私は、目の前に立つ彼の手をとった。右の手で左の手を。左の手で右の手を。
「な、なんだ?」
手が触れた瞬間、ぱちぱちぱち、と瞬く黒い瞳がなんだか可愛くて、笑ってしまう。すると一瞬固まった後――彼も、へにゃ、と笑い返してくれた。
そのときだった。これまで経験したことのないような気持ちが、ぱっと胸のうちに溢れた。嬉しいような、恥ずかしいような、ひどくあたたかくて、くすぐったい。
私は、唐突に広がったその感情に耐え切れず、思わず俯いてしまう。頬が熱い。
――照れ臭い。
――でも、やっぱり、見ていたい。
相反するふたつの気持ちがせめぎ合い、私は中途半端に顔をあげた。上目遣いに彼のことを見つめながら、その手を持ち上げる。
そして、自分の頚動脈へと導いた。
「ねぇ、サイト。絞めて――」
*** しにたがりなるいずさん 4 ***
アルビオン軍による侵攻を無事退けた結果、姫殿下は我がトリステインの女王として正式に即位されることになった。ということは、ゲルマニア皇帝との婚姻もなくなるのだろう。
祈祷書を返さないといけないわね、と考えていたところ、ちょうど姫殿下、じゃなくて、陛下から呼び出される。
ただし、使い魔も同行するようにとのお達し。
「なんで使い魔なんか……」
「大丈夫だって。女王さんに失礼のないようにすりゃいいんだろ、お前の面子は潰さねーよ」
「……お願いだから、一言も喋らないで頂戴」
従者にも関わらず、ちゃっかりと馬車の中に座っているサイトに、私は頭が痛い。
アルビオンから帰還したときも、場を弁えないこいつには苦労したのだ。姫様に向かって文句をつけたりして――まあ王子様の最期を伝えたりしていたらうやむやになったけど――。
「首輪でもつけておこうかしら?」
「……あのな、犬じゃねぇんだぞ」
「犬の方がよっぽどましよ」
サイトは、む、と一瞬口を尖らせた後――ちょっと表情を改めて、尋ねてきた。
「なんでだよ?」
「犬なら粗相をしても主人が叱られるだけで済むでしょう、」
いくら使い魔だ従者だと言っても、『平民(ひと)』が王宮で何かやらかしたら、そう庇いきれるものじゃない。きっと本人の首も落とされることになる。
サイトはようやく事の重さを悟ったらしい。静かになったのに満足していると、ぽそっと呟くのが聴こえた。
「……すなおじゃねー」
は?
陛下の御用というのは、『ひこうき』と虚無<ゼロ>についてだった。……まあ、突然わけのわからないものが戦場へ乱入してきたのだから、お調べになるのは当然よね。
お互いに事情を説明した結果、虚無のことは公表しないということで結論が出た。その上で、いずれまた虚無を役立てられるように、と祈祷書を内緒で下賜される。
王家への忠誠と国への奉仕は貴族の務めだ。是非もない。
のだけど……、
「待ってくれよ、こいつの魔法をあてにすんのはやめてくれ」
コノ使い魔ハ――さっきまで神妙にしていたはずのサイトが、突然陛下にタメ口。ああ、もう、ホント頭が痛い。
「サイト、黙んなさい」
「ヤダね。だいだいお前はほいほい引き受けすぎなんだよ! 毎回フラフラになってるくせに――」
「サイト!!」
鋭く叱りつけた瞬間――くらり、として、視界が狭くなる。
貧血だ。
まずい、と思ったときには、もう腰が砕けていた。みっともなくも座り込んでしまう。
「ルイズ!!」
――こら、王宮で、大きな声を、だすん、じゃない、の……
「ルイズ!?」
――ああ、ほら、ひめさまも……
意識が黒く塗りつぶされる。
***
サイトの手に触れられた私の首が、とくとく、と嬉しそうに脈打っている。私はそこに自分の手を重ね、彼の甲に刻まれたルーンに触れた。
使い魔のルーン――私と彼の絆――『一生』の契約――つまり、それが終わる瞬間を共に迎えるための、しるし。
これまで意識しなかったのが不思議なくらい、その考えはすとんと私の中に納まった。
そっとその文字を撫でる。
――サイトの手って、大きいのね。これなら片手でもへし折れるんじゃないかしら?
