茶々丸など問題ではないはずなのだ。
 しかし、自分を見付けられないまま、あと五メートルの所まで来てしまった。左腕は壊れている。右しかない。

 ――茶々丸いったん手の届かないところまで上がるぞ。
 ――はい、マスター。

「逃げんのかよ(にへんのへよ)!!」
 
 顔半分がまともに動かず、血も止めどなくせり上がり、発音がままならない。それでも叫ぶと同時に拳も繰り出すが、一歩届かず、ふたりは街灯の上へと飛び上がった。
 追い掛けようと地を蹴ろうとするが、視界の隅で踊るフラスコと試験管に目を奪われる。それらがぶつかり簡単に割れた。そして中の液体が混ざり合った瞬間、目の前が白一色で埋め尽くされる。
 石畳が砕け、身体が悲鳴を上げた。別次元の識閾が千雨を突き動かす。迫撃のエネルギーをすべて回避に使う。身体の中から子気味のよい音が幾つもし、壊れていく。
 だが、それだけの成果は得た。直接触れていないのに、体温を一気に奪われるような猛烈な冷気に身が晒されることは避けられた。反応出来なければ、目前の氷岩の中に閉じ込められただろう。

「どうなっている。あきらかに重症だ。死んでいてもおかしくないレベルのな。それなのになぜ速度が増す?」
「分かりません」
「念話を盗み聞きしたようだが魔力を使っている様子はない。だからと言って気でもない。いや、それでも気のようでもある」
「マスター分析はあとでよろしいのでは? いまのでさらに何本か骨が折れたようです。このままでは自壊してしまいます」
 
 血を吐き出しながら頭上で相談をし始める二人を千雨が睨む。三メートル、届かない距離じゃない。丁度いい足場がすぐ目の前にある事だし。
 ピシッと大気がなった。二メートルを軽く超える氷岩にひとつ大きな亀裂が走る。それを起点に縦横無尽に亀裂が走り出し、粉みじんに砕けて塵と消えた。こうなると自力で街灯の上まで辿り着かなければならない。助走を付ければ届きそうだ。しかし、その間に他に移られる恐れがある。なにより先ほどの攻撃を空中でされると避けることは出来ないだろう。ここは自分から向かうのではなく引きずり下ろす方法を考える必要がある。

「――――ッ!?」

 千雨が眼を剥いた。見つけた。あった。引きずり下ろす方法が。

「ああ、わかっている。いいな。これ以上怪我をさせるな――き、貴様なにをする気だ?」

 エヴァンジェリンが声を荒げる。
 
「ま、まさか!? やめろッ!!」

 止めるわけがない。千雨に取って必要不可欠な事だ。なによりもう遅い。十分加速がついてしまった。今更止まれない。
 エヴァンジェリンと茶々丸が街灯から飛び降りる気配を感じながら、思いっきり左足を蹴り上げる。
 息を呑む声が聞こえた気がしたが、すぐにそんな空気が緩むのも察した。それにふと疑問を憶えながら轟音と共に倒れる自動販売機を見守っていると、足元で横たわる少女が視界に入り、エヴァンジェリン達がなにに焦っていたのか理解した。彼女をダシにすれば良かったのだ。
 だが、千雨は少女を無視した。それよりもっといいものを見つけたのだ。
 自動販売機から伸びる電源コード。その先端は囲いに埋め込まれたコンセントに繋がっている。想像通りだ。
 千雨が拳を振り下ろす。配線は地中を通っているのだろうが問題ない。この手の紐が自分にとってもっとも適した武器なのだから、壊れた差し込み口に手を突っ込み配線に指を絡ませる。細く頼りない太さだが首を縊るのには十分過ぎた。さぞ食い込むだろうと思い浮かべて、千雨がにやける。
 あとはどれだけの長さを確保できるかだが。腕を一気に引き抜く。長さの確認はしない。勢いそのままに反転、手の延長と化したケーブルがエヴァンジェリンに襲いかかる。
 呆けていたわけではない。エヴァンジェリンも自分が標的だと分かっている。しかし、電線を武器に使うなどと思っていなかったのと、その速度に初動が遅れた。
 
「マスター!!」

 茶々丸が割ってはいり、腕を伸ばしケーブルを掴む。

「茶々丸手を離せ!!」
 
 千雨の顔に浮かぶ亀裂のような笑みを見たエヴァンジェリンが叫んだ。
 茶々丸が手を離すがケーブルは離れなかった。掌に吸い付くようにケーブルが付着している。なにもかもが遅すぎたのだ。
 アルミの缶を踏みつぶしたような音が響く。一気に締め上げられた茶々丸の腕がなんの抵抗もなくあっさりひしゃげた。もちろん彼女の腕がアルミ缶で出来ているわけがない。重量を軽減するために軽合金を使用しているが、戦闘に耐えうるだけの強度は十分に確保されている。それが苦もなく破壊された。
 その感触に千雨が身震いする。愉悦に身体の震えが止まらない。ロボットとバカにでしたものではなかった。悲鳴も上がらぬゲテモノではあるものの十分に欲求を満たせるだけの手応えがあった。
 だったら、茶々丸でこれほどならエヴァンジェリンはどれほどのものか。それを思うと身体に力が充ち満ち、違和感が消えていく。
 腕を振った。
 
「――そぉらッ」
 
 官能でかけ声が上擦った。二十メートル上空まで軽々と茶々丸を跳ね上げる。一本釣りのように。あとは彼女を地面に叩き付けるだけで終了だ。人であったのなら縊っていたが、これからメインディッシュが待っている。逸る気持ちが前菜に時間をかけていられなかった。

「氷結 武装解除!!」

 ガラスを砕いたような音が木霊した。千雨の手から確かな感触と重さが消える。茶々丸と繋がっていたケーブルの長さが十センチほどになっていた。その不可思議さに魅入り、思考に重きが置かれて、動きが止まってしまう。

「なにを呆けている」

 耳元から聞こえてきたエヴァンジェリンの声によって千雨が我に返る。振り向きながらの肘打ちで追撃。不本意と間を置かずに思い浮かんだ。
 だが、そんな考えは杞憂だった。天地が逆にある。足の踏ん張りが利かない。
 そして目の前には迫る石畳が――
 
 ――マスター?
 ――問題ない。なぜかは知らんが、怪我が治っている。

 彼女の言うとおり千雨が腕立て伏せの要領でなんなく着地、すぐさま攻撃に転じようと起き上がる。その際、ベルトに手を掛けていた。長さは物足りないがこれでも首を吊ることは十分出来る。
 しかし、その肝心のエヴァンジェリンの姿が見えない。

「――――ッ!?」 

 聞き取れなかった。それでもエヴァンジェリンがなにかを唱えたのだけは千雨にも分かった。そう理解したのは氷に閉じ込められてからだったが。
 目前に幾人ものエヴァンジェリンがいる。光の屈折現象によって出来た像。どれも冷ややかな目で見下していた。

(この程度で)
 
 脳髄を犯す熱が氷も溶かす。身に纏わり付いているのはすでに水だ。多少鈍るが問題はない。
 
「こんなもので私が止められるわけがないでしょう!!」

 足を蹴り上げる。へばり付く水を切るように。
 すると氷が砕けた。

「なんだ――と」

 数多あった像がひとつとなり、つま先がエヴァンジェリンの薄い胸に深々と突き刺さる。伝わる感触に後悔の念が過ぎった。
 奇妙な音がした。ゴキともポキとも違う。でも、皮膚を押しつぶし骨を砕いた音に違いない。やり過ぎだ。こんなのは望んでいない。求めているのは縛り首なのに、カッとなって抑えが効かなかった。
 淡い期待で止めてみるが、慣性の真っ直中にいるエヴァンジェリンは地面とほぼ並行に飛び、石畳を巻き込みながら十メートルほど転がる。

「くそ」

 エヴァンジェリンはピクリともしなかった。最悪だ。あっさりと終わらしてしまった。もっとじっくり苦しむ様子を観察したかったのに、こんなのでは満たせない。

「がはぁ――」

 血を吐き、起き上がろうとするエヴァンジェリン。千雨の口がつり上がる。生きていた喜びを意識するよりもさきに身体が反応した。

「イヒ、ヒ、ヒャハハハハハ……」
 
 パァンと空気が弾ける。千雨が手にしたベルトが打ち鳴らした音だ。しかし、これで打ち据えようなどとは考えていない。そんなことをすればエヴァンジェリンは死んでしまう。それではいけない。同じ過ちを起こすことになる。折角生きていたのだから、行うべきは求めに求めた絞首刑でなければいけなかった。
 十分は楽しむ。そんな希望を胸に駆け出したが、茶々丸に割って入られた。突き出される拳。しかし、遅い。あまりにも遅い。止まって見えるほどに。高揚感に合わせて身体の調子も上がっているのか、すこぶる快調だった。
 だから、背を反り余裕で躱す。だが、視界の右半分が肌色で埋め尽くされ、ゴンと聞こえてはいけない音を千雨は聞いた。避けたはずなのに茶々丸の拳が顔に突き刺さっている。
 疑問が湧く。遠近感覚がおかしい。茶々丸の間合いでは届くわけがない。測り間違えたのか、それともダメージによって引き起こされた現象なのか。
 茶々丸の手首を千雨がガッシリと掴んだ。答えはそれよりも遙かにいいものだった。こういうのが欲しかった。
 鋼鉄製のワイヤーがある。切り離された茶々丸の上腕と二の腕を繋いでいた。こういう使い方をするなら長さも申し分ないはずだと当たりを付け、これこそまさに自分の為にあるようなものだと千雨は歓喜した。
 だったら手に入れないわけがない。一気にたぐり寄せて茶々丸の頭を掴み、力任せに叩き付ける。
 頭が石畳を割り、半ば陥没した。人間なら頭と首が木っ端微塵だろう。いや、茶々丸をしても首の機構が破壊されたのか、軽く手首を捻ると抵抗感が全くなくなっていた。人間と同じように頭部に脳たる中枢回路があるかどうか分からないが、動きは阻害できたとふんで次の作業に移る。
 肩口に足を乗せると、二の腕を握りしめ、綱を引くように体重を一気に後ろにかける。ほどよい抵抗のあとブツンと音を立てて腕が抜けた。最後に余分な二の腕と前腕を力任せに引き千切って完了だ。ボルトが飛び、ワイヤーだけとなった。長さはおよそ二メートル、想像してたよりも短いが十分だ。

「お待たせして申し訳ありません」

 語っても語り尽くせない湧き上がる喜びを押し殺すようにしてエヴァンジェリンに向き直る千雨。口許と目許がにやけてくる。エヴァンジェリンは何とか立ち上がり、にらみ返してくるが、その実、吐血が止まらず、膝も震えていまにも倒れ込みそうで強がりにしか見えなかった。

「後ろ手に隠しているのは先ほどから使用している触媒ですか?」

 千雨が無防備に近づく。ちょっと散歩するような気軽さだ。手にしたワイヤーを振るうこともしない。一度、ケーブルを破壊されており警戒すべきなのだが、もうなにをしようと攻撃は効かない。そんな自負心がどこからともなく湧いてくる。

「氷爆!!」

 凍気と爆風が迫るが、千雨はそのまま歩みを進めた。薄皮一枚凍らない。

「ク、クク、ハハハハハ……」

 予想通りの結果に笑いながら手にしたワイヤーを放つ。氷の壁を砕き、エヴァンジェリンの細く白い首に巻き付く――寸前で手元に戻した。

「そうではありませんよね?」

 一気に間合いを詰めて言った。同時にエヴァンジェリンの腕を締め上げる。ただでさえ苦しそうな表情がより一層苦痛に歪む。
 ポキリと枯れ枝の折れる音が響いた。フラスコと試験管が指からすり抜ける。試験管は靴の上に落とし確保、フラスコだけが石畳に落ち割れた。

「もう一本あるとは言え、また壊されてはかないませんので、こういうのはなしでお願いしますよ」
 
 軽い動作で試験管を桜の木にぶつける。エヴァンジェリンは唇を噛んで睨むだけで言い返してこない。その様子で彼女の目論見が自分の思っているとおりだったと千雨は嬉しくなった。

「悲鳴も上げないとは気丈なことで、キ、キヒヒ……」
 
 金切り声で笑いながら、鼻がつきそうな距離まで顔を近づける。エヴァンジェリンの表情を網膜に焼き付けながら砕けた腕を強く握った。
 唇の隙間から血の泡が零れる。エヴァンジェリンはそれでも声を上げない。食いしばり耐えた。なにがあっても悲鳴など上げないと佇まいそのもので言い現しているが、生理現象としての涙が瞳に溜まりだす。これはこれで満足感を得られるもので千雨は快感に身を震わせた。
 こう言う輩がいままでもいなかったわけではない。何人も相手にしてきた。これからもその態度を貫き通せるのかどうか楽しみでならない。そのどれもが最後には殺してくれと懇願するのだ。
 とは言え、ここは屋外だ。いつ人が来るとも限らない。ここまで来てお預けなんて考えたくなかった。そろそろ幕引きにするべきだろう。
 目尻を緩め、恋人との別れを惜しむように頬を優しく一撫でしようとして、嫌悪を顕わにエヴァンジェリンが逃げようとする。そのつれなさがまた愛おしい。
 
「さようならエヴァンジェリン……私の初めての人」

 台詞回しに違和感を憶えた。どこかおかしい。しかし、エヴァンジェリンの瞳から涙が流れ落ちた為、思考が中断される。綺麗だと思った。それを舌で舐めとった時にはふと湧いた些細な疑問など頭の中から消えていた。
 刑を執行する前に、胸元に手をかけるのを忘れない。絹を引き裂く音が夜空に鳴り響き、無数の蝙蝠が飛び立った。

「蝙蝠を服に替えることが出来るのですか、変わった能力ですね」

 闇色の衣服は消え去り純白のスリップ姿となった吸血鬼に嗤いかける。これでもう触媒はないだろう。
 じっくりと舐めるように視線を上下させる。身体が火照った。悶え苦しむ姿に身悶えしそうだ。
 だが、そんな邪な想像は呆気なく中断された。千雨の視界が赤く染まったからだ。

「血を吐きかけるなんて、可憐なあなたには似つかわしくないですよ」

 だが、千雨は意にも介さない。血が目に入った程度で痛みなど感じなくなっている。
 エヴァンジェリンがなにか語ろうと唇を振るわせるが、盛大に血を吐いた。
 もう長くは持たないそう判断し、ワイヤーを優しくエヴァンジェリンの首にかける。結んだりはしない。しかし、ワイヤーは独りでに細くきめ細やかな首に巻き付いた。だが、まだ絞めると呼ぶにはいささか緩い。

「ではこれで本当にお別れです」

 千雨は桜の木にワイヤーをかけると、軽く腕を引いた。一気に引いたりはしない。頸椎が折れないように優しく地面とお別れをさせる。
 確かな感触と共に腕にかかる重さが増し、足が浮いた。
 エヴァンジェリンの目が限界まで見開かれ、足がばたつかせる。見る見る雪花石膏の肌が赤くなる。
 彼女は首の後ろから伸びるワイヤーを掴んで閉まらないようにするが、そんなものはでは助からない。絞首刑ではなくなってしまうが、ワイヤーだけでも絞殺することは出来るのだ。エヴァンジェリンもそれを理解したのだろうワイヤーと首の間に指を入れようとしたが、一ミリたりとも隙間がないため、いたずらに首をひっかくだけとなった。

「止めて下さい!!」
 
 胸が張り裂けるような声が木霊した。しかし、千雨の対応は冷ややかだ。

「これからがいい所なのですよ。止めるわけがないでしょう」

 視界の隅で立ち上がった茶々丸を意識する。首が故障しているのかあらぬ方向を向いていた。だが視線だけはしっかりと千雨を捉えている。
 千雨の耳が音を拾った。バネや歯車、油圧ポンプなど数々のギミックが稼働している音が聞こえる。音の発生箇所が背中周りに集まっていた。また推進装置を使って一気に間合いを詰めるつもりなのだろう。
 予測通り火を噴いた。全身でぶつかり主を救出する算段か、奇をてらうでもなく一直線に向かってきた。
 視認可能、十分に避けられる。しかし、これはこれで千雨に取ってもいい機会だ。先ほどはぶつかり負けた。今度は負けない。一歩も動くつもりはない。顔はエヴァンジェリンを観劇したままで、ただ左手だけをタイミング良く突き出し、茶々丸にぶつける。
 茶々丸が息を呑んだ。彼女はガイノイドだ。呼吸の必要は無いのでそんな音が聞こえるわけがない。しかし、それに近い気配のようなものを千雨は感じ取った。
 それはそうだろう。ロケットエンジンによる加速。重量も人のそれではない。鉄の塊が高速で飛んできたのだ。それを千雨は片手だけで止めてしまったのだから。種があると言えばあるが、茶々丸にそれを見破るだけの余裕はない。

「おやすみなさい(グーテ ナハト)」

 力の方向を少し操作するように優しく地面に手をつくように膝を曲げる。それだけで茶々丸の上半身が土の中に埋まった。
 息も出来ず、血も巡らないため朦朧としだしたエヴァンジェリンが、従者になにか語りかけようとするが、唇が戦慄くだけで声にはならなかった。 
 
「そろそろ終幕です。さようなら(アオフ ビィーダァ・ゼーエン)」

 千雨の片眉が若干上がる。解せない。その事に思考を取られそうになったが、

「止めてください長谷川さん」

 とぼろぼろになった茶々丸が足に縋り付いたので、途切れた。それについても千雨は首を捻ってしまう。言っていることが理解出来ない。

「お願いします。このままではマスターが死んでしまいます」

 折れた首を必死に持ち上げて懇願する茶々丸。エヴァンジェリンの腕が抵抗を止めてダラリと下がった。これまでの余韻で吊された身体が揺れている。

「長谷川さん!!」

 千雨が訝しむ。そのことだが……
 
「さっきから誰のことを言っているのですか?」
 
 茶々丸が愕然とした。ますます怪訝と顔が歪む。なぜそんな顔をするのか。

「いいでしょう」

 知らないなら教えてあげよう。

「私は……」

 だが、高らかに謳うべき名前が出てこない。

「私は……」
 
 どうしたのだろう。名乗りを上げることなどいつもやっていたことだ。

「長谷川さん!! あなたは長谷川千雨さんです。だから――」
「違う!! そのような名前ではありません。そう、そうです。私の名前は……ロート――ッ!!」

 ――あなたは、それほどまでにハイドリヒ卿が恐ろしいのですか、シュピーネ。





[33521] 3 Arousal
Name: 愛宕◆38e00c08 ID:ee5a8350
Date: 2012/11/18 21:07

 金髪の外国人がすぐ側に立っていた。百九十を超える長身を法衣に包んでいる。

(聖餐杯!?)

