7. / snow white.
「実に単純な疑問なんだがね、衛宮ってどうなんだ? もてるのか?」
わたしとコクトーは目を合わせる。
それを解いたわたしは、シキがお昼のお弁当として用意してくれた鰹節のお握りを味わいながら、ぎぎぎ、と腰掛けたソファーで油が切れた車輪みたいに身体を捻り、ぴんと小指を立てる声の主を探した。
開いた窓から差し込む、冬にしては温かい光と木枯らし。ソレを背にデスクで影を作る女性は、外見だけならやり手の女性実業家みたい。
紫苑のカーディガンを羽織る彼女に、今日も今日とて真っ黒のセーターとチノパンを組み合わせた可哀相な平社員が嫌々口を開く。
「…………あの、所長。えっと、すいません、かな? 質問の意図が僕の全存在を賭けたところで分かりそうにありません」
こめかみを押さえたコクトーはわたしの向かいで唸る。纏った雰囲気は拒絶。
それはそうよね、何人たりとも少し早めのお昼の幸せを邪魔することなどあってはならない。
折角快晴の冬空、何時もの冬景色より幾分も温かい今日、窓を開け放し気持ちよくお昼ごはんを満喫していたのに。
「なんだ、しょうの無い奴だな。いいか、衛宮だよ、衛宮。実際どうなんだ? アイツは。果たして男としてのアイツの評価が一体どんな程度のモノか、興味が湧かないかね」
シキのお握りに難癖付けながら三個もぺろりと平らげ、今は社長宜しく珈琲をすする彼女。
「いやね、衛宮は色々と女性関係のネタが尽きんだろう? 彼女の件もあるが、正直、師匠としては些か心配なのだよ」
トウコが思春期を迎えた息子を持つ母親みたいな事をのたまっている。
「今後、衛宮自身のためにも、アイツの女性関係、明らかにするのも必要な事だと思わないか?」
なんか真面目でソレっぽい発言だけど、眼が笑っているのは何故かしら?
「…………コクトー、黄色い救急車って何番で呼べるの?」
大変よお兄ちゃん、トウコが壊れた。早く帰って来て上げて。
今日の夜には帰宅する彼に、届く筈の無い言葉を贈りながら、哀れ師匠を何とか助けようと、そう口にした。
「駄目だよイリヤちゃん。ソレ、所詮は都市伝説だからね」
だけど、わたしの言葉にお握りを齧りながら心底疲れ果てて答えたコクトー。折角手に入れた日本の知識が嘘っぱちだったなんて少しショックだ。
それじゃあどうしましょう、とわたしはコクトーに目を泳がせる。それに頷いたコクトーは「そうだねぇ」と再び深く唸った。
「急性のアルツハイマーかも知れないし、……脳外科かな? 救急車、救急車っと」
コクトーは立ち上がって、分厚くて黄色い電話帳を探す。
「えっと、ここいらで一番近い病院はっと…………」
「駄目よコクトー、認識阻害の結界がここいら一体を覆っているんだから、救急車はここに来られないわ。それに仮にも封印指定の隠れ家、第三者に迂闊に住所なんて教えちゃ不味いわよ」
「そうなのかい? なら予約だけいれて、所長を連れて行こうか? おっと、見つけた」
コクトーは分厚いソレを彼のデスクにデンと捨て置き、深緑のブルゾンに袖を通した。笑顔のままこめかみをひくつかせ、彼はデスクの黒い受話器に手をかける。
どうやら、病院に予約を入れたらそのままトウコを引率していく気満々の様だ。
「…………なるほど。痴呆とかけた良いボケだが、些か長すぎだよ。黒桐」
ソレをさえぎったあきれ返る声。本当、どの口で言っているのかしら?
