赤く色づく夕暮れ時、AQUAがかつてのAQUA・・・・・・火星のような色に染まっていく。
静かに浜辺に打ち寄せる潮騒が刻一刻と夜へのカウントダウンを進めていく。
あの醜いイルカたちが、幼い少女の乗ったゴンドラの周囲を無邪気にグルグルと回り続けている。
幼い姿の『わたし』は、ゆっくりと岸へ体に見合った、木目の美しい小さなゴンドラを寄せていた。
オールの柄をギュッと握りしめるその手は震え、足は生まれたばかりの小鹿のように、崩れ落ちそうなほど力がなくかろうじて立っているだけの状態。
その顔は強張って、泣き出しそうな顔をしていた。
悲しいから?
怖かったから?
それらじゃないような気がするのだ。
確かに顔はひどく強張っていた、だがその口元は・・・・・・笑みを浮かべていた。
「こ、こげた?」
「・・・・・・ああ、そうだ。おめでとう」
浜辺にふらふらとゴンドラがたどり着くと、『わたし』は放心したように前へ倒れこむ。
一歩も歩けないように疲労困憊している『わたし』をあの例の男、今日の夢に出てきた彼が優しく受け止め支えていた。
彼は『わたし』にジャケットを掛けた。矛のようなマーク、『AQUA Coast Guard』が美しい青い星を守るように描かれたトライデント(三又槍)の下に小さくプリントされたジャケットを。
「よく頑張ったな?」
「え、へへ。がんばりましたです・・・・・・」
ばふっと、彼は『わたし』の頭を撫でまわした。
ワシャワシャとその撫で方は荒かったけれども、優しさや嬉しさが伝わってくるように撫でられたところがずんずん熱くなっていく。
顔が柔らかい何かに変わったかのように、『わたし』はにやけ顔になる。
「でも、これでお父様とお母様は喜んでくれるでしょうか?」
「ん?どうしてだ?」
「ただ漕げるようになっただけなのに」
わたしは思い出した。
なぜ『わたし』がここへいるのか、彼は誰なのか、どうして漕げるようになりたかったのか。
―――『わたし』はあの両親が出張で出かけていた一週間の初日に、ある街角で『彼』と出会ったこと。
―――彼に最近疲れた顔の多い両親を元気づけるにはどうしたらいいかを相談したこと。
―――ゴンドラが漕げないことを指摘されて、馬鹿にされて・・・・・・そこからゴンドラを漕げるようになった姿を見せたらどうかと提案されたこと。
―――ゴンドラを上手く漕ぐ彼に練習を見てもらいたくて、無理を言ってこの島へ探索へ来る予定だった彼について行ったこと。
そして、目の前に映るこの情景は。
この湾の主である、あの醜いイルカたちが帰宅してくる夏の夕暮れの中で、わたしが『わたし』が初めて漕いだときの様子だった。
『わたし』は笑顔から、不安げな雰囲気を覗かせた表情へ変わる。
ネオヴェネチアの子供なのにゴンドラが漕げなかったのを克服しても、周りの子供たちの水準に追いついたってだけでお父様とお母様が喜んでくれるのか、という不安。
だが彼は、笑いながらわたしの不安を完全に否定した。
俺がこうで、お前の両親がそうならないわけがない、と。
「出会ってから数日の俺がこんなに嬉しくなった、幸せな気持ちになったんだから、もっと長く一緒にいるご両親もきっと同じように思うだろ?」
「そう、でしょうか?それに貴方は本当に、そんなに喜んでいるのですか?」
「お?そんなに言うんなら、この顔を見てみろ。お前はどう思うんだ?俺のこの顔を見て」
そう言って、彼は顔をわたしが見えるようにか、砂浜へ腰を下ろした。
彼の顔は水平線に沈む夕日にオレンジに照らされていた。
その顔は。
とても嬉しそうな顔、幸せそうで喜んでいた。純粋にわたしが漕ぐことに成功したことを。
・・・・・・『わたし』が、わたし自身までが、なんだかとても嬉しくなって幸せになるくらいの屈託のない素敵な笑顔だった。
ボッと顔が熱くなる。
照れてる?
