そこには森があった。
森ばかりでない、広大な領地の中には山も川もあった。風に波打つ草原も。一面に淡いブルーの花が咲く丘も。季節がくれば黄金の穂を揺らす畑も。
城下に広がる景色は、果てなく広く、同時に閉ざされている。
彼女は、いくつだったろう。
その夏は、すぐ上の姉がひどい熱を出してなかなか治らなかったため、屋敷の中はいつも以上に慌ただしかった。大人達は――家族も使用人も医者も――皆、その姉にかかりっきりになっていた。
一方、彼女はと言えば、彼らと同じようにその姉のことを案じてはいたけれど、かといって、その輪の中に入るには幼かった。同時に、四六時中面倒を見られなければならないほど小さくはなかった。
結果、彼女はひとり放っておかれる。
仲間外れにされる不満はあれど、淋しくはなかった。むしろ誰にもかまわれず誰にも見つからないまま、ひとり気ままに過ごすことは楽しくさえあっただろう。
少女は国一の権勢を誇る家門に生まれつきながら、貴族の貴族たる所以である『魔法』が大の苦手だった。習いだして、もうずいぶん経つのに、一番易しい魔法でさえ一度も成功したことがない。優秀な家族の中で、彼女だけがみそっかすだ。
それでも、彼女はそれで腐るようなことはなかった。むしろ毎日努力を怠らず、常に一生懸命だった。なのに、上手くいかない。どれだけ努力しても叶わないことを叱られ、呆れられるのはツライことだった。泣き出したくなるほど苦しいことだった。
息詰まる日々。だからこそ、彼女にとってそれが、久しぶりにほっと息がつける時間であったことは想像に難くない。
束の間の夏休み。
宿題を放置したまま遊びほうけるような、愉快で楽しく、同時に透明な不安を抱えこんだ日々。
そんなある日、彼女は屋敷のそばにある森の傍を通りがかった。
甲高い音が耳をつく。小鳥の啼き声だ。少女はぱっと顔を上げ、きょろきょろと見回した。
大きな樹の枝のひとつに、それはいた。まだ目も開いていない雛だ。小さな嘴で、ピィ、ピィ、とか細い声で訴える。
雛がいる枝よりももっと高い場所、梢近くに巣が見える。 あそこから落ちたのだろう。まだ気づいていないのか、親鳥の気配はない。
少女は即座に、たすけてあげなきゃ、と思う。
同時に、姉の顔を思い浮かべる。生き物が好きで、たくさんの動物をおともだちと呼んで可愛がっている姉。姉ならきっとあのこを助けられるだろう。けど――。
今朝方ご挨拶にうかがったときのことを思い出し、少女の小さな胸がきゅっと詰まる。すっかり痩せて、熱を持った肌は薄く、骨まで透けそうだった。あの儚げな姿。
いまはだめだわ、と自分の考えに首を振る。
そうしてたったひとり少女が甘えられる相手を除いてしまうと、もう、他に誰も思いつかなかった。
使用人達は、みそっかすの末娘のことを軽んじている。もちろん、決して表立って侮るような真似はしない。けれど、それをちゃんと少女はわかっていた。公爵家の使用人として自身の職にプライドを持っている彼らは、主と認め得ない相手に対してはごく冷淡だ。それを、自身の至らなさのせいだ、いつか見返さなければならない、と頭では解っていても、少女が彼らに隔意を抱いてしまうのもまた当然の道理だった。
だれにも、頼れない。
なら、わたしがどうにかしなきゃ――。
少女はそう決心すると、かつての姉の行動を思い出しながら、杖を取り出した。必要なのは基本のコモンスペル、それだけだ。レビテーション。それであのこを浮かせて、引き寄せるだけ。
けれど、スペルを唱えかけた舌は、途中で凍りついた。
頭に浮かんだのは、半分に裂かれた絵本のことだった。それから、中綿が弾けたお気に入りのぬいぐるみ。(大切なものなら、)(うんと集中すれば、)と祈るように唱え、積み上げた『失敗』の数々。
きゅっと握りしめた手が震え、きつく噛んだ唇から血がにじむ。
鳶色の瞳に、空と梢が映る。
*** しにたがりなるいずさん 6 中 ***
あくる日、私は青空の下にいた。
――良い天気だわ。
すこし埃っぽいのは難だけれど、と頬を撫でる風にひとりごちる。
