筑前国 大宰府跡 竜造寺軍本陣
雲居が言葉を切ると、天幕に沈黙の帳がおりた。
毛利家に漁夫の利をさらわれたくなければ、とっとと兵を退きなさい――雲居が口にしたことを簡潔にまとめればこのようになる。
毛利家に臣従するつもりなら話は別ですが、という最後の言葉は、よもや竜造寺ほどの大名が他家の下風に立つことをよしとしたりはしますまい、という挑発の言辞であった。
対して、竜造寺家の君臣が沈黙を強いられたのは、盟友である毛利家が敵になる可能性を雲居の口から指摘され、それに戸惑いを覚えたから――ではなかった。
雲居は知る由もないことだが、先だって鍋島直茂は四天王に対して毛利家を相手取っての九国経略を説いたばかり。そのため、竜造寺家にとって毛利家を敵とする認識は目新しいものではなくなっている。
それでなくても、先の宝満城陥落の顛末を見れば、毛利家の側に竜造寺家と末永く友好を保とうという意志は見て取れない。ゆえに、このまま竜造寺軍と大友軍が互いに戦力をぶつけあって消耗していけば、どちらが勝とうとも最終的に毛利家に飲み込まれてしまうだろう、という雲居の予測は十分に首肯しうるものであった。
だが、そのことと兵を退くことはまったく別の話である。
それが竜造寺側の認識だった。
第一、もたらされた一連の情報が大友家の策略である可能性が否定されたわけではない。現時点で竜造寺家が独自に掴んだ大友軍の情報といえば、筑後で動きを見せていること、ただそれだけである。それ以外の情報のほとんどは雲居の口から出たことであり、そこになにがしかの作為が含まれているのではないか、との疑いが生じるのは当然のことであった。件の勅書にしても、疑おうと思えばいくらでも疑うことができる。
また、仮に雲居の言葉すべてが事実であったとしても、ここで何の功も無く兵を退くことは竜造寺家には許されないことだった。
二万の大軍を動員して筑前に攻め込んでおきながら、出城に過ぎない岩屋城ひとつ落としえぬ。毛利軍が自家の血を流さずに宝満城を陥落せしめたのに比べれば、その無様さは筆舌に尽くしがたい。
ここで何も得るところなく兵を退けば、竜造寺軍の声価は一朝にして泥にまみれてしまうだろう。
過日、鍋島直茂が言明したように、岩屋城を落とし、高橋紹運を討つことは、今後の九国経略において欠かせぬ一手である。その一手を、不確かな情報をもとに断念するわけにはいかない。少なくとも、それに代わる何かを得るまでは、兵を退くという決断を下すことはできなかった。
であれば、竜造寺家が採れる選択肢は多くない。
退けないのであれば、残された選択肢は、進むか、留まるかの二つしかなく、この状況で兵を留めたところで何の意味もない以上、選べるのは進むこと以外にない。すなわち、かなうかぎり速やかに兵を進め、大友家には抵抗の余地を、毛利家には介入の余地を与えないこと、それ以外にないのである。
結局のところ、それは雲居がやって来る以前の方針と何一つ変わらない。天幕に満ちた沈黙は、竜造寺の君臣がその結論に至るまでに必要とした時間であった。
そして、ひとたびその結論に至ってしまえば、次に採る手段もまた限られる。雲居が口にした島津との講和や道雪の筑後入国、さらには豊後で編成されているという援軍の存在を岩屋城の者たちが知れば、彼らは再び抗戦の気力を取り戻してしまう。それでなくても、竜造寺の軍中にいらぬ噂を撒き散らされては明朝の城攻めに支障をきたす。
竜造寺家にとって、雲居筑前を陣中から出すことは、求めて苦境に足を踏み入れるに等しかった。
「――つまり、お前さんは飛んで火に入る夏の虫ってことだな」
木下昌直が沈黙を破り、これみよがしに天幕の出入り口に立ちふさがった。
刀こそ抜いていないが、その意図は言葉と行動の双方によって明らかであり、当然雲居も即座に察しただろう。
だが、雲居は慌てる素振りを見せず、見せた反応といえば、唇の端に苦笑を浮かべただけであった。
「冬の最中にそのたとえはいかがなものかと」
「は、今さら強がったって格好はつかねえぜ?」
「さて、ことさら強がっているつもりも、格好をつけているつもりもないのですが」
そういって雲居は他の四天王を見回した。彼らは昌直に追随こそしていなかったが、一方で昌直をとがめだてしようともしていない。それは隆信と直茂も同様だった。
