錦江湾の戦いが始まるすこし前のこと。
南蛮軍第三艦隊臨時旗艦エスピリトサント号――南蛮艦隊の中にあって、一際巨大な船の甲板に立ち、陸地に視線を注いでいる老人がいた。
ずんぐりとした体型、髪も髭も白に染まり、頬には深い皺が刻まれている。外見だけを見れば、どこぞの屋敷で楽隠居していてもおかしくないと思われるが、その実、眼光は鷲のごとく鋭く、激しく揺れる船上をあたかも地上を歩くがごとくに進む姿にはまったく危うげがない。頬に刻まれた皺は、長い年月を戦場に捧げた武人の年輪であった。
元帥ドアルテ・ペレイラ。
南蛮軍にあって、その名と顔を知らぬ者などいようはずもない人物である。
そのドアルテの傍らに、今、一人の少年が立っている。
海上を吹き渡る寒風に、頬を林檎のように赤くするその少年は、すでに戦が始まっているというのに身に寸鉄も帯びていなかった。
だが、それを咎める者はどこにもいない。この少年の役割が、人を殺すことではなく、人を助けることであることを皆が承知しているゆえである。
ルイス・デ・アルメイダ。
姓は先鋒部隊を率いるロレンソと共通するが、直接的な血の繋がりはない。
ルイスはドアルテの養子の一人である。生涯の半ばを戦場で過ごしたドアルテは、この年まで妻を迎えることはなかったが、戦場で親を失った子や、あるいは戦死した部下の子を引き取って、養子として育てていた。
ルイスが気遣わしげに口を開いた。
「閣下、寒風はお身体に障ります。戦いが始まるまでは船内で休んでいてくださいませんか?」
「年寄り扱いするな、ルイス。この程度で身体を損なうほど衰えてはおらぬ。それに、戦いが始まるまでというが、戦いはとうに始まっておるわ。砲火を交えるのは、戦いの最後の局面に過ぎぬのだ。ゆえに敵が見えぬからとて、船の中にこもってはおれぬのよ」
「そ、そういうものなのでしょうか?」
ドアルテとしては、軍人として当然の認識を述べたに過ぎないが、ルイスにとっては理解しがたいことであったらしい。周囲を取り囲む艦隊や穏やかな海面に視線を向け、首を傾げるばかりであった。
それを見て、ドアルテは内心で苦笑する。
ドアルテは引き取った子供たちに軍人という選択肢を強いたことは一度もない。だが、ドアルテに恩を感じる子供たちの多くは、ドアルテを慕って南蛮軍に加わっていった。
そして、ルイスもまた軍人を志した一人なのである。もっとも、この少年の場合、武に対する才能が致命的なまでに欠如していたため、早々にその道を諦めざるを得なかったのだが。
そんなルイスに、戦いの機微を察しろ、というのは無理な話であったかもしれない。
ところで、軍人となることを断念したルイスがどうして旗艦に乗っているのかといえば、これはれっきとした理由がある。
軍人になる志を断たれたルイスであったが、そこでへこたれたりはしなかった。武の才がないなら、文の才を磨けば良いんだ、とばかりにわき目もふらずに学問に励み、神、医、言語といった多くの分野を学び、学んだ分だけ己の内に修めていった。
たしかにルイスは文の面において並外れた才能があったのだろう。今のルイスの立場はドアルテ付きの見習い医であったが、船内の将兵からは半ば船医として扱われていた。また、ドアルテに倭国の言葉を教授したのもルイスであった。当然、ルイス自身も倭や明の言葉に通じている。
ドアルテにしてみれば、養子であり、医師であり、さらには通訳をも務められるルイスが傍らに控えていることの安心感はたとえようもない。
しかし、出来ればルイスをこの遠征には連れて来たくはなかった、というのが正直なところであった。
ルイスの神学の師はトーレスという人物なのだが、彼はかつて日本布教長を務めた人物であり、倭国に対して深い知識と愛情を持っていた。そのトーレスから倭国や、そこで暮らす民のことを聞かされていたルイスは、東方の島国に対して大いなる興味を持っている。その言語を学んだのも、いずれかの地や、明という大国に赴きたいという希望があったためであった。
