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「綺麗な、――――――――――青だ」
青い海。
青い空。
青い水平線。
冷房も備えられていないローカル線に揺られ、俺は代わり映えのしない青い世界を感慨も無く眺めていた。
切嗣が逝去して以来、海に足を運んだ事などあっただろうか。
思い出に浸る心算も無いので、静かに瞳を閉ざし深遠の世界を黒一色に塗り替えた。
だというのに、薫る渚がそれを拒む。
薄く視界に差し込む青色が心臓の鼓動を早鐘の様に打ちつけていた。
この感情は一体なんなのだろうか。
少なくとも俺は、こんな情動が幸せだとは感じない。
ならばコレは苛立ち以外の何者でも無いのだろう。
その証拠に俺は眉間にしわが集まるのを感じていた。
「――――――――――――――――――――」
無言。
みっともない決意の表明。
そうでもしないと、俺は彼女の歐を振り返ることが出来そうに無い。
俺は、誰に告げるでもなく振り返る。
歪な願いは果て無く続く青い恋に沈む。
思い出そう、彼女の物語を、――――――。
Fate/happy material
第二話 パーフェクトブルー Ⅰ
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静寂の落ちた暗がりの中。滴るような闇色が先生の工房には満ちている。
生憎雨模様。雨天の夜空に月は無く、街のネオンが届かぬこの場所には、光が一つも見当たらない。
暗闇に乗じ、自身の神経をより細く、より深く潜り込ませるように目蓋を閉ざす。
呼吸は正常、問題ない。
「――――同調、開始」
「ふむふむ、それで………」
短い嘆きと共に、暗闇しか捕らえぬ筈の眼が熱したタオルケットに押し潰される感覚に襲われた。この感触、今回は成功する、いや、させてみせる。
休み返上で先生の工房を借り、眼球強化に挑戦するも既に一週間。
土曜日は全くの進歩なし。
日曜日は少しの前進。
月曜日はやや後退。
火曜日にやっとコツを掴み始め、ただいま水曜日の夕刻に至るのだ、今夜は成功させ無いと流石にへこむ。汚名は挽回するのではなく返上してこその物だろう。逝くぞヘッポコ王、才能は充分か?
「――――――――――っつ」
「ほう、それは本当か? 何? 三人がかりで取り逃した? 来年の主席候補と例のお姫様を助手に連れて行ったのにか? ん? ああ、犯人自体はしょっ引いたわけ……そりゃそうか、哀れでならないね、勿論そのこそ泥が。……ふーん、で、目的のモノは既に郵送済みだったって訳。ご愁傷様、そいつも哀れだ。洒落るなら、“悲劇”だ」
っく!?落ち着け。魔術行使の最中に何を馬鹿な。
余計なことは考えるな、今までの失敗も、これからの成功も。
回路を深く深く深く深く、―――――――――――。
魔力を細く細く細く細く、―――――――――――。
熱い魔力と冷えた精神が目前で絡み、溶け合い、浸透する。
「―――――同調、完了」
「了解した。何、弟子の頼みだ。それに、私自身も興味がある。それではな、尻拭いは任せておけ。精々愛しのお兄ちゃんを扱き使わせて貰おう」
先生の方より上がった怒髪天の叱咤。キーンと響いた音叉を合図に目蓋が開けた。
心地よく熱を持った眼で工房より覗ける遥か彼方の鉄塔を睨みつけ、そして。
「……………駄目かぁ」
全身の脱力感を抑えきれず、思わずタイル張りのフロアに腰を落とした。
一気に噴出した汗をTシャツの袖で拭いながら、魔力を流す前と幾分も変わらぬ視界を流し視る。
「あいも変わらず、魔力の調節が下手糞だな。慎重になりすぎだ、そんな微細な魔力を流した所で意味はないよ」
先生はこちらに見向きもしない。
