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[319] それから先の話
Name: koma
Date: 2007/04/21 14:27
第1話
月、ネルガルドックにて


「エリナ、補給は終わったか?」
「ええ、さっき終わったところ」
 背後からの声に、長身の女性が振り向いた。切れ長の瞳が印象的な、東洋系の顔立ち。
 エリナ・キンジョウ・ウォン。月ネルガルドックの最高責任者である。
 声をかけてきた男を捜して、エリナは視線を巡らせた。
 機動兵器の影の下で目が止まった。黒一色の男がいる。声をかけられなかったら、そこにいることにすら気づかなかっただろう。闇に紛れる姿格好以上に、希薄な存在感が脳の認識を妨げる。
 男に近寄りながらエリナは続けた。
「でも整備が終わってないわ。北辰との決闘での損傷が思ったより激しいって報告がきてる」
 暗がりから顔を出そうとしない男に向かって、ちょっぴり非難するような口調で言った。
 あまり心配させてくれるな、と。
「苦労をかけるな。すまん」
 だが、男の言葉には罪悪感は感じられない。
 いくら危険でも、男にとってあの戦いこそが本懐であり、本懐を遂げずして男の生はなかったのだ。避けることはできず、また避ける気もなかった。
 戦いを恐れる優しかった青年が、この三年間ひたすらに求めた復讐だった。
「よして。今さらそんなことで謝るような関係じゃないでしょ?」
「そうだな」
 男女間でのこの類の会話は、聞きようによっては艶やかな話であるが、溜息とともに吐き出される声にそんな色は含まれない。
 この2人の関係とは何だろうか。
 愛人関係、雇用関係、同志関係・・・・、どれも違う気がする。もっと別のものだ。
 2人に通い合う気持ちは、単純なものではない。だが、少なくとも愛ではないことは確かだった。
 そう、きっと愛ではない。それはアキトとエレナ両者の暗黙の了解だった。
「これからどうするつもり?いつまでもこんなことしてられないわよ」
 火星の後継者の首領は逮捕拘禁されている。まだ残党がいるが、その駆逐もたいした手間ではない。
 あと一度か二度は波乱があるだろうが、方向としては、これから地球圏は安定期に入るだろう。そうなれば連合がテロリスト・テンカワアキトを放置するはずがない。宇宙軍にはアキトと縁が深い人間がトップにいることもあり、手心を加えてもらえるかもしれないが、統合軍はそうはいかない。内部から多数の火星の後継者への造反組を出してしまったことで統合軍の面目は丸つぶれだ。テロリスト・テンカワアキトを逮捕することで、汚名返上を図るかもしれない。
 もしこれからも大っぴらに動くなら、軍から追われることも覚悟しなくてはならない。
 エリナは、そういった事態になるのではないか心配しているのだ。
 アキトの返答はエリナの予想を裏切るものだった。
「何も」
「何も?どういうこと?」
「全ては終わった。北辰を殺し、火星の後継者は壊滅だ。ユリカの救出も成功した。テンカワアキトも既に亡い。何もやることはない」
 再び戦争に赴く気がないことは幸いだが、その無気力さには失望する。
 夢に向かって邁進していたあの好青年の面影どころか、強烈な意思でもってブラックサレナを駆っていた戦士の気概も感じられない。
 この青年に訴える何かが、まだあるはずだ。一縷の望みに賭けてみた。
「でも補給を頼んだじゃない?行くところがあるんでしょ?」
「ああ、ラピスがな。宇宙に出たいそうだ」
「ラピスが?」
 アキトの隣に目を向けた。暗がりに1人の少女が立っている。自らをアキトの一部であると公言してはばからない少女。ラピスラズリ。
「ラピス、どうするつもり?」
 ラピスが自発的に行動を起こすこと自体珍しく、アキトの今後のことを抜きにしても、ラピスが何を考えているのか興味があった。
 考えにくいが、観光にでも行くつもりか。もしそうだったら、自分も有給をとって付き合おう。イネスも誘って。
 ・・・・・・ラピスの答えはエリナを失望させるものだった。
「どこか遠くへ行く。もうアキトはやることがないと言った。わたしはアキトと一緒にいたいだけ。だから誰にも邪魔されないところに行って、ずっと2人でいる」
 他者の否定。この少女もだいぶ回復したと思っていたが、やはり心の傷は癒えていないようだ。
 マシンチャイルドとして過酷な人体実験に供されていた彼女は、救世主であるアキト以外には心を開いていない。例外は、彼女のパートナーAIのヤゴコロだけだ。
「ラピス、そんな簡単に結論を出すものじゃないわ」
「そうね。お兄ちゃんを独り占めだなんて許さないわよ」
 エリナの背後から声がした。
「ドクターか」
 Dr.イネス・フレサンジュ。本名アイ、ただし姓は不明。アキトの主治医にして機動兵器設計主任、戦艦設計主任である。何が専門なのか周囲の人間にはわからないほどの膨大で多岐に渡る知識を持つ。もしかしたら本人にも自分の専門がわからないのかもしれない。
「今後について、話があるわ。ネルガル会長も来てるから会議室に来てちょうだい。ユリカさんの予後についても説明するから」
 それじゃ、とろくに挨拶もせずに歩いていく。
「イネスが説明を後回しにするとはな。何か重要な話らしい」
「そうね。ラピス、さっきのことは後に話をしましょう。ドクターにも異論があったようだし」


「やあテンカワ君。まずはおめでとう、と言うべきなのかな?」
 会議室の上座に陣取った落ち目の大関スケコマシは、開口一番にそう言った。
 おめでとう。祝いの言葉。
 アキトを復讐に駆り立てていた全てに決着がついたことは、それなりに祝福に値するものだったかもしれない。
 ただ、失ったものを全て取り戻せたわけではない。
「さあな」
 失った時間。心と体。もう取り戻せない。アキトには既にユリカを求める情熱はない。
 高熱で猛り狂っていたマグマが冷えて固まるように、もはやテンカワ・アキトの心にユリカへの情熱の炎が灯ることはないだろう。
 ユリカのために命を賭けたのは本当だ。だがそれは理不尽な略奪に対する怒りだった。愛を奪われた故の復讐であり、その愛もこの三年で凍てつき、復讐という行為への暗い執念だけが残った。
 テンカワ・アキトは死んだ。それは掛け値なしの本音なのだ。
 かつてテンカワ・アキトだったものは、今は別のものに成り果てている。
 過ぎ去った時代を思い、アカツキは天を振り仰いで目を閉じた。
 再びアキトに視線を戻すと、イネスとエレナがアカツキを険しい目つきで睨んでいた。
 妻を奪われ、五感を失い、長年の夢だった料理人になる道を絶たれた人間に対して、おめでとうはないでしょ?
「少し無神経だったかな?すまない」
 2人の無言の非難を浴びて、アカツキは謝罪した。
「かまわない。終わったことだ」
 マントの中でしがみつくラピスの頭を撫でながら、アキトは謝罪を受け入れた。
「そうかい?ありがとう」
(ラピスとの接触を図っている。無意識であったとしても、人とのつながりを求めているのか?)
 だとしたら、望みはある。昔のようにはなれなくても、これから先はまだまだ長いのだ。
 言葉が途絶えた。
 アカツキは失ったものに思いは馳せ、アキトは沈黙を好む。リンクしているラピスも同様だ。
 イネスはアキトを観察していた。妙に痩せたところもない。顔色も悪くない。立っていてもふらつかないということは、スーツの平衡感覚補正も正常に作動しているようだ。
 痺れを切らしたのはエリナだった。 
「それで、話って?」
「ええ、そうだったわね」
 イネスが我に返り、壁に埋め込まれているリモコンのボタンを押した。
 天井に一筋の切れ目が入り、そこからホワイトボードが降りてくる。カシュっという圧搾音が響き、ボードが固定された。
 白衣の内ポケットから取り出した黒のマーカーで何やら書き付けていく。
「まずは朗報。ユリカさんは無事よ。遺跡とのリンク切断も完了。遺跡に埋め込まれた後のことは覚えてないみたいだけど、それは当たり前。記憶の混乱もなし」
 ユリカ無事、経過順調。ホワイトボードにキーワードが書き込まれていく。
「火星の後継者の残党狩りはルリちゃんがやってるわ。ユリカさんも復帰次第、ナデシコCに乗船予定」
 アカツキが後をついで説明する。
「南雲という男が影で立ち回っているんだよね。資金の集まり具合、勢力拡大の速度からして、遠からず決起するだろうね。だけど、ナデシコの敵じゃない。あの2人も現役復帰で3人でチームを組んでるし、サブロウタ君も加わっているから、かねてからの懸案だった機動兵器戦でも引けをとらない。任せて安心ってところだね」
 ホワイトボードに、「火星の後継者残党の南雲が決起」「ナデシコの兵力が充実」等々が書き加えられる。
 再びイネスが口を開いた。
「まあ、要するにルリちゃんとナデシコがいれば宇宙情勢は心配ないってことね。で、本題に入るわ」
ホワイトボードに書かれていたキーワード群をぐるっと囲い込んで、円を描く。その隣に「解決」と書いた。ちょっと離れたところに、「軍」と書いて円で囲む。
「問題は軍の動向ね」
 「解決」の群から矢印を引っ張って、軍の囲いに結びつける。
「宇宙軍は大丈夫。ミスマル提督以下、ムネタケ提督、アキヤマ提督のトップ3は穏健派だし、こっちの事情も知ってるから手心を加えてくれる。その他将官もルリちゃんに好意的だわ。アキト君のことは正直あまり面白く思ってないでしょうけど、排除しようとまでは考えないはず」
 軍の囲いの中に、2つの円を書く。1つは宇宙軍、もう1つが統合軍。
「だけど統合軍がさぁ、テンカワ君を引き渡せってうるさいんだなぁ、これが」
 長い前髪をかきあげつつ、アカツキは嘆息した。
「内部から造反者を大量に出してしまって、統合軍の面目はまるつぶれ。次期連合議会で統合軍の軍縮が決議されるのは確実。となれば、それまでの間になんとしても手柄を上げて少しでも汚名返上をしなければならない。とはいうものの、造反組が大量に資金や兵器を持ち出したせいで統合軍の戦力はガタガタ。火星の後継者残党狩りには参加できない。となれば、アキト君を狙ってくるのは自明の理だったわけだけど・・・・・・」
 いくらアキトが卓絶した機動兵器パイロットであっても、補給がなければ戦えない。統合軍はそこを突く。
 ホワイトボードにネルガルという囲いが描かれ、統合軍から赤線で矢印が引かれる。
「ただちにテロリスト・テンカワアキトを引き渡すべし、さもなければネルガル月支社に攻撃をしかける、と来たもんだ。猶予はたった3日。当初の予定では時間稼ぎをして統合軍の縮小決議まで粘る予定だったんだけど、向こうの偉い人は世間体とかあんまり気にしないタイプだったみたいなんだよね」
 統合軍からネルガルへの矢印の上に、オドロオドロしい書体で脅迫と書かれる。イネスは凝り性なのだ。
「それで?ネルガルとしては俺を差し出す、という線で決定したのか?」
 月臣君やプロス君、ゴート君にも同席してもらうんだったな。怖くて仕方ないよ・・・・・
 別段、アキトが殺気を込めて睨むだとか、声を荒げて詰め寄るだとか、そういうことをしたわけではない。だがそれでもアカツキは怖かった。もしアキトがその気になれば、一瞬で自分を殺せる、ということを思い出したのだ。もちろん、アキトはそんなことはしないと分かっているが、その力がある人間を前にして挑発するような言動は少々軽率だったか、と冷や汗を流した。
「正直、迷ってるんだよねぇ。もし普通に逮捕されるんだったら裁判があるわけだし、そこでいくらでも君の事情を説明できるから、陪審員の良心をがっちりキャッチすることも可能だし、統合軍が軍縮もしくは解体されるまで粘ることもできるけど、統合軍に逮捕されたら軍事法廷だからアウトだね」
「どう違う?」
「へ?」
(ああ、そっか。彼は軍属になったことがなかったか。つい数年前までは軍とは無縁の民間人だったんだから、こういう軍事的な基礎教養は知らなくても無理はないかもしれないな)
 アカツキがそれはね、と口を開く前にイネスが喋りだした。彼女は説明するチャンスを逃さない人だ。
「説明しましょう。本来の軍事法廷っていうのは軍規違反をした軍人を裁くための法廷なんだけど、困ったことに弁護人はこっちで指定できないし、裁判自体も非公開なの。最悪なのは、それまでは無罪と規定されていた事項についても、有罪判決を出すために新しく規定を作って過去に遡行して適用することもありうるっていうことと、民間人を強引に法廷に立たせることもあるってことね」
 なぜか法律にも一言を持っているイネス。これでますます彼女の専門がわからなくなってきた。
「つまり統合軍は軍事法廷でアキト君を裁こうとしてるってわけね。しかも期限を三日に切ってきた。通常の裁判でアキト君の口からクリムゾンと火星の後継者とのつながりを暴露されたら終わりだから、クリムゾンも統合軍を後押しするでしょうね。となれば、逮捕されれば間違いなく非公開の軍事法廷で死刑判決、そのまま即日死刑執行になるのは目に見えてる」
「じゃあどうしたらいいのよ?アキト君を差し出すなんて絶対に許さないわよ!」
 エリナが歯をむき出しにして唸った。美人が台無しだ。
 ラピスはAIに命じて、ひそかにエリナの吼える瞬間を激写した。後でアキトに見せて、エリナの正体を教えるのだ。そうすればアキトもエリナの匂いを漂わせるのをやめてくれるだろう。
「だからどうしようか迷ってるんだよ。いっそのこと正面きってネルガルの社運をかけて統合軍と全面戦争をやってみるか、それとも宇宙軍に助けを求めるか、アキトなんて知りません、とシラをきるか」
「シラを切ればいいんじゃないの?」
「アキト君がネルガルの子飼っていうのは、火星の後継者が逮捕されて口を割ったからもう知れ渡ってる。シラを切るのは無理だね。現実的なのは宇宙軍に助けを求めるってところかな。民間会社に不当な圧力をかけてるから何とかしてくださいってね。後は圧力団体の1つか2つくらい使って、連合議会に圧力をかけちゃおうか。でも議会に借りを作るとあとあと尾を引くんだよね」
 はぁ困った、と頭をかきかき、アカツキがため息をついた。元々取引があり個人的な人脈もある宇宙軍に助けを求めるのはまだしも、政治家に渡りをつけるとなれば献金が必要になり、その政治献金を渡す根拠について株主総会で説明しなければならない。もちろんアキトのことを話さずにだ。それに政治家とパイプを持ったら、それ一度きりでさようならというわけにもいかない。付き合いは長くなるだろう。厄介なことだ。
「オレはどうすればいい?」
 アキトがつぶやいた。自分の所業が法的に許されないことであることは分かっていたが、ここまで面倒なことになるとは思っていなかった。考えが甘かった。
 全てが終わった今、自らを司法にゆだねることも厭いはしない。だがネルガルには借りがある。ネルガルにとって不利な結末にしたくない。
「ラピス君と宇宙に出るんだって?・・・・しばらく延期してくれないかな。君がいないと、万が一統合軍と正面衝突になった場合に戦える人材がいなくなるし、君だって僕らの支援を受けられない。各個撃破される危険は避けなくちゃ。そこでちょっとしたプレゼントがある。ドクター」
 イネスはホワイトボードに新兵器と書き、白衣に包まれたふくよかな胸を押し上げるように腕を組んだ。
 ラピスは自分の胸を見下ろし、エリナは負けてないことを確信した。
「で、北辰戦には間に合わなかったけど、ブラックサレナの後継機ができてるわ。ブラックサレナは損傷して使えないから、乗り換えてもらうことになります」



[319] Re:それから先の話 第2話
Name: koma
Date: 2007/04/15 10:35
第2話


「後継機?今さらか?」

 開発が遅いとか、肝心な時に間に合わずにどうするとか、そういうことを言いたいわけでもなかった。だが。
 ピクリとイネスの形のよい眉が引きつった。口元が痙攣しているようにも見える。
「言ってくれるわね。ユーチャリス、ナデシコCの二隻と平行開発でようやく完成したっていうのに。これでもがんばったのよ?お兄ちゃんだから許してあげるけど、他の人だったらただじゃ済ませないところね」
 そう言ってアカツキに目をやった。
 アカツキが冷や汗を流していた。実はさっき同じ事を言って、ちょっと口にはできないあれやこれの仕打ちを受けたのだった。
 アカツキの怯えっぷりを見て少しは溜飲を下げたのか、冷静さを取り戻して白衣の胸ポケットから指示棒を取り出し、伸ばしながら説明する。
「相転移炉を内蔵し単独での作戦行動が可能で、強力な火器を装備、頑丈で機動性も高く、ステルス形状。ウリバタケさん謹製のブラックサレナは本当に傑作だったけど、もともとのフレームがエステバリスで、外部アタッチメントをつけただけだから機体構造に負荷がかかりすぎるわ。それに相転移炉の制御に手一杯で、あの機動力で振り回される機体の慣性制御をするための演算能力も足りてなかった。お兄ちゃんは痛覚がなかったから気づかなかったでしょうけど、あの機体性能は搭乗者の寿命と引き換えのものよ」
 アキトのブラックサレナ通算搭乗時間は1000時間を越えている。かなりの寿命を差し出したことだろう。
 ヒトの執念、と、誰かが言っていた。
「それこそ今さらだな」
 己の死は既に受け入れた。あの復讐はテンカワアキトの死が起点になっているのだ。ナノマシンでぼろぼろに傷ついたこの体だ、寿命が何だというのだろうか。
「諦めないで。ナノマシンの除去は不可能だけど、補助器具とマシンチャイルドの補佐があれば五感も多少は戻るわ。体を大切にして、少しでも長生きして欲しい。ナデシコのみんなはそう思うはずよ。ユリカさんもね」
「ユリカか・・・・」
 何気なくつぶやき、しかしその名前になんらの感慨も沸かない。
 だがイネスとエリナはアキトがユリカを求めていると思っている。ここぞとばかりにたたみこむ。
「そうユリカよ。あの娘はアキト君を愛してるのよ。あなたの死なんて認めないで、どこまでも追ってくるわよ、きっと」
 エリナは茶化していっているが、その心情は辛いものがあるだろう。アキトと共有した時間は彼女にとって幸せなものだった。ユリカが回復すれば、もうその機会はないかもしれないのだから。
「奥さんなんだから、大切にしてあげなくちゃね。年上の女からの、お兄ちゃんへのアドバイス。夫婦円満のコツは、夫が折れることよ。意地張ってないで会いに行けば、それで解決」
 未婚のイネスが知ったかぶってすごいことを言ったものだが、これもアキトへの愛情からだ。
 イネスと結婚する男は大変なことになるな、アカツキはアキトを見ながら未来の誰かに同情した。
 え~、こほんと咳払いをして、イネスはホワイトボードを引っ込めた。

「とにかく、単独行動前提の次世代機動兵器。完成したから、見て頂戴」
 ピっという電子音。壁いっぱいにウインドーが拡大展開され、威風堂々の黒い巨人が浮かび上がった。
 画像の縮尺は不明だが、機体近くのタラップと比較すると、ブラックサレナとほぼ同じ大きさに見える。
「ディバイナー・イロクォイス、と名づけたわ。漆黒の神像っていう意味よ」
 中央の全体像が縮小され、空いた枠に側面図が表示される。左右非対称型なのが目をひいた。向かって右上半身、機体の左腕が右腕より大きくなっている。
「兵装は、左肩から左腕にかけて装着してある超振動発生装置による振動粉砕腕、左右腰部に計四門の固体プラズマ砲、各部の電界発生装置、側頭部から伸びている尻尾はディストーションフィールド発生用のブレードを兼ねていて、多節ロッドとしても使用可能、オプションとしてグラビティブラスト」
 すらすらとよどみなく説明する。説明お姉さんの真骨頂というところだろう。その表情は恍惚とすらしていた。
「メインエネルギーソースは高濃縮同位体。サブは重力波アンテナ。動力はオプティカルドライブモーター。相転移炉は外したわ。あれ以上の小型化はまだ無理があるし、相転移炉と同時に機体も制御できる高性能AIは場所をとるし、そうなれば機体が大型化して装甲が厚くなって質量が増えて、高速機動時のGをキャンセルしきれなくなって、結局お兄ちゃんの負担になるから」
 ウインドーが5つ6つ次々に開いていく。順に、小型化限界、機体小さすぎ、無理、無駄、やめとけ・・・・・・、それらを指示棒で横に押しまとめ、画面の端に追いやる。
「でもブラックサレナからパワーダウンしたわけじゃない。むしろその逆ね。相転移炉は永久機関だけど、最大出力に上限がある。でも同位体を利用したこの技術は、燃料消費型だけど、蓄積されたエネルギーのすべてを一瞬で放出できる利点がある。グラビティブラストを撃つためのチャージの時間も必要ないから、撃ちたいときに好きなだけ撃てるわ。まあ、その代わりにエネルギーに限りがあるけど、計算上、固体プラズマ砲だったらほぼ500発以上、グラビティブラストだったら100発。ディストーションフィールドの連続展開可能限界は300時間。機体を動かすだけだったら、おそらく1万年を超えてもエネルギーが尽きることはないわ。もしかしたら、一万年経ったら火星の遺跡みたいに私たちの子孫に発掘されて使ってもらえるかもね」
 どう?とウインドーのイロクォイスに指示棒を持った手をかざし、イネスが振り返った。得意絶頂だ。頬がかすかに上気し、桜色に染まっている。心なしか、目も潤んでいるようだ。
 少し、疼いた。
 固く戒める。心臓を鷲づかみにするイメージ、鼓動を抑え、思考を分散させる。
 成功したようだ。ナノマシンが反応する閾値に達することなく、湧き上がった衝動が冷えていく。
「大変な性能だな。いいのかアカツキ、これをオレに渡しても」
「まあねぇ。正直不安だけど、エリナ君が反対するわけないし、ウチの女性陣には僕じゃ逆らえないしね。だいたい、ジャンプフィールド発生装置を持っている君は事実上全人類の生殺与奪を握っているも同然なんだし」
 やれやれ、と肩をすくめて見せた。これだけのものをあっさり一個人に渡してしまうところは、さすがネルガルの会長というところか。企業人としてはあるまじきことなのだが、その度量には感服するばかりだ。こういうところに惹かれる女も多いだろう。実際、けっこう異性に人気があるのだが、身近なエリナやイネスは全くなびいてくれず、このごろはちょっと自信を失いかけているアカツキであった。
「さて、それじゃ、アキト君は新型の試運転をはじめてて。カタログスペックばっかり立派でもしょうがないし、ドクターの言ってる性能が本当かどうか確かめなくちゃね」
 イネスがムッとして口を曲げた。
「失礼ね。単なるカタログスペックだったらもっと派手で仰々しいわよ。あれは実測値。実戦を想定しての説明よ」
「だとしても機体との相性ってもんがあるじゃない。相性は大事よ。こればっかりは確かめてみないと・・・・・わからないし、ね?」
 意味ありげにアキトに視線を投げかけた。何か含みがありそうだ。
 クッと詰まったイネスがアキトを凝視する。ラピスがアキトのマントを固く掴んだ。
 アカツキもニヤニヤしながらアキトを見ている。
 注目を受けたアキトは、
「確かに。乗ってみなくてはわからんな」
 至極真面目に返したものだった。性的な隠喩に気づかないほど子供ではないが、この場にはラピスもいる。あけすけに答える類のものでもない。
「ふふ、そうよね。だいたい、今の今までパイロットに秘密だったっていうのがおかしいのよ。どうせ突貫工事で作って欠陥だらけに決まってるわ」
 アキトの反応は期待はずれだったが、イネスの悔しがる顔を見られたのでちょっとうれしいエリナだった。ラピスまでこっちを睨んでいたのが気にかかるが。
「はいはい、じゃ、アキト君とラピスはシミュレータールームへ行ってくれ。手配は済ませてある。僕たちはここで詳細を詰めるから」
 火花を散らすイネスとエリナを示しながら、出て行ってくれないと話が進まないから、と目で訴えるアカツキ。
「わかった。ラピス、いくぞ」
 ここにいるとラピスが悪い影響を受けそうだ。実は既に手遅れなのであるが、ラピス以外の4人はそのことに気づいていない。
「うん」
 カシュッ。
 ガス圧でドアが開き、アキトとラピスが部屋を出ると、もう一度カシュッという音がしてドアが閉じた。

「ほら、2人とも冷静になって。アキト君はもういっちゃったよ」
 アカツキの一言で、ふっと肩から力を抜く2人。
 にこやかに笑顔を交わす。
「そうね。まあ、ドクターも頑張ったじゃない。寝てないんでしょ?肌に張りがないわよ。それとも年?」
「そっちこそ。ラピスが言ってたわよ。エリナはお化粧臭いって。素に自信がないからってあまりゴテゴテと塗りたくるのはどうなのかしら?」
 再び散る火花。
「あ~あ~、もういいから。とにかく今後の方針だよ。さっきも言ったとおりまずは宇宙軍に話を通して、統合軍を押さえ込んでもらうってのでいいかな?政治家に頼るのは最後の手段ってことで」
 エリナが軽く挙手をして賛成する。
「それでいいわよ。私も政治家に頼るのは反対。まだ地球側と木連側で対立の構図がそこかしこに残ってるし、下手に政治に介入すると派閥に組み込まれてビジネスに支障が出るわ」
 イネスが反対する。
「そうかしら?私は今のうちに政界に工作を仕掛けた方がいいと思うわね。この3年間、ネルガルの非合法活動は明らかに度を越して活発になってる。アキト君のことがなくてもラピスもいるわけだし、遠からず当局から接触があると思うわ。それを考えれば、今から捜査当局の上に話を通した方が面倒がないわよ」
 2人の視線が交錯する。目があった瞬間、ヒールを浮かせ、つま先で床を引っかいて、ザリッ、正中線を隠した半身で向き合う。
 臨戦態勢だ。
「いいことドクター?世間に疎い貴方に説明してあげるけど、政治ってのは厄介なのよ?利害関係だけじゃなくて、そこにイデオロギーが絡んでくる。ボソンジャンプの利益が欲しい、だけど人体実験で得たデータは使うのは倫理的に問題がある、このジレンマで世論は真っ二つ。加えて火星の後継者騒ぎで旧木連出身者の信頼が失われかけてて、この3年間、何とか保たれていたバランスが崩れようとしてるの。実際に、火星の後継者に協力していた政治家が何人も反逆罪で議員資格を停止されてる。どの政治家に接触しても、この対立構造から無関係ではいられなくなる。今は政治から距離を置いて、旗色を鮮明にすべきじゃないのよ」
「それは逆ね。混乱しているからこそ、付け入る隙が見つかるのよ。いずれ、司法の手がアキト君に伸びてくるのは目に見えてる。政治へのパイプがないネルガルでは、ネルガル本体への捜査はごまかせても、正規のルートを通した捜査を妨害することなんてできないわよ。政治に巻き込まれてビジネスがやりにくくなるくらい、何てこと無いわ。あなたはネルガルとお兄ちゃんのどっちが大切なの?」
「それは・・・ネルガルよ」
 口ごもりつつも答えるエリナ。
(あーあ、ここで素直にテンカワ君を選べないから、いつまでも中途半端な関係なんだよ。ドクターもわかってて訊くんだから嫌味だなぁ。さっきの相性問題発言の仕返しかなぁ)
「あら、さすがは副会長さん。マッチョな女という評判は言いえて妙ね」
 エリナは己の立場を考えて発言をしなければならない人間だ。地球圏に冠たるネルガルの副会長ともなれば、その権力は絶大である。エリナの一言でマーケットが大変動を起こす立場である。常に慎重に、言葉を選ばなければならない。
 だからエリナに熱狂はない。常に頭のどこかが冷めていて、周囲を観察している。そのせいで、エリナはあと一歩、テンカワアキトに踏み込めない。それは、アキトとの仲が趣味と実益を兼ねているからだ。どこまでが自分の感情で、どこからが会社の利益のためなのか、自分自身でも判断できないのだ。エリナの冷静な部分は、その混沌に激しい拒絶を示す。たまにそんな自分に自己嫌悪を抱く。
 何やら思考の袋小路にはまり込んでしまったエリナを見て、アカツキが2人に割って入った。部下のフォローは上司の役目。
「確かにドクターにも一理ある。でもどの政治家に肩入れするかまでは目星はついてないだろう?その辺は僕も考えておくよ。でもまずは宇宙軍と交渉だ。エリナ君、ミスマル提督にアポを取ってくれ。ドクターは休んだらどうだい?本当に顔色が悪いよ」
 言われてイネスは瞼の上から眼球をマッサージした。二度三度と押し込み、首を軽く回す。
「確かに。そういえば、もうかれこれ40時間くらい寝てなかったわ。そろそろ仮眠が必要ね」
 エリナに言われたこともちょっと気になる。美容は大事だ。アキトにはかわされ続けているが、こんな体調ではチャンスが巡ってきてもうまく動けそうにない。アキトも満足できないだろう。
「そうそう。ゆっくり休んで英気を養ってくれ。方向性が決まったら、優秀な秘書室のみんなが資料を作って検討してくれるから心配することもないしね」
 秘書室はアカツキの憩いの場だ。趣味に任せて、優秀で可愛い子ばかりを選んである。
「そう。それじゃよろしく」
 自分の連続稼働時間を意識して疲労が表面化したのか、イネスは眠そうにふらふらと出て行った。
 仮眠室まで無事にたどり着けるだろうか。辿りつけずに廊下で眠ってしまっても、掃除ロボットが運んでくれるから大丈夫かな。
「さあ、エリナ君。いつまでも下向いてないで。がんばっていこうじゃないか」



[319] Re[2]:それから先の話 第3話
Name: koma
Date: 2007/04/15 10:41
第3話


「少なくともエステバリスより性能が高いことはわかった」
 敵機の種類と数、戦場、武器の使用条件などをランダムで構成し、シミュレートを繰り返した結果である。

 機体速度はブラックサレナよりもやや上な程度だが、それよりも応答性がすばらしい。操縦桿を押し込んでから実際に機体の制御が始まるまでのラグがほとんど感じられないのだ。ブラックサレナよりも質量が小さいのだろう。イネスの言ったように、これはカタログスペックだけの機体ではない。本物の、戦争のための機動兵器だ。もちろん、このシミュレートの信頼性が高ければ、ということだが。
 武器も強力だ。振動発生装置を稼動させての至近距離からのパンチは、戦艦の装甲も簡単に打ち崩す。グラビティブラストのチャージが必要ないのもありがたい。これで戦術の幅が大きく広がる。
「しかしこれだけでは命を預けることはできないな」
 高性能な機体であることは、必ずしもアキトの要求とイコールではない。
 たとえばこんな状況の時。
「ラピス、全機にミサイル発射命令を」
「了解」
 イロクォイスのセンサーが多数の熱源を感知、その数300。
 少な過ぎる。
「全弾発射だ」
「了解」
 レーダー上の光点が一気に増えた。あっという間にレーダーが光であふれる。
 IFSを通じて搭載AIに指示を出す。
 -感度増幅、範囲拡大、分解能上昇-
 脳内に投影される戦況モニターが10倍に拡大され、空間情報は1000倍に増加する。ミサイルの光点の一つ一つが識別できるようになった。ミサイル2000発の軌跡と予測弾道、10立方メートルあたりのミサイルの平均密度は0.3、イロクォイスまでの到達まで残り7秒。このスムーズな戦況解析機能はブラックサレナにはなかったものだ。
 しかし余計なものまで付いているのには閉口する。警報とか。
 -WARNING! WARNING! 高熱源運動体の接近警報!ミサイルと断定! 回避行動を推奨、撃墜する場合は武装を選択してください-
 -警報をとめろ-
 -拒否します。パイロットの保護最優先。WARNING! WARNING!- 
「ラピス」
「わかった」
 -WARNING! WARブッ・・・-
 こんな、たかがミサイルの2000発程度で警報が出ているようでは実戦では使えない。
 既にイロクォイスはミサイル網の中に囚われている。速度を落とさずに回避行動を取るための最適ルートが表示された。こうしている間にも刻一刻と時間が過ぎていき、あわせてルートも書き換えられる。途中でラグも発生せず、AIの優秀性が垣間見える。
 だがしかし。
「ぬるいな」
 AIが示すルートを強引に端折りながら、AIがはじき出した最適速度を上回るスピードでミサイル網を突破していく。AIがルートの再計算を繰り返し、計算結果を表示する前には既に別の最適ルートの計算が始まり、それが連鎖してルート計算がどんどん遅れていく。AIの混乱をよそにアキトは機体の高速機動を続け、どんどんミサイル網の中を突き進んでいく。ミサイルのセンサーがイロクォイスを認識して誘爆しても、機体はとっくに有ダメージ範囲外へ逃れている。ところどころミサイルに接近しすぎて再び警報が鳴るが、それは即座にラピスが黙らせる。
「ラピス、警報レベルの引き下げ。平均密度が0.6を超えるまでは警告無し。接近限界距離は今の半分へ。警告方法は正面ディスプレイにレッドアラート」
「わかった。でも時間がかかる」
「頼む」
 アキトが搭乗することを前提としたこの機体では、視覚モニターは単なる飾り、せいぜいが整備員が故障個所確認に使う程度のものしか用意されていない。そのモニターに警報を出すということは、つまり警報は必要ないと判断したことになる。
 これはイネスが機体に託したメッセージなのか。パイロットの安全というものに過敏すぎて、逆に鬱陶しいのだ。
 イネスの気持ちを無碍にするようで申し訳ないが、俺専用に設定を煮詰めていかなければ使えないな。
 ミサイル網を完全に抜けた。そこに待ち構える敵機の群れ。
 だが、こんなものは敵のうちに入らない。もっと手ごわくなければ調整にもならない。
「格闘戦に移る。ラピス、エステバリスとアルストロメリアを50機ずつ、ジンタイプを30機出してくれ」
「わかった」
 ミサイルを撃ち尽くした戦艦、バッタ、ジョロ、その他の機動兵器が姿を消し、エステバリスにアルストロメリア、ジンタイプが現われた。
 機体との相性は、極限まで追い込まれなければわからない。なまじ機体性能が高いだけに、生半可なことでは限界がわからないのだ。もっとだ。もっと。もっと・・・・
「ラピス、追加で六連を出せ。12機だ」
「うん」
 北辰の顔を脳裏に思い描く。細部まで、しっかりと、あの研ぎ澄まされた剃刀のような目を思い出す。
 三年の時間をかけて追い求めたあの男。タブーをもたず、どこまでも踏み込んでいける狂気の男。
 冷えた思考に熱いマグマが差し込んだ。どろどろと溶け出すマグマは冷静さを犯し、破壊というただ一つの目的に拘泥させる。憎悪のイメージにぴたりと重なる。
 ニーチェにいわく。
 深淵を覗く者は、また同時に深淵に見つめ返されている。
 三年だ。アキトは少し・・・・・・・・長く、覗きすぎた。
 感情が高ぶり、心臓が早鐘のようにガンガン鳴る。ナノマシンが真皮層に形成した回路パターンが顔に浮かび上がった。発光し、共振作用で高周波を発生させる。
 ィィィィィィィィィィ・・・・・
「いくぞ」
 ィィィイイイイイイイイイイッ・・・・・・

「おぉ~、やってるやってる。ありゃもう僕じゃ相手になんないねぇ」
 ドック中央に大きく映し出されたホログラム映像の中を、イロクォイスが縦横無尽に飛び回っている。右手に構えたディストーションフィールドをまとった多節ロッドが唸りをあげ、エステバリスを次々に破壊していく。圧倒的だ。
「うーん、シミュレーションとは言え我が社の製品がポンポン撃墜されてると、腹立たしいやら何やら。あ、イロクォイスもウチの作品だからいいのかな?でもあんな高性能品高くて売れないよねぇ。そういえば価格聞いてなかったよ。エリナ君、あれの製造費用いくらか聞いた?」
 返事が無い。
「エリナ君?」
「アキト君・・・ステキ・・・・・」
 振り返ったアカツキが目にしたのは、恋する乙女(偽)だった。
「こりゃダメだ。予想以上に症状が悪化してるよ。前はこんなんじゃなかったのに・・・・」
 はぁぁ~。ため息もしきりだ。毅然とした上昇志向のキャリアウーマンはどこへ行ったのか。いや、エリナの優秀さは今も損なわれていないのだが、たまに極端にダメになるときがあるのが困りものだ。
「しっかし、ドクターもすごいの作ったよねぇ。機体性能だけじゃないんだろうけどさ」
 アキトとラピスの設定修正作業のログを見れば、一目瞭然だ。この設定の機体で戦える人間はそうそういない。あのライオンズシックル隊長でも、これでは10分が限界だろう。ブランクの長いアカツキでは3分というところだ。
「まあ、彼は捧げた物が多すぎる。せめてこれくらいはないと、不公平ってものかもしれないけどねぇ」
「・・・・・・・・そういうことは他人が口出しするものじゃないわ。とやかく言うのはやめておきなさい」
「お、正気に戻った」
 ドック内は整備のため、月のもともとの重力である0.6Gからさらに小さく0.1Gにまで下げてある。
 低重力のせいで風もないのにふわふわ浮かびあっていく髪を撫で付け、エリナはドック出口に向かって歩き出した。
「見ていかないのかい?来たばかりじゃないか。こんなすごいのは滅多に見られないよ。シミュレーションだから撃墜される心配もないし、安心して観戦できる」
「アキト君がんばってるみたいだし、私もできることをやらなくちゃ。秘書室のみんなと一緒に資料を作るわ。いくらミスマル提督だからって、手ぶらでいい返事をくれるとは思えないから、何か手土産が必要よね。イネスにも未公表技術の一つ二つは融通してもらうつもりよ」
 たまにダメになる時があるかと思えば、逆に発奮することもある。なかなか人の心は難しい。
 ドクターは仕事を終えた。アキトは最悪の事態に備えて訓練に励んでいる。
 エリナも何だかやる気になっている。
「それじゃ僕も工作をはじめるとするか」



「ん~、ごほん。あ~、ルリ君?おじいちゃま、と呼んでくれんかね?」
 いきなり呼び出しておいて何を言っているのだろうか。
「提督、ご用向きは何でしょうか?」
「おじいちゃま、と呼んでくれんのかね?」
 威厳たっぷりのいかつい髭面をしているくせに、情けなくも弱弱しい声で嘆願するミスマルコウイチロウ。
 しばし、にらみ合う。
 ルリの背後にはサブロウタが護衛として控えている。護衛は護衛対象のプライベートには干渉しないのが鉄則だ。何を見ても聞いても、何も見ておらず聞いていない。護衛対象にとっての路傍の石となるのだ。木連軍人として多方面での英才教育を受けたサブロウタにとっては常識であったが、この展開にはその訓練の成果も少々心もとなかった。鼻の脇を冷や汗が滑り落ちていく。
「私はもう16です」
「知っているよ」
「もうすぐ17です」
「知っているよ。お誕生会の用意はちゃんとしてある。プレゼントを楽しみに待っていてくれたまえ」
「お誕生会は結構です。もうすぐ17にもなる人間が、その呼び方はさすがに無いのではないでしょうか?」
「呼んでは・・・・・・くれんのかね?」
 根負けした。
「・・・・・・・・おじいちゃま」
「おおおおおおおおおおぅ・・・・・・」
 感動に打ち震えるコウイチロウ。涙を流してダンダン机を叩いている。
 この人は何がしたくて私を呼んだのだろうか。この人はこれでけっこう優秀な軍人で、しかも義に厚く倫理観もあるまさに軍人の鑑なのだが、時々よくわからないことをルリに要求する。
「それでご用件は?」
 バカばっか。そんな昔の口癖を思い出したが、それはそっと胸にしまいこんだ。あまりに大人気ない。もう少女でもなくなりつつある年頃だ。いつまでもストレートな物言いは優雅ではない。だけどもう一度提督がバカなことを言ったら帰ろう。ユリカもまだ本調子ではない。
「おお、そうだった。喜べルリ君。アキト君が見つかったぞ」
 え?
「本当ですか!」
 もう帰ってしまおうかとすら思っていたところにこの吉報。人生はなかなかわからない。
「本当だとも。これで三年間お預けになってた結婚式をやり直せば、ルリ君は晴れて私の孫ということになる。私もおじいちゃまになれるわけだ。あの二人が生きていればルリ君の養子手続きも遡及して有効になるからね」
「しかし提督、それは・・・・」
 最後に墓地で会った時、あの人は「テンカワアキトは死んだ」と言っていた。本心だったと思う。命を懸けてユリカを救出したのに会わずに去って行ってしまったのだって、きっとユリカへの想いが冷めてしまっているからだ。根拠なんか無いただの勘だけど、間違っているとは思えない。
 かつてテンカワキトを構成していた諸々は、何も残っていないのかもしれない。だとしたら、ユリカがアキトに会ったとしても不幸な結果が待つだけだ。
「わかっている。私も報告は受けた。アキト君の体のことも知っている。だがね、君たちの絆はそんなことでは失われたりしないだろう?もう一度三人でがんばればいい。私だって協力するよ」
 気遣うミスマル提督に、ルリは感謝を述べた。
「ありがとうございます、提督」
 提督も直接会えばわかるだろう。かつてテンカワアキトから感じた、人生への苛立ち、夢と希望、情熱、そういったアキトらしさが失われてしまったことを。
 ユリカはそれを認められるだろうか?今のアキトが、昔と違うことを。
 そして自分はどうだろうか?ホシノルリは受け入れられるか?
 ・・・・・・・無理かもしれない。今のアキトを完全には認められない。
「アキト君はネルガルで保護されているようだ。今回こちらに接触してきたのは、統合軍からのアキト君引渡しの最後通牒を受けて、仲裁を頼みたいということだな。しかし残念ながら宇宙軍も火星の後継者残党狩りで忙しい。私はここから動けんし、統合軍との折衝をやっている時間など無い。事情を知っている人間で動けるのは君だけだ。そこでルリ君、君にこの件を一任する。略式だが、これが辞令だ」
「謹んで拝命いたします」
 中央に大きく「辞令」と書かれた白地に紅の縁取りがある封筒を渡された。両手で受け取り、そっと広げる。
 宇宙軍大佐ホシノルリ殿。貴官の戦功と宇宙軍への多大なる献身を認め、ここに大佐に任命する。
「え、大佐?」
 殉職でもないのに、2階級特進である。昇進はありがたいが、ちょっと縁起が悪い。素直に喜べない。それに何かおかしい。通常の規定とは違う昇進だ。普通は、昇進するとしても中佐になるはず。
「その通り。先の大戦では大きな戦果を上げ、また火星の後継者残党狩りの功績も大。この昇進は当然だよ。まあ、ちょっと年齢的に早すぎるが、そこは気にしないでいこうじゃないか。わっははは」
 ミスマル提督は意図的かどうなのか、ルリの疑問を一息で否定した。先を読むよう促している。
 ホシノルリ大佐はただちに左記任務へ着任すること。
 ネルガルへ出向を命ずる。
「出向?」
「うむ。フクベ提督の前例もある。向こうでの扱いは部長待遇だそうだ。給与はこちらの基準になるが、福利厚生はネルガルに準拠する。着任前に総務課に寄って、残っている有給の消化を申請しておきなさい。明日からネルガルで3日間勤務し、有給は4日後からとるということでネルガルと合意できている。引継ぎはサブロウタ君へ」
 この時期に出向とは、何か裏がある。ルリの勘が警鐘を鳴らした。
 火星の後継者掃討は依然として継続中である。ルリの電子掌握能力は無血制圧に絶大な力を発揮するのにも関わらず、ルリを出向させるということは、掃討戦で出る宇宙軍の損害以上の利益が得られるということになる。または、ルリがいなくても損害が出ない手段を確保できたのか。それは何なのか?
 自分と引き換えに得られるもの。・・・・・・それは同質のものでしかありえない。
 あの少女を思い出した。
「提督、私に一任すると言っておきながら、既にネルガルとの予備交渉をしたんですね?しかもだいぶ深いところまで合意ができているようですね」
「さすがに気づいたかね。実はマシンチャイルドのラピスラズリ君が入隊することになった」




[319] Re[3]:それから先の話 第4話
Name: koma
Date: 2007/04/21 07:30
第4話
 時間は少し遡り、ホシノルリの昇進辞令発行の3時間前。
 地球圏でも最大規模を誇る大企業ネルガルの会長と、押しも押されもせぬ宇宙軍トップのミスマルコウイチロウ提督の非公式会談が実現していた。
 マスコミに嗅ぎ付けられれば、この非公式会談というだけでミスマルコウイチロウの失脚を狙えるだけのスキャンダルになりうる。
 故に2人は直接会うことを避け、ラピスの支援を受けて通信経路および通信データを多重暗号化した上で、映像だけの会談を行っていた。


「提督、ライブの時はお世話になりました」
「いやなに、私も太鼓を叩くのは久しぶりで楽しませてもらった。機会があったらまた呼んでくれたまえよ」
 火星の後継者が議会を襲撃した時のことだ。当代随一の人気アイドルMEGUMIとホウメイガールズのコラボレーションライブにスペシャルゲストとして参加し、議事堂で火星の後継者を待ち伏せしたのである。あれで一気にお茶の間のおばさんたちにアカツキの顔が知れ渡り、今ではネルガルの広告塔として広報部から強い引き合いが来ているほどだ。

