ルドクの案内で買い物を済ませ、聖堂に落ち着いたのは昼過ぎだった。
司祭に相場よりやや多めの喜捨を渡し、司祭の好みの葡萄酒を一本握らせると、司祭は快く寝台が二つある小部屋を提供してくれた。イシュラはそういう世情に通じている。
リースレイは大部屋でも良いと言ったのだが、それではイシュラがおちおち寝ていられない。いかにイシュラが腕に自信があれど、数にはかなわないことがある。
「ここの司祭さまは歴史のお話についてはあまりご興味がないようですから、書庫で本を見せてもらったらどうでしょうか?聖堂の書庫には、歴史や地理の本は一通り備え付けてあるはずですから」
別口で書物費という名目の寄付をすれば簡単に書庫に出入りする許可が得られるだろうと教えてくれたのはルドクだ。ルドクは、ただ人がよいだけの若者ではない。
「悪ぃな、ルドク、案内までしてもらって」
司祭はあっさりと書庫への出入りの許可をくれた、そればかりか、持ち出し禁止本の棚の鍵まで渡してくれた。
「いえいえ。……リースさま?どうかしましたか?」
天井まで続く本棚が幾つも設置されている書庫は、書庫の常としてややカビくさい。小さな窓をあけて換気するが、カビとインク臭が混じった書庫独特のこの匂いばかりはどうにもならないだろう。
「……すごい」
目を輝かせたリースレイは、しきりに感嘆の溜息をついている。
「お役に立てそうですか?」
「うん。ありがとう、ルドク」
「いえ」
「……イシュラ、おまえはそこでひるねでもしているがよい」
「へいへい」
「へんじはいっかいだ」
「へい」
リースレイの意識は既に目の前の本達に奪われている。嬉しそうに背表紙を撫でている姿にイシュラは目を細めた。
「……本が、お好きなんですか?」
「……みたいだな」
二人はリースレイの邪魔にならない入り口脇の作業台と椅子のあるコーナーに腰を落ち着ける。
「イシュラさんは、本は苦手ですか?」
「読めねえってわけじゃないんだけど……ま、オレには剣を振り回してる方が性に合ってるな」
イシュラは壁に寄りかかり、長剣を抱いたままリースレイの姿を視界にいれておく。
脚立の上にちょこんと座ったままで、リースレイは読書に没頭していた。
イシュラにはパラパラとめくっているだけのようにしか見えないのだが、それで充分読んでいるらしい。
「……リースさまは、頭が良いのですね」
「……ああ。姫さんの頭はピカイチだ」
即座に肯定した。
リースレイが褒められることは、イシュラには我が事以上に嬉しいことだ。いくらでも自慢したくなってしまう。
(……ちょっと自重しねえと……主バカの騎士を笑えねえ……)
主もちの騎士が主一途なことを、イシュラ達のような叩きあげの騎士達は、『主バカ』と言ってさんざんバカにしていた。主もちの騎士が貴族であることがほとんどだったせいもある。
なのに、今ではイシュラもその仲間入り寸前だ。
「イシュラさんはリース様が、ほんっとに好きですね」
ルドクは半ばからかうような口調だった。
「…………たぶん、好きとか、嫌いとかじゃねえな」
からかわれていることはわかったが、イシュラは小さく笑う。
リースレイに関してだけは、冗談でも否定する気にはなれなかった。
「何なんです?」
ルドクは、期待感たっぷりな眼差しでイシュラを見上げる。
「…………ひみつだ」
「えーっ、そんな……」
(……『運命』だなんてこっぱずかしいこと、素面で言えるか)
イシュラは自分がとっくに主バカである自覚がなかった。
書庫の中で時間の進みは常よりも遅く感じられた。
イシュラが何もすることがないせいかもしれない。
おしゃべりにつきあってくれていたルドクも、夕食の手伝いとかで席を外している。
「……なあ、姫さん、そのままでいいから聞いてくれ」
「…………ん?」
「この先のことだ」
「……さきのこと?」
リースレイは、本から顔をあげた。
作業台の上には持ち出し禁止の大判の地図がついた本が広げられている。
「ああ。オレは、リスタに数日滞在してもいいかと思ってるんだが……」
今の感じだとおそらく追っ手はいない、とイシュラはみている。
ならば、少しくらい腰を落ち着けるのも悪くはない。リースレイはなにやら調べものをしているようだし、国境にあるこの街は、情報を集めるのにも適している。
(とりあえずは、戦のその後だな……)
街の噂は、なかなか侮れない。
リスタに入ってから、イシュラは心がけてブラウツェンベルグの情報を集めていた。
街の噂を総合すると、ブラウツェンベルグはラシュガークを落としたが、ハッシュバーグ城塞を包囲していた本隊と合流後、救援に来た第三師団の本隊と要塞守備隊に挟撃され、敗北を喫したらしい。
だが、帰国したという話を聞かないところをみると、ブラウンツェンベルグ軍はまだ帝国の国内にいるようだ。
それは、未だ戦が終わっていないということだ。
(別働隊にとってラシュガークに七ヶ月も足止めされたことは、計算外だったに違いない……)
今こうしてあの時の状況を考えれば、ラシュガーク城砦を包囲したブラウツェンベルグの
別働隊に、逃げ出した敗残兵を気にする余裕などなかったのではないか、とイシュラは考える。
それはローラッド側も同じで、城砦から落ち延びた彼らが生きているなどとは思っていないだろう。
「しらべたいことがあるから、たいざいするのはかまわない」
「戦の中をわざわざ戻ることはないと思うんだよな」
戦が終わるまで安全な場所にいるというのも一つの選択だ。
今のイシュラにはリースレイがいる。わざわざ戦場に戻ろうとは思えない。
「………そうだな。……ちょうどいいきかいだ。このさきのことをちゃんとはなそうか」
「姫さん?」
イシュラは怪訝な表情でその先をうながす。
「……おもうのだが、べつに、ていこくにもどるひつようはないとおもわないか?」
「は?姫さんは、伯爵家の世継ぎだろう?」
イシュラはぎょっとした。
伯爵夫妻に子供は一人……リースレイだけのはずだ。
貴族にとって、家を……家名を守る事は何よりも大切なことのはずだった。
「……イシュラ、ていこくは、ラシュガークをすてたときに、わがリーフェルドはくしゃくけをもすてたのだ。いまさら、よつぎもなにもないとおもわないか?」
リースレイは、広げていた本をぱたんと閉じ、まっすぐと視線を向けてくる。
「それは……」
イシュラをまっすぐと見る紫水晶の瞳……それは、確かな意志の力を宿している。
「わたしのていこくへのちゅうせいなど、ラシュガークをやいたほのおのなかで、かけらものこらずはいになった」
その言葉は、すとんとイシュラの心の中におさまる。それは、イシュラの中にも同じ気持ちがあったからだ。
リースレイから、強い圧力を感じる。……その存在の持つ、力。それは、こんな子供の持つ者とは思えないほど。
「わたしは、ていこくをすてる」
殊更、宣言するという口調ではなかった。けれど、その言葉には力があった。
おまえはどうするのだ、とリースレイは視線で言う。
「……オレはあんたの騎士だよ、姫さん」
「ああ」
「だから、あんたと行くさ」
イシュラは笑って付け加えた。
「……どこへでも」
「うん」
リースレイは、口元に小さな笑みが浮かべた。
嘲笑するでもなく、作り笑いでもない……リースレイの素の微笑み。それが、イシュラが手に入れた報酬だった。
2009.09.04更新