屋敷から四半刻ばかり馬で移動した先にあたるここは、別段なにがあるわけでもない、ただの拓けた土地だ。昔は青々とした草が茂る、気持ちの良い丘だったのだけれど、今ではむき出しの乾いた地肌に砂礫が転がるばかり。趣のかけらもない。
それなのになぜこんな場所にいるのかというと……、ほんとうは私自身、よくわかっていない。たぶん、身に染みついた習慣の結果なのだと思う。
と言うのも、ここは学院に入る前に私が魔法の練習に遣っていた場所なのだ。家庭教師の授業が終わった午後は、毎日ここまで馬で通って、ひとりで魔法を唱えた。……おかげで今日も、馬丁達は何も疑わずに馬を出してくれた。
――まぁ、“練習”なんて言っても、成功したことなんて一度もなくて、毎日精神力が尽きるまで、延々と失敗し続けただけなんだけど……。
おかげで、この一帯はもう草も生えない。
ちなみに、無意味なこの習慣は、学院に入った後も空き地を借りて続けていた。一日分の精神力が尽きるまで唱えきると、体の中がからっぽになって少し軽くなる。思えば、最後の方はその感覚が得たくてやっていた気もする。
でも、それも最近やめてしまった。精神力を溜めないといけないからだ。戦争に行って、姫様の役に立つと誓ったから。けど。
――それも無駄になっちゃったわね。
ハア、と深く息を吐く。空が高かった。高くて、閉じている。
失敗魔法を受け続けてすり鉢状に抉れてしまった土地の底から、私はそれを見上げる。深さがあるので周囲から見えないのをいいことに、地面に直に横たわり、大の字になっていた。
視界を占めるのは、どこまでも青い空。端っこにわずかに、ぐるりと囲む、土と砂礫の円い縁が見える。
――困ったわ……。
今朝方、父が帰宅した。久しぶりに家族全員で囲んだ朝食の席、その場で私は『謹慎』を言い渡された。
理由は、家長に黙って従軍を決めたこと。先に徴兵令が発動された、対アルビオン侵攻戦のことだ。
父は、ひどく怒っていた。もともとこの戦争には反対だったらしい。学院を辞めろと言われ、ついでに結婚しろと言われた。私が従軍は姫様とのお約束だからと言っても、まるで聞いてはくれなかった。
確かに、勝手に参加しようとしたのはいけなかったかもしれないけれど……。
――喜んでくださると思ったのに。できそこないの末娘がようやく貴族としての務めを果たせるようになったのだから。
ところが、私がそう言うと、家族はそろってひどく怖い顔になった。ただひとり、ちいねえさまだけが優しく声をかけてくださったものの、私はといえば、その目を前になにも言えなかった。なにもできずに、こうして逃げ出してしまった。
――ほんとダメね、私って。
つくづく思う。
昔から、そうだ。私には姉や母や父の言葉が“わからない”ことが多かった。
たとえば、私が魔法の練習をしに行こうとすると、姉や父が別のことをするようにと言う。本を読んだり、ダンスの練習をしたり、珍しい東方のお茶を飲んだりしなさい、と言う。けれど私は、そんなことより練習の方が大事だと思う。
さんざん逆らって、叱られて。結局私の『心得違い』に呆れ果てた姉から、貴族となるためにはそれらも魔法と同じくらい大事なことだ、と事細かに理を説かれて、ようやくその『道理』を理解する始末。
そんなことが幾度となくあった。それで、自分にはどうも『貴族』というものがわかっていないのだとわかって――だから、勉強は一生懸命頑張ったのだ。
コモンひとつできないできそこないの身でも、ちゃんと勉強をして、お父様や家庭教師の話をたくさん聞いて、せめて貴族としての振る舞いだけは身につけようと……。でも、
――しょせん、『頭でっかち』だったのかなぁ……。
それだけ努力して身につけた知識を遣っても、今回のことをどうして彼らがあんなに怒るのか、私にはわからなかった。
父は、私の従軍の話を王宮で聞いたらしい。真偽を質され、素直に私が認めた途端、朝食の席にただよっていた静かな空気は一変した。即座に下された『謹慎』命令に私は最初あっけにとられ。それから周囲の様子に気づいてさらに驚いた。
母と長姉も父と同じ目をしていた。皆、私が戦争に行くことに反対らしい。
――どうして?
