夕刻の今頃の時間。
私のご主人様は、必ず、バルコニーから海を眺められる。
静かに、ただ、ただ、遙か遠くのどこかを見つめるのだ。
「まだ夏とは言え、夜になればそれなりに冷えてきます。
そろそろお部屋の方へ戻られては――」
ご主人様のお近くで膝を折り、声を掛けさせていただく。
だけどわかっている。
困ったような、それでいて優しげな口調で、ご主人様はいつものお言葉を返してくださるのだ。
「ん、ああ。
……
……悪い。
もうちょっとだけ……いいか?」
「畏まりました」
だから私もいつもと同じ。
膝を折ったままの姿勢で、私もご主人様のお側に控えさせていただくことにした。
「自室で休んでいてくれて――
って、言っても、[マリエッタ]は戻ってくれないんだよなあ」
ご主人様は苦笑される。
今までに何回も休むようにおっしゃってくださったが、私だけが休むなどあり得ない。
私のお優しいご主人様。
[キース・オルセン]様。
この大地に住む者なら全員が知っている。
そう、この御方は、あの[白蛇(ホワイトスネイク)]なのだから――
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041 白蛇(ホワイトスネイク)
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誰もが絶望した世界。
明日なんて考える事ができない世界。
そんな中で、[魔術師ビックバイ]の喉元に食らいついた[英雄]のお一人。
[白蛇(ホワイトスネイク)]のキース・オルセン様。
この御方に、どれだけ多くの人々は救われたのだろうか?
無論、私だって、その中の一人だ。
いいえ、人だけではありません。
この街、[サーペンスアルバス]だってそうです。
何十年か、何百年も前には、[サーペンスアルバス]は繁栄していた場所だったらしい。
だけど他国の侵略で、どんどん領土を奪われていって終わった。
昔に栄えたという面影を残すのは、残された朽ち果てた寺院や建物だけ。
ほんの少し前まで。
ご主人様が来られる前まで、私も含めて、そんな建物に貧乏人が肩を寄せ合って生きていく場所だった。
[墜ちた海の女王・サーペンスアルバス]と呼ばれる有様だったのだ。
[サーペンスアルバス]にいる人間、とわかるだけで周囲の人は態度が変わる程の侮蔑の対象で――
ご主人様がおられなければ、きっと私は、[墜ちた海の女王]で野垂れ死んでいたに違いありません。
暖かいベッドも知らず。
お腹一杯ご飯を食べることも無く。
……
……
あの時、貴方様に差し出された暖かい手の感触も知らずに――!
だけど、今はもう誰も[墜ちた海の女王]と呼ぶ者はいない。
それどころか、商人が、裕福な者が、夢見る者が集まってくるまでになっているのだ。
本当に、本当にありがとうございます、ご主人様――
「ん、誰か来たか?」
ご主人様の声??
――!
しまった、少し、自分の考えに没頭してしまっていたようです。
私としたことが、ご主人様の前でノックの音を聞き逃すとは――!
「し、失礼致しました!」
慌てて、ご主人様に一礼をしてから、扉に向かう。
「何用だ?
ここを[白蛇(ホワイトスネイク)]の私室と知ってのことか!?」
[サーペンスアルバス]を支えるご主人様の日々は多忙極まりない。
これは、我らがお役に立てていないことが原因だ。
ケイエイ?
カンリカイケイ??
ソンエキケイサンショ???
バランスシート????
キャッシュフロー????
ピーディーシーエーサイクル????
情けない、ホントに、なんと我らは情けないのだ……!
おかげで、この[サーペンスアルバス]の政務が、ご主人様お一人に負担がかけられている!
だから、せめて、ご主人様が私室にいらっしゃる時には、極力お声をかけないことが暗黙の了解になった。
皆、ご主人様には、少しでもゆっくりされて欲しいという認識からだ。
私は扉を少し開けて、声の主を確認する。
するとそこには、情報部隊に所属する兵士が控えていた。
「も、申し訳ありません、マリエッタ様!
が、[白蛇(ホワイトスネイク)]より命を受けた例の件でして――」
「……なるほど。
[捜索隊]の件ですね、でしたら仕方がありません」
だが、いくつか例外もある。
火急の事態と、[捜索隊]の件についてだ。
これに関しては、ご主人様より、どのような時にでも最優先してお耳に入れるように言われている。
「お、来たか!
