/ snow white.
廃屋同然の部屋を出る。
死闘の名残は屋外にも見て取ることが出来て、風流な外苑には襖の木片やガラス窓の破片が煩雑と散らばっていた。東の空からは太陽が僅かに貌をのぞかせ、草木の霜を段々と深く濡らしていく。
草色の絨毯を踏みしめたわたしの素足が、急速に血の気を失っていくのが分かる。所々、身体の中で魔術回路が断線しているのか、呼吸するのも侭ならない程の痛みが脳髄を焼き、足に続いて身体全体が凍えていくのをはっきりと認識した。
「―――――――あ、あれ?」
ぺたり、と女の子座りでその場にへたり込む。
身体の痛みはやがて筋肉を弛緩させ、私の身体の自由を奪っていく、――――――そう、信じたかった。
「―――――――――あ、あは、あはははは」
座り込んだ身体を、必死に細い腕で抱き寄せる。改めて思い知らされる、わたしの身体は、こんなにも虚弱で、脆かったのだと。
亀裂の走った醜い微笑み。ソレは、降り止まぬ雪のよう。止まらない哄笑が、惨めに降り積もり、醜悪だった微笑を加速させている。
わたしは、勝利した筈なのに。
なんて情け無い、今になって戦いに恐怖するなんて。あの絶望に、こんなにも足が竦み上がっている。その感情を、制御できない。取り繕うことも、振り払うことも。
雪解けは未だ遠く、わたしは寒さに凍えるウサギみたいだ。
「はは。―――――――――なっさけね」
何を思い上がっていたのか。手に入れた勝利など、何かの間違いだ。ううん、きっと違った。何かを間違えたから、勝利したんだ。それを、忘れちゃ駄目。
そして同時に、忘れない。
その恐怖、今わたしが味わうその痛みは、かつて“あの戦い”で得るはずだったわたしの、わたしが誰かに背負わせていた、わたしだけのかけがえの無いモノなんだって。
だから、大丈夫。きっと、まだ歩ける。この痛みを背負うことを、わたしは渇望していた筈なのだから。だから、負けてなどやるものか。
「うん、―――――――――――――いかなきゃ」
震える膝で、雲を掴む。重さを失ったわたしの髪が、襟足をくすぐる。弱々しい情けない姿勢で、わたしは、自身の二本足で立ち上がった。
まだ、終わっていない。この戦い。あの“穴”を防ぐまで、まだ幕は下ろせない。今現在、その幕を引けるのは“魔術師”である、わたしなのだから。
皮肉なモノね、けじめは、いつだって応報する。あの戦いで手にするべきものを、こんなイミテーションで取り返す。やっぱり、世界って奴はよく出来ている。魔術師としては、それを実感できただけでも、僥倖じゃないかしら?
「――――――――――――へへ、でも。今夜は頑張ったよね、バーサーカー」
目指すのは、セツナの背中から見たあの祭壇。正確な道順は分からないけど、まっ、どうにかなるでしょう。きっと、今のわたしなら。
未だかすかに残る虚脱感と恐怖の戦慄、それでも、夜から駆け出す様に大地を蹴る。
アイツと過ごした夜が明ける。
強がりにも似た、わたしの“誇り”と一緒に、その夜を超えていく。
ああ、きっと。わたしはやっと、あの戦いから抜け出した。
魔術師では無いわたし、それを、あの夜に捨て去ろう。今は胸を張り、そして、言ってやるのだ。
「うん。悔しいけど。わたし達より、あの二人が頑張ったって、だけだよね?」
夜に佇む、永遠に色あせないあの二週間に佇む、彼女に。
たった一つ、わたしが望んだ敗北宣言。
魔術師になったわたしが、誇りと共に唱える、ある別れ。
この夜が明けて、わたしは、きっとあの戦いの敗者になれた。
きっと、シロウやアイツの隣でね――――――――――――。
Fate / happy material
第四十一話 ある結末 Ⅰ
/ outer.
