ぱち。ぱちぱち。ぱち。
かり。かりかり。かり。
暖炉の火のはぜる音にまざって、爪が小さく音を立てる。
かり。かりかり。かり……。
ぱき。
わずかなでっぱりが引っかかり、小さく折れた。
めり。みし。みし。めりめり……。
大きくなった凹みに指先をかけ、引き剥がす。
先日、王軍は無事目的の都市を『解放』した。今は降臨祭のために休戦中だ。年が明けたら決戦らしい。相変わらず歩みはゆっくりとしたものだけど、全てはなんの問題もなく進んでいる。
近頃は任務が与えられることもなくなった。
おかげで私は、天幕の代わりに与えられたこの宿屋の一室に、引きこもってばかりだ。
なにをしてもすぐに疲れてしまうので、外へ出る気になれない。体力がない。食欲もない。けど、いまさらどうにかしようと頑張る気力もない。
――どうせ、することもないしね。
無い無い尽くしな私は、だから今もひとり暖炉の脇に座り込み、『薪の分解』をしている。
めり。めりめり。めり……。
適当な薪を一本手元に置いて、繊維にそって細く剥いでいく。目標は、針の細さで20サント以上の長さだ。失敗したものはすぐに暖炉に放り、うまくいったものだけを床に積み上げる。その山が両手で持てるくらいになったら、今度はまとめて火にくべる。以下、繰り返し。
陰気だなんだと騒がしいボロ剣は、毛布と縄でぐるぐるに縛ってやった。部屋の中はとっても静か。私を煩わせるモノはなにもない。……だれもいない。
かり。かりかり。かり……、がりっ!
少し力をこめすぎたらしく、爪の隙間に木のトゲが刺さってしまった。
「……痛い」
おざなりに呟き、むしりかけの薪を放る。小さなトゲを引き抜くと、指先に小さな穴がひとつ、穿たれていた。そこから、ぷくりと赤い血の玉がふくらんでいく。口に入れる。
――……おいしくない。
それでも吸い続ける。鼓動に合わせ、指先がずきずきと痛む。血が止まるころには、すっかりやる気もなくなってしまった。
――もういいや。
積み上げた木の繊維と、三分の一ほどえぐれた薪をまとめて火にくべる。
ぽい、と投げ入れると、細い木屑は熱にあぶられて反りかえり、一瞬で黒炭となった。しばらくすると薪にも火が移り、ぼう、と炎が大きく育つ。ぱちぱちと火花。ゆらゆらと炎が揺れる。
ゆらゆら、と。
「……」
揺れる火をぼんやり眺めていると、なんだか床も暖炉も揺れている気がした。ゆらゆら、ゆらゆらと。……たぶん貧血の前兆ね。
かまわず、私は火の前に座り続ける。
――ねむいなぁ……。
炎を見つめつづけたせいで、目が痛む。まぶたを閉じると、意識はさらに遠退いた。紅い残像の残る闇の中で、ゆらん、ゆらん、と頭を揺らす。火に近づくたびに、額とまぶたと鼻と頬があぶられた。じりじりと熱い。
ゆらん……、ゆら…………、
一際大きく揺れたとき、
「――危ない!!」
がしっと力強い手に掴まれた。
「しっかりしなさい!」
男らしい声が叱咤する。たくましい腕が問答無用で私の体を持ち上げ、炎が遠ざかる。
――…………なに?
私は、ぼんやりと瞼を押し上げた。
最初に目に入ったのは立派な喉仏と、がっしりとした顎だった。手入れの行き届いた黒い口髭に――――真っ赤に塗られた大きな口。
「もうっ。ダメじゃない、ルイズちゃん! せっかくの可愛いお顔が焦げ焦げになっちゃうところだったわよぉっ!!」
ばっちりお化粧をした中年の男性に野太い声で言われ、私は思わずぱちぱちと瞬いていた。
目の前のその……奇妙な……ひとには、なんとなく見覚えがあった。そう、たしか、以前、私が働いたお店の、
「…………スカロン、店長?」
「ひさしぶりね、ルイズちゃん♪」
逞しい体をくねくねと動かし、独特のポーズで頷く。ミスター・スカロン――通称『ミ・マドモワゼル』――に、私は再び瞬きを繰り返した。
――なんでこのひと?
