夜半過ぎ、さらりという衣擦れの音をわずかにたてただけで、シェスティリエは寝床を抜け出した。
グレイの聖衣をかぶりながら着て聖帯をかけると、少し考えて髪を高い位置で二つに分けて結んだ。いつもは髪を整えるのはイリかアルフィナがやる。自分では複雑なことはできないが、動きやすければ用は足りる。
身支度を終えると、目を閉じて周囲の気配を探ってみた。
(……30、いや、もう少しいるか……)
不特定の人間の気配をとらえることは難しい。自然、数もやや大雑把な感じでしかわからない。
けれど、彼女はまったく不安を覚えていなかった。
(イシュラがいるし……)
己の騎士であるイシュラの気配は鮮明だ。たぶん、目が見えなくなったとしても、シェスティリエはイシュラを見失うことはない。
自分の左側に寝ていたアルフィナを踏まぬように気をつけながら、馬車の後ろにかけていた布をあげて外に出ると、火の番をしていたイシュラが顔をあげた。
「……なんだ、姫さん、起きちまったのか」
「こんななかで、ふつうにねていられるほうがおかしい」
「はは、大概の人間は姫さんほど鋭くはねーよ。寝てんだし」
まあ、俺にはさっきから、ちらちらと気配がうるさすぎるけどな、と小さくぼやく。
「どうすんかね」
「むこうのでかたしだいだな。てをださぬならよし、てだしするのなら100ばいがえしだ」
「……姫さんの仕返しのレートって何気にたけぇよな」
「きほんレートだ」
まじめな顔であっさりと言うのがどこかおかしくて、イシュラは思わず頬をほころばせる。
「基本レートが100倍って暴利だろ」
「いいんだ。わたしのしゅみだ」
「俺の趣味は、先手必勝なんですがね」
「ときとばあいによるな」
「数、多すぎるでしょう」
「だいじょうぶだ。せいぎょがややあまいが、はんぶんくらいにわたしがへらしてやる」
そのために昼寝をしてずっと魔力を貯めてきたんだ。と、シェスティリエは天使もかくやという笑みをみせた。
それは、こういう場合じゃなければうっとりと見惚れたいほどで、イシュラは小さく溜息をつく。
(かなわねえ)
ルドクがイシュラの内心の声を聞いていたら、かなうはずがないと笑うだろう。
いや、ルドクだけではない。イリやアルフィナだって言うはずだ。
そもそもの前提条件が間違っている。イシュラは最初からシェスティリエにまったくかなってなんかいないじゃないか、と。
どこまでわかっているのかは知らない。だが、シェスティリエにとって先ほどからこの馬車を遠巻きに囲む襲撃者たちの存在は完全に想定内だったらしい。
(それも、随分と前から)
昼寝をしはじめたのは昨日今日のことではない。
イシュラとルドクは追いつかないと見ていたが、シェスティリエは今日のあることを予測していた。
中身はどうあれ身体は幼い子供のこと。魔力を貯めているという発言もそれほど深く気にしていなかったが、こうなってみると深謀遠慮であったと思えるから不思議だ。
「イシュラ、ひざまづいてめをつぶれ」
「はい?」
「いいからさっさとめをつぶれ」
「へいへい」
「へんじは1かいだ、ばかもの」
小さな足がイシュラの足を容赦なく踏みつける。
体重がほとんどないので鍛えているイシュラにはあまり痛みを感じないのだが、痛そうな顔をしてみせる。
そうでないと、本当に痛い目に遭うので要注意だ。
イシュラは大柄な身体でありながらそれを感じさせないなめらかさで膝まづいた。
イシュラとて騎士の端くれであれば、一通りの作法は修めている。
軽く顎をひき、ゆっくりと目を閉じる。
月の明るい夜の中に、甘くやや舌足らずな声が響いた。
「そのみは、わがつるぎ」
流れ出た音の連なりが、どこの国のどういう言葉なのか、イシュラには想像もつかなかった。
それは、彼の知るどんな言葉とも似ていなかったし、少しも意味のある音には聞こえていなかった。
だが、それは、まるで美しい音楽のようにイシュラには聞こえた。
「そのこころこそが、やいば」
そして、不思議なことに、その意味だけはイシュラにもわかった。
音を言葉として捉えることは出来ないのに、意味としては理解ができる。
「わがいのりここにありて」
それに気づいて、思い出す。
(……神聖言語)
さまざまな戦場を渡り歩いたイシュラは、話にだけは聞いたことがあった。
古の魔術師たちの使っていたという『力ある言葉』……あるいは、『はじまりの言葉』。
すべての生あるものに通じるというその言葉のことを。
「なんじにぜったいのしゅごをあたえる」
澄んだ声の四言詠唱。
軍に魔術師は皆無ではない。だが、これほどまでに短い詠唱を聞いたのは初めてだった。
簡略化された神聖言語の呪。
それがどんなにも稀有なものであるのか、イシュラは知っている。
