ずっと苦しかった。
私はまるで水の中で孵ってしまった雛、或いは陸に投げ出された魚だった。
呼吸するたびに感じる、耐え難い苦痛。
此処に在ること、それ自体に対する、絶え間ない違和感。
それらは、いつから私のすべてになったんだろう。
苦痛と違和感。此処に在るべきでないという強い思い。その根底にあるもの。
ほんとうに考えるべきことはそこにあった。けれどそれに思いを巡らすことなく、私はただ目の前の苦しさから逃れることばかり考えていた。
それこそが最大の過ちだったのだと、気づいたときにはもう――――取り返しはつかない。
*** しにたがりなるいずさん 7の4 ***
私達は一緒に歩いていた。いつものようにサイトが先導し、私ははぐれないように、その袖口に掴まっている。
あたりは大勢の人間が立てる喧騒に包まれ、すぐ前を行くサイトの声もあまり聞こえない。もっとも、正直なところ、今はまだそれでいいと思う。
ぬかるんだ足下に気をとられているふりをして、私は終始うつむき、黙々と足を動かしていた。
動かしながら、考えていた。
大切なもののこと。
本音を言えば、私にとって大切なものは、ずっと、ちいねえさまだけだった。だいすきなちいねえさまへの思いだけが、私をこの生につなぎ留めていた。
もし、その唯一の繋がりが絶たれたのなら、私は即座に願いを叶えていただろう。すべてに背を向けて。
貴族としての体面、家名に対する義務――そんなものはただ、愛しい姉を裏切らないための、ちょっとした重石に過ぎない。いつかそのときが来るまでの、ちょっとした命綱だ。
姉以外のものは、すべて等しく無価値。
そのはずだった。
なのに、いつのまにか変わってしまった。
前を行くサイトの背中を見る。生まれてはじめて成功した魔法が連れてきた、私の使い魔。――そう、なにも望まなかったはずのあの日、あの召喚の儀にサイトが現れて……それからなにもかもが狂い出した。
この、おっちょこちょいで頑固でお人好しな使い魔が、なにもかもを変えてしまった。
その予想もできない言葉で、ふらふらと死に引き寄せられる私の気をそらし、その突拍子もない行動で、つかの間この目から憂鬱を払った。
病んだ私を前にしても逃げ出さないで――私が抱く、彼には決して理解できない願望にも気づかないまま――ひたすら私のことを私自身から守り続けた。
それは強引だったり、間抜けだったり、ときには呆れてしまうようなやり方だったけど……そんな彼なりのやり方で、サイトは私の世界を変えた。ときにあっさりと。ときに鮮やかに。
どこにもいけなかった私を連れ出し、いっしょに空を飛び、知らない世界を教え――そうして彼に振り回されているうちに、出会いが生まれ、友人もできて――私も、ときにはなにかの役に立てることを知った。
きっと今ここにいられるのも、姫様のお役に立つことができるのも、なにもかも、サイトのおかげだ。
「ルイズ?」
視線に気づいたのか、サイトが振り向く。
「ちょっと疲れたな。すこし休憩しようか?」
「そうね」
促されるまま、木陰に並んで腰を下ろす。ぼんやりと隣りのサイトに寄り添うようにしていると、胸の中から、とくとくとくと普段よりも速い心音が聴こえた。とくとくとくとくとくとく、と。
それはなにかに似ている。
――なにかしら……?