苦しいのは好きじゃないし、窒息した顔はみっともないから、そうしてもらおうと思った。
「ねぇ、サイト。サイトもその方がいいでしょ?」
ちょっと照れながら、尋ねてみる。すると――サイトはなぜか顎を落として、そんな私を見つめていた。
――間抜けな顔も、可愛いな。
ふわふわと浮き上がった頭でそんなことを考えていると、バッと彼の両手が私の首から離れた。
「なななななに、言ってんだよ!?」
「何って、サイトって可愛いなぁ、って」
「!!?」
――あれ、これは口に出していたかしら?
まあ、どっちでもいっか。
サイトは扼殺は好みじゃないみたいだ。それとも恥ずかしがっているだけかな?
「――ねぇ、サイトはどういうやり方が好き? サイトの好きにしていいのよ?」
***
意識が完全に途絶えていたのは、たぶん、そんなに長い間ではなかったと思う。気づいたときには、私はソファの上に身を横たえられていた。
「……虚無の……反動……もう…………」
「もし……こいつの……俺……さない……」
「そんな……せん……から、貴方も……」
ふたりの声が聴こえる。なんとなく様子はわかるのだけど、声も姿も霞がかったようにはっきりしない。金縛りにあったみたいに体が動かないのだ。
昔読んだ本に載っていた、臨死体験をした女の人の話を思い出す。……魂があくがれるって、こんな感じなのかな。
とにかく人を呼ばれなくて良かった、と思う。陛下の御前で倒れるなんて、恥以外の何物でもない――実家に知られたら、おしおきモノだわ。
たぶん、馬車での移動が響いたのだろう。虚無を放って以来、こういったことが増えていた。インテリジェンスソードのデルフリンガーに言わせると、精神力の使いすぎらしい。時間が経てば自然と溜まるらしいけど……今のペースだと、二十年後くらいかしら?
姫様が『治癒』のルーンを唱えるのが聴こえ、次第に聴覚がはっきりとしてくる。
「こいつ、全然自分のこと構わないし、気が気じゃなくて――」
「それで使い魔さんは――」
「ええ、まあ――」
相変わらず無作法なサイトに、姫様は普通に会話をしている。
そういえば、昔から色々と“こだわらない”方だった。王族、だからかしら。ちょっと、浮世離れしているのよね……。
「あ、っと。すんません。俺、女王様に失礼なことばっか言って――」
「いいえ。忠言、感謝いたしますわ。使い魔さんが仰るのもご尤もです。わたくしの考えが浅くて、彼女にはいつも迷惑をかけてしまって。それでもルイズは嫌な顔……はしますけど……なんだかんだでいつもわたくしの我儘を聞いてくれて、助けてくれました。お恥ずかしい話ですけど、わたくしはすっかりそれに甘えてしまっていたんですね」
しみじみと語る姫様。何なのかしら――
「でもどうか、これだけは信じてください。決して彼女を好い様に利用するつもりはありません――彼女はわたくしのたったひとりの、大切なおともだちなんです」
「ええ、わかりました」
「ありがとう。貴方のような方がルイズの使い魔でほんとうに良かった。どうぞ、これからも彼女のことをよろしくお願いしますね」
「もちろんです」
いつになく、きっぱりと頷く使い魔。そして、ソファに寝かされたまま、置いてけぼりの私。
――えーっと……ほんと、何なのかしら、この会話……。
なぜかこの短い時間で通じ合ったらしいふたりは、さらに私を肴に盛り上がる。
「そういえば……学院でのルイズはどうですか? おともだちはいるのかしら? 彼女、ほんとうはとても優しい娘(こ)なのにすこし誤解されやすくて、あまり他人を近づけないところもあるから、心配ですの」
「あー、確かにちょっと浮いてるところもありますけど、大丈夫ですよ。ともだちも、まあ、一応できたみたいだし、」
