≪おお、もうすぐのようだぞ≫
ポッ、と。
わたしとアイリーンが持ってきていた夜光鈴の、今まで透き通るような音を奏でていた夜光石が蛍のように明滅を始める。淡くわたしとアイリーンの顔を照らすその夜光石の光の点滅の周期がだんだんと早くなっていっている。
「ん、分かった。周りの人たちも、そろそろみたいだね」
≪夜光鈴市の初日あたりに買った人の夜光鈴は、もう落ちているはずだが≫
確かに周りの水上に浮かぶ、光を船上に載せた舟の群れの中にはその光が海へと消えていくものもいた。ネオヴェネチアの澄んだ海の中へ、まるで幻影のように揺らめく光を残して沈んでいく夜光石。今日はアクアの夏の風物詩、夜光鈴に使われる夜光石の寿命の日だ。
元々はマンホームの夏の風物詩だった風鈴。今はそれらは消え去ってしまったが、アクアの入植者達が持ち込んだ風鈴は形を変えて今に伝わっていた。
マンホームの伝説・伝承で度々登場し、時には怪しいパワーストーンとして存在し、しかしながら実際にAQUAで発見され実在する物になった鉱石のひとつ、『夜光石』を使用して。アクアに現実のものとして存在したそれは、蛍や深海魚が持つルシフェリン、そしてルシフェラーゼを持つ鉱石で、ルシフェリンがルシフェラーゼによって酸化される時に淡い光を放つのだ。ルシフェラーゼという酵素と、それによって酸化されることで発光するそれらの物質の総称であるルシフェリン。
この二つの物質はある種の生物が保有し、交尾活動や威嚇行動に用いられてきたことは、人類が火星をテラフォーミングし水の星へと生まれ変わらせる以前から研究や調査によって知られていた。だが、それが無機物、それもマンホームのように生物が発展・進化していなかったとされるアクアで採掘された鉱石に含まれているのは、23世紀現在の今でも謎なのだと言う。わたし達現代人類が知らない火星の時代、つまり、まだ火星に水が残っていてに存在していた生物の化石じゃないかという仮説や、はたまた外宇宙からの生命体がもたらしたのだという仮説まで真剣に議論された時期もあったらしい。
浪漫溢れる話ですが、さすがにそれは無いんじゃないでしょうか?20世紀の終わりに巨大な異星人の宇宙船が落下してきた訳でもあるまいし。
でも、人の心を安らげるような淡い光にひと月で寿命を迎える儚さ以外にも、この謎に包まれた神秘のベールが人々を惹きつける要因なのではないだろうかとわたしは思う。
「でも、そんな理屈はどうだっていい、ですかね」
わたしの脳裏にある男性が思い浮かぶ。
彼は発光の理論などどうせ理解できんからどうでもいいと切り捨て、ただ自らのモノづくりが出来ればいいと毎日窯へ向かっていた。大きな工房を弟子たちへ譲り、自らはごく一部でもいいから人が心から幸せになれるような好きになれるような作品が作れればいいと、彼の情熱を表すかのようにムンムンと熱気に包まれる自宅の小さな工房で小さく笑っていた壮年の男性。彼の作った作品達は、理性ではなく本能で素敵な物だとわかるようなモノばかり。彼の作品には難しい理論や定義など、頭が痛くなるような理屈は一切関係せず、自身の感性のみを頼りに生まれたもの。
その結果生み出されてきた彼の作品たちは、不思議にも人が美しいと感じる黄金律を取ったりするなど、理屈が通用する様な造形になるんだそうです。理屈抜きで作っていた物が、理屈で語れるようになるなんて、すこしばかり可笑しかった。
それらの作品と同様に、わたしは、星の瞬く光とも、水面の煌めきとも、人々の営みの光とも違う夜光石の放つ光に心の底から惹かれていた。
≪私は夜光石の光は、光量、色合いにその他の要素をすべて再現し、立体映像を投影することが出来るが・・・マスターのその顔は得られそうにないな≫
「えっ?どんな顔ですか?」
≪・・・どんな顔、と言えばいいのだろうな。私のデータには無いな。わからん≫
「ふふっ、シエロもまだまだだねぇ・・・言い表すのは一言で十分なんだよ?すごく魅力的な顔だね、アッリ!」
「またアイリーンは恥ずかしい台詞をぬけぬけと。シエロこんなのを真似しないでくださいね?」
≪ふむ?了解した≫
「二人とも手厳しいなぁ」
柔らかい光のベールで覆われるゴンドラの上。
ただの談笑のはずなのに、なんだかいつもと違う気がするのはわたしの気のせいなのでしょうか?