*** しにたがりなるいずさん 7の2 ***
「ほんとうに奇遇だわん。こんなところで再会するなんて――」
貧血の末の不条理な白昼夢かしら、とも一瞬疑ったけれど、どうやら現実らしかった。
張りのあるバリトンでスカロン店長が語ったところによると――今回の休戦に合わせて、トリスタニア中の商人が前線慰問にかり出されたそうだ。それで妖精亭のメンバーもここまで出張してきたとか。既に仮店舗がこの街のそばに開かれているらしい。
そういえば、誰かからそんな話を聞いた気がする。
一方、彼らも私がここにいることをひとに聞いたらしい。それでわざわざ挨拶に来てくれたのかしら?
見れば店長の娘のジェシカも一緒にいた。
ジェシカは、見事な黒髪が特徴的な、妖精亭の看板娘だ。フロアの女の子達のリーダーでもある。私も店にいたころはよく面倒を見てもらって――失敗したりサボったりするたびに、叱られた。
今も面白がっているような呆れているような表情で、私を覗き込む。
「火の前で居眠りなんて、あいかわらずだね。なにしてたの?」
「……まきのぶんかい」
「はあ?」
そんな要を得ない挨拶を交わしていると、店長から近況を尋ねられた。といっても戦争の話ではなく、話題は主にここの食事情だった。……市場調査かしら?
問われるままに、この街に来てから食べたものを思い出そうとするものの、まるで思い出せなかった。というか……“なにを食べたか”どころか、そもそも、“なにか食べたかどうか”もよくわからない。
答えに詰まっていると、まあ!とスカロン店長は叫び声ひとつ、ポージングひとつ。
「どうりで元気がないわけだわ。腕も足もこんなに軽くなっちゃって! きっと水が合わなかったのね~、かわいそうに。とりあえずあなたもいらっしゃいな。話はその後よん!」
とかなんとか。一方的にまくし立てたかと思えば、かっさらうようにして私を連れ出した。向かう先はもちろん妖精亭アルビオン支店。
ずいぶん強引な客引きだった。
***
「あ、ルイズちゃんだ! ひさしぶりー」
急ごしらえの店の中は、王都のお店と変わらず大盛況だった。というより、今は降臨祭だからかな……。前線でも人は変わらず、お祭り騒ぎをしたいものらしい。王軍の士官達で溢れかえった狭い店内を、顔なじみの女の子達がいつものように笑顔で元気に動き回っている。
「へえー、今日はお客さんなんですか? じゃあ、サービスしちゃいますね」
「あら、なあに。サボり? ――ふふ、冗談よぉ。ゆっくりしていってね」
「あーあ、あんた痩せたわね。ダメじゃない、そんなんじゃまた衣装が合わないわよ」
忙しそうに立ち働きながら、私にも入れ替わり声をかけていく。ひと夏しか働いていない私のことも覚えていてくれたらしい。一言二言返していると、ジェシカが盆を持って近づいてきた。
「はい」
とん、と置かれたのは木製の深皿だった。あたたかな湯気とともに漂う、懐かしい匂い。野菜をやわらかく煮込んだ、妖精亭特製のスープだ。
「それ食べたら、アレ連れて帰ってね」
「……ありがとう」
さっさと踵を返す彼女を見送って、さじを取る。息をふきかけてすこし冷まし、一口飲むと、からだの内側にあたたかさが広がっていった。
ふぅ、と吐く息もあたたかい。
――……おいしい。
ひさしぶりにものの味を感じた気がした。
素朴だけれど独特の味付けのこのスープは、店長が生まれ育った村の郷土料理をアレンジしたものだそうだ。“ミ・マドモワゼルの愛情がたっぷり入っている”――そんな売り文句を思い出しながら、匙で崩した野菜をすこしずつ口に運ぶ。
そうして、出された分をきちんと食べきることができて、ほっと一息ついていたときだった。
「あの、これ、よかったらどうぞ」
「え?」
唐突に、知らない女の子からひざかけを渡された。見返すと、ちょっと困ったように外を示す。
「その、雪が、降っていますから」
「……ああ、ほんとうだわ」
言われて見れば、確かに白いものが舞っている。雪の降臨祭か……。トリステインではこの時期は滅多に降らないので、生まれて初めてだ。
――初めてで……最後かな。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
暗い空の中をひらひらと、花びらの舞うように、白い結晶が降ってくる。
「きれいですね」
「そうね」
心から同意する。
おなかはくちて、ひざかけはあたたかく、むきだしの頬に触れる外気は適度に頭を冷やしてくれて――ひさしぶりに穏やかな気分だった。
そのまま、ぼんやりと外を眺めていると、ふとジェシカの言葉を思い出した。そういや、なにかしろって言っていたっけ。そう、たしか『アレ』を連れて帰れって……。
――『アレ』ってなにかしら?
