聖都巡礼は、信者にとって一生に一度は成し遂げたい夢であると言われる。
たとえ信者でなかったとしても、神聖皇国を……聖都アル・メイダ・オルカダールを訪れることは誰もが夢見ることの一つだ。
12の尖塔を持つ大陸で最も美しい都、それがアル・メイダ・オルカダールだ。
そして、自由貿易都市とか商都と呼ばれるアル・ダーハルは、聖都アル・メイダ・オルカダールを訪れる巡礼や観光客の大半が最初に降り立つ地だった。
「……なあ、姫さん、あれ、どうにかしちまっていいか?」
「どうにかって、どうするのだ」
「ちーっと見えないところに行ってもらおうかと」
「さわぎをおこすのもどうかとおもうぞ」
「さわぎになるまえに、あのバカ王子を海に叩き込む」
「いや、たたきこんだじてんでおおさわぎだろうが」
主従の間に交される不穏な会話にルドクは生ぬるく微笑んだ。
活気ある賑わい─────あとさほどの時間もたたずに船が接岸される岸壁は、出迎えや物売りの人々で一杯だったが、その中に白と黒の一際目立つ一団がいる。
「あー、すごいお出迎えですねー、大司教様。よっぽど、シェス様にご執心なんですね。あそこまではっきり言われたのに」
「変態だろ」
「いやいやいや、シェス様の美貌じゃなくて、魔力にご執心なんですから」
「それにしても執心がすぎるっての。あんだけ言われたくせに」
「まあ、そうですよね」
はっきりきっぱり言われたくせに、一日もたたずしてもう復活しているのだから感心してしまう。
「たぶん、あんまりよくわかってないんじゃないでしょうか。上つ御方は何事も自分に都合よく解釈なさいますし」
アルフィナは言葉を選んだ。だが、どれだけ吟味しても、内容はたいして変わりようがなかっただろう。
「いやー、シェス様ははっきりおっしゃってましたよ」
「いえ、こう、脳内で何か都合よく変換されてるとか……」
「お嬢ちゃんも、言うようになったなぁ」
(きっと、馬鹿には言葉が通じないんだよ)
にこやかにイリが笑った。
「……イリ、強くなりましたねぇ」
(シェス様を守るためだもん!)
「そうですね」
(うん……でも、これだけじゃだめなんだよね)
イリはそう呟き、己の思考に沈む。
アルフィナは首を傾げた。
ルドクとイシュラも視線を交わし、互いに軽く首を横に振る。
(シェス様を守りたい……)
それは誰かに宣言したわけではなく、イリの心からこぼれたたった一つの望みだった。
だから、まだあまりイリの唇を読むことになれていないアルフィナにもわかった。
俯いたイリは何事かを考え込みながらぐっと力強く拳を握り締めた。
アル・ダーハルから聖都は、馬車で約一日の距離にある。
だいたいの巡礼者はアル・ダーハルで一泊し、翌日はほぼ中間地点にある温泉地レグダで一泊して身の汚れを清め、アル・メイダ・オルカダールを目指す。
アル・ダーハルや途中のレグダで数日を過ごす者も少なくない。
シェスティリエらの一行は、もう大丈夫だとは思ってはいたものの、アルシェナの事情もあるために、アル・ダーハルでの宿泊をせずにそのままレグダに向かった。
レグダで一泊して身を清め、そのままアル・メイダ・オルカダールに向かう予定である。
乗合馬車の中は、シェスティリエらの一行五人と飛び入りゲストとその護衛三人の合計九人が詰め込まれている。
いや、詰め込まれているという言い方は正しくないかもしれない。
通常定員が十五人程度の大きな馬車の中は、空間的にはかなり余裕があるのだ。
(でも、この息苦しさは何なんだろう……)
アルフィナはちょっとだけ溜息をつきたくなる。
それはたぶん、飛び入りゲストがイシュラやイリと繰り広げている有形無形の戦いが、アルフィナには耐えられないせいだろう。
「ファナ、今、ちらっとあちらに塔の先端が見えましたよ」
アルフィナのストレスを無視した能天気な声が響く。
「そうですね」
シェスティリエは無表情で答えた。
(見ればわかるとか思われていそうだわ)
シェスティリエがなかなかの毒舌家であることをアルフィナは知っている。