「それでこの度のお話なのですが」
「テンカワ君の処遇か。ネルガルも厄介なことになったな」
 地球圏で知らぬ者はない最強のエステバリスジョッキー、プリンスオブダークネス。緘口令が敷かれているものの、逮捕された火星の後継者の証言からテンカワアキトこそがその人であると既に知られている。公然の秘密というやつだ。
「ネルガルとしては彼を表に出すわけにはいかないだろう。だがそれは統合軍も同じことだ。統合軍に任せれば、彼を秘密裁判で死刑に処してくれるぞ。願ったりかなったりではないかね?」
 眼光鋭く、モニターのミスマル提督がアカツキを睨んだ。
 アカツキは今、人としての格を値踏みされているのだ。信頼にたる人間なのかどうか、返答次第ではこの会談は実りなき時間の無駄になる。アカツキの握る手の平に汗がにじむ。
「そりゃ、短期的に見たらテンカワ君にはこれ以上の利用価値がないっていうのは正論です。ここで切り捨てるっていうのも1つの手ですよ。確かにね。でもそれは無理なんですよ」
「ほう、それはまたどうしてかね?」
 ミスマルは疑問を呈した。
「実はここだけの話ですが、ウチを牛耳ってる怖い人がテンカワ君にベタ惚れでして。テンカワ君の排斥なんて考えたら、マッドな研究主任と組んで本格的に僕を蹴落としにかかってきますからね」
 ため息をつき、肩をすくめて答えて見せた。
 だが、この答えはミスマルを満足させるものではない。むしろ不快にさせた。義理の息子にベタ惚れの女がいるというのもマイナスだ。アカツキも不用意な発言をする。
「つまり、君としてはテンカワ君を引き渡したい、と?」
「まあ、そうするのが正しい企業人なんでしょうけど、なんだかそんな気になれませんねぇ。やっぱり気持ちよく仕事したいじゃないですか」
「それが?」
 ミスマルにはアカツキの言わんとするところがイマイチつかめない。気持ちよく仕事をするということが、今どのように関わってくるのか。
「利用するだけ利用して使い終わったら捨てるだなんて、そんなことは最低の人間のやることだ。僕は自分を許すことができないでしょう。トップが精神に鬱屈を抱えたまま経営を執るのって、企業としてはあんまりよくないですよね」
 なるほど。
「ふむ」
 60点だな。
 自慢のひげに手をやりながら、ミスマル提督は視線を宙にさまよわせた。
 赤点はギリギリ回避、追試はなしということでいいか。
 そして、そのミスマル提督の表情を見ていたアカツキは、少しばかり肝を冷やしていた。
 あれはこのくらいで勘弁してやるか、って顔だよね。100点満点は難しいとしても、即興としては上出来の部類だと思ったんだけどなぁ。それなら、そうだ。
 ふと思いついたアカツキは、一瞬で思考をまとめ、逆にミスマルに問いかけた。
「ところでミスマル提督こそ、テンカワ君をかばうのにはいろいろとリスクを背負わねばならないお立場です。ご協力を期待できるのでしょうか?」
 ほう。この若造、生意気にもワシを試そうと言うのか。その度胸に免じて、10点プラスだな。
「心外だね。アキト君はワシの娘婿だよ。ワシの息子同然であり、また親交厚かったテンカワ夫妻のご子息でもある。このミスマルが家族を見捨てるような柔な男に見えるかね?」
 そうか。ミスマル提督はこういうストレートな表現を好むのか。さっきのはちょっと回りくどかったかな。
「いえ、失言をお許しください。提督が信義を守る方だということは存じ上げております。ご寛恕を」
 率直な物言いに切り替えたアカツキに、ミスマルも態度を正した。
「承知しているとも。私こそ、君のテンカワ君に対する友情を疑ったわけではない。謝罪しよう」
 ニヤリと笑いあう。
 お互いを認め合った瞬間だった。利害だけではない、真の協調関係への第一歩である。
「では時間もおしていますので本題を。統合軍の我が社に対する要求の期限、何とか延ばせないでしょうか?できれば一ヶ月ほど」
 ミスマル・コウイチローは少々驚いた。もっと明確に、統合軍の要求を撤回するように求められると思ったのだが。これは時間さえあればネルガルだけで解決できる、という意思表示か。少なくとも大きな借りを作りたくないらしい。その気概を好ましく感じた。
「一ヶ月かね?いや、さすがにそれは無理だ。統合軍としては次回の地球木連統合議会までに決着をつけたいはずだ。あと一週間もすれば臨時議会が開かれる。それまでにテンカワ君を処刑するなり何なりの功績を必要としているのだから」
 本来であれば即日議会を召集するべきであるが、テロ直後ということもある。要人が一同に会するには、安全の確保が必要だ。それが一週間後になる。
「やはり。統合軍の狙いは、功をあげて軍縮を防ぐ、もしくは軍縮を最小限に抑える、ということでいいのでしょうか?」
「その通り。それくらいは君もわかっているだろう?」
「もちろんです。しかし僕が気になっているのは、統合軍の後押しをしているはずのクリムゾンです。彼らはテンカワ君が通常の法廷に立つのを良しとしない。もしテンカワ君の逮捕が避けられないのであれば、逆に統合軍を支援して軍事法廷で秘密裏に処理してしまおうとするのは明白です。クリムゾンが統合軍の背後に居るならば、テンカワ君の逮捕の目的は組織の維持だけでなく、テンカワ君の処刑そのものが含まれることになります。ここを明確にしたいのです」
 なるほどな。統合軍の組織維持のみなら、ネルガルで解決策を示せるということだな。議会にパイプを作ったのか?しかしテンカワ君の逮捕自体が目的ならば、ネルガルの提案は無意味になる。統合軍との妥協もありえないわけか。
「残念ながら、私も統合軍の背後にクリムゾンがいるかどうかはわからん。いや、おそらくいるのだろうが、どの程度の影響力を持っているのかがわからん。何しろ、同じ軍とはいっても別の指揮系統だからな」
「では、統合軍の意思決定にクリムゾンが重要な役割を果たしている、と仮定しましょう。この場合、テンカワ君を狙っているのが明白です。我が社としては、テンカワ君引渡しには絶対に応じられません。統合軍の要求の期限の先延ばしができないのであれば、戦うしかありません・・・・」
 断固とした口調の割に、アカツキの表情は暗い。戦うのは最後の手段なのだが、それしか選択肢が残されていないのだ。他にもやり方はある。たとえば策略として一旦アキトを差し出しておいて、後からイネスがジャンプで救助に行くというのもありだが、おそらくあの女傑2人はそういう選択も認めてはくれないだろう。テンカワアキトが不当に拘束されることをもう2度と許しはしないはずだ。
「軍と戦う気かね?正気とは思えんぞ」
 これは失言だ。ネルガル法務部が聞いていれば、この一言を追求するだけでミスマル提督からかなりの譲歩を引き出せるだろう。これが非公式会談であり、議事録がないのは幸いだった。まあそれを言うならアカツキが軍への翻意を明かしたこと自体が失点なので、アカツキもこれを咎めることはなかった。
 逆に同意した。
「僕もそう思います。社員のことを思えば、権力と真っ向から対立するのはよくないことなんです。でもウチの副会長も研究主任もそろって強硬派でして。あの女傑2人が結託すると、異議を唱えるのはかなり難しくなります。しかも初代ナデシコが宇宙軍に反旗を翻した前例を持ち出してきて、統合軍なんて一捻りにしてやるって息巻いてまして」
 これは嘘だ。ブラフだ。エリナは政治的決着を望んでいる。イネスはイロクォイスの実戦データを欲しがっているようだったので、戦うとなれば喜ぶかもしれない。
「実際に勝算はあるのかね?」
 ミスマルの目がきらりと光った。ルリからの報告にあった、ネルガル子飼いのおそらくもう一人のマシンチャイルド。気が進まないながらもアカツキが戦うという選択肢を真面目に検討しているということは、そのマシンチャイルドの力を当てにしているのではないだろうか。
「なくはありません。ウチにはテンカワ君もいますしね。非武装の社屋を狙われたらお仕舞いですが、宇宙空間で戦うのなら、テンカワ君と支援戦艦の一隻で形がつきます。ただ、その後が問題です。実際に軍艦を撃沈したとなると、本当に言い逃れができなくなります。それは避けたい」
「ルリ君と同じように電子掌握で艦の制御を奪ってしまえばいいだろう?」
 てっきりマシンチャイルドのことを聞けると思ったのにお預けを食わされたミスマルは、自分からマシンチャイルドがいるのを知っているぞ、とほのめかしてしまった。
 ここは本当なら、アカツキが自分から言い出すのを待たければいけない場面だ。それだけ、アカツキに心を許し始めたというところか。女2人に牛耳られているというアカツキの弱音に、ちょっとばかり同情してしまったせいもあるかもしれない。
「ナデシコCの建造にあたって実験艦ユーチャリスを建造しましたが、実験艦だけあって、ナデシコCの電子装備を完全には実装しきれていません。それに、操艦者もまだ未熟です。オペレーターとしての経験はルリ少佐の半分にもなりません。それに、その操艦者はテンカワ君のサポートに特化したところがありまして。それらを合わせて考えると、ルリ少佐と同じことができるかどうは不透明、望み薄です」
 あくまで操艦者と表現するアカツキ。彼女のことを知っているとミスマル提督は言っているが、それでもその言葉をこちらで肯定することはない。まかり間違えば彼女の安全が脅かされる。必要もないのに、彼女の出自を語ることもないだろう。
 まぁ、ルリと同列に語っている時点で肯定したも同然なので、これは「立場上明言できないけど、私は貴方に気を許していますよ」というメッセージになる。ここのバランス感覚が大事だ。
「うぅーむ・・・・・」
 戦えば勝てるが、状況次第では社員に犠牲が出る。統合軍側にも当然損害が出る。その結果、ネルガルは権力との抗争を余儀なくされてしまう。統合軍側に損害が出ない勝利を目指すのが最上だが、しかし電子掌握は不可能。そこで政治的な決着を求めている・・・か。
 しかしミスマルにも、統合軍に対してネルガルへの干渉をやめろ、と命令する権限はないのだ。統合軍へのコネは、一応ある。元部下や元同僚が統合軍に出向、あるいは転属しているからだ。彼らを通じて、ある程度のことはできるだろう。だが一旦発効された命令(この場合はテンカワアキトの引渡し要求である)を取り消させたりはできない。期限の引き延ばしも、1日2日ならともかく、一ヵ月は無理だ。
「すまないな。やはり力になれそうにない」
 それを聞いても、アカツキはそれほど落胆はしなかった。
「いえ、こちらこそ無理なことを頼んでしまって・・・・・。では、戦うしかなさそうです」
 秘書室の皆の分析では、議会が開かれるまでは議員の1人や2人と個別接触しても、政治サイドからの圧力は効果はないということだった。やはり議会の総意が重要なのだ。
 政治的な決着が無理なら、実力行使にでる。
 そして、実際に戦闘になるのなら、双方に被害が出ない方法をとる。だから電子掌握は必須の技術だ。
 ミスマルもアカツキも、同じ結論に達した。

「ルリ少佐をお貸し願えますか?」
「それしかないだろうな。だが、ルリ君はいまや宇宙軍の象徴にも等しい。簡単にはやれん!」
 その口ぶりは、かつてアキトに「娘はやらん!」と言ったあの時と同じだった。
「第一、ナデシコCを動かせる人間がいなくなってしまう。電子掌握は我々にも必要な技術だ。火星の後継者の残党は未だに活動しておる。万が一の時にルリ君がいなければ」
「ではトレードと行きましょう」
「トレード?」
 ふぅ、こりゃ後で怒られるかな?でもこれしかない。ミスマル提督は信用できそうだ。妙なことにはならないだろう。
「はい。さっき言った、アキト君をサポートする子がいます。その子をルリ少佐とトレード、ということで」
「電子掌握は使えんのだろう?それでは意味がない」
「それは、実験艦とあの子の組み合わせの場合です。ナデシコCとなら、ルリ少佐ほどの速度と精度は望めないでしょうが、可能です。むろん、ルリ少佐と実験艦の組み合わせでも電子掌握は可能になります」
 ミスマルは考えた。ルリ君もじっくりとアキト君と話す機会が欲しいだろう。宇宙軍だけのことを考えればメリットはないが、いや、もう一人のマシンチャイルドと縁ができるのも悪いことではないか・・・・・・。よし、ルリ君のためにも。
「わかった。それで行こう」
 映像会談のために、握手は無しだ。だから、イスから立ち上がり、お互いにうなずいて見せた。
 取引は成立した。



[319] Re[4]:それから先の話 第5話
Name: koma
Date: 2007/04/28 05:47
「っていうわけで、ラピスとルリ君をトレードすることになったよ」


 この報告をするのはちょっとした命賭けだった。
 イネスもエリナもラピスを娘のように可愛がっている。アキトにとっても娘のようなものだ。ネルガルの裏の支配者2人とその想い人の計3人を一気に敵に回したことになる。
「っていうわけで、じゃないでしょう?何を考えてるのよあんた。馬鹿じゃないの?」
 普段の20%増しの厳しい言葉を浴びせるエリナ。レッドゾーンぎりぎりである。
 彼女は確かに怖い。しかしそれ以上に怖いのが彼だった。
「どういうことだアカツキ?返答次第では・・・・・・」
 アキトがずいっと一歩手前に出る。
 これは怖い・・・・・・、ミスマル提督といい勝負だよ・・・・・・
 予想していた通り、会談結果の評価は芳しいものではなかった。
 プロスもゴートも月臣も別の仕事で外しているので、今度も護衛はなしである。シークレットサービスが階下に待機しているが、それでは事が起きてもとても間に合わない。
 必死で言い訳した。
「いやいやいや、ほら、前も言ってたじゃない?ラピスは社会を学ぶ必要があるってさぁ。別に会えなくなるって訳じゃないし、ずっと宇宙軍に預けっぱなしってわけでもない。マシンチャイルドだってルリ君やマキビ君って先輩がいるから受け入れられやすいだろうし、いい機会だと思ったんだよ」
 アカツキはこれでアカツキなりにラピスのことを考えている。前はもっとドライな男だったのだが、何だかんだ言って周りのイネスもエリナも情の強い女だ。感化されるところもあったのである。ラピスのことを思えばこそ、もう少し世間というものを教える必要があると考えたのだ。
 これにはアキトたちも同意せざるを得ないが・・・・
「それでも事前に相談するくらいはあってもいいんじゃなかったの?」
 イネスとしてもこの事態は歓迎せざるものだ。ラピスと距離が離れればリンクも途切れる。感覚補正がなくなれば、アキトも自分の体の異常を察知できなくなる。それは主治医として見過ごせない。
「だって時間もなかったし。トップ会談の最中だよ?確認したいからちょっと待ってくれ、なんて言えないよ」
 交渉は勢いだ。その場の雰囲気とノリだ。少なくともアカツキの持論では。部下と協議するから待ってくれなんて、いちいち言っていられない。自分の決定は会社の決定だ、と自負を持って交渉に当たらなければ、相手も信用してくれない。前会長の息子というだけで後ろ盾を持たないまま会長に就任し、四面楚歌の中で、アカツキはそうやって実績を上げてきたのだ。
 だが抗弁するアカツキは3人に睨まれ、萎縮してしまう。
 怒るのはわかるけど、僕だってあの怖い提督相手に頑張ったのに・・・・・。
 トップは常に孤独だ。アカツキはそれを改めて実感した。
「わかったよ、それじゃラピスが嫌だって言ったら断るよ、それでいいだろ?」
 何とかそれだけを喉の奥から搾り出し、アカツキはアキトの後ろに控えるラピスに目をやった。
 この少女は、今の話が自分の処遇を決める相談だということを分かっているのだろうか?
 提督との会談の時に、自分のトレードが決まっても何も妨害してこなかった。
 認識能力には問題はないという話だから、これはつまりトレードに賛成ということではないだろうか?無関心なだけか?それとも、他に理由が?
「どうだいラピス?君に宇宙軍に行ってもらおうと思うんだけど・・・・・・。さっきも言ったけど、ずっとってわけじゃない。最初は士官学校での士官教育を受けるけど、卒業後の任官は少佐が約束されてるし、補佐はつくけど艦長職だから、君に命令できる人も少ない。そんなに悪い条件じゃないと思うけど」
 どうかイエスと言ってくれ・・・・・・!
 アカツキの懇願するような目線を見返し、しかしラピスはやはりその目の意味に気づくことはない。人の心の機微に鈍感なのだ。彼女の関心は、アキトと、アキトのための自分の能力に注がれている。
 だからこの返答も、ある意味では予想通りのものだった。
「わたしはアキトが一緒ならどこでも行く」
「それは・・・・・・」
 ああ、そういえば付き添いをつけちゃいけないって条件はなかったし、でも給料は向こう持ちになるから余計な人がくっついていったらまずいかな。給料はこっちで支給することにして向こうの負担にならないようにしておけば、まずは仕官学校の校務員、卒業後は護衛としてラピスに着いて行って貰うのもありかな。
 うん。
「じゃ、いっそのことそうしちゃおうか?」
「あんた、さっき自分で言った事もう忘れちゃったの?ラピスの社会勉強のために宇宙軍に出すんでしょ?保護者同伴じゃ意味がないじゃない!」
「いや、そうなんだけどさ、本人が嫌だって言うんじゃ・・・・、それに君だってラピスを出すのに反対してたじゃない。テンカワ君が一緒なら安心だろ?」
「そりゃそうだけど・・・・・・」
 ラピスのことは可愛いが、それはそれとして堂々とアキトと一緒にいることを公言するラピスに嫉妬めいたものを感じないわけでもない。大人気ないと思うが、どうにもイライラする。そのせいかどうか、エリナの言動には一貫性が欠けている。
「アキト君が行くのなら、主治医の私も同行するわよ。他の医者には任せられないわ」
「それはOKだね」
 エリナの抗議は軽く無視されてしまい、イネスはあっさり同行の約束を取り付けた。
 とんとん拍子で話は進んでいく。
「俺は、一緒に行くのは反対だ」
 と、ここで自らの問題であるにもかかわらず何の意見も聞かれなかったアキトが反対を表明した。
「え?そりゃまたなんで?」
 テンカワ君は軍隊嫌いだから一番説得に手間取ると思ったのに、ラピスを出すのには賛成して、一緒に行くのは反対?意外だな。
「ラピスの教育のまたとない機会だ。俺がついて行くのはよくない。それにルリちゃんの電子掌握で片がつくとも限らん。機動兵器を動かせる人間が必要だろう?」
 再びアカツキは考え込んだ。ラピスだけを宇宙軍に送り出し、アキトはネルガルで待機するのがもっとも効率的だ。ラピスはそれを嫌だと言うが、アキトの説得なら聞き入れるかもしれない。
「それに、俺が表に顔を出すのはこの状況では相手を挑発するだけだ」
「そんなのはいくらでも偽装できるから大丈夫だけど・・・・・、じゃあ、君からラピスを説得してくれるかい。僕らじゃ無理だよ」
 エリナやイネスは元からラピスを説得しようという気はない。2人とも強気で頭脳明晰な女なのだが、どうにもラピスに関しては母性が優先するというか・・・・・、強く出られないし、手元から離したくないのだろう。そこで、今回は父性のアキトが厳しく躾ける役目を負うことになった。
「ラピス、俺はここに残る。お前は宇宙軍に行け」
 テンカワ君、ラピスは犬や猫じゃないんだから行けとだけ言うんじゃなくてちゃんと理由をだね・・・・
 海千山千の猛者たちとの腹の探り合い、交渉を重ねてきたアカツキにしてみれば、それは説得と呼べるものではなかった。
 とはいえ、ラピスはアキトに逆らわないからこれで解決だ。釈然としないものを感じて、アカツキはそれでいいのかと自問した。
 しかし、
「嫌。アキトと一緒にいる」
 アカツキ、エリナ、イネスはラピスのはっきりとした拒絶を聞き、驚いた。他でもないアキトの言葉に対して真っ向から異議を唱えたのだ。人形のような自我の薄い子供だと思っていたのに、知らないうちに成長していたようだ。
 ラピスの成長は喜ばしいことではあるが、しかし選りにもよって今この時に成長の証を見せなくてもいいのに、とも思う。
「お前を保護してから、2年以上経つ。もう何もわからない人形じゃないだろう?今、お前は俺の言葉に反対してみせた。もうお前は独り立ちできる」
 ラピスは目を見開き、アキトの決別の言葉に異議を唱えた。
「でもアキトには私が必要」
「リンクか?問題ない。ルリちゃんに頼むさ。あの子も大人になったようだ。俺とリンクしても引きづられることはないだろう。だが、ラピス。お前は俺の影響を受けすぎている。これ以上はお前のためにならない」
「そんなことない。リンクできるのは私だけ」
 それは根拠のない願望だ。火星でAIを介して一瞬だけつながったあのルリという女。洗練された淀みの無い思考を思い出した。あの女なら造作もなくリンクしてみせるかも・・・・・
「悪影響もない」
 それでも言葉を重ねた。ここで捨てられるのはあんまりだ。アキトのためだけに、アキトの手となり足となり、目となり耳となり生きてきた。それ以外の生き方などできない。
 しかし、この思考こそが悪影響ではないだろうか。ラピスはそこに考えが至らない。
「ラピス・・・・・・・。説得は無駄か」
 これは説得などではない。一方的な命令だ。だからラピスも依怙地になって拒否するのだ。やり方を変えなければ、ラピスをうなずかせることは難しい。アカツキはもどかしく思った。
「無駄」
 諦めてくれた。悟られないように、ラピスはそっと安堵の息をついた。
「ラピス。お前こそ、俺を説得するのは無駄だ。これは決定事項だ。お前は宇宙軍に行け」
 再び繰り返される断固とした意思の表明。
 リンクから流れてくる迷いのない意思に、逆にラピスの意見が通る余地がないと感じ取る。
「でも嫌」
 もうどうしていいかわからない。経験の浅いラピスには、理を尽くして相手を説得するということが難しい。リンクの必要性を否定されてしまい、これ以上は何を言えばアキトは許してくれるのだろうか?考えてもわからない。
 捨てられたくないのだ。リンクでアキトに訴えた。
 もちろん、アキトはラピスを捨てる気はない。リンクの影響を受けているのは何もラピスだけではない。だからアキトのラピスに対する感情は特別なものがある。
 それをアキトは伝えようとしていた。
「ラピス、今までは戦いに必要だったからお前と一緒に行動していた。戦いは終わった。俺たちも、そろそろ次の段階に進んでもいい頃だろう」
 ラピスはそれを別離と解釈した。リンクの必要性がない。つまりラピスは必要ない。それはラピスの望みではない。
「嫌。今までと同じでいい」
「利害関係にだけ支えられた人間関係は希薄だ。感情の交流がなければ。ラピス、今のお前は人形じゃないが、それに類するものだ。感情は常に俺からお前に一方通行で、交流はほとんどない。お前が独り立ちし、成長したら、お前も自分を語れるようになる。そうすれば、俺たちはもっと・・・・・・・」
 親密になれる。
 口に出そうとして思いとどまった。子供相手には少し不穏当な表現だろうか。緊密・・・・、これも何か違う・・・・・。理解しあえる・・・・少し硬いか。
 何が適切か・・・、そうだな、少し子供っぽいところが、かえってふさわしい。
「俺たちは、もっと、仲良くなれる」
 優しくラピスの手をとり、その指を握ってささやいた。静まり返った部屋で、低いバリトンの声がこだました。
 仲良く、なれる。
 自らを語る機会を極端に減らしてしまった青年には、精一杯の言葉だ。
 イネスとエリナは思わず目頭を押さえた。
 自暴自棄に陥っていたアキトが、ラピスとの閉じた関係に限定しているとはいえ、将来への展望を語ったのだ。
 やはり、未来は子供が作るものなのか。
 2人はそっと目元をぬぐった。

 ところで一方アカツキは。
 テンカワ君才能あるなぁ。
 アキトがラピスを口説いているシーンだと認識していた。女を口説くのも商談も同じノリ。どうしてもそっちへ思考がいってしまう大関スケコマシである。
 ついでに言うと、アキト君がラピスをとるならドクターとエリナ君はフリーだなぁ、チャンスあるかなぁなどと、2人から男としては相手にされていないにも関わらずそんなことを考えていた。いいシーンなのは分かっていても、基本的にドライで心を動かされることが少ない男だ。
 ドライだけど恋愛には積極的。そこがイイという女性も多い・・・・・・、例外はどこでもいて、少なくともイネスとエリナ2人の受けは悪いので、アカツキが2人を落とすことはできないだろう。それでも諦めないところが大関スケコマシの真骨頂だ。
 アキトの意にほだされ、イネスもラピスを出すのに同意して説得にかかる。
「ラピス、あなたも先を考えるべきね。推定だけどもう12歳なんだし、成長が遅いとはいえ、もうそろそろ第二次性徴期がはじまるわ。いつまでもお兄ちゃんにベッタリくっついてるんじゃ世間的に問題だし、独身者には目に毒よ。自立を考えるには、ちょうどいい時期ね」
 独身者。具体的にはイネスとかエリナとか、あとゴートとか月臣とか。アカツキは意に介さないだろうが。プロスはよくわからない。ウリバタケは既婚者だが言わずもがな。
「テンカワ君だって、まだ人倫を犯したくはないだろ?その点、ルリ君にバトンタッチすれば、22歳と17歳で一緒にいるのを見ても許容範囲内だし。実際にもやっちゃっても許容範囲内だし。ウグっ」
 くぐもった悲鳴をあげ、アカツキは顔を歪ませた。エリナのヒールがアカツキの革靴にめり込んでいた。これは単なる痣程度じゃ済まないかも・・・・・・。アカツキは鉄板補強の革靴を開発させようと決意した。そんなくだらない物に需要はないので、おそらく却下されるだろう。ネルガルは営利企業なのだ。たまに営利と関係ないことにも手を出すが。
「ラピス。ミスマル提督は優しい人だ。お前にもきっとよくしてくれる。だから、行ってこい。政情が落ち着くまでは会いにいけないが、統合軍が片付いたら、時間をとって一緒にどこかにでかけよう。宇宙で2人きりにならなくても、買い物に行くのだって十分楽しいさ」
 ちゃんと惑星上で気軽に出かけられるまでには、きっと何ヶ月かはかかるだろう。それまでには、ラピスもショッピングを楽しめるだけの精神性を身につけるはずだ。
 成長したラピスの姿が、脳裏に浮かんだ。少し前に見たルリに似ていた。
 冷えた心を、暖かい何かが照らす。
 あんな子になるのだろうか?いや、それはアキトの想像に過ぎない。白鳥ユキナのように元気な子になるかもしれない。
 どちらにしろ、先には希望がある。ここを乗り越えれば。

「わかった。だけどルリがリンクできなかったら、行かない」
 心を尽くしたアキトの言葉が届いたのか。ラピスは強情を張るのをやめた。
 そう、その先に未来がある。
「できるさ。ルリちゃんはラピスよりも経験を積んだ子だ。前に地球であった時にも思ったが、ずいぶんと立派になっていた。そのことについては心配していない」
 アキトとラピス、初めての仲たがいはこれで手打ちになった。
 壁に掛けられている絵の裏からエリナがアカツキ秘蔵の50年物のボトルを取り出し、イネスがグラスを用意した。
 何でそこにあるのを知ってるんだろう・・・・・・・・・・・・?
 やりきれない思いを抱えつつも、アカツキは人数分-1のグラスに酒を注ぎ、最後のグラスにはカクテル用に用意しておいたグレープフルーツジュースを注いだ。
 乾杯の合図はない。各々に煽る。
 
 この賭けは、ルリがリンクを承諾することを前提にしている。断られるということを想定していない。その分、確率的にはラピスに有利だ。アカツキはそのことに気づいていた。まあ、軍務とあればルリは断らないだろう。ただ、心から同意していないかもしれない。リンクできても中途半端になってしまう可能性がある。不完全なリンクが何をもたらすのか、アカツキには想像もできなかった。

















設定資料
ネタバレ部分を削除しました。
機体設定。
機体名 ディバイナー・イロクォイス 漆黒の神像
イネスにより、ナデシコC、ユーチャリスの追加電子装備と平行開発が進められていた、ブラックサレナ後継機体。
ブラックサレナの弱点である質量の大きさを解消するためにスマートな体型をしている。
機体内の内蔵スペースが小さくなってしまったため、従来の相転移炉を搭載することができず、完成が遅れていた。
後々に構造強化機能が追加される予定。
破壊の象徴。


機体名 ディバイナー・カイユーダス 純白の神像
古代火星人の技術が使用されている。
無垢の象徴。


機体名 ディバイナー・アーノンディガス 紅の神像
古代火星人の技術が使用されている。
欲望の象徴。


共通設定。
機体のエネルギーは高濃縮同位体。
インダクションモードにより同位体から瞬時に大電力を搾り出せる。このため、エネルギーチャージの時間を省略できる。
動力はオプティカルドライブモーター。高濃縮同位体は体内を血液のようにめぐっており、その対流で副次的に発生するチェレンコフ光を、光ファイバーなどでモーターに導いて使用する。モーター内のステーターは光で磁極が切り替わる物資で作られているので、光を動力源にすることが可能になる。
ここの説明はガンドライバー6巻の巻末を極端に簡単にしたものです。


ガンドライバー公式設定によれば、神像は全7体です。
また呼称も複数個設定されており、「ディバイナー オブ スカーレット」=紅の神像=アーノンディガスです。「ディバイナー オブ」「の神像」を省略して、以降、順番に、オーニックス=漆黒=イロクォイス、オーパライン=純白=カイユーダス、バーデュア=翠緑=機体名不明、アズライン=紺碧=機体名不明、アンベル=琥珀=機体名不明、ファーシュ=紫苑=機体名不明、となります。
それぞれが宗教的な概念の象徴になっており、紅の神像は欲望の象徴となっております。その他の色が何を象徴しているかは不明ですので、このSS内では私が設定を追加しました。
カイユーダスは天叢之雲之神像または草薙之神像の名が与えられています。
カイユーダスは、8巻の巻頭設定資料ではカイユーグスとなっており、作中ではカイユーダスと呼ばれていました。私が持っているのは初版のものなので、次の版からどちらかに統一されていると思いますが、ここではカイユーダスとします。


このSSはゆくゆくは漫画版とのクロスになります。
ただ、漫画版ナデシコは呪術が現実の力として作用する世界で、ボソンジャンプも存在せず、アカツキもエリナも登場しません。イネスは敵のスパイ、ルリはクローンが2人おり、オリジナルのルリは卑弥呼につぐ実力者でありながら幽閉されていました。
このSSはTV・劇場版設定準拠なので、特に呪術関連の設定は切ることになります。ボソンジャンプ関連技術を神の奇跡として見世物にしてカリスマを保っている、とかそういう設定になります。




[319] Re[5]:それから先の話 第6話
Name: koma◆787e3e0e
Date: 2007/05/19 09:18
 ネルガル月支社は、極秘にVIPを迎えていた。
 宇宙軍大佐、ホシノ・ルリである。
 統合軍を首尾よく撃退した時、ネルガルがいまだ政府の敵になっていなければ・・・・・・、ネルガルと宇宙軍の人材交流が再開されたことは、いずれ公になる。情報公開法に基づく民間の請求を待つまでもない。宇宙軍白書の来年度版にきちんと記載される予定だ。
 万が一、ネルガルが統合軍を武力で撃退してしまい、平和的解決が望めなくなった場合。または、統合軍がネルガルを制圧した場合。その場合は、ルリはただちにイネスによるボソンジャンプで宇宙軍本部に戻り、出向の書類も完全破棄。イネスとラピスは統合軍の追求から逃れるため、そのまま宇宙軍預かりになる。そういう筋書きだ。

 ミスマルが抱える幕僚本部とアカツキの美人秘書集団が頭を突き合わせて最善を模索した結果、各々はルリとラピスの安全を最優先で確保することで合意に至った。


 そんな思惑の中。

 50室ある応接フロアの最奥。
 5重の個人認証チェックを通り、プロスの率いるネルガルシークレットサービスが周囲を固め、全情報端末はラピスのパートナーAIヤゴコロが制御する。
 連合議事堂など及びもつかないセキュリティに守られたここで、2人のマシンチャイルドは2度目の邂逅を遂げた。
「初めまして、ではありませんね。ラピス・ラズリ。私はホシノ・ルリです」
 そう言って右手を差し出した。
「・・・・・・・・・」
 だがラピスは名乗りもせず、差し出された手を見ているばかりだ。
 握手という習慣を知らないわけではない。しかし、差し出された右手が握手を求めるものだということに思い至らないのである。戦闘特化の教育と調整を受けたラピスには、人間と触れ合う機会がほとんど無く、こうした場合には的確に反応できない。そこにアキトは憐憫を感じる。
 ルリにはラピスの困惑がわかる。何と言うことはない。かつて自分がナデシコで学んだことを、彼女はこれから覚えていくだけなのだ。
 これはレッスン1。
「握手です。ラピス・ラズリ。私たちは仲間です。握手はその絆を確かめる行為です」
「あくしゅ・・・・」
 差し出されたルリの右手をおずおずと握り返し、ラピスはその暖かさに戸惑った。
 ルリの顔が、穏やかにほころんだ。
「よろしく」
 自分と同じマシンチャイルドなのに暖かい。何故だろう。
 ラピスの胸に、熱がこもる。
「いやメデタイ。ルリさんとラピスさんは姉妹のようなものですからね。これで姉妹仲良しというわけです」
 プロスが相変わらずの愛想笑いを浮かべつつ、祝辞を述べた。
 道化を装う者の宿命なのか、本人が誠心誠意、真心を込めて言っていても、どうにも胡散臭さが付きまとう。
「うんうん、感慨深いね。もっとも、一緒なのは今日だけですぐに離れ離れになっちゃう痛ッ」
 エリナのピンホールがアカツキの革靴を踏みつけている。あれはなかなか痛い。
 やはり鉄板を仕込んだ革靴の開発は急務である。何とか企画を通さなければ・・・・・・。
「会長。もうちょっと言葉を選んでいただけますでしょうか?うちのラピスの晴れの門出ですのに」
 踏まれた方の足のつま先を持って、アカツキは片足でとんとん跳ね回った。痛みのあまり、涙がちょろちょろと流れる。往年の色男も形無しだ。いや、往年といってもまだ衰えたわけではなく、その魅力は健在なのであるが。
 でもここの女たちはみんなアカツキを無視して一顧だにしない。地位も名誉もあって仕事もできる男盛りの30前だというのに、哀れなことだ。
 エリナもイネスもルリもラピスも、どうも世間とずれているらしい。
 あれが自分の上司なのか。嘆きながら、エリナはなるべく「ソレ」を視界に入れないようにして、ラピスに向き直った。
「じゃあラピス、リンクの引継ぎをお願いね」
「・・・・・」
 返事はなかった。
 ラピスとしては気が進まないのだろう。それでも自分から言い出したことだ。
 いまさら拒否はできない。
 ルリがアキトと一緒にいたのは、4年前から3年前までの1年間。対して、自分は2年以上も一緒にいるのだ。しかもリンクを通して、一心同体の関係だった。
 ぽっと出のそこらのマシンチャイルドが、長年アキトと連れ添った自分よりもうまく感覚補正ができるわけはない。
 自信があった。
「話は聞いています。アキトさんとのナノマシンリンクの引継ぎがあるとか」
 ルリとしても、本当はこの話はあまり気が進まない。アキトは変わってしまった。家族だったあの頃とは違う。
 自分も変わった。保護者が必要な年でもない。また3人で屋台を引くあの頃には、もう戻れないのだ。
 だがそれでも希望は捨てられない。できることなら連れ戻したい。だからネルガルへの出向を受けたのだ。
「アキトのナノマシンへのアクセス経路とパスコード。経路の暗号鍵更新は最低でも5秒に1回。鍵長は任せる。でもできれば4096以上」
「わかりました」
「今プロトコルを送る」
 音はない。握手した双方の手を通り、データが流れる。
 渡された規格にそって、ルリのIFSが書き換えられ回路が形成された。
 これで仕様上はリンクが可能になったことになる。
 ルリは胸の前で両手を開いたり閉じたり、感触を確かめた。変わりはない。分子サイズの回路規模は、もっとも敏感な感覚器のひとつである指先ですら捉えられない。
 それでも、気分の問題だ。
「それではルリさん」
「はい」
 覚悟を決めた。
 プロスに促され、ルリは潜水の要領で一つ深呼吸し、アキトラピス間のリンクにもぐりこんだ。
 2つの瞳のほかに、もうひとつの視界ができたような・・・・・・、そんな感覚。
 オモイカネにダイブしたあの時を思い出した。あれとも微妙に違う世界。
 黒一色で塗りつぶされたその中に、光るものを見つけた。
 暗い闇の中で煌びやかに輝く網が張り渡され、明滅しながらその形を変えていく。昔、これを見たことがあるような・・・・・。
 万華鏡にも似たそのフラクタル図形の中で、ルリをそれから目をそむけた。
 あの灯りはいけないのだ。触れてはいけないものだ。直感的にそれを悟った。
「どうしたの?うまくいってないのかしら?」
 目を閉じたまま黙り込んでしまったルリを見て、不安に駆られたエリナがアキトに問いかけた。
 アキト側には何も異常は起きていない。エラーメッセージも受信していない。
 ということは、初めての処理にルリが対処するのに時間がかかっているということだろう。
「いや、問題ない。ルリちゃんが処理に戸惑っているだけだ」
「はい。もう大丈夫です」
 目を開けて平静にそういうルリを見やり、エリナは微笑した。
 この子はやっぱり優秀ね。偉大な先輩がいることは、ラピスの励みになるわ。
「そう、安心した。それじゃラピス。リンクが成功したんだから、約束通りあなたは軍の仕官学校に入学決定ね」
「・・・・・わかった」
 うなだれたラピスは搾り出すようにそう呟いた。
 さぞかし無念であろう。お互いにたった一人のパートナーだったはずなのに、男にもうひとつの選択肢ができてしまった。しかも自分は男と離れて暮らさなければならず、もうひとつの選択肢である女は妙齢で、話を聞く限りでは男に好意を持っているという。
 学校を卒業して戻ってきても、アキトは自分とリンクしてくれないのではないか?ルリの方がいいのではないか?もう相手にされないのではないか?
 疑念はぬぐえず、不安ばかりが膨らんでいく。
 ラピスはいまだにリンクを解除していない。ルリ-アキト-ラピスの三元リンクをたどり、その不安はルリにも届いた。
 ラピスは思い違いをしている。もしかしたら誤解を受けるかもしれないが、同じマシンチャイルドの年長者として、自分がここで今後の指針を示すべきだ。
「ラピス。リンクしてわかりました。あなたはやはり、ここを離れるべきです」
「なぜ?」
 自分を追い出して、男との絆を確固たるものにしたいのか?
「あなたには人間らしさが足らない」
 どうとでもとれる言葉だ。抽象的な表現は、ラピスには理解しにくい。
 人間らしさが足らないからだ。
「あなたの感覚補正はとても正確です。正確すぎる。でも、だからこそ人間らしさがない。観測した事象をそのまま伝えるのではなく、ある程度のデフォルメは潤いになります。ここはちょっと殺風景なので、たとえばこんな風に」
 ルリの両腕のIFSが一瞬だけ光り、リンクを流れるデータが少し増えた。
「あ・・・・」
「これは・・・・?」
 アキトはラピスの感覚補正に文句を言ったことはない。即時性、応答速度については注文をつけたが、ラピスは常にそれに応えてくれた。それ以外は必要ないと思っていたし、実際に必要なかった。
 今、アキトの目に映る景色は、明らかに写実性には劣るものだった。明暗が調整され、絨毯の模様の原色が強調され、灰がかった壁の色はやや白みを増し、コントラストの対比が際立つ。
 これは言うまでもなく正確な画像ではない。だけど、その正確さをほんの少しだけ損なっているが、アキトはこの景色を心地よいと感じた。
「それに、ここは少し風がありますよね。だから・・・・」
 アキトはびくりと背中を震わせた。肌に風を感じるのだ。髪が風になびいて首筋をくすぐる感覚まである。
「密着型のボディスーツを着ているから触覚は全面カットですか?それも悪くないですけど、こういうのもいいでしょう」
 アキトの快の感情を感じ取りながらも、ラピスは最後の抵抗を試みた。
「こんなの、必要ない。戦いの邪魔になる」
 ここで言い負かされたら、もうおしまいだ。アキトはきっと頼ってくれなくなる。
「でもわかるでしょう?これが人間らしさなんです。あなたはそれを必要ないと切り捨てて、アキトさんに与えなかった。必要ないけど、必要。あなたはそれがわからなかった」
 一片の容赦もなく、ルリはラピスを責めたてた。
 認めなさい、ラピスラズリ。貴方は未熟。でも決してそこで終わる子じゃない。ハーリー君もそうやってがんばったのですから。
 ラピスは。
 言い返そうとして、できなかった。
 ラピスがどう思おうとも、アキトが安らぎを感じているのは事実なのだ。その事実の前に、ラピスは口を開きかけ、結局何も言えず、唇を噛み締めて押し黙った。
 アキトはそのラピスの顔を見て、ルリと会わせたことは決して間違いではないと確信に至る。
 これは感情表現だ。
 「劣等感」という生まれて初めての感情を味わわされ、それを顔で表現することができた。
 ラピスは今、外見という目に見える要素だけではない、内面世界において、他者と自分の比較を始めたのだ。それはアイデンティティーの確立につながる。
 それが能力の上下に由来する「劣等感」から始まったことは必ずしもいいことではないかもしれない。この荒療治がラピスに好影響をもたらすよう、アキトは心中で祈った。
 祈るのは・・・・・・3年ぶりだ。
 3年前に、自らの意思のみを頼むと誓って以来のことだ。誓いにかけて、アキトは自らの力を信じられるだけの男になったつもりだ。その誓いを破り、今、祈る。
 単純な快や不快では足らないのだ。もっと深く、もっと鮮やかで、もっと激しい。
 それを知ってほしい。
 知ってくれますように。
「ラピス、あなたに何が足らないのか、あなたはたぶん、分かっていない。でもここを離れて、アキトさんから離れて、そして多くの経験を積んで、もう一度帰ってきたら・・・・・・・・」
「そうしたら、分かる?」
 そうしたら、もう貴方に負けない?
「はい。あなたが本当は何を望んでいるのか・・・・・。それもわかります」
「私の望みは、アキトと一緒にいること」
「違います。それはあなたの望みではない」
 あなたはアキトさんの愛が欲しいんですよ。
「違わない」
「議論はよしましょう。どちらが正しいかは、将来わかります。あなたが思春期を迎え、私くらいの年になるころには、きっと」
 私も、それくらいだったから。あの墓地で再会したときに、やっと3年前の想いを理解できたから。
 そして、それが手に入らないことも、同時に悟るでしょう。
 見つめあう2人。
「ルリさん、ラピスさん。名残はつきませんが、そろそろラピスさんのお迎えの方々が痺れを切らしそうです。もうお連れしなければ」
 コミュニケを片手に部屋の隅でひょこひょこ頭を下げていたプロスペクターの言葉が、2人を引き離した。
 ルリはアキトの隣、今までのラピスの定位置へ。ラピスはプロスの隣へ。
「ラピス。落ち着いたら会いに行くわ」
「元気でやりなさい。勉強でわからないことがあれば、いつでも連絡を」
「お小遣いの額はプロス君と相談してくれ。とりあえずは口座に3,000万入れとくから、当面はそれで。無駄遣いしてもいいよ」
「オモイカネをよろしく、ラピス。友達になってあげてください」
 おもいおもいの言葉にラピスは、
「うん」
 1つ頷き、最後にアキトを見上げた。
「アキト・・・・・・・・」
 行くなと言ってほしい・・・・・・・・・。
「ラピス。次に会う時が楽しみだ。お前も、楽しみに待て」
 期待は裏切られた。
「うん・・・・・・・」
 かけて欲しかったのとは違う言葉だった。でも、次があると言ってくれた。楽しみだとも。
「さあ、ラピスさん」
「・・・・・・・・・・・・・うん」
 
「行ってきます」
『行ってらっしゃい』





 シャトルが出発するところを、応接室の壁面モニタで眺めていた。あれに乗っている。
 最新シャトルは、地球まで片道3時間。編入試験は既に終わっており、ちょうど地球に到着するころに合否結果が出るだろう。
 どうなるだろうか?
「行ったな」
「ラピスがいなくて、代わりにルリ君がいる、か。ラピスを救出してからというもの、あの子がこんなに離れていくのは初めてのことなんじゃないかな?彼女、やっていけると思うかい?」
 宇宙軍に出すと決定した本人であるアカツキですら、不安を押さえられない。能力的なものは心配していない。軍学校の編入試験の速報は既に出てきているが、文句なしの点数だった。考古学を含めて自然科学系統はイネスが担当し、経済と法律、教養、文学はエリナが教育した。アカツキも教材費用を惜しんだことはない。ラピスがネルガルで最初に触れたAIはオモイカネ級ヤゴコロだった。ルリを超える、おそらく地球一の英才教育を受けたのがラピスなのである。
 心配なのは、新しい環境下におけるストレスだった。
 アキトはそれを一蹴した。
 心配はしている。それ以上に信頼していた。
「今、ラピスは親離れを始めた。新しい環境も刺激になる。余計な心配は不要だ」
 今隣にいるこの子のように、立派に成長すると信じている。
「君も新しい環境に慣れてくれると嬉しい。ルリちゃん」
 黒いマントの隙間から、手が伸ばされた。
「これからよろしく」
 成長したルリでも、アキトとの身長差はまだ15cm近くある。
 くっと顎を上げてアキトの顔を見るルリ。見下ろすアキト。
 イネスもエリナも、アカツキですらも、これから始まる感動の再会に胸を躍らせた。
 ルリは、差し出されたアキトの手をとらない。

「ルリちゃん、ですか。似合わないですね、アキトさん。今の貴方は、女の子に気軽に呼びかけるような人ではないでしょう?」
 リンクしてわかった。
 やはりこの人は別人だった。
 湧き出る泉は真っ黒で、汚濁にまみれた衝動が腐臭を放つ。
 清浄なものは何一つなく、煤煙で燻蒸された淀んだ泥がわだかまる。
「テンカワ・アキトさんは、亡くなったのですね」
 手はマントの中に戻された。
「そうだ。もういない。受け取っただろう?彼の生きた証を」
 
 イネスとエリナの2人は呆然とし、ついでアキトを見た。
 これは違う。間違っている。
 言葉も無かった。
 3年は長すぎたのか。
 復讐など、手伝うべきではなかったのか。
 アキトのナノマシンは反応していなかった。
 かつて娘に、と望んだ子から決別の言葉を告げられてさえ、アキトの心は平静なのだ。
 あるいは感情を完全に制御しているのか。
 慰めは必要ないのだ。
 それがどうしようもなく悲しかった。




[319] Re[6]:それから先の話 第7話
Name: koma◆787e3e0e
Date: 2007/06/02 06:10
 ルリとの再会後、アキトとルリは訓練に明け暮れている。
 お互いの気持ちは完全にスレ違っていた。リンクが確立しているせいで誤魔化すこともできず、そのスレ違いをはっきりと意識してしまう。
 アキトにとって昔の自分は既に死んだ人間だ。過去の未熟な自分を思い出し、恥じ入ったりするようなことはない。ただ、別人だとしか思えない。身体的な連続性、記憶の連続性はあるが、それが過去の自分との同一性を保証するものではないと考えている。
 ルリは、昔のアキトを求めていた。一緒に屋台を引いていたあの頃こそ、ルリがもっとも幸せだった時代だ。あの頃に戻りたいという願望。今のアキトを見れば見るほど、リンクを通して知れば知るほど、自分の希望は崩れていく。
 それでも両者とも一流だ。おそらく史上最高であり、今後も彼を越える者が現れないであろう最強のエステバリスジョッキーであるアキト。史上初のマシンチャイルドの完成型、電脳世界での全能者ルリ。気持ちが通い合うことがなくとも、その連携は精密で緻密で、早い。
 本来であれば、マシンチャイルドがたった一機の機動兵器をサポートするのはオーバースペックだ。端的に言ってマシンチャイルドが勿体無い。宝の持ち腐れだ。しかし、この組み合わせに限ってはそれは当てはまらない。ルリの全能力を投下しても、アキトのサポートをしながらでは戦艦一隻を統制するのが精一杯だ。それほどにアキトの機動が速く、また大胆で予測が難しい。
 従って戦況解析にも相応の困難が伴う。並みのオペレータでは、何人いても対応できないだろう。アキトのサポート特化型のラピスですら手間取ったのだ。
 それなのに、ルリはラピスの領域に近づきつつあった。
 全ては経験の差によるものだ。
 アキトのサポート以外は余芸にしか過ぎないラピスと、戦艦のオペレータから始まり、指揮までこなした経験のあるルリとでは、地力に差が出てしまうのも無理のないことだった。

 ヤゴコロはハードウェアのコアはオモイカネと同じだが、増設した電子装備が若干異なる。特殊な調整を受けているようで、ルリの手になかなか馴染まない。電子掌握にもかなりの労力がかかりそうだ。
 弱体化した統合軍相手なら問題ないだろうが、もし大規模戦闘になった場合にはどうなるものか。
 一抹の不安を抱きながらも、ルリは訓練に没頭していった。


 夜になった。
 月の自転周期は約27日である。この自転周期にあわせて生活するのは不便なため、地球標準時間の24時間単位で1日となっている。
 月は大気圏がないため宇宙線に直接晒され、また隕石も多い。よって月の人工構造物は地下に建設されることになる。
 災害を避けるための地下施設なのだが、地殻の物質構成比のせいで、月の地震はマグニチュード5以上のものが長時間続くことも珍しくなく、耐震性能の高い設備は建造も維持にもコストがかかる。いずれにしろ、月に拠点を構えられるのは一握りの大企業と大国のみだ。こんなところでもネルガルの力を推し量ることができる。

