あれからマンホーム時間で一月程の時が経った。
わたしはアリソンの家に厄介になりつつ、ゴンドラの練習をしたり、アリソンのお店の手伝いをしたりして日々を過ごしていた。
ゴンドラの練習は、相変わらず時々起きる例の『発作』でオールを暴れさせてしまい、水に浸かったり浸からなかったりであまり進展が見られないのですけど。
ま、めげるつもりは到底ありませんが。
時々やってくるアイリーンは、指導教官との相性がいいのか見るたびに技量に知識を向上させていますから、負けてはいられませんよ。
今日も、古ジャージの下に水に浸かってもいいようにスクール水着を着こんで、毎朝のように寝坊するアリソンを叩き起こして、彼女にアイリーンから貰った群青のリボンを結ってもらい、エネルギーバーを口に放り込んで朝練に行くという日課をこなそうとしました。
ところが、です。
いつもはわたしが起こさないと起きないアリソンがとても珍しくもわたしより先に起きていて、そして言うのだ。
―――アッリちゃん、今日はゴンドラの練習をちょっとやめて、手伝う?
と。
その言葉と共に、彼女は今朝の新聞―――ネオヴェネチアンタイムズ、このネオヴェネチアではポピュラーな日刊新聞だ―――を差し出し一面を見るように言う。
わたしはアリソンから新聞を受け取り、一面をざっと目を通して彼女の言わんとしていることに気づく。
「なるほど、アクア・アルタですか。そういえば、もうすぐ夏でしたね」
「そう、明日にアクア・アルタが起きる可能性大?だから準備をしないと?」
一面には今年のアクア・アクアが明日に迫っていることが報じられていた。
観測技術の向上でほぼ正確にアクア・アルタのやってくる時が分かるのである。
かつてマンホーム時代のヴェネチアではアクア・アルタは厄介者のような存在で、濁った水で市内は汚れるわ、海水で建物は傷むわ、観光客も目減りするわと散々だったようです。
ヴェネチアの水没の直接的な原因も大規模なアクア・アルタであったそうですし。
ですが、ネオヴェネチアではそんな心配は少なく、むしろアクア・アルタをお祭りのように楽しんですらいる人も多い。
そんなネオヴェネチアの市民は呑気な物というか手慣れたもので、アクア・アルタの時期が迫ると、低いところのものを上に揚げたり、食材や生活必需品など消耗品を買い溜めにお店へ走るのです。
「去年は父さんがいたから、何とかなった?でも今年は用事で帰ってこれないそうだから、朝から丸一日使ってでも片づける?」
「確かにこれほどの量の物をわたし達だけで片づけるのは骨が折れそうですね」
店内は物、物、物、と様々な商品が上に下に並べられているので、ものすごい量です。
これは本当に丸一日片づける作業に徹しないと、明日の早朝のアクア・アルタまでに間に合わないと思うのですよ。
でも、先週にもアクア・アルタが来ることがニュースになっていませんでしたっけ?
だったらその時から片づけを始めていればよかったのではないだろうか?
