/ 16.
「来たか、エミヤシロウ」
山門の前、そいつは無性に腹の立つ笑みで、俺を向かえた。
胡散臭い蟲惑的な嘲笑。女性がすれば、身震いの一つでくれてやったかもしれないが、生憎とアイツは男である。そのくせそれが否に似合っているモノだから、苛立ちや嫌悪を通り越して、むしろいっそ殺意を覚える。
「来てやったんだ。別れ際に、あんな気色悪い捨て置きされたんだ、当然だろう? 男相手、しかもあんな悪趣味な別れ方だ、後味が悪すぎる。決着の一つや二つ、つけたくもなるさ」
見下ろすカガミ。見上げる俺。
まるっきり龍洞寺の石段を、ポケットに手を突っ込んだまま淡々と登りながら、皮肉気に悪態をついた。
ふと、奴の足元に残るクレーターに気がつく。
「それと、さっきは悪かったな。本当は遠距離から、って好きじゃないんだけどさ。状況が状況だったから」
俺の謝辞に、カガミは爪を歯噛みした。
「よく言う。まあそれも、もういいさ。ココを突破されたからって、関係ない。手負いの女二人に、一体何が出来るんだい。もう、僕らの勝利は、姉さんの勝利は揺るがない」
階段の踊り場に到着、ポケットから手を抜き、だらりと構える。
奴の讒言には、生憎と何の感慨も浮かんでこない。何故って俺はあの二人を信じている、その信頼は、信仰にも勝る程に。
「姉さんね。なあ、お前にとってさ、その“姉さん”ってどんな存在なんだ?」
刃を交えるのに、未だ殺意の衝動は不十分。お互いがお互いの衝動を緊張から闘争のレベルまで高めるための僅かな余白で、益体の無い会話でもしてみることにした。
割合俺が気になっていて、それなりに奴の深部に関っているであろうその質問は、あっけなく、本当にアッサリと回答された。
「全てさ」
実にシンプルである。それ故に、俺の意向の入る隙間も無い。神様って奴は前人未到全知全能って話しだし、コイツにとって姉貴の存在って、そんな空っぽで虚しいモノに等しいみたいだ。
吐露した言葉を誇るように、カガミは言う。
「姉さんは僕の全て、僕の魂、僕の身体、僕の存在理由。一度死んで、生まれた僕に、その意義を与えてくれた無二の人さ」
過去の記憶、遠上都に出会う以前の記憶が無いこと、被災地で、焼け野原の荒野で遠上都に拾われ、名前と言うアイデンティティーを詰め込まれたこと。詰らないそうに、カガミは語った。
不幸な身の上を持つ我が身。さもそれが、選ばれた証で在るように。誰かの真似をした、現実感の無い微笑を顔に貼り付けて。何かもを見下す様な、優越に浸らせて。
―――――――――実に不愉快だ。
「それじゃあ、カガミって名前は……」
ざわつく心象は、顔に表れない。
冷たい無貌は、いつかのエセ神父と対峙した自分を髣髴させる。
「そう、なんて捻りも存在しない、僕は“鏡”。姉さんの、カガミ。僕は鏡、ただ、そうあるよう務めてきたんだ、これまで、そしてこれからも」
淡々と、自らの生きる理由、生きる意味を鏡は映し出す。
それは何て歪で、ガランドウ。なんて空虚。それはこんなにも虚無的で、俺の在り方に似ているのだろうか。
空っぽの身体に、詰め込まれた想いが違っただけ。
だから、こんなにも互いが憎い。だけど、本当にそうなのか? ニセモノ、本当にそうなのか? 違うだろう。少なくとも、お前は――――――――。
「贋物、そんなの、俺以外にいやしない」
そんなの、俺以外にいちゃいけない。囁いた声は、黙殺される。きっと、誰にも届かない。
案の定、カガミには俺の声は聞かれていなかった。
「抜けよ、エミヤシロウ。お喋りは、もういいだろう。姉さんの復讐はじき果たされる。だけど、その前に」