雲居は小さく肩をすくめ、みずからの状況を分析してみせる。
「万一にも岩屋城に入られるわけにはいかない。同様に、城を取り囲む兵たちに妙なことを吹き込まれても困る。であれば、戦が終わるまで捕らえておくか、あるいはあとくされがないようにこの場で斬り捨てるか。いずれにせよ、それがしの行動を封じてから城攻めに取り掛かる。それがしが貴家の立場でも同じことを考えたでしょう」
「なめんなよ、俺たち竜造寺は武器を持たない人間を斬り捨てるほど腐っちゃいねえぜッ」
「そこで胸を張られても。使者を捕虜にすること自体、誉められた行いではありますまい」
「ぐッ!? そ、そりゃあれだ、臨機応変ってやつだなッ」
苦し紛れの昌直の強弁を聞き、雲居は感心したようにうなずいた。
「ふむ、なるほど。一軍の将たる者、求めて苦難を招くは愚かなこと。道義に拘って使者を解き放つよりは、一時の悪名を甘受しても捕縛してしまった方が賢明でございましょう。いざとなれば、それがしをひそかに葬り、大友家に対しては使者など来なかったと強弁することもできます。あるいは、使者が運悪く流れ矢にあたって果ててしまった、と報告する手もありますか。戦場であれば十分にありえることでしょうし」
「お、おお、そのとおりだ! よくわかってんじゃねえか――てか、よくそんなあくどい手をぽんぽんと考え付くな、おまえさん」
うんうんと頷きつつも、雲居を見る昌直の顔はどことなく薄気味悪そうだった。
その昌直にかわって口を開いたのは百武賢兼である。
賢兼の顔には雲居の落ち着きに対する感心と、その落ち着きをもたらすものが何であるのかを探ろうとする色合いが見て取れた。
「その口ぶりからすると、ここまでは予測どおりといったところか。しかし、こちらの出方が予測できていたとしても、それを覆す思案がなければ意味をなすまい。ここから俺たちを出し抜く算段はついているのか?」
「あいにく、鍋島さまを出し抜く知恵も、四天王全員を同時に相手取る武勇も持ち合わせてはおりませぬ。それがしが皆様を出し抜くのは無理というものです」
「ふむ……『それがしには』無理、か」
賢兼は床几に腰を下ろしたまま、人差し指でとんとんと膝のあたりを叩いた。大きな目がぎろりと雲居を睨む。
「おぬしにはできぬ。しかし、策がないわけではない……察するに、定められた刻限までにおぬしが戻らねば、外で待機しているおぬしの手勢が何らかの動きを見せる、といったところか。しかし、多数の手勢を伏せておく余力は今のおぬしらにはあるまい。兵が多ければ、それだけ敵に見咎められる危険も大きくなる。となれば、伏せておける兵は多く見積もっても百かそこらだろう。城への道は厳重に固めてある。そう簡単に抜けさせはせぬぞ」
「それは困りました。それでは遠方から矢でも打ち込んでみましょうか。矢文で敵兵の動揺を煽るのも戦術のひとつでしょう」
「そういえば、豊前の戦で立花道雪がそんな手を用いたと聞いたな。しかし、他家の雑兵ならばいざ知らず、竜造寺の軍は精兵揃いだ。その程度で動揺したりはせぬ」
表面上は穏やかに言葉を交わす雲居と百武。
そんな二人のやりとりに、それまで黙って話に耳を傾けていた江里口信常が呆れ混じりの声を投げかけた。
「おいおい百武、何をのんびりと話し込んでるんだよ」
「そうはいうがな、信常。この者の落ち着きぶりを見るに、何事か企んでいるのは明白だろう。早いうちにそれを明らかにしておかねばまずかろうが」
賢兼の言葉に、信常は胡乱げな眼差しを雲居に向けた。
「落ち着いている風を装っているだけじゃないのかい? それに、仮に大友が何か仕掛けてきたとしても、あんたのいったとおり、あたしらの陣はそう簡単に破れも乱れもしない。だから何の問題もないさね」
信常が言うと、円城寺信胤が思慮深い眼差しで雲居を眺めつつ頷いた。
「エリちゃんのいうことはもっともですわね。四路五動という言葉もあります。落ち着いた態度を崩さないことで、常に対応の手を用意していると相手に思わせることは、戦においても交渉においても有効な手段ですわ」
そう言った後、信胤は一転してまったく逆のことを口にした。
「もっとも、そう思わせておいて実は本当に、という可能性もなきにしもあらずですけれど。そのあたりはいかがなのでしょうか、雲居どの?」
信胤の問いを聞き、信常は呆れたようにかぶりを振った。