 見上げていた。立ち上がる鉄気に全身が切り刻まれたのを思い出すが、痛みを気にかけている余裕はない。
 厚みがなく一見弱々しく見えるが、それが擬態であることを知っている。なにより、いまはその擬態を解いていると言ってもいいだろう。笑みこそ浮かべているが眼鏡の奥、見下ろす瞳は冷ややかで、そこに男の本性を垣間見ることができるからだ。
 聖槍十三騎士団・黒円卓第三位、首領代行、ヴァレリア・トリファ=クリストフ・ローエングリーン。
 恐ろしく滑稽で道化者だが、油断のならぬ男が目の前にいた。

「―――ぃ」

 恐怖に喉が引きつる。不味い。これまでの会話を聞かれていた。

 ――何、誤魔化すことはありません。別にあなただけでなく、私も含めた全員が思っていることでしょう。あの方が恐ろしいなどということは。
 
 淡々と語るクリストフの声が耳朶を揺らす。暖かみなど一切ない。消される。見下ろす瞳もそう語っていた。

 ――とはいえ、違いがあるとすれば恐怖のカタチ……美観の問題でしょうかね。私もベイもマレウスも、カインもバビロンもレオンハルトも、怖いからといって逃げようなどとは思わない。

 戯言だ。長々と語っているが自分に対する処遇などとうの昔に決めていたに違いない。裏切り行為が発覚しようが、しまいが、何かしらの理由を付けてこれと同じ場を設けたはずだ。

 ――私は聖戦を指揮する身です。ゆえに戦士でない者にかける情けを持ちません。あなたは哀れで情けない。実に滑稽極まりますよ。黒円卓の第十位は、どうやら腐っていたようですね。まあ、そんなあなただからこそ、役に立つこともあったわけなのですが……

 上手く立ち回っていたと自負していたが、そんなものは自惚れでしかなかったのか。すべてクリストフの掌の上だったのか。
 神父らしく恭しく十字を切るのが見えて、頬が引きつる。それがなにを意味するのかなど語る必要もない。そんなことよりも考え出さなければならない。この窮地を脱する方法を……
 だが、

 ――せめてその穢れた魂……浄化し有効利用してさしあげましょう。光栄に思いなさい。私がハイドリヒ卿だったなら、あなたは喰われているところです。第二のスワスチカ……その身をもって礎となる名誉を与えましょう。

 早すぎる。持ち上がる右足。時間が無い。やるべき事があるのに気持ちだけが空回りして脳髄がまともに働かない。

「待――――」

 苦し紛れの時間稼ぎもままならず、
 
 ――天は神の栄光を語り、大空は神の手の業を示している。話す事も語る事も無く、その声が聞こえなくとも。

 靴底が頭に触れた。視界は遮られたがクリストフの顔が網膜に焼き付いている。薄く笑みを浮かべていた。邪魔者を処分出来たと。その心のうちが透けて見える。
 つま先に力がこもった。頭蓋骨は抵抗することも出来ず、土塊のように砕け――

「――って私は!!」
「千雨さん!!」

 激しく肩を上下させ、荒い息を吐く。生きている。
 小刻みに頭を振り、前を見据える。長身の神父はいなかった。限界まで見開いた眼の先にいるのは、ワイヤーに吊されたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだけ。
 手からワイヤーがすり抜けた。どさりと音を立ててエヴァンジェリンが落下するのを見ながら、気を落ち着けようとする。

(な、なにを……見た?)

 千雨が頭を押さえて狼狽え出すが、ふと足の圧迫感がなくなり、意識がそちらに向けられる。まるで事実から目を逸らすように。
 茶々丸が茫然と主を見ていた。

「マ、マスター……?」
  
 答えは返ってこない。それどころかエヴァンジェリンはピクリともしない。仰向けで力なく四肢を投げ出している。
 這うようにして主人の元へ向かった茶々丸が、恐る恐る肩を揺らした。されるがままに小さな体躯が揺れる。
 震える指が、赤い軌線をハッキリと残した首筋に触れた。

「…………ッ!? マスター!!」
 
 茶々丸が覆い被さるようにしてエヴァンジェリンの厚みのない胸に手を置くと、肩を激しく上下させた。鈍い音と共にエヴァンジェリンの足が跳ねる。

「……あ、ああ……」

 千雨の口から呻き声が漏れた。右手が口許を覆い隠す。手が、いや、全身が震え出す。後退ろうとした足が動かない。

「な、なんだよこれ」

 それは頭の中にあった。

 ――ご、は――ぐぇぇ――ぐぁ、ぎ、ごがァ――は……く、そ、くそ、クソクソクソクソクソ―――

 血の海に沈み込み、吐き出した呪詛を憶えている。
 
 ――どうして、私の聖遺物が――

 女のような顔立ちをした青年の腕から生えた長大な黒い鎌でバラバラにされた。勝因は顔の差などと宣ってもくれた。

 ――いいでしょう、これほど愚かな男だとは思わなかった。そんなに命が要らないのなら、ここで輪切りになりなさい。
 
 思わず歯噛みしてしまう。勝っていたはずだ。自慢の紐を体中に巻き付けたのだから。バラバラになるのは青年の方だったはずだ。思考が怒りで染まりそうになったが、嘘のように収まった。
 疑義が生じた。女の趣味。胸の大きさ。ほくろの有無とは一体なんだったのだ。

 ――さあ、どうされますツァラトゥストラ。私と共に黒円卓を制圧し、有意義な生を謳歌するか、ここで死ぬか――

 ふと思い出される情景。彼の視線の先が気になった。記憶を辿ると、そこには宙づりになった彼の幼なじみが居たはずだ。
 なるほど。そう言うことか。喉の奥に長年つかえていた小骨が取れたようだ。胸の大きさ、ほくろの有無とはそれだったのだ。クリストフの手前、本物を使う事は出来なかった。

 ――形成(イェツラー)――我に勝利を与えたまえ(ジークハイル・ヴィクトーリア)

 口許を覆っている右手、その親指の先に焦点がいく。

 ――あなたはまだ、聖遺物の"形成"ができていない。そんなことで、私に勝つことはできませんよ。

 ついさっきまでは私も出来なかった。だが、いまなら……

 ――私は嫌だ。もう沢山だ。あんな人とも呼べぬ怪物たちに再び隷属するなどと、考えただけで狂いそうになる。二度とあの五人には会いたくない。彼らは、この世に戻ってきてはいけない存在なのですよ!

 そうだ。あんな連中はこの世に戻ってきてはいけない。碌な事にならない。

 ――ツァラトゥストラ、私と手を組みませんか? あなたの力をお借りできれば、共に永劫の自由を獲得することも夢ではない。

 …………ああ、そうだった。

 ――私は黒円卓を掌握したい。いや、別に同胞たちを虐げたいわけではない。ただ、約束させたいのですよ。私がやることに、以後一切干渉するなとね。この六十年、他の者らにとっては屈辱と退屈の期間だったかもしれません。だがしかし、私にとっては掛け買いのない至福の時だったと言っていい。

 ……思い出した。

 ――そう、それが私の聖遺物。ワルシャワ・ゲットーで数限りない劣等どもを縊り殺した代物です。歴史こそ浅いものの、吸い取った魂は百や二百じゃ効きません。同胞ゆえに試したことはありませんが、これに捕らえられたが最後、聖餐杯猊下といえども脱出できぬ逸品であると自負していますよ。

 私は――

 ――シュピーネ、聖槍十三騎士団黒円卓第十位、ロート・シュピーネ。以後お見知りおきを、親愛なるツァラトゥストラ。

 顔を覆っていた手が外れた。頬が引きつり、唇が戦慄き、喉が震え出す。

「イヒ……ヒャ、ハハハハハハハハハ、アハハハハハハハハハ――」

 絶笑に茶々丸の手が止まる。驚愕の瞳を向けてきた。
 腹がよじれる。息が出来ない。顔に浮かぶのはただ愉悦の一色のみ。こんなに笑ったのは初めてだ。
 どうにか取り繕おうとするが上手くいかない。唇を噛み笑いを押し殺そうとするが、口端がつり上がり息が漏れる。

「あ、ああ、……な、なるほど、暴走寸前でしたか、だから……クク」

 感涙を拭いながら呟く。悪夢の理由を理解した。聖遺物の鼓動。それに伴う破壊衝動は筆舌に尽くしがたく、命の危険など当たり前だ。その事は身をもって知っている。
 長谷川千雨はよく耐えたと褒めるべきだろう。いや、連日連夜、悪夢を見続け、どうにか欲求を逸らしていたと言うべきかもしれない。この身に宿る聖遺物は、辺獄舎の絞殺縄(ワルシャワ・ゲットー)、シュピーネの体験談には思うところがあるだろうから。
 だが、そんな生兵法でどうにかなるようなかわいい代物では無い。実際、限界は近づきつつあった。遅かれ早かれ破綻するのは火を見るより明らかだ。自称吸血鬼がいなければ近いうちに狂っていたか、最悪、聖遺物に肉体を乗っ取られていたかもしれない。だからと言って本当に危険だったのかというと、首を捻らなければいけないのだが。ロート・シュピーネであったのなら、聖遺物の乗りこなし方は憶えているはずなのだ。
 そして、いまここに求めて止まない望みが成就した。

「私はじゆ――っ!?」

 聖遺物と融合し、それを扱うのに必要な複合魔術『永劫破壊(エイヴィヒカイト)』も思い出した。それにより超人と化した視力が、夜空に紛れる異物を捉えた。
 
(杖? 箒? に跨がって空を……飛びますか?)

 意識するとよりハッキリと見える。信じられない。我が目を疑った。こちらに向かってきているローブ姿の一団はなんなのだ。

(自称吸血鬼の次は絵本から出てきたような魔術師、いえこの場合は魔法使いとでも形容する方が似合ってますね)
 
 軽い現実逃避だろうか。この様な集団の存在を知らない。ただこの事態を招いたのが誰かと言うとそれは一人しかいないだろう。

「チィッ、この鉄屑が!!」
 
 不覚。茶々丸はすでに行動を起こしていた。チャンスを窺っていたのだろう。エヴァンジェリンを抱え一目散に逃走していた。
 懐古と歓喜、そして理解不能な魔法使い達に気を取られすぎた。
 逃がさない。視界の隅から悪い夢のような魔法使いが迫って来ている。中々のスピードだ。猶予は幾許もないだろう。だが、十分対処可能だ。どれも目を見張るものではない。
 しかし躊躇してしまう。自称吸血鬼にしろ、魔法使いにしろ、聖遺物を形成すれば足を動かさずとも始末することは出来るはずなのに、手を出そうという気にならない。

(先ほどと空気も違っていますね。結界の類でしょう。するとそれを張ってのはマクダウェルですね。その行為を鑑みると、自分達のしていることを邪魔する者がいると証明しています。すると、いま向かってきている魔法使い達がそれでしょうか。数もそこそこ……なにかしらの組織があると考えたほうがいいでしょう)
 
 となるとますます手が出せない。下手に敵対して、せっかくの自由が水泡に帰すのは不本意極まりない。諏訪原市は同じ関東圏にある。もしそこに詰めるリザ・ブレンナー(バビロン)が不審にでも思ったりしたら……
 顔が歪む。忌々しい。いまは身を隠すべきだ。
 だが、倒れた自動販売機を目にして足が止まった。この場にはいろいろな証拠が残っている。横たわる少女など特に不味い。彼女は致命的だ。首筋に残る傷跡が、ではない無い。彼女の存在自体が致命的なのだ。頭部があれば情報など簡単に引き出せる。

(バカでは無いということですか)

 茶々丸達の意図が読めたような気がした。短い時間で本当にいろいろ用意してくれる。できる限りの足止め策を講じたのだろう。
 彼女達こそ危うい立場にいる。こんなにも証拠を残して逃走するのはそれしか考えられない。茶々丸の能力なら少女の頭部ぐらい破壊するのは造作もないはずだ。それなのにこの状況、真っ先に足がつくのはまず彼女達だ。そうなったら洗いざらい喋ると換喩しているに違いない。

(考えすぎかもしれませんが……)

 自分のことなど何一つ知らないはずだ。しかし、何かしらは感じたのだろう。この場を納めることが出来る可能性が高いと踏んだに違いない。なにより、そう考えてしまった時点で、策となっている。

(矛盾もありますがね)

 それで自分が捕まったらどうするのか、洗いざらい喋ったら意味が無い。

(いえ、死に体だと考えると執れる手段はすくないですね……一か八かといったところですか。いいでしょう。この借りは必ず返しますよ)

 桜通をざっと見渡し、茶々丸の腕の残骸と少女を回収する。血痕と細かな金属片を処理する時間がない。聖遺物を形成してこの一帯を粉みじんに切り刻んでしまおうかとも思ったが、自重する。そんなことをしても血液はどこからか採取できるだろう。

(私の血液サンプルがあるかどうか。前科者ではないので大丈夫だとは思いますが)

 木陰に隠れる。もう見られている可能性は捨てきれないが、だからと言って潔く正体をさらし続ける趣味はない。諜報活動で培った技術の総動員だ。敵は魔法使い。もちろん魔術の奥義に達したものとしての術理の行使も怠らない。
 自惚れでなく完璧な隠形だった。細心の注意を払いながら木々の影を行く。人一人抱えながらも常に陰の中にあるように、月明かりさえ避けて見せた。
 桜並木を抜けようとした時、魔法使い達が地に降り立った。足を止めて聞き耳を立てる。人影が消えてスピードを上げたのだろう。魔法使い達は思いの外早かった。
 
(おや?)

 聞き覚えのある声がした。木陰から顔を覗かせる。ローブから露出した面立ちに見覚えがあった。昼間、世話になった養護教諭のそれだ。

(なるほど、夢を見なかったのはそう言うことですか)

 聖遺物はちょっと相談したから大人しくなるようなものではない。それなのに熟睡出来たことを考えると、何かしらの魔術を使用された可能性は低くないだろう。これは軽視していい問題では無いが、いまは置いておく事しか出来ない。 

(一つ一つ片付けていきましょうかね)

 注意を払って今度こそ桜通から離れる。視線は感じない。念には念を入れて気配を探り、追手がいないのを確認して寮内に潜り込む。
 すーっと右から左に視線を這わせた。エントランスホールに備え付けられたソファーに四人ほど掛けていたが、話に夢中で気づきもしない。たとえドアを注視していたとしても気づかせなかったが。
 だからと言って突っ立っているのも間抜けだろう。いまの立場を言い現すように背の高い観賞植物の影に身を隠す。そして、寮内地図を頭の中に広げ、どこがいいか、と思案を始めた。

(医務室は……)

 数百人が生活する寮だ。利用者の一人や二人は常にいると考えて間違いない。とは言え、そんなものはどうにでも出来る。しかし、わざわざ痕跡を残すような真似をする必要もない。
 壁に掛かる時計に目をやる。七時半を回っていた。

(夕食時ですね。セミナー室や会議室を使いますか。空いているでしょう)

 すぐ行動に移した。階段を駆け上る。地下一階にある食堂に向かっているのだろう住人達とすれ違うが、誰も気づかない。
 そうして瞬く間にセミナー室や会議室がある二階に到着した。廊下の蛍光灯は付いているものの、閑散として薄暗く感じられる。併設されているテナントエリアから聞こえてくる喧噪との対比が、より静寂を助長しているからだろう。
   
(どこも使われてないようですね)

 ドアから漏れる明かりはひとつもない。真ん中辺りまで進むと、ノブに手を掛ける。カチャリと音を立てて抵抗された。当然だ。使用許可など貰っていないのだから。しかしそれでも手首を捻るとドアは開いた。鍵開けなど造作もない。唯一と言っても過言では無い黒円卓の諜報員だ。
 廊下から入る明かりにうっすらと照らされた室内。十二畳ほどの面積に整然と会議机とパイプ椅子が並ぶ。
 ドアから覗き込まれない位置に少女を横たえる。覗き込まれたところで気付かれる事は無いのだが、心理的なものが働いた。

「よかったですね。貴方はとても運がいいですよ」
 
 首筋に指を這わす。くすぐったいのか少女の口から吐息が漏れた。自然と口許が緩み、首筋をなぞる指先が露骨になった。
 ああ、と熱を帯びた吐息が漏れる。陵辱し尽くし殺したい。禁欲生活が長かった手前、抑え込むのが大変だ。
 迷走する指先が穴に引っかかる。潤みだした瞳に理性が戻った。まだ駄目だ。我慢しなければならない。
 頸動脈に上に並んだ二つ穴。それだけで想像力を掻き立てられる。これを放置すれば、センセーショナルな話題になるだろう。この手の話題は皆大好物だ。
 傷を隠すように右手親指をあわせ、左手で額を覆った。魔術を使い穴を塞ぎ、ここ二時間ほどの記憶も消す。

「これでいいでしょう」

 施術の経過を確かめるように首筋を撫でる。違和感はない。見た目にも分からない。あとは近くのベンチにでも放置すれば終わりだ。そうとなれば長居は無用。少女を担ぎ直そうとしたが、窓に映る人影に気を取られた。
 窓際にゆっくりと歩み寄る。夜景にうっすらと浮かび上がるボロボロの制服を来た少女。

「なんなんでしょうね。この感覚は」

 これといって思うところはなかった。なのにどこかくすぐったい。右を向き、左を向き、少し顎をあげたり、腰を捻ったりして、いろんな角度で観察する。

「見慣れた顔ですね」
 
 毎日見ている。なのに不思議な気分だ。左手を後頭部に当て、右手を腰に、モデルっぽいポーズを取ってみた。ついでにウィンクもサービスしてみる。
 頬がカッと熱くなった。なにが起因したのだろう。ふと湧き上がった感情がよく分からない。男だった自分の羞恥心だろうか。それともただ馬鹿さ加減からくるものか。