改めてジェシカに尋ねると、忙しかったらしく言葉もなく、くいと親指で店の隅を示された。
見ると、奥の席でサイトが酔いつぶれていた。
「………………なにしてんのよ、あいつは」
***
周囲で飲んでいたルネ達によると、どうも顔見知りの気安さに甘えて、開店前から店に居座っていたらしい。彼らがやって来たときには既にできあがっていたというから、店長達が私を無理やり引っ張ってきたのも、このせいだろう。
――お世話になった人達に迷惑かけるんじゃないわよ、もう。
胸の内で呟きながら、私は彼に近づいた。
だいぶ飲んだらしく、テーブルに突っ伏して意識を失っているサイトは首まで真っ赤だった。手には飲みかけのボトルが握りしめられている。さらにその傍には、ぼろぼろになったコルク屑。
それらは“なぜか”黒っぽい粒と白っぽい粒で二つの山にきっちり分けられていた。
――……なんか、すっごい既視感だわ。
唐突に思い浮かんだ光景――背中を丸めながら、ひとり、コルクをぷちぷちとむしっている使い魔の姿――に、私は思わず顔をしかめた。
「……けっこう根暗よね、あんた」
相手が眠っているのをいいことに、いろいろと棚上げする。我ながらいい気なものだ。――もし彼が起きていたら、こんなふうに気安く近づくこともできないくせに、ね。
スーピーと鼻息を立てて眠る、呑気な使い魔。その寝顔を前に、どうしたものかと立ち尽くす。連れて帰れって言われても、ひとりで抱えていけるわけもないし。
ぐずぐずとしていると、後ろから声をかけられた。
「おや、ルイズじゃないか! 君も来てたのかい?」
「あら」
振り向き、懐かしい顔に目を丸くする。王軍の士官姿をしたギーシュだった。
「ひさしぶりね、ギーシュ。こんなところでどうしたの?」
なぜか大皿とジョッキをそれぞれ手に持った友人は、たはは、と困ったような顔で笑う。
「いやあ、その、彼に捕まってしまってね」
「え――」
この戦争には人手不足を補うために、学院の男子生徒達も即席の士官として駆り出されている。ギーシュもそのひとりで、本隊に所属していた。
降臨祭ということで遊びに出たところを、運悪く、この飲んだくれに捕まったらしい。
「さっきまで騒いでいたんだけど、いつのまにか寝入っちゃったな」
「そう……」
悪かったと謝るのも変な気がして、私は言葉につまる。
だいぶ悪い酒だったらしく、無理やりギーシュを引き留めてしゃべり倒したあげく、勝手に酔いつぶれたとか。おかげで僕はぜんぜん食事もできなくってさ、すっかりおなかが空いてしまった、とギーシュは苦笑しながら、席に着く。
私も促されるまま、その前に座った。
「なにを話していたの?」
「あー、うん、それがなんだか要領を得なくてね。僕が捕まったときにはもう完全に酒が回っていたし――」
答えもそこそこに、がつがつと食事を始めるギーシュ。その勢いに呆気にとられる。
――なんか、変わったわね。逞しくなった……?
