小島と小島を繋ぐ、ほんの小さな橋の上。
全身ずぶ濡れであり、髪の毛先からも水滴がしたたり落ちている状態のキースが微笑んでいた。
その微笑みの対象は、自身の目前にいるうつむき加減の少女に対してだ。
少女は[黒聖処女(ノワール ラ・ピュセル)]の異名を持つノア。
そして、水梨乃愛でもあり――
「おにいちゃん」
「どうした、乃愛?」
「おにいちゃん……」
「ん、どうした?」
繰り返される同じやり取り。
だが、キースは嬉しそうに答えた。
「おにいちゃん……?」
再び繰り返された言葉は、[質問]時のようなイントネーションだった。
そんな乃愛の言葉に対して、キースは腰をかがめて中腰の体勢になる。
そして、下から乃愛の顔を覗き込む。
「ああ、にいちゃんだ。
こんな姿になったけどな。
間違いなく俺は乃愛のにいちゃん、水梨勇希だぞ」
兄であるキースの言葉に、乃愛は複雑そうな表情だった。
泣きそうな、嬉しそうな、困惑しているような、照れているような――
「怖かったんだよ……?」
「……そっか、そうだよな。
ごめんな?」
乃愛の小さな声に、キースは優しく言葉をかける。
「痛かったんだよ?」
「ごめんな」
「心細かったんだよ?」
「悪かった」
続けられていく乃愛の言葉に答えながら、キースは乃愛の手を取った。
そして手の平、手の甲、爪と見ていく。
「手、随分と荒れちゃったんだな」
「え? う、うん……」
勇希は乃愛の手を知っている。
乃愛は手を大切に扱っていた。
ずっとピアノを弾いていたからだ。
その手が、土汚れや小さな傷などが多く見られていたのだ。
以前の乃愛では、決して考えられないことだった。
「乃愛、がんばったな……!」
キースは乃愛を抱き寄せる。
そして髪の毛を撫で、背中をやさしく「ぽんぽん」と叩く。
「……うん」
ずぶ濡れだった兄だが、乃愛は気にすることはなかった。
兄の胸に、乃愛は顔を埋めた。
気恥ずかしくはあった。
だが。
今だけは、ただ、この言葉と温もりを感じていたかったから――
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059 兄妹
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権力者達から言わせれば「質素極まりない」だ。
これがキースの私室の評価になるだろう。
だが、それは権力者達から見ればである。
一般の人からすれば、十二分に豪奢と言える。
そんな部屋に案内されたノアは、借りてきた猫のように「オドオド」していた。
ここ最近のノアの生活は、安宿か森の中での野宿が基本だった。
そのために、キースの部屋が落ち着かなかったためである。
正直、ノアとしては場違いな気持ちでいっぱいいっぱいだった。
「どうぞ。
ウヴァの葉のお茶です」
身体を縮こまらせながらソファに座っていたノアに、マリエッタがお茶を差し出す。
その作法は物音一つたてない完璧なものであり、メイドの鏡といって良い程のものである。
「あ、ありがとうございます……」
高価そうなティーカップに、ノアはおそるおそる手を伸ばして口づける。
心地の良い芳香に、少しだけノアの心は落ち着きを取り戻せた。
「先程はホワイトスネイクのお客様と知らず、大変失礼いたしました」
ノアがティーカップをテーブルに降ろすのを見計らい、
その上で、マリエッタは一礼と謝罪の言葉を口にした。
「あ、い、いえ、そんな――」
ノアが慌てて手を振ると、マリエッタはもう一度軽く頭を下げてから一歩下がった。
そして、軽く目を閉じて直立不動の姿勢を取る。
その後はマリエッタから声をかけることはなかった
キースの私室。
そこにいるのはノアとマリエッタ。
この空間は、なぜだか沈黙と奇妙な緊張感に包まれていた。
○
「うぃーす、おまた~」
ノアがお茶を飲んで、マリエッタが側に控える。
そんな状況が、10分程続いた頃だろうか。
この部屋の主人であるキースが、濡れた服を着替えて戻ってきた。
「あ、おに――」
「よろしいでしょうか、ホワイトスネイク」
ノアの呼びかけと、マリエッタの発言は同時だった。
そのためにノアとマリエッタが、お互いを見やって視線が交差する。
「あ、ど、どうぞ……」
ノアとしても兄に聞きたいことはたくさんあった。
だが、マリエッタの言葉の勢いに押されて、思わず、譲ってしまう。
そんなノアに対して、マリエッタは表情を変えずに一礼をする。
そして改めて、キースに向かい合う。
「ホワイトスネイク。
失礼ながら、よろしいでしょうか?
