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[5163] 日常の続き(GS美神後日談)
Name: 材木◆040defa1 ID:593f3ebe
Date: 2008/12/12 08:12
 物語では。
 物語では、大抵夢を見るものである。
 あのようなことがあったのだから、そのような夢を見るべきである。
 深夜(三時くらいがよい)に寝汗で肌着をぐっしょりと濡らして、臨場感たっぷりな悲鳴などを上げつつ
飛び起きるのが定石であろう。
 そして閨を共にしていた美女の問いかけに対して、なんでもないよと作り笑いでも浮かべればより完璧だ。

 しかし、生憎と自分が見る夢は、日常のどうというこもないものばかりだった。
 朝の七時三十分。布団から上体を起こし、寝ぼけ眼で周囲を眺める。月に一回掃除をすれば上等な汚い自室。
当たり前だが隣に美女はいない。そのような機会が今後一度でも訪れるのだろうかと、深刻で現実的な疑問が
脳裏をかすめる。

 ふわぁとだらしのない欠伸をこぼし、横島忠夫いつものように目覚め、いつものように着替え、いつもの
ように事務所へと向かった。






 午後、日暮れ前。一仕事を終えた彼らは事務所内で一服する。シロとタマモはおらず、美神、おキヌ、横島の
三人だけであった。
 テーブルに二つ、所長卓に一つ、カップが置かれている。カップの中にはややこしい名前の豆を炒った
コーヒーが注がれていたが、その良さを詳細に理解できる者は生憎一人しかいなかった。
 その一人、美神令子が上機嫌で笑う。

「うーん、やっぱり支出がほぼゼロってのは気分がいいわー」
「……そりゃようございました」

 対して、やや不機嫌顔で横島がぼやく。もっとも、今回の除霊に用いられたのが彼の栄光の手のみである
ということを鑑みれば、当然であるかもしれないが。

「あら、不満? あなたの修行も兼ねてたつもりだったんだけど?」
「いや、師匠の美神さんにそう言われたら、俺としちゃ従うしかないんですけどね。でも文珠を使わせて
くれてたら、もちっと楽できましたよ」

 依頼は単なる浮遊霊の除霊であった。ただし群体の、である。文珠の一つで容易く祓えたはずだったのだが、
美神の指示により栄光の手を使い、ちまちまと一体ずつ削っていった横島は、つい先程までまともに立てない
ほどに疲労していた。

「前から言ってるでしょ。あんた、文珠に頼りすぎ。便利で使い勝手もいいから気持ちも分かるけど、回数制限が
あるんだから。いざというときに珠切れでした、なんてことになったら目も当てられないでしょうが」

 素晴らしいまでの正論ではある。だが、横島忠夫という人間はどうしようもなく低きに流れることを良しとする
人間であるので、将来苦労することになってもいま楽をしたいというのが本音であった。

「でも横島さん、最近すごく頼りになりますよね」

 にこにこと、巫女服を着た少女、おキヌが会話に混ざる。横島の対面のソファーに腰掛けて、カップと
ソーサーを持ちながら続けた。

「今日のお仕事も、ほとんどお一人で片付けられましたし」
「あ、やっぱそう? くぅー、おキヌちゃんはほんとにいい子だなぁ。俺が独立したらいの一番に声をかけるからね」
「え? ……えー!?」
「現雇用主の前ですごくいい度胸してるわねこのクソガキ」

 スプーンを棒手裏剣のように構え始めた美神が視界の端に入り、横島は背筋を伸ばして冗談ですと謝罪する。
もはや条件反射にも等しい反応であった。
 おキヌがそのお決まりの光景をくすくすと笑い、次いで懐かしそうに両目を細める。

「でも、こうして三人だけですと、昔を思い出しますね」
「――そういえばそうね。最近だと、大抵シロかタマモのどちらかがいるし」

 昔を懐かしんでいるのか、奇妙にしんみりとした空気を女性二人が生み出している。おキヌちゃんとの出会いは
落石で殺されかけた時なんだよなと、ちらりと横島は考えたが、それをこの場で口にしない程度の
配慮は(最近ようやく)学んできていた。

「と、コーヒーごちそうさまでした。それじゃ俺、そろそろ失礼しますね」
「あ、はい。お疲れ様です」

 横島が腰を上げると、見送りのためかおキヌも立ち上がった。そうして二人が扉の手前まで歩いた際に、
美神が声をあげる。

「横島くん」
「――?」

 また自分は何かしでかしただろうかと不安げに振り返る。美神は一度横島の目に視線を合わせ、
一拍おいてからわずかに目を逸らし、言う。

「まあ、今日はよくやったわね。これからもがんばんなさい」

 何気ない口調、というよりも、必死に何気なさを装った口調というほうが正確か。実際、おキヌは笑いの衝動を
堪えるのに苦労していた。

「それは求婚の婉曲的な表現でしょうか」
「ほんっとーにどういう脳味噌の構造してるのかしらあんた」

 今度は横島を真っ直ぐに見つめながら、というよりも睨み付けながら美神はこぼす。その怒気をかわすように、
やや乾いた笑いを浮かべて、

「はは、これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いしまーす」

 そう言い捨て、横島は逃げるように退散した。
 背後で扉の閉まるそっけない音を聞きながら、胸中で本音をこぼす。

(まあ、実際のところ――)

 今の環境はそれなりに居心地がいいのである。折につき独立だのと口にしてはいるが、自分が所長などと
呼ばれている状況は想像さえつかない。
 調子に乗りやすくはあるが自己の能力を過信できない、それが自分という人間なのだろうと、横島は他人事の
ように分析していた。






「はいよ、爺さん。美神さんから預かった謝礼金」
「おおおお! ついにきたか!」

 喜色満面で、それなりに厚みのある封筒を渡され、ドクター・カオスは声を上げる。
 横島は事務所を辞した帰り道、美神からのお使いを済ませるべく古臭いアパートへと寄っていた。
 いま渡した謝礼金がどんな依頼をこなしたものなのか、多少は気になったが、尋ねることはしない。金にも
つてにも不自由ない美神が、わざわざこの老人へ頼んだ仕事内容など、絶対に真っ当なものではあるまい。
自分の月給よりもはるかに厚い封筒にやっかみを感じはするが、どうせ三分の一は家賃と生活費で消え、
残りもどうでもいいような実験費用で消えるのだ。嫉妬しても意味はない。
 マリアに出してもらったほうじ茶を啜りつつ、横島は言う。

「なあ、言っても無駄だろうと俺も思うんだけどさ、しばらく変な実験とか止めて金ためたら? 俺が当分手に
できないような金額を一瞬で使い切られると、正直かなりむかつくんだが」
「馬鹿を言っちゃいかん。わしに研究を止めろと言うのは、呼吸を止めろと言うに等しいぞ」

 きっぱりと、微塵の躊躇もなく言い切るカオスに、不可解な苛立ちを感じる。らしくもない棘のある言葉が
ぽろりと横島の口から零れた。

「どうせ成功しやしないだろう? 無駄だって分かってるんだったら、最初から止めてもいいじゃないか」

 一瞬、真顔を老人は覗かせたが、すぐににやりと骨太な笑みを浮かべて見せた。

「ふふん。そいつは正に『いまさら』だな」

 しわくちゃの顔だというのに、妙に生気溢れた印象がある。それは、実績に裏付けられた自信を持つ、
男の顔でもあった。

「わしが何年生きていると思う? その長い人生の中で、何度同じことを言われたと思う? なるほど、
傍目にはただの失敗にも写ろうし、無意味な行いにも見えようよ。だがな、ほんの半歩でも前進する欠片が
見えれば、それは無駄ではないのだ。むしろその積み重ねこそが、大成へと至る道となる」

 自信満々の口調である。それを横島は、我ながら子供じみていると自覚しながらも、揶揄せずにはいられない。

「つってもあんた、ところてん式に昔のこと忘れていってるじゃねーか」
「だからどうした。忘れたのならまた一から始めればよい」

 平然と、実に平然と、カオスはまたも言い切ってみせる。
 つまるところそれは、横島の抱く疑問も煩悶も、当に通りすぎているということであったのかもしれない。
 横島は呆れ、また若干の羨望も胸中に生まれつつ、ぼやくように言う。

「……なんとなく分かった。ようするにあんた、その歳でまだガキなんだな」
「左様。であるからこそ、わしはヨーロッパの魔王と呼ばれるに至ったのだ」

 呵呵と老人は笑う。なるほど、確かにそれは、諦めることを知らない子供の笑顔だった。






 美神令子も、たまには買い物をする。
 例えば、自炊をしたくなった時であるとか。例えば、たまたまおキヌが学校の友人たちと外出をしているとか、
そういった時である。
 ビニール袋に食材を詰めて、ヒールをかつかつと鳴らしながら彼女は歩く。ただでさえ目立つ美貌に加え、
モデルにも勝る姿勢正しい歩き姿は、自然と衆目を集めた。とはいえ、声をかけてくる男たちはいない。
そのような隙ともいうべきものが、彼女からは一切欠けていた。
 日暮れ前、赤く燃える太陽からの紫外線を気にしつつ、美神は昼間の仕事のことを思う。

(まあ、実際、よくやってるんだけどさ)

 横島忠夫のことである。美神自身の性格と、横島の気質のせいで、あまり面と向かったほめ言葉を口にしては
いないが、それが彼女の、彼へ対する正直な評価であった。
 霊力の量、質。技能の汎用性の高さ。経験不足を埋めることができれば実際、世界のトップクラスともいえる。
いや、そもそもあの子は、模擬戦とはいえ、ただ一度だけとはいえ、正真正銘の世界トップクラスのゴースト
スイーパーである自分に勝ったこともあるのだ。本人はそうと知らないとはいえ、あの奇妙な自身のなさは
なんなのだろうか。

(……私のせいも、多少はあるかもしんないけど)

 これまでの自分の接し方が一因だと言われれば、ちょっと否定の言葉が浮かばない。だが、あの出会い方で、
あの性格で、あの見た目の少年が、自分と互する実力を得るなどと、いったいどこの誰が思おうか。例え神様に
予言されていても、自分は信じなかったに違いない。
 ぶつぶつと、言い訳じみたことを口内で呟きながら歩く。歩調がやや乱暴となっていた。

(でもまあ、あと三年ってところかしら)

 歩調が乱暴となっても、思考は冷静に働く。三年とは、横島が一人立ちが可能となるであろう期間だった。
彼に足りないのは、自信と経験のみである。実は、実績は十分にある。対アシュタロス戦で中心であったし、
我ながら面映いが、この美神令子の弟子であるということも、十分な広報材料となるだろう。
 三年。わずかな(断じてわずかである)寂しさを感じはするが、きっと先生もこんな気持ちだったのかと思えば
どうということもない。
 そうして彼女が、来るべき未来に対する精神的な整理をつけつつあるとき、視界の先にその少年が見えた。
絶妙のタイミングで出会ったことに気恥ずかしさを覚え、すぐになぜ自分がそんなものを感じなければならない
のかと腹立たしくなり、美神は声をかけようとして――。

 踵を返す。若干遠回りとなるが、別の道を通って帰宅することにする。ついさきほどまで、終えようとしていた
心の整理が再びぐちゃぐちゃになる。駄目だ。やっぱり駄目だ。三年などではまったく足りない。己の愚昧さに
胃が裏返りそうになる。師匠面をして、いったい自分は何を見ていたのか。

