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戦いは、終わったらしい。
俵巻きにされた僕が捕らえられた寝屋に、暗闇に慣れた片目には些か眩しすぎる朝日と一緒に進入してきた物々しい武装の皆様方が救助しに来てくれた事で、漠然とながら理解した。
それが大体五時前後の事だ。勿論朝のね。
大した怪我の無い僕は、荒縄が手足を解放してくれと同時に、どうやら眠りに落ちてしまったらしく、この後一時間、綺麗に記憶が飛んでいた。
いや、この手の脅威にはもう慣れてもいい筈なのに、年を追う毎に体力も、僕のエンゲル係数と同様、順調に低下しているらしく、緊張の弛緩と共に僕はこっくりと意識を手放したのだと、木乃香ちゃんの自宅の病室に見舞いに来てくれた詠春さんが教えてくれた。
士郎君と一緒に、僕も鍛錬しようかな……。どうせ出来もしない体力増強案のディテールを創考しながら、天井の染みなどを怪我人らしく数えてみる。
いやね。無傷だと思っていたのはどうやら僕だけで、お腹には気持ちの良い位青々としたでっかい痣が、僕の貧相なお腹にはあるらしいのだ。あの人、見た目どおり情けも容赦も、僕にはかけてくれなかったんだ。
で、らしい、と言うのはこの部屋で目を覚ました時には息苦しいほどのさらしがお腹に捲き付けられていたから、自分の目では確認していなかったってこと。
そんな訳で、自覚の無いまま勝手に怪我人扱いされて、その上今回の事件で最も役に立たずただ飯食っていただけの不肖、僕こと黒桐幹也は、詠春さんや式と言った今回の事件の功労者で、未だ元気に動き回れる彼らが事後処理で奔走する最中、布団に包まって惰眠を貪っているわけだ。いっそ、僕を殺してくれ。
……閑話休題。
僕の事は、まあいいだろう。これ以上続けても、きっと愚痴にしかならないだろうからね。
真っ当な一般人を自負する僕としては、今、この現状で眠れてしまうほど精神が式見たく太くない。同時に彼女ほど繊細でもないんだけどね。
自嘲を交えて枕の上で腕を組み、そこに頭をのせる。どうせ眠れないのなら、今回の事件、その顛末を口頭ずてに知りえた情報で整理してみようと思う。
丁度いいタイミングで、詠春さんに頼み込んで手に入れたこの件に関する報告書のコピーも、手元に在ることだしね。
しかし……。
「参ったな、客観的に物事を見極められるのが、僕唯一の長所の筈なんだけど……」
乾いた独語で、一人笑う。広すぎる室内の中央、埃が襖に遮られた鈍い陽光の中で舞っている。昼前の強い光の中で零れた言葉は、少し寂しげで、少し滑稽だ。
さて、それでは価値の無いフィルムを捲き戻そう。その喜劇の終幕が、せめて誰かの微笑で閉じられていますように、――――――――――――。そんな願いと一緒に、うっすぺらな台本に目を通した。初めて知る、彼女の名前と一緒に。
Fate / happy material
第四十二話 ある結末 Ⅱ
同年、十二月下旬、午前五時五分。
京都北区、龍界寺本堂、及び北西絶壁にて。
京都近郊を中心に発生した太源の異常変動、西日本全体に確認された行方不明者の続出と、妖怪変化の大量発生。
それ等に関与したと思われる協会登録の混血、遠上都、以下魔術師二名の加害者の拿捕、あるいは死亡を確認。
同上、遠上都は容疑を認め、この事件は同日午前五時三十分を持って近衛詠春の手を離れ、同日午前七時に日本呪術協会退魔本部最高議会にこの検案は引き継がれる運びとなった。
まあ、うん……これはいいか。
同日午前四時三十分、京都に発生した太源の総和、減少を確認。同時に妖怪変化の減衰を確認。
退魔組織本部は龍界寺に赴いていた近衛詠春の応援要請を受けて、京都に散開していた組織構成員二個中隊を現場に派遣、同中隊は気絶していた遠上都を確保。