目を閉じて考える。けれどその答えを思いつくより早く、サイトは落ち着かない様子で立ち上がってしまった。
「俺、先の様子を見てくるよ。すぐ戻るから」
「……うん」
そして足早に去っていく。
ひとり残された私は所在なく、空を仰ぎ見た。冬の冴えきった青空。手をかざせば、はめたままの指輪に陽の光が反射する。
その光に、姫様のことを思い出す。
最後に会ったのは、ここへ発つ直前、王城へ挨拶に伺ったときだ。すこし青ざめた顔をした幼なじみに、私は、てっきり戦の準備に追われて疲れているのだと思った。けれど、別れ際に抱き寄せられ、勘違いに気がついた。
わななく声で小さく「ゆるして」と囁いた彼女。
その短い言葉にこめられていたのは、『おともだち』を戦争の道具にすることに対する深い慚愧と。それを口に出さずにいられない彼女の弱さ。
全部わかっていて、それでも、私はそれに曖昧な言葉で応えることしかできなかった。赦しを乞うのは私の方だと、言うことはできなかった。
……たぶん私達はよく似ているのだと思う。その浅はかさや弱さまで全部。だから、お互いにお互いの過ちを突きつけ合うこともできない。
上っ面だけのいびつな関係……なのかな。
少なくとも外からはそう見えるんだろう。だから、サイトにさえ理解してもらえない。
それでも、アンは私にとって『おともだち』だった。誰になんと思われていようと……大切な親友だった。
だって、あの娘は私のたったひとりの幼なじみだから。幼い頃、家族以外で私を必要だと言ってくれた、たったひとりの『おともだち』。
雲ひとつない晴れ渡った空を見上げる。この空の向こうに、姫様がいる。姫様が治める国がある。
私の国がある。
高すぎる空は、故郷を、生まれ育った公爵領を思い出させた。
あまりに広すぎて、どこにも行き場のないように思えたあの場所。閉ざされた世界で、幼い私は毎日、逃げ出すべきなのか隠れるべきなのかわからないまま、さ迷っていた。自分の家だというのに、どうしても馴染めなかった。それがいつも辛くて苦しくて哀しくて恥ずかしかった。
それでも、あそこが私の家だった。あそこには私の家族がいた。
お父様は、私に貴族の務めを教えてくれた。土地を治めること、王家に仕えること、民を守ること。その中には魔法ではできない、魔法ばかりでない、貴族たるための務めがたくさんあることを教えてくれた。
練習のやり過ぎで倒れた馬鹿な私を、家まで運んでくれたのは、いつもお母様だった。きっとずっと、その無為を見守ってくれていた。
上の姉様は、強情っ張りの私が間違えるたびに、それを正そうとしてくれた。不器用な力づくでも、決して諦めずに私を叱り続けてくれた。
そして、いつも変わらず、幼い私を優しく包んでくれたちいねえさま……。
皆、あの場所でそれぞれに私を愛してくれていた。そのすべてを受け止めるには私はあまりに小さすぎて、逃げ出すことしかできなかったけれど。
本当はちゃんとわかっていた。
私の国。私の大切な人達がいる国。
家を出て知り合った人達もいる。学院の先生方と同級生達の顔を、覚えている限り、ひとつひとつ思い浮かべる。それから、一緒に旅をした友人達のこと。いつのまにか、そばにいてくれた人達。皆で食事もした。王都でサイトと働いた、失敗ばかりで叱られた、すこしだけ褒められたあのお店。親切な店長、厳しいジェシカ、明るい同僚達――。
――……そういえば、皆はどこにいるのかしら。
右往左往する人の中に姿を探すけれど、見つからない。心配になって、探しに行こうかと腰を浮かせたとき、不意に遠くから声が聴こえた。私を呼ぶ、
「ミス・ゼロ」と。
そのとき、雷に打たれたように、私は理解した。無意識に指をのばし、肩に提げていた祈祷書をそっと撫でる。
『ゼロ』と『虚無』――それは私を表す最も適した名。そして、王家の血がなぜか傍系の私に授けた、始祖の力。
正直なところ、今まで私にはこの力の価値がまるでわからなかった。もちろん、この第零の系統が『伝説の』『奇跡の』と称されるべきことは知っている。でも、それがこの身に宿っていると思うと、とたんにその仰々しさが可笑しくなってしまうのだ。
だってそうでしょう? たとえコレがどれほど偉大なモノだったとしても、それを扱うのはこの『私』なんだもの。しょせん、ただの『死にたがり』。なにがあっても、それが変わるわけじゃない。『ゼロ』は『ゼロ』のまま……。
そう思っていた。
でも、そんなのは間違いだった。彼らはちゃんと私を変えてみせた。
もしかしたら、それは皮肉かもしれない。魔法は私を今の『私』たらしめた、はじまりのひとつでもあるのだから。
それでも、今は素直に感謝したいと思う。
