――鬱だ。
ふと気がついたら、さっきから同じことしか言っていなかった。
フゥ。気分を変えようと、小さく息を吐いてみる。ついでに体も揺らしてみる。
けれどこんなささやかな改革では、なんの意味もなかった。なにも起こらないし、なにも変わる気配がない。
――……もう。
口を尖らせ、眉間に皺を寄せる。
しょぼい天幕だけど一応個室を与えられ、それなりの待遇を受けているはずだった。なのに、ぜんぜん快適じゃない。妙に息苦しいし、変に寒々しくて、マントをかきよせてもぜんぜん効きやしないのだ。
私は藁とシーツの寝台の上に座り、自分の膝をかかえこむ。せせこましく自分の体温で熱をとりながら、この憂鬱な時間をやりすごす。ちらりと隣を見れば、押し黙ったまま、ぴくりとも動かない背中があった。
「……ねえ、サイト」
返事はない。彫像のようだ。……うちの使い魔はいつから置物になったんだろう。
ハァ。また、ため息がもれた。
このところ、サイトはずっとこんな調子だった。声を掛けても返事もしないし、食事さえ促されなければ、なかなか手をつけようとしない。
――どうしろっていうのよ、もう。
黙りこくった人間と同じ空間にいるのは、妙に圧迫されるものだった。まして普段は騒がしいほどに明るい人間がこんな風になると――いったいどう扱ったらいいのか、まるでわからない。
正直、途方に暮れていた。
――いつまで続くのかしら、これ……。
終わりの見えない窮屈さに、眉間の皺はますます深くなる。
一応、サイトがこうなった原因はわかっているつもりだ。きっと、先日の上陸作戦のせい。
陛下との約束を果たすために、私は今ただの虚無として、このアルビオン侵攻軍に参加している。そして上陸時の囮役は、その最初の任務だった。
『サイトのひこうきで偽の上陸ポイントに向かい、幻影の艦隊で敵軍の目を惑わす』
作戦自体はなんとか成功した。けどその過程で、私達の護衛だった中隊が全滅した。私達を守るために文字通りの盾となったのだ。
もっともそのときの私は虚無を唱えるためにいっぱいいっぱいだったし、帰りは例によって気絶していたから、ほとんど記憶がない。
ただ、サイトがその中隊の隊士達と顔見知りだったことは知っていた。
――でも、それがわかっても、どうすればいいのかはわからないのよね……。
私は手持ち無沙汰に自分のつま先をつまむ。ひんやりと冷たい。
(「サイト」)
私だってこの状況を打開するために頑張ってはみたのだ。
(「彼らは名誉の戦死をしたのよ。それは悲しむようなことではないわ」)
思いつく限りの言葉を並べて、落ち込む彼をなだめて、励まして――。
でも、
(「きちんと自分の役目を果して逝ったの。讃えられるべきことよ」)
私がなにか言うたびに、サイトの表情はどんどん暗くなっていった。
「……」
静まりかえった天幕の中、無力な私はしかたなく使い魔にならって黙りこむ。ここですることもないけど、外へ出る気にもなれなかった。ただ、黙りこんだサイトのそばで、じっと膝を抱えて座っている。
――鬱だわ……。
また同じ言葉を――いつもの口癖を――胸の内で呟いていた。けれど、どうしてか、その先を言葉にする気にはなれなかった。
*** しにたがりなるいずさん 7の1 ***
結局、私がなにもできないでいるうちに、無為な時間は勝手に終わった。
兵士が食事を持って来たので、サイトの代わりに受け取っていたときだった。不意に強い風が吹いて、天幕を吹き飛ばした。敵襲かと慌てる私達の前に降り立ったのは、王軍の印をつけた風竜。その背には何人も若い騎士達が乗っている。
――え?
