山城国 三条西家
京に到着した越後の一行が宿泊しているのは、三条西家という公家の邸宅であった。
この時代、公家というと貧窮、没落といった言葉を連想させる。実際、生活苦によって都を落ちていく公家は後を絶たなかったが、三条西家はこれに含まれなかった。
その理由の一つとして挙げられるのが、三条西家が青苧の本所という確たる収入源を抱えていたことである。
青苧に関して強い権限を持つ三条西家。
一方、青苧の生産量において日の本随一を誇るのが越後の国である。その国主である上杉家と、三条西家の間に深い結びつきがあるのは当然のことであった。
今回の上洛において、上杉家の一行が三条西家に宿泊することになったのはこの縁による。
なお、三条西家の代々の当主は文化人としてきわめて高名であり、細川幽斎に古今伝授をさずけたのは、まさに三条西家の現当主である。
その邸宅は風雅の香に満ち、雪深い越後からおとずれた者たちは感嘆を禁じえなかったのだが、中でも最も目を輝かせたのは越後守護代、長尾政景その人であった。
政景にとっては種々の難関を排した上での念願の上洛である。今回の上洛は、越後の国にとっては目的のための手段に過ぎず、政景当人もそれは重々承知していたが、だからといって、しかつめらしくしなければならない理由などどこにもないのである。
京に着いてより十日あまり。
政景は三条西家の屋敷の一室で謙信と向かい合いながら、なにやら頬を染めながら、うっとりとした顔で口を開いた。
「雅とはかくあるべし、と言わんばかりの佇まいよね。なんかくらくらするわ……」
それを聞いた謙信は、一瞬、何かを指摘したそうな表情を閃かせた。
今、政景は寸暇を惜しんで都の文化を少しでも多く習得せんとしている。昼は洛内をまわって高名な文化人のもとをおとずれて教えを請い、夜は夜で詩歌や舞楽の稽古にはげんでいるようで、政景の部屋の明かりは夜遅くまで灯りっぱなしであった。
そのことを知っているだけに、謙信は政景の言う「くらくら」が、雅がどうこうというよりも、単に寝不足のせいであると思ったのである。
とはいえ、それを指摘したところで無駄なことは謙信も承知していた。何故といって、すでにもう片手の指では数えられない回数、注意を促しているのだが、政景は一向に改めようとしないからである。
これはもう当人が満足するまで放っておくしかあるまい、とは謙信と、ここにはいないが上泉秀綱の両人が話し合った末の結論であった。
それでも、謙信としては注意せざるを得ないわけで。
「政景殿、根を詰めすぎるのは身体に毒です」
「わかってるって。でも、都に来る、それもあの三条西家に世話になる機会なんて、そうそうあるわけないじゃない。今は一刻たりとも無駄に出来ないのよッ」
「そのお気持ちはよくわかりますが」
だからといって、身体を壊しては元も子もない、と思う謙信だった。
咎める――というより、はしゃぐ幼子をたしなめるような謙信の眼差しに気づいたのだろうか。あるいは、政景もそのあたりはちゃんと考慮していたのかもしれない。やや慌てた様子で口早に言い立てる。
「でも確かに謙信の言うことも一理あるわね。というわけで、青苧の件やら何やらの細々としたことはあんたに任せたわ。都の風雅の何たるかを調べ、これを修めて越後にもたらす役目は任せてちょうだいッ」
ここに段蔵がいれば「要は面倒事を丸投げするつもりですね」とでも言い返しただろう。
しかし謙信は慎ましく沈黙を保った。
天にも届かんばかりの気炎を上げる政景を前に、これは何を言っても無駄だと悟っただけかもしれないが、しかし謙信ならずとも、念願の京文化に接して恋する乙女のように夢中になっている政景を見れば、苦情を口にするのは憚られたことだろう。
政景が口にした青苧の件というのは、青苧座にからむ京商人、越後商人らの悶着を指している。
三条西家から青苧の購入、販売における独占的な権利を認められた京商人は、主要な産地である越後に赴き、そこで越後商人たちから青苧を買い求めるわけだが、独占的に購入できるということは、言い換えれば競り合う相手がいないということでもある。競り合う相手がいなければ、買う側が値段を低くおさえるのは当然のことだった。なにしろ原価が低ければ低いほど、これを売りさばいた時に彼らの懐に転がりこむ利益は大きくなるのだから。