「あら、良かった」
「ヒトミシリっぽいとこあるし、自立心があるというか、なんでもひとりでやりたがるタチだから、あんま数はいないんですけどね」
「そう。もっと他人を頼ってくれたらいいんだけど……。わたくしが頼りないからかしら?」
「いや、単に頑固なんですよきっと――」
頭上で延々と交わされる使い魔と友人からの駄目出し。それを反論も許されないままを聞かされた私は、こういう状況を示す言葉を考えていた。ああ、そっか。
――なまごろし、だわ。
私は胸の中だけで深いため息をついた。
***
「ああ、そっか。お前、酔ってんだな! 酔ってんだよな!」
サイトは私を無理矢理ベッドへと押し遣った。
「今日は一杯しか飲んでないわよ?」
「いや! きっと酔ってる。だから、はやく寝ろ」
可笑しなくらい力説するサイトに、確かにそうかもしれないと納得する。だって、こんなに楽しくて、こんなにあたたかくて、こんなに幸せな気分なんだもの。
ええ、きっと、今の私はサイトに酔っている。
だからその酔いが醒めないように、彼の袖にすがった。
「じゃあ、サイトも来て。一緒に寝よ、」
「え゛?」
硬直した彼をベッドに引っ張り込む。え、え、とそれしか言わない彼は、大人しく私の隣に納まった。胸板に額を押し当てる。心臓の鼓動がいとおしい。
「あったかい」
「あああ、あの、俺、汗臭いし、あ、ああんまりひ、ひっつくと――」
「じゃあ、脱がしてあげる――」
「うえ、」
彼の上にまたがって、シャツに手をかける。ひとつひとつそのボタンを外しながら、その瞳を覗き込んだ。
「ねぇ、サイト。サイトの好きにしていいんだからね、」
硬直して、赤ん坊のようにされるがままの彼に、囁く。
「だから――」
黒い瞳の中に、桃色がかったブロンドの女が笑っているのが、見える。
「その手でしっかり、私のこと、殺してね、」
「あ――」
呆ける彼に、そっと口づけた。
***
私はなんとか動けるようになると、そそくさと王宮を後にした。戦勝祝いで沸く城下にサイトを残して、一足先に学院へと戻る。
くさくさしながら歩いていると、中庭に、妙に大きな穴が開いていた。
「素敵な墓穴ね、ギーシュ」
「……や、やあ、ルイズ」
覗き込むと、ギーシュと使い魔がいた。どうやらその使い魔、ビックモールが掘った穴らしい。
「浮かない顔をして、どうしたの?」
「いや、ちょっとね……」
どうやら何かやらかして、恋人に叱られたらしい。学年一の気取り屋のくせに、しょんぼりしてモグラに抱きついている姿は、お世辞にもかっこいいとは言えない。
――恋は盲目と言うけれど、本当ね。
私はしみじみと思う。傍で見ている分には小さなことで、浮いたり、沈んだり。どうしてあんなに忙しないのだろう。
ギーシュといい、キュルケといい、すごいエネルギーだわ。
あ、そういえば――
「キュルケ? さあ? 姿を見ないな。出かけたんじゃないかい?」
「また? あの娘、出席日数足りているのかしら」
「うーん。まあ僕も他人のことは言えないけどね、」
「そういえば『宝探し』の成果は『ひこうき(あれ)』だけだったの?」
「そうだよ。ほんとエライ目にあった、」
どうも彼は、彼女へ贈り物を買うための資金が欲しかったらしい。結果得たものは、無断欠席を補填するための大量の課題、そして、長時間放置していたことに対する恋人のご立腹。
――本当にモテるのかしら。
私は若干疑問を抱きながら、その後もしばらく穴の上に屈みこんで、底にいる彼と会話していた。
首筋にかすかにぴりぴりと来る視線を感じたけれど、わざと無視する。
***
明くる朝――
目が覚めた。