そういえば――例のロマリア人の竜使いから聞いたことを思い出す(以前わざわざ見舞いに来てくれたときに、すこし話をしたのだ)――たしか、ギーシュって先の作戦で叙勲しているんじゃなかったかしら? 私自身は体調を崩していて、その叙勲式には出れもしなかったけど。
話を振ると、途端にギーシュはものすごく嬉しそうになった。
「そうなんだよ。ほら、」
と手を止めて、いそいそと胸元の勲章を示す。聞けば、初陣で一番槍を挙げたらしい。他にも戦果を挙げ、それらを認められての叙勲だそうだ。兄上に祝福をしていただいたと語るギーシュは本当に嬉しそうで、普段の見栄っ張りとは違うその様子が、なんだか微笑ましい。
「良かったわね」
「はは、ありがとう――」
心から告げると、ギーシュは照れくさそうに応えた。
「でも、もっと手柄をあげないとね。一人前の士官になりたいんだ。モンモランシーに認められるような」
「だいじょうぶよ。きっとモンモランシーも喜ぶわ。あなたは立派な貴族だもの」
大したことはできないけれど、お祝いにおごってあげようとジェシカに合図を送ったときだった。
「――ばっかじゃねぇの」
隣のサイトがむくりと顔をあげた。
***
吐き捨てるような暴言に、真っ先に反応したのはギーシュだった。音を立てて立ち上がる。
「な! 誰が馬鹿なんだね!? どうして馬鹿なんだね!?」
上擦った声とともに、薔薇の造花のついた杖を振り回す。
一方、サイトも負けていない。
「へ、馬鹿に馬鹿と言って何が悪いんだよ! なにがモンモランシーに認められたいだ。アホかっての!!」
「――ちょっと」
そのあまりの言いぐさに、私も机を叩いて立ち上がった。
「止めなさい! 私の友人を侮辱するのは許さないわよ、サイト!」
……と、その名を呼んだとき、かすかな違和感があった。そういえば、ひさしぶりだわ。彼と向かい会うのも、その名を呼ぶのも――でも、それがなに?
私は意識的にそれを無視し、目前の使い魔を睨みつけることに集中する。サイトは不承不承といった様子で、こっちを見た。
「……なんだよ?」
「早くギーシュに謝りなさい」
低い声で告げると、ふて腐れた顔で視線を逸らす。
――なによ、その態度は!
怒りに体が震え、ぎりぎりと歯噛みする。こいつったら――『使い魔』なのに――ひねくれてばかり――どうしてよ?――いつまでも――ホント、根暗なんだから――いつになったら元に戻るつもり?
抑えきれない苛立ち。その底に、声もなく積み重なっていく別の感情がある。(……いつか、元に戻るわよね……?)
「こっちを見なさい。サイト! 聞いているの!?」
問い詰める私に、サイトは黙って、ぐいっと手元のボトルの残りを一息に飲みほした。――はあ!?
「アンタねっ、お酒に逃げるんじゃないわよ!」
「うるせーーっ!」
充血した目で怒鳴るサイトは、絵に描いたような飲んだくれダメ男だ。あるいは、癇癪を起こした子供か。
――もう! ほんとになんなのよ、こいつ!!