奴は大仰に芝居がかった仕草で諸手を上げる。
「僕は、お前を壊したい。何故だろうね、僕は、お前がこんなにも憎いのだから、僕は、こんなにもお前を妬んでいるのだから」
そんなに、瞳を綺麗な色で彩って。鏡は、呟く様な声で呪詛を紡ぐ。それは何て惨めな自傷行為。
男にそんな台詞を言われたのは初めてならば、俺の事を羨ましいなどとほざかれたのも初めてである。
「そうかよ。問答無用かい。いいぜ、とことんやってやる。お前の存在意義なんか知ったこっちゃねえけど、俺には俺の、しなきゃならないことがある。そこどけっ、シスコン!!」
俺の何が綺麗で、俺の何が妬ましいのか、正直何一つ分からない。アイツの目に渦巻いている嫌悪の色や、復讐なんて姉貴の願望に加担する精魂も、何一つ、これっぽっちも分からないし、分かりたくもない。正義の味方は、そんなお前を易々許容出来たりしねえんだ。
だけど、それでも唯一つ確かなのは。
「うぬぼれんな。誓いを立てたのは、何も、お前一人だけじゃない」
吐き気を催すほど、手前が胸糞悪いって事だ。
Fate / happy material
第四十話 選定の剣/正義の味方
「投影、開始(トレース・オン)」
呼吸するような自然さで、呪は紡がれる。最早身体の一部と化した俺の言霊は、魔力を急速に形作り、二振りの夫婦剣を構築する。イメージは血を巡らすよりも速く魔術回路を走り、呪文は質量となって錬鉄される。即ち、ここに顕現したのは干将莫耶。俺の愛刀である。
「来たれ(アデアット)」
合い見えるべく、カガミも呪文によって自身の獲物を両の手に握り締めた。五十センチの中華刀が二振り。奴の特性は物真似、どうやら宝具の投影ですら、完全に模倣できるらしい。鏡の刀身で構築された干将莫耶が、その確たる証明である。
戦慄さえ覚える奴の能力だが、所詮は紛い物。俺の魔術、剣術をコピーするしか能が無い以上、俺の拙い技量でだって勝負になる。
たっ、と駆け足で階段を昇る。二段三段飛ばしで一気に奴との間合いを詰めた。迫撃は、三秒とかからない。
「――――――――――――――ッシ」
攻め手は常に俺から。初手において、遠慮など不要。腰、肩の捻りを刀身に乗せて、左から右へ、干将を滑らかに振りぬく。
「――――――――――――――ッシ」
コンマの遅れさえあれ、迎え撃ったのは奴の干将。相克、相打ち、奴が階段の上、足場に有利を持っているモノの、筋力では俺の優勢、結局、相殺だ。
火花が弾けて不協和音が鳴る。鏡も、拙い俺の技量なんかを模倣しているモノだから、刃のキレが相当悪い。かち合った刃の鳴き声は、それほど濁っていた。
式さんや桜咲が響かせていた音色とは、似ても似つかない。
「―――――――――――――――っち」
自嘲混じりに二刀目。右に流した身体をそのまま一回転、もう一度遠心力を乗せて干将で一薙ぎ、またも相打ち。
三刀目、流れを乱さず莫耶で切り上げ、切り下ろす。円運動を中心として、刃を交えること十合。真似事で蹴りを穿つこと数回。
終わりは見えないが、切がいいのでバックステップで階段を飛び引き踊り場に着地、間合いを開く。
互いにダメージは無い。それも当然、鏡の前で演武をしていたようなモノだ、身体に残っているのは僅かの疲労感と、精神への徒労だけである。式さんが詰らない、と歯に衣着せなく連呼したのも大いに頷ける。
「物真似、か」
だが、やっぱり厄介だ。
確かに俺でも十二分に戦える、だが、カガミは式さんや桜咲とも八分以上に戦える。それがアイツの魔術。勝利は無い、敗北も無い。それがアイツの性能だ。俺の魔術、俺の性能とは違う、ニセモノの可能性。
