目が覚めてみたら、体のある部分の調子がおかしかった。
―――それは左腕。生体義肢の証拠である文字と管理ナンバーがうっすらと刻印された、わたしのDNAで模造した生体義肢だった。
アッリ・カールステッド
『ネオ・ヴェネチア』ミドルスクール在校生
『オレンジぷらねっと』本社前
病院の人にエアバイクでオレンジぷらねっとの所まで送ってもらった。
リハビリのおかげで、しっかりと大地を踏んでオレンジぷらねっとの本社を見上げれるほどには体力が回復した。
まったく。すべてが、何もかもが、ここにいることすら、夢みたいだ。
あの事故も、それから一ヶ月間の病院でのリハビリ生活と検査の日々も。
実はまだ、わたしは家のフカフカのベッドで寝ていて、耳元でガチャガチャなり始めた目覚まし時計―――ゴンドラ部の朝練習のために早起きするべく置いた―――をまどろみの中で探しているんじゃないだろうか。
だとしたら、どんなにうれしいことだろうか。
朝おきたらダイニングキッチンからはパンの焼ける香ばしいにおいが、お母様のわたしを呼び起こす声とともに漂ってきて。
玄関であわてて靴を履いているときに、『怪我しないように、がんばれよ。』とお父様が軽くわたしのお尻を蹴飛ばして。
ネオヴェネチアがまだ目覚める前の誰もいない静かな水路でほかの部員たちとともにゴンドラを漕いで。
―――でもわたしは、あの事故でそれら『全て』ができなくなった。
わたしに残されたのは、ゴンドラだけだった。
でも、腕の調子がおかしいことに気づいたあの日から、それすらも奪われ。
わたしの目に映る世界は、まるで、色をなくしたようだった。
アレサ・カニンガム
『オレンジぷらねっと』ウンディーネ管理部部長
『オレンジぷらねっと』ウンディーネ管理部、第一執務室
「そう、それじゃあ・・・・・・。」
「・・・・・・はい、すいません。」
夕暮れでその社名と同じ色にに染まるオレンジぷらねっとの一室。
そこには、二人の女性がいた。
片方は薄いクリーム色の髪を肩まで伸ばした少女・・・アッリ・カールステッド。
もう一人の机に座る妙齢の女性は、オレンジぷらねっとの元トッププリマ―――先日、ウンディーネ管理部長へ転身した―――アレサ・カニンガム。つまり私だ。
アッリの右手は左腕を堅く掴み、私の視線はそこから離れない。
「どうしても無理なの?もう一度、ウンディーネを目指すのは?」
「・・・・・・もう、無理なんですよ。腕を失ったんですよ?ただでさえ正確かつ緻密なオール捌きを必要とするウンディーネが、腕を失ったんですよ?」
「・・・・・・。」
あの事故から一ヶ月、確かに彼女は生き残った。だが、彼女の両親を奪った死神は代わりにウンディーネにとって自らの命と同等のものを奪っていった。
利き手である左腕の欠損だ。腕は宇宙線により細胞が死滅していた部分が多く、結局、肩口まで切除することとなった。
だが、それぐらいだったら左腕に生体義肢をはめればいい。
しかし、彼女の場合は・・・・・・
「たしかに、生体義肢の手術は上手くいきました・・・・・・でも、それは日常生活に支障が出ない『かもしれない』というだけで、ウンディーネとしてやっていくのは不可能なんですよ。」
そこでアッリは目線を下に落とす。
そのとき、アッリの顔から透明な雫が落ちたのをアレサははっきりと見た。
彼女の場合、義肢をはめる手術が成功したは良いもののその神経接続がうまくいかなかった。生体義肢の装着の際、誰にでも起きる可能性のあることだ。だが、彼女にはそれが起こってしまった。
「もう、わたしには普通にゴンドラを動かすことすらできません。」
再び顔を上げたアッリは今にも声を上げて泣き出しそうな様子だった。
「だから、うちに来るのはお断りしたい、と?」
「・・・・・・はい。」
そう答えたとき、アッリの顔から透明な雫が落ちたのをはっきりと見た。
「本当に、もう普通にゴンドラを動かすことはできないのかしら?」
「・・・・・・はい。」