その姿に、私は凍りついた。
「第二竜騎士中隊……?」
すこし決まり悪そうに照れた笑顔を浮かべている、サイトと同じくらいの年齢の少年達。それは先の作戦で私達の盾となって戦死したはずの騎士達だった。それが全員笑顔で、元気そうにそこにいた。
――な、んで……、
硬直する私の背中を、声が叩く。
「あーーーーーーーーーっ!!」
サイトだった。顎が外れそうな大口を開けて、彼らを指さしている。
「おや、きみは――」
小太りの竜騎士――たしか、この中隊の隊長――が、こちらを見てひょいと手をあげた。その自然な仕草に、ぞっと身を震わす。
そんな私の横をサイトは「なんで!?」と騒がしく声を上げながら、転がるように出てきた。
「お前ら! 生きていたのかっ!?」
興奮と喜びをにじませて叫ぶ。あいかわらず直情的で、落ち着きのない――それもずいぶん久しぶりね、とそんな感慨はとりあえず置いておいて。
動揺がすこし落ち着いた私は、迂闊なサイトの袖を掴んだ。
「サイト、だめよ。下がりなさい」
「は? なんで?」
――あのね、「なんで?」じゃないでしょう。
ボケボケなサイトにこれ以上口を割く時間ももったいなくて、私は問答無用で彼と彼らの間に立ちふさがった。手にはすでに杖。口の中では、ひそかにルーンを唱えている。
意識が自然と集中し、澄んでいく。他のときのようにキリキリと引き絞る必要もない。すらすらと水の流れるように、それは紡がれていく。精神力も十分だ。目の前のものを見ているだけで勝手に湧き出てくる――目の前で、血色の良い顔でぽかんとしている『死者』達のおかげで。
――ほんとうに……なんて忌まわしいのかしら……。
湧き出る感情をそのまま魔法に換えて、できると同時に放った。勇敢な騎士達の安息を汚す、忌まわしい魔法を消すために。
虚無『解呪』を。
――消えなさい!
……。
「…………あら?」
変ね、と私は魔法を放った姿勢のまま首を傾げた。
――手応えがないわ……。
目の前には、いつまでもぽかんとした顔の竜騎士達。
――ゼロをかけても消えないのなら……えーっと……? あれ? あの指輪じゃ無かったのかしら?
……。
…………。
嫌な、間があった。
「お、おい。君、いま何を――」
びっくり顔の隊長の問いかけに、私も思わず尋ね返す。
「あんた達こそ、なんで生きているのよ?」
まるで八つ当たり――そのとき、後ろからなにかがぶつかった。
「きゃっ」
不意をつかれた私は小さく叫んでよろめいてしまう。誰よ! と怒りをこめて振り向けば――サイトが私を睨んでいた。
「何してんだよ、お前っ!」
「な、なにって――」
騎士達ならともかく、どうしてサイトがそんな当たり前のことを訊くのか分からず、私は目を瞬いた。
――あんたは知ってるでしょうに。
「虚無をかけたのよ」
「んなことは知ってるっ。なんでそんなことすんだよ!? こいつらは味方じゃないか! それもせっかく戻ってきた――」
「『だから』でしょう? 彼らは死んだのよ。ここにいたらおかしいじゃない、だから、」
不意にあの夜のことが思い出された。雨の中、それまですがりついていた骸が『消えて』、呆然と顔をあげた姫様の、私を見たあの目――。けど――、
ごくりと唾を飲む。
――しかたないわ、こいつらは『敵』なんだもの。
そう飲み下す。でもサイトは納得しなかった。
「そうじゃないだろう! 生きてんだろうが!! お前、こいつらが死んでいた方が嬉しいのか!?」
「はあ? なに言っているのよ!?」
妙に突っかかるサイトに私が目を白黒させていると、
「おいおい、止めたまえ」
と、当の竜騎士が割って入った。私の推測も当然だと自ら認めて、サイトをなだめにかかる。どうも先程の虚無はディテクトマジックの類だと理解したらしい。……正直、自分のカンチガイというか先走りっぷりが恥ずかしかったので、そういうことにしてもらった。
とにかく、この奇妙な事態を報告する為に全員で大隊本部へ向かうことになった。私もついていく。ちゃんと話を聞けば、この居心地の悪い出来事も落ち着くかもしれないと思って――。
ところが、期待に反して、大隊本部でも彼らが生還した原因はわからなかった。墜落から今まで一週間分もの記憶が、中隊の全員からすっぱりと消えてしまっていたのだ。気づけば全員無事で一頭だけ残った竜に乗っていた、とか。あやしすぎるけれど、経験豊富な軍人達に言わせると「戦場ではこういうこともある」そう。
――……なによ、それ。
適当すぎる、と思う。
けど、正規のディテクトマジックで調べても、わかったのは「魔法で操られているわけではない」ということだけだった。これ以上調べようもない。結局、判断を保留するしかないのだ。しかも、一頭を除いて竜を失った彼らは隊に復帰することもできず、なぜか私の護衛につくことに……。
色々と納得はいかないまま――けれど、少なくともあの忌まわしいもののせいではないことを確認した私は、その決定に従うしかなかった。
ちなみにそう話が決まるころにはサイトもだいぶ『落ち着いた』みたいで、大隊本部を出た途端、半泣きで隊の連中の生還を喜んでいた。
あらためて自己紹介を始める彼らの横で、私はひとり手持ち無沙汰。ちらりとサイトを見るが、会話に夢中でまるでこちらを見ない。その様子に、ふと先程の失態を思い出した。
なんだか妙に胸がざわざわする。
――なにかしら、これ……?