コクトーは持ち上げた子機をガシャンと親機に叩きつける。
「あのですね、下らない事を言っている位なら仕事をしてください。本当に、このままじゃウチは倒産ですよ? 分かってんですか?」
そのまま早足に、役立たずの社長が座るデスクまで向かうと、何時ぞやの契約書と真っ白の紙をトウコの眼の前に押し出した。
「全く、辛辣だね君は――――――――――分かった、ならば等価交換だ」
一瞬の躊躇い。
ソレを飲み込んだ彼女が不意にそんな事を溢した。
「等価交換って、どういう事ですか?」
一般人には聞きなれない私たちのルールに、黒桐が毒気を抜かれてしまう。この男は本当に甘いんだから。
勝負は既についちゃったみたいだし、わたしは大きな口で残りのお握りを飲み込んだ。はい、準備開始。
「何、簡単だよ。君たちが衛宮の女性関係やら交流やらを調べてくれたら私も仕事をしようじゃないか。設計図、仕上げないと不味いんだろう? ならば道理だ、君は君の能力を存分に生かして私が知りたい情報を用意する、私は私の能力を生かして仕事をする。どうだね、いい考えだと思わないか?」
ハンガーラックに向かいながら聞き耳を立てる………またこいつは無茶苦茶言ってるし。そもそも、貴方が仕事をするのは当然の事でしょう。
コレじゃコクトーの大損だ、等価交換なんて始めから成立していない。
だけどきっと、コクトーの事だ。
「――――――――――――それじゃあ行ってきます。車借りますよ」
そんな事気付かずに、トウコからキーを受け取って現金に重い扉を開けてオフィスを飛び出して行くのだろう。真実その通りだ、彼はすたこらっさっさとオフィスから消えてしまった。
「………はあ。それじゃ、わたしも面白そうだしついて行くけど、構わないでしょう?」
正直、わたしも興味あるしね。トウコが吐露したそのヘソ曲がりなやきもちに。
わたしはコクトーが開けっ広げた思い鉄製の扉の横、作りかけのビルゆえに飛び出した赤錆の鉄骨に引っ掛けられたハンガーから上着をとる。
シロウから借りているデニムボレロを羽織れば、暖房の温かさが引き立った。
「ああ勿論だ。―――――色々と楽しんで来いよ、イリヤ。きっと、面白い」
聞きながら、黒のカットソーの上、長すぎる青いボレロを腕巻くし。
ダメージボトムの右ポケットにアパートの鍵があるのを確認して真っ赤なキャップを被った。
さて、準備は万端。
一階の車庫にいるコクトーに追いつかなければ。
トウコに頷くこともせず、私は自分でも不思議なくらい元気に駆け出していた。
■ Interval / 伽藍の日々に幸福を Ⅳ ■
Void. / eX.
(凄い、シキって本当に大学生だったんだ)
(当たり前じゃないか、結構成績も良いんだよ)
隔てられた木製のドア越しに見える、藍色の着物姿。
十数名の若者諸君が個性豊かなファッションで、半円状の教室に沈黙を落としている。そんな中でさえ彼女の姿見は艶やかに際立っていた。最前列の長いすに腰掛け、カツカツとボールペンをルーズリーフに走らせる彼女は、だが、妙に嵌っている。
(ねえ、講義は何時終わるのよ? コレじゃ待ちぼうけよ?)
