“1998年7月7日”
その日付を聞いて、何の感慨も抱かない日本国民はいないだろう。
ある者は思い出したくもないと首を振り、またある者は怒りがこみ上げてくるのを抑えられまい。
だがほとんどの人間は、悲しみの表情を浮かべて、きっとこう言うのだ。
「あんなことは、もうごめんだ」と。
1998年7月7日……その日、日本は醜悪な侵略者『BETA』の侵攻を受けた。
列島へ突きつけられた匕首である朝鮮半島が落ちたときから、それは宿命づけられた事柄だった。
…………一週間。
たった一週間でBETAは九州、中国、四国地方を呑み込み、3600万に及ぶ人間の尊厳と命を蹂躙した。
そして、四季と豊かな自然が長い時間を懸けて生み出した、本当に色鮮やかで美しい青山は特徴もない灰色に、
瑞々しい清流は乾いた茶色へと染められていった。
けれども、ただ敵にされるがままだったのではない。
BETA上陸に際し、帝国本土防衛軍において「最精強」と呼ばれた西部方面軍麾下、福岡第4師団、熊本第8師団、
都城第15師団は、卑怯なる侵略に抗し戦いを挑む。
大型台風という天災にあって、そして先の朝鮮陥落時に行われた脱出計画“光州作戦”の傷跡も癒えないままに。
それは故郷を守るため、愛する人を守るため、自らの務めを果たすため。 彼らと彼女らの願いは、どこまでも
純粋なものであった。
だが、その想いが報われることは決してなかった。
北九州だけでなく、BETAは熊本や中国地方にも上陸。 それらBETAによって挟撃され、西部方面部隊は壊滅してしまう。
台風によって戦力配置が遅れ、本州や海からの増援が間に合わなかったのだ。
戦力が圧倒的に不足している以上、そうなるのは必然だった。
そして追撃される形となった西部方面部隊は、文字通りBETAの「餌食」となっていく。
自らを守ってくれるはずの存在を失った、人々もまた同様に。
……これが、一週間で3600万人という犠牲者を生むことになる、誰もが忘れたい“史実”である。
―――だが、
BETAによって部隊が壊滅した後も人々は逃げ続け、
最後のそのトキまで抵抗を続ける兵士達がいたのもまた、
忘れてはならない“史実”である。
<Muv-Luv in 1998 九州戦線 ~英雄の子供達~>
―――背にシートで覆われた大きな荷物を抱え、大型トラックが九州の大動脈である九州自動車道を進む。
真っ黒に淀んだ空からは大粒の雨がバシャバシャと車をうち、強風がときに揺らすこともあった。
その振動が、ふと、シートの中で眠っていた一人の少女を起こす。 彼女はぶんぶんと首をふりつつ、
揺れに気をつけながら立ち上がる。
“ようこそ熊本市へ”という看板が自動車道脇に現れ、シートの隙間からそれを見た少女は、クスリと頬を緩めた。
そのとき強風がシートの隙間から入り込み、彼女をないだ。
艶やかで瑞々しい漆黒の長髪が大きく舞い上がり、パラパラと音を立てて流れていく。
覗いたのは真っ白な肌と、頬に小さく浮かぶピンク色の赤み。 長い睫毛と、二重瞼でぱっちりとした大きな瞳。
年齢は16、7歳くらいだろうか。 衛士強化装備によって浮き出た大人らしい体つきに比べ、目の輝きは未だ
初々しく、どこかあどけなさを感じさせる。
一見して美少女である。 この年頃であれば、学校で友人達との恋愛話に花も咲かせるだろう。 そして異性達の
話題の的となり、青春に相応しい、甘酸っぱい思い出を作っていてもおかしくない。
……だがそれも、“平時”での話だ。 今は“有事”である。
彼女は、狭い肩と細い腕に不釣り合いな大きい小銃を担ぎ、斯衛軍の制式装備である漆黒の88式衛士強化
装備をその身に纏っていた。
兵士なのだ。 他の皆と同様に、当たり前のように。
戦いを業とし、敵を殺すことを務めとする一兵士。 今ここでこの時で必要なものは、華ではなく血と汗と硝煙の匂いを
感じさせる屈強さだ。
そんなものなど微塵も感じさせず、少女はシートから顔を出し、風で自分の髪が乱れないよう抑えながら辺りを
見渡した。
昼時であるのに、空は真っ黒だ。 雷鳴もときに聞こえ、その度に彼女は体に力が入る。
……その中に混じって、戦闘音も耳に入った。
少女は顔を険しくさせた。 自分がそこにいられないことの悔しさと、ただ離れることしかできなかった不甲斐なさ
が堪らなかった。
それが自分の未熟さゆえにとわかっているのだから、彼女はなお苦しさを感じた。
屈強さこそ持ち合わせていないが、彼女は戦場にヒロイックな華を求める酔いと甘さは有していたのだ。
ふと視界をずらすと、とてつもなく大きな山が目に入る。
少女はすぐにそれが「阿蘇山」であると分かった。 熊本県の象徴、古代より“火之神”として崇められてきた
神山である。
知らず知らずのうちに二つの手が合わされ、彼女は祈り始めた。
一つは先の戦闘で亡くなった大勢の御魂の安らぎを。 もう一つは今現在も戦い続けている戦友達の無事を。
そして最後に、侵略者を討つための力を。
目を瞑り、ただひたすらに、彼女は請い願った。
……どれほど手を合わせていただろうか。
顔を上げる。 幼いながらも凛々しいその少女は、静かに息を二、三度吐き出し、表情を決意と覚悟によって
彩っていく。
彩りが進む中、彼女を乗せたトラックは更に進む。 その先では無数の戦車が鉄の音と油の匂いをさせながら
屯し、更に奥で、鋼の防人――戦術機達が縦隊で隆立し、こちらを見ていた。
……それは紛れもなく、これから真っ白なキャンパスが戦場として彩られる、その前段階のさまだった。