/ 15.
「………考え事かな士郎君」
揺れ動く車窓の向こう側、潮風に肌を預けていると隣から声が響いた。はっと、深く沈んだ意識を引き戻す。
瞳を海の向こうに残したまま俺は彼の問いに答えなかった。
いや、答えたくなかったのだろう。視線の先、夏の海が皮肉なまでに蒼く染まっている。
「彼女のこと、だよね」
向かい合った車内の座席。そこで安らかな寝息をたてるお姫様たちを気遣いながら幹也さんが独り言。その顔は変わらぬ笑顔を称えていることだろう。
だけど今は、その微笑が俺の心を痛めつける。
入道雲が潮風に流され水平線に暗がりを作り、消え、作りは消える。
俺の苛立ちに意味が無いとしても、その結末に納得なんて出来そうもなかった。
だって俺は嫌だ。頑張った奴が報われないのはそんなの間違ってる。
誰よりも傷ついた奴は痛みの数だけ幸せにならなきゃ嘘なんだ。
「士郎君は、彼女の生涯が悲恋だけだと、悲しみしかなかったと思うのかい?」
しゅっと口の中が干乾びる。
初めて聞く幹也さんの声色に、掌に汗が浮かび気持ちが悪い。
俺は視線を戻さず視界に開ける青を睨みつけ、唇を噛んだ。
「――――――――――ええ、当然じゃないですか」
沈黙を貫くはずの抗心は、苛立ちに身を任せ決壊した。
最後の抵抗と、視線を幹也さんへと戻さないのは僅かばかりのプライドの所為だろう。
「――――――――――だってそうでしょ?あんなのって無い」
張り詰めて毀れ出した、情けない強がり。
馬鹿みたいだ、俺の言葉は子供の我侭と一緒だろうに。
自分の手に余る苛立ちを力任せに当りつける。
格好悪いことこの上ない。
ガラス窓に薄く浮かび上がる歪なオレは重たい嘲笑を残し、果ての無い水平線に消えた。
Fate/happy material
第四話 パーフェクトブルー Ⅲ
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顔を赤らめ大浴場を後にすると、真向かいに備えられた休憩場で寛ぐ式さんとイリヤを見つけた。休憩場といっても馬鹿に出来るものではなく、畳敷きの大広間は普段は役場の寄り合いにも使用されているらしい。使いこまれた座敷が歴史を感じさせて俺はソコソコ気に入っていた。
自動販売機で三人分の飲み物を用意し、二人の横に腰を下ろす。
冷房で冷やされた畳の感触が心地よい。
「はいよ、風呂上りにお一つどうだ二人とも」
ノンビリと居直る二人に缶ジュースをパス。幹也さんとはひと悶着あった後のようで、式さんはへの字に結んだ口元を少し緩めてジュースを受け取った。
俺は自販で買った緑茶を口に含みイリヤと苦笑い。イリヤは二人の遣り取りをライブで視聴していたのだのだろう、「しょうがないんだから」なんてため息さえついて行儀良くジュースに口を付けた。
そうして、理由もなく始まった他愛も無い会話。温泉の湯加減、旅館の冷房が効いて無いどーのこーの、夕方に見つけた浜茶屋はお洒落だなんだ。イリヤはジュースの飲み終わった空き缶をゴミ箱に投げ終えると、式さんの髪の毛の手入れを始めた。たったそれだけで式さんの顔に余裕が出来る。
「ねぇシロウ。明日の予定は決まっているの?」
式さんの柔らかそうな黒髪を鮮やかな漆の刷子でとかしながらイリヤが軽やかに問いかけた。