加害者を制圧したのは同事件解決に当たり編成された特別構成班の一人、桜咲刹那及び協力者三名と断定、彼女より加害者を引き継いだ、とのことだ。
同加害者の協力者と思われる魔術師は首無しの遺体で発見、この検案に関し協力者であるイリヤスフィール・フォン・アインツベルンが同加害者を殺害したと考えられるが、同協力者はそれを否定。両儀式、近衛詠春の証言により“槍の男”が殺害を行った第一容疑者として考えられている。
……当たり前だよ、イリヤちゃんがそんな事するわけ無いじゃないか。
同加害者の死体には長柄の凶器で殴打、或いは切断された痕跡が見られ、同協力者の証言を認める。この検案に関しては、以後も調査の必要があると組織本部は判断。魔術師の死体を回収、英国魔術協会本部への死体引渡しは拒否する運びとなっている。モンタージュの作成は後日に予定されている。
遠上都の協力者である少年、記録は全て抹消されているため、ここでは“カガミ”と表記するが、同加害者の死亡は、桜咲刹那、近衛木乃香、アインツベルンの証言から確認。
緊急措置により、当事件の解決に必要な要素としてカガミを使用、この件については協会長、近衛詠春に一任されている。
「コレだよな……一体、どういう意味なんだろ?」
魔法関連の事に疎い僕ではよく分からない。
「しかし、なんだね。この手の報告書にファンタジーな内容が細かに記述されているのも、可笑しな話だ」
笑いながら、ぺらり、ページを繰る。二枚目、僕の身内についての記述だ。
桜咲刹那は重症、肋骨の粉砕骨折及びそれに伴う体腔器官の損傷と重度の火傷を確認。尚、協力者であるアインツベルンも全身打撲、顔面への裂傷並びに胸骨に軽度の罅割れを確認、組織預かりの総合病院に搬送されている。
酷いな……って、式も士郎君も!?
式は、右腕の粉砕骨折。士郎君は右腕の筋断裂及び皮膚の変色って、大丈夫なのかな、皆?
思わず自分のお腹を殴りつけてやりたくなる。皆の惨状に貌を潜めて、次のページへ。以下の記述は魔術回路の疲弊状況だとか破損状況だかの確認で僕にはよく分からないからね。
一つだけ分かったのは、士郎君それが最も酷いと言うことだけだ。
ええ~何々……四人は一通りの治療を済ませて現在は、――――――――――っは?
「お化け?」
現在は退魔組織本部で療養中。上記四名は事件の事後処理を手伝うと言って聞かず、無理やり当本部に帰還。
尚彼らは説得の末、同本部の離れにて休養中……って、なんで動けるの?
苦笑交じりにパソコンの前で詠春さんがこの記述をタイピングしている姿が目に浮かぶ、まったく、君達は……。
まあ、それはさておき、現在、京都の現状が沈静化したとはいえ、“まな”と言う奴が依然平均値を大きく上回っている、との事なので、状況が落ち着くまで退魔組織構成員は京都各地区への巡回作業を行っているらしい。式、士郎君、それに刹那ちゃんが志願した“事後処理”と言う奴だろう
ここまで一息に読みきる。こうやって振り返ると、あっけ無いもので、ため息と一緒にレポートを枕元に捨て置き、身体を起こした。ちょっと一休み。
「あれ? もうこんな時間なのか」
想いの外、読み耽ってしまった様だ。気がつけば、仄かに部屋は朱色に染まりつつある。日脚の短い厳冬だとは言え、些か気が短すぎではないだろうか。日本人は、もう少しだけ働き者だよ。太陽にも、ぜひ労働基準法を遵守していただきたい。
目頭を揉み解して、上半身を伸ばす。「ん」っと漏れた嘆息をそのままに、もう一度布団に背を預ける。手に取った報告書、最後のページを開き。
「――――――――――――っつ」
そこで、跳ね起きた。