「いやいや、答えが『はい』だろうが『いいえ』だろうが、使者どのがあたしらに素直に言うわけないじゃないか。なあ?」
おざなりに信常に同意を求められた雲居は、しかし、あっさりとかぶりを振った。
「いえ、お望みであれば申し上げますが?」
「言うのかい!?」
驚く信常に、雲居はぽりぽりと頬をかきながらうなずいた。
「はい。もう大半は百武どのに指摘されてしまったような気もしますが、細かい点で違いはありますから。とはいえ――」
そう言ってから雲居は頬をかく手を止めた。
そして、何気ない様子で一同を見渡すと――
「どのみち、もうじき皆様のお耳にも達するでしょうから、あえてそれがしが語るまでもないとは存じますがね」
口元に剃刀のように薄く、鋭い笑みを浮かべながら、そう口にしたのである。
信常が雲居の言葉の意味を問いただそうとした、その寸前だった。
不意に天幕の外から時ならぬざわめきが伝わってきた。
はじめ、竜造寺軍の諸将はその騒ぎを兵同士の諍いだと考えた。
昼間の激戦の昂ぶりが静まっていない者もいようし、岩屋城攻めを明朝に控えて浮き立つ者も多いことだろう。そんな兵たちが何百、何千と同じ場所で陣を構えているのだ。些細なことで騒ぎが起きても不思議ではない。
木下昌直があきれたようにかぶりを振った。
「たく、やかましい奴らっすね。竜造寺の家臣ならもっと落ち着けってんだ」
「お前が言うな――兵の皆さん、きっと口をそろえてそう言いますわよ、木下さん」
「……今、明らかにあんた自身がそう思ってたろ、胤?」
「あらあら、さすがエリちゃん、鋭いですわ」
「形だけでいいから否定してくださいよ、胤さん!?」
四天王たちはそんな言葉を交わしあう。雲居を前にして動揺を見せるわけにはいかなかったし、それほど大したことは起きていないだろう、という予断もあった。
今しがた百武賢兼が言明したように、竜造寺軍は内外の夜襲への備えはしっかりと整えてある。城内の敵が打って出た、あるいは包囲陣の外から敵が奇襲してきたのであれば、ただちに敵襲の鐘が鳴らされ、報告の使者が本陣に飛び込んでくるはず。それがないということは、つまりこの騒ぎは敵襲によるものではないということだ、と彼らは考えたのである。
事実、この時、竜造寺軍に襲い掛かった軍勢は存在しなかった。
しかし、騒擾はいつまで経っても止まず、天幕の中にいる者たちも事態が尋常ならざるものであることに気づき始める。
「……妙だな。誰ぞ、様子を見てまいれ」
成松信勝が本陣付きの兵士たちに命じると、百武賢兼が腰の大刀に手をかけながらそれを制した。
「いや、俺が直接行こう。成松は本陣の備えを固めてくれ。襲撃とは思えんし、仮に襲撃だったとしても敵がここまで入り込んでくるとは思えんが、一応な」
賢兼がそう口にすると、信勝は雲居を一瞥してから首を縦に振った。
信勝が頷くと、天幕の入り口を塞いでいた昌直が威勢よく声をあげる。
「おし、じゃあ俺も百武の旦那と一緒に行くぜ。兵どもをびしっとシメてきてやる」
普段であれば、そんな昌直に一言釘を刺す円城寺信胤であるが、この時は真剣な顔でうなずくだけにとどめた。
「それでは外はお二人に、本陣は軍師どのと成松さんにお任せするとして、わたくしたちは自分の隊を掌握しておきましょうか、エリちゃん」
「だな。どうもただごとじゃなさそうだ。よろしいですか、殿?」
「おう、かまわんぞ。どこの道化が紛れ込んできたのかしらぬが、見つけ次第返り討ちにしてやれい」
「は、承知仕りました」
「かしこまりましたわ」
江里口、円城寺の両将がそろって頭を下げ、踵を返そうとする。
陣幕を突き破るようにして、ひとりの兵士が本陣に駆け込んできたのはその時だった。
「も、申し上げます! 一大事でございますッ!」
「落ち着け。まずは何事が起きたのか、報告せよ」
青ざめた顔で声を張り上げる兵士を諭したのは成松信勝である。信勝の低い声音に込められた威厳で平静を取り戻したのか、その兵士は慌てて膝をつくと、驚きさめやらぬ声で報告を行った。
「報告いたします! 城から火の手があがりましたッ!」
ざわり、と天幕内に無音の衝撃が走った。
「……む」
信勝の眉間にしわが寄る。
城に異変が起きた、という報告は予測していなかったわけではない。何か予期せぬことが起こったのだとすれば、その場所は陣中でなければ城内だろうと考えていた。