「私だって店は開いていたい?だからギリギリまで粘っているし、それに買い溜めはもう済ませてあるから、あとは片づけだけ?」
アリソンは確かに裕福でしたが、お店を開くこと自体が今の彼女にとって一番の楽しみになっているのだとか。
だったら、朝は自分で起きてほしいものです。
「でも、リーンにも応援を頼んだけど来れるかどうか分からないらしいから、少し間に合うかどうか心配?」
確かに、アイリーンもいれば何とかなるだろうとは思います。
重いものはともかく、わたしとアリソンよりも身長が高く、また体力的にも戦力になりそうではあったのですが。
オレンジぷらねっともギリギリまで操業し続けるそうで、朝客の少ない時間帯に最大限準備をしておいて、終業後に残りをやってしまうんだそうです。
アイリーンのようなペア組は今日は練習なしで、朝からずっと片づけを手伝わないといけないのだそうだ。
オレンジぷらねっとの可能な限り自社社員でこなすという所に、少しでも経費削減をして安くお客様にサービスを提供するという心が見えるのですが、さてアイリーンはどう思っていることか。
・・・・・・まぁ、全力で楽しんでやっているでしょうね、彼女なら。
「あれ?だったら、てこさんやぴかりさんを呼んでみてはどうでしょうか?」
「それも考えたんだけど、てこちゃんは私と同じようにギリギリまで店を開いているし、ぴかりちゃんは地元の漁師さんたちの助っ人にもう取られちゃった?」
「アクア・アルタが来ると確かに漁師の皆さんは準備でてんやわんやですからね、納得です」
ぴかりさんは地元の漁師さんたちの漁具の片づけや海中の様子を確認したりと、この一週間ほど本業のダイビングのインストラクターと掛け持ちで頑張っているらしい。
てこさんもアリソンと同じでお店を開いて楽しみを感じる人なので、なんとアクア・アルタ中も小さなボートでケーキやお菓子を街で売り歩くのだそうだ。
そのために今日は一日焼き菓子や日持ちのするケーキをせっせと焼いているのだそうだ。
ちなみに姉さん先輩は連載の締切が近いらしく、アリソンは邪魔をしてはいけないからと連絡自体していないのだそうだ。
締切が近いなら、きっと弟さん先輩も姉さん先輩の下で原稿を待っているでしょう・・・・・・たぶんどつかれ、手伝わされながら。
「それで手伝ってくれる?」
ふぅむ、確かに身近で手伝えそうな人はわたししかいませんねぇ。
まぁ、わたしもアリソンの世話になっている身ですし、手伝わないわけないんですけど。
「もちろんですよ。ちゃちゃっとすませてしまいましょう」
アイリーンもキリキリ働いているでしょうし、わたしも今日はゴンドラ抜きで働くことにしましょうか。
丁度来ている服はジャージに水着、別に汚れてもいい装備です。
アイリーンからもらったリボンを丁寧に箱にしまって自室に戻し、最近伸びてきたと感じてきた髪を作業しやすいようにポニーでまとめて頭巾をかぶって。
「よしっ」
一声いれて気合を入れる。
アリソンもいつのまにやら、いつもの民族衣装のような恰好から動きやすく汚れてもいい作業着へと着替えていた。
さてと、これで戦闘準備は完了です。
そして・・・・・・わたしとアリソンは無数の敵と相対した。
第一話 『機械之戯妖 ~前編~ 』
片腕のウンディーネと水の星の守り人達 第二章 『ある一日の記録』
日は水平線に触れ、赤くオレンジのような光だけが大気圏の防衛網を突破してネオヴェネチアの街並みへそそいでいた。
彼らの戦いはもうすぐ終わりますが、わたし達のお店の片づけという戦いはいまだ終わらずです。
「ふぅ」
アリソンが淹れてくれた紅茶で一息つく。
レモンの風味でさっぱりとしたそれは、わたしの疲労を解して取ってくれるようだった。
それでも、疲れは消えては無くならないのです。
「はぁ・・・・・・」
ため息をつく。
朝作業を開始して、途中昼食と休憩をはさみ、汗水たらして数々の商品や展示用模型を3階の物置まで引っ張り上げて、ようやく床や壁が見え出してきましたというのに。
ここでまさかのラスボス登場イベントが発生して。
夕日に照らされて伸びる、それらの黒い影が疎ましい。
「・・・・・・これ、どうすればいいでしょうかね?」
わたしの目の前には、店内に展示されていた
実寸大模型のゴンドラに本物のそれやオールの山々。
アリソンの作品やその父親のアルフォンソさんの作品らしいのですが、これらはどう頑張っても、女二人じゃ片づけようがない。
モックアップはともかくゴンドラやオールは水に浸かってもいいような気もしますが、アリソン曰くこれらは食品サンプルのようなもので、なるべく奇麗なままで陳列しておきたいとのことで、これらも上に揚げねばなりません。
