ルティウスの聖堂は、白大理石で建てられたとても美しい建築物だった。
「やはり、かねのあるなしはおおきいのだな」
「何の話だ?姫さん」
「リスタのせいどうと、せっけいはほとんどかわらぬのに、ざいりょうがだいりせきというだけで、ゆうびにみえる」
「え、リスタと同じなんですか?」
「おなじだぞ。とうのかたち、せいどうほんたいのかたち、それから、にわのつくりかたもな。ちがうのは、にわのそとがわにたつ、たてもののかずだ。ここは、おうとだからかずがおおいのだろう。リスタでは、ざっきょぼうはひとつだったが、ここにはみっつもある。おおきなうまやもあるし、あのたてものは、このせいどうにいるせいしょくしゃたちのしゅくしゃだろうな」
すでに聖堂の敷地のはずなのに、まだ建物にはたどりつかない。
イシュラの背の葛篭の上に座り、高い目線から周囲を見回しているシェスティリエはご機嫌だ。
「驚きました。ただの石造りか、白大理石かだけでこんなに違って見えるんですね」
「まあ、確かに金のあるなしだな……しかし、聖堂の建物自体はなぜ大きくしないんだ?こんなんで信者をすべて収容できるのか?休日礼拝とか、人があふれるんじゃねえの?」
「あ、王都には、地区ごとに全部で七つの聖堂があるんです。でも、礼拝は外でありますから」
「あめのひは、どうする?」
「えーと……司祭様方が法術で雨を遮ってくださいます。こう、目に見えない屋根のようなものでですね、風か何かで空を覆って下さっているのだと思うんですが」
「ふむ……」
シェスティリエは何やら考えこむ。術の構成が、とか、風と時を組み合わせればよいのか、とかぶつぶつと言っているところを見ると、どういう法術なのかを類推しようとしているのだろう。
イシュラが思うに、シェスティリエにはやや魔術オタクの気がある。何にでもなれると高笑いしていたこともあるが、その選択は、魔術を学ぶ事が前提であったに違いない。
今だって、聖職者になることを選びはしたが、別に神の教えを広めるとかそういったことは頭にまったくないだろう。聖職者になったのは、目的に対する手段だと言ってはばからない中で、法術には特別な興味を示している。
(……結局、たいして魔術から離れてないっていうか……)
天職なのだろう。世の中そういう人間がいるのだ。
イシュラが結局はその剣を捨てられなかったように。
あるいは、ルドクが穀物商になることを志すように。
それに、聖職者になっても、他の職業を選択する自由がなくなったわけではない。シェスティリエの場合、別に神子になったわけではないので、その気になれば還俗もできる。
だが、禁則事項の少ないティシリア聖教の聖職者は、わざわざ還俗する必要はほとんどない。婚姻も許されているし、肉食も許されている。単に在家となれば良いだけだ。
「ここが中央聖堂なんですよ。ただ聖堂ってシェスさまがおっしゃったので、中央でいいだろうな、と思って」
「それはかまわない。おうとのせいどうで、れいはいしておこうとおもっただけだからな。イシュラ、おりるぞ」
声をかけたシェスティリエは、ひょいっと葛篭の上から飛び降りる。平均より頭一つ背が高いイシュラだから、なりの高さになるのだが、まったく怖がる素振りがない。
見るたびにドキドキしていたルドクも、今ではほとんど気にならなくなっていた。
シェスティリエは、身体は小さいが、動きはとても俊敏だ。たぶん、運動神経も良いほうなのだろう。体力をつけるといってよく歩くし、最近では、夜にイシュラに剣術を習っている。ルドクも一緒になって習っているのだが、シェスティリエの方が明らかに筋が良い。
「リスタできづいたのだが、せいどうのにわの、はなやきは、すべてくすりになるものなのだ」
「ああ……。それで、いつもユータス助祭とごちゃごちゃやってたんで?」
「ユータスのせんもんはやくがくで、にわのていれは、ユータスがたんとうしているときいたからな」
いろいろと話を聞くことができて有意義だった、とうなづく。
「やくそうをわけてもらったのだ。かわりに、わたしのやくそうもわけた」
「森で採ってたヤツですか?」
「そうだ。あのもりはやくそうのほうこだったな。ひとのあまりはいらないばしょでないと、そだたないようなやくそうもあるのだ。あのひどくしみるマァムとか」
