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「……………京都に来ちまったよ、おい」
銀行強盗の方々が使うような黒い国産のバン、その運転席から降りた俺は大きく伸びをする。吸い込む息吹には古都の香が紛れていた。
「当たり前でしょ、コノカ達の里帰りについて来ているんだから。何言ってるのよ、シロウ」
日本贔屓の俺としては、飛び上がるほど好ましいこの場所は近衛の実家。車を止めた石段の目の前には、数え切れない朱色の鳥居が俺たちを迎えてくれている。
ただ、若葉マークの俺が高速に乗っかって数時間の運転なんて無茶をしたもんだから、疲労の所為もあって上手く喜びを表現できないでいた。
「…………分かってるよ、だけど話が急だったから未だに信じられないだけだって。イリヤだってそうじゃないのかよ?」
倦怠感の残る身体で、俺はリアシートから先生から借りた旅行鞄を幹也さんと一緒になって下ろす。
そうしながらイリヤに尋ねたのだが、生憎とそれに答えたのは近衛だった。
「まあいいやない。衛宮君達はお仕事やし仕方ないやろ? 今回も護衛、宜しくな~」
「まあ護衛のお仕事もそうですが、京都の町も充分に楽しんでください」
近衛と桜咲はバンの影から顔を覗かせている。彼女たちは帰郷の為に荷物が少なくて済むが、イリヤや式さんはそう言うわけにはいかない。近衛と桜咲は二人を手伝いながら答えてくれた。俺は、難しい顔で二人を見る。同じくして、髪を眠たげに掻き揚げて、ぼんやりと式さんが口を挟んだ。
「でもな、そもそもが護衛の仕事なんか名前ばかりじゃないのか? 別に京都に吸血鬼が潜伏したとか、危険な魔術師が逃亡してきたとか、そういった噂だって聞いていないし、今目立った事件と言えば西日本全域で行方不明者が増加傾向にあるって位だろう? どうして木乃香の爺さんはオレたちに護衛なんかをさせるんだ?」
車内に荷物が無いのを確認する。式さんの愚痴を聞きながら俺は先生から借りたバンに鍵をかけた。
今日とて着込んだ茶色のジャンパーの右ポケットにキーを突っ込みながら、近衛の実家の私有地の広さとか、野外駐車場のでかさとかに驚きつつ、式さんが俺の代わりに、ずっと引っかかっていた疑問を吐露してくれていた。
色々な紆余曲折の末、俺、イリヤ、幹也さんそして式さんの四人が近衛の里帰りに伴い、京都までやってきているのはいうまでも無いが、事の起こりは一本の電話。
俺が選定の剣を夢に見た夜に先生が受け取った日本魔術協会長からの依頼だった。
“冬休みの間、京都に帰還する孫の護衛、そして日本呪術協会本部への引渡し”それがクライアントからの唯一の依頼。
高校生の里帰り程度に、何を大げさな。俺がこの話を聞かされたときの第一声だ。
だが、この考えは後に先生と依頼主である近衛の爺さんの説明によって覆される事となる。
極東最大の魔力保持者。それが一つ目。
一個人、一介の魔術師の範疇を逸脱した強大な魔力を保持する近衛は、様々な外敵を呼び寄せる。麻帆良での吸血尾に事件でもそうであったように、高純度の神秘を内包した血液を求めるヴァンパイア、そもそも単純にその強大な魔力を魔具、魔力供給機として利用しようとする魔術師、制御しきれない神秘の群がる魑魅魍魎。
二つ目は、近衛の立場上の問題。
日本の退魔組織のトップ、その一人娘であり日本魔術協会長の孫娘。コレについてはあえていうまでも無いだろう。どこの世界でも、権力って奴は時に人を不幸にするんだ。
事実、彼女が中学生で神秘なんて何も知らずに生きていた時でさえ、その莫大な魔力を狙われたり、立場上のいざこざに巻き込まれたりしたらしい。
そして、ここでも登場する“ネギ先生”。彼がこれらの事件を全て解決したらしいが、その後も、近衛は常にこの手の脅威に晒されている。