震える手で、握ったままだった杖をこっそりと袖口にしまう。
それからその晩は、帰還を祝うという名目で酒盛りになった。当然のように私の天幕で。
「――貴方達のことで、サイトが落ち込んで大変だったのよ」
「へえ?」
その席で私がここのところの使い魔の様子を告げると、小太りの中隊長は「やっぱり変わっている奴だな」と笑い出した。
「いちいち気にしていたらきりがないだろうに」
「まったくよ、もう」
私は、ひとりだけ炭酸で割ったレモネードを飲みながら、頷く。視線の先で、サイトは酔っ払った騎士達と何度も杯を合わせている。
――でも、ま……。よかったわ。
その様子は心底楽しそうで、すっかり元通りに見えた。これでもうあの憂鬱な顔を見ないで済むと思うと、お酒を飲ませてもらえないこともあまり気にならない。
そう、そのときはそう思ったのだ……。
***
――まだ、飲んでるのね……。
任務から戻ってきた私は酔っ払いどもに占拠された天幕を見て、立ち尽くした。もうため息すら出ない。
「おっ、ルイズ! おかえり!! こんな時間までどこ行ってたんだよ?」
「…………うるさい」
ぼそ、と呟いた声は酔っ払いの遠い耳には届かなかったようだ。
「え? なになに?」
「あー、おかえりなさーい」
「お嬢様も一杯いかがぁですかぁ?」
「こらっ、酒はダメだっての――ルイズ、メシまだだろ? ルネがスゲーうまいハム持ってきたんだよ、」
赤ら顔で、上機嫌にナイフに刺さった肉の塊を振りまわすサイト。……あのね。
「それにほら、ちゃーんとお前のためのレモンちゃんも用意しといたぜ! ビタミン取っとけ、ビタミン!」
頭が痛くなってきた。
――びたみんってなによ? そんなもんより酒をよこしなさい。だいたい……、
「……なにがレモンちゃんよ、気でも狂ってるんじゃないの?」
「確かに!」
私の呟きに、合いの手を入れたのは赤毛の竜騎士だった。途端に少年達は一斉に笑い出し、サイトをからかい出す。
そんな風に盛り上がる場に比例して、私はますます頭痛がひどくなる。八つ当たり気味に、手近に転がっていた空ビンを外に蹴り出した。
「静かにしてちょうだい。任務帰りで疲れているの」
「任務ー? そんなの聞いてないぞ?」
「……言う必要ある?」
べろんべろんに酔っ払ったサイト以下を睥睨して、私は腕を組む。今、竜を無くした竜騎士に任せられるような仕事はない。それにかこつけて、私の天幕で好き放題していいわけでもないけど。
「何してたんだよ?」
「偵察よ」
「偵察!? なんで俺のこと呼ばなかったんだよ!?」
「何言っているのよ。あんたのひこうき、もう使えないじゃない」
あれは上陸作戦で弾切れなのだ。万が一偵察中に敵方に見つかって襲われたら、ひとたまりもない。
だから偵察には小回りの利く竜を出してもらった。乗り手はロマリア人の青年。平民出の神官でありながら竜騎士中隊の長を任されている、妙な身分の青年だ。ずいぶんとおしゃべりだったけれど、腕は良かった。
彼と偵察してきた街の様子は、すぐに『幻影』魔法で報告した(幕僚達はとても優秀で、虚無魔法を応用してどんどん作戦に役立てていく)。
そうして任されたことを全て無事終え、ようやく休めると思ったのに――。
「しかも、あのうさんくさい奴とかよ! なに考えてんだ!?」
「あら、とっても紳士的だったわよ、少なくともあんたらよりはね」
私の皮肉に、「おっと、これは手厳しい!」と中隊長のルネ・フォンクがおどけた仕草で額を打った。再びげらげらと笑い出す悪餓鬼共――ああ、もう。
「いい加減、出て行ってくれないかしら?」
頭が痛い。視界が歪む。精神力を無駄にできない状況でなければ、とっくにふっ飛ばしているのに。
じと目で睨んでいると、多少は気の利くルネが隊員達を連れ出していった。そして――へべれけの使い魔だけが残る。
「ねえ、サイト。あんたも少しは働いたらどうなの?」
「あん?」
静かになったものの、天幕には食べかすやら中途半端に開いたボトルやらが転がったままだ。私はうんざりとした気分でそれを避けながら、寝台に向かう。
「『ひこうき』が使えなくてもできることはあるでしょう。せめて天幕の掃除くらいしなさいよ」