 あの子が、これから行こうとしているのは――。






 かなりの苦労をして、横島はそこへ座った。発見されれば地方記事の三面に載ることは確実であったため、
文珠で姿を消し、栄光の手を伸ばして鉄骨を掴み体を引き上げ、何度かバランスを崩して下腹に氷塊を落とし
ながらもたどり着く。塗装された鉄骨で作られた、三角錐のタワー。さすがに、頂上まで登ることは叶わな
かったが。

 腰を下ろしたまま、自販機で購入したコーラを開ける。ここで高級な銘柄の酒瓶でも携えれば絵になった
だろうが、後でここから降りなければならないため、さすがアルコールは自重した。
 缶に口をつける。別にこんなところだからといって旨くなるわけでもない、ただのコーラだった。そして、
視線を転じて見る。たったいま、空から没しようとする赤い輝きを。
 別に、綺麗でもなんでもない。水平線やら自然溢れる森林であれば、夕日も映えるだろうが、空気が悪く
ごみごみした作りの街の中で、いちいち日暮れの景色に感動する訳もない。
 結局のところ、こんなものに美を見出すのは、人生経験に不足している頭でっかちな者くらいであったのだ。
長く生きていれば、それこそ己のような、わずか二十年弱の生の中でさえ、他の綺麗なものなどいくらでも
見つけられる。

 横島は一度、缶を持っていない手で胸元を押さえる。そしてそのまま、まったく綺麗とは思えない夕日を
ぼんやりと、気だるげに、けれども最後まで眺め続けた。






 一月後、大仕事が舞い込んできた。とある富豪の別荘に、二匹の正体不明の妖怪が住み着いたという。
除霊に向かったスイーパーはこれまで四組いたが、その全てが失敗したらしい。しかも内二組は、死傷者まで
出たとのことだ。とはいえ、危険な内容だからといって美神が二の足を踏むはずもなく、依頼者の提示した
金額に彼女は快諾して見せた。
 飛行機と新幹線を乗り継いで向かった現場は、実に風光明媚な場所であった。こんなところに別荘を持つ
依頼者に対して、横島が妬みを覚えるほどの。

「金持ってる連中は、とことん金持ってますねー」

 半分閉じたような目で、横島は別荘である洋館を見る。木製の三階建て。玄関の構えといい、実に金銭が
無駄に使われてそうな建物であった。ただ、かなり荒れている。庭は雑草が伸び放題であるし、館の壁は
ところどころ塗装が剥がれてもいた。

「そう? 私も同じようなの持ってるわよ」

 そりゃ美神さんは、と言いたげな目を雇われ者の少年少女はする。なにしろ、とことん金を持ってる連中の
筆頭のような人だ。
 気を取り直し、横島が言う。

「とりあえず、どうやって調査しましょうか?」
「もちろん一番ベーシックな方法でよ」

 美神が告げたプランは、一階の端の部屋より順々に結界を張っていき、徐々に妖怪の潜伏場所を埋めていく
という、地味だが確実な方法だった。
 なるほどと横島は納得して、

「分かりました。俺と美神さんで、二方向から攻めますか?」
「……いえ、相手の正体がまだ掴めてないわ。固まって動きましょう。奇襲に対処できるよう、防御用の文珠を
用意しときなさい。ちなみに残弾は?」
「ええと、六個です」

 言いつつ、文珠の一つに「防」の文字を刻む。と、思い直し、同じものをもう一つ作ると、それをおキヌへと
手渡した。気配感知に関しては彼女のほうが優秀だ。

「おキヌちゃん、お守り。いざという時は頼むよ」
「あ、はいっ」

 やや強張った表情で頷く。前任者の中に死傷者がいたというのが、緊張を生んでいるのだろう。ただ、緊張は
していても、怯えは見えない。
 まあ、当然かと横島は納得する。なにしろ、正真正銘の世界最高GS、美神令子がそばにいるわけだし。

「横島君、右端の窓をお願い」

 へーい、と気安い返事をしながら従う。露払いは俺なのか、といった疑問はいまさら別に浮かばない。
 右手に、横島は意識を集中する。その意に沿い、即座に固形化された霊力が、篭手のように右手を覆い始める。
白黄色に輝く、片腕のみに顕現する霊気の鎧。栄光の手とそれを横島は呼ぶ。
 美神の指示した窓へ、右手を伸ばす。爬虫類の前足のような鉤爪を持った右手が、五メートル十メートルと
文字通り伸びて、目標へと到達した。
 ぱりんと、特に抵抗もなく窓ガラスが割れる。一瞬、二瞬とそのまま待つが、館内からの反応はない。そして
彼らは美神の指示の下、そこを調査の起点として侵入を開始した。






 調査は順調に進む。むしろ不気味なほどに。妨害も、妖気の残滓すら感じることはなく、彼らは各部屋を
浄化し、結界を張っていく。

「ひょっとしてもう逃げてる、なんてことは……」
「望み薄ね。変に期待すると、油断を招くわよ」

 希望的観測を口にするおキヌを美神が諌める。彼女の警戒は侵入時からまるでぶれることがない。これが
一流のスイーパーであるのかと、横島はいまさらながらに感心した。精神面においても隙の多い自分が、この
域に達するまで、はて、いったい何十年かければよいのやら。――と、

「あれ、美神さん」
「なに? なにか見つけた?」
「いえ。なんか変な声、聞こえませんでした?」

 眉根を寄せて、美神が振り返る。彼女には聞こえなかったのだろうかと思い、繰り返す。

「ほらさっき、女の声みたいなのが……あ、ほら。今も」
「――発情してるって訳じゃなさそうね。どこから聞こえる?」

 さりげなくひどい台詞を挟んでから、美神が問う。どうも、彼女には聞こえていないようだ。
 これは自分ひとりを誘っているのかと薄気味悪く思いながら、横島は声の聞こえてきた方向を指で指し示し、
美神に先んじて足を踏み出す。

「ええとですね、こっちのほうから、若い女の人の泣き声みたいなのが……」

 声は途中で途切れた。物理的に。横島が口を噤んだわけではない。踏み出した足が床板を踏み抜き階下へ、
ここは一階であるため地下へと体ごと落下したためだ。
 腕が宙を泳ぐ。内臓が浮かぶという落下特有の感覚を飲み込みつつ、妖怪が落とし穴? と疑問に思う暇も
なく横島は、二人の女性の鋭い叫びを後方に聞きながら、暗闇の底へと沈んでいった。






「だあっ! くそ、いってー!」

 三メートルほどの自由落下の後、横島はそう毒づく。幸い怪我はない。人並み以上に頑丈に産んでくれた
両親への感謝を呟きながら立ち上がり、周囲を見回した。当たり前だが、地下であるため大変に暗い。
右手に栄光の手を出し、明かり代わりとしながら改めて周囲を見回す。人影もなく、先ほどの声もいまは
聞こえない。それでも美神を見習い、警戒を解かないまま、

(と、そうか)

 よくよく考えれば、ほんの三メートルほど上には二人がいる。無理に自分ひとりで危険を冒す必要はない。
ロープで引き上げてもらうなり、また三人でここを調査するなりすればよい。
 そう思って、やや楽観しはじめた横島の耳に、ふたたび声が響いた。声。声である。

 ――マ、

 声。声であった。聞き覚えのある声。
 ぞっとするほどに、聞き覚えのある声。

 ――コ――、

 額に汗が滲み出す。顔から表情が消ええていく。栄光の手によりぼんやりと窺える暗闇の奥から、その声は
聞こえてきた。
 いいや、声だけではない。その、姿までも。

 かつて、その姿を、自分はコスプレのようだと揶揄した。

 ――ヨ、――マ、

 暗がりの奥から一人の少女が姿を見せる。生まれたての小鹿のような足取りで、横島を包む白黄色の明かりの
中へ、じわじわと姿を見せる。

 ――ヨコシマ

 距離が縮まる。囁きはすでに耳元で響いていた。
 何度、その声を再び聞くことを願ったか、何度自分は夢でも構わないと祈ったか。奇跡を、何度も何度も
希ったのだ。全ては冗談であったと、彼女が笑いながら現れる瞬間を。
 距離が縮まる。互いの瞳の色を判別できるほどに。横島は見る。かつてと変わらない、蛍の外羽のように黒い、
その瞳を。
 左腕が、自然と少女の後ろ腰に回っていた。折れそうなほどに細い。力を込めて引き寄せる。とても耐えられず、
横島は顔が俯かせた。
 夢見るように、少女が唇を綻ばす。

 ――ヨコシマ、愛して
「黙れ」

 告げ、霊気の鎧で覆われた右爪を翻す。狙いは過たず、女の胸元に突き刺さった。
 肉を抉る感触さえない。瞬時、蜃気楼のように揺らめいた女の姿は、空気に解けて消えていった。
 横島は顔を俯かせたままである。一秒、二秒と、呆と立つ。何も起こらない。――いや。
 声が、再度響き始める。声、もはや、懐かしささえ感じてしまうようになった、彼女の声が。

 ――ヨコシマ、 ――ヨコシマ、 ――ヨコシマ、

 無数に、いくつもの、寸分たがわぬ声と姿が、横島の放つ明かりを侵食していく。暗がりの中で明かりを求める
その様子は、ああ、何ということか。俺は今、蛍のようだと思ってしまった。
 声が響いている。ヨコシマ、ヨコシマと。ヨコシマ愛していると。愛して愛アイあい愛している。ヨコシマヨコシマ
ヨコシマ――!

「……の、声を、」

 俯いていた少年の頤が、ゆっくりと持ち上がる。これまで秘めていた、必死に目を背けていた激情が溢れるのを
止めることができない。忘れようとしていた。忘れようと、そう、努めていたのだ。その想いを土足で踏みにじられ、
唾を吐きかけられた。なぜ耐える必要があるのか。
 溶岩のように熱く、暗い、粘り気のある感情が逃げ口を求めて、両目から零れ出る。

「その、姿を……声を……」

 ひび割れ掠れた絶叫は怒声であり、

「使うな……!」

 しかしまた、悲鳴でもあった。

 文珠で作られた明かりの中、爆と刻まれた珠がはじけて消える。溢れていた無数の幻が残らず吹き飛ばされた。
粉塵で煙る視界で、動く影が二つ。横島は仁王立ちのまま、右手を伸ばす。右手、霊装された栄光の手。かつての
自分は、なにを以て栄光と思ったのか。
 汚れた空気を裂き、白黄の光の帯が走る。狙い違わず、虫のように蠢いていた影二つを捕捉した。そのまま
壁に縫い付ける。
 粉塵が、次第に収まっていく。明かりの下で見る一対の妖怪は、とても奇妙な姿をしていた。細く、不揃いな
石を、子供が適当に人型へ並べたような、薄っぺらい正体。

 そいつらが、何かわめいている。人間はこういうのに弱いはずではと、なぜ殺せるのだと。自分たちが何を
仕出かしたのかをまるで気づきもせずに。
 横島は、己の奥歯を割れんばかりに噛み締める。どんな言葉を持ってしても、この胸の奥にとぐろを巻く
感情をこの者らに伝えることはできない。では、それでは、どうすればよいのか。

 ――気を晴らせばいい。

 脳裏に響いた冷酷な声に、彼は抵抗もなく従った。右手で名も知らない妖怪を捕らえたまま、左手に文珠を
一つ現す。即座に念じて文字を刻むと、軽い動作で放り投げ、転がす。ころころと、ビー球のようにそれは
転がり、妖怪たちの目前で止まった。刻まれているのは、いつものように一文字だけ。

