『殿、今年こそ関東征伐をッ!』
それはかつて、安芸国を領有する毛利家において、年初めを飾った言葉である。
改めて論ずるまでもなく、近畿も海道もすっ飛ばしている時点で実現性は皆無であるが、たとえ半ば戯れではあったにせよ、それを口にするだけの覇気と気概を持つように努めることを、毛利家当主は家臣たちに示し、また求めたかったのだろう。
だが、その思いとは裏腹に毛利家は当主の早世が続き、今代当主である毛利元就がその座に就いた頃には、安芸一国すら保持しえないほどに衰えていた。
女性の身で当主になる者は決して少なくなかったが、それは衆に優れた才知があってこその話である。学問だけを見れば、元就は幼少の頃から聡明といって差し支えない能力を持っていたが、その長所をかき消すほどの欠点が存在した。聡明であったことの弊害だろうか、元就は他者に対して過分なほどに気を遣い、遠慮してしまうのである。たとえそれが家臣や領民であったとしても。
相手を気遣えるということは、人として文句のつけようのない美点である。
だが、時は戦国の世。尼子、大内という大国に挟まれた毛利家にあって、家臣どころか領民に対しても腰の低い元就の在りようは惰弱と切って捨てられてしまうものであった。
父か兄が当主の座に就いていれば何の問題もなかった。毛利の血を継ぎ、相手を立てることを当然とする元就を、ぜひ妻に、と望む者たちは数多かったほどなのだ――もっとも申し込まれた縁談の類は、父と兄の双方が懇切丁寧に叩き潰したために、実際に話が輿入れの段階まで進んだことはなかったのだが――しかし、その二人が早世し、後継者として元就の名があがった時、多くの者が首を横に振ったのは、疑いなく元就の為人では毛利家の存続が危ういと感じたからだった。
だが、結果として元就は、志道広良、井上元兼らの重臣たちに擁立され、当主の座に就くことになる。
元就を擁立した者たちの心中は様々であり、先々代以来の恩顧で行動した者もいれば、主家の実権を握るために御しやすい当主を望んで動いた者もいた。それぞれの理由で毛利家の存続のために行動した彼らは、しかしその一方で毛利家の前途が極めて苦しいものとなるであろうことを覚悟ないしは予測していた。
ことに井上元兼などは期待すらしていたのである。鎌倉以来の『一文字三ツ星』の旗印などといっても、弱肉強食の世にあっては示威以外の意味を持たぬ。たとえ毛利の旗が地に倒れようと、自身と自家が存続できるのであれば何も問題はない。元就を擁立したのは、あくまでもそれが井上家の利益となるからだった。
逆に言えば、元就の存在が害になるようであれば、これを除くことに躊躇はない。毛利という名は傘のようなもの、雨をしのげば捨て去るだけだ――そんな風に考えていた元兼は、この時、予測どころか想像だにしていなかった。
気弱と嘆かれ、惰弱と蔑まれていた毛利元就が、その類まれな才略によって中国地方に覇を唱えることを。毛利の名が日の本の歴史に刻み込まれる、その基を築き上げることを。そして自らが、その偉業の影で汚名に塗れて果てることを……
◆◆
「ゆえにわしは先々代弘元様に申し上げたのじゃ。『殿、ここはそれがしが殿軍を!』と。しかし弘元様は――」
ところは安芸国の毛利本領、吉田郡山城。
そこでは重臣筆頭の志道広良が、過去、毛利家に襲い掛かった危難と、いかにしてそれを切り抜けてきたのかを唾を飛ばして力説していた。
それらの話は多少装飾が過剰であったが、戦国の世を卓抜と生き抜いてきた宿将の言葉であるだけに、どれも含蓄深く、若年の者たちにとって話を聞くだけでも得るものが多い――のだが。
「――さすがに二桁を超える回数を聞かされると、いいかげん得るものもないわけで」
「隆景、いらんことを言わんでよい」
「でも春姉、ぼく、もう広爺のこの話なら暗誦できるんだけど」
「だからといって聞かんでよいわけではない。見ろ、姉上は一言一句聞き逃すまいと、かじりつくように聞き入っているではないか」
「ぼくに隆姉とおんなじ行動を期待されても困ります」
しごく真面目な表情で言い切る妹の顔を、元春はあきれまじりに見つめた。
とはいえ、その言葉を否定することはしなかった。率直にいって、元春自身も隆元ほどには話に集中していなかったからである。