なればこその桜咲。上級の死徒、魔術師にすら引けを取らぬ高位の剣士だ。
通常、彼女一人で護衛は充分なのだが、それは防衛体制が整えられている麻帆良であればの話。長距離の移動や、里帰りには常に二三人の護衛が近辺を固めるのが常だそうだ。
だが、物々しい話は既に過去の遺失物。ここ三四年は目立った動向も無く、近衛は誠穏やかに日々を過ごしている。それは本当に嬉しいことだ。いくら近衛も魔術師だって言ったって、人並みの幸せを掴めているんだから。
つまりは結局、今回の俺たちの護衛任務も念のためと言った色が強いってこと。
それは兎も角。
先生が正式に仕事を請け負ったのは事実だし、護衛の任務でここに出向いてきたのだ。
イリヤだって自身の武装を持ってきているし、式さん……はいつもの様に懐には銀のナイフ。俺は物騒な荷物の詰まったラゲージを転がしながら、気持ちを引き締める。
思考に埋没しながら聞き耳を立てていたのだが、桜咲がようやく回答を寄越してくれた。
「学園長は衛宮を大きく買っていますからね。吸血鬼の件もありますが、今冬の里帰りで麻帆良の魔術師を護衛につけるのではなく、衛宮たちを護衛につけたのはそれが理由でしょう」
石段を登る桜咲と近衛の背中を眺めながら、俺は話半分に頷く。
俺たちが今回近衛の里帰りの護衛として選ばれた理由がそれだけでは無い事が、何と無くだが分かっていた。
協会長が伽藍の堂に、俺たちに護衛を依頼しのは、単に俺たちが近衛の“友達”だからだ。協会長は切嗣見たいなフェミニストだし、きっと自分の孫娘の“日常”は日常のままにしておきたいのだろう。見ず知らず、もしくは神秘にその身を浸す生粋の魔術師と過ごすギスギスした帰郷ではなく、それが僅かな時間であっても当たり前であって欲しい。きっと、そう考えての配慮に違いなかった。
「まあ何にしても、楽しませてもらうさ。近衛の護衛も、お前らが言うような京都の観光もさ」
引き締めた精神もやおら、振り向く桜咲と近衛の本当に楽しそうな微笑に、俺は脆くも陥落した。
視覚よりも先に、嗅覚が俺の和製の精神構造を刺激する。伝統深い木の社の匂いと、香でも焚いているのか、ここまで清涼が香っていた。冬の快晴を和らげる優しい冷気。雅に漂うソレは、ワーカホリックだった俺の心を旅情に掻き立てる。
そして気付いた、果てが無いかと思われた朱色の鳥居は残り僅か。日本の赴きある精彩、個人の所有とはとても思えぬ寺院が目前に覗かせていた。
「へえ、すごいわ」
感嘆はイリヤだ。豪奢なものには耐性があるはずの彼女ですら息を呑む。
東洋、いや日本風の寺院は見慣れていないであろうイリヤは歳相応の笑顔ではしゃぎ、笑顔を溢した。
石段を昇りきった頂にある寺院。
京都の町と、囲まれた山々を一堂に見渡せる絶景が二つ目に飛び込んできたものだった。
「はは、……本当、すごいなぁ。式の実家だって相当なものだと思ってたけど。一般人の貧相な価値観じゃ、ちょっと言葉が見つからないな」
驚く三人、言うまでも無く俺、イリヤ、幹也さんだ。
「まあ、そうだろ。オレだってここに初めてきたときはそれなりに驚いた。まあ、ガキだったけどな」
その隣を、飄々と赤のジャンパーと空色の着物を召した式さんが素通り。
石畳の本道に鞄を転がし、個人所有とはとても思えぬ寺院に三人の日本美人は歩幅を変えず進んでいく。俺たち一般人2名と異国のお姫様は、恐らく巨大な寺院の本堂に向かっているだろう彼女たちに続く。
……立派な門構えは、余りのでかさに俺を萎縮させる。最も、そんな貧しい感想を抱いたのは俺と幹也さんだけだったらしい。
逞しきかな女性人は、顔色一つ変えず堂々と凱旋を果たした。
「 ? 何してるの、シロウ、コクトー。コノカ達、母屋の方に行っちゃったけど? ほら早く行きましょうよ」