「ああ、さっき幹也さんとも話したんだけど………」
俺の言葉に、正確には“幹也さん”の名前にピクリと式さんの耳が跳ねた。目ざとい……もとい耳ざとい。
しまった、と思ってももう手遅れだ。式さんの背中が丸まり和やかな雰囲気に暗雲が立ち込める。俺は冷や汗を浮かべて緑茶を飲み干し、二人から視線を外した。
「一つ確認しておくけど、お兄ちゃんは私に付き合ってくれるのよね?」
そんな俺の仕草をイリヤが見逃す筈も無く、即座に追い討ちをかけられた。
「コクトーはマチヤクバって面白くも何とも無いところでシキとデートするらしいけど。私達はどうするのかしら?」
綺麗過ぎる笑顔が恐ろしい。
当初の予定通り、俺はイリヤを連れて温泉街に行く、……ただそれにちょっと聞き込み作業が加わるだけだ。何も後ろめたい事なんて無いじゃないか。
だけど、俺は自身の考えが甘かったことに軽く心の内で舌打ち。くそ、考えてみれば結局イリヤとの約束を蔑ろにしたことに違いない。自分自身でそう結論を出して、唾を飲み込む。
「俺はイリヤとの約束を守るよ、ただ……」
即興の言い訳、そんなものがイリヤに通用する分けない。
「まさかお兄ちゃんまでコクトーみたいに大事な大事な女の子もそっちのけにして、誰かのお節介なんて妬かないわよね?」
突っ込みに剃刀を感じた。間違いなくスパンっと何かが切れたね。
イリヤの言葉に式さんが顔を痙攣させている。ワザとだな? ワザと式さんを挑発する言葉を選んだな? 悪びれた様子も無く、イリヤは小さい鼻を天井に向けた。
「別に俺も幹也さんも二人を蔑ろなんかにする気は粉みじんも無いぞ、ただ先生の不可解な行動も気になるだろ? 昔の人も言っているじゃないか、鉄は熱いうちに打て?ってさ」
式さんの機嫌をこれ以上損ね無い様に冗談めかせて言ってみたが、どうやら逆効果だったらしい。前髪に隠れて綺麗な瞳は見えないが、覗かせる口元は否が応でも式さんの静かな怒りを表している。
そして、「どう言う事よそれーーーーーーー」式さんとは対照的に我が妹君がマグマ溜まりを爆発させた。阿蘇山だって、もうちょっと控えめに噴火するに違いない。
「何で旅行に来てまでトウコに付き合わなくちゃならないのよ!? ほっとけば良いじゃない、お兄ちゃんの馬鹿、おたんこなす、トーヘンボクー!」
があーっと、子供みたいに畳に転がり駄々をこねる。そして、絶対意味分かって使っていないであろうその毒言を、是非撤回お願いします。
しかしあれだ。実際子供なのだけどイリヤがダダ捏ねるとえらく新鮮と言うか何と言うか。
冬木からこっち、イリヤは我侭を余り言ってくれなかったもんな、気を使って貰えるのはありがたいけど、やっぱり甘えてくれると嬉しいぞ。
「私もシキもお兄ちゃん達と遊ぶの楽しみにしてたんだよ!? それなのになんでよ! お兄ちゃんもコクトーも、トウコトウコトウコって」
だけど今はタイミングが悪い、イリヤの気持ちも分かるけどコレばっかりはな。
俺は真面目な顔でイリヤに説得を試みた。
「悪いと思ってる。だけどなイリヤ、俺は………」
「もう知らないわよ!! お兄ちゃんなんてトウコと結婚すればいいんだー」
「だから聞いてくれってば! つーかそれマジ勘弁してください!!」
さりげなく何て恐ろしい台詞を吐くんだ。俺に死ねと言う事か?