「そう、物真似だ、君の魔術と近しい、だけど異なる紛い物の神秘。少しは感心しろよな」
木々がカサカサと虫のはためきの様にざわついている。夜明けが近いこの刻限において、些かそれは不快だった。まったく、こんな卑しいアイツの嘲笑を、彩らなくてもいいだろうに。
山門の影に入りながら、カガミは口元を尚吊り上げる。一体何を誇っているのやら、見当もつかないが、それは酷く滑稽に見えた。が、俺はそれを?(おくび)にも出さないで、無貌を被る。
「厄介だよ、実際。お前ほど、喧嘩して詰まらない相手はいないだろうからな」
皮肉を言ったつもりは無かったのだが、カガミはこめかみを痙攣させた。
とどのつまり、俺も式さんと同じような類の人間だったらしい。聖杯戦争と言う異界の中にあって、化け物以上の化け物と殴り合ったためか、正常な常識が故障したのかもしれない。
今のコイツと撃ち合うよりも、ランサーや、ライダーや、バーサーカーや、アイツとの打ち合いが、こんなにも甘美に感じるなんて、我が事ながら頭がいかれていると、つくづく呆れてしまう。
「―――――――負け惜しみ、負け惜しみじゃないかっ、そんなの! ニセモノが、何を強がるんだっ!!」
激高しているものの、決して自分からは向かってこない。冷静なのか、臆病なのか、はたまた自発と言う機能が欠落しているためなのか、それは分からないが、戦いの最中に思考するべき事ではない。
何にしても、奴が仕掛けてこないのならば、千日手ではあろうとも、此方から何らかの手段を講じてみなくてはならない。式さんには結構カッコいいことを抜かした俺ではあるが、暴露するのであれば、コイツに勝つための秘策なんぞ何もないのである。
故に。
「投影、開始」
瞳に蓋をして、頭には二重螺旋の剣の陳列。放たれるべき剣弾の検索は完了。
「憑依経験、共感終了」
伸び上げた鋭利な刀身。ファルカタが俺の回路に装填される。
「工程、完了。待機。投影、開始、――――――――」
一度に錬鉄可能な剣の数は二十そこそこ、それ以上の弾丸を使用する場合は、追加詠唱を必要とする。
装填された剣弾の数は、全部で四十、用意した紛い物は、全部で四十。通常では在りえない魔力の回転、当社比二倍で魔力を消費。
普段の俺には、これほどの魔術を一気に行使できるほどの魔力は持ち得ない。大気を満たすマナが回路の魔力精製量を底上げしてくれているからこそ出来る、贅沢な魔術行使。
「停止、解凍。――――――――――――全投影、連続層写!!」
両の眼を見開き、貫くべき敵影を捕捉する。呪文を引き金に、回路を銃身に、虚空でマズルフラッシュ。
俺に奴を打倒する確固たる作戦も、策略も、ましてや必殺技なんか無い。だが、確かにあるのだ。奴に勝利する自信が、そして何より、負けられない理由が。
故に、秘策が無いなら力技、無理やりにでも、勝利を掠め取るだけである。
「―――――――――――――――――――全投影、連続層写!!」
だが、相手はそれ程甘くは無い。
っち、これでもまだついてくる。
俺とカガミ、八十に及ぶ剣雨が俺達二人の目前で鎬を削る。だが、それも瞬間の出来事だ。鏡とは、その全てを模倣するからこそカガミなのだ。程なくして、剣の戦場に静寂が落ちる。耳が痛い程だった剣弾の炸裂音は、耳鳴りがするほどの沈黙に塗り替えられていたのだ。
「これもだめ、か」
段々と自分が追い込まれていくことを実感しながらも、俺には危機感というものがまるで無かった。
試行錯誤を重ねる、権謀術数、足りない頭で思索する。
次、剣弾は駄目だ、なら。