イリヤスフィールが駆け出すその背中を、一人の男は闇の中から見守っていた。
小刻みに濡れ芝を踏みしめる足音が遠退いて行くのを確認し、クーは闇の中から浮き上がる様に現れる。
動かぬ左腕を垂らしたまま、訝しげな苛立ちを顔に貼り付けたまま。その表情はきっと、イリヤスフィールの幼い顔立ちに残された痛々しい痣をその灼眼に捉えたからだ。
乾いたせせら笑い。一度だけ右手に持つ槍で虚空を切り薙いで、爪先を廃墟へと向ける。膨れ上がった殺気は冷却され、薄い朝日影を背に長躯の痩身が死の宣告を告げるべく寒気を催すほどの無貌で縁側に足を掛けた。
「へえ、なんだか知らねえが。激しくやり合った見てえだな」
中央には鈍く発光する液状の汚物が詰まった筒。散乱した礼装や瓦礫。そして先ほどの風と光りによって、清々しく浄化した芳醇な大気の味が、部屋に侵入しクーが最初に気がついたモノ。
部屋の中央、無様に失禁し失神した魔術師の事など眼中には無く、それが目的の物だと理解するのに数秒を要する。
ゴミか、こりゃあ。折角のいい気分を台無しにしてくれたスクラップを槍の尻で軽く小突く。ゴン、と鈍い音がして魔術師のはげ頭がボーリングのピンみたいに倒れた。
「なあ、アンタ。起きろよ、死んでねえならさ」
起きない。もう一度、今度は横っ面を抉る。うめき声は二度、無視してもう一度頭を小突く。死んだかな? 中座してクーは額の割れた魔術師の頭を眺める。その裂傷が醜悪にして卑猥だったためか、吐瀉する様な苦い顔で、視線をずらす。
「――――――――――うう……!!」
うめき声ははっきりとした自我を含んでいる。どうやら魔術師が目を覚ました様だ。
「グッモーニング。ご機嫌はどうだい? まあ、最悪だとは思うがね」
肩を竦めながら立ち上がり、驚愕に眼球を押し上げた魔術師に嘲笑を贈ったクー。彼は愕然とする魔術師をまるで羽を悪戯に毟られた虫を見る様な侮蔑の瞳で見下ろした。
「……クロムウェル…………っ」
呼び捨てにされた己の名。別にいい、自分で適当に名乗りを上げただけなのだから、ソレほど愛着が在るわけじゃない。もっと気に入った愛称でも見つかれば、そっちに鞍替えしても良い位だ。
「そ。よく知ってるな……まあ、王様の所にいたんだから、そりゃ知ってるか」
恐怖にすくみ上がる魔術師は、腰が砕けたまま後ずさる。
やがて行き止まり。魔術師の背中に、ドン、と固い何かが逃げ道を塞いでいる。見上げると、そこには緑色に発光する物体。まだ、完成していない。どう見積もっても、固体になるまであと一時間。
「何故だ、クロムウェル。何故………」
魔術師は呼吸の仕方を忘れる程、恐怖に脳髄をかき混ぜられていた。
何故、己の居場所が分かった? 己が逃亡は完璧だった。確かにだ、やがて足取りを掴まれるとは承知していた、しかし、早すぎる。
「何故って、気付けよな。あんたも一端の魔術師ならさ。マーカー、引っ付けられたんだ…………分かんねーかな? あんた、嵌められたんだよ、王様に」
哀れだねー、なんて、成績不良者の友人を揶揄するように唇を歪めるクー。一歩、魔術師に近づいた。