彼らは本当に大切なものを教えてくれた。今まで私が背を向けてきた世界。友人。家族。たくさんのものがここにあること。
そう、目を向ければ、ここに。大切なものがたくさん……。
気づけばもう、約束した答えは出ていた。
在るべき場所。なすべきこと。いちばん、大切なもの。
だから――、
再び呼ばれ、求められるままに立ち上がった。歩き出した私はもう、うつむいてはいない。ただ真っ直ぐに前を見て、急かされるままに足早に人々の群れを通り抜けていく。
なすべきことをなすために、在るべき場所へと向かって。
***
――ねぇ、ルイズ・フランソワーズ。
胸のうちでひとりごちる。
――たとえどれほど偉大なちからがあっても、たとえ世界中の人がそれを称賛しても、ね。きっと私はあんたを認めない。あんたは『死にたがり』。矛盾だらけの半端者。卑怯で臆病でわがままなろくでなしよ。
でもね、とかすかに笑う。
――そんなあんたを、あの人達は大切だと言うの。私の大切な人達はあんたを愛していると言うの。だから、私もすこしだけ信じてあげる。
うそぶきながら、告げる。
――死にたがりは止めましょう。それよりもずっと大切なものが、ここにあるんだから。
見つめる先には、自分の手。小さく、非力なその手を。
挑むように、睨みつける。
――私のいちばん大切なものを、あんたに預けるわ。だから、最後まで守りきりなさい。
そして私はこの手に、司令官代行が差し出す最後の命令書を受け取った。
***
仮設司令部の天幕を出ると、あたりは混乱の只中だった。それもしかたない。なにせ敵軍に追われて必死の逃走をしている最中なのだから。
奇襲があったのは、まだ降臨祭の期間のことだった。王都まであとわずかというところで、一体何が起きたのか――司令部でさえ、いまだにきちんと把握できていないらしい。私もさっき初めて司令官が戦死されていたことを聞いたくらいで――わかったのは、あの日突然、万単位の味方が寝返り、同時に敵襲を受けたことくらい。
そして今、その数万の敵軍は再び迫りつつある。
数日前までは勝利を確信していたはずなのに、なにもかもがひっくり返っていた。兵達は皆、最初の奇襲とその後の強行軍のために、身も心もぼろぼろだ。怒号がそこかしこで響き、罵声がそれに応える。規律は瓦解し、統率は崩壊。無秩序な喧騒の中で『名誉』はとうに消え去り、エゴがむき出しになったその姿が彼らの本音を訴えている。“死にたくない”と、誰も彼もが叫んでいる。
そんな中で、私のまわりだけがひどく静かだった。
人の流れに逆らって歩みながら、改めて命令書を開いた。今一度、記された文字を瞳に映す。
オーダーはシンプルだ。
『友軍の撤退を援護せよ』
つまり、フネが逃れるまでの時間稼ぎ。街道にて敵兵を足止めしその場を死守せよと、その方法も細かく指示されている。
殿ね、と私は頷く。名誉の殿。名誉しかない御役目だ。降伏はない。撤退もない。
――でも、これは死ぬために逝くんじゃないわ。
無意識に命令書を握りしめながら、自らに言い聞かせる。
――これは、守るために行くもの。大切なものを守りたいから、行くの。
ゆっくりと噛み締める。
あたりは不思議と静かだった。周囲の声も音も、なにも聞こえない。その静かな中で――――――カチカチと小さく、私の歯が鳴っていた。カタカタと小刻みに、体が震えていた。
――……………………怖い。
いつのまにか呼吸は浅く、早くなっていた。手の中では命令書がくしゃくしゃによれている。わななく両手。それを止めることもできないくらい、私は動揺していた。心底、怖くてたまらなかった。
ひとつの可能性が頭から離れない。
――もし失敗したら……どうしよう……。
もしここで私がしくじったなら、きっとこの兵達は皆、殺されてしまうだろう。ううん、それだけじゃないわ。そんなことになったら、きっと祖国にだってその累は及ぶ。
この軍を揃えるのに姫様がどれだけ無理をしてきたか、私は知っている。これだけの兵を一度に失って、私の国にはどれだけの力が残るだろうか。
もしここで私が皆を守れなければ、きっと私の国は負けてしまう。
大切なものがみんな、無くなってしまう。
だから落ち着かなきゃいけない、しっかりしなきゃいけない、と思うのに。
恐れと焦りばかりがどんどん積み上がって、私の体を重くした。“失敗するかもしれない”“大切なものを守れないかもしれない”。そんな不安が次々と浮かんで、私の心を押し潰す。
――苦しい。
なのに。死ねばいいと。死ぬべきだと。死ぬためなのだと。そんな言い訳はもう通用しない。口の中は渇ききって、ひざはみっともないくらい震えている。
けれどそれは、とても正しいことのように思えた。
――こういうことだったのね……。
唇を噛みながら、私はかつてのデルフの言葉を思い出していた。