一方の越後商人たちにしてみれば、ほとんど足元を見て買い叩かれているような状態である。たまったものではない、という不満がうまれるのは、これまた当然のことだった。
だが、三条西家の許可を得て動いている京商人たちに対して文句を言うことは出来ない。守護である謙信に訴えることも、同様に出来なかった。
京商人たちはことさら法を破って利を貪っているわけではなく、しかるべき金銭を払い、正当な権利を得て、商いをしているだけなのである。
いっそ独自の販路をつくるべきではないか、という案が過去に越後商人たちの間で出されたこともあったが、これは議論の余地なく不可能であるとして却下された。
近年、楽市楽座なる政策を実行する大名もいるが、青苧の販路は越後や近江、京にまで及ぶ巨大なもので、国内だけの政策では実効力をもたないのである。なにより、越後がそんな動きを見せようものなら、三条西家や京商人たちが黙っていないだろうことは確実であった。
そういった理由で、これまでは旧来の仕組みの中でなんとか工夫してきた越後商人たちだったが、ここ数年、再びその不満が高まりつつあった。
これは与板城の直江景綱などからも度々報告があげられており、謙信も承知していた。
上杉家としても、地元の商人たちの不満を等閑には出来ない。かといって、青苧座に強権的な介入をするなど論外である。前述したように京商人や三条西家の反発は必至であり、彼らと決裂するような事態になれば、上杉家の府庫にも甚大な影響が及んでしまうからである。
となれば、後は話し合うしかない。
京商人に与えられた独占的な購入、販売の権利。その全てを購うことは不可能であろうが、一部ならば可能であろう。
無論、これまで青苧で莫大な利益を得てきた京商人たちが素直に頷くはずはなかったし、彼らと深いつながりのある三条西家が簡単に越後側のいい分を呑んでくれるとも考えていないが、それでもまずは行動に移さなければ始まらない。
常であれば、越後と京は遠く、書状のやりとりすら容易ではない。しかし、上洛している今この時であれば、距離の問題はなくなる。青苧に関して話し合う絶好の機会というべきであった。
神余親綱(かなまり ちかつな)という人物がいる。上杉家の臣下の一人で、外交に長じ、主に京の将軍家や朝廷との折衝を任されている。青苧に関して、三条西家とたびたび交渉の席を設けてもいた。
同じく蔵田五郎左衛門(くらた ごろうざえもん)という人物がいる。こちらは上杉家の正式な臣下ではない。蔵田家は越後の青苧座を統括する有力商人であり、五郎左衛門は蔵田家の代々の当主が襲名する通り名である。
今代の五郎左衛門は、家を継いでまだ三年も経っていないのだが、その能力と人柄を見込んだ謙信によって引き立てられ、今では御用商人として上杉家の財政に重きをなす身となっていた。
謙信が、今回の上洛にこの二人を連れてきたのは、青苧の問題の解決をはかるために他ならない。
京に着いてから、二人はもっぱらこちらの方面で駆け回っていた。
ただ、当然といえば当然ながら、交渉の進展具合ははかばかしくなかった。
親綱や五郎左衛門は、かたや外交、かたや財政に長じた、越後でも数少ない能吏なのだが、日頃から将軍家だの三好家だの本願寺だのを相手として渡り合っている畿内の商人たちからすれば、迫力不足の観は否めない。
今回は事が事なだけに、どうしても相手の譲歩が必要となるので、越後側としてもある程度、押しの強さ、というものが必要になる。
そのためにはどうするのが最善か、というと……
「つまり、直接あたしたちが出向いて、商人たちの相手をしろってわけね」
言いよどむ二人を前に政景はあっさりとそう言い、親綱と五郎左衛門は深々と頭を垂れた。まったくそのとおりだったからである。
無論、直接に武力で威圧するわけではないが、親綱や五郎左衛門が交渉する際、謙信なり政景なりがその場にいてくれることの意味は計り知れない、と二人は考えていた。
そのあたりの機微は政景も、そして謙信も理解した。
だが、政景としては、事の重要性は十分に承知しているものの、文雅の香りと銅の臭いを比べれば前者を選びたくなるのが当然であった。