「投影、開始」
白黒の夫婦剣を足元に突き立て、だらりと直立する。と、同時に、脳髄に電流が奔りだした。閃きは一瞬、最優の手札が切られる。奴は俺の魔術を真似る、俺の剣術を真似る、それならば果たして、“コイツ”は真似ることが出来るのか。
想像されるのはなんら概念の付属していない兵装、唯の短剣、――――――マカイラだ。
「投影、開始」
同じくして奴の両手に現れたマカイラ。やはり忠実に俺の動きを模倣し、下手投げでそれを大きく振りかぶる。
「装填」
「―装填」
「投影」
「―投影」
そして投擲された歪な剣弾、天高く振り上げた両の手に。
「――――――――開始」
「―――――――――開始」
再び現れるマカイラ。天上から直下、上手投げで再度マカイラを投擲する。
空気を噛み疾駆する八本のマカイラ。
その軌跡は、術者である俺にも予想できない。ならば、その動きをトレースする事など。
「――――――――――――浅はかなんだよ、贋作っ!!」
大気を滑り切り揉みながら、奔る短刀。
遠距離からの狙撃と、不意打ちには対応できなかった事から考えて、奴の能力は己が干渉しうる事象と、それを模倣する可能性を能力者自身が内包していなくてはならない、と言う条件付けがあると推測できる。
故に、偶然とは、不確定の要素だからこそ、偶然足りえる。如何に奴の物真似が、全ての結果を模倣しようとも、任意でそのコピー能力を発動させている以上、“偶然”という条理は、真似ることが出来ないはず。しかし。
「踊れ、―――――――――瞬峡鏡獅子(シュンキョウカガミシシ)」
唱えられた、真名。不規則であるが故に不確定の斬撃として奴を討つ筈の短刀は、俺の予想に反し、不発に終わった。
本当に、鏡を視ているようだった。鏡面を、水面を揺らすような刃金の音。互いに弾けあったマカイラは反響しあい、兆弾し、一つが俺の首筋を皮一枚で横切り、一つが俺の頬に亀裂を走らせる。
肉の滴る赤い味を唇に含ませて、先ほどの神秘を考察する。つまり。
「物真似、なんて生易しいレベルじゃない訳か……」
「そう、僕は鏡。そこに、例え偶然なんて不条理が絡んだ所で、結果は変わらない。鏡に向かってサイコロを投げたところで、鏡は忠実に、刻まれた結果を反映する。今の力が、僕の力、姉さんから貰った、僕だけの力。僕の“アーティファクト”に付加された能力さ、凄いだろう?」
アイツの説明で、納得していい安上がりの神秘じゃない。アレは、間違い無い、第二魔法。平行世界への、干渉だ。
“どこかの平行世界にある、俺の投げたマカイラと、アイツのマカイラが同じ軌跡を描いた可能性”。それを、自身の武器に反映しやがった。
アイツの物真似。その根本的な原理は、恐らく平行世界への任意干渉で花まる大決定だ、クソっ。
相手と同じ動きをする自分、相手と同じ魔術を使う自分、相手と同じ神秘を体現する自分、それを瞬間的とは言え、自らに装備する。
俺のマカイラを防いだのは、多分同じ理屈。自身のアーティファクト、確か春興鏡獅子と言ったか。その礼装に、平行世界の可能性を転写しやがった。
「はははははははは、どうだよ、フェイカー!! 下らない、実に紛い物臭い、しみったれた能力だろう!! 壊れた偽者には、僕と言う贋作には、釣り合いすぎる能力だよなあ!!」
さあ、どうする? 相手の手札は全て出揃った。空白の暗闇は、その色を失い、やがて解は導き出される。冷静に正確に、平静に適確に、持ちえる全力を費やし、疾く須らく、次の攻め手を模索しようとした刹那、――――――――――あったまに来た。怒り心頭と言う奴だ。
