皇国だ、と誰かが声をあげた。
「……あ」
遠く見える陸の影。幾つもの高い尖塔が立ち並んでいるのが見てとれる。
(あれが、聖都?)
「いえ。聖都……アル・メイダ・オルカダールは、もう少し内陸にあります。あれは、聖都への玄関口。皇国の誇る自由貿易都市アル・ダーフルでしょう」
「アル・ダーフル……」
「自由貿易都市って何ですか?」
アルフィナは軽く首を傾げる。
『自由貿易』という単語が気になった。
「どこの国の誰であっても、許可さえ受ければ自由に商売ができる都市だからそう言われています。他国の商人であっても制限はありません。商売をする為に許可を受けなければなりませんが、その手続きも一律です」
(意味、わかんない)
「普通はですね、自分の国の商人を優遇します。他国の商人の扱う品とは関税の税率が違っていたり……あー、税率ったってわからないですかね。えーと、国が取る手数料のようなものが、自分の国以外の商人だとすごく高かったりするんですよ。でも、アル・ダーフルでは同じなんですね」
「……そうすると、何がいいんですか?」
「簡単に言えば、商業活動が盛んになります。純粋に商品だけで勝負できるということですから。アル・ダーフルはたぶん大陸一、二を争う貿易都市でしょう。ティシリア皇国は元々治安の良さで知られていますが、聖都のお膝元であるせいで尚更です。更に税金が安く、アルネラバとの良好な関係もあって交通の便も良く、港も整備されているとくれば栄えないはずがありません」
「……ようは、栄えるための条件が揃ってるんですね?」
「この上なく」
ルドクはきっぱりと言い切り、そして、わずかに笑んで付け加えた。
「アル・ダーフルで成功することが、商人の究極の野望といっても過言ではありません。それは、大陸随一の商人であるという証明のようなものですから」
ルドクはどこか別人のようだ、とアルフィナは感じ、そして、イリは初めて出会う人を見るような表情でルドクを見ていた。
「どうしました?」
「いえ……何か、ルドクさんがいつもと違って見えて」
「ああ……もうすぐお別れですから、少し感傷的になっているのかもしれませんね」
「お別れ……」
ズキリと胸の奥が痛んだ。
わかっていたはずなのに、その言葉を聞くとどうしても胸が痛む。
「ええ。聖都についたらお別れです」
(どうして?)
イリは大きく目を見開く。
出会った頃のことを考えると、格段に表情豊かになっている。ルドクはそのことが少し嬉しかった。
「イリは別としても、アルフィナさんは聖都でできるだけ位の高い人を教母、ないし、教父にして洗礼を受け、すぐにでも聖職者にならなければならないんです」
(シェス様ではダメなの?)
「シェス様は、まだファナですから」
(そうだけど……)
「純粋に位だけで言うならば、シェス様にアルフィナさんを守ることはできません。今、シェス様がアルフィナさんを庇護しているのは、物理的にシェス様に力があるからです」
(ぶつりてき?)
「あー、単純に、襲ってきた人間を撃退できる力があるってことです」
その言葉にイリは深く納得した。
「……やっぱり、一緒にはいられないでしょうか?」
アルフィナは躊躇いがちに問いを口にする。
これまでの道中をシェスティリエの庇護下で過ごしてきたアルフィナは、その状態の居心地のよさに慣れてしまっていた。
イリがいて、シェスティリエが居て……そして、自分が守るのはシェスティリエだけだと言いながらも、イシュラが守ってくれて……旅を続けるルドクは別だとしても、そうやってずっと皆の中に居たいといつしか思うようになっていた。
そう。一緒にいられるのであれば、シェスティリエの従者のままで良いとさえ思っている。
「アルフィナさんがどうしてもご一緒にいさせて欲しいとお願いすれば、シェス様はダメとは言わないかもしれません。シェス様のことです。何か方策を考えてくれるでしょう。……でも、それではいつまでたっても貴女は変われない」
「それは……」
「……アルフィナさんは、ちゃんと、最初に考えていた道を歩むべきでしょう。そうでなければ、あのお屋敷を出て、皇国を目指した意味がないのではありませんか?」