状況の把握ができておりません。
よろしければご説明いただけないでしょうか?」
マリエッタは、再び「チラリ」とノアの方に視線を向ける。
そして再び、キースへと戻す。
「慌てて飛び出して、水浸しになって戻ってくる。
ただ事ではございません」
マリエッタは真剣な眼差しで、キースを心配げに見つめる。
「ホワイトスネイク。
お身体をご自愛ください。
心配させないでください。
あなたは。
あなたは、サーペンスアルバスの希望なのですから――」
そんなマリエッタを見て、ノアは「ホッ」とした。
ノアの印象として、マリエッタは「怖くて厳しそうな人」であった。(実際、間違いではないのだが)
だが、兄の心配をしてくれているのが、本当によくわかったからだ。
「冷静に思い返したら、そりゃそうだよな。
あの時は、このチャンスは逃がさないってしか考えられなかったからなあ。
ごめん、心配かけた」
マリエッタに対して、キースは頭を下げて謝罪した。
それに対して、珍しく慌てたのはマリエッタである。
「い、いえ!
私こそホワイトスネイクに無礼を――
も、申し訳ございません」
「いいんだ。
今回は俺が悪いんだからな」
もう一度、キースはマリエッタに謝罪の言葉をかけた。
そして、その後に、ノアの前にあるソファに腰を下ろした。
「んじゃ、改めて説明――
……
……
……っても、どこから説明したものやら??」
言うやいなや、困った顔をしてキースはノアに視線を向ける。
これにはノアも同意である。
[D&D]の世界の人に、[こちら側の世界]の説明をするのは困難である。
さすがのキースも、さすがに首をひねってしまっている。
「まあ、一つ一つ順序立ててやっていくか。
幸い、ノアとは無事合流できたわけだしな」
誰に聞かせるわけでもなく、キースは自分自身を納得させるように言葉を呟いてから――
「ノアだ。
俺の妹。よろしく頼む、マリエッタ」
「え?
……
……
い、いもう、と――???」
マリエッタはキースの[妹]という言葉を聞いて固まった。
だが、キースはその様子には気がつかない。
「ほら、ノア。挨拶してくれ。
このメイドさんは、マリエッタ。
細かいところはあとで説明するけど、今、キースの仕事とかを手伝ってもらってる人だ」
ノアに向けて、挨拶するように促す。
慌てて、ノアはソファから立ち上がる。
「ノアです。よ、よろしくお願いします。
兄がいっつも迷惑かけています」
「うへ。
いっつもって……
にいちゃん悲しいぞ。たまにだ、たまに」
「たまにでもダメだよ……」
そんな兄妹の掛け合いに、マリエッタの耳には入らなかった。
入っていたのは、[キースの妹]ということ――
「ホ、ホワイトスネイク!
つ、つまり、その横におられるノアさんは――!?」
冷静沈着なマリエッタが驚きの表情を浮かべている。
何をそんなに驚いているのか?
キースが考えると、ピンク色のプリズムがクルクルと踊り始める。
そして、すぐに回答が導き出された。
「あー、そっか。
マリエッタには言ってたんだっけな。
そう。
マリエッタの想像通りだなー」
キースのいつも通りの言葉に、マリエッタの身体は硬直する――
「清楚な見た目、
真面目な言動、
趣味はピアノ、
運動は苦手、
家族にだけ言うちっさいわがまま、
世の中にいる全てのお兄ちゃんがうらやましがるであろう、
このフルアーマーでダブルな彼女もびっくりなパーフェクト妹、
それが、この、ノワ―ル――」
「お、おにいちゃん……!」
間違いようもない実の兄の言動に、ノアとしては様々な点でつっこみたかった。
だが、まず今は、次に兄が言おうとしていた言葉に対してだ。
ノアとしては、もう、他人には[アレ]を公言する気は無いのだから。
「ノア、大丈夫だ。
わかる。たぶん、ノアも[あの二つ名]でさんざん痛い目にあってきたんだろ?
俺にも経験あるからな。
でも大丈夫だ。マリエッタは問題無い。
俺の、いや、俺とノアの味方だから」
ノアの言葉に、かぶせるようにしてキースは遮る。
そして、キースのノアの視線が交差した。
沈黙は一瞬。
そして、落ち着いた声で、ノアはキースに返答した。
「……うん、わかった。
ありがと、おにいちゃん」
間違いなく兄であるキースの表情と言葉に、ノアの心は「スッ」軽くなったのがわかった。
いつものように自分を案じてくれる兄に感謝の言葉を述べてから、
ノアは、未だに呆然と立ち尽くしているマリエッタの前に歩み立った。
「マリエッタさん」
そして静かにマリエッタに対して、改めて一礼をする。
「改めて、自己紹介します。
ミズナシ・ノアです。
一応ですが、[黒聖処女(ノワール ラ・ピュセル)]をやってるというか、呼ばれてます。
よろしくお願いします」
「や、やはり、
あ、貴方が、あ、あの、黒聖処女!?」
ノアとマリエッタは真剣だった。
だが、キースは思わず「ぶほっ」と吹き出してしまっていた。
シリアスな雰囲気が台無しである。
「うは!