関係ないってのに、俺は奴の自嘲混じりの台詞から、ソレに気付いちまったんだろう。全く、難儀なものである。
「さあ、次はなんだい、エミヤシロウ。ニセモノ同士、まがい物同士、潰しあい、喰らいあい、壊しあい、殺しあう。いいね、いいね、悪くない」
―――――――――――――コイツは、俺達(ニセモノ)を舐めすぎた。
奴の狂言回しが、癪に障る。もう限界だった。底板が抜けてしまえば後は速いもので、気持ちよい程の怒りが、冷静だった脳みそをグルグルにかき混ぜて、憤懣を決壊させている。
踊り場から、奴と見えてから初めて、憎悪にも似た憤怒の表情で奴を睨み返した。
「ニセモノニセモノと、さっきからうるせえ」
それは、果たして誰に対する憤り。
罵られた自らに対して? 否、それは違う。
俺の怒気を孕んだ声色に、カガミは身体を強張らせ、直ぐに他人を揶揄する普段の気色面に色を変えた。さもありなん、それはどう視たって、唯の強がりだろうに。
「だからどうした? それがどうした? 衛宮士郎はニセモノだ、そんなの、俺が一番良く分かってる」
ああ、そうか。俺がアイツを気に入らない理由、それは何てシンプルでみっともない。
石段を囲う竹林が、ざあ、と波打つように揺れている。狭く、息苦しかったこの場所に、朝日の色を含んだ風の嘶きが駆け込んできた。俺の外套が、向かい風になびいている。
「何がニセモノ同士、だ。何が、フェイカー、だ。そんな言葉に囚われてるから捻くれちまうんだよ、お前」
一段、また一段と、一刻、刻一刻と、俺とカガミの距離は縮まっていく。
「お前がそれを口にするのはな、きっと自分に対しての慰みでしかないんだ。自分の生き方に対する全肯定、与えられた生き方にもっともらしい理由をつけて、振り回してるだけだろうが」
胸糞の悪さはここにきて天井を破壊した。
何が姉さんのために、だ。何が姉さんが全て、だ。ああ、それだって間違いじゃない、だけどきっと、全てでもない。
だってそうだ、コイツは間違っている。こいつは、きっと間違いだって気付いているんだから。
う、だからコレは、俺の憤りの正体は唯の嫉妬、コイツが俺に感じたものより、多分、ずっと卑しい醜い衝動。
「もう一遍言うぞ、俺がニセモノだって事くらい、俺が一番良く分かってる。だから、そんな俺だから、教えてやるよ、カガミ。お前は楽になりたいだけじゃないか。自分がニセモノだって信じることで、狂った自分を正当化しているだけだ。復讐なんて大それた事をしでかすには、ニセモノって弱者の殻で自分を守るしか無かったからだろう……っ」
奴は目前、怯えたように、俺を見下ろす。
「手前はニセモノだから狂ったんじゃない。弱いから、ただ弱かったから今の自分にしかにしかなれなかっただけだ。俺が羨ましい? 言ってろ、はなから見当違いだよ」
奴との距離は、もう幾分も無い。拳を振り上げれば、ぶん殴れる位置まで石段を踏破した。
「認めろよ、手前は、本物だ。真っ当な人間だ。お前はカガミなんかになれやしない。本物が担えるのはいつだって本物だけなんだ。お前じゃ、ニセモノにはなれやしない」
ニセモノだからこそ、分かる、俺はいつだって誰かに焦がれる、誰かに嫉妬する、それは、ニセモノだけに赦された、紛い物だから許された、卑しい性。
「お前はさ、幸せになりたくねえのかよ。お前が、口をすっぱくして、姉さん、姉さんって繰り返すのはさ、その人と、その大切な人と、幸せに、幸福でありたいからじゃないのかよ」
無言。カガミは強い歯軋りを噛み殺して、俯いたままだ。
「……違う。僕は、カガミ。そんな感情、そんな想いは、微塵も、無い」
