/ snow white.
大音響で木霊するサイレンの音。それは突然だった。
「っつ、何!? 一体何!? 地震、火事、それとももしかしてオヤジ!?」
自分でも恥ずかしくなる台詞を吐いたことに気付いたのは、寝ぼけ眼を一度擦った後だった。
冷静さを一瞬で取り戻したわたしは、少しの自己嫌悪の後、暗闇の中時刻を確認した。
「二時……嘘、三時近いじゃない」
苛立ちながらごちて、わたしの隣の布団を確認する。空だ。
昨晩はコクトーにシロウとの相部屋を取られちゃったけど、今晩は一緒に寝る約束を取り付けていたのに、だから折角……って、そうじゃないでしょ!? しっかり働け、わたしの頭!!
「シロウが帰ってないにしても、遅すぎる。何かあったの?……それにこのデリカシーの無い警報」
内心で自らを叱責し、今度こそはっきりとした意識の覚醒に努める。
わたしを眠りの淵から無理やりに連れ戻したのは、コノカの家に何十にも張り巡らされている結界が反応したからだ。
認識阻害、対魔防御、迎撃機能、そして警報装置。それぞれが三重に張り巡らされていて、わたしの眠りを妨げたのはその四つ目、外敵の危険を知らせるけたたましいサイレンだった。
「「イリヤちゃんっ!!」」
紫苑の浴衣、寝巻き姿で布団を跳ね除けたのと、コノカとコクトーがわたしの寝室に血相を変えて飛び込んできたのはほぼ同時だった。
廊下を一気に駆けて来たのか、普段から運動不足のコクトーは息を荒げている。どうにも状況説明は難しそうなので、わたしは紫のトレンチを羽織ながらコノカに尋ねた。
「ねえ、一体何があったの?」
彼女達も浴衣に上着を一枚ぺろりと羽織った間抜けな格好だ。暦は十二月の中旬、おまけに深夜の回廊だ。肌が悴み、寒さが酷く痛い。
「よう分からんけど、侵入者やって」
ココから見渡せる庭園越し、コノカはわたしから本丸の方に視線をずらしながら震える声で言った。それは寒さゆえか、それとも恐怖故なのか、わたしには判断できない。
ともかく、口ぶりから察するに、既に陣地への侵入を許してしまっているようだ。彼女の切迫した掠れ声から、わたしはそう頷いた。
「人数は?」
この家の厳重な結界を突破してきたのだ、襲撃者は相当出来るわね。
内心の動揺を悟らせぬよう嘆き、わたしは思考に埋没した。目的は何? 襲撃者と現在の異常、何か関係があるの?
「侵入したのは二人なんだって。今、お父さんと警備の人たちが捕縛にかかってるから、ウチ等は家の奥に避難してなさいって」
聞き流しながら、わたしは無言を保って騒がしい本丸をコノカと同じように眺めた。
襲撃者が今回の異常を引き起こしたのは確定ね。偶然発生したこの異常に乗じって……て、線は無くもないけど、それは考えすぎってもの。
京都の街に大量の怪異を発生させれば、当然退魔組織は京都の守護に人員を割かなくてはならない。そして、手薄になった本部を襲撃する……か。やるわね、敵ながら。
でも、その目的はなんなのかしら? 退魔組織に突撃するなんてリスキーな行為に走るほどの何があるって言うの、ここに? 保管した宝物? 所持する情報? 個人的な復讐? 或いは。
「ん? なんやん、イリヤちゃん?」
コノカ、かしらね。
だってそうよ。宝物の奪取、情報の獲得。これらの目的達成するためだけで、京都の街をこれ見よがしに変容させる必要があるの? 答えはノー。いくら組織の人員をそちらに割かせて本部の守りを手薄にするとはいっても、やはり限度がある。本部の守りを突破したいにしても、他にやりようは幾らでもあるじゃない。
「ああ、だから……」
だったらこう考えればいい。現在京都の街全域で起きている異常や現在の押し込み。それすら、襲撃者にしてみれば目的へ到達するための副次的なモノだと。
京都の異常、そして呪術協会本部への奇襲、そしてこの先に彼らの本当の目的があるはずだ。つまり、目的達成のため、襲撃者達に必要な何かが、ココにはあるってこと。
相変わらず冴えてるっ、わたし!
「いえ、いいわ。兎に角非難しましょう。ココにいるの、不味いんでしょう?」
心の内とは正反対にわたしの表情は冷めていた。わたしがここで一人考えたって仕方がないからだ。結局、襲撃者達が何を目的にココに侵入したのか。その答えを、わたしには確証をもって推理できるだけの材料が無い。
だが、侵入者の目的がコノカである可能性がある以上、出来る事は逃げることだけだ。
やや浮ついたわたしの思考を落ち着けて、自身の考えを悟らせぬよう、コノカの手を引いた。
「う、うん。でもどうしたん、イリヤちゃん? 突然怖い顔して?」
「暴漢が押し入っているんだから、警戒するのは当然でしょう。ほら、しゃんと歩いて。コクトーも、男性一人なんだから、しっかりしてよね」
「うん。任せて。二人に何かあったら、僕が守るからね」
この家は到着当初にコノカから案内されていたし、それと実は、シロウを使って秘密部屋の探検をこっそりしていたから、大体の構造は把握している。非常時だもん、許してくれるよね、コノカ?