その意味で、今回の遠征はルイスにとって渡りに船といえる。
しかし、遠征は物見遊山の旅ではない。まして今回の戦いは、倭国を南蛮に屈服させるための第一陣である。おびただしい量の血が流れることは火を見るより明らかであった。
もっともルイスとてそれは承知していた。武の才能こそ欠けていたが、ルイスは胆力がないわけではない。これまで何度もドアルテと共に戦場に出て、敵味方の血が流れるところを目の当たりにしている。それに、たとえその経験がなかったとしても、血を見て倒れるほどやわではない。そんな性情であれば、そもそも医術を学ぶことなどしなかっただろう。
そのルイスの主張を、ドアルテは最終的に受け容れた。
ルイスがこれまでに経験した戦と、今回の遠征の差異がドアルテにはわかっていたが、それを言葉だけでルイスに説明し、納得させることは難しかったからである。くわえて、ルイスが今後どのような道を選ぶにせよ、この戦を見れば将来の益になるだろうと考えたからでもあった――良い意味でも、悪い意味でも、この遠征は南蛮軍の在り方を示すものになるであろうから。
そしてなにより、やはりルイスの諸事における能力と安心感をドアルテは欲したのである。
軍神アフォンソ・デ・アルブケルケの戦友にして、第三艦隊を実質的に統べる大元帥。
南蛮軍にあって知らぬ者とてないドアルテ・ペレイラであったが、やはり彼もまた南蛮軍が抱える宿痾からは逃れられずにいた。
どれほど優れた軍事的手腕を持っていても。
敵に対する警戒と味方に対する心遣いを欠かさなかったとしても。
やはりドアルテも心の底では疑うことなく信じていたのである――勝つのは南蛮軍である、と。だからこそ、ルイスの同行を許すことも出来たのだ。
積み重ねられたのは三十年を越える経験と実績。
誰一人及ばぬものから導き出された確信であったからこそ、誰一人としてそれを糾すことはできず。
その確信がひび割れて、はじめてドアルテは――そして南蛮軍の将兵は、敗北という名の現実が足元まで忍び寄っていることに気づくのである。
◆◆◆
開戦前にガルシアが口にしていたように、南蛮軍の提督たちはこの海域での敵の襲撃を、可能性の一つとして考慮していた。
当然、敵軍があらわれた場合の対応もあらかじめ想定している。
この海域は東と西が陸で塞がれている。敵が南蛮軍の撃破を望むのなら、南と北、どちらか一方を空けておくとは思えず、南北両方向からの挟撃を仕掛けてくる可能性が極めて高いものと思われた。
その際は、後方に位置するガルシアが南からあらわれる敵軍と対峙する。先鋒のロレンソはニコライの援軍に赴くため、北からあらわれる敵軍にはドアルテがあたる手筈となっていた。
島津歳久の部隊が動いた際、いち早くドアルテの艦隊が反応できたのはそれゆえである。
この南蛮軍の反応の速さは、歳久の予測を上回った。ガルシアの艦隊を文字通りの意味で震撼させた黒船の影響をほとんど感じさせない動きで、ドアルテの艦隊は歳久の部隊に即応したのである。
歳久としては、作戦に修正を加えざるを得ない。
南側の水軍を率いる梅北国兼は、小早による大砲運用をはじめとした奇手を次々に繰り出すことで、南蛮艦隊の動揺と警戒を誘い、船足の遅い黒船による突撃を成功させた。
だが、歳久はドアルテの艦隊以外に時間とも戦わなければならない。眼前の艦隊だけに集中すれば、港に停泊しているニコライとロレンソの艦隊が準備を整えてしまうだろう。その数はドアルテの艦隊三十隻を上回る三十八隻であり、彼らが参戦した時点で敗北は確定してしまう。
それゆえ、歳久は港の艦隊を牽制しつつ、ドアルテ率いる本隊と相対しなければならなかった。
国兼以上の難題に直面した歳久であったが、圧倒的な戦力差がかえって迷う余地をなくしたのかもしれない。その指示は素早かった。
歳久はまず、大小を問わずすべての火船を港に向けた。関船を火船に仕立てたとしても、海上に展開している南蛮艦隊は巧みな操船で避けてしまう。そのことは先に動いた国兼が証明してくれた。