「ただこれだけは言えます。これなら誰も気付かないでしょう。私がロート・シュピーネだとは誰も思わないはずです」

 ゆっくりと窓に向かって顔を突き出した。夜景に映り込んでいるだけなのでハッキリとはしないが、それだけで十分だった。

「ツァラトゥストラ、今度は顔の差で後れを取ったり――しませんよッ!!」
 
 勝ち誇ったように頬を吊り上げるが、とたん呆れ気味に「はぁ」とため息をついた。それでもすぐに表情は笑みに戻る。

「なにを馬鹿なことをいっているんでしょうか。顔の差で強さが変わるなんてあるわけないでしょうに」

 イヤだイヤだと頭を振る。なにより接触など絶対にしてなるものか。悔しい。一矢を報いたい。怨嗟と共に復讐を誓ったりもしたが、いまではそんな感情は微塵もなかった。

「聖痕は……」

 汚れているものの肌はきめ細かい手。普段から気を付けて手入れをしている。

「……ないようですね。するとハイドリヒ卿との縁も切れたということですか」

 グッと自然に握り込む。その華奢な指からは想像もしない皮を絞るような音がした。
 ふふ、と声が漏れる。状況は望ましい。あとは上手く立ち回り、栄光を確実のものとするだけだ。
 身を引き裂いてくれたツァラトゥストラ。頭を踏み砕いて絶命させてくれたクリストフ。彼らにいまここで誓おう。

「貴方達がくれたこのチャンス――決して無駄にはしませんよッ!!」

 恨み骨髄に徹していてもおかしくない二人なのに、こんこんと湧き上がるのは感謝の気持ちだけだった。危険だとは思う。しかし、憎しみは無い。それどころか愛おしさを感じる始末だ。いま彼らが目の前に居れば、抱きしめキスの嵐を浴びせててもおかしくないほど、気分は浮かれている。
 クツクツと喉が鳴り、影が揺れた。そんな事をすれば本末転倒だが、この気持ちに偽りは無い。

「誰にも縛られず、命令されず、自由に生を謳歌できる。なんと素晴らしい!!」

 声を殺すこともなく高らかに謳う。あの時の再現だ。ツァラトゥストラに同じ事を聞かせた。ただ心情は違う。とても澄み切り、晴れやかだ。
 彼の発言が脳裡に甦る。凡俗? なんとでも言えばいい。皮肉にもならない。甘んじてその評価受け入れよう。バラ色の未来がすぐそこにあるのだから。
 たまらない。足がガクガクと震えてくる。いまにもへたり込んでしまいそうだ。ガラスに映る顔が恍惚として緩み切っている。

「殺したい時に殺し、喰らいたい時に喰らう。犯したい時に犯し、奪いたい時に奪う……これこそが人間! 今さら過去の遺恨や妄執に付き合うなど、くだらなすぎてご免被る!」
 
 夢にまで見たそれが現実のものとなって、もうすぐそこ手の届くところにある。多少は制限を受けるだろうが、そんなものは許容範囲だ。その程度は妥協できる。シャンバラで起こる殺人競争遊戯の前、あの自由な日々が永劫のものとなるのだ。

「ああ……」

 目を閉じれば、目蓋に浮かぶ。あの素晴らしき日々。いやこれから迎えるのはそれ以上の日々のはずだ。

「その為には黒円卓の連中が目障りではありますが、危険を冒す必要は無いでしょう」

 近くのパイプ椅子に座り込み、机に両肘を突く。浮かれ気分を現していた表情の緩みが消えた。

「そう見つからなければ。長谷川千雨の前世がロート・シュピーネだと知る術は無いはず……」

 額から浮き出た汗が、頬を伝わり、顎から机に落ちた。

「しかし、ラインハルト卿がご帰還されたら……ハッ!? 待ってください。そうです。浮かれていましたが……2003年?」

 暗い会議室にゴクリと唾を飲み込む音が響いた。表情が驚愕に染まる。

「スワスチカで行われる儀式云々の前に、いったいこの身になにが起こったのでしょうか。シュピーネ(私)が死んだのは2006年……」

 全身からも汗が噴き出る。視線をぎょろりと動く。誰か自分の疑問に答えてくれる人間を探すが、ここには自分と、無力に眠り続ける少女しか居ない。

「す、するとこの時点で私が二人存在するのですか?」
 
 答えはない。身体の震えにあわせて、口から思考が垂れ流れる。

「私が存在するということはですよ。ロート・シュピーネは必ず死ななければいけないと言うことなのでは。そして、この2003年時点で私がこの事実に気が付いたと言うことは、長谷川千雨は、ロート・シュピーネが死ぬのを黙って放置していたということになります。ええ、その点において不満はありません。その気持ちよく分かります。細かいことに目を瞑れば、望ましい状況なのですから、わざわざあんな連中に交ざろうとするなど」

 それで問題が無いわけでは無い。儀式が成れば……、その先を口にするのがはばかられる。

「ふふ、まさか、これはそういうことですか? あの日、私が死ぬということは確定しているのですか。私が介入すれば未来は変えられるかもしれません。しかし、そんなことをして、ロート・シュピーネが生き残った場合、私はどうなってしまうのでしょう」
 
 ――シュピーネ。貴方は既知感というものを経験したことがあるだろうか。

 科学者としての立場で副首領の問いに答えたことがあった。その時はなにを戯言をと思った。副首領らしからぬ。いや副首領らしいと言えるのかもしれない。
 そして、いま再び、六十年越しに、自分の出した解答が正しかったのか。それでいいのか、と解答のし直しを許されたような気にさせられた。
 
 ――既に知っている感覚。
 ――それは五感、六感にいたるまで、ありとあらゆる感覚器官に訴えるもの。
 ――たとえばこの風景は見たことがある。
 ――この酒は飲んだことがある。
 ――この匂いは嗅いだことがある。
 ――この音楽は聴いたことがある。
 ――この女は抱いたことがある。
 ――そして、この感情は前にも懐いたことがある。
 ――錯覚――脳の誤認識が時に生み出す、なかなか風情ある一種の錯覚。

「既知感? それは既視感のことではないですか?」

 六十年前と同じ答えを口にするが、ただ一点、違うところがある。声が自信なさげに震えていた。
 あの時、副首領は違うと首を振った。落胆気味に。だが、いま脳裡に浮かぶ彼は嗤っている。心を見透かしているように。
 口の中が乾く。唾を飲み込もうにも、痛みを覚えるだけだった。
 粟立つ気持ちに、勢いよく立ち上がり、叫ぶようにして天に問いかけた。

「前世を思い出しているのですか? 既知感はまさか本当だったのですか!!」

 団員の中にどれだけ既知感を信じた者がいただろう。本気にしたものは少なかったはずだ。理解が及ばないから。ほとんどは黄金からの恩恵に目が眩み。彼の爪牙となった。むろん自分もだ。それが真実なのか。

「いえ、それならロート・シュピーネはロート・シュピーネに生まれ戻るはずです。別人になってしまえば、既知感など意味をなさないのでは?」
 
 静かに反論するが、すぐにかっと目が見開かれた。ある。あるのだ。その条件を満たすかもしれないものが。

「ゲットーは打ち破られたということですか?」

 問いかけに答えはない。ただ、脳裡に薄ら笑みが過ぎる。そんなものは想像なのだが、まだゲットーは破られていないような気になった。ましてそれでは2003年というのはなんなのだ。回帰しないのではないだろうか。

「あっ!? ああ!!」

 シュピーネ前世論を否定する決定的なアイテムを見付けた。もし回帰しているなら、この身に宿る聖遺物はなんなのだ。一度身に宿すと聖遺物はずっと付い回るものなのか。

「もしそうなら私はワルシャワ・ゲットーを幾つも持っていることになります。まして喰らった魂まで付いてくるものでしょうか。もしやその辺りに……永劫破壊(エイヴィヒカイト)は、聖遺物を扱うためのものではないのかもしれません」

 分からない。むしろメルクリウスがなにかをしたと言った方がしっくりくる。この人知の及ばない状況を作り出せるのは彼ぐらいしかいないのではないか。しかし、ふとマレウスのことを思い出した。彼女は大戦時は妖艶な美女の姿をしていたが、現在はその容姿を変貌させている。

「何かしらの術で容姿を変え、ロート・シュピーネを長谷川千雨にした? 可能性はなくもない……ですかね。いえ、その可能性が高い。それなら私の中にある聖遺物の説明もつきます。蓄えた魂にしてもそうです。すると自称吸血鬼に魔術師の集団。その調査および壊滅が任務……と言ったところでしょうか? しかし、それはそれで疑問がないわけではありません。十三年間もの間、なにもせずに放置しておく必要はないはずです。転入なりでどうとでもなります。まして何かしらの使命を帯びているはずなのに、そのような記憶が皆無なのもおかしな点です。わざわざ長期間潜伏して……」

 視線の先には巨木がある。飛びかかるようにして窓を開けた。強張った頬を冷たい十二月の風が撫でる。映り込みがない分、視界はクリアで、二百メートルを超える世界樹が鎮座しているのがよく見えた。
 身体がよろめきく、支えきれず机を巻き込んで倒れ込んだ。

「ど、どこですかここは」

 絞り出すようにして言った。知っている。長谷川千雨の記憶にはある。

「な、何かの間違いです。そ、そうです。きっとまだすべてを……そうです。そうに決まっています」

 わざわざ口しながら、机を並び直し、少女を担ぎ外に出た。視線をちらちらと動かし間近のベンチに横たえる。
 ゆっくりとした足取りで自室に戻ろうとするが、一歩ごとに歩幅が大きくなった。入浴道具を手にしている者が増えている。大浴場に向かっているのだろう。数百人規模を収容する寮の入浴施設は、スーパー銭湯にも引けを取らないものがある。

(少し頭を冷やしましょう。私もゆっくりとシャワーでも浴びれば、きっと思い出すはずです)

 人波を縫うように階段を上がっていくと、聞き慣れた声が耳に届いた。視線を上げると、神楽坂明日菜と近衛木乃香。ふたりも大浴場に向かっているのだろう。冬休みの予定について話をしながら、階段を下りてくる。

「クリスマスパーティーやらへんの?」

 どこか含みのある笑みを浮かべる木乃香。からかっているのが傍からでも分かった。この先展開されるやり取りも想像が付く。
 他愛もないやり取りだ。明日菜は学校でもこの手のネタでからかわれることがある。いつものことだ。それなのに酷く羨ましい思えた。

(羨ましい?)

 いつもと違う感情が芽生えたことに困惑した。だからだろう足を止めてしまったのは。

「うん? するんじゃないの。去年みたいに、いいんちょ主催でさ」

 明日菜の返事は素っ気ない。木乃香の方を見ていなかったからだろう。その言辞に籠められた意味にまったく気付いていない。

「もうそうやないんよ。クリスマスやん。もうちょっと特別な意味で……具体的に言うとな、高畑先生と二人っきりとか」

 これと分かるほど木乃香の表情が崩れる。明日菜がどう言う反応を示すのか楽しみでならないのだろう。
 だが、そんな明日菜は、驚くことも出来ず、

「へ?」

 と木乃香の方を向いて、間抜け面を晒すのが精一杯だった。 

「もうとぼけて、いややわぁ」

 パァンといい音が響いた。

「あ!?」

 誰の声だったのか。明日菜が身体を斜めに傾けている。予想もしていなかった話題の展開に、明日菜の頭は真っ白の状態なのだろう。まだ自分に身に起きた凶事を理解していない。
 ただ木乃香だけが、呆然と階段を落ちようとした明日菜に手を伸ばそうとする。だが、その手はむなしく空を切った。
 明日菜の身体能力を持って居すれば、この程度どうにでもなるだろうが、いまの精神状態では打撲ないし捻挫、あと擦過傷は確定だろう。打ち所が悪ければ、骨折。それ以上もあり得る。
 その最悪が簡単に幻視出来た。力なく四肢を投げ出し横たわる明日菜を踊り場に作り出し、視線を戻す。 
 あと一秒と待たずにそれは真となるだろう。それを無情に目で追うだけだったはずだった。なのに……

(な、なにをやっているのですか?)

 腕が少しだけ重くなった。ゆっくりと顔を向けると腕の中に明日菜がいる。顔が強張った。信じられない。明日菜の落下を阻止してしまった。

(なぜ手を出したのです)

 疑問が思考を染め上げる。しかし、次の瞬間には不可解な行動に出た心理状況の分析よりも、事後処理に当たるべきだと行動を起こした。ここから上手く転がせば、怪我もなく自分の存在にも気付かれない――筈だったが、ガッシリと肩を掴まれ、安堵した明日菜と合うはずのない目が合った。

「――――ッ!?」

 思わず声を上げそうになる。どうにか喉のところで留めることに成功した。こんなこと予測できるわけがない。
 突如現れた血塗れの自分に視線が集まるのを痛いほどに感じる。それはつまり魔術が解けたと言うことを現わしていた。





[33521] 4 consideratione
Name: 愛宕◆38e00c08 ID:ee5a8350
Date: 2012/11/18 21:08

(な、な、なぜっ、なぜ魔術が解けるのですか?!)

 それどころか魔術が行使出来ない。繰り返し、繰り返し術をかけ直そうとしているのだが、片っ端から失敗する。あと二ヶ月もすれば十四歳とそれだけの月日のブランクがある。あるが自分は達人(アデプト)と副首領に認められ、忌まわしい呪いの言葉と共に、魔名ロート・シュピーネを頂戴した腕前だ。団員内でエイヴィヒカイト以外の術を使う機会も多い。こんな姿を消すだけの魔術で失敗はあり得ない。だが実際問題として失敗している。
 あまりのことに目の前に暗幕が下りそうだ。がくんと膝から崩れ落ちそうになる。ただでさえ混乱の極みにある思考が、理解不能な事態の連続にブレーカーを落とそうとする。
 
(駄目です!!)

 足を踏ん張り、意気込み、耐えた。まだ何とかなる。諦めてはいけない。まだ刹那の時間しか経っていない。

(記憶を――)

 たかだか十人、瞬きも許さない。しかし、その為に必要な魔術が行使出来ない。
 脳裡に過ぎる。首を落としてしまえと。始末してしまうのが一番確実で簡単な方法だが、十人はあまりに多い。必ず捜査の手が入る。それも魔術師の。すぐそこでは別の事件が起こり、乗り出してきている。関連性を当然、疑わないわけがない。

(逃げるしか……)

 しがみつく神楽坂明日菜を振り解こうとする。いまならまだ血塗れで佇む少女的な怪奇現象で片がつくかもしれない。しかし、そんな都合のいい考えを否定するように、

「そ、それ、ど、ど、どうしたのよッ!!」

 明日菜の声が響いた。それを皮切りに安堵が悲鳴に変わる。騒ぎを聞きつけて多くの足音が近づいていくる。もう無理だ。考えが纏まらない。
 それでもここに居てはいけないと、明日菜を乱雑に振り払う。尻餅をついたクラスメートを一顧だにせず階段を駆け上った。無駄な足掻きと分かっていてもスピードが出ない。一般人を装ってしまう。

「長谷川!!」

 悲痛な声が追い縋ったが止まる訳にはいかない。場がますます騒がしくなるのにあわせて、顔が引きつりが大きくなる。

(なにをやっているのですか! 自分の立場は理解しているでしょうに!!)

 叱咤に顔がより強張る。どんな結果になろうとあの場は見捨てるべきだったのだ。なのに手を出した。あまつさえ明日菜が無事でほっとしている。それが酷く気持ち悪い。とんでもないミスを犯したというのに、ちょっと満足していて、

(こんなのはロート・シュピーネではありません)

 はっと夢から覚めたように目蓋が限界まで見開かれ、走る速度が落ちた。ふと過ぎる。過ぎってしまった。アイデンティティーが崩れていく。

(こんなのはロート・シュピーネではない? では私はいったい誰なのです)

 ロート・シュピーネではない。そんなことはあり得ない。最も可能性のある憶測は、何かしらの任務の為、長期潜入捜査をしているというものだ。
 それなのに一抹の不安が過ぎる。頭を振って無理矢理消し去った。それこそ何かの間違いだ。魂に刻まれた記憶は生々しく鮮烈で、ロート・シュピーネでないわけがない。

(ああ、そういうことですか)

 長谷川千雨だ。長谷川千雨が原因なのだ。1989年に長谷川千雨として生まれ、十三年培ってきた。

(どうやら私は驚くほどに私が死んだと言う事を、事実として受け入れているようです)

 ロート・シュピーネという男は2006年に死んでいる。1989年以降のシュピーネの記憶は、何かしらの意図で作られた偽りの記憶なのだろうが、むしろそれを受け入れられないでいる。

(受け入れるもなにもまだ仮定の話で、結論は出ていないのですからね)

 すると、さっきまでは前世を思い出し、はしゃいだ長谷川千雨が、ロート・シュピーネのまねごとをしていたようなものなのだろうか。
 否、と小さく素早く頭を振る。そうでもなさそうだ。こうして思考しているのが長谷川千雨なのか、ロート・シュピーネなのか。

(死んだと受け入れている割には、区切りがついていない。すると私は長谷川千雨でも、ロート・シュピーネではないと言うことなのでしょうか)

 苦笑が漏れた。

(だからなんなのです? なにを小難しく哲学をやっているのですか。どちらが自分? どちらも自分じゃないですか。どちらも私が歩んだ人生です。環境から生じる生き方や価値観の違いから蓄積された誤差です。なにも問題ないはずです)

 明日菜に関しての不可解な行動にも簡単に答えが出せる。ただの長谷川千雨の時に考えていた事と、これからの利害が一致しただけだ。

(事故に繋がれば周囲が騒がしくなりますからね)

 止まりそうになっていた足を力強く踏み出し、速度をあげた。

(おいおい慣れるでしょう。そう!! 要は私は長谷川千雨=ロート・シュピーネだったと言うだけのこと。ただそれだけのことです)

 生き様と言うべき指標は変わらない。謳ったとおりに。思うがままに人生を謳歌しよう。
 
「まったく持って」

 笑いがこみ上げてきて頬が綻ぶ。そのためにもいまはこの窮地をいかに脱するか。それだけだ。

「長谷川なにがあったのよ!!」
 
 階下から足音を友に叫び声が聞こえてくる。音は上からもどんどん集まってきている。
 頭上から視線を感じた。雪広あやかが手摺りから身を乗り出して覗いている。他にもあやかのルームメート那波千鶴と村上夏美もいた。

(どうしますかね)

 姿を消して通り過ぎる。三人の記憶を消す。なにもかもが遅すぎる。むしろ不自然になる。目撃者のばらつきが出て、より不可解な事件として噂が広まるのは避けたほうがいいだろう。しかしそれでも試しと魔術を起動した。