(本当に、魔導師なんだな)
神聖言語を研究している人間はいるだろう。
各種の学術機関や魔法王国と言われるローデシアの魔法院や、それこそ教会にだっているに違いない。
だが、それを使う人間は……おそらくは、いない。少なくともイシュラは聞いたことがない。
空気が震えていた。
普通の人間だったら気づかないかもしれない。だが、イシュラは剣で身をたててきた人間の常として、気配を読むことに長けている。
その感覚を持つからこそ、わかるのだ……シェスティリエの唇から紡ぎだされた言葉が、まぎれもなく力を持ち、世界をゆり動かしているのだと。
目を瞑っているイシュラには見えていなかったが、シェスティリエの右手は空中に古い……今となっては彼女以外には知らないだろう呪を描き出していた。
青白く発光する神聖言語の呪は、その唇から紡ぎ出た詠唱の呪と交わり、イシュラの身体をまわるようにして螺旋を描く。
シェスティリエはそれを満足げに眺め、そして、限りない祈りと与う限りの慈しみとをこめて、静かに呪の終わりを結んだ。
それは、どこか神聖なものを感じさせる光景だった。
そこは聖堂でもなく、立ち会う神官もおらず、何の儀式もなかったけれど。
(空気が変わった……)
びりっとするような空気が、ふわりと和らぐ……それは、まるでそっと抱きしめられるかのような柔らかさでもってイシュラを包む。
そして、背伸びをした小さな腕がイシュラの頭を抱き、そっと額に唇が触れた。
その瞬間、目裏でまばゆい光がはじけた。
全身を軽く電流が流れるような感覚……ふつふつと何かが湧き上がるような……身体の中の細胞の一つ一つを活性化するようなその感じにむずがゆさを覚える。
「何、したんです?」
「しゅごのじゅつだ」
答えは簡潔だった。目を見開いたイシュラに、シェスティリエは上機嫌の笑みを向ける。
「それはわかったんですけどね。何かこう、普通の術とは違うような……」
「わたしはさいきんのじゅつをしらないから、ちがいはわからない」
「えーと、戦場で魔術師がかけるのよりも強力っぽい感じがするっつーか」
「しゅごのじゅつは、かけたにんげんのりきりょうがそのままはんえいする。よっぽどよわいまじゅつししかしらないのだろう、イシュラ」
唇だけで笑う。それは幼児には不釣合いな艶を感じさせる笑みだったが、シェスティリエにはまったく違和感がなかった。
「……それを言ったらおしまいなんですけどね」
軍に所属していた魔術師が弱いとは思わない。
だが、おそらくシェスティリエが特別だ。
生前の彼女がどれほどの力量を持っていたのかは知らないが、当時は相当に名の知れた魔術師……いや、魔導師だったに違いない。
(……あれ?)
イシュラの記憶の片隅を何かがかすめる。
何かがひっかかっている感覚……何か大事なことが、ほんのすぐそこまで迫っているのに思い出せない。
「……どういう術なんで?」
もどかしさから逃れるように、別のことを問うた。
「わたしよりつよいじゅつしゃでないかぎり、まじゅつてきにはおまえをきずつけることができない。どうじに、わたしのじゅつをきるくらいつよいやいばじゃないかぎり、ぶきでもおまえをきずつけることができない……これを『ぜったいしゅご』という」
「魔術って切れるんですかね?」
「きる、というひょうげんがただしいかはわからぬが、けんのたつじんがそうおうのぶぐをつかえばきれる。……だが、わたしのじゅつをきれたにんげんはかぞえるほどだ」
「……それってほぼ無敵?」
「にんげんがあいてならな」
「なら、姫さんが一人いりゃあ無敵の軍隊ができるってわけだ」
「いや」
シェスティリエは首を横に振る。
「『ぜったいしゅご』は、ほんらい、『つるぎのせいやく』とついになるじゅつだ。おまえがわたしとせいやくしているからこそ、そこまでのこうかがある」
「へえ」
「それに、そもそも『ぜったいしゅご』はかなりまりょくをしょうひするじゅつなんだ。たにんにそんなものかけるくらいなら、そのぶん、こうげきまじゅつにしてたたきこんだほうがラクだ」
「そうなんですか?」
「そうとも。……さいじょうきゅうのしゅごのじゅつだぞ。ふつうのまじゅつしならば、じゅつとしてはつどうしない。かろうじてはつどうしてもまりょくをすいとられて……」
「……姫さん?」
そんな危険な術を行使したのかとイシュラの目がつりあがる。
「あんずるな。わたしのばあいはたいしたもんだいではない。たんにおさないせいで、まりょくをためないとつかえないじゅつなだけで」
ぱらりとシェスティリエが地面に落としたのは、くすんだ灰色に色を変えた金属片だ。
「魔力板ですか?」
「そうだ。ぎんのさいじょうきゅうのいただったが、これはもうやくにたたないな」
