日向国 ムジカ
間もなく西の彼方に日が落ちようとする時刻。
島津家との交渉を終えて戻った俺と情報を交換した道雪どのは、なにやらしみじみとした顔で口を開いた。
「颯馬どのに驚かされるのはこれで何度目になるのでしょうね。戦場において掌を指すごとく敵将の胸中を読む者が、交渉の場で相手の心中を読むことに優れているのは当然のことなのかもしれませんが、それでもわずか一日、いえ半日で講和を成立させ、のみならず遣欧使節の者たちまで連れ帰ってくださるとは――」
驚きました、という道雪どのの言葉に対し、俺はかぶりを振って応じた。
「すべては将軍殿下のご威光あってのことです。使節団については、島津の方々の大度こそ称えられてしかるべきでございましょう。それで、さきほど申し上げたルイスの件、ご承引いただけましょうか?」
一連の報告を終えた後、俺は大友家にルイスを庇護してほしいと願い出た。ルイスが今後どういう選択をするにせよ、南蛮人の少年が異国で生活するのは厳しいだろうと考えてのことである。
俺の請いに道雪どのは快くうなずいてくれた。
「もちろんお引き受けいたします。ただ、布教長どのが去って間もない今、金の髪と青の目という外見は人目を引いてしまうでしょう。聞けばずいぶんと使節の子供たちと打ち解けているということですから、当面は外出を控えてもらい、彼らと行動を共にしてもらいましょうか。あの子たちと同じく聖堂で起居してもらえば、無用の騒動に巻き込まれる恐れはありませんからね。諸事が落ち着いた後、当人の希望を聞き、それにそう形で力添えをいたしましょう」
「は、なにとぞよろしくお願いいたします」
望みうる最良の返答を得た俺は、ルイスのことはこれでよし、と判断した。
道雪どのが口にしたとおり、あの少年が南蛮に帰るにせよ、日本に留まるにせよ、具体的な話をするのは戦いを終わらせた後のことだ。
そう考えた俺は話題を現在の戦況に戻した。
「講和に関してそれがしの果たした役割は道筋をつけただけですので、本当に大変なのはこれから島津家と折衝する方です。前線で小競り合いでも起こった日には面倒なことになりかねませんし」
島津が講和に応じたといっても、まだそれは確定したわけでも周知されたわけでもない。もしもの話だが、前線にいる大友家の武将の誰かが先走って島津軍に攻め込んだりすればどうなることか。
まあ、現在の大友軍に道雪どのの許可なく兵を動かす命知らずがいるとは思えないが、それでも場所が戦場であれば何をきっかけとして戦端が開かれてもおかしくはない。南蛮宗徒が暴発する恐れもある。
当然、道雪どのもそのあたりのことは承知していたようで、俺の言葉に即座に答えが返ってきた。
「宗麟さまは颯馬どのを勅使としてお認めになりました。颯馬どのの成果とあわせ、ただちに全軍に通達を出しましょう。講和の細部については鑑速どの(臼杵鑑速)にお願いすることになりましょう。問題はその場に颯馬どのが居合わせないことを島津側が不審に思わないかという点なのですが、それはいかがでしょうか?」
「それに関しましては家久さまに話を通してあります。問題になることはないはずです」
それを聞いた道雪どのの目がすっと細められる。
「講和の勅使が講和の場にいないことを了承する。島津の末姫はこれから先の颯馬どのの行動を予測していた、ということになりますか」
「……そうですね。おそらく、いえ、間違いなく読んでいたでしょう。もっといえば北の戦況もおおよそ把握していたと思われます」
家久の口からコエリョや日野江の話が語られた以上、これはほぼ確実な情報だった。
それを聞いた道雪どのは小さく息を吐き出した。
「人徳の長姫、武芸の次姫、智略の三姫にくわえて末の姫までが傑物とは。颯馬どのの報告で武略に長けていることは承知していましたが、話を聞く限り、交渉や情報の収集にも通じているようですね」
ここで道雪どのは不意に悪戯っぽい表情を浮かべると、俺の顔をのぞきこむように見やった。
「そして颯馬どのの異才を見抜く人物眼と、これを受け入れ、さらには自家に取り込もうとする行動力。ふふ、あるいは島津の姫の中で、家久どのこそがもっとも大器なのかもしれません」
それはいかにも道雪どのらしい言葉であったが、これまで何度もからかわれた経験を持つ俺の目から見ると、すこしばかりぎこちなさが感じられた。
おそらくは、さきほど聞いた大聖堂での一件が尾を引いているのだろう。
道雪どのは宗麟さまと親次の対面について詳しく説明しようとせず、俺も訊ねようとはしなかった。詳細を知ったところで俺に何ができるわけでもない以上、こればかりは道雪どのに任せるしかない。
となると、ここは内心を綺麗に押し隠し、道雪どのの冗談に追随するべきであろう。
俺はにやりと笑ってみせた。
「そうですね。今でも十分に厄介な子ですが、長ずれば某家の筆頭家老どのに並ぶ曲者に化ける可能性を秘めています。末恐ろしいとはまさにこのこと」