イシュラは苦虫を潰した表情になる。
「あれはもう勘弁してくれ。さすがのオレも悲鳴をあげるかと思った」
「でも、はやくなおっただろう」
「イシュラさん、ケガをしてたんですか?」
「そ。ちょっと足をな。姫さんがいなきゃ、足切るくらいの大怪我」
肩を竦める。口では軽く言っているが、実際のところは下手したら命を落としかねない重傷だった。イシュラは、夜にわずかな傷跡しかのこっていない足を見るたびに、自分の幸運を思う。
「気をつけて下さいね。イシュラさんは、騎士だからそういうこともあるんでしょうけど……」
「昔の話だ」
まだ一月と経たない話なのに、昔と言うのがしっくり来るくらい、遠いことのように思える。
「それなら、いいんですけど……あ」
ルドクは、庭に知り人の姿を見つけて駆け寄る。
「ラナ司祭さま、お久しぶりです」
「……あら、ルドク。いつ王都へ?……まあ、巡礼するの?」
ルドクが頭を下げたのは、ふっくらとした、笑顔が優しげな女性の司祭だった。
ティシリア聖教では聖職に就くのに、男女差はない。強いて言えば、神官は女性が多く、武官は男性が多い。だが、全体比からすればほぼ同数だ。最も、女性の聖職者は出世欲に欠けるのか、大司教以上の高位聖職者ということになると男女比は5:1程度にまで下がってしまう。
「はい。こちらのファナの侍者としてお連れいただけることになりまして……。シェスさま、こちら、この聖堂のラナ司祭さまです」
「まあ……こんなにもお小さいのに、ファナに?なんて素晴らしい。……はじめまして、私は、エーダ・ラナ。よろしければ、お茶でもいかが?」
「よろんで、エーダ・ラナ。わたしは、シェスティリエともうします」
(うわ、シェスさまが、ふつうにしゃべってる!!!)
(……姫さんが、普通の口調でしゃべってる!!!)
ルドクとイシュラは内心ぎょっとしたのだが、それを表に表す愚はおかさなかった。
「まあ。天空の歌姫と同じお名前ね。何て素晴らしい!」
表情をぴくりとも変えなかったが、シェスティリエの機嫌が急降下したことをイシュラは感じていた。
「どうぞ、入って」
案内されたのは、聖堂の礼拝室の裏にある小部屋の一つだ。信者と話し合いをしたり、聖職者が打ち合わせに使ったりするようになっていて、狭苦しさを感じないように窓が大きくとられている。
ラナ司祭は、十歳前後とおぼしき少年にティセットをのせたワゴンを押させてやってくる。
「ありがとう、イリ。あなたも、ここでご一緒させていただきなさい」
少年は、こくりとうなづいた。
生成りの簡素なシャツと黒の膝丈のズボン。その上に、神子と呼ばれる子供達に特有のケープのような長めの肩衣をつけている。
手馴れた様子で、イリはお茶をいれた。
白いティーポッドに金属製の長細い筒状の容器から、お湯を注ぐ。香草茶なのだろう、さわやかな匂いがふわりと鼻をくすぐった。
「あ、魔法瓶ですね。シヴィラ商会のものですか?」
「ええ、そうなんです。ルティウスの魔法具販売はシヴィラ商会が七割を占めておりますから……これは、ご喜捨いただいたんですのよ」
「さすがシヴィラ商会ですね、太っ腹だ」
配られた香草茶は薄いグリーン。この爽やかな香りにはミントを加えているだろう。
聖堂で飲まれる茶は、だいたいが自家製の香草茶か薬茶だ。紅茶や緑茶といったお茶は高級嗜好品で、気軽に飲めるものではないからだ。
「ええ。魔法具の販売で儲けることができるのは、聖堂が安定して魔力板を供給してくれるおかげだといつも多額のご喜捨をいただいて……この中央聖堂だけでなく、支店のある東聖堂や南聖堂にもいただいているようです。大司教様がいつも感激なさってますの」
『あのいつもの調子で』と、ラナ司祭は笑う。
ルドクも笑った。大司教の顔が思い浮かぶ。
「……あれ、シェスさま、どうかしましたか?」
「はじめてみた」
魔法瓶を手にして、蓋を開けたり閉めたり、熱心にいじくりまわしている。
イリは、そんなシェスティリエをじっと見ていた。
(あー、たぶん、500年前にはないもんな、この手の魔法具……)
「ローラッドは、魔法具があまり流通してないんでしたっけ?」
「聖堂が少ないからな……魔力板が供給されないから、便利なことはわかっていてもあまり流行らない」