正直、わけがわからなかった。
「どうして、よろこんでくださらないのですか? せっかく貴族としての務めを果たせるようになったのに……」
思わず恨みがましく呟いてしまう。
――これでやっと、わたしも貴族になれるのに。
けれどそれは父の逆鱗に触れたようだった。怒気もあらわに、叱責される。
「馬鹿を言うな! 娘が死にに行くことをよろこぶ親が何処にいる!」
「え?」
私は予想外のその言葉に、再び、ぽかんとしてしまった。
「……よろこんでくださらないのですか?」
「当たり前だ!」
――やっと、皆の望みも、私の夢も叶うのに?
「…………よろこんで、くれないの?」
「ルイズ!! お前は私の話を聞いているのかね!!?」
もちろんだ。ずっとこの父や母や姉の話を聞いて、私は育ってきた。貴族とは、戦う者だと。領をおさめること、民をまもること、敵とたたかうこと、それが貴族の務めだと。そう教わった。
だからメイジでなく戦う力がない私は、貴族としてどうしようもない“できそこない”だった。
公爵家の娘として傅かれたところで、その価値がないことは誰よりも自分が知っている。それは、とても苦しいことだった。どれほど大切に育てられても、どれほどそのことに感謝をしていても、その期待に応える術がない。それは苦しくて苦しくてくるしくて、いきができないほどくるしくて、きがくるいそうなほどくるしくて――
けど、それももう終わり。
もう、私はちゃんと戦える。 戦って、そして。
――それなのに、どうしてこの人達はよろこんでくれないのかしら?
やっと、この苦しいのが終わるのに。
やっと、やっと、貴族として、堂々と『死ねる』のに……。
「ルイズ。落ち着いて、ゆっくり呼吸をして――」
――ちいねえさま?
気がついたら、だいすきなちいねえさまが目の前で私の顔を覗きこんでいた。美しく澄んだ鳶色の瞳で、私を見つめる。細い手が近いので、私は、
邪魔にならないように、と一歩退いた。
「ルイズ、」
――どうしてちいねえさまは、こんなに哀しそうな顔をしていらっしゃるのかしら?
私は首を傾げる。ちいねえさまは心配事をもったり、思い悩んだりしたらいけないのに。そんなことで万が一でもお体の具合が悪くなったら、いけないわ。
「大丈夫よ、そんなに焦らないで。お父様達はね、貴女を心配しているだけなのよ」
ちいねえさまは、その哀しそうな笑みのまま、私に話しかける。
「皆、貴女を愛しているだけなのよ」
ちいねえさま? それはおかしいです。
だって、あいしているのなら、 あいしているのなら、どうして、わたしを――
(でも、ちいねえさまは――)
「ルイズ」
(ちいねえさまに――××××なんて言ったら――)
気がつけば、私ののどはひゅうひゅうと奇妙な音を立てていた。それから……それから……?
……その先は、もうよく覚えていない。その場を退くのに、ちゃんと許可を得たのかどうかも。気づいたときには、私は馬に乗って駆けていた。
――でももう、次はないわね。
今回出てこられたのは、ほんのすこしタイミングが良かっただけ。数時間もしたら、私は戻らないといけない(馬丁達に迷惑をかけることはイケナイことだ)。そして戻れば、後はもう父の命令通り、私は屋敷の中に閉じこめられてしまうだろう。
ハア。
深く、深く、息を吐く。そうしないと、なんだか息をしても、しても、苦しくて――ああ、足りないな、と思う。
足りない。
足りない。
足りない。
足りない。
『さんそ』が足りない。
昔からそうだ。四歳で杖を与えられた。それから毎日少しずつ、周囲の『さんそ』がなくなっていくような気がしていた。
それは今も、なにも変わらない。
景色はどこまでも広がり――空はどこまでも高くて――けれど――“閉じている”。
私はいつまでたっても、この空を飛ぶことを覚えられない。
「……」
いつのまにか、右手を持ち上げていた。
いつものように、杖を掴んでいる手。
いつかのようにそれは、くるりと杖先を『私』に向け、そして、
――エ、
一音。そのとき、青空の向こうから、おおーい、と呼ばう声がした。
――え?