ただ、火の手があがったとはどういうことか。
竜造寺軍の誰かが抜け駆けして城に攻め込んだのか。あるいは城将である高橋紹運が、死中に活を見出すために城を捨てる決断を下したのか。
咄嗟に考えつくことはその二つくらいだが、しかし、いずれも現実になる可能性は極めて低い。
竜造寺軍は軍令によらない出撃を厳に戒めており、たとえ抜け駆けで功を立てたとしても、行き着く先は軍令違反による斬首のみである。
城方の兵にせよ、この戦況で打って出たところで、押し包んで討ち取られるだけだということは理解しているだろう。あの高橋紹運がこの期に及んで自暴自棄に陥ったとも思えない。そもそも逃亡するにせよ、奇襲をするにせよ、城に火を放てばこちらを警戒させるだけであり、大友軍にとって何の益もないのである。
考え付く可能性は、いずれも実現性を欠くものばかり。しかし、実際に火の手があがった以上、何かが起きたことは間違いない。
あるいは、と信勝は雲居に視線を向ける。
さきほど雲居が口にしていた言葉が思い出された。もしや、これまでの交渉はすべて雲居の時間稼ぎであり、裏ではひそかに大友兵が城に潜入しようとしていたのか。城からあがったという火の手は雲居の策略の一環なのかもしれない。
その信勝の思案は他の諸将とそれとほぼ重なっていた。
だからこそ、彼らは兵士の次の言葉に驚きを隠すことができなかった。
「ち、違うのです、岩屋城ではありません。燃えているのは、宝満城ですッ!」
「なにッ!?」
驚きの声をあげる諸将に対し、その兵士は必死の面持ちで説明した。
宝満城は宝満山の頂に位置する。
竜造寺軍は宝満城に対する警戒も怠っておらず、そちらに布陣していた将兵はすぐに山頂の異変に気がついたという。
はじめは毛利軍の失火かと思われたのだが、火の手はいつまで経ってもおさまらず、それどころか、頂きから麓へとふきつけてくる風に乗って鬨の声らしきものも聞こえてきた。
どう考えても失火の類ではない。何者かが攻め込んだのか、あるいは謀反が起きたのか、いずれにせよ城内で刀槍の騒ぎが起きていることは間違いない、と兵士はいう。
兵士の声にはまだ少しばかり動揺が残っていたが、言葉に詰まることはなく、起きたことを起きたままに報告しているといった様子だった。
そのことを四天王たちは悟ったが、しかし兵士の報告が事実だとすれば、いったいどこの誰が宝満城に襲い掛かったというのか。
当然、竜造寺軍ではない。高橋鑑種が毛利家に叛旗を翻したのだとしても、自分の城に火を放つ意味はないから、ありえるとすれば毛利家が鑑種の忠誠を疑い、彼の排除を目論んで攻め込んだ、というあたりだろう。今後、毛利家が筑前を統治するにあたり、大友時代から宝満城を領有する高橋鑑種の存在は邪魔になりえるものだった。
とはいえ、立花山城さえ陥落していない今この時期に、あの毛利家があえて内輪もめを起こすかと問われれば、答えは否というしかない。ここで高橋鑑種を切れば、今後の九国経略にも影響が及ぶ。利用されただけで捨てられるとわかって、なお毛利に従う国人などいるはずもないのだから。
であれば、事はもっと単純だと考えるべきである。
内実はどうあれ、宝満城は毛利家の有。そして、今現在、九国の地で毛利家と矛を交えている勢力はただ一つである。
天幕内の諸将の視線が、その人物――雲居筑前に集中した。
「……今しがた、おぬしが口にしていたのはこのことか」
信勝がゆっくりと、静かに問いを向けた。四天王筆頭はいまだ座ったままであるが、必要とあらば一足飛びに飛びかかり、雲居を一刀に下に斬り伏せることもできるだろう。
それに気づいているであろう雲居は、しかし、口元に先ほどとかわらない薄い笑みを浮かべたまま、からかうような口調で応じた。
「違います――そう申し上げれば信じていただけますか?」
使者として本陣を訪れてからこれまで、雲居は竜造寺の君臣に対して最低限の礼儀は払っていた。挑発じみた言動をした際もそれは同様である。
だが、今の雲居は半ば公然と戦意をあらわにしている。
そんな雲居の態度を見て、これまでやりとりを配下に任せてきた隆信が再び口を開いた。
「……ふん。それが本音か。色々とことごとしく申し立てておったが、すべては策のうち、というわけか」