であれば、港で停泊している船にぶつける方が効果的であろう。
その一方で、火薬を積んだ黒船に関してはドアルテの艦隊にぶつけなければならなかった。
単純に考えれば、港で密集して停泊している艦隊にぶつけた方が、多くの戦果を得られるのは明白である。ガルシアの艦隊の被害が二隻で済んだのは、戦闘機動による衝突を避けるために、それぞれの船が一定の距離を置いていたからであった。密集陣形の中央で炸裂させることができれば、南蛮軍の被害は五隻や六隻ではすまないだろう。
にも関わらず、歳久は黒船を港で停泊している艦隊ではなく、ガルシアと同じように戦闘陣形を整えているドアルテの艦隊に向けた。
その理由は何なのか。
――この海戦において最も重要なのはいかに多くの船を沈めるか、ではない。無論それも必要なのだが、大前提として、どれだけ島津軍が奮闘しようと、八十八隻の南蛮船、すべてを一時に葬ることは不可能である――この事実を、歳久はじめ島津軍の将帥は心に刻み付けていた。
その圧倒的な戦力差、物量差こそが南蛮軍の勝利の確信を根底で支えるものである。南蛮軍がこれを信じる限り将兵の士気は落ちず、将兵の士気が落ちない限り、島津軍に勝ち目はない。
島津軍が奇策を縦横に駆使し、先手を取り続けたのは、南蛮軍のその確信を突き崩すために他ならぬ。
つまり、少しずつでも敵に驚きと戸惑いを与え、こう思わせねばならないのだ。
このままではまずいのではないか、と。
どうせ最後にはこちらが勝つ――そんな確信を覆し、もしかしたら負けてしまうかもしれない、そう思わせることが出来て、はじめて島津軍にも勝利の芽が生じるのである。
そのためには、すべての部隊を等しく圧迫しなければならない。
たとえ黒船で港の南蛮船十隻を葬ったところで、ドアルテの艦隊に行動の自由を許せば、相手は冷静になってしまう。そして一度冷静になってしまえば、たとえ囮で黒船を用いようとも、たちまちのうちに見抜かれてしまうだろう。
船ごと爆破するには大量の火薬が必要である。東のはずれの島国、その一部を領有するだけの勢力に、そんな大量の火薬が必要となる策略が何度も使えるはずがない。それを悟られてしまえば、あとはもう戦力差で押しつぶされるのみであろう。
歳久は軍議の際、雲居が黒船について発した言葉を思い起こす。
『南蛮軍の総数が数隻であれば、あえて使う必要はありません。船の大きさにもよりますが、十隻や二十隻程度であっても、陸に引きずり込めば勝てるでしょうから、同じく使う必要はありません。これを切り札として用いるべきは、南蛮軍が三十隻、四十隻に達する場合です。これを殲滅するためには、よほどに大掛かりな仕掛けが必要となる。これは、その時のためのものだとお考えください』
これに対し、歳久は素早く反応した。
南蛮軍の数がそれ以上であった時はどうするのか、と。
この時点で島津軍は南蛮軍の正確な戦力を掴めていなかった。船の数も、大きさも、総兵力も、武装も何もかも。ゆえに、どのような可能性も否定できないのである――決して意地悪で言ったわけではなかった。
これに対し、雲居は小さく肩をすくめて応じた。
『たしかに。正直、あまり考えたくはありませんが、南蛮軍の数がそれ以上――それこそ五十隻をはるかに越え、百隻近い数である可能性も否定できません。あるいはそれすら越えるかもしれませんね。しかし、たとえそうであっても、この船は切り札になるのですよ』
たとえば南蛮軍が百隻だとする。そこまで戦力差が広がれば、一戦で勝敗を決するのは難しい。
しかし。
『弱いならば弱いなりの戦い方があります。猫だましも立派な切り札ですよ』
そう口にしてから、雲居はふと何かに気づいたように慌てて説明した。
猫だましとは、相撲において相手の眼前で強く両手を叩くことで、相手の集中力をかき乱す技である、と。
猫だましは相手の顔の前でやらねば意味がない。
それについて歳久には異論はなかったが、火船を港に向けた以上、国兼のようにあらかじめ敵に警戒心を植えつけた上で、満を持して黒船を出すという手段は使えなかった。