「あー、 やっと見つけた!」
脳天気な声が響く。
「お前な、もうちょっとわかりやすいヒントを寄こせよな! すげー無駄に走り回っちまったじゃねぇか!!」
――は?
逆光に人影。騒がしく文句を垂れながら、ざー、と砂混じりの土の縁を滑って底まで降りてくる。
背中にデルフを担いだサイトだった。
「……どうして、ここがわかったの?」
「あ? そりゃあ、お前、」
サイトは、ちょっと言いよどんだ後、ばちん、と得意げに左目をつぶった。 親指立てて、言い放つ。
「使い魔なめんな!」
――わ、わけがわかんない……。
なんでキメ科白? なんでウィンク? しかも似合ってないし、と思いつつ、私はのろのろと上体を起こした。
ここには家族も近づかないのに、ほんとにどうやってたどり着いたのだろう? ……まさか。
「匂いをたどってきたとか……?」
「あのな! 人を変態みたいに言うんじゃねーよ、」
ぶーたれるサイト。
いつまでももったいぶるので、私はくるくると手の中の杖を廻してやった。すると、ようやくネタばらしをする。
「ときどき左目に映るんだよ。お前の見てるもんが、」
「……使い魔の視覚共有?」
「たぶんな。――でも、よくわかんねーんだよな、なんかいっつも変なタイミングで映るから」
「へぇ」
私は使い魔の視界なんて見たことがない。
「で、どうした?」
「なにが?」
差し出された手を、ぼけっと見ていたら、サイトが焦れた様子で私の前に腰を下ろした。そして。
「うわっ、柔らけーな。すげー伸びる。もちみてぇ」
なぜか、私の頬を掴んで笑った。
「……あにひてんのひょ」
半眼で睨みつける。けれど無視された。私の顔の真ん前で、サイトは新しい玩具を見つけた子供みたいに、笑う。
「あー、こりゃ、あのきっついお姉さんの気持ちもわかるな。なんつーか、思わず触りたくなる柔らかさ?」
とかなんとか言いながら、ふにふに。 妙に上機嫌だ。というか……、浮ついている?
――あんたね、
私は、無礼な使い魔を叱りつけようとして口を開きかけた。けど、
「──」
すぐに閉じてしまう。
自分達の格好を客観的に考えて、馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。
抉れた地面の底でふてくされながら、向き合った使い魔に頬をつままれている自分。
――ほんと、なにしてるのかしらね。
「そうそう、せっかく美人なんだから笑ってろよ、」
「……」
ふにふに、と人の頬をつまんだまま、のほほんと笑う少年。――ここまで邪気が無いと怒る気にもなれないわね。
もう……。
その間も彼は、ふにふに、ふにふに、ふにふにふにふに……ハア。
「……いいはへんにひなひゃい(いい加減にしなさい)」
えいっ、と私は乗馬靴を履いたかかとを、おもいっきり目の前のサイトにくれてやった。途端に、きゃん! と仔犬のような悲鳴を上げて離れるサイト。そのまま、地面にうずくまる。
「……お、おまえ、よりによってひとの、せつない部分を…………」
その間に私は立ち上がり、ぱっぱっと服についた土埃を払った。
――あーあ、せっかくちいねえさまに梳かしてもらったのに、髪、汚れちゃったわ。
もまれすぎた頬がすこし腫れて、熱を持っている気がしたけれど――たいしたことじゃないわね。
そのまま身だしなみを整える私に、低いところから使い魔が叫ぶ。
「こら、無視すんなっ。この、恥ずかしがりやさんめ!!」
「あのね、誰が恥ずかしがりよ。恥ずかしいのは、あんたでしょーが」
「ちぇっ。ちょっと気を許したかと思えばこれだもんなー、」
「…………あんた、結局なにしにきたわけ?」
「探しに来たに決まってんだろ!」
前屈みのまま告げる使い魔に、首を傾げる。
「お父様達に何か言われた?」
「違うって。言われたからじゃねーよ。……まあ、ちょっとヒントはもらったけど……」
「?」
苦い顔のサイト。不審げに見つめる私に気づいて、なんでもねえ、と唇を尖らす。そして、今度は彼の方がふてくされた表情になって、地面にどかりと座った。
――なによ?