「……姉上の邪魔をせぬよう口を閉ざしておけ。それ以上のことは求めん」
「はーい」
などという毛利の次女と三女のやりとりなど耳にも入らぬ志道広良は、老いた相貌に若者なみの清冽な気概を漲らせながら、先代興元(いつのまにか代替わりしていた)が上洛して将軍家に謁見したときの状況を事細かに述べようとしていた。
とはいえ手に汗握って話に聞き入るのは隆元一人。元春と隆景はこの先の展開を承知しているために心ここにあらずといった感じだった。
ことに隆景はさきの呟きでもわかるように、それこそあくびがこぼれそうなほどに退屈していた。
そもそも北九州遠征の報告と今後の対策を練るための軍議が、どうして毛利家の歴史をふりかえる場になっているのか。隆景としてはいろいろと腑に落ちないことが多い戦だったので、義母に聞きたいことがあるのである。
(まあこうなったら、とりあえず話が一段落つくまで待つしかないんだけどねー)
せめて将軍家への謁見までで終わってほしいのだが、話がその先の船岡山合戦にまで及んでしまうと、あと四半刻は続いてしまうだろう。さらにその先に行くと、今度は先代の死去にまで至ってしまう。そうすると今度は日暮れまでに話が終わるかどうか……
と、隆景と同じ危惧を覚えたのか、それまで黙って耳を傾けていた最後の一人が口を開いた。
「あ、あのね、広爺。そろそろ隆元たちの報告を聞きたいなあって思うんだけど……ほ、ほら、三人とも九国からの帰りで疲れてるだろうし!」
「む、たしかにそれは元就様のおっしゃるとおりですな」
「うん、うん。じゃあ……」
「では、いま少し先を急いで話すことにいたしましょう。さて、どこまで話しましたかな?」
首をかしげる広良に、隆元が応える。
「興元様が義植様より直々に御言葉をいただいたところまでですよ、広爺。ささ、続きを」
「おお、そうじゃった。その興元様のご様子に、このわしも年甲斐なく感涙を禁じえず……」
「……うう、広爺の話を止めるだけでも大変なのに、隆元まで加わっちゃった……」
悄然とうつむく元就。
その様は他国に謀将と恐れられる鬼才の持ち主とは到底思えず、こんな光景を見慣れているはずの元春と隆景もため息を禁じえない。
「――この様子を尼子や大友に見られたら、手を叩いて喜ばれそうだよね、春姉」
「うむ。毛利、恐るるに足らずと雀躍しような。困ったものだ」
「……そう言いつつ、なんか口元が緩んでるよね、春姉は?」
「む、そうか? まあこの和やかな空気を好んでいることを否定はせんよ」
そう言いながら、世はなべて事もなしとばかりに茶をすする元春の姿に、隆景は再度、深々とため息を吐くのだった。
「ああもう、ほんとになんで今をときめく毛利家の屋台骨を支える人たちがこんななんだろ……?」
「案ずるな、そなたも疑いなくその一人だぞ、強がりで恥ずかしがりの末姫殿」
「別に案じてませんッ! ていうかもうぼくの人柄、その設定で決まりなの、春姉?!」
◆◆◆
そんなこんなで夕刻である。
ようやく(本当にようやくだよ、と隆景はぶつぶつ言っていた)本題を切り出した隆景に対し、元就は小さくうなずいて見せた。
「門司城を割譲した大友家の狙い――それが隆景の気になっていることなのね?」
「はい、義母上(ははうえ)。隆姉と春姉にも言ったんだけど、どうしても大友の狙いがわからなくて……」
大友家に叛旗を翻した小原鑑元を助勢するという名分で兵を出した今回の戦は、松山城において小原鑑元が大友家に降伏するという形で決着を見た。
正直なところ、毛利軍の智嚢たる隆景はこれを予測できなかった。あの時点で鑑元は本拠である門司城を、大友軍の戸次道雪に奪われていたが、鑑元自身が篭る松山城は健在であり、毛利軍の海上からの援助もあって一月やそこらは耐え切るだけの余力は残っているはずだった。
大友家の内情が、外から見るよりもはるかに危ういものであることを小原鑑元は良く知っている。それこそ隆景ら毛利軍よりもはるかに心得ていたことだろう。
鑑元が長期に渡って抗戦を続ければ、豊前以外の地でも反大友の軍が動き出すのはほぼ確実であり、それが当初の戦略でもあった以上、あの段階で鑑元が降伏する必要はなかった――少なくとも隆景はそう判断していたのである。
