またかよ。
もうこれで何度目だろう。憶えていない。真っ暗闇の中、ぽつりと一人立たされ始まるのだ。
……夢を見る。
独り言を零す。冷笑で頬が引きつり、鼻でも笑みが漏れた。それでは語弊がある。正しくは『夢の中に居る』だ。
そう夢……、ここは夢の中で、夢を見ていると自覚があった。不思議な体験と言えるだろう。「こんなことがあったんだ」と切り出し、休憩時間を丸々使うぐらいの話題にはなるはずだ。なかには同じような体験をした、と名乗り出るものがいるかもしれない。
嘆息が漏れる。それだけでは飽き足らず頭を振った。出来ない。そんな事が出来たらどれほど気が楽か。
口にするのもはばかられる。怪談やホラー映画が好きなら、聴いてみたいと申し出る者がいるかもしれない。しかしそんな軽い気持ちで聴いたらきっと後悔するだろう。そんな生やさしい代物ではない。当人が引くほど陰惨で正気を疑われるレベルの内容だ。
だから誰にも相談できずにいる。そもそもこんな事を相談出来る親しい友達がいないのだが、
…………。
ため息が漏れた。ここには自分しかいない。それでも誰かに尋ねてみたい衝動に駈られる。答えが返ってくるはずがないと理解していた。
それでも――
どうしたらいい。教えてくれよ。
毎夜、毎夜、違う。そんなもんじゃねぇ、もう一週間ほど続いている。この頃は常に眠気に襲われていて、目を瞑っただけで寝てしまう。
夢を夢と理解している。だからどうにか目を覚まそうとした。起きろ!! 眼を醒ませ!! と怒鳴っても目が覚めない。これまで何十回と行ったけど成功しない。
どこか出口でもないかと、右に行ったり、左に行ったりもした。けどそんなものはなかった。暗すぎてちゃんと移動出来ているのかすらわからない。
腹の内を明かしたところでなにも変わらなかった。スッキリもしない。達観するしかないのだろうか。いずれは醒める夢だ。悟ってしまえば実害はない。
だが、ここまで理解していてもそれが出来ずにいる。悪夢の内容が超然と出来るような代物ではないからだ。
泣きそうだった。これからそんなものを見せられると思うと。
泣きそうだった。一人で抱え込んでいるのが辛い。
なら誰かに相談すればいい。簡単な事だ。でもできない。それほど親しくもない、否、むしろ自分から壁を作っている相手にこんな話は出来なかった。プライドが、それも違う。奇異の目で見られるのが嫌なのだ。
ただそれでも相談する方法がないわけでは無い。インターネットだ。自らのホームページでも良い。掲示板サイトもある。
でも出来ない。パソコンの前に座り、キーボードに手を置いた途端、何故か指が動かなくなる。何度試しても、何度試しても指が動かない。不特定多数に知られるのがいやなのか。心ない意見も書き込まれるだろう。真剣に相談しても釣りだと判断されるかもしれない。
しかしそんなことは百も承知のはずだ。なのに書き込みを拒否してしまう。誰かに知られるのを危惧している。
――――ッ!?