わたしはコノカの手を強く握りながら、この家の奥、隠れ所への道行きを探し先頭を切る。
わたしだって魔術師だ。シロウやシキがいない今、わたしがしっかりしなくちゃいけない。それでも、コクトーの台詞に口元を緩めたのは偽れない事実だった。頼りない彼も、こんな時は男の人なんだって感じさせる。
でも、もしかしたらこの微笑みは間違いだったのかもしれない。
イリヤスフィールは、誰かが守ってくれる。いざとなったら、シロウが、コクトーが守ってくれるって、そう、不確かな楽観からきた無様な微笑み。
魔術師としてシロウやリンの隣にあることを臨むくせに、そうあるために一番大切なモノを誰かに背負わせている。
そう、きっと。
“覚悟”っていう、そんな大事なものを見落とした、醜い微笑だったのだろう。
Fate / happy material
第三十二話 願いの行方 Ⅷ
/ flame.
「ふふ、また一人燃えちゃった」
日本呪術協会の本堂、そこに続く石畳の上でまた一つ、炭化した人間が転がった。
それを恍惚とした表情で眺めながら、女は肉感的な自身の身体を抱く。悶えた視線の先で、また一つ人間が炎上した。
「やれやれ、本当に君は容赦が無い。ひひ、辺りに転がった消し炭が哀れでならないよ」
絶頂を極めたような貌で悦に浸る遠上都。その後ろに控えた魔術師が、無力な死者を侮辱する。刹那の後には炭化するであろう哀れな運命にある人間達を嘲笑う。
襲撃者二人を取り囲んでいた呪術協会の守護者たちはその殆どがどす黒く炭化し、横たえていた。
残っていた僅かばかりの本部の護衛は、片手で数えるほどしか存命していなかった。少ないとはいえ、二十といた彼等屈強な護衛たちは、大半が原型を止めないほどの消し炭と化し、残りの半分は焼け爛れ変色した肌を晒したまま、ピクリとも動かない。
「でも、こんな程度? 幾ら手練が残っていないとは言え、あっけなさ過ぎるわ。ねえ、そうは思わなくて?」
女は見下ろすように、膝をつく一人の剣士に侮辱とも取れる問いを投げた。それの何が可笑しいのか、魔術師はニヤニヤと女に続いてその剣士に嘲笑を送る。
暗く、闇色だけが支配していた境内は、いまや紅蓮に猛っていた。パチパチと火の粉が大気に紛れ、熱波が寒さに張っていた頬を焦がす。
「はは、手厳しいな、遠上都君。よもや十年前京都の街で起こった連続焼死事件の首謀者が、こんな大胆な襲撃を見せるとはね」
「あら、私って随分と有名だったみたいね。光栄だわ、退魔組織のトップに、名前を覚えていて頂けたなんて」
「それはもう、これほどの能力を秘めた混血だ。私の記憶にも新しいよ。確か十人だったかな? 君が殺害したのは?」
「惜しいわね、それ、両親を数え忘れてる。十二よ。今夜の分を含めれば、んと……あら? 貴方を入れれば丁度三十ね」
「それはどうも、笑えないね」
呼吸を整え、体を力なく持ち上げた剣士。近衛詠春。彼は予想外の襲撃者に戸惑いのまま剣をとった。そのことに、今更ながら内心で苦笑する。
「灼熱、の血統かい? 本当、覚醒的に血が目覚めてしまっただけだというのに、この力。視認した相手を問答無用で燃焼させるなんて、反則もいいところだ」
「ふふ、ありがとう。でも、流石は神鳴流随一の使い手ってところかしら? 私に視認すらさせず、攻勢に出られたのは大したものよ。だけど駄目ね、他のが使えなさ過ぎた。大変だったでしょう? 部下を庇いながら刃を振るうのは? まあそれでも、未だ貴方は生きている、それってホント凄い。もしも一対一なら、私が膝をついていたでしょうね」
都の冷ややかな、それでいて享楽に歪んだ視線に、詠春は苦虫を噛み潰したような貌で辺りを見回した。
確かに、女の言う通りだった。詠春と女がもしも一対一で刃を交えたのならば、苦戦は避けられないだろうが、詠春は勝利する。
神鳴流最強の名は伊達ではない。たとえ相手が相性の面で劣る混血だとは言え、遅れをとるほど、彼の剣は衰えてはいないのだ。
事実、開戦当初、都を圧倒したのは詠春だったのだから。
「もしも……か。それは屈辱以外の何者でもないな。殺し合いの場において、かような言葉を送られようとは、私も落ちぶれてしまったものだよ」
都の能力を軽んじた自らの失態だと。そう口にしたのは、詠春の気性をかんば見れば当然だった。
都の能力は発火。そのプロセスは第一に目標の視認、そして視界に納まる外界に能力者を中心とした波状の“糸”が広がり、それに触れたものを任意に燃焼する。
全三工程。
しかし、その力を味わう身にしてみれば、見ただけでモノを発火させているようにさえ感じられるだろう。
浄眼を持たぬ詠春だ。それが精緻に分からずとも、その固有能力がどのようなものであるか位は、この夜、初めて彼女の能力と拮抗したときに理解していた。
故に、一人の指揮官として援護にやってきた護衛の人間をすぐさま引かせなくてはならなかったのだ。今夜残っていた護衛は都を相手にするには余りにも脆弱すぎた。言ってしまえば足手まといだ。
“視認した相手を燃焼する”その広範囲に使用可能な能力ゆえに、詠春はあろう事か援護に来たはずの護衛を、逆に庇い立てしながらの戦闘を余儀なくされた。撤退を失念した自らのミスだ。自らへの呵責に耐え切れず、詠春は血が出るほど唇を強く噛んだ。
たった一つの判断ミス。その結果が。