いや違う、これは・・・・・・そうか、嬉しいんだ。
わたしは、そして昔の『わたし』も今まで感じたことない幸せを感じていた。
それを頭が感情が処理しきれなくてそれが顔に熱になって表れてた。
「で、どう思った?喜んでいないように見えたか?」
「・・・・・・いえ、そんなことは全然」
「だろ?なら大丈夫だ。それに、お前は動いたんだ。このことは絶対今後につながる、たくさんの失敗もいづれは生かされる」
「本当に?」
「ああ、本当だ。だから安心して見せるといいぞ」
彼の言葉を聞いても不安そうな顔を見せ続ける『わたし』を見ると、彼は一計を案じたように真新しい魔法瓶を取り出した。
アツアツで内容物を保存できる、主要構造は20世紀から変わっていない魔法瓶から、手にしたコップへ茶色い液体を注ぐ。
「さて初漕ぎの記念で、俺特製のココアをあげよう」
彼は『わたし』に湯気を立てるコップを手渡した。
甘い香りが漂うが、その中にココアのにおいとは少し違う独特な匂いが混じる。
その匂いを嗅いでみると、『わたし』もわたしも苦手なシナモンの香り。
シナモンココアだ。
「え、あのシナモンは苦手で」
「動いてみろ、だぞ?俺の自慢の奴だ、一口でいいから飲んでみてくれ」
「・・・・・・でも」
自分から自らが作ったココアを啜り、うまいとつぶやく。
それでも飲もうとせず、それどころか嫌そうな表情すら浮かべる『わたし』に対して、なにか懐かしいものを見るように柔らかいほほ笑みになる。
その笑みになかば引き込まれるようにして、『わたし』はコップに恐る恐る口をつける。
「あ、おいしい・・・・・・」
「だろ?自慢だといっただろうが」
ココアを飲んだ『わたし』は素直に美味しいと言った、シナモンは本当に苦手なはずだったのだが。
「俺のココアは美味しい、そう言ったな?それはお前がシナモン嫌いでも、飲んでみるという踏み出した一歩で知ったことだ。だから、両親に見せるのも『動くこと』の一つだ。それで両親がどう反応するかを知るのも、新たな出会いって奴だ」
そう言って彼はココアを飲みほし、立ち上がる。
「それで、その新たな出会いでお前が辛くなったりしたのなら・・・・・・その時はあの路地の家を訪れるといい」
「・・・・・・はいです。頑張ってみますです」
彼の言葉は、『わたし』に灯をくれた。
それは、前へ踏み出す勇気であったり、一緒についていてくれるという安心感であったり、もし何かあっても慰めてくれるということであったりしたが、とにかく『わたし』はきっと前へ進むことが出来るだろうと思う。
だって『わたし』が彼に言葉を返す際には、満面の笑顔だったのだから。
「っと、そういえば、なんて呼び出せばいいんですか?もしそうなって、貴方の家に行ったとき」
『わたし』は今まで聞き忘れていたことを聞こうとする。
彼自身も忘れていたのだろう、そういえば、と不意を突かれたような顔をしながらその問いに答えた。
「ああ、そう言えば名前を名乗っていなかったな。俺は、・・・・・・
答えはこの夢に出てくることは無く、ただ海鳥たちの鳴き声とイルカたちの泳ぎ回る音、そして真っ赤な夕日の光がわたしの夢のカーテン・コールだった。
懐かしい夢を見ていた。
夢の中身はほとんど覚えていないけれど、あの『彼』の笑顔と、その笑顔を目にしたときのわたしの気持ちははっきりと覚えていた。
そして、わたしはひとつ大事なことを思い出した。
ゆっくりとわたしは目を開けた。
その目に映ったのは、満天の星空。漆黒の宇宙を無数の星々が明るく照らし出し、更にまぶしく光り輝く星雲がその海を横切っていた。
周りの切り立った崖によって星空はまあるく切り取られ、額縁で囲われた一枚の絵のようにわたしは感じた。