指先が痺れだした。開演の合図だ。ゆっくりとゆっくりと丹念に、染み込ませるように痺れが拡がってくる。これが身体の隅々まで行き渡ると、自分が自分ではなくなる。
否、自分が自分でなくなるというのも正しくない。肉体の支配権が奪われるだけだ。意識はハッキリしている。ただ指一本、自らの意志では動かせなくなるだけだ。
……ああ。
気付くのが遅すぎた。それはいまに始まったことでは無いのかもしれない。ここに、この場に立ったその時からずっとこの調子だったのかもしれない。
暗闇の中をただ茫然と立ち尽くす。
声を上げる。
出口を探して動き回る。
そのどれひとつとして満足に行えていないのではないだろうか。痺れはこれから視点を追っていく人物の覚醒を意味しているのかもしれない。いや、別に寝ていたわけではない。むしろ繋がったと言うべきか。しかし釈然としない。その表現もどうもしっくりこなかった。
闇が明ける。強烈な光に先導されて大量の情報が流れ込んでくる。しかしピントがまだ甘い。調整中だ。耳元では古めかしい映写機が回り出したような音が聞こえ気がする。ラブロマンスなら、と思わなくもない。
しかし漂ってくるのはツ~ンと脳髄を貫くクレゾール。現実逃避気味な頭に活を入れる。表情は引きつっていたに違いない。動けばだが。
最悪だ。これが臭った時の見世物は決まっている。第二次世界大戦、絶滅施設のある一室での出来事だ。
空気の揺れを耳朶が捉える。遠い異国の言葉、ドイツ語。淡々と述べられるその内容を、字幕でも追わなければ意味が分からないはずなのに理解してしまう。
唇がつり上がった。似ても似つかぬ男の声が響く。いつもこの声だ。甲高く特徴ある声が偉そうに指示を出す。
慣れ親しんだ感覚が指先から伝わってきた。見なくても分かる。メスだ。手術用の小刀など握り慣れてないはずなのに、まるで身体の一部のようにしっくりと馴染んでしまい、笑いを誘う。
もちろん強がりだ。喜悦で歪む頬に理由を付けたかっただけだ。
笑みを浮かべているのはもちろん男。名称は不明。何度も聞いたが上手く憶えられない。顔も同じだった。何度か鏡に映る処を見た事がある。しかしかすみがかってよく覚えられない。
それでもわかっていることは、自分達をアーリア人と呼び、ユダヤ人を代表とする劣等と蔑む相手に対して人とは思えない所業を嬉々として行う科学者だった。
それは上からの命令に違いない。軍務である。しかし、この男は真性だ。マッドサイエンティストと呼んでいい。趣味と実益を兼ね、嬉々として非道の実験を繰り返していた。
手術台に載せられている女と目が合った。顔貌、肌の色、ユダヤ人だ。
彼女はこれからなにをされるのか理解しているのだろう。どうにか逃げようと暴れている。しかし手首、足首、肩口、太股の付け根、頭と動かないように革のベルトで堅く拘束されていた。
ご丁寧に猿ぐつわもされている。口から漏れる慟哭はくぐもり言葉にならない。その処置は声が煩わしいからと言うわけではない。舌をかみ切らせないためのものだ。
なにせこれから行われる施術に麻酔は用いられない。動かないよう、自死できないように工夫されていた。腰の辺りにもベルトを巻けば完全なのだが、下腹部まで裂くので邪魔になる、と巻かれていない。そんなこと細かなところまで分かってしまう。
これは本当に夢なのだろうか、と疑問が生じた。男の名を覚えられない、顔が見えないのは、自分だと認めたくないからではないだろうか。なにかしらのフィルターがかかっており、それを取り払うとそこにいるのは、自分では無いのだろうか。夢と言うには余りに実在的すぎた。
追体験?
否、追体験とはあくまで他人の体験をあとからなぞり、自分の体験のように捉えることだったはず。むしろこれは前世などオカルト的なもので表現するべき代物なのかもしれない。なにをそんな戯言を、と普段なら鼻で笑うような発想だった。しかしこうも続くと、否定することが出来ない。だがそれを認めると言うことは、自らが外道畜生であったと認めることだ。到底看過出来ることではない。