一時は大友軍の偽報かと疑ったが、次々に入ってくる情報はいずれも叛乱軍の降伏を肯定するものだった。疑念は尽きなかったが、しかし毛利軍はいつまでもそれに拘泥してはいられなかった。鑑元が降伏した以上、毛利家が北九州の情勢に介入する名分が消滅してしまったからである。無論、名分なしの侵略は可能だが、その場合、情勢は尖鋭化し、一朝一夕での解決は望めなくなるだろう。
そういった考えをまとめた隆景は、急ぎ水軍をまとめて松山城を離れ、豊前の地に陣を構える隆元、元春らと合流した。それは今後の対策を練るためであったのだが、そこにはかったように大友軍からの使者が訪れた――まるで三姉妹の合流を待っていたかのように。
そして、あらわれた大友軍の使者は、毛利家に対して和睦を申し入れてきたのである。
その申し入れ自体はさして意外なことではなかった。鑑元らが降伏したとはいえ、大友軍の損害と疲弊は毛利軍を大きく上回る。ここでほとんど無傷の毛利軍とぶつかることは、大友家としては避けたいところだろうからだ。当然、毛利家としては簡単に首を縦に振る必要はない。最終的に頷くにしても、できるかぎりの利を引き出そうと試みることは当然の選択だった。
だが、そんな毛利軍に対し、大友軍はいっそ無造作に最大の利を提示してきたのである。
――門司城の割譲。
それは今回の騒乱において、毛利軍の最大の目的。門司城を得て、関門海峡の実質的な支配権を得られるのならば、あえてこれ以上の血を流す必要はなくなる。和睦の条件として、これ以上のものは存在しなかった。
だが、無論それは毛利家から見ての話である。大友家にとっても門司城の確保と海峡の支配権は是が非でも確保しなければならないもののはずだった。苦労して叛乱軍から奪還した門司城を、ここであっさりと毛利に譲り渡すなど、どう考えても毛利家にとって話がうま過ぎる。隆景はもちろん、元春さえ大友家の提案を疑ってかかったのは、ある意味で当然のことだったのである。
だが、疑わしいからといってその条件を蹴飛ばすわけにもいかなかった。蹴飛ばして戦になった末に得られるものは、結局最初に蹴飛ばしたものである。それでは他の将兵が納得するはずがない。大友家の真意はどうあれ、その申し入れが毛利家にとって願ってもないものであることは事実なのだ。仮に大友家が詐謀を用いるつもりだとしても、あらかじめ備えていれば対処することは難しくないだろう。
そう言って、大友家の申し出を受け入れるべき、という隆元の主張に二人の妹は頷いた。より正確に言えば頷かざるを得なかった、というべきだろうか。
隆景などは十中八九これが策略であろうと考え、特に城受け取りの際には、これでもか、とばかりに厳重に警戒した。陸はもちろんのこと、関門海峡に水軍を展開し、大友軍が矛を逆さまにして襲い掛かってきても即座に反撃に転じることができるようにしたのだが……
結論から言ってしまえば、大友軍はいかなる策略も弄さなかった。大友軍は門司城を譲り渡すと、小倉城と松山城に守備兵を残して豊後に退き、毛利軍は損害らしい損害もなく、門司城を手に入れることができたのである。
これは後から毛利軍に伝えられた話だが、門司城を割譲することは、小原鑑元が降伏する時点で実質的に決められていたらしい。
『それも小原様が降伏を決断する理由の一つだったんじゃないかな?』
その事実を伝え聞いた隆元はそう口にしていたが、隆景は素直に頷くことが出来なかった。
欲望と謀略が渦巻く戦国の世にあって、それはあまりに綺麗事に過ぎるように思われたからだ。
であれば、大友家はそれ以外のしかるべき理由をもって門司城を手放したことになるのだが……
「それが何なのかがわからないってことかな?」
元就の言葉に隆景はこくりと頷く。
一応、隆景としても幾つか理由らしきものを思い浮かべることはしたのである。
中でも最も可能性が高いのは、毛利家に対する他国の心象の操作である。そのことを隆景は口にした。
「今回の戦で、大友軍はぼくたちと鑑元殿の間の疑心を刺激するように動いてました。その……毛利軍は策略を弄するっていう先入観を逆手にとる形で」
それを口にすることは、義母の『謀将』という評を肯定することになるため、隆景としてはあまり口にしたくはなかったのだが、この場ではそうも言っていられない。