備え付けられた専用の机の上で、受話器を手放した先生はメモ帳に何かを書き込みながら悠々と俺のミスを指摘した。
慎重になりすぎ、か………前に遠坂にも言われたな。鍛錬の時の俺って、どうしてこうも踏ん切りが悪いんだか。
「しかし先生、電話をしながらよく俺の魔術行使にまで気を配れますね。お心遣いが身に沁みますよ」
俺が鍛錬をしている間、延々誰かと電話を続けていた先生に唇を尖らせる。
確かに俺は出来の悪い弟子だけど、鍛錬の時位真面目に見て下さいよ。
半眼の視線を強化し、不遜な態度の先生を一睨み。よし、強化の魔術成功。
「そう僻むな、鮮花からの頼まれ事でね。無碍にも出来ん」
軋んだ椅子を回転させて、俺に振り返った先生はニヤリと、地獄の最下層に住む悪魔達でさえ逃げ出すであろう笑みを浮かべ。
「それにな衛宮。男の嫉妬はみっとも無いぞ? まあ私ほどの女になれば、それも賞賛と同義だがね」
そんな事をのたまってくれました。
嫉妬……か、先生は冗談の心算なんだろうが、案外外れて無いのが悔しいぞ。
「………それで、鮮花さんは何て?」
幹也さんの妹であるらしいこの人は俺の姉弟子。
式さんとは色々あったらしいが、詳細は知らない。先生の話には聞いているが、一体どんな人なのやら。
「仕事の依頼か何かですか?」
先生の言葉に律儀に返すことはしなかった。
下手に弁明しても泥沼に陥るのは火を見るより明らかだし、話しを進めよう。
気だるい身体を元気に持ち上げ、先生に向顔した。
「秘密だ」
だが、一瞬で先生から言葉がリバウンド。思わず膝が落ちそうになる。
落ち着くんだ、衛宮士郎。先生がこう言う人なのは分かりきっているじゃないか。
「そう怒るな。話せないのは其れなりの事情がある」
冷静に、そして真剣な面持ちで立ち上がった先生は都会の喧騒に視線を移し。
「それでだ、衛宮。―――――――――君は海が好きか?」
いきなり頓珍漢な単語を炸裂させた。
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照りつける夏の陽射し。
青く輝く空の真下、薄く揺れる大海原はたゆたう風に流れ、砂浜を金色に染め上げる。サファイアさえ霞む透き通る蒼が彼方まで続く水平線を眺め…………。
「うわ~、私、海って初めてだけど、こんなに汚いんだ。シロウ、こんな所で泳いでも大丈夫なの?」
………まあ、そんな夢みたいな海の情景、日本にあるわけ無いんだけどさ。
「大丈夫だぞ。見れば分かるだろ」
イリヤの問いに一字一句の乱れも無くキッチリ返し、視線の向こう、人でごった返した海水浴場なのか人間サウナなのか分からない砂浜を送り見て彼女の手を引き砂浜に足をつける。
じゃりじゃりした砂上の肌触りが、足の平だけではなく身体全体に伸びてくる。肌を撫でる温い潮風は、身体を舐め、じんわりと汗を浮かばせる。
「がっかり、海ってもっと綺麗なものだと思っていたのに。これならアインツベルツの城から見えた氷河の方が厳かで綺麗だったわ」
青い海、白い砂浜は何処なのよと、イリヤは怒りも顕に俺の手を振り解きズンズン先に進んでいく。隠しているつもりなのだろうか? 初めての海を目の前に嬉しさが滲み出ているのが簡単に見て取れる。
後ろの幹也さんもそれが分かったのか何時も以上にニコニコしているぞ。
「可愛いね、イリヤちゃん」
幹也さんはビーチパラソルを小脇に抱え、黒のトランクス姿で俺の横に並んだ。
彼の薄い肩からかぶさる、水着と同色のパーカーが潮風に揺れるたびに、そこから幾つもの古傷が覗かせた。
ついその傷跡を凝視してしまった俺に、幹也さんははにかんで答えてくれた。
「大事な傷跡なんだ」
