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[43115] その手に槍を、持つならば
Name: sn◆be94cdbe ID:b6566aa1
Date: 2018/09/04 22:06
※エヴァ(学園、非リナレイ)、fate stay/nightクロスもの


※完結しました。



[43115]
Name: sn◆be94cdbe ID:b6566aa1
Date: 2018/07/09 02:36



「では、みなさんまた九月に会いましょうね」

綺麗に磨かれた黒板を背にし、担任の葛城ミサトが夏休みを告げた。生徒も教師もまぶしいほどの笑顔を浮かべ、教室はがやがやとにぎわいだした。

「明日から夏休みが始まる」と考えるだけで、自然と頬が緩んでしまう。山のような宿題も、「どうにかなるだろう」というポジティブに考えてしまうほど、生徒たちは開放感に包まれていた。明日から何をしよう。――まず、朝は9時まで寝ていようか。それから、友だちと出かけよう。そうと決まれば、どこに行くか考えなくちゃ――。

夏休みは、何をするかあれこれ計画をたてるときが一番楽しいのである。ほとんどの生徒がすぐに帰らず、そこらで会話の花を咲かせている。ところが、そんななかにひとりポツンと取り残された少年がいた。背は高くもなく、低くもない。無駄な肉は付いていないが、骨張った体つきでもない。加えて男らしさはお世辞にもあると言えないが、女性ではない。きわめて中性的な顔立ちの少年である。彼は鞄に道具をつめながら、今後の予定についてあれこれ思索していた。

────彼の名前は碇シンジ。14歳になったばかりの、どこにでもいる普通の中学生だ(と自負している)。





「シンジ君」

シンジが考え事をしてボーっとしていると、突然背中を叩かれた(というよりも優しく手を置かれた、というべきか)。びくりと背筋を振るわせて驚いたが、背後に誰が立っているのかはすぐにわかった。こんなことする奴は地球上にひとりしかいない。

「……カヲル君、いきなり驚かせるのはやめてよ。いつも言ってるじゃないか」

「ははは、ごめんよ」

カヲル君と呼ばれた銀髪赤目の少年は意に介した様子は全く無い。シンジはいつものことながら嘆息した。このようなマイペースさには、こちらのペースをずらす変化球であり、いつまでも慣れない。カヲルはシンジの顔を覗き込んだ。

「シンジ君、明日は何か予定はあるかい?」

「えっ? 何も無いけど」

カヲルが心底嬉しそうににこっと笑う。シンジは何だか嫌な予感が胸に渦巻くのを感じた。彼の第六感(というよりも経験)が警鐘を鳴らし出す。過去の記憶が脳裏に浮かぶ。間違いなく、この胸によぎる不安は杞憂ではない。

「(はあ――。また山籠りしようとか風船で空を飛ぼうとかアメリカのCIAのコンピューターに不正アクセスしようとかおよそ中学生らしくないことを言い出すんだろうなあ。そろそろ身の危険を感じるよ。CIAに関しては未遂に終わったけど、カヲル君、妙なところで全力だからなあ)」

「今度は何をたくらんでいるんだい? カヲルく……」

「旅行に行こう!」

「────は?」

カヲルの口から出た言葉は、シンジの予想の斜め上を行く言葉だった。だからこそ、シンジは驚いて聞き返してしまった。

「……旅行?」

「そうだよ。旅行……いいねぇ、考えるだけで心が躍るよ」

うっとりした表情でカヲルは外を見る。まったくもって、この少年は何を考えていることはわからない。この間も学校に出前でラーメンを頼み赤木リツコ先生に怒られていた。そのときの反論が「先生、僕にとって規則と食欲は等価値なんです」というわけのわからないものだった。その分痛烈なカウンターをリツコからもらっていた。……ちなみにミサトはカヲルの様子を見て一言、「いいわねぇ」なんて呟いたもんだからカヲルと一緒にリツコに怒られていた。

シンジは何か企んでいるとしか思えないカヲルの笑顔に警戒しつつも、「旅行」という響きに惹かれつつあった。

「うーん、まあ、僕はいいと思うよ。でもカヲル君、何処へ行くつもりなの? 僕、あんまりお金持ってないよ」

何しろ中学生の身である。月に小遣いはもらっているが、旅行でざっくり使えるほどの金額ではないし、貯金もない。しかしカヲルは、わかっているよ、君のことならなんでもお見通しさ、と言わんばかりに指を振った。

「ああ、その事だけどシンジ君。お金やホテルの事は何も心配要らない。その代わり行き先や現地での行動は全て僕が決める、ってのはどうだい?」

カヲルの爽やかスマイルがきらめく。一方で、シンジは眉をしかめる。その条件ではカヲルに負担がかかりすぎているのは明白である。比較的常識的な思考を持ち合わせているシンジにとって、それは素直に受け入れがたい提案だった。

「そんなの君に申し訳ないじゃないか。宿泊するなら、お金はそれなりにかかるでしょ?」

「ふふふ、シンジ君。そういう君の謙虚なところは非常に好意に値するけど、僕は心配ないって言ったんだよ」

「えっ? どういうこと?」

「つまり、全てを僕にゆだねる、ということさ」

絶頂しそうな笑みを浮かべ、カヲルが両手を広げる。というか答えになってない。

「さぁシンジ君、出発は明日だ。心の準備はいいかい?」

「え……こ、心の準備って……?」

「決まってるじゃないか。僕と君の───」

ざん、と音がした。後ろに立つ何者かによって、カヲルの体が暗転する。

がし、と音がした。カヲルの頭に何者かの指が食い込んだ。

「───面白そうな話をしてるじゃない。あたしも混ぜてくれるかしら?」

「小さなお子様のような無粋な介入はやめてくれないか。それに、これは僕とシンジ君だけの秘密の話なんだ。おさるさんはさっさと帰ってバナナでもたべ、」

ぐき、と音がした。カヲルの頭が変な方向に曲がっている。シンジはただそれを震えながら見つめている。さながら蛇に睨まれた蛙のように。そして、シンジは心の中で合掌をしていた。───ごめん、カヲル君。僕には何もできない。でも、スイッチを押したのは、君だ。

「カヲル、あんた今の状況分かってる? あんたに拒否権は無いのよ」

「ははは、じゃあ仕方ないな。僕とシンジくんの愛の語らいが終わってからすぐにいいいああいたたたたた、いた、いたいよアスカちゃん」

アスカと呼ばれた少女───ドイツ人のクオーターであり僕の幼馴染の少女───はこめかみに青筋を立て、カヲルの首をすでに90度以上回している。

「何言ってるの。あんたの緩んだ頭のねじを締めてるだけじゃない。ていうか死ね」

「なるほど、やっぱり緩みたるみが気になるお年頃なんだね。君も少しはかわいげが出てきたじゃないか。だけど緩みは自分のそのはあがががが」

「じゃあ、きつく絞めておかないとね……!」

ぎちぎちとカヲルの首が回転していく。カヲルはアスカの手首をつかみ抵抗を試みるが、無駄だった。乗っ取られた四号機が初号機の首を絞めるように、いっそうアスカの腕がカヲルの頭に食い込んだ。

「アスカー本当に死んじゃうよー(微声)」

「いいのよシンジ。こいつは一回くらい殺してやらないと……!!」

アスカは完全に殲滅態勢に入っている。ちなみにシンジはアスカより腕力は劣る。ということはこの場を収める事は無理。できることは皆無。

「ア、スカ、ちゃん、本当に、死」

さすがのカヲルも限界が来たらしく、引きつった笑みを浮かべている。シンジは止めようにも、とばっちりを恐れ手を出したり引っ込めたりしている。そんな様子でシンジがあたふたしていると見知った顔がこちらへ歩いてきた。

「アスカ」

アスカの手から力が抜ける。同時に勢いよくカヲルの頭が元の位置に戻った。カヲルは糸が切れた人形のように床に崩れ落ち、ぴくぴくと痙攣し始めた。

「あら、レイ。もう終わったの?」

レイと呼ばれた少女はこくんと頷いた。青い髪に赤い目を持ったアルビノの少女である。

レイは終礼が終わると同時に先生に呼び出され、そのまま職員室へと連れて行かれた。たった今用事が終わり戻ってきたようだ。

「――やっぱり、家の事?」

「ええ、仕方ないわ。家に親がいないのだから」

やっぱりそうかとアスカと二人は頷く。レイは現在アパートに独り暮らしをしている。その理由は親が海外で働いているからである。ただ、中学生の女の子が独り暮らしをしているので、ミサトから心配されている。

「夏の間だけでも家に来ないかって誘われたわ。もちろん断ったけど」

うっ、とアスカのうめき声をあげる。昔、二人でミサトの家に行ったらしいが、一泊して帰ってきた時、ひどくやつれていた。シンジは驚いて何があったのか聞いたのだが、何も話してはくれなかった。唯一語ったのが「シンジ……世の中知らないほうが良い事もあるのよ」とだけで、何も教えてくれなかった。当然、高性能な危険センサーを搭載する僕は、これ以上首を突っ込まずに、すぐさまアスカたちにハンバーグ定食をこしらえたのだ。

「……まぁ、私の家ならいつでも来ていいわよ。あんた、ママにすごい気に入られているし。来たらみんな喜ぶって」

「ええ、ありがとう」

ああ、なんか微笑ましい。友情とはかくも温かくで思いやりのあるものなのだ、とシンジが他人事のようにニコニコしていると、アスカが恐ろしい形相でぐりんとこちらを向いた。

「ところでシンジ、あんたカヲルと何を話してたの?」

当のカヲルはまだ足元で痙攣している。常人であったら即救急車だが、彼はいつの間にか勝手に復活(リレイズ)するため放置することが習慣となっている。ちなみに彼のこのような特質について、街で会った赤い目のツインテール少女と紫色の髪のミニスカ少女が復元呪詛と呼んでいた。なんだか不死の吸血鬼じみている。

「ああ、僕もよくわからないけど、旅行に行かないかって誘われたんだ」

「旅行? どこに?」

「さあ、それを聞く前にアスカが殺っちゃったから」

アスカはばつの悪そうな顔をする。シンジはあわてて付け加えた。

「何か旅費とかは何も心配しなくていいってさ。その代わりスケジュールはカヲル君が決めるって」

「そう……非常にうさんくさいわね」

これは明らかなことだが、カヲルの不可解な行動は彼女たちにとって良い結果をもたらさない、という鉄の掟(経験)がある。ゆえに、この少女らはカヲルがいつもよりニコニコしながらシンジに話しかけていると、必ずと言っていいほど間に入る。今回もそうである。

問題が先に進まないため、アスカはつま先でカヲル君の頭を蹴って起こすことにした。

「いつまで寝てるのよ。起きなさい、カヲル」

「……む、どうした僕」

カヲルは至極何事もなかったかのように立ち上がった。

「あんた、シンジと旅行ってどういうことよ」

なんだか首が痛いなぁ、とうなじをさすっているカヲルに、アスカはすっぱり切りだした。

「ん? なんでアスカちゃんが知っているんだい?」

どうやらカヲルはここ数分の記憶を見事に失っているようで、心底不思議そうにアスカに尋ねる。

「んなことどうだっていいのよ。答えなさい」

「やれやれ、若いね、アスカちゃん。何事も順序があるのさ。ここはまず、シンジ君と二人きりで話し合うことを提案するよ。その際君は夏休みの宿題といった事務作業を行うといい。どうだい? 実に効率て……」

ぐき。

「……」

「……」

「……(がたがた)」

「───カヲル。碇君と旅行ってどういうこと?」

ついにレイまで殲滅態勢に入った。カヲルはレイに首根っこを押さえられ、だらだらと脂汗を流している。カヲルの眼の前ではアスカが、次余計なこと言ったらコロスワヨ、と目で脅している。

「レイ、ちょっと落ち着い……」

「……レイ」

「了解」

ずるずるずるずる、とカヲルはドナドナをBGMに背負って処刑場(教卓の裏)へと引きずられて行った。アーメン。その間シンジは夏休みの宿題をすることにした。実に効率的である。


「話は聞いたわ、シンジ」

1分もしないうちにアスカたちは出てきた。机の向こうに、地面に投げ出されたカヲルの腕が見える。今度は痙攣すらしていない。どうやら話し合いは殊の外穏便にすんだようだ。

「話って……僕もほとんど聞いていないんだけど」

「私たちの調査によると、目標は四泊五日で碇君とホテルに行く計画を画策していたわ」

さながら犯人を尋問した刑事のように、メモ帳をめくりながらレイが答える。

「場所はS県の冬木市ってトコ。まったく、何考えてんだかこいつは」

げしげしとアスカが倒れているカヲルに蹴りを入れる。その一連の動作に全く無駄がない。毎日繰り返し行われているいい証拠だ。

「ちなみに、ホテルはもう予約済み」

「ええっ!? まだ僕行くって言ってないのに……」

シンジはカヲルのあまりの強引さに呆れかえった。この人はいつも人の都合を無視してマイペースにことを進めるのだ。しかし、シンジはそこではたと気がついた。それを言えばアスカもそうだが、……アレ? そういえば、レイもそんなところがある気がする。もしかして、みんな似たものどう───

「「何か言った?」」

「なんでもありません……」


「しかし、夏休みにいきなり旅行なんて……こいつ宿題する気まったくないわね」

「ええ。学生としてあるまじき態度だわ。この機会に性根を叩き直すべきね」

学園でも男子の人気を二分するこの美少女らは、倒れ伏すカヲルをまるで死にかけたゴキブリを経過観察するような慈悲0%の目で見つめている。彼女たちはいつか本当に殺ってしまうかもしれない、それだけをシンジは心配していた。なぜなら、カヲルが余りにも不死身すぎるからである。もしこの制裁の矛先がケンスケとかに向いたら、……おそらくケンスケは重傷を負いICUに運び込まれ3カ月入院した後、奇跡的に回復するも重度のPTSDを患い精神病院に収容されてしまうだろう。くわばら、くわばらとシンジは手のひらをさすった。

「ふ、ふふふ」

「あ、復活した」

カヲルがうつぶせのまま不気味に笑っている。どうやら彼はまだ諦めていない。何か策があるようだ。

「何を笑っているのかしら、カヲル。言っとくけどね、アンタとシンジの旅行なんて認めないわよ」

さらりとシンジの自由意思を消しとばすアスカ。その発言につっこむことなく、隣でさも当たり前のような顔をしているレイ。

「ふふふ、それは君の決めることじゃないよ。あくまでも僕はシンジ君を誘っているだけさ。決めるのはシンジ君だ」

「へえ……だそうよ、シンジ」

カヲルの後頭部を踏みつけながらアスカがこちらを見る。その表情は美しく輝いている。さすが校内いちといわれる美女だ。だがシンジは知っている。この表情の彼女には、決して逆らってはいけないことを。シンジの細胞が、遺伝子が危険を訴えている。

「どうなの。碇君」

レイまでこちらを見る。微笑むアスカに対して彼女は無表情だ。彼女は普段から感情表現が乏しく、そのためアスカに並ぶ美人であるものの、彼女よりいまひとつ支持されない。しかし、その裏にコアなファンが沢山いるのだ。そして、シンジは理解している。この表情の時の彼女の言うことは、必ず聞かねばならないことを。シンジの神経が、深層心理が危険信号を発している。

「ぼ、僕は……」

断ろうと口を開くと、カヲルの目が光った。

「───極上の和食」

「はっ!!?」

家政婦シンジアンテナが反応する。極上……だと……!?

「鍛え抜かれた匠の技、選び抜かれた至高の食材……この二つの奇跡が織りなす珠玉の日本料理を食べたものは、皆失われた栄光にたどり着くという……まさにそれは――」

「「全て遠き理想郷(アヴァロン)───」」

「……」

「……」

「……アスカ」

「……なに?」

うっとりする男二人の横で、まったくもって彼らの感動を理解できない少女二人がうんざりとしている。

「意味が、わからない」

「シンジが料理好きなこと、知ってるでしょ。最近はね、和食に凝ってるみたいなの。その欲に溺れた心の隙を、カオルはついたわけね。高級和食でシンジを釣って、二人旅にしゃれ込もうってワケ」

カヲルのやつ、本気ねとアスカがつぶやく。レイも状況を把握して、打開案を模索し始めた。

「……カヲル君。君の友だちであることを、心から光栄に思うよ。いや、すまない。疑いなく、君は僕の親友だ」

「ははは。うれしいよ、シンジ君。たとえそれが欲につられた言葉でもね」

HAHAHA、と邪気のない笑顔で握手をする。細かいことは気にしてはいけないのだ。

「じゃあシンジ君。何だかさっきも言ったような気がするけど、出発は明日だ。詳しいことは帰ってからメールするよ。君はご両親に了解を得ておいてくれ」

「わかったよ。きっと、父さんも母さんもいつものように『カヲル君なら安心ね(問題ない)』って含みのある笑顔で言うと思うよ」

「さすがシンジ君の御両親だ。尊敬に値するよ」

とんとん拍子に話が進んでいく。横からはまずいわよ、ええ、なんとかしなきゃ、殲滅? なんて物騒な言葉が聞こえてくる。なんとかする→殲滅という思考は少女としていかがなものか。

「というわけでシンジ君。僕は明日の準備があるから、はやめに帰宅するよ。ああ、明日が楽しみだな。じゃあまた「ちょっと待ちなさい」ねエ゛ッ」

ささっと帰ろうとするカヲルに、アスカが容赦ないラリアットを首筋にぶち込む。破砕音とともにカヲルは空中で半回転し、地面に叩きつけられた。今日何度目かわからない攻撃である。

「───ア、アス、カちゃ、ん……。今の、は……冗談抜きで……」

「うるさいわね。何勝手に話を進めてんのよ。まだこっちの話は終わってないのよ」

さすがにダメージが蓄積されてきたのか、カヲルはぴくぴく悶えている。対してアスカはそんなことも気に留めず自分の話を進める。おそらく被害者がケンスケだったら首がもげて飛んでいってガラスを破り、脳漿をまき散らしながら校庭をピンクに染めるだろう。(バッドエンド1)

「ほら起きなさい。一秒以内に」

げしげしと蹴りを入れながらアスカが無茶な注文言う。

「アスカちゃん」

「なによ」

「パンツみエ゛ッ」

「死ねっ!!」

ぐぼり、とやばい音がして、アスカの足がカヲルの顔にめり込む。おそらく被害者がケンスケだったら、某ゾンビゲームの雑魚ゾンビのように首がもげ転がる、いや、頭蓋骨ごと踏みつぶされ、床に赤い花を咲かせるだろう。(バッドエンド2)

「なあ碇。さっきから妙なこと考えてないか? なんかひどく馬鹿にされてる気がするんだけど」

「あ、ケンスケいたんだ」

妙なタイミングで登場し、さらりとあしらわれ教室の隅でしくしく泣き出す相田ケンスケ。それを親友の鈴原トウジが慰める。彼らの出番は、もう、ないだろう。

そうこうしているうちに、すっくとカヲルが立ち上がった。鼻血を出しているがHPはまだ残っているようだ。彼の不屈の闘志が眩しい。

「やれやれ。言いたいことはわかっているよ、二人とも」

「へえ、じゃあ言ってみなさいよ」

「―――うらやましいんだろ? シンジくんとの旅行が」

ぴき、とアスカとレイの額に血管が浮く。アスカの拳からメキメキメキとヤバい音が聞こえる。

「あ・ん・た・ねえ―――っ!」

ひゅっ――という短い呼吸のためから、どこで体得してきたのか、正中線四連突きを放つアスカ。彼女は最近、中学生というよりグラップラーになりつつある。そんなアスカの家にはライオンの巨大なベルトが飾ってある。アスカ曰くキョウコさんが東京ドームの地下から拾ってきたものらしい。

「ふっ」

カヲル君はほぼ同時に放たれる4つの突きを完璧に受け流し(まわし受け)、対変質者用に鉄板が入れてあるレイの鞄の追撃を上体反らしで避けると、カヲル君は二人に距離を置いた。ちなみに鞄はケンスケの机を着弾し、見事に机を破壊した。

「ちっ!」

「……」

アスカとレイが悔しそうに歯がみをする。話も何も、殲滅する気満々である。

「まあ待ちなよ。そんなに僕とシンジ君の旅行を阻止したいのかい?」

「阻止したい、とは言ってないわ。あなたの身勝手さに喝を入れたいだけ」

さも当然のようにレイが言う。だが、カヲルの代わりに喝を撃ち込まれ粉砕されたケンスケの机が、無言で何かを訴えている。

「そうよ。あんたに振り回されて困ってるシンジを助けようとしているんじゃない」

……いまのは聞き捨てならない。シンジは、それはアスカもいっし……と言おうと口を開きかけたところで止めた。シンジにはカヲルのようなギャグ補正はない。一撃であの世に逝くだろう。

カオルはやれやれと首を横に振った。

「へえ。じゃあ僕がシンジ君を誘わなかったらどうなるんだい? ふん、答えは簡単だ。僕の代わりにシンジ君は君たちに振り回されることになるんだ。僕は先手を打っただけさ」

うっ、とアスカが口ごもる。レイも返しの言葉を出せず、歯がみする。それを見てカヲルは満足そうに笑った。

「だから言っただろ、『わかってる』って。――今度の旅行は、君たち二人も連れていくよ」

「え??」

カヲルは無邪気な笑顔でそう言った。これはシンジも驚いた。この人たちは毎回いがみ合い(一方的に)、取っ組み合いしてきた(一方的に)。いつも利害が反目し合い、どちらかが折れるまで(カヲルが殲滅されるまで)終わらない戦いばかりだった。しかし今回は、カヲルが実に大人の対応をしたのだ。

「……」

「……」

さすがに二人も驚きで言葉がないらしい。その様子を見てカヲルはさらに満足そうに笑った。

「毎回毎回喧嘩ばかりじゃ面白くないし、シンジ君の胃もストレスでハチの巣になるだろうから、今回は僕が折れるさ。ああ、僕の言いだしたことだ。費用は全部僕が負担しよう。ただ、向こうについてからの行動は僕が決めるよ。それでいいかい?」

完璧だ。カヲルは最強死刑囚ばりに出会って即殺し合いをしている彼女たちと、最高の折衷案を出した。二人もそれが理解できているようで、疑わしげな視線をカヲルに送りながらも、だんだんと信用の色がにじみ始めている。

「一つ聞くわ。カヲル」

「なんだい」

薔薇でも咲きそうな笑顔でカヲルは返答する。

「向こうに着いて、私たちとあんたたちは別行動、なんてこと言わないわよね」

なるほど。アスカはなかなか鋭いところをついた。いつものカヲルならここでビクリなんて謎の擬音を出して脂汗をかき始めるのだが、心外だとも言わんばかりに眉を寄せた。

「何を言ってるんだ。そんなつまらないことしないよ。せっかくの夏休みなんだから、みんなで楽しまなきゃ意味ないだろ?」
その言葉が決め手となった。アスカとレイはお互いを目を合わせ頷いた。

「…わかったわ。あなたの提案に乗りましょう。詳細は後でメールするんだったわね?」

レイが構えていたカバンをおろす。ガチャン、と音がして張り詰めていた殺気が途切れる。よく見たら教室が静まり返っている。他の生徒たちは今がチャンスとばかりに教室から逃げ出した。

「ああ、でも荷物は多くならないようにするから。服は二日分でいいよ。ホテルで洗ってくれるからね。あと、冬木には「わくわくざぶーん」っていう温水プールがあるらしいから、水着を買っておいてくれ。まあ、君たちのことだからもう用意してあると思うけど」

ぴく、と二人の頭に何故か犬耳が見えた気がした。

「ふ、ふふふ。気がきくじゃない、カヲル。ちょっと見なおしたわ」

「ええ。いい心がけね」

二人は怪しく笑いながらカヲルを超上から目線で褒める。

「ここまでやって『ちょっと』見直すだってさ、シンジ君」

「うん、笑えばいいと思うよ」

HAHAHA、と今度は乾いた笑いをあげるカヲル。だいじょうぶ、君の親友はここにいる。高級料理がある限り。シンジは心の中でフォローした。



[43115]
Name: sn◆be94cdbe ID:b6566aa1
Date: 2018/07/09 22:15
放課後、シンジは結局4人で繁華街に遊びに行った。家に着いた時にはもう夕方5時過ぎており、彼の両親はすでに帰宅していた。

「あら、お帰り。遅かったのね」

「ただいま。…ごめん、ちょっと遊んでたんだ」

台所に入るなりシンジの母である碇ユイが声をかける。どうやら料理をつくっているようだ。炊事の心得があるシンジは、ユイの手元と漂う匂いのみで今夜の夕食を看破した。ずばり、今日は豚汁、鯖の味噌煮込み、ほうれん草のおひたし、である。

シンジの父である碇ゲンドウは、夕刊から目を離さずぼそりと「おかえり」といった。いつもの碇家の風景だ。

「そういえば今日から夏休みなんでしょう? 通知表ももらったかしら」

「うん、もらったよ」

バックから通知表を出してテーブルに置く。ユイがタオルで手を拭いてそれを取ろうとすると、座っていたゲンドウの腕が一瞬消え、気がつくと通知表はすでにゲンドウの手の中におさまっていた。

「ほう、体育以外全て5か。よくやった、シンジ」

「……」

あごひげを撫でながら呟くグラサン親父。はたから見たら、変質者か893である。

「だが自惚れるな、シンジ。私が学生時代のころは……」

「ほら、下らないことはいいですから、私にも見せてくださいな」

ひょい、ゲンドウから通知表を取り上げるユイ。ゲンドウは自分の昔語りを華麗にスルーされ、ショックを受けて俯いてしまった。子どもか、とシンジは心の中でつっこんだ。

「すごいわねえ、シンジ。体育以外は。……あなた、典型的な頭でっかちのもやしっ子なのね」

「母さんはちょっと歯に衣を着せたほうがいいよ……」

ひげ親父とともに俯く息子。彼らがユイに勝てるなんてことは、きっと一生ない。

「ところで母さん。お願いがあるんだけど」

ユイはぱっと通知表から視線を外し、シンジの目を見る。シンジのまじめな雰囲気に、ゲンドウも何事かとシンジを見つめた。

「なあに?」

「あの、僕も今日突然言われたんだけど……」

瞳を丸々とあけ、小首を傾げるユイ。この人はもうアラフォーなのに一向に老けない。もう三十路のリツコ先生から嫉妬とも羨望ともつかぬまなざしで見られている。そして本人はその視線に気がついていない。

「カヲル君が、明日から旅行に行こうって。アスカと綾波も一緒なんだ」

あら、とユイが不気味に微笑み、ほう、とゲンドウのサングラスが輝く。

「どこに行くの?」

やけにいい笑顔になったユイが質問する。

「冬木ってとこなんだけど、知ってる?」

その瞬間、二人の顔から表情が消えた。二人はシンジから視線を外し、一瞬目配せをする。

「冬木……冬木ね。知ってるわ。ね、あなた」

「ああ」

なにやら意味ありげに呟く二人。シンジはいいようのない不安を感じた。

「い、行ったことあるの?」

「ええ、あなたがまだ小さい頃、ね」

再び笑顔をつくるユイ。だがゲンドウは腕を組んでじっと何かを考え込んでいる。

「も、もしかして、何だか危険なところ、とか?」

「そんなことないわ。とってもいい町よ」

やんわりと否定される。シいつになく真面目な二人の様子に、シンジはますます不安になった。

「ユイ」

「はい」

ゲンドウが新聞を畳んでテーブルに置く。そしておもむろに立ち上がった。

「カヲル君が連れていく、というのなら心配ないだろう。彼に任せてみてはどうだ?」

「ええ、私もそれがいいと思ってました」

そうか、とゲンドウは応えると、引き戸を開けて部屋に戻ってしまった。

「母さん、ホントにいいの? なんだか僕不安なんだけど……」

「何にも不安なことはないわ。ただ、ちょっと向こうで面食らうことがあると思うけど」

今度こそいつもの調子に戻って、ユイはいたずらっぽく言った。その様子に、シンジもほっと安心する。

「そ、そう。えっと、明日から四泊五日だけど……」

「大丈夫よ。四泊でも十泊でもいってらっしゃい」

「お金もカヲル君が全部出すって……」

「あら、それならラッキーね。せっかくだし、カヲル君の好意に甘えちゃいなさい」

だめだこの母親は……、あきらめてシンジは明日の準備をすることにした。


さて、シンジはなんだかユイにはぐらかされたような、しかしどこかほっとしたような複雑な気持ちで部屋につくと、荷物を置いて布団に倒れ込んだ。すると、時を見計らったように携帯端末が鳴った。カヲルからのメッセージだ。宛名を見てみると、アスカとレイにも送っている。一斉送信というやつだ。

『こんばんは、シンジ君。明日の連絡だよ。
 明日は朝9時に駅前に集合でよろしく。持ち物は2日分の服と下着、水着で十分だよ。あとは暇つぶしにトランプか何かを持ってくるといい。お金は必要ないけど、向こうで飲み物を調達したりお土産買ったりするなら各自持ってきてくれ。じゃ、おやすみシンジ君』

カヲルらしい、簡潔で色のない連絡だった。だが、アスカと綾波にも一斉送信しているのに、なぜシンジだけに挨拶するのか。と、シンジが考えていたらもう1件メッセージが来た。

『ふふ、それはね、君はとても好意に値するからさ』

「……ちょ」

『驚いたかい? 君の考えていることはいつでもどこでも僕のアンテナで……』

「……」

そしてシンジは無言で端末の電源を切った。



「あなた」

「うむ、ついにこの時が来たか」

不安の色を見せる妻の言葉を背に、ゲンドウは重々しくつぶやいた。

「長かったわね」

「ああ」

「あの子のために、と思って今までやってきたけど」

ユイは手に持った分厚い本に目をやり、そっと閉じた。

「あなたが言った通りだったわね」

ゲンドウはただ黙している。その表情には、感情は見えない。

「だけど、私は信じたくなかった……まさか、二人が命を奪いあうことになるなんて」

「だが、避けて通れぬ道だ」

「ええ、きっと、そう運命づけられていたのでしょう。私にできることは、もうありません」

ユイはとす、と力なくベッドに座り込んだ。そんな妻の肩にゲンドウはそっと手を置いた。

「ユイ、私を信じろ。必ず、この争いを終わらせる」

「ええ、しんじてま」

「いい加減にしろおおおおお!!!」

どばーん、とドアをけり破ってシンジが侵入した。

「む」

「あら」

「何思わせぶりな会話をしながらゲームしてんだてめえらは!!! 」

ゲンドウの手にはスーファミのコントローラー、ユイはパソコンで攻略情報を見ている。

「うっわ、スーファミかよ。ふっる」

「スーファミを馬鹿にするな、シンジ」

やや不満そうな顔でゲンドウが言う。しかし、画面から目を離さない。

「見ていろ、ユイ。私は必ず勝つ。たとえどんな犠牲を払ってでもな」

「あなた……! いけないわ、この敵にその魔法は効果が―――!」

「続けんなあああああ!!!」


シンジは部屋に戻ってため息をついた。

「はあ、なんかキャラ壊れちゃったよ。なんで父さんたちはあんなにゲーム好きなんだよ。月一本は消費してるし……(完全攻略済み)。まったく、二人は本職の研究に没頭するならともかく、ゲームに没頭しているじゃないか」

ぶつぶつと文句を言う。かくいうシンジは据え置き型ゲームをしない。なぜなら携帯電話(スマートフォン)があるからだ。

「おや」

緩やかなバイブレーターとともに携帯電話(スマートフォン)が鳴る。アスカからの着信だ。

『シンジっ! 明日の準備終わった!?』

「うん、終わったよ。カヲル君が荷物を少なくしていいって言ったから、楽だったね」

『まあね。ところでシンジ、準備が終わったんなら暇よね!?』

「え? うん、今から相棒(スマートフォン)とアプリのサルベージに向かおうと思ってたけど……」

『―――アンタ、ホントそればっかりね。いい加減外の世界に目を向けなさいよ。そんなんだから根暗って言われるのよ』

「何言ってるんだアスカ! 相棒(スマホです)を軽く見ないでよ! 彼ひとり(くどいようですがスマホです)いれば何でもすべてが事足りるんだよ!?」

『うるさいわね。だからアンタは友達少ないのよ』

「やめてよ! それはリアルだよ!」

『まあいいわ。暇ならうち来てよ。準備手伝って』

「え!? なんで僕が……。てか女の子の準備に男はいらないだろ」

『い・い・か・ら。待ってるから、あと三分したら来なさいよっ!』

ぷつん、と電話は切れてしまった。現在時刻は夜7時。家からアスカの家まで自転車で五分。物理的に不可能である。親に送ってもらうという選択肢もあるが、彼らは現在異世界の冒険へ出かけている。アスカにどやされることを覚悟して、シンジは重たい腰を上げた。