元就もまた気にするそぶりを見せず、隆景に先を促す。ちなみにその母の傍らで、隆元はにこにこと相好を崩していた。義母と話すときに限り、ですます口調に変じる隆景がかわいくて仕方ないらしい。
だが、普段ならば間違いなく気づいたであろうその視線に、この時の隆景は気づかなかった。それほど、自分の思考に集中していたのである。
「でも今回、ぼくたちは隆姉の指示に従って鑑元殿の援護を優先させました。結果として鑑元殿は降伏してしまったけど、毛利軍は友軍への信義を最後まで貫いたことになります。それは大友家以外の九国の人たちにもはっきりとわかったと思うんです」
実際のところ、隆景は小倉城へ欲目を見せたわけだが、それを知るのは極小数しかいない。今回の戦に関して言えば、毛利軍は愚直なまでに誠実に動き、他勢力に『謀』ではなく『信』の面を知らしめたといえる。
仮に何一つ得られずに撤退する羽目になったとしても、他国に対し、毛利家は信義を重んじる家だという印象を与えられたことには大きな意義があったはずである。それは今後の九国の経略において無形の財産となるはずだった。
だが大友家が門司城を割譲したことで、その印象が翳りを帯びた。隆景はそう感じていた。
「――実際、門司城の割譲は大友家から申し出たことだけど、これは破格――というよりは本来ありえない譲歩です。だから他国から見れば、ぼくたち毛利が鑑元殿を見殺しにした挙句、その混乱と弱体に乗じて門司城を強引に奪い取った、そんな風に見えていてもおかしくないと思うんです」
無論、毛利家は口を封じられているわけではない。事の次第を公にすることも可能なのだが――
隆景が言いよどむと、元就は義娘の心情を思いやって自らが口を開いた。
「……うん、大友家の譲歩が信じられないくらいに過ぎたものだから、私たちがそれを正直に口にしても信じてはもらえないかもしれないね。ただでさえ毛利は策の多い家だって思われてるし」
元就の言葉に、隆景は小さく頷いてみせた。
つまるところ隆景はこう考えたのだ。
門司城を割譲した大友家の狙いは毛利家に寄せられる衆望を損なうことにあるのではないか、と。利用しただけで捨てられる――そんな風評を流して毛利家の影響力を殺ぐこと、それが枢要な城をあっさりと手放した大友家の深慮遠謀なのではないか、と。
だが、その考えを聞いた元春は首を傾げる。
「効果があるかどうかもわからない風評をたてるために、城ひとつと交易の利を差し出す、か。ありえんとは言わんが、九州探題に任じられたほどの大家がそこまで我らを警戒するものか?」
小原鑑元が降伏した時点で、毛利軍は一万を超える戦力を門司城近辺に展開させていた。一方の大友軍は門司城に二千に満たない兵力がいたのみである。毛利軍の優位は動かなかったが、相手は百戦錬磨の鬼道雪、そうそう都合良く事が運ぶと思えなかったのも事実である。
あの戦況で、大友家が隆景が口にしたような理由で門司城を手放すだろうか。もし相手が吹けば飛ぶような小勢力であれば元春も隆景の考えに頷いたかもしれない。しかし相手は大友家、わざわざ悪評を広めるような真似をせずとも、正面から毛利と戦うだけの力を有しているのである。
そんな元春の反論に、普段なら一言二言は言い返す隆景だったが、この時は率直に姉の疑問がもっともであることを認めた。
なぜといって、それは隆景自身の疑問でもあったからである。
「確かに春姉の言うとおり、大友らしからぬ――っていうか、ぜんぜん割りにあわない策略です。大友の当主は異教に狂っているっていう話ですが、その麾下にはあの鬼道雪みたいな人たちもいます。こんな愚策を採るとは、ちょっと思えなくて……」
しかし、事実として大友家は門司城を毛利家に譲り渡した。そして大友家が毛利家の悪評を広めようと動いている様子も見られない。
毛利家にとっては万々歳な展開であるはずなのだが、隆景は奇妙に落ち着けないものを感じていた。何か重要なことを見逃しているような、そんな焦燥が胸を苛むのである。
元春もまた隆景ほどではないにしても似たような危惧を抱いていた。
