耳障りな音をたてて、皿が床に落ちる。
ルドクが白いテーブルクロスを乱して倒れこんでも、イシュラも……そして、シェスティリエも動かなかった。ただ、ほんのわずかに視線を動かしただけ。
「………予測しておられたか?」
どこか、興味深そうな様子で、リュガルトは静かに問う。
「ええ」
シェスティリエは、小さくうなづいた。
予測通りでつまらない、というような表情だ。
「………いつから?」
手にしていたグラスをテーブルに置き、リュガルトは足を組む。食卓でするには無作法な仕草だが、既に食事を続けるつもりはないのだろう。
「………たぶん、はじめから」
食事を続けるつもりがないのはシェスティリエも同じだった。細い指先が、首もとのナプキンをはずし、テーブルの上に置かれた。
イシュラは、シェスティリエの椅子の背後に立つ。
「初めから、か……最初から、私が何をしようとしているか知っていたと?」
「……すくなくとも、あなたがこころからわたくしたちに『ほうし』してくださるつもりがあるとは、おもっていませんでした」
シェスティリエははっきりとうなづく。イシュラは薄々何かを感じていただろう。……もしかしたら、ルドクも。
でも、それは彼が何かしたからというよりは、シェスティリエの態度からに違いなかった。それほど長い時間を共に過ごしたわけではないが、二人はシェスティリエという人間をよく見ている。
だから、彼女がいつもと違うことをすれば、それぞれに心構えをする。
そういう回転の良いところが、シェスティリエが二人を気に入っている理由の一つだ。
(それに、ふたりとも、おどろくほどじゅうなんせいがたかい……)
イシュラなど、シェスティリエが過去の人間の生まれ変わりだと言う言葉を信じて、受け入れているほどだ。
「なぜ?」
「……あなたのめは、『わたくし』というこじんをみていませんでした。さいしょは、わたくしのおさなさにおどろいたのでしょう。もしかしたら、そのときだけは、じゅんすいに『ほうし』をかんがえてくださっていたかもしれない……でも……」
「でも……?」
リュガルトは、どこか倣岸さを感じさせる表情でシェスティリエを見る。
「それは、わたくしのかおをみたしゅんかんに、かわった……」
いつもより、ワントーン低い声でシェスティリエは言葉を紡ぐ。
「ははははは……私が、幼い少女に興味を示すと?いくら貴女が類い稀な美貌を持つとはいえ、初潮もまだの子供に食指は動かぬよ」
嘲りを含んだ言葉……乾いた笑いががらんとした食堂に響く。
剣の柄に手をかけたイシュラを、シェスティリエが目線で止めた。
そのような空虚な言葉は、シェスティリエを傷つけることなどできやしない。
「あなたがきょうみをしめしたのは、わたしのかおではなく、わたしのめでしょう、ガーナはくしゃく」
ぴたりとどこかつくられた笑い声が止まった。
その目に浮かぶのは、純粋な驚き。
「まりょくをやどすといわれるむらさきのひとみ……そう。おそらくは、だいさんおうじょもむらさきのひとみなのでしょう?」
「どうして……」
驚きは驚愕へと変わる。シェスティリエは薄く微笑むだけでその問いには答えない。
「ずっとかくしてそだててきたひめに、あなたは、それなりにあいじょうをもっている。だから、さんねんまえのできごとは、あなたにはせいてんのへきれきで……そして、そのために、あなたのたちばはとてもくるしいものになった……」
だって、王妃が姫の存在を許せるはずがないのですもの。
「おうひは、あなたにひめをころせといったの?」
小さく首をかしげる。
無邪気なしぐさだったが、シェスティリエは、無邪気さとはほど遠い存在だ。
図星だったのだろう。リュガルトは大きく目を見開く。
「それとも……」
シェスティリエはその言葉の響きを楽しむように、そこで区切り……そして嗤う。