アイリーンが居れば、多少は何とかなったかもしれませんが、彼女はオレンジぷらねっとの片づけに予想以上に時間がかかっているようで、結局今日は手伝いに行けないとすまなそうな声で連絡があったばかりですし。
それに加えてこの左腕です。
今日だって、何度か『発作』が起きまして物を落っことしそうになったり落としてしまったり。
念のため割れ物には手を付けないでいたおかげで、そうそう大事にはなりませんでしたが、左腕をかばうように使ってきていた右腕はもうパンパンです。
結果、わたしはこれらの品々を前にどうしようもなくたたずんでいるわけです。
「本当に、どうすればいいでしょうか。もう諦めていいじゃないですかね?」
「諦める?前を向いて進むって決めたのは誰だった?」
「この種の障害が待っているなんて、予想だにしませんでしたよ」
その後も疲労からか、普段は言わない不平を不満たらたらで述べるわたしに、アリソンはほほ笑むと、自信たっぷりに大丈夫だという。
何が大丈夫なのだろうかと訝しむと、彼女は携帯端末を取り出して、どこかにメールを打ち始めた。
そのメールを送信して1分と立たずに返信が返ってくたようだ。
アリソンは端末を開いてその返信を確認すると、口を開く。
「そろそろ、援軍が到着する?」
「は?援軍、ですか?」
「そう援軍?ちょっぴり臆病だけど健気な大きな小人ととっても頼りになるしっかり者の小さな巨人が?」
大きな小人と小さな巨人?
まるで矛盾しているではないか。
この一月アリソンと共同生活を過ごして分かったことが、彼女は意外にも結構詩的な表現を好むのだ、出来や内容はともかくとして。
もっともこのことを指摘すると、アッリちゃんもそうじゃないと口を尖らせて言ってくるのですが、はて?
ともかく、アリソンのそういった癖がまた出たのかなと思って納得した時だった。
「ん、もう夜・・・・・・って、アレ?」
急に夜が来た。
さっきまで店のドアから差し込んでいた夕日の光が消え去り、漆黒の闇が広がる―――店のドアから放射状に、他の窓から差し込む光はそのままで。
ということは、これは夜じゃなくて・・・・・・夜じゃなくて、なんだろうか?
答えは、アリソンがドアを開けたことで分かった。
「こんばんは、アリソン君ひさしぶり。君がアッリちゃんだね?オフラインでは初めまして。二人ともご苦労様です」
巨人がネオヴェネチアを踏みしめていた。
差し込む夕日の光をその広い体躯で遮るその巨人は、およそ2メートル・・・・・・いや、もっと大きいように見えた。
しかし、その巨大な体に反して、アリソンに挨拶した巨人の発した声はむしろ違和感を感じるほどにとても優しく労わるような物だったことにびっくりする。
「ほら、さっさと入んなさいってば。貴方は図体が大きいんだから、道を塞いでしまってるでしょ」
「ああ、ごめん」
とその巨体の後ろから、なにやら女性の声が。
その声に押されるように、その巨人はのそりとゆっくりドアを潜り抜ける。
改めて彼を見ると、やはりとてつもなく大きい。
身長が160弱のわたしと比べると、巨人というか胴回りの太さから大木ーって感じるのですよ。
ですが、大きなものに対する恐怖というものは全く湧いてこず、どこか大きなぬいぐるみのような・・・・・・柔らかい優しさを感じる。
若干たれ目気味のくりくりとした目は童話に出てくるような大男のそれではなくむしろ・・・・・・。
ああ、あれに近いか。
昔聞いた童話に出てきた優しい森のクマさんだ。
「いらっしゃい?アルヴァン君、アンバーちゃん?」
「チャオチャオ、おひさー!今回もよろしくねっ!」
そして陽気な声でアリソンに挨拶する女性がなぜか大きく見えるドアを潜り抜ける・・・・・・って、女性が小さいのか。
たぶん、わたしより20、いや30近く低いか。
彼女の釣り目気味の瞳は大男の影の中で明るく光り輝いていた。
その姿は猫科の肉食獣のようで、彼女の方が彼より怖く見えた。
「で、彼女が?」
「うん?あの『ライバルちゃん』だよ?」
「あいっかわらず聞き取りにくいというか分かり難いと言うかややこしい発音ね。今日も翻訳しっかり頼むわよ、アルヴァン?」
「翻訳って・・・・・・ひどい?」
「そうだよ、アリソン君に失礼だよ」
「まぁまぁ、天才は奇妙だというのも常だからいいじゃない。それよりも、彼女に私達の説明をしなくていいのかしら?アリソン?」
小柄な女性がわたしをニヤリと猫のように笑い見る。
なんというか、彼女になにやら狙われていませんか、わたし?