その言葉にどんな意味があるのかは知らないが、俺は、その痛みを問いだしてはいけない事なのだと感じていた。
そんな彼の顔に毒気を抜かれた俺は、先ほどの質問に答えることにした。
「ええ、自慢の妹ですから」
普段の思考を取り戻した俺は、焼けた砂浜に「アチチ」ととっかえひっかえ足を持ち上げるイリヤに視線を帰す。
うん、セパレートタイプの淡い紫。
イリヤの水着姿はこの砂浜で一番可愛いぞ。フナ虫をゴキブリと間違えて悲鳴を上げる姿なんて、どうにかなってしまいそう。ついつい助けるのを躊躇ってしまう位に………やはり俺って兄馬鹿なのだろか。
「――――ってほら、式もいつまでそうしてるの? 早く出てきなよ」
俺が一人上の空にしていると、幹也さんは小走りに離れて行き、海の家の影でこそこそしている人影を引っ張りだした。
ぼんやりと振り返る。馬鹿め俺。予期せぬ不意打ちに全く対抗できなかった。
そらそうだ。イリヤには黙秘権を行使せざるを得ない秘密の雑誌にだって、顔を染めてしまう俺である。つーか男なら誰しもがTKOだろう? 生憎、俺は不能者じゃない。
「―――――――――っつ!?」
ヤバイかも。
驚いた事に式さんの水着は黒のビキニ。幹也さんの水着とお揃いなのか、どこかデザインが似通っていた。少ない布地であらわになった女性らしい肢体が、かもし出す雰囲気に似合わず可愛らしい。
辺りをうろつく一般男性は言わずもがな、女性でさえ式さんの登場に言葉を失っている。それも当然、着物では曖昧だった引き締まったプロポーションが惜しげも無く披露されているのですからっ。
幹也さん、貴方の彼女は完璧です。あれだ、黄金率ってこのことか?
眼と眼で頷きあう男二人、心なしか幹也さんは誇らしげに頷いている。
「…………なんだよ、文句あるかっ」
俺と幹也さんのアイコンタクトに何を思ったのか、式さんの顔が微かに朱に染まり瞳が青く輝きだした………って、なんでさ?
危ない顔でにじり寄る式さんに、情けなくも後ずさる俺と幹也さん。やましい事は……大いにあるが、そんなん俺たちの所為じゃないだろうっ!? ぬれぎぬだー!
「違いますって。黒桐さんも衛宮っちも、彼女さんの水着姿に見惚れただけですってば」
俺を庇った幹也さんが海の藻屑になる直前、賑やかな笑い声と一緒に助け舟到来。
ぬう………朝倉は赤のビキニか。どう考えたって来た船は泥舟らしい。まったくもって意味はねーのである。
こいつもスタイル良いし、何より最初に眼が行くあの、ゲフンゲフン。
「おや、衛宮っち。顔色が良くないね~、彼女さんと私の所為で風引きさんかな?」
ニヤニヤと俺の髪の毛を指で突く風邪の原因その2。
フン、そうだよ文句あるか。こちとら染色体がお前らとは違う生き物である。健康にして健全な二十歳前の男ならば、むしろ当然過ぎる反応なのだ。当たり前すぎて笑い話にもならん。
「……それよりも早く行くぞ、砂浜に陣取ってイリヤが待ってる」
飲み物の詰まったクーラーボックスを担ぎ上げ、いざ灰色の砂浜へ。
夏の代名詞、海水浴と洒落込もうか。
ビーチパラソルの下、スポーツドリンクに口を付けながら陽射しだけは常夏の楽園じみた雰囲気を満喫する。日本の夏は人で溢れた海に限るな、実に風流だ。
「先生も旅館でゴロゴロしてないで来ればよかったのにな」
楽しげに水を掛け合うイリヤと式さんを視界に捉え、今回の海水浴の首謀者の事が頭に浮かんだ。
鮮花さんの電話を貰ったあの晩、何を血迷ったか先生は二泊三日の社員旅行を提案。
それに乗り気だったのが以外にも幹也さん。理由は単純、式さんの水着姿が見たかったかららしい、その意見には激しく同意である。
旅行が決定すれば後は早かった。