 融けろ。

 横島忠夫の命令の下、ただ一文字、『融』と刻まれた珠が弾けて消えた。






 最終的に横島は、美神が事前に準備していたロープによって引き上げられた。一階に戻ってすぐ、地下からの
爆音やらについて説明を求められ、彼はいつもの笑顔で答える。

 いやあもう、いきなりでびびりましたよ。下に落ちたと思ったら妖怪がぐわーって感じで襲ってきて。もう俺、
パニックになっちゃいましてね。文珠も一気に三つも使っちゃいました。やっぱり俺ってまだまだですねー。
もうちょい美神さんみたいに落ち着いて対処できればいいんですけどって、いや美神さんみたいにってのは
ちょっと調子に乗りすぎですよね。まあでも少しでも近づけるように、これからもご指導のほど何卒……、え?
おキヌちゃん、パーティーって? ああ、そういや俺もうすぐ卒業だったよね。そのパーティーかぁ。なんだか
照れるなー。そうか、卒業か。卒業。もう一年か。

 卒業。卒業か。高校の三年間は、もう終わりなのか。

 ……ああ、
 ……畜生、
 ……畜生め。
 まだたった、一年しか過ぎていなかったのか。






 朝に。早朝に、横島はそこへ立っていた。五時半という、いま自分が起きているのが奇跡かと思うような
早朝であった。美神令子除霊事務所。いつも自分の師匠が座っている所長卓の前。
 彼は静かに、机へ封筒を置く。相変わらず綺麗とはいえない字だが、精いっぱい丁寧に書いてこれなのだから、
なんとか納得してもらおう。
 そのまましばらくじっと立ったまま、周囲を見回す。いつも美神さんが座っている椅子、おキヌちゃんが顔を
出す給湯室、シロやタマモが寝そべることの多いソファ。あるいは、ここからは見えないが、屋根裏部屋にも
想いを馳せる。
 ふと、涙ぐみそうになっている自分に気づいて、横島は慌てる。二、三度の深呼吸でようやく心を落ち着けると、
そのまま部屋の出口に向かい、――少しだけ思い直して、封筒の上に文珠を一つだけ置く。もう少し、残すことが
できればよかったのだが。
 深く、深く一礼した後、横島は通いなれた事務所を後にした。

「……どこへ行くの?」

 完全な不意打ちであるその声に、横島は飛び上がる。玄関を潜った直後、真横から突き刺さったのは、彼の
雇い主にして師匠である美神令子の声だった。
 錆びた人形のようなぎこちない動作で、見やる。凄まじいまでの目つきで、彼女はこちらを凝視していた。

「どこへ、行くつもりなの?」

 再度繰り返される。適当なごまかしを口にすれば、この場で人生が終了しそうなほどであった。
 だらだらと脂汗を噴出させながら、横島は口内の唾を飲み下し、胆を決める。怖いから挨拶もなしに消える
というのは、なるほど、確かに不義理ではある。

「その……」

 それでも、強張った口はなかなか動かない。パンッ、と両手で自分の頬を張った横島は、美神に対して直立し、
つい今しがたのように深く腰を折る。

「美神さん、いままでお世話になりました!」

 それが何を意味するのか、理解できない者はいないだろう。明確な、決別の言葉だった。
 美神の視線は変わらない。だた、瞳の奥に奇妙な光が灯った。疲れたような、理解の色が。
 ぽつりと、彼女は声を零す。

「子供では、あんたは納得できなかったのね……?」
「……」

 ああ、やはり、彼女は自分の師匠だ。誇りと悲しみが横島の胸中に湧く。こんなにも、自分のことを理解して
くれている。
 横島は、どこか泣きそうにも見える笑顔で言う。

「本当は、望んではいけないことだと、分かってはいるんです」

 美神は口を挟まず、無言で耳を傾けている。ありがたいことに。

「アシュタロスなんて化け物を相手にして、あれだけの損害で勝てたんですから。きっと何百回繰り返しても、
あの結果が最善なんでしょうね」

 神魔人、全てを相手取り、五分以上に渡り合った稀代の傑物。そんなものを相手に、ただの人に過ぎない
自分たちが勝利を収めたのだ。それこそ、たったあれだけの損害で。

「彼女はいなくなったわけじゃない。魂の欠片はここにあるし、自分の子供として転生してくる。それは希望だと
俺は今でも思っています」
「それでも、諦めきれない?」
「……はい」

 横島は右手で、自分の胸元を握り締める。そう、魂の欠片がここにある。自分のものに融合されているとはいえ、
確かに、ここにあるのだ。自分の最も近くに。

「諦めようとは思いました。納得しようとも。でも俺は……欲深な人間です。確かな形が残っているというのに、
いつ生まれるか分からない子供に賭けることが、どうしてもできない」

 重い吐息を一つ吐き出す。そして美神の目を真っ直ぐに見つめ、少しだけ冗談めかし、

「それにほら、俺の子供を産むなんて奇特な人が、そう簡単に現れるとも思えませんし。それになによりこれが
重要なんですが、自分の子供に手を出すことはできませんしね」
「……まあ、あんたらしいわね。その理由は」

 少しだけ、美神の視線が和らぐ。彼女も同じく、真っ直ぐに横島を見つめる。いつだって彼女は人を真っ直ぐに
見てきた。

「これからどうするつもり?」
「ドクター・カオスの知り合いに、魂や精神の専門家いるらしいんです。大陸まで訪ねにいこうかと」
「それはまた、色んな意味で冒険ね」
「あはは」
「……決心は変わらない?」
「はい」
「絶対に?」
「はい」
「たぶんおキヌちゃん泣くわよ」
「て、手紙を書きます」

 突然弱気になった少年を笑って、声を上げて笑って、笑いすぎたのか目尻に少しだけ滲んだ涙を払ってから、

「じゃあ、餞別」

 え? と、そう声を挟む間もなかった。極々自然な仕草のように女は少年に寄り添い、顎をつまむ。ほんの
五秒ほど、横島は呼吸をすることができなかった。
 美神が離れる。寄り添ったときと同じように、ごく自然に。
 そして、美しく笑う。自身の名を表すように、鮮やかに、艶やかに微笑んだ。

「あなた、この美神令子の弟子なのよ。半端で帰ってきたら承知しないからね」

 動悸は、不思議と落ち着いていた。横島は彼女の、長年憧れ続けた、憧れ続けるであろう彼女の笑顔に
少しでも吊りあうようにと願いながら、笑顔を作る。

 ――はい。必ず。

 約束は契約である。いまここで自分は、最も尊い人と決して違わぬ契約を結んだ。
 奇跡など起きるはずはない。神も魔も不可能と断じたことを、唯人が覆せるはずがない。このさき幾度も心が
折れるときがくるだろう。けれども、


 この日、この時、この人と。
 笑顔で交わしたこの契約を裏切ることだけは、決してないだろう。









 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 原作終了後の後日談です。イメージとしては、50分OVAな感じで。
 全然関係ないですが、とらドラの原作が終了したらSSとか書いてみたいですね。
 亜美がヒロインのを。

 あ、この妖怪は「うしおととら」でヒョウに一蹴されたあいつらです。
 サンデー繋がりで登場してもらいました。……名前なんだっけ?



[5163] 続・日常の続き 第1話 (GS美神後日談)
Name: 材木◆040defa1 ID:593f3ebe
Date: 2008/12/11 21:53

 ドクター・カオスの手引きによって乗船した貨物船の底の底。臭気と国籍不明な人々に囲まれ、すぐさま襲ってきた
船酔いに殺されそうになりながらの船旅。それは数週間後にようやくの終わりをみせた。
 ああ畜生、やっぱり金をためてから飛行機を使えばよかった愚痴をこぼしつつ、横島は転がり出て、すぐに事前の
計画どおりに動き始める。
 カオスの頼りない地図を片手に歩き、列車に乗り、日本語と英語と中国語のちゃんぽんな会話で道を尋ね、時には
無駄金を使って通訳を雇いながら目的地へと向かう。
 大陸に着いてから旅はわりあい順調であった。少なくとも船旅よりはだが。そして、特に障害もなくたどり着く。が、

 カオスのかつての知り合いであるところの霊魂の専門家は、すでに他界していた。それも十年も前に。

「うっそーぉ……」

 あれだけ、あれだけ格好つけて旅立ったというのに、初手から躓いてしまった。あまりにも惨めすぎる。なんとなく
自分らしいと思えてしまうのがより情けない。
 だがまあ、死人に死んだっぽい人を生き返らせてくださいと頼むわけにもいかない。かなりの労力をもって頭を
切り替えて、横島は今晩の宿を探すべく街へと戻った。






 夕方。ホテルのチェックインを済ませてから、空いた腹を満たすべく、ホテルより路地を二つ跨いだ区画にある
屋台群へと足を延ばす。
 わずかな隙間も勿体ないと、小規模の屋台がぎゅうぎゅうに詰まっている。赤や緑の原色で彩られた作りは、
鮮やか、というよりも日本人的な感覚からはやや毒々しく感じられる。いや、色はまだいい。横島が辟易したのは。
発酵させた豆腐、臭豆腐の匂いだった。イカだの羊だの、または昆虫のさなぎやバッタの串焼きの香りまで、
全てかき消してしまっている。
 鼻をつまみながら、少しでも臭豆腐に臭いから遠ざかろうと、横島は店を探す。そして腰を落ち着けた場所を
ふと見回してみれば、観光客ばかりであった。やはり、考えることは似かよるらしい。

 煎餅と適当な焼き串を三本注文して、届いたそれらを頬張りながら今後のことへ思考を飛ばす。
 ケセラセラ、なるようになる、との考えで飛び出したが、いきなり現実にぶち当たってしまった。実のところ、他に
当ても特にない。己の考えの浅さに、いまさらながら戦慄してしまった。なにしろ、旅費もすでに尽きかけている
のである。どうしよう。

 泣きたい心地でもぐもぐと焼き串を咀嚼していると、ふと視線を引かれて、首をまわす。ちょっとお目にかかれない
美女が通りを歩いていた。
 ややざんばらな長髪は腰まで伸びている。遊びの多いズボンが腰の細さを際立たせている。豊満な胸元は扇情的に
大きく開けていた。なにより特徴的な、筆を走らせたような細い目と眉は、絶妙な角度で……いや、待て。ちょっと待て。
 知った顔だった。その両目から覗く縦長の瞳孔は、見間違えようがない。なんでお前が生きてるんだとか、なぜ
人間だらけのこの街にいるのだとか、疑問が次々と脳裏に弾けていく。だが、今はそんなことを詮索する余裕などない。
ぐっと息を詰めて、横島は覚悟を決めた。

(よし。逃げよう)

 即断だった。迷いもない。
 なにしろ相手は、あの小竜姫様を相手に五分に戦えるような女である。不意打ちするにしても、たった一人でそんな
冒険をする度胸は、とても横島にはない。
 背を向け、小さくなりながら文珠を一つ現す。刻む文字は『透』。周囲の視線が自分に向いてないことをこそこそと
確認してから、文珠の力を発動させる。瞬きほどの一瞬の後、すっ、と音もなく横島の姿が空気に混じり、透けていく。
 完全に透明になった横島は、再びこそこそと席を立ち、音を立てたり人にぶつかったりしないよう細心の注意を
払いながら、去っていく。ちらちらと頭が見える女の姿を気にしながら歩き、路地を一つ越え、物陰に隠れながら
(透明になっているというのに)背後を窺う。彼女の背中は雑踏に紛れ、完全に消えてくれた。
 はあー、と横島は盛大な安堵の息を吐いて、文珠の力を解除し、