またポツリと。
「ためしたの?」
「いいえ。」
私は少し納得がいかなかった。
実際に動かせるかどうかやってみないとわからないこともあるのではないのか。
それとも、やらずともわかる理由があるのか。
「日常生活だって支障をきたさない『 かもしれない 』って腕なんですよ、この左腕。」
「?」
「反応が1秒ほど遅いんです。それに時々腕が止まるんです、意思に逆らって。はは、お茶を飲もうとしたときに腕が止まってカップを落としたこともあるんですよ?どうやって、どうやってこんな腕でゴンドラを操れば良いんですかっ!?」
彼女は言葉を言うたびに涙をポツリポツリと落としていく。最後はもう泣き声と大して変わらなかった。
確かにそんな腕では、うまく操船できないだろう。カップを落としたってことは、筋肉も緊張してしまうということだ。
操船中にもしそんなことがおきたら・・・・・・最悪、オールを取り落とすかもしれない。
さらに反応が遅いというのは、もう致命的だ。もし何かが起きたとき、客の命を保障できなくなる。それはもうウンディーネとして失格だ。
「だから、絶対に無理なんですよ、もう。」
「でも、あなたはウンディーネとしての能力だけでなく、学業成績も優秀だったでしょ? 事務員として・・・・・・。」
このままではいけない。
私はそう思った。なんとか、ここに、ウンディーネというものに繋ぎ止めなければ、彼女は・・・・・・
「わたしはもう、この町にも居たくないんです。」
ここにいると、お父様とお母様を思い出して辛いから―――と、アッリは言う。
その目からはもう大粒の涙があふれ出していた。
この少女にこんな顔をさせるのは誰だ―――私はそう思った。
衝突感知機能と自動防衛システムを切っていた彼女の父親の知人か。
ごみ掃除(デブリ除去)をもっとしっかりやらなかったコーストガードか。
他にも様々な事故の原因が推察されているが、おそらく、そのどれでもないだろう。
そう、あれは不幸な、不幸な事故だったのだ。
たまたま知人の貸した船が、小惑星の間をすり抜けるスポーツのための船であったため最初からシステムが切られていた不運。
たまたまコーストガードの定期除去作業の数日前で、クルーズの航路上に確認されていないデブリがあった不運。
他にも様々な不運が重なった事故だったのだ。
幸運があるとすれば、事故宙域付近で訓練中だった部隊があったことと特別救難信号の出し方をアッリが知っていたこと。
そして、彼女の命の炎が燃え尽きる前に救助が間に合い生き残ったこと・・・・・・それぐらいだろうか。
いや、もしかするとそれも不幸なのかもしれない。
たった一人生き延びてしまったのだから。
「・・・・・・あなたなら、うちの次世代エース格アテナ・グローリィとよきライバルに、そして友人になってくれると思ったのだけれど。」
「・・・・・・。」
「ふぅ・・・・・・まぁ、いいわ。それじゃあ、貴方はこれからどうするの?」
「そう、ですね・・・・・・まだ何も考えていません。」
「そう・・・・・・わかったわ、帰ってもいいわよ。」
「・・・・・・はい。」
礼をして、アッリは扉へ向かって歩いていく。
その後姿は以前スカウトしに行ったときに見た、ほかの部員たちを引っ張るたのもしさはなく、どこか儚く見えた。
「・・・・・・ねぇ、まだ先のことを考えていないのなら、もう一度聞くけれど・・・・・・。」
「しつこい、のですよ、カニンガムさん。わたしはもう無理なんです。」
「なら、仕方ないわね・・・・・・でも、せっかく助かった命なんだから、絶対に早まったまねはしないでね。」
「それは・・・・・・分かってるのですよ。」
ガチャッ。
扉が閉まり、アッリの足音が遠ざかっていく。
たとえ、使い物にならなくてもウンディーネとして雇いたかった。
ウンディーネではない彼女はきっと、生きているけど死んでいるだろうから。
だが、そんな考えを頭をふって脳内から追い出す。使えない人材を無理して雇うわけにはいかないのだ。