お腹の傷と舞い散った埃の所為で、思わず咳き込みそうになったが構う物か。肌蹴た浴衣を正しながら、布団も片さず病室の襖を開いた。
「きゃっ! って、幹也さんやんか? 一体どないしたん」
血相を変えて寝室を飛び出すと、木乃香ちゃんと鉢合わせる。
おっとりとした卵顔が、僕を頭一つ分低いところから見上げていた。……刹那ちゃんの気持ちが、少しだけ理解できたかな。小動物みたいな彼女の不安そうな顔に保護欲を駆り立てられるもの。
「もう動いても構わんのか? あんまり無茶したらいかんよ」
木乃香ちゃんは手に持った盆をそっと僕に差し出す。水が一杯、煎じ薬が幾つか。どうやら、薬を持ってきてくれたらしい。
「はい、これな。動けるんなら、少しのお散歩位、許可してあげようかな? でもそのかわり、ちゃんと飲まなきゃ駄目だよ?」
無言の圧力と共に、差し出されたソレ。……あんまり歓迎できる色や匂いじゃないなあ。
「それでな、黒桐さん。 せっちゃんと衛宮君、知らん?」
「 ? 知らないよ、少なくともこの部屋には来ていないみたいだけど」
立ちんぼのまま、僕は薬を飲み込む。
今は、ソレどころじゃ無いのに……焦る気持ちのなせる技なのか、粉薬が違うところに入った。咽込みながら、グラスを鷲掴んで一気に水を嚥下する。
「そっかあー。あの二人、一体どこ行ったんやろか。あんな傷で……」
頬に手を添えて、困ったような、嬉しそうな形容し難い貌を魅せる彼女。
「ま、いいわ。ウチの魔力が回復すれば、皆の治療なんて御茶の子さいさいやしねっ」
薬のあまりの不味さに眉を寄せた僕の肩をバシバシ叩く。う~ん、木乃香ちゃんて僕の回りにいないタイプの人間だから、反応に困ってしまう。
式の無愛想に慣れている所為か、彼女とのカンタービレな遣り取りに些か戸惑う自分は年なのだろうか?
「あははは、幹也さん見たいな童顔が一体何を言うとるん? まだまだ式さんの同い年でとーせるやん。憎いで、おっとこまえ!」
朗らかな笑みのまま、木乃香ちゃんは踵を返す。式やイリヤちゃんにも、薬を持っていくのだろう。その爪先は二人が休んでいるであろう寝室へと向かう。
「それじゃあな、黒桐さん。出歩くのも良いけど、あんまり無理せんでな。言われなくても出来んとは思うけど、せっちゃんや衛宮君みたく」
「了解。確かに、そりゃあ無理な注文です。木乃香ちゃんも、看病ご苦労様」
にっこり微笑んだ彼女の背中を見送り、赤色が深まった縁側から離れを臨む。
浴衣一枚では些か寒いが、我慢できない程じゃない。ぎっ、と木乃香ちゃんが去ったのと反対方向に、縁側を軋ませる。
視界に移る、夕焼けが良く見渡せそうな土蔵。厚く高い壁は、監獄、と言っても差し支えないだろう。
申し訳に備え付けられた小口の窓に、血のように赤い火光が差し込んでいる。きっと、それが彼女に与えられた唯一の光。
「さて、と―――――――――――」
閊えた骨を、取に行こう。
「面会は一時間だけ? でも……っ、分かりました、それで。え? 護衛? 必要ないです。取り決めだからって、本人の意向は通らないんですか? え、殺されても知らない? はい、本当に大丈夫ですから、気にしないで。え? キチンと一時間、守ってくださいね? 分かってますよ、子供じゃないんだから」
話の分からない看守との一悶着を終えて、重苦しい土蔵への扉は開かれた。
赤から黒へ。
かび臭い屋舎に足を踏み込むと、直ぐに扉は閉められた。ギギィ、バタン。クラシックな蝶番が嘲笑うみたいに鳴いて、早く行けよ、と僕を囃し立てている。
言われずとも。暗闇に目が慣れるのは待ってから、単調な歩幅で歩き出す。
意外と広い。奥行きは暗闇の所為もあって消しゴムで消されたみたいに底が知れない。高い棚からは僕が一歩を踏み出すたびに埃を吐き出して、僕の浴衣を汚していく。
