/ feathers.
「きゃあっ!!」
妹さんのささやかな悲鳴。不覚にも、着地に失敗した。
衛宮の援護を受けて、私は自分でも御し切れぬ速度で山門を突き抜けた、ココまでは良い。だが、胎の傷も考えずに無理をしたのがココに来て祟っている。半分以上が粉砕骨折の下腹部は、それこそマグマ溜の様に灼熱していた。
そのお陰で、地面を擦るようにしか着地が出来なかったのだ。私の背から投げ出された妹さんには悪いことをしてしまった。実に不憫である。
「大丈夫? セツナ」
「ええ、何とか。……混血の頑丈さは、こんな時位しか役に立ちませんから」
そう、と事も無げに頷いた彼女は、私の手を取る。
小さな手を握り返し、立ち上がった私は自身の身体を再度確認する。自らの言葉通り、混血の私の自然治癒能力は人間のそれとは比較にならない。だがそれでも、あの女、遠上都から受けた傷は大きい事に変わりは無い。
動けても普段の五割以下、だが戦えないなどと、誰が弱音を吐けるのか。
「それにしても、酷い場所ね。なんて醜悪な匂いかしら」
私は、結い上げた髪を揺らしながら頷く。微かながら凛と、髪留めに付属した鈴が転がったのだ。
見渡す境内は、私が見知っているモノと何一つ変わらなかった。そう、変わらなかった。その変容が凄まじすぎたため、まるで一回転して戻ってきてしまったかのよう。砂利の轢かれた庭園と、よく磨かれた石畳、立派な本堂、何一つ変わらない。ただ、血の様に濃厚な腐臭が漂い、腐乱な大気が桜色に染め上げられている事を除いて。
まるで、臓物の中にいるようだった。篭った空気は、もはやマナと呼べるモノではなく、私でさえ吐き気を催すほどの瘴気と化し、全てを犯している。
「妹さん、二手に別れましょう。いいですね?」
だが、現状に嘆いている時間は無い。恐らく上空から見下ろした丘、孔の祭壇に続いているであろう羨道を睨み付けながら、私は妹さんの顔も見ずに言った。
「ええ、元からその心算だもの。良いも悪いも無いわよ。駄目って言われても、そうするわ」
答えた声は、冷たいほどに澄んでいる。生ぬるい外気にあって、氷の様に研ぎ澄まされた彼女の強い想い。なるほど、やはりこの小さな銀色の少女は衛宮の妹さんです。
「安心しました。しかし、本当に一人で大丈夫なのですか?」
「貴方こそ。その怪我で、無理するんじゃないわよ」
背中をつき合わせるように、私と妹さんの視線は真逆を射抜いている。
彼女の瞳は龍界寺に本棟を見据えていた。この龍界寺に敷かれた結界の基点、恐らくそこに彼女の意中の相手がいるのは間違いない。
私達は互いの獲物を握り締めたまま、一つ呼吸を落ち着ける。……いよいよ、何も言うことが無くなってしまった。後は、それぞれの戦いに赴くだけ。
だから。
「イリヤさん」
「セツナ」
駆け出す前に、名が重なる。
まったく、女々しいものだ。それでも、言わずにはいられない私たちが。
「負けないで、下さい」
「負けるんじゃ、ないわよ」
そして、私達は頼りなく、だけど懸命に大地を蹴った。
Fate / happy material
第三十八話 されど信じるモノとして
/ others.
「―――――――順調だ」
魔術師は暗闇の中で嗤う。
近衛木乃香と言う加給機を手中に収めた今、彼の目的は着実に前進していたからだ。
「ひは、ひはは。もう直ぐ、コレで」
ガラス管の中には既にゲル状にまで固着された莫大な魔力が泡を吹きながら凝縮されている。
奇怪な魔具、まるでそれは、珈琲メーカーだ。濃厚、既に質感さえ伴っていそうな大気のマナを蒐集し、ガラス管の中に液体にまで化した魔力を貯蓄する様相。用途は異なれど、礼装の形状は、ソレに酷似していた。
「―――――ほう、侵入者かね?」
だが、自身が生み出し、そしてこれから生み出されようとされている、叡智の結晶に酔いしれていた魔術師の濁りきっていた瞳が、唐突にしかめられる。
気付いたのだ、取るに足らぬごみ屑が、龍界寺の土を汚したのだと。
―――――しかし、奴等ではない。そのことに、男は少なからずの安堵を覚えた。だが、果たして、男はこのおこがましくも卑しい自身の感情に気付いていたのだろうか?
「……まったく、役立たずのガラクタが」
そもそも、この礼装が完成すればあの二人は用無し。いずれ切り捨てる存在だったとは言え、こうまで使えぬといっそ清々しい。毒々しい愉悦に天井など無いのか、目玉が厚い肉にめり込むほど、魔術師は笑う。
魔具の完成は間近、これさえ完成すれば、トラフィムの追っ手などに怯える必要も無い。いや、トラフィムの騎士? その程度の存在など、もはや恐れるに足らぬ存在に成り下がるのだ。
「ひゃは、ひゃはははははは。堪らない、堪らないなぁ!!」
誰とも知らぬ脅威を、見下ろす。魔術師としての歪んだ誇り、より自身を高みに置くことで他者を蔑み、自己を讃える。それが彼の在り方、それだけが彼の信じたモノ。
それもやはり一つの象。そう、彼の持つ歪んだ意思でさえ、それは確かに幸福足りえるのだ。それは、充分すぎる真理なのだ。
「さて、完成までの数刻。僅かでも、戯れてやろう」
満足に笑みを休め、黒い男の外套が闇に翻る。
笑みの奥底には、確かな殺意。魔術師としての誇りを、道具の分際で踏みにじるなどと。男は、捩れた誇りを燦然と恥ずかしげも無く信じている。
濁った魔術師の瞳は、工房の扉に向けられた。
Out. / snow white.