何とか頑張って言葉を繕ってはみるものの。
「イリヤ、――――――」
「知らない知らない知らない知らない、あっち行けー」
「頼むから話しを、――――――ぐふぉあ!?!?!?」
駄々っ子モード全開のイリヤの前になす術も無く敗退。
畳の上を器用に転がるイリヤとの追いかけっこの末、突如叛旗を翻したイリヤの細いおみ足が綺麗に俺の延髄に決まった。ヨロヨロと情けなく畳みに沈み込む俺の身体。
涙を瞳一杯にためて、イリヤの怒りはとうとう針を振り切った。
「うわあああああああああああああああん」
「グぇっ、――――」
イリヤは倒れ付した俺を踏みつけ、休憩場からアクセル全開でエスケープ。
ペシャンコに潰された蛙の様に畳に貼り付けにされた俺は、冷たい感触に泣きそうになった。横に控える式さんがさも哀れに俺を眺めているに違いない。
「はあ、どうしてオレが気に入った奴らは皆馬鹿なんだか」
式さんはイリヤの走り去った方に視線を送り、華奢な肩を窄めて天井を仰いだ。
「………俺がですか?それともイリヤの事でしょうか?」
それとも幹也さんの事なのだろか?
踏まれた腰の辺りを擦りながら「イテテ」とイリヤが残していった奇妙な沈黙の中で身体を起こす。
「さあな、オレにも分からない」
自分でも意外そうに笑って、式さんは畳に転がった。
「それにしても、イリヤの奴があんなに取り乱すなんて驚いたよ。随分と好かれているじゃないか」
「ええ、嬉しい筈なんですけどね」
乾いた笑いで自分の返答に疑問符を打つ。
頭を横に振るって式さんの隣で胡坐をかくと俺達はお互いの視線を合わせるでもなく、独り言の応酬を開始した。
「はっきり言ってやればいいんだ、下手に繕うから機嫌を損ねるのにさ」
「自分でも分からないんですよ。どうして先生の動向が気になるのか」
噛み合わない筈の遣り取りが俺の心のわだかまりを氷解させて行く。
「幹也の馬鹿もそうだ。あいつらしくも無い、自分から首を突っ込む何てな」
「落ち着かないんですよ、先生の行動、それと心につっかえた嫌な骨が」
自分でもハッキリしなかった疑問にメスが入る、―――――心が揺れる、のか?
なるほど。
先生の行動が気になる、コレも言い訳に過ぎないかもしれない。この海に来てから、身体の奥底でうねる何か。戦いの前の恐慌や高揚とも違う。神秘や奇跡を前にした緊張感でもない。
例えるなら、そう、焦燥だ。
俺も、きっと幹也さんも感じているはずの、理由も無い理性の慟哭。身のうちから毀れた物ではない、外界から感じる不安定な衝動。それが俺たちを動かす何かに違いなかった。
沈黙の中にあるのは俺と式さんの息遣い、それに割り込む様に響く波の音だけだ。
「まったく、くだらないよ。理由も無いなんてさ、イリヤが怒るのも仕方が無い。反省しろよ、衛宮」
すると突然、式さんが諦めた様にふっと俺の言葉に相槌をうった。独り言の投げ合いから一変、俺と式さんは顔を見合わせた。
不思議な笑みだ、俺に向けた筈の笑顔なのにその言葉は式さん自身に向けられていた。
「そうですよね、俺、悪い奴だった。すいません、式さん」
「馬鹿、オレに謝ってどうすんだ」
反射的に「確かに」と苦く笑って俺は立ち上がった。
式さんは柔らかく目を閉ざして、「追いかけてやれよ」と指でジェスチャー。
「こんな時ぐらいイリヤの我侭に付き合ってやれよ。調べものならオレと幹也で充分だ。こんな機会滅多にないんだし、無理やりにでも楽しませてやれ」
式さんの不釣合いな仕草に俺が頭を掻くと、呆れた声と一緒に気だるく浴衣を整える彼女がそんな事を言ってくれた。
「――――――でも」
「しつこいよ、気にすんな。オレは別に観光出来ないから気に食わ無いなんて訳じゃない」
ムシャクシャと少し湿った髪を掻き分けやっぱり不機嫌に式さんは空き缶を俺に手渡し立ち上がった。
「オレはな衛宮、橙子の思惑道理に動かされるのが気に食わないだけだよ」
式さんは思い出したように少し自嘲気味に紅唇を緩ませ、
「それにオレは、幹也がいればそれだけで幸せみたいだしな」
波の音に掠れるほど小さな声で零した。
「 ? ――――――何か言いましたか式さん」
不用意な発言だったのだろうか?