「……それとも、むらさきのめを、しょうことしてもってこいとでもいわれた?」
驚愕は……一瞬にして、恐怖へと変わった。
背筋を走る悪寒を押し殺し、蒼白な表情でリュガルトは目の前の少女を見る。
まっすぐと彼を見据える紫の瞳……それは、夕闇を映した紫であり、深みを帯びた紫水晶の色だ。
「でも、あなたはおうじょをころせない。ときおり、にくしみをおぼえることはあっても、あいするあねのわすれがたみだから……」
イシュラは、冷ややかな眼差しでリュガルトを見ていた。
シェスティリエの言葉通りなのだろう。いまや、彼の顔色は蒼白だ。自身の内心を言い当てられて、平然としていられるほど豪胆な性格ではないらしい。
「めいもんであるということは、おうけとえんをもつということ。ガーナはくしゃくけもまた、そのれいにもれない。ゆえに、あなたはじじつをしったとき、おどろき、かなしみ、そして、いかりをおぼえた………こくおうにたいして」
それは当然よね、とシェスティリエは続ける。
「……おうけのおうじょをつまにしただけのおとこのくせに」
その言葉にうたれたかのように、びくっとリュガルトの肩が大きく震えた。
「あいするあねのなをけがし、かのじょがしんだときもけっしてなのりでなかったひきょうもの!……そのうえ、あなたをぬきさしならぬたちばにまでおいこんだ……」
目を逸らしつづけていた真実……考えないようにしていたはずだった。
だが、三年前、事実を知ったその時から、それは頭の奥から決して離れる事がなかった。
椅子の肘掛を握り締めた手が、小さく震えている。
「ほんらいだったら、こくおうをこそころしてしまいたい……ちがって?」
心の奥底を言い当てられた。
くすくすと小さな笑いが響く。
「……姫さん、ここでそういう風に笑うのは悪役だから」
やや場違いなほどに能天気な声で、イシュラは言う。
「あら、あくやくでかまわないのよ、わたくしは」
なんどもいってるでしょ。いい人で死んじゃったら、むいみだわ、と付け加える。
「………あなたは……」
……掠れた、声音。
「………あなた…は、何者だ?」
やっとのことで搾り出した、言葉。
リュガルトは、自分の目の前にいる少女が、見ている通りの存在でないのだとはっきりと理解していた。
何か、まったく別の……自分を遥かに超越した存在なのだと、おぼろげに思った。
その顔に先ほどまでの倣岸さはまるで見られない。椅子がなければ、床にへたりこんでいただろう。
「わたくしは、ただのせいしょくしゃだわ」
軽く肩を竦める様子は可愛らしいものだ。
だが、今のリュガルトにはまったく違って見える。
その幼さも、その美貌も、その子供らしい舌足らずな声音も……すべてが、彼女の真の姿を隠すための仮面であるように思えた。
「………なあに、イシュラ。いいたいことがあるなら、いいなさい」
シェスティリエは、頭上のもの言いたげな視線に微笑を見せる。
「いいえ……ただの聖職者というのは、いささかそぐわないな、と思っただけですよ、我が姫」
取り澄ました顔をしているが、実際のところ、イシュラは今にも笑い出しそうな気分だった。
イシュラは、シェスティリエの言葉に今更驚いたりしない。
彼女が何を知っていたとしても、イシュラは驚かない。
目の前で、内心を言い当てられ、半ば放心しているリュガルトを見下ろして、皮肉げな笑みを浮かべる。
「まあ、まだちかいをたてたばかりの、みならいのようなものだけれど」
「そういう意味じゃありませんよ……その気になれば姫ならば、枢機卿にだってなれるでしょう」
何になったって、かまわない。イシュラは共に行くだけだ。
それが例えどのような道であってもだ。
「んー……とりあえず、しさいになれればいいわ」
「なぜです?」
「しさいになれれば、だいとしょかんにはいれるもの……あら、きたみたい」