目の前には、扉がある。とは言っても、薄い羽目板が頼りなくあるだけだが。
用心の意味でも、周囲を一度見渡してみる。冬木のお寺と殆ど同じ間取りの本棟の深奥、灯りが申し訳程度にしか無い廊下、汚れた白蓮が浮かぶ貯水池、そして和風の庭園、当たり前と言えばそうなのだが、普通の寺院である。
わたし達の侵入に気付いていないのか、それとも、わたし達程度侵入者に警戒する必要も無いのだろうか? 山門からココまで、罠どころか、結果一つ敷いていなかった。
だが兎に角、目の前の部屋にあのヘンタイがいるのは間違いない。タートルネックの黒いセーターが息苦しく感じる程のマナの沸騰、ジーンズが窮屈に感じるほどの圧倒的な神秘の奔流。ドブ川よりも汚らしい奴の魔力が、この部屋には納まりきらず漏れ出しているのだから。
肩にのしかかる重圧に抵抗するため、眼光を鋭く、顎を引いて。麻の布切れに巻かれた双剣を抱きしめた。漸く、わたしは最後の一歩を踏み出すことが出来た。
「ごきげんよう、醜い貴方。躾の時間よ」
はしたなく羽目板を蹴り開ければ、一面暗闇。そして、その深い黒色に浮かび上がるように男はいた。
「ひひ。懲りないな、ホムンクルス。どうやら、出来損ないは何処までいっても出来損ないの様だ。学習能力を付属して貰えなかったのかね?」
広い板張りの室内には、太いパイプが何十にも敷かれており、それらを纏める大きなサイフォンみたいな礼装が、中央に設置されている。
敵の工房に乗り込んだのだ、警戒は怠れない。注意深くその巨大な礼装を観察した。30㎝の円柱形、丁度珈琲カップが来る位置に設置されたガラス管の中には、気色悪いゲル状の液体が溜まっている。
ヘドロの緑色。汚らしいその液状物質からは、とんでも無いほどの魔力を感じた。どうやら、孔から吹き出す濃厚な魔力を圧縮しているらしいのだ。
一応、どんな効果の道具なのかは想像ができる。まだ完成していない様だが、あれは恐らく魔力タンクだ。リンの宝石のパワーアップバージョンとでも言えばいいのか、かなりの魔力を内包した補助礼装。
だけど、一体何のために、この男はこんなものを?
魔術師の言葉など適当に無視して、回答など期待していない疑問を放り投げる。
「貴方、それって一体」
「さあ、何かな? 確かなのは、奴等を退けるための秘策……だということだ」
奴等? 不可解な言動は、果たして何を意味していたのだろう。
くっ、とくぐもった笑みを溢したまま、一歩、男は大仰に両手を広げて私に歩み寄った。
「冥土の土産、と言ったか? この国では。残念だよ。この礼装が果たして何のために必要なのか、教えてやってもいいのだが、生憎、私の計画に水を差し込む道具に、そこまでしてやれる程、私は気が利いていない」
だからね。
男は、声色を変え、告げた。囁くように、殺意が呪詛になる。
「何故、来た? ガラクタ。壊さなかったのは、せめてもの慈悲だったというのにね」
数時間前に血みどろの私を踏みつけていた硬くて分厚いブーツが、ジリ、とまた一歩近づいた。
背筋が舐め上げられたように、再び体中の穴が総毛立った。恐怖、と言う無様な感情が、四肢の力を奪い取る。
思わず取り落としそうになるシロウの創った双剣。それを、殆ど無意識で両の手で抱え込む。誰かを抱きしめるように。ただそれだけで、少しだけ、本当に少しだったけれど、強く、なれた気がする。
「何故来た、ですって? そんなの――――――――――――決まっているわ」
恐怖は、消えない。弱いわたしだ、そんなの当然だった。消え入りそうな強がりと、震える膝が、それを教えてくれるもの。
シロウや、リンや、シキや、セツナや……そしてアイツは、こんな風に、戦いの中に身を置くたび、こんな耐え難い恐怖に、いつも立ち向かっていたんだろうか。
振り返るのは、一つの終わり。聖杯戦争、あの戦いで、英雄と言う名の恐怖は、果たしてどれほどのモノだったのか。
一つだけ間違いないのは、今のわたしが感じるそれより、もっとずっと恐ろしい事なのは確かだろう。
笑っちゃうわ、こんなことにだって、今になってしか気付けなかったんだから。
あれ、何故だろう? 気付けば、本当に笑っている自分がいた。
「我慢ならないのよ。今のわたし(貴方の言葉)に」
魔術師を見据えて、お腹のうちから、濁ったものを全て吐き出す。
わたしの言葉に、分からない、と首をかしげるのは、黒い男の番だった。
「取り消しなさい。イリヤスフィールは、“魔術師”だ」
這い上がる、今は無様でも、きっといつか。みんなの隣で、生きていたいから。
「取り消す? 馬鹿を言え、渾然とした真理、礼装、道具としての事実すら見つめられぬ貴様に、魔術師の称号など、だれが」
癇癪を起こして、魔術師は頑なにわたしの言葉を否定した。自身のプライドを酷く穢されたのか、脂肪で厚みを含んだ赤ら顔が、より一層朱に染まる。
「ふん~っだ! 貴方が聞いたから答えただけじゃない。生憎、わたしは淑女なの、持て成すのは当然よ」
はらり、蒼白の奇剣に捲かれた麻の布切れが地に落ちる。双剣を小さな両の拳で握りこみ、構えになんてなってもいない下手糞な形で、剣をかざした。
「冥土の土産。だって、貴方には必要でしょう?」
歯軋りが、開始のファンファーレ。
「――――――――――望み道理、破棄してやる。私と君の“違い”を噛み締めろ」
暗い室内に、二つの魔力が吹き荒れる。
魔力が回路を駆け巡り、切り替わる肉体。精神のスイッチは、とっくに入れっぱなし、容赦など、初めからするつもりは毛頭無い。
「流るる青は盃を、零るる白は杯を、―――――――Einschenken(満たす)」
両翼の櫂が、匂い立つ工房に満ちた魔力を切り薙いだ。
「ほう、道具が礼装を振るうか。もっとも、できそこないには不釣合いな程、見事な魔剣だが、君如きに、扱えるのかね? ん~?」
目の前の魔術師。彼は確かに一流ではあるが、わたしの礼装の能力を一目で看破できるほどの鑑定眼を持っている訳ではなさそうだ。そもそも、シロウの解析能力がインチキなだけであって、別段不思議な事では無い。
最初のハードルは、クリアー。作戦開始だ。
「ああ、そうだ。イリヤ、すこしばかり助言がある」
わたしは、数時間前に交わされたシキとの遣り取りを頭の片隅に思い描きながら、呪を構築する。
「Versammlung sich herleiten; beruhen auf (水の精霊、十一刃、集い踊りて)」
回路を起動したわたしと黒い男。彼はわたしと同じくオーソドックスなタイプの魔術師の様で、戦闘の開始と共に、一様に距離を取った。様々な魔術道具が敷き詰められている雑多な工房内とは言え、床、天井の広さ高さ共に戦闘が充分に可能なスペースが確保されている。
魔術を発動するのに、なんら躊躇はいらないのだ。
「ふむ、まあ先手はくれてやる。さあ、なにが変ったのだ?」