「まあ、よくやったほうよ。貴方のおかげで、数人はまだ息がある。最も、貴方はもう、剣を握っているだけで精一杯のようだけど」
コレだ。
都の能力は厄介すぎた。以前の浅上藤乃がそうであったように、剣士を相手にするには、彼女たちの能力は正に天敵だった。剣が届かなくては、剣士に勝機は無いのだから。
だが、それでも剣を握る歴戦の勇者。震える膝を無理やり押さえつけて、抜刀の構えを取る。未だ気概では一歩も引けを取らぬ、光の潰えぬ鋭い眼光で詠春は都を強く射抜いた。
「っく、それはどうかな? まだ、行けるさ。娘の命がかかっているんだ」
詠春は剣を取る。絶望的な状況でも、剣を取り落とす訳にはいかないから。握り締めた剣は、彼の意思一つで雷光の如く閃くだろう。例え、全身に焼けどを負った今でさえ。
「へえ、貴方。私たちの目的。気付いていたの?」
余裕を装った感嘆だったのだが、それでも完璧に心象を隠すことは出来なかった。仔細な動揺と焦燥が、女の背中を押す。それを、熟達したこの剣士が見逃すはずも無かった。
「ほう、やはり目的は娘ですか? いや、これでなおのこと気合が入るというものです」
してやったりと、今度は詠春が薄く微笑んだ。どうやら発破を掛けた様だ。今の状況でさえ、凍えた思考を失わないのは、やはり流石といったものだ。
「っち。そんな体たらくで、舐めた真似を」
黒のトレンチを翻し、都が赤い眼を細める。そして、赤い奔流が辺りを包んだ。
flame. / out.
「ちび刹那を使って……連絡は無理か」
コノカの家の最奥、三十畳はゆうにあろう閨に到着した所で、今更だらだけどわたしは呟いた。
暗がりでゆらゆらと隙間風に靡く4A版のそのまた半分位のお札が、妙にわたしの心を逆撫でる。言うまでもなく、この御札が先ほどまでちび刹那を象っていたモノ。だが、襲撃者側にコノカの家の結界の上から更にもう一枚、結界を被せられたらしい。
恐らく、外ではなく内に向けられた遮断と閉鎖に特化した結界だろう。この結界の中では、例え絨毯爆撃が行われようとも外界には一切音の漏洩は無く、封鎖された空間には誰一人として進入不可能、それとおまけに、どうやら全ての物理的、概念的な“ライン”までカットする機能が付加されているらしい。
ご丁寧なことである。それでは“ちび刹那”がその身体を維持できないのも仕方が無いじゃない。
「なんにしても、襲撃者の内少なくとも一人はかなり腕の立つ魔術師ね」
だけど、これらの推測はわたしの想像の域を出ないのだ。何故って、多分そいつの張ったであろう結界の中にいる今でだって、“結界”の存在を感じられないから。
以前トウコは言っていた。結界、その異常を悟らせるような奴は二流なのだと。だったら、今この結界を敷いた奴は間違いなく一流ってことだ……実に癪だけど。
「大丈夫かな、お父さん………」
「心配ないよ、木乃香ちゃん。式も言ってたよ、君のお父さん、すっごく強いんだって。だからそんな顔しないで、ね?」
暗がりの中、掠れたコノカの声を包み込むように、コクトーがいった。暗い閨には明かりを灯すことが出来ないので、蝋燭の僅かな揺らぎだけがわたし達を照らしている。
広大な閨の四隅は光が行き届かず、ねっとりした深淵の黒色が堕ちている。目の前のブルゾンを羽織った青年、彼が好む黒色と違って、部屋を侵食する闇色はなんて汚いのだろう。ひゅうひゅうと耳障りな隙間風が手を悴ませ、震えが止まらなかった。
「うん、大丈夫よ、わたしが皆を守るんだから。心配しないで」
震えは寒さの所為だ。そう腑に落として腰を持ち上げ、襖を睨み付けた。侵入者がココにやってくるとしたら、出入り口はそこしかないからだ。
大丈夫、きっと大丈夫。わたしだってトウコのところで一生懸命鍛錬してきた。シロウやリンと同じ、魔術師であるために。だから、きっと平気。
「んん~、見ぃつけたあ。ひひ、羊が一匹、二匹、三匹~」
そうして、わたしが身体の震えを漸く押さえつけた時、その黒い男はやって来た。薄い襖が石炭の弾ける様な奇妙な、それでいて場違いな音で千切れ壊れ、奴は現れた。
襖が粉砕された室内は月明かりで照らされだしたというのに、強い闇色は未だ残っている。何故って、月影を黒い肥満体の男が遮り、ともすれば先ほど以上のコールタールみたいな黒色を陰りださせているから。
「止めないさい、からかうのは。大事な来賓をお迎えに上がったんだから」
コクトーとコノカをわたしの背に隠すように仁王立ちしながら、新たに現れた人影を睨む。赤ら顔の不細工面とは対照的に、端正な顔立ちの女性。歳はトウコと同じくらいだろう、虚ろな血色の長髪にはジャギーがかかっていて、彼女の口元に色っぽく打たれたホクロと妙に噛み合っていた。
こんな状況だというのに、わたしに場違いな雑感を抱かせた女の秀麗な顔立ちは、相当なモノだと思う。
加えて、赤い髪の女の肩口には大きな切り傷がある。黒いトレンチコートから赤い血がぶくぶくと泡を吹いていた。その傷を押さえながらの喘ぐような声が、一層女の性的魅力を強調していた。
それは兎も角として、美麗な女と醜悪な男。二人が襲撃者なのは間違いない、そして二人がココに現れたと言う事は、退魔組織の守りを突破してきたってことだ。援護はもう期待できない、戦えるのは、わたしだけ?