彼女にも食わせなきゃならない社員達、彼女にとっての家族がいるのだから。
だが―――
「まったく、これはただのいい訳かしら。」
もし使えない人材を無理して雇うわけにはいかない、という思考が最初からあったのなら。
そもそも最初のアッリの言葉にうなずいて、彼女の内定証明書を破り捨てればよかったのだ。
しかし、今私の机の引き出しにはいまだその内定証明書が残り続けている。
「私自身に未練がある、か。」
それにしてもまったく、ままならないものだ。
「はぁ、もしもこの世に神様がいるんだったら・・・・・・。」
その顔にオールを全力で叩き込んでやりたかった。
「ただいま、なのですよ・・・・・・。」
その声に「 おかえりなさい 」答えてくれる人などいない。
玄関を開けると、入院期間中である一ヶ月の間に積もった埃で廊下がひどく汚い。家の外見も人が一ヶ月間すまないだけで、とても痛んだ外見になってしまった。
それはアッリの心の内にある堤防にひびを入れるのに十分なことだった。
体を掻き抱いてうずくまる。
「なんで、なんでなのですか・・・・・・。入院していた間は何にも思わなかったのに、何でいまさらこんなに悲しいのですかっ!」
退院してすぐに目に入ったネオヴェネチアの町並み。
オレンジぷらねっとにつくまでに目にしたウンディーネやゴンドラ。
ミドルスクール付近で近くを通り過ぎたゴンドラ部の後輩達が操る小さなゴンドラ。
家へ戻ってくるまでに通った、幼い頃両親と遊んだカッレやカンポ。
それらを含めたネオ・ヴェネチア全体がアッリの思い出の宝箱。
でも、いまではその中には二人いない。アッリがプリマになったらまず最初に乗せようとしていた人。
―――お母様とお父様。
そして、その影響か分からないが、それ以外の思い出も色が抜け落ちていた。
「・・・・・・こんな思い出を抱えながら生きていくくらいならいっそのこと・・・・・・。」
涙を拭きもせずに、ノロノロと立ち上がる。立ち上がったときに周りの埃が舞い上がり、それを吸い込んでむせてしまう。
それが無性に悲しさを呼び出した。
「ゲホッ、ケホッ・・・・・・うぅ。」
ゆっくりと前へ進んでいく。その後ろには足跡が綺麗に付いていた。どれほどのホコリが積もっていたのだろうか。
「わたしはこれから、何を糧に生きていけばいいんでしょうか・・・・・・。」
・・・・・・ミシッ、ギシッ・・・・・・
「そういえば、わたしは何のためにウンディーネになろうとしていたんだっけ・・・・・・。」
外はもう薄暗い。廊下は明かりをつけていないからさらに暗い。
上を見上げると天井に蜘蛛の巣が張られている。
角には埃の吹き溜まりが出来ていた。
周りの全ての音が世界が止まったかのようにしない。
「ネオ・ヴェネチアが好きだから?・・・・・・ううん、違う・・・・・・。」
・・・・・・キシッ、ギッ・・・・・・
「ゴンドラ部でエースだったから?・・・・・・これも違う・・・・・・」
・・・・・・キッ、コッ・・・・・・
「わたしを褒めてほしくて?・・・・・・なにか、まだ違うような・・・・・・。」
・・・・・・ギシッ、ガチャッ・・・・・・
キッチンダイニングへの扉を開けて中に入る。
そこも、埃で一面灰色く染まっていた。
様々な番組を放映していたホログラフテレビ―――お父様と一緒に見た『プリマをねらえ!』のアニメがなかなか面白かったのですよ。
やっぱり、今思うとあのわからずやな態度はわたしを奮起させるためだったのでしょうね。
本当に反対する気でいたなら、ウンディーネのアニメである『プリマをねらえ!』をあれほど熱心に見たり、ウンディーネ関連の情報雑誌を積み上げたりしないと思うのですよ。
それに気づけなかった自分は本当にわからずやな意地っ張りだったのだろう。
「こんなことになるんだったら、あんなひどい言葉、言わなきゃ良かったのです・・・・・・。」