二人の距離は大体七メートル位だろうか。黒いコートを僅かに発光させながら、奴の魔力が拡散、大気に浸透していく。静電気でも発生しているのか、私の前髪がチリチリ音を立てながら奴に靡いていた。
「――――――――――Wasser Schwert(敵を切り裂け、水の射手)」
黒い男の魔力の障壁を貫けないのを承知で呪を放った。自動防御の障壁ならまだしも、意識付けされて構成された奴の防御式を貫ける魔術など、この程度の詠唱では到底成しえないのは分かっている。
放たれた十一の刃は、予想と共に的中、奴の魔術障壁の前に霧散した。だが、別に気にする必要も無い。何故って、コレは確認。奴の属性や特性、そして技量を測るための捨石に過ぎない。
敵を知り、己を知れば百戦危うからず。意外と、コレは真実だと思う。黒い魔術師は、わたしよりも確かに優れている。だけど、その差を知らなくては、何も始まらないんだ。
「ふむ、なんだね。その礼装の力は、使わないのかね? 先ほどと、何も変らないのだが」
水の刃は見えない何かと衝突し、散り散りになって霧散していく。詰まらなそうな魔術師の貌を殴る要領で、心の中、拳を握りこんでガッツポーズを作ってやる。
舐めるな、初手において、わたしの目的はキチンと果たされているんだからっ。
わたしの魔術を防いだのは大気に拡散した奴の魔力の壁、そして前後に発生した静電気の事を念頭に入れれば、奴の属性はやはり“風”若しくはそれに、やや“乾”の性質が加わり“雷”……と言ったところかしら。この室内に設置された電力を主な稼動元にする機械的な魔具を見ても、中々いい線行っている推理だと思う。
加えて奴の特性、コレは結界構築や方陣制御、蓄積に特化したモノと見て良さそうだ。
技量については言うまでも無い、無詠唱での回路の起動、式の構築、そしてその精密さ、わたしより五六枚上の使い手である。
だけど、思っていたよりもその差が絶望的では無い。そうだ、シロウはいつだってこの程度のハードルを、乗り越えてきたんじゃないの。
「ひひ、ほら。考えごとは頂けない、折角の戯れだ。壊れるまで、使い込んでやる」
パチン、と指がなる。やはり無詠唱、しかも、コノカの家で見た魔術の矢よりも数が多い。式の起動は一工程、大気の芳醇なマナを矢に注入し、威力を高めるためにもう一工程。
無詠唱で完璧なシングルアクションとまでは言わないが、それでも速い。魔術の構築速度、これって、戦いにおいては結構重要だ。
「簡単に、潰れてくれるな」
計ニ工程、数は全部で十一。わたしが創ったモノと同じ魔力の矢。違うのはひとつ、その属性。水と雷、相性の相関図で、果たして不利なのはどちらだったかしら?
大気で太鼓でも打ったかの様に、魔力の矢が空気を撃ちつけながらわたしに飛来する。
防御は、無理。覚えたばかりの障壁程度では、あの攻勢には耐え切れず、弾け飛ぶ。もっても五発。なら、避けるしかない。きっと出来る、シキの“メン”はもっと鋭かったもの。
「Starkung Wiedereroffnung(強化、杯を磨く。詠唱、開始)」
足に強化の呪。身体が軽くなった錯覚に酔いながら、背中をむけて思いっきり走った。避ける、なんてかっこのいい事、わたしには出来ない。精々“逃げる”のがいいところだ。
広い室内を、出来る限りの速さ、とは言っても成人男性の全速力とそう変らない速さで、駆け回る。中央に置かれた珈琲メーカーの周りを、くるくると蹴躓きそうになりながらも、懸命に爪先を前へと突き出した。
わたしも使えるから分かる。魔力の矢、この魔術は、そこまで正確な狙いがつけられないのだ。当然、使い手の技量次第ではあるが、奴の特性を考えれば、命中精度は余り期待できない。あいつの口ぶりからするに、この気色悪い試験管はなにやら大事なモノみたいだし。
「っちい、ちょこまかと」
故に、わたしへの狙いが、定まらないのは当然だ。
下手に魔術を撃てば、奴が重宝にしている妙なガラス管を傷つけかねないのだから。
―――――全弾、何とか回避。
魔術を放った後も戸惑いを拭い切れない奴の矢なんかに、当ってたまるかってーのよ。あらいやだ、わたしったら、はしたないわ。
「へへん!!」
魔術の雨が止んだのと同時に、急ブレーキ、魔術師に向かって鋭角に切り込んだ。
「Versammlung sich herleiten; dreiunddreisig beruhen auf (水の精霊、三十三刃、集い踊りて)」
戦いにおいて重要なのは冷静な状況把握と、踏ん切りの良さ。前者は自信ないけど、思い切りの良さなら、シロウにだって負ける心算は無いんだからっ。
ギシギシと油が切れかかった身体に鞭を入れて、魔術師に肉薄する。痛む体と、強化の魔術の効力が薄まり減速していく身体。それでも、天井に向かって足を蹴り上げれば、金的位は出来そうな距離まで詰め寄ることが出来た。
「Weihwasser Pfeil Wasser Schwert (敵を、切り裂けっ)!!」
零距離で放たれた魔弾。先ほどは奴の障壁を貫き、一矢を報いた攻撃だが。
「っ調子に、乗るな!!」
やはり、そう楽はさせて貰えそうに無い。同じ攻勢を二度も甘んじるほど、黒い魔術師は弱くなかった。
やはり魔術で障壁を即座に構築。魔弾を完璧に防ぎきる。―――――だけど、今のわたしは、初戦の時とは違うのだ。
わたしの魔弾が奴の障壁と弾け相殺した逡巡。火花が弾けるように、水蒸気と化した水の刃が帯電する。その霞を目くらましに、握り締めた青・奇天を切り上げた。
「ぎい!?」
初めて、自分の手でヒトの肉を抉った感触。思った通りの弾力があって、意外と硬い。テレビみたいに、血飛沫だって上がらない。鼻をつく鉄の匂いは、こんなにも希薄なのに、目眩を起こすほどに不愉快だ。
だけど、怯んでいる暇はなど、まるで存在していなかった。
わたし程度のつけた傷で絶叫した魔術師が、気が狂わんばかりの勢いで、わたしに殴りかかってきたからだ。
奴の拳には強化の魔術が施されているし、あんなのを貰ってしまったらひとたまりも無い。この身体は、脆弱なのだ。
「貴様、貴様、貴様、貴様、貴様ああああああああああっつ!!」
血眼。眼球を大きく見開き、泡を吹くほどの絶叫で襲い掛かる魔術師。シキやセツナ、そしてアイツみたいに、拳の雨を全て捌ききる剣の腕前なんて、わたしに望むべくも無い。
うまい具合に弾き返せたのはお腹と顔面に振ってきた最初の二つ、そしてかなりの偶然とまぐれも手伝って、やっとの思いで防いだ横腹の三発目だけである。
後退、肩口を殴打され後ろに仰け反っただけとも言うが、倒れるように後ずさりながら、わたしが唯一使える防御の式を起動した。
「っち。SchildWasser(水楯)、――――――――――――――」
だが、奴の拳の方が硬い。狂騒とした様子で、水の楯を殴り続ける男。傷を与えられたのがそれほどまでに許し難いのか、拳が休まる気配は無い。それどころか、大きく波打ち続ける水の楯は、直ぐにでも貫かれてしまいそうだ。
うまく出来るか分からないが。変化の呪を……っ!