メスが胸骨上部にあてがわれた。女が限界まで目を見開き、怯え、全身から汗を滴らせる。荒い息が猿ぐつわから漏れた。血走った目が、止めて、と訴えかけてくる。
しかし、どうすることも出来ない。目を逸らすことすら出来ないのだ。皮膚を切り裂く瞬間に見せる女の顔が堪らなく好きだった。悦喜で満たされる。途轍もない感情の渦に飲み込まれ、吐き気がした。違う。本当は徐々に適応してきている自分が気持ち悪い。
メスの先端に血の玉が出来る。押し込んでいく。骨に軽く接触した。そして一の文字を描くように手が引かれると、女の絶叫が――
「――千雨君! 長谷川千雨君!!」
勢いよく顔を上げると、猿ぐつわが血でにじんだ異国の女はいなかった。代わりに無精ひげを生やした年齢のわりに老けて見える担任、高畑・T・タカミチが、憂いの表情を浮かべている。
突然の場面展開に思考が噛み合わない。それでもスポットライトのように浴びせられる視線を感じ取り、限界まで見開かれた瞳だけが動き出す。
見慣れた光景だった。英文が書かれた黒板。それに背を向けるクラスメートが凝視してくるのを覗けば、在り来たりな授業風景と言えるだろう。
(そうか……)
居眠りをしている生徒を注意するために授業が中断されたのだと理解して、長谷川千雨は安堵した。初の快挙だ。その功労者は目の前の教師だろう。いまだ肩にかかった手には力がこもっている。
(自分では起きられないけど、他人(ひと)に起こして貰ったらいいのか)
優しい、悪く言えばなにかと甘い担任が壇上からの注意だけでなく、こうして足を運んだ様子を見ると、眠りは深く起こすのにはさぞ苦労をしたに違いない。
「ありがとうございます」
意識はしていなかった。本心からこぼれた言葉だった。
そして訪れたのは静粛。時を刻む音も不要と音が止む。静寂に満ちていたはずの教室は、まだ静寂にはほど遠かったようだ。
無理もない。タカミチの目も点になり、なにも言い返せないでいる。お礼をいわれるなど誰が予測出来ただろうか。クラスメートもそうだろう。まさかそんな手で反撃するなど思っても見なかったに違いない。
とは言え、時が止まるなどと言うことがあるはずもなく、カチリと秒針が響くと同時に誰かがプッと吹き出した。笑い声が拡がる。まるで流れる時間を音で表現したかのようだ。
千雨の時間も流れ出した。自分がなにを言ったのか、思い返し、驚愕。顔どころか首まで真っ赤になった。
「静かに!!」
脱線の兆候を感じ取ったタカミチが、間髪入れずに声を張り上げた。これを放置すると授業にならなくなる。二年も受け持っていると手慣れたものだ。
「どこか身体の調子が悪いんじゃないのかい?」
睨みを利かせていたタカミチが腰を折り、千雨の顔を覗き込む。目の下を注目していた。ファンデーションで隠しているが、そこには酷い隈が出来ている。
「い、いえ、大丈夫です。夜更かししただけなのですみません」
チャンスだったのかもしれない。しかし素直に答えることは出来なかった。戦時中の残酷な所業を夢に見ます、なんてこんなところで言えるわけがない。
「そうかい? 調子が悪いならすぐに言うんだよ」
注意らしい注意もなくタカミチが壇上へと戻っていくのを、ずれた伊達眼鏡を直しながら見た。気概が逸れたのかも知れない。
(あっ!?)
タカミチが床に飲み込まれた。そんな事があるわけがない。眼鏡を外して、目頭をきつく押さえる。かりかりと音が聞こえてきた。恐る恐る目を開けるとタカミチは何事も無く板書を再開していた。
(やばいな。顔でも洗ってくるか)
それ位でどうにかなるとは思えない。それでもなにもしないよりマシだろう。どうにかして眠気に打ち勝たなければならないのだから。
暖かい教室。退屈な授業。凶悪な組み合わせが、眠気に加勢する。冷たい水と冬を体現したかのような廊下なら対抗することが出来るかもしれない。
(ああ、けど廊下でも眠れそう)
がくんと頭が崩れた。手にしたシャープペンシルが視界に入る。いつの間にか逆手に握っていた。これでどうしようというのだ。
背筋を伸ばした。危険水域を突破しそうだ。このままでは自傷も躊躇わないかもしれない。