(……使える? 本当にどうなっているのです。焦っていただけですか? っと考えている場合じゃないですね)

 魔術が行使される前にキャンセルする。有無を言わせず、あやか達の横を通り過ぎ、階段を駆け上がり、廊下を走り抜けた。

(人が多いですね。時間が時間ですし仕方がないのですが……いえ、処理できるはずです。私はこの手の事には特に長けているのですからね)

 終戦後はナチス軍人の逃亡機関に所属していた。この手でどれだけの同胞に新たな居場所を用意したか。その処理に魔術などほとんど使っていない。
 そうだ。できる。大した事ではない。と自己を奮い立たせて、ドアノブに手をかけた。それでも気持ちは焦っているのか、すき間に身体をねじ込むようにして中に入り込む。
 こういうことこそが本分だ。落ち着け、と大きく息を吸う。これから大仕事が待っているのだから、冷静にならなくてはならない。

「千雨さんですか?」

 居間からおでこの広い眼鏡の少女が覗いた。目が合う。近頃めっきり帰ってこないルームメイトの葉加瀬聡美が、何事かと不審げな表情で様子を窺っていた。普段は大学の研究室で寝泊まりしているのだが、千雨の様子がおかしかったから、看病が必要かもしれないと帰ってきていたのだった。

「ど、どうしたんですか、それ!!」

 聡美が駆け寄ろうとして盛大に転けた。もともと運動が苦手な彼女は、動揺して自分の足に引っかけた。
 短い廊下を眼鏡が滑る。顔から落ちたのに聡美はすぐに上体を起こした。頬の辺りが赤くなっているが、まったく意に返していない。気持ちに身体がついていかないのか、四つん這いに近い形で何度も転げそうになりながら這い寄ってきた。麻帆良を代表する天才的な頭脳を持っていると言っても、帰ってきたルームメートがボロボロの血塗れでは冷静でいられないようだ。眼鏡をかけ直す、といったとても簡単な動作が出来ないほど動揺して、お手玉をしている。

「落ち着いてください」

 何度も頷く聡美がどうにか眼鏡をかけ直し、口を開いた。しかし唇が戦慄くだけで声にならない。顔面蒼白でなにが起きたのか、その優秀な頭脳が目まぐるしく推論に推論を重ねているに違いない。

(どう場を納めるか。私もこの間に考えないと、どうするにしろ聖槍十三騎士団と言うことは知られない方が良いでしょう)
 
 聡美が居室の方にふり返り、一歩、足を踏み出した。しかしすぐに向き直る。顔は別人のようだった。身体を強張らせて動かなくなる。葛藤が聡美を縫い止めた。その秀逸な脳髄は最悪を想定したのだろう。千雨が、なにを考えたのか推理する。
 鼻と口の周りについた血。ボロボロに破けた制服。それらを踏まえて被害者は女性と最後に加味して吟味すると……

(暴行事件……ですか、使えますかね? 癪ですが)

 然るべきところに、電話なりすることを躊躇してしまう事件が起きてしまった、ということにすればいいのではないだろうか。これなら丸く収まりそうだ。この手の犯罪は世間体にしたくない、と警察に届けが出されないことも少なくない。

(表立つ事はないかもしれませんが、人の噂話は止めることはできないでしょうね)

 話が集束するまで奇異の目で見られることは、避けられないだろう。それ以降も、不意に話題に上る事があるはずだ。

(となると魔術師の接触は避けられませんか)

 あの中には麻帆良学園女子中等部の養護教諭もいた。寮内で噂が広まれば絶対に耳に入るはずだ。彼女の立場ならケア目的で堂々と接触を図れる。その時は、事件との関わりも当然視野に入れてくるだろう。

(むしろ好都合ですか。ロート・シュピーネ(私)の知らない魔術組織。逆に情報を引き出してあげますよ)
 
 するとハカセにはこのまま……、などと考えていると、

「いいんちょ、あれって血よね? ケチャップじゃないわよね!!」
「ええ、血だと思いますわ」

 声を張り上げながら、五人分の足音が近づいてくる。千雨は聡美をジッと見つめた。もう迷っている時間はない。
 しかし、口が思うように開かない。自分の判断に不安を憶える。はたしてこれで正しいのだろうか。
 ゴクリと固唾を呑む音が聞こえた。緊張が伝播したのだろう。だが、それでも聡美は目を逸らすようなことはなかった。血だらけの唇からなにが語られるのか。いかなる事が語られるようと受け止める。そんな気概が見て取れた。

「葉加瀬さん」

 びくっと聡美の肩が跳ねた。

「は、はいぃ!!」

 声が上擦り、抑揚もおかしい。これと分かるほどに小刻みに瞳が揺れている。脊髄反射に近かったのだろう。聡美の表情が切迫度合いを増し、見ていてこちらが痛々しいほどだ。秀逸な頭脳の持ち主だが、まだ中学二年生。気丈に振る舞ってはいるが、これが普通の反応なのだろう。
 だからこそ、ここはもっと追い詰めるべきだ。一拍、間を開けて緊迫感を際立たせる。怒鳴ってはいけない。しかし、感情を乗せない平坦な声で泣き叫ぶように……、そうやって彼女に迫る。演じなければならない。彼女が想像したであろう、不幸に遭遇した少女を。

「なにも聞かないでください」

 浅く頭を下げる。渾身の演技をして千雨は頬が引きつった。聡美の目を避けたことで、不安の影が一気に表に浮かび上がる。
 こんなものは策などとは到底呼べるものではない。運、そう運任せだ。そんなものに自らの未来を託そうとしている。
 不安がますます強くなった。怒濤のように押し寄せてくる。濁流に飲み込まれおぼれそうだ。しかし、もう後には引けない。やり遂げなければならない。彼女の、葉加瀬聡美の頭脳と常識に期待するしかないのだ。

(彼女ならきっと、私の想像通りに上手くやってくれるはずです。そうすれば、あとは立ち回り次第でどうにでも……)

 決意を新たに千雨は面を上げた。だが、そこに希望を映し出してはならない。浮かべるのは絶望ただ一色。そう言う意味ではこの不安感は有用だ。いまにもへし折れそうなか弱い少女を表現するスパイスになるだろう。なんなら薄く涙さえ浮かべて見せよう。
 聡美の顔から色が無くなる。優秀な頭脳は察したのだろう。ミスリードは上手くいっているように見えた。しかし、優秀であるからこそ、真実に辿り着く可能性がある。そんな恐れを千雨は同じぐらいに抱いてしまう。

(ロート・シュピーネ(私)らしくもない。自分の選択には絶対の自信を持っていたはずです。ましていまさら弱気になってどうするのですか。もう始めてしまったのですよ。憂うなら失敗した時のリカバリーを考えるべきです。この辺りが長谷川千雨(私)の悪いところです。もっと強引に、独善的と言ってもよいほどに強く前に出るのです。確かに慎重になるべきですが、それは策を繰り出すまでですよ)

 聡美の唇が震え出した。目にもうっすらと涙が浮かんでいる。

(同調した!!)
 
 疑っていない。締めに入るべきだ。質問はさせない。これ以上、目を合わせる必要も無い。与える情報は最小限にしなければならない。
 押しつける。なにもかもを押しつけてやる。了承も得ずに横をすり抜けた。悲鳴に近い声が背中に届いたが、無視して洗面所に飛び込んだ。
 細く長く息を吐きながら気配を探る。後は追って来ていない。追えないというのが正解かもしれない。
 衣擦れの音が聞こえてきた。聡美は落ち着きがなくなっている。きっと視線はドアのスリットに釘付けになっているはずだ。

(上手くやって下さい)
 
 これから来訪する五人を聡美は味方に付けて、この話題をタブーとすることが出来るだろうか。それとも彼女達の仲間となって一致団結し、敵に回ってしまうのか。

(読めませんね。いいんちょと那波を味方に出来ればなんとかなりそうですが……)

 明日菜が気になる。彼女は自分にとってダークホースとなるかもしれない。どこにでもいるちょっと運動神経に秀でただけの、お馬鹿な中学生の筈だ。しかしどうにも得体が知れない。警戒しておけと第六感がやけに騒ぐのだ。
 決戦の時がきた。間延びしたチャイムに聡美と一緒に息を呑む。これからが正念場だ。

「は――、は~い」

 声は震えているが動作は俊敏だった。間髪入れずに鍵が外れる音が響き、ドアが開く。足音がどっと押し寄せ、すぐ乱暴にドアが閉まった。
 無言。狭い玄関に鮨詰めになっている。どちらともなく牽制するかのような重苦しい間が開く。

(攻めて下さい)

 だが、祈りむなしく口火を切ったのは明日菜だった。

「ちょっといい? 長谷川なんだけど……いるわよね?」

 鍵の音がやけに大きく聞こえた。なにを考えての発言か分からないが、騒ぎにするつもりはないのだけは確かだ。だからと言って油断は出来ない。
 なぜなら――

(被害者だけではなく、加害者という可能性も視野に入れることが出来ますからね)

 鏡を前で呟いた。血がベッタリ付着している。しかし古菲辺りなら一目で気が付いたに違いない。聡美にしてもそうだ。冷静であったなら、きっと見抜いたはずだ。この血痕が不自然なことに。
 すぐわかるほどに傷がない。治ってしまっている。常識ではあり得ない。鼻にしても、目の周りにしても、これだけ血が出たなら歪むなり腫れたりしなければおかしいのだ。いまから彼女達の前に立ったなら、きっと誰かが看破するだろう。仲間がいることで気持ちに余裕が出来、冷静に観察して判断が出来る者が必ず現れるはずだ。

(いえ、この場合、まず事故を疑いますか。いきなり暴行事件まで飛躍させないかもしれません。ハカセほど観察する時間もなかったはずですからね。一目見ただけでそこまで想像は出来ないでしょう。その割には神楽坂の態度は腫れ物に触る様ですが……ああ、ハカセの様子からただ事ではないと感じ取ることは出来ますか) 

「その事なんですが……」
「千雨さんはどこにいるのですか?」

 明日菜や聡美に比べれば強い口調のあやか。歯切れの悪い聡美に業を煮やしたのだろう。それでも必要最低限に絞られているのは、薄々何があったのか気付いているからと前向きに受け取りたい。

「ど、どうか落ち着いて下さい」
 
 間髪入れずに聡美が注意した。あやかのそれは激昂とはほど遠いものだったが、彼女には必要以上に大きく聞こえたのかもしれない。精神状態がありありと分かる。彼女の口調はあやかに言い聞かせると言うよりも、自分に言い聞かせているようだった。

「私もまだなにが起こったのかよく分かっていませんので、軽はずみなことは言えませんが、今日のところは私に任せて引き取っていただけませんか?」

 悲痛な声。叫んではいない。しかし、静かな叫びとでも言えばいいのか、一語一語丁寧に吐き出されるそれは心を打つ響きがあった。

「しかし」

 あやかも絞り出すような声で食い下がる。クラスのまとめ役として、なにか事件に遭遇しなのなら力になるべきと考えているのだろう。

「お願いします。なにかあったのは違いないので、ここはまず穏便に、もし万が一の場合、あまり騒ぎを大きくすると千雨さんのこれからが……」

 聡美が深々と頭を下げたのを肌で感じた。誰も声を発せない。どのようなことになるのか、想像力を促されたのだろう。

「本当はすぐにでも千雨さんから話を聞いた方がいいと思いますが、ことはそんな簡単に進められることではないかもしれないんです」

 畳み掛けるように聡美が言う。その必死さが伝わったのか、

「そうね。デリケートな問題だわ」

 と千鶴が同意した。千雨が小さくガッツポーズをする。千鶴を味方に出来たのは大きい。

「はい。ですから、まずは千雨さんが落ち着くのを待って、それから話をしても遅くはないと思うんです」

 沈黙が下りた。異論はないはずだ。こういう時の決定権を持つであろうあやかに注目が集まった。

「…………分かりました」

 重々しく口を開いたあやかが言う。ホッと息が漏れた。安心しきるのは早いが一安心だ。

「それで千雨さんは、いまどのようなご様子で?」

 声が一層小さくなった。当人に聞かれないよう配慮しているのだろうが、筒抜けだ。

「浴室に――」

 聡美の話の途中で千鶴が「あっ!?」と声を上げた。

「どうしました?」
「う、ううん、なんでもないの。気にしないで……」

 しかし、そのまま話を続けるには態度が余りに不可解で、誰も口を開けない。

(な、なにに気が付いたんですか!?)

 ひしひしと伝わってくる緊張感。もう大丈夫だろうと、服を脱ぎ始めていた千雨も手を止めて、聞き耳を立ててしまう。

「いいのよ。本当になんでもないの。ごめんなさい」

(なんでもないじゃありません。どう考えても、なにか重要なことに感づいたでしょう!?)

「あ!?」

(村上までですか!?)

 ゴクリと喉が鳴った。なにが飛び出てくるか。居ても立っても居られなくなり、想像力が膨らんでしまう。危惧していたことに気が付いたのか。いや、しかしそれなら追及の手を休めないはずだ。こんな腫れ物に触る様な対応はしないだろう。
 歯痒い。唇を噛み締めてしまう。部屋を飛び出し、胸ぐらを掴みあげてでも、聞き出したくなってくる。そんなことをしたら本末転倒だ。代わりに「誰か追求して下さい」と強めに口の中でぼやいたのは仕方がないことだろう。
 
「千鶴さん、なにか気が付いたのならおっしゃって下さい」
「そうよ」
 
 願いが通じたのか、あやかが音頭を取り、明日菜が迎合する。

「ごめんなさい。あとであやかには話すから、デリケートな問題でしょう。大事に出来ないとなると、きっとあやかの力が必要になると思うの」

 あっ、と千雨が眉を上げると、釣られて口もぽかんと開いた。シャワーを浴びることで、物的証拠が流れることを危惧したのではないだろうか。
 鏡に映った自分の下着姿を見つめる。

(調べればすぐに分かることなので、警察沙汰にしないように持っていかなくては。どうやって泣き寝入りをするかですね。周囲に納得してもらう必要が出てくるわけですが……)

「分かりました。千雨さんのことはハカセさんにお願いするとして……私達がすべきは」
「目撃者をどないかしなななぁ」

 ハッキリと鏡に映る笑顔。唇の端だけがつり上がり、眉が八の字を描いた。嫌らしいというか、卑屈というか、人前では決してしない方がいいだろう。決して良い印象は持たれない。だが、こんな自分が嫌いじゃなかった。

「噂が広まるのはどうにかした方がいいわね」
「だったらこんなんはどうや、ドッキリってことにしてな」
「誰のドッキリよ? 長谷川の?」
「ちゃうちゃう。血だらけの千雨ちゃんを見て、ビックリする住人の方をドッキリにかけたんやってことにするんや。番組とかと違うから、それほどのインパクトとかないけど、千雨ちゃんが仕掛けたちょっとしたイタズラってことにしてな」
「確かに血だらけの女の子が走ってきたらビックリするわね」
「そやろ、だからそう言うイタズラにしておくねん」

 世界は自分を中心に回っている。そんな錯覚を覚えるほどにスムーズに運んでいるが、しこりが残る。

(私はそんなことをするような人間だと思われていたのですか)

 不満げな顔をさらしながら、聞き耳を立てるのを止めた。脱ぎ捨てた衣類を洗濯機に投げ込む。もう着られたものでは無いが、血のついたまま捨てるのは躊躇した。

「さて」

 蛇口を捻る。冷え切った身体に、染み入るお湯の熱が心地いい。無心で浴びた。これからいろいろ考えなければいけないのだ。脳を小休止させなければいけない。
 しかし――

「いったい聖餐杯猊下は、私になにをさせたいのでしょう」

 脳髄は休憩を是としなかった。歯噛みする。夢が見られない。疑問を解く最良はすでに考えついていた。簡単な事だ。黒円卓と連絡を取ればいい。しかし、これではまるで……

「私の忠誠を試されているみたいじゃないですか」

 顔が歪む。口内に血の味が拡がった。心中を見透かされ、チャンスを与えられたのだろうか。このまま逃走するか否か試されたのだろうか。
 屈辱だ。このままでは隷属を余儀なくされる。栄光の日々がすぐそこにあったはずなのに。

「黄金錬成など……、クソッ――ですが、ここまでしますかね。平時こそ、このロート・シュピーネは忙しい身なのですが……」

 苦々しい顔を作る。記憶のように、ヴァルキュリア同様、贄に使った方が手っ取り早いし、クリストフならそうするだろう。

「そういえば私がずっとここに居たと言うことは、同胞達はちゃんと生活できているのでしょうか。死にはしないでしょうが、盗賊団とかに成り下がっている……なんて事はありませんよね」

 彼らの普段の生活を思い浮かべると、笑みが零れる。
 
「だれが私の代わりを果たしているのでしょう」

 そわそわしてきた。無用の心配だろうが、どうにも性格破綻者が多い。そうでも無ければそもそも黒円卓に籍を置いていない。

「経済観念なんていうものを期待するのは間違っているのでしょうが、ベイは……無理ですね。マレウス……なら……大、丈夫、本当に? どうにも信用がおけない。猊下……」

 頭を振る。

「神父が財テクですか、それもどうかと、残るは、バビロンでしょうね。子持ちですし。まさかゾーネンキント、レオンハルトと言うことはないですよね。いまはまだ中学生です。そう言えばカインは…………彼はどうなっているのでしょう。もう――するとヴァルキリアは? 生きているのですかね。こうして考えると私以外に適任者がいないというのはもはや何とも、組織としてどうなのでしょう。どうも私の役目は儀式まで団員の生活を維持すために存在しているような……目眩を憶えそうです」 

 笑おうとしたが笑えない。当たらずとも遠からずといった気分になってくる。

「まさか本当に?」

 いえいえ、と頭を振る。シャワー音が響き、やけに耳についた。あたふたしている。一度、様子を見に行った方がいいような気になってきた。いくら考えても推測の域を出ることのない答えを得るためにも必要だ。
 しかし、と逡巡してしまう。ため息を漏らし、煩わしくなってきたシャワーを止めた。双首領と三人の大隊長に対する思いは、偽らざる本音だ。