「ああっと、アッリちゃんごめん?えーと、こっちの大きい方がアルヴァン・コリンズ、で―――」
「小っさい方の、この私がアンバー・コリンズ。姓で分かると思うけど、こっちの朴念仁の妻よ」
「改めて初めまして。アルヴァン・コリンズと言います」
大男と猫女(失礼だとは思いましたが、この表現がぴったりに感じましたのです)はわたしに挨拶する。
大男―――アルヴァンさんはゆっくりとその体躯にふさわしい大きな頭の上にちょこんと乗っかる小さなハンチング帽を取って、紳士のように。
猫女―――アンバーさんは堂々と腰に手を当ててハキハキと自己紹介をした。
彼らがアリソンの言う援軍なんだろう。
しかし大きな小人と小さな巨人というのは・・・・・・と思って夕闇の中に並んで立つ二人を見やると、アリソンがそう言っていた理由が分かった。
アルヴァンさんはその大きな体に似合わず、どこか縮こまって見え、逆にアンバーさんは堂々とした立ち姿から実際よりも大きく見えた。
「で、この彼女が?」
アリソンがそう言って、わたしにあまり似合わないウインクをする。
えーと、ああそうか。
彼らが自己紹介したのなら、わたしも自己紹介をしなきゃですね。
「えと、わたしは―――」
「知ってるよ、アッリ・カールステッド。15歳。オレンジぷらねっと志望、されど事故により断念・・・・・・いや、延期かな?現在はオートフラップオールで練習中。自身の技量に納得したら再度入社試験を受ける―――違う?」
わたしはアンバーさんに自己紹介を中断させられたので少々むっとしましたが、その後に彼女が色々わたしのことを話すので呆気にとられる。
わたしのことをよく知っているのか?
でも彼らとは初対面だし、アリソンが教えたのか?
しかしアリソンは首を振って違うと言い、彼らに聞けばよく分かると言うのだが・・・・・・アルヴァンさんはニコニコと笑い、アンバーさんは面白そうに口をゆがめ言う。
―――分からないかな~、と。
アリソンはそんな二人に困ったように笑い、わたしに救いの手を差し伸べた。
あくまで彼らの楽しみを潰さない範囲で、のようでしたが。
「はい、ここでアッリちゃんに3つのヒント?」
1、アルヴァンさんとアンバーさん、そしてアリソンはわたしのことを『ライバルちゃん』と呼ぶことがあるらしい。
2、わたしと彼らはここではないどこか、このネオヴェネチア以外で、会ったことがあるが長く会話はしていない。
3、アルヴァンさんの被るハンチング帽はどこかで見たことがないか?
―――これら4つのヒントで分かるんじゃないかとアリソンは言った。
4つのヒントと言われても・・・・・・んん、そう言えばアリソンの研究室ではわたしのことを『ライバルちゃん』と呼んでいると、以前言っていましたっけね。
とすると、彼らはアリソンの同僚か。
では2つ目のヒントは?