それを聞いた道雪どのは目をぱちくりとさせたが、すぐに俺の道化た言動の意味を察してくれたようで、見ている俺がドキッとするようなやわらかい笑みを浮かべた。
「ふふ、それはそれは。その筆頭家老どのがどなたかは存じませんが、お言葉から察するに、その御仁に対する颯馬どのの評価はとても高いようですね。曲者、という表現が気にはなりますが」
「人をからかう悪癖をお持ちの方なので、素直な称賛はしかねるのです。困ったことです」
俺が澄ました顔で返答すると、道雪どのはおとがいに指をあてて言った。
「それもその御仁の親愛の表現のひとつなのかもしれませんよ?」
「親愛の表現をからかうことで示す。その性根の曲がり具合からして、やはり曲者という表現は的確であるということになりますまいか」
「なるほど、これは反論できませんね。もしもその御仁と出会うことがありましたら、ひん曲がった性根を矯めるように伝えておきましょう」
「いえいえ、それには及びません。そういったところも含めて、それがしはその方のことが好きなのですから」
「…………ときどき思うのですが、颯馬どのはもう少しご自分の言葉が他者に与える影響というものをお考えになるべきですね」
「あ、あれ?」
ついっと視線をそらされてしまった俺は、会話のキャッチボールをミスったことを悟る。これはいかん、と咳払いして無理やりに軌道修正。
「ごほんッ。そ、それはさておきまして、これから先のことです。さきほどのお話をうかがえば、道雪さまも筑前に赴かれるとのことでしたが……」
そういってちらっと道雪どのをうかがうと、道雪どのは視線を俺に戻し、どこか困ったような微笑を浮かべていた。わざとらしいにもほどがある俺の話題転換に苦笑を禁じえなかったのだと思われる。
だが、幸いにも道雪どのはそれ以上俺を弄ろうとはせず、話を本筋に戻してくれた。
「はい、そのつもりでおりますが、颯馬どのには何かご異存が?」
「はい。おおありです」
ためらうことなく大きくうなずくと、道雪どのの目が丸くなった。
豊後の情勢が厳しいものであることは聞いている。その混乱をしずめて大兵を募るのは時間がかかることも理解している。
家久のおかげで竜造寺との交渉で使える持ち札が増えたとはいえ、鍋島直茂、あの才人をこちらの思惑どおりに動かすのがいかに困難かはいまさら口にするまでもなく、その意味で道雪どのが筑前に入ることはおおいに意義があることだった。
「参らせ候」の矢文を用いて効果を挙げた豊前戦の例もある。立花山城にいるはずの道雪どのが突然戦場に姿をあらわせば、竜造寺に限らず筑前の国人衆が動揺することは疑いない。毛利あたりは立花山城の攻防で道雪どのの姿が見えないことに不審を抱いているかもしれず、またムジカに道雪どのが姿をあらわした情報を得ているかもしれないが、それでも確信を持つにはいたっていないだろう。
だが、そういったことを考慮しても、今回は条件が悪すぎる。
敵の数、勢いはかつての戦の比ではないし、立花家の主力は立花山城で毛利軍と対峙している。道雪どのの周囲には小野鎮幸や由布惟信といった子飼いの将がおらず、十時連貞も高千穂での傷が癒えていないから従軍は難しい。必然的に鬼道雪の作戦行動には大きな制約がつきまとう。
あるいは道雪どのであれば、この条件でも募兵までの時を稼ぐことはできるかもしれないが
、それは文字通りの意味で命懸けの戦いになってしまうだろう。たとえ大友家が勝利できたとしても、引き換えに道雪どのを失ってしまっては何の意味もないのだ。少なくとも、俺にとってはそうであった。
道雪どのが何を決意し、何を覚悟しているのかがわからないわけではない。だが、ここで道雪どのの案に賛同するわけにはいかなかった。
といって、何の代案も出さずにただ反対したところで道雪どのを説得することはできないだろう。吉継と長恵を豊後に差し向けたことは、策の性質上、道雪どのに伝えるわけにはいかないし、あれは必ず効果があると断言できるものではない。
となると――
「道雪さまを過度の危険に晒すことなく、それでいて道雪さまのお考えよりも筑前での戦況を好転させられる。そんな作戦を提示すれば、道雪さまはこれを容れてくださいましょうか?」
それを聞いた道雪どのは、俺の胸中を探るようにじっとこちらを見つめた後、落ち着いた声音で応じた。
「そのような策がまことにあるのであれば容れるも容れないもありません。わたくしは伏して颯馬どのに教えを請わねばならないでしょう」
それを聞いて、俺はこくりとうなずいた。
もちろん、ここまで意味ありげなことを言っておいて「実はそんな都合の良いモノはありません」なぞというつもりはない。口にした途端、道雪どのの腰にある鉄扇でぽかりと叩かれてしまいそうだ。
策はあった。絶対確実にという保証はつけられないし、かなりきわどい綱渡りになってしまうのだが――冷静に考えてみると、これまで献じた策もだいたい似たり寄ったりだった気がするなあ。