限界が近い。寝ないという選択肢は選べない。夢をどうにかするしかないだろう。悪夢になれるか、夢を見ないようにするか。
(でも、どうやって……)
思いつかない。代わりと意識のすき間に睡魔が入り込み、視界の半分ほどに幕が下りた。
意識が波間をたゆたう。ゆっくりとゆっくりと心地よいリズムで漂う。駄目だと理解しているが、目蓋を上げられない。悪夢だとわかっているのに、夢路に踏み込んでしまう。
「――!! ――!!」
千雨が、はっと顔を上げた。その勢いのまま横を見ると、前髪ちょっと切りすぎなんじゃないか、と思える綾瀬夕映が、肩を揺らしていた。
「千雨さん大丈夫ですか?」
心配しているのが表情からでも分かる。だが千雨の脳裡には、一年のころから成長してないな、ととても失礼な感想が真っ先に浮かんだ。頭がきちんと働いていない。
「……眠いだけですから」
しっかりしなければいけないのに、意識が朦朧としてくる。頭が船を漕ぎ出す。椅子からずり落ちそうになって慌てて机に手をついた。思考に空白を作るとそのまま夢の世界に落ちてしまう。目蓋を無理矢理開き、なにかネタを探すが、見慣れた日常風景に目新しさなどなにもなく、ゆっくりと目蓋がずり下がってくる。
「くそ、なんかないか」
眠気を振り払うように小刻みに頭を振るう。
「なにがです?」
千雨が驚いて視線を声のする方に向けた。無意識のうちに口にしていたようだ。夕映が心配そうに見ている。
ちらりと高畑に視線を移す。授業中なので本来はこのような行為は慎むべきなのだが、これを利用すれば眠らずに済むかもしれない。それに聞きたいことも出来た。上手くすれば問題が解決する。
「あの……居眠りしている時、うなされてたりしてましたか?」
タカミチの動向に注意を払いつつ、夕映の方に身体を傾け、小声で話しかけた。
「いえ、特にそのような様子は……むしろ眠りが深いのか、なかなか起きないぐらいで……、なにかうなされるような夢を見たのですか?」
「ま、まあ、いまから始まるというところで起きたので見ずに済んだというか……」
言葉を濁し、千雨が若干苦虫を噛み潰したような顔をした。こうして会話をしてみると自分がどれだけ浅はかな事を考えていたか、すぐに気がつかされた。
悪夢を見ている兆候が現れた場合、誰かに起こして貰えば良い、などと考えてしまった。先ほど実績を得たし名案だと思った。しかし、これには考えるまでもなく致命的な欠点がある。
当たり前だがこれには起こしてくれる相手が居るのだ。百歩譲って学校ならまだしも、夜ともなると一晩中つきっきりで見張って貰う事になる。麻帆良学園女子中等部に通う生徒は皆、寮住まいだ。頼めないこともないのかもしれない。しかし流石に一晩となると、誰が引き受けてくれるだろう。
(そもそも同居人は別のところで寝泊まりしてるし、こんなことは頼めないか)
実家ならまだしも、と視線を同居人に向ける。後ろ姿しか望めず、野暮ったいお下げが目についた。視線は黒板とノートを交互しているのだろう、お下げが微かに揺れている。
「いい考えだと思ったんだけど……」
「いい考え? なにか悩み事でもあるのですか?」
ハッとして千雨が頭を振る。返事が返ってくるなどとは思っていなかった。また知らず識らず口に出ていたことに遅れて気付くが、
「――――ッ!?」
激しく鼓動を打った。思わず手を胸に当ててしまう。破裂したかのような挙動を見せたが、心臓は無事だった。ただ信じられないくらい収縮、拡張をいまも行っている。
だが、そんなことよりも……
「……な、縄?」
声は震えていた。瞬きしても消えない。薄汚れ、表面が擦り切れ、ささくれ立った縄が天井からつり下がり、夕映の首に巻き付いている。
「縄? 縄がどうしたんですか?」
不快なはずなのに本人はまったく気付いていない。なにかの見間違いと視線を逸らすが、誰の首にも天井から伸びる縄が掛かっていて、千雨は息を呑んだ。
(ヤ、ヤバイ、洒落にならなくなってきた)
きつく目蓋を閉じ、目頭を押さえる。
(ここはワルシャワじゃねぇ。麻帆良だ。そんなことあるはずがない)