何処かであった・・・・・・わたしはそれほどネオヴェネチア以外には出た経験が少ないので、幼いころ行った旅先でしょうか?
うむむ、難しい。
ならば、ここは3つ目のヒントを考えてみましょう。
アルヴァンさんのハンチング帽はハンチング帽としては極めて一般的な形状で、色はシックで落ち着きのある深みのあるベージュ、アクセントに白い複雑な模様が入っている。
これはどこかで見たことがあるような気がするのです、確かにここではない何処かで。
では、どこかと言われると首を傾げるしかないんですけど。
「困ってるようだし、僕から4つ目のヒントを言わせてもらうよ。いいかな、アンバー?」
「んー、まぁいいか。オーケーだよ」
「それじゃあ―――ここじゃあないってのは、必ずしも『現実』ってわけじゃない」
『現実』じゃない?
夢の中、という訳じゃないでしょうし・・・・・・リアルじゃない、ならヴァーチャル『仮想現実』かな?
だとすればわたしと接点のあるのは・・・・・・ゴンドラシミュだけですね。
そう言えば、ゴンドラシミュをプレイしていた時にあのハンチング帽を被ったアバターを見たような気がする。
名前は、えーと、なんだったか―――おお!
「もしかして『Re;サナダ』さんですか?」
「ああ、正解。僕達のアバター名は君の扱うオールの能力『ベクタード技術』の前身をたった一人で開発した有名な技術者の名前にあやかってつけたんだ」
「時々、私も息抜きにアルヴァンのアバターを借りてプレイしているのよ。アルヴァンの引っ込み思案な漕ぎ方より、速いでしょ?」
『Re;サナダ』、そのアバターは日によって操舵の特徴が変わっていた。
ある日はわずかな水流の流れを計算したような繊細なオール捌き、またある日は水流がなければ作ればいいじゃないといった感じのダイナミックさが特徴的な物だったり。
なるほど、あのような不思議な現象のからくりは、二人で一つのアバターを共有して使っていたからか。
「君のことはすまないけど、『ライバルちゃん』って呼んでいた時から色々調べさせてもらっていたんだ」
『Re;サナダ』はわたしが入る前からいたコミュニティの古参メンバーのひとりだった。
その時、研究室にいた彼らはオートフラップオールの実験場所を探していたアリソンに、何気なくこのゴンドラシミュでやってみないかと勧め、今に至ったそうである。
「以前から動きのいい子がいるなぁとは思っていたんだけど、『Alison』に喰らいついていく君の姿が格好よくってね」
「いやはや、毎回毎回あのデッドヒートには熱くさせられたねぇ~」
「あのアバター越しにも伝わってくる絶対勝ってやるっていう意思に」
「たとえ離されても次のチャンスを狙う冷静な判断力」
「「すっごい見ものだった、うん」」
二人がうんうんと感慨深げにわたしの話をするのですが、内容が―――うっひゃぁ、なんだかとても恥ずかしいのですよ。
「うーん、悶えている姿も可愛いねぇ、ほんと。写真で見た時よりもずっとね―――ふふっ」
ぞわわっと。
恥ずかしさの熱を一気に冷まし、むしろ鳥肌が立つほどに寒気を感じるのです。
なにやらアンバーさんから非常に視線を感じるのですよ!
原因はそれか!