「まあ、あれだ。あの性悪馬鹿を信用出来ないのは当然。信仰と尊厳に溢れる上下関係なんて築けるボスじゃねーって意見には、大いに賛同してやれるがさ、利用できるとも思わねーこった。身の程を思い知らされるからな。少なくとも、美味しい汁を啜りたきゃ、“俺以外は王様に喧嘩を売るな”。知ってた筈だろ? 何? 知らない? 可っ笑しいな、そのルールって、小汚ねえあの城の中じゃ、結構常識だと思ってたんだが………」
魔術師の首だけの回答を解読しながら、クーはしばし逡巡し、一つの結論に行き着いた。己が王を心の底から信用していないからこそ、分かる。
王と臣下の阿吽の呼吸。これも、一つの信頼関係なのかもしれない。
「ああ、つまり。アンタ、このためだけに存在させて貰っていたわけね。裏切るも何も、はなから、アンタ、下僕だとすら認めてもらえなかったわけか」
全ては盤上の駒。この魔術師がトラフィムを裏切るのも、この京都に潜伏することも、この事件を起こすことも、全ては―――――――――。
「同情する。アンタ、無様すぎだ」
トラフィムが望んだからこその、――――――――――。
嘆息。
クーは侮蔑の瞳で魔術師を見下ろす。己を見上げる哀れな贄になんら興味も抱けない。殺意も、悲哀も、憎しみも、全てが無価値。その存在に、向けるべき衝動が何一つ見当たらない。
滑稽だね。まいった、こりゃあ無理だ。
頭を掻き、つまらない仕事を安請け合いしてしまった己をただ嘆く。殺せないなら、時間の無駄だ。そう割り切って、踵を返そうとした矢先。不意に、心に痞えた疑問を口走る。
その終幕は、本当に些細な思いつきから。
「なあ。アンタ」
何かが湧き上がる衝動に、少しばかり感謝する。
底冷えするほどの無感情に、段々と色が塗られていく。
「さっきさ、ちっせえ嬢ちゃんがここから出てくるのを見たんだけどよ。あれ、何よ?」
魔術師の眼が焦点を失う。
嘘をつく? 否、そんなモノに意味は無い。そんな回答に意味は無い。
そしてそれ以前に。
「あ、そうかい。アンタがね………」
何故、この男が憤怒するのか? 理解できない。
アレは魔術礼装だ、アレは道具だ。それに、一体何を、―――――――――。
「ひゃ?」
魔術師の思考が、答え導き出させる暇は無かった。
小さな断末魔が零れ、魔術師の首が切れた弦みたいに勢いよく飛んだ。血飛沫すら、上がらない。ただ、醜い男の頭が中空に転がって、クーはその槍を器用に撓らせ、生首のコメカミを貫き通し串刺しにキャッチする。
魔術師の死体は貴重な情報源だ、中でも脳髄、これを他の人間の手に渡るのは宜しくない、仕事の完遂を証明するためにも、まあ、回収が必要なモノなのだが。……片手が使えねえと、何かと不便だな。つーかグロイからどっちにしろ手じゃ持てねえが。
「はっ、不細工だね。悪いが、来世は望めない。アンタはここで死に続けろ」
間抜けな阿呆面には、疑問。断末魔の瞬間に停止した魔術師の口が、動いた様に感じられる。
――――――――――――なん、で?
死臭の漂う廃墟には、魔術師の骸だけが横たえる。発光する緑色の妖光だけが、ひたすら場違いに感じられた。
「女の顔に傷をつけた。アンタが死ぬのに、それ以上の理由が必要かい?」
残虐な程に愉快な微笑で、男は光り指す夜の淵に帰還する。
一先ず、彼の話は御終い。
その背中が夜に跳ねるのを見送り、彼と紡がれる次なる戯曲の幕開けを、しばし待て。
Out / next.