こっちの方がよっぽど怒鳴りたい気分で、私は眉を逆立てる。そもそも私には飲むなって言うくせに、自分は堂々と酔っぱらうって――。
禁酒の恨みもあわさって、怒り心頭に発したところへ、使い魔が偉そうにのたまった。
「たしかに俺は頭もわりぃーよ。学もネェでしょうよ。ご立派なお貴族様から見たら、そこらの石よりも無価値な平民かもしんねーな。でもなあ、俺に言わせれば、お前らの方がよーっぽど大馬鹿だねっ!」
「……どういう意味よ?」
自分の声も、顔も、どんどん冷たく強ばっていくのを感じる。それを止める気にもなれない。
そして、サイトもそれを無視した。
「だいたいなあ、ギーシュ。お前、モンモランシーの気持ち、本当にちゃんと考えたことあるのかよ? 手柄だ名誉だ言うけどさ、それでお前が死んじまったら、モンモランシーはどーすりゃいい? 『頑張ったのね、ステキ!』だなんて言えると思うか?」
「それは――」
「――名誉のための死よ。モンモランシーもきっと誇りに思うわ」
絡まれ口ごもるギーシュに代わって答えると、サイトがようやく私を見た。
「なんだよ、それ。名誉の死? 名誉って、本気でそう思っているのかよ?」
「ええ。私達貴族には当然のことだわ」
「はあ? じゃあ、お前らはそのためなら死ぬのも怖くないっていうのか? 名誉のためなら誰が死んでもかまわないっていうのか?」
その的確な言葉に、思わず、私は微笑んだ。
「その通りよ。貴族にとって、名誉は命よりも大切なものだもの。貴族の全てと言ってもいいわ。それを失ったら貴族は貴族でなくなる。だから、貴族は名誉を守るために戦う。そのために死んでも、それは誇るべきことだわ」
謳うように、その『道理』を説く。
誇るべき、死。だから、誰も悲しんだりしない。嘆いたりしない。泣いたりしない。
それはなんて素敵なことだろう。
そんな思いにふけっていたせいか、次の言葉の意味がとっさに掴めなかった。
「……お前もそうなのか? それでいいのか?」
「なにが?」
きょとんと問い返すと、サイトは意地になったように言葉を重ねる。
「だからだな、その、たとえば名誉のために死ねって命令されたら、お前は死ぬのかって訊いているんだよ!」
「当然よ。陛下と祖国に捧げた命ですもの」
答える私をサイトが見る。酔いが消え、どこか青ざめた顔で。
「じゃあ……お前は死ぬためにここに来たのか? 死にたくてここに来たのか?」
その通りよ、と再び頷きかけて――止まる。
――違う。
思うと同時に、口が勝手に答えていた。
「違うわ。私は陛下のお役に立つためにいるのよ」
「でも、死んでもいいと思っているんだろ?」
即座の返しに、まじまじとサイトを見つめる。
「あんた、一体なにが言いたいのよ?」
「……別に。……ちょっと……気になっただけだ」
ぐずぐずと言葉を濁す使い魔に、私は再び苛立ちの目を向ける。なんなの、はっきりしないわね。
「……なあ、もういっこ、訊いてもいいか?」
「あによ」
いい加減、絡まれるのにも飽き飽きだわ。そう投げやりになる私に、彼は言った。
「もしここで俺が死んだら、それも『誇りに思う』。そう言って、それでおしまいなのか?」
***
――え?
不意に周囲が冷えた気がした。
――なに? サイトが死んだら……?
「な、なんで、そんなこといきなり――」
「どうなんだ? 答えてくれよ」
「し、し知らないわよ。いいいまはそんな話してないでしょ!」
「は? そういう話だろ?」
「違うわよ!」
叫ぶ。それは私の話で――サイトが死ぬ?――そんなことあるわけない――そんなこと――巻き込んだりしない――ケド、
(『ここは『戦場』なのよ』)
いつかの自分の声がして、喉が小さく音を立てた。
「ちがう」
そうよ……“違う”わ。私が……間違っている。
サイトの言うとおり、これはそういう話だ。ここは戦場。これは戦争で――そこで彼だけが死なないなんて、ありえない。いえ、それどころか……、
私は思い出す。『ひこうき』の話。前に、サイトが話してくれたこと。戦争末期、私と同じ『ゼロ』の名を持つあの飛行機械が何に使われたのかということ。
――ああ、そうだわ。そうだった……。