俺はひとつ咳払いをいれて脳裏をよぎった考えを振り払うと、道雪どのに簡潔に策の概略を伝えた。
囲魏救趙――魏を囲んで趙を救う、と。
この一言で道雪どのは俺の考えを洞察したようで、瞳に雷光にも似た鋭い輝きが宿る。
その光が消え去らないうちに道雪どのが口を開いた。
「魏を囲んで趙を救う。かつて斉が魏を破った用兵ですね。筑前を救うために筑前に赴く必要はない、それが颯馬どののお考えですか」
「はい、そのとおりです」
古くは中国の戦国時代、魏の大軍に攻め込まれた趙は隣国の斉に助けを求めた。斉はこれに応じたものの、正面から魏軍に挑んでも勝つのは難しい。そこで斉軍は魏の本国に攻め込んだ。主力が出払って防備が手薄になった隙をついたわけだ。
これを聞いた魏軍は慌てて趙の包囲を解いて本国に引き返した。この時点で斉軍は強大な魏軍と直接干戈を交えることなく趙を救ってのけたのである。
急ぎ帰国した魏軍は、要所で罠を張って待ち構えていた斉軍に散々に叩きのめされるわけだが、この例を現在の戦況にあてはめれば、各々の役割は明確である。岩屋城の包囲を解くために道雪どのが軍を進めるべきは筑前ではなく肥前であるべき――それが俺の考えだった。
今まで俺がこの案を口にしなかった理由は単純かつ明快、実行が不可能だったからである。
一口に肥前を攻めるといっても少数では意味がない。多少領土が荒らされた程度では、敵も岩屋城の包囲を解きはしないだろう。最低でも竜造寺の留守部隊を撃滅し、敵の本拠地である佐賀城を陥落せしめるだけの兵力が必要になる。
だが、筑前や豊後の大友軍にその余力はない。あるとすればただ一国、筑前と同じく肥前と隣接している筑後の国だけなのだが、かつて道雪どのがこの地の叛乱を鎮圧したことからもわかるように、筑後の国人衆は宗麟さまの施政にかなり敵対的であった。
幸い、筑後最大の実力者である蒲池鑑盛が親大友の立場であるため、いまだ筑後は大友領となっているが、筑後の兵をもって肥前に攻め込もうとしてもほとんどの国人衆が出兵を拒むにちがいない。
その鑑盛にしても、この状況で肥前に兵を動かすことには同意してくれないだろう。なにしろ確たる勝算はなく、いつ背後を突かれるかわかったものではないという状況である。
これはただの推測だが、おそらく筑後の国人衆には鍋島直茂の調略の手が伸びているはずだ。万が一、蒲池鑑盛が肥前に兵を差し向けた場合、蒲池家の居城である柳河城は瞬く間に筑後の反大友勢力に囲まれる。その手配ができたからこそ、竜造寺家は総力をあげて筑前に攻め込むことができた――こう考えるのは、それほど的外れなことではないだろう。
たとえ俺が筑後に赴いたとしても、大友家臣として際立った実績もない俺の策を鑑盛が受け容れてくれるとは思えない。裏切り者をあぶりだす時間もない。
さらに今回の場合、先にあげた中国の例とは決定的に異なる点がある。それは敵が竜造寺だけではなく、より強大な毛利が後に控えていること。ここで本格的に竜造寺軍と干戈を交えて戦力を消耗するわけにはいかないのである。
そういったことを考え合わせた末、俺は肥前を突く案を捨てた。この時点で俺は豊後の大友本軍を率いるのは道雪どのだと考えていたので、道雪どのに筑後にいってもらう、という考えは浮かばなかった。
だが、道雪どのがみずから動くと決めたのならば、捨てた案も生き返る。
俺にはできないことでも道雪どのならばできる。もし道雪どのをもってしても筑後を動かせないようならば、それは誰にもできないことと同義である。
ここで道雪どのが口を開いた。
「筑後の国人衆に睨みを利かせて身動きがとれないように封じ込め、しかる後に鑑盛どのと共に筑後川を越えて肥前に侵入し、竜造寺の本城である佐賀城を急襲する。これが成功すれば、さしもの竜造寺軍といえど兵を退かざるをえなくなりましょう。しかし、彼らは二万の大軍です。岩屋城での被害を考慮にいれても、わたくしと鑑盛どのの手勢だけでは勝利はおぼつきません。仮に勝ちを得たとしても――」
道雪どのの危惧は俺にも理解できた。
道雪どのらが竜造寺軍に勝てたとしても、すくなからぬ損害をこうむることは確実である。
かといって、それを恐れて交戦を避ければ、竜造寺軍が再び筑前なり筑後なりに侵攻するだけのことで、これでは元の木阿弥だ。
後背に毛利という大敵を控えている今、竜造寺と雌雄を決している時間も戦力も大友にはない。自軍に犠牲を出さずに竜造寺を叩き潰す妙計があれば話は別だが、それは要するに竜造寺隆信と鍋島直茂、あと五人の四天王が率いる二万の軍勢相手にパーフェクトゲームをするということ。そんな妙計がどこの世界にあるというのか。少なくとも俺には見つけられん。
ゆえに、俺は別の案を提示する。
「いくつか考えがあります。筑前の戦況もからんできますゆえ、今の時点で確たることは申し上げにくいですが、たとえば紹運どのが見事に城をまもってくださっていた場合、このように動けばよろしいかと――」