「・・・・・・あ」
あの星空で、あの宇宙でわたしのお父様とお母様は死んでしまったというのに、その星空にわたしは呆けたような驚きの声を上げることしかできなかった。
それほどまでに、その星空は美しく見事だった。その星空は今日潜った海のように、果てしない底へ吸い込まれそうで。
この光景を言い表すなら、唯一語でいい。
バラエティのレポーターのように、長々と言葉を装飾する必要なんてない。
その言葉は、
「綺麗、だなぁ・・・・・・」
綺麗。
その言葉で十二分だった。
「ん?起きたのか?」
と、そこへわたしの呆けた声に反応するかのように一人の男の声が聞こえる。
この低い声は軍曹さんか。
「軍曹さんですか?」
「ああ。体はもう大丈夫か?」
よいしょっと体を起こす。
どうやらわたしは浜辺に寝させられていたようだった。乾いたシャツにホットパンツ、服も着替えさせられていたらしい。
彼は読んでいた書類を机に置くと、魔法瓶を片手にわたしへ近づいて来た。
心配そうにわたしの体調を聞いてくる彼を見ると、あの浜辺で冗談を言い、わたしをからかう意地悪な大人ではなさそうだ。
「・・・・・・なんか、また失礼なこと考えなかったか?」
「いえいえ、優しいのだなーと」
「棒読みじゃあなぁ、まったく」
ドサッと軍曹さんはわたしの横へ腰を降ろした。彼は肩の荷を降ろしたかのように大きなため息をひとつつくと、安堵の表情を浮かべた。
「何もないなら何よりだ。バイタルチェックは異常なしでも、起きずに今まで寝てたんだ。普通に起きてくれて、本当に安心したよ」
彼が言うには意識の混濁でも失神状態でもなく、唯の睡眠状態にわたしはあの後なったらしい。
そう、わたしはやはり溺れていたようだ。
溺れた、とは少し違うかもしれない。水の中でわたしを守るはずのスーツのバブルヘルメット内の酸素が薄くなり、一時的に高山病に近い症状になったらしい。
すぐにスーツのエラー自己修復機能と、わたしの気配が消えたことに気づいたアイリーンのお陰で復旧され、本当に一時的なもので、全く健康には影響がなかったらしい。
むしろ意識を失う手前の急激な心拍数の増大に病院側は焦ったようだ。
ただ、アイリーンはバディシステムを一時にでも解除したせいで、ライセンスを一時停止されたそうだ。
「そうだっ!アイリーンは、アイリーンはどこですか!?」
アイリーンに謝らなければ、追い立てるかのようにわたしは軍曹にアイリーンの場所を聞いた。
その心拍数の増大に寄与した、彼女の顔がこびり付いて離れない。
自分が言った『マーケットさん』、まるで他人のように言ってしまったあの言葉が原因だとしても、わたしはアイリーンと仲が悪くなりたくなかった。
わたしにここを教えてくれたこと、ダイビング部の面々やアンさんに軍曹さんと出会わせてくれたこと、アイリーンが言ったあの言葉。
そのどれもが、今のわたしにとって暗闇を照らす灯になった。
でも、わたしは一時でもそれらを手に握らせてくれたアイリーンを拒絶してしまった。
アイリーンとの絆という、一番明るい大きな光なのに。
わたしは、その光を失うのが怖かった。
「落ち着け、そこで寝てるよ」
喰いかかるように軍曹さんに詰めるわたしに、彼が指をさしたのは、わたしのすぐ足元。
体を丸めたアイリーンがそこで静かな寝息を立てていた。
なんというか灯台下暗し、という感じでしたか。
「まだ寝てる、起こすなよ?」
「あ、はい」
完全に熟睡しているような様子の彼女を起こさないようにか、軍曹さんは小さな声でわたしに言った。
周りにはダイビング部の方々やエレットさんも砂浜にシートを敷いて横になっていた。
あれ?