「sich drehen Schneeschmelze (杯を廻す。水霊、氷雪を掬え)」
「ひゃひひゃあああ。砕けろ!!」
大きく波打ち、もはや薄い膜が残るのみとなった頼りない水の楯に、類感で派生した“氷”の概念が被さられる。早くっ、早くっ、内心で緩慢な魔力の集束に叱声を上げながら、強く瞳を瞑った。
「――――――――――Eiskristall Schild (氷楯)!!」
ガラスに亀裂が走る、なんとも歯痒い雑音。魔術師の拳は、中空、青い氷の壁に阻まれ静止している。
呪は、間一髪ながら成功。安堵のため息など、吐き出せる分けは無い。即座に魔術師から逃げるように飛び引き、距離を再び開いた。
「は、は、は、は…………っ」
わたし、本当に呼吸をしているのかしら。焦げ付いたみたいに、喉の奥が熱い。たったコレだけの攻防で、体力が底を尽きかけているようだ。連続して喉を顫動させているのに、空気を取り込んだ実感がまるで無かった。頬を滴る汗すら、愚鈍で草臥れたように足元に落ちる。手に握った青奇天も、今はこんなにも重い。
腕に掛けていた強化の魔術が弱まっているのか、ソレとも単純に、ただ手が痺れてきたのか。恐らくは後者だろうが、実戦と言うものが、コレほどまでに体力を使うモノだとは考えもしていなかった。シキとの鍛錬の三分の一位の運動量なのに、なんて様かしら。
魔術師にやられた傷の所為も勿論あるが、やはり体力の不足、子供の身体には結構のハンデみたいだ。
「ガラクタ風情が、よくも、よくも………っ!」
魔術師が、何か嘆いている。
だけど、聞こえない。今は、一秒だって体力の回復に割り当てなくてはならないんだ。体力の低下は、思考の停滞を招く。痛んだ体をグッと抱きしめ、鈍い痛みで身体を刺激する。
「さっきまでのわたしとは、違うんだから。あんまり、舐めないでよね」
段々と平静を取り戻しつつある心臓を撫で付けながら、わたしは、余裕を取り繕いながら続ける。
「わたしの礼装だって、一度だってその本領を発揮していないのに。何、貴方ってこの程度?」
あえて、奴を挑発させる言葉を選んでやる。
怒髪天に顔が染まり、醜悪な顔が、より一層歪んでいく。甚くプライドを傷つけられたようだ。魔術師として妙な一本気を持っている男だ、彼曰く“道具”からの調子に乗った挑発を何度も投げつけられているのだから、その辱めは、もはや耐え切れるものではないのだろう。痙攣する頬が、それを克明に語っている。
「後悔しろ、ガラクタがあああー!!」
痛みには慣れていないのか、わたしの与えた肩口の傷を押さえつけながら、魔術師は絶叫する。額に脂汗さえ滲ませて、醜いことこの上ない。
そんなわたしの内心を理解できてしまえるのか、眼球が飛び出るほどの形相と共に、男は魔力の矢を構築する。はは、わたしもシロウに似てきてしまった様だ。奴を蔑んだ微笑を、隠すことが出来なかったなんて。
「Versammlung sich herleiten; beruhen auf (水の射手、集い踊りて)」
三度目の呪、たっぷり時間をかけての詠唱、教科書どおり【三工程】でもって魔術を構築する。
飛来する魔弾は全部で二十。電光を纏う魔力の鏃。
身体の機能は低下している、回避は得策とは思えない。よって迎撃、上策とは言い難いが、今はそれで良い。
「格下が格上に勝つ方法はな、一つしかないんだ」
長閑でやる気の無い誰かの声。
被弾直前。寸でのところで、わたしの呪は成った。
「Weihwasser Pfeil Wasser Schwert (敵を切り裂け、水の射手、二十刃)!!」
炸裂するわたしの神秘。同系の神秘は互いにぶつかり合い、消滅する。
だが、それは出力、詠唱速度、属性が同じであった場合での話だ。そもそも、後者の二点で劣るわたしの神秘が相殺にまで持っていけよう筈も無い。
出力に関してはわたしがホンの少しだけ上。しかし、黒い男の矢の詠唱速度は、わたしのそれよりも速い。
「―――――――――――――っつう」
電気ショック、と言えばいいのだろうか? 魔力の余波で、身体の筋肉が絞り上げられたみたいに萎縮する。その激痛は、正直わたしみたいな女の子には耐え難い。
相殺し切れなかった黒い男の雷の矢を防ごうと、とっさに水の楯を眼前に構築したのだが、余り意味が在ったとは思えなかった。矢に付加した運動エネルギーは防いだモノの、シビシビの電気が楯を貫通して、わたしの身体を犯したのだ。水は電気を良く通す、こんなの、小学生でも知っている。
「―――――――――――ひゃ、ほら、次だあ!!」
相性の優劣。
属性の問題は、やはり庇いきれないほどに、わたしの劣勢を教えてくれる。即座に魔術師の周りに構築される雷の矢を睨みつけながら、それでも、わたしは勝利の可能性を必死にかき集めていた。
「ほらほらほらほらほらあ!! どうした!? 動き回れっ、それでは詰まらぬぞ! ひゃっは!!」
ジリ貧になるのを分かっていながら、無詠唱二工程で放たれ続ける雷の矢を、足で地面に根を張り、水の矢と楯で対抗する。
魔術師の魔術はニ工程の無詠唱呪文でありながら、詠唱を必要として放つわたしのそれとほぼ同出力。速さで劣り、相性の面においては最悪。不利は否めない。
わたしの劣勢は揺るがぬ事実。
―――――――そう、だからこそココまでは完璧なのだ。
疲労、身体の傷、全力で動けるのは、多分、後一回こっきり。
そうだ、仕掛けるのは、まだ、“今じゃない”。爆散する神秘の鏃、破砕した部屋の破片が縦横無尽に視界を埋める。
「こん、のお………」
諦めるな、敗北は間近にある。だけど勝利だって直ぐそこだ。ここまでは、全部わたしとシキで作ったシナリオどおりではないか。
始めから分かっていたこと、このシナリオ用意したときから、覚悟していたことだ。だったら、我慢なさい、イリヤスフィール。
暗がりの攻防/工房が少しだけだが白んできた、ただ、瞳がその闇に慣れただけだと言うのに、それは、喩えようもなく勝利への光明に思えてならない。
「まだ、まだ………頑張れるんだからっ!!