ただでさえ、先の上洛においては越後の留守居を務めざるを得ず、鬱憤がたまっていたのだ。これで適任者が自分しかいないというならともかく、代わりを務められる人物がすぐ近くにいるのだから、ようやく巡ってきた好機を見過ごす必要なぞ欠片もない。
そんなわけで、政景はいっそ堂々と謙信にすべてを押し付け、謙信はそんな政景の思惑を察して(政景は隠そうともしていなかったわけだが)親綱らの頼みには自分が応じることを承知したのである。
――しかし。
事態は謙信が腰をあげるまでもなく、奇妙な形で落着する。
一日、かねてより交渉を続けていた京商人たちに呼び出された親綱と五郎左衛門の二人は、突然のことに首を傾げつつ相手の屋敷を訪れたのだが、そこで、今回、越後側から申し出た条件のほぼすべてを受け容れる旨を伝えられ、しばしの間、絶句する羽目になる。
もちろん、この決定は上杉家にとっては喜ばしいものだった。京商人たちが首を縦に振れば、三条西家もこれにならうだろう。
だが、つい先日まで、頑なに越後側の要求を拒んでいた商人たちが、どうして突然に心変わりしたのか。
その理由を問うた親綱たちは、相手の口から出た予期せぬ名前を聞き、再び絶句する羽目になるのだった。
◆◆◆
「よくぞお越しくださいました。名高き越後の聖将様、ならびに明星様のお二人を我が庵にお迎えできたこと、とても嬉しく存じます」
あふれんばかりの気品と、滴るような色気を二つながらに身にまとったその人物は、謙信と政景の前で深々と頭を垂れた。
松永弾正久秀。
朝廷、禁裏と深いつながりを持ち、幕政にも多大な影響力を有する畿内――否、日の本でも屈指の武将である。
その実力は、今や主君である三好長慶に匹敵するとも言われていた。
家臣と主君の名前が並び称されるなど、それだけで尋常なことではない。
だが、楚々とした風情の中に、端倪すべからざる覇気を包みこんだ久秀の姿を見れば、その世評もむべなるかな、と越後の二人は同時に考えた。
先の上洛で久秀と面識のある謙信と異なり、政景は久秀と相対するのはこれが初めてである。しかし、久秀の容易ならざるを見抜くには、このわずかな時間だけで十分だった。
(ま、ことさらあたしの眼力が秀でているってわけじゃないけどね)
政景は皮肉げにそう考える。何故といって、久秀の言動を見るに、こちらに見抜かれることを承知してやっているとしか思えないからだ。わざわざ謙信と政景を異名で呼ぶあたりは、特にその意図が強く感じられる。
久秀が口にした『明星様』――これは、近年、政景を指して越後で使われるようになった言葉である。
政景としては気恥ずかしいことこの上ないのだが、異名というのはその人物の功績が世間に認められた証であり、当人のみならず、配下にとっても価値あるものだった。ゆえに、政景もしぶしぶながら甘受せざるを得ないのである。
しかし、政景がそう呼ばれるようになって、まださほど時が経ったわけではない。越後国内でも知らない者は多かろうに、京にいる久秀がはや把握しているあたり、久秀が全国に張り巡らせている情報収集の網の目の精緻さは、空恐ろしいほどだった。
とはいえ、それだけならば大した問題ではない。幕政にも関わる久秀が、他国の動静を注視するのは当然のこと。
問題なのは、この呼び名が巷間に流布された裏には、謙信と政景を両立させる意図がある、と囁かれていることであった。つまり、政景の功績、名声が決して謙信に劣っているわけではないと証拠立てるために、政景に与する者たちが越後各地に政景の異名を広めた、というわけだ。
無論、これは事実無根であり、政景は一笑に付しているのだが、越後の中に政景側の作為を言い立てる者が存在する――その事実は無視できるものではない。
おそらく、久秀はそのあたりをあてこすりつつ、こちらがそこに気づくかどうかを笑貌の奥で観察しているのだろう。
好きになれそうもない奴だ。
それが政景の、久秀に対する第一印象だった。
「こちらこそ、名高き松永弾正殿にお会いできて光栄よ。もっとも、噂は色々と聞いているから、あんまり初対面って感じはしないんだけど」
「あら、それは偶然ですわね。実は久秀も同じことを考えておりましたの。話に聞いていたとおりの御人柄のようだ、と」
にこりと微笑む久秀に対し、政景はわずかに目をすがめる。
「都の動静を左右する弾正殿に、片田舎の越後守護代の話をする者がいるとは驚きだわ」