そう前置きして、俺は道雪どのに一つの作戦案を語っていった。
……しばし後。
俺の説明を聞き終えた道雪どのは、ほぅっと息を吐き出した。
「――ただいまの颯馬どのの案、それがうまく運べば確かに戦況を切り開くことができるでしょう。いかにして味方の足並みを揃えるか、注意すべきはその一点ですね」
「はい。わずかな変化が作戦の成否を左右します。筑前と筑後の連絡をこれまで以上に密にする必要が――」
と、そこまで言った俺は、道雪どのがなにやら考え込んでいることに気づいた。
「道雪さま、どうなさいました?」
「……考えていました。この策の起点となるのはやはり岩屋城です。岩屋城の戦況次第で、細部はもちろんのこと、策そのものを変更する必要が出てくるでしょう。そんな寸刻を争う状況で、筑前の颯馬どのから筑後のわたくしに報告なり献言なりをし、わたくしから颯馬どのへ指示なり許可なりを出すというのはあまりに悠長です」
「は、それは確かにそうですが……」
俺は困惑しつつ考えこんだ。
道雪どのの言葉はもっともなのだが、俺と道雪どのの配置を交換することはできない。より正確にいえば、筑前における俺の役割は道雪どのでもこなすことができる。こちらに必要なのは竜造寺を説く論法であり、それは俺が直接伝えれば済む。道雪どのは俺よりもずっと威厳のある使者になれるだろう。
しかし、俺には筑後における道雪どのの役割を務めることは無理なのである。道雪どのの代わりを務められるのは、道雪どのと同等以上の武名と実績を持つ者のみ。そして、そんな人間がいないからこそ道雪どのは筑後に配さざるをえない。
「――であれば、とりえる手段は一つだけですね」
悩む俺とは対照的に、道雪どのにはすでに答えを見出した者特有の余裕があった。
いや、これは余裕というか、なんかちょっと楽しげ……?
俺が訝しく思っていると、道雪どのはおもむろに脇に置いてある佩刀に手を伸ばした。
「颯馬どの、これを受け取ってもらえますか?」
「はい?」
ここで俺がかわいらしく小首を傾げてしまったことを一体どこの誰が責められようか。
道雪どのの佩刀はその名も高き名刀『雷切』である。かつて雷を切り捨てたという由来はいまさら俺が語るまでもないだろう。
その刀を俺に受け取ってほしい、と道雪どのは口にしたのである。俺はわけがわからず目を白黒させた。
「あの、道雪さま、それはどういう……?」
「発想の転換というものです、天城颯馬どの」
道雪どのは澄まし顔で仰られた。
「此度の策において、わたくしとあなたが戦う場をかえることはできません。しかし、指揮を執る者と従う者、その役割をかえることはできるでしょう。わたくしが宗麟さまから授かった軍配をあなたに託せば、危急の際に伝達に時間をかけた挙句、戦機を逸するような事態は起こりえません」
それは要するに、俺に作戦全体の指揮を執れ、ということである。
それを聞いた俺は「おお、なるほど」と膝をうって感嘆したりはもちろんしなかった。
「いや、いきなり何を仰いますか!? そのようなこと、他の方々がお認めになるわけがありませんッ」
「そのための雷切です。もちろん書状もしたためますが、紙の上に記した文字よりも腰に差した刀の方が味方の将士にはっきりとわたくしの意思が伝わるでしょう。筑前にあって作戦の全貌を把握し、かつ全体の戦況を俯瞰しうるのは颯馬どのただお一人なのですから、あなたに軍配を預けるのはじつに理にかなった采配です」
問題なんてありません、ときっぱり断言する道雪どの。
俺は戸惑いを消せないまま、それでも口を開こうとして――結局、何もいえずに開いた口を閉じた。
戦場において想定外の事態はいくらでも起こりうる。それに対してどれだけ素早い対応をとれるかが勝敗を左右する鍵となるわけで、その点、戦局の焦点である筑前にいる武将が総指揮を執るべきであるのは間違いない。
だからといってそれが俺である必要はない、と主張したいところなのだが、ここで問題となるのが、道雪どの以外の大友家の武将が指揮をとった場合、俺がこれまでのように自由に動けなくなることだった。
なにしろ九国での俺の不審者っぷりは空前絶後(たぶん)。せめて紹運どのが自由に動ける状態であればよかったのだが、その紹運どのが岩屋城に閉じ込められている現在、道雪どのと同じくらい俺を信頼してくれる武将なんているはずがない。
俺に軍配を預けるという道雪どのの案は突飛に見えて、その実、俺にとってこの上なくありがたいものであった。
俺がその考えに至ったことを察したのだろう。
道雪どのはにこりと微笑んで、雷切を差し出した。
この時代、刀は武士の魂という認識があったかは知らないが、戦場で生死を共にする刀を大切にしない者がいるはずはない。それを他者に託すという行為の意味は、きっと俺が考えているよりもはるかに重い。