やっとの事で紡ぎだされたそれを黙殺して、俺は自らの心臓をも斬り抉る言葉を口にした。それは、静かな夜と朝の狭間、紡ぎだされた、俺を蝕むたった一つの尊く、美しすぎる甘い毒。
「ニセモノはな、選べない。そんな真っ当な幸福を、そんな当たり前の幸せを、望むことすら、出来やしないんだ」
それが、引き金だった。
「―――――――――――――っつ、黙れ!!」
カガミは、華奢な右腕を力の限り振り上げて、俺を殴りつけた。握られていた鏡のような刀身を捨てて、ただ、自分の感情に身を任せて、ただ、これ以上自らの感情を曝け出される事を恐れて。
俺は、それを避けることはせずただ頬に残る熱さに自嘲を漏らす。
「―――――――何が、可笑しいんだよ? エミヤ」
震えた声。鏡を壊された少年は、表情を取り繕うことが出来ないようだ。無垢に晒されたぎこちない困惑の表情は、少年の泣き顔の様にも見える。
俺は背を見せて石段をゆっくりと引き返し、階段の中腹、そこで、俺は漸く立ち止まり、カガミに振り返った。
「ほら、お前は鏡なんかじゃない。出来るじゃんか、お前は、自分から俺を殴った。唯の鏡には、そんな事出来ないぞ?」
鏡と言う偽りを失った少年は、俺の言葉に自失する。焦点を失った瞳が覚束なく中空を彷徨い、やがて俺を見下ろし、はたとその視線が座った。
「認めない、認めない、認めない、認めない、認めない、認めたくない」
身体を戦慄かせて、少年は呪詛じみた囁きを繰り返し口ずさむ。
「僕は、カガミなんだ、ニセモノ、ただ、姉さんの為に存在する忠実な、カガミ、それ以下でも、それ以上でも無い。認めない、お前の言うことなんて、何一つ、認めたくない!!」
泣き喚く子供の様に、カガミは再び剣を執る。儀礼用の直刀、桜咲と式さんに対して使用したのと同じタイプ。どうやらアレが、デフォルト使用らしい。が、今はそんなことどうでも良いか。
「この、わからずやっ」
激情に駆られた少年は、我武者羅に俺に切りかかる。即座に俺は迎撃。干将莫耶を拾い上げ奴の直刀をいなし、軽やかに捌く。
だが、攻勢に転じたのもやおら、奴の直刀は砕けるように二股に裂け、即座にニ刀に象どられ、俺の剣術を、癖を、尽くトレースする。
やっぱり、口で言っても分からない奴には、実力行使しか無いらしい。しかし、本当にどうするか。
漠然とした、それでいて破滅的なまでに冷徹な思考で思索する。
剣の投影すら完璧に模倣する奴だ、生半可な神秘など、奴の前には意味をなさない。
ならば、と。心の奥からの咆哮が、回路を駆動させる。
ならば創ればいいのだ、エミヤシロウ。純然たる伽藍の世界が、純粋たる紛い物の世界が俺に訴える。
贋作には、贋作の誇りがある。誇るべき、尊さがある、美しさがある。それを履き違えた贋作使いに、負ける道理は存在しない。
奴を凌駕しうるに最良の剣を、自らを証明しうるにたる、最高の剣を、自らが誇るべく最強の剣を。
自らが信ずるべき、最愛の剣を。
誰も、誰にも真似できない、エミヤシロウでは無い、衛宮士郎にだけ許されたその証を、ただ二人、たった二人だけに、担うことを赦された運命の剣を。
「おい、カガミ。一つ、言い忘れた」
双剣を十字に切って、奴の刃を受け止める。裂帛の気合で弾き返し、距離を取る。互いに緒戦の位置取り。俺は踊り場、奴は石段の頂上へ。
朝焼けが、薄暗い夜を侵食する。朝霧の大気を大きく吸い込み、心象を限りなくあの日へと近づける。
「こいつ等(贋作)を慰みにした落とし前だけは、きっちり払ってくれよ」
干将莫耶を霞に帰し、一つの空想を夢想する。在りえたかも知れない、一つの世界を。