歯を食いしばって、青、奇天を前に突き出す。多少でも、わたしの楯になってくれると思ったから。
「Weihwasser Pfeil Wasser Schwert (水の射手、集い踊りて、敵を撃て)!!」
発射された二十に及ぶ水の剣。
わたしを舐めきっていた魔術師の挑発、今の魔術師は“青・奇天”の存在など頭の片隅にだって残っていないだろう。
そして、同時に。
「はっ!! もう諦めろ!! 君では、私の無詠唱呪文について来られないではないか!!」
爆散。奴の魔弾の余波で、わたしの前髪が靡く。ニヤリ、と不敵に思考する。
そう、同時に。“わたしが【ニ工程】で攻撃呪を使えない”と言う、実に気に食わない刷り込みにも成功しているのだ。
口元が緩んでいくのが、自分でも分かる。不意に思い返されるのは、シキの言葉。
「――――――――――――――さあ、覚悟は良い?」
魔術師が、ボロボロのわたし目掛けて、何度目になるかも分からない雷の矢の掃射準備に入る。
奴は、式の起動に詠唱の必要が無い、よって即座に魔力の固定、属性の付属。ココで一工程。
「覚悟? それは、君の持つべきものだ。私も、いい加減飽きた」
沈黙が堕ちたのは一瞬。魔術師は、「コレで終わりだ」そう告げて、太い腕を掲げる。
「乱戦、泥試合。下克上なんてものは、いつだって無茶くちゃした方が制するのさ」
不敵に微笑むわたしに、魔術師は苛立ちを隠せない。当たり前だ、きっと聖杯戦争の時のわたしだって奴と同じ貌をしていたことだろう。
これ以上何が出来る? 勝利/敗北は、必至。
だけど、本当にそうなのかしら? それが覆る瞬間を、わたしは誰よりも知っている。
今、この瞬間。地に膝をつくのはボロボロのわたし/シロウであり、それを見下ろすのは魔術師/わたしだ。
「お前が、そのことを一番良く知っているだろう? なんてったってお前は、あの戦いの」
掲げられた断頭台の如き、魔術師の腕。魔力は安定し、稲妻は虚空に待機し裂光する。その数、実に四十を超える。
握り締めた蒼白の奇剣。それを重ねながら、魔弾の全てと向顔する。ひるむな、シロウは、いつだって諦めなかったじゃない。
勝利への布石は整っている。後は信じるだけ。
青、奇天、接続。ココで一工程。そうだ、後は、その言霊と共に。
「さあ、派手に壊れろホムンクルス」
ニ工程、最終工程を告げる、弾かれた指の音。弱者を破壊する愉悦はココに極まり、最早、目前の絶頂に酔いしれる、そんな魔術師の下衆な表情。
ええ、だから。その醜い精魂、完膚なきまでに粉砕してやる!!
「Wasser Schwert(誰が、壊れるもんですか)!」
青・奇天。蒼白の軌跡が暗い闇色の工房を一閃する。即座に集束、最大出力で放たれた互いの矢。
「―――――――な!?!?」
驚愕は、魔術師だ。
爆散する神秘。工房の中央で爆ぜる水と雷の天象。天井を剥し、木目板をめくり返し、羽目板を粉砕する力の潮流が、熱となって互いの肌を焦がしている。
属性の不利を覆すべく、後先考えない最大出力の迎撃。
相殺。終に、相殺。
この結果は予測済み。この一瞬に賭けていた最後の胆力を注ぎこみ、足を壊そうかと言う踏み込みで魔術師に詰め寄る。
「Ablaufenlassen Sagittarius (水の射手)―――――――――――」
魔術師の動揺は、一瞬。目の前の現象に四肢を硬直させるのは、逡巡。だが、その隙はあまりに大きく、あまりに無常。
互いの攻め手は、この刹那、互角。いや、魔術師の動揺は、この均衡を崩すのに充分すぎる。
この勝負、わたしが、――――――――――――――。
「―――――――貴様ああ!?」
「――――――durchdringen (敵を、切裂け)!!」
貰ったわ。
奴の指が弾かれ、放たれた魔弾。しかし、わたしの方が速い。超至近距離、零距離射程からの最大出力で敵に奔る水の魔弾。
咄嗟に黒い男も魔弾を創り出したようだが、遅い。何度だって言う、この瞬間にだけ、“詠唱の速さ”は逆転している。
魔弾の出力、数は同じ、なればこそ、勝利を、敗北を左右するのは“速さ”なのだ。そのための布石。それ故の、切り札。残っていた魔力の全てを込めた必殺。
それだけが、勝利をもぎ取れる、たった一つの可能性、だったのに………。
「――――――くひ、くひひ。なんてなあ。やられた振りは、存外、面白い」
錯交した互いの魔弾。わたしのそれが最大出力で黒い男を撃ち抜く筈だった。
だけど、結果はどうだろう? 烈火の閃光と爆音に鼓膜を刺激されたまま、横たえたわたし。煌々とした魔力の霞の中で、男は傷一つ無く佇み、わたしは驚愕を隠すことも出来ずに眼を見開いている。
「ひゃは。良い眺めではないか、やはりガラクタは、地べたに転がるのが良く似合う」
なんで。在りえない。今の攻勢は、完璧だった。
なのになんで、痙攣するわたしの身体が、冷たく倒れ付しているの?
身体への外傷は、無い。あるのは、体中に纏わりつく筋が張り裂けそうな痛みだけ。
いつだ、あの一瞬の内に、いつ、わたしは奴の魔術に被弾した?