仕方ないから、あるいはこれが一番効率的だから、などという理由で受け取っていいものではなかった。
俺は一度目をつむり、小さく息を吐き出した。
そして、心が落ち着くのを待ってから目を開き、覚悟を決めて道雪どのに手を差し出す。
道雪どのはもう一度微笑むと、そっと俺の手に雷切を乗せた。
手に伝わる確かな感触を得て、俺は静かに頭を垂れる。
「――しばしの間、お預かりいたします」
そう言った瞬間、両の肩に刀のものではない重みを感じたのは、きっと気のせいではなかったにちがいない。
◆◆◆
夜。
大聖堂の自室を出た大友宗麟はおぼつかない足取りで礼拝の間をおとずれた。
祈りを捧げるためではない。神に懺悔をするためでもない。いったい何のためにやってきたのか、それは宗麟自身にも定かではなく、ただ放心して立ち尽くすばかりだった。
その脳裏に浮かんでいるのは寝台で深い眠りについている志賀親次の顔である。記憶にあるよりもずっと成長したその姿を思い浮かべても、今の宗麟に喜びの感情は浮かんでこない。かわりにあるのは心臓に杭を打ち込まれたかのような激しい疼痛だった。
「…………ッ!」
ひときわ強い痛みが襲い、宗麟は胸をおさえてうずくまる。
親次に何があったのか、それが何を意味するのか、理解が及ぶにつれて痛みは増すばかりだった。
先に道雪の前ではなんとか平静を保ったものの、いまや宗麟の身体は瘧(おこり)にかかったように震え、額からはたえず生温い汗が伝い落ち、顔色は蒼白を通り越して土気色に変じている。
「……私は、間違って、いたのでしょうか……?」
宗麟の口から老婆のように枯れきった声がこぼれおちた。問いかけの形をとっていたが、本当は宗麟にもわかっていた。感情という感情をそぎ落とされた親次の姿こそが答えである、と。
その認識は宗麟の胸奥を苛み、いつか呼吸さえ満足にできなくなっていった。床に両手をつき、ひゅうひゅうと喘鳴を繰り返す。
もう少しこのままの状態が続いていれば、宗麟はこの場で倒れてしまっていたかもしれない。徐々に混濁していく意識と、暗くなっていく視界に本能的な恐怖をおぼえた宗麟が、自らの身体を抱きしめるように二の腕に手を置いた、その時だった。
「――もし、お加減がすぐれないようですが、誰かお呼びしましょうか?」
背に置かれた柔らかい手の感触に、宗麟の肩がびくりと震えた。
道雪は大聖堂におらず、近臣は宗麟自身が遠ざけた。宗麟の身を気遣う家臣はここにはいないはず。一般の信徒がやってくる時間ではなく、そんな情勢でもない。
いったい誰が、と振り返った宗麟は、そこで心配そうに自分の背を撫ぜている人物を見て息をのんだ。
黄金色の髪と湖水色の瞳。この国の人間ではありえない外見が、一瞬、カブラエルを想起させたのである。
だが、よくよく見ればその人物はカブラエルよりもはるかに若く、容貌も柔和であり、着ている服も日ノ本のものだった。
どうみても南蛮人だが、宗麟にはまったく見覚えがない。南蛮人宣教師はすべてカブラエルと共に去ったはずであり、彼らの家族が残っているとは考えにくい。
宗麟が不思議に思って名をたずねると、その少年は丁寧に頭を下げてから自らの名を名乗った。
「はじめまして。ぼくはルイス・デ・アルメイダと申します」
「――そうでしたか。そんなことが……」
礼拝の間の椅子に腰掛けてルイスと言葉を交わすうちに、宗麟の顔色は徐々にもとの色に戻っていった。ルイスの優しい為人や物柔らかな声音がそれに寄与したことは確かだが、もっと単純に、誰かが傍にいてくれるという安心感が宗麟に落ち着きをもたらしたのだろう。気が弱っているときにひとりでいると、ロクなことを考えないものだから。
ただ、ルイスがどうしてムジカにやってくることになったのかを聞き終えた頃には、宗麟の顔はふたたび悄然としたものになっていた。
養父を討たれ、異郷の地で虜囚となり、人種さえ異なる敵国で働かされる。口でいうのはたやすいが、それがどれだけの苦難であるか、宗麟には想像することしかできない。ルイスの養父を討ち取ったのが雲居であるならば、雲居が仕える大友家の当主である宗麟もまたルイスにとっては仇のひとりということになる。
しかし、宗麟にとっては意外なことに、ルイスの顔には悲嘆の色も恨みの陰も見当たらなかった。
宗麟のことを知らなかった先刻までならいざ知らず、宗麟が名乗った今、ルイスも眼前の相手が仇のひとりであることには気づいているだろうに、宗麟と会話するルイスの顔にも声にもまるで変化がない。
それは何も気づいていないゆえの空虚な落ち着きではなかった。すべてを知りながら、それを胸の内におさめて動じない清らかな強さが確かに感じられる。その優しさと思慮深さはとても少年のものとは思えなかった。
さらに話を聞けば、ルイスは言語だけでなく神学や医学にも通じているという。特に宗麟が驚いたのは、ルイスの神学の師の名前を聞いた時だった。