 天井から地球光が差し込んでいる。月面地表からグラスファイバーで取り込んだものだ。
 寝台は空だ。ルリはまだ起きている。ウィンドーがソファーの前で光っていた。
 ルリはヤゴコロの調整を続けていた。
 ヤゴコロは少し扱いにくい子だ。
 ラピスがアキトさんのサポート特化というのなら、ヤゴコロは機動兵器サポート特化型ですね。並列処理能力があまり高くない。けど、少数の仕事に全リソースをつぎ込めるからピーク性能はこちらが上。
 多数の仕事をなるべく処理能力を保ちながら処理するように調整されているオモイカネと比べ、あまりにも脆弱である。想定されていた以上の並列作業が必要になった場合に、極端に性能が落ちる。平均処理能力よりも、最大処理能力を上げるタイプだ。ベクトル型の概念に近い。対してオモイカネはスカラー型だ。
 地球圏で稼動するオモイカネ級AIが何基あるかわからないが、おそらく、ベクトル型のオモイカネ級AIはこのヤゴコロのみではないだろうか。同じハードウェアを使って、前例のないベクトル型に仕上げたラピスを頼もしく思う。機動兵器サポート特化なら、これは正しい解だ。調べれば調べるほど、その確信は強くなる。
 ただ、調整が甘い。電子掌握にも不向きだ。
 ヤゴコロはラピスの友達である。ラピス自身にその意識はないかもしれなくとも、それは事実なのだ。彼女を支え、彼女の心を癒し、彼女に勇気を与えるものだ。だからルリが自分勝手に弄り回すわけにはいかない。ラピスが帰ってきた時にヤゴコロが全く別の存在になっていたら、彼女は嘆き悲しむだろう。変更の理由が、不便だから、性能が低いからなど論外だ。
 なるべくヤゴコロの本質に影響を与えないように注意しながら、処理の優先順位やバッファの取り方の変更、新しい処理ルーチンの導入などを図る。

 呼び鈴がなったのは、夜がふけて深夜に差し掛かる頃だった。作業に集中していたルリは一度目の呼び鈴に気づかず、二度目でようやく顔を上げた。
 ウィンドーに来客者を映した。夜中だというのに白衣を着ている。イネスだ。
「入ってください」
 ドアを開けた。
 同性であっても深夜の訪問は歓迎すべからざることだが、イネスなら心配ないだろう。彼女が同性愛に目覚めたという話は聞いていない。
 それに、お互い話したいこともある。
「こんばんわ。イネスさん」
 ふわり、と香水の甘い匂いがドアから流れてきた。
 女の部屋に香水をつけて深夜の訪問。
 同性愛の趣味は、ない、はずだ。
 早まったかもしれない。
「こんばんわ。頑張ってるみたいね」
 イネスは部屋を見回し、
「まだ荷解きもしてないのに、ずっとヤゴコロの調整をしてたのね。でも無理は禁物よ。体調は万全に。後でビタミン剤でも処方しましょう」
 少し迷ったが、
「ありがとうございます。どうぞ」
 結局部屋に招き入れることにした。何かあれば、警報を鳴らせば済む。意識の片隅でエア漏れ警報のトリガーに指を引っ掛けた。
 お茶を探した。この部屋を与えられてからは、アキトとの訓練、ヤゴコロの調整を続けていたので、まだ部屋のどこに何があるのかもわからない。ポットや急須くらいは備品のものがあるだろうが、どこにあるのやら。
「お招きいただき光栄ね。お茶は私が用意するわ。まだ場所がわからないでしょ?その間に仕事に一段落つけといて」
「わかりました」
 イネスが部屋の奥へ行ったのを確認し、ルリはウィンドーを再び開いた。現在作成中の処理ルーチンを凍結し、作業計画書の実行リストの備考に「やりかけ」と書き込んで中断、ウィンドーを閉じた。
 座布団を用意しようとしたが、この部屋は洋室だった。ソファーしかない。ソファーに座ってお茶を飲むというのも、まぁ一興か。
 2分も待っていると、イネスがお盆を持って奥から現れた。
「はい、ご苦労様」
「どうも」
 イネスの差し出したお盆から、湯のみを一つ持ち上げた。緑茶だ。
 熱い。お茶にふーっと息を吹きかけた。
「あら、ごめんなさい。私は熱いほうが好きなのよ。つい自分の好みでいれちゃったわ」
「いえ、大丈夫です。すぐに冷えます」
 年をとると、熱いお茶を好きになるらしい。お風呂もそうだ。高齢の人は熱いお湯を好む。
「イネスさん、イネスさんはお風呂も熱いほうが好きですか?」
 この子は急に何を言い出すのか。
 意図をつかめないながらも、イネスは答えた。隠すようなことではない。
「いいえ。お風呂は体温よりも2度か3度高い程度がいいわね。あまり温度が高いのは健康に悪いから」
「そうですか」
 よかった。世代は違うけど、分かり合えない程でもないみたい。
 ルリはお茶もお風呂も人肌程度が好みだった。
「それで、こんな夜更けにどんなご用件でしょう?」
 備え付けの応接セットのソファーに腰を沈め、ルリはたずねた。
 イネスは湯のみに口をつけ、傾けている。ずずっと音を立てた。
「イネスさん?」
「私の用件もあるけど、まずは貴方が聞きたいことがあるんじゃないの?」
 そう言って急須を持ち上げ、お茶が少なくなった湯のみに注いだ。
「いかが?」
 急須を持ち上げて尋ねた。
「いえ、まだ飲んでませんから」
 ルリの手の中の湯のみは、熱を伝えてきている。まだ口をつけることはできない。
 お茶にフゥーっと息を吹きかけた。
「ああ、そうだったわね」
 沈黙が落ちた。
 ルリが聞きたいことはいろいろある。この3年間のこと。アキトが何をやっていたのか。
 何故帰ってきてくれなかったのか、という問いの答えは得た。彼はもはやテンカワ・アキトではない。だからルリの元へ、ユリカの元へ帰る義理はない。でもイネスはそのことをあまり気にしてはいないようだ。
「イネスさんは何故?」
「何?」
「イネスさんは何故、アキトさんと一緒にいられるんですか?あの頃とは別人になってしまったのに」
 その問いかけは糾弾するようでもあり、また、すがるようでもあった。
「同じA級ジャンパーとしての仲間意識?利用できるから?それとも、仕事だからですか?」
「どれも間違ってはいないけど、正解とも言いかねるわね。答えはね、好意があるからよ」
「そんな・・・・・・・」
 非難するようなルリの視線。
「既婚の男に横恋慕するのはみっともないかしら?」
「あの人はもう昔とは違います。もうユリカさんと復縁する気はないでしょう。そんなことじゃありません」
 お茶を飲んだ。こくり、と喉が動く。一口では足らない。そのまま、もう一口飲み込んだ。
「どうして好きになれるんですか?あんなに」
 穢れたおぞましい男を。
 嫌悪をあらわにするルリに、イネスは微笑んだ。可愛らしい子だ。
 成長して手がかからなくなった子供に、自分がまだ教えられることが残っていたことに気づいた母親の気分である。
「あらあら。ホシノルリもやっぱり夢見る少女だったというわけかしら?過去を美化しすぎてない?」
「私がアキトさんの思い出を美化している、と?」
「それとも、成長したせいで、以前は気づかなかったアキト君の別の面に気づいちゃったとか?」
 たとえば、性欲、とかね。
「北辰があの時、お兄ちゃんに何と言ったのか。聞いていたんでしょう?」
 あの時とは、火星での決闘のことだろうか。北辰はアキトを侮辱した。「たとえ鎧を身にまとっても、心の弱さまでは守れないのだ」と。
「どうかしら?貴方はあの時、火星全土を掌握していた。聞いていたはず。私はフライトレコーダーに残っていた記録で聞いたわ」
「ええ、聞きました。それが?」
「あの頃の精神的な弱さは継続してる。つまり、変わってない部分もあるってこと」
 命の奪い合いをしたアキトと北辰には、特別な交感があった。幾度もの戦いを経て、アキトは北辰を理解し、北辰はアキトを理解していた。
 アキトは北辰の強さを肯定し、学んだ。その末に北辰を討ち果たした。
 北辰はアキトの弱さを否定し、侮辱しつつも、恐怖を乗り越えたアキトに賛辞を惜しまなかった。
「心の弱さは誰にでもある。アキト君は死を恐れるあまり、戦いすらも避けていた時期があった。でもそれを克服して、ナデシコで機動兵器パイロットとして立派に戦いぬいた」
「知っています。私はイネスさんがナデシコに乗艦する前から、アキトさんを見ていました」
 彼の生きる姿勢に心をうたれたこともある。世界の美しさを、彼を通して知ったのだ。
「そうだったわね。ねぇ、昔のアキト君は確かに優しかったわ。でもそれは弱さの裏返しであったのも事実。だから流されることしかできなかった。今のアキト君はね、誰の助けも必要なく、たった一人で自分の意思を貫ける男なのよ」
 自分に女を意識させるほどに、彼は男を上げた。
 急須を持ち上げた。湯のみは2つとも空になっている。注いだ。清涼な香りが漂う。
 湯気が立ち上り、イネスの頬をくすぐった。
 あまり熱くない。
 イネスは頬に手を当てた。火照っていた。
 一つ深呼吸し、お茶を口に含み、嚥下する。
「言ってること、理解してもらえるかしら?お兄ちゃんは変わったわ。人はね、それを成長と言うのよ」
「納得できません。昔のアキトさんはあんなに怖い人ではなかった」
 強情な子。リンクができるというのに、肝心なことがわかってないのね。
「貴方は昔の気の弱いお兄ちゃんが好きだったのね。でもリンクして期待を裏切られた。何を感じたのかしら?憎悪、悲嘆?」
 行動科学的に分析すると、テンカワ・アキトは自己実現を超え、明らかに自己超越の段階に至っているはずである。しかし、彼を観察してみても、自己超越者に見られるような霊的な領域への接近は見られない。あくまで人間の範疇に留まっている。かといって、単なる自己実現者とも違う。興味深い存在だ。
「そんな感情は表層的なものよ。社会的欲求に基づく自己実現を阻害されたことで発生したもの。後天的に獲得した無秩序な感情。それだって、北辰を殺したことで原因は解消された。いずれは消えていく。もっと深いところを探しなさい。人の根源は、いつだって3大欲求に基づいている」
 北辰を殺したことで、料理人としての道を奪われたことにも決着はつけられた。この3年でアキトが身に着けた精神性が、怒りと悲しみを制御下におくのも、それほど遠いことではないだろう。ラピスとの話し合いの時に、その片鱗が覗いた。イネスはその先に見えてくるものを期待している。
「・・・・それはイネスさんの解釈です」
「そうね。だから強制する気はないわ。お兄ちゃんの精神分析はとっても難しいの。私が正解ってわけでもないだろうし。でもまぁ、一つの考え方と思ってちょうだい」
 ルリはイネスの言うことをそのまま受け入れる気はなかった。イネスはリンクを知らない。圧倒的なリアリティを持って伝えられるアキトからの憤怒を。枯れ木が燃えるように、ただ憎悪だけが乾いた心を熱く燃やしているのだ。
 アキトのあまりにも激しい感情は、ルリの神経をささくれ立たせる。
「責めないんですね」
「何を?貴方がアキト君を否定したことを?やめてちょうだい。反抗期なら、私にもちょっとは覚えがある。あの頃を忘れるほど、年をとったわけじゃないわ」
 ルリの反発は、反抗期特有の親への嫌悪感に過ぎない。所詮は一過性のものとイネスは判断していた。ただ、リンクができるがために客観性を見失っているだけだ。アキトの期待通り、アキトと感情を共有するほどには引きずられていないが、影響が皆無というわけでもなかったらしい。ラピスからすればルリは巨大な壁だが、イネスにしてみれば他愛のない17の小娘である。心理学にも通じるイネスには、手に取るようにルリの心が分かる。
「反抗期ですか。年長者からすればそう見えるのでしょうか」
「気を悪くしないでちょうだいね。でも貴方がラピスに言ったのと同じよ。あと何年かすれば、貴方にも分かるわ」
「そう言われてしまうと分が悪いですね。それで、イネスさんのご用件は何でしょうか?」
 これ以上はアキトさんのことを話したくない。見透かされたような会話は恥ずかしいし、腹立たしい。
「もういいの?それじゃ2つあるんだけどね。1つは、ラピスと連絡を取って欲しいっていうこと。あの子ったら到着の連絡も寄越さないのよ。今後のプライベート回線も敷設しなくちゃったいけないから、早めに動きたいのよね。軍に盗聴されながらあの子の人生相談なんて嫌よ」
 オモイカネ経由ならば、軍の盗聴網など楽々すり抜けてどこにでも、どことでも通信できる。相手方にマキビ・ハリがいることが厄介だが、それもルリとラピスが送信と受信と両側から監視すれば、たとえハリといえどもその守りを突破することはできないだろう。通信があったという事実さえ隠匿可能かもしれない。
「宇宙軍大佐の貴方の前で言うのははばかられるけど、宇宙軍だって正義の味方ってわけでもないしね。過信するのは禁物。本当にどうしようもなくなったら、私とお兄ちゃんの2人でジャンプしてラピスを迎えに行くから、その段取りはつけておかないとね」
「私の前で言わないで欲しいんですけど」
 何しろ大佐なのである。自分の前で堂々と宇宙軍を信頼していない、と言われるのは対応に困る。イネスが心配するような万が一の事態にあたっては、自分が取り締まる立場なのかもしれないのだから。
「貴方個人のことは信じてるわよ。だからラピスに連絡を取って欲しいって頼んでるの。私から連絡すると足がつくから、ヤゴコロ経由でオモイカネにコンタクトして・・・・、まぁやり方は任せるわ。とにかく、こことラピスの間に秘匿通信経路を構築してちょうだい。これは業務命令よ。貴方は部長扱いだけど、私は研究所主任だから、私の方が権限が大きいのよね」
「はぁ、わかりました。それでもう1つは?」
「ええ、それなんだけどね」
 イネスは湯のみをぐいっと傾けて、残ったお茶を一気に喉に流し込んだ。
「アキト君はまだ起きているかしら?」
 言われて、リンクの身体情報を参照した。脳波はアルファ波は検出されず。体温は平熱より若干上。発汗あり。脈拍、血圧、血中糖度は上昇。乳酸の増大を感知。
「はい。トレーニング中みたいです」
「そう、それじゃ」
 イネスはやおら立ち上がり、腰と肩を軽く片手ではらった。内ポケットから手鏡を取り出し、顔と髪を入念にチェックしている。
 パタン、と手鏡を折りたたみ、ポケットにしまった。
「これからお兄ちゃんの部屋に行くから、うまくいきそうだったらリンクを切って欲しいのよ」
 既に23時を回っている。この時間に女が男の部屋を訪れるということは・・・・・・
「それって・・・・」
 口元を手で隠して、イネスはふふ、と含み笑いをもらした。絶句するルリ。
 香水はそのためか。
「人に見せるようなものじゃないから。まぁ見たいのなら見てもいいわよ。でもできるなら遠慮して頂戴」


 カシュっ。

 ルリが呆然としている間に、イネスは颯爽と歩いていった。イネスの背中が大きく見えるルリであった。
 こんな展開は予想だにしていなかった。
 遅れて事態を理解し、頬を紅潮させつつも、ルリは早速ラピスに通信を開いた。じっとしていれば、リンクの情報に見入ってしまいそうだ。
 時差があるから、こちらが夜でもラピスのいる地域はまだ日中である。
 リンクの情報から意識をそらしつつ、ルリは通信ウィンドーを注視した。一刻も早くラピスが出てくれることを願いながら。



[319] Re[7]:それから先の話 第8話
Name: koma◆787e3e0e
Date: 2007/06/23 06:44
第8話

 月支社地下秘密ドック。
 正面モニターを見つめる2人。
「来たね」
「ああ。時間通りだ。さすがは軍隊」

 期限いっぱい、3日間の終わり、午前0時の30分前、ネルガル月支社は統合軍に包囲されつつあった。
 戦艦5隻、駆逐艦15隻。かなりの大規模艦隊である。
 罪人を引き渡し要求をするだけにしては、戦力過多と言わざるを得ない。統合軍は戦闘を前提としているということだ。この大戦力はネルガルを警戒してのものか、はたまたテンカワアキトを警戒してのものか。

 月支社は臨時休業として一般社員は全員帰宅させている。住居区は月支社から20kmほど離れているので、もし統合軍が社屋に砲撃したとしても誤射はありえない距離だ。安全である。
 会社に残っているのは、シークレットサービス、アカツキの美人秘書軍団、そしていつもの面子であった。

「さっさと掌握しちゃったら?艦隊が集結するまで待ってあげる義理なんてないじゃない」
 エリナはちょっと興奮気味だ。もともと気が短い女なことに加えて、性格上、先手必勝という戦術に固執するキライもある。
 それに、ナデシコに乗っていた短期間を除けば、彼女は戦渦に巻き込まれたことがない。戦争のイロハというものを知らないのだ。 
「まだです。伏兵がいるかもしれませんし、全艦を一気に掌握できなければ残りに警戒されてやりにくくなります」
 ユーチャリスのマシンルームでルリが応えた。万が一の逃亡の準備のため、イネスもルリの隣で待機中である。
「下手に抵抗されて発砲でもされたら、被害が出ます。タイミングを計らなければ」
 ルリはヤゴコロの助力を受け、統合軍SEに気づかれないように統合軍の艦搭載AIに特権の抜け道を作っている最中だ。
 戦争は撃ち合いの前から始まっている。
 グラビティブラストの砲門の数や威力だけが戦争の道具ではない。統合軍はそれを思い知るだろう。
 作戦は現在進行中である。

 作った抜け道を通って、ルリと美人秘書集団は統合軍にハッキングしていた。オマセな中学生御用達のクラッキングツールなど使うまでもなく、市販のツールを使ってごく普通に統合軍の艦を通信相手に指定するだけでどんな情報でもひょいひょい手に入る。データベースの空き容量がどんどん減っていき、その拡張だけでも一手間だ。ヤゴコロがデータの仕分けを手伝っているので、何とかパンクしないで済んでいる。
 敵艦情報網を探査し、今回の捕物に動員された艦の数、兵員、命令の出所に関してクリムゾンの影響度なども調べていく。
 特に欲しいのが、金の流れだ。予算関連の承認印や署名を集中的に洗う。とはいえ、これから捕り物に参加しようという軍艦のデータベースに事務関係の書類が大量にあるわけもないので、これは駄目でもともと。
「やはり掘り出し物はありませんね」
 予想通りといえば予想通り。落胆するようなことではない。
 だが、収穫がゼロというわけでもない。
「しょうがないわね。官民癒着の資料を最前線に赴くような艦のデータベースに置くわけないから。でも、これなんか使えそうじゃない?」
 イネスがルリに見せたのは旗艦の通信ログである。定時連絡以外の通信が複数回記録されていた。発信元はブリッジではなく司令官の個人室、通信先は英数字だけの素っ気無いもの。おそらくどこかの通信衛星だ。そこを経由して、またどこかに通信しているのだろう。
 通常の通信手順ではない。裏がありそうだ。
「いいかもしれませんね。秘書室の皆さんに回しましょう」
「あからさまに怪しいのはこれだけね。今の危機を脱するには力不足だわ。何か決定打がほしいところね。たとえば、あの艦隊の司令官が火星の後継者残党だった、とか」
「難しいですね。火星の後継者がいまだに統合軍に潜伏しているというのはリスクが高すぎます」
 あの時の決起には、草壁以下の主だった幹部は全員参加している。艦隊指揮官ほどの要職にある人間が、そのまま潜伏し続けるというのは考えにくい。決起が失敗した場合に備えて事前に保険をかけていたとしても、最重要監視対象となるであろう統合軍への潜伏はありえない。
 可能性は低そうだ。
「分析するにしても、人手不足に何より時間が足らない、か。これは否が応にも戦闘は避けられないわね。当面は戦力分析を優先しましょう。伏兵はどう?」
「今のところはその気配はありませんね。でも気になることがあります。これを見てください」
 イネスの目の前にウィンドーが1枚開いた。機動兵器母艦の補給状況が表示されている。
 円グラフがウィンドー内にいくつも作られていく。そのいずれも円の半分にも満たないものばかりだ。
「機動兵器は数はそろっていますが、どれも修理上がりか旧式のもの。ミサイルは戦艦が各々10~20ほどしかありません。物資がそろっているのは食料と医薬品ですね」
「判断が難しいわね。古今東西、軍隊が敵の補給物資を奪うもしくは破壊するのは常套戦術。火星の後継者は基本に忠実だったってわけかしら?」
 それは妥当な推測だ。火星の後継者は、決起するにあたってそれまで潜伏していた各組織の物資を大量に持ち出した。特に統合軍は潜伏していた人数が多く、統合軍が火星の後継者の母体となったとも言えるほどのものだった。
 そのせいで、兵員でも物資の面でも、統合軍の戦力はガタ落ちになっている。
「わかりません。よしんばその通りだったとしたら、統合軍は敗軍のセオリーにはまりつつありますね。補給もなく、傍観も退却もできず、彼らは血を流しながらも進軍するしかないわけです」
 後がない彼らが必死だということが、このデータからわかる。いや、あるいは?
「ホシノルリ、気づいているとは思うけど・・・・・」
 こういうのを釈迦に説法というのかしら。この子は情報分析の専門家であり、宇宙軍では艦長職についていたエリート軍人。これくらいは気づくはず。
 もし気づいていなかったら説明しましょう。
 イネスは密かに期待した。
「ええ、分かっています。残りわずかな物資を伏兵に持たせ、艦隊は最低限の物資で運用し、囮になって陽動する。それもありえないことではありません。一民間企業に対してそこまで容赦なく軍隊が勝ちに行くというのも考えにくいことですけど、相手はネルガルとアキトさんですから。過剰に警戒している可能性もあります」
「そうよね」
 言葉少なく同意するイネス。
「もし伏兵がないとしても、相転移エンジンは健在ですし、グラビティブラストも撃てます。正面から戦うとしたらこちらが不利です。ミサイル・弾薬の多寡はあまり関係なさそうですね。このまま伏兵が見つからないようであれば、電子掌握を仕掛けざるをえません」
 ウィンドーを次々に表示、消去しながら、ルリは言葉を続けた。
「その通りね」
「電子掌握準備に入ります。アキトさんには私が連絡します。イネスさんは・・・・」
 これまでウィンドーを注視していた目をイネスに向けた。
 イネスは何かを我慢するように口元を堅く引き結んでいる。
「まだ時間もありますし、化粧直しにでも行っていらしては?」
 イネスの頬がぴくりと痙攣した。
「問題ないわ」
「はぁ」


 午前0時ジャスト。
 統合軍による最後通牒が申し渡された。
「この警告は2分置きに3度繰り返す。これは1度目の警告である。この命令は戒厳令下における治安維持法によって効力を得ている。ネルガルに告ぐ。ただちにテロリスト・テンカワアキトを引き渡すべし。最終警告後の20分以内に返答なき場合、及び、引渡し拒否の場合は、ただちに強行突入する。同義の通信を2分後に流す。以上、交信終了」


 いつもは整備員やその他の社員でにぎわっている広大なドックに、今はたった3人しかいない。アカツキとエリナ、そしてアキトだ。
 通信ウィンドウが開き、ルリの顔が映し出された。その隣にイネスが待機しているのが見える。
「電子掌握の準備は?」
「滞りなく。ヤゴコロはあの娘に似て、素直じゃないけどいい子です。立派に勤め上げるでしょう」
 うん、とアカツキは頷いた。ここからが難しい。統合軍とネルガルの双方に被害が出ないように、穏便に事態を収束させなければならない。電子掌握で一帯宙域を支配して、そのまま議会召集まで粘る、というのがアカツキの作戦の基本骨子だ。
 とは言っても、万が一の電子掌握が失敗した場合にも備えなければならない。
「アキト君はコクピットで待機。いつでも出られるようにしてくれ」
「わかった。ボソンジャンプはかまわないか?」
「それは却下。戦闘中にボソンジャンプができるのは旧木連優人部隊と君だけだ。一応、アキトなんて人はネルガルにはいません、っていうのが建前だから、下手に疑われることはしたくない」
「了解」
 いつもの黒ずくめのスーツを着たアキトが、ばさりとマントを翻してイロクォイスに向かって行った。マントがたなびき、翼のようにゆらゆらと漂う。迷いのない力強い足取り。
 頼もしい。3年前とは大違いだね。彼に任せるということに不安を覚えない。これが信頼って奴かな。
 ワンマン会長、というのがアカツキの評判である。役員会の承認を経ない人事は日常茶飯事。担当部署に役員の頭越しに企画書を渡すことも珍しくない。部下を信じていないからだ。ナデシコに直接乗艦したのも同じ理由だ。だがアキトを監督する気はない。彼は紛れもない機動兵器戦のエキスパートであり、彼の専門分野にアカツキが口を出すことは無礼になる。
 背中越しに声をかけた。
「頼りにしてるよ」
「任せろ」
 アキトの返答が、ドックに響いた。




 ラピスは無事に軍学校の入学試験に合格していた。
 ラピスに与えられた部屋は、30F建てのマンションの最上階、東向きの角部屋で日当たり良好、テラス付きの2LDKである。
 普通の士官候補生はこの部屋を3人から4人で使うことになっているが、ラピスの場合は独りだ。
 士官候補生としての教育を受けながらも、科学顧問を兼任しナデシコC搭載AIのオモイカネのメンテナンスをすることになっている。業務上、一般の士官候補生に見られてはならない情報も扱うことが予想され、1人部屋になった。
 この年頃の子供が1人暮らしをするというのは、人道的に見て問題が多い。ミスマルもそう考えた内の1人だった。
 そこで白羽の矢が立ったのが、ミスマル・ユリカである。
 火星の後継者の拉致から救助され、遺跡とのリンクも切断、予後も順調。ちょっと前に退院し、自宅療養中。最初の数日はミスマル・コウイチロウ提督も娘の看病をしていたが、本人は至って元気、筋肉がやや衰えているせいで激しい運動はできないが、それ以外は全く問題なし。
 となれば、クーデターの後始末で忙しい提督がいつまでも付き添っているわけにはいかない。

 しかし、ユリカを1人で置いておくわけにもいかない。彼女を遺跡とリンクさせることで、遺伝子改造を施したB級ジャンパーであっても擬似的にA級ジャンパーの力を手に入れられることが証明されてしまったのだ。同じ轍を踏まないよう、護衛は必要である。とはいえミスマル邸を軍で護衛すれば、ユリカ個人だけでなくミスマル邸の財産を同時に守ることになってしまうので、公私混同の誹りを受けるかもしれない。宇宙軍トップともなれば、清廉潔白であることを常に証明し続けなくてはならないのだ。
 どうしたものかと悩んでいたところへ、ラピスの話である。士官候補生は原則として相部屋だが、彼女は機密保持のために他の候補生とは一緒に暮らせない。あの年頃の子を1人で生活させるのは酷である。
 そこでユリカなのだ。戦時任官ではあるものの階級は大佐で、機密情報取り扱い資格を持っている。ユリカならオモイカネの情報を見ても軍規違反ではないし、ラピスの監督役として同居させてしまえば、ラピスも1人にならずに済む。士官候補生の寮という軍の財産を保護するということなら、護衛をつけることにも何も問題はない。
 これで全ては解決された。
 ユリカはこの話が決まって3時間後にはラピスの部屋に引っ越してきていた。ユリカは荷物をまとめるのが苦手なので、実際に用意したのはアオイ・ジュンである。恋人がいる男に下着の準備までさせるのはどうかと思うが、ユリカにとってアオイ・ジュンは純粋に友達なのである。抵抗はない。突然電話を受けてジュン君手伝って、と3年ぶりに言われて、条件反射で準備を手伝う羽目になってしまったアオイ・ジュン少佐こそが哀れであった。恋人の視線はさぞ痛かったであろう。
 
 ユリカは今、主婦向けの通信販売カタログを見ている最中である。家具から時計やアクセサリー、服に下着に靴、文房具などなど、これ一冊で一通り揃ってしまうという、通販業界の雄「MISSEN」だ。創業200年以上とか何とか。
「あ、これ可愛い、ラピスちゃんに似合いそうだね」
 にこにこ笑いながら、ユリカはカタログを指差した。黄色いワンピースを着たローティーンの子供が微笑んでいる写真だ。同じ型で青い色のワンピースも載っている。
「ラピスちゃんは髪が桃色だから、お洋服の色の組み合わせを考えるのが楽しいね。どんな色が好み?」
 のほほんとした平和な雰囲気を醸し出すユリカを、ラピスは無視していた。ユリカと対面して30分後には、彼女が人の話を全く聞かない人間だということを理解していた。会話が成立しないのだ。
 昨日に構築した秘匿回線で、月の状況は逐次流されててきている。月の秘書室では派遣された統合軍艦隊の識別、指揮官と各艦長の経歴などなどを分析していたようだが、火星の後継者との関係性を立証するような証拠が見つからず、実力行使が決定されたとヤゴコロからの通信があった。
 ラピスは、ルリに言われたことを思い出していた。
 いわく、「デフォルメは潤い」、と。
 ユリカが目ざとくラピスに近寄ってきた。これまで通信ウィンドを見ているだけだったラピスが、何か作業を始めたのだ。
「ねぇねぇ、何してるの?面白い?私にも見せてよ」
 付きまとわれては鬱陶しいので、ウィンドをユリカ側に寄せて、画面を見せてやった。
 中年のおじさんが2人、握手している写真だった。
「ラピスちゃんはこんなおじさんがタイプ?お姉さん感心しないなぁ」
「タイプ?」
 よくわからないことを言われた。知らない概念だ。タイプ、形式。型。何だろう?
 不思議そうに見返すラピスに、ユリカはうんうんと何度も首を縦に振りながら、ラピスの細い肩をぽんぽんと叩いた。
「あのねラピスちゃん。そういうのってよくないよ。ラピスちゃんみたいな子は、年の近い子同士で、一緒に遊んだりするのがいいと思うの。私もアキトと一緒によく遊んだんだよ」
 興味を引かれる話題だが、今は優先すべきことがある。
 ウィンドーを手元に戻し、作業に戻る。
 その手元をユリカは覗き込み、
「あぁ、お絵描きなんだね。でも素材が悪いよ。ラピスちゃんみたいな子はねぇ~」
 がさごそ雑誌を漁るユリカ。
「えーと、宇宙無宿キャプテンガヴァメント、これは男の子向けだし・・・・」
「オモイカネ」
 ラピスの呼びかけに即座に応え、オモイカネは「りょうかい」と書かれたウィンドウをラピスの前に表示、またすぐに消した。
 しばらくして・・・・・・
「あ、これ面白い」 
 ユリカの前にテレビのウィンドウが開かれていた。既婚女性の赤裸々な悩みを解決する相談番組だ。モノタミンとかいう司会が、電話で有閑マダムの悩みを受け付けるのだ。相談者はサウンドオンリー。「もしかしたら、この人ってご近所のあの奥さんかしら?」とか「この人と私ってちょっと似てる・・・」とか想像するのがウケている、らしい。エリナもよく見ていると言っていた。
 これで大人しくしててくれるだろう。通販番組がCMごとに挿入される、主婦向け特化の番組である。
 ユリカの声が聞こえなくなり、ラピスは作業に集中しはじめた。




[319] Re[8]:それから先の話 第9話
Name: koma◆81adcc4e ID:7f27760e
Date: 2007/12/01 11:26
第9話

 既に統合軍の強行査察の予定は過ぎている。
 ネルガル社内はいまだ平穏を保っていた。
 ルリの電子掌握が順調である証拠だ。
 統合軍艦隊は完全にルリとヤゴコロの制御下にある。馬鹿正直に「貴方たちの艦はこちらで掌握しました」などとアナウンスはしていないので(アナウンスしたら公務執行妨害を自白することになってしまう)、原因不明の故障に統合軍艦隊内部は大騒ぎになっている。
 艦隊の全艦が制御不能という事態は、彼らがこれまでに遭遇してきたどんな異常事態よりも対処が難しい。どんなに調べても機械的にも電子的にも異常は見当たらないのに、制御が不可能なのである。
 右往左往する統合軍将校たちの姿を、ルリたちは艦内のカメラから盗み見ていた。
「うふ、くふふふ」
 不気味な忍び笑いを漏らしているのはエリナである。口元を手で隠し、ひじをかかえて背中をふるふる揺すっている。
 エリナに相応しい笑い方だ。モニター越しに見ていたルリは思った。
 イネスさんにも似合いそう。でも私には似合わない。よかった。
「みっともないわね。たかだか艦の制御が利かなくなったくらいで」
 あまりの言葉にアカツキがあんぐりと口をあけた。宇宙空間で艦の制御を失うということがどれほどの恐怖なのか、機動兵器パイロットでもあったアカツキには十分に想像することができる。何重にも入念に施した故障予防措置、バックアップ装置をものともしない完全な制御不能など、艦が沈む直前にしか経験できない。
 すなわち命の危機である。
「いやいやエリナ君。彼らは立派だよ。普通だったらパニックになってもおかしくない。さすが訓練を受けた軍人だけのことはある」
 各統合軍艦ブリッジでは各部署から殺到する報告を処理しつつも、ブリッジクルーが艦長からの怒号のような指示を受けつつ艦内状況の把握に努めている。艦内の生命維持に支障がないことはもうすぐ明らかになるだろう。そうすれば彼らも落ち着きを取り戻し、この異常事態に作為性を見出すはずだ。艦隊の全艦が同時に生命維持系統だけを残して故障するというありえない事態に、人為的な介入の可能性を考えられないほど無能ではない。
 とはいえ、気づいたところで彼らが電子掌握から自力で脱出するのは不可能だ。ホシノルリはそんな甘い相手ではない。このまま議会が開催される1週間後まで、ここで大人しくしていてもらいたい。なんならネルガルから差し入れだってしてもいい。秘書室の子たちに手作り味噌汁なんぞを持たせて慰問させよう。豚汁も捨てがたい。
「やれやれ、やっぱりルリ君に来てもらって正解だったね。あと1週間。無事に乗り切れるかな?」
 これで一息つけるか。
 しかしアカツキの甘い期待はあっさり裏切られた。
「熱源発生」
 ルリの報告に、一気に緊迫感が高まる。
「やはり伏兵がいたのか。規模と数は?」
「戦艦クラスで数は2。機動兵器と思しき反応が戦艦クラスから分離しました。数は、2、3、4・・7・9・・・12、12機です」
 機動兵器は通常4機で1小隊構成となる。戦艦一隻につき1小隊が基本戦隊なので、これは本来の収容規定数を超えている。。
「機動兵器3個小隊か。搭載限界ギリギリまで詰め込んだわけだね。すぐに掌握しちゃって。接舷された後に査察を拒否したら公務執行妨害になる」
 それに、もし査察を拒否した上にテンカワ君までつかまったら、ネルガルとテンカワ君の共犯関係を証明する状況証拠になってしまう。テンカワ君が逮捕された上にネルガルまで起訴されたんじゃ、踏んだり蹴ったりだよ。艦に接舷される前に片をつけないと。
「・・・・・戦艦2隻の掌握は完了。ですが機動兵器にまわすリソースがありません。これ以上は不可能です」
 ルリの横で、イネスが厳しい顔でモニターを凝視している。エリナは秘書室に通信を開いた。秘書室チームは、万が一のために裏帳簿などの重要機密データを隠匿するという仕事がある。エリナはしばらく手が放せなくなってしまった。
 まだ、まだ最悪の状況ではない。ここまではありうるという前提で作戦を立案してある。まだ大丈夫。
 手元のウィンドウを引き寄せ、アカツキはアキトへの通信を開いた。
「テンカワ君、聞いての通りだ。機動兵器12機、足止めをよろしく。火器の使用は禁止、ボソンジャンプも禁止だ。でも、君なら何とかなるだろ?」
 この条件で何とかできる奴がいるとしたら、それはもう目の前の彼を置いて他にはいない。
「やってみよう。イロクォイス、発進する」
「頼む。ルリ君、エアロック開いて」


 宇宙から舞台を移し、ここはラピスの住む豪華学生寮の一室である。
 ユリカを静かにさせた後、ラピスはずっと作業を続けている。
 話は変わるが、写映像の真贋鑑定技術の発達は、偽造写映像技術の発達とイタチごっこを続けている。
 コナン・ドイルも騙された妖精写真のような初歩的で素朴な偽造から始まり、銀塩ネガの時代のピント・露光調整やその他の技術、デジタル処理されるようになってからはもっと直接的なデータ画像加工技術も利用された。また、技術の進歩に伴い、素人でも扱える偽造技術が普及したということもある。
 これらの写真加工には悪意を伴う物もあれば、そうでないものもある。権力者自らが偽造写真を利用することもあれば、権力者が偽造写真によって追い落とされることもある。ネルガルが出資するシンクタンクの研究によれば、過去の政治スキャンダルの少なくとも4割以上は、こうした偽造写真が証拠になっていたという。もっと身近に、浮気調査やテレビスターの密会写真などなど、ゴシップ・スキャンダルに利用される頻度も高い。
 偽造技術の利用頻度が高いということは、被害者も比例して多いということである。いちいち映写像の真贋に踊らされるのは好ましくないと考える人々は、次第に増加していった。偽造写真の取り締まりが社会全体の要請になるまでに、時間はあまりかからなかった。
 映写像機メーカーがこの要請に応えたのが、ステガノグラフィーによる署名埋め込み技術や、物理シミュレータによる映写像そのものの検算である。映写像の真贋が社会的に問題になれば、メーカーがその映写像を鑑定して結果を公表する。報道機関がセンシティブな問題を扱う時は、必ずメーカーに真贋鑑定を依頼するのが慣習となっている。
 ちなみに、鑑定技術が特許出願されると内容が公開されてしまうためにこれらの鑑定技術は特許出願されず、従ってその全容は不明、各メーカーの秘匿事項になっている。
 鑑定用のツールは広く一般に公開されており、誰でも映写像の真贋鑑定をすることができる。疑わしきは鑑定せよ、の世の中である。
 また、セキュリティホールの詳細を非公開にすることを条件に、メーカーはセキュリティホール報告者に賞金を与えると公言している。これは賞金を餌にして多くの人間に技術を確認してもらい、それが破られないことを証明して信頼性を獲得するためである。暗号技術のテストでは一般的な手法と言える。腕に覚えのあるウィザード級たちが躍起になってこの真贋鑑定の穴を探そうとしているが、今のところは成功例は報告されていない。

 さて、そこでラピス・ラズリは考える。
 いかにしてこの鑑定技術を騙せばよいのか?


 機動部隊の戦闘開始からすでに1時間以上、経過している。
 相転移エンジンを稼動できたのは最初の10秒ほどだけで、それ以降は生命安全装置以外は全て停止状態に陥っていた。明かりが復旧したのはその5分後、通信は20分後、パッシブレーダーはつい先ほどだ。エンジンはいまだ再稼動不可である。
「ブリッジ、聞こえるか?まだ重力波供給は再開できないのか?!バッテリーだけじゃもうもたせられない!」
 統合軍エステ2パイロットの悲鳴がブリッジに木霊する。
 伏兵の2隻は艦内エネルギー発生を最低限にまで落とし、慣性航行でこの宙域にまで航行してきた。艦外の熱発散は極力抑えられ、パッシブセンサーのみの計器飛行、20世紀の「初めての月旅行」並のコストパフォーマンスでここまでやってきたのだ。それもこれも、あの忌々しいネルガルの探査から隠れおおせるためだ。この試みは隠れるという作戦の部分では完全に成功したが、姿を現した途端にトラブルで航行不能となった。原因は掴めていない。
 予定では戦闘開始後に即座に相転移エンジンを稼動させることになっており、問題が起きてエンジンを稼動させられず重力波を供給できなくなった場合に備えて、機動兵器には外装バッテリーも装備されていた。今まさにその問題がおきている。
 バッテリーに頼らない内部動力搭載のステルンクーゲルは4機しかない。残り8機のエステバリス2はすでに外装バッテリーを使い尽くして破棄済み、内蔵バッテリーも長くはもたない。時間切れは近い。
 試作カタログですら見たことのないあの機動兵器は、おそらくネルガルの物だろう。パイロットはテンカワ・アキトか、あるいは月臣か。12機がかりで戦っているのに、攻撃はかすりもしない。いまだ12機が健在なのは、あちらが攻撃してこないからだ。あくまで足止めのつもりなのだろう。
 重力波供給がない宙域で平気で稼動し続けているということは、あの機動兵器は新型の大容量バッテリー搭載型か、もしくはステルンクーゲルのように内部動力炉を搭載している機種と考えられる。このまま戦い続けても、相手の動力切れは狙えそうもない。
 まだエステ隊のバッテリーが残っているうちしか、勝機はない。
 有望な人材の全てが火星の後継者に参加したわけではない。奇襲隊のリーダーを務めるこの艦長も残留した優秀な1人。状況が把握できれば、即座に戦術を再構築できる程度には頭はまわる。状況を把握できなくとも最善の手を打てる人間を最上級とするなら、まぁ上級の部類ではある。
 しかし、悲しいかな。状況把握のために手間取ったこの30分。これが致命傷になるのだ。
「ステルンクーゲル隊は敵機を包囲して牽制と足止め、エステバリス隊は前進せよ。ネルガル機動兵器はこちらを攻撃できない。あれは無視していい。とにかくネルガルのドックに取り付いて、責任者に礼状を見せて読み上げろ、そうすれば後はどうにでもなる」

「動きが変わったな」
 火器使用禁止、つまり撃墜禁止。権力に対する敵対行為と取られないギリギリの範囲がそれである。
 アキトの操縦技術とイロクォイスの性能をもってしても、これは相当な難事だ。ルリも電子掌握にかかりきりで、サポートは期待できない。
 アカツキの出した条件を律儀に守り、アキトは統合軍に対する直接的な攻撃をしかけてない。急速接近から半径10m急旋回などのアクロバティックな機動で翻弄し、隙をついては腕をつかんで振り回して別の機体にぶつけるといった、無茶なことを続けている。
 難局だが、乗り切ってみせる。
 全機が一斉に前進をはじめ、ステルンクーゲル小隊がイロクォイスを取り囲む。
 一方、燃料に不安材料を持たないエステバリスはイロクォイスを無視して前進を続ける。
 残り少ないバッテリーで何をする気なのか。
「なんだ?」
 この動きは、アキトに対する攻撃を意図したものではない。操縦技術も機体性能もこちらが上であることは既に統合軍も理解しているはずだ。この状況で部隊を分けるということは、何か裏がある。
 ステルンクーゲルはイロクォイスを取り囲み、一定の距離を保っている。同心円に展開し、イロクォイスの動きに合わせてステルンクーゲルも位置を変える。かといって静止しているわけでもなく、めまぐるしく相互に位置を交換することでフォーメーションを断続的に組み替え、包囲突破の隙を与えない。個々のパイロットの技量はアキトに遠く及ばないが、チームとしての連携は及第点をつけられるレベルだ。
 サブウィンドウがピコっと効果音を出して出現し、そこからイネスが顔を出した。アカツキとエリナは秘書室の指揮をしており、ルリはヤゴコロと共に掌握の維持にかかりきり。手がすいているのはイネスのみなので、戦闘指揮及はイネスが行っている。
「どうやらこっちが攻撃できないってことを見切られたようね。統合軍はネルガルのエアロックに向かって真っ直ぐ前進してきてるわ。接触通信か、もしくは乗り込んで来る気かもしれない。阻止できる?」
「攻撃許可は下りるのか?」
「それは無し」
「では無理だ。40分というところか?何とかもたせた方だと思うが」 
 即答するアキトに、イネスは眉根を寄せた。
「イロクォイスはそんな柔な設計にはしてないんだけど」
 設計者としての矜持を傷つけられたのだろう。イネスは詰問口調で言った。
 アキトもイネスのこうした反応には手馴れたもので、威嚇射撃で牽制してくる4機のステルンクーゲルを軽くあしらいながらも、イネスのプライドをくすぐるように言ってやった。
「イロクォイスは設計者と同じく優秀だ。戦闘になれば5秒もかからん。だが攻撃禁止では包囲を突破することはできない」
「・・・・・そう、わかったわ。ではこちらは脱出を前提にして進めます。脱出時に合図をするわ。私はルリちゃんを連れてジャンプするから、貴方は単独で脱出を。今後の連絡は、ミスマル提督か会長を通すから」
「了解した」
「それから、ふふ、褒めてくれてありがとう。だから好きよ、お兄ちゃん」
 イネスはアキトの返答を待たず一方的に通信を切った。きっとあちらでは通信を聞いていたエリナと一悶着起きていることだろう。
 イネスは自分の好意を隠す気もないようだ。あからさまにアプローチしてくる。アキトも多少困惑しているが、不快には思っていない。
 昨日もエリナとうまく時間がとれなかったことでもあるし、これが終わったらイネスとのこと、真剣に考えてみるか。
 合図の後の脱出の段取りを考えながらアキトは想像し、一瞬、顔にぼぅっと紋様が浮かび上がった。



[319] それから先の話 第10話
Name: koma◆81adcc4e ID:02602993
Date: 2007/12/01 13:32
 初めは無難に、別々の写真から編集ツールで切り抜いて合成を試みた。
 写真の人物はにこやかに笑い、真上から降るライムライトが中年の皮脂に塗れた顔をテカらせている。陰影や光源の調整を行い、写真と鑑定ツールの両方を精査して判明した署名や暗号なども、完全な形でシミュレートして埋め込んだ。素人目には偽造とは見えないであろう。頭髪の隙間からのぞく地肌の色など、神がかっているほどだ。

 ツールによる鑑定結果は「偽」だった。偽造確率70%。この確率では、これを「真」だと判断するのはオカルト雑誌の編集部かUFO研究家くらいだ。使えない。

 次に、合成を諦めて物理シミュレートで完全に0から写真を創作してみた。もちろん、署名や暗号も忘れずに埋め込んだ。
 結果は「偽」。偽造確率は60%だった。

 後者の方が良い結果が出た。この物理シミュレートで作った写真を基盤として、さらに向上を目指す。

「粒度を3倍、変数の精度は5ケタ増やして」

 ウィンドウに向かい手を休みなく動かしたまま、ラピスはオモイカネに命じた。
 ポコっと出てきたウィンドウに「了解」と出てくる。

 オモイカネの特性は汎用性に優れているところだ。並列作業にも適しているが、その分ピーク速度でヤゴコロに劣る部分がある。並列性能が高いのは魅力的だが、アキトのサポートが主たる任務である自分たちには必要のない機能、いつかアキトが機動兵器を降りるまでは、導入を検討するまでもなく却下である。

 だが、今回は役に立っていることは認めざるを得ない。ヤゴコロには物理環境シミュレート用の処理ルーチンなど導入していない。あれの主な使用用途は、乗組員の福利厚生のためのバーチャル空間の創造だ。ユーチャリスにはそんな施設はない。よってヤゴコロにもそんな機能は搭載していない。

 様々にパラメータを書き換え、試行錯誤を繰り返えしていくと、だんだんと壁が見えてきた。偽造率30%。物理演算パラメータの精度をいくら上げても、結果が向上しなくなった。ということは、ラピスがまだ気づいていない別の要素があるということになる。
 それを突き止めるのは難しくないだろう。ラピスは、もともとは天才としてデザインされた珠玉の遺伝子細工である。イネスやエリナからの英才教育も受けたこの少女がスーパーAIと組めば、(同類を除けば)電脳界において匹敵するものなどない。
 ラピスは壁にかかっている時計を見上げた。作業開始からすでに30分経過。もう統合軍の強行査察は始まっている。急がなくてはならない。正攻法では時間が足らない。