正直、あまりいい気分じゃない。こんな所に詰め込まれたら、悪戯をした悪ガキじゃなくても気分が滅入る事だろう。
目的地の見えない暗がりを行くこと数秒、赤く細長い射光が糸を引いている。どうやら、外から見えた小窓の明かりらしい。
「こんにちは。やだな、また会えるなんて、想いもしませんでしたよ」
黒と闇の盤上。喩えるならそんな感じだ。僕と彼女を遮る牢獄は、よく出来たチェス盤みたい。重ねたれた格子の向こうに、精悍な様子で椅子に腰掛ける彼女がいた。
「ええ、そうね。で、何? 私を笑いに来た?」
狭い牢獄、仄暗い闇の中央。両の手を鎖で拘束され、あの切れ長の赤い灼眼は黒々とした眼帯で覆われている。
彼女は口だけを歪めて、身動ぎ一つせず僕に着席を薦めた。無言の圧力を、さらり、と流せる辺り、僕も場数を踏んできたんだなと、見当違いに苦笑する。
そして、牢獄の前に置かれた椅子に腰を下ろした。面会に来るものなど誰もいないのか、座椅子は冷たく埃が幕を張っているが、それえでも構わず深く腰掛けて、鉄格子を挟んで彼女と向き合った。
「まさか、笑えませんよ。生憎、辱められた女性を眺める趣味はありません。むしろ不愉快ですから、今の貴方を見ているのがね」
「そう、そっちの気も無し。本当に、詰まらないね、君は」
どこかで交わした遣り取りだと、本来なら微笑を漏らしたかったけれど、どうやらソレは叶いそうに無い。少しだけ俯き加減に、僕は言葉を選ぶ。
「―――――で、貴方。本当に何の用で来たのかしら? それと、その顔止めなさい。気分が滅入るわ。三人目の来賓にそんな顔されたんじゃ、私の器量が危ぶまれるものね。もっとも、腰を落ち着けてくれたのは君だけだけど」
三人目。
微かな憎しみを込めたようなその言葉について言及する前に、彼女は言う。その話題には、どうやら触れて欲しくないらしい。
しかし、目隠しをされているのに、どうして僕の顔色が分かるのだろうか?
「まあ、大体察しがつくけどね。何? 私の処断、決まった?」
無感情に、無機質に。他人事でだってもう少し、人間の色があると思う。それ位空っぽな声調で、彼女は僕に答えを急く。
繕う言葉は、残念ながら僕の薄っぺらな辞書には存在していなかった。ソレと同時に、繕う気も無かったんだろう。でなければ、こんなに冷えた声は出ないもの。
「はい。本日、日本呪術協会本部最高評議会の決定によると。三日後、貴方は生命刑に科せられます」
なるべく感情を見せないように、なるたけ自分を殺して。自分でも不思議だった。声すら、震えない。当たり前の様に、涙は無い。
「生命刑? ああ、死罪ってことよね。それで、どんな風に?」
報告書に記載されていた文末が甦る。
尚、遠上都の処遇は既に決定されている。評議会出頭の後、投獄二日、後に極刑に処する。本件案に伴い、同加害者を制圧した桜咲刹那本人から決定の変更を不当な物として撤回する報告書が提出されるも、受理は認められない。
遠上都の刑罰に、変更の余地は無い。
「どんな風に、ですか? ちょっと分からないな、僕には」
目蓋の裏側に張り付く機械的な文面を、頭を振って追い出した。
どうかしてる。目の前の人間は、これから死ぬ。その事実を目の前にして、僕はこんなに平静でいられるほど、強い男だったのか。
「そう。まあ良いわ。しかし、近衛詠春も、粋な計らいね。君も何と無く気付いてはいるんでしょう? 私に死の宣告をする相手、坊やが選ばれたんだって」
「まあ、それは言外にしておきます。でも、それが本当なら少しだけ詠春さんへの心象を改める必要が在りますね。どうです、血も涙も無い冷血漢、っとでも登録しておきましょうか?」