式さんがはっと口元を押さえ足早に俺から離れる。
「―――――――式さん?」
彼女は顔を茹でダコみたいに真っ赤にしてアワアワと浴衣を振り回す。
その姿はとても可愛らしい。童話に出てくる小人のようである。式さんは慌てて旅館のツッカケに足を入れようとするが、上手に履けないようだ。サンダル履くのに戸惑うなんて、一体なんでさ?
「と、とにかくだ、早くイリヤを追いかけてやれよ」
ようやくツッカケを履き終えた式さんは反転して捨て鉢に言い放つ。幾分かまともになったものの、やや顔が赤い。
彼女の仕草にくすりと微笑み返し、
「分かりました、式さんのお言葉に甘えさせてもらいます」
イリヤが走り去った方へと俺はつま先を向けた。
「―――――――――あ、それと式さん」
俺は自室へと向かう式さんを呼びとめてしまった。彼女は首だけを回して俺に振り返る。
「なんだ? まだ何かあるの?」
声の調子からキョトンとした式さんの感情が窺えた。
「え? あ、いや………」
―――――――――――なんで俺は、彼女を呼び止めたんだ?
「変な奴」
そう言って式さんは踵を返した。小さな背中が一層小さくなっていく。
「――――――――何を、してるんだ? 俺は」
式さんはイリヤと一緒に湯船を楽しんでいたじゃないか。俺が見たのは彼女じゃない、第一“■■”は…………。
「―――――――っつ、止めだ止め」
アレは俺の勘違いだ、まさかこんな時間に岬の上に人が、それも女性が一人でいるなんて。馬鹿馬鹿しい考えを追い出し、俺はイリヤを探して足音の良く響く廊下を駆けた。
/ 4.
「――――――――ったく、イリヤの奴はどこ行ったんだ」
旅館のあちこちを走り回って探しては見たが影だって見つかりゃしない。時計の短針は既に十一を大きく追い越し頂点へと近づいてしまっていた。
時間の感覚を忘れさせるほど明るく光るロビーのなか、入り口の正面に構えた大仰な古時計が正確に時を刻んでいる。
冷房が効いていないのか、それとも走り回った所為なのか、頬に汗が伝う。
くそ、後で風呂に入りなおさないとな。ゆっくりと足を進めながら、フロント前のお土産屋さんの中も見て回るが無駄足だった様だ。
「あれ? 衛宮っち、こんな時間に何してんの?」
がっくりと肩を落として店を出ると、外から帰って来たばかりらしい朝倉がフロントの前の豪奢なソファーで油を売っていた。姿が見えないと思ったら、温泉町に一人で繰り出してきたようだ、微かに残った硫黄の香りが鼻をくすぐった。
「お前こそ何してんだよ? また受動的ナンパか」
「随分だねぇ」
苦笑いしているものの否定はしない。
ちらりと横に目をやれば、朝倉が常に携帯しているメモ帳がその存在を主張するように傍らに置かれていた。
なるほど、趣味と実益を兼ねたナンパなわけか。まったく頭が下がる。
「面白くも何とも無いのは色々と釣れるんだけどね」
「入れ食いって奴か、大変なんだな」
まあね、なんて微塵も疲労を感じさせないのは流石プロ。心配なんて無用なんだが、女の子がこの時間にうろつくのは穏やかじゃない。
間違いが起こったらどうすんだ、せめて一声かけて欲しかったぞ。
「そうだね、アリガト」
「なんだよ、突然?」
朝倉は思案顔で俺をのぞき見るとくすりと唇に軽く指を添えて笑いやがった。
「別に、心配してくれてありがとうってことさ」
朝倉はポッケにメモ帳をしまい、下ろした赤茶の髪を揺らす。同い年とは思えない色っぽさでラフに着込んだ男物のTシャツが俺の身体に近づいた。
「っんで、何してんの?」
「ん? ああ。朝倉さ、イリヤ、見なかったか?」
「イリヤちゃん? なんでまた」
どぎまぎする心臓の鼓動を悟らせぬ様、一歩後ろに引き下がり、かくかくしかじかで俺は先ほどまでの流れを簡単に説明した。
困ったように笑う朝倉は、何時もの彼女と何一つ変わらない。
「ははあ、イリヤちゃんも乙女だねぇ」
「……何故そこで感心するんだよ」
俺の話のどこからそんな単語が思いついたんだ?