≪むっ?どうやらアリソンの奴は終いのようだな≫
と、喋っている間にも夜光石の寿命を迎えた夜光鈴の一つ。
それはオートフラップオールに括り付けてきたアリソンの物で、中の夜光石がポッと、最後に少しだけ煌めきを残して海の中へ沈んで行った。アリソン自身は急な仕事で見に来ることはできなかったが、今頃携帯端末片手に屋上へ上がり、仕事しながらこの光景を眺めているだろう。
「ありゃりゃ。アッリの奴もそろそろじゃないかな?」
「そのようですね、アイリーンのもそうじゃないですか?」
わたしとアイリーンの夜光鈴の先に吊るされた夜光石の明滅が、終わりかけの線香花火のように放つ光を減少させていく。
その減っていく光の粒子で照らされる二つの夜光鈴は、夜光鈴市で売られているような綺麗な形状をしたものではなく、ちょっと歪だった。
中の夜光石は綺麗な形状なのですけどね、彼に手取り足取り教えてもらいながら作ったそれは、自分でいうのもなんですが美しく仕上がったと思います。そのドロップ上のそれを覆う傘の部分は、やっぱり駄目ですけど。
「改めて見直すと、こりゃ不格好ですねぇ・・・」
「初めて作った物にしては上出来だったと思うよ。次作るときにはもっといいのを作ろっか」
「あの人が言っていたように、ちゃんと反省しながら・・・ですね?」
「ふふっ、そうだよ?反省しなきゃ、経験した意味がないからね」
彼は言っていた。ひたすらな経験と何リットルもの汗、『ソレ』と思えるものを作りたいという意欲。なにより一番大事なのは、わが身を振り返ること。自分が何をやりたいのか、何が駄目なのか、何が出来るのか、何を諦めていたのか・・・そういうことを、時々は考える。そうすれば、おのずと良い物は出来上がるのだそうだ・・・理屈抜きで。ある意味、これも理屈なのかもしれませんけどね。
「では、また・・・来年に、あの工房で」
わたし達の夜光鈴が不格好なのは、わたし達自身でデザインして、彼の協力を借りながらだったが、自分で窯の中で熱く燃えるガラスを回して、汗水たらして創り上げた物だからだ。彼の工房で道具と材料を貸してもらって、互いに作りあった夜光鈴。最近少し疎遠に、どこか遠くの存在に感じてしまっていたアイリーンとの絆をもう一度固く結びつけた大切な物。
夜光石の明滅するぼんやりとした光を眺めながら、わたしは一月ほど前の出来事を思い出していた。心を乱していた、あの時のわたしに彼が言った言葉と共に。
あれは、高く高く伸びる白い雲が群青の空に漂い始め、夏の暑さがネオヴェネチアに訪れたある初夏の日でした。
第三話 『Luciferin‐Luciferase反応彼女とわたしの結びつき ~前編~ 』
片腕のウンディーネと水の星の守り人達 第二章 『ある一日の記録』
「デザインイラストを届けてほしい、ですか?」
最近の日課になりつつあった島の外周をぐるりと回るコースを、いつも通りに練習をしてアリソンの店へ戻ってくると、彼女から水滴が浮かんだ労いの缶ジュースと共にファイルに綴じられた、紙に描かれたいくつかのイラストを渡された。
なぜか蓋ごと取れる大昔のタイプの蓋をパキっと取り外して。蓋を開けた瞬間から新鮮なかんきつ類の香りが鼻を抜けていき、はやる気持ちを抑えてゆっくりと良く冷えた缶を傾ける。からからに乾いたのどを癒すかのように、甘さ控えめのサッパリとしたオレンジジュースがのどに流れ込んでいくのを感じながら、わたしは渡されたファイルに綴じられた絵を何枚か眺める。