顔をあげたシェスティリエは、大きな樫の扉の方に視線をやる。
「来た……?」
勢い良く開かれた扉から、まばゆいばかりの金の光がこぼれた。
「叔父様っ」
飛び込んできたのは、少女だった。
華美ではないシンプルなドレス姿であっても、その美貌は明らかだった。
(……へえ……こりゃあ、美人だ)
「叔父様……ああ……よかった……」
これがアルフィナなのだと、誰に聞かずともイシュラにもわかった。
「アルフィナ……」
リュガルトはのろのろと顔をあげる。
「エレノアから聞きました。叔父様が、旅の聖職者様を私の身替わりにしようとしてるって」
(察するに、あのメイドのねーちゃんがエレノアか……)
アルフィナは、シェスティリエを見て、目を見張った。
菫色の瞳が大きく見開かれる。大概の人間と同様に、その幼さにまず驚いたのだろう。いつもそばにいるイシュラやルドクはついその幼さを忘れがちだが。
「……ファナ……叔父様のこと、申し訳ございませんでした」
膝をつき、両手を組んで深々と頭を下げる。
「謝って許されることではございませんが、どうぞ、叔父様の暴挙をお許しください」
「ころされて、めをくりぬかれるところだったことをゆるせ、といわれましても……」
静かにシェスティリエは微笑む。
その言葉に、表情が大きく歪む。だが、それが事実であることを、アルフィナも承知していたのだろう。否定はしなかった。
(ま、そんなこと、させるわけねーけど)
イシュラは、自分がいる限り、シェスティリエに傷を負わせるつもりはまったくない。
「それは……それは、すべて私ゆえのこと。……罰は、私が代わってお受けします」
やや青ざめた顔色ながらも、アルフィナはきっぱりと言う。
聖職者に対する障害の罪は通常よりも重い。それが、ティシリア聖教を国教とするフェルシアの法の基本原則だ。
「アルフィナ。罰ならば私が受けるのが道理だ」
「いえ、違います。私が……」
「ファナ、あなたを狙ったのは私だ。アルフィナには関係が無い」
「いいえ、私が紫の瞳だからこそ、叔父様はファナを狙ったのです。ですから、責は私に。どうか叔父様には慈悲を賜りたく……どうか……」
かん、とそれほど大きくない音が響く。
互いに自分に罪を、と言い争そっていた二人は、ぴたりと動きを止めた。
「うるさい。かってにありもしないつみをかぶりあうな」
シェスティリエは軽く眉を顰める。
「ファナ……?」
「あの……」
リュガルトとアルフィナは、シェスティリエの変貌に目をしばたかせる。
「……あー、姫さん、言葉遣い、言葉遣い」
「おひめさまぶりっこは、もうおわりだ。とっくにじかんぎれだ。……よいか、リュガルト=シュリエール=ヴィ=ガーナ。おまえのたくらみなど、さいしょからきづいていたといっただろう。それにつきあってやったのは、おまえにりようかちがあるからだ」
「……は?利用価値?」
言われた当人は、あまりの言葉に目を白黒させる。かたわらの、リュガルトに縋っているアルフィナも同様だ。
「姫さん、正直すぎ、正直すぎ」
「こんなことをことばをかざってどうする。………そなた、おちゃはいれられるか?」
「は?はい」
こくこく、とアルフィナはうなづいた。この子供に逆らってはならない、と本能が告げていた。
「なにか、ほかにとくぎは?」
「えーと……えーと……」
「……なにもないのか?」
シェスティリエは、やや嫌そうな顔になる。
「えーと……あ、あります!フォルテール流拳法の免許皆伝です!」
アルフィナは笑顔満面で言いきる。
その隣で、リュガルトはああ~っと力ない奇声を発し、がっくりと肩を落とした。
「は?」
イシュラは思わず疑問を発してしまう。
(けんぽう?けんぽうって拳法?貴族の……いや、王族か?まあ、いいや。この、お姫さんが?)