 決断にかけられる時間すら限られている。 
 発想の転換が必要なのだ。

「オモイカネ、現在の処理プロセスを全て凍結、順次破棄。リソースを確保した後、カダック本社へハッキング」

 こう見えてもラピス・ラズリは焦っているが、そうは言っても解けない算数の宿題を前にして癇癪をおこすような普通の子供とはわけが違う。アキトに付き従ったこの何年かで、彼女の忍耐は年齢不相応に醸成されている。それが幸か不幸かは議論の余地があるだろう。
 とにかく、この一見自棄に見えるこの行動も、全て勝算あってのことである。

 データを騙せないのなら、見るほうを騙せばよいのだ。

 ハッキングは即座に完了、映写像鑑定ツールの開発サーバーへ直にアクセス、ソースファイルを片っ端からダウンロードし、サーバーからは削除、ダウンロードした全てのソースに最後の鑑定結果出力ルーチンに手を加え、ラピス印の画像に全て偽造率0%を出すような分岐処理を追加、書き戻し、コンパイルしたバイナリを外部公開サーバーへ移行。同時にミラーサーバーへも順次侵攻をかけ、同様の作業にて既存ソースに変更を加え、バイナリを上書きで消していく。

 ここまででハッキング開始から20秒弱、1ピコセカンド単位で変遷していく電脳世界であっても、このスピードは驚異的である。まさに電子の申し子と呼ぶに相応しい所業であった。
 しかし、ラピスをサポートするオモイカネもラピスの優秀さに相応しいスーパーAIである。命令を待たずして、既にライター通信社へのハッキングを開始している。ラピスが次に何を命令してくるかは予測済みだ。
 ライター通信社は地球圏をまたぐ一大総合通信社、つまり報道機関へニュースを提供する最大手である。近年は木連にまで支社を作ったことで有名になった。知名度、信頼性は最高クラスであり、ライター通信が配信したニュースは、たとえどんな荒唐無稽なものであっても誰も疑問に思わない。

 ライター通信社への信頼は、絶大である。

「オモイカネ、ライター通信、BQ通信、先行社にハッキング」

 ラピスの要求はオモイカネの予測を少々上回るものであったが、実行に困難を伴う物ではない。オモイカネが命令を完了するまでに約30秒。ラピスはその間も手を休めず、タイピングを続けている。

 ―完了―

 オモイカネからの完了報告を聞き、ラピスは先ほど合成した写真と、添え物の文章を各通信社の配信ニュースとしてアップロード、またサーバー内に保存されている映写像鑑定プログラムをラピスの書き換えた物に上書きして消していく。

 ラピスが写真と共に掲載した文章を、ここに一部抜粋する。
―本日未明、火星の後継者首領・草壁容疑者と、統合軍所属A司令との密会を撮影した写真が匿名で寄せられた。弊社の鑑定では偽造の可能性は非常に低いという結果が出ており―




 テンカワ・アキトは、紛れも無く地球圏最強の機動兵器パイロットである。
 彼が最強たりうる理由は彼の操縦技術もさることながら、ボソンジャンプの要素が非常に大きい。ボソンジャンプを戦術に組み入れることで効果的な奇襲や迅速な撤退が可能なアキトは、単独で一個大隊に匹敵する戦力を持つ。ヒサゴプランをラピスと2人で壊滅させたのは伊達ではない。
 しかし、アキトといえどもボソンジャンプと火器使用を禁止された状態では、たった数機のステルンクーゲルの包囲網ですら突破できなかった。

 抵抗は全て無意味に終わったのだろうか。

 統合軍エステバリス部隊はネルガル本社に取り付き、接触回線を使って大音量で捜索差し押さえ許可状を読み上げている。チェックメイトである。ネルガルは法律に違反しないギリギリのラインで統合軍の査察を拒絶していたが、これ以上の抵抗はネルガルという法人格そのものの存続すら危険に晒す。
 社員数百万人を抱える一大総合企業のトップに立つアカツキは、捜査を拒否するという選択肢を持たない。
 イネスとルリはボソンジャンプで避難を完了した。しばらくはミスマル提督の下で過ごし、今後の動向次第で身の振り方を考える。イネスはネルガルに戻り、ルリは出向命令を破棄して宇宙軍に戻るだろう。

 テンカワアキトは依然としてステルンクーゲル部隊の追撃を受けつつ月軌道に留まっているが、彼もいずれは諦めてこの場を去るしかない。ボソンジャンプが可能なアキトは、いつでもどこにでも逃げられる。だから心配はいらない。

 今危機に瀕しているのはネルガルという法人であり、そのトップである会長アカツキ・ナガレと副会長エリナ・キンジョウ・ウォンである。

「さぁて、どうしたもんかな。うまくいくと思ってたんだけど、このままじゃヤバイよねぇ・・・」
「そうね。表向きには書類は何も残ってないからしばらくは誤魔化せるでしょうけど、地下ドッグに入られたらアウトね。あそこにはブラックサレナの残骸その他整備部品が山盛り置いてあるから、証拠品として持ち帰られたら言い分けできないわね」

 自分の身の安全は特に心配していない。会長職・副会長職を解かれ、ネルガルの資本を使い犯罪者を囲ったということで背任罪で訴えられる可能性もあるが、結局ネルガルの最大株主はアカツキなのであるからそんなのはどうにでもできる。
 心配なのは、ネルガルの企業価値、株価であった。クーデターの影響でリスク回避のために株式市場は連日の記録安を更新し続けており、その煽りを受けてネルガル本体も関連会社も軒並み値下がりしている。ネルガル本体及び関連会社は持ちこたえているが、元々体力がなかった中小企業は倒産が相次ぎ、連鎖反応で市場混乱が加速するという悪循環が市場を襲っている。
 ここでネルガルの醜聞が報道されればさらにこの勢いに拍車がかかり、万が一ネルガル発の地球圏恐慌などが起これば、火星の後継者戦乱以上の死者が出るということも考えられる。
 そうならないためにも、ネルガルが犯罪行為に加担したことを知られてはならないのだ。

 もしシビリアンコントロールが健在なら、たとえネルガルと議会に特別なパイプがなかろうとも、政治家は諸影響を鑑みて強行査察を行おうとは考えなかっただろう。
 だが、今は治安維持のための戒厳令下。統合軍の権限は極大化しており、対抗できるのは宇宙軍のみ。そして、宇宙軍のミスマル提督は、直接の統合軍への干渉はできないと言っていた。
 ならば、あとはこの嵐が大人しく過ぎ去るのを祈ることしかできない。

「とにかく地下ドッグを何とか隠しきれれば、統合軍の勇み足でしたってことで世間も納得してくれると思うし」
「あんまり舐めない方がいいんじゃない?今回だってアキト君の操縦技術とホシノ・ルリの電子掌握を信頼しすぎたのが敗因だし」

 辛らつに責めるエリナに、アカツキは冷や汗を流した。

「テンカワ君は君の恋人だし、ルリ君は彼の娘同然だろ?もう少しその、配慮というか・・・」
 ついでに言うとアカツキはエリナの上司である。
「事実は事実よ。それに恋人なんかじゃない」

 目を伏せ、エリナは呟いた。
 エリナはアキトに愛していると言ったことは無い。アキトも、エリナに愛していると言ったことは無い。
 もっと時間があれば、アキトの復讐に凝り固まった心がほぐれてエリナとの関係を真剣に考えることもあっただろう。真実、愛し合うという関係になったかもしれない。
 だが、この査察で、ネルガルがプリンス・オブ・ダークネスの支援者であったと発覚するのは避けられない。ネルガル副会長のエリナは当局から厳しい監督を受け、容易にはアキトと接触することはできなくなる。逢瀬など不可能だ。
 統合軍が礼状を読み上げ始めた時点で、もうアキトとの関係は終わった。エリナはそう思っている。

「ああ、その、うん、まぁ腹をくくって、何とかやり過ごそう。僕らにネルガルの明日がかかってるわけだし」

 沈んだ表情をするエリナを見たアカツキは勝機を見出し、慰めようと肩を抱きにかかったのだが、直後に生じた痛みにうっとうめき声を上げた。
 肩にまわした腕を、エリナがつねりあげている。

「あんたの手管は見え透いてるのよ。大学で真面目に勉強してた初心な小娘を騙すことはできても、私には通じないわ」
「そりゃまた失礼。・・・・・は、離してくれないかなぁ・・・?」

 エリナが手を離すと、アカツキはつねられたところをさすり、ふぅっと息を吹きかけた。とても痛い。

「そんじゃまぁ、こっちに統合軍が乗り込んでくる前に、とりあえずミスマル提督にイネス女史とラピスのことをちゃんと頼んでおこうかな。ミスマル提督につないでくれたまえ」

 エリナが端末を操作して通信接続を試みるが、

「ダメね。つながらない。回線封鎖はされてないから、ミスマル提督の方で何か用事があるのかも」
「そうか。それじゃ仕方ない。伝言メッセージだけでも残しておいて、この査察が終わったら改めて菓子折りでも持って挨拶に行くとしよう」

 査察が終わった後のことを話し合うアカツキとエリナの2人。仕込んだ手は全て突破され、あとは地下ドッグが発見されないという可能性にかけることしかできない。
 2人は既に地下ドッグの存在が露見することを見越して、次の手を考え始めていた。

 しかし、この先には別の展開が待っている。

 ボソン反応検知

 ヤゴコロによる報告は、沈思黙考していた2人を現実に引き戻した。

「テンカワ君か?」

 エリナが端末を操作し、あれこれと情報を引き出す。ヤゴコロはオモイカネよりも融通の利かない性格をしているので、エリナの方から情報を探さなければならない。
 IFSをつけていないエリナでは、もたつくことも多い。

「いえ、テンカワ君の現在位置からはだいぶ離れているわ。この反応は戦艦ね。ナデシコ級かしら。識別信号は・・・宇宙軍ミスマル提督旗艦?」



 ミスマル提督の通信は、大出力広域通信の平文で送信された。月のマスコミ支社にもこの報は受信されるだろう。明日のトップニュースはこれで決まりだ。デスクは刺激的な煽り文を書くために頭を悩ませることだろう。

「統合軍第二分遣艦隊に告ぐ。こちら宇宙軍提督ミスマル旗艦オミナエシである。統合軍第二分遣艦隊司令アマギに背信行為の嫌疑あり。分遣艦隊はただちにエンジンの炉の出力を落とし、追って到着する宇宙軍監察部の指示に従うべし」

 これを聞いて慌てたのが統合軍司令である。
 彼もこの職業に就いて長いために確かに清廉潔白な人士というわけではなく、接待を受けた業者に便宜をはかるくらいなら身に覚えが全く無いということもないが、統合軍内部監察部ではなく別組織である宇宙軍の監査部がしゃしゃり出てくるような大事に発展するようなことではない。
 たまらずにミスマルに言い返した。

「宇宙軍?なぜ宇宙軍が出てくるんだ!?」
「黙らっしゃい!」

 宇宙軍提督ミスマルコウイチロウは、統合軍司令を怒鳴りつけた。
 ミスマル提督は宇宙軍トップの人間であり、戦後の別組織へと分かれた宇宙軍と統合軍の友好関係の維持向上に努め、統合軍に対しては常に一歩ひいた対処をしてきた。であるのに、別の指揮系統を持つ組織のトップエリートに対して問答無用の姿勢で臨んでいる。
 トカゲ戦争で活躍したミスマル提督の人となりを知る軍人たちは、宇宙軍のみならず統合軍にも多くいる。ミスマルの剣幕は、統合軍に大きな動揺をもたらした。
 そして、直後にミスマルの口から出た指令への嫌疑は、統合軍艦隊を機能停止というステージに追い込むことになる。

「宇宙軍司令アマギ・ショウタには火星の後継者との共謀関係の嫌疑がかかっている。追って沙汰あるまで職務権限停止の命令が統合軍総合作戦司令本部より発行されている。統合軍第二分遣艦隊は指揮権の引継ぎが終わり次第、所定の宙域で待機せよ。命令書はアマギ旗艦へ転送済みであるので、確認されたし」







 かくして、この動乱は唐突に終わりを告げた。

 一時はネルガル発の地球恐慌の恐れすらも覚悟したアカツキだったのだが、結局は統合軍の暴走ということで決着がつくことになったのは拍子抜けもいいところだ。また、地球恐慌こそ免れたものの軍ひいては政府に対する不信は募り、中長期的な視点から見れば八方丸くおさまったわけでもない。

 統合軍の裏にはクリムゾンがいる。秘書室のみんなの分析によれば、統合軍司令の秘密通信のあて先は、クリムゾンのダミー企業が有する衛星だった。衛星本体の通信ログは破棄済みであり、それ以上の調査は不可能。

 アカツキは、一つの決意を固めるのだった。

 そしてエリナも、舐められたままで終わるような女ではなかった。

 しかしアキトは、いまだに自らの将来を掴みあぐねている。
 






 

 1週間後、ライター通信、配信記事。

―統合軍広報部は記者会見で、統合軍監察部は同軍アマギ司令を拘束し、取調べを進めた結果、火星の後継者とアマギ司令には特筆に価する関係性は存在しないことが判明したと発表した。

―アマギ司令の拘束の有力な証拠となった密会写真は、その後の調べで偽造の確率も否定できないことがメーカーの調査で明らかになっており、また写真の署名内のイースターエッグに「デフォルメは潤い」なる文言が盛り込まれていることが消息筋から伝わっている。

―この事実は映写像鑑定プログラムがハッキングされた可能性を示唆しており、メーカー関係者は更に調査を進めている。



[319] それから先の話 第11話
Name: koma◆81adcc4e ID:02602993
Date: 2008/01/12 06:54
 大企業といえば誰もが思い浮かべる、地球圏に権勢を誇る企業のうちの一つがクリムゾングループである。
 なのであるが・・・・・。
 クリムゾングループの世間一般の評判は、実を言うとあまり芳しくない。

 その理由の第一として挙げられるのは、親族経営を続けるグループ経営陣への不満だろう。これはクリムゾン社内ですらも不満の声があると聞く。
 経営陣が世襲ということは、親族以外の社員の出世に限界があるということになってしまうからだ。

 しかし、今のところクリムゾンに経営体質を改善する気配はないようだ。
 経営トップが固定されているということが有利に働くこともある。血筋や家柄にこだわる人間は未だに残っており、その種の人間は大物であることが多い。クリムゾンがトップ企業であり続ければ、その経営職には箔がつき、それを世襲することでクリムゾン一族にも名誉が生まれる。そして、その名誉が更なる縁を生み出し、利益となり、グループは潤う。

 ところが、現クリムゾン支配人はシャロン・ウィードリン(2x)である。

 典型的な親族経営を執るクリムゾングループで、ウィードリンの彼女がどうしてトップに立っていられるのか。
 それを説明する必要があるだろう。

 もともと、クリムゾングループの跡継ぎと目されていたのは直系のアクア・クリムゾンだったのだが、彼女は既に後継者レースから脱落している。

 何故かというと、アクア・クリムゾンがアレだったからだ。

 彼女のアレっぷりは既にグループ内に知れ渡り、アクア本人ではなくその夫となる人物を見定めようというのが、議論の末に一致した親族一同の見解である。

 しかし、そうはいってもアクアが結婚するまでにグループを取りまとめる代表者は必要であるし、その役目を老体である会長にいつまでも委ねたままではいられない。ちなみに、アクアたちの父親もアクアと同じくアレなので脱落済みである。
 医学の発達したこの23世紀であっても、不老不死は実現の目処すら立っておらず、従って世代交代は必要不可欠なのである。

 そこで白羽の矢が立ったのがシャロン・ウィードリンだ。

 シャロンはアクアの異母姉妹である。
 アクアの父が男の甲斐性でもって作り出したシャロンは当初、クリムゾングループ内では取るに足らない存在であった。
 認知こそ受けているものの所詮は正式な婚姻関係から生まれた娘ではなく、また母親も頭脳明晰な才女ではあったが、その出自は取り立てて着目するところもなく、要するに普通の女だ。
 クリムゾンの家名を継いでいないことからも、彼女の一族内での地位を伺い知ることができる。

 これでシャロン本人も母親同様に常人の部類なら、クリムゾングループ内で意見が分かれることも無かっただろうが・・・・

 シャロン・ウィードリンは、とんでもなく頭がよい。度胸があって、そして野心があった。なおかつ、軽妙洒脱な麗人である。
 加えて運もいい。
 多くの美点を備えているシャロンではあるが、もしアクアが大きく見劣りするとしてもアレでさえなければ、シャロンはそのまま捨て置かれ、一族内で高い地位を得ることは無かっただろう。

 クリムゾン一族がアクアの代打を探しはじめたのも幸運なら、その目にとまったのも幸運であった。

 母方の血筋を見ればどうせシャロンは正式な後継者にはなれないのだから、とりあえず中継ぎとして一番優秀な彼女に任せようという意見がでたのだ。

 親族一同、この決断に至るまでには、さまざまなドラマがあった。暗殺があり、詐欺があり、脅迫があり、懐柔があり、買収があり、そして泣き落としがあった。

 その全ての駆け引きに勝ち、シャロンは今、支配人の座についている。



 幹部会議室に設けられた大画面モニターに映し出されているのは、いつものようなプレゼン資料ではない。クリムゾンの仇敵であるところのネルガル機動兵器が、クリムゾン製機動兵器ステルンクーゲルを思うさまに翻弄しているという、出席各位には実に腹立たしい映像が投影されている。

「以上が、統合軍から入手したネルガルの新型機動兵器の映像です。いかが?技術開発部としての見解を聞かせてください」

 シャロンの凛とした声が支配人室に響きわたった。
 女の美声の比喩としてよく「鈴を転がすような」と言われるが、シャロンの声はまさにその言葉が相応しい声である。声色の美しさは天性のものであり、またそれだけにとどまらず、よほど訓練したのだろう、低すぎずも高すぎもしない、緩急のついた聞き取りやすい声だ。

「この機体が本当にネルガル製であるならば、脅威です」

 起立し、淀みなく返答したのは、クリムゾン軍事技術開発部の部長である。開発の第一線から退き管理職となって久しい男だが、4半期に一度の学会にも欠かさず顔を出しており、最新技術の動向についても常に気を配っている、前線の気概を忘れないナイスミドルだ。
 一言で言うならば、技術開発部部長は有能だ。
 その有能な部長が「脅威である」と断言したのならば、それは真実、脅威なのであろう。シャロンはそう判断し、彼と認識を同じくしたことで自らの確信を更に深くした。

「詳しい説明をお願いします」

「この映像からまず推測できるのは、ネルガルはついに重力波供給に頼らない機体動力の開発に成功したということですな。黒い機体は増設電池パックを搭載したエステバリス2よりも仕事量がかなり多いようですが、エステバリス2が電力切れ寸前にまで追い込まれているのに対して、黒い方にはその兆候が一切見られません。資料には周辺宙域には重力波供給がされていないと書かれていますが、これは事実ですか?」

「ええ」

「では、この機体は従来よりも遥かに高性能なバッテリーを搭載しているのか、またはステルンクーゲルと同じく内燃機関を搭載したか、どちらにしても稼働時間を飛躍的に伸ばしていると考えられます。我が社のネルガルに対するアドバンテージが一つ潰されましたな」

 会議室の中に営業部長のため息がこぼれた。これまで軍への売り込み文句に使っていた「ステルンクーゲルの長時間稼動」というセールストークはもう使えない。何か別のトークを考えなければ・・・・・

「それにこの機体制御能力も新機軸です。側頭部から伸びた尻尾は、多間接のいわば蛇腹のようにしなって跳ね回っています。このブレードが機体に占める質量の割合は、映像から算出すると約3%。直進するだけならともかく、急制動時や旋回時には重心の位置が一定せず、既存の慣性制御機能では正常に機体を制御できないでしょうが、この機体はその状態でも全く姿勢が崩れていません。非常に高度なシステムを積んでいると思われます」

 確かに、と頷いたのは、クリムゾン総合計算システム室の室長である。大規模冷却装置を使って動かす超高性能計算機を運営するこの部署は、開発には携わってはいないものの、計算システム系に限れば技術開発部を超える職能を有する専門家の集まりであり、そのトップも例にもれない。

「これが単なるワンオフの試作品というのであれば話はまた違ってきますが、機体サイズがエステバリスとほぼ等しいということを勘案すると、製品化・量産体制確立までのロードマップができていると考えていいと思います」

 つまり、次のトライアルではこの黒い機体を基にした機体とコンペをすることになるかもしれないということになる。
 選ぶ軍側の視点に立って考えてみると、少なくとも宇宙軍はエステバリスの運用実績と整備経験を流用できる可能性があり、その点からもこの黒い機体は強力なライバルになる可能性が高い。

 技術開発部長はそこまで言って着席した。

「発言ありがとう。他に意見のある方は?」

 シャロンが促すが、皆、一様に押し黙る。

 3年前に成った木連との和平以降、クリムゾンは統合軍相手の商売で美味しい目を見てきたが、統合軍の勢力が著しく減退したことで先行き不透明な現状、ネルガルに開発競争で追いつかれたとなれば、未来に垂れ込める暗雲は誰の目にも明らかだった。

 だから、これからシャロンが告げようとしていることもなんとなくわかった。社員の解雇奨励だろう・・・・。退職金の削減とセットにして。

「危機感を持つのは大事ですが、それに囚われることはありません。我々もこの3年間、着実に実績を上げてきました。今日ここに呼んだのは、私たちは認識を共有すべきだと気づいたからです」

 人はシャロンの声を聞き、威圧感や圧迫感を覚えることはないが、かといって侮ることもない。シャロンの言葉には、決して無視することのできない存在感がある。

 意気消沈していた幹部たちは、それぞれシャロンに目線を送った。

「私たちの3年間は素晴らしいものでした。その実績は確かな利益として今、銀行で眠っています。私たちは自信を喪失することはありません。このまま勝ちに行きます。各部署の予算を減らすことはしません。社員の解雇もしません。社員の新規採用、中途採用を減らすこともしません。私たちは、これからも、この3年間と同じく勝てる企業であり続けます」

 具体的な方針説明など何もない、単なる精神論に過ぎないのだが、シャロンの言葉にはきっと裏がある。単に今は秘密になっているだけだろうということは分かるが、やはりそれでは信用できない。

 だが、ここに集まった幹部たちは多くの部下を抱えている。部下の下にはもっとたくさんの部下がおり、それぞれに養うべき家族がいる。
 熱い言葉で煽られてその気になるような青い人間はこの場に誰一人としていないが、社員を解雇しないというシャロンには漢を見出すことができた。
 この人を盛り立てていこう。

 会議室の温度がじんわりと暖かくなったところで、シャロンは解散を宣言した。
 これから幹部たちは各部署に戻り、ネルガルに対抗するため、それぞれの施策を考えることになる。

 続々と退席していく幹部たちを見送り、シャロンは一人会議室に居残った。

 もう一度映像を再生させる。黒い機動兵器は洗練された流れるような動きで飛び回り、12機もの機動兵器を一定範囲のフィールド内から外へ出さないように牽制している。
 たった一機で戦場をコントロールするという恐るべき離れ業を、火器を使うそぶりも見せずに実行し、超高難易度のテクニックを次々に披露している。
 以前に統合軍の航空ショーで見たことのある機動もあった。あれは確か、過酷な訓練を重ねたパイロットだけが、シナリオの決まった航空ショーという特殊な場面でだけようやく使えるというものだったはずだ。実戦で使える人間はいないという話だったのに。
 ・・・シャロンは思う。この機体の操縦者は、おそらくプリンスオブダークネスだろう。ネルガル子飼いで腕の立つ機動兵器操縦者は、テンカワと月臣の2人だけ。月臣は別の場所で所在確認が取れているので、必然的にこれはテンカワ・アキトとなる。

「遅かりし復讐者、私たちはまだ負けていない。負けるのは、3年前と同じく、貴方の方よ」






 時代は科学全盛の23世紀である。先進諸国が出生率の低下に悩んだのは遥か過去のこと。生めよ増やせよ地に満ちよ、人口は増加の一途をたどり、人口密度低減のために砂漠は緑化及び都市化され、月は居住可能地となり、太陽系内他惑星への殖民も開始されている。

 そんなこの時代、高度なAIによる作業の自動化と人口増加で分業が促進されたため、艦長という職業に期待される職能はかなり限定されてきていた。

 ズバリそれは、「部下にやる気を出させること」だ。作戦立案能力、作戦実行能力、ついでに執行能力はオマケである。

 まぁ、この状況も、ホシノルリやアオイジュンをはじめとする「部下をその気にさせつつ部下に仕事を丸投げしない有能な艦長」という存在が増えてきたためにだんだんと形骸化して、昔に回帰しつつあるものの、下士官および兵卒が場末のバーでぶち上げる「理想の上官」論では、未だに必ず最重要項目としてある項目が入れられている。

 それは何か?


 答えは「容姿」である。


 宇宙軍の士官学校の入学試験および卒業試験には、「容姿」という項目があり、水着審査ならぬ制服審査というものがあり、卒業した学校の制服あるいは軍服の着こなしを審査され、美形が選抜されるのであった。若くて美形の艦長の方がやる気が出るという理由だ。

 軍としては最重要項目として扱っているわけではないので、基本的には髪を短く刈って清潔にして、身長に対する適正体重プラスマイナス5kg以下であれば、「容姿」を理由に落とされることはない。

 あくまで部下にやる気を出させる一つのファクターに過ぎないのだ。だから、「容姿」審査は他のテストと違い、減点方式ではなく加点方式で採点される。他のテストでの失点をある程度は補えるのだ。

 ミスマルユリカはこの審査でもかなり上位の成績だった。
 ナデシコAが大気圏を突破する際に振袖姿で軍の高官たちと交渉していたのは、そのことが影響し、なるべく好印象を与えようと努力した結果だったのである。

 残念ながら逆効果だったが。

 ちなみにルリは容姿で歴代1位を取り、他の学科でも満点で首位を獲得していた。
 ラピスは・・・・・・・・・?


「静粛に」

 改めて言うまでも無く、教官が教室に入った瞬間から私語は止んでいる。生徒が私語をしないというのは民間の学校ではありえないことであるが、軍学校ではまず最初に叩き込まれることであり、それを破れば厳罰だ。
よって、世間的に言えば反抗期真っ盛りの10台の少年少女たちであっても、私語をすることはない。

 教官である軍曹が教壇に立ち、教室を見渡した。服装の乱れがある者無し。頭髪を着色している者無し。装飾品をつけている者無し。化粧をしている者無し。欠席無し。

 よろしい。一つ頷いた。

 合わせて訓練生のリーダーが号令をかけた。

「敬礼!」

 掛け声にあわせ、さまざまな人種の男女が入り混じっている訓練兵たちが一斉に起立し、指をピンと伸ばした手の平を額に掲げた。一糸乱れぬ統率である。なかなかに壮観だ。

「直れ、着席」

 教官の言葉に、訓練兵たちはまたもや一糸乱れぬ動作で着席した。

「今日は、中途編入の者を紹介する。編入試験の学科審査で失点無し。ホシノルリ大佐と合計得点で同点、歴代1位の才媛だ。粗末に扱うなよ」

 失点無し。そして合計でホシノルリと同点、つまり容姿でもホシノルリと同点。中途編入は特に審査が厳しい。それを満点で通過したというのなら、これはものすごいことだ。

 教室中に期待が広がった。才媛ということは女子だ。

 恋人がいない男子連中は、教官から見えない位置で、こぶしをぐっと握り締めた。容姿以外も満点ということだが、自分よりも優秀な女子ということに気後れする奴はいない。度量、という点も、部下にやる気を出させるための重要な資質だ。

 一方、女子も同期が1人増えることに喜んでいた。軍人という職が女に開放されて200年以上が経つものの、やはりこの業界は圧倒的に男が多いく、肩身の狭い思いをすることも少なくない。優秀な女が入ることは、女子全体の評判を上げることに直結する。

 恋人をとられるかも、などとは考えない。同期から恋人を選ぶのは最後の手段だし、それだってキープに過ぎないから関係ないのだ。何しろ任官したらバラバラになっていつ会えるかわからないし、相手も自分もいつ殉職するかわからないのだ。女子はその辺は現実主義だ。刹那的な逢瀬を望む男子が、同期の女子から恋人を見つけようとするのとは正反対である。

 とにかく様々な思惑が入り混じった静寂の中、浅はかなハイティーン男子の考えなどお見通しの教官は、にやけそうになる頬肉を口の内側から奥歯でかみ締め、ちょっと発音が不明瞭ながらも入室の許可を出した。

「入りなさい」

 入れ、ではない。あの教官が優しく声をかけた。ぎょっとする訓練兵たち。鬼軍曹と呼ばれるこの男のこんな声、これまで聞いたことがない。

 がらり。木製の引き戸が横にすべり、軍服に身を包んだ桃色の少女が姿を現した。
 訓練兵たちは、その瞳を見た。金色に輝くあの瞳は・・・・
 あれは、彼女は・・・・・?

「電子の・・・・妖精・・・・?」



[319] それから先の話 第12話
Name: koma◆81adcc4e ID:02602993
Date: 2008/03/15 22:54
「電子の・・・・妖精・・・・?」

 軍曹の思いがけない一面を垣間見て、動揺していたのだろう。訓練兵の一人が、呆然としながら独り言をもらした。発言の許可は下りていない。私語は厳禁である。

 軍曹は見逃さなかった。

「そこ!ミナモト訓練生!私語は禁止だ。今すぐにグラウンドを10周だ、駆け足、行ってこい!」

 1周が1kmのトラックである。10kmを駆け足は厳しいが、軍曹は容赦しない。訓練生も余計な口答えをすれば距離を増やされるのを知っているので、すぐに返事をした。

「了解しました。ミナモト訓練生、グラウンドを10周してまいります!」

 すぐに駆け出した。

 鬼軍曹がいつもの調子を取り戻したのを見て、教室はラピスの登場の衝撃から何とか立ち直った。だが、訓練生たちはまだちらちらとラピスに視線を送っている。

 訓練生に相応しくない集中に欠けた態度を咎めようとして、教官は思いとどまった。
 まあ、わからなくもない。電子の妖精はこの世代たちから見れば憧れの存在だからな。史上最少年齢の大佐で、宇宙軍の顔でもある。
 この子を見れば、彼女を思い出さない者はいないだろう。

 ルリ大佐と同じ金色の瞳。遺伝子操作の証拠だ。

「ラピス訓練生、自己紹介しなさい」

「・・・わかった・・・・・わかりました」

 普段どおりに返事をして、さすがにこの場では問題があることに気づき、言い直した。

 とんでもない所に来てしまった。
 これまで言葉遣いを意識したことはないが、ここではそれは通用しないようだ。きっと、他にもいろいろと変えなければならない習慣があるだろう。

 変えるだけでは済まないものもある。アキトにはしばらく会えない。

 先を思いやり、ラピスは暗澹たる気持ちになった。やはり、あんな賭けはするべきではなかったのだ。絶対にアキトと離れない、と主張すべきだった。

 アキトを思い出し、泣きそうになった。

 でも、世界はラピスが思っているよりも、ラピスに優しいのだ。ラピスはそれに気づくべきである。

「慣れていないのだろう?無理をして言葉を選ぶ必要はない、ラピス訓練生」

 ラピスの辛い半生を塗り替えるだけの楽しいことが、これからいっぱい用意されている。それが世界の贖罪だ。

「・・・・・うん」

 よかった。そんなに悪いところでもないかもしれない。少しだけ、ほっとした。緊張も解けた。

 自己紹介と言ってもさっきまでは何を言っていいのかわからなかった。
でも落ち着いたら、自分のことで知っていてもらいたいことを話せばいいのだと気づいた。
 アキトの手、アキトの足・・・と言うのは駄目だといい含められているし、アキトのことは秘密だ。だから言いたいことはそんなに多くない。すぐに終わる。

「ラピス・ラズリ。12歳。ネルガルから来た」

 ざっ・・・と。訓練生たちが姿勢を正した。背筋を伸ばし、まばたきすら許さぬ覚悟を持って目を見開き、拳は硬く握られ膝の上。足は踵までしっかり地面につけられ、一分の隙もない。

 急にかしこまった訓練生たちを見て、ラピスはびっくりした。何か発言に問題あっただろうか?

 少し待ってみたが、特に何を言われることもない。依然、訓練生たちは微動だにせず、ラピスを見つめている。ラピスの言葉を待っているのだ。

 ルリとの二度目の邂逅を思い出した。リンクの引継ぎの時、あの女は何と言っていたか?自分に何と言ったのか?握手の時に言った言葉は・・・・・・・?

「よろしく」

 彼らはその一言を待っていた。名前とか出身とか、年齢だって関係ない。
 その一言で、貴方は我々の仲間となる。我々は貴方の仲間になる。
 彼女にそう言われて、よろしくしない奴はいない。
 いや、彼女だけが特別なわけじゃない。ここにいる奴らは、みんなその言葉で仲間になったのだ。
 同期の桜というのはそういうものだ。

 それがここの流儀だ。

 訓練生たちの日直(訓練校は持ち回りの日直制である)が起立し、代表して返答する。

「ようこそ宇宙軍士官学校へ!我々訓練生は、貴君を歓迎する!」

 残りの全員が一斉に起立、右足のカカトだけ浮かせて、ラピスの正面に向けて体を回し、音を立ててつま先から床に落とした。

 カツン!

 厚手の軍服がずばっと衣擦れの音を立てた。一人分の衣擦れだけなら聞こえもしないが、さすがに30人以上が一斉に動くともなれば、それだけでかなり大きい音がする。 
 敬礼した。

 それは、教官への敬礼とは一味違うものだった。
 籠められているのは敬意でなく、親愛でなく、友情ですらない。無心に、一心不乱の歓迎の意思だ。
 色恋沙汰とか出世とか男子への対抗心とか、そういうものは微塵も見られない。仲間を迎える儀式の時くらいは、皆、わきえている。

 ラピスも、見よう見まねで手の平を額に構えた。指先に力が入っておらずふにゃふにゃだが、そんな指摘をする野暮はいない。

「ありがとう・・・・・・・」

 火星の後継者は未だ活動中であり、クリムゾンも相変わらずにネルガル、アキトと敵対している。
 世界はまだ安定を取り戻していない。春はまだ遠い。
 だが、ラピス・ラズリの人生について言えば、長い冬が明けるのは間近に迫ってきていた。



 ミナモト訓練生も、グラウンドを回りながら上半身だけはラピスに向けて敬礼していた、と後に自己申告している。
 校務員のおじさんは、下半身と上半身の動きが完全に分離しているミナモト訓練生を見て、腰を抜かして持病のヘルニアが再発してしまった。
 他にも目撃者多数。監視カメラにも映っていた。
 彼は先輩後輩を問わず、他の訓練生から、「かく、あるべし」と称えられることになる。






 とまぁ、そんなこんなでラピスが新生活をうまいこと始めている時、ネルガルは相変わらずピンチだった。
 
「どうしてどうしてどうしてなの!」

 会長執務室では、エリナが吼え、アカツキがなだめるという、いつもの構図が繰り返されている。

「そりゃ向こうの方が用意周到で頭がいいからなんじゃない?」

 訂正。なだめるというよりは煽るという感じだ。
 アカツキは新聞を広げて、エリナをうるさそうに横目で見ている。

 お、クリムゾンの株がまた上がってる。こりゃエリナ君が怒るのも無理ないかな。

 目が合うと難癖つけられそうだ。両手で新聞を開いて顔を隠し、アカツキは独語した。

 改めて確認するまでもないことだが、エリナは控えめに言っても気の強い女だ。防御よりも攻撃を好み、やられたらやり返す主義である。
 先日召集された統合臨時議会において戒厳令解除が賛成多数で可決され、ネルガルは統合軍の追及から逃れることができたわけだが、だからといって言いようにしてやられた恨みを忘れるエリナではない。
 早速クリムゾンに仕返ししようといろいろと画策してみたわけだが・・・・・

 あんまりうまくいっていない。

「だからさぁ、最初からうまくいくわけないんだよ。経営悪化の噂で株価操作なんて・・・・」

「途中まではうまくいってたんだってば。すまし顔したシャロンの涼しい目元を、睡眠不足のクマで真っ黒にできてたはずなのよ!」

 噂で株価を操作するのは古典的ながらも効果的な市場操作の手法で、法的にはグレーゾーンの中でもさらに黒に近い、かなり際どい手法だ。

 エリナはクリムゾンの経営状態が悪化しているという噂を、それはもうまことしやかに流したのである。公開されている有価証券報告書のデータを流用し、市場動向や報道から分析されるクリムゾンの現有資産データなどと比較して、今年度の利益がどれだけ減って、一株あたりの損益がいくらになるのか、というのを、専門家の分析にも耐えられるよう超高度に加工して各種ソースへ流し込んだ。
 ・・・火星の後継者との裏の関係を仄めかす怪文書と合わせて。

 複数ソースから同じ話が出るということは、信憑性を高めることになる。それに、折り悪く(または折り良く)もクーデター直後であり、不安定な政情を警戒した市場はニュースに過敏になっていたせいもあって、エリナの作った偽データは見る見るうちに拡散し、あっという間に株価に反映されたのであった。

 要するに大幅下落だ。

 クーデター後も横ばいで何とか頑張っていたクリムゾンの株価は大崩落、ストップ安を巻き込みさらに下落、もはや誰にも止められないと思われたほどに勢いをつけてゼロを目指してしていたのだが、ある地点でぴたりと止まり、あろうことか逆に盛り返したのである。

 まあ、よくあることだ。市場心理というやつはいつもいつも投資家を裏切るもの、不可解な動きをするくらいは予測済み、エリナは即座に売りを浴びせかけ、再び下落の潮流を呼び込もうとしたのだが・・・・・

 クリムゾンはこの売りにも耐え、未だに上げ続けている。

 これはどこかしらの介入があったとみて間違いないわけだが、問題は介入元の身元がはっきりしないということなのだ。エリナですら痕跡を追えないような、かなり複雑なルートを使って介入をしているようだ。

「あがってるってことは誰かが買ってるってことなのよ、だけど誰が買えるってのよ、あの勢いを止めて買い支えるなんて、並大抵のことじゃできないわよ。クリムゾン本体?、いえ、株が下がってる状態でさらに買い支えられるだけの資金を調達できるわけがない。でも他にリスクを負ってまで買い支える動機のあるところはない、きっとクリムゾンだわ、だけどわからない・・・どこから資金を調達してるのよ?」

 シャロンを寝不足にするどころか逆に自分が寝不足気味なエリナは、真っ赤に目を充血させてチャートを読み返している。
 介入タイミングや金額に何か規則性はないか、各主要市場の時差も考慮にいれつつ、カリカリと赤ペンで書き込みをいれ、数秒ごとに過去データとの対比を行い、手がかりを探している。

「そんなムキにならなくてもいいじゃない。クリムゾン株で儲けたんでしょ?証券担当が喜んでたよ、半期分の利益が一気に確保できたって。連日の市場の荒れ模様の中で利益出してるのはネルガル証券だけなんだから、お客さんの信頼もうなぎ登りで万々歳、信託商品の売り上げも大幅アップ。さすがエリナ君」

「そんなのは瑣末なことよ!」

 企業幹部としてあるまじき発言。
 とはいえ、エリナとしても先を見据えてのことである。

「今がチャンスなの、企業体力が似たもの同士、ネルガルとクリムゾンが戦えば総力戦でお互い一気に疲弊してしまうけど、火星の後継者との関連の噂が広がっている今なら、クリムゾンは派手に動けないわ。だからクリムゾンからの反撃を気にせずに一方的に直接叩きのめせる。こんなチャンスはこの先20年は無いかもしれないのよ」

「そりゃわかるけど・・・・あんまり突っ込みすぎると痛い目見るのはこっちだよ?」

 上昇志向で出世欲、名誉欲に溢れるバイタリティ豊かなエリナと違い、アカツキにはそこまでの欲はない。チャンスがあればモノにしたいとは思っているが、蜥蜴戦争での陰謀がうまくいかなかったことを反省し、現状維持以上のことは望んでいない。
 だいたいネルガルだって、昨今の市場混乱でけっこうきついのだ。まずは内部情勢を鎮めるところから始めるべきではなかろうか。

 アカツキはそんな風に思っている。

「まぁいいや・・・・・、それじゃ僕はテンカワ君の後任引継ぎに立ち会ってくるから、後はよろしくね」

 部屋の外にアキト達を待たせて、もうそろそろ10分になる。今のアキトは何の任務もない身なので、仕事を抱えるアカツキの都合を優先していたが、あまり待たせるのもよくない。

 アキトの異動については、前々から考えていたことだ。彼は有名になりすぎた。ある意味では名声といってもいい。ならば、彼には別のふさわしい仕事がある。

 後任の顔を見た時、彼はどんなに驚くことだろうか。アキトもポーカーフェイスがだいぶうまくなったようだが、まだまだ自分が未熟であることを思い知るに違いない。

 できればエリナも同伴させたかったのだが。

「ええ、いってらっしゃい。私も行きたいけどちょっと忙しいから。よろしく伝えてちょうだい」

 エリナは仕事に手を抜けない性質だ。せっかくのイベントにも参加できずにもったいないが、これが彼女の選んだ道である。だれにも文句は言えないし、彼女自身も納得している。

「わかったよ、それじゃあ」

 一言断りを入れて、アカツキは椅子から立ってドアへ向かった。
 カシュっとガス圧式ドアが横滑りに開き、秘書受付の前に出た。

 会長執務室は、廊下との間に秘書受付が間に入っており、直接には執務室には入れないようになっている。これは要人警護のためで、秘書室にはスケジュール担当の秘書の他に、屈強なネルガルSSたちがそろって待機している。

 執務室から出てきたアカツキの前後左右を固めるため、SSたちが一斉に立ち上がりアカツキを取り囲んだ。
 弾除けのため自らを盾とするべく、彼らは全員、長身で肩幅の広い、ラグビー選手のような体つきをしている。首の太さなど、アカツキの太ももに匹敵するほどだ。
 彼らには悪いが、頼もしいと感じることよりも鬱陶しいと思うことのほうが多いアカツキであった。

 護衛がドアを開けたのに続いてアカツキが廊下に出ると、アキトとルリが退屈した様子もなく、微動だにもせず立ち尽くしていた。

 彼らが立っている一角だけ、何か、照明が、暗いような・・・・そんな錯覚を覚えた。

 ナデシコ時代は、明るく闊達なアキトと寡黙なルリの組み合わせに違和感があったが、今ではラピスとの組み合わせに劣らず、2人は馴染んでいる。
 アキトを嫌悪するルリには不本意だとしても、アカツキにはそう見える。おそらく、他の人間にも異論はないだろう。

「お待たせ、行こうか」

 廊下に出て2人と合流したアカツキは、挨拶もそこそこに、SSたちを引き連れて応接間へ向かって歩き出し、アキトとルリがつき従う。

「それで、どんな奴なんだ?」

 アキトの疑問はもっともだ。後任への業務引継ぎの話を聞いたのもついさっきで、名前も教えてもらっていないのだから。

 ついにお払い箱か・・・・
 諦念と共に、アキトはアカツキの横を歩いている。

 いつまでもアキトのような犯罪者を匿ってはおけないだろうとは思っていた。裏のエージェントとして動くにしても、自分は顔も名前も有名すぎる。機動兵器の操縦が巧みだからといっても、それが役に立つ場面も少ない。その上、ネルガル子飼いというのも最早秘密でもなんでもない。利用価値はとっくに失われている。

 だから、いずれは切られる時が来る。殺されてから骨も残さず焼却または溶解というのが妥当なところだろう。
 そんな風に思っていた。

 処分されるとすれば、火星の後継者残党が一掃されて政情が落ち着いてからになると踏んでいたが、思っていたよりは早かったわけだ。
 先日の統合軍の追及は辛くもかわしたが、次にどこかに目をつけられた時にもうまくいくとは限らない。
 だからこのあたりでリスクを排除しておこう、ということで、このタイミングなのかもしれない。

 既に本懐は遂げた。
 これからアカツキに殺されるのだとしても、後悔はない。
 抵抗する気もない。

 ラピスの将来が心配だが、そこはエリナとイネスがいれば安心だ。あの2人はラピスのことを大事にしている。無碍に扱うことはないはずだ。

「会ってみてのお楽しみ、かな。初対面だけど、全く知らないってわけでもない男さ」

 アキトがすっかり覚悟を決めているのにも全く気づかず、アカツキは後任の彼に会ってアキトがどのように反応するのか、のん気にいろいろと想像をめぐらせている。

 何しろ、アキトにとって彼らは特別な人間だ。ユリカやルリ、その他の旧ナデシコクルーの中でも、ある意味では最も印象的な男たち。後任の彼は彼ら本人ではないものの、確実にあの男たちを思い出すよすがとなる。

 きっと驚くだろう。それから、喜ぶのか、悲しむのか、はたまた怒るのか。

「ここだ。君たちはここから先は遠慮してくれたまえ」

 アカツキはSSたちに向かって待機を命じると、アキトとルリを伴い、応接間に入室した。
 本来ならば多重認証チェックが入室前に走るところだが、面倒を嫌ったルリがキャンセルしてしまった。
 効率性を尊ぶのは、電脳業界で誰もが共通して持つ価値観だ。言い換えると横着ということになる。

 室内には男が3人。月臣、ゴート、そしてもう一人。

 入り口に背中を向け、マントを着込んだ時代がかった服装の男が、腕を組んで立っている。

 男が振り向いた。黒髪、鋭く光る目、アジア系の平均よりはやや高い鼻、引き結ばれた唇。
 額から左頬にかけて、左目をまたがった刃物傷がある。
 鍛え上げられた筋肉が盛り上がり、実際の身長より一回り大きく見える。
 美形ではない、男前。まさに偉丈夫。

 ここにいる誰もが、彼の顔を知っている。
 男は、ヤマダジロウや白鳥九十九と全く同じ顔をしていた。

「紹介しよう。君の後任になってもらうダイゴウジ・ガイ君だ」

 さあ、びっくりするぞ~

 ニヤニヤ笑うアカツキをつまらなそうに一瞥し、アキトはため息をこぼすように呟いた。

「整形か?死人の顔を作るとは、お前も悪趣味だな、アカツキ」

 あれ・・・?

 期待に胸を躍らせていたアカツキは、あまりにも平然としたアキトに一気に萎えてしまった。

 最初の第一印象がこれでは、驚愕すべき事実を知っても劇的な反応を望めないだろう・・・・・。

 ルリの方は、と様子を伺うと、やはりこれも無表情。こちらも期待はずれ。

「死んだ人の顔を作って、死んだ人の魂の名前を使わせるんですか?アカツキさんって思ったよりも残酷・・・」

 おわ、これはマズイ!