「さて」

出かける前に親に一言言わねばなるまい。中学生が夜に出歩くなど不謹慎であるが、アスカの家に行くと言うならば、父さんも母さんも意味深に笑って許可してくれるだろう、とシンジは両親の部屋の戸に手をかけた。

「父さん、ちょっと今からアス―――」

「むう、何故だ。何故魔法がきかんのだ」

「あなた、このボスにはルカニは効かないわ」

「いつまでやってんだああああああああああ!!!!!!」



「遅いわね……。シンジのやつ」

アスカがシンジに召集の電話をかけてから3分。彼女は落ち着きなく部屋をうろうろしていた。その様子を部屋にいるもう一人の少女が見ている。

「……」

「まったく、遅刻かしら、シンジのやつ」

アスカはぴたりと立ち止まってため息をついた。レイは冷ややかにアスカを見ている。

「遅刻じゃないわ。ここから碇君の家までどんなに頑張っても、車なしでは3分で着かない。そしてこの時間帯、碇夫妻はゲームにのめり込んでいるはず。つまり、碇君があと3分以内にここに着くのは物理的に不可能。無理ゲー」

「どーだっていいのよっ! どうせバカシンジのことだから物理法則ぐらい軽くねじまげるでしょっ!」

「ねじまがっているのはあなたの体感時間もしくは性格」

バチバチと視線で火花を散らす二人。この少女らは共通の敵(カヲル)がいるとユニゾンもかくやという絶妙なコンビネーションを見せるのだが、それ以外の時間は何かと無駄に火花を散らしている。原因は言うまでもない。

 ちなみになぜレイがここにいるかというと、毎年夏休みになると彼女はアスカの家にお邪魔することが多く、今日もお邪魔していたからだ。レイはひとり暮らしであるため、学校がないと誰とも会話しない生活になってしまうので、アスカの家族がレイを(無理やり)家に連れてくるのだ。だがレイも嫌がることはない。若干の申し訳なさがあるようだが。アスカもそんなレイの遠慮を敏感に感じ取っており、何かと理由をつけて(ゲームの相手をしろだの、ママがまた妙な趣味を始めて鬱陶しいから相手をしろだの)レイを家に呼ぶのだ。つまり、なんだかんだで二人は仲がいいのだが……

「バカ言ってんじゃないわよ。あんたの癖っ毛よりましよ」

「言ったわね。許さない。その栗色の髪をまとめて結いあげてちょんまげにして、根元からハサミでちょん切ってあげるわ」

「やっていいことと悪いことがあるわよっ!!」

バカスカとオールドコミックのように噴煙をあげて喧嘩する二人。その余りの騒音にアスカの母親であるキョウコがドアを乱暴に開けて入ってきた。

「うるさいわねっ!! 何喧嘩してるのあなたたちは!!」

右手に持ったスリッパでスッパーンと頭をたたかれる美少女達。クラスメートがこの光景を見たら、あまりのショックに大人の階段を三段ほど飛んで登ってしまうだろう。

「まったく。レイちゃんが来て嬉しいのはわかるけど、もう夜よ。静かにしなさい。あと私の趣味の時間を邪魔しないで頂戴」

齢40を超えるご婦人が頬を膨らませ怒っている。その姿からプンスカと擬音が聞こえてくるのは気のせいだろうか。二人は頭を押さえながらキョウコを見ると、

「……ママ、何それ……?」

「……」

「え? これ?」

キョウコの左手には、なにやら世界の一部の特殊な趣味嗜好を持つ人類が好みそうな美少女フィギュアが握られていた。

「知らないの? 今、巷で人気のアニメ『Hate/stay night』のヒロイン、セイバーオルタよ」

「いや、そこじゃなくて……」

がくりと肩を落とすアスカ。母はまた妙な趣味に目覚めたようだ。どうやらフィギュアの塗装をしていたようで、厚手のエプロンには黒やら赤やら群青やら妙に暗い色が飛び散っている。さながら画家のようだ。

「しかも何よ、セイバーオルタ? 何でヒロインがそんなに物騒な恰好しているのよっ」

「今はダークヒーローに追い風なのよ」

「ダークヒーローじゃなくて、ダークヒロインじゃないんですか?」

「それもそうね。このアニメの主人公ったら、料理が下手でニートでピザでヘタレでロリコンなキモヲタだから」

「何でニートが主人公なのよっ!!」

「それはもちろん、現代の社会問題をキャラクターに投影することにより、コンシューマの共感を煽っているからにすぎないわ」

「むしろ気になりますね。主人公が最低スペックのキモヲタニート……。誰得」



三人が姦しく会話していると、玄関からぴんぽーん、とインターホンが鳴った。

「あら、誰かしら」

「シンジよ、ママ」

なぜ、とキョウコは怪訝な顔をする。それもそうだ。明日からシンジたちと旅行に行くのは重々に承知しているが、なぜこの時間にシンジが来る必要があるのか。

「もしかして……」

ぽん、と彼女の頭上に豆電球が浮かぶ。レイは静かにそれを見つめていた。この人はよからぬことを考えつくと、なぜか頭上に豆電球が出現する。そして気がついたら消えているのだ。先ほどのプンスカという擬音も同じスキルである。ちなみに碇家の母もおなじことができるらしい。以前そのことについて尋ねたら、「思春期を過ぎると使えるようになる」と言われた。

「何考えてるのか知らないけど、そんなんじゃないんだからね。ちょっと明日の準備を手伝ってもらおうと思って呼んだだけなんだから」

母親に指をつき付けぴしゃりとのたまうこの少女。キョウコとレイは二人顔を見合わせた。

「こうもスラスラとツンデレテンプレートが出てくるなんて……。わが娘ながら恐ろしいわ」

「同感です。ツンデレにジャンルの垣根はないんですね」

「何の話をしてるのよ!!」

ぴんぽーん、と再度インターホンが鳴る。

「はーいはい! ちょっと待ってなさい!」


「やあ、アスカ」

玄関を開けると、ニコニコしたシンジがいた。その顔を見て不審そうに睨みつけるアスカ。

「なにニヤニヤしてんのよ。なんかいいことでもあった?」

「だって、アスカの家に遊びに行くなんて、久し振りだから」

邪気のない言葉に、アスカはかあっと顔を赤らめた。

「な、何言ってんのよ! 何回も来たことあるじゃない」

「でもさ、前来たのって、もうだいぶん前だろ? いつも遊ぶ時は僕の家だから」

シンジは礼儀正しくおじゃまします、と一言おいて靴を脱ぎ家にあがる。脱いだ靴を並べようとした時、シンジはあることに気がついた。

「あ。綾波、来てるんだ」

「こんばんは、碇君」

気付かれるのを待っていたかのように、音もなくスライドして現れるレイ。その後ろにはキョウコが続いた。キョウコが何もない廊下の片隅からフェードインしてきたことについては、触れないことにする。

「いらっしゃい、シンジ君。久しぶりね」

「こんばんは、綾波。キョウコおば……お姉さん」

おば……のあたりでキョウコの目が鋭く光った。相手の顔色を窺うことを十八番としているシンジは敏感にもそれを感じ取り、最善の選択を推測・演算して最良の答えを出した。もしケンスケが同じ状況だったならば、キョウコのビンタできりもみ回転をしながら玄関を突き破り、そのまま向かいの民家を破壊しながらいずれ粉々になるだろう。(バッドエンド3)

「ごめんね。またアスカのわがままを聞いてもらって。シンジ君は優しいわねえ。まるで動物園の飼育員さんみたいよ」

「いえいえ。アスカのはわがままじゃなくて命令ですから。僕も否応なく応えているんですよ」

アハハウフフと会話するキョウコとシンジ。その横ではアスカが額に青筋を浮かべプルプルと震えている。二人の顔に、冗談の色はない。だんだん戦闘力が上がっていくアスカを見て、レイが彼女に手を置いた。

「アスカ、二人に悪気はないわ」

「何であんたがフォローすんのよっ」

つい出た余計なひと言のために、すぱんと頭をはたかれるレイ。

「じゃあ、シンジ君。アスカをよろしくね。心配しなくても大丈夫よ。アスカ、初めてだから。あなたがリードしてあげてね」

「え?」

「な・に・バ・カ・な・こ・と・言・っ・て・ん・の・よ」

ニコニコといい笑顔でとんでもないことを告げるキョウコにアスカのチョーキングが決まる。ギリギリと首の骨を締めあげられキョウコは泡を吹いて床に崩れ落ちた。

「あ、落ちた」

「まったく、アスカは乱暴ね」

カバンに鉄板を仕込む女が、やれやれとばかりに言う。シンジは突っ込みそうになった舌を必死で噛み殺した。

「うっさい、レイ。……まあ、とにかくあがんなさいよ。あたしの部屋、わかるでしょ?」

「う、うん」

飲み物持ってくるから、とアスカは台所へ向かった。シンジはレイとともに床に倒れ伏したキョウコを心配しながらも何もせず部屋へ向かった。



「で、僕は何で呼ばれたのかな」

「……う」

アスカの部屋でひととおりゲームをした後、シンジが思い出したように言った。呼び出した理由を完全に忘れていたアスカは言葉に詰まる。レイはその様子を横目にニヤニヤと笑っている。

「確か、明日の準備をするって言ってたよね」

シンジの何の含みもない言葉が胸に刺さる。明日の準備などすでに済んでいる。そもそも、シンジに手伝ってもらうようなことなどない。それは明らかなはずだ。はずなのだが。

「うるさいわね。どうだっていいでしょ、そんなこと」

「いや、どうだってよくないよ!?」

アスカがぷい、と顔をそむけると、そこにはニヤニヤしたレイの顔があった。

「碇君、アスカはね……」

「ん?」

「わーーーーーー!!! 何を言うつもりなのよ!!!」

「好きなんだよ、君のことがね」

「…………」

「…………」

「…………」

「……ちょっと」

「ん? なんだい?」

「……いやいや、なんだじゃなくて」

「どうしたんだい? シンジ君。まるで二日酔いで死にそうな月曜日のミサト先生のような顔をして」

「……カヲル、なんであんたここに居んのよ」

「…………」

いつの間にか、シンジの隣にはカヲルが座っていた。黒のランニングにチノパンというラフな格好をして、右手にねるふサイダーと書かれた怪しい缶ジュースを持っている。

「何でって、それはもちろン゛ッ」

わかったからもう言わなくていい、とばかりにアスカの拳がカヲルの顔面にめり込む。カヲルは床と平行に吹っ飛びベッドの角に頭をぶつけた。

「ア、アスカ……! いくら突っ込みどころがありすぎるからって、マッハ突きしなくても……」

「普通のストレートじゃ効かないのよコイツはっ!!」

「そういう問題じゃ……」

追撃を試みるアスカを必死でおさえるシンジ。その横でレイは静かにジュースを飲んでいた。

「ちょっ、とは、手伝っ、て、よ、綾波……」

「心配ないわ。彼が死んでも代わりはいるもの」

「いないよ!! こんなところでその名台詞を消費しないでよ!!」

アスカの攻撃の流れ弾を食らい、HPが尽きかけそうになっていると、倒れていたカヲルがムクリと起き上った。

「甘いね、アスカちゃん。僕はワンパターンな突っ込みには耐性がつくのさ。もう君のマッハ付きは通用しないよ」

「へえ、そうなの。それじゃあ……」

アスカはクローゼットから人ひとり分の大きさのバズーカを取り出す。

「ちょ」

「このくらい余裕よね」

何の躊躇もなく導火線に火をつける。さすがのカヲルも冷や汗をだらだらとかき始めた。

「いや、アスカちゃん……、何の前振りも脈絡もなく、ギャグ漫画の鉄板武器を取り出すなんて……」

「残念ね、カヲル」

バズーカの砲口を両手で抱えてカヲルにロックオンする。

「あんたが絡むと、何でも許されるのよ!!!!」

「タブリーーーーーーーーーーーーーーーーース」

地を揺らすほどの轟音が響き、カヲルが吹っ飛ばされる。部屋の壁には大きな穴があき、モクモクと煙が充満する。破壊された部屋から見える月は、優しく僕らを照らしていた――。



結局、カヲルは出オチで処理されたまま、シンジはアスカの部屋の修理を命じられた。修理が終わった時、もう11時を過ぎていた。ちなみにあのバズーカはキョウコが作ったものらしい。それでさすがに責任を感じたのか、キョウコが車でシンジを家まで送ってくれた。何度も謝るキョウコに礼を言い、まだゲームをしていたバカ親に説教をすませると、シンジはベッドに倒れ込み泥のように眠った。

アスカがいて、レイがいて、カヲルがいる。父さんも母さんもいる。大切な人と、同じ時間を共有している。だから、自分が不幸だなんて考えたこともなかった。だから、自分が何者なのか、考えようともしなかった。こんなラブコメじみたことをいつまでも続けられると思っていた。

だが、物語は進み、人は変わる。信じていたものが、星屑のようにきらめいて灰になる。

シンジはひとり、星を見た。父と母のあの態度が、脳裏をよぎり、なかなか寝付けなかった。



[43115] 3
Name: sn◆be94cdbe ID:b6566aa1
Date: 2018/07/10 23:30

「やあ、おはよう。シンジ君」

目を開けると、眼前にはカヲルの顔が広がっている。シンジの眠気はポジトロンライフル並みのスピードで吹っ飛んだ。

「……何やってるの? カヲル君……」

「君を起こしに来たんだよ」

目の前でにっこりとほほ笑むカヲル。時計を見ると、時刻は朝の6時半ちょうどであった。カヲルの顔を押しのけ起きあがる。

「まだ6時半じゃないか。集合は9時だったよね」

「そうさ。でも今日という日が楽しみでね。つい早起きしてしまったのさ」

昨日バズーカで吹っ飛ばされたはずのこの少年。まだまだ余裕はありそうだ。

「ふう、じゃあ僕、朝ご飯食べてくるから。カヲル君は適当に時間つぶしていてよ」

「あ、僕も朝食に同伴していいかな。朝は抜いてきたから」

「(そこまでして起こしに来なくていいよ……)」

シンジは心の中でため息をついて立ち上がる。

「つれないね、シンジ君。君の寝顔をおかずにご飯を食べるつもりだったのさ」

「気色悪いことを言わないでよ!!! あと心の中を読まないでよ!!」



「おはよう、シンジ」

「ああ、おはよう、母さん」

「うム」

台所に行くと、ちょうどユイが朝食の配膳をしていた。そして当たり前のように椅子に座るカヲル。

「ごめんね、カヲル君。シンジったらねぼすけで、助かるわ」

「いえいえ、僕としてはシンジ君の寝顔を見れて役得でしたよ」

二人の爽やかに会話が朝を彩る。シンジはこの一連の流れのどこにツッコミを入れるべきか攻めあぐねていると、食事をしていたゲンドウが自分をじっと見つめているのに気がついた。

「……どうしたの? 父さん」

「シンジ、出発は何時だ」

ほっぺたにご飯粒をつけたゲンドウが尋ねる。なぜサングラスを付けている。

「9時に集合して、それから出発だよ。まだたっぷり時間はあるね」

ゲンドウはそうか、と短く応えて食事に戻った。ほっぺのご飯粒には気づかない。

「お父さん、ほっぺにお弁当がついてますよ」

「む。すまんな、カヲル君」

その言葉にカヲルはにこりと爽やかスマイルを浮かべる。おかげでひげ親父の暑苦しさが中和された。

今日の朝の献立は、ご飯とみそ汁、納豆、卵焼き、冷奴である。シンジとカヲルは手を合わせて食事に取り掛かった。

「おや、ユイさん、お醤油きれてますよ」

「あ、悪いけど注ぎ足しておいてくれないかしら? えっと、どこにしまったっけ」

「たしか、大皿の棚の下でしょ? ……ああ、ありました。こっちもそろそろ無くなりそうですね」

「じゃあ買い物に行かないといけないわねー。ゲンドウさん、今日はお仕事ないんでしょ?」

「ああ、付き合うよ、ユイ」

「お父さんがいると心強いですね、ユイさん」

「そうよー。重い荷物もいっぱい持ってくれるんだから」

「フ……問題ない」

微笑ましい談笑が目の前で繰り広げられる。そんな空間で、シンジはひとり虚数空間にぶち込まれたかのような疎外感に包まれていた。

「(……僕っていらない子なんだ)」

「そんなことないよ、シンジ君」

「だから人の心の中を読むなあああああ!!」



「さて、」

朝食を食べ終え、シンジは席を立った。

「じゃあ僕は準備してくるから、ちょっと待っててね」

そうカヲルに告げながらシンジは食器を流し台に持っていき、あくびをひとつ吐いて今を後にした。

今はしばしの沈黙に包まれる。ユイはお茶を三人分注ぎ、テーブルに持っていくと同時に自分も席に着いた。

「カヲル君」

ずず、とお茶を一口飲むと、ゲンドウは口を開いた。

「此度の旅行は冬木、か。何か企みがあるのなら事前に教えてほしいのだが」

「企みだなんて……そんな大それたものはありませんよ」

ゲンドウの詰問を、カヲルは笑って受け流す。

「でもね、カヲル君。あの場所は私たちにとっても、あなたにとっても特別な場所。いい意味でも悪い意味でも近寄りたくないところよ。そんなところにわざわざ行くのだから、何か目的があるのでしょう?」

ユイはゲンドウとは対照的に優しい口調で問いただす。その言葉にカヲルもさすがに笑って受け流すことはできなくなった。

「まいったな。ユイさんには勝てませんね。……そうです。僕が冬木を選んだのは。もちろん目的があるからです。ただ、目的については話すまでもないし、話すつもりもありません」

カヲルはきっぱりと言い張る。ゲンドウとユイはその言葉に目を光らせた。

「なるほど。それならば私たちは何も言わん。だが、」

「シンジやアスカちゃんたちに怪我がないように、ね」

「わかっています。そのようなことは、決して」

その言葉にゲンドウはうム、と頷いた。だが、ユイはまだ納得がいってないようで、いぶかしげな視線をカヲルに投げかけている。

「……今回は、あの三人にも協力を呼び掛けています。というより、仕事の依頼ですけどね」

すぐに思い当たる節があったのか、ユイはそれなら大丈夫ね、と疑惑の槍をひっこめた。

「ただ、危険が伴うのも確かです。そこで、お二人にも協力していただきたいのですが……」

「ええ、喜んで」

「問題ない」

ゲンドウとユイの了承が得られると、カヲルは二人にそれぞれ封筒を差し出した。

「この封筒の中の書類に全てが書かれています。説明している時間はないので、この書類で確認してください」

「わかったわ。カヲル君も気をつけてね」

「ええ」

二人は封筒を受け取ると、すぐにポケットへと忍ばせた。同時にシンジが引き戸を開けて台所へ入ってきた。もちろん制服ではない。青のラインが入った白のポロシャツとデニム生地の半ズボンを穿いている。荷物は黒のスポーツメーカーのリュックに入れているようだが、派手な装飾もなく、いかにもシンジらしい地味なファッションだった。ちなみに、カヲルはモザイク長の写真がプリントされた、タイトなTシャツに、程よく色落ちしたスキニーのジーンズを穿いている。さらに彼の鞄は余りに有名な外国のブランドの手さげのバッグだ。二人並ぶとなんともアンバランスな違和感を覚える。

「準備、終わったよ。待たせてゴメン」

「気にしないでいいよ、シンジ君。じゃあ、行こうか」

鞄を持って立ちあがる。二人は揃って玄関へ向かう。ユイも水道を止め、手を拭いて玄関へ向かった。ゲンドウは無言でその後に続いた。

「忘れ物はない?」

「うん。大丈夫だよ、母さん」

と、言いながらもシンジは荷物のチェックを始めた。このあたりは母親の血である。

「なら、出ようか」

「待て、シンジ」

ゲンドウは、行ってきます、と家を出ようとするシンジを引きとめ、ひょいと何かを投げてよこした。

「うわっ」

それを慌てて受け取る。カヲルも何事かとそれを覗き込んだ。

「……なに、コレ?」

「これはジュラルミンケースだね。ジュラルミンとはアルミ合金の一種で、強度に優れてとても軽いから航空機等耐久性が求められる素材に使われる代物さ」

淡々と説明するカヲル。ケースは小さめのパソコンほどの大きさで、軽量、という割にはずしり、とした沈み込むような重さがある。

「餞別だ。持っていけ」

フ、と不敵にゲンドウは微笑んだ。その顔を見てシンジはげんなりとする。

「餞別って……別に四、五日家を空けるだけなのに。……ところで父さん、コレ、何が入っているの?」

「秘密だ」

「え?」

「それは秘密だ、シンジ。いいか、それを勝手に開けてはならん。お前に本当に困ってどうしたらいいかわからない、という時が来たら、それを開けろ」

シンジは手元のジュラルミンケースを見る。何だか危険物を抱えているような気がしてきた。

「本当に困った時って言っても、そんなの来なかったらどうすればいいのさ」

「その時は開けずに私に返すのだ」

シンジは呆れかえった。この夫婦は我が親ながら考えていることは全く分からない。

「わかったよ、じゃあ、行ってくる」

「はい。気をつけてね」

ニコニコと笑顔で夫婦はシンジとカヲルを送り出した。ばたん、と玄関のドアが閉められると、二人の顔からは笑顔が消え、無言で台所へ戻りカヲルから受け取った封筒を取り出した。

「……」

封筒の中から一枚のディスクを取り出す。そのディスクをパソコンに差し込みデータを展開してみると、一見無意味な記号の羅列が延々と表示された。

「……暗号だな」

「ええ。……ちょっと待って、これ、見たことがあるわ。確か、私たちがゲヒルンにいた時の―――」

妻が謎を解き、夫がキーボードを叩く。たん、とエンターキーを押すと、記号の羅列の一行分が英語へと変化した。

「よし、このペースなら解読まで2時間、というところだな。ああ、冬月先生に連絡しておいてくれ。仕事をしばらく休むとな」

「またお小言を言われるけど、仕方ないわね。ああ、久し振りに血が騒ぐわ。2時間と言わず、1時間半でやってしまいましょう、あなた。もちろん、終わったら買いものよ」

らんらんと目を輝かせる妻に、ゲンドウは邪気のない優しい微笑みを浮かべた。

「ああ、わかっているよ。ユイ」




結局、カヲルとシンジが駅に着いたのは8時47分であった。集合時間は9時、そして電車の出発時間は9時28分である。時間にそれほど余裕はない。だが、まだ二人の少女の姿はないようだ。

「まいったね。また遅刻をするんじゃないかな。あの二人」

シンジは不安げに時計を見た。アスカは朝に強いので遅刻することはあり得ないが、レイは低血圧なので反対に朝に弱い。もしかしたら起こすのに手こずっているのかもしれない。

「仕方ない。アスカちゃんとレイが来なかったら、僕たち二人で旅行と洒落こもうか」

「え」

きゅぴん、とカヲルの目が光る。

「うん、二人には申し訳ないけど、仕方ないよね……」

「い、いやいや。一本くらい電車を送らせてもいいじゃないか」

「僕だって心苦しいけど、計画は絶対だ。僕は悪くない。僕たちは二人の屍を越えて、新しい世界の扉を開くんだ」

「あ、新しい世界って……」

ふふふふ、とカヲルは不気味に笑う。シンジの額に一筋の汗が伝った。

それからシンジとカヲルはベンチにアスカとレイを待つことにした。夏休みといえど、今日は平日の朝であるので携帯電話をかけながらせわしなく歩くサラリーマンや、部活道具を抱えて駅のコンビニで買い物をする学生など様々な人が二人の座るベンチの前を通り過ぎていく。目の前の道路にタクシーが止まり、サラリーマンを乗せていった。そしてまた違うタクシーがベンチの前の道路に止まる。そんな光景を3度ほど見た時、ギャギギギギギという映画のカーアクションシーンでしか発生しえないような車の限界に挑んだ駆動音が聞こえてきた。

「―――ぁぁぁたぁぁああすううううけえええええええてえええええええええええ!!!!」

救急車のドップラー効果のように明らかに人間の悲鳴がこちらに近づいてくる。そのあまりの恐怖にシンジは腰を浮かせた。

駅に飛び込んできたのはごく普通の軽自動車であるが、運転が尋常ではない。ドリフトしながら駅に進入し、そこから急加速でシンジたちのほうに突っ込んでくる。

「こっちに来るね」

「ちょ、えええええええええええ!!!???」

あと10メートル、というところで自動車はハンドルを切り、横向きのままシンジたちの目の前で急停止した。タイヤからは白煙が上がり、アスファルトにはくっきりタイヤの跡がついている。

「ちぇっ、まにあっちゃったね」

「え?」

がちゃり、と運転席のドアが開く。そこから出てきたのはアスカの母であるキョウコだった。

「おはよう、シンジ君とカヲル君。ごめんね。この子たちったらいつまでも喧嘩して出発しようとしないんだから」

キョウコは後部座席のドアを開ける。すると荷物と一緒に白目をむいた少女が二人転げ落ちてきた。

「おやおや」

「今朝もバストのサイズとウエストの細さで競い合ってるんだから。あきないわねえ、この子たちも」

シンジは二人の美少女が火花を散らし睨みあっている姿を容易に想像することができた。アスカはバストでレイに勝り、レイはウエストでアスカに勝る。どちらがよりプロポーションに優れ、かつ魅力的であるのか事あるごとに争うのだ。その数10や20では下るまい。余りにも同じことを繰り返すものだからいい加減うんざりしたシンジが「五十歩ひゃっ」と口に出した瞬間彼の意識は彼方へ飛んでいた。気がついた時、シンジは保健室だった。

「まったく。何か一つに夢中になると他は何にも見えなくなるのね。もっと自分を客観視できるようになってもらいたいわ」

遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。アスカが猪突猛進なのは間違いなくこの母親の血であろう。

「キョウコさん、追手が来ましたよ」

「あら、まいたと思ったのに。司法の犬風情が、存外にしぶといのね。腹立たしいわ」

ドアを閉め、キョウコは颯爽と運転席に乗り込む。一部の無駄のない動作でエンジンをかけ、パワーウィンドウを開いた。

「じゃあ、アスカとレイをよろしくね、カヲル君。シンジ君も、体に気をつけるのよ」

キョウコはそう言ってウインクすると、ギャギャギャギャギャとタイヤを鳴らして去っていった。その10秒後にパトカーがなにやらスピーカーでわめきながらキョウコの車の後を追って行った。

「さ、僕らも行こうか。もう時間だよ」

「うん、そうだね。いちいち突っ込んでたら時間はいくらあっても足りないからね……」

カヲルはレイを、シンジはアスカを肩に担いで、二人は駅のホームへと向かった。



「あーーーーーーーーーーもうっ」

窓の外で景色が鮮やかに流れる。シンジたちは無事に遅れることなく列車に乗ることができた。とはいえ、女の子を二人抱えた男二人が4人分の乗車券を持って改札口を抜けようとした時は、駅員に止められそうになったが。今は二人がけの席を向かい合わせて座っている。

「死ぬかと思ったわ。はやく警察につかまってしまえばいいのに、あのスピード狂」

アスカとレイは列車の中で目を覚ました。それ以来ずっとキョウコの愚痴を言っている。

「まあまあ、それよりもお菓子でもどうだい?」

「何これ……『ねるふ煎餅』……? あやしいわねー」

「初めて見たわ」

アスカとレイはしげしげと袋を観察する。手に取り、ひっくり返し、振って中の音を聞き、匂いを嗅ぐ。

「おいおい、まるで毒物扱いじゃないか。確かにこのお菓子はその辺には売ってないけど、とても美味しいんだよ。だからわざわざネルフ本社から直接取り寄せてもらってるんだ」

「なんなのよその会社」

カヲルはアスカから袋を取り上げ、ばりっと袋を開けて煎餅を一枚取り出す。

「シンジ君もいるかい?」

「ありがとう」

シンジも煎餅を一枚取り出し、カヲルに倣ってばりばりと齧りだした。
無言でアスカとレイを見ながら煎餅を齧る男2人。

「……1枚頂戴」

「私も」

四人で煎餅を齧る。ふとシンジは窓の外を見た。彼の心には父と母の言葉がずっと引っかかっている。「冬木」という町について何の記憶もないし、聞いたこともない。普段は重たい荷物を家庭空間に持ち込むことのないシンジの両親だが、珍しく見せたシリアスな顔がシンジの脳裏に焼き付いていたのだ。

「あら、意外といけるじゃない」

「だから言っただろう。美味しいって」

カヲルは1枚ぺろりと食べたアスカに袋を差し出す。

「おや」

カヲルの目線がシンジのほうへ向く。

「どうかしたかい? シンジ君。あまりお腹はすいていなかったかな」
シンジの意識が戻る。考え事をして、煎餅を持ったままボーっとしていたのだ。

「あ、そうじゃないんだ。冬木ってどんなところかなあって考えてて」
あはは、と取り繕う。カヲルは難しい顔をして、考えを巡らせた。

「そうだね。実は冬木という町はね、パワースポットとしても有名なんだよ」

「パワースポット?」

聞きなれない言葉にシンジは首をかしげる。するとアスカが二枚目の煎餅を咀嚼しながら答えた。

「何らかの未知の力にあふれて、そのおこぼれを頂戴できる土地ってやつよ。カヲル、あんたがそんなのに興味を持つなんて知らなかったわ」

ちらりとアスカはカヲルを見る。それにつられるように、レイも興味深そうにカヲルを見る。

「まあね。これから長い夏休みがあるんだ。少しでもパワーを溜めておかないと後が持たないんじゃないかな」

誰かさんたちに振り回されるからね、とカヲルは余計なひと言を付け加えなかった。実に賢明である。

「……どういう意味かしら?」

アスカがカヲルをジト目でにらむ。

「別に」

今度はアスカの目が光った。まるで巨大な人型汎用決戦機が暴走するときのように。

「もう、二人ともやめてよ。せっかくの旅行なんだから。それよりカヲル君、その冬木のパワースポットについてもっと聞かせてよ」

もの言いたげなアスカを無視して、カヲルに続きを促す。そうだね、とカヲルは話を続けた。

「なんでも、冬木の土地のどこかに聖杯が眠っている、という話があってね」

「聖杯ぃ?」

再びアスカが口をはさむ。

「聖杯って、あの聖杯伝説の聖杯なんでしょ? なんで日本にあるのよ」

「僕に言われても困るさ。なんでもその聖杯を見つけることが出来たらなんでも願いを叶えてくれるらしいよ」

おお、とレイが感嘆する。

「じゃあ冬木についたら聖杯探索ね!」

「そんな某憂鬱な女子高生みたいなテンションに……」

カヲルの話の真偽はともかくとして、シンジは聖杯について聞いた時妙な感覚に襲われた。はて、昔々きいたことがあるような、そんな記憶の小さな突起がのどに引っ掛かったといえばいいのだろうか。自分だけであろうか、そう思い他のメンバーの顔を見渡すと、レイと目が合った。何枚目かわからない煎餅を手に持ち、先っぽを唇の先で加えてかたまっている彼女の姿にほっこりとした気分になり、まあいいかと疑問を飲み込んだ。





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Name: sn◆be94cdbe ID:b6566aa1
Date: 2018/07/11 22:02

「さあ、着いたよ」

荷物を持って電車から降りる。時刻は11時30分。すでに日差しが昇り、ぎらぎらと輝き始めていた。

「――やっっっと、着いたあー!!」

うーん、と背伸びをするアスカ。シンジも荷物を置いて軽く伸びをした。都合2時間ほど電車に揺られていたわけであるが、普段これほど長い時間乗り物に乗ることはないため疲れを感じていたのだ。

「まずは荷物を置きに行こうか。ここから歩いてすぐだよ」

カヲルが歩きだす。レイもアスカも素直に後に続いた。いつもなら彼女らがカヲルの言うことに従うことなどほとんどないのだが、さっさとホテルに行きたいという気持ちが強いのだろう。シンジも荷物を担いで歩きだした。

目の前に冬木の町並みが広がる。カヲルによるとここは新都、と呼ばれる地域であり、川の向こうの住宅街とは違ってショッピングモールやレジャー施設などはこちらに集中して作られているらしい。確かに見渡せばこじゃれたレストランやブティック、映画館などがある。

