小島弥太郎貞興。
強兵で知られる越後上杉家にあって、なおその武勇は群を抜く。越後国内はおろか、遠く京にまでその名を鳴り響かせ、軍神と謳われる上杉家当主謙信もまた手放しでその剛勇を称えている。
誰が知ろう。上杉家中にあって『鬼』の名を冠する豪傑の士が、その実、花も恥らう乙女であろうとは。
春日山城下の貧しい農家の娘として生まれた小島弥太郎が世に出たのは、およそ四年前。時の越後守護代長尾晴景と、現上杉家当主、当時は栃尾城主であった長尾景虎の間で起きた内乱にまで遡る。
内乱初期、越後七郡にかなう者なしといわれた猛将柿崎和泉守景家は、晴景の本拠地である春日山城を直撃するために軍を進めた。
この柿崎軍を迎撃する晴景軍の中に、小島弥太郎貞興の名が見て取れる。敗色が色濃く漂うこの戦が、戦国乱世にその名を刻む『鬼小島』が誕生する契機となろうとは、敵味方を問わず誰一人として想像すらしていなかっただろう。
諸人の注目は、この時、晴景軍の指揮官に任じられた天城筑前守颯馬にあてられることが多い。著者もまたその功績を否定するつもりはない。
しかし、彼が稀有な幸運に恵まれたことを諸人は想起するべきだろう。もしこの時、天より贈られた比類なき女傑を初陣で指揮するという幸運が天城に与えられなかったのならば――晴景軍に小島弥太郎の名がなかったならば、後に東国を震撼させる天城筑前の神算はついに発揮されることなく、春日山の露に成り果てていたに違いないのだから……
◆◆
本を開いてから閉じるまで、要した時間は一分か、二分か。
そこまでが限界だった。弥太郎は何故だか震えが止まらない手を、半ば無理やり動かして書物を閉じる。
近頃、越後で評判の高い一作ということで、同僚から渡されたものだったが――
「……だんぞー」
弥太郎は思わずじと目で呟いていた。とても面白いですよ、と実に良い笑顔で薦めてきた加藤段蔵の顔を思い起こす。
「絶対、楽しんでたよね、あれ」
弥太郎にとって、段蔵は字の読み書きの師にあたる。天城の第一の臣下であるのならと焚き付けられ、習い始めて早数年。今では兵書を紐解くことも出来る程度に文字に習熟している弥太郎だったが――これは無理だった。色々な意味で、というかあらゆる意味で。
『鬼将記』――近年の越後における争乱を、小島弥太郎に焦点をあてて綴った話題作である。
「――とりあえず、これはしまっておこう」
鬼将記を棚の奥の方へと仕舞い込む。鬼小島がいなければ、この後の天城筑前の飛躍もありえなかった、などと記された導入部分を思い起こしながら、多分、二度と取り出すことはないだろうなあと考える。
「書いた人は誰だろ、ほんとにもうッ」
天城の上に自らを据えるという視点には、違和感まじりの憤りを禁じ得ない。むすっと唇を引き結びながら、しかし、弥太郎の表情には憤り以外の何かが感じられた。
「……四年前、か。颯馬様とお逢いしてから、もうそんなに経つんだね」
事実としてそのことをわきまえてはいても、実際にそれと意識することはこれまでなかったように思う。
あえて理由を挙げるなら、上杉の家臣としての仕事が忙しくて、そんなことを考えている暇がなかった、といったあたりだろうか。もっとも天城が去ってから二年が経ち、その間、ずっと働きづめだったわけではないから、理由としては弱いかもしれない。
率直に言えば、そもそも過ぎた時間を振り返る必要などなかったのだ。あえて思い描くまでもない。その姿が消えて二年が経った今なお、主の面影は弥太郎の胸から去っていないのだから。
それでも、あらためて時の経過を口にしてみると、懐かしさと寂しさは彼方から響く潮騒のように弥太郎の胸中に絶え間なく響いてくる。
過去を綴った一冊の本は、弥太郎の懐旧の情を刺激してしまったようで、天城と初めて出会ったときの情景が自然と思い出された。あの時、集められた将兵の前で、つっかえつっかえ話をしたことを思い起こすと、赤面まじりの羞恥を禁じ得ない。女で、背ばかり高くて、ちゃんと言葉を話すことも出来なかった自分は、あの時の主の目にどう映っていたのだろう。
同時に弥太郎は思う。あの時の自分と今の自分に、どれだけの違いがあるのだろうか、と。
文武両面において己を磨き続けてきた。あの頃よりも成長したという自負はある。しかし、ただ成長しただけで満足してはいられない。問題は成長の有無ではなく、どれだけ伸びたか、ということなのだから。
越後に名高い天城家、その第一の臣という立場に誇りを抱く弥太郎としては、やはり主に相応しい自分で在り続けたいのである。
◆◆
弥太郎は懐から一枚の紙を取り出した。
鬼小島と畏れられる弥太郎が、文字通り肌身離さず持ち続けているもの。今は遠い所にいるはずの主から弥太郎個人へとあてられた手紙だった。
万一にも汚れることがないように丁寧に巻いておいた厚紙の中から手紙を取り出す。
文量は紙一枚。文面にも奇を衒ったものはない。内容にいたっては、今さら字を追うまでもなく脳裏に刻み込まれている。弥太郎がこの手紙を読み返した回数は優に三桁を越えるのだから、当然といえば当然だった。