以前、私がサイトの怖がっているものが「わからない」と訴えたときのことだ。剣はそれを、私がオーク鬼に立ち向かったのと同じ理由だと言った。
そのときはただ『死への恐怖』のことを言っているのだと思った。(だから咄嗟に過剰に反応して、拒絶してしまった。ただ自分のことだけを考えて、死の誘惑に乗りかけたことを恥じていたから。)
でも、デルフが本当に言いたかったのはそうじゃなかった。
今、ようやくわかった。
考えるべきは“死を求めた”ことじゃなくて、それでも“まだ生きている”その理由。
あのとき、私が踏みとどまったのは――サイトの声がしたから。ルイズ、と叫んだ、その必死な声を背中に聴いた瞬間、わかった。私がここで逃げ出したら――次はサイトが殺される――だから――私はあのとき杖を振った。
サイトが死んでしまうのが“怖かった”から。
緊張に青ざめた頬に、思わず笑みがこぼれる。
――デルフ、すごいわ。私でもわかっていなかったのに……みんな、知っていたのね。
そして、私は本当になにもわかっていなかった。自分のことさえわかっていなかった。
――でも、もう大丈夫。
私はしっかりと顔を上げると、頼りない足を叱咤して、もう一度歩き出した。
***
指示に従って、馬を借り受けた。用済みの命令書はきちんと折りたたんで、祈祷書の間に挟み込む。それから、高くなった視点を最大限に活用して、周囲を忙しく探した。
すぐに目的のものが見つかったので、ほっと息を吐く。
ちょうど、あちらから駆けてくるところだった。目が合うと向こうも「やっと見つけた」と言いたげに息を吐く。
「ルイズ!!」
その声に、また、心臓がとくとくとくと動き出していた。私の意思と無関係に、とくとくとくとくとくとくと勝手に騒ぐ。
まるで、と私は思う。
――胸の中のいちばん柔らかいところに、臆病な小鳥をつめこまれたみたい。
活発な心臓に促されて指先に熱が戻り、肩がすこし軽くなる。でも息を整えるのは、なかなかうまくできない。
「サイト」
向き合った彼は、むっつりとした顔で上目遣いに私を睨んだ。
「なにしてんだ、そんなもんに乗って。どこに行くつもりだよ」
「――どこにも行かないわよ。あなたを探していたの」
そう言って馬から下りる私を、納得いかない様子で見つめるサイト。怒っているように見せたいみたいだけど、その顔はあからさまに不安げに揺れていて――私を心配していた。
そんな不器用な優しさがくすぐったくて、つい微笑ってしまう。
――……変な感じ。サイトの顔を見たら、怖いの、どこかにいっちゃったわ。
こんなときまで惚けてしまえる自分がおかしくて、バカみたいで、でも、嫌いにはなれなかった。
そんな私に、サイトが顔をしかめる。
「なんだよ?」
「なんでもないわ。そんな怖い顔をしないで――話があるの」
どこか静かに話ができるところを探して、私はすぐそばにあった教会へ彼を促した。
「……なんにもないわね」
「ああ、ずいぶん前にみんな逃げちまったみたいだな」
きょろきょろと無人の内部を見ながら、言い合う。
もっとも、さびれてはいても、荒んだ印象はなかった。古いステンドグラス越しにきらきらと光が降り注ぐ空間には、特有の、全てから切り離されたような静けさが残っている。
無条件で人を敬虔にさせる、そんな場所だ。
だというのに、私の心臓はあいかわらず気ままだった。
「それより、ルイズ。なにか俺に言うことがあるんだろ」
サイトが私を見る。私の名前を呼ぶ――ただそれだけで、勝手気ままに騒ぎ立て始める。とくとくとくとくとくと。野の鳥のように知らぬ間に棲みついて、高すぎる熱と早すぎる鼓動で私をせき立てる。
その正体に、私ももう気づいていた。
――……でも、いまは黙っていてね。
大切な話をしないといけないから、とその子をなだめ、言葉を探す。
「あのね――」
答えが見つかったの、とそう告げるつもりだった。
だったんだけど……、
次の瞬間、口は勝手に動いていた。
「キスして」
はっと我に返ったときにはもう遅かった。
「えっと? あれ? ルイズ、今、何て――……」
完全に予想外――そう告げるサイトの口調に、私は自分の『失言』に気づいて――みるみるうちに、赤く茹であがった。
「あ、ああ、あああの――――――っ、
――――――い、いいまのなしっ!!」
「………………は?」
ぽかんと口を開けてサイトがマジマジと私を見る。耳まで赤く染めて、肩で息をしている私を。
「あ、ああああああっ、あのっ、そのっ、そうじゃなくって――」
あうあうとうめく。なんとか言い訳をしようと焦るけど、言葉が見つからない。頭のてっぺんから湯気が出そうだった。首から上も全部真っ赤に茹で上がって――――ああもうっ!