入ってくれ、入ってくれ!」
私の声が、ご主人様のお耳にも届いたのだろう。
ご主人様の呼びかけに、私は一つ会釈する。
「畏まりました、[白蛇(ホワイトスネイク)]。
よし、入出を許可する!
入れ!」
表に控えている情報部隊の兵に、私は入出を許可する旨を口にした。
「マリエッタ、相変わらずだなあ。
別に、そんな堅苦しくしなくてもいいのに」
ご主人様が苦笑される。
いいえ、ご主人様。
貴方様は……
……優しすぎ、ですよ……
「[白蛇(ホワイトスネイク)]、失礼致します」
入室した兵士が、恭しく片膝を付いた。
ご主人様に礼を尽くすのは、私から見れば当たり前だ。
東から西へ太陽が沈む事と同じぐらいに当然の事。
だが、いつもご主人様は苦笑される。
(なんか慣れないんだ、こういうことは)
ご主人様のお言葉が忘れられない。
自身は天下無双の力を持ちながら、それでいて権力に溺れることも無いのだから――
「ああ、堅苦しいのは無し、無し!
どうだった、何かわかったか!?」
[捜索隊]の報告を受ける時、いつもご主人様は期待した眼差しをされる。
頼む!
お願いだから、少しでもご主人様に取って良い報告であるように――!
「申し訳ありません……」
報告の兵士が、力なく頭を垂れる。
また、か……
「今回も、派遣した者達の定期連絡が途絶えました……」
ご主人様の顔が一気に曇る。
いつも明るく我らに接してくださるご主人様。
だが、この[捜索隊]の報告を受ける時だけは、我らに、このような表情を見せてくださる――!
「……そうかあ……」
ため息混じりのご主人様のお声!
なんて、なんて不甲斐ない!
不甲斐ない!!
我らは、なぜ、何一つ、ご主人様に恩を返すことができないのか――!!
「マリエッタ」
「は!」
この時、いつもそうだ。
ご主人様はバルコニー向こう側の海に視線を向ける。
我々に、その表情を見せないように――
「無くなった[捜索隊]のご家族に、俺の名前で見舞金を頼む」
にもかかわらず、気にされるのはご主人様以外の者達のことを――
「差し出がましい事を承知の上で、申し上げます[白蛇(ホワイトスネイク)]。
[捜索隊]には既に前金を支払っております。
いいえ、それ以前に、我らは貴方様の手であり足でございます。
[白蛇(ホワイトスネイク)]の為に働けて、その上で命散ら――」
私が全てを言い切る前だった。
ご主人様が私に振り返ってくださって――!
……わ、私の眼を見てくださって……!
「マリエッタ。
そういった考え方は……
……なんて言うのかな、俺の趣味じゃあない、よ」
わ、私には両親や兄弟の記憶はありません。
気がついたら一人でした。
けど、もしも両親や兄なんかいたら、こんな風な気持ちになるのでしょうか……?
こ、言葉にしづらいのですが……
……な、なんとなく、そんな風に考えてしまって――
「[白蛇(ホワイトスネイク)]……」
「本来は俺自身がやらなきゃいけない事案だった。
それをみんなにやらせたんだ。
それでこの結果だ。
マリエッタ。
俺の……
なんつーか、自己満足を許してくれないかな……?」
ご主人様、わ、私は貴方様にそのようなお顔をさせるために言ったのでは――!!!
「やっぱり俺自身で探す方が――」
「[白蛇(ホワイトスネイク)]……!!」
気がついたら、私は大きな声で――!
「し、失礼致しました……!」
慌てて謝罪させていただく。
だけど、それは[大きな声]に関してのみだ。
ご主人様のお言葉と言えど、これだけは――
貴方様がいないなんて、いなくなるなんて、いなくならないで――!!!
「……わかったよ、マリエッタ。
引き続き[捜索隊]の手配を頼む。
内容は変わらず、だ」
「か、畏まりました。
我らに機会を与えてくださり、ありがとうございます!
必ず、必ず――」
私は誓う。
どんなことをしても、ご主人様のお力になるのだ、と――!
「[黒聖処女(ノワール ラ・ピュセル)]、
[戦乙女(ヴァルキュリア)]、
[終演の鐘(ベル)]のお三方に関する情報をお持ち致します!」
[捜索隊]の任務について、頭が床に付きそうなぐらいに頭を下げて復唱させていただいた。
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第3章のお兄ちゃん編スタートです。
新キャラクター達を少しでも気に入っていだけるようにがんばります!