小言を続けながら、ネグリジェ代わりに借りているサイトのシャツをとり、さっさと着替え始める。ちょっと任務に集中しすぎたせいで危うい目にもあって、汗をかいてしまったのだ。
背後のサイトも反省したらしく、なにか言いたげにあーうーと唸っていたけれど、やがてもそもそ動き始めた。やれやれ……。
「なあ、偵察ってどこ行ってたんだ?」
「ん?」
「危ない目にあわなかったか?」
「――大丈夫よ。腕の良い人だったから、」
「あいつが~?」
その口調に、私は顔をしかめる。
一緒に一度顔合わせはしたけれど、それ以外でサイトがあの竜使いと話をしたことはないはずだ。なのにこの毛嫌いぶりはなんなのかしら。
あの青年はたしかにちょっと胡散臭いところがある。きっと神官なのに非常にロマリア人らしい言動をするせいだろう。たとえば、初対面で私の手の甲に口づけるふりをしたりとか、容姿を大げさに褒め称えたりとか。でも、それが彼らの習慣で礼儀なのだ(だから、ロマリア男の言うことは一から百まで決して本気で取り合ってはいけない、と以前お父様にも忠告されたことがある)。
――あの軽さが馴染まないのかしらね。それとも……、
青年の外見を思い浮かべる。女性と見まごう美しい顔に左右で色の違う目ときれいな金髪と、まるで天使絵に描かれていそうな容姿だった。ちょっとギーシュを思い出す。残念ながら言動も外見も青年の方がずっと洗練されていたけれど。
そういえば、サイトってギーシュとも出会ってすぐに喧嘩していたっけ。その後も時々絡んでいたし……。
――もしかして……美形嫌い?
ちょっと意外な発見だった。
でも……別にサイトの顔もそんなに悪くはないと思う。たしかに美しいとかカッコイイとか、そういうのはちょっと違うけど。……なんていうか、ちょっと間が抜けているのよね……でも、それはそれで味があるっていうか……それに真面目な表情をしていれば、それなりに…………、
「な、なんだよ……」
なんてことを考えながらじっと見つめていたら、サイトが戸惑ってしまったので目を逸らす。
――えーっと、何の話だっけ。
そう、任務だ。あの青年は外見や言動はともかく、有能な人だった。エスコートもカンペキだったし……。
むしろ私は第二中隊の騎士達の方が苦手だ。前の一件があるせいかもしれないけど、私の目には彼らはちょっと乱暴に映る。でもサイトは馬が合ったようで、こっちに来てからはじめてと言っていいくらい楽しそうだった。だから、なんとなく見逃してきたのだけれど……そろそろ釘を刺しておくべきかしら?
「――少なくとも、昼間からお酒を飲んで酔っ払っているような人じゃなかったわよ」
「へーへー、どうせ俺が悪いですよっ! ……でも、お前だってちゃんと声をかけてくれればよかったじゃないか、」
「必要なときはそう言うわよ。それにそう思うなら明日からはしっかりしてよね。最近気を抜きすぎだわ。ここは戦場なのよ」
「…………そんなもん、わかってるっての」
妙に間の空いた返事に、ほんとうに? と思うけれど、それ以上追及することはできなかった。
寝台に腰を下した途端、疲労が一気に襲ってきたのだ。
「ルイズ、それより何か食べないか?」
「……いらない、わ」
「そんなこと言うなよ。お前、細いんだからちゃんと食わないと――――て、ルイズ!?」
気づけば私は、崩れるようにベッドに突っ伏していた。貧血、かな? どうしよ、体が動かない――、
「――――――ルイズ!? おいっ、どうした!? ルイズ!!」
遠いところで、サイトが呼んでいる――それになんとか返事をしたいと思うのに――私はそのまま、意識を失うように眠ってしまった。
***
削れば痩せ、痩せれば弱くなるのは当たり前の話で、その結果は覿面に表れた。
手の震えに始まり、動悸、息切れ、頭痛、貧血、吐き気に失神……。日々増えていく症状に、困ったものね、と思う。
もちろん最初から『足りない』ことはわかっていた。でも、そんなのはこの王軍の兵糧と同じで、上手くやり繰りして戦争が終わるころまでに使いきればいい。そう考えていた。
浅はかもいいところだ。
――約束ひとつ、まともに果たせないのね。……情けない。