最近、ちょっとだけ自分もその影響を受けているような気がする。
「ファナ、もう少しお楽になさっては?」
どうぞこちらへ、とさし招く白の聖衣姿の大司教の言葉に、イシュラが不敵な笑いを浮かべ、滑らかな動作で剣を抜くと躊躇いもなく馬車の床に突き刺した。
「大司教サマ、それ以上、うちの姫さんに近づかないでもらおうか」
アルフィナは知らないが、その細身の剣は、先般の襲撃者から強制的に喜捨を受けた魔剣だ。
わずかに燐光を帯びた刀身は、剣のことなどまるで詳しくない者でもひきつけられるような不思議な美しさを帯びていた。
「イシュラード殿、私はファナに決して危害など加えない、絶対にだ。だから、この剣をしまってくれないだろうか」
「いんや。ダメだ。たとえ正式に誓約してもらったところで、あんたは聖職者だ。いくらだって誓約を反故にするだろ」
イシュラの中には聖職者に対する根強い不信感があるらしい。
「……あなたの聖職者の概念はどうなってるんだろう。普通、聖職者というのは誓いを破らないものだ。それは己に跳ね返るのだぞ」
「どうだろうな。俺が知ってるのは聖教の聖職者じゃないってこともあるかもしれんが、聖職者ってのは基本、胡散臭いんだよ」
「あなたのファナも?」
「バーカ、姫さんを一緒にすんな。姫さんは姫さんだ。聖職者なんかじゃねえ」
「私も私だ、イシュラード殿。『大司教』ではなく、私個人としてみてもらえないだろうか?」
「おまえを個人として見るほど知っちゃいねえよ」
同乗している護衛は決して口を出さないように言い含められているのだろう。さっきから怒鳴りだしそうな自分を抑えるのに必死だ。
(イシュラさんは、ほんと過保護だわ)
「だいしきょう、わたくしにあまりかまわないでください。わたくしはかまわれるのがすきではありません」
「ファナ……」
「だいしきょうにはだいしきょうのふるまい、というものがあるとおもいます。とくべつあつかいはめいわくです」
こくこくとイリが大きくうなづいている。
だいたい、これはただの乗合馬車なのだ。
定員通り詰め込まれ、いっぱいにならなければ出発しないのが普通なのに、定員に満たぬ人数で走っているのは、大司教のせいである。
ほかの人間が畏れ多いと乗らなかったのだ。
彼らも畏れおおいを理由に馬車から降りようとしたのだが、生憎そうはいかなかった。何しろ、大司教の目当てはシェスティリエだ。オルカダールについた瞬間より目の届く範囲から離れようとしない。
「ファナ、私には他意はございません。本当です。ただ、貴女のお傍に侍りたいだけです」
「めいわくです」
「どうか、私を頼っていただけませんか?悪いようにはいたしません」
「いやです」
シェスティリエは簡潔に切り捨てる。
イシュラはざまーみろとでも言うような勝ち誇った表情をした。
だが、大司教はどうやら不屈の根性の持ち主だったらしい。
「なぜですか?紹介状をお持ちということは聞きました。ですが、見ず知らずの紹介状の相手よりも、私のほうがよっぽどお役に立てるはずです」
「……あなたはやくにたつとおもいますが、かげんをしらなそうなのでいやです」
イシュラとルドクは噴き出しそうになり、それをこらえてむぐっと変な音をたてる。護衛たちはギリギリと歯軋りの音をさせていた。
「ファナの御心に沿わぬことなどいたしませんとも」
しかし、大司教は大変強い心の持ち主だった。
ここまで言われてもめげないのだ。
この根性だけは素晴らしいとアルフィナは思う。
(……不屈の精神の持ち主だわ)
ここまで断られていてもそれでも諦めないでいるというのはある種の才能かもしれない。
(でも……)
顔は良いし、身分だって高い。生まれも良い。
出会ってさほども経ってはいないが、おそらく性格だってそれほど悪くはないだろう。
(でも、鬱陶しいと思う)
それは、シェスティリエには致命的だと思うのだ。
「……わたくしは、いまはあなたをひつようとしていません」
シェスティリエが呆れたような眼差しを向ける。