ゆえに歳久は正攻法を用いる。
黒船を中央に据えた陣形を組み、みずからはその先陣に立って南蛮艦隊に突っ込んだのである。
動かせるすべての関船と小早を盾として、黒船を敵にぶつける戦法。
形としては島津軍は魚鱗陣で南蛮軍に突撃したことになる。
これに対し、ドアルテは麾下の艦隊を鶴翼陣――というよりはU字の形に布陣し、島津軍をその内側に誘い込む。
これはドアルテらしい巧妙さと慎重さの賜物であった。
元々、島津水軍は南蛮艦隊に対して数で劣り、大きさで劣り、武装で劣っている。ドアルテは、わざわざ島津軍を誘い込まずとも、正面から砲火を浴びせれば十分に勝利を得ることが出来たであろう。
しかし、ドアルテは完璧を期し、島津軍をみずからがつくりあげた死地に誘った。その上で、正面、左右の三方向から苛烈に砲火を浴びせたのである。
島津軍はこれを避けるべく懸命に船を動かしたが、三方向から襲い来る砲弾を避ける術などあろうはずもない。
のたうつように進みながら、刻一刻とその数を減らしていく島津軍。
このままでは、半刻とかからず、すべての船が溶けるように海上から姿を消してしまうだろうと思われた。
だが。
この時点で南蛮軍元帥ドアルテ・ペレイラは、敵将島津歳久が仕掛けた陥穽に陥っていた。
繰り返すが、南蛮艦隊の火力をもってすれば、正面から砲火を浴びせるだけで勝つことができた。しかし、優れた将帥であるゆえに、ドアルテはより自軍に有利な陣形を築き、島津軍を徹底的に叩き潰そうとしたのである――歳久の目論見どおりに。
この時、もしガルシアからの報告が届いていれば、あるいはドアルテは歳久の狙いに気づくことが出来たかもしれない。
しかし、ガルシアは麾下の艦隊の動揺と混乱を鎮めるために、みずからの船を離れることが出来ずにいた。
先の尋常ならざる爆発音はドアルテの艦隊まで響いていたが、音だけで状況を察することは難しい。敵の火船によって、南蛮船の火薬庫に火が付いたのではないか、と推測するのがやっとであり、またそれが妥当な判断というものであった。まさか敵軍が、蓄えた火薬のほぼすべてをこの海戦に注ぎ込み、あまつさえそれを船に乗せて爆発させたなどと誰が想像できようか。
また。
島津軍の突撃が形だけのものであれば、ドアルテは不審を覚えたかもしれない。
しかし、四姫の一人たる歳久が陣頭に立った島津軍の勢いは凄まじく、歴戦のドアルテをして、それが誘いの一手であることに気づかなかった。歳久が気づかせなかった、と言い換えても構うまい。
結果、降り注ぐ砲弾の雨によって多大な損傷を受けながらも、島津軍は要たる黒船を守りながら、南蛮艦隊の奥深くまで導くことに成功する。
この時点で、島津兵が次々と船を捨てるのを見て、ドアルテ麾下の南蛮兵は勝利の確信をさらにゆるぎないものとする。
当然である。敵が船を捨てるのは、いよいよ敗北を免れないと悟った為――南蛮兵にとって、その光景は勝利以外の何物をも意味しなかったのだから。
だが、その確信は須臾の間に消えうせる。
彼らの眼前で。
三十隻の南蛮船によって編まれたU字陣の只中で。
黒船が爆ぜた。
◆◆◆
実のところ、二回目の黒船の爆発による直接的な被害は、一回目のそれに及んでいなかった。少なくとも、爆発によって破砕、ないしは転覆した南蛮船は皆無であった。
ドアルテは島津軍を三方から包囲していたが、ことさら接近していたわけではない。砲撃に必要な距離はしっかりと保ち、あくまで密な砲撃によって島津軍に打撃を与え続けていた。その中央で大量の火薬が爆発したところで、その衝撃は至近の味方を吹き飛ばしこそすれ、周囲に展開する南蛮船を覆すことはかなわなかったのである。
だが、爆発によって四散する鉄片の被害に関していえば、話は逆となる。
人の頭ほどもある鉄の破片が四方に飛び散り、船体を傷つけ、甲板上の将兵を襲い、帆を切り裂いていく。ある程度の距離があったため、航行不能に追い込まれるほどの損傷を受けた船はいなかったが、それでもドアルテ麾下の艦隊の多くが損傷した。
