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「どうだい黒桐、彼女についての資料は粗方集め終わったかね?」
古ぼけた空気が小部屋を抱擁している。
僕が首を回せば、気だるそうな所長の顔があった。まあ、仕事念心で真面目な顔の所長の御顔なんかを拝んでしまった日には、近未来に予想される火星人侵略を信仰しなくてはならない。つまり、その位ありえてはならないってこと。
彼女は深い沈黙の中で軽そうなお尻を紫色のソファーに下ろす。長年使われていなかったのだろう、暗く灯る室内にふわりと埃が舞い上がった。
「………そうですね、きっと、多分、恐らく、もしかして」
眼鏡を中指で持ち上げてから、僕は「うん」と腰を伸ばした。すると、所長の使うソファーと同色の座椅子が擦れた様に軋み声を上げる。
「なんだ、その絵にかいた様に煮え切らない答えは。君らしくないぞ」
所長はソファーの上にほっぽって置いた一昔前の黄ばみ始めた新聞に手を伸ばした。
首を回して疲労をアピールするも、所長には何の効果も無いようだ。僕をあしらう様に、新聞のページがパラリとめくられた。
「まったく、最近の君は輪をかけて理不尽だ。上司に対しての物言い、態度といい式に似てきて敵わんな。のろけなら余所でやってくれ」
「――――――――――どの口で言っているんです?」
人事の様に肩を窄めた所長に、語彙を強めて返した。
まあでも、人の皮を着込んだ理不尽には意味の無いことではあるのだけれど。
「毎度の事ながら所長は勝手なんですから」
僕と式、それに所長は士郎君たちと別れた後、この町の役場、資料館をはしごして民俗学者顔負けの風土調査に乗り出していた。そして、今現在僕がいるのは町外れの図書館の一室。
「コレだけ連れて回って下さいましたら、どんな良心だって多少は歪みますよ」
低く笑った所長は、再び新聞に目を落とした。
暗がりでは読みづらかろうと、僕は腰を上げて僅か四畳ばかりの古めかしい空間に人工の明かりを灯す。
とたん、僕達を囲むように現れた本の山。
木製の本棚には年代別に分別され、病的なまでに整えられた謄本と言う名の過去が並んでいる。
この小さな町に積み上げられてきた全ての記憶。誰かが生きてきた確かな証。そんなものに感傷のしようが無いけれど、僕は置き去りにされた膨大な過去の足跡に、確かな鼓動を感じていた。
「――――――それで、例の御伽噺には、どんな裏があった?」
抑揚の無い声に、今まで埃にまみれて寝転んでいた式が目を開けた。
役者も揃った事だし、埋もれてしまった“ありえない真実”って奴を暴いてみようか。
■ Interval / Into the Blue ■
「結論から言いましょう、例の御伽噺は実話でした」
僕は先ほどまで腰掛けていた座椅子を後ろに引いて、式と所長の目の前に落ち着いた。
「ほう、それはつまり」
「ええ、実際にあの御伽噺に登場する、悲劇のヒロイン、名前は出しませんが彼女は実在しました」
別段驚いた風でもなく、所長は頷いた。
狭い室内は、壊れかけた空調だけが轟々と虚しく響き続けていた。
「当然、彼女の恋人や乳母、そして地主様と思しき人間も同様に、です。苦労しましたよ、役所に保管されていた戸籍謄本から、彼女と思しき人間のピックアップ、資料館や図書館で過去に起こった事件を一つ一つ洗いなおして、それとの照合作業。所長はどこかに行っちゃうし、式は全然手伝ってく――――――――」
「グチは後で衛宮にでも聞いて貰え。それで? 実在したのは分かったが、肝心要の部分が抜けているぞ、“現実”の彼女達は一体どうなった?」
僕の言葉に悪びれた様子も無く、所長は問答無用でシャットアウト。
嫌味の心算だったんだけど、効果は無い。
「…………例の御伽噺と類似した事件なんですけどね、一つだけありました。記録との照合自体はそれほど難しくありませんでしたし、間違いないと思います。なにせ、―――――――」
「幹也、お前の感想はどうでもいいよ。サッサと要点だけを言え」
うう、僕の扱いって一体なに?