覚めてしまった。
なのに、いない。サイトが、いない。
部屋をぐるりと見渡して、それを確かめた私は――もう、寝台から下りる気力もなくて、そのまま再び芋虫みたいに丸まった。
――どうして、まだ……生きているの……
昨晩、結局サイトが何もしてくれなかったからだ。おだてても、宥めても、すがっても、何をしても――私を殺そうとはしてくれなかった。しまいに私が哀しくて泣き出してしまうと、慰めるようにずっと背中を撫でてくれたけれど、それだけだった。
泣き疲れて眠ってしまった私を置いて、どこに行ってしまったのだろう。
思考は空転し、心は奈落の底に落ちていく。体の中の空洞はからっぽのくせに、鉛を呑んだように重たい。寒い。冷たくて、指ひとつ動かせない。杖を取る気力もない。呼吸をするのもわずらわしい。
ああ、死にたいな――生ける屍のように横たわったまま、呟く。
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたいなのに死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない死ねない……
積み重なった憂鬱に押しつぶされてあともう少しで死ぬか壊れるかできそうなときだった――
「ルイズ……? まだ寝てるのか……?」
その声を聴いた瞬間、カチリ、と歯車がハマったみたいに、私の中の躁鬱は、強制的に切り替えられた。
――来てくれた!
そう思っただけで、気分はたちまち晴れ上がる。
まとっていた毛布を脱ぎすてて、ドアの傍で立ち尽くす彼のもとへと駆けよる。慌てすぎて、足がもつれてしまった。ほとんど倒れこむように、抱きつく。
「サイト!」
「うわっ、と、とと」
重かっただろうに、それでもサイトはちゃんと抱き留めてくれた。
それが嬉しい。
衝動のままに、そのまま彼の首にぶらさがるようにすがりつく。鼻先を埋めると、汗くさい男の人の匂いがした。それから、かすかにまざった血の匂い。
――え? 怪我しているの?
慌てて、その肩や胸、背中を撫で回す。何処にも傷のないことにほっとすると同時に、その拳に痕が残っていることに気がついた。腫れ方からして、なにかをでたらめに殴りつけたのだろう。
――痛めたりしていないかしら?
手を取ろうとすると、彼は驚いて身を引いた。なかば突き飛ばされたかたちで、私は寝台に戻される。勢いに身を任せたら、ごん、といい音を立てて後頭部が壁に当たった。
「痛い……」
「あっ、わるい!!大丈夫か!?」
「……ええ、大丈夫よ」
自分のドジっぷりが照れ臭くって、笑ってしまう。よいしょ、とそのままベッドの上に立ち上がった。
「サイト」
ちょいちょいと招くと、おそるおそる近づいてくるサイト。寝台で稼いだ高さを利用して、その頭を抱きしめた。
「おかえりなさい」
「う、あ……た、ただいま……」
頭頂のつむじにキスを落としてから、身を離した。
「それで――」
「う、うん?」
「――縊殺にする? 殴殺にする? それとも、焼殺?」
わくわくしながら尋ねたら、なぜか彼は膝からへなへなと崩れ落ちてしまった。
――調子、悪いのかしら?
「……ぜんぜんなおってねぇ……」
なんのこと?――あ、そうか。
「あのね、いさつっていうのは、首をしめて殺すことで――」
「そういうことじゃねぇよ……というか、もう、後生だから黙ってくれ、」
「――ひどい、」
その冷たい言葉に私は俯き、ベッドに膝を抱えて座り込む。いじいじと足の先をいじっていたら、サイトがようやくこっちを見てくれた。
一瞬だけ。
「っ!?」
げほっごほっと派手に咳き込む。どうしたの。ほんとうに、具合が悪いのかしら?