 常に無表情な彼らをびっくりさせて、表情の変化を楽しもうという気軽な気持ちだったのに、いつのまにやら人間失格のレッテルを貼られてしまったアカツキである。
 焦って早口で言い訳した。

「いや誤解だよ、彼の顔は整形じゃないし、名前だって本名さ!ねぇ、ガイ君!」

 顔を引きつらせたアカツキの呼びかけを受け、男――ダイゴウジ・ガイは苦笑しながらも自己紹介した。

「大豪寺凱という。俺は親にもらったこの名前以外を名乗ったことはないし、この顔も自前だ」

 月臣が続ける。

「俺も最初は白鳥が化けて出たのかと思ったがな、この男はネルガルと雇用関係を結ぶ前からこの顔と名前だ」

「そうか・・・・」

 言葉少なく、アキトはうなずいた。

 死者の復活には生贄が不可欠というのがセオリー。死んだガイと瓜二つの男が俺の後任か。そして今度こそ、俺は死ぬ。俺が生贄になり、ガイが復活するということか。
 ガイの復活と引き換えならば・・・無意味な俺の命の終わりにも意味があるというものかもしれない・・・。

 この男の言うことが正しいのであれば、この凱という男はダイゴウジ・ガイが死ぬ前から大豪寺凱なのだから、アキトの死と引き換えの復活などは全く論理的ではない。
 だが、アキトにはそう思えてならなかったし、そう思うことで不思議と心が安らいだ。
 初代ナデシコで、ムネタケの逃亡を偶然目撃したせいで射殺されたガイ。まかりまちがえば、自分が代わりに殺されてもおかしくない状況だった。自分が生き延び、ガイが死んだことに妙な罪悪感めいたものを感じたこともある。
 役目を終えたアキトが死に、ガイと同じ顔と名前を持つ男が自分の代わりを務めるというこの状況は、あの時のツケをようやく払えるということを意味するのだ。少なくとも、アキトにとっては。

「では凱、どんな説明を受けているか知らんが、俺の任務は非合法の破壊活動だ。命の保障はないし、当然保険もない。もしその条件に納得できるのなら、今この場で引継ぎを完了したいと思う。俺から言えることは、他には特に無い」

 非合法活動なのだから、当然書類に記録を残したりすることはない。命令は常に口頭で伝えられ、例外的に通信で伝えられる時は何重にも暗号化され、その復号はラピスがやっていた。そして、ラピスの業務はルリが引き継いでいる。
 つまり、アキトがやっていたのは、真実、機動兵器の操縦だけだ。彼にはそれしかできない。だから引継ぎといっても特にやることはないのだ。

 凱は腕を組み、一つ頷いて見せた。

「了解した。ご苦労だったな、テンカワ・アキト。お前の今後の人生に幸多からんことを祈るぞ」

 それはつまり、ネルガルに始末されるまでの猶予を、人生の最後の時間を心置きなく楽しめ、という意味なのか。

 俺の処分がお前の初任務になるかもしれないな。

 思わず口に出そうとして、思いとどまった。
 ルリがいるところでそんなことを口走ったら、口止めのためにルリにも危害が及ぶ可能性がある。自分の生死などというくだらないことに、ルリを巻き込むことはできない。

「アカツキ、これで引継ぎ完了だ。俺はどうすればいい?」

 アキトのやる気の無い投げやりな態度に、アカツキは失望を禁じえない。
 今これから、アキトとアカツキは世界に打ってでるのだから。いやまぁ、打って出るのはアカツキだけで、アキトはその添え物というかなんと言うか、そんなものになってもらうわけだが。
 とにかく、もっとしゃっきりしていてもらいたい。

「あのね、テンカワ君・・・」

 言いかけて、アカツキはそのまま言葉を飲み込んだ。
 人に言われてどうこう、という段階ではないのだ。料理人という人生の目標を喪失し、その埋め合わせとして復讐を選んだアキトだったが、その復讐も完結してしまった。次に何をするかは、アキトが自分で見つけなければならない。それまでは、こんなモラトリアムも悪くは無いのかもしれない。
 できれば、次は平和的な目標を立ててほしいものだ、たとえば、親になるとか。エリナはきっと喜ぶだろう。

「・・・」

 てっきり、ルリの監視の及ばないような場所にまで連れていかれるのだと思ったが、急に口ごもったアカツキを見てはたと思いつき、アキトは自分の配慮の無さに恥じ入った。
 日常的に生死の境界線上で仕事をしていた自分に比べて、アカツキは平和な生活をしていた人間だ。
 不要になったとはいえ、知り合いを自らの手で直接処分するのは憚られるのだろう。
 だったら、やりやすいようにこちらでお膳立てをしてやるか。

「アカツキ、俺は自室に戻って休む。用があれば呼び出してくれ」

 なるべく一人の時間を増やして、ルリとのリンクをいつでも切れるようにしよう。俺が殺される前後のことを知られれば、ルリにも危害が及ぶ。

 アキトはわざと隙だらけの背中を見せながら言った。





「とても須佐之男と同一人物だとは思えん。なんなんだ、あの腑抜けは?」

 アキトが去った部屋で、凱は憤懣やるかたなしといった風情でアカツキに文句を言った。

「いや、彼は彼でやる時はやる男なんだよ?ちょっと今は休息期間というかなんと言うか・・・」

 弁護する声も弱々しい。アキトはこんなところで終わるような男ではないと確信している。凱の故郷からの来訪の兆候が検知されない間は、猶予期間だ。それがいつまで続くかは予測できない。

 凱は、ふん、と鼻を鳴らし、ルリに向き合った。

「瑠璃さ・・・ルリさんもあのような男のお守りではお疲れになったでしょう。お部屋までお送りいたします」

 恭しくルリにかしずき、頭を垂れた。

「?・・・はい。ではお願いします」

 何か妙に礼儀正しい男に疑問を持ちつつも、ルリは凱を引き連れて部屋を出る。

 二人を見送ったアカツキは背後を振り返った。

「ねぇ、何か面白くなりそうじゃない?」

 月臣は肩をすくめながら首を振った。

「俺には男女の機微はわからん」

「むぅ」

 ゴートが唸った。



[319] それから先の話 第13話
Name: koma◆81adcc4e ID:86ba9005
Date: 2008/06/21 00:35
 金持ちの部屋とはどんなものか、想像できるだろうか?
 誰でも思いつくのは、広くて綺麗だろうということだ。
 では、他には?

 たとえば純金の壷が窓際に置かれ、壁を飾るのは庶民の生涯賃金を軽くぶっちぎる絵で、毛の長い絨毯に精悍な体つきをした犬が優雅に寝そべり、寝台はいかなるプレイにも対応できる回転式の天蓋ミラー付きトリプルベッド・・・・とか?

 金持ちはホテルのロイヤルスイートをワンフロア貸切に違いない、と思う人もいるだろう。ロイヤルスイートの快適さを知り、なおかつそれを常用できない人はこの考えに賛成するはずだ。

 金持ちであればあるほどほど金にこだわらず、材質や災害対策以外には庶民よりも多少部屋が広いとか、その程度ではないか?と推測するのが流行ったこともある。そういう謙虚な金持ちは成金よりも少ないだろう。

 アカツキの部屋はどれとも違う。

 といっても、アカツキは基本的に会社で生活する人間で、実家がどこにあるか自分でも忘れてしまうような男だ。何しろ、持ち家がたくさんありすぎてどこが生家なのか特定するのは困難なのだ。
 従って彼の家と呼べるのは、ネルガル本社会長執務室である。

 ネルガル会長執務室は、一般サラリーマンの月給に匹敵する額を時給で受け取る超一流デザイナーが手がけ、成金趣味が排除されたシックでゴージャスでエレガントな部屋に仕上げられた。

 しかし、使っているうちに主人の気質が反映されてしまったのか、どうにも貧乏くさいありさまになっている。

 黒壇を加工した大きな机にはペンの痕跡がいくつも残っている。電話のメモを取る時に、筆圧が強すぎて机に跡が残ったのだ。あと、メモ用紙も端末も間に合わない時は、塗料ペンで直接机に書いたりすることもある。子供用学習デスクに匹敵する汚さだ。

 机と組にして作られたと木製のイスは、飲み物をこぼしたせいで手すりが変色していた。この変色が実に巧妙なマーブル模様を描いており、これを目にした人間を、さすがは人間国宝の作品、と勘違いさせることしきりである。上流階級の人間といえど、見る目のない人間は山ほどいる。

 応対用ソファーセットの脇に花瓶があるが、生けられている花に統一性はない。年がら年中いろんな筋からいろんな名目で花が贈られてくるので、それを適当に花瓶に挿しているだけだからだ。
 あと、たまに水代わりに余った酒を注いでいるので、薄いアルコール臭が花の香りと混ざり合って漂い、わけの分からない空間を演出している。

 隙間なく敷かれた絨毯は最高級ペルシャ絨毯で、ところどころホツレができていて少し見苦しい。おまけににそのホツレを修復しようと試みた形跡もあり、かえって美観を損ねている。エリナが裁縫の腕を見せようと頑張った時のものだ。エリナも実はあれでボタンの付け直しや雑巾を縫うくらいはできる女なのだが、一流職人が手がけた最高級絨毯の補修は、エリナには---各方面に配慮してここは「やや」としておくが---やや、ハードルが高かった。

 アカツキの場合、要するに金をたくさん持っているだけで、その本質は他の人間と変わらない。ただ、金の使い方が資産に比例してでかくなっているだけなのである。

 で、そのありあまる金を持ったアカツキが何をしているのかというと、地球圏のトップスターを自室に呼び寄せているのだった。

 年若い青少年を熱狂させるテレビスター、歌って踊れて映画の吹き替えとかもできる元声優、特技は戦艦のオペレータというけっこう多芸な女(の子、とつけるには少々薹が立ちつつある)、メグミ・レイナードは、アカツキに呼び出されて所属事務所社長とマネージャーを伴い、アカツキの執務室の応接セットで行儀よく座っていた。

 社長はいろいろと期待しているようだ。火星の後継者を議事堂で待ち伏せて生ライブを敢行したことに対する、あれこれの報酬が頭を駆け巡っているのだろう。

 有頂天になっている社長は、メグミに向かって「もし求められたら拒否するな」と言い含めることまでした。今後の更なる栄達のため、ネルガル会長とねんごろになるのは悪くないと言うのだ。

 馬鹿みたい・・・エリナさんだってついてるんだから、アカツキさんがそんなことするはずないのに。

 アカツキ単独では信じられないという自分の思考を意図的に無視してここまでやってきて、いざ部屋に入るとエリナがいなかった。と、そこで唐突に気がつくのだった。

 アカツキさんが本気だったら断れないかも・・・・

 これまでそういう話が皆無だったわけではない。幾度となく、メグミには桃色遊戯のバーターがきていた。所属事務所の中にはその誘いにのってしまう若手も少なくはなく、彼ら彼女らの末路を見て、メグミは固く自らを戒めている。誘いにのった者は一気に視聴率トップ番組への参加を果たすのだが、しかし地力がないために人気は長続きせず、すぐに凋落し、消えていってしまう。一度落ちれば、這い上がるのは容易ではない。

 顔を見なくなった多くの先輩後輩のうち、何人が犠牲になったのだろうか。

 とにかく、メグミは何を言われたところでアカツキになびくつもりは無かった。それに、今のところ芸能業も順調だ。業界に20年30年と君臨するモノタミンなどの大御所には到底及ばないが、それでも人気絶頂のメグミに取引は不要である。

 硬く決意を固めたメグミが背筋を伸ばして毅然とアカツキを見返すと、アカツキも普段は浮かべている口元の笑みを消し、ネクタイを締めなおした。
 アカツキの様子を見て、メグミも思い直す。やはり妙な取引の話ではなかったのだ、と。

「悪いね。忙しいお茶の間のアイドルをわざわざ呼び出したりして。本来なら僕から出向くのが筋なんだけど、このごろちょっと忙しくてね。社長さんには無理を聞いてもらってありがたいよ」

 最初から下手に出てきたアカツキに事務所社長は慌てて頭を下げた。

「とんでもありません、会長こそお忙しい中、わざわざ時間をとって頂きましてありがとうございます。聞けば会長とウチのメグミちゃんとは付き合いも長く友人同士だとか。今後ともウチのメグミちゃんをよろしくお願い申し上げます」

 社長は如才のない笑顔を作り、わざとらしくメグミをプッシュする。商魂逞しい社長にアカツキは苦笑しつつも、機嫌よく応じた。

「もちろん、メグミ君とはこれからも公私共に仲良くやっていきたいと思ってる」

 言ってメグミに向けてウインク一つ。
 メグミは胸中で、公はいいけど私は遠慮します、と独白した。
 社長は営業用の作り笑顔すら見せないメグミに業を煮やし、アカツキから見えないようにテーブルの下でメグミを突付いた。

 メグミはにっこりアカツキに笑いかけた。

「ええ、ありがとうございます。ナガレさんもお忙しいでしょうからプライベートでは会えないでしょうけど、その分お仕事の依頼でしたらできる限りスケジュールを都合するようにマネージャーに頼みますね」

 角を立てないように遠まわしに、プライベートでは会いたくないと要求するメグミ。普段とは逆に家名ではなくわざわざファーストネームを使うところが嫌味だ。
 社長の広めの額に汗がぷつぷつ湧き出した。

「いやこれは手厳しい。何か誤解があるんじゃないかなぁ・・・」

 顔を引きつらせ、アカツキは半笑い。
 様子見程度で誘ってみたのだが、あっさり断られた。色男は引き際が肝心。
 不自然にならないように、会話を繋げる。

「つまりね、この前のライブはネルガルからの依頼ということだったけど、今度は僕個人から仕事を依頼したいってことなんだよ」

 ライブの時も思ったことだが、改めてメグミを観察すると彼女はずいぶんと綺麗になっていた。ナデシコに乗っていた時は薄い化粧しか見たことがなかったが、今では芸能界仕込みの技術がメグミを彩り、頭の形や顎のラインなどの素材のよさ(目や鼻はどうとでも誤魔化せる)を十全に引き出した、華やかな娘に仕上がっている。
 つまり、実にそそる。
 今日はここで一旦引いておくが、いずれは必ずプライベートハウスに招いてみせる。
 アカツキは硬く決意し、ネクタイをちょっとだけきつく締めた。

「もちろん報酬を渋ったりはしないよ。こう見えても僕は金持ちなんでねぇ。ただ、拘束期間がちょっと長いのと、芸能業とは畑違いの仕事なんで君のキャリアにはあんまりプラスにはならないかも」

「拘束期間が長いとは、だいたいいかほどで?」

 すかさず社長が尋ねた。

「そうだね、だいたい1ヶ月くらいかな」

 1ヶ月が長いというのはアカツキの感覚だ。アカツキが話に伝え聞く芸能人のスケジュールは分刻みの秒刻みでハードなものだ。それを1ヶ月もの間拘束するというのはとんでもない話になると踏んでいて、しかしどうしてもメグミが必要なので報酬は弾むつもりでいる。

「アカツキさん、1ヶ月くらいだったら長い方じゃありませんよ」

 たとえばシリーズもののドラマや映画の撮影ともなれば、1ヶ月どころか3ヶ月単位での拘束が一般的だ。粗製濫造される安物ドラマとなれば45分のドラマにつき撮影時間が5時間以下というものもあるが、メグミがゲスト出演したことのあるものは全て本格派のもので、ほんの少し出るだけでも2ヶ月も芸能業を休業した。

「内容によってはお引き受けいたしますが、CMの撮影でしょうか?」

 CM撮影は実入りのいい仕事で、リスクも小さい。撮影は短期間で終わるし、映像露出機会も多くなり、俳優本人の宣伝にもなる。CM商品がヒットすれば「あの商品のCMをやっていた俳優」という形で覚えてもらえる。商品が売れなかった場合に俳優の演技が問われることもあるが、多くは商品そのものが市場ニーズに合っていなかったということで問題になることはほとんどない。

 CMはうまい仕事だ。ぜひとも受けたい。

 しかしアカツキの返答は期待したものではなかった。

「いや、CMの話じゃない。商業活動とは無縁の話かな。今回は」

 落胆を禁じえないが、それを表に出すようではこの業界は務まらない。慌てる乞食はもらいが少ないともいう。
 社長は先を促した。

「と申しますと?」

「ちょっとした計画があってね。まだ秘密にしといてもらえるかな?近いうちに公表されるけど、それまでは表に出すとまずい話なんで」

「もちろんですとも!」

 ネルガル会長の秘密計画!
 それは社長の下心を一気に燃え上がらせた。商売ではないというが、たとえば私的なパーティでゲストにメグミを呼ぶという話だろうか?となれば、きっとその席には政財界の大物が勢ぞろいだろう。
 ああ、でもそれでは1ヶ月の拘束期間という条件に合わない。何か別のことだろうが、何にしろスケールの大きい話に違いない。
 ニュースで目にする大物達と並んで談笑する自分を想像して、ついに自分も上流階級へのステップを踏み始める日が来たのか、と年甲斐もなく胸をときめかせた。
 名刺を渡さなくてもいい身分。なぜなら相手は既に自分を知っているのだから。

 社長は口がにやけそうになるのを頬肉を奥歯で噛み締めて必死で耐えている。

「メグミ君にやってもらいたいのは・・・・」







 コツコツ。
 軽くノックしたエリナは、失礼します、と断りながら会長室のドアを開けた。

「話になりません!お断りします!」

 途端、中年男性の怒鳴り声が耳を直撃し、エリナは危うくお盆を落としそうになった。
 内密の話で秘書たちを使えないということで、アカツキから茶を運ぶように指示を受けたエリナは、お盆にお茶を乗せて会長室まで来ていた。
 落としそうになったお盆をなんとか持ち直し、部屋を見渡すと、確か今日の客だとかいう若作りのおっさんが立ち上がっていた。いい年をしているのに髪を青く染めて、ブレスレットやネックレスをじゃらじゃらとつけている男だ。気分だけは10代というところか。

「ジャーマネ君、お怒りはごもっとも。だけど、話を聞いてくれないかなぁ」

 なるほど。ということは、立ち上がったあの中年はメグミのマネージャーということか。ネルガル会長を怒鳴りつけるとは、なかなかいい度胸をしている。
 でも脅迫まで出来ちゃうアキト君には及ばないわね。
 どうしても男となればアキトと比較するのをやめられないエリナであった。

「いえ、この話は聞かなかったことにさせてください。そんな、ウチのメグミちゃんをそんなことに・・・。社長からも断ってください!」

「ああ・・・うん・・・」

 言葉に詰まる社長に脈がないと見たか、マネージャーは今度はメグミに詰め寄った。

「メグミちゃん、君だってこんな仕事は受けたくないだろ!キャリアに何にもプラスにならない!むしろマイナスだ。ファンのみんなだってがっかりするよ!」

「ええ・・・そうですね。アカツキさんがそんなことを計画してたなんて、夢にも思わなかったです」

 メグミにはそれほど悪い仕事とは思えないが、やはりいろいろと問題のある依頼だった。芸能人にとって致命傷とは言えないまでも、決してプラスにはなりえない。

「粗茶ですが」

 とりあえず言いたいことを言ったマネージャーが座りなおしたところで、控えていたエリナがお茶を置いた。お茶を用意する時間も惜しんだエリナが暇そうだったイネスに淹れさせたお茶なので、あまり美味くはないだろう。一応最高級茶葉なのだが、イネスはコーヒー以外は下手なのである。

「アカツキ会長。この件は一度、社内に持って帰ってゆっくり検討したいのですが」

 リスクが大きすぎるが、引き受ければ借りが作れる。メグミがこれで潰れたとしても、メグミの後輩達はネルガルのバックアップを受けられるかもしれない。うまくいけば、上流階級とのコネも作れる。損得勘定するためにも、とにかく考える時間が欲しい。

「わかった。でも、あんまり時間はないんだ。遅くても数日で結論を出してくれ」

「はい。心得ております」

 言って社長は出されたお茶を作法どおりにゆっくりと嚥下し、立ち上がった。

「ご馳走になりました。本日はお招きいただきありがとうございました。また後日、伺わせていただきます」

「うん。待ってるよ。それと、この前のライブのギャラは、そろそろ銀行振り込みされてるはずだ。帰りに秘書が振込み証明書を渡すことになってるから、忘れずに受け取ってくれたまえ」

 ライブのことをすっかり忘れていた社長は、あっと口を開いて、慌ててありがとうございますと応じた。楽しみにしていた報酬を忘れるほど、アカツキの依頼に衝撃を受けたのだろう。
 都合30分にも満たない会合だったが、社長はへとへとに疲れていた。

「では失礼いたします」

 憤懣やるかたなし、といった体でいるマネージャーを引きつれ、ドアを開けて帰りを促すエリナに目礼し、社長とマネージャーは会長室を後にした。
 2人と一緒に立ち上がるかと思っていたメグミは、そのまま座っている。

「あれ?メグミ君は一緒に帰らないの?」

 ネクタイを緩めて、アカツキは問いかけた。

「はい。アキトさんに会っていこうと思って」 

 いるんですよね?ここに。

 目で訴えかけてくるメグミに、アカツキは首を横に振った。

「いや、彼は長期休暇でここにはいない。しばらくはネルガルから離れてるってさ」

「もしかして、ユリカさんに会いに行ったんですか?」

 であるなら、今日の用件は既に果たされたことになる。
 そうあって欲しい。
 胸の前で祈るように手を組み合わせた。

 しかし、アカツキの返答は無情だった。

「彼女と会うつもりはないらしいよ」

「やっぱり・・・せっかくユリカさんを助け出したのに」

 アキトが生きていて、ユリカの救出を計画しているというからこそ、メグミは統合軍襲撃を待ち伏せするような危険な作戦にも従事したのだ。2人とは紆余曲折あったが、とても大切な仲間だったから。それなのにいまだ再会ならず、とはメグミには納得しがたい。今日はそれをアキトに問いただすという目的もあるのだ。

「理由を知ってますか?」

「さぁねぇ~。彼女の検査が終わって落ち着くまで待ってるのかと思ってたんだけど、そうでもないみたいだし。あんなに熱心に取り戻そうとしてたのにね」

 狂おしく求めていた女がすぐ手の届くところにいるというのに、アキトは会いに行こうともしない。エリナに遠慮しているという風でもなさそうだ。アカツキにはアキトの気持ちが理解できなかった。もはや2人の間には何の障害もないというのに。
 メグミにもアキトの気持ちが理解できない。アキトを待っているであろうユリカが不憫で、それ故にアキトに対する憤りが沸いてくる。
 一言でいいから、何かアキトに言ってやらなければ気がすまない。

「アキトさんはどこです?」

「砂漠を見に行くとか言ってたかなぁ。ルリ君のサポートもつけずに、一人でどっか行っちゃったんだよ。偽造だけど身障者証明手帳は渡してあるから福祉施設が使えるし、問題ないと思って送り出しちゃった。先に言っておいてもらえれば引き止めておいたんだけど」

 サハラだかタクラマカンだかに行っているはずだ。なぜ急に出立したのかはわからない。ルリのサポートがなければ歩くのだって苦労する身なのに、あんな僻地へ行って何をしようというのだろう。
 そして、ルリは同行を拒否した。
 砂漠は遠すぎるし、砂嵐の電波障害でルリのリンクによる五感サポートも届かない。

 出立間際に「チャンスは作ってやる」とアキトが儚く囁いていたのが、耳に残っている。 

 全く・・・・1週間や2週間テンカワ君と会えないってだけで、エリナ君やドクターが僕になびくわけないってのに。

 あれはきっと自慢しているのだ。奪えるものなら奪ってみろ、と挑発しているに違いないのだ。それも絶対無理だとわかっていて言ったのだ。なんとタチの悪い男になったのだろうか、彼は。

「じゃぁ、後日でもかまいません。アキトさんに会わせてください」

「そりゃ僕はかまわないけど・・・・。今となってはネルガルとテンカワ君の雇用関係は解消されちゃってるから、無理強いはできないよ」

「アキトさんが会ってくれないって言うんですか?」

 言われてみれば、その可能性もある。ユリカにさえ会わないというのなら、メグミに会う理由はなおさら無い。

「かもね。でももし断られても、僕じゃなくてエリナ君に頼んでみれば何とかなるよ、きっと」

 それは不穏当な可能性を示唆する発言だった。

「エリナさんに?」

 言って、メグミは初めて気づいたようにエリナに視線を向けた。
 目を細めて、嘗め回すように、顔から足首まで採点する。
 エリナがびくりと体を震わせた。

 ・・・・そうね、なかなか美人だし。考えてみれば3年ですもの。十分にありえる話だったわ。
 でもだからって、エリナさん経由で約束を取り付けるのは筋違い。だってユリカさんのことなんですもの。

 3年間には、ベッドで毛布をかぶっていても寒い夜くらいあったのだろう。それを責める気はしなかった。だがエリナに対しては、多少思うところもある。

「いえ、エリナさんには頼みません」

 メグミの脳裏には、イネスのことが浮かんでいた。既に公の場に姿を現しているイネスには、比較的連絡をとりやすい。たとえアキトに断られたとしても、イネスに頼めば何とかなるだろう。彼女はアキトの姉貴分であり同時に妹分でもあるという稀有な存在だ。アキトも無碍にはできまい。

「そうかい?ま、気がかわったらいつでも言ってくれていいよ。それと、僕が頼んだお仕事の件も、前向きに考えて欲しいね」

「わかりました。お気遣いありがとうございます」

 言って、メグミは社長たちを追い、会長室から出て行った。



[319] それから先の話 第14話
Name: koma◆81adcc4e ID:86ba9005
Date: 2008/09/05 23:45

 沈む夕日を、何度見送ったことだろうか・・・・

 オアシスを基点に発展した小さな町に逗留しているアキトは、泥と家畜の糞を材料にしたレンガ造りの宿を滞在先に選んだ。

 スチームが故障してしまったので代わりにこれを、と、旧式の軽油ストーブを渡された。赤熱するストーブを眺めながら、今夜も暖をとる。

 この町を選んだのには理由がある。

 第一に、外国人が珍しくないこと。ここらは金銀鉱脈をやその他のレアメタル鉱脈を狙う山師の連中が界隈を闊歩しており、人種も老若男女様々だ。アキトも目立たないし、アキトを狙うであろう刺客も目立たない。

 第二に、なるべく治安がよくないこと。何があっても事故で通せるからだ。あるいは、本物の不慮の事故に逢うことも不可能ではないかもしれない。山師連中は気が荒く、当然その拠点となる町は治安が悪化する。

 そして最後に、電子設備が整備されていない場所であること。決定的瞬間を記録に残すわけにはいかない。ルリやラピスが後から調べても、アキトが死んだ真相を究明できないようにするのが肝心である。

 アキトは自分が選んだこの小さな田舎町を気に入っていた。
 インフレで食品は連日の値上げが続き、商店は襲撃を受けて廃墟になっている。治安は最低だ。
 その上、砂嵐で外部との通信は途絶え、町の外に出られない山師連中はいかにも苛立っているというのを体中で表現しながら、つまり飢えて耳がたれた野良犬を蹴ったりとかしながら、街中をうろつき回っている。

 頃合だ。

 そう思って、わざわざ人気の少ない夜中の裏路地を通ってみたりした。

 表通りの喧騒を避けて少し進んだ暗がりで、案の定、ゴロツキどもにナイフを突きつけられ金を要求された。

 鈍く光るナイフを、柄の後ろを持ってひらひら揺らして見せびらかしている。程度の低いチンピラだ。

 つまりこれは期待通りに、不慮の事故に遭遇したということだ。このまま金を断れば、狙い通りに事は進み、誰の手を煩わせることもなく全てに決着がつく。

「兄ちゃんよぉ、早くしなよ~、俺達も暇じゃねーんだからよお~」

 酔っ払いにも似たその口調を聞き、思わず口元をゆがめて苦笑してしまった。長く住んでいた火星でも、ラーメン屋をやっていたサセボでも、チンピラというのは全く同じ口調でしゃべっていた。
 久しく会わなかった次元の低い人間だ。妙に懐かしい。
 彼らは、時空を超えて共有する価値観みたいなものを持っているのかもしれない。

「A級ジャンパーに勝るとも劣らんな・・・・」

「あ、何言ってんだおめぇ~、早くしろよ~」

 痺れを切らしたチンピラの一人が、背後からナイフでアキトの首筋をチクチクと刺した。

 いい感じに後先を考えない馬鹿だ。これはいけそうだ。
 目を細めてチンピラを見やり、小馬鹿にしたように鼻で笑って言ってやった。

「どうせ人を刺す度胸もないチンピラ風情が、生意気なことを言うじゃないか」

「あ、んだとコラァ!!」

 ちょっと挑発しただけで、たやすく激昂する。扱いやすいことこの上ない。

 やってやんよ!とばかりにチンピラがナイフを大きく振りかぶったところで、そのナイフがパキン、という金属音とともに弾かれて暗がりに消えた。

 もちろんアキトの仕業ではない。状況から判断すると何らかの投射物がナイフを狙って弾き飛ばしたようだ。正確にナイフのみを狙ったということは、おそらく日常から訓練をつんでいるプロの仕事だろう。
 心当たりはただ一つ。ネルガルSSだ。
 ついに仕掛けてきたということか。

「んあ?」

 呆けたような顔をして目を白黒させていたチンピラだったが、それも長くは続かない。
 頬を紅潮させ、

「てめぇ舐めやがっ・・・・・」

 パスっというくぐもった音がすると同時に、そのチンピラは崩れ落ちた。肩から力が抜け、上半身をしおれさせながら膝を折り、顔面から地面に倒れこむ。鼻骨骨折くらいはしているかもしれない。
 ざわり、と取り巻きのチンピラどもに動揺が走った。
 しかし逃げる様子もなく、その場に留まっている。漠然としたヤバさを感じつつも、仲間の手前、獲物を置いて逃げ出すなどというシャバイ真似は出来ないのだ。

 何が起こったのか、チンピラたちは事態を認識するよりも先に、とりあえず目の前の黒い奴をとっちめることを選択したようだった。
 気色ばんだ取り巻き達は、ある者はコブシを振り上げ、またある者は懐に手を入れ、そのいずれもがバスッ、バスッという音が鳴る度に崩れ落ちていく。
 5人のチンピラは全員仲良く、逃げる間もなく、あっという間に無力化された。

 最後の一人が倒れた後、アキトは一人たたずむ。

 アキトはその場で動かず、最後の瞬間を待っていた。
 チンピラを片付けたのは、目撃者もろともにアキトを始末するためか。それにしては、最初にナイフを弾き飛ばしたのは不可解だが。チンピラにアキトを刺させておいて、それからチンピラを片付けてしまえば、直接の殺害に関わらずに済むというのに。
 何にしろネルガルSSの黒服たちは、アキトに狙いをつけているはずだ。この機会を見逃すような無能に、SSは勤まらない。

 1分が経ち、2分が経った。

 期待した瞬間はいつまで経っても訪れない。

 何故だ?
 
 殺される側が殺す側に話しかけるのはマナー違反だろうか?
 殺す側の彼らに、余計な葛藤を与えるかもしれない。それは如何にも往生際が悪い。

 だがこのままずっと黙っていても埒があかない。

 一瞬の逡巡の後、

「どうした?命令を遂行しないのか?」

 口に出してみた。きっと聞いているはずだ。

「会長の命令は貴方の護衛です」

 応えは暗がりの奥から。視力の弱いアキトでは視認できない。

「アカツキの? 奴とは既に切れている。もはや義理はないぞ」

 むしろ俺は邪魔なはずだ。

「我々は会長の命令に従うだけです。我々にも養う妻子がおりまして」

 なるほど。

「助けてくれてありがとう、と言うべきか?」
「お礼はいただけません。仕事ですから。ですが一つ苦言を申し上げるとするなら、貴方が本気になれば、あの程度のチンピラなど素手でも30秒かからないはずです。わざわざ余計な手間をかけさせないでもらいたい」

 SSの言うとおり、アキトの白兵戦闘能力は低くない。それは木連式柔の技によるものではなく、単純に筋力が強いからであり、日々の訓練の賜物だ。本物の職業格闘家には勝てないが、チンピラ程度は軽く蹴散らせる。

「悪かった。そういう気分だったんだ」
「いえ・・・差し出がましいことを申しました」

 誰にでも運命に身を任せたくなることがある。黒服たちも、木石ではないゆえに人生の苦悩を知っている。また、アキトの境遇も多少は知っている。
 アキトをことさらに責めはしなかった。

 ネルガルSSたちはそれっきり返答せず、アキトは裏路地を後にした。




 宿に戻り、ストーブの前に座りこんだ。

 アキトの体は寒さをほとんど感じないが、感じないだけでやはり寒さが体力を消耗させることに変わりは無く、ストーブが発する熱は活力を取り戻させてくれる。

 今日一日を思い返してみると、いろいろと考えさせられる出来事があった。

 ネルガルSSは未だにアキトを護衛している。
 つまり、積極的にも消極的にも、アカツキはアキトを始末する気はないようだ。むしろ逆に守ろうとしている。
 その意味に気づかないほど、アキトは愚かではない。

 情に負けたか、アカツキ。意外だな・・・。

 決して、アカツキを侮辱しているのではない。
 天下に轟くネルガルの会長として、アカツキはアキトを切り捨てるべきなのは明白だ。アキトがはっきり自覚しているだけでも、ネルガルのスキャンダルになりうるネタを10も20も握っているのだから、アキトの危険性は推して知るべしである。
 だからアキトを生かすという決断に、アカツキがどれほどの勇気を要したか、想像するくらいはできる。
 アカツキが何のためにそんな大胆な決断をしたのか、アキトに知る術はない。

 火星の後継者の実験施設からの救出以降、ネルガルのエージェントとして火星の後継者と戦ってこれたのは、アカツキとの個人的な縁から便宜をはかってもらっていたからだ。

 無論アキトのネルガルへの貢献も少なくはないが、火星の後継者から救出してもらえた分も含めて、貸し借りで言えばアキトの借り分のほうがだいぶ多い。
 超過分は戦後に黙って殺されることで清算されると思っていたが、これでアカツキがアキトを生かすことを選択したとなると、そうもいかなくなる。

「借り分が大きすぎるな・・・。どうやって返すか」







 疲労困憊のエリナは、肩をトントン叩きながらアカツキの呼び出しに応じた。

 次にお茶汲みをやらせたらセクハラで訴える、とキツく言ってあるので、それなりに重要事項があるのだろう。足取りも重く、エリナはよろよろ歩いて会長執務室にたどり着いた。

 出迎えたアカツキは一枚の紙を差し出し、にこやかに笑っている。

「エリナ君、テンカワ君から絵葉書が届いてるよ~」

「絵葉書?アキト君から?」

 便りが来ることも意外だが、それが絵葉書だったということは想像の埒外である。
 あのアキトが商店で絵葉書を買い求めるなど・・・。どういう心境の変化だろうか。砂漠特有の熱病にでもやられたのか。イネスが任せておけというから安心していたが、まさか予防注射が効かなかったのか?
 不安になりながらもアカツキから受け取って裏返して見ると・・・、モアイ像とスフィンクスがお見合いをしているデザインだった。胡散臭い。

「アキト君・・・センス無いわね・・・」

 葉書の宛名は手書きだった。文字に不振な滲みもなく、震えもない。健康に問題は無さそうだ。
 エリナは少し安心した。

「まぁまぁ、せっかく送ってくれたんだし、そんなこと言わないでさぁ。テンカワ君は火星生まれの火星育ちなんだから、地球の名所旧跡とか詳しくなくて当然だよ」

 言われてみればその通り。彼が地球で過ごした年月は、正味で1年以下というところか。その1年も料理の修業や屋台の営業ばかりで、旅行に行く暇は全く無かった。
 であればやむを得ないのか。

「ネルガル宛ってなってたから僕が先に読ませてもらったよ。君も読んでみたら?」
「言われなくても」

 エリナはアキトと私信のやり取りをしたことがない。少女時代に文通をした経験を思い出し、甘酸っぱい予感を胸に抱きつつ本文に視線を落とした。

 恋人が贈る愛の言葉など望むべくもない。エリナ個人に当てた挨拶の一言でもあれば上出来だろう。

 期待を胸に秘めつつ読んでいくと、定型どおりの近況報告の中に、妙に勘に引っかかる文があった。

------こちらでは金の採掘が非常に活発だ------

 金の採掘。

「金・・・金・・・ゴールド・・・・・・ゴールドの採掘?」

 何かがひらめきそうになった。しかし、掴んだ糸は細く長く、強引に引っ張れば切れてしまいそうだ。そろそろと手繰り寄せてみても、長い糸の先は暗闇に包まれて何も見えない。

「そうなんだよ、金はこのごろ高値を更新してるし、ちょっとした鉱脈でも見つければ結構稼ぎになるらしいよ。テンカワ君にお土産に金鉱石の一つもオネダリしてみたらどうかな?砂金も採れるらしいよ」

 金の高値更新。

 さっと目の前の暗雲が晴れた。
 全ての答えは、金にある。金の高騰にある。

 そう、金が高騰しているのだ。
 これは非常に重要なのだ。なぜなら、この高騰は、何ヶ月も前から、あるいは3年も前から、予測できたことだからだ。

 貨幣価値を保証するのがゴールドだった金本位制が崩壊して、既に数世紀。しかし、ゴールドが持つ市場価値は失われていない。
 貨幣価値を保証するのは、大雑把に言えばその貨幣を発行した国の信用だ。もし国の信用が下がれば、貨幣価値は下がり、他国の通貨が相対的に価値を増す。
 世界通貨は一定の振幅を保ちながらも、戦争や天災、はたまた財政破綻などの危機を乗り越えてきた。
 どこか一国の通貨が暴落暴騰しても、他の安定した国の通貨を代替にすることで、世界経済は発展してきたのである。
 だが、もし、もしも、全ての政府の信用が一斉に下がるようなことがあれば?
 明日になったら現流通貨幣の全てが無価値になるしたら?

 人々は、まだ貨幣価値がゼロになる前に貨幣を使い切るべく、買い物をするはずだ。

 何を買うのか?食料?水?服?薬?もちろんそれもあるだろうが、それだけで貯金を全額使いきれるはずがない。
 それに、人々は考えるだろう。不測の事態のために、他の人間と取引できるようなものが欲しい、と。通貨の代替物が欲しい、と。無効になる旧貨幣ではなく、新貨幣と交換できる物が欲しい、と。もし旧貨幣が無効にならなかった場合に、なるべく価値を落とさずに換金しなおせる物がほしい、と。

 これらの諸条件に合致するのはただ1つ。
 世界で最も古く、世界共通で価値を持つ金である。
 次善として銀もあり。宝石はこの場合価値ない。宝石の価格は完全な独占カルテルで決められており、その価格の根拠は無いに等しく、実需はない。

 火星の後継者の目的は現地球木連統合政府の打倒解体であり、それが成れば、統合政府が保証する通貨は失効するだろう。これが普通の革命の類なら通貨はその後も継続されるだろうが、あれは軍事クーデター、または侵略である。
 現通貨が無効になる蓋然性は十分以上にあった。

 火星の後継者に協力する勢力は、当然決起の予定次期を把握していたことだろう。 

 火星の後継者の決起を知っていたならば、金の高騰は自明の理。

 だからクリムゾンは、絶対に、間違いなく、金の高騰を予期できたはずだ。少なくとも数ヶ月以上前から。

 であるならば、事前に金銀を買い込んでおき、高騰したところを見計らって売れば莫大な利益が出せるはずだ。投資規模によっては、クリムゾンの株価を買い支えるのも容易だろう。

 エリナは即座に会長秘書室に通信をつなげた。
 端末はエリナの目の前に通信ウィンドウを投影し、そこにスーツ姿でヘッドセットをつけた女性が浮かび上がった。秘書室の通信担当である。

「過去3年間のゴールドとシルバーの先物市場で、買いのみを行っている業者をピックアップして!それから、その業者の中からクーデター発生以降に売っているところを絞り込んで!」

 黙り込んだと思ったら急に猛烈な勢いでしゃべりだしたエリナに、アカツキは目を白黒させた。

「な、なんだい急に?」

「ついに尻尾をつかんだわよシャロン・ウィードリン!」

 寝不足で赤く充血した目を爛々と光らせ、エリナは声高に叫んだ。
 睡眠不足からくる気分の高揚に加えてようやく正体不明だったクリムゾンの資金源も判明し、エリナはもはや何がなんだかわからないくらいに高ぶっていた。

 クリムゾンへの侵攻に備えて24時間4交代勤務体制を敷いていた秘書室は、待ちに待っていた指示を受けてフル稼働を開始し、あっという間にリストを作り上げてエリナの手元端末に結果を送ってきた。
 所要時間、1分弱。

 検索にヒットした業者のリストアップだけでなく、各業者ごとの簡易取引履歴及び詳細取引履歴がハイパーテキストで連ねられている。そしてその履歴から算出される各々の資産までもがまとめられていた。
 リストに載っている業者は、いずれもエリナには聞いたことの無いようなものばかり。個人名らしきものまで混ざっている。
 あからさまなダミーだ。
 そして問題はその取引量だった。

 ざっと概算で・・・・。

 え、でもちょっと待って・・・この額は・・・うそ・・・。

 エリナは素早く端末を操作し、内線を情報統括室につないだ。

「ホシノルリにつないで、ええ、お願い・・・」

 目前の通信ウィンドウを保留状態にして、エリナはイスを引き寄せて深く座り込んだ。
 背もたれに背を預け、長い足を伸ばして組あげ、宙をにらむ。

「なんだい?どうしたんだい?元気になったと思ったらまた静かになっちゃって・・・」

 エリナの正面に回りこみ、アカツキは問いかけた。
 エリナは一瞬口ごもったが、目の前の男はネルガルトップの会長であり、副会長である自分には報告の義務があることを思い出した。
 視線を宙にさ迷わせつつも、訥々と答えた。

「・・・リストに載ってる全業者が買い込んだゴールドと、売りに出したゴールドを減じて、残りのゴールドを現在市場価格で売った場合の額・・・・・・、すごいわ、今の低迷してるクリムゾンの株だったら、全株式の34%以上を余裕で取得できる」

 盛り返しているとはいえ、クリムゾンの株価はクーデター前よりも大きく値下がりしている。逆にゴールドは高騰しているが、それでもクリムゾンの買収成功ラインの34%を超えるような量を買い込むなど、その資金力はまさしく桁外れ、かつ、実際に高騰すると確信していたとしても相当の勇気が必要だろう。いや、勇気などという生易しいものではない。クソ度胸というやつだ。

 通信ウィンドウがアクティブになり、呼び出しを受けたルリが姿をあらわした。

「はい、ルリです」

「単刀直入で悪いけど急いでいるの。今からリストを渡すから、そのリスト中の業者の裏を当たってちょうだい。おそらく、ほとんどクリムゾンにつながるはずだけど・・・」

「わかりました」

 もしリストの業者が全てクリムゾンのダミーであるならば、クリムゾンへの侵攻は単なる失敗では済まされない。逆に、エリナが株価下落を誘ったことでクリムゾンが磐石な体制を築く後押しをしたことになる。シャロンは笑いが止まらないだろう。エリナは利用されたことになる。

 リストの全業者がクリムゾンのダミーでなければ、まだ救いはある。
 それだけが唯一の希望だ。

 待つこと、およそ5分。
 ドキドキと鼓動を続ける胸を抑え、エリナは報告を待った。
 こんな時、ルリがいてくれて助かったと思う。彼女が本気になれば、それが電子情報である限りどこのどんな素性のデータだろうが暴けないものはない。経営判断に必要なのは、正確で迅速な情報だ。エリナはそれを必要な時に必要なだけ得られる恵まれた立場にいる。

「結果が出ました。詳細な報告はそちらの端末へ送っておきました。簡単に言うと、リストの業者は全てクリムゾンではありませんでした」

「え?」

 エリナの瞳に希望が差し込んだ。
 だがそんなはずはない。クリムゾンの株を買い支えている資金は、ゴールドを売却に由来している。それ以外の答えなど存在しない。

 エリナの推測は、悪い意味で外れていたのだ。

「リストの業者は、全て一個人、シャロン・ウィードリンのダミーです」

 なんてこと・・・・!