「どいてくれないかしら? 白いお嬢さん。小さな身体で実に健気なのだけれど、怪我させちゃうといけないから。分かるるかしら? お姉さん達ね、後ろの子に用があるの」
目的は、やっぱりコノカか……。
息を呑み、近づいてきた女を凝視する。大きな肩口の傷は、守備についていた剣士にでもつけられたのだろう、正直、かなり痛そうだ。
それでも、女はその傷みを微塵も表情に出さず、黒い男を押しのけ踊るようにわたしに歩み寄る。
優しい声色は本心からなのだろう、わたしに向けられていた不用意な女の視線が、コクトーとコノカにずれる。
「さあ、悪いけどついてきてもらうわよ、近衛木乃香………っ!?」
と、そこで突然女の顔がこわばった。肩口にアレだけの外傷を受けてなお、気丈に振舞う女なのに、その彼女が驚くほどの何があったと言うのか?
「ぼうや………どうして、君が」
嘆いた声は本当に小さくて、わたしには殆ど聞き取れなかった。
だけどわたしの後ろ、コノカ以上に襲撃者に対して息を呑んだのはコクトーだったのだ。彼は、やはり小さく聞き取れないほどの声で、呟いた。
「どうして……貴方が」
一体なんなのよ。苛立ちに唇を噛んで、しかし、これは好機だと考える。
理由は兎も角、目の前の襲撃者二人の目的はコノカで、その獲物を前に舌なめずり、そしてあろうことか動揺までしてくれたのだ。このチャンス、逃がしていいはずがない。
(コノカ、コクトー、聞きなさい。今からわたしが貴方達の逃げ道を作る、その隙に逃げて。心配は無用よ、勿論わたしが残って貴方達が安心して逃げられるように時間も稼ぐ心算だから)
女を警戒し睨み付けたまま、小さく嘆いた。
(そんな、駄目だよイリヤちゃん。君も一緒に……!)
答えたのはコクトー。女の子を置いて逃げられない、そんな気持ちが間違いなく含まれていた。それは勿論嬉しいのだけれど、この状況で戦えるのはわたしだけ、正直なところ、敵の目的がコノカである以上、彼女を守りきる事は絶対だ。だって、それがわたし達のお仕事だから。そうだったわよね、シロウ? すっかり忘れていたけど………。
(我侭言わないで。大丈夫、貴方達を逃がしたら、わたしだって逃げるから)
(それでも出来ないよ、僕には)
なおも奥歯を噛み締めて呻いた彼。本当、シキがメロメロになっちゃうのも頷けるわ。ってメロメロ………これって、死語かしらね。どうでもいいことに一人苦笑して、コクトーの貌を盗み見る。
こんな状況だってのに、誰かの為に強く光る黒い瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
(勘違いしないでよ、コクトー。逃がすのはコノカだけ。貴方はそのお姫様を守るナイトに決まっているじゃない、頼むわよ、期待しているんだから。それと多分だけど、呪術協会本部から脱出出来れば、ちび刹那でシロウ達と連絡が取れる。そうすれば、直ぐにだってお兄ちゃんは飛んでくるわ、それまで、なんとしても守ってあげて)
早口に言い切り、身体の奥で魔力を練り上げる。満たされていく魔力が回路を伝い、わたしは魔術師に傾倒していく。
恐らく相手は、わたしが魔術師だとは気付いていない。だったら先手はわたしのものだ。
(ずるいよ、イリヤちゃんは。そんな事言われたら、逃げ出さないわけにはいかないじゃないか。まったく、いやなところで式や所長に似ちゃったんだね)
もはや諦めた様な声で、コクトーは漸く頷いた。自分がココにいても無力なのだと、彼は痛いほど理解しているからなのだろう。
暗がりの閨、壁際に追い詰められたわたし達に、畳を軋ませ二人の人影がゆっくりと迫ってくる。
脱出口は一つ、襖に仕切られていた回廊。明るい暗闇、強い山瀬が吹き付ける深夜の庭園に向かって飛び出すには、二人の襲撃者を正面から突破しなくてはならない。
わたしは両の足を肩幅まで開き、凍えた夜気を大きく吸い込む。木の匂いが強い閨には、やはり変わらず月光が差し込んでいて、襲撃者はそれを背に受けている。
逆光に隠れ二人の表情は見えないというのに、それでも、歪に微笑んでいるのだけは想像が容易い。
馬鹿にすんな。目に物見せてやるっ!!