先代の日本布教長コスメ・デ・トーレス。
その名は宗麟にとって決して忘れられないものである。なんとなれば、宗麟にとってかの神父との出会いは南蛮神教との出会いでもあったから。友であった吉弘菊にジュスタという洗礼名を与えたのもトーレスであり、父親の猛反対がなければ、宗麟もあの時に洗礼を受けていただろう。
今日はじめて会った南蛮の少年と、自らを結ぶ不思議な縁を思い、宗麟はそっと目を伏せる。
すると、ルイスは遠慮がちに先ほどの宗麟の不調の原因を訊ねてきた。見習いとはいえ医師であるルイスにとって、宗麟の苦しみ方は看過できないものだったのだろう。
そのルイスの問いかけに対し、宗麟は少しためらった末に自身を苛んでいた思いを口にした。
それは半ば懺悔に近かったかもしれない。ルイスが宣教師ではないことは宗麟も承知していたが、トーレスの教えを受けた者に今の自分が、今のムジカがどのように映るのか、それを知りたいという思いが心のどこかにあったのだろう。
――宗麟がすべてを語り終えるまで、どれだけの時が必要だったのか。
その間、ルイスは時折相槌を打つように頷きはしたが、ただの一度も口を挟まなかった。宗麟はひとつひとつの事柄を吟味して口にしているわけではなく、時に衝動的でわかりにくいところもあったが、ルイスは眉根を寄せることなく、そのすべてに黙って聞き入った。
そして。
「私の行いは、あなたの目にはどのように映っているでしょうか……?」
宗麟の問いを受け、ルイスははじめて口を開く。
ただし、それは宗麟が求めるような直接的な答えではなかった。
「……神を知らない人が神を信じないことは罪ではない、とぼくは思います。では、たとえばぼくが将来宣教師の道を選び、その資格を得て神を知らない人たちに教えを説いたとき、それでも神を信じようとしない人たちは罪ある方々なのでしょうか? ぼくはこれも違うと思うのです」
神がどれだけ偉大でも、その教えを説くのは全能ならざる人間である。
神を知らない者たちは、教えを説く者を通じて神を知り、行いを通して神を見る。彼らが神を信じられないというのであれば、その原因がどこにあるかはおのずと明らかだろう。
「トーレス師は仰っていました。神の偉大さを知り、己の小ささを知る。すべてはそこから始まるのだ、と。人の器は神を語るにはあまりに小さく、それでも相手の心に言葉を届けたいのであれば、互いに信頼しあうことが不可欠です。だからこそ、師は布教に赴いた地の食べ物をたべ、根付いている教えを知り、風習を学び、文化を尊ぶよう努めたのだと思います。その地に生きる人たちが何を願い、何を大切にし、そして何を許せないと思って暮らしているのかを知るために」
相手に信じてもらいたいのなら、信じてもらえるように努力しなければならない。相手を知ろうとすることもそのひとつ。それは決してたやすいことではないが、理解を望む側が望まれる側より多く努めるのは当然のこと――ルイスはトーレスの教えを引いてそう言った。
大して長くもないルイスの言葉は、しかし、ある意味で大友宗麟に対するもっとも痛烈な弾劾であったかもしれない。
神を信じない者たちに教えを押し付け、ときに強制し、他者の理解を望みながららも他者を理解しようと努めたことなどほとんどない宗麟は、神の偉大さを知り、しかし己の小ささを知らない者である。トーレスが口にした始まりの地点にさえ未だ立つことができていない。
そのことをルイスに、そしてトーレスに厳しく指摘された気がした。
もちろん、ルイスはそこまで考えて今の言葉を口にしたわけではない。それでも――あるいはだからこそ、宗麟の胸を強く打つものがあった。
さきほどまで胸を苛んでいた痛みとは異なる強い衝撃を感じながら、宗麟はなおしばらくルイスと語り続けた。ルイスは主にトーレスのことについて語り、宗麟はその話を興味深く聞きながらも、時にルイスがどう考えるかについて問いを向ける。
二人の会話はムジカの上空に月が差し掛かる頃まで続き、その頃になると宗麟の胸にはひとつの決断が生まれようとしていた。
◆◆◆
筑前国 某所
小川のほとりに腰を下ろした大谷吉継は、顔を覆っていた白布を取り去ると、そっと両手で川の水をすくいとった。
しびれるように冷たい水で顔を洗い、冷たくなった手で軽く首筋を拭うと、あまりの心地よさに思わず嘆声がもれる。
と、視界の隅でなにやら不審な動きをする者がいた。そちらを見ると、同行者である丸目長恵が拾った枯れ枝を片手に自分の髪の毛を抜いている。
何をしているのか、とは問わなかった。日向から豊後を経て筑前に来るまで、同じような光景を何度も見ていたからである。
吉継がぼんやりと見ている間にも長恵は手際よく作業を進め、さほど待つこともなく即席の釣竿が完成した。
「今日こそ姫(ひい)さまに我が釣果をお見せいたします」
吉継の視線に気づいていたのだろう、長恵はそう言うとむんを気合をいれて川面に釣り糸を投じた。