ベッドに四つ足をついて彼の方へとにじり寄ると、真っ赤な顔で尻をついたまま後ずさる。
「おま!!?下着はっ!!?」
私は自分の格好を見下ろす。前かがみになっているから、寝間着代わりのキャミソールは襟ぐりが開いていた。年頃らしい凹凸もないから、おへその先まで丸見えだ。
真ん中で、サイトに貰ったペンダントが揺れている。
下着は――たぶん寝ている間に脱いじゃったのかな?
「締めつけられるの、嫌いだから。あ、でも、首を絞められるのは別――」
「聞いてないっつーの」
サイトは一瞬、素に戻った後……また顔を真っ赤にしてどもる。
「と、ととととりあえず、メシ、貰ってくるから――」
「薬殺かぁ。あんまりうれしくないけど、サイトが飲ませてくれるならいいわ」
「ちがう!」
……ちがうの?
私は、出ていく彼をしょんぼりと見送った。
***
「よお、ルイズ。いるか?」
大人気ない鬱憤晴らしの後、自室に戻った私のもとへ、使い魔がやってきた。
「町、すごかったぜ。人でいっぱいでさ、お前も一緒に来たら良かったのに――」
「……」
ずかずかと入ってくるそいつを無視して手元に集中。
「えーっと……何、作ってんだ?」
「縄よ、」
「……マフラーじゃなくて?」
「夏場にマフラーなんか必要ないでしょ?」
そもそもそこまで器用じゃないから、そんな複雑なものはできない。
私はゆっくりと丁寧に、細く切った布を編みこむ。色は髪に合わせて、濃い桃色を基調にしてみた。編み上げた分から、順繰り、自分の首に掛けていく。
――うん、いい出来ね。
出来栄えを確認していると、サイトが手を出して、私の視界を邪魔した。
「ほ、ほら、お土産買ってきたんだ」
銀色の細い鎖のペンダントだった。トップは楕円形の小さなケースで、薬入れにちょうど良いサイズ。
「『錬金』じゃない本物の細工モノだってさ」
「……宝探しに出かけてまで、何か購いたかったんでしょう。いいの、こんなとこで遣って」
「あー、それは……いいんだよ、もう、」
「あらそ。……そもそも何が欲しかったわけ?」
ちょっと口ごもったサイトは、笑うなよ、と念を押した後――爵位、と答えた。
「ゲルマニアだと金で購えるんだろ、」
「……あんた、貴族になりたかったの?」
意外な野心に私が首を傾げていると、サイトは照れたようにそっぽ向く。
「だって、お前、いっつも平民だなんだって言って俺をハブろうとするだろ。だから、貴族になれば対等になれるかと思ってさ」
「それだけで?」
私は思わず呆れてしまった。負けず嫌いというか、意地っ張りというか。
「ま、いいじゃん――とにかく、着けてみろよ」
私は言われるがまま、首にかかっていた縄の束を外した。背後に廻ったサイトが、代わりにそのペンダントをつける。金属の感触とサイトの指がくすぐったい。
「――どうだ?」
「まあまあね、」
手の中でその小さな金属の塊は、鈍く光を反射していた。
***
ぎし、ぎし。
体重をかけて動く度に、腰掛けている寝台が軋んだ。
「よいしょ、と」
「……えーっと、娘っ子?ちょっと良かったら教えて欲しいんだけど」
中空で鈍く光を放つ錆剣が言う。
「なあに?」
「いや、何してんのかなーって、」
「見た通りよ、あんたを吊ってるの」
より正確に言えば、デルフの柄に結んだ縄を天井のランプを掛けていたフックに引っ掛けて、吊り上げている。
「……何のために?」
「だってあんた、私には大きすぎるんだもの。刃も全然立たないし」
そう、サイトの愛剣は、私が手で持ち上げて扱うには大きすぎて、重すぎた。そのくせ、錆びた刃は、いくら肌をこすりつけても全然切れない。
だから、天井に吊り上げて落してみようと思ったのだ。
――この重さなら、きっと私の体くらい貫けるわよね?