教室内に入れないもどかしさを漏らす。
教壇の向かいにあるドアからシキの背中を父親みたいな瞳で眺めるコクトーは、ポケットに入れていた左手を抜き、黒いバックルの腕時計で時刻を確認した。
(う~ん、12時25分か。そろそろ終わると思うよ)
かつてはこの大学の学生だったというコクトーは、タイムスケジュールを覚えているのか、答えなど期待していなかったわたしに丁寧にも返してくれた。
彼女を待つ少しの空白で、私はクリーム色の廊下、そこに規則正しく等間隔に設置された引き窓からこの大学の中央広場らしい洒落た庭を眺める。煩雑とした賑わいを見せる庭園は若々しい声がその先にある大学の正門まで続いていた。
文学部のための校舎、その三階から見えるこの景色は、キャンパスの緑豊かなデザインも相まってか悪くない。日本の首都なんて殺伐とした街の中に、よくもまあこんな悠長な建築物を建てられたものだ。
わたしは学外のカフェテリアで何を注文しようかしらと、首をかしげてシキを待つ。
穴場らしいその喫茶はコクトー曰く値段も安く、しかも美味しいなんて矛盾を抱えているらしい。私たちはシキとのインタビューの場を既にそこに決めていたからだ。
(あ、終わったみたいね)
そうこうしている内に、となりのドアより今時の茶髪君が愉快そうな顔をして教室より出てきた。いずれ出てくるであろうシキを、わたしはキャップを深く被りなおし、コクトーと待つことに。だが。
「………出てこないわね」
言葉通り、彼女はまだやってこない。
教室のドアをくぐった数十名の大学生がわたしとコクトーの奇妙な組み合わせに目をぎょっとさせていたのに、彼女は一体どうしたというのか。
よっ、と今度は開いたドアから顔を覗かせる。
コクトーは背が大きいので、間抜けなトーテムポールみたいにわたしと彼の顔がドアの縁に並んでいることだろう。
それは兎も角視線の先、シキは確かにそこにいた。
だが、その隣。シキが帰り支度をする横で、ちゃらちゃらした長髪の男二人、長いのと丸いのが何か囁いている。アレ、口説いている心算なのかしら? 男たちは妙に馴れ馴れしい態度でシキに怒涛の如く恥ずかしい台詞を連発していた。
シキに粉をかける男、されど、蛮勇と思うこと無かれ。昔はどうだったかは知らないが、今のシキはとんがってはいるものの、それは個性って程度で極端に人を拒絶したりと言うことは少ないのだ。コクトーみたいなフルールのケーキの一万倍位甘ったるい男といつも一緒にいればソレも避けられない事だ。
少しとっつきにくいものの、アレだけの容姿だ、ならば日に数回くらいはこんなこともあるだろう。だってのに。
「っち。――――――なんでシキはパンチの一つでもかましてやらないのよ」
何で貴方はおとなしく無視を決め込んでいるのかっ。ほら、だから男たちの方が調子に乗ってドンドン馴れ馴れしくなっている。そいつの下品な文句がここまで聞こえてきそうだ。
シキはこの手の手合いになれていないのか無貌を貫いてはいるものの僅かに顔が赤い。
あああああああもうっ、そんな顔しちゃだめっ、男どもが勘違いして余計に図に乗るんだから。
以前聞いた話なら、シキって高校の時は人間全てがよってこなかったらしいし、目の前の軟派男たちに対する対応の仕方が分からないのも頷ける。
変なところで、普通に女の子なんだからっ。
「こうなったらわたしが、―――――――――」
と、勇んで教室に踏み込もうとした其の時。
コクトーが頓珍漢な笑顔で教室に入っていった。
「お~い、式。友達かい?」
謎の人影登場に、場の空気が表現出来ない。
何、この不思議な空間は一体どこ?
「み、幹也!? お前、なんでここに!?」
あ、シキが驚いている。
所詮わたしには他人事なので、彼女の慌てふためく様をじっくり堪能する事を決め込んでいた。
夜の鍛錬の仕返しだ。我ながら子供よね、わたしも。
ゆったりとしたわたしの精神状態とは反対に、覗き込んだ教室の中は地獄の釜みたい。