「せっちゃん、この人、殺しちゃったん?」
お嬢様の肩を借りて、私はその場で立ち上がる。
お嬢様を“穴”へと癒着させていた魔術が解けたのか、お嬢様は私の手を力強く引っ張り私を抱きとめる。……イリヤさん、どうやら勝利した様ですね。それが証拠です。
妹さんに対する安堵の所為か気が抜けたようだ、よってしばし、お嬢様の甘い匂いを堪能する。このちゃんからエネルギーを充電してもらい、それから、気丈に彼女の問い掛けに答えることとする。
「殺す気で放ちましたが、その心配はありません。何せ退魔の技では混血を殺せませんから。今は気絶しているだけでしょう、予想外の一太刀に、この出血量です。ショックで意識を失っても可笑しくはありませんからね」
少しの名残惜しさを感じながら彼女の懐から面を上げる。
満身創痍の身体にあって、唯一まともに動かすことの出来る右腕で動かぬ左腕をなでつけながら、さて、これからどうしたものかと思案に暮れる。
その横では、お嬢様が確認も取らず勝手に遠上都の傷口を治癒の呪で止血している。呻き声をあげながらも、意識は一向に戻る気配が無い彼女に、軽い嫉妬を感じた私は、はてさて、嫉妬の虫と言う奴だ。
……まったく、お嬢様も心底甘い。魔力など殆ど空っぽだろうに。
実は当の遠上都より、わたしの方がよっぽど重症なのだが、口にはしない。何故って、みっとも無いでは在りませんか。桜咲刹那は、我慢強くて意地っ張りなのですから。
「兎に角、この穴を塞がないと。もう直ぐ、夜が明けてしまう」
遠上都が意識を手放しているうちに捕縛の術と陣を併用して彼女に行使してから、次いで虚空に開いた大穴を見上げる。
崖下に向けて重油のみたいに歪な獣を吐き出す大穴。果たしてどのように塞げばいいものやら。
「……っと、いやに簡単ですね、この封印式」
一人独語する。
その余りの単純明快さに、拍子抜けするほど気の緩んだ声。渦を捲く黒点の中心から一直線に伸びる術式の軸、それはどうやら龍界寺の本堂に繋がっている。
それはまあいい。問題なのは、この開きっぱなしの蛇口をどうするか、だ。式が簡単だったのは僥倖だが、生憎、その簡単な式すら紡ぎだす魔力が、気が、私にもお嬢様にも残されてはいなかった。
「だったら、わたしがやるだけよ。別に構わないでしょう、セツナ」
俯いた私の背中から、絶好のタイミングで妹さんが手を振っている。
あちらこちら焼け跡が目立つ荒廃した砂利道を、覚束ない足取りでテコテコ此方にやってきてくれた。頬の痣や、破けた服の上には何かで穿たれた様な深い傷。それが痛々しくて私は眉をひそめた。
その様子に気付いた彼女は、「馬鹿ね」とほくそ笑み。
「気にすること無いわ。この傷は、わたしが望んで負ったモノ。場合によっては自慢しちゃうんだから」
私の背中をポンと叩いて、隣に並ぶ。その位置が、自分の席だと言わんばかりに。前を向く力強い視線は、あの少年を髣髴させ、不謹慎にも笑みが止められない。
……まあそんなことはさておいて、お嬢様が血みどろのイリヤさんに顔面蒼白の面持ちで駆け寄っていく。直してあげたいが先ほど遠上都の治療に使った魔力でお嬢さまの燃料はそこを尽いたらしく、イリヤさんに疎まれるまでしつこく彼女の周りをうろうろしていた。
「まったく……で、この穴、とっとと封印しないと不味いんでしょう?」
お嬢様のお節介焼きをありがた迷惑、といった感じのため息を三つ落としてから乗り切り、イリヤさんは目の前の術式をじっくりと観察していく。
「ええ、構造自体はシンプルな術式です、しかし……」
私はそこで言い淀む。
私がこの封印式を再起動できない理由。魔力、気が足りないと言う即物的な理由、そして……、もう一つ。
「なるほど、この封印式の動力部、所謂基点は、人間をサクリファイスにしなくちゃならないわけ。ムカつくくらい、古典的でお約束ね」
イリヤさんの棘の言葉どおり、倫理的な問題が浮上したからだ。
「はい。生贄が最低一人、この穴を塞ぐために犠牲になって頂く必要があります」
イリヤさんが不愉快な苛立ちを隠さず………どうして、今まで気がつかなかった? その、あるべきを長さを失った銀糸を掻き揚げた。
驚きは、沈黙としてお嬢様にも伝播した。どうかしている、これほど際立った変化だったのに。
それほど、不自然で自然な変化。何故だろう、儚い過去を振り切るように、今の彼女は美しい。可憐な花の美しか在りえなかったその芸術が、昇華した。無いはずの長髪が、気高さ、そして誇りを花開かせ、その高貴な美を空想させる。
首筋までしかない千切れたような短髪が、頬を凪ぐ冷たい小夜嵐に揺れていた。
断髪には一様にして決意の願望が込められる。その美しく、また“今の彼女”に相応しすぎるその相貌を、果たして誰が咎められよう?