「そこの角を曲がったらつくよ」

カヲルが指をさす。まだ歩いて2,3分ほどしかたっていない。

「近い、近いって……本当に近いのね」

「なんにせよ、はやく荷物を置きたいわ」

「まあまあ、もう目のm」

シンジは角を曲がった地点で立ち尽くした。あとに続いたアスカとレイも息をのむ。目の前にはいったい何階建てかもわからないほど巨大な建物、そして黒塗りの高級車が止まっているとんでもないホテルがあったのだ。

「……カヲル君」

「なんだい?」

「まさか、ここ?」

「そうだよ」

改めて、おそらくこれから自分たちが宿泊するのであろうホテルを見る。さっき駅から出た時、近くに大きなビルがあるなあ、と思ったのだが、これだったのか。ニコニコするカヲルの横で、シンジはたまらない不安に襲われた。

「ちょっと、遠野グループのホテルじゃない。私、てっきりビジネスホテルかと思ってたのに」

「みんなの驚く顔が見たくてね」

大成功、と言わんばかりな笑顔のカヲル。アスカも、まあいいけど、と呟いた。どこに泊まるにせよ、ぼろいホテルよりグレードの高いホテルがよい、そう考えているはずである。逆に庶民派のシンジは完全に怖気づいてしまった。

「ねえ」

ちょんちょん、とレイがアスカの肩をつついた。

「遠野グループって?」

「ええと、私も詳しくはないんだけど、日本でも有数の資産家らしくて、分家筋を従えて不動産業を中心に財界で大きな影響力を持っているらしいわ。ここは彼ら御用達の一級ホテルね」

へえ、とレイが感心する。もともと抜けたところのあるレイは、ビジネスホテルだろうが一級ホテルだろうが自然にふるまうだろう。だが、不幸にも小心者のシンジはアスカの言葉にさらに体をこわばらせることになった。

「(ふふふ。緊張してるね、シンジ君。これだよ、シンジ君のこのリアクションが見かたったん――)」

「カヲル、涎たらしてないでさっさと行くわよ」

グーでゴツンと叩かれるカヲル。あんたもよ、とアスカは脅えて放心状態のシンジの首根っこをつかんでホテルへと歩き出した。

「ご予約頂いておりました渚カヲル様ですね。こちらにお名前をご記入ください」

カヲルが受付で手続きを済ませる。一階のフロアはロビーとレストラン、バーで構成されており、体育館の半分はありそうな広さにシンジは緊張のあまり心臓が口から飛び出そうであった。

「ア、アスカ。あれ、見てよ」

「ん?」

シンジの指さす先には、バーで何やら高そうなコーヒーを口にしながら新聞を見ているおじさんがいる。

「あのおっさんがどうかした?」

「うん、なんだか、すっごく偉そうだよ」

「……知らないわよ、そんなこと。ただのおっさんでしょ」

呆れ気味にアスカが言う。

「だって!! こんなすごそうなホテルだよ!? いいの!? たかが中学生なんかが宿泊して――」

シンジは半ば錯乱状態である。

「いいのよ。どんなホテルだろうが、私たちはきちんとお金を払っているんだから、それに見合う対価は受け取る権利はあるでしょ?」

「アスカ、私たちお金払ってない」

「細かいことはいいのっ! カヲルが払うって約束だったんだから」

ひとりカウンターで受け付けの手続きを済ませるカヲルに、哀愁の色が帯びる。

「だからね、いちいちビクビクしないでドーンと構えてればいいのよっ!」

どすん、とソファーに座りこむアスカ。彼女らしいさばさばした意見に、シンジはあんぐり口を開けた。地球が滅びる頃になっても、きっと自分は彼女のようにはなれない。が、そのようなアスカの前向きさを、シンジは心から尊敬していた。

「そうだね。いつまでもこんなじゃ情けないよね。うん、僕もアスカみたいに前向きになれるよう頑張るよ」

「ふん」

素直なシンジの言葉にアスカは顔を赤らめる。そこへ手続きを済ませたカヲルがやってきた。

「お待たせ。じゃあ部屋に行こうか」

荷物を持ち上げ歩きだす。

「部屋って言ってもさ、何階なの?」

「35階だよ」

「……え?」

「だから、35階」

「そんなに上なの?」

レイが若干嫌そうな顔をする。

「エレベーターで行くから問題ないよ。それより――はい、部屋の鍵」

カヲルはレイに鍵を渡す。アスカではなかったことにはもちろん根拠がある。

「君たち二人の部屋だよ。僕とシンジ君は同じ部屋だから」

「――」

アスカとレイの胸中に嫌な予感がよぎる。この男をシンジと同じ部屋に入れていいものか。

「ちょっと」

アスカがカヲルの肩をぐわし、とつかむ。しかし、カヲルはアスカが次の言葉を出す前に言葉をかぶせた。

「心配性だね。男女4人で旅行に来たのなら、男二人、女二人の部屋分けをするのは当然じゃないかい」

「何言ってるの。一人部屋あるでしょ」

えええ、と呆れるシンジ。カヲルは肩をすくめた。

「おいおい、このホテルで一泊するのにいくらかかると思ってるんだい? そんなにいくつも部屋は借りることはできないよ」

「あ、それ、僕も気になってたんだ。一体いくらするの?」

カヲルはえーっと、と宙を仰ぐ。

「シンジ君のお小遣い10年分くらいかな」

「――じゅう! ねん! ぶん!!!」

シンジは即倒しそうになった。いったいゼロがいくつ並ぶのか。

「だから、文句はないよね? 二人とも」

カヲルは爽やかな笑顔で釘を刺す。

「ぐっ……!」

「ぬかったわね」

敗北をかみしめる。戦闘力はアスカとレイのほうが上だが、策謀術はカヲルのほうが勝っているに違いない。そして最終的に被害をこうむるのはシンジであるということは、本人が一番理解していた。彼にできることと言えば、己が身に災厄が降りかかる前に迅速にその空間から脱出することである。しかし、彼はその最後のチャンスを見過ごしてしまった。

「シンジ!」

「はいっ!!」

ビクリと震えるシンジ。その肩にアスカの手が置かれた。

「シンジは嫌よね? こんなナルシスホモと同じ部屋なんて――」

否定即死也というメッセージを無言で発するアスカ。シンジはただ首を縦に振るしかなかった。

「ほら見なさい。本人が嫌がってるじゃないの」

レイは思った。流石にそれはやりすぎなのでは……? 普通の人間ならここでアスカに屈するであろうが、変人カヲルの大木の幹を超える精神力は決して折れない。

「じゃあ、シンジ君、彼女らの部屋で寝るかい?」

「――」

「――」

「――」

爆弾が投下された。三人は凍りついたように固まる。悶々と、シンジと同じ部屋で夜を過ごす妄想を脳内に展開する。

「――」

「――」

「無理ね」

レイが結論を出した。思春期真っ盛りの中学生にとって、男女同じ部屋で寝るなどという行為はある意味拷問に等しい。シンジは根が真面目であるため彼女らと同じ部屋などけっして承諾しないし、アスカは恥ずかしがり屋なのでシンジの前で寝顔など晒せないだろう。

こうして部屋決めについてはカヲルの思惑通りに事が進んだ。敗北の色に染まるアスカを見て、シンジはカヲルの器の大きさを感じ取っていた。ごく普通の中学生を基準に測れば、アスカもレイも中学生離れした資質を備えている。しかし、それはあくまでも中学生としての範囲である。カヲルはそのような物差しを越えた、別次元の領域にいるとしか思えない。いち中学生の自分では量り切れぬ、底知れないカヲルの奇妙な魅力に、シンジは憧れにも似た感情を持っている。

そして、そんなカヲルが、なぜ自分と友だちでいてくれるのか。カヲルにとって、シンジの魅力とは何なのか。シンジはわからないでいた。

だからか、シンジは気付かない。この旅行の真の目的とは何なのか。カヲルはなぜシンジたちをこの町に連れてきたのか。違和感はあった。父と母の反応、ずしりと重たいジュラルミンケース、これらがシンジの心の奥底に引っ掛かっている。しかし、シンジはそれを取り出すことはない。彼はまだ、彼の日常の中に生きているからだ。



「じゃあ、今から20分後に一階のロビーに集まってくれ。昼ごはんと食べに行こう」

「どこに行くの?」

「駅のそばにショッピングモールがあるんだ。そこで適当にレストランでも入って食べようじゃないか。他にもブティックやレジャー施設もあるし、退屈はしないと思うよ」

「その後は?」

「シンジ君お待ちかね、さ」

轟、とシンジのほうから風が吹いた。見ればまるで某野菜人が、穏やかな心から激しい怒りによって目覚めたかのような迫力を醸し出している。

「――カヲル君。何時に向かうんだい?」

しゅおんしゅおんしゅおんという謎の擬音とともに、シンジのまわりをオーラが覆う。

「そうだね。5時ごろ、一度こっちに戻ってから向かうよ」

「そうか。期待しているよ、カヲル君」

シンジはそう言い残し、自分の部屋へと歩いて行った。残された3人は、シンジのキャラがまだ安定していないことに不安を覚えつつ、各自の部屋へ戻るのだった。




それから、荷物を各部屋に置いた4人は必要最低限のものを持ってホテルを出た。今朝は早起きし朝食が早かったため、まず昼食をとる流れになった。カヲルのおごりで好きなレストランに入る、いうことであったので、先ほどの復讐とばかりにアスカは妙に値段の高そうな店ばかりを挙げた。しかし、夕食での感動がどうとかシンジが力説しだし、だいぶん興奮してきたので昼は結局ファストフードになってしまった。

「まったく、せっかく奢ってくれるっていうのに……なんでファストフードなのよ」

ハンバーガーをほおばりながらアスカがぶつくさと愚痴を言う。

「だから何度も言ってるじゃないか!! 夜には素晴らしい料理が待っているんだ……もし、昼にいいモノを食べてしまったら、その感動が薄れるじゃないか!」

「碇君、気持ちはわからないけど、とりあえず落ち着いて」

立ちあがるシンジをレイが諌める。

「まあまあ、それよりもこれからどうする? 五時までまだ十分に時間はあるよ」

時計は午後1時45分を指している。

「そうね。じゃあ――」

4人はわいわいとこれからの予定の打ち合わせを始めた。とはいえ、アスカとカヲルが案を出し、レイとシンジが相槌を打つという形ではあるのだが。

ふと、カヲルが店の片隅に目をやった。昼過ぎのファストフード店は若年層の客で賑わっている。その雑踏の奥を見やるように、カヲルは目を細めた。

「どうしたの? カヲルくん」

シンジが不思議そうに声をかけた。その言葉に、カヲルはいつも通りの笑顔で、振り向いた。

「何でもないよ。それより思いついたんだけど、向こうのショッピングモールでアスカちゃんを置き去りにするってどうかな? 僕の予想だと、はじめは強がっているけど、だんだん涙目になってシンジくんの名前を呼ぶと思うな」

「OK。あんたはここで眠りなさい。永遠にね」

戦争が始まる。いつだって争いは唐突だ。これもまた運命。諦め受け入れ、先に進もうじゃないか――。
 
碇くん、年寄りの目をしてないで止めて、と助けを求める少女の声は、届かない。




ファストフードの一角でシンジたちを静かに見つめる視線があった。青のジーンズに無地のシャツ、スポーツメーカーの野球帽を目深にかぶり、サングラスをかけている。注文したフライドポテトには手を付けず、ブックカバーをした文庫本を開いている。が、視線は文字に落ちていない。

彼を視界に入れた人は、「人が座っている」という情報のみ受け取り、それ以上彼を詮索することはないだろう。

――この男は、風景と化していた。

時折、サングラスから鋭い眼光が覗く。体は透き通りそうなほど不自然に気配がないのに、その視線は不気味な光を帯びている。

とはいえ、それに気がつくものはいない。仮に、彼と同じ世界を生きる人間がいたとしても、彼という日常の異物に気がつくことはないだろう。

この男は、「人を見張る」という一点において、ずば抜けた能力を持っていた。

だから、シンジたちはその視線に気づかない。まわりの人間も彼という存在に気をとめない。

男には目的があった。ただ1つの目的のみ、男の意識は向けられていた。
余計な思考も感情も動かすこともなく、淡々と己の任務をこなす。それは、10mほど先に座っている4人の中学生を見張ること。

シンジたちが立ちあがると、遅れて男も立ち上がった。彼は食事には全く手を付けず、テーブルに放置した。

理由は明確である。

彼にとって任務中に最も避けるべきことは、体調に異常をきたすことである。

任務中はほとんど何も口にしない。睡眠もとらない。その代わり、己に活動に制限時間を設けている。任務は、制限時間の中でのみ行われる。

彼は自分の能力が、そして自分のやり方が一流であることを自負していた。

決して油断せず、与えられた仕事は機械のごとく冷徹にこなす。ゆえに、己の技量には絶対の自信を持っている。自信が揺らぐということは、相手に付け入る隙を与えるということだ。決して驕りではない。

今回もそうだった。油断もない。慢心もない。いつもの通り任務を遂行する。それだけのことだった。

――しかし、悲しい哉。何事にも、上には上が存在する。

少なくとも、彼に落ち度はなかった。彼は己の能力に見合う働きをした。実力以上は必要ない。その代わり、実力を出し切らねば意味はない。男はそれを自身の哲学としていた。

男は、携帯電話を取りだし、任務の途中報告をした。何も問題はない。任務は順調だ。

繰り返し言おう。彼は己の仕事に絶対の自信を持っていた。だから彼は気付かなかったのだ。

己を見張る、もうひとつの視線に――




『――俺だ。ああ、この回線は問題ない。そうだ。駅から男がひとり君たちに付いている。――もとよりそのつもりさ。しばらく泳がせておく。君たちはいつも通り行動してくれ。……ん? 相棒か? 今はアジトを探っているよ。あいつはこういった仕事は苦手だからな。じゃあ、もう切るぞ。――今夜だったね。君の指示通り動くさ。心配いらないよ。では』

ぶつん、と音を立てて回線が閉じられた。携帯電話を閉じ、ポケットにしまいこむ。もちろん、携帯電話で会話をしていたのではない。通常回線で通話をするなど、危険すぎるのだ。

「カヲル君」

呼びかけられ、カヲルは振り向いた。そこにはシンジが怪訝な顔をして立っている。

「どうかした? 電話していたみたいだけど……」

「うん、ちょっとホテルから連絡があったんだ。大浴場についてのことさ」

「ふーん。でも、早くいかないと、置いて行かれちゃうよ。ほら」

シンジの指さす先には、アスカとレイが遠くで手を振っている。

「ごめんごめん。さあ、行こうか」

ぽん、とシンジの肩をたたき、カヲルは歩きだした。ちらりと、影に潜む男に目を向けて――





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Date: 2018/07/12 22:24


それからシンジたちはショッピングモール周辺を散策し、5時まで時間をつぶした。「時間だよ。みんな」とシンジがのたまい、ホテルに戻ることになった。

「ふふふ、ようやく始まるんだね」

シンジが怪しい笑みをこぼす。よほど楽しみなのか、キャラが崩壊しかけている。

「外に車を用意しているから、それに乗っていこう」

「車?」

ホテルの入り口のほうに目を向ける。そこにはロールスロイス・パークウォードが一台停車していた。

「カヲル、まさか……アレ?」

「もちろんだよ」

「はあ、一体あんたこの旅行にいくら使ってるのよ。さすがに私も気が引けてきたわ」

アスカはため息をつく。彼女は度が過ぎた行動をすることもあるが、根っこには思いやりと優しさがある。

「気にする必要はないよ。みんなが楽しむことができればいい、それだけさ」

「って言われてもねえ」

カヲルに促され、4人は車に乗り込んだ。行先は深山町のマウント商店街である。「泰山」という中華料理店の横に店があるそうだ。てっきり新都の中心に店があると考えていたシンジたちは大層驚いていた。とはいえ、完全予約会員制で、一日一組しか客を取らないそうなので、よっぽど変わった店なのであろう。そう納得して、大人しく車に揺られていた。

「ここね」

レイがマウント商店街の入り口に立つ。15分ほど車に揺られ目的地に到着した。ちょうどこの時間は夕飯の買い出しで商店街がごった返す時間帯であるので、車で直接店の前に行くことはできない。そのためシンジたちは商店街を歩くことになった。

5分ほど歩くと「泰山」の前に到着した。その両隣を確認するが、店らしき建物ではない。看板もなく、見た目は普通の民家と変わらない。3人は眉をひそめた。

「カヲル、本当にここであっているのよね?」

「もちろんさ」

カヲルは泰山の左側にある建物の扉に手をかける。「じゃあ、入るよ」と躊躇なく扉を開いた。

「わ」

「おおー」

扉を開けて目に飛び込んできたのは、一言でいえば「和」であった。この家の製作者の趣味であろうか、暖色を基調とした落ち着いた玄関が、来る者を温かく迎え入れている。靴箱の上には花が生けられ、向かって右側に通路が続いている。その壁には様々な手法で描かれた花の絵が飾られていた。

「これ、滝沢俊平じゃないかしら」

絵をじっと見ていたレイが呟いた。

「滝沢俊平?」

「110年前に生きた画家よ。ちっとは勉強しなさい」

首を傾げるシンジにアスカの辛らつな言葉が突き刺さる。シンジは不満そうにぶつぶつ言いながら靴を脱いだ。

「レイは、絵が好きだったわね」

「ええ、この人の画集は持っているわ。油絵を好んで描いた人で、明るいタッチの絵が多いわ。目を弾きつけるような華麗さはないのだけれど、穏やかな気持ちにさせてくれるの」

うっとりとしてレイは呟く。普段感情を見せないレイであるが、それは感情が凍りついているのではなく、心の蛇口が小さいだけである。それを人は大人しい、と評する。それゆえ、ひとりで静かに楽しむことに適した本や絵などには人一倍関心が強いのだ。学校では、美術の時間にこのような感情をこぼしたレイの表情がたまに見られる。ファンの間ではその姿を天使だの何だの称しているが、シンジはそんなレイに一向に気づくことはない。当然レイも気づいていない。この4人の中では、アスカとカヲルだけだ。カヲルはそもそも無関心であるし、アスカはシンジにそのことは決して言わないだろう。理由は推して知るべし。レイが語っている間もアスカは半ば無意識にシンジの頬をつねっていた。

「でも、滝沢俊平は翳りのある絵を描くの。ほら、碇君。このあじさいの絵も、花自体は色鮮やかでも背景が沈んでいるでしょう? きっと彼の生きた時代、育った境遇が影響しているのね」

アスカから理不尽な攻撃を受けもんどりうっているシンジに気付かず、レイは続けた。その時、廊下から声がした。

「そう。この人は終年貧しさに苦しんだ人でした。彼の作品の価値が見いだされるのは、彼の死後数十年たってからなのです」

4人が振り向くと、そこに女性が静かに微笑んで佇んでいた。

「両親との死別、不治の病、妻の早過ぎる死。そして、貧困。不幸、孤独という言葉がぴったり。笑った顔なんて見たことがないって、彼を知る人が言っていたらしいわ。それでも、彼は絵を描き続けた――」

女性は一瞬表情を消すと、改めてこちらに向き直った。

「ごめんなさい。自己紹介が遅れました。私は、衛宮桜と申します。本日は、遠方より本店へご来店いただき誠にありがとうございます」

桜、と名乗った女性は深々と頭を下げた。

「それから、彼女は使用人のライダーです」

顔を上げた後、桜はシンジたちの後ろ、つまり玄関のほうに手を向けた。驚いてシンジたちが振り向くと、そこには透き通るような紫の髪の美女が立っていた。ライダーと呼ばれたこの女性は、言葉を発することなく深々とお辞儀をした。

「では、中へ案内いたします」

桜はライダーに目配せをすると、すたすたと奥へ歩いて行ってしまった。ぽかーん、としているシンジたちの横をライダーが通り過ぎ、付いてきてくださいとばかりに一瞥し、桜の後に続いた。

無言でライダーの後に続く。廊下を右へ一度曲がると、15畳ほどの広い部屋に到着した。奥には簡素な厨房と流し台があり、中央には大きめのテーブルが一台配置されていた。室内は若干強めに空調が設定されており、心地よい空気がシンジたちの肌を撫でた。

部屋の隅にはユリやスイートピーといった控えめな色調の花が20センチ四方の小さなテーブルの上に飾られ、壁には1メートルを等間隔にして絵画が掛けられていた。

この花や絵画を利用した部屋のコーディネイトは、レイの好奇心を刺激した。対照的に、アスカはレイの視線の先にはまったく興味を示していなかった。彼女の部屋のコーディネイトと言えば、ぬいぐるみがベースだからである。生物は世話が面倒だ、という彼女の考えにレイは決して賛同しない。この二人の感覚の違いは、ある伝統的な美的感覚の差異に似ている。

シンジとレイがきょろきょろしていると、ライダーにテーブルの椅子に座るよう指示された。桜が厨房に入り、コンロに向かって難しい顔をしている青年に声をかけた。青年はこちらをちらりと見るとぎこちない笑みを浮かべ、手を洗ってテーブルのほうへ歩いてきた。

「こんばんは。今日はわざわざ来てくれてありがとう。俺は厨房係の衛宮士郎だ。よろしくな」

士郎と名乗った青年は、手をタオルで拭きながらぶっきらぼうに挨拶をした。

「もう少しでできるから、待っててくれ。じゃ、ライダー、あとはよろしく」

「はい」

シンジたちの目の前に湯のみが置かれた。士郎はさっさと厨房に戻り、笑顔で桜に話しかけ料理を再開した。その姿をシンジたちがぽかんとしていると、湯呑を配り終えたライダーが初めて口を開いた。

「気を悪くしないでください。ああいう性分なものですから」

湯呑にお茶が注がれる。この時シンジはまじまじとライダーの顔を見た。吸い込まれるような美人だ。シンジはつい、ライダーを見入ってしまった。

シンジは、生まれたころから身の回りの人間が美女であったため、多少、いや、かなり美人に対して耐性があるはずなのだが、ライダーに関してはシンジも息をのんだ。シンジの母であるユイも抜群の美人である。幼馴染のアスカも、レイも将来が楽しみな美人である。さらにいえば、担任のミサトと副担任のリツコもこれまた美人である。だが、目の前でお茶を注ぐこの美女は、シンジのまわりの女性陣ですら霞むほどの美貌を携えている。

余りにも均整のとれた人間には、非人間的な冷たさが宿る。彼女は完璧であるが故、ヒトの枠を超えた美しさを宿している。いつもなら、ここでアスカの嫉妬パンチが飛んでくるのだが、彼女もライダーの美貌に見とれ、我を忘れていた。

「煎茶です。熱いうちに、どうぞ」

そう言って、ライダーは壁のほうへ控えた。シンジは一口お茶を飲み、程よく緊張がほぐれてきたため、好奇心が沸々と湧いてくるのを感じた。

「あ、あの」

ライダーの視線がシンジを捉えた。ついで他の4人の視線もシンジに集まった。まるで石になってしまいそうな重圧に、シンジは一瞬発言を取り下げようかと思ったが、見ればライダーの表情は続きを催促しているようにも見える。シンジはためらいながら口を開いた。

「衛宮さんたち、お二人は、夫婦なんですよね」

「はい」

「な、何年になるんですか?」

「何年といいますと?」

「結婚、です」

「もう10年になるかと」

「そ、そうなんですね。じゃあ、衛宮……士郎さんはおいくつなんですか?」

「32歳です」

「あ、お若いんですね」

「――」

シンジはついに言葉を詰まらせてしまった。淡々とスピーディーに会話は進むのであるが、波がない故鎮まるのも速い。シンジが話題に困って口をパクパクさせていると、アスカが「あの」と口をはさんだ。

「衛宮夫妻のことはわかったわ。じゃあ、あなたはアルバイトなの?」

アスカが質問する。シンジはビクリとしてアスカのほうを向いた。彼が聞きたかったことは、実はライダー自身のことであったからだ。

「先ほど桜が申しましたように、使用人でありますが」

「servant、ね。それって、住み込みってこと? ちょっと珍しくてさ、興味があるんだけど」

「いえ」ライダーはそっけなく答えた。

アスカは疑問符を浮かべる。

「じゃあ、あなたはボランティアでここにいるってわけ?」

「……」

ライダーはなにやら考え込んでしまった。ますますアスカが混乱する。この使用人は自分が今どんな仕事をしているのかわかっていないのか。

「そうですね」

ライダーが顔を上げた。

「私は二人の家に住み込みで働いています」

「住み込み? 変わってるのね」

アスカの質問はあっけなく収まった。料理の盛り付けがされていることに気がついたからだ。シンジが短く歓声を上げた。厨房へ向かうライダーの後を目で追い、お互い顔を見合わせる。聞きたいことは数々あったが、空腹には勝てない。4人は目をらんらんと輝かせ、テーブルに料理が運ばれてくる瞬間を待った。




「どうぞ」

衛宮夫妻とライダーの三人が次々と料理を運んでくる。湯気を上げる白米、豆腐やわかめ、油揚げ、ねぎ、大根と具だくさんの味噌汁、小鉢には揚げ豆腐のあんかけとほうれん草の御浸し、出汁巻き卵、そして大根おろしの添えられたぶりの照り焼きがテーブルに並べられる。シンジはごくりと唾を呑んだ。こぽこぽと新たに注がれるお茶を待つ時間すら惜しい。

ただ、この料理はレストランのそれではなく、一般的な家庭料理である。アスカとレイはどんな料理が来るのか期待に胸を躍らせていたが、肩すかしを食らった気持ちになった。食事という面で考えるならば申し分はない。しかし、カヲルは「極上の和食」と言っていた。てっきり寿司とか飛騨和牛とかそのあたりを想像していたのだが、目の前にあるのはどう見ても突撃隣の晩御飯である。滂沱の涙を流すシンジを横目に、カヲルにこっそりと耳打ちした。

「ちょっと、これどういうことよ。ただの晩御飯じゃない」

「そうだよ。だって僕らは夕食を食べに来たんだからね」

「ふざけないで。私の言っている意味、わかるでしょ」

「もちろんわかっているよ。まあ、とりあえず食べてみなよ。文句はそれから聞くからさ」

アスカの凄みなどどこ吹く風のカヲル。味噌汁を手に取り、鼻を近づけた。

「うん、いい香り。士郎さん、出汁はかつおですね」

「ああ、知り合いから良い枯本節を仕入れたんだ。香りがいいだろ? カビを何度も生やして旨みを凝縮するんだ。ご飯には魚沼産のコシヒカリ、深沢米を使ってる。それからこのほうれん草は冬木で有機栽培された――」

さきほどまで寡黙に料理をしていた士郎が饒舌にしゃべりだす。アスカとレイは面食らって士郎の顔を見上げた。

「なるほど。いつも遠くから食材を取り寄せているのかと思いましたが、全てがそうというわけではないのですね」

「肉や野菜はともかく、野菜はできるだけ地元でとれるものを使ってる。昔っからここの商店街にはお世話になっているからな」

「…先輩」

桜が士郎の横腹をつつく。士郎は桜の顔を見た後、彼女の視線が料理に向いていることに気がついた。

「おっと、料理が冷めちまうな。さあ、ゆっくり召し上がってくれ」

その言葉に4人は箸を手にし、目の前の料理に向かった。



「ああ、美味しかった。ごちそうさまでした」

「……ごちそうさまでした」

「はい、お粗末さまでした」

1時間ほどかけてシンジたちは食事を終えた。アスカとレイも料理を口に運んだ瞬間、表情が変わった。衛宮夫妻はその反応も慣れたものらしく、ニコニコとその様子を眺めていた。

食事中、シンジの士郎への質問、カヲルのうんちく、アスカとレイのじゃれ合いなど、笑いの絶えない和やかな時間が流れた。士郎と桜はシンジたちが食事を終えるまで食器の片付けをしたり、会話に加わったりした。時折、桜がライダーに話題を振る。ライダーは片付けを手伝いながら、一言二言返事をする。とろけるほど和やかに、時間が過ぎていった。

食事はただの栄養補給ではない。つくる者、そして食べる者の笑顔があってこその食事だ。士郎の洗練された料理の腕や、選りすぐられた食材が紡ぐ感動。身体に沁みいるその味わいは、お腹だけではなく心も満たすのだ。そして、「おいしく食べていただきたい」というまごころが、衛宮邸の食卓における最高の調味料なのだ。

「と、とてもおいしかったです! か、か、感動しました」

シンジはどもるほど緊張しながら、士郎に握手を求めた。士郎はその手に笑顔で答えた。

「ありがとう。聞くところによると、シンジ君も料理が得意らしいな。いつか君の料理も食べてみたいよ」

「いいいいやあああそそそんなああああ」

ぶんぶんと首を振るシンジ。その後ろからにょきりとカヲルが顔をだした。

「そうだ、士郎さん。シンジ君に料理のアドバイスをしてもらえませんか?」

ね、とシンジの顔を覗き込む。シンジの目が点になった。

「いいぞ。それなら、俺の携帯電話の番号を教えておくよ。聞きたいことがあれば、いつでも電話できるだろ」

言われるがままシンジは相棒を差し出し、電話番号を登録した。顔を真っ赤にするシンジに、士郎は優しく肩をたたいた。

「そういえばシンジ君たちは旅行って言ってたかな。冬木は初めて?」

「あ、はい。初めて来ました。しばらく滞在するつもりですが」

「そうかそうか」士郎は頷いた。

「まだしばらくここにいるんだろ? 行くところがなかったらうちにおいで。場所は……カヲル、お前が知ってるだろう」

「ええ、もちろん。じゃあ、そろそろ失礼します。中学生はもうホテルに帰らないとね」

「ホテル? 冬木にはあまりホテルはないが、どこに泊まるんだ?」

「遠野グループのホテルです」

「う。あんなとこに泊まるのか。お前、本当に不思議な奴だな」

士郎は呆れ顔でカヲルを見る。その横でシンジはひきつった笑いを上げた。



ライダーは客人たちにお茶を注いでいた。その間、ちらりと桜に目をやる。彼女の主人(マスター)は、二人の少女と談笑していた。

「ごちそうさまでした。こんなに美味しい料理は初めてだったわ」

「……ごちそうさまでした」

「ふふ、ありがとう」

桜は柔らかく微笑む。

「ところで、桜さんっていくつなの? まさか30代なんて言わないわよね」

「あら。私は今年で31よ」

「ええーー全然そう見えない! まだ20代前半じゃないっ!」

「――」

「あらあら」

会話の断片がライダーの耳に入る。桜はともかく、自分にいろいろと質問をされたら困る。いろいろな意味で。彼女たちの好奇心の矛先が己に向く前に、ライダーはそそくさと自分の仕事に戻った。

「……じゃあ、ライダーさんはいくつなんですか」

「あ、それ、私も気になる」

ライダーは聞こえないふりをして、キッチンに引っ込む。

「ライダーはね、教えてくれないの」

「え?」

「でも、履歴書とかで、確認できるはずじゃ……?」

「知らないわ。貰っていないから」

アスカが肩を落とす。レイもライダーをちらちらと見ながら首をかしげた。

「人は、話したくないことの1つや2つはあるわ。それがどんな些細なことでもね」

「そうだけど……」

「ライダーはね、秘密が多いのよ」

桜はライダーを見てウインクをした。

「(…桜、あまり妙なキャラにしないでください)」

ライダーは口に出さず桜にメッセージを送る。しかし、桜からは笑顔以外なにも返ってくることはなかった。







[43115] 6
Name: sn◆be94cdbe ID:b6566aa1
Date: 2018/07/14 20:56


シンジたちは大きく手を振って衛宮レストランを後にした。時刻は午後8時、あたりはすっかり暗くなっている。外には、いつからいたのか、迎えの車が停車していた。4人は車に乗り込み、ホテルへと向かった。

「ふう、おいしかったね」

「ええ、また来たいわ」

満足げにおなかをさするシンジに、レイが相槌を打つ。

「カヲル、よくあんなところの予約がとれたわね」

「それは企業秘密さ。ホテルに戻ったら、お風呂にしよう。最上階に町が一望できる大浴場があるから」

「大浴場……」

「さすが遠野グループね……」

キュッというブレーキ音とともに自動で扉がひらいた。車を出ると、燦々と輝くホテルの足元に出た。入り口ではガードマンが両側に立ち、あたりには様々な高級車が路駐している。やがて入り口からホテルマンが現れ、アスカとレイの荷物を持ち4人をホテルの中へと案内した。
エレベーターの扉に乗り込み、上に向かう。皆疲れていたのか、部屋に着くまで無言であった。

預かっていた荷物をアスカとレイに返し、ホテルマンは一礼をして去っていった。アスカは大きく欠伸をすると、「ちょっと休んでいくから、先行っといて」と部屋へ戻ってしまった。レイも目をこすりながらアスカの後に続いた。廊下には、シンジとカヲルが残された。シンジとカヲルはお互いきょとんとして目を合わせる。

「何だか、眠そうだったね」

「二人とも疲れたんだろうね。アスカちゃんは典型的な朝型だし、レイは低血圧だから、お腹一杯ご飯を食べて眠くなったのかな」

「そうかあ」

視線を外し、相槌を打つ。

「カヲル君」

「?」

視線を外したまま、シンジが呟くように言った。

「今日はとても楽しかったよ。正直言って、最初はどんな旅行になるのか不安だったけど……」

シンジは照れくさそうに頬を掻いた。

「こんなに楽しいとは思ってなかった。カヲル君のおかげだよ。カヲルくん、本当にありがとう」

その言葉に、カヲルは満足そうに笑みを浮かべた。

「ふふ、まだまだ旅行は始まったばかりだよ。これからもっと楽しもうじゃないか」

そうだね、とシンジは頷いた。

「じゃあ、大浴場に行こうか。最上階から眺める景色は格別だよ。なんなら――」

二人が部屋に足を向けた、その時であった。

――アスカとレイの部屋から短い悲鳴が聞こえたのは。




「!!」

「――」

悲鳴がした。確かに悲鳴が聞こえた。それも、聞き覚えのある声で。シンジは振り返り、部屋のドアとカヲルを交互に見た。

「――カ、カヲル君」

「……」

カヲルの顔から笑みが消えている。ただ無言でドアを睨みつけている。その様子がシンジの不安をいっそう煽った。

「……いま、悲鳴が――」

「シッ!」

カヲルが唇に指をあてる。それから足音をたてないようにドアへと向かった。シンジは恐る恐るカヲルの後を追う。

ドアノブに手をかける。カヲルはシンジの顔を一度見た後、そっとノブを回しドアを開いた。

「――」

キイ、と言うかすかな木擦れの音とともに、僅かにドアが開く。その隙間からカヲルがそっと中をのぞいた。

「……!」

「どうしたの? カヲル君」

カヲルの息をのむ音に、シンジが声を上げた。カヲルはシンジを一度見て、大きくドアを開いた。カヲルが指で合図をする。シンジは恐る恐る中を覗いた。

「あっ!」

シンジは思わず声を上げた。ホテルの部屋の中央には、アスカとレイの二人が仰向けに倒れていた。さあっとシンジの胸に冷気が下りる。二人は死んだように、ぴくりとも身動きをしない。

「アスカっ! 綾波!!」

つんのめりそうになりながら駆け寄る。胸の内が恐怖で満たされている。この部屋で、何かが起きたのだ。それが何なのかはわからない。しかし、己の大事な友達が目の前で倒れている。不用心にも、シンジが彼女らのもとに近寄る理由は、それで十分だった。

トイレへ向かう通路を横切った瞬間、シンジの体に衝撃が走った。後頭部に激痛が走り、もんどりうって床に倒れ込む。グルングルンと景色が回転する。霞む視界の中で、アスカの横顔が見えた。手をのばそうとするも、まるでタールの海に沈んでいるように動かない。意識が、はじける。

「……あ、ガ――」

人影が自分を見下ろしている。その隣には、ぼやけてシルエットしか映らないが、確かに、シンジのよく知る人物が――

「(カヲル、君――)」

誰かの声が反響する。何と言っているか判別は付かなかったが、声の主はひとりではない、ということだけわかった。そして、何かを言い争っていることも。

やがて複数の人影はシンジをまたぎ、アスカとレイを担ぎあげ何処へと行ってしまった。

頭が破裂しそうなほどの痛みに耐えながら、シンジは最後の力を振り絞って右腕をポケットに伸ばした。ストラップを引っ張り、携帯電話を取り出す。携帯電話はシンジの手を離れ、胸のところまで滑り込んだ。震える手で画面に指を這わす。目的はただ一つ。

シンジには助けが必要だった。それも、今、すぐ。タイムリミットは、すぐそこに迫っている。

目はもうほとんど機能していない。勘を頼りに手を動かす。誰かに、助けを乞わなければ。

――いったい、誰に?