ワタワタと着物を振り回すシキと、怪訝な顔をコクトーに向ける軟派君(のっぽとまるいの)、そしてニコニコその軟派君に手を差し出すコクトーことシキの恋人。
「幹也、コレは違うぞっ!? オレは別に、こんな奴等とっ、―――――」
確かに、恋人にこういったシーンを見られるのは余りよろしくないし、彼女のリアクションも乙女の視点から充分に理解できるのではあるが……。
いかんせん相手がコクトーである。
「やあ、式って気難しい子だけどさ、出来るなら仲良くしてやってくれよ」
う~ん、面白いわね。
シキとコクトーのずれ具合がなんともいえないわ。
軟派男君(二人)はうやむやに頷き、コクトーの手を取る、勝負は既についた。
この状況で軟派を敢行できたのならば、彼等は相当な大物である。どう視たってシキとコクトーの間にある空気は、ねぇ? 朴念仁のシロウだって気付くわよ。
「さて。ねえ式、ご飯はもう食べた? 奢るからさ、アーネンエルベに寄らないか?」
適当な挨拶を終えたコクトーは、振り向いてシキに告げる。
普段通りの微笑でそう言った彼に、シキは落とした肩を持ち上げて。
「………ああ」
そう、どこか安堵したように溢した。
彼女は赤いツイードジャケットで軟派君をあしらう様にバサッとソレを羽織る。
「―――――――そお言う訳だ、悪いな」
彼女はコクトーに手を引かれて、私に苦笑にも似た微笑を送る。
ドアの横。
隠れるようにソレを受け取ったわたしは、少しだけ悔しかった。
「――――――それで、お前らは何しに来たんだ?」
最もな疑問を口にしたシキ。
サンドイッチを食べ終え、注文したエスプレッソを一口含んだ彼女は苦味のためか、はたまた私たちに対してなのか、顔をしかめる。彼女は白々とした薄い光が漂う瀟洒な店内を懐かしむ様に眺め、そしてカップを置いた。
“遺産”、そんな意味を秘めたこの場所は、彼女にとっても思い出深い場所なのかもしれない。わたしはそんな事を、彼女の深く、そしてどこか悲しげにまどろんだ瞳から感じ取った。
「別に大した用じゃないんだけどね、一つだけ質問いいかしら?」
彼女の向かい、並んで窓際に座るシキとコクトーにお茶を濁す返答。午後一時、光が最も溢れるこの時間帯でさえ、この室内はどこか仄暗い。
天窓から降る木漏れ日のような暖かさだけが、テーブルを照らす確かな照明。
神秘的であり、尊く、どこか不可思議、そんな空気と匂いがこの喫茶の魅力なのだろう。
「大した用じゃないのに学校まで来たのか? なん、―――――ああ、トウコか」
理解が明るくて助かるわ。
わたしは注文したダージリンの香を楽しみながら、さて、どう話を切り出そうか考える。
だけど、所詮繕ったところで意味は無いのだと思い至り、息をつくように、だけどはっきりと尋ねた。シロウの妹兼姉としては、やっぱり気になるものね。
「ねえシキ。貴方って、シロウのことどう思ってる? その……一人の男性として」
正直、物凄くひくか、赤面、もしくは爆笑の三つのリアクションの内どれかだろうと思っていたのだが、わたしの予想は大きく外れることになる。
「――――――――ああ、なるほどね。だから、アーネンエルベか……」
優しく、だけどどこか寂しそうに、シキは微笑みでよく分からない言葉を口にした。
シキの言に動じず、そして泰然と微笑を絶やさず、水出し珈琲をブラックのまま楽しむコクトーはその真意を汲み取っているみたいだけど。
「ちょっと、なんなのよ。よく分からないアイコンタクトは止めてよね。それでシキ、あんたってシロウのことどう思っているわけ?」
私は口を尖らせ、二人の絡んだ視線を解いた。
「どうって言われてもな………好きか嫌いかで言えば、そうだな、嫌いじゃない、かな?」
シキははにかむ様に答える。
嫌いじゃない、シキにしてみれば最上級の褒め言葉だ。素直じゃないこいつが少なからずの好意を抱いているんだから。ぬう、はっきり言って予想外だ。シキの事だしどっちでもない、みたいな答えを期待していたのに。
