ガーナ伯爵邸は、青湖のほとりに建つ瀟洒な邸宅である。
規模としては中程度だが、白大理石の壁が、青い湖に映りゆらめいている様子はたとえようもなく美しい。
また、青湖をうまく利用して作られた庭は、高名な作庭師によるもの。王都で一、二と言われるほど美しい邸であったが、そこに住む住人は更に美しいとも囁かれていた。
「……うつくしいが、このせいじゃくは、まるでゆうれいやしきだな」
通されたのは、まるで主の居室かと見紛うばかりの豪奢な室だった。
客室とは思えない美しく豪奢な調度品の数々は、ガーナ伯爵家の財力を如実に現している。
だが、シェスティリエの言葉どおり、邸はしん…と静まり返っていた。普通、貴族の邸ともなれば、使用人たちが忙しく立ち働いていて、もっといろいろな生活の音が聞こえてくるものだ。
「ほんとうにでます?これ」
ルドクは幽霊の真似をしてみせる。
「さあな。でも、あんずるひつようはない。ゆうれいというのは、くうかんにやきついたつよい『しねん』にすぎぬ。きまったこうどういがいはできないのだ。いしのあるものではないからな」
「え、幽霊話の幽霊は、普通にしゃべるじゃないですか」
「それは、ほんにんのたましいのいちぶだろう」
「……………それを幽霊というのでは?」
「そうなのか?」
「ええ、たぶん。…………シェスさまは、幽霊を怖いなんて思わないんですね」
ルドクは小さな溜息をついた。自分が人より臆病だと言う自覚はあるが、シェスティリエの幽霊を幽霊とも思っていないようなその様子と比べるとあまりにも情けない気がしたのだ。
「ぐもんだな、ルドク」
「あー、その質問は聞くだけ無駄だろ。……そもそも、それは、姫さんにも怖いものがある前提だろ」
「しつれいなおとこだな、イシュラ」
「いえいえ、我が主が、何かを怖れる姿など想像できないだけですよ」
「……シェスさまもイシュラさんも、同類ですから!」
ほんのちょっとでいいから、その豪胆さを分けて欲しいと思う。
「余裕ですよね、シェスさまもイシュラさんも」
「なにがでるかはしらぬが……むきずのイシュラがいて、わたしがおきているのなら、たいがいのことは、きりぬけられるよ、ルドク」
イシュラもそのとおりだと言うように大きくうなづいている。
「…………そうですね」
大陸有数の剣士と、おそらくは世界最高ランクの頭脳の持ち主だ。それこそ、無敵のコンビだろう。
「……ところで、参考までに聞くんだが、姫さんが切り抜けられないことって何です?」
ふと、思いついたようにイシュラが問うた。
「そうだな……たとえば、おとしあなにおちたら、ぼうそうしたりゅうのむれのうえについらくしたり……。あとは、いえのドアをあけたら、どこかのみずうみのそこだったり……。それから、まいごになってとほうにくれてたら、あたまにごくらくちょうのはねをさしたうさんくさいオカマにプロポーズされたり……とかだ」
何を思い出したのかシェスティリエの表情が、だんだんと暗くなりはじめる。
「それ、例として正しくない気がします……」
「…………………姫さん、それ、どんだけ特殊事例だよ」
「し、しかたないだろう。わたしだって、そういうことがあったらパニックになるし、とほうにくれる」
(もしかして、実体験?いやいや、それはありえないし!だって、竜なんて、深い山の奥地にしかいないし!)