不思議そうに、されど柏木作りの玄関に感心しながら、イリヤが立ちんぼの俺と幹也さんに言った。悪かったよ、所詮俺らは一般人1と2だ。
小首を傾げるイリヤ。ピョコンと跳ねた彼女の三つ網を恨めしく思いながら、俺と幹也さんはやっと門構えを潜るのだった。
そして、この冬最後の旅路は始められる。
立ち行かない俺の想いと、未だ気付かぬ最後のピース。
俺の探し物が彷徨うこの街で、きっと掴み取るために。
夢に見た黄金の運命。
選ばれなかった救いは、きっとここでもう一度。
俺は確信にも似た予感を胸に、皇の街へ、そして俺は敷居を跨いだ。
Fate / happy material
第二十五話 願いの行方 Ⅱ
「この度は良くいらしていただいた」
巨大な畳敷きの閨。
容積と内容物が余りにも違いすぎる。俺は近衛と桜咲に通されたこの部屋で、味の良く分からないお茶をすすっていた。俺たち伽藍の堂メンバーと近衛、桜咲そして目の前でピッと姿勢を正す壮年の男性だけがこの空間にいる。
恐らく八十畳ではきかないこの大広間で軽い自己紹介の後、壮年の男性、近衛の父親、詠春さんが口を開いた。
「はは、そんな畏まらずに」
いや、そうは言ってもですね。
こんなだだっ広い千畳敷で、持成されたことなど無いわけで。
「まあ、お互い知らない仲じゃ無いしな。しかし、奇妙な縁もあるもんじゃないか、詠春」
言われる前から緩みまくっている式さんは肘をついてあぐら。イリヤもイリヤで、当然のように沈黙を保つ。女性ってすげえ、その適応力には、感嘆を禁じえない。まったく、俺と幹也さんは二人にただただ舌を巻くばかりである。
「本当に、両儀の当代もお元気そうで何よりだ」
「止めろよ、その呼び方。それに、言われるなら“末代”のほうが良い。話は、通ってる筈だけど?」
ズッと、式さんが音を立てて茶碗に口付け。
「まあ、それはいいでしょう。君の言う通り、何より今日は奇妙な縁に礼を払わなくてはね」
単衣の着物で腕組み、真横一列に並ぶ俺たちを舐めるように流し見る詠春さん。
痩せ細った顔立ちと、紅白の浄衣の上からでもわかる屈強な体つき。そして何より、一流の剣士としての中身を見透かされるような鋭い眼光。
姿見が全く異なっているのに、彼の瞳が俺の憧れと重なる。そう感じたのは、切嗣と詠春さんの生まれ年が近い所為もあるのだろう。切嗣が生きていたら、きっと、彼と同じようなタイプの父親になっていたに違いない。あくまで、俺の陳腐な想像のうちでの話しだが。
「なあなあ、お父さん。そんな堅苦しい挨拶はいいから、早く衛宮君たちをお部屋に通しやっ。荷物を置いたら京都の街にくりだすんやから」
だんまりと俺とイリヤに絡めていた詠春さんの視線は、その一声に解けた。
「はは、いやね、娘が刹那君以外の友達を家に寄越すなんて何年ぶりかと思ったらつい嬉しくてね。長旅で疲れているのに、コレは申し訳なかった。直ぐに準備させる」
よっこらしょ、と席を外す詠春さん。
ひょろひょろした痩躯からは想像出来ないほどの見事な足運び。それに思わず息を呑んだ。あの人、とんでもなく強い。日本呪術協会長、退魔組織の長は伊達では無いらしい。
「―――――おい、衛宮。機会があれば夜中にでも手合わせしてもらえよ。詠春の奴、相当出来るからさ、中々勉強になるぞ」
俺が襖から消える詠春さんの背中を追う横で、式さんが小突いた。どうやら、考えたことが顔に出ていたようだ。
式さんの発言に「そうだなあ」と賛同を匂わせ、頬を軽く掻く俺。
確かに手合わせは魅力的な提案だけど、ここの選択肢を間違えると、即デッドエンドな予感がするんですが。
「ああ、ソレが良い。長は神鳴流の剣士としても超一流ですから、後ほど私のほうからお願いしてみましょう、式さんもいかがですか? 私も久々に長と手合わせを願いたいと考えていましたし、丁度良い。今日の晩にでも、道場の方を空けていただきましょう」