しかし、目蓋に夢で見た場景が浮かび上がり、先ほど見た光景と重なったとたん床板が……
(くそ)
宙づりになった。もがき苦しむクラスメートなど見ていられない。無理矢理にでも目蓋を押し上げようとして、緊張が千雨を襲う。そんなことがあるはずがない。
光と共に差し込んできた情景に、古めかしい縄などなかった。安堵が漏れ、夕映と目が合う。彼女は不安げな顔を浮かべている。
「いえ、何でもないです」
眼鏡を机に置き、目を擦る。意味のないことだが思わずやってしまう。重症だ。夢と現の境が曖昧になってきていた。クラスメートを絞首刑にかけようとするなんて狂気の沙汰だ。
(夢を見ない方法を探してみるか)
いつも通りに手を伸ばすが、そこにノートパソコンはなかった。一瞬、これも夢なのでは、と思ってしまったが、なんのことはない忘れてきただけだった。
机に肘をついて頭を抱える。横から視線をずっと感じる。挙動不審なのは否めない。夕映は心配で授業に戻ることもが出来ないのだろう。
だから、
「あ、あの……夢を見ない方法って知っていますか?」
余り踏み込んでほしくないが、質問を繰り出した。待っていたかのように夕映は「夢を見ない……ですか?」と返し、一拍間を開けてから、
「パッと思いつくのは睡眠薬ですかねぇ。効果があるか試したことがないので分かりませんが……」
と答えた。
千雨は「睡眠薬」とぽつりと零して、気になることを聞いた。
「睡眠薬って、薬局で買えるんでしょうか?」
「どうなのでしょう」
夕映が首を捻る。千雨もこれまで睡眠薬のお世話になった事は無いので知らない。そもそも寝られないわけではない。むしろ、簡単に寝入ることは出来る。
(こういう場合って精神安定剤とかいうやつの出番か? となるとカウンセリングとかが必要なんじゃ)
千雨の顔が若干引きつる。その時は、どんな夢を見るか語ることになるだろう。しかし、それはあまりに変質的で語りたくない。
(でも、このまま続くようなら恥とかそんなことは言ってられないし……、頭やられてさっき見たようなことを本当に実行しちまったら……)
ブルリと身体が震えた。あり得ないし、絶対にあってはいけない。しかし、その場面が容易に想像出来てしまう。
否定するように唇をきつく噛んだ。嫌と言うほどに嗅がされた血臭が口の中に広がり、眉が歪む。それが不快ではなかったのでなお歪む。
千雨はゆっくりと息を吐き出すと、緊張の面持ちで手を上げた。
――それは多夢かもしれないわね。
おっとりした感じの声が頭の中に響く。
「多夢ねぇ」
と千雨は復唱する。
意を決して向かった保健室。一時間目と学校が始まって間もないとあってか、先客は誰もいなかった。
好都合だった。しかし養護教諭と対面するとなかなか話を切り出せなかった。ふたりきりのチャンスは限られているのに。休み時間にでもなれば他に体調を崩した生徒がやってくるかもしれない。誰かに聞かれるのは嫌だという思いが、千雨の背を押した。
そうして話してみると、恐怖を呼び起こす夢ばかり見るというのは睡眠障害の一つらしい事が分かった。その際、夢の内容についてはホラー映画のようなものとお茶を濁した。
「どうするかなぁ、問題は人間関係に学校環境でのストレスだよな」
頭が痛くなってくる。他にも原因になりそうなものを聞いたが、この二つに関して身に覚えがありすぎるほどピッタリと当てはまっていた。
「真面目すぎるのなかな……はぁ」
2-Aというクラスに適応できていない。適応しようとする努力もしていないが、むしろそんなクラスメートをバカにしている。とは言え、こういうことになると考えてしまう。
「もうちょっと気楽に生きられればなあ」
どうもクラスメートがすることを笑ってやり過ごすことが出来ない。それがストレスになっている事も十分過ぎるほどに理解していた。
「脳天気というか、なんというか……」
考えただけで鼻で笑ってしまう。こういうところがいけないのだろう。しかし、そう易々と性格なんて代えられるものではない。
もちろん、クラスメート全員が全員と言うわけではないが、なにか切っ掛けがあれば、すぐにたがを外し、悪のりをしてお祭り状態にしてしまう人間が多いのが現状だ。