シンジの脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。確か、今日、連絡先を交わした――

確認で、一度、電話をかけた。

履歴の一番上に、その番号が表示されている。

呆けるようなスピードで指を動かす。その気の遠くなる時間の中で、彼は男の名を考えていた。

――あの人は、確か、

そこで、シンジの意識は闇に落ちた。携帯電話の画面は、士郎の電話番号を表示したまま、主人の命令を待ち続けている。だが、命令がない、と判断すると、幕を下ろすように画面を閉じた。




士郎とライダーは夜の街を駆けていた。

ことの発端は10分前、シンジたちの残した食器の片付けと掃除を終え、店を閉めようとしていた時だった。士郎がシャッターに手をかけたとき、ポケットの携帯電話が鳴った。普段は仕事の電話のほか鳴ることがないため、士郎は驚いて作業の手を止めた。画面を見れば、つい今しがた話をしていたシンジからであった。忘れ物でもしたのか、と思いながら電話に出たのだが、すぐに異変に気がついた。なにしろ、電話は繋がっているのに、何も声がしない。こちらがいくら声をかけても、反応がないうえ、電話も切れない。士郎と桜は互いに顔を見合わせた。

何かあったのか? 士郎は不審に思った。同時に、心臓からじわじわと不安の波が全身に伸びていくのを感じた。

かつて行われた聖杯戦争――

冬木という街は、決して平和な街ではない。そのために、士郎たちはこの街に残った。あの惨劇以来、彼らが夜の街に赤い花を咲かせたことは、一度や二度ではない。

士郎は桜に家で待機するよう指示し、ライダーとともにホテルへ向かった。幸い場所はカヲルが漏らしていたので把握している。問題は、時間だ。

電話がきてから15分が経過した。驚異的なスピードで二人は遠野ホテルの前に到着していた。

「士郎」

「見たところ、異常はないな」

早歩きでホテルの中へ向かう。入り口には警備員、ロビーには数名の客がソファーに座っていた。中を一瞥し、フロントへ向かう。

「すみません。ここに碇シンジという少年は宿泊していませんか? 電話がつながらなくて」

士郎はそう言って携帯電話を取り出し、シンジの着信履歴を見せた。フロントの女性はしげしげと画面を見つめ、少々お待ちください、と不思議そうに応対した。

やがて、エレベーターの前で待つライダーのもとに、士郎が駆け足でやってきた。

「部屋がわかった。35階の3504号室だ」

ライダーは小さく頷き、二人はエレベーターへ乗り込んだ。




「これは――」

部屋のドアには鍵がかかっていなかった。物音がしないことを確認して、気配を消して潜入する。部屋の中央にはシンジが倒れ伏していた。

「シンジ君!」

シンジに駆け寄る。首筋に指を当て、脈を確認する。命に別状がないことを確認し、士郎は安堵した。

「後頭部にでっかいたんこぶがあるな。どうやら後ろから一撃で昏倒させられたらしい」

「……その犯人はもうここにはいないようですね」

ライダーが窓を指さす。窓は大きくあけ放たれ、カーテンがゆらゆらと舞っていた。

「他の三人はいないな。……シンジ君、おきろ」

士郎がシンジの肩を叩く。シンジはうめき声とともに意識を取り戻した。

「目が覚めたか。俺がわかるか?」

シンジの目が開く。宙をさ迷っていた瞳は、やがて士郎の顔に焦点を合わせた。

「――う」

「シンジ君。聞こえるか?」

「え……衛宮、さん」

だんだんと、シンジの顔に表情が戻る。

「っつ、う……」

「無理をするな。頭の後ろにでかいたんこぶができている。あまり頭を揺らすなよ」

「いえ、大丈夫です」

シンジは士郎の肩を借りて起きあがり、あたりを見回す。現状を把握した所で、シンジは青ざめた。

「そっそうだ! 綾波、アスカがっ!」

「シンジ君、落ち着け」

「綾波とアスカがさらわれたんです! 悲鳴が聞こえて、部屋に入ったら、急に――!!」

取り乱すシンジの肩を、士郎は強く掴んだ。

「シンジ君」

「は、はい」

士郎は顔をシンジの目線の高さまで持っていき、シンジを強く見据えた。

「俺が知りたいのは状況だ、シンジ君。それさえ分かれば、きっと力になれる。だから、ここに戻ってきてからのことを1つ1つ話してくれ」

士郎はシンジにゆっくり言い聞かせるように語りかけた。シンジの目から焦燥の色が消えていく。シンジは呼吸を整え、ここで起こった出来事を話しだした。

「ホテルに戻って、アスカたちと廊下で別れたんです。そして、僕とカヲル君も部屋に戻ろうとしたら、アスカたちの部屋から悲鳴、だったと思うんですけど、何か聞こえて、部屋の中に入ったら、アスカと綾波が倒れていて……それから、」

一気にしゃべって、シンジは言葉に詰まった。士郎が話の間を置く。

「なるほど。それから?」

「それから、……あまり覚えていません。気がついたら、床に倒れていて、確か、部屋に黒い人影と……」

一つ一つ記憶を整理していく。そこで、シンジは何かに気がついたように、はっと顔を上げた。

「どうした?」

「――カヲル君」

シンジは茫然とつぶやく。シンジは泣きそうな表情で、士郎のほうを向いた。

「カヲル君が、僕を、見下ろしていました」

「――」

士郎は息をのむ。頭の中で、ひとつのシナリオが浮かび上がる。目的はわからないが、犯人はシンジを残しアスカとレイを連れ去った。なぜ、セキュリティの盤石な遠野ホテルでこうもたやすく誘拐が起きたのか。簡単だ。内部に手引きした者がいるからだ。

「衛宮さん……」

認めたくないが、それしか考えられない。シンジも、自分の結論を信じることができないでいる。士郎は床にへたり込んでいるシンジの手を引き立ちあがらせた。

「士郎でいいよ。――とにかく、ここから離れよう。少なくとも、うちのほうが安全だ」

何故二人がさらわれたのか、シンジはなぜ残されたのか、士郎の頭をめぐる疑問は尽きない。終らぬ問いに考えを巡らせても意味はない。それならば、行動することが真実へより近付くための手立てとなろう。




この時、ライダーは周囲に注意を払っていた。士郎とは、聖杯戦争以降から主人の命令でパートナーとして彼のサポートをしている。冬木の町に住み始めてから、幾度かの危険はあった。凛がこの地にいない間は、身に降りかかる火の粉は己で払わねばならない。闇夜を駆け巡り、仇為す敵を討った。そのような日々が十数年も過ぎれば、互いの長所、短所も見えてくる。ライダーは、頭に血の上りやすい士郎の性格をよく知っていた。熱くなれば、視界は狭まる。だからこそ、ライダーがその死角をカバーせねばなるまい。

「(――3人、ドアの裏――)」

だからこそ、彼女はこの場に迫る脅威を完璧に感知していた。おそらく、ホテルに入ってからマークされていたのだろう。濃霧のように感じる。成人した男の匂い、硝煙を沁み込ませた金属の匂い、火薬の匂い。ライダーは殺気を漏らさず戦闘態勢に入った。まがりなりとも彼女はサーヴァントである。気配遮断のスキルを持ったアサシンでなければ、彼女を出し抜くことはできない。

士郎がライダーの異変に気がついた。それをライダーは確認し、とアイコンタクトを送る。士郎は一瞬周りを見渡し、それから人差し指をたてた。1人残せ、ということだ。士郎の意識は、熱しやすいがため冷めやすい。だからこそ、冷静な時の彼の判断力は信用できる。

「シンジ君、こっちだ」

シンジをドアのほうではなく、部屋の隅に連れていった。どこへ行くのか、と疑問に思ったシンジが口を開こうとした瞬間、激しい音とともにドアが開かれた。




――10分前

遠野ホテルのロビーで、ソファーにゆったりと腰かけた男は新聞を広げていた。彼がロビーに来たのは約30分前、シンジが昏倒した時間とほぼ重なる。はたから見れば、ホテルの宿泊客にしか見えない。男は視界の下半分を新聞に費やし、上半分でロビーの様子を窺っていた。

彼の座ったソファーからは、入口とフロント、その先に続くエレベーターまでの間しか見えない。後ろ側の売店、バーの様子を見ることはできない。だから、彼のソファーの後ろ側には別の男が雑誌を広げながら、男のカバーをしていた。

雑誌を広げた男がちらりと目線を上げる。彼の視線の先に、バーのカウンターに腰掛ける男の姿が映った。一瞬だけアイコンタクトを送り、顔を下げる。今現在、この空間に異常はない。

それから2分ほど経過したときのことだ。一組の若い男女がホテルに入ってきた。息を切らせ、手には荷物はない。着の身着のまま飛び出してきた、という印象を受ける。「狩り」が実行されたばかりということもあって、三人の男の警戒を強めた。片割れの男のほうがフロントに何事か話しかけ、女のほうに近づき、エレベーターへと乗った。

新聞を畳み、立ちあがる。今の男女の顔を彼は知っていた。「犬」ら4人が夕方より接触した「一般人」、そういう報告が上がっていた。なぜ彼らがここに来たのかは分からない。だが、どんな人物であれ邪魔者は消さねばならない。それこそが、この男の任務であった。

新聞をまるめてゴミ箱に捨てる。それを合図に、雑誌を読んでいた男とバーにいた男も立ちあがった。ホテルに来る前に打ち合わせていた通りだ。士郎たちの乗ったエレベーターがどの階に泊まるのか確認をし、男たちもエレベーターに乗り込んだ。

チン、という音とともに扉が開く。三人の男たちは、手に持った自動式拳銃の遊底を引き上げた。



ドアの耳を寄せる。中からは、二人分の話声が聞こえる。「犬」が目を覚ましたのか、話し声が聞こえる。男の警戒は殺意に変わった。中にいる二人は消さねばならない。

もともと、目を覚ました「犬」がロビーに降りてきて、ホテルを出たところで拘束するのが本来の彼らの任務であった。だが、そのプランを乱す者が現れた場合は、誰であろうが排除せよ、とも命令を受けていた。他の二人に指で指示を送る。「3つ数え、中へ押し入る。お前は女を、俺は男。お前は後ろでサポートをしろ」と。二人の男は短く頷いた。――これで準備は整った。男は拳銃にサプレッサーを取り付け、そっと引き金に人差し指をかけた。そしてドアにぴったりと張り付き、音をたてないようにノブを握った。




3人の男が部屋へ押し入る。中でお互い邪魔にならぬように、1人は右側に、もう一人はその反対側に素早く身を寄せる。そして残りのひとりは間に立ち、後ろから追うのだ。身を屈め、ターゲットを視認し、銃を向け、発砲する。この間、実に2秒を切る。ターゲットはわけもわからぬまま額を打ち抜かれ、物言わぬ躯となるだろう。血のにじむような訓練を繰り返し、同じような任務を何度もこなしてきた彼らにとって、気負いや緊張など存在しない。己を機械と化し、一連の動作を再生するだけだ。

部屋の中を視認する。そこで男たちは一瞬動きを止めた。ありえないことである。死が目の前に迫る殺し合いの中で、動きを止めることは自殺行為以外の何物でもない。だが、彼らが失態を犯したのは理由があった。

部屋は無人だった。撃ち殺すはずのターゲット、驚いてこちらを振り向くはずのターゲットは、そこにいなかった。男たちの予想は外れたのだ。それが、彼らの足を止めたのだ。

そして、ライダーにとってはその一瞬で十分だった。

突如、前方先行していた二人の男の頭が回転した。螺子が緩むように、支えを失った頭部はバランスを失う。彼らの脳天には、か細い手が添えられている。一瞬にして命を奪われた二人の男が、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちる。同時に、後ろを先行していた男は、自分の背後に何者かが着地する気配を感じた。とっさに振り向き銃を構えるが、ねらいを定める前に銃を弾き飛ばされた。

彼の思考が追い付く間もなく、破砕音とともに両腕に激痛が走った。見れば、肘がありえない方向に曲がっている。抵抗することもできず、今度は大腿に下段蹴りが叩き込まれた。その蹴りは完璧に彼の大腿骨を粉砕し、男は床に倒れ伏した。

男は激痛に悶えながら、自分を完膚なきまでに無抵抗化した人物を見ようと顔を上げた。そして彼は、ことの異常に気がついた。目の前に立っていたのは、およそ暴力とは縁遠そうな、華奢な女であったからである。目と目が合う。男はその視線に背筋を凍らせた。女の目には何の感情も映っていない。ただ自分を観察しているのだ。まだ、抵抗しないかどうかを。

――冗談ではない。己より、この女のほうがよっぽど機械じみている。

彼は、失敗した。そして、まだ生かされている。その事実が示すことはただ一つ。最早身じろぎすることすら許されない状況で、彼は確信した。

「俺は、ここで死ぬ」




シンジは士郎の配慮で、ライダーの殺戮シーンを見ることから逃れた。気がつくと、部屋の入口に男が三人転がっていた。1人は苦しそうに呻いているが、他の2人はピクリとも動かない。よく見てみれば、首があらぬ方向にねじまがっている。シンジは小さく悲鳴を上げた。

「驚かせたか? すまないが、もうしばらく我慢してくれ」

士郎が床で呻いている男に歩み寄る。ライダーは男の襟をつかんで乱暴に士郎の顔まで引き上げた。

「お前たちは、誰だ? 何が目的だ」

男は士郎の顔を見るも、口を開かない。ただ、荒い呼吸を繰り返すだけだ。

「もう一度聞こう。お前たちは、誰で、目的は、なんだ?」

言葉を一つ一つ区切り、冷たく言い聞かせる。男は一瞬だけ目をそらし、士郎を無言で睨みつけた。

突如、ゴッ、という音がした。シンジは驚き身をすくませる。見れば、男の口元から一筋の血が流れている。士郎が、男の顔を殴った音だった。

男が憎悪に顔を歪ませ、無言の抵抗を続ける。質問をひとつ無視するたび、士郎は男を殴った。小さな部屋に、鈍い音が響き渡る。いつしか男は白目をむき、だらりと開かれた口からは最早半分ほどになった歯が除いた。この時点で、シンジは目と耳をふさいでベッドにくるまっていた。

「埒が明かないな。かなり鍛え抜かれた男のようだ。おそらく、このまま殺したって口をわらないだろう。――ライダー、悪いが、「アレ」をお願いできるか?」

血に染まった拳をタオルで拭いてから、士郎は男を椅子に腰かけさせた。ライダーはわかりました、と答え、眼鏡に手をかけた。



気が遠くなりそうな痛みの中、男はただ時間が過ぎるのを待っていた。もう士郎の言葉も聞こえていない。朦朧とした思考の端で、男は何度も繰り返されていた殴打が止んだことに気がついた。今度は何だ、と腫れあがった瞼を開き、眼球を動かす。そこには、自分の仲間を一瞬で殺したあの女が映っていた。

ライダーが眼鏡に手をかける。途端、男の体内に、これまでにないほどの悪寒が奔った。這ってでも逃げようと手足に命令を送るが、機能を完全破壊された手足は男の命令を受け付けない。必死で首をよじり、ライダーの視界から逃れようとする。だが、その空しい努力も、己が椅子から転げ落ちただけ、という結果以上のものを男にもたらすことはなかった。

まずいまずいマズイマズイマズイ――!

床をのたうちまわりながら、男はパニックになっていた。わけもわからず、自我が崩壊していく感覚に襲われる。それは、男がまったく味わったことのない、新しい恐怖の怪物であった。

ライダーが眼鏡をはずす。一瞬、男と目が合う。すぐに、ライダーは再び眼鏡をかける。

男は呆気にとられた。今、自分が感じた得体のしれない恐怖は何だったのか。目の前の女が、ただ眼鏡を外しただけだ。1秒にも満たぬ間に、女は再び眼鏡をかけた。それが何を意味するのかは分からない。男がほっと安堵に胸をなでおろしたのは、ほんの刹那であった。

真冬に川へ浸かったような冷たさに気付く。その感覚は足先から腰まで及んでいる。両足の骨折の激痛すら感じず、男の下半身はまるで石になったように固まってしまった。

男は不審に思い、下半身に目をやった。

――男の目に飛び込んできたのは、例えではなく、本当に石になってしまった下半身であった。

音が消え、呼吸が止まる。さっきまで痛みとともに命を訴えていた両足は、無機質な岩石と化している。思考まで石になったかのようだ。懸命に呼吸をしようとするが、ひっ、ひっと喉の引きつけを起こすだけで、体はまともに働かない。おぞましい死の瘴気が、男の全身を包み込む。

――女の足が、右足を踏みつける。

やめてくれ、と叫ぼうとした。だが、痙攣する喉からは言葉を紡ぐことができない。男は初めて自分の運命を呪った。

思えば、ゼーレが崩壊してから、安息などなかった。抜ける機会などいくらでもあったのに、自分は組織のコマだと言い聞かせ、機械仕掛けの兵士であると認識し、命令に忠実に従った。そうだ、そうやって任務をこなすことしか知らなかったのだ。死の淵に立たされ、男はようやく気がついた。自分は選択を誤った、と。

――女の足は、微塵の躊躇いもなく、男の足を踏み砕いた。

声ならぬ声を上げる。痛みはない。魂を刈り取られたのだ。これは幻視痛だ。生きているからこそ、死ぬ。それを忘れていた。俺は機械ではない。ちっぽけな人間なのだ。

女の足が左足に当てられたとき、男は初めて士郎の問いに答えた。断片的に、思いつく単語から、絞り出すように知っていることを話した。とにかく、この恐怖から一刻も早く離れたかった。そのためだったら何でもする。

知りえるすべてを明かした後、小さな衝撃とともに彼の意識は永久の闇に落ちた。






[43115] 7
Name: sn◆be94cdbe ID:b6566aa1
Date: 2018/07/17 22:29



「ある程度のことはわかった。この男たちはただの誘拐犯ではない。目的ははっきりわからないが、組織でシンジくんの友だちを追っていたようだ。なぜシンジ君の友達を誘拐したのかは分からない。下っ端には、単純な命令しか与えられていないようだな。この男の任務は我々の殺害とシンジ君の監視、必要に応じて監禁。その理由も不明。さて、」

三人は部屋を出てエレベーターの前まで来ていた。ソファーに士郎とシンジが座り、ライダーは周囲を見張っている。士郎はシンジを見る。シンジは己を抱いて、カタカタ震えていた。

「シンジ君。たくさんショッキングな場面を見せてしまい申し訳ないが、これも不可抗力だ。君の命も危険だ。しばらく俺たちと行動したほうがよさそうだな」

シンジは何度も頷いた。目の前で人間が三人も死んだのだ。日常を生きていたシンジにとって、これほど恐ろしいことはない。

「あの男たちの集合場所がわかった。新都の教会だ。あまり気は進まないが、おそらく彼女たちもそこにいるはずだ」

士郎は立ちあがる。すると、それまで黙りこくっていたシンジが口を開いた。

「まさか……む、向かうつもりですか?」

「ああ」

士郎は迷いなく肯定した。

「そんな――いや……そこまで、あなた方に危険を冒してもらうなんて、できないよ!」

「じゃあどうする? シンジ君、君だけで向かうか?」

「……アスカも綾波も、――カヲル君も大事な友達だ。僕は、いや、僕が行かなきゃならない」

その言葉に士郎は二コリとほほ笑んだ。

「俺たちが動くのに理由があるなら、君のその言葉で十分だ。さあ、行こう。早くしないと、ずっと後悔することになるぞ」

「はい――あっ」

 士郎たちが動きを止めた。

「どうした? シンジくん」

「父さんにあるものを渡されていたんです。どうしようもなく困ったときに、使えって」

シンジは走って自分の荷物の元へ行き、ジュラルミンケースを持ってきた。

「ふむ、調べてみよう」

士郎はケースをシンジから預かり、中身を解析する。

「んん?」

士郎は頭をひねった。中身の形は把握できるが、それが何なのか全く見当もつかない。

「どうやっても開かないんです。鍵がついている様子もないし・・・・・・」

力任せにあけようとするが、ケースはびくともしない。

「士郎」

ライダーが催促する。そうだ、自分たちにはまずやることがある。

「これは一応持って行こう。シンジくん、持っていてくれ」
 
シンジはこくり、と頷く。士郎は笑顔でシンジの肩をたたくと、その手でシンジを抱え、窓に向かって走り出した。

「え?」

シンジが次の句を発するまもなく、シンジを抱えた士郎とライダーは、窓を打ち破って夜の闇に飛び出した。




――Interude

計画は予定通り、誤差ひとつなく進んだ。二人を連れ去ることも、シンジ君を置き去りにすることも。彼がどこかに電話するということもわかっていた。おそらく、30分と経たないうちに助けが来るだろう。これもひとつの賭けだ。彼らをおびき寄せることができれば、僕の計画は成功と言えるだろう。

車に揺られている。三人の男と、僕。荷台にはアスカちゃんとレイが転がっている。これから彼女らは国外へと連れだされることになっている。その後のことは僕の知るところではない。僕の目的は彼女たちではないからだ。いわば、二人を餌として彼らを釣ったと言えよう。僕の目的は別にある。彼らに協力したのは、利害の一致があったからにすぎない。

車を降りる。目の前には教会がそびえている。ここは一時保管場所だ。あと10分もすれば本当の目的地へと向かうだろう。シンジ君たちはそれまで間に合うのか。それだけが気がかりだ。

――interude out




夜の闇を駆ける。男は、新都の教会が合流地点だ、と言った。そこに誘拐犯の仲間がいる。何人かは分からない。だが、決して見逃すわけにはいかない。

ホテルを出る前、ライダーは桜に連絡を入れた。おそらく彼女の力が必要になる。士郎がそう判断したのだ。桜とは教会前で落ち合うことにした。彼女はもうすでに到着しているはずだ。急がなければならない。
前方を駆けていたライダーが急に止まった。合わせて士郎も立ち止まる。そして、背中におぶっていたシンジを降ろした。シンジは顔を青くして胸をおさえた。

「…ジェットコースターに乗ってるようでした」

「酔ったか?」

「いえ、大丈夫です」

シンジは顔を上げる。士郎はその表情を確認し、ライダーと向き合った。

「士郎、この先に武装した人間が数十名います」

「この先……公園だな。教会へのルートに、か。待ち伏せか? いや、ここが退路の終着点か?」

「私が迎撃します。士郎たちは、違うルートを」

「わかった。俺たちは工業団地のほうへ行こう。ライダーも済み次第進んでくれ」

「了解しました」

士郎はシンジを抱えあげる。二人はその場を音もなく離れた。



公園に乾いた風が吹く。夜の闇を晴らすものは、月の光のほか何もない。ぽっかりと開いた空から降りてきた光は、冷たい地面に降り積もってゆく。そうして浮かび上がるのは生きた光景でだけはない。同様にまた、影も浮かび上がらせる。影は、二人の人間を地面から持ち上げていた。二人は力なく地面に横になっている。月光は、その表情を照らしだした。そこで、彼らの瞳を覗いて、我々は気付く。彼らを持ち上げているのは、影ではない。どす黒く変色した彼ら自身の血であることを――

二人には、己の死の理由を理解する術はなかった。彼らはこの公園に立ち寄っただけだ。それだけで、ただ、邪魔であるというだけで彼らは命を奪われた。背中をナイフで突かれ、それだけでは足りぬと首を真一文字に切り裂かれた。彼らのほかにいくつ死体が転がっているかはわからない。この公園には、何者の存在も許されていないのだ。

ライダーは血の匂いを敏感に感じ取っていた。殺されたのはひとりではないだろう。そして、この公園は世界からすっぽりと切り取られていた。外に出て駅のほうへ向かえば、生きた人間は何人もいるだろうが、ここではそのような人々は立ちいることを許されない。敵に魔術師がいる。ライダーは確信した。

しかし、同時にライダーは違和感を覚えていた。魔術師にしては、手際が悪い。必要以上の死体を出すことは、やり口として3流だろう。

「――」

冷たくなったベンチの足元に、二つの死体を発見した。喉を掻き切られて折り重なるように倒れ、その姿をフィラメントの切れかかった電灯が照らす。傷口に目をやる。凶器は非常に鋭利なナイフのようだ。

「(……魔術師ではない)」

死体はそう語っていた。この二人は、何者かに背後から直接命を奪われたのだ。

「(しかし、何故処理しない)」

不可解なことだった。死体を処理しなければ、目撃者を生んでしまう。殺人とは、ひっそりと行われるべき行為なのだ。わざわざ死体をさらすとは、見てほしいと言っているようなものだ。

周りを見渡す。暗闇の中には、何者かの呼吸を感じる。公園の中に入る前は微かだったその気配は、色濃く自分の周りを取り囲んでいる。

「(やはり――)」

気配は動かない。身じろぎ一つせず、自分を静かに観察している。そのおかげで、敵の数がわかった。12名で間違いない。10人が銃を構えている。1人は魔術師だ。もうひとりは――

「(――!)」

背後の気配が動いた。素早くこちらに近づいてくる。コンバットナイフを手に構えているようだ。接触まで、残り3メートル、2メートル、1――



旋風が空間を切り裂いた。ライダーに近付いた男は、こめかみに踵を叩きこまれ、地面に激突した。ライダーの放った後ろ回し蹴りは、男の生命を正確無比に刈り取っていた。意識の残骸すら許さぬ一撃。男は己の死すら気づくことはなかった。

ライダーの軸足は削岩機のように地面を抉り、捲り上げた。はじけ飛んだ土が地面に落下するころ、ライダーを取り囲んだ男たちが我に返った。一体に何が起こった。何も見えなかった。仲間がひとり死んだ。それだけは、何となく理解できた。

銃を構え、狙いを定める。この敵は、いつもの敵ではない。これまでに培った経験がそう警告してくる。彼らとて、人間以外のものを相手にしたことはある。だが、今回は相手が悪すぎた。

頭部に照準を合わせ、引き金を引こうとした瞬間、ターゲットの姿が煙のごとく消えた。暗視スコープから目を離す。電灯の下には三つの死体しかない。男たちの背筋に寒気が奔った。

包囲網を解く。目標を見失った以上、円陣は無意味だ。逆に全員が一点に集まりお互いの背中を預ける。11人が散開する。集合地点は決めてある。不規則な動きで、敵を撹乱する。ある者はジグザグに、ある者はまっすぐに集合地点へと向かった。

だが、それが裏目に出た。最後尾を走っていた男は、その目で確かに見た。前を走る仲間が、次々と地面へ沈んでいく。その際に響く鈍い音が、彼らはもう起きあがることはないということを示唆している。男はそれでもペースを変えず走った。1人がペースを崩せば、全員を危機にさらす。それを、重々に理解していたのだ。

集合地点までたどり着くことができたのは4人だけだった。分隊の指揮官である軍曹と、魔術師、そして狙撃手の二人だ。敵の姿はない。暗視スコープを持ってしても、捉える事が出来ない。狙撃手はスコープとライフルを捨て、ハンドガンを構えた。敵がどこにいるかわからない。加えて遮蔽物がほとんど存在しない。状況は非常に不利だ。ライフルなど構えている暇はない。そう判断したのだ。

そこまで考えて気がついた。1人殺られてからわずか30秒の間、次々と7人が殺された。初め、我々は目標を全方位で取り囲み万全の態勢で始末しようとしたのではなかったのか。たった1人の、武器も持たない女に追い詰められている。

狙撃手のひとりがベルトに装備していた閃光弾に手をかける。こちらの位置は間違いなく敵に把握されている。その証拠に、敵は姿を現さずこちらの様子を窺っている。ならば光であぶり出し、一瞬のうちに仕留める。閃光弾のピンに歯をかけた、その時だった。

ひゅう、と何かが空を切り、鮮血が飛び散った。ごとり、と閃光弾が地面に落ちる。続いて、眉間にすっぽりと穴をあけた狙撃手が崩れ落ちた。
何かが飛んできた方向に弾丸を撃ち込む。しかし、弾は暗闇に吸い込まれ、何の手ごたえもなく消えていった。