「や、やめねー? 俺様、きっとそういうの向いてないと思うんだ! せめてもっと別の剣を探してくるとかさ!」
「いやよ」
「どうしてよ!? きっと俺様よりいい奴がいる――」
「だって――せめてサイトのもので――逝きたいんだもん――」
答える私の両目は、涙でにじんでいた。すん、と鼻を鳴らしながら、縄を引く力を強める。私だって、本当はこんなのは嫌だ。でも、しかたない。サイトが殺してくれないのだから――
「……あれぇ、おかしいなぁ……俺、剣なのに、なんか今大切な数値がガンガン削られてる気がする……」
デルフが天井でなにやら呟いている。それに、助けて汚されちゃう、とかなんとか。
その言い草にムカッときた。
「ちょこっと血がつくくらい我慢しなさいよ。こっちなんて、裂けちゃうんだから、」
「やめよーぜ、やめよーぜ。剣にだって心があるのよ、これのせいで不能になちゃったらどーしてくれんのよ」
「一緒に埋めてもらう? 貴方なら別に構わないわよ?」
「いやいやいや。あ、そうだ、とりあえずこういう危険なコトは止めて、相棒が来るの待とうぜ。な、な。きっと相棒ならもっといい方法考えてくれるって」
「ダメよ。サイトは、私のことなんてどうでもいいんだから……」
自分で口にしたその絶望的な事実に、私は再び打ちのめされる。脱力して、思わず縄を握っていた手を離してしまった。ずさっと私の横、数サントの位置に刺さるデルフ。
「お、おおお、あぶねー」
「……サイトは私のことなんて……嫌いなんだから……」
私はぐず、と泣き方の下手な子供のように鼻をすすった。みっともなく歪んだ泣き顔を、両手で覆い隠す。
――そうよ。だって、あんなに頼んだのに、私のこと全然殺してくれないんだもの……。きっと、私のことなんて好きじゃないんだわ。
こんなに愛しているのに、その人に殺してももらえない私なんて、本当に何の価値もない。
だから早く死なないと……。
そう考えながら、それでもやっぱり未練がましくサイトを想って泣いていると――
すこし静かになったデルフが低い声で言った。
「なあ、娘っ子。相棒は、お前さんのことが好きだよ?」
「――うそよ」
「うそじゃねぇ。相棒がこれまで戦ってきたのも、今学院中を駆けずりまわっているのも、全部お前さんのためだよ。お前さんが好きだからだよ、」
「そう、なの? じゃあ、サイト、いつか、殺してくれるのかな……?」
ほのかな希望に、私は顔を上げる。
「…………なあ、なんでそんなにあいつに殺されたいんだ?」
質問の意味がわからなかった。
「だって、殺すって愛しているってことでしょう?」
「……お前さんは愛している相手は殺したいのか?」
「まさか。変な誤解しないで――私がね、死にたいの。それだけよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
ほんと、変なことを訊く剣ね。
「死ぬより良いことって、ある?」
そういえば――なにか私には死ンデハイケナイ理由があったような気がする。けれど、思い出せない。
まあ、いっか。
そう、どうでもいいわ。殺してもくれないひと達のことなんて――。
今はサイトだけがいればいい。サイトが私を殺してくれさえすれば、私は幸せだもの。
***
私はクラスメートの部屋を訪ねていた。
部屋の主は、水のドット、香水のモンモランシ。魔法薬(ポーション)作りが得意で、小遣い稼ぎに校内で売っている。私も結構お世話になっていた。
「――ああ、ヴァリエール。いつものよね。はい、どうぞ」
「ありがとう、モンモランシ」
忙しそうに机に向かった彼女。普段どおりの完璧な縦ロールに隠されて、その顔は見えない。それでも、私はその瓶を受け取って、にっこりと微笑んだ。
――ほんとうにありがとう。
夕食の後、サイトに寝酒用としてワインを持ってきてもらう。いそいそと私が薬瓶を取り出すと、不思議そうに覗き込む彼。
「それ、なんだ?」
「ポーションの一種よ。これを飲むと、よく眠れるの」
「へぇ」
私はそれをワインの中にたっぷりと垂らした。
彼女が“私のために”用意してくれた薬――それがどんな効果をもたらすのか、わくわくしながら、飲み干す。