「いや、しかし驚いた。なるほど、発想、着想、共に悪くない、一体誰の入れ知恵だ? 礼装の能力を最後の瞬間までひた隠しにした、君の手際には、中々に楽しませてもらったよ」
身体が、動かない。
抵抗の仕様が無いので、瞳孔だけをぎらつけ、優越に浸る肉の貌を見上げた。
「二工程の魔術を持って私の隙をつく、かね。なるほど、下等なガラクタが考え付きそうなみみっちい切り札だ。だが残念だね、ココは私の工房だ」
芝居がかった仕草で、種明かし。多弁な黒い男を忌々しく見つめるも、それは、よりわたしを下卑させるだけだった。
「確かに、君の魔弾はわたしの魔弾、そして障壁を打ち抜くに充分足るモノだった。あの瞬間だけ先手をとった君だ、ソレも道理。しかしね、仕込みをしていたのは、君だけでは無いということだよ」
「それって………」
「この工房内において、私の障壁は通常のそれよりも強化されるのさ。君も、私の特性には見当ぐらいはつけているだろう? 結界。その魔術を主とする私がこの工房に敷いた結界能力、それが障壁強化さ。ちなみに、君が放てる程度の神秘の格ならば、君が味わっっているように“反射させる”ことすら可能だ。雷の障壁ゆえに、電撃のおまけつきでね。ひゃは!」
凄いだろう、と卑しい笑みを付け足した魔術師。ばかっ丁寧な解説に、愛想笑いをくれてやるのも癪なので、代わりに睨らみ返した。だけど、段々と身体が動かせるようになって来たことには、素直に感謝の言葉を贈りたい。無駄なお喋りの所為で、そこそこ、体が楽になったから。
「……いやらしい手を、使ってくれるじゃない。それじゃあ何? わたしの剣での一太刀は、ブラフだったってことかしら?」
「何、考えすぎと言うものだ。その一太刀は本当に予想外だったのさ。まさか、私の障壁を意図も簡単に破る魔剣だなどと、想いもよらなかったよ。宝具、とは些か大げさだが、中々の概念武装なのは確かだ。何にしても、君以上に優れた道具だというのは間違いないな」
最も、二度目は無いがね。最後に付け加え、魔術師は眼光を走らせる。その汚い眼光の行き先は、杖代わりにしているわたしの魔剣。
先ほどは魔術障壁に最低限の魔力しか流されていなかったから、切り裂けた。だけど、今度は違う。視認できる位、濃厚な魔力が揺らいで“壁”を構築している。強化された奴の障壁は、残念だがかなり硬そうだ。
………手詰まり。うなじを、ぬめりとした敗北感が這っている。
今のわたしは魔力など残っていないし、例え元気満タンだって、黒い男の障壁を貫ける魔術など、恐らく放てない。
甘かった。わたしじゃ、やっぱり。
「さあ、気が済んだだろう?」
わたしの放った意味を成さなかった魔弾の残り香。水浸しの暗室には大きな水溜りが幾つも出来上がっている。そこに映し出されたわたしの無残な顔。魔術師に殴りつけられた顔が、膨れ上がり腫れている。どうやら……知らず、俯いていたようだ。
滴る雨の音。断続的に堕ちる雫が、暗闇の中で広がっている。
よくやったよ、わたしは。ボロボロに痛んだ体、朦朧とするココロで、周囲を眺める。わたしが一人で戦った確かな痕跡。孔だらけの室内、襖なんてもう一枚も残っていなかった。
暗闇の工房、ずっと、そう思っていたのに、知らなかった、いつの間にか、紫苑色の朝日影が差し込み始めているではないか。
「もうな、無駄だよ」
二人の距離は、きっと二メートルもないだろう。
俯いたままで、わたしは唇を固く結んだ。―――――届かないことに、恐怖を募らせ。死ぬことも出来ず、ただ壊される。それが、怖かった。
だから惨めに、最後の抵抗にと、目前に迫った黒い男の顔面に拳を振り回したんだ。当るはずもないの。
「哀れだな。潔く、砕けることすら選べんか」
ゆっくりとした挙動で、視界から魔術師が消えた。ふらつき、倒れこんだわたしを支えたのは、視界から消えたはずのその男。
編みこんだ銀髪を掴み、吊るすようにわたしを引き上げた。なんだ、ついさっきと何も変っていないじゃない。
絶望に、傾倒する意識。
足に力が入らず、魔術師の右手で吊るされる形で戦いを諦めていた。掲げられた黒い腕、この距離で奴の魔弾が直撃すれば、きっと痛みはないだろう。
「―――――――――――――へへ」
凍てつく刹那の淵で、終わったんだな、そう、意気地なく瞳を閉じる。
「終わりだ、壊れろ」
なのに、何故? そう思う隣で、どうしてだろう、必死に生きることを臨むわたしがいる。
―――――ちいさな、勇気でいいんだ。
わたしの小さな背中を押してくれる、ほんの少しだけの勇気。それだけで、頑張れる気がする。
だから、それは起きたんだと思う。それは、ちょびっとだけ、ほんのちょびっとだけ、わたしが恐怖と喧嘩した刹那に、起こったのだから。
――――――――――――黄金色の暖かな煌々が、極光の如く瞬いた。
戦闘によってボロボロになった工房に、朝日と見紛う陽光が満ちていく。翡翠色に澄んだ和やかな風が、汚い瘴気の虚空を浄化していく。
「な、なんだ!?」
動揺するのは、一人だけ。瞬いた太陽の焦点、荒廃した工房の中から覗けたのは、貝紫に染まる空に閃いた一筋。
光りが、階(きざはし)を打ち立てている。空へ伸び上げた黄金色の一条。
其処から漏れ出す、優しく、しかし猛々しい清風。きっと、それがきっかけだった。
「ねえシキ、その作戦、それでも無理だったら?」
小さな勇気が、少しだけ。
「魔力の、余波………だと? 馬鹿な!?!?!」
実に気に食わないけれど、わたしは知っている。
こんなに暖かで、こんなに清らかで、こんなに気高くて、コレほどまで好きになれない光る風を。
アイツとシロウ。二人の剣の輝きを、忘れられる、筈がない。アレほどまでに美しい、運命の剣を。
「ん? そんなの、決まってる」
高鳴る鼓動。鳴り止まぬ脈動。
また、アイツに助けられた。また、アイツに追い越された。
「それって、つまり」
なんでよ。こんちくしょう。
もう、立ち止まるしか無いくせに、なんだってわたしは、アイツに追いつけないのよ。
腹が立った。
追いつけないアイツに、一番のライバルに、助けてもらったこの屈辱に。
なにより、このままで終わってしまう自分自身に。
悩んでいる暇は無い、奔り出せ。シロウに、追いつくんだ。アイツを、追い越すんだ。
決別。もしかしたら、そんな意味も込められていたのかもしれない。流れ込む黄金と翡翠に光る涼風に、魔術師が目を奪われているその一瞬。
「根性見せないさいっ!!――――――――イリヤスフィール!!」
―――――――――わたしが、髪を切ったのは。
響いた激励は、わたしの声、それとも……。
活力を右手に無理やり注入して、襟足からばっさり。わたしと魔術師を繋ぐ銀糸と言う楔はそして千切れた。
そう、はっきり契られたんだ。わたしとアイツ、ココに、はっきりと。そしてもう一度、自身に打ち立てたその約束を。
「っち、まだ、抵抗するか」
スッカラカンの魔力、錆付いた身体、恐怖に折れかけている精神、きっと、何も変っていない。
ただ、芽生えた思いがわたしを支える全てだった。なんて単純なのかしら、今、残っているのは、絶対に負けてなんかやるかと言う、ただの強がりだけなのに。
ああそうよ、目の前の魔術師ではなく、黄金色のあの少女に。
「あったりまえでしょ!! 誰が、このまま終われるかっ!!」
残る全ての体力を使い果たして、僅かの距離を必死に稼いだ。逃げるのにも、やっとだ。
もう一度噛み締める、状況が変ったわけではない。
突然エクスカリバー級の魔術が放てる分けでもないし、魔法を再現出来るでもない。それこそ、当たり前である。
根性なんぞで簡単に勝利できるのならば、シロウは宇宙一強いってことだ。そんなに甘いものじゃないのも分かっている。
だけど、そう、だけど。
―――――――――――根性なくして勝てる戦いなど、あるわけないのだ!!
