/ Orange.
遥か暗がりの向こう側から、雄叫びが聞こえる。
――――――――いや違う、そんな猛々しいモノではない。
コレは唸り声。彼女が泣けない代わりに、不細工な声を張り上げる。
恐らく“アレ”が鳴いているのだろう。
黙祷ついでにお似合いの嘲笑をくれてやれば、ご丁寧にも答えてくれた。
――――鳴動する大気。は、中々どうして、悲痛な慟哭じゃないか。
「おいおい、随分じゃないの。そう。邪険にするな」
皮肉に頬を歪ませれば、絶え間なくうちつける波の狭間を縫う様に、歪な叫びは潮風を裂いた。
■ Interval / Ocean,Ochain. ■
不恰好な鼓動に合わせるように、私の身体をまさぐる何か。
何千何万と繰り返してきた皮肉な痛みが魔力と共に血に融ける。
目下で轟々と波の打ちつける大きい水溜りを眺め、空気を震わすように感覚は広がっていく。
溶け出し、拡散していく私の中身。
毎度の事ながら実に不愉快だ。
自身のイメージ、眼前に開ける色は赤、朱、紅、緋、橙色。
まあいい、辺りには黒い闇しかないのだ、明かりの代わりだと思えば幾分かましだろう。
血液が抜き取られブクブクと地を這い広がる真っ赤な意識は、限界まで伸ばされ細い細い糸のように象られる。
自身の微細な魔力を凡庸な触覚の届く限り手を伸ばし一つ間違えば千切れる血管を、手繰り寄せるように回収する。
「―――――――――――――――」
ザクリと感覚を断ち切ると、微かに震えた糸が“盾”の琴線を撫でる。
しかし、………弱い。いや、弱いという感覚は間違いだ、ここでも同じ、等しく感じる何かの錯覚。微々たる魔力の壁に囲われた様な泥酔、何かに溺れる様なこの感触、海の底でもがく様な感覚は果たして何なのか。
「―――――――――っち。ここでは無かったか」
ゴミ捨て場の様に不恰好に詰まれたテトラポッドから飛び降り、頭の中の地図に×印を打つ。これで幾つ目だろうか? こちらに着いてから延々繰り返してきた作業だ、いい加減飽きる。
ふん、うまく隠れてくれる。それほど未練か?
まだ見ぬ見知らぬ誰か、いや、其れは人では無いのだからこの呼称は間違いだ。だが、件の探し物はヒトを“象る”のだから仕方が無い。
しかし、――――――蒼崎橙子も丸くなったものだ。
人、ヒト、ひと。“神秘”の前にそんなものは意味を成さないだろうに。私は私である前に魔術師だ、そんな感慨、とうの昔に置いて来てしまった筈だが?
まあいいさ、堕落した魔術師には其れがお似合いだ
分割された思考が論議に一応の決着をつけたところで、薄く唇を震わせタバコを探す。
都会よりましとはいえ蒸し暑い残暑の夜だ、潮風に当てられ微かに草臥れたシャツが気持ち悪い。どうやら、私は意中の相手にほとほと嫌われてしまった様だ。
まったく、どこに隠れているのやら。
「ノンビリと探している訳にはいかないんだがな」
明後日、早ければ明日の夜にでも協会の魔術師がアレを回収するため再度日本にやってくる。
出来れば、鉢合わせはしたくない。私は連中の組織力と能力を少しも軽んじる心算は無かった。
さて、どうしたものかと顔を上げてみれば、映るのは一面の黒色。辺りに人の気配は無い。
それも当たり前か、既に日を跨いでこ一時間時間。私が今いるのは廃墟同然の屋敷から歩きつめて数分の場所にある、時代に取り残された汚い漁港。
ロケーションも手伝って正に人でなしの空間だ。殺意を覚えるほどに魚臭いな、ココは。
誰を気にするでもなくタバコに火を灯せば、思わずため息が零れた。
よくもまあ私がここまで動かされたものだ。
なるほど、いい女に恋焦がれるのは、えてしてこんな気分なのかもしれない。
「――――――――奴らが躍起になるのも頷けるな」
何せ“最高の女”だ。その記憶を識る、数少ない神秘。
そんなモノが極東の島国に流れ着いたともなれば、奴らの顔は豆鉄砲を打ち込まれた鳩のそれだろう。
実に下らない思考を巻き戻すと、段々と夜空が仄黄色く染まっていくのに気がついた。
今日はここまでか。――――――明日からはうちの馬鹿共も動いてくれるだろうし、慌てることも無い
あいつ等の事だ、私の行動に不信感を持つのは当然の事、“盾”が近くにあるとすれば何らかの違和感に戸惑っているだろう、それだけの神秘。
――――――――――――それでこその“宝具”。
まあ、自身の違和感に気付かないかもしれんがね。
まさか、そんなはずなかろう。
彼女の物語は黒桐にしろ衛宮にしろ、無視できるものでは無い。間違いなく彼女に引きずられる。
「―――――――なあ、“ディアドラ”。君もそう思うだろ?」
緩やかに歩みを進ませた筈が、いつの間にか先ほどの廃墟に戻って来ていた。同時に自分で意識した訳でも無いのだが、彼女の名前が勝手に零れていたことに、気がついた。
自嘲気味に笑ってやれば、館の周りに彩られたイチイの木がざわつく。
ふっと視線を戻すと、目の前にはお世辞にも豪華とは言えない寂れた石碑が揺れる草木に囲まれ隠れていた。
最初にこの屋敷を訪れた時には見落としてしまった様だ、こんなもの私は知らない。
じゃりじゃりと、放置されて青草が伸び放題の小道をかき分け、崩れた石ころの前に腰を据える。
「-----―――――?」
過ぎ去った年月の所為もあり、それが墓石だと分かるのに時間がかかった。
原型は西欧風にデザインされた半円型のモニュメントだったのだろう、頭の悪い詩人が刻んだろくでもないポエムだけが崩れた歴史を感じさせないでいる。
「ふむ、――――――――――」
かろうじて知ることが出来たのは故人の数、恐らく四人か?
名前は、―――――くそ、もっと頑丈な墓石を使え、摩滅して何も分からない。
「しかし、コレは、―――――」
私が辿る“盾”の痕跡に何か関係があるのだろうか?
根拠も何も無い唯の勘だが、あながち外れてはいないはずだ、事実ここにも神秘の残り香が漂っていた。
―――――――――“盾”が象る女の肢体、美しすぎる女の記録。
私が追いかける美麗な幽霊か、なんともロマンチックじゃないか。
そんな考えが頭をよぎった逡巡、宙ぶらりんの思考が一つに纏まった。
私は今までその幻影が“ディアドラ”なのだと思っていたが。
「――――――共振? なるほど、それも在りえるか。もう一度、件の幽霊事件を洗いなおしてみる必要があるな」
共振、だとすれば、固有結界の亜種にまで成った筈だ。
なるほど、そう仮定すればこの町の至る所で“アレ”の気配を感じるのも、頷ける。
自分でも珍しく嬉々とした感情が自然と毀れてしまった。
私は冷静に繕おうとして失敗したぎこちない笑みを残して、その廃墟を後にする。
潮風に揺れるイチイの木々達が遠くで喚く掠れた叫びを木霊させ、私を見送った。