「片田舎などと、とんでもありませんわ。ここ数年、越後の国が東国の動乱を静める要となっていたのは誰の目にも明らか。久秀が、明星様のことを詳しく知りたいと思うことに何の不思議がありましょうか?」
もっとも、と久秀は笑みを湛えつつ言葉を続ける。
「先の上杉家上洛の折、明星様の御人柄については事細かにお聞きしていましたので、改めて情報を集める必要はありませんでしたけれど」
政景の眉がぴくりと動く。
「……ちなみに、その人はあたしのことをなんて言っていたのかしら?」
「闊達にして不羈、豪放にして磊落。およそ戦って勝たざるなく、攻められて退けざるなく、将としての武威は越後全土に轟きわたり、相としての令名は越後すべてを覆い尽くして余りある。一軍をあずかる武将としても、一国をあずかる宰相としても、明星様に優る者は、越後はおろか、日の本全土を見回しても数えるほどであろう……」
激賞である。手放しの褒めようを聞き、政景が目をぱちくりとさせる。
しかし、久秀の言葉には少しだけ続きがあった。
「――『これで性格さえ良ければ言うことなしなんですが……まあ、ある意味でイイ性格はしてるんですけどね』と何やら遠い目で仰っていましたわ」
「ほほう、それはそれは………………あんにゃろう」
その一言で発言者が誰であるかを察したらしい政景は、何やら口の中でごにょごにょと呟いていた。
それまで、二人のやりとりに黙って耳を傾けていた謙信が、ここではじめて口を開いた――別に、ここにはいない誰かに助け舟を出すつもりでもあるまいが。
「親綱と五郎左衛門から、此度、弾正殿が我が上杉のために骨を折ってくれたと聞いた。まずはその礼を言わせてもらいたい」
そう。青苧に関して、京商人たちに越後側の言い分を呑ませたのは松永久秀だった。
無論、ただではない。譲歩の代償として、久秀は彼らに様々な便宜をはかり、なおかつ秘蔵の茶器を進呈までした。それくらいしなければ、いかに久秀みずからの頼みとはいえ、京商人たちも首を縦に振ることはなかったであろう。
交渉の推移を親綱と五郎左衛門の口から聞いた謙信と政景は、思わず顔を見合わせてしまう。
二人の考えはほぼ同じだった。
『あの』松永久秀が、越後のために尽力する理由などあろうはずもない。ただの気まぐれにしては払った代価が高すぎる。特に謙信は、久秀が茶器に対して尋常ならざる思い入れを抱いていることを聞き知っていたから、なおさらその観が強かった。
今回の上杉家上洛の理由が理由である。これは三好、松永の徒からの何かしらの働きかけか、と二人が考えたのは当然であったろう。
事実、間もなく松永家からの使者が三条西家を訪れ、上杉家に向けた――というより、謙信と政景に向けた久秀からの要求が伝えられた。
その要求が、今日、この場の席に繋がるのである。
久秀は謙信に対し、小さくかぶりを振って見せた。
「礼は不要ですわ、謙信様。秘蔵の茶器といっても、真に秘していたものではなし、その他のことに関しても久秀にとっては容易いこと。越後の守護と守護代、お二人をお招きするための招待状代わりのつもりでしたの」
上杉家でも屈指の能吏たちが苦慮していた交渉、それを片付けることを些事であると言明する久秀。そこに何一つ意趣がない、とは誰も思うまい。
だが、謙信は表情をかえることなく、しごく真面目に応じた。
「弾正殿には容易いことであったかもしれぬが、それで我ら上杉家、さらに越後の商人たちがおおいに助けられたことは事実なのだ。当主として、一言の礼もなしでは済まされぬ」
お骨折り、感謝する。
そう言って頭を下げる謙信にわずかに遅れて、政景も頭を下げた。
久秀はそんな二人を見て、かすかに目を瞠った後、微笑んで口を開いた。
「久秀の行いが、皆様のお役に立てたのでしたから、これにまさる喜びはございません。お顔をあげてくださいな。ふふ、都で過ごす時が長いせいでしょうか。越後の方々の律儀な為人を前にすると、己が性根がずいぶんと捻じ曲がっているように思えてしまいますわ」
「それはまあ、謙信と比べたら大抵の人間の性根は曲がりまくってることでしょうよ。あたしも例外じゃないしね」
顔をあげた政景が、特に声を低めるでもなく言うと、久秀はわずかに首を傾げる。
「あら、久秀は明星様も謙信様の側に含めたのですけれど?」