それらに描いてあったのは、ネオヴェネチア、いえAQUAの夏の風物詩とも言える夜光鈴のようでした。
「これは?」
「毎年、私は夜光鈴市に商品を出品している?今年のデザイン案はこれなんだけど、これを知り合いのネオヴェネチアングラスの職人に作ってもらう?」
「はぁ、本当に多彩なんですねアリソンは」
アリソンは幾つかの工房からネオヴェネチアングラスのデザインを請われているのだそうですが、これは自分からその工房に作ってもらいたいと毎年お願いしているものだそうで、今年もOKが出たから早速デザインを送りたいのだそうだ。
彼女の本職は確か技術者だったはずなのにデザインまでやるとは・・・その技術者と言ってもどれが専門の技術者なのやら。オートフラップオールは機械工学と物理学の融合ですし、シエロの様なAIは情報系、かと思えばナノマシン工学や材料工学にも造詣が深いときたもんです。まぁ、このお店だってゴンドラ&オールの工房、スクロッコのはずなのにアリソン手製の小物や家具が並んでたりもしますから、彼女がデザイン系にも優れていることは理解はできるのですが。
彼女に苦手な分野ってあるのでしょうか?料理だって美味しいですし。学生時代には彼女を指して20世紀の大科学者・技術者だったフォン・ノイマンに例えられてミニノイマン、あるいは芸術だけでなく様々な分野に優れた才能を発揮した芸術家ダヴィンチの女性版、ウーマンダヴィンチと呼ばれた彼女の才能が羨ましい。
もっとも、彼女に言わせれば自分は器用貧乏なだけで、彼らの様な本当の意味での天才・秀才ではない、とのことです。彼らの功績が偉大すぎて、そんな風に言われても困るのだそうで。
ふむ、確かに・・・でも、羨ましのは羨ましいのですよ。
「うーん、届けるのは別にかまいませんけどね。練習にもなりますし。ですが、なにも直接届ける必要はあるのですか?メールとかは」
「彼はそういうのは受け取らない?」
「え?なら、手紙もダメなんですか?」
「手紙でもいいけれど?いつもは封筒に入れて郵便屋さんに届けてもらっていたから?」
「では、どうしてですか?わたしは練習だってしないといけないのですよ?」
「彼に出会えるのはきっと貴女にとってもいい機会だと思うから?」
「はぁ?どういうことですか?」
彼、というからには男性なのでしょう。
その彼の作るネオヴェネチアングラスやその製作風景を見るのはわたしにとっても勉強になるらしい。わたしはウンディーネを目指してますから、夏でより一層熱くなっているであろう工房で汗だくになってガラスと格闘する職人さんたちの姿を見て何が勉強になるというんでしょうか。ゴンドラ練習との関連性が見えないのです、強いて言うならば繊細な手作業が要求される造形技術とオールの操舵でしょうか?
悩むわたしをアリソンは少し見つめた後、特に今のわたしには、とアリソンは行ってみるように強調してきた。
「今のわたし、ですか?」
「説明しようにも、説明しにくいというか説明したくない?ただ一つ言えることは・・・最近のアッリちゃんはなんだか焦っている、というより不安?ううん、それよりも・・・ジェラシーなムードに包まれている?」
ぎくり。缶ジュースの水滴で手が滑って、危うく落としそうになる。いや、今のは本当に水滴のせいだろうか?