「まさか、気の聞く紳士……の間違いでしょう? 不細工なココの人間よりも、坊やのほうがずっとらしい。思ってはいたのよ、坊やは黒衣の天使だって。ほら、貴方って可愛らしいじゃない」
「モノは言い様ですね。要するに死神ですか」
否定はしない。
こんなにも誰かの死に近づいているのに、心はこんなにも平静。退屈すら感じている自分がいるんだから。
屈託なく笑う死刑因の声に吐き気を催す。憐憫や憤怒ではなく、死と言う平等を目の前にして何も感じない自分自身に。
「それで、話はソレだけかしら? だったらご苦労様」
「まさか。そのためだけなんて、あり得ない」
「だったら何かな? ああ、私に対する哀れみとかなら止めてよね。貴方が気に病む必要、ないんだし」
「それこそ見当違いですよ。僕は、貴方が思うほど優しく無いですから」
普段どおりの柔和な微笑で、僕は彼女の強がりを遮った。
拘束具と一緒に身体を身動ぎさせた彼女は、少し不満そうに言う。
「それじゃあ何?」
「いえね。少しだけ、お話ししたいなと。ほら、覚えてます? 別れ際、中途半端に終わっちゃったし。ああ言うのって、後味悪くないですか? 経験上、心残りはなるべく片付けて生きて行きたいんです。過去を引き摺るのは、もう充分ですから」
口だけが、ぽかん、と開け放された奇妙な絵面。
彼女は一瞬思考を手放したものの、乾いた嘲笑と一緒に鼻を鳴らした。
「は、何よそれ? 馬鹿にしてる?」
「それも違います。本当に、ただお話しがしたいなって、嫌ですか?」
例え彼女に見ることが叶わなくても、僕はやはり微笑を絶やさない。式曰く、幸福すぎて締まりの悪くなった間抜け面で、精一杯彼女の表情を読み取ってみる。
暗い個室に、彼女の赤い髪だけが揺れている。高い小窓から差し込む朱色は、ただ彼女に降り注ぐ。
その沈黙を肯定、と都合の良いように解釈して、僕はとうとう口を割る。
「じゃあ、正直に申し上げますね。これだけは、言っておきたかったんで」
無言。沈黙。静寂。じゃあ、構わないかな。
「馬鹿野郎。貴方は大馬鹿野郎です」
屈託なく、これ以上は出来ないってくらい爽快に言ってやる。こんな口汚い言葉を使ったのは、四年前以来だ。
「は?」
「まったく。復讐なんて、馬鹿の遣る事ですよ。意味は無い、価値は無い、おまけに中途半端、途中で頓挫ですよ? 別れ際にあんなかっこいいこと抜かして行って、コレが喜劇じゃなくてなんですか」
やれやれ、と肩を竦める。僕にはホトホト似合っていない慇懃無礼な立ち振る舞いに、今にも本当、泣けてきそう。士郎君がやれば、それなりに嵌っているのかも知れないのにね。
「この町で虐められたから、苛め返してやらなくちゃ。悲劇のヒロインぶってかっこつけて。本当に欲しかったモノを見ない振りして、かっこよさ気で楽な復讐なんてモノ現を抜かして、敢え無く玉砕。かっこわるい事この上在りません」
呼吸をする心算はない。何故だか知らないけど、気分はハイ。言ってやらなきゃ分かんない人には、情け容赦など不要です。お腹の傷の、恨みも在るしね。
「おまけになんです、その様は? 結局、自分は悪者だからって、自分のやったことを他人事みたいに扱って、やっぱり目を背けるんですか。大して出来も良くないくせに、大して強くも無いくせに、そのまま、貴方が望んだことに気付かない振りをして、無様に死んでもいいんですか、貴方は」
口調とは裏腹に、なんて心は冷静なのか。
目の前の女の形相が、みるみる内に朱色に染まっていく。端整な顔を殆ど隠されたと言うのに、その唇の歪みだけで、彼女の怒りは想像に容易い。
「黙りなさい!」
「黙りません。いい加減、気付いてください。貴方、言いましたよね? 幸福は、与えられなかったって」
止まらず、僕は言う。言って上げなきゃいけないんだ。せめて、彼女が安らかでいられるように。