「ファナ」
「だいしきょうというみぶんあるかたにそのようにかまわれることは、わたしのみをきけんにさらします」
向けられた絶対零度の眼差しと、その冷ややかな声音に、怒鳴りだしそうだった護衛すら凍りついた。
それほどに、それは冷たい声だった。
そこにあるのは冷ややかな怒りだ。そして、静かであるからこそより恐ろしい。
「あ~、姫さん、こんなとこで術をぶっぱなしたりしねえよな」
「するわけがない。……だいしきょう、なんどもいいますが、めいわくなのです。このみがちからもつことにはりゆうがあります。あなたがひつようとなればこちらからおねがいにあがりますから、それまではほうっておいてください」
「……本当ですか?」
あまりの怒りに一緒に凍り付いていた大司教だが、シェスティリエの言葉に顔を輝かせる。ただし、護衛の方は苦い顔だ。
(シェス様、すごい正直すぎる)
だが、大司教はそれでもいいらしい。
「はい」
真顔でうなづくシェスティリエに安堵の表情をみせ、それで赦されたとばかりにいそいそと側近くへと座る。
ふと、随分と静かなイリに視線をやった。
シェスティリエの周辺にお邪魔虫がいるというのに、何事かを考え込んでいる。
船を下りてからのイリは考え込むことが多かったが、これは異常事態だとアルフィナは思う。
(物語の中みたいに、恋しちゃったのかな?イリ)
屋敷の中に閉じこもりきりだったアルフィナは本の虫でもあった。
叔父はさまざまな本を彼女に買ってくれたし、彼女の蔵書はなかなかのものだった。こと
に、恋愛小説の分野においてはかなり自慢できる品揃えだっただろう。
その中には、少年と王子や、敵国の王子同士という同性愛的な組み合わせのものもあったのだ。
帝国の国教と違い、聖教においては同性愛は特に禁じられていない。禁じられていないだけで別に認められているわけでもないのだが。
おそらく叔父は出入りの本屋に薦められるままに購入しただけで内容については知らないだろう。顔はいいのに、実は、うっかりしているところがある。
読むことを禁じられる類の本だと薄々わかっていたので、アルフィナはそれを叔父の目の届かないところにしまい、こっそりと大事に読んだものだ。
その本のいろいろな場面とひきくらべて考えると、気になるからこそケンカするのであり、チラチラと気にしているのは、自覚症状の芽生えであるような気がする。
(でも、現実は本のようにはならないからなぁ)
そんな簡単に恋に落ちるようなことがあるわけがないとアルフィナは思いなおす。
「イリ、どうかしたのですか?」
ルドクが優しく問うた。
これはおそらく、イリが大司教を牽制するのを狙っての事だ。
身分というものを弁え、それなりの年齢でもあるルドクには、大司教とシェスティリエの間に割って入る事はできない。
目の前にはあいもかわらず美しい刀身を見せる魔剣が突き刺さっているのだが、大司教はそれを気にしないことにしたらしい。
(……いいこと、思いついた)
「え?何を?」
顔を上げたイリは今までに見たことがない、強気な笑顔を見せる。
(ねえ)
「はい?」
イリの声なき声を聞くかのように、大司教はイリに顔を向ける。
ほお、と小さくシェスティリエが感心というように口元をほころばせるのを、アルフィナは見逃さない。
(いま、シェス様、笑ったわ)
おもしろがるような表情に気付いたイシュラも目を見張っている。
(あんたは、僕の声が聞こえるんだね)
「ええ。……ああ、もしかして、君は声が出ないのか?」
(そう。喉が焼かれているから)
「え?」
(そのことはどうでもいい。あのね、僕の教父をさせてあげる)
「は?」
大司教は首をかしげる。
「おい、イリ?」
唇を読んだらしいイシュラードが目をしばたかせている。困惑しているようだった。
(僕はシェス様の従者だ。そして、一生、シェス様のモノでもある。僕はいずれ洗礼を受けるから、その僕の教父をさせてあげる)
「それは……すごいステキな申し出ですね。よろしいですか?ファナ」