ローラッドは、基本的には信教の自由を掲げている。だが、国民の大半は、国教会の信徒だ。国教会では、その祭壇に歴代皇帝を祀る。
当然ながら、聖堂の勢力はそれほど大きくない。だから、魔力板を使った魔法具と呼ばれる道具は、ローラッド国内にはほとんど流通していない。
「あら、ローラッドのお生まれですの?」
「イシュラさんとシェスさまは、ローラッドのご出身なんです。シェスさまは貴族の生まれだったそうなんです」
「まあ……だからでしょうね、威厳と気品がおありですわ」
「威厳と気品……」
ものは言いようだな、と、イシュラはラナ司祭のうまい言葉の使い方に感心した。
「どうぎんのさんじゅうこうぞうで、それぞれのすきまに、まりょくをとおすぎんさをみたしている……そこのまりょくいたとつながっているのだな……」
「細かくはわかりませんが、中に満たした銀砂の純度の違いを利用して、中は熱く、表面は手で持てるようにしているそうですわ」
「いたをこおりにいれかえると、ほれいができるのですね?」
ラナ司祭が相手だからなのだろう。シェスティリエは心がけて丁寧な言葉遣いをしている。
(さっきのは、僕の聞き違いじゃなかったんだ……)
(普通の言葉遣いもできんだな、姫さん……)
内心の声を聞かれなかったことは、二人にとって幸いなことだったろう。
「ええ、そうなんです。とても便利なんですのよ。開発には、うちの助祭達も協力しております」
魔力板というのは、薄いカード状の金属板だ。水や氷、炎といった魔術を封じてあるもので、基本的には、魔法具はその板に封じている魔術を動力源としている。
たとえば、台所のストーヴやオーブンには炎の魔力板が必要だし、冷蔵庫には氷と水の魔力板が必要だ。魔法板に封じられた術は、おおよその消耗期限があり、それは板の材質によって違う。
「エーダ・ラナ、あとでからのいたを、すうまいゆずっていただけますか?どうぎんのものでかまいません」
「あ、ええ。それくらいでしたら、何枚でも」
術が封じられていない空白の板は、ただの金属片にすぎない。勿論、新たな術をこめればいいので再利用は可能だ。一般的な銅銀の板ならば、極めて安価なものでもある。
ラナ司祭の視線にイリが出てゆく。板を取りに行ったのだろう。
「申し訳ございません、ファナ・シェスティリエ。イリが随分と貴女様に興味をお持ちのようで……不躾な視線を……」
「かまいません」
在室中、イリはただひたすらシェスティリエを見つめていた。
シェスティリエの一挙手一投足を逃すまいとでもいうように、じっと見つめる黒い瞳は、不思議なくらい澄んでいた。
確かに不躾な視線ではあったが、イシュラの神経には障らなかった。きっとそこに邪気やそれに類する負の感情がいっさいなかったせいだろう。元より、シェスティリエは他者の視線を気にするようなタイプではない。
(あの金髪美人なにーちゃんは、何かすげえムカついたんだけどな……)
少年の細い手足には、ところどころに青アサがあり、もしかしたら、見えない場所にはもっと多くの傷があるかもしれないと思った。
イシュラはそれを見た時に、すぐに虐待を疑ったくらいだ。勿論、目の前のラナ司祭だとは思わない。もし、そうであれば、この少年がラナ司祭のすぐ隣……手の届く距離に座る事は無いだろう。
「あの子はイリと言います、ご覧のとおりの神子ですわ。もうすぐ11歳になります。5歳の時にこの聖堂に来ましたの」
「……もしや、こえが?」
「ああ、そうです。ファナ・シェスティリエ、すぐにおわかりに?」
「……ええ、まあ」
外傷はまったくない。ただ座っているだけでは、物静かな少年にしか見えない。
「………エーダ・ラナ。イリを、リスタのエーダ・リドとあわせたことはありますか?」
「エーダ・リド……ああ、本山の神学校で治癒術と神学を教えてらっしゃった?」
「ええ、そうです」
「いいえ。残念ながら私はエーダ・リドに教わりませんでしたし……エーダ・リドはリスタからほとんどお出にならないので……。勿論、この子もお会いした事はございません」
「そうですか……」
わずかに考え込む表情。
「イリが何か?」
「いえ……こえがでないというのは、にちじょうせいかつに、さぞふじゆうがあるとおもいまして……」
「もしや、エーダ・リドの御力なら治すことが?」
「いえ、そうではないのですけれど……」