「でも……」
アルフィナは躊躇う。
一度、あんなにもはっきりと決意したことなのに、迷わずにはいられない。
自分の弱さを知りながらも、それを思い切ることができない。
「守られるだけが嫌だったのでしょう?」
「……はい」
「皇国で聖職者となり、ちゃんと自分の道が見つけられれば、いつか、あなたはあなたの力で誰かを守ることのできる人になれます」
ルドクは優しく言い諭すようにアルフィナに言う。
その言葉は、迷うアルフィナの心に突き刺さる。
「私が、守る……」
「そうです。……そして、そういう人になることが、シェス様の役に立つ日がいつか来るかもしれない」
「……私に、なれるでしょうか?」
アルフィナの問いに、ルドクははっきりとうなづく。
「なれます。……僕だって、そうなるつもりですから」
アルフィナは何だか胸の奥が熱くなるのを感じて、どうしていいかわからなくなった。
なぜか涙が出そうで、それを無理やりこらえるようにして問う。
「ルドクさんは何になるんですか?」
「皇国一の穀物商になる予定です」
ルドクはサラリと言った。
アルフィナもイリも笑わなかった。
それがどれほどのことかを正確に予想できなかったせいもあるが、何となく、ルドクならなれそうな気がしたからだ。
「……諦めなければなれると思うんですよ」
ルドクは少し恥ずかしそうに付け加える。
それは、アルフィナたちのよく知っているいつものルドクの表情で、何となくアルフィナはほっとした。
(……僕もなれるかな……?)
イリがそのまっすぐな瞳で、ルドクを見上げた。
混じりけなしの純粋さ……それは純粋であるからこそ危うかったが、同時に比べようのない強さをも持つ。
「イリは何になりたいんですか?」
聞かずともその答えをルドクは知っていた。だが、あえて問う。
大概のことをどうでもいいと思っているイリには、『自分の意思を表す』ということが必要だからだ。
(シェス様を守りたい)
「なれますよ。だって、イシュラさんの弟子になるんでしょう?」
(うん)
「……イシュラさんは、帝国でも有数の剣士です。……何か言ったらいけないような気がして本人には言いませんでしたが、『左の死神』……ローラッドになんて一度も行ったことのない僕ですらその異名を知っていたほどの人です。だから、イリも諦めないで修行をすればきっとなれます」
(いっぱい、強くなりたい)
「大丈夫ですよ、きっと」
だが、イリが守りたいというシェスティリエより強くなるのはかなり困難ではなかろうかとルドクは思った。
ルドクの中での最強はシェスティリだ。それは、おそらくそうそう間違いは無いだろう。勿論、それを口に出さないだけの分別はある。
「……みんなで、約束をしませんか?」
「約束、ですか?」
二人の視線がルドクに向かう。
「はい。大事な約束です」
ルドクはそれにはっきりとうなづいてみせた。
(何の約束?)
イリがクビを傾げる。
「……諦めないことを」
何を、と問う必要は無かった。
「はい」
(はい)
二人も当たり前のようにうなづく。
「……いつか、シェス様の役に立つ人間になること」
「はい」
(もちろん)
「絶対に諦めないこと」
「はい」
(う……はい)
うん、とうなづきかけ、イリはアルフィナを真似して「はい」と返事をする。
「僕もですが、きっと、二人にも辛いことがたくさんあります。世界はそれほど優しくできていない。でもね、僕らはシェス様に出会った……それは、きっととても幸運なことなんです」
「それは、本当にそうだと思います!」
(僕もそう思う)
「それを忘れそうになることもあるかもしれない。……だから、約束しましょう。僕は絶対に自分の道を諦めない。だから、二人も諦めないで下さい」
「……はい」
(はい)
二人の神妙な表情にルドクは小さく笑う。
「……まあ、こうやって二人と約束することで自分に言い聞かせているんですけどね」
(?????)
「僕のほうが少し年上ですからね、君たちにいいとこ見せたいっていう見栄っ張りな気持ちが、原動力になるんですよ」
諦めたら恥ずかしいってね。
(ルドクさんは、大丈夫だよ!)