アンおばさんさんがいないようなのですが。
「ああ、アンの奴は今頃ネオヴェネチアに戻ってSSSAの講習会を開いてる頃だろうな」
元々彼らが今日ここに来れたのは、SSSAの客船が安全基準を満たしているかの確認や事故時の対応の講習のためにネオヴェネチアへ来ていたからだそうだ。
それで、たまたまその講習が深夜からだったので、空いた時間にダイビング部の方々と再会するために訪れたのこと。
あれ、でも今の説明だと軍曹さんもアンおばさんと一緒に行っていないといけないと思うのですが。
「お前さんが心配でな、ここに残らせてもらった。それに俺はおまけみたいなものだ、今回の任務は実質休暇だよ」
「心配、ですか」
「まぁ病院の知人に、このぐらいなら病院に戻さなくても大丈夫、そう言われてたんだがな・・・・・・どうしても気になってな」
軍曹さんはそう言うと、星を見るかのように仰向けで寝転がった。
なんとなく、わたしも軍曹さんもそれきり黙りこくった。
わたしも彼と同じようにどさっと砂浜に仰向けになり、眼前に広がる満天の星空を仰いだ。
しばらくそうして静寂が流れ、時が過ぎてゆく。
そして流れ星が頭上を越えて消え去っていくとき、軍曹さんが口を開いた。
「なぁ、カールステッド嬢。マーケット嬢の言葉、勝手にすまんが聞かせてもらっていた。その言葉、お前はどう受け止めた?」
「・・・・・・あの、聞かれていたんですか?」
「ああ、リンクさせてもらった・・・・・・で、どう思ったんだ」
彼は顔をこちらに向けずにそう問いかけた。
わたしはその問いに答えられない。
わたしの心は、まだしっかりと形が出来ていなかったから。
「正直言ってショックでした。失ってしまったものは戻らない。そう言っているようなものでしたから」
元のままを完璧にトレースだけを考えていたわたしは、その言葉は死刑宣告のようなものだった。
でも彼女はそこから更に続けた。
「トレース、じゃなくて、利用すると考えるべきなんです。要はリサイクルしろっていう感じでしょうか?」
まったく、彼女らしいと思う。
思い起こせば、ゴンドラ部時代の彼女自身幾度もゴンドラを漕ぐフォームを変えては捨て変えては捨てをやってきていたのだから。
「だから、もう戻らないときっぱり諦めて、もう一度漕ぐことだけを考えることにします。漕げないってあきらめちゃダメなんです、まだ」
まぁ、できれば元のフォームは取り戻したいですけど、と付け加える。
軍曹さんはわたしの返答に頷いて言った。
「なるほど、そうか」
「はい、今はそうだとしか言えません。だから、わたしは・・・・・・もう一度挑戦してみます。少し、いやとっても怖いですけど」
人間は失敗をすぐに生かせれる数少ない生き物の一つ、彼女はそう言いきった。
試行錯誤を何回でもできるという特権の行使は、数多い人間の義務でも最も重要な物だということだろうか。
なら、わたしがもし漕げなかったとしても、きっとそこから何か得るものはあるはず。
もしそうなったら、フォームをがらりと変えて、右腕を利き腕にでもしてみましょうか?
「だから、とにかくまずはもう一度オールの柄を握ってみます、まずはそこから」
「そうか」
「はい。やっぱり怖いですけど。でも、彼女はわたしの親友です。親友の言葉に耳を貸さない人がいると思いますか?」
わたしのその言葉を聞いて、軍曹さんは苦笑した。
まるで昔の自分のようだ、と。
「俺も昔な、お前ぐらいの時に両親を失ったんだ。その時に両足も」
「え?」
「俺の両足もお前の左腕のように生体義肢なんだ。お前と同じように、絶望して自暴自棄になって・・・・・・でもアンがいた」
自暴自棄になった彼をアンおばさんは励まし続けたのだそうだ、自分自身も両親を失っていたらしいのにだ。
軍曹さんとアンおばさんの関係は、今のわたしとアイリーンの関係に似ていて、必要以上にわたし達のことが気になったらしい。
それもここに残った理由だと彼は言った。
「いろんな人に励まされ元気づけられてたが・・・・・・やはり一番心に届いたのは、アンの、親友の言葉だった」
「わたしと同じように?」
「ああ、そうだ。アンの血筋はなにか特別な力でも流れているんじゃいのかと錯覚してしまったよ、お前さんを見て、自身を振り返ると」
「ですね」
軍曹さんは詳しく自分の過去を喋ろうとはしなかったけれども、薪に仄かに照らされるその横顔から、彼にとって、とても大切な記憶だということは伝わってきた。
彼はわたしの視線に気づくと、少し頬を赤くし照れを隠すように頭を掻きながら言った。
「まぁ、こんな小っ恥ずかしいことはアンの目の前じゃ絶対言えんがな」
・・・・・・案外かわいいところもあるんですね、軍曹さんにも。