「なあ。お前、家族と喧嘩したんだって?」
「……喧嘩じゃないわ、」
正確には、喧嘩にすらならなかった、だ。
私が簡単にいきさつを説明すると、サイトは納得顔で頷く。
「戦争に行くな、か。……なんだ、けっこうマトモじゃん」
「なにがよ? 従軍は貴族の義務。まして私の場合は王命なのよ、」
知ったような口を利く使い魔にムッとして言うと、サイトはあっさりと答えた。
「だって、家族はお前の『虚無』のこと知らないんだろ?」
「それがなに?」
「なに、って、つまり、家族はまだお前が『魔法を使えない』と思っているんだろう。そりゃあ、心配するって――」
――あ。
ぽかんと口を開けた私を、サイトが呆れ顔で見返した。
「って、お前……あたりまえだろ……」
咄嗟に言い返せず、ちょっと顔をそらす。
確かに、彼の言葉はもっともだった。
「そ、そそうね。そんな『役立たず』を戦場に送り込んだら、家の名誉に関わるわよね」
「……」
皆が心配するのも当然だと納得する。ああ、でも……、
――それがわかっても、どうしたらいいの? だからって、虚無であることを告げるわけにはいかないし……。
むっつりと考え込んでいると、サイトがぼそりと呟いた。
「なあ。もう帰らねぇか?」
「……」
私が無言で見返すと、サイトはちょっとバツの悪そうな顔になった。その表情に、フウ、と無意識にまたため息をひとつ、こぼす。
杖をしまい、代わりに馬を呼び寄せようと顔をあげた私の耳に、歯切れの悪い声が届いた。
「……いや、悪い。その、お前にとっちゃ家族だし実家だし、こんなこと言うべきじゃないのもわかってんだけどさ……」
「なによ、」
促せば、珍しく苦みばしった、しかめ面で言う。
「俺、ここ、なんかダメだ。早く“学院に”帰ろうぜ」
「え?」
サイトの言葉に、私はほうけてしまった。てっきり屋敷に連れ戻しに来たのかと思ったのに。
帰る? 学院に?
――なにかあったのかしら?
改めて使い魔を観察する。ちょっと寝不足気味、かな? 昨日は晩餐の後、すぐに引き取らせたから、十分休めたはずだけど……。
そういえば、屋敷の者に世話をするよう言うのを忘れていた、と思い出す。
――もしかして……ごはん、もらえなかったのかしら……?
「わかったわ。あんたとあのメイドは帰すように言っておく」
「そうじゃなくて、お前も一緒に――」
「無理よ。私は家族から許可を貰わないと、ここを離れられないもの」
「んなもん無視すりゃいい」
「あのね、馬鹿言わないで」
呆れて返せば、もっと呆れ果てた様子でサイトが、ハァ、とため息を吐いた。ぼりぼりと頭をかきながら、顔をあげる。
その表情は――本当に珍しく――息を呑むくらい真剣なものだった。
――え?
「そっちこそ馬鹿言うんじゃねーよ。お前、今、自分がどんな顔してるかわかってるのか?」
「な、なによ?」
真剣そのものの、その顔で、サイトは告げた。
「すげーブス」
瞬間的に、顔が引きつる。
――な……、なななんですってっ!?
思わず、姉様のようにまなじりをつり上げていた。
――よ、よよよりによってっ、こここの馬鹿犬っ! は! ごごご主人様に喧嘩を売るつもりなのかしら……っ!?