「何よ? セツナもコノカも、二人して。なにか、わたしに変な所で……って、ああ、この髪か」
唖然とする私たち二人の視線に気付いたのか、イリヤさんは恥ずかしげに舌をペロリと出して向くに微笑みを向ける。
「ま、今更だけど。ちょっとしたイメージチェンジって奴かしら? 別に例の魔術師と喧嘩した時にしょうもなく……ってわけじゃ無いから、気にしないで。好きでバッサリやったんだからね。それに、ほら、意外と似合ってると思わない?」
耳元の不揃いな髪先を摘み上げ、微笑を絶やさない。ならば、此方とてその微笑に答えるのが、同じ女性として当然です。
とは言っても、呼気するような自然さで、それを体現できるお嬢様は流石ですよ。とてもではないが、私には荷が勝ちすぎる。
「うん、似合ってる。でもなー、ちょっとボサボサやから、この件が片付いたら、お姉ちゃんがカットしてやるからな」
「そう? それじゃ、お願い。出来れば今日中ね。約束よ?」
「うん、了解。楽しみにしとるよ」
「馬鹿ね。そんな、満面の笑みで言うほどの事じゃないでしょうに」
お嬢様の言に、最後は皮肉るような妹さんの声。姉妹のような遣り取りは、恥ずかしげなイリヤさんの紅顔で締めくくられた。
微笑を讃えて見守る以外に、私に手立てはあったのだろうか?
「オホン。……それではセツナ、話題がずれたけど、結局どうしましょうか? このままじゃ不味いわよね」
ワザとらしい咳払いを一つついて、イリヤさんは話題の軌道修正。深刻な現状についての意見を、私に求めている。
直ぐに回答できる問題ではないし、考えを巡らせたところで答えられる問題では無い事も分かっていた。
卑しくも、横たえる遠上都に視線が泳ぐ私。分かっている、私は衛宮の用に清廉潔白ではいられないのだと言う事くらい。何かを守るために、何かを切り捨てる。お嬢様を守るために、誰かを斬り捨てる。
その考えに今も嫌悪を抱くが、その考えを変える気も無い。それは、人間誰しもが忌避する思考であると同時に、呼吸よりも自然に、ヒトが日々行う世界の掟だ。
理解している、しかし、その考えを許容する自分を、私はやはり許せない。なんて、矛盾。
だけど、今はそれでいい。そんな自分を憎しみながら、そんな自分を好きに成っていく事こそが、生きるという事だと思うから。
「不味いです。しかし、生贄など望めない。それはきっと誰しもが臨んだ最高の解では無い筈だ。そんなの、きっと」
衛宮士郎は、許さない。
そう、言い切る直前だった。その声が、降ってきたのは。
「生贄ならば、ここにいる。僕を使えば、それで終わりだ。いい加減にしなよ、あんたら。綺麗ごとなんて、虫唾が走る」
銅色の髪が、泥に汚れて靡いている。
微かに焼けた暖色のフリースに乗っけられている女性みたいに小さな顔が、私を嘲笑するみたいに微笑んでいる。
「―――――――――――――っな、貴様は。何故、ここに!?」
振り返り、傷だらけの身体が硬直する。今このタイミングで敵が現れる、最悪だ。
全くの予想外、衛宮が破れる事など、計算に入れていなかった。
「まったく、何が生贄は望めない、だ。馬鹿が、それではきっと、なに一つ救えない。綺麗事を抜かす前に、考えろよ。姉さんを犠牲にすれば、事は済むんだ。何故、今更その回答を拒否する必要があるの? 帳尻は、合わせて然るべきなのに。言葉が必要? 僕達は、この事件の黒幕だ。罰を与えるべきはここにいる、僕たちは裁かれるべき悪だろう?」
癪に障る。