1人減った。次は、誰か。

再び静寂が訪れる。敵の気配はない。軍曹は震える足を押さえつけた。逃げられない。脱出できない。命乞いも無駄。生還するには、あの化け物を打ち倒すしかない。

恐怖に耐えきれなくなったのか、もう一人の狙撃手が叫びながら闇雲に銃を撃ち始めた。軍曹と魔術師はあわてて身を屈める。この状況では、己が撃たれかねない。

弾を撃ちつくし、それでもなお引き金を引き続ける。ちょうど空撃ちを4回数えたところで、狙撃手の頭部を巨大な釘が貫いた。軍曹ははっきりとその目で見た。狙撃手の頭部を破壊し、その中身をぶちまけ、綺麗にあいた穴から覗いた凶器は、一息の間に己の主のもとへ引き返した。残ったのは抜け殻のみ。またひとり、死んだ。

残された二人はお互いを背に武器を構えた。お互いに仕事仲間以上でも以下でもない関係であり、必要以上に口をきくこともなかった。が、今は奇妙な連帯感を感じている。背中のぬくもりが、彼らの心の支えだった。
1秒が1分のようだ。まだ、最初のひとりが殺されてから5分も経っていない。蝕むように焦燥がつのり、集中力が削られていく。だが、この二人のプロはピクリとも動かない。じっと耐えて敵の動きを待つ。後手になっていることは明白だ。ならば、ひたすら待ち、出方を窺う。先手の誤差を出来るだけ圧縮するのだ。一ミリも動いてはいけない。神経は策敵のみに全力を注いでいる。

だが、彼らの誤算はひとつ。敵を見誤ったことだ。彼らは知らない。己と対峙しているのは人ではない。文字通りの怪物であることを。そして、それが仇となった。

曹長の手に衝撃が走った。怪我はない。構えていたハンドガンが吹き飛んだのだ。僅かな破片をまき散らせ、銃はひしゃげた。手には痺れのみ残る。武器を失った。そう認識する前に、魔術師の鮮血が神経を叩いた。視界が赤く染まる。かろうじて動く左手でナイフを取り出す。魔術師の心臓が止まる。曹長がもたれかかる魔術師を弾き飛ばす。その時間で十分だった。ターゲットである、女は彼の目の前に立っていた。

彼はその時、確かに感じた。走馬灯のように時間が反比例的に減速していく。左手を振り上げる。その動作が、どこまでも遅い。水の中にいるように、見えない糸が絡みついているように、体は感覚に追い付かない。彼の振り上げたナイフが女へと旋回した時、女はすでに自分の両腕を捕らえていた。

一撃で上腕骨が砕ける。その激痛が脳に到達すると同時に、大腿骨が砕けた。それで終わり。最後に首を掴まれた曹長は、まるでスイッチを切るように、命を刈り取られた。






[43115]
Name: sn◆be94cdbe ID:b6566aa1
Date: 2018/07/18 22:57



士郎はシンジを抱え走っていた。少し回り道をしたが、あと1分も経たずに教会へとつくだろう。それまでお互い無言だった。

敵の正体がぼんやりと輪郭を帯びてきた。その過程で、士郎は神経を研ぎ澄ましていった。油断してはならない。一切の情を捨て、躊躇いを噛み殺し、敵を屠る。――体は剣で出来ている。大切なもののために振るう刃は、皮肉にも大切なものを奪うだろう。

だが、それは承知の上だ。

士郎は思考を引き搾る。余計なことは考えない。目的は二つ、シンジの友人を救いだすこと、そして、この街からあらゆる脅威を打ち払うこと。それ以外は贅肉だ。無駄は切り落とす。士郎には、それができる。

やがて、教会の裏に到着した。あたりは不自然なほど静まり返っている。あたりの様子を窺う。士郎は気配を殺し、シンジは息を殺した。

見張りが三人。入り口のそばの花壇の裏側にある木に潜んでいる。

「どうするんですか?」

シンジは不安を隠せない。士郎は黙ってシンジを地面に下ろした。

「……仲間が、もう着いているはずだが」

あたりの様子を窺う。仲間とは、言うまでもなく桜のことだ。

「まさか、桜さんが、くるんですか?」

「ああ、そうだ。女だからって、なめちゃいけないぞ。とても頼りになるんだからな」

真面目な顔をして、士郎はそういった。シンジが不審そうに眉をひそめると、背後から声がした。

「――先輩?」

「っ!!」

シンジが驚いて声をあげそうになったところを、士郎が口をおさえた。

「桜、来ていたのか」

「ええ、少し遅かったですね」

見れば、二人の後ろにいつの間にか桜が立っている。シンジは人が近づく気配など一切感じなかった。

「途中で連中の仲間がいた。それはライダーに任せて、俺たちは先に来たよ」

「あ、そうなんですか。相手は何人くらいですか?」

「十数名、といったところだろう。もう、終わるはずだ」

「じゃあこっちも済ませてしまいましょう。見張りは任せてください」

淡々と打ち合わせを進んでいく。手慣れている、とシンジは感じた。つまり、ここは危険が多いのだ。多くの人間が知らぬところで、殺し合いが行われているのだ。シンジは「知らぬ」側の人間だった。

「教会のなかには40名ほど人間がいます。アスカさんとレイさんの姿も確認しました」

ぞわり、と全身の毛が逆立った。そうだ、己は何のために彼らと居るのか。アスカとレイを助けるためではなかった。シンジは己に問いかけた。マッチの火のように軽々と消し飛んでいく命の炎を目の前に、目的を見失っていた。

「――あ」

血液が逆流し、脳が沸騰していく。途端に、皮膚を引き裂かれる様な不安に駆られた。死神の鎌は、彼女らの首元に据えられている。恐怖がせり上がる。

そして、シンジは、我を忘れて駆けだした。




「なっ――!! 待て! シンジ君!!」

士郎の制止も聞かず、シンジは教会の入り口へと走り出した。あまりの突然の出来事で、士郎は完全に虚をつかれ止める間もなかった。

異変に気付いた見回りの兵士たちが銃を構える。シンジは猶も走る。教会の扉まで、後20メートル――

「先輩!!」

桜の言葉は起爆剤だった。士郎は桜も見ず地を蹴った。土が抉れ、姿が掻き消える。向かった先は、扉の前で銃を構える二人の兵士。一息の間に、両手に剣を投影する。それは、幾度の戦闘でふるってきた、陰陽の夫婦剣。まるで初めからそこにあったかのように、士郎の両手に収まっていた。

当然ながら、士郎が二人の見張りの兵士の首を掻き切る前に、シンジは蜂の巣にされてしまうだろう。サーヴァントに次ぐ、あの言峰綺礼なみの身体能力を駆使しても、トリガーを引く僅かな指先の動きを止めることは叶わない。そんなことは百も承知だ、とばかりに、士郎は両腕を交差するように振りかぶった。

士郎の手から夫婦剣が放たれる。弾丸にも迫る速度で、下向きの放物線を描きながらシンジの脇をすり抜けた。夫婦剣は、それぞれ兵士の眉間と喉笛に突き刺さった。

「グ――!!」

声ならぬ断末魔をあげ、兵士たちが崩れ落ちる。コントロールを失った両腕は、虚空へと弾丸を送りこんだ。そのうち一発がシンジの頬をかすめ、僅かに血液が弾ける。それでも、シンジは怯むことなく教会へ突進した。
さっきとは、まるで別人のようだ。初めて会ったときは、まわりの様子を窺いながら勝気な女の子の背に隠れていたのに、今は我を忘れて駆けている。頬を流れる血にも気付いていない。時々つんのめりながら、息を大きく切らせながら、胸の内にある爆発しそうな不安をエネルギーに変え、無理やり足を動かしている。

士郎は視界の端で、もう一人の見張りの兵士が地面に吸い込まれるのを確認した。倒れたのではない。地中に潜ったのでもない。文字通り、地面という無間の平面に落ちていったのだ。

桜の姿はない。すでに、潜行を済ませたようだ。シンジに目を向ける。まさに、今ドアに手をかけるところであった。士郎は、ライダーがなるべく早く追いついてくれることを祈りながら、シンジの後に続いた。




シンジは蹴破るようにドアを開けた。教会の中を見た瞬間、再び駆けだそうとした足を圧し止めた。何十もの銃口が己を捉えていたからである。その光景に、シンジは己を取り戻した。

一息遅れて士郎が追い付く。視線を端から端へ動かし、自分たちが身動きできないことを知る。今、我々は180度から死を突き付けられている。だが、まだ生きている。相手が殺す気ならば、もう自分たちは唯の肉塊に変わっているだろう。

銃を構えていない者は、4人。うち二人は、中央の祭壇の上に寝かされている。赤い髪と蒼い髪の少女、アスカとレイだ。シンジの目がカッと開いた。

「綾波っ! アスカっ!」

意識のない二人に反応はない。一斉にシンジに銃口が向いた。

「無駄だよ。彼女たちは強力な麻酔で眠っている。どんなに叫んでも聞こえやしないさ」

銀髪の少年が歩み出る。口元には微笑み浮かべ、ポケットに手を突っ込んでいる。

「ようこそ、シンジ君。よくここまでたどり着いたね。まさか、追いかけてくるとは思わなかったよ」

「……カヲル君」

カヲルの言葉は称賛だった。計算外だ、という割にはさも嬉しそうに語りかける。士郎は魔術回路をフル回転させる。コイツは危険だ。経験が、そう訴えかける。

カヲルの隣には、顔中、いや、体中に古傷を持った男が佇んでいる。こちらを観察するような視線には、一切の関心も含まれていない。足元の小石を見るように、何の感情も揺り動かしていない。

シンジは再び頭に血が昇るのを感じた。目の前の親友は、笑いながら親友を傷つける男だったのだ。怒りと悔しさが嵐のように吹き荒れる。

「――なんで、なんでこんなことをするんだ、カヲル君!」

「ここで話すことは何もないよ。僕たちには時間がない。だから一言だけ言っておこう」

カヲルの切れ長の目がさらに細まる。嗜虐の光がちらりと覗いた。

「悪く思わないでくれよ」

カヲルの隣の男が、重たい声で、やれ、と口にした。それは死刑宣告だった。30を超えるアサルトライフルから、分に900発も超える弾丸が打ち出される。外に逃げようが、木製の椅子に隠れようが意味はない。防弾目的でない障壁など、風の前の塵に等しいのだ。必要なのは主の命令のみ。相手が誰であろうが、彼らに、ためらいは一切ない。

だが、彼らの発射した銃弾が目標を破壊する前に、士郎の手が一瞬速く耀いた。

「――“熾天覆う、七つの円環(ロー・アイアス)”!!――」

彼らは知らなかった。だが、彼らに落ち度はない。兵士は一発の銃弾である。銃弾は空気を裂き、目標にたどり着けばよい。余計なことなど、必要ない。だから、彼らは知らなかったのだ。

怪物、と呼ばれる存在がいる。常識の外側で縦横無尽に駆け巡り、人々を蹂躙していく。かつて、この場の兵士たちもそうではなかったか。自分たちは搾取する側で、される側ではなかった。その思い込みこそ、彼らを縛る「常識」だった。

弾幕が視界を奪った。銃弾と、埃と、何かの破片が舞い上がる。それでも兵士たちは銃撃を止めない。一切の慈悲と可能性を破壊するのだ。

だが、彼らは舞い上がる粉塵の向こうに、輝く光を見た。その光は花弁のように赤く、対象を覆っている。幾人かの兵士が手を止めて顔を上げた。それにつられ、パラパラと顔が上がる。すでに、引き金を引く者はいなかった。

「熾天覆う、七つの円環」――それは、城壁である。七枚の花弁が盾となり、使用者を物理攻撃から守る。その強度の前には、銃弾などではびくともしない。赤く輝く花弁に包まれるように、士郎とシンジは無傷で立っていた。もっとも、シンジは腰を抜かしていたが。

兵士たちは呆気にとられた。この男が行ったわざは、彼らの認識を越えるものだ。彼らの仲間にも魔術師はいるが、その魔術師にはこのような芸当は決して出来はしない。いかに異能を持つ魔術師でも、ライフルのシャワーは逃れられまい。

そうして、彼らは油断した。

教会が、小さく揺れた。地面から5メートルはあろうかという窓が割れ、何かが飛び込んできた。兵士たちは呆気にとられる。それは人だった。ほんの一瞬、空中で時間が止まる。薄紫の長い髪をたなびかせた女、その事実が彼らをさらに硬直させた。我に返り、兵士たちが銃を構えたときには、女は姿を消していた。

「あっ」

どこからか声が上がった。声の主は頭に何かが突き刺さっていた。それが何か確認する間もなく、それは引き抜かれた。いや、引き抜かれたのではない。声の主の体ごと移動した。そうして、鎖の存在に気がつく。

つまり、この哀れな兵士は、飛び込んできた女の方向転換の支点として選ばれたのだ。兵士の頭から短剣が抜け、男は壁に叩きつけられる。銃声が響き、宙にライフルの弾が舞うが、女の姿はそこになかった。

「ライダー、間に合ったか」

壁に着地したライダーは兵士たちの中心に飛びこむ。これで彼らは銃を使えない。仲間を巻き込むからだ。兵士たちはアサルトライフルを下げ、ナイフを取り出した。ライダーは迫るナイフを紙一重で避け、すれ違うように拳や蹴りを叩きこむ。屈強な兵士たちは、ライダーの一撃で沈んでいった。

「わあっ!?」

シンジが素っ頓狂に声を上げた。足元が急にぬかるんだからである。もちろん、シンジは教会の床の上に立っており、木材で出来た床がぬかるむ、などあり得ない。だが、シンジの足元は暗く揺らめき、シンジをゆっくり呑み込んでいく

「ああ、シンジ君。気にするな。それは桜の魔術だ。君を安全な場所に移すから、少し我慢してくれ」

「我慢って――ああぁぁぁあ……」

抗議の声を上げる間もなく、シンジは床に沈んでいった。士郎はそれを確認してから、「熾天覆う七つの円環」を消した。

「――体は剣で出来ている(I am born of my sword)」

敵がライダーに気を取られている隙に、投影を行う。士郎の手には巨大な弓と、ねじれた幻想が具現していた――




シンジは気がつくと、どこかの通路に立っていた。ひやりとした空気が頬を叩く。電灯はもともとないのだろうか、壁につり下がった蝋燭が微かに周囲を照らしていた。背後からは地鳴りのような怒号が聞こえる。シンジは直感的に理解した。自分は、あの空間にいたのだ。

「教会の廊下です」

「うへあ」

驚きのあまり、シンジは妙な声を出してしまった。気がつけば、隣に桜が立っている。

ひっと短い悲鳴を上げ、手に持ったジュラルミンケースをごとり、と落とした。

桜は、ちらりとそのケースを見る。それがいったい何なのか、詮索する時間はない。

「二人はこの先です。急ぎましょう」

桜はシンジの肩に手を添え、暗闇に向かって歩き出した。慌ててシンジはケースを拾い、その後ろを追う。

幾度か角を曲がり、桜がぴたりと立ち止まる。その視線の先には木製の両開きのドアがあった。シンジがついてきていることを横目で確認し、桜は扉に手をかけた。

「おや。これは早い登場だね」

「――カヲル君っ!」

部屋の中には、カヲルと傷だらけの男、兵士たち6人が立っていた。彼らの後方の長いテーブルには、アスカとレイが寝かされている。桜の眉がはねた。

「……と、シンジ君と桜さんだけか。ていうことは、あの人数を士郎さんひとりが相手しているのかな。いや、大したものだね。予想以上だよ」

「……」

桜は黙っている。シンジを背中に隠すように、一歩前に出た。途端、兵士たちが銃を構える。

「……やめろ」

傷だらけの男が片手をあげ、兵士たちを制した。

「無駄だ」

男は桜を見据える。爬虫類のような、無機質な視線。二人の距離は4メートルほどあるが、この男ならば一足飛びに距離を詰めることができるだろう。だが、それよりも自分の魔術の発動が速い。こちらから仕掛けてもよい。今の自分ならば、負けることはない。しかしながら、桜は動くことができない。後ろに、一般人であるシンジがいる限り。

「大佐。ここは僕に任せてくれ。先に車をお願いするよ」

「カヲル君!?」

傷だらけの男――大佐は微かに頷くと、兵士たちを連れ、桜が入ったドアの反対側の出口に向かった。レイとアスカは兵士に抱えられる。桜は行かせまいと影を放ったが、何かに阻まれ霧散した。

「駄目だよ。ここにいてもらわなくっちゃ」

カヲルを中心に、赤い閃光が奔る。二人を取り囲むように、何かが空間を覆った。その境界は波打つように赤銅色の波が流れている。カヲルの瞳が、一際赤く輝いた。

「……これは!?」

物体の輪郭が曖昧になっている。まるで、すりガラス越しに覗いた風景のように、ぼやけているのだ。唯一明確なのは、彼ら3人だけである。

「逃げられないように、空間ごと隔離させてもらったよ。桜さん、あなたはどうやら、やっかいな能力をお持ちのようだ」

カヲルは不敵に微笑む。

「――門(ゲート)が通じない……!」

そんな、と桜は呟いた。彼女の魔術の本質である「影」は、離れた空間と空間をつなぐ。どこでも、というわけではない。あらかじめ、彼女が設定した場所のみに限られる。

カヲルは、その経路を遮断した、ということだ。

「いったい、何をしたの? 私の魔術に干渉する魔術なんて、そう多くな
いはずだけど」

脱出は不可能。そう判断した桜は、思考を切り替えた。

「これは魔術じゃないよ。正確には、魔術なんて呼べる代物じゃあない。唯の壁さ」

「そう……じゃあ、試してあげる!」

桜が片手で宙を薙ぐ。その動きに合わせて、影が地面を這い進む。カヲルを襲う三本の黒爪は、またもカヲルに届く前に何かに阻まれ消滅した。
桜はこの不気味な事実の前に歯噛みする。

「無駄だよ。この壁は決して破られることはない。……それがヒトである限りね。何人にも侵されざる聖なる領域――僕は、『心の壁(A・T・フィールド)』と呼んでいる」

「A・T・――フィールド……? 概念武装の一種かしら……?」

「言う必要はないね」

桜が呆気にとられていると、それまで後ろに隠れていたシンジが、桜の横に並ぶ。

「カヲル君!! 答えてよ……何でこんなことを……!!」

「……シンジ君、さっきも言ったけど、その質問について話すことは何もない。でも、僕は信じていたよ。君は必ずここに来るって」

カヲルが両手を広げる。

「シンジ君、僕は『悪』かい?」

「……なんだって?」

「僕は君を裏切った。この上なく卑怯かつ明確に、ね。君の心に疑念と怒りが渦巻く様子がよくわかる。そう、信頼を裏切ることは、『悪』だ。ましてや、それを利用とせん者は、まさに『吐き気を催す邪悪』ってやつだ」

シンジは困惑する。カヲルの意図がわからない。それは桜も同様であるのか、じっと黙って聞いていた。

「――だけど、僕たちはそれから生まれたんだ」

「え……?」

「この地で聖杯が完成した日、僕たちは生まれた。17の使徒の分身としてこの世に送り出されたのさ」

「何ですって……?」

桜が驚愕する。この少年の口から、忌まわしき、そして葬り去ったはずの器の名が発せられたからだ。カヲルは唖然とする桜を見て、鼻を鳴らした。

「シンジ君……君は、知らないことが多すぎるね。いいかい、真実は手を伸ばせば届くところにあるんだよ。ただ、もう遅い」

カヲルのまわりの『壁』が揺らいだ。シンジたちに向かってゆっくり進む。壁は、シンジの目の前に来たところで制止した。シンジは壁に手を添える。指先から正八角形の波紋が広がる。不気味な感覚だ。手のひらからは、温度も質感も感じられない。ただ、そこから先に手が進まないのだ。触るたび、存在をささやくように波紋ばかりが広がるだけである。力いっぱい押しても、まるで始めから押した事実など存在していないかのように、力が吸収されていく。叩いても、吸い付くように拳が壁にぴたりとくっつくだけである。

「君たちはしばらくそこにいてもらおう」

カヲルは踵を返した。その後姿には堅固な拒絶の意が現れていた。

「待って!」

銀髪の少年が振り返る。その表情からは、微笑みが消えていた。桜は彼の意志に、かつて己がそうだったような、破滅的な悪の気配を感じた。過去に引きずられ、未来に絶望した自分――そして、無関係な人間を巻き込む災禍を引き起こすような不条理、沸々と湧きおこるような怒りに身を任せている。

「いったい、あの二人をどうするつもりなの? 何の罪のないというのに――」

「罪?」

カヲルの眉がぴくりと動いた。はじめて、彼の顔に感情のようなものが浮かんだ。

「何のことをいっているんだい? 罪なんて誰にもない。彼女たちにも、僕たちにもね。僕たちは誰にも裁かれない」

「何が目的かは知らないわ。けどあなたはあの子たちを売ろうとしている。そうでしょう?」

桜は語気を荒げた。その「売」という言葉が、シンジの精神に爆弾を落とした。

「僕にはただ目的があるだけだ。それは僕にとって何よりも優先すべきもの……信念さ」

「信念――」桜は呟く。信念と罪……その言葉には、思いがあった。彼女は、それに救われたといっても過言ではなかった。信念、そんな陳腐なものを愚直に貫いた男に。彼は今、自分の為すべき事を為している。教会に入る前、彼は私に背中を預けた。いつからだったのだろうか。守られるだけの私が、少し変わった。

「狭き門より入れ、滅びに至る門は大きく、どの路は広く、之より入る者多し」……私は私の為すべき事を為すだけだ。桜の手に力が籠った。

カヲルの表情にいつもの笑顔が戻る。

「もうアスカちゃんとレイに会わせることはできないから、心の中でアスカちゃんとレイちゃんに別れを言っておくといいよ」

「カヲル君、まさか……!」

シンジは青ざめた。その反応を楽しむように、カヲルは嗜虐的に唇を歪めた。

「彼らが欲しがっているのは、彼女たちの脳髄だ。それ以外は不要だ、むしろ、邪魔だろうね。二人は彼らに都合のいいように弄られるだろう。そう、例えば――」

アスカとレイの顔が脳裏に浮かぶ。いけない、と思いながらシンジは考えてしまった。血と骨、解体(バラ)される肉体。光を失った、瞳――

「うああああああああああ!!」

シンジの絶叫が響いた。頭を抱え、蹲る。

「あ、ああ、ああああああ!!」

頭痛、吐き気、眩暈、脳を真赤に焼かれた鉄の棒で掻き回されるような感覚が、シンジを襲った。地面をのたうちまわりながら、シンジの身体が燃えるように熱くなっていく。

「シンジ君!!」桜はシンジを抱きかかえた。がくがくと痙攣するシンジ。カヲルは、その様子を険しい表情で見つめていた。

「……ここまでだね、シンジ君。さようなら」

「カ、ヲル、君……まっ、」

桜の腕を払って起きあがり、壁に手をつく。シンジは揺れる視界でカヲルを見た。昨日まで、笑っていた親友たち、僕は大切な友を三人同時に失おうとしているのか。思えば、僕は何がしたかったのだろう。どうしてここまで来たんだろう。「見捨てるわけにはいかない」そう自分は士郎に言った。誰を、誰を、




――アスカも、綾波も……カヲル君も大事な友達だ。見捨てるわけには、いかないよ――







[43115] 9
Name: sn◆be94cdbe ID:72c65576
Date: 2018/07/23 01:11


シンジの迷いが消えた。同時に、シンジが持ってきたジュラルミンケースが開く。

「!?」

桜は驚いて、シンジから手を離した。ケースから真っ赤な槍が飛び出し、シンジの胸を貫いた。

槍はそのままシンジに吸い込まれ、波紋を残してシンジの体内へ消えた。その瞬間――

――その瞳が燃えるように輝きだす!

刹那、シンジの身体にエネルギーの奔流が駆け巡る。脳髄から末端まで、火花を散らして電流が奔る。さっきまでの体の変調が嘘のように、シンジは力任せに「壁」に手をついた。

「おあああああ!!」

「シンジ君!?」

『壁』にシンジの指が食い込んだ。歪んだ波紋が広がる。『壁』に包まれた空間がシンジを中心に捻じれていく。『壁』が悲鳴を上げるように、無機質な甲高い音が響いた。

「『壁』が――」

その時確かに桜は見た。シンジの瞳が、金色に輝いている。歯ぐきを剥き出しにして、獣のように咆哮する。

波紋が『壁』全体に激しく波打つ。激痛に身をよじるように、律動する。そうしてゆっくりと、錆びた扉がこじ開けられるように『壁』に穴が広がり始めた。拳大だったそれは、シンジの咆哮とともに垂直に引き裂かれ、『壁』は粉々に砕け散った。

「――黒魔術の呪詛(ゲーティア)』」

『壁』の消滅と同時に桜の影が伸びる。カヲルはそれを新たな『壁』で弾く。同時にシンジが崩れ落ちた。桜が一瞬気を取られた隙に、カヲルは駆けだしドアの向こうへ消えた。

「(また油断して……まだまだね、私)」

桜は歯噛みし、シンジを抱き起こした。ぐずぐずはしていられない。カヲルの去った後を追う。逃がすわけにはいかない。




大佐と兵士たちは教会を裏手から出た。夜のヴェールが、共同墓地が包んでいる。墓地を抜けた先に、1台のワンボックスタイプのバンが停めてある。それに乗り込み、アジトに戻る。現在時刻は21:13と24秒。ここからアジトまで40分。退却用のヘリの到着は22:00の予定だ。悪くないペースだ、と大佐はひとりごちた。

バンには、二人の兵士を見張りにつけておいた。すぐにでも出発できるよう、準備を整えているはずだ。しかし、大佐は違和感を覚えていた。あまりにも、あたりが静かすぎる。

「これは……」

兵士のひとりが大佐を呼ぶ。見れば、死体が二つ、パンクさせられたバンの横に転がっている。

「やられたな。こちらの行動は読まれていたようだ。このラッセル大佐とあろう者が、油断したな」

大佐は兵士に代わりの車を用意するよう指示を出した。兵士たちは頷き、アイコンタクトでそれぞれの向かう方向を決め、互いに背を向け散開する。その時、大佐が彼らを制した。

「――待て!」

兵士たちの動きが止まる。大佐は物音をたてないよう、静かにあたりを見回す。チッ、チッ、と大佐は唇の端で舌を鳴らした。兵士たちは警戒心を引き上げる。この仕草は、昔から変わらない大佐の癖だ。この人物が「大佐」と呼ばれる地位までのぼりつめた理由には、彼の持つ類稀なる第六感が大きな要因となっている。その感覚が警鐘を鳴らしたとき、彼は舌を鳴らすのだ。この未来予知じみた危険察知が、幾度となく彼を窮地から救ってきた。

「散開するな。かたまって動け。狙われているぞ」

端的な指示が飛ぶ。兵士たちは大佐を中心に周囲360度に注意を払いながら、移動を始めた。

「我々がバンの前で停止した時、敵は我々を始末するこれ以上のないチャンスだった。しかし、敵のアクションはなかった。なぜか? 敵は単独かつ、軽装備なのだ。つまり、ひとりひとり暗殺することはできるが、全員まとめては不可能。ひとりでも生き残る者を出すわけにはいかないわけだ。こちらには人質がいるからな。…おい、貴様ら、構えるのだ。今もどこかに潜んで狙っているぞ」

兵士たちは一斉に銃を構える。焦らず、かつ迅速に歩を進めなければならない。「一秒たりとも気を抜くな」そう彼らは何度も何度も叩き込まれている。怒鳴られ、殴られ、這いつくばり、血反吐を吐きながら光届かぬところで泥を啜ってきたのだ。その湿ったプライドこそが、彼らの骨髄であった。輝かしい才能があるわけではない。しかし、どんな状況でも彼らは揺るがない。彼らの組み上げた円陣は、一分の隙も存在しなかった。

大佐は鼻を鳴らした。この私を出し抜くことなどできはしない。常に私は敵の前を走っているのだ。戦場はつねに我が支配下にある。チェスと同じだ。過程は思い通りにはいかないが、結果は想定内。そして、ここでカヲルを切り捨てることも想定内である。あの少年はこちらには必要ないものだ。むしろ、あまり手元に置いておくと危険だろう。大佐の勘がそう告げていた。

やがて、彼らは路肩に止めてあるワゴンとバイクを直結でエンジンを叩き起こし、暗闇の彼方に溶けていった。





夜の闇に小さな光がともった。

木の陰から男が姿を現す。咥えていた煙草に火をつけ、紫煙を吐きだした。右手に持ったワルサ―をホルスターに収め、加持リョウジはポリポリと頭を掻いた。

「やれやれ、あのおっさんには敵わないなあ」

加持のねらいは完全に看破されていた。兵士たちがバラバラになったところで、ひとりずつ始末する。己の最も得意手段とする戦法である。彼の性格上、任務は一人でこなすことが多かった。そのため、常に数の上で不利にさらされるのである。けれども彼はそれをマイナスに捉えていなかった。ひとりならば、自分の思うように行動ができる。ひとりならば、どんな場所にも潜行できる。失敗の尻拭いも、自分でする。まわりから見れば勝手な男だが、彼の行動力にまわりがついていけないことも原因であった。洞察、判断、行動……どれも、一般の兵とは次元が違った。まわりはむしろ足手まといなのである。ゆえに、彼は常に一匹狼であった。――「彼女」が現れるまでは。

大佐は超能力者ではないか、と思えるほどの先見性を持っている。この能力は、大佐のずば抜けた洞察力と豊富な経験から成るものだと加持は認識している。環境を読む力、人の心理を読む力、彼が軍人という職業を選ばなければ、どんな人物になっていただろうか。

彼の命は常に狙われてきた。そして、その度彼は危機をすり抜け逃げ切った。斯界では、伝説的人物と化している。この男を仕留めるのは、某国の大統領を暗殺するより難しいかもしれない。

煙草を吸い終えたところで、人の気配を感じた。隣には、いつの間にか何者かが立っていた。その姿を確認して、加持は立ちあがる。

「さて、行くとしますか――」





[43115] 10
Name: sn◆be94cdbe ID:72c65576
Date: 2018/07/30 21:33



桜はシンジに肩を貸してカヲルの後を追った。やがて境界の裏手に出ると、道路のあたりから強い光が瞬いた。それが車のパッシングであると気づいたのは、中から人が出てきたからであった。エンジンとライトをつけたまま、こちらに歩いてくる。

背の高い、女性である。光を背にしているので、顔は見えない。腰に手を当て、こちらを覗き込んでいる。桜は戸惑った。敵ではないことは明らかだ。敵ならばこの暗闇に乗じて襲ってくるだろう。わざわざ姿を現す意味はどこにもない。

しかし、目の前の女性は少なくとも自分の知る人物ではない。桜は魔力をフル回転させた。

「あら~、やっぱりシンジ君じゃないの!」

「えっ」

シンジは驚きのあまり顔を上げた。それはとても聞きなれた声だった。しかし、その声の主がここにいるはずがない、その違和感がシンジの意識を覚醒させた。

女性はすたすたと近づいてくる。シンジの反応に、桜も警戒を緩める。敵ではないようだ、シンジの間の抜けた顔からよくわかる。

「なに驚いてんの? 私よ、わーたーし!」

「ミ、ミサト先生……!?」

そ、と笑顔で答えるミサト。シンジの頭には疑問符が増えるばかりだ。

「怪我はないみたいね。じゃあ、さっそくだけど二人とも車に乗って。追いかけるわよ」

「……貴女は誰です? シンジ君は知っているようですが」

「んふふ」ミサトは艶やかに笑った。挑発的な目つきで桜を眺める。

「私はシンジ君の学級担任の葛城ミサトよん。シンジ君がお世話になったわね。助かったわ」

「担任……?」桜は眉を寄せた。何故担任がこんなところにいるのか。

「意味不明って顔してるわね。まあ、とりあえずやつらを追いましょ。ハナシは車の中でね」

そう言うとミサトは踵を返して車に乗り込んだ。桜とシンジも後に続く。ミサトはエンジンをかけ、車を発進させた。

「それで、ミサト先生は、何でここにいるんですか?」

一般道を時速100キロですっ飛ばしている。その恐怖に震えながらシンジは口を開いた。

「シンジ君のお父様に頼まれたからよん」

「父さんが?」

「そ」

減速せずカーブを曲がる。シンジは桜にもたれかかった。女性特有の甘い匂いに、シンジは頬を染めた。

「何故ですか? こんなことが起こると予想していたのですか?」

「そおねえ、シンジ君のそういう頭の回転が速いところは先生、とってもいいと思うわよお」

「答えになってません」シンジはミサトを睨んだ。

「はい」

ミサトはホルスターからマグナムを取り出して見せた。二人の目の色が変わる。

「私のお仕事はシンジ君を守ることよ。それがお父さんからの指令」

シンジの脳裏に士郎の姿が浮かんだ。彼は、躊躇いなく人を傷つけていた。ミサトは彼と同じ人間なのだろうか。

「でも、先生は……」

ミサトは振り向かない。マグナムを仕舞い、シンジに微笑んで見せた。

「シンジ君は私の教え子じゃないの。助けに来るのは当たり前よ。ま、ちょっとイレギュラーもあったけどね!」

いつも通りの先生だ、シンジはそう思った。だからこそ、疑問は余計に増えるのだが。

「それで、あなたは結局教師なの? それとも違うの?」

「モチロン教師よん、小娘ちゃん」

桜は複雑そうに顔を歪めた。

「私、今年で32ですけど……」

「ウソッ!? 私より年上!?」

運転が乱れる。シンジはため息をついた。





教会は、外から眺めれば不気味なほど静かであった。曇った窓ガラスからそっと明かりがもれているが、固く閉じられた扉は人を拒んでいる。この教会は、意図的に人々から切り離された場所だ。不純な存在を拒んでいる。混じった者は、この教会の静寂を乱すのだ。