 寝不足で耐性の落ちていた脳のブレーカーがガチンと落ち、エリナの視界は暗転した。



[319] それから先の話 第15話
Name: koma◆81adcc4e ID:86ba9005
Date: 2008/11/15 11:51
 シャロン・ウィードリンはクリムゾン姓を名乗れないことについて、挨拶されるのも紹介されるのも常に最後という社交界での扱いも含めて、特に不満はない。
 格式ばった座敷では、常に下座に案内される。しかし不満はない。
 彼女はそのような虚飾よりも、実を優先する。

 父親の愛情は最初から期待していない。父と母の関係はいわゆる一夜の過ちであり、愛故の結合ではない。だから不満はない。

 現会長である祖父は孫であるシャロンを可愛がっているが、祖父以外の親族はシャロンに辛辣だ。
 祖父は遺言でシャロンへの遺産配分を指示するだろうが、それはおそらく無視される。それにも不満はない。
 金は自分で稼げば済むことだ。彼女の才覚をもってすれば、造作もない。



 だが虚仮にされるのは我慢ならない。

 クリムゾン一族内では、シャロンの身分は下の下である。
 愛人の子である、というのはそれほどに不利だった。

 愛人の子だ、とことあるごとに囁かれる陰口に長らく耐え続けていたが、それにしても限度というものがある。
 礼儀作法に間違いがあれば庶民の出であることを蔑まれ、完璧にこなせば「庶民のくせに上流階級の真似事をして」とまたも嘲笑される。
 何をしてもどうやっても、クリムゾンの一族は彼女の誇りを踏みにじる。
 そもそも一族がそうやってふんぞり返っていられるのは、この激動の時代の渦中で希代の才女であるシャロンがクリムゾンを切り回しているおかげだというのに、そのことを感謝している様子もない。

 もちろん、クリムゾン支配人というのは彼女が望んで得た職で、報酬もちゃんと受け取っている。それで満足すべきだというのならそれはそうだ。
 とはいえ、敬意を払ってもらいたいというのはそれとは別の欲求だ。彼女は自らの能力に自負を抱いており、客観的に見ても尊敬を得てしかるべき功績がある。

 正攻法でそれが得られないと彼女が見切りをつけたのは、何年前だったか。

 功績で認めさせることができないのならば、強引にやってやるまで。

 ざっと計画を立て、即座に行動に移した。
 貯金はだいぶ貯まっているが、それでは足りない。
 まずは投資銀行に分散させていた資産をメインバンクに全て集めた。クリムゾンでの給料と金利、購入した証券の時価総額はちょっとした財産である。一等地にマンションを立てるくらいは余裕だろう。
 庶民は10回くらい人生をやり直さないと手に入らない額だ。

 はっきり言おう。はした金である。

 彼女はその何十倍もの額を、一声で動かせる役職についている。そして彼女の目的は、そんな役職を持つ企業の真の支配者になることだ。

 金が全く足らない。
 とりあえず集められるだけの資金を集めようと、家を引っ掻き回して家計簿から記載が漏れていた証券を探し出した。
 生命保険、自動車保険、火災保険等々、各種保険も解約してキャッシュは微増した。

 さて、これでようやくクリムゾンを買収するために必要な金額のまぁだいたい10のマイナス17乗程度は集まった。

 全然足りない。

 わかりきっていたことだ。国家予算にも匹敵する利益を毎年のように稼ぐクリムゾンほどの巨大コングロマリットに、一個人が太刀打ちできようはずもない。

 ふと、かつて白鯨に挑んだという愚かな船長の逸話を思い出した。
 あの船長は、本当に白鯨に殺せると信じていたのか。それとも、片足を奪われた憎悪の一心だけで、初めから勝算など考えなかったのか。

 彼と同じ轍は踏むまい。

 冷静になって考えてみると、やはりクリムゾンに挑むのは不可能ごとに思えてならない。
 ただ単に打倒クリムゾンを実現するだけなら、いろいろと手法はないでもない。
 一番手っ取り早いのは、ネルガルに就職することだ。シャロンの経歴と能力を考えれば、平から地道に出世するのではなく、最低でも部長クラスへ抜擢されるのは間違いない。
 実を言うとネルガルからヘッドハンティングの誘いは何度か来ているのだ。一番最近の勧誘条件は、役員待遇及び株券の優遇購入権、及び週休四日で3年契約だった。

 即決で断った。

 勘違いして欲しくないので断っておくと、シャロンは別にクリムゾンが嫌いなわけではないのだ。
 アレとはいえ妹はやっぱり可愛いし、祖父のことも好きだ。もし痴呆が進んだら下の世話くらいしてもいい、とすら思っている。医学が進んだこの現代に痴呆症というのは滅多に無いが、まぁ心構えはできている。

 だからクリムゾンの打倒が目的というわけではなく、あくまでシャロン個人がクリムゾンを掌中に収めるのが目的なのである。

 塾考した上で出た結論。
 極めて危険だが、方法は一つ。レバレッジ率をできる限りあげて取引するのだ。できれば5000倍以上。

 価格1000の商品を取引するのに、馬鹿正直に通貨1000を用意する必要はない。
 商品を勝ってから売るまでの時間差でも、価格は変動する。勝ったときに価格1000だった商品が、売るときに1001になっていたとすれば、売買の結果として1の差益がでる。
 逆に、売る時に999になっていたら、差損が1となって損害になる。
 だから簡単に言えば、手元に最低でも通貨1を用意して損害に備えられるのならば、この取引に参加できるということになる。
 手元に1の通貨を元本として価格1000の商品の売買に介入するのなら、この場合レバレッジ率は1000倍だ。
 もし価格が0.1%下がれば手元の通貨1を失うが、逆に価格が上がれば上がった分だけ利益となり、もし10%の値上がりがあれば、通貨1を元手にして100の利益が出る。

 夢のような話に聞こえるかもしれないが、言うまでも無く高リスクだ。手元の通貨が1の状態で価格1000の取引に介入し、価格が1%下がったとしよう。となれば差損は10になり、手元の通貨1では損害を埋められない。破産だ。
 また、事はそれだけに留まらず、取引相手にも迷惑がかかる。
 そんな事態に備えて、取引相手に対してその損害を補填する保証金、もしくは仲介業者が必要だ。
 シャロンに保証金を用意する余裕はない。
 仲介業者はせいぜいが500倍までの保障しかしないし、倍率が上がるにつれて業者の素性も怪しくなっていく。800倍ともなれば、マフィアやヤクザがマネーロンダリングに使っている業者しかいない。

 シャロンが必要なのは500倍どころではない。
 そんな低倍率では、クリムゾンを買収するのに何十年かかるかわかったものではない。
 必要なのは5000倍なのだ。


 5000倍を受けてくれる業者を探し、シャロンはとある富豪に行き着いた。
 化石燃料の売買で財を成したとある王族の子孫である彼は、いわゆるヒヒ爺だった。女好きが高じて前時代的な後宮を持っているという噂があり、なんとそこには宦官もいるという。
 この男と契約した。

 もしシャロンが損害を補填できないような差損をだしてしまった場合は、彼女自身が担保となる。
 15年契約。女の盛りの年代を、彼の下で過ごす。容色が衰えれば、退職金も何も無く放り出される。
 契約文書には服装や言葉遣いなどまで、細かく規定されていた。



 準備を整えた彼女は、自作の関数を使ってゴールドの相場の底値を誤差0.0001%で的中させ、そこに全財産をつぎ込んだ。

 まさに神懸りだ。1%の誤差があっても的中させられれば神として崇め奉られるこの業界で0.0001%の誤差で底値を当てるというのは、尋常ではない。
 シャロンにも二度は無理だ。
 そして、人生においてたった一度きりであろうこの幸運を最重要局面で発揮できるのが、シャロンという女の強さだった。

 予測通り、火星の後継者によるクーデター以降、ゴールド市場は右肩上がりに空前の勢いで上昇を続けている。

 稼いだ利益を決済せずに含み益とし、それを保証金としてさらに5000倍のレバレッジをかけ、2階建て、3階建ての信用を積みましていく。通常であれば破産一直線の危険なやり方だが、彼女はこれを5階建てまで積み上げ、揺るがせない。

 エリナも馬鹿な女だ。経済紙の「超巨大複合企業を動かす美女特集」で割かれていたページ数で負けたなんて理由で(シャロン20ページで写真8枚、エリナ15ページで写真3枚)対抗意識を燃やして・・・ちょっと弱みを見せれば即座に突っ込んでくる。
 エリナが仕掛けた売り攻勢のおかげでクリムゾン株は大幅に値を下げた。株式市場からは投資資金が逃げ、ゴールドの先物市場はさらに高騰し、相乗効果でシャロンはクリムゾンの買収資金を当初の予定よりも大幅に増加させることができた。目標だった拒否権だけではなく、議決権にも手が届きそうだ。

 5000倍のレバレッジに後押しされ、今、彼女はようやくクリムゾンを掌中に収めんとしていた。


























 イネスに会いにきたエリナへ、開口一番。
「あら、あなた忙しいんじゃなかったの?」

 エリナが訪ねたのは、月面に新たに発見された古代遺跡発掘現場である。
 現場に立ち並ぶのは、ボーリング機、削岩機、土砂運び用車両、エステバリス土木フレーム。月の重力では舞い上がった土埃が落ちるまでに時間がかかるので、それを吹き飛ばすためのエアホースもある。

 イネスが陣頭指揮をとり、土木フレームのエステバリスがボーリング機を設置、当たりと見れば削岩機が唸りを上げて掘り返す。空気がないから音は聞こえないが。

 簡易組み立て型の現場作業用仮設事務所で、メガネをかけたイネスがコーヒー片手に書類を読んでいた。

 土砂をいっぱいに積み込んだ車が、事務所の隣を走っていった。仮設とはいえ真空にも耐える設計なので、振動も極小さい。

 遺跡発掘というよりもどこかの建設現場のようだ。

 月の遺跡というからにはおそらく古代火星人がらみなのだろうし、どうせディストーションフィールドなりその他の超高等技術で保護されているだろうから、多少乱暴に扱っても大丈夫という判断なのかもしれないが、イネスにしては粗雑な感じがする。
 彼女はあれでも繊細で、ナデシコ乗船時代は医務室で悩み相談を受け付けていたことからも分かるとおり、細やかな気遣いのある女なのだ。
 こんなやり方はなんとも似つかわしくない。

 何を焦っているのだろうか。隠し事でもあるのか。怪しい。

 この遺跡の情報をもたらしたのが、大豪寺凱だというのも気にかかる。

 大豪寺凱。彼が何者かは、エリナには知らされていない。
 イネスは最初に彼を尋問したメンバーの一人だ。月臣、ゴートの護衛をつけて、イネスは大豪寺凱を、文字通り体の隅から隅までレントゲンに脳波、血液その他体組織、果ては衣服にいたるまでの全ての標本を採取して検査したという。
 本人への尋問も彼女が担当し、全ての記録は最重要機密として多重暗号化され、閲覧権限は会長のみが持っている。

「三日前に会った時は、シャロン・ウィードリンにやられたって倒れた後、血相を変えて大騒ぎしてたじゃない。こんなところで油を売っていていいのかしら?」

 最も記憶に新しい、エリナの失態。エリナ2x年の人生で初めて気絶したのである。介抱したのはイネスだったので、誤魔化しようもない。

 話題をそらそうと、エリナは早口で言った。

「ああ、あれね。あれは片付いたわ。ニュースでも大騒ぎになってたのに、なんで知らないのよ?」

「仕事してたから、そんな暇なかったわ。この作業事務所も外部の放送受信装置はつけてないから、世間からは隔離状態ね」

 シャロンに対してライバル意識むき出しのエリナをよく知っているイネスは、あっさりとしたエリナの口調に違和感を覚えた。

 シャロンを打ち負かしたというのなら、もっと喜んで自慢そうにするはずだ。逆にクリムゾンへの侵攻を諦めたというのなら、ここへ顔を出すこと自体がおかしい。どこかのバーでアカツキにつき合わせて自棄酒でもやっているところだろう。

 まるで他人事のように言う彼女の態度からは、結末を窺い知ることはできなかった。

「それで?結局勝てたんでしょうね?忙しい私に市場分析ツールの開発までさせておいて、これで負けたなんて承知できないわ」

 イネスが挑発気味にエリナに笑いかけるが、返ってきたのは「それが・・・」という弱気な声だった。

 椅子に腰掛けなおし、メガネを外して机の上に置いた。

 あらまぁ、負けちゃったの。そうやってしおらしくしてれば可愛いじゃない。

「じゃぁ潔く負けを認めたってことなのね。まぁいいんじゃない。利益が出ているうちに撤退するっていうのは正解よね。軍事作戦でも、勝って撤退するのが理想だってルリちゃんが言ってたわ」

 下手な慰めだ。当初の目標を完遂できなかった以上、利益が出ようが負けは負けなのに。

 エリナは首を振り、イネスの向かいの椅子に座った。差し出されたコーヒーを手に取る。

「そうじゃないのよ。勝つには勝ったんだけど、勝ったのは私じゃないっていうか、あれを勝ちと言っていいのかどうか・・・、本当にニュース見てないの?」

 思わずエリナは問いかけた。エリナをからかうためにわざと知らないフリをしているのではないかと疑ったのだ。

「嘘つき呼ばわりとは失礼ね。本当に見てないわよ」
「ごめんなさい。じゃ、見ましょう。この部屋ってテレビないのね。携帯画面で小さいけど、私ので・・・」

 エリナが胸元から取り出した個人用情報端末がピっと電子音を鳴らし、空中にスクリーンを描き出す。

 地球のように電波反射をしてくれる大気圏がない月面では、放送電波を捉えるのはひどく難しい。音声は明瞭だが、映像はたまにノイズが乗ってくる。

 画面に大映しになったのは、「アカツキ損師の野望!」なるコピーだった。

「アカツキ損師の市場破壊工作によるネルガルへの信用指数上昇について、本日は・・・」

 何か聞き捨てられないことを言っている。市場破壊工作で信用が上昇?

「損師ってどういうことよ?」

「そこらは今から話すわよ・・・30時間くらい前なんだけど・・・」

 背もたれがギシリと軋んだ。







 エリナが気絶していたのは、たぶん一秒か二秒のことだっただろう。少なくともエリナには、それくらいに感じた。目の前が暗くなってから、再び明るくなるまで一瞬だったと記憶している。
 だが実際にはそうでもなかったらしい。
 目を開けると、いつもの白衣姿に救急箱を持ったイネスがエリナの手首を握り、ナース姿のホシノルリがイネスの背後に控えていた。カーディガンを着ているのが高ポイント。

 髪を短くまとめずに垂らしているのがナースとしては完璧ではないが、コスプレの完成度よりは見た目を優先したのだろうか。
 率直に言ってとても可愛らしい。電子の妖精がどうのこうの、と持てはやす馬鹿どもの気持ちも多少は分かる。

「あんたって昔っからコスプレ大好きよね・・・」

 エリナがぼそりと呟くと、ルリは無表情のまま頬を薄く染めた。恥ずかしいならやらなければいいのに。

 握っていた手首を離したイネスは、今度はエリナのまぶたを押さえて眼球にライトを当てる。

「脈拍正常、血圧正常、瞳孔反応正常。本当に単なる気絶ね。精神的なショックで気絶するなんて、話には聞いてたけど実際に診たのは初めてよ。どんな気分?」

「そうね・・・貧血で気分が悪くなったような、だいたい2日目の寝起きくらいの感じかしら。いえ、こんな暢気にしてる場合じゃなかったわ。シャロンをどうにかしないと!」

 くわっと目を見開いたエリナは、横たわっていた寝台から腹筋を活用して一気に起き上がり、備え付けの端末に駆け寄っていった。

 急激な運動をしても立ちくらみも何もないようだし、どうやら体調は万全のようだ。

「そう。まぁ大丈夫そうね。疲労気味みたいだから栄養剤を打っておいたわ。他の処置はしてないから、問題があれば呼び出してちょうだい。私もちょっと忙しいのよ。それじゃ」

 おそらく聞いてはいないだろうが、イネスはエリナに声をかけ、部屋を出て行った。
 見送ったナース・ルリはエリナの上着の裾を控えめに引っ張った。

「エリナさん、診てもらったんですから、お礼くらい言っておいたほうがいいんじゃないですか?」
「後で言うわ。今は時間が惜しいの」
「はぁ」

 髪を振り乱したエリナが鬼のような形相で端末を操作しているのを、ルリがじっと見守っていた。

 ここで一言、ルリの感想。
 ああはなるまい・・・。



 そろそろじっと立っているのが辛くなってきました、というところで、エリナが顔を天を仰ぎどすん、と背もたれに背中を預けた。肩から脱力し、両腕をだらりと落とした。

 1ラウンド3分の12ラウンドをフルにこなしたボクサーのような有様だ。

 おしぼりを渡そうかどうか迷ったが、化粧の濃い顔を見てやめておいた。これで顔を拭いたら大変なことになってしまう。

「どうしたんです?」

「ダメだわ。無理。会長の言ったとおり、あっちのほうが頭がよくて用意周到だったわ。私のクリムゾンへの売り浴びせは、シャロンに何の痛痒も与えてない。むしろ、彼女のクリムゾン買収への助勢になってしまっている」

 エリナの策略がクリムゾン株の値下げを誘発し、値下がった株は、ゴールド市場で得た資金で市場の名目価格よりも大幅な安値でシャロンが買い取った。傍目にはクリムゾン株の値はほとんど動いていないが、その内実ではシャロンが取得した株は既に全発行分の30%に迫ろうとしている。

「これ以上手を出しても無意味だわ。クリムゾンの株を買い支えるシャロンの資金は膨大よ。ネルガルが利益を出しても、それ以上にシャロンが儲かることになる。私は利用されたんだわ」

 嘆くエリナだが、局面はエリナ一人におさまる範疇を超えてしまっているのだ。
 単にネルガルとクリムゾンが単純に対決するという構図なら、問題はなかった。勝敗の影響は当事者のみに限定され、巻き込まれるようなマヌケは出なかっただろう。
 だがエリナがクリムゾンとの勝負の舞台に選んだのは、世界の経済市場だ。戦場を駆けるのはネルガルとクリムゾンの2社のみにあらず。

「撤退は承服できないね!」

 空圧式のドアが開ききるのを待たず、アカツキはドアを強引に押し開きながら部屋に入ってきた。
 肩を上下させ、息切れしている。大急ぎでやってきたようだ。

「ルリ君、ちょっと僕の通話記録を再生してくれないかな?」

 前置き抜きでルリに頼んだ。キザ紳士を気取るアカツキが単刀直入な物言いをするのは珍しい。普段だったらナース姿のルリをみて「3年後が楽しみだね」くらいは言ってもおかしくはない。
 それだけ切羽詰っているということだ。

「わかりました」

 ルリが空に手をひらめかせると、壁面スクリーンに通話ログの概略が表示された。同時に音声が次々と再生されていく。

「今回のやり方はちょっと強引すぎないかね?」
「どこの誰とは言わんが、いくらライバル企業のトップが自分より若くて美人だからと言って、あんな風に露骨にやることはないだろう。いや、君のところのエリナ君がどうとは言わんよ」
「もみ消すにしても、もっとうまくやりなさい。火消しはできているが、煙は消えていないぞ」
「これだけ派手にやっておいてクリムゾン買収が成功しないのなら、君んところの信頼は地に落ちるぞ」

 延々と続く鬱陶しい小言の嵐。

 既にネルガルによるクリムゾンへの侵攻は経済界の裏では公然の事実として囁かれており、証拠は残っていないがクリムゾンの経営悪化の噂もエリナが出所ではないかと疑われている。
 この状態でネルガルが手を引けば、クリムゾンの強固な防衛にネルガルが屈服したとみなされる。ネルガルの権威は失墜し、クリムゾンは信頼を得るだろう。手段を選ばないネルガルの買収工作に耐えきったクリムゾン。その影響は陰に陽にネルガルを蝕むことになる。

「もういいよ。止めてくれ。ちょっと経済連合団のお偉方に話を聞いてみたんだけどね・・・。みんな今回の騒動がネルガル発だって気づいてたよ」

 経済界の重鎮たちは、物理的財産の規模こそネルガルに及ばないが、100年200年と営まれてきた経営の中で、軍にも政治にも教育にも医療にも、ありとあらゆる業界に根をはる人脈を営々と築いてきた老獪な裏の権力者たちだ。

 ルリが見上げたエリナの顔は白かった。唇が紫で、チアノーゼ寸前。

 太陽系を股にかけて商う巨大企業ネルガルといえど、経済を一社で動かせるわけではない。
 多数の企業が時には対立し、時には協調し、相互の信頼を担保に金をやり取りして歯車を回しているのだ。
 経営者たる彼らはそれぞれに信念を持って別の方向を向いており、結託するような機会は滅多に無いのだが、今回の騒動はさすがにオイタが過ぎたようだった。

 彼ら全員がネルガルを害悪とみなすのならば、その先に待つのは緩やかな衰退だけだ。
 メディアは広告を断るようになり、ネガティブキャンペーンが始まり、自治体の入札からも締め出され、社員は減っていき、そして消滅するのだ。

「ここで手を引いたらネルガルの面子は丸つぶれだよ。なんとしてもクリムゾンに黒星をつけないと」

 ネルガルが一歩も引かない姿勢を見せることで、ネルガル健在をアピールするしかない。

「でも一体どうやって!?私にはもう何も思いつきません。シャロンは何年もかけて準備をしてきたんだわ。対してこっちは降って沸いたチャンスを利用しただけ。だめ、何もかも裏目にでる、彼女の手のひらから逃げることはできない!」

「じゃ、僕が僕のやり方で僕なりにやる。エリナ君、E兵器を使うぞ」












 E兵器とは?

 ネルガルは言うまでも無く営利組織、株式会社である。よってその第一の目的は利益を上げることになる。

「エリナ君、最後の確認をしたい。クリムゾンはゴールドの取引で得た資金を、各国の為替市場を通して、最終的には北米で保管してるんだね?間違いない?」

 かつてナデシコを開発したようにネルガルは軍事兵器も開発・製造しているが、それを運営するようなことはごく一部の例外を除いてはありえない。
 納品前のものを除けば、ネルガル純所有の兵器というのは驚くほど少ない。

 当然である。軍というものは、非生産組織だ。その任務は基本的に破壊である。

「ええ。複数の別々のソースから同じ情報が来てる。イネスが作った市場の分析ツールでもそう出てる。100%間違いないわ」

 営利組織であるネルガルが保有する、この状況を一変させるような強大な威力を持ったE兵器。

 それは当然、武力に類するものではない。ネルガルに秩序を破壊もしくは維持しうる大兵力を保持するような力を保持する理由は存在しない。

「じゃ、北米自治体債と社債だね。ネルガルの保有する25%をまずは売り払う。明朝、NY市場終了直前からはじめよう」

 種を明かそう。

 E兵器のEとは、エコノミックのEである。







 NY市場終了一分前。
 昨今の政情不安を反映した乱高下は未だに続き、投資業者及び仲介業者は息をつく暇も無い。

 あと一分。一分だけ粘れば、翌日までに一眠りして、次の指標を分析して備えることができる。それまでは、それまでは・・・。

 終了30秒前。

 既に大方の取引は終わり、あとは平和に終了を待つのみ。

 取引所の中央に設置された3次元モニタを、全員が固唾を呑んで見守る。

 ピッ。

 それは取引が開始されたことを示すbeep音。

 表示されたのは、ネルガルからの天文学的な債権売り浴びせだった。

「ヒァッ・・・ッ!!」

 悲鳴にも似た溜息が取引場を満たした。

 ピッ・・・。

 市場が引けた。










「会長、財務長官からホットラインに呼び出しがかかっています」
「不在だと言ってくれたまえ。僕が待っているのはただ一人、シャロンだけだ」
「了解しました」
「よろしく」

 秘書室からの通話はそれで切れた。

 ネルガルが保有する債権を売りに出して2時間。トウキョウ市場の寄り付きまでに残り1時間。

 かかってきた電話は既に5件。いずれも政財界の大物からだが、アカツキは取り合わずに無視していた。

 彼が想定している交渉相手はシャロンのみ。それ以外の人間との交渉など全くの無意味であった。

 続けて断ること、更に6件。シャロンからかかってきたのは、最初から数えて12件目だった。

「シャロン、お久しぶり。秘書も通さずに君が直接かけてくるなんてびっくりだよ。人に聞かれたくない話?ひょっとして、愛の告白かな?」

 軽薄を装いアカツキは髪をかき上げ、ささやくように問いかけた。
 どんな時にも余裕を忘れないというのがアカツキのスタンスだが、必ずしもそれを好印象に受け取らない人間もいる。
 シャロンも社交場での軽口になら機嫌よく応じるのだが。

「ご冗談を、ミスターアカツキ。貴方のお遊びに付き合ってる暇はないの。単刀直入に言うわ。今すぐお止めなさい。自分が何をしているのかわかっているの?」

 シャロンの声に動揺はない。アカツキの愚挙を彼女が予想できたはずはないが、しかし彼女の果てしない才能はこの局面においても遺憾なく力を発揮し、全てを見通しているかのような底の知れなさが凄みとしてにじみ出る。

 しかしこの聡明さ故に、彼女は敗北することになるのだ。

 アカツキには確信がある。彼女は必ず譲歩する。

「もちろんさ。僕らは何も困ってないよ。昨日の夜にね、急に思いついたんだ。ネルガルは債権を持ちすぎなんだよ。ちょっと整理したほうがいいさ。大暴落で市場が取引停止になるまで多分あと半日はあるから、その間に君はクリムゾンの買収を進めたら良いんじゃないの?一気に66%超えも夢じゃないかも」

 そう、ネルガルが債権を大量に持っているのは事実。全債権の25%でさえ連合の年間予算に匹敵する。
 それを売りに出せばばネルガル発の地球恐慌が起きるのは間違いない。
 アカツキは当然、そんなことは望んでいない。

 つまりこの債権売りは、アカツキ一世一代のハッタリなのだ。シャロンも分かっている。
 だからこの駆け引きは、結局はアカツキとシャロンのやせ我慢大会なのだ。

「正気なのですか!このままでは通貨はトイレットペーパーよりも安くなってしまいます!基軸通貨が破壊されれば、文明は終わりなのですよ!」

 さも焦ったかのように大声を出して・・・。でも僕には分かる。目を見れば分かる。君の目は敵に勝利をねだる負け犬の目じゃない。
 そうやって相手に事態の深刻さを再認識させようという作戦なんだろ?
 でもまだまだ甘い。

 アカツキは肩をすくめてすっとぼけた。

「大げさな。通貨価値が変動するだけで物自体は無事なんだから、流通が止まることはないよ。昔ながらの物々交換てのもいいじゃない?」

 さぁ我慢比べだ。

「本気なのね?」

「もちろん。冗談や遊びで、政府の年間予算分を一気に売り出したりはしないよ。この上なく真剣だ」

 しばし睨み合う。

 客観的に見て、この勝負はネルガルが圧倒的に分が悪い。

 膨大な債権を一気に売りに出すなど、市場破壊工作と思われても不思議ではない。対してシャロンは額こそ巨大なものの、手法自体は合法かつありふれている。
 外から見れば、負けそうになったネルガルがゲーム盤をひっくり返して逃げようとしていると解釈するのが自然だ。ほぼ間違いなく、明日の経済紙にはその手の分析が掲載されるだろう。
 そして、その解釈は真実正しい。アカツキは戦場を破壊することでシャロンの勝利をご破算にしようとしているのだから。

「・・・・・わかったわ。手打ちにしましょう。条件は?」

 頭がいいっていうのはこういう時に損だ。アカツキはシャロンの目を注意深く探りながら考える。
 口で屈服を宣言しても、それが本心とは信じられない。第一、敗北を認めるのが早すぎる。彼女ほど頭の出来がよければ、まだまだ試す手の一つ二つは思いつけるはず。

 だから嘘だね。シャロンは嘘をついている。この敗北宣言こそが彼女の次の一手に違いないのだ。

「さぁ?」

 シャロンは勝者の権利を行使するよう、アカツキに条件を求めてきた。
 アカツキが無茶をしてまで欲しがる何かを特定し、シャロンが先にそれを押さえることで交渉材料にしようという魂胆か。この線だな、おそらく。
 僕だってそれくらいは頭が働くのさ。

「は?」

「だって何のことか分からないよ。君は株を買い集められるし、僕らは債権を整理できる。僕らは共に手を携えていけると思うんだ。何を手打ちにするんだい?」

 小ズルイ手ではあったものの、目論み通りにアカツキを引っかけらず、シャロンはさらに考える。
 シャロンの中でアカツキへの評価が2段階ほど上がった。単なる創業一族の後継者なだけで、特別な才能など持ち合わせない道楽者だと思っていたが、これはしたたかな男だ。

 端末横の時計に目をやった。東京市場寄り付きまであと5分。あと5分でトウキョウに地獄が溢れる。

 目の前のこの男は、諸共に地獄へ落ちる覚悟を決めているのだろうか?このままであれば何が起きるか想像できないような能無しではないだろう。
 分かっているのか、分かっていないのか。分かっているとしたらどこまで分かっているのか・・・。

 時間が迫っている。

 クリムゾンのトップとして、ここで結論を出す必要がある。馬鹿とチキンレースをやって共倒れになっても何の得もない。
 チキンレースに勝って賞賛を得るのは、アウトローとも呼べないような未熟な子供だけの特権だ。負けるが勝ちだ。
 シャロンはクリムゾン総支配人として、責任を果たさなければならない。

 目の前の男が責任を放棄するというのなら、シャロンが折れる。
 おそらくそれこそがアカツキの狙いなのだろうと推測しながらも、これ以上は交渉を続けられない。シャロンにそこまでの狂気はなかった。

「・・・・・・・理解したわ。貴方は筋金入りのネゴシエーターなのね。・・・・・ではこうしましょう。クリムゾンからネルガルに、フリーライセンス契約を申し出ます。対象は核物理系。ネルガルはこちらの特許を自由に使っていい。こちらがそちらの特許を使う場合は、従来どおりの料金を払います」

 核物理系を申し出たのは、最後の悪あがきだ。ネルガルが開発している新型機動兵器に核燃料が使われているのを知っているぞ、という牽制だ。
 これはシャロンの失策と言えるかもしれない。クリムゾンの諜報精度を間接的とはいえネルガルに暴露することになったからだ。ネルガルは肝を冷やすだろうが、結局はネルガルに防諜の強化を提言しているのと同じことだ。
 しかし、たとえ一時といえどアカツキが焦るのであれば、それで溜飲が下がる。これくらいの負け惜しみはいいだろう。シャロンにも意地がある。唯々諾々と従うだけの都合のいい女ではいられない。

「シャロン・ウィードリン。君は賢い人だ。だけど勘違いしてるね。僕が今欲しいのは、お金じゃないんだ。お金が欲しいんだったら、最初からこんなことしない。君はまだ僕を、ネルガルを甘く見ている。その認識を正してみせよう」

 アカツキに容赦はない。シャロンが真に守ろうとしているものを差し出すのでなければ、さらに苛烈な売りを仕掛ける。
 惜しみなく差し出される献上物は、本当に大切なものではない。

 その腹の中に、隠しているものがあるだろう?
 それこそが、諸悪の根源なんだ。木連との戦争を長引かせ、火星の後継者なんてものを生んだそれを、捨ててしまえ。捨てさせる。

 これはそのための僕の覚悟だ。

「トモコ君。第二段だ。次は35%でいくよ」

「やめなさい!貴方は自分が何をしているのか分かっているの?ことはクリムゾンとネルガルの2社に留まる問題じゃないのよ!内戦でも起こす気なの?」
「内戦?さすがは大戦中に木連と結んでいただけじゃなく、火星の後継者ともつながりのあるクリムゾンだね。すぐさま武力闘争の危険性を考えるか。その明晰な頭脳には敬意を払うよ」
「トウキョウ市場、開きました。こちらの準備もできています」
「よし発射」
「やめなさい!」

 開始直後から猛烈な勢いで下を目指していた5分刻み通貨価値グラフ中の線が、垂直に近い形に折れ曲がった。即座に60秒刻み、30秒刻みへと拡大されていくが、いくら拡大しても横軸にある時間に対して垂直に突き刺さる寸前にしか見えない。

「あぁ・・・」

 ため息をつく。もう分かっていた。アカツキが求めるものは何なのか。これほど露骨なヒントを出してくれば、誰にでもわかる。

「そう、そういうことね。火星の後継者ともつながりのある・・・・ね。現在形。わかりました。火星の後継者残党への資金提供はやめます。こちらが握っている情報も全て渡します。これでいかが?」
「んんん。どうだろうね。僕と君は友人かな?」
「え?」
「だろ?」
「ええ」
「で、君はネルガルのせいで困っている・・・と?」
「ええ!」
「わかったよ。君がそこまで困ってるんだったら、僕らもわがままいうわけにはいかないよね。何しろ友人なんだから。すぐに売った分は買い戻すよ」

 あらかじめ決めてあったハンドサインで秘書のトモコに合図を送る。今まで売った分に合わせて、さらに買い増しをする。予定金額は売却で得た資金の1.5倍だ。エリナの試算では、これでほぼ水準にまで市場価値は回復するはずだ。

「・・・・・・そう。ありがたいわ」

 人の命が何万個でも買えるような金額をかけて鍔迫り合いをしておいて友情ごっことは図々しいにもほどがあるが、シャロンに糾弾するだけの力は残っていなかった。とはいえ、なんにしろこれで片がついた。
 肩の力を抜いてため息をつくシャロン。

 アカツキは無慈悲に追い討ちをかけた。

「気を遣わせて悪かったね。友人である君の誠意はいただくよ。核物理のフリーライセンス契約の件だけどさ、後でうちのプロスペクターってのをそっちへ行かせるから。よろしくね」

 シャロンが端末を殴りつけ、そのまま映像は停止した。












「こういうわけでクリムゾンとは手打ちになったのよ」

 売られた額以上の買い注文をネルガルが出したおかげで一気に市場への資金供給が増え、 市場は大暴落の後に一気に値を戻し、逆に上げている。
 まだクーデター以前の水準にまでは届いていないが、このまま上昇傾向が続けば近いうちに元値に戻るだろう。

「でまぁ、今回ネルガルがやった大規模な売りで市場は一時とはいえ大混乱だったんだけど、それを迅速に鎮めたのもネルガルだったの。介入金額は大規模になっちゃったけど、逆にそれがネルガルの力を誇示する形になっちゃって・・・」

 連合予算の2.4年分に相当する債権を売りに出し、それから3.6年分の額で市場の債権を買ったのだ。ネルガル健在、ネルガル恐るべしの論調はとどまることを知らない。
 債権を売って得た額の50%を加えて買取をしたため、帳簿で見た場合、今回の騒動ではネルガルのキャッシュフローはとんでもなく疲弊している。
 しかしそれを勘案しても、ネルガルが集めた市場からの畏怖というものは、お金には換算できないものがある。

 個人でありながらも国家に戦いを挑み、国を破産させて世界市場を恐怖に追い込んだ投資家。
 世界中の投資機構から狙い撃ちにされても一歩も引かずに国を守りきり、逆に彼らの作戦を木っ端微塵に打ち砕いた東方の中央銀行。
 そういった経済史に残る伝説を、ネルガルは打ち立てたのだった。

「今期の決算を考えると頭が痛いわ・・・。でも損をしたけど、形にできないネルガルへのブランドを手に入れたのは事実。損して得とれってこういうことかしら。それでついたあだ名が損師」
「会長も大胆なことするわね。仁義に反するわよ。暗殺とか怖くないのかしら・・・」
「SSもいるし、今は裏で月臣源一郎がついてるわ。そのうちアキト君も帰ってくれば、個人用ディストーションフィールドと合わせてボソンジャンプで緊急避難もできるようになる」

 長らく木連統治下の統制経済で生きてきた月臣に今回の事態を説明するのは骨が折れたが、最後には大変なことをやらかしたことを理解してくれた。

 画面には、大勢のレポーターに取り囲まれて「損師、損師!」とコメントを要求されているアカツキがいる。
 みな身元は確かな人間で、今回の騒動で損を出した人間は排除されているから安全だろうが、それでもSSたちは気が抜けない。アカツキに直接接触できないように周囲を固め、押し寄せるレポーターの波に足を踏ん張って耐えている。相手が暴漢であれば殴り倒しておしまいなのだが、レポーターたちにそんなことはできない。SSたちはひたすら耐えるしかない。

「SSのみんなには特別ボーナスが必要よね。ちょっと奮発しようかしら」

 これからもしばらくは損師の人気は続くだろう。SSたちには頑張ってもらわなければならない。

「みなさん、静粛にお願いします!」

 アカツキが差し出されたマイクを奪い、ハウリングも気にせずに叫ぶように言った。

「明日、正式な声明を出します。それまでは何もお話できません」

 言ってSSたちの影に再び隠れ、車を目指してジリジリ動き始めた。
 何も話せないといって引き下がるようではレポーターなどやっていられない。レポーターの波はSSに護衛されて車に乗り込むアカツキを追ってもこもこ移動していった。

「経済界の偉い人たちも、ネルガルの今回の自爆攻撃を見れば安易に手出しはしてこないでしょうし、ひとまずは安心ってところ?」

 イネスも学位こそ持っていないが、一般書籍に書いてあるような知識は一通り持っている。今回の深刻さを正確に理解していた。これでもなおネルガルに圧力をかけるような人間はいないだろうということも予想がつく。客観的に見てアカツキはキレているとしか言いようが無い。

「ええ。でも、誰からも怒られない、誰にも咎められないからって何でも好き勝手やっていいってわけじゃない。責任を取らないと。会長は明日辞任するわ」

 またこれで一騒動あるだろう。損師も話題づくりに余念がない。

「次の会長は私に内定した。多分アカツキ君が院政をしく形になると思うけど、形の上ではついにトップ」

 なるほど。エリナがわざわざ月の田舎まで来たのは、会長就任の挨拶ってことか。

「おめでとう。念願の会長就任ね」

 祝福の言葉は意外に素直に言えた。エリナとはいろいろと確執もある立場だが、恨みつらみがあるわけでもない。

「ありがとう。そして会長就任予定者として情報公開を要請するわ。この遺跡は何?大豪寺凱は何者なの?」

「それは貴方が正式に会長になってから話すことにします。それまでは秘密」

 なによそれ、と目を吊り上げるエリナを見て、イネスは優しく微笑んだ。
 権力をもって威丈高に要求するのではなく、友人として頼んでくれれば喜んで教えるのに。でもこれでもだいぶ丸くなった。やっぱり男ができたせいかしら。

 早く帰ってこないかしらね、お兄ちゃん。



























*酷い誤字があったので一部訂正しました



[319] それから先の話 第16話
Name: koma◆81adcc4e ID:3cdca90c
Date: 2009/03/12 21:07
 火星の後継者に制圧されて以降、宇宙軍により運営を厳しく制限されていた宇宙空港だったが、先ごろ航路の安全確保がされたとしてようやく通常ダイアルに復帰していた。
 さすがに何もかも元通りとはいかず、そこかしこで警備員が目を光らせ、偏執的とも批判を受けている厳重な荷物検査など、まだまだ体制は平時には遠く、利用客数も少ない。

 砂漠の安宿を出て赤道近くの宇宙港に引き返したアキトは、閑散としたロビーでイネスから指定された月行の便を待っていた。
 手に握るチケットはイネスから送られてきたものだ。

 プラチナが箔押ししてあるファーストクラスの個室チケットは、ラーメン屋をやっていたなら絶対に購入できなかったであろう高額商品だ。
 あの頃は3人で暮らしていくだけで精一杯で、こんなものを買う余裕はなかった。
 帳簿はユリカとルリがつけていたのでアキトは詳しくは覚えていないが、おそらく半年分の収入に匹敵する金額だろう。
 いや、覚えていないどころではない。そもそも、収支には興味はほとんどなかった。ユリカとルリがやりくりしてくれるのを頼りに、好き勝手に食材を買い求め、原価や粗利にも注意を払わず、客の喜ぶ顔見たさに安く売っていた。
 最初はちゃんとした店の開店資金を貯めるために始めた屋台だったはずなのに、いつの間にやらラーメンを作って売るだけで満足してしまっていた。

 もともと外食産業は割りのいい仕事だ。客もそれなりに多かったのだからちゃんと料金を取っていればもっと儲かっただろうに、アキトの職人気質が災いして、あの時はずっと貧乏長屋住まいだった。

 ユリカとルリはその状況でもハネムーンの費用を貯めていたのだから、さぞかし苦労をかけたことだろう。

 ユリカは士官学校主席卒の才媛。軍の最高司令官就任目前だったミスマル・コウイチローの愛娘だ。
 ルリは公的な学歴はなく職歴もナデシコオペレーターのみだったが、彼女の出自もあいまって評価する声は高かった。
 高給が取れる職をいくらでも選べたはずの2人が、アキトに付き合って職を辞し、ラーメン屋台を引いて回る日々。
 二人の献身と愛情に、当時のアキトは胸を熱くしたものだ。

 だから、今更ながらに申し訳ないと思う。
 彼女らに報いてやることはもうできないからだ。彼女らが望んだ物をすでにアキトは持っておらず、一方的な負債はアキトの胸にシコリとなって残り続けている。

 そんな甲斐性の無い男が、月行シャトルのファーストクラスに大きな顔をして乗ろうとしているのだった。
 アキトは口元を歪ませた。
 自嘲の笑みだ。

 分不相応にもほどがある。自分の稼ぎに合っているのは・・・そう・・・

 キャンセル旅券の売り場に目がとまった。中でもエコノミークラスの旅券の下落は著しい。元値の20%割引で、ファーストクラスの1/20。
 
 貯金は全てラピスとユリカに送金してしまった。危険手当付のネルガルエージェントの俸給は一財産だった。人生の再出発に際して、ラピスもユリカも不安を覚えるようなことはあるまい。
 だから手持ちの現金がアキトの全財産で、それも残り少ない。割引されたエコノミークラスのチケットであっても、購入すれば小銭しか残らないだろう。
 それに、無職のアキトには収入の見通しがない。就職の当ても、当面無い。

 だからと言ってこのままチケットを使うというのは、どうなのだろう。
 3年前の惰弱だった自分ですら、金を恵んでもらうのは拒絶できたはずだ。
 ならば今の自分が、これを受け入れる道理はない。

 だがイネスの好意をつき返すのも狭量に過ぎる。もらったチケットは返さずに持っておき、エコノミーチケットを買って帰るとするか。

 わずかの逡巡の後、キャンセル旅券の売り場に足を向けたアキトを呼び止めたのは、若い女の声だった。

「アキトさん、旅券は持ってるはずですよ」

 すかさず脇に仕込んである銃に手をかけた。最新型メンテナンスフリーの光学発射式ではなく火薬発射式だが、マンストッピングパワーに優れた玄人好みの一品だ。
 自らを呼ぶ声にアキトが振り向いてみれば、帽子にサングラスで顔を隠した怪しい女が立っていた。
 細身で身長もアキトより低い。格闘能力は高くなさそうだ。女が着ているのは薄手の服で、武器を隠し持つスペースも無い。小さい女物のバッグを抱えているのが気にかかるが、あそこから銃を出してきたとしても、訓練を受けたアキトなら撃たれる前に女を射殺できるだろう。

 名前を呼ばれたことで一時緊張したアキトだったが、女がサングラスを外し、友好的な笑みを浮かべているのをかすむ目で何とか確認し、敵ではないと判断した。
 ただし、銃にかけた手は戻さない。彼に油断するということはない。

 ここにルリかラピスがいて五感補正をしていたならば、彼女が誰であるか、すぐにわかっただろう。
 しかし残念ながらルリは遠く38万kmの彼方、ラピスはリンクネットワークから締め出され、士官学校で勉強の最中だった。

 従って、かつて恋仲だった女を見分けることすら、彼には困難だった。

「君は誰だ」










 話にしか聞いていなかったアキトの障害を目の当たりにしたメグミは、声にこそ出さなかったものの、内心では激しい動揺を抑え切れずにいた。
 アキトの障害を少々楽観的にとらえすぎていたのだ。サポートがあったとはいえ戦場に出ていたという話も聞いており、一人で旅行にも行けるくらいならば、障害があると言っても大仰に騒ぎ立てるようなものではないと思っていた。
 まさか、ナデシコで生死を共にし、一時は恋人でもあった自分のことがわからないなどという事態は想像もしていなかった。

 絶句した彼女の雰囲気を察したアキトは、気遣うように、君の事を忘れているわけではない、と続けた。

「すまない。目と耳が不自由になってな。声を聞いて顔を見ただけでは、誰なのかわからない。名前を教えてくれないか」

 思ったよりもずっと深刻みたい・・・。あのイネスさんが診ているのに回復してないのなら、もう治る見込みは・・・。

「・・・メグミです。メグミ・レイナード。お久しぶりです、アキトさん」

 名前を聞き、アキトは「そうか」と頷いた。ロビーの高い天井を見上げ、もう一度、「そうか」と頷いた。

「君か。確かに。君だと分かってみれば、顔の輪郭や声の響きも、確かに君のものだ」

「貴方と話がしたい、と思っていました。アキトさん」

 言いながらアキトをじっと見る。メグミの目に映るアキトの様子は、再会を喜んでいるようには見えない。だからと言って疎まれている風でもなく、感慨にひたるようでもない。
 芸能を生業にしているおかげで相手の感情を推し量るのが昔よりも得意になったメグミだったが、アキトの表情からは感情らしきものを読み取れなかった。

 いや、読み取れないのではないかもしれない。
 もはや彼にとって昔の仲間など特別な感情を抱く対象ではないのではないか。輝かしいナデシコの日々を遠い過去の記憶にしてしまうほど、彼の3年は過酷だったのだろうか。

 不憫だった。

「私が送ったんですよ、そのチケット。一緒に話がしたくて。だから私と一緒の個室なんです」

「無用心だな。君は一挙手一投足を注目される立場なんだぞ。空港で男と待ち合わせなんてメディアに知れたらどうなるか、わからないわけじゃないだろう?」

 アキトはそう言うが、メグミの計画では、本当はここで呼び止める予定にはなかったのだ。

 ファーストクラスの乗客には専用の搭乗待機フロアが用意され、チケットを持たないマスメディアは入ることは出来ない。たとえ異性の同行者がいても待機フロアに入るタイミングさえ別なら、あとは中で合流しても外部の人間には知ることは出来ず、秘密は保たれる。
 待機フロアにアキトと別々に入り、そこで再会の挨拶を、と考えていたのだ。これなら無粋な邪魔が入る心配もない。

 だからアキトとの再会はもう少し先になるはずだったのだが、アキトがエコノミーに向かおうとしているのを見て、やむを得ず声をかけることになってしまったのだった。

「ちょっと予定外ですけど・・・。特別清純派で売ってるわけじゃないですし、構わないです。そうなったらそうなった時のことです」

 報道されれば間違いなく大ニュースになるだろう。今まで浮いた話一つなかったメグミ・レイナードに男の影がちらついたとなれば、マスコミが食いつかないはずが無い。週刊誌には根拠のない妄想を元にしたメグミの男遍歴が書き立てられ、ワイドショーレポーターからは卑猥な質問をされ、ファンからは剃刀入りの封書が届き、仕事だって降ろされるかもしれない。

 しかし、それが何ほどのことがあろうか。

「全然問題ないです」

 今回のアキトとの密会がきっかけで今の立場を失うことになったとしても、少しも後悔はない。
 打算でしか動けないような人間にはなりたくない。
 あのアカツキのような。戦争すらも自らの利益のために利用するような人間には、なりたくなかった。

 まぁ、そうは言っても無用なリスクを抱えることはない。

「でも心配してくれてありがとうございます。だったら、すぐにシャトルに乗っちゃいませんか?そうしたら、余計な心配をせずにいられますし」

「わかった。誘いを受けよう」

 言葉少なく、アキトは同意した。




 ファーストクラスの搭乗口は一般乗客用と完全に区別されており、個室は警備員が常駐する区画にある。飛行前に機長または副機長が直々に挨拶に訪れ航行予定を説明し、各個室には専属のキャビンアテンダントが割り当てられる。

 ここでもメグミの顔は知られていた。メグミと顔を合わせたプロフェッショナルの乗務員たちは、ちらっと眉を寄せることで有名人に会えた感激を控えめに表現し、ついで男連れであることに気づくと、したり顔で小さく頷いた。
 ファーストクラスを利用する客には公人も多く、そんな公人たちが秘密の恋人を連れて搭乗することは珍しくない。乗務員たちは客の秘密を外に漏らすような恥知らずではない。だからこそのファーストクラスである。

 離陸前のワインのサービスを断り、個室に入ったメグミは手荷物をキャビネットに乗せてソファーに座った。

「ワイン、断っちゃいましたけどいいですよね?」

「かまわない。酒は飲まないからな」

 下戸でもないが、アキトは好んで酒を飲むことはない。好きでもなかったしラーメンに料理酒を使うようなレシピは作らなかった。味覚を失ってからはますます縁遠くなっている。
 対してメグミは酒を飲む機会が格段に増えている。大きなイベントがあれば前夜祭、後夜祭に飲み、地方巡業があれば訪れた土地の名物を肴に地酒を飲み、撮影会があれば打ち上げで最低で二次会まで飲む。酒の味を覚え、利き酒の真似事もできるまでになった。
 ファーストクラスのワインともなれば高級な一品が出されるであろうし、後ろ髪を引かれる気分だったが、今からアキトと真面目な話をしようというのにアルコールはいれられない。

 未練を振り払うように、メグミは口を開いた。

「知ってます?アカツキさんがネルガル会長を辞職したこと…」

「ああ。空港でもニュースを流していたな。もしかして、話というのはアカツキのことか?あらかじめ言っておくが、俺はネルガルのエージェントを既にやめている。あいつのこれからの動向は教えられていない」

「アキトさんがエージェントを辞めたことは聞きました。いいことだと思います」

 メグミが知っているアキトと、眼前の黒一色の男とが同一人物であるとはにわかには信じがたい。だが彼はアキトと呼べば振り返るのだ。だから彼はきっとアキトなのであろう。
 3年前の彼は、戦いを好んではいなかった。火星の後継者からの救出以降は自ら志願し戦い続けていたというが、ユリカのために無理を押しているのだろうと思っていた。せめて彼の一助になるべく、火星の後継者の待ち伏せライブまで引き受けた。

 実際に会ってみて、メグミはアキトのことが分からなくなっていた。目の前の彼が纏う雰囲気は、明らかに3年前とは違う。
 3年でここまで変わるものだろうか。学生時代の友人と同窓会で10年ぶりに再会したこともあったが、こんなにも変わってしまった子はいなかった。

「単刀直入に言わせてください。なんでユリカさんのところに戻らないんですか?ユリカさんは何も言わないですけど、絶対に貴方を待っています」

 言っていて空しくなった。なんだか自分だけが空回りしている。ユリカの名を出しても、アキトの瞳がゆれることは無かった。ユリカへの気持ちが冷めてしまったのか。ナデシコの皆の祝福を受け、熱烈な愛を交わした2人が終わってしまったなどと、聞きたくはなかった。
 利権と憎悪が絡んだあの戦争の渦中、たくさんの人が死んで、身近な人も死んで、よかったことなんてこの2人が結ばれたことだけだったのに、それすらも無になってしまったのか。

 しかし、メグミは問うのをやめられない。溜め込んできた気持ちは尽きることのない衝動となり彼女を突き動かす。

「もうラーメン屋さんができないっていうのは聞きました。残念です。私、アキトさんのラーメン好きだったのに。でも、それでもいいんです。アキトさんが戻ってきてくれれば、また他にいくらでもできる事はあります。働けなくても、障害者認定を受ければ生活費は支給されます。私、これでも高額納税者なんです。アキトさんみたいな人たちでも安心して暮らせるように税金が使われるのなら本望です」

 勢い込んで腰を浮かし、対面のアキトの膝に手をつき、のしかかって口早に続ける。

「ネルガルのエージェントを解雇されたってことは、ネルガルにとってアキトさんはもう用無しってことなんじゃないですか?もしかして傷つきました?でも私はそれがとてもいいことだと思えるんです。もうネルガルで後ろ暗いことをしなくてもいいじゃないですか。人に恨まれるような仕事はやめて、ユリカさんのところに帰ればいいんです。ルリちゃんだってこの3年、本当に辛そうで…」