それはきっと、奴の言葉が的を射ているから。所詮、私の言葉など唯の世迷い事、現実を直視せづ、その痛みを放棄した、捉えようによっては最も楽な答えでしかない………っだけど。
だけど、それでも嫌なのだ。誰かを犠牲にするのは、例え斬り捨てる悪が在ったとしても、私はその瞬間を最後まで躊躇いたい。
衛宮の様に綺麗でもいられない、だけど、非情でもいたくない。
弱い自分、だけど、それでも私は、今の私を捨てたくないのだ。それは果たして醜いのだろうか? きっと、衛宮はそんな私をぎこちない笑顔で否定する。きっと、お嬢様はそんな私を、優しく抱きとめてくれる。
だから、きっと、その想いに間違いは無いはずなのに。
「質問に答えていないっ。衛宮は!? 彼はどうした!? 何故、貴様が………」
私を嘲る様な少年の瞳は、刹那、横たえた遠上都を優しげに、それでいて穏やかに眺め、瞳を閉じた。
「………エミヤシロウなら、寝てる。どうせ燃料切れだろ? ちくしょう、言いたいこと勝手にほざいてぶっ倒れやがって、殺してやりたい。半端な、背中の押し方しやがって」
要領を得ない毒言が、金切り声の様に地面にぶつけられる。少年のヒステリーは、少なくとも衛宮に向けられているのは、疑いようが無い。
いつか出逢ったとき以上に、彼の存在を強く感じる。その違いを名状することは出来ないが、そうだな、あえて言葉にするのなら、その独語の内に怒りや憎しみとといった強い感情が含まれている事だろう。のっぺらぼうの様だった少年の貌に、今は確かな我が浮かんでいる。
「おい、それで生贄になるのには一つ条件がある。死んでやるって言ってるんだ、故人の頼みくらいは聞き届けてくれるんだろう? あんたら、お人よしみたいだしさ。後味の悪い想い、したくないでしょう?」
一歩、少年は私とイリヤさんの間をすり抜けて虚空に開いた大穴に歩み寄る。
「一体、何を考えている?」
「別に何も。今の僕が、是を最良と判断したから、僕が自分の理想を叶えるためにね。この取引はそれだけの価値があるってこと。だから、こうやっているだけだけど? ああ、君達風に言えば、改心したのさ。あの偽善者のお陰でね。気付かないようにしていた僕の願いって奴が、分かっちゃったから」
鏡の癖に、可笑しな話だろう? と、自嘲気味に少年は付け足した。
お嬢様、イリヤさんは何も言わない。
少年の一言で、皆納得してしまったのだ。衛宮と出会った。それは、自らを見詰めなおすのに、充分すぎる動機に他ならない。自らの生き方を変えるのに、充分すぎる理由に他ならない。あの少年は、其れほどまでに歪なのだから。
「いいわ。口の聞き方も知らないお子様みたいだけど、貴方の意思は汲み取ってあげる。それでなに? 追悼は贈らないけど、死に花くらいなら拾ってあげるわよ。貴方の言うとおり、目覚めが悪いものね。少なくとも、シロウが」
その年齢に不相応な酷薄とした笑みが、自然とイリヤさんの貌に浮かび上がる。
不揃いの乱れた短髪が、その奥にある安らかなほど冷淡な瞳を隠そうともせず靡いていた。
「―――――――――――――イリヤさん、本当に宜しいのですか」
その豪胆とした冷酷さに物怖じしながらも、私はイリヤさんに尋ねる。
当然だ、その決定を、イリヤさんの様な幼い子供にさせて善い筈が無い。その歳で、彼女の華奢な両の手を汚させたくは、無い。
「ふふ、ありがとう、セツナ。そうね、シロウと一緒で、貴方も優しいね」
それから、ゴメン、と彼女は言った。