そして、私は――
目の前に立っているサイトを“見た”。
***
ようやく帰ってきたサイトは、なんだかとっても疲れて、荒んだ顔をしていた。これから出掛けるから一緒に行こう、という。
――そっか。こんな狭苦しい場処じゃなくて、表の方が気持ちいいものね。
そう思ったけれど、口には出さないで、ただ頷いた。
たぶんサイトは、露骨なのがイヤなのだろう。確かに昨晩からの私はちょっと急ぎすぎて、はしたなかったかもしれない。
だから、すこし自重することにしたのだ。
「湖に行くの?」
「ああ、ラグドリアン湖ってとこだ。知ってるか」
「ええ、素敵なところよ。水底に精霊の国があるの」
「そっか――」
ふたりでひとつの馬に乗る。私は横すわりでサイトのお腹に抱きつきながら、まだ見ぬ水底の国を思い描く。
もしも精霊に会ったら、骨になるまで水底に置いておいて欲しい、ってお願いしてみよう。溺死体はどうしても醜いもの。そんなものを愛する人の目に触れさせるのはイヤだわ。
でも――精霊の国を見ながら、溺れ死ぬのはきっと楽しいわね。
――早く着かないかなぁ……。
道行には、やっぱり疲れた顔でしかもぼろぼろのギーシュと蒼褪めた顔のモンモランシもいたけれど、私は気にしなかった。
サイト達は湖に着くと、さっそく水の精霊とお話をしていた。水の秘薬が欲しいみたい。
私は、ぼんやりと彼らのお話が終わるのを待っていた。
――まだかなぁ……待ちくたびれちゃった……
このところの強制的な精神の乱高下と慣れない遠出によって、私はすっかり疲れ果てていた。うつらうつらとしながら、途切れ途切れに聴こえる単語を拾う。
どうやら、精霊が水の秘薬を分けるのを渋っているらしい。それを手に入れるために、サイトが何かすると言っている。
――私の虚無なら、精霊だって消せるのに……。
そう思ったけれど、実行する前に話がついていた。サイトが戻ってくる。
「ルイズ、大丈夫だからな。俺が全部なんとかしてやるから。だからもう少し待っててくれ」
「うん、わかったわ」
――いい子で待ってるから、はやくしてね。
私は言われた通り、甘くかすみがかった夢の中で、ひたすら静かにそのときを待った。そして――
「サイト。いいの?」
「ああ、ルイズ――」
「嬉しい。やっとなのね」
満面の笑みで、出迎える。サイトの手には薬瓶。ああ、これのために秘薬が必要だったんだ、と私は理解する。
――いったいどんな『毒』を用意してくれたのかしら?
私がサイトに抱きつくと、周囲にいた友人達は皆、礼儀正しく、視線をそらした。顔色の悪いモンモランシにギーシュ。それから、いつの間に来たのか、硬い顔をしたキュルケとタバサ。
見上げる私をじっと見つめながら、サイトは意を決したように薬を口に含む。
瓶が口から離れるのを待つのも惜しく、私は彼と最後の口づけを交わした。
舌を絡めて、熱をなぶり――悦びにとろけながら――彼の口から移されたその液体を、躊躇いなく嚥下する。
彼が与えてくれるものならば、なんでも愛おしい。
ましてそれが私を終わらせてくれるものなら、最高だ――。
そして私の夢は――――
――終わった。
*** しにたがりなるいずさん 4 ***
――今までで一番、最悪な目覚めだわ。
目を開くと、サイトが天幕に寝かされた私を覗き込んでいた。その顔をさっきまで気づかなかったのが不思議なほど、げっそりとやつれている。眼の下はひどいクマだ。
「ルイズ、俺がわかるか?」
「――ええ、サイト、」
「気分は? 悪くないか?」
「大丈夫よ。そんなことより――」
「何か、欲しいもの、あるか?」
……ハア。
「そうね、とりあえず……説明、して欲しいわ。何なの、この状況?」
その答えに、一斉に、安堵の息を吐く皆。
私はサイトの向こうに見える彼らを、改めて観察した。蒼褪めた顔のモンモランシ、縦ロールが完全にほどけているところなんて初めて見たわ。ぐったりした顔のギーシュとキュルケ、ギーシュの顔には殴られたみたいな痕がいっぱいついてる。それから、無表情のタバサが私の頭上に――て、どうして、ひざまくら?