「――――I am the bone of my sword.(身体は剣で出来ている)」
反芻される近衛の言葉が、俺の心象に彩を塗る。
未練はないと、そう納得した。後悔は無いと、そう信じた。自らの理想を守るために、アイツとの誓いを貫くために、果たさなくてはならなかった、黄金の別離。
「―――Steel is my heart, and fire is creed(血潮は鉄で、心は硝子)」
だけどさ、どうしたって忘れられないよ。
理想を貫くことに、未練はない、お前と別れた事に、後悔は無い。
この宿命に、一遍の迷いも、間違いは無い。
だけどさ、だからこそ、忘れられないから。絶対に、忘れてやらないから。
俺は、お前のことを忘れちまえるような、そんな、よく出来た真人間じゃなかった。そんな事すら、よく分かっていなかった。
朝焼けは、夜に佇む俺を、後数刻で太陽の白日に晒させてしまう。だから、その前に。
「また、笑われるなあ。詭弁だって………」
――――――まあ、それもいい。
撃鉄は、月光よりもなお静謐に、陽光よりもなお苛烈に、火花を散らして落とされた。世界を象る自己の暗示を介在させて、彼女の在り得ざる宿命を空想する。
軋みをあげる骨、悲鳴を散らす肉、戦慄く魂、猛る回路。それは、深き森にて刻まれた刹那の記憶。共に夜を駆け抜けた、彼女と分かつ尊い痛み。
魔力は回路の限界を超越し迸り、神秘は身体を貪り流転する。神々しいまでの幻想の構築に、脳髄が灼熱する。
思い出す、この痛みこそ、彼女と共に感じた確かな証、彼女がいた、確かな傷跡。それを、再び謳歌する自分が、こんなにも誇らしい。
「―――――――――――――――ギ、が」
俺とアイツの、交わらない宿命を紡いだ一つの黄金が、圧倒的な魔力を纏い、俺の右手に縁取られていく。
翡翠の暴風を繰り出しながら、否、それは暴風と呼ぶには余りにも清廉すぎた。光りを集束し、光りを屈折し、光りを飲み込みながら、風は俺の両手に確固たる象を持って顕現していく。眩い光りの雄々しさに、俺の痛覚は既に麻痺していた。
あの日の別離と同じ、切ないほどの色に染まり始めた空が、顔を見せている。空を区切っていた背の高い竹林は、吹き荒れる風塵に気圧されて、ざわつきながら身動ぎをしている。
この剣を、投影できない自分がいた。この剣を、投影したくない自分がいた。
きっと、その理由は簡単だった。
ただ、目を塞ぎたかっただけじゃないか。アイツがいない現実に、アイツを失った現実を、直視出来なかっただけなのだ。
だって、きっと堪えられない。それを認めてしまったら、きっと俺は、あの別れを汚してしまう。涙って言う、残酷な象で。
「―――I have fated a blade stay over the night.(幾度の戦場を越えて不敗)」
だけど、きっとそうじゃない。だけど、きっとそれでもいい。空虚な胸中から零れだすその言葉、それが、間違いじゃないと教えてくれる。
お前を失った痛みを、お前がいないこの痛みを、無かったことに、何の痛みも、悲しみもなく、終わらせていい筈、無いじゃないか。
だから、俺は口ずさむ。例えそれが、間違いでも、あの時、あの別離で刻まれた傷跡が、きっと美しいモノだって信じているから。
この手に、剣は顕現する。
「Nor never of regret. So ever for you a gain.(唯一つの後悔と共に、唯一つの勝利を願う)」
この空の下で交わしたあの別離が、たった一度だけ俺に許された、たった一つの後悔だと、何よりも綺麗な間違いだったって、信じることが出来るから。