しかし、今夜は違った。この教会こそ、境界を乱している。

魔術結界。自然法則を捻じ曲げる、線の外側に生きる者がなせる業だ。たとえ、この教会内で阿鼻叫喚の殺戮が行われていても、決してその叫びは外に漏れることはない。

皮肉にもその結果をもたらしたのは彼ら自身だった。勝利を確信し、不測の事態を除外した。まさかたった2人に皆殺しにされるとは考えもしなかった。結局彼らが認識していなかったのは、人知を超えたバケモノの存在で、己の血が床を汚すころ、ようやく気付くのだ。

「……これで全員か」

ぐちゃり、と生々しい音がする。床に出来た血だまりを踏んだ。服は返り血にまみれているものの、怪我ひとつない。士郎は夫婦剣を持った両手を降ろした。

「あごっ」

振り向くと、ライダーが男の頭を踏み砕いていた。

「ひとり残っていました」

おそらく死体の下に隠れていたのだろう。攻撃のチャンスを窺っていたか、このままやり過ごす気だったのかは分からない。どちらにせよ、生かしておくわけにはいかない。もし仲間を呼ばれたりすれば面倒なことになるからだ。けれども、見えざるものを見る目を持つライダーから隠れようとしても意味はない。ライダーは折り重なった死体を見渡し、武器を降ろした。

「……」

彼らは弱かった。この密集した状況では銃は使えないため、兵士たちはナイフを取り出し士郎とライダーに立ち向かった。その時点で勝敗は決まっていた。彼らが、犠牲をいとわず撃ちまくればあるいは二人にひと太刀浴びせることができたかもしれない。

だが、誰がそのような選択をできようか。彼らはひとりずつ、確実に、命を奪われていった。その度、返り血が教会を血の海に沈めた。士郎たちが立つのは、まさに血の海である。

「いそぎましょう、士郎。奥の部屋に人の気配はありません」

「桜は何と?」

ライダーは目を閉じる。彼女と桜はいまだサーヴァントのパスで繋がっているので、意識下のコンタクトが可能である。すぐにライダーは顔をあげた。

「敵は逃走中です。今、サクラたちは協力者の車で追跡しているそうです。場所は不明ですが、方向から推測するにアインツベルンの森であるかと」

「アインツベルン城かな。――行こう、ライダー」

数十人もの死骸が床を覆っている。足の踏み場はない。士郎は屍を踏みしめながら出口へ向かう。ライダーはひとりの死体からナイフを拾い上げた。そして、最早誰のものか判別できない血で濡れたその刃先を持ち、短く振りかぶって放った。ナイフは弾丸のごときスピードで壁に突き刺さる。そこには、教会の電灯のスイッチがあった。一瞬の火花の後、教会は闇に包まれた。




甲高い音をあげてミサトの車が停止した。急カーブと急ブレーキのダブルコンボでシンジと桜は車内でピンボールと化した。転げまわって目を回している二人を尻目に、ミサトは険しい顔で乗り捨てられたバンを見つめた。

「ここで降りたのね」

バンの先には森林が広がっている。熱帯雨林のような密度はなく、ロシアやカナダの針葉樹林の森を想起させる。無理をすれば車でも通ることは可能である。

やがてシンジと桜が頭をおさえて出てきた。恨みがましそうにミサトを睨む。

「ひどい目に会いました」

「……」

「今はそんなことを言っている場合じゃないわ。――ほら、見て」

ミサトの指の先には、タイヤの跡があった。深く地面を抉っている。よほど急いでいたようだ。跡は森の奥へと続いている。

「小型のバギーカーね。毎度毎度こんなものどうやって調達しているのかしら」

感心しているような、呆れたような口調でミサトが呟く。桜はミサトをにらみつける。

「葛城さん、あなた、彼らが何者か知っているのですか?」

シンジは驚いて振り向いた。

桜の声には若干のいらだちが含まれていた。目の前に敵がいる、という事実以外、桜を始め士郎もシンジも何も知らない。それなのにこの女は「私は知っている」という素振りを微塵も隠さない。自分だけ、真実の蜜を啜っている。教えられないのならばそれでいい。そう我々に伝えればいい話だ。だが、ミサトはこちらの反応を窺うように情報を出し渋りするのだ。桜は少し痛い目に会わせようか、というような暴力的な手段による解決も選択の視野に入れた。

ミサトもその気配を感じ取ったのか、仕方がない、といった風情で口を開いた。

「わかった。私の知っていることなら、話しましょう。その前に車に乗って。私の車ならこの森でも走れるわ」

二人は黙って車に乗り込んだ。エンジンはつけたままだ。すぐにギアを入れ走り出す。木々の間をすり抜けていく。月の光さえ届かない森では、車のライトのみが頼りだ。抉れた地面や木の根が車を揺らす。それでもスピードを緩めずミサトはハンドルを回す。

「私も詳しくは知らないんだけど、」ミサトは語りだした。

「彼らは傭兵よ。それも軍人崩れのね。昔、どある組織に飼われていたんだけど、その組織が崩壊してから野生化しちゃってね、世界中で悪さをする始末よ。目的はアスカとレイちゃんを手に入れること」

「だから、それがわからないです!」シンジがたまらず口をはさんだ。

「聞いて。今言ったけど、目的はアスカとレイちゃん。――けれど、そこにあなたも含まれているのよ」

シンジは絶句した。

「僕が……?」

「なぜシンジ君だけ狙われなかったのか、それはわからないけど……」

ミサトは言葉を濁した。

「あなたたちは特別な子どもたちよ。14年前、この冬木の地であなたたちは生まれた。同じ時期に、冬木ではある恐ろしい出来事が起こっていたの」

桜の顔色が変わった。

「――聖杯戦争」

「そう。なんでも願い事が叶うという聖杯をめぐり、七人の選ばれた者たちが殺し合う、反吐が出るような茶番だわ。そんなくだらないもののために、大勢の人が命を落とした。本当に、馬鹿げてる」

「……」

「でもね、聖杯の力は本物だったそうよ。そして、聖杯を独自に研究していた組織はある成果を得た。それがあなたたちよ」

シンジは息をのんだ。心当たりがある、そう思った。たった今経験した、あの赤い壁だ。

「詳しくは知らないわ。聖杯戦争が起きたとき、あなたたちはまだお腹の中だった。その時いったい何が起きて、あなたたちがどうなったのかもね」

「僕は……」

父と母の顔が浮かぶ。変わったところはあるが、尊敬すべき善良な家族だ。だが、シンジは孤独を感じた。己の知らない父と母の顔があり、そして過去があったのだ。自分も無関係ではない。

「私もそのプロジェクトの関係者よ。間接的にね」

ミサトは続けた。

「当時、あなたたちと同じくらいだったわ。父の仕事だからって、ここに連れてこられたの。まさか、それがこんな馬鹿馬鹿しいことだなんて思わなかったけど」

「……仕事って何ですか?」

「父は研究者だったの。このプロジェクトに参加していたわ。動機は分からない。けど、どうせ碌でもないものだったんでしょう。だから、碌でもない結果に終わるのよ」

ミサトの声の色が変わった。

「まさか――」

「そう、死んだわ」

ミサトは吐き捨てるように言った。

「何が起きたのかわからなかった。研究施設が急に揺れたの。凄まじい爆音とともにね。私はちょうど布団に入ってた。吃驚して起き出したら、頭に何かが当たったの。それで気を失って、目を覚ましたら父に抱かれていたわ。『ここなら安全だ』って言って、血だらけの手で私をカプセルに押し込めて、蓋を閉めた。それから、また爆音がして、カプセルごと吹き飛ばされたわ。衝撃が収まってカプセルから出たら、周りは瓦礫だらけだった」

車がひときわ高く跳ねた。ミサトは言葉を切る。

「不思議なの。仕事ばかりで家庭を顧みなかった父、私はそんな父が憎かった。でも、いなくなると酷く寂しいの。しばらく口をきけなくなるほどショックだったわ。――いえ、今はアスカとレイを助けなくちゃね。タイヤの後はずっと続いているわ。しばらく追いましょう」

ミサトは途端に口を閉ざした。シンジは俯き、桜は目を閉じた。聖杯戦争、15年前の傷跡。桜にとって、未来の道しるべとなり、一生外れない重荷となった出来事だ。今でも悪夢にうなされることがある。新都を徘徊し、目に入る生物を飲み込み咀嚼する夢だ。私は怪物だった。赦されぬ罪を犯した。だからこそ、あの夜を掘り起こす者は赦さない。

「そこまで聞ければ十分です。おそらく敵の行き先はこの森のアインツベルン城でしょう。このまま進めばつくはずです」

桜はそう言って腰をあげた。ミサトとシンジは驚いて振り向いた。

「ちょ、ちょっと、何する気!?」

「先に行くだけです。冬木市は私の庭みたいなものですから」

影が全身を覆っていく。思わずミサトは車を止めた。紺色の座席が黒く染まっていく。その浸食はシンジのシートの手前で止まった。もはや影と化した桜の、口と思わしき部分が微かに動いた。

「先に、行ってますね」

影はとぷん、と地面に消えた。








[43115] 11
Name: sn◆be94cdbe ID:72c65576
Date: 2018/08/05 10:36



兵士たちの作戦は完遂を迎えていた。教会からバンに乗り込みアインツベルンの森へ向かう。それから、あらかじめ森の入口に用意していたバギーカーに乗り、森に入る。ヘリとの合流地点である、アインツベルン城の中庭に着きさえすれば、後は空の旅だ。ヘリでロシアへと向かう。そして「ウサギ」と「ネコ」をいけ好かない研究者たちに引き渡せば任務終了。そのはずだった。

「大佐」

兵士たちが辺りを窺う。目の前の城は闇に沈んでいる。かつて何があったのかは分からないが、入り口周辺がまるで戦場跡のように破壊されている。とはいえ、銃弾や爆弾がさく裂した形跡はなく、巨大なハンマーが壁に凄まじい力で叩きつけられたような有様だ。見れば見るほど不思議だ。こんな惨状はかつて出会ったことはない。大佐はライトであたりを照らした。神話の怪物でも現れて、人間の伝統と権威の象徴である城を破壊したのだろうか。かつて子どもだったころに聞いた話を思い出す。

小さかった時、ひと睨みで生物を石に変え、何本もの手足を持ち、鋭い牙で人を食らう、そんな怪物を想像しては背筋を震わせた。思えば自分の危機感はそこで養われたのかもしれない。「死」が身近にあった、「死」が生きる証しだった。己の生の証明は、他人の「死」によって彩られ、己の「死」によって完成する。必要なのは、死に場所なのだ。

大佐の脳裏にひとりの女性が浮かぶ。己が愛した最初で最後の女性だ。たった5分間の花嫁、銃弾が飛び交う戦場での、儚い契だった。ドレスは用意できなかった。指輪だけはずっと持っていた。汚い布で彼女の血を拭い、そっと薬指に指輪をはめた。弱弱しく笑う彼女を脳裏に焼き付け、モルヒネを打った。体温が急速に失われていく。その呆気なさに、絶望したのだ。最期に、彼女が何と言っていたか、聞きとることは叶わなかった。




「大佐」

「わかっている。散れ」

大佐の指示で兵士たちが散開する。アインツベルン城の入り口に数名の兵士が張り付いた。入り口から覗く内部は吸い込まれそうなほどの闇に染まっている。大佐の感覚を持ってせずとも、兵士たちはこの気配に気づいていた。経験が語りかける、不吉の予感。合流地点へ行くためにはアインツベルン城内部に行く必要がある。そして、それを阻む何かがいる。

兵士のひとりがホールへスタングレネードを投げる。一瞬、ホールが明るく照らされる。暗闇が戻った後も反応はない。これで、中に人がいないことが確認できた。しかし、だからとはいえ、中に侵入すべきか。作戦を忠実に遂行する兵士たちにしては珍しい迷いがあった。その判断を支えるように、大佐からの突入命令がない。

「……」

停滞は続く。散開した他の兵士からの合図がない。左右に二人移動したはずだ。それに、ヘリの到着も遅れている、アクシデントが多い、計画に穴があったのか、それとも――

どんっどん、ごろごろごろ、ごとり。

空から何かが降ってきた。球状のそれは二度バウンドし、ころころと転がって大佐の足元にたどり着いた。

「――――」

それは、まぎれもなく先ほど散開した兵士だった。首から下を失い、ゴミのように投げ捨てられた。

大佐は素早く銃を構えた。兵士たちに指示を出しす。方法はわからないが、ここに敵が潜んでいるのは確認できた。それも、とびきり凶悪な奴だ。

この生首はメッセージだ。加持のようにひとりひとり静かに消すつもりなどまったくない。あらん限りの恐怖を植え付けて、心臓が止まる寸前に握りつぶすつもりだ。この手の敵は厄介だ。まっとうな神経回路を持っていない。ゆえに思考が読みづらい。

冷たい汗が流れる。次はどこから来るのか、まったく持って読めない。ふと、大佐が木々の向こうに気配を感じた。銃口を向ける。それと同時に、微かな足音が静寂を叩いた。

「!!」

兵士たちが驚いて銃を向ける。当然だ。敵が少数なのは明らかだ。多勢なら、すでに銃撃戦になっている。こちらの出方を窺っているということは、物量に勝らないことを自ら吐露しているようなものだ。だが、その予想は裏切られた。敵は姿を現したのだ。こんなことは経験にない。兵士たちは大佐を見る。大佐も戸惑いの表情を浮かべている。

じゃり、じゃりと歩く音が近づく。誰かが唾を飲み込んだ。音の出所はわかっている。そこに銃弾を撃ち込めばいい話だ。だが、誰ひとりそれが出来なかった。

やがて、月の光が何者かの足を照らした。か細い足首からのびる足先には、ベージュのパンプスが覗いた。ひざ下のふくらはぎはロングスカートで隠れている。そうして現れたのは、ただの女だった。教会で「犬」の横にいた女だ。兵士の頭に不可解な疑問がよぎる。間違いなく我々がこの女より先に教会を出たはずだ。渚カヲルの足止めを突破して追いかけてくるとは思えない。いつ先回りされたのだ? 渚カヲルが裏切ったのか? それはない。やつが我々を裏切るメリットはない。足止めはやつの最後の仕事だ。教会で別れ、ロシアで落ち合う予定のはずである。我々はやつから実験材料を受け取り、やつは我々から必要な情報を受け取る。ギブアンドテイクの関係だ。ならば、目の前の女はなぜ我々に追い付いたのか。

女はゆっくりと歩いてくる。その顔は感情の色がなく、今誰かが引き金を引けば途端に撃ち殺されることすら気づいていないようであった。それか、撃ち殺されることを望んでいる自殺志願者か。いや、囮なのだろうか。めぐる思考に兵士たちは躊躇する。大佐は銃を構えたまま動かない。
相対するまで残り20メートルを切った。兵士たちは一刻も早く引き金を引いてしまいたい気持ちでいっぱいだった。しかし、彼らは上官の命令は命よりも重い、そう叩き込まれている。習慣が、彼らの指を止めていた。やがて、大佐は銃を降ろし、一言つぶやいた。

「アレを使え」

「!」

兵士たちが驚きのあまり視線を大佐に集めた。だがそれも一瞬、前方の二人はすぐに腰のポーチから小型のケースを取り出した。ケースの中には注射器が入っていた。二人の兵士はちらりと針を見やり、己の首につきたてた。




桜は歩みをとめた。二人の兵士がアンプルを取り出し注射器にはめ込み、それを躊躇なく首に打ったからだ。その奇怪な行動に、桜は警戒心を強めた。まだ奥の手がある、そう受け取った。やがて、二人の兵士の体が淡く輝きだした。両腕に輝く模様が浮かぶ。桜は驚いた。見たことがある。まさにそれは、魔術回路ではないか。

「――!」

兵士のひとりが銃を捨て跳躍した。5,6メートルはあろうかという木の頂点に到達し、幹を蹴って姿を消す。生身の人間が為せる業ではない。可能なのは、人外の化け物か魔術師くらいだ。

そうか、桜は理解する。あの注射はそのためのものだ。

「行くぞ」

大佐と残りの兵士が遠ざかる。すぐにでもこの場を離脱して追いかけなければならない。けれども、シンジとミサトがここに向かっている。あの二人は一般人だ。外法の者たちの相手にはならない。自分がここで、始末せねばならない。桜は魔術回路をフル回転させた。

「――黒魔術の呪詛(ゲーティア)」

桜の影が立ったままの兵士に伸びる。影は立体の波となり、兵士を襲った。

「ふっ!!」

兵士は身体をねじり、迫る影に回し蹴りを叩きこんだ。その嵐のような一撃に影は霧散する。桜は驚愕に目を見開いた。体制を整えた兵士の両手両足から、目に見えるほどの魔力があふれている。だが、いくら魔力を駆使したとて、「影」を退けることができようか。

アレは、ただの魔術ではない。近寄らせてはいけない。

「――深紅の女(ベイバロン)」

桜の周囲に影が広がった。それは、桜を中心とした半径2メートルの結界である。それは、「はじく」結界ではない。「飲み込む」結界である。

兵士は躊躇した。魔術を扱う者なら一目でわかる。この結界は触れてはならないものである。捕まれば最後、魂ごと咀嚼される。

兵士は立ち止まり、足元の卵大の石を拾った。左足を軸に腰を捻り、大きく振りかぶって桜に投げつけた。たとえ子どもでも、思い切り投げつけられた石は十分な攻撃力を秘める。投げるふりだけで相手を怯ませることもできる。人の頭部の大きさの石になれば、使い方により殺傷力さえ持つ。その汎用性と効果を馬鹿にすることはできない。ただの人間でも、だ。

兵士から放たれた石は、弾丸に迫るスピードで桜の眉間を捉えていた。普通の人間には決して為し得ぬ業だ。魔術によって強化された手足がそれを可能にした。

半端な魔術師ならば、このまま眉間を貫かれ絶命することは必至だ。石は桜の眉間に迫り、そのまま飲み込まれた。

「……!」

兵士は己の目を疑った。確かに石は女の頭を貫いた。しかし、まるで何事もなかったかのように女は立っている。傷口もない。石はどこかへ消えた。

「――偽の使徒団(プセウド・アポストリ)」

結界の影が蠢き、水が沸騰するように、ぼこぼこと泡立つ。その波の中から、影がいくつも盛り上がった。細長く1メートルほど伸びたところで、蠢動を止めた。今度はゆっくりと、兵士に向かってその身体をねじる。

「――施錠(コンキアーヴェ)」

桜の声とともに、十を超える影が兵士を襲った。結界から身体をのばし、空中を走る。まっすぐではなく、不規則な動きで迫る。

兵士は地を蹴った。徒手空拳で防げる数ではない。むしろ、この影を隠れ蓑にして、本体に近付くべきだ。真横に飛び、円をえがくように桜の横へ回り込もうとする。

「!?」

しかし、そこに桜の姿はなかった。結界だけが生きている。彼を狙った「偽の使徒団(プセウド・アポストリ)」は向きを変え彼に追尾する。

魔術とはいえ、所詮は物理攻撃だ。兵士は「偽の使徒団(プセウド・アポストリ)」を迎撃した。悲鳴のような音をあげ迫ってくる影に、兵士は魔術で強化された拳を叩きこむ。捌くことが出来ない影はかわし、次に顔を出す影に回し蹴りを叩きこんだ。金属と金属がぶつかるような甲高い音を出し、影は地面に溶けていく。兵士は気がつかなかった。足元に落ちたしみが、消えずに広がっていることを。

「――つかまえた」

そうして、兵士の足が急にぬかるみにはまったように地面に沈んだ。足は抜けない。まるで地面の一部になってしまったようだ。腰を捻り、右拳を地面に叩き込む。しかし、右腕も影に飲み込まれ、抜けなくなった。

細腕が地面から伸びる。白く、陶磁のような皮膚。そのなめらかさは、タールのような影から浮かび上がり、兵士の腕を掴んだ。腕に激痛がはしる。まるで薬品で溶かされているような痛みだ。

兵士はたまらず声をあげた。激痛が腕全体に広がる前に、何かが影へと降り注いだ。

「!!」

兵士のまわりの地面が抉れる。魔術のこもった一撃だった。結界が破られ、足と手が解放される。兵士はもう一人いた。木の上で様子を窺っている。桜は姿を消した。あと2秒あれば、息の根を止めることが出来たのに……。

兵士の右腕はまるでミイラのように萎びていた。感覚がない。完全に死んでいる。あの女は生命力と呼ぶものをごっそりと持っていったのだ。使い物にならない右腕をぶら下げ、左腕に力を込める。

兵士の目の前の地面から影が現れた。こちらに向かうかと思ったが、城へと移動している。兵士はその影の先に回り込む。自分たちの任務はここで足止めすることだ。木の上からも援護が入る。影に向かってまた何かが降り注がれる。

途端、影が凄まじい速さで木に登り始めた。簡単なことだった。木の上にいる兵士をおびき寄せたのだ。影は木の上部へ消え、兵士が木から下りてきた。

「影には触るな」

「わかっている」

木から下りてきた兵士が死んだ右腕を見る。その顔に表情はなかった。

『そうそう、……大人しくしてもらわないと、困ります』

どこからか声がする。どこを見ても声の位置がつかめない。森全体に反響しているようだ。

この女の狙いは我々だ。大佐ではない。理由はわからないが、我々を確実に仕留めようとしている。加えて、影を使った虚数の魔術。初めて相手をするタイプだ。

二対一とはいえ、不利な状況であろう。兵士たちは、月の光があたる城の入口へと移動した。我々の目的は女の足止めだ。攻撃されなければそれでいい。

「ジョー、アンプルはまだあるか?」

「ああ」

ジョーと呼ばれた兵士は頷いた。アンプルの入ったケースを撫でる。残り二本、時間はない。

「スキナー、今どれくらい経った?」

「3分だ」

そう言ってスキナーと呼ばれた兵士はアンプルを取り出し、注射器にはめて打った。再び身体が輝きだす。

『お話は終わりですか?』

「!!」

また声がした途端、暗闇から影が伸びてきた。宙を舞い、兵士たちを貫かんと進む。横っ跳びで回避すると、影は城壁に突き刺さった。

「離れろ!」

壁が黒に染まっていく。やがてその影が人の形をかたどると、水面から浮き上がるように女が壁から浮き上がった。

「――深紅の女(ベイバロン)」

二人の兵士を飲み込まんと地面に影が広がる。意表をついた攻撃だった。捕まえてしまえば飲み込むだけだ。桜の魔術にはそういう特性があったし、それは物理攻撃を主体にする相手には最も有効な手段だった。だが、「捕まえてしまえば」という思考の甘さがあった。

「それは、もう見た」

スキナーは地を蹴って、3メートルほど跳躍していた。右手の指先を一点に絞り、肘に左手を添える。右腕に魔力が集約していく。その輝きが直径一メートルほどの大きさになると、まるでマシンガンのようにスキナーの右腕から放たれた。

無色透明の力の塊が地面を蹂躙していく。その様はまさに絨毯爆撃と言うにふさわしかった。一分の隙もなく、桜を蜂の巣にせんと際限なく放たれる。

「――偽の使徒団(プセウド・アポストリ)」

影が盛り上がる。桜を爆撃から守るように覆いかぶさった。だが、スキナーの攻撃の前に、影は一枚一枚剥がされていった。爆撃が終わるころ、桜は丸腰になっていた。

「しまっ――」

「ふっ!」

ジョーの左フックが桜を捉えた。僅かに身をよじり、桜は急所への直撃を避けた。ジョーの左拳が桜の右肩にめり込む。骨が砕かれ、組織が潰される音が響く。その凄まじい一撃に、桜はボールのように吹き飛ばされていった。

致命傷ではないが、このまま戦闘が続けられることはできない。ジョーは拳から伝わる手ごたえからそう感じていた。ただ、本来ならジョーの左フックは桜のこめかみを捉え、脳を割れたスイカのようにブチ撒けていたはずだ。それが出来なかったのは、桜が身をよじったこと、そしてジョーの右腕が死んでいたことに原因がある。右腕の感覚を失い、身体全体のバランスが崩れたのだ。とはいえ、この一撃で腕の骨のみならず、鎖骨、肋骨もへし折ってやったはずだ。折れた骨は肺や胃に突き刺さり、瀉血、吐血を伴う激しい痛み、そして呼吸困難に苦しむ。自分のような鍛えられた兵士でもない限り、戦闘続行は不可能だ。どこの世界に、死を目前にして向かってくる人間がいる――。

今度はジョーとスキナーが油断した。「今頃ぼろ屑のようになって呻いているはずだ」――そう決めつけ、警戒を解いた瞬間だった。

『深紅の女(ベイバロン)』が揺らぎ、スキナーの足に絡みついた。驚く暇もなく、影はスキナーの身体を覆い、口から体内へ侵入した。その姿は焼夷弾で焼け焦げた人間のように黒く染まり、スキナーは苦痛に身をよじり、のたうちまわった。呼吸器を潰され、粘膜を犯され、神経を焼かれる。喉を掻き毟り、全身を激しく痙攣させた。

ジョーは無我夢中で影から離れた。信じがたいことであるが、女はまだ攻撃の意志を失っていない。今すぐにでもとどめを刺さなければ、スキナーの命が危ない。だが、彼は意識の奥底では確信していた。スキナーはもう助からない。ジョーはアンプルを注射器にセットし、もう一度注射した。身体に力が漲る。最期の一撃だ。何としてもあの女を消す。ジョーは決意を固めた。

暗視ゴーグルをつけると、あっさりと女は見つかった。木にしがみつくようにして立っている。右腕はだらりと垂れ下がり、左腕で右のわき腹を抑えている。こちらの姿を確認し、ごぶりと血を吐いた。思った通りだ。女はあと数刻を待たず命を落とすだろう。しかし、それでは収まらない。この手で頭蓋をかち割ってやらねば、スキナーも浮かばれぬ。ジョーは一足で桜との間合いを詰めた。

桜が左手を掲げる。それを合図に、影が立ち上がる。致命傷を受けてなお、この女は折れない。その点は敬意を表する。しかし――

「言っただろう。それは、もう見た――!」

一瞬が戦いの天秤を傾けた。血を染めた漆黒、せりあがる影、触れれば終わり。魔力を吸い取られる。それは、魔術に対する絶対防御であり、最も有効な攻撃である。この壁を突破することはできない。ジョーはよくわかっていた。

だから、ジョーは桜の3メートル手前で飛んだのだ。

高い跳躍ではない。影を避けるためではないからだ。攻撃をまともに食らう覚悟で、ジョーは桜に突っ込んだ。『深紅の女(ベイバロン)』は地に伸びている。それが弱点だ。ジョーは桜の寄りかかる木に着地した。

同時に、ジョーは桜の首を掴んでいた。渾身の力を込め、その細い首を握りつぶす。骨が砕かれる感触が伝わる。桜は、膝を折って倒れ伏した。

ジョーは受け身もとることができずその場に落下した。手足を覆っていた輝きが消え、激しく痛み始める。皮膚が裂け、血が噴き出す。「副作用、か」ジョーは呟いた。そして、一度えずくと血の塊を吐きだした。自分の命も、長くは持つまい。

彼らが打った注射には激しい副作用があった。というよりも、人ならざる力を与える代償である。ドクターからは「3日に1本まで」と強く念を押されていた。一度に2本以上使えば、どうなるかわからない。スキナーも、桜に殺されずともいずれは副作用で死ぬ運命にあった。ジョーは力を振り絞り無線をとる。スイッチを入れ、大佐に「目標殲滅」と短く報告した。「御苦労」返ってきたのはそれだけだ。その言葉を聞いて、彼は静かに目を閉じた。

――俺はここで死ぬ。しかし、それに見合うだけの仕事はできた。俺はプロだ。任務を遂行すること、それがすべてだ。

ジョーの心臓の鼓動が止まる。彼の顔に、表情はなかった。








[43115] 12
Name: sn◆be94cdbe ID:8f797b01
Date: 2018/08/17 21:57



それから数分後、ミサトとシンジがアインツベルン城前に到着した。車を降り、まるで戦争でも起こったかのような惨状に目を丸くする。

「何があったんでしょう……。地面が捲れあがっています」

「そうね。戦闘があったことは間違いないわ……」

ミサトの顔が強張った。門から少し離れたところに、人間が転がっていたからだ。銃を抜き、用心深く近寄る。まだ生きている可能性は否定できない。

しかし、すぐにそれは死体であることははっきりした。不思議なことに、ミサトはそう確信したのだ。理由は、その異常な死に方であるとしか説明できない。顔は苦悶に歪み、皮膚が爛れている。服装から判断するに、おそらく敵の兵士であろう。

「(銃撃された後はないし、絞殺されたのかしら)」

だがそれでは皮膚の爛れは説明がつかない。だが、今はこの男の死因を探っている場合ではない。大佐を止めること、それから車内から消えた桜の行方を追うこと。

「(いくら妙な力があるとはいえ、プロの傭兵集団に敵うわけないじゃない!)」

なめている、ミサトはそう思った。超能力ひとつあれば勝てる相手ではないのだ。冷徹な頭脳と屈強な肉体、そして鉄の精神。兵士たちはたとえ腕をもがれようが意識がある限り戦い続けるだろう。いわば彼らは機械だ。死をも恐れぬ軍団。可能性さえあれば、刺し違えることさえ厭わないだろう。

桜はもう殺されているかもしれない、ミサトはそう思った。

「ミサト先生!」

シンジが呼んでいる。向かった先には、もうひとり、兵士が死んでいた。その姿は、さらに壮絶だった。

「うっ……」

シンジが口元を手で押さえる。ただの中学生には刺激が強すぎる光景だ。まず全身がずたずたに裂けて、あたりはどす黒い血で染まっている。ところどころ骨が見えるほど、その傷は深い。そして、右腕がミイラのように萎びているのだ。こちらは傷があったが、出血した跡はない。いったいどのようにして殺されたのだろうか。

ともかく、壮絶な戦闘があったことには間違いがない。だが、いったい誰がやったのか。ミサトはあたりを探るが、死体は二つしかない。桜の姿は、どこにもない。ミサトは思考を切り替えた。

「ここにいても仕方がないわ。中に入るわよ。あんまりグズグズしていると、逃げられちゃうからね」




――その時、空の向こうから終わりの音が近づいてきた。

「……これは、ヘリか!」

まずい、ミサトは思った。このままヘリに乗られてしまえば追いかける術がない。それだけは何としても阻止せねばならない。

「シンジ君、さっそくだけど、もう時間がないわ。あなたはここに残って。敵は今から逃げるつもりだから、襲われることもないでしょう。もうすぐ私の相棒も到着するはずよ。この森のどこかに身を隠して、日の出まで待つといいわ」

「駄目です」

「へ?」

ミサトは素っ頓狂な声をあげた。

「綾波とアスカが待っています。カヲル君もいる。僕が、僕が行かなきゃいけないんです」

「けれど、かなり危険――」

「もう決めたんです」

普段消極的でオドオドしていた少年が、有無を言わさぬ意志の光を瞳に宿している。ゆらりと、その瞳が紅く揺らめいた。

ミサトは頷く他なかった。驚き、戸惑いもあったが、それよりも興味が勝っていたからだ。この数日の間に何があったのだろうか。シンジは今までの彼とは違う。「何とかなるかもしれない」ミサトの直感がそう告げていた。