「むむむ、やるわねシロウ。いつの間にシキを手篭めにしちゃったのよ」
わたしは目の前の二人に聞こえないくらい小さく声を絞る。
シキのシロウに対する評価は明らかになった、ならば次の質問は。
「それじゃ二つ目。シキ、貴方はどうしてシロウが“嫌いじゃない”のかしら?」
理由だ。
彼女がシロウに対して抱く感情、その原因。
わたしの質問をずば抜けた直感で予知していたのか、すっと眼を閉じ、彼女は背もたれを軋ませた。ぼんやりと天窓の陽光を受けて、シキの着物が青く、そして明るく染まっている。
「アイツを嫌いになれる人間なんて、それこそ衛宮と同類かもしくは正反対の奴だけだろうさ。そんな奇特で危篤な人間、滅多にいないだろ? そもそもそんな奴、人間かどうかも怪しい。ソレはさ、イリヤだって分かるだろう?」
シキの冗談に、コクトーが苦笑。
わたしはソレを気にせずに、シキの言葉を突っぱねた。
「ええ、でも私が聞きたいのはそんなコクトーみたいな一般論じゃなくて、貴方がシロウを気にかける理由よ。恋する乙女の眼力、舐めるんじゃないわよ。貴方、それ以上の何かをシロウに重ねているもの」
へえっ、と喜色の瞳を丸くする彼女。
それからシキは、コクトーに気付かれないように彼の死角から一度視線を送った。意味するところは分からないが、コクトーは彼女の話が終わるまで口を挟む気はなさそうだ。 彼は腕組をしたまま、残り僅かの珈琲に俯き、視線を上げようとしない。
「ま、そうだな。衛宮はさ、似てるんだよ。昔、嫌いになれなかった馬鹿な男にさ」
はっと、シキの抑揚のない声に振り向く。
そして、私は彼女の言葉を紅茶と一緒に味わった――――――――――って昔の男!? ちょっとちょっと、何よその色気がありすぎる単語は!? 昔の男と重なるシロウ、現在の恋人コクトー、揺れる和服美人……なんてこと、わたしの知らないところでこんな恋愛劇が展開していたなんて………。
「あのな、別にお前が想像するような甘ったるいモノは何も無いからな」
半世紀前のレディースコミックみたいな妄想を、シキの言葉と一緒にぽいっと捨て去る。
半眼の視線と嗜めるような仕草を向けるシキに、わたしは肩を持ち上げて余裕の笑顔を放ってあげた。
大体、シキとシロウとコクトーで、どうやったらロマンスが展開できるのよ、コメディーの間違いでしょ。
「分かってるわよ、ソレくらい。冗談じゃない、冗談。それで、貴方はその昔気になった彼とシロウ、どこら辺をダブらせているわけ?」
銀のティーポットで新たに紅茶を注ぎながらシキに再度、だけど先ほどよりも軽快に窺い立てる。「そうだな」と思案顔のシキ。考えが纏まるまでの僅かな時間で、二口ほど紅色の液体を飲み込む。じんわりと私の舌が紅茶の甘さと、僅かの渋みで満たされた。
「―――――上手くいえないけど、価値を感じないんだ。あいつ等の生き方に……さ」
紅茶の風味が口から消えた頃、シキの言葉は私まで届かなかった。
誰かがアーネンエルベのドアを開いたらしい、カランカランと高いベルの音色が僅かに木霊し、木製のテーブルに置いた私のティーカップが液体を波紋状に揺らす。
言葉を挟もうにも、シキはゆったりと思い出を紡ぐように語りを止めない。
「なんて言うのかな? 唯生きているだけなのに、不器用で下手糞で。そのくせ、一生懸命もがく癖に、――――――――報われない、違うか? 報われることを信じない」
一度は持ち上げたカップを洒落たソーサーの上に戻す彼女。
喉の渇きをそのままにしたいのか、彼女は黒色の飲料物を拒んだ。おぼつかなく彷徨ったシキの女性らしい細く綺麗な右手は、いつの間にかテーブルの影に隠れてしまい、わたしがその行方を知ることは無かった。
「だけどそれでも、あいつ等は一生懸命を止めないんだ。ほら、これって無価値だろ? どうせ報われないのに、我慢して、耐えて、踏ん張ってさ。いつか切れちまったその日まで、もしかしたらその後も、そうであることを止めなかったんだ」