この戦争のために苦労して準備を整えていた陛下のお顔を思い出す。それに家族のことも。反対を押し切って無理やり従軍したというのに、こんな有様では顔向けできない。
そう思うと、不甲斐なさでいっぱいになった。胸が苦しい……。
――…………でも、それって変な話よね。
思う。ある意味で私の計画は順調に進んでいるのに、それが原因で『苦しい』なんて、本末転倒もいいところだ。どうしてこんなことになっちゃったのかしら? と自問して、すぐに気がつく。
どう考えても、安請け合いをした自分のせいだった。ただの死にたがりのくせに変な欲をかいて、『ついでに』役に立とうなんて。虫が良すぎるわ、と過去の自分をなじる。無価値なものと引き換えになにかを得ようなんて、無理に決まっているのだ。けど、それも……、
「……いまさら、よね」
呟き、乾いた唇を撫でる。指先は冷たい。骨も肉も日々軽くなっていくのに、腕の動きは鈍くて重たかった。弱った体を横たえ、束の間の休息でだましながら、よどんだ思いをため息で吐き出す。
――あーあ。
進軍は考えていたよりも緩やかで、いらないことばかり考えてしまう。
……それはもしかしたら、私だけではなかったのかもしれない。
***
ようやく軍が進んだ先は、私が偵察した古い街だった。
始祖が最初に降臨したというその旧跡の都は、ペンタゴンの形をした大通りと、古い都市にありがちな無節操に煩雑化した路地でできている。
しかしそんな知識は、実際に街中に入り込んでしまったら、なんの役にも立たない。まして敵に追われて逃げ惑っている今は。
「こっちだ!」
先を行く騎士が叫ぶ。もちろん根拠なんてないに決まっている。それでも私達はその声にしたがって、細かな路地を走り惑うしかなかった。
背後から迫る、凶悪なオーク鬼達の唸り声。レコン=キスタはどういう手段でか、この野蛮な亜人を手懐けて兵士の真似事をさせているらしい。
それでもこんな力まかせなだけの愚鈍な巨人なんて、ガンダールヴの敵ではないはずなのに――、
「ルイズッ、もっと速く!」
当の使い魔が逃げ腰なせいでどうにもならない。
――いいからっ、手を離しなさい!
私はぱくぱくと口を動かしながら、声もなくサイトをなじる。怒鳴りつけようにも叫ぶ余力は無かった。彼らの後をついていくだけで精一杯だ。
前を行くのは、剣を構えることも忘れてひたすら私の手を引っ張る馬鹿。力いっぱい引きずられるおかげで、私はほとんど地に足がついていない。おかげでついていけるんだけど……。
そもそもの原因を考えると、とても感謝する気分にはなれなかった。
だって、全部サイトのせいなのだ。
司令部の指示で事前に街中に入り込んだ私達は、主軍の侵攻開始とタイミングを合わせて陽動の虚無を放つ予定だった。けれどその作戦の直前になって、急に使い魔が危険だから止めろと言い張り、邪魔をしたのだ。
(「なんでまたそんなこと引け受けたんだよ!」)
(「潜入するだけで終わりなわけがないでしょう、いまさらなにを騒いでいるのよ?」)
……そう言えば、サイトには私の護衛だけを命じていて、作戦の詳細は特に説明していなかった。それで驚いていたのかもしれない。でも、だからと言って敵地のど真ん中で騒ぎ立てるなんて――ほんと馬鹿なんだから。
(「お前なっ」)
(「シッ! 声が大きいわよ、馬鹿」)
(「馬鹿はお前だ! こんなとこで無駄死にする気かよ!!」)
(「な、なによ! 失礼なこと言わないで。ちゃんと成功させるわよ!」)
私だって自分の役目くらい理解している。王軍の重要な戦術兵器である『虚無』が勝手に作戦を放棄して死ぬわけにはいかないことくらい、ちゃんとわかっている。
そう言ったのに、サイトは聞きやしなかった。
(「バカヤロウッ!!」)
思わず身をすくめてしまうほどのサイトの大声は――あっさり警邏を呼び寄せてしまい、こうして護衛のルネ・フォンクら共々逃げ回る羽目になった。
「頑張れっ、こっちだ!」
狭い路地を強引に走らされる。すり減った石畳に足が滑れば、叱咤と共に引き上げられた。背後から、気色の悪いオーク鬼の叫びが迫る。
――もう。なんで、こうなるのよ……っ!