俺が慎重に思案する正面、意外にも桜咲が賛同してくれた。
とんとん拍子に話が纏まる傍ら、俺の心のうちは複雑だったりする。
そりゃ、熟達の剣捌きを間近で勉強できるのは有り難いけど、俺のレベルで手合わせになるのか甚だ不安である。式さんにいつも手加減されている分際でこんなことを言うのもなんだが、力の差を見せ付けられるのも結構傷つくのだ。
詠春さん、式さん、桜咲が本気で立ち回っている最中、俺だけ置いてけぼり。そのシチュエーションって、なんかさ。
「いいのか? それは嬉しいね。オレは詠春と年末のちょっとした時間でしか打ち合ったことが無いんだ」
気付いているのか、いないのか……式さんが懐からナイフを抜き出し弄び始めた。断るタイミングは既に逃している。俺はグッと熱いお茶を飲み干し、滅多打ち(受身)のチャンバラに赴く決心を一緒に腑に落とす。
「それじゃ、俺もお願いしようかな。毎日式さんと鍛錬してるんだ、その成果を確かめたいしな」
決めてしまえば、後引くものは何も無い。今晩の鍛錬が楽しみになってきた。京都に来てまで何をしているんだかと思わなくも無いけど、これはコレで、ここでしか出来ない楽しみ方だよな。
「………旅行に来ても鍛錬ね。シロウもシキも、やっぱり変」
「同感やね。せっちゃんが嬉しそうやから構わんけど、なんか違うよな」
「良いんじゃない? 皆楽しそうだもの」
雑感を締めくくった幹也さんが、お茶を飲み干した頃、襖が再び開いて詠春さんが戻ってきた。控えさせた侍女が盆に乗せているのは人数分の浴衣だ。すごいな、旅館みたいだ。
「部屋の用意が済んだよ。お話しは夕食の席でもう一度。それでは木乃香、京都の町、キチンと案内してあげなさい」
「そんなん、わかっとるよ。それじゃ、お部屋に荷物を置いたらここに戻ってきてな。そのあと近場から案内してやるから」
「時間はたっぷりありますからね。初日はあせる必要は無いでしょう。―――それでは皆さん、お部屋の方へご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
一人閨に残る近衛と、俺たちを先導する桜咲。
護衛役の俺たちが持成される奇妙な空気の中で、俺達は京都の旅情に心を浮つかせていた。
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「へえ、コレが有名なキンカクジね。中々綺麗じゃない」
鹿苑寺。足利義満縁の寺院、京都の北山に在りし日本で最も著名な建築物を眺め、異国の姫君は木製の柵から身を乗り出している。池を囲った回遊路から、見渡せるその風景は確かに綺麗だ。
ちなみに、金閣寺と言うのは寺全体をさしての通称なので、今現在俺たちが眺める舎利殿は“金閣”と呼ぶのが正しいと思う。
「うん、夕焼けに映える絶景も文句なしだものな」
だが、それを言及するのは些か無粋というもの。言外にして、紅い空と煌びやかに佇む黄金の塔を見つめる。
色々京都の町を連れまわされて結構疲れたけど、この日の締めくくりとして連れてこられたこの絶景を臨めば、身体の重さなど霧散していることに気付く。
「でもこの塔、本当に派手派手ね。日本の味はワビとサビだと思っていたのに」
ふむ。外国人には艶やかな世界遺産指定の文化財が人気だと聞くが、イリヤには不評のご様子。先ほど訪れた銀閣の方が流麗な雰囲気があって心に響くものがあったのもまた事実。和み、緩やかに時を流す情緒があってよかったと思うのは、日本人だけかと思えば、この異人さんも同じモノ感じていたようだ。
漆地に金箔を押した堂々たる武家造りの二層、そして仏舎利を安置した三層。極めつけは頂点、こけら葺きの屋根にある黄金の鳳凰だ。