「なしって――」
「いっ、いいいでしょっ! そ、そそのっ、いいいいいまちがえたのっ!」
――って、なによ、その言い訳は!?
理性が悲鳴をあげる。それでも私の挙動不審は止まらない。なによりも、思いがけず零れてきた本心の、その欲求の直球ぶりが、私を動揺させていた。
――キキキキスとか、なにをいきなり色呆けてるのよ、私は! もっと先に言うべきことがあるでしょうが! ほんとにもうっ!!
恥ずかしさを誤魔化す為に必死に自分を叱りつけていると――それまでほとんど黙っていたサイトがようやく口を開いた。
「ルイズってさ……」
「な、ななななによっ!?」
「けっこう恥ずかしがりやさんだよな。いっつも無防備なのに」
すごく、しみじみと言われた。
「っ!? どどどういう意味――っ」
「大丈夫か? 声、震えてるぞ?」
「わ、わかってるわよ!」
のほほんとしているサイトに、思わず噛みつく。普段だったら私と同じくらいテンパっているはずのサイトが、妙に余裕綽々なのが、すっごくくやしい――って、そうじゃないでしょ、もうっ。
私は、改めて自分を叱りつけた。
――しっかりなさい。今がどういうときか忘れたの? 最後なのよ。こんなバカみたいなことで無駄にしている時間はないの!
言い聞かせて、もう一度サイトを見遣る。
すると、さっきの『本心』の出所がわかった。ああ、そっか――……
キスから始まったのだから、キスで終わるのが正しいと思ったのだ。
この奇蹟のような出会いを。
(――もちろん、それだけじゃないけど)
ため息が出そうだった。だって、わかったからと言って、今さら何食わぬ顔でそれを伝えることができるわけもない。
そう、それは絶望的に難しかった。主にこの性格のせいで。
――ほんとうにどうしてこんな性格なのかしら……。
頭を抱える私に、サイトが声をかける。
「本当に大丈夫か? どっか具合でも悪いんじゃ――」
「わ、悪くなんかないわよっ」
この性格以外は――――なんて、自分でまぜかえしていたら、心底、情けなくなってしまった。ああ、穴があったら埋まりたい。決意も忘れて、いますぐ自分を爆殺したい。
でも、そのどちらもできない私は、うう、と再びうなるしかできなかった。
――なんで、いつもこうなのかしら? こんな大事なときに、まともに話ひとつすることもできないなんて……ほんと、最低……。
鬱々と落ち込みだしたら、見かねた様子でサイトが言った。
「ほらほら、あんまり考え込むなって――」
うつむく私を、よしよしと慰める。
「焦らなくていいから、俺はちゃんと待ってるから。な?」
――……サイト。
ああ、そうか、と気づく。いつもの私の悪いクセだ。小さなところでつまずいて、ひとりでぐるぐる考え込んで、自分の中から抜け出せなくなってしまう――。
でも、そんなとき、いつもそこから連れ出してくれる手が、いまも私の頭を撫でていた。
「…………」
深呼吸。じんわりと熱い頬をまだ少し気にしながら、私はなんとか精一杯の自制心と勇気をふりしぼって、顔を上げた。
「あ、あのね――」
口ごもりながら、なんとかサイトの顔を見る。できるだけまっすぐに。いつかの彼のように。
「私も、やっとわかったの。ほんとうに大切なもの」
「うん――?」
余計なものが混じらないように、急いで告げる。
「私の大切なものはね、あなたよ、サイト」
言えた――その喜びに心臓がとくとくと跳ね回る。ちょっと得意げなその勢いに押されて、すらすらと言葉が零れる。
「前に言ってくれたでしょう、私を大切だって。それと同じようにね、私もサイトが大切だってわかったの」
自然と笑みを浮かべながら、心から告げる。
「ようやくわかったの――それも全部、あなたのおかげよ。ありがとう」
それは思いがけず、誇らしい瞬間だった。
なのに、
「………………そうか」
そう呟いたサイトの顔は、なぜか今にも泣き出しそうに見えた。
――え……?