「―――――――――Einschenken(満たせ)」
赤い瞳を大きく見開き、即座に回路を起動する。まだかまだかと身体の芯で待機していたわたしの膨大な魔力が、回路駆け回り、白い湯気のように納まりきらずわたしの身体から吹き上がる。
「――――――――なっ! この子、魔術師!?」
うっし、魔力の隠蔽も、そこそこ上出来だった様だ。端正な貌を驚愕に歪めた女に、嘲笑を向けながらわたしは式を起動する。
「Versammlung sich herleiten; beruhen auf (水の精霊、集い踊りて)」
大気中のマナへのパスの接続、魔力の練り上げ、式の構築。鍛錬の時の通りだ、一分の隙もなく完璧。
大気中のマナと水分を大量に吸収し、創り上げられる神秘の刃。全部で十一。漏らす事無く全ての刃の照準を襲撃者二人に合わせ。
「Weihwasser Pfeil Wasser Schwert (敵を討て、水の射手、十一刃)!!」
右手を指揮棒のように振りかざし、水の弾丸を乱射した。
流水が渦巻く音色が夜の大気を走る。青い一条の光が幾重にも重なり、襲撃者に向かい飛翔する。
襲撃者は舌打ちすらする暇なく、閨の中から転がるように庭園に駆け出し、わたしの魔力の矢をかろうじて躱した。
――――――――――――そう全弾回避だ。
完全な不意打ちだったというのに、彼らには一つとして魔力の矢が当らなかった。女は華麗とは言えないまでも、人間では在りえない身体能力と反射神経をもって全てを避け、黒い男は自身に纏わせた対魔障壁で全てを防いだ。
落胆は、勿論ある。今の攻勢で、正直勝負が決してくれたらどれだけ良かったか。けれど、現実はやはり厳しいのだ。
「今っ! さっさと逃げなさい。コノカ、コクトー!!」
しかし、当初の予定道理、逃げ道を作ることには成功した。
わたし達三人は颯爽と庭園に飛び出し、尻餅をついている襲撃者二人の横を駆け抜ける。
だがわたしは、ここでコクトーとコノカが逃げるまでの時間を稼がなくてはならない。一人くるりと反転し、開けた庭園の中央、襲撃者二人と再び相対する。視線の先、暗がりに翻る襲撃者二人の黒い外套。闇と同化したみたいなその風体が、どうしたってわたしの四肢を震わせた。
松科の植木が鬱蒼とする日本庭園には、深夜の暗闇と寒気、襲撃者二人の鋭い視線と、遠のいて行く駆け足の音だけ。
月明かりと暗闇が視覚を、不規則な足音が聴覚を支配する薄ら寒い空間に、わたしと二人の襲撃者は立っていた。しかしふと、忽然とコクトー達の足音が消える。
「っち。立ち止まらない! わたしは平気だから、さっさと逃げるの!!」
振り返らずとも、分かる。二人のお人よしがどんな貌でわたしを思いやってくれていたか。だから、居丈高に叫んだのだ。二人に答えるためにも、わたしがここで頑張れるように。
今度こそ、段々と小さくなりやがて消えてしまう足音。そう、それでいいんだから。
「まったく、やってくれるわね、この子」
「ひひ、誠になぁ。おぼこい貌で、怖い怖い」
身体が熱い、コレが戦いの高揚って奴かしら? トレンチを脱ぎ捨てて、わたしは青草を素足で踏みしめながらじりじりと歩み寄る二つの影に、これでもかって位厳しい視線を向ける。
「さて、ミヤコ君。コノカ嬢なんだがね、遠くに逃げられると後々面倒なんだ、君はさっさと二人を追いたまえ」
だってのに、わたしの視線に少しも堪えた様子もなく、コノカ達が消えた暗闇を眺めながら、男が淡々と言った。
「嫌よ。この子、許せないもの、私が相手をする」
「それは構わないのだが。如何せん、君、先ほど戦闘で疲弊しているだろう? 今だって、君の固有能力は使えないはずだ。ん~、なんだかんだで苦戦したね。流石だよ」
「そうね、流石は近衛詠春」
「うん、そんな訳で、君にはやはり楽な仕事をして欲しいじゃないか。一般人と魔力タンク、それとの鬼ごっこの方が、目の前の子供魔術師を倒すよりも、よっぽど容易だろう?」
わたしを華麗に無視したムカつく会話の終わりに、ミヤコと呼ばれた女は頷いた。
頬を膨らすわたしを気遣うような女の瞳が気になるけど、それ以上に引っかかるのは二人の会話だ。エイシュンの奴、やられちゃったみたい。シロウから聞いた限りではエイシュンって相当の腕利きらしいし、死んではいないだろう。それでも、目の前の二人がその“腕利き”を撃破してわたしの目の前にいるのは偽れない事実だ。
やっぱり、不味いかなあ、わたし。
「………分かったわよ。それにしても、意外……でもないか。貴方、少女趣味だったの?」
「んふ。そうだねえ、あの少女の身体には興味がある。あの目、あの髪、ヒヒ。間違いなくドイツのイカレ野郎どもの作品みたいだしね」
ふん、生憎ね。男の予想は既に“過去形”。確かにホムンクルスの特徴を受け継いではいるけど、この身体トウコ謹製のヒトの身体だいっ。