「まあいいじゃないか、細かいことは気にしないで、男でしょ?」
こいつの適当さは何時ものことなので付き合ってはいられない。
荒っぽく自分の赤髪ぐしゃりと掻き毟り、朝倉に先を迫る。
「はいはい、本当せっかちだよね、衛宮っちはさ。多分イリヤちゃんならあそこにいる。ついて来なよ」
彼女は自信満々に俺の手を引き、嬉しそうに駆け出した。
連れてこられたのは、厨房の前。時刻を考えれば、こんな所に人が居る訳が無かった。
そもそもイリヤがどうしてこんな所に来るのさ。
「イリヤは夜中に間食する様な悪食じゃないんだけどな」
はッ! まさか虎の呪い!? そんな、いやしかし、藤ねえならその位やりかねん。地球外生命体に俺たちの常識は通用しないのだ。………っとまあ、冗談であって欲しいと切に願う冗談はさておき。
「おい朝倉。なんでこんな所―――――」
「―――――――――――し! 静かに」
がばちょっ、と漫画みたいな効果音と共に朝倉が俺の口を押さえつけ、厚く仕切られた銀色の扉より音も無く厨房の中に侵入した。
聞き耳を立ててみれば、確かに誰かの話し声がする。氷の様なソプラノ、この声はイリヤに間違いなかった。
「――――――――――こっちだよ、衛宮っち」
幸い、小学校の家庭科室を髣髴させるように配置された調理用の大型キッチンがバリケードとなって、俺たちの侵入はイリヤともう一人、調理場に残る女の子には気付かれなかった様だ。適当な距離までこそこそと忍び足、じりじりとイリヤの声が近づいて来る。
(………いや。そもそも隠れる必要ないだろ?)
思わず朝倉に乗せられちまったけど、俺はイリヤに謝りに来たのだ。
それが何故こんな真似を?
(シーット! ロマンのかけらも無いね。大切な妹君がこそこそ厨房でお話ししているのよ!? このシチュエーションで取る行動はコレしか無いでしょ? いざ、いーざあ!!)
朝倉は某有名スパイ映画のBGMを口ずさみながら、イリヤの方に聞き耳をたてる。
我が世の春、ここに来たりぃ、と言う奴である。正に水を得た魚、こんな奴にときめいてしまった過去を呪いたい。
「------――でね、シロウったら酷いのよ」
だが、イリヤの声に俺の意識は突如掠め取られた。俺も大概、いやらしい奴である。
イリヤの不機嫌な声が俺の耳をこそばゆくくすぐる。姿は見えないけれど、可愛らしく頬を膨らませているに違いない。
「折角お兄ちゃんとデート出来ると思ったのに、何よ。シロウったら私よりトウコの方が大事なんて、可笑しいと思わない?」
イリヤはぷりぷりと不満を誰かに当りつけている。
ええい、じれったい。危険を承知でキッチンの下から頭を覗かせ彼女達を視界に入れる。
「--------------------------------------------------------」
「分かってるわよ、私が我侭だって事くらい」
イリヤは俺たちの方に背を向けて、キッチンの上に座っていた。その向かいにはシミ一つ無い調理師用白衣を着込んだ女性が一人。まあるい柔らかな物腰が特徴的な俺と同い年くらいの女の子がイリヤに何かを囁いた。
「だってシロウだもんね。お節介妬くなって方が無茶だもの、シロウにそれを止めさせたらきっと死んじゃうわ」
その言葉にイリヤの声がふわりと軽くなった。
(…………俺はウサギかよ?)