戸惑う私の前で、彼は小さな声で繰り返す。
「そうか……『同じ』か……」
――サイト?
思わぬ反応に、私はぽかんとしてしまった。
「どうしたの……?」
「うん……?」
ぼんやりとしたその様子は、いつもの挙動不審とも違っていた。
「うん、じゃなくて…………『そっか』って、それだけ?」
「それだけって…………ああ、いや、嬉しいよ。ほんとに」
無理に笑っているような、うつろな応えに、私はなんだか自分が悪いことをしてしまったような気になった。(ま、まさか、迷惑だった?)(で、でででも、サイトだって『同じ』ことを――)
けれど次の瞬間、そんなものは全部吹き飛んだ。
「ルイズ――」
突然、かすれた声で呼ばれたと思ったら、私はサイトの腕の中にいた。
――……え!?
サイトが両腕を伸ばして私を抱きよせたのだ、と理解するより早く。ぎゅっと、一瞬息が詰まるほど強く抱きしめられる。
「サ、サイトっ!?」
思わず、声が上擦る。けれど、サイトはただ黙って、私を抱く力を増すだけで。言葉にならない想いがその腕の力と熱に込められているみたいに――強く、強く――骨が軋みそうなほどに、強く――頼りないこのきゃしゃな体ごと全部――力強いサイトの胸元に閉じこめられるように――抱きしめられる。苦しいほどに。
耐えきれずに目をつむり、はぅ、とその腕の中で熱い吐息をもらす。溢れるほどの幸福が全身を満たしていた。
「サイト――」
熱に浮かされるまま、陶然と呼びかける。サイトはますますその力を強めて、私はあっさりと、その力と熱におぼれた。サイトの与えてくれる、その愛情に。我を忘れるほどの、その幸福に。おぼれて――――、
そこに込められた想いの意味を考えることもしなかった。
***
それから、どうやって離れたのか(どうして離れられたのか)わからないけど――私はいつのまにか、崩れた祭壇の前で彼と向き合っていた。頭の芯はまだ熱くて、片手もいまだに未練がましくその腕を掴んでいる。
でも、そろそろ、終わりにしないといけない時間だった。
「ねえ、サイト」
「なあ、ルイズ」
ほぼ同時に呼び合って、私達は顔を見合わせた。ぎこちない譲り合いの後、結局、私が折れた。
「あのね、私、あなたと仲直りがしたいの」
「仲直り?」
「ええ」
いままでたくさん傷つけてしまったことに謝罪を。それでもたくさんのものを与えてくれたことに感謝を。
だから、私は自分の右手を差し出した。『ごめんなさい』と『ありがとう』を伝えるために。
「……なんだ?」
「だから、その、仲直りの握手。……してくれない?」
「………」
それが、私の乏しい人生の中で一度だけ友人と交わした、仲直りのしるしだった。ところがサイトは手を出すそぶりもなく、じっとその手を見つめるだけだった。
「あ、あの……ダメ、かしら……?」
その無言につい弱気になると、妙に分別くさい苦笑いが返ってきた。
「いや、俺も仲直りは賛成だけどさー。こんなやり方じゃ、しまらないだろ?」
「え、」
「俺がもっと良い方法教えてやるよ」
その言葉に、ドキッとする。
「そ、それって、どういう――」
言いながら、ほのめかされたその『方法』を『推理』して、私は頬を染めた。本当は、私だってもっと別の『やり方』を望んでいた。(キスして)(もっと抱きしめて)(心臓がドキドキして、二度と止まらないようにして――)
――で、でもね! そんなことしてちゃ、ダメなんだからねっ!!
これから大切な御役目があるんだから――なんて、この期に及んでわがままな羞恥心を発揮している私に、サイトは、無造作に片手を突きだした。
その手には、ワインが一本握られていた。
――……へ?
「さかずきを交わすって言ってな。俺の世界じゃ、仲直りはこうやるんだ」
呆気にとられる私に、さらにどこから持ってきたのかマグを渡し、とくとくと注ぎ始める。……な、なんでこんなものまで……もしかして、さっきからずっと隠し持っていたの……?