 そこで言葉を飲み込んだ。アキトがメグミの手首を掴んでいた。痛くはない。ただ冷たかった。
 昔、アキトとメグミは手を握りあい、散歩などしたものだった。あの時のアキトの手は、もっと熱かった。熱かったはずだ。それが好きな異性と触れ合うことへの熱情だったことは疑いない。今でもアキトのことを大切な仲間だと思っているが、付き合っていたあの頃のような恋愛感情は既に無い。

 熱を感じない。

 その落差がメグミを打ちのめした。不変の愛などないのだ。自分の気持ちがアキトから離れたのと同様に、アキトの気持ちがユリカから離れていくことも十分にありえるのだった。

「放してください」

 アキトはメグミを捕またままソファーまで押し戻し、座らせた。

 怖い。男に力ずくで押さえ込まれるのは、怖い。

「放して…」

 アキトは放さない。

「アカツキへの借りは大きい。俺を火星の後継者から助け出したのはネルガルのチームだ。奴の支援がなければユリカの奪還も成らなかった」

「いいから放してくださいっ!」

 怒鳴って手を振り払った。呆気なくアキトの手は振りほどかれ、メグミは少し冷静になれた。

「率直に言ってアカツキには感謝しているんだ。君の言うとおり俺が用済みだとしても、俺がアカツキへ借りを返さないという理由にはならない。少し小耳に挟んだんだが、アカツキから仕事を頼まれたそうだな。もし断る気でいるなら、考え直してくれないか」

 痛くも無い手首を擦りながら、メグミは答えた。

「いいですよ。ただし、アキトさんがユリカさんと会うって約束するなら。約束してくれるなら、アカツキさんの仕事を受けます」
 
 社長は乗り気でないし、マネージャーは明確に反対の立場をとっているが、メグミは正直に言ってアカツキからの仕事には興味があった。
 歌手の賞味期限は長くない。短期間で一気に売り抜けて引退するのでなければ、常に新しい挑戦を続けていかないとすぐに飽きられてしまう。話題づくりでも何でも、アカツキの仕事を受ければ次のステージに向かう転機になりそうだ、とメグミの直感は告げていたのだ。
 社長とマネージャー2人の反対を押し切ってまでアカツキの仕事を受けるのは気が引けて、どうしたものか悩んでいたのだが、もしアキトとの交換条件になるのなら渡りに船だ。社長とマネージャーには詫びを入れれば済む。
 もし、アキトがこの条件に同意するのなら、だが。

「いいだろう。考えを整理し終わったら、ユリカに会いに行く。だけど、ユリカとやり直すかどうかは別の問題だ。それでいいか?」

 果たしてアキトはメグミの提案を受け入れた。ならメグミに是非はない。

「とにかく会ってくれるのなら…、まずはそれでいいです」

 それきり、2人の間で会話が途絶えた。壁にかかっている時計を見れば、出発予定時刻を既に30分過ぎている。
 どうやら話している間に離陸していようだ。慣性制御が作動している限り、機体および搭乗者が加速のGにさらされることはない。呼吸器系や循環器系に持病がある人間でも、気軽に宇宙旅行ができる時代だ。もし火星が壊滅していなければ、重力が軽く環境が完全に人工制御されている火星は老人や傷病者にはすごしやすい療養地となっていただろう。

 アキトの故郷は、既に無い。

「ユリカさんの所に帰るのが一番なんです。もうアキトさんの帰れる場所は、ユリカさんの所しか……」

 ドンッという音がメグミの声を遮った。続いて振動が部屋を襲い、メグミの上半身が投げ出される。アキトは床に激突する寸前だったメグミの腰に腕を回し、そのままメグミをかばって伏せた。

 シャンデリアがガンガンと天井に打ち付けられ、照明がダウンし、消費電力の低い赤色灯に切り替わる。

 間髪いれず、警報が鳴り始めた。

「火災発生、火災発生、乗務員は速やかに消火活動を…」

 火災警報は唐突にブツッと途切れ、続いて空気漏れ警報が鳴り出す。

「エア漏出、エア漏出、乗客フロアの気密に…」

 さらに警報が変わる。

「電力低下、電力低下、エンジン稼動率が急速に低下、予備ジェネレーター破損…」
「センサーがデブリを多数検知、推力不足で回避不能……」

 バシャっと壁がスライドし、簡易酸素マスクが排出された。シャトルに備え付けられたマスクは真空空間での生存を目的としたものではなく、あくまでも船内の気密不足エリアで活動するためのものだ。事故にあってから救助が来るまでを真空中で過ごす場合の時間を完全に保障できる酸素量を確保するには、個々人に大きなタンクが必要になる。そんなものをシャトルの乗客全員分積むような積載量の余裕はない。

 1分ほど伏せていただろうか。アキトはメグミの上からどき、肩を貸して立ち上がらせた。

「メグミ、すぐに操縦室まで俺を連れて行ってくれ。もし火星の後継者の襲撃なら、訓練を受けていないパイロットでは逃げ切れない。俺が操縦を代わる」

 呼び捨てにされたことを意識する暇はなかった。

「自力で操縦室にもいけない貴方に何ができるんですか?ここで大人しくしてるべきです」

「今のシャトルはIFS制御系が必ず一系統は用意されてる。IFS制御式で俺に動かせない物は無い。それがシャトルであってもだ。いいから連れて行ってくれ」

 反論している場合ではないのかもしれない。彼が言うとおり攻撃を受けているのなら、このままじっとしているだけで事態が好転する可能性は低い。目の前のアキトが操縦のスペシャリストというのも事実だ。
 メグミとて命が惜しい。万が一の事態がおきているのなら、アキトこそが今の状況を打破できるジョーカーなのだ。

「こっちです!」

 アキトに酸素マスクを被せ、自分も酸素マスクを被って部屋を躍り出る。通路の気密はいまだ保たれていたが、空気漏れは続いているようだ。寒い。

 ファーストクラスは操縦室からもっとも近いフロアで、途中にはセキュリティのため鍵のかかった重い扉がいくつも立ちはだかっている。

 真っ直ぐに操縦室へ続く扉へ走り寄り、壁の受話器を取り上げた。通話ボタンを押して接続の確認をしないまま、

「乗客のメグミです。軍事訓練を受けたパイロットがここにいます。非常事態ならお手伝いさせてください」

 返事が来るまでに、すこし間があった。

「飛行時間は何時間だ?」

「機動兵器なら3000時間。航空機だけなら500時間だ。IFSに限るが、専門訓練も受けている。役に立てる」

「入ってくれ」

 簡潔な返事で扉の鍵がガチャリとはずれ、アキトはさっと中に滑り込んだ。









[319] それから先の話 第17話
Name: koma◆81adcc4e ID:3cdca90c
Date: 2009/09/20 02:35
 操縦室に招き入れたアキトに目もくれずに、パイロットの2人は操作盤の上で両手を走らせている。立体映像投影装置は故障してしまったらしく、壁にかかった平面ディスプレイにメッセージが目にもとまらない速さでスクロールしており、パイロット達の手の動きに合わせて時折スクロールを停止している。

 操縦室の中は赤色灯の他にもディスプレイが光源になっていたので比較的明るく、メグミはつまづくことも壁にぶつかることもなく、目の見えないアキトの手を引いて無事に予備操縦席につかせることができた。

 一仕事終えて、これで安心、とほっと一息ついた。生死の境に長居するのは久しぶりのことだが、あまり心配はしていなかった。

 ふと思い出されたのは、電池切れになったエステバリスで宇宙空間を漂流した時のことだ。
 母艦から離れた絶望的な状況下にあっても彼は取り乱すことはなく、冷静な対応のおかげで生還することができたのだ。
 ウリバタケやリョウコなどはアキトのことを優柔不断で軟弱な男と謗るが、あの当時から、彼には秘めた強さがあった。そして今の彼は、確かに怖い男になったが、同じくらい頼りがいのある男に成長したようだ。

 メグミは今の状況でも不安をほとんど感じていない。表面的にはどうであれ、それがメグミがアキトに下した評価なのだった。

 物思いにふけっていたのは、おそらく数秒のこと。メグミを現実に引き戻したのは、2人のパイロットが操縦席から転がり落ちる、ガタンという音だった。うめき声も上げずに崩れ落ちた2人をゴミのように蹴り飛ばし、代わりに操縦席についたのはアキトである。

 まさか、アキトがやったのか?
 信じられないが、状況からして間違いない。

「いきなり何を、何をやっているんですか!」

 メグミのは悲鳴にも似た怒声を張り上げたが、アキトが動じることはなかった。コンソールに置いたアキトの手の甲を起点として、IFSパターンが光ってアキトの体表を走り抜けた。手首を抜けて肩へ、首、顔までもが発光し始める。

 ナデシコCの電子装備をフルドライブさせた時のルリに、勝るとも劣らぬ威容。

 メグミはそれ以上の追及を忘れ、呆然と見とれた。

「操縦者が複数いるのは非効率的だ。一番腕がいいパイロットが一人いればいい。そして腕が一番いいのは俺だ」

 本当はもっと複雑な理由がある。この2人が火星の後継者と通じていない保障がないのだ。わざわざメグミにそれを話して不安がらせることもないだろう。

 シャトルは最初の衝撃以降、外部の干渉を受けていない。襲撃であれば接舷されるなり続けて攻撃を受けるなりするはずで、つまりこれは襲撃ではなく純然たる事故なのであろう。
 火星の後継者の襲撃下で操縦室に入れたのならば、非常事態に対応できないパイロットたちが藁にもすがる思いで入室を認めたと考えることができる。だが、ただの事故であれば簡単に入室できたことは際立って異常だ。彼らが本職とは思えない。潜入工作員にしてはお粗末な出来だが、促成培養なのか。

 それに真相はどちらでもかまないのだ。パイロットは一人でいいというのがアキトの本音なのは変わらない。他のパイロットは邪魔なだけだ。

 コンソールの文字列がスクロールする速度は、先ほどの何倍も速い。既に目で追う追わないのレベルではなく、何か白い光点が点滅しているようにしか見えない。これぞまさしくIFSの利点だろう。機械との接続を五感に頼らず仲立ちするIFSは人類に新たなる飛躍をもたらす、と信じる人も多い。
 メグミもそう思うことがある。アキトやルリを見ていると、特にだ。
 今アキトを見ていて、強くそう思う。

「その2人を縛ってくれ。それと、少し強めに殴ったから一応診てやって欲しい。看護免許を持っていたはずだな?頼む」

 メグミの返事を待たず、アキトは作業に没頭していった。既にメグミなど眼中にないようだ。

 自分で殴り倒しておいて看護は人任せなんて。
 ついカッと頭に血が上るが、今はそんなことで喧嘩をしている場合でもない。

 まったく、頼りにはなるけどこんなに自惚れ屋の乱暴者になっちゃったなんて。

 憤慨しつつ倒れ伏したパイロット2人をジャケットで縛りあげるメグミだったが、アキトが自信たっぷりに言い放った「一番腕がいい」というのが本当だということはすぐにわかった。腕というのは操縦に留まらない、もっと包括的な技術の総称だったようだ。

 赤色灯だけだった室内を、明るい白色光が照らし出したのだった。

「スピーカーの電源を明かりに迂回させた。艦内放送は不可能になったが、今は必要ないだろう。床か壁にマークがないか探してくれ。こういうやつだ」

 言ってコンソールを示す。メグミが覗き込むと、赤い縁取りで多角形が重なった中央に「E」のマークが点滅していた。

「走査したところ、既に燃料タンクは爆発回避のために切り離されている。このシャトルは推力を得る手段が失われてしまった。この2人は本当に良くも悪くも正規の訓練しか受けていないな。排除したのは正解だった」

 誘爆の危険信号の仕様を理解している玄人は、危険信号が出てからも30秒はまだ安全だと看做す。それだけの余裕を持って設計されている。だというのにこの2人は危険信号が出てすぐに燃料タンクを切り離している。民間シャトルのパイロットなら悪くない選択といえるが、非常事態に対応できる力量ではない。
 30秒あれば推進機関内の一時燃料槽に燃料を送れるのだ。一時燃料槽の分だけでは10秒程度の噴射しかできないが、ギリギリの状況ではその10秒で十分なのだ。軍務経験者であれば、リスクをとってでも絶対に粘る。
 
「だが幸い重力制御装置は生きているから、これを調節すれば重力スラスターにできる。月まで行くには出力が弱すぎるが、安定軌道に乗せるだけなら十分だ。このマークがあるところに、手動の調整弁がある。探してくれ」

 明かりがあったおかげでマークは簡単に見つかった。マークの上から取っ手を引き出して持ち上げると、その下には小さいネジが並んでいた。ネジの頭にEやGなど、アルファベットの頭文字だけが刻印されている。どのネジをどちらに回すと何が起こるのか、全くわからない。これはメーカーがメンテナンス用に設けた機構なのだろう。購入した側がこれを調整して飛行することを想定していないのだ。だから何も説明がない。

 アキトは仕様を知っていたのかそれとも今調べたのか、淀みなく指示を出す。

「右から1番目と2番目のネジを時計回りに回せ。指だけで回せるようになっている。それと明かりはもう切るぞ」

「何でです?明かりがないと作業ができません」

「この状況の原因は外部からの攻撃ではないようだ。最初の衝撃以降、二度目が来ない。よってを恒常性維持を最優先、電力は暖房に回す。空気の漏出は止めたが、気圧が下がったせいもあってエコノミークラスの温度が下降し続けている。作業用に赤色灯をまたつける」

 加圧するだけの空気が最早ない。代謝を抑えて酸素消費量を減らすためにも、今のままの気圧を保つことしかできない。かといって寒さをそのままにしておけば凍死してしまう。元々がスピーカー用の電源なので電圧が低く暖房の完全稼動は望めないが、ないよりはマシだ。何しろ赤道直下からの出発だったのだ。誰も彼も薄着で搭乗している。

 ビジネスクラスとファーストクラスにはバッテリー付の暖房器具があるので心配ないが、エコノミークラスの乗客には凍死の危険が間近に迫っていた。
 安定軌道に乗せた後は、重力制御装置を稼動させているメイン電力を暖房にまわせる。
 それまでなんとしても艦内温度を維持しなければならなかった。

「通信機への12V電圧の供給が不安定だな。しかし暖房を切るわけにはいかない。どこかで12Vを作れるところは…」

 テキパキという形容詞が似合う男・オブ・ザ・イヤー、などとバカなことを考えながら、メグミはアキトの指示に従い、作業を続けるのだった。






 シャトルの事故は、その発生直後に地球の宇宙港および月面宇宙港の両基地で観測されていた。ただちに救助隊へスクランブルがかかり、隊員が集合してから救助へ出発するまでに5分ほど。その間に宇宙港オペレータは事故にあったシャトルの軌道計算と運動量のシミュレーションを始め、軍へ報告する。また別のオペレータは、最寄の軌道で救助能力のある運行機体へ連絡を取り、救助の依頼を続ける。

 あの軌道で事故にあう可能性はなかった。シャトルはデブリの少ない航路を選択しており、少々の計算違いをも考慮に入れて安全な行程になるはずだった。航路スケジュールは統合軍を通して各国と連絡を取りあって集中管理しており、航路がダブルブッキングする可能性もまずない。
 事故が発生する直前、レーダーに戦艦級の熱反応があった。それが気になる。





 ”宝石の宮殿”と銘を授けられている規格外艦。大豪寺凱が故郷から持ち込んだ艦艇である。
 部品の一つ一つのすべてことごとくネジの一本に至るまで、既存の規格とは違う単位で作らている。メートル法もグラム法すらも通用せず、かろうじて10進法と2進法、16進法のみが共通概念だ。
 あまりにも整備に不都合なのでだいぶ改装が進んだが、内部装飾はアカツキの指示でそのままになっていた。この内装が好みにぴったりで、変えるなんてとんでもない、とのことだ。
 壁と床には銀を使用した幾何学装飾模様が描かれ、上級職位者用と思われる高所にある座席には宝石がちりばめられた指揮棒が設置されている。
 ルリの美的基準からするとかなり派手(悪趣味とほぼ同義)と言わざるを得ない装飾なのだが、それを凱に伝えると、ほがらかに「さようでございましょう」と頷いた。

 アカツキにちらりと視線を投げた凱に曰く、
「”宝石の宮殿”は貴人を騙る愚か者どもの虚栄の具現なりせば、真なる貴人の御心を照らすことあたわず。瑠璃様にはふさわしくありませぬ。このような御座艦しか用意できず申し訳ございません」

 大豪寺凱。彼は普通の婦女子からは敬遠されるような外見をしている。鷹のように鋭い眼光と引き結ばれた唇、顔には目をまたがる古い刃物傷があり、盛り上がった筋肉が服の上からでもはっきりと見て取れる。
 アカツキを護衛するSS達も同様に見事な体つきをしていたが、その一方で鈍重そうな印象もあった。しかし凱にはそのような印象はない。それはきっと、彼が見世物ではなく本物の格闘術を習得しているからなのだろう。木連式柔を修めた月臣とは微妙に違う足運びだが、何かの理念を持って体を運行しているのが素人のルリにもわかる。SSたちが己が身を盾とするなら、凱は盾でありながら矛でもあるのだ。

 そのようなイカツイ外見を持っていながら、凱は意外に紳士的な男だ。ドアはルリを先回りして開けるし、食事は率先してルリの分まで取ってくる。最初はルリの注文した料理を必ず先に口にする、いわゆる毒見までやろうとしていた。
 常にルリの背後に付き従い、言葉遣いは度をこして丁寧だ。自分の役割を下男や召使と勘違いしているのではなかろうか、と思ったりもする。

 ただ、まれに名前に様をつけて呼ばれることがあるのがちょっと引っかかる。彼が瑠璃様と呼ぶ時は名前の発音も少し違うようで、その場にいない誰か別人に呼びかけているような、形容しがたい不気味な気分になる。
 が、おおむねルリは彼のことを気に入っていた。
 彼は気持ちのいい、すっきりとした気性をもつ男だ。そういう男が自分のことを丁重に扱ってくれるのは、悪い気がしない。

 ハーリー君もこういう風に成長してくれればいい。

 マキビ・ハリ、通称ハーリーはルリに惚れている。好きな女にあるべき男性像を提示されれば、「僕がんばります」と応えるだろう。期待されれば応えようとする素直さを、ルリも好んでいる。
 11歳の子供がマセたものだが本人は真剣で、サブロウタをはじめとした周りの人間も、微笑ましく見守っているのだ。

 しかしルリ本人はハリの気持ちに気づいていないので、2人はまだ何も始まっていない。



 それはそうとしてオペレータ席のルリは、今しがたの二連装グラビティブラスト発射で生み出された10,000個以上に上るデブリの軌道計算をしていた。
 3年前の戦争終結以降、地道に軌道上を掃除してきたのに、またもゴミだらけになってしまった。これは口頭注意では済まない大問題に発展するかもしれない。せめて正確な報告をして少しでもお目こぼしをもらおうという魂胆だった。

 事の起こりは、ネルガルが静止軌道上に持つ広域センサー衛星が感知したボソンアウトに似た別の何かの反応だった。
「まさか、早すぎる!」と焦りすら見せる大豪寺凱は、事情がよくわからないルリを連れ立って、地球に行く用事があったアカツキもついでに乗せて飛び立った。20分前のことだ。

 反応があった地点に到着してみれば、そこにはなんだか分からない巨大な黒い板が軌道上に浮かんでいたのだった。
 通常手順通りにセンサーを起動したルリは、反応を読み取って驚愕のあまり「え」と声を漏らした。
 縦横比1.618の長方形が向かい合わせになったその6面体は、かつて木連が運用していたボソンジャンプ誘導機コードネーム「チューリップ」と同様の組成、つまり全体をCCで構成された物体なのだった。

 ボソンアウトした黒い板(後にモノリスという統一呼称が定められる)が再びボソン反応を見せたところで、凱は警告もなしにグラビティブラストを叩き込んだ。
 ”宝石の宮殿”が誇る大出力2連装グラビティブラストはモノリスのディストーションフィールドを易々と撃ち貫き、哀れな物言わぬ黒い塊を、もっと哀れな物言わぬ1万個ほどの黒い塊と湧き上がる粉塵に分割し、粉塵にもなれなかった余りの部分は熱と光になって消えていった。

 ルリが口を挟む隙は、誓って言おう、全くなかった。大きめのデブリの掃除が済むまで、民間シャトルの運行は禁止措置がとられてしまうだろう。
 だが本当の悲劇はその次の瞬間に起こった。
 崩壊、爆散するモノリスを3人で見守る中、秒速20kmくらいで軌道上を暴走する質量約100kgのデブリが、視界の隅を地球から第二宇宙速度であがってきたシャトルと衝突したのであった。

 ……アキトとメグミが乗っているシャトルだった。


「あんまりのんびりしてて欲しくないねぇ。テンカワ君とメグミ君がピンチなんだからさ。特に彼に何かあると新会長と研究所主任の2人が怖いことになっちゃうよ」

 ブリッジの客席にいるアカツキが言うと、凱は露骨に不機嫌な顔をして答えた。

「シャトルの回転モーメントがゼロに近似するまでは手が出せん。軌道に乗せるまでは見事な手並みだったが、その後がよくない。回転モーメントの減衰が非常に遅い。何を手間取っているのか…」

「シャトルからの通信が入りました、通信復帰します」

 ルリの報告と同時に、通信機にノイズ混じりの音声が入る。メグミの声だった。

「こちら地球月間旅客艇1021号です。緊急事態発生。事故により航行能力を喪失し地球軌道上で漂流中。墜落の心配はありませんが酸素の残量が少なく、救助を必要としています。センサーが故障して現在座標は不明。こちらの位置を捕捉できる救助能力のある艦艇がありましたら、救助をお願いします」

「こちらネルガル所属艦”宝石の宮殿”オペレーター、ホシノルリです。貴艦に一番近いのは当艦です。状況を教えてください。回転モーメントが一向に減量しないのはなぜですか?このままでは接舷できません」

「ルリちゃん、来てくれたの?私、メグミよ、メグミ・レイナード!ありがとう。助かります」

 メグミは一瞬声を弾ませたが、それも長続きしない。

「駄目なの。もう電力の余裕がなくて、慣性制御装置を起動できません」

「了解しました。対応を検討します。それまで待機を」

 一旦通信を切り、凱とアカツキを振り返った。

「どうします。この艦をあちらのシャトルの回転に同期させますか?」

「時間がかかりすぎてしまいます。この艦は軍艦でも救急艇でもありません。もともとは貴族用の観光船でございまして。細かい作業には向いておりません。他の救助艇の到着を待ったほうが早いかもしれません。問い合わせてみましょう」

 言って宇宙港に通信を開こうとしたが、凱が操作するよりも早くルリが報告した。

「結構です。私のほうが早いので。…宇宙港のレスキュー隊の到着時刻は未定です。デブリが多すぎて航路計算に手間取っています。軍は……」

 軍のコンピューターに接続し、情報を引き出す。オモイカネかヤゴコロがいればものの数秒で済むのだが、”宝石の宮殿”には彼らがいない。しかし、正規に救助を依頼して回答を得るよりはルリのハッキングのほうが早かった。
 待つこと30秒。

「…デブリを突破できてなおかつ救助作業ができる工作艦は、火星の後継者討伐で出払ってしまっているようです。今から救助を要請しても到着は1時間後ほどになるかと」

「御自らありがとうございます。我々で救助するしかありませんね」

「一応、救助要請は出しておこうよ。あっちは電力不足だって言ってたよね。それなら電力を外部から供給すれば回転を止められるんじゃない?」

「どこから供給する?あの大質量を慣性制御する電力は、簡単にはもってこれないぞ」

「艦が都合できないなら機動兵器、たとえばエステバリスはどうだい?」

「外部バッテリーをつけても最低3機は必要ですし、このデブリの中をエステバリスで移動するのは熟練のパイロットでないと。急には準備できません」

「カイユーダスと君がいるじゃない。あれならエステバリス3機分くらいの出力は簡単に出せるだろ?」

「カイユーダスは完全自己完結循環型で、外部へ電力供給する機能はない。できるとすればイロクォイスだな。動力はカイユーダスと同一で出力に問題はなし。ドクターがオプションパック装着用に外部電力供給用のコネクタを取り付けていたから可能だろう。だがイロクォイスはIFSとマニュアル操作のハイブリッドだ。操縦できる奴はただ一人、あそこで漂流するシャトルにいる」

 打てば響くように凱が返答する。アカツキはそれなら簡単だ、と頷き、

「じゃ、戻ってきてもらおう。ルリ君、通信を」

「はい」

 ルリに命令を出すアカツキを、凱が眼光に殺気すらこめて睨み付けた。アカツキは動じない。

「なんだい?辞表は出したけど、まだ受理はされてないから僕は会長だ。僕が彼女に業務命令を出すのは当たり前のことだよ。それとも」

 それとも、ルリ君にアキト君を近づけたくないのかな?
 ルリに聞こえないように凱の背後に回りこんで、小声でつぶやいた。
 凱は黙殺し、それきりアカツキを睨むことはなかった。

「はい、こちら地球月間旅客艇1021号。ルリちゃん、こっちはどうしたらいいの?」

「アキトさんに代わって下さい」

「了解」

 ごさ、がさり、と衣擦れの音がスピーカーに入った。メグミが席から立ち上がったのだろう。

「アキトだ」

「やぁ久しぶり。前置きはなしでいこう。相談の結果、そちらに電力を供給して回転を止めてから接舷しようってことになってね。いろいろ案は出たけどイロクォイスを接続するのが一番だろうって。ジャンプでこっちに来てくれるかい?イロクォスはここの格納庫にある」

「了解した。少し待て」








「こおり~、こおりはいらんかねぇ~」

 人が大勢来るところは商売の機会が多い。突如発生した洋上の人だまり、およそ2000人ほどのマスコミ関係者を目当てにした現地の商会がカキ氷、焼きそば、ホットドッグなどを売りさばいていた。ホクホク顔で重そうに膨らんだ腹の銭入れをさすっている。大儲けだ。

 赤道直下の洋上では、世界各地から駆けつけたマスコミが厳しい日差しに汗を流しながらも、それぞれチャーター船またはヘリコプターなどからカメラを構え、シャトルの着水を見守っていた。
 シャトルの事故自体が珍しいというのもあるが、無事に助かったのだから本来はこんなにも大騒ぎすることはない。
 今回の事故はそれだけ特別だったのだ。

 事故の第一報が宇宙港から流れると、とあるマスコミを例にとると、まず最初に乗客名簿の確認からはじめた。通常であればプライバシーを盾に公開は拒否されるのだが、事故があった場合は公開要求は簡単に通る。死傷者が出た場合には親族に迅速に伝えなければならないからだ。宇宙港から回ってきた回報を調べて、関係者は驚愕し、狂喜した。地球圏で大人気のテレビスター、メグミの本名あるメグミ・レイナードの名前が出ていたからだ。
 誰もが「メグミ、シャトル事故から奇跡の生還」の見出しを思い浮かべた。
 これは是が非でも、シャトルから降りる瞬間のメグミの写真を押さえなければ。できればインタビューも。
 記者たちは早速現地への足を手配した。

 これだけなら社会部と文化部が騒ぐだけで終わったのだが、誰かが途中で気づいた。
 あれ、メグミは個室で誰かと一緒になってるぞ、と。
 あわてて再度、乗客名簿を確認。相部屋になっているのはマネージャーやその他の関係者ではない。名前は一言、アキトとなっている。男の名前だ。
 脳裏に踊った見出しはこうだ。「メグミ、シャトル事故から愛の生還」
 売り上げ倍増を約束されたも同然だ。報道部トップはほころぶ口元を抑えきれない。
 
 報道部トップの進言を容れた経営陣からのキモ入りで、芸能週刊誌を発行している系列子会社にも指令が飛ぶ。男の正体を探って来い、と。

 相次ぎもたらされる情報で大興奮の中、軍事部から軌道上で肉眼でも確認できる大規模な爆発がおきたことが知らされる。
 いきなりきな臭くなった。
 現在の情勢で考えられるのは火星の後継者のテロだ。そしてメグミの公開職歴では、”あの”ナデシコのオペレーターをやっていたとあるし、この前のクーデターでもメグミはネルガルに協力して火星の後継者を待ち伏せしている。
 週刊誌記者は次号記事のストーリーを作り上げた。

 秘密の恋人との甘いひと時を過ごすメグミ。そこへ現れる火星の後継者たち。メグミは恋人と力を合わせ卑劣なテロリストたちを勇敢に撃退し、乗客たちに一人の犠牲を出すこともなく、生還を果たす。

 スキャンダル暴露が身上の記者で、ラブストーリーをやろうとすると陳腐にしかならないのだが、これで十分だ。売れるだろう。

 この時点でシャトル事故のための特別取材チームが結成された。軍事部、社会部と文化部をメインに、週刊誌記者が乗り合わせる形だ。

 さて出発、というところで宇宙港からの第二報がきた。
 シャトルを牽引しているのはネルガル所属の艦艇”宝石の宮殿”で、シャトルは未確認の機動兵器によるディストーションフィールドで保護されているという。
 しかも”宝石の宮殿”に乗っているのはアカツキ本人だとか。

 現地取材など汗くさい、金は市場で動いているんだ、が口癖の経済部の記者は、仇敵の社会部からなだれ込んできたタスクチーム所属記者に拘束され、事情説明もないまま快速艇に乗せられた。着の身着のままだった。

 各社似たような構成で取材班を組んだのだが、ネルガルの資本が入っているマスコミだけは政治部の記者も同時に派遣した。リークがあったのだ。







 救助のために派遣されていた空母の甲板を借り受けて記者会見がはじまり、アカツキの第一声で報道陣は混乱の極みに叩き込まれた。

「わたくし、アカツキ・ナガレは統合議員補欠選挙に立候補いたします」



[319] それから先の話 第18話
Name: koma◆81adcc4e ID:3cdca90c
Date: 2009/12/12 21:44
 自らの境遇を嘆くのは、随分と前にやめた。うずくまって自らの不幸に涙するだけの惰弱な男は、最早どこにもいない。

 五感を奪われたこと。妻を奪われたこと。悲しみは怒りへと転化され、怒りは憎悪を呼び彼は復讐の鬼となった。

 もう二度と戻らない視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。しかし妻だけは取り返した。実行犯を打ち破り、殺し、首謀者は捕らえた。

 彼は復讐を完遂したのだ。その彼、アキトは今。




 ガレージのシャッターが騒々しい音を立てて巻き上げられていく。現在午前9時半。あまりに朝早すぎるのは反感を買うから、午前中は今くらいの時間から正午までの2時間半ほどがちょうどよい。

 助手席のドアを開け、まずはルリが車に乗り込んだ。彼女のかざした左手のIFSが一瞬の輝きを見せ、ナビゲーションシステムが起動、今日の午前中のルートがざらっと表示された。

 この車は見かけこそ市販の小型キャンピングカーだが、その実態はとんでもなく金がかかったVIP仕様だ。陽光を受けて鈍く光る車体は宇宙戦艦装甲からの削りだし、操縦設備はエステバリスのコアシステムを移植したもので、非常時脱出用にディストーションフィールド発生装置とCCの両方を装備している。警察と宇宙軍による合同警備の中で襲撃を受ける可能性はほとんどないが、アカツキは保身のためには金を惜しまない。

 ルリに続いて乗車したのはメグミだ。スライド式の後部座席ドアをガラリと引き出し、颯爽とした足取りでステップを昇る。今日の装いは薄いベージュのスーツだ。合わせて赤いベレー帽を頭に載せている。

 後部座席中央天井のサンルーフを改造したお手振り用窓の下には、準備万端とばかりに人数分のタスキが置いてあった。
 打ち合わせで納得済みだが、思わず眉をひそめた。売れなくなった歌手は、こういうタスキをかけて地方の観光地巡りをして糊口をしのぐのだ。近い将来、もしかしたら自分もそうなるかもしれない。気が進まない。

 こんなダサいものを身に着けるのは嫌だ、と拒否するのは簡単だが、それはメグミのプロ根性が許さない。歌手の仕事だって、宣伝のためなら嫌味な司会がいる音楽番組にだって出たし、評判はいいが気難しい作曲家のところには菓子折りを持って頭を下げに行った。だからこそメグミは大成したのだ。

 我慢よメグミ、これは新しい仕事、そして次の段階へ進む試練なのよ。

 自分に言い聞かせ、ぐっと奥歯を噛みしめてメグミはタスキを肩にかけた。
 化粧直し用の姿見に体を映して、メグミはため息をついた。
 上品なスーツとタスキのミスマッチがどうしようもなく間抜けだった。年若い少女たちのファッションリーダーを務めるメグミが、それはもう無残なものである。

 落胆するメグミを尻目に、最後にアキトが運転席に座りって座席位置を調整、メグミと同じタスキを掛けてからシートベルトをしっかりと装着する。

 45度首をひねって回し、ルリも同じタスキをつけてシートベルトをしているのを確認。さらに20度首をひねり、メグミのシートベルトも確認。

 安全確認したアキトは右手のIFSから、車に命令を流し込んだ。

 徐行前進

 車はそろそろと動き出し、ガレージを抜けて公道に乗り入れる。

 照りつける陽光の眩しさに、メグミは額の上に手のひらで覆いを作って目を細めた。快晴の今日は格別に日差しが強い。
 紫外線は窓ガラスで完全にシャットアウトされているが、光線の強さは調整されないようになっている。メグミは数秒で目が慣れたが、ルリはたまらずに涙を流してしまった。手をかざして目を覆って耐えていると、横からすっと、運転中のアキトが無言で手を差し出した。
 アキトがいつも顔にかけている、黒いバイザーが握られていた。おそらく予備だろう。

 少し躊躇ってから、ルリはバイザーを受け取って顔にかけた。礼は言わない。

 ルリが入力したルートにしたがって車を走らせ、最初のチェックポイントにたどり着いて一旦停止すると、あらかじめ呼び集めておいたメグミ親衛隊がハッピを羽織って歩道を占拠していた。

 こんな異様な集団が警察に捕まらずに粛然としていられるのは、平和的なデモを行う旨、当局には通達済みだからであり、かつ、このようなマニアック集団を統率する手腕に長けたウリバタケが仕切っているからなのだ。

 メグミが先頭にいるウリバタケを見つけて、ハンドサインを出した。

 メグミのサインを読み、卸したてのファンクラブ限定MEGUMIロゴ入りスニーカーを履いたウリバタケは、見せびらかすよう片足を一歩前に踏み出して、側の腕をグルっと大きく回して振り上げた。

「せっぇーの、」

 予定通りである。

「メッグッミチャーーーーン!!!」
「うぉおおおおおぉぉぉぉおお!!!」

 それは打ち合わせと違う!

 メグミは慌てて車内窓からウリバタケの方を向いて、腕を交差させてバツマークを作り首を横に何度も振った。
 何がだめなのか分からないウリバタケは、メグミを見ながら腕を組んで首をひねったが、後ろから忍び寄った副隊長に耳打ちされて、おお、と頷いた。

 そうだったそうだった、と照れ隠しに頭をポリポリと掻いて、片手を立ててメグミを拝んだ。

 気合を入れなおすように額のハチマキをぎゅっと引き絞って両腕を腰の後ろで組んだ。もう一度大きく息を吸い込み、その細い体に不似合いな肺活量を駆使して大声で叫ぶ。

「がんばれ~アカツキ~!!!」

 ウリバタケの音頭に合わせ、歩道を埋め尽くすメグミ親衛隊たちが、うぉおおおと背をいっぱいに伸ばしてしゃがんでウェーブを作って波打ち、寄せて返してどよめく。

 ルリのIFSから信号が流れ、車の天頂に設置してある立体投影装置が稼動を開始、アカツキ選挙事務所のタスキをかけたメグミが、大写しになった。スピーカー電源オン。
 メグミはにこやかに親衛隊に笑いかけ、声優業と歌手業で鍛えた喉を使い、お決まりの宣伝文句をよく通る大きな声でささやいた。高等技術である。

「アカツキ・ナガレ、アカツキ・ナガレを~よろしく~お願いしま~す~!!!!」

 ウグイス嬢メグミ、ここに爆誕す。

 メグミがアカツキから受けた依頼とは、アカツキの選挙公報の仕事だったのである。

 メグミに握手を求めて車道に飛び出してくるファンがいないのを三重に確認し、アキトは車を徐行発進させた。

「ご声援ありがとうございま~す!皆様の、アカツキ・ナガレでございま~す!よろしくお願いしま~す!」

 そう、つまりアキトは今、選挙カーの運転手をやっているのだった。







 シャトル事故以降、何がいったいどうなったのか。

 唐突に発表されたアカツキの補欠選挙立候補宣言という大ニュースは報道陣に大きな衝撃を与えたが、一人だけ事情を理解していた記者が独占状態で質疑応答をしている間に、大方は立ち直っていた。

 なるほど、経済の巨人が政界に乗り込むというのは一大事だ。アカツキの知名度と資金力があれば、勝ち抜くことも難しくないかもしれない。政界で起きている一大粛清劇の中に、新たな変数が加わることだろう。
 しかし、今はそれよりもメグミの恋愛の話のほうが大事だ。それが目的でこんな洋上までやってきたのだから、何をおいてもメグミのコメントをもらわなければ帰れない。
 男との関係を洗いざらい吐かせるのは無理としても、せめて交際宣言くらいは聞かなければ、仕事ができない奴のレッテルを貼られてしまう。

 記者たちは一応熱心にアカツキの話を聴きながらも、アカツキの横に行儀よく座っているメグミと、その隣のアキトに視線を注ぐことを忘れなかった。
 あの男の身元もはっきりさせねばならない。ボソンジャンプを伴わない短距離旅行とはいえ、地球月間連絡艇に身元を隠したままで搭乗予約をとれる人間は限られている。そこらの実業家や地方の名士程度の権力やコネでは、宇宙航空のルールを逸脱させることはできない。おそらく軍関係者、あるいは統合政府のエージェントか?

 アカツキの立候補への抱負を聞き出した政治部記者の質問が終わると、次はようやくメグミの番だ。記者たちは身を乗り出してメグミの話を聞きにかかったが、アカツキがそれを手で押しとどめた。

「諸君らの聞きたいことはわかってるよ、メグミ・レイナード嬢のことだろう?残念だけど、シャトルの個室で何を話したかは教えられないね。彼女と相部屋だったのは僕の選挙スタッフでね、メグミ君に選挙協力をお願いしてたのさ。部屋で話してたのは細かい契約条件のことなんで、この場で教えるわけにはいかない。どうしてもっていうんだったら、正式に選挙事務所を開いてから事務へ連絡をくれるかな?」

 芸能人が選挙協力をするというのは、多くはないが皆無なわけでもない。特に芸能人が信仰する宗教から立候補者が出る場合は、積極的な応援をすることもある。逆に言うと、芸能人が選挙に協力するのは宗教がらみの理由が多い。

 重力を制御し、時間の手綱すらも握ろうとするほどに科学が発達しても、人類は未だに霊魂の痕跡すらも観測できていない。
 にもかかわらず、宗教の信者が減る気配はない。
 人々が求めているのは、真理の探究ではなく人生の指針だということだろう。

 宗教関係者は己の信じる教義を政策に反映させるためにそれぞれに候補者を立てて選挙を戦い、その際には歴史の短い新興宗教ほど、わかりやすい選挙の広告塔を必要とする。白羽の矢が立つのは芸能人だ。歴史の長い三大宗教本流からの立候補者は、わざわざ芸能人に頼らなくても信者の多さと広く認知された教義があり、芸能人に頼ることはない。

 結論を言えば、芸能人は新興宗教に利用されやすい。だから選挙に積極的な芸能人は胡散臭がられるし、実際に新興宗教特有の怪しいイニシエーションで薬物中毒になって、どこへともなく消えていくこともある。

 メグミも毒牙にかかったか、と会場の記者たちは思ったが、アカツキは別に新興宗教の教祖でも信者でもない、はずだ。

 確かめてみよう。

「アカツキ氏はどこか支援団体がおありでしょうか。たとえば政党や宗教団体、労働組合、その他の結社など」

「僕の支援団体はネルガルだね。ネルガルとネルガルの労働組合が選挙協力をしてくれることになってる。メグミ君は、ほら、一緒にナデシコに乗った仲だし、お互いに友人同士なんだよ。確実に当選するために、彼女の力が借りられないかと思ってね」

 なるほど、友情が動機か。それは健全だ。あとはアカツキが立候補した理由が問題だ。突拍子もない理由であれば、アカツキに協力するメグミの扱いもこれまでとは変えなければならない。

「メグミさんはアカツキ氏が何を訴えて選挙に出馬されるか、ご存知なのでしょうか」

「もちろん伝えてあるけど、今ここでは話せないね。ネルガル系列メディアのニュース番組で生出演してそこで発表することになってるんだ。明後日の予定なんで、その後からなら何でも聞いてくれ」

 結局、メグミ目当てでわざわざ特別に足を確保してまで集まった世界中の記者たちは、アカツキの立候補宣言のみを手土産に帰社することになったのだった。

 以上が顛末だ。

 二日後、アカツキは自らの宣言を破ることなく生番組に出演し、政策を語ってみせた。

「僕がまず訴えたいのは、統合軍の増強ですね」

 聞き手となるのは、インタビュアーとして長年の経験を持つチヒリ氏だ。当年とって65歳。まだまだ現役である。

「ちょ、ちょっと待った。今貴方は僕の予想とは全然違うことを言った」

 慌てたように少し早口だが、半分は彼の芸だ。こういう風に大げさにやるのがウケるコツである。

「僕はてっきり、元ネルガル会長という前歴を活かして財政改革をしようというのだと思っていた。だってヒサゴプランは償却が終わらないうちに壊滅しちゃったし、統合軍の物資は火星の後継者に奪われて回収もできてない。大赤字ですよ。民間経済だって、戦時下の規制でまだまだ循環してるとは言いがたい。ところが貴方はそうじゃないと言う。統合軍は火星の後継者の母体になった組織でもあるし、ついでに言えば、統合軍は治安維持法による戒厳令下にあるのを利用して、民間法人のネルガルに対して武力行使を含めた圧力だってかけた。その被害者である貴方が、統合軍を増強すると言う」

 一旦チヒリ氏は言葉を切り、すぐに続けた。

「僕は逆の意見です。縮小して再出発するべきだ」

「チヒリさんの懸念は理解できます。財政難というのは事実ですが、僕は現在の財政問題は政治的不安定が招いた部分が大きいと認識しています。火星の後継者を名乗る反乱者を排除するだけで、市場取引量の大部分は戻ります。そして情勢安定のためには軍事力が欠かせません。統合軍の増強というのは経済政策でもあるんですよ。市場への政府による直接介入は可能な限り避けるべき、という経済学のセオリーを僕は守るつもりです」

「なるほど。軍備増強の理由はわかりました。でも宇宙軍の強化でもいいのでは?」

「統合軍でなければ駄目なんです。いいか悪いかの議論はさておき、地球と木連の統合は進んできました。その象徴が統合政府と統合軍だったんです。地球出身者が多数を占める宇宙軍が統合軍の不始末を決着させるのは、禍根を残します。統合軍自身が火星の後継者を潰すことで、地球と木連は再び未来志向の関係に戻れます。これは僕の公約と考えてください」

「すごい、大きく出た。じゃぁ、統合軍がネルガルに圧力をかけたことに対するアクションは何も無い?いや、あれは暴走気味だったとはいえ合法だったから、強くは追求できない。でも内部に反乱者を抱えていたことを軍警察は見抜けなかった。今後の対策はどうなるの?」

「それは別途考えています。具体的には、軍警察とは別に監察部の創設を提言します。軍警察の指揮権は統合軍本部ですが、監察部は統合軍本部とは違う指揮系統、議会直属の組織として、シビリアンコントロールの強化を図ります」

「そんなの無理だ。軍警察と管轄争いになって機能しませんよ!」

「無理だったら軍警察は潰して監察部に吸収しますよ。不祥事を起こしたんですから、再発防止のためには変えなくちゃいけないところは変えていきます」

口角泡を立ててチヒリ氏は反論した。

「アカツキさん、貴方は軍を舐めてる。議会直属ってことは、独立した指揮系統を持つってことでしょ?軍警察が嫌われながらも何とか機能するのは、警察でも同じ軍の仲間だって意識があるから、軍人たちも捜査に協力してくれるからです。外部の人間が強権を振りかざせしたって、誰も協力しませんよ。組織の中で孤立したら機能しない。それに誰を代表にするんです?せっかく表向き一枚岩にまとまってる統合軍なのに、そこへ地球人が監察に出てくれば木連出身者が反発するし、逆なら地球人が反発します。前大戦の軋轢が消えたわけじゃないんです。統合軍に亀裂が入りますよ!」

 統合軍結成は地球と木連の歴史的な和解の象徴。マスメディアは設立理念に敬意を払い、こぞって讃頌した。チヒリ氏もその一人だ。反戦論者でもある彼にとっては軍隊の新設は本来は容認できないことだったが、二つの政府が別々に軍を持つよりは、一つに統合して政府別の軍隊を縮小する方向性は次善と考えていた。

 アカツキが提案する監察部設立は、統合軍に内部分裂をもたらす楔だ。せっかくの統合軍が瓦解してしまう。再建どころではない。

「最初に言ったとおり、統合軍の不祥事再発を防ぐためにも、独立した指揮系統を持つ監察部の設立は統合軍再編成および増強の必要条件です。これは絶対に受け入れてもらいます。誰が組織の代表になるか、ですが、これは地球木連ともに絶対に納得するであろう人選を考えています」

「誰です?噂の電子の妖精ですか?彼女はネルガルに出向中だそうですけど、彼女だってうまくは行きませんよ。彼女に心酔する軍人も多い一方で、遺伝子操作への拭いがたい偏見は地球出身者には根強い。彼女では駄目だ」

 アカツキは肩をすくめて苦笑した。ナノマシンや遺伝子操作への嫌悪感を煽ってきたのはマスメディアだというのに、まるで他人事のようなチヒリ氏の言いようは苦笑するしかない。

 気を取り直して続けた。

「いるんですよ、地球出身者だろうと木連出身者だろうと、出自を理由に反発できない人間というのが。いや、その人物の出自ゆえに逆らえない、と言ったほうがいいかも」

「名前は?」

 チヒリ氏は身を乗り出してアカツキに迫った。これはスクープになるかもしれない。生放送でこれを聞き出すことができたとなれば、視聴率も鰻上りだろう。

「名前を明かすのは時期尚早ですが、一言だけ。彼は火星出身者です」

 腰を浮かしたチヒリ氏は、数秒間も目を見開き、なるほどそれは逆らえない、と呟いて背もたれに背中を預けて座り込んだ。
 火星を見捨てた地球と、無防備の火星を襲って虐殺した木連。どちらも火星には負い目がある。非合理的な感情的反発を火星人にぶつけるのは困難だ。またとない人選である。
 
 アカツキは長い足を組みなおして微笑んだ。

「そんな都合のいい人材がいたとは知りませんでした」

「いたんですよ。これ以上の細部の話を詰めていくのは当選してからの話ですね」

「強気だ。落選の可能性はないと?」

 呆れるチヒリ氏。アカツキはもちろん、と、

「僕よりも選挙資金は豊富な候補はいませんし、ご存知の通り広報スタッフには今をときめくメグミ君に担当してもらってますので、認知度も非常に高い。既存の政界関係者は火星の後継者との共謀疑惑があって不人気ですが、僕は新人なので共謀疑惑とは無関係のクリーンなイメージで戦えます。事実、アンケート結果も良好ですから、当選は確実と思っています」

 チャンスだ。チヒリ氏はパンっと手を叩き合わせた。
 のっけから激しい口論になってしまった。視聴者のことを考えて、少し息抜きを入れるべきだろう。
 チヒリ氏は話題の転換を図った
 
「そう、そういえばメグミさんが広報スタッフにいるんですよね。彼女をどうやって口説いたんです?」







・・・たった一人で統合軍改革なんてできるんですか? 出来もしないことを言って有権者を煽るのは政治家の慣習とはいえ、これはあまりにも酷い。実現の見込みなんてまるで無いじゃないですか?
・・・水面下では超党派議員連盟結成に向けて動き始めてる。まだ有力勢力とは言いがたいけど、昨今の不景気で資金不足になってる議員も多いので、僕からの資金提供を断れる人はいないと思いますよ。遠からず法案成立に足る会員数を集められるはずです。
・・・もしかして議員買収を告白してるんですか?