「かまわぬよ。……イリ、よく考えて決めたのだな」
(うん。教会に入って、シェス様にお仕えするのは変わらないし。シェス様に教母になってもらうことはできないし)
「……そうなのか?」
(そう)
話がわからないルドクは不思議そうにイリに問うているイシュラの服の裾を何度か引く。
「ああ、イリが、シェス様に教母になってもらうことができない、と言うから」
「あ、それはそうですね。イリよりもシェス様の方が入信が遅いですから」
教会の子であったイリは教会にひきとられたその時点から入信したとみなされる。
「教母、教父というのは、母、父になる……教え導くということから、わずかでも入信が早い者にしかなれないのです。年齢の上下ではないのですね。つまり、ファナは入信が遅くていらっしゃる?」
大司教の穏やかな声が説明をする。
「五歳なら充分早ぇだろ」
「……そうですね。失礼いたしました」
つい年齢を失念します、と溜息をつくが、イリの申し出がよほど嬉しかったのだろう。目に見えてウキウキしている。
シェスティリエの従者であるイリの教父という立場は、シェスティリエと目に見えてわかる絆をもてるという意味ではなかなか良いものだ。
「では、大司教、イリを頼みます」
「はい。頼まれました。……嬉しいです。これで、私がファナにいろいろさせていただいても構わないですね」
(調子に乗るなよ)
「イリ、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」
(教会についたら位のせいであんたに言いたいことを言えなくなると思ったから、こうするんだ)
「イリ?」
(シェス様のただの従者が大司教に暴言はいたらシェス様がとがめられるかもしれない。でも、たわけたことを言う教父になら何言っても、場合によっては多少手を出しても大概大目に見られるから)
教会生活の長いイリには、具体例が思い浮かんでいるらしい。
「そうなのか?」
(うん)
「え、イリ……あのですね。私は一応、あなたの教父になるんですよ」
(わかってる。でも僕は何よりもまずシェス様の従者だから、たとえ教父といえど、シェス様の御為にならないことは排除する。シェス様に何かする時は僕を通してからで)
「ああ、それはいいな。イリ、たのんだぞ」
にこやかに……それは、心からの笑みを浮かべてシェスティリエが笑うので、それは決定事項となった。
「なるほど、イリ、考えましたね」
(うん)
その表情は晴れやかだ。
吹っ切れたような、迷いのない表情でいるイリにアルフィナの心は揺らぐ。
どうしよう、と自分で迷うばかりの自分に比べて、既に心を定めてしまったイリのその確かさが羨ましい。
「アルフィナ、そなたのきょうふはもうきめているからあんしんするがよい」
「……姫さん?」
「え、そうなのですか?」
「うん。わたくしのちちは、きょうかいでのみぶんはたかくないが、なかなかかおがひろいのだ。しょうかいじょうをいただいているかたにおねがいしようとおもっている」
おかしげに笑うその表情にアルフィナはほっと安堵する。アルフィナは、シェスティリエの教父が誰かは知らなかったが、アルフィナの事情をよくわかっているシェスティリエがアルフィナに悪いようにするはずがない。
(シェス様はお優しいから)
それは気まぐれのようなものなのかもしれない。
アルフィナがシェスティリエに返せるものなど、現時点では何もないのだ。
「失礼ですが、その紹介状の宛先が誰かを聞いても構いませんか?」
「かまわぬが、きくからには、めんかいのやくそくをとりつけてもらうぞ」
「構いません」
自信たっぷりにうなづいた大司教にシェスティリエは言った。
「現教皇ユベリウス7世」
車内の空気はシンと静まりかえり、ごとごとと馬車の車輪が回る音だけが響いていた。
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2014.09.21 更新
すごくすごく久しぶりですが、続き書きます。