根拠も何もないのに、イリは絶対に平気と言い切る。
そして、それを心から信じて疑わない。
「私もそう思います」
そして、アルフィナもまた、まったく疑問ももたずに笑みを浮かべて賛同する。
「ありがとう」
ルドクは笑った。
きっと、どんなときでも、今この時を思い出すことができれば自分は大丈夫だと思える。
自分を信じる人間がいるということは、ただそれだけで自分を支えてくれるのだ。
何をしてくれなくてもいい。ただその存在だけで力になる。
「僕も二人を信じてます。……絶対に大丈夫だと」
「……はい」
(うん)
何か思うところがあったのだろう。真剣な表情で二人はうなづいた。
「……何か、ルドクさん、家庭教師の先生に似てます」
アルフィナは小さく笑う。
「そうですか?大学時代、頼まれてちょっとだけしたことはありますけど」
「やっぱり」
得心したようにうなづくアルフィナにルドクは不思議そうな顔を向ける。
「何がです?」
「ルドクさんはいろいろなことをよく知っているから……たぶん、大学に行っていたんじゃないかなって思っていました」
各国に一つずつしかない『大学』は、どの国においても最高学府だ。
入学することは難しく、卒業することは更に難しい。
定められた歳月をただ勉強すれば卒業できるというわけではなく、卒業するに足る資格を有すると認められねば卒業することができない。
「……実は、あんまり成績良くなかったんですよ。すぐ趣味に走ってしまうので。……本当は研究とかしたいとも思っていたんですけど、僕は一人息子だったので、家を継ぐ為に普通に卒業して、奉公したんです」
「でも、卒業できるだけでもすごいと思います」
「実際には大学を卒業しただけでは商売には何も役に立ちません……僕が学んだのは歴史でしたから尚更です」
ルドクは苦笑する。
「ああ……でも……。いいえ。だから、いろんな古詩とかにも詳しいんですね」
「そうです」
「歴史の中でも。専門は天空の歌姫に関係することだった?」
「よくわかりましたね」
アルフィナの言葉にルドクは驚いていたが、アルフィナにしてみればわからないほうがおかしいというものだ。
イりだって予想はついていたのだろう。わかるというようにうなづいている。
「僕は、天空の歌姫の事跡について三人の仲間で研究していました。一人は大学にまだいるんじゃないかな……一人は貴族の若君で、やっぱり僕と同じ頃に家を継ぐ為に国に戻りました」
「どういう勉強をされていたんですか?」
「天空の歌姫だけじゃなく、魔法使いとか魔導師、伝説の英雄や、妖精や幻獣や、そういうものが出てくる古詩やお伽話を集めてましたね」
「集める?」
「大図書館の蔵にある古い書物を修復しながら解読したり、何人もの吟遊詩人の詩を書き集めたり、古い聖堂に残された古文書や石碑を写させてもらったり……それを自分なりの解釈を交えながら、資料にまとめていました」
(それで何がわかるの?)
イリの問いに、ルドクはちょっとだけ苦笑をのぞかせる。
「そういうものは、往々にして歴史の欠片なんです」
「歴史の欠片?」
「そう。例えば……皇国の北に広がるニカネイア大草原はかつて広大な森だったと言います。でも、竜王の怒りに触れ、その怒りで焼き払われた、と」
「『ニカネイアの光の歌』ですね」
それは、アルフィナやイリですら知っている有名な歌だ。
「そうです。吟遊詩人たちは『かつてニカネイアを治めていた領主が自らの地位を驕り、竜王の領域を侵してその怒りをかい、森はほんの一時で灰燼に帰した』と歌います。
僕も大学の時に参加したんですけど、ニカネイア大草原の古い地層には炭化した……広範囲に燃えた層があることが発見されています。
それが本当に竜王の怒りによるものかはわかりませんが、調査隊の学者の一人は言いました。
『通常ではありえないほどの高温の炎』に焼かれている、と。
……元が何だったかまではわかりませんが、発掘された石の上に金属が液化し蒸発した痕跡があるんだそうです」
ルドクは活き活きとした表情で熱心に語る。
アルフィナはともかく、イリまでもが真面目に聞いていることで余計に熱が入っているのだろう。
「蒸発?」
「金属は高温に熱せられると形を変える……でも、あまりに高温に熱せられると蒸発するんだそうです」
「魔術師が生み出す炎ではないんですか?」
魔術師の生み出す炎は、普通に得る火よりもずっと勢いが強い。特に攻撃魔術の火力というのは、術者の魔力によって桁外れのものになることもある。
「かつての魔術師は今いる魔術師達よりもずっと力があったといいますが、そんなものではおいつかない熱なんだそうですよ……だから、彼は言っていました。ニカネイアは本当に竜王の怒りを受けたのだろうってね」
(竜の吐く息?)