「さすがに謙信ほど律儀なやつは越後でも数えるくらいしかいないわよ。言うまでもなく、あたしはそれに入ってないから。それはそうと弾正」
『殿』をつける必要なし、とはや見切った政景。対する久秀は特に気にする様子もなく、平然と問い返す。
「なんでしょうか、明星様?」
「それよ。なんで謙信は『謙信様』なのに、あたしは『明星様』なの?」
どこか剣呑さの漂う政景の問いに対し、久秀は今度は曇りのない輝くような笑みで応じた。
「久秀としては、そちらの呼び名の方があなた様には相応しいように思えましたの。決して他意はございませんわ」
「……なるほど。たしかに性根の曲がり具合は足元にも及ばないみたいね。ま、誰が誰に及ばないかは慎み深く黙っておくけれど」
それからしばしの間、おほほうふふと笑いあう政景と久秀の傍らで、謙信は小さくため息を吐くのだった。
◆◆
謙信たちが招かれた茶室は、茶人としても令名のある久秀が丹精を込めてつくりあげただけあって、客人たちにとって興趣が尽きなかった。
内装、調度、活けられている花、使用される茶器、いずれも目を惹くが、それはむやみやたらと金がかかっているからではない。無論、一つ一つが高価なものであるのは事実だが、それらをより一層引き立て、一つ上の『美』を体現せしめているのは、費やされた金銭ではなく、茶室の主の審美眼であろう。
久秀が点てた茶を喫した謙信と政景は、思わず、という感じで感嘆の息をこぼす。その為人に思うところは多けれど、茶人としての久秀には感服するしかない二人であった。
謙信が素直にそう口にすると、久秀は嬉しげに微笑む。
その笑みは先ほどまでのそれとは違い、見る者にどこか淡い印象を与える。しかし、不思議なことに、謙信が強く印象づけられたのは、今の久秀の笑みであった。
謙信の耳に、久秀の声が響く。
「茶の湯とは、すなわちもてなしの心。客人にくつろいでもらえるならば、茶人として、これにすぐる喜びはございません。茶器も、作法も、すべてはそのためにこそある、と久秀は考えております」
そう言った後、久秀は表情を曇らせ、何やら悩ましく息を吐いた。
「ただ、久秀が茶の湯にお招きしようとすると、何故かみなさま、顔を引きつらせてしまって……このところ、なかなか客人をおもてなしする機会がありませんでしたの。ですから、謙信様と政景様が招きに応じてくださったこと、久秀はとても感謝しておりますわ」
「断れないように外堀を埋めたやつがよくいうわ」
政景はそう言ったが、その口調は内容ほど厳しいものではない。おそらく、先の明星様云々に対する軽い仕返しのつもりなのだろう。
久秀の方も心得ているようで、軽やかに応じた。
「そう受け取られてしまうのは、きっと久秀の不徳のいたすところなのでしょうね。先にも申し上げましたが、あれは招待状代わりのつもりでしたの」
「ま、そういうことにしておきましょうか。で、そろそろ本題に入らない? 他者の耳目のない茶室に、越後の守護と守護代をそろって招く。世間話をするためってわけじゃないんでしょう?」
それは問いかけの形をとった催促だ、とは久秀ならずとも感じるところであった。
ここではぐらかす意味はないと考えたのか、久秀は素直に頷いてみせる。
「お見通しでいらっしゃいましたか。たしかに政景様の仰るとおり、お二方にお話しておきたいことがございました。今日、このようにお呼びたてしたのは、そのことをお伝えするためですわ」
もっとも、と久秀は言う。
「今回のそちら様の上洛の件と関わりのないことですので、お二方の受け止め方によっては、久秀の話はただの世間話に感じられてしまうかもしれませんが」
それを聞き、政景はもちろん、謙信もかすかに表情を動かす。
今回の久秀の招きは、上杉家に管領相当の待遇を与える、という将軍家の申し出に対する三好・松永側からの何らかの牽制であろう、と考えていた。
だが今、それとは関わりはない、と久秀は断言した。では、わざわざここまで手間をかけて呼び出した理由とは何なのだろうか。
そんな疑問の眼差しに応じるため、久秀は口を開く。
久秀の口から出たのは、謙信たちが聞いたことのない人物の名であった。
すなわち、久秀はこう言ったのである。
――雲居筑前という人物をご存知でいらっしゃいますか?