何よりも。
ほぼすべての兵が、船体を黒く染め、白旗を掲げた船が凄まじい爆発を起こしたところを目の当たりにしたこと――これが大きかった。
◆◆◆
「――やりおるわッ」
旗艦エスピリトサントの船上にあって、忌々しげにドアルテははき捨てる。
つい先刻の黒船の爆発を目の当たりにした衝撃は、南蛮軍に小さからざる影響を与えていた。あの光景と轟音、それによってもたらされた被害はそれだけの威力を持っていたのである。
この旗艦に限って言えば、ドアルテ自身の目が届き、声が届くため、混乱を鎮めるのはさして難しくはないかもしれない。
だが、旗艦以外の船はそうはいかない。旗艦から手旗で命令を伝えるにも限度があった。
この南蛮軍の混乱が収まらないうちに、敵軍は新たに先の黒船と同形の船をこちらに向けてきた。 それに気づいた者たちの口から、驚愕と狼狽の声があがる。ドアルテ麾下の艦隊の多くが今の爆発を目の当たりにしている。十分な距離があって、なおあれだけの被害を受けた。接近を許せば、船ごと吹き飛ばされるのは明らかであった。
U字陣を敷いたままでは対応できない。そう考えた何人かの船長は、新たに出現した黒船に砲門を向けるべく転舵を試みた。
だが、すべての船長が同じ考えであったわけではない。ある者はドアルテの指示を待ち、ある者は兵士の混乱を鎮めるために動くことが出来なかった。もっとも不運な船では、そもそも指揮すべき者がいなかった。先の爆発によって飛来した破片が船長の右の腕をもぎとり、副長は腹部を大きく切り裂かれ、両名とも瀕死の重傷を負っていたのである。
動く船、動かない船、そして動けない船。
動く船にしても、全員が共通の理解のもとに行動したわけではなく、ある者は面舵を命じ、ある者は取り舵を指示する。
各処で衝突が生じたのは必然であった。
歴戦の艦隊にとっては信じられないほどの不祥事だが、それほどまでに先の爆発による衝撃は大きかったのである。
仮に島津軍が大艦隊を組織して襲ってきたとしても、南蛮軍はこれほど取り乱したりはしなかっただろう。相手が人間であれば、いかようにも戦える。その実績が彼らにはあった。
だが、爆発する船なぞ見たことも聞いたこともない。そんなものに吹き飛ばされ、命を失うことを受け容れられる者がいるはずはなかった。
そして、歴戦の将兵が動揺するほどの光景を目の当たりにして、兵士ですらないルイスが平静を保てなかったのは当然であったろう。
ドアルテの傍らで、ルイスは声を上ずらせて問いかける。
「閣下、どういたしましょうか?」
ドアルテは、その声の主を見る。不安げな眼差しであったが、兵士でもない身で取り乱すのをこらえているところは立派である――孫可愛さにも似た気持ちで、そんなことを考えつつ、口を開く。
「落ち着け。はよう負傷した者の手当てをしてやるのだ」
「あ、はいッ、そうでしたッ!」
飛来した破片で、この船にも被害は出ている。常のルイスなら真っ先に負傷者の治療をはじめていただろうが、そこはやはり平静を欠いていた証拠であった。
やるべきことをこなすうちにルイスは次第に落ち着きを取り戻しつつあったが、不安が消えたわけではない。
なにしろ、さきほどの大爆発を起こした船とそっくりの船が、何隻も接近しているのである。不安を感じるな、というのは無理な注文であった。
「か……」
ルイスは治療の手を動かしながらも、不安に耐え切れずに口を動かそうとする。
だが、声が押し出される寸前で何とかこらえた。ドアルテの思考を遮ってはならない、という配慮が働いたのである。
だが、ドアルテはルイスの不安と、ついでに配慮の方も察していたらしい。
つまらんことを気にするな、と言わんばかりに「ふん」と鼻をならす。
「案ずるな、あのような手はそうそう使えぬ。あれだけの爆発だ、よほどの量の火薬を用いねばなるまいからな」
「は、はい。しかし、万一、ということも……」