なんだ、ノア。やってるって。
それじゃ黒聖処女が職業みたいだぞー。
それなら、俺、職業ホワイトスネイク?
蛇が職業って無いよなあ~」
だが、マリエッタからしたら大事である。
今、目の前にいるのは、世界を救った[英雄]なのである。
それも、今まで、ずっと行方知れずだった黒聖処女なのだ。
「ホ、ホワイトスネイク!?
ほ、本当に、こ、この御方が黒聖処女なのですか――!?」
「まあ、普通そう思うよなあ。
マリエッタ、間違いない。
ノアはビックバイを倒した時のパーティメンバーなんだな、これが。
えーと、ビックバイの時って、ノアはどんな感じだったんだっけ?」
「え、わたし?」
突然の質問に、ノアは[ゲーム]プレイ時の記憶をさかのぼる。
「えっと、確か……
ブラックドラゴンがいたから、それを引きつけて……
で、おにいちゃん達に、先にビックバイに行ってもらってた。
だから、わたし、後からビックバイ戦には合流したんじゃなかったっけ?」
ノアの言葉に、キースは苦笑せざるを得ない。
「引きつけてたって、簡単に言うなあ。
最強の黒龍相手に1人で囮になって、それでガチで勝つ妹。
世界は広いとはいえ、俺だけだよなあ」
キースとノアが語る、まるでおとぎ話のような英雄譚に、
マリエッタは呆然としてしまう。
そんなマリエッタに、キースは笑いながら説明を続けた。
「さっき俺が飛び出した理由な。
簡単に言うと、ずっとノアと生き別れてたんだ。
で、後はマリエッタも知ってのとおりだ。
俺は[捜索隊]にずっと、ノアを、仲間を捜させていた。
で、見つからずにずっときた。
そんな中で、ノアが来たって報告。
こりゃ飛び出しもするだろ?」
「そ、そうでしたか……」
「だから、もう怒らないで欲しいな~」
そして最期に、マリエッタに対して、キースは拝むようにしてお願いをする。
その姿は、全くもって[英雄]とは思えないものである。
「あ、は、はい……」
そしてマリエッタにしては珍しく、ぼんやりとした感じで答えていた。
いつも見せないマリエッタの姿に、キースは満足げに頷いた。
「よし、んじゃ。
これからについてだな。
とりあえず、マリエッタ。
ノアの泊まる部屋を用意してくれないか?」
「か、かしこまりました!」
だが、さすがマリエッタというべきである。
キースの指示があれば、すぐにいつもの姿へと再起動される。
「あ、そうだ!
前に、俺に用意してくれたような部屋はやめてくれよな!?」
マリエッタに対して、さらに、キースは慌てて追加指示を出す。
そんな兄の言葉に嬉しくもあったが、自信満々にノアは断言する。
「ありがと、おにいちゃん。
でも、わたし、どんな部屋でも大丈夫だよ。
ずっと森とかで寝泊まりしてたから。
空いている場所とかで、全然、平気だよ?」
野宿。
モンスターとの戦闘。
雨や風との戦い。
サーペンスアルバスに来るまでに、それら全てを、ノアは1人でこなしてきたのだ。
今なら、別に馬小屋でも安眠できる自信があった。
「お、おいおい! 森って野宿か!?