確かに、日本的では無いこの美しさ。それでも、朱色に混じる黄金の絶景は心象を焼き付け、情動をこみ上げさせるのに充分だった。
知らず歪めた口元は何を思っていたのか。――――――――決まっている、いつかアイツと見た夕焼けだ。
確か今みたいに、あの日も俺は朱色と黄金の美しさに心を奪われていた。俺は、そんな忘れていた綺麗な思い出を、唐突に引き出していた。
「―――――――――でも、……それでも綺麗だよな、なんか尊い感じがしてさ」
アイツにも、見せてやりたかった。
僅かしか日本の情緒に触れることが出来なかったアイツだけど、それでもきっとこの景色を綺麗だと感じてくれるはずだ。
ああでも、あの勇猛な王様と来たら、ここまで豪華な寝屋はお気に召さないかもしれないな。アイツ、そういう奴だったもの。
在りえたかもしれない、意味の無い日々の夢想。顔をなぞれば、俺は微笑んでいた。
俺たちは並び、アイツの髪と同じ金色の美しい舎利殿を沈黙のまま見守る。
しかし、その静寂を破ったのは誰でもない、そう、本当に誰でもない誰かだった。
「尊い、ね。――――――――――――君、いい感性してるよ」
俺の隣に並んだ誰か。
そいつは俺と同い年くらいか。銅色がかった細く繊細な髪、恐らく染めているであろうその柔らかそうな髪を首元で結い、夜が近づき冷え込む外気に髪房を流している。
女性的で神経質そうな顔立ちを朱色の湖面に向ける突然の人影。池の表面はまるで鏡の様で、不規則に揺らぐ極小の白波が金の寝殿を映し出していた。
現れた来訪者に桜咲が警戒する。無論、俺と式さんも僅かに構える。
「―――――――ああ、コレは失礼しました。ちょっと僕も感動してね、思わず声を掛けてしまったんだ。そんなに驚かないで欲しいな」
慇懃な薄ら笑い。俺にはそう感じられた。俺の中に僅かだが垣間見せた嫌な感情。
だけど……大丈夫、こいつに敵意など無い。神経を尖らせすぎたようだ、俺は息をついて肩の力を抜く。それは桜咲も式さんも同じだったらしく、一瞬だけ緊張した空気は既に夕闇の中に融けていた。
光耀として佇む金閣、ソレを背負い赤色のジャケットを調えた誰か。その仕草はどこか上品で、育ちの良さを感じさせる。
「しかし、君もうらやましいね。こんな美人に囲まれての遊覧なんて、早々出来ないよ」
礼儀正しくこの場を去ろうとする彼。
どうやら、気分を害してしまったようだ。
「む、やっぱりそうなのか? 道理で今日一日視線が痛かった筈だよ」
「そうだね。でも、その分楽しめたんだろう。思わず僕も嬉しくなってしまうよ。君の顔と一緒だ」
子供らしいのに、どこか影を落としたぎこちない笑み。見知らぬ誰かは顔を変えた。紅い外套は、同色の空色に紛れて彼の存在感を希薄にしている。
―――――――――足りない。
漠然と、俺は目の前の誰かが壊れ物のように思えた。それは、いつかの俺を見ているようで。余りいい気はしない。
“過去を映す鏡”。
そんなイメージが俺の中に湧き上がる。
「それと、悪かったね。唐突に声を掛けてしまって、驚かせてしまったみたいだ。海外での慣習かな? 馴れ馴れしいのは、美徳とは違うからね」
表情も無く、彼はとつとつと言った。幻想は瞬きの内に破却されている。
「あっ、いや、こっちこそ悪かった。急に気を張って、あんたこそ驚いたんじゃないのか?」
「そうやん、謝るんはこっちやで。ゴメンな」
少し焦り気味に告げた一言は、近衛のフォローで一応の形になる。
「はは、ありがとう。優しいね、君たちは」
薄い表情の人影はコクリと僅かに頷いただけだった。池の回遊路。軋む木の梁を踏み、誰かが遠のいていく。
最後に彼は何かを溢したようだが、ソレを聞き取ることが、俺たちには出来なかった。
「―――――また会いましょう。近衛木乃香。この街が異なる朱色に塗れる、その前に」
それが、俺と誰でもない鏡との赤い夕闇の出会いだった。