「……シェスさま、竜はそこらにはいませんし、家は水の底に勝手に移転はしません。それに頭に極楽鳥の羽つけたおかまって、そんな人が普通に歩いてたりとかしませんから。……え、なんです?イシュラさん」
イシュラの物言いたげな表情がルドクは気になった。
「……あのな、ルドク。その極楽鳥、ローラッドの第二皇子だから」
「へー、第二皇子……皇子?え……イシュラさん、知ってるんですか?」
「ああ、まあ、ちょっと……」
過去の思い出したくない記憶の中に、それは封印されている。
シェスティリエとイシュラは互いに目を見合わせ、互いの精神衛生上の為にそれを再封印する事を無言で了解しあった。
「……シェスさまとイシュラさんのそういうとこ、仲良すぎですよ!目線で会話して」
「なにをいう。ルドクだってわかるだろう?わたしがきけってめでいったのを、ちゃんとなにをきくのか、わかってたじゃないか」
「あ、ああ……あれはだって、あの流れなら当然じゃないですか」
「イシュラにはわからなかったぞ、ぜったいに。だから、べつにおまえがわからないことがあってもおかしくない」
「なーんだ、ルドク、嫉妬か、生意気に」
「そーいうんじゃないです!」
「ばーか、そういうのだよ。オレに嫉妬しても無駄、無駄。オレは姫さんに剣を捧げてんだから」
イシュラはぐしゃぐしゃとルドクの頭を引っ掻き回す。
「頭かき混ぜるのやめてくださいってば……」
「おまえは、おまえにしかできないことをすりゃあいいんだよ」
はははは、とイシュラは笑う。
「僕にしかできないこと……?」
「そうだ。……姫さんだって、一人で何でもできるわけじゃないしな」
「そのとおりだ。……まあ、いろいろとやってもらいたいことはあるのだが……」
「な……」
何を、と問おうとした時、こんこんと控えめにノックの音がした。
気配が、変わる。
警戒――――― ぴんと空気が張り詰める感覚がある。
イシュラの横顔がどこか鋭さを増した。
こういう時、イシュラが武人であることを……剣を持つ人間である事を、ルドクは強く思い知らされる。
「どうぞ」
失礼致します、の声と共に入って来たのは、少女だった。
「皆様、こちらにお揃いでございましたか、お待たせして申し訳ございません。お食事の用意が整いましたので、どうぞ、食堂においでくださいませ」
淡いグレイのワンピースに白のカフス、白のヘッドドレス、そして、レースの飾りのついた白のエプロンが、ガーナ伯爵家の女性使用人のお仕着せらしい。スカートの裾をふわりと揺らして、十七、八歳のおとなしげな少女は深々と一礼する。
「はい」
シェスティリエは、にっこりと笑みを浮かべた。
珍しい天使の微笑の大安売りだ。
(……今度は一体、何があるんだろう……)
シェスティリエがこんな風に笑うのには、絶対に何か意味がある。シェスティリエは無駄なことはしないし、彼女はそうそう笑顔を見せる方ではない。
(女王様笑いはよくするけど……)
こっそり、『女王様笑い』とルドクが名付けたのは、シェスティリエがよくやる、口元だけにひややかな笑みを浮かべるアレだ。
どちらかというと、アレがシェスティリエの普通の笑いである。
だから、そういう笑いなら、ルドクは別に驚かないし警戒心もあまりわかない。
(……何も知らなければ、うっとりと見惚れられるんだけどなぁ……)
うっとりするには、ルドクはシェスティリエの性格を知りすぎている。
彼女が笑っている時は要注意だということは、イシュラと何度も確認した重要事項なのだ。
(まあ、何があっても、とりあえず慌てないようにしよう……お二人の邪魔にならないように)
ルドクができることはあまり多くはない。だから、せめて邪魔をしないようにしたいと常々思っている。最近では山賊が出たくらいではまったく慌てなくなっている。少しは頑張っている成果が出ているのかもしれない。
「ご案内させていただきます」
前に立つ彼女の表情がどこか強張ってみえるのは、ルドクの気の回しすぎだろうか?
「……ルドク、せっかくのしょくじだから、えんりょなくいただくのだぞ」
「はい」
「腹壊しても姫さんが何とかしてくれるから」
「もちろんだ。あ、これをさきにのんでおくがよい」
シェスティリエになにやら黒い丸薬を渡される。
「なんですか?これ」
「ふつかよいよぼうやく」
「……へー、そんなのあるんですね」
ルドクはあっさりとその丸薬を口にいれる。
「うわ、苦っ」
舌先が痺れるほどの苦味に顔をしかめた。
「薬だからな」
「りょうやくはくちににがし、というではないか」
「そうですけどね」
法衣の飾り帯を整えているシェスティリエを、イシュラはひょいと抱え上げる。
「……あれ?シェスさま、お疲れなんですか?」
「ん、きょうはだいぶあるいたからな」
イシュラが何も言わずに抱き上げることとか、シェスティリエがそれを当然のことだと思っていることを、ルドクは口惜しいと思う。思い起こせば、この二人は出会ったときからそんな感じだった。