「By、イリヤ!!」
どーん、と発育途中の控えめな胸を反り返して、高らかと宣言する。
人差し指を突きつけて、黒い男の肥大した厚顔を見据えた。わたしの無意味な空元気に呆れ返る男は、一歩、踏み出す。
「しつこいね。この差が、私との違いが、どうして分からない」
わたしの髪をばら撒いて、鬱陶しそうに男は言った。
銀色の仔細な糸が、風に晒されキラキラと尾を引いている。
「私まで届く可能性は、果てしなく零だ。なのに、手を伸ばすなどと。やはり、道具は所詮道具でしか無いと言う事だな、ホムンクルス」
わたしは、魔術師の言葉に笑みを隠せない。
なんだ、コイツやっぱり大したことないわ。
「届く可能性が、果てしなく、零?」
空虚な身体に魔力が満ちていく。やっと、効果が現れ始めたのだ。
―――――――そうでなくては、意味が無い。
わたしの大切なモノを差し出したのだ、その対価、しっかり支払ってもらうんだから。
「貴方、やっぱりど三流の田舎魔術師ね」
「――――なあ?」
青筋を浮かべた肉饅頭に、もう一度、哀れみを込めた綺麗な笑みを送り、青・奇天を、地面に突き立てた。
わたしのブーツをしとどらせる程の、大きな大きな水溜り。全てが無駄に終わるはずだった、わたしの魔術の痕跡が、突きたてた剣を扇央に揺らいでいる。
―――――――無駄だった、確かに、それは無価値でしかなかった。だけど。
頑張った奴が、報われないのは――――――、そうだね、シロウ。
絶対、無意味なままでは、終わらせないよ。
「可能性が零で無いなら、手を伸ばす」
溢れかえる、魔力。かつて聖杯であった時すら上回る、限りなく古い純粋な魔力が、わたしの中から吹き上がる。魔力の過負荷に耐え切れず、悲鳴を上げる痛覚がその証明。
赤い眼光で捉えたのは、暴風の様に吹き上がる神秘の顕現に、口をあける魔術師の馬鹿面。
「僅かの可能性を手繰り寄せ、不可能(根源)に挑むもの。それが、魔術師ってモノでしょう? 貴方には、そんな覚悟も無かったのかしら?」
首元までしかない短髪が、それでも解放された魔力の激流に靡いている。
今までの人生、イリヤスフィールが刻んできた、瞬きの様な時間の中で蓄積された魔力は、半端ではない。質量を伴う程の魔力の倶風は、いつかアイツが纏った翡翠のソレと、どこか同じ匂いがする。
「口の、減らない」
わたしの魔力量に、慄いたのは一瞬、魔術師は既に平静を取り戻していた。
髪は女の切り札、それは神秘に身を置く者の常識だ。別段、驚くことは無い。だけど、それでも隠し切れない魔術師の困惑。何故って、これほどの魔力量、幾らなんでも常軌を逸脱しているもの。
存分に驚きなさい。アインツベルン……いいえ、エミヤをなめんなよ。
「現実を、痴れ」
侮蔑を吐き出すように、眉をひそめた黒い男は三十本の雷の矢を即座に装填。放たれた魔弾が、死を象徴するかの如く鋭利に、大気を走っている。
「とれーす・おん――――――なんてね!」
幾分か血の気が引いたためだろうか? 考えられない速度で回転する思考、そんな矛盾に、わたしは酔いしれていた。
詠唱速度は同じ、出力はややわたしが上だが、属性の問題を加味すれば奴の魔弾の方が総合力で勝っている。だからこその、シキと考案した作戦だった。普通にぶつかれば、わたしの敗北は必死、確かに、いい勝負は出来ただろうが、きっとわたしの敗北は変らなかっただろう。なればこその、捨て身攻撃………だったのだが、それは物凄い程鮮やかに失敗。
勝利への可能性を手繰り寄せるんだ、イリヤスフィール。
詠唱速度の問題は、わたしの礼装が解決してくれた。わたしが成すべきことは、属性の不利を覆すこと、そして、奴の障壁を貫くだけの神秘を顕現させること。その二つだけ。
―――――――不可能じゃ、無い。
今の魔力量なら、きっと出来る。思い出せ、トウコとの鍛錬。まったくの偶然だったけど、それを成すべき条件は、ドンピシャリで揃っているのだから。
「Ablaufenlassen Sagittarius(敵を切り裂け、水の射手)!」
先ずは目の前の脅威を拭い去る。奴の矢の二倍の総量で相打ち、それでも何とか相殺。
「verbinden verschieben(青、接続。奇天、接続移行)」
迸る水滴に紛れて、奴の粘つくような電撃が肌を舐めていく。……我慢だ、絶対、倒れちゃいけない。
蒸発する幾らかの魔弾に紛れて、なおも濁った瞳でわたしを哀れむ魔術師を忌々しく思いながら、呪を紡ぐ。
「Blau Tropfen sich hingeben(藍の雫、白き杯に満ちる)」
「ふん、何をしたいか分からぬが……」
再び象られる稲妻。余裕綽々、悠然としたまま、不遜の貌を崩さぬ男の天高く上を向いた腕(かいな)を中央に、ゴロゴロと雷が轟き形成されていく。
水では、雷の震天を防ぐことは出来ない。小学生でもわかる、水は、電気を良く通すのだ。だが、本当にそうか? 答えは、それだけか?
「悪あがきは、もうたくさんなのだよ!!」
否。トウコの言葉を、思い出す。この半年、苦しかったけど、楽しかった何気ない時間の中に、答えは埋もれているのだから。
一斉に掃射された、文字通り電光石火の鏃。
全てを躱す運動能力は、わたしに皆無。全てを相殺する矢の形成は、間に合わない。ならば、防ぐだけの事じゃない!!
「von Meer und Himmel.unschuldige Jungfrau (水天、水面(みなも)に、純潔を捧げ)―――――――――――――」
呪が成る。突き立てられた青奇天は、足元の贋物の海から潮を引き上げ、わたしの眼前に盾を象る。イリヤスフィール一人分の膨大な魔力を込めて、形成された魔力の壁。
フヨフヨとした球体が渦を捲くように広がり、雷の魔弾を弾き返す。虚空に顕現した渦潮は、魔術師の稲妻を完膚なきまでに喰らい尽くした。
「――――――――――――っんな!? 水の楯で、私の鏃を!?」
純水、完全な絶縁体だったかしら? なら、貴方の魔弾を受け付けないのは当然よね?