シェスティリエは、更に考えている。
「……身内の恥を晒すようですが……あの子は、この聖堂で虐めを受けているようなのです」
ラナ司祭は苦しげな表情で、口を開いた。シェスティリエたちが気付いていることがわかっていたのだろう。
「……………………」
「私の目の届く範囲では、決して行われません。ですが、私はあの子とずっといてあげることはできない」
「……………………」
「何よりも、私は、あの子だけを特別扱いするわけにはいかないのです」
「………………なぜですか?」
あっさりとシェスティリエは問う。
「私はこの中央聖堂の司祭です。あの子に障害があろうとも、他の神子たちと平等に扱わねばなりません」
平等に愛を注がねば不公平になります、と目を伏せる。
シェスティリエは何も言わなかった。彼女には、ラナ司祭とはまったく違った見解があったが、言ってもどうしようもないことだ。
「………こちらのせいどうの、きょかがいただけるのなら、わたしがつれていってもいいです」
「え?」
「ほんにんのいしもありますが、わたしのじしゃとしてもいい、ということです。つまり、わたしが『しさい』いじょうのかいいをうけたら、かれはわたしのじさいになる」
侍者とは、聖職者の身の回りの世話をする者を言う。これは、今、ルドクがそうなっているように、信者であれば誰でもなれる。
だが、神子を侍者とするのは、それとはまったく意味を異にする。
神子は聖堂で育てられた子供であるから、洗礼を受けた後、聖堂で奉仕することを義務づけられている。奉仕期間は、洗礼を受けるまで聖堂で育てられていた期間とされている。
神子の洗礼は15歳までに行うとされていて、だいたいの場合、15歳ぎりぎりで洗礼を執り行う事が多い。これは、なるべく長く聖堂に奉仕させる為だ。
奉仕期間を短くする方法の一つは、誰か聖職者の侍者となることだ。ただし、侍者となるには、その神子を侍者とした者がそれに見合う喜捨を行わなければならない。大概の場合、教父(教母)が、能力のある子を侍者にすることが多い。
もっともこれは、奉仕する相手が、聖堂でなく侍者としてくれた聖職者個人になるだけで、実質には何も変わりがないとも言われている。
だが、侍者となるということは、その聖職者の庇護下に入ったことを意味する。
今のイリに必要なのは、その庇護だ。いや、とラナ司祭は内心首を横に振る。庇護以前に、ここから連れ出してくれればそれでいいとさえ思う。
「よろしいのですか……?あの子は声が出ないのですよ?」
声が出ない……それは、ほとんどの法術が使えないということだ。それは、神官としての出世の道がないということと同意だった。かといって、彼が剣術や体術に優れているかは未知数だ。今の細い身体を見る限り、武官として大成することはかなり困難に見受けられる。
そんな神子を侍者とする……それは、シェスティリエにとっては厄介ごとを抱えるという意味でしかない。
「かまわない。……わたしはごらんのとおりのむらさきのひとみだから、もともとまじゅつのこころえがあります。イリにもつかえるほうじゅつをさがすこともできるでしょう」
「私には願ってもないことです。ですが、保護者の方は……」
眼差しはイシュラに向いている。ラナ司祭は、シェスティリエの幼さに、イシュラを聖都にまで送り届ける保護者だと思ったらしい。
「主が望むのであれば、別に異論はありません。……エーダ・ラナ、オレはファナ・シェスティリエの聖従者です」
ぶっとルドクは噴き出しそうになるのを無理やり飲み込み、軽くむせる。
(べ、別人だよ、イシュラさん……)
騎士らしいそぶりもたびたび見てはいたのだが、これはもうまったくの別人だ。
いったい、何の陰謀かといいたくなるような見事な変わりっぷりだ。
「まあ……そうなんですの?」
「はい」
シェスティリエはうなづく。
聖従者を持つ者は少ない。聖従者は、聖職者に剣を捧げた騎士を言うのだが、聖職者に剣を捧げた聖騎士は聖従者とは呼ばれないからだ。
「ああ、でも、ファナのこの幼さでは、当然ともいえますわね」
幼いシェスティリエを守る為に、親がつけたのだろうとラナ司祭は思ったようだった。
コンコンという小さなノックとともに、イリが戻ってくる。
手には十数枚の魔力板が握られていた。