「ハイ」

 目の前で、明るく片手を上げる女に身を凍らせた。

「本当に久しぶり。また会えて嬉しく思うよ。ああ、ちなみにこれ皮肉じゃないから」

 にやにやと、舌舐めずりするような笑顔は、本当に以前のままだった。
 メドーサ。神界のブラックリストに名を連ねる堕した竜神。アシュタロス配下であった上級魔族。
 その彼女が、なぜか少女ではなく妙齢の女性の姿で、横島の前に立っていた。






 高級そうな食器が小さく鳴る。仰々しい門構えを潜り、案内された高級中華料理店。白色を基調とした内装や、
足音のしない絨毯などは、横島の思う中華料理店のイメージとは少々はずれていた。
 あらゆる意味で状況に慣れていない、また状況を掴めていない少年は、メドーサの真向かいに腰をかけて
だらだらと嫌な汗を掻いている。
 上品に春雨の酢の物を箸で啄んでいた女が、意地悪げに微笑む。

「どうした? 救世の立役者殿。ここの料理は人間が作ったにしちゃあ、割といけるよ。試してみるといい」

 まな板の鯉とはこのような心境かと、馬鹿なことを考える。胃が痛い。死にたくない。たまたま通りかかった
美神さんが助けてくれたりしないかなあと、輪をかけて馬鹿な事を考える。
 メドーサは箸を置き、手酌で高粱酒を注ぐと実に旨そうに飲みほした。

「いい女の前で緊張してるのかい? まあ安心おしよ。なにもいきなり取って食いやしないから」

 言外に、いつでも殺せると匂わせるその台詞に、奇妙なことだが横島は返って落ち着いた。目前の女はいまだ
自分を敵と見ている。その本来のお互いの立ち位置は、むしろ平静さを与えてくれた。

「ちょっとあんたと話がしてみたいと思ってね」
「乳もませてくれたら聞いてへぶし」

 言い終わる前に、予備動作なしの直突きが顔面を襲った。
 多少ずれたような気さえする鼻骨を擦りながら、即座の暴力的なつっこみに横島はなんとなく懐かしくなる。
 やや呆れた様子でメドーサが、

「あんたまさか、小竜姫にも同じようなこと言ってんの?」
「はは、まさかぁ。服脱ぐの手伝おうとしたりキスを強請ったりしたぐらいっすよ」

 絶句したメドーサに、隙を感じたわけでもないが、初見のときから抱いていた疑問をぶつけてみた。

「そういや何であんた、もとの歳にもどってるんだ?」
「たいした理由じゃないよ。燃費の問題さ」

 特に抵抗もなく彼女は答える。尋ねたことを、また尋ねた以上のことさえすらすらと。

「幼体のほうが霊力魔力のキャパは多い。月みたいな霊気で満ちた場所なら、あっちの姿のほうが都合が良かった
んだが……代わりに、霊力を馬鹿食いするんでね。地上じゃ、低消費のこっちのほうが具合がいいのさ」

 ガソリン車の馬力みたいだなと失礼な感想を抱きつつ、黙って聞く。

「あの時、あんたに殺されかけたあと、」
「……!?」

 ぶわっと顔中に汗を滴らせた横島を見て、多少の溜飲を下げたのか、メドーサが笑いつつ、

「気がついた時にはもう、大方の流れは決してたからね。戦後裁判に出頭するほど殊勝なわけもなし、アシュ様への
義理立ても何百年も仕えたことで済んだだろうし、そのまんま逃げだしたってわけ。ご納得?」

 女優のように両腕を広げる女へ、頷く。
 確かに。小竜姫と互する堕神を、たかだか人間の作った文珠ひとつで滅しきれるはずはない。改めて、背筋が
寒くなった。手持ちの文珠は四つ。すべて使い切っても、果たして逃げることさえ叶うかどうか。
 顔色をさまざまに変える横島を、実に満足そうに眺めた後、メドーサは一つの品物を取り出し、机上に置く。

「……? なんすかこれ?」
「教養がないね。香炉だよ」

 三つ足の上に、平べったく歪んだ球が乗っている。球には側面に二つずつ、開口した筒があった。横島は
知らなかったが、内部で香料を焚き、香気を発散させる道具とのことだ。
 優雅にその表面を指で撫でたあと、なんでもないようにメドーサは言う。

「魂天に帰して魄地に返さず。もって鬼となり殭屍となる。……まあ要するに、ゾンビ製造機さ。というわけでこれ、
しばらく預かってもらうよ」
「はい?」

 間抜けな言葉が脳を通らずに零れる。さっきから何もかもいきなりすぎて、横島の頭の処理能力では、とてもじゃ
ないが追いつかない。

「ちょっと今、厄介な連中に追われててね。一週間でいいから預かっとくように」
「いやあんた、あんたが厄介なんていうのは天界の討伐隊くらいじゃ……、ってゆーか、そんなのに襲われたら俺
死んじゃうじゃ……」
「あら、駄目?」

 両手を組み、その上に傾けた顎を乗せ、とても悲しそうにメドーサは眉尻を下げる。改めて見てみると、彼女は
本当に整った顔をしていた。人に換算すれば三十手前ほどの外見年齢だが、その青白い容姿には皺や染みなど
欠片すらない。
 若干小首をかしげたその姿は、可愛らしさよりも色気が勝る。そして、その哀しげな両眼を見て、横島は確信した。

 ああ、いま断ったら、討伐隊より先にこの女に殺されるわこれ。

「ううう、……分かりました」
「そうそう。坊やは素直なのが一番だよ」

 積年の恨みをわずかでも晴らせたのか、機嫌よくメドーサは立ち上がる。
 ほんの一矢でも報えないかと、未練がましく横島は声をかけた。

「あのー、」
「もう用は済んだよ」
「お仕事終了後の報酬とかないの?」
「厚かましい坊やだね」
「すんません。目の前に人参がぶら下がってないとやる気でないんです」
「あっそ。じゃあ終わったら、胸触らせてやるよ」
「――二言はないな?」
(そ、そんなんでいいんだ……)






 結構なやる気を取り戻した横島は、足取りも軽くホテルへ戻る。靴底の汚れを落としてから自動ドアを開き、中へ入り、
すぐさま異変に気づく。別に気づいたのは自分が霊能力者だからではない。この場を見れば、誰でも気がつくだろう。
 時刻は夜の八時。だというのに、ホテル内には誰もいなかった。ラウンジで煙草を吹かす地元の人も、明日の予定を
賑やかに話し合う観光客も、フロント内の従業員さえも、誰一人。
 先ほどまでの浮ついた気持ちが急速に冷めていく。ごくりと喉を鳴らし、警戒しながらホテルの外へじりじりと向かう。

 ――その刹那の反応は、まさしく、実戦と師に鍛えられた霊能力者のものだった。
 凄まじい速度の何かが、横島へ向かってくる。右手に顕現させた栄光の手を全力で突き出す。固い音と、硬い感触。
右手が弾かれる。ほんの少しだけ生まれかけていた自負が萎えそうになるのを無視して、左手に文珠を一つ現す。
数は四つ。無駄撃ちはできない。いまさらながら、文珠に頼りすぎだという美神の叱咤が脳裏で響いた。

 向かう先、視線の先に、男がいる。薄く光る、流線形の鎧を全身に纏ったそいつは――、

「はっはあ! なかなか骨がありそうじゃねえか! ……って、あれ? お前、何やってんの?」
「全力でこっちの台詞だろうがてめえ!」

 魔装術を使う自分の知り合いなど、そうそういない。唐突に襲いかかってきた男は、知人であるGS、伊達雪之丞で
あった。
 さらに何か言おうとした横島を、光が遮る。雪之丞を懐が眩く輝き、一瞬後、宙に一人の女性が出現する。軽やかに
着地するその姿にも、横島は見覚えがあった。

 妙神山修行場の管理人。超加速を使いこなす数少ない竜神。小竜姫、その人であった。
 短く切りそろえられた髪をさっと揺らし、清廉な瞳で横島を見る。これまで向けられたことのない鋭い眼差しに、
いつものように飛びかかろうとした横島は意気を飲まれた。……なぜか、彼女は抜き身の神剣を携えている。

「身内に剣を向けるは不義なれど、竜神王の下命に私事を挟むことならず。猿神に、この問答が平穏のうちに終わる
ことを祈ります」

 言い、彼女は横島へ問いかける。

「釈明を求める。何故あなたから堕竜メドーサの匂いを感じるのか。……どうか横島さん、正直に答えてください」

 決死の眼差しに、ひょっとしなくても嵌められたのかと、横島はひどく寂しくなった。




[5163] 続・日常の続き 第2話 (GS美神後日談)
Name: 材木◆040defa1 ID:593f3ebe
Date: 2012/01/27 00:43
 厳密に言うのであれば、この世界のメドーサはすでに死去している。月での争いの最後で。
 とはいえ、ここに存命中であるメドーサが、偽物やコピーといったわけでもない。
 かつてアシュタロスが、新世界創世のために作り上げた宇宙処理装置。それが内包する数多の小宇宙より
選出され現出した個体。それが今のメドーサである。
 そのため、彼女は本人でありながら二人目であり、また自身が死んだ時の記憶を持つという大変ややこしい
存在となっていた。

 まあ別段、彼女はそれに不満を覚えたりはしない。人のそれとは若干異なるが、魔族にも自己保存本能は
ある。今ある命を無駄に嘆いたりはしない。
 さまざましがらみから解放された彼女は現在、自由に、のびのびと生を謳歌していた。

 ――なぜか、魔界へ帰ることもなく。これまでクズと見下げ続けた人間で溢れる、この地上で。






 小竜姫による人払いの結界が張られたホテルの中で、

「まあとりあえず、お茶でも飲みましょう」

 実に平然と提案した横島に、従ったという訳でもないが、雪之丞と小竜姫はロビーの一角にある休憩所へ腰を
下ろした。横長のテーブルをはさんで、横島の真向かいに。
 小竜姫は今は角の姿となっている。活動圏外における省エネモード。メドーサや雪之丞との再会といい、横島は
否が応でも香港でのことが思い出された。
 ホテルの備品を用いて勝手に用意した龍井茶を啜りつつ、まず横島が口を開いた。

「つーかお前、警告もせずにいきなり襲うなよな」
「気絶でもさせてからのほうが、いろいろ話がはええだろ?」

 同じく茶を飲みながら、雪之丞が過激なことを言う。なぜか彼は、いまだ霊気の鎧を身に纏っていた。
 相変わらずの脳筋野郎めと内心思いながら、横島は小竜姫に話かける。あの美少女美少女した顔や陶磁のような
太ももを目にできないこと残念がりつつ、

「俺のほうからは、あんまり説明することはないっすよ。一身上の都合で美神さんの事務所を飛び出してここへ来たら、
なんでか生きてたメドーサに絡まれてただけです。あの女がなんで俺を無傷で解放したのか不思議だったんですけど、
うーん、どうも、小竜姫様たちへの目くらましに利用されたとか、そんな感じっぽいですね。……やっぱり二人とも、
彼女を追ってきたんですか?」