それでも、今なお飽くことなく読めるのは、この手紙が主との絆が形になったものだからだと弥太郎は考えていた――恥ずかしくて、誰にも言ったことはなかったけれども。
そして手紙を読めば、自然とあの時の混乱と悲哀も甦る。
――上杉家において、誰知らぬ者とてない天城の失踪は、文字通りの意味で越後を震撼させた。
当主である上杉輝虎は天城の姿が消えた直後、群臣に対して「天より上杉家に与えられた人物が、一時、天に帰ったのだ」と告げたのだが、当然というべきか、この説明で納得した者はほとんどいなかった。
天城颯馬といえば、下民から成り上がり、筑前守の栄誉まで授かった人物。おりしも甲斐武田家との盟約が成って間もなかっただけに、巷間には様々な憶測が流れ、逐電、暗殺の疑いが半ば公然と語られるほどだった。
騒擾自体は輝虎をはじめとした上杉家重臣たちの尽力によってほどなく沈静化したものの、近年の上杉家の政戦両略の多くに携わってきた天城の突然の失踪は、天城を肯定する者はもちろん、否定する者に対しても、その存在の大きさを改めて知らしめる結果となったのである。
主の姿が消え、いつ帰るとも知れない。それを知らされた時のことを思い起こすと、弥太郎はいまだに胸が締め付けられる。比喩ではなく、言葉通りの意味で。実際、傍らに段蔵がいなかったなら、弥太郎はその場で息苦しさのあまり倒れこんでいただろう。
その苦しみは、段蔵の提言によって天城の部屋を検め、そこに隠された(というよりは、たんに仕舞ってあった)二人あての手紙を見つけるまで続いたのだ。
主に対して尽きせぬ信頼と敬愛の念を抱く弥太郎ではあったが、この一件に関しては一言いわねばなるまいと心に決めている。
「あらかじめ一言でも仰ってくれていればッ」
あんな思いをせずに済んだのに。いや、知ってはいても実際に天城に会えなくなれば、それはそれで苦しいし悲しくなったと思うが、それでも痛みは多少和らいだはずなのだ。そう思い、まったくもう、と自然と唇がとがってしまう弥太郎だった。
それでも手紙に目を移せば、そこに見慣れた文字を見出して自然と頬が緩む。
内容は簡単なものだ。
やむを得ずに越後を離れることとその詫び、さらにはこれまでの働きへの感謝に続き、自分が去ったあとの上杉家を頼むという言葉で結ばれていた。
天城としては必要最小限のことを短くまとめたつもりなのだろうが、弥太郎としては疑問で一杯である。『やむを得ず』というが、どんな理由で越後を離れなければならないのか。天から上杉家に与えられた人物――輝虎は天城を指してそう言っていたが、天とは一体どこのことなのか。会いに行こうと思えばいけるのだろうか、などなど。
一度、輝虎に直接たずねたことがあったが、輝虎は困ったように微笑むだけ、その微笑を間近に見て、弥太郎は慌てて御前から退出した。自分がひどくいけないことをしてしまったように思えたのだ。
それ以後、弥太郎はこの疑問を誰かに問いかけることをやめた。そもそも輝虎以外の誰に問いかけるべきかもわからなかったし、よくよく考えてみれば、あの主が自分が去った後のことを予測しなかったはずがない。それでもなお何も語らなかった――語れなかったのならば、そこにはそれだけの理由があったに違いない。
ならば自分がすべきは、主が去ったあとの混乱を鎮め、なおかつ主が帰る場所を守っておくこと。弥太郎はそう思い定めたのである。
――実のところ。
弥太郎自身は意識していなかったが、そう考える横顔は見る者がはっとするほどに凛々しく、戦国の荒波を生き抜いてきた確かな自信と落ち着きが感じられた。
くわえて、かつてはどこか不釣合いに感じられた女性らしからぬ長身(出会った時点で天城より背が高かった)も、四年という歳月が加わった今では弥太郎のたおやめぶりを惹き立てこそすれ、損なうようなことはなくなっていた。
涼やかな武者ぶりと、たおやかな乙女ぶりをあわせもったその姿を見れば、戻りきた天城が目を剥くのは必定だ、と一部の家臣たちは確信していたし、またその天城失踪後の混乱に毅然と対処し、実質的に天城家をつくりあげた忠誠と手腕は上杉家中で高く評価されていたのである――あるいは鬼と仇名される武勇以上に。
上杉家の当主である謙信にならって長く伸ばした黒髪を靡かせ、弥太郎が春日山城を歩けば、性別身分を問わず多くの人々がその姿に目を向ける。それは小島弥太郎という人物が成し遂げてきた、あるいは積み重ねてきたものの結果である――のだが。
「本人にその自覚がないあたり、本当に似た者主従といわざるをえませんね」
ため息まじりに、加藤段蔵はそう評する。
そして同時に思うのだ――やはり天城家第一の臣は弥太郎しかいない、と。
「……人、各々領分あり、ですか」
苦笑に混ざったかすかな羨望を、段蔵は意識して振り払う。弥太郎が弥太郎であるように、自分は自分なのだ。持たざるものを嘆く、という選択肢は忍にはなかった。
ゆえに今、自分にできることを全力で。まずは――
「……貴重な収入源をしっかりと確保するべきですね」
そう呟くと、鬼将記の作者は自室へと足を向けるのだった。