時制の混濁した彼女の話は果たして誰に向けられたのか。
だが、少なくとも過去形で語られた最後の言葉。わたしはその裏にあるものを読み取れるほど大人ではなかった。
「ねえ、その人は?」
「ああ、そいつ? 死んだよ。何時だったかな、覚えてないけど」
無邪気な悪意。わたしの疑問にあっけらかんと返されたその言葉。イリヤスフィールはその重さを知らない。
わたしは表情を作ることが出来ず、ただ無言のまま、紅茶のカップで顔を隠すだけだった。
「ソレでさ、この話しには続きがあるんだ。最後まで聞くだろ?」
「………ええ、当然でしょ」
カップをはしたなく音を立ててテーブルに戻した。
ソレが、私に出来た精一杯のごめんなさいだったから。
「確かに、アイツも、それと衛宮も、無価値な奴なのかもしれないけどさ」
満足げにわたしの強がりを受け取った彼女は、穏やかな顔で瞳を閉じる。コレで二度目だ。
「それでもあいつ等は生きるための“意味”を信じられる、そんな馬鹿だと思うんだ。価値の無い人間ってのはさ、物凄い貴重かもしれないけど、自分にしか無い“意味”を貫ける奴って、それ以上に少ないんじゃないかなって」
シキは、白魚みたいな細指でそっと薄紅の唇をなぞった。
ぞっとするくらい艶のある仕草は、扇情的な色香で私を欲情させる。口の中が一気に枯渇し、艶かしいシキの花弁を知らず赤い瞳で追っていた。
「こんなところかな? しかし、柄にも無く詩的だね、今日のオレは。幹也の癖がうつったかな?」
「どうしてだよ? 名前は詩人みたいだけど、中身は僕だからね。芸術家なんて、そんな洒落た職業は向こうからお断りさ」
「知らぬはどこのどいつやらってね。お前、やっぱり自分が見えてないよ、眼鏡を買いなおせ」
シキとコクトーの遣り取りに、いつの間にか唇を曲げるわたし。だけど、そう感じたのは私だけで本当はほくそ笑んでいるのかもしれない。
わたしは冷えちゃった紅茶、最後の一口を出来る限り優雅に味わって彼らの無為な喧騒に栞を挟んだ。どうせ、伽藍の堂に戻れば再び始まる退屈な一ページだ、この表現もあながち間違ってはいないと思う。
「はいはい。結局シキはお兄ちゃんがそこそこ気に入っていて、その理由は昔の知り合いに似ているからってことでいいのかしら?」
「ああ後、叩き甲斐があっていいな。相変わらず剣の才能は無いけど、打ち合っていて飽きないし」
「ふむふむ」
わたしは知りえた情報をすらすらとメモに書き込む、リョウギシキ、要注意っと。
「ありがとうね、シキ。――――――よし、それじゃコクトー、次行くわよ!」
パタンと手帳をボレロの胸ポケットに滑り込ませて席を立つ。
沈黙にあったこの喫茶店に私の声がいやに大きく響いた。
「うん、そうだね。余り長居してシキを引き止めるのは不味いし。ねえ、午後の授業は何時から?」
「二時。その後は剣道サークルに顔を出してくるから、今日は幹也のアパートに直接帰る」
貴方の家はコクトーのアパートでは無いでしょうにっ、なんて無粋な事は言ってはいけない。キャップを深く被りなおしたわたしは鮮やかにそこら辺の事情をスルーして、一人席を立ちコクトーを待つ。
「そっか、サークルかぁ。でも式、この前までは興味なかったんだろ? ソレがどうして入部したのさ? 理由、キチンと聞いていなかったよね」
ブルゾンを羽織ながら、コクトーはテーブルのレシートを確認する。
「ああそう言えばそうだな。実はこの前さ、お前の親友の、なんて言ったかな………ええっと、ほら院生の」
「学人。ちなみにアレは親友ではないヨ。悪友って奴だからね」
「そう、そいつに無理やり大学の剣道場まで連れて行かれたのがきっかけなんだ。何でもT大、だっけ? 頭の宜しい大学とウチの大学との練習試合だったらしくてさ」