「ない、とは確かに言えぬの。接近される前に片付けておくに越したことはない」
そう言う間にも、ドアルテは周囲の兵士たちに命令を下し、船内の秩序を回復させていく。
連絡が可能な――つまりは手旗信号を読み取れるだけの余裕のある船に向けても指示を発していく。
この時、ドアルテは敵の船が爆発することはまずない、と考えていた。
理由はルイスに口にしたとおりである。実際、南蛮軍からの砲撃を受けた黒船の一隻は、船体から煙をあげつつも、爆発することなくこちらに接近してきている。すべての船が火薬を積んでいるのなら、あの船もとうに爆発していなければおかしかった。
だが、そういった細かい説明は手旗信号では不可能である。正確に言えば、時間と余裕さえあれば可能だが、この戦場にあって、その二つがあるはずはない。
それゆえ、ドアルテは一つだけ命令を発した。
黒船の接近を許した場合、敵の漕ぎ手の動きを見ろ、と。
敵とて犬死を望んでいるわけではない。本当に火薬を積んでいる船であれば、火を放つ寸前に将兵は海に逃げ出すだろう。先の黒船もそうしていた。
逆に言えば、どれだけ接近しても漕ぎ手が逃げ出さないのであれば、それは火薬を積んではいないということになる。おそらく兵士を乗せているか、あるいは火薬ではなく、柴などを載せた火船であろう。
このドアルテの命令は、信号を受け取った船のみならず、旗艦の兵士たちをも納得させた。
確かに冷静に見れば、新たに現れた船の方は爆発する気配はない。むしろ鈍重な船体が災いして、こちらにたどり着く前に砲撃によって沈んだ船さえ見てとれる。
落ち着きを取り戻せば、容易に判明することであった。
だが、未だ艦隊の半ば以上は混乱から脱しきれていない。
その中の一隻が、砲撃を潜り抜けてきた黒船に接近を許してしまう。
南蛮兵の一人が海に飛び込んだのは、爆発の恐怖に耐え切れなかったためだろう。そして、その行動はたちまちのうちに船中に拡大した。
沈む船を見捨てて逃げ出す鼠の群れのような光景に、ドアルテは歯軋りを禁じえなかった。みずからが指揮する艦隊で、こんな愚劣な行動を目のあたりにすることになろうとは。
もし、あの黒船が火薬ではなく、兵士を載せているのなら、あの南蛮船は容易く拿捕されてしまうだろう。そして、漕ぎ手が逃げ出していないところを見るに、まず間違いなくあの黒船は火薬以外の物――おそらくは兵士を載せているに違いなかった。
だが。
幸いにもドアルテの予測は外れる。
黒船は混乱する南蛮船に目もくれず、そのすぐ近くを通り過ぎただけであった。味方の船を撃つ危険があるため、そして今なお爆発の可能性を捨てきれず、多くの南蛮船がその黒船に対して砲撃の手を止める。
そして。
まるでそれを待っていたかのように、その黒船は一直線に進み出した――まっすぐに旗艦に向けて。すなわち、ドアルテの下へ。
それを見て、ドアルテは即座に敵の狙いを察する。砲撃という手段を封じた上で、直接旗艦を制するつもりなのだろう。
だが、とドアルテは平静を保ったまま考える。
すでに旗艦の兵の多くは冷静さを取り戻している。先の南蛮船のような無様な真似はさらさない。ドアルテはその確信を込めて、命令を発した。
「落ち着けッ! あの船は火薬を積んではおらぬ。兵が逃げぬがその証。砲手、落ち着いて船体を狙え。おそらく敵は船に兵士を満載しておる。接近を許すでないぞ、小癪な輩に目に物見せて――ぬッ?!」
ドアルテは命令を中途で止めた。止めざるを得なかった。
視界の中で、黒船から逃げ出す敵兵の姿を見て取ったからである。
一人や二人ではない。何十という数である。それが我先にと逃げ出している。
当然のように、旗艦の兵士はドアルテと同じ光景を目の当たりにした。そして、多くの兵士は先のドアルテの言葉を思い起こす。
敵兵が逃げ出さないということは、その船が火薬を積んでいない証。これはきっとそのとおりだろう。
だが、それは逆に言えば。
敵兵が逃げ出すということは、その船に火薬が積まれている証。
――そういうことにならないだろうか?