わたしの心にざわめきが生まれようとしていた。彼女の言ったジェラシームード、つまり嫉妬心に。一体誰に対して持つ嫉妬なのか、それはわかるまいとわたしは思ったのだが。
「それも、たぶんリーン関係で?」
ああだめだこりゃ。
彼女にはばれていたかと、若干の諦めを感じながら缶ジュースの最後の一滴まで飲み干してテーブルに戻し、タオルで汗を拭く。最後の一滴はいやに酸っぱく、タオルも乾いたままだった。苦々しい顔つきになったわたしを見て、やっぱりかという風にアリソンは一度ため息をつく。
隠していたつもりだったのだが。
彼女にはなんでもオミトオシとでもいうのだろうか、学生時代に心理学者フロイトの生まれ変わりとか言われなかったのかどうか少し気になるのです。
「それは・・・確かに否定できないですけども」
「だから、すこし心配?」
「むぅ・・・」
確かに今のわたしは、心が落ち着いていないということは自覚している。なんだか練習しても気が散って手に付かず、その成果も得られていないような感覚がここのところ続いていたのだ。
原因は、たぶんあれだろうと思いつくのです。というか、それしかありえないのですが。
その原因とは、一週間前、まるまる一月ぶりにアイリーンと出会ったこと・・・オレンジぷらねっとの制服に身を包み、
片手袋となり、仲間たちと競い合いながら練習している彼女と。
まず初めに驚いたのは彼女の技量。以前の彼女は、かつては中の下か下の上と言った感じで操舵に関してはあまりパッとしていなく、
舟歌も上手くは無かった。どちらかと言えば、技巧より人柄や知識で人を惹きつけるタイプのウンディーネになりそうだと、顧問の先生は予想していました。ですが、今の彼女は、同期の中でもトップクラス、下手すればオレンジぷらねっとのシングル勢の中でも上位に位置するんじゃないかというぐらい、操舵もカンツォーネも以前より遥かに上達していた。正直言えば、以前のわたしより上手いと感じたぐらいです。
自分がいまだに漕ぐことがようやく安定してきたというのに、彼女はどんどん先へ行っていく・・・そんな彼女に嫉妬したのかと言えば、そうではない。むしろ、アイリーンが上手くなるのは嬉しいことなのですよ。
けれども。わたしの脳裏から、あの光景が消えないでいた。
彼女を呼ぶ声の後、慌ててわたしとの会話をごめんと言いながら打ち切って、駆け出していく彼女の後姿。彼女の名前を呼んだであろうわたし達より一回り程年上のように見えるプリマウンディーネと、この夏の太陽のように眩しい笑顔で仲良く喋るアイリーン。その直後、アイリーンはわたしの名前を、こちらへ手を振りながら呼んできました。たぶん、わたしをあのプリマウンディーネ―――おそらく彼女がアイリーンの言っていた蒼羽教官だろう―――にわたしを紹介するつもりだったのだと思う。でも、わたしはアイリーンが彼女に見せた笑顔に苦しいほどに心が締め付けられていて。わたしは用事を思い出したと苦しい言い訳をして、その場を逃げ出してしまった。
あの締め付けられるような苦しさはすぐに嫉妬しているのだと気づいたけれど、気づいてしまったせいで今の状況があるのです。
それ以来、わたしは心がざわついて・・・何度、自分は嫉妬に狂う男性か変態かと戒めた事か。しかし、その行為は全く意味をなさずに練習しても手が付かない日々が続いていた。そんな日々にイラつき、また手が付かなくなっていってという悪循環だ。
「でも、『アイリーン・マーケット』とは関係ないんじゃないですか?彼と会うことって」
気が付いたら、なんだか裏切られたような刺々しい気分を載せて彼女の名を口に出してしまっていた。
彼女には彼女の生活が、プリマを目指す道がある。わたしはわたしで、オレンジぷらねっとの入社試験に合格するためにも、事故以前のようにとまではいかなくても安定して漕げれるようになるっていう目標への道がある。その道を変えるつもりないし、諦めるつもりが無いのは変わっていないけれど。
今はまだこの二つの道は交わることは無いとは言えないが少ないから、彼女との接点が減っていくのは道理です。