(案外、外れてないんじゃないの? 寂しがり屋のお兄ちゃん)
朝倉は声を潜めつつケラケラ笑う、無駄に器用な奴である。
「でもね聞いてよサツキ。それぐらいなら私だって安心だけど、お兄ちゃんて女に弱すぎなよね、トウコにもシキにもカズミにも」
―――――――っておいおい。
俺と朝倉が深く静かに問答を繰り返す内に話しが不味い方に転がっている。イリヤは自分の言葉に深く頷きながら俺への不満をネチネチと吐露していく。
「この前お兄ちゃんが仕事で知り合ったって人も皆女だったみたいだし、一体何を考えているのかしら」
(そりゃ、男の子だからねぇ~、お母さんにはとてもじゃないけど話せない事でしょ?)
(………殴っても良いか?)
(あ、でも否定しないんだ?)
思わず拳を硬く握り締めてしまう、それと反対に俺の頭はイリヤが迂闊な事を言わないか内心ハラハラである。
そんな俺の気持ちなどお構い無しにイリヤの(正確には俺への)独白は止まらない。
「それにね、シロウったら純朴そうな顔して実はエッチなのよ」
(むっつりスケベ?)
(違う)
朝倉が俺を可哀想な目で見ている。
もうどうにでもしてくれ。そんな事を思ってしまった瞬間。
「その証拠にね、サツキ、話したかしら?お兄ちゃんはアパートの茶箪笥の中に、――――」
(って、ほんとお前何口走ってんだ!?!?)
(ほー、そんの所にね。中々ノーマルなだけに見つかりにくいって事かしら)
前言撤回、それは不味いぞ!? 何でイリヤがそれを知ってんだ!? 朝倉もメモ帳に余計なこと書き込むなぁ~! や~め~て~、誰かイリヤをと~め~て~!
脳みそ大混乱も手伝って、身体が浮き上がる。
(馬鹿!? 朝倉放せ! 放せってば! 俺は、俺は~)
(こんな面白いところで茶々入れられてたまるかい!)
思わず飛び出した体を朝倉に押さえつけられた。……もう死にたい。虚脱感に身を任せて、俺は真っ白に燃え尽きた。
だが、そんな放心状態もイリヤの一言で長くは続かなかった。
「―――――――ま、これ以上言っちゃうのはちょっと可哀想だし。憂さ晴らしも終わりにしてあげるわ。そろそろ出てきなさいよシロウ、どうせカズミも一緒なんでしょ?」
「――――――――――――――――――――――っへ?」
突然のイリヤの発言に俺と朝倉は素っ頓狂な声を上げた。
もしかして気付いていたんですかイリヤさん?
フフンと唇に人差し指を添えたイリヤは小悪魔じみたせせら笑いを年上のお兄さんお姉さんにプレゼントしてくれましたとさ。
ピョコンとキッチンから飛び降りたイリヤは、俺と朝倉の隠れるキッチンの向かいで仁王立ち。
「気付いていたのか?」
ばれているのにも関らず、キッチンの下から頭を出す姿勢を保って聞き返すのは、人間心理の難しいところである。科学的な考証が欲しいところだ。
「アレだけ騒いでいて、よく言うわ。それにしても良く私の居場所が分かったわね? 調理室にいるなんて普通考えないわよ?」
そのお姿は正にプリンセス…もといザ・おんぼろ貸家のクイーン。下々の者共は諦めて苦笑を交換し合う。
イリヤの問いに俺は改めて朝倉に視線を向けた。俺自身、何で朝倉にイリヤの居場所が簡単に見つけられたのかハッキリしないからだ。
きらりと朝倉の瞳が輝く。
「それはイリヤちゃんの身体に発信機を………うそうそ、うそです。イリヤちゃんもそんなに睨まないでよ」
勢いも一瞬、コホンっと咳払いをして場を繕い、朝倉はイリヤの後ろに控えた人影に並んだ。