折角だから朝倉も誘おうと言う事になり、幹也さんと朝倉、二人の情報網を駆使してその日のうちに旅館から何からの手配が格安で完了。土日を利用して、ここにやって来た。
それと、意外なことがもう一つ。
どうやら先生は朝倉に自分の詳細を明らかにしたようだ。幹也さんからの紹介ではあるが、先生自身が朝倉の能力と人格を買ったのが大きいと思う。正体を明かすやいなや、先生と朝倉は色々と怪しい話題で会話に花を咲かせていた。
……にしても先生はなんだって急に海なんだ? まさか先生が海水浴って訳でも無いだろうに。
決して口には出来ないが、先生の水着姿ってのにも、興味が尽きないのは俺だけではなかろう。
「所長は他に用があったみたいだよ? さっき旅館に電話を入れたら留守だった」
俺の隣、先ほどまでイリヤの掘った落とし穴に嵌っていた幹也さんが砂を叩きながら腰を下ろした。クーラーボックスより飲み物を手渡し、色気も無く二人で会話を続ける。
……精神の平穏って、なんにも勝る喜びだよ、本当に。まあそれは、置いておく。何故って、平和とは、常に戦争と隣り合せなのである。ああ、皮肉なるかな光りと影の二元論。
「………嫌な予感がピリピリしますね、今回の旅行」
流す汗が冷や汗に変わった気がした。
見れば幹也さんも難しい顔をしている。
「だよね……言いだしっぺが所長だもの、ある程度の事は諦めないと」
ですよねと、自然に声が漏れた。
これで納得してしまうのが何故だかとっても情けない。
燦々と照る太陽の日差しが強すぎる、パラソルの下でくつろぐ俺と幹也さんは守る日陰は、照りつける射光に深まり、影がつられて濃くなっている。
「おいおい、辛気臭いよお二人さん。折角の旅行なんだし楽しまないと」
陽射しを遮り目の前の影が陽気に声を上げる。お前の明るさが羨ましいよ、本当に。
「心配しなくても十二分に楽しんでるよ。朝倉はどうだ? 成果はあったのかよ」
俺と幹也さんでビーチパラソルやシートを敷き終えるやいなや、「ナンパされて来る」って言ったっきり一度も顔を見せなかったお気楽女学生に尋ねた。
ざっと見、成果は無かったようだ。戦利品は何も無いし、男も遠巻きに引き連れていない。なんでだ? どう厳しく採点したって、平均よりずっと上の朝倉に声を掛ける奴、いなかったのか?
「だめだわ、駄目駄目ぜーんぜんだめ。ここいらには禄なのが居ないんだから」
いるにはいたが、どうやら全部突っぱねたらしい。こちとら高校生の平均身長アンダー5cmの冬木出身東京在住S・E君高校中退ですよ。
「まったく、やんなるねえ。どいつもコイツも、味の無いジャンクフードばっかりでさ。持てる女は、やっぱいい男を惹きつけてこそと思わないか、キミー?」
知るか。ジャンクフード食い過ぎていっそ牛になれ。
俺と幹也さんに視線を落とし、厳しい顔で品定め。まったくねぇ、なんて高い場所から見下ろし肩を竦めてくれやがる。うらやましくないぞー、だからその身長少しばかり分けてくれー。
「………ほっとけ、どうせ俺はその程度の男だよ」
「あはは、厳しいね和美ちゃん」
俺と幹也さんの発言にぷッと小さく唇を開いた朝倉は胸とは不釣合いな細い肩を再び揺らした。改めて眺めると、こいつ……本当にスタイル良いんだな。悔しいのでいってやらないけど。何と無く気恥ずかしく朝倉と視線が重なったんで慌てて逸らした、別に疚しいことは何も無いぞっ。
「けけけけ。そう言う意味じゃないんだけどね。全く、これだから売約済みの朴念仁共は」
だが、朝倉は小さな唇を精一杯持ち上げ笑みを漏らす。
無自覚ってのは怖いね~、何て意地悪く微笑み、振り返るやいなやイリヤと式さんに突撃をかける朝倉。勢いも束の間、あっという間にイリヤと式さんの攻勢に倒れ伏した。
何がしたいんだ、アイツは?