「どうすればいいのでしょうかね。それにしても質が悪い。性格を疑いますよ。誰が術を掛けたのでしょうか」

 この陰湿さ。考えるまでもないマレウスだろう。やりそうなことだ。

「それで正しいでしょうに、それなのに納得できない私がいます」

 一度否定し、認めそうになったが、否定し直した説が顔を覗かせる。自らの境遇をそれに当てはめてしまう。

「そうですね。黒円卓に戻ったら私はどうなるのでしょうか」

 すでに影響を受けている。そして認めてしまっている。自分はロート・シュピーネで有り、長谷川千雨でも有る。長谷川千雨=ロート・シュピーネだと。このまま戻り、術を解くなりしたなら、この自分がいなくなる可能性というのを視野に入れなくてはいけない。仮にそうで無くても、姿形はどうなるのだろう。このままか。男のロート・シュピーネに戻るのだろうか。

「……どんな罰ゲームだよ」

 表情が歪む。唇かきつく噛んだ。そんなもの受け入れられない。自分でもびっくりするほどジェンダーアイデンティティーは女だった。

「ですが、現実を見なさい。既知感などに頼ったところでどうにもなりませんよ。そもそもそのルールから、私が大きく逸脱してしまっているのですからね。私の存在が完璧にそれを否定するための材料になっています。もし回帰が本当ならロート・シュピーネはロート・シュピーネで有り続けるはずです。それともなにか……早い段階で既知を破ろうと、なにか大きく歴史が変わるような行動を起こした、そんな弊害がこの身に起こったと思いたいのですか?」
 
 納得がいかないと頭を振る。

「そんな事をして聖槍十三騎士団が設立しないなんてことにでもなれば、それはそれで本末転倒……いえ、そうですね。別に牢獄(ゲットー)を打ち破るのが目的なら、聖槍十三騎士団である必要は無いのかも知れません。黒円卓に変わる組織を作ればいいだけです。今回がそうだったと……」

 言っておいて千雨の表情は冴えなかった。希望になり得ない。黒円卓がない。そんな事は夢物語にも出来ない。願望にすらなりえない。
 なぜなら、

「黒円卓がないのはあってもおかしくないのかもしれません。しかし、ラインハルト卿に変わる者などいないでしょう」

 他の団員の代わりはいる。しかし、ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒの代わりはいない。いないはずだ。

「しかし、こうも考えられないか?」

 既知感を押しているのは長谷川千雨だと言わんばかりに、口調を変えて疑問を投げかけた。

「そのラインハルト卿だけどさ。彼で本当に既知感は破れるのか? 私はそこに疑問を感じるんだ」
「どう言う意味です」
 
 自分で自分に言っておいて腹が立った。それを恐れる自分は相対的にどうなる。

「そう怒るなよ。だってさラインハルト卿は既知感を持っている。既知感を破るのは容易ならざる道なんだろうけど、それでもさ、既知を肯定するって事は、何度も何度も繰り返して失敗してるって事を意味するんだよな」
「既知感が本当だった場合ですがね。たしかにそうなります。しかし、私から見て、ラインハルト卿はアーリア人そのものなのですよ。彼以外にはいないと言ってもいいかもしれません」

 こんなことが言えるのも変わった証拠だろう。他の団員が聞いたら、いや、他の団員も、ラインハルトと比べるとなると納得するに違いない。

「彼は、有りとあらゆる物事をなんなく行う事が出来ます。かくいう私も、あなたが送る学生生活程度なら、最高標準でこなせる自信がありますよ。そういった意味ではラインハルト卿が世界というものをどう見ているのか分かるような気がします。退屈極まりないものでしょうね。いつも色あせて見えているのでしょう。ある時ふと既知感に襲われても、同じ事の繰り返しのような日常と、果たしてどう違うのでしょうか」
「まあ、そうだな。それでも駒の域を超えられないようだけどな」

 シュピーネは答えない。一人芝居の茶番だ。なにが言いたいのか、そんなことは誰よりも理解している。
 いくらラインハルトが優れていても、メルクリウスの胸三寸なのだ。そんな優秀な筈のアーリア人もカール・エルンスト・クラフトとの出会いなくして、魔人とはなり得なかっただろう。メルクリウスがどう既知に対して行動を起こすかで聖槍十三騎士団がヒムラーのオカルト遊びから真の魔人集団にかわるかどうかが決まったのだ。すべての運命は彼が握っていると言っても過言では無い。

「なあ、やっぱり人を変え、品を変え、試してるんじゃ無いのか。いつも一緒じゃたいして結果は変わらないだろ。手っ取り早くするならさ。メルクリウスもなんでツァラトゥストラ(代替)なんて用意するんだよ。いや分かってるんだけどさ。でもさ。本気でやる気あるのかよ。つーか、別に一般人でいいなら、一般人で我慢しとけよ。ツァラトゥストラなんていらねーだろ。出すんなら出すで、素人を戦場に押し込むなよ。行き当たりばったりすぎるだろ。こんなのどう考えても遊びじゃねぇか。遊んでんじゃねぇよ。誰か反対しろ反対。ラインハルト卿には復活してほしいんだろ。恩恵がほしいんだろ。もっと真剣にやれよ。真剣にィ、なあァ!!」

 壁に同意を求めるが答えが返ってくるわけが無い。千雨は地団駄を踏んだ。苛々して頭を振り乱し、掻き毟る。

「あ~あ、これじゃまるでツァラトゥストラの為のスワスチカじゃ……ねぇ、か……?」

 ふとついた言葉に、電池が切れたように千雨の動きが止まる。

「そうだよな。べつにゲットーを破るには、なにもラインハルト卿でなくてもいいんだ」

 ゴクリと喉が鳴った。

「ラインハルト卿はツァラトゥストラの試金石と考えられないか? 私達が懇切丁寧に聖遺物の使い方を教えて、平団員を相手取りレベルアップさせる。儀式の性質上、代替を排除するにも団員は一対一を好むだろうし。でも、これってツァラトゥストラにこそ都合がいいんじゃねぇのか? 大隊長連中にしても、初めっから出張られたら無理ゲー過ぎるしさ。なんだよ。メルクリウスのやつ、懇切丁寧に中ボスの登場まで調整してくれてんじゃねぇか。やっべ、マジかよ。そうだよな、べつに代替を用意しなくてもメルクリウスが矢面に立てばいいんだ。あいつならみんな嬉々として殺しに行く筈だぜ。そうだよ。ご本人が登場した方が百倍はやる気が出るはずだ。あれを超えたとベイやマレウスなんかは自信満々だったんだからな」

 バスタブに腰掛け、足を組む。正解に辿り着いたような気がした。

「メルクリウスだけ安全地帯にいるんだよな。いや、スワスチカが開けばあいつも帰還するんだろうけど。なんか、あいつだけ高みで見物している感が拭えねぇ。とはいえはそんなのはいつものことか」

 思い出すと苛々してくる。それでも、と口ずさみ、大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着けた。

「すべての鍵はメルクリウスにありそうだ。全部あいつが糸を引いているに違いない。あいつ無くして物事はなにも進まない。と言うことはだ。つまりあいつがすべての元凶だったら……、この回帰を作ったのもあいつだったら……、うんでもって、それを自分で破壊しようとしているとしたら。嫌になったのか。ああ、そうか既知感は体験なんだよな。何度も何度も繰り返して目新しさが無くなった。飽き飽きしている。死ねば回帰するだから、回帰させずに自分を殺せるなにかを造り出そうとしているってことか。それがラインハルト? いや、ラインハルトじゃ無理だ。黄金錬成もたいして変わらないんじゃないか。だから代替なんてものを用意したのか。いや、初めはラインハルトの予定だったんだ。でも繰り返していくうちにラインハルトじゃ無理だと判断した。でもおしいところまで行ったからラインハルトを試金石にして、彼を殺せないようでは自分に届かないと……」

 長く長くため息を吐き、頭を垂れ、左右に振った。

「でもこれってあれなんだよな。既知感がどうとかじゃなくて、繰り返している記憶が全部あるってことが前提だよな」

 頭が痛くなってくる。既知感なんてもので計画的に物事は進められるのだろうか。

「いやでも、頑張って足掻いているのか」
「そもそもその発想の飛躍は、私の記憶が本物だという事が大前提ですよね」
「そうだな。それに既知を破るためには親殺しのタイムパラドックスを……でも矛盾しないようにしたら一本道になるし……、その為のエイヴィヒカイトなんだろうけど……クソッ」
 
 手で顔を覆った。自分で言って疲労がどっと押し寄せてきた。どうにか食い下がろうとしたが、いくらでも理論の穴を付ける。

「その為の覇道なんだろうけど、ハァ~、いいや。考えれば考えるほど頭が馬鹿になりそう。でもさメルクリウスに関してだけは……」
「ええ、彼に関しては一考の余地があります。きっと彼は我々に語っていない目的があるでしょうね。ゲットーを破るというのも実は口から出任せで、自分を殺させて、始めに戻るのが真の目的かも知れません」
「ロート・シュピーネならそれはそれで幸せかもな。ある意味、回帰肯定者とも取れるもんな。なるほど、そう言う意味でも戦士でないか」

 顔を強めに叩き、力任せになで回し、気を取り直して立ち上がった。それでも尾を引いている。
 これは呪いだろうか。いまでも、このまま知らぬ存ぜぬを貫き通せば……と思う気持ちがあり、そうしたい。しかし、妄想に彩られた憶測ではなく、ちゃんとした答えを知りたがっている自分がいるのも事実だ。
 持論をメルクリウスにぶつけてみたい、とそんな生まれてはいけない欲求を孕んでしまっている。だが、それを満たすには、古巣に戻る必要があり、黄金錬成を成さねばならない。

「でもそれでは……」

 本末転倒ではないか。表情が歪ませ、握りしめた手の甲を見る。なにもない。本当にそうなのだろうか。黄金錬成も妄想ならいいのだが、

「くそ、本当に質が悪い。なにを信じればいいんですか。まずは……こんな情報がない状態で考察したのが悪いのでしょう。妄想に耽るのと変わり有りません。情報を収集をしましょう」

 ここまで来れば、黒円卓が無ければいいな、と自分の存在を全否定しながらバスルームを出た。
 
(まずは聖槍十三騎士団を調べるか。メンバー総入れ替えだったりしても面白いんだけど)

 通帳の残高を思い浮かべる。中学校二年生と考えるとかなりの貯金があるにはあるが、
 
(全然足りねぇ。となると秘密口座に手を着ける事になるんだけど……、下手な行動は……どうしよう。しっかしなんであんなに馬鹿高いんだよ。ぼったくりだろ。バッカじゃねぇの。賞金首の情報なんて見たいヤツに見せてやりゃぁいいじゃねぇか)
 
 身体がひとりでに習慣に則り、動き出すが、不意に思考を途切れさせた。

(下着は……用意してなかったな)

 いつも置いている場所で手がむなしく空を切った。仕方がないと新しいバスタオルを取り出すと身体に巻く。
 
(多少乱暴でも……たかだかドライヤーの熱風に私の髪は負けないよな?)

 とは思いつつ、丁寧にタオルドライしてしまう。鏡に映った姿が様になっている。

「ああ、女していますね……ってなに言ってるんだか」

 クスリと笑った。これが当たり前なのだ。あと二月もすれば十四歳だ。それだけ長谷川千雨をやって来た。

(そうだ。両親を調べれば、ナチとの関わりを発見できるんじゃ。でも、ここまで私の記憶を弄ってるってことはだ。それ相応の処置を両親にも施していると考えるのが妥当だよな。まあ、でもやってみないことにはわかねぇか。たいした手間じゃないし、ただなあ……)

 ここまでのことをやるとなると、処置したのはマレウスだろう。メルクリウスを除き、その魔術の腕前は黒円卓でも抜きん出ている。

(いまいち信用ならないんだよな。性格に難ありだし。トラップとか仕掛けていなよな。本当にないよな? 私ってトラップが発動した状態とか?)

 笑えない。まったく持って笑えない。顔が引きつってくる。そんな笑えない妄想を吹き飛ばそうとドライヤーの熱風を送った。水気と共に逡巡も吹き飛ばそうと、少しの間没頭する。

(ひとまず普通にネットで調べれば、諏訪原市の存在ぐらいは分かるか。たしか都市伝説にもなってたはずだし)

 バビロンとゾーネンキントが住む教会の電話番号も記憶している。番号否通知でイタズラ電話をするというのも一つの手だ。

(他には……そうだった。マクダウェルがいるじゃねぇか。あれを問い質せばわかるか)

 それに行使される方法を考えると、顔がにやけてくる。顔貌はいいが、体つきに不満が残る。しかし、それでも十三年間の禁欲生活を考えると……

「う~ん、まあ……」

 下卑た笑みを浮かべて洗面所を出た。足取りは軽い。やりようはいくらでもある。行動を起こすことで思いつく事もある。

(ああ、そうでした)
 
 部屋で、落ち着きなくうろうろしている聡美の姿を捉えた。緩んだ表情を引き締め、浮つく心を落ち着かせる。ネットで調べ物をするにも、彼女の目があるのは拙い。

(明日は大事を取って学校を休みますか)

「あの……」

 聡美が弱々しく口を開く。腫れ物に触る様だ。そう言う設定なので間違っていない。任せろと言ってもふたりきりになると、どう接していいのか分からないのだろう。
 空気が重くなっていく。千雨はどうと言うことは無いが、聡美は目が潤み出す。

(あ!? そうだ。やっべぇ。顔とか思いっきり綺麗じゃん。どうしよう。傷なんてねぇよ、つーか傷なんかつかないし、そうだ!! 鼻血って事で)

 鼻血を頭から被るとはどういった状況だ。

(抵抗して相手の血かな? かなじゃないでしょう。かなじゃ)

 あまりにも脆い理論展開。こんなもので希有たる頭脳に挑めるわけがない。だが、そんな千雨を天は見放していなかった。
 重い空気を切り裂く間延びしたチャイム。聡美の視線がドアに逸れた。

「え、えっと」

 来客は帰る気がないようだ。チャイムが再び鳴らされる。聡美は千雨と玄関で視線を泳がせ、ひとまず玄関へと向かった。

(さて、この間に特殊メイクは無理として、魔術で細工を……いつまでもこの格好では……着替えも済ませますか)

 クローゼットを開けて、下着を物色していると、話し声が聞こえてきた。

「龍宮さん」
「邪魔するぞ。取り込み中だと思うが、ハカセ、いいんちょがが呼んでいる。早く行け」

 なんでしょうね、と話を想像しながら、ショーツに足を通す。

「え、でも、その……」
「長谷川のことなら私に任せろ。私ならいろいろ伝手がある」

 千雨はにやりと笑った。渡りに船だ。

「葉加瀬さん行って下さい。もう少し一人になりたいので」

 逡巡が伝わってくる。

「大丈夫ですから」

 ベッドに投げっぱなしのパジャマを手に取りながら言った。口調とは裏腹に動作は軽妙だった。

「そ、そうですか」
「代わりに私が一緒にいるから大丈夫だ」

 いや、お前も帰れよ。邪魔だっつーの、と言った本音をひた隠し、

「いえ、龍宮さんも、一人になりたいので……」

 と伝える。どう出るか、返答までに間があった。

「……わかった」

 ぐっと握り拳を作り、小さくガッツポーズ。

「だが早まった真似などするなよ」

 聡美が短く悲鳴を漏らす。いらないことを、と思いつつ、

「……大丈夫ですよ」

 と返した。するとまもなくしてドアが開いた。真名が愚図つく聡美を押し出しているのだろう、玄関がにわかに騒がしくなるが、その喧騒はドアが閉まると聞こえなくなった。

「ふう~、これで――――ッ?!」

 ふり返ると、長身の女が部屋の戸口に立っていた。褐色の見事な肢体を包むのは、レオタードと革のジャケットにオーバーズボン。
 帰ったはずではなかったのか。瞬きを繰り返すが幻では無い。彼女は眼を皿のようにしてこちらを見て、停止している。
 なぜ、と疑問を投げかけようとしたが、室内の空気が一変した。出遅れたのはクラスメートと言うこともあったからに違いない。
 だたの中学生が、懐から引き抜いた手に握っていたのはイスラエル製の拳銃・デザートイーグル。モデルガンではない。見間違えるわけがない。本物だ。
 肌が粟立つ。その感覚が眉間に集約されるのと同時に、千雨の首が大きく後ろに仰け反った。




[33521] 5 lacertosus
Name: 愛宕◆38e00c08 ID:744da65f
Date: 2012/11/18 21:08

 避けられなかった。銃口を向けられたのに。なぜ避けられなかった。銃弾を避けることなんて造作もなかったはずだ。いろいろ弁明は出来る。だが、いまはそんな事をしている場合ではない。
 それでも、あまりの事態に思考は脇道に逸れていった。
 寸分違わず弾丸が眉間を穿とうとした。拳銃の中では最高の破壊力を持ち、ハンドキャノンと名称を抱く誉れ高いデザートイーグル。だが所詮はただの拳銃だ。この身は聖遺物と融合することで、喰らった魂相応の霊的装甲を纏っている。だから傷つかない。傷つかないはずだ。
 なのに耳朶が激しく揺れている。衝撃は脳にまで達していた。

(どうして私はこの様な無様な格好を晒しているのですか?)

 首が大きく後ろに反り返っている。視線の先には、壁にめり込んだ50口径の弾丸が見て取れた。こんな事はあり得ない。微動だにしないはずだ。首が反り返るなど有ってはなら無いはずだ。

(これは一体何事ですか……)

 嗅ぎ慣れた臭気がツンと鼻をついた。どこから――そう、すぐそばから漂ってくる。シャワーは浴びたはずなのに。
 千雨の顔が驚愕に歪む。遅れ馳せながら気が付いた。額が痛みを発している。
 触れるまでもない。皮膚が裂けていた。肉も削がれている。骨にも異常があるかもしれない。それほどの傷を負ったから、血が流れている。
 なんという日なのだろうか。なぜこうも得体の知れない局面ばかりに遭遇する。次々と身に降り掛かる。この世は悪夢のような未知で満ち満ちているようで、痛みの原因がなんなのか分からなくなってきた。
 それでも、乱れる思考は一つの答えを導き出した。

(つまりエイヴィヒカイトが破られたと言う事ですか?)

 否、完全に破られたわけでは無い。もしエイヴィヒカイトが破られたのならば、吐き出された50口径の弾丸は性能通りの破壊力を発揮し、この小さな頭を易々と粉砕しているはずだ。

(では、なぜッ?! あの光ッ!!)