杖をきつく握りしめる。
「エオ」
とっくに侵攻作戦は始まっているだろう。
「ルー」
息が苦しい。
「スー」
任務は完全に失敗だ。
「ヌ」
せっかく任せてもらったのに、何の役にも立たなかった――。
「フィル」
鼻がつんと痛んだ。
「次、右に曲がるぞ!」
言葉通り、サイトは先に角を曲がる。強く腕を引かれる。ひっぱられて、肩が痛い。
――もう、イヤ。
だから精一杯の力で、その手を振り払った。
「ヤルン」
たたらを踏みながら、立ち止まる。
「サクサ――」
ずたずたのルーンを無理やり唱えながら、くるりと向き直った――途端に醜悪なオーク鬼の顔と、振り上げた太い棍棒が見えた。思っていたよりも、ずっと近い。視線の先で、巨大な腕はまっすぐに、私の頭蓋めがけてそれを振り下ろす。風がうなる。
――……ああ。
一瞬、何かもが止まった……ような気がしたそのとき、
「ルイズッ!!」
悲鳴じみた声に背中を蹴られて、我に返った。
――なにしているのよ、私は! 今は『足止め』でしょうがっ!
咄嗟に杖を振るう。ボンッという小さな音とともに亜人の眼前で弾ける、できそこないの爆発。
――足りな……っ!
焦るあまり、無意味に杖を振る。そんな私を、ドン!と脇を駆け抜けた突風が突き飛ばした。弾かれる、地面を転がって、壁にぶつかって止まる。地べたを這いながら、なんとか混乱する頭を上げたときには――――サイトがデルフを振り抜くところだった。
亜人の巨体が、どう、と倒れ、辺り一面に生臭い血が飛び散る。
――…………なによ、それ。
私が立ち上がるよりも早く、サイトは追っ手を蹴散らした。無傷で戻り、怒り顔で手を差し出す。
「何してんだよ、お前は」
苛立った声を――私はかすんだ瞳で睨み返した。けれどサイトは背後を振り返っていて、気づかない。
「うわっ、また来た! ほ、ほら、早く逃げるぞ!!」
「……うるさい……」
「あ?」
――ひとりで立てるわよ。
と、立ち上がった直後にいつもの目眩。視界が大きく歪み、サイトの顔と体と足がぐにゃりと混じり合う。
――ああ、もう!
思うようにならない体への苛立ちに、怒りと頭痛と吐き気が一緒くたにこみ上げた。
「ほら見ろ! 言わんこっちゃ無い、」
そんな私をサイトが抱きとめる。逃げようにも膝が震えて、力が入らない。
「しっかり掴まってろよ、な?」
そうして、軽々と抱え上げられる。なにも言い返せない私は、黙ってきつく唇を噛みしめるしかなかった。
――……なんて、役立たず。
***
結局、味方の竜騎士隊に拾いあげられ、私達は帰還した。例の偵察で一緒になったロマリア人の竜使いが、上空から逃げ惑う私達を見つけたのだ。
天幕へたどり着くまでの間ずっと、サイトの手で壊れ物を扱うみたいに丁重に輸送された私は――、
「いい加減にしなさいよ!」
「うわっ」
天幕で二人きりになった途端、ため込んでいた不満を爆発させた。手近な枕をひっつかみ、ぶつける。
「おい、いきなりどうしたんだよ?」
「アンタこそ、なにしているのよっ!」
「はあ?」
「やればできるんじゃない! だったら、最初から真面目にやりなさいよ! なのにっ、なんで邪魔ばっかりするのよっ!」
「な、なんのことだよ?」
「任務に決まっているでしょ! せっかく任されたのに、なんで――っ」
声が続かない。私が息切れして、はぁはぁと肩を上下させている間に――サイトに逆襲される。
「お前っ、馬鹿じゃないのか!? お前こそいい加減にしろよ! 貴族の義務とか名誉とか、そんなもののために命を張ってどうすんだよっ!!」
「怒鳴らないでよ! なにも知らないくせにっ」
「あー、知らないね! 知りませんよ!……ったく、くだらない」
「なんですって!? アンタねっ、私が、私がどれだけ、ここで――っ」
不意にこめかみが引き絞られるような痛みに、言葉が切れた。ぎゅうと目をつぶってそれに耐える。顔を伏せる。ハア、と目の前のサイトが、ため息を吐くのが聞こえる。
きっと、口ばかりの私に呆れているんだろう――。そう思ったら、ますます苦く、苦しくなった。
「……お前さ、そんな意地張って何がしたいんだよ?」
「私は、姫様と、約束をしたのっ」
言葉が繋がらない。叫んでいるのに、まるで力が入らない。こんなんじゃ負けちゃうのに――。
「そんなのっ、それこそお前を良いように利用してるだけじゃないか! なにが『おともだち』だよっ」
「ちがうっ」
なにもわかっていない台詞に、言いたいことが多すぎて、かえって言葉にならない。ただ「ちがう、そうじゃない、」と子供じみた口調で繰り返す。そんな情けない私に、サイトは憐れみに似た目を向ける。
「なあ、もういいじゃん。お前は十分がんばったよ。……俺らがいなくても本隊の方は上手くいったみたいだし。もう大丈夫だろ。後は本職に任せようぜ。な?」
「ちがう、ただ、私は、私は、ただ――」
諭すような、なだめるようなサイトの言葉に、私は――利かない手で、震える足で、かすむ目で、いくら呼吸をしても『さんそ』が行き届かない頭で――必死に抗おうとする。けど、
「あのなぁっ!」
声と同時に掴まれた。両の二の腕が、強い力で締めつけられる。その強さに、ドキッと一拍、心臓が大きな音を立てた。
見上げれば、触れるほど近くにサイトの顔がある。怒りに赤く染めて、私を睨みつける。その険しさに思わず息を呑んだ。
「……」
口を開くこともできない、ただ見返すしかできない。黒い目に、向き合う私が映りこんでいる。痛いほどに強い、その手の力。まるであのときみたいな距離だと、思考の片隅でだれかが囁いて――――――心臓がもう一度、勝手に跳ねた。
――あれ、私、今息しているかしら……?