(なのに、それが気になるようになったっていうのは、僕が変わったからなんだろう……)
シェスティリエの無条件の信頼を受けているイシュラが羨ましいと思ってしまうのだ。
「ルドク、エーダ・ラナはなにがおすきだろう?あす、ゆくときにかっていきたい」
「え、ラナ司祭ですか?」
唐突な言葉に首を傾げる。
ビクッと前を歩く少女の背が震えたのがルドクにもわかった。
目線をあげて、イシュラを見る。イシュラは知らぬフリをしていろと目で言う。小さくうなづいた。
「えーと、ラナ司祭は、甘いものがお好きですね。水飴とかお喜びになると思いますよ」
「そうか」
先に立って案内する背中……ドアノブにかけた手が、小さく震えている。
この唐突な言葉のやりとりに何の意味があったのか、ルドクにはさっぱりわからない。
(後で聞いてみよう……)
少女は気を取り直すかのように息を吸って、それから大きな扉を押し開く。
「ど、どうぞ……」
ルドクには聞き取れなかったものの、すれちがいざま、シェスティリエが何かを囁いた。
びくり、と大きく身体を震わせ、凍りついたかのように硬直した。
呆然とした表情……よほどショックなことを言われたのだろう。
ルドクが振り返ると、閉まる扉の向こうに立ち尽くした少女の表情は、怯えではなく恐怖に彩られていた。
「……くらい」
光源は、テーブルに置かれた燭台でゆらめく蝋燭の光だけだった。
燭台はいたるところに置かれているのだが、どうしてもその灯は魔法具の光ほど明るくはない。
「申し訳ございません、ファナ。魔法具がちょっと故障しましてね……ですが、たまには燭台の光も趣があるものです」
入り口で出迎えたのはガーナ伯爵……リュガルトだった。騎士服から黒と灰色の室内着に着替えている。
その金の髪は蝋燭のぼんやりとした光の中であっても豪奢な色を誇り、翡翠の瞳は穏やかな光を帯びている……いかにも貴公子然としており、王都の若い女性がこぞってあこがれているというのも無理はない。
「ランプは利用されていないのですか?」
イシュラが静かに問うた。
平坦な声音……ルドクはいつもと違う様子に、少しだけ気をひきしめる。
「ええ、まあ……家中の照明がすべて魔法具なものですから……」
シェスティリエは、イシュラの腕の中から、興味深そうに天井のシャンデリアを見上げている。繊細なカッティングがほどこされた硝子を贅沢に使ったシャンデリアは、蝋燭のわずかな灯にもきらきらと美しい輝きを放っている。
「では、このシャンデリアもまほうぐなのですね」
(……あ、シェスさまが、お姫様モードだ)
ラナ司祭の時もそうだったが、いかにも貴族の姫らしい口調だ。更にお姫様度がアップしている。
関所では、いつもの口調だったが、それほど多く会話をしていないから、リュガルトにはきっと違いが判っていないだろう。
「はい。……珍しいですか?」
魔法具で最も広く使われているのが照明だ。
貴族の家はもちろんのこと、王都では一般住宅でも魔法具の照明を備えている。リュガルトには、意識するほどもなく当たり前の品物なのだろう。
「ローラッドのうまれなものですから」
「ああ、ローラッドではフェルシアほど魔法具は使われておりませんでしたね。……御家名をお伺いしても?」
「はくしゃく、せいしょくしゃにかつてのなをとうことは、マナーいはんです」
やんわりとそれを断る
そういえば、自分もそれは聞いたことがない、とルドクは気付いた。
「失礼いたしました。つい……ファナの瞳が珍しい紫ゆえに、遺伝なのかと思いまして」
「……とつぜんへんいのようです。ちちもははもむらさきではありませんでしたから」
「そうですか。……どうぞ、おかけください、ファナ」
立ち上がった伯爵は、椅子を引いて促す。
「ありがとう」
イシュラはふわりと椅子の上に座らせる。そして、いかにも騎士らしいしぐさで一礼した。
「お供のお二人も、どうぞ」
当然のように、イシュラはシェスティリエの隣の席に就いた。シェスティリエの騎士であるイシュラには元々その権利がある。彼女が聖職者となり、聖従者と呼ばれるようになってもそれは変わらない。
そして、シェスティリエの侍者であるルドクも、主がそれを望めば今は同じテーブルに就くことができる。だが、だいたいは侍者は別のテーブルで食べさせられることが多いものだ。同じテーブルに席があるのは、このディナーに同席する人間があまりにも少ないからだろう。
招待主であるリュガルトを含めても四人。二十人以上が同時に食事をとれる食堂はがらんとしていてうら寂しい。照明が蝋燭なことも、その寂しさに輪をかけているかもしれない。
「では、はじめましょうか」
その声を合図に、給仕がワインの瓶をもって現われる。さすがに伯爵家の使用人だけあって、動作に無駄がなくきびきびとしている。
「当家の領地で作っているワインになります。去年のものですが、最高の出来だったのですよ。ぜひ、ご賞味いただきたい」