◆◆◆
南蛮軍の視線の先で。
島津軍は、黒船の垣楯の中で身を潜めていた。
いつ砲撃を受けるとも知れない船の中で、騒ぐことなく、ただ戦う時をじっと待っている猛者たち。
彼らを率いる新納忠元もまた、配下にならい、腰を下ろしてじっと待ち続けていた。
ただ、時折その視線が傍らに向けられる。
そこには間もなく戦を控えているというのに、身を守る防具一つ着けていない二人が座していたからである。
海の上で重い甲冑をつけて戦う者は、あまり賢いとはいえない。下は海。重い甲冑で身体をよろっていれば、一度落ちれば死は避けられないからである。
しかし、だからといって身を守る防具の一つもつけずに戦いに赴くのは莫迦のすることであろう。 忠元はその二人を知っていた。彼ら――正確には彼と彼女が莫迦ではないことも重々承知していた。だからこそ、その真意を問いたいという思いが胸中を去らないのだが、それを口にすることは出来ずにいた。
別に相手が話しかけられるのを拒んでいるわけではない。実際、戦が始まる前には幾度か言葉を交わしている。しかし、その際でも必要以上のことを口にすることが憚られてしまった。
『鬼武蔵』とあだ名される常の忠元であれば、戦をなめるな、と大声で咎めるであろうに、ついにここまでそれをすることが出来なかったのである。
気圧されていると言われれば、忠元は頑として否定したであろう。事実、気圧されているという表現は忠元の心情からはやや遠い。
では、今の気持ちをなんとたとえるべきかと問われれば、忠元はその言葉を探し出すのに苦慮せざるを得ないであろう。なにしろ、こんな思いを抱いたことは、いまだかつてなかったからである。
その忠元の視界の端で、不意に当の二人が立ち上がった。
それは何故か、などと忠元は問いかけない。忠元や他の兵たちもまた、敵の旗艦が近づいていることを察して立ち上がった。声をあげないのは敵に気づかれないための用心である。
ここまで来れば不要の用心であるとも思えたが、逆にここまで来たからこそ、つまらないことでつまづきたくはない。
やがて、波の音や彼方で響く砲撃音に混じって、敵旗艦の混乱する声が船内に響いてきた。鉄砲の音が聞こえないのは、こちらの目論見どおり、積荷は火薬だと信じ込んでいるためであろう。
――つまりは、そういったことを察することができる距離まで近づいた、ということである。
ここではじめて、忠元は大声で命令を下した。
「焙烙玉、投げ込めィッ!」
その声に応じ、忠元がよりすぐった島津の精兵が次々に敵船に向けて焙烙玉を投げ込んでいく。
小さな爆発音と共に、南蛮兵の悲鳴と怒号が耳朶を振るわせる。
「よし、乗り移るぞ。板を渡せ、後方の兵は弓で援護。者ども、島津の興亡、この一戦にありと心得よッ!」
その声に島津兵は喊声で応じる。
黒船は構造上、関船よりも高い位置で接舷することが可能である。接近することさえ出来れば、縄や梯子をかけるまでもなく、直接に板を渡して南蛮船に乗り移ることが出来た。
この時の島津軍は知る由もなかったが、ドアルテ・ペレイラの旗艦エスピリトサント号は、建造から今日まで、ただの一度も敵兵の侵入を許したことがないことで知られていた。
敗北を知らぬ南蛮軍の中にあって、なお輝かしい光を放つ伝説の一つ。
それが今日、失われたのである。
この時の南蛮軍は知る由もなかった。
今まさに旗艦に乗り移ってきた人物こそが、その伝説を地に叩き落した当人であることを。
そして、今日という日に失われるものが、その伝説一つではないことを。
――終わりが、始まろうとしていた。