「―――――元気だね、皆」
すると突然、優しい声が。
太陽の光に眼を細め、幹也さんは波際で戯れる三人に眩しそうな微笑を向けた。イリヤと朝倉、それに式さんが水を掛け合い、勝ち負けなど無い不毛な抗争を開始している。
気がつけば、俺たちの手には空っぽのジュース缶が転がっていた。
俺はそれを徐に弄んで幹也さんに答えた。
「ええ、そうですね」
俺には幹也さんの瞳が式さんだけに注がれているように感じられた。
僅かの後悔を、精一杯の幸せで塗りつぶす。それが、何よりもの償いだと信じるように。
「――――――士郎君、僕達も行くかい?」
優しい瞳は変わらない、悩む事も、間違える事も、全てが等しく間違いじゃないと。与えられた幸せを受け止められる強さを讃えた笑み。
俺は………まだまだ幹也さんみたいに笑えないな。
軽すぎる空き缶を砂浜の錆付いた屑籠に放り投げる。放物線は綺麗な弧を描き、ガランっと響いて収まった。
「そうですね、――――行きましょう!」
幸せをビビッていたって始まらない。
景気づけに腕をグルグル廻して立ち上がる、夏の日差しが眩しいぜっ。
「よし! 僕たちで下克上だ! 行くぞ士郎君」
俺と幹也さん、朝倉に習い正面から突撃。
迎え撃つは大怪獣×3、俺たちだっていつまで負けてばかりじゃいられない。
男の底力見せてやる!
………まあ、結果は目に見えているんだけどさ。
いい加減お腹が減ってきた、正午過ぎ。
無残に完敗を喫した男二人はお姫様方に昼食をご馳走するため海の家で昼食をとる事に。じゃりじゃりした感触の残る茣蓙に腰を落ち着け、お品書きに手を伸ばす。イリヤも式さんも海は初めて、海水浴を満喫するには之を食さず始まるまいて。
「衛宮っち……分かっているよね?」
朝倉が俺と同種の薄ら笑いを浮かべ俺に目配り。
当然だ。
海の家で之を頼まなくては嘘だろう?
朝倉と俺、阿吽の呼吸で頷きあう。
「シロウ、私はこの、―――っモガ!?」
朝倉がメニューを決めたイリヤの口を押さえ込む。
よく分かっていない式さんと、呆れている幹也さん。
よし、この隙に、――――――――――――。
「ラーメン五つ、お願いしまぁ~す」
海の家の究極兵器を注文した。
「………まずい」
最初に口を開いたのはイリヤ。小さな手をプルプルさせながら半眼で俺を睨みつける。
だがしかし、是を口にせず何が海水浴か。
「く~、たまんないね、衛宮っち」
イリヤの隣、食事を満喫する朝倉が拳を握る。ズルズルに伸びきったゴムの様な麺を豪快に飲み込む彼女に続く。
「だな、やっぱりこの味は最高だ」
もはや醤油の味しかしない生暖かいスープを一口。料理の基本に敢然と立ち向かう、チープな味わいが口の中に広がる。
うむ、この料理も一つの到達点だな。
「お兄ちゃんもカズミも何言ってるのよ!このラーメンのどこを食べたらそんな感想が出てくるの!?」
があーっと激高するのは、日本の海初体験のお姫様。
ぬう、やはりこの味は理解して貰えないのか?
「あはははは、まあ喰いねぇイリヤちゃん。コレもある意味日本の伝統料理だからさ」
いいながら向こう側が見えそうなチャーシューをイリヤの器に放り込む。
それでも一向にイリヤの機嫌はおさまらない。
「でもさ、海の家のラーメンって高いよね」
俺とイリヤに朝倉、オンボロ長屋トリオを笑いを堪えて一つ眺め、幹也さんが顔を上げた。
一般人代表、幹也さんもこの味を理解してくれる様だ。
分かってますね、それでも注文してしまうのがこの料理の魔性です。
「…………食べられれば何でもいいだろ?」
って式さん。
それを言ったら元も子もないじゃないですか。
真夏の風が吹き抜けの屋台を流れた。
人の賑わう喧騒のさなか、揺れた風鈴の音色が響く。
この夏最後の思い出を作るためにも、存分に楽しまないとな。
だけど。
思えばこの時でさえ、俺の心臓は果ての無い深淵に囚われていたのだと、後に思い知らされる事となる。