緊張のあまり、そんな馬鹿げたことを思う。そんな私の目の前で――サイトの顔がくしゃりとゆがんだ。伏せる。うなだれ、掴んだままの私の腕にすがりつく。
――え? え?
戸惑う私の耳に、聞いたこともない力無い声が届いた。
「……なあ、頼むからさ……もうやめてくれよ…………俺、怖くてたまんねぇよ……」
すがりつく声に、言葉を失った。
***
目を覚ましたときは、ひとりだった。
「……」
どれくらい寝ていたんだろう。完全に意識を失っていたらしく、時間の経過がまるでわからない。けど、わざわざ確かめる気にもならなかった。
――…………サイト?
体を起しながら、目で自然と使い魔の姿を探す。こういうとき、いつもなら世話焼きの使い魔は枕元でぼーとしている。そして私が目を覚ますといそいそと動き出すのだ。
そこで、思い出した。
――いるわけ、ないじゃない……。
あまりの馬鹿らしさに、苦く笑う。
サイトはあの後一度も目を合わさないまま、休むようにとだけ告げて天幕を出て行った。それで、することもない私は言われるがまま寝台に戻ったのだ。
それきり、たぶん戻ってきていないのだろう。
からっぽの天幕の中、寝台から下りることもなく膝を抱えて座り込み、見るともなしに出入り口の方を見やる。そこには、同じように置き去りにされた錆剣が立てかけられていた。
「……デルフリンガー」
「なんだい、娘っ子?」
抜き身の剣はいつも通り、呑気な声で応えた。おかげで私もいつも通り――それに腹を立てることができた。
――なんだいじゃないわよ。
「あんた、そこでなにしているの?」
「『見張り役』らしいぜ。だあれも来ないけどな」
「……そう」
なんの見張りだろう。私が勝手をしないように、だろうか。
「相棒はどっかに行ってる。それ以上はよくわからんね。俺様、ずーっとここにいたから」
「……そう」
放って置かれて拗ねているのだろう。尋ねていないことまでぺらぺらと喋る剣は、ちょっと含みのある口調だ。……しかたないので、私はこのまま、寂しがり屋の剣に付き合ってあげることにした。
「――ね。あいつ、なんなのかしらね」
「ん、誰だい?」
「サイトよ、当たり前でしょう。――なんかあいつ最近、変、でしょう? どうしちゃったのかしら?」
私は手を伸ばして自分のつま先をいじりながら、ここのところのサイトの行状を並べたてた。
「ひまなときはお酒飲んでばっかで、騒いでばっかだし。そのくせ私には、ごはん食べろとか早く寝ろとか、いちいち口出しするし。なにか言えばすぐにひねくれるし、ふさぎ込むし、態度悪いし、怒鳴るし、睨んだりも……するし……」
尻すぼみになって、いったん息を吐く。なんだかさっきのサイトの表情がちらついて、喋るほどに落ち着かない気分になった。それを押し隠して愚痴り続ける。
「あ。あと任務も邪魔したわ! なんであんなことしたのかしら? あんなに強いのに、逃げてばっかで。ほんとやる気ないんだから! やんなっちゃうわ! しかもようやくやる気を出したと思ったら、すぐに倒しちゃうし。本当になんなのよ、もう! あれじゃあ、私はまるで――」
ふ、と口をつぐむ。
――……まるで?
あのとき、私は唯一の役目である虚無を撃てなかった。サイトがいなければ、逃げる皆についていくこともできなかっただろう。それどころか、私がいなければ彼らはもっと早く逃げられたはずだ。だから、せめてと足止めを買って出たけれど――それも、果たせなかった。サイトに庇われて、目の前でサイトが敵を蹴散らすのを、手も出せずに眺めていただけだった。
そんな私はなんなのか?