懐の隠しに手をいれて、新しい魔力板を取り出す。
「それに魔力を貯めていた?」
「そうだ。ぎんのいたをつかうと、かなりこうりつよくためられる」
だから危ないことなんてまったくないのだ、とシェスティリエは言う。
「なら、いいですがね」
「わたしがまりょくぎれのような、しょしんしゃじみたヘマをするか」
ふん、とあごを軽くあげて睨みつける姿はとても傲慢で、ごく自然に自信家で、そしてひどく魅力的だった。
これでこそシェスティリエだという気がする。
「……姫さんは、聖職者っつーより、どこの女王様だよって感じだな」
「へんたいはおことわりだ」
「あー、姫さん、意外に下世話なこと知ってんな」
普通だったらこの年齢の幼い子供にイシュラの言う女王様の意味はわからないし、わかってほしくもない。
「なかみはせいじんをとっくにすぎてるからな」
「昔っからそんな感じだった?」
「ひつようならばいくらでもおひめさまぶりっこできるが、わたしをそだてたのはへんくつなろうじんで、そのせいでおとこことばがきほんなんだ。だから、ついぶっきらぼうになる。それがエラそうにきこえるらしい」
「……なるほど」
彼らがのんびりとそんな会話を交わしている間にも周囲の気配は徐々にその距離を縮めてくる。
だが、イシュラは不思議なくらい気持ちが静かだった。
「よのなか、バカばっかりだな」
シェスティリエにいたっては、呆れた顔で溜息をつくほど。
「普通、待ってるなんて思いませんって」
「まあ、いい。どうやらあちらにひくきはないようだ。イシュラ、えんりょはいらぬ」
すべて殺せ、と幼い声は言った。
「……いいんですか?」
「いい。にどとあれをねらおうとかんがえぬくらい、てっていてきにやれ」
シェスティリエとて、殺せと命じることに躊躇わないわけではない。
だが、躊躇うのはほんの一瞬だけだ。一瞬でどうするかの計算がたってしまう。
(どちらがより良いか……)
この場合、より良いとは、最終的に被害が少ないことだ。
そして、シェスティリエの決断は、『これ以上の被害を出さぬよう。また、後に多くを殺さない為に、ここでそれ以下であるだろう犠牲を出す』こと。勿論、この場合の犠牲というのは襲撃者たちをさす。
「ちゅうとはんぱはひがいをおおきくするだけだ。ひとりものこすなよ」
単に、生き残ったものは更にまた襲撃してくるだろうから殺す、というだけではない。襲撃は回数を重ねるごとに規模を大きくするだろう。襲撃者の数とて、撃退するたびに増えていくのが道理だ。
そうなった時、いつか襲撃が成功してしまうかもしれないし、そうでなかったとしても、周囲の人間だって巻き込まれる。彼女たちはまだいい。アルフィナの事情を知っているから心の準備もしている。だが、まったく無関係な人間に被害が出る可能性だってある。
(何よりも、このさきは私が守ってやれるわけではないのだし……)
皇国に着けば、それぞれ道が分かれる。
イリはともかくとして、ルドクは旅を続けるし、アルフィナは洗礼を受け、教父あるいは教母となった者に導かれ自身の道を探すことになるだろう。
アルフィナの美貌、そして、その生い立ちゆえの価値から、おそらく彼女には聖堂から守護騎士がつけられるに違いない。
だが、彼らの腕のほどをシェスティリエは知らないし、守りきれるかもわからない。
だとするならば、今、出来る限りのことをしておくべきだった。
「一人くらい残さないと、どうなったかを知る人間がいないんじゃねえ?」
「こういうしごとには、みとどけやくやつなぎやくがいるはずだ。それに、だれひとりとしてかえってこなければ、しっぱいしたことはわかるだろう?」
「まあ、そうですね」
徹底的にやってみせつけることで、アルフィナの命を狙うことを諦めればよし、そうでなくとも、それだけやっておけばしばらくは他国へ襲撃者を送り込むこともできまい。
シェスティリエはそう判断し、この一行を率いる者として最も安全な道を選んだ。そして、選んだからには迷いを見せるべきではない。主の迷いは剣を鈍らせる。
「おじょーちゃんは非難するでしょうね」
「かまわない。まもりたいとおもうのなんて、しょせん、わたしのじこまんぞくだ。それよりも、なんどもしゅうげきされるほうがきけんだ。しくじるなよ、イシュラ」
「もちろんです。姫」
イシュラが恭しく一礼してみせると、シェスティリエは当たり前だというようにうなづいた。
2010.11.04 初出
2011.01.17 手直し
******************
コメントありがとうございます。
待っていたと言ってもらえることは書き手冥利につきると思います。
ありがとうございます。とても嬉しかったです。