それが、何よりも尊い事だって、教えてくれた、気付かせてくれた人たちがいるから。
詠唱の終了と共に、尊すぎる空想は現実へと昇華し、世界を侵食する。
大気の鳴動は未だ収まらず、天を穿つ黄金が俺の右手で瞬いていた。尊く、美しすぎる宿命の証明、かつて彼女と共に振るった、一つの幻想が、そこにある。
担い手は、ここに二人。
「―――――――――――――――――」
カガミは何も言わない、鏡は何も映し出さない。
当然だ。この剣を担う可能性、その空虚な世界が、俺以外に存在していい筈が無い。
見上げる山門の陰影に縁取られ、一人の少年は悄然として立ち尽くしていた。
確かに、少年の手には何か、剣の様な何かが握り締められている、それは何を模倣したものなのか、少なくとも俺には分からない。
「――――――――なんだよ、それ」
俺は両の手で、優しく黄金の剣を握り締める。
「そんなの、反則じゃないか、なんだよっ、それは!! そんなの、真似できる、真似できるわけっ、無いじゃないかっ!!」
茫然自失、発狂寸前の面持ちで、カガミは俺と同じ、下段に構えを取った。
この分らず屋は、この時でだって、自分は鏡があろうと勤める心算らしい。だったら、その仮面、完膚なきまでに粉砕してやる。
「ニセモノの、癖に。紛い物の、癖に。どうして、どうしてお前はっ!!」
天上へと疾駆する。月と太陽の境界、そこから、狭間から駆け出す様に。
黄金の剣を振りかぶる。かつてアイツと担った様に、かつてアイツと二人で背負った様に。
「勝利すべき――――――――――――――」
だけど、視てるか?
今はちゃんと、一人でこの剣を担えている筈だよな?
お前がいたあの夜を、痛む咎跡と一緒に、背負えていける筈だよな?
この後悔があるうちは、きっと誓った理想を貫いていける筈だから、きっとあの約束を守っていける筈だから。それが、ただの強がりだったとしても、さ。
――――――――――まだもうチョッだけ、がんばってもいいよな?
多分、お前を忘れられないこの痛みが、この世界にあるうちは。
そして俺は口ずさむ。歌うように、謳うように、その真名が、お前が残した確かな傷だと信じるように。
「――――――――――――――――黄金の剣」
振り上げた黄金の剣は残光を翻して鏡の剣を粉砕し、放たれた魔力が天に穴を穿つべく階を打ち立てる。目蓋を焼きつかせるほどの閃光と、噴流する魔力を帯びた風。
雲を割り、大地を震わせ、空が鳴く。そんな圧倒的な神秘の顕現は、辺りに沈黙が落ちてから、初めて認識された。
「ズルイよ、そんなの」
ニセモノはホンモノには勝てない。使い手は、担い手に勝てない。それがルールだ。
ならば、俺の勝利は動かない。アイツのとの制約に浸る俺も、もういない。
ニセモノ、紛い物、贋作、フェイク。お前が言う、そのしみったれたカテゴリーにおいて、俺は、―――。
衛宮士郎は、たった一人の担い手なのだから。
「覚えて、おくんだな」
少年は尻餅をついて、俺を見上げている、彼女の担った、黄金色の聖剣を見上げている。俺は、淀みない動作で剣を奴の襟元に近づける。かつてアイツがそうしたように、夜を背負い、俺は勝利を謳い上げる。アイツに捧げる、たった一つの勝利を賛美するために。
「こいつは、お前が背負えるほど軽くねぇ」
誓いは、ここに。
背負った約束は、未だ色褪せ無い。また一つ、あの日から遠ざかり、また一つ、幸福は遠ざかる。
だけど、また一つ、あの約束に近づく錯覚。虚しいまま移ろうまま、だけど、何かに満たされたまま、確かに、俺は彼女に歩み寄った気がした。