「……もうしわけありませんが、わたくしとイシュラはごえんりょさせてください」
シェスティリエは心の底からすまなそうな表情で軽く頭を下げ、ルドクを見て付け加える。
「ルドク、わたしたちのぶんもいただきなさいね」
「えっ、あ、はい。喜んで」
ごくり、と思わず唾を飲み込んだのは、シェスティリエのその言葉遣いに大変違和感を覚えているというのに、いただきなさいね、なんて笑顔つきで促されてしまったからだ。
(これは、自分達の分も飲めっていうことだよな……えーと……毒見?いや、二人は飲むつもりがないんだよな……あれ?まあ、いいんだけど)
チラリとイシュラに視線をやると、笑いを噛み殺すような表情をしている。
「ワインはお嫌いですか?」
ワインは水代わりだ。年齢が幼いものには、あまりアルコール度数の高くない……ジュースのような軽いものが出されることが多いが、それもワインの範疇だ。
「いいえ……せっかくのおこころづかいですが、わたくしとイシュラは、やくそくをしたものですから」
「約束?」
「……………わたくしのりょうしんが、せんじつ、いくさでなくなりました。でも、わたくしはせいしょくしゃだから、もにふくすることができない。だから、かわりにイシュラがもにふくしてくれているのです」
イシュラが軽く一礼する。
(イシュラさんも、普通の騎士らしくすると、ほんと別人だ……)
「・・・…今回の戦でご両親がお亡くなりに?」
ローラッド帝国とブラウツェンベルグ公国、どちらとも国境を接しているフェルシアだ。
今回の戦の行方には多大な興味を持っているといってもいい。リュガルトの元にもそれなりに情報は入ってきているのだろう。
「……ええ」
シェスティリエは、軽く目を伏せる。その様子はとても儚げで……思わずルドクですら見惚れてしまう。
「……それは痛ましい事ですね。……お悔やみを申し上げます」
「ありがとうございます」
(……違和感を気にしないと、シェスさまが普通の貴族のお姫様に見えるから不思議だ)
違和感がなくなったわけではない。ただ、それを無視しているだけだ。
ルドクは、給仕がグラスに注いでくれた、やや甘めだが豊かな味わいのロゼを口にした。
シェスティリエにもイシュラにも大いに飲み食いするように言われている。あの口ぶりだと、万が一、何か入っていてもちゃんと助けるぞ、と言ってくれているのだろう。
(……何がはじまるんだろう)
何かあるのだとはわかっている。でも、それが何なのか、ルドクにはまったくわかっていなくて、それがもどかしい。
(仲間はずれみたいな気がする……)
それが、ちょっと口惜しい。
「……お身内の方は他には?」
シェスティリエは首を横に振る。だが、それはいないという意味ではない。
「わたくしは、せいしょくしゃになったのだから、たちきったぞくせのことをかんがえるのは、あまりよくないことです」
静かな言葉。それは、シェスティリエの本音なのだろう。事実、ルドクはシェスティリエの口から、一度も親族の話を聞いたことがない。ただ、両親が戦で死んだということだけは旅の初日に、ぽつりと話してくれた。
「ですが、血のつながりというのは強いものです……それを断ち切ることは神にもできないことだと思いませんか?」
(……あれ、なんか、ちょっと眠いかも……)
さすがに食卓で寝るのはまずいだろう。ルドクは自分の腿をぎゅっとつねる。ワイン一杯ぐらいで眠気を感じるなんて、思っていた以上に疲れているのかもしれない。
「ちのつながりになど、たいしたいみはありません。じぶんがなにをえらぶかです、はくしゃく」
シェスティリエは、その瞳をまっすぐとリュガルトに向ける。
室内が薄暗いせいか、紫の瞳は昼間に見るよりも色濃さを増してみえた。
深みを帯びた紫水晶の瞳……それは、心の底を見通すかのようだ。
「………ファナは、ご自身の意思で聖職者に?」
リュガルトが、わずかに目線を逸らし、違う問いを口にした。
(ちょっと……まずいかも……)
ルドクの目には、リュガルトの白い横顔がぼやけて見えていた。
「ええ。……ひつようだったものですから」
何だか、聞こえてくるシェスティリエの声がひどく遠いと感じる。
「失礼ですが……何に必要だったのでしょう?ファナのような幼い姫君が、聖職者になると言うのは生半可なお覚悟ではできないことと思いますが」
(寝たらだめだ、寝たらダメだ、寝たら駄目だ……)
腿をつねる指に力をこめる。だが、まったく感触を感じない。
もしかしたら、つねることも出来ていないのかもしれない。
「しりたいことがあります。それから、つたえたいことが……」
それに……と言葉を切ったシェスティリエの表情が覚悟を帯びる。
「それに……わたくしのいのちは、わたくしだけのものではない」
(シェスさまの声には……力がある……)
宿る強い意志、そして、決意。
その言葉は、声は、迷うことなく自らの道を示す。
薄れる意識の中で、ルドクは、シェスティリエが自分に微笑んだような気がしていた。
2009.09.12 更新