「本当は根拠なんか無いんだよ、ただイリヤちゃんがお目目を真っ赤にして不貞腐れてたんなら、四葉の奴がほっとかないだろうなって思ってさ。そしたら本当にイリヤちゃんがいるなんてねぇ。いやはや私の感も捨てたもんじゃないね」
朝倉の言葉にイリヤが少し恥ずかしげに目を逸らす。同時に、白衣を着込んだ背中が丸まり、小さな声が響いた。
(はじめまして、イリヤちゃんのお兄さんですよね? 私、四葉五月です)
彼女は丁寧に頭を垂れると俺に微笑んだ。
朝倉の言葉通りなら、彼女がイリヤを慰めてくれたみたいだし、素直にお礼を言わないとな。
「助かったよ、妹が色々世話になったみたいでさ」
迷惑なんてかけてないもんっと頬を膨らすイリヤを朝倉に任せて俺は四葉に手を伸ばした。
「イリヤから聞いてるかな? 衛宮士郎だ。料理美味かったよ」
俺の言葉を嬉しそうに握り締めた後、彼女は朝倉を虐めるイリヤの髪を撫でつける。
(そう言っていただければ作った甲斐があります、イリヤちゃんも良かったね。お兄さんが迎えに来てくれて。)
囁いた四葉の顔は、今は思い出せない母親の記憶に触れるものがあった。
「うん、サツキもありがとね。私のお話聞いてくれて」
気持ち良さそうに髪を預けるイリヤの顔は穏やかだ。
そんな妹の姿に、俺は知らぬ間に声を漏らしていた。
「あのさイリヤ、俺………」
俺がしどろもどろで言葉を選んでいると、それをさえぎりイリヤが口を開いた。
「もう良いよお兄ちゃん、サツキにも話したけど私も我侭が過ぎたわ。」
横目で四葉の顔を盗み見ながらピッと人差し指を立て、
「だから、明日は私もお兄ちゃんにさ・い・ご・まで付き合うからね? 途中で危険だから帰れ、とか無理に付き合わなくて良いんだぞ、とか出来の悪いアクション映画の台詞なんか言わせないんだから、デートも調べ物も両立させて楽しませてよね?」
イリヤは俺よりも年輪を感じさせる笑顔を向けた。
その隣の四葉は、俺の言葉が分かっているかの様に目を細めている。
「ああ、無理やり楽しませてやるから覚悟しろよ?」
だったら俺もそれに精一杯答えるだけだ。
(良かったですね、仲直り出来て)
「ああ、四葉のお陰だな。本当、助かったよ」
喜びの余り首に巻き付いてきたイリヤをヨイショと下ろして、改めて四葉に御礼の言葉をかけた。イリヤに笑顔が戻ったのも、詰まるところ彼女がイリヤの苛立ち宥めてくれたのが大きい。
(そんなこと無いですよ、私がいなくてもきっとお二人で直ぐに仲直りできました。だからイリヤちゃんはあんな風に笑えるんです)
何でもないように言いながら、四葉は白衣を脱いで備え付けられている鋼色の衣装扉に収納した。調理場の時計を見れば既に日付が変わって半刻以上も過ぎている。
(今夜はもう遅いですし、そろそろお部屋に戻られた方が良いのでは?)
「そうだな、そうする」
イリヤの事が終わったら急に眠くなってきたな、明日は色々調べて回りながらの観光だし、ノンビリ眠ってはいられない。
(じゃあねイリヤちゃん、明日のご飯は少しサービスしてあげるから楽しみにしててね)
「ありがとサツキ。だから貴方って好きよ。期待させてもらうわね」
四葉の控えめな笑顔に大げさな喜びで答えたイリヤはぐいぐいと俺の手を引いて調理場の入り口件出口へと向かう。
「四葉ぁー私にもサービスしてくれるんだよね?」なんて年甲斐も無く聞いている変な奴は放っておくのが一番だ。
明日の幸せを懐で温めながら、俺はイリヤ互いの手を引き自室に向かう。
夜に残る微かな吐息は、さざ波の音色だけだった。