シキは立ち上がりながら赤いジャンパーを脇に抱える、彼女の表情は何故かとても嬉しそうだ。まるで人食いドラみたい。
「オレが顔を出したときにはウチの剣道部員全員が床に転がってたんだ。結構ガラの悪い連中だったけど腕はそれなりだったし、驚いたよ。聞けばさ、オレと同い年の女の仕業だって言うんだから」
「はあ、それは凄いね。牛若丸みたいだ、それで? 式はその子と?」
「まあね。ウチの大学が下に見られるのも癪だし、軽く捻ってやろうと思って立ち会ったんだ。そしたらさ」
コクトーはレジで御代を支払い終えて小銭を受け取りながらシキの話を流し聞いている。
かく言うわたしだって、木の匂いを嗅ぎながら木製の扉の横でぼうっとその取り止めも無い話を聞いていたんだから。
彼女の次の言葉を聞くまでは。
「――――――――――入っちゃったんだよ、スイッチが」
ちゃりんちゃりんっ、と。
止まった時間の中で、コクトーが受け取り損ねた僅かのお釣りが音を立てていた。
「「―――――――――――は?」」
凍った時間から抜け出してしまったわたしとコクトーは、物凄い速さでシキに首を回す。
スイッチって………貴方まさか。
「ししししししししし式、もももももももももももしかしてその子を、ここここここここここここころろろろろろおぉ」
それ以上先を訪ねる勇気がないのか、コクトーは顎をガクガク膝もガクガク、シキの肩をガクガク揺する。
しかし、ソレは不味いわよ。まだニュースになっていないところを見るともみ消し、大学側が? いやもしかしたらシキの実家が圧力をかけているのかも、相当の名家だって話しだし。
「お、お、お、お、お、お、お落ち着けっ幹也っ!?」
シキの髪がぐしゃぐしゃに乱れた頃合いに、ようやくコクトーの電源が切れた。
不憫ね、恋人は殺人鬼。あれ? なんかシュールだ。でも、ちょっと背徳的でロマンス?
「はあ、話は最尾まで聞けよなっ。大体、殺したなんて一言も言ってないだろ」
乱れた髪の毛と、顔を赤らめて抗議するシキ、なんかエッチな表情だと思うのはわたしだけかしら。
「なんだ、それじゃ殺してないのかい? あ、でも意識不明の重体とか、再起不能とか、そんなんじゃ」
「ソレも大丈夫だってっ。オレとトントンで打ち合えた奴が竹刀での立会いでそう簡単に死んだり怪我するわけ無いだろう?」
どこまでも心配性のコクトーを安心させるように、言葉を選んだシキはほっと息をついてアーネンエルベのドアを開き、冬の空気に肌を凍らせた。
「それに、スイッチが入ったのはお互い様だよ。オレは魔眼を、向こうは、恐らくこの前会った桜咲と同じ流派、神鳴流の剣閃をボカンボカン使い始めやがってな。途中から剣道の型なんて考えもせずに打ち合っていたし」
シキの背中に続きながら想像する。
ぎらぎらの殺気と翠眼を走らせるシキと、お化け退治専門の戦闘流派の使い手。
平和な大学の中で繰り広げられた、血眼の殺し合い。すげーッス、頼まれても絶対みれないッスよっ。
シキと正面きって戦ったというゴリラな女性を頭に描いてブルりと背筋を震わせる。
まさか、シキみたいな美人で凄い剣の使い手なんてこの世に二人といるわけないしね。同時にぽわわーんっと湧いてきた黒髪の日本美人とシキの、美麗な決闘シーンを頭から振り払うように、わたしは尋ねた。
「それじゃ、貴方が剣道サークルの正式な部員になったのって………」
「ああ、もしかしたらまた立ち会えるかもしれないだろ?」
本当に楽しそうに微笑んだ彼女、多少?普通の大学生とは趣の違うキャンパスライフみたいだけど、アレはアレで楽しんでいるみたいだし、まあよしとしましょう。
「それじゃ、式。とにかく大学まで送るよ、のって」
「ああ」
そんなこんなで、一人目、エミヤシロウの現在の剣の師、リョウギシキとの対話は終えられた。次のターゲットは誰にしましょうか。
わたしは、流れる景色を後部座席で眺めながら、シキの溢した言葉の“意味”を繰り返し、心の奥に刻み込んでいた。