人をからかうのが好きなようだし、案外子供っぽいのかもしれません。
体だけは大きくなった悪ガキ、そういった雰囲気を感じるような気がします。
「じゃあ、お前はどうだ?マーケット嬢に対して何か言うのか?」
いきなり軍曹さんが振ってきた質問だが、わたしがそれに答えられないはずがない。
さっき言ったように、わたしは一つ決心したのだから。
「謝って、抱きついて、ありがとうと感謝します。そして、これからもよろしく、と頼みます」
「ふーん、昔俺がアンに対して思ったことと一緒なんだな」
「わたしは軍曹さんと違って、真正面から言えますし」
「ほっとけ」
軍曹さんがポコッとわたしを小突く。
彼とはなんだか初めて会った気がしない、なんというか、もっと以前に出会ったような気がするのだ。
それを笑おうとして、のどが少し乾いてきているのに気付く。
そういえば、昼間から何も飲んでいないような気がする。
「あの、軍曹さん。飲み物何かありませんか?」
「ああ、のどが渇いたか。俺の飲みかけのココアならあるが、どうする?」
そう言って軍曹さんは、少し煤けた魔法瓶を掲げてみせる。
それで構わないと、わたしは首を縦に振ってその意思を彼に伝えると、コップを取り出してそそいだ。
魔法瓶の口から流れ出てくる茶色い液体、甘い匂いからどうもココアのようである。
と、そのコップを受取ろうとして、手が止まる。
昼間アイリーンに『あーん』された記憶が脳裏をよぎるが、男の人にそれをしてもらうのは恥ずかしいし、でもこぼすのも怖いですし・・・・・・。
逡巡しているわたしを軍曹さんは見ると、呆れたようにため息をつきながらこう言った。
「何のためのもう片腕だ。がっちりとホールドしてりゃ、こぼすことは無いだろう?何でもかんでも一つの手で背負い込んじまおうと考えるからいけないんだ。もっと他の手を頼ればいいと思うぞ」
「・・・・・・一つの手で背負い込むな、ですか。そうですね」
「ん、どうした神妙な顔になって?俺は何か変なこと言ったか?」
軍曹さんは図らずも更に灯りをわたしにくれました。
背負い込むな、か。
ほんと、わたしはアイリーンに皆に助けてもらってばかりなのに、わたし自身だけで努力して頑張ろうと考えているように思えた。
あのバーチャルネットのゴンドラコミュニティの彼らだって、アイデアを出し合ってくれると言っているのだ、頼らなきゃいけないですよね。
そういえば、AQUAコーストガードのモットーの一つにこういうのがあったような気がする。
「使える手はなんでもつかえ、孫の手、猫の手とわず全ての手を」
「お、俺達AQUAコーストガードのモットーにあったな、そういうの・・・・・・ん?それって、今のお前に一番必要なんじゃないか?」
「そのようです。それでは、軍曹さん。コップ、渡してください」
ココアひとつ飲むのに決意が必要だとはおかしいですが、心を決めてコップを受け取る。
軍曹さんと喋ってる間に少し冷めたのか、それほどコップは熱くなくって、右手でがっちりと支えることが出来た。
冷めてきたと言っても、まだ湯気は出てるし、むしろ飲みやすい温度まで下がっていて嬉しい限りだ。
湯気と一緒に漂ってくる甘い匂い、それに誘われるように口をつけ・・・・・・ようとして、口はコップの縁の寸前で止まる。
この匂いはシナモンか。
だけど、このシナモン入りのココアのにおい。
昔どこかで嗅いだことがあるような気がする懐かしい匂いだった。
「ん?シナモン苦手だったか?」
わたしが飲もうとしないのをシナモンのせいかと思った軍曹さんが問いかけてくる。
「まぁ、苦手ではあります。でも・・・・・・これも挑戦、動くこと、なのでしょうね」
口をつけ、飲む。
その味は、香りと一緒で懐かしい味だった。
お腹だけじゃなく、心までホカホカ温まってくるような優しくて柔らかい甘さ。
シナモンの風味がそこへアクセントとして添加されて、甘さに深みを与える。
間違いなく、このシナモンココアは美味しかった。
「どうだ?俺自慢のシナモンココアは?」
「おいしいです、とっても。軍曹さんの優しさが伝わってくるような柔らかい味でした」
「恥ずかしいこと言うな、おい。まぁいいさ、満足してくれたなら」
軍曹さんは、ほっと一息いれるわたしを横目で眺め、自分のコップにもココアを注ぐ。
のんびりした雰囲気が流れる。
そういえば、今のわたしは軍曹さんと実質二人きりだということに、今更ながらに気づいた。
親友や他の人たちがぐっすり寝静まっている中で初対面の男の人と二人きりで夜の浜辺に起きている、なんだか背徳的な感じがしてドキドキしてきた。
・・・・・・わたしが軍曹さんに惚れたとでも?