彼女に新しい友人が出来るのも分かる、わたしだってあのヴァーチャルゴンドラシミュの人たちとのメールや実際に出会うなど交流が増えたから。なのに、彼女が新しい友人や教官と仲良く並んでいる所を見ると、心の中にモヤモヤが浮かぶ。しかも、仲良さそうに話しているその友人たちや教官ではなく、アイリーン・マーケット本人に。
はぁ・・・本当にわたしは何をやっているんだろうか、前を向いて進んで行くという気持ちは変わらないのに。それを阻む、忌々しい心のもや。
「彼の作る物は素敵な物ばかりだし、色々な不思議な効果があるって噂がある?今のアッリちゃんには役に立つかなって?」
「例えば、どんな効果があるんです?無病息災とか願望成就とかですか?」
「・・・例えば、縁結びとか?」
「縁結びって、アイリーンとは恋人とかの関係じゃないのですよ!?だいたい彼女も女性です!」
「ただの例として出しただけ?他意は無い?」
全くアリソンは突拍子もないことを時々言うものだから困ったものですが、今のわたしの心境はきっと恋人に愛想を尽かれてないか心配の男か、あるいは愛する彼氏が他の女性と話しているのを見て嫉妬する彼女だとかの心境に近いと自覚しているために、わたしはあまり彼女の言葉に反論できなかった。自覚しているだけに、より気分は落ち込む。
親友であるアイリーン相手に嫉妬に狂いそうになっている自分に、恥ずかしさや怒り、そしてそれ以上の自己嫌悪を持つ。
それらがないまぜになって今のわたしは練習しても上達せず、むしろ悪くなっているような気もするようになっていた・・・これは、いわゆるスランプという奴なのでしょうか。
たぶん、今の状況は今まで通りの練習をしてもどうにもならない。
彼女に、アイリーンに出会わないと・・・出会って、それから何をするというんでしょうかね、わたしは。
小さくため息をつく。
どうせどうしようもならないなら、彼女の提案に乗ってみるのもいいかもしれません。アリソンの言う彼とはどのような人物かは知らないが、殆どの物(ヴェネチアングラスでさえ工房があれば作れるとアイリーンが言っていた)を自分で作ってしまえる彼女が、わざわざ頼み込んでまで自分の構想を作って欲しいと言う相手なのだ、きっと何かがあるに違いないと思うので、とても興味がわきますし。
「まぁ、羽伸ばしついでに行くってのもありでしょうね・・・縁結びは抜きですよ?」
「縁結びは抜き?」
「え、縁結びに拘らなくてもいいじゃないですか!ただ、本当に最近はわたしはダメダメですし・・・」
「ね?だから、気晴らしついでもいいかなって?」
だから、彼女のその提案にわたしは乗ることにした。
「・・・そうですね。わかりました、引き受けます」
「あ、それともう一つ?ちょっと遠いし、潮の流れが速いところも通るから、今のアッリちゃんだと少し心配?」
「むっ?それじゃあどうやって届けろと言うんです?言っておきますが、わたしエアバイクの免許もないですし、動力付きボートの操船も分かりませんよ?」
色とりどりのコピックで彩られたデザイン画の束をファイルに戻し、リビングに掛けてあったショルダーバッグを手に取る。そのファイルも学生時代に愛用していた耐水バッグに入れて、万が一バッグが水に濡れてしまっても大丈夫にする。水の都と呼ばれ、縦横無尽に水路が走っているネオヴェネチアではこういった物は必須なのです。少々表面が煤けているものの、その耐水性は失われてはいないだろうそれに入れたファイルを大事にショルダーバッグに入れる。お世話になっているアリソンの頼みを受けた以上、大事に扱わないといけませんね。
「ふふふ?だから、運転手さんを用意してある?」
そう言いながらアリソンは、わたしとその運転手さんの二人で食べるようにとバスケットを渡してきた。
中を開けてみたところ、なにかのツンとした匂いを微かに感じ取った。バスケットの中に用意されていた昼食は、瑞々しいレタスとチーズとベーコンを挟んだサンドイッチとシナモンシュガーたっぷりのチュロスのようです。それに加えて、保冷剤代わりのキンキンに冷えたグレープフルーツジュースを入れた水筒。
ふむ。なるほど、シナモンシュガーに含まれるシナモンがツンとした匂いの原因でしたか。
んん?
『シナモン』シュガー、ですか?