“いー”と貌をしわくちゃにして、二人を挑発するが、帰ってきたのはミヤコの涼やかな声だった。
「あら、可愛い。でも残念かな? こんな可愛い子が、貴方に汚されるなんて」
「ひひひ、すまないね。では、さっさと行きたまえ。結界の外に出られると、厄介だしね」
女は男に蔑むような微笑を送り、わたしの方にゆっくりと歩を進める。女の侮蔑に気がついていないのだろう、男は涎すらたらしそうな締まりの悪い口をにんまりと広げて女の背中を見つめていた。分厚い唇の所為もあり、カエルみたいな顔だ。いや、もしかするとカエル以上に気持ちが悪い嘲笑だった。
舐めてくれちゃって、馬鹿にするなっ。
「行かせると思ってるのっ!! Versammlung sich herleiten; beruhen auf (水の精霊、十一刃。集い踊りて)」
魔力を回路に伝わせ、大気中のマナとパスを繋ぐ。通常では考えられない量のマナが溢れているのだ、わたしの魔術の出力は上がっている。そう簡単に通すわけには行かないんだから。
「―――――――――――――思っているよ? ほら、君の相手は私がしてあげる」
魔力の矢を放つため、詠唱に入った刹那。男は指を一度だけ鳴らし、わたしと同じ、そしてわたしよりも早く、雷の矢を中空に創り上げ、発射した。その数は片手で数えられる物の、わたしのそれより神秘の密度も、込められた魔力も桁違いに上等だった。
そして、極めつけは“無詠唱呪文”。わたしだって出来ないのに、どうやらこいつ、呪文も無しで魔力の矢を放つ事が出来るらしい。
やはりこいつは魔術師で、予想道理一流の使い手。だから何っ、負けてたまるか!!
「 Arie BereitschaftsbefehlStarkung (詠唱、待機。強化、杯を磨く) っちい!!」
とっさに詠唱を中止して、強化の呪を足に結び転がるように跳び引いた。
わたしが元いた草の大地には、それこそ拳大の穴が四つ開いていた。こんなのまともに喰らったら、死んじゃうじゃない……。
わたしが唖然と、その弾痕に目を奪われた瞬間、人間では到底なしえない身体能力を駆使して、女が俊足をもってわたしの脇を抜けていく。
「駄目っ! させない……verbinden; zubinden (水冷、縛れ)!!」
そうだ、震えるのは寒さの所為。それでも何とか立ち上がり、呪を紡ぐ。いつかの魂喰いにも見せた時とは異なり、物凄い速さで駆けていく女の足元にワッと水蒸気が満ちて、瞬間に冷却、そして大地に縛り付けるはずだった。
「甘い、極甘、スウィーツだあ。させないといった!!」
やはり無詠唱。わたし程度の魔術師には高度な詠唱は必要ない。そう言わんばかりに指を鳴らして、女の足を縛り付けるはずだった水滴は、魔術師の発生させた魔力の渦に四散する。漠然と、電気分解。そんな言葉が頭に浮かんだ。
無常にも、魔術は不成功。女は、ただ暗闇に消えていった。
「不味い、追わないと―――――――きゃあ!!」
コノカ達が危ない。そう考え、女の走り去った暗闇に身体を向けた途端、わたしの髪が空に向かって引き上げられた。
脳が縦にゆすられて、気持ちが悪い。髪を引き抜かれる痛みを感じたのは、そんな嘔吐感の少し後だった。
「逃がさない、言ったろう? ホムンクルス」
肥大した肉饅頭みたいな顔の男がわたしの髪を掴んだまま両の手を襟首で締め上げる。ようするに羽交い絞めだ。実際、男の人こんな無礼なことをされるなんて思っても見なかった。
「っ、放しなさいよ………レディーになんてことするのっ」
吐き出される男の口臭に眉をしかめながら、痛みを堪えて毒づいた。
ご婦人の扱いがてんでなってない。こんな奴がシロウやコクトーと同じ品目だなんて考えたくもないわ。
「いひひ、すまないね。女性の扱いには不慣れでな。こんな風にエスコートするのは久しいんだ」
いやらしく微笑んだ男は、グッとわたしの体に密着してくる。背後に感じる汚らしい熱さが、わたしの背に当って最っ高に不快だ。
もはやわたしにはコノカ達の無事を祈ることしか出来ない。それに何より、わたし自身がすっごくピンチだ。
「久しい……ねえ。それは謝らなければならないわね、わたし、てっきり初めての哀れな方だと思っていたわ。それだけの眉目秀麗さですもの、わたしがそう考えるのも無理はないわね」
痛みと恐怖に貌をしかめたまま、挑発的に言い放つ。それを否定したのは、あろう事か頬を張る鋭い激痛だった。
「……女性の貌を殴るんだ、本当、サイテー」
唾棄するように言い放つ。
二三滴、口の中から零れたどろりとした血漿が草の大地を赤に汚した。酷薄な暴力の気配が一層強まる。
「――――――口の聞き方には注意しろよ、ホムンクルス」