 画面で激しく討論するアカツキを見ながら、ユリカとラピスはお菓子をむさぼっていた。ぼりぼり。
 真面目な討論番組というよりは、イエロージャーナリズムの色彩が濃い主婦向けの番組で、ユリカも熱心な視聴者の一人だ。

「うわぁ、アカツキさん頑張るねぇ。この司会の人、ちょっと意地悪なのに」

 ぼりぼり。

・・・選挙戦もそろそろ終盤です。噂の監察部代表就任予定者の名前、教えてもらえないですか?
・・・僕も会社経営なんてしてたから、いろいろと教訓を得る機会も多かったんだ。その一つに、自分の望みと矛盾することを要求する人間もいる、ってのがある。君たちメディアはその人物の名前を明かすことを本当は望んでいないんじゃないのかな? こうやって話のネタにするのって楽だしね。話題が同じでも視聴率悪くないんでしょ?
・・・教訓なら私も得ています。それは情報を隠すことで社会貢献するよりも、多くの場合は公開したほうが大きな貢献になるということです。我々メディアは情報公開をすることで社会に貢献してきました。
・・・芸能人の私生活暴露が社会貢献なのかどうかはさておき、これを新しい教訓を得るチャンスと考えるべきだよ。君たちが暴こうとしても暴けない秘密もあるってことさ。

「かっこいいなぁアカツキさん。でも本当、アカツキさんが考えてる火星の人って誰なんだろう?」

 ぼさっ。ラピスが胸に抱えていたチョコバーの袋がカーペットに落ちた。甘い匂いがふわりと広がる。幸いにも中身はこぼれなかった。複雑に繊維が絡み合う高級カーペットなので、お菓子クズがこぼれるとクリーニングに出さなければ完全には汚れが取れない。

「私のことかなぁ。私って火星に住んでたし、軍にも詳しいし、適任だよね。女だけど、あれって匿名性を高めるための方便だと思うし。でもアカツキさんから話は来てないなぁ」

 多分ではなく絶対に違う。火星出身で軍に詳しい男がアカツキの身近にいるのだから、彼が最有力候補だ。

「あ、ひょっとして!」

 チョコバーの袋の口を掴んで持ち上げた。一本取り出し、口に運ぶ。柔らかいチョコの薄皮の下にキャラメルを混ぜ込んで香ばしく焼き上げたパイ皮を何十にも重ね合わせ、中心にはクリームとドライフルーツ。
 甘い。

「イネスさんかな」

 ぼさっ。ラピスは再び袋を取り落とした。しかも今度は落とし方が悪かった。袋が下を向いたまま落ちてしまい、細かい菓子クズがカーペットの繊維の隙間に入り込んでしまった。

「あ、気にしないで。大丈夫。ねぇ、客観的に見て、イネスさんと私だったら私のほうが適任よね。科学者が軍の監察をするのって変だもん。ラピスちゃんもそう思うでしょ?」

「うん」

 イネスとユリカだったらユリカのほうが適任だ。間違いない。しかしそもそも2人は全く可能性が無いわけだが。

「私だったらどうしよう、困ったなぁ。私、テンカワラーメンのお仕事があるのに。失礼のない断り方を考えておかないとね」

 ユリカとて護衛される身で士官候補生寮から一歩も外に出られないとはいえ、ダラダラ寝て過ごしているばかりではなかった。
 アキトから送られてきた仕送りを元手にして、アキトの残したラーメンのレシピでインスタントラーメンを作って売る計画が進行中なのである。試食の評判は上場で、売り出すタイミングを待つばかりだ。

「あーあ、アキト早く帰ってこないかなぁ。料理人ができなくなったからって、ラーメン屋さんを諦める理由にはならないもんね。直接作るのとは違けど、インスタントラーメンを食べてもらうのだって、悪くないと思うから。喜んでくれるよね」

 アキトが戻るつもりがないことを、ユリカに告げるべきか否か。ラピスはこの頃悩んでいる。
 ラーメン屋の夢など、既に遥か遠い霞がかった過去の幻影になってしまったことを告げるべきなのか。

 彼女は悩んでいる。

「宣伝はねぇ、メグミちゃんとホーメイさんのところの皆にやってもらおうと思うんだ。引き受けてくれるよね、友達だもん。あとはねぇ、私もお化粧して宣伝番組に出ちゃおうかな、キャ、恥ずかしい」

 どうなるのだろう、これから。



[319] それから先の話 第19話
Name: koma◆81adcc4e ID:901eb738
Date: 2010/05/10 19:04
 ネルガル月支社、窓のない地下9階、工事中エリアの個室。
 ドアは締め切られ、照明もついておらず、薄暗い。光源は唯一モニターのみ。

 空調も作動していない。吐く息が白い。だんだんと室温が下降してきているのをルリは実感していた。
 指先にシビレを感じて腕をさすってみると、鳥肌が立っている。
 だが懐に忍ばせたカイロは、まだ使うつもりはない。高熱源があればセンサーに引っかかりやすくなる。

 寒さで指が動かなくなるまで、あと何分だろう。

 しかしカイロで寒さをしのげたとしても、次に襲いくる難題は解決不能である。 

 空調を止めたままでは二酸化炭素濃度が上がりすぎて、呼吸ができなくなるのだ。月面基地での酸素ボンベの在庫管理は厳重で、持ち出せなかった。ルリなら監視をかいくぐる事も可能だったが、余計なところから足がつくのを恐れて敢えて手を出さなかった。
 
 とにかくあまり長居はできそうにないが、情報を入手できそうな場所はここ以外にはないから、まだ移動するわけにはいかない。
 ここには、中央基幹直結の匿名回線が工事のテストのために一時的に敷設されているからだ。工事中なのでエリアおよび部屋の出入りは記録されず、回線の権限は管理者特権に次ぐテスター権限で、一般ユーザー権限ではアクセスできない領域にも容易くアクセスできる。

 急がなくてはならない、が。

 白くて細い陶器のようになめらかな指が、ポチ、ポチ、ポチ、と間隔を開けながらキーボードを押していき、ルリが持参してきた小型の電池駆動式端末がにょろにょろりとトロくさく動く。普段からオモイカネ級ばかりと付き合っているルリは、この処理速度の遅さで完全にリズムを狂わせられている。
 指先が痙攣するのは、決して寒さばかりのせいではなかった。
 早く次のコマンドを入力したいのだが、実行中の処理が終わらないうちに入力を開始すると、バッファーから命令が溢れて異常動作の原因になる。余裕を持って根気よくやるしかない。

 今ルリがやっているのは、ルリの基準からすればハッキングとも呼べないようなお粗末な不正アクセスだ。テスター権限の、しかも匿名回線を偶然見つけただけの幸運を頼りにするなど、ゴミ箱を漁ってパスワードが書かれた付箋紙を探すのと大差はない。ルリも本来ならこんなことはしたくなかった。あくまで適法行為で入手した情報断片から穴を捜索し、それにあわせたプログラムを即興で作って実行するのが腕利き正統派ハッカーの仕事だ。
 セキュリティを組んだ人間との知恵比べに勝ってこそ、情報を得る資格があると思う。運用の不始末を利用したハッキングなど、実利はあれども美しくはない。そんなものは奥歯に自殺用毒薬を仕込んでいるような諜報機関の連中にやらせておけばいい。

 ぽち、ぽち、・・・。

 明かりのない寒々とした部屋で、ただキータッチの音だけが響く。

 ルリが己のハッカーとしての誇りを棚上げしてまで、得ようとしている情報。

 それは大豪寺凱の経歴だ。一般公開されている電話帳から各種公組織の名簿、果ては役所の戸籍をハッキングして調べまわったが、成果は上がらなかった。同僚の過去を詮索するのはいささか悪趣味であるが、調べずにはいられなかった。

 凱を異性として意識しているから、ではない。
 気になるのは、凱の所有する宝石の宮殿と、カイユーダスだ。



 シャトル事故の時にあの規格外艦とそれに搭載されているカイユーダスの機体構造を目にして以来、ルリはずっと調査を続けていた。あんな規格外艦の存在などこれまでに聞いたことも無かったが、それだけなら、酔狂な金持ちが自分だけが所有するという自尊心を満たすために建造することはありえるだろう。
 でも、あのカイユーダスをその理屈で見逃すことはできなかった。

 カイユーダス。コードネーム「ディバイナー オブ オーパライン」、その名も純白の神像。イロクォイスと同じ動力システム、同じ武装を備えた機動兵器である。

 先日完成したばかりの試作機動兵器イロクォイスに搭載されている新システムの数々、放射性同位体を利用した発電機構、固体プラズマ砲、電磁衝撃圏展開機、などなど。今までに雛形すらもなかった完全新機軸の技術をいきなり機動兵器に組み込んで実用化してしまうとは、さすがはイネス、彼女の才能への賛辞を惜しむものはいないだろう、と思っていた。

 イロクォイスは如何にも試作機でございます、といわんばかりの無骨な外見だ。写真を拡大すれば装甲の隙間からネジが見えていたりするし、何より左右非対称で、内部モジュールの配置最適化を後回しにして機能の実装を図ったのが一目瞭然である。色も黒一色だ(これはアキトに合わせたものかもしれないが)。

 しかしカイユーダスは違う。イロクォイスと同じ動力システム、武装を採用していながら、高度に洗練された外見だ。曲面を多用した光り輝く純白の装甲、塗装は控えめながらも金や銀を要所に配し、単調な白一色では出せない神秘的な雰囲気をかもし出している。宝石の宮殿は、なるほど勘違いした成金の好みそうな悪趣味な装飾だったが、カイユーダスは宝石の宮殿とは一線を画している。
 重厚壮大にして荘厳。まるで歴史を積み重ねた宗教遺物のような。人々が祈りを捧げて救いを求める偶像、信仰の象徴、まさに純白の神像と呼ぶにふさわしい。

 試作品イロクォイスが完成したばかりのこのタイミングで、既に完成形としか思えないカイユーダスが存在していることの違和感。カイユーダスも宝石の宮殿とともに凱が持ち込んだとでも言うつもりなのか。
 試作品が出来上がったばかりなのに、持ち込まれたカイユーダスの内部構造にあわせてモジュール配置の再設計までやったのか?

 そんな時間がどこにあったのか。

 ネルガル系列でもクリムゾン系列でもない完全に新しい機動兵器を開発できる技術力や資金は、どこも持ち得ない。よしんば存在したとしても、開発が始まればどこかから噂でも漏れてきそうなものだが、ルリは全く聞いたことも無かった。

 あのカイユーダスという機体は何の前触れもなく、突然に存在を開始している。不合理だ、ありえない。

 だからルリは思うのだ。逆なのではないだろうか、と。

 ひょっとしてひょっとして、逆なのではないだろうか。カイユーダスが先で、イロクォイスが後なのでは?
 火星で拾った相転移エンジンをコピーしたのと同様に、カイユーダスも人間が作ったものではないのかもしれない。イロクォイスこそが、カイユーダスのコピーなのではないか。
 未知の技術の獲得競争だったトカゲ戦争の時のことを思い出す。あの時と同じく、ネルガルは何かを隠して暗躍しているのではないだろうか。
 アカツキの急な政界進出の理由もネルガルの謀略なのか?

 しかし、そうは言っても機動兵器の各種資料はイネス管轄、サーバールームは中性子の入る隙間もない完全な防護網配下、ネットワークも遮断されており、オモイカネ級といえども突破は不可能。
 ならば、カイユーダスの所有者を自称する大豪寺凱を調べることで何かを得られないものか。分のいい賭けではないが、ルリに他の選択肢は無かった。



 ぽち、ぽち。

 枝分かれする木構造を深部の深部までもぐりこみ、ようやく発見。大豪寺凱とイネスとの面談記録。完全映像。
 注目すべきは、その日付。火星の後継者が決起した日時と同一。

「なぜこの日に?」

 誰に問いかけるでもない独り言。意外なことに返答は背後から。

「不遜で分をわきまえない火星の後継者どもが、ユリカ様のご意思への干渉誘導装置を完成させたからです」

 予期せぬ人物の声に思わず肩をびくりと震わせた。背筋があわ立つとはこのことか。誰もいないはずのこの部屋で、いつのまにかルリの背後に男が立っていた。

 背後に毅然と立つ男、大豪寺凱は、鍛え上げられた肉体を持つ武闘派の常として粗野で騒々しいと誤解されやすいが、その気になれば猫のように物音ひとつ立てずに目立たぬように気配を殺して動くこともできるのだ。
 ルリは映像のダウンロード命令を発行し、同時にあらかじめ組んでおいた自室への備付自営サーバーへのデータアップロード命令も実行。これでこの端末を取り上げられても、データが消失することはなくなる。

 ドクドクと脈打つ心臓を落ち着かせようと、浅い呼吸を何度か繰り返し、それから振り向いた。

「黙って貴方のことを調べたのは謝ります。ごめんなさい。でも、ネルガルには一度騙されているから、何か裏があるのなら、確かめないわけにはいかないんです」

 言ってルリが頭を垂れると、

「謝罪には及びませぬ。瑠璃様・・・ルリさんが疑問をお持ちになるのも当然のことにございます。本来ならすぐにでもつまびらかに事情をお話したいところでありますが、残念ながらネルガル会長からはまだ許可が出ておりません。ご容赦を」

 逆に凱はさらに深く頭を下げてきた。

 何故か立場が逆転してしまった。だがこれは好都合。このまま時間を稼ぎたい。気にかかることも言っている。

「会長?アカツキさんですか?」

 ここは少しややこしい。ネルガル会長と言えばずっとアカツキのことだったが、つい先日アカツキは会長を辞し、エリナが新会長として君臨している。この場合はどちらを指すのか。もしアカツキからの指示なら、エリナと交渉して撤回させることも可能だろう。

「アカツキ、エリナの両名から、時期を待つように、と言われております」

「エリナさんからも?」

「はい」

 凱は頷いた。
 
「先日会長職を継いだ時点でエリナも私の事情を知り、その上で秘密にするようにと言われました」

 トップ2人からの指示となると、アカツキの悪ふざけの線は捨てて、ネルガルそのものの意思と考えるべきだろう。アカツキとエリナは長年一緒に働いているだけあり実は息の合ったコンビで、この2人が同じ指示を出しているとなると、それを撤回させることは難しい。

「ネルガルには返しきれない恩があります。ルリさんに隠し事をするのは辛うございますが、恩を仇で返すわけにもいかず。申し訳ございません」

「・・・恩ですか。貴方のような人が恩と口にするからには、大変な覚悟があるのでしょうね」

「はい。この命をもってネルガルに尽くす所存にございます」

 かつて大豪寺凱には、二人の主人がいた。しかし凱の力及ばず、二人ともを死出の旅に送り出してしまった。
 ネルガルの救出部隊が"宝石の宮殿"を発見した時、凱は重症を負って動くこともできず、二人の遺体も朽ちるのを待つばかりであった。ネルガルの助けがあってこそ、教義に則り太陽葬にすることができたのだ。
 この恩は、10年や20年の奉公では返しきれない。命を懸けるに値する。

「ところで、そろそろデータのダウンロードも完了の頃合かと。この部屋は冷えますから、すぐに上階にお戻りになられたほうがよいでしょう。お部屋までお送りします」

 その言葉に、ルリは目を丸くする。

「貴方は・・・、今ネルガルに恩があると・・・」

「恩はありますし、喋るなとも言われておりますが、貴方の邪魔をするようにとの命令は受けておりません。それに、いつかはルリさんにも情報開示される予定でした。少し予定が繰り上がっただけと考えます」

 刃物傷がまたがっている左目でウインクひとつ。彼の人柄を知らない人間が見れば、威嚇されているのかと疑いかねない形相だが。

 堅苦しい喋り方をする凱にもこんな茶目っ気があったのだと発見し、ルリは少し口元を緩ませた。

「ええ、ありがとうございます。お願いします」








「ドクター。私は確かに短気だと言われることも多いし、自分自身、我慢強い方だとは思ってない。だから取り繕うのを止めて、単刀直入に言わせてもらうわ」

 言うと同時にエリナはダン!と両手を机の上に叩きつけた。普段からデスクワークしかやらない柔らかい手の平がジンジン痺れるのにもかまわず、イネスを半眼で睨みつける。

「そろそろ予定を聞かせてもらいます。いつまでに遺跡の発掘は終わるの?発掘が終わったとして、遺跡が大豪寺凱の言った通りの代物だと確認が取れるのはいつ?既に探査機がこちらに到達している以上、時間は限られているの。私もタイムスケジュールを組んで動かないといけない。そこのところを今日こそはっきりさせましょう!」

「本当にせっかち。自覚してるならその性格治しなさいよ。まだ若いんだから、いくらでも矯正できるでしょ」

 自分の説明好きを治す気はさらさら無い女は、エリナの剣幕にも動じることはない。

「貴方もいかが?」

 正面のエリナにコーヒーを渡した。コーヒーに含まれる鎮静作用を期待してのことだ。
 イネスは余裕ありげに足を組みなおし、コーヒーカップに口をつけた。

「予定を出せって言っても、簡単にはいかないわ。月は、地球以外で最初に人類が到達した天体なの。機材を持ち込んでの直接調査だけでも300年近く、地球上からの観察まで含めれば3000年以上も調査されてきてる。なのにこれまで遺跡が見つかってないってことは、多分古代火星人の技術で厳重に遮蔽処理されてるのよ。だからボーリング装置で直接掘り当てる以外には発見の手段はないわけ。大豪寺凱の証言から座標は絞り込まれて、現在地点を中心にして25キロメートル四方の範囲にあるはずだけど、この中を全部掘り返すとしたら今のペースだとあと半年はかかる。気長にいきましょ」

 肩をすくめたイネスに諭され、エリナも少しは頭が冷えたのか、浮かせていた腰をイスに落ち着けてカップを手に取った。

「そうね。確かに焦って無理言ったわね。ごめんなさい。でもそ半年も待ってられないの。繰り返すけど、探査機はもう送り込まれてきてる。第一次接触の日は近いわよ。ツルギの発掘が間に合えば、話し合いだけで解決するかもしれない。だから急いでるの」

 イネスは目を二三度しばたいた。ちょっと聞きなれない言葉を聴いたからだ。

 "話し合い"ですって?

 いろいろ策略を巡らせてみても、結局最後は力押しで抜けようとするエリナが話し合いとは・・・。失笑ものだ。

「武力抜きで解決・・・ねぇ。戦争は稼ぎ時だから喜ぶかと思ってたんだけど。会長に就任して守りの態勢になっちゃったのかしら。もう上を目指すんじゃなくて、今の地位を守ればいいんですものね」

「消極的だって言いたいの?撤回して欲しいわね」

 揶揄するようなイネスの発言を、エリナは聞き流せなかった。

「平和主義に転向したのよ。戦争続きですもの。そろそろ平和な時代になっても悪くないじゃない。軍事部門の売り上げだけが伸びても、他が足を引っ張るんじゃ意味ないもの」

 野心溢れる女と形容されるのは慣れていたが、消極的だと言われたのは初めてだ。貪欲に功績を求めて仕事に打ち込む自分に誇りを持っている分だけ、仕事への意欲が減退したように言われると腹が立つ。

「ごめんなさい。会長になって視野が広がっただけで、貴方は今でも十分に野心的かつ積極的な女よ。認めます」

 手入れの行き届いた眉を逆立てるエリナに、イネスは素直に謝罪した。怒らせるのが目的ではないのだし。
 エリナも熱しやすいが冷めやすい女で、しつこく引きずることもない。あっさり機嫌をなおした。

「ならいいわ。それで、考えを聞かせてもらえる?」

 ん、とピンと伸ばした人差し指を顎に当てて、イネスは天井を見上げて思索する。

「良い悪いで言うなら平和は良いんだけど、実現は望み薄ね。ツルギは彼らにとって必需品で、手段を選ばず奪いに来るわよ。交渉するにしたって、向こうが出してくる条件はツルギの引渡しに決まってるけど、一旦ツルギを渡したら地球の技術では到底太刀打ちできなくなる。だから彼らがツルギを入手する前にどんな交渉をしたとしても、ツルギを渡したが最後、反故にされるでしょうね。交渉はするだけ無駄」

 確かにその通り。

 エリナは内心でイネスの意見に賛同しつつも、反論を模索する。負けず嫌いな彼女はそうそう易々と「貴方の言う通りね」と言ってやるつもりはないし、エリナは確かに平和への道を目指しているのだから。

「ツルギを渡す前なら交渉の余地はあるんだから、そこを突き詰めるべきよ。勘違いしちゃいけないのは、結局彼らが欲しいのはツルギじゃなくてツルギが生み出すエネルギーってことね。たとえばツルギはこちらが握ったまま、ツルギの制御技術を提供してもらって、見返りにエネルギーを提供するとか。でもこれだと一方的に地球側が有利だから、きっとこの条件じゃ頷いてくれないわね」

「着眼点はいいと思うわよ。じゃ、仮にその最大限に都合のいい条件が通ったとしましょう。エネルギーを提供すれば彼らの軍事兵器も稼動してしまうから、彼我の戦力差は一気にあちら側が有利になるわね。となれば律儀に交渉条件を守る必要もなくなるから、多分ツルギ奪取のために攻めて来るでしょう。勝ち目はゼロね」

 エリナはグイっとカップをあおり、冷めかけたコーヒーを一気に飲み干した。

 結局何をどうしようと最終的に相手にツルギが渡ってしまう未来以外が描けない。

 どうしようもないじゃない、これ・・・。

「頭が痛いわね。いっそのこと粉々に爆破してしまおうかしら」

 ガチャンとカップを乱暴にソーサーに叩きつけ・・・、ん?・・・とエリナは首をかしげた。
 咄嗟に口を突いて出た苦し紛れの一言だったが、これはもしかすると切り札になりうるのではないだろうか。

「そうよね。ツルギがあるのがいけないんですもの。どうせ現時点で私たちには扱えないんだし、破壊してしまっても私たちには何もデメリットはないのよね。どうかしらドクター、問題あると思う?」

 イネスは口を半開きにして呆然としていたが、「ねぇ、どうなのよ」とエリナに促されると、ようやっと目を閉じてふるふると首を横に振った。

「・・・そういう考え方もありね。貴重な遺跡を事もあろうに破壊するだなんて、科学者の思考じゃないからびっくりしたけど、貴方は商売人だものね。・・・破壊するにしても、破壊したことを完全に証明できなければいけないわ。破壊したのは偽者で、本物をどこかに隠し持っているに違いないなんて疑われれば、やはり戦争になる。ベストは、一旦ツルギを引き渡して稼動を開始した後に破壊することね。警戒厳重であろうツルギの制御中枢へ潜り込めるとしたら、ジャンパーの私かアキト君ね。破壊工作ならお兄ちゃんの方が適任でしょう。でも考え直して欲しいわ」

「そりゃ貴重な遺跡だってことは分かってるわよ。ツルギが導き出す莫大なエネルギーを自在に制御できれば何ができるか、考えるだけで夢が広がる。でも背に腹は代えられないじゃない」

 既にエリナの中ではツルギの爆破は既定路線になりつつあった。こういう剛毅果断なところがマッチョだと影口を叩かれる理由なのだが、当人としては決断の下せる自分を気に入っている。弱さがあっても決断を恐れない今のアキトに好意を覚える源泉かもしれない。

「彼らが貴方と同じくらい理性的であると期待するのは楽観的過ぎるわ。彼らは存亡の危機に直面していて、ツルギが唯一の起死回生のカギなのよ。それを失ったとなれば自暴自棄になって報復に出る可能性は否めないし、もし報復に出ないとしても、彼らの文明を維持する資源を確保するために、惑星の一つや二つは要求してくるでしょう。統合政府がその要求を飲むかどうかは、今後のアカツキさんの活躍次第ね。まずは当選しないと。大丈夫なの?」

 ツルギを破壊するかどうかはまだまだ結論を先延ばしにできる。そもそもまだツルギの発掘すら終わっていない段階で、実在するかどうかの確認も取れていない。それよりは、当面のアカツキの政界入りこそが当面の心配事だ。
 だがエリナはイネスの懸念をあっさりと一刀両断してみせる。

「ええ大丈夫。選挙管理委員までは手が回らなかったけど評論家とマスコミはちゃんと買収しておいたし、人気アイドルのメグミ・レイナードも広報でがんばってくれてる。さすがにもうそろそろ下火になってきたけど、損師の人気だって捨てたものじゃない。負ける要素は何一つないわね」

「あら、すごい自信ですこと。ところで話が出たから聞くんだけど、メグミさんがお兄ちゃんと一緒にいるっていうのが少し気がかりなのよね。よりを戻されでもしたら大変だわ。そこのところはどう思う?」

 話題がツルギから逸れたところで、さらに誘導していく。これ以上ツルギの破壊を真剣に検討させたくはなかった。

 できれば忘れてほしいけど・・・、無理でしょうね。

「その心配は多分ないと思うわよ。この前ちょっとだけ会ったけど、今は仕事が楽しくて男なんて眼中にない時期ね。商売が波に乗って安定したところで満足せずに、失敗も恐れず新しい可能性に挑戦するところに大成の予感がするわね」

「仕事が楽しくて男なんて眼中にない、か。それは過去の自分も同じだからわかるってことかしら?」

「あんただって同じじゃないの。男女交際の経験なんてアキト君以外にはほとんどないんでしょ。聞いてるわよ、いろいろと」

「何それ。一体誰から何を聞いたの?」

「誰でもいいでしょ」

「言う気はないのね。わかったわ」

 エリナを誘導しながらツルギを破壊しなくても済む案を考えていたが、イネスは一旦それを破棄した。全力を傾けて解決しなければならない懸案事項ができたからだ。

「さあ、私の目を真っ直ぐ見て頂戴。今から一人ずつ名前を言います。誰が犯人なのか、貴方の反応で確認するわ。まず・・・」



[319] それから先の話 第20話
Name: koma◆81adcc4e ID:c043afa2
Date: 2011/01/22 23:09
 圧倒的な勢いで有権者の支持を伸ばすアカツキ・ナガレは、ここ最近は選挙の勝敗については全く聞かれなくなった。当選確実との前評判がしっかり固まってしまい、いまやマスコミの関心はアカツキの当選後の戦略に移ってきている。
 誰も証拠を掴めていないのでまだ報道されていないが、どうもアカツキが既存議員の買収を進めているようなのだ。また、火星の後継者との関係を疑われて失脚した議員の後釜を狙って補欠選挙に立候補した候補の多くが、アカツキから選挙資金の支援を受けているという情報もある。

 多数派工作をやっているということは、金の次は名誉という古典的なステップを単に登ってるのではなく、実現したい政策があって政界を目指していると推測される。
 何を目的としているのか、多くのインタビューアーが聞き出そうとするが、のらりくらりとかわされてしまっているのが現状だ。
 撮影カメラが回っているところでは訊けないようなきわどい質問で尻尾を掴もうとする週刊誌記者もいたが、いいところまでいくと脇に控えた黒いバイザーの男に邪魔されてしまい、どうにもならない。

 黒い男のことはアカツキを当番している記者たちの間では頭痛の種になりつつあるが、一方であの男こそアカツキの目的を探り出す鍵ではないかと見る向きもある。

 ボディガードのSSたちとは毛色が違うし、かといって秘書やその他の政策スタッフと違ってアカツキとその手の話もしない。アカツキが移動する場合は運転手を務めることが多いが、ただの運転手にしてはアカツキとの距離が近すぎる。なんと黒い男は、記者たちの面前でアカツキの私生活への注意までしたこともある。

 一般的な政治家の周辺には存在しない類の男だ。敢えてそんな男を傍に置いていることに、何か意味があるのではないか。

 アカツキを難攻不落とみた一部の人間は、アカツキがゲイで黒い男が恋人である可能性まで考慮して、正体不明の男のほうからアカツキの内情を探り出そうとする動きまで出てきている。

 全ては(ゲイだと勘違いされるのは除いて)アカツキの予定通りであった。




 このごろのアキトはマントを着けていない。

 首から下を覆う耐刃耐電耐熱耐冷防弾仕様のマントは、アキトの命をこれまでに何度も救った実績を持つ優れた防護装備であり、また武器を隠し持つのにも便利だったのだが、今の仕事では逆に危険を高めてしまうとの判断からだ。
 アキトの仕事は護衛兼運転手兼その他なので、必然的にアカツキとともに報道陣に囲まれる機会が増える。身元証明がされている人間ばかりなので暗殺の危険はないしても、教育の行き届いていない手癖の悪いカメラマンは、隙あらば、または隙がなくとも、撮影の邪魔になるアキトのマントを引っ張って、少しでも見栄えのいいアカツキの写真を確保しようとする。

 感覚補正を受けている間のアキトは多少引っ張られたところで姿勢を崩したりしないが、護衛の専門教育を受けた月臣に、護衛中に格闘戦にでもなったらマントは不利だから外せとの助言を受け、マントの着用を当面の間、少なくとも護衛をやめるまでは自粛することにしたのだ。

 さて、そうやってマントを脱いだアキトを見てみると、人によっては寝巻きにも見えるような真っ黒のボディスーツのみで、少なくとも公衆にさらすのが適当と言える服装ではない。主役のアカツキのおまけでカメラに映ることもあるのだから、これは改善すべきだとメグミが肩をいからせて強硬に主張し、かねてからアキトは格好つけすぎだと思っていたルリも(自分のコスプレ好きは都合よく棚に上げて)メグミに同調した結果・・・。

 アキトは背広を着ることになった。

 ダブルでスリーピースのオーダーメイド。夜会にも出席できるようドレスコードにも準対応。当然、耐刃耐電耐熱耐冷防弾仕様で、ボディスーツと同じ諸機能を組み込んである。
 色は結局黒にした。白や紺、グレーの定番を試してみたが、一番しっくり来るのは黒だった。

 あれこれ試行錯誤して首から下を丸ごと高級衣装で包んでみると、次に目立ってくるのは手入れのされていない髪の毛だ。

 伸ばし放題にせず、清潔に短く刈っているのは好感度が高い。おそらく料理人を目指していたころの習慣だろうとメグミは目していたが、櫛も通していないのは言語道断。専属のヘアメイクも抱えて身嗜みを整えるのに余念の無いメグミは、これを放置できない。
 あのダサいバイザーはしょうがない、無いと生活できないと言うから見逃すとしても、これは何とかしなければ。
 絶対に。かつ早急に。

 少々畑違いになるが、インテリアデザイナーの前歴を持つ現・教師のミナトにもどんな髪型がいいか意見を求めて(授業中だったにもかかわらず快く相談に乗ってくれたらしい)、ビジネスマンらしく7・3分けか、軍人らしいクルーカットか、凄みが出そうなオールバックか、の3択にまで絞り込んだ。
 
 ちょうどアカツキはしばらく戻らない予定だったので、時間が空いている。

 何はともあれやってみようと、とりあえずオールバックにしてみた。
 洗髪してからスチームを浴びせ、柔らかくなったら櫛でとかし、コテで整髪剤を塗りこんで、ワックスで固める。

 突っ立っているアキトの周りをくるくる回って観察。しゃがんで見上げて、イスに立って上から見下ろして、うん。どんぴしゃだ。

 なかなかいいじゃない。他を試すまでも無い。これで行きましょう。

 アキトを映す姿見の前で左手を腰に、右手で額の汗を拭い、メグミは満足そうに微笑んだ。

 予定よりだいぶ早く帰ってきたアカツキは、変身したアキトを目にするなり、背中を向けて悲鳴のような高い声を漏らし始めた。アカツキと一緒に事務所に来たエリナは柄にも無く頬を染めて、格好いい、と呟いた。





「いやいや、別に君を笑いに戻ったんじゃなくてね。本分を果たしてもらう時が来たんで、話しに来たのさ」

 目じりに浮かんだ涙もそのままに、アカツキはそう切り出した。

 なごやかに談笑していた全員に、さっと緊張が走った。

 アキトの果たすべき本分とは何なのか。
 皆、わきまえている。それが料理だった時代は疾うに過ぎ去った。

 全て苦痛の中で忘却され、残りものにも福はなく、撒き散らすのは災いばかりで救いもない。
 しかしただ一つだけ、アキトに許された技能がある。

 たった一つ。

「本当は当選後に実行して最初の実績にするつもりだったけど、困ったことにタイムスケジュールが狂っちゃってね。思ったよりも状況の進行が早い。火星の後継者をとっとと壊滅させたいんだよ。買収した議員経由で圧力をかけて、宇宙軍と統合軍の合同掃討作戦を実行する。7日後だ。都合のいいことに、統合軍は不足する戦力の埋め合わせに民間から傭兵を募ってる。テンカワ君は傭兵枠で従軍して、火星の後継者残党を率いている南雲を、直接、君の手で討ってほしい」

 傭兵募集は統合軍として苦渋の決断であっただろうが、現実的な選択をしたということだ。統合軍が以前の姿を取り戻すには、まだまだ時間がかかる。だからと言って、宇宙軍が火星の後継者討伐で功績を挙げていくのを指をくわえてみているだけでは、統合軍不要論を勢いづかせることになる。
 多少の無理は承知していても、作戦に一枚噛んでおかなくてはならないのだ。

 急な話にも、アキトは異を唱えない。ただ、諾と頷くばかり。

「7日後だな、了解した。討つというが、南雲の死体は残した方がいいか?」

 死体という単語にルリは嫌悪のあまり顔を背け、メグミも口元に手をあてて呻いた。

 偽悪ぶって残虐性を主張しているわけではない。これが必要な確認事項であることを理解しているアカツキとエリナに、動揺はない。

「最良は逮捕ね。逮捕可能なら殺さなくてもいいわよ。でも無理なら、確実に殺した証拠になるような記録を取ってほしいわ。できれば頭部が残った死体があるのが望ましいけど、グラビティブ

ラストが飛び交う戦場で綺麗な死体は作れないでしょうし、映像記録でかまわない。イロクォイスにカメラを仕込んでおいたから、問題ないでしょう」

 実際にそんな死体を見たら悲鳴を上げて卒倒するだろうに、言葉の上では淡々としたものだ。
 アカツキがエリナを補足する。

「ユーチャリスはテロリストの乗艦扱いで指名手配中だから出せない。だからルリ君のサポートもない。大豪寺君には別の任務があるから行けないけど、代わりに月臣君をつけるよ。ボソンジャ

ンプは自由にやってくれ。いや、むしろどんどんやって欲しい。その上で君が手柄を立てるのが理想だね」

 ルリは眩暈を覚えてよろめいた。

 残党なりとはいえ、しばらく前までクリムゾンの支援を受けていた連中だ。
 資金も物資もまだまだ豊富で、対するは宇宙軍と統合軍の合同部隊。おそらく何百隻もの艦艇と何千もの機動兵器が入り乱れる戦場になるだろう。

 そんな所に戦況解析も無しに2機の機動兵器で飛び込んで敵首領を討ち取ってこいなんて、どんな作戦を立てれば達成できるのだろうか。
 いくら2機ともボソンジャンプが可能なパイロットが操縦するといっても、無茶が過ぎる。

 2人の未来がありありと思い描ける。
 おそらく機動兵器の100機くらいは落とせるだろう。戦艦の4、5隻もいけるかもしれない。ボソンジャンプを駆使すれば、もう少しボーナスがつくだろう。でも時間がかかる。本陣前を守る敵部隊を崩し突入するまで体力が持たないだろう。
 統合軍は物資不足で補給もままならず、補給艦への着艦申請も正規軍優先で後回しにされ、少ない物資を傭兵に分け隔てなく与える保障もなく、機体を損傷しても応急処置すらも手間を惜しんでやってくれないかもしれない。

 そんな戦場へ放り込もうというのだ。
 アキトの操縦技術は瞠目するものがあるが、自分やラピスのサポートがなければ戦場での立ち回りで大きく遅れをとるだろう。

 体力の消耗にも構わず戦い続ければ、平常時ではおきないミスも頻発する。

 全天を火砲で取り囲まれ、成すすべもなく落とされるかもしれない。
 敵ばかりに目を取られて、友軍の射線のど真ん中に飛び込んでしまうかもしれない。
 ・・・死ぬかもしれない。

「アカツキさん、考え直してください。ユーチャリスが駄目なら、大豪寺さんの宝石の宮殿があるじゃないですか。私も出ます」

 いつもと変わらない無表情のまま、どことなく迫力を増したルリがそう言って迫るが、アカツキは無情にも首を横に振る。

「君は大豪寺君と一緒に別の任務がある。君にしかできないことだ。あの資料を見たのなら、予想はつくだろ?」

「時間が無いのは理解しています。ですがたった2機で敵本陣に攻め込むのは自殺行為じゃないですか。作戦の日程はどうなってるんですか?補給のない残党相手に2ヶ月も3ヶ月も続くわけも無いですし、先細りの残党と戦うのなら、大規模戦闘は1回か2回で終わります。その間だけでいいんです」

 顎を指で掻き少し考えるそぶりを見せたアカツキだが、やはり答えは変わらない。

「ダメだね。軍人の君にこんなこと言うのは面映いけど、何が起こるのかわからないのが戦場だよ。短期決戦ですぐに決着がつくとは限らない。繰り返すけど、時間がないんだ」

「そうです。戦場では何が起こるかわからないんです。アカツキさんがアキトさんの操縦技術を信じているのはわかりますけど、たった2機じゃ、作戦遂行どころか生還だっておぼつかないかもしれないんです。念には念を入れて安全策を講じるべきです」

「でもねぇ」

 アカツキは煮え切らない。
 ルリの剣幕にたじろいでいる様だ。しかしアカツキの考えは変わらない。時間がないのは間違いないのだから、ここで少しでも先手を取って動きたい。
 とは言って強引に仕事をさせてもルリの心証を損ねては、今後の計画への協力を断られるかもしれない。
 どうしたものか、とアカツキは悩む。
 アキトならこれくらいは軽くやってのけるだろうと思うのだが、ルリはアカツキほどの確信は持っていないようだ。

「心配は無用だ」

「やっぱりそうだよねぇ」

 アキトがそう言ってもルリは納得しなかった。彼女の心は千々に乱れてまとまらない。

 なぜこんなにも自分は必死になっているのだろうか。ルリは自問する。
 アキトを哀れに思ったからか。

命をかけて救い出した女と、ただの一度も会うこともなく逝くのが哀れか。
 生涯において残すものが、あのレシピを書いた紙切れ一枚だというのが哀れか。

 それとも、まだ昔のように一緒に暮らすことに未練を持っているのか。 
 哀れなのはアキトではなく自分なのか。

 ルリの葛藤にアキトは気づかない。
 ルリとの相互リンクは純粋に感覚補正にのみ使用されており、かつてラピスとリンクしていたときのような感情の波は伝わらない。

「ジャンパーが2人で組んでれば、死ぬなんてことはそうそうないさ。2人とも腕前は一級品だし、機体も万全で送り出す。もう少し信用してあげたらどうかな。テンカワ君は君の養父みたいなもんだろう?」

 そんなのは気休めに過ぎません、と怒鳴ったら楽になるだろうか。この言葉にならない憤りをどこに、誰にぶつければいいのか。
 この女か?

 ルリはエリナを見た。かつての彼女は、野望のために人命を軽視する傾向が強かった。今でも彼女が改心したという話は聞いたことが無い。

「これは決定事項なのよ、ホシノルリ。厳しいことは分かってるけど、やらなきゃならないの。皆、それぞれの役割を果たすことを求められているわ」

 勝手なことを言うものだ。

「すまない、次のスケジュールが迫っているんで、これでお開きにしよう。アキト君はシミュレーターで訓練に励んでくれ。月臣君との連携を密によろしく。僕も護衛がいなくなるわけだから、外出は自粛するよ。成果を期待してる」

 本当に勝手なことを。
 いくらアキトが戦うことしか能がないとはいえ、それだけをさせていてどうするのだ。
 もはや戦う理由がない男を、また戦場に立たせるというのか。使い勝手がいいから。

 アカツキさんの地獄行きは間違いないですね。

 ルリは決して納得しなかったし、自らの感情に決着をつけたわけでもないが、それ以上は発言しなかった。

 誰もルリの意見を聞かない。

 ただ、メグミだけがアキトとルリに痛ましそうに視線を注ぐだけだった。




 手ごわい論客だった。全く手強い論客だった。

 カーテンの隙間から差し込む朝焼けの光を顔に受け、ラピスはふあ、と小さく欠伸を漏らした。腕を伸ばしてギュっと背伸びをすると、まだ若いというのに、背中がゴキっと鳴った。

 こんなにも反論証明に梃子摺ったのは、イネスが面白半分に作ったゴールドバッハ予想の証明をレビューした時以来だ。

 実はラピスは誰にも内緒で、ある秘密クラブに所属している。
 秘密といっても、いかがわしいことはない。名士だけが入会できる児童売買春クラブや人身売買組織などの非合法組織、あるいは極端な政治的主張を掲げる要監視団体とは全く違う。

 名を、オモイカネ型AIオペレーター友の会、という。

 主にオモイカネ型AIについて、マニュアルと実際の運用での食い違いや理不尽な仕様の愚痴をこぼし、時には有用なコードを共有したりする紳士淑女の集まりだ。

 どうして秘密かというと、かように無害な集いなのだが、何しろオモイカネ型AIは数が少ないので比例してオペレーターの人数も少ない。またオモイカネ型AIを運用するのは軍中枢や超巨大企業に限られるので、迂闊に会員が身元を明かすと実は会員AとBは競合関係企業の社員だったりとか、楽しく過ごすにはいろいろと不都合があるので、誰もつっこんだ身の上話をしない。またこの会に所属しているということも、言いふらしたりもしない。
 結果として秘密クラブになってしまう。

 しかしまぁ本気で隠れているわけでもないし、入会に現会員の推薦が必要とかの制限もないので、オモイカネ型AIを運用するようなこの道の達人であれば自然とこの会にたどり着くことになる。オモイカネ型AIオペレーターではない会員も、けっこう多いのではなかろうか。

 ラピスが久々にここを訪れたのは、新メンバーが入るという知らせが届いたからだ。
 新メンバーの入会知らせは、頻繁でもないが珍しいことでもない。年に10人程度は入ってくる。
 ラピスはふらりと、本当にふらりと自然に訪れた。
 日ごろから面倒をみてやっているユリカも就寝中で、軍の任務もなくたまたま手持ち無沙汰だったから。

 すると、知らせにあった新メンバーを中心にして大激論が交わされているところだったのである。

 ハンドルネームをYMZKという彼(または彼女)は、オモイカネ型AIが無限ループを作れないのはチューリングマシンとしての条件を満たしていないのではないか、と疑問を呈したのだ。一つの論考としてはありうるだろう。
 オモイカネ型自立AIは無限ループ処理に入ると、自己の判断で処理を凍結させてループから抜けてしまう。
 YMZKはこのループ凍結を回避しようと努力したがどうにもならなかったと記述し、そこからの推論を述べている。
 チューリングマシンが備えていなければならない条件の一つ、無限の紙テープが存在しないことを示すのではないか、と。

 これは厳密な考証ではない。思いつきのレベルに過ぎないが、つまりこういうことだ。
 オモイカネ型AIは従来のAIよりも優れているとされてきたが、実はそれは逆で、計算機としての機能自体は劣っているのではないか。

 逆説的には、AIが目指す本義である知性の獲得に成功した、より人間に近い存在であるとも言えるかもしれない。

 実は重要な指摘かもしれない。AIとしての能力の向上は、計算機としての能力とトレードオフの関係になっているということかもしれないのだ。

 ラピスはこの命題に対する反論を真剣に考えた。

 何故だろうか。このYMZKを論破できようができまいが、オモイカネ級AIの性能にはいささかの不満もない。
 正直に言えば、なるほどこのYMZKの視点は正しいのではないか、と共感もしていた。

 でも放置はできなかったのだ。
 オモイカネの能力が劣るという主張に激しい反発を覚えた。

 長い夜を戦い抜き、最終的にはオモイカネの計算能力にいささかの不備もないことを完全な形で証明できた。YMZKはアバターに両手を挙げさせて「降参です、反論が何も思いつきません」と全面降伏を宣言し、ラピスは会の中でまたも重鎮としての存在感を高めたのだった。

 今日はこのまま寝てしまおうかとベッドに向かう。
 ユリカが掛け布団を蹴飛ばして腹を丸出しにしていたので、そっと直してやった。
 本当に手がかかる女だ。下手なくせに料理を作りたがるし、掃除も洗濯もまともにこなせない。なのに保護者を気取ってあれこれ指図してくる。しょうがないからこうしてラピスが世話をしてやっている。

 家政婦を雇うべきか。いや一般人に機密事項に触れる機会を提供すべきではないだろう。士官候補生を世話係にあてがうべきだ。

 はっと気づいた。それってつまり自分のことでは?
 もしかしてラピス士官候補生はユリカの世話をするために同居させられていたのか?
 なんということだろう。すぐに家政婦分の給料を申請しなければ。

 多分眠かったからこういう結論にたどり着いたのだろうが、この上なく真剣にラピスはコミュニケを起動させ、まだ勤務時間が始まっていないので夜勤の当直が一人しかいないであろう厚生労働課に通信を開こうとしたところで、折りよく着信があった。

 総司令部からである。
 総司令部からの着信には居留守は許されないし、30秒以内に応答する義務がある。ラピスは面倒くさそうに顔をゆがめ、応答しようとして顔を洗っていないことを思い出し、音声のみで応えた。

「ラピス候補生です」

 端末に出てきたのはカイゼル髭を自慢そうにしごく大男、ユリカの父、コウイチロウだった。 

「おはようラピス君。早朝だというのにちゃんと30秒以内に出たね。感心感心」

 にこやかに微笑むコウイチロウ。

「任務が入った。詳細は出勤時に説明しよう。ラピス候補生は臨時大佐の階級証をつけて総司令部に出頭してくれたまえ」

「わかりました」

 またか。無血制圧が可能なのはラピスとオモイカネだけだというのは理解するが、頻度が多すぎないだろうか。児童に労働させるのはそもそも法律違反だと思うし。アカツキに交渉させて、もう少し出動を減らさせよう、そうしよう。

 ラピスが不満なように、コウイチロウとて幼いラピスを戦場に駆り出すのは本意ではない。本当はすまない、の一言を付け加えたかった。
 しかし軍の統制上、任務のことで上級者が下級者に謝罪するのはあってはならないことだ。

 だから最後にこれだけ言うのが精一杯である。

「すまんね。ちゃんと学業に専念できる環境が整うまで、まだ少しかかりそうだ。だが、今度の作戦が成功した暁にはもっとプライベートの時間が取れるだろう。約束する。では」

 コウイチロウはあんまり軍の統制などのことは考えない性質だった。

 通信が切れてラピスはふぅと一息つき、のんきに寝ているユリカを振返った。また留守にしなければならず、少し心配だ。
 でもまぁ、大人なんだし大丈夫だろう、きっと。
 まだ出勤までに少し時間がある。とりあえずシャワーを浴びて身支度を整えるとしよう。


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