道中、干飯ばかりでは味気ない。長恵はそういって旅の途中でよく釣り糸を垂れていたが、長恵の言葉からも明らかなように、吉継は長恵が魚を釣った光景を一度も見たことがなかった。
もっとも、それを理由として長恵の腕前を疑うつもりはない。川の水が冷たい時期の釣りは難しいことを吉継は知っていたし、道中の休息は最小限のものだった。これではたとえ名人級の腕の持ち主でも釣果は期待できないだろう。
吉継がそんなことを考えていると、長恵がなにやら残念そうな顔で口を開いた。
「うーん、時間さえあればもうちょっと山奥に釣りに行けるんですけどね。そうすれば猪や熊をしとめることもできますのに」
「……どうして釣りの成果に猪やら熊やらがあがるのですか?」
「肥後にいた頃はたびたびあったんですよ。山奥の釣り場に行く途中とか、釣っている最中に遭遇しまして」
「それはもう釣りではなく狩りというべきですね」
吉継が溜息まじりに評すると、長恵は楽しそうにころころと笑った。
「これが不思議なことに、狩りの用意をして山に踏み込むと獲物が見つからないんですよね。ままならぬものです、世の中は」
緊張感のかけらもないやりとりをかわす二人の頭上では、太陽がまもなく中天に差し掛かろうとしている。
吉継は長恵の邪魔をしないように少し離れてから、草履をぬぎ、足袋をとって川に足をつけた。
冷たい水の流れが足にたまった疲れを優しく拭っていく。吉継の口から自然と吐息がこぼれおちた。
小柄で繊細な見た目とは裏腹に、吉継は甲冑を身につけて戦場を往来できるくらいの体力は備えている。だが、さすがに短期間で日向から筑前まで歩きとおすのは大変だった。状況が許せば馬を使ったが、馬に乗るのも結構疲れるのである。
豊後で噂をまいた後、筑前に入って岩屋城の状況を探ること。
二人が天城から命じられたことのうち、前半部分はさしたる苦労もなく終わらせることができた。
いかに現在の豊後が混乱しているとはいっても、日向の戦況、ムジカの情勢は人々の関心の中心である。道端で、街中で、茶店で、いかにも今しがた聞いたかのように勅使による講和成立の話をすれば誰もが耳をそばだてた。そして、この話を聞いた者たちは、吉継らが企まずとも勝手に話を広めてくれた。
案の定というべきか、白布で顔を覆った吉継はこの仕事でほとんど役に立てなかったが、長恵ひとりでも十分に話を広めることはできただろう。
ちなみに、天城が広げるように命じたのはあくまで勅使の到来と、それにともなう宗麟の声価向上であり、講和成立を吹聴することは含まれていなかった。虚偽を混ぜてしまう(二人がムジカを発った段階ではまだ講和は結ばれていない)と、その分噂の信憑性が薄れてしまう。また、講和が不成立になってしまった場合、噂を聞いた豊後の人々は講和はもとより勅使の件も偽りであった、と判断するだろう。こうなっては逆効果もいいところだ。
吉継たちはそこまで事細かに説明されたわけではなかったが、天城の考えはおおよそ察することができた。察した上で、二人は――というより吉継は勝手に講和成立を噂に含めることにした。
吉継は当然のように講和の成否を知らないが、どのみち講和が失敗したら手詰まりになってしまうのだから、成功したという前提で行動しても問題はあるまい、と判断した。講和が失敗すれば勅使の件まで疑われるということは、裏を返せば、講和が成立すれば勅使の件はより確かな事実として人々に認識されるようになる、ということだ。そうなれば、豊後で不穏な動きをしている者たちの行動を掣肘する効果も期待できる。
それを話したとき、長恵がなにやら楽しげに口元を緩めたので、不思議に思った吉継が理由を訊ねると、長恵はこんな答えを返してきた。
「なんのかんのと仰りつつ、師兄が失敗するとは微塵も考えていない今の姫さまをご覧になれば師兄はさぞ喜ばれるだろうな、と思いまして」
唐突にもほどがある言葉に、吉継はげふんげふんとせきこんだ。
「な、何をいきなりッ!? 私はあくまで現在の戦況を鑑みて最適の判断をしようとしただけでして――!」
「はい、わかっております。師兄に報告したりはしませんのでご安心くださいな」
「そのにこやかな顔はぜったいわかっていないでしょうッ!?」
などと、時に大声をあげたりすることもあったが、基本的には平穏な道中だった。
かくて豊後を抜けて筑前に入った二人は、そのまま岩屋城を目指す。
安全を重視するなら豊後から直接筑前に入らず、筑後を経て岩屋城の南に出るべきだったが、筑前国内の状況を確かめることも大切な役割である。
筑前南部の有力な敵将といえば古処山城を奪取した秋月種実が挙げられるが、古処山城を取り戻して間もない種実は積極的に領土を広げようとしていなかった。これは豊後の大友軍を警戒しているためであり、また宝満城の高橋鑑種の動向に注意を払っているためでもあったが、その根本にあるのは先の筑前攻めの苦い記憶である。