一人、隆元は妹たちの危惧を理解できていない様子だったが、この姉に策略の類を理解しろとは隆景も思っておらず、また理解してほしいとも考えていなかった。
隆元は策を弄することなく正道を歩んでくれれば良い。それを補佐することこそ隆景の仕事であるからだ。しかし、今回に関して言えばどれだけ頭をひねっても大友家の真意が読み取れず、万策尽きて義母の知恵に頼ることにしたのである。
隆景はそういった自身の考えをすべて口にしたわけではなかったが、元就は娘たちの性格や為人を照らし合わせ、ほぼ正確に娘たちの考えを悟り、気づかれないようにこっそりと口元を綻ばせた。
だが、隆景の視線をうけて慌てて表情を引き締めなおすと、自身を落ち着けるようにゆっくりと口を開く。今回の大友家の採った行動の裏にあるものを、元就はすでにおおよそ掴み取っていた。
「結論から言っちゃうと、大友家の人たちは、毛利家に門司を譲ったとは考えていないんだよ。一時の間、貸し与えただけ、そんな風に考えているんじゃないかって思う」
今回、陸と海で二万を越える兵力を動員した毛利軍だったが、無論、これが限界ではない。その気になれば、今回の倍近い大兵力を催すことも可能だろう。
だが、その兵力の多くは農民であり、時が来れば村々に帰さねばならない。要するに恒久的に一箇所に留めておくことが出来ない兵力なのである。敵にしてみれば、わざわざ目の前の大軍とぶつかる必要はなく、毛利が兵力の大半を引き上げてから攻め寄せれば良いと考えるのは当然だった。
その結果、また毛利が大軍を動員してきたとしても、再び同じことを繰り返せば良い。兵の疲労にしても、物資の損耗にしても、遠征してくる側がより不利であることは自明であり、繰り返していれば遠からず毛利家の方が息切れするに違いないのである。
門司を割譲するということは、毛利家に常にその選択を強いることに繋がる。毛利側にしてみれば、門司を手放してしまえばそれで済むが、あの城を押さえることで生じる莫大な利益がその選択肢を許さない。
持つことは、時に持たざること以上の不利益を招き寄せる――今回のことは、これ以上ないほどにその言葉を具現していた。
その元就の言葉に、三人の娘たちはそれぞれ異なる表情を浮かべたが、その中に完全な納得を見出すことは難しかっただろう。隆元でさえ、小さく首をかしげている。
無論、元就はその理由を察している。
「もちろん、これは一面的な見方だよ。兵力の動員――数にも期間にも限りがあるのは他の国だって同じだし、現在の大友家がこんな悠長な作戦を採る余力がないのも明らかだよね」
その言葉に、真っ先に隆景が頷いた。
机上の争いなら知らず、敵対する二つの国がまったくの互角の条件を揃えていることなど実際にはありえない。それぞれの家が、それぞれの長所と欠点を持ち、相対的に上回った方が勝利する。その意味で言えば、家中をまとめ切れていない現在の大友家は、明らかに毛利家に及ばないと隆景は確信していた。
その隆景の考えは間違ってはいない。確かに両家を見比べれば、今の毛利は大友を上回るだろう。
だが、大友家が内憂を抱えているように、毛利家にもまた大きな問題が存在した。内ではなく、外に――すなわち出雲の尼子家の存在である。
現在の毛利家の所領は安芸、周防、長門、そして石見と備後の一部に及ぶ。
ひるがえって尼子家は出雲、伯耆、美作、さらには石見、備中、因幡の一部に及び、中国地方は西の毛利と東の尼子でほぼ二分されている状況だった。これまでも毛利の勢力が西へ伸びようとする都度、尼子はその後背を襲う動きを見せており、毛利家の勢力伸張を阻む大きな要因となっていた。
それゆえ、今回の遠征においても元就と広良は尼子に備えるために安芸に残らざるを得なかったのである。
当然、大友家もそのことは承知しているだろう。
門司城を得たことで、毛利家は豊前にも兵力を割かねばならなくなった。大友家の侵攻に備えるためには相応の兵力をつぎ込まねばならず、そうすると必然的に尼子に向けられる兵力は減少する。
大友家と尼子家が足並みを揃えて攻めかかれば、必ず守りきれない局面が出てくるに違いなく、そうなった時、毛利はどこかを切り捨てなければならない。