胃が絞られ、心臓が凍える。苛立ちにすり替えていた感情が、今度こそ顔を覗かせる。不安が、明確な恐怖に姿を変えて、全身を支配していく。
ずっと目を逸らし続けてきたものが、そこにあった。サイトがあのとき「怖い」と言ったもの。私がずっと理解することを恐れていたもの。
「ねえ、サイト……」
おずおずと開いた口の中は、冷たく乾いている。
「……あんた、もしかして……死ぬのが……怖いの……?」
サイトははっきりと顔をしかめた。
「怖くちゃ悪いか。『死ぬのがうれしい』なんて、言う方がおかしいだろ」
「……へ、へえ、そう……そうなの……」
無造作に吐き捨てられた言葉に、喉が締めつけられる。下手くそなフリで、なんでもない風を装ったけれど、泣き笑いの表情の内側はパニック寸前だった。
――そりゃ、そうよね。違うんだから。当たり前だわ。サイトは、私とは違うんだから。
サイトは『死』を恐れる。ここで、この異国の――サイトにとっては異世界だ――この土地で、死ぬことを恐れる。それはとてもとても“真っ当な”考えだ。
それくらいは、さっきまでの私にも一応理解できていた。それが『人間』にとっては当たり前なことくらい、私でも“知っている”から。
そして、私は“違う”ことも知っている。
……否、知っていると思っていた。でも、それは違うのだとサイトは言う。
「なあ、ルイズ。俺にはお前らの言う、名誉だの誇りだのがわかんないよ。そりゃ響きはいいだろうよ。でも、それって本当に人の命よりも大切なものなのか? そんなもののために、本当に命を捨てるのか? それよりももっと大切なものがあるって思わないのか?」
次々とサイトが吐き出す“わからない”言葉は、鉛のように身のうちに溜っていった。それでなくとも、内から溢れるものだけで手一杯だというのに。
耳をふさいでしまいたい。そんな衝動をこらえ、うつむく。けれど、それはいつまでも止まらなくて。
「ずっとそういう風に教わって、育てられてきたのはわかる。でも、俺の言うことも聞いてくれよ。俺はこんなのおかしいと思う。俺はそんな理由で死にたくないし、そんな理由で誰かが死ぬのも納得できない。なんで俺達が死ななきゃなんないんだ? なんでそんな風に死に急ぐ必要があるんだ? なあ、」
私は。
「わかってくれよ。俺はただ、お前のことが――」
「やめて」
耐えきれず、声を上げた。
「……ルイズ?」
「もういいわ。もうわかったから」
「なに、」
サイトの言葉を押しとどめ、口早に答える。
「私が悪かったの、わかったから。ちゃんとわかったから」
それは偽りのない本心で、事実だった。
――そう、私が悪かった。ほんとうになにもわかっていなかった。
私は『死にたがり』だ。矛盾だらけの半端者。臆病者の卑怯者。ろくでなしのひとでなし――そんなことは知っている。
私が知らなかったのは――理解していなかったのは――、そんな主人を使い魔がどう思うかということを。
己の欲のために他人を戦場へ連れ出すような主人を、どうして信用できるだろう?
――だから、サイトは“私を”怖いと言ったんだわ。
気づけば、膝が震えていた。
戦場に連れてきて、死なせるつもりはない、だなんて――とんでもない浅はかさだった。言い訳のしようもない。
自分の愚かさが恥ずかしい。犯した過ちの重さが苦しい。無自覚な醜さに吐き気がする。そのために、たったひとりの使い魔からの信用さえ無くしてしまった。
ぐるぐるとうずまく自己嫌悪に目が回る。
――……ヤダ、気持ち悪い。
また貧血? 視界が歪む。手も足も冷えきって――ああ、でもここで気を失うなんて卑怯すぎる。
――逃げちゃダメ。
拳を固め、震える体を抑え込む。これ以上過ちを重ねないために、反省するよりも先にやらなければいけないことがあった。
唇を噛み、改めてサイトを見る。私の使い魔である平民の少年のことを。
この人は、貴族である私なんかよりずっと立派な人だ。誠実で優しくて、何事にも一生懸命で――それを私は知っていたはずだったのに、どうして忘れていたのだろう。変わったんじゃない。私がそれだけ追い詰めていただけなのに。