「ええ、たぶん」
『竜の吐く息』と呼ばれるそれは、一つの都市を1時間もたたずに焼き払うと言われる。
彼らは竜を直接見たことが無かったがが、その実在を疑うことはなかった。
竜は数こそ少ないけれども、未だ実在する生き物である。北の大国ラーディスは別名を龍の王国と言われていて、そこには翼竜とその騎乗者で構成された竜騎士団があるくらいだ。
「……真実は時の彼方にしかありませんが、そうやって状況証拠を積み重ねていくことで、より真実に近づくことはできます。僕はそういう勉強をしていたんです」
「なんか、おもしろいですね」
「そうなんです。……僕らは、吟遊詩人の歌や、その土地に伝わる古詩などでしか知りませんが、白の聖騎士アスガールは後にローラッドの皇帝になったし、青の魔導師と呼ばれたファラザスは確かに存在していて皇国をつくりました。それは歴史が証明しています。だから、戦神カブールの申し子たるジラードの剣は魔神を貫き、天空の歌姫がもたらした数々の奇跡を僕らは疑いません」
(だって、その結果が今もあるから)
「ええ、そうです。……『伝説』や『お伽話』とされていることは、歴史書には載らない……過去の真実の欠片なんです。僕はそれを知るのが好きでした。
彼らが同じ大陸で生き、そして、彼らがいたからこそ、僕らもまたここで生きている……そのことがとても不思議で何だか嬉してならなかった」
「……ルドクさんは、研究して学者様になれば良かったと思います」
本当に好きで仕方が無いという様子に、アルフィナは笑う。
「そうなりたいと思ったこともあったんですけどね……」
でも、そうはならないのだとアルフィナにもイリにもわかる。ルドクの中には、確固たる意思があるからだ。
「大学を卒業した後、役人になる道もありましたが、僕は家の仕事が嫌いじゃなかったんです。だから、何だかんだ言いながらも奉公先から飛び出すこともなく務めていました。まあ、家の仕事が嫌いじゃないっていうのも、後からわかったことなんですけどね」
ルドクはふと遠くを見やった。それは過去を振り返ったのかもしれないし、あるいは、点のように見える海鳥を見たのかもしれない。
まだ人生経験なんて言えるほどの時間をすごしていないアルフィナとイリに、それを推しはかる術はない。
しばらくの沈黙。
けれど、その沈黙を苦痛とは思わなかった。
むしろ、心地の良いひと時だっただろう。
「きっと、今度会うときは、二人とも叙階されているでしょうね」
ぽつりとルドクがつぶやく。
「……そうでしょうか?」
「ええ。……たぶん、2、3年は余裕でかかると思うんですよ、僕の旅」
(2年?それとも、3年?)
「さあ……もしかしたら、10年とかかるかも」
(……………)
イリの冷ややかな視線が突き刺さる。
「あー、手紙書きますよ。イリもアルフィナさんから教えてもらって字を覚えたでしょう?」
(うん)
「それに、必ず皇国に帰ってくることだけは約束します」
(……わかった)
納得はしていないものの、イりはしぶしぶとうなづいた。
自分がどうこうできることではないことはわかっているのだ。
「私も、お手紙、楽しみに待ってますね」
アルフィナは、この先、自分が皇国から出ることはまずないだろうと予想している。
だからこそ、外から届く便りは貴重なものになるだろう。
「はい。二人も手紙下さいね。……シェス様やイシュラさんに頼んでも絶対無理だと思うので」
(わかった)
「シェス様情報は、私達に任せて下さい」
ルドクの言葉に二人は勿論だというように大きくうなづく。
ここに、後々までに続く三者間の情報ルートが成立した。
勿論、当初、彼らにその自覚はまったくなかった。というよりは、後々であっても、彼らにそれが情報ルートである自覚はなかったかもしれない。
それは彼らにとってごく私的な近況を交す為のものでしかなかったし、彼らはそれを積極的に利用しようとは決してしなかった。
「あと、お二人がどうしているかもちゃんと教えてくださいね」
「はい。ルドクさんもですよ」
(わかった)
「ええ、勿論」
彼らの絆は、時を経ようとも、三人がどれほど立場を変えようとも決して途絶えることはなかった。
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2011.03.13 更新
直しました(^_^;)