/ .
「黒桐、君はケルト神話を知っているか?」
がたがたと揺れるボロボロのレンタカー、車種は国産のバン。
三人で使うには余りあるスペースの中に、僕の代わりに車を転がす所長の声が響いた。僕の左目を気遣って、式と所長は僕に車を運転させることは殆ど無い。彼女たちらしくない優しい気遣いは、正直、僕の心を温かくしてくれる。
「ええと、……確かアイルランドの民話でしたっけ?」
僕は助手席に腰掛けて、ごうごうと風を切って走る風景を流し見ながら、答えた。
所長の顔色を窺えば、オレンジ色の外灯が小刻みにその横顔をチカチカと点滅させている。
「民話と言うのは語弊があるかな? まあそれも間違いでは無いが、出来れば神話群、もしくは叙事詩と呼んで貰いたいね。英国ではアーサー王伝説にも劣らぬ知名度なのだが、日本ではなじみが無いか」
一人で完結した所長は思い出したようにハンドルを切る。
同時に大きく流れる車内では、“ごん”という鈍い音が後部座席より零れた。
どうやら、転寝をしていた式の頭と薄っぺらなサイドウィンドが喧嘩したらしい。
すぐさま所長に向けての殺気が膨れ上がった。敏感に殺気を感じ取れるなんて、もしかしたら僕は、稀有な素質があるのかもしれない。
そんな思考に口元を歪めていると、式が首だけをひょっこり出して所長に尋ねた。
「おい、例の岬にはまだつかないのかよ?」
「もうしばらくだ、少しは辛抱したまえ」
「ったく、せまっ苦しい書庫を抜け出したと思えばすぐコレだ。いい加減、嫌になる」
所長の言葉にどさりと身体を横に投げ出す式は、ため息をついて再び瞳を閉じる。
「でも所長、何も今日中に彼女の自殺現場に行くこと無いでしょう? 明日、帰りがけに寄ってみるのでも充分だと思うんですけど」
「そういうわけにもいかん。明日には確実に協会の連中がやってくるからな。鉢合わせる前に“大海”を回収したい」
「………だったら、はじめから僕達に相談してとっとと回収しちゃえば良かったじゃないですか」
「それは詰まらない。言ったろう? 人間の自慰とは、中々に侮りがたい。これほど楽しめるとは思わなかった」
クツクツと思い出し笑いにふける所長は本当に楽しそうだ。
この人から黒い角と尾っぽが生えてきたところで、僕は驚かない。むしろ、まだ生えてこない事に驚きだ。
「…………それで、所長。ケルト神話が何なんです? こんどの事件に何か関係あるんですか?」
僕は、自分の思考から軽やかに逃避して所長に言葉を返した。
「ああそうだったな、その話しだ」
所長は軽く窓を開けると、シガーライターでタバコの火を灯す。
車内にふわっと広がる甘い紫煙は、あっという間に潮の臭いに打ち消された。
■ Interval / sky night blue light ■
「ディアドラ……ですか」
「そう、ディアドラだ。彼女の逸話を知らなくても“トリスタンとイゾルデ”は知っているだろう? そのモデルとなった話だよ」
所長は咥えたまま“ディアドラ”の物語“Fate of the Sons of the Usna”と言うらしいが、僕にはそんなものどうでも良かった。
ただ、僕は抑揚の無い所長の声に心を軋ませその悲しい歴史の終わりを待った。
似ている、そうコレも似ているんだ。
その歴史が、変えることが出来なかったその運命が、どうしようも無い位重なるんだ。
「……それで、その“ディアドラ”さんは今回の“彼女”、詰まり先生の探し物に一体何が関係しているんです」
僕は自分の感傷を飲み込んで所長に解答を求めた。
短くなったタバコを尚も咥え続け、所長は車窓より段々と深くなる潮の香りに眉を細めた。
「“大海(オーシャン)”それが今回の探し物だ」
開く所長の口から吸殻がゆらりと落ちる。
口元までしか残っていない所長のタバコは既に甘い香りを失っていた。
「叫ぶ盾“オハン”とも称されるその盾はコノール王の息子フィアクラの防具でね。金髪のイランを殺した武器さ」
「どう言う事だ? 防具で人を殺す、出来なくも無いが間抜けな殺し方だな、それ」