 しばしの無言を挟み、小竜姫が言う。

「どうやら横島さん、あの女に操られている様子はなさそうですね」

 まだ疑われていたのかと、横島は冷や汗をかく。

「はい。メドーサの生存が確認されたのは、ほんの一週間ほど前です。使者を送り、おとなしく魔界へ帰るので
あれば、これまでの所業は水に流すと伝えたのですが……」
「恩赦みたいなもんですか」

 詳細には違うのかもしれないが、イメージとしてはそんなものかと横島は納得する。アシュタロスの最幹部であった
土偶羅たちも、大した罪には問われなかったのだ。上級魔族とはいえ主を失った身となっては、そうだいそれた事は
できまいとの判断もあったのかもしれない。

「ですが、彼女は非道にも使者を斬り、逃亡を続けています。彼女は今、神魔双方から狙われる犯罪者です」
「……それはまた、あの女らしいというかなんというか」

 その使者役がよほどムカつく奴だったのか、神族に情けをかれられたのがプライドに障ったのか。破格の条件を
蹴っ飛ばすその姿が、妙にリアルに想像できる。

「このままほっとくって選択肢は、やっぱり……」
「彼女はかつて神界を去った際に、いくつかの宝具を持ち出しています。このまま野放しにするわけにはいきません」
「あ、もしかして」
「はい。使者を斬ったのは、宝具の返却を求めたからでしょう」

 一度手に入れたものは自分のもの。返すくらいなら実力行使。
 そんな場合ではないのだが、横島は吹き出しそうになった。前から思っていたが、あの人にそっくりである。聞けば
両名とも恐ろしく気を害するだろうけど。
 笑いの衝動を紛らわすために、横島が問いかける。

「がめつい女ですね。宝具って例えば、」

 足もとのショルダーバッグ。その中にある、メドーサから渡された香炉を示そうとして、

「そうですね、例えば死者復活の香炉などですか」

 ――指し示そうとした、横島の手が止まる。そのまま、彼は言葉の続きを待った。

「かの元始天尊の弟子の一人、赤精子が作られたとされています。三魂七魄を自在に操り、暫時の死者復活を
可能とするとか。とはいえ、生き返った人には自我も感情も記憶もなく、あるのは記録だけとのことです」
「……記録?」
「ええ。文献では尋ねられれば、機械的な返答をしたそうです。もっとも一夜を越えれば土へ還ったとのことですが」

 へえ、と頷き、横島は手元のお茶を最後まで飲み干した。そして、不意に思いついたように、聞く。

「ええと、お話はだいたい分かりました。でも、サポートは雪之丞だけなんですか?」
「最初は美神さんのところへ、お願いに伺ったんですけど……」

 深くため息をつく様子が、角の姿だというのに伝わってくる。

「生憎と仕事が詰まっているようでして。一度受けた依頼を断るのはプロの矜持が許さなかったのでしょう。
……横島さんがいたら、少し状況が変わっていたかもしれませんが」

 落ち着いた口調に、若干の棘が加わる。
 少し座りが悪くなりながら、横島は尋ねた。

「あー、その、みんな元気でした? いや俺がいなくなったからって、そうそうみんな変わらないと思いますけど」
「そうですね。美神さんとタマモさんは今まで通りでした。シロさんも最初はかなり落ち込んでたそうですけど、
私がお会いした時は空元気を見せる程度には。それと、おキヌさんですが……」

 なぜか。そこで言葉を区切り、一拍の間を置く。

「――めちゃくちゃ怒ってました」
「へ?」

 それはなんというか、横島にとってかなり予想外な反応だった。怒っている? あのおキヌちゃんが?
 なにか不吉な予感に背が寒くなる。やはり、何か一言声をかけておくべきだったろうか。いやしかし、そうすれば
当然引きとめられていただろうし、その場合恐らく自分はまだ日本にいたような気がする。

「帰ったとき、覚悟しておいたほうがいいですよ」
「び、びびらさないでくださいよ」

 くそう、やっぱり神様でも女は女の味方なのか。
 胸中でぼやきを零し、話題を変えるべく横島は、これまで無言で茶菓子を貪っていた雪之丞へ話かけた。

「そういやお前、いま弓ちゃんのとこで世話になってるんだろ? いいのかこんなとこまで来て?」
「別にかおりの家の専属になったわけじゃない。それに歯ごたえのある連中を相手にしてないと腕が錆び、」
「……今お前、物すごい自然に下の名前を呼び捨てにしたよな?」
「あ! い、いや、いまのは別に……!」
「――はっ!? ま、まさか!? もうヤったのか!? もうヤったんか貴様ー!?」
「うるせーな! お前には関係ねーじゃねーか!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた若い男二人。さすがに呆れ、小竜姫が嗜めようとした、その瞬間である。
 軽い、おもちゃのような銃声が、ホテルのロビーに響いた。

「……いてーな」

 特にどうということもなく、雪之丞が呟く。たったいま、銃弾が直撃したはずの後頭部を掻きながら。
 雪之丞が視線を廻らすと、正面ホールからばらばらと人影が入ってきた。あまり統率されていないその動きは、
彼らの外見にも表れている。
 見るからに暴力で商売をしている、粗野な印象の男たちが十名前後。ほとんど全員が拳銃で武装している。
小銃を持っている者はいなかったが、青竜刀を肩に担いでいる者が幾名か混じっていた。
 それらの様子を眺め終えてから、雪之丞は実に楽しげに破顔してみせた。

「先に手を出したのは、てめーらのほうだぜ? まあ、歓迎するけどよ」

 その言葉に誘われたのか。殺、と怒号を上げた彼らが一斉に殺到する。






 空しげに、

「ちっ、だらしねえ連中だな」

 一分も掛からずに鎮圧を終えた雪之丞が言う。八人目を無力化したところで、残りの連中は化け物を見る目を
しながら逃げ出して行った。銃弾や刃物を避けもせず、全て弾き返す男を相手取れば、当たり前かもしれないが。

「……終わった?」

 ひょこりと。フロントカウンターの内側から頭を覗かせたのは、最初の発砲音の際にゴキブリのように逃げ出した
横島である。
 呆れた雪之丞が、

「ちょっとは手伝えよ」
「やかましい。ふつう霊能力者は鉄砲相手に喧嘩なんかせんのだ。全身鎧なお前と一緒にするな」

 戦車相手でもまともに喧嘩できそうな雪之丞と違い。横島は生身である。運悪く、一発の流れ弾が急所に当たる
だけで、当然簡単に死んでしまう。なにより、重火器の前に体を晒す蛮勇とは無縁の男である。
 とはいえ、横島をライバルと見なす雪之丞は、それでもやや不満げであった。

「だらしねえな。今の俺たちなら、メドーサとも対等に、」
「無理。絶っ対に無理に決まってる。つーかお前、いいかげんもうちょっと血圧下げろよ」

 今度は横島が呆れたような声をあげる。
 それでもその無謀な台詞を、横島は冗談として受け取った。
 伊達雪之丞という人間を知っているにも関わらず、冗談だと、横島は思ってしまった。






 流氓という、組織とも呼べない集団がある。日本語に訳すのならば、チンピラという言葉が最も適当であろうか。
ヤクザのように構成員の統制が取れている訳でもない、十名単位で集まる彼らは、明確なリーダーを定めることも
せずに、刹那的に犯罪を犯す。
 その流氓の一集団が何をとち狂ったのか、日本への密入国の手引きといった大仕事に手を出した。むろん、
日本のみならず米国やヨーロッパにまで密入国ネットワークを構築している蛇頭が、それを黙って傍観するはずも
ない。早晩、その知恵の足りないならず者たちはこの世から消えるはずだった。

 その当たり前な結末を、一人の女が覆す。彼女はなんの気まぐれか、極めて暴力的な手段で妨害に来た蛇頭の
先兵たちを、苦もなく撃退してみせた。重火器で武装した者達をたった一人で、それも一柄の二股槍によって。
 その後も、組織的な襲撃を行う連中を、また党幹部の使いを名乗る者さえ、雑草を刈るような気軽さで殺めていく。
 ひと月もすれば、彼らに逆らおうとする者は、表向きはであるがいなくなった。

 ありふれた流氓でしかなかったその集団は、急速に規模を膨らませ、五階建てのビルに拠点を構え、いっぱしの
幣となる。そして彼らは、命のみならず富までを与えてくれた、そのメドーサと名乗る女に絶対の忠誠を誓った。
敬意と、それに倍する畏怖をもって。

 そして、彼らの拠点となったビルの中で、

「戻ってきたのはこれだけかい?」

 特に感情を揺らしたようすもなく、椅子に深く腰掛けた女、メドーサが尋ねる。
 ビルの最上階。中堅企業の応接室のような部屋。メドーサの向かいには、いかにもな外見のチンピラ達が数名いた。

「も、申し訳ありません。ほかの連中は皆やられちまいました。……ですが、なんなんですか、あの鎧野郎は?
頭にぶち込んでやったってのに、ぴんぴんしてやがった」

 噴き出す汗を服で拭いながら、男の一人が代表して答える。その怯えは、果たして誰によるものなのか。
 メドーサは聞いているのかいないのか、ひじ掛けをとんとんと指でたたき、しばらく黙りこむ。
 一分ほど沈黙を保ってから、彼女は再度問いかけた。

「お前たちの相手をしたのは、鎧の男だけ?」
「はい。左様で」
「……髪の短い女は出てこなかったんだね?」
「? はあ、野郎だけでしたが」
「ふん――。あの人間びいきの優等生め。また時間制限つきってわけだ」

 ぶつぶつと一人で考え込む女を、怪訝そうに彼らは見やる。だが、疑問をぶつけ不興を買うような真似はしない。
彼らは目前の女が人などではないとことを、これ以上なくよく知っていた。
 メドーサの沈黙は今度は短かった。すぐに、わずかに笑みさえ浮かべて話す。

「お役目ご苦労だったね」
「い、いえ! とんでもございません!」

 初めて耳にする労いの言葉に、男たちは本気で恐縮した。
 微笑を口元に湛えたまま、彼女は話を続ける。

「実はね、最近ちょっと人間っていう連中に興味が出てきてね。いや、あんたらほど個体差の大きい生き物なんて、
他にいないだろうよ」

 男たちは直立不動である。話の意味するところは分からなくとも、黙って耳を傾けていた。

「前にほんとうにムカつく奴らがいてね。小娘と坊やなんだが、弱っちろいくせにちょろちょろと邪魔をしてくれて、
終いにゃアシュタロス様のご計画さえ頓挫させるんだからねえ。感心するというか、呆れちまったよ私は。それに
比べてあんたらは、なかなか役に立ってくれたね」

 使役ゾンビよりはね、と冗談のように付け加える。追従の笑いが周囲で起きた。メドーサは笑顔のまま、

「ほんとう、あんたらは私の言うことをよく聞いてくれたよ。まあ最初に力ずくで脅したってのもあるけど、不満も言わず、
命令はなんでも引き受けてくれたね。でもさあ、」

 話しかけながら、椅子から立ち上がる。やや不揃いな長髪が、その動作によって左右に揺れた。

「ただでさえクズのような人間だってのに、何一つ私の意表をついてくれないような退屈な連中、生きててもしょうが
ないと思わないかい?」

 いつのまにか、メドーサの右手に握られていた二股槍が、とても気軽そうに前へ突かれる。
 悲鳴は聞こえなかった。というよりも、その暇がなかった。
 最もメドーサの手近にいた不運な一人が、喉から地を噴出させながら崩れ落ちる。あまりの予想外な状況に、
彼女以外の誰もが絶句し、身を凍らせた。