心臓を鷲?みにされたような恐怖、それは魔術師の重苦しい声ゆえだった。先ほどまでの魔術師はそこにおらず、思考には一貫性が含まれている様に感じる。つまり、魔術師としての一貫性だ。殺すものは殺す、楽しむべきもの自身のエゴ、求道すべきは自身の欲望。わたしとは異なる強固な意志で武装した男は、たしかに魔術師然としていた。
「道具の分際で、魔術師の真似事かね? 茶番だな」
そう重苦しい声で囁かれ、二度三度、貌に鈍い痛みがはじけた。
口の中が裂罅して鉄の味が広がる。だけど、その痛みと味を忘れさせるくらいに、魔術師の言葉はわたしの癇に障る。だけど、恐怖はどうしたって拭いきれない。
「ふん、一丁前に憤怒するのか? 道具の躾がなってないな、アインツベルンは。大方、君も逃げ出した失敗作だろう……にしても君は脆弱だな。アインツベルンのホムンクルスは失敗作とは言え、一般の魔術師より数段強いと聞く。なるほど、君はそれ以下の役立たずか? ならば、躾がなっていないのも頷けるな」
愉快に言い放ち、魔術師はわたしの首筋にざらざらした獣みたいな舌を這わせる。
「だが……それでもアインツベルンの技術は素晴らしい。これほどヒトに似せた道具を創るなど、いや、大したものだよ。……魂の定着かね? 肉体に擬人化した個性を注入するなど、どうしたら出来るのだろうね。実に興味深いよ」
うなじから胸骨、肋骨を伝い鎖骨より内股まで。ゴツゴツして汗ばんだ魔術師の卑しくて汚らしい手が、わたしの身体を隅々まで愛撫していく。甘美な快感など微塵もない、あるのは、脳天にまで貫かれた不快感と嫌悪、そして水増ししていく恐怖だけだった。
「ん、ア………」
漏れた声は嬌声じみた嗚咽だ。
「随分おとなしくなったな? やはり、道具はそうでなければ」
「……わたしは…………」
それでも、ぎゅっと唇を噛んで、目の淵から零れだしそうな涙を必死に飲み込んだ。言わなきゃ、どんなに掠れた声でも、コレだけは否定しなくちゃいけない。
「ん、なにかね?」
赤い瞳で天を強く睨んで、言い放つ。
「わたしは、道具なんかじゃないっ。―――――――――
wiedereroffnung Weihwasser Pfeil Wasser Schwert (詠唱再開。敵を討て、水の射手、十一刃)」
力の限りを尽くして、魔術師の手を振り解けたのは本当に偶然だった。
投げ出された体、とは言っても、いまだ魔術師との距離は一メートルも離れていない。今魔術を放てば自滅は必死。
でも、それでも、体を傷つけるのを厭わずに、最大出力でかましてやったのだ。
今度も、奴の障壁に矢は阻まれた。しかし、水の弾丸に含まれた運動エネルギーを完全に殺すことは出来なかった様だ、二つがわき腹に突き刺さり、息を詰まらせる魔術師。自身の魔術に切り刻まれながらも、開放されたわたしの身体。
数分とは言え、力任せに拘束されていたわたしの身体は、自滅で傷だらけだ、直ぐには動かず、無様にも地べたを這うようにして逃げ出した。
「………わたしは、魔術師……イリヤスフィールは、道具なんかじゃ…………無い」
成人男性の力で締め上げられていた身体は軋むように痛み、未だ立ち上がる事すら出来ない。本当になんてざま。アインツベルンの最高傑作、封印指定・蒼崎橙子の弟子、それがあろう事か役立たずの道具扱いだ。
それでも、なんとか“いたちの最後っ屁”位にはなったよね? わたしは、酷く醜い形相でわたしを見下ろす魔術師を横たえたまま見上げた。もはやわたしに出来るのは、力なく笑うことぐらいだ。
あーあ、コクトーたち平気かな………。
「っちい、やってくれる。何が魔術師だ、貴様はそんな大層な存在ではない」
力任せに、魔術師がわたしの横腹を蹴り上げた。痛みは身体全体にしみこむようで、意識が一瞬とんでいった。ほんとう、わたしの意識、別に返ってこなくても良かったのに。
身体が二メートルほど転がったと気付いたのは、魔術師の声が少し遠くから響いたからだった。
思考はもはや単調で、意識が停滞していくのは明らかだ。
「君と私が同じモノだと? 侮辱もいい加減にしたまえっ! 我々に使われる分際でっ!!」
蹴りつけられるわたしの身体。幸い、痛みは既に全身に広がっていて、どこが蹴られたとか、どこが痛いとか、もうそんなの分からなくなっちゃっていた。それは正直に幸運だったと思う。
だけど、それでもわたしの口から時折零れだす嗚咽、吐き出される細切れの悲鳴。それがどうしようもないほど哀れで情けなかった。
呂律の回らなくなった口は、もう何の感覚も無い。さっきまで煩わしいほど口の中に広がっていた血の味すら、もう無かった。唯一感じられたのは、どろりとした何かが体中を浸食する寒気だけだ。
「覚えておくといい、君と私は絶望的なまでに“違う”のだ。異なっているのだよ!! なあ、そうだろ? ホムンクルスっ! 私に、君が使われるべき魔術師様に、言ってみろっ!!」
それでも、魔術師のかなきり声と一緒に叩きつけられる暴力は止まなかった。