 思い出す。直撃した瞬間に目を眩ませた閃光。あれは発射炎ではない。そうだ、あれには特別ななにかがあったような気がする。

(聖遺物? いえ、なにかの術ですか)

 記憶にある。霊的装甲を無効化する術を識っている。それを駆使した敵と戦った。

(ですが)
 
 襲いくる猜疑に心が囚われる。それは一九九五年の、偽りの記憶とするべき中の戦場だった。
 落ち着かない。集成したはずの思考がバラバラになり、混沌の坩堝の中で攪拌されていく。酷く気持ちが悪い。ここが戦場だと言うことを忘却してしまう。それを見計らったように銃声が響き渡った。
  
「――――ッ?!」

 胸から拡がる痛みに、体勢が崩れた。尻餅をつきそうになったところを、どうにかたたらを踏み抵抗する。狙いは心臓だった。幸い弾丸は胸骨を砕くだけで止まり、事なきを得たが、冷や汗が止めどなく流れる。あと少しずれてすき間を縫っていれば心臓が破壊されていた。

(たつみ――や?)

 恐るべき敵を睨み付けた瞬間、千雨の左の眉尻がぴくりと反応する。真名は左手で銃を構えていた。様になっている。しかしそんな姿が酷く、らしくない、と思えた。
 グリップを握る手は今にも震えだしそうになるほど力が込められている。端整な顔立ちを歪みに歪ませ、口端を吊り上げ、歯を剥き出しにし、眉間に深い溝を刻んで、瞳を憎悪で染めていた。普段学校で見掛ける、落ち着き払った雰囲気がそこには欠片もない。まるで別人のようだ。ここに居るのは感情を剥き出しにしたただ悪鬼だった。

(そのような凄まじい殺意を向けられる心当たりは……)
 
 腐るほどある。身に覚えなど有りすぎてどれだか分からない。叩けばいくらでも埃の出る身だ。しかし、腑に落ちない。それはロート・シュピーネであって、長谷川千雨ではない。なにより彼女とは親しくないが、およそ二年間クラスメートをしてきた。それがなぜ急に、今になって……

(なるほど、あれのせいですか)

 左目。真名の左目が異才を放っている。

(魔術、いえ超能力の類ですか――ねッ!?)

 カチ、と金属が接触した音を拾った。強制的に思考は中断させられたが、すでに肉体は脳を介さずに動いている。
 刹那遅れて銃が吼えた。真名の内で蠢く感情そのものようだ。だからと言って当たってやる義理はなく、弾丸はむなしく壁だけを破砕した。
 
「銃で私は――獲れませんよッ!!」

 エイヴィヒカイトを破る弾丸などを使っていては尚のことだ。避けずにはいられない。怖すぎて身体が勝手に動いてしまう。
 笑みを浮かべた千雨を睨み付ける真名は言葉を返さなかった。ただ眼力を強め、照準を合わせ直す。その動きは洗練されており、思わず「ほう」と感嘆を零させるほどだった。よほどの修練を積んだに違いない。その隠しきれないでいる内心とは完全に切り離された冷徹な技だった。
 しかし、

(……なんなのですかねぇ)

 気持悪い。酷く気になる。だがひとまず疑問符を振り払った。
 真名の指がトリガーを引き絞った。文字通り、肩で風を切りながら半身になる。轟き纏った銃弾は、二段ベッドの脚を一本粉砕した。どうどうと音を立てて崩れるベッドに、思わず視線を向けてしまう。

「人の――」
 
 部屋だからと言って、といった続きは心中で吐き捨てた。真名の動きに澱みはない。失笑ものだ。忠告してやったのに、まだ分からないのか。なにをどうしようと銃弾は当たらないと言うのに。
 見せつけるように、ゆったりと優雅に踊るように避けようとしたが、千雨の眼が限界まで見開かれる。身体が動かない。脳裡が家財道具の配置で埋め尽くされていた。自分の立ち位置がどこで、その背後になにがあるのかをまざまざと思い出さされたのだ。
 避けられない。背後にはパソコンがある。あれは50口径に耐えられるほどの強度を持ち合わせていない。リンゴのマークのついた箱が、ベッドよりも悲惨な末路を辿ることなど想像するまでもない。
 身体がくの字に折れ曲がる。銃声すら耳に入らなかった逡巡が断ち切られた。反射的に腹部を手で押さえる。傷を覗き込むような形で、千雨は頭を垂れた。
 しかし、その表情は苦痛に歪まなかった。ただ手の中のものをしげしげと見て、茫然とした。

(なにが?)

 憶えがない。しかし、手の中には弾丸がある。それはまるでたこ糸で絞められたボンレスハムのようなへしゃげ方をしていた。

(無意識――少し調子に乗りすぎではないでしょうか――)

 鎖骨を肩胛骨の間辺りに熱を感じる。肺、角度からその先の心臓、と言った真名の狙いが読めた。身を捻り銃声を避け、床が爆ぜる。

(――ね?)

 そろそろ終わらせないとこの部屋には住めなくなりそうだ。千雨は手の中の銃弾を床に落としながら、口許をニィッと吊り上げ、顔を上げた。真名は鬼の形相を張り付けたまま、照準をピタリと顔に合わせる。

(ええ、たしかにもうそこしかないでしょう。目を撃ち抜くしかね)

 眼底は薄く、脆い。これまでのことを踏まえると、ここなら脳に到達する可能性は大だ。苦笑が漏れそうになった。狙いは読めた。左手に注目しながら思考を割く。もうなにをどうしても真名では自分は殺せない。

(それにしても仮にも私はクラスメートですよ。敵とあらばこうも容赦なしとは……プロですかね)

 真名のそれは一介の中学生が持ち合わせていいものではない。

(殺し屋がこのタイミングで乗り込んできたと言うことは、誰かが依頼したと言うことでしょうか? 武装して来訪したことからも間違っていないはず、すると依頼主は……マクダウェルしかいません……が……)

 引っかかりを覚える。真名とのファーストコンタクトで垣間見た彼女の顔。目を皿のように見開いて停止していたあの表情は何だったのだ。それを言葉にすると、

(驚愕ですか。私が標的だと聞いてやって来たでしょうに、なぜあんなに驚いて、その後はまるで親の敵を見るような――)

 真名の指が動く。千雨の口許が邪につり上がる。思索は終わりだ。語らせれば済む。
 口許がますますつり上がった。この手の人間は、そう簡単に口を割らないだろう。すると口を割らせる為には……
 喉がクツクツと鳴る。薄ら笑いが止められない。楽しみだ。愉悦に膝が震えてくる――筈なのに、なぜか代わりに背筋が震えた。楽しい楽しい時間が待っているはずなのに、なぜこうも背中が冷たくなっていくのか。
 鳥肌が立った。頭蓋の中では眩暈がするほどに第六感が警告を鳴り響かせる。一体なにが優位に立っているのは自分だ。真名を読み切った。彼女の攻撃はもう何一つ効かない。なのに、この足元から止めどなく這い上がってくる悪寒の正体はなんなのか。

(なにか見落としがあるのですか)

 注目する手元から視野を広げる。戸口から一歩踏み出す形で半身に構える真名の全貌が写る。左手を大きく前に突き出していた。
 その立ち姿は様になっていたが、ふと疑問を感じた。なぜ片手なのか。片手で撃ってはいけないなんてルールはないが、両手で構えた方が命中精度が良い。正確無比な射撃では弾道を読まれて止められるから? わざとぶれさせる? 否、

(その考えはいただけない)

 矛盾がある。それでは眼窩を穿つ起死回生の一撃を放てないではないか。では、少しでも距離を稼ぐ為か。

(どうも違う)

 この最終局面と言っていい場面で遊んでいる右手はなにをしている。右手は腹に添えられるようにしてあった。

(――?)
 
 おかしい。右手がまるで銃把を握っているように見える。そして、その緩やかに曲がった人差し指が……

「形成(イェツラー)!!」
 
 叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。直感が出遅れては駄目だと、聖遺物を顕在化させるが、爆音も轟いた。なにもないはずの空間に突如、焔が現れた。

(爆炎が大きすぎる!?)

 使用火器は対物ライフルに違いない。人に対して過剰過ぎる殺傷力を発揮するだろう弾丸は、正確に脳幹をめざしていた。人間など当たった場所から簡単に真っ二つにすることが出来るのに、より確実な死を演出しようとしている。これまでの事を踏まえると霊的装甲は当てに出来ない。きっと同様の処理がこれにもされている。この身は常人のそれとは違っているが、頭が粉砕されるほどのダメージを負えば――

(――死――ぬ?)
 
 エイヴィヒカイトを打ち破るのだ。再生できないかも知れない。その事実にカッと脳髄が熱くなった。指先から伸びた十本の鋼線が空を裂き踊る。
 止める。絶対に止められる。ワルシャワ・ゲットーがどれだけの劣等を絞め殺してきたと思っているのか。この聖遺物に捕らえられたが最後、聖餐杯猊下と言えど脱出できぬ逸品であると自負している。この程度、魂無き弾丸が、拘束できない道理はない。
 そんな意地がまず絡みついた。そして引き寄せられるように鋼糸が弾丸に巻き付く。だが止まる様子がない。拮抗は一瞬の事で、シュイィンと甲高いモーターのような音を立てながら徐々に押し込まれてくる。

「ッ――我に勝利を与えたまえ(ジークハイル・ヴィクトーリア)!!」

 千雨は歯を剥き出しにして、これまで以上に形成を強めた。白煙が上がる。銃弾が赤熱、此所までしても止まらない。

「クウゥウウウウ」

 拳を硬く握り、糸を引き絞る。

(と、らえた!!)

 目と鼻の先、それを見て千雨は肩で息をする。糸に絡め取られた弾丸は、蜘蛛の巣に掛かった朱色の甲虫のようだった。

「は、ははは、あははははははははははははは」

 それが嗤いを誘った。防いだ。防ぎきった。とっておきだったに違いない。
 デザートイーグルはブラフ。左手に注目を集め、なにかしらの術で見えなくした右手のアンチマテリアルライフルで仕留める。それが筋書きだったに違いない。
 だが、通用しなかった。絡め取った。
 千雨は眉を八の字に歪め、卑屈な笑みで口許を穢した。悔しいだろう。無念だろう。苦渋しているだろう真名の表情を堪能しようと、卑下た視線を向ける。

「はぁ?」

 間の抜けた声は、ズブリと腹から聞こえてきた異音と協和した。傷みよりもなによりも先に戸惑う。なんなのだ。自分の腹に指を突き入れるこれは。黒に近い肌をした白髪の腰の辺りから蝙蝠を連想させる羽を生やしている異形は誰なんだ。
 理解している。でも信じきれず、つい今しがたまで真名がいた場所には視線が動く。デザートイーグルとバレットM82だけが落ちていた。それらの使用者の姿がない。目の前にいるのはやはり龍宮真名となるのだが、これは……
 吐血が思考を切った。痛みが走る。全身のバネを使った必殺の貫手が臓腑を蹂躙する。
 胃を裂いた指先が横隔膜に触れた。これが本当の切り札だと理解させられる。真名の表情は、勝利に歓喜し、歪みに歪んでいる。

「――――――ッ!!」 

 千雨は声にならない声を上げた。痛みからくる悲鳴ではない。気勢だった。思考を染めたのはただ一つ。死の否定。殺されてなるものか。メルクリウスの掌の上かもしれない。きっとそうなのだろう。それでも、淡い期待を抱いている。それを同胞達やツァラトゥストラにならまだ分かる。だが、よりにもよってこんな一目見て劣等人種だと分かる小娘によって断たれるなど――こんな事があって良いわけがない。
 ぷつんと張り詰めた糸が切れるように痛みが消えた代わりに、全身が脈動、肉が引きつり、皮膚が弾けた。
 真名が驚愕に手を止めたが、すぐにもう一歩踏み込み、腕に力を込め直す。終わりはすぐそこだ。横隔膜のすぐ上に心臓はある。
 しかし、

「いい判断でした。逃げるよりも止めを差しにくる。その決断になにひとつ間違いはありません。ただ――相手が悪かった」
 
 真名がシュピーネの戦法を知っていたなら不用意に近づかなかっただろう。それどころか、こんな狭い逃げ場のない室内を戦場としなかったはずだ。どうにかやり過ごすことを考えたに違いない。

「そう貴女の判断はなにも悪くなかった。必殺の弾丸をいなしはしたが、まだ決着もついていないのに不用意に緊張を解きほぐし、哄笑しだした敵が目の前にいるのですからね。明らかな隙、本命に打って出るのは当然のことです」

 真名の視線が室内を奔る。縦横無尽に鋼線が線を描いている。敗因など言わずとも理解できるだろう。それでもあえて口にした。

「ただ運が悪かった。いえ、貴女が強かった。強すぎた。ここまで出来る者はそうそういませんよ。私はどうやら貴女の戦術にまんまと引っ掛かってしまったようです。だから――」

 ニィッと下品な笑みを浮かべ、

「ワルシャワ・ゲットーを十条しか用意できなかった」

 狭い室内に縦横無尽に張り巡らされたこの極細の鋼線網こそが、本来の姿だった。何百という極細のワイヤーを具現化し、身体の周囲に張り巡らせ、防御態勢を整えてから、その中の一部を敵に放ち、絞め殺したり、輪切りにするといった使い方をとる。

「ふふ、貴女はのこのこと蜘蛛の巣に足を踏み入れていたのですよ」

 声が上擦った。顔も恍惚と崩れそうになったが、唇を固く閉じた真名を見た瞬間、凍り付いた。
 その瞳の中にいる自分の姿が……囚徒にしか見えなかった。全身を糸で絡め取られた真名のそれよりなお酷い。辺獄舎の絞殺縄が全身の肉を食い破やぶり、魂を捕らえているように見えた。どう足掻こうが逃れられないそんな未来を暗示しているようだった。
 千雨は唇を噛み切らんばかりに歯を立てて食いしばる。些細な動きに引きずられるように糸が締まり、みしみしと真名の肉が悲鳴を上げる。彼女の喉から苦悶が上がったが、歓喜に浸っている余裕などなかった。

(囚人? なにかの間違いです。そう、そうです。咄嗟だったからです!!)

 頭を大きく振って、不快な妄想を払おうとする。

(私の系統ならありえることです。肉体を聖遺物と融合させるのですから、それに興奮状態になりやすい。あの時だってそうです。危機的状況だったと言っても過言ではない。だからこんな形でワルシャワ・ゲットーを具現化したのです)
 
 きっと同胞のベイを真似たのだろう。彼は全身から血の杭を出す。その強さは黒円卓現存メンバーで、一、二を争う。それにあやかろうとしたに違いない。

(そ、そうです。私も私で昔のままとは言えない。だから形成の仕方に変化が出たとしても、なんらおかしくありませんッ!!)

 断言する。しかし気分は一向に晴れなかった。むしろどうにか言い訳を繕った感が、ひしひしと押し寄せ暗澹としてくる。
 そんな気分をより一層、逆撫でするように、糸から逃れようと苦痛に耐えながら真名が身を捩っていた。その揺れる瞳の中に自分がいる。二人して揺れていた。巣に掛かった二匹の獲物がどうにか逃げだそうと身を捩っている。だが、どちらも逃れることが出来ない。
 否、と千雨は右手を払う。全身から生えた糸が右手を目指して蠢き出す。パジャマが千切れた。下着も無残を晒す。
 修復の完了したばかりの腹部を撫でた。そこからワルシャワ・ゲットーは出ていない。しかしガリッと歯軋りしてしまう。おかしくないと認めながらも、今まで通りに鋼線を指先に纏め直したその行為が、どっと敗北感を呼び込んだ。

「クソ」

 どうしようもなく指先に届く振動が苛つかせた。緩慢な動きで上げた瞳に、大の字に張り付けにされた真名が写ったとたん、危険な色が宿った。
 浮き出る汗を舐めるように視線を這わせる。真名が動きを止め、息を呑んだ。構わず千雨はジッと魅惑的な肢体を視線で犯す。同い年とはとても見事な体つき。
 聖遺物に力を込めた。身動ぎ一つ出来ないほどにワイヤーがきつく食い込み、真名の喉から苦鳴が漏れた。
 頬がにやつく。すぐに声は噛み殺され、睨み返された。

「我慢する必要はありませんよ。我慢は身体に毒ですからね?」

 だから、その表情も逆効果だ。血が滲むほど唇を噛んで耐え忍ぶ真名の姿は健気すぎて、腰が蕩けそうだ。忍び笑いが殺せない。
 肉が嘶く。防刃繊維の弾ける音をアクセントに、ジャケットとオーバーズボンの切れ端が床に落ちた。艶めかしく血化粧を施された褐色の肢体が露わになる。真名は一瞬自分の身に起こった事を理解できず、茫然としたが、すぐに視線を強めた。がすぐに気丈な彼女の瞳が弱々しく揺れた。これからどのようなことが身に降り掛かるか、十分理解していたはずだ。しかしそれでは認識が足りなかったと思ったに違いない。目と言わず、頬と言わず、口許とも、千雨のすべてが淫らに濡れていた。
 触れようとする指が震える。朱を引いた頬がどうしようもなく愛おしい。忌避する表情、避けようと仰け反る仕草がまた酷く劣情を誘った。
 真名が目蓋をこれでもかと押し上げ、動きを止める。千雨の口許もそれに合わせるように耳元までつり上がった。絶妙な加減で拘束が緩められていた事にやっと気が付いたのだ。
 そして指が難無く触れた。

「おや、避けないのですか?」

 真名は逃げなかった。ねっとりと執拗に柔らかな頬をなで回しながらじっくりと反応を観察するが、真名は目を閉じ、一切身動ぎしない。

(まったく良い反応をしてくれます)

 相性が良い。サディストの血が騒ぐ。どれだけ持つだろう。久しぶりなので加減が出来ないかも知れない。出来る事なら長く楽しみたい。
 触れるか触れないか絶妙なタッチで指先が顎のラインを辿り、執拗に紐の掛かった喉に這わした。鳥肌が立った。隠そうとしても隠しきれない生理的な反応が浮かびだす。
 たまらず首筋にむしゃぶりついた。長く異様に赤い舌で、浮き出た血と汗を執拗に舐め取る。上目遣いに真名の反応を窺うと、我慢しきれず眉間に皺が寄っていた。
 瞳が緩む。熱くねっとりとした吐息混じりの声を吐きかけた。