さすが突拍子のなさには定評のある私の使い魔だった。
「わ、わけがわかんないんだけど……こんなときに酒盛り?」
「そうじゃないって。儀式だよ。同じお酒を飲んで、諍いは水に流して、改めて縁をつなぐんだ」
「縁をつなぐ?」
「お互いのことを許し合って、認め合って、『身内』になるって誓うこと」
「身内……」
私は、へえ、と陶製の器の中にたまった液体を見つめる。さすが、サイトの国。不思議な習慣があるのね……。
そう納得しようとするけれど、どうにも違和感があった。
「ねえ、サイト。それって本当に――」
ところがサイトは、どこまでもマイペースに、戸惑っている私には気づかない様子で言う。
「昔っからの伝統的な方法なんだ。喧嘩した同士が仲直りするときだけじゃない、他人同士が家族になるときもこれをやって誓いをたてる――」
「家族?」
「つまり、結婚式とかさ」
「え、」
あっさりと言われた言葉に、杯を落としそうになった。
「こぼすなよ」
素早くそれをおさえつけて、サイトは私にその杯をしっかりと握らせる。その手には妙に逆らえない力があった。私はされるがままになりながら、平静を装って(同時にほとんど失敗して)尋ねる。
「け、結婚式で、お酒を飲むの?」
「こっちじゃやらないか?」
「あ、当たり前でしょ。パーティならともかく、式では飲まないわよ。始祖の名の下に誓いを立てる神聖な儀式だもの――」
ふと、私は祭壇を飾るステンドグラスを仰いだ。きらきらと降り注ぐ天使様の光。それから、そんな私をじっと見守るサイトの目。
「この世界では、誓いはキスでするの――」
ささやけば、サイトは笑って頷いた。
「そうか。じゃあ、それもしなきゃな。日本流とハルケギニア流の両方で『仲直り』だ」
それは、いままで見た中でいちばん優しい笑顔だった。
「俺達らしくて、いいだろ?」
私は、声もなく、頷いた。
***
戦争の最中だなんて忘れてしまいそうになるくらい、なにもかもが穏やかだった。私はもう不安も疑問も失って、言葉さえ使うことも忘れて、そのひとときに浸っていた。
そして、そのときが来る。
儀式、と言ってもふたりきりだから、ただ寄り添うことくらいしかできない。誓いの言葉だって適当で。それでも、ステンドグラスの光がふたりを照らすさまだけは、唯一、このおままごとを真実らしく見せていた。
「ルイズ。いいか?」
優しい声に改めて尋ねられ、私の中の『恥ずかしがりや』がまた、はにかんだ。つい、目を伏せた拍子に、手にしたままだった杯に気がつく。
――そういえば、まだ口もつけていなかったわね。
お酒が入っているくらいがちょうどいいかもしれない。――私はその暗い水面を覗き込んでも、もう先程の違和感なんて思い出しもしなかった。
「ね、先にこっちにしましょう」
「え?」
私が杯をちょっと掲げて示すと、サイトはすこし困った様子になった。
「かまわないでしょう? なにかまずい?」
「いや、そんなことはないけど……」
口ごもる彼に私が訝しむと、不意に表情を切り替えて、に、と笑う。
「『あーあ、またアオズケかー』って思ってさ」
わざとらしい口調に、私もわざと澄まして答えた。
「そんなんじゃないわよ」
「へん、そうだろ。どんだけ俺が『マテ』させられてたと思ってんだ」
「あら、本当にしてないでしょ。その、大抵は。――だいたいいつも、そっちがひとりで気を回していただけじゃない」
なんて可愛くないセリフで応酬しながら、私は杯に口をつけた。杯を傾け、満たされたその液体をゆっくりと口の中に流し入れる。
ぼそぼそと言う、サイトの声がかすかに聞こえていた。
「……ほんと、そうだな。俺にもようやくわかったよ。俺がどんだけここで気を揉んだって……結局みんな勝手に決めて、勝手に行っちまうんだ……だったら……」
――サイト……?