気づけば、杖をきつく握りしめていた。わななく。唇の端が歪む――ソウダワ、此処ハ久シブリニ、ヒトツ魔法ノ練習デモシマショウ――と、その機先を制するように、ぽん、と額の上になにかが置かれた。
サイトの手のひらだった。まるで目隠しをするように、軽く私に触れている。
「なぁ、前も言っただろ、『考えるな』って。お前はいつも考えすぎなんだよ。だから、にっちもさっちも行かなくなっちゃうんだろ? そりゃ、相手は家族だし、大事にしたいのも、わかるけどさ。……遠慮ばっかりじゃ行き詰まるだけだぞ?」
「……う」
「ん?」
「う、ううううるさいわよっ。なんであんたなんかに説教されないといけないのよ!」
手を振り払う。ほとんど触れる必要もなく、それはどかされる。
「説教じゃねえって。ちょっとしたアドバイスだ」
というわけで、とサイトは再び似合わないウィンクをひとつ。
「逃げちゃおうぜ」
悪戯っぽく私を覗き込む瞳に、目を逸らす。
『というわけ』って、どういうわけよ?――とそう思っていたのに、口からこぼれたのは別のことだった。
「……どうやって?」
サイトは、ニッと笑って、自信満々に答えた。
「そんなもん、俺がどうにかしてや――」
「……」
……やっぱり。
私は予想通りの答えに、目をほそーくして、得意満面に鼻を膨らませているおばかを睨んだ。
――どうせ、そんなことだろうと思ったわ。
「あのね、どうにかってどうする気よ? ここから学院まで、どんだけあると思ってんの? 『ひこうき』なんてないのよ?」
「そんなもん、どうにでもなるだろ! ほらっ、ごちゃごちゃ考えんなって!!」
「あんたは考えなさすぎよ!」
おもろ顔に、ぺしっと杖を当てる。
「いい! 帰るなら――」
「んだよ!」
「馬車が必要だわ。なんとか気づかれないように、手に入れないと、」
「……りょーかい、」
ニヤっと笑って、言うがはやいがサイトは腕をのばした。ひょい、と私を抱き寄せ――え?
「ちょ、ちょちょちょちょっと――!?」
荷袋のように肩に担ぎ上げられる。
サイトの左手が、しっかりとデルフリンガーを握っているのが見える。
「善は急げだ。しっかり、つかまってろよー」
呑気な警告とともに、穴底から一気に飛び出す。舌を噛みそうになって、あわてて口をつぐんだ。
――うわ、なにこれ。馬より速いかも。
***
虚無の使い魔『ガンダールヴ』のルーン。その効果は武器を手にすることによって発動する。ルーンによって強化されたサイトの身体能力は、風のスクウェアメイジとも渡り合う、でたらめなものだ。
当然、それを以て全力で走れば、その速度は常識外のものとなる。
ほんとうに風のように、領地を駆け抜ける。
どんどん後方に流れていく光景に目を奪われていた私は、不意にあることに思い至った。
――ああ、そうだわ。
思いつくまま、自分自身に『レビテーション』をかける。サイトにかかる負担が減るように、彼がもっと速く動けるように、とそう思ったのだ。
虚無に目覚めてから出来るようになったコモンマジックは、何の問題もなく効果を発揮した。ふわり、と体が軽くなる。たぶん羽根一枚分、風が吹けばどこへなりとも飛び立てそうな軽さに。
「え!?」
その途端、なぜかサイトが上擦った声を上げた。
「お、おい!ちょっと待て!!」
――は?
突然焦りだした彼は“両手で”、私の腰を抱きとめた。当然、手は剣の柄を離れ、ルーンの恩恵も――『消える』。
結果。サイトはそれまで自分の出していたスピードに維持できず、バランスを崩してスッ転――
――って、何してんのよっ!?
「だあぁっ!」「きゃあっ!!」
ふたり揃って、情けない悲鳴をあげる。サイトと一緒にもつれるように転がった私は、額と地面をごっつんこ。ついでに杖もどこかへ吹き飛んだ。
――なんなのよ、もう!
イタイ、と強かに打った額と鼻の頭をおさえながら、私はこの理不尽な仕打ちに憤る。
「ちょっと! どういうつもりよっ!?」
「お、お前こそ、どこ行く気だよ!?」
「どこって――」
どうも背負っている『荷』が、突然軽くなったせいで驚いたらしい。なんて間抜けな――
「すこし、あんたの負担を軽くしようとしただけじゃない」
「馬鹿っ、妙な気を遣うなよ!全然重くねーよ!」
「馬鹿とはなによ、馬鹿とは! だいたいあんた、さっきから――」
叱りつけようとした私は、サイトの次の言葉に口をつぐむ。
「……どっかに消えちまうかと思ったじゃねーか……」
――なに、言っているのよ。
「……消えるわけないでしょう、人間が。ほんと馬鹿ね、」
なぜかその言葉に動揺して、私はとりあえず憎まれ口を叩いてしまう。
サイトの反応はない。先程倒れた姿勢のまま、彼は私の腰を両手でしっかり抱きしめた状態で、私の体の上で潰れている。その顔はみぞおちのあたりに乗っかっていて、見えない。
――あ! こら、調子にのるんじゃないわよ、馬鹿犬!