「ほらほら我慢だけでなく、なにか打開策はないのですか? せっかく糸も緩めてあげたのですから、頑張れば抜け出せるかも知れませんよ?」

 千雨は悦予に息を荒げながら、真名の腰に左手を回し抱き寄せる。そして右手は鎖骨を一撫でし、乳房へと向かわせる。軽く爪を立てると朱の線が新たに引かれた。思考が掻き乱されるだろう。まだまだ序の口だ。これから生娘がどこまで我慢できるか見物だ。泣き顔など見られたら最高だ。

「ほらほら頑張りなさい。このままでは貴方は私に喰われてしまいますよ」

 血の付いた指先を卑猥に舐め上げる。

「うん?」

 真名が閉じた瞳を見開いていた。顔からは色が消えている。千雨の顔からも喜色が失せ、眉が忌々しく歪んだとたん、ガリッと音がし痛みが走った。真名の口に突き立てた人差し指と中指が、骨の半ばまで噛み切られていた。

「これ以上の辱めを受けるくらいなら……と言うわけですか?」

 猿ぐつわでもして続ければ良いのだが、真名のその行為は酷く気分を醒めさせた。しかし十分、気分転換にはなったのか、思考が冴えた。

「いいえ、違いますね。いやはや、そう言うことですか……あなたは私がなにか知っていますね」

 あと一歩のところで最後の望みを絶たれた真名の瞳に絶望がにじみ出す。その反応、正解だろう。陵辱の末路になにが待つのか。ただ死ぬのでは無いことを真名は理解している。ただ死ぬだけなら、辱めにも耐えただろう。最後の最後まで諦めなかったに違いない。なのに、それらをかなぐり捨てて、真っ当に死ねる時に死ぬ。そんな自決を選んだのは……

「その気持ち分からなくもないですよ。いえ、むしろ私だからこそよく分かります」

 千雨はそう伝えると、真名の首に縊りつけた極細のワイヤーを、辺獄舎の絞殺縄の名に相応しい太さに顕在化した。





[33521] 6 Occasio
Name: 愛宕◆38e00c08 ID:744da65f
Date: 2012/11/18 21:09

 湯気が登るマグカップに口を付ける。香りなどないに等しい。味もそうだ。珈琲はたいして美味くなかった。インスタントなので仕方がない。しかし、いままではこれで満足出来ていた。でもいまは舌が味を思い出し、眉を顰めてしまう。難儀なものだとうんざりしながら飲み込んだ。

「うん? やっと起きたか」

 目を忙しなく動かしていた真名が、声に触発され勢いよくソファーから身体を起こした。視線が絡み合うと彼女の頬が引きつるがそれ以上の変化はない。まだ状況に思考がついて行けていないようだ。それならそれで構わない。むしろ先ほどの二の前は勘弁願いたい千雨は、先手を打つことにした。

「臨戦態勢は取るなよ。あと自殺を図ろうなんてのもな」

 舌をかみ切った程度なら目の前にいるので簡単に処置は出来る。しかし面倒だ。なにより、千雨は肩越しに背後をふり返り、嘆息した。室内は酷い有様だった。これ以上、壊されたり、汚されるのは勘弁して貰いたい。

(……この空気もどうにかならねぇかな)

 肌がピリピリする。仕方がないことだと理解しつつも苦笑してしまう。
 手にしたマグカップをガラスのローテーブルに置いた。只それだけなのに真名はそんな些細な動きにも反応した。少しでも警戒を解こうと笑みを浮かべて見せるが、真名の猜疑心を増すだけの効果しかない。
 どうしたものか。辟易しそうになったが、ここで諦めてはいけない。

「私ばっか気にしてると落ちるぞ」
 
 指差すのと同時に、真名が胸元からずれ落ちそうになったシーツを反射的に掴み、ハッと表情を崩した。自分がどんな状況にあったのか思いだしたのだろう。

「なにもしてねぇって!! するつもりだったら気絶なんてさせないし、それじゃ面白くないだろ」

 もぞもぞと太股をすりあわせながら、室内に目を走らせる真名。本当になにもしていない。これからもするつもりはない。聖遺物も回収済みだ。

「ああ、でもシーツはちゃんと身体に巻き付けておけよ。初な私にはお前の肌は眩しすぎる。無防備に胸でも晒されたら誘ってるって勘違いして襲っちまいそうだ」

 戯けたつもりだが、真名が固まった。冗談だよ、と言って笑いを浮かべてみせるが、表情が戻ることはなかった。二人の間に出来たぎすぎすした溝はどうやっても埋められないのかも知れない。もしくは本心が混ざっていたことに感づかれたか。

(ま、いろいろ整理する時間もいるだろうし……)
 
 真名から大げさに顔を逸らす。自分にも時間は必要だ。表情に出さないように努めていたが、それでも頬の辺りが熱くなっている。こんな自分に何とも言えない気恥ずかしさを覚える。

(まいったなぁ)

 真名の胸元を隠す仕草にドキッとしてしまった。禁欲生活が長かった、と表現していいのか、聖遺物は魂を欲し、慢性的な殺人衝動にも駆られているが、それでもここまで節操なしではなかったはずだ。と思いたい。これまでも自由気ままに内なる欲求に従ってきたが、どうにもこの十三年間で培ってきた価値観が、過剰に反応している。
 つまり興味津々なのだ。長谷川千雨は禁忌を犯すことに酷く興奮を覚えてしまうようだ。

(どうすっかなぁ)

 ライバルを蹴落とすために犯罪まがい、否、然るべきところを標的にすれば犯罪として捜査の手が及んでいたかも知れない。そんな決して日の目を浴びてはならない行為をする時、嬉々していたところがある。いや、認めよう。こうしてシュピーネであったことを思い出す前から、暗い性質を持っていた。性別が変わろうと、生活環境が変わろうと、本質的には、なにも変わっていないのだろう。身の丈に合ったレベルで、安全に好きかってやっていた。その身の丈が急に大きくなり、出来る事が増えたことでちょっと興奮気味だ。

(つってもこれは何とも……、処女だけど童貞じゃないんだけどな。こういうのは一度経験してしまえば落ち着くはずなんだけど、いやはや場数を踏んでいる筈なんだけどなぁ……。結婚までしてたし、まあ、新鮮みがあると言えばそれはそれで……おつなもんだし、うん、既視感だ、なんだ、なにやってもつまらないよりは俄然マシなんだろうけどさぁ)

 マグカップを手に取り、珈琲を一気に流し込む。苦さが増していた。

(考えても仕方がねぇか、この程度はさして問題じゃねぇ)

 もっと重大な問題を抱えている。ちらりと視線だけを真名に向けた。目が合う。思案に暮れているように見えたが、様子を窺っていたようだ。こちらの一挙手一投足に敏感になり過ぎている。

「何か飲むか? つってもインスタントのコーヒーしか用意出来ないんだけどな」

 そう言えば夕食もまだだった。ついでになにか軽く摘まめる物も用意しよう。腹の中になにか入れればちょっとはマシになるだろう。
 そうして返事を聞かずに席を立とうとしたら、真名が薄く腰を浮かした。それには思わず軽く両手を挙げ、降参を表わしてしまう。

「そう警戒するなよ。そんなんじゃこっちも落ち着かなくなるだろ。なんなら続きは明後日ってことにしてもいいけど、二年間ほど同じ釜の飯を……と言うほど親しくはなかったけどさ、クラスメートしていたんだけどなあ」

 そんなに信用無いのかよ、とわざとらしくショックを受けたと肩を落とす。真名の目が一瞬泳いだのは見逃さなかった。

「なんだよ、長谷川千雨は殺されたとでも思ったか?」

 真名はすぐには答えなかった。しかし向けられる不躾な視線が正解だとなによりも物語っている。唇が戦慄くが声を詰まらせた。言葉が出ないのだろう。口を開けたまま困惑している。
 それも仕方がないことだろう。こうして意気揚々と得意気に語っている当の本人がまるで分かっていないのだから、他人である真名が分かるわけがない。

「殺して成りすましているとでも思ったんだろうけど、ここにいるのは紛れもなく、お前がほぼ毎日、見掛ける麻帆良学園女子中等部2-A出席番号二十五番の長谷川千雨本人で間違いねぇよ」
「しかし、なら……その様は……」

 どうにか絞り出した声は震えていた。ただ異才を放つ左目だけが本質を見抜こうと凝視を強める。

「やっぱりその左目か。その左目がどんなものを見ているのか、私には窺い知れないけど。とはいえ推測は出来る。その目は魂、つーか霊体かな、そういったモノを捉えることができるんだろ?」

 真名は逡巡したが頷いた。いまさら隠しいたところで意味が無いと判断したのだろう。千雨は満足げに頷き返し、

「龍宮が起きるまで時間があったから、ちょっと考えたんだけどさ。引っ掛かる点があるんだ。あれだ。龍宮は――プロ、傭兵と言うよりは分類的には暗殺者かな。どっちにしろそんなプロがここにきた理由は、自発的って訳じゃねぇよな。もしかしたら噂を聞きつけて純粋に心配して来てくれたって可能性を完全に否定するべきじゃないかもしれないけど、誰か、私を危惧するそんなヤツはマクダウェルか絡繰しかいないんだけど。あいつらに依頼をされてやってきたんだろ? そう考えるのがベターだし。なのに、気を抜いていたにしろ私の後ろをああも易々と取ったのに、どうして背を向けている時にすぐに撃たなかったんだ? 私だったらターゲットが無防備に背を向けているなんてチャンスをわざわざ見逃したりしなかっただろうからさ」

 とは言え、戦い方がまるっきり違う。まず相手を身動きできないように捕縛しただろうな、と心中で零しながら、真名が答えるのを待った。しかし彼女の唇は真一文字に固く結ばれたまま、一向に開く気配が無い。

「まっ、依頼の内容なんてペラペラとは喋りにくいわな。そんな奴がプロとしてやっていけるとも思えねぇし、信用問題になる。だから勝手に語らせて貰うけど、間違ってたりして、訂正したくなったら割って入ってくれ」

 真名が口を開くのを待った。空気は硬直したまま、千雨が肩を竦める。

「あざと過ぎたかねぇ」

 円滑な会話は望めないようだ。乗ってこないとなると、止むを得ない。一人語りを続ける。

「依頼に殺しは含まれていなかった。マクダウェル達にしてもあまり派手にされたら困るだろうしな。死体の処理は出来ても、人一人が消えた痕跡を消すなんてそう出来るわけがない。つじつま合わせをするにしてもここじゃ大変そうだ」

 それは千雨にも言えることだった。右も左も分からない状況で、魔法使いまで調査に乗り出す可能性がある都市で、ひと一人を消して白を切り通すだけの処理をやりきる自信はない。劣情に身を任せて大失敗をやらかすところだった。

「チャンスを窺い、捕縛。その後、尋問か何かするつもりだったんだろうけど……。でもさ、あの時ふり返って見た龍宮は、信じられないものを見ているような顔をしていた。ターゲットの情報ぐらい聴いていて然るべきだろうに。聞いていたからこそ、こんな一般人もいる寮内で堂々と銃をぶら下げてきたんだろ、護身用に。となるとだ。予想外のことが起きたと考えるのが自然だ。依頼に反してでも殺傷のために銃を抜かなければいけない事態が起きた。いや、もっと根源的でどうしようもない、自分自身を制御できないなにかが目の前に現れた。普段のお前なら感情なんてどうとでも制御してのけそうだしさ。だからあれは絶対に反射的なものだったはずだと私は確信している」

 一息入れて真名を観察する。身動ぎ一つしない。心中も読めない。無表情にその瞳を持って直視してくる。
 だからこそ的外れなことを言っていないと確信できた。こんな真名もらしくない。ひしひしと空気を伝わってくる違和感が、心に渦巻くものを必死で押さえつけていると伝えてきた。

「お前……聖槍十三騎士団と遭遇したことがあるだろ?」
「…………」
「私達の類似点、お前には、どう隠そうが言い逃れが出来ないぐらいにハッキリと絶対的なものとして見えてしまう。その目を通してみた私達は、さぞ醜悪なものに見えるんだろうな」

 だって魂を喰っている。自分達は魂を餌とする生き物だ。それがどんな風に見えるのか。興味はあるがあまり知りたいとも思わなかった。

「だから私を聖槍十三騎士団の一人だと判断した。あの時、何故こんなところにいるのか。いろいろ考えたんでしょう? それが驚愕したまま硬直していた理由だろ。でも私が動いたから、何が何でも殺さなければならない。このまま放置しておくには危険過ぎる。でもそんなものは言い訳だろ。本当は仇討ち。自分が本当に聖槍十三騎士団、いえ、そのうちの誰かに勝てるのかどうか。私を試金石にする意図がまったくなかったとは決して否定できない。腹に手を突っ込んで、あと少しといった時の貴女の顔、なかなかどうして――イかしていましたよ」

 言葉の端々に喜悦が滲んだ。あの時の真名は自分に通ずるものがあった。千雨は自分にも真名にも起きた変化に気付かず嬉々として長い舌を回した。

「殺されそうになりましたが、別にその事に関して、責めたり批難するつもりもありません。貴女の胸中を慮ると、極々自然な対応だと思いますからね。ええ、当然です。殺さずにはいられない。それで貴女が遭遇した黒円卓のメンバーですが……ベイ、聖槍十三騎士団黒円卓第四位、ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイでしょうか?」

 真名は震えていた。向けられた視線にはあきらかな敵意がうかがえた。心地よい殺意だ。今度はどうにか理性が働いているのか、左手で右手首を強く掴んで耐えている。そんな姿がますます千雨を満たし、饒舌にさせた。
 
「そうでしょう。そうでしょう。ベイが妥当ですよね。マレウスではすこし。他ともなるとレオンハルトか聖餐杯猊下ぐらいしか居ませんからね。貴女の顔立ちからしてもこの国のものでは一目瞭然です。ベイとはどこぞの紛争地で遭遇しましたか? 戦地を転々として居るはずですからね。そこで貴方の近しい誰かが喰われでもしましたか?」

 眉尻を垂れ下げ、口角を吊り上げ、嫌らしい笑みが作り出される。

「そうでしょう? 貴女はその場面をその目で詳細に見てしまったのですね。だからあの時――」
「だったらなんだ!!」

 怒気が鋭利な刃となり意を切り裂いた。傷みは感じなかったが、我に返ることは出来た。
 真名の手がスローモーションで迫る。十分避けられるが自戒を込めて避けなかった。首に掛かった手が締まる。尋常ではない力を感じるが、ミリ単位も皮膚を圧迫する事はなかった。変貌を遂げない――ただの龍宮真名ではこの程度のようだ。

「少し浮かれていた。悪い。トラウマを抉るようなことを気軽に口にしたことは謝る。悪かった。術の副作用でどうにも興奮しやすい質なんだ」

 そう言って腕を力ずくで引き剥がす。力の差をまざまざと見せつけられた真名はなんとも言えない表情をすると、後じさりソファに座り込み、打ち拉がれた。しかし、それは千雨も似たような気持ちだった。
 無意識、本能、本質、そんなものを言い現わしたような形成の形態が、未来を暗示させた。これから自分はそれに抗わなければいけない。黒円卓は存在する。いずれあの忌まわしき儀式が開始されることは間違いない。知らぬ存ぜぬを突き通せたとしても、万が一、錬成が実を結ぶようなことになれば、黄金の獣が帰還を果たしてしまう。
 途轍もない悪寒の襲われた。駄目だ。たとえ自由を手に入れたとしても、それでは謳歌する未来がなくなってしまう。

(ああ嫌だ。関わりたくない。関わりたくありません。関わりたくありませんが、今度はツァラトゥストラをちゃんと味方に付けて、ああ、なぜあんなバカみたいな失敗をしているんですか。バカですか。ああなぜそんな……ツケが私に)

 失態どころの話では無い。なぜあんな下手な交渉をしたのだろう。普通では考えられない浅慮さだ。ああなるのは分かりきっているだろう。畏怖する上官達の帰還が目の前に迫って、気でも違っていたのだろうか。我が事ながら理解できない。

(ですが、この私を前までの私と思わないでくださいよ。私は、この私は貴方たちに――囚われてなどいない!!)

 鼻息荒く言って、手の甲を睨み付ける。聖槍によって穿たれた聖痕はない。しかし勢いはそこまでだった。双首領、三人の大隊長の事を考えると、身体がこれでもかと震え出す。

(って縛られきってるぅ?!)

 自嘲もできない。囚われきっている。雁字搦めだ。学校など、普段から丁寧語なので違和感を持たなかったが、抑揚に滲み出てくる。こうして、なにかあるとただのシュピーネになってしまっている。
 それでは駄目なのだ。それでは同じ結末を辿るような気がする。メルクリウスに送られた言葉が蘇る。あんな言葉を真としたくないが、自分の未来には敗北しかない、そんな信じたくもない予言を受け入れてしまっていた。受け入れられた。

(でも)
 
 その記憶はなにか手を加えられた可能性が高い。すると既知感も本当かどうか怪しいものだ。何のためにこんな手の込んだことをするのか、その方が都合がいいからだろう。

(だったらこんな事を考えること自体、誰かの筋書き通りかも知れないけど)

 忌々しい。考えれば考えるほど混乱してくる。思考の端々に偽りとするはずの記憶を真として考えてしまう。それでもこの十三年間、生きてきた。これは記憶の中だけの話では無いはずだ。この十三年間はたしかなものだ。たしかなはずだ。

(そうチャンスだ。これをチャンスとするんだ。志半ばで回帰するのはただのロート・シュピーネだ。今の私は長谷川千雨という別の人生がある。この私は敗北が決定してる訳では無いはずだ。これを活かさなければ、それを無為にしてセルフ回帰してどうする。この状況を活かすんだ。そう決めたはずだ。ああクソッ!!)

 これこそ誰かさんの筋書きでは無いのか。そんな事が過ぎる。これでは堂々巡りだ。

(……うん? 待てよ。もしかしてこの私の状態って誰かが意図したものじゃないとしたら? どうにもリアル過ぎないか。ここまで手の込んだ事が出来るのか?)

 メルクリウスなら出来そうだが、

(これが既知感の延長みたいなものだったとしたらどうだ。何かのショックで何度目かに体験した記憶が蘇ったとかだったら……、何度も何度も繰り返したロート・シュピーネの魂に刻まれた、無数にある記憶のひとつだったとしたら)

 そんなことがあり得るのだろうか。

(どうだろう。あり得るかも、これならルートを変える事も出来るんじゃないか?)