目の前のアルフィナは、特にむきむきまっちょというわけではない。ガリガリというわけでもなく、とくに太っているというわけでもない。普通に健康的な少女だ。しかも、平均を遥かにこえる美貌の持ち主だ。
シェスティリエと並べれば、さながら、柔らかな春の陽光と冴え凍る冬の夜の月光といった風情で、まったくもって目の保養になる。
「免許皆伝といっても……フォルテール流ですから、試合をしたりしたことはないのですけれど……」
恥ずかしそうにアルフィナは言う。
フォルテール流は古い拳法の一派だ。評価の基準は技や型をどれだけ美しく演じることができるかで、直接に拳を交わすことがない。試合の代わりとなるのは演舞で、互いに型を披露しあう。
貴族階級の人間が好むのは、武術という形でありながら、ケガをする要素がない為だといわれている。確かに実践的ではないだろう。
(あー、確かにお貴族さま御用達っつーか、お決まりだけど……)
それでも、れっきとした貴族の姫君が特技とするにはそぐわない。……いや、正直に言って、貴族のご令嬢の特技に、武術は………ダメだろう。だからこそ、リュガルトはこんなにも悲壮な表情で肩を落としているに違いない。
「……いや、いい。それはすばらしいとくぎだ」
だが、意外にもシェスティリエには好評だった。
「え?そうでしょうか?」
「ああ。……ところで、そなた、このさきどうするつもりだ」
「え?」
「………そなたは、おうぞくとしてはかちがない。きぞくのむすめとしては……おうひのにくしみをかっているじてんで、どんぞこをえぐるくらいマイナスだ」
(どん底を抉るってどんんだけマイナスだよ……)
まあ確かに、婿養子の夫が浮気をして作った娘を憎まないでいられる妻がいるとは思えない。
生まれた子供には罪はありませんから、と微笑み、その裏でいろいろと画策するよりは、最初から、おまえなど許すものかという態度でいてくれるほうが大分マシに違いない。
が、その妻が、一介の商家のおかみなどではなく、れっきとした一国の王妃……それも、王家の血を引き、『陛下』の称号で呼ばれる共同統治者である場合、それはとても恐ろしい事態を招く。
目の前の少女は、その恐ろしい事態の、まさにその渦中のど真ん中にいるわけだ。
「どん底……」
あまりに率直過ぎる言葉に、アルフィナは目を大きく見開く。
「そうだ。……ロクデナシのちちおやをたよろうなどとは、おもわぬほうがよいぞ」
「……父だなどと、思ったことはありません」
その静かな声音には、不思議なほど感情がこもっていなかった。怒りも、悲しみも、そして、憎しみさえもなかった。
「それはよいこころがけだ」
うん、うん、とシェスティリエはうなづく。
それから、アルフィナの前に立って、まっすぐと見下ろした。
「……たしかにどんぞこのマイナスだがな、それはべつにそなたのせいではない」
「………ファナ……」
「そなたは、そなたじしんのちからでゼロからはじめることもできるのだ」
アルフィナの瞳が、信じられないと言いたげな光を帯びる。
「わたしははくしゃくけのちゃくしだ。そなたとちがい、くににはきぞくのひめとしてのさいこうのしあわせ……とやらもそんざいしていた」
(皇子の婚約者だもんな……いや、もう『元』か……)
「良家とのご婚約が整っておられた?」
「ああ。……いくさがなければ、きっとそのまま、わたしはあたえられたしあわせのなかでいきていっただろうとおもう。なにもおもいだすこともなく、そして、りょうしんをうしなうこともなく……」
「戦に……巻き込まれたのですか?」
「そうだ。わたしじしんのいのちもあやうかった……イシュラがおらねば、きっといまのわたしはなかっただろう」
それはイシュラも同じだ。
シェスティリエがいなければ、今のイシュラはない。
「……わたしは、あのときのいくさをけっしてわすれないだろう」
「だから、聖職者におなりに?」