それを聞いた雲居は心外だとばかりにかぶりを振った。
「これはしたり。それがしは事実のみを――いえ、まあ多少は誇張を織り交ぜはしましたが、基本的には事実のみを口にして参りました。大友家が窮地を乗り越えるための最善の手は、竜造寺家と和し、もって毛利家を退けること。この考えに偽りはございません。それは貴家にとっても決して損にはならないことと存じます」
「ぬかしおる。では、この騒ぎをどう説明するのだ。大方、わしの兵を装って宝満城に攻め込み、わしらと毛利の盟約を裂こうという魂胆であろうが」
「確かに、そうしようかと考えたことは否定いたしません」
疑念に満ちた隆信に向けて、雲居はその疑念を肯定するように、臆面もなく言い放つ。
だが、よくよく聞けば、その言は謀略の存在を否定していることに気づくだろう。
実際、隆信は気がつき、いぶかしげな顔を雲居に向けた。
「考えたことは否定せぬ、か。考えはしたがその手はとらなかった、とそう聞こえるの」
「御意。正確には『とらなかった』ではなく『とれなかった』なので、あまりえらそうなことは申し上げられないのですが。先ほど百武どのが仰っていたように、今、それがしが筑前で動かせる兵は百をわずかに越す程度。その程度の兵では、たとえ貴家の兵に扮して宝満城に攻めかかったとしても、毛利家を欺くことはできないでしょう」
竜造寺軍の本隊二万が岩屋城を包囲して動かない状況で、百やそこらの手勢で宝満城に攻めかかり、我らは竜造寺軍なりと声高に主張したところで説得力はない。その襲撃が両家の仲を裂く大友家の謀略であることは、童子でも見抜くことができるだろう。
だから竜造寺軍に扮して宝満城を襲うことは諦めた、と雲居は言う。
しかし、現実に雲居は宝満城に兵を差し向けている。その言葉を信じるならば、百をわずかに越す程度の兵で。
その目的は何なのか。
「――まさか本気で宝満城を奪うことができると考えているわけではなかろうな?」
眉をひそめた百武賢兼の問いかけに、雲居はいっそ軽やかと形容できそうな口調で応じた。
「それも不可能ではないでしょう。なにしろこちらは剣聖二人に愛娘まで投入しているのです。城をよく知る者も、山野に慣れた者もいる。城内の兵に、敵が来るはずがないとの油断がわずかでもあれば、宝満城の奪還は絵空事ではなくなります」
雲居はそこで言葉を切ると、おどけるように肩をすくめた。
「もっとも、敵の油断を前提に城を攻めるなど愚の骨頂。ゆえに、兵たちにはそこまで求めてはおりません」
そこまでの無茶を強いたら何を言われることやら、とひとり戦々恐々とする雲居。
そんな雲居の姿に、賢兼は困惑を隠せない。
「……剣聖とは大きく出たな。それに、おぬしは娘がいる齢にはとうてい見えぬが――」
眉間にしわを刻みつつ、賢兼は更に問いを重ねた。
「愛娘というからには、攻め手の中にはおぬしに近しい者もおるのだろう。身内を危険にさらしてまで、この無謀な攻撃に踏み切った理由は何なのだ?」
百武賢兼は雲居に問いを向けたものの、相手から返事が返ってくるとは思っていなかった。
だが、予想に反して雲居はあっさりと答えを口にした。
簡潔にただ一言。
狼煙(のろし)、と。
「……なに?」
二重の意味で予期せぬ言葉に戸惑う賢兼に向けて、雲居は淡々と告げた。
「狼煙、と申し上げました。今宵、空に雲はなく、星は明らかにして風はさやかに木々を揺らすのみ。宝満城よりのぼる火の手は、冬の夜空に隠れなく浮かびあがる、とそれがしは考えたのです。実際、今こうして貴家の兵は城より立ち上る火の手を見て騒ぎ立てております」
そう言ってから、雲居は次のように付け加えた。
「当然、岩屋城に立てこもっている将兵の目にも、宝満城の異変は映っていることでしょう」
――実のところ、岩屋城の本丸は山の南面中腹に位置しており、立地的に宝満城を見ることができない。山頂か、あるいは裏手にある砦のいずれかが健在であればともかく、もしも竜造寺軍がそれらの砦を攻略していた場合、今の雲居の言葉は一笑に付されていただろう。
だが、雲居にとっては幸いなことに、岩屋城の守備兵は本丸とともに山頂付近の砦をひとつ確保していた。、
竜造寺家の諸将が一斉に床几から腰を浮かしたことで、雲居はそのことを察し、内心でひそかに胸をなでおろしたのである。