「まあ、イリ……頬をどうしたの?いらっしゃい」
目の下に青いアザを増やしたイリは、ふるふると首を横に振る。
「大丈夫よ、治すだけよ」
だがイリは、ぱたぱたと駆け寄ると魔力板をシェスティリエに差し出す。
「ありがとう、イリ」
ぱあっと笑顔がひらいた。
その瞳がきらきらと輝いている。
(えーと……一目惚れ、とかなのかな……いや、何か違うような)
ルドクは首を傾げる。
シェスティリエが何かした様子はまったくなかった。さっきまで、ほとんど視線すら交わしていなかっただろう。
そして、一目惚れというには、イリの目の中には甘い熱がない。
「ファナ、どうやら、イリは貴女と行くことが幸せになれる道のようです。私の方で手配いたしますので、明日、大司教様がお戻りになったらお話をしていただけますか?」
「はい。……では、あす、またうかがうようにいたします」
「今日は、こちらに滞在なのでは?」
「………さきほど、ガーナはくしゃくから、ごしょうたいをいただきましたので」
「ガーナ伯爵から……ガーナのお屋敷に?」
「はい」
ラナ司祭の表情が曇る。
「……伯爵家で何か?」
尋ねたのは、イシュラだ。
「いえ、特に何というわけでもありません。ただ、伯爵家は第三王女の件でいろいろと大変なようですから……」
「……訪れない方がいいと?」
「そうとまでは申しませんが……先日も第三王女様を狙って、襲撃されたとも聞きます。どうか、くれぐれもお気をつけ下さい」
「ええ、もちろんです」
(……そんな物騒なのかよ)
イシュラは腰の剣の柄頭をとん、とん、と叩く。久しぶりに出番があるのかもしれない。
シェスティリエは、例の冷ややかな笑みを浮かべていた。物騒なことを最初から承知だったらしい。
ラナ司祭はルドクと挨拶をしていて気づいていないが、イリはじーっとその表情を見ている。シェスティリエは、その冷ややかさをまったく隠そうとしていなかった。
だが、イリはことさら驚いた様子もなく、飽きもせずに見つめつづけている。
くるりとシェスティリエがイリの方を向いた。そして、イリに小さな柔らかい笑みを見せる。
「また、あしたね、イリ」
シェスティリエの言葉に首を傾げ、意味がわかった瞬間にその表情がぱあっと明るく綻ぶ。そして、こくこくと首を振った。
誰が見ても、一目で好意があるのだとわかる。
イリは、イシュラとシェスティリエの姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。
「……姫さん、あの子に何をした?」
二人は、後から追いかけてくるだろうルドクを待ちながら、ゆっくりゆっくりと足を進める。
「なにも。でも、イリにはみえるのだろう」
「何が?」
「まりょく。みえるにんげんには、いまのわたしは、おひさまじょうたいだ」
「…………は?」
「『まりょくかいろ』がこうちくできてないから、ほうしゅつしっぱなしだ。たぶん、キラキラしてみえる」
「……魔力回路ってなんだっけ?」
前に聞いたような聞かないような、と首を傾げる。
「からだのなかの、まりょくをじゅんかんさせる、みちすじのことだ。まだ、おさないからだゆえに、かいろをこうちくできない」
無理に作ると成長の妨げになる、と不満げだ。
「イリは、ふつうよりまりょくりょうがおおい。そのうえ、かんかくがするどい。だから、つよいまりょくをもつわたしがすきなのだろう」
「なぜ?」
「あんしんするから」
「……………腕っぷしの強いヤツといれば安心、とかそういう感覚か?」
イシュラは魔力の話になるとよくわからないことが多い。だが、理解はしておきたいと思う。そういう問いかけに、シェスティリエは面倒がらずに丁寧に回答してくれる。
「そうだな」
「でも、普通より魔力多いんだろ?あの子供。なのに、なんでだ?」
「だからわかるのだ。じぶんのよわさが。……そうだな。くらやみのなかで、ずーっとひとりきりだったところに、たいようがさしたらどうおもう?」
「そりゃあ、安心すんだろうな」
「そう。いま、そういうじょうたい」
「なるほど……」
そりゃあ、あの懐きようも無理ないか、と思う。
暗闇の中に射した一筋の光……そして、その光をもたらした相手が手を差し伸べてくれたとしたら……明日のイリの喜びが目に見えるようだと思う。
(……それに……それは、オレだ)