職場では安い給料で働かされて、嫌な上司にいびられて、真っ当じゃない汚い仕事をさせられて、唯一の恋人には無碍にされて。
コレがいわゆる、3Kって奴かな? もしかしてそれ以上? ああ、視界が滲む。
「………はあ、実際の事件があったのは二次大戦直後みたいです。時代が時代だけに、残っている資料も少なくて詳細は分かりませんが、その事件、例の御伽噺と同じく被害者は、彼女の恋人とその兄弟達です」
「ほう、御伽噺と同じか。なら加害者は、――――――」
「ご想像通り地主さんですね、こちらは彼が直接手を下したみたいですけど」
僕は語尾を強めて伝えた。
所長は思考に埋没してしまったらしく、自然とポケットの中に手が伸びていく。どうやらタバコを探している様だがここは図書館、当然禁煙なので僕は彼女を制した。
「ただ、この傷害事件と例の御伽噺なんですけどね。更に幾つかの相違点があります」
その言葉に、所長が感心したように紫色の瞳を大きく見開いた。
「この傷害事件の直前に、つまり被害者の三人が殺害される直前、ええっと……」
僕は先ほどまで向かい合っていた机をガサゴソとひっくり返した。
重ねておいた風土資料やその他の風俗関係の史書が埃を巻き上げていく。
「 ? なにを探してんだ、幹也」
「ええっと、――――ねぇ式、ここら辺においてあった古新聞を知らないかい?」
「新聞? ああ、先ほど私が目を通していた奴か?」
「ああ、それです」
所長に向かって手を伸ばしたのだが、古新聞は帰ってこなかった。
「フム」と頷いた所長は再度新聞の見開きに視線を移し僕に話しの続きを求めた。
「こんな地方新聞に一体何にあるというんだ? 特に例の御伽噺に関連するような事例は無いと思うが?」
「ええ、僕も被害者達の血縁関係を調べていなかったら、その事件は見落としていたでしょうね」
丁度開いていたページに目的の記事を発見したので指で示した。式と所長はどれどれと仲良く顔を近づける。
「―――――なんだ、別になんてことは無い、唯の傷害事件じゃないか。おい幹也、いまさら人一人が死んだからって一体どうしたっていうのさ?」
「その言い方は良くないよ。人間の死に、大きいも小さいも無いと思う」
「またそれか、オレ、お前の一般論は嫌いだって言ったろ」
プイッと横を向いた式に苦笑をプレゼントして、僕は一人考え込んでいる所長を窺い見た。僕と式の遣り取りに茶々を入れられない程に所長は思考の海に埋没している。
「―――――――なるほどね、彼女の恋人が殺される直前、その親類が一人殺されていたか。………フン、こんな細部まで“ディアドラ”と同じ、か。コレならば共振も起こりうる」
所長はよく分からない独り言をニヤリと零したが、僕は気にせず言葉を継ぎ足した。
「―――――ええっと、正確には彼女の恋人を長らく援助していた叔父の息子さんですね。何でもこの叔父さん、この土地では地主さんと並ぶほどの豪氏だったらしく、例の地主さんとは争いが絶えなかったみたいです。結果はその記事の通り、争いは激化し二人の息子による代理抗争にまで発展しています。結果、地主の息子が敵対関係にあった豪氏の息子を殺害、それが所長の読んでいる事件の概要です」
僕は座椅子に深く腰掛け、近すぎる天井を仰いだ。本を読むには不十分なほの暗い電灯がチカチカと点滅した。
嘘みたいに綺麗な女の子と、彼女の人生を変えたその恋人。
彼女らを中心に、力を持った人間達に翻弄され、破滅へと歩みを進めていく物語。現実でも虚構でもなんら差異は無い。彼女の話は悲しく、どこまでも青い。
報われない夢、叶わない願い。
女の悲劇を辿るうちに、僕はその冷たい傷跡を重ねていたんだ。
僕が焦がされていた淡い焦燥。
僕には式や士郎君みたいな超能力なんて無いけど、それでも分かる、それでも感じてしまう。
その在り方が、その終わりが、その物語が、僕の知っている誰かに似ていたから。
だから。
だからきっと、彼女達は、―――――――。
「それで、黒桐。そろそろ肝を話してくれないかな?」
はっと顔を下げれば、所長は新しいおもちゃでも見つけた子供みたいに新聞の影から顔を覗かせた。最もそんなものより数億倍たちが悪いモノなのだけれど。
「御伽噺では様々な噂が錯綜したがために不特定だが、真実は一つだろう。君が辿り着いた“彼女”の最後を聞かせてくれないか?」
僕は、所長の横に可愛らしく欠伸をした最愛の人を顧みて方端(かたわ)の瞳を閉ざした。
――――――――雨足の飛沫が響く。
何もかもが静止した世界/痛い。
静寂が支配する水の世界/いたい。
痛くて痛くて、気が狂いそうだ。だけど、僕の瞳からは一粒の雫も毀れない。
冷たい夜空が、僕の変わりに泣いている。
視界が碧く、青く、どこまでも蒼く染まる。
そう、二度と廻り逢う事の無い、愛しい人が沈む紅い海を除いて。
「――――――――――――――――――自殺です」
所長に告げた言葉は冷たい外気に霞んでいく。
誰かの夢は、果ての無い蒼い/紅い幻に消えた。