「だけど、そんなの間違いでしょう? 幸福は与えられて手に入るほど簡単じゃないけど、でもソレって、何処にだって、どんな時にだって、転がっていたはずでしょう」
無言。沈黙。静寂。
再び、闇色の世界は寂寞として閉じられた。
「ああ、つまり。―――――――――――――坊やは」
止めを刺しに、来たわけか。
消え入りそうな声で、少女は告げた。平静でいられた筈の瘡蓋を剥いで、生々しい傷跡を抉り出す、僕の行為は彼女への蹂躙以外に他ならない。そんなの分かっていたけどさ。だけど、気付いて欲しいから。せめて君の生涯が、苦しみしか無かった分けじゃないって。
きっとコレは詭弁で、偽善なんだと、独善なんだと理解してる。だけど、ソレでも伝える事しか、僕には出来ることが無い。
「はは、本当に坊やは死神だった分けだ。まいったな……本当に、本当、まいったよ」
泣くことすら許されない少女は、背中を丸めて嗚咽する。
最低だ。僕。今更ながらの自己嫌悪は、やっぱり今更なわけで。そして同時に、“今の彼女”の死を、慈しみ、どうしようも無い憤りや憐憫を感じてしまうわけで。
「……後悔、してください。せめて、貴方に許されたその限りある日々の中で。いいましたよね? 人間にできるのは、罰を背負い続けることだけ、それを支払い続けることだけだって」
ああ、結局。僕は自分の首を絞めに来たのだ。
不公平こそ唯一の平等なのだと、誰かが言った。彼女を虐げたモノはその罪と罰を知らず、罪を知った彼女だけに罰はある。
だけど、同時に救いも在るんだと思う。贖うからこそ、救いはある。景教なんて信じていないけれど、きっと、そうだと信じたい。
「後悔か、今さらだね」
「はい。だけど、きっと遅くも無い。それに、貴方はラッキーです。その贖いは、たったの三日だけですから」
「そ、幸運な事に。ね」
皮肉気に彼女の唇が吊り上るのを待って、僕は重い腰を漸く上げた。
「あら、もう帰るの?」
明日には会える友達に尋ねるような、そんな気安さ。
「ええ。面会、一時間だけなんですって」
そう、と少女は朧げに俯いき、ポツリと。
「ねえ。最後に、この眼帯外していってくれないかな?」
そんな、簡単なお願いを、僕にした。
「一生のお願いにしては、随分と安上がりですね」
何と無く、そうじゃないかとは思っていたし。今日のこの空は、見ないと損だろう。だって彼女の目的は、紛いなりにも果たされているのだから。
鉄格子に背中を凭れさせた彼女の眼帯を優しく外す。彼女の香水の甘い高貴な匂いが、この錆びた暗がりに満ちていたことに、初めて気付く。
「あ、そうだ。僕も最後に、聞かせてください」
少女は此方に背を向けたまま、暗闇に引かれた赤い糸をぼんやりと眺めている。
「貴方の名前、貴方の口から」
もと来た暗闇が口を開けて待っている。
一条の赤い斜陽に瞳を奪われる彼女を、ぼんやりと、未だ感じる事を許されない悲壮感を込めて尋ねた。
「遠上都よ。――――――――――――そう言う、貴方は?」
彼女は、振り向かない。ならば、僕もそれに習うことにしよう。
「黒桐、幹也です。それじゃあ、都さん。さようなら――――――――――」
歩き出す。一歩一歩と、淡々と。
僕らはもう、交わることの無い闇を抜ける。
「ああ、これで。やっと名残惜しさを感じることが出来ますね」
暗い哄笑、それが闇の淵から漏れ出した。まるでソレは、天窓か零れる、朱い妖光に似ていて。
「コクトー……ね。本当、坊やはシの才能、在ると思うよ」
死神は、シに神でもね。最後に、そんな言葉が交わされた。
僅かながらの心残りは、消え。もしかしたら、それはコウフク足るに充分だったと、そう、教えてくれたみたいにね。