言葉の選び方の違いはあれど、式も同じような疑問を持ったようだ。彼女は後部座席に寝転んだまま口を開く。
「まあ、その辺りは衛宮にでも話して貰え、重要なのは“彼女”と“大海”の関係だ」
所長はようやくタバコを口から放すと、ポイッと右手に開けた真っ黒い海へとそれを投げ捨てた。
「“大海”は叫んで“危険を知らせる”と言う奇妙な特徴を持っていてね、今回の幽霊事件にもその部分が大きく絡んでいる。件の幽霊が現れるとき、決まって叫び声が聞こえるのだろう? それは、その幽霊が“大海”と大きく関係している証明に他ならない。加えて、過去の記録、幽霊と呼ばれる現象がこの世に投射されるには必ず何らかの“原因”があるはずなんだよ」
「なるほど、所長はその原因が“大海”だと考えている分けですね」
「正解だ。ご丁寧な事に“大海”には“何かを投射した”と思われる伝承も幾つか存在している。原因と結果、“大海”と“彼女”の幽霊、ほら繋がっただろう?」
「でも、それが何で“彼女”が消息を絶った場所、つまり自殺現場に行くことになるんです? それ以外の場所だって考えられるでしょう」
「それは無いんだよ黒桐。何故なら今回の原因が“大海”、詰まり宝具と言う固定された神秘だからだ。“大海”は武器なんだよ、使うモノがいなくてはその力を行使できない。なら、答えは簡単だな。それを使う“担い手”は誰なのか? 一体何のためにその力を行使するのか?」
「それが、彼女だと?」
「ああ、確か“彼女”の死体は未発見のまま、調査が打ち切りになったのだろう? なら、彼女は見つけて欲しいのさ、救われなかった願いが、せめて“ディアドラ”様に“死後”叶えられる様にね」
「だから、僕を?」
「そう、だから“大海”はその力を行使するのさ。過去に起こした悲劇の贖罪。衛宮の様に言うならば“謝りたい”のだろうね。君と衛宮、選ばれたのさ、救いしか知らない男と救いを知らない男が、ね。―――――ほら、行って来るといい」
所長は、車を止める。
どうやら所長との話しに夢中になりすぎたらしい。
気がつけば、そこは潮の香りが夜空へと落ち込む天上。
うちつける波の音が心地よい、そこはいつか見た頂だ。
僕は所長に言われるままに車を降りる。
やや不自由な身体と、光の無い左目の久しく感じていなかった億劫な感覚を黙らせて、僕は潮の香りを吸い込んだ。
「なんだか分からないけどさ。頑張ってこいよな」
やわらかい“シキ”の言葉を去り際に受けて、僕は歩いた。
少しの強風によろめく身体を必死に踏ん張って歩き続ける。
大丈夫、倒れるわけが無い。こんなボロボロの身体でも背負っている重みがある。
彼女を“救う”そのために、僕は歩き続ける。
あの日、遠すぎる“あの日”に近づける様に。
頂の向こう側、黒い海の深淵から割れるような涙の動悸が聞こえる。
そうだね、僕達は似た物同士だ。
救えなかった過去の痛み。それを償いたくて償えなくて。
君が“ディアドラ”さんを救えなかった様に、僕にも救えなかった人がいる。
辛いよね、知っているよ。
だけど、その後悔が間違いだって事も分かっている。
この痛みは、きっと彼女が生きた確かな証。
だから、僕達は選ばない、“彼女/彼”の救いを。
だから、僕は選んだんだ、とても優しくて、とても残酷な答えを。
僕は約束したから、――――――彼女の“現在/原罪(いま)”は僕が背負うって。
その痛みを、いつまでも背負えていける筈だから。
そう、だから。
「せめて君には、――――――――」
彼女の物語に、一欠けらの幸せを。
君の夢がいつまでも幸せでいられるように。
君がいた、その“痛み”を誰よりも心に刻むから。
「綺麗な夢を、見続けて欲しいから、―――――――――」
僕は、君の救いを望まない。だって君はもう救われているんだろう?
潮風が隠したはずの僕の左目を撫でる。
足を休めれば、目の前には僕の色に染まる海。
手すり越しにそれを眺めた瞬間。
崖添い。―――――僕の足元からニョキリと人型の何かが顔を覗かせた。