「………それも、りゆうのひとつだな。だからといって、ごかいしないでほしい。いくさをなくすためにとか、いくさのむえきさをおもいしって、かみのおしえにめざめたとかというわけではない。……ただ、せいしょくしゃになることが、わたしのもくてきをたっするのに、いちばんごうりてきだったにすぎぬ」
アルフィナは小さく笑った。
目の前の幼い少女は、やや舌足らずな甘い声音で淡々と己の思うところを語る。そして、聖職者でありながら、そうなったことを手段だと言い切る。その潔さに、羨望を覚えた。
「……そなたにも、わるくないせんたくだとおもうぞ」
「私、ですか?」
アルフィナは虚をつかれたような顔をした。
「そうだ。ティシリアせいきょうのせいしょくしゃになるということは、かこのすべてをたちきることができる。……そう。ちちおやとのかんけいをたちきることもできるのだ。……つまり、そなたは、マイナスからではなくゼロからはじめられる」
アルフィナは、そして、リュガルトは、はっとしたような顔をした。
「…………………なんだ?まさか、そんなかんたんなことにきづいていなかったのか?」
「え、ええ……だって、私は特に信仰が篤いわけではありませんから……聖職者になろうだなんて……」
「……なんのために、わたしのじつれいをかたったとおもっているのだ」
「申し訳ありません。ですが、ファナのように手段と言い切るには……。私は、これでも信徒でございますから……」
「……では、かみのあたえてくれたおんちょうとおもうがよい」
「神の恩寵……」
「そうだ。まず、ろくでなしのちちおやとのえんがきれる。それから、おうひのにくしみからのがれることができる……これはおおきなポイントだ。まんがいち、うらみをわすれずとも、せいしょくしゃにたいしては、おうひもてをだすことができない。ティシリアというこっかが、そなたをまもるだろう」
ティシリアにとっては、そなたにはそれだけの価値がある。と、シェスティリエは告げる。
「……ファナ、もし、アルフィナが決意したとしても、このフェルシア国内に、アルフィナの教父、ないし、教母となってくださる聖職者はおりますまい」
一度は顔を輝かせたものの、リュガルトは諦めた表情で首を横に振った。聖職者になる為には、最低でも司祭以上の階位を持つ人間に『教父(教母)』になってもらい、洗礼を受け、誓願を立てねばならない。
「リスタのリドしさいならば、おうけくださるだろう。……が、ぐずぐずこくないにとどまっていてはきけんであろうな。せいちにおるものにたのめばよい」
「……残念ながら、例え皇国でのことであったとしても、わが国の王妃陛下を敵に回してまでアルフィナを庇護して下さる方の心当たりが私にはございませぬ」
「あんずるな。わたしにはその心当たりがある」
(あー、会ったこともない心当たりですけどね)
リド司祭の紹介状を思い出しながら、イシュラは内心で苦笑をもらした。
行き当たりばったりなのか、それとも、恐ろしいほど緻密な計算の上でのことなのかわからぬが、大概の物事は、シェスティリエの思う方向に進むように思える。
「ですが……この子を連れてでは、王都の関所を抜けることは難しいでしょう」
「なぜだ?」
「旅券が出ません」
「じゅんれいになればよいではないか」
「王都の聖堂では、聖帯をいただくことも難しいでしょう。……万が一、いただけたとしても、その後、その方にどれだけの迷惑がかかることか……」
「こまかいことにうるさいおとこだな……そなた、どうする?そなたのけついひとつだ。そなたがのぞみさえすれば、このくにのせきしょはわたしがとおしてやる」
シェスティリエは、アルフィナに向き直り、冷ややかとも言える眼差しで見下ろす。
「私、聖職者になります」
アルフィナはその瞳をまっすぐと見上げた。
その瞳には確かな光が宿る。
シェスティリエは、了承したしるしに小さくうなづいた。