「アンバーちゃん?アッリちゃんに手を出したら、アイリーンって子がたぶん般若のように怒るだろうし・・・・・・私も、怒るよ?」
「冗談だって、冗談」
アリソンがため息をつきながらアンバーさんを諭す、というか抑えにかかりだす。
アンバーさんは可愛い女の子を見るといつものこうなると、アルヴァンさんがわたし説明してくれたのですが・・・・・・先ほどの視線と言い、彼女はわたしの要注意人物に認定です。
「さて、と?援軍も来たことだし、お喋りは一回中断して、作業を再開する?このままだと、お仕事に間に合わない?」
外はもうすっかり暗くなり、夜の帷が街を覆う。
男たちは仕事を終えて、帰宅前の一杯を飲みに酒場へ集い、女たちはそんな男たちにため息をつきながら晩御飯の準備をしだす頃合いだ。
確かにこのままぐだーと駄弁っていては、一日が終わってしまうでしょう。
「よっしゃ!じゃあ、やるとしますか!アルヴァン、力仕事よろしくぅ!」
「ああ、了解だよ」
「アッリちゃんも、できる範囲でいいから手伝う?」
「もちろんです」
「よーし、それじゃあ始めるとしよー!」
アンバーさんの音頭で、わたしたちは再び片づけ戦争を開始した。
そして、わたしたちは―――
「はい、アルヴァンはこっち持つ!私とアリソンはこっち!アッリちゃんは、その紐を支えておく!」
「はっはい!」
順調にボスたちを―――
「さぁ歯ぁ食いしばって、踏ん張れ!アルヴァンはKeep Moving!!」
「了解ですっ!」
二階へ―――
「あぶないっ!」
「っ!・・・・・・ふぅ、助かりました。でも、太もも撫でないでください、アンバーさん」
「ごめんごめん、手が滑ってね」
アンバーさんの魔の手から貞操を守りつつ、どうにかこうにか送り届けることに成功したのです。
ふと時計を見やると、日付の境界線を跨いでいた。
深夜のネオヴェネチアは波の音だけが響き、微かに路地を照らす月の光に包まれた静かな街なのだ。
「援軍があったとはいえ、結構時間かかった?」
「うぅ、疲れたのです、モーレツに。ああ、今ベッドに倒れこんだら10秒と経たずに寝れる自信があるのですよ・・・・・・」
ヘロヘロになるまで今日は働いた、明日はアクア・アルタですから休めるからいいんですが。
ところが、アリソンはこれから更に仕事があるのだという。
ご苦労様です、わたしは寝させてもらうのですよ。
そう思った時だった。
あっ、とアリソンが間の抜けた声でつぶやく。
「・・・・・・しまった?ビーコンやGPSユニットまで奥の方にしまっちゃった?」
ピシッと時が止まったように、アリソンのその言葉に絶句するアルヴァンさんとアンバーさん。
わたしの見ている前でいつまでもフリーズしているかなと思った彼らですが、アンバーさんが復活(?)した。
「どうするのよ、私らアレが無いとこの街の水路全く分からないわよ・・・・・・?」
半ば呆然とアンバーさんが青い顔で口にする。
どうやら彼らの仕事とは、この街の水路で行うもののようですがなんでしょうね?
「一回片づけたやつを漁ってみようか?」
「いやそれだと間に合わない?」
アンバーさんに数瞬遅れアルヴァンさんも復活し、対応策を提案するが、アリソンはそれは不可能だという。
まぁ、そのビーコンとやらが片づけられている場所にもよるでしょうが、今日片づけた部屋の入り口付近には特に大きな物―――要はあの『ラスボス』達―――が置いてありますので、それを退けるだけでもかなり時間がかかるはずです。
「その作業ということを明日以降に回すことはできないんですか?」
なんとなく聞いてみる。
彼らの口調だと、どうも今晩中にやって終わなければならないようなのだ。
「うーん、行政府に対する言い訳が思いつけば不可能ってわけじゃないけれど・・・・・・ねぇ、アリソン。片づけた順番覚えてる?」
「ううん?だから?」
「うーん、ビーコンが無くても場所ぐらいはかろうじて覚えてはいるけど・・・・・・当てにならないしなぁ」
「だよねぇ。夜のネオヴェネチアの水路って、昼間以上に何処に自分たちがいるか分からないし」