本当に、心から、恥ずかしかった。彼はそんな自分の不安さえ押し殺して、今までこんな私のそばにいてくれたのに……。
――その忠誠に、いえ、恩に報いなきゃいけないわ。
その思いに急かされるまま、私は言った。
「サイト。あなた、トリステインに帰りなさい」
「……あ?」
わけがわからない、という顔をしたサイトに、一言一言、言い聞かすようにはっきりと告げる。
「あなたはもう十分役に立ったわ。もう十分よ。武装のない兵器なんて、ただの荷物でしかないんだから、」
そうだ、そんな『荷物』を役立てる方法なんて、もうひとつしかない。この勝ち戦でまさかそんなことはありえないだろう。けれど――あの優秀で合理的な司令部の軍人達が、何かのきっかけで思いつかないという保証はない。そしてそれが必要となるときが来ないなんて、誰にもわからない……。
すぐにでもこの手を離さないと、彼は二度と自由に飛べなくなるかもしれない――。そんな不安に駆られて、私は早口になる。
「あなたの『ひこうき』と一緒に学院に戻って、それから『東』に向かいなさい」
それが彼の本当の望みで、そのための準備も資金ももう整っているはずだったのだ。こんな場所に、私が引っ張り込みさえしなければ。
これまでの己の、途方もない身勝手さにますます胸が苦しくなった。そんな自己嫌悪の中でむりやりに絞り出した声は奇妙に平坦で――もっとちゃんと言わないといけないのに、と歯がゆい。
「もう戦わないでいいわ、」
今までありがとう、とそれでもなんとか感謝を伝えようとしたときだった。
「ふざけんなっ!!」
バンッと破裂するような音とともに、サイトは両手をテーブルに叩きつけた。
「なんでそんなことを言うんだよっ!!」
噛みつくようなその剣幕に、私は呆然と立ち尽くす。
――……またなの……?
どうやら“また”サイトの中のなにかを刺激してしまったらしい。しかもその理由が私には“また”わからない。
――どうして、私はサイトに睨まれているの……?
「私はただ……」
わからないまま、口を開き、言葉を探す。これで何回目だろう、こんな風に睨まれるのは。毎度のように息詰まる思いにパニックに陥りながら、必死にこの状況を打開する言葉を求める。
「ただ、その……」
けど、なにも出てこない。握りしめたスカートのすそがくしゃくしゃと歪む。けれど……どうしよう……なにも考えられない……。顔がどんどん熱くなるのを感じる。鼻の奥が痛い。それでも、なにも考えられない。なにも……、
「どうしてわかってくれないんだよっ!?」
必死に訴えるサイトはほとんど泣きそうにも見えて。それでも、私はなにも答えられなかった。なにも、わからない。
――どうしたらいいの……?
途方にくれたそのとき、
「……あー、その、いい加減にしたらどうかね、君達」
あまりの醜態を見かねた様子で、ギーシュが割って入った。
「サイト、女性をそんなに怒鳴りつけるものじゃないよ。ルイズ、君も――」
「うるさいっ。お前は邪魔すんなっ!!」
サイトが噛みつく。それにこめかみをひきつらせながら、ギーシュはなおも態度を崩さない。
「そうはいってもね、目の前でやられちゃ口を出さないわけにはいかないだろう。ふたりともちょっと、頭を冷やしたまえ」
言われて見れば店中の視線が集中していた。ジェシカ達にも睨まれている――ああ、迷惑をかけてしまった。
後悔と共に、息を吐く。吸って、吐いて――なんとか冷静を装う。
「そうね、ごめんなさい、ギーシュ。サイト、とりあえず今日はもう部屋に戻っていて」
「まだ話は終わってないだろっ!」
「これ以上、皆に迷惑はかけられないわ。朝になったらちゃんと大幕営にかけあって、あなたが戻れるように手配をするから」
「まだそんなこと言うのかよ!!」
ガン! と今度は拳を叩きつける。震える拳をテーブルに押しつけて、ぎりぎりと歯を食いしばる。
「俺は邪魔か? だからもういいっていうのか?」
絞り出すように吐き出された問いは、また“わからない”言葉だった。
「お前の思い通りになんかさせてたまるか! 俺はお前の都合だけで動く『モノ』じゃない!!」
***つづく***
(230130)