竜造寺側はそんなこととは知らない。仮に知ったとしても、今となってはどうでもいいことだと割り切っただろう。
彼らは雲居の目論見に思い至ったのである。
賢兼がうなり声をあげた。
「狼煙……岩屋城に変事を知らせるための狼煙か! ただ遠方から狼煙を上げるだけでは城内に援兵の到着は伝えられぬ。城にたてこもる兵の目に触れるかどうかも定かではない。だが、宝満城に異変が生じれば――」
「さよう」
賢兼の言葉に、雲居はえたりとばかりにうなずいた。
「現在の戦況にあって宝満城に手を出せる第三勢力は存在しません。ゆえに、宝満城より火の手があがったとすれば、それは大友軍が奪還の兵を差し向けたからに他ならないのです。紹運であれば必ずやそのことに思い至り、援軍の到来を知った城兵は気力を取り戻すでしょう。それがしが城内に入る必要なぞないのです。ただ一条の烽火をもって、岩屋城は再生する」
雲居は床几に腰を下ろしたまま、さらに続けた。
「もうおわかりかと存じますが、それがしは兵たちにこう命じました。『城を落とす必要はない。岩屋城にそれとわかるくらい派手に火を放て』と。正直なところ、これだとて相当に無茶な命令だったのですが……成し遂げてくれてよかった。これで火付けに失敗していたら、それがしはとんだ道化になるところでした」
そういって雲居はくすくすと声をたてて笑った。
対照的に、竜造寺家の君臣は口を引き結んで一言も発しない。雲居を見る彼らの目には、とある疑念があらわになっていた。
してやられた、という思いがないわけではない。
だが、諸将の胸中にきざした疑念は、そういった感情に根ざしたものではなかった。
そもそも、竜造寺にとっては宝満城が焼けようが落ちようが痛くもかゆくもない。それどころか、いっそ大友家が落としてくれた方が都合が良いとさえいえた。
何故といって、大友家が奪った城を竜造寺家が奪い返したのであれば、城は竜造寺家の有となるからだ。無策に城を奪われた毛利家に城を返還してやる義務はない。
彼我の力関係から後々返還を強いられることもありえるが、たとえそうなったとしても相応の代償を求めることができるだろう。
また、宝満城の異変を見た岩屋城の将兵が抗戦の気力を回復させてしまえば、それはたしかに竜造寺軍にとって厄介なことだが、たとえそうなったとしても今日までの戦いが無に帰すわけではない。戦死した城兵がよみがえったわけではないし、攻め落とした拠点が奪い返されたわけでもない。城兵の半ば以上は戦死し、残された拠点は本丸と山頂の砦ひとつのみ。その現実はかわっていないのである。
疲労や空腹はある程度気力で補えるとしても、高橋紹運もその配下も人の子である以上、限界は厳然として存在する。宝満城の異変を知った城兵がどれだけ奮起しようとも、稼げる時間は精々が一日か、あるいは二日か、その程度に過ぎない。
その間、筑後の道雪に肥前を荒らされるのはまずいが、はじめに隆信が指摘していたように、筑後の大友軍は多くても一万を越えることはないと推測できる。こちらも挽回不可能な痛手にまではいたるまい。
つまるところ、雲居の策――岩屋城を取り囲む竜造寺軍ではなく、宝満城を突くことで戦況を優位に運ぶ――が奏功したのは事実だが、それは竜造寺家にとってまだまだ許容できる範囲内の失策である、ということだった。少なくとも、これで大友家と講和せざるを得なくなった、などということは絶対にない。
ゆえに、問題はそこにはなく。
諸将の疑念の源は、雲居の言行不一致に求められた。
雲居は言った。
竜造寺家と大友家が争えば毛利に漁夫の利をさらわれる。それを避けるためには両家が矛をおさめる必要がある、と。
そう主張していた雲居が、あたかも竜造寺家との戦いに備えるように宝満城に兵を差し向けた事実は、竜造寺家が彼に不審を抱くのに十分すぎる理由であろう。
あるいは、雲居はみずからの身命をおとりに使ったのだろうか。単身、竜造寺軍に乗り込んで偽の情報を与えて混乱させ、その間に宝満城に兵を動かすことで少しでも作戦全体の成功率をあげようと謀ったのか。そう考えれば、雲居の言動にある程度の一貫性は見出せる。
ただ、そうして得られた結果が戦況を動かすには程遠いものであることは前述したとおりである。
それがわかっていないのであれば、雲居筑前という人物はとるにたりない愚将に過ぎない。
だが、わかっていてやったのであれば――