アッリが反抗して言った言葉の中には、お父様がマンホームの軍にいた頃の誇りを汚すようなものもたくさんあった。
それでも殴るとか蹴るとか暴力的なことやわたしに逆にひどい言葉を浴びせたりは一切しなかった。
「せめて・・・・・・せめて、内定が決まった時。一言謝っておけばよかったのですよ・・・・・・。」
キッチンのカウンターを上げる。
ふと、目線をリビングの方にもって行くと、そこに―――もともと灰色だったためかあまり埃は目立たない―――バーチャルイメージマシーンが。
お母様が家でもわたしが練習できるようにと、買ってきたマンホーム―――たしか日本だったか―――の割と高級モデル。
お母様だけではポンと買えるような代物じゃなかったはず・・・・・・そういえば買ってきた少し後、お父様が隠しておいたへそくり―――ベターすぎることに隠していた場所は大人の絵本の間らしい―――が消えたと言って騒いでましたっけ。
澄ました顔でそれをお母様は流していましたが・・・・・・。
「せっかく、お父様のへそくりを犠牲にしたというのに、『Alison』とか言うハンドルネームの奴のハイスコアを抜けなかった。悔しいのです。」
キッチンに入り、部屋を見渡すとまるで昔に戻ったような気がした。
でもそこには、退役して、時間が余っても料理を練習せず、下手なままだったお父様の代わりに料理を作るお母様の姿はなく。
母の料理が出来るまでの間、ぐでーと昼寝しているお父様の姿もない。
さらに、いろいろ思い出してしまう。
思い出すとつらいことはアッリにも分かっている。
でも、思い出さずに入られなかった。
ネオ・ヴェネチア『宝箱』のなかでも取って置きの宝物。
ああ、そうか―――
「わたしはお父様とお母様に喜んでほしくて・・・・・・ウンディーネを目指したんだっけ。」
思い出すとせっかく流れ出すのが止まっていた涙が再び出る。
「もう、喜んでくれる人もいない。お父様とお母様がいないんじゃ、何処にも糧なんて存在しない。だったら・・・・・・。」
包丁を棚から取り出す。
それを高く振りかぶる。
照準は自らの右腕。
・・・・・・すいませんなのです、カニンガムさん。
早まった行動はするなと言ったのに早速破らせてもらいます。
・・・・・・ごめんなさいなのです、AQUAコーストガードの皆さん。
助けてくれた命、ここで捨てさせてもらいます。わたしはやっぱり家族がいないこの世界で生きていくなんてできない。今日一日で、そう実感しました。
「お父様、お母様。今から、そっちに行ってもいいですか・・・・・・?」
そして振り下ろされた包丁の切っ先は―――
ドタドタドタドタッ!「ダメェエェェェェェェェェェェェェ!!」 ドンッ! 「げふぅ!」
走りこんできた黒い影によって、右腕に届くことはなく。
・・・・・・ザクッ・・・・・・
包丁は手から離れて飛んで行き、床に垂直に刺さった。
「ア、アイリーン?」
「駄目、こんなこと絶対に!自殺なんて!」
―――アイリーン・マーケット。 アッリがゴンドラ部にいたときの同級生で副部長であり、わたしの親友。
その手にはわたしの退院祝いだろうか、わたしが小さいころから好きな菓子屋の箱がある。
もっとも、わたしを突き飛ばしたときに潰してしまったようだが。
「自分が何をしようとしていたか分かる!?」
「分からないわけ、ないじゃないですか。」
「だったら、アレを見て!」
アイリーンはそう言って、どこかへ指をさす。
そういわれて指差された方向へ顔を向ける。
「ヒッ!」
そこには床に深々と刺さった包丁。
僅かに差し込んでくる外の光で、よく研がれた刃がきらりと光る。
もし、その下にあったのが床でなく自分の腕だったとしたら―――
「う、うあ。」
「わかったでしょ。 さ、はやく立って。」
アッリは差し出された手を受け取って立ち上がる。
気が付いたら、全身が震えていた。
「まったくもう・・・・・・後輩達が変なアッリを見たって連絡してくれて。いやな勘が働いて急いでこの家に来たから良かったものの・・・・・・私はまた誰か近くの人が死ぬなんて、嫌よ。」