そして真っ先に切り捨てられるのは新たに得た領土であろう。狭いとはいえ、海峡を挟んだ地に兵や物資を送り込むのは容易なことではないし、無理をして確保しても、本国や石見の銀山を失えば交易どころではなくなってしまうのだから。
かくて毛利家が兵を退いた後、大友家は悠々と門司城を奪還できる、というわけである。
問題は尼子家が都合よく動いてくれるかどうかだが――門司城を得た毛利家が九国に勢力を広げ、交易で国を富ませれば、それだけで尼子家にとっては脅威である。そこに言及すれば、尼子家を動かすことは十分に可能だろう。
門司城を手放し、毛利の勢力を肥らせた大友家は、同時に尼子家を動かしえる状況を作り上げてしまったのである。
そして、さらにもう一つ。
大友家は外交における切り札を持っていた。
それは――
「将軍家との繋がり、だね」
元就の言葉に、その場にいた者たちは、はっと表情をかえた。
「大友家は九州探題に補任されるために相当の人と財を費やしたと思う。それは今も続いている……そう考えた方が自然だよね」
「そっか。将軍家を通じて門司城の返還を……ううん、違う、そんな大友家に顎で使われるような方法じゃ将軍家は動かないか。将軍家の権威を知らしめる形で門司城を取り返すためには――もう一度戦端を開いてから、それを収める……?」
「たぶん、隆景の考えている通りだよ。和睦は一時のこと。じきに尼子は動くし、尼子が動けば大友も再び動く。東と西に大敵を迎え撃つことになるから、どうやっても私たちは不利を免れない。そこで頃合を見計らって将軍家に調停を願い出れば――」
その元就の言葉を引き取ったのは元春だった。どこかあきれたように嘆息しながら、口を開く。
「門司城は労せずして取り戻せる、というわけですか。そう考えれば、確かに義母上の仰るとおり、大友家の今回の行動は割譲ではなく貸与にあたりましょうな。そこまで考えた上での此度の譲歩であれば、いっそ天晴れとでもいうべきでありましょうが……しかし」
そこで元春は小首をかしげた。
「元春、何か気になることがあるの?」
「率直に申し上げます。義母上、大友はそこまで考えて事を運んだとお考えでしょうか? 聞けば智恵者として知られた角隈石宗殿はすでに亡くなられたとのことですし、これまでの大友家のやりようを振り返ってみても、そこまで――なんといいますか、七面倒なことを考えて事を処すとは考えにくいと思えてなりませぬ」
それに対し、今度は元就が首を傾げる番だった。
「うんとね、それはわたしが三人に聞きたいことでもある、かな? 今回の戦に出て、何か気づいたこととか、違和感を感じたりしたことはなかった?」
無論、元就は大体のところはすでに書簡で報告を受けている。だが、実際に対峙した者たちの口から相手の情報を聞くことは決して無駄ではないと考えたのだろう。
元就の言葉を受け、三人は顔を見合わせた。心あたりがなかったから――ではない。その逆だった。
三人が同時に思い浮かべたのは、伝え聞いていた大友軍らしからぬ今回の敵の戦ぶりである。それを踏まえて、今の元就の説明に耳を傾ければ、必然的に一つの推測が導き出される。
何かが――誰かが、大友軍に影響を与えている。
その変化が大友家にとって、また毛利家にとって何をもたらすものかはわからない。急激な変化は多くの場合、混乱をもたらすものとして忌避されるからである。ことに大友家のような大家には累代の重臣たちが多く居り、彼らは往々にして変化を嫌う。それが人であれ物であれ、あるいはなにがしかの集団であれ、大友家に変化をもたらしている『何か』を彼らが簡単に受け入れることはないだろう。
ただ――
隆元が小さく呟く。
「今の大友家は、南蛮神教によって大きな変貌を遂げつつあるよね。わたしたちはそれが日の本にとって好ましくないものだと考えてきたけど……」
もしかしたら、その変化の波は思いもよらないものを招きよせることになるのかもしれない。
その隆元の呟きは、確たる情報に基づくものではなく、単なる思い付きに過ぎなかった。一笑に付されても仕方ない妄言であるとさえ言えた。
だが、その場にいた者たちは、その言葉に奇妙なまでの確信の響きを感じとり、一様に口を閉ざす。かつて感じたことのないその感覚が何を意味するものなのか、毛利家の人々がその答えを知るのは、いま少し先のことだった……