「お子ちゃまが多いんだよな」
だからと言って、看過できるほどに達観することも出来ず、そこから生じるジレンマが即ストレスに繋がってしまっている。自身の沸点の低さにも原因はあるだろう。
「ため込むんじゃなくて、本人達の前でキレるなりした方がいいのかも…………でもそれってどうなんだ?」
千雨の表情が曇る。嫌な奴。空気が読めない奴と思われないだろうか。そんなことが間髪を容れず思い浮かんだが、振り払うように頭を小刻みに振った。矛盾している。
「部屋に帰ってブチギレてもこれだもんな。キレても一時的にはスッキリするけど、根本的な問題の解決にはなってないし」
次の日には同じような事が起こることもある。思い返してみるが、不思議と苛立ちは憶えなかった。むしろバカ騒ぎするクラスメートは楽しそうだ。本当はそれに混ざれないことに対して、焦燥感のようなものを知らず知らずに抱いているのかも知れない。
「バカに付き合ってられないんじゃなくて……端っこで見ている自分を認識するのがイヤなのかも」
その結果、居たたまれなくなって逃げるように早退してしまう。あり得ないでもない。自分が気付いていないだけで、むしろこの場合は、目を逸らしていると言うべきか。実際、ネットアイドルなんてものをして、クラスメートにも負けず劣らずのバカ騒ぎを行っている事実が重くのし掛かった。
「まあ、その……なんだ。ちやほやされるの好きだもんな」
ストレス発散の場であると同時に、普段の生活で満たされない欲求を満たすことが、原動力になっていないと言い切れない。
「そういや私って……友達らしい友達もいないんだよな」
なんか言ってて悲しくなってきた。その線引きをしたのは誰でもない自分だ。バカとは付き合ってられないと、でも案外付き合ってみるとバカでもいいのかもしれない。
「踊る阿呆に見る阿呆だっけか、そうだよな。はぁ~、まあ、何はともあれ、今夜だな今夜。今夜、夢を見たら病院に行こう」
言葉の隅々からまだ決心が付かないのが丸わかりだった。その事実から目を逸らすように千雨は空を見上げる。日はどっぷりと暮れて、満月が見事に輝いていた。
「今日次第だ」
人通りがないため、遠慮なく大きな独り言を呟く。自分に言い聞かせるように。
不安はあるが、こうやって気に病みすぎるのも良くない。連日連夜見る悪夢によって、植え付けられた眠れば悪夢を見るのではないかと言う不安が、多夢を誘発する要因のひとつにもなり得るそうだ。
「そうだよな。さっきはちゃんと寝られたんだから」
九時半頃から起こされるまでの午後六時まで、夢を見ることなく熟睡した。これは負の連鎖を断ち切ったと考えて良いのではないだろうか。
「またなにかあったら相談に来なさいって言ってくれたんだしな」
口角を無理矢理に上げて、笑みを作る。辛気くさくなっていては元の木阿弥だ。もっと気楽になるべきだ。
「そう、見なきゃいいんだ見なきゃ」
声を弾ませる。あとはクラスメートとの関わり方を見直せばいいだけだ。その手段にも見当は付いているが、それにはかなり勇気がいる。
「でもそれはちょっとあざといかな」
ネットアイドルのキャラは受けを狙って過度に装飾している。自分自身を曝け出していると言うのとはまた違う。
「まあ、それはあとあと」
ふっと疑問が浮かび上がった。苦笑していた千雨の表情が真顔に戻る。
「でも、なんでナチなんだ?」
それだけはどうしても引っ掛かった。ホラー映画みたいな夢を見ると言う下りについて、養護教諭は見解を聞かせてくれた。昔見た映画やドラマの記憶を、自分が考えつくもっとも恐ろしいストーリーに合わせて再生しているのではないかと。
「でも、再生するにしてもあんなドキュメンタリーとか見たことあったっけ」
ないとは言えない。ゲットーや殲滅施設でおこなった実験の数々については、まず医療現場をテーマにしたドラマが山ほどある。千雨もいくつか見たことがあった。もちろん夢のような陰惨な内容では無い。しかしそこはホラー映画で補うことが出来る。それらを組み合わせて構成している可能性は非常に高い。