「あなたは何の為にここにお越しになったのですか、雲居筑前どの」
これ以上ないほど率直に、鍋島直茂は問いかける。
それに対する雲居の答えはすこしばかり奇妙なものであった。
「先刻、それがしは佩刀を入り口の兵士にあずけて天幕に入ってまいりました」
「? それが、何か?」
思わず、という感じで首をかしげる直茂に、雲居は短く答えた。
「刀の銘を千鳥と申します。雷切、と申し上げた方がわかりやすいかもしれません」
雲居がそれを口にした瞬間、天幕内の空気が音をたてて張り詰める。
千鳥。雷切。
九国最強ともうたわれる立花道雪が常に佩いているという刀の名である。その名を知らない者はこの場にいない。
そして、立花道雪の佩刀を雲居筑前が持っていることの意味に気づかない者もまたいなかった。
「……では、あなたは」
「はい。この身は大友家より遣わされた使者であると同時に、此度の合戦において大友軍の軍配を預けられた者でもあります。それがしが心底より竜造寺家との講和を求めているのは事実でございますが、それが貴家にとって受け容れがたいものであることもまた承知しております。一軍の采配を預けられた者として、事ならなかった時のことを考えて動くのは当然のことと存ずる」
そういうと、雲居はじっと直茂を見据えた。先ほどまで口元に浮かべていた笑みは、すでにどこにもない。
竜造寺家と講和を結ぶことができれば最善。だが、その最善が成らなかったとき――竜造寺家に講和をはねのけられたとき、何の対策もできていないなどという醜態を晒すわけにはいかない。
であれば、講和が成ろうが成るまいが立ち行くように差配するのは指揮官として当然のこと。
そして、講和が拒絶された時に備えるということは、竜造寺との全面対決に備えることと同義である。
講和を求めて交渉しつつ、その一方で講和が破綻したときに備えて兵を動かす。
常であれば、この二つの動きは両立しない。敵対の動きを見せる相手と講和を結ぼうとする者がいるはずがないからである。それも、密かに準備する程度ならばともかく、思いっきり兵を動かしているのだから、この状態で講和を結びたいと口にしたところで一笑に付されるだけであろう。
だが、こと今回にかぎっていえば、この動きは両立する。
ここで兵を動かした――動かせるという事実が、大友家がいまだ小さからざる戦力を有していることの何よりの証明となるからであった。
「もとより、口先だけで貴家を説き伏せることができるとは考えていませんでした。本気で戦おうとしないかぎり、和することもまたできぬ――それが、それがしの出した結論です。我ながらひねくれた結論ではありますが」
そういって苦笑した雲居であったが、その苦笑はすぐに拭われた。
雲居は真剣な表情で続ける。
「我らは決断を下しました。次はあなた方の番でございます。当家と戦うも和するも貴家の随意なれど、一つだけご忠告いたします。戦うならばお覚悟を、和するならばお早めに。宝満城に火の手があがったと同時に早馬が筑後の道雪の下に向かっておりますれば、明朝の肥前侵攻は必ず行われます」
それは熟慮する時間はないという宣告だった。
講和の使者というより、宣戦布告の使者の物言いである。気の弱い者であれば、この時、この場では大友家と竜造寺家の立場が逆転したかのような錯覚に襲われたかもしれない。
むろん、それは錯覚以外の何物でもない。雲居筑前が大友軍の指揮を執っているという事実はなんら戦況を動かすものではなく、竜造寺家が決断を翻すに足る要素はどこにもない。
――いや、正確にいえば、大友家が本気で戦いを想定しているとわかったことは、竜造寺家にとって考慮すべき事柄の一つとなりえた。
雲居が口にしたことがすべて事実であり、大友家が後背の憂いなく竜造寺家と互角――とは言わないまでも、長期にわたって渡り合える状態にあるのであれば、両家が相打ち、毛利家が漁夫の利をさらうという推測が現実味を帯びてくるからである。
だが、ここで雲居の提言に従って兵を退いても、竜造寺家には得るものが何もない。兵を失い、糧を失い、声価を損なっての帰国など肯えるはずがない――竜造寺の諸将がそんな考えを抱いたときだった。
「――と、これだけですと、講和というより宣戦の使者となってしまいますね。当家の利ばかりをおしつけるのもあつかましい話なれば、一つ、貴家にとっての利も提示したく思います。無手で兵を退けとは申しません」