自信をふんだんに盛り込んで放った必殺、それが無意味に終わるのは、中々ショックでしょうね。今さっきの事だもの、同情してあげるわ。
小気味良い感情と一緒に、奴の驚嘆に意地悪く微笑みながら、次なる呪を紡ぎだす。ココから、反撃開始だ。
「Wasser Schwert (敵を、切り裂け)。―――――――」
「―――――――舐める、な……!」
「―――――――Schutze(水の射手)!!」
天井を破壊し、いや、そもそも限界など存在していないわたしの魔力の高鳴るままに、百を超える水の剣を掃射する。
相打つべく放たれる奴の雷電、数は五十。だが、わたしの刃には届かない。出力差は、ココに来て天を隔てる。
属性の差異を覆すべく、出鱈目なわたしの魔力で持って、完全腕力勝負に持ち込むのだ。
「まだまだ!! Wasser Schwert (敵を、切り裂く)。――――――」
「く……数が!!」
「Schutze hundertneunundneunzi(水の射手、百九十九刃)!!」
水の百九十九、雷の五十。魔術の出力において、わたしは魔術師のそれを上回っている。一度に精製できる魔弾の総量は、故にわたしが勝るのも必定。
技巧で覆らぬ道理であるなら、力で持ってねじ伏せよう。
速さは、互角。
魔術の練度、属性の有利は魔術師。分かっている、神秘に身を置くものとして、わたしが奴に劣っていること位。
しかし、だから何だというのだ?
わたしには、わたしにしか成しえぬ神秘がある。わたしには、わたしにしか出来ぬ戦がある。
魔弾の雨を貫く幾ばくの水刃が、それを証明するべく大気を滑る。
「甘いのだよ!! 私の障壁は未だ健在、これがある限り、私に敗北は無いんだ!!」
だが、魔術師への直撃は、防がれる。属性の不利を覆す力技は、されども、あの壁は貫けない。
恐らくはBランク以下の魔術では、あの雷電の障壁を貫通することは出来ないだろう。
黒い男は、額を伝う汗を隠しつつ、薄く笑う。自身の守りを、突破できよう筈も無い。そんな不確かな楽観を笑みに貼り付けて。
「ふふ。そうね、お返しするわ、貴方の台詞。地獄のような甘味を堪能なさい」
最早、魔術師の常識と言う限界ごと破壊し、呻り続けるわたしの魔力。蓄積された“想い”を代価に、今のわたしは、この瞬間、聖杯を廻す。
「AbholenWinterlicher Himmel、ichkalter SakeBrise(迎えし冬、その身は雪)」
全ての回路が傷みにのたうつ。吹き荒れる無限に等しき魔力の渦を、神秘の回廊へと流転させる。
聖杯と言う回路に、血流となって巡る幻想。青奇天を介在させ、純水を可能な限り生成していく。それは大地に渇きをもたらす様に。海は枯れ、再び虚空にたゆたう水晶が形成される。
「なん、なのだ……」
息を呑む黒い男の醜悪な面構えに飽きたわたしは、瞳を閉じて詠唱に集中する。
構築する呪。そんなもの、適当だ。ただ、わたしは願うだけ、ここに、対価とする魔力で持って、わたしが望む幻想を顕現させるだけ。
「Permafrost Platz nehmenalle Dinge zusammenbrechen mit einem Axthieb(永久凍土に頂き、万象崩ずる斧と成す)」
男が、わたしの詠唱に危機感を募らせ、終にそれが決壊したらしい。戦慄く様な絶叫と共に、稲妻の魔弾が放たれる。
それにうろたえる必要など無いのだ。既にわたしの眼前に形成されている純粋な水の塊。それが盾となってわたしを守る。
純水、いまや属性の不利は逆転しているのだ、それも当然だった。
瞳を閉じた暗闇の中でさえ、分かる。愕然と膝を突き、吹き荒れる魔力の波に恐慌する惨めな男の姿が。
「何なんだ、何なんだ!! その、魔力量はっ………!?!?」
瞳を漸く開けば、鼻息を荒げて、男は縋り付く様に真後ろ壁に凭れ掛かっている。
戦意は完全に喪失。見下していたガラクタが、今はそこそこ恐ろしいでしょう?
回路を蝕む激痛に体を震わせながらも、わたしは不敵な嘲笑を崩さない。同時に、限界を突破した身体の痛みに、屈せよう筈も無い。
わたしの詠唱と共に、中空に象られていた水晶球はその象を変えていく。
象られたのは一本の斧剣。わたしがこの世で最強と信じる、一つの神話。
青奇天により抽出された純潔の流水を自身の幻想のままに編みこみ、降り立ったのは一人の騎士。
隆々とした筋骨と、天井を突き破らんとする上背。握り締めたのは長大な剣。
ありったけの魔力を詰め込み、顕現した似ても似つかぬ一人の英霊。第三魔法でもなんでもない、わたしの最強、その幻想の粋を、有り余る魔力で持って練り上げただけに過ぎないニセモノ。
だけど、それでも充分だ。次なる刹那に、たった一振りだけ。
「何故だ、何故っ、私は、魔術師……こんな、出来、出来そこないなんかに……っ!!」
冷酷に、どこまでも冷徹に、わたしは朱色の瞳で力なく伏した男を見下ろした。
氷の巨人。その横に控えたまま、無慈悲な瞳を奴から逸らさない。
「そうだ、違うんだ………わたしは、違うっ!! こんな、こんな奴とは、違うんだ!!」
巨人の腕が天を向く。握り締められた巨大な刃は、わたしの記憶そのままだ。
だから、きっと意味など無い。崩落した魔術師の持つ守りなど、きっと何一つとして意味を成さない。
彼の一刀に、絶てぬ/断てぬ守りがあろう筈は無い。おこがましきや、その醜い人の身で。
「ええ、そうね。認めるわ。わたしと貴方は、絶望的なまでに違うモノ」
眠りに落ちそうなほど安らかに、わたしは、一つの呪いを紡ぎだす。
「ありがとう、そしてさようなら」
死者すら目覚めるほど残酷に、わたしは、一つの呪いを口ずさむ。
「 Erschlagen Herakles(やっちゃえ、バーサーカー)」
沈黙は雄叫び。猛々しい氷像は、その刃を奈落へと叩き落した。たった一撃だけ、再現された神話の時代。
魔術師の障壁はあっけなく粉砕され、それは勝利の凱旋を謳うかのごとく光輝として刹那の後に四散する。
わたしの成した神秘を目の前に、黒い男は断末魔を上げる暇さえなかったことだろう。そう、もしも、――――――その暴力の結晶でその身を刻まれていたのなら。
「―――――――――――――------------」
沈黙は静寂のまま、緩やかに凍えた時間を溶解する。それに当てられたかのごとく、幻想的なまでに儚く融ける、わたしの騎士。
一人の騎士が、跡形も無く、世界に霞んでいく。
断髪によってもたらされた魔力も底をつき、身体もとうに限界。鉄の味、シロウの味を噛み締め、双剣を引き抜く。
目の前で泡を吹き失神する無様な黒い男に、背を向けた。
「ええ。覚えておくわ、無様な魔術師さん」
陽光に染まり始まる円居を目指しながら、わたしは振り返る。
最後に残った、わたしを蝕む呪いを粉砕するために。
「――――――――――――――――格の、違いをね」