「あの、アリソンさん?」
シナモンシュガーが苦手なことは、アリソンの家に居候するようになって直後に言っておきました。それから、彼女はシナモンを使った料理を滅多に出さなくなりました・・・わたしの心を乱す例の少女がやって来る時以外は。彼女が来訪するときは、おみやはシナモンシュガーのチュロスと相場が決まっていたようでした。
そんな代物が入っていて、運転手さんが誰かなんて分からないはずがない。
「どうしたの、アッリさん?ちょっとしたサプライズを用意してあるだけ?」
悪戯っぽく微笑むアリソンは、サプライズの正体を確かめることは許さないと言った風。そんなアリソンにわたしは抗議の声を上げる・・・今のわたしの心が分かるなら、どうして彼女を呼んだのかと。
「わたしは。わたしは自分の今の心が分かるつもりです。だから、分からないのですよ?今の状況の抜け出し方が。今の彼女に、今のわたしは一体どういう顔で会えばいいんですか?分からない、分からないのですよ」
「普段通りでいい?」
「その普段どおりが出来ないから困ってっ!」
トンッと。
アイリーンやわたしよりも背がい低いアリソンは少し背伸びをするようにして、アリソンはわたしの頭に手を置いた。そして、貴方は大丈夫だからと小さくつぶやきながらわたしの頭を撫でる。クシャクシャと撫でられるうちに、なんだか何とかなるような気もしてくるのはどうしてのでしょうか?これが見た目はともかく大人としての風格か。
背伸びに少し疲れたのか、ふぅと息を吐きながら彼女は背伸びをやめ、わたしの手にバスケットを握らす。わたしがしっかりと
「大丈夫だから?今日の夜は採掘された夜光石が初めて発光する発光試験が行われる日。掘り出された夜光石に含まれるルシフェリンがこのアクアを包み込む大気の酸素と出会い、ルシフェラーゼ反応が起きる日・・・だから、きっと大丈夫?」
彼女はそう言うと・・・何を意味しているのか、さっぱりわかりませんでしたが・・・わたしの背中を押して、半ば追い出すように店の外へ通じるドアの前に立たせる。一度彼女の顔を肩越しに見やると、自信たっぷりな笑顔で、わたしが逃げないように腰に手を当て、仁王立ちしていた・・・どうやら、相当の自信を持っているようなのです。その彼女の笑顔は、自分では上手いこと言ったつもりなのだろうか、巷で言う所のドヤ顔のようでした。
今は。少なくとも、今は彼女のその自信を信じるしかないでしょうね。
「分かりました・・・行ってきます」
「いってらっしゃい?」
わたしはドアを自ら開けて、アリソンの頑張ってねという声と共に店の外の船着き場へ足を進めた。
「うぁ、眩しい・・・」
薄暗いアリソンの工房兼店舗内にいたせいか、外に出た瞬間に太陽の眩しさで目がくらんでしまった。
と、日が何かで遮られ目を薄ら開くことが出来た。頭に当たる感触からして、どうやら大きな麦わら帽子を被せられたようだ。その麦わら帽子の影から、灰色のワークパンツに包まれたスラリとした足が伸びているのが見えるが、麦わら帽子の広い鍔で被せた張本人の姿は見えない。もっとも、シナモンたっぷりのチュロスがバスケットの中に用意されていた時点でサプライズの中身は大体予想がつくんですけれどもね。
でも、わたしは胸に相変わらず嫌な感じを感じていた・・・どうしてかは、分かっているけれども。
そして。案の定と言ったところか、普段はわたしの練習用ゴンドラとアリソンが仕事や用事に使う小型エンジン付きのゴンドラしかない船着き場に、更にもう一艘、ゴンドラが舫いを繋いでいた。アリソン曰くの『運転手さん』と共に。
「やっぱり貴方ですよね・・・・・・お久しぶりです、アイリーン?」
「やっほ!久しぶりだね、アッリ!」
黒と白のコントラスト、黒いネクタイが茹だる様な暑さにアクセントを加えるように吹く涼風に揺らめいていた。髪を割と適当に短く切ったのか、わたしに被せた物と同じものだと思われる麦わら帽子から覗く毛は結構ばらばらで、そのせいか少女というより少年のように感じる黒髪の少女。ここ最近よく目にするオレンジぷらねっとの制服ではなく、動きやすそうな濃い灰色のベストにそれらと対照的な白シャツの少女が太陽にも負けないような笑顔でオールを握っていた。
オレンジぷらねっとに入社してから僅か数か月で両手袋ペアから片手袋シングルへと昇格した若手ホープ、そして今月の月刊ウンディーネにも少しだけだが取材されるほどには期待されているシングル、アイリーン・マーケットがそこに立っていた。
例の彼女に向けた笑顔と、『全く変わらない』笑顔を見せながら。