答えは簡単だ。
――ただのマヌケな足手まとい。
「……っ」
咄嗟にかたく両手を握りしめ、自制した。みっともない自分をこれ以上さらさないために。――なんて、安っぽいプライド。
わかってる。さっき私がサイトを怒ったのは、任務を邪魔をされたからじゃない。ただの、八つ当たり。役立たずの自分と彼を比べて、嫉妬していただけ。
――……なんて情けないのかしら。サイトが呆れるのも当然だわ。
他人事のように自分の愚かしさを突き放す。それでも、わき上がる感情に喉がふさがれた。
(違う。私のせいじゃないわ。役に立てなかったのは、サイトが邪魔したからよ!)
――馬鹿じゃないの。そのサイトに庇われたのは誰よ?
(うるさい! 黙んなさい!!)
――あんたこそ黙りなさいよ! みっともない!
交互に浮かび上がる感情を、身を丸めて押し殺す。自己弁護と自己嫌悪。そしてそのどちらでもない自分が、なんでこんなことになっているんだろう、と疑問に思う。なんで、こんな苦しい思いをしているのか。わけがわかんない、と。
けれど、そんな私に気づかないデルフリンガーは呑気なものだった。
「確かに冴えなかったねえ。ルーンもまるきり反応してなかったし。まあ最後だけは別だったけどさ――」
のんびりと語られた言葉の一節が気になって、私はぱっと顔を上げた。
「ちょっと。それ、どういうこと? ルーンの調子が悪かったの?」
――わざと、邪魔をしたんじゃないの?
「いや、調子が悪いのは相棒の方さ。てんで心が震えてない。あんなへたれっぷりじゃあ、ルーンも役立たずで当然だなー」
「心が? それって……」
不意に心臓が凍えるような心地がした。
(「――もうやめてくれよ、俺――」)
「……ねえ、」
口ごもりながら、尋ねる。
「サイト……さっき、言ったでしょう……『怖い』って……つまり、それって……そういうことなの?」
「ああ、そうだろね」
「そうだろねって――そんな簡単に肯かないでよ!」
あまりにあっさりとした答えに、反射的に難癖をつけていた。寝台のふちまでにじり寄る。
「ねえ、どうして? サイトはなにがそんな怖いの?」
途端に、ボロ剣は、おいおい、と呆れ声をあげた。
「お前さん。わかってないのかい?」
「なによ! 悪い!?」
「……すこし落ち着けよ。またぶっ倒れるぞ」
「いいから、早く教えてってばっ!」
噛みつくように問えば、剣は淡々と答える。
「そんなもん、ちょいと自分のことを振り返ってみればわかるだろ? 娘っ子もあんとき、オーク鬼に向かっていったじゃないか。それと同じだよ」
「同じ?」
私はそのときのことを思い出す。オーク鬼の醜悪な顔、大きな棍棒、それに自分が感じたこと。
――怖い……?
「…………わかんないわ」
「そうかい? ちゃんと知っていると思うがねぇ」
「……なによ、それ……わからないって、言っているでしょ……」
「そうか。ま、娘っ子も筋金入りのひねくれ者だからなー」
知ったかぶった台詞に苛立ちが一気に跳ね上がった。
――いい加減にしてよっ!
「勝手なことばっかり言わないでよ! わかるわけないでしょっ、そんな曖昧なこと言われても!!」
ばしん、と枕を投げつけ、バカ剣を倒す。結局、こいつも使い手にそっくりだ。適当で。一方的で。気まぐれで。勝手で。不愉快で。
毛布を頭から被って丸まる。耳を塞ぐ。非難も抗議も或いは呆れ声も、もうなにも聞きたくなかった。
――なんなのよっ、あいつも! あいつも! いったいなんなのよっ!?
ぐるぐるとお腹の中に不満がうずまいて落ち着かない。だから、私はぎゅっと小さく小さく身を丸めた。
「――わっかんないわよ、そんなもの!」
毛布の中で吐き捨てる。子供のように唇を尖らせる。
そう、わかるわけがなかった。同じだなんて、そんなこと、あるわけがないのだから。亜人の巨腕も、振り下ろされる棍棒も、全部、私にとっては『違う』のだから。
私はもうずっと前から『他人』とは『違う』のだから。
「……もう……なんでもいいから……はやくおわってよ……」
聞こえないようにと零した声は震えていて――それが、どうしようもなくみじめだった。
*** つづく ***
(221123)