やがて、全て失ったはずの感覚の淵で、わたしは自身が血みどろになっていく事だけは不思議と感じられた。
見たくも無かったけど、血みどろで転がるわたしの体がまるで映画でも見るように目蓋の裏に客観的に映っていたから。
あれ? 血みどろで転がる誰かさん? 確かこんな光景、どこかで見たことがある。
ああ、そういえばと。わたしは思い出していたからだろう。
聖杯戦争、あの戦いではいつだって、シロウは今のわたし以上に血みどろになって、今のわたし以上の敵と喧嘩して、それでも。
「立ち上がったっけ……」
脳裏に、金色の少女と共に剣を握る少年の姿がある。勝利を振りかざすその姿は、鉛色の巨人越しに見ていても、とても綺麗……ううん、尊く、そして何より気高かかったのを覚えている。
愛おしい少年の瞳は、その時だって輝きを失わなかったから。
「――――――う」
嘆いた瞬間に、うつ伏せに倒れていたわたしの身体が急に持ち上がる。前髪を掴み上げられ上背部だけが反るような形で、吊り上げられた。わたしは口だけをぱくぱく間抜けに動かしていて、陸に上げられたお魚みたいだな、と。人事の様に考えていた。
「ふん、もうコレくらいでいいか……わかったかね。殺しはしない、君が頷けば、私はそうそうとこの場を放れ、ミヤコ君と合流しようと思うんだ」
おぼろげな瞳の向こう、それでも、魔術師がサディスティックに哂っていたのは嫌でも理解できた。卑しい瞳。誇りも、気高さも何も無い。実にくだらない澱んだ眼だ。
シロウやリン、そしてアイツと比べるのが馬鹿らしいほど、安い微笑み。反吐が出る、そんな目でわたしを見るな。
朦朧とした意識。もう殴られたくないわたし。強くありたいと願うわたし。混濁したわたしの思考が、勝手に口を割っていた。
「そう………ならもう少しだけ殴られていようかしら。少なくとも、二人から逃げるより、一人から逃げる方が楽ですものね。例え貴方みたいな屑でも、いないほうがマシでしょう? あらごめんなさい、“屑”なのだから、無いにこしたことはないわよね」
本当、なんでさ? わたしってバカ? だけど決まっている。最後まで心が折れず口に出来たのは、きっとシロウとアイツの事を思い出しちゃったからだ。
「んん~……――――――――いちいち私の癪に障る!!」
一瞬の戸惑い、反応鈍い薄ら馬鹿はその後に激昂した。本当、お間抜けよね、わたしも、貴方も。
地面に力いっぱい叩きつけられて、それから、魔術師は固いブーツの先でわたしの頭を踏みつける。
後はさっきの焼き直し。蹴られて、殴られて、そして何も感じなくなったのは、どれくらい経ってからだろう?
今度は痛みが麻痺したとかじゃない、きっと魔術師が暴力に飽きたのだろう。彼はいつの間にか立ち去っていた。
うっすらと開いた瞳の向こうには暗闇と静寂が落ちている。芝生の彼方此方にはわたしの散らかした嘔吐物や血反吐、そげた皮膚なんかがこびり付いていた。
身体は、動かない。いつか体が宝石だったときみたいに、まるで手足がなくなっちゃったようだ。
破けた唇が震えて、奥歯がカタカタと寒さに、今度こそ本当に寒さに悴んでいた。
開いていた視界が、段々と狭まっていく。どうやら、もう限界みたいだ。
もう何したって身体は動かない、後は眠りに落ちるだけだっていうのに。
「――――――う、あ」
瞳から、とめどない何かが零れ落ちてくる。身体が痛いからだ、そうに違いない。決して、寂しいからじゃない。そうに決まっているのに。
「ばか。何で、何で助けに来ないのよ――――――――」
誰かの背中を滲んだ瞳で幻視しながら、嗚咽と一緒に吐き出されたのは、なんて―――――なんて無様な言葉。
もう眠りたい。こんな情けない自分を見せ付けられるくらいなら、死んだように眠ってしまいたいのに、あふれ出る何かがそれを許してくれない。それを拭いたいのに、手足は一向に動かない。草を噛むように、わたしは止めることの出来ない慟哭を、ただ吐き出すだけだ。
わたしは痛みなんて、死ぬことなんて怖くなかったのに。シロウなんかより、ずっと魔術師であろうとしていた筈なのに。
―――――――君は私とは違うのだよ―――――――
去り際、魔術師の残した最大級の侮蔑。わたしを貫いた呪詛にも似た言葉が、頭から離れない。
シロウの隣にいたいだけなのに、それだけなのに、どうしてよ。
思い返せば聖杯戦争。あの戦いからだ。
死ぬことが怖くなかった道具は壊れて、死ぬことを恐怖するヒトになった。だけど、それだけ。
結局わたしは、魔術師じゃなかったんだ。
「――――――――もう、わけがわかんないよ」
覚悟が、無い。零れだしたわたしの言葉はそれを否応にも教えてくれた。
「――――――お兄ちゃん………………」
呟いた言葉と一緒に、そこで、ようやくわたしは暗闇に沈んでいった。