「ごめんなさいです・・・・・・。でも、わたしはもうこんな誰もいない世界。」
「こんな誰もいない世界って、どんな世界?たしかに貴方の両親はいないわね。」
「いないですよ、だからこんな世界・・・・・・。」
「ねぇ、その世界。そこには私たちもいないの?」
そう言って、彼女はポカッとわたしの頭を小突く。
「あ・・・・・・。」
「もっと私・・・・・・ううん、ゴンドラ部全員を頼ってもいいと思うんだけどね。先生達もいる、隣人もいる。たしかに、両親の穴はふさげれないけれど、他にも高く山になっているところがいっぱいあるじゃない、この世界には。それに。」
あなたにとってはネオ・ヴェネチア全体が宝物なんじゃないの―――そう言って、朗らかに笑う彼女の顔はたしかにわたしの記憶と一致し。
色の抜け落ちた世界の中でそこだけが鮮やかな色に染まっていた。
「さて、と。 泣け。」
「????」
いきなり泣けというアイリーン。ちょっと意味がわからない。
「ここに来るまで、一回もちゃんと泣いてないでしょ、多分。だから、泣け。」
「いや、そんなことを言われてもですね。」
「問答無用!さっき自殺未遂したのもきっとちゃんと泣いてないからだと思うし。」
「この家にいたるまでに十分泣きましたよ!」
「自分ひとりで泣くのと、誰かの胸で泣くってのは違うよ!」
そう言って、アイリーンはアッリを抱き寄せる。
「わぷっ!」
「男の子の胸板のようにはいかないけどね・・・・・・まぁ、胸薄いしちょうどいいんじゃない?」
「普通、女の子は胸が小さいとコンプレックスを抱くと思うんですが。」
「コンプレックス? コンプレックスなんて持つほうがバカらしい! 貧乳はステータスだ、って今から300年も昔の人が言っていたらしいんだよ? 多分その言葉って、人それぞれのよさがある、その前には胸の大小なんて関係ないって言ってると思うんだよ!」
まったく、彼女は何時もそうだ。
コンプレックスやジトジトした嫉妬心は絶対に持たない。
下手とはいえないが良好ともいえない操船技術をわたしと何時も比べられていても、それをカラカラと笑いながら受け流す。
でも対抗心は人一倍強いからよく技術書を読んでいる。
比較されて批評されたときも、ただ受け流すだけじゃなくて、何も言わず、むしろ感謝さえ言いながら、自分の技術向上につなげるのが彼女のすごいところだと思う。
「さぁて、泣け。思う存分。」
「も、もう、泣けるような雰囲気じゃないと思うんですが。」
「本当にそう?いま、ここで私が貴方の髪を撫でさすっていたら、たぶん泣くと思うんだけど。」
そう言って、本当にわたしの髪を撫で始める。
「ちょ、ちょっと本当に、本当に耐えられませんから。」
「耐えなくていいから、今は泣いて。あまり溜め込みすぎると壊れちゃうんだよ?」
そう言ってアイリーンはわたしをやさしくギュッと抱きしめる。
その感触はまるで母のようで。
背格好も性格もまるで違うのに、そう感じた。
「あ、あう。」
ほろほろと涙が流れ出ていく。
それを見たアイリーンがさらに強く抱きしめてくれて。
さっきまでひび割れから水を流し続けていたわたしの心の堤防は完全に崩れ去った。
「うわぁぁあぁぁぁぁぁぁあぁ!! お母様ッ、お父様ッ!!なんで、何で事故なんか! 何で死んじゃったりするんですか!?」
「そう、思いっきり泣いていいよ。今は泣いてもいいときだから。」
アイリーンはアッリが泣き疲れて眠るまでずっと抱きしめ続けていた。
「~ ♪ ~」
「んぅ・・・・・・。」
あたりはもうすっかり暗くなった頃。
泣きつかれてベッドに寝かさせられていたわたしは目を覚ました。
「ここは・・・・・・?」
周りを見てみればわたしにとって知らない部屋・・・・・・ではない。
わたしにとってここは見慣れた場所。
「わたしの部屋・・・・・・?」
「あ、ようやく起きた。もう寝てからだいぶ経つよ。お陰で少し心配しちゃった。」