 す、と女は笑みを消し、

「まあ引っ越し前の掃除は、しとかないとね」

 そう、冗談のような本音を伝えると、ごくごく自然な所作で足を踏み出す。
 争いは起こらなかった。雑草を刈るかのような気軽さで行われた殺戮は、ただの作業にすぎなかったので。






 ホテルの一室に、横島はいる。シャワーを浴びる気力も残っておらず、着替えもせずにベッドへ横たわっていた。
 チンピラ連中を一蹴した雪之丞は、周辺の見回りに向かったらしい。相変わらず暑苦しくも元気な男だった。まあ、
あいつにとってメドーサは因縁浅からぬ相手であるので、意気込むのも無理ないのかもしれないが。
 ベッドの上。ごろりと寝がえりをして仰向けになる。視界に入るのは当然、安宿の内装ばかりである。しばらく目を
瞑らずに、横島はぼうっとしていた。
 五分、十分とそのまま過ごし、三十分ほどが経過する。一度きつく目を閉じた後、ゆっくりと上体を起こす。視線を
床のシュルダーバッグへ向けた。いや、そのバッグの中の物へと。

 メドーサから預けられた香炉が、そこに入っている。小竜姫が説明した、仙人赤精子が作った仙宝でもある。
 ゾンビ製造機。不完全な死者蘇生法。殭屍となったものは自我も感情も持たず、ただ生前の記録のみを持つ。
記憶ではなく記録。使者の魂を侮辱する道具だと、小竜姫は純粋な怒りを表していた。だが、尋問の道具としては
優秀かもしれない。殺した後に情報を引き出すということを、倫理が許せばの話であるが。

 なぜこれをさっさと小竜姫へ渡さなかったのかと、それを不思議に思うと言ってしまうのは、欺瞞がすぎるだろう。
この香炉の用途を聞いた一瞬、脳裏をかすめたのは、自分を身内と、ライバルと言ってくれた者たちを裏切るような
思考だった。

 ――ドクター・カオスのかつての知己、霊魂の専門家は、十年前に死去している。

 あまりにも出来すぎているこの状況。もう横島は、メドーサとの再会を偶然などとは考えていなかった。

(……すんません。一度だけ使わせてもらいます)

 心中の謝罪は誰に向けたものだろうか。
 誰かの思惑に乗ってしまう恐怖はある。親しい人たちの気持ちを踏みにじるのではという恐れがある。ただ、
それらよりもたった一つの望みのほうが勝ってしまう。
 横島は香炉へ向けていた視線を切り、窓へと向ける。窓ガラスに光が反射しているため、外の様子はぼんやりと
しか見えない。だから、それはただの幻だ。


 ――夜闇の奥で、蛇の目が笑っている。




[5163] 続・日常の続き 第3話 (GS美神後日談)
Name: 材木◆040defa1 ID:d5a1fe38
Date: 2012/02/01 00:34
 延命の方は幾通りもあると、ドクターカオスは考えている。そしてその考えは、まったく正解であった。
仙人のような解脱の極みや、他者の体の乗っ取り。あるいはもっと単純に、若者と首を挿げ替えるだとか。
正常な者たちならば眉をひそめるようなそういった方法を、カオスはかつてある研究者と酒席の中で交わした
ことがある。大陸の東、それほど親しかったわけでも長い付き合いとなったわけでもないが、しばらくの期間、
同じ神秘への探求者として意見を戦わせた。

 だが、様々な案を出しつつも、実のところカオスの結論は最初から定まっていた。彼は己が己のままで
高みに達することにこそ、価値を見出す男だった。理解に至った真理の数々が、いずれ脳の許容量を超えて
しまうことを当然のように予期していたが、彼は自己を自己のまま保つことを、最後まで選択し続けた。

 カオスと語らった者はそれを眩しく思い、敬意を抱き、しかし同意することだけは終ぞなかった。






 日付の変わる直前の時刻。外灯の少ない区画の暗闇は、原初の恐怖の体現である。しかし、豪胆かつ鈍感な者は
あまりそれを感じない。例えば、いま夜道を歩いている、雪之丞のような男は。
 霊装を解いた彼は、私服の上に擦り切れたロングコートを羽織っていた。新品を買えと常々恋人から言われているが、
衣服にはあまりに気をかけない彼である。
 自然体のまま彼は歩いていた。鋭く細められた眼差しには警戒の色が濃い。今は単身であるため、その警戒は
当然であるのかもしれないが。

 斥候を買って出た雪之丞に対して、小竜姫は同道を申し出たが、雪之丞は奇妙な不安定さを見せていた
(本人は隠していたつもりのようだが)横島がホテルに残ることを理由に、それを固辞する。
 自分もいつまでも猪ではない。危険な場で退くことくらいは覚えたと言えば、彼女も苦笑交じりに納得した。
 そう、さすがに自分も成長したのである。横島や美神のような連中と付き合えば、頭を使うことも覚える。
例えば、先の逃げ出したチンピラどもへ発信機をつけておくという小細工など。

 手のひらに収まるGPS受信機に、周囲の簡潔な地図が描かれている。地図の中心に矢印状の自分がおり、
そこから五十メートル北に赤い光点が点滅しながら停止していた。もちろん、赤い光点が取り付けた発信機の
位置である。
 舌先で己の唇を軽く舐める。緊張よりも高揚が強くなる。内から弾けそうな戦意が全身に満ちていた。そうだ、
俺はこのような好機をずっと望んでいたのだ。
 古巣であったあの道場に、特に愛着はない。メドーサに一時教えを請うたのも、自分の判断である。だが、
メドーサの下から離れる際、同門であった男へ告げた言葉が、いまだ自身の底へ根を張っていた。

 修行して、メドーサより強く――。

 その願いを叶える機会には恵まれなかった。そのはずだった。月であの女へ一矢報いたのは自分ではなく、
自分がライバルと呼ぶダチだった。だから、だからこそ、これは好機なのだと、雪之丞は考える。
 口角を獰猛にゆがめながら、雪之丞は立ち止まった。目の前にあるビルを見上げる。GPS受信機の赤い光点は
その中で停止したままである。

「夢や目標ってやつは、やっぱり努力して叶えねえとなぁ」

 顎下を撫でつつ嘯き、彼は足を踏み入れた。






(…………?)

 階段を登り、最上階まで至った雪之丞を迎えたのは血臭であった。それも真新しいものである。
 床に伏し、なま乾きの血液で全身を汚した連中には見覚えがあった。
 すでに事切れている彼らは、つい今しがた自分が叩きのめしたチンピラ連中である。一見しただけでも、
息のある者はいないと判断できる。
 舌打ちをするべきか唾を吐き捨てるべきか、忌々しげに迷いながら、雪之丞は呟いた。

「ヒス女の気まぐれか? 運が無かったな、てめえら」
「おや、辛辣だね」

 応える声があった。雪之丞のいる部屋の入り口から正対した、最奥の場所に女が立っている。薄暗い照明の
中では、蛇のような虹彩の瞳がよく映えた。――メドーサ。ひと時のみ師であった、堕ちた竜神。
 静かに笑む立ち姿から、警戒の様子はたいして窺えない。彼女の実力であれば、それを油断とは呼べないだろう。
傲慢と評すべきではあるかもしれないが。

 ざわざわと、雪之丞のうなじが逆立つ。胃の底から溢れる熱をもはや抑えることができない。歓喜と恐れが入り混じり、
官能めいた震えが全身の肌を撫でていく。

「ひさしぶり――って、一応いっておくぜ、師匠殿」
「もと、だろう? まあ、お前は才はともかく、可愛げのある弟子じゃあなかったね」
「あんたに気に入られてたら、俺は『あいつ』みたくなってたんだ。そいつはぞっとしねぇな」

 ぴりぴりとした会話だと、そう思うのは雪之丞だけであったろう。メドーサにしてみれば警戒する必要がない。
猛犬を恐れる者はいても、吠える子犬を恐れる者はどこにもいない。
 だがむしろ、その油断は好都合だと雪之丞は笑う。

「さて、」

 右肩に掛けた長槍をくるくると手遊びしながら、メドーサが言う。

「あの女を連れもせず、何をしに来たんだい雪之丞? お前に会話で女を楽しませる甲斐性なんて期待できないしね。
ああ、返答には気と頭を使いなよ? 分かってるだろう、お前は今ぎりぎりの所に立ってるんだから」

 にやにやと笑いながら、殺意を仄めかせつつも殺気はない。どこまでも上位者の目線に、雪之丞の熱はさらに高まる。
意思は強く、全身には闘志が巡り、脳髄は冷たい。理想的な戦闘状態だった。

「たいしたこっちゃねぇさ」

 ぺろりと舌先で唇を舐め、これまで言ってやりたくてしかたなかった言葉を目前の蛇女に叩きつける。

「弟子はな、師匠って奴を超えたくて超えたくて仕方がないんだよ。――構えな。相手になってやる」

 その不遜な台詞、いや、無謀な台詞というべきか。予期していなかったわけでもないだろうに、メドーサはぽかんと
口を開けてみせる。

「返答には気を使えと言ったろうに。前々からも賢いとは言えなかったけどさ、いよいよ馬鹿さ加減も極まったようだね」

 失笑未満のため息をこぼし、メドーサは気軽な仕草で槍を雪之丞へ向ける。

「大言を吐いたんだ。せめて――」

 言葉は切れた。いや、切られた。片手で構えていた槍を両手で握る。鋭く吐き出した呼気とともに、目前に
迫っていた『爪』を払う。韻、と奇妙に澄んだ音を立てながら、獣めいた影が火花の尾を引いて飛び退る。
 一瞬で霊装を終え、メドーサに踊りかかった雪之丞がにやりと笑った。

「偉いぜ。よく防いだな」
「…………」

 メドーサの双眸が穂先のように鋭利となる。怒気とは異なる冷気のような物が彼女の体からじわりと漏れ出す。
 無礼な不意打ちに憤っている様子は不思議となかった。天秤を見て、一度は値をつけたものを再度計り直す。
そんな観察者じみた視線を雪之丞に送っている。

 空気を裂く甲高い音。メドーサが槍を一振りし、構え直す。相対する男もまた身構えた。両手を地面に付けた、
四足獣のような奇怪な構え。槍を向ける女と、獣の体勢を取る魔装の男。見る者がいれば、誰もが男のほうを
魔族と断じたであろう。

 合図もなく、雄叫びもなく、ただ両目に恒星の爆発めいた輝きを煌かせて、雪之丞が疾走する。






 メドーサは、表情に出すことなく瞠目していた。
 目の前で、弾丸が跳ね回っている。そうとしか形容できない状況だった。
 獲物に飛び掛る寸前の豹のように、両手足を地につけて極端なまでの前傾姿勢を取る男が、ただ一足を持って
踊りかかり、爪牙を突き立てようとしている。
 槍で突こうとすれば片手でさばかれ、逆手で刺し貫こうとする。払えば逆らわず跳ね飛ばされ、瞬時もおかずに
再度踊りかかって来る。速度と、その速度による威力以外はなにもない単純な攻め手。だがその速度が異常過ぎた。