種実は先の筑前攻めにおいて敵の術中にはまり、手痛い敗北を喫している。同じことを繰り返すわけにはいかないという思いが種実の動きを慎重にさせていた。
これが吉継たちに幸いし、二人はほとんど妨害なく進むことができたのだが、それも竜造寺軍を目にするまでだった。
岩屋城を十重二十重に包囲する竜造寺軍の配置は完璧であり、周辺への警戒も厳重で、岩屋城に近づくことはもちろん、遠目にうかがうことさえできはしない。水も漏らさぬとはこのことか、と吉継は舌を巻く思いだった。
唯一の収穫は、竜造寺軍がこれだけ厳重な警戒を敷いているということは、いまだ岩屋城が落ちていないということだ、と確信できたことくらいである。
雨が降ってくれれば雨音にまぎれて近づくこともできたのだが、あいにくと雨の気配は感じられない。情報を得るために無理をして近づいた挙句、敵兵に捕まってしまえば元も子もない。
結局、吉継たちは竜造寺軍の警戒網の外周をなぞって動くことにした。これであれば危険は最小限で済む。たいしたことはつかめないだろうが、何もせずにいるよりはマシだろう。
確かにこの行動には成果があった。
竜造寺軍が特に警戒しているのは南側であり、これは筑後の大友軍の動きを気にかけているからだろうと思われる。そしてもうひとつ、竜造寺軍は北東――つまり岩屋城の至近にある宝満城をかなり警戒している様子を見せていた。
宝満城の高橋鑑種はもともと大友家の重臣だったが、今では毛利家の傘下に入っている。彼を警戒するということは毛利を警戒するに等しい。毛利と竜造寺は行動を共にしているが、信頼と友誼で結ばれた間柄ではないということだろう。
このあたりを利用すれば、竜造寺軍の鉄壁の防備に穴をあけることができるのではないか――小川のせせらぎに耳をくすぐられながら、吉継がそんなことを考えたときだった。
釣竿を動かしていた長恵の手がぴたりと止まる。
少し遅れて、吉継の耳も「それ」をとらえた。下流の方向から響いてくるのは喚声と剣戟の音。
吉継は川面から足を引き抜き、足袋をつけて草履を履く。そして慣れた手つきで白布を顔にまいた。
長恵が肩をすくめて言った。
「ふうむ。筑前の川では釣り糸を垂らすと刀槍の騒ぎが釣れるのですね。なんとも奇妙なことです。それはさておき、どうなさいますか、姫さま?」
「無用な騒動に巻き込まれたくはありません。はやくここを離れましょう――と言いたいところなのですが……」
「ですね。普通に考えれば戦っているのは竜造寺方と大友方でしょう。もちろんそうでない可能性もありますが、確認はしておきたいです」
長恵の言葉に吉継はうなずいた。味方であれば助けたいし、かりに何の関係もない者たちだとしても、竜造寺軍が神経を尖らせている今このとき、わざわざ騒ぎを起こす理由が何なのかは気になる。
吉継は少し考えた末、大雑把な案を提示した。
「まずはこっそり近づいて様子を見ましょう。後は臨機応変で」
「承知しました」
二人は頷きあうと見通しのきく川辺から離れた。そして、近くの木立に隠れつつ、慎重に下流の方向に進んでいく。
すると、間もなく二人の視界に戦いを繰り広げる一団の姿が飛び込んできた。
一方は予想どおりに武装した竜造寺の軍兵。数は十五人ほどだろう。
もう一方は予想と異なり大友家の兵というわけではないようだった。竜造寺兵に押されながら、上流へ上流へと逃げ続ける彼らを一目見た吉継の感想は、行商人の一団、であった。
しかし、ただの行商人にしては戦い方が激しすぎる。見たところ行商人側(仮称)は竜造寺軍の半分もいないのに、逃げながらとはいえ何とか渡り合っているのである。ただの商人にそんなことができるとは思えない。
行商人たちが大友家に連なる者なのかは確かめようがない。昨今の混迷した情勢を思えば、敵の敵は味方という図式はなかなか成り立つものではなく、助けたことが仇になる可能性は十分に考えられる。
しかし。
「ここで居竦まって機を逃すようでは、間もなくいらっしゃるお義父さまにあわせる顔がありません。よろしいですか、長恵どの?」
強い決意に裏打ちされた吉継の声に、長恵の嬉しげな声が応じた。
「はい、どうぞご存分に。ただし無理はなさらないでくださいね。この長恵、姫さまのためなら十や二十の敵兵、軽く屠ってご覧に入れますので」
強がるでもなく、当たり前のように断言する長恵を見て、吉継はこっそり敵兵に同情した。
今の台詞がほどなく現実になることを明確に予感したからである。もちろん、だからといって油断するつもりはない。吉継はそっと右頬に手をやり、指先に傷跡を感じてから目を閉ざした。南蛮船で受けたこの顔の傷は間もなく消える。が、記憶の方はずっと消えずに残るだろう。たぶん死ぬときまで。
もう二度と虜囚の身にはならない。自分はともかく、周囲の人たちに同じ思いを味わわせるわけにはいかないのである。
二人は互いに機を見計らい、同時に木立の間から飛び出した。