そういいながらカラコロと笑う。
ああ、よかった。
ここにはまだ、わたしの宝物がある。
「で、どう? 少しは楽になったでしょ。」
「そう、ですね。だいぶ気持ちが楽になったのですよ。・・・・・・心配をかけてすいませんなのです。」
「いいって。さ、もう夜は遅いからまた寝て。」
「あなたはどうするのですか?いや、そもそもこんな時間までここにいてもいいんですか?」
「・・・・・・うちの保護者は物分りが良いからきっと分かってくれるよ!それに、めったに職場から帰ってこないし!」
「はぁ、それは物分りが良いんじゃなくて、半ば諦めているんじゃないでしょうか・・・・・・。」
彼女に欠点があるとすれば、事後承諾が多いことや計画性が少し足りないことでしょうか。
事実、彼女はゴンドラ部の練習内容を学校に提出せずに勝手に練習を行っていたときがあった。そのとき、ほかの船とぶつかりそうになったことが学校側にばれて、練習内容の未提出と共に大目玉を食らった。
本人曰く、『 やろうと思えばやれるが、ついつい忘れてしまうんだよ・・・・・・めんどくさがりじゃないよ! 』とのこと。
こんな彼女の保護者( 母親だろうか )は毎日、気が気でないのではないだろうか。
「ところで、なんですが。さっき歌っていた歌ってもしかして・・・・・・。」
「あ、やっぱり気づいた?舟歌(カンツォーネ)。ここんところ、ずっと練習してたんだけど・・・・・・どうだった?」
「あ、よかったですよ・・・・・・しかし、失礼ですが、あなたってこんなに上手かったでしたっけ?」
わたしの記憶に残る彼女のカンツォーネはそれほど上手くは無かったはず。
「プリマウンディーネになるためには、カンツォーネも必要でしょ?」
「まぁ、そうですね。」
舟歌が歌えないプリマなんてわたしは見たことがない。
「でね、私が入社したのオレンジぷらねっとなんだ・・・・・・アッリと同じ、ね。ま、私の場合一般の入社試験を低空飛行でぎりぎり通過したって所だけど。」
なははは・・・・・・と笑いながら、アイリーンは言った。
「やっぱり置いていかれたくないからねー、アッリにさ。だから、いつもより練習量を増やしてるんだ。」
置いていかれたくない?アイリーンはまだわたしの左腕が、使えなくなっているのを知らないのだろうか。
「あの、アイリーン。わたしは・・・・・・「はい、ストップ。」・・・・・・え?」
「左腕がどうのこうのっていうのは、わたしも人づてにだけど知っている。で、それがどうしたの?」
「それが、って・・・・・・あのですねぇ、わたしの利き腕が左腕なのはアイリーンも知ってますよね!その利き腕がおかしいんですよ?それがどうしたのはないでしょう!」
「ごめん、でも私はまだアッリに諦めてほしくない。だって、ウンディーネじゃないアッリなんて・・・・・・生きていないじゃない。」
「それは、あなたが勝手にそう思ってるだけで・・・・・・。」
「そうかもしれない、ううん、そうだね。」
「だったら、勝手なことを言わないでください!!」
大声で彼女に怒鳴ってしまった・・・・・・彼女と親友になってから、いや知人の段階から考えても初めてのことだった。
「・・・・・・ごめん、なさいです。怒鳴って。」
「ううん、気にしないで。実際、本当に勝手なこと言った私が悪いんだから。でも・・・・・・さっきのことは私の本心だよ。」
「・・・・・・・・・・・・無理ですよ、絶対」
「・・・・・・そっか。」
彼女のとてもつらそうな顔に耐え切れず、寝返りを打って寝たふりをする。
「・・・・・・・・・・・・。」
「明日、さ。ちょっと連れて行きたいところ、あるんだけど。一ヶ月遅れの誕生祝と退院祝いで。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「今は・・・・・・ゆっくり寝て。おやすみ。」
再び寝室にアイリーンのカンツォーネが響き始めた。まるで母親の子守唄のように。