「――わかったわ。シンジくん、行くわよ」





『目標殲滅』

中庭に入ると、無線から連絡が入った。ジョーの声だ。大佐は「御苦労」それだけを伝えた。あの二人が死ぬことは初めからわかっていたことだ。あの女を確実に消すことができるか、それだけが問題だった。二人は任務に成功したようだ。後は、ヘリを待つだけである。いくつもの想定外のトラブルがあったが、予定ではあと5分以内にここから離れることができる。それで終わりだ。大佐は葉巻を取り出し、火をつけた。

やがて、空の向こうからヘリの音が響いた。皆一斉に顔をあげる。

「きたか……」

兵士たちの顔に安堵の色が浮かぶ。しかし、大佐は違った。全身の毛が逆立つように、血が逆流するように、悪寒が全身を走る。

その瞬間、空気が震えた。焼けつくような緊張感が、兵士たちの目を覚まさせた。兵士たちより一瞬速く勘づいた大佐は、兵士たちに指示を飛ばす。

「窓だ、くるぞ!!」

大佐が叫んだ。その一言が兵士たちを救った。反射的に窓へと撃ち込まれた銃弾のおかげで、銃撃がそれたからである。何者かが窓から放った銃弾は、大佐の葉巻を吹き飛ばした。

「そら、最後の仕事だ。隠れているネズミを撃ち殺せ」

窓に手榴弾が投げられた。数秒の沈黙の後、爆音が響く。窓から火が噴き出し、周囲が明るく染まる。その間、大佐と三人の兵士は奥へと移動した。

「まだ仕留めてはおらん。おい、娘をよこせ。我が軍の恐ろしさ、ネズミに叩き込んでやれ」

ヘリの音が大きくなる。兵士たちは力強く頷き、大佐に背を向ける。大佐は残った葉巻に火をつけ、アスカとレイを抱えあげた。

「右端から三番目の上の窓だ。顔を出すな。狙われておる」

その言葉に、兵士たちは影に隠れ、様子を窺った。暗視スコープを操作し、ズームする。ちらりと、何者かの顔がうつった。一斉に兵士たちは銃を向けた。

「さて、見えてきたな。あと1分といったところか。なかなか手ごわい相手だったが、この私を捕らえようなど思い上がりも甚だしい」

大佐は満足そうに紫煙を吐きだした。






銃撃の嵐の中、ミサトとシンジは身を屈めていた。城内に入り、ヘリの音の方向から敵の合流地点を洗い、二階に昇って窓から狙撃を試みた。

そこまでは良かった。窓から顔を出した途端、大佐と目があった。

この暗闇の中、訓練した者でなければものを見ることなど不可能だ。それに、たとえ訓練を重ねた者でもすべてが見えるというわけではない。しかし、50メートル以上の距離があったはずなのに、大佐は確実にミサトの姿を捉えていた。

顔を下げ、銃撃に備える。しかし、一向にその気配はない。ミサトは青ざめた。アレが来る。ミサトはすぐさま立ち上がりシンジの首根っこを捕まえ、部屋の出口へと走った。同時に、その背後から音がした。

ミサトは死を確信した。まさか、撃つ前に居場所を察知されようとは思いもしなかった。そのせいで、判断が鈍ったのだ。

自分の命はどうなろうとも、シンジだけは死なせてはならない。庇うように、シンジに覆いかぶさる。今、二人を打ち砕かんと、閃光と爆音が響いた。

「ぐうっ――!!」

部屋が振動する。だが、衝撃がない。跳ね上がるように顔をあげ、辺りを見渡すと、めちゃめちゃになった室内の中、自分のまわりの空間だけ爆破の衝撃が避けるように、傷ひとつなかった。

「何なの、コレ……」

シンジがミサトの服の裾を引っ張る。

「説明は後です。急ぎましょう」

ミサトは混乱する頭の中、慌てて立ち上がり、廊下を駆けた。噂の通り、大佐は化け物だ。戦闘力ではない。恐ろしいほど冴え渡った勘が、大佐を完璧に守護している。

ラッセル大佐の噂はよく聞いていた。「不死身」の二つ名が語るように、彼はいくつもの死線を潜り抜け、どんな苦境でも生還した。

ミサトが参加した作戦の中で、「七台川包囲網作戦」は決して忘れることができない。

中国の北東部の七台川市に大佐が潜んでいるという情報をキャッチした。その頃は組織も崩壊済みで、ミサトたちは大佐率いる軍隊の残党の行方を追っている最中だった。

綿密に作戦を練り、準備に準備を重ね、誰もが完璧と評価できる作戦だった。そして、なにひとつの瑕疵もなく、作戦は進んだ。ただひとつを除いて。

七台川市に潜んでいる大佐の部隊40名のうち、32人が死亡、7人捕縛、1人が逃走した。それが大佐であった。こちらの部隊では3人が死亡した。すべての計算を狂わせたのは、大佐だった。

大佐はまるでこちらの動きを予測しているかのように、作戦の針の穴のごとき隙間を通ったのである。

ミサトは歯噛みした。当時の悔しさがよみがえる。また、私は大佐を逃がそうとしているのか。今回は、そうはいかない。必ず捕まえてみせる。ミサトはまだ諦めていなかった。

シンジの手を引いて駆ける。そして、別の部屋に入り、窓から中庭の様子を窺う。そうして、アスカとレイを抱えた大佐と、三人の兵士を発見した。物音をたてぬようにそっと銃に手をかける。だが、兵士たちは物陰に隠れ、銃を構えた。ミサトは身を屈める。

「(まさか……ばれ――)」

その時、激しい銃撃がミサトを襲った。窓から数多の銃弾が撃ち込まれる。

「(……そんな、馬鹿な……!)」

この弾幕では、顔を出すことはできない。攻めているはずなのに、防戦一方であるこの状況はいったい何と表現すればいいのか。大佐が指示を出しているに違いない。やつは本物の化け物だ、ミサトは歯噛みした。

ヘリはもうすぐ近くまで迫っている。この調子では、場所を変えてもすぐ察知されてしまうだろう。

どうすれば……そう思っていたミサトの耳にシンジの声がとどいた。

「ミ――ト先――、そ――!」

「なに!? 聞こえない!!」

シンジが何かを叫んでいるが、銃撃の爆音で届かない。シンジは声がとどかないと見るや、何度も空を指さした。

「(なんだってのよっ!)」

ミサトは間断なく撃ち込まれる銃弾に当たらぬよう、窓から空を見る。そこには、信じがたい光景がうつっていた。

「は――?」

月の隣に、一点の光が滑空している。銃撃されていることも忘れ、ミサトはその光をまざまざと見た。光はどの星よりも輝き、少しずつ大きくなっていった。やがて、視認できるほどに光が接近した。

「――馬……?」




「予定通りだ」

時計は22時ジャストを示している。すべては計画通りだ。タイムラインに沿った計画を実行、消費すれば果たせぬ任務などない。大佐は葉巻を吐き捨て、ほくそ笑んだ。数々の視線を潜り抜けた己に対する絶対的な自信、そしてそれを可能にする己の能力に対する信頼が、「任務遂行」という結果でまたひとつ補強された。いつしか自分のこの城壁を破壊できる者は現れるのだろうか、大佐は陶酔と失望で胸を満たした。もう葉巻は、必要ない。

ヘリが中庭の上空でとまる。そしてゆっくりと下降しだした。あたりに強い風が巻き起こり、大佐のベレー帽を飛ばした。戦利品を両肩に抱え、ヘリへ歩み寄ろうとした時、異変が起こった。

「――け! く――!」

「ま――わな――!!」

操縦席で二人のパイロットが何か叫んでいる。中庭に下降するはずのヘリが傾く。急旋回をしている。大佐はパイロットの視線を追った。振り返り空を仰ぎ見ると、一条の光が夜の闇を切り裂いた――!

「うあああああああああ!!」

悲鳴、そして爆音。流星と見紛うような白光は、まっすぐヘリへ突っ込み、粉々に破壊した。

「……なんだと?」

大佐の目は、目の前の光景をありのままに映し、脳に未解析の情報を叩き込んだ。その処理が、状況に追いつかない。今のは何だ、ミサイルか? いや、違う。では小型飛行機の特攻か? それもありえぬ。我がヘリを蹂躙したのはいったい何なのだ。

白光はヘリとともに消え失せ、あたりは炎に包まれた。熱風が肌を叩く。茫然と燃え盛るヘリを見ていると、炎の奥から三つの人影が現れた。

「貴様は――!」

「ここまでだ。もう逃げられないぞ」

士郎は大佐に夫婦剣を突き付ける。それは死刑宣告だった。「生かして帰さない」という明確な意思表示だ。

大佐は顔をしかめた。いったい何をしたのかわからないが、一瞬で状況をひっくり返されてしまったことは間違いないようだ。こうなれば、この小娘二人を捨ててでも逃げなければならない。大佐は素早く思考を切り替えた。

「逃がしませんよ」

「ぬ――?」

何かが足に絡みついた。引っ張って逃れようとするが、蔦のように絡みつき足から離れない。よく見れば、それは影だった。影の先には、女が立っていた。待て、どこかで見た女だ、大佐は目を開く。すぐに、さきほど城の門で自分たちを襲撃してきた女であると気づく。しかし、それはあり得ないことだ。

「貴様……! 馬鹿な、生きていたのか!」

桜は唇の端をあげる。大佐は驚愕した。確かに自分は部下からあの女を始末した、という報告を受けた。それは間違いなく信頼できる。確かに部下はあの女を殺したのだ。だが、目の前で不敵に笑っているこの女はいったい何者だというのか。

「大佐、下がってください!」

兵士が2人大佐の前に躍り出る。手にはアンプルと注射器。二人の兵士は躊躇うことなく首に注射器を突き立てた。

「ん?」

士郎の顔色が変わる。

「先輩、気をつけてください。魔術を使ってきます」

「なんだって?」

二人の兵士の身体が輝きだす。両腕と両足に刻印が浮かび上がる。二人の兵士は銃を捨てた。

「まさか、魔術師か?」

「いえ、違います。魔術使いでしょう」

二人の兵士はそれぞれナイフと小瓶を取り出した。小瓶には液体が入っている。兵士がそれを素手で割ると、中の液体が飛び散り宙に舞った。兵士の周囲がキラキラと煌めく。不思議なことに、液体は地面に落下せず宙を舞っていた。そして。兵士の周りをゆっくりと旋回し始める。

もうひとりの兵士がナイフをふるうと、桜の影が割れるように消滅した。足元が自由になった大佐は、兵士たちの後ろへと下がる。

「魔術使い、ね」士郎は夫婦剣を構えた。

「こいつは一筋縄ではいかなそうだ。ライダー、あの水野郎を頼む。桜は後ろの男だ。逃がさないよう、拘束してくれ」

「はい」

「わかりました、先輩」

三対三、互いに向かい合う。どちらにも引けぬ理由がある。それは明白だ。ただ、大切なもののために、己の存在をかける。それは、魂と魂のぶつかり合い。退くことは許されない。

「行くぞ――!」





ミサトは顔をあげた。空から流星のごとく落下してきた一条の光は、敵のヘリコプターを粉々に砕いて爆発させた。状況から、味方の仕業であることは間違いない。だが、あまりに人知を超えているため、ミサトは混乱していた。

気がつけば、銃撃が止んでいる。恐る恐る窓から中庭の様子を除くと、士郎たちの姿が見えた。

「(彼らがやったのか)」

確証はない。けれどもこれ以上しっくりする答えはない。ミサトは思考を切り替え、マグナムを握りしめた。

こちらを銃撃していた三人の兵士のうち、二人が離れた。一人はこちらを見上げ、銃を投げ捨てた。

「(??)」

腰のポーチからアンプルと注射器を取り出すと、その兵士は躊躇いなく首に注射器を刺した。

兵士の手足が輝きだす。ミサトは目を疑った。超常現象の類のものであることは判断がつく。ミサト自身も耳にしたことはあった。魔術、吸血鬼、異能者――これらは世界の裏で戦いに身を置く人間にとって、嫌でも知っておかなければならない情報だ。

そもそも、ミサトの父はそれらに関する研究に携わっていた。だが、幸か不幸か、ミサトは魔術、吸血鬼に関わることはなかった。戦うなど言語道断。並の人間では手も足も出ない、餅は餅屋、同じ異能の力でなければ立ち向かっても無駄だと教えられた。ゆえに、出会うな、ということが自分たち傭兵の暗黙のルールだった。

「(そんなこと言われたって、出くわしたもんは仕方ないじゃないのっ!)」

ミサトは心の中で毒づいた。兵士はこちらを見上げ、城内へ駆けこんだ。こっちへ来る。

自分ひとりなら逃げだすことくらいは出来るかもしれない。しかし、シンジがいる。どうしようもない荷物だ。だけど、決して手放すことなんてできない。

「だって、私はあなたの先生なんですから――」

「え……?」

「ね、シンジ君」

ミサトはシンジの手を引いて廊下に出る。

「通路の構造上、敵はこの先からくるわ。シンジ君、あなたは先に行きなさい。奥の部屋から中庭に降りるの。大丈夫、下に芝生があるから。それに、中庭にいる人たちなら何とかしてくれるでしょう」

銃の遊底を引き上げる。シンジは戸惑いの表情を見せた。

「それじゃあ……ミサト先生は――?」

「食い止めるわ。必ずね」

ミサトはシンジに背を向けた。

「さ、もう行って。来るわ」

銃を構える。その先は闇。背後も闇。逃げ道などない。だから、二人で逃げても無駄だ。なぜならどんなに急いでも追いつかれてしまうから。倒すなんて思うこと自体無駄だ。なぜなら、異能者と出会った仲間たちは、例外なく殺されてきたのだから。

そして、暗闇に明かりがともった。

「――見つけたぞ」

やつだ。常識外のスピードでこちらへ向かってくる。十分に引き付けねば、仕留めることはできない。この45口径ならば、うまくいけば撃退することもできるかもしれない。そんな楽観的な考えがミサトを支えた。

兵士は鋼鉄製のゴーデンダッグを構えていた。しかし、持っていたアサルトライフルを捨ててまで選択する価値はあるのだろうか、ミサトは理解できなかった。だから、チャンスだと考えたのだ。敵はこちらを舐めている。一筋の希望の光が見えた、そう思った。

接触まで残り20メートル、ミサトは銃の引き金を引いた。

「――え?」

ミサトの45口径から放たれた3発の銃弾は、兵士の頭部、胸部、腹部を目指し、空気を切り裂いて突撃した。しかし、兵士はそれをかわすことなく、ゴーデンダッグでたたき落とした。

「もうひとつっ!!」

ミサトはさらに引き金を引いた。その一撃は、兵士の左腕に命中した。

ミサトの持つ銃――45口径コルト・ガバメント、貫通力こそ低いが殺傷力が非常に高い銃として知られている。一撃でも当たれば敵の動きをほぼ確実に止めることができる。骨を砕き、内臓を吹き飛ばすほどの威力を備えているのだ。

だが、そんな常識が通じる相手ではなかった。銃弾は兵士の左腕を弾いた。それだけだった。

「無傷――」

馬鹿な、と口から漏れる。兵士の左腕には傷一つなかった。鬱陶しいハエを叩き落とすように、造作もなくたたき落としたのだ。ミサトは悟った。――こいつは、怪物だ。絶対に勝てない。

「無駄だ」

兵士はゴーデンダッグを振りかぶった。ミサトは横っ跳びでそれを避ける。鋼鉄のゴーデンダッグは石壁をいとも簡単に砕いた。ミサトのコルト・ガバメントに匹敵する威力だ。返す刀で兵士はまっすぐミサトに振り下ろす。単純な動きだ。ミサトの身体は無意識にそれを避けていた。

床が陥没する。石の破片がミサトの頬を叩く。ミサトの脳裏に己の頭が砕かれる光景がよぎる。怪我どころではない。まともにくらえばスイカのように軽々と破壊される。

「あがくな。施術を受けた俺たちに、ただの人間が敵うはずないだろう」

「……?」

兵士がにやりと笑った。ミサトは距離をとって対峙する。

「この光る腕が見えるだろう。これこそ、我々が長年追い求めてきた『魔術』だ」

兵士は輝く腕を目の前に掲げた。

「……魔術ですって?」





「そうだ」

士郎は兵士から距離をとった。夫婦剣を下げる。

「強化だな」

「いかにも。だが、強化はすべての兵士に施してある」

兵士はナイフの切っ先を士郎に向けた。

「我々はそれぞれ特性を持っている」

ナイフが振るわれる。しかし、士郎との距離は5メートルある。ナイフの刃の先端が弧を描き、空間を切り裂いた。

「むっ!」

何かが来る。士郎は勘を頼りに夫婦剣をふるった。刃から柄へ、柄から皮膚に手ごたえが伝わる。今、見えない何かを、切った。

「ほう」

兵士は目を細めた。

「(なんだ? 今のは……)」

士郎の頬に鋭い痛みが響く。触ると、血がべっとりとついた。

「(切られたのか……?)」

切られたのならば、いつ? どうやって? 士郎と兵士の間には十分な間合いがあった。だが、兵士が切っ先をふるっただけで、何かが飛来し頬が切られた。以上のことから推測される答えはひとつだ。

「――かまいたち、だな」

「ご名答」

兵士は士郎に拍手を贈る。

「わかったところでどうにもならないだろう。魔術は秘匿するべきものだと言うが、我々には関係ない。我々の目的に利用するだけだ。その目的とは、」

兵士はもう一本ナイフを取り出した。

「お前たちには確実に消すことだ」

空気が兵士へと引き寄せられた。腕を回転させ、身体を捻る。切られ、捻られ、圧縮された空間が、士郎を捩じ切らんと突き進む。

「――身体は剣で出来ている(I am the born of my sword)」

士郎は手に持った夫婦剣を投げつけた。かまいたちと正面からぶつかり、弾き飛ばされる。だが、かまいたちもその衝撃で霧散した。士郎は地を蹴り、間合いを取る。

「逃げられんぞっ!!」

兵士はさらに腕をふるった。新たにかまいたちが巻き起こる。もしかまいたちに巻き込まれてしまえば、ずたずたに皮膚を切り刻まれる。避けるのが上策だ。士郎はスピードをあげた。

士郎はジグザグに兵士へとせまる。兵士は舌打ちした。まっすぐにしか進まないのが「かまいたち」の弱点だ。避けることは簡単、直線の軌道から逃れればよい。

「――だが!」

かまいたちを連発する。振るだけでかまいたちを生む、それが兵士に与えられた能力の基本だった。短いナイフでも間合いを無に出来る。接近戦では銃より優れるナイフを、遠隔攻撃に生かすことができるのだ。

士郎はかまいたちを避けるため、宙へ飛んだ。

「間抜けめ!!」

空中では方向転換が出来ない。ゆえに格好の的になる。そんなことも知らないのか、と兵士は思った。殺してください、と言っているようなものだ。

「望み通り、切り刻んでやる!!」

兵士は一息で10のかまいたちを飛ばす。それでも足りぬ、とさらに10のかまいたちを重ねた。

しかし――

「――投影、開始(トレース・オン)」

突然、士郎の目の前に巨大な石斧が現れた。かまいたちはすべて石斧に吸収され、消滅した。

「これは……やつの魔術か!?」

石斧は兵士を目指して落ちてくる。かまいたちでも傷ひとつ付かなかった石斧を切ることは出来ない。兵士は後ろに飛んで石斧を避けた。

「チェックメイトだ」

回避した先には士郎が立っていた。首筋に夫婦剣を突き付けられる。兵士は口の中で、馬鹿な、と呟いた。




「なぜアスカとレイを狙うのです」

ライダーは兵士に疑問をぶつけた。兵士は沈黙で答える。

「……かつてこの地であった聖杯戦争、それが関わっているようですね」

兵士の眉がピクリと動いた。

「貴様も聖杯戦争の関係者、ということか」

今度はライダーが沈黙する。

「ひとつ教えておいてやる。あの娘たちは我々の作りだした『鍵』だ。馬鹿な者どもが我々から盗み、ゴミのように扱ってきた。あれを正しく使うことが出来るのは我々だけだ」

兵士は大仰に手を広げた。

「……何が言いたいのです?」ライダーは間を置いて言った。

「手を出すな、と言っておるのだ。仮に出したとしても、触れることなく命を落とすぞ」

兵士の周りを旋回していた液体が停止した。来るなら来い、兵士の目がそう告げている。

「あなた方の事情は知りませんが、」

ライダーは短剣を握りしめる。

「うちの大事なお客様に手を出したのは、そっちです」

ライダーは短剣を投擲した。兵士の眉間を目指し、まっすぐ飛んでいく。だが、兵士の1メートル手前で、兵士の周りに浮かぶ液体にはじかれる。

「――自動防御」

液体といえど、圧縮して放てば斬撃となる。絞って放てば矢になる。人の皮膚など簡単に切り裂き、貫通するだろう。

「死にたくなければ、すぐにでもここを去れ――と言いたいところだが、お前たちは見過ぎた。確実に、全員切り刻んでやる」

液体が蠕動する。数十個の直径2センチの水球に分裂し、再び回転を始めた。

「私を殺す?」

無表情のまま、ライダーは呟いた。

「つまらない冗談ですね」

水球が放たれた。様子を見るように、一発だけ。弾丸並みのスピードでライダーの眉間を襲う。ライダーはそれを、わずかに身体を捻ることで避けた。最小限の動き……まるでそこが狙われているということがわかっているかのような動きだ。水球は背後にある石壁に突き刺さった。人の身体ならば、たやすく貫通するだろう。そして、その穴から白煙が上がり始める。しゅうしゅうといった空気音が僅かに漏れた。

「……ただの水ではないようですね」

「その通りだ。濃度98パーセントの濃硫酸、触れればただでは済まんぞ」

初めて兵士に表情のようなものが浮かんだ。それは嘲笑のようで、かつ憐れんでいるようにも見えた。

「次は増やすぞ。足掻いて見せろ」

まず10の水球がライダーに襲いかかる。ライダーはそれを横っ跳びで回避した。だが、まるでガトリングガンのように、水球が次々に打ち出される。ライダーの服に水球が掠る。たちまち、その部分の服が溶け、肌が露出した。

「ほら、もっと速く動かねば蜂の巣になるぞ」

さらに水球が飛ぶ。短剣で弾きながら、ライダーはすべて回避した。

「ほう、よくかわしたな」

兵士は余裕たっぷりに言った。まだ、兵士のまわりには数えきれないほどの水球が浮かんでいる。

「たかが女、と思っていたが、なかなかの手練だな」

「それはこっちのセリフです。魔術師でもない人間が、なぜ魔術を操っているのか不思議ですね」

「知りたいか?」

ライダーは答えない。まっすぐに兵士を見据える。その態度が気に入ったのか、兵士は嬉しそうに口を開いた。

「教えてやる。魔術師でない人間が、魔術を行使する、これこそが我々の研究の中核だ。魔術を使いたくても使えない人間がいる……不公平だと思わないか? この素晴らしいパワーを真に使うべき人間が手を出せず、思考にカビの生えた古臭い人間だけが使いこなすことができる。馬鹿な話じゃないか。だから我々は独自に研究を進め、人工的に疑似的な魔術刻印をつくりだすことに成功した。そんな人間にも、この魔術刻印を彫り込み、ある薬品を用いることで魔術の行使が可能になる、ということだ」

「ほう、では大佐も魔術を使う、ということですか?」

「この施術は副作用が強い。大佐の年を考えれば、無謀だ。それに、我々がいる。大佐には……不必要、と言ったほうが正しい」

「そうですか」ライダーは目を閉じ、眼鏡を仕舞う。

「……?」

いつの間にか、ライダーの目が眼帯に覆われていた。髪をかきあげ、ライダーは短剣を構えなおした。

「そこまで聞くことができれば、十分です」

兵士の水球が反応する。ライダーが放った短剣の軌道を逸らした。兵士の頬をかすり、血が流れる。兵士はそこでようやく攻撃されたことに気がついた。

「――!!」

反撃をしようと敵を見据える。しかし、そこにライダーの姿はなかった。見失った、と辺りを探る間もなく、兵士の意識は刈り取られた。

「(――)」

背後から兵士の頭部に打ちこまれた回し蹴りは、己に何が起こったのか振り返ることすら、兵士に許さなかった。兵士はまるでトラックと衝突したかのように吹き飛ばされた。主を失った水球は、バラバラと地面に落下した。硫酸が土にしみこみ、白煙をあげる。兵士の頭は割れたスイカのように砕かれ、血と脳漿をあたりにまき散らしていた。

ライダーはその様子を冷めた目で見つめていた。硫酸の自動防御のおかげで、兵士の頭を砕いた右足のジーンズがボロボロになっている。

気に入っていたのに、とライダーはため息をついた。








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Name: sn◆be94cdbe ID:8f797b01
Date: 2018/08/20 18:41





「知っていることを話すんだ」

士郎は兵士の髪をつかみ、頭を持ち上げた。兵士は冷や汗を流し、ぎりぎりと歯を食いしばる。

「だんまりか」

その時兵士が振り向きざまに士郎の頸動脈にナイフを一閃した。首を切られようがかまわない。己の命と引き替えに、敵の命を狩ることができるならば本望であると。

「ぐああああ!!」

悲鳴が響き渡った。しかし、それは士郎ではなく兵士から出た絶叫だった。どさり、と地面に兵士の左腕が落ちる。夫婦剣からは血が滴っている。

「質問に答えろ。でなくば、次は右腕を落とす。その次は左足、そして右足。最期は頭だ」

かつて左腕があった部分を抑えながら、兵士は蹲った。士郎は兵士の持つナイフを蹴り飛ばし、再び髪をつかみあげる。

「さあ、言え。お前の知っていることを」

戦う術を失い、無力化される。兵士を襲ったのはかつてない絶望と屈辱だった。こんなことは今までなかった。己の積み上げてきた技術、犠牲を払って手に入れた能力が、一切通用しない。バケモノだ、兵士は思った。勝てるはずがない。

「――く、くくくく……」

「何がおかしい?」

士郎は眉をしかめる。この兵士はまだ折れていない。

ぴん。という音がする。兵士が手榴弾を引き抜いた音だった。士郎は兵士を突き飛ばし、後ろへ飛んだ。その瞬間、爆発音とともに砂と埃と血飛沫が舞う。兵士の上半身は粉々に吹っ飛んでいた。これでは聞くものも聞けない。

「やれやれ」士郎は誰に言うわけでもなく呟いた。





「――あ、ぶ」

ミサトは血を吐いた。内臓をやられた。どこかに穴が開いたのか破裂したのかは分からない。臓器から噴き出した血液が逆流し、喉をせり上がる。もはや腹部は感覚を失っている。呼吸も出来ているかわからない。

たった一撃でこれだ。兵士の振るったゴーデンダッグはミサトの反応速度を軽々と越え、腹部に突き刺さった。

「(――な、んだっ、てのよ……)」

起きあがろうと腕に力を込める。だが、ミサトの腕はぶるぶる震えるだけで役に立たない。兵士は無機質な目でこちらを観察している。

「死ななかったか。存外、頑丈な女だな」

壁に手をつき、何とか立ち上がる。足にも力が入らない。壁に寄りかかり、崩れ落ちそうな体を支える。

「これが魔術だ」

兵士は輝く右腕をつきだす。

「不可能を可能にし、人類を弱い葦から生物の頂点へと押し上げる、理想のパワーさ。これから我々が作る新たな時代の礎でもある。素晴らしいだろう?」

「チーターを超えるスピード、熊やゴリラをねじ伏せるパワー、鋼の耐久力、そして人の頭脳。地上最強の生物と呼ぶに相応しい。だが、これまでその技術は一部の者が独占していた。だから我々人間は停滞するのだ! 屑どもめ! 我々ならば、かの力を正しく使うことができる。新時代の導き手となるのだ!」

兵士は愉悦に浸る。ミサトはその様子に唇を歪めた。

「……そ。あんたらが、幼稚な選民思想を持っていることは、よく、わかったわ」

ミサトはせき込んだ。もしかしたら肋骨もやられているかもしれない。

「……なんだと」

「力だの何だの、あんたたちが何考えているかは知らないけど、アスカもレイも私の生徒よ。……たとえ死んでも、手だしさせないわ」

「吠えていろ。貴様は無力だ。ただの人間に何が出来る」

兵士はミサトの首を片手で掴みあげた。

「あぐ――!」ミサトの身体が浮く。

「苦しいか? あと少し力を込めれば首の骨が折れるぞ。――くくく、ほら、許しを乞え。そうすれば、楽にしてやるぞ」

「――あ、ああ!」

ミサトは兵士の腕をつかみ振りほどこうとするが、びくともしない。兵士はその様子に唇をゆがめる。

「俺はな、気の強い女を屈服させることが一番好きなんだ。お前のその気丈な目、そそるぜ」

より一層兵士の腕に力がこもる。酸素が不足し、意識がかすむ。手足の感覚が鈍くなる。これが「死」か、ミサトはぼんやりと考えた。自分が死んだらどうなるのだろう、そう思った時、シンジの顔が浮かんだ。

シンジはもう脱出しただろうか。ミサトが兵士と対峙してからまだ3分と経っていない。もう少し耐えるのだ。そうすれば、きっとシンジは助かる。ミサトは自分に言い聞かせた。

「ちっ、中々耐えるな。どれ、腹の傷でもな――」

パン、と乾いた音がした。いつの間にか、ミサトの手には銃が握られている。先ほどの45口径ではない。腰に差していた予備の銃だ。兵士の腹に小さな穴が開く。そこから、血がするすると流れた。

兵士の言う魔術で強化されている部分は、全身ではない。途切れ途切れの意識の中、無防備な腹部なら攻撃も効くはず、ミサトはそう考えたのだ。

「……貴、様あああああ」

兵士はミサトを反対側の壁に叩きつける。その衝撃に、ミサトの意識は白熱した。気が遠くなるのを必死で耐える。見れば、兵士も腹部を抑えて蹲っている。

「――殺してやる」

ゆっくりと、兵士が近づいてくる。ミサトは今度ばかりは、もう駄目だろう、そう思った。手も足も動かない。残った力でできることといえば、ひとつくらいしか思いつかない。

兵士がミサトの前に立つ。壁に身体を預けたまま動くことが出来ないミサトは、兵士の靴に唾を吐きかけた。

「――っ!!」

憤怒に顔を歪ませ、兵士はゴーデンダッグを振りかぶる。ミサトは目をつぶった。しかし――

「やめろおおお!!」

ばん、という衝撃音とともに兵士が吹き飛ばされた。ミサトが目を開けると、そこにはシンジが立っていた。息を荒げ、頬を紅潮させている。おそらく走ってきたのだろう。けれど問題はそこじゃない。

「シ、シンジ君……あなた、なんで逃げなかったの」

シンジは目を合わせず答えた。

「そんなこと、僕には出来ない!」

「っ!!」

ミサトは驚く。

「もう守られてばかりは嫌だ。僕だって出来る。僕だって、みんなを守りたいんです」

涙目で、シンジはそう言った。だが、内心は恐怖でいっぱいだろう。ミサトは思った。自分が手も足も出なかった相手に、シンジがどうやって勝つというのか。

「――誰かと思えば……」

兵士が起きあがる。シンジはビクリと身をすくめた。

「碇のガキか……答えろ、いったい何しやがった。……押したわけじゃないよな。ガキの力とは思えねえ」

ガタガタとシンジは震えている、兵士はそれを見て落ち着きを取り戻した。

「てめえもカヲルと同じような力を持っているな。カヲルの調査では陰性だったはずだが――あの野郎、いい加減な仕事しやがって」

兵士はシンジを睨みつける。そこでようやく気がついた。シンジの眼が赤く輝いていることを。

「待てよ、その瞳は――」兵士が近づく。

「こっちへ来るなっ!!」

シンジは両手を兵士に向けて突き出した。すると、空間が揺れ、赤い壁が現れる。兵士はその衝撃に再び吹き飛ばされた。

「ガキが……!!」

兵士は受け身をとり、シンジの壁にゴーデンダッグを叩きつける。だが、音もなく兵士の一撃は宙に止まった。

「何よ、コレ……」

兵士は狂ったようにゴーデンダッグを振り回す。その度に空気が震える。しかし、壁はびくともしない。

「くそがああっ!!」

兵士は力任せに城の壁を殴った。拳がめり込み、石の破片が飛び散る。

「『壁を破ることはできない』……話には聞いていたが、こんな厄介なものとは思わなかったぜ。くそったれめ。……仕方ねえ、標的変更だ。貴様らは見逃してやる。その代わり、お前の親、兄弟、友達全部殺す」