「……えっと、私、怪我でもしたの?」
「いいえ」
タバサがそっと私の額を撫でる。キュルケがひどく優しい瞳と声で、尋ねる。
「ここ数日のことは、覚えていない?」
私は、すこし困った顔で考える――ふりをする。
「……ええっと、あんまし」
「そう」
ギーシュが深いため息をついた。
「はあ、良かったよ。これでルイズにし――」
どごん、という、いい音がしてギーシュが吹っ飛んだ。ちょっと、サイト――
「黙っとけ、くそバカップル貴族!」
「サイト!何を!?」
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
「……モンモランシ?」
蒼褪めた、どころか、死刑を言い渡された囚人みたいに顔を白くして『私達に』謝るモンモランシ。ギーシュは反撃するでもなく、鼻を押さえて、そんな彼女と私達を見ている。
ようやく私がギーシュの一連の怪我の原因に気づき困惑をしていると、拳を血で汚したサイトに抱きしめられる。
「よかった、元に戻ってくれて――」
「サイト――」
その心底疲れ果てた声と、どこか体に馴染んだぬくもりに、意識の残滓がほだされそうになるけれど――私はなるだけ『いつものように』尋ねた。
「お願い、ちゃんと説明をして」
「ほれぐすり?」
それが、あの晩、私が飲んだ薬の正体だった。
飲んだ後、最初に見た人間に強制的に恋心を抱かせる、操精神性の紛うことなき『毒薬』だ。
さすがに驚いた。モンモランシが色々と面白い魔法薬作りに嵌っていることは知っていたけど、まさかそんな禁制品を作っているなんて――。
せいぜい、病死に見せかける呪い薬くらいだと思ったのに……。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
呆れながら見れば、トリステイン貴族らしい高慢さが魅力的だった彼女は、俯いたまま謝り続けている。
だいぶサイトに脅かされたみたいね。ギーシュのおかげで、怪我はないようだけど。代わりにサイトの八つ当たりを一身に受けた彼は、ぼろぼろだ。
「ああ、いいのよ。モンモランシ。私もちょっと迂闊だったわ、ちゃんと中身を確かめなかったから――」
「ルイズ。そうじゃねぇよ、こいつはわざと――」
私は手を伸ばして、サイトの口をふさいだ。と言っても、手のひらを当てただけだけど。
「馬鹿ね、サイト。変なかんぐりをしないの。彼女が『わざと』変な薬を渡すなんて、するわけがないじゃない。これはちょっとした『事故』よ」
私は彼の目を見つめて口早に言い、それから、またモンモランシに向き合った。
「誰にだって間違いはあるわ。だから、気にしないで」
「ヴァリエール……?」
「それに私、貴女のつくるポーション好きなの。こんなことくらいで止めてほしくないわ」
――だから、これからもよろしくね。
呆然としている彼女の目を見つめて、にっこりと微笑みかける。『理解』したらしく、彼女は蒼褪めた顔で、こくりと頷いた。
まあ、自業自得とは言っても、こんなことで御家取り潰しになるのは哀れだ。それに、わかってて煽ったのは私だし。
でも――
これだけ大騒ぎして結局手に入ったのは、いくらか溜まった精神力と、いつでも『薬』が手に入れられる環境だけ、か……。
私は誰にも気づかれないようにため息をついた。
――あーあ、しにぞこなっちゃった。
もちろん、もう口に出したりはしない。
<了>
りみったーかいじょ。或いは、サイトいぢめ。
(210831)