深刻そうな顔でどうすればいいかを話し合う彼ら。
片づけてしまったアリソンが悪いと思うのですが、アルヴァンさんとアンバーさんの様子からして、アリソンが片づけてしまうのに気づかなかった自分自身もあるので責めきれないようだ。
アンバーさんなんて今日はずっと仕切っていましたからね、おかげで効率良く作業出来て大変助かりましたが。
その時は、なるほど確かにしっかり者の小さな巨人だと思いましたが、どうしてか変に抜けているようです。
一つの物事についつい集中して、他のことをきれいさっぱり忘れてしまうタイプなのかもしれません。
わたしがそろそろ寝ようかなと彼らの慌てぶりを他人事に感じながらそう考えていると、アルヴァンさんがこんなことを口にした。
曰く、
「せめて水路の地図さえあればなぁ・・・・・・」
ピクンとわたしの耳が反応して眠気が引く。
水路の地図、ですか。
ふむ。
「あの、そのお仕事って重要なんですか?」
「え?ああ、重要と言えば、この街にとって僕たちの仕事はとても重要だね。さっきアンバーも言ったように、今晩中に作業を終わらせたい仕事だよ」
アクア・アルタの直前は水路の水かさが大幅に増して、彼らの作業に都合がいいらしいのだ。
また、アクア・アルタの前後はネオヴェネチアの水路を行きかう船が少なくなるのもいいらしい。
別に他の日でも時間を掛ければいいそうなのだが、時間も係るし、なによりこの時間帯が彼らの仕事に許可された時間なのだそうだ。
なのだが、あろうことか仕事のポイントが分かる装備一式を片づける際に部屋の奥の方にしまってしまったらしく、それを取り出そうにも時間も係るしで、どうしようかということだ。
もし今回作業が遅れたら、遅延の理由を行政府に説明して他の時間を取り付けねばならないのだが、その理由が今回のようなことでは締りが悪いというか問題であるそうだ。
ネオヴェネチアの行政府は多くのことでは寛容で甘いですが、幾らなんでもなぁなぁ主義では無く、それはそれ、これはこれ、だそうです。
そして、更に重要なこととして・・・・・・これは明日のアクア・アルタに関係しているのだそうだ。
ふむふむ。
「地図さえあれば大丈夫なんですか?」
「あっても微妙だけどね、夜の水路って標識がよく分からないし・・・・・・まぁ、あればマシかな?」
「なるほど・・・・・・」
先ほどアルヴァンさん自身も地図さえあればと言っていましたが、本当に作業する場所は分かるんでしょうか。
もしそうなら、少しばかり手伝えるかもしれないのですよ。
「さっき言っていたように場所は覚えているんですよね?」
「場所というか・・・・・・場所の名前かな、それは覚えているよ」
場所の名前だけだと結局地図があっても迷うような・・・・・・ああ、だからGPSが必要だったのか。
でも場所の名前が分かるのなら。
うん、いけそうだ。
ところで、今のわたしはまともに漕げやしませんが、今のわたしと昔のわたしでは変わらない部分があります。
「あのひとついいですか?」
「ん?なにアッリちゃん?」
「地図ならありますけど・・・・・・たぶん、案内も可能な」
「えっと?どこに?」
わたしの変わらない所、それは自身の脳内に溜め込んできた大量の知識、ネオヴェネチアの水路を隅々まで漕ぎまわった成果であるプリマにだって引けを取らないと自負する水路の記憶。
アンバーさんのセクハラには辟易しますが、彼らの仕事はこのネオヴェネチアにとって重要そうですし、お父様もお母様も困ってる人がいたら助けなさいと言っていたし、なにより―――きっと彼らは喜ぶだろうから。
もちろん、自分の力量で出来る範囲内じゃないといけないですが、今回は案内するだけなのでたぶん出来る筈。
薄く微笑むわたしを見て、不思議そうに首をかしげるアリソン達。
わたしは彼らによく見えるように自身の頭を二度三度叩き、言う。
「
水先案内人の真似事にすぎないかもしれませんが・・・・・・自信はあります。貴方達を案内させてくれませんか?」