 手遊びだ。既知感を正しく捉えられないでいるので妄想でしかない。どうにか正当性を持たせたいと苦し紛れの理屈だ。なにより自分は他の連中のようにあのメルクリウスと同じ土俵にたったなどとは思っていない。
 それでも瞳に力が篭もる。メルクリウスを俗な視点で考察するのはどうかと思うが、

(この状況に陥ったら、その時、その時にならなければ分からない既知感よりも、ずっとより確実に未来を変える事が出来るんじゃないか?)

 いまも元凶の思惑通りに動いている。と脳裡を掠める。それでも幾分気は楽になった。なにをするにも自分の行動を疑わなければ行けないストレスは、近い将来、隷従を良しとしてしまうかもしれない。

(私は自由を諦めていない。今度こそ真の自由を勝ち取るんだ)

 視線の先には項垂れる真名が居た。なんと弱々しく見窄らしい、この敗者より惨めなものになどなってたまるか。

「続けて良いですか?」

 気怠げに面を上げた真名の顔には、警戒が浮かんでいた。

「何を続ける。続ける必要なんてないだろ。お前の言ったことはほぼあっている」
「そうですか。まあ、そう気構えないでくれませんか。学校ではこんな口調でしたでしょう? 少しばかり自分のキャラクターが分からなくてっていましてね。ようやく戻れたというか、上手く説明できませんが、これからする話というのもそれに関するものです。私は……長谷川千雨は聖槍十三騎士団じゃありません」

 口にした途端、後悔が怒濤となって押し寄せてきた。室内には真名と二人きりなのに、いないはずの同胞達に聞かれはしなかったかと視線を泳がしてしまう。

「し、信じてませんね」

 どもりはしなかったが声は小刻みに震え、真名が怪訝とした。

「あ、あんなに親しそうに……ベイの事を語っている手前……」

 自らに檄を飛ばすが、魂に刻まれた恐怖はそう簡単にぬぐい去れるものではなかった。真名の眉間刻まれた溝が、よりいっそう深いものになり、

「どうしてそんなに声が震えているんだ」

 と当たり前の指摘が飛んできた。

(こ、この程度でびびってどうすんだ!!)

 と叱咤したもののどんどん酷くなっていく。これまでの発言は全部、黒円卓のロート・シュピーネでは無く、長谷川千雨個人の意見だ、なんて予防線的な言い訳まで用意してしまう始末だった。
 この魂の奥深くまで刻まれた畏怖。本当に偽物の記憶なのか。馬鹿げた妄想が正しいのでは無いのか。
 千雨が唇を噛む。分からない。何にしろ乗り越えなければならない。一朝一夕でどうにか出来るものでもないだろうが、口内にうっすらと血の味が拡がった。本当にこんな調子でこの先どうするつもりなのか。

「…………信じられるものではないでしょうが、龍宮さん……龍宮さんは前世というものを信じますか?」
 
 真名は答えない。それでもなにを言わんとしているのかは、理解したのだろう。その異形の瞳がつま先から頭の天辺まで吟味した。

「ここ最近、寝ると妙な夢を見ていまして、今日など寝不足で、授業中に居眠りしてしまう始末です。それで高畑先生に注意を受けたのは記憶に新しいでしょう?」
「……そう言えばお礼を言っていたな」

 あの時のクラスメートの表情を思い出すと、苦笑してしまう。

「あれは恥をかいてしまいました。それでも先生のおかげで悪夢から覚められのですから、良しとするべきなのでしょうけど。内容が内容ですからね。私は悪名高きナチスドイツの科学部門に属してたものですから、そんな折に……って――ああッ!!」

 思わず声を挙げて立ち上がってしまう。忘れていた。

「な、なんだ」

 同じように立ち上がっていた真名に、

「お、おい、葉加瀬はどこいったんだ。いいんちょに呼ばれたってのは嘘だろ。あいつらのところか?」
「あいつら? 絡繰からの伝言で超のところに向かわせたが」
「超って事は……だい、じょう……ぶ……な分けない。だってあいつらは……修理か」

 何故見逃した。葉加瀬聡美と超鈴音は絡繰茶々丸製作の中心人物だと知っていたはずだ。するとエヴァンジェリンがやっていることも重々承知の上だろう。でなければ、戦闘を考慮した作りなどしていない。

「つーことはだ。クソ。全部掌の上だったって事かよ」

 なにが迫真の演技だ。悦に浸っていた只の間抜けだ。皆を安全に逃がすために葉加瀬がこちらの話に合わせただけだろう。完全に騙された。

(でも一味なら、まだマシか)

 これで茶々丸が形振り構わず、自分達の事が露呈しようとも、危険の迫るクラスメートを助けようとでもしていたらどうなっていたことか。

「おい、さっきからなんだ。本当に大丈夫なのか? 病気染みているぞ」

(それだけの時間はあった。二階の会議室でいろいろ考え込んでいたからな。絡繰がふたり、いや葉加瀬は同室で顔を合わせるという危険性を考慮すれば、超にだけ連絡を入れたんだろうな)

 いくら頭が良いからと言ってそれで演技が出来るなんて安直な考えには至らないはずだ。むしろ下手に教えてボロでも出したら大変だ。何も知らない方が上手くやり過ごせる。

(もしなにか起こっていても、後で龍宮が助けに来るから? それにしては時間が掛かりすぎているような)

 シャワーを浴びながら、いろいろ考えるだけの時間があった。

(あの傷、あの損傷、魔法使い達からも身を隠さなければいけない。それ故の誤差か)
 
「おい、聞いているのか!!」
「聞いてるっつーの、病気じゃねーよ。元々の私はこんなんなんだよ。学校とか人前じゃネコ被ってんだよ。ああくそ、もういいや、バレてた時点で取り繕うって……そうだよな。じゃあ、フランクにさせて貰うけど、さっきは把握し切れていなかった関係図を愚痴愚痴言いながら訂正していただけだ。ぶつくさ言ってる方が考えが纏めやすいんだよ。それよりも龍宮はマクダウェルと絡繰のヤツが夜な夜な人を襲っている事を知らないよな?」

 初耳だったのだろう。答えを聞かなくてもその驚愕の表情だけで分かった。

「マクダウェルのヤツな、吸血鬼のまねごと……」
「真似事?」

 話の途中だったが割って入られた。見ると心底不思議そうにしている。なにかおかしな事を言ったのか、気になったが続けた。

「ああ、人を襲っては首から血を吸ってるみたいだぞ。被害者は頸動脈のところに傷が残ってた。どうもその処理をしている最中に私が現場に足を踏み入れちまったらしい、だからこんなことになってるんだけどな」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。どういうことだ。あいつは封印されているはずだが」
 
 真名の声は固かった。全身から緊張感が放たれている。

「…………は?」

 理解には幾許の間が必要だった。

「は、はぁぁぁ!? 待て! 待てよ!! ちょっと待て、封印? 封印ってなんだよ。何を封印するだよ。じゃなければ人を襲って当然みたいな?! それじゃまるでマクダウェルのヤツが、血を吸って当たり前の……、えっ、なに、は、え、あ、えぇッ!? あいつって本当に吸血鬼?」

 真名が緊張感を保ったまま、器用にきょとんとして、

「知らないのか。あいつは数々の異名を持つ六百年を生きる吸血鬼だろ。伝説として語られている。こっち側に関わりがあるなら誰でも知っている世界規模の民間伝承にまでなっている」

 だろ、伝説、民間伝承と言われても、千雨は絶句しか返せない。吸血鬼なんてものが本当に存在するのか。まずそれだ。なにかの間違いではないか。そこから疑わなければならない。しかし、いるのだろう。真名が嘘を言っているようには見えなかった。

(余りにも記憶と違いすぎませんか?)

 答えなど返ってくるはずがないのに黒幕に問いかけてしまう。一体なんなのだ、ここは。世界樹なんて言う馬鹿げた樹がある都市の学校には、魔人に魔眼を待つ暗殺者、ガイノイドに吸血鬼なんてものが集められているクラスがある。きっとクラスメートには満月を背に、箒に跨がっていたあんな魔法使いも居るのだろう。ここは絵本の世界か。あまりのことに目眩がして、気が遠のき、足元がふらついた。

「……大丈夫か」
「だ、大丈夫です」

 壁に手をつき、どうにか身体を支える。

(ここは日本版レーベンスボルンかなにかですか? なんですかこの人選? 本家よりも過激ですよ。その為の潜入ですか? もしやプチ黒円卓とか?)

 「は、はは」と苦笑。顔の筋が攣りそうだ。本当に何のために自分がここにいるのか。

(い、いいでしょう。吸血鬼、受け入れましょう。存在するのですから、そう言うものだと受け入れないことには始まりません。ベイがどう思っているのか興味が尽きませんが、そう言う存在もいる世界です。きっと狼男もいますよ。ええ、いますとも、いてもなんらおかしい事ではありません。その他、神話伝承の存在も闊歩しています。魔法使いもその一種です…………これは夢ではありませんよね?)

 駄目だ。どっと疲れが押し寄せた。でも壊れたベッドでは横になれない。幸いだ。頑張れ私、と励ましながら話を戻そうと努力する。

(どんな話をしていましたか、ああ、吸血鬼です。吸血鬼、マクダウェルは吸血鬼で封印中、裏の世界に関わるものは誰でも知っているような存在、それを知らない有名であろう黒円卓だった私……)

 真名は今なにを思っているだろう。佇まいから情報を得られない。こういう時、表情に乏しいと非常に困る。

「ああクソ、今日はホント、ミスばっかりだな。封印されているのにマクダウェルの奴は自由に動き回っているって事は、そうしても大丈夫なぐらいに管理なりがされているって事か? それともマクダウェルが一山いくらのたいしたことない奴なのか?」

 開き直った。無知を隠していては情報が得られない。不審に思われても質問に耳を貸さなければ良い、と半ば勢いだけで聞いた。
 真名も真名で情報が欲しいのか。追求せずにボロを出すことを期待したのか、さらっと流して説明し始める。

「それはない。ここに封印されるまで、あいつは六百万ドルの賞金首だった」
 
 六百万ドル。大金だ。しかし凄いとは思えなかった。真名の口調から凄いことなのだろうが、たった六百万ドル。それが千雨の感想だった。シュピーネの賞金は下から数えた方が早かったが、それでも六百万ドルなど軽く超えていた。

「なにやってんだよ。ちゃんと管理しろよな。悪さしてんだろが……」
 
 悪態つきながら、本題に入るための覚悟を決める。これは非常に不味い状況ではないか。
 そうして深呼吸を一つして、

「あのさ、それはもちろん力の源を封じてるってことだよな」
「そうだ」
 
 背中を冷たい汗が伝う。同時に血の気が引いた。たいして寒いとも感じられない身体になったが、それでも全身が冷たくなっていくのを感じる。

「その状態ってさ……、大怪我とかしても治るものなのか?」

 言って馬鹿な質問をしていると呆れ返りそうになる。吸血鬼のことなど何一つ知らない。物語の中の吸血鬼と同じでいいのか。自分が知る吸血鬼と言えば同胞のベイだけだが、しかしあれは厳密には吸血鬼ではない。別物だ。本当に実在する吸血鬼とは如何様な生き物なのか。

「待て、お前はなにをした?」
「なにって、首締めて殺し掛けたけど茶々丸が蘇生したから、今は……半殺し状態?」

 照れ笑いで空気を緩和させようとしたが、失敗した。真名の白い視線が胸に突き刺さる。

「し、仕方がねぇだろ!! 私は被害者だ。運悪く犯行現場に足を踏み入れて、証拠隠滅の為に襲われたんだからな。襲ってきたあいつらがわる……」

 いと素直に言えなかった。悪いと断定できない。自分の言動を思い返すと、いくら聖遺物が暴走しそうだったからと言って……

「ま、まあ、どっちもどっちかな。ハ、ハハハ……、それよりも、封印中であいつがまだ傷を治せていなかったら、肋骨は粉みじんで内臓は破裂しまくりの状態だと思う。もちろん自然治癒でどうにかなるってレベルじゃない。普通なら死んでる。生きてる方が不思議なぐらいだから、死にはしないと思うけど、逃げたからには、なにかしらの手段があるんだろうし……」

 だが不安だ。とてつもなく不安だ。逃げなければマクダウェル達は間違いなく死んでいた。それは彼女達も理解しているだろう。だから危険を冒してでも魔法使い達を呼び寄せたのだ。すると彼女達が打てる手立ては、治療の手段がなくてもまず命を繋げる逃走という形しかなく、いまも生死の境を彷徨っている可能性は高い。
 それどころか……、無意識に額に浮き出た汗を手の甲で拭う。べっとりとした気持ち悪い汗だった。

(このままじゃ死ぬかもしれない)

 なにせ一度は殺し掛けた。その手応えはあった。ただそれを成せたのはきっと聖遺物の特性を使用していたからだろう。そう思いたい。エヴァンジェリンの中身を砕いたのは、強化された身体能力のみの攻撃だ。だから死なずに済んだのかもしれない。
 それでも不安は消えなかった。万が一、伝説になるような吸血鬼がもし死んだらどうなる。きっと血眼になって犯人捜しをするだろう。伝説になる吸血鬼を封印し管理する魔法使いの集団の追跡、一体どんなことになるか。

(あいつで億超えって言うのは眉唾物にしか聞こえないけど、本当の事なんだろう。力を封じただけで自由に歩き回らせられる。それを可能にする組織、相応な力を持っていると考えるのが妥当だよな。すると私が見た魔法使い達は極々一部ってことだ。そうだ。私らみたいなヤツを纏めたクラスを作ることが出来るんだ。下手するとこの都市を支配するぐらいに大きな組織ってことになるのか。クソクソクソ)

 苛立ちのまま頭を掻き毟り千雨は踵を返すと、クローゼットを開けた。

(もしそうならこの都市の最高責任者である学園長あたりが魔法使いのトップである可能性が高い? くそ、間違いねぇ、うちのクラスに孫がいるじゃねぇか、つーことはだ。近衛もこっち側か……、あいつが魔法使い? だったら幼なじみだって言う、いっつも竹刀袋って、そういやあれ若干反りが入ってるんだよな……木刀か? あんな長い木刀を持ち歩くか? むしろあれって野太刀とかそういった類に思えるんだけど……、だから、なんなんだよウチのクラス!! 待て、待てよ。おい、たしかここの出資者に……雪広の名が……)

 床が抜けたような感覚に襲われた。どうにか耐えると頭痛に変わった。雪広の名前は危険だ。雪広財閥、世界屈指の大財閥だ。それだけで組織の規模も跳ね上がる危険性を孕んでいる。そんな組織内に自分の情報が流れると、遅かれ早かれ聖餐杯あたりの耳に届く。否、吸血鬼関係から、ベイあたりがもっと早く気付くかもしれない。そんな気がする。

(ロート・シュピーネだと知られなければなんとでもなるかも知れないけど……)

 それでもエイヴィヒカイトをマスターしていると知られるのは不味いかもしれない。聖餐杯は必ず誰かを派遣するだろう。最悪、ツァラトゥストラが現れたと判断するかも知れない。ないと思うが、それで儀式が開始されてしまうなんてことになると……

「ちょっとマクダウェルの様子を見てくる!!」

 と言ったものの、このままお開きにして良いのだろうか。彼女ならこの都市に巣くう魔法使い達とも繋がりがありそうだ。

(いや、ある。だから同じクラスにいるんだ。案外、マクダウェルが何かしでかした時のための対抗手段かも知れない)

 十分あり得る話だ。実力的に申し分ない。そんな真名が、前世だなんだと説明したが、自分で言っておいて疑わしい、なにより危険であることには変わりない存在を報告しないで置くだろうか。彼女はその危険性を身をもって知っている。この場で大人しくしているのも、別に互いの溝が埋まったからではない。真名とすれば、いまをどうにかやり過ごし、次の機会に繋ぐか考えない訳がないだろう。

(釘を刺しておくか)
 
 クローゼットを閉めて、真名に向き直る。

(ああ、でも、こんなことすでに意味がないかも)

 その場その場で苦し紛れの策を繰り出し、どうにかやり過ごしてきたが、なにかしらの事件が起きたことはすぐに耳にするはずだ。それに自分が関わっているかもしれなことは、いま盛大に宣伝して回らせてしまっている。

(……詰んだかも……) 

 最後の手段として逃げれば良い話だが、そうなったらもうどうやっても火消しが出来ないほどの大事になっている。黒円卓の耳にも届いているだろう。逃げに徹すれば、逃げ切ることも不可能ではないかも知れないが、その手の技術には自信がある。しかし、ついさっきそれが失敗に終わったことが、ちくりと胸に突き刺さった。あんなことがこれからも起こるようでは死活問題だ。

(ここ麻帆良に私がいるのには、なにかしら意味があるはず。ここに居座ることが出来れば、もし何かあっても同胞達には言い訳がつく。彼らの目がない方がこれからの準備もしやすいですしね)

 その為にもエヴァンジェリン一味をどうにかしなければならない。そして……

「なあ龍宮、お前はまだ敵討ちがしたいか? ベイを殺したい、と私に負けた今もそう思っているか?」
「…………」

 答えはない。しかし復讐の念が瞳に暗い炎となって姿を見せたのを見逃さなかった。今は踏みにじられて燻っているような状態だが、その炎は命ある限り決して消えることはないだろう。新たな薪があればいくらでも吹き返す。

「でもこのままじゃどう足掻いても勝てねぇぞ。黒円卓だった私ってことはさ、黒円卓に名を連ねていたのに死んだって事だろ。つまり私は黒円卓なのに死んじまうほど弱いってことだ。そんな私にお前は負けたんだ」

 瞠目、反芻するようにゆっくり瞬きを繰り返す。そこまで気は回っていなかったようだ。嘘が多分に混ざっているが、話の本質は間違っていない。黒円卓の中でロート・シュピーネは一番弱いかも知れない。バビロン本人も弱いがあれにはカインがある。
 千雨が真名を見遣る。そして、これが重要だ。真名は決して弱くない。それなのにこんな結果に終わったのはひとえに……

「だからさ龍宮、もし私達と同じ土俵に立てるとしたら立つ気はあるか? 習得は生きるか死ぬかの二つに一つになるけど、私達を魔人たらしめるカール・クラフト=メルクリウスが編み出した複合魔術エイヴィヒカイト。なんなら伝授してやっても良いけど、どうする?」



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