「アルフィナっ」
「だって、ファナのおっしゃるとおりなんです、叔父様。……このままだったら、私は死ぬまでこの邸の奥深くで、ひっそりと息を潜めて暮らさねばなりません。王妃様の刺客に怯えながら……叔父様にも迷惑をかけて……」
「そのようなことは気にする事は無い」
「ですが、このままでは、伯爵家はさまざまな理由をつけて取り潰されることでしょう。もし、何か事態が変わったとしても、良い方に変わることはありません。……けれど、私が聖職者になることで、私とこのガーナ伯爵家との縁は切れます。さすればきっと王妃陛下のお心も宥められるに違いありません」
アルフィナはにっこりと笑う。シェスティリエと違って、裏に何の思惑もない、柔らかな少女の笑みだ。
(可愛いんだけど、物足りないとおもっちまうんだよな……)
つくづく、自分はシェスティリエに毒されているのだとイシュラは思う。
「いや……そなたが聖職者になったとて、王妃陛下の怒りが解けるとは限らぬ」
「いいえ。私がこの国を出て、二度と戻らねば良いのです。皇国で洗礼を受ける事さえできれば、私の身の安全は、ティシリアという国が守って下さいます。……そうですよね?ファナ」
「ああ、そうだ」
シェスティリエは満足そうに笑う。アルフィナが想像以上に頭の巡りが良い事が嬉しかったのだろう。
「……神聖国家を名乗るとて、俗世に介入しないわけではない。そなたの生まれを利用することがあるかもしれぬ」
「でも、それは、マイナスじゃありません」
「……………?」
リュガルトはわけがわからないというように顔を顰めている。
「そなたより、そのむすめのほうがずっとそうめいだな」
皮肉げな呟き。
「……叔父様、私に利用価値があるということは、私もその分を利用できるということなのだと思います」
リュガルトは、まだ子供だとばかり思っていた姪の言葉に驚きを覚えた。
「ですから、叔父様。私は、ファナとご一緒に皇国へ参ります」
まっすぐに彼を見上げる菫色の瞳は、晴れやかだ。
「皇国へ行って、何とする。聖職者になってどうするのだ」
「それは……行ってから、考えます」
ぺろっと小さく舌をだす。幼いしぐさだ。三年前までは良く見ていた屈託の無い表情に、リュガルトは苦笑をこぼす。
アルフィナの決意を変えることはもうできないだろう。
そして、アルフィナは、シェスティリエの前に膝をついて頭を垂れた。
「ファナ、どうか、私をファナの侍者としてご一緒にお連れ下さい」
「アルフィナっ」
「良いのです、叔父様。……私は、ファナが侍者にして下さらなければ、おそらくこの国を抜けることが出来ないでしょう。それほどに、王妃陛下に憎まれております」
「だが、ガーナ伯爵家の姫が侍者になどと……」
侍者などと……と顔を伏せるリュガルトとて、それが一番良い方法なのだということがわかっていた。
国外に出るには、聖職者に侍者として連れて行ってもらうしか方法は無く、一歩外に出れば、いつ襲われるかもわからない娘を同行してくれるような聖職者は他にいようはずもない。
「良いのです。どうせ聖職者になれば、伯爵家の姫であったことも関係なくなりますわ」
アルフィナはすっきりとした表情で告げる。
「……そなた、おもいきりがいいな」
どこかおもしろがるような響きだった。
「これまで、いろいろ鬱屈してましたから」
ファナのおかげで吹っ切れました、とアルフィナは笑う。
「わたし?」
「はい」
シェスティリエはイシュラを振り向いて、何か言っただろうか?というように、軽く首を傾ける。
イシュラは肩を竦めて、まったくわかりませんと首を横に振った。
(良くも、悪くも、ここにも姫に毒された人間がまた一人……か……)
前菜のオレンジソースを頬につけたまま、幸せそうな表情で眠っているルドクが目覚めたなら、この事態をさぞ驚くに違いなかった。
2009.09.15 更新