さらにそのままぎゅっと腕に力を込めだした使い魔に、私は慌てて体を起こす。けれど、サイトは逃がすまいとするようにさらに力をこめる。動けない。それはまるで迷子が母親にすがりつくような必死さで。私はその強さと、熱くなる自分の頬に、さらに混乱する。ちょっと、ほんとうにどうしたのよ、こいつ――、
「と、ととにかく、いったんどきなさ――」
「イヤだ」
「イ、イイ『イヤ』じゃないでしょっ、ってどこ触って――」
そのとき、ビュン!としなる鞭のような音を立てて、突風が吹いた。
同時に、ふぎゃんっ!と再び小犬のような悲鳴をあげて、サイトが『ひっぺがされる』。
「サ、サイト!?」
顔をあげると、視線の先には皆が――お父様、お母様、姉様、それに屋敷中の執事とメイド達――勢揃いしていた。
「ふぇ?」
――なに、しているんだろ……?
ぽかんとしていると、全く同じことを父から尋ねられた。
「あー、ルイズ。何をしているのかね?」
「お父様、」
「いや、いい。何も言わんでいい」
尋ねたくせにすぐに私を無視して、なぜか筆頭執事に向かって『台』の作成を命じるお父様。なにかを飾るつもりらしい。ついでに、私を塔に閉じこめると言う。
――あ……。
「さあ、ルイズお嬢様、こちらに――」
父の命を受けて近づいてくるメイド達を前に、私はからっぽの手をさ迷わせる。――杖――杖は――どこ?
「ちょっと待ってくれ!!」
いつの間にか立ち上がったサイトが、私と彼らの間に割って入る。その手に、私の杖を持って。
私はあわててその手に近づく。
「ルイズのお父さん! こいつの話もすこしは聞いてやれよ!!」
相変わらず礼儀の礼の字も知らないサイトに、当然、父も黙ってはいない。「貴様に父と呼ばれる筋合いはない!!」とかなんとか……。
――えーっと、なに、言っているのかしら?
杖を手にしてすこし余裕が出た私は、その間の抜けている遣り取りにこっそりと思う。お父様もだいぶ頭にきているみたいね……。
これでは、冷静になって話を聞いてもらうなんて、絶対にできないだろう。
それなら――、ときょろきょろと周囲を見渡す。そこはすでに屋敷の中庭だった。
――ああ、アレなら……
私は、彼らの大音声の陰にかくれて、こっそりと虚無のルーンを唱えた。そして、準備万端になったところで、サイトの陰から姿を現す。
「お父様!」
「ルイズ! さっさとその不埒な男から離れ――」
「ご心配をおかけして申し訳ございません。けれど、どうかご安心くださいませ。私は変りました。もう今までの、お父様達が知っている“できそこない<私>”とは違うのです、」
その言葉に、父の顔色が変った。私はそれに、すこし嬉しくなる。
――良かった、少なくとも私の言葉も耳には入っているみたい。
その事実に背中を押されて、返ってきた怒声にも怯まずに済んだ。
「ル、ルルルイズッ!? そ、そそそれはっ、どーいういみだっ!!?」
「今、その証拠をご覧に入れますわ」
なるだけ優雅に笑って、それから、杖を振る。私と父達のちょうど間にある小さな池を目掛けて、虚無を(もちろん、手加減して)放つ。
水面に浮かぶ、うち捨てられた小舟の上に白い光が生まれた瞬間――、
どっかーん!と冗談みたいな音を立てて、池の水が一気に爆発した。
水柱が上がる。きゃあ、とメイド達が一斉に悲鳴をあげる。跳ね上げられた水が転じて、雨水のように降り注ぐ。
私はそれらを無視して、叫んだ。
「サイト!」
「任せとけ!!」
私は再びサイトに抱き上げられた。にわか作りの雨滴が地を叩く中、突然の爆音に本能的に身構えた父達の脇を、サイトは疾風の速さで駆け抜ける。
あまりの出来事に、それを、ぽかんと見送る父達。
その間の抜けた顔に思わず笑い出しそうになって、私はぎゅっとサイトの首に抱きついた。
***
***
長い逡巡の後、少女は――杖をしまった。
代わりに、身長よりも高いところに張り出した、大きな枝をじっと睨みつける。挑むように。
そして、からっぽになった両手をのばし、思いっきりジャンプした。
***つづく***
(220425)