雲居はそう言って、竜造寺家の諸将を前に一つの提案を持ち出した。
それは、竜造寺家が兵を退いてくれれば岩屋城を破却する、というものであった。
「そちらは今日まで占領した城内の拠点すべてに火をつけていただいて結構。こちらも城兵を救出した後、残った拠点をすべて焼き払います。貴家は毛利家との盟約を守って大友家と矛を交え、高橋紹運が立てこもる岩屋城を陥落せしめたのです。その武勲は誰にも否定できませぬ」
「その武勲が当家の利、ということですか。助けたいのは人であって城ではない。そう仰るのですね」
直茂の言葉に、雲居は小さく頷いた。
だが、雲居のいう「利」にはまだ続きがあった。
「貴家は盟約を守り、城を落とした。否、落とす寸前まで追い詰めながら、紹運と配下の兵の勇戦を嘉し、彼らの命を惜しんで城から兵を退いたのです。世人はこれを見て隆信さまをなんと評するでしょう。毛利家との盟約を守って大友家の城を攻め破り、一方で敵将の命を惜しんでとどめはささずに兵を退く。世に敵を打ち破る将は数あれど、敵を惜しみ、敵を助ける将がどれだけいることか。それでいて、決して毛利との盟約には背かぬその進退。隆信さまこそ正に名将、士を知る者、廉潔の士であると称えぬ者はおりますまい。それは、ただ城を踏み潰すよりもはるかに優る名声として、今後の貴家の発展に大きく寄与することになると心得ます」
雲居が言い終えると、直茂は雲居の提案を吟味するように面差しを伏せた。
ややあって顔をあげた直茂は、その場の誰もが予測していなかった行動に出た。
絶えずかぶっていた鬼面を取り外したのである。
あらわになった直茂の素顔を見て雲居は目を丸くする。そんな雲居に向け、直茂は一つの問いを向けた。
「岩屋城の兵は、今日まで文字通り身命をなげうって城を守り続けてきました。その勇戦は敵ながら見事であったと称えざるをえません。その彼らが、自分たちの城に火を放つことを承諾すると考えているのですか?」
それを聞くや、雲居はすぐに表情を改めた。
その顔に浮かんだ真摯さは、もしかすると竜造寺家を説いていた時よりも優るかもしれない。
「承諾するか否かでいえば、否でしょう。譜代の重臣たる道雪自身が命令するのならば知らず、それがしのような新参外様、しかも戦が終わってからやってきたような者の命令に従って城を焼くなど、兵たちにとって耐えられるものではありますまい」
「であれば、先にあなたが口にした提案とやらは机上の論ということになりませんか?」
「なりませぬ」
雲居は直茂の言葉を言下に否定した。
直前の自身の言葉と明らかに矛盾する否定である。雲居は静かにその理由を説明した。
「兵たちが承諾するか否かでいえば否でしょう。ですが、それがしは兵の承諾を必要とはしません。先にも申し上げました。それがしは、当主宗麟より全権を委ねられた立花道雪から、此度の戦の軍配を預かったのです。貴家が撤兵を承知してくださるのであれば、兵が承諾しようとしまいと城は焼きます」
雲居はそう断言した後、わずかに表情を緩めて続けた。
「ただ、それはあくまで最後の手段です。納得しない将兵は少なくないでしょうが、彼らを説き伏せることはできると思いますよ」
竜造寺軍の猛攻にさらされた岩屋城は、すでに城としての態をなしていないだろう。修復するための時間も資材も人手もなく、宝満城が毛利家の手にある以上、保持しておく戦略上の利点もない。
仮にここで城を保持したとしても、毛利軍とぶつかれば瞬く間に奪われてしまうに違いない。
どのみち失われるのであれば、ヘタに敵兵の拠点にならないように完全に焼き払ってしまった方が良い。まして、それが結果として竜造寺を説得する切り札になるというのなら、あくまで反対を唱える者はいないだろう。
そして、すべてが終わった後、この地に新しい城ないし寺院を築き、この戦で散っていったたくさんの将兵のために碑を建立すれば、戦死者たちに報いることができるのではないか。そのあたりは紹運と相談する必要があるだろう。
雲居はそういった考えのすべてを口にしたわけではなかったが、発した言葉に揺らぎはなく、それは直茂にも確かに伝わっていた。
直茂は鬼面を手に持ったまま、かすかに口元をほころばせる。直茂の心の秤が、一方へ傾いた瞬間であった。