 ――次撃を紡ぐ間を潰されている。

 初手はほぼ同速。しかし二の手を放とうとした時には、すでに相手は目前にいない。まるで、西部劇の早撃ち
勝負のようだ。先に早く当てたほうが勝ちという、単純なルールに引きずり込まれている。

 もはや何十回目になるかも分からない、雪之丞の疾走。ぎゃりんと嫌な音を立てて、霊力の鎧で覆われた爪と
二叉の槍とがぶつかり合う。衝突の際に散った火花が、両者の顔を刹那に照らす。方や無表情、方や獰猛な笑顔。
どちらがどちらの表情なのかは言うまでもない。

 煩わしげに力押しするメドーサには抵抗せず、雪之丞が飛び退る。着地の隙を狙うそぶりをメドーサが見せるが、
雪之丞はコンクリートの床が爆ぜるような勢いで両手両足を叩きつけ、再び突進する。数えるのも億劫になるほど
同じ状況が繰り返された。

 力はメドーサが上である。霊力の総量は比較するのも馬鹿馬鹿しい。ただ、速力のみが互していた。――いや。
 メドーサの首筋に、かすかに走る朱線があった。認識を改める。わずかであるが、速さはあの男が上であると。
 ほぅ、とメドーサはため息のような声を漏らす。首筋の朱線は数秒と立たず消えていった。

「謝るべき、だろうね」

 十メートルは先にいる男へ、小声で呟く。雪之丞の構えは変わらない。四足獣の姿勢。双眸の戦意も同じく獣の
それである。会話の最中であろうと、隙が覗けば躊躇いなく攻撃すると全身が語っていた。

「あれから何年も経ってないだろうに。お前の伸びしろを、あたしは見誤っていたようだ」

 無論、どれほど互角の『ような』戦いを続けようと、両者の実力差が埋まったわけではない。人と魔族の
越えられない溝は厳然としてあった。

 超加速、という技がある。韋駄天神族の扱う技である。己以外の全ての世界を停滞させるような、圧倒的な速力を
使用者に与える、正に神業であった。そしてこれは、メドーサの得意技の一つでもある。
 いかに雪之丞が速さを誇ろうと、超加速を扱う魔族に及ぶものではない。瞬きほどの間も必要とせず、雪之丞は
切り伏せられるだろう。しかし、

(……こいつは、あたしが超加速を発動する直前の隙を狙っている)

 初動全てを潰す。そんな単純にして有りえない戦法を、この男は取り続けていた。

「ほんとに驚いたよ。たいしたもんだ。ご褒美に、」

 言葉を最後まで聞くことなく、雪之丞が突進する。四足が触れていた床が削れる。霊装の光が尾を引き、
一矢となって駆けてゆく。
 メドーサが力ずくで横払う。雪之丞は逆らわずに弾き飛ばされる。繰り返される同じ光景。
 そしてメドーサは、先ほど言いかけた言葉を胸中で続けた。

(ご褒美だ。力押しの大好きな坊やに、技というものを見せてあげる)

 真半身の姿勢で槍を持つ。雪之丞の両爪はすでに眼前に迫っていた。慌てず穂先を迫る右手の側面に添わせる。
 鎗術として当たり前の技。槍に限らず、棒状の物を扱う武術であれば、如何なる流派にも存在するだろう技術。
だが、その精緻のみが、人のものではなかった。一瞬を無限に引き延ばすような集中の中で、それは成立する。

 極わずかな体重移動と、繊細な手首の働きにより、穂先が螺旋を描く。雪之丞の突進による渾身の刺突、その力の
方向が容易く支配下に置かれる。穂先の回転に巻き込まれた雪之丞の右手は、右手のみならず身体をも道連れとした。

 衝突音さえ発生しなかった。メドーサの穂先と雪之丞の右手の接触時、そして、雪之丞の背が床に触れる瞬間さえ。

 状況への理解が及ばぬまま、それでも己の窮地に雪之丞の本能は敏感だった。全身のバネを総動員して、その場
からの逃避を開始する。人間としては最高の反応速度で。相手が人であれば、確実に避難は成功したであろう速度で。

「……がっ……ぁ……っ!」

 槍の巻き込みによって雪之丞を床へ転ばせたメドーサは、一切の遅滞を挟まずに右足で雪之丞の胸板を踏み込む。
 そして、心臓を圧迫されて苦鳴をあげる男の首に狙いをつけ、右手に握る槍を自然な仕草で刺し込んだ。
 ぱっと散った鮮血が、女の服に付着する。抑えた笑い声が彼女の喉から零れた。

「……、」

 メドーサの握る槍は二又である。その隙間に、雪之丞の首はあった。穂先がわずかにかすり、二筋の血線が
引かれている。
 標本のように縫いつけられた男が、呻く。

「……なんの、つもりだ、メドーサ?」

 決着はすでについた。勝者は魔族の女であり、敗者は人間の霊能力者である。だが、その敗者の呻きに込められた
怒りは、勝敗に対してのものではなかった。

 なぜ、負けたのに、俺の命はまだあるのか。
 殺し合いを吹っかけた相手に情け、あるいは遊び心で止めを刺されなかったこの状況。全身の血が逆流するような
屈辱に、雪之丞は震えていた。

「いや、これでも結構感心してるんだよ雪之丞?」

 くすくすと。男のプライドを折る快楽を飴のように胸中で転がして、メドーサが笑う。

「あたしらが軽く突くだけで死んじまう、か弱い人間のはずのお前にさ、まさか糞ったれな天界で学んだ鎗術を披露する
はめになるなんて、ホント数年前には想像だにしなかったよ」

 ほんの少しだけ本気を出さされた。それは凄いことだと、女が言っている。

 奥歯が軋むほどに強く噛みしめてから、雪之丞は肺の空気を全て吐き出し、肩の力を抜いた。負けた、負けたのだ。
勝者の言を否定する権利などすでに失っている。

 恋人への詫びの言葉を脳裏で呟き、雪之丞はメドーサの蛇瞳をまっすぐに見つめた。

「決着はついた。殺せ」

 その言葉を聞いたメドーサも、視線をまっすぐに返す。顎下に拳を当てて、彼女は思案顔でしばらく佇んだ。
 そしてすぐに、とびっきりのことを思いついたと両目を輝かせ、微笑んで見せる。

「決着、決着ね」

 雪之丞の全身の産毛が逆立つ。

「決着をつけるのは、あたしだけでいいのかい?」
「……? なにを、意味の分からないことを、」
「とっても仲のいい、ライバルがいたんじゃなかったっけ?」

 メドーサの意図するところが掴めない。なのに、嫌な予感だけが積み上げられていく。

「競い合う相手がいるのは幸運なことだよ。でも、それがただの馴れ合いになっちゃ最悪だ」
「だか、ら……」
「つい今しがたのあんたは、最高だったよ」
「意味が分からねぇって、言ってんだろうが……っ!」

 睨みつけるべく視線を上げた先で、奇怪なものを見た。メドーサの胸元から、一匹の蛇が生えている。いや、それは
本当に蛇なのか。コミカルな仕草で揺れる土気色のそれには、目も鼻もなく、異常に肥大した口があるだけだった。

「どっちが強くて、どっちが上なのか。恩も情も脇に置いて、一番手っ取り早い方法でさ、内心、試してみたくてしょうが
なかったんじゃないかい?」

 メドーサの笑みがより一層深くなる。蛇が狙いをつけたように鎌首を上げる。

「――決着、存分につけるといい。楽しませてくれたご褒美に、『手伝って』あげるよ」

 雪之丞が絶叫を上げることは叶わなかった。飛び込んできた一口の蛇が、喉を通り過ぎ胃にまで落ちて来たため。

 足と槍をどかしたメドーサは、常軌を逸した激痛に暴れる男の狂態を、母性さえにじむ穏やかな表情で眺め始めた。






 



 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 ものすごい久しぶりの更新。いろいろとすみません。
 次が最終話の予定です。



[5163] 続・日常の続き 最終話 前篇 (GS美神後日談)
Name: 材木◆040defa1 ID:d5a1fe38
Date: 2012/02/01 00:35

 予感が。私服のまま寝入っていた横島を、予感が目覚めさせる。
 不可解気な様子で体を起こし、あくびを零してから周囲を見回す。
 ひどく暗い。日の開ける気配さえない窓の外は、深夜二時か三時といったところだろうか。

 寝つきのいいはずの自分がこんな時間に目覚めたことを不審がりつつ、なぜか二度寝をする気にもならずに、
横島はもぞもぞと動く。特にやることも思いつかなかったので、ロビーの無人フロントから飲み物でも借りようかと
思った、その直後である。

 階下から爆音が響いた。ホテル全体が鳴動し、窓ガラスにビシリとひびが入る。
 ぎょっと首をすくめた横島は、足元のショルダーバックを引ったくり、そのまま慌てた足取りで部屋を飛び出した。






 ホテルの一階。ほんの数時間前に少竜姫たちと歓談した場に、粉塵が満ちている。
 正面自動ドアは全てが割れ壊れ、ずいぶんと風通しが良くなっていた。
 絨毯は半分以上がめくれ上がり、残りの半分は引きちぎられ塵と化している。
 火災が起きていないのは不幸中の幸いかと、そんなことを思う余裕さえ今の横島にはなかった。

 この惨状を引き起こしたと思われる元凶が、宙に浮かんでいる。
 目鼻のない、口だけが異常に肥大した巨大な蛇。 いや、そのフォルムはどちらかといえばナマズに近い。
 あの蛇女が好んで使役していた魔物だったと、横島は思い至る。――と、

 宙に浮かぶ魔物の数は五つ。その全ての動きが止まる。ゆっくりと宙を泳いでいたそれらが、一斉に向きを変えた。
この場にいるただ一人の人間、横島へと。
 喉元までせり上がった悲鳴をなんとか堪え、横島は右手に文珠を一つ現す。逃げるべきか、防御すべきか、
攻撃するべきか。迷いの時間はごく短かった。答えを出す必要がなくなったために。

 閃光が駆ける。人では視認さえ困難な速度で、ロビー内を白光が蹂躙する。五つの魔物がすべて両断され、
ぴったり十の塊となった。
 光が解け、姿が現れる。粉塵にまみれたこの場でも、可憐さの薄らぐことのない凛とした立ち姿。
 妙神山修行場の管理人、小竜姫は、返り血さえついていない剣を一振りし、横島を見やった。

「横島さん、その場を動かないでください。……います」

 言葉の意味を理解したわけではないが、横島は黙って従う。
 小竜姫はすぐに視線を転じた。ホテルの外、損壊された自動ドアの向こう側へと。

「良い度胸です。もはや逃げられぬと悟りましたか?」

 こつこつと、靴音が響く。奇妙に色気を感じさせるその音とともに、人影が一つ姿を見せた。
 艶麗な微笑を貼りつかせ、赤い唇を三日月に歪めた女、メドーサが。
 ひんっ、と空気を切り裂き、小竜姫はメドーサの首に剣を向ける。

「大人しく縄を打たれるというのであれば、その槍を捨てよ。捨てぬというのであれば、抵抗の意ありと判断する」
「あんたは本当に、何年経とうが変わんないねぇ」

 どこまでも生真面目な声を、揶揄する声が弄う。しかし、小竜姫は眉をひそめることもせずに言葉を続けた。

「アシュタロスのいないこの地上で、どのような意図をもって暗躍しているのか。もはやそれは問いません。
我は先兵に過ぎず。あなたの尋問は捕らえた後、別の者が行うでしょう」