闇を抜け、扉は閉じる。蝶番が、僕と誰かの世界を断った。
「よお、酷い顔だぜ。お前」
赤い庭園に、彼女がいた。どうやら、待っていて、くれたらしい。
不味い。今は、君がいてくれると、本当に、不味い。
「ったく、怪我してるんだから。あんまうろつくなよ」
「君こそ。って言うか、君のほうが重症なんだから、動いちゃ駄目なのは君のほうだろう?」
強がりは、ちゃんと強がりになっていたのか、まるで分からない。
「オレが言ってるのはもっと一般的なカテゴリーに分類されている奴の話。一般人の胎にそれだけでかい傷がありゃあ、立派に寝たきりになってて然るべきだ。ったく、無理しやがって」
式が石膏で固定された左腕をプラプラさせながら、
「――――――――――――っえ、ええ、し、式!?」
ぽん、とシャンプーの香がする式の頭が僕の胸元に預けられた。
こんなの、不意打ち過ぎる。
「馬鹿、なんでうろたえるんだよ」
「ご、ごめん」
「――――――謝るな、ばか」
赤い赤い夕暮れ。寂寞とした庭園には、一つの影。重なった人柱が、ただ赤い荒野に伸びている。
ただ、式にされるがまま。っと言いますか動くに動けないし、僕は奇怪な式の行動に一応の終わりを願わなくも祈りつつ、緊張に胸をバクつかせて間抜けに突っ立っていた。
「うん。補給完了、充電終了。で? 元気になったか?」
待つこと数分。一体何を補給したのか分からないけど、僕も何か元気になったので言及はしない。いや、式が赤い貌をしている時は大抵僕の人生に於ける分岐点だからね。不用意な選択肢は選べない。
影は、二つに分かれて離れていく。その腕を捕まえて、抱きとめることもせずに、その手の温もりを感じたかった。いっつもいっつも、猫みたいな気軽さと身軽さで僕の所に現れては消える彼女に、今だけは聞いて欲しかった。
「僕って、最低だ」
意味も無く、脈絡も無く、ただ嘆いた。その言葉に。
「なんだよ、いまさら? そんなの、今に始まった事じゃないだろ」
ぷ、っと一笑。取り付く島もおくびも無く、僕の愛する女性は答えたのだった。
お前馬鹿? みたいな表情はやめて欲しい。愛を感じすぎてしまう。僕って、なんて幸せなんでしょう?
「あ、いや……ここは、その、フォローを」
なんでしどろもどろになっているのか。不憫でならないよ、勿論僕が。
そんな様子を意にも介さず、僕の右手を振り解いた愛しの君は、用件が済んだらとっととゴーイングマイウェイなのであった。
「そんな今更のことで、落ち込んでんのかよ。気い使って損した。考えてもみろ、大体、……その、なんだ………プロポーズの台詞、“お前を許さない”なんてふざけた野郎が優しいわけねぇだろうが。全く、近衛の奴にそそのかされて来てみれば……」
ぐしゃりぐしゃりと髪を毟りながら、式は僕をほっぽって一人近衛邸に消えていった。
えーっと、僕って、酷い惨めなのかな。
「ああでも」
少しだけ元気になったのは、疑いようが無いほどの事実であって。
そうだよ、僕自身の言葉じゃないか。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、コウフクって奴は、何処にだって転がっているんだって。
ちっぽけな人生なんてものは、ちっぽけであるが故に簡単に反転するし、同時に、簡単に好転するんだって。ただそれに、気付ける人と、気付けない人いるだけの、なんて下らない喜劇であり悲劇。
土蔵に振り返る僕は要らない。前を向いて、彼女の背中を追えばいい。名残は、あの瞬間に置いてきた。
夕闇の空を仰ぎ見る。
夕暮れの町を俯瞰する。朱い城下を賛美する。
「皮肉だね。京都を赤く染めるなんて、こんな簡単な事なのに」
紅霞に染まる憧憬の淵で、僕は、確かにそんな言葉を口にした。