いやいや、まさか、そんなことは無いですが、あまり男友達のいない自分にとっては年上の男の人と一緒にいるだけで、ムムム。
わたし一人で悶えていると、現在のわたしの状況を知ってか知らずか、わたしが悶々としている原因たる軍曹さんがいきなり口を開いた。
お前は凄いな、から始まったその言葉はわたしの心を整理するのにちょうどいいものだった。
「俺は一年間は茫然自失だったのに、お前は一月で、いや実質この数日のうちに、また前へ歩いて行こうと考えれるようになった・・・・・・どうしてなんだ?」
考えてみれば、二日前は自殺すらしようとしたのに、今日では前向きに考えている。
やっぱり、起きる前に見たあの懐かしい夢がトリガーだったか。
両親に喜んだ顔がもっと見たい、それも理由だったけど、もっと深くのもっと大事なことを思い出したから。
「わたしが漕ぐことで前に進もうとすることでアイリーンが、ううん、誰かが笑って喜んでくれるのなら、わたしは頑張れますから」
わたしは多分、軍曹さんより早くにそういった自身にとって大事なことを心に見つけることが出来たのだと思う。
だから、軍曹さんより早く復帰できたんだろう。
「でも、わたしは人でなしでしょうか?お父様もお母様も死んだのに、自分のことばかり考えているのは」
「人でなし、ねぇ・・・・・・どうだろうな。ただ一つ言えることがある」
「え?」
「夜明けのようだ、海を見てみろ。ここは朝も素晴らしいんだ」
気づくと確かに夜は過ぎようとしていた。湾の入り口の方の空が白くなりつつあった。
向こう側の水平線にはもしかしたらもう太陽が顔を覗かせているかもしれない。
わたしは軍曹さんに言われるがまま、海を眺める。
急に潮騒とは趣の異なる音、ファサァと風が流れ木々の葉が揺れる音が響く。
それと、同時のことでした。
「う、わっ!?」
突然、海が万華鏡になった。
そうとしか言いようがない光景がわたしを出迎えたのだ。
風で揺れた木々の葉の間をすり抜けるように海面へそそぐ朝日は無数のレーザーのようで。
刻一刻と姿を変える木洩れ日は揺れる海面でさらに撹拌され散乱して、周りを囲む崖に無数の光の星々を生み出している。
言葉を失ったわたしの横で、シュボっと軍曹さんは紫煙をくゆらしていた。
「・・・・・・綺麗だろ?開けない夜は無いんだ。人は夜が明けたら、今日のことを考える。カールステッド嬢、お前はもう朝を迎えたんだ」
「朝?」
「前を向いて進むことが出来るようになった、昔のことは夜の時間に夢の世界で。それまでは前へ万進してもいいと思う。過去は忘れるべきじゃない。ただ、前へ進もうとするときは前を向いて歩け、出ないと思いもよらん物にぶつかったりする」
「それでいいんでしょうか?」
「さぁな、分からん。これは俺の経験から言ってることだから、違うかもしれない。だが、確かに今のお前は前を見据えているはずだ。違うか?」
乱反射した朝日が光の粒となって、わたしを包み込むかのように周りを漂い、それはまるで昼の世界へ足を踏み出そうとするものを歓迎するかのように数を増していった。
ポツリとつぶやく。
「アイリーンは、許してくれるでしょうか?」
「ん?ああ絶交の話か?許すも何も、たとえ絶交したところで、彼女はきっとお前の世話を焼くだろうさ」
「ふふっ、でしょうね」
湾の中まで暖かな日の光が届くようになってきた、どうやら海が万華鏡のようになっていた時間は終わりのようだ。
朝の光に照らされて、夜の星々は姿を隠していく。
死んだ人々の魂は光り輝く星となって、夜の人々を照らしだす・・・・・・昔にお父様がそう言っていた。
ならば、わたしは過ぎさる夜に一時の別れの挨拶をしなければならない。
「またいつか、お父様、お母様。わたしは、前へ進ませてもらいます」
「あれ?もう朝・・・・・・ってアッリは!?じゃなくて、カールステッ!?」
「何言い間違えたように変えようとしてるんですか?アイリーン?」
「え・・・・・・『アイリーン』って」
「アイリーン、わたしはもう一度ゴンドラに乗ってみます、付き合ってもらえませんか?」
「え、あ、うん。もちろんだけど」
「それと、ごめんなさい。まだわたしと友達でいてくれますか?そしてこれからも、わたしと一緒にいてくれますか?」
「・・・・・・!うん!」