 失望の色が瞳に乗ったのは、果たして両者のどちらだっただろうか。

「……ほんとうに、変わらない。退屈だよ、あんた」
「お前の楽しみなどに興味はない」

 甲高い擦過音。言い捨て突進した小竜姫の剣を、メドーサが受け止めた音である。
 突進して一撃を加えた者と、その場で受けた者。勢いは前者が勝った。
 裂帛の気勢とともに、小竜姫は押し切るべく力を込める。メドーサは受け流すことも叶わずに、そのまま真っ直ぐ
後退した。メドーサの顔から笑顔が消える。

「……っ!」
「……ッ!」

 人の限界、その遥か先にいる神魔両属の使い手たち。
 両者は当たり前のように戦場を地から空へと移し、絢爛たる剣戟を空中で交わし始めた。






「……しまった、出番がない」

 一人ぽつんと取り残された横島が、所在なさげにつぶやく。脇役のつらい所だなー、などどいう思いも浮かんだが、
あの戦闘を手伝えと言われるよりは断然マシであるかと思い直す。
 今の自分にできることは、もはや応援することだけと悟った横島が、小竜姫に向けて真顔で念力を送り始める。と、

 不意に。本当に不意に、そんな横島へあきれ声をかける者が現れた。
 ロビーの柱の影にでもいたのか、一人の若い男がふらりと姿を見せる。

「なーにやってんだか……」

 奇妙に力の抜けたその声を発したのは、横島の見知った男であった。自分と同年代ほどの青年、伊達雪之丞。
 非常時のためだろう。全身を霊気の鎧で覆っている。

 不思議そうに、横島が首を傾げた。己が何を不思議がっているのか判然とせず、しばし雪之丞の姿を
眺めやってから思い至る。

 ――なんで俺は、こいつを見てすぐ、無事かと声をかけることを躊躇ったんだ?

 なぜか乾き始めた喉を潤すため、横島はつばを飲み込む。

「意外だな。メドーサへ真っ先に突っかかるのは、お前だと思ってたんだが」
「それ、あながちハズレじゃないぜ?」

 疲れたような苦笑を雪之丞は零す。いや、本当にそれは苦笑なのだろうか。
 暗がりに雪之丞の顔は隠れ、どのような表情を浮かべているのかを不明としていた。

「……お前、いままでどこにいた?」
「不意打ちをするつもりはないんだ。それじゃ意味がないから」

 問いを無視して、雪之丞は言う。片眉を上げる横島に対して、さらに言葉を紡いだ。

「いま俺の腹の中にはな、あの蛇女の使い魔がいる」
(……白状する相手をまちがえてるだろ馬鹿野郎)

 何でこいつは少竜姫様がいる時に言わないんだ、と声に出さず毒づき、横島は言葉の続きを待つ。
右手の中の文珠にこっそりと霊力を注ぎながら。

「洗脳ってほどじゃないんだがな、俺はお前と戦えと命じられてる。命令に背いたら、腹の中のこいつが俺の胃を
食い破って出てくるらしい」
「……形だけ戦って、そのあと負けたふりしとけば何とかなったりして」
「頭いいな。それは思いつかなかった」

 今度ははっきりと苦笑してから、雪之丞は一歩踏み出す。一歩分だけ、横島との間合いが狭まった。
 対抗するように、という訳でもないが横島は言葉をぶつける。

「操られてるにしちゃ、いつもとあんま変わってないなお前」
「言ったろう? 洗脳ってほどじゃないんだ。半分くらいは意識が残ってる。……そうだ。半分は、俺の意思なんだ」

 どこか虚ろであった雪之丞の声に力がこもる。言葉どおり、意思がこもったかのように。

「なあ横島。俺達が戦ったのは、結局あの試合の時だけだったな。それもはっきりとしない引き分けなんていう結末だ」
「それの何がいかんのだ。今どき強さランキングなんて、少年漫画でも流行っとらんぞ」

 感傷混じりの雪之丞の声を、横島は馬鹿馬鹿しいと切り捨てる。その手の暑苦しい趣向とは無縁の男であった。
 じりじりと下がりながら、それでも牽制のために横島は話を続けた。

「GSとしてやってける程々の力があれば、それで満足なんだよ俺は。どっちのほうが強いとかどうでもいいってーの」
「妙神山で手に入れたその文珠の力。程々というには過剰だな」
「まあ、熱血してた時もちょっとはあったかもしれんが、やっぱ熱血よりも色気だろ普通。恋人いて毎日イチャコラしてる
羨ましいお前には分からんかもしれんがな。いや、マジで妬ましいから死ねばいいのに」

 冗談として混ぜっ返す横島に、雪之丞は首を振る。雪之丞の瞳には、なぜ理解してくれぬのかという哀惜さえあった。

「……俺はお前のほうが羨ましい」
「はあ?」
「戦い、戦い、戦って。メドーサはおろかアシュタロスにさえ、お前は一矢報いてみせた。俺が願い夢見て、そして
叶わなかったことだ、それは。女なんかのことよりも、俺はそれが眩しくて仕方がない」
「…………女、なんか?」

 横島の声が、不意に一段低くなる。理解できないはずだった。互いの価値観に隔たりがありすぎる。
 いつものヘラヘラとした表情を作ろうとして、横島は失敗する。今の雪之丞の台詞は、飲み込んだ振りをすることさえ
困難だった。

 恋人がいて? 話をすることができて? 会おうと思えばいつでも会えて? これからいくらでも思い出が作れて?
 そんな吐き気がするほど恵まれた状況にいる男が、女なんか、と口走ったのか?
 一体なにをどう思い至れば、そんな言葉を吐き出せるというのだろう。

「――お前の腹の中にいる奴。俺を殺しでもしなきゃ出て行かんのか?」
「あの蛇女が命じたのは、戦えということだけだったな。勝敗については触れてなかったよ」
「そりゃあ良かった」

 毒づくように、横島は告げる。

「俺がお前のそのツラをぶっ飛ばせば、何から何まで丸く収まるわけだ」
「やる気になってくれたのか? 相変わらず、お前の怒るポイントはよく分からんな」

 弓ちゃんの代理だこの阿呆、という罵りは口内で潰す。そして唾を吐き捨ててから、明確な敵意を込めて横島は
雪之丞を睨みやった。

「あのさ、」
「――?」

 爆音。何事か言いかけた横島に、雪之丞が耳を傾けたその一瞬。密かに『爆』の文字が刻まれていた文珠が
炸裂する。反射的に飛び退り、両腕両足を亀のように丸めた雪之丞が吹き飛ばされ、そのまま壁に激突した。

「ははっ! 油断大敵ってな!」

 快笑しつつ、横島は二階の階段へ向かって猛然と走る。こんな動きやすそうな所で、魔装術の使い手と争う気など
毛頭ない。後ろを振り返ることさえせずに、横島は階上へと姿を消した。

 がらりと、雪之丞が瓦礫を押しのける。唇の端が切れて、一筋の血が流れていた。
 そのままの姿勢で、体の埃をはたく。思わず笑みが零れ出た。メドーサのことさえ脳裏から薄れていく。

「……上等」

 数時間前、あるビルの最上階にいた時と同種の戦意を両目に宿し、雪之丞は立ち上がった。






 空中で、二柱の超越者たちが剣と槍を打ち交わす。超加速を使用する前でさえ、その速度は異常であった。
 慣性の檻を容易く壊し、直角的な動きを交えながら両者は交錯する。深夜の空に、いくつもの火花の華が咲いた。

「何のつもりです! メドーサ!」

 一剣とともに小竜姫が声を張り上げる。苛立ちは、メドーサの戦い方にあった。
 守備一辺倒。かわし、流し、それらが叶わぬ時だけ受け止める。ただそれだけの戦い方。
 小竜姫の美貌が不愉快気に、それ以上に不可解気に歪む。

 自分の存在に気づき、密かにこの町から逃げるというのであれば理解できる。
 自分の存在に気づき、始末するために現れたというのであれば理解できる。
 だが、わざわざ姿を見せて挑発し、実際に戦う際は逃げの一手とは、一体どういうことだ?

(時間稼ぎ? 私の活動時間を削るため? 本当に、それだけの理由?)

 迷いつつも小竜姫の剣に遅滞はない。彼女ほどの使い手にとって、剣技と迷妄は没交渉である。
 と、過剰なまでに間合いを取っていたメドーサが、

「あんたさ、何で人間の味方してるんだい?」

 そのメドーサの問い、常であれば小竜姫は無視したことだろう。
 いつものように、冷笑を浮かべてメドーサが言ったのであれば、そのようにしていたはずだ。

「修行場みたいなところで管理人やってるんだ。やってくる人間、全部が全部、あの神父の坊やみたいな連中じゃ
ないだろうに」
「……力を求める人間が集まる、妙神山修行場の管理人であればこそ」

 だが、問いを投げるものが誰であろうと、その問いが真摯であれば神は応える必要がある。
 そう信じる小竜姫は、真顔で訊ねるメドーサに声を返す。

「人間はみんな守護の対象? 試練を超える才があれば、どんな連中にも力をくれてやるのかい?」
「人がみな善人であると信じるほど、さすがに幼くはありません」

 剣は構えたまま。闘志もそのままに。声さえ刃物に変えて、小竜姫は言う。

「己のためだけに力を求める人間は、数多くいます。その力の悪用を考える者も、輪をかけていることでしょう。
むしろ妙神山の門を叩く者は、そういう類のほうが多いかもしれません」

 茶々を入れることもなく、攻撃の隙を窺う様子もなく、メドーサは無言で耳を傾ける。

「だが、最初から正しい者だけを導くのが神なのか? その弱さゆえに道を違えている者には、機会さえ与えることが
許されないのか? 人ほど変化に富む者はいない。悪に染まるが人ならば、善に染まるもまた人だ。メドーサ、
先ほどの問いに答えよう。世の全ての人間は善意という種子を抱き、産まれ落ちる。ゆえにこの小竜姫、幾星霜が
経ようとも人を見守り、人を導き、人を守護しよう」

 この上なく真剣に、照れなど微塵も見せずに小竜姫は言い切った。

「笑わば笑え。この生き方、竜神王の命であろうと変えるつもりはありません」
(……なんとまあ)

 呆れ返ろうとして、メドーサは失敗する。人に失望したことも、裏切られたことも山ほどあるだろうに、そんなお花と
星で満ちた理想を持ち続けているというのか。
 これが人の言葉であれば、メドーサはただ失笑しただけであった。しかし、口にしたのは数百年を生きる竜神族の
女である。この小竜姫という女は、そんな甘い夢を数百年間いだき続け、さらに実践もしてきたいうのだ。もはや呆れを
とおりこして感心さえ覚えてしまった。

 そのせいだろうか。ついメドーサは、思いついたことを特に考えることもせず零してしまう。

「あんたさぁ、そんなんだから男できないんじゃないの?」
「今ぜんっぜん関係ないでしょーがその話は!!」

 メドーサの声音に本気で心配するような気配があったことが、余計に小竜姫を激怒させたのか、妙神山の管理人は
耳たぶまで赤く染めながら突進した。






 



 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 ちょっと長くなったので分割。後編でラストになります。


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