「案外、暗示だったりしてな。私って映画監督とかそういう才能があるのかもしれない。あのリアリティだもんなぁ。ヤバ、クリエイティブすぎる自分の才能が怖い」
と口にした瞬間、寒々しい冬空から冷たい風がプレゼントされ、身体が震えた。
「おお、寒!! バカな事言ってないで早く帰ろう」
震える身体を抱くようにして腕を擦る。ふと腕時計に目が行った。時刻は七時をだいぶ回っている。駅から寮まで徒歩十分と言ったところだが、倍以上の時間をかけてしまっていた。
「身体も冷えるわけだ」
寮に着いたら先に風呂に入るか。身体が芯から冷えている。その方がいいかも、と考えながらハァ~と息を吹きかけて、かじかんだ手を擦り合わせた。
「うん?」
東の空に低く昇る大きな月が陰ったような気がした。だが、月は相変わらず煌々と光を放っている。
「なんかの見間違いか」
妙に気になり夜空を見上げるが、雲なんてひとつなく、むしろ空気が澄み切り、多くの星の瞬きを望むことが出来た。
「なんだったんだろ」
些細な事だが気になる。周囲を見渡すが、これと言ったものはない。
千雨が首を捻りながら桜並木に足を踏み入れる。その瞬間、背筋に冷たいものが走り、怖気に足を止めた。
「なんだ?」
眉間に皺が寄る。
「あれ?」
視界の真ん中にある自動販売機。桜並木の中程に置かれたその影になにか居る。
(変質者か?)
誰もいないことをいいことに延々と続けられた独り言が鳴りを潜める。ポケットに忍ばせた携帯電話に手が行くが、どうも頼りない。
なら止せばいいのだが、放っておくとまずい状況のような気もする。変質者でなく病人と言うことも十分にあり得る。この辺りは寮しかない。時間も時間だ。この寒さも相まって人が通る可能性はかなり低い。これまで誰にも気兼ねなく独り言を続けられたことも、人が居ないことを証明している。こんな状況で、もし持病で動けないとしたら、師走の寒空は命に関わるだろう。
だから、らしくもなく見過ごす気になれなかった。似たような境遇にあるからに違いない。
(見間違いじゃないよな?)
警戒しながらゆっくりと近づく。音を立てないように注意を払いながら歩を進め、じっと自動販売機を凝視する。
(やっぱあそこに誰かいるよな)
まだ距離があって詳細は分からないが、どうにも影が不自然だ。自動販売機の影にウサギの耳にようなものがちょこんと突き出ている。
(あ、あれ?)
息を呑んだ。心臓がどきどきと鼓動を打つ。
(あれって足……だよな?)
自動販売機の影から女性の足が投げ出されている。間違いない。見覚えがある靴も履いていた。千雨が視線を下げる。同じものを履いている。麻帆良学園女子中等部指定の革靴に違いない。
(やっぱり病気かなにか……か?)
それでも歩幅が変わらない。緊張感が消えないのだ。頭の中に事件性と言う文字が浮かぶ。
そわそわして周囲に視線を走らせてしまう。桜の木の陰、ベンチの下等、人影はない。あと隠れられるとしたら自動販売機の裏だが、そこは確認出来ない。
「あ、あの~、大丈夫ですか?」
なるべく自動販売機から距離を取りながら、声を掛ける。ちょっと上擦った。しかし、女性からの返事は無い。
周辺の気配を探りながら、近づいていく。いつでも逃げられる体勢を心がけ、携帯電話もポケットから引き抜き、指を『1』に置いた。
(やっぱだれか居るよな)
酷く落ち着かない。どこからか視線を感じる。とても不快な視線だ。
後ろを向くが誰もいない。前もいない。右も、左も。人影はないはずなのに、誰かいるような気がますます強くなる。
少女が起きているのか。千雨の喉がゴクリと鳴った。気持ちが浮き足立つ。
足を投げだし自動販売機に背中を預けるようにして座っている。頭を垂れていた。長い髪がベールの変わりを果たしているため、顔は見られないが、クラスメートではないと判断した。
戸惑う。本当に妙な気分だ。それに説明がつけられない。見たことがないのに見たことがあるように思えるからだろうか。大浴場、食堂、廊下、学校でも、電車や通学路、どこかで顔を合わせていても不思議ではない。
「あ、あの~……――――――ッ!?」