「わたしの手は、もうね、結構汚れちゃってるから。それに、決めたんだー、もう。自ら手を汚すことは望まない、絶対禁止って。だけどね……もし、もしもシロウの代わりにわたしに出来ることがあるとしたら、きっと汚れてあげることだけだ、とも思うから。やっぱり、ほらっ、あの子は、綺麗な侭が素敵じゃない?」
―――――――――それに、彼を守るのが、きっとお姉ちゃんの務めだし。
最後に、誰にも聞こえないように、イリヤさんは何かを呟いた。
見えない涙痕を隠すような、拙い笑顔と泣き顔で少女は空を仰いで、少年に非道なまでの微笑を送る。悪魔はかくも残虐で、しかし、非道で在るがゆえにその道を知る。彼らほど、他者の痛みを理解する者はいないのだ。
「姉さん、彼女を、助けてやってくれ。この事件が片付けば、きっと姉さんは裁かれる、だけど、見逃して欲しい。それが、条件だ」
少年は言う。無垢なまま、誰かの幸せを、口にする。幸せになるためには、誰かの幸せを切り捨てなくてはならない。それは、分かる。それは、多分間違いじゃない。だけど、だけどきっと、正解でもないだろうに。
「いいよ、約束してあげる」
イリヤさんは、言う。感情なんて余計な機能は削除されている。
故に、平然と答えることが出来たのだ。優しい嘘を。残酷な嘘を。ただ、目の前の誰かを救うために。
きっと叶えられないその願望を、この少女は一時だけ、少年の為だけに象にする。それは異国の地に残る、聖杯の伝承を語り聞くかの様で。
「そうか、安心した。―――――――――――――――ああ、それと最後に」
祭壇の中央、少年は歳相応の微笑で振り返る。
この場に、もしも衛宮がいたら、どうなっていたのだろうか? あり得ないもしもの空想に意味は無いけど、彼はきっと、歯を食いしばり耐えたのだ。
誰かを切り捨てる、当たり前の救済。その行いは正しい筈なのに、精一杯、その痛みを感じるのだ。
その痛みが、何よりも大切なモノだと知っている、あの少年は。
「最後に、何? 貴方、欲張りすぎよ」
イリヤさんの回路が駆動する。
彼女の魔術を目の当たりにするのは初めてだが、なんて高貴な魔力の流動。衛宮の誇り高く荒々しいソレとは異なり、凍えるほどに優美な魔力が、回路を駆ける。
「負け惜しみ。伝えてくれよ、あの偽善者に」
彼女の回路と、龍界寺一体の魔方陣が接続されたのだ。イリヤさんの魔力が陣全体に奔り、小山を亡羊と発光させていく。
甲虫が光りを灯し清輝を纏い乱舞する。その中で、兄妹の様な二人の影が向かい合って、最後の別れを告げている。
「お前さあ、正義の味方みたいだって。あの歳で恥ずかしい奴、鏡に証明させられたら、アイツ、惨め過ぎて死ねるんじゃん? てなわけで、ささやかな復讐でした」
少年は知らないのだ、その言葉が、どれほど彼の救いになるか。その言葉こそ、どれほど彼の傷跡になるのかを。
少年は笑う。死に逝く己に、悔恨の念を何一つ抱かぬほど、潔白な微笑を向けている。
死ぬことこそが、きっと少年の救い、その願いを、幸福を叶えられる唯一の方法だったのだと、信じるように。
「―――――――――――――満たせ」
始動キー。イリヤさんの魔術が迸る。
「それじゃ、元気でね」
無情に告げたその呪いは、別れ逝く少年の救いを祈るような愚かしさ。
後は、言葉など不要だろう。
一人の少年は消え。
一つの喜劇は幕を下ろす。
コレは、ある結末。
長い、長い、――――――――――――夜が明けた。