も、もう、そんなことはさせないぞって、
話がそれたな。
違う違う。
たぶん、ノアの考えているのとは真逆だぞ。
あれは日本人の俺達が暮らす部屋じゃあない。
なんつーか、海外の観光地にある公開してるお城にある部屋だ。
キンキラで、まぶしくて寝られん」
兄の言葉に、ノアは、昔、妙子が見せてくれた海外旅行時の写真を思い出す。
その写真には有名なお城も含まれていた。
あの写真の部屋通りなら――
「はぅ。
そ、それは嫌かも、です……
キンキラな部屋なら森に帰っていい……?」
しょんぼりとしたノアの表情に、
マリエッタはキースとノアに一礼する。
「かしこまりました。
以前、ホワイトスネイクに頂いております指示通りのお部屋をご用意させていただきます」
「ああ、マジ頼む」
「おまかせください」
そして、マリエッタが扉に向かう――
が、すぐに振り返る。
「その前に――」
突然、マリエッタは、ノアの前で片膝をついた。
それはまるで、騎士が王に忠誠を誓うようであり――
「え、え??」
突然のことに、ノアは慌ててしまう。
「私、そして、サーペンスアルバスの人々は、
ノア様の兄君であられるホワイトスネイクに、文字通り、命を救って頂きました。
言い尽くせぬほどの恩がございます。
ですが、そのために、妹君であられるノア様には必然的にご迷惑をおかけしました。
謝罪と、そして感謝の言葉を捧げさせてくださいませ。
本当に、本当にありがとうございます――」
そしてマリエッタは、右手を胸に当てて、
ゆっくりと頭を垂れた。
それはサーペンスアルバス地方における、忠誠を誓う儀式であった。
「そ、そんな。
今はもうおにいちゃんに会えてますし、だ、大丈夫です。
頭を上げてください~!」
「いえ、そのようなわけには参りません」
「むしろこっちこそ、誤りたいです!
うちのおにいちゃんが、迷惑をかけていないか心配で心配で――」
「いえ、そ、それこそ、
ノア様、そのようなことはございません!」
ノアとマリエッタの譲り合いに、キースは苦笑する。
そして、終わらないやり取りに助け船を出した。
「そうだぞー。
俺、すごいんだぞ。な、マリエッタ?」
だが、ノアには兄の[この言葉]は信じられなかった。
「えー、信じられないよ……」
「それを言うなら、乃愛がここまでこれたことが信じられんよ、俺は。
昔、猫みて泣いてたぐらいなのになあ」
「も、もう!
何回もその話をしないでよ~!」
続けられるキースとノアの言葉のやり取りに、マリエッタは小さく微笑んだ。
○
マリエッタはノアの部屋を用意する為に、キースの私室から客間に向かっていた。
背筋を伸ばして、完璧な姿勢で遅からず速からずの歩みをするマリエッタ。
だが、次第に、その速度は遅くなっていった。
そして、最期には、立ち止まる。
「……」
そして、マリエッタは胸に手を当てる。
小さく、「ほっ」と一息を着く。
「え――?」
今、マリエッタの心を占めているのは[安堵]の思いだった。
だが、何故、こんな気持ちなのか、マリエッタ自身にもわからない。
「い、いけません――!」
周囲に誰もいないことを確認してから、マリエッタは思い切り自身の頬を両手で挟むように叩いた。
「パン!」といった乾いた音をたててからは、マリエッタはいつものマリエッタだった。
○
「まあ、ぶっちゃけ[黒聖処女(ノワール ラ・ピュセル)]ってことは、
秘密にしておいた方がいいのは間違いない」
キースの言葉に、ノアは大きく頷いた。
「うん、あれは、ね……」
「わかる。あれはやばいわ。
さすがに、今の俺は慣れてきたつもりだけど、
それでもプレッシャーで十二指腸潰瘍になりそうだもんなあ」
「あは。
そしたらわたしが治してあげるよ。
今のわたし、どんな病気でもバッチリだから」
「うは、言うようになったなあ!」
キースは嬉しそうにノアの頭を撫でた。
「となると、名前どうすっかなー。
ノアは乃愛だからなあ」
「ただのノアじゃダメなの?」
「うーん、悪くはないんだが……
キースの横にノアがいると、どうしても、なあ。
なんつーか、みんな[黒聖処女(ノワール ラ・ピュセル)]を想像しちゃうと思うんだ」
「それじゃ、ミズナシ・ノアならいいんじゃないのかな?」
「ああ、俺も思った。
で、俺の妹っていうことだから、とりあえず、ミズナシ・ノア・オルセンとか言っとけばいいか。
そのまんまよりは、多少はごまかせるだろ」
「あは、なんかすごい名前」
ノアは苦笑する。
まさか、自分の本名に、外国姓が付くことになるとは夢にも思わなかったからだ。
「ごめんな。
オルセンがついちゃうのは勘弁してくれ」
「うん、大丈夫だよ」
「えっと、それから――
って、こりゃ、しばらくは寝る時間も無いぐらいに、
色々話さないとダメかもなー」
嬉しさと溜息がブレンドされたキースの表情と言葉。
だが、ノアは違っていた。
「一日二日じゃ、きっと話しきれないよ……!」
その言葉は100%の喜びで構成されていた。
★
今回は谷間の回でしょうか。
本当にチート成分が少なくて困ります…… (; ̄ー ̄川 アセアセ
○
マリエッタさんはお気に入りです。
○
次話はノアをがっちりと!