あの子供は、イリは、自分と同じだとイシュラは思う。
「……オレは、姫さんしか守んねーぞ」
守るのは一つだけ。
そうでなくては、守りきれない。
「……かまわない。だが、つよくなるのに、ちからをかせ」
シェスティリエが艶を滲ませた笑みをこぼす。
イシュラは、この笑みが好きだ。
どこまでも清華な慈愛の微笑よりも、このどこか妖しさを帯びた笑みがいい。
「ああ」
うなづいた。シェスティリエの周囲に人が増えることは嫌なことではない。むしろ、盾が増えるか程度にイシュラは考えている。
「……そうだ、姫さん、聞きたかったんだけどな」
「……なんだ?」
「なんで、天空の歌姫と同じ名前って言われるのが嫌なんだ?ルドクが来る前に聞いておこうと思ってよ」
どこへ行っても言われるから、とかそういう理由ではあるまい。まだ、そんなに言うほど多くの場所で言われたわけではない。
「それは……」
珍しく即答を躊躇う。
「……つまりだな……それは、私が……」
シェスティリエが、躊躇ったすえに口を開きかけた瞬間だった。
「シェスさま、イシュラさん、お待たせしました!」
タイミング悪くルドクが戻ってくる。
「あれ?どうしました?二人とも」
沈黙が不自然だった。
「いや……何でもない」
「なんでもない」
「????????」
何でもないというわりには、表情が苦い。だが、ルドクにまったく思い当たる節は無かったので気にしない事にした。
「……あの子の身代金は『お志』程度でいいそうですよ、シェスさま」
身代金、と言うのは、ルドクのブラックジョークだ。イリを引き取るために必要な喜捨のことを言っている。
神子を引き取ると一口に言うが、聖堂とてこれまで育てて来た子供を無償で手離すようなことはしない。聖堂はそんなことは絶対に認めないだろうが、それは、奉仕で返さないのなら、金で返せということだ。
もっとも、イリのように厄介者にされて持て余されていれば、それは形だけのもので、だからこそ『お志』……幾らでもいいというようなことになる。
「……おまえ、んな交渉してたの?」
「ええ。だって、シェスさまが、聞けって」
知らないところで指示があったらしい。
「わたしがきくわけにはいかない。……そうだな、ファラザスきんか1まいでしはらおう」
ファラザス金貨は、ファラザスが法皇として在位していた期間の、晩年の十年間だけ鋳造されていた金貨だ。額面の百倍とも二百倍とも言われるプレミアがついている。
ことに神聖皇国では、その価値以上に尊ばれる金貨だ。
「………………そりゃあ、法外な」
「よい。イリとて、じしんのきしゃがやすいのはふかいにおもうであろう。そのかわり、いろいろとほしいものがある……」
「……さっきの魔法瓶とか?」
「そう、まほうびんとか」
にっこりと笑う。ルドクもだんだんとシェスティリエの気質や好みが呑み込めて来たらしい。
(ファラザス金貨か……。大量にもってたんもんな、あの白骨……)
迷いの森に全財産をもって逃げ込んだらしい人間の慣れの果てから、ファラザス金貨ばかり200枚近くと小さいながら良質な……シェスティリエがそう言った……宝石がつまった皮袋をいただいてある。もしもの時の貯蓄はばっちりだとシェスティリエは言っていたが、あの時はどれどころじゃなかった。
金や宝石は、文明社会だからこそ意味があるのであって、サバイバル中の森の中では無用の長物だ。戻ってこれた今だからこそ、その価値をすごいと感心することができる。
森の中で手に入れた財産は、すべて、二重底にしてある葛篭の中だ。封印の呪文がかけられているので、他者には開封できないというシェスティリエの御墨付きである。
「ほういとか、せいいはなんまいあってもこまらない……あ、イリのぶんもいただくように」
「はい。法衣も聖衣もちゃんといただきましょう。交渉はお任せください」
ルドクは、しっかりとした商人の顔をする。
「うん。たよりにするぞ、ルドク」
「はい」
ルドクは誇らしげな顔で深々と頭を下げた。
(……とうとう、こいつまで姫さんの信者に……)
いずれそうなるだろうとは思っていたが、思っていた以上に早かったらしい。
イシュラは、この先、どれだけ自分の主の信者が増えていくのかを思って、小さな溜息をついた。
2009.09.10更新・修正