私は、かすかな戸惑いとともに、口の中のワインを飲み込んだ。
「…………」
ふと見ると、サイトはぼうと突っ立ったままだった。
私は笑いながら、促す。
「どうしたの? サイトも飲んで。そういうものなんでしょう?」
「あ、ああ、うん――」
やがて目をつぶって、自分の杯を傾ける。その様子をじっと見つめながら、私ももう一度自分の杯に口をつけた。片手でそっと、胸元の彼にもらったペンダントを握りしめたまま、そのときを待つ。
そして――、
サイトが杯から口を離すのと同時に、私は不意打ちのキスを贈った。
最後のキスを。
(手からこぼれた杯は床の上で、かしゃん、と軽い音を立てて壊れた。)
*** しにたがりなるいずさん 7の4 ***
(「ルイズ――……」)
身のうちから響いた声にならぬ声に、私も声を出さずに囁き返した。
――バカね。こんな弱い薬じゃ、効かないわよ。
そして、口の中にわずかに残っていたワインを床に吐き棄てる。それから、胸元のペンダントを痛いほどに握りしめて、眠気を払う。
そう、長い間の習慣で、私の体にはすっかりこの手の薬に対する耐性がついていた。逆に、私が彼に口移しで与えたのは、モンモランシー特製のアレだ。
きっと夢も見ないで眠り続けるだろう。
そう思いながら、崩れ落ちる少年を抱き留める。
――……最初から気づくべきだったわ。サイトが私にお酒を飲まそうとするなんて、普通に考えたらアリエナイんだから。
それにしても、どうしてサイトは気づいたのだろう。命令書はしっかり隠しておいたのに、と不思議に思いながら、私は床に散らばった破片で傷つかないように、すっかり寝入ったサイトの体を支える。
――……重たい。
よっと勢いをつけて脇にどかした。
(――鼻をかすめる、少年の匂い――)
それから、床に落ちていた祈祷書を取り上げる。手にしたとたん、それは風もないのにぱたぱたとめくれ出した。求めてもいないのに、そこに記された無数のルーン達がきらきらと光を放つ。
かわいいものね、と思う。それは小さな子供が声をあげるさまに似ていた。
『みて、みて!』『ほら、ぼくをみて!』『ぼくはこんなことができるよ!』『こんなにやくにたつんだよ!!』
『だから、みて!』『ほめてよ!』『ひつようとしてよ!』『すてないで!!』
そう、ずっと彼らは私に訴えていた。自分の有効性を。私の可能性を。……きっと、そうして私を生かそうとしてくれていたんだろう。
私を守ろうとしてくれていたんだろう。
でも、もう遅い。
――ごめんなさい。はやく次のご主人様を見つけてね。
指輪を外し、本とともにサイトの懐にしまう。手を離せば、輝きはとたんに失せた。
(――外には、竜をつれた青年――)
「やあ」
外に出ると、傍らに愛騎を従えて、気の良い中隊長がいつかのように手を挙げた。
「ルネ」
私がその名を呼ぶと、にこにこと笑いながら尋ねる。
「どうだい? 仲直りはできたかい?」
視線をそらす。
「……わからないわ」
「なんだい、冴えないなぁ」
ぼやく彼に、私は用件を告げた。
「ねえ、お願いがあるの。これを、陛下の元までお返ししてくれないかしら。とても『大切なもの』なのよ」
すると、あらかじめ知っていたみたいに、竜騎士の少年はあっさりと頷いた。
すべてを託した竜はすぐに己の翼を広げると、音もなく空へ舞い上がる。私は、地上に取り残されたちいさな一粒となって、それを見送った。
(――竜が――でも――)
……それから、馬に乗って再び移動した。目的の場所にはすぐに着いた。すこしだけ実家のあの練習場所にも似ているその丘で、私は馬を放つ。どこへなりとも自由に生けるように、と。
私のためになにかが命を落とすなんて、あってはいけないことだから。
(――正しい理屈。けど、なにかが間違っている――)
私はささやかな物思いを振り払うと、己のなすべき役目に立ち戻った。
丘の上でひとり、杖をタクトのように構える。待ちかまえる七万の『聴衆』に向けて。
それは不思議な感覚だった。
いつもなら唱えるほどに失い、放つほどに無くなっていくはずなのに。
今はただ、失うほどに満ちていく。無くすほどに増えていく。
身のうちはあたたかく。私を包む世界には、ただのひとつの足りないものなどなくて。
そして――――――、
(私は満ち足りた夢の中でその声を聴いた。)
(「――ごめん、ありがとう、さよなら」)
< 第一部・了 >
とぅびー、おあのっととぅびー