「なっ――」

「――!」

シンジは絶句した。その表情に満足したように、兵士は唇の端をあげ、背を向けた。兵士の言葉が、シンジの頭を駆け巡る。大切な人を失うかもしれないという恐怖、シンジはこの争いで嫌というほど味わった。

シンジの足が前に出る。何をしようとしたのか、本人もわかっていない。つまり、無意識の行動だった。そして、兵士が狙っていたのはまさにそれだった。

「シンジ君っ!! 危ない!!」

間一髪、振り向きざまに兵士が振るったゴーデンダッグは、シンジの鼻先をかすめた。ミサトの声がなければ、頭を砕かれていただろう。シンジの思考が停止する。ミサトは震える手で銃を抜き、兵士へ銃口を向ける。兵士はそれを鬱陶しげにゴーデンダッグで打ち払った。

シンジがその音に己を取り戻した時には、兵士の蹴りがシンジの腹へめり込んでいた。体が宙に浮き、壁に叩きつけられる。シンジは、あまりの激痛に身を捩る。急激な吐き気に襲われ、口から血交じりの反吐をぶちまける。己の手が赤く染まり、シンジはくぐもった悲鳴を上げた。腹部が爆発したかのような感覚、シンジの意識は急激に遠のいていった。

「手間掛けさせやがって」

兵士が近づく。魔術で強化された兵士の蹴りは、石も粉々に砕く。シンジのような子どもの肉体ならば、一撃で命を刈り取ることは可能だ。それが出来なかったのは、ミサトの介入によるもの以外考えられない。しかし、銃の弾層はもう空だった。ミサトは何とかシンジに手をのばそうとするが、身体が言うことを聞かない。

「シンジ、くん――、起きるのよ……! シン――!」

「お前は後だ」

兵士はミサトの手を踏み砕いた。骨が粉砕される。

「うああああ!!」

「さて、これでようやくすっきりするぜ。じゃあな、碇シ――」

そのときミサトは確かに聞いた。銃声だ。ハンドガンではない。もっと大きく、火薬量の多い、例えば、ライフルのような――

兵士が倒れた。頭部に綺麗な穴が開いている。即死だったらしく、まるで自分が死んだことに気がついていないかのような表情をしていた。手足の輝きは消えている。おかげで、急激に辺りが暗くなった。

コツコツという足音が響く。ミサトは身体を動かすことができず、首を捻って視線だけをあげた。足音がすぐそばで止まる。そこには、狙撃銃を肩に乗せ、よく知る男がミサトを覗き込んだ。

「遅くなった。すまない」

男はシャツを破り、ミサトの傷口にあてながら呟いた。

「……また遅刻ね、――加持、君」

ミサトはそう言うと、意識を失った。





桜と大佐は10メートルほどの距離を置いて対峙していた。その距離は変わらない。桜が一歩詰めれば大佐は一歩退く。銃を構えたまま、大佐は少しずつ後退する。

「そんな玩具、使うだけ無駄ですよ」

「ほう、言っておくが、こいつは44口径のマグナムだ。貴様の頭など粉々に吹っ飛ぶぞ。試してみるか?」

桜は微笑んでいる。大佐は躊躇いなくマグナムを発射した。6連のリボルバーで、まともに当たれば自動車も止める大型銃である。

轟音とともにマグナムから放たれた弾丸は、不自然な角度にそれ、背後の闇に吸い込まれていった。

「……!」

言葉通り。撃つだけ無駄。理由はわからないが、大佐は己が相手にしている人間が、正真正銘の化け物だと認識した。部下だけで何とかなる相手ではない。連中は我々のようなプロの上に君臨する存在だ。住む世界が違う。だが、それを認めたくはなかった。続けて三発弾丸を放つ。しかし、どれも桜からそれてあらぬ方向に飛んでいった。

「いったい何だというのだ……!」

「ちょっと前方の空間に干渉しただけです。当たると痛そうですから、ね」

逃げなければ、大佐の経験が最大級の警鐘を鳴らす。しかし、どうやって逃げるか。その方法が見つからない。時間を稼がなければ。

「貴様、死んだのではなかったのか? 私は確かに部下から始末したと報告を受けた」

「はい、死にましたよ。私の影が」

「何だと?」

「初めにあなたと会った私は、私の影です。私はそれを別の場所から操っていた、それだけです」

ここまで来るのはベルレフォーンを使いました、と桜は付け加えた。大佐は理解できない。

「では、あの時死んだのは貴様の偽物というわけか」

「半分正解です。さすが、頭の回転は速いですね」

ぱちぱちと拍手をする桜。

「そんなバカなことが――」

「何を驚いているんです? あなたたちは、私たちの街に来たんです。情報なしに敵陣に直接乗り込むことがどれだけ無謀なことか、それはあなたたちのほうがよく理解しているのでは?」

「……」大佐は言葉を失った。我々は初めからこの女の胃袋の中にいたのだ。じわじわと、ゆっくり溶かされていくだけ。脱出しなくては、今すぐ。大佐は銃を下げ、バックステップした。

「逃がしませんよ」

桜の眼に初めて敵意の光が灯った。

「この街を侵す侵入者は、ただでは帰しません」

その言葉に、大佐は皮肉気に笑った。

「ほう、我々を侵入者と呼ぶか。ならば、貴様らは我々のモノを奪ったコソ泥ということになるな」

「コソ泥……?」桜が眉をひそめる。

「この二人の娘は我々の作品だ。そして、人類が新たなステージへと昇るための鍵なのだよ。貴様らにもわかるだろう。この世界に蔓延る無能な人間どもが、いかに社会システムを犯し、バランスを崩し、進歩を停滞させているかを。いいかね、真に平等な社会、それがこの娘たちの犠牲によって果たされるのだ!」

桜の顔色が変わった。

「……犠牲、ですって?」

「そうだ。そのために生まれてきたのだ。本来ならば碇の息子が適材だった。しかし、その計画も上手くいかなかった。だがかまわん。他に材料は二人もいるのだ。美談ではないか。二人の犠牲で世界が変わるのだ。ヒトが変わるのだ! そうなれば争いなどない、幸福な世界が誕生するのだ!」

大佐は唾を飛ばし、叩きつけるように喋る。自分に酔うように、自棄になって。大佐の脳裏にはいつもあの女性がいた。血と埃で汚れた結婚指輪を見るたび、大佐は思った。「何を犠牲にしても、俺は目的を果たさねばならない」

桜は眼を閉じ、そしてゆっくりと開いた。

「犠牲――」

「――?」その声は静かに響いた。

「私の一番嫌いな言葉です」

桜の周囲の影が揺らぐ。大佐は腰のポーチから催涙弾を取り出し、ピンを抜いて投げた。煙をまき散らしながら、桜の足元に落ちる。しかし桜はものともせず、左腕を掲げた。

「――深紅の女(ベイバロン)」

桜の周囲に影が広がり始める。大佐は距離をとろうと、走り出す。
この不可思議な奇術は一度見た。城に入る際、突然現れた桜を部下に足止めをさせたときである。ちらり、とだが、遠目で確認した。距離さえ取れば、恐れることはない。だが、

「――な、」

大佐の足首が地に飲み込まれていた。地面は影に覆われている。底なし沼のように、もがけばもがくほど沈んでいく。

大佐は呻いた。桜との距離は10メートル以上あったはずだ。かの魔術はここまで射程範囲はないはず。信じられぬ思いで見れば、影は桜の足元から、視界一帯に広がっている。前に見たそれとは規模が違う。

「半径50メートルの深紅の女(ベイバロン)。面積にして約7.5平方キロメートル。――甘く見ないでください。分身と本体……性能が違うのは当たり前でしょう?」

桜はゆっくり近づいてくる。足はまだ抜けない。銃を取り出し桜に向けて撃つが、全て桜の目の前で脇にそれていってしまう。

「犠牲から得た結果なんて、馬鹿みたい」

大佐は、ナイフを桜に突きつけている。その間合いの一歩外で、桜は歩みを止めた。

「誰かの犠牲で、誰かを幸せに出来るなんて思わないで」

地面から伸びた桜の影が大佐のナイフを飲み込む。

「!!」

「許さない」

桜の手が大佐の意識を刈り取らんとのびる。その目は氷よりも冷たく、人形のように感情がない。こいつは躊躇わない、そう大佐は感じた時、今まで経験したことのない命の危機を味わった。底の見えない闇に吸い込まれていくような、絶望――

だが、それがどうした。大佐は歯を食いしばる。彼には鉄の意志があった。使命があった。誇りがあった。そして、引き裂かれた思い出があった。

「――貴様の、哲学などには、興味はない……!」

「……!」

桜は歩みを止めた。この獲物はまだ死んでいない。彼女の勘が警鐘を鳴らす。

「私はやらねばならんのだ。貴様に理解できるか? 理不尽に奪われ、理不尽に与えられ、理不尽に蹂躙されていく理不尽な現実だ! くだらぬ、くだらぬ、くだらぬ! 正義の味方などおらん。偽善の仮面をかぶり、手を差し伸べるだけ差し伸べて、結局見捨てるのだ! そうやってみんな死んでいくのなら、いっそ少数の犠牲で世界を変えてやる、この世界を叩き壊してやるぞ!!」

大佐は叫んだ。喉を震わせ、覚悟を決めるように。

「はっ――!?」

大佐の手には、何かが握られていた。拳大の、黒い金属。

「手榴弾……!?」

桜は腕を掲げ、影で壁を作った。その瞬間、眩い閃光が辺りを包んだ。突き刺すような強烈な光は、桜の影を打ち消していく。

大佐が使用したのは閃光弾(スタングレネード)、強烈な光で相手の動きを止める兵器だ。光で桜の影を物理的に打ち消したのだ。「深紅の女(ベイバロン)」が消えた。大佐の姿とともに。

「貴様はいずれ殺してやる……必ずだ――!!」闇の中に声が響いた。桜の視界は閃光弾のせいでぼやけ、視力が戻っていない。影を再び展開するが、手ごたえはない。「深紅の女(ベイバロン)」の境界から、大佐は離脱した。

「いけない……」

このままでは逃げられる。敵の思わぬ反撃に、桜は戸惑った。

なんと不気味な男だ。ここで捕まえなければならない。

桜には制圧力はあるが、機動力はない。身体能力は並の魔術師と変わらない。逃げた相手を走って追いかけるわけにはいかない。

「――深紅の女(ベイバロン)」

半径50メートル、それが桜の限界である。この結界は立体でないが故、範囲を広く伸ばすことが出来る。触れたもの吸収し、噛み砕く。
桜は大佐の消えた闇を睨みつけ、とぷん、と足元の影に沈んだ。







[43115] 14
Name: sn◆be94cdbe ID:8f797b01
Date: 2018/08/28 22:25




――最悪の展開だ。大佐は歯噛みした。

計画は完璧だったはずだ。唯一の誤算は、あの衛宮とかいう異能者たちだ。我々の切り札がいとも簡単に破られてしまった。

あの兵士1人には軍事訓練を受けた兵士1000人分の価値がある。実用化を進め実戦に投入できれば、莫大な利益が期待できるのだ。ようやく、我々が表舞台へと帰る日が来ると思っていた。今は崩壊したゼーレが暗躍していた頃のように、我々の存在が世界をつなぎ止めるのだ。そうすれば、そうすれば私の願いも――

大佐は走っていた。彼がこれまで生き残ることができた理由は、シンプルなものだ。綿密なシミュレーション、何重ものセーフティーネット、そして並外れた運。どんなに最悪の事態でも、対応できる準備があった。今回もそうだ。

彼の向かう先は、城の裏側。中型のバイクが一台置いてある。使うことはないであろう、と置き捨てるつもりであったが、思わぬところで役に立った。

大切なことは自信を持つことだ。信じることだ。己は滅びぬ、必ずや生き残る。そう強く信じる力こそ、彼の強運の源泉なのかもしれない。
だから、大佐は信じていた。今回も必ず助かる。生き延びる。その為の手は打った。最後に笑うのは己なのだ。

「あの場所にさえ……」

大佐は消耗していた。足を引きずり、息を荒げていた。短い間とはいえ、桜の「深紅の女(ベイバロン)」に囚われたのだ。触れるだけで魔力を吸い取ってゆく。極度の疲労を負った時のように、手足が鉛のように重い。

かつて戦場へ赴いたとき、数名を残し全滅の危機に瀕したことがあった。三日三晩飲まず食わずで敵から身を潜めた。見つかれば即ち死、という状況で、大佐ひとり生き延びた。泥を食み、地を這って逃げ延びた。その状況と比べれば、目の前の困難など大したことはない。

「そうだ……。大したことはない」

バイクに手をかける。あらかじめキーは刺しておいた。時間はない。キーを回し、エンジンを叩き起こす。シートにまたがり、ギアを入れる。750ccのエンジンが唸りをあげた。

土埃をあげ、大佐を乗せたバイクは彼方へと走り去った。






敵を葬った後、士郎とライダーはすぐに桜のもとへ向かった。しかし、桜の姿も、大佐の姿もない。

「大佐をまだ仕留めてはいないようだな」

「おそらく大佐が逃げおおせたのでしょう。信じがたいことですが」

 そうだな、と呟き、士郎は腕を組んで思案した。

「よし、ライダー、大佐を追ってくれ。俺は城の中の様子を見てくる」

「わかりました」

 士郎は、兵士がひとり城の中へ向かう姿を見ていた。何をしに行ったのかはわからないが、放っておくわけにはいかない。

 二人は地面を蹴ると、夜の闇に消えていった。






大佐は確かに聞いた。

 それはあり得ない声だ。この場で聞くはずのない声だ。あの不気味な女ではない。自分はもしかして幻聴に苛まれているのかもしれない。追い込まれた状況下の強いストレスが、精神に変調をきたしているのか。

「ここにいたのかい」

 大佐は驚きバイクのコントロールを失った。

「貴様っ!!」

「足下にご注意」

大佐のバイクがへし曲がった。まるで、雑巾を絞るようにねじ曲がり、バ
ランスを崩して地面に転がった。大佐は宙に投げ出され、大木に衝突した。

「馬鹿な……貴様、カヲル!!」

 激痛に歯を食いしばりながら、大佐は叫んだ。

「やあ、随分身軽になったみたいだね」

 大佐は起き上がろうとするが、体が言うことを聞かない。右足が折れているようだ。幸いなことに、命に別条はない。

 大佐は気を取り直して、木を背にして座り込んだ。

「・・・・・・ちょうどよいところに来た。問題が発生した。脱出方法を変更せねばならん。手を貸してくれ」

「ほう、何があったというのです?」

悠長に構えるカヲルに、大佐は唇を鳴らした。

「それを話している時間はない。今、得体の知れぬ敵に追われているのだ。影を手繰り、実体をとらえる女だ。貴様も知っているだろう」

「ああ、桜さんのことですね」

「そうだ。まさか、あの女が魔術師だとはな。……部下も全滅したようだ。今回は相手が悪い。退却するぞ」

 大佐は、カヲルが何か乗り物を用意している、と考えた。ここまで歩いてきたとは考えにくいからだ。自分が今使っていたバイクはもうだめだろう。木の幹か何かに躓いたのかは知らないが、エンジンが火を噴いている。

「大佐」

「なんだ。さっさと動け、時間がないぞ」

「まだ気づかないんですか。彼らを呼んだのは、僕ですよ」

――驚愕。大佐は凍り付いた。そして、すべてを悟った。

「あなたほどの男が、こんな見落としをするなんて――老いましたね」

これは狂言だ。初めから、ずっと。俺は舞台でひとり踊っていたのだ。ただのピエロだったのだ。

指先がカタカタと震え始める。まずい、まずいまずいマズイマズイマズイマズイマズイマズイ――――!!!!

「僕たち、出会ってからもう4年経つんですね。貴方も最後まで警戒を解きませんでした。いや、僕を駒として扱っていただけでしたが、僕は、初めからこの瞬間を待っていたんですよ」

 地面を這いずり、大佐は逃げる。右手を前に左手で体を浮かせ、左足で地を蹴る。どこでもいい、とにかく、安全な場所へ――

「あなたの作戦に、冬木の街を提案したのは僕。ターゲットをおびき寄せる役目を果たしたのも僕。シンジ君の携帯電話を使って彼らを呼んだのも僕。あなたのバンのパンクさせた人間を呼んだのも僕。教会でシンジ君たちをわざと逃がしたのも僕……」

 カヲルは歩いて大佐の後を追う。最早、カヲルの声は大佐に届いていなかった。

「そして、彼をここに呼んだのも、僕です」

 大佐の目に何者かの足が映った。顔をあげると、そこにはよく知った男が己を見下ろしていた。

「あ、ああ――」

「久しぶりだな、大佐」

男は赤いサングラスを外す。

「お、まえ、は――!!!」

「15年ぶりだな。……もう諦めろ。いくら理想を振り回したところで、己の罪からは逃げられん」

「――碇……ゲン……ド――」

 そして、どこからか伸びてきた絶望の影が、大佐を包み込んだ。










[43115] 15
Name: sn◆be94cdbe ID:8f797b01
Date: 2018/09/04 22:03




「……ん、」

「あ、気がついた!」

アスカが目を覚ました。うっすらと目を開き、上から覗き込むシンジが微笑む。まだ意識が覚醒していないのか、視点が定まっていない。

「アスカ、綾波!」

「…」

「ん?」

アスカの眉が動いた。きょろきょろとあたりを見回し、目の前のシンジに目を合わせ、ぴたりと動きを止める。

「……・シンジ?」

「う、うん」

むくりと起きあがるアスカ。シンジは思わず後ずさった。

「だ、だいじょうぶ?」

「頭が痛いわ。それより……」

二日酔い状態のミサトのような表情で、アスカは立ちあがった。そして左足を軸に身体を回転させ、遠心力を最大限に活用した右後ろ回し蹴りをシンジの顎に正確に叩き込んだ。

「なんで私の寝顔見てるのよこのヘンタイっ!!」

轟音とともにシンジは宙を舞った。ああ、このノリ、久し振りだなあ――なんて考えながら。





「今度はシンジ君が昏倒か」

騒ぎを聞きつけて士郎と桜が部屋に入ってきた。まず桜が部屋に入って様子を確かめたが、別に大したことはないと判断して、士郎を中に入れた。アスカは真っ赤な顔でベッドの隅に座っている。突然ドアが開いて驚いたようであるが、入ってきたのが桜だったことに安心したようだ。

「仕方ないでしょ。乙女の寝顔を無断で覗いたんだから」

「(じゃあ許可があればよかったのか……って言うのは黙っておこう)」

桜と結婚してから身に付けたスキル「余計なことは言わない」を発揮する士郎。このスキルのおかげで、士郎の危機回避能力は格段に上昇した。

「レイちゃんはまだ寝ているのね」

「みたいね。もともとこの子低血圧だから……」

朝が弱いのよ、と言いかけて、アスカははたと気がついた。

「今何時?」

士郎が腕時計に目をやる。

「朝の7時すぎだな。あんまりシンジ君をいじめてやるなよ。一晩ずっと心配していたんだから」

「いじめてなんかないわよ――って」

アスカは辺りを見回した。

「ここ、どこ?」

「俺の家だ。ここが一番安全だからな」

「え?」

アスカは記憶を手繰り寄せる。しかし、士郎の料理を食べて、ホテルに戻って、それからの記憶がない。

「…あたし、お酒でも飲んだのかしら」

「なぜ中学生がその結論に至るんだ……」

士郎はため息をついた。

「お酒じゃないわ。あなた、誘拐されようとしていたのよ」

「誘拐!?」

「そう、シンジ君のおかげで、事前に食い止めることが出来たんだ」

それから士郎は事実の9割9分を隠しながら、かいつまんで説明した。ホテルの従業員に犯罪者が紛れ込んでいたこと、部屋にあった飲み物に睡眠薬が入っていたこと、そして、異変に気付いたシンジがすぐさま士郎たちに連絡したこと。

「……なんでシンジは警察に行かなかったのよ」

「さあ? とっさに俺の電話番号を押したんだろう。俺も偶然犯人を見つけることが出来た。あとは力づくさ。君たちを車に乗せようとしていたところをひっ捕まえて拘束した」

「乱暴ねえ。ま、おかげで助かったわ。犯人はどうなったの?」

「警察より怖いところに引き渡してある。あとはそこが処理してくれるだろ……。じゃ、俺は台所に戻るぞ」

士郎は大きく伸びをして部屋を出た。朝食の準備の途中だったようだ。よく見ればエプロンをしている。夫婦、色違いのお揃いである。

士郎が閉めたドアとともに、会話も閉じてしまった。桜はレイの様子を見ている。アスカは、少しだけ口ごもりながら、言った。

「その、ありがとう」

「え?」

「助けてくれたんでしょう。よく考えたら、私、とても危険な目にあったのね」

アスカは顔を真っ赤にして、そっぽを向きながら言った。その様子に、桜はくすりと笑った。

「そうね。でも、もう大丈夫よ。みんなが守ってくれるから」

私もね、と桜は言った。その笑顔に、アスカもつられて唇が歪んだ。途端に緊張が解け、ほっと溜息をついた。

「そういえば、シンジがあなたたちを呼んだのよね。なかなかやるじゃない、シンジったら。普段はボケボケってしてるのに」

「そうかしら? シンジ君はとても強い子よ。いざという時は、本当に頼りになるわ」

アスカはシンジの顔を思い出す。記憶のどこかで、彼が必死で自分の名前を呼んでいる姿が残っている。そして、小さな声で呟いた。

「……うん、それは、ちょっとわかる」

「もう、そうやって素直になれば、シンジ君だってアスカちゃんにメロメロよ」

「んなっ!!」

アスカの顔に火が付いたように赤くなる。

「何言っているのよ……」

アスカはうつむいてしまった。桜はその様子を満足そうに眺めて、立ち上がった。

「じゃあ、私はシンジ君の様子を見てくるわね。……一緒に行く?」

「行かないっ」

返事とともにクッションが飛んできた。桜は楽しそうに笑いながらそれを躱し、部屋を出た。





「桜」

居間にさしかかった時、台所から士郎の声がかかった。

「シンジ君が目を覚ましたぞ」

「わかりました」

桜は足を速めた。シンジは士郎の部屋にいる。アスカの一撃で昏倒したので、寝かせていたのだ。

襖を開けると、シンジは布団から体を起こし、外の景色を眺めていた。

「目が覚めたのね。シンジ君」

「あ……すいません。たびたびご迷惑をおかけして……」

「いいのよ。今日はお仕事もないし」

桜は部屋の隅にある座椅子に腰かけた。

「傷の具合はどう?」

「もう大丈夫です。……とても、信じられませんが」

シンジはお腹を手で押さえる。昨日の傷が嘘のように消えている。まるで、全部夢の中の出来事であったかのように。記憶が水面を波打つように揺蕩い、甦る――




――――シンジは、今朝、この衛宮邸ではなく、教会で目が覚めた。奥の部屋に寝かされ、体中に包帯を巻かれていた。なぜ自分がここにいるのか、自分が何をしていたのか認識できず、知らない天井を眺め続けた。

「――シンジ君」

「ひえっ」

シンジはびくりとして腰を浮かした。見れば、部屋の隅に誰か佇んでいる。

「ミサト、先生」

「無事みたいね。よかったわ」

ミサトはゆっくり近づいてきた。シンジの額に手を当て、顔を近づける。シンジはその顔をまじまじと見つめた。

「ミサトさんこそ、大丈夫なんですか?」

「ええ、嘘みたいだけど。全身の骨をポキポキ折られて、内臓にもぽっかり穴が開いて、血もドバドバ流れていたのに、今はこの通りよ」

ミサトは肩をすくめた。

「これが、魔術ってやつなのね」

シンジは自分の腹に触れる。思い出した。血でべっとり濡れた己の手を。そこで、意識が途絶えた。その夜の記憶がまざまざと甦る。

「僕は……」

記憶が、ジェットコースターのように脳を駆け巡る。場面とともに、心臓に焼き付いた怒り、恐怖、慟哭、そして痛みが甦る。

「あ――」

手がカタカタと震えだした。ざわざわと胸が騒ぐ。あの夜の出来事は、夢ではないのだ。あまりにも自分の現実から離れすぎていた現実、その二つの境界が揺らぎながらも近づいてゆく。もう、後戻りはできないのだろうか。

ミサトがシンジの震える手に、自らの手を重ねた。

「もう、危険はないわ。あなたのおかげよ、シンジ君」

「――先生、みんなは……」

ミサトはシンジを安心させるように、優しく抱きしめた。

「アスカもレイも無事よ。――衛宮家の人間もね。私たちは彼らに助けてもらったと言っても、過言じゃないわ。私たちを狙っていたあの連中を、彼らはみんな退けた。ただ、私たちをここへ運び治療したのは、彼らじゃないわ」

シンジは顔をあげた。

「私たちを治療したのは、この教会の主よ。今はもういないわ。私たちが運び込まれたとき、ふらりと現れ、術式を組み、傷を癒し、気づいたらもういなかった。つい、1時間前のことよ」

ほら、とミサトは左手を掲げた。兵士に踏み砕かれたはずのその手は、絆創膏のひとつも必要ないほど復元していた。ミサトは複雑そうに眉をひそめた。「名誉の負傷」という言葉をあざ笑うかのような秘術の結果が、そこにあった。

シンジは俯く。本当に気がかりなことは、けがのことではない。シンジは、この1件で得たものもあれど、失うものも大きかった。そのひとつが…

「――カヲル君は、どこですか」

「僕がどうかしたかい?」






「え――?」

「シンジ君、無事でよかった」

カヲルは柔らかにほほ笑む。ミサトは、無言で席を立ち、部屋を出ていった。カヲルはそれを見送った後、シンジに歩み寄る。

「まず謝らせてくれ。本当にすまなかった。君たちを危険な目にあわせてしまった」

「カヲル君……」

「でも、わかってくれ。僕はただ、君に知ってほしかったんだ。この呪われた僕たちのことを。君たちの見えない過去に潜む、悪魔の影をね」

「ねえ、カヲル君――」

「君も、アスカちゃんも、レイも狙われている。今でこそ、君の周りの大人たちが君を守ってくれる。だが、君たちが大人になり、自分の足で立った時、誰が守ってくれる? それは、君たち自身だ」

「……」

「僕は、それを知ってほしかっただけだよ。だからといって、僕の罪が消えるわけではない。君には本当につらい思いをさせてしまった。謝っても、どんなに謝っても許されることじゃない。だから、僕はもう去ることにするよ。まだやり残したことがあるんだ。君には、お別れを言いに来た。それだけさ」

カヲルはシンジに背を向ける。そして、ポケットに手を突っ込んだまま、出口へと歩き出した。

「ねえ、待ってよ。カヲル君!!」

カヲルの足が止まる。

「どこに、いったいどこに行くの? もう、学校には戻らないの?」

「――ここに戻ることはない。いつかは、ここを離れる予定だったんだ。僕は、僕の生まれたルーツを探す。その手掛かりのあるところなら、どこへでも行くよ」

カヲルは振り返らずに言った。そして、静かにドアを開け、出ていった。シンジは、もうかける言葉が見つからなかった。




「待ちなさい」

ドアを開けようとすると、そこにはミサトが壁を背にして立っていた。

「私は今でも納得していないわ。あんなやり方……もし一歩間違えば、みなの命が犠牲になるところだった」

「そうだね。この作戦はひとつの賭けだった。それも、とびきり危険な――」

「命を天秤にかけるっていうことね。それも他人の、よ」

ミサトはカヲルを睨んだ。その瞳には、静かな怒りの炎が揺らめいていた。

「無責任だ、と言いたいんだね」

「……」

ミサトは何も言わない。否定も肯定もしない。そこに、明確な意思と感情があった。

「シンジ君は、もうかつての日常には戻れないだろう。彼の中のエヴァンゲリオンも目覚めてしまった。シンジ君が、アスカちゃんとレイにこの出来事を話すかどうかはわからないが、彼女たちの存在もシンジ君の重荷になる。シンジ君は、彼女たちも守らなければ、そう考えるはずだ。彼の人生は、今日終わりを迎え、新しく産声を上げるだろう。だけど――」

カヲルは言葉を切って振り返った。

「それは、シンジ君の運命なんだ。彼の背負った業なんだ。それを知らずと生きていても、いずれは彼の身をふりかかるだろう。だから、僕は後悔していない。こんなこと、僕の杞憂かもしれない。僕のエゴかもしれない。けれど、シンジ君が何も知らず、訳も分からず利用され嬲られ殺される……僕が本当に恐れていることは、ただそれだけさ」

「そんなこと……そんな、先のことわからないじゃない。シンジ君の周りには司令も、私たちもいる。シンジ君たちを絶対に守って見せるわ。傷つけることなんかさせない。それが私たち大人の責務よ。いいえ、私たちの信念よ! ……これから出ていく貴方には関係ないでしょうけど」

「そう、関係ない。人と人の間にあるのは無限に広がる壁と、それを超えられるという思い込みさ。シンジ君だって、いずれひとりの大人になる。いつまでも守られる存在じゃない」

「じゃあ誰がシンジ君を守るの? あなたが守るってわけ?」

「シンジ君を守るのはシンジ君だ。自分の力で立ち、どんな苦境にも絶望にも歯をくいしばって耐える……シンジ君なら、きっとそれができるだろう」

「私が言っているのは、その後のことよ! たとえ大人でも、誰かに寄り添わないと生きていけない! シンジ君がひとり世界に放り出されたらどうなると思っているの!? あなたの言っているように、シンジ君が狙われることだってあり得る。その時、その時にいったい――」

ミサトははっと息をのんだ。

「そう、その時こそ、シンジ君は自分を守らなければならない」

己の言った意味、カヲルの言った意味、シンジの未来。天秤はゆらゆらと揺れている。先のことなど、誰にも予想できない。子どもたちの未来にレールなどない。その小さな頼りない足取りで、ゆっくりと、躓きながら歩いていくのだ。なら、我々にできることは何だろうか。手を引くことか、転ばないように支えることか、それとも、何もせず見守ることか。

「……」

もう言葉は必要なかった。押し黙るミサトを背に、カヲルは背を向けた。

「――シンジ君たちは私たちが守ってみせる。貴方は、もうシンジ君たちに関わらないで!」

「……」

ミサトの最後の言葉に、カヲルは無言で返した。そして、ゆっくりと扉を開けて出ていった。

「――ふう」

外に出たカヲルは、空を見上げ大きく息をつくと、銀色のジュラルミンケースを拾い上げた。

「すまないね、シンジ君。これこそが、僕の本当の目的さ」

教会を振り返る。空いた片手を短くふると、カヲルは軽い足取りで青空の下に消えていった、







――――衛宮邸。何もかも過ぎ去った朝、シンジはカヲルの後ろ姿を思い出す。彼は、結局何も語らなかった。躊躇いも見せなかった。今ほど、彼と話をしたい、と思うことはなかった。

「父さん、こっちに来るそうです」

シンジが口を開く。今朝、父と連絡を取った。ゲンドウは一言、「すぐに行くから、待っていろ」とだけ言って電話を切った。場所も聞かず、方法も伝えず。

「そう、よかったわね。ならお持て成ししなきゃ」

そう言って桜は部屋を出ていった。開いた扉の隙間からは、柔らかな風がそっと吹き込んできた。

結局、シンジはアスカたちに真相を語ることはなかった。理由は、彼も分からない。ただ、そのほうがいい、と思ったからだ。隠したかったわけではなく、彼女らのためを思ったわけでもなく、ただ、そこに「そうあるべき」という意思を感じたのだ。己の心の中で、混沌と渦巻く想いが1点に収束していく。

シンジは、己の道を想う。彼女らの道を想う。カヲルが残したモノ。自分の裡に残ったモノ。それらは光り輝き、未来を示す。シンジの目は、もう守られる子どもの目ではなかった。

さあ、もう1度アスカとレイに会いに行こう。シンジが想う彼女らの道は、僕が守るのだ。








さて、これ以上物語を語る必要はないだろう。シンジとゲンドウは過去と未来を語り、アスカとレイは日常へ帰っていった。衛宮邸は、相も変わらず包丁とフライパンを振るい、カヲルは海を渡る。

ただ、この夜に流れた血は、シンジの瞳を赤く濡らした。その穢れは、決して拭えるものではない。その傷は、決して癒えるものではない。シンジの道を赤く示し、そしていつまでも彼を苦しめるだろう。

だが、だからこそシンジは決して忘れることはない。